本らしい本を読み始めてから50年程、雑多なものから文学などに移り、今は時代物を書く事が好きになりました。特に日本の歴史の中からの出来事や人物を洗い出し、物語を創作して行く事は何よりの楽しみとなっています。未だそれほど書いてもおりませんが、新たな発見は無知からの脱却と、趣味の世界で楽しんでいます。
知人以外には読んで貰う事も余り無く、物語を通じて様々なご意見や御批評を頂ければ、この上ない幸せ。感謝の極みでございます。
江戸時代の代表的な浮世絵師「歌川広重」の生涯を、これは広重が描いた作品を通し人間広重を描いた伝記物語である。物語は曲亭馬琴や葛飾北斎との関係も描きながら、東海道五拾三次之内や木曽街道六十九次を描きあげ、更には甲府道祖神祭り幕画の制作、天童藩からの肉筆画掛け軸の制作など、そして名所江戸百など、天保改革の真っただ中で広重の描いた作品を追い、人間広重の姿をあぶり出した。疑問とされていた八朔御馬献上の京への旅、その際に描いた肉筆画御馬献上行列の図で消えた葵の紋の理由、京から江戸に戻る順に描かれていた広重の五十三次の画帳、木曽街道の旅で画帳に見る広重が描く技法、消えた池鯉鮒の黒い鯨が・・幾つもの疑問が解き明かされてゆく・・・・。
天下の統一まで、まだ少しの時間が必要であった。種子島が国中に広まり硝石を含めた明銭などの貿易は、秀吉には絶対的に必要なものであった。しかし信仰と共に入り込む西洋文明の脅威、そこにはいがみ合う幾つものキリシタンの信仰が海の向こうで待ち構え、この国の様子を窺っていた。 秀吉の命で処刑された、所謂「二十六聖人」と呼ばれた事件の背景には、戦国の時代を終わらせ様と、そして自らがこの国を治める為に秀吉は動いたいた。否、この国の信仰を自らの信仰だけにしたいと目論み、カトリックのイエズス会は地方の大名にまで信徒を広げていた。 ポルトガル生まれでイエズス会の元宣教師だったルイス・フロイスは、サン・フランシスコ会の司祭で刑場に向かうペドロ・バプチスタを訪ね、互いの信仰を語ったのである。それはバプチスタが処刑される僅か二日前の夜であった。そこで語られた信仰の話とは・・・
戸籍謄本を受け取る為に出かけた区役所で、恭一は突然同じ年齢程の女に呼び止められた。かつて学生時代の同級生で恋人でもあった愛子との、同窓会以来十五年ぶりの再会であった。愛子は二人の子供達を育てていたが、夫の浮気が相手に子供を生ませるまでに至って、完全な別居生活が既に三十年近く続いていたのである。 幼い頃に実の父親からは暴力を振るわれ、育ててくれた義父に犯され、結婚した夫には裏切られて、愛子は心に深い傷痕を負っていた。だが恭一との久しぶりの再会から一年後、末期の癌に侵された愛子は、子供達や恭一の前から去って逝った。そして愛子の娘、陽子も又、母と同じように残された命の時間を宣告されたのである。だがそこには、既に逝ってしまった愛子が企てた、愛する者の愛を得る為の激しい渇望が、想像を越えた姿で娘の陽子に託されていたのである。
弘化二年の五月も半ば、娘の阿栄と若い門人の為斎を連れ、絵師の葛飾北斎は信州の小布施に向かった。小布施の門人の高井鴻山が造った上町の祭屋台天井画を描く為である。物語の上巻はこれまで北斎の謎とされていた富嶽三十六景と富士講の謎について、更に浦賀で暮らした数年間の訳と、カピタンに頼まれた肉筆画の話を、今まで集めた資料に基づいて描いてみた。 又物語の下巻では、信州の小布施で造られた東町祭屋台と上町の祭屋台の天井画の謎、そして岩松院の天井画の事、更に松代の次席家老小山田壱岐と松代藩勘定方の宮本慎助に渡った北斎の描いた大量の日新除魔図、そして今でも信濃の黒姫に近い雲龍寺に残る為斎の描いた双隻の片方、大作『玉巵弾琴六曲屏風』の龍図など、信州の松代と江戸とを結んだ北斎と北斎を囲む人々の晩年の物語である。
宮本家の十二代に亘るその遺伝子は、やはり秀でた遺伝子と言わざるを得ない。この一族と接した著名な人々を列挙すれば、江戸時代以降から昭和の時代まで、佐久間象山・葛飾北斎・渋沢啓三・正岡子規・夏目漱石・更にその教え子の中には、筑波大学の学長となった阿南功一や医科歯科大学の清水学長など、学問に向かい合った人々がいる。その宮本家350年の十二代に亘る世代を通して、どのようにその遺伝子が磨かれたのかを掘り起こした物語である。