広重、海道を往く 《下》 歌川広重伝

《上巻のあらすじ》
 「東海道五十三次之内」の成功で、広くその名が世間に知られる様になったのは、何も広重一人だけでは無い。思いもよらず仙鶴堂の鶴屋喜右衛門が亡くなり、保永堂が一手に刊行した事で、その版元である竹内孫八も又その一人であった。
 しかし「東海道五十三次之内」が完結した天保五年以降、広重に保永堂が注文を出したのは「近江八景之内」など僅か数点だけである。この時期に保永堂の孫八は、妖艶な美人画を描く事で知られた渓斉英泉に声を掛け、次の「木曽街道六十九次」全七十図の話を進めていたのである。柳の下の泥鰌を、もう一匹捉まえる為であった。
 この英泉が描いた「木曽街道六十九次」の、日本橋から本庄までの十一図を刊行したのは、「東海道五十三次之内」を完結した翌年の天保六年の事である。ところが保永堂の孫八が絵師として任せた英泉は、この木曽街道の十一図を刊行した直後の二十二番目の岩村田宿の図に、わざわざ盲人達の喧嘩図を描いて手を引いてしまったのであった。
 困った保永堂の孫八は、同業者である版元錦樹堂の伊勢屋利兵衛に版権を譲る事を考え、自らも木曽街道のこの企画から手を引く事を考えた様でもあった。しかし錦樹堂から後を引き継ぐ絵師として、筆筋の似ている広重を名指しされたのである。「英泉と広重の競作」とすれば版権を買い取るとした話が纏まり、保永堂は広重に頼み込み助けを求めたのである。
 この時既に英泉は、他にも十三図の下絵を描き終えていた。広重としては残された木曽街道四十六図を描けば良かった訳である。しかし日本橋を入れた七十図の宿場の内で、英泉が描いた上州高崎辺りから美濃までの風情は、古い名所図会を参考にしていた為に、幾つもの宿場を飛び越えて描かれていたのである。広重はその飛び飛びになった街道絵図を描く為、英泉の描いた木曽街道の宿場を飛び越える様に、自らの足で街道を歩き宿場名所を描いて行く事となった。
 それにしても雪の曙と題する日本橋を入れた十一図の、殆どの錦絵から渓斉英泉の落款が消されていた。そこには絵師と版元との生々しい確執の傷跡が、落款の無い錦絵から見て取れるのである。更に英泉の描いた残り十三図も天保七年には保永堂から刊行されてはいたが、そこにも初回の十一図同様に、絵師英泉の落款は殆ど外されていたのである。

 こうした絵師と版元の関係を他所に見て、自らの足で翌年の天保八年には雨の中津川まで歩いて描き、今度は錦樹堂から広重の落款で二十六図が刊行された。更に広重はその年の晩冬から東海道の名古屋城下の宮宿に向かい、更に木曽路の信州落合宿に着くと中津川の晴れを描き、木曽街道と東海道との合流する大津宿までの、残りの二十一図を描き上げた。これらは全て天保十年の春に、難産の末ではあったが刊行するに至ったのである。
 木曽街道の任された全て画を刊行し終えた時、広重は一切自分に相談も無く、何故に保永堂が英泉に木曽街道の話を持ち込んだのか、それが広重の推測ではあるにしても、少しは分かる様な気がして来た。思えば「東海道五十三次之内」は、全て広重一人が仕組んだ着想であった。画は言うに及ばす街道の風情から季節まで、一切が広重の頭の中で永い時間をかけて考えたものであった。保永堂が版元として考え、広重に頼んだ仕事では無かったのである。それは保永堂と言う版元の、力でも無ければ信用でも無かった。それ故に孫八は自らが考えた仕事と、正面から向き合いたかったのだと思えるのである。

 思えば東海道を下り美濃から近江へと街道を描き、大津からは念願であった京と大坂を含め、四国の丸亀まで足を延ばし、その幾枚かは直ぐに注文に使う事も出来た。昨年暮れに版元の藤岡屋彦太郎こと藤彦版で、十五枚揃いの「本朝名所」と題した錦絵の中に、大坂天保山や播州舞子之浜、摂州布引之瀧など京より西の新たに出かけた風情の幾つかを、広重はしっかりとそこに入れる事が出来たのである。
 初めて広重が錦絵の外枠を外し、尚且つぼかしなどの摺りの技術を減らし、柔らかな色彩を多用して八枚を描いたのは「東都司馬八景」であった。そして同じ八景物の「江戸近郊八景之図」を、佐野喜版で刊行したのも昨年は秋の事である。

《天保十年六月(1839年)》
 梅雨のじっとりとした雨が、このところ毎日の様に降り続いていた。だがその雨も少し前から止んで、雲の合間からは薄日が久しぶりに射し始めていた。とは言え数日来の長雨で道はぬかるみ、下駄でなければ到底歩く事は出来ない程に、道のあちこちに水たまりが出来ている。そんな折に広重を訪ねて来たのは、馬喰町の江崎屋吉兵衛であった。広重とはこれまで付き合いも無く、互いに顔は知っていると言う程度の関係で、言葉さえ交わした記憶も無い版元であった。
「広重師匠には、お初にお声を掛けさせて貰います。又突然にお訪ねを致しまして、申し訳なく思っております。手前は日本橋馬喰町に店を構えます江崎屋吉兵衛と申します。折り入ってお願いがございましたもので、お伺いさせていただきました。と申しますのも先の保永堂さんからお出しになった、あの東海道五拾三次之内を見させてい頂きまして、私どもが思って居た風景の錦絵と言う常識を、大きく覆すものと大変感心した次第でございます。まっ、つきましては今一度、新たな筆で東海道の姿を捉えて頂けないものかと、この様に思った次第でお伺いしたのでございますが」
 慇懃すぎる程の丁重な挨拶ではあったが、要は仕事の依頼であった。

 「突然のお話とは言え仕事のお話を賜り、大変ありがたく思っております。そちら様のお話は分かりましたが、さて突然のお話で直ぐに、はいそうですかとも言いにくうございます。ですが私もあの北斎翁同様に、わざわざお越しいただいてのお仕事のお話、頼まれたお仕事は極力お引き受けする様にはしております。しかしながら既にさる版元から、中判での五十三次を頼まれておりまして、これは来年の夏には刊行のはず。ましてやこれから取り掛かるにしても、大判はかなりの時間がかかると思います。中判又は間判ならば全てを描き終えても一年と少々、恐らくは彫を入れて摺りに廻して、出来上がるまでにはざっと二年半程はかかるかと。と申しますのもあれ以来、御蔭様で様々なご依頼のお話も多く頂戴しており、不本意ながらお時間を頂戴している次第でございます」
 広重はありのままを、正直に話したつもりであった。
 「私共は師匠もご存じの通り、錦絵を扱うのが商売の版元、これまで国芳師匠や国貞師匠など役者絵を主にお願いしておりました。しかしご時勢とは言うものの、昨今は役者絵や美人画は、以前とは比べ様に無いほどに売り上げも減りまして、この際、遅ればせながらとお願いに参った次第で。時間は何時でもとは行きませんが、出来るだけ早くして頂くと言う事で、間判の大きさで何とか早くお願いしたいと、かように思っている次第でございますが」
 目の前で話している江崎屋を見つめながら、広重は自分と同じ位の年齢では無いだろうかと思った。それにしても仕事を受ける前に、一言伝えて置かなければならない事があった。
 「もう一つお話しておかなければなりませんが、手前の画は既にお気付きかとは思いますが、実景と同じように描き写す事とは違い、最も描かなければならない場所や対象を、絵筆によって探して描いております。故に不要な物があれば取り除き、必要なものと思えば雨や雪を降らせ、風を吹かせて風情をより一層趣のあるものに仕立てます。これが広重の画だと心得て頂ければ、あとはいか様にもいたしましょう」
 広重の描いた画には、風景をそのまま写し取ったものは殆ど無いといっても良い。あの東海道の日本橋の画さえ、そこに犬がいた訳でも、大名行列が通り過ぎた訳でも無かった。しかし日本橋と言う主題通りに、この橋は旅立ちの場所であり、河岸の隣にある生活の匂いのする場所である。画にそれを入れる事で、日本橋の持つ意味を表現したのである。
「無論ですが存じております。だからこそ師匠の画は好まれているとも思えます。ぜひ何とかお願い出来ないかと、今師匠がお受けしているのが中判であれば、私の方は間判の大きさでお願いしたいのですが・・・」
「明年の夏ごろまでで宜しいのであれば、何とか描く事が出来るとは思いますが、それで宜しければ・・」
「結構でございます。いや助かりました。ありがとうございました。突然に押しかけて来ての初めての注文で、又伺わせても頂きますが、一度私の店の方に足を運んで頂ければと・・・」
「近々寄らせて貰いましょう。今後とも一つこれを機に、宜しくお願い致します」
 ものの半刻で江崎屋は引き上げて行った。こうして新たな版元との取引は増えて行くが、すっかりと姿を見せなくなった保永堂の孫八の事を、広重は不意に思い出したのであった。

 処で、画の大きさは紙の大きさに由来する。大判とは大奉書と言う元々の紙の、竪を半分に二枚に切った大きさで(三十九センチ×二十六センチ)ある。更にその大判の半分が中判(二十六センチ×十九センチ)と呼ばれる。又間判(あいばん)とは、大判と中判の間の大きさで、元々こちらは小奉書紙の半分の大きさで(三十三センチ×二十サンセンチ)一尺一寸×七寸五分となる。

 広重には縁もゆかりも無く、まして関心の無い幕府の老中首座の席に、水野忠邦と言う出世欲の塊の様な男が納まったと知ったのは、ついひと月前に起きた出来事であった。高名な絵師で蘭学者として知られた渡辺崋山と、蘭学者で医者でもあった高野長英が捕えられたと言うのである。高野長英がどの様な者で、どの様な理由で捕えられたか広重には知る由もないが、渡辺崋山が捕えられた理由は、幕府を批判する書き付けを持っていたからだと言う。
 だが天保六年の五月に、曲亭馬琴の嫡男だった宗伯が亡くなった時、渡辺崋山はその宗伯と同じ画の仲間であったとかで、通夜に来ていた崋山に対して、馬琴は息子宗伯の死絵を描いて欲しいと頼んだと言う。崋山は快く引き受けると眠っている様な宗伯の顔の覆いを取り、その顔に触れながら死絵を描いたのである。その時に広重も、そこに居た記憶があった。崋山が宗伯の顔を覗き込む様に描いていた事を思い出し、あれが渡辺崋山だったと、後になって初めて知ったのである。死絵は普通、逝った者を記憶に呼び覚まして描く物だが、眠る様な宗伯を見つめて描いてくれたと、馬琴は涙を流して喜んで居たと後だ聞いた話であった。

 それにしても三河国田原藩の家老でもある渡辺崋山が、幕府を批判する書付を所持していた為に捕えられた言うが、無理やり取って付けた様な理由を、押し付けられたのかも知れないとも思えるのだ。穏やかだった時代がいつの間にか騒がしくなって、老中首座の水野忠邦の執拗な出世欲の所為だと、江戸の市中は騒ぎ始め出したのである。
 広重がこれまで描いた多くの画の中に、正面切って江戸城や大名家の屋敷など、断りも無く描く事は一度として無かった。それは恐らく幼い頃に父親が言った「相手が何者なのか、しかと見極めよ」と言う言葉が、何時も心に突き刺さっていた様にも思えるからであった。かつては旗本の武士であった広重が、それ故に幕府や武士を馬鹿にする事も無く、又へりくだる事も無く寧ろ避けていたと言っても良かった。そう思った瞬間に、広重の脳裏にあるひとつの画が浮かんだのである。過去に一度だけ、断りも無く広重は、八朔御馬献上の一行を描いていたのである。(※1)しかしこれは錦絵とは違い、絹地に絵筆を使って描き上げた肉筆画であり、葵の御紋も入れずに未だ表には出した事も無い行列図であった。御馬献上の際に高家の武田様に献上したいと、敢て徳川の御紋なども書きいれずにいた肉筆画であった。

 処でこの老中首座に納まった水野忠邦の事を、ここに少しだけ書き留めて置きたい。徳川家慶が十二代将軍職に就いた天保八年からこれまで、さほど話題にも上らなかった老中水野忠邦に対する江戸市民の批判が、日々辛辣なものとなって来たのには様々な理由があった。元々水野忠邦が老中の首座に就くまでには、まさに幾つもの話が市中に流され、天保の時代を語るに外せないとすれば、この老中の水野忠邦を於いて右に出る者は居ないであろう。
 この水野忠邦は九州唐津藩の第三代藩主水野忠光の次男で、兄の芳丸が早世した為に唐津藩の世子となるのである。しかし忠邦は江戸幕閣に昇進する事を熱望し、藩主となって直ぐ、二十五万石の唐津藩から十五万三千石の浜松藩に、何と自ら転封を願い出たのである。転封とは幕府からお咎めを受け禄高を減らされ、領地も異なる場所に移り住む事であり、所謂左遷と言う意味合いがあった。それ故に自ら転封を願い出るなど、常軌を逸した行動だと見られるのである。
 唐津藩は元々幕府直轄の長崎警護の役目を抱え、幕閣に入る事は夢の又夢であった。この時、多額の金を撒いて禄高の減る浜松藩への転封話は、藩内でも強い反対運動が起きていた。中でも水野家の家老である二本松義廉は、主君の行いを諫める為に自ら切腹した諌死(かんし)事件まで起こしている。しかしそれでも忠邦の転封の気持ちは強く、直ぐにこの事が江戸幕府の幕閣に知られる処となったのである。
 こうした藩内の家臣から聞こえる様々な反対の声とは別に、忠邦が願う転封の話が幕閣まで届いた事で、出世にまい進する絶好の機会を得たのであった。しかも幕閣はこの時、忠邦に寺社奉行を兼務させ、これによって忠邦は立場的には老中重臣の役目を得た事となるのである。この後、水野忠邦はあらゆる手段と機会を捉え、或いは黙々と役目をこなして、さらなる幕閣の高みへの道を突き進むのである。文政八年(1825年)に大坂城代に任じられ、官職も従四位下に昇位した。翌年には京都所司代となり侍従越前守に昇叙すると、文政十一年(1828年)には西の丸老中となり、将軍世子家慶の補佐役となった。天保八年(1837年)には将軍家斎も西の丸に退隠、大御所として直接の政務から身を引き、忠邦が補佐役を務めていた家慶が十二代将軍職に就くと共に、忠邦も本丸老中となり今年は念願の老中首座に座ったのである。

 とは言え大御所家斎の寵臣である老中若年寄の林肥後守忠英や、水野美濃守忠篤、美濃部筑前守茂育らは、未だ幕閣内では強い影響力を保持していた。農村復興を意図した人返令を諮問するも、西の丸派と呼ばれるその厚い壁は、そう簡単に崩す事は出来なかったのである。この幕府の中の権力争いが渦巻いていた時期に起きた、高野長英や渡辺崋山を思想犯として捕えた所謂「蛮社の獄」とは、折しも二年前にアメリカ船モリソン号が漂流していた日本人漁師七人を助け、その日本人を届ける為に浦賀から江戸に向かった時、幕府の浦賀奉行の太田運八郎はすぐさま、このモリソン号に対して砲撃を命令したのであった。
 船は偶々大砲を備えた軍船とは違って荷物を載せる貨物船であった為、幕府は反撃を食らう事も無く大事に至る事は無かった様である。しかし助けた日本人を返還する為であった事が、後にオランダ領事館からの知らせで幕府はこれを知る処となった。この幕府が決めた外国船打ち払い令を撤廃し、オランダ船にて帰国させるべきとする意見と、戻す必要はないとする意見に分かれ、これが蘭学を学ぶ者達の間にも議論を呼び起こす事となったのである。
 この時期は蘭学など進んだ外国文化や知識を、更に多く取り入れようとする新たな気風と、それらに反対し彼らを指して蛮社とする旧国学の対立は激しく、大塩平八郎の事件を処理していた水野忠邦の腹心で目付役、更に蘭学嫌いの鳥居耀蔵が仕掛けた弾圧事件でもあると言われていた。 元々鳥居耀蔵が蘭学嫌いになったのは昨年の事で、幕府の命で行われた江戸湾測量で、洋学者江川英龍との測量対決で敗北した事に依る。その意趣返しの意味が大きく、昨今では蝮の耀蔵と市中では囁かれ恐れられていたのである。それは徹底した憎しみを伴って、手段を択ばない病的な程の仕返しだからでもあった。

 世間では既に三年余り前から奥州地方で冷害が発生し、米は例年の三割程しか採れずに農民は飢饉にあえいでいると言う。特に大坂で二年前に起きた、大塩平八郎なる奉行所の組与力が起こした反乱は、その米の買い占めに走った大坂商人達が、混乱に乗じて売り惜しみを行った事に端を発していた。この頃には大坂の市民も米の売り惜しみに困窮を極めており、儒学者でもあった大塩平八郎が江戸に米を送り、幕府の機嫌を伺う東町奉行を見て自らの独断で、三百名の細民や貧農を従えて起こした事件であった。
 この時、大塩平八郎は自ら集めた本を売り、困窮した庶民を少しでも助けようとしたらしく、豪商などにも掛け合い金策に駆けずり回ったとも云う。しかし結局は何の手も打たない幕府と、老中水野忠邦の実弟である跡部山城守良弼東町奉行に対する怒りが、平八郎以下数十人の門弟を巻き込んだ反乱となったのである。

 江崎屋が来た十日後の事であった。雨は上がったが晴れ間の見えない、蒸し暑い天気が又続いていた。藤岡屋彦太郎が珍しく、弟の慶次郎を連れ立って訪ねて来た。慶次郎がこの大鋸町の広重の家に、来たのはこれが初めてのはずだと広重は思った。それに何時も来る店主の藤彦が、今日は一人の少年を連れて居たのである。
「おい、師匠に挨拶しろよ、陳平」
 兄の彦太郎に挨拶を促された少年は、未だ十二か三程の子供であった。
「名前は何て言うんだ?」
 子供にとも藤彦に言ったともとれる、曖昧な聞き方で広重は声を掛けた。
「未だ齢は十三ですがね、実は絵師になりたいと言うので連れて来たんで、それに師匠と同じで親御さんは赤坂溜池の定火消のお武家さんでさぁ。名前は鈴木鎮平と言うそうで、まぁコイツの親父さんの事はご存じねえとは思いますがね。まぁ子供心に絵師になりたいと言うもんで、もし使い走りでもさせてモノになる様なら、何とか弟子にして貰えないかと思いましてね」
「なる程、赤坂溜池の定火消なら、女房の親戚も同然だ。それなら読み書きも子供なりには出来る訳だ。で、給金はどうなんだろうね?」
「親御さんの方は、住む場所と、三度の飯さえ食わせて貰えばと言っております。まぁ一から教え込まなければならないと思いますから、寧ろ師匠の方ではお邪魔かも知れないのですがね」
 弟子は前から必要だとは考えていた。仕事が増えれば細かい事をやっては居られなくなるのは、既に目に見えて居た。
「分かった。この話はしばらく考えさせて貰う事にするよ。処で頼まれていた六玉河之図と、東都八景が出来上がっては居るが、持って行ってくれるかい?後で届けようかと思っていた矢先だ。これから用事が無いのなら、持って帰ってもらいたいがね」
「へぃ、出来ているのであれば、持ち帰りますよ。師匠の事だ、中身は見ずとも分かります」
 雲っていた空から、又ポツリと雨が落ちて来た。

 強い陽射しが庭を照りつけて朝顔の紫色が目に染みるのは、うっとおしかった梅雨もやっと明けたと言う、寧ろ安ど感なのかも知れないと広重には思えた。女房のお芳が昨日から、心の臓辺りが痛むと訴えて寝込んでしまったのである。赤坂の定火消で鈴木なにがしかの倅が、絵師になりたいと藤岡屋や連れて来た話をしても、さして話には乗ってくる気配が無かった。余程痛みが辛いのかと、広重は医者を呼びに行ったのである。
 毎年七月七日には、浅草寺の境内で「ほうずき市」が開かれる。ほうずきは癪(しゃく)を切る薬草としても知られているが、中にある赤い実の中身と種を実の袋から取り出し、口の中で膨らませては舌で抑えて鳴らす遊びは、懐かしい子供の頃の記憶であった。その話から明日の七日は浅草寺のほうずき市を見に、出掛けようかと話をしていた矢先の事であった。

 何でもほうずき市の日に浅草寺にお参りすると、四万六千日のご利益があると言われているが、四万六千日を年に直せば百五十年ものご利益があると言う。しかしこの話も実の処、一升ますには米が四万六千粒入ると言われているところから、一升が一生に転じたと言う。こっちの話の方が難しい仏の説教より、江戸の庶民には至って納得のできる様にも思えるのだ。
 それにしてもこれまで、お芳は病気一つ罹らずにやって来たのだが、見立てた医者はどうも原因がはっきりとしないと言う。もう二日か三日程様子を見なければ、何とも答えられないと言うだけであった。それでも痛み止めだと言う薬を飲ませた二日後には、医者が来る前にお芳は既にむ台所に立っていた。一応診たいと医者の見立てではあったが、心の臓が少し弱い様だが痛みも取れた事だし、余り激しい運動は控える様にと言い残して帰っていった。
 こうして今年のほうずき市は、予期せぬ出来事で結局は行き逃してしまった。この時広重は藤彦の連れて来た子供の事を思い出していた。仕事は忙しくなるに従い、細かい事を頼む者は必要であった。取りあえず仕事を見させながら、追々仕込んで弟子にすればと思い直し、藤彦へ内弟子として入れる事を認める手紙を書き送ったのである。

 秋口から描き始めたのは、佐野喜から頼まれた東海道五十三次で、画の空いている場所に狂歌を入れたいと言う。言い換えれば狂歌を入れる空白を、画の中に入れてくれと言う意味でもあった。大きさも大判の半分で中判となり、画は偶数として綴じる為だと言う。その為に東海道の最後である京の図を一枚足して五十六図、つまり日本橋を一枚と東海道の宿場五十三図そして京の二図の合わせて五十六図にしたのである。
 それにしても日本橋を描く時、何故か大名行列を描くのが習性の様になっているのは、やはり武士の血が騒ぐのかとも思えるのだ。北斎でさえ画の中には、武士の姿を入れる事など殆ど無かったはずである。そして佐野喜の東海道の画にも、保永堂で東海道を描いた時に残した画帳の中から、いくつかを拾いだして使ったのは言うまでもなかった。例えば保永堂の四日市の図は、風で笠を飛ばされ、その笠を追いかける旅人の図である。富士富嶽三十六景で描いた北斎の駿州江尻の風に、敢て挑戦する為に描いた広重の風を描いた図なのである。
 それ故に東海道を京から江戸に戻る時に画帳に描いたのは、四日市宿入口の海蔵橋の画であった。佐野喜版の狂歌を入れる為の画に、絵師の感じた面白い画などは却って必要のない画なのである。それ故に、さして当たり障りの無い画を使っただけの事であった。

 こうした折に妻のお芳が二度目に倒れたのは、十月二十二日の夜の事であった。やはり心の臓が痛むと言い出し、お芳は胸に手を当ててあえいでいた。胸が詰まった様な痛みだと訴えながら、しかし回りの者には何一つとして出来る事は無かったのである。広重は背中を擦る程度しか出来ないもどかしさの中で、祈る事も出来なかったのは、信仰には縁が無かった為でもあった。慌てて医者に人を走らせ薬を飲ませたが、その甲斐も無く息を引き取ったのは翌朝未明の事である。
 倒れてから寝る事も無く看病に付きっきりの広重ではあったが、痛みが落ち着いたと安心していたのがいけなかったのか、未だ夜も明けない時刻に、突然胸が痛いと苦しみだした後、何の言葉も交わさずに逝ってしまったのである。

 人がこれ程にあっけなく死んで行く姿に、広重はただ茫然とするだけであった。かつて未だ子供の頃、母と父が逝ってしまった姿を見た事は有ったが、妻の死を看取りながらも感傷的にもならず、涙さえも出さず泣く事も無い自分が不思議であった。お芳は五歳齢下だから、今年で三十七歳となるが、余にも短いその一生は、いくら病とは言っても早い迎えの様にも思えた。既に妻の親達も他界していたから、妻の実家を引き継いでいるのは弟が一人居るだけであった。
 通夜も葬儀も藤彦や佐野喜などの版元が手伝いに来てくれ、火消同心達の昔仲間や更に同じ歌川国広の門下の者達も集まり、広重はただ喪主の席に座って頭を下げているだけであった。寺から戻り葬儀が終わって集まった者達も帰った後、一人家に取残された広重は、お芳の位牌を前に初めて妻の死を噛みしめていた。いつもなら「お茶でも入れましょうか」「お疲れでしょう」「そろそろお止めになられたらどうですか」などと、声を掛けて来てくれた声もそこには無かった。通夜や葬儀で泣く事も無かった広重が、この夜一人で声を出して泣いたのであった。所帯を持って十八年、長くて短い夫婦の暮らしてあった様に思えた。翌朝、広重は一枚の団扇画を描いていた。お芳と出かけた上州伊香保湯治場之図であった。

 藤岡屋彦太郎が探して来てくれた賄いの婆さんが、毎日通って洗濯や飯の支度をしてくれる様になって、近くの版元などの用事も、未だ子供だが鎮平が動いてくれる様になった。飯は作る者が変わるとこうも食べられなくなる物かと思うほど、美味しく食べるなどと言う事は無くなってしまい、それに比例して酒の量は増えていく様になっていった。
 それでも初七日が過ぎて何とか筆を持つ様になったのは、溜まったままの注文の多さであった。未だ筆を運んでいた物は佐野喜の東海道五十三次の五十六図と、東都名所の隅田川八景、東都名所は佐野喜の版元以外に、川口屋正蔵こと川正と、丸清こと丸屋清次郎からの注文もあった。更に耕書堂の蔦吉からの道中膝栗毛は、十辺舎一九の東海道膝栗毛が素材である。江崎屋吉兵衛からの間判で、これも東海道五十三次となるが未だ手つかずの話であった。そのほかにも伊場久の団扇画などの細かい注文もいくつかあった。
 広重はとにかく頼まれた仕事はやらなければならないと思った。目の前の仕事を一心不乱に仕上げる事だと自らに言い聞かせ、妻の死を乗り越えようとしていたのである。
 佐野喜から頼まれていた東海道五十三次の下絵が出来上がったのは、この年の暮れも近づいた頃の事である。蔦屋二代目の吉蔵からは弥次喜多の道中膝栗毛を頼まれていたが、鳥羽絵とも言われる描き方で書いて欲しいと言う。元々が鳥獣人物戯画を描いた鳥羽僧正の名前から来ている戯画で、三図か四図程売り出して、評判が良い様なら追加する、売れなければそれで終わりの道中記もあった。蔦屋も二代目になってからは、先代の様に絵師を育てる事も止めて、ただひたすらの商売であった。それにしても先代の重三郎か受けた身代半減の刑は、二代目にも大きな傷を残している様に広重には見えるのである。
 尤も広重が保永堂の東海道の中で描いた、御油宿の客引き姿や四日市宿の笠を飛ばされる男も、描き方は既に鳥羽絵に含まれるのかも知れないと思える。それが故に道中膝栗毛を持ち込んだ二代目蔦屋吉蔵は、大判の二丁掛(一枚の紙に上下二面の画を描く、所謂二コマ画)で、何か面白いものを描いてみませんかと言って来た。
 然程描くのに時間は要らないが、妻が逝った後にそうした気分になれない事を、この二代目は理解してはいないと思えたのである。

《天保十一年(1840年)》
 年も明けた正月、広重にとっては目出度くも無い正月であった。団扇絵を纏めて描こうと、気持ちを入れなおして筆を持った。特に団扇絵は主題を決めて描き始めれば、画は大凡迷う事もなく気持ちの良いものに仕上がるものであった。版元の伊場久に「ぼら 伊勢海老 藻魚」「黒鯛 ほうぼう 蟹」を描いた。ついで版元の行き先知らずとして、「柿に目白」「芙蓉に黄鳥」「椿に文鳥」「月夜、梅に鶯」「秋草に鶏」「竹に雀」を描いた。団扇絵は大判錦絵の版元の他にも、沢山画を欲しがる団扇屋が多い。風情や風景、物語や魚など毎年の様に変化を求めて来るからである。せめて穏やかな年であってくれればと、広重は絵師になって初めて妻の居ない正月を過ごしたのであった。

 江崎屋から依頼のあった間判の東海道五十三次を描きはじめ、既に二月程が過ぎて居た。梅の花もいつの間にか散って、風が時折南から吹き始める頃であった。今年も大火事が起きなければ良いがと思いつつ、江崎版の東海道も既に枚数にして三十図が仕上がっていた。そろそろ江崎屋の店に届けようかと思っていた矢先に、日本橋平松町の版元佐野喜の店主、四代目佐野屋喜兵衛が訪ねて来てくれたのである。
「どうですか、少し御痩せになったのでは、その様にお見受けしますが」
 佐野喜が庭先からそっと姿を見せるのは、妻が亡くなって独り身になった所為でもあった。
「おや、佐野喜の版元に、その様に見られてしまうのは、やはり独りになった為でしょうかね。その節にはお世話になりありがとうございました。まぁ、やっと近頃は落ち着いたかと思っておりますが、その分、酒の量も増えちまった様で」
「それは良い事ですよ。広重師匠が酒を止めちまったら、もう世も末です。そうでなくちゃ行けませんよ」
「随分とひでえ事を言いますねぇ、佐野喜の旦那も」
 佐野喜の顔は笑っていた。
「処でと、今日は私の方の仕事でなく、師匠に頼みたいと言う御話しを持って参った次第で、尤も師匠の後添えの話は未だ先の事として、大人しく待っててもらわなきゃ困りますがね」
「おや、私に仕事の依頼をですか?そういう方がいらっしゃると言う事で?」
 版元以外からの仕事の話など、広重には今まで一度も無かった。
「はい、実は私共のお客様のお知り合いで、甲斐は甲府の緑町と言う処の、伊勢屋栄八さんと申す大店からのお話でございます。依頼先は甲府の緑町とその隣の柳町の幕絵世話人衆となります。まぁ甲府の町内全てとは行きませんが、依頼の内容はこの二つの町内の大通りに、陣幕を張り巡らせて昔から行われている道祖神祀りを盛り上げたいと、そこでこの幕(※2)を師匠に描いて欲しいとお話がございましてな。
 この幕絵の幕と申しますのは麻布で作られ、大きさは縦が五尺(1.5メートル)、横幅は五間(約9メートル)程、一枚二枚の事なら来てほしい等と言う様な、無理な事はお話出来ないのですが、緑町の町内一丁目の表通りにこちらは十枚余り程、又緑町の隣の柳町は三丁目の表通りに掲げる幕絵でして、そちらの方は幕の数も三十枚を越えると言う事で、まぁこちら柳町の方は画料が折り合えるならば、ぜひ広重師匠にお越しいただきたいと御名指しで、それから逗留に付きましては幾日でも構わないからと、まぁこの様に申しているのですがね」
 佐野喜の話を聞いた広重は、本心嬉しいと思わずにはいられなかった。
「いや有難いお話、大変嬉しく思いますが、時期は何時頃をお望みなのか、如何でしょう?」
「それも師匠にお任せするとの事ですが、何でもこの道祖神祭りは毎年一月の半ばに行っているとの事で、実はこの幕絵は随分と古い時代には行っていた様なのですが、今回は御城下にあります町の大通りを、幕絵で埋め尽くそうではないかと言う大掛かりな、しかも初めての試みでして後に続く町衆の為にも、それまでには何とか間に合わせたいとの事、ご要望があれば甲州の名所などもご案内したいとの事でしたが」
「いやはや、大変にありがたいお話を頂きました。これで一層仕事に身が入ると言うもの、とは申せ私も未だ急ぎの仕事に追われております。暇をしていれば直ぐにでも行きたい思いも御座いますが、出来れば明年の春に伺い、再来年の祭りに間に合わせると言う事で如何かと、甲州路は以前に金沢宿から江戸に戻った時だけで、富士のお山もゆっくりと眺めてもおりません。春ならばこちらの仕事も片付けて、ゆったりと時間を取ってお伺いしたいと思うのですがね」
 広重の話に頷きながら聴いていた佐野喜は、元気そうになった広重を見て安心した様に手を打った。
「分かりました。その旨を先方にお伝え致して置きましょう。仔細は手紙でも一筆、師匠の許に届けてもらう様伝えて置きましょう。やれやれこれで一安心。処で話は全く変わりますが、この江戸の北町奉行様に何でも腕に刺青をした方がお奉行様になったとか、結構町方衆は騒いでおりますが師匠はこの話をご存じで?」
「いや全く、初めて聞いた話ですが」
「何でも遠山様と申す方で、これまでお家の跡継ぎでは無かった為、放蕩三昧で腕に墨を入れた処、兄上が亡くなって跡取りになられたとかですが既に遅しで、その挙句に手首まで隠れる腕貫(うでぎぬ)を着けて、こはぜで止めてのお調べとか。一方の南町の御奉行様は堅物で知られた矢部駿河守様とかで、こちらは北町奉行の遠山様とは正反対のお方、まぁとにかく景気が良くなって、我らの暮らし向きが良くなれば言う事は無いのですがね・・」
 暮らしているのは江戸の真ん中でありながら、広重には久しぶりに江戸からの便りを開けた様に思える。それほどに表に出掛ける事が、ここしばらく少なくなっていたのであった。
「それとついつい忘れておりましたが、御蔭さまで狂歌入り東海道五十三次、半分の三十枚を来月初めに刊行する事となりました。これもお知らせしようとお伺いしたのに、ついつい話が長くなってしまった様で・・」
 佐野喜は苦笑いをしながら帰っていった。
 だが佐野喜の持って来てくれたこの幕絵の話は、今の広重にとっては大きな救いであった。妻が亡くなってからこの方、気落ちした毎日はうっかりすると筆にまで影響しそうであった。人は気持ちのどこかで誰かに頼られ、期待される事で生かされている様にも思えるのだ。頼られる事や期待してくれる者が居なくなると、全く行く末が全くと言って良い程に定まらなくなってくるのである。
 かつて東海道五十三次を描き、そして木曽街道六十九次をこなし、今度は甲府の幕絵の依頼であった。先々に残る仕事が出来る事は誇りでもあり、そして喜びでもあった。この時広重は、四十三歳を迎えていたのである。
 (※2 山梨県立博物館展示)

 「東都名所坂尽くし」として江戸の名だたる坂の風情を描いて欲しいと頼んで来たのは、版元の錦橋堂山田屋庄次郎である。坂のある風情が強く人の心を引き付けるとも思えなかったが、幾つもの江戸の坂を風情として捉えた話は、まさに初めて聞いた話であった。処が広重はここで驚いた話を聞く事になった。あの保永堂から錦樹堂に渡った木曽街道六十九次の版権が、今度はこの錦橋堂の山田屋庄次郎が買ったと言うのである。それが為に英泉が描いた雪の曙と名付けられた日本橋の図は、手直しを含めて四度も中央の傘に描かれた名前が変わった事になり、今は仲橋山庄となって、日の出は既に取り去っていると言う。
 しかし版元としての錦橋堂も未だ歴史は浅く、歳も三十過ぎであろうその若い版元に、何故か尻を叩かれる様な気がして描く事にした。昌平坂御茶ノ水之図、吉原衣紋坂之図、飯田町九段坂之図、牛込神楽坂之図である。元々は双六図や袋絵などから大判役者絵を扱い始めた版元だが、店が中橋広小路にあり広重の住まいとは目と鼻の先であった。
 翌日、広重が馬喰町四丁目の江崎屋まで足を運んだのは、佐野喜に言われて家でくすぶるよりも、少しは表に出掛けた方がと言う意見に従ったのである。日本橋を渡り、本石町三丁目の角を右に折れて、大伝馬町を過ぎれば馬喰町であった。三十枚の下絵を陳平に持たせ、歩く姿は大店の旦那と言った風情の様だと思えた。
 
 甲府緑町の幕絵世話人を任せられたと言う、伊勢屋栄八からの手紙が届いたのは五月半ばの事であった。画料の話から幕絵の枚数、更に甲府へ出かける打ち合わせから仕上げまでの期間など、問い合わせと打ち合わせなどで三度の手紙が往復した。幕絵を描くにしても合計五十枚程の量である。段取りをしたうえで計算すれば、一枚を三日で仕上げる事となる。期間にして百五十日、約六か月近くが休む事無く制作に関わる期間であった。しかし何よりも大事なのは、幕絵の題を決める事であり、それが無ければ下絵すらも描けなくなるからであった。
 九月の末までには大方の打ち合わせが済んで、江戸での準備も可能になった。枚数は緑町一丁目が十二枚、柳町三丁目が三十九枚、合計五十一枚を描く事で合意した。御題は柳町が東海道五十三次、緑町が佐野喜の為に描いた江都名所や東都名所から、洲崎弁天境内から日本橋や両国橋納涼、隅田川花盛や王子稲荷、目黒不動尊から吉原や浅草雷門などである。尤も東海道五十三次は三十九枚の幕に描く事になる。一宿一枚の幕に描けば、当然だが幕は足りなくなる。そこで幕一枚に一宿から二宿の風情を俯瞰で描き直し、人物などは省略して風景図として描く事にしたのであった。

 この年の十月に妻のお芳の一周忌を前に、江崎屋吉兵衛から頼まれた東海道五十三次の下絵を全て描き上げた。全体には保永堂で描いた華やかさを落し、雨や風などの動きを減らしたのは、行き過ぎるとこれも鳥羽絵になると嫌ったからである。人の表情まで読み取れる風情は、風景画としては行き過ぎて居る様に思えたのである。初めて描いた保永堂の東海道は、どちらかと言えば人を意識して描いたと言える。しかし人の動きや表情は、それに溶け込む風景があって生きて来る。風景を重視して陽光の中で人を描くと、それはどれもが同じ大きさとなって画のなかに溶け、人は風景の一部となつて行くのである。画の空白部分に書き込む地名を、敢て行書体にした。
 次いで丸屋清次郎からの「日本湊づくし」の十一枚、讃州丸亀、長州下関、東都品川、大坂安治川、東都江戸橋、相州浦賀などである。長州下関は流石に未だ訪れた事も無いが、文献などを読み漁って描いたのは、北前船と沖女郎と呼ばれる惣嫁の女達の姿である。風待ちなど湊に留まる間に、飯炊きから洗濯など身の周りを世話をする女達は、船頭達の湊だけの嫁となると言うのである。
 

 《天保十二年(1841年)》
 年の初めから手がけたのは、和漢朗詠集から題材を取った大判竪の月明山水、湖上浦泊、雪中山水を、版元の上州屋金蔵より依頼を受けたものである。これも甲府に向かう前に仕上げたいと、休む間もなく早速に手を入れた。江崎屋の東海道五十三次は下絵の版も出来上がり、その全てに色指しを終えたのは一月も末の事で、甲府に出掛ける前に、仕上がった画を見る事は不可能であった。三分の二は夏に刊行すると言うが、帰ってからそれを見る事になると思えたが、何処かに僅かな心残りがあった。後はとにかく版元の江崎屋に任せる事にしたのである。
 二月に入ると市中の噂話が広がったのは、将軍家斉が既に死去したと言う話であった。妻と妾の数は知られているだけで十六人。産ませた子供は男子が二十六人、女子が二十七人と言う。その半分近くが成人までに亡くなっていると言うが、それを知った江戸庶民は誰もが悲しむ者も無く、寧ろ呆れ果てて語る事も無かった様である。
 この頃広重は、甲府道祖神祀りの幕絵の下絵制作に余念が無かった。甲府まで出かけてから、さあ何を描きましょうかでは話にならないからである。更に江戸を出てしまえば半年の間、江戸に戻る事は考えてはいなかった。それ故に甲府以外の注文の画には、下絵の後の色さしも含め留守中に問題が起きない様、幾度もその確認を行い万全を期したのである。
 
 甲府緑町一丁目の伊勢屋栄八など、幕絵世話人衆からの依頼を受けた広重が、幕絵を描く為に甲府に向かって江戸を発ったのは、天保十二年四月二日の朝五ツ時(午前八時頃)であった。新暦で言えば五月二十二日の事で、既に青葉の季節である。甲府に着いてすぐに絵の具などの画材が届く様に、出立前に手配しての旅立ちであった。未だ決まっていないのは、幕絵で最も重要な背景とも言えるすやり霞の色であった。幕絵の縁などを含めて全体の色調となる為に、そしてこればかりは大量に使う絵の具であもあり、実際の色を見せ確認してからでなければ、安易に注文すら出来ないからであった。
 
 ここからは、広重が四月二日の江戸出立の日から「甲州日記」として書き留めたものを参考に、甲府までの旅を書いてみたい。幕絵を本格的に描き始めるまでの四月二十三日までの日記である。

 四月二日には府中宿で府中大社に詣で、府中大社の図を画帳に収めた。府中宿から玉川(多摩川)の渡しで日野の原に入り、ここで日野の渡しの所に芭蕉の碑があり「蝶の飛ぶばかり野中の日陰かな」と書き記してあった。八王子宿の八日町に今宵の宿を探して居ると、徳利の看板を出した旅籠の亀屋があった。酒の好きな広重は、その徳利に惹かれて泊まりを頼んだが断られ、先隣りにある山上重郎佐衛門の宿に泊まった。ここの主人は武田の残党で、これから行く甲州の話をしてくれた。この宿では甲府の隠居だと言う鈴木何がしと出会い、様々な珍しい話や、のろけ話などに華が咲いた。
 その鈴木何がしかの話で、懸想したがなびかない女に送る嫌味の狂歌を代作する事となり、その女の情夫が足袋屋である事を聞いて「足袋の紐かたく結びし君が足、我にはとけぬそのこころね」と広重は即興で狂歌を作ってやった。この男は入船船頭と云い、知り合いの狂歌師に似て居た。歌を作ってくれた礼にと、茶菓子を御馳走になる。

 翌日の四月三日は晴れ、散田村に入り農家の外にある便所を描いた。(後に明治の浮世絵研究家であった小島鳥水は、「広重の甲州日記に就いて」の中で、農家で女が小用を足している所を、画の如く書き写しているに至っては顔を反けられるが、一九の膝栗毛気分として捨て置こう、と言っている)
又同じ散田村で小さな水車を描く、広重は「村中に流ありて小さな水車を仕掛け、尺四五寸位の臼にて米を搗く。水車の孫と言うべきかその図左のごとし」と画帳に画を記載している。宿場と宿場の間に設けられた間宿と呼ぶ宿場の一つ、こなしと言う場所では田舎町の風景を画帳に収め、「これよりこなしと言う宿、右側に山口と言う茶屋あり、至ってきれい(略)此処、武さしさがみの境木あり」と記している。

 広重が小仏峠に向かう途中であった。江戸から身延詣りの三人連れと道連れになり、又今度はこなし宿にある柏屋の女房と連れになり、五人で話しながら小仏峠越えとなった。小仏峠では旅姿の男女を画帳に描いた。一善めし、平、きみこんぶ、あぶらあげ、ふき(まずい)と書き留める。(平)とは平皿に盛られたおかずの事である。一善めし以外は恐らく煮物であった様に思えるが、峠を下って興瀬(与瀬宿)の名物である鮎のすしを食べたが(高くてまずい)と感想を書き留めて居る。
 途中相模川の上流となる舟渡しで「流緩々たり、舟渡しあり、渡し守に川の名を問えば、さくら川といへり」とあり、この川も画帳に収める。関野の宿入口の梅沢では、塩あん入りの大まんじゅうを食べ、境川ではあゆの煮つけ、さくらめし、うどん、酒を食した。旅は小腹が減れば何かを食べる。野田尻宿では小松屋に泊まるも、部屋は汚いと思わず狂歌を詠んで、日記に書き記した。「屁の様な茶を汲んで出す旅籠屋は、さても汚き野田尻の宿」屁と尻をかけたのである。夕めしは塩アジ半切れ、菜の汁と平(氷どうふ、いも菜)そして飯とあった。その小松屋に陰陽石・女夫石と言う石があり、陰陽石と画帳に収めた。又野田尻にて桑名藩の武士だと言う者の居合を見物し、居合いの図も画帳に収める。

 四月四日も晴れであった。犬目宿は三月初めに開店したと言う「しから木屋」で休む。夫婦とも江戸者だと言う。だんご、にしめ、などの他、甘酒やみりんも売っていた。(きれい)と記す。峠に向かう坂からは富士を見ながらの登となる。又北斎が描いた犬目峠を越えるも、一度は落ち着いてこの場所で筆を取りたいと思えたのは、広重の北斎に対する、対抗心であったと思える。広重は鳥沢から猿橋に向かう道で、「鳥沢にて下り猿橋まで行く、道二十六町の間、甲斐の山々遠近連なり、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり、十歩二十歩間にかわる絶景、言語にたえたり。拙筆写し難し」と記している。画は桂川渓谷を画帳を広げた二面にして収める。
 猿橋でも桂川渓谷と同様に、画帳を竪に広げ二面続きで描き、更に猿橋の崖と遠望も描く。日記には「猿橋より駒ばしまで十六町、谷川を右になし、高山遠近に連なり、付近の人家まばらに見えて、風景たぐい無し」と記されている。猿橋の茶屋とおぼしき家造りの様を写生しているが、檜の皮で屋根を葺いてあり、縁側には庇(ひさし)も設けずに略して描いていた。この店で山女魚の煮びたし菜びたしを食す。
 大月宿では富士登山の追分として、画帳に収める。日記にも大月宿富士登山の追分ありと記す。上初狩では団子四本食すが、茶釜で茶を煮ているのが珍しいもので、傍にあった煙草入れと煙管を一緒に描いた。白野では毒蛇済度の碑を描く。「この碑を見て近くの百姓勝右衛門と言える者の家に立ち寄り、その由来を尋ねれば、奥より老婆出て物語る」と日記にはある。しかし物語の詳細は書かれてはいない。

 よしが窪では焼き餅を百姓の勝佐衛門宅で食べ、笹子峠の手前の黒野田宿に着いた。ここでは扇屋で宿泊を頼むが断られ、やむなく若松屋と言う旅館で泊まる事としたが、前夜に泊まった野田尻の小松屋より更に汚く、壁は崩れ、床は落ち、行燈は破れて欠け火鉢だったと書いている。飯は皿にめざし、いわしの干し魚が四つ、汁、平(わさび、ごぼう、豆腐、いも)そして飯とある。そして翌朝の朝食であったろ飯は、平皿にごぼう、ささかし、しょうゆかけ、汁、平(豆腐、あかはら、干物)
そして飯。

 四月五日も晴れである。笹子峠では一枚、峠の風情を描く。「是より又のぼりに矢立の杉、左にあり、樹木生い茂り、谷川の音諸鳥の聲えと面白くもうかゝと峠を越えて休む」と日記に記す。鶴瀬番所にて、やまうど、煮つけ、平、を食べ、横吹にて遠望の白根ケ嶽を二面の紙を使い描く。「右は山の腰をゆく、左は谷川、高山に岩石そびえ、樹木繁り、向かうに白根ケ嶽、地蔵ケ嶽、八つゲ嶽、高峯見えて古今絶景なり」と画帳に書いている。勝沼では大善寺門前鳥居の額を描く。「ここに柏尾山大ぜん寺という寺あり、門前に鳥居あり額に」とあり又葡萄棚とその向こうに見える白根ケ嶽を描く。「こりより先、勝沼の邊りまで名物のぶどうを作り、棚あまた掛けあり」と記す。常盤屋に寄り昼めしなのか玉子とじめしを食べて居る。

 栗原から田中と言う所に節婦の碑と石碑があった。これも画帳に収める。この由来はこうである。享保十三巳年ここに洪水ありて一村難儀に及ぶ。この時、安兵衛・お栗と言う夫婦が居たが、安兵衛はらい病を煩い、家は貧しく難儀していた。妻のお栗はわずかな商いをし、或いは袖乞(乞食)をして夫と姑を介抱する暮らしをしていたが、姑はついに息絶えてしまった。この時に安兵衛が言うには、とても全快する事は無理だ。この世では人と交わる事も許されぬ病だから、自分は川に入って死ぬと言う。お前は未だ若いのだから命を永らえて、他に縁付き、その命を全うして欲しいと妻に言うと、お栗は安兵衛の話を聞きいれず、この家に嫁として来た以上、生きて家を出ようとは思わない。共に覚悟を決めて一緒に死にましょうと、互いに体を帯で結び、洪水の中に飛び込んで死んだと言う。この事が御上の知る処となり、公より節婦の碑と言う印を建てられたと言うのであった。

 石和宿では入口の茶屋でうどんと焼酎を一杯ひっかけていると、江戸からの姉弟と道ずれになった。話していると広重が浅草に住む知り合いの梅川平蔵や妻のお仲を知っていると言う。世の中は広い様で狭いと思えたのである。
 その後広重は甲府に向かった。途中の酒折宮に立ち寄り、画帳に御神體の図を写した。遠くヤマトタケルノ命が東征に向かった折、その帰りには甲斐のこの地に寄った事が日本書紀や古事記に記されている古い宮である。夕刻、七ツ(午後四時頃)には甲府緑町一丁目にある、伊勢屋栄八宅に草鞋を脱いだのである。店の裏庭にある二間程の来客がつかうと言う離れが用意されていた。この世は直ぐに風呂に浸かり、月代(さかやき)を剃るなどして身だしなみを整えたのは、明日には挨拶するはずの町の幕絵世話役などと、打ち合わせが待っているからである。
  
 四月六日、朝の晴れて居た空の下に、南の山並みの上に富士のお山が顔を出していた。午前中に茅屋町にある芝居小屋まで足を運び、狂言「伊達の大木戸」を二幕程見物した後、昼過ぎに緑町の幕絵世話人衆と、伊勢屋などの緑町の緑町表通りに店を構える店主達が集まり、其々の紹介をした後にこれからの打ち合わせとなった。それによれば、描き始めるのは四月十八日頃にして、それまで町の案内から芝居見物、果ては狂歌会にも出て頂きたいと言う。この緑町は甲州街道の宿場町甲府柳町宿の通りに繋がる隣町で、同時に広く舞鶴城の城下町でもでもあった。元々はその城下町の中の様々な問屋が、ここに集まって出来た町なのだと言う。夜はこの緑町一丁目の幕絵世話人衆との酒盛りとなる。

 処でこの道祖神の祭礼は甲斐の国一円で広まった信仰で、農作物の豊穣を祈念する民間信仰である。特にこの甲斐の国の道祖神信仰は、四角い石台の上に丸い石を乗せた物が多く、中には丸い石三個を三角形に並べその上に一つ積み上げた形のものもある。その意味で言えば信州安曇野辺りで見られる、あのほほえましい男女の姿を石に彫った道祖神とは、全く異なる信仰対象であった。
 宝暦年間に出された「裏見寒話」には、「・・・近年甲府の祭礼、殊の外美麗にして、辻々に大きなる屋台を飾り、十二三歳の子供綺麗を尽くして歌舞伎をなす。囃し方の者は皆大人也、近江八景を写し、大坂四橋の体、伊勢内外の宮、色々金銭を賭けて美飾を成して遊興す。物見の男女市巷に充満して、其の賑やかなる事筆紙に尽し難し。又寺院等を借りて芝居狂言の催し杯あり、古府中は下府中程には無かりしと云う・・・」

 又、文化十三年(1816年)に日向の国佐土原の修験者である野田泉光院が、甲斐の国に留まった際に記した「日本九峰修行日記」には、「十五日、晴天、昼時より甲府町へ道祖神祭礼俄見物に行く。注連竿町々に飾り、俄狂言あり。歌舞伎狂言の如く組立て、後に直ちに俄になして興行する事也、此の組立六ヶ所あり。その内伊勢の宮廻り、合の山の仕立て甚だ面白し。町三丁計りの間に中宮、外宮、天の岩戸など拵へたり。天の岩戸は真っ暗がりに囲いを為し、高さ四尺計りにして奥へ行く事十四五間と覚えゆ、行きてみれば人家の裏畑け何も無き所也、それにて一同笑い出ずるなり・・・男共は女のかつらにて女形に仕立て、赤前垂れを付けて三味線を弾くやら、ささらを鳴らすやら、又茶店より参詣の者を引き入れ、茶、菓子、酒、吸い物等を出せり、是は施行なり。・・」とあり、又大通りには飾り物が並び、子供達は道行く人達や旅人に、小遣い銭をねだると言う事であった。いずれも甲府道祖神祭礼の華美を良く今に伝えている。
 しかし広重が頼まれた幕絵は、この時の新たな発案であった。道祖神の祭礼を一層引き立たせる為、緑町を含めた問屋町や大店のある表通りに面した町々は、戦に使われた様な陣幕を、表通りに張り巡らせ、その幕に絵を描いて見て貰おう、誰に絵を描いて貰うかと言う話から、緑町一丁目と柳町三丁目では、江戸でも知られた広重の名が挙がって今に繋がっていたのである。
 (「甲州年中行事」「甲斐廼手帳」によると、この広重の幕絵を飾り付けた翌年以降、八日町一丁目と二丁目では歌川芳虎の筆で「和漢名将伝」、八日町三丁目では「甲州道中宿々」、ずっと後になって柳町一丁目では「田舎源氏」広重の二代目の筆で描かれ、更に柳町二丁目では岸連山の筆で「京都名所」が描かれ、柳町四丁目でも一魁斉芳年の筆で「太閤記」が、緑町二丁目では「曾我兄弟」が淵里の筆で描かれ、これは後に源頼朝一代記に変わり、魚町でもその淵里の筆で「忠臣蔵」が描かれるなど、隣の連雀町や青沼町、更に甲州街道沿いの町々でも徐々に幕絵が張られる様になって行くのである。これは明治五年の政府による道祖神祭り廃止令まで続いたのである)

 四月七日、午前中に役者の佐野川市蔵に引合され、今日は朝から芝居見物となった。演目は「お俊伝兵衛」を二幕、「いろは四十七人」の新幕である。芝居見物では見知らぬ女中から菓子を貰い、広重は返礼として矢立を取り出し、懐から半紙を取り出して似顔絵を描いてやった。この夜に柳町の世話人衆が二人、広重の逗留している伊勢屋に来た。緑町の幕絵が済んで後、打ち合わせなどをしたいとの事で、御挨拶だけで伺ったと恐縮して帰っていった。

 四月八日は、この日も晴天であった。朝から頼んでいた荷物が届き、画材の絵の具や筆、そして皿などの片づけが終わると、祭礼の幕絵世話人衆と二度目の打ち合わせであった。この日は緑町一丁目の幕絵世話人でそれぞれの紹介があり、名を書き留めた。高野屋正兵衛、萬屋定佐衛門、岩崎屋彦左衛門、福島屋勇助、辻屋仁助、岩久、材木屋権右衛門、松葉屋忠右衛門、川善、鳴海屋太郎右衛門であった。この後に幕絵の霞の色を決める事となったが、結構な時間を取られる事となった。
これは所謂、すやり霞と呼ばれる物で大和絵などで使われる技法だが、この色は幕絵の縁の上下全てを同じにする事や、端の不要な部分には霞をかけた様に後ろに隠してしまう技法の事で、祭り全体の雰囲気が決まってしまう程の、重要な決め事であった。それでも紙に絵の具で見本の色を塗って見せ、意見を交えながら何とか決まった事で、大量の霞用の岩絵の具の注文を出す手配を終え、会合を終えたのであった。
夜は知人が訪ねて来て、長話となった。

 四月九日、この日も変わらずの晴天であった。この日は描く為の作業場を決め、昼過ぎからは幕絵世話人の萬屋定右衛門と共に、又芝居見物になった。演目は「安宅問答」「契情阿波の鳴門」一幕で興行が終わった。町をぶらつき、一連寺の境内には土弓場や料理屋を見て廻る。遠光寺前の料理屋で夜食を、これは沢山の御馳走を頂く事となった。

 四月十日、朝から曇りで昼から晴れる。この日は朝から二間(3.6メートル)と一間(1.8メートル)の大きな鍾馗の絵を描いた。その後に幕絵世話人衆と奥座敷で酒盛りとなり、少しばかりの御馳走を頂く。夕方は八日に来た知人の亀雄大人が来て、一連寺境内の料理屋の奥座敷で、酒盛りとなった。その後も知人の三桂法師と柳橋庵まで同道し、宴会で騒いでしまった。

 四月十一日、珍しく曇りであった。この日は五尺(1.5メートル)の屏風絵を描いた。その後で鍾馗を描いたお礼として、金二百疋(八万円前後)と鰻重一箱を貰った。夜に芝居役者の佐野川市蔵と酒盛りになった事は言うまでもない。

 四月十二日、雨天であった。襖絵を四枚程描いた。この日、幕絵世話人の一人、辻屋仁助から胡瓜一籠となまり節一本が届けられた。夜は蕎麦を御馳走になった。

 四月十三日、晴れ、 柳町の足袋屋の槌の屋十文宅で、狂歌の会に出席した。足袋屋で思い出したのは八王子の宿で、甲州の隠居鈴木なにがしが懸想した女に贈る為、代作した狂歌の事であった。女の情夫だった男は確か足袋屋の主人、人違いだとは思うが何かの因縁とも思えて、広重は独り思い出し笑いをしてしまったのであった。
 
 四月十四日、晴れであった。この日は襖絵二枚を描きあけた。体調がすぐれなくなって休む事にしたが、道祖神祭礼幕絵の手付金として、五両(約40万円程度)を受け取り、この中から四両一分二朱を江戸に送金した。

 四月十五日、晴天であった。朝から魚町の村田屋幸兵衛に呼ばれて家に行く。襖絵を描いて欲しいと言う依頼であった。魚町三丁目では淵里の筆で来年に描き始め、お題は「忠臣蔵」の幕絵になると言う。名は殆ど知られてはいないが、版元の山口屋版で読本「頼朝一代記」の挿絵を描いた画師であり、この「頼朝一代記」は緑町二丁目でも再来年には幕絵になる様だと言う。昼過ぎからは一連寺へ御幸祭礼を見物に出かけた。甲府の町中はもとより、近在からも人出はあったが、体調が又悪くなり薬を飲んだ。夜は又芝居見物となる。珍しく芝居小屋の中に食い物の屋台が出店されていた。この芝居小屋に桟敷席は無く、演目は「一の谷ふたば軍記」二幕と「勧進帳」であった。

 四月十六日、晴天、病気が全快したので書き物をする。昨日出かけた村田屋幸兵衛から、手打ち蕎麦を貰う。極上の逸品であった。夜に世話役から御幸祭礼の時に祝儀金を渡す話が出た。

 四月十七日、晴天、辻屋仁助から依頼された襖絵が完成して、それを荷車で送った。折り返し茶菓子が届けられた。二間に一間の大きな幟に、孔明の絵を描く仕事を始める。

 四月十八日、晴れ、幟に孔明(三国志の主人公で軍師)を描く仕事を終えた。昼過ぎより幕絵の仕事を始める。夜なべ仕事として、「さの衣」の写本を作成する。江戸から手紙が二通来たが、一通は版元の佐野喜から、一通は甥の仲次郎からの手紙であった。いずれも様子伺いであった。

 四月十九日、晴天であった。「さの衣」の写本作成が完了する。江戸からの手紙の返礼を書き送った。この日は魚町の村田屋幸兵衛から依頼された襖絵四枚を描く。お礼として村田屋からは鮨が贈られて来た。夕方には辻屋仁助方で酒と蕎麦を御馳走になる。その夜は又芝居見物となる。演目は「岩井風呂」であった。

 四月二十日、晴れ曇り、道祖神祭礼の下書きを終える。唐木綿に鍾馗の絵を描く。夜は又魚町の村田屋幸兵衛宅に行った。その帰りに芝居小屋に寄り、芝居が終わった三階で酒盛りとなった。味噌漬けと香の物を辻屋から貰った。

 四月二十一日、晴れ曇り、辻屋仁助方にて浴衣を誂えた。「さの衣」に着色した他は、取るに足りない仕事をした。

 四月二十二日、天気は昨日と同じねこの日は休みを取る。

 四月二十三日、辻屋からの依頼で、小鍾馗の絵を描く。

 広重が幕絵の制作に本格的に取りかかったのは、四月も半ば過ぎの事である。日記にも道祖神祀りの幕絵の下絵を書き終えたのは、四月二十日となっているからである。これは予め江戸で大方を描いて来たからに他ならない。緑町の幕絵世話役の話によれば、今回、緑町一丁目の表通りに張る十二枚は、一丁目の東側表通りの距離が三十六間、西側表通りの距離が三十五間半と都合七十一間半の距離である。幕絵一枚の長さは大凡五間となり、東側が六枚、西側も六枚と合計十二枚で全て通りの片側のみの張り出しとなるのは、緑町の通りの向かいは全て武家屋敷だからであった。

 広重はこの緑町一丁目以外に、柳町三丁目の幕絵の下絵も既にこの時は済ませていた。当初広重はこの幕絵の話を聞いた時、緑町一丁目の枚数を聞いて、江戸の風情を描けば良いと単純に考えて居た。その後に隣町の柳町三丁目からの話があり、その長さを聞いた時、三丁目西側表通りが七十四間、同じ柳町三丁目の東側通りが七十一間と少々、更に柳町三丁目横町北側が三十八間、同じ南側が十一間と教えて貰い、幕絵の番付を決めたのである。つまり描く幕絵は柳町三丁目は西側が十五枚、東側が十四枚、これは濠と路地の関係で、通りの長さが異なる為である。更に三丁目の横町北側が七枚で南側が三枚とになり、都合三十九枚となったのである。

 このために柳町三丁目を東海道五十三次の宿場絵図とし、緑町は江戸の名所で十二枚を揃えようと決めたのであった。何れ出来上がれば一度、試に町の通りに幕絵を張ると言う事であった。特に柳町三丁目の幕絵に、東海道五十三次の連なる宿場を描きたいと考えたのは、一枚毎の幕絵では無く、三十九枚の幕絵の全てが繋がって表通りに張られる事で決めた事であった。東海道五十三次の宿場や街道を幕絵を前にした客たちは、僅か百五十間ほど歩くだけで東海道の全てを旅した様な、錯覚に浸る事が出来るだろうと考えたからであった。 
 その為に広重は、全ての幕絵を俯瞰で描いて見たいと考えて居た。俯瞰とは強いて上げれば、飛ぶ鳥の目線の高さである。その俯瞰で描いた時、見る者は東海道の上を飛ぶ、燕が見た風情を感じる事が出来るはずであった。その絵には、あの東海道五十三次之内で見せた遊び心は無く、繊細にして雄大で、見る者を驚きの中に陥れる程の仕掛けだと言って良いだろう。
 確かに甲斐の甲府で、今更東海道でも無いだろうと言う話もあった。しかし広重がこの幕絵で描くのは、かつて描いた東海道の錦絵では無く、全てを俯瞰図にして街道風景を描く事で、世話役からの賛同を得て描き始めたのである。街道は一つの宿場だけでは成り立たず、幾つもの宿場が繋がってこその街道であった。その点、緑町の江戸名所はきらびやかな風情が楽しめ、祀りには素直に溶け込むとも思える幕絵であった。

 緑町の幕絵に手を付け始め、ひと月余りが過ぎた頃である。今度は幕府の老中が交代したと言う話が、この甲府にも伝わって来た。所謂天保改革の始まりであった。五月二十三日には、それまで若年寄だった林肥後守忠英、水野美濃守忠篤、美濃部筑前守茂育らが左遷されたと言うのである。将軍家斉と言う後ろ盾が居なくなり、老中首座に就いた水野忠邦が待ちかねた、この人事こそが初めての仕事であった。江戸では早速これらの出来事を面白可笑しく詠んだ落首が、詠み人知らずで江戸市中に貼りだされた。
「肥後ろから、金で覚悟はしながらも、こう林とはおもわざりけり」
「水野あわ、消えゆく後は美濃つらさ、重き仰せを今日ぞ菊の間」
 だが江戸の人々も又、後に老中首座に座った水野忠邦が何をするのか、この時は未だまったく知る事は無かった。そしてそれから直ぐに、江戸周囲の関東八州に向けて奢侈(しゃし)禁止令、つまり贅沢を禁止する御触れが出されたのである。
 
 天保の改革は新たな将軍、つまり第十二代将軍徳川家慶の誕生日の翌日に、上意として述べられ老中水野忠邦の覚書が添えられて申し渡されたのである。「御政事之義、御代々思召は勿論之義、取分享保寛政之御趣意に不違様思召候に付、いずれも厚心得可相勤候」簡単に言えば、この改革の目的は百年前の享保、五十年前の寛政の改革から、その意図したところから随分と逸れて来ている。故にかつて行った改革趣旨の元に戻る。と言う意味であった。具体的には腐敗した官僚機構の刷新、汚職の防止と節約、奢侈品の禁止、士風の振興、大奥の綱紀粛清、三方領地替え、年貢増微、低物価政策、株仲間の解散、江戸湾防備、軍事改革などが目的であり手段でもあった。
 しかし前将軍の家斉は、自ら作った二十余名の子供らを大名に引き取らせ、そこに多額の持参金も費用として賄われていたはずである。文政十年(1827年)に加賀藩に嫁いだ二十一女の溶姫は、母が側室のお美代の方であり、それが為に加賀藩は本郷の上屋敷の中に、溶姫御殿を建てざるを得なくなるのである。更に溶姫を迎えるにあたり加賀藩では、新たに溶姫が出入りする赤門を建て、その向かいの民家十棟が事ごとく取り払われてしまったのである。更に数十人の女中たちが、溶姫に付いて前田家に入る事となった。幕府は加賀藩の経済が揺るがぬ様に月々の手当と、それに見合う持参金を持たせたのは容易に想像が付く。幕府はそうした費用を賄う為に、天保銭の吹き替え(改鋳)をする事で費用を浮かして来たのである。

 銀は大坂、金は江戸、これは貨幣の基軸を示し、江戸は大方が金相場となっていた。金が最も産出したのは室町時代の終わりから江戸時代の初め頃で、その後の金の産出量は年々下がって来ていた様で、戦国時代は甲州で採れる金が最も多かったと聞いていた。江戸時代に入ると佐渡の金山が開発され、不足していた金はこれで賄われていた様である。しかし採れば痩せるのが道理であり、今は佐渡以外に伊豆の大仁金山か、但馬の大森銀山位が僅かに産出していると言うのである。
 それに貨幣に含まれる金の量目の比率は、慶長時代に鋳造された慶長大判の比率は、金が六割七分、銀が二割七分、銅が六分と言われていた。それが元禄に改鋳された大判の比率は、金が五割二分、銀は四割六分、銅は二分、小判は金が五割七分で銀は四割三分となるのである。当時は当然ながら貨幣が価値を持つのではなく、金の価値、銀の価値で貨幣の価値は決まっていた。それ故に改鋳は当然の事だが、物価の値上がりを意味していたのである。

 こうして十五年後に再度改鋳したのが宝永の改鋳であった。しかしこの時は中身では無く貨幣全体の量目を減らしたのである。その後も貨幣の質と物価はいたちごっこと言うべきか、明和、安永、文化と幾度も改鋳を繰り返し、貨幣価値の低下を増々落してきたのであった。貨幣の持つ価値を無視して、安い錫などの割合を高める改鋳で、赤字財政をごまかし続け、幕閣までもが賄賂を平然と受け取っていた。大奥は当然ながら財政の緊縮には絶対に反対であった。そこにはただ単に百年前の享保、五十年前の寛政の改革に戻ると言う掛け声だけのものであった。
 広重は時折江戸の佐野喜から届く便りを読むに付け、直ぐに戻る事を躊躇せざるを得ない気持ちになっていた。今はあちらこちらと画を描く為に回り歩きたいと思える。事実甲府に来てからの十日余りは、誘われるままに毎日の様にで歩いていた。昼間の狂歌会に顔を出し、その夜は宴会であった。翌日は芝居に出掛け又夜は違う人々と酒を酌み交わす日々で、流石に酒を断ると今度は温泉にでもと誘われる。何でも舞鶴城を建てる時に、湯が湧きだしたとされる温泉があった。未だ甲府には江戸の様な厳しい倹約令は届いて居ないのである。

 緑町の幕絵世話人衆の一人である萬屋定右衛門から話があったのは、朝夕は涼しくても日中の暑さが厳しくなりかけた、五月の終わり頃であった。既に十二枚の幕絵の完成まではあと僅かの時でもあった。
「師匠が毎日を甲府の町中で、幕絵と取っ組み合いを見ておりますと、さぞ気分直しが必要かと思いましてね。そこで明日か明後日の天気の良い日に、一晩泊まりで甲斐の御嶽山にお誘いしようかと思いましてお伺いしたのですが」
 毎日の描く絵は違っても、同じような繰り返し、広重には願ってもない話であった。
「ぜひ行きたいですね」
「そうですか、まず頂きの奥宮は無理としても、手前に金櫻神社がございます。神社の前には参詣の者たちが泊まれる宿もございますれば、画帳一つお持ちになって、天気次第ではございますが私がご案内出来ますので」
「お心ろ遣い頂き、真にありがたいの一言です。精根込めて描いてはおりますが、やはり気分は広い場所で遠くを眺める、これに越した事はございませんよ」
「それなら明日にでもお誘いしますか」
「ぜひぜひお願いしましょう。お迎えの事、宜しく頼みます」

 こうして広重は甲斐の御嶽信仰のある金峯山に、世話人の萬屋と一緒に向かう事となったのである。
 金峯山を甲斐ではきんぷ山と呼び、信州側からはきんぽう山と呼ばれ、信州側の沢に落ちる水は千曲川に流れ、信濃川となって越後の海へと注ぐ。一方の甲斐の沢に落ちた水は釜無川を経て富士川から駿州の海へと流れて行く、いわば日本の中央に位置する分水嶺の山である。それにこの山は平安時代より蔵王権現を祀る、修験者の信仰の山でもあった。特に蔵王権現は印度に起源を置く仏教とは異なり、日本で生まれた信仰である。その多くは富士登拝と共に信仰が広まったと言うが、何よりもそれは登山の道が増えた事に由来する。この甲府から金峯山への登山道は山口九所とも言われ、江戸時代後期のこの時期には参詣者の為の山道が、多く整備された事が大きな理由であったと言われている。

 広重と萬屋は翌朝早く、甲府を後に金峯山に向かって出立した。穏やかな天気であった。(広重がこの金峯山に向かった道は、九つある登山道の中の吉沢口の道で、歩いた経路は広重が描いた画帳から読み取る事も出来る)
 吉沢口からの道は千塚村から北に向かい、荒川を渡って吉沢集落から外道を辿り八王子峠を越える。更に金櫻神社を経て金峯山に向かう道であった。広重はこの御嶽道の途中で太鼓岩を描いている。更にそこから登ると外道の原に出る。行く手にはこれから上る参道に、枕石と呼ばれる特徴のある石が露出して、更に遠望すると岩山の頂きに抜刀石が見える。ここから下を見ればこんもりとした小山が見え、幾重にも折り重なった遠くの山並みの向こうに、富士の頂きが顔を覗かせて居た。
 更に進むと鞍掛け岩が顔を出し、その先には象ケ鼻の岩が見え、これらの風情を広重は画帳に収めたのである。山道を上り詰め少し下ると鳥居の先に、御嶽金櫻神社が待っていた。神社の右手には旅籠を含めた村の家並みが並び、この日は信者達が泊まる入口の旅籠で休む事にした。広重はここも画帳に収め本殿の姿をその画の右上に簡単に描いた。

 旅籠で足を洗い部屋に入った広重に、萬屋定右衛門は語りかけて来た。
「文化六年と申しますから、ざっと三十年余り前の事でございます。十一代将軍の御殿医であった渋江長伯様が、この金櫻神社参詣を済ませながら幾枚かの画を描いて居ると申します。しかも登った往路は私共が登ってきた隣の亀沢口であり、下った道は私共が今登って来た吉沢口でございます。この神社の裏手の峠までの道を登りきれば、後は亀沢口まで全て下りとなるそうです。つまり御殿医の長伯様が歩かれた道は、私共とは逆の道となります。実はその長伯様は朝早く甲府柳町の旅籠を出られ、夜にはその旅籠に戻っていると言うのだそうで、お武家さまは大層足腰が強かったかと思われましてな」
 長伯は途中で画を何枚が描いて居ると言う萬屋の話を聞いて、広重はさも楽しそうに笑いながら答えた。
「武士ならば御手当を戴いての参詣、当然の事でしょうな」
「なるほど、一利ございますな」
 萬屋も広重に合わせて、笑った。
 二人が緑町の宿舎、伊勢屋に戻ったのは翌日の夕刻であった。そしてその三日後に、緑町一丁目の幕絵十二枚が完成したのであった。

 萬屋と金峯山に登ってから直ぐ、甲府も梅雨の季節に入った。雨や曇りの日が多かった所為なのか、暑くも寒くもない凌ぎやすい日々が続いて、柳町三丁目から依頼されていた幕絵も、思った以上に仕事がはかどっていた。緑町一丁目の幕絵の試し張も、曇りの日ではあったが事無きを得て、既に引き渡しも終えていた。
 既に柳町三丁目の幕絵制作の工程は、全体から見れば三分の一は越えていると思える。だが梅雨が去った途端に、暑くてやりきれない日が続き、広重は三日程の休みを貰い、独りで身延路を歩く事にしたのだ。それにもう一つの目的が広重にはあった。北斎が富嶽三十六景の中で描いた、鰍沢の場所に立つ為であった。町の世話人には久延寺の身延詣だと伝えていたが、割と直ぐに納得してくれた為に、この何処何処詣りの言い訳は結構使えると思ったのである。

 甲府から身延までの距離は、凡そ二十里程である。行きと帰りに一泊づつの旅だが、初めて目にする風情は何時も新鮮で心が躍るのである。緑町近くの甲府相生から山之神を経て、青柳追分から鰍沢、更に身延へと続くのが身延道であった。尤も江戸から身延詣に来る場合は、その多くが東海道の富士宿から別れ、富士川を渡り岩淵から川沿いを万沢に出て身延に向かう。西国からは興津宿から左に曲がり、身延みちを万沢に向かって身延に向かうのである。つまり身延みちとは東海道の興津から、或いは富士宿から岩淵を経由する、甲府相生までの道を指すのである。
 この身延を経て駿河湾に流れ込む富士川の開削事業を、江戸時代の初めに、家康は京の豪商であった角倉了以に対し命じている。それは甲斐の国に降る全ての雨が、鰍沢あたりから一手に富士川に流れ込み、度々洪水を引き起こしていたからであった。しかしこの流れを利用すれば、甲斐の物資だけでなく信濃の年貢なども、労少なくして江戸に運ぶ事が出来るからでもあった。川の中の岩を削り、狭い谷合の崖を削って水の流を良くした後、釜無川と笛吹川の合流場所には、鰍沢河岸、黒沢河岸、青柳河岸などを作り、底の浅い高瀬舟を京から持ち込み、以降は水運が活発になったのは言うまでもない。特に下げ米、上げ塩と呼ばれ、其々の河岸には米蔵が立ち並び、綿花やたばこなども船に載せられ岩渕河岸に降ろされると、荷は三十石舟に積み替えられ清水湊まで運ばれ、ここで千石船に積み替えられて江戸に向かうのである。

 暑いからと言う理屈を付けた身延詣も、実の処どうしても出かけてみたい場所が鰍沢であった。あの北斎の描いた富嶽三十六景の鰍沢の錦絵は、広重にとって余りにも鮮烈であったからだ。あの画を見た時から、その場所がどの様な場所かを知りたいと思えたのである。勿論北斎が、あの風情をそのまま描いたなどとは考えても居ない。しかし、どうしてあの画が浮かんで来たのか、広重はあの画を産み出した場所を見たいと願ったのだ。
 今、やっと願っていた場所に向かう事の出来る事が嬉しかった。多くの人達はあの富嶽三十六景が刊行された時、特に賞賛したのは神奈川沖浪裏や凱風快晴であった。それも確かだとは思えるが、広重は鰍沢の画に釘付けになったのである。無駄は一切取り除かれ、岩と投網の紐とがもう一つの富士の稜線を構成して、投網を手繰り寄せる張りつめた紐の線は、見る者に富士の裾野をより強く印象付けさせているのである。画に説明が多ければ多いほど、画が画で無くなると広重には思えるのだ。
 広重が甲府の伊勢屋を出たのは朝六ツの頃である。昨夜は星も見える良い天気だったが、もやっとした朝の湿気が甲府の町を包んでいた。前夜に伊勢屋の栄八から、青柳の追分までは四里半程と聞かされていた。泊まりはその先の鰍沢のつもりでいたから、道中急ぐ必要も無かったのである。
 江戸に向かう甲州街道を横切り、真っ直ぐに山之神に向かったが、途中から富士のお山に雲がかかり、その内に何処が富士のお山かも判らなくなってしまった。道は釜無川にぶつかり渡しの舟で川越した後、しばらく河内路とされる身延みちを進み、青柳宿を過ぎたあたりで釜無川は左からの笛吹川と合流する。鰍沢村の入り口には、口留の番所がある。風早の関とも言われ甲斐二十五関の一つで、天保九年つまり三年前の鰍沢村明細書によれば「口留番所御門東、南、北、矢来の囲みあり、一日一夜ずつ、大小百姓二人ずつ番人替り替り、夜は油火焼き相勤め申貴来候」とあり、一晩中交代で村人が出女と入鉄砲の監視をしていた様子が書かれている。そして身延みちはここから山間の峡谷へと、川沿いに入って行くのである。

 流を左に見ながら少し下ると鰍沢河岸であった。その向こうには両岸の山が裾を迫り出すように狭い峡谷を作っている。小高い山の中腹には茶屋や旅籠が有る様で、今夜はこの鰍沢宿での泊まりとした。
 宿の者に目の前の釜無川と富士のお山の両方が見える場所を尋ねると、笑いながら答えたのは意外な返事であった。
「お客さん、幾ら富士のお山が高くても、釜無川の崖の様な向こう側の山に遮られ、川面から富士のお山が見えるのは、ずっと下った身延の入口辺りかな」
「他に鰍沢で、投網の出来る様な川は無いだろうか?」
「投網は広い川でねえと出来ないしな。やはり釜無川だろうよ」
 広重はそれを聞いて、明日はぜひ身延の入口辺りで、川面から富士の頂きを見て観たいと思った。鰍沢河岸は多くの米蔵や川舟の船着き場がある。この河岸の米蔵に一時入れられた年貢米は、下り船に載せられて下の岩渕までは半日余りで着くと言う。しかしその岩淵からの上りの船は、帆を張ってもこの鰍沢に向かっても、大凡五日程の日数がかかるのだと聞いたのである。
 
 翌朝、広重は富士川を下る乗合舟にも乗らず、下流に向かう右岸の岸辺に作られた身延みちを、富士の頂きが見えると言う場所に向かって歩く事にした。振り返ると鰍沢河岸が川の両に挟まれる様に見えた。ゆったりとした川の水は大きく目の前を曲がり、下流へと流れて行く。広重は川下から鰍沢河岸を望み、その風景を画帳に収めたのである。その鰍沢の画には言葉を添えた。「此邊より身延山までの間、左高山ニして中不二川の流れありて古今絶景なり」そして鰍沢河岸の上辺りには「二軒茶や、舟乗り場、宿や」と書き加えた。
 鰍沢村の先の箱原と呼ぶ数軒の集落から、村境を越えた西嶋までの道は川幅も狭くそれは又身延みちが山肌の急斜面に削られた狭い道である事を物語っている。二百年も前、この辺りを釜ケ淵と呼ばれた頃に、その箱原から対岸の羽鹿島には渡し舟で渡り、その対岸を歩いて下り楠甫村からこちら側の西嶋に渡しで入ったと言う。この二つの渡しを「両越の渡し」と言ったと言うが、大雨が降れは川止めで、行く事も戻る事も出来ない街道だったと言うのである。

 身延村に入った辺りであった。それまで富士川の左岸を途切れる事も無かった高い崖が途切れ、ずっと崖の様に連なっていた山並みが川から離れて行くと、その上に富士のお山の頂きだけが、まるで山並みの上に乗せられた様に四方を見渡していた。
 川岸からは漁師が乗った様な岩が川の中へと迫り出し、投網を投げるのには十分な場所であった。近くには西嶋諏訪神社の祠があった。恐らくはこの場所で北斎はあの鰍沢の画を着想したに違いないと思った。あの北斎が描いた画とは余にもかけ離れているが、川と漁師と投網と富士と、たった此れだけであの画の構図を組み立てた北斎に、広重はやはり天下一の画工だと思った。
 期待通りの場所と期待を大きく裏切られた場所の狭間で、出来過ぎる程に完成された構図で描かれた鰍沢は、やはり来て良かったと言う満足感が広重の胸に広がったのである。

 身延山に程近い切石と言う場所の川岸に、洗濯石と呼ばれる岩があると聞いて探してみた。岸辺近くの岩の端には、八畳程の広さの平らな岩があった。恐らくは村人がこの岩の上に座り、富士川の水で洗濯した岩なのであろうかと推測した。この岩も画帳に収めそのまま足を更に下流へと向けた。
 飯富宿は甲府と興津を結ぶ身延道のほぼ真ん中あたりの宿場である。ここから富士川を渡と信玄公の隠し湯と言われる下部から本栖への道となり、急で険しい道を登りきると、後は東海道の富士宿まで富士のお山の裾を下るだけの道となる。
 この飯富宿を少し過ぎると、富士川の対岸には切り立った屏風岩が壁の様に連なった場所がある。ここは富士川の難所としても知られていて、増水の時に富士川の流れは、渦を巻いてこの屏風岩にぶつかって行くのである。ここでも広重はこの屏風岩を画帳に収め、近くの早川の河口近くの渡しで対岸に渡ったのである。

 早川が富士川に注ぐ河口は河原も広く、甲斐の国一の暴れ川と言われる理由も、来てみて初めて分かる事であった。広い河原の石はどれも大きく、澄んだ水の流れは冷たくそして速い。流の川幅は然程広くはないが、歩いて渡る事はまず無理であった。広重は此処で引き返す事に決め、この早川の河口の渡しを描いたのである。
 早川の横渡しとも言われる渡しは、舟に船頭が乗る事は無かった。渡し舟の舳を縄で縛り、その縄を対岸の船頭とこちらか側にいる船頭が交互に引っ張り、緩めて舟を対岸からこちらへ、こちらから対岸へと運ぶのである。それ故に舟の舳は何時も川上に向き、舟に乗る客は船の横から乗り込み、降りる時も反対側から降りるのであった。
 甲府への帰路、飯富村の河岸から広重は、鰍沢まで船に乗って戻る事にした。ゆったりとした流れに逆らいながら、風を孕んだ帆はゆっくりと舟を上流へと押し上げて行く。船頭も竿を操りながら底の浅い高瀬舟を、川上へと向かわせていた。歩く程のゆったりとした舟の速度は揺れも少なく、広重にとって心地よい速さと涼しさであった。こうして夕刻には鰍沢に戻り、次の青柳宿で泊まる事にしたのである。

 柳町三丁目の幕絵の方も、残すところ既に三分の一程になっていた。朝夕は虫の声も聴え、秋の訪れが僅かだが感じられる季節であった。十日程前の天気の良かった朝、一晩泊まりで気分を変える為に、支度もせずに思いついた様に御坂峠に向かった事があった。伊勢屋栄八が前夜に案内しましょうかと、口を滑らした事がきっかけであった。
 北斎が描いた富嶽三十六景の中で「甲州三坂水面」と称する画を描いた場所である。湖面に映る富士のお山の姿を、何故に横にずらしたのか、そして映った富士のお山が、何故頂きに雪をかぶった富士だったのか、そこに出掛けて観たいと思えたからであった。
 御坂峠に立って見れば、北斎が珍しく実景を描いた様にも思えるのは、富士の山頂から流れる様に左に落ちる急な斜面が見えたからである。峠からと言うよりは、大分湖水に近づいた場所から描いた様にも思えるが、この時広重の頭に浮かんだのは、馬琴七十歳の祝いに両国のおおのしで開いた書図会の、引き札に書かれた北斎の一文であった。「予、おさなきより画をこのみ・・吾が徒両三輩、千枚かきといふ事を催しての、席上に曲筆、逆画の賎技を披露し、不学百芸と秀句し・・・」

 広重はこの時、まさに北斎の逆さ画を見た様に思えたのである。実景に囚われず描く事を楽しんでいる北斎の姿が、この時広重の脳裏に浮かんで来たのであった。わざと逆さに映る富士の姿を横にずらして描いた辺り、小憎らしいほどの江戸で育んだ粋と洒落が、画に浮き出ているのが分かる。無論広重も画帳には、この御坂峠からの富士を描いている。だが未だ北斎程の余裕が、自らの画には無い事を広重は感じていたのであった。
 帰りには石和に抜け、甲斐善光寺の裏手にある夢山に登った。甲府の街並みの上には御坂の山並みが連なり、その上には富士の頂きが顔を覗かせていた。「夢山は、ゆめばかりにて聞きしより、見て目の覚める甲斐の裏富士」広重が、この夢山でひねった一句であった。

 画帳にはこの時に見た富士のお山を描いたが、戻れば又、麻布の上に下絵を拡大し、筆を入れる事の繰り返しであった。それが終われば今度は色を乗せて行く事になり、そこまで来ればひと月余りで終わるはずであった。
 しかし初めて描いた東海道の俯瞰の画は、拡大して麻布に描く事が大仕事であった。墨を垂らしただけで、筆を落しただけで五間の幕は全てが台無し、描き直しであった。神経を落ち着かせて集中する以外、この真っ白な麻布に筆を入れる事は、かなりの覚悟が必要となるのであった。 
「どうでしょう、ひとつこの辺りで五日程の時間を掛けて、犬目辺りにでも出かけて見るというのは? ついでに高尾のお山も近う御座いますし、だいぶ根を詰めてのお仕事ぶりですから、宜しければ私がご案内でも致しますよ」
 そう声を掛けて来たのはこの家の主、伊勢屋栄八であった。
「お気遣いを頂き、ありがとうこざいます。確かに根を詰めて仕事の毎日、それも酒を断っての仕事三昧ですから、本音を言えば少々辛いものもございます。犬目峠はこちらに来る時に通りましたが、一度ゆっくりと時間を掛けて描いて見たいと思った場所。実はあの北斎翁も富嶽三十六景では富士を描いた場所で御座います」
 犬目峠は来る時に、峠の場所でただ立ち止まっただけであった。
「それなら尚の事、是非とも行かれて納得の画を描くのが宜しいかと、今なら時間も有り余る程、有りなさる。それに江戸からとなれば往復でも八日は必要。甲府辺りの描き残した風情も、新たに描いて廻る事が出来れば、この様な場所へ来られた甲斐もあると言うもの」
「おや、来られた甲斐とは、江戸っ子の様な洒落ですかな」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「お気遣いを戴いて、ひと段落しましたら出掛けて見たいと思っております。ただ手前は絵師、何処で立ち止まり、何を描くのかはその時の気まぐれ、独りで思い出した様に出かけたいと思っておりますので・・」
「分かりました。師匠が留守にしているとしても、しばらくの事と詮索は致しませんので、どうぞごゆるりと時間をお使い下さります様に」
 
 広重が幕絵を一段落させたのは、それから五日後の事であった。明日から四五日程出掛けて参りますからと伊勢屋に伝え、柳町の幕絵世話人にも断りを入れ、広重は甲州街道を犬目に向かったのである。途中一日目は笹子宿に泊まり、翌日は犬目峠に向かう手前の鳥沢宿に泊まった。四月に甲府に向かう道で「のだ尻を発って犬目にかかる、此の坂道ふじを見て行く」と日記には書き記したが、今はその逆の道を辿っていた。
 翌朝、広重は峠に向かう途中の藤巻と呼ぶあたりで、沢の水を引いて旅人をもてなす茶店を描いた。この辺りを座頭ころばしと呼ぶのであろうか、崖の上から俯瞰図で茶店を描いたのである。犬目峠の犬目とは水の湧く井の目から来ていると言うが、その名の付いた峠は峠と呼ぶには余りにも漠然として、後からどこが峠か分からない様な場所であった。

 広重は北斎の描いた犬目峠の画を思い起こしていた。それは確か峠に向かう稜線の向こうに悠然と、富士のお山が裾野を広げて描かれているものであった。実景と描いた画との間には、絵師がどの様に実景を画に写したかと言う、絵師の意図や技法が見え、それに伴い絵師の技量も見る事が出来るものである。だが此処でも北斎は鰍沢のそれとまでとは行かないものの、かなりの部分を削り落としていた。その落す部分のそれは、広重のそれより遥かに多いのである。広重さえ驚くほどそれは実景に囚われず、北斎自らが表したいと思う風情を、確かな筆で描いているのである。後はそれをどの様に受け止めるか、それは絵師から投げられた見る者への問いかけでもあった。
 犬目峠で広重は画帳を広げてはいなかった。広重が甲斐犬目峠として画帳に描いたのは、峠から下った桂川の見える場所で、実際に富士のお山が見る事は出来ない場所である。だが犬目峠から見た富士は、広重の描いた姿そのものであった。
 文政十三年刊に書かれた甲駿道中記には、「犬目驛、此地は狗目峠とて一郡の内にて極て高き所なり、房総の海まで見え、坤位(南西)には富士山聳て霄漢(空)を衝き、其眺望奇絶たる所なり」と記されている。この十年程前に書かれた案内文の一節を思い出し、広重は何時かこの峠から房総の海を見たいと思った。

 昼前に犬目宿を出てた広重は、甲州街道の小仏峠の手前の小原宿に宿を取った。明日は小仏峠から山道を高尾山薬師寺に向かう為であった。高尾山の薬師堂と勝沼にある大善寺の関係が気になったのは、大善寺が柏尾山薬師寺、高尾山薬師寺と一文字違いの二つの場所が、どの様に違うのかと言う単純な疑問からであった。
 そこで画帳の上に高尾山の薬師堂を、下段に柏尾山薬師堂を描いてみようと思ったのである。ここまで来た目的は、気分転換と犬目峠の画を描く事であった。広重は高尾山の薬師寺を描くと、直ぐに甲府に戻る事にしたのである。甲府に向かう勝沼の街道沿いに、気になっていた大善寺に立ち寄ると、画帳を広げて高尾山薬師堂を描いた下に、この大善寺の柏尾山薬師堂を描いた。次いで酒折宮に立ち寄り、画帳に収めて日本武尊と此の地に営む者に与えたと言う、火打ち袋の話を画帳に書き込んだ。余白には甲斐善光寺近くの流を収め、緑町の伊勢屋に戻ったのである。

 広重が三十九枚の東海道の幕絵をほぼ描き終えたのは、朝夕に寒さを感じ始めた九月も終わりの頃である。後はすやり霞にベロ藍の絵の具を塗り、筆で名前や地名を書き込めば良い処まで来ていた。この頃には、柳町三丁目の幕絵世話人衆の中から、何処の店の前には何が張られるのか、そうした話が持たれ始めて来た様で、それは又、どの店がどの幕絵を保管するかと言う話でもあった。
 特に幕絵を大通りに飾ると言う柳町三丁目は、甲府鶴舞城の南側外堀沿いの南北に走る町である。城の方から柳町一丁目二丁目と繋がって行き、四丁目を過ぎた辺りで濠に架かった橋を渡ると、緑町一丁目二丁目へと続いて行く。この三十九枚の幕絵はこの通りの中ほどの三丁目の通りの両側と、途中の濠に架かる扇橋までの両側に張る事になっていた。
 前代未聞の初めての試みは、広重が思う以上に綿密に打ち合わせを重ねた話でもあった。所謂幕絵は戦の時に使う陣幕と同じ形式で作られ、その作法に沿った大きさや仕掛けが施されていたのである。それは麻紐で竿を支えて吊り下げるもので、例えば幕の中央には向う側を覗く事の出来る様に、横に切れ目が付けられているのである。

 江戸の佐野喜から広重に手紙が届いたのは、九月も終わりの頃の事であった。甲府での塩梅を心配してくれての事でもあったが、そこには江戸の粛清の出来事が書かれてもいたのだ。既に上野不忍の茶屋が全て取り払われた事、女犯の僧侶が次々と捕縛されている事。芝居小屋の三座が浅草の猿若町の一か所に移転させられた事などであった。特に大奥は絵島生島の事件以来、芝居見物は禁止されていた。
 今年亡くなった将軍家斉は愛妾お美代の方の影響を受け、日蓮宗に帰依していた大奥の女中達は、競って代参を買って出た訳である。特に一泊しなければ戻れない、下総中山の智泉院は、代参の希望者は多くを数えたと言う。中には中臈が自らの女中を代参に行かせ、その祈祷用の衣類を入れる長持ちの中に自らを隠し、江戸城を抜け出て寺で逢引に行く者も居たと言う。これには寺社奉行の脇坂淡路守の手によって、江戸城出口の七つ口で強引に長持ちを開けさせられ調べられたと言うのである。

 更に錦絵も役者絵や美人画は禁止され、富くじも禁止され、寄席も吉原以外では全て閉められてしまったと言う。恐らく少し前に描いた幕絵さえ、贅沢品として取り上げられるかも知れない不安が襲ってきた。襖絵も屏風画も、幕府の新たに行われる天保の改革からすれば、許される事では無いのかも知れなかった。佐野喜は手紙の最後に、江戸はこの様な事情だから少しでも長逗留をされ、沢山の風情を描き貯めて楽しんで帰って貰いたいと結んであった。
 一体幕府は何の目的で倹約令を出し、贅沢を規制しているのか広重には理解出来なかった。幕府の政策を批判するつもり等は毛頭ないのだが、何故やらなければならないのかを知らしめず、単にやれやれと言うのはどう考えても納得の行くものでは無かった。
 江戸に戻っても妻が待つ訳でもなく寧ろ佐野喜の言う様に、この秋の深まる頃まで甲府を起点に旅に出ようと考えていた。何処に行くのか、信州松本から川中島、そして善光寺に行って見たい。その考えが湧いて来たのは、甲斐の善光寺に寄り道をした時であった。早速広重はその信州行きの事を手紙に書いて、佐野喜の元に送ったのであった。
 十日後には佐野喜から返事が広重の許に届いた。手紙に添えて御注文書と書かれていたのは、信州川中島合戦之図、大判竪三枚続とあった。広重は早速、信州善光寺に向かう支度を始めたのである。佐野喜らしい注文の仕方であった。信州川中島合戦とは甲斐の武田信玄と、越後の上杉謙信の戦いである。攻め込む馬上には謙信が刀を振りかざし、迎える信玄は軍扇と呼ぶ軍配団扇でその太刀を受ける図は、かつての勝川派の春亭が描いた物で、広重が画師と名乗った頃には既に没していた絵師であった。
 
 甲府緑町の幕絵世話人で、広重の逗留している伊勢屋の主人栄八が、広重の信州行きを聞きつけて慌てて飛んで来たのは、佐野喜から注文の手紙が届いたその夜の事であった。齢は五十を過ぎているが、御坂峠を案内してくれた世話好きな男であった。
「師匠が信州に行きなさると聞きましたが、何か御気分でも悪くしたのかと思いまして伺いました」
 栄八は心配そうに広重に声を掛けて来た。
「嫌々、とんでもない。何時もお世話を頂きね感謝しておりますよ。ですがこの際、信州の善光寺さんにもお参りしようかと思いましてな、まぁお参りにかこつけて、諏訪や上田あたりから川中島も描いてこようかと思いまして、他意はございませんよ。それにこれを」
 佐野喜から届いた手紙の注文書を見せたのである。
「なるほど、合点が行きましたよ。昨今はご時勢なのでしょうが、贅沢は駄目だと言う御触れも出回ってはおります。幕絵が果たして贅沢かどうかは、私共には分かりません。それに江戸では何から何まで次々とお触れが出ている様子で、事細かく御指図があると言う事でございますから、私もご一緒に善光寺さんに行きたい気分でございます」
「ご心配をおかけして、誠に申し訳ない次第ですが、荷物はまだ当分は置かせて頂く事となりましょう。何分その所は宜しくお願いしたいと・・」
 安心したのは栄八は大きく頷くと、今度は広重のこれからの事を訪ねて来た。
「で、師匠は何時頃にはお戻りになるのか、差し支えがなければご予定などお聞かせ頂きたいと」
「さて、大凡半月もあれば戻って参りたいと、その様に考えておりますが、遅くとも十月中頃までには間違いなく戻ります。柳町の幕絵もほぼ出来上がりは読めますし、戻りましたらしばし皆さんのご要望もお聞きして、少しは絵筆を走らせて江戸に戻りたいと考えております」
 
 初めて甲府に来た時には、これ程長居するつもりは無かったと言って良い。しかし江戸では贅沢品の売り買いは、奉行所が密偵を放って監視していると言う話を聞いて居た。幕府を少しでも非難する様な読本は、即に手鎖の刑は間違いなかった。それにしても美人画を生業にしている国芳ら絵師達は、仕事も止められている事は容易に想像がつくのであった。江戸は間違いなく窮屈な、人目を意識しながら生きなければならない場所になっていると思えた。
 広重が甲府を発って信州の善光寺に向かったのは、九月の末であった。季節は晴れの日が続き、旅には最も適している時期でもあった。目的は川中島の合戦図、そして善光寺など付近の名所を描く事である。川中島合戦之図は勝川春亭が文化六巳年に、武者絵として描いている事は知っていた。この年に広重の母や父が逝った年で、同心職を引き継いだ年だからである。その春亭が描いた無題の合戦図を思い出せば、画は見事だったが背景の風情は殆ど想像で描いた様な、頼りなさが目に付くのであった。だからそこだけはしっかりと自らの目で確かめ、あの背景を捉えて置きたいと思ったのである。

 広重が甲府の伊勢屋を出て五日目、遠く見下ろす様に眼下に、千曲川の光る水面が木立の向こうに見えていた。確か名勝と知られる田毎の月と呼ばれる場所が、近くに有ったはずだと村人に聞くと、すぐ近くの姥捨山の裾野にあると聞かされた。田毎の月は千曲川の上に昇る月が、段々に耕され水の張った田の一つ一つに、その月が映ると言う場所で月見の場所としても知られている。昔から歌にも詠まれるほどに知られてはいるが、水の張った田の一つ一つに月が映る訳では無く、見る者が動けばどの田でも月は映る事から、田毎の月と呼ばれているのである。広重は画帳を広げて、無心でその田毎の月を描いていた。未だ昼間ではあるものの、広重の頭の中には春の夜のおぼろ月が、水の張った田に映って輝いているのが見えて居たのである。
 
 その夜の泊まりは善光寺の手前にある宿場、篠ノ井追分宿であった。北国街道の分岐にあたる間宿ではあるが、この北国西脇往還は平たく云えば善光寺街道とも呼ばれ、木曽街道の浅間追分に続く主要な街道の要衝である。
 翌日は善光寺を参拝し、戻りがてら川中島の古戦場跡に向かったのである。川中島の戦いとは永禄四年(1561年)に、北信濃の支配権をめぐって信玄と政虎(謙信)が戦った戦ではあるが、江戸時代の甲陽軍鑑には、数度の戦いの中でも最も死傷者の多かった八幡原の戦を指すと記されている。九月九日に信玄は善光寺西の茶臼山に陣を、政虎は千曲川を渡って妻女山に陣を張ったとある。
 信玄側は戦法として啄木鳥の戦法を、つまりくちばしで虫の潜んでいる辺りを叩いて、追い出したところを喰う戦法で動き出した。一方の政虎はそうした動きを感知して、夜陰に乗じて妻女山を下山し、雨宮の渡し付近で千曲川を渡り、翌日十日の明け方の未だ暗いなか、千曲川の岸辺に潜んだのである。やがて朝霧の中で武田勢が見たものは、川を渡って来る越後勢であった。こうして八幡原で両雄が対峙し、政虎は馬で武田の陣地を急襲して信玄めがけて太刀を振り下ろし、信玄は軍扇で我が身を守ると共に、信玄の部下が槍で政虎の馬を突くなどして防戦、こうして両雄の戦いの図が生まれたのである。
 広重は千曲川と犀川が合流しかつての合戦場所に佇み、千曲川の向こうに見える妻女山から海津城の後ろの象山、更にすり鉢を伏せた様な皆神山や遥か遠くの四阿山を画帳に収めて居た。

 広重が信州の旅から甲府に戻ったのは十月も半ば近くで、早速柳町の世話役を引き連れて、伊勢屋栄八が広重の許に飛んできた。
「お帰りになられた様だね」
報せで出先から戻ったのか店の手代に聞く声が、広重の居る奥の離れまで届いて来た。画帳一冊と筆が数本、そして着替えの入った振り分けで、良くも半月近くを善光寺まで行って来たものと、感心したのは外でもない広重自身であった。
「おかえりなさいまし、ご利益の方は如何でしたでしょうかな?」
離れに顔を出した伊勢屋と柳町幕絵の世話人衆が数人、久しぶりに善光寺から戻った広重を前に、にこやかにその帰宅した事を喜んでいた。
「生まれて初めて旅らしい旅をさせて貰いましたよ、さして用事もなく、ただ見知らぬ土地を旨い酒と食い物を食べ、名所や古跡を歩いて回るなんて事は、生涯にそう何度もある事ではないでしょうね。今度の旅では殆ど画帳さえも開く事もありませんでしたが、何時も描く事ばかりを考えて生きていると、素直に旅を楽しむ事も出来なくなりそうでしたよ」
「それは又、絵師を生業にするお方が旅で生業をお忘れになる。そうした真似は私共では出来る事はありませんな。私らは何でも商売、幾ら儲かるか直ぐに何でもそろばんをはじく。情けない商売人の性とでも言うのでしょうかね。師匠が羨ましい限りでございます。ところで師匠。又描いて貰いたいと隣町の者が師匠のお帰りを待っておりますが、如何しましょうか」
「明日から又しばらくはご厄介になりますから、何時でも訪ねて頂ければと思っていますよ。江戸には十一月頃の帰りを予定しておりますが、途中は今一度猿橋辺りにでも寄って、描いて帰ろうかと思っておりますが」
「さすれば江戸にお帰りの前に又一つ、師匠を囲んで皆さんで一献傾けたいと考えておりますが、その折には画のお話では無く、師匠の旅のお話でも伺えればと、なぁみなさん」
 栄八は世話人衆に向かって同意を求める様に言った。「そりゃあいい」「そうだ、そんなお話も伺いたいが、やはり江戸の話が聞きたいですな」と声が上がった。
「これだけの長逗留でございますから、何なりとご要望にお応えしますよ」
 観念したとでも言いたげに、広重は苦笑いをしながら言った。
「それはそうと又師匠にお手紙が来ておりましたが」
伊勢屋は一通の手紙を取り出して、広重に手渡した。浦には佐野喜と書かれていた。
「さぁ、師匠もおつかれでしょうから、私共もこれで退散いたしますが、又ご予定などお伺いしに参ります。どうかごゆつくりとお休みください」
 世話役衆が部屋から出て行った後、広重は佐野喜からの手紙を広げた。
「その後の江戸の事を一筆お知らせいたしたく、増々もって綱紀粛正は厳しく、当節は万事が質素に相成り、奢侈詮議は微に入り細に入り誠に丁重にて、例えば既に女人の髪結いの回数から、子供の玩具まで御指示あり、又役者は特別に厳しく市川団十郎は江戸処払いとなり、参詣などの名目にても旅に出る事を許される事叶わず、外出時には深編み笠を被るなど、故に国芳らは自ら地獄画の袢纏を着て、顔をそむける自画像を描く也、版元も店を閉じる所あり、今しばらくこの事態が続くと思われる由、お帰り急ぐにあたわず・・・」
 春から随分と江戸も変わった様に広重には思える。水野様の御政道は人々の混乱と、声なき批判に晒されている様であった。

 広重が甲府道祖神祭りに使う幕絵三十九枚を仕上げたのは、霜月(十一月)に入って直ぐであった。甲府も朝夕がめっきりと寒くなり、昼と夜の寒暖の差は随分と酷くなって来ていた。甲府盆地の北側にそびえる山々も、真っ白な雪を頂きに乗せていた。この頃から余裕も出来たのか、広重は又日記を付け始めているので、此処の又載せて置く事とした。

 霜月十三日 晴天、幕に下書きを墨で書きあげた。夜は辻屋仁助の家に招かれ、御馳走になった。出された肴は旨かったが、酒と蕎麦はまずいものであった。早々に辻屋から引き揚げ、江戸に手紙を書いた。(この頃、全ての幕絵の隅に落款を書き込み、その下書きだと思える)

 霜月十四日 晴天、幕に着色した。夜は甲屋(きのへ屋)と言う店で、松葉屋忠兵衛から御馳走にあずかった。その後、鳴海屋太郎右衛門の家に招かれたが、その折に八日町の永楽屋久兵衛の後家が来客していた。

 霜月十五日 晴天、幕絵の作成は残らず終了し、昼過ぎより休む事にした。夜は萬屋定右衛門の宅で酒を飲んだ。四ツ(午後十時)過ぎに幕の張り初めの儀式を行った。その後、またまた酒を飲んだ。

 霜月十六日 晴天一部曇り、朝に少々幕番付の仕事を行った。鳴海屋太郎右衛門の隠居所で酒盛りをした。同席した市川大門の人はいやみな感じの人物であった。後に萬屋定右衛門と源兵衛とを伴って、鰻屋へと足を運び、夜は芝居二幕を見た。この日は大いに酔った。

 霜月十七日 晴天、芝居看板を描き始めた。鳴海屋太郎右衛門からの依頼されていた屏風絵の仕事を終えた。夜にも仕事を少し行った。夜中に幕の張り初め儀式を行った。その折に酒を飲み、明け方まで萬屋定右衛門宅に泊まった。滞在していた伊勢屋栄八殿の家で、子供の出産があったからである。

 霜月十八日 晴天、朝に筆を置き、幕番付の仕事も終えた。昼すぎに皆々様連中と別れの酒を酌み交わした。夜に荷物を出した。

 霜月十九日 曇り、少々雪が降る。朝六ツ(午前六時頃)滞在していた伊勢屋栄八宅から出立つした。松葉屋忠兵衛が見送りとして同道し、甲府城下の外れで別れる事とした。ここからは一人旅となって道中を急ぎ、、六ツ(午後六時頃)に上花咲の間屋に宿泊した。この宿泊所は上々で信州の人と相宿となった。

 霜月二十日 晴天、。朝六つ頃に問屋から出立した。犬目の「しがらき」と言う店で休んだ。そこでは酒、汁粉、二膳の料理を食べたがまずかった。上野原では「大ちとせや」と言う店に入り、中泊(昼やすみ)する事にした。与瀬では「稲荷屋」に宿泊した。三上屋進助と役者の川蔵とで相宿となった。上野原の小沢源蔵と言う郷士についての話を聞いた。

 霜月二十一日、晴天で天気は穏やか、朝に与瀬を出立し、川蔵と同道した。道すがら度々茶屋で休んで酒を飲んだが、いずれも悪い酒であった。暮れ六ツに府中明神前の「松本屋」に宿泊する事にした。そこで出された酒は非常に悪いものであった。

 
 広重が甲府から江戸に戻ったのは、天保十二年十一月二十三日の事である。戻った事を版元に知らせる為、広重は江戸に着いた翌々日の朝に、挨拶回りに出掛けたのである。それは又、江戸を留守にしていたこの半年余りの中で、何がどう変わったのかを知る為でもあった。分けても一番に顔を出さなければいけないのは、日本橋の平松町にある佐野喜の処であった。

「おはようございます。一昨日に甲府より戻りまして、まずはそのご挨拶をと伺いました。その折にはお心配りを頂き、またお手紙を頂戴致し・・・・」
「いやぁ、やっとお戻りでございましたか、とにかく師匠、まぁ硬いお話は抜きにして、どうぞ奥へ」
 半年ぶりの挨拶ではあったが、手紙を貰っていた所為なのか、さほど久しぶりとは感じられなかった。
「仔細は手紙にて拝見致しましたが、どうなんですかね? 江戸はかなりの酷さの様ですが」
 声を潜める様に広重は、その後の江戸の事を佐野喜に尋ねた。
「師匠、手紙でもお伝えしましたが、美人画役者絵の国芳や国貞を筆頭に、皆さん殆どが干されてしまいましてね。御蔭で版元も数軒は店を畳んでしまいましたよ。贅沢の禁止ならまだしも髪結いの回数まで制限されるとなると、もう何をかいわんやと言う所でして、まぁこういう時はジタバタせずに、やるべき事をやって置くってのが肝心かとは思いますがね。何せ芝居小屋も客は集まらず、吉原も火が消えた様だと申しますから」
 これから先の見通しが全く立たないと言うのであった。
「まぁしかし、甲府の幕絵は全て無事に終わりまして、向うの皆さんには大変喜ばれました。なんでも既に他の町内でも、道祖神祀りの幕絵が予定されているとかで、甲府の町衆は考える事が大きいのに驚きました」
 広重の率直な感想であった。
「まぁお武家さんの世界では、甲府行きは江戸に戻れぬ左遷の土地かも知れませんが、町の衆にはまだまだ気力充分の土地柄、何れはその道祖神祀りに顔を出したいものですな。師匠の描いた東海道、ぜひ見て観たいと思いますよ」
 佐野喜の言葉は、何処か実感がこもっている様に広重には聞こえた。しかし、あれはあれで甲府の道祖神祭礼の目玉。見たい者は一月十五日のその日に、甲府のそこに行かなければならない。そんな土地の人々に守られた広重の画が、そこに飾られる事が心から嬉しいと思えたのである。

 その日、版元の佐野喜を出て藤彦の店や、馬喰町の江崎屋へと顔を出したのである。特に江崎屋は東海道五拾三次之内の所謂行書版東海道を、この夏には三分の二程が既に刊行されて、残りは年明け早々に刊行を予定している版元だからであった。既に店に並べられている東海道五拾三次之内は、色指を終えて甲府に出掛けた為に、仕上がった錦絵を見るのは初めてであった。大方は広重の思っていた通りに仕上がっていたから、気にかかっていた一つが取れた事で言う事は何も無かった。尤も絵師の仕事は色指までが通り相場で、摺り上がってからの手直しは版元の責任でもあった。彫師や摺師は絵師の下に居るものでは無いからである。
 一回り版元への挨拶を終え、景気が悪くなった事以外に風景の錦絵に規制が無い事を知り、ほっとした矢先の十二月初めであった。幕府は十組問屋の廃止を発令したのである。所謂、菱垣樽廻船と呼ばれている運搬船問屋や、十組問屋の仲間株札を廃止して、一万二千両にも及ぶ冥加金と呼ぶ税金を免除してまで、船主と荷主は直接に交渉の上、都合の良い船に荷を積みこんで良いと言うのであった。更にその船で運ばれた品は、勝手に相対で売り買いをしても宜しいと言う御触れであった。

 この菱垣船とは大坂の和泉屋平右衛門と言う者が、自らの船だけ垣楯の模様を菱垣にした為に名付けられたと言うが、その始まりは元和元年(1615年)、大坂夏の陣の頃の事だと言う。徳川家康が江戸に入ったのは天正十八年(1590年)だから、人々が増々江戸に住み着く様になり膨れて行くその江戸に向けて、大坂から荷を運んだのが始まりであった。その後、灘や伏見から送られた酒の消費量が増え、専門の酒樽を運ぶ船が造られ、それが樽廻船であった。この頃にはこの酒樽を専門に運ぶ運送業者と、菱垣と二つの海運業者が輸送を独占した為に、他の品を取り扱う業者が商品毎の同業者組合を元禄七年(1694年)に創ったのである。それらは紙や蝋燭などを扱う紙店組、薬や砂糖などを扱う薬種店組、布や小間物、人形などを扱う内店組、釘や鉄、銅などを扱う釘店組、そして酒を扱う酒店組など、併せて十組の同業者組合が生まれたのである。
 だがこれを契機に時代と共に組合数は徐々に増えてしまい、文政六年(1823年)にはこれ以上の同業者組合を増やさない事を規約に入れ、その許可を得る事で幕府に対し同業者組合から一万両、船主達からは二千両を幕府に収めることで話が付いたのである。こうした経緯で組合が作られた為、組合員の株はそれ自体が価値を生み、その後の取引の対象ともなって行くのである。
  
 幕府は物価の上がる原因が、其々の商売を行う同業者組合が生産地を独占し、その値を組合の都合の良い様に吊り上げて居ると解釈していた。表向き十組としているのは、元禄時代の頃の組合数であって、この頃は既に六十余りに増えて、幕府はそれらの組合の全てを撤廃させる政策であった。それは又問屋や仲買を含めたすべての組合を、崩壊させる事を意味していたのである。
 広重が関わる錦絵にしてみれば、まず版元の組合は廃止、解散であった。紙を卸す問屋の組合も禁止であった。絵師に画料を幾ら支払うかは版元の自由、絵師と相談で決めなさいと言う事であった。それは組合に留まらず問屋と言う名の仕組みは、こと如く廃止される事となったのである。幕府から見れば問屋仲間は株の組織であり、組合員の人数は制限されていたからである。
 これは江戸市中だけでは無く、この国の全てが混乱したと言っても良いだろう。安いとか高いとか、足りないとか余るとか、そうした違いが有ったにはしても、曲がりなりにもそこには秩序があった。その秩序を壊してしまうと、生じるものは混乱だけであった。そしてそれ等は何にも増して、品薄や価格の高騰が伴ったものとなるのである。


 《天保十三年(1842年)》
 正月三日の事であった。版元の佐野喜が年賀の挨拶に来たと言い、何時もの通りに玄関を通らずに、庭先から広重の仕事部屋の縁側に腰を下ろした。月並みの挨拶を済ませた後の事であった。馬琴の事に話が及んだ時であった。
「昨年は馬琴師匠の上さんも亡くなってしまい、師匠もこの正月は寂しい・・・」
「ちょっと待って下さいよ、馬琴師匠の上さんの、確か百さんと言うあの上さんが亡くなった?」
 広重は初めて聞く話であった。
「ご存じではなかったのですか?、師匠が甲府に行かれている九月も半ばの事でございましたが、私はてっきりご存じだとばかり思っていましたよ。まぁ馬琴師匠の配慮なのかも知れませんが」
「初めて伺いました。あの上さんが亡くなったと言う事と、馬琴師匠がその事を知らせてくれなかった事もです。甲府から戻って未だひと月程、挨拶に出掛けた版元も、みなさん私が知っているとでも思ったのでしょう。その様な話は一切ありませんでした。尤も私が馬琴師匠とお会いしたのは既に五年も前の事、確か古稀の祝いで書画会をやられた時の事ですからね。後で聞いた話では、何でも御持筒同心の御家人株を、その書画会の売り上げで買うとか聞きまして、途端に何か祝いの席に居る事が嫌になって来ましてね。ですから私はそれ以来、馬琴師匠とはお会いしてもおりませんもので」

 佐野喜は意外な顔をしながら、広重を見て言葉を続けた。
「私もこの時はびっくりしましてね。それと言うのも一昨年の暮れ頃からでしたか、馬琴師匠の目が余り見えなくなって来たそうで、で亡くなった息子宗伯さんの後家さんのお路さんが、馬琴師匠の口述筆記をされていたらしいんですよ。作家としては傍に居て貰わなければ困る。ところが上さんの「百」さんがそれを嫉妬しましてね。家出はするわ、嫁のお路さんには辛く当たるわ、だいぶ馬琴師匠の家の中もごたついていたらしいと言う話でして、処がやっとそのごたごたも終わりましてね。云え、お内儀が亡くなったからと言う訳では無く、馬琴師匠の代表作とでもいいますか、あの「南総里見八犬伝」がこの正月、やっと完結したので御座いますよ。何でもこの物語の最後には、師匠自らの失明していた事や、家族たちが味わった辛苦の事が書かれているって事で、やっと馬琴師匠も肩の荷を降ろされたと言うところでしょうかね」
 広重は、これで馬琴ももう物語を書く事は無い様に思えた。寧ろこの日が来るのを馬琴は想定し、敢て無理をしてまでも御家人株を買ったものだと思えた。目が見えず、書く事も出来なければ、この自分さえも朽ち果てるのを待つだけの様に思えた。
 昨年の十一月の終わりに江戸に戻った後、広重は直ぐに「甲陽猿橋之図」を描き終え、蔦屋吉蔵の版でこの正月の半ばに刊行した。江崎屋の注文で描いた間判錦絵の東海道五拾三次之内も、この正月には全てが刊行されていた。
 あの甲府の忙しさから見れば、江戸に戻った途端に暇を持て余していた。かなり注文が少なくなったと言えるのである。今は佐野喜から頼まれた、大判三枚続きの「川中島合戦之図」を描く為、信州善光寺の帰りに広げた画帳を前に筆を動かしていた。暖かくなる前には何とか仕上げ、又江戸の風情を描きに出かけたいとも思えた。
 蔦屋吉蔵版で一枚の紙に二つの画を描くと言う、二丁がけの道中膝栗毛を描き始めたのは、妻のお芳の亡くなった哀しみが、時と共に癒えて来たのかも知れなかった。未だ一周忌も向かえない頃に頼まれたが、こればかりはそうした気持ちになれないのでと断った話であった。この画は所詮鳥羽絵に近いもので、見る者を笑いに誘う戯画なのである。北斎は漫画だと言うが、漫画と言うものがどの様なものか、広重には区分けする程の理屈を持ち合わせてはいなかった。

 一月の終わりであった。甲府道祖神の幕絵で世話になった、伊勢屋栄八から手紙が届いた。甲府の町は道祖神祀りが盛大に行われ、特に初めての幕絵の試みは大いに祭りを盛り上げ、来年は更に幕絵も広がりを見せて賑やかになるだろうと伝えて来たのである。広重にとって嬉しい便りであった。ぜひ時間があれば又伺いたいと書き送ったが、未だ希望だけの内容であった。
 この頃に、十三歳で広重の家に入っていた赤坂溜池の定火消を親に持つ鎮平は、今年で十六の齢になっていた。画は未だ当然だが一人前には遠く及ばない、しかし殆どの要領を得て、広重は随分と楽になってきたと思える。これからは本格的に画を教えてやりたいと、そう思えて来た時であった。弟子にして欲しいと飛び込んで来た者が居た。未だ十四歳だと言う。親は船大工をしているが、自分は画を描きたいと頭を下げたのである。名を聞くと寅太郎と言う。親と一緒に来れば話は聞いてやると伝えると、よく日には早速親を連れて来たのであった。親は深川で船大工をしていると言う。何とか倅の希望を叶えてやりたいと言った。広重は鎮平の事を話すと、寝泊りと食わせて貰えれば良いと言う。こうして鎮平の弟分が入ってきたのであった。
 
 版元の山庄から「さかなづくし」として、組み物で出したいと言う依頼が来た。十年も前の天保三年に、配りものとして五枚程を永寿堂の西村屋与八に彫らせたのは、あの八朔御馬献上に同行し東海道を描きたいと願い、自らの技量を示す為に使ったものである。店主だった西村屋与八が、広重の描いた魚が生きていると言ってくれた事で、広重はその五枚に色指を指示して、そのまま永寿堂で売らせた事があった。その時に描いた下絵は未だ十五枚程は残っているはずだと思い出し、その下絵を山庄に渡したのである。
 時間が掛かると考えて居たのだろうが、その場で下絵を貰った山庄は永寿堂の様に狂歌を入れたいと言い出し「俺は画には自信があるが、狂歌は全くの素人だ」と言うと、それなら自分の処で考えますと喜んで帰っていった。
 この出来事のすぐ後に、版元の有清こと有田屋清右衛門から、東海道五拾三次の依頼が舞い込んだのである。横四つ切りの小さな版だが、有田屋は閉じて画帳にしたいのだと言う。東海道五十三次は初めての保永堂から、数えて幾度頼まれたのだろうと思い返した。佐野喜版、江崎屋版、そして今度の有清版である。世間では東海道は広重だと、何故か決めつけてしまった様であった。

 天保の改革が広重の仕事にどの程度影響を与えたかと調べると、仕事の量が大幅に減った以外には、直接的に御指図を受ける事は無かった様であった。この天保十三年の四月に、お奉行所からは何とか物価を下げようとする論告が貼りだされた。
「この度、諸品値下げの儀仰せ出されたのは、細民の生活安定のご仁慈で、ありがたいご主旨につき、商人は力の及ぶ限り値下げ致すべきはずのところ、表向きだけ値下げをして内実は品質を落し、または目方を減らしたものもあり、右の類の不埒な商人は御上の御耳にも達する故に、左様心得よ。ゆえにこの趣旨を厳重に心得て商品の精良をはかり、量目をたっぷりにし、値段も安くしなければならぬ。もしこの論告を聞かずに不正の商いをするなら、どの様なお咎めがあるかもしれないから、予め申し利かす」
 と言うものであった。しかし効果が無いと知るや、五月十二日には重ねて奉行所からのお達しが出た。
「十組の上納金さえ許したご趣旨をありがたいとも思わず、未だ値下げを行わないのは甚だもって怪しからぬ事である。早々に断行するがよい。しかし、元方が下落しないから出来ないと言うなら、元方の掛け合いはこちらで取り計らってやるから、斟酌なく書面をもって申し出るがよい」
 と言うものであった。

 既に有田屋版東海道五十三次の下絵も半分は出来上がり、あと双月もせすに残りも描き終える予定であった。だが江戸では暮らしに必要な物が、引き続いて品薄であった。酒、味噌、蝋燭、油、紙類、袋ものなど多岐に渡っており、幕府は単にその権威だけで価格を下げようとしているに過ぎなかった。
 有田屋からの注文で描いた東海道五十三次の下絵を、全て書き終えたのは七月の初めであった。この頃も物価に対する混乱を止める事が出来ない事態に、幕府からの御触れは愚痴の様に人々には聞こえたのである。
 丁度この頃であった。かつての南町奉行、矢部定謙が御預けの身となっていた桑名城で、堅物で知られたその矢部定謙が絶食し、命を絶ったと言う話が江戸に広まったのである。老中首座の水野忠邦や、南町奉行の後釜に座った鳥居耀蔵に狙われ、自害したも同然の死であった。この天保の行き過ぎた改革に、絶えず批判をしていた為なのか、或いは水野忠邦の腰巾着、鳥居耀蔵の策に嵌った為だとも言われていた。実際にこの鳥居耀蔵が妖怪と言われていたのは、耀蔵の名の耀と甲斐守の甲斐を掛けた洒落、つまり「耀甲斐」が江戸市民の付けた洒落の名前であった。
 そして七月の十九日、戯作家の柳亭種彦が十三年前より刊行した「偐紫田舎源氏」全三十八巻は、既にそれぞれが一万部も読まれている程の人気読本であったが、大奥を擬して描いたと幕府から咎められ、揚屋入(入牢)を申し渡され、それが元でこの日、自ら死を選んだと言うのである。広重だけでなく、戯作者や版元、絵師達の多くは、この時代の流れに憂いていたのである。

 幕府は九月に、今度は利息制限法なる通達を出し、今後は利息を年に一割以上にしてはならぬと、公定の利率を決めたのである。
「右の定めは他の種々の名目で雑費を取る事は相成らぬ。これ以前に公定の利率以上で貸出してあったものも、今後は新しい法に直して利息の計算をすべし。巷の風聞にある様な、徳政まがいの法令は向後決してないから、みな安心して貸出し、金融の円滑を図るが良い」
 と言う布令であった。質屋の利息もこの年の暮れより制限すると言う。更に貨幣の停止を伝え、文政年間に発行した文字金銀、草字二分判、二朱銀、一朱銀の通用を今後残らず停止するとし、古い金銀の通用停止になっているものは、額面の多少にかかわらず届出て、新たな貨幣と引替える様に布令を出したのであった。
「金銀を出さないものは、暮らし向きにも困らない者どもで、品質が良いと思って匿しておくからであろう。しかし金銀の宝たるゆえんは、世上に通用すればこそ宝になるもの、すでに通用停止のものを個人の手元に囲っておいたのでは、天下の宝というものでは無い。御上の造られた天下の宝を個人で死蔵するなど、民を思うご趣旨に背き、もっての他であるから重き罪科に処するものである。しかしその場になっても後悔するのは不憫の至りなので、ここに改めて論す次第である。もし発覚したる上は没収した上、重きお咎めを蒙るから、よくよく料簡して違背なきようにするがよい」
 だがこうした通達に効果が無いとみると、良く月の十月に発令には次の様な文面であった。
「古金銀の引き換え期間は今年十月限りであったが、引き換え期間を来卯年十月いっぱいにまで行う事とする。引替所より五里以上離れた場所の引替えは人費手当を支給する」
 脅したあとに今度は手当の支給であった。純度の高い金の貨幣を純度の低い金の貨幣に替える者は、殆ど居なかったと言ってよいだろう。

 この秋に広重は珍しく北斎翁の話を、版元の佐野喜から耳にする事となった。北斎が信濃国高井郡の小布施村に出掛けたと言うのである。ここには数年前に北斎の門人となった、小布施村の豪農商の高井鴻山宅に身を寄せていると言う。この高井鴻山は小布施村で酒を造る代々続く豪農で、商いも手広く行う豪商とも言える十一代目の当主である。
 祖先が天明の飢饉の際に自らの蔵を開放し、その財を投げ打って困窮者の救済に当たった事が幕府に認められ、高井の名字と帯刀を許されるに至った。京や大坂そして江戸を往来している高山は、天保四年には佐久間象山や大塩平八郎などとも交流があり、天保七年の大飢饉に際しても小布施に帰郷し、祖先同様に蔵を開いて困窮の領民を助けたと言う。
 いつからどの様な経緯で北斎の門人になったかは知られては居ないが、今年で八十三歳になる北斎翁が信濃国の小布施に出掛けるとなれば、少なからず気心の知れた相手のの様に広重には思えるのだ。
 だが北斎が描く画の刊行に関して言えば、天保十一年の正月に「和漢陰隲伝」、天保十二年の正月に弟子の北渓との共作で「花の十文」を刊行しているだけである。未だこれから刊行するかも知れないが、今は錦絵からは姿を消して、その殆どが肉筆画を描いていると言っても良かった。


 《天保十四年(1843年)》
 この年は年頭から忙しさが感じられない程、江戸の市中も広重も暇な日が続いていた。不景気は無論の事だが、何処かが狂って来ている事は確かな様であった。「信州川中島合戦之図」大判竪三枚続きが佐野喜から刊行され、画の隅に敢て故人勝川春亭の模写と、断り書きの文字を入れてみた。あの甲府から信州に出掛けた時に、描いて来た画帳の中から田毎の月や甲州犬目峠も、きっちりと下絵にして残して置く事にした。
 版元の山田屋庄次郎からは「東都名所坂づくし」を連載で刊行したいと言う話も出たが、然程枚数を望んだものでは無かった。こんな時は旅に出かけ、画帳を広げて風情を写すのが、何よりも一番だと思えるのだ。
 暖かくなった三月の末に、北斎が小布施から戻ったと言う話が版元の間にも広がっていた。逗留していた小布施では、祭り屋台の天井に怒涛図を描いて来たと言うのである。まるで祭りの幕絵を甲府に描きにいった自分の様で、どこか同じような事をしているのが可笑しいと思えるのだ。このまま暇な時が続くのであれば、江戸の近くで未だ出かけてはいない房総に、一度出かけてみたいと思う気持ちが湧いて来たのである。そしてもうそろそろ、自らも北斎同様に、富士のお山を描いて見たいと思い始めていた。
 
 この天保十四年閏九月の十三日、老中首座だった水野忠邦が失脚した。腰巾着と言われていた鳥居甲斐守忠耀が水野忠邦から寝返り、既に新たな老中の土井大炊頭利位に対して、様々な水野忠邦の情報を渡していたのであった。老中水野忠邦が失脚した事を聞き付けた江戸市民は、三々五々に馬場先御門から和田倉御門辺りに集まり出し、西御丸下の水野の屋敷に押し掛けたのである。その数は数千人とも言われて、屋敷内に石を投げ込む者も出るなど、手の付けられない事態になったのであった。しかしこの時も何故か馬に乗って、騒ぎを抑えに来たのは鳥居耀蔵であった。
 この騒ぎが納まった後に、土井大炊頭利位が老中首座に就き、新たに阿倍伊勢守正弘が老中の列に加わったのである。


 《天保十五年(1844年)三月》
 広重は念願だった房総へと、画帳を持って旅に出ていた。念願だったと言うのは、北斎も房総に旅をしていると言う思いが、心の何処かにいつも引っかかっていた事は否定出来ない事であった。これまで東海道を含めて身延の鰍沢や甲斐の犬目、御坂峠もそして木曽路など、北斎の出かけた場所の殆どに広重は顔を出した。唯一出かけて居ないのが房総であった。もし妻のお芳が生きていれば、一緒に房総に連れ出したでもあろうと思うのだが、広重は未だ気ままな一人旅でもあった。
 江戸から房総に向かう場合に成田山あたりの参詣ならば、日本橋の小網河岸から浦安の行徳まで行く舟があった。行徳船と呼ばれる乗合船は、小名木川を三里と八丁で行徳まで連れて行ってくれるからである。しかし上総(千葉や市原)方面は、小網一丁目の思案橋側から、上総登戸曾我湊(現千葉港)への航路があり、又、木更津湊にも江戸橋南詰の木更津河岸から、毎日船は運行していたのである。この木更津河岸は上総国木更津村の持ち船二十四人の拝領地で、五大力船(通称木更津船)が行き交っていた。(後に安政四年に広重の描いた山田屋版の江戸名所「日本橋江戸橋」の欄干の向こうに描かれた船である)

 広重は江戸橋下からこの木更津船に乗り、木更津から鹿野山に向かったのは三月二十二日で、船は夜の五ツ(午後九時頃)に出航した。この木更津船は荷物と旅客を乗せられるもので、運賃は二百文、木更津湊に着くのは早くて明け方の大凡九ツ(午前一時頃)となる。しかしこの建前は、風次第でどうにでも変わるのである。木更津についた広重は、予め手紙を書き送った知人先、木更津の久津間村に住む早松氏宅に身を寄せ、しばしの休みを取った後二十五日に出立し、二十七日には鹿野山神野寺に参拝して此処で一泊した。そして翌日には近くの白鳥神社の祭礼を見物し、更に鋸山の風情を画帳に収め、木更津に戻ったのである。広重が短い房総の鹿野山や鋸山を巡り、江戸に戻ったのは四月一日の日で、この時に新たな錦絵を描く話が進んでいた。

 版元の伊場仙こと伊場屋仙三郎が、版元を代表してと訪ねて来たのは、広重が江戸に戻った二日後の事である。三日前にも訪ねて来たのだが、留守だったと言いながら、ばかばかしい様な、だが面白い話を始めたのである。
「実は歌川国芳師匠と三代目豊国師匠、そして広重師匠の御三方が、東海道五十三次を五十三対として描いてみるのはどうかと言う御話しが出ましてね。歌川一門を代表する絵師三人の競作となれば、すっかりと沈んだ江戸の町も少しは明るくなるのではないかと、で、描く画には物語や名物歴史など掘り起こして、其々が腕を競い合うと言う寸法でして」
「面白い趣向だが、一体誰が考えたんだい。大方三代目あたりか、どうだ図星だろう?」
 話に興味はそそられると広重は思った。なんともやりきれない毎日だが、歌川一門の三人が描くとなれば、面白く無い訳がないと思う。
「誰が考えたかと言うよりも、話がどんどんと膨らんで参りましてね。それなら版元ももっと多くを集めようと、私の処と海老屋林之助、伊勢屋市兵衛、小嶋屋重兵衛、遠州屋又兵衛、伊場屋久兵衛の、併せて版元六軒が集まりまして、それもただ振り分けるのは面白くねえと、みんなくじ引きで決めようじゃねえかと言う事になりまして。つまり描く場所も、任せる版元も全てです。まぁそれで、明後日にその打ち合わせをやろうと言う事になりまして、柳橋の梅川に暮れ六ツに集まってくれと、これは国芳師匠からの言づけでして」
 何か狐に化かされた様な、何とも判る様で分からない話であった。
「じゃぁ全てくじ引きで決めて、来年の正月には刊行祝いで一杯やると、早い話がそういう事なんだな」
「まぁ大方はその通りで」
「まぁいいやな、必ず伺うと言っといてくれ。歌川の名前が付いてる以上、どうも奴らとは切れそうにもねえもんな」
 伊場仙は笑いながら帰って行った。ふてくされた様な広重の言い方が、余程面白かったのかも知れなかった。

 両国柳橋の梅川は、江戸高名会の番付に載る程で、広重が描いた藤彦版の「江戸高名会亭尽」で描いた料理屋でもある。梅川の二階にと階段を登ったが、既に大方の版元や国芳と三代目の豊国も来ていた。
「ご無沙汰いたしております。国芳師匠には地獄画の袢纏の話、遠く甲府まで知れ渡っておりまして、今夜はその仕返しの算段とか。ぜひ片棒を担ぎたいとやって参りました」
 思わず数人の版元と国芳から、拍手が湧いて座が賑やかになってきた。
「広重だけは萱の外って事だったが、やっと仲間に入ってくれると言う事なので、広重の東海道の名を借りて東海道五十三対の打ち合わせと参りましょうか。今日は綺麗どころは呼ばねえが、版元衆の方々、刊行の暁には一つ派手に行きますから、その節は宜しくお願いしますよ」
 三代目豊国の言う気持ちも分からないでは無かった。美人画や役者絵が禁止されて、飯の食い上げだった事は誰でも分かっていた。その反発が水野忠邦の失脚で、精一杯の抵抗を形にしたいと言う算段であった。
「処で広重よ、今日は五十五枚のくじ引きだ。一切文句は言いっこなし。どこの宿場が当たるのか、何処の版元に仕事が行くか誰も分からずの行き当たりばったり。だが期限は来年の正月の刊行だ。中身は大判竪の三分の一の上に、物語の言われや因縁と故事来歴それにお題が入り、下の三分の二は背景に宿場図とその前景には物語の挿絵が入る。物語は必ず宿場に関わるものだけだ。それじゃ早速くじ引きと行くぜ」
 何処の版元か知らないが、既に札が用意してあった。どれかが当たる訳でもなく、三本の箸が徳利の中に差し込まれていた。中の一本が当たりの様である。更に別の徳利には版元用なのか、六本の箸が居れてあった。
「さぁ始めるよ。先ずは御江戸の日本橋だ」
 三代目の豊国が声を上げた。
 伊場仙が絵師三人の前に徳利を差し出し、絵師の三人が其々一本の箸を引き抜いた。
「日本橋は国芳師匠に決まり」
 今度は版元を決める番であった。三代目の豊国が徳利を持って版元に箸を引かしていた。
「版元は伊場仙に決まり」
 三代目豊国が大きな声を上げたのである。
「それじゃ今度は品川ですよ」
 伊場仙が又徳利を三人の前に出した。
「今度も国芳師匠に決まりました」
 三代目が今度は版元の前に六本の箸の入った徳利を差し出した。すかさず六人の版元の手が伸びた。
「品川は伊場久さんだよ」
 こうして東海道五十三対の錦絵を歌川派の三人の絵師と版元六人の者達が、まるで子供の様に遊び心の入ったくじを引いて決めていったのである。決果は国芳が二十九枚、広重が十七枚、三代目豊国は八枚となった。一方の版元も、伊場屋仙三郎が十四枚、伊場屋久兵衛が十一枚、小嶋屋重兵衛が七枚、遠州屋又兵衛は十枚、海老屋林之助が六枚で伊勢屋市兵衛が七枚であった。こうして賑やかに歌川一門のくじ引きで描く「東海道五十三対」の組み合わせが決まったのである。決めてから酒を飲んだ事は言うまでもない事であった。

 そのくじ引きが有ったひと月後の五月十五日に、思わぬ場所で火事が起きたのである。この日は早朝から江戸は激しく雨が降っていた。出火元は江戸城本丸大奥であった。女中達の「火事だ」の声は、折からの激しい雨の音にかき消され、尚かつ大奥では「火事だ」と言う声を上げる事は禁じられていた。小さな火事なら消せると言う自負があった事と、女中達がことさら大騒ぎにしてしまう事を防ぐ為でもあったらしい。いずれにしても激しい雨の音で、火が出た気配は完全に消され、最悪の結果を招く事になったのである。
 しかも大奥御広敷詰めの役人が、ようやく気付いて逃げ惑う女中に尋ねても、ただ泣き叫ぶばかりであった。江戸城は将軍と幕閣しか入れない中奥と、女達の暮らす大奥、そして政務をおこなう表とに分けられていた。将軍家慶の昼間にくつろぐ場所は中奥で、お鈴廊下と呼ばれる廊下一本で大奥とは繋がっているのである。しかもこの場所は夜間に鍵がかけられ、将軍以外は男子禁制の場所であった。

 尤も将軍家慶はこの時いち早く、築山の茶室に避難して難を逃れたと言うが、江戸中の人々から冷笑された事は確かな事であった。とは云え火事が早朝であった為に大奥から中奥に繋がる入口には鍵が掛けられ、役人達はこの戸を木槌で叩き壊し、女中達を逃がす事で精一杯であった。特に将軍家慶や御大所を非難させる事は容易ではなく、役人達も大奥には入れない為に何処がどの様になっているのかも知らず、大奥に入って良いのかさえ判断つかない状態だったのである。特に大奥は土壁が無く、全ての隔は板張で出来ていた為に、一度火が点いてしまうと為す術はなくなってしまうのであった。
 火は一の側の局の部屋付近からの出火らしいのだが、この場所が出入り口に近い為に、逃げ惑う女達は一度に押し寄せてしまい、ここが最も多くの者達が焼け死んだ場所となった様である。しかも翌日になっても火は消える事が無く、雨がやみ風が出て来た為に西の丸御殿まで危ういと言う事となり、近くの富士見櫓や蓮池櫓も定火消によって打ち壊したと言うのである。
 この火事では多くの中臈や女中達が焼け死に、焼け焦げた死体を親許に送り返した後、違う者の遺体であった事が判明するなど、多くの混乱が後に引きずる事となったのである。

 江戸城で火事が起きてから又ひと月後の事である。幕府は何を考えたのか一度罷免したはずの水野忠邦を、再度老中首座に座らせたのである。これにはさしもの江戸市民も、何がどうなったのか驚きの色は隠せなかった。様々な場所でこの話が話題に上り、人々は事の成り行きを固唾を呑んで見守っていたのである。
 だがこの決断には、大きな力が動いていた事を知る者は限られていた。将軍家慶すらをも動かす力とは、半年前の天保十四年十二月二十七日、阿蘭陀国王からの親書とも呼べる忠告書が家慶の許に届いていたのである。この手紙の中身は何時までも鎖国政策を取り、外国船打ち払い令を根拠に近づいた外国船に砲撃を加えていると、いずれ清国の二の舞になるだろう。既に英吉利は大型の軍艦を建造しているし、日本も理由も無くむやみに砲撃をした場合は、植民地にならざる得ない口実を作られるであろう。と言うものであった。

 幕府はその親書に対する結論を出さないまま、放置していたと言うのが実情であった。しかし半月ほど前に薩摩藩からの早馬が到着し、既に英吉利国の大型軍船が琉球に上陸し、貿易を求めて来たと言う知らせが届いたからであった。
 琉球は清国との貿易では特別の関係を持っていた。何があろうと交易出来る権利であった。それを自らの利権にしたのは薩摩藩である。琉球征伐と称して三千の兵と七十隻の軍船、そして二百兆の銃で琉球王国を進攻したのは嶋津家久の命令であった。
 阿蘭陀国王からの手紙には更に続き、国を開いて他国との貿易をする様に進言して来たのであった。これにはさすがの幕府も首をかしげた。貿易の利益を独り占めしていた阿蘭陀国が、日本に開国を促して来るとは、これまでとはだいぶ風向きが違って来たからであった。

 既に英吉利はこの頃、遠洋向けの軍艦などが建造されて、東印度会社の中国貿易の独占も天保五年(1834年)には終わっていた。以降は幾つかの清の港が、自由に貿易を行える環境になった事が挙げられる。それに英吉利は清からの紅茶千五百屯を一度に運べる大型船を建造し、スエズ運河の開通予定まで、あと二十年後に迫っていたのである。
 武器は遥かに西洋の物が進んでいたし、刀で相手になるなどは時代錯誤も甚だしい認識であった。既に世界は貿易の時代に入っており、医学や化学そして科学などの学問も、さらにそれらを使った産業や技術も、遥かに引き離されているのである。
 将軍家慶は阿蘭陀国王の親書を読み、容易ならざる事態である事は認識した。だが周囲を見回しても、まして幕閣の中にすら世界を理解する者、出来るものは誰ひとりとして居なかったのである。だが少なくとも水野忠邦はその外国の圧力から守る為、印旛沼の干拓と共に利根川からの水路を江戸まで繋げ、海上の封鎖に備えて内陸でも米の流通が出来る様、今まで力を注いで来た事は確かであった。それ故に家慶は再度水野忠邦を、幕閣の首座に据えたのであった。

 とは云え、水野忠邦から見れば将軍家慶のやり方は、余りにも将軍家の都合で動いて居る様に思えたのである。将軍である家慶の言葉を信じ印旛沼の干拓を行い、その承諾の上で天保の改革を進めて来たはずであった。この時の忠邦の心の中に残っていたものは、誰もが自分の都合だけで生きている、他人を利用していると言う事だけであった。恐らくはお役目を引き受け励んだとしても、相変わらず大奥の女達は倹約を拒否するであろう。否、増々その身の立場や水野家のお家さえも危うくなる事は必定であった。役目を断れば更に厳しい追及が待っている。役目に励めば励むほど、それを拒む力も強くなる。ならば周囲と同じ様に何もせずに、流に身を任せようと考える以外、忠邦の行く道は無かったのである。 
 水野忠邦が老中首座に復帰して直ぐ、忠邦の追い落としを図った土井大炊頭利位から出された、退職の届けて受けて老中から退けた。更に鳥居甲斐守を免職させて、寄合に落としたのである。だが自分を裏切った者達に対して、それ以上の執拗な追求を忠邦は止めた。それにそうした事を予測した家慶は、職務を分散させてその責任の所在を明らかにしたのである。老中首座なら何でも出来る、何でも意のままになるこれまでの仕組みを、この数か月の中で変えていたのであった。

 余り名前も聞かない新参者の村鉄と言う版元が、国芳に紹介されて訪ねて来たのは、九月も終わりごろであった。「東海道五十三次細見図会」の刊行を依頼してきたのである。話はこうであった。大判錦絵を竪に使い、上半分を風景と地図を兼ねた鳥瞰図にする。下にはその宿場を往く様々な人を描くと言うものであった。順次刊行して行きたいが、取り敢えず箱根あたりまでを描いて欲しいと言う。広重は年明けまでには下絵を仕上げると伝えたのだが、やはり売れれば次を、売れなければそこで止めると言う、安易な驟版元が増えていた。そんな版元でなければ良いがと思いながら、注文を引き受けたのである。
 そんな矢先の事であった。幕府は御触れを出したのである。江戸城が火事になるなど騒がしい天保を止めて、年号を「弘化」に改めるとしたのである。それも十二月二日を持って改めると言うのであった。

 
 《弘化二年(1845年)一月》
 僅かひと月も無い弘化元年を越えた新たな年号の年の初めであった。歌川派一門の絵師達三人と六軒の版元達が集まり、互いが描いた「東海道五十三対」のお披露目が柳橋の梅川で行われたのである。後に「豊国かお、国芳むしゃ、広重めいしょ」と言われるだけあって、江戸時代後期を風靡した三人の顔合わせは、早々見る事は少ない機会であった。広重と同じ年に生まれた国芳と違い、やはり国貞は豊国の名を継いだ三代目であり、十歳も年上の重鎮であった。ところが画の話になると、話題を集めたのは国芳の描いた桑名の海坊主であった。この桑名の物語は船乗りの桑名徳蔵の物語である。
 船を出さない大晦日に船をこぎ出した所、海がしけて船の前には大きな海坊主が現れた。徳蔵は少しも慌てずに「渡世より怖いものなし」と叫んだ所、海坊主は消えて波も納まったと言う。
 広重が描いたものの中で注目されたのは、岡崎の矢矧(やはぎ)の宿で牛若丸と愛し合った、浄瑠璃姫の物語である。この浄瑠璃姫は矢矧の長者の娘であった。詞書によると「この娘が十二段の物語に、音符を付けたのが浄瑠璃の始まりである」とされている。
 三代目豊国は袋井の櫻が池を描いていた。櫻が池に入った女性が龍となったが、鱗に虫が湧いて痒くてたまらなかった所を、法然上人が通りかかり、称名念仏を唱えると直ってしまったと言う話である。こうした物語の解説がも図の左上に書かれ、東海道の宿場風情を一層興味あるものに仕立てたのである。
 もう一つづつ解説を記しておこう。

 広重の描いた府中は、二人の茶摘み女を描いている。上には芭蕉の句を「駿河路や花橘も茶のにおい」。三代目豊国はあら井の宿で、旅日記を持つ女を描く。上には「夕暮れはみれともみことしらすぎの、いり海かけてかすむ松原」橋本の松原で、宗良親王のうたを入れてある。国芳は藤川で、磯貝兵太夫に闇討ちにあった藤川水右衛門の長男の兵助は、目が悪い為に返り討ちに会う。その後に弟が仇を討つ。藤川の地名の起こりを伝えて居た。
 この歌川の三人の競作の東海道五十三対は、他の五十三次に無い特色を持つ事が出来た様に広重には思える。刊行は其々の版元が行うと言うが、売るのは其々の版元が互いに融通し、全てを揃えた上で店に置いて売るのだという。それも面白い試みだと思ったのである。
 この頃に広重は佐野喜に誘われ、狂歌の会に顔を出している。素人の集まりでは甲府でも誘われるままに出掛けたが、月に一度の集まりで制約も無い。様々な人々が集まって来ると知り、狂歌の会に出掛ける様になったのはこの頃からであった。

 版元の村鉄から頼まれていた下絵も、日本橋から小田原までの十図を描き終え、後の注文を待つ事にした。これは東海道を描いた画のなかでは珍しく、鳥羽絵の様な風情を表に出した。しかし東海道小田原以降の注文を出さない所をみると、この十図が売れたら次の十図を頼むと言う、何とも心もとない版元に見えるのである。
 
 二月の末であった。又老中では水野忠邦が病によってその職を退く旨、申し出たと言う話が広まったのである。今度は誰も止める事はなかった様で、その心情を理解出来る余裕が、多くの人々に生まれた為かも知れないと思える。だが一つ忠邦がやり残した事を、同じ老中の阿倍伊勢守正弘が手を付けたのである。寄合に落とされた「耀甲斐」こと、鳥居甲斐守の後始末であった。
 水野忠邦が江戸城を退隠した三月一日、鳥居甲斐守は評定所に呼び出され、相良遠江守の屋敷に預けられたのである。更にその十日後、忠邦も屋敷を召し上げられ、麻布の内藤駿河守の屋敷に移されたのであった。

 三月の初め、広重は画帳を懐に弟子の鎮平を伴って、陸奥の旅に出かけたのである。天保の改革と騒がれたが、何もかもが単に静かになっただけの様に広重には思えた。
それに陸奥は未だ一度も訪ねた事の無い場所で、一度は尋ねたい思って居た場所でもあった。それ故に双月の期間を空けて向かったのである。それは狂歌の会で知り合った天童藩の藩医でもある野田文仲から、良い処だ、特に桜の咲く季節、若葉の季節は訪ねる価値があると強く勧められたからでもあった。
 旅は日光から陸奥の玄関である白河を経て、二本松から福島、更に米沢そして天童から山寺を経て松島、帰路は相馬妙見祭(相馬馬追い祭り)を描く事を予定していた旅である。松尾芭蕉が旅をしたおくの細道を真似た訳ではなかったが、芭蕉は弟子の河合曾良を伴って、江戸深川から船で千住まで行き、六百里の旅をしたと聞く。広重は弟子の鎮平を連れての旅である。江戸を発ったのは九日の事であった。

 かつて木曽街道を描く為に、中仙道を下った初めての宿場は板橋であった。日光街道は更に北の千住からである。日光街道はそもそも神君家康公の墓参によって整備された街道であり、二年前の天保十四年の四月には、将軍家慶が家康公命日の四月十七日に合わせて、江戸城を発って日光東照宮に向かっている。泊まりは岩槻、古河、宇都宮で、その行列の数は紀州家や水戸家、尾張家の他に井伊家など二万八千人、これに雑兵を入れて十数万人と言う数に上ったと言うのである。
 列の先頭が王子辺りを過ぎても、未だ列の最後は江戸城を出てはいないと言う具合であった様である。

 広重は三月十二日に、千住から十七番目の宿場宇都宮に入り、翌日は日光に向かうつもりであった。木曽路名所図絵六巻の中に描かれたその日光裏見滝など幾つかの名所を写した後、日光離れ奥州街道を陸奥白川宿に着いたのは、三月十八日の事である。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上にて生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。故人も多く旅に死せるあり。予もいずれの年か、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやます。海辺にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立る霞の空に白川の関こえんと、・・・・」
 奥の細道の文頭の言葉が心に沁みた。芭蕉はここからが奥の細道が始まるのだと言う。伊賀国の芭蕉翁が生まれて、丁度二百年目の春であった。

 この白川宿の者から、二本松宿から東に四里程の処に、百目木と言う場所に「虚空蔵様」と呼ばれる長泉寺があり、その境内の桜が見事だと言う話を聞いたのである。広重は早速その見事な桜を見たいと、場所を聞いたのである。広重は新たな場所に行く事が好きであった。新たな発見や出会いが必ずあった。子供頃から本心、知らない世界を見たり出掛けたりが好きなのである。それは描く事にも通じていた。真っ白な紙の上に画を描くとは、旅で言えば見ず知らずの場所から、自らの感動を画帳に移す事であった。美しい風情も初めて見る人の姿も、それを知る事が好きなのである。
 白川宿からは仙台道で須賀川宿に泊まり、次の日は本宮宿で草鞋を脱いだ。白川で聞いた長泉寺虚空蔵堂は、本宮宿より阿武隈川を対岸に渡り、川沿いを二里程上流に向かった橋の袂を右に折れ、更に百目木方面に向かうと言うのである。本宮宿を出て着いたのは午後であった。
 長泉寺は思っていた程大きな寺では無かった。しかし春と秋の祭りの日と、そしてこの桜の花見には多くの参詣人が集まると言う。二本松藩からも御歩行目付がで向き、その取締りに当たる程だと言うのである。春の祭りは三月二十三日で、祭りの日より一日前に訪れた事になったが、それでも多くの近在の人々も集まって、見事な古木の桜を楽しんでいた。

 処がその桜の木の下で一人の男の広げた扇子が、広重の目を留めたのである。男は広重より少し上の六十程か、身なりは立派で品の良い着物を身に付けていた。側には息子とも思える四十前の男と、その子どもなのか十歳ぐらいの男の子が走り回っていた。しかし気になったのは扇子である。鮎の画が描かれたそれは、江戸の画人で又蒔絵でも広く知られた男の描いたものに違いなかった。柴田是真と呼ぶ広重より十歳程若いその絵師は、確か勝川春章に師事した事もあったはずである。それに、国芳が是真の描いた扇子を見て、弟子にして欲しいと頼んだ話は有名で、売出し中だった国芳の申し出を辞退したと言うが、号だけを与えたと言う話は国芳から聞いた事があった。
 広重は止むに止まれず、その扇子を持つ男の側に行き、話を聞く事にしたのである。

「つかぬ事をお尋ねしたいのですが、お持ちの扇子は確か柴田是真の作とお見受けします。立派な扇子をお持ちの事で、随分と値も張ったと思われますが・・」
「ほう、あなた様はこの扇子の良さが判ると、しかしこれは買い求めたものではございません。当の是真殿から頂戴したもの、天保十三年に此の地に来られましてな、その折に我が家に御逗留頂き、描いてくれた物。して一目でこの扇子が是真の作と分かった貴方様は何方でしょうかな?」
 突然の質問に、驚いた様に広重を見つめていた。
「これは又とんだ失礼を、江戸で絵師をしております歌川広重と申す者、弟子の鎮平共々に、おくの細道を絵筆を持って旅をしております」
「いや、それは又こちらこそ失礼を致しました。一目で是真の真筆と見抜かれたあたり、流石にあの高名な広重殿。師匠とは存ぜず失礼いたしました。私目はこの渡辺半右衛門と申し、この近くに住まいを持つ者。とは申せ、これは代々引き継いだ名で、正式には渡辺隆甫と申します。で、この百目木の名主をしておりますのが息子の如信、その孫の百樹と申します。以後お見知り置きを」
 驚いた様に一歩下がった半右衛門は、慌てて丁重な挨拶で自らの名を名乗った。
「ところで、もし師匠がお急ぎ出ないのでしたら、ぜひ我が家にお越しいただけませんでしょうかな。おお、そうだ宜しければ我が家で画を描いてくださらんか。思いつきの様で申し訳ないが、一度我が家、否この百目木の画を描いて頂ければ、こんなに嬉しい事は無い百目木村の人々にも見せてやりたいと、その様に思うておりますが、どうでございましょうか」
「画を描くのは私の仕事でございます。頼まれれば嫌と言えないのは私の性分でございますが、一体何を描いて欲しいと?」
「そうですな、百目木の八景の図をお願い出来ましょうか?、但し八枚もの画は貰っても困る方が多いはず。そうだ三枚を續画でこの百目木の八景をお願いしたい。出来上がるまでは我が家に逗留頂き、後に江戸で錦絵にしてお送り頂ければと思っておりますが」
 まるで思いついた様な話であった。しかし求められれば嫌とは言わないのが広重であった。
「急いでいる旅ではございませんが、画は七日程もあれば描けると思います。しかし未だ江戸から着いたばかり、でこれから何処にこうとも未だ決めてはおりません」
 正直な感想であった。
「それならぜひとも我が家にお泊りを、造り酒屋もやっておりますれば、自慢の酒も御飲み頂きたいが」
 広重は半右衛門の酒と言う言葉を聞き、断る理由が失せて行く事を知った。
「それではお誘いに甘えまして、喜んで描かせてもらいましょう」
「有難い、屋敷はこれより五丁ほど下にございます。ご案内いたしますので付いて来て頂きます様」
 安達が原百目木の渡辺半右衛門と広重は、こうして出会い、大判竪の三枚続きで描かれた百目木八景之図は生まれたのである。

 その夜の事である。広重は渡辺半右衛門の造る酒を味わっていた。

「江戸の方のお口に合いますかどうか、半右衛門の妻、お高と申します」
 差し出された徳利に、半右衛門の妻が酌をしてくれたのである。広重は杯を手にして受けていた。軽く口に含むと、透き通った甘さか喉を刺激する。
「いや、旨い。美味しい酒ですな。旅に出ますと、やれあそこの茶屋の酒はまずい、あそこの旅籠で飲んだ酒は旨いと、私の旅日記は酒の事ばかりでして」
「師匠は画もお上手だがお口も旨い」
「私の画を半右衛門殿がご存じとは有り難い」
「なんの、師匠の画は二本松藩の御重役から、江戸の土産に見せて貰った事がございます。東海道五十三次の日本橋と、確か蒲原でしたか雪の風情が見事でした。更には柴田是真殿が来られました時に、師匠の話が出ましてな。広重殿は東海道をお書きになった後、今度は木曽街道を描いてなさる。次は奥州街道も描かれるかも知れませんとな」
「成る程、確かに未だ奥州街道が残っておりましたな。帰りには描いて帰らねばなりますまい。これは大変な事になりそうだ」
 其々は笑いながら和やかな夕餉を迎えたのである。

 翌日、広重は半右衛門の屋敷の周り散策した。屋敷の塀を支える石垣には、びっしりと苔が生えて時代を感じさせている。山城の様な屋敷の造りは、周囲の山を見回す様にどっしり構えていた。屋敷の入口近くを流れる沢の向こうには、酒蔵であろうか二つほどの棟が佇んでいた。祭りの当日で半右衛門も虚空蔵に出掛けたのか、村人が屋敷の前を通る以外、静かな春で陽が至るところに満ちていた。広重は近くの寺や小高い丘に登り、この夜は半右衛門からこの地の伝説などを聞かせて貰ったのである。
 三日目の日である。荷物を広げ、紙や絵筆を取り出して描く支度を始めた。しかし描くのは、下絵にする前の元絵である。大判一枚を筆で三つに線を入れ、大方の構図を決める為であった。中央手前に阿武隈川に続く支流の百々川を描き、側に百々川の蛍と入れた。その向こう正面に渡辺家の屋敷を描く、横に渡辺春風と入れ、左の百々川を渡る橋の袂の松を舘山の一つ松と入れ、寺の梵鐘の横には虚空蔵晩鐘と印し、その上の山裾の夕景を弥来夕照、更に中央左山裾には沖田の早乙女、中央の山に坪石の秋の月と居れた。更に遥か遠くに雪を被った山に羽山の暮雪と名付けたのである。

 この羽山は麓山とも呼び、百目木辺りでは最も高い山で、円錐形をした山である。奇しくも此の山の頂からは風の強い晴れた日には、富士の頂きが見えると言われていたのである。広重がこの大判三枚続きの下絵を描き上げたのは、逗留してから五日目の事である。無論色などは入れた訳ではないが、広重は薄く下絵に色を入れる事にした。そしてこの版下画を自ら書いた手紙を添えて、江戸に送る様に頼んだのである。
 宛先は佐野喜であった。江戸に戻ってから色は指定するつもりであった。
 安達が原の百目木を広重が出立したのは、この翌日の事である。この先は奥州街道で福島に抜け、追分の桑折宿から羽州街道に入り、小坂峠を越えて七ケ宿街道の滑津宿へ向かい、更に湯原の先の追分から金山峠を越えて樽下から上山藩の城下である上山宿となる。あとは山形から天童、そして立石寺の山寺とこれからの行く道を考えて居た。

 江戸日本橋から五十四番目の桑折宿を越え、次の小坂宿に着いたのは二日後の事である。この先の小坂峠は羽州街道一の難所とも言われた峠で、その途中にある産坂は、まるで赤子を産む苦しさからその名が付いたと聞いた為に、敢て手前の小坂宿で泊まる事にしたのであった。翌朝その小坂峠に登ったが、まさに厳しい坂道であった。だが峠からの眺めは絶景で、山桜が咲き始め新緑の緑に衣替えするこの時期は、しばし足を止めての保養であった。しかしそうした場所でも広重は画帳を広げ、風情を描き収める事を止める事はなかった。
 道は幾つもの上り下りを繰り返し、湯原宿の先の追分を右に間宿の干蒲宿を過ぎると金山峠となる。峠を越えると出羽国上山藩の領内で、仙台藩との藩境の関所が設けられていた。しかもこの辺り金や銅の鉱山があると言われ、山深き場所だが屋敷なども多く目に付くのである。
 峠を下ると樽下宿となる。この宿場は本陣や脇本陣もある宿場で、此処で泊まる事にした。聞くと松前藩や秋田藩、津軽藩など奥州の多くの藩主達はこの街道を通り、江戸に向かうというのである。その為、其々の藩指定の定宿が設けられて、武士と町人の泊まる旅籠が区分けされていた。翌日更に道を下り上山(かみやま)藩の城下である上山宿に着いた。この辺りからは春霞に蔵王の山が頂きに雪を残し、見事に陸奥の風情を彩っていたのである。
 この後、広重は山形から天童に向かい、最上川や月山を描き、更に山寺の立石寺を画帳に収め、弟子の鎮平と共に仙台の松島へと向かったのである。

 江戸に広重が戻り付いたのは、五月も末の昼過ぎであった。処が家に戻ると珍しい女が訪ねて来て来たのである。今年の正月に歌川派の絵師三人が集まった、柳橋の料理茶屋の梅川で東海道五十三対の刊行を祝った酒宴の席で、偶々芸者に混ざって料理を運んでいた仲居のお安と、口を利いたのが始まりであった。お安は元々は、それまで日本橋の大店に仲働きをしていた女であった。そのお安とはどういう訳だか気が合って、梅川での会合が終わってからも別の店での見直し、その後もお安の住む紺屋町の長屋で、お安と御袋さんと三人で飲む始末であった。

「あれから師匠は全然顔を見せないもんでさ、それに店の方も暇になっちまってね。一日幾らの給金でしょう、暮らしてもいけないもんでさ。それにあの店とも相性が悪いというのか、それで辞めちまったのよ」
 お安は少しはすっぱな女だが、偉い処は良く働く事と酒の付き合いが良いと言う所に尽きる。特に面倒見の良い女で、未だに母親を喰わせていたからである。
「何だ、働く処を探してくれって言う事か」
 確かお安は三十路は越えていると聞いていた。それにあの時、自分は「石女だよ」と笑いながら自分の事を告白していた事を覚えている。一度は亭主を持ったらしいが、子供は出来ずに亭主が愚痴る、それが堪らなくなって別れたのだと言った。しかし久しぶりに会う石女のお安は、見違える様に垢抜けしていたのに広重は驚いたのである。
「お願いはね、こんな私でも勤まる処があるんなら、何処か奉公先を探して欲しいと思ってさ、それにこの様子じゃ、師匠の奥さんは当分は出来そうにもないでしょうからね」
 散らかっている辺りを見回して、お安は馴れ馴れしい口を利いたのである。
「あのな、今やっと陸奥の松島から帰って来たんだぜ、双月ぶりのお帰りに、いきなり奉公先を探せってかよ。まぁいいやな、ところでお袋さんは元気かい?」
 旅の装いを解きながら、広重は聞くともなくお安の母親の事を聞いた。何を話していいのか、言葉に詰まった所為でもあった。
「元気よ。ぴんぴんしてる。金さえくれれば娘の私だって戻らなくっても良いよって感じよ。ねえ、あんた鎮平さんって言うんでしょう?早くお風呂を沸かしてやんなさいよ。私これからご飯を作ってゆくからさ。師匠は洗濯物を出しといてね、ついでに洗濯もして行くから」
 広重の住まいでもあり作業場でもある家に顔を出したお安が、まるでしばらく前からそうしている様に、てきぱきと弟子の鎮平に声をかけていた。賄いの婆さんが休んでいるのは、広重が双月ほど留守にすると伝えていたからである。鎮平の弟弟子である寅太郎は双月の長旅に連れても行かれず、浦安の親許に戻っていたのである。

 十月も半ばになっていた。あれからお安は広重の家に、頻繁に顔を出す様になっていた。来れば必ず洗濯をしたり夕食の支度をして、広重が暇な時は酒と付き合い遅くなれば泊まって行く事もあった。そして時折だが親の住む紺屋町に戻って行く。広重はそれで良しとしているのか、お安の言う奉公先を探す気持ちは無い様であった。広重と鎮平と寅太郎とそしてお安と、其々に血のつながりの無い四人が、一つ屋根の下で暮らしていたのである。
 時折だが、お安は広重に画を描いてくれと頼む事があった。どこでどう工面するのか、金に換えて紺屋町に住む親に届けてやる様である。聞けば昔世話になった大店の家に出掛け、主人や奥さんをつかまえては広重の画を売るのだと言うのである。それを聴いた広重は「この女の亭主になる奴は、食いっぱぐれは絶対に無い」と出入りの版元に語ったと言う。
 だが時折顔を出す版元や画材屋もお安を見て、怪訝な顔でどう判断してよいものやらと悩んでいる様でもあった。既に賄いの婆さんも断り、いつの間にかお安は広重の家に居着いていたからである。

 一頃江戸を賑わせた水野忠邦の話が、この頃に又江戸の町を賑わせていた。
 内藤駿河守の御屋敷にお預けの身となった水野忠邦は、この九月に家屋敷を取り上げられ、嫡子の金五郎に家督を譲り、その嫡子に家督として五万石を下されたが、所領地の遠州浜松から今度は出羽の山形に、所替えを命じられたと言うのである。思えば九州唐津藩二十五万石から十五万三千石の浜松藩、そして五万石の出羽山形藩へと、随分と時代に振り回されたものだと広重には思えるのだ。
 そして子飼いの鳥居耀蔵の名も、久しぶりに江戸の人々の口に上ったのである。それによると相良遠江守にお預けになって以降、この十月の初めに讃州丸亀藩の京極長門守様の許に、永くお預けの身になったと言うのである。永くお預けとは丸亀藩の監視下で、家の外にも出掛ける事さえも出来ない身の上になったと言う事であった。更に驚かされたのは、金座の御用改役の後藤何がしと言う、いわば幕府から貨幣の改鋳を預かる者の話であった。それまで幾度も通用金の吹き直し御用に事よせて、過剰な利益を自らの手にしたとして、死罪の申し渡しがあり既に処刑されたと言うのであった。

 これは半年程も前に評定所に呼び出されたその留守に、御徒目付などが家や別宅に乗り込み、その全てを差し押さえたと言うのである。その結果、後藤家がこれまで蓄えた古い金銀は合わせて十八万両に及び、家にいた使用人は妻と倅以外、妾が六人、下男と下女とを合わせると六十名余りに及んだと言うのである。恐らくは大分前から幕府の改鋳の度に、自らの金を増やしていたはずだと江戸市中の人達は考えている様であった。そして更に人々が言うには、吹き直しの際には幕府の役人の中にも、後藤なにがしと結託していた者がいるはずで、それらの話が漏れない内に、幕府は急いで後藤なにがしかを処刑したのではないか、と言う話がひろまったのである。

 甥の仲次郎が亡くなったと報せがあったのは、十一月三日の事であった。かつて両親が亡くなり、安藤家の家督を守る為に広重は年齢を偽り、十三歳で父の仕事である定火消の跡を継いだのである。その後に広重が幼くして守ったのは、実は父の養父で仲次郎の祖父でもある、安藤十右衛門の家督であった。本家筋から言われるがままに仲次郎に譲ったが、弟や妹達を守ってやれなかった事が、今でも広重には悔やまれるのである。
 あの頃、仲次郎に全てを譲り独りで生きて行きたいと願い、今それが現実のものとなっていた。だが今にして思えば独りで生きて行きたいと願ったそれは、大人の都合で振り回された、幼い自分の精一杯の反抗では無かったかとも思える。だから広重は父源右衛門の墓石を建てた時、安藤の名を入れてはいなかった。父が未だ養子に入らなかった頃の、田中の姓にしたのである。それさえ安藤家の養父は知らない事であった。父の墓が曹洞宗の東岳寺と言う寺にある事さえ、伯父から聞かれた事は唯の一度も無かったからである。
 しかし仲次郎は一つ屋根の下で暮らした、いわば齢の離れた弟の様な者であった。葬儀には仲次郎の為だけに、手を合わせに行こうと広重は思ったのである。

 後になってみると、お安の事を考える様になったのは、この頃では無かったかと広重は思う事があった。お安が広重の家に来て既に半年が過ぎている。家の中は見違える様に整理されて、会話は随分と増えた様に思えた。掃除も行き届き、何よりも飯が旨い。しかしそうした事よりも、この頃はお安への自分の気持ちが、何故か判らなくなって来た事も確かであった。
 画を描きながら夢中になっていると「もう休んだ方が良くはないのかえ」「お疲れでしょうに」と、死んだ妻のお芳の様な言い方で声を掛けてきてくれる。言葉は多少悪いが心根は良い女だし、良く気が付いて世話焼きの女であった。そして何よりも広重が嬉しいのは、酒に付き合ってくれる事であった。白い肌に酒が入ると、色気が滲みだして陽気になって来る、そして最後には二人で酒盛りとなるのである。
 本音を言えば外には出したくない女だと思う。何時までも傍に置きたいと言う気持ちが芽生え、この数か月は随分と強くなって来た様に思うのである。だが如何せん広重からそれを言えば、お安に軽くあしらわれそうな気持ちになって来るのである。


 《弘化三年(1846年)》
 正月が過ぎて、幕府の行った様々な改革と言う規制は取り除かれ、少しずつだが以前の活気に戻って来た様に感じるのは、何も広重ばかりでは無かった様である。
団扇画では前にも描いた事のあった版元の伊場仙が、久々に顔を出したのは一月も終わり頃の事であった。

「師匠はご存じ無いかも知れませんがね、この処結構団扇画の注文が多くなりましてね」
 まるでやっと春が来た事を喜んでいる風な言い方であった。
「伊場仙は、又新しい事を企んで一儲けかい? 乗りたいねえ、その話」
 少し皮肉を込めて広重が言った。
「錦絵ばかり儲けさせる訳にはいきませんや、無い知恵を絞って師匠の処に来たのですが、やはり帰りますか?」
とぼけた様に伊場仙の仙三郎が言い返した。
「しかし何枚かは大分昔に描いたのがあるが、どうだい持って行くかい?」
 広重も負けてはいなかった。
「いえ、今日は私のほうからお題をお願いする御話で」
 確か妻だったお芳が亡くなった翌年の正月に、同じ版元の伊場久から団扇画を頼まれた事があった。その時に行く先知らずの団扇画を、暇ついでに何枚か描いていた事を思い出したのである。
「実は団扇画を揃い物で出したいと考えておりまして」
「ほう、驚きました。団扇画を揃い物でねぇ」
 後にも先にも初めて聞いた話で、団扇画を揃えるとは驚きであった。
「へい、十枚程の揃い物を考えておりまして、画ですが名山を師匠にお願いしたいと」
「すると団扇画でさしずめ『名山尽諸国拾景』とでも言うわけだな」
「まさにその通りで、今の師匠のお題、そっくりそのまま戴いてお願いしたいと」
「山はこちらに任せると言う事なら、お引き受けしましょう」
 何か心覚えがあった訳では無かった。しかし面白い話だ広重は思った。団扇画を十枚揃いで、しかも名山で出したいと言う。たかが団扇画だが、されど団扇画であった。知っている山を思い起こせば、近江の石山、大坂は天保山、これは日本湊尽くしで描いていたし、大坂安治川で湊を描いたからである。この天保山は安治川の海運を一層活発にする為、川の浚渫で掘り起こした土を積み上げた山だからである。それに上総鹿野山は二年前に出掛けた山である。駿州富士山は外せない。讃岐の象頭山も木曽街道を描き終えて向かった時に描いている。榛名山は伊香保の湯がある山で、妻のお芳と出かけた時に描いている。

 名山とは姿や形に特徴があり、その土地の人々の支えになっている山だと広重には思える。そして今挙げただけでも目を閉じても描ける山であった。
「夏までには団扇にしなきゃなりません。四月初めまでにはお願いしたいと」
 意外とこの目論見は続くかも知れないと思いながら、広重はこの仕事を引き受けたのであった。伊場仙が帰った後であった。頼まれたばかりの団扇画の、山の構図を考えていた時である。ふと北斎翁の富嶽三十六景の中の、尾州富士見原の画を思い出したのである。団扇画に使う紙を取り出し、広重は思い出した様に北斎の描いた桶を削る職人や、その桶の中に入れた富士のお山を団扇画に描いてみた。
 伊場仙に渡す積りの画では無いが、敢て北斎翁の画に似せてと断り書きを書きいれたのである。この北斎が描いた画は、広重が最も得意とする描き方であった。所謂遠近感を強調する為にことさら前景の桶は大きく、遠景の富士は小さくする事で奥行を見る者に感じされる手法である。大胆にして計算され尽した表現でもあった。
 その十日過ぎ、今度は版元の丸屋甚八が訪ねて来た。丸屋甚八は芝増上寺前の神明町で屋号は圓壽堂と言う。既に初代歌川豊国の役者似顔絵を刊行して、広重が生まれる前からの版元である。それも喜多川歌麿などの美人画を刊行していた、江戸の中頃から代々続く中堅の版元であった。
 注文の内容は横大判の錦絵で、雪月花を題材にお願いしたいと言うのである。出来れば来年の正月には刊行したいと言う。広重はこれも喜んで引き受けたのである。尤も希望は江戸市中の馴染みのある場所と言う事で、花は府中のこがねい辺りの桜を、月は玉川の鮎漁を、雪は井之頭の池の弁財天あたりを頭に思い浮かべたのである。

 更にひと月後の事である。珍しく藤岡屋彦太郎の弟で慶次郎が訪ねて来た。仕事の注文で東海道五十三次を、うちでも描いて欲しいと言う話であった。鎮平の画は上手く成りましたかね? と聞かれて、そうだ、この家に鎮平を連れて来たのは藤岡兄弟だと思い出したのである。既に鎮平が大鋸町の家に来たのは十三の時。妻のお安が亡くなって直ぐと時であった。既に七年にも前の話でった。
「未だ独り立ちは難しいのですが、大分要領も覚えてきましたから、あと数年もすりゃあ、一人前ってとこですかね」
 そう答えながら、余り腕を見てやれない事を思い出し、広重は話題を変えて藤慶に五十三次の話を始めたのである。
「で、東海道五十三次をとの事ですが、どの様な形をお望みでしょうかね?」
「実は師匠の美人画を入れての東海道をと考えておりまして」
 広重の顔が途端に明るくなった。心の中では美人画だって描けるんだよ、と声を大きくして叫びたい衝動があるからなのだ。
「以前に国貞師匠の美人画を、師匠の東海道を背景にして確か佐野喜の版元から出た事がございました。私の方は画の後ろの上に宿場風情を額にいれ、竪大判で前面に広重師匠の美人画を入れると言うもので、ですら今回は風景よりも師匠の美人画を強くだしたいと・・」
 天保の改革以来、冷え込んでいた美人画の注文は、やはり嬉しいの一言であった。しかも美人画を三代目の豊国や、国芳にでなく広重に頼まれた事が、心から嬉しいと思えたのである。
「ようございますよ。喜んで頂ける様な画を描きましょう。広重にも美人画が描けるぞと、知って貰いたいものですからね」
「来年の弘化四年の秋には刊行したいと思っております。ですから遅くとも来年早々には下絵を間に合わせて頂けると有難いのですがね」
 少し時間的には厳しい様にも思える。だが何とかやってみようと広重は思った。
「少しずれこむ事があるかも知れませんが、半分は秋口までに先にお渡しし、残りを年内、遅くとも年明け早々にと言うのはどうでしょう」
「判りました、それでお願い致しましょう」
 藤慶との話はそれで決まった。

 仕事は天保の時と比べると、目に見えて増えて来ているのが判る。しかし頭の片隅には、お安の占める場所が、増々増え始めている事も確かであった。弟子の鎮平や寅太郎が居る事で、男と女の境を越える事は無いが、しかし二人して酒を酌み交わす時などは、何時どうした形になってもおかしくない程の身近さで、お安の存在は強くて大きいのである。
 広重は広い家に移ろうと思った。これからも弟子は増やさなければならないだろう。何時まで独り身でと言うのも不自由であった。しかし今居る大鋸町から遠くに越すには、単に狭いと言う以外にそれほどの理由も見つからないのである。だが一月後の二月末に、近くの常磐町に広い貸家があると聞き、お安と連れだって見に行ったのは、話を聞いてすぐの事であった。
 今広重が住んでいる大鋸町は日本橋通りの南伝馬町一丁目を曲がった裏手である。更に裏手は京橋の隣に架かる、中の橋に通じる新道があり、越えると並木町でその向こうが掘割となる。常磐町はその掘割沿いを日本橋とは反対の、京橋の方に向かって町割りの六つ目が常磐町であった。
「ここに移ろうかと思っているのだが、お安はどう思う?」
 いきなり訳も判らぬままに連れてこられたお安は、広重の言葉に戸惑った様に答えた。
「こちらに移るとは、引っ越しされるって事なんでしょうか?」
「あぁ、そう考えている。今の家も随分と手狭になった。自分の家を持ちたいとも思うが、未だ弟子も鎮平と寅太郎の二人たけだ。自分の子供は無理だとしても、自分の、広重の名を引き継いでくれる、絵師を育てなければとは思っている」
「師匠は未だ未だ先の事を考えてんですね」
「あぁ、それにお安と俺の部屋も欲しいしな・・・」
 広重の一言が何を指しているのか、お安にも判っていた。だが互いにどうにもその切っ掛けが掴めないだけなのである。お安は広重の指をそっと握った。広重もそのお安の細いしなやかな指を握り返した。

 常磐町は京橋の直ぐ傍である。伊場仙からの注文だった名山尽しの団扇画を描き終えると、広重はすぐに常磐町に住まいを借りて引っ越したのである。これまでの家より二間ほど間取りも多くなり、広重の仕事場も十二畳の部屋になった。仕事場の隣は弟子達が使い、奥の庭に面した部屋もお安と広重の部屋にした。版元などの
取引先への転居の挨拶などと共に、お安を妻にした挨拶状を送ったのは梅雨前の事であった。
 移った先の建物は日本橋の呉服屋が持っていたもので、店主が住んでいたものを息子が代替わりで引き継ぎ、店主は隠居して箱根の別宅に移り住んでしまったと言うが、満足の行く造りであった。
 この常磐町に広重が住まいを移してすぐ「上野不忍雪の景」を上野池之端通仲町の版元、上金こと上州屋金蔵から竪大判の三枚続きの美人画を依頼されたのである。 それぞれ独りずつ中央に傘を持たせた美人を立たせ、一枚ずつでも使える様にしたものである。すでに天保の美人画や役者絵などの、出版禁止の御触れは撤回されていたので、広重は安心して美人画に取り組む事が出来たのである。


 《弘化四年(1847年)一月》
 広重は既に五十の齢を数えていた。この正月、珍しく弟の了信から広重に手紙が届いたのである。内容は既に嫁を貰い、そして寺も四年前に江戸の外れの音羽町のまだ先の、智香寺に移り住職をしていると言うのである。しかも嬉しい事に女の子が出来たと言うのである。その子の名をお辰と名付けたのは、生まれが弘化三年、十一月二十七日で丙午(ひのえうま)の生まれであったからに他ならない。嬉しい知らせであった。父や母が生きて居れば、どれ程の歓び方であったろうと思う。
早速広重は、祝いの品と手紙を認めて送ったのである。
 この年の初めに版元の丸屋甚八は「名所雪月花」として、こがね井つづみの花盛、多満川秋の月あゆ猟の図、井之頭の弁財天の社雪の景、の三枚を刊行し更に上州屋金蔵からも久しぶりの大判竪の美人画、三枚続きの「上野不忍雪の景」が刊行された。

 三月末の事であった、信州の善光寺で大きな地震が起きたと、瓦版屋が騒いでいた。何でも地震は夜の五ツ時(午後八時頃)で、善光寺の如来堂や鐘楼そして山門などが倒壊し、門前にある旅籠は倒壊と共に何カ所もの場所から火の手が上がり、善光寺の周辺では三千人余りの死者が出たと言うのである。折しも御開帳の時期でもあり、近隣の地域を含めると、八千人もの人々が亡くなったと言うのである。被害の最も大きかった場所の中には、広重が泊まった事もある篠ノ井追分宿もあり、広重は買い求めて来た瓦版を読み返し、胸を撫で下ろしたのであった。この時に出た瓦版には狂歌も載っており「死にたくば信濃にござれ善光寺、土葬水葬火葬までする」と書かれていた。沢が地震で土砂でせき止められ、それが一気に村を襲って水で死んだ事を指していたのであった。
 
 蔦屋吉蔵から「東海道五十三次」の注文が入ったのは、善光寺地震が起きた半月後であった。蔦屋は中判の大きさで、時間は急いでいないが画に味を出して欲しいと言う注文であった。版元の寿鶴堂事丸屋清次郎からも東海道の錦絵を、自分の所でも出したいと言う話が舞い込んだのもこの頃である。
「広重師匠に取っちゃ嬉しいだろうが、こんな話がありましてね」
 そう語ったのは、丸屋清次郎が東海道五十三次を頼みに来た話であった。
「うちの店に来た客が言うには、寿鶴堂には広重の東海道は無いのかい?と聞きやがる。未だ出してはおりませんがと答えると、「保永堂はともかくも、版元と名乗る以上は東海道の五十三次ぐれえ、店に置いててくれねえとな」と言いやがる。確かに保永堂が東海道五十三次を刊行して以来、佐野喜も江崎屋もそして聞いた話によると藤慶の所も蔦屋もが、広重師匠にたのんで刊行すると言うじゃねえか。佐野喜なんぞは国貞の美人画かと思えば、しっかりと背景にはあんたの東海道が描いてあった訳よ。そしてその後で、こんどは歌なんぞ入れた東海道も、ちゃっかりと刊行しているって言うからよ、思わず客に言ったんだよ。『おめえは広重の廻し者か』ってね。しかしどうもむしゃくしゃしていけねえ。でもって何とかうちも東海道五十三次を出したいとおもってな、頼みに来たっ訳だよ」
 どうした風潮なのか東海道五十三次の錦絵を、版元自らが刊行しないと客からは馬鹿にされるというのである。しかも東海道五十三次となれば広重であった。他の絵師には頼めねえと言うのである。
 確かに版元が他の版元の画を、自分の店で並べるのは出来ない話であった。だが理由の如何はともかくも、広重にとっては嬉しい話であった。画は飾ると言うよりも、広重の画は既に名所への案内図だと言うのである。広重はかつて描いた行書の江崎版とは違い、宿場名を隷書書いて観光名所案内を中心に、描いて見ようと思ったのである。
 名指しの嬉しさが半分、仕事が少なくなってきた時期でもあり、喜びが半分の仕事であった。とは言っても東海道五十三次の話の中に、保永堂の名前がでると広重は何処か気持ちが暗くなった。木曽街道の英泉との一件以来、ぷっつりと広重の前から姿を消していたのである。風の便りで店を畳んだと言う話も聞いたが、木曽街道六十九次の版権も、次から次へと人出の中を流れていったのである。

  
 《嘉永元年(1848年)五月》
 お安を連れて広重が信州の飯田に向かったのは、弘化から嘉永に元号が変わった四月半ばの事であった。初めて二人で出かける旅でもあり、お安は随分と前からはしゃいでいた。広重にとっては頼まれた屏風画を発送し、そのお礼と無事に届いたかを確認する為の旅であった。しかし表向きの理由はともかく、女は偶に外の世界に連れて行ってやると、不思議に喜ぶ生き物の様に思えた。とは言え広重にしてみれば、それは又まだ見ぬ風情を探しに、画帳を胸にして訪ねる旅には違いなかった。
 ところがお安の喜ぶ理由には、もう一つの大きなお安だけの理由があった。お安の生まれ育った在所が、遠州の新野村だったからである。新野村は南を遠州灘に面した比較的低い丘陵の台地であった。水田は少なく米より畑作が種の、父親は嘉右衛門という名の百姓であった。お安が十八の時に父親に先立たれ、江戸には母親と出て来たのである。飯田に向かう途中、故郷の在所に寄り道する約束をしたからで有った。

 事の始まりは昨年の初めである。江戸の材木町の隣の田所町に住む桜井なにかしと言う者から、信濃の飯田の実家に屏風絵を描いて、届けて欲しいと言う依頼があったのである。無論先払いの仕事の注文で、六曲一双の見応えのある大きさで、物がものだけに最後まで確認したかったからである。桜井なにがしがどこの誰かは知らないが、後で聞くと飯田に行けば直ぐに判るというのである。
 屏風は既に一月末には広重の手許を離れて送っているから、後は空身で礼と確認だけの旅である。それ故にお安と初めての旅をしたいと思ったのである。東海道を下って吉田宿まで行く事にしたが、お安の希望で箱根の温泉に入りたいと言われ、二泊程を湯本で過ごす事にした。広重は未だ描いて居ない箱根七湯の風情を描く為、お安を湯本に置いて、一日を歩いて七湯めぐりをしたのである。

 翌日、箱根峠を越えて沼津に泊まり、海岸伝いに三津村まで歩いき、更に海岸沿いを駿州の富士を見ながら泊まりを重ねた。途中に三保の松原に寄り道したあと、雨の降る大崩の浜を抜けたのは、箱根を発って四日目で夕刻である。更に大井川を越えて御前崎には翌日に着く事が出来た。お安の故郷は、崎の付け根に流れる新野川の畔であった。ここで父親の墓参りを済ませたのである。
 その後、浜松から三河の吉田宿に出て船で豊川を遡り、戦国時代に合戦場であった長篠で舟を降りて、古刹の鳳来山に詣で泊まりは湯谷であった。さらに三州街道を歩き、時に賃馬にも揺られながら、飯田に着いたのは五月も末であった。
 かつて木曽街道を描く為に中津川まで出向き、飯田を通って甲州街道で江戸に戻った時の事を、広重は昨日の様に思い出していた。あの時は乗り換える事も無く賃馬にゆられ、随分とのんびりとした記憶が残っていたからである。

 届け先の桜井家は予想していた通りの豪商で、江戸から来た事を告げたが生憎と家の者が出ていると言う。奥座敷に既に飾られた屏風を見せて貰らい、確認をしたが問題も無く、広重は筆を取り出して屏風図の裏に自らの筆で名前を書いたのである。だがこの飯田で気を惹かれたのは、人びとに広まっている茶の湯であった。桜井家で出された茶も街道の茶屋で出された茶も、その味わいこそ違っても良い茶を使っていた事であった。聞くと飯田の北西にある風越山の麓から、茶に適した湧水を江戸千家の中心的な人物、不蔵庵龍渓宗匠が探し当てたのが「猿庫の泉」であったと言うのである。この為に茶と共に和菓子も広まり、飯田は知られざる茶の町であった。
 聞けば届けた桜井家の先代は、小林一茶の友人だと言うのである。江戸では山谷堤から猪牙(ちょき)舟に乗り、浅草寺の鐘の音を一茶と聴きにいったと言う話をきいたのである。
 
 広重はお安と飯田から中馬と言う賃馬に乗り、三州街道を高遠に抜けた。お安のたっての希望で高遠の絵島の墓に詣でる為である。絵島生島の事件とは江戸中期の頃に、大奥を背景に起きた事件である。七代将軍家継の生母である月光院と、正室の天英院との争いと言う側面もあると言う。或いは将軍御側用人の間部詮房と、補佐役である新井白石を追い落とす、天英院との勢力争いとも言われている。
 だがそれよりも、当の大奥大年寄であった絵島が、月光院の代参で前将軍家宣の墓参りの帰り、呉服商の招きで山村座の芝居見物に出向いた事から起きたもので、役者の生島新五郎の舞台を見終えた後に、その役者を茶屋に呼び出し宴を開いて大奥への帰りが遅れ、これが江戸を賑わせ、強いては五十名にも上る罪人を出し、絵島と生島は遠島を申しつけられる事となるのである。

 しかし将軍の生母である月光院の願いでお預けの身となり、この信州高遠へと流され囲み屋敷に幽閉されて、そこから一歩も外に出る事も無く、そののち二十八年もの間この高遠で生きたのである。墓は蓮華寺という。しかし広重はこうした話は不得意であった。特に権力争いの類は、同じムジナを眺めている感があった。その様な場所に住むから起きた事で、覚悟の上での話だろうとも思うのである。栄耀栄華を求めた結果の話で、枝葉の出来事に憐みを感じるのは、それこそ感じさせられている何かがあると、知っていなければならない事なのである。 
 だが、とにもかくにも広重とお安の二人は江戸に向かったのである。江戸に二人が戻ったのは、五月末の事であった。

 曲亭馬琴が死んだと言う知らせは、直ぐに江戸市中を走り回った。広重の許にその知らせが届いたのも、十一月六日の事で、この日の早朝に亡くなったのだと言う。八十二歳だったと言うが寧ろその齢まで、よくも作品を書き続けたもだと、作家としての敬服の気持ちを持つのである。先に死んだ息子宗伯の妻だった路が、義父である馬琴の目となり筆となって、馬琴の代表作「南総里見八犬伝」を完結させたと言っていいだろう。だが何故そこまで出来たのか、一度その路に会った時に聞いて見たいと思えたのである。しかし通夜に出掛けたその夜に、図らずもその路の口から聞く事が出来た。その言葉は「意地だったのではないでしょうか?」と軽く微笑んで語る言葉であった。完結しないままに終えた「傾城水滸伝」と「近世説美少年録」はそのままになったが、路は馬琴の代筆だった日記は続けると言う。今度は「路女日記」と名付けると言うのである。凛とした生き方の出来る女だと、路を見て広重には思えたのである。

 仕事の方は順調であった。この処、弟子の鎮平が手伝う事も多くなり、既に花鳥図や武者絵は良い処まで来ていると広重には思える。それ故に広重は、自らの作風を壊さない程度に、手伝う事を許していたのである。この年上げには名を与えてやろう、と思い始めていたのである。
 東都名所「両国夕涼み」の三枚続きを、ぜひとも描いて欲しいと訪ねて来たのは、芝神明町の版元の若狭屋であった。名を若狭屋与一と言うが、元々は師の豊広と付き合いのあった版元で、同じ町内に店を出していたからである。尤も版元も彫師や摺師達の居る場所に店を開くのが普通で、日本橋界隈や芝神明町あたりは特に多くの版元が店を出し、その近くには又多くの彫師や摺師達が住んでいると言う事になる。
 来年の夏までには刊行したいと言うが、逆に計算すれば三月末までには、下絵を描かなければならない事になる。広重は断らなかった。訪ねて来て仕事を頼まれる、これ程有難い事はないと思うのである。 
 次いで伊場仙が顔を出した。今度は珍しく団扇画ではなく錦絵を頼みたいと言う。その目論見はこうであった。大判竪で全十二枚、その大判錦絵の中にはまるで貼り付けた様に五図から六図程の画を描くのである。しかもその一図一図には東海道の宿場名が書いてあると言う。題は「東海道張交図絵」(とうかいどうはりまぜえず)としたもので、一枚ずつ切り抜いて、枕屏風にでも貼りつける事ができるのである。景勝地や物語、名産品から行事など、その異なる一つ一つの短冊に、多様なものを描いて欲しいというのである。

 広重は、描く一枚を想定して組み立てて見た。竪大判一枚の中に、大きさの異なる紙を五枚いれる。そのなかの一枚に例えば池鯉鮒と言う宿場名を入れるとすると、黒く塗りつぶした図の中に、白く浮き出した「かきつばた」の花を描く。文字は「八はしの古墳」その下に池鯉鮒と入れる。画が全く面白くないのは当然だが、ここからこの画の謎解きが始まるのである。まず「八つはし古墳」とは、尾形光琳の屏風絵に「八つ橋屏風図」や「燕子花図」も見る事が出来る。此処で云う古墳とは古く埋もれたと言う意味である。
 平安の歌人である在原業平が「からころも、きつつなれにし、つましあれば、はるばるきぬる、たびおぞおもふ」と詠んでいる。この語句それぞれの頭の文字を繋げると、か・き・つ・ば・た、となり、業平が伊勢物語第九段の東下りの中で謳われた短歌を知らないと、池鯉鮒宿の特産である「かきつばた」の花の名前も、そして名所の八つ橋も理解出来ない仕組みなのである。
 広重はこうした画解きが好きであった。こうして十二枚の錦絵に五十五の画解きを潜ませると、画は見るものでは無く、考えるもの、知識の必要を伝えるもの、に変わって来るのである。それはこうした画を求める江戸に住む人達の、教養の高さを物語っているとも思えるのである。それにしても通好みの目論見を持って来た伊場仙の、代々培われた凄さに驚くばかりであった。
 そう言えば、この版元の伊場仙は、確か家康公と共に遠州は伊場村から江戸に上って来た版元であった。江戸に来たのが天正八年(1590年)、今からざっと二百五十年も営んでいる老舗の紙屋で版元でもあった。
 
 この年嘉永元年の最後に注文があったのは、佐野喜からの「江戸名所五性」と呼ぶ五枚揃いの美人画であった。五性とは月と日を除く火と水と木と金と土の事で、お題は火を「両国の花火」水を「亀井戸の水」、木は「隅田川堤の桜の木」、金は「上野の時の鐘」土は飛鳥山の土とした。こり場所を背景に、美人を前面に出したもので、竪大判の錦絵であった。



 《嘉永二年(1849年)》
 この二年ほど前から広重は、やはり自分の家を建てたいと考えていた。金があれば家は借りるより、自分の家を建てる事の方が良いに決まっている。貸家は何時まで経っても自分の家にはならないが、自分の家は借金さえ返せば自分のものになる。しかしその踏ん切りがつかないのである。亡くなった師匠り豊広が懇意にしていた一人に、浅草蔵前の札差屋で、越前屋平兵衛という男がいた。札差屋とは言うならば、武士の給金である米を、手数料を取って金に換える商売である。例えば旗本の五百石取りでも、暮らしで米を野菜に替えるには、一度米を札差屋に売って、金に換えてから野菜を買うのである。

 無論だが札差屋は米を金に換えるだけでなく、これから貰うであろう米を担保に金貸しを手広くやるのがこの商売である。今は二代目だが親の名前を引き継いで平兵衛と名乗り、広重と歳は同じで昔からの飲み仲間でもあった。その平兵衛が「もういい加減に自分の家を建てろよ」と勧めてくれるのである。おまけに百両なら金を貸してくれると言うのであった。利息は取るが、申し訳程度でいいと言ってくれているのである。その話があってこの年明けに、広重は以前に住んでいた大鋸町の借家の隣、中橋狩野新道に土地を借り、家を建て始める予定だあった。
 新道と名前が付いている様に、日本橋から京橋に至る日本橋通りと平行に切られた道の、京橋の隣の中橋、つまりその中橋に繋がる新道に面した場所で、地名でもある狩野は狩野派四派の一つである中橋派の、屋敷がある場所と言う意味から名付けられているのである。家は来年夏には出来上がる予定であった。
 そしてこの正月に広重は弟子の鎮平を呼び、今日から名前を歌川重宣にする様に伝えたりである。そして独立して自らの仕事を版元から得るもよし、ここにいて更に腕を磨くのも良しと伝えたのである。重宣の名を貰った鎮平は未だ腕を磨きたいと広重に伝え、この日からはそれまで貰っていた小遣いでは無く、広重から給金を
貰う事となったのである。重宣はこの年、二十一歳であった。

 頼まれていた蔦屋版で横中判の「東海道五十三次之内」を蔦屋から刊行したのもこの正月であった。更に三月には丸清版の題字を隷書で書いた横大判の「東海道」が刊行した。特に原宿の富士の山の頂を、枠を突き破る形でしかも背景を暗くして画面いっぱいに表現し、雪の風情も鞠子と保土ヶ谷で、風は袋井の凧揚げ、浜松は浜名湖の波で表現し、雨は藤枝で夕立ちを描いた。
「いや、これで客に文句はいわせねえ」
 摺り上がったばかりの錦絵を見て、そう言ったのは寿鶴堂店主の丸屋清次郎であった。

 毎年の事だが正月を過ぎた冬の時期は、然程仕事も少なくなる時期である。こういう時期は描く前に始める構図の割り付けを、名前を変えたばかりの重宣に任せる事にしていた。伊場仙の東海道張交図会などは、描く時間よりも考える時間の方が多くを必要としていた。その意味ではどこをどの様に埋めて行くのか、重宣に考えさせ任せて見る事にしたのである。
 この時に、広重も又一つの試みを始めていた。絵師が版元から画を頼まれる前に、自らの才覚で画を描き、版元に彫らせ摺らせて店に置いて貰うのである。特に広重が自ら自慢出来るのは、雪景色の風情であった。「東都雪見八景」は雪景色を八景揃いとして描いたもので、高輪、隅田川堤、洲崎、上野不忍池、両国橋、霞が関、目黒不動、浅草金龍寺は、その最も納得した画であった。
 未だどこの版元から出させるか、考えて描いた訳ではなかったが、刊行しない版元が後で地団駄踏んで悔しがるような目論みを、絵師がしなくていいなどと言う決まりは無い筈である。版元が動かないなら、こちらから動くまでと描き始めたのである。

 四月十八日であった。北斎が亡くなったと言う話が町の中を広がり、それを確かめる為に重宣を版元まで使いに出した。浅草聖天町の遍照院内の仮寓で亡くなったと言う話から、その話は事実であろうと広重は思えた。それは既に九十歳の年齢でもあったからである。巨星とも思える光彩を放ち、広重を絶えず見下ろしていた様にも思える北斎は、ある意味で広重の憧れでもあり希望でもあったと言える。
 広重が東海道五十三次之内を保永堂から刊行した年の末、北斎が相州の浦賀に数年もの間その身を寄せて、名前を三浦屋八右衛門、或いは百姓八右衛門、土持仁三郎などと名乗った事があった。それは文政十一年の暮れに発覚したシーボルト事件に関連して、北斎は外国人からの要請で絵画を描いていたと言う。それは幕府が禁じた法を破ったという、不安からの逃避であったはずである。

 その年に刊行した北斎の「北斎漫画」は、阿蘭陀の前商館長だったブロムホの、日本における蒐集対象に含まれていたと言う。そのブロムホの要請で更に風俗画を描いた北斎は、何時までもその事件の恐怖を引きずっていたと広重には思える。オランダ商館の一行が江戸参府に訪れた時、度々北斎はこのプロムホからの注文を受けて、肉筆画を持たせていた事もあったと言う。その事は幕府が刊行する「古画備考」に記載され、世話になっている岡本林斉から広重は耳にしていたのである。しかし北斎は北斎。頼まれれば嫌と言わない北斎、金には無頓着な北斎は、広重の中に有り余る程の影響を与えてくれた事は確かな事であった。
 そんな北斎が逝った翌月に、広重は念願の家を建てる事が出来た。北斎が生きて居れば、相変わらず本所辺りで所を変えて、「そんなもんに執着してたら、いい画は描けねえぜ」と言うかも知れない。だが広重はここで残りの生涯を終える為、地に自らを根付かせて生きたいと思ったのである。

 中橋狩野新道に広重の家が建ったのは、鯉のぼりの泳ぐ五月の初めであった。部屋は一階が四部屋、二階が二部屋そして庭がある。一階の八畳は仕事部屋だが隣の六畳の部屋の襖を外せば、忙しい時の仕事部屋になる。借金をして建てたとは言え、とにかく自前の家である事が嬉しかった。その日は版元が祝いに駆けつけ、昼過ぎからは宴会になり酒盛りとなった事は言うまでもない。誰もが広重の新たな門出を祝ってくれたのであった。


 《嘉永三年(1850年)》
 「絵本江戸土産」を広重が刊行したのはこの年の初めであった。いわば江戸の案内書とでも言うべきもので、木版刷りの彩色を施した冊子である。元々は同じ題で
宝暦三年(1753年)に、江戸の奥村喜兵衛なる者が刊行したと言う。この内容は江戸の観光案内書的なもので、両国橋、吉原、浅草、上野、不忍池、愛宕、目黒不動、神田明神、日暮里日暮の里、あすか山、王子のいわや等が画と共に紹介されて、黒摺りの読本の様な体裁で作られいた。
 この絵本は単に風景を描くだけでなく、そこに江戸に住む人々の暮らしや営みが、事細かに説明されていた。土産にも出来る観光案内で、迷うことなく江戸を歩く事が出来ると評判を呼んだのである。例えば両国橋納涼の図などは、うどんや、二八そば、焼きめしや、伊丹酒、漬け寿司、にゅうめんなど、様々な店が描かれていて、人々が買い求める姿や遊ぶ様など、江戸で暮らす人々の様子を活き活きと描いているのである。版元の金華堂の持ち込んだこの目論見は、描く場所を十遍程に分け、まずは初版本をその一遍から四遍までとした刊行であった。

 この絵本江戸土産の巻頭に広重は「江都に名高き景勝の地、専ら写真を旨として・・・・市中の塵肆男女の風俗、今目に視るごとき景勢を図せんと思ふ」と書きいれたのである。(この広重の絵本江戸土産は、広重が没してのちも二代目によって描き継がれ、慶応三年まで十遍までを数えた)
 昨年の冬から描いていた東都雪見八景も、藤慶に彫と摺りとを頼み込んで、一月末には出来上がって来た。版元は絵師に画料を払う事は無いが、画が摺りましの場合は儲けも大して多くはない。彫と摺りの代金と、後は一枚幾らの置き賃が、売れれば版元の手に入るだけである。
 
 北斎が亡くなって一年近くが過ぎた三月の半ばの事であった。広重はまるで思い立った様に、武州と相州へと出かけたのである。北斎が今は亡き後、今度は自らが富士のお山を描きたいと思い立ち、それを後押ししたのは佐野喜であった。既に富士の山を描いた元絵も溜まってはいるが、まだ場所が限られていると広重には思えたのである。
 まず向かったのは下総の市川であった。市川の渡しを渡り、利根川(江戸川)を遡り、鴻之台(国府台)でここからの富士を描いた。更に上流に向かい水戸街道の松戸宿に泊まると、翌日には一つ先の宿場である小金宿で小金原の風情を画帳に収めた。ここから小金城を経て利根川を渡り、武蔵野国の吉川村から越がや宿で一泊、ここでも富士の山を描いた。更に中仙道の浦和宿を経て羽根倉の渡しを渡るのは、所謂府中口大山に向かう大山道である。
 大山信仰は相模国の丹沢山塊東端にある阿夫利神社への参拝が、江戸中期に関東一円に広がり、阿夫利神社に向かう多くの道が整備され、それらを大山道と呼ばれる様になったものである。
 羽根倉橋を渡った広重は小金井堤で富士の姿を画帳に収め、府中を経て乞田の手前で玉川からの富士も描いた。更に小野路(町田)に向かい境川から淵野辺を経て相模川で富士を描いた後、相模の大山に寄って来光谷と呼ばれる処で画帳を広げた。ここから江ノ嶋を経て三浦、更に本牧や野毛横浜などを廻り、江戸に戻ったのである。広重は広重なりに富士を描きたいとは思っていた。しかし北斎の様に、富士を中心にした富士そのものを描く事はとても出来る業では無かった。広重は富士を描くと言うよりも、富士を借景に点景にして風情を描きたいと考えていたのである。それは北斎ほど印象の強いもでは無い、寧ろ人の心の中にある風情としての富士であった。

 上総から武州そして相州と一回りした後に、描き貯めて居た画帳を取り出し富士三十六景の構想を考えていた時である。狂歌仲間の天童藩江戸詰の藩医でもある野田文仲が、上司であろう年配の男と共に広重の家を訪ねて来たのである。
「実はこの話、ぜひとも内々にお願いしたい」
 そう切り出したのは野田文仲である。何時もの狂歌の話かと思っていたが、顔は真顔で話はかなり深刻な様子であった。
「まずはご紹介申すが、同道したのは上司の天童藩江戸御留守居役、吉田專佐衛門と申す」
 既に六十は過ぎているとも思われる老人であった。
「狂歌の話かと思いましたが、何か伺うのも怖そうなご様子で」
 広重はその場の重い空気を変え様と、一呼吸を置いて目の前に座る二人を見つめた。
「実はの、まさに内々の話、我が藩の内情の話だが、広重殿に力をお借りしたいと思って参った」
 どう切り出して良いのか迷った様な、文仲の言い方であった。
「率直に申そう。実は我が天童藩の財政がひっ迫しており、何としても広重殿のお力をお借りしたい」
 御留守居役の吉田專佐衛門が、重い口を開いた。
「私の力を借りたいとはどの様な事でございましょう」
「絵を描いて欲しいのでござる。それも沢山の絵を」
 今度は文仲が口を挟んた。
「私は絵師でございますから、頼まれれば絵は描きますが何か不都合な事でも?」
「初めから順序だててお話致そう。さすればご理解も得られると思う」
 專佐衛門はそう言いながら、出された茶をすすり、語り始めたのである。
「天童藩はご存じとは思うが、藩主の先代織田信美様が幕府の許可を得て、出羽国高畠から天童に陣屋を移したのは天保元年の事でござる。ここで新たな天童藩を興したのですが、かつての領地であった出羽国置賜郡内の領地、四千六百四十石をお召し上げられ、禄高二万石の我らにとっては大変な痛手。家臣共々倹約に勤め、藩主は家臣の棒禄まで借り上げましたが、天保七年八月にお亡くなりになりました。長男信学様が藩主をお継ぎになられたのですが、元々が小藩でござる、紅花商人や
名主などの藩内の多くの者から十年の期限付きで金子を借りたが、まさに返す当てもなくその十年が目前に控えておる。
 これまで紅花の専売なども行っては来たが、これも他藩との兼ね合いもあって上手くゆかず、将棋の駒作りも天童藩の下級武士たちには内職として奨励しておる次第。藩としては返せるものは返したい。しかし先立つものが無いのも事実。そこで江戸でも高名な絵師の広重殿に、絵を肉筆で描いて頂きそれを利息の代わりに配る事で、あと十年の繰り延べる為の方策にしたいと考えた次第」
 吉田專佐衛門が語った話は、確かに他に漏らすべき性質のものでは無かった。まるで我が身の不始末を嘆く様に、悔しさに言葉を失っているのが広重にもわかった。
「で、どの位の絵を描いて欲しいとお望みなのでしょう?」
「凡そ二百四十幅程、お願いしたい」
 專佐衛門の声が、突き刺さるように広重の胸に当たった。広重は黙ったまま、混乱した頭を冷やそうと思った。
「広重殿もかつては御旗本の武士、なにとぞ私共の心の内をお読みくだされ」
 專佐衛門が畳に手を付けて頭を下げたのである。隣にいた文仲も、慌てて頭を下げた。広重は小さく、そして深く、ため息に似た吐息を鼻から吐き出した。綴じていた口が開けられない程に、無理難題が持ち上がったのである。
 大凡日数にして、描き終わるまでには一年半はかかる。しかも他の注文を一切断らなければならなかった。
「仕上げるのに凡そ一年半はかかりましょう。それに一軸あたり、どの程度の画料を申し受けられるのでしょうか。無論貴藩のご事情をお察しした上でのお話ですので、腹の内をさらけ出しての御返答を頂きとうございますが」

 広重が版元から受け取る錦絵の画料は、中版一枚で凡そ二朱、大判でも倍の一分程(四朱)で、品川の台場を築いた人足賃が一日一朱だと言うから安いものであった。尤も錦絵が一枚で三十二文、米が一升百文で、一朱は二百五十文だから、その暮らしぶりも押して知るべしと言う所である。
「描いてくれるとなると画料として、と言う事になるが、広重殿も高名な絵師、恥じをかかさぬ程度のものは、必ずお支払出来るとおもうておるが」
「さすれば当然ながら掛け軸も箱も、更に絹地も藩の方で経師屋にご依頼を頂く事で、ご負担も少なくなるかと思います。それらは吉田様の方でお手配頂き、私の方も描き終えましたら順次四十か五十ずつでもそちらに運び、順次表装されますれば段取りも速やかになるとは思いますが」
「まさにその通りでござる。御引き受け頂いたと思いますれば、早速に一年の後までには必ずと言う事で、我らも来年暮れ前には天童に届けなければなりませぬ」

 話は済んだ。頼む方も頼まれる方も、荷の重い仕事であった。だが広重はとにかく天童藩の役には立つだろう。断ってしまい、これが幕府の耳に入ったら、御取り潰しになるかも知れないと思える。損さえしなければ、まずは良しとしなければと思ったのであった。  
 翌日、広重は版元の佐野喜の元に顔を出したのである。富士三十六景の話を少し伸ばして貰う為であった。さる藩からの頼みで、ここ一年ほどは仕事がとても触れないと伝えたが、佐野喜は「とんでもない話に巻き込まれた様ですね」と、苦笑いをしながら富士三十六景の先延ばしを許してくれたのである。「どうぞお体を大切にして下さい」と言われ、広重はどこか遠くにでも旅立つ様な心境になって来たのである。
 
 絹地が届くまで、広重は重宣と共に描くお題を決める事にした。さらに絵の具の注文から筆、墨、そして描くお題からその資料を借りに走ったのである。掛軸の絵は通常水墨画と言うが、絵は墨で描く場合もあれば色を入れる場合もある。そして水墨画で多く描かれるものは山水や花鳥、そして人物もある。書の掛け軸もあるが、これは絵では無い為に広重の頼まれた物には含まれてはいなかった。
 元々掛け軸は中国普の時代つまり千四百年前頃に、仏の教えを広める為に描いた画を巻物にして持ち歩いたと言うもので、それが唐の時代になると表装する事で軸が付き、更にこの国に仏教が入ると、絵巻物などに使われる様になったと言うのである。絵が芸術性を持つ様になったのは鎌倉時代、禅宗の渡来である。禅宗寺院建築では床の間が設けられ、山水画や漢詩の文字が掲げられ、これを表装する経師屋が現れるのである。やがて室町時代に禅宗が茶道と結びつく事で、茶室茶掛けを生み、広く床の間が家々にも付く様になったのである。

 絹地が届く、墨や絵の具、そして筆が届くと広重は早速筆を走らせた。描きながら、重宣に教えていた。肉筆画の描き方もそうだが、お題のつくり方は最も基本である。これだけの量の絵を描くにしても、全ての絵は異なるお題にしなければならなかった。天童藩から予め聞いて居た話は、三幅物、二幅物も描く様に言われていたのである。恐らく数百両の金を借りていれば、掛軸一幅で済むはずは無いであろうと思う。それ故に揃い物をと注文したのは明らかであった。御題を日光の滝として三幅揃いで描けば、右が華厳の滝、中が霧降の滝、左は裏見の滝、京の季節ものなら右が嵯峨花、中は京雪中、左は高尾山時雨となる。上州の山で見立てれば、左に中之嶽霧中、中には妙義山雨中、右に榛名山雪中と、天候も異なる風情を描くのである。それは三幅同時に飾られた時、違和感の無い様に配慮しなければならなかった。

 双幅も同じである。右は翁、左は三番叟、或いは右が丹後の天の橋竪なら、左は丹後の成相山眺望など、大きさや奥行も大事な要素であった。届けられた絹地は竪が三尺、横が一尺で全て同じ大きさであった。予め打ち合わせていた大きさであり、掛け軸に仕上がると倍の大きさになるのである。しかし掛け軸では無いが、甲府の幕絵はもっと大きかった。弱音を吐く弟子にそう叱咤したのである。
 掛け軸を入れる箱は蓋だけを送り届けてもらった。仕上がりの粗い箱だったのは、安く値切ったからだろうと思える。しかし借金の利息の代わりの絵である。せめて箱書は金泥で書いてやろうと広重は思った。この日から一年余り、広重と弟子達は必死で描き続けたのであった。


 《嘉永四年(1851年)三月》
 若狭屋与一から頼まれた三枚組の両国夕涼みの版下を仕上げたのは十日程まえの事であった。天童藩からの掛け軸を描きながら、自分の部屋には錦絵の仕事を持ち込んで下絵を描いていたのであった。伊場仙の張交図会はこの一月には仕上げ、送り届けて居た。肉筆画はまだ重宣には任せられず、張交図の構想は広重がしてやり、画は殆どが重宣が描いた物である。多少の手直しは広重がしたが、重宣の技量なら挿絵で飯が食えるだろうと思えた事も嬉しかった。
 しかし未だ木の香りが残る広重の家に一通の手紙が届いたのは、天童藩から依頼された仕事に毎日が追われ、誰もが黙々と目の前の仕事に取り組見始めた一年後の事であった。手紙は弟の了信からのものであった。だが封を切った広重は、読み続けるうちに手が震えて行く事が、自分でも判る
程であった。

 手紙は嘉永四年三月十七日附けで、傳馬町の牢内から送られて来たものである。この時、広重は弟の了信が女犯の罪で、遠島になると言う事を初めて知る事になるのである。確かに妻を貰い子をなした喜びの手紙を貰ったが、僧侶が妻を娶るという所謂妻帯が、未だ女犯の罪にあたるとは考えても居なかったのである。
 ならば親鸞は妻を娶ったではないか? と思うが、聞くと親鸞の浄土真宗の僧侶のみは妻帯肉食を許され、弟の了信は浄土宗の僧侶だったのである。恐らくは寺の外に所帯を持ち、誰かに密告されて捕えられたのであろうと思えたのである。
 寺はその本山に対して、幕府から強い権限が与えられていた。子供が産まれれば親は檀家である寺に知らし、それは代々から繋がる人別帳に記される。人は必ずどこかの寺に組み込まれ、檀家となるのである。寺請けの証文が無ければ人別帳から外され、旅に出る事さえ出来ない仕組みであった。葬儀も寺の檀家の者が亡くなれば、僧侶はまず亡くなった者が確かに檀家かどうかを確認し、戒名を授けて引導を渡す事が義務ずけられていた。必ず僧侶を呼び指示を受けなければ、家族全員がキリシタンの疑いをかけられ、極刑の恐れさえあったのである。

 天保十二年に甲府に出掛けた時、佐野喜からの手紙にもあったが、女犯の坊主がひっくくられたと伝えて来た事があった。吉原で女を買う僧侶も、妻を貰って慎ましく暮らす僧侶も、全てがひっくるめての女犯であった事を、広重は今更の様に気付いたのである。それにしても手紙の中で、了信は娘の「おたつ」の事を案じていた。今思えば忙しさにかまけて、何故に早く会いに行ってやれなかったのか、広重は悔いるばかりであった。
 手紙の中で広重に「おたつ事おひおひ成人定而相たずね申候事と存候八丈着後同島産物織物手に入次第おたつへ相送り申候」と書き認めてあった。更に「頼母敷ものは兄弟と落涙仕候」と書き加えてあったのである。だが、とにかく了信は生きて居た。そして広重は弟了信の娘である「おたつ」の消息を、求めて探したのである。
 その「おたつが」お安に連れられて家に来たのは、了信からの手紙が届いてから五日後の事であった。小石川智香院近くの檀家総代の家に引き取られ、了信から兄が必ず引き取りに来るからと頼まれ、預かっていたと言うのである。「おたつ」の母はおたつが生まれて直ぐに、所謂産後の肥立ちが悪くて亡くなったのだと言うのである。「おたつ」が赤子の頃は近くの子を産んだ女に乳を頼み、半年程そうして育てて貰ったと言うが、確かにいまでも「おたつ」は細く感じる。だが鼻の形が了信に似ていると広重は思った。
 広重は早速、既に八丈に立ったと言う了信に宛てて、詫びと共に「おたつ」のその後の事、更に立派に育てると書き認め手紙を送ったのである。
 
 江戸にも若葉の季節がやって来た。広重にとってのこの一年は、目まぐるしく毎日が過ぎて居た。だがこの季節は広重は好きな季節でもあった。三代目豊国と藤岡屋慶次郎が訪ねて来たのは、新たな家が出来て一年目の、丁度鯉のぼりもやっと降ろされた頃である。しかし広重は毎日が未だ掛け軸の絵に筆を走らせていたさなかの時であった。
「おぅ広重、家を建てやがったな見に来たぜ、しかし広重の所は相変わらず忙しそうだな」
 三代目豊国は同じ歌川派でも十歳の先輩の、役者を描かせれば当代随一と言われた絵師である。
「おや、鎮平もしばらく見ない内にで使くなりやがって」
 今度は版元の藤慶が、名前を変えた重宣に声をかけた。
「丁度一息入れようかと思っていた処ですが、師匠にはご無沙汰を致しております。それに元気そうで何より、まぁ上がって茶でも
 八畳と六畳の襖を外して部屋を広げた為に、仕事が全て丸見えであった。
「師匠、実は挨拶が遅れましたが、この度は弟藤彦の株を買いまして、私も独立致しましたので御挨拶をと」
「それは又ご丁寧に」
「でね、新たな仕事をあんたに頼もうと思って来たんだよ」
 三代目豊国が口を挟んだ。
「三代目が来られたと言う事は、今度も師匠の描いた役者の後ろに、東海道を描けと言う事ですかい?」
「図星だ、良く判ったな。流石は東海道の広重だ。だが今度は東海道じゃねえな」
 豊国は自分から用事を言わず、広重に当てさせたのである。
「忙しいとは言え、三代目の頼みです。聞かない訳は行かないでしょう。でどの位?」
「大判の竪で五十図程だ」
「えっ五十」
「正確には五十と一図、昔あんたが描いただろうよ、あの江戸高名会亭尽つてやつさ、あの役者版とでも言うところかね」
 そりゃあ無理ですよ、と思わず言葉が口の先まで出かかった。
「まぁ、背景は張交の図柄でと考えているんだが、料理屋の名前と役どころがお題となる、その料理屋の風情とか場所、料理なんぞも絵にして貰いたいね」
 張交と聞いて少しはほっとした。伊場仙でも頼まれていたからで、かなりの部分は重宣に任せる事も出来るからであった。
「出すのは何時頃でしょうかね」
 恐る恐る広重はは三代目に尋ねた。
「来年の十月頃と考えているが、全てとは行かないまでも、残りはその翌年の正月にはだしたいな、其れによ。一枚だけ先に出したいもがあってよ、玉屋だよ。それを役者の玉屋新兵衛の舞台に併せるって寸法だ。こいつだけは来年早々にも出したいんでね。理由か?、役者が欲しいんだとよ。ひいき筋へのお返しだとさ」 
「何とか間に合わせましょう。細かい話は後で伺うとして、目の前の仕事もあと双月で終わります。それから追々と言うことになろうかと」
「間に合えば問題はありませんぜ、師匠も他の仕事もあるでしょうが、何とかお願いしますよ」
 藤慶が締めくくる様に広重に伝えたのであった。

 七月の初めであった。やっと天童藩の掛け軸が描き終わり、最後の掛け軸用の絵四十枚が経師屋に渡され、一年と三か月で取り敢えず終わる事となった。この絵が掛け軸となって、天童藩に金を貸した商人や名主、或いは藩士の者達にどの様な名目で渡されるのか、広重には知る由もない事であった。絵に関心がなければ台所の窯で、燃やされる事があるかも知れない。或いは誰かが買いあさって江戸で売られる事があるかも知れなかった。しかし広重は思った。自分がこれまで生きて来たなかで、一体どれだけ納得できる仕事が出来たか、どれだけ夢中になって仕事が出来たか。今それが試されたのだと思う。振り返ってよくやったと自分に言う事が出来る仕事など、そう多くはないと思えるのだ。
「おい、お安、もうすぐ七夕だろう、皆でよ、浅草にでも繰り出さねえか」
 広重は大きな声でお安に言った。弟子達が、一斉に広重の顔を見て居た。
「そうね、おほおずき市が始まるわね、でもみんな行きたいのかしらね」
 お安はまだ若い弟子達の顔を見た。
「行きたいですよ」
「行きますよ」
 重宣が大きな声を上げていた。前の女房だったお芳が死んで、今年で早くも十三回忌であった。一緒にほおずき市に行こうと言ったのだが、結局はその年に亡くなった。広重は独りでその事を思い出していた。お芳の十三回忌の供養をしてやろう。そう思うと、急にぱーと何かやりたい気分になってくる。
「よし、じゃあ明日は休みにしてよ、朝から皆で浅草に繰り出すとするかい」
 大きな声で言ったのであった。
 
 天童藩の仕事が終わったとは言え、佐野喜に話していた富士三十六景の仕事が待っている。大方の元絵は既に描いてあるとは言え、未だ少しは加えてみたい場所もあった。処が広重が、やっと大口の仕事を終えたらしいと言う話が版元の間に広がると、直ぐに顔を出した版元があった。
 村市と言う版元で、名は村田屋市五郎と言う。錦絵の注文であった。村市は三代目豊国の役者絵を多く刊行している版元である。
「役者絵じゃぁ食えなくなりましたよ」
 既に幾度も聞いて居た話ではあったが、広重は敢て相槌を打って聞き流していた。
「処で今まで師匠はどの位の東海道の錦絵をお出しになられたんでしょうかね?」
「確かこの前に、寿鶴堂さんからも同じ様なお話がありましてね。何でもお客さんが、おめえの所には広重の東海道は置いてねえのか、と聞かれたとか」
「いや全く、その寿鶴堂のお気持ち、良く判りますよ、最近は肩身が狭いと申しますか、でうちもそれをお願いしたいと」
「おや、村市さんも東海道ですかい? 有難い事で」
 広重は笑いを抑えながら村市に言った。
「ただ、ま、うちは中判の竪にして頂きたいと、画の中には女など人を入れて頂きたいと思っておりますが。何でも巷では東海道の佐野喜版は狂歌入り、江崎版は行書、丸清さんのとこは隷書と呼ばれているそうで、さしずめ手前どものえは人物入り東海道とでも呼ばれるかもしれませんが」
 どこか、世間に対しての、お付き合いの様な雰囲気の注文であった。
「綴じるとかその様な事は?」
「ありませんよ。とにかく版元としては、あんたの東海道を置かない事には、デカい顔が出来なくなったもんでね、嫌なご時勢だね」
「まったくで」
 広重と版元の村市は、顔を見合わせて笑い出した。

 佐野喜が久しぶりに顔を出したのは、その村田屋市五郎が訪ねて来た六日目の事である。何時もの様に庭先にまわっての訪問であった。
「やっぱりいいねぇ、家と女房は新しいのに限ると言うが、新品の匂いがしているね」
「古くて悪うございますね」
 茶を運びながら言ったのは、お安であった。佐野喜はひょいと頭を下げて、お安には見えない様に舌を出した。少し様子を伺っているのか「おたつ」が、襖の陰からじっと佐野喜の顔を見つめていた。
「可愛いお嬢ちゃんだが、おや、まさか師匠の隠し子じゃないですよね? どこか似てると思いますが・・」
「まさか、私の弟の娘でして、しばらく面倒を見る事になりましてね、しかし似ていると言う台詞は嬉しかった」
「なんだそうですかい、しかし師匠に子供は、全く似合いませんな」
 近頃は佐野喜も、広重には至って親しい言葉をつかうようになっていた。
「口も悪くなったが性格も、負けず劣らずに相変わらず悪いのは直りませんな版元も」
 広重も言い返した。
「処でと、頼んだ仕事の方は如何でしょう」
「やっと手を付け始めたばかりですが、どうも北斎の富嶽の印象が頭から消えなくて困ってますよ」
「ほぅ、だが私ら見る側、創る側から言いますと、北斎の富嶽三十六景は、いわば京の友禅の様なもの。師匠の画は木綿の生地に描かれた藍染の浴衣の画でしょうな、私らの肌に北斎の画が馴染むとは思えません。確かにとびぬけて上手いが、身近なものじゃあありませんよ。噓だと思うなら壁に貼ってごらんなさいな、北斎の画は疲れるから」
 何か凄い事を聞いた様に広重には思えた。
「来年の春頃ってのはどうでしょう」
 話題を急いで変えたのは、茶飲み話でなくなりそうだからであった。
「そうですか、ま、味わいのある画をお願い出来ればと思いますが、それはそれとして、実は新しい注文を持ってきたのですがね」
 気分を変えた様に佐野喜は用件を切り出した。
「新しいと言いますと」
「箱根の湯宿を描いて貰いたいと思ってましてね、箱根七湯の画ですよ、横大判でそれぞれの風情をお願いしたい。ここんとこ旅にでたいと言う人も増え始めましてね。特に温泉へ湯治に出掛けたいと言う人は増えた。まぁそれで、少しは私も便乗しようかと思いましてね」
 面白い話であった。箱根は江戸から最も近い温泉で、随分と昔から湯治湯として賑わっている。下から言えば、湯本、搭ノ沢、宮ノ下、堂ケ島、芦ノ湯、底倉、木賀の七湯である。湯本の上の方の温泉宿は七日が一区切りの湯治と言って、こちらは一夜湯治が出来ないと言う。処が最近では一夜湯治の論争で、小田原宿と湯本の湯屋が客の取り合いで訴え合い、結局は湯本の湯屋が認めて貰ったと言うのである。確かに泊まるなら、いつでも湯に浸かれる宿が良いのは決まっている。

 とは言え小田原も湯本に客を取られてしまえば、宿場としての賑わいも今一になったと言うのである。
「実は、画帳には既に描いて来ておりまして、お安と箱根に出掛けついでに参りましたもので」
「いや、それは助かった。しかしまぁ、急いでとは申しませんが、富士の三十六景の方も併せてお願いしますよ、仲の宜しいようで」
 佐野喜は笑いながら帰って行った。広重は又忙しくなりそうな予感がして、喜んでいいのか悲しんで良いのか判らない複雑な気分になって来る。だが広重は久しぶりに顔を出した佐野喜が、事も無く吐き出した言葉を思い出していた。
 「北斎の富嶽三十六景は、いわば京の友禅でしょう。師匠の画は、木綿に描かれた浴衣の画です・・・」その言葉が深く広重の心に焼き付いていった。
 

 《嘉永五年(1852年)》
 新たな年が明けて、天童藩は何とか持ちこたえた様であった。更に十年後にはどうするのか、藩に貸した御用金は貸した方も、その段階で恐らく取られた事として諦めいたとも思える。しかし貸せる金があるうちはいい、貸せる金も無いと恥じさえ捨てた絵師の様な者だ。
「かくに書けねえ」、独り広重は愚痴の様な洒落をこぼした。それ程この年明けは抱える問題も無く、穏やかな気持ちの中で年を迎えたのであった。
 この嘉永五年は二月に閏の月があり、二月が二度あると言う事になる。暖かくなったら段取りを付けて、もう一度房総あたりに出掛けて見たい、と暦を見ながら広重は思っていた。特に房州も外房と呼ぶ海辺は未だ歩いた事のない場所で、風景も美しく海の幸も美味いと聞いているからであった。

 題も「不二三十六景」と決まり、思った以上に筆が進んでいた。大凡予定の半分二十枚程は、この閏の二月前には下絵が出来上がると思える。残りは年内に仕上げる予定でいたのは、村市の東海道や佐野喜の箱根も手を付けなければならないからである。とは言え、村市の東海道は中判の大きさで、然程時間を取られる事は無い様に思える。それにこの一月「おたつ」をお安の養女に届けを出し、お安は正式に自分の娘が出来た事に上機嫌であった。
 札差の越前屋平兵衛と飲んだ時に房州に行きたい話をすると、取引のある房州小湊近くの知り合いに手紙を書いてやると言われ、閏二月の終い頃に出掛けようと決めたのである。
 その時に広重が書いた旅日記を、そのまま下に記して置く事にする。
 
 嘉永五子年閏二月二十五日、夜四ツ半時(午後十時頃)江戸橋出舟、永代橋に掛かり、是にて風待ち。
 二十六日、朝六ツ(午前七時頃)西北風で乗り出す。追い風止み舟はかどらず。九ツ頃空あしく雨、少々降り来る。舟人騒ぐ。程なく雨止み、風少し出八ツ頃木更津に着く。雨降りだす。昼飯食い鹿野山に赴く。夕刻宿に着く。房総滑谷村の人勘左衛門娘同道合宿す。
  
 翌日(二十七日)雨少々見合い、出立。道悪し、セキと言う所より先、山道殊の外難所。小塚にて昼支度、大日の手前にて勘左衛門に別れて一人になり、大日宿はずれで馬をとり、六ツ頃に日高氏宅に宿。
  
 二十八日、晴天、一日休む

 二十九日、小湊誕生寺参詣、日高宗兵衛同道、行く道何万も絶景なり。しん坂下り道に朝日の御堂として、日蓮上人 日りん来迎を拝し給う旧跡あり、海辺島山の眺望絶景なり。
 「風景は奇々妙法の朝日堂、はるかに祖師の御堂輝く」
 誕生寺堂前の桜の木ぶり、梅に良く似たるを見て、
 「梅の木似たる桜のかたへには鶯に似し法華経の声」
 
 三月朝日、清澄山参詣、おり上案内。余程の高山。風景良し。登り口、一の鳥居、坂道こりより、道程一里登る。清澄寺門前坂道、料理茶屋、多くあり。いずれも田舎めかず、いきなり。山上にて料理屋の画を描く。境内桜多く花盛り。金毘羅山眺望あり。此処にて煙草呑む。しばらく休、升屋と言う茶屋にて支度。このときむこうの茶屋にて当地地頭の家来、お奉行と言う人、名主二人其の外けんもんの人大勢、大しゃれなり。本堂額面古代の画、武者絵の額二つ、其の外、天神記車引きの
絵、おかしな風なり、この辺りの町屋、建具屋多し、亦在家の賎女、頭に物をいただきて商ひ下る者、たえず、老若交わり、・・・・ 
 七ツ半頃、浜萩に戻る。其の夜、餅つきあり、草粟米なり、雛節句のまうけとて、此の地の風なり。

 同二日、昼頃出立。馬にて行く。前原、磯村、浪太、天面、弁天島、しまの仁右衛門、庄大夫崎、江見、和田、此の辺り全て磯部。浪打岩石多く、風景尤も絶妙にして筆尽し難し、和田にて泊り・・・・・・・松田驛、油屋泊。さんげざんげ法師、ほうきうり、相宿。

 同五日、朝、画少々認め、夫り馬にて那古(館山)まで行く。那古より下馬。観世音参詣。山上風景良し。夫より道間違いにて、田舎道一里そん。馬を雇いて行く。木の根坂峠の風景よし。一部の宿昼休み、(木の根峠の画あり)またまた馬にて行く。勝山風景よし。保田羅漢寺参詣。金谷の宿泊。房州の人六人相宿。夜、はからず図面の事あり。大勢色々雑談あり。其の夜雨朝まで降る。

 同六日、雨具なくそのまま出立。天神山一切舟なし。大急い木更津まで来る。一足違いにて舟間に合わず、伊勢久にて昼めし、長須賀屋にて泊。

 同七日、天気中位、画少々認。風あしきとてとめられ、舟にのらず。四そうの舟出帆をみて、おおいに悔やむ。薬師堂山に桜をみにゆくも一向にふさぎ、無処こじつけ。「葉桜や木更津舟ともろともに、乗り遅れてぞ眺めやりけり」「菜の花やけふも上総のそこ一里」
 
 八日の記事なし、其の日は出船して江戸に帰りしなむ。
 
 広重はこの日記からも判る通り、木更津から鹿野山を経て鴨川に行き、紹介してもらった日高宅に泊まり、五日程逗留している。その間誕生寺や清澄山に登るなどして、更に外房の海辺の道を馬に揺られて那古(館山)を経て、保田の羅漢寺を詣で鋸山にも登ったようである。最後に木更津の湊で船に乗り遅れ、迷句を認めているが、この時の旅で写し収めた風景が五月の改印に間に合い、この年の刊行となった「上総鹿楚山鳥居崎」「上総天神山」「上総木更津海上」「安房鋸山」などが、「不二三十六景」の中に見て取れるのである。(又後の安政五年に刊行した山海見立相撲の中に、清住山、安房小湊、上総鹿楚山、上総木更津、に表されて行く)

 房総から帰ってすぐ、版元の若狭興市から「江之嶋弁財天開帳参詣群衆之図」として、大判三枚続きを頼まれ、これも秋には刊行した。ついで芝神明町の版元、越前屋平三郎、略して越平が「六十余州名所図会」を刊行したいと相談に来たのである。この国の風光明媚な場所を六十程選び出し、大判錦絵で刊行したいと言うのであった。南は九州鹿児島から、対馬、更に北は陸奥まで、其々州の一つづつを選び出し連作でと言う。期間は嘉永七年から三年程で、広重もかなりの場所には出かけているが、未だだれも六十余州の画は描いてはいなかった。この話に広重は、自分以外に描ける者がいないと考えて受ける事にした。南は行く事が出来ないまでも、図会を探し出して描きたいと思ったのである。
 この秋には広重の不二三十六景の錦絵が、その全てでは無いにしても売り出され、同じ佐野喜の箱根七湯の画が、更に版元村市からも人物東海道が刊行され、更には東都高名会席尽も、三代目豊国と合筆で順次刊行されてゆくのである。

 
 《嘉永六年(1853年)》
 年明け早々に版元の山田屋庄次郎から、新たな画の注文があった。江戸名所十枚の刊行以来であった。これまで版元の有田屋や山甚などからの注文で描いて居た江戸名所で、庶民の間では人気のある大判錦絵であった。秋には刊行したいと言うので、早速手を付け始めたのである。今年も忙しい年になりそうだと思えた。そしてすぐ、新たな注文が入ったのは、版元伊勢忠、伊勢屋忠介からの依頼であった。大判錦絵の三枚続きで「浅草金龍山奥山花屋敷」を描いて欲しいというものであった。これも年内と言う事で引き受ける事にした。広重にとっては年初めから、注文に追われる日々が続いていた。

 六月三日の事であった、突然に浦賀沖に四隻の船が現れたのである。そのうち一隻からは、もうもうと黒煙を上げて蒸気を吹き上げているのが判った。そういう船が外国にあると聞いた事はあるが、中でももっと驚いたのは、その大砲の音の凄まじさであった。幕府の持つ大砲などおもちゃの様に聞こえたのである。事前に村人には伝えられていたと言うが、空砲だとは言えまさに肝をつぶしたのである。しかも彼らは臨戦態勢で、江戸湾の測量をも始めて居たのであった。
 昨年六月の嘉永五年に阿蘭陀商館長が長崎奉行に宛てて「別段風説書」と言うもを提出していた。内容は、アメリカ政府が日本と国交を持ちたいので、条約締結をもとめる為、ちかじか艦隊を派遣するだろうと言うもであった。更にその場合の阿蘭陀国としての提案は、江戸、京都、大坂、堺などを開港させ駐在する公使をそこに置いたらどうか、と言う案であった。阿蘭陀には独占的な国交や貿易ががあるにも拘わらず、自らの利益を捨ててまでアメリカとの国交を勧める事に、増々幕府は理解に苦しんだのである。
 こうした外交上の手紙も前にロシアや英吉利などの例で、直ぐに帰るとたかをくくっていた幕府は、このペリー提督の率いる艦隊に、慌てて善後策を練り始めるのである。この国が長い眠りをむさぼる中、突然に叩き起こされたと言っても良かった。
 
 江戸の年中行事十二景を入れて、美人を二人程入れた「東都名所年中行事」を描いてくれと行って来たのは、丸屋甚八であった。来年の春には刊行したいと言う。更に越前屋平三郎から頼まれた、六十余州名所図会の下絵が二十枚程出来上がり、漸く改印を貰うまでとなった。刊行は来年遅くには出回らせたいと言うが、未だ先が続きますからと版元から釘を刺されたのである。
 入れ替わる様に丸屋久四郎から、東海道五十三次を三代目豊国と合筆で、刊行したいがどうかと聞きに来た。東都高名会席尽が好評だったらしく、それなら今一度広重と手を組んで、東海道をとなったらしい。題は豊国と広重を筆に置き換え「双筆東海道」としたのである。竪大判の半分の上に、広重の風景を描いて豊国に渡すと言う。豊国はその手前に得意の役者絵を描き、広重は背景を東海道で描くというものである。日本橋から十枚づつ刊行し、七月、八月に其々十枚、十二月に十枚、翌年四月に十枚、そして八月に残りと言うのであった。それならと広重は受ける事にしたのである。

 この嘉永六癸丑年十月六日、伊豆新島からの手紙で了信が、病気によって死んだ事が広重に知らされた。唯一の弟であったが、その娘の「おたつ」は八歳を迎えていた。父親の了信は死んだと言うが、広重には娘のおたつの中に、弟が生きていると思える。命はそうして親から子へと繋がって行くものだと思っていた。しかし広重はそれから二日程、食事すら喉を通る事も無く、筆さえ持つ気力をも失っていたのであった。
 子供の時から広重は、何時もそうでは無かったかと思う時があった。大きな荷物を担がされた時、ただ何も考えずに必死で目の前の、自らが為すべき事に立ち向かい、悲しみも辛さも乗り越えて来た様に思った。今、弟の死に直面して、やはり子供の時と同じように、目の前の仕事を淡々とこなして乗り越えて行く自分が見えた。この世に自分達兄弟の、父や母の血を受け継いでいる「おたつ」を守る為であった。

 
 《嘉永七年(1854年)》
 世の中が、少しずつ騒がしい方向へと向かっていた。一月十六日、アメリカの提督ペリーが、今度は七隻の軍艦を引き連れて再び江戸湾に入ろうとしていた。前年に投げかけられた通商条約の締結の、返事を求めに来たのである。幕府は慌てて江戸湾に黒船を入れる事を拒み、横浜で交渉する事となったのである。この時にアメリカ合衆国のフィルモア大統領から将軍家定に対する国書は、この様な内容のものであった。

「与が志、この国の民をして交易をおこなわんと欲す。是は日本国の利益となしまた合衆国の利益とみなさんが事を欲してなり。与さらにペルリ総督に命じて一件の事を殿下に告明せしむ。合衆国船毎年角里伏弥尼亜(カルフォルニア)より支那に舶するもの甚だ多し。又、鯨猟の為、合衆国人日本海岸に近づく者少なからず、而して若し台風ある時は、帰国の近隣に往々難破に逢う事あり、もし是等の難に遭う方っては、貴国に於いてこの難民を撫恤し、其の財物を保護し以て本国より一舶を送り、救い取るを侍んこと是与が切に願う処なり。
 日本国に石炭甚だ多く、又食料多き事は与が会えて知れる処なり。我が国用ふる処の蒸気船は其大洋を航するに当て石炭を費やすこと甚だ多し、而してその不便知るべし、是以て与願わくば我が国の蒸気船及び其の他の諸舶石炭、食糧、水を得んが為に日本に入る事を許されんことを請う」

 幕府は難破船の救助は認めるが、通商は拒否し条約内に領事派遣の項目を入れる事で、再交渉の余地を残し、三月三日、日米親和条約が調印されたのである。
 既に将軍家慶は嘉永六年六月二十一日に病で死亡して、新たに家定が将軍職についていた。とは云え家定は幼い頃より病弱であり、乳母にしか自分の心を開く事はしなかった。この為に幕府の実権は、全て老中の阿部正弘が握っていたのである。
 この出来事は二百五十年も続いた深い眠りから、否応なく叩き起こされた時代の怒りでもあった。だか一方では他国に殆ど影響されない独自の文化が花開き、西洋の進んだ学問や文化に驚いた日本人と同じように、この国の独自の文化、わけても絵画の分野は西洋の絵画に、大きく影響を与える事となるのである。

 年明けの二月、かつて版元の蔦屋から刊行した東海道が、この年で摺るのを終えると言う事を知らされた。買う人が少なくなれば、新たに版を起こすのは採算が合わない事で仕方のない事であった。処が今度は再度五十三次名所図会を、今度は大判竪の錦絵で五十五図程描いて欲しいと行って来たのである。そして今回は俯瞰図を多用して欲しいと言う要望であった。明年後には刊行したい言う話に、広重は何故か心から嬉しいと思えた。そう思うと良い画を描きたいと言う思いが、無性に湧いて来るのである。
 この思いは独り孤高に上り詰めた北斎とは違う様に思えた。良い画を描きたいと思わせてくれる誰かが、何かが広重には何時もある様に思えたのである。

 しかし世の中は更に騒がしい方向へと向かっていた。
 この年も残り僅かになった十一月、まるで本当にこの国の全ての民を眠りから起こした様な地震が起き、時と共に被害の広がりを見せていた。地震の発生は嘉永七甲寅年十一月四日、辰刻五ツ(午前八時頃)である。被害は関東から近畿に及び、特に沼津から伊勢湾岸沿い、更に山間地の甲府盆地も甚大な被害を受けたのである。
甲府から駿河に流れる富士川の両岸の山が崩れて、水はせき止められ更にそれらが決壊すると、一気に下流へと土砂は流れ出した。
 三島宿では宿場内の家は一軒も残らず潰れ、町中は火事によって一町余りが焼失した。更に別の場所では水が噴出する処もあり、潰れた家は多数に上り沼津城も大破損を受けたこの時の沼津藩士たちの話によると、揺れはじめは其れほど強くはなく、煙草を四五服は据える程の時間があったと言うのである。やがて激震となり、地面に腹ばいになっても、振り払われる様な程の揺れだったと言う。

 掛川城では天守閣が倒壊し、浜名湖の新居関では番所が倒壊し、土蔵も大破し地面に亀裂が生じて、泥水が噴出したと言うのであった。津波は房総半島から土佐沖まで広がり、紀伊半島の鳥羽で二丈(六メートル)もあり、中でも志摩半島の国崎では七丈五尺(二十二メートル)に達したと言うのである。
 それから一日半程の時間が過ぎた時、今度は紀伊半島から四国一帯にかけて、新たな地震が発生した。特に津波は大坂湾の安治川や木津川の河口に押し寄せ、留めてあった多くの舟が高さ二丈ほどの津波にのまれ、岸に打ち上げられるなどの被害を出したのである。更にこの地震は十一月七日に豊後海峡にも発生して、これらの
期間に発生した地震での死者は五千人と言われている。尤もこの地震の起きる十一カ月前には、飛騨地震が起きているのだから、何処で地震が起きてもおかしくはない時代を迎えてはいる様なのである。
 幕府は又も天変地異を理由に、この十一月より年号を安政と改めたのである。


 《安政二年(1855年)》
 僅かひと月余りの安政元年が過ぎて安政二年を迎えたが、蔦屋からの注文である「五十三次名所図会」に、この年の七月まで広重はかかりつきりとなっていた。この年に広重が注文を受けたのは、丸屋甚八からの団扇画程度のものだったからである。それは前年の地震が大きな影響を及ぼしている事は、殆ど間違えない程に確かな事であった。
 処が五十三次名所図会が目鼻の付き掛けた五月、次は富士三十六景を描いてくれと蔦屋から言って来た。佐野喜の不二三十六景が終えたばかりであったが、暇で仕事の少ない事と、新たな気持ちで富士のお山を描きたいと言う、名残の様な気持ちがあったからである。安政五年の春には刊行したいと言うので、これも受ける事にした。
 しかし秋も寒さがきつくなった十月二日の夜四ツ半頃(午後十時頃)、今度は江戸の真下で地震が発生したのである。中でも台地であった青山や麻布などは軽かったが、埋め立て地でもある下谷や浅草、更に深川から本所一帯は強く揺れ、浅草浅草寺の五重搭の屋根に突き出た九輪の搭は西に傾き、新吉原で亡くなった者は千人を越えたと言うのである。そして地震と同時に発生した火事は、三十カ所で火の手が上がったと言われていたが、幸いな事に風も弱く広く延焼したと言う話は聞く事は無かった。
 だが地震による火事で焼け死んだ者は七千人程に上ったと言われ、幕府は江戸の市中五カ所にお救い小屋を建てたが、火事は翌日朝までに全て鎮火したと言う。

 蔦屋からの注文で描いていた「五十三次名所図会」は、この年の七月に最後の八枚を仕上げて渡していた。その内の二枚は八月の改印であった。この事から察するに、何らかの問題が起きて、二枚のみ改印がひと月遅れたのは確かである。しかし、その双月後に起きた江戸の地震は、全ての予定が未定になってしまったのである。広重も仕事処では無くなった。家は火事で焼ける事はなかったものの、建物に蒙った地震の被害は大きかった。屋根の物干し台が滑り落ちて、瓦がだいぶ割れてしまった。台所の水瓶が割れて床が水浸しとなり、作業場の棚にあった絵皿は割れて、書架は崩れ倒れ、襖は外れて倒れた上に逃げる為にその上を走ったから、手の付けられない状況となっていたのである。
 しかし幸いにも家が新しかった為か、梁もしつかりとしていた為に、建て直す程の大きな事態になる事はなかった。建てた時の残り瓦を集め、屋根に登っての修理を重宣と寅太郎が受け持ち、雨漏りを防ぐ為や家の中の整理と修理に、ひと月近くの時間を掛ける事になったのであった。

 地震の後始末の慌ただしさの中で、地震から双月程が過ぎた日であった。三代目豊国の紹介状を手に、未だ広重よりも二十歳程も若いとと思われる男が訪ねて来たのである。小田屋と言う屋号を持つ地本双紙問屋で、若い版元であった。未だ駆け出しの版元だと言うが、とにかく良い彫師摺師を束ねているし、何か面白い考えを持っている様だから、話を聞いてやってくれと紹介状には書いてあったのである。
「三代目がめっぽう褒めていますね。腕の良い職人さんを束ねておいでとか・・」
「版元としては当然の事で、なんせそれが版元の財産と言えるものですからね」
 広重は黙って頷いて聞いていた。
「名は魚栄さんと書いてあるが、元々は坂名屋と言う屋号ですかね、珍しい名前だが」
「へい、魚屋栄吉と申します。元々は浦安で親父がその名で魚屋をやっておりまして、魚屋の子は魚屋の道しかないのかと考えておりましたが、日本橋の魚河岸に魚を運んでおります時に知り合いの者から、お前なら絵双紙屋に向いていると言われましてね、その絵双紙問屋として独り立ちしたばかりでして御座います」
「しかしそれにしては、腕のいい彫師や摺師を抱えていると云うじゃないですか?」
何か広重には判らない物を持っている様にも思えた。
「へい、まずはその道で商売を始めるなら、一番大事な腕の良い職人さんを探しまして、仲良くなる事から始めました。普通、画を描いたり本を出される師匠たちは、腕の良い版元に頼みたいのが道理だと思いまして。
それに今までは版元から仕事を貰う師匠も多ございますが、これからは絵師や作家の方が版元を選ぶ時代に変わるでしょう。私はその様に思っていますし、とにかく良い職人を揃える事は版元として当然の事と思っております。それがために職人さん達には、他より少しでも高い手間賃を出そうとやっております」
 広重は話を聞いていて、随分と理に適った事を言う男だと思った。
「成る程ね、で今日はどの様な話で?」
「ありがとうございます。まずは広重師匠に大判錦画を、百枚程描いて貰います」
 予想もしない突然の話であった。
「百枚とはまた大変な数ですが、でどの様な画をお望みで?」
「地震の後の、江戸の名所でございます」
 今度も広重の予想した場所とは全くかけ離れていた。何故また地震の後の江戸の名所を描けと言うのか、その真意を広重は秤りかねていた。
「地震の後の名所ですか、はて、詳しくお伺いしないとなりませんな」
「お話しましょう。実は地震の後に売れる画は、鯰画でございます。面白いもので地震は地中の中の鯰が起こすと、昔から言われておりまして、まぁ、まじない程度の軽い気持ちではありますが、此れが馬鹿にはできませんで、何と何万枚もの鯰画が売れているのでございます。しかも鯰画を貼ると地震の禍から逃れられると、しかしそうであるなら、地震の後の江戸の事を少しでも知りたいと思うのも、人の情けだと思うのです。それが証拠に地震の後は、瓦版は飛ぶように売れております。そこで地震の後に江戸で起きた新たな出来事を伏せつつも、江戸の名所を描いて頂きたいと考えた次第で・・・・」

 何となくではあるにしても、広重にも判る様な気がするのである。
「成る程、面白いお話だが、しかしもう少し具体的に話して戴けないかと思うのですがね」
「判りました。ではまず浅草寺の五重の搭を、雷門から描いてもらいますか。今、江戸も雷門あたりでは、気の利いた小噺を聞く事が出来ます。雷門に安置されている木彫りの雷神と風神が、地震の揺れの激しさに勝てず、雷門が倒壊したはずみで外に放り出されてしまった様で、後で門を造り直しました時に、風神は何とか元の場所に戻す事が出来たのですが、雷神の方はテコでも動きません。困っておりました時に老婆がやって参りまして「私が起こしてやる」と言うではありませんか。誰もが馬鹿にして相手にしません。ところがその老婆が雷神の肩に手を掛けますと、雷神はむっくと起き上がりまして、寺社奉行所のお役人が、あの者はどこの者だと尋ねますと、傍にいた者が答えたのは、あの婆さんは雷門の隣にある常盤堂の主人だというのです。常盤堂は昔からその場所で、「雷起こし」を営む店でございます。とまぁ、どおりでと言う事になりました次第で。へい」

 広重は魚栄の話に、思わず引き込まれて笑い出していた。魚栄は未だ話を続けた。
「この様な話がネタ元ではございますが、描き方は師匠の意のままに、ですが何を描くかはこちらで決めさせて頂きましょう。五重の搭の九輪はあの地震で未だ西に傾いたままで、師匠の描く画は無論ですが真っ直ぐに直っております。「ほれ、金龍山浅草寺の五重の搭も、これこの通り直りましたよ」と江戸市中の方々に伝える為で御座います。
 更にこの十一月の末に内藤新宿で起きた、桜樹の一件を画にしましょう。特にこの際は桜と言わず花とお題はつけましょう。玉川上水で起きたこの話、つまり江戸の花見と云えば上野か浅草、はたまた隅田川と相場は決まっております。師匠は良く小金井堤の桜を描いておいでですが、こちらは玉川堤つまり内藤新宿の裏手を流れる川で、内藤新宿の内側にある大木戸の水番屋から、四谷門外の間は地中に潜り、石樋で通水されている上水で御座います。

 内藤新宿の宿主たちはかつて小金井の堤に桜を植えて、水の浄化に役立てた故事にならって思いついた訳ですが、併せて内藤新宿でも桜の名所を作ろうではないかと、宿場名主や宿の主人達が集まって知恵を絞り、代官や勘定奉行の許可を得たまでは良かったのですが、ついつい桜の苗木を三町の間に七十五本、しかも丁寧に端には苗木では無く大木を植えてしまいまして、その上「御用木切るべからず」と立札を立てたが為に、御林奉行から杉の苗木を植えるはずが、上水端には桜の大木を植え、しかも御用の立札を立てたと怒り出したのが事の始まり。
 騒ぎを聞きつけたのが老中阿部伊勢守正弘様は、鷹狩と称してやってきましてこれを認め、即刻に撤去を命じたお話でございます。内藤新宿の方々は、せっかく植えた桜木を又引き抜くなんて、と不満たらたらとなったそうで。この後の事を師匠の錦絵で伝えて頂けないかと、つまり単にこれまでの名所を描くのではなく、師匠が名所を作ると言う見方で描く事が出来れば、画はこれまでとは異なる意味を持つのではないかと思うのです」

 一気に話した魚栄は、冷たくなった目の前の茶に手をやった。
「なるほど、見た目は何の変哲もない画ではあるにしても、その裏に読み取る意味が隠されているとすれば、謎解きにもなると言う事か」
「左様でございます。そうすれば画は売れる。売れるべくして売れるのです」
「判った。描きましょう。竪大判百枚。それも名所の江戸百景程、描きましょう」
「画は出来た順から改印を頂き、五枚程を双月に一度は刊行したいと思っています。まずは芝浦の風景としましょう。将軍様が御成りすると言う浜御殿を入れて、その場所が江戸の海辺である事を示す為、画に都鳥を飛ばして下さい。更に浅瀬である事を示す為に、澪を描いて貰います。浜御殿も一部が壊れたと聞いておりますが、師匠の画では元通り。先ほどの玉川堤の桜もお願いしますが「玉川堤の桜」と最後を桜にすると問題でしょうから、そこは必ず花と入れて下さい。千足の池も千住大はしも最初に出しましょう。全てが謎でなく何気ない風景の中に謎がある。謎とはその様な物でなければ謎ではなくなりましょう。それに、堀江猫実も入れましょう。師匠にとっては芝浦以外、初めての場所かと思いますが、何を隠そう私の生まれた処でして、私の故郷を名所にしたいのですよ。江戸から見れば北に千住大はし、西は玉川堤、東が堀江猫実、そして南が千束の池、真ん中に浜御殿とくりゃ、刊行に方位の印も入れて見た次第です」

 まるで初めて出会った異質の相手であった。新しい話をどこで仕込んでくるのか、しかも広重が受けてくれると計算でもしたかのように、既に予め描く場所も読んでいた。
「年明けにの一月半ば過ぎには描いた下絵を届けますが、その辺りからで宜しいでしょうか?」
 広重は魚栄に声をかけた。其の一月半ばすぎまで、あとひと月余りしかなかった。だが広重は、まるでこの若い版元の魚栄に突き動かされるかの様に、この仕事が面白くなって来た事を感じ始めていた。
「結構でございます。その次の画はその時に又打ち合わせをするって事で進めましょう」
 そう言って魚栄は立ち上がった。


 《安政三年(1856年)》
 昨年安政二年の暮れも押し迫った頃、四谷にある版元の濃州屋から、地元での事件となった「玉川堤の桜」を描いて欲しいと言う話があった。大判の竪絵三枚続きで、事件を忘れない為に、何とか絵図で残して置きたいという。その絵の下絵が出来上がり、改印を貰ったのがこの二月で、明らかに魚栄の差し金だと広重には思えた。しかしそうした庶民の抵抗を他所に、幕府がこの桜の苗木を引き抜いていったのは、この安政三年の二月も半ばの事であった。
 
 魚栄の店は下谷広小路で、上野寛永寺の入口にあった。あの地震で上野新黒門町から松坂屋あたりまでが、手の付けられない程の火の海になったと聞いた広重は、既に火事場の片づけも終わり、普請の始まった松坂屋の店の前を横目に見て魚栄の店を訪ねた。松坂屋も名古屋の本店から先代に来てもらい、店の再建を始めたと聞いたからである。その広重が六枚の下絵を描き終えて、魚栄の前に広げて見せていた。浅草金龍山と千住おおはし、千束の池袈裟懸松、芝うらの風景 玉川の花 そして堀江ねこざであった。特に浅草金龍山の雷門から見た浅草寺五重塔は、搭の上に立つ九輪が真っ直ぐに描かれ、それは雪景色に描いてあった。色を入れれば赤い雷門と白い雪が、目出度さを更に引き出せるように計算したのである。
 魚栄は食い入る様に見つめていた。
「流石ですね師匠の画は、雷門は見事です。ご丁寧に雪を空摺りにしろと、色を入れる前に雪の部分だけを版木で押し当て、へこまして立体感を出したいのでしょうが、しかしこの画を出すのは夏の方がいいでしょうね。冬の寒い時期に雪景色を見ても、客は然程喜ばないと思いますから」

 広重は魚栄の、したたかさを見た様な思いがした。それまでの常識が魚栄の前に出ると、全く用を為さないのであった。
「画は問題ありません、私が考えた以上の出来なので、正直言って安心しました。それと次の五枚の事ですが、赤坂桐畑、それに井之頭の池弁天の社、それから王子滝野川と品川御殿山、そして上の清水堂不忍の池をお願いします。謎ですか? 一つだけ、お話しましょう。師匠は御殿山は最近、行かれてますかね? 出来れば行かずに今まで通りの御殿山を描いて頂きたいのですが、それではこの画の意味が無くなります。今、台場を埋め立てる為に御殿山は崩されていますぜ。それはもう昔の面影もありませんよ。桜の名所も名ばかりです。あの黒船が来てからの事ですが、どうぞここだけは足を運んで描いてやってください。後は師匠も考えて頂ければと思いますが、師匠にも描く事を楽しんで欲しいんですよ」
 広重はドキッとした。魚栄の最後の一言であった。画を楽しんで描いてくれとは、忘れて居た様な言葉であった。この時に帰りがけに思い出した様に、師匠の近江八景もうちの方でも出したいのでと、新たな注文を貰ったのである。「私の所は保永堂さんが出した物と違い、色にめりはりを付けて欲しい」と言うものであった。
 
 更に三月には、新進の版元である岡沢屋から大判竪の三枚続きで、雪月花を描いて貰いたいと注文があった。広重は考えた挙句、雪の木曽路を俯瞰で描き、月は金沢八景を、そして花は鳴門の渦潮を描く事にして引き受けたのである。雪を「木曽路之山川」として雪が降り積もった木曾山中の、静けさを描きたいと思った。更に月は「武陽金澤八勝夜景」とし、金沢八景の中の瀬戸の夜景で詩情を引き立て、そして花を敢て渦潮で現して描こうと思っていた。刊行は四年の春と言う。年内に下絵を描ければ間に合うはずであった。

 五月に広重は、十七歳以上も年上の通称本田甚五郎が書いた、「狂歌江都名所図会」全八編の挿絵を描きこれが刊行した。住まいが近所であったと言う事もあるが、偶々この天明老人と呼ぶ狂歌指南所が火事に遭い、広重の家に寝泊りさせた事からの繋がりであった。
 そして五月の末には金龍山浅草寺の、五重塔の九輪が直されたのである。魚栄が改印を貰ったのは七月であった。 
 八月の十日であった。昼間は残暑で外に出るのも億劫な程で、暑さも直ぐには納まらない昼さがりであった。下谷広小路の魚栄の店の奥で、月初めに改印を貰って彫千で起こした校正摺りの下絵に向かい、広重と魚栄の色さしが始まっていた。何処に何色を入れるのか、色の指定である。
「それにしても深川木場の雪景色は、私にとっては嬉しいですよ。傘に書かれた魚の文字は、まさに有難いの一言に尽きます。うちの彫千も恐らくは、これこそ腕の見せ所って所なのでしょうが、摺師の方は気がぬけねえって、まずはぼやくでしょうね。一枚にこれだけの種類のぼかしだ、求められたのも初めてでしょうよ」

 「深川木場」と題した画の斜めに立てかけた柱は、「板ぼかし」と言う難しいぼかしである。その川の中央には「刷毛ぼかし」であった。ベロ藍を使う事を見越した広重が、幾つものぼかしで描いてみたかった一枚であった。
「しかし、師匠。空の真ん中辺りが「あて名ぼかし」で、一番上が「天ぼかし」でしょう? これ一枚が、ぼかしの見本みたいな画ですぜ師匠」
 今度は魚栄が、目を皿にして隣の一枚の校正摺りを見つめていた。大きく頷くと、広重を置いて出て行ったのである。利根川で船から投網を投げる情景を描いた物だが、題はその網の向こうに連なっている「利根川ばらばら松」であった。画は網を投げた向こうの風景まで繋がる為、細い線が必要になってくる。その事で魚栄は彫千に出掛けたのである。魚栄は帰って来るなり、広重にこう言い出した。
「彫千も言ってましたがね、これまで網を彫った事は何度もあるが、網の向こうの風景まで彫ったのは今度が初めてだと驚いていましたよ。しかし師匠の描いた名所の画も、初めの頃に描いて居た画と、最近は全く違って来た様に思いますがね。何か風情の描き方に、奥行が強くなったて来た様に思いますよ」
「私もそのつもりで描いていますよ。あんたも謎解きだっていったでしょう? この「名所江戸八景」は一目見て貰えりゃ判りますが、まるで謎だらけの画に見えるはずです。描き方も前景を殊更大きくしましたし、奥行きとの距離を持たせる事で、私の伝えたい事がはっきりと届くと思いますよ」

 処で魚栄の言う謎解きの幾つかを、ここで紹介したいと思う。五月十五日は地震後に初めて行われた森田座の初芝居である。ところが広重の画「猿わか町夜の景」では改印が九月になっている。この八月十日から半月後の八月二十五日に、江戸は嵐に襲われ築地本願寺の本堂が倒壊するなど、大きな被害が出たのである。
 八月のこの嵐で壊れたのは、何も芝居小屋だけでは無かった。建物の被害は町屋だけでも潰れた家は三千棟に上り、半壊が千三百棟で所帯数なら二千四百を上回っている。海沿い高輪牛町辺りは高潮の影響で、五尺程も水が押し寄せ町は洪水となったのである。

 更にこの時、永代橋の中央に船がぶつかったとかで、橋の中央が倒壊した。この嵐の後に森田座は芝居を休止し、十月からの興行となったのである。それ故に五月十五日の初芝居を重ね合せて、九月の改印は森田座の興行を知らせる為、魚栄は事前に描くよう広重に頼んだのである。それ故に満月は五月十五日初芝居の、暗示の意味が込められているのある。この嵐の影響なのか、猿若町の改印を貰って以降の十月から十二月まで、魚栄はこの名所江戸百の改印を貰わず、やっと翌年の一月に五枚を貰う事となるのである。
 もう一つ、九月に下谷広小路の呉服商松坂屋を描いている。地震からの火事で松坂屋のあった広小路一帯が焼け出され、松坂屋は店の再建に一万五千両もの金をつぎ込んだのである。新装開店の引き札(チラシ)を五万五千枚も作った事からも、その意気込みを伺う事ができるのである。魚栄もこの新装開店には一役買った様で、「下谷広小路」として広重に、敢て大きく松阪屋を描かせたのである。尤も商売仇でもある日本橋駿河町の、越後屋への配慮もしっかりとしているのは魚栄らしく、どちらも同じ月の刊行であった。

 この年の秋、広重は敢て六十の還暦を迎え、以前から考えて居た剃髪を行う事にしたのである。名前を変える程度の気分転換では無く、更に良い仕事をこなして行く覚悟であった。その手始めが雪月花であった。構想には時間を掛けたが、三枚続の下絵を仕上げたのはこの年の暮れであった。極力風情の中に人物を入れず、静寂さを基調に、どっしりとした構図で雪山と川を描いた木曾の山川、煌々と照る満月の明るさの中に、真昼の様に広がる視界を俯瞰で生かし、情緒を描きこんでいる金沢八勝夜景。更に阿波の鳴門は、春の陽ざしを浴びた渦を花に見立てて描いたのである。


 《安政四年(1857年)》
 一月の改印を月初めに貰えれば、五枚程度ならその月の末に刊行するのが魚栄である。二月は秋の遅れを取り戻す様に、十四枚もの名所江戸百景を刊行した。そして二月に来年の夏には刊行したいと訪ねて来たのは、版元の山庄であった。注文は湊を描いて欲しいと言うのである。
 この「山海見立相撲」と題した画は、以前に「東都名所坂づくし」を刊行した山田屋庄次郎からの話であった。これも取りあえず八枚程を明年の九月頃には刊行させたいと言う。前回同様に何処まで広がるのは分からない。しかし断る理由は何も無かったのである。だがこの山海見立相撲もあちらこちの湊を描くもので、丸屋清次郎から刊行した「日本湊尽くし」の延長であった。名所江戸百景を持ち込んだ魚栄の様に、目標を見定めた目論見を持って来る様な版元は少ないと思えた。

 名所江戸百景の四月に改印を受けたのは、三月の分と併せて十枚の錦絵であった。そして閏五月に改印を貰った名所江戸百景を広重は、思いっきり画風を揃えて見せたのであった。
「水道橋駿河台」は鯉のぼりを画面いっぱいに描き、黒い錦鯉の鱗には雲母の粉を絵の具に入れた。その向こうは駿河台の武家屋敷である。
「深川洲崎十万坪」は鷲を大きく描いて空に飛ばせ、俯瞰で遠くの筑波山を描いてみた。深川は江戸開府の頃に、摂津国(大坂)から来てここに住み着いた深川八郎右左衛門なる男に、家康がこの地を開拓すればお前の名を付けると言った事で、この場所が深川になったと言う。しかし水利が悪く水田に向く事も無く、故に江戸で発生した火事などの塵芥を埋め立てた場所である。
「両国回向院元柳橋」も又、相撲櫓を大きく左に描いた。江戸の大火事で有名な明暦三年一月の大火事は、江戸城外堀の外側の殆ど家を消失した。隅田川に架かる橋が千住大橋しか無かった為、逃げ場を失った者の焼死者の数は三万から十万人とも言われている。その為に幕府は二度と起こさない為に橋を架けたのが両国橋で、回向院は橋の東側に無縁仏の供養の為に建てられたのである。その無縁仏供養の寄付を集める為、勧進相撲が毎年春と秋の二回開かれたのが、両国相撲の始まりである。
「堀切の花菖蒲」も花を手前一杯に描き、遠景に菖蒲池を配した。綾瀬川の南東にある堀切村で、百姓の伊右エ門と言う男が全国から菖蒲を集め、その栽培と花の改良や繁殖に力を注いだ為に、江戸でも知られる様になった名所である。
「箕輪金杉三河しま」は、画の上に鶴を大きく舞わせた図である。将軍家の御鷹場としても知られたここは、周囲を竹矢来で囲まれ鶴の餌附け場が設けられていた程である。無論鶴を捕える放鷹(ほうよう)の為で、湿地の多いこの場所は冬の渡り鳥の休息地でもあった。
 この五枚のそれぞれは、手前の前景と背景を極端に描いたものである。この辺りの七月から八月頃にかけて広重の名所江戸百景は、それまでの錦絵と比べて、それがより明確となって行くのである。

 
 《安政五年(1858年)》
 この二月に又日本橋から佃島あたりまで江戸の町が焼けるー火事が起きた。お安の住んでいた神田紺屋町の長屋も焼け、老いた母親も行方知れずとなったのである。既に七十近い年齢ではあったが、娘のお安と一緒に住む事を嫌がっていた。二日程捜し歩いたお安の顔には、既に諦めた悲しさだけが漂っていたのである。無縁仏として埋葬されたのであろうが、火事で死ぬと遺体で誰かを判別する事は出来ない相談であった。三月に近くの寺で葬式の真似をして、一つの区切りにしたのである。
 五月には三代目の豊国が、広重の名所江戸百景を追いかける様に、今度は「江戸名所百人美女」を刊行した。かつて保永堂の東海道五十三次を刊行した後で、広重の東海道を背景に、美人画を描いて刊行した事もあった。後で広重の画を使ったと名を落して、慌てて四日市以西の背景を広重の画を外して自ら描いた様であった。
それが絵師三代目豊国の意志では無いにしても、版元の思惑は柳の下を狙っていたのである。
 七月には既に名所江戸百景も、刊行して二年余りを過ぎ百枚を越えていた。広重は名所江戸百景に余興の見出しを付けた二点「芝神明増上寺」と「鉄砲洲築地門跡」を描いて送り出した。ひと月前の六月には、横浜や函館、更に長崎までもが開港して、外国の船が入港する時代を迎えていた。そして海の上を異国の黒船が黒い煙を吐いて、走る様に進む様は、ありとあらゆるものの仕組みが、塗り替えられて行くのかもしれないと広重には思えた。
「名所は私たちが創るのですよ」と言った魚屋栄吉の声が、何時までも広重の頭の奥に響いていた。

 二カ月後の安政五年(1858年)九月六日、や安やお辰、更に弟子達に見守られて没したのである。病死であった。六十二歳であった。 
       
                                                                       (了)       



 


 
 




 



  



 


  
 

 


 



 


 
 




 



 


 





 



 
 
 

                                                   



 

 



 

 



 
 




 
 

 



 
 
 




 




 



 

 
 
 
 


  
 






 
 




 

 
 


 
 

 
 
 
 


  

 
 

 





 

 
 




 
 

広重、海道を往く 《下》 歌川広重伝

広重、海道を往く 《下》 歌川広重伝

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted