モーモールルギャバンの「パンティー泥棒の唄」の詩をもとに書いた小説です。 原詩の世界観から物語を連想して書いたものなので、音源を聴いたことがあるなしに関わらず読んでもらえると光栄です。 高校生の突発的な感情の揺れ、昂り、自我を、客観的な視点から慎重に描いた作品です。 果たしてパンティー泥棒は成功するのか、そしてそこから何を得るのか!\(゜ロ゜)( ゜ロ゜)/?
私は私を虚構にしたがる。すべてをSDカードに入れてすましている。「私」だって「彼女」というフィクションだ。康孝君もトモクンも石塚さんだって。けれど、本当に好きな人は地平線が違う。あくまでも水平な線のうえにいる。ガリガリ君は溶けてしまい、熱いアスファルトに落ちるけど。鶏柄でとったスープ。白濁したラーメンは、Iさんへの優しい気持ち。安心。あたたかいのだ。
40代の私。一人で生活保護で暮らしてる。いさむくんから毎日ラインが来る。いさむくんって? いさむくんとの恋。結婚する水田君。そしてセフレたち。いさむくんは本当にいるのかな。いいえ。いさむくんなんていないのでした。でもこのアパートに住み始めて一か月、私の生活のほぼすべてはいさむくんだけだった。人間であっても、細胞となっても、不安から逃れられず、そのため、性は鮮やかで、私にとってされるもので、痛いもの。いさむくんだけが知っている私の本当の欲望。器官。変質した性欲。明日も、もしかしたら明後日も、いつかにも訪れるその気持ち。刺してくる逢魔が時、黄昏、火灯しどき。それは私に限ったことじゃないのでしょう。きっと。さよならって言えるのかな。あふれる人へのいとしさ、フローリングの傷。
眼鏡をかけると生き物がみんな茸に見える。その眼鏡をかけて茸をみたらどうなのだろう。の眼鏡をかけて夜な夜な出かける彼は何をしているのか。
社会のフィードバック機能を失わせる可能性があるのでは、と懸念される、1990年代ごろからの日本で流布されているように思う考え方。
蒼鉛色の空から落ちてくるみぞれ雪が、バス停に待つ人々の傘と、我が主の帽子と肩を容赦なく濡らす。 街灯は、色とりどりの傘の花の中で、濡羽色になった帽子のつばに眼差しを隠す主を舞台の主役のように青白く照らし、そこへみぞれ雪が冷たく重く、降り積もる。 降る雪の音は聞こえず、行き交う車と人々が氷混じりの泥水を踏み潰し跳ね上げる音が、主の口元を石のように硬く閉ざさせる。