私と私の原風景

邂逅

 珍しく夢を観た。誰かに呼ばれる夢だったが、呼ばれるといってもそれは声や言葉と呼ぶには相応しくない、まるで雑音だった。それだけなら特に気に留める事も無いが、その夢は嫌に鮮明な記憶として残った。所詮夢は夢——と言い聞かすのは簡単だが、なかなかどうして上手く拭えない。私は朝から重たい気分でフルーツシリアルを食んだ。
 後で夢占いでも調べてみようか。内容にもよるけど気休めにはなるでしょう……。



 自宅アパートを出てしばらく歩くと早くも少し汗ばんだ。今朝、外出前に見た天気予報によれば最高気温は十四度、曇時々晴れ。外出にはありがたい天気だと思っていたが蓋を開けてみれば雲一つない快晴。体感温度は十七度くらいだろうか。幸いにも湿度を感じない爽やかな春風が吹いてはいるが、雲のない青空には太陽が朗らかな笑みを浮かべている。これが夏ならどれだけ鬱陶しく思っただろう。
 月に一、二回程度の仕事以外での外出。目的地はアパートから徒歩三十分程の場所にあった。交通機関を使えば約半分の時間で着くのだが、自分でも驚く事に珍しく歩く事を選択した。その選択に至った理由は歩きやすい天気だと思ったからだという単純な理由だったので、数分足らずでじんわりとしている背中を思うと後悔した。
 どこにでもある辺鄙な住宅街を抜け、踏切を渡ると県道二車線の通りに出る。
 五分程歩いたところで、ある忘れ物をした事に気が付いた。余計な出費だと肩を落としたが、無くても何とかなるようなものではなかった。家まで引き返すという選択肢は「面倒臭い」という理由により押し退けられ、そこから目的地まで逆方向へ三百メートルくらい進んだ場所にあるコンビニに寄り道をする事にした。不織布のマスクと、ついでにペットボトルのレモンティーを買い再び目的地へと歩き始めた。
 沿道には背の高い街路樹が春の穏やかな風に揺れていた。春の独特な匂いは好きだった。はずなのに一昨年の春に花粉症に罹り、以来春の外出にはマスクが欠かせなくなった。春の香りがどうこう言っていられる状態ではなくなってしまったのだ。そのくせ、うっかり普段鞄の中に常備してあるマスクを切らしてしまったばかりに、多少割高なマスクを買う羽目になってしまった。いつも買う徳用マスクより着け心地がいい。そう思いたいだけかもしれないが。
 更に十分歩き、県道を逸れて車が丁度すれ違えるくらいの通りに入る。この通りは所謂シャッター商店街と言われるもので、左右どちらを見ても冷たい色の鉄扉ばかりが続いていた。並び建つ店の数が多いので当時の活気を想像させる反面、物悲しさも膨らませた。目的地はこの商店街のはずれにある。少し痒みが出てきた左眼を擦りながら商店街を歩いた。

 八年前から通っている心療内科「本田メンタルクリニック」。白壁の一軒家に取って付けたような小さな看板が掲げられただけの簡素な門構えが印象的な建物だ。ここに来るたび思うが、この病院然としない感じはもう少し何とかならなかったものか。玄関の扉を開け、受付に診察券と保険証を出す。さすがに内装はしっかりと個人病院らしくなっている。待合室はアロカシアやサボテンなど大小問わない観葉植物が程よく配置されていて、外観とはうってかわって内装は凝っていた。
 院長の本田学は良くも悪くも、そして色々な意味で表裏のある人物で、人当たりはとても良いがおおよそ医者には見えない顔の造りをしており、曰く誰に聞いても第一印象は決まって「怖い」だったという。その他には神経質な面があると思えば、診察室のデスクはお世辞にも綺麗とは言い難いがさつな部分も持ち合わせていたり、白衣姿はぱりっと整っているが、何度か見掛けた事のある私服姿はスウェットだったりと、ちぐはぐな性格をしていた。この病院の外観と内装もまさにそのちぐはぐさが生み出したものだった。
 ソファに浅く腰掛け名前が呼ばれるのをぼんやりと待っていると、ふいに右腕の腕時計が気になった。文字盤の針は十時四十八分を指していたが、よく見ると秒針が動いていなかった。
 あれ、今朝は動いていたはずだけど。
 一抹の不安に駆られ待合室の壁掛け時計を見る。針は十時五十七分を示している。念の為スマートフォンを手に取り画面を点けると、こちらも時間は十時五十七分と表示されていた。
 物を失くしたり、物が壊れたりした時は例えそれが何であっても気分が沈む。
 この腕時計は私にとって、特別大切な物だった。

「ほら、これ」
 夕暮れ、国道に面したカフェに呼び出された私は目を丸くして、テーブルを挟んだ向かい側に座る父の顔を見た。差し出された右手には成人男性の拳より一回り程大きな四角い箱らしき物が握られていた。白い包装と謙虚な赤いリボンが巻かれている。私はそれを、父の顔と訝しげに見比べていた。
「いいから受け取れ。お前、今年成人だろ? だからプレゼントだ」
 思わず両手で口を覆い大きく息をのんだ。あまりに急だったので、嬉しさや喜びよりも一瞬早く驚きが先行していたし、もはやこの箱の中身が何であるかは二の次だった。父親からの初めてのプレゼントというだけで、それだけで私の胸は十二分に満たされていた。私のその感情を察してか、父は満足そうにほんの少し口角を上げた。
「あの、ちょっと急過ぎて、その……あ、ありがとう……」
 両頬に暖かい感情が伝った。何故だか妙に恥ずかしくて、深く考えず真っ白なセーターの袖でそれを拭い、差し出されたままだったプレゼントを受け取った。父は空いた右手ですぐ手前に置いてあるカップを手に取り、まだ温かいアメリカンコーヒーを一口啜るとその言葉に何を返すでも無く頷いた。そして髭が伸びた顎をくいっとしゃくり「開けてみろ」と催促してきた。私もまた、まだ潤んだ視界で父の顔を捉え言葉無く頷いた。赤いリボンを解き、白い包装紙を止めていたテープを丁寧にめくり、破かないよう慎重に剥いていく。包まれていたのは黒い箱で、その天面には手書きの様な書式の筆記体で「Agnes b」と書かれていた。アクセサリーの類に明るくない私でも知っているブランドだった。ここでもう一度父の顔を見ると、その顔はそっぽを向いていた。ガラス越しに国道を走る自動車を眺め、まるで反応なんて気にしていないかの様に振る舞っていたかったのだろう。しかし残念ながら、そわそわしているのが一目で分かってしまう程に演技が下手だった。私は少し微笑むと視線を手元へ落とし、黒い箱をそっと開けた。
「腕時計……」
「安物だけどな。もし気に入ったんなら使ってくれ」
 どうしようもなく素直になれなかった父は、この二ヶ月後に心不全で亡くなった。

 診察が終わったらそのまま修理に出しに行こう。おかげで気分は最悪だけど、きっと直るでしょう。
 形容し難い感情と当時の記憶を巡らせていると、項垂れていた私を覗き込む形で屈んでいる受付の女性に声を掛けられた。
「あの、大丈夫ですか?どこか具合でも……?」
 はっと我に返った。
「あ……いや、何でもないです。すみません」
 漫画の様に胸の前で大きく両手を振りながら大丈夫だと伝えると、受付の女性は「よかった」と微笑んでこう続けた。
「診察室、空きましたのでどうぞ。お待たせしてすみません」
 咄嗟に右手首を見て、そこで気付く。
 そうだった。
 癖とは恐ろしいものだと思った。壁掛け時計は十一時を少し過ぎたところを指していた。
 受付の女性にお礼を言ってソファから立ち上がり、診察室へと向かった。腕時計は着けたままにしておいた。

「失礼します」
 ノックを二回し診察室の扉を開けると、優しい木目調のデスクを挟んだ反対側に、しかめっ面の似合う壮年の白衣が座っていた。
「おお、おはようさん。今日はいい天気だねぇ」
 私が診察室に入ると、本田はにこやかに皺を作り自分の対面にある椅子に掛けるように促した。
「おはようございます。ちょっと歩くと暑いくらいですよ」
 私は少しわざとらしくそう言って、椅子に腰を下ろした。
「なに、歩いて来たの? 結構距離なかったっけ」
「後悔してます」
「はは、普段運動してないのにそういう事するから」
 どうやら本田は運動不足による疲労を指摘しているのだろう。確かに運動不足は否定出来ないが、私が言いたいのはそこではない。
「馬鹿にしないでくださいよ。私が言いたいのは暑かった、っていうことです」
 本田はまたまた、という素振りで私を窺う。その顔は片目と口角が釣り上がっており、完全に人を小馬鹿にしていた。この男は冗談や皮肉が好きで、仮にも患者である私に対してお構いなしだった。よくこれで精神科医が務まるものだ。とはいえ、本田の冗談は分かり易かったし、私も冗談は嫌いではなかった。伊達に八年来の付き合いではない。
 冗談もそこそこに、本田は近況を訊いてきた。いつもの質問ではあるが、ここ数年は余程の事が無い限り「特にない」の一言で済ませている。今回も例外ではなかった。
「そうかい。変わりなく過ごせてるのはいい事だ。じゃあ薬もいつも通りで出しておくよ」
 そう言いながら乱雑としたデスクに置かれたパソコンに文字を打ち込んでいった本田は、何故だか途中でその手を止めた。そして椅子をくるりと回すと、私に向き直り鋭い眼差しでこう言った。
「何か、俺に言ってない事とか無い? そうだな例えば、不安に思ってる事とか」
 今までこんな質問をされた事が無かったからか少し戸惑った。私は頭の中で思考を一巡りさせ「特に何も」と答えた。
「ならいいんだ」
 本田は首を傾げながら小さく呟いた。何か思うところがあったのだろうか。
「どうしてそんな質問を?」
「いや、なんとなくだよ。そんな気がしただけ」
 それから二言三言交わし診察は終わった。
 礼を言い診察室を出ようと椅子を立った時、窓の外の送電線に白い鳩が止まっているのが見えた。一般的には「平和の象徴」と言われる白い鳩だが「幸福を運ぶ使者」という意味合いもあるといつだか聞いた気がする。今までの人生、全てが障害ばかりだった私にとっての幸せとは何なのか。それこそ「平和」なのかもしれない。
「どうした?」
 窓の外を見て呆けている私に本田が声を掛けてきた。
「私は、いつになったら幸せになれるんでしょうか」
 何も考えずつい口走ってしまった。本田はしばらく黙り込み、やがてゆっくりと口を開いた。
「立場上、あんまり無責任な事は言えない。特に『生きていればいい事がある』なんて言葉は俺の嫌いな言葉の内の一つだ。ニーチェもそんな様な事を言ってる。それに、幸せってのは大きければ大きい程手に入れるのが難しいもんだ。小さいものから拾っていくのがいいんじゃないか。存外見付かるかもしれないぞ」
 ここまで言うと左手の人差し指で自分の左頬を掻き、こう続けた。
「……いや、すまん。きっとこういう答えが聞きたいんじゃないよな」
 そうでもなかった。私が普段当たり前に感じているものも、「当たり前」と認識出来る事こそが既に幸せなのかもしれない。
「いえ、とんでもないです。こちらこそすみません。突拍子もない事言って」
「仕事だからな」
 言葉そのものは皮肉極まりないが、その表情は穏やかだった。
 再び窓の外に目を向けると、白い鳩は既に飛び立っていた。

 会計を済ませクリニックを後にする。太陽は頭上高く昇っており、その日差しは容赦無く降り注ぐ。本当に春なのかと疑いたくなる程だった。鞄から取り出した少し温いレモンティーを一口含み、商店街を抜けた先にあるバス停を目指す。さすがにこれだけ暑い中を必要以上に歩くのは御免だった。
 この辺りで一番近い時計屋は三年前に完成した総合デパートの中にある。商店街から徒歩十分、バスだと五分足らずという立地の為、商店街に閑古鳥が鳴く様になった原因である事は明白だった。当然、商店街では抗議運動が起こり、着工までに約一年もの間協議は膠着状態にあったという。
 人々から忘れられてしまうという事は「死」と同義だろう。

 お昼時にも関わらず県道は混んでいた。二つのバス停で止まり、八分掛けてデパートに到着した。

「時間はどれくらい掛かりますか?」
「多分電池切れでしょうから、二週間から三週間程でお返し出来ると思います」
 小さな埃の一つも無いスーツを身に纏った小柄な女性店員は、カウンターの向こう側で動かない腕時計をまじまじと見ている。
「そうですか。じゃあお願いします」
 結構掛かるんだ……。
 店員に差し出された用紙を手際良く埋め、店員に向けてカウンターの上をすっと滑らせる。時間ばかりはどうする事も出来ない。故障ではなく、ただの電池切れで済んだだけよしとするべきだろう。
「この時計、とても大切に使っていらっしゃるんですね」
 店員はゆっくりと顔を上げると、眩しさすら覚えるにこやかな笑顔で言った。
 この腕時計を修理に出すと決めた時点で、このざわつきは覚悟していた。
「成人した年に、父から貰ったんです」
 それでも心臓が強く脈打つ。何年経とうと心に刻まれた傷は簡単には癒えない。何とか平静を保ったものの、その声は微かに震えていた様に思えた。
「そうなんですか。素敵なお父様ですね」
 いよいよ決壊してしまいそうだった。これ以上の負荷が掛かる前にこの場を去らなくては。私はごく自然を装い鞄からスマートフォンを取り出し、さも時間を確認している様に振る舞う。
「あ、すみません。時間が……」
「失礼しました。ではこちらがお控えでございます。出来上がり次第ご連絡致しますね」
 適当で余裕の無い不自然な口上だったせいか、店員は何かを察し申し訳なさげな表情で頭を下げ、店の入り口まで私を見送ってくれた。彼女は終始、底無しに明るい笑顔だった。

 十三時三分。最寄りのバス停で降りた私は帰路を行く。
 少し申し訳ない事をしたかな……。
 余りに混じり気の無い笑顔だったので、ついそんな事を考えてしまう。一体何が彼女をあれ程までに輝かしいものにさせるのだろうか。仕事が好きなのか、人と話すのが好きなのか。いずれも私は持ち合わせていない。一つ私の思考の中で明確なものがあるとすれば、彼女は幸せそうだという事か。
 そこでまた、あの疑問が湧いてくる。
 私の幸せとは何なのか。
 世間一般の幸せと言えば、真っ先に結婚や出産が挙がるだろう。私はそのどちらも望んでいない。それは私の生い立ちに原因がある。責任の転嫁は許し難い行為だと思っているがこればかりは例外だ。私に母親はいない。親である以前に、真人間ですらないのだ。
 ふと我に返ると、嫌悪に侵食された心があった。悪癖だと自覚はしているが、消極的な思考回路が組み上がり分解しようにも錆び付いて剥がす事は出来ない。こういった負の感情に苛まれた時は景色を見るというのが私のルールだった。映るものがいつもの景色でも多少は気分が軽くなる気がした。前方に七十度程傾いた頭を何とか持ち上げ、遠くを見た。
 自宅アパート、連なる一軒家、自動販売機や蜘蛛の巣の様に巡らされた電線とそれを支える電柱。それらの「当たり前」たちは、何一つとして私の双眸には映っていなかった。
 千紫万紅の花畑。小高い丘から望む水平線は蒼空と溶け合い一つになっている。前髪を拐った微かな風と共に花びらは優雅に舞い、傍の大木は葉を擦り合わせそよいでいた。つい三秒前まで歩いていた日常が、何処とも知れぬ絶景に変わっている。どれだけ辺りを見渡せど見知った物は何も無い。全く理解が追い付かず、考えれば考える程私の脳は空転した。私はとにかく心を落ち着けようと二、三深呼吸を繰り返した。改めて見た一面の花畑と眼下に広がる翡翠色の海は、とてもこの世のものとは思えない勝絶だった。恐る恐る右足を一歩進め、足場を確かめ更に数歩、今立っている丘の表面が見える所まで進んだ。そこから緩やかに下ると新雪の様な白砂が敷き詰められており、不定の間隔で寄せる潮騒は全てを洗い流すかの如く澄んでいた。
 言葉にならないとはこういう事なんだ。
 感嘆のため息は小波とそよ風に揺れる梢で掻き消される。背後の大木は青々と茂り、まるで意思があるとでも言いたげに花に囲まれ鎮座していた。その大木の奥から何故か淡い光が漏れている。疑問が山積みのこの状況で、私は知らず知らずの内に深く考えるのをやめていた。大木はこれだけ透き通った明るい空の元でも尚後光が差している為、さながらかぐや姫に登場する光る竹そのものだった。本来の私は好奇心より警戒心が強く決して無茶はしない堅実な性格だが、今回ばかりはほんの少しの好奇心が勝ってしまった。ゆっくりと、息を殺して大木の裏に回り込む。それは鈍い薄灰色をし朧々と光る人影だった。厳密には光に包まれている為人であるかは定かではないが、その光は私にそう思わせる何ががあった。その曖昧な印象は数秒後に確信へと変わる。光は、パーツはおろか輪郭さえも覚束ない顔を私の方へ向けてきたのだ。私は呆気に取られ立ち尽くした。この光は自分の意思を持っているのではないか。ここに居る理由も、ここが何処なのかも何もかも想像すら及ばないが、もしかしたら。
 幾度も躊躇い迷ったが、ついに意を決し声を掛けた。何かが掴めるかもしれない。
「あ、あなたは——」
 妙な緊張で声が詰まり、全身が粟立つ。
「あなたは誰なの……?」
 言うが早いか、突然急激な目眩に襲われその場にへたり込んでしまった。その地面に花は無く、代わりに黒く冷たいアスファルトが敷かれていた。

私と私の原風景

私と私の原風景

あなたの幸せはなんですか?

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-01-24

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