渡り廊下
安田の会社では、年に一度、社員を何班かに分けて慰安旅行をしている。今年は田舎の温泉旅館に泊まることになった。貸し切りバスで観光スポットを巡り、旅館に戻ったら大浴場で汗を流し、浴衣に着替えて大広間で宴会をやるという、お約束のコースである。
宴会が始まるや否や、風呂上りでみんな喉が渇いているため、ハイペースでビールのグラスが空いていった。安田も上司に勧められるまま、ビールをガンガン飲んだ。酒には強い方なので、さほど酔ったりはしないが、すぐに尿意を催してきた。
だが、初めて来た旅館なので右も左もわからない。ビール瓶を片付けている仲居に尋ねてみた。
「あの、すみません。お手洗いはどこですか」
すると、仲居はちょっと困ったような顔になった。
「ごめんなさいねえ。母屋のお手洗いが故障しててえ、離れしかないんですよお」
「えっ、遠いんですか」
「いえいえ、そんなに遠かありませんよお。渡り廊下伝いに行けば、五分ぐらいで着きますよお」
遠いじゃないか、という言葉は飲み込んだ。それよりも、トイレが離れの一ヶ所しかないとなると、混みだすと大変なことになってしまう。今のうちに行かなくてはと焦燥感にかられた。
安田はすぐに立ち上がって廊下に出た。少しヒンヤリしているが、火照った体には心地よかった。照明が薄暗いのでよく見えないが、右側が渡り廊下に繋がっているようだ。
スリッパを履いて廊下を歩いて行くと、やけにペタペタと足音が響く。突き当りを左に折れると、廊下が少し下に傾斜していた。そこから渡り廊下に繋がっていて、そのまま中庭の横を通り過ぎると、その先に離れらしい建物が見えてきた。あずま屋風だが、ちゃんと周りは囲ってあり、屋根との隙間から明かりがもれていた。
途中体が冷えたせいか、やや切迫してきたため、焦ってノックもせずに扉を開けた。すると、中には五右衛門風呂があり、手ぬぐいを頭にのせた老人が湯に浸かっていた。
「何じゃ、おまえは」
「あっ、すみません。失礼しました」
安田はあわてて扉を閉め、引き返した。どうやら、渡り廊下は中庭をはさんで両側にあり、安田は左右を間違えたらしい。ちゃんと説明しなかった仲居をうらんだが、もう一度引き返して反対側に回る余裕がない。もうすぐ楽になると気をゆるめたのがいけなかったようで、もはや待ったなしの状態になっていた。
(こうなれば、やむを得ない。立ちションは軽犯罪だが、廊下で漏らすよりはマシだ)
安田は渡り廊下の手すりを乗り越え、中庭に降りた。月夜で助かったと思ったが、なるべく人目につかないようにしないといけない。屈んで歩き始めたが、月に雲がかかって暗くなってしまった。この暗がりの中を歩くのは、かなり勇気がいる。慎重に、一歩一歩進んで行くと、前方の地面に何か丸い塊が見えた。
その時ちょうど雲が切れ、月明かりに照らされて、それが何かわかった。とぐろを巻いた蛇であった。毒蛇ではないようだが、明らかに安田を威嚇していた。
(子供の頃、ミミズに小便をかけるとナニが腫れるとおどかされたものだが、蛇にかけるとどうなるのだろう。いやいや、そんな恐ろしい人体実験は御免だ)
しかし、状況はさらに風雲急を告げていた。いっそこのまま中庭を突っ切れば、反対側の渡り廊下に出るはずである。安田はなるべく蛇を刺激しないように、ゆっくり迂回した。
やがて反対側の渡り廊下が見え、その先にあずま屋風の建物が見えた。先ほどの五右衛門風呂があった建物とそっくりだ。一周ぐるっと回って元の場所に戻ってしまったのではないかと不安になり、額からあぶら汗がにじむ。もうほとんど限界ギリギリである。だが、天は安田を見捨てなかったようだ。ノックして扉を開けると、そこは間違いなくトイレであった。
(ああ、助かった、これでこの苦しみから解放される)
そう思った瞬間、安田は目が覚めた。
(おわり)
渡り廊下