偽物師 駒寅

偽物師 駒寅

     『偽物師 駒寅』 ~象山偽筆大家駒寅の一生~    塚原健ニ郎 著    (現代語訳  梅原 逞)
         
     前書き
                     
 去る年の秋、十四年ぶりで帰国したカナダの地方都市に病院を経営する、従弟の家族を横浜の湊に見送った事があった。僕が彼等の泊まっている本町通りのホテルに、僅かな土産物を携えて訪ねた時は、既に大方のトランクは船に積まれた後で、細君は身の回りの物を鞄の中へ詰めていた。その時に僕は、船室に持ち込むつもりで残しておいた片隅の手荷物の中に、三尺程の四角な箱を見つけて、これは何かと尋ねてみた。彼女は、これは同郷の先輩が、学生時代に従兄が師事した刀圭界(医師会)の大家、A博士から贈られた郷里の絵師、児玉果亭の大幅であることを説明した。
 A博士と言えば医学者としてあるばかりでなく、古今の書画の愛蔵家として、又象山の鑑定家として当代比肩するものなしと言われている。往年博士か桑港博覧会(一九三九年のサンフランシスコ万博)に北斎の獅子の図(日新除魔図)を二万円の保険を付けて出品したことは、寡聞な僕でさえ知っていることだから、斯界では余りにも聞き飽きた逸話であろう。
 このA博士が遥々海を越えて帰る愛弟子の、細君へのはなむけに選んだ品物である。無論悪かろう筈はあるまい。僕はそう思うと柄にも無く、好古癖を出してその幅物を広げた。白い桐の箱に墨黒々と、児玉果亭作十六羅漢と記されている。そして内側に博士の署名捺印のあるのを見ると、これが所謂箱書きなるものであろう。
 浮織のある青磁色の表装、白い角軸、さらさらと拡げると尺八の絹地に、グロテスクな十六個の坊主頭が丹念に描かれている。そしてよく見るとその一つひとつは、みな異色のある一癖ありげな顔をしている。フリエチエはその芸術社会学に於いて、いかなる芸術家と雖も、ブルジョア階級の必要に応じて、のみを握り絵筆を執らされる一個の職人に過ぎない事を看破している。
 この羅漢の画も勿論最初は支配階級が、彼等が必要に応じて描かせたものに違いないのだが、今そんな難しい理屈を抜きにして、眺めていると永い苦行の為に、骨だらけに痩せさらばえたこの十六個の人間は、確かに生きている。生きて訴えている。
 三千年前の昔、印度で救世の道を発見しようとした先哲の心霊が、即々と迫って来る。僕は感歎してこの稀代の傑作が、ドルの国アメリカで永く東洋芸術の花として輝き匂うだろうと思った。やがて解纜(かいらん)の時間がきて、この桐箱を唯一の貴重なものであるかの様に、いそいそと船室の中に持ち込んだ細君の姿は、今も僕の目に残っている。しばらくして僕は郷里に帰省した際、書盡を商う親戚の某を訪問中、たまたま話題が此の果亭の絵の事に移った。すると某は話の半ばに、ずるそうな微笑を浮かべた。そして
「君は、あれは本当に果亭の眞蹟だと思うかい」
と言うのだ。僕は言葉も無く相手の顔を見つめた。と云うのは、正直に言うと僕は日本画が分らない。その上、果亭なる画家に対する知識も極めて覚束(おぼつか)ない。まして見たのは後にも先にも例の羅漢の図がはじめてなのだ。真偽のわかる筈がない。だが自分の直感を信ずるなら、彼の羅漢の図は断じて名も無き絵師の筆になったものではあるまい。
「そうだと思うが、どうして?」
「ところが実を言うと、あれは偽物さぁ、しかも僕がA博士に五拾円で売り込んだから、間違いない話だ。博士の鑑定眼も怪しいものだね」
「じゃあ、誰が書いたんだね、実に良く描けていたと思うがね」
「駒寅さ」
駒寅!僕はこの書画屋の口から、半ばの軽蔑を以って無造作に吐き出された初めて聞く画家の名に、かなりの好奇心を唆(そそのか)すにはいられなかった。某はここで駒寅なる人物の大略の説明をした。
駒寅、本名中村寅吉と呼ばれるこの田舎絵師は、象山、果亭、北斎、文晁等の偽物を描いて、当代無比と言われた老人であるが、晩年に及んで文書偽造の罪名に問われ、獄に縛られること数ヶ月、出獄後は専ら画道に精進したが、遂に名を成すに至らずして、貧困の裡に死んでいった。
あの羅漢の図は、某が僅か五円の潤筆料で描がかせたもの、しかも駒寅はこれを描くのに一日も要しなかったと言うに至っては、驚嘆しないではいられなかった。そればかりか相手の口から語られる数々の逸話は、僕の興味を段々とこの超人的な書家の上に引っ張っていった。
例えば四歳にして習ってもいない文字を書いたとか、少年の頃には東京の書家で知られた高斎丹山から手本を取り寄せ、翌日には彼の持っていた清書は手本と全く同じで、丹山をして舌を巻かせたとか、象山の書は炬燵の上に紙を広げて、横に字を並べていって、書風は勿論、字配りに至るまで殆ど本物と違わないものを書いていたとか、恐ろしくケチで家人をして揮毫(きっこう)を依頼に来る客の、その土産の重さを量らせ、それによって故意に作品の出来を悪くしたなど、一生に一度も自分の署名のある絵は書かなかったとか、僕には憎たらしいほどの俗に徹だけした生活ぶりが、とても愉快だった。
天才か俗物か、機会があったら一度駒寅の生活を調べてみよう、僕はそう思いながらも多忙な生活に追われて、数年を過ごした。
さて前置きが大分長くなったが、僕がこの夏に信州へ旅行した際、偽物師駒寅伝を調べにかかったのは以上の理由からであった。世に不遇とも呼ばれる芸術家の人が居る。だが駒寅の如きは月並みの不遇と言う様な言葉で呼ぶにしては、その生活は余りにも深刻だと言えるだろう。七十年の一生を、彩管を(さいかん)握る一個の労働者をして、殆ど搾り盡くされて死んでいった彼の生前は、調べれば調べるほど一種の悲壮な感銘を受けずにはいられないものがある。
もとより日本画の雅味を解せず、丹青の妙を知らない僕は、書画人伝の筆者には恐らく不向きであろう。だがこの駒寅伝之持つ目的は、飽くまで駒寅を通して明治大正の書商暴露史であり、あらゆるものを歪曲化する資本主義の罪悪史である。

 
            ( 一 )

 文久三年の秋の夕方である。信州松代西木町の古道具屋、駒屋の当主常吉が、土間に打ち水をしているところに、ひょっこりと顔を出したのは、近頃江戸から帰って来た象山、佐久間修理だった。彼は時々川中島へおもちゃの様な大砲を持ち出して、ズドン・ズドンと江川流の砲術の練習をして郷人を驚かしているが、読書に飽きるとよく駒屋の店にやって来て、古書や骨董品を漁ったりしていた。
常吉はひょいと顔を上げた拍子に、入って来る背の高い象山の姿を見て、何故か心持顔色を変えたが、流石に商人だけあって如才がない。
「さぁ、先生、お散歩ですか」
「うむ、一寸丁字屋まで唐紙を買いに行こうかと思ってな。や、これは珍しい物がかかっているな。小出から頼まれたのかのかね」
象山が目をとめたのは、自分が十日程前に中津村の素封家、小出某に書いてやった那波利翁の像に題すと言う会心の詩だった。それが立派に表装して架かっているのは、多分小出某が出入りの駒屋に表装の世話を頼んだものであろう。
「へえ、左様で、やっと今朝ほど、経師屋から届けてきたものですから、一寸掛けておきました」
秋の陽は短い。つるべ落としの陽が西の山に沈んだとみえて、雑然とガラクタを並べた店先も俄に暮色が動いているが、未だ灯りが無くとも掛けられた軸の字は、はっきりと読める。
象山は暫時自分の書いた文字を眺めていたが、こうして表装して見ると、この書の出来もそう悪くは無いと、満足気な微笑みを浮かべた。すると彼はふと、落款の下に捺印の無いのに気がついた。書を始めて三十余年、未だ印を捺し忘れた記憶は無かった。で首を傾けながら、
「果て、珍しくわしも慌てたもんだな、此の書には印が無いよ、はっはっはっ、常吉、面倒でも明朝これを邸へと届けてくれないか、改めて印を捺そう」
「わたしも、どうも印の無いのはおかしいって、さっきも弟と話しましたんで」
「そう言えば寅吉は、相変わらず御精がでるかね」
「はい、好きな道でございますから、まぁ余り厳しくも言わないでやらせています。この頃は、文晁は俗で面白くないなどと申して、崋山を習っているようで」
「ほぅ、崋山か、崋山は文晁の弟子であるが、性質は月と鼈の差だ。やっぱり志士の絵には自から気品が備わる。崋山を習うのはよい」
 象山が言葉を残して帰ってしまうと、常吉はにやりとした。漸く十五かそこいらの弟の寅吉が、今天下の名筆として言われている象山の書を模して、象山自身でさえ気付かずに、捺印する約束までして帰ったということは驚くべきことに違いない。彼は直ぐに知らせようと思って弟を呼んだが、急に考えが変わったのか、寅吉が顔を出した時は素っ気無く云った。
「おい、寅、早く灯りを入れてくれ」
駒屋の次男寅吉は、子供の時から書が巧かった。四歳の時に天と云う字を下から書いて家人を驚かしたと云う逸話がある程だから、町でも相当に評判だったらしい。九つの年に上田の鼠林という呉服店に小僧にやられたが、一年程で逃げ出してしまった。それから兄の許で店番をしながら、書を習ったり絵を描いたりしている。常吉は、始めはガミガミと云ったが、近頃では余りにも熱心に紙に向っているのでやかましくも云わない。
書は菱湖が好きだが、時として王義氏を習う。その寅吉がニ三日前に小出某から表装を依頼された。象山の書を模写したのだ。模写と言っても小半時書体を眺めていて、さらさらと書き下したものである。それが一字一劃(かく)違いがないのだ。そこに商算に長けた常吉を微笑ませるものがある。象山は容易に人の揮毫(きごう)に応じなかったし、従って当時でも相当の値段で売れていたからである。翌朝、竹山町の屋敷で象山が弟子の藤岡伊織を相手に、パチリパチリと碁を打っている処へ細君が、常吉の来訪を知らせて来た。
「構わぬからここへ通せ」
 当事の武士としてはかなり進歩的だった象山は、そういって常吉を書斎に通した。書斎は日当たりの良い南向きで、和漢洋の書物が、所狭きまでに、ぎっしり詰まっている。山上から城の中が丸見えだと云うので、当事の真田家が禁制の札を立てていた形のいい御竹山が、すぐ軒先に迫っている。この山の別名を象山と呼ぶ。象山の号は恐らくそこから取ったのであろう。

 常吉はそろそろ紅葉しかけた山景色を眺めながら煙草を吸っていると、やがてさらさらと碁石を片付ける音がして、象山が言葉を掛けた。
「駒屋、昨日の幅は持参したかな」
「へえ、次の間に置いてございます」
「そうか、では早速これへ持ちなさい」
 象山はそう云って縁続きの厠へと立った。藤岡が傍から言葉を挟んで
「何か掘り出し物だな、駒屋。ははぁ、先生に鑑定を願って又、八田(真田の御用商人)辺りへ売り込もうって寸法だろう」
「何、今日はそんなんじゃございませんや、佐久間先生の御失禁って奴で」
「けしからん事を云うなぁ、そりゃあ何だ」
 縁から入って来た象山が、血の気の多い藤岡のいきり立つのを制した。
「藤岡、怒るな、怒るな。実際に拙者の失策なんだ」
「と、申しますと」
 そこで象山が事の顛末を説明すると、藤岡も笑い出した。駒屋常吉は、今は昨日と異なって、明るい朝であるのと、おまけに象山の他に秀敏な藤岡が居たのでは、いささか都合が悪いと思ったが、この場に及んで引っ込める訳にも行かぬ。五分の不安と五分の好奇心で指先の震えるのを感じながら、風呂敷包みを解いた。
 象山は数多い詩作の中で、特にこの那波利翁の像に題す、と云う詩には愛着がある。彼は幅を広げて何國何世無英雄、平生欽慕波利翁とこの好きな長詩を、朗々聲を上げて読みたいような気持ちで眺めていたが、やおら傍らの雅印の函を取って印を捺そうとした時、さっきからこれも同じ様に眺めていた藤岡が聲をかけた。
「先生、お待ち下さい」
「如荷いたした」
「これは偽筆です。確かに他に書き手があります。書体は良く似せていますが、大切な気品がありません。先生がお気付きにならないのは、これが好きな那波利翁の詩だからです。先生はさっきから書を読まないで詩を読んでおいでです。どうだ駒屋、藤岡の眼力に恐れ入ったか」
 藤岡伊織は象山の没後、門弟の松本柏山、久保田繕造と共に盛んに象山の偽筆を書いた。蛇の道はへびのたとえの通り、彼の眼力は鋭い。
 常吉は図星を指されてみると、根っからの悪人ではない上に、そもそも自分から象山に一杯食わせたのではなく、象山の方から引っかかったのだから、正直に白状したって大して叱られもすまい、こう思って
「恐れ入りました。実は偽筆で御座います」
 と云った。
「何、偽筆だ」
 象山は印を置いて常吉の顔を穴の開くほど見つめた。
「はい、先生の模写なりを一幅欲しいと思いまして、ある人に頼んで書いて貰いました」
「ウム、ある人と言って、拙者の書風をこれ位に真似の出来るのは、当地では久保田、竹村、松本、それからここにいる藤岡位のものじゃ、してその中の誰じゃな」
 象山は別に腹を立てていた様子もなく聞いた。
「いや、その中の何誰でもございません」
「常吉、隠さなくても良い。拙者は決して咎め立てをするのではない。たゝ、今日まで多く拙者の偽筆を見たが、これ位良く書けているのは初めてだ。隠さずに言え。誰じゃ」
「実は・・・」
「実は誰じゃな、馬鹿に言いにくそうじゃが、まさかここにいる藤岡ではあるまいな」
「これは怪しからん事を仰います。おい駒屋、さっさと言え、貴様が頑張るんで、こっちまで飛んだ濡れ衣を着なければならん」
 藤岡は駒屋では無いが、他の骨董屋に頼まれ、二三度、象山の偽物を書いているので、何となく厭な気持ちがしていた。
「実は弟の寅でございます」
「何、寅だ・・・。あの十五歳の少年が、これを書いたと言うのか?」
 象山も流石に呆れた。
「へえ、誠に申し訳けがございません」
「先生、実に末恐ろしい奴でございますな。信州松代に過ぎた物は、佐久間象山に駒屋の寅吉なんて事になるかも知れません。はっはっ・・」
 駄洒落の巧い藤岡は、こんな事を言って二人を笑わせた。
 常吉は結局、印を貰い損なって象山の家を出た。が考えてみると藤岡の言葉のように、寅吉はいい意味でも悪い意味でも末恐ろしい奴の様な気がする。去年江戸から来たある書の大家に手本を貰ったが、二日経って清書を持って行くと、書家はつくづくその清書を眺めて、君にやる手本は無いと言ったことがある。(後年、この書家が高斎丹山として伝えられている)そして今、佐久間先生さえ自筆との見分けがつかなかったのだ。
 常吉はそう思うと、今は弟の天才を信じない訳にはいられなかった。又寅吉にしても後年、象山の偽筆を書くに至った動機は全くこの時ある、と知人に述懐しているから、この最初の偽筆事件は彼の生涯にとって、特筆すべき一事なのである。
 この噂がぱっと広がった。すると可笑しなもので、寅吉の看板や暖簾の字を頼む事が、俄に町の流行になり出した。古老の話に依ると、その後の三四年間に松代の町に下がっている店屋の看板の字は、殆どが寅吉の筆になるものに一変したとのことである。これについては一つのエピソードが残っているから、それをここで記そう。
 
 更科郡北原の萬屋の大田某次男三之助は、その時十六だった。知識欲に燃える彼は松代に来る度に、何処の店屋でも同じ達筆で書かれているのを見て、不審に堪えなかった。そこで彼の考えたのは「この町にはきっとこれを書く先生が居るに違いない。何とかして自分もその人からして、手本を貰いたいものだ」という事であった。
 そしてある日のこと松代城下にやってくると、同じ様な文字を掲げた店の主人から、駒屋の店の場所を聞き出し、訪ねたのである。看板の文字は、丁度書き換えられて間もない看板が架かっていた。例の書体だ、三之助はつかつかと店に入って、店番をしている若い男に尋ねた。
「伺いますが、この看板書いた先生の住所を教えて下さい。実は手本を貰いたいと思うのです」 
 若い男はじろっと三之助を眺めて、こう言った。
「手本を? あなたは、この字が好きなんですか?」
「好きです。町に来る度、何処の店もみんなこの人の書いたなんて、僕は手本が欲しくてならないんです」
 すると若い男は、何も言わずに奥に引っ込んだが、間もなく小さな風呂敷包みを持って土間に現れた。そして不審げに見ている三之助を差し招いて、さっさとと歩き出した。はぁ、先生の所につれて行ってくれるつもりだな、と三之助は心に呟いて、若い男の後について歩き出した。賑やかな木町通りを抜けると、城下町特有の屋根の低い屋並が続く、そいつが盡(つ)きるとやがて秋のことで、稲の穂波の黄色く波打つ広い田園に出た。
その間、このおかしな男はろくに物を言わない。三之助はいささか不安になった。田圃の向うは東條という山村で、そこに隠れたる書家が住んでいるとは考えられない。はて?と思いながらついて行くと、男はやがて山裾にある、この付近の百姓達が農閑期にでかける加賀井という鉱泉宿に入って行った。三之助は思った。
「なるほど、書家はここに泊まっているのか、それにしてもこんな遠くまで案内してくれたこの人は、なんて親切なんだろう」
 若い男は宿の亭主とは顔なじみらしく、軽い言葉を掛けて庭に向いた一室へ通った。そして落ち着くと彼は風呂敷を広げて、中から取り出した物を見ると、硯に墨に筆、字を書く道具が一揃いだ。三之助は、おやおや、この男も字を習うのかなと思った。尚も見ていると静かに墨を磨りだした。三之助とは僅かに齢にして三つ四つしか違わないこの色の青白い男が、黙々として墨を磨っているさまは、傍に居る者が一寸妖気を感じる位の老成したものがあった。三之助にとっては、この男の全てが謎である。男は墨が磨り上がると、風呂敷から三本の折本を取り出して、それを手に取って書き出した。
 三之助はそれを眺めた。眺めながら彼の好奇心と不審は暫時驚嘆へと変わっていった。
「おゝ、この人だ、この人こそ松代中の看板を書いた先生に違いない」
 男は間もなく書き上げた三本の折本を三之助の前に軽く投げ出して、
「君の欲しい手本はこれじゃ間に合わないかね」
 それは楷書と行書と草書とを巧に書き分けたもので、町に架かっている看板の字と少しも変わらない。感激しやすい少年三之助の喜びは異常なものであった。
 青白い男・・即ち駒屋の寅吉と大田三之助とは、この加賀井の湯の事件を契機として親交を結び、二人の生涯は影と形の如くに、その晩年まで深く互いに交わったものとなった。その話は後に記す事にしたい。


              ( ニ )

 駒寅は、書は勿論の事絵の方も、別に師についたということは無かった。が、彼は当事現存して居た人で多少の影響を蒙った人を求めれば、信州佐久の人で加藤半渓位なものであろう。半渓は後に大阪に住み、浪花半渓の名を以って売り出した唐人画の大家であるが、駒寅とは早くからの交友があった。生まれつき傲岸(ごうがん)で自信の強い駒寅は、当事信州の画家として知られた児玉果亭、永井雲坪の如きは全く眼中になかったらしい。
 明治四年の廃藩置県により、長野に県庁が出来た。碌を離れた松代の士族や機を見るに敏な商人が、争って長野へと移住した。駒屋常吉もその一人だった。彼は長野に出て呉服屋をやった。寅吉もそれに従って付いて来た。だが彼は未だ画家として書家としても一家を成すに至らず、能書を幸い県庁に勤めて薄給な役人として、傍ら長野の町の商人や料理屋などの看板と、その他の揮毫に応じていた。
その頃の彼は権堂辺りに下宿していたが、旧幕時代の岡っ引き、長島喜間太の娘すゑ、と結婚した。この喜間太は又、遊郭の馬をやるところから、「来たかきまさんか権堂か」と謡われ、嫌われる事甚だしかった。後年画家としての駒寅が、長野の人に人気が無かったのは、その結婚が禍の元と見るのも、その一面を伝えていると思われる。おまけにすゑは、教養が貧しく且つ我がままで、醜婦で身長五尺四寸の大女だったというから、文字通りの悪妻であったろう。
駒寅は松代時代に兄の常吉に頼まれニ三度象山の偽者を書きはしたが、県庁の役人時代には全くそれをしなかった。そんなことをしなくても、月給の他に彼の才能を持ってしては、前記の料理屋や商人の書き物もあり、そこらの版下の方の収入も相当あったからである。当時の鶴賀新地の看板で彼の筆にならないものは、殆ど無いといってもいい。

では実際に於いて何時頃から彼が偽物師としての生活に入ったか、それは詳でないが、恐らくこれが最初ではないかと思われる挿話が伝えられている。それは信越線が未だ高崎までしか通っていなかった頃の事で、東京に出るには長野から高崎まで馬車の便をとり、そこから汽車乗るのだった。駒寅は当事無二の親友だった大田三之助と一緒に初めて東京に出た。彼は僅か少し前に県庁を首になり、権堂の借家でごろごろして居た所へ久しぶりに三之助がやってきたのだ。
大田はその頃に政治運動に首を突っ込み、信州は無論の事、東京あたりまで顔を売っている自由党の壮士だった。今の二人は往年加賀井の湯の時の様に他人行儀ではない。大田は入ってくるといきなり、昼間の高田の自由党の事件を載せた開花新聞を懐から取り出して「中村君、これを見ろよ。僕ぁ当分東京に行って姿を隠していようと思うんだ。こう追撃が厳しくっちゃ、信州も危ないからな」
「そうか・・」
と云ったが駒寅は別に興味も無いように続けた。
「君が東京に行くなら俺も同行したいんだが、残念な事に旅費が無いと来ている」
「旅費?」
「うむ」
「本当に君が来てくれるなら、何とか僕が考えて見よう」
 大田は如何にも知恵者らしく首をひねった。
「おい、中村、一枚書けよ」
「何を?」
「象山をよ。君が書きさえすれば、僕が東京へ持っていって売ってやる。ちっと心当たりがあるんだ」
「うむ、書かない事は無いが、行きがけの旅費はあるのか?」
 駒寅は持ち前の沈んだ口調で言った。
「そりゃぁ僕が作る。象山はやっぱり那波利翁の像に題す。あの詩がいい」
「よし」
「じゃあ、明日の朝までに書き給え。大至急表装をやらなくちゃならんからな」
「なぁに、書くなら今書くよ」
「そうか、そいつぁ早いに越した事は無い」
駒寅は何時も使っている机の上の、青端渓の硯に水をこぼし、墨を磨り始めた。大田は折角見せようと思って持ってきた開花新聞が、古畳の上で吹き込む秋の風に舞っているのを見ると、此の情熱の涸れ切った友人との距離を、今更のように感じた。血の気の多い政治運動に携わる彼が、此の友人に惹かれるのは人一倍相手の才能を認めるからで、それこそ生まれながらの画家とか、書家とかいうものがあるとすれば、それこそこの男のような人間を言うのだろう。駒寅、その名は今に全日本に響き渡るだろう。此の考えは十六歳の時、加賀井の湯ではじめて折り手本を貰った時から、少しも変わってはいないからである。
それにも拘わらず駒寅は、少しも有名にならない。同じに出発した半渓の名は、ぼつぼつと帝都の画壇に現れ始めている。勿論長野に於ける人気のないのは、喜間太の娘と結婚したことによる。だがそんなのは、ほんの原因の一部分だ。それよりもこの男の何処かに、本質的な欠陥があるのではないか。そうだ、この男の中に情熟と云うものが全て失われているからだ。大田はそう思うと昴然とした気持ちで新聞を取り、この黙々として墨を磨って居る駒寅の前で、声を上げて読み始めた。
「去る四五日両日の頚城自由党国事犯陰謀露見に付き、就縛の人員全て二十名にして笠松立太外十五名は高田警察署に於いて捕縛、又八木原敏介の弟井上平九郎派石川県にて・・・」
「大田、五月蝿いよ」
 駒寅は投げつける様に言った。
「俺は、政治は嫌いなんだ」
「うん、そいつぁ分っている。だが君もちっとばかり、血の気の多い人間にならないと駄目だぞ。半渓を見ろ半渓を」
「実は、俺はその半渓の事で、少し聞き込んだことがあるんだ」
「そいつぁなんだ」
「実は浪花半渓の書画会が来月の十一日に、山谷の八百善で催されるって話を、昨日銭湯で西町の露木さんから聞いたんだ。俺が東京に行きてえってのも、そいつがあるからよ」
「ほぅ、そいつあ面白い、会場へ信州の山猿が二匹で飛び出し、あばれ梅渓の二の舞でもやるか」
「田舎者の俺にゃあ、とても梅渓の様な茶目っ気はありそうにも無いが、とにかく半渓の画会に是非とも出席してみたいと思うんだ」
 駒寅は旧友の画会に出たいと言う。自分の率直な心持を相手が勝手に解釈して、悪戯気か何かの様に片付けてしまいそうなので、少し苛立った。彼にしてみれば今度の画会に出席する事は一つには先輩への礼儀でもあるし、又ひとつはこれから進もうとする画に対する、新しい刺激を得たいからであった。
 墨が磨れると駒寅は、敷物の上に唐紙を広げて、愛用の筆に十分な墨を含ませて、ひごろ暗誦している那波利翁の像に題する詩を書き出した。何國何世から永為五州宗まで、二百六十余字駒寅は一気に筆を進めて、程よいところに落款を入れると、筆をからりと投げだした。別に興奮した様子も無い。彼は大田に向って冷ややかに唯一言、言った。
「どうだい、売れそうかな」
「売れる!」
大田は呻く様に叫んだ。明らかに興奮していた。

表装の出来上がった象山の大幅を持って、絵師と政治屋とのこのおかしな一組が、東京への旅に出たのは十月二日の黎明だった。駒寅は途中の景色や高崎で初めて乗った汽車を丹念に写生したりした。第一日は小諸で、翌日は高崎で泊まり、二人の乗った煙っぽい汽車が上野に着いたのは翌々日の十月四日の夕方だった。
「何だい中村、此処からはもう僕が案内役だ。君は目隠しされた馬も同然、僕の引っ張って行く所へは、どこにでも付いて来なくちゃいかん」
 大田は改札口に向って波の様に流れ出す。未だ板につかないざんぎり頭、白い襟巻き、明治十七年的風俗のサンプルみたいな乗客に混じって歩きながら、並んでいる駒寅に向って冗談口を叩いた。
「怪しい案内役だよ、あんまり変なところへ連れてかないでくれ」
「よしよし、任せなって」
二人が話しながら改札で切符を渡して外に出ようとすると、横合いから一寸と呼び止めたものがある。振り返ってみると人相の良くない男が二人、そこに突っ立っている。刑事だ。
「暫く待ってくれ、聞きたい事がある」
「何の用事だ、我々は怪しい者ではないぞ」
 大田は食ってかかった。
「まぁいい、暫く待て。怪しいか怪しくないか、とりしらべねば分らん」
 失敬な事を言うと思ったが、二人は仕方なく傍で待っていると、刑事は又一人、捕えた。それは白い襟巻きに黒足袋、どう見たって田舎者臭い三十格好の男だ。乗客がみんな出てしまうと、刑事はつかつかと側にやってきて言った。
「おい、その風呂敷包みは何だ。
 ギクリとしたのは駒寅ばかりではない。大田もいささか顔色を変えた。
「これは僕の家の家宝の幅物だ」
「いい加減な事を云うな、お上の目はごまかせんぞ。貴様たちは加波山党の一味だろう。さっさとこれを拡げろ」
 はぁこれだよと思うと、二人はやっと愁眉(しゆうび)を開けた。幾ら慧敏な刑事だって、まさか持っている幅の正体をかぎつける訳はないと思った。がそれにしても、脛に傷を持つ二人はとっさの場合、たじろがざるを得なかったのだ。だが捕える理由が全く外にあると思うと、悪戯好きの大田は、もうそろそろ嘲弄(もてあそ)びはじめている。
「いやぁ失礼な事を言われものだ。今も言うとおりこの中には故人の筆蹟が入っているのだ。こういう場所ではやたらに拡げる訳にはいかん」
「じゃあ、どこなら良い」
「左様、まず駅長室なら宜しい」
 大田が頑張るので、刑事はとうとう三人を連れて駅長室に移った。そして刀と思った包みが、一幅の書だったのには、頭を搔いてしまった。だがもう一つの獲物があると勢い込んで、田舎者の調べにかかった。

 ここで少しばかり加波山党について書く必要がある。当事の進歩党だった上毛自由党の一味、所謂加波山の志士十八人が、「自由の魁」「打倒専制」「徴兵令改正」等のスローガンの下で茨城県筑波山に旗を揚げた。政府党は知らずの壮士や、警官を動員してこれを一挙に葬ったが、その残党は未だ関東の至る所で巣食って再建を企てているとする密報が、政府へと届いていた。駒寅達は刀を持っていたというので、つまり名誉にもこの加波山の志士と勘違いされた様だ。
 二人は四谷伝馬町に宿を取った。大田は東京には二度目だ。多少の先輩もいる。それを手づるに持ってきた象山を売り飛ばそうと言うのだ。
「おい、何とかしてくれ。折角出て来たのに、俺ぁ、二日もここに禁足とは情けない」
 駒寅は宿屋の二階から街の空を眺めては歎息していた。毎日大田は円太郎にも乗って歩けないと言うので人力車で飛び廻っているから、少しばかりの旅費の残りはそれで一杯だ。寅駒は寄席一つ覗く事も出来なかった。
「うむ、待て、待て、もう直ぐだ」
 大田は自信ありげな口調で、駒寅に向かって言った。
「所で、幾ら位になる見込みだ」
「左様、まず百円は動かない」
「えっ、百円」
「そう驚くなよ、昨日も三益杜の正紀の紹介で、三菱汽船の重役に会いに行ったんだ。そいつが五拾円まで値をつけたんだが、俺は売らなかったよ。もともと俺は売るのではない、譲るんだ、家宝を手放すんだ。百円より安くは売らぬし、高くも売らぬ。こう言う触れ込みなんだよ」
「なるほど、それで今日は外に当てがあるのか?」
「今日か、あるとも」
「どこだ、それは」
「だが、言わぬが花の飛鳥山さ、はっはっ・・」
 大田は思わせぶりに部屋を出て行った。今日も又車を呼んでいる様であった。

 半渓の書画会がもう直ぐそこに迫っていた。そう思うと駒寅は一種の焦燥を感じた。で、この日は夕方まで落ち着けなかった。珍しく長野で待っている細君の事が、思い浮かんできだ。結婚して三年、二人の間には子供と云う者が無い。大田がおすゑとの結婚を寅駒一代の失策として、頻りに別離を説くが、むらっ気ではあるものの単純なおすゑの様な女が、なまじ小ざかしい女より却って五月蝿くなくていい、とさえ思っている。女の身内の評判の良し悪しが、自分の画家としての一生の浮き沈みに関係があるとすれば、それは自分が悪いのではなくて世間が悪いんだ、と思った。
 畳の上に横になって駒寅がこんな事を考えていると、女中が手紙を持って上がって来た。
「下で車屋さんがお待ちです」
「どら」
 と言って封筒を見ると裏には大田としてある。封を切って読むと
「今日は上京以来、最初の東京見物をさせてやるから、すぐにこの車で来い」
 と簡単な文面だ。
 駒寅は不審に思ったが、とにかく着物を代えてその車で運ばれて行く事にした。そしてうんざりするほど長い事、車に揺られて行き着いたのは、吉原の堀川と云う引手茶屋だった。大田は知人の紹介で共同運輸の事務長某と会い、首尾よく象山を百円で売りつけて、真昼間に此処へ乗り込み、芸者を呼んですっかりいい気持ちになって居るところへ、迎えに行った車が着いたのである。大田はふらふらする体を廊下にまで運んで、駒寅を出迎えた。
「さぁ中村、これが東京だ、東京はこういうところだ。大いに飲め、権堂の酒とは味がちがうぞ」
 と言って乱れた酒席へ駒寅を引っ張り込んだ。


                ( 三 )

 駒寅は期待して居た八百善の書画会には遂に出席しなかった。それは突然、宿に家から電報が舞い込んだからで、寅駒は滞京七日目に一人東京の空に心を残して長野へと帰らなければならなかった。帰ってみると意外な事件が持ち上がっていた。
 おすゑの実兄の作太郎が、米相場に手を出して金に詰まったところから、掛け取りに出た長野の小妻清の番頭を脅して金を奪い、その足で市村の賭場で、船頭を相手に丁半をしている所を捕まったのだ。持っていた財布が動かせない証拠で、未決へと放りこまれた。狂気の様になっている細君をなだめて、駒寅は弁護士の世話や差し入れ物を一人で奔走したが、作太郎は十年の重刑を言い渡された。
 狭い田舎町を震撼させたこの事件は、駒寅の人気におおきな影響があり、書家として売り出す所が、看板や版下の注文さえ来なくなってしまった。だが駒寅は書いてそして生きなければならなかった。では何を書いていったらいいのか。
 駒寅の書くそれは、唯一しかない。その名を偽物と云う。それは誠に呪われた才能である。象山を模して象山を抜き、竹田を模して竹田を抜く。この不思議な才能の持ち主は、遂に自分の名前で自分の作品を売ることを永久に拒まれたのである。ここに駒寅の偽物師としての出発点がある。
 駒寅はその生涯に何千点の象山を書き、何百点の果亭を描いたか分るまい。恐らくそれを知ることは不可能であろう。だが僅少の潤筆料によって描いた駒寅の作品が一点として、古今の大家の真蹟として通らぬとしたら、その取引された額は恐らく、数十万、いや数百万円以上に上るであろう。それではこれほどの利益を誰が得たのか。然り駒寅は資本家にとって最も都合の良い条件を備えた労働者だ。
 西洋の御伽噺に黄金の鶏の話があるが、これは決して御伽噺ではない。黄金を産む生きた鶏だ。さてこの貴重な鶏を巡る人々と、書画という商品が、駒寅という労働者を通じて作り出される方法について書こう。それは工場で綿布が作られるのとは少しばかり違うだろうから。労働者の存在している所には資本家がいる。これは今更繰り返すまでも無い資本主義社会の原則だ。では駒寅を最も搾った資本家は誰か? まずは最初にそれを書こう。
 
 ある朝、椿堂喜久屋小路の駒寅の許へ、土地の一流旅館千曲館の主人が訪ねて来た。千曲館主遠山興四郎は書画が好きで、珍品を手に入れると、目の利く駒寅の鑑定を請いに度々来た事があり、時としてこちらかにも訪ねる間柄である。
「やぁ、こりぁ珍しい、関西からは何時お帰りでした」
「四五日前に帰りました。どうもあちらは偉い景気でね」
 遠山は持って来た包みから、京都行きの土産だと言って清水焼の菓子鉢を一つ差出した。
「土産物に興じちゃ恐れいりますね。おい、おすゑ、遠山さんから結構なお土産を頂戴したぞ」
 細君にもこの一流旅館の主人が、わざわざ土産を持って訪ねて来たという事が余程以外だったらしい。
「まぁ」
 と言って大きな眼を見張った。
 この遠山の京都行きは、当時信州の南画の大家として売り出していた児玉果亭の展覧会を、名古屋を始め、神戸や大阪、京都の各地で開き、その声価を全国的に煽る為であった。特別にも京都では直入の門下として果亭が、永年足をとめた所で宣伝効果は行き届き、持って行った絵の殆どに売約済みの札が貼られた。
 だがこうして宣伝して売り尽くした以上、資本家は尚、多くの商品を仕入れなければならない。それもなるべく安くだ。遠山はそろそろその用件を持ち出し始めた。
「実はねぇ、今度の展覧会でつくずく感じたんだが、果亭もいいが印が貧弱でね。それで私はこんなものを贈ろうかと思って作ってみましたよ。果亭もこれでどうやら、雅印らしいものを持つ事になるでしょうね」
 遠山はこんな事を言って取り出したのは、箱に入れた水晶の印だった。
「ほぅ、いゝ印ですね。果亭さんもきっと喜ぶでしょうな」
 寅駒はそれを手に取って眺めたが、この印をわざわざ自分に見せに来た真意は解しかねた。
「ところで、寅駒さんに折り入って頼みがあるんてす。と言うのはね、私ぁある所から果亭の幅を大口に注文を受けているんですよ。ところが幾らあの人に頼んでも、書債山を成すという今日の状態じゃ、とてもおいそれとは描かない。そこでこりゃあ手っ取り早く、あなたに描いて戴こう。まぁ忙しければすぐでなくとも、この印を果亭にやる前に絹地なり唐紙なりに捺してさえおきゃあ、いつでも間に合う。こう思って上がったんです。そんな事いっちゃあ何ですが、果亭位の絵を似せて描くなぁ、あなたなら朝飯前だ。絹はこちらもちで、一枚五十銭なら私は幾らでも引き受けますがね」
 遠山はこう一気に喋り続けて、駒寅の顔を見た。その顔には僅かな皮肉の色が浮かんだ。何と云う巧妙な方法を、何という残酷な誘惑だ。この古狸め、うまうまとその手に乗って堪るものか。駒寅はきっぱりと断るつもりで顔を上げた。
だがその時、遠山の言葉ではないが、書債山を成す果亭と自分との余りにも遠い距離を思って、恐ろしい感情に囚われた。その果亭が何も知らずに、この贈り物に有頂天になって使っている時に、同じ印を捺した作品が一方でどしどし作り出されると言う事は、痛快ではないか。駒寅は冷たい微笑みを浮かべて言った。
「宜しい、お引き受けしましょう」
「ほぅ、引き受けて下さるか、それはありがたい」
 遠山は飛び上らんばかりに喜んだ。そして持って来た包みの中から、布を取り出した。
「早速なのだが、実は絹を二反ほど持参したから、置いて行く。この絵絹を使って貰いたい」
 
 凡そ書画の鑑定法の中で、印と印肉によるのが最も科学的な方法とされている。例えば印肉にしても抱一の如き大名(姫路藩主酒井忠仰の次男)の使用したものと、市井の絵師の使用したものとには自ずと差がある。又印にしてもその通りだ。その点で千曲館主人の採った方法は、最も当を得たものであった。
 かくて旬日の後には果亭の模造品が、駒寅の作品中の傑作として、どんどんと市場に送り出されるに至った。労働者駒寅は、一枚五十銭の賃金を得たいばかりに、細君にガミガミ言われながら果亭の絵を手本に、せっせと絵筆を揮ったことであろう。
「果亭もいい、が、どうも俗でいかん。見ていると片っ端から塗り消したくなるよ」
 などと言いながら、であった。
 だが千曲館主人が採った方法はそればかりではない。彼が展覧会によって関西人の間に果亭熱を煽ったことは前にも述べた。しかし元来、彩色や水墨の多い果亭の絵は、派手好みの関西人向きでは無い。従って同じ果亭でも図柄の疎密、彩色の濃淡によって値段に数段の開きがある。そこで遠山は果亭に水墨画や彩色画を描いて貰って来ては、駒寅に勝手に彩色させる。駒寅としてはもともと大して敬服している絵でもないから、版下を描く様な気持ちで易々と引き受ける。こうなると遠山の工房は純然たる一個の書画の製造所だ。そして製造所長の遠山は益々肥り、経営する旅館はいよいよ増築に増築を重ねていった。


                ( 四 )

 その年、善光寺の菖蒲渡しも済んだ五月中旬頃、珍しく大田が顔を見せた。義兄の作太郎の強盗事件以来、駒寅の画家としての人気は全く地に陥ち、今では偽物師としての彼は漸く有名になりかけている。これは駒寅の才能を深く愛する者にとっては、哀しい事に違いない。
 二人はお茶を飲みながら、好きな画談を初め、翠厳がどうの、誰がどうしたのと当事の画家を片っ端からこき下ろしていたが、今日の大田はどうしたのか、何時ものやように軽く口が綻びない。如何にも何か言い出しそうである。やがて話しに飽きて、余り上手くも無い碁石を一席戦いをしたところで、大田は堂庭の方を一廻りしてこようと言って、駒寅を散歩に誘った。
 駒寅は権堂から元善町へ出て山門の下へ来ると、そこに群れている鳩の様を暫く眺めた。子供っぽい景色だが、駒寅はいかにも気に入ったらしい。大田は傍で退屈そうに巻きタバコを吸い出したが、うまそうに煙を吐き出すと、出し抜けにこう言い出した。
「中村、君は北海道に行ってみないか?」
「なんだい、また薮から棒に。何か当てがあるなら行ってもいいが」
 駒寅は気の成さそうに言った。
「当てはある。だが俺は当ての有るなしよりも、君が旅に出る事によって生活を変えることを希望するんだ。ニ、三年旅に出て、世間が持っている駒寅ってものを、すっかり取り去ってしまうんだ。長野の町はどうしても君を育てるに相応しくは無い。君のような人間は北海道の様な、荒っぽい所で暮らしたらきっとよくなるぞ」
「なるほど、君のいうのはわかる。古い駒寅を捨てろ、名前でも家庭でも捨てて生まれ変われ、つまりそう言うんだろう」
「そうだ」
「だが、そいつは出来ねえよ。俺は長野が好きなんだ。まぁこの町を離れて暮らす気には、当分なれそうにないよ」
 駒寅の口調は何時もの様に冷たい。
「うむ」
 大田は重く頷いて、
「歩きながら話そう」
 と言って歩き出した。

 無論、駒寅には分っていた。大田が自分を動かして、全く新しい土地で思う存分、実力を発揮させようと言う心持は、親友の友人なればこそだ。そしてそれを機会に、おすゑとの悪縁をも断たせようというのだろう。
 だが今の駒寅は、画壇に対しては半ば望みを失っている。それは余りにも意地の悪い運命が、彼をこうした諦観(ていかん)に逢着(ほうちゃく)させたのだろうか。それともこの佛都の持つ悪い影響からだろうか。然り、駒寅の場合は恐らく、その何れでもあったろう。
 大田は黙々として歩いている駒寅の前で、北海道行きのプランをかいつまんで喋った。彼は北海道へ渡る前に、先ず新潟から佐渡に渡る。そこには往年の自分の同志の一人だった今城至道と云う医者がいるから、そこで堂々と信州の大家中村駒吉として乗り込んで行く。
 僻地のことだからきっと揮毫の依頼は山の様に来るだろう。そこで充分に金を集めてから北海道に渡る。その為には駒寅では面白くないから、号も高麗虎と云う字を選んでおいたと言うのだ。
「どうだ中村!」
 大田は熱っぽい口調で言った。
「これだけの計画を君は水泡に帰させても惜しく無いか。いよいよ行くとなりゃぁ、俺だって中村とは呼ばんぞ。高麗先生と呼ぶさ、はっはっ・・」
二人は城山に登った。そこからは川中島から上高井一円へかけての展望が欲しいままだ。二人が少年の昔、初めて交わりを結んだ加賀井の湯も、遥かの山陰にある。あの時から続いて来た大田との交友を思えば、駒虎といえども彼の真情に心を動かさずにはいられなかった。
 ぶっきら棒に駒寅は言った。
「北海道はともかく、俺も佐渡なら出掛けて見ても良いと思う」
「行くか、そりゃあ愉快だ。だがそれにゃあ一つ切の条件があるんだ。細君に黙って行くんだ」
「・・・・・・」
 駒寅は石の様に答えない。
「どうだ、出来るか」
「・・・・・・」
「それが出来なきゃ、君の一生は駄目だぞ」
「うむ」
「どうだ、出来るか」
「出来る!」
 そう言った駒寅の顔にも、珍しく血が上った。
 別に憎い妻ではない。しかし画家としての出発を阻むものがあるとしたら、それを振り捨てなければならない。駒寅はそう考えたのである。駒寅は城山での大田との約束を三日の後に実行した。絵の道具は前夜の内に大田の家に持ち出しておいて、二人は長野からこっそり新潟行きの汽車に乗り込んだ。かくて寅駒は、信州の南画家中村高麗虎として、新潟から千石積の船で佐渡へ渡った。

 宿は今城の家に陣取った。マネージャー格の大田の奔走で、瞬く間に注文が殺到するに至った。しかも駒寅は絵ばかりか書も巧く、その上篆刻(てんこく)までも一通り心得ている所から、田舎者の要求にぴったりと当てはまった。この分ならまず、駒寅の新しい名が世間に宣伝されるのも、そう遠い事では無い様に思え、大田は自分の事の様に喜んだ。
 だがその頃、当の駒寅は少しずつ憂鬱な人間になっていた。今度の旅でどれ程に妻のおすゑを愛しているか、初めて気付いたのである。おすゑを失う事は、駒寅にとって全世界を失うに等しかった。妻の前では名誉も芸術も無かった。駒寅はその妻を道端の石の様に捨て、旅に出て来たのである。駒寅は胸に隠されていた情熱が、火花を散らせば散らすほど、表面憂鬱な人間になっていた。特別にも夕暮れの海に立つ時は、堪らなかったらしい。その夕暮れの海へ呑気な大田は、毎日の様に引っ張り出すのだ。
「先生、今日は黒鯛を釣ってきましょう」とか、「地引網を見にゆきましょう」とか、人のいるところだけで役者の様に使う馬鹿丁寧な口調でだ。

 ニ三日海が荒れた後の事であった。珍しく一人で浜へ散歩に出た駒寅が、何時まで経っても帰っては来ない。大田は不審に思って迎えに行って見たが、暴風雨の後の浜は徒(いたず)らに風が吼えているばかりで、更に人影は見えない。
大田は少しずつ不安になった。
「おかしい、どうもおかしい」
 ひとりで首をひねりながら呟いた。そうした時に向うから町に一軒しかない車屋がやって来た。大田は呼び止めた。
「おい、車屋、中村先生を見掛けなかったか?」
「中村って、あの絵描きさんのかね」
「そうだ」
「それなら、私はあの方を送って来たんです」
「嘘、嘘を言え」
 車夫は嘘では無いと言った。自分は河原田まで送っていっただけだが、客はそこから更に又萩まで乗り継ぎして、午後の三時の新潟行きの便船に間に合わせる心算らしい。何でも非常に急いでいたから・・・・
「馬鹿な奴だ」
 太っ腹の大田も、流石に今度だけは心底から腹を立てた。大田は宿に引き返して、座敷の中に取り散らかしたままの絵の道具を取ると、浜に持ち出して端から巻き返す波の中に投げ込んだ。そして吼える海に向って大声で叫んだ。
「駒寅、貴様は駄目だぞ、貴様は!」
 瞬間、日焼けのした大田三之助の頬っぺたを、虫の様な涙がころころと伝わり落ちたのである。


                 ( 五 )

 佐渡行きの失敗以来、駒寅は完全に画家としての望みを放棄したように見えた。そしていよいよ偽物師の仕事に没頭した。偽物師駒寅、その名は地元の信州は勿論、東京・大阪・京都等、各地の書画屋や書画の愛好家の間に、魔者の如く君臨した。多くの偽物の中で駒寅の筆と証明されれば、それだけで希少価値を生じ、高値に取引される迄に到った。
 従って駒寅の生活は暫く物質的に潤沢になり、所謂駒寅の黄金時代が到来した。その頃になっておすゑとの間に長女が生まれ、続いて男の子が出来、駒寅も又平凡な父親業者たらざるを得なくなった。いかにして多くの偽物を書き、いかにして多くの金を得るか、その他には何も無い。子供には目がなかった。駒寅は二番目の子供が産まれる少し前に、今までの家は手狭だというので金井端に移った。
 この新居に移って間もないある日、東京から思いがけない客が訪ねて来た。客の名は山路迂狂と言い、飯山の人で、勝海舟の許に出入りする壮士であった。この男も駒寅を巡る人間の一人で、時々儲けさせてもらっている。
「これは珍しい」
駒寅は玄関まで出迎えた。座敷に通して細君が座布団を勧めたところで、駒寅が言った。
「先日の新聞で、勝さんの屋敷が焼失した様に出ていましたね」
「左様、あの時はいの一番で駆けつけた方で」
「あそこには明治の元勲達の真筆が沢山あったことでしょうが、そちらの方は如何でした?」
「火元が物置だったから、まぁ母屋の方の物は大概無事でしたよ。先生の書斎には間違いない象山が架かっていたし、そのほかにも・・」
 言いかけて山路は急に口を瞑った。「間違いの無い象山が・・」この男の前でそれを口にするのは、余りにも心なさすぎる。そればかりか下手に相手の気を悪くしては、折角今日の訪問した用件がふいになる。
 山路は偽物として駒寅の象山が、それ以上望むべくも無い程真に近い事に異存はない。だが駒寅が象山の使った印を手に入れていない事は、金棒を持たない鬼の如きものである。もし、それを駒寅が手に入れたら・・・。
 ところが偶然にも象山の印を勝の書斎の中で発見した。しかも三個、それは壽山石を印材にしたもので、象山の印中でも逸品であった。勝安芳はそれを大切にして、日頃違い棚の上に飾っておく。芝佐久間町の家で勝の屋敷の出火を聞いた瞬間、電光の様に山路の脳裏を掠めたのはこの三個の印だった。
 山路は出入りの車屋をたたき起こして、氷川町まで二人曳きで駆けつけ、書斎の片付けを口実に人の良い勝を追い払い、完全にその印を手に入れてしまった。文字通りの火事場泥棒だ。今、山路のカバンの中には、ちゃんとそれが入っている。
「時に中村さん、今日は素敵なお土産がありますよ」
 山路はそう言ってカバンを引き寄せた。
「ほぅ」
駒寅は目を細くした。やがて山路はカバンから取り出した三個の印を、駒寅の前に押しやって言った。
「どうです、素晴らしい掘り出し物でしょう」
 駒寅はそれを手にとったが、しみじみ眺めながら
「なるほどね」
と頷いた。瞬間、皮肉な微笑が浮かび上がったが、やがてそれを満足げな微笑みに変わった。
「出所は確かですか」
「そりゃあもう」
そして駒寅はそれ以上聞かなかった。朱肉を取って三つの印を紙の上に捺して見た。紙の上に現れた鮮やかな印章は、偽物師としての駒寅を容赦なく煽り立てた。駒寅はともすれば弾んで来る自分の気持ちを抑えつける様に、静かな調子で口を開いた。
「幾らなら譲って貰えますかね」
「左様、こう言う物は値が有るようで無い。例えば勝先生の様な象山と親交の会った人ならば、恐らく萬金を投じても惜しいとは言わない・・・ところが・・」
 駒寅はこう言う相手の言葉を、面倒くさそうに引ったくった。
「二十円位なら貰っておきますよ」
「二十円?」
 山路は小首を傾けて考えたが、宜しい、お譲りしましょう。その代わり、早速ですがこいつを使って象山を三枚ばかり書いて頂きたい」
 駒寅も流石にむっとしたらしく、皮肉な、刺す様な口調で言った。
「生憎、ニ三日前から、そら、腕一手首の神経痛を病んでましてね。尤も少しばかり出来が悪くてもよければ何枚でも書きますが」
 山路は意地の悪い駒寅が、時として全く酷い象山を書いて渡す事を知っているので、その日は二十円を受け取っただけですごすごと表に飛び出した。だが象山の印を手に入れたことは、駒寅にとって余程嬉しかったらしい。駒寅は珍しく昼間から酒をちびりちびりとやりだした。郷里の松代から、書画屋の現金屋林作がやって来たのは同じ日の午後である。
「現金屋さんかい、さぁさぁお上がり」
 駒寅はこの幼友達を機嫌よく迎えた。
 凡そ駒寅の所にやって来る程の者は、書画屋でも素人でも目的は同じだ。駒寅の生み落とす黄金の卵を欲しいと思う人間ばかりだ。にも拘わらず駒寅は、郷里から来る人間にだけは決して意地悪ではない。駒寅は入って来た現金屋に盃に注して、酒を勧めた。
「まぁ一杯」
「へっへっ、こりゃあどうも。まるで知ってて、やってきたようだな」
現金屋は遠慮が無い。早速あぐらをかいた。この日、現金屋の持って来た用件は、何時もとは少しばかり異なっていた。彼は町の旧家で落款の無い軸を一本手に入れた。戸口に二羽の雛が遊んでいる図で、図柄は如何にも淋しいが、筆者はどうも崋山臭い。そして鑑定した上で崋山だったら駒寅に落款を入れて貰いたいと言うのだ。
酒席の半ばで現金屋がこの話を持ち出した時、駒寅は早速は意見しよう、と言い出した。駒寅は古今の画家の中で、崋山には心服している。しかし風呂敷から現金屋が取り出した軸は、凡そ崋山とは程遠い代物だった。駒寅は危うく噴出したくなるのを耐えて、この目の無い書画屋を弄ぶ様に言った。
「現金屋さん、こいっあ崋山じゃない。まぁどっちかと言えば竹田に近いが、こいつを一つ、本物の崋山で通る様にしてやろうじゃないか」
「そいつぁあ、ありがたい」
「ところで幾ら出しなさるね」
「まぁ三両、その上は一寸無理で」
「あぁよしよし、三両が二両でも損は無い。その代わり少しばかり乱暴ですぜ」
駒寅は言いながら、酔った勢いで一杯にひけげた雛の図に向うと、いきなり筆を下ろした。のどかな雛の図は、忽ち活然(こうぜん)たる夕立の図に変わった。土砂降りの雨の中を蒼惶(そうこう)として逃げ込む二羽の雛は、確かに「蕃論私記」の著者でも描きそうな図だ。
現金屋林作が、幾ら儲けたか筆者は知る由もないが、ただこうした世に伝わる挿話を、単なる酒席の悪戯と見るのは浅い。蠜結(うっけつ)した芸術的欲求が、駒寅の場合は時として、こんな形をとって現れたものと見るべきだと僕は考えるのである。


                 ( 六 )

 書画の鑑定家がその真贋の鑑識を専ら印章に頼る事は既に先に述べた。しかし駒寅の場合は、彼が象山の雅印を手に入れた以上、全くその方法では不可能とされなければならない。駒寅の黄金時代は尚暫く続いた。尚その上彼は古今の書画に対しては一見識を持ち、鑑定家としても土地では一流であった。自信の強い彼は鑑定料を一点三円と決め、偽物の場合の依頼者の出し惜しみを見越して、全て前金でとった。この点如何にも駒寅式である。須坂の某の持参した北斎の猟師の絵を見て、草鞋に着いた雪が多すぎると言って偽者として一蹴したと言われているが、印や筆癖のみに頼る鑑定家とは、自ずとその類を異にする。
 佐渡行き以来、六、七年消息を断っていた大田三之助が、北海道の方からひょっこりと帰って来た。三人の子女のよき父親である駒寅を見て彼は、偽物をやろうとも家庭を捨てろとも言わなかった。そればかりか、大田が偽物のブローカーをしたことが一度、東京行きを加えれば二度ある。その頃、野にあった伊藤博文が、信州に乗り込んで大隈の改進党、後藤象二郎の大同団結の向うを張る一大政党(改友会?)を起こそうというので、長野の城山館で開く官民合同の懇親会の招待状、三百通を博文自身が書く事になった。この老獪な政治家は地方の小政治屋を釣る方法を最も良く心得ていたのである。しかし時間が切迫していた。僅か一日の間に三百通の招待状を、博文の遅筆を持ってしては到底書き得るものでは無い。では何処にその代表者を求めたらいいのか、神の如く敏速で、且つ博文の書を正確に真似得る者、傍らに参謀格で納まっていた小坂某が、卓を打って叫んだ。
「駒寅!」
「小坂さん、駒寅ってのは何ですか」
 博文が聞いた。
「この町にいる偽物師です」
「偽物師???」
 博文は自分がさっきから求めていた物が、その偽物師である事を忘れて、ちょいと眉をひそめたが、やがて吐き出す様に言った。
「すぐにその男を呼んでくれたまえ」
 この博文の意志を持って席の近くに居た大田三之助が、金井端の駒寅の許に駆けつけた。だが駒寅はにべも無く断った。
「俺は政治家に会うのは真っ平だよ」
 では会う事はしなくていいから、代筆だけは引き受けて貰いたいと言うことになり、潤筆料一通二十銭の約束で、三百通を僅か一日で書き上げ、博文をして驚嘆させた。駒寅はその後、良く訪問先で、この手紙が扁額(へんがく)と仕立てられ、家宝として飾ってあるのを見ては、幾度苦笑を漏らしたかも知れない。


              ( 七 )
 
 大正二年の秋、駒寅は須坂の書画屋某に頼まれて、彩色の山水画に果亭の落款を入れてやったのが元で、長野書に逮捕された。三日目に証拠不充分で釈放されたが、その頃、長野地方に現れる果亭の偽物が非常に多い所から、俄に検事局の活動となり、五日の後に再び囚われた。長野・須坂・松代・上田等の各地から、召喚された画商数十人に及び、何れも戦々競々たるものがあった。
 そのなかでも最も狼狽したのが、かの千曲館主遠山某だったことは言うまでも無い。しかし機敏な遠山は、駒寅の最初の逮捕の様子から、必ず第二の検挙がある事を知って、直ちに策動を始めた。遠山は多くの資本家がそうである様に、あらゆる場合に自己の不利益なる事を浴しなかった。そこで遠山自身、決して駒寅の許に寄り付かず、人をやって駒寅との連絡を全て近くの蕎麦屋の二階でとった。
 そして二人の間で、次の様な契約が取り結ばれたのである。駒寅はいかなる取調べを受けても、決して遠山との共犯を否定する事。又遠山はそれに対する報酬として収監中の差し入れは勿論、駒寅の留守宅の生活を保障すること。又将来の生活に対しても補助を与える事。

 駒寅は二度目の検挙によって家宅捜索を受け、隠匿してあった古今の画泉書家等の雅印を押収された。そしてこの動かない証拠を突きつけられては、自白しないわけには行かなかった。だが特筆すべきは駒寅が遠山との間係について、遂に口を割らなかったことである。かくて駒寅は文書偽造の罪名の許に、懲役三ケ月の刑を受けた。時に駒寅六十二歳だった。
 駒寅が出獄したのは、三月の初旬で風の吹く寒い日の夕方であった。駒寅は予め通知してあったのだから、門の外に少なくとも二人や三人の友人は、暖かい手をさし延る為に、待っていて呉れるだろうと思うと、くぐり戸のハンドルを握る手がかすかに震えるのを感じた。だが外に出た時、駒寅の視界に飛び込んで来たのは、たった一個の人間だった。そこには大田三之助が、憮然として立っていたのである。大田から見ても駒寅は小さな荷物を抱えて出て来る時、見違えるほど痩せていた。そんな姿を見るのが耐えられないと思った。で大田はわざと大きな声を掛けた。
「どうした中村」
「何だ、君一人か」
駒寅は寒そうに言った。
「外の者はどうした」
「知らない」
「そうか、君一人か」
駒寅はさっきと同じ言葉を繰り返した。そして急に激越した調子で、大田の手を握った。
「大田、今度はいろいろと世話になった」
「なぁに、お互い様だよ。兎に角帰ろう。子供も待っているぜ」
「うむ」
 駒寅は歩き出した。大田は通りへ出ると、老友の為に車屋を呼んで来た。

 この事件を契機に、駒寅はもう一度芸術家としてのスタートを切るべく決心した。六十年の生活に成しえなかった画家としての仕事を、これからの生活で取り戻そうとした。彼は決して偽物を書かなかった。その為に号も曦山と改め、毎日の様に淺川村辺りの気に入った自然の中へ写生にでかけた。それは全て痛ましい位の精進振りであった。しかし不思議なことに、今の駒寅が描くものは、何を描いても誰かしらの絵に似ていた。果亭であるとか、文晁であるとか、梅渓であるなど何処かしらそれらの人の画風が浸み込んでいる。駒寅は焦り、悶え、そして懊悩(おうのう)した。
 しかし余りにも長い間、他人の絵を真似ている内に、遂に自分の絵を失ったとしたら、画家にとってこれ以上の不幸はない。画家としての蘇生の夢は空しい。偽物は書かない。遠山某は蕎麦屋の二階の約束を、忘れた様な顔をしている。
駒寅の晩年は貧困そのものだった。
 大正十一年の夏、駒寅はその頃、曳き移っていた問御所の家で、永らく煩っていた心臓の病から歿した。垂死の床に駆けつけた大田を見ると、頻りに何かを言いたそうだった。そこで紙と筆とを途って渡すと、即座に大硯と書いた。大硯!駒寅は垂死の床で大硯を求めているのだろうか。大硯をとって紙一杯に書きつけようとしているではないか。
 不合理な社会に対する最後の不平を・・、それとも未だ書き残した偽物を書こうとしたのか?これは永久に解くことの出来ない謎だった。枕元に未だ硯が、碗が運ばれない内に、駒寅は死んでいたからである。

 以上を持って自分の駒寅伝は終る。
人はこの粗雑な僕の文章の中から、各々違った暗示を受けるだろう。ある人はこの世の中に存在する深山の駒寅を想像するだろうし、又ある人は無数の傑作を残して遂に無名の絵師でしかない駒寅を通して、この世界の仕組みを嗅ぎつけるだろう。だが諸君はこう言う疑問を抱くことはないだろうか?
 駒寅の作品は果たして偽かと、これこそが本書が世に問わんとする最も大きな課題の一つである。  (完)


      あとがき                     梅原 逞

 物語は謄写版と呼ばれる方法で和紙に刷り、それを二つ折りにして綴じられたた、所謂ガリ版刷り印刷で刷られ、遺されていた大分古い冊子に書かれていた話である。当然と言えば当然だが、出版社も発行年月日も書かれてはいない。表紙の左上には『象山偽筆大家駒寅之一生』の文字が、これも手書きで刷られて、見開きに「偽物師駒寅」と書かれ、著者名である塚原健二郎の名前があった。
 活字印刷の出版物と違って全てが手作りであり、書かれた内容は一人の特異な才能を持つ絵師が、偽物の書画を描き続けなければ生きて行けない憐れさを見た話である。

 主人公の駒寅と云う絵師が、果たして憐れな労働者かどうかは別にして、私がこの冊子と遭遇したのは、既にネットの星空文庫に投稿している『秀でた遺伝子』(評伝・佐久間象山と宮本家の人々上・中・下巻)と題した著書の、間係資料の取材をしていた時である。特に松代に生まれた佐久間象山や、その『佐久間象山』の生涯を書いた宮本仲の事に付いて、資料を捜し求めていた最中であった。
 私は当事、佐久間象山をキーワードにネットから検索し、その内容を吟味する為に図書館に通う毎日を過ごしていた。週刊長野の記事アーカイブの中に「駒寅の一生」、~珍しい冊子に出会う~、とする記者の紹介記事が、そもそものこの冊子との出会いであった。しかも驚いた事に、この小説の文頭に出て来るA博士が、私の著書で星空文庫に投稿している、「秀でた遺伝子」の中に書いた宮本仲氏であった。仲の父親である宮本慎助は佐久間象山の門人でもあり、仲が幼い頃は佐久間家の屋敷の隣に住み、父親が松代藩勘定方に勤めていた事もあって、幼い頃に象山の膝に乗せられ、可愛がって貰った事があったと言う話を幾度も聞かされて育っていた。
 そのA博士である宮本仲氏が没したのは昭和十一年の事で、当然だが当時は実名を出し、冊子を発行する事は憚れる時代である。何故ならこの物語は信州の狭い田舎町、松代に生まれ育った人達の話だからである。

 冊子を蔵書されている県立図書館の司書の方によれば、著者の奥様が図書館長であった乙部泉三郎氏に贈呈されたものだと言い、著作権が平成二十七年(二〇一五)に切れている事を教えてくれた。それ故にこの冊子は、本棚に並べられて読者を待つ様な本では無い。恐らくは同人誌など、仲間内で読み回されていたものだと思う。そして私の知る限り、世界でただ一冊のみが、残された冊子であると思っている。この冊子は長い年月を書庫の中で眠っていた事を物語る様に、古文書の様な赤茶けた色に変色が進み、薄い和紙の周囲は破れかけていた。

 しかも先に述べた様に活字印刷ではないから、旧字体の著者の手書き文字が、そのまま使われている。しかも現代では殆ど使われなくなった、難解な言葉が多用されている。その結果、著者固有の癖字が多く使われていることもあって、解読するには少々の時間と、かなりの努力が必要になる。それ故に一般の人が原本をそのまま読む事も、或いは可能ではあるだろうが、貸し出し禁止の書籍であるから、丸一日は図書館に缶詰状態になるはずである。
 そこで難しい漢字には読み方を入れ、或いは現代風に書き直して読み易くし、著者の考えを尊重しつつも勝手ながら、現代風の読み方に書き直し発表させて貰う事にしたのだ。それにしても冊子の著者は、かなりの学識と教養を持ち合わせている事が伺える。

 著者の没したのが五十年余り前だが、冊子が発行された時期は知る手掛りも無い。ただ前書きの中で従弟が横浜港から船でアメリカに向うとなると、昭和四年から昭和十六年まで続いた、太平洋北米航路が運行された頃である。
 しかもA博士が旅立つ愛弟子の細君に日本画を送った事を考え合わせれば、A博士が歿したのが昭和十一年(一九三六)の事だから、それ以前の大正末期から昭和初期に書かれたものだと推測できる。
 物語の中の時代は、佐久間象山が蟄居を解かれた翌年の文久三年(一八六三)頃から、大正十一年(一九二ニ)の主人公駒寅の死によって終っている。

 物語がどの様な意図で書かれたかは別として、図書館の書庫で埋もれるのは、少なくとも著者の本意ではないと考えた次第である。特にこの物語の中に出て来る佐久間象山やA博士、或いは勝海舟など、既に自らの著書である評伝『秀でた遺伝子』の中で述べていることから、併せてお読み頂くと益々面白くなる筈である。何れにせよこの物語は、まるでテレビ番組の「何でも鑑定団」を彷彿とさせる、偽物作りの現場の話なのである。

偽物師 駒寅

偽物師 駒寅

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-15

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