北斎の陰謀 (上巻)

 北斎は突然に門人の為斎に、こんな事を語りはじめた。
『本来、我が身の傍に置く画には、落款も落款印も不要と思うている。落款や落款印が無ければ誰が描いたかなどの余計な詮索は、画の出来が良いか悪いかも分からぬ者の、言い訳に使う為の方便ではなかったか。無論だが落款や落款印は作者が己の作品を落成した折に認める昔からの習い。特に作品が作者自らの手を離れれば、どの様な憂き目に遭うやもしれぬ。故に産み落とした親の名を入れる物だ。しかしその元凶は描いた者が確たる思いも無く、己が産み落したものを譲り渡した者へ任せた事への結果では無かったか。己が心血注いで描いた物に、己自身で値段を付けた結果ではなかったのか、そうわしには思えるのよ。
 何を描いてあるのかも理解できない者が、誰が描いたかなどの詮索は画を手にして観る順序が逆さまよ。だからわしの画が、後にお前の描いた画だと言われれば、わしは即ちお前になる。おまえの描いた画が後に、わしの描いた画だと思われれば、おまえは即ちわしになると言う事よ。だからわしはそれを、何よりも楽しみにしているのよ』
 そして北斎は若い門人の為斎に、もう一度言った。
『わしになれ。わしはお前に、このわしの是まで会得した業を手を取って教えよう。絵筆の持ち方、筆の運び、必要とあればわしの落款の書き方を教えよう。そして遠慮なくわしの落款印も使うがよい』
 果たしてその絵は偽物か本物か、それよりも偽物とは、本物とは一体何を指すのか、小布施に出掛けた北斎が、そこで世俗に対して問うた事は、痛烈な皮肉であった。落款も無く落款印も入れない画を、小布施に敢て創りだした北斎。工房と言うものを持たず欲も名声すら求めない北斎は、信州の小布施で既にその答えを出していたのである。
 弘化四年、北斎が亡くなる二年前の事である。北斎から譲り受けた筆や絵皿、絵具を携え為斎は小布施にと向かった。北斎と呼ばれる為である。北斎に文字通り手を添えて教えを受けたその業と、北斎が最後に書き遺した『絵本彩色通』の初篇と二篇を携えていたのである。

 

三、北斎と鴻山 四、為斎の疑問

三、北斎と鴻山
 北斎が北信濃の豪商と呼ばれた高井鴻山と出会ったのは、江戸の日本橋本銀町二丁目に店を構える十八屋の当主、小山文右衛門の紹介である。文右衛門は鴻山と同じ小布施の、しかも隣組である伊勢町の出身で、先祖代々からこの小布施に住んでおり互いに旧知の間柄であった。その高井鴻山が小布施から江戸に出て、鬼子母神の近くの根岸の里に住んでいた天保五年、父親が病に罹り小布施に戻らなければならないと言う少し前の、北斎が富嶽百景の初版を刊行した年でもあった。
 門人の末席にと請う鴻山の話を十八屋から聞いた北斎は、既に自らの雅号と広い知識や教養を兼ね備えた鴻山に対し、それなら旦那様と呼ばせて貰えるのならと入門を許したのである。北斎から見れば実に四十六歳もの齢が離れていた訳で、京の暮らしを身に付けて品格や多くの素養を持つ鴻山は、北斎とは全く別の資質を兼ね備えていたのである。
 処で、この物語にも出てくる小布施村の中の其々の町とは、今で言う行政区分で言う町とは異なり町場と云う類の意味であり、街道に連なって家々が立ち並んでいる、いわば町組と云う意味の町である。
 (小布施村の南北に伸びる谷街道の両側には、家々の連なる町場が形成して、北から下町(伊勢町)中町、上町に別れ、更に中町と上町の境から西に伸びる谷脇街道の両側には横町が広がっている。長野県小布施町小山洋史家文書・東京大学日本史研究室記要 第四号 2000年3月より抜粋)
 ついでに小布施から江戸に出た十八屋に関して少しだけ語れば、小布施を通る谷街道沿いの伊勢町西側で真綿問屋を営む十八屋当主の久四郎は、天明四年(1784)に故あって六歳程離れた弟の紋左衛門に、自ら継がなければならない本家の十八屋の家督を譲っている。そして本家の十八屋と同じ伊勢町の谷街道東側に、自らの住いを構え味噌作りを始めたのである。これが穀屋(現、穀平味噌醸造所)の始まりだが、翌年の天明五年(1785)この久四郎が五十六歳で没すると二代目の平左衛門は、父である久四郎の跡を継いで本家十八屋の叔父にあたる紋左衛門の援助を受けながら、味噌や醤油造りの技と店を受け継いでいる。天保二年(1831)には二代目の平左衛門も七十三歳で没するのだが、この事から穀屋の平左衛門とした名前から屋号が穀平となったと思われる。
 尤も天保五年(1834)には三代目平左衛門に長男の熊之助が更に天保八年には次男の岩次郎が生まれ、この岩次郎は後に為斎の門人となり、佐久間象山の門人にもなっている。又画を描く為に写真機を借りて貰えるよう、象山に頼むエピソードが残って居る。だがこの時の岩次郎は未だ八歳の幼子であった。

 一方の本家である十八屋は二十年前に小山紋左衛門が没すると、跡目を継いだ息子の文右衛門は松代藩御用を賜り、藩の求めに応じて商いの中心を小布施から江戸へと移したのである。十八屋が江戸日本橋本銀町二丁目に店を開いた当初、主に信濃の綿花を扱う真綿問屋であった。しかし真綿が布団綿に廻されるよりも木綿糸にされて布地に加工され、更には藍で染められる事で丈夫な生地となり、小布施でも多く木綿布が生産されて江戸へと送られたのである。しかし綿花の産地が広がるにつけて、織り上げる布地よりも布団綿としての需要が急速に増えた時代であった。
 その後、松代藩からの口添えもあって綿花の稼業と共に、飛脚問屋をも営む事となるのである。特に十八屋は松代藩を後ろにした、大名飛脚と呼ばれた定飛脚問屋であった。この為に中山道などの宿場では継馬が使える特権も与えられていたのだが、飛脚問屋が為替などを扱う事が許される様になると、送金の受け取から支払いまで更には為替の支払いなども行われ、こうした時代に北斎との関係が生まれたのである。
 北斎の様な人間に取って十八屋の文右衛門は都合の良い、そして有難い存在であった。版元からの支払いも受け取ってくれるし、家賃など様々な支払いも代わってしてくれるからである。金と云う面倒なやりくりが苦手な北斎にとっては、最も安心と信頼のおける商人であった。
 事実この小布施に向かう数日前の五月八日、支払をしてくれる様にと十八屋に手紙を書き送っている。祭屋台に飾る応龍の彫刻が出来上がり、金細工の増し金から運ぶ為の箱代と小布施に送る為の人足代など、十八屋宛に角行と云う店に対して代金を支払う様に求めていた。尤も支払いは北斎では無く、小布施の高井鴻山の預かり金からの支払いで、としてあった。
 それにこの手紙の差出人は北斎の名前では無く、三浦屋八右衛門と書いていた。北斎が手紙などに書く名前は浦賀に引きこもった時から、阿栄共々に三浦屋と称しているのである。北斎の没後に阿栄宛に小布施の穀屋から送られた小布施栗の礼状にも、三浦屋阿栄の名が記されていたのである。
 
 尤も描いた画にはその時々の画号を印す事が常で、幕府が年号を絶えず改元した様に縁起をかついでみたり気分で替えてみたりと、それが流行りの様な時代でもあった。
 北斎が初めて使った画号は勝川春朗からはじまり、群馬亭、俵屋宗理、北斎宗理と変え、百淋宗理とした後にこの宗理の名を門人の宗二に譲ると北斎辰政とし、時太郎可候の号を使って自作自画の黄表紙本を刊行したのは、伊藤若沖が没した寛政十二年(1800)の時である。更に五年後、九々蜃とした後に初めて葛飾北斎の号を名乗るのである。春から夏にかけて曲亭馬琴の住いに泊まり込み、そこで描いたのは『椿説弓張月』の挿絵であった。この頃に錦絵として描いたのは『仮名手本忠臣蔵』位で、殆どは読本の挿絵であった。
 後に載斗から北斎漫画の二編を刊行した頃には、北斎改葛飾載斗の号を自らに付けている。更にこの載斗の号も門人の斗円北泉に譲り、為一の号を使い始めるのである。
 そして今度は北斎改葛飾為一とした三年後に前北斎改葛飾為一とするなど、五年後に摺物『元禄歌仙具合』を刊行した時には、月癡老人為一の号を用いて川柳の号を万字としたあと、画狂老人卍を没年まで使う事となるのである。

 ところで本題の高井鴻山の事だが、高井家の元の名前は市村と名乗っている。屋号は酒屋を始めた七代目の頃より桝一と名乗っていて、九代目の鴻山の祖父の作左衛門(長救)が当主となった時から、それまでの市村を止めて高井の姓を名乗っている。これは八代目の当主だった作左衛門(多四郎)が、天明の頃に起きた大飢饉の際に、自らの蔵を開けて蓄えていた米を難民に分け与え、無利子で金を貸すなど困窮した藩内の領民を助けた事から、後に松代藩から高井郡の地名をとって高井の姓と帯刀を許されるに至っている。
 しかし当主の作左衛門は自らが商人の出である事を理由に「平民の家、何ら帯刀の要あらん、苗字は古来の市村で足り、宗門帳は之を寺院に託すも防げず」とし、浅間山麓の小諸に近い市と呼ばれた村から小布施に出てきた事で、市村の作左衛門と何処までも通していた気骨のある人物であった。それ故に十一代目の鴻山が名乗る高井の姓は松代藩から許された苗字であり、鴻山とは自身が付けた雅号で、名は健と言い字名を三九郎と称した。だが四男として高井家に生まれたものの長男と次男の二人の兄は早世し、三男も九歳の折に他界した為に高井家の将来は全てこの鴻山に託されたと言っても良いだろう。
 桝一の商いは酒造りだが、木綿や菜種油、塩や蕎麦そして煙草や米など、信濃の特産品を広く大坂や京へと販路を広げ、松代、飯山、上田の信州の各藩の他にも、越後国高田の榊原藩や遠く京の三条家御用達を賜る様になるなど、豪農商と呼ばれる古い家柄である。
 しかし父親の熊太郎が鴻山に寄せた期待は商いの道では無く、まずは学問と共に教養と品格を備えさせる事であった。この父親に勧められ、京に遊学したのは十五歳の頃である。儒学や国学、更に蘭学などを学ぶ傍らで、書や絵画などの世界にも触れる事で高い教養を身に付け、京でも三筆とも呼ばれ極めて高名だった書家の貫名海屋(ぬきなかいおく)に書を学んでいる。
 更に京では三条家に集う多くの知識人とも交友を持ち、文政九年(1826)の二十歳の時に小布施に戻り分家筋の娘「かず」を嫁に迎えると、翌年にはそのかずを連れて更に学問を積む為に京に向かうのである。この時期には全国を歩いていた美濃の漢詩人、梁川星厳の許で漢詩を学んでいる。更に伊藤若沖や丸山応挙が学んだ南蘋派の画法を学ぶと、山水画や静物画などを好んで描く様になった。
 だがその後、徐々に広まって来る飢饉の兆しを受けて、天保四年(1833)の二十七歳の折に京から小布施に戻ると、翌年に今度は江戸に住まいを移したのである。雅な教養から新しい知識の集まる江戸で、移りゆく時代を理解しようとしたのかも知れなかった。そしてこの頃に十八屋に頼み、北斎の門人となるのである。しかし飢饉の気配が一層ひどくなり始めた天保七年には、八代目当主と同様に小布施に戻って近在の領民に対し、自らの米蔵を解放したのであった。この天保の飢饉は特に東北地方に冷害の影響が酷く、人と同様に大切にしていた牛や馬の肉を食ったという程の話が伝わり、食べ物を求めて江戸に入り込む難民を防ぐ為に、幕府は板橋や内藤新宿などの宿場で人別帳を作るなど、江戸への流入を止める出来事が起きていたのである。
 翌年の天保八年に江戸に戻った鴻山は、幕府の学問所である御茶ノ水の昌平坂学問所(昌平黌)で塾長をしていた儒学者の佐藤一斎が、朱子学や陽明学を学んで書き起こした言志録、言志後録などを知人から借り受け学んでいた様で、更に神田に移り住んだ梁川星厳の塾でもあった「玉池吟社」の一員にもなっている。特に梁川星厳の「玉川吟社」では大塩平八郎や吉田松陰、橋本佐内などの付き合いが始まり、後に鴻山の画は幕府に対する批判や怒りにも読める妖怪画へと変わって行くのである。

 鴻山が十八屋を介して北斎の門人となったのは、こうした天保改革と呼ばれる時代が始まる直前の事であった。それは画の教えを請う門人と云うよりは四十歳も年上の人生の師として、更に抜きんでた才能を認め、その才能を守り育てる意味も含まれた関係であったと思われる。だが天保十一年(1840)に鴻山の父である熊太郎が亡くなると、何時までも小布施を離れている訳には行かなくなり、桝一の跡目を引き継ぎ十一代目の当主として小布施で腰を下ろす事になるのである。
 とは言え小布施に居ても学問や芸術に優れた者に対しては援助を惜しむ事もなく、俳人歌人などに至っては鴻山自らが歓待するなどの他に、尊皇攘夷や公武合体論を語る者にも理解を示している。それ故、単に妖怪画の上手な門人と云うだけに留まらず、一級の学門と教養を身に付け最も進んだ知識人達との交流も大切にして来た、優れた知性と品性を兼ね備えた人物だとも言えるのである。
 だが一方で鴻山にとっての商いは、唯一の苦手な道であった。順風な人生の前半とは違い、後年になると時代の波に飲み込まれ、翻弄されて行く事になるのだが、ここではその話に触れないで置く事にする。


四、為斎の疑問
 殆ど波すら立つ事の無い小名木川の上を、行徳舟は相変らず艪のきしむ音だけを立てて進んでいた。成田詣での客達も話に夢中になっているその隣には、薬売りの男が大きな行李を横に置いて煙管に煙草の刻みを詰めると、煙草盆を取り寄せて火を付けた。朝の明るさが川の両岸に立ち並ぶ下屋敷の塀を染めていた。大横川の交わる辺りまで来ると次第に江戸と離れて行くと言う感傷が湧いて来たのか、北斎は周りの客達に目をやると、まるで独り言の様に口を開いた。
「なぁ為斎よ、これで暫くは江戸ともおさらばだが、少しは高見の見物とでも洒落こんでみようかのう」
 どこか皮肉を込めた独り言の様にも為斎には聴こえた。だがその師匠の言葉の意味が、未だ素直には飲み込めないのである。信濃の小布施に向かうと言いながら、下総に向かっている事も依然としてい解せないからであった。それに信濃の小布施に出掛けると言っても、その先の事も未だ為斎は決めては居なかったのである。
「先生は高見の見物と言われますが、小布施に行くのが何故高見の見物なのか、私にはどうも腑に落ちません。それに信濃に行くと申されていましたが、この舟は下総に向かう舟、一体どの様に小布施に行かれるおつもりなのでしょうか」
 一度膨らみ始めた疑問は抑えきれない程の言葉となって、口を吐いて北斎に向けられた。為斎にしてみればこの旅に向かう二十日程前「信濃の小布施に今度はわしと阿栄で向おうと思っているのだが、どうだ為斎、一緒に来てはくれぬか。本音を言えば何分にも年寄の親子だ、道中も怖いし若い者がいてくれれば何かと心強い。向こうに着けば後は好きな時に江戸に戻る事も構わぬ。帰りの路銀などは勿論鴻山から出る故に、喰う事や寝る事は心配ないが」と言われていたからであった。
 為斎にしても小布施では既に昨年の春にふた月近く、改修したばかりの東町の祭屋台天井画の彩色を済ませていた。北斎が描いた下絵に鴻山が彩色をしてはいたが、半分近くはやり残していたのである。尤も天井画は取り外しが出来るから、仕事はもっぱら鴻山の住いで彩色をするだけであった。

 この頃の為斎の江戸での暮らしは、まさに貧しさの真っただ中であった。扇子や団扇、短冊に画を描いて売り歩き、店の品書きから看板画までも描いて暮らしの糧にしていたのである。後に井上和雄著の『浮世絵師伝』にも、「彼が浅草蔵前に住みせる頃、赤貧洗うが如し、自ら扇面、短冊に画しきて之をしのぎ、僅かに糊口を凌ぎたりき、然れども其の画よく師風を伝え、款を覆って之を見れば、殆ど北斎と混同されむかと思われる」と記されており、又後に谷口正太郎著『近古浮世絵師小伝便覧』の中にも、「為斎は江戸の人、北斎門人なり、師の画風を守って人物花鳥を善す、清水と称し俗名を宗次、醉桜軒と号す」とある。
 師である北斎から信濃への旅の誘いを聞いて、為斎が即座に同意したのはこうした背景があったからであった。
「為斎には未だ余り強く感じる事は無いとは思うが、近ごろの江戸ではな錦絵一枚を描くにしてもだ、あればダメだこれもダメと描く事が不自由になったという事よ。あの猫好きの国芳でさえもが、地獄絵を描いたどてらを己に着せてよ、向こうを向いてふてくされている錦絵を刊行しているのよ。しかもだ、その錦絵でさえもが色を七色から八色までにしろとか、美人画は一枚に二人以上描けとか、画だけではないぞ。女の髪結いは月に二度までにしろとかよ、いちいち下々の暮らし向きの事までも、御上が指図するご時世となったからよ。そうしたお触書も何と既に百四十枚以上も示されているというから、空いた口もふさがなねえと云う事かな。
 しかも隠密廻りまで使って調べさせるなど、正気の沙汰とも思えんのよ。或いはその内に御上は下々の者達に、箸の上げ下げの回数から飯を噛む回数までご指示下さるのかもしれんしなぁ」
 呆れ果てた様な情けない様な思いを押し殺し、それでも冗談交じりに為斎に苦々しく語ったのである。

 四年前の天保十二年(1841)に老中の水野忠邦が天保の御改革と称して行ったのは、簡単に言えば風紀を粛清し贅沢を禁止する事にあった。享保や寛政の改革に倣い、幕府の弛んだ財政の立て直しを行いたいのが一番の目論見でもあった。しかし人々が集まり増えて行く事によって、消費の文化は広がって行く。悪所と呼ばれる場所が増え、より満ち足りた暮らしを求める願望は、際限なく新たな文化を生み出して行くからである。芝居、落語、錦絵、戯作、唱などは互いが互いに影響を与えながらも、其々の場所で新たな試みが行われて行くのである。
 出版に関わる事件とすれば三年前の天保十三年の六月四日、つまり北斎が初めて信濃に向かう、大きなきっかけとなった通達に始まる事となる。この日、北町奉行所から錦絵の検閲制度が変更され、それまでの版元持ち回りの行事と呼ぶ者に変えて、絵草子掛名主と称する者を幕府は任命したが、その者に一通の通達が幕府から送られて来たのである。
「錦絵と唱へ、
 歌舞伎役者遊女芸者等を一枚摺に致候儀、風俗に抱り候に付、以来開版は勿論是迄仕入置候分共決で売買致間敷候、其外近来合巻と唱へ候絵草紙之類、絵柄等格別入組、重に役者之似顔狂言の趣向等書き綴り、其上表紙上包等に彩色を相用ひ、無益之儀に手数を掛高値に売出し候段如何之儀に付、是又仕入置候分共決て売買致ましく候、向後似顔又は狂言之趣向は阻止、忠孝貞節等を元立にいたし、児女勧善のために相成候様書つづり、絵柄も際立候類省略致し、無用之手数不相掛様急度相改、尤表紙上包等も彩色相用候儀は堅可致無用候、尤新板出来之節は、町年寄館市右衛門方に差出改受可申」
 つまり、歌舞伎役者や遊女芸者などを描く時は、一枚の紙に一人だけを描くのは禁止する。今まで仕入れてしまったものも同じである。これから描く場合は描く意図など書き綴って提出する事。包み紙や表紙などに不要な彩色を行わず、又それを持って高値で売る事を禁じ、忠孝貞節を題材にしたものを描く様に、などを申し付けている。
 大判錦絵の価格はそれまで凡そ二十四文程であったのだが、既に十六文以下にする様に制限されていたのである。しかし混乱したのは江戸の版元であった。翌年の天保十四年に本郷二丁目の版元古賀屋では、損をして錦絵を売ってしまった事が同じ本郷にある版元の藤岡屋が書いた『藤岡屋日記』にこう記されている。
「古賀やめが、祭を出して声を上げ、きやりのやふな泣き声がする」
 つまり錦絵の摺りに高価な紅を多く使った事で、原価は小売の十六文を上回ってしまい泣き声がきこえる、と云う話であった。尤も値段だけでは無く錦絵を刊行するにあたっての、事こまかな規制は随分と以前から行われてきていた。寛政五年(1793)には、美人画の錦絵に描いた実在する女の名前を書きこむ事が禁止され、この時に歌麿は自ら描いた『高名美人六家撰』に判じ絵を使い、描かれた美人の名前を示唆する事で幕府に対抗した。それとなく名前が判る様に、絵で名前を解かせたのである。ところが御上も三年後の寛政八年八月に、再度判じ絵を使った美人画さえも禁止するお触れを示したのである。
 これまで行ってきた検閲、つまり地本紙草子問屋仲間の行事による検閲が、今度は絵草子掛名主と呼ばれる者が御上によって指定され、其々の下絵を審査する事で幕府に対する批判をかわす厳密な出版の統制を目論んだのである。特に絵師で歌舞伎役者や美人画を得意としていた歌川国芳は、この天保改革の影響をもろに受けた一人で、それまでの仕事がまるで嘘の様に無くなったのである。
 だが一部の版元や絵師も、指をくわえて見ていただけでは無かった。同じこの天保十四年の八月に、版元の伊場仙三郎から刊行された『源頼光公館土蜘作妖怪図』は国芳が描き、土蜘蛛が生みだした化け物の姿を規制や改革で苦しむ者達を暗示させ、病中の頼光を将軍家定と匂わせ、配下の四天王を水野忠邦ら幕閣に似せた風刺画仕立てにしたのである。噂話が市中に伝わると共に版木や錦絵を版元は急ぎ回収して処分した為に、堂々と店先で売られる事は無かったのだが、それでもこうした錦絵は改革の網を潜り抜けて、裏では高値で取引される様になった程であった。
 
 舟の中で隣に座っている為斎が、又北斎に向かって尋ねた。
「実は昨夜から考えていた事なのですが、先生が江戸を離れる理由はともかく、下総に向かう舟に乗り信濃に向かうと言う事が、私にはどうしても解せない事なのですが、その事を教えて頂けないかと思いまして」
 錦絵が幕府の手によって強い規制を受けている事に、若い為斎はそれ程の強い危機感も持ってはいない様に北斎には思えた。確かに未だ門人と云うだけでなら御上から目を付けられるという事も無いのだが、自ら描く画に自らの意志を盛り込むとなると、そうもいかなくなるのである。とは言っても向かうと言っている信濃とは違う方向に向かっている訳で、為斎には強い不安を感じていると北斎には思えた。そして振り返ってみれば為斎にはどの様な経路で信濃に向かうかなど、一度も話してもいなかった事に気が付いたのである。
「そうよ今になって思えば、どの様に信濃に向かうのかなど、為斎に一度も説明して居なかった。寧ろわしの方に非がある様だ。済まぬな、許してくれ。だがわしも、実はそれを決めた訳では無いのだ。十八屋が言うには本行徳の河岸に着いたら、目の前に信濃屋と云う河岸問屋があるから、そこに訪ねてくれと言われてなぁ、つまり本行徳から江戸川を上る舟が待っているからそれに乗り換え、途中で三晩の泊まりを入れて中山道の倉賀野河岸に着くというのよ」
「成る程、やっと私も納得ができました。つまり中仙道の倉賀野宿まで、江戸川や利根川を川舟で上ると言う事ですよね。私は又、舟で川を上るなど思ってもいませんでしたもので」
 為斎は川舟に乗ったまま、歩く事もせずに日本橋から倉賀野宿とは、考えてもいなかったようであった。
「恐らくはわしの事や阿栄の足を考えての気配りだろうが、十八屋の文右衛門の手紙では本行徳河岸から最初の泊まりは松戸宿の良庵河岸か、風が良ければその先の流山の加村河岸の泊まりとなるだろうと。そして翌日は更に上って関宿(せきやど)までは行けるだろうと言うている。ここで境の渡しで利根川を向こう側に渡り、境宿に泊まって翌日には別の舟で利根川を上り、妻沼河岸辺りがその日の泊まりとなるはずで、翌日の夕刻には烏川に入り倉賀野河岸に着くだろうと言うている。まぁ、毎日客を乗せる川舟が本行徳から関宿、そしてその先の利根川の倉賀野河岸まで往復しているとは思えんが、米や炭や塩などは舟で運ばれて居る筈よ、人が行かれぬ筈も無いだろうしな」
 中山道の倉賀野宿まで行けば、小布施までの半分近くとなるはずで、後は馬の背に揺られてと北斎は考えている様である。行徳舟が船堀川と中川の交叉する中川番所で手形改めを受け、本行徳河岸に三人が着いたのは未だ昼前の時刻であった。

 何故に信濃の小布施に二度も向かわなければならなくなったのか、北斎は自問してみたのだが正確に言えば三年前の秋であった。小布施の鴻山宅に逗留してひと月程が過ぎた秋の夕刻、越後に帰ると言う親子の獅子舞が桝一の店先に来て、門付けを貰う為に舞を踊っていたあの時であった。それを見かけて筆を取り出し、その様々な姿態を描いていた時からだろうと思うのである。
 その描いている姿を見た町の者が、やがて絵師が桝一に逗留していると言う所から、東町の天井画の依頼が舞い込んだのである。それは鴻山の思惑であった東町の祭舞台を造る動機となり、強いては岩松院の天井画へと話が広がっていったのである。しかし門人でもある鴻山の家に逗留しながら、こうした人々の願いに背を向ける訳にも行かず、間に入った鴻山の顔を立てなければならず、そうして翌年の正月過ぎに東町の祭屋台の天井画である鳳凰図と龍図の下画を描いたのだが、彩色をしてくれるはずの鴻山も中々顔を出しても呉れず、結局は挨拶もせずに小布施を後にしたのである。
 後に鴻山はこの時の事を、好きな漢詩に寄せて『来兮不由招、去兮不告別』、つまり来るや招くに由らず、去るや告別にあらず、と認めている。その心中を推測するのは容易いが、やはり鴻山にしか分からない事だと思うしか方法は無い。
 あの翌年の天保十五年の春に門人の為斎に彩色を頼み、小布施に向かわせて六月の祭に間に合わせる事が出来たのだが、小布施の子供達から為斎卍と呼ばれてしまったと聞いていた。とは言え為斎にしても絵師らしい仕事が出来た訳で、天井にはめ込む三尺余りの檜板二枚に、掛けた時間はひと月余りだったと聞いている。それだけに今度は上町の祭屋台の天井画であり、彫り物を入れた彩色は三ケ月程は逗留して手を入れようと考えて居たのである。

(後年、高井鴻山の子息である辰二は葛飾北斎の名が世界に広まった明治三十三年(1900)十月、天保十五年に描かれた東町の祭屋台天井画の裏に、自ら筆を入れている。以下は原文のままである。
 「図スル處鳳竜ノ画 比斎老人ノ筆跡予先人ヨリ親しく聞く所ナリ、今ヤ落款ナキヲ以テ、其ノ事実ヲ茲ニ記ス干時 天保十五年庚辰歳也 明治三十三年十月 男 高井辰書」
 天保十五年は庚辰では無く甲辰の年で単純な間違いであろう。しかし比斎とは北斎を指す『北』と『比』を書き間違えたのか、それとも為斎の『イ』を『ヒ』を聞き間違えたのか、聞いた話をそのまま裏書したのは既に描いた後の五十六年後の事であった)
 

 
 

 

一、行徳舟 二、回想

一、行徳舟
 江戸の台所と言われた日本橋の北詰にある魚河岸には、前日に浦賀や本牧沖あたりで獲れた魚を夜を徹して運んで来る舟が着く。走水の舟番所の舟改めも許された舟で、北斎が『富嶽三十六景神奈川沖浪裏』に描いた、あの大波の中で漂う七丁の艪を持つ押送り舟と呼ばれた舟であった。
 その押送り舟が常夜灯の灯りを頼りに品川沖から隅田川に入ると、永代橋手前の左手に口を開けた日本橋川に架かる湊橋を潜り抜ける。更に行徳河岸を右に見ながら真っ直ぐに奥へと進み、江戸城内堀に続く日本橋北詰の魚河岸へと向かうのである。
 
 この日の夜に日本橋川に面した行徳河岸の舟宿には、成田詣でなど下総国の本行徳に向かう客達と共に、これから江戸を出立して旅へと向かう三人の絵師が泊まっていた。今年で八十六歳を迎えた葛飾北斎と、齢も既に六十近くになった応為(おうい)の号を持つ娘の阿栄、それに門人となって未だ四年程の、二十五歳になった為斎と呼ぶ若い男である。
 ところがその夜の明け方に近い頃、眠りの浅い北斎と門人の為斎の二人は訳の分からない出来事に出合ったのである。遠くから徐々に近づいてくる賑やかなざわめきが、夢とも現実とも理解出来ないままに船宿にと向かって来たからである。程なくしてその異様なざわめきの音が、幾つもの艪を漕ぐ音や舟板のきしむ音、更には船頭達が艪を漕ぐ為に調子を合わせる低い掛け声の混じりあったものだと理解出来たのは、意識が夢から現実へと引き戻されてからの事であった。
 目の前の行徳河岸を通り過ぎて行く押送り舟のざわめきに、眠りから起こされた事への苛立たしさだけが腹の中に留まっていた。寝てはいても耳は聞こえているものだと、そう改めて思い知らされたのは目覚めた後の事である。行燈の中の瓦灯の僅かな明るさの中で為斎の耳に聞こえたのは、徐々に去って行く押送り舟の船頭達の掛け声と共に、自嘲する様な舌打ちと溜息を吐き出した師匠である北斎の呟きであった。
「ちっ、とんだドジを踏んだわい」
 だが北斎の隣に寝ていた為斎は、そのまま黙って横になっていた。師匠の向こう側には姉(あね)さんと呼んでいる阿栄が、未だ軽い寝息を立てていたからである。
「ふぅー」
 師匠の北斎が又溜息を一つ吐き出した。、眠気を追い払われた口惜しさが、目を閉じている為斉の胸に素直に響いて来た。

 それまで住んでいた隅田川に架かる吾妻橋に近い本所番場町の棟割り長屋を、北斎と阿栄の親子が立ち退いたのは昨日の事である。半年後に又江戸に戻って来れば、その番場町に程近い本所妙源寺裏の荒井町に移る事が決まっていた。布団や火鉢などの僅かな家具を預かって貰う事が出来れば、長く旅に出かける事で留守してしまう長屋の家賃を払わずに済むからである。
 それに江戸は元々が火事の多い土地柄で、空き家にして置くにも物騒であった。特に上州下ろしと呼ばれる北西の風が吹く冬から春先の季節には、昔から毎年の様に大火事に見舞われていたのである。まして町人の住まいは武士の屋敷とは違い、塀の無い空き地に建てられているもので、かつて利根川の河口だった辺りを埋め立てた場所であった。それも間口は一間半から奥行は二間程、土壁で隣と仕切っただけの幾つもの同じ大きさの部屋で割った、安普請の細長い棟割り長屋がそれである。
 簡単に燃えるが簡単に建てられる長屋は、初めから燃える事を想定した造りでもあった。それだけに住む者達は当然の様に多くの家財を置かないのも頷ける訳で、そこに暮らす者達の誰もが「宵越しの金は持たねえ」と言う、あの諦めにも似た威勢の良さがそこから育ったのである。
 それにしてもこの夜に、行徳河岸の舟宿に泊まったのには訳があった。下総国の本行徳に向かう一番舟に乗り遅れれば、その先で待っている船頭達にも迷惑が掛かる。そうした理由のある事は小布施に住む門人の高井鴻山や、同じ小布施から江戸に出て日本橋で店を構える十八屋の当主、小山文右衛門からの指図だったからである。尤もこの小布施に向かう旅の費用は、その全てが鴻山の支払いであった。鴻山が金を出して造る上町の祭屋台の、天井画を描く様に頼まれたからであった。
 しかし門人である為斎の胸の中には、信濃の小布施に向かうと言いながら、何故に下総国に向かう舟に乗るのか、未だに理解出来ない苛立たしさがくすぶっていた。昨年の天保十五年(1844)十月、小布施で前の年に師匠の手掛けたもう一つの東町祭屋台の天井画を仕上げる為、為斎は北斎の代理として一人で小布施に出向いた事があったが、その時は中山道から北国街道を歩いたからである。

 とろとろとした微睡(まどろみ)の中で日本橋石町の刻を告げる鐘が、三つ程の捨て鐘の音に続いて七ツ程聞こえてきた。舟で向う旅でなければこの時刻、草履の紐を締め直して出掛ける七ツ刻であった。隣の部屋に泊まっていた気の早い江戸っ子の客達は、小声で何かを話し始めて既に起き出した様であった。どうやら成田詣でに向かう男同士の仲間旅の様に為斎には思える。だとするなら今夜の泊まりは船橋宿か、噂に聞いている飯盛り女の八兵衛には、さぞかし奴らも驚くだろう、そんな事を勝手に為斎が想像していた時であった。
「おとっつぁん、ね、為斎も起きないと、他の皆さんも起きはじめたよ」
 少し慌てた様な阿栄の声が響いた。起きていたつもりがいつの間にかつもりだけとなって、北斎も為斎も夢心地の中を彷徨っていたのである。阿栄の少し慌てた様な一言は、とにかく二人が起きるきっかけとなった事は間違いなかった。
 暗い外とは違い既に宿の部屋にも灯りがともされ、舟宿のそれぞれの部屋の中では思い思いに旅立つ支度が始まっていた。顔を洗い布団を畳み
朝飯を腹に搔き込んで用を済ませる頃には、いつの間にか格子戸の向うも白々と明るくなり始めて、夜明けの近づいた事を知らせていた。

 江戸に住む者からは大川とも呼ばれている隅田川の下流には、中洲の出来る程に流れの穏やかな場所がある。新大橋下の中ほどに出来た葦の生い茂るその中洲は、春には堤の桜、夏には屋台の並ぶ川開き、秋には月見と洒落こむ粋人を乗せた屋形船が竿を刺す場所で、流れが二つに割れる所から三つ又と云う名前が付けられている。この三つ又で本流と別れた隅田川は五~六町ほど下流の、日本橋川と交わるまでの流を箱崎川と称していた。そして箱崎川が日本橋川に突き当たる場所に箱崎橋が架けられ、行徳河岸が置かれた右岸の小網町三丁目と、下屋敷や中屋敷の多い左岸の箱崎町を分けている。
 この行徳河岸には二軒の舟宿と三軒の河岸問屋、それに飯屋などが軒を連ね、どれもが朝早くから店を開けていた。明六ツには本行徳に発つ行徳舟に乗る為に、夜も明けない内から客達が集まる為であった。尤も江戸市中に七十余りもある河岸の中で、行徳河岸が他の河岸と異なるのは、下総国の行徳村の村人だけが舟を着ける事を許された河岸だからである。更に本行徳までの途中に立ち寄る河岸も無く、海に出る事も無い為に別名を長渡し舟とも呼ばれ、客を乗せるのは明六ツから暮六ツ迄と決められていたのである。
 この行徳河岸や行徳舟に関わる歴史を少しだけ語るとすれば、徳川家康が江戸開府を行った頃まで遡る。秀吉が家康と共に小田原の北条氏を攻めた折、年貢として北条氏に納めていたのが行徳の塩であった。塩は時間を置くと水を吸う為、保管の難しい海産物である。この時に行徳塩に目を付けた家康は江戸開府の折に下総の行徳を幕府の天領とし、そこで造られていた塩を江戸に運ばせる為、行徳と江戸とを結ぶ水路の開削を命じたのが始まりであった。
 家康の命を受けた小名木四郎兵衛が天正十八年(1590)、後に深川万年橋が作られる隅田川に面した場所から中川との間を開削して完成させ、更には寛永六年(1629)には中川から江戸川に続く新川が開かれ、これによって行徳から江戸城までの水路が完成し、天候に影響される事もなく定期的に江戸城に塩が運ばれる事が可能になったのである。
 水路が完成して三年後の寛永九年(1632)、下総国の村人は単に塩を運ぶだけでは無く行徳の貝や干物、更には銚子浦で水揚げされた魚をも江戸に運ぶ事を考え幕府に求めたのである。そして日本橋小網町三丁目の箱崎橋下を幕府から借り受ける事が許されると、この河岸を行徳河岸と名付けたのである。この頃に幕府は洪水から江戸を守る為、更に水田を増やす為に鬼怒川や渡良瀬川などの水を纏め、それまで江戸湾に流れ込んでいた利根川の水を銚子口から海へと流す利根川東遷事業を本格的に始めていた。寛文五年(1665)には銚子口からせ利根川の関宿・境を経て江戸川を下る水路が完成すると、更に五年後の寛文十年(1670)には津軽海峡を経由する東廻り舟と呼ばれる海上輸送路が開かれ、これによって例えば庄内酒田湊から津軽海峡を経て江戸までは四百十七里、それが下関を経由しての西廻りと比べると、二百九十八里程も短縮されるのである。
 これまで抱えていた房州沖を北上する黒潮の強い潮流を、銚子口で川舟に積み替える事で奥州の天領から送られる米を、江戸の蔵前まで運ぶ事
が可能となったのである。冬の渇水期以外であれば利根川に浮かぶ高瀬舟に米を積めば、凡そ六百俵を一度に運ぶ事が出来るのである。

 日本橋の行徳河岸と下総国の本行徳河岸が行徳舟で結ばれて三十年後、今度は行徳舟に人を乗せる事が許される様になると、成田山詣での客達も増え始めた。更に本行徳河岸と利根川の木下(きおろし)河岸を結ぶ木下街道が整備されると、香取神社や鹿島神宮などに詣でる為に行徳舟を使う客は増加の一途を辿ったのである。
 だが相変らず客を乗せた舟の運行は昼間だけとされて、陽が落ちれば舟は動かす事が出来なくなるのである。人が通らなければ集まるのは夜鷹か舟で客待ちをする舟饅頭あたりで、運が悪ければ辻斬りか追いはぎと相場は決まっていた。
 又河岸の賑やかさで言うのなら日本橋川を奥に入った江戸橋手前、東堀留川の入口に架かる思案橋下の末広河岸や、その少し先の江戸橋南詰にある木更津河岸の方が遥かに賑やかであった。そこから木更津や曾我野(千葉湊)に向かう五大力船が毎晩、沢山の客と荷物を載せて運ぶからである。
 尤も当の北斎はその昔、この行徳河岸の近くに来る御座を抱えた夜鷹や、舟の中で体を売る舟饅頭の姿を描いた事があった。柳の下で御座を小脇に抱えた後姿の『夜鷹図』と、舟の上で炬燵を足で抱え込んだ『舟饅頭』の肉筆画は、正面からこうした女の匂いと色気を描いたものであった。為斎がその事を北斎に尋ねると描いたのは四十も半ば頃だったと言うが、こうした類の女達を画に描く絵師は精々わしぐらいだろうと笑って答えたのである。 
 東の空が白みかけ、あと僅かで陽も昇るだろうと思える様な頃であった。茶舟とも瀬取舟とも呼ばれる沖船から荷を運ぶ数隻の小舟が、箱崎川を前にした行徳河岸の岸辺に一塊に繋がれていた。その河岸の隅では空になった味噌樽や醤油樽、それに味醂を入れた幾つもの大きな土瓶が、舟人足の手で大八車から降ろされて舟にと積み込まれている。
 杭の上に板が載せられ縄で縛られただけの桟橋には、本行徳に向かう行徳舟が着けられて、既に十人余りの客を乗せて岸から離れるのを待っている。二十人も乗れば足の踏み場もない程の、どこか頼りなさそうな舟であった。
 端午の節句が過ぎたばかりの早朝、それも今度は六ツ刻を告げる鐘の音が聞こえ、空が白み始めると朝の光は雲を輝かせていた。長い竹竿を手にした船頭が、待ち構えていたのかの様に舟の舳に立ち上がると、まるで鶏が刻を告げる様な甲高い声を上げたのである。
「舟、出しますぜー。舟、出しますぜー」
 漕ぎ出す前に行うそれは、まるで船出の儀式の様な叫び声であった。だがその声に促されたかの様に杖を片手に持った北斎は、阿栄にもう一方の手を預け舟宿の入口から外に出ると、桟橋で待ち構えていた為斎と共に目の前の行徳舟に乗り込んだのである。僅かに空いた艫の舟床に腰を下ろした三人を横目に見た船頭は、舳に立って待ちかねた様に川に刺した竹竿を力を込めて引き抜いた。
 既にもやいの解かれた舟の上で、船頭は一人で竹竿を岸に押し当てると力強く踏ん張りながら、舟をゆっくりと岸から引き離したのである。そうして今度は未だ揺れ動く船べりの上を跳ねる様に艫に戻ると、手早く艪を据え付けて川の中央へと漕ぎ出したのであった。無駄の無い船頭の機敏な動きに、北斎は感心したように見つめていた。もしそこに筆と紙があったなら、間違いなく描き写していただろうと為斎には思えたのである。
 ゆっくりと岸を離れた行徳舟は箱崎川の穏やかな流れに逆らいながら、僅か目と鼻の先の隅田川に向かって水面を滑っていった。あと半月もすれば大川の川開きが始まり、土手の上には幾つもの屋台が並ぶはずであった。

 動き出した行徳舟の中で、成田詣でに向かう数人の客が何やらと話を始めていた。舟宿で隣の部屋に泊まった男仲間の客である。為斎は一回り舟の中の客達の顔を見廻して見た。天秤に桶を傍に置いている油売りの男が居た。吉原帰りなのか未だ若い坊さんが目を閉じている。見るからにわかる行商の薬屋も居た。しかし為斎にも判らない商売もあった。二本差しだが侍の様でも無く、着ている物はと言えば袖の短い袢纏の様で、下には植木職人の様な股引きを身に付けていた。足には脚絆を巻いた草鞋姿であるにしても、短い竿を何本も入る様な竿筒を持っているのである。
「先生、あの舳に居る人は、一体どの様な仕事を生業にする人なのでしょうか」
 と、為斎は好奇心を剥き出した様に北斎に尋ねたのである。
「あの男は、雀を獲るお役目の鳥刺しと云うてな、鷹匠役が飼っている鷹の餌になる雀を、釣竿の様な竿の先に鳥もちを付けて獲る者、まぁ雀が獲れなければ禄も取れぬ事にもなりかねず、近ごろは江戸も市中を離れての雀獲りであろうな」
 為斎も物心の付いた頃には江戸の向島や浅草、蔵前あたりの長屋を転々と移り住んでいたのだが、隅田川沿いの場所しか殆ど縁は無かった。しかも武士の出でありながらも、こうした鳥刺しと云う仕事がある事も知らなかったのである。
 そう言えば自分の父親も、かつては武士であった事を為斎は思い出していた。
 父親の名前は神尾五郎三郎と言った。江戸城内の書院番のお役目を賜っていたのだが文政六年(1823)の四月二十二日、江戸城西の丸の書院で同じお役目の松平忠寛が、突然に刀を抜いて同僚に襲いかかったのである。世間では「千代田の刃傷」と呼ばれた事件で、同僚の本多伊織、間
部源十郎、沼間左京の三人は、逃げる間もなく切られて即死であった。戸田彦之進は腕を切られて、為斎の父だった神尾五郎三郎も腰から尻にかけて切られたが、幸いにも軽症で済んだ。刀を抜いた松平忠寛はその場で自害して果てたのである。
 しかし事件の原因が陰湿な同僚同士の虐めであった事から、この事件に絡んだ者の多くは改易などの処罰を受け、父の五郎三郎も改易となって武士を捨てたのである。父はその時三十歳で、為斎は僅かに五歳の時であった。
 それから続いた貧しい暮らしは、描く事を知る事で世間を広げたと言っても良かった。幼い時から病の母を看ていた事もあり、今は頼まれるままに商家の旦那衆に頼まれて狂歌や俳句の短冊に画を描き、寺子屋で子供らに文字を教えて日々の暮らしを凌いでいたのである。

 暖かさが増すと鹿島や香取などの三社詣でに向かう客が増えると、舟宿の亭主が挨拶代りの話をして呉れたのだが、周囲を見回せばそれも納得が出来ると為斎には思えた。
 舟宿では隣に泊まった成田詣での客が、ここでも賑やかに話は盛り上がっていた。師匠の北斎ですら聞くともなく耳を傾けているのは、話が芝居役者の市川団十郎の事へと向かったからであった。
「処で兄い、どうして市川団十郎はよ、何で成田屋と呼ばれているのか、俺はそこの処が良く分からねえんだがよ」
「何だと、てめえはそんな事も知らねえのかよ。まぁ、てめいが相州の生まれだから仕方がねえが、話してやるから黙って聞いていな。話は確か元禄の初めの頃だと思うのだがな、歌舞伎役者の二代目だった市川団十郎がよ、嫁さんを貰って暫く後の事よ、故郷に近い成田山新勝寺に出向いて子宝祈願をしたと云うのさ。ところが程なくして御利益があったらしく子供が授かった訳だ、そんな事があってしばらく後に、今度は山村座の舞台で「成田不動明王山」とした演目を演じてな、これが又江戸では大評判となったのよ。その時に舞台に投げ込まれた賽銭は、何と十貫もあったと言うから大したもんよ。奴が舞台で見栄を切る時にはよ、大向こうから「成田屋っ」と声が掛けられてな。市川団十郎を名乗る者はその時以来、ずっと「成田屋っ」と声を掛けられる様になったという話さ。
 処がよ、この話には未だ後があってな、実は三年前の天保十三年の六月の事よ。七代目となった市川団十郎がよ、奢侈(しゃし)の罪に問われてよ、居宅は没収、江戸は十里四方の処払いとなったと云うのよ。それがだ、団十郎の家にはよ、事もあろうか妾が三人も居たらしくてな、分不相応だと御上には見えたのだろうが、まさに天保の御改革によって恰好の餌食となったと言える様だが、その後団十郎は成田山にも姿を見せたという人も居るのだが、どうやら本当の所は上方で暮らしているらしいと言う噂が出回っている様だ。まぁその内に江戸に戻っても来るだろうよ。何せ大奥にだって御贔屓筋の多いのが団十郎だからな」
 人気役者の身の上話に、為斎は感心したように耳を立てて聞いていた。だがその若い為斎の顔を見ていた北斎は、まるで孫の顔でも見ているかの様に微笑みを浮かばせていたのである。恐らくは長女の阿美与と門人だった柳川重信との間に出来た、ヤクザ者に身を落した初孫の事を重ね併せて居る様でもあった。北斎は幾度となく借金を工面してやったものの、家に寄りつかなくなって縁を切った孫の事を、生きて居れば今頃は同じ年齢だと為斎は聞いていたからである。しかし北斎の口からはその話を、一度として聞いた事はなかった。その北斎の隣には娘と呼ぶには無理のある三女の阿栄が、足を曲げて横になって目を閉じていた。
 弘化二年(1845)の五月も半ばのこの日、信濃国の小布施村に住む門人の高井鴻山宅に向かう為、北斎は門人の為斎と娘の阿栄を連れて江戸を
出立したのである。


二、回想
 北斎が初めて信濃の小布施での日々を過ごしたのは、三年前の天保十三年(1842)の秋から翌年の春までの事である。江戸を離れ門人である高井鴻山の許を訪れたその二年前、鴻山は父親の熊太郎が亡くなった事で、高井家十一代目の当主となったのである。師である北斎の突然の思わぬ訪問に驚きながらも、訪ねて来たその姿を見て江戸での日々を聞くまでも無く理解した様であった。
 北斎も絵筆を取り上げられた様な江戸での暮らしが長引くに従い、周囲の出来事が恐怖へと変わっていったのは、次々と出版に対する統制が厳しくなり、遂には親しい者が捕えられ死んで行く事態を目の当たりにしたからである。
 
 北斎が小布施に向かう半年前の三月、それまで互いに意地の張り合いで往来を断っていた曲亭馬琴が、二十九年の歳月をかけて書き続けて来た長編の読本『南総里見八犬伝』(全九十八巻)百六冊を完結し、やっと筆を置いたと云う嬉しい話を耳にした事があった。既に五年前には失明していた馬琴は、それでも亡くなった長男の嫁であるお路の手を借り、口述筆記と云う方法での完結である。久方ぶりの嬉しさが北斎の胸に熱いものとなり、何故か込み上げて来たのであった。
 だが六月になると出版に対する御上の統制が以前にも増して一層激しくなり、刷り物は全て事前に町奉行所の許可が必要となったのである。この時に四十年近く親しくしていた戯作者の柳亭種彦が書上げ、既に十年以上も前から人気を得て刊行していた長編の読本『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)を、御上は突然にその刊行を止める裁定を下したのである。理由は一年前に死去した将軍家斎と大奥の中臈達を模しているとして、種彦はこの時に御上から譴責され揚屋入り(入牢)が申し渡されるに至った。そしてその僅かひと月後の七月十五日には、あろうことか病死として処理されたのである。享年六十歳であった。
 版元や絵師や戯作者などの間に様々な憶測が流れた事は言うまでも無いのだが、旗本で二百石取の武士でもあった種彦にとっては、息子に家督を譲った後だったとは言え、余にもあっけない此の世の去り方であった。書く事や描く者達にとっては恐ろしい時代を迎えたと、誰もが思ったに違い無いのである。
 この時に御上の手によって刊行が禁止された長編の人気読本『偐紫田舎源氏』は、題が示す様に紫式部が書上げた源氏物語に倣い、主人公の恋愛を情緒と好奇心で包みながらも、あからさまに男女の世界を書き上げた物語であった。それは時代を室町時代に移し替え、足利光氏の主人公が光源氏の様に女性遍歴を重ねて行く話であり、この様な言葉から始まっている。
 『大江戸の真ん中、日本橋に近き式部小路といふ所に、いと艶めきたる女あり。その名を阿藤となんいけり、初元結のそれならで、紫の髷紐を常に結びければ、人々阿藤とは呼ばず、浮名して紫式部とぞいひける。自もいつか是を聞知り、されば我が名に因みある、源氏物語に似たる双紙を作らんと、旦夕心にかけけれど、書は草ざうしの外を読ず、歌は二上り三下り、旋頭歌ならで字余りよしこの、どどいつを知るのみなれば紅筆をだに噛ざりしが、或人女にいひけるは、河海の深き、湖月の広き、それには眼の及ばずとも、要を摘んだる若草あり。紅白、雛鶴、鬢鏡、小鏡なんどを照らし合えば、微(すこし)は意を解す便りとならん。まずは十帖源氏より読たまひねとすすめられ・・・・』
 読者に多かった女達の心を掴んだからこその人気では有ったのだろうが、北斎はまさかこの様な読本で捕えられたのかと云う不安な気持ちと、明日は或いは我が身に起きるかもしれないと言う恐れが、この時に江戸を離れる決意となったのである。
 北斎は四十年も前の昔、この若い柳亭種彦に幾度も挿絵を描いている。種彦とは同じ本所の亀沢町で生まれた為か、齢は離れていても何故か親近感を持つ相手であった。文化三年(1806)の種彦が二十四歳で初めて書いた読本『阿波之鳴門』には、北斎が気を入れて描いた挿絵だった事もあって評判も上々で、翌年の文化四年(1807)には怪談話の読本『近世怪異霜夜星』、文化六年(1809)には『総角物語』の挿絵を、以降にも『北越奇談』などの挿絵を描いた事が縁で、後に『富嶽三十六景』の後に刊行した『富嶽百景』には序文を寄せてくれた事があった。住む長屋の近くで火事が起きれば心配して飛んで来てくれた事もあって、若いが情けの細やかな男でもあった。
 この種彦が死んだ前の年の天保十二年(1841)には、戯作者の為永春水も捕えられている。こちらは『春色梅児誉美』(しゅんしょくうめごよみ)が淫らであると指摘され、翌年の天保十三年の六月には手鎖五十日の刑を言い渡された事は、この上も無い強い衝撃を北斎に与えたと言って良かった。しかもそれが元で深酒に嵌り、翌年の天保十四年の暮れに没しているのである。
 北斎がそれも突然に思い立った様に江戸を離れ、小布施に向かったのは種彦の死を見つめ、春水の手鎖五十日の刑が言い渡されて直ぐの事であった。この種彦や春水に幕府が背負わせた罪は、五十年も前に行われた寛政の改革と称する恐怖を、北斎の脳裏に強く呼び覚ましたからでもあった。かつて五十年も前に親しくしていた版元の蔦屋重三郎が身代半減の刑を言い渡され、戯作者で知られた山東京伝が手鎖五十日の刑を受けた事を思い起こせば、改革と云う名の許に又も始めた幕府自らの目論見を達成する手段は、理屈の受け付けない恐怖を北斎に思い起こさせたのである。
 尤も翌年の春に江戸に戻った北斎が知らされたのは、表向きとは違った種彦の譴責された理由であった。天保八年(1837)に種彦が書いた『似世紫浪華源氏』と題のある、謂わば春本と呼ばれた本の刊行であった。流石に種彦も自らの名を表に出す事が憚られたのか、名を九尻升佐寝彦と称して中身も確かこの様な文章であった。
 『・・・・・藤の方は、ただ沖間に揺れる舟の夢、身をうねらいであまたたび、気も遠瀬のうつせ貝、うつつになりて玉門より、流わたりし淫水は、おもわず閨(ねや)に加古川の、堤も切れしごとくにて、身も浮くばかりに見えにけり・・・・』
 天保の改革と呼ばれる奢侈禁止令から風紀粛清による風俗取締令は、寄席を制限して語る演目の内容を変更させ、芝居小屋も一か所に集めるなどの他にも、吉原以外に岡場所と呼ばれた茶屋で遊女代わりの女と遊ぶ事を禁止するなど、多くの密偵を江戸市中に放って報告させ取り締まったのである。中には高価な絹縮緬を着る事を禁じ、鰹などの初物買いを禁止するなどの他に、高価な菓子や高額な料理を買う事も禁止させている。
 これにより日々の仕事が極端に減る事は当然ではあるにしても、絵師や戯作者達の気力は大きく削がれ、北斎にしてもそれは同じであった。江戸を逃げる様に小布施に来て鴻山の家に泊まってはいたものの、小布施の人々の間に広まった噂話が、乞食姿の年寄が豪商の鴻山宅に逗留している、とした話であった。

 いつの間にか行徳舟は隅田川を横切り、暫く北斎が住んでいた事のある万年橋の下を潜りぬけて小名木川へと入って行った。川の北側は深川と呼ばれ、小名木川開削の時に摂津国の武士だった深川何がしが開墾した事で、その名前が付いたと船頭が教えてくれた。
 その時である。為斎は突然、北斎に疑問をぶつけたのである。
「お尋ね致しますが、先生は本当に信濃に向かわれるおつもりなのでしょうか」
 北斎の隣に座っている為斎は、念を押す様に尋ねたのである。
「さて、十八屋からの話では、まずは本行徳に向かい、そこで河岸問屋の信濃屋を訪ねて欲しいとしてある。全ては手配してあると言われている、儂は言われた通りに本行徳に向かうだけだ。儂はなぁ為斎よ、乗った舟の舳が何処に向いていようと、一向に心配などしたりはせんぞ。心配は乗るまでの事、乗った以上は任せる事よ。しかし若い割に為斎は心配性の様だな」
「ですが先生・・・・」
 そう言いかけて為斎は言葉を押えた。心の中を見透かされた様な師の言葉と共に、不満そうな思いが自分の顔に残って居る事に気が付いたからであった。
「為斎よ、歩かずに済むのなら、それに越した事は無いだろうが。儂は三年前に中山道を歩いて小布施に向かったがな、そうそう歩いて行く道では無いと知ったぞ。為斎も先年は同じ道を歩いて出掛けた筈だが、どうだそれでも歩いて行く方が良いと言うのかの、若いとは何と羨ましい事か」
 冗談の様な少しの皮肉が、師匠である北斎の言葉の中に散りばめられていた。しかし北斎の頭の中には、為斎の疑問など思い煩ってはいなかった。寧ろ十日前に小布施に送り出した、上町の祭り屋台に取り付ける彫り物の方が気になっていたからである。

 三年前の秋、中山道から北国街道を経て門人の高井鴻山が住む信濃の小布施に向かったのは、旅と云うよりも寧ろ江戸から遠くに離れたいと言う思いだけが北斎の気持ちを衝き動かしていた。それだけに周囲の風情を楽しむ余裕すら無かったのである。鴻山に勧められるがままに小布施に逗留してひと月が過ぎた頃、これから越後に帰ると言う獅子舞の親子が、鴻山が営む桝一の造り酒屋の店先に来た事で、踊り舞う姿を見ながら思わず筆を振るったのである。
 様々な姿で踊る獅子の親子を描きながら、日々新たな気持ちを持ち続ける祈りを込め、日新除魔図として毎日一枚の獅子を描く決心をしたのであった。この話を夜に鴻山へ伝えると、越後に近い信州飯山の内山紙を取り寄せてくれたのである。肌理のこまかな、それでいて滲みの少ない良い紙であった。小布施でのそれからの日々は穏やかな毎日が続き、北斎は庭に咲く草や花や虫や蛇などを緻密に描く事を楽しみに過ごしたのである。
 特に庭に咲いた菊の花を掛け軸にと、ことさらに精密に下画を描いたのだが、季節は突然に花を散らして彩色まで進む事はなかったのである。ところが十二月の初めに、鴻山は京から届いたばかりだと言う荷物を持って北斎の前に差し出した。
「頼んでいたものを手に入れまして、先生にぜひ試して戴こうかと」
「はて、旦那様の顔が随分と嬉しそうで、珍しい事ですが、さて中身は一体何が」
 目の前に包を開けた北斎は驚いた。煙管の首に使われる真鍮が筒状に造られ、絞り出すような柄まで付いている。文字は阿蘭陀語であろうか、明らかに西洋の物で数は十本程あった。
「これは・・・」
 言葉は聞いていても、既に北斎にはそれが油絵具である事は察していた。
「京の方光堂から取り寄せたものですが、以前から頼んでおいたもので、西洋の油絵具でございます」
「何と、これが西洋の油絵具と云う物か、聞いては居たが驚いた」
「西洋では絵具を使い終わると、この容器ごと持参して又絵具を入れて貰うとの事で、後ろの棒の様な物を押して絞り出すと聞いております」
 北斎は容器から少量の絵具を取り出すと、指で触れて匂いを嗅いでいた。
「辛子油に似ているな」
「何でも顔料によって乾燥する時間が異なる為、油の配合を顔料に合わせていると聞いております」
「しかし西洋画の面白さは、あの透明感と絵具が盛り上がった時の立体感、それに長く変色しないと聞いている。早速試してみたいものだが、そうだ魚を取り寄せては貰えぬか、鯵やヒラメや栄螺など貝も良いだろう」
「そこで先生にお願いなのでございますが、最初に描いて頂きました画は、私に頂戴出来ないかと、高井家の家宝にしたいと考えております。その上で
残りました油絵具は先生に差し上げたく思っておりますが、ぜひ叶えて頂ければと」
「それは構わない事だが、儂は後々に、これらの油絵や油絵具の作り方も、本に書き表したいと考えておるでな、儂の興味は画よりも絵具よ」
この年の暮れに、北斎は初めて西洋の油絵具を用いて油彩の画『 魚貝静物図』を描いた。画の右上には油彩には似つかわしくないとも思える様な落款と共に落款印が押されている。
 そしてこの時から五年後に北斎は油絵の絵具の造り方から、描き方の解説書でもある『絵本彩色通』を刊行するのである。そこには「ゑの油一合、鉛を削り入れ、地中に埋めて七十日程立て取り出し用いる。これ阿蘭陀の伝来なり」と記され、鉛を入れて・・・の話は、白色顔料としての鉛白の採取方法の事であった。
 
 この年の暮れも押し迫った頃の事であった。四十年ぶりに小布施の東町の祭屋台を改修する話が出た中で、世話役から天井画の話が持ち上がったのである。小布施では古くから初夏の季節になると毎年、京の祇園神社(八坂神社)の祭礼に倣って祇園祭が行われ、祭屋台が組み立てられて引き回されるのである。四十年前に祭屋台が造られた東町と伊勢町の祭り屋台は、子供達や祭囃子を行う者達が舞台に載って祭を盛り上げるのである。
 この東町の祭屋台を仕切ると言う世話役の総代で、庄屋の与兵衛と云う男が北斎を訪ねて来た事から始まった。
「実は東町の祭屋台が造られたのは文化三年(1806)の事でして、儂に初めての倅が生まれた年の事でございましてなぁ、それから四十年近くもの間、毎年組み立てられこの小布施を引き回されて、終われば又バラバラに外されて仕舞われる。処が数年前あたりから屋台の痛みも激しくなり始めましてなぁ、それなら一度改修しようではないかと云う話が出て参ったわけでして、そこで東町の方々と話を詰め費用も集めておりました。処が江戸から高名な絵師の北斎殿が、この小布施の桝一の所に逗留されていると聞きまして、出来るならば師匠に祭屋台の天井画を描いて戴けないかと、その様に思いましてお伺いした次第でしてなぁ」
 突然の話に北斎は戸惑った様に与兵衛の顔を見つめた。
「画を描いて欲しいと言うのは分かりましたが、何分私も鴻山の家に住む居候の分際、相談してからでないと何ともお答えの仕様がございませんでしてな」
「実は越後の高田藩、直江津の祇園神社も今年は見事な本殿が出来上がり、この様な片田舎の小布施でもみすぼらしい祭屋台は曳かせたくないと思いましてなぁ。十分な画料はお出しできないと思いますが、何とか末代まで続く屋台の天井に是非とも師匠に画を描いて戴けたらと思いまして、ご無理を承知でお願いに上がりました」
 北斎の目の前には与兵衛の薄くなった頭が、床に擦りつけるようにして動かなかった。
「年明けまでお時間を戴き、改めてお返事をさせて戴きたいと思いますが、祭は何時頃になさるのでしょうかな」
 北斎にしても関心が無いわけでは無かった。それに頼まれると嫌と言えない性分なのである。
「毎年六月七日と決まっておりまして、五日程で仕舞います。又年明けにでもお伺いさせて頂きますので、なにとぞ宜しくお願いいたします」
 こうしたやり取りが有った年の瀬の、押し迫った日の事である。
「ひとつ旦那様に、聞いて貰いたい事がございましてな」
と、東町の総代を務める与兵衛から聞いた話を、改めて鴻山に語ったのである。
「引き受けるかは先生にお任せ致しますが・・・、実は私もこの小布施の上町の生まれでして、この生まれ育った上町に祭屋台を造ってやろうかと云う気になっておりましてな、つきましてはその上町の祭屋台の天井画も先生に描いて貰えたらと、それにもう一つ、近所に岩松院(がんしょういん)と申す寺がございます。ここの寺の本堂の天井画もお願い出来ればと思いまして」
 小布施の祇園祭に曳き出される祭屋台は僅かに二台、東町と伊勢町のものである。それだけに二つの町組の間に挟まれた上町は、鴻山からすれば肩身の狭い気分であった様である。だがそれよりも北斎には何処かが、何かが違っている様にも思えたのだ。
「ふぅー・・・」
 深いため息が北斎の口から洩れた。
「どうでしょう先生、私が上町の祭屋台を造るとなれば、その祭屋台の天井画を先生に描いて戴けますでしょうか」
 初めて小布施に来た時には、江戸の日々の暮らしから逃れたい一心であった。自分を慕ってくれる鴻山の配慮であろう、何時までも逗留して下さいと言う言葉は、何にも増して嬉しい一言であったと思う。しかし、これは違うのではないかと北斎には思える。家に置いて一人で画を楽しむものとは違い、長い年月を多くの人々に見て貰うための天井画であった。しばらくの時間を置いて、北斎は改まった言い方で話し始めたのであった。

「敢えて今は旦那様とは言わずに、一人の門人として鴻山に話したいのだが、聞いて呉れるだろうか」
 鴻山は改まって聞く事にした。
「どうぞ、お聞きしますのでお話下さい」
「儂は師と門人の関係が、どうあるべきかを考えて居る。と同時に一人の絵師としても考えて居るのだが、師とは門人に対して何を求めているのだろうか、門人は師に対して何を求めているのだろうかと思っているのだ。そして絵師である自分は何を成すべきかをも自らに問うている。簡単に言えば門人である鴻山の故郷に来て、門人である鴻山を差し置いて、儂がこのわしの名前で頼まれたからと画を描いて何とするのか、と云う事なのだ。
 儂はこの小布施に来て、北斎と云う名前で画を描く事が、どれ程の意味があるのかと云う事を考えて居るのよ。儂は名声も金も求めてはおらん。ただ一心に自らの技量を磨く事だけに専念しておる。それ故に儂の門人であるはずのお前が、門人である事を返上したいとなれば儂は躊躇なく筆を取るであろう。
 だが本来、師と門人との真の姿とは、そのあるべき関係とは一体どの様な事なのか考えると、門人が率先して描き、師である者はそれを手伝う姿にこそ、師と門人の真の姿が有るのではないのかと思うのよ。でなければ師は何故に門人を集め、自ら得た技量を門人に伝授するのであろうか。それこそ儂が手にした技量を門人に惜しみなく伝える事であり、その門人を通して世に伝え残す為の事、門人の名声こそが師である者の至上の歓びだと思うのよ。
 儂はなぁ、鴻山よ。師としての在り様は、門人である鴻山の名を広めて貰いたいのが本音よ。それが例え画であれ何であろうがだ。それにどの様な技であれ師と呼ばれる者は皆、その為にこそ自らの門人に自らが会得した技を伝えているのではないかのう」
 鴻山はしばらく黙って居た。そして師である北斎に、まるで一喝されたような思いに囚われたのである。確か北斎の言う事はその通りであった。まるで今まで師である北斎の名声を、何処かで使おうと考えて居た自分を感じていた。それは何気ない日常の商売の様なものでもあった。仕入れれば儲けを載せて相手に売る。しかし北斎は儲けない。金を貯める事も、ましてや使う事も好きでは無い。寧ろ心の中に忍び込んで来る魔と云う卑しさを、取り除こうと毎日除魔図を描いているのである。
「先生、申し訳ございません。私はどこかで思い違いをしていた様に思います。私も絵筆を持って先に立ち、祭屋台の天井画を描きたいと思います。どうかお教え願います」
 寧ろ突然の北斎の話に驚いたのは鴻山の方で、北斎に深々と頭を下げて詫びたのである。心のどこかでは頼めば画の一枚や二枚は描いてくれる筈だと、安易に考えて居た驕りを持った自分が居たのを知ったのである。
「儂の思いが分かってもらえたならそれで良い、岩松院の天井画は大きいと聞いたが、下画は江戸で描いてくるとしよう。上町の祭屋台の下画もわしが描こうと思っている。頼まれている東町の天井画は二月頃までには小布施で下絵を仕上げたい。後は六月までに、どれほど鴻山が彩色できるかにも拠るであろう。どちらにしても又小布施に来る事にはなるだろうが、次に来る時には旅費の支払いを頼むであろうな。しかし小布施で描いた物には、儂は落款は入れぬつもりだ。儂が門人の鴻山と共に描いた画だと、何時までも語り継がれればそれでよし。しかし見る者が見れば判るだろうよ。描いた者の落款でしか画の良し悪しを見られない者ならは、誰がどの様に描いても同じ事さ」
 描いた画の良し悪しよりも、落款で画の良し悪しを決めるとされるなら、誰がどの様に描いても同じだと北斎は言うのである。北斎から発せられた世俗に対する、それは強い皮肉でもあった。

 五、江戸川を往く 六、西村屋の陰謀

五、江戸川を往く
 十八屋が言う本行徳河岸の信濃屋は、行徳舟を降りた目と鼻の先にあった。江戸川や利根川の水運を使い産地で品物を買い求め、江戸へ荷を運んで売りさばく、いわば川舟を使った廻船問屋であった。その主な商いが海の上では無いものの、川は荷を運ぶ重要な商いの道でもあった。
 北斎が十八屋の名前を出すと、直ぐに番頭が顔を出して挨拶をした。関宿に向かう舟は既に用意してあり、北斎達が着くのを待っていたと言うのである。三人はここで用を足して一杯の茶を啜ると、待ち構えていた舟に乗った。この本行徳河岸から江戸川を遡る舟は、行徳舟よりも二回り程大きな舟で、艪を漕ぐと同時に帆を掛けられる様に、舟の中央に帆柱が立てられていた。風の無い時は帆柱を折り畳み艪だけで進と言うのである。更に舟の舳には帆を張るのに邪魔の無い程度の低い屋根が設けられ、雨や寒さを凌げられる様に小部屋が仕切ってあった。
 この江戸川が大日川と呼ばれた渡良瀬川の下流であった頃に始められた利根川東遷事業は、新たな新田開発と共に水運交通路として利根川を銚子浦に向かわせる工事も終わって、今や利根川や江戸川の岸には幾つもの河岸が造られている。それらの河岸と水路を使い、米や塩などの他にも味噌や醤油・味醂や酒なども江戸に運ばれていた。
 
 北斎達が乗った「ひらた舟」と呼ばれる舟の中央には、江戸で造られた家具であろうか、藁で編まれたこもが荷物に被せられ乗せられてあった。他に客は居ない様である。川上に向かって吹く風も水面にさざ波が立つ程で、舟は帆を大きく張って江戸川の中ほどを滑る様に上流へと走り始めていた。
「いい風だねぇ」
 思えば田植えが始まる季節だと、今更の様に思いだして北斎は船頭に声を掛けた。
「へぇ、この時期は今日の様な南風が追い風と成りますもので、川を遡るにはもってこいと言う日和ですかね」
と、舵に手を掛けていた初老の船頭は、愛想よく答えた。
「しかし夜は行徳舟と同じで、江戸川も舟を動かす事は出来ないと聞いているが」
「へぇ、夜に常夜灯の灯りを頼りに舟を動かす事が出来るのは、鮮魚を江戸に運ぶ舟か御用の為に急ぐ舟だけでして、あぁそうでしたもう一つ、六斎船と言う船がありましてね。これは利根川にも上り下りしておりますが、この江戸川では月に六度だけ、関宿の河岸から夜に江戸川を下りまして日本橋まで下ります。船は高瀬舟と申します大きな船で、幅は三間(5m余り)程で帆の高さは七間半(13m余り)、長さも帆と同じ程はありますが、この船の帆が並の木綿布とは違いまして、普通なら二枚重ねとなりますがね、この高瀬舟の帆は縦糸と横糸の二本取りで編み上げているんでさ。舟子は総勢八人ですが酉の時刻(午後八時頃)に関宿の内河岸を出れば、翌朝には本行徳河岸の近く、下今井の新川口に着く事が出来ますよ。船賃は二百四十文で、日本橋まで行かれるなら四十八文の追加となるそうで。関宿の内河岸からその船が出る時刻なんぞは、江戸に向かうお客の為に煮売舟が集まると言いますから、ちなみに秋も終いの頃の上州下ろしが吹く頃は、運がよければ朝に倉賀野河岸を発って翌朝には江戸に着いたなんて話もある様で、お帰りには乗られてみては如何でしょうかね」
 六斎舟の話は初めて聞く話であった。しかしそう言われれば京の伏見を夜半に発って、淀川を下って翌朝には大阪の天満橋下に着く、三十石舟と言う川舟の事を北斎は思い出した。しかも喰らわんか舟と称する食い物を売る舟が、伏見の河港を出る客の為に三十石舟の周りに集まるのである。歌川広重が描いた『京都名所之内淀川』がそれであった。同じような風情が同じような状況に置かれた場所に生まれる事に、北斎は成る程と合点したのである。
「今夜はこのまま行けば、流山宿でのお泊りとなりますから」
 と言う船頭の声がした。
「あっしの方はこっちで寝ておりますんで、なぁに、荷を積んでおりますもので、舟から離れる訳には行かないのでございますよ」
 と、舟の舳に造られた小部屋を指さして言った。

 市川村から先の右手には国府台の台地が続いているが、左手には天明年間に起きた大飢饉の折、江戸で広まった柴又帝釈天の社が葦の原の上から見え隠れしていた。武蔵と下総の国境を流れる江戸川の流れの上を、小さく打ちつける波の穏やかな音が眠気を誘う程に心地がよかった。
 流山宿に接している加村河岸は、銚子浦から運ばれた鮮魚を江戸に向けて送る為の、言うなれば冬場の渇水期に中継地としての役割を持つ河岸でもあった。こうした事から利根川の布施河岸と加村河岸との間を、荷駄が通れる様に整備したのが生(なま)街道と呼ばれた所以でもあった。それ故に水の流れが増えるこの時期は、鮮魚よりも野菜類を江戸に送る荷駄が目立つ様になったと言うのである。そしてこの夜はその流山宿に泊まったのである。
 加村河岸に降りた翌日も穏やかに舟の旅は続いた。朝から帆に一杯の風を受けながらも、船頭はそれでも艪を舵代わりに使い時折は艪を漕いで舟を操っていた。野田あたりからは堤と呼べる程の物が無くなったのは水を田畑に引き込む為で、船頭に訪ねると、こんな事を話して聞かせてくれた。関宿で利根川の流を江戸川に引き込んで来るのだが、その流を引き込む関宿の流入口には、文政五年に棒出しと呼ばれた堤が一対造られたと言うのである。このお蔭で一定量以上の水量が江戸川に入り込まない様になり、それ故に両岸の堤を余り高くする事も無くなったと言うのである。
「先生、あそこに富士の山が見えますよ」
 旅に出で、初めて富士の山を見つけた事が余程嬉しかったのか、為斎はその頂に僅かに雪の残った富士を指さして北斎に伝えたのである。
「綺麗に見えるものじゃのう。富士の山は遠ければ遠い程に、見つけた時の嬉しさが何処か違うと思う山じゃなぁ。浦賀から房州に出掛けた時に、わしが創った自慢の句だがな『八の字に踏ん張り強し夏の富士』、どうじゃ為斎」
「お見事です先生」
 それまで黙って考え込んでいた北斎は、秩父連山の上に半分ほど顔を出した富士の頂を見つめて、まるで子供の様に微笑んで自ら作った一句を披露した。
「おとっつぁんのただ一つの自慢話よね、それって」
 読本を広げて読んでいた阿栄は、笑いながら横から口を入れた。
「先生、富士の山と言えば先生が描いた富嶽三十六景の錦絵ですが、私も子供の頃に初めて見た錦絵の中の富士の山を見て、本当の富士のお山を傍で見たいと強く願った事が有りましてね。そして見る者を誘う様に描かれた画を私にも描けるのだろうかと、そう思った事があったのです。今でも確たる自信はありませんが、あの時に先生が描いた富嶽の画は、何時までも私の中に残って行くだろうと思った事がありました」
「ほぅ、為斎は気に入ってくれた訳だ」
「ええ、良いものはいい、理屈無しにそう思います。あの錦絵の中でも特に好きな画は『神奈川沖浪裏』ともう一枚、『甲州班石澤』(こうしゅうかじかざわ)の画が好きですね。浪裏は一枚の絵の中に、静と動が対峙していて緊張感を感じさせていますし、大きな波を持ってしても動かない富士の山を敢えて小さく描くあたりは、さすがに先生が描いた画だと思いました。
 それに班石澤の画は、そこに川を描いていないにも拘わらず、私には川の流れを感じ取る事が出来ました。そして漁師の投網を引く一本の細い綱と、富士のお山の稜線とが重なって、見る者を風景の中に引きこんでしまう事を感じました。描かれてもいない川の瀬音をが、不思議に響いて来るのを感じます。ですが先生、描かれた富士川の上流の鰍沢からは、富士のお山は見えないと聞いておりますが」
 為斎は見えない筈の風景を、さも見ているが如くに描く北斎の画に、描くと言う技の神髄が有る様にも思えるのだ。
「そうかい、それなら為斎はこんな話を知っているかな、今からざっと二百年も前に生まれた芭蕉の詠んだ句に、『古池や 蛙飛び込む 水の音』と言う句があるが、為斎は蛙が水に飛び込んだ時の音を聴いた事があるかな。元々蛙が水に飛び込む時には、音など出す事はしないのよ。しかし芭蕉は敢えて下五の句に、「水の音」と入れた訳だ。この「水の音」と文字に表し言葉にする事で、その場の情景を思い起こさせると言う、手の込んだ仕掛けをしたって寸法だ。そこにこそ「表す」と言う事を生業にしている者が考える、苦労や知恵や経験が有ると言う事だが、為斎にはわかるかな・・・」
 為斎は表現すると言う事の向うにある、奥深い話を師である北斎から教えられたと思った。
「ところで先生にお伺いしたいのですが、あの富嶽三十六景はどの様な経緯(いきさつ)で描かれたのか、是非ともお伺いできたらと思うのですが、お聞かせ戴けないでしょうか」
 為斎は北斎に入門を許された時、一度は是非とも聞いて見たいと思っていた事であった。二十五歳の為斎が、やっと物心が付き始めた頃に北斎の描いた画の話だったからである。
「随分と昔の事にはなるがなぁ、他ならぬ為斎の頼みだ。舟の上では大した暇つぶしにもなるまいが、思い出すままに話してやろう。しかし今の為斎には未だ判らぬ事もあるかも知れん。しかしそれはそれ、このわしとて今でも思い出せば少なからず背筋が寒くなる話よ」
  

六、西村屋の陰謀
「そうよな、富嶽三十六景を描く話が版元の永寿堂、つまり三代目の西村屋から持ち込まれたのは、今からざっと二十年程も前の文政六年(1823)
の事で、確か春だった様に思うのだが。二代目の西村屋与八とも長い付き合いがあった版元だから、描いて欲しいと言われれば何でも描いてやった訳だが、三代目の西村屋の祐蔵が突然、実は富士のお山を描いてはくれないかと言う話から始まるのさ。まぁ自慢話にも聞こえるだろうが、わしの技量をやっと認めた三代目が長い間胸の中に秘めた願を、このわしが筆を使って叶えてやったと言う話なのだが・・・」
 昔話しを懐かしむ様に語り始めた北斎の話に、為斎は固唾をのんで耳を傾けたのである。

 永寿堂の三代目西村屋祐蔵は日本橋馬喰町の二丁目に店を構える、江戸でも名の知れた読本から錦絵までを手掛ける地本問屋の版元である。そして北斎が画号を春朗と名乗り始めた未だ駆け出しの頃から、この永寿堂とは長い付き合いでもあった。ところがこの富士のお山を描いて欲しいと言う話を持ち込んだ三代目の西村屋祐蔵には、版元とは別にもう一つの顔を持っていたのである。富士講と呼ばれた仙元大日(仙元大菩薩)信仰の、日本橋は馬喰町の講元と言われる顔であった。
 富士講は江戸を中心に今や関東一円に広まった信仰だが、その開祖は室町時代の末期から江戸時代の初めに生きた長谷川角行と言う修験者が、
富士山白糸の滝ちかくにある人穴と呼ぶ場所で、修行を重ねる中で得た信仰である。この富士山信仰は角行が生きた時代以前には、浅間大菩薩信仰、つまり病気快癒や安産祈願、火災除けなどの、いわば信徒が現世でご利益を求める信仰であった。そしてそれは久安五年(1149)頃に鳥羽上皇などの手によって、一切経(五千二百九十六巻)の経典が多くの人の手によって書き写され、富士山頂には大日寺が末代上人によって建てられ、その下に埋納された事に始まるのである。
 だが角行は自らの修行の中で、それまでの浅間大菩薩信仰を更に押し広げて、天下泰平、国土安泰をも含めた信仰として、仙元大日の信仰へと意味を広げたのである。そして正保三年(1636)に修行先の富士山麓にある人穴の、熔岩洞窟に入定して生涯を終えた角行だが、富士山信仰の証として信仰には富士山に登る事を求めたのである。後にそれは登山の費用を講の者達で融通しあう仕組みが考え出され、やがてそれらは頼母子講や無尽講へと繋がりを見せて、江戸時代の末期には江戸市中へと広まっていったのである。
 この富士講は宗教的意味を理解した先達と言う者と、講元、世話人、講員で構成されて、この先達が仮に俗人であったとしても、先達と呼ばれるまではに七度以上、富士のお山に登らなければならないと言う決まりがあった。更に講を率いる講元は講の財務が中心となって世話人を束ね、先達と世話人の橋渡しの役割が求められた。そして世話人は講員への連絡や、登山の世話を一手に引き受ける者で構成されているのである。
 それ故に講元の西村屋祐蔵は講中の人々から月々の掛け金を集め、それを元に四年から五年を一期として、代わり替わりに講に参加した者達と共に富士登山をさせる世話役でもあり、先達からの頼みを実現させて行く者でもあった。既に天保改革が始まる天保十二年頃には、江戸から関東一円にかけて三百以上の富士講があり、夏の六月一日以降の山開きが済むと講の目印ののぼり旗を立てて、揃いの編笠と脚絆を誂えて登山を行うのである。

 文政六年(1823)四月、馬喰町にある版元の三代目、西村屋祐蔵の営む永寿堂の店先であった。
「なぁ師匠、何とか富士のお山をよ、大判の錦絵で揃い物を描いて貰えねえかな。師匠の筆ならよ、誰もが喜んで手にして貰えると、俺は踏んでいるのだがなぁ。それだけに八景物じゃあ勿体ねえと思うからよ、三十六景を揃い物で出したいと考えて居る訳さ。それで足りなきゃあと十景、裏富士とでも名付けて出せればと思っている訳だがよ」
 西村屋祐蔵は何を思ったのか仕事の注文を、思いつめた様な執拗な言い方で話を切り出して来たのである。版元の意向で画を描くのは、絵師にしてみればしごく当然の事である。摺り上げた錦絵が売れるか売れないかは、版元の才覚次第であって絵師の責任では無い。抱えている彫師や刷り師を、ただ遊ばせて置く訳にもいかないのも版元であった。普通なら絵師には自らの意図を伝えて、細かい指図を出して描かせればよい事である。
 だが今度の話は、どこか今までとは意味が違っている様に北斎には聴こえたのだ。
「何を寝ぼけていやかるんだい、なぁ、相手は富士のお山だぞ、永寿堂はそれをたったの大判三十六枚で纏めろってか。わしにはそれでもまだ足りないと思っている位よ。まぁこのわしを納得させるならよ、まずは百枚程は必要だと思っているのだが、どうだい、その位で手を打たないかい」
 今年で六十四歳になった北斎は、何時もの様に開き直った様な言い方をした。強気な性格は何時もの事だと思ってはいるが、最近は大胆不敵な言い方が多い様にも祐蔵には思えるのだ。それが自信の表れなのか、それとも更に高みに自分を追い詰めるためなのか、そのどちらも合っているとも思えて仕方が無いのだ。
 それは北斎が戯作者の曲亭馬琴と揉めに揉めた、三十年近くも前の『絵本水滸伝』の一件を、先代の与八から聞いていたからであった。画に対しての極端な自信過剰な北斎に対し、作家で物語を書いた馬琴は『絵本水滸伝』でサジを投げ出したのは有名な話であった。版元から頼まれた馬琴は代表的な中国の戦国物の『絵本水滸伝』を書き上げたのだが、挿絵に北斎が不要な部分を描いた為に消す様に求めると、それを拒んだからであった。すると今度は馬琴が、それなら本を書いたのは俺だとは認めない、と言う話になったのである。
 それは自らが書いた物語の中に不要な挿絵を描いたと指摘し、省く様にと注文を付けた曲亭馬琴と挿絵に強い自負を持った北斎の、互いの面子を掛けた意地の戦いであった。悩んだ版元は江戸の主だった版元に相談を持ちかけた結果、絵本と題を付けた以上、北斎の言い分が正しいとしたのである。ところがこれに怒った馬琴は、それなら北斎の名前で刊行してくれと言い出し、挙句に本の作者は葛飾為一となり画も葛飾北斎と言う絵本となったのである。(これは現代でもその様に登録されている)
 こうした同じような話は文化五年(1808)にも、馬琴が読本『三七全伝南柯夢』を書いている最中に起きたのである。自らが書いた物語の挿絵に、北斎が勝手に狐を描いた為、無用だから取り除く様にと言った馬琴に対して、無用では無いと反論した事で北斎との確執が決定的になったのである。それは文化十二年(1815)に刊行された読本『皿皿郷談』の挿絵を書き終えた頃の事で、以降の北斎は馬琴からだけでなく、他の版元からも読本に載せる挿絵の仕事は急激に減ったのである。
 そして北斎もこの頃から、錦絵や肉筆画を増やして行く事になるのである。

 昔から版元は本や錦絵を売る為に絵師に画を書かせ、戯作者には物語を書かせて摺り始める前までに、画料や原稿料を絵師や作者に支払うのが仕来たりであった。版元として売る為の目算は付けてはいるが、北斎の言う大判錦絵の百枚は多すぎると祐蔵には思える。
「師匠の言う百枚の話はよ、大判錦絵の揃い物として売り出すには随分と無理のある話だぜ。描く師匠に取っちゃぁ出来るかも知れねえが、揃い物で売るとなればそうはいかねえのが世間の相場よ。まぁ取り敢えずで四十六枚、実はこの話は何が何でも師匠に頼みたい理由があるのよ」
 勿体を付けた訳ではなかったのだが祐蔵としては、何としてでもこの仕事は目の前の北斎にしか描けないと踏んだのである。
「他の絵師では無く、師匠に是非にと頼みたいと言う訳の話なんだが、まぁ師匠だから腹を割って言えるのだが、俺が馬喰町で富士講の講元をやっている事は知っているとも思うが、その富士講がよ、近ごろは毎年の様に講の数が増えて行くのさ。それはそれで有難たい事だとは思うのだが、それに付けても今まで幾度も御上から出されたお触れがよ、今度は何時出されるのか、内容はどんな事を言ってくるのか、そっちの方が心配でよ。そこで長い間考えていた事なんだが御上からあれは駄目だ、これは駄目だと言われる前に、信心しているお山の姿を先に描いてしまった方が良いだろうと言う気になったのよ。
 と言うのも富士講の六世にあたる食行身禄と言う行者さんがな、富士のお山に入定してかれこれ百年近くにあたるのよ。それを大々的に世間に知らしめれば、御上から俺たち富士講への風当たりも増々強くなるのは決まった様なものでよ、で、この際だが師匠にも富士講に入って貰い、富士のお山を描いて貰いたいと思っている訳だ。勿論富士講に入ってもらうのは建前で良いと思っている。師匠が妙見様を信心している事は、江戸の誰もが知っている事、しかし形だけでも富士講に入って貰えれば、富士のお山を描くには随分と好都合になると思えるのよ」
 北斎の信仰に遠慮しながらも、何とか祐蔵は北斎に本心を伝えたかった様である。
「永寿堂はそう言うがよ、こっちは大体が富士講なんて物を全く知らねえのよ、寧ろ解せないものとして思えるのは、仏教でも無ければ神道でもねえ様だし、まぁ永寿堂が一枚かんでいるとなれば、別段怪しいものだとも思えねえが、一体何を信仰しているのか、わしには難しそうでいけねえやな」
 北斎は祈祷する山伏姿の行者と呼ぶ者や、墓石に似たような記念碑の石塔を建てる者達を重ね併せて思い出していた。
「まぁ、そう言われればその通りだとも思えるが、しかしよ、富士講の故事来歴はともかくも、この江戸で百年近くも前に初めて打ち壊しが起きたのが享保十八年(1733)の正月の事。米の買い占めをやられて高値で売りだした事に腹を立て、江戸の二千人もの者達が米屋の高間伝兵衛の店を打ち壊したのが始まりだが、元々はその前の年の夏に西国で起きた蝗害(こうがい=イナゴなどの虫の被害)が影響してよ。餓死者は一万二千人、西国二十七藩を合わせれば餓えた者は二百六十万人ともなったと言われる程の大きな惨事が起きた訳だ。
 江戸の町でも米などの食い物が一気に値上がっただけならまだしも、何処にも食い物が無いとなれば当然ながら火付けや盗賊が増えて、御上の無策を曝け出したと言う訳だ。ところがそれを目にした一人の男が、飢饉で餓えて死んだり御上に直訴して処刑された者達の声を代弁しようと、富士のお山に登って自らが死ぬ事で無言の意志を御上に示した者が居たとなれば、耳を傾けない訳にもいかないだろうというものよ。
 しかもだ、それが学問のある者ならばいざ知らず、そいつは江戸に働きに出てきた伊勢国の百姓の倅だ。名前は俗名で伊兵衛という者だが、後に食行身禄(じきぎょうみろく)と名乗ったが、その出来事から既に今年で丁度九十年目にあたるのよ」
 祐蔵の言った百姓の倅と言う言葉が、何故か北斎の耳には強く気になった。゛
「その食行身禄とと言う人の話を、詳しく話を聴かせて貰ってからなら、永寿堂の注文も聞けると言うものよ、手短に話して聞かせなよ」
 富士のお山を描いてくれと言う永寿堂の言い回しからすれば、仕事とは別の想いを持っている様に北斎は受け止めたのである。

 七、富士講 

七、富士講
「俺も日本橋の馬喰町で、こうして富士講を構える講元の一人だが、正直に云えば詳しい話は聞きかじりだ。しかし大方の話は先達から聞いて納得はしている。その食行身禄と言う行者の御仁だがな、生まれは伊勢国一志郡川上(現・三重県美杉村)の生まれで、寛文十一年(1671)の正月に生まれている。姓は日置と言い、祖先を辿れば北畠家に出ると言うが、後に俗名を伊藤伊兵衛と称する事となる者だ。
 八歳の時に大和国に住む祖母の養子となったのは、家が貧しくて食えなくなった為だろうとも思えるが、十一歳になった時に伊勢の生家に戻されている。これも父親が亡くなった生家の方で働き手が欲しかったのだろうと聞いている。ところが十三歳になった時、江戸の神田本町で呉服店をやっていた親戚の店に奉公に出る事になった。一人で故郷の伊勢から江戸に上る為に東海道を歩き、途中の富士川を渡る辺りで初めて見た富士のお山の姿は、子供の心に強く焼き付いただろうと思うのよ。
 で、江戸に出て働きながらも富士講に入ったのは十七の時だ。この数年後には親戚の店から独立を許してもらい、髪油などから灯り油の行商を行いつつ、やがては小さな店を持つまでになったらしい。この時分には所帯も持って江戸も板橋の平緒町に住む様になった様で、後に四十五年もの間、朝と夕刻の二度に冷水を頭からかぶる垢離(こり)を、一日も怠る事が無かったと言うんだな。そして富士山詣では毎年行い、吉田御師の田辺伊賀、田辺和泉の家を宿と定めていたというのさ。
 この伊兵衛が富士講に入り、月行と言う富士講五世の行者さんの下に付いたのは、恐らく月行が伊兵衛と同じ伊勢国の出だったからだろうと思うのだが、こうして富士登山を幾度も行ったと言う訳だ。ところが富士講がこの五世の段階で光清派と身禄派とに別れてしまったのだが、それ以前の四世の段階では江戸石町に俗名前野理兵衛と言い、月旺と言う人が居た。この人には門人が二人居て、一人は月心と言い、その息子の光清に後を託した光清派の祖となるのだが、もう一人の門人が月行と言い、まぁこの人が身禄さんの師となる訳だ。
 処で後に北口浅間明神(北口本宮富士浅間神社)の社中殿は、この光清が私財を投げ打って北口富士浅間神社として建立再興した事から「乞食身禄に大名光清」と吉田の人々から言われて、今でもそれが語り草にもなっているのよ。だが時代が変わって今は身禄派と呼ばれる富士講が広まった訳で、それも江戸から関八州に富士塚を幾つも造った高田の植木職人の高田藤四郎などがよ、土持ちと称して富士塚を信徒自らが造る為に、石や土を持ち寄る事を考えだした訳でな、身禄さんの弟子たちの力も随分と大きかったのだと思うのよ」
 ここまで一気に西村屋祐蔵は富士講の事を話すと、出がらしの冷めて薄くなった茶を一気に啜った。

「古来、富士のお山の山神は、福慈神とか不尽神などと言われて居たらしいが、平安の頃になると浅間大神とか浅間明神と言う名前に変っていった様で、まぁそれもお山の噴火によって神様への考え方や、影響を受けた人達の見方も変った為だとも思う訳さ。しかし鎌倉の頃には富士浅間宮とか富士大菩薩とか言われる様になり、その後の室町の頃には富士権現とも呼ばれ始めて、菩薩やら権現やらと仏教と神道が重ね合わされた浅間神の信仰も、多分に修験道の霊験所が駿河側の村山に出来た所為でもあるらしいのさ。
 さてと、この月行が没したのは享保二年(1717)の事で、月行から自分の跡を引き継ぐようにと言う希望もあって、伊兵衛は富士講の六世を継ぐ事になった。伊藤伊兵衛はこの時既に四十六歳、髪油の椿油や灯りで使う菜種油を商う、それなりの店を持っていたと聞いている。処で少し話は変わるが、伊兵衛は普段からこんな考えを持っていたらしい。
 それは将軍様であれ武士であれ、食べる事を止めてしまえば人は死ぬ。つまり人は食べる事で生きている事が出来る。これは武士でも農民でもみな同じではないかと。そして女も男も又同じなのだと。
 伊藤伊兵衛が自ら六世を継ぐ時に、自分の名を食行身禄と名乗った訳だが、そこには深い意味があると言うのよ。名前の身禄も受け止めように依れば弥勒菩薩の弥勒とも取れるのだろうが、伊兵衛は時々「身を禄にして」と言う言葉を多く使っていたと言うのさ。禄とは陸(ろく)の事で、水平とか平坦な意味がある。つまり身を禄にするとは正しいと思う事を真すぐに突き進むと言う意味があると言うのだ。世間で普通に使われている「禄でも無い奴」の禄とは、禄がない、つまり他人に嫉妬し、分不相応な見栄を張る人の事を指している訳だ。
 その伊兵衛が享保十五年(1730)に富士の頂に登った時、この時から八年間を自らに苦行を課す事で富士講初世の角行に倣い、八年後に富士山に入定して世上の不穏を自らの身で一身に救う事を決心したと言うのさ。そしてお山を下りると持っている財産や店を処分し、髪油と灯油の行商に戻り自らの暮らしを支え、仙元大菩薩の布教活動を行ったと言うのさ。
 
 それから三年後の享保十八年(1733)頃に江戸では初めての打ち壊しが起き、物価の高騰や米の買い占めが横行して世上が乱れ始めたと言うのだ。餓えて死ぬ者が出始めたり近在の百姓が強訴するなど、そうした事があちこちで起きはじめてたのだが、特に貧しい人々は死罪をも覚悟で、自らの命と暮らしを守ろうとした時代でもあった様だ。
 そしてこの時に伊兵衛は、それまで心に決めていた八年間を前倒しして、この年の六月十日に富士のお山に向かって江戸を出立した訳だ。しかし流石に富士のお山の頂での入定は色々と差し障りが有ると考え直し、十三日には富士山七合五勺にある烏帽子岩の岩窟に籠り、食を断って御上に対しての異議を示す事を行ったと言うのだ。そして丁度ひと月後の七月十三日、雪解け水だけを飲み続けながらの見事な入定だったと言うのだが、この食行身禄が入定するまでのひと月を、吉田に住む富士講御師の田辺十郎衛門と言う者に、この身禄は自らの考えを口述筆記させているのさ。
 御師とは御祈祷師を短くした言葉で、まぁ昔の村人たちは何処でもそうなのだが、作物豊穣の願いや天変地異などの地域の守護は、鎮守様と言う氏神様に手を合わせ、親などの葬儀や追善供養は檀那寺に頼む訳よ。現世ご利益から疫病のお祓い、それに憑き物落しなんて事は山伏に頼んでいた訳だ。こういう山里で暮らす山伏たちの修験者は、里山伏と言われて、家々の前に立って門付けを貰い、お札を売るなんて手合いが江戸の町中にも以前は多く居た様だ。実際に開祖の角行が生きた時代には、そうした事が多かった様だと聞いている。
 今は御上からそうした事は禁じられているが、それはともかくこの時に身禄さんが語ったと言う言葉が、富士講の聖なる書付とされているもので「三十一日の御巻」と呼ばれているものがある。そこにはこんな事が書かれているのよ。
『にんげんが御ぼさつをもつくり申し候得ば、御ぼさつが出来被候、そのほか人間が神といふもの仏といふもの、いさいのもん、にんげんがこしらえ申し候得ば、何にも出来候』と身禄さんは語っているのさ。
 詰まる所、神も仏も地獄も極楽も、全ては人間がこしらえたもの、その様に思えば畏れるものは何も無いと、そして入定するまでの三十一日の間に、こんな事も話しているのよ。
『天地の祭り(政治の事)に叶たるは、士農工商の四民なり、人渡り相助けに其の働きを以、万物を調えるは本也、其司取四民の内、位官高禄を請し人、無位無官の下つがた迄、元一体也、 凡、千畳の床楽しむといゑども、身置所一畳にしかじ。万石の宝蔵に満といゑども、喰の一字也」
 身禄さんに取っての士農工商とは身分の差ではなく、本来は相助け合うべき四民なのではないか。何故なら四民の元は一体だからであり、この世界は四民によって成り立っているのだと考えて居た訳だ。そして例え千畳の広間で宴が毎日の様に行われている暮らしだとしても、自分の居る場所は一畳の広さではないか、と言っている。そして更に続けて
『喰の一字は八十八の真の菩薩。己が体に納まるより外に他事なし。命を持つ元なり。命無くば金銀富満ちても、何の益かあらん。能人を見て鏡とせば、真玉の雲も晴れて、さ有人には日月の光り身に相じやうじて、真玉光りもいやまして、人間の善悪も惣に現れん・・・・』
 つまり生きるとはまず食べる事であり、真の菩薩とは八十八と書く米の事を意味して居るというのさ。まさに命こそ八十八と書く米を体に入れる事であり、それこそが命の元なのだと。

 この身禄さんの死によって、弟子たちは富士山信仰を更に広める事となる訳だ。後に身禄さんの娘だったハナが富士講を継承して七世になったが、
御上は身禄さんが入定した九年後の寛保二年(1742)に、富士講の御水と呼ばれる水売りを禁止させ、安永四年(1775)や寛政七年(1795)には富士講の数珠を使った祭文を唱える事や護符を出す事さえ禁止してよ、更には線香で行う富士講の護摩炊きあげも禁止すると言うお触れが出されたのよ。それ以降にも享和二年(1802)、文化十一年(1814)と、忘れた頃に富士講に対する禁止令や御触書が出されて、規制が繰り返された訳だ。
ちなみに身禄さんは生前、それまで女人禁制だった富士のお山に、初めて富士講の女人を登らせている。しかしそれも二合目改所までと定められ、女人禅定場から山頂を拝するのみだと言うのよ。
 後年に身禄の弟子だった伊藤参行と言う人に入門した小谷三志と言う者が、身禄さんの考えを更に積み上げてそれを不二道と称して京にでかけ、公家や文化人たちに広めて多くの信徒を得た様で、その後に講中の高山たつと言う女人を始めて富士の頂に登らせる事をやってのけたと言う事だが、処でなぁ、今でも身禄さんは富士のお山の七合五勺、烏帽子岩の岩窟から江戸の町を見ておいでだ。どうだ、こんな処が俺の知っている富士講だが、少しは師匠にも分かって貰えただろうかな」
 
 正直、北斎は驚いていた。神も仏も人間が作りだしたものだと、そういう事をはっきりと言う信仰を今まで聞いた事がなかったからである。寧ろ信仰と言うよりも、互いに人が助け合うと言う大切さを説いた、いわば信仰とは別の意味合いの在る様にも思える。
「わしも永寿堂には正直に言うがよ、わしは信仰と言うよりも、まつり事の在り様を説いている様にも聞こえるぜ。言っている事はしごくもっともな事ばかりだ。まぁわしも昔から妙見様を信仰している訳だが、神も仏も人間が創ったものだと言われれば、北の空に光る妙見様も怒りはしまい。幾度もお山に登る事はできねえが、まぁそのあたりは永寿堂にまかせるわな」
「ありがてえ、しかし師匠の思った事はその通りよ。まつりごとの在り様を説いたのだからこそ、御上から嫌われているってわけさ。そこでだが、これだけは決めておきたいのだが、富士のお山を描いて貰うにあたってよ、開版は今から五年後の文政十二年頃にしたいと考えている。理由は四十六景の刊行を終えるのが、身禄さんが入定してから丁度百年目の今から九年後の七月にしたいと思っているからよ。
 師匠がその後に富士のお山を百枚描くのは任せるが、富士講の連中にに開版次第話は付けて置くつもりだ。それともう一つ、初版は三十六枚だが毎年十枚程を出せれば御の字よ。最後の一枚はよ、富士講の連中も喜ぶ様な画を描いて貰いたいと思ってな」
 目論見を隠して目的を果たす手の込んだ方法に、北斎はかつての版元蔦屋重三郎や伝蔵(山東京伝)の事を思い出していた。
「なぁ、永寿堂の思惑も近頃は大分手の込んで来たように思うが、かつての蔦重の域にはもう少しって処か、まぁ良いだろうて、わしの方もわしなりに色々と仕込んでみたいと思ってな・・・」
 半分呆れた様に北斎は永寿堂の祐蔵を見て笑った。世に出す者と出されたら困る者との凌ぎ合いは、時代が幾ら移り変わっても何ら変わる事が無いように北斎には思える。
「そりゃあそうさな。最初から富士講の姿を錦絵で出したなら、途端に御上から刊行を止められるわ。最後の一枚に富士講を描いてこそ、こちらの目論見が通ると言うものさ」
 祐蔵も北斎の笑に引き込まれて、おもわず苦笑いをしたのである。

 八、富嶽四十六景 

八、富嶽四十六景
 北斎が語った永寿堂の西村屋祐蔵との話は、若い為斎には良く意味が飲み込めては居ない様であった。北斎はそれを感じたのか、補う様に言葉を付け足したのである。
「まぁ、富士のお山を大判錦絵で都合四十六枚で描く事が決まったのは、何を隠そうこの時のことだ。鼻っから全ての事情を表に出せないのは、そこには何時も御上の意志と言うもんがあるって事よ。だから思う訳よ、版元の永寿堂が富士講の講元としてそれまで抱えていた役割を、わしが何とか取り除いてやったのかもしれねえと思う事があるのさ。
 何故ならよ、どれ程に画が売れようが絵師には画料か入らない訳だ。そして危ない橋を渡るのは版元と同じで、今度の画だってよ後から考えれば随分と危ない橋だったと思うのよ。しかしこの時から富士のお山を描く為に、わしも随分とあっちこっちと動いた気がするのよ。それに確かこの年だったと思うが、わしは富士のお山が季節や時間や天気に応じて、変化して行く様を描こうと頭の中で考えて居た事があってな。
 だから永寿堂と組んで刊行した絵手本の『今様櫛捦雛形』の下画に、木曾で採れた峰棒(ミネバリ)の木で造る名産のお六櫛や、煙管職人達の為にと描いた隅に「富嶽八体、四季晴雨風雪霧天の造化に随ひ、景色の異なる筆端に著す」と書き記した事があった。どんな富士を描くか、大凡の構想はこの頃から頭に描いて居た訳だ。
 そんな事があった二年後の文政八年の夏の事だ。甲州街道を大月から吉田に出たわしは、富士講の者達と富士のお山に登った事が有ってな、後に富嶽四十六景を完結した翌年、今度は富嶽百景の初編を出したのだか、その中に載せた砂走りの道を、踊る様に駆け下る富士講連中の様は、今となれば懐かしい思い出だが確かこの時だぜ、富士のお山の烏帽子岩の下で入定した食行身禄の骸を見てよ、それまでわしが描いて来たものが取るに足りないものだって事を思い知ったのよ。身禄さんはよ、奴は他人の為に骸になったんだよな。
 だからその後に描いた富嶽百景の跋文の中によ、「わしが描いた七十歳前後までのものは、実に取るに足りる物は無い」と書き添えたのさ。わしがそれまでやってきた事はよ、上手く描く事ばかりを考えて単に紙の上に絵筆を走らせただけの事。誰一人として他人を救ってやりたいなど考えた事も、救った事も無かったからさ」
 少しの沈黙が、為斎には随分と長い様に感じられた。
「ま、それだけにあの富嶽の構想には、良い画を描く事が富士講の連中に喜びが与えられる、そう思う事で多くの経験や描く技や想いを入れる事が出来たと思っているがな。そこで画号も北斎改為一筆として最初に描いたのが『神奈川沖浪裏』だ。房州に出掛けた時に見た欄間彫り物師の波や、司馬江漢の描いた波を更に自分の物にする為よ。揺れ動く大波に翻弄される御仕送舟と、その波に揺れる舟にしがみつくの者達の上に、誰もが自分自身を重ねる筈だ。その向こうには身じろぎもせずに聳える富士のお山との対比は、まさにこの世そのものの姿ではないのかのう、尤も見る者がそうした見方をして呉れたらよ、こっちとすれば万々歳よ」
 
 聞いていた為斎が、やっと口を開く事が出来たのは、余にも北斎の話に強い想いを感じたからかも知れないと思えた。
「先生はあの富嶽の最初に刊行した十枚の落款には、確かに北斎改め為一筆と入っておりますが、その後に刊行した画には前北斎為一と、画号を変えられておりますよね」
「あぁその事か、あれはな刊行したその年の三月に、神田佐久間町から広がった火事でよ、永寿堂の店が焼けちまってな、その時に偶々版木の『山下白雨』も焼けちまってよ、それだけは後で彫り直したのだが、そこで残りを全て前北斎為一と改めたと言う事よ。しかしあの富嶽三十六景の後に刊行した十景の事をよ、世間じゃあ富嶽三十六景が好評で追加したと思い込んでいる様だが、まぁ世間とはそんな所よ。何事も手前の都合の良い様に解釈するものさ。こっちはどっこい、鼻から四十六枚を描く手筈さ。ただそれも御上の目を欺く為、要はこの富嶽四十六枚の最後に富士講の連中が、お山に登る姿を入れた一枚を入れるが為、だから掉尾(ちょうび)を飾るとは、実は富士のお山では無くてな、お山に登った富士講の連中の事なのよ。奴らはお山に登る前には水垢離を行い、登る最中は一切食べ物を口にも入れず、誰もが等しく同じ命を持つと言う思いを願って、今でも眠る身禄のお山を汚すまいとした思いに、わしは心から感心したものよ。だからこそあの錦絵の中には一切富士の姿を入れず、題も『諸人登山』と入れて最後に刊行した錦絵だが、右隅に身禄の骸が眠る鳥帽子の岩窟を描いたのだが、登らない者には何の事なのかさっぱりわからない仕掛けでもあるのさ。それになぁ、わしの思いもその絵の笠を見れば分かる様に仕掛けがしてあるのだが、為斎には分かって貰えたかな」
「いいえ、何の事か分かりませんでしたが」

「わしはな、何時も思う事なのだが、見て分かる者が分かればそれで良いと思うておる。全ての者に分かって貰う事など、何事にもありえる事では無いと思うているからよ」
 北斎は少し不機嫌言い方で、為斎をたしなめる様に言った。そして今度は諭す様に富士のお山の話を続けたのである。
「富士講の者達は須走からお山を降りると、今度は足柄峠を経て大山詣でへと行くことなる。富士の神でもある木花咲耶姫の親は、大山祗命と言われているからだ。わしは富士講の者達と須走で別れ途中の籠坂峠では『甲州三嶌越』を描いた後、吉田から河口湖の『甲州三水面』を描き、更に伊沢(石和)に泊まった。翌朝に朝早く『甲州伊沢暁』を描いて笛吹川を下り、富士川と名前の代わる鰍沢河岸の近くで描いたのが『甲州班石澤』だ。更に富士川沿いを下って『身延川裏不二』を描き駿河に入った訳だが、為斎の知らない事を言って置くぞ。富士のお山は今まで多くの絵師達によっも描かれている。同じ場所から富士のお山を二人の絵師が描けば、富士のお山の大きさの違いはあるにしても、姿や形は同じ様になるであろうが、わしはそれを嫌う故に、かつて描いた絵師の画を、わしは参考にしているのよ。
 例えばだが『富嶽百景』なる画集は既に百年も前の明和四年(1767)に、『百富士』としてわしと同じ葛飾に生まれた河村岷雪が描き終え、美濃本四冊にして既に刊行しておるのよ。画は江戸近郊からの姿や甲州街道沿いからの風景、更には東海道からの姿、そして遠く富士の見える様々な場所から描いておる。わしはそんな幾つかを、構図の参考にさせて貰った事もある。つまり真似ると言う事の話を、この際、為斎にしておきたいのよ、。
 
 それはわしか未だ群馬亭と名乗っていた若い頃に、西洋画を取り入れようと長崎まで行った絵師の司馬江漢に教えをうけた事があった。わしより十三歳程年上だが寛政八年(1796)に、奴は西洋の遠近法を取り入れ、相州鎌倉七里ヶ浜図を油彩で描いた事があってな、生まれ育った芝の愛宕神社に絵馬としてその絵を奉納しているが、その絵はまるで空を描いた様な風景画であった。
 その翌年、わしはわしの描き方を江漢に見せる為に、奴が描いた同じ場所で風景を描いた事があってな、それを『柳の糸』と言う江戸狂歌の第五巻、浅草庵市人編の絵本の『江嶋春望』として載せてある。わしはわしの描き方で描いたまでの事、後で調べて見ると良いだろう。それにわしが描いた『北斎漫画』にしても、既に狩野派の筆法で『諸職画鑑』や『略画』として寛政七年には鍬形蕙斎が刊行しておるし、後に『鳥獣略画式』『人物略画式』更に『山水略画式』と寛政年間の終わり頃には刊行しておる。しかしそれさえも、かつて平安の時代に描かれた『鳥獣人物戯画』なるものを、鍬形蕙斎も又同じように真似たと言う事なのだ。つまり描いた技法は異なるにしても、その伝授の方法は昔から何も変わってはいないと言う事よ。今でも巷に北斎は真似上手と言う噂も聞いてはいるが、真似て真似以下なら笑われもしようが、真似ても真似た以上のものであれば、誰も文句は言うまい。わしはその様に思っているののよ。
 富嶽を富士のお山周辺で描いた後に、途中に江ノ島に立ち寄って江戸に戻ったと記憶している。まぁ描くとは、まずは歩いて良く見る事だ。それに他の絵師の描いた画を見る事や、良いと思う画を真似る事も大事な事よ。しかしくれぐれも言っておくがな、模写する事と真似る事を混同するなよ。模写とは書き写すだけの事だが、真似るとは先人が追い求めて描いた物を、今度は己が追い求めると言う事よ。先人が何を追い求めたのかも知らなければ、知ろうとしなければ真似る事すら無理と言うものよ。
 これは何も画を描く事だけでの話では無いのかも知れぬが、いずれにしても大事な事だ」

 良い画を描くには、まずは歩いて対象を良く見る事だと言う。そして他の絵師の描いた画を見る事、真似る事だと言うのである。しかし画を一枚描くにもそこには幾つもの思いと駆け引きとがある事を、為斎は僅かだがこの時に初めて理解したのである。そう言えば富嶽の最期に刊行された『諸人登山』の画の笠に仕掛けがしてあると師の北斎は言っていた。ただ単に表面を見ていた自分を、情けないと為斎には思えた。
 そして為斎は記憶の中で諸人登山を思い出していた。この画だけは何処にも富士の山を描いては居ない、それでいながら富嶽なのである。岩だらけの山道には登る者や下る者が居て、確か右上の岩穴には髪を束ねてもいない富士講の者達が集まっていたが、笠をかぶった者達四人と笠を外した者が二人、まさに北斗七星の位置であった。隠し画なのか絵解きなのか、師匠はやはりこうした遊び好きな師匠だと為斎には思えた。
 それならあの石室は食行身禄が入定した岩穴なのであろうか。その食行身禄が入定して丁度百年後に、北斎の筆によってその出来事が甦った訳である。為斎は今になって富嶽三十六景と十景の、隠されていた出来事を知ったのである。『諸人登山』と言う、たった一枚の画を世に送り出す為に、その前には四十五枚の画が描かれたのである。
 それ故に画を理解するとは、描かれた背景を知り、その描いた者の想いを理解する事なのである。少なくとも北斎の描いた画はそれが見方なのだと為斎は確信した。そう言えば『甲州三坂水面』の画も、湖面に映る逆さ富士は横にずれ、水面に映る富士の頂には何故か白い雪が描かれている。北斎は描く事を楽しんでいる様に思えた。

「あと半刻で関宿(せきやど)に着きますが、予定より少し早く着く事が出来そうで。着きましたら舟番所の舟改めがございますが、終わりましたらお泊りは利根川を境の渡しで渡って頂いた向こう側。明日の舟は境河岸からの出立と聞いております」
 船頭の良く通る声が静かな江戸川の水面に響いた。既に江戸城の富士見櫓に似せて造られたと言う、御三階櫓と呼ばれた美しい姿の関宿城がそこに見えていた。

 九、浦賀遁走 十、頼まれた肉筆画

九、浦賀遁走
 本行徳から乗った舟が関宿城下の内河岸と言う所に着くと、舟は利根川を下り銚子まで向かうのだと船頭は言った。聞く程の事でも無かったが、一緒に運ばれて来た箪笥の行方は、恐らくは銚子の商家辺りの注文の品であろうと北斎は思った。
 舟改めが行われ関宿城下の内河岸で舟から降ろされたのは、そろそろ夕暮れが近づいて来た頃である。大手門を左に見て江戸町と名の付く町場を迂回する様に、今度は搦手門の前の納谷町を抜け大工町と呼ばれた境の渡場に着いたのは、丁度常夜灯に灯の点った時刻であった。振り返れば関宿城の周りを五丁ほど歩いた事になる。
 この関宿と呼ばれる城下は古くは戦国時代に上杉氏と北条氏が、この地を奪い合う為の合戦が行われた程に、水運の要とも言うべき場所であった。確かに越後を後ろに控えた上州と呼ばれる上野国や、奥州奥の細道に向かう下野国、更には徳川御三家の一つ水戸藩が構える常陸国など、武蔵国を囲む平野の真中を流れる利根川を挟み、まさにいずれもの国境となっている事で事情は大まか理解に出来るのである。それに利根川の向うの境宿は、日光東往還と呼ばれた脇街道の一つでもある。
 その関宿は言うなれば下総国の領地が関東平野に突き出た、いわば陸の中の岬とでもいえる様な場所なのである。境の渡しに乗っての向う岸に着くと、境宿は茶屋と旅籠を合わせて二十軒程が街道に沿って立ち並び、河岸には浜方問屋と呼ばれる海産物の問屋が四軒、河岸問屋が二軒と意外にも大きな宿場であった。今夜はこの境宿での泊まりであった。

 翌日の朝である。信濃屋から乗った舟の船頭に教えて貰った通り、倉賀野河岸に向かう舟を旅籠で案内され、三人は何とか乗る事が出来た。ここからは毎日二度程が客を乗せて利根川を往き来していると言うのである。三人は利根川を遡る舟の中に居た。阿栄は昨日から舟の中で、一人黙々と読本を読んでいた。江戸川よりも川幅は三倍位は広く、流れも幾分早い様に思える。しかし大きく張った帆は昨日と同じように南風を捉え、確かに上流へと運んでくれている事が分かる。しかし客は少なく、どちらかと言えば荷物を後ろに多く載せていた。
 舟が日光街道武蔵国の宿場である栗橋宿と、対岸の下総国の中田宿の間を繋ぐ房川渡しを横目に見ながら上流に向かっていた時である。隣に座っていた客が下総国の葛飾郡古河から出てきた事を知らされ、為斎と北斎は面食らった。
「向こう岸は未だ下総国なのでしょうかね」
「ああ、古河のお城までは下総の葛飾郡だが、あんたらは何処からこられたね」
 それを聞いていた為斎もそして北斎もが驚いた。下総とは成田山や松戸や流山辺りまでだと思っていたからである。それに北斎の生まれた処は葛飾郡の向島だからだ。葛飾北斎の葛飾は、生まれ育った地名から来ていたからである。特に下総国がこんなに遠くの、日光街道の栗橋宿の向うにまであるとは考えてもいなかったのである。
「二年前にはよ、日光の権現様参拝に将軍様もお通りなさった街道さ」
 為斎と北斎は、そのまましばらく黙りこんでしまったのである。 

 しばらくして川の正面の右手には上州の赤城山が、そして左手には榛名の山が見えていた。為斎は又北斎に聞きたいと思っていた事を尋ねる事にした。
「先生、私は昨日先生が言われた富嶽の話を伺いながら、これまで思い描いて居た事とは別に画を描くと言う裏側にも、随分と生臭くそして泥臭い背景がある事を知りました。言葉を発しないにしても、見る人には見る事が出来、理解出来る人には理解出来ると言われた先生の画は、そうした想いで描かれているのだと知る事が出来ました。ですが先生は富嶽を描き百景を描いた後に、三年程を浦賀へ身を隠されたと世間では言われていますが」
「何かと思えば今度はその事かい。永寿堂とは手紙のやり取りをしていた訳で、仕事も多少はしていた訳だからよ、身を隠していたとか遁走したとか言われるのは心外だが、ある意味ではそう取られても仕方がねえかと思う節もあったから、今まで黙って居た訳だ。実はな、まだ富士講との関わりが終っちゃあいなかったと言う事よ」
「ですが先生、既に富嶽三十六景と十景も錦絵として刊行して、富嶽百景も描かれて天保六年(1835)までには初編から三編まで、前北斎為一改画狂老人卍筆として西村屋さんから出された筈ですから、富士講とはすでに関係は終えたのではないでしょうか」
 為斎は富士講との繋がりで浦賀に行ったと言われても、俄かには信じられない思いがしたのである。
「実はな為斎、富嶽三十六景を追いかける様に十景を刊行し終えたのが天保四年(1833)で、食行身禄が入定してから丁度百年後だが、その二年後の天保六年には富嶽百景の三編も刊行し終えた訳だ。だが一年前の天保五年に永寿堂に対して御上から、今まで以上に厳しいお触れが出るかも知れないと言う話が飛び込んで来た事があったのよ。富嶽百景の初版が刊行された年だ。どうも描いた中の見開きの一枚『不二の山明キ』と『辷り』が、富士講を描いて居るとして刊行してから指さされた様なのだよ」
 為斎は不二と記された笠をかぶり、沢山の富士講の者達が山道を登って行く画と、砂走りを踊る様に駆け下りてくる画だったと思い出した。
「そもそもが講とは神仏など、一つの場所や物事に対して、同じ思いや信仰心を持つ者の集まりの事だ。つまりお伊勢さんなら伊勢講と言うし、観音様の信仰は観音講と言う。木曽の御嶽山は御嶽講と言ったが、その中でも富士講はその考え方から士農工商などの身分や男女の性の差別を批判し、早い話が江戸庶民はそれに共感したと言う訳だ。
 一方の苦々しい思いをしている御上から見れば、富士講の信仰に対して足を引っ張りたいのは当然の事だろうよ。わしが描いた富嶽の画でも富士講の文字が一文字でも入っていれば、たちどころに刊行は止められていたと言う訳だ。何故ならそれが神仏ならば寺社奉行と言う御上の手の中にあるのだが、神でもなければ仏でも無い富士講は、全く持って掴みどころのないと言うのが本音ではなかったかな。何せ神も仏も人間が創りだしたものだと、正面切って言っているのだからよ」
 北斎は更に話を続けた。
「永寿堂に対して内々知らされた話では、富嶽三十六景と十景は絵草子掛名主の許可を受けてはいるが、刊行したものを即刻回収して刊行を中止せよ、と言う内容だったらしい。それに付けても富嶽や富嶽百景の画を、富士講の為に描いたと見抜いた辺りは流石に御上よ。富嶽百景の『不二の山明キ』や『辷り』をと題した画を見るべき者が見れば、笠に不二と書かれている訳だから、富士講を嫌う者なら一目瞭然という処だ。しかし御上はそれが刊行した後の事であれ、お見通しだったと言う訳だ。この時にわしに江戸から離れて欲しいとした永寿堂からの使いが来て、慌てて浦賀に出掛けたって寸法よ。
 永寿堂は奉行所から呼び出され、富嶽四十六景の最後に刊行した『諸人登山』と、富嶽百景の初編本を直ぐに回収せよと申し渡されたらしい。ところが永寿堂はこう言い返したらしい。
『北斎の描いた画の中には富士講などの文字も一切なく、故に刊行を止められる理由が分からりません。既に絵草子掛名主様の許可を得ての刊行。もし富士講を描いたからだ、富士講の信仰する富士のお山を私が描かせたと申されるのであれば、御上がつくられた仕組みを、御上自らが否定し壊す事と同じ事かと思います。江戸市中を始めてとした富士講の講員は、御上のなさる仕打ちに対して、言いがかりとして受け止めると思われます。
それ故にもし今回の件、お許しいただけるのであれば、このままお目こぼしを戴き御静観される事の方が御上に取っても得策かと、私共もこれ以上は御上が富士講の者達の為にではと思われる様な画は、今後一切描く事も刊行する事も御座いませぬ故に、如何でしょうかな』
 と、こんな話があったらしいのさ。
 このわしが描いた富嶽の錦絵の話で御上が騒げば、間違いなく富士講の連中も騒ぐはず。されば天下も騒ぐと考えた挙句の果ては、わしを捕える事も永寿堂を捕える事も出来ずに見送ったというのが本当の所だ。何故ならその世間さえもが四十六景と百景を描いた二つの富嶽が、富士講の者達の為に描いた画だとは誰も思ってはいないからよ。誰もが思っては居ない事を、敢て御上が富士講の為に描いたなど言い出し始めたら、それこそやぶ蛇と言うやつだろうからな」
 北斎が永寿堂と二人で考えた目論見は、ものの見事に達した事が功を奏したのか、以降は富士講へのお触れが出る事は無くなったのである。だが為斎の疑問は更に続いた。
「しかし先生は随分と浦賀に長く居た様ですが・・・・」
「その理由は永寿堂に送った手紙にあるのだが、手紙の裏にわしは自分の名を「土持仁三郎」と名を記している。この「土持」の意味は、富士講の高田藤四郎が考えて始めた、富士講信徒の為の小さな富士を自らの住いの近くに造ろうと言う、富士塚のいわば一つの試みよ。江戸には富士のお山が見える場所を富士見と称し、沢山の場所にその名がつけられている。そこで小さな富士の山を作り、その山に登って富士のお山を拝む。これが土持の始まりで、一握りの土や一個の石をみんなで持ち寄って、小さな富士のお山を作ろうと始めたのがその運動という事だ。
 だから西村屋に対して出した手紙には、当初はこの隠語である土持仁三郎を使っていたのよ。しかしその内に、三浦屋八右衛門の方が気に入ってな。今でも手紙にはわしも阿栄もが三浦屋を使っているわい」
 少し話過ぎてしまったと北斎は思ったのだが、為斎は未だ好奇心一杯の顔であった。
「それにもう一つ、身内の話になるが、わしの父親の名は鏡研ぎ師の川村市良衛門と言うが、相州西浦賀にある廻船問屋倉田屋の二代目は籐三郎と言い、故あってこのわしの父親の弟が跡を継いでいるのよ。倉田屋の先代には子供が居なかったからで、それでこの叔父である元の屋号が三浦屋で名前が川村八右衛門、そんな訳で屋号の三浦屋と八右衛門の名を今でもこのわしが使っていると言う訳よ。偶々その叔父が亡くなってな、葬儀に出た折から浦賀に留まってだけの事、今の倉田屋は三代目が跡を継いでいるが、わしが描いた『諸国瀧廻り』の仕事も、実はここでこなしていた訳だ。
 しかし浦賀で過ごしたあの時程、金のねえ暮らしをした事は無かった。思わず永寿堂に書き送った手紙に『布子一枚にて寒中を過ごし、日々精進を重ね、いよいよもって上達それのみが楽しみ』と書き送った位だからな。捕えられるかもしれねえからと、浦賀に向かったのは永寿堂からの知らせだが、元々浦賀にも、こうしたわしの身寄りも居たのでな。それにこの富士講の話が出てくる少し前の事だが、もう一つ、御上から目を付けられていた事もあったのよ」
 勿体ぶった様に師匠の北斎は、若い為斎に向かってまた話を続けたのである。

十、頼まれた肉筆画
 北斎が門人達の為に描いた画本『略画早指南』は、定規やぶんまわしと呼ぶコンパスを用いて描くもので、前篇が文化九年(1811)、そして二年後の文化十一年には文字を崩して画にする為の後篇を刊行している。その後篇の中には『すべてのゑハ、おのれがこころひとつよりくふうしてゑがくときハ、しんらばんぞうそのかたちならざることなし』と、研鑚を積み重ねて来た自らの姿勢を書き留めている。
 これを追うように『北斎漫画』と呼ばれる絵手本の初版は、同じ年の文化十一年(1814)に名古屋で刊行されている。名古屋に住む牧墨僊宅に春から秋まで滞在した時の事で、かつては喜多川歌麿の門人で武士でもあった牧墨僊から、是非門人にして頂きたいと請われてそれを許した後、大阪から紀州や吉野を経て伊勢に旅した時であった。
 三百余りにもなる人の姿や物の形を描き貯めてあった画帳を見た名古屋の版元永楽堂は、是非ともうちで刊行したいと頼み込まれ刊行したのが北斎漫画であった。ところが刊行してみると買い求めてくれる者は門人だけでは無く、画を描いてみたいと言う世間の人々も買い求めてくれるようになり、やがて永楽堂からは毎年一冊を目途に刊行させてくれと言う話になったのである。そこで江戸にも版元が必要だろうと言う話になり、二編以降は江戸での版元となる角丸屋が共同で刊行する事となった。こうして文化十四年の春にも再度名古屋の門人である牧墨僊宅に滞在すると、今度は四国まで足を延ばして翌年に江戸に戻ったのである。

 ところが文化が文政に改元したばかりの年、つまり文政元年(1818)三月の初めであった。江戸に戻った北斎の許に、北斎漫画の初版本を見たと言うブロムホフと言うカピタンから、画を描いて欲しいので定宿の長崎屋に来て欲しいと言うのである。(処でカピタンとはポルトガル語で仲間同士の長を指す時に使う呼び名である。元々はポルトガルの商館長を敬称する意味でカピタンと呼んでいたのだが、取引相手が阿蘭陀の東インド会社へと変り、そのまま日本語として商館長の事をカピタンと呼んでいるのである)四年毎に行われる阿蘭陀カピタンの、恒例行事でもある江戸参府の直前の事であった。
「そもそもこのわしがカピタンに頼まれ画を描いたのは、このブロムホフと知り合う十九年も前の事よ。つまり寛政十年(1798)に狂歌師の浅草庵市人が書いた狂歌本『東遊』と言う色刷り本に、異人宿の長崎屋を描いて呉れと版元の蔦屋から頼まれた時の事だ。この狂歌師の名は伊勢屋久右衛門と言う質屋の店主だが、こいつの狂歌本の挿絵は、わしが全て請け負っていたからだ。
 で、江戸日本橋石町にある長崎屋は、その看板にも長崎屋・紅毛人旅館と書かれている通り、江戸では随一のカピタン達の定宿だ。元は唐人参を一手に扱う事が許された薬種問屋が本業だが、四年に一度に阿蘭陀商館長のカピタンが医師や書記を連れての江戸参府と、毎年御上に提出する阿蘭陀風説書を書記が届ける時にだけ、この長崎屋に逗留する事になっている。
 とは言っても四年に一度のカピタンの江戸参府は、将軍様が御目通りする日が毎年三月一日か三月十五日のどちらかに決められ、二月の半ばまでには江戸に着かないと、その御目通りの日も決まらない。御上との御目通りの日も決まらなければ挨拶も出来ず、後の交易も許されるかどうかも分からない大事な意味があった訳で、つまり二月の半ばから三月半ば過ぎまでは、カピタンは必ず長崎屋に泊まっていなければならなかった訳だ。
 このカピタンが江戸参府の折に江戸の人々は、異人を観たさに長崎屋付近は大変な賑わいとなる事から、江戸に新たな名所が増えたと言っても良い位だ。何せ異人は背が高くて髪は赤毛、肌は白いし眼は青い。今まで一度も異人の姿を見た事の無い者には、鼻の高さから鬼か天狗の化身に見えたのだろうが、となれば木戸銭払っても見たいのが人情と言うものだからよ。
 わしは長崎屋の窓の下に集まる江戸の人達に気さくに手を振り、話しかけている異人の姿をこの時に描いた訳だが、その挿絵がこの翌年に刊行した狂歌本の『東遊』と言う訳だ。この時のラスと言うカピタンがわしの描いた下絵を見て、感心したように巧い物だと通史を通じて行ってくれた事を覚えているが、名前を聞かれただけで画を描いてくれと言われたが、簡単な似顔絵を描いて渡したら喜んで持ち帰ったと言う話さ。
 だが文化五年(1822)に二度目の江戸参府をしたカピタンのブロムホフから、どうした訳か名指しでの注文が舞い込んで来た。来年の秋には故郷の阿蘭陀に帰るので、ついては画を描いて欲しいと頼み込んで来たのよ。市中に出回っている書画や錦絵は、金を出せば買い求める事も出来るものだが、しかし肉筆画は注文して描く訳で屏風絵も同じ事だ。受け取りは来年三月に江戸に来る筈の、書記に渡して欲しいとその若い書記のフィッセルを紹介してくれた。わしはその時、画には落款を入れる事は出来ない事や風俗や風情、風景ならば描いてやると請け負ったのだが、ところがブロムホフの注文の一つには、物語を書きこんだ肉筆の春画にして欲しいと頼まれたのよ。
 つまりこの国の文化として出回っているなら、出回っていのとるも同じものが欲しいと言う訳だ。肉筆画で春画の注文を受けるのは武家や商家からの注文が殆どで、流石に滅多に注文など貰う事も無いものだけにと少しは考え込んだが、出来るだけ大きな紙に描いて欲しいと言う求めに応じて、わしは大奉書に折り目を入れて畳み、綴じ込む折帳仕立てで仕上げる事にしたのよ。
 何せ大きさは大判錦絵の倍ほどで、その大奉書全紙で確か十二枚を描いた筈だ。それに同じ男女のまぐあいだけでは面白味に欠けるから、半数は敢えて群交図とする画を描き『春宵秘戯帖』とした題を入れ、久しぶりに腕を奮ってみたのだがよ。奴らには物珍しいだけの画では無かったかと思うのさ。それにこの時は花や屏風絵、美人画なども描いた江戸の歳時記『東都勝景一覧』などの他、求められるままに刀や冑、それに鎧まで描いた覚えがあったのは、頭に国とか異国とかが全く入って無かった為だろうな。
 
 為斎は未だ五つか六つの頃だろうから知らんだろうが、ブロムホフの注文から六年後の文化十一年(1828)に、国禁を破ったとして医者のシーボルトが国外追放になった事件は、わしにも全く関係が無かったと言う訳には行かなかったのよ。自らの国を閉ざしてやる限られた交易は、お互い同士どうしても相手を知りたいと言う欲望が生まれる訳で、寧ろ中途半端にしている事に問題が生まれたとわしには思えるのよ。 
 ましてや新しい知識や技術を持った異国が相手なら、怖れない方が不思議な話だろうよ。考えてみれは怖れていたのは御上自身だったかも知れねえな。開けても怖いし閉めても怖い訳だからよ。防衛上とは言え何時までも閉ざして居れば、何れは無理に開けられてしまう。そんな事は壷に蓋した様な物で、中身を知りたければ力をいっぱいに入れて蓋を開けるだろう。開かなければ壷を割ってでも中身を知ろうとするだろうよ。 
 だからよ、あの蝦夷地の地図を写させるなどの事件で、武士も町人も役人達の誰もが、呑気に狭い島の上で胡座をかいていた事を今更の様に思い知ったと言う事よ。御上は地図や武具、果ては城や町などに関する全てを国外に一切出してはならないと言う事を、あのシーボルトの事件があって初めて本気で決めたのだからな」
 まるで醒めた様な北斎の言い方が、為斎には何となく理解出来た。首を甲羅に隠した亀の様に神経だけを張りつめながら、この国の幕府は他の国の動静を探っている姿が哀しい程に見えて来るのである。

 幕府がこのシーボルト事件が起きるまでに外国船がこの国に近づいて来る事には、耐えず神経を尖らせていた事は多くの資料や蘭学者の日記からも推測できる。そして歴史的に起きた出来事と重ねれば、物語や絵空事で無かった事は明白な事であった。
 文化六年(1809)、つまり北斎が馬琴や柳亭種彦の挿絵に多忙だった頃、阿蘭陀カピタンのドゥーフから、ロシアとイギリスが協力して日本に軍隊を派遣する可能性がある旨を幕府に伝えていたのである。それ故にこの年に江戸湾の警備をより具体化させるなどして、翌年には会津松平家には三浦半島一帯を、更に白河松平藩には房総半島一帯の警備の担当とさせた。
 その二年後の文化八年(1811)には、南千島列島のクナシリ島へ測量に来たロシア船艦長のゴロウニンを松前藩の役人が捕え、函館で二年余りの間監禁した。それに報復するかのように同じロシアの副艦長が翌年の八月、クナシリ島の沖合で高田屋嘉兵衛など六名を拉致してカムチャッカに連行したのである。
 結局この交渉は文化十年(1813)の五月から始まり、相互の交換と言う事で決着をみるのである。そして八年後の文政四年(1821)に、幕府は蝦夷地を松前家に返還する事になる。しかしその三年前の文政元年(1818)から、外国船による様々な接触が始まっていたのである。この文政元年にはイギリス商船のブラザース号が浦賀に来航し、三浦半島一帯の防備を任されていた会津松平家が、小舟で外国船の周囲を取り囲み追い返す事件が起きた。文政五年(1822)には同じイギリスの捕鯨船サラセン号が浦賀に来航して、今度は川越の松平家が会津松平家と同様に小舟で周囲を取り囲み追い返す事が出来た。
 ところが同じ年の五月には、常陸国大津浜に十名以上のイギリス人が小舟で上陸した。幕府の代官は彼らを直ぐに捕えたが、外国人の上陸を認めない旨伝えて六月に船員を解放したのである。そして八月に入ると、今度は薩摩の屋久島の先、奄美大島までの間に浮かぶ十二の小島から成るトカラ列島にイギリス船が来航し、翌日には牛を奪う為に島民に発砲する事件が起きた。
 幕府の役人はこの時、一人を射殺してイギリス船を追い払ったのである。幕府はこの二つの事件を踏まえて、文政八年(1825)に、異国船無二念打払い令を出したのである。
  
 話は翌年の文政九年(1826)の事で、江戸は未だ寒い日が続く二月の末であった。突然北斎の許に訪ねて来たのは馴染の十八屋、小山文右衛門であった。その文右衛門が珍しく北斎に頼みがあると訪ねて来たのである。
「手前どもの店は師匠もご存じの日本橋にありますが、その向かいの日本橋通りを挟んだ本石町三丁目には、カピタン宿の長崎屋がございます。実はそこの長崎屋源右衛門さんから、是非にと頼まれまして伺いました。実は逗留しているカピタンが師匠にぜひ画を描いて貰いたいと、ついては至急長崎屋に来てはくれないかと申しまして、何でも師匠の書きました『北斎漫画』十篇を見て全て買い込み、この絵師に描いて貰いたいと決めたそうで。
 しかも急いでおりまして、江戸を出立するまでにひと月しか時間が無いと申しております。但し描いて貰えるのであれば、代金として百五十金を用意していると申しておりましてな。画は人物を男女を別にして巻物に其々に描いて貰い、男女を其々一巻ずつ欲しいと言っておりまして」
 全く同じような話が八年前にあった事を北斎は思い出していた。確かその時は商館長のブロムホフであった。しかしあの時は描く期間も一年の時間を貰っての仕事であったが、今度はとにかく慌ただしい様な話である。
 処で百五十金とは一分金百五十枚の事である。一分は一両の四分の一、つまり三十七両の金を用意しているという事である。並の馬なら一頭が、或いは武士の刀が二十五両程度の時代であった。
「つまり百五十金で描けるものをと言う事なのでしょうが、分かりました。とにかくこのわしに描いて欲しいと言う以上、伺わない訳にはゆかんでしょう。早速今夜出かけましょう、仕事柄で長崎屋さんは知っておりますが、あちらさんに行く前には十八屋さんに寄らせてもらいます」
 その日の夕刻に北斎は本所から日本橋へと向かったのである。

 日本橋本石町の長崎屋は八年も前に江戸参府のカピタンブロムホフから、画の注文を貰い訪れた事のある場所であった。しかし小山文右衛門の紹介で筋を通して十八屋に寄り、その文右衛門と同行して長崎屋に来たのである。
 長崎屋の敷居を跨ぐと源右衛門が姿を現した。
「これは師匠、御呼び立をしてしまして、こちらから師匠の所へと伺うつもりでございましたが、八年前の場所には既におられず、十八屋さんの事を思い出してお願いに頼みました。さっそくカピタンの処にご案内を致しますので」
 カピタンがくつろいでいる部屋に通されると、今年が初めての江戸参府だと言うカピタンのスチゥーレルが座っていた。そしてカピタンは同行して来た長崎の街絵師、川原慶賀と言う男と引き合わせたのである。しかし通史を介しての話は画の話になると、時間がかかるだけで要点が掴めないでいた時である。、
「忙しい所を申し訳ございません。私が通訳を致しましょう」
 と、出島に出入が許されている絵師の川原慶賀が、二人の間に入って話し始めたのである。それによると、前にカピタンだったブロムホフから北斎の評判は聞いており、カピタンの名前はヨハン・ウイレム・スチューレル。日本人の画を描いて欲しいというのである。しかし長崎に戻るまでの時間が無く、急がせて悪いが何とかお願いしたい。と言う様な話であった。しかも期限は三月二十日までにと言ったのである。
「問題は描く内容です。どの様な画を望んでいるのでしょうか」
 と北斎は聞いた。
「もし描いてくれるのなら、この国の人々の暮らしている姿を描いて欲しい、日本人の生まれてから死ぬまでの出来事を、男女一対にして描いて欲しい。男女を別に子供の時の祝い事、から大人になるまでの暮らしの風情を入れ、更に余裕があるのなら別の紙には日本人の働く姿などを」
 北斎は頭の中で描く題を思い浮かべて決めていた、七五三の祝い、凧揚げ、端午の節句、結婚式、花見、などであった。
ところで落款は入れる事が出来ない事や、一人で描くにはひと月で五枚か六枚程度である事を伝えた。しかしスチューレルは首を横に振るばかりである。ならばと北斎が提案したのは、門人達を集めて手分けをして描く事であった。下画は全て北斎が描くにしても、彩色は阿栄や為斎も、載斗やその載斗にも門人が居た事を思い出した。それは北斎の画業の中で初めて取り組む、門人を集めての工房的な作業であった。

 十一、北斎の工房

十一、北斎の工房
 暫くの間はカピタンのスチューレルと通史、そして街絵師の川原慶賀が訳す言葉で確認をしている様であった。やがて川原慶賀が、北斎にこんな話を伝えたのである。
「もし描いて戴けるのであれば、私の国で私は資料館を作りそこに飾るつもりです。資料館とは珍しい物や美しい物など、そこに訪れる人に知って貰う場所であり、理解して貰うきっかけになる所です。あなたの描いた画を観る事で、私の国の者達はこの国の人々の暮らしを知り、理解したいと思うでしょう。その為に私は、私の国でつくった紙を用意して来ました。ぜひとも私の国の紙に描いて欲しいのです。わたしは初めてこの国に来ましたが、今も余りこの国の事は理解出来ません。しかし相手を理解する事は大事な事です。なぜなら私の国の人もこの国の人も、哀しければ泣き嬉しければ笑います。私は今年の八月には阿蘭陀に戻ります。ぜひともお願いしたいのです」
「それでは門人達と共に描く事をお許しくださると」
 北斎はもう一度確認した。
「誰が描いたかよりも上手で、分かり易い画が何よりも大事な事です」
 スチューレルの希望は単純で明快だった。
「紙の大きさからすれば、画の枚数は大凡で十二枚から十五枚程となるでしょうが、宜しいですかな」
 北斎は再度、念を押した。
「よろしいでしょう。カピタンはその様に言っております」
 川原慶賀はカピタンの顔が頷いたのを見て北斎に言った。と、その時であった。隅に座っていたもう一人の異人が声を上げた。川原慶賀が暫く話を聴いて北斎に伝えたのは、その男からの新たな注文であった。
「私にも同じ様な画を描いては戴けないかと申しておりますが、こちらの異人さんは医師のシーボルトと申します」
「同じものですかい」
 怪訝な顔をして北斎はその声を上げた異人を見た。西洋人はまるで馬か牛の様に大きくて威圧的だと思った。すると又しばらく話していた川原慶賀が、北斎に向かって意味を伝えたのである。
「同じものであっても構わないが、私の方は画だけでなく、下画も含めて描く手順の分かる物全て欲しい。と申しております。それにこのシーボルトは医者ですが、植物学者でもあり独逸人でもあります。独逸は同じ西洋の国ですが、陸続きに幾つもの国がございましてな」
 シーボルトの注文の意味が北斎には良く飲み込めなかったのは、何の為に欲しいのかが伝わってこないからであった。しかし出来る処まではやってみよう、北斎はそう思い直した。
「それではお引き受けいたしますので、出来上がりましたら又お届けに参ります」
 北斎はそう言って座った椅子から立ち上がった。
「いいでしょう、お願いします」
 カピタンのスチューレルも立ち上がり、北斎に笑顔で手を差し出した。

 四年に一度の江戸参府で長崎から江戸に出て来るのは、商館長のカピタンと書記、そして商館付きの医師の三人である。しかし四年に一度の将軍とのお目通りは新たな贈り物を持参しての旅となり、警護の者や馬を曳く者など数は少ないにしても地方の小藩の参勤交代の様相となる。長崎から江戸までの日数は片道で凡そひと月、長崎を正月に出て下関までは陸路で行くが、下関から兵庫までは瀬戸内を舟で行く。更に大坂からは川舟で淀川を遡り伏見まで行き、更に陸路の東海道を歩いて二月半ばまでには江戸に入らなければならない。そして三月半ばには江戸を出て、長崎に戻らなければならなかった。 
 それに江戸参府にはもう一つの意味がある。阿蘭陀風説書を届ける事であった。商いは東インド会社が窓口だが、阿蘭陀風説書は阿蘭陀国から日本国への連絡書の様なものである。そこには世界で起きた様々な事が記されている。ちなみにこの年の翌年に書記が江戸に届けた風説書の内容には、この様な事が書かれている。文政十年(1827)のものである。
『当年来日した阿蘭陀船二隻は、六月八日にバタビア(※)を同時に出航、海上問題も無く長崎に着いたが、途中仲間の船を見失うも、後の船はまもなく到着すると思われる。又この二隻以外に阿蘭陀船は居ない。昨年長崎から帰帆した二隻の船は、十二月二十四日にバタビアに到着した。東インド付近は静かであるが、ヨーロッパ諸国のフランス・イギリス・スペインの間で戦争が起こると言う情報がある。タイ王国が交易の為に、バタビアに使いをよこす。ペルシャ国がロシア国に攻め込んだが、ロシア国が勝利した。トルコの都府コンスタンチノーブルで、軍隊内の反乱が起きたが、速やかに国王が鎮圧した』
 商館長ヘルマン・フィリツクス・メイラン 文政十年閏六月三日(1827年7月26日)
(※バタビアとは阿蘭陀植民地時代のインドネシアの首都ジャカルタの事である)
 船はバタビアから長崎まで毎年夏にやって来ては、秋の北風に合わせて戻って行く。ほぼ一年に一度は、こうした情報を携えて長崎に入港していたのである。

 北斎は早速、娘の阿栄に門人を集める様に伝え、阿栄は江戸に住む門人に声を掛けた。門人達の力を借りなければ、短い期間では賄いきれない程の量であったからだ。
 載斗、北渓、北馬、などが集まって来てくれ、阿栄を含めて仕事の分担を決めたのである。まずは画題を考えなければならなかった。北斎はカピタンの希望する画題を上げていった。武家、武家の奥方、町家の男、町家の娘、茶屋と往来、これらは人の姿と町の風情を表したかった。更に井戸掘り、提灯張り、土手工事、雪の渡し、西瓜の陸揚げ、素麺作り、浜辺の漁師、洗い張り、大工など、働く姿を現したものである。そして年末年始の年始まわりや凧揚げ、端午の節句から花見など、四季のを移り変わり入れた題を考えた。花魁と禿や大川端の夕涼みから初夏の浜辺など加え、武士と従者、武士の乗馬などもン人付け加えた。下画は北斎が全て行い、彩色は其々門人達の得意とするものを選んで描かせたのである。
 こうして約束の三月二十日には無事に納める事が出来たのだが、最期にシーボルトから画料をまけてくれと言う話がでて来たのだ。北斎はシーボルトに向かって、こんな事を言ったと言う。全ての日本人はあなたの国の人間を見たら、未来永劫にわたって値切る国の人間と思うだろう。その火付け役にあなたの名前、シーボルトの名前が永遠に引き合いに出て来るが、それでもいいか。と聞いたと言うのである。
 シーボルトは苦笑いをしながら代金を支払ったのである。
 しかしこの頃に幕府お抱えの絵師狩野派の文書「古画備考」には、カピタンに画を売っていた絵師として既に北斎の名前が上げられていた。その事実を北斎が知ったのは、このシーボルトが蝦夷地の地図を写し、国外に持ち去るなどの大それた事をしでかし、国禁を犯したとして国外追放となった事件のすぐ後の事であった。この事件では地図を写させた幕府天文方・書物奉行の高橋景保など十数人が処分されたのだが、景保はこの事件の最中に捕えられ獄死したのである。
 いつの間にか辺りは薄暗くなり始めていた。舟が妻沼河岸に着いたのは、江戸を出立してから三日目になっていた。天気と風次第ではあるにしても、明日の昼過ぎには倉賀野河岸に着けるかもしれないと言う船頭の言葉に、思わずあと半分以上の旅が待っている現実にと引き戻されたのである。

 倉賀野河岸は利根川の支流である烏川(からすがわ)を遡る事凡そ三里、柳瀬の渡しを越えて暫くすると船はやっと帆を下して艪を漕ぎながら進んで行った。小高い丘に囲まれた様な急に川幅が狭くなった場所に河岸はあった。確かに沢山の川舟が繋がれ、河岸の向にも河岸問屋が並んでいた。
「お客さん、着きましたぜ」
 船頭の声が聞こえたのは幾艘もの船が繋がれた岸の近くであった。舟の上に板が張られて桟橋の代わりをしていた。
「降りましたら河岸を背にしてまっすぐ行くと、倉賀野宿の真ん中あたりに着きますんで、その辺りが宿場でも一番賑わう中町と申します。前の道が中山道となっておりますから、高崎宿に行かれるのなら左に曲がればと思います。どうぞお気お付けて」
 高崎宿には本陣も脇本陣も無い事は、北斎も既に知っている。譜代大名のお膝元の宿場で泊まる事は、極力ご遠慮したいと言う北国大名の思惑が見え隠れする。二年前に出された中山道宿村大槻帳にも、旅籠の軒数は三十二件、本陣一つに脇本陣二つとあった。西国大名は中山道を歩き、ここから例幣使街道を経て日光へと参拝に行く宿場であった。それに利根川を使った水運の拠点とも呼ばれるのが、この倉賀野河岸でもあった。駄馬でここまで運ばれた越後や信州の米や荷物は、その多くが高瀬舟と呼ばれる船底の浅い舟に乗せ換えられ、江戸にと運ばれるのである。江戸までの運賃が、駄馬で運ぶ陸路の半分で済むからであった。

 船頭の声を背にして河岸問屋が並ぶ蔵の道を行くと、船頭が言う様に倉賀野宿の真中に出た。旅籠の軒数を数字で言うよりも、目で見ればその宿場の大きさが実感できるほど、ずらりと街道の両側に旅籠が並んでいたのである。
「先生、随分と大きな宿場で、一年前に通った時には然程感じなかったのですが、これだけ並んでいると何か落ち着きませんよ」
 思ったままを為斎は口に出したのだが、北斎も同じ事を感じた様であった。
「わしもそう思った処だ、大名達は次の高崎の城下を遠慮してこちらに泊まると聞くが、未だ陽も高い様だ、わしらは高崎に宿を取りたいと思うが、阿栄はどうだ、しばし足慣らしよ」
「おとっつあんの良いようにして、私は構いませんから」
 高崎宿まで歩いても一里、久しぶりに歩く北斎の足を見て、為斎にはどこか軽そうに見えた。三人は久しぶりに草履の紐を締め直し、高崎宿へと向かったのである。  (以下、下巻に続く)  下巻は2015年1月に刊行を予定
  

北斎の陰謀 (上巻)

北斎の陰謀 (上巻)

弘化二年の五月も半ば、娘の阿栄と若い門人の為斎を連れ、絵師の葛飾北斎は信州の小布施に向かった。小布施の門人の高井鴻山が造った上町の祭屋台天井画を描く為である。物語の上巻はこれまで北斎の謎とされていた富嶽三十六景と富士講の謎について、更に浦賀で暮らした数年間の訳と、カピタンに頼まれた肉筆画の話を、今まで集めた資料に基づいて描いてみた。 又物語の下巻では、信州の小布施で造られた東町祭屋台と上町の祭屋台の天井画の謎、そして岩松院の天井画の事、更に松代の次席家老小山田壱岐と松代藩勘定方の宮本慎助に渡った北斎の描いた大量の日新除魔図、そして今でも信濃の黒姫に近い雲龍寺に残る為斎の描いた双隻の片方、大作『玉巵弾琴六曲屏風』の龍図など、信州の松代と江戸とを結んだ北斎と北斎を囲む人々の晩年の物語である。

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 三、北斎と鴻山 四、為斎の疑問
  2. 一、行徳舟 二、回想
  3.  五、江戸川を往く 六、西村屋の陰謀
  4.  七、富士講 
  5.  八、富嶽四十六景 
  6.  九、浦賀遁走 十、頼まれた肉筆画
  7.  十一、北斎の工房