阿久田猛は推理小説が苦手だった。名前に似合わず気の優しい猛は、たとえフィクションであっても、人が殺される話を読むのはイヤだった。だから、本屋の店頭でパラパラとめくったその小説が、どうやら推理ものらしいと気づき、元に戻そうとした。(あれ?)...
「佳代ちゃん、これ、どうしたらいいんだっけ」また始まったと、佳代は心の中で舌打ちした。(いい歳して、甘ったれた声を出すのはやめて。それに、『佳代ちゃん』という呼び方もウンザリ)もちろん、表面上は爽やかな笑顔を微塵も崩さない。「どうされました…
長い道のりだったが、高田は明日の取締役会でいよいよ社長に選任されることになった。思えば、入社試験の面接で「将来の夢は社長になることです」と言って失笑されてから三十年、随分あくどいこともやってライバルたちを蹴落としてきたが、ようやくその夢が…
「じゃ、行ってくるよ」「あなた、ちょっと待って」「えっ、何だい?」「ねえ、今日の晩ごはん、何がいい?」「何でもいいよ」「もう!何でもいいは、ダメ!」「うーん、じゃあ、焼き肉かな」「何言ってんの!給料日前なのよ」「ええーっ、それじゃ、アジの開き...
『おおのゆずるウィンターディナーショー』との看板が出ている、某ホテルの大宴会場の中。「おおの先生は、まだ起きて来ないのか!」 宴会担当支配人の島田は苛立った様子で、シフトリーダーの青山に訊いた。先ほどから何往復もしている青山は、すでに汗だく...
久しぶりに訪れた故郷で友人と話がはずみ、したたかに酔った松田が先方の家を出た時には、すっかり真っ暗になっていた。列車の駅まで車で送ろうと言い張る友人を、飲酒運転の共犯者になりたくないと断り、駅行きのバス停まで歩くことにした。昔の記憶では…
長い間眠っていたはずだが、人工冬眠中は夢を見ないせいか、大和田にとってはアッという間だった。宇宙へ旅立つ大和田のために、友人たちが催してくれた壮行会が昨日のことのように思える。(それとも、発射直後に何かトラブルでも発生して、すぐに起こされたんじゃ…
まあ、そう言わずに、おめえも一杯ぐれえ飲めよ。久しぶりに、ばったり旧友と会ったんじゃねえか。別に医者に止められているわけでもあるめえ、おれと違ってよ。ああ、そうさ。医者はあんまり飲むなって言うけどよ、これが飲まずにいられるかよ、ってんだ…
『ンゴロ家・アチャリ家・スポバラ家 結婚披露宴』という表示が出ている会場の前で、礼服を着た男が携帯電話で話しながら、行ったり来たりしていた。「無理ですよ、部長。代わりに乾杯の挨拶なんて。そりゃ、確かに、ゴロゲンくんの直属の上司はわたしですけど…
正月というもののプレミア感は、年齢とともに薄れていく。まして、市尾のように年中無休のファミレスで仕事をしていると尚更であった。特に今年は、大晦日から元旦にかけての夜勤シフトになったため、そのまま職場で新年を迎えることになる。「先輩。大晦日も...