広重、海道を往く (歌川広重伝)
この物語を書き始める動機は、TVで放映された「広重の東海道には元絵があった」と言う、本当の様な作り話を視聴したからである。司馬江漢と言う絵師が描いた東海道の絵が、広重の描いた東海道五十三次の画に、元絵として利用されたと言うのである。今でもネット上では見かける書き込みは、それと同じ趣旨の話が丁寧に江漢の画と広重の画を比較して説明されている。しかしこの二つの情報の出所は同じ方の様で、江漢の描いたとされるその絵を高値で売りつけるが為の、手の込んだ陰謀だと言う話も聞き及ぶ。事実、発表された方が居た小さな美術館は閉鎖され、既にその方の所在も不明であり、陰謀の名残がネット上に残されているだけである。
こうした最中に北斎が描いた富士富嶽三十六景「尾州不二見原」の図に、広重が描いたそっくりな団扇画の存在を知った私は、しかも敢て真似た事を「北斎翁に似せて」と、広重の書き込みの入っていた事も知ったのである。更に佐野喜版「信州川中島合戦之図」(天保14年刊行)の画のなかにも、勝川派の絵師である勝川春亭が、文化6巳年に描いていた事を広重は知っていて、画中に春亭の画を真似たと此処でも断りを入れている。その故に人間としての広重に、増々興味を持ち始めたのである。それは又、東海道五十三次之内の赤坂宿の旅籠の壁に、更に木曽街道六十九次之内の中の贄川宿の旅籠の壁に、彫師や摺師の名を板切れに入れた気配りであった。片や保永堂、片や錦樹堂の異なる版元からの刊行だから、版元の指示で無い事は確かであろう。こうした推理の元に広重を見つめると、幾つもの未だ知られていない人間広重が見えて来たのである。
現在、広重の東海道を描いた画帳が大英博物館に保管され、ネットでも一部を見る事が出来る。しかも京から順を追って画帳に描かれているのを見て、江漢の元絵こそニセモノだと確認したのだが、こうした広重の画を利用した詐欺まがいの作り話が出て来るに至っては、ネットの書き込みが如何に様々な目論見を持つか、つくずくと思い知らされたのである。
そこで広重が歩いて来た道を辿る事で広重の風情を理解し、広重が描いた作品を追いかける事で広重の思いを理解したいと、この物語を書き始める事にしたのである。江戸時代の絵師であった歌川広重は、その代表作である「東海道五十三次之内」や「名所江戸百景」を描き、多くの作品を後世に残した事は広く世に知られている。しかし人間歌川広重を知る手掛かりは極めて少なく、それ故に広重が描いた作品を時系列に並べ、現在確認されている資料を基に、広重の行動から広重の人間をあぶり出し、この伝記的な小説を書く事となったのは、分かる限りの事実に基づきたかった為である。
特に木曽海道六十九次之内の広重が描いた画帳からは、広重が錦絵を描いた手法も読み取る事が出来る。そして甲府道祖神祭りの幕絵に描かれた東海道五十三次の下絵や、広重の甲州旅日記などが発見される至って、歌川広重が歩いた街道と描いた錦絵を見つめながら、何を求め何を描きたかったのか、それを筆者なりに纏めた物語でもある。
ところで広重は江戸っ子である。江戸っ子を理解するには「粋」や「洒落」をまず知らなければ、広重の描いた池鯉鮒の鯨も、広重が北斎を真似て描いた尾州不二見原の団扇画の意味も、理解する事は出来ないだろうと思える。それどころか、北斎の富嶽三十六景「甲州三坂水面」の、湖面に映る富士山の、横にずれた位置や湖面に映る富士だけが、何故雪をかぶっているのかなど、その謎さえ解明出来ないであろう。その意味で言えば、北斎も広重と同じ様に、粋や洒落を理解していた江戸っ子なのである。
知るとはその存在を認識する事では無く、存在の意味を理解する事であるなら、下巻に描いた江戸百の風情は、まさに理解する為の良い入門書となるはずであろう。単なる風情に見える錦絵の向こう側に、様々な思いや願い、歴史や動機が存在する事を知るからである。広重の描いた錦絵は、それ故に単に版画としての画では無い。その背景の理解すると、歴史や暮らし、洒落や粋、事件や信仰が見えてくるのである。広重の画は、まさにそうして見る事が求められているとも思える。
未だ小説を書き始めて三作目、思ってもいない上・下二巻の長編になってしまったが、誤字脱字や文章が拙い事をご理解頂き、ご一読頂ければ幸いである。
《文政十二年(1830年)三月七日》
上巳(じょうみ)とは五節句の一つ、桃の節句の事である。この節句が過ぎる頃になると江戸はぼんやりとした春霞と共に、陽射はひときわ和らいで来る様になる。そしてその待ち焦がれた季節の到来は、江戸に住む者に取って心躍る嬉しさがあった。あと僅かで花見の季節がやって来るからである。
鉄蔵が大手門の濠に作られた八代洲河岸にある定火消屋敷の奥の、住いとしている長屋を出たのは天気の良い昼さがりの事である。そのまゝ馬場先濠沿いの和田蔵御門の前を抜け、真っ直ぐに神田橋御門へと向かって歩いていた。左手の僅かに波打つ濠には数羽の鴨が水面を行交い、北へ行き遅れたのか、せわしなく水草を食んでいた。旗本屋敷の塀の上からは桜の枝が蕾を膨らませ、如何にも重そうに垂れ下がっていた。やがて道三掘の外れに架かる銭瓶橋の傍まで来ると、何かを思い出した様に鉄蔵はふと突然に足を止めた。脳裏には遠い昔の出来事が、前触れも無く浮かんで来たからであった。
それは未だ鉄蔵が、名を徳太郎と名乗っていた幼い頃の事である。江戸城の本丸を写し取ろうと絵筆を取り出し、画帳を広げてこの銭亀橋から身を乗り出した時、強い言葉で父に叱られた事を思い出したからであった。幾ら天下泰平の世ではあっても、将軍家の住まいである江戸城を、むやみに描いて良いと教えられて居なかったからであった。
あの時、父の源右衛門が「徳太郎よ、みだりに描いてはならぬぞ、描く相手が何者なのかを見極めて描く事よ、しかと見極めよ、良いな」その言葉は、後にも先にも父から叱られた、たった一度の心に焼き付いた言葉であった。
鉄蔵の母「りう」は、今から二十年余り前の文化六年(1809年)、未だ寒さの残る二月に病で亡くなっている。しばらく病床に伏した後であったから、子供心に少しの覚悟は出来ていた様に鉄蔵には思える。だがその母の後を追うかの様に十か月後のその年の暮れ、心労が重なったのか父の源右衛門もそのまま子供達を残して逝ったのであった。
旗本屋敷に囲まれた定火消屋敷での暮らしは、その役目柄も毎日が気の抜けない日々であった。だが母の死が父に取って、それほど大きな痛手であったと鉄蔵が気付いたのは、父が亡くなってしばらく後の事である。母の亡くなった後、思えば食が少しずつ細くなり、生きる事をまるで避けていた様に感じたからである。
二十年前に母や父が相次いで亡くなった時、未だ十三歳の長男であった徳太郎の肩に、弟の「了信」そして姉である「辰」、それに妹の「定」の行く末が全てを背負わされていたのである。尤も未だ徳太郎が四歳の時に、もう一人の妹が亡くなってはいるが、徳太郎の記憶の中に残っては居なかった。
この時に親戚筋からの計らいで、自らの家である安藤家を守る為に徳太郎が求められたのは、年齢を四歳程加算して元服の儀式を行い、名も安藤重右衛門と名乗り家督を継ぐ事であった。元服の儀式は武士である男子が、大人になった事を周囲に知らしめる為の、一生に一度限りの祝い事である。この頃は武士なら誰もが十六から十七歳で、その儀式を行う習わしであった。それ故に十三歳の徳太郎の元服は、安藤家の家督を何とか引き継ぐと云う目的だけの、親戚縁者が考えた苦肉の策とでも言うべきものであった。
弟の了信は知り合いの寺に奉公に出され、二十年も過ぎた今はも比叡山の黒谷で未だ修業の身だとも聞いていた。姉と妹も親戚に引き取られて、その十年後には縁のあった先に相次いで嫁いで行った。後に届いた其々の便りだけが、弟姉妹のその後の事を、僅かに知る手掛かりとなっていた。 四人の兄弟はこの時、両親の死を境に離れ離れになったのである。だが兎も角もこうして安藤家の跡を継いだ徳太郎は、定火消同心であった父の跡目に座る事となったのであった。
徳太郎が安藤重右衛門と武士の名に変えた時、併せて通り名を鉄蔵として使い始める事にした。下級武士にとっての武士の名は、幕府に届けるだけの姿に変っていたからである。下級武士の立場で有れば肩苦しい武家の名前よりも、気さくに声を掛けられる通り名の方が、世間では通用するからである。
その鉄蔵が歌川一門の絵師である歌川豊広の門を叩き、門人の末席に置いて貰うようになったのは、父の跡目を継いだ翌々年の文化八年(1811年)の春の事で、鉄蔵が十四歳の時であった。
画が上手いからと叔父からの勧めもあった事は確かだが、狩野派の絵師で狩野素川章信に師事している定火消与力の岡島林斉から、長く画の手ほどきを受けて、腕を磨いた事が入門を許された理由であった。
そして入門してから僅か一年余りの鉄蔵が十五歳の時であった。師の歌川豊広は鉄蔵の武士の名である重右衛門の「重」と、師の自らの名の「広」の一字を取って、絵師の名を広重と付けてくれたのである。更に画号も一遊斉とした名が与えられ、この時より歌川一門の絵師として、晴れて名を名乗る事が許されるに至った。門弟の中でも特に豊広から、お前はずば抜けた技量であると褒められたが、其れよりも何にも増して鉄蔵が嬉しかったのは、版元から仕事を貰う事が出来る様になった事であった。
文化文政から天保に移るこの時代、幾ら旗本とは言え同心手当の三十俵二人扶持だけでは、家族を養って行くには厳しい時代であった。それ故に幾らかの金を得る事が出来ればと、画を描く事で新たな収入の道を模索していたのである。
定火消と云うお勤めさえ疎かにしていなければ、旗本をこうした事で咎める事は無かったと言って良い。寧ろ御上から預かった屋敷の一部を町人に貸し与え、賃料を取っていた旗本も多かった時代である。しかし町方役人とは違い旗本である以上、町人からの付け届けや志は一切無縁であった。それが為に多くの同僚たちは、嫁すら貰う事もままならず、武士の内職は鶯などの小鳥や金魚、果ては鈴虫などを殖やす内職が広まっていた。直ぐに金が手に入る手仕事も、巣鴨あたりでは羽根つき用の追羽根作り、牛込弁天町界隈は提灯や凧作り、青山百人町辺りでは広く笠貼りなどが知られていた程である。
それ故に下級武士の多くの嫁は、縫い物などの僅かな手間賃を得る為、内職をするのが常であった。だからこそ絵師として新たな収入が得られる事は、武士である最も貧しい暮らしからの決別を意味していたのである。
それは幼い頃から父と共に画に親しんで来た事や、近くに師と呼ぶ人達の居た事が幸いしていた様に鉄蔵には思える。後に鉄蔵は南宋画を同じ旗本の大岡雲峰に学びつつ、京の四条派流と称する技法も学んで行く事となる。この四条派とは丸山応挙が鳥獣や草花を、実物を見ながら写生画風に描いた技法で、質感、形、色彩の再現性を重視した技法であった。一方の狩野派の描き方は実物を見て描くのではなく、手本を元にした絵を描く技法であり、丸山応挙は狩野派のその技法に、反旗をかざした絵師と言っても良いだろう。風景も西洋的に透視図法を用いており、鉄蔵は京の新しい四条派の描き方を、自らの画の中に取り込んでいったのである。
鉄蔵が仕事らしい仕事の依頼を版元から受けたのは、年号の変わった文政元年(1818年)に、狂歌本の役者絵を二種類描いて欲しいと言う依頼であった。実にこの時から十数年も前の、二十一歳の時である。それまでに舞い込む注文は黄表紙本の挿絵が殆どで、小遣い稼ぎ程度の収入にしかならなかった。まして自らの名を落款で書き込む様な作品からは、まだまだ程遠い注文内容でもあった。
その鉄蔵が嫁を貰ったのは、天竺より更に遠くの波斯国(はしこく)と云う国から来た駱駝と言う、馬とも牛とも違う大きな動物が見世物になって江戸を賑わせた、文政四年(1821年)の二十四歳の時である。妻の名は「お芳」と言い、同じ定火消同心の岡部弥右衛門の娘で、歳は十九であった。体は余り丈夫と言う方ではなく、それが為なのか子供の産まれる気配もなかった。それでも余りでしゃばる事も無く、穏やかで良く気の付く女であった。お芳の父である岡部弥右衛門とは同じ定火消同心とは言え、鉄蔵が勤める八代洲河岸の定火消とは違い、赤坂溜池の定火消屋敷の同心であった。時折だが鉄蔵が夜勤となる夜は、お芳も親の許に帰る事もあるらしく、それはそれで至って普通の妻であったと言えた。
絵師としての仕事も以前には、黄表紙本の挿絵が月に十数枚程ではあったが、月日を追うごとに少しずつだが増え始めて居た。更にこの時期に、鉄蔵は浮世絵の先人達同様に、春画を描く事も又新たな収入の道として始めて居た。あの歌麿の号は「むだまら」と呼ばれていたと言うし、北斎の号は「雁高」と言った。鉄蔵の号は「色重」と言われて、こうした隠号を版元が付けていたのである。尤も二百年も前に「見返り美人」を描いた菱川師宣さえ、堂々と自ら描いた春画本にその名を名乗っていた訳で、享保の改革を行った将軍吉宗の享保年間(1716~1745年)以前は、こうした書物の刊行に、目くじらをたてられる事も無く行われていた様である。この御上の政策も享保の改革から禁止された様に言われているが、禁止は単に表面での話で、刊行は単に裏に回ったと言うに過ぎず、庶民は何時の時代も知恵で受け流す術を心得ていたのである。
画号の事をついでに言うなら、師の豊広から広重と付けて貰った後に、その頭に一遊斉と付け足したのは文政年間の頃で、天保年間になると一幽斉とし遊を幽に文字を一つだけ変えて通したのである。絵師が画号を変えるとは、心機一転と言う意味合いが強く含まれている。それは幕府が天変地異などを理由に元号を変える事に似て、まさにその程度の事なのである。
処で浮世絵が世に出るのは、版元からの依頼で絵師が画を描く事から始まる。絵師によっては美人画や役者絵、それに風景など得意不得意はあるにしても、初めに描かれる下絵は全て墨の線で描かれる。絵師の描いた線画の下絵は版元に渡され、版元は町名主からの刊行の許可を得て、今度は版元の組合から選ばれた行事と呼ぶ者に極印を貰うのである。更に版元は自ら抱えている彫師に下絵は渡され、彫師は下絵を裏返しにして版木に貼りつけ、その下絵の線に沿って版木は彫られてゆく。
最後に版木の隅に見当と言う印が入れられ、彫られた版木が今度は摺師に回され、使う色の数だけ墨一色の線画が摺られる。これを絵師に又戻され、絵師はその摺られた紙の部分に「色さし」と呼ぶ色の指定を行うのである。こうして絵師の色さしを終えると下絵は彫師の元に戻され、一色の色と見当の部分だけを残して色の枚数だけの版木が彫られる事になる。この幾枚もの版木に其々一色の色を塗り、順番に紙を見当に揃えてバレンと呼ぶ竹の皮で紙をなぜる様に摺ると、錦絵と言われる浮世絵が仕上がる事になるのである。熟練した彫師は女の髪の毛の一本さえも判別できる様に彫るとも言われ、摺師は何種類ものある「ボカシ」を入れる事すら造作もなく出来るのである。
待ち焦がれていた仕事、つまり自らの名前を入れる事の出来る画を描く注文が、文政四年(1821年)に鉄蔵の許に舞い込んだのである。日本橋横山町の版元、岩戸屋喜三郎からの依頼であった。黄表紙本の挿絵を二冊、読本は「音曲情糸道(おとまがりなさけのいとみち)」で、東里山人と言う戯作家の小説であった。更にその後同じ版元から同じ作家の「出謗題無智哉論(でほうだいむちゃろん)」の合本二冊の挿絵である。これは初めて絵師として、読本に広重の名前が載せられた仕事であった。聞けばこの戯作家の東山里人は、幕府の市中取締諸色掛りの役目を持つ与力であったが、文化元年には既に作家である山東京伝の門人となり、作家として鼻山人の号を名乗っていた。主に洒落本から人情本を書き、挿絵も広重より少し年上の絵師渓斉英泉に、その多くを任せていると広重は聞いたのである。
版元の西村屋与八から「外と内姿八景」と称して、吉原の遊女達の顔を少し面長に描いた、美人画の錦絵八枚を描いたのもこの頃である。僅かだが鉄蔵は代金を受け取り、定火消としての勤めを終えてからは、絵師として本格的に仕事を始めたのであった。
文政から天保年間の初め頃は、江戸の町は美人画や役者絵がもてはやされ、巷では両国の花屋与平衛が考えたと言う握り寿司が流行り出すなど、まさに江戸は享楽の時代を迎えて居たと言える。しかし華やかであれば有るほど、その陰は深くそして色濃く時代を彩るものである。「世の中は地獄の上の花見かな」と吉原に売られた遊女達を見て、一句を吟じたのは小林一茶である。その一茶の亡くなる僅か四年程前の事であった。
この華やかな時代の影響を受けたのか、翌年の文政五年には又も岩戸屋喜三郎からの依頼で「今様弁天尽」とした七枚揃いの美人画の注文があった。これは近江の琵琶湖に浮かぶ竹生島や、江ノ嶋、洲崎、王子滝野川など、弁財天を祀る場所としての風情と、芸鼓や遊女を弁財天に見立てて描く美人画であった。だが鉄蔵は琵琶湖の竹生島など、これまで一度として訪れた事は無い。それ故に琵琶湖に浮かぶ竹生島の資料を、弁財天を祀る西国札所三十番宝厳寺の描かれた西国巡礼方向図や、西国巡礼道中細見大全などを参考にして描く事でしか、方法は全く無かったのである。
江戸市中や少し離れた江ノ嶋なら、それを見に行く事が出来るにしても、近江の琵琶湖に浮かぶ島となれば、資料を基に推測でしか描く事は出来ない。しかもそれは絵師自らの、勝手な推測であってはならなかった。広重がこれまで集めた僅かな全国の名所図会(名所の案内本)を広げ、更に師である豊広が集めた多くの名所図会や記録図を調べ、その風情を思い描きながらこれらの画を仕上げたのである。
西国の特に京の風情や祭礼は、記録としては幾冊もの図会が著されている。特に「都林泉名勝図会」は都の林泉、すなわち庭園の風景を網羅してあり、高名な寺院の庭から公家衆の舟遊び、そして蹴鞠などの他に池坊の立花(活け花)など、黒摺り五冊の書架に線画で描かれた膨大な資料であった。更に「花洛名勝図会」は京の東山を中心に、寺社の建物やその周囲などの細部が描かれ、その絵図と姿を思い浮かべて描く事で、その場所に行かずとも風景は描けるのである。
それにしても既にこの頃、名所図会作家と言う画工も現れている程で、浪花の戯作者で名所図会作家の暁鐘成(あかつきのかねなり)と言う作家も現れている程で、既に「大坂天保山名所図会」や「淀川両岸勝景図会」など刊行し、今も淡路や摂津などに足を運んでいると聞いていた。それに東国から西国、更に四国へと巡礼する人々には、最も必要とする観音霊場の案内図「観音霊場記図会」全五巻や、原誉春鶯の「観音霊場記」全七巻も既に刊行され、広く書き写されて西国霊場への巡礼は広まっていったのである。
祖父方から七歳の嫡子仲次郎を、安藤家の跡目に座らせたいと言う話が出たのは、文政六年(1823年)の頃であった。この時に初めて鉄蔵は父が津軽藩の武士であり、故あって安藤家に入り婿として来た事を知ったのである。だがそれ故に本家筋から跡取りを迎える事が筋だと言われ、鉄蔵は仲次郎の後見人となって、名目だけの隠居暮らしが始まったのである。
早くこの安藤家を離れ家督を仲次郎に譲り、もっと広い世界で生きて見たいと言う気持ちが、漠然ではあるにしても生まれたのは、この時で有った様に思えた。しかし広い世界を夢見ていても、甥である仲次郎も未だ十四歳である。あと数年の後に元服の儀式をしてやり、後見人としての役目を返上すれば、鉄蔵は晴れて武士としての立場も、この定火消同心の御役目も離れる事が出来るのである。
とは言え表向きは隠居であっても、今は日々の出仕を仲次郎に任せる事は出来なかった。代番を務める者すら居なかったかつての自分の時とは違い、十四歳の仲次郎を定火消同心として勤めさせる事は、周囲が許す事はまず有り得ない事なのである。仲次郎の補佐は後見人で隠居でもある鉄蔵の勤めであり、自らの勤めをつつがなく仲次郎が理解し、周囲の者が定火消同心として認めて貰える元服が済むまでは、代番の立場でもある鉄蔵が手を抜く事は許されない事なのである。今はまず自らの生きる道を探しながら、仲次郎の行く末を見守ってやる事が、何にも増して大事な事の様に思えるのであった。
二十年余りも前の、鉄蔵の父が生きて居た頃の事である。旗本でも最も低いお役目を務めながら、父の源右衛門は月に二度程の夜勤明の朝、幼い鉄蔵を連れ神田明神や不忍池など、共に歩いてくれた事を思い出す。父が死ぬ少し前には火の見櫓に登らせてもらい、町の風情を鳥の目線で捉える事も教えてくれた事など、それがいつまでも鉄蔵の記憶の底にこびり付いて離れなかった。
その鉄蔵も亡くなった父親と同じ様に、今も夜勤明けの日には絵筆を手にして同じ道を歩き、父と行った場所に向かっていた。この江戸の風情を写し取る事が、今はたった一つの楽しみとなっていたからである。だが明日をどう生きて行くかさえ未だ定まらず、今日の日の流れの中を過ごしているにすぎなかった。
広重三十三歳の事であった。
いつの間にか気が付くと、鉄蔵は神田川に架かる昌平橋を渡っていた。焦げた匂いが未だにこの辺りまで漂っているのは、丁度一年前に起きた神田佐久間町の大火事の名残である。思えば江戸の火事は、毎年二月から三月に集中して起きている。冬の北風が家々の壁や屋根を乾燥させ、やがて南風が強く吹き始める頃が、最も危ない時期なのである。鉄蔵が忘れる事の出来ない火事の記憶は、二十三年前の文化三年、三月四日に起きた芝の牛町から出火した火事で、鉄蔵が未だ十歳の時の事であった。やはりこの火事も、春先の強く風が吹く日に起きていた。この日、南西の風が強く吹き荒れ、火は巳の刻(午前十時頃)に出火した。出荷場所の芝牛町は、江戸城から南西の方角であった。激しく打ち鳴らす半鐘の音に「よいか、外には出るなよ。何事があってもここにいるのだぞ」と大声で怒鳴った父親の声が、鉄蔵の耳の奥に今もはっきりと残っていた。黒煙が折からの強い南風に煽られ、江戸城に向かってくるのが幼い鉄蔵にもはっきりと見え、初めて火の恐ろしさを感じたのである。
父の源右衛門は直ぐに防火服に着替え臥煙人足を集めると、江戸城の消火に備えて数寄屋橋御門から鍛冶橋御門、呉服橋御門までの江戸城警護に向かったのである。火は東海道の町家が立ち並ぶ街道筋を舐める様に進み、風下の三田一丁目界隈を焼き尽し、更に金杉川を越えて増上寺までに達した。羊の刻(午後一時頃)には徳川家菩提寺であった増上寺が焼け落ち、更に火は京橋・銀座・日本橋界隈を焼きつくして北に向かったのである。
火の勢いがほぼ収まったのは既に白々と夜の明ける翌朝の事で、神田から浅草あたりで食い止められたと言うが、亡くなった者は千二百人を越えていたと言う。この火事で幸いな事に、江戸城に火の手が上がる事は無かったが、父の守る数寄屋橋御門の橋からは、辛うじて焼け残った築地本願寺の伽藍が正面に見えるだけで、新橋から京橋の間にあった町家は全て燃え尽きて居たのであった。
火事の火元は芝高輪の泉岳寺近くの牛町辺りだった為、後で牛町の火事と言われたが、あの日の慌てて防火服に着替えて出ていった父の姿を、鉄蔵はじっと見つめていた。その先には狂ったような黒煙が空一面に広がり、火の粉を散らして巻きあがっていたのだ。幼い頃に観た情景の恐ろしさは、今でも消える事は無かった。
神田川に架かる昌平橋を渡ると、道は下の筋違い橋を渡り中仙道に出る。江戸日本橋から板橋を通り、遠く山の中を近江の大津に続く街道である。鉄蔵は躊躇する事も無く、明神下に行く為に不忍池へと向かった。ここも幾度となく父に連れられて、不忍池の縁の道を歩いた記憶があった。道は突き当りの板倉様の屋敷を左に曲がり、その又突き当った明神下の石段辺りが目的の同朋町のはずであった。
昨年の年も押し迫った十二月二十一日に、亡くなった師でもある豊広の葬儀に足を運び、年の明けた四十九日の法要にも顔を出してくれた曲亭馬琴に対し、今日は歌川豊広一門の意を受けて、改めてお礼を述べる為の訪問であった。
鉄蔵の師である歌川豊広が仕事で初めて馬琴と組んだのは、享和三年(1803年)の時からで、既に二十七年も前に豊広が馬琴宅を訪問し、挿絵の仕事を頼んだ頃からの事である。この事で翌年の享和四年の正月が明けてすぐ、豊広の挿絵が入った黄表紙読本「小夜中山宵啼碑」が刊行され、馬琴からの挿絵の注文が増えて行く事になるのである。黄表紙とは、かつて百年も前には子供の絵本であった赤本が廃れ、歌舞伎や浄瑠璃などの絵解き、更には英雄物から好色恋愛物の黒本に時代が変わり、世相や風俗、事件などを写実的に描写した大人の読み物として黄本、即ち黄表紙と変わって行くのである。特に黄表紙の読本は洒落、風刺、滑稽本とも言われ、江戸時代の文学の象徴であった。そしてこの姿を確立したのが、馬琴が師と呼ぶ戯作家の山東京伝であった。
馬琴と鉄蔵の出会いは恩師の豊広に鉄蔵が入門を許された翌年の事で、広重と画号を名乗り始めた頃からである。芝片門前町にある豊広の家で、馬琴とは幾度か顔を合わせていた。だが懇意と言うには年齢にも離れたものがあり、又そこには何時も亡き豊広の姿があった。それに馬琴の人となりは豊広から聞く事があるにしても、馬琴は師匠豊広の仕事仲間であり、気軽に口を利くには余りにも高い敷居が横たわっていた。
とは言え鉄蔵の気持ちの内にある曲亭馬琴の姿は、既に作家として大成した人であり、北斎などとも対等に付き合うなど、憧れと尊敬の念を抱く相手として十分な条件を持っていた。そしてこの父親の様な年齢の差ある馬琴に、何故か親しみやすさを持ち続ける事が出来たからである。
馬琴は江戸深川の海辺橋近く、旗本松平鍋五郎信成一千石の用人、滝澤軍兵衛興義と妻「お門」との間に、五男として産まれた武士である。幼名を春蔵、後に倉蔵と改めるが、幼少の頃より馬琴は読書を好んだ。七歳の折に父に連れられて出かけた句会では、「うぐいすの初音に眠る座頭かな」の句を詠んでいる。本名を滝澤興那と云い号を曲亭馬琴と言った。鉄蔵が生まれる数年前、江戸の文化を賑わせた戯作者の山東京伝や、江戸の版元として広く知られた蔦屋重三郎の勧めで、それまで蔦屋の番頭として働いていた馬琴は、履物屋の女主人の「お百」が切り盛りする伊勢屋の入り婿になったのである。この「お百」との間には、後で二男三男は早世してしまうが、長男の宗伯が二人の妹と共に、馬琴の期待を集め成長して行くのである。
その「お百」が今、目の前で鉄蔵に居て茶を入れて居た。三っほど歳は馬琴より上だと聞いてはいたが、姑が亡くなってからは店もたたんで寡黙になったと聞いていたが、その噂通りに愛想の無い妻であった。
ところで曲亭馬琴の名を江戸で広く知らしめたのは、二十三年も前の文化四年、読本「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」前編を刊行し、この読本は後に幾度も版を重ねる事となり、馬琴の名を世間に知らせるに十分な役割を果たしたからである。以来それは当然の事の様に幾冊もの作品を残し、曲亭馬琴は不動の名前となったのである。この「椿説弓張月」正式には「鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月」と言うが、物語は源頼朝が琉球に逃れて琉球王朝を作る為に力を注ぎ、その子が初代の琉球王になると言う創作物語である。薩摩藩が琉球に進攻した慶長十四年(1609年)から五十年後の慶安三年(1650年)、琉球王国摂政の羽地朝 秀によって編纂された「中山世鑑」に書かれていた正史を利用したものである。
その後、後篇と共に四年を経てこの物語は完結するが、全五編三十九冊からなる長編の歴史伝記物は、北斎と親しかった鶴屋喜右衛門が版元となり刊行したもので、売出し中の絵師であった北斎が初版から挿絵を描いていた事も、大きな反響を生むに一役買っていた事は確かであった。物語の内容と北斎の筆による挿絵が、見事に独特の世界を生んでいたからで、それを否定する理由は何処にもないと言っていいだろう。
おまけに戯作者で浮世絵師の山東京伝が刊行した、黄表紙の合巻「於六櫛木曽仇討(おろくぐしきそかたきうち)」を西村永寿堂が版を起こし「敵対岡崎女郎衆(かたきうちおかざきじょろうしゅう)」「於杉於玉二身之仇討(おすぎおたまふたつみのかたきうち)」の二巻は鶴屋喜右衛門が版を起こし、この三巻を一冊の合本にして馬琴の「椿説弓張月」と競わせたのも、同じ仙鶴堂の鶴屋喜右衛門であった。画は「於六於玉木曽仇討」と「お杉お玉二身之仇討」を歌川豊国に任せ、「敵対岡崎女郎衆」は北尾政重が画を担当した。この時に挿絵を描いた豊国は、役者絵や美人画の絶大な人気を持つ画師であり、一方の政重は狂歌で知られた太田南畝が、近年の名人と言わしめた絵師であった。
江戸で一番に名を知られていた戯作者の山東京伝は、未だ名も知られてもいない若い馬琴の弟子入りを断ったが、それでも京伝の住まいでもあった山東庵の出入りだけは許していた。この弟子入り事件があってから後も、馬琴は京伝に対し師と仰ぐ事を止めず、それ故に馬琴から見れば師でもある山東京伝との戦いであった。この弟子入りを断った山東京伝と、断られた馬琴の対決話が江戸中に知れ渡り、増々読み本の売れ行きに拍車がかかったのである。そして大方の予想を裏切り、勝ったのは京伝の弟子と自負する馬琴の方であった。京伝の合本は僅か数百冊の摺りで終わったのである。その後京伝は鶴屋南北の歌舞伎から脚本を基にして読本を書き上げて以降、合本が次第に多くなり六年後の文化十年には、読本「双蝶記」が不評でついに筆を折る事となった。これによって曲亭馬琴は名実共に、江戸に於ける読本の第一人者となったのである。
読本は当初、中国の白話小説から借りた怪奇ものや変幻ものを多く扱ったもので、水滸伝や三国志など多くの作者がこれを取り入れ、山東京伝も「忠臣水滸伝」を寛政十一年に刊行している。これは水滸伝に日本の演劇である仮名手本忠臣蔵を重ね、命よりも義を貴ぶ風潮を著したもので、黄表紙本が衰退して行く中、読本は急速に広まって行くのである。しかし馬琴の代表作は何と言っても「南総里見八犬伝」である事は、疑いようもない事であった。十六年前の文化十一年(1814年)に五冊を刊行してから、途中に幾つもの問題が有ったにせよ、今もその物語は多くの読者を待たせている読本だからである。それは又、房総里見氏の史実を基調にして、馬琴は幾つもの創作をそこに練り込み、更に自らの生い立ちをも滲ませた壮大な物語に仕立てたからである。
師の四十九日の法要も無事に終えた途端に力が抜けたのか、自らの師を亡くした門人たちを集め、鉄蔵は誰が師の跡を継のかも含めて、一門のこれからの行く末を決めなければならなかった。それが描く事へ大きく気力に影響している事は、誰よりも自分自身が感じる事であった。門人が出るのは当然の事だが、葬儀は版元や幾度か共に仕事をした作者や絵師も集まり、虎の門近くの菩提寺である專光寺で盛大に行われた。中でも法要に来ていた馬琴と鉄蔵は、亡くなった豊広の昔話に花が咲いたのである。この時に馬琴は「何か困った事があったら、遊びに来なよ」と声を掛けてくれた事が、何より鉄蔵には強い味方を得た様に思えるのである。
馬琴の女房である「お百」が部屋から去ってしばらく、部屋に入って来た馬琴に対し鉄蔵は、居住まいを正して頭を下げ改まった言葉で礼を伝えた。
「その節は誠にお忙しい中にも拘わらず、師である豊広の葬儀と四十九日の法要に足をお運びいただき・・・・」
前の年の瀬に亡くなった豊広の、葬儀参列に対して礼を述べたのである。しかし馬琴はやれやれと言う様な顔をした後に、鉄蔵に向かって声を上げた。
「なぁ広重さんよ。余り固い話はその位で止めようやな、・・・どうも堅いお武家の様な挨拶は苦手でね。・・・・おっと済まねえな、あんたも元は武士だったんだっけな。俺も昔はそうだが、武士は嫌いでね」
かしこまった鉄蔵の挨拶を、苦笑いしながら馬琴の言葉が鉄蔵のそれを制した。しかしその顔には、穏やかな笑みが漂っていた。
「まぁとにかく、肩から力を抜いてよ、膝を崩して、な、広重さんよ」
歳の差は三十歳余り、鉄蔵はまるで父親にでも言われた様に、言いかけた挨拶を止めて顔を上げた。
「そうしてくれると助かるね。どうも堅いのは性に合わなくていけねえやな、しかしあんたも師匠を亡くして大変だろうが、こんな時はオロオロしていても埒は開かねえしな、こう云う時こそ面白れえ事や、夢中になれる事を探さなきゃあよ。で一つ二つ面白い話を見つけてよ、いや何ね、思い出した様な話で申し訳ないが、あんたはうちの宗伯と同じ年なんだってな。以前に豊広さんから聞いた事があってね、ふいに思い出したんだが、しかし面白い話は未だあるぞ」
馬琴の長男の名前が、宗伯と云う事は鉄蔵も知っていた。だが同じ歳であった事は、ついぞ今まで知らなかった。だからなのだろうが、話しているとどこか父親の様な感覚を、この目の前の馬琴から感じるのである。
「未だ他にもですか? それは一体又、どの様な事なんでしょうね」
出された茶を飲もうとしたが、鉄蔵は取り上げた湯呑みを又置きなおした。
「なぁに、これも大した事じゃねえが、あんたは確か鉄蔵と名を名乗っているだろう?」
「はぁ、左様で、今でも呼び名は鉄蔵としておりますが、それが何か?」
「何、知り合いにも同じ名前の御仁が居るもんでさ、しかもあんたと同じ絵師だ」
意味ありげな馬琴の言葉であった。
「同じ名前と申しますと、鉄蔵って私の名前と同じって事ですかね?」
「おぅそうよ、ほら、あの北斎だよ。若い頃に使っていた名前だ。今は画号も何て名前が変わったのか、載斗だったか・・・もう忘れたがね」
「あの北斎翁の若い頃の名が、私と同じ鉄蔵と申したんで?」
初めて耳にした話であった。鉄蔵の画号は歌川広重で、葛飾北斎も画号である。絵師としての号である広重の落款は、最後に必ず広重と書くが、その一文字の「広」は師の歌川豊広から譲り受けた一字である。本名の安藤鉄蔵は謂わば暮らしで使う若い時からの名前でもあり、武士としての名は安藤重右衛門と名乗って居たが、武士を辞めれば無くなる名前でもあった。
北斎も絵師になる前には中島八右衛門と呼ばれ、元は百姓の出だと言う。幕府御用達の鏡研ぎ師だった中島なにがしの養子に貰われ、その姓を名乗ったと言う話をどこかで聞いた記憶が有った。
「それともう一つ、同じ北斎の事だか、あんたもこの話には興味があるかと思ってな」
「さて、もうひとつですか?」
「それがよ、知り合いの彫師に聞いた話なんだがな、どうも北斎は富士のお山を、揃い物で描いているらしいって話だ。彫師仲間の間では評判って事よ、何でもその画ってのがな、あっちこっちから観た富士のお山を、全て横大判物で描いた物らしい。まるで富士のお山の美人画だって話だ。まっ、大分前の話だから、ボチボチと店には出て来る頃だとは思うがね」
鉄蔵は慌てて聞き返した。
「へぇ、そうなんで、で、版元はどちらの?」
「確か、永寿堂さんだったと思うが」
宝暦から天明の時代、初代の西村屋与八が日本橋の馬喰町に店を出し、今は二代目が跡を継いでいた。その永寿堂は江戸を代表する、地本問屋の一つであった。
「そうですか、揃い物でしかも永寿堂さんからですか・・・」
版元の名前を聞いた鉄蔵は、かなりの力の入った揃い物の刊行になるだろうと思えたのだ。
「そうさな、この江戸で組物を出すなら、手慣れた職人を多く抱えた版元になるだろうよ。まっ、この話をどっちから持ち込んだ話か知らねえが、こいつはうまい話だと思うぜ。これも聞いた話で済まねえと思うが、今が流行の江戸八百八町は八百八講、その講中ざっと八万人と云う富士講が、まさか富士のお山の錦絵を買わねえと言う事はねえだろうと云うのさ。それに富士のお山を見た事もねえ西国や北国への土産となりゃあ、これが当たるのは当然の事だ。売る前から儲かるってのは、永寿堂の目にも見えているって寸法だ。西村屋の二代目も、てえした商売人だぜ、まったく。それによ、全部揃えたいと言うのも人情だろうからな」
馬琴の話は尤もな、理の適った話であった。確かに人の心はそういう物かも知れないと思う。今は買えなくとも次はあれを、これを集めたい揃えたいと楽しみも増して来るに違いなかった。
「で師匠、その揃い物とは、一体何枚位の物なんでしょうかね?」
「正確にはしらねえが、ざっと三十は越えると言っていたな。だが当の北斎の昔描いた東海道に比べれば、版は大きいが未だ少ない方だとは思うがね」
鉄蔵は馬琴の言った東海道と聞いて、一瞬の驚きを覚えた。北斎が描いた東海道五十三次の錦絵を見たのは、確か鉄蔵が十歳を過ぎた頃の事である。記憶の中に画として残っているのは、五十余りの東海道の宿場を美人になぞらえた、まさにその北斎が描いた美人画が最初であった様に思える。それから数年が過ぎ、母や父が相次いで逝ってしまったが、漠然ではあるにしても、画を生業にして生きて行きたいと思ったのは、東海道のその画を見た時で有った。五十余人の異なる美人を一人一宿場になぞらえ、東海道の宿場名を使い連作で売り出したもので、どの様に自分なら東海道を描くのか、子供心に何時も自らに問いかけ、画に向かい続けて来たとも言えるのである。
「実は師匠に折り入って聞いてもらいたい事もあり、のこのことお尋ねした事もありまして」
「ほぅ、広重さんの悩みかい、まぁ聞いてみなけりゃ話もできねえ、話してごらんな」
唯一の贅沢とはばからない煙草盆を馬琴は引き寄せ、キセルの頭に刻んだ煙草を詰め始めた。
「実はこの処、筆が走らずに頭を痛めておりますんで。師の豊広が逝ってからと云うもの、一体誰を師匠と呼ぼうかと考え、悩んでおります。でいっその事、その北斎翁に弟子入りを頼もうかと、云え、私も子供の時から筆は持っておりました。しかし今になって思いますと、師匠を豊広とはっきり決めて弟子にして貰った訳ではございません。ただ何となく確たるものも無く、弟子入りを許されたと思えます。未だこの世界に入りまして、どこをどの様に行こうかと云う思いも、未だ決めたわけでは有りません。物心の付いた頃に北斎翁の東海道の画を見てからは、漠然とでした絵師になりたいとそういう思いが湧いて参った次第でして・・・」
曲亭馬琴が世間に名前を知られる様になったのは、二十五年も前に版元の角丸屋から、「新編水滸画伝」が刊行される事となったからである。更に読本「鎮西為朝外伝・椿説弓張月」の、挿絵を葛飾北斎に頼んでいる。中国の唐や元で広まった南画の影響を引き継いだ北斎の筆は、馬琴の描く読本の世界を強く浮き立たせるのに、余ある程の効果を持ったからである。それに北斎は、頼まれた仕事の依頼を一切断らなかった。寧ろ嬉々として筆を運ぶ姿は、増々北斎の領域を広げて行くと馬琴には思えたのであった。
馬琴はその時から、黄表紙本の挿絵は北斎に頼むと決めて居た。折しもその頃である、江戸の貸本屋を束ねる松坂町の版元平林庄五郎が、馬琴に対して「椿説弓張月」の続き六冊の刊行を求めたのである。更に同じ版元の平林版として、「敵討裏見葛葉(かたきうちうらみくずは)」五冊が追加され、版元の角丸屋からは「そののゆき」五冊、仙鶴版の「隅田川梅柳新書」六冊の他にも三冊と、これら読本の注文を相次いで受け、馬琴はこれらの画も全て北斎に頼んで執筆に励んだのであった。
馬琴はそれからの日々を、歴史書を幾度も何冊も読み返し、物語の構想を練ったのである。北斎は馬琴から物語の筋書きを聞きつつ、物語の構成から挿絵の枚数を考え、二人は互いに寝る間も惜しんで取り組んだのである。それ故に北斎は「椿説弓張月」を刊行する前年の文化三年、春から夏の数か月を自らの住む亀沢町から通うのを止め、馬琴が以前に住んでいた元飯田町中坂の家に、それが当たり前の様に居候を決め込んだのである。
作家と絵師の関係からすれば、当然と云えば当然の姿であった。特に挿絵は物語を知らなければ描けない。本所界隈の長屋を転々とする北斎がいっその事、これなら執筆する本人の家に居候した方が、遥かに面倒が無いと踏んだのも頷ける話であった。だが馬琴も作家としての活動が広まるにつれ、北斎の描く色から抜け出る機会を伺っていた事も、鉄蔵には推測する事が出来る。或いは又同じことが、北斎にも言えるのかも知れないとも思えるのである。何時までも読本の挿絵を描き続け、果たしてそれで良いのかと云う自らの問いかけに対して、互いに新たな道に進むことでしか、解決の付かない問題でも有った様に思えるのだ。
静かな沈黙の後に、馬琴は鉄蔵に向かって事もなげに言った。
「おぅ、そうよ、それなら一度、北斎の処に出掛けてみりゃあ良いことだ。あんたの悩みも吹っ切れるかも知れねえしな。なぁに、紹介状の一枚でも書いてやるのは訳もないからよ」
馬琴は鉄蔵の顔を見る事もなく、吸い終わったキセルの首を煙草盆の火落しの角に当て、僅かに残った火玉を落としながらポツリと言った。陽が傾き始めれば未だ寒さの忍び込む部屋の火鉢に手を当てて、それは事もなく思いついた様な馬琴の話でもあった。鉄蔵が頷いた途端に直ぐに紙と筆を取り出し、サッサと北斎への紹介状を書き始める様な顔であった。
随分と前に一度、鉄蔵は師の豊広が生きている頃に、馬琴と北斎の事を聞いた事があった。それは豊広が馬琴宅を訪れた時の事である。黙って馬琴は北斎から届いた手紙を、説明もせずに豊広の目の前に置いた事があったと言う。その手紙は馬琴からの挿絵の注文に対し、北斎から届いた返事であった。その手紙を黙って読んだ豊広は「・・・是又御指図可被下候、御遠慮等、決而御用ニ御座候。以上・・・」と書かれていた部分を覚えて居たと言う。北斎の手紙は作家である馬琴に対して、挿絵の御指図は無用にして貰いたい。と云う意味であった。馬琴はこの時豊広に、北斎の筆は既に己の画としての強い自負から、物語を書いた作者の意図に合せる様な、そうした気持ちは無くなっていたと嘆いたと言うのである。
数えれば十五年前の文化十二年(1815年)、馬琴が読本「皿皿郷談」(べいべいきょうだん)を刊行した後に、プッツリと一切の挿絵を北斎に頼む事を止めて居た。版元が勝手に北斎に挿絵を頼んだものは出回るにしても、馬琴が自らの意図で挿絵の作者を指定した物に、北斎の挿絵はこの時から皆無になったのである。そこに何があったのか、本人達が語らない以上は真実は誰も知る由もない。その理由をそれぞれの口から、聞いた者はいなかったからである。
既に馬琴の齢も六十三になっていた。今は長編の読み本を書いていると言うが、身内の一人息子の宗伯は病に罹っていると言う。それが理由なのか息子の病気を案じている姿が、鉄蔵から見ても何処か痛々しい様に思えたのだ。それにしても、師の四十九日の法要から久しぶりに顔を合わせ、描けねえと愚痴る鉄蔵に馬琴から聞いた北斎の錦絵の話は、又一つ気持ちに重い石を乗せられた様な気がしたのである。
「まぁ弟子にして欲しいと頼む事は、じっくりと考えて見ようとは思っておりますが・・」
馬琴にそう答えたものの、未だ取り敢えず片づけなければならない事は、幾つも残っていたからであった。三十三の鉄蔵にも、進む先が未だ見えていなかったからである。
かつて鉄蔵が幼い頃から憧れていた葛飾北斎は、目の前に居る曲亭馬琴と互いに深い繋がりを持っていた。文化二年、鉄蔵が未だ二歳の頃である。馬琴の出世作と後に言われた読本「新編水滸画伝」の挿絵は、初版より六編まで北斎が受け持っていた。それ以降の「鎮西八郎為朝外伝」なども、北斎と組む事で馬琴を世に押し上げた事は間違いない事実であった。読本の刊行とは読んで貰う為の物語と、挿絵で成り立つものである。
強いて言えば、作家と絵師それに版下師、彫師、摺師が一つになり、初めて産みだされ創られるのが読み本なのである。事実作家の馬琴が書いた「椿説弓張月」は、版元が平林庄五郎であり、画は北斎、版下師は石原駒智道、彫師は桜木松五郎と、最後の最後まで決まっていた。ついでに述べれば、普段は彫師や摺師の名前など、殆どが表に出て来る事は無いのである。応需と云う、特注のものや一枚ものならそれもあるだろうが、個人技では無く幾人もの職人の手を経た彫や摺は、まさに彫屋、摺屋の仕事となるからである。
作家としての馬琴の持つ幾人ものこうした絵師や画工達との繋がりは、未だ三十を少し過ぎた駆け出しの鉄蔵にとって、酷く羨ましくも見えて来るのである。心の内にはいつの間にか、一度は北斎の門を叩き教えを乞うてみたい、断られればその時こそ師を探す事を止め、自らの道を探し求めたいと、そうした考えが鉄蔵の頭をよぎって行ったのであった。
上方では去年の七月頃から頻繁に地震が起き始め、特に京の街では鯰画を描いたお札が飛ぶように売れていると言う。まことしやかな噂話が江戸の町に広まっていた。江戸でも火事が一向に減る事が無い為なのだろうか、幕府は十二月に元号を文政から天保と変えたのである。これにより天保元年は僅かひと月で過ぎ、天保を元号とした時代へと変わったのである。
《天保二年(1831年)》
この天保二年の八月、かつてはあの版元蔦屋重三郎の食客であり、謂わば曲亭馬琴の先輩格でもあった十辺舎一九が六十七歳で逝った。滑稽本「東海道中膝栗毛」の作家でもあり、駿河の府中(静岡市)の出で、奉行所同心の父親を持つと聞いていたから、鉄蔵にとっては決して他人の様な距離では無かった。鉄蔵も版元の蔦屋や佐野喜からの依頼で、数枚程の膝栗毛を大判の横画で描いた事もあったが、これまで直接の繋がりは無かった。
しかし鉄蔵の心の中には、東海道と言う言葉が北斎の五十三次の画に重なり、一つの目論見がゆっくりと芽生え始めていたのである。この「東海道中膝栗毛」の人気が、鉄蔵を後の世に送り出してくれるきっかけになる事を、未だこの時は知る由もなかったのである。だがその年の暮れから馬琴が言っていた通り、北斎は横大判の錦絵、「富嶽三十六景」と共に裏富士と称した十枚の合計四十六枚を、順次刊行する話を別の版元から耳にしたのである。
こうした時期、鉄蔵はそれまで描き貯めてあった江戸の風景七図と、新たに描きなおした「両国之宵月」「芝浦汐干之図」「佃島初郭公」の三図を加えた「東都名所」全十枚揃いとして、銀座町にある栄川堂こと川口屋正蔵の版元から刊行した。この時に鉄蔵は、舶来の絵の具であるベロ藍を初めて使い、名も一幽斉広重と改めたばかりの号を使ったのである。画は流行の拭きぼかしを入れて、紅色を雲に使って鮮やかさを強調するなど、僅かでは有るにしてもその作風を変えて来ていた。それは北斎が富士を描くと言う三十六枚と、裏富士と呼ぶ甲州から描いた十枚の合わせて四十六枚の画が、この時の鉄蔵には期待と畏れとが入り混じっていたからであった。
少し前に刊行された歌舞伎の脚本風読本の合巻「正本製」に、富嶽三十六景の版元である西村屋与八が広告を載せていた。その宣伝文句には「富嶽三十六景、前北斎為一翁画、藍揃一枚、一枚に一景つゝ追加出版、此絵は富士の形ちのその所によりて異なる事を示す。或いは七里ケ浜にて見るかたち、又は佃島より眺むる景など総て一やうにならざるを著し山水を習ふ者に便す 此ごとく追ゝ彫刻すれば猶百にもあまるべし三十六景に限るにあらず」と北斎の描いた富嶽三十六景を謳い、場所や季節によって表情を変える富士の姿を、北斎は余すことなく描きだしていると言う。
神田祭りは江戸の祭りとして広く知られ、九月十五日はその祭礼の日で神田明神で行われる。だがもう一つの祭りである山王祭りは日枝神社で行われ、毎年この二つの祭りが交互に行われている。この将軍上覧の為に江戸城内をも練り歩くが祭礼が終わると、秋から冬に向けて江戸は暮らしの模様替えをする事となる。
この祭礼が終わった十月の初めである。摺り上がったばかりの北斎が描いた富嶽三十六景を、鉄蔵は待ちかねたように幾枚かを買い求めた。順次刊行して行くと版元の永寿堂は言うが、「神奈川沖浪裏」と題する画を見た瞬間、鉄蔵は驚愕と強い戦慄を覚えたのである。描かれた波の力強いうねりと、波間で船を操る船頭達の向こうに、遠く穏やかな富士の山がのぞいた組み合わせは、対比すればするほどに互いが協調しあい、そしてその存在を主張して来るのであった。更に「凱風快晴」は、富士の山の木々一本一本を見るかのような、厳密さと大胆さを備えていた。それまで使用していた北斎の号である「載斗」を、「北斎改為一」としてあり、この組み物の錦絵からは、北斎の激しい意気込みが伝わって来たのであった。
馬琴の言った言葉通り、永寿堂は折から江戸に広まっているお山信仰を恰好の商売と捉え、その目論みには多くの時間と費用が掛かけた違いないと鉄蔵には思えた。しかも北斎の富士を見つめる目は、何もかもが斬新で対象を詳細に掴んでいた。画が上手いとか言う遥か彼方の、全くもって見事としか言い様のない、確かな対象の捉え方であった。
北斎の描く富士の風景を鉄蔵が見れば、まるで捉えどころが無い程に、あらゆる方向からその対象を見つめていた。その画は大胆豪快にして、繊細で緻密でだった。北斎が勝川派を解き放たれてからそれ以来、師と呼ぶ人を持たず試行錯誤を繰り返し、先達の絵から多くを学び自らの物にして来たと言う。その画には確かな自負に支えられている事を、鉄蔵は否応なしに思い知らされるのであった。
富嶽三十六景の「江戸日本橋」の画などは、手前の日本橋の上を行く雑踏の様な人々の足許を思いっきり切り捨て、遠近法の手法で奥行を広げて川の両側に立ち並ぶ蔵を配し、正面には江戸城二の丸三の丸の櫓が聳え、左側の蔵の上には富士山を置いて居た。無駄な部分は綺麗に取り除かれ、ぼかした空を多く取り入れた構図は、静と動を見事に配していた。更に「江東駿河町三井見世略図」は、三井呉服店の看板を入れ、見上げる様に富士の高嶺を仰いでいる様であった。正月の風景なのであろう寿と赤く染められた凧が風に高く上り、その下に雪を深く被った富士が描かれていた。明らかに三井呉服店を取り込み、商いの手伝いの跡が残ってはいる。しかし少しも嫌味の無い目出度い風景を表していた。
鉄蔵はこの時、やっと自分の中で何を描くのか、漠然とではあるにしても目標が見えて来た様に思えた。手の空いている時にと言われ、手がけた川口屋正蔵からの「東都名所」を出してはいたが、芝神明町の版元喜鶴堂、佐野喜からも同じ様に「江都名所」を出したいとする話が持ち込まれていた。しかし北斎の富嶽三十六景に及ばない事は、町中の風情を描くだけの広重には判る事であった。それにしても北斎の遥か彼方を目指す姿に、憧れにもにた強い競争心が湧いて来るのを、鉄蔵は感じない訳にはいかなかった。たとえ北斎が自らの師となろうがなるまいが、北斎を越えた絵師になろう、それは未だ他人には話せない自らに課した目標でもあった。
《天保三年(1832年)》
二度目に鉄蔵が馬琴宅を訪れたのは、寒さが未だ居座ったままの二月十六日の事で、初めて訪問してから既に二年が過ぎて居た。翌月の二十三日に両国柳橋の富八楼で、書画会を開く案内書を鉄蔵は馬琴に差し出した。書画会とは書画を描く絵師が立ち寄り、料理や酒をくみ交わしながら書画を買い求めるもので、国貞をはじめとした歌川一門に関係した案内である。余り関心もなさそうに馬琴は案内書を受け取ったが、思い出した様にいきなり馬琴は鉄蔵に声を掛けた。
「ところで広重さんよ、北斎の画は見ただろう?」
久しく馬琴とは会う事も無かったが、挨拶を交わす間も無く鉄蔵は尋ねられた。懇意にしていた版元の保永堂に頼み、北斎への紹介状を貰いに来た時であった。
「見ましたよ、余にも凄い画でしたから本当に驚きました。しかし丁寧に裏富士まで追加するなんぞ、流石に永寿堂さんです。ですがそれより北斎翁の目は、まさに並みの絵師とは言い難く、何か天賦の技量を備えている様にお見受けしました」
「なるほど、俺も昔から見ているが、増々画の中に執念って物が見えてくる。まるで一心不乱に突き進む執念そのものって感じもするが、それにしてもだ、奴はもう七十を超えて俺より八歳も年上の爺様だ。こちとらも負けちゃあいられねえってとこかな」
馬琴は笑いながら答えた。
「私もその様に思えました。私の方は北斎翁とは四十近くも歳の差があるものですから、今の内に強い刺激を頂くのも私の勤めかと思いますが、それにしてもあの元気はどこから来るのか…正直驚きますよ」
「ほぅ、そいつを今日は教えてやろうか、其れはな、奴は独り者だからさ。それにな、奴は一度雷に打たれた事があってよ、まぁ日蓮宗の池上本門寺にもちょくちょくお参りに行くって話だが、特に奴は北斗星が守り神の妙見様を信心しているのよ。その祠が確か葛飾の柳島だったか、法性寺って寺にあってな、夏にお参りに行った帰りによ、近くの土手の上で雷に打たれてな、十軒掘の堤から土手を転げ落ちたと言う話だ。だから北斎、葛飾北斎と名乗っているのさ。その頃の号も確か雷斗とか雷震とかに変えたらしく、本人から聞いたんだから間違いはねえよ。それによ、奴は町中を歩く時よ、法華経普賢品の呪文を口の中で唱えてよ、知り合いと出遇ってても口も利かねえのよ。後で聞くとな、時間が勿体ねえとぬかしやがる」
馬琴の話に鉄蔵は思わず笑いが込み上げてきた。だが考えて見れば、富嶽三十六景も又、富士山を中心に捉えた画であった。絶対に動かない中心の様な富士を、四方八方から見つめる目は、天上にあって動かない北斗星への信仰にも通じるものがあると思える。
「おぅ、そうだ、その北斎への紹介状だ」
馬琴は手あぶり火鉢の下の引き出しから、一通の書状を取り出して鉄蔵に渡した。
「ありがとうございます」
鉄蔵は押し戴くように受け取り、礼を言った。
「しかし礼は未だ早いぜ、なぁ広重さんよ。奴は弟子は取らないと思う。二年前には簡単に紹介状を書いてやると言っては見たが、今にして思えば正直に言って奴は鬼だ。夢中になったら見境が無くなる、筆を持つ手に力が入らなくなって、目がしょぼくれて、やっと布団の中に入る程だ。魂を詰めて詰め過ぎるほど描いて、納得するまで追いかける奴だ。昔よ、勝川派から追い出されたが、それ以来、奴は師匠と呼ぶ者は持たないはずだ。北斎の画はな、そんな習い事の様な画じゃねえんだよ。自分の知恵を必死で絞り出し、足を棒にして歩き廻り、なりふり構わずに生きて描いている。今思うと元飯田町の俺の家に、三月程寝泊りして奴が描いていた時なんぞ、ここまで今日は描くと決めたら、飯も食わずに描き続けるのさ、そしてよ、描き終えると蕎麦を二杯、立て続けに腹に流し込んで寝ちまうのさ。奴が仕事が無くて喰うに困った時、何して腹を満たしていたか広重さんよ、あんた知ってるかい? 辛子を売り歩いていたんだぜ。確か神田豊島町の芥子(からし)屋、鎌倉屋の先代が奴の画を気に入っていたとかでよ、そうよ。あの七味唐辛子よ。てえしたもんだよ奴は」
「心配をお掛けしてありがとうございます。私も覚悟はしています。ですが、私も自分の師を探すのは今回限りです。師を求めるのが無駄だと判りましたら、開き直って北斎を越えた絵師を目指そうと心に決めましたので」
既に歌川豊広一門の者たちが集まり、豊広の弟子の広近が二代目に推され跡を継ぐ事が決まっていた。鉄蔵も歌川一門とは距離を置き、自らの道を歩む事にしたのである。未だ自分の技量に納得している訳では無かった。鉄蔵の頭には何時も北斎が居たのである。北斎とは会うだけでも良かった。それだけでも子供の頃から抱いていた何かが、弾けて飛んで行くような思いがしているのである。
馬琴が北斎との縁を初めて持ったのは享和四年(1804年)で、かれこれ三十年も前の事である。当時は未だ読本の世界では然して名も売れなかった馬琴が、時間を掛けて書き下ろした「小説比翼文」の挿絵に、老舗の版元鶴屋喜右衛門が北斎を推したのである。こうした読本は絵草子(黄表紙)とは違い、物語の文章の所々に挿絵を覗かせ、文章の単調さを補う役割があった。この時の馬琴は三十八歳、北斎は四十五歳を迎えて居た。
この「小説比翼文」が描く物語は、鳥取藩士の平井権八が父親の同僚を殺害、江戸に逃げ吉原の遊女濃紫と恋仲になるも、辻斬りをはたらくなど悪事を重ね、やがて改心し親に会いたさで故郷に戻るが、既に親は他界していた。江戸に戻り自首して処刑されるのだか、遊女濃紫は権八を追ってその墓の前で自害し心中となるのである。この物語のヤマ場は鈴ヶ森で駕籠かきに権八が絡まれ、切り捨てて立ち去ろうとしたとき、江戸の夾客である幡随院長兵衛の言う「お若けいの、お待ちせい」である。物語は浄瑠璃や芝居に多く使われているが、元々権八と濃紫の前世は、権八の父が撃ち取った一つがいの雉子から、添い遂げられない物語として描かれていたのであった。
物語は二十年も前に刊行された中本型読本、「敵対連理橘」と共に典拠の中国本「醒世恒言」を参考にしているが、馬琴はこの物語を因果応報の仏教思想を取り入れながら、幡随院長兵衛を登場させるなど時代を縮めて脚色したのである。それは僅か十年も前まで厳しく幕府から統制された、老中松平定信が行った寛政の改革による影響でもあった。幕府への批判らしきものは即刻手鎖の刑であり、四十年も前の寛政三年に、かつて馬琴が世話になり師とも仰いだ山東京伝は、洒落本「仕懸文庫(しかけぶんこ)」「錦の裏」「娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)」を出版したが、出版した蔦屋重三郎は奉行所から「町触れをいい加減に考え、放埓な内容の読本を出版した不埒な者」として、身上半減の闕所と言う重課料を受け、その財産の半分を召し上げられたのである。更にその読本を書いた京伝は、手鎖五十日と言う刑に処せられ、自宅で五十日の間、手に鎖を掛けられたまま生活を余儀なくしたのであった。
鉄蔵が馬琴の家を訪ねた翌々日であった。北斎の富嶽三十六景の錦絵を一枚持ち、思いもかけずに突然鉄蔵の処に訪れたのは、定火消の上司で狩野派の絵師でもある与力の岡島林斉であった。昔は鉄蔵が名を徳太郎と幼名を名乗っていた頃から、何かと可愛がってくれた父源右衛門の友人でもあった。元服を終えて名を重右衛門とした後に豊広の門下に入る直前まで、幼い日々を鉄蔵に絵心を教えてくれたのはこの林斉であった。それ故に師弟の関係は途切れてはいても、時折は鉄蔵の事を心配して訪ねてくれる事があった。しかも林斉の最も得意とするものが、富士の姿を題材にした絵なのである。
「重右衛門よ、無沙汰しておるが変わりは無さそうだな、結構な事。処で既に北斎の画を見たとは思うが、どの様に思っておられるか少し話をしたいと思うて寄ったのよ」
林斉は北斎の描いた凱風快晴の錦絵を、鉄蔵の前に広げた。
「正直に感想を申し上げますが、北斎は目で見て描いてはおりません。有態に申せば心で捉えて描いております」
「なるほどのう、心で捉えているか。そうかも知れぬの、我ら狩野派の画では決して描けぬ描き方よ」
「先日、北斎が読本の挿絵を描いた曲亭馬琴の家に伺いまして、色々とお話を伺っては来たのですが、その馬琴師匠も北斎は鬼だと申しております。私が富士のお山を描いたとしても、あそこまでお山の先をとがらせる事は出来ません。しかし北斎にはその様に見えるのです。その様に描きたいのです。それに既にお歳も七十を越えているとか、負けてはいられぬとこぼしておりましたよ」
「なるほど、判らぬ気もしないではないが、しかし売れておるのかのう、錦絵は売れなければ何の役にも立たないであろうに」
林斉と何時も会うたびに聞かされるのは、売れなければ何の役にも立たないと言う言葉であった。
「それが結構な評判らしく、随分と売れていると聞いておりますがね」
「面白い世の中になったものよ。処で話は変わるのだが、実は高家からな、我ら狩野派の絵師に対して八朔御馬献上の際、その献上の式次第を絵に描いてはくれぬかと言う話があってな、つまりこの絵と言うのは、どうも式の有様を若い者に教える為の、いわば式手順の習い本の様なものを作る為で、無論だが彩色など不要、線で描くだけのものと言うのよ。絵は後で版木にその模様を彫り、摺り上げて読本の様に綴じてしまうらしいのだが、儀式の手順を書き添えて高家其々のお家に備えい置くと言うものでな、今は五十年も前に描かれたものを使っている故に、新たに改定したいと言う事らしいのだ。無論だが落款も無用の下絵でよい。ところが狩野派の絵師達は習い本の画などの為に、わざわざ描きに京に上る事を嫌がる者ばかりでな。しかも画が上手でなければ困ると言うのよ。ましてこの勤め、町方の者に頼む訳にも参らぬ。そこでお主は仮にも旗本の武士の一人。どうだ重右衛門、お主、京に上って描いてみる気はないかの?」
面白い話であった。定火消としての出仕が許されるのであれば、東海道を一度見る事が、或いは街道の風情を描いて来る事が出来るかも知れないと思える。
「その八朔御馬献上の儀とは、一体どの様な事なのでございましょうか?」
馬を献上する話は聞いた事があるものの、そこで儀式が執り行われている事など、一切聞いた事が無かったのである。
「わしも聞いている程度しか話せないが、この儀礼の始まりは、神君家康公が江戸に来られてからの習わしと言う事だ。この江戸を興したのが八朔と呼ぶ八月一日の事、この日は幕府方より宮家や公家方などの朝廷に、駿馬を二頭を毎年献上するのが慣例となったと言うが、高家とは要するに朝廷との作法など諳んじて代々続くお家柄の事じゃ。勅使接待や伝奏、宮家や公家方への儀式典礼を司っておる。今年の高家お役目番は武田信憲殿が任されておると聞いている」
「ありがたいお話ですが、その期間の定火消の出仕は如何なりましょう。もしそれがお許しになるのであれば、京へのお話、喜んで承りたいと思いますが」
「当然ながらこれも大事なお役目であれば、出仕は無用となるはず。帰りの路銀程度しか手当は出ぬが、決まれば何としても描いて貰わねばならぬ。とは申しても未だこの話も正式な話ではない、が、しかし表向きにも出来ぬ話なれば、内々での話として他言は無用である事を承知してもらいたい」
これまで漠然としていた絵師のこれからの姿が、鉄蔵には少しずつ形になって見える様な思いがした。若い頃に北斎が描いた東海道を凌ぐ、宿場五十三次の図を描けるかも知れない喜びが襲って来たのである。
「実は私の方からもお願いがございまして」
この機会にこれからの身の振り方を、今はっきりとすべき時に来ていると鉄蔵には思えた。
「どの様な願いか知らぬが、聞くだけ聞いてやろう」
「実は仲次郎の話でございます。既に今年で十六歳となります。付きましては元服の儀式を行い、私めもその折には後見人のお役目をお返しいたそうかと考えておりまして」
安藤家の嫡子でもある仲次郎もこの三月で十六歳を迎え、定火消同心として独り立ちしていた。鉄蔵も家督を譲り隠居としての立場ではあるものの、事実上は未だ後見人の立場で有ったため、長い休みを貰う事は叶わない事であった。まして画を描く為の理由では、認められるはずも無かったのである。しかし仲次郎の元服届と共に、鉄蔵は後見人としての取り下げを願う願書を認め、仲次郎の上司に対して書き送りたいと考えて居た。後は幕府より後見人の取り下げ願書が受理したとの知らせが来て、鉄蔵ははじめて出仕をする事が無くなり、代番の名が取れて隠居生活が出来るのである。
「そうよのう、重右衛門殿もこれまで随分とご苦労されてこられたであろうし、しかしその話は今しばらくあとにして決められても遅くはなかろう? 頭の中には入れて置く故に、先ほどの件はくれぐれも宜しく頼みたい」
八朔とは岡島林斉が言う通り、毎年八月一日の事である。徳川家康が江戸に初めて入ったのが天正十八年(1590年)八月一日、太田道灌の古い城跡に居を構え、そこに江戸城を造り江戸幕府を築いた日でもある。この八月一日に江戸城では年に一度、登城する武士は全て白帷子を着用し、八朔御祝儀に列席する事が慣わしとなっていた。
武家年中行事を記した「殿居嚢」には「八月朔日五時、白帷子長、八朔御祝儀。三千石以上太刀目録御馬献上之大中納言参議中将少将侍従四品五位之諸太夫布衣以上、無位無官之面々嫡子共御礼申上。但病気幼少隠居之面々名代使者ヲ以テ右同断。献上ハ都而年頭御規式ニ準ズ。三千石以下諸番頭諸役人、奈良惣代諸座人御礼。右ハ天正十八寅年当日関東御討入之御恒例ニ而、如斯御祝儀始ルト申伝フ」とある。
そしてこの八月一日は吉原の遊女たちも、全てが白無垢を着る慣わしがあった。武士の白帷子に合わせたもので、吉原俄と言う芸事もこの日からひと月ほど始まる程で、江戸を挙げての慣わしとなっていたのである。隠居の身ではあるが鉄蔵も、代々定火消を務めた安藤家の武士である。この儀式も又武士であれば誰でもが祝い、そして慣わしに従わなければならなかった。又この日は岡島林斉が言う様に、二百年余り続いた朝廷に馬を献上する、八朔御馬献上の儀式が京で行われるのである。
天保三年のこの二月の末に、鉄蔵は北斎の富士富嶽を刊行した永寿堂に対し、自らが描いた「さかなづくし」五枚を摺り上げる様に依頼した。それも急いで仕上げて欲しいと頼んだのである。期限はひと月で仕上げる様にと頼んだ。
絵師が自らの下絵を持ち込んで、版元に頼む事はめったにある事ではない。画の殆どが版元からの依頼で動くのが、当たり前の世界なのである。しかし鉄蔵はこの時、ある思惑を持ちながら頼んだのである。後に二十枚程の揃い物として刊行する腹積もりはあったが、自ら描いた画の技量を知ってもらう為の、いわば配りものとしての依頼であった。花鳥風月などの所謂静物ものは、狂歌や俳句などの集まりで使う以外、団扇絵などにも用途はあるが、鉄蔵は八朔御馬献上に同行させてもらう為の、いわば配りものとしての依頼であった。
馬琴宅を訪ねた二十日後である。この日は出仕を仲次郎に任せ、鉄蔵は北斎の家に向かっていた。弟子にして貰う為の訪問であった。
北斎は本所界隈の狭い場所を、幾度も住まいを変えて暮らしていると聞いて居た。版元の佐野喜に聞くと、今は浅草藪の内の明王院敷地にある、五郎兵衛宅に住んでいると知らせて来た。中村座や市村座などの、芝居小屋が集まる直ぐ近くの場所であった。この付近も勝手知ったる何とかで、鉄蔵は幾度も風情を写しに来ていた場所である。
明王院の敷地に入り五郎兵衛宅を探しすと、直ぐに一軒の町屋の前に出た。手前の庭は寺の借り物であろうか、濁った水たまりが雑草に覆われている。その向こうには間取りも精々三間程の古びた町屋があった。鉄蔵の後ろから追い抜く様に来た女が、目の前の水たまりを飛び越えてその家に入って行った。その女が黙って入った処を見れば、北斎と一緒に住んでいると言う、嫁ぎ先から帰って来たお栄と言う出戻りの娘であろう。髪は束ねていたが化粧さえ忘れた様な、愛想の無い無頓着さであった。家の入口には表札の代わりなのか、筆で百姓八右衛門と書かれた紙が貼りつけてある。壁には「おじぎ無用・土産無用」と書いた紙も貼ってあった。
「北斎殿は御在宅でしょぅか?」
鉄蔵は大きな声を出して中からの返事を待った。返事も無く静かであった。鉄蔵はもう一度声を掛けた。
「何か用かい」
破れたまま開いていた障子戸の中から、髪の毛も薄くなった老人が下向きに顔を覗かせ、鉄蔵を突き刺す様に見つめ低い声で言った。それが葛飾北斎その人で有る事は、着ている服のあちこちに墨や絵の具が付いていた事で判った。
「北斎翁とお見受け致しますが、当方は歌川豊広の門下で学んでおりました広重と申します。実は曲亭馬琴殿より紹介状も頂き御挨拶に伺いました。出来ましたら北斎先生の門下にお加え頂ければと・・・」
「何だ、弟子の話かい。弟子はいらねえな。それによ、教える場所もなけりゃ座る場所もねえんだよ。おまけに肝心の時間がねえんだ、だからよ、それが馬琴の紹介だとしてもだ、弟子の話はお断りだよ」
鉄蔵は北斎の言葉に、憑りつく暇が無いと思えた。
「しかし紹介状も受け取っては頂けないので?」
「そんなもんはその辺にでも置いて行けばいい。それに言っとくがな、師匠とか弟子とか面倒な事は一切捨てなきゃ、本当の自分の画は描けねえんだよ、何時までも同じ師匠に縛られ同じ画号に縛られると、あんたも自分を見失うかも知れねえぞ、気をつけなきゃあな。さぁ帰んな・・」
北斎は「そんなくだらない話で来たのか」とでも言う様に吐き捨てると、又家の中に入っていった。
これがあの北斎かと、あっけに取られた鉄蔵は言葉を失っていた。北斎からみれば未だ若造の部類に入るのだろうが、それでも礼は無くしている。しかしあの北斎の描いた画を見れば、ある意味なるほどこの御仁が描かれたのだと、確かに納得も出来るのである。まさに人づてに聞いて居た話が、どれも遠からずに北斎を語っていたからである。人づてに聞いた話とは戯作者の柳亭種彦を使っていた版元であった。
種彦は井原西鶴や近松門左衛門の物語に魅せられ、この世界に入った二百石の旗本で一人っ子でもある。そして文化四年の二十四歳の時に初めて刊行したのが「阿波の鳴門」で、その挿絵は四十八歳の北斎が描いたものである。又この翌年には読本「近世階段霜夜星」を、やはり北斎の挿絵で刊行した。しかし初めて刊行した読本「阿波の鳴門」が版を重ねるに至って、北斎から挿絵が為に本の名声を増したのだと言われた事があり、種彦は自らが絵師を指定する時は、決して北斎に頼む事は無かった。既にこの頃から馬琴だけではなく、北斎は作者の意図した挿絵を描かず、馬琴もあきれ果てて北斎の意見に従った、と言う話が伝えられている。事実馬琴がこの翌年の文化五年に刊行した「三七全伝南柯夢」の挿絵を頼んだ時、北斎は自らの考えで挿絵を描き、馬琴の話は受け付けなかった。主人公の三勝半七が情死する場面を描く時に、北斎は野狐が傍で食い漁る姿を描き添えて馬琴の元に送ったのである。しかし馬琴にとってこの野狐は蛇足であると思ったのだ。それ故にこの野狐を取り除いて欲しい、情死の趣向は感じられないと伝えさせたのである。北斎はそれを聞いて憮然とし、馬琴の書は俺の画筆が光彩を放って売れている、それを知らないのかと言い放ったのである。
しかしこの時、馬琴も負けてはいなかった。北斎の描く場所に、あえて「容啄」とルビまで振って居たのである。容啄とは外部からの干渉を指している言葉であった。北斎は、ならば馬琴の書には筆を染めないと拒絶し、版元が二人の間を行き来して、その確執は深まっていった事があった。この時は取り敢えず和解したのだが、その後も馬琴は「絵本水滸伝」を著し、その挿絵の様態でも又二人はもめたのである。思い余った版元は、今度は江戸市中の版元衆を集め、その意見を聴く事にしたのである。
大方の意見はこうである。馬琴の文章も北斎の画も素より伯仲しがたし、然れども本書は絵本水滸伝と題し、絵本を冠するからには画工の意に任ずべきとした意見が大勢を占めた。馬琴は苦笑いをしながらも、渋々それを認めたのである。だが今度もこの程度で、負ける馬琴ではなにかった。この「絵本水滸伝」には、自らの名を入れる事を拒んだのであった。版元はやむなく作者の項に北斎のもう一つの名、葛飾為一と記したのであった。(それ故に現代でも「絵本水滸伝」から馬琴の名は消されている。北斎の画号のみが残されているだけである)
こうした北斎の挿絵に関しての所謂世語りと言うものが、あまた数ありと伝えられているのである。鉄蔵が北斎に関わる其々の経緯に傾ける耳は持たないが、結果としてみれば馬琴の絵本水滸伝や、種彦との話も含めて作家との縁の切れ方は、寧ろ納得する程に北斎らしいと思うのである。鉄蔵は目の前にした北斎を見て思った。言う事はまさに確かだが馬琴の言う通り、常人からはかけ離れた人であった。なるほどあの画の描き手である事は、会って初めて理解出来たと鉄蔵は思った。
この五年前の文政十一年に北斎は二度目の妻に先立たれている。その前妻との間に出来た三女のお栄が、嫁ぎ先の神田橋本町油屋庄兵衛の倅の吉之助と離縁し、北斎の許に戻って親子二人暮らしであった。離婚の原因もお栄が針も持てない女だからだと鉄蔵は耳にしてはいたが、馬琴が言うにはお栄の亭主の吉之助が、商売の油を使った蝋細工で一緒に絵付けをした時に、お栄が絵付けが下手だと言った事から、二人は別れるまでの喧嘩になったと言う。
この娘の性格の強さは、父の性格を確かに受け継いで気性が荒く、どこか一徹な姿が鉄蔵には浮かんでくる。父と同じように筆を持ちながらその面倒を見続けて、飯の支度も洗濯も殆ど構わないその暮らしぶりは、家族だけが持つ極めて特殊な姿だろうと鉄蔵には思えたのである。
北斎の家を訪ねてすぐ、鉄蔵は南傳馬町一丁目に店を構える蔦屋吉蔵からの依頼で、東都名所を取り敢えず竪三枚続きで十組程の注文を受けた。初めての三枚続き版で俯瞰図の技法であり、画はどれも春先から両国橋夕涼みまでの季節を入れて貰いたいと言う。しかし大判の三枚続きは、やはり時間を必要とする、まして俯瞰図であればなおさらであった。まずは三組を四か月程で仕上げた後、どの程度の月日がかかるかを、後で伝える事となったのである。
既に版元の佐野喜からは「江都名所」の追加注文があり、日々はそれに追われていた。大判の横画で順次刊行して行くとしていたか、飛鳥山花見、隅田川花盛、御殿山遊興と、この三図の花見は描き終えていたが、王子稲荷は手を付け始めたに過ぎなかった。
この年、既に数えで十七歳になった仲次郎の元服を祝う為、普段から世話になっていた懇意の人々を呼んで、ささやかな元服の儀式を行ったのは三月も半ばであった。それまでの前髪を切り髪を結った後、氏神の社に詣でる事で終わる古くからの儀式であった。無論それで直ぐに大人になる訳ではなかったが、同心としての役目を一人前の者として求められ、又扱われる区切りとなる日なのである。
筆頭与力の竹中主水をはじめ、同じ与力で画を教えてくれた岡島林斉、昨年に元服を終えた仲次郎の先輩も来ていた。そしてこの日、鉄蔵は併せて仲次郎の後見人としてのお役御免の届を行った。この届が幕府に認められた時、鉄蔵はこの定火消のお役目から一切解放され、出仕する事も免れるのである。
この日、仲次郎の元服の儀式を終え、来客にお礼の挨拶をしていた時の事である。鉄蔵は岡島林斉から呼び止められた。
「少し、話があってのう」
「どの様なお話でしょうか? 私の方もお話したい事がありました。しかし岡島様の話は、あの八朔御馬献上のお話では?」
鉄蔵は一瞬、京に行く話が認められなくなったのではないかと思えた。
「いや、それは未だ案ずるには及ばぬ、寧ろわしの心配は京に行った後の事よ。それに付いてだが、その節はこの屋敷も出ざるを得まいて、絵師としてこれからの人生を生きて行くとなると、この定火消屋敷では仕事も出来まい?」
「確かに、その通りになるかと」
「わしにも心当たりがあるのでな、それも任せてはみないかと思ってな。なぁに、後は重右衛門殿の腕と器量次第だが、京に行き東海道の画を描きたいと言うていたのでな、そうした場所も必要であろうと思うていたのよ」
既に岡島林斉は随分と先の事を考えていた事を知って、鉄蔵は心からありがたいと思った。
「実は私の描いた画を高家の方に見て頂き、技量を見て貰えたらと思いまして、後しばらくで出来上がります」
「それは良い考えだ。高家の方も、描いたものを見れば安心するであろう。出来次第わしの処に持って来るがよい、わしの方から高家に届ける様に手配いたそう」
既に八代洲河岸の定火消屋敷から出て、住まいを代える事は鉄蔵も考えていた。絵師として生きるなら屋敷を出て、武士を捨てる覚悟が必要であろうと林斉は言っていた。京に行き、東海道の風情を描いて錦絵にして売り出すなら、その覚悟は当然なければならないと鉄蔵も思った。
「まぁ、後は京に行けるかどうかで決まる事だ。決まったとなれば、京から戻って直ぐに移り住める様に手配して置くから任せておけ」
温かな言葉であった。鉄蔵はこうした人々に支えられている事を、今更の様に感謝せずにはいられなかった。
この処、江戸市中を描いた風景画の注文が増えて、嬉しさと共に一抹の寂しさを鉄蔵は感じていた。未だ美人画も描けると思う。鳥や獣さえ描く事は苦ではない。複雑な感情を思い浮かべていた時に、芝神明町の版元若林堂の主人若狭屋与一が顔を出した。師匠豊広の住まいである場所と目と鼻の先に店があり、かつてはそれなりの往来もあったが、今は疎遠とも言える関係であった。
「豊広さんと言う惜しい人を亡くしましたが、それにしても広重さんは美人画を、何故かすっかりお見限りの様子ですが・・・」
広重が描く美人画が、さほど出回っていない事への不満であった。
「こんなご時世なのか、風情の方に多くの注文を戴いておりまして、私も少々寂しい思いをしているところですよ」
「私も寂しく感じて居ますが、この前に永寿堂の西村屋さんとお会いした時に、魚の画を配りものにするらしく広重さんに頼まれたと言っておりました。それが大層良かったと褒めてらっしゃった。何でも死んだ魚を画にされたとか、しかし魚は活きていると申して居ましたよ。私の方も何方かに頼もうと思っていた矢先の話で、その事を思い出して広重師匠の処に足を向けました。まぁお忙しいとは思いますが、私の方にも鳥や獣画を描いてもらえないかと、大短冊判で数枚お願いしたいのですかね」
自分の知らない場所で、自分の仕事の技量の話が語られている。それも良い画だと言われた事が、鉄蔵には嬉しかった。
「いや、お恥ずかしい。確かに配りものに使う為に頼みました。又拙い技量ですが、褒めて頂いて嬉しいですよ。若林堂さんのご注文の鳥や獣画も、喜んで描かせてもらいますが、何時頃のご希望でしょう?」
「出来ましたら年内の早い内に、目出度い図柄を一枚か二枚程入れて頼みたいのですが、歳の背には何とか摺りあげたいと考えておりますもので」
「承知しました。出来るだけ早めに仕上げてお届け致しますよ」
若林堂の若狭屋与一が大きく頷き、ホッとした様に帰って行った。確かに美人画は注文も少なくなって来たが、美人画の話題も余り耳にする事も少なくなったと思う。特に年号が天保と変わったこの頃は、金の巡りが悪くなったのか口の悪い江戸っ子のその口から、美人の話よりも役人の不正が多くなったと言う話が増えて来たのである。
春先に版元の蔦屋吉蔵から頼まれた、東都名所の竪三枚続きの三組が出来上がり、南傳馬町の店に届けたのは五月も半ばの事であった。お題が春から夏に向けたものと頼まれてはいたが、春はとっくに過ぎていた。「新吉原五丁目弥生花盛全図」「両国橋夕涼み全図」「芝神明増上寺全図」の三組である。三枚続きの錦絵は、その大きさからも店に置いて売れるものではなく、お武家か大店、或いは吉原などの座敷に飾られる物である。蔦屋からも画は気にいられた様で、順次描いて貰いたいと頼まれ、月に一組の段取りで描く事になったのである。
じっとりとした梅雨空も水気が尽きて来たのか、雲の切れ間からは強い日差しが出始めた日であった。若年寄の松平采女から定火消屋敷にいた安藤仲次郎の許に,上司の筆頭与力竹中主水を通じて重右衛門宛に許し状が届いたのである。八月一日、八朔の日に京で執り行われる八朔御馬献上の儀式を描く為の、同行を認める許し状であった。与力の竹中主水は亡くなった父源右衛門の上司であり、父親からお役目を受け継いだ頃から鉄蔵の面倒を見てくれた、いわば親戚の叔父の様な者であった。
同行の許し状に添えられた但し書きに書かれたお役目は、八朔御馬献上の儀に際し、京での朝廷に駿馬献上する際の式次第を描く絵師としてと書かれていた。しかも江戸出立は七月十二日とあり、更にこの勤めを終えて後、定火消への出仕は及ばすと記されていたのである。
鉄蔵は自らの念願が叶えられた事を知り、やっと京に向かう事が出来る喜びに震える思いを受け止めていた。やっと東海道の風情を描く事が出来る、そして武士を辞めて定火消の屋敷から出る事が出来ると確信したのである。それは画を教えてくれた岡崎林斉の夢であり、筆頭与力である竹中主水の願の様にも思えた。妻のお芳にも隠していた事ではあったが、ようやく話せる日が来た事に、鉄蔵は胸を撫で下ろしたのである。
「お芳よ、これを読んで見てくれ」
鉄蔵は経緯も言わずに、届いた許し状を妻に渡した。妻にはめったに画の事や定火消の仕事に意見を求める事は無いが、今こそ、これからの自分の夢を話す時だと思えたのである。
「これは貴方様、上方へ行く為の・・それにお帰りになられた時に出仕は無用と、絵師のお仕事をこれからは専念されると?」
「そうだ、定火消同心で終わる一生なら、好きな画を描く絵師でその道を極めたいと思う。今は未だその入り口だが、とにかく京に上ることが許された。以前から東海道の風情を描きたいと願っていたが、その願もやっと実った。京から戻れば武士を辞めて、この屋敷を出るつもりだ。忙しくなるとは思うが、内職をしなければ食えない様な暮らしに戻るつもりは無いぞ。ひと月余りを留守にするが、後を頼む」
「私は貴方様の妻でございますから、いか様にも。ただくれぐれもお体を、無理なさらぬ様に」
お芳は夫の鉄蔵の考えている夢が、少しずつだが実を結んで来ている事を知っていた。絵師としての仕事は若い頃に比べ、多くの依頼が来る様になった事も知っている。その収入はすでに定火消同心の小遣いと言うには、大分はかけ離れていると思える。それに版元の人が定火消屋敷に顔を出す事が更に増えれば、堂々とこの場所で絵師をやって居られる程、世間は甘く無いではなかろうとも思う。そして何よりも、仕事場を兼ねた住まいが狭くなっていたのである。
元々鉄蔵が任された様な仕事は、御上お抱えの御用絵師である狩野四家(鍛冶橋・浜町・木挽町・仲町・※稲荷橋)に任されるはずであった。しかし襖や屏風、天井などの部屋や屋敷を飾る絵とは事なり、式次第の模様を継者達に教える為の作法手順の習本用の画は、屏風絵などの絵とは全く質を異にしたものである。
(※稲荷橋狩野家の当主狩野春賀は寛延二年(1749年)幕府による日光東照宮補修事業の際、絵師の宮川長春らの一門を雇い入れた。しかし後日その手間賃が支払われず、督促の為に長春自身が春賀の屋敷に出向くと、稲荷橋家の対応は町絵師風情にと暴力を含めた恥辱で対応したのである。これに怒った宮川長春の一門と倅の長助は、稲荷橋家の屋敷を急襲して春賀を殺害するに至った。稲荷橋家はこれにより断絶、春賀の子の春潮は八丈島への配流となり、宮川長春の子であった長助も処刑され、更に高弟の宮川一笑が伊豆新島に遠島となったのである。故に狩野派は本来が五家であった。しかしこの宮川派は時代と共にその名を替え、勝宮川派から勝川派へと変わり、宮川長春から四代目に、その技法は北斎にも繋がってゆくのである)
特にしっかりと対象を確認しながら、時間をかけて描き上げる狩野派の技法では、挿絵の様な習い絵は描けないのは当然であった。豪華さ絢爛さを求める絵と版木に書き写す画とは、元々が異なる用途に向かったものである。それ故に鉄蔵が任されたのは、儀式手順を単に墨の線画で残すだけの、勤めは至って単純な仕事であった。寧ろ東海道の風情をどの様に描くか、宿場数は五十三で日本橋と京の三条大橋を加えれば、その数は五十五枚であった。だが絵心を持つ様になってから、ずっと思い描いていたのも東海道であった。どの様な画を描くかさえ、心づもりは長く秘めて来たつもりであった。
許し状が届いた翌日、鉄蔵は霊岸島の塩町にある版元の保永堂、竹内孫八に手紙を書いた。明日の暮れ六つに日本橋鍛冶町近くの料理屋で、ぜひ会いたいと書いたのである。知り合いの小僧に小遣いをやり、書いた手紙を届けさせ、鉄蔵は岡崎林斉の住まいを尋ねる事にした。取り敢えず礼を兼ねての挨拶であった。
「おかげさまで許し状が届きました。ありがとうございました」
この林斉が居なければ、京へ向かう話も鉄蔵には届かなかったはずであった。
「そうか、いや、良かった良かった。これでお主も画を生業として描く事が出来ると言うもの、心おきなく勤めてまいられよ、例の住まいの方もな、わしが習いにゆく京橋の大鋸町だが、狩野屋敷の隣に手ごろな町屋があったものでな、それとなく聞いている所だ。しかし良かった。やっと安堵したぞ」
「これで迷わず京にでかけられます。何もかも先生の御蔭、御恩は終生忘れません。ありがとうございました」
鉄蔵は深々と頭を下げた。久しぶりに先生と言う言葉が口を突いた。
「重右衛門よ、お主が良い画を描いてくれれば、わしはそれだけで嬉しい。これからも良い画を描けよ」
幼い頃を思い出しているのか、林斉はそれから黙ったままであった。
翌日の暮れ六つであった。約束した料理屋の二階には、既に竹内孫八が座っていた。鉄蔵は久しぶりに会う孫八に声を掛けた。
「おぅ、元気そうだな」
何時もの癖で鉄蔵は、保永堂の竹内を孫八さんと呼んでいた。酒が入り酔いが回ると孫さんとなるのが常であった。
「師匠も元気そうで、それに今日は何か良い事が有った様で、実に羨ましいものですがね」
顔色を読むのも早い男だと鉄蔵は思った。孫八は元々江戸で質屋を営んでいた父親を手伝いながら、画心を持っていたらしく美人画を描く事もしていたらしい。京から江戸に来て店を出した版元の仙鶴堂鶴屋喜右衛門と出会い、可愛がられて資本を分けてもらった竹内孫八が、霊岸島の塩町に店を持ってこの稼業を始めたのはそれほど古い事では無い。この保永堂の竹内孫八と知り合ったのは、師の豊広が亡くなる一年ほど前で、芝神明町の師の家であったと記憶していた。その時も孫八は鶴屋喜右衛門と一緒だった様に思うが、その後は時折酒を飲むときに誘う程度の間柄であった。尤も歳が十五程も離れた事を鉄蔵に感じさせないのは、腰の低さと話の合せ方の上手い事が理由の様な気がするのである。
初めて二人で飲んだ時も、孫八は酒に手を付けなかった。その時に鉄蔵は聞いた事があった。
「孫八さんは酒の方は嫌いで? 随分といける口の様に、私には見えますがね」
「酒は好きな方ですが、酒を飲んでいる人を見るのも好きでしてね。特に酒好きな人と飲むのは楽しいものですよ」
卒のない返事をしながらも、孫八は絶えずにこやかな表情を崩さなかった。知り合ってから幾度かは一緒に飲む事もあったが、ことば通りに酒に飲まれる様な男ではなかった。話は何時も相手の先を読んでいたし、一度決めれば動きの早い男であった。江戸でも版元の中では有数の老舗である三代目の喜右衛門が、資本を分けてやった理由が頷けるのである。画号は竹内眉山と言い、画を見る目さえも玄人であった。
この日、鉄蔵はこの保永堂の孫八に、自らが描いた目論見を打ち明けて、力を借りようと思ったのである。
「処で孫さんよ、北斎翁の描いた富士富嶽の画を見ただろう?、どう思うかね?」
孫八に酒を勧めると、鉄蔵はおもむろに北斎の画の感想を聞いた。
「見ましたよ、ありぁ画もいいが、永寿堂の目の付け所が違うねぇ」
両手で杯を持た孫八は、鉄蔵から注がれた酒を一気に飲み干した。同業者の永寿堂を貶す事なく褒めていた。
「実はあの北斎翁の処に、先日ですが弟子入りを頼みに行きましたよ。孫さんに頼んだ馬琴師匠の紹介状を持ってですがね。ですが見事に門前払いでしたよ」
鉄蔵は楽しそうに笑った。
「へぇ、そうでしたか。やっぱりね」
今度は孫八が徳利を取って、鉄蔵に酒を勧めた。断られて明るい顔で笑った鉄蔵の真意が、未だに呑みこめなかったのである。
「だがこれで私もやっと踏ん切りってものが付きました。あの北斎翁と合う事が出来れば、何かが変わると思っていましたが、とにかく会えて良かった。何、大した話をしたわけじゃありませんが、すっきりとしたと言うか、今度の一件では面倒を掛けて済まないとは思います」
言い終えた鉄蔵は孫八に注いで貰った酒を、孫八と同じように一気に飲み干した。北斎への弟子入りの話を断られた鉄蔵は、実にさっぱりとした気持ちになる事が出来たのは事実であった。北斎と会う事で何かが吹っ切れると思ってはいたが、見事なまでにさばさばした気持ちになれた事で、鉄蔵は苦笑いしながら孫八に頭をさげた。
「いいえ、ていした事をした訳じゃあありませんや。礼を言われる程の事でもありません」
恐縮したのか孫八も、鉄蔵にあわせて苦笑いをした。
「そこで、礼と言っては何なのだが、前から考えていた事があるのさ、まぁ今日はそれを孫さんに聞いてもらい、で孫さんの話も聞きたいと思いましてね」
「へぇ、伺いましょう」
何となく商売の匂いを嗅ぎつけたのか、孫八は崩していた膝を揃えた。
「前々から考えていた事なんだが、北斎翁の向こうを張って、東海道の風情を描いてみたいと思いましてね。それも全て横大判の大きさで」
「ほぅ、それは又凄い事で」
「実は御上からのお許しも戴いておりまして、この八月一日に京で行うご公儀の、八朔御馬献上の儀とやらに同行させて貰う事が決まりまた。これで行きと帰りに東海道を歩き、その街道の風情を描いて来ようと考えた訳でしてね。東海道は五十三次日本橋と京は三条を入れての五十五図、画帳に元絵を描いて戻りますが、戻れば定火消のお役目もお構いなしとなりますので、武士もきっぱりと辞めようかと思っています」
「増々凄い事になりそうで、それも大判の錦絵が五十五枚の組物とは」
「そこで孫八さんに折り入ってのたのみだが、あんたの保永堂さんとこで、この話の片棒を担ぐ気持ちがおありかどうか?まぁお聞きしたいと思いましてね」
鉄蔵は笑いながら孫八に聞いた。
「あるも無いもないでしょうよ。鉄蔵さん、いや広重師匠。この話とことん担がせて貰いますよ。あっしが思うに時期が時期でございましょう?。昨今はあの弥次喜多にあやかって、伊勢参りも増えて参りました。私には丁度良い時期だとも思いますがね」
「ただ少し条件があるんですよ。恐らくは間違いなく大判で五十五枚となりますと、出来れば仙鶴堂の鶴屋喜右衛門さんも版元にも入ってもらい、そちらでもお願いしたいと考えていますが如何でしょうかね?」
「鉄蔵さん、こちらの方こそ願ったり叶ったりでして、こちらもこんな大仕事は初めてのことでして、早速仙鶴堂の親父さんには私の方から話を伝えて置きますもので」
「私が江戸に戻るのは八月も終わり頃にはなるでしょう。それから下絵に入ります。今、話して置きますが、帰りましたら住まいも八代洲河岸を出て他に移り住む心積りでいます、この事は戻りましたら詳しくお話致しますが、まぁ引っ越しといっても然して荷物がある訳でもなく、それにこの画が何時仕上がるかも皆目見当もつきません。出来る限り魂を入れて励んでみます。どうか仙鶴堂さんの方にも宜しく伝えて貰いたいが、保永堂さんにも宜しく頼みます」
「分かりました、細かい事は後程として、こころづもりは致して置きますんで」
鉄蔵はこの翌日から、京に出掛ける為の支度を始めたのである。特に東海道の資料は少ししか揃えてはいなかった。それだけに行く前にはぜひとも読んで置きたい、知ってから出掛けたいと思えるのである。寛政九年の奇しくも鉄蔵が生まれた年に刊行された東海道名所図会は、東海道の宿場風景や名物などが描かれている。丸山応挙や竹原春泉斉など三十名ちかくの、当時を代表する絵師達が創り上げた労作であった。
当時からの風情に然程の変わりがなければ、十分に描く場所を予め吟味する事が出来るはずである。それにやはり十辺舎一九の膝栗毛は、一冊持参したいと思えるのである。予め物語と風情を照らし合わせながら、描くお題をみつけなければならないからである。
二日後の夕刻であった。孫八が仙鶴堂の主人、喜右衛門を連れて鉄蔵の住む定火消屋敷に訪ねてきたのである。
「早速先日伺った師匠のお話を仙鶴堂さんにお伝えしました処、仙鶴堂さんからも大変良いお話を頂いたと、夜分でございますが主人の喜右衛門さんをお連れ致し、お伺いした次第で、へぇ」
孫八はさも済まなさそうにして、突然の訪問を詫びた。
「孫八からもお話は伺っております。又その事で幾つかお話を私も伺い、こちらからもお話が出来ればと思いやってまいりました」
仙鶴堂の主人、鶴屋喜右衛門は改めて鉄蔵に頭を下げた。未だ鉄蔵より十歳は歳上であろうと思われる静かな男で、面と向かってこの三代目との顔合わせは初めてであった。仙鶴堂は日本橋通油町に店を置く地本問屋だが、初代が京の店を立ち上げ、近松物と言われる心中物の読本を出版し、江戸の店は本家から見れば三代目に継がせた出店となる。
「わざわざお越し戴いて申し訳ございません。で仔細は孫八さんにお話しした次第ですが、何せことが事でして、色々とお力を借りなければ成り立たないのもこの世界、一つ宜しくお願い致します」
鉄蔵も丁寧に頭を下げた。
「処でお話と申しますのは、広重師匠の描かれる五十三次の画の事でございます。一体どの様なものになるのかをお尋ねしたいと思いまして」
江戸市中の風情を五枚十枚と描く絵師に、果たして一度に五十枚余りもの画を描かせて、売れるか売れないかを算段するのは商人の仕事である。必ず売れると踏まなければ、断るのが版元でもあると鉄蔵にも思えるのだ。
「一言で言えば私の描いた画を見て、旅に出たい、行って見たいと思って戴ける画を描きたいと考えております。既にその様な画は東海道名所図会として、既に三十五年も前に描かれておりますが、その全てが墨で描かれ京から江戸に向かう姿で描いてあります。私はその逆で日本橋から京に向かう画を描きたい、更に色も重ね摺りの錦絵で表したいと思っております。しかも一宿一枚の大判横位置となります。それにこの画は出来る限り街道の風景の中に、人々の姿を入れて行きたいと思ったのでございます。そこに暮らす者や働く者、旅をする者を画の中に描く事で、見る者はその描かれた画の中の人と自らを重なり合わせ、旅への夢や憧れを抱くと思うのです」
喜右衛門は鉄蔵の言葉が切れると、それまでの心配していた事を尋ねた。
「しかしお役を賜っての旅とお伺いしましたが、物見遊山とは違いますれば・・・」
「確かに御上の録を食む者の一人として、永い日々をお休みを頂く事が出来ないのは、ご推察の通りでございます。今回の八朔御馬御献上の儀に際しては、上司にお願いしたのはその事でございます。京に出向き八朔御馬御献上の儀を描く者とは、落款も無く作者も不要の儀式図にてございます。御上お抱えの絵師では、これを描くは到底無理なお話となり、それゆえの御名指しでございました。今回の同行に付きましては、筆頭与力の松平采女様にご理解頂く為、当方の希望もお話申し上げた事がございます。
まずその一つは、大凡人々が豊かになるとは、物や金が世に出回り滞りなく動く事と理解しております。さすれば人が旅に出て懐に蓄えたる金を使い、又使う為に働く、この事無くして豊かな暮らしは到底有り得ますまい。それ故にまず旅に出たき思いを育てる事こそ、この画の命と思うております。
更に二つ目は、この江戸がこの国の中心となるには、江戸日本橋より出立する旅こそ本来の順序。三十数年前に上方の絵師たちによる五十三次は双六の賽の目。上りが御江戸日本橋なら、これは上方からの旅案内。未だ見ぬ風景を全て描き取る事は無理かも知れませんが、私はこの江戸からの五十三次を描きたいのです。
それに北斎翁も三十年余りまえに、この東海道五十三次を刊行しております。しかしその画は美人画であり、画の上にある文字を見なければ、どこの宿場か判らぬもの、しかも竪中判か豆判程度の小さな画であったと記憶しております。当方は全てを横大判の錦絵で、北斎翁の富嶽三十六景に勝るとも劣らない画に仕立てたいと思っております。ついでに申し添えれば、私が描かなければ他の絵師の誰かが描くでしょう。北斎翁が富嶽三十六景で当てたのは、画の上手さもさることながら、お山信仰が広く行き渡って来たからにほかなりません。その機会を掴むか逃すのか、絵師も版元も、共に今その器量が試されていると思うのですがね」
何時かは話さなければならない事であった。
「いやいや、そのお気持ちを伺い、随分と私どもの気の入れようも変わると言うもの、ただ北斎殿は東海道五十三次、その節は未だ歩いてはおらず、書き上げた後に大坂に行かれたと聞いておりますが」
「確かに、しかしあれは元々五十数枚の美人画を刊行する為の方便。どの美人にどの地名を入れようが、さしてどれ程の問題も起きません。それに歩く歩かないかは、画の上手下手とは異なりましょう。見たままを寸分違いも無く描くのも画ならば、見ずに想像して描くのも画でございます。見る事が出来る風情は見たままに描かなければならない理由もなく、龍も達磨も仏さえも見てお描かれた訳ではありますまい。あの狩野派の絵師でさえ、未だ見た事もない阿弗利加の虎を、狛犬の様に描いているではありませんか。私もこの旅の途中では雪や雨、そして風さえ描くつもりでございます」
鉄蔵は少しの笑を堪えて喜右衛門の顔を見た。
「確かに、これはやられましたな・・・」
鉄蔵の答えに三代目の喜右衛門も笑い声をあげた、そのあとに真顔になって鉄蔵に話しかけた。
「ひとつお話するのを忘れておりました。京にゆかれましたら、私どもの本家仙鶴堂が二条通りにございます。何卒お泊りなどお困りの節は、ぜひともお寄りいただければと思います。早飛脚にてこの旨を伝えて置きますので、どうぞ御気兼ねなくご利用して頂ければと思います」
本家から来た三代目らしい気配りであった。鉄蔵も京の風情をこの機会に、ぜひとも描いて置きたいと思えたのである。
出立の前々日に打ち合わせた通り、八朔御馬献上の一行が江戸城の馬場先御門を出立したのは、天保三年(1832年)七月十二日の早朝の事である。八朔御馬献上の儀を例年通り執り行う為、朝廷のある京に向かう一行は、未だ辺りも暗い寅の刻(午前四時)を合図に出立した。行列の身内と思われる数十名の者達が見送りに来ていたが、家紋の付いた提灯の灯りの中には、仲次郎と妻のお芳の姿も暗闇の中で見つける事が出来た。
動き始めた一行の一番最後を鉄蔵は歩き、行列は馬場先御門を出ると芝増上寺の前を通り、品川宿へと向かっていた。やがて少しずつ空が白み始めた頃には金杉橋を渡り、一年前の火事の火元だった芝車町近くを西へと向かって黙々と歩みを進めて居た。人の顔が判る程の明るさになった頃、行列は高輪の大木戸をくくり江戸の外に出たのである。
八朔御馬献上の一行は、小者や仲間(ちゅうげん)を含めてその数は二十五名程である。行列の先頭には江戸城を出る時に提灯の灯りを持った仲間が二人、しかし既に明るくなった今は提灯をたたみ、犬を追い払う為の長い棒を持って歩いていた。その後ろには徳川家の家紋が付いた、長持ちを担ぐ仲間が一人、面白いのはその後ろ、つまり馬の前に長い柄杓を担いだ仲間が歩いていた。柄杓の内側は赤い漆が塗ってあり、間違いなく献上馬に水を飲ませる為のものであった。
更にその後ろには見事な駿馬が二頭、これも葵の御紋の入った掛物が馬の背に掛けられていた。左右には馬の手綱を引く仲間が、馬それぞれの横に二人付き添い、脇には馬飼小頭役の侍が、駿馬を挟むように両側を歩いて居た。馬の後ろからは前後四人の籠付仲間に担がれた、殿上方高家である武田様が乗り込んでいるはずであった。
更に籠の傍には馬医方の侍を含め、四人の侍たちが警護しているのである。行列の後ろには儀式に用いられる弓持ちが二名続き、旅の薬や道具類などを入れた長持ちを担ぐ小者達であった。
鉄蔵はこの旅に備えて、画帳を四冊と筆や木炭など買い揃えた。帰りに使う画帳は京の仙鶴堂で買い求めるつもりであった。資料は十辺者一九の膝栗毛を持参していた。これは寝る前に翌日の街道風景や宿場名物など、予め頭に入れて置く為であった。一九が描いた「読本東海道中膝栗毛」は駿河生まれの弥次郎兵衛と、元旅役者の北八が、東海道を旅する中で起きる面白おかしい旅日記である。特に二人の軽口と洒落に満ちた旅は、江戸の庶民が暮らしの中で味わう「うっとおしさ」や「陰気臭さ」の逃避でもあると言えるだろう。この時不意に前夜に読んだ膝栗毛の一部を、鉄蔵は思いだしていたのだ。
六郷の渡しを越えた茶店で北八が言う。
「おい弥次さん、あの掛け軸はなんだい?」
「ありゃあ鯉の滝登りよ」
「なんだ、おらぁ鮒がそうめんを喰っているのかと思ったぜ」
鉄蔵は朝の陽ざしの中で街道を歩きながら、江戸に戻った時には名を広重で通そうと思った。鉄蔵の名も武士の名も、もう捨てたいと思えたのである。この旅は丁度いい機会でもある様に思えた。後ろから行列を追い越さなければ、広重はまさに道中お構いなしの身の上であった。
昼前には八朔御馬献上の一行も、品川宿を目の前にしていた。未だこの辺りまでは遠い昔、父と連れだって来た事がある。だが今は任された勤めの他に、自らの目論見でもある宿場の情景を描かなければならなかった。描く時間がなければ場所とその方向など、画帳の中に書き記して置く事で、京より江戸に戻る時に描く事が出来るはずであった。だが江戸から東海道を下る者は、初めての宿場である品川を通るのが常である。かすかな旅への不安と期待の入り混じった気持ちで、旅先の風情を見る新鮮さは、旅立ちの今でなければ描く事は出来ない様にも思える。慌てて行列の最後から離れ、立ち止まって画帳を取り出し宿場図を描いくと、その上にシナガワと書き込み、場所と印そして先に行ってしまった行列をギョウレツと書き込んだ。
広重の描く技法は人物など動きのあるものを、初めから紙に描くことはまず無いと言っていいだろう。土台となる背景の風情と骨格を、おおまかな構図を基に画帳に写しこむだけである。そこには四角い枠も無く、正確な構図は下絵の段階で決めるからである。更に人物を入れる場所も簡単に記すだけである。人物の様々な姿は既に幾千も描き貯めているからで、その場所、その風情に似合う姿を、書き貯めた画帳のなかから拾いだし、大きさを揃えてはめ込んで行くのである。
絵師の持つ性とでも言うのかもしれないが、今描かずにして次があるのかと、思わず不安に駆られる事があった。帰りに描こうとは思っていても、雨が降れば霧がかかってしまえばと不安は尽きなかった。後で聞いた話ではあったが、品川宿は西へ向かう旅人の素通りの多い宿場であったと言う。しかし幕府からの許可を得て安永六年、五百人もの飯盛り女を置く事で、一気に繁盛する宿場になったと言う。しかし未だ巳の刻(午前10時)であった、宿場の賑わいは夕刻からだと言う。今日も日差しが強くなりそうな朝の気配であった。
品川宿を過ぎた一行は、しばしの休息に南品川二丁目の休泊所に着いた。大名が休息する場所で宿泊する部屋も用意されてた、幕府専用の休息宿であった。半刻程休息の後に川崎宿に向かって一行は又歩き始めた。約二里半の道程である。
川崎宿の手前には六郷の渡しがあった。川幅も広く上流に帆掛け舟も行き交うここでも、鉄蔵は画帳を広げた。だが地図を描いて印をしただけである。既に一行の多くは船で向こう岸に渡り、後からの一行を待っていたからであった。六郷の渡しとその向こうに見える富士のお山を見て、ここは画になると鉄蔵は踏んだのであった。画が宿場だけを描くなら、画を見る者は直ぐに飽きてしまうと思えた。その意味でも、これから描く五十三次は鶴屋喜右衛門にも伝えた通り、旅人やそこに暮らし、そしで働く人々を織り込みながら描いて行きたいと思っていた。その画を見て貰う時、見る者は必ずその画の中に自らの旅する姿を重ね合わせるはずであった。
六郷を渡ると左に川崎大師に繋がる道があった。一人旅なら少しの寄り道もしてみたいとも思えるが、これからの道は寄り道の出来ない旅であった。覚悟の上ではあるものの、鉄蔵は幾分恨めしくも思い始めていた。神奈川宿へと続く神奈川台町は、その真下に海の見える場所がある。画としては品川宿と似て左に海、中央に旅籠を入れたが、同じような場所の風情はどうしても似通ってくるのであった。敢て客を引く女達を描いてみたいが、下絵はまだ先の事だと決めつけるのを止めた、だが画帳にはキャクヒキと入れる事にした。それは膝栗毛の中から保土ヶ谷宿での弥次郎兵衛と北八が、客引き女とやり合う場面を思い出したからであった。
行列に少しの遅れを取った鉄蔵は、神奈川宿の先にある「台の休息所」で休む一行に追いつく事が出来た。聞けば二里程先に、今夜の宿である保土ヶ谷宿があると言う。朝早く江戸を発った為か早く宿に入りたいと思えるが、保土ヶ谷宿の入口の小さな橋の手前で、鉄蔵は一行が宿場に入る姿を見つめていた。夕陽の沈む保土ヶ谷宿を描いてみたいと思え、画帳の中の地図に矢印を書きユウヤケと入れた。矢印は描きたい方向を指している。この印と一言が、帰り道では生きてくるはずであった。
翌朝、保土ヶ谷宿を出て権太坂を上ると、相模と武蔵野国の境を示す地蔵堂があった。次の戸塚宿までは二里と九町そして今夜の宿は大磯宿である。権太坂の上で立ち止まった鉄蔵は、松の木々の向こうに富士の高嶺が覗いていた。鉄蔵は早速懐から画帳を出した。坂の上から焼餅坂を下ると道は又品の坂を上る。保土ヶ谷は坂の多い土地であった。一行が向かう戸塚宿にはいる吉田橋の袂には、びたりかまくら道と彫られた道標が立ててあった。その手前の茶店の前で、馬子が乗せて来たのであろう旅の客が、馬から飛び降りる姿を鉄蔵は慌てて画帳に書きこんだ。馬から客が飛び降りるなど、突拍子もない出来事は単調な画を波だたせるからだ。見る者の想像力を必ず刺激するはずだと、鉄蔵には思えるのであった。
藤沢宿はやはり入口にある遊行寺橋から山の上に建つ遊行寺を正面にし、江之嶋に向かう江之嶋道の鳥居を入れるのが判りやすいと思えた。江之嶋へは一里と十四丁とすぐ近くであった。特に江之嶋参りの参詣人が多い場所柄か、目立つ石の鳥居であった。ここに座頭を歩かせたら・・・杉山検校が祀られているのなら、ぜひともこの場所には座頭が必要であった。鉄蔵はザトウと画帳に書き記した。
この日も忙しく筆を運び、懐から幾度も画帳を出した。画帳は小さな冊子ではあったが、何カ所もの風情を描いた。一宿一画ではあるにしても、未だそれを決める訳にはゆかないのである。描くものは風情で風景だけでは無かった。駕籠かき、茶屋女、荷車、あくびをする女、煙草をすう男、ありとあらゆる人の営みを写し取る事であった。特にこの場所でしか無いものは、それだけで画の場所を特定するからである。
まるで本を広げる様な、記憶を思い起こす為のきっかけになれば、それで画帳は用を為すものだと思っていた。しかしいざ筆を持つと、あそこもここも、それもあれもと、時間がいくらあっても足りない事を今更の様に知るのである。それに馬医方や馬飼小頭などが同行する一行の者達から見れば、幾らお役目だとは云え道中の景色を見て画帳に書き込む絵師は、酷く場違いな者に見えて居たはずであった。特に人は絵師の描く画は、鼻から上手いものだと決めてかかるのが常であった。自らの絵心と絵師の画を比較したがるのである。しかし絵師の画は、最後になって成程と納得できるものでなければならず、それ故に描き方には様々な流派が生まれたのである。
平塚の宿までの途中に馬入川の舟渡しがあった。渡し舟を待つ間に、一枚の画を描き終えた。しかし書き終えてみれば余り面白みのある画では無く、宿場を過ぎた頃に宿場図を描き、印をつけた。この宿場は下りの入口より上りの宿場入口の方が、画になると思えたからである。正面に特徴のある高麗山を入れ、富士のお山が山間から覗く姿が思い浮かんで来る。だがこの時期、富士のお山は雪など頂きには積もっていなかった。特に南側の陽の当たる場所は、早く融けるのが常識であった。
しかし常識を人々は求めてはいない、富士のお山は夏でも真っ白な雪が積もっていなければ、客は納得しないのである。そして又それを批判するのも客なのであった。
三日目の泊まりは箱根宿である。泊まりの大磯宿を出て、酒匂川を人足渡しで越えると小田原の宿であった。ここでしばし休息を取った後、ここからは箱根の峠越えであった。東海道一の難所と言われた箱根峠に向かう石畳の道は、雨でも道が滑らない様に滑り止めの配慮であった。誰もが言葉を止め、黙々と上る急坂な街道の道は箱根宿まで続いていた。時々汗をぬぐう為に立ち止まり、登って来たそれまでの道を振り返った。やがて一気に視界が広がると、そこには青々とした湖面が静かさと共に眼下に横たわり、湖面の向こうには富士の頂きが顔を見せて居た。鉄蔵は息の切れる様なこの坂を、眼下に横たわる涼しげな芦之湖と対比させたいと思った。急峻な箱根の道は、山も急峻でなければ描く事は出来ない。夜は松明を掲げて走らせる早駕籠も行くと言う。そこまで登って来た苦労が、一気に報われる様な風景であった。鉄蔵は画帳をひろげたのである。
箱根宿の直ぐ上にある箱根峠から三嶋宿までは、西坂と呼ばれて駿河湾が見渡せる小笹の中の道である。かつて戦国時代とよばれた昔、北条氏の領地であったこの辺りには、山中城という城があったと言う。秀吉の養子だった秀次と家康公の連合軍六万の兵は、たった一刻で攻め落としたと言う。坂を下り降りると東海道は三嶋大社の前に着く。この宿場は三嶋女郎でにぎわったが、下田に向かう街道と甲州に向かう甲州道との交差する場所でもあった。
この三嶋大社の鳥居の前には、駕籠かきや馬子が客を待っていた。もし朝の未だ早い時刻であったら・・・鉄蔵には旅立ちの未だ浅い眠りの中の旅人が、朝霧の中を行く風情が見えてきた。画帳には三島大社アサモヤと馬子、カゴカキといれた。三嶋の次の沼津は富士のお山を背に千本松原を遠景で描いてみる。
東海道も富士のお山を右に見ながら往く沼津からの風情は、原から吉原では左富士と言う場所がある。元々は海岸沿いの街道であったのが、大津波で壊滅した宿場を高台に移転した為に街道が曲がって生まれたのが左富士である。鉄蔵は富士のお山を背に、この八朔御馬献上の一行の画を描く事を思いついた。一行が休息した時に行列の先頭に出た鉄蔵は、太い松を街道が廻り込む場所に待ち構えその姿を画帳に写したのである。何れ江戸に戻った時には、肉筆画に描き直して高家武田様に献上するつもりの、八朔御馬献上の下絵(※1)であった。(※1、東京国立博物館蔵)
のどかな風情はどの宿場も同じように、これと言った強い印象が無かった。それ故に原の宿では富士のお山を、画の枠を突き破って描こうと思っていた。これは予め考えて居た構図で、富士の大きさを強調する為の業でもあった。蒲原の宿で耳にしたのは、この場所は雪が降らない温暖なところだと言う話であった。それなら雪の風情の蒲原宿を、鉄蔵は描いてやれと考えたのであった。雪景色は得意であった。絵師はその描く紙の上だけには、いか様にも風情を変える事が出来る者なのである。画を描くとは、夢を描く事と同じであった。紙の上なのか頭の中なのか、それだけの違いなのである。
由比宿は切り立った崖と駿河湾の波打つ岸辺の境に、崖にへばりつく様に細い街道を挟んで並ぶ宿場であった。宿場の外れから増々街道は細くなり、踏み外せば転がり落ちて波間に飲み込まれてしまう程の急斜面の道である。だが振り返れば富士の裾野はなだらかに駿河の海に溶け込み、海の向こうには伊豆の山並みが連なっていた。その薩埵峠は絶景であった。富士のお山の裾が見られる場所は、既にこの先には無いと図会にも書かれていた。鉄蔵は画帳を広げ、その有様を写し取った。言葉にどう表したところで、この風景は表せないと思える。先に行った一行も、この風情を見る為に行列を止めて居た。誰もが美しいものは心を洗われる物なのだと鉄蔵は思った。
錦絵は、その下絵に必ず筆を使う。しかし画帳に描く場合、鉄蔵は筆を使う場合もあるが、多くの場合は木炭を使うのである。この木炭は柳の枝を炭にしたもので、持つ手は汚れるが先を削れば細い線も太い線も描ける。更に横に寝かせて描けば、ぼかした様な曖昧さの残るものとなる。木や枝の部分は線で描き、葉や雲の様はその曖昧なままを描く為、木炭を寝かせて塗る様に表して行く。描く事にこれと言って決まりがある訳では無いが、錦絵が一人では創りだせない以上、彫師が一目見て彫り進める様に描かなければならない。更に単なる線だけの表現は陰影が無くなり、奥行きが表現できなくなってゆく。筆で画帳に描く時は、幾本かの用途に合わせた筆を使う。筆の毛もその動物によって弾力が違い、柔らかな筆先は草や葉、硬い毛は家や岩山などの表現に使用する
由比の薩埵峠を下り、興津の宿場に入る手前、興津川越えは蓮台人足が川渡しをする。その僅かな時間に鉄蔵は又画帳を広げた。冬は水も少なくなると言うが、川上から見ると河口は海が広がっていた。四尺五寸で川止めと書かれていたが、川止めは嵐の後の数日程度と聞いた。さてどこが一番深いのか、旅の者には皆目判らい。そしてこの興津から江尻や府中、更に金谷辺りまでは、殆どが同じような山の中、そして川の渡し場の風景であった。
それ故に江戸を出る前に、必ず書きとどめて置きたいと思っていた場所は、師の豊広が初めて馬琴の黄表紙読本「小夜中山宵啼碑」の挿絵を描いた日坂宿であった。
日坂宿は手前の宿場である金谷宿から、大凡一里余りの場所にある。道は菊川村を出ると小夜中山の山中に入るが、物語はこの山中で起きた事件を題材にしていた。通りかかった近くの妊婦が殺されるところから物語は始まり、その殺された母親の腹から生まれた赤子の代わりに、傍にあった大きな石が泣く様な音を立てた事で赤子は運よく助けられる。この赤子が水飴で育てられ、やがて久遠寺の子育て観音のご利益で、無事に敵討ちが成し遂げられると言う筋書きであった。
その妊婦が殺された場所には、夜泣き石が今でも街道の真ん中に置かれていた。物語を知らなければ石は単なる石であり、物語を知ろうと思えば馬琴の書いた「小夜中山宵啼碑」を、借りるか買わなければならない。版元と馬琴の考えた企てであった。
見付宿も然して特徴が無い宿場であった。八朔御馬献上の一行が天龍川の渡し舟に乗って、川を渡って行く情景を画帳に描いてみた。天竜川は信州諏訪に源を発する大河で、遠江(とおとうみ)に入ると大天竜川と小天竜川と二つに川筋がわかれている。大天竜川を渡り今しがた降りたばかりの一行が、今度は小天竜川の渡しを乗る為に舟をまっていた。中州に船頭が二人、何を語っているのか案じる様にその一行を見つめていた。
旅は二川を過ぎると遠江の国と三河の国の国境であった。この日の泊まりは御油の先の赤坂と聞いて居た。二川の宿場外れ、岩屋観音近くに木の一本も生えて居ない山があった。荒れ果てた丘の様な小山の中を、細い街道が繋がっているだけであった。それでも途中に腰を下ろすだけの、茶店が一軒ほど佇んでいた。その小山の裾を瞽女(ごぜ)が一人、危なげに歩いている。鉄蔵はその風情に出会った途端、人の人生を暗示している様にも思えた。どこから来て一体どこへと行くのか、恐らくは放浪の旅だもあろうかと思えた。この恐ろしく寂しげな風情を、描いてみたいと思って画帳を開けた。
一行はこの日の夕刻に、長く続く松並木の間に置かれた御油宿に入った。まるで弥次郎兵衛と北八が描かれた膝栗毛の様に、旅籠に旅人を引き込む客引き女が居る。既に引き込まれたのか、坐って足を洗っている旅人が居た。
この時に鉄蔵は、保永堂の孫八から頼まれていた事を思いだした。
「あっしの名前を入れる場所、一枚だけで結構なんで、何処かに空けといて貰えませんかね? いいえ、目立たない場所でも結構です。この仕事はあっしら保永堂がやりましたと、残して戴けりゃありがてえと思いまして」
鉄蔵は京からの帰りにでも描いてやろうと、場所の印を画帳に控えたのである。
泊まりの赤坂宿では、夕餉前の旅籠の風情を描きたいと思い、間口が九間、奥行き二十三間と言う大旅館大橋家の中庭から描いた。描いたのは夜だったが、一行が脇本陣に入ってから、抜け出して旅籠を見に出かけたのである。江戸に戻ってから描いた旅籠の部屋に、様々な物語を表すのも絵師の仕事であろうと思えた。翌朝は赤坂宿を発って、二里と九町先の藤川宿に向かった。この日に鉄蔵は行列の一行が出立するより先に宿を出て、藤川宿には先に着いて待っていた。幕府お役目の御触れを出して宿場宿場への到着は、宿場名主は出迎えなければならない慣例があった。その目印が宿場入口に建つ、棒鼻と呼ばれる杭であった。既に小半刻程待っていた宿場名主が、藤川宿入口の棒鼻の前で、やっと行列が御着きになったと安堵して道に座り、一行を出迎える図を描いたのである。人物は後で描くが、それでも簡単な情景は筆で画帳に収める事が出来た。朝は宿場の入口から宮路山を背景に画帳に収めた。
江戸を出立して十日目、岡崎の先三里と三十町に池鯉鮒宿であった。街道の中でも、最も宿場の間が開いた場所であった。池鯉鮒は八橋やかきつばたが知られている。更に三州街道を往き来すると言う馬も集められ、この池鯉鮒には馬市が立つと言う。宿場外れの何もない草原であったがここを画にしたいと風情を描いた。しかしここも馬や人を描くのは後であった。しかし池鯉鮒とは珍しい地名だと広重は思う、池も無く故に鯉も鮒も居ないのに何故池鯉鮒なのか? 馬市の出来る草原の奥に僅かな木立が茂っていた。鯨の尾に見立てて小山の様な鯨の背を描いてみた。池の無い池鯉鮒に鯉が鮒がいたのなら、鯨が居たとしても良さそうだと思えたからである。江戸っ子である鉄蔵の洒落であった。
鳴海宿では有松絞りの店を、宮では尾張のこの辺りに伝わる五月五日の馬追いの神事を描いてみた。特に宮は桑名に向かう海上七里の渡しがある。他に描くのは湊の風情程度で、尾張名古屋城は民百姓の描けるものではなかった。それ故に名所・古跡・名物の類として、馬の搭と呼ばれる祭りを描いたのである。その起源は信長公の桶狭間の戦いに始まるとされて、熱田の俄馬と呼ばれるものは、かつて端午の節句に行われていた走り馬の名残ともいわれていた。この日に祭りに出会った訳ではないが、画は見る者をその世界に誘い込む僅かな隙間の様なもの。桑名に向かう為に船を待つ間に、聞いた馬の搭の話を画帳に収めたのである。
京へは二十九里、江戸には九十六里と書かれた道標を見て、既に三分の二程の道を歩いた。桑名宿は十一日目の泊まりである。桑名は焼き蛤の店や、百石船などであった。桑名は松平様の桑名城が湊の後ろに見えて、街道を往き来する旅人を迎えていた。四日市は宿場入口の三滝川に架かる三滝橋を画帳に描き、石薬師宿は問屋場の情景、宿場入口の風景を描いた。石薬師宿から庄野宿までは二十五丁、昼過ぎには庄野の宿に着いたが、宿場手前で急な雨が降り始めた。一行は急いで馬と高家の武田様を雨宿りさせたが、雨足は速く鉄蔵は地蔵堂の軒先から逃げ惑う旅人の姿を描き、揺れ動く竹林の様を写した。何処で雨を降らそうかと考えて居た矢先で、おあつらえ向きとはまさにこの事であった。
石川家六万石の亀山城を描くとなれば、大名行列を描くのは筋であろうと思える。しかし単に街道を往く行列よりも、城へと戻る行列とすれば、更に雪の降った翌日となれば澄んだ空に眩しい程の陽光が・・・・更に目線を変えて鳥瞰図でもと考え、大よその見取り図を画帳に記した。関宿は脇本陣の朝の出立風情を描いた。これも昨夜に大方の背景を画帳に描いていた。駕籠置き部屋。陣幕、更に仙女香の広告を入れた。仙女香は京橋南傳馬町の坂本屋が少し前に売り出した、女の白粉であった。歌舞伎役者が使い始めて、広く市中に売れ出したと言うが、名の仙女も歌舞伎役者瀬川菊之丞の名を付けたと言うのであった。
これから鈴鹿峠の下にある坂下宿までは、距離にして一里半。筆捨山を望む藤の茶屋は、かつて狩野信元が余りの絶景に筆を捨てたとの言われから、名前の付いた場所だと聞いている。帰りにはゆっくりと眺めたいと思えるが、今は未だ勤めの最中であった。画帳に印を書き込む事にした。近くには田村麻呂を祀った神社があると聞いていたが、今は探す事すら出来なかった。更にその先の土山宿宿より近江の国に入るというが、鈴鹿峠を越えたところで小雨が降り始めた。北斎が描いた伊勢利版の土山宿も、確か横四つ版は雨の風情だと思い出した。坂下宿で聞いた鈴鹿馬子唄に「坂は照るてる鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と歌っていたのを聞いたが、やはりこの辺りは雨が似合うのか、何処までも山並みが続く山中であった。
土山宿の近く新城野洲川中州に、磨崖仏があると聞いたのは坂下の宿場だった。しかしここも街道から少し外れているのか、見る事も捜す事も出来なかった。磨崖仏を捜せば一行とは随分と離れてしまいそうであった。画帳に地図を描いて印を付け、帰りに寄ることにした。水口宿は干瓢のの産地だと言う。干瓢は夕顔の身の皮を削り、天日に干して作るものだと思っているが、出来る時期さえ知らなかった。しかし水口宿の外れで、今が盛りと干瓢干しが行われていた。しかし付近はそれ以外、取りたてて画にする景勝地は殆ど無かった。それは次の石部宿でも同じであった。宿場の菜飯や田楽豆腐を売る店を描いた名所図会を頭に置いて、俯瞰図として描こうと鉄蔵は思って居たのであった。
この旅の最後の泊まりは草津宿であった。草津宿も他の宿場同様に、特徴のある風情は少く画題の乏しい場所であった。東海道と中仙道が交わる処の、乳母が茶屋の姥が餅の店は、名所図会でも逃げ場であったろうと思えた。次の大津宿は琵琶湖の船で、遠く越前や東北からの産物が集まる場所で、ここから京や大阪に運ばれてゆく要衝の湊である。北斎は走井の餅屋を描いたと思うが、鉄蔵は大津の湊や三井寺を考えて居た。描く事はここも出来ないが、出来れば八景物も描いてみたいと考えて居た。東海道の最後は京の三条大橋である、大津から逢坂を上ると山科の里に着く。ここからは三条通りを進み東山を経て三条大橋となる。おとなしく御馬献上の一行の後に続いた。
京の三条大橋を一行が渡ったのは七月二十七日の夕刻であった。江戸では見られない衣被きを被る公家の女や、藁に刺した竹細工物の茶筅を売る男が居た。だがここでも立ち止まる事は出来なかった。江戸者からみればかくも異国とはこの様な場所かとも思えるのである。言葉は誰もが物憂げに、動きは優雅で古い由緒ある物は至る処にあって、目を奪われるものは多かった。江戸を発ってから十五日目、とにかく京に着いたと言う思いであった。今夜からの宿泊は所司代屋敷と聞かされていた。残るは八朔御馬献上の儀で、三日後であった。今はその準備の為に日々を送らなくてはならなかった。
八月一日、京の御所にて御馬献上の儀が執り行われていた。お役目役の高家が年毎に変わるとは言え、多くの武士達は毎年恒例の儀式であった。鉄蔵は朝の早くから御所の中に入り、儀式を執り行う紫宸殿の南庭と呼ばれる庭から、既に儀式の行われる背景を描き終えていた。白砂の庭の左には左近の桜と呼ばれる桜が、右には右近の橘と呼ばれる橘の木が植えられていた。儀式に呼ばれた者では無い以上、隠れる様に儀式の様子を伺いながら、人の動きを書き留めて行かねばならなかった。だが既に五十年も前に描かれた習い本も参考には出来る、不安は無かった。
雅楽と呼ぶのか笙と呼ぶ笛の音が聞こえ、儀式が始まった。遠くから鉄蔵は人の動きを追いながら、手元の画帳に筆を走らせていた。駿馬が引き出され悪霊を払うという弓を弾き鳴らす音が聞こえ、儀式は凡そ一刻程で終わったのである。ここでも画は動きの無い背景の建物と、動く人や馬の姿を別々に描き、下絵でそれを組み合わせる描き方であった。
式も滞りなく終えて御所から宿舎に帰ると、献上方の高家武田信憲からの使いがあった。明日を持って任を解く旨の知らせと、同道した旗本衆の者達に対して労いの意味を持つのか、一献杯を酌み交わしたいとの誘いであった。鉄蔵は有難く受ける事にしたのである。この席で武田信憲は、鉄蔵が旗本武士であり絵師である事を知っていた。東海道の街道風情を描きたいと言う、鉄蔵の目論見も知っていたのである。出来上がった時には、その画を見たいと言ってくれた事が嬉しいと思った。
江戸の仙鶴堂の本店である京の店に鉄蔵が立ち寄ったのは、儀式の終わった三日目の朝であった。儀式翌日の二日は未だ記憶のある内にと、画帳に加筆をしたり要点を書き留めたりと、省略した部分を書き加えるなど丸一日を宿舎で過ごしたのである。
京の仙鶴堂本店は丸い鶴の画を染め抜いた暖簾が、店の広い軒下に張り巡らされ、二条通りを行けば迷う事無く着く事が出来た。それに三代目の喜右衛門からの手紙も届いていたらしく、京での泊まる先の手配から店の者が鉄蔵の面倒を見て呉れたのであった。御蔭で見ず知らずの京の街に出たが、主だった京の名所を案内して貰い、三日ほど画帳を持って風情を写して歩いた。大原女、牛を引く男、四国へ向かうお遍路など、江戸では見られない風情や情景は、描き尽せない程の新鮮さで鉄蔵の筆を走らせたのであった。三日目の夜は浪花に出たいと思い、一里半程先の伏見に出掛けた。淀川を下り大坂の天満橋まで、三十石舟で行くつもりでいたからである。
しかし、伏見に着く頃には雨が降り始めて風も強くなり、大坂行きを断念した鉄蔵が伏見の船宿を出たのは翌朝であった。既に京に戻るつもりは無かったのは、近江の八景物を画帳に残したいからでもある。江戸へ戻る為に街道を上り、今一度街道の風情を写し取らなければならなかった。大津に着いた鉄蔵は三井寺、勢多の唐橋、矢橋 堅田の浮御堂、粟津原、唐崎神社と比良の山々を描き、その夜は大津宿で泊まる事とした。これから江戸までは一人旅。重い荷物を下ろした様に、気持ちは京に下った時より遥かに軽いのを感じていた。
大津を出た鉄蔵は、京に向かう時に描いた地図や印、更に画帳に残した言葉を頼りに新たな画帳へ風情を収めていた。野洲川沿いの石部宿は宿場を俯瞰で描いてみた。水口は平松山を描き、更にこの宿場を雪で埋もらせてもみた。京に向かう目線と江戸に向かう目線とが違うと、何故かあらたな風情が浮かんで来たのである。土山宿の近く新城野洲川中州の磨崖仏も画帳に収め、鈴鹿峠を越えた田村麻呂神社の入口も描いた。四日市宿は改めて画帳に三滝橋を書き直し、桑名宿も宮へ向かう桑名の湊を、更に宮でも渡し場の風情(※2)を描いたのである。
(※2、この広重が江戸に向かった時に描いた下絵の画帳は、大英博物館に現在保管されている)
鉄蔵が江戸に戻ったのは、天保三年八月二十五日の事である。既に江戸は秋風が吹き始め、朝夕は肌寒く感じる様な季節になっていた。足の付け根は疲れが原因なのか少し腫れ上がっていたが、こればかりは日にちをかけて治すしかないとも思えた。戻って直ぐ、岡島林斉の家に挨拶に向かった。帰着の挨拶と今回の礼を兼ねていたが、京で買い求めた手土産の扇子を渡し、引っ越しの状況を尋ねる為である。既に京橋にある仲町狩野派の屋敷近くに、林斉の借りてくれた町屋が鉄蔵を待っていたのである。鉄蔵は自らの引っ越しを後回しに、八代洲河岸の定火消屋敷で武士としての最後の仕事を終えらせる為、京で行われた御馬献上の画の下絵に取り掛かった。この高家が習いごとに使うと言う画は、線画で描いた後に冊子となると言う。線の太さを均一にして描く事を心掛け、版下図が出来上がったのは五日目であった。翌日は描き上げた図を持ち上司の竹中主水宅へ向かい、その主水と共に松平采女に帰着の挨拶と、描き上がった御馬献上の下絵を届けたのである。残るは自身の描いた五十三次の下絵を、早く描き始めなければならなかった。そして鉄蔵はこの時より、それまでの役目であり勤めでもあった仲次郎の後見人を辞め、武士から町人として又絵師としての道を歩き始めたのであった。
岡島林斉が探してくれた京橋近く、仲橋大鋸町の家に鉄蔵が越したのは、それから三日程過ぎた日の事である。越してきた荷物の紐を解く間もなく、東海道五十三次の画をどう纏めるか、鉄蔵は画帳を広げて考えあぐんでいた。その鉄蔵が不意に思い出した様に一人笑をしたのである。翌朝、未だ暗い内に画帳と筆を持ちだして、越してきたばかりの家を出ると向かったのは日本橋であった。
五十三次の旅立ちである肝心の日本橋の図を、未だ描いて居ない事に気が付いたのであった。最後に日本橋の図を描く事になったのは、八朔御馬献上の一行がこの日本橋を渡らずに、そのまま品川に向かった事が理由であった。思い返せば西国の大名達の多くは、上屋敷を虎の御門や赤坂御門、日比谷御門など江戸城南側に屋敷が造られていた。江戸城の東にある日本橋を渡る大名達は、東国や北国の大名に限られていたのであった。
気持ちを入れなおして朝の未だ白々とした夜明け、鉄蔵は日本橋の袂に立った。天秤棒を担いで魚河岸に行く者、豆腐の桶を担ぐもの、旅に出かける者達が橋の上を行き交っていた。鉄蔵は橋の上を行く人々を画帳に収め、朝の陽の光の中で浮かび上がる日本橋を描いていた。不意に橋の上を大名行列がゆつくりと渡って行く様が浮かんでくる。一瞬の静寂の後に、又活気のある日本橋の風情が、音が、声が戻って来るのであった。何時ものくせは橋の袂に子犬を二匹、描く事も忘れなかった。鉄蔵はこの時、描きながら思っていた。北斎の画と俺の画は全く違うが、江戸っ子の心意気と温もりを描くのが、自分の画なのだと思えたのであった。
最後に最初の日本橋の画を描くとは、思ってもいなかった。しかし日本橋は東海道の振出であった。この画の良し悪しで東海道五十三次の全ての評価を決定づけられる恐れがあった。旗本の武士であった鉄蔵だからこそ、あえて大名の行列を入れる事が出来たのかもしれなかった。この日、こうして五十三次の最後に描いた日本橋であるにしても、街道の最初の日本橋の下絵を描き上げたのである。
江戸に戻って新たな大鋸町の家に移り住んでから、かれこれひと月後の九月の半ばである。江戸日本橋から品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原までの十枚の下絵が出来上がった。鉄蔵はふと、妻のお芳にも見せたいと思えた。妻には滅多に自分の画を見せたいと思った事は無かったが、この画だけは見て貰いたいと思えたのだ。玄関を除けば三畳の部屋と八畳の部屋が三間しかない屋敷だが、それでも描き始めれば日々の暮らしには不便を掛けていた。それにお芳は鉄蔵の仕事に口出しをする事は一切ない、旅に出かける間際に神田明神のお守りを貰いに出かけ、気を遣わせている事も知っていたからであった。
「どう思う?この日本橋の出来栄えは・・・」
未だ誰にも見せてはいない、筆の線で描いただけの五十三次の下絵であった。
「やっと貴方様の念願の画が出来たのですね、私はそれだけで嬉しゅうございます。ご苦労さまでございました。わけても日本橋のこの画は、貴方様の全てが描かれて居る様に思われてなりません。橋の上を御大名の行列が、それに魚屋も、おまけに犬まで、次の画が見とうなって参ります」
お芳は感想を聞かれた鉄蔵に、素直に自分の気持ちを伝えたのである。次の画が見たい、と言ったそれは鉄蔵にも嬉しい言葉であった。翌日、鉄蔵は霊岸島の保永堂の店先に居た。出来上がったばかりの下絵十枚を届けたのである。
「鉄蔵さん、いや師匠、こいつは間違いなく売れますぜ。あっしはこんな錦絵、初めて見させて貰いました。日本橋の朝の大名行列や、魚屋に八百屋、おまけに犬が二匹とくりゃあ、誰だって欲しくなりましょう。ですが師匠。前々から気に掛けて居たんですが、お名前とお題、如何致しましょう? 当然ながら東海道五十三次のこの画に載せるものもでございますが。それに余計な事ではありますが、お名前はずっと続けて行かれるものが良くは無いかと、私はその様に思っているんですがね」
「私も同じ事を思っておりましたよ。それに今までの鉄蔵も捨てようかと考えて居ました。それもこれも、旅に出かけた時から考えていたことです。まぁ孫さんが言う様に、丁度良い機会なのかも知れません。何か余程の事が無い限りは、広重だけで行きましょう。それにお題ですが「東海道五十三次之内」としましょう。この下に其々の宿場の名前が入ると言う訳です。そうすれば一枚でもそれがどれかが直ぐに判るでしょう」
孫八の顔を見て鉄蔵は、これまて考えて居た事を伝えると、にやりと笑った。
「この東海道五十三次之内の門出の今日から、あっしも広重の旦那と呼ばせて貰いますぜ」
孫八は広重の顔を見上げ、大きく頷いた。
「孫さんよ。呼び名はどうでもいいが版の方は任せましたよ。全部が全部いい出来だとは思っちゃいないが、良いと踏んだら気合を入れて仕上げて欲しいね。出来るなら年明けにでも二つ三つは仕上げて頂いて、予定通り五十三枚と江戸日本橋と京の三条だ。画は見て貰うと判るとは思いますが、春夏秋冬、季節も織りこんであります。それから朝から夜まで移り変わる刻も描きました。それに空模様も雪や雨、風も朝霧も描きましたよ。
私が描いた画の中の人々は、そこで暮らす人や旅する人、通り過ぎる人や休む人など千差万別です。それから大事な事ですが、この一枚一枚も其々の画ではありますが、私の描いたこの東海道五十三次の画は、全ての画を繋げて見て頂く時に東海道と言う街道が、身近に判って頂ける様に描いたつもりでございます。どうぞ宜しくお願いしますよ。それと孫さん、あんたに頼まれた版元の名は、判る様に街道の何処かに入れときました。仕事をしながら探すと張合いも出るでしょう。彫師摺師のお名前も、板切れを壁に掛けときましたから、そこに入れといてくださいよ」
鉄蔵はこの東海道五十三次を描く前、単に宿場風情を写すだけでなく、様々な試みを画の中に入れたいと思っていた。画の上手下手や得意不得意がある様に、絵師にも様々な者が居る。しかしどの様な画を描き上げ、一枚一枚がどの様に意図した通り、描かれているかが問題なのだと思っていた。山を山として見た通りの姿を描くだけであれば、見た者は単に描かれた山を見たなのである。だが山を急峻な険しい山と見せるなら、道は細く急坂であり、山裾は転がり落ちる程の姿でなければならない。それが鉄蔵の描く手法なのである。雪が降らない場所で雪を降らせるのは、歌舞伎と同じで如何にあの静けさ、あの凍てつく寒さを見る者に感じさせるか、それが役者の、舞台を作る者の芸であり技で有る様に、絵師としての技量なのであると思った。そしてこの日から長く使っていた鉄蔵の名を捨てたのであった。
箱根から三島、沼津、原、吉原、蒲原、由比、興津など、府中までの次の十枚を描き終えたのは、それからひと月余りの日々を要した。下絵を版元に渡せば、一枚は二日もあれば彫師が桜の木に彫上げ、摺り師の許に届き線画の下画となって絵師の許に戻って来る。絵師はそれに色の指示を出すのである。特に箱根の色使い。三島の朝霧のぼかし、蒲原の雪景色は多くの時間を費やした。何時もの事だが気に入った画には、やはり愛着の湧いてくるのが嬉しいと思ったのである。
十一月の半ばまでに府中の隣の鞠子から赤坂宿までの、合わせて十六枚の下絵の目途が見えた。広重が少し気を抜きかけた時、佐野喜の主人佐野喜兵衛が顔を見せた。
「広重さんが何か大きな仕事をしていると、彫師の間じゃもっぱらの噂だが・・元気そうだね」
通称佐野喜と呼ばれて居た。店の名は喜鶴堂と言う版元だが、正式な名前は佐野屋喜兵衛である。江戸っ子は名前を短く呼ぶのが流行であり、それ故に佐野の喜兵衛で佐野喜なのであった。
「これは佐野喜の版元、お元気そうで」
「いやいや、元気だけが取り柄だが、懐の方は寂しくて、くしゃみばかりが出て行くさ、枝っぷりのいい木でもあったら教えておくれよ。首をくくるのに丁度よい様な木を探して居るところさ」
佐野喜は笑いながら首を振った。
「こちらも懐は同じ様で、銭はその懐から通り抜けるばかりで、少しも温めては呉れそうにもありませんや。で、今日はどの様な御用で?」
「おぅ実はそれよ。あんたに仕事をお願いしたいと思ってね。まずは江戸隅田川の八景を描いて欲しいんだが、当然八枚揃えと言う事になる。来年の暮れか遅くともその翌年の春頃までと仕上がりを考えているんだが、それともう一つ、こちらは先方からの御名指しでね。まぁその先方のお名前は言えないのだが、西国の御大名とでも言っておこうか、それがよ、富士のお山を背景にして、大名行列を描いて欲しいと頼まれてね。それが何でも子供の大名行列を描いて欲しいと言いなさる。
聞けば節句のお祝いにと、家臣や親戚筋に配るのだと言うのさ。でこれは大判の三枚続きでのお願いだ。出来上がりは明年の端午の節句に配るから、その前までに合わせて欲しいと言いなさる。どうだい、受けてくれるかな?」
佐野喜の注文は、何時も言葉は控えめながら強引であった。絵師を上手に動かす事で知られた版元でもあった。
「江戸も隅田川の八景ならお断りは出来ませんね。喜んで描かせて頂きましょう。それにしても子供の大名行列とは驚きました。しかし広重と御名指しなら、これも喜んでお受けするのが筋ってもんでしょう」
「大名行列の方は既にお題は決めてあるそうで、幼童行列道中之図と言うそうだ。何時もの仕切りで頼みたいが」
「分かりました。任せて下さい」
広重はこうした名指しの注文だけでなく、足を運んでくれた注文には決して断る事は無かった。それは何にも増して北斎の影響だと思っていた。描く事は自らの技量を高める事だと言い、どれほ程の画を引き受けて描いた事か。どんな種類の画を描いたか、師の豊広や馬琴から十分に聞いて来た事であった。男と女の絡みを描く春画は、画としては最も金になる仕事ではあるが、北斎はそれさえ注文があれば描いたと言う。だがそれは貧しい暮らしを抜け出す為では無かった。どんな画でも描く事の全てが、自らの画を高みに上がらせる為の修行だと信じていたのである。それ故北斎は、それに馴染んで行く事はなかったのである。絶えず新しい表現を探し求め、苦悩してのた打ち回る。だから今があるのだと広重には思えたのであった。
十一月の半ばに、版元の若林堂から頼まれていた鳥獣の短冊を描き始めた。数枚で良いと言われていたが波に鶴、山吹に蛙、牡丹に孔雀など、久しく静かな気持ちになってこの日々を過ごせたのであった。
《天保四年(1833年)》
天保四年の二月、江戸の日本橋を頭に「東海道五十三次之内」の最初の大判錦絵十枚が摺り上がり、孫八が広重の住まいを訪ねて来た。その顔は何時もの顔とは違い、大仕事に手を染めた満足感が漂っていた。孫八は摺り上がったばかりの江戸日本橋の錦絵を、まるで壊れ物に触れるかの様に丁寧に広重の前に広げたのであった。
「広重師匠、どうです。良く出来たと思いますが。如何でしょうかね?」
どうだとでも言いたいほどの自信が、言葉の少ない孫八の表情に現れて居た。だが広重は黙ったままで、じっと広げた小田原までの錦絵を見比べて居た。色は申し分が無かった。それが当然だとしても、彫も良かった。始めの日本橋の空に使ったベロ藍も、想像通り鮮やで深い空を表して、ぼかし程度も申し分が無いと思える。神奈川の図も遠近法と呼ばれた描き方で描いたが、色が入ると納得できるほどのものであった。広重は黙ったままで頷いた。
「戸塚の茶屋の前で馬から降りる客の姿ですがね、これはこれで面白いとは思うのですが、客を乗せる所だと又面白さも違うのではないかと思いましてね。どうでしょう?」
孫八は何時も客の目線ではっきりと広重に言う。偶然に通りがかった広重が、とっさにその光景を描いたものだが、言われてみれば降りるより乗る方が縁起もいい。
「出来は申し分ないようだ。それに戸塚の画は考えて置きますよ。しかしこれで何とか見通しも立てられた。皆さんの御蔭、孫八さんと仙鶴さんにもお礼を言わなければなりませんね」
広重は孫八に礼を言いながらも、大々的に刊行の案内を出せる目途にやっと安心した気持ちになったのである。
「で、刊行する予定はいつごろでしょう?」
「へえ、段取りとすれば五十三次の案内の予告は、三月の頭頃と考えておりますが」
孫八は既に刊行の段取りも考えて居た。
「三月の頭に案内した後、四月の始めにまず十枚と考えておりやす。日本橋から小田原までなら桜も葉桜、旅にも出たくなる季節と踏んでおりますが。その後は六月頃に十五枚。八月頃にも同じく十五枚、十月から十一月頃に残りをと考えておりますが、とにかく間を開かない様に出し具合とでも言いましょうか、で、初摺りのものは三十五枚程除いて置きました。先々五十五枚揃いを三十ほど用意するつもりでおりやすが」
「いいでしょう。任せましょう」
広重はきっぱりと孫八に言ったのであった。
卯の月と呼ばれる四月に入った吉日、待ちわびた「東海道五十三次之内」刊行の日が来た。江戸日本橋の図を小判型に縮め、保永堂と仙鶴堂の合同版元として広告を出してからひと月後の事で、日本橋の図を広告に使った効果は絶大であった。北斎の富嶽三十六景の版元である永寿堂の、西村屋与八に「やられた」と言わしめた程の売れ行きであった。売り出しの翌日、仙鶴堂の三代目喜右衛門が早速、大鋸町の広重の住まいを訪ねて来たのである。
「この度はありがとうございました。御蔭様で前評判通りの大変な売れ行きとなりました。恐らく数日後には後摺りの注文は間違いないかと思われます。付きましては残りの下絵を・・・」
祝いの言葉か催促なのか分からない喜右衛門は、笑いながらも冗談交じりに版元としての歓びを表していた。この日の夕方には喜鶴堂の佐野喜も広重の家に来て、祝いの言葉と共に新たな東都名所の刊行を頼まれ、広重は喜んで受ける事にした。
この四月までは東海道五十三次の下絵十九枚は色さしも終え、既に色ごとに版が彫られるまでに進んでいた。江尻から府中、鞠子、岡部、藤枝など駿河から遠州、そして三河の赤坂宿までである。特に駿河は東海道の中でも幅の広い川が多く点在して、増水すれば川止めのかかる宿場が多かった。それ故に島田も金谷も同じ人足渡しとなってしまい、見附の天竜川も同じであった。何とか構図を変えては見たものの、描くのは大名行列や自ら加わった八朔御馬献上の行列で、工夫の足りなかった画になってしまったと思えた。しかしどこをどの様に捉えても、特徴の無い宿場であった。それでも二川や吉田、そして御油の画は、面目を取り戻したと思える出来栄えの様に広重にはおもえたのである。
特に御油の客引き女の活き活きとした姿を正面に置き、右手の旅籠の壁に竹之内版と読めるそれは、孫八のたっての希望であり粋な仕掛けであった。部屋の桟の下に並べた掛札には、広重が孫八に伝えた通り、彫師の治郎兵エと摺師の平兵衛の名が刻まれてあった。そしてその横には丁寧に、真景東海道五十三驛續書や一立斉圓
とあった。彼ら職人とて名も無い者だは無い事を、広重はせめてこうして示したかったのである。
赤坂宿の旅籠の情景を描いたの画は、旅の疲れた体を癒す夕刻の風情として、これも広重にとって納得の行くものであった。旅に出掛ける事すら夢を持つ事が出来ない者達が、旅路の中のひと時の風情を垣間見る事で、人はその想いを旅の空へと解き放つ事が出来るはずであった。
東海道五十三次之内の評判が少しずつ世間に広がり、売出しからひと月を過ぎた五月の初めには、二版目の追加の注文が舞い込み始めて来た。初版の摺りは取り敢えず二百枚と孫八から聞いてはいたが、江戸日本橋などは既にひと月を待たず、追加の二百枚を摺り始めていると言う。年内には全ての版を摺り終え、年明けの正月には五十五枚揃いの真景東海道五十三驛續書を刊行したいと広重は思っていた。空梅雨なのか雨の少ない皐月の季節が過ぎ、時折雲の合間から夏の陽射しが覗いていた。
六月に入る頃には既に三十七図までの版や下絵が仕上がって、摺り終えて売り始めたものから、摺りの工程に入っているもの、未だ彫の段階のものなどいたが複雑に絡んで、孫八もこのところ忙しいのか顔を出す事が少なくなっていた。保永堂の手代に尋ねると、仙鶴堂の彫師を廻して貰っていると言うが、少し段取りは遅れ初めていると言う。売れるに従い摺りの注文が増え始め、新たな版を起こす為に彫師も又忙しくなって来ていると言うのだ。嬉しい事の様であり困った事でもあり、広重も複雑な心境であった。残す処の十八枚を夏までに、広重も下絵を仕上げなければならなかった。良い評判は必ず次を求めるはずで、求められる事が止まる事は、忘れ去られる事に通じると思えるのであった。
既に仙鶴堂からは是非とも歴史物を描いて頂けないかと頼まれ、描いたのは揃いものの「義経一代記之内」十六枚、そして喜鶴堂から江戸を描いた八景物、隅田川八景の八枚の下絵にも手を入れ始めていたのである。広重はこの頼まれた画を先に仕上げる為、五十三次之内を一区切りする事にした。忙しいと言えば忙しいのだが、五十三次之内を仕上げた後の忙しさを推し量る程に、仕事が詰まっていると言う事でも無かった。寧ろそれを見込んで、東海道の下絵を描いていたと言ってもいい。
だが又版元の佐野喜から、東都名所の追加を頼みたいと言う話が飛び込んできた。有難い話だが、今直ぐには手が付けられないと考えて居た時、不意に馬琴から聞いた北斎の話を思い出したのである。ここまでと決めたら徹底して筆を動かしたと言う。目が霞んで仕事にならなくなるまで下絵を描き、そして布団に潜り込む日々だったというが、広重も負けてはいられないと考え直した。北斎の事を思い出し、仕事を受ける事にしたのである。
最後の下絵となる東海道五十三次之内の十八枚が仕上がったのは、暑さも遠のいた八月も半ば過ぎの事であった。この二月に孫八から言われた平塚の画で、馬から旅人が飛び降りる図を馬に乗る画として描きなおしたから、正確には十九枚となった。
それにしてもこの処の伊勢講の広がりや西国三十三カ所参りの広まりを通じて、広重の東海道五十三次之内の話は人の口から口へと広がって言ったのである。四月に刊行した日本橋や品川、川崎などその多くは既に三回目の摺りに入っていると聞いて居た。そして六月に刊行した金谷宿までの十五枚も中々の売れ行きで、箱根や蒲原、由比や丸子などは抜きんでて注文が多く、擦師からも摺りが間に合わないと言う話が伝えられたのである。
保永堂の孫八が珍しく芳町川岸の版元、栄久堂の主人である山本平吉を連れ、広重の住まいに顔を見せたのは、こうした忙しさの最中であった。東海道五十三次之内が評判となって、祝いの為に来てくれたのではあったが、年明けの次の目論みの話を持ち込んだのであった。
「師匠、来年の話と言っては恐縮ですが、近江八景あたりの画を描いて頂ければ、この後も助かりますが如何でしょうかね」
孫八は未だ東海道美十三次之内が全て刊行もしていない内に、次の話を求めていた。
「八景となれば八枚程か、そりゃあ構わないが売れそうかね?」
広重は笑いながら孫八に聞き返した。
「へぃ、正直に言わせて貰えば、今度の東海道では随分と師匠の評判は上がりました。画は随分と人気も出て来ました。本音を言えばあっしの思った以上の反響でした。それに便乗と言う訳ではありませんが、いわば東海道の脇景色と言いましょうか、実は京でも売りたいと思いまして。で柳亭種彦師匠と懇意のある、こちら栄久堂さんと一緒に刊行させて貰えればと思いまして」
名前を呼ばれた栄久堂の山本平吉も、広重に頭を下げた。
「出来上がりは何時頃と見ているんだろう?」
「来年の秋ごろまでにはと思っていますが、如何でしょう?」
「分かった、それじゃぁ早めにと言いたい処だが、実はそう来るだろうと思ってよ、画帳には既に近江八景も描いてあるて事よ。やっとその話が出て来たのかい、保永堂の孫八さんともあろうお人がさ、話が少し遅いんじゃないのかい?」
やれやれといった広重の顔に、孫八はやっと遊ばれていた事に気付いたのである。
「なんだ、師匠も人が悪いですよ。他の版元にこっちの商売取られるとこだったと思うと、まったく冷や汗もんでさぁ。勘弁して下さいよ」
孫八が首に手をあてて栄久堂と顔を見合わせ、笑い始めたのである。結局この時、広重の画帳を見ながら粟津、勢多(瀬田)、矢橋、唐津の四枚を栄久堂が、保永堂は堅田、三井寺、石山、比良の四枚を選び、版元として刊行し互いに融通して売る事を決めたのであった。
歳の瀬も近い十二月十日の夜明け、明六つの頃であった。広重の許に思いがけない知らせを持って、保永堂の孫八が訪ねて来たのである。
「朝早くからすみのせん。実は仙鶴の親父が倒れまして、それがどうも卒中らしいのですが、もう駄目かもしれねえと医者が言っておりまして・・・」
「えぇ、本当かい? あんなに元気だったのにな、未だ若いだろうによ・・・」
「確か未だ四十六になったばかりかと思います、ですがね師匠、どうもこっちらしいんですよ」
孫八は自分の口元に右手を挙げて、杯を持つしぐさで手を動かした。酒が原因であったらしい。
「酒か、・・・強い方だと聞いては居たか、相当いける口だというじゃないか」
「へぃ、どうもそのようで、何でも夕べも早くからやっていたそうでして・・」
「しかし困ったな、で東海道の画はどうなっているのか、孫さんは掴んでいるかい?」
「へぃ、大方は内の方で仕切っておりやすから、殆ど問題はありません。それに仙鶴の親父の方に頼んでいた版は、あっしの方に戻す様に話は付けて置きます。それに年明けに出す揃い物の準備も出来ておりますから、ご迷惑をおかけする事はまずなかろうかと思っておりやす」
「しかし、年の暮れになってから仙鶴堂さんも大変な事になったもんだ。とにかく今日の昼前にも仙鶴堂の店の方には顔を出しますよ。知らせてくれて申し訳なかった、助かりましたよ」
「それじゃぁ、あっしはこれで」
他にも知らせる所があるのか、孫八は慌てて帰って行った。鶴屋喜右衛門の余りにも突然の死は、保永堂を中心に動いて居た事で少しの混乱で済みそうである。だが表向きはどうあれ、最後に残された庄野から京の三条大橋までの十枚も、殆どのが摺り上がっている事で難を逃れたと言ってよかった。
その日の昼前に広重は、日本橋通油町の仙鶴堂を訪ねた。店は戸を閉めたままではあったが、手代が入口に立って同業者や版元、そして取引先の紙問屋など心配して駆けつけた人々で店の内も外も混んでいた。事の成り行きを伺うように入口には数人の男達が佇んで、ひそひそと話している姿が目に付いた。
保永堂の孫八が、目ざとく広重の姿を見つけると直ぐに近寄って来た。
「わざわざお越し戴きまして、ですがやはり駄目でした。つい今しがた番頭と話したのですが、取り敢えず年の瀬なもんで、何でも寺の方に骸を移して預けてしまい、内内で寺で葬儀はしてしまうそうです。葬式は形だけですが正月の十八日頃になると言ってました。京の店から二代目もこられると言う事らしいので、どうしても時間がかかるそうでして、まぁ追って知らせると言う事らしいのですがね」
「あんたも大変だね。しかしそうは言っても葬儀は盛大なものになるだろうに」
「へい、長くお付き合いを頂いた馬琴師匠にも、葬式には来て貰いたい様な話も出ている様で、それに京の方にも早飛脚をやっておりますもので」
「まぁ私がお付き合いさせて頂いたのも何かの縁だ、取り敢えず焼香だけでもさせて貰って帰ります。年明けの事だけはしっかりとお願いしますよ」
「へぃ、承知しておりゃすんで」
既に店の奥からは、線香の匂いも漂ってきた。短い縁ではあったが、広重は手を合わせて悔やみを述べたのであった。
《天保五年(1834年)》
年が明けた正月、霊岸島塩町の保永堂の店先と日本橋通油町の仙鶴堂の店先には、広重の「東海道五十三次之内」の最後の十枚と共に、初版初摺りの「真景東海道五十三驛續画」とした袋入りの揃い物が並んでいた。
長い間の願だった東海道を描きたいとした思いを、やっと果す事が出来た満足感は、広重の心に言い知れぬ感慨が湧いて来る。その反面、どんな反応が出て来るのか、それも気になる処であった。しかし日本橋の図は既に五回目の版を重ねていた。恐らくは更に評判は広がると思えるのである。この初摺り五十五枚揃いの袋物の刊行については、何か言葉を入れて欲しいと頼まれ「四方滝水」と題した序文に、この様な一文を広重は書き上げた。
「広重ぬし其宿々はさらなり、名高い聞こえたる家々あるいは海山野川草木、旅ゆく人の様なれど、残る隅なく写し取れたるが、目のあたりそこに行きたる心地せられて、あかぬ所なれば、後の世に伝えまく・・・」
振り返ればこの画を摺り終えるまでに、幾度かの混乱が起きた事も確かであった。結局は保永堂の孫八が言っていた予定とは違い、初回の四月と二回目の六月の売出しは予定通りであっても、八月の十五枚は十枚となり十月の十五枚も十枚となってしまった。しかし何とかこの正月で全ての版が刊行された事で、良しとすべきであったと思えた。広重は保永堂の手代に東海道の揃い物を持たせ、上司であった竹中主水宅と高家の武田信憲宅に出向いた。無論広重が描いた真景東海道五十三驛續画を、感謝の意を込めて贈る為であった。
正月も松の内の明けた十八日であった。この日に仙鶴堂の店では、鶴屋喜右衛門の葬儀が行われた。しかし遺骸は既に寺に送られ内輪だけの葬儀が既に済ませてあり、今はただ店の奥に位牌が飾られているだけの葬儀であった。関係した絵師や作家、更に同業者達から取引先までの多くの人々が集まり、経の響く祭壇に手を合わせて広重は店を出た。店を出る時に読本で売出し中の、柳亭種彦が焼香に来たのだろうすれ違った。
外に出ると少し先を馬琴の歩いて行く姿が見えていた、だが広重は何故かその馬琴を追いかけて話す気持ちにはなれなかった。
その時に追いかけて来たのは孫八であった。
「師匠、わざわざご足労をありがとうございます。何とか問題も起こさず、預けていた版も全部引き取りやした。それにしても鶴屋の親父は、何ともあっけねえ幕引きで」
「何か勿体なかったね、未だそれほどの齢でも無かったんだろうにさ。処で馬琴師匠も随分と鶴屋さんには世話になったみたいだね」
「へぃ、例の傾城水滸伝が未だ売れてますもんでね、それにあの十辺舎一九師匠の東海道中膝栗毛も、京や大坂あたりの売り出しに、鶴屋さんが利権を買ったとかで初版本から六版ぐらいまでは、京の仙鶴本店が一手販売しているらしいって事ですがね」
「柳亭種彦師匠も見かけたがね」
「今売出し中の読本が当たりましてね、偽紫田舎源氏って読本ですが、これが評判を呼びましてね・・」
「その様ですね、処で今年は私も江戸の近くを歩こうと思いましてね、遠くは忙しくって行けそうにもありませんが、弟が鎌倉の方に来ると言うもんでね」
昨日、珍しく広重宛に弟の了信から手紙が届いたのである。広重から住まいが変わった事の案内と、その後の事を書いて送ったのは昨年の秋の終わり頃であった。直ぐに弟から届いた返事の手紙に、広重の画が京の叡山でも話を聞いた事や、今年の終わり頃には鎌倉あたりの寺に、住職となって移るだろうと言う内容であった。
「じゃぁ、江ノ嶋あたりでも・・」
「何時になるか未だ決めた訳じゃないが、まぁとにかく目の前の事を片づけるのが先だな、まぁ立ち話も何だがお互い忙しい身の上だ。孫さんも体には気を付けてもらわないと」
「師匠の方も酒には注意して下さいよ」
酒好きの広重には、どこか強く胸に突き刺さる言葉であった。
広重が孫八と別れて幾日も経たない日である。その孫八と永久堂の合板で、近江八景の図が年内にも刊行する事を聞きつけた川口屋正蔵こと栄川堂から、京都名所図会と浪花名所図会を其々、十枚程の揃い物で刊行したいとする話が持ち込まれた。更に大判竪半分の四季を表した短冊もので、四季江都名所も併せて注文を受けたのは、京の名所を三日程歩いて風情を写して来たからである。祇園、嵐山、金閣寺、清水、嶋原、四条川原、更に浪花に向かう為に伏見まで行った事があった。しかし三十石舟で淀川を下るつもりが激しい雨に出会い、やむなくそのまま大津で近江八景を描いたのである。あの時に伏見の船宿で描いた一枚の三十石舟の図は、北斎の「常州牛掘」の画を意識したもので、名所図会に描かれた三十石舟を参考に、背景を削り取って月夜にしたが、実際は強い雨の中で浪花に向かうのを躊躇していたし時の事だ。明かりも殆ど無い暗闇の中での事、喰い物を売るくらわんか舟さえ出てはいなかったのである。だがこの三十石舟も京の名所図会に入れる事にした。
もう一つ栄川堂からの依頼のあった浪花名所図会は、摂津名所図会の中でも知られた名所を選び出し、俯瞰の角度を変えすやり霞を入れて描いてみた。すやり霞とは目障りな背景を霞に見立てて描かない技法である。雲に見立てるのは金雲と呼び、それぞれ室町時代頃から使われてきた技法であった。
一気に仕事の注文が舞い込み始めると共に、東海道五十三次之内も新たな版を作らなければならない程、保永堂の抱えた摺り師は多忙であった。孫八からも日本橋の新たな版と共に、いくつかの手直しをする話が出て居た。品川の副題である日の出も諸侯出立に代えたのは、余りにも芸のない題であったからである。更にその品川宿も坂道を穏やかにして、賑やかにするために行列の人物を殖やす事にした。小田原の酒匂川は遠景の箱根の山を削り、これも穏やかな峰に切り替える事で実の風景に近づけたのである。初版の中で丸子宿は実は鞠子宿であったから、「丸」の文字を「鞠」に変えなければならなかった。やはり強調する余りに見誤り、思い込みなどの単純な見落としの失敗であった。
保永堂の孫八が訪ねて来たのは、鶴屋喜右衛門の葬儀からひと月ほど過ぎた日の昼過ぎであった。その手には一冊の本を持っていた。
「師匠、北斎の富嶽百景を描いた画帳が出ていますぜ。今度は絵本仕立て三部作となったらしいのですが、取り敢えず初版本と言う事でお持ちしましたが」
久しく孫八とは北斎の話を話題にする事も無く過ぎて居たが、「おう」と言って広重は孫八からその画帳を受け取りゆっくりと広げた。画帳を開けると目に飛び込んで来たのは、構図といい相変わらず大胆に対象を捉えた図であった。あの北斎の自信に満ちた姿が、その画の向こうから見つめているのを広重は感じた。だが広重の描いた東海道子十三次之内の図、原宿で描いた画の枠を突き破って高さを強調した技法を、北斎もその画のなかに取り入れていた。とは言っても北斎の画は何と言っても斬新な表現であった。描く技法は寧ろ南栄の名残を表しながら、富士講の丸い笠が連なる構図と、砂走りを踊る様に駆け下りて行く様を頭上から見下ろした図は、全く見事としか言いようのないものであった。宝永山の噴火を思わせる人々の空を泳ぐ姿と壊れ行く様は、画の持つ新たな世界に見る者を誘っている様な錯覚すら覚えるものであった。
「随分と先に行かれたものだ」
北斎の富嶽百景を見つめながら、広重はぽつりと言葉を漏らした。
「師匠の言う、先に行かれたとは・・?」
「多くの人が見る画だとは思えなくなった、いや、見ても難しくて判らない画になったと言う事さ。まるで自分一人が納得する為の画を描いている。北斎はもう手の届かない場所に行ってしまったと言う事よ」
広重は北斎の画帳を閉じると、寂しそうに言ったのである。広重から見れば北斎の画は既に佳境を迎えていると思えた。それは広重にとって一抹の寂しさを漂わせるものでもあった。
この年の二月七日の昼であった。恐れていた大火がこの江戸で起きたのである。火元は五年前と同じ神田佐久間町であると言う。五年前と違うのは風が北西の風で火は外神田から南の方向に燃え広がった。未だ冬の乾燥した北風が吹く日で、その北西の風に煽られた火は神田川を越え、向かいの柳原の土手を越えて飛び火した。
やがて火は三方に散り、お玉が池の市橋下総守様の屋敷や隣の千葉道場など、内神田や日本橋北から浜町あたりまで広がっていった。傳馬町付近も飛び火し、牢屋敷
は罪人の解き放ちが行われたと言う噂話が伝わって来たのだ。後にこの火事の事を記した摺り物には、この様な事が書かれて江戸中に配布されたのである。
「頃は天保五年二月七日暁より大風が吹き荒れ、砂埃の立つほどであった。昼頃に外神田佐久間町弐丁目より出火し、松永町平川町代地、佐久間町壱丁目より柳原土手下に飛越し、火の勢いは強くなり三方に分かれた。松下町から先は元誓願寺前から小伝馬町、龍閑町三島町浜松町佐久間町代地、松枝町小泉町弁天橋お玉が池、紺屋町新土手向白銀町三丁目四丁目、大伝馬塩町、鉄砲町小伝馬町三町、御牢屋敷・・更に横山町三丁目角より吉川町北側、両国御橋、広小路見せ小屋焼き残る、南側米沢町並びに薬研掘横山町一丁目二丁目、橘町同明町この辺りは僅かに残る」とあり、日本橋堺町中村座並びに人形座や市村座も焼け出されたのであった。
火が完全に消火されたのは二月の十三日で、鎮火に七日間も要したのである。この火事で焼け死んだ者は四千人程とも言われ、後にこの火事を甲午(きのえねうま)
の火事と言った。日本橋に通じる中仙道の通りに建つ多くの店や町家が被災した。あの日本橋通油町にある蔦屋や仙鶴堂なども被災したが、大事には至らなかったと後に聞いて広重は安心したのであった。
広重が江之嶋に向かったのは、桜の花が咲き始めた季節である。弟の了信と実に二十五年ぶりに会う為であった。そして東海道五十三次之内の画も評判は上々で、正月に出した真景東海道五十三驛續画も、ひと月程で売り切れてしまったのである。大判錦絵の方は一枚一枚が同じ代金の為に、足の速いものや遅いもの出て来るのは仕方のない事であった。中でも日本橋はに七枚目の版になったと聞いているが、未だ三版で留まっているのもあると言う。
朝も薄暗い時刻に家を出た広重が、汐留川にかかる新橋を渡る頃には、僅かに東の空が白み始めていた。多摩川の六郷の渡しを越えて川崎宿を過ぎると、右に総持寺が見える。その寺の裏手の道を進み、鶴見川沿いを二里ほど進むと小机に出る。東海道を離れると目印は何も無くなり、ただ鶴見川の近く小机の泉谷寺と言うだけの、心もとない行く先であった。弟の了信とは子供の頃に離れ離れでとなっていただけに、既に顔すら覚えている事は無いが、齢の差は僅か四歳である。良い大人になっているはずであった。それに親の血を分けた肉親と言うだけで、人は随分と懐かしさを感じるものであった。
小机の泉谷寺に広重が着いたのは、既に夕刻の頃であった。手紙で既に伝えてあった事もあり、了信は寺の山門の処で待っていた。
「兄様でござるか?」
了信の大きな声が広重の耳に聞こえた。
「了信か?」
「はい、弟の了信でございます」
「おぅ、元気で何より、会いたかったぞ」
思わず駆け寄って握り締めた互いの手の温もりが、離れ離れになった年月の凍った記憶を溶かしていた。広重の目からも、弟の了信の目からも涙が溢れた。離れ離れになったのは広重が十三歳、了信は九歳の時である。それから二十五年の歳月が其々の身の上に流れていったが、広重にしてみれば未だ父や母の顔も記憶の底にはある。しかし弟の記憶の中に両親の記憶は消えて居るだろうととも思えた。兄として何もしてあげられなかったが、これからはその埋め合わせをしても、決して遅くはないと思えたのである。
「兄様、まぁとにかく寺の中に、話はあとでゆっくりと・・」
「おぅ、そうであった・・積もる話どころか、我らには積り過ぎた話が待ち構えておるのであった」
二人は手を取り合う様に山門の中に入っていった。離れて居た長い歳月を埋めるには、余りにも短い時間ではあったが、寺に広重が滞在した三日間、語る話に尽きる事は無かった様であった。別れる日である。又来年も訪ねる約束をした時、了信は兄が高名な絵師である事に、画を描いて欲しいと頼んだのである。広重は快くそれを受け止めたのである。小机の泉谷寺を出た広重は、そのまま江之嶋に向かい江戸に戻ったのは二日後の事であった。
以前から江戸名所図会は幾度も描いては居たが、和泉屋市兵衛に頼まれたのは五枚、季節を入れて欲しいと言う注文であった。既に場所の下絵は出来ていた。永代橋から佃沖、両国は花火、隅田川は桜か雨か、いずれにしても筆を進めなければならなかった。この頃から広重は雑多な用事が増えて、多忙の毎日を迎えていた。それは東海道五十三次之内の版木の補修や作り直しであった。
孫八からは池鯉鮒の鯨を消して欲しいと言う話が出ていた。池鯉鮒にこんな黒い山は無い筈だと言う指摘は、確かにその通りであった。池も無いのに鯉も鮒も居る池鯉鮒の文字に、鯨が居たっていいだろうと洒落で描いた黒山の訳を話したが、洒落の解らない奴が多いもんで直して欲しいと言うのである。それに京の三条大橋の橋げたが実は太閤さんの時代から石作りだと聞かされて、広重は橋の上から描いては居たが、帰りに伏見から大津に戻った為に、橋げたの材質まで見て描いた訳では無かったのである。更に荒井宿の竿を持つ船頭の手がおかしいとか、三島の駕籠かきの足の指が六本あったとか、重箱の隅を突っつく田舎者が多いもんで困っているのだと言う。彫師のつまらない間違いを探し、まるで鬼の首でも取ったかのように、この時とばかりに騒ぎ立てる奴らが居るんですと言う。
広重は好きな様にしてやると孫八に伝えたが、こんな事を言う奴を亭主に貰った女房は、さぞかし苦労をしている事だろうと思えた。それなら錦絵を買うなと言いたかったが、こうした奴らこそ錦絵を買う事も無く、尻馬に乗って騒ぐ手合いなのだと諦める事にした。
広重が生まれた頃から、錦絵は一枚が大凡二十文から三十文の値段だった。今も御上の指図で値段は殆ど変ってはいなかった。色も十色程使う役者絵などは、五十文から六十文の値が付けられた。尤も版下画は一枚幾らで絵師からの買い取りの為、どれ程の枚数が売れても絵師の懐を温める事は無かった。それでも自らの描いた錦絵が多く売れれば、評判も上がって画料が上がってくる。
保永堂の再版作りも新たに描きなおした下絵を、新版の下絵として数えてくれるのは、東海道五十三次之内の錦絵が、多く売れている事を物語っているのである。だが元々絵師と版元では立場が全く異なるのである。互いに割り切る関係である事が、結果として長続きする関係だと広重には思えるのであった。
天保五年の梅雨は異常であった。この夏は然程暑くもならないのではと心配する者もいたが、その為なのか広重の仕事は随分と捗り、かえって助かっていると思えた。しかし夏は暑く冬は寒いと言う当たり前の事が崩れると、何処が狂い始めて作物は当然に不作となるのである。奥州の方では天候不順で暑くならない為に、作物が育たないと言う噂が聞こえて来た。だが相変わらず東海道五十三次之内の売れ行きは好調で、保永堂は柳の下の二匹目のどじょうを狙っているのか、広重の前に姿を見せる事が無くなっていた。実際に版下画を版元に渡し、色さしをしてしまえば、絵師の役割は殆どが終いであった。
八月十六日に両国は柳橋の河内屋で、書画会を開きたいとの案内が届いたのは七月の終わりの頃であった。趣旨は戯作者の花笠文京が、この年の春の大火で家だけでなく、蔵書や資料など千点以上が焼失し、且つ病になった事を見かねて励まそうと、仲間内で企画されたものであった。広重は花笠文京とは面識もなく参加を辞したのだが、断ったもう一つの理由は、参加者の名に北斎の名が書かれていたからでもあった。未だ北斎とは顔を合わせる時期では無い、未だ若造の自分には早すぎると思えたからであった。
それにしても引き札(チラシ)に書かれていた北斎の案内文は、何故か可笑しさと懐かしさを感じてしまったのである。どの様に逆さ画を描いたのか、それを見るだけでも行って見てる価値はあると思えたのであった。
「予、をさなきより画を好み、七十余年の今に至るまで、未だ其の奥を極る事能はず、年々書画会に出る事凡そ百千度、自ら其の戯にあき、今其の会格をのがれて、吾が徒両三輩、千枚がきといふ事を催しての、席上に曲筆、逆画の賎技を披露し、不学百芸を秀句として、花笠氏が臂力を励まさんとするも、老いの腕たていかがあらん」
北斎は自らの自信作である富嶽を不学に、百景を百芸に語呂合わせしていた。それにしても香蝶楼国貞や一勇斉国芳、渓斉英泉、歌川豊国、前北斎為一(北斎)の名だたる大家の出席であった。
夏が思ったほどに暑くなかった為なのか、残暑が続いた八月であった。版元の川口屋正蔵から頼まれた浪花名勝図会十図と、京都名所之内十図の下絵に筆を入れていた時である。その版元の川口屋が仕事の様子を見に来て、世間話をしてして行った。この処は美人画や役者絵が売れなくなったと、何処かで聞いた様な話を聞き流していたその時に、菊川派の絵師である渓斉英泉が保永堂の孫八が組み、木曽街道六十九次を描き始めた事を耳にしたのである。東海道五十三次の同じ手で、どうやら保永堂の孫八の方から英泉に打診したらしいと言う。せめて一言知らせてくれればいいのにと思えるのは、東海道五十三次之内の目論見を、保永堂にやらせたと言う自負が広重にあったからである。
この時期に広重は以前から頼まれていた注文の画を、急いで描かなければならない程に多忙であった。放っておけばいつまでも前には進まなかった。浪花名勝図会と京都名所之内は京に上った時に買い求めた資料絵図と、八朔御馬献上の為に京に上り鶴屋に案内してもらった時の、京の町を描いた画帳が残るだけであった。保永堂に頼まれた近江八景も、京に上った時の画帳から下絵に写すだけなので、しばらくぶりで上方の画を纏めて描く事にしたのである。
大判一枚を竪半分にして江戸の四季を描いた四季江都名所は、冬の隅田川の雪、春は御殿山の花とした。夏に両国の月をそして秋は海案寺の紅葉である。画の上には狂歌を入れ趣を出した。その下絵を描き終えたのは八月も既に半ば過ぎの事であった。思えばこの処、広重も川口屋正蔵の注文に追われていた。更に東海道五十三次之内の刊行以来、多くの版元から注文と共に新たな企画の声も貰っていた。扇子画で東都八景を頼まれたのは、版元の藤岡屋彦太郎である。日本橋通り三丁目にある版元美濃屋忠助店の店に間借りをしている藤岡屋は、文化五年にかつての師匠の豊広の挿絵で、あの山東京伝が書いた読本萬福長者栄華談の版元でもあった。
その文化五年は広重の父と母が亡くなった前の年でもあり、東海道五十三次の評判を聞いてわざわざ訪ね、注文をくれたのであった。新たな版元の付き合いが増えて、仕事も日々を追う毎に増えて来るのが嬉しいと広重は思った。
北斎が大判錦絵で、諸国名橋奇覧全十一図を刊行したと耳にしたのも、この年の秋の初め頃であった。文政年間の中期に描き貯めた百橋一覧の中から選んだと言うが、中国清時代の界画と称する図に影響されたものと思える。この界画とは条規などを使い、寸分たがわず実物を模写するもので、版元は西村屋の栄寿堂であった。
この組み合わせは前の年に、諸国滝廻りと題する錦絵が刊行されている事を思い出していた。全八図の異なる滝の画は、俯瞰を用いて見下ろす描写と、高遠と言う見上げる描写の手法で描かれたものであったが、これも中国北栄の山水画が手本となっている。恐らく富嶽三十六景が好評だったので、保永堂の木曽路と同じように
永寿堂も又、柳の下の泥鰌を探して居るのだろうと広重には思えるのであった。
保永堂の孫八がその姿を見せない事を良い事に、遅くなっていた近江八景にもやっと手を入れ始めた、浪花名所図会や京都名所図会を描き終えてからであった。近江八景は中国北栄時代、湖南省にある洞庭湖付近の水に関連した八景を元にして、近江の琵琶湖付近の風情を八つほど指したものであり、それを広重は京に出向いた帰りに写し取ったものである。琵琶湖南側に風情は偏ってはいるが、勢多(瀬田)夕照、石山秋月、粟津晴嵐、矢橋帰帆、比良暮雪、堅田落雁、唐崎夜雨、そして三井晩鐘と名を入れて、八景の揃い物として描いたのである。八景図はいずれの場合にでも、夕照、秋月、晴嵐、帰帆、暮雪、落雁、夜雨、晩鐘と、地名の後にそれぞれを付ける事が決まりなのである。京でも売り出したいと言う横大判の錦絵であった。
この頃、新たな東海道五十三驛四宿又は五宿名所とする横大判の錦絵が、仙鶴堂と蔦屋吉蔵の共同版元で開版した。画は四つの宿場を一枚とし、名所などを示す説明も書きいれられた物で、筆は国芳であった。広重の好調な東海道五十三次之内をあやかりたいとする、両者の目論見が丸見えの刊行であった。
猫の手も借りたい程の仕事の忙しさが途絶えたこの年の秋、広重は初めて妻のお芳を連れ立って、上州伊香保へ湯治の旅に出た。体が余り丈夫でもない妻に、あちらこちらと連れ歩くのは難しいと思える。それ故に半月程の時間を掛けて、ゆっくりと妻に湯治をさせる為であった。それは東海道五十三次之内を描き終えて、やっと広重自身の気持ちにも、余裕が生まれた事がきっかけでもあった。新たな風情を探すためでもあったが、取り敢えず体を休め妻にも感謝の気持ちを伝えたいと思ったのである。
ところがこの旅から戻った途端に、広重の元に佐野喜が訪ねて来たのである。新たな目論見は美人画で知られた国貞の画を、東海道五十三次を背景にして刊行したいと言うのであった。国芳の筆で蔦屋吉蔵と共同で刊行した仙鶴堂の東海道が余り芳しくも無く、ならばこちらは広重と国貞を合せれば売れるはずだと考えたらしいのである。
「いやぁこちらの目論見も御見通しとはお恥ずかしい、仙鶴さんと蔦屋さんが組んで国芳を担ぎ上げたのを横目で見ながら、それならと国貞師匠の美人画と広重師匠の風景に的を絞った訳でして」
佐野喜は随分と低姿勢であった。
「この処、芝居小屋もめつきりと少なくなったとは言っても、国貞師匠は役者絵や美人画では当代随一と言われた絵師のはず、随分と勿体ないと思いますがね」
近頃は役者絵や美人画の売れ行きが、余りはかばかしくない事は広重も知っていた。そして、それもそのはずだと思えるのは、天保の飢饉が二年も前から始まり、米の値段は徐々に上がってきているからである。
「それそれ、そこで風景画の広重師匠と組み合わせれば、まずは間違いないのではと思いましてな、それに近頃は美人画だけを描けば売れると言う、そうしたご時勢では無くなりましたよ」
「しかし一体美人画と風情とを、どの様に描くのかをまずお聞かせ願いましょうか」
「まぁ考えておりますのは、背景に広重師匠の風景画として、美人画をその前に描くと言う五十三次と日本橋と京は三条大橋まで、合わせて五十五枚となりますが」
「で、国貞師匠はこのお話、どの様に考えているのでしょうかね?」
「はい、同じ歌川の画筋を持つ者、一つの画のなかで競うのも悪くは無いかと、ただ国貞師匠も美人画では当代随一、広重師匠の落款は出せませんが画の背景を見れば、誰もが広重師匠の東海道だと判るはず。国貞師匠の落款の前に応需と入れて貰うつもりでございます」
少しは気を使っている事を、佐野喜は暗に広重に匂わせて居た。
「随分と乗り気なんですね、国貞師匠も」
「そりゃあ師匠、今や浮世絵の大御所が二人、大判錦画の中で美人と風景が競うとなれば・・・ねぇ」
「風景は後ろに引っ込んでいるのが普通ですから、宜しいのではないでしょうかね。特に国貞師匠の美人画が出てくるとなると、当然風景は引っ込まなければならんでしょう。まぁこちらとしては落款を出せない以上、背景の下絵だけを描けば良いと言う事になるのでしょうが、刊行は何時頃を予定されているのでしょうか、段取りもありますから知りたいものですが」
「これも明後年の天保七年の春にはと思っています。ただ出来ましたら保永堂さんの東海道とは、全く異なる東海道の図でお願い出来ないかと・・・」
広重は最後の話に少しムッとした。随分と勝手な事を考えていると思えたからである。
「東海道五十三次の背景だけのご注文で、保永堂の東海道と全く異なる東海道の画とは、正直難しいかと思いますよ。保永堂さんがどの様に言われるかわかりませんが、取り敢えずは少し考えさせて頂きたいと、私もわざわざお訪ねて頂いての仕事の話ですので、無下にお断りする事は出来ない性分です。ですが保永堂と全く異なる東海道の風情となると、絵師としての私の落款を入れて頂きたいと思っています。でなければ国貞師匠に背景も描いて貰うのが筋かとも思いますがね。風景の前に美人画を入れるとなれば、保永堂の東海道を元画にしての修正となりましょう。人物を壊さない様に削ったり色を変えたりとするなら、私の方に依存はございませんが」
佐野喜の話は随分と身勝手なものだと思う。しかし国貞に強く言えない佐野喜の弱みを感じる広重は、自らの気持ちを抑えながら丁重に話を切り上げた。
「お話はごもっともで、国貞師匠の希望と申しますか、その辺りが痛し痒しと申しましょう。まぁ、まずはとにかく保永堂さんからのお返事を待つ事といたします、何事もまずはその上と言う事で。何分宜しくお願い致しますよ」
保永堂の事はなんとでもなると考えたのか、確信した様な態度で佐野喜は広重の住まいを出ていった。
残りひと月程で暮れも明け様かとした十二月の初めであった。広重は保永堂の孫八と会う事にした。頼まれて描いた近江八景の図が、其々の版元の店にボチボチ並び始めた頃だと思い、その評判も知りたいと思ったからであった。待ち合わせは何時もの鍛冶町近く、あの東海道五十三次の打ち合わせをした店であった。広重が店の二階に上ると、既に孫八が待ちかねた様に居住まいを正して座り直した。
「この前は近江八景を出させてもらい、孫さんにはお世話になった、ありがとうございましたね」
広重は栄久堂と保永堂の合同刊行の反応が、孫八の口から聞く事が出来ると踏んでいたのである。
「広重師匠にはご無沙汰致しており、申し訳ございません。近江八景も京に送り仙鶴堂に置いて貰う事になっておりますし、江戸では栄久堂と内の方も置き始めたばかりで、未だ何ともお話は出来ませんが、京の方の話はいずれ届きましたらお伺いしようかと・・」
「それよりどうだい、仕事は上手く行ってるのかい? 英泉の木曽街道を見たが、中々のもんだと感心していた所だよ。だが今度は六十九次だろう? 東海道より多い宿場の数だ、少々心配していた所さね」
孫八は広重の言葉を聞きながら、一層縮こまる様に身ずまいを正して頭を掻いた。
「へぃ、何とかやっていますと言いたいのですがね、時間がかかりすぎると言うか、正直荷が重いのも確かでして」
「とは言っても放り出す事も出来ないだろうに、まぁ本当に困ったなら又顔を出して貰いたいやね。渡しに手伝う事が出来るなら、いつでも手を貸すよ。世話になった竹之内だしな」
「ご心配を掛けてしまい、面目ねえと思っておりやす」
「ところで今日の本題だが、東海道の私の画を後ろにして、美人画を併せたいと言う版元が居てね。画は国貞が描くと言うが、版元は何処だか言わずも判るだろう?」
「へぃ、存じてますよ、佐野喜でしょう」
「蛇の道はへびだね、さすが商売仲間だ。しかし背景をそっくりそのま保永堂のものを使うとすれば、確かに仙鶴が一枚噛んでいたとは言え、問題が多すぎるとは思うのさ。さりとて東海道を描き直すわ、落款は要らねわ、となると広重の画ではあっても広重の画では無くなるって事だ。そこで保永堂版東海道の図の一部を変えて、それを使えれば全く新しい美人東海道が描けると言う話なんだが、無論新たに版は全て起こす事になる。何せ国貞の描く美人姿が目立たなければ、全くこの話に意味は無いからね。で、保永堂さんの了解を得てからでと、話を止めているって事よ」
「わざわざそんな事で挨拶を戴きまして、ありがとうございます。ですが新たに版を起こす以上は、それが何であれ文句の付けようはございません。ご自由にされてようございますが」
「ありがとう、それを聞いて安心した。国貞師匠、いやお名前は三代目の豊国さんに変わっていたんだな。私の方から佐野喜に伝えて置きますよ」
《天保六年(1835年)》
天保六年の年明けは、随分と穏やかに明けた様に広重には思えた。佐野喜からの依頼で受けた美人東海道の目論みは、新たな版を起こすとは言っても下絵を描くでもなく、直しの部類に入るものであった。構図や色などは殆ど変える事も無く、単に不要な人物や目立つものを取り除くもので、さほど頭を悩ませるものでなかった事が余裕を生む事となった。だが佐野喜の言った通り、広重の落款は入れないで欲しいと言う。それでも広重がそれを受け入れたのは、東海道をより広く多くの人に知って貰いたいと思った為であった。そしてもう一つの理由は保永堂の東海道五十三次之内も、全ての版が改版する事も無くなり一段落したからでもあった。
広重の東海道五十三次之内は予想を遥かに上回る版を重ねてはいた、だが世相は天保の飢饉と呼ばれる米の不作が増々酷くなる様相を見せて居た。一頃は仙台藩の新田開発が米の作付一本に絞って来た為に、長雨と冷害による天候異変で一気に影響が出た為だと言う話が広まった。幕府も米を江戸に廻す様に大坂にお触れを出したが、さしたる効果も見られる事は無かった。そして水野忠邦が老中に入り享保や寛政の改革に次いで、天保の改革を行う口ぶりだと言うがそれも未だはっきりとはして無かった。
仕事に目鼻がついた三月、広重は弟の居る神奈川の小机に向かったのである。昨年二十五年ぶりに会った時、了信からの希望で大きな画を壁の杉戸板に、描いて欲しいと頼まれたのであった。その約束を果たす為の訪問であった。兄として何もしてやれなかったと言う負い目もあるが、自分が出来る事で弟が望むならお安い御用だと思った。
紙や布ではなく杉の戸板に描こうと思い立ったのは、その話が出た昨年の事である。今、その下絵を持って、弟の居る小机の泉谷寺に向かったのであった。寺では了信が待ち構え、久しぶりの歓談の後に杉戸絵の制作に入ったのであった。
予定した寺の庫裡にある杉戸四枚を外し、二枚ずす横に寝かせて二幅の桜を描く事にした。一枚の杉戸の高さは六尺で並べると横は一丈五尺となる。其々には一本の桜の古木を配し、花は満開として雀や燕などの野鳥をそこに遊ばせた。落款は一立斉広重と楷書にて墨書で認めた。更に東海堂と書き込んだのは、東海道五十三次之内の成功を祝っての事であった。描き終えるまでに五日程を要したが、何よりも弟の了信が心から喜んでくれた事が、広重には何にも代えがたい喜びであった。
江戸に戻った広重は版元の藤彦から、「江戸高名会亭尽」大判三十枚連作の注文を受けた。この江戸高名会亭尽は、江戸に於ける人気の料理屋を網羅し、地方から江戸に来る客に対し、或いは江戸市中の人々に対しての、料理店の案内と言う目論見を持っていると言っていいだろう。既に相撲番付ならぬこれら料理屋の、店番付さえもが刊行されていた。特にこの高名会に貼りだされる三十に入る店は、山谷の八百膳、柳橋の橋元、芝神明社内の車屋、王子の扇屋、池之端の蓬莱屋、洲崎の武蔵屋、雑司ヶ谷の茗荷屋、湯島の松金屋、深川八幡前の平清、両国の青柳、柳橋の梅川、そして浅草雷門の亀屋などが挙げられている。
その特徴は八百善や平清と言う本格的な料理を出す店があるかと思えば、浅草雷門前の亀屋など簡単な料理の店などもあって、単に店構えや料理の豪華さなどで選ばれている事でないのが判る。広重は注文を貰った翌日から、この選ばれた店を順次歩き回って画帳に写していった。注文の意図から見れば単に店構えを写すだけでなく、店の持つ風情や特徴までもが判る様、表現を期待されている事が広重にも理解出来ていた。その店が一番忙しい時刻と思える時に敢て出掛け、時には店の座敷に上がり込み、或いは裏庭からも店を描いたのである。
両国の青柳は勝手口から夕涼みの屋形船に乗り込む芸者の姿や、その後ろから料理を運び込む仲居の姿を描き、湯島の松金屋は上野寛永寺から広小路あたりを望む高台の部屋で、歌会を開いている人々を描いた。部屋の中や建物、それに周囲の雰囲気まで織りこんだ広重の画は、画の目的を壊さないばかりか配慮が行き届いていると評判が良かったのである。
五月に入った八日に、突然広重の許に訃報の知らせが届いた。馬琴師匠の嫡子である宗伯が、昨夜亡くなったと言う知らせであった。体もさして丈夫では無かった宗伯だが、それでも十五年前には松前藩藩主のお抱え医師に取り立てられ、更にその七年後には妻を娶り孫が三人も生まれいた。馬琴にとってわが子を先に失ってしまったが、とにかく新しい三つの命を得ていたのである。
それにしても一昨年ごろからだと言うが、馬琴の目が徐々に見えなくなって来た話を広重は聞いていた。一人息子の死は痛手であったろう。息子が親より先に逝くのは、親にとっては堪らなく辛いものであったろう。だが今は幼い命では有っても代々と先につなげて行く事が、悲しむべき死の見返りにある喜びのはずだと思えるのだ。葬儀は小日向の深光寺で行うとあったが、何としても行かねばならないと思い、広重は折り返し悔やみの手紙を書いてとどけたのであった。
その宗伯は画号を琴嶺と名乗っていたと聞いたのは、通夜の席での事であった。一人の男か宗伯の眠る布団の横で、顔に覆われた布を取り外し、その死絵を夢中で描いていた。聞けば宗伯の画の仲間だと言うが、それを見ながら馬琴は涙を流していた。悔やみの言葉一つ掛けられるものでは無かったが、広重は宗伯よりも馬琴の為に今の痛みを乗り越えて欲しいと祈ったのであった。
佐野喜に頼まれた美人東海道の下絵を描き直し、半分程を仕上げ終えたのはこの事件から十日後であった。そのひと月後には保永堂が渓斉英泉に頼み「木曽街道六十九次」の内の、十一枚を刊行した事を耳にした。刊行したのは日本橋から本庄までの宿場で、日本橋を含めた十一枚である。英泉は広重よりも七歳程年上だが、いわば同世代の絵師であった。それに広重と同じように下級武士の出で、江戸市中の星ケ岡(現千代田区永田町)の生まれと聞いていた。父親の池田政兵衛茂晴は、書や読書、俳諧や茶などに通じ、英泉もこの影響を受けて育ったと言う。十二歳で狩野白桂斉に画を学び、十五歳で元服し水野壱岐守忠照の江戸屋敷に侍奉公したものの、十七歳で上司と喧嘩し浪人となったと言う。二十歳の時に父親を亡くし、ついで義母を亡くして妹三人を抱えて、この時に深川宿で菊川英二の家に寄宿して門下生となった。菊川英二は後の浮世絵師菊川英山の父であり、英山は英泉より四歳程年上の兄弟子の様な関係であった。
元々英泉は美人画や春画を得意とし、特に枕絵にかけては最も人気のある絵師として知られ、初めて世に送り出した艶本「絵本三世相」を、千代田淫乱とふざけた名前で発表したのは二十二歳の時である。更に幾度か北斎を訪ね、その技法を学んだ事があるらしいと言うのは、懇意にしていた版元からの話であった。
広重は刊行されたばかりの英泉の画を見る前に、初めの一枚である日本橋の題字を見つめていた。「木曽街道続ノ壱」で副題は日本橋、雪之曙である。刊行された画を順に並べて、題字と副題を順に見比べたのである。二枚目が木曾街道で副題が板橋之驛とあった。三枚目は木曽街道で副題が蕨之驛、戸田川の渡場である。四枚目の題は支蘇路ノ驛とあり副題は浦和宿浅間山遠望とあった。
更に五枚目は木曽街道で副題は大宮宿、富士遠景とあり次いで木曽街道副題は上尾宿で加茂之社、ここでは上尾の文字にルビが附ってあった。そしてここから又題は岐阻街道となり、副題の桶川宿にはルビが附けられて曠原之景とある。次の鴻巣にもルビが附けられ宿も驛も付けては無く、副題は吹上富士遠望とあった。
不思議なのは岐阻街道の岨がここでは山編の岨であり、熊谷で今度は岐阻の岨が阻に戻っている事で、副題は八丁堤ノ景であった。深谷は岐阻街道深谷之驛で本庄は支蘇路ノ驛としてあった。これらの文字の混乱は、彫師に渡る版下の文字が彫師に読めない程に悪筆であった事や、一人の彫師でなく複数の彫師に下絵が廻った事に由来していると広重は見た。それを最終的に指摘もせずに刊行した処に、保永堂が犯した問題が生じたと言う事であった。それが意図した事では無いにせよ、画の上手下手の以前に問題を見つけて、手立てを講じる事が版元の仕事のはずであった。
その保永堂の孫八が広重の許に顔を出したのは、藤彦からの注文だった江戸高名会亭尽の刊行の準備に追われていた時である。既に下絵は全て描き終えて、色さしの指示も大方は終わっていた。秋に刊行したいとする藤彦と共に、摺りに入る直前であった。
「師匠にとっちゃぁ既にご存じかと思いますが、英泉に描いてもらった木曽路が滅茶苦茶で、あっしの手に負えない様な事になりましてね」
案の定、泣きを入れて来たなと広重は思った。
「その様だね、孫さんから聴くまでも無く、あの画を見れば誰にもそれは判るでしょうよ」
「へい。で、どうしたらいいかと思いまして、図々しくも相談にあがった次第でして。実は未だ彫にも回していない下絵も十枚程ありまして正直、困っていますんで」
孫八は広重の前に、英泉が描いたと言う木曽路の画を広げ始めた。初摺りは広重も買い求めた日本橋から本庄までの十一枚で、既に刊行済のものであった。そして
その後に未だ下絵の十一枚を広げたのである。だが下絵に本庄の次の新町が無く、倉賀野となっていた。宿場の順を追って行くと間の抜けた十一枚は、幾つもの宿場を飛び越していた。
「孫さんに一つ尋ねたいのだが、英泉の画には落款の無い物があるが、これはどうしだ事なんだろうね。あるのは数枚程度だが・・・」
「へぃ、英泉から落款を削れと言われて、殆ど削らせて貰いました。初版には入っておりますがあっしが文句を言った途端に、そう言われましてね。摺り終えた後で自分で画に筆を入れると言いましたが、その気は全くない様でした。たぶん自分の落款を入れて刊行されるのが、嫌なんだと思いました訳で」
広げた英泉の木曽街道の下絵を目で追ってゆくと、沓掛の画には驛を、追分には宿と、下絵の段階でも驛と宿とが混ぜこぜであった。思うに英泉は異なる数冊の名所図会から画を引用した為で、更に描く時を其々別々にした為に起きた結果であろうと広重には推測できた。しかも岩村田宿では何故か木曽街道では無く木曽道中とあった。塩尻嶺は良かったが奈良井は岐阻街道となり藪原は木曽街道に戻っていた。更に野尻では題が木曽路驛となり、美濃の河渡は岐阻路ノ驛として書かれていたのであった。ここから推測できる事はただ一つ、題字は別々の人間が書き込み、それを調べもせずに刊行した為である。
「実はこうした当て字だけじゃありませんで、こっちの画を見て下さいよ」
孫八の指差した絵は、さっき題字で広重が指摘した岩村田宿の画であった。
「英泉が辞めた、手を引くと言い出して、こちらを最後に描いた画ですが、こんなもんを描いて置いていきやがったんで」
それは広重が笑いを抑えて、題字の違いを指摘した画であった。しかし改めて見ると、笑いは思わず吹き上げて来た。七人の盲目の男達が、取っ組み合いの喧嘩をしている画であった。近くには犬も興奮して吠えていた。木曽道中とした岩村田宿の画を、敢て喧嘩の図にした理由は広重にも判らない。だが英泉が何を狙って描いたか、知る人ぞ知る画の意味であろうと広重には思えた。
「私はあんたの保永堂と英泉の間で、一体何があったかは関心が無いが、で孫八さんはどの様にしたいと考えているのでしょうかね?」
笑いが収まったところで広重は真顔で孫八に尋ねたのであった。ざっと見て英泉の画に対する描き方は広重にも理解出来る。藪原の鳥居峠の図は、木曽路名所図会の中に描かれた構図そのものを引用していたし、野尻の伊那川橋遠景も木曽路名所図会の一部を拡大して描いていた。名所図会を参考にすれば、結果としてこうした混乱は予測が付くからである。それ故に英泉は本庄までは行った事があるにしても、それ以降は行っては居ないと推測は出来る。特に元絵を参考にした場合、元の画を上回る技量や画風がなければ、笑われるのが常なのである。だが画料を値切った版元への腹いせの様な画は、堪らなく見る者には嫌気を誘うのであった。
「まぁこんな事になりましたのも、元はと言えば版元であるあっしの至らない処からで、ただこのまま引き下がるのも悔しいもんで。画は師匠とも言われる英泉が描いたものですから、それなりに売れるとは思っております。で、実はあっしもこの木曽街道の目論見から手を引こうと思いまして、で版元の錦樹堂さんへこの話を持ち込んだのですが、錦樹堂の版元が言うには、版権は買ってもいいが後を描く画師がいない。画の筋は広重師匠に似ているし、ここはひと肌脱いでもらって、形を英泉と広重の合作としたらどうかと申しますんで」
「で私にひと肌脱いで欲しいと言う事かい?」
間髪いれずに広重は孫八の話の後に結論を繋げていた。
「へい、御推測の通りでして、お願い出来ればと思いまして」
孫八はさらに縮こまっていた。大損をするか否かの瀬戸際であった。
「って事は、この話は孫さんとの話では無く、錦樹堂さんとの話が筋って事になりますね」
暫く広重は黙って考えていた。断る事は簡単だったが、孫八は増々窮地に入りそうであった。新たな仕事もさほど多いと言う程ではない。美人東海道も思った半分程の時間で済みそうである。
「分かりましたよ。残りの部分は全て引き受けましょう。但し私にも条件があります。木曽街道の残りのお題は私に全て任せて貰う事。刊行は八年の初めに残りの半分を、十年の初めに残りの全てを出す事で段取りを組みましょう。それに私が描くお題は木曽街道では無く「木曽海道六十九次之内」とします。これで錦樹堂さんに話を持って行って下さい」
「ありがとうございます。師匠に断りも無く木曽街道に手を付けてしまいましたが、これで何とか保永堂も助かります」
ほっとしたのか孫八は、力の抜けた体で頭を畳にこすり付ける様に礼を言ったのである。
木曽街道は江戸時代に入ると、名前も中仙道と呼ばれて東海道と同様に、江戸と京を結ぶ主要な街道となっている。しかし海沿いを行く東海道とは異なり、信濃の国から美濃国を経て繋がる坂道の多い山道である為、京などの人々が信州信濃の善光寺詣で信濃に向かう道も、百里の木曽街道より二百里の北陸街道を選んだと言われている程、嫌われた道でもあった。木曽路の案内書とも言うべき木曽路名所図会にも、この様な一文が掲載されているのである。
「谷中狭き故、田畑まれにて村里少し、米大豆は松本より買い来る。山中に茅屋なくしてみな板茸なり、屋根には石を石圧にして、風を防ぐ料なり、寒気激しきゆえ土壁なし。みな板壁なり、凡て信濃は竹と茶の木はまれなり、寒さ厳しきゆえ、栽うれども枯る・・・」
江戸は日本橋から街道を北に向かうと、初めの宿場は板橋である。これは日本橋から初めての内藤新宿とした甲州街道より、更に北回りの街道であった。そして川越街道と結ぶ板橋宿、府中通り大山道と結ぶ浦和宿、熊谷宿は秩父往還、八王子通り大山道と結ぶ要所であった。更に本庄は上州姫街道と呼ばれる下仁田道と結ぶ宿場で、起伏の少ない武蔵国はここまでとなる。更に上野国新町宿を過ぎ利根川の支流烏川を渡ると倉賀野宿で、こは日光例幣使街道の起点であった。次の高崎宿は越後に向かう三国街道と分岐する宿場であった。
街道はこの高崎宿から西に向きを変え、安中宿、松井田宿を越えて碓氷峠を越えると信濃国となる。浅間山の麓の追分宿は善光寺街道、北国街道と別れる主要な宿場であった。道はここから佐久平へと向かうのである。小田井から佐久のなだらかな道を徐々に登り詰め、和田宿から和田峠を越えると諏訪湖の北側の下諏訪宿に出る。
ここは諏訪大社の下社となる秋宮が置かれ、甲州街道と繋がる主要な宿場である。街道は塩尻峠を越えると塩尻宿となり、天竜川沿いの伊那谷を飯田や三河に抜ける三州街道塩の道と合流する。更に隣の洗場宿は松本や善光寺、そして越後に向かう北国西街道に繋がる宿場である。
街道はここから山間の木曽谷に入る事となる。この辺りから道は絶えず木曽川と絡み合い、南木曽まで続くのである。やがて街道は木曽川と別れ、妻籠宿から馬篭峠を越えて馬篭宿、眼下に中津川の街並みが、正面には見上げる様に恵那山が見える。この馬籠宿の道標によれば、京には五十二里半で、江戸には八十里半とある。つまり日本橋から京の三条大橋までは、合せて百三十三里となるのである。
ここから中津川宿を過ぎると高い山は少なくなり、道は極端な急坂は無くなってくる。大井宿は旅籠の数四十を数え、常に賑わいを持つ宿場であった。その大井から大湫(おおくて)宿、細久手宿、御嶽宿と、街道は細く寂しげな山間の道となる。木曽街道が久しぶりに木曽川の流出遭うのは五十番目の宿場、伏見である。この宿場は尾張藩が造った名古屋城下の東方端の上街道、木曽街道(十里八丁)の分岐点でもある。
更に街道は伏見宿と太田宿の中間にある今度の渡しで、美濃に入り初めて木曽川を越え、中仙道(木曽街道)は濃尾平野へと入るのである。鵜沼宿を越えると家康に命じられ慶長七年に建てられた加納城は、加納宿を城下町にしてつくられ、城の天守や櫓は岐阜城より移築されたもので、本陣一脇本陣一旅籠三十一とある。木曽三川と呼ばれる長良川も渡しである。加納宿からまっすぐ長良川に向かい、鏡嶋で渡し舟に乗ると河渡宿。更に道を西に向かうと美江寺宿となる。揖斐川は木曽三川の中で西側の川となるが、特に暴れ川として根尾川と合流する呂久の渡し付近は、大雨の後には渡し場の位置が変わる事で知られている。更にこの先の赤坂宿あたりの平野は、古代の条理制で作られた田の畔が東西南北にまっすぐに切られ、今に古代の知恵を見る事が出来る土地である。
東海道の名古屋城近くにある宮宿に向かう美濃路の追分は垂井宿である。途中に七つの宿場があるが、東海道の宮から桑名へ向かう船が動かない時、旅人はこの美濃路から京に向かう事も出来る。中仙道はこれより坂の多い関ヶ原宿、今須宿を経て近江国に抜けるのである。近江国の柏原宿を越え湧水で知られた醒ヶ井宿を過ぎると番場宿である。番場は北陸道と分岐する宿場で、次の鳥居本宿からは琵琶湖沿いに起伏のない街道となる。あとは高宮宿、愛知川宿、武佐宿そして守山宿と、風情の少ない絵師泣かせの単調な宿場が続き、草津追分そして中仙道の最後、大津宿までは広い水田の中を行く街道となるのである。
以上が木曽街道(中仙道)の概略である。
五月も末の事であった。保永堂の孫八は英泉が手を引いた木曽街道を、錦樹堂の伊勢屋利兵衛が全て引き受けた事を知らせに来たあとで、土産話なのか滑稽本や人情本が売れている話を置いて帰っていった。奥州の飢饉は増々酷くなりそうな気配で、先の事が不安になってくる事でもあった。しかし木曽街道の残りが広重の仕事となると、のんびりともしては居られない事も間違いなかった。早速に木曽街道資料と共に、余り揃えてはいなかった西国の名所会なども揃える必要を感じ始めていた。出来るなら、ついでにもう一度、西国も四国の讃岐辺りまでは足を運んでみたいとも思える。
僅かではあるものの、その西国名所図会を手許に持っているのは、紀伊国名所図会をはじめ、伊勢参宮名所図会、摂津名所図会など数える程しか揃えて居なかったからである。広重はこれまで集めた木曽路名所図会と岐蘇名所図会を開きながら、木曽街道の宿場それぞれの特徴を頭に描き、場所や風情を想像していたのであった。今、江戸高名会亭尽三十枚と、金沢八景八枚、佐野喜の東都名所四枚、美人東海道の背景図の残りを手掛けてはいるが、それらは来年に全て刊行する物であった。更に未だ手つかずの泉市からの注文「忠臣蔵」十六枚が入っていたのである。
それにしても木曽街道には、必ず出かけなければならないと思える。錦樹堂の版元が言ったように、本当に英泉との合作などと後の世で思われてしまうとすれば、引き受けた意味など皆無であると思えるのだ。経緯も知らない者から、単に表向きの形で見られる事は、苦痛以外の何物でもないと思える。そこまで行かなくても描けるのではなく、そこに出掛けて良い画が描ける事こそ、風情を描く者の姿だと思えるのであった。その意味でもあの北斎は、広重にとって良い手本であった。富嶽三十六景にしても、後に裏富士の十景にしても、歩いて描いたからである。それが実景とは大きくかけ離れていたとしても、流石に北斎なのであった。
広重が英泉の描いた後の木曽街道を、どの様に描くか世間は見ていると思えた。やはり日本橋から歩かねばならないとも思う。まずは二度に分けて取り敢えず中津川辺りまでを描き江戸に戻り、次は東海道から名古屋を経て中津川辺りまで行き、そこから大津まで描きながら向かう事を想定していた。ひと月もあれば高崎から碓氷峠を越えて、江戸に戻る事は可能であった。後は何時出かけられるかである。
《天保七年(1836年)》
この天保七、北斎の仕事に大きな影響を与えた出来事があった。それは錦絵を生業にする者全てが、いつかはぶつかる問題でもあった。元々富嶽三十六景を刊行した版元の永寿堂こと西村屋与八が、北斎の三十六景と裏富士十景の計四十六枚を刊行し、大当たりしたものであった。その後に今度は広重が東海道五十三次之内を描き、日本橋と京の三条大橋を加えた五十五図を保永堂から刊行して、これが大当たりしたのは五年前の事である。今度はその永寿堂が百枚の大判錦絵を売り出すと言う、「百人一首姥がゑとき」を北斎と組んで刊行し始めたのである。ところがこの年、初版を永寿堂が刊行したのは其のうちの僅か五枚、天智天皇、持統天皇、柿本人麻呂、中納言家持、小野小町の五枚だけだったのである。永寿堂は既に店を閉じる事を決めた矢先の事で、後を引き継いだ新進の版元栄樹堂こと伊勢屋三次郎からは、山邊の赤人、猿丸大夫、三条院、大納言経信、藤原義孝など二十二点が刊行されたのである。しかし栄樹堂も歌の難しさ、北斎の難解な画との狭間で、これ以上刊行する事は出来ないと、断念する意志を固めて居たのである。
北斎の画は確かに難解であった。他の画工とは一線を引くし、ぼかしの手間なども考えると値段を顧みない北斎の要求に、ついて行く事が出来ない状況となっていたのであった。北斎もすでにすべての下絵は描き終えていたから、刊行には強い期待があったとも思える。画は確かに旨い。並みの絵師を遥かに凌ぐ技量である事は、誰もが認める事であった。しかし作家も版元も、この事件をきっかけに、北斎へ仕事を出す者は既に殆ど居なくなっていたのであった。
北斎は一人自らの高みに登り、ただひたすら自らが納得する為の錦絵を描いていた。しかし錦絵は決して一人の画工の業で出来上がるものでは無い。彫師が居て摺師が居て、それらが絡み合って作品は出来るのである。それ故に遥かな高みに上った北斎の画は、錦絵から肉筆画へと変更を余儀なくされて、その道でしか歩いてゆく道は無かったのである。僅か一点ではあっても、肉筆画は自らの自負を全て自らの技量で示さねばならないのであった。
春も三月の初め上州中仙道は高崎宿の外れで、うっすらと霞のかかった榛名山を眺めつつ、烏川の川掛け小屋で絵筆を動かしている男が居た。広重であった。妻のお芳と共に榛名山の懐にある伊香保の温泉に、湯治で出かけてから既に一年が過ぎて居た。孫八に頼まれて英泉が残した木曽街道を描く為、広重はひと月を予定して新町宿から描き始めていたのであった。保永堂の孫八が広重の住まいに訪ねて直ぐ、池之端仲町の版元錦樹堂店主の伊勢屋利兵衛が挨拶に来た。だが果たして伊勢屋にしても最後まで見届けてくれる気持ちがあるのか、不安を覚えたのは事実であった。売れないと見ればすぐに版権を売り渡す、儲けだけを目論む版元が増えて来たからである。
保永堂の孫八にしても、東海道五十三次之内で上手く当てた事を良い事に、更に大きな賭けに出て英泉に腰を折られたのは、謂わば身から出た錆びとでも言う様なものであろう。とは言え、版元たちの誰もが、孫八に負けず劣らず利を見て動いている事は確かであった。あの北斎までもが「百人一首姥がゑとき」の目論みに踊らされ、自ら描いた百枚余りの下絵を世に出す機会を逸してしまったのである。
かるた代わりに百枚もの錦絵を描き売りさばくなど、版元の賭けに似た目論みはともかくも、描けば売れると絵師の自負するあたりが、恐ろしく向こう見ずだと言え無くはないのだ。錦絵は求める者の想いが、求めた画の向こう側に繋がってこその錦絵なのである。風情ならばその場所に行きたいと思えるし、美人画なら描かれたその女に会ってみたい、見て観たいと思うだろう。役者絵ならその向こうには、ひいき役者の息遣いを感じる事が出来るからであろう。結局は途中でうやむやになったこの事件も、金に無頓着な北斎ならではの収まり方の様であった。はなからこの目論見を北斎に引き受けさせた永寿堂は、この事件で致命的な信用を失う事となったのであった。折しも風の噂話なのか甲斐の国では、百姓一揆が持ち上がったと言う話が江戸に広がり、地方の世相は飢饉によって増々厳しさが増して来ている様であった。
広重は昨日の夕刻、影絵の様な遠くの富士を切り取って画帳に収め、今は高崎宿の外れで又画帳を広げて居た。烏川に張りだした茶店の桟敷から身を乗り出して、遠景に榛名山を手前には烏川の茶屋の桟敷で絵筆を持った自らを描いたいた。これから案中宿を抜けて松井田で泊まる事を決めて居た。しかし決めたと言っても守る必要の無い一人旅なのである。あの東海道を京に向かった時から見れば、何と楽な何と自由な事は、この上もなかった。
誰に憚る事も無く、そこにじっと風情を眺め、それを自分で決められる事が、これ程嬉しい事だとは思わなかったのであった。明日は松井田宿から碓氷峠を越えて、軽井澤宿で泊まるつもりでいた。
案中宿や松井田宿は碓氷川の流れに沿った山の中の宿場で、さして代わり映えの無い風情の場所であった。何か見るべきものや場所が有れば留まってでもと考えてはいたが、木曽路名所図会でさえも松井田の説明は、松枝とも言うの一行で終わっていた。見るべき名所も特徴も無い場所で、街道の宿場全てを一枚ずつ描くのは、やはり元々無理がある様にも思えたのであった。享和元年(1801年)に木曽名所図会を描いた絵師の丹羽桃渓をもってしても、否、この広重や英泉とて筆を投げたくなる思いは同じであったろうと思えた。
それでも松井田から坂本の間の横川村に、二軒の茶屋本陣があった。大名に供するものであろうが近くに関所もあって、街道はそこから真っ直ぐに坂本に向かっていた。途中、英泉の坂本宿の画に描かれた山が、刎石山である事は来てみればすぐに理解出来た。英泉もここまでは来ていた事は間違い無い事だと思えた。
碓氷峠を越えた広重は、夕刻に軽井沢宿に泊まった。画は遠景に愛宕山を背景には軽井沢宿を描き、見えぬ浅間の噴煙を焚火に見立てた。沓掛と追分は英泉の仕事と割り切り、寂しげな宿場の小田井から岩村田宿を飛ばし、塩なたに向かった。小田井宿は手前の追分宿が賑やかな分、静かで姫様や巡礼達が多く泊まると言う。それを聞いて善光寺詣での家族ずれを浮かべて画帳に収めた。塩なた宿に入り千曲川の渡し場を描いたが、他に描きたくなる風情は見当たらなかった。八幡から望月を経て泊まったのはあし田宿であった。脇本陣近くの、未だ出来て間もない旅籠であった。その旅籠で聞いた話によると、小諸藩がこのあし田宿と長久保宿の間に赤松を植え、常夜灯を置くなど少しずつ街道らしくなってきたと言う。
翌朝はあし田宿を出て笠取峠を描く事にしたのは、昨夜聞いた話を元に、赤松の街道と急な峠を描こうと思ったからであった。だが未だ街道の赤松は苗木で、画にはならなかった。峠の険しさだけが強調された様であった。長久保宿から和田に向かう途中、依田川にかかる落合橋を長久保宿の画として描いた。画はなんの変哲もない夜の川と橋の画である。だが、木曽路名所図会の一節、「山中に茅屋なくしてみな板茸なり、屋根は石を石圧にして風を防ぐ料なり・・」にあった家を右端に描き入れたのである。沼地もないこの辺りは、屋根を葺く茅は殆ど取る事が出来ない。それ故に栗の長板を使って屋根を葺く出梁造りが多く、春に吹く強い風から守る為にその屋根の長板の上に石を載せた家を描いたのであった。
その木曽路名所図会に「和田、ここは日本一高き場所なり」と記されている。文政年間の初めに江戸の綿糸商人であった「かせや友七」が、峠に向かう余りの急な山道を見るにみかねて、旅人には一杯の粥を、牛馬には小桶一杯の麦藁を施したと言う。それ以来、この場所を接待と呼ぶのだと言うのである。和田峠から下ると街道唯一の温泉、下諏訪の宿となる。広重は諏訪大社下社秋宮を参拝し、塩尻に向かったのである。塩尻宿は既に英泉の役目、広重は塩尻宿を素通りして次の洗馬宿へと向かったのである。
洗馬宿は木曾義仲が馬を洗った場所と言われ、これより左右に山並みが迫る場所で、街道はこれより木曽谷に入る。広重は洗馬宿の外れで犀川に注ぐ支流の奈良井川を描いた。街道はその奈良井川の流れに沿って上流へと向かうのである。本山から次の贄川宿では旅籠屋を描いた。宿の掛札の中に松島房次郎刀、摺工松巴安五郎、同 亀多一太郎の名を記した。東海道五十三次之内の赤坂宿と同じように、木曽海道の版元錦樹堂の彫師摺師建ちの名であった。
奈良井や藪原宿は英泉が描いた。しかしこの奈良井から藪原の間には、木曽路でも最も急な鳥居峠越えが待っていた。この峠に降る雨は、奈良井川に落ちれば越後に向かい、木曽川に落ちれば美濃の国に向かうのである。藪原宿まで一里と半、今度は木曽川に沿って下る街道となるのであった。
山野中の風情に名所や特徴がなければ、絵師は最後の奥の手として新たな技法を試みる。宮の越宿ではそれを使う事となった。画の前景は横に伸びる道と人物を、中景と遠景には異なる濃さのぼかしを入れ、霧の中の様を描いたのである。福しま宿では初めて関所を描き上ケ森宿では北斎も描いた小野の滝を、更に須原宿では初めて夕立を描いた。英泉の野尻宿は語るまでも無く、三渡野そして妻籠を描いて後、落合宿から中津川宿まで、江戸を出立して十四日を費やした事となった。そしてこの中津川宿を描いて後、一度江戸に戻り更に残りを描く為に東海道を下るつもりでいたのである。
中津川は木曽川支流の細い川の名前である。南信州の名峰と呼ばれる恵那山の、行く筋もの沢の水を集めて木曽川に注ぐ川の名前であった。その中津川宿の外れで、通り雨と出くわした。画にはおあつらえ向きと思い筆をとったが、風も無く狐の嫁入りを思わせる様な空模様であった。画は遠く前山を描いた。今回の中仙道巡りを中断して江戸に戻る為に旅籠を出た時、なだらかな丘の様な特徴のある高峰山が姿を見せたので、中津川をもう一枚程書き加えたのであった。
江戸を出立して既に十五日、広重が江戸に引き返す事を決めたのは、描けば際限のない時間のかかる旅となるからであった。出会う風情や景色は全てが初めてで、新鮮であった。下調べはしているものの自らの目で、耳で体で捉える風情は筆が躍ると言ってよかった。中津川宿で泊まった翌朝、馬篭宿に戻り飯田に向かう大平街道の山道を上った。途中大平峠と呼ぶ峠を下ると、直ぐに大平宿となる。この大平街道は飯田藩が伊那谷から木曽谷に通じる道を、宝暦年間に開通させた街道で、つい十年程前までは大平宿も宿場と言うよりも茶屋宿程の規模であったと言う。その大平宿から下ると、今度は飯田峠を越える事となる。飯田峠を越えると木曽の御嶽山を遥かに見ながら、道は一気に下りとなって飯田の宿へと着くのである。丸一日を歩き詰だった事もあり、翌日は飯田の宿から賃馬に乗って伊那谷を通り、駒ケ根宿に泊まったのである。更に翌日は高遠へ向かった。百年も前の江戸城大奥を賑わせた、あの絵島生島の事件で大奥御年寄の絵島が預けられた土地であった。絵島の相手だった山村座の役者、生島は三宅島に遠島となったが、確か絵島が高遠に預けられて後も、随分と長く穏やかな晩年を過ごしたと聞いていた。あの事件がなければ絵島も生島も名を残す事も無く、人知れずその生涯を終えたはずだと広重には思えた。
それにしても三州街道、別の名で中馬街道と呼ばれるこの街道は、他の街道とは異なり宿場毎に馬を乗り換える手間が無く、一度腰を落ち着かせさえすれば楽な事はこの上なかった。高遠宿で一泊した翌日、金沢街道にて山道を甲州街道の金沢宿(現茅野市)に、これも賃馬で向かったのである。広重が甲州街道を上り江戸に戻ったのは、中津川を出て十日後の事であった。
温かくなった四月の初めに佐野喜から、大判より一回り小さな中版の、美人東海道と呼ばれる国貞の美人画「五拾三驛景色入美人絵」が刊行された。広重が描き保永堂が刊行した東海道五十三次之内を背景に、国貞の描いた美人を一図一人にして描かれ、美人を引き立たせる為に風景の細かい細工は削り、新たな版としての売り出したのである。国貞も描く美人を小さくし、広重に配慮を滲ませる構図であった。だが後に大きな問題が待ち構えていたのである。秋に摺り上げて売り出す予定の、宮から京までの下絵に問題が起きたのである。それは、ついに国貞も広重の真似をせざるを得なくなったのかと言う声が、客の間から広まったからであった。
これには版元の佐野喜も慌てた様で、急遽桑名から東海道の背景を保永堂のものから新たなものへと、急いで変えざるを得なくなったのであった。しかし広重はこの時、美人東海道の池鯉鮒宿の画の中に、自分だけに判る洒落を残して置いたのである。後から摺り上げた保永堂版東海道五十三次之内には無くなった、黒い鯨の山の姿であった。池も川も海も無い池鯉鮒と言う場所に鯉や鮒が居るのなら、鯨が居たって不思議は無いだろうと、描いた黒山の鯨の背であった。この美人東海道には何時までも泳いで貰いたいと思ったのだ。広重はこの時「ざまぁみやがれ」と一人つぶやいた。洒落を解せない者達に対しての、憐みににた決別の挨拶であった。
江戸は何処もが残暑の中であった。涼しいと場所を上げれば目黒の不動の滝か、それでも人が集まればそれだけで暑くなる。その八月六日に曲亭馬琴が七十歳の古稀を迎えるにあたって、両国の万八楼で書画会を開いたのである。参加者は歌川国貞、国直、国芳、英泉、広重、北渓など、総勢六十名程となった。言い出したのは仙鶴堂の四代目を筆頭に、文渓堂、そして甘泉堂と錦耕堂の版元達であった。しかしこの書画会には別の思惑があった。馬琴は宗伯の一周忌が終わった後に、御持筒同心株の購入を計ったのである。売り手は四谷信濃坂組の者で、間違いのない相手である事を知った馬琴は、親類の者と相談して三十俵三人扶持鉄砲同心株を百三十両で購入した。番台として親戚筋の中藤喜助音重二十四歳を表に出して契約させ、当面の同心代行役と定め滝澤二郎と名乗らせたのである。この急な御家人株購入の為に、仙鶴堂と文渓堂から其々三十両を借り受け、甘泉堂と錦耕堂とが音頭を取って書画会を開き、その利益も入れて返済に充てようとしたのであった。
会は大盛況だったものの予定していた売上ほどは集まらず、急いで神田明神下の自宅を四十二両二分にて売り払い、その後蔵書書籍の大部分を処分したのである。更に十一月に入り馬琴は四谷信濃坂鉄砲同心組の組屋敷に移転した。しかしその屋敷の改修費用にも多くの金が必要になったのである。恐らく目が見えなくなるに従い、未だ九歳の孫である太郎の行く末の事や、滝澤家をかつての士分に戻したいと考えての事だろうと広重には思えたのであった。事実三年前頃から次第に右目は見えなくなり、亡くなった宗伯の嫁お路の助けを借りなければ、読む事も書く事もままならない状態だった様である。だがともかく馬琴は書き続けていた。
上野国新田郡の豪族である里見家基が、義によって結城方の決起に加わり戦死するも、その嫡男の里見義実が相模から海を越えて安房に出て、その地の旧勢力と戦い里見家を再興する「南総里見八犬伝」は、馬琴自らの願いでもあり滝澤家の歴史でもあった。馬琴の描く八犬伝の物語は更に続くのである。
この年は広重にとって描くと言う事だけでなく、出かける事にも忙しい年であった。木曽海道六十九次之内の英泉が残した内の半分二十五枚を描く為、ひと月程を留守にしていた。その影響もあったのだが、泉市版で刊行する忠臣蔵の十六枚を描き終えたのは、暮れも押し迫った十二月の半ばであった。だが正月明けからは残された木曽海道六十九次之内を描く為、そして京から大坂を更に四国の丸亀辺りまでは足を運びたいと考えていた。
《天保八年(1837年)》
その広重が江戸を発ったのは天保八年の二月始めの事である。既に木曽街道は中津川まで出向いた訳で、広重は東海道を下り名古屋の宮から伏見に向かう上街道を往けば良かった。流石に二月も初旬は未だ寒さも厳しかったが、天気さえ良ければ昼間に歩くのは最も都合が良かった。汗を掻く事も少なく、最も天気の崩れる事が少ない季節だからであった。
箱根で一日を湯に浸かり、沼津から富士川を越えた辺りまでは麓まで真っ白に輝く富士を見ながらの旅で、風情を見るには良い季節だとも思えるのであった。名古屋城の下の宮までは、十三日程が過ぎていた。旅とは言え目に入る面白いものは直ぐに立ち止まり、画帳を広げて描き始める日々であった。宮からは伏見までと考えていたが、東海道と中仙道を結ぶのに下街道の有る事を知ったのは宮宿であった。下街道は中津川の手前大井宿に繋がると言われ、二日の道のりだと聞いたのである。
道は宮から大須を経て名古屋城の横を抜け、大曾根口から勝川、そして小牧宿から内津峠を経て大井宿に向かう街道であった。宮では伏見宿まのでは山深い道と聞かされ、その距離十九里だと言うが、下街道は十五里で川沿いの平坦な道と聞かされた。但し幕府の御指図により、宿場は無いとの事であった。しかし善光寺参りや御嶽講の人々は下街道を往くと言う。宿場が無くても街道を往く人が多ければ、それに代わる宿は出来るもだと聞かされて、地元の者に尋ねると内津峠の手前にあると知らされたのであった。
中仙道の大井宿に広重が着いたのは、名古屋を出た二日後の陽の暮れかかった頃であった。大井宿は中津川から二里と二十四丁、やっと目的を始める場所に着いたと、新たに気を引き締めたのである。西行塚あたりから街道は幾つもの坂を上り下りする場所となった。坂の名は、みたらしの坂、うつ木原の坂、べに坂、黒すくも坂、ばばが茶屋坂、新道坂、権現坂、鞍骨坂、炭焼きの五朗坂などがある。坂の数で起伏に富んだ街道である事が判ると言うもので、広重はこの大井宿の画を敢てひどい雪景色の図にしたのである。坂の多さに恨み骨髄だったからであった。
大久手は大湫とも書く。木曽路名所図会にも「細久手、大湫共に宿賤し」とあり、簡単な説明だけの宿場であった。ここでは大久手宿は細久手宿との間にある、えぼし岩を描いた。細久手宿は一つ屋と言う場所から、見下ろす様に宿場を背景にして、武士が刀の柄に竹の水筒を下げて坂を上って行く風情を描いた。御嶽宿では木賃宿の情景を描いたが、画の端に沢水で粺か粟を研ぐ男の姿を入れてみたいと思えたのは、こうした旅もある事を知って貰いたいと思ったからである。
伏見宿は御嶽宿から一里と五丁西にある。伏見宿の外れの街道筋にある一本杉の根元に、憩う旅の人々を描きたいと思いついたのは、街道を往く人々も又風情のひとつだと思えるからであった。旅人とは言ってもその目的も生業も、姿も行き先も全く異なる人々なのである。伏見から二里で太田宿に着くが、ここは木曽川を渡る船着き場でもあった。馬子唄に「木曽の筏太田で渡し、碓氷峠が無けりゃいい」と謳われている難所の一つである。英泉が描いた鵜沼の驛は飛び越そう。加納は鵜沼からは四里と八丁で着く。木曽名所図会では「岐阜へ一里、町続なり」と書かれている城下町である。画は遠くに天守や櫓、後で大名行列を入れるつもりである。
みゑじは美江寺と書くらしいが、揖斐川を遠景に道を聞く僧侶と里人を入れたいと思った。そして椿の花や竹藪に雀を入れたい。美江寺と言う言葉から僧侶が浮かんで来たからである。次の赤坂の宿は宿場の東側を流れる杭瀬川と橋を描いた。関ヶ原の戦いで家康公は本陣を岡山と言う山の上に置いたが、勝利の報を聞きその山を勝山とした由来がある。木曽名所図会では古く渡し場があったと記されていた。
赤坂宿と垂井宿の中間の青野からは、名古屋街道を通り大垣に抜ける道もあり、垂井は交通の要所である。又宿場の南西にある南宮山は万葉集や古今集、或いは枕草子などに不波山とか美濃の中山と紹介されている。この山の麓にある南宮神社の鳥居脇の大欅の根元には、垂井の清水が湧いている。詞花集の中で「むかし見し、たるゑの水はかわらねど、うつれるかけそ年を経にける」の、歌の(たるゑ)が垂井の地名になったと伝えられている。芭蕉もここで「葱白く洗いたてたるさむさ哉」と句を残している。画は松並木を正面に大名行列を入れようと思うが、宿を左右対称に描く初めての試みをした。
関ヶ原宿は神君家康と石田三成の天下取りの戦場である。この場所は又北国街道の追分でもあった。画のなかに「めいぶつさとうもち」を提灯に入れたのは、戦国の時代と比べてみたいと思っただけである。夜は地酒を楽しんだと、旅日記に記した。今須宿はかつて居益と書いた。その居益と隣の長久寺村の間が、美濃と近江の
国境となる。しかし居益の宿場が繁盛して広くなり、長久寺村に伸びると国境の宿屋に国境の壁が出来、その壁越しに寝物語が出来た事で、ここを寝物語の里と言う
名前が付いたのである。画にも寝物語の由来などの札を掛けた。
今須から近江路を往くと一里で柏原の宿場であった。そして北側には伊吹山が聳えていた。この山は薬草が多い事が知られて、お灸に使う「もぐさ」は特に上質と言われている。諸国に知られたこのもぐさ屋は亀屋で、初代の店主松浦弥一郎は当時の金で八百九十五両の金を投資し、五十三カ所の田畑を買ってよもぎの栽培をはじめたと言う。この身代づくりの話が浄瑠璃にもなって、大名達も立ち寄る店となったのである。
醒ヶ井は木曽名所図会によると「この驛に三水四石の名所あり、町中に流ありて、至って清し、寒暑にも増減なし」とある。西行の和歌にも「結ぶ手に濁る心をすすぎなば、浮世の夢や醒ヶ井の水」とある。画は六軒茶屋あたりを描いた。この醒ヶ井宿から僅か三十町で番場の宿となる。宿場の入口には聖徳太子によって建てられたと言う蓮華寺がある。又南北朝時代の古戦場であり、六波羅探題北条仲時以下四百三十余人がここで自刃したと、寺に残る六波羅過去帳に記されている。画は宿場の棒鼻に馬を留め、雑談をする馬子を描いた。
鳥居本宿の手前には摺針峠があった。木曽名所図会にも同じ場所から描いた俯瞰図があり、多くの道中記にも記された場所である。茶店の望湖堂からは眼下に琵琶湖の長浜、小磯崎、遠く竹生島、澳島、多景島が、北には小谷も見える。この峠を下った場所に鳥居本の宿がある。鳥居本から一里半、右に彦根城を進むと高宮宿である。高宮は絹、綿、麻などの布が多く作られ、これを高宮布と言う。それ故に画には布の原料の綿花を背負った女を入れたのである。
次の宿は恵智川宿となる。愛知川とも越知川とも言われるらしいが、川にかかる橋には「むちんはし」「はし銭いらず」と書かれていた。珍しく金を取らない橋を見たり、馬より牛を荷役に使うのを見て、京に近くなった事を感じたのである。画はそのむちんはしを描いたが、人や牛は後から書き加えるのが広重の技法である。
武佐は「五街道中細見独案内」に武佐宿を過ぎたあたりに、よこぜ川、ぜん光寺川と二つの川が示されていた。しかしそこには一本の川があるだけで、名前も日野かわと言う。この辺りから風情は何処も同じで広い野原が続き、画題を探すのに苦労する場所であった。気が付けば川と橋ばかりを描いていたのである。武佐から守山宿までは三里と半。画題に困り野洲川沿いに連なる宿と茶屋と旅人を描く。草津追分は東海道と合流する宿場である。画には遠く遠景に比叡の山を入れ、伊勢参りに向かう京女達を描いたが、どこか江戸者とは違う京の女の風情が漂っていた。
大津宿は江戸から中仙道で百三十二里二十二丁とあり、木曽街道が終わる最後の宿場であった。広重は敢てこの宿場の屋根の上に、竹竿に吊るした祝いの札を揚げたのである。画だけを見て、この祝いの札の意味を知る者が居るとは思えない。しかし旅をして辿り付いた者だけが得る事の出来る喜びを、分かち合いたいと思ったのであった。遠景に琵琶湖の姿を俯瞰の様に入れたのであった。
大津の宿に着いたのは、江戸を発ってから二十二日目の事である。広重の旅は未だ途中であった。これから京に向かい、更に大坂から四国にも渡りたいと思っていた。そこからは見るもの聞くもの味わうものの全てが、どれも初めての目新しい事ばかりだと思うと、心が躍って来るのであった。
下巻に続く
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広重、海道を往く (歌川広重伝)
最期までお読みいただき、厚く御礼申し上げます。
寛文元年(1661年)に刊行された仮名草子「浮世物語」(浅井了意著)に「つかの間のために生き、月見に花見、紅葉を眺め、酒と女と詩を愛し、傍らから見れば貧乏でも、どこ吹く風と機知と諧謔(かいぎゃく)で笑いのめし、流れのままに漂う瓢箪の様に運命に身を任せる。これぞ浮世というべきか」と言う一文がある。
浮世絵の言葉の元ともなったとも言われているが、それまで描かれていた役者絵や美人画から、北斎と共に広重は風景を前面に出した新しいジャンルを確立したと言っていいだろう。
しかし、北斎は孤高の画工であり、広重は世間の何処にでも居る絵師であった。敢て版元の佐野喜に言わせたが「北斎が西陣の打掛なら、広重は木綿の浴衣だ」と、この二人を批評させてしまった。しかし其々が並みの打掛でも浴衣でも無い処は、既に多くの人々の知る処である。
描き終えて振り返ると、広重も又人並み以上に苦難の人生を歩み、様々な出来事に遭遇し、尚且つ様々な人々との親交を持っていた事が伺える。特に天保の時代を歩いた広重は、そこでこそ輝いた人の様にも思えるのである。北斎とのいわば親しみと共に抱える競争心、武士である事の虚しさと哀しさ、時代や兄弟達を通じて社会への疑問、そして錦絵を通じて見る側を試すような名所江戸百の描き方。それは現代にも通じる、見る者や受け止める者への警鐘の様にも思えるのである。そしてそう思うと、天保のあの時代と現代と、画や映像を見る我々は、果たしてどれ程の進歩をしているのか、甚だ不安にもなってくるのである。
最後に史学第二十八巻 第一號に書かれていた著者 浅子勝二郎氏が調べた資料「小机の二つの寺」の一節を紹介したい。
『また前田武四朗氏の手記したもの(内田実氏著、広重104頁参照)に「初代広重の後妻お安さんの事」なる一文あり、それにはお安は同氏の令閨の實家和久井家に長年仲働きをしていて、同家をさがっても終始出入りをしていた。くる時はいつも廣重の描いた新しい錦絵をもってきて、困る困る、といってはお金を借りていった。妻の母は姑から「お安も酒がいけるし、廣重は飲み手だし、二人で飲めるものだからネェ。廣重も精出してやりさえすれば、不自由せんでも良いのに」とよく言い聞かされた。お安は妻の母に「所夫(やど)は氣儘なもので、気の向いて来た時は相應にやりますが、氣の向かない時と來たら、幾日でもブラブラ遊んで居て、何もしませんので・・・・」と訴えていた事があった』と言う事が書かれている。浅子勝二郎氏は「此の大風景書家も、御多分にもれず、精根を盡して版下繪の制作に従事しながら、妻のお安相手にちびりちびり飲む酒の代すら窮する事が屢々あったらしい(高橋誠一郎氏著浮世絵二百五十年史208頁)」と広重を評している。広重の家庭での姿を垣間見る思いである。