彼は歯車である。ステンレス鋼でできた、平凡な歯車だ。彼の役目は、隣にある歯車の回転を受け、反対側の歯車を回転させることだった。それが何の役に立つのか、一個の歯車である彼にはわからない。願わくば何かの役に立っていたいと思うが、彼には......
とある流行作家のエッセイを読んで、洋介は衝撃を受けた。林廣次というその作家の名前は知っていたが、推理小説が苦手なので今まで作品を読んだことはなかった。したがって、行きつけの本屋でそのエッセイを手に取ったのは、まったくの偶然だった......
紗栄子が最初に感じたのは、堪らない目の痒みだった。続けてクシャミが出た。それも、普段の「へくちん」というような可愛らしいものではなく、「ぶえっくしょん!」という、おっさんのような激しいクシャミである。すぐに、ツーッと鼻水が垂れてきた......
春は異動の季節である。サラリーマンにとって、この時期の上司や人事課の動きほど気になるものはない。「綾川係長、ちょっと、いいかな」上司の鈴村部長に声を掛けられ、デスクで伝票の整理をしていた綾川は思わずビクッとした。「あ、はい」綾川は飛び上がるように......
「ねえ、キミちゃん。おパパごと、ちようよ」「やーよ。あたちは、おママごとのほうが、いーの」「ちょんなこと、ゆわないでさ。えーと、ちゃちょうさん、おみちゅもりは、このようになりまちゅ」「だから、やだって」「ぜひぜひ、てまえどもに、ごはっちゅう......
世界で最初にコンピューターの異常に気付いたのは、アメリカの高校生だった。学校から帰宅して、いつものようにパソコンを立ち上げた彼は、画面上を不規則に動き回る黒い点に戸惑った。(なんだこれ。液晶の中に、虫でも入ったかな)それが虫ではないことは......
どこまでも広がる赤茶けた大地。そこに点在する空気の泡のようなものは、透明なドームに覆われた居住区である。居住区の間は、これも透明なチューブで繋がれ、この惑星にかつて存在したという運河のように見えた。 中でも際立って巨大なドームこそ......
取引先の営業マンが抱っこヒモをして現れたのを見て、比良田は思わず苦笑した。「酒井くん、どうした。奥さんに逃げられたのか」酒井は顔を赤らめながらも、慌てて首を振った。「違いますよ、比良田部長。これを見てください」比良田が見やすいように......
田中がバスの中でスマホのニュースを見ていた時、設定していたスマホのアラームが鳴った。(お、もうそんな時間か。とりあえずバスを降りて、電話しなきゃ)田中はこれからクレームのあった顧客のところにお詫びに行くのだが、忙しい相手なので、訪問する前に......
「うちでやるディナーショーのチケットが1枚あるんですが、新藤さん、ジャズはお好きですか?」いつも野菜を納品しているホテルの担当者からそう言われ、平八は(来たな)と思った。「あ、いや、とんと不調法でして。ご協力したいのは、山々なんですが......