ドラードの森(8)
それは大型犬並の体格をした、クモのような生き物だった。びっしり固そうな毛に覆われた細い足を器用に動かして、こちらに近づいてくる。赤い点々はおそらく単眼だろう。
「モフモフーっ、早く助けにきてくれええええーっ!」
絶叫するおれの頭上で、バサバサッという音がした。
「中野さまあー、大丈夫ですよおーっ。オランチュラは噛みつきませんからああーっ」
顔を上げると、皮膜を広げたモフモフが旋回しながらゆっくり降りて来るのが見えた。
「オランダだかチェコだか知らないが、何とかしてくれえーっ」
おれがもがくので、ますます糸が体に巻きついてくるようだ。クモの化け物は、すぐ目の前に迫って来ていた。
「あああ、ばあちゃん、ゴメンよ。もう好き嫌いはしません」
おれは思わず目をつぶったが、ほっぺたに何か冷たいものが触れるのを感じた。
「うわっ。何だこれは。ひえっ、なめられている。食べる前に味見でもするつもりなのか。わあーっ、やめてくれーっ」
「これこれ、中野さまをなめるんじゃない」
すぐ近くでモフモフの声がし、ほっぺたをなめていたものが引き離された。
「すみませんねえ。オランチュラは人懐っこい性質で、知らない相手でもまったく警戒しないんです」
おそるおそる目を開けると、モフモフにクモの化け物がじゃれついていた。
「モフモフ、頼むから、その化け物を向こうにやってくれ」
モフモフは、ちょっと心外そうな顔をした。
「まあ、お好みでなければ、しかたありません。でも、中野さまをここからお助けするには、オランチュラの協力が必要なんですよ」
モフモフは、ちょっとイタズラっ子のような笑みを浮かべた。
「ま、まさか、その化け物に乗って行くのか」
モフモフは笑いながら首をふった。
「そんなことをしたらオランチュラがつぶれてしまいますよ。かれらの体はとても華奢なんです。体重も見かけの半分ぐらいしかありません。でも、オランチュラの出す糸はとても丈夫で、わたくしたちがニ三人ぶら下がっても決して切れません。そこでまず、オランチュラを上の穴まで登らせて、何か支えになるものに糸を引っ掛けて戻って来てもらいます。それを伝ってわたくしが先に登ります。次に、中野さまに糸を体に結んでいただいて、わたくしが中野さまを引き上げるんです」
「何でもいいから、早く上に戻してくれ」
うなずくと、モフモフはおれには理解できない言葉で、そのオランチュラとかいうクモの化け物に何事かを命じた。その言葉が普通のドラード語なのか、それともオランチュラ語(?)なのか、おれには区別できないが、充分に通じたようである。オランチュラは、スルスルと断崖絶壁のような巨木の幹を登って行き、穴をくぐり抜けて姿が見えなくなった。
すぐに上の方から「わあ」とか「きゃー」とかいう叫びが聞こえてきた。クモが苦手なのは、おれだけではないらしい。
待つほどもなく、オランチュラが降りてきた。オランチュラの尻から出ている糸が上の穴までずっと続いている。モフモフは戻って来たオランチュラの頭を撫でてやり、尻に手をまわしてヒョイとその糸を外した。グイッ、グイッと二回引いてみて、上でしっかり固定されていることを確認すると、こちらを振り向き、糸の端をおれに渡した。
「わたくしが登っている間に、これを腰に括りつけておいてください」
「わかった」
モフモフがいなくなると、また、オランチュラのそばに一人で取り残されてしまった。おれは、なるべくそちらを見ないようにしながら体に絡みついている糸の網を外し、モフモフから渡された糸を自分の腰に巻き付けた。その間にも、モフモフはずんずん幹を登って行く。
おれはやはり気になって、チラッと後ろを振り向いた。オランチュラは少し離れたところでジッとこちらを見ている。おれを見守るようモフモフに命じられたのだろうが、不気味なことこの上ない。
やがて、腰に結んだ糸がツンツンと引かれた。見上げると、幹の穴から顔を出したモフモフが手を振っている。
「中野さまああっ、いいですかああーっ」
「いいぞおおーっ」
おシャカさまに助けられたというドロボウの不安な気持が、今のおれにはよくわかる。
だが、そんな感傷にひたっている時間の余裕はなかった。おれは宙をすっ飛ぶような勢いで引き上げられたのだ。予想以上のスピードである。モフモフや声をかけてくれたパパだけでなく、黒田夫妻をはじめ大勢のツアーの仲間たちもいっしょに糸を引いてくれていたのだった。
ただ、黒レザーの女と髭男だけはどこかに行っているのか、姿が見えない。
「どうもすみませんでした。おかげで助かりました」
おれが糸を引っ張ってくれた人々にお礼を言っていると、その後ろから子供を連れた女性が出て来て、おれに何度も頭を下げた。
「こちらこそ、すみませんでした。子供がムシを追いかけるのに夢中になって、あなたにぶつかってしまったんです。ほら、アッくんも、ちゃんとお兄さんにゴメンナサイを言うのよ」
アッくんというのは、朝食の時スプーンを曲げていた男の子だった。
「ごめんなさーい」
ペコリと頭を下げた。
どう見ても小学生ぐらいだろう。こんな子供に怒るわけにもいかない。
「ああ、いいよいいよ。これから気をつけな」
一件落着とみて、モフモフが笑顔で全員に呼びかけた。
「お待たせしました。みなさま、出発いたしましょう」
(つづく)
ドラードの森(8)