北斎の陰謀 (下巻)
十二、小布施まで
十二 小布施まで
千曲川が犀川(さいかわ)と合流する東岸には、越後国の十日町に通じる谷街道と呼ばれる道がある。街道とは言っても大名が行列を連ねて江戸に向かう道とは違い、千曲川の東岸の河畔に点在する其々の集落を繋いでいる道で、言うなれば人々が日々の暮らしの中で往き来する事で出来た様な道である。
この道が谷街道と呼ばれたのは江戸時代中期の国学者、瀬下敬忠(せじも のぶただ)が信濃国の歴史や風土、それに名所などを書き表した『千曲之真砂』巻之九から来ている。尤もこの道が谷街道として地図に記載され、広く呼ばれる様になったのは明治時代に入ってからの事で、信濃から越後に向かう国境の道を歩き「惣じて飯山より森村※へ出る迄は、川を右に見て行き両方の岸高く、川つぼみて谷のごとし、依りて谷通りと云うなり」とある。
(※ここで言う森村とは、後に明治九年に隣の青倉村と合併し、更に平滝村や白鳥村と合併した現在の長野県栄村の一部を指している)
北信濃の小布施村が雪深い越後国とを繋ぐ谷通りと呼ばれた街道の南の端に在って、穏やかな気候と共に地理的にも恵まれた場所であったのは、そこが千曲川の流れと東の雁田山に連なる山塊に挟まれた風土だと言えるだろう。土地は大方が砂地で、千曲川へと向かって緩やかに続く斜面である。元々が扇状地の為に水はけも良く適度な降水もあり、そして温暖な気候の求められる綿花が育つ事の出来る、信濃でも限られた場所であった。
それに晩冬には千曲川の河畔を埋め尽くす様に咲く菜の花の種から、行燈の灯油となる菜種油が絞られ江戸へと送られ、その菜種油の搾りかすは綿花の肥料となって無駄の無い循環を繰り返していた。この綿花から木綿糸を紡ぎ綿布を織り上げ、一方では藍を育てて藍染めの綿布を江戸や大坂へと売るのである。
千曲川に近い低い土地には米が作られ豪農商と呼ばれる様な家が生まれたのも、豊かな暮らしを作り育てる土壌が根付いて居たとも言えるのである。それ故に、この小布施村の歴史は古く稲作が伝わった頃から出来た集落だとも言われ、平安時代まではその集落もそのまま残り江戸時代に入ると安芸国より減封・転封された戦国時代の武将、福島正則がこの地に入り、小布施や須坂そして中野などの地を治める事となる。
そして元和元年(1619)に福島正則が転封してから没するまでの僅か五年の間、六川村の亦右衛門に命じて、それまで北に向かっていた須坂と小布施の間の扇状地に流れる松川の向きを、千曲川のある西に替える瀬替えの治水工事を行った事で、小布施に幾つかの町組が生まれたと言っても良いだろう。
それにしても小布施や須坂が北信濃の他の何処よりも抜きん出ている豊かさの源の一つは、須坂の先の仁礼宿から続く大笹街道を使えば、大名が通る北国街道よりも一日早く江戸に着く事が出来ると言う地理的条件があった。それ故に小布施に春が訪れる頃には、江戸や上州に向かう人と荷が多く行き交う場所でもあった。
北国街道は浅間山の南麓の中山道と交わる信濃追分宿から、千曲川沿いを上田、戸倉、屋代から千曲川を渡り、善光寺を経て新町から牟礼そして野尻宿を越えて越後の直江津で北陸道に繋ぐ街道である。一方の北国東脇往還は松代道とも呼ばれ、北国街道の屋代宿から別れて千曲川東岸を松代、福島、神代を経て千曲川を渡り、牟礼宿で北国街道と再び繋がる善光寺を避けた脇街道である。
処が北国東脇往還の福島宿から江戸に向かうには、大笹街道の仁礼宿を経て中山道の沓掛宿(現、中軽井沢)までは十四里、それが同じ福島宿から北国街道の屋代宿を経て中山道の沓掛宿までは二十三里と、仁礼宿から菅平までの険しい山道はあるものの、九里(三十六キロメートル)の違いは明らかに鳥居峠を越える大笹街道の方に分があった。それはまさに旅や荷を運ぶ為に要する、貴重な一日を省く事が出来る近道であったからである。
更に小布施の千曲川に面した山王島河岸や押切河岸から、越後の新潟港までを厚連舟で米や菜種油、更に綿花などの特産物を送り出すなど、富山や越後そして江戸から見ても、北信濃の小布施は交通の要衝とも言える場所なのである。
この大笹街道は北国街道東往還の福島宿から別れて上州の高崎や草津などに向かう街道で、仁礼宿からは宇原川沿いの険しく細い山道を喘ぎながら登り、峰の原から菅平を経て鳥居峠から大笹宿までの山道である。この大笹宿から江戸に向かうには右に折れて浅間山の肩を通り、中山道の沓掛宿(現、中軽井沢)に出て碓氷峠を下るか、或いは大笹宿から狩宿(かりやど)を経て万騎峠を越え大戸を通る信州街道で高崎に向かうが、大笹宿から高崎宿までの道は其々の距離に違いはない。尤も大笹宿からは吾妻川沿いに下り、長野原から草津の湯に向かう旅人も多かった様で、草津に向かう道は何処からも草津街道と呼ばれていた程である。
とは言え大笹街道の冬は雪が積もる為に道は険しく、峰の原から仁礼宿までの山道は急峻な為に、多くの旅人と共に牛や馬が谷に転げ落ちて供養塔の多い山道でもあった。文政元年(1818)に江戸から三国峠を越えて越後に入った戯作者の十辺舎一九は、膝栗毛の続編として取材を兼ねて善光寺詣での後、草津温泉に向かう為に大笹街道を歩いている。その折に残した感想は「善光寺より上州草津にゆかんとして、大笹通といへるを行。殊に難渋の山道なり、仁礼駅より田代といへるまで、行程七里のあいだ山里なし」とした一文を書き残している。
だがその反面、雪が消えるとなれば江戸に向かう荷駄は途端に多くなり、信州と上州の国境にある鳥居峠が別名で油峠と言われているのも、千曲川河畔で採れた菜種油が江戸へと送られた事に由来するからである。
この大笹街道が広く世間に知られる様になったのは、慶安三年(1650)に起きた北国街道の宿場名主達との駄賃荷物からの訴訟からであった。つまり北国街道で運ばれた荷駄が、松代藩の仁礼宿から大笹宿への山中の脇街道を通る様になった為、駄賃荷物が本街道である北国街道を通らなくなった。これでは大名の上り下りの人馬の手配まで差し障りが生じる、ついてはなんとかして欲しいと言う訴訟を幕府に訴え出た事に始まるのである。しかし大笹街道はこうした参勤交代以前から使われていた道であり、少しでも利権を増やそうとした北信濃の、分けても北国街道の宿場名主達の考えそうな名目でもあった。
倉賀野河岸で舟を降りた北斎達の三人は、中山道の倉賀野宿を通り過ぎると隣の高崎宿へと足を向けた。これから向かう小布施までの四日か五日、その為の僅か一里の距離を歩いたのは足慣らしの意味が有ったのである。とは言っても北斎や阿栄は高崎宿まで歩いただけで、翌日も泊まりを予定していた中山道の松井田宿までは、ずっと馬の背に跨っての道中であった。更にその翌日は馬で碓氷峠を越えて軽井沢宿に泊まり、こうして中山道を追分宿で別れて海野宿で泊まると、上戸倉宿で一泊して北国街道の屋代宿で今度は北国東脇往還に、更に福島宿から越後に向かう谷街道を歩いた。殆どは馬の背に揺られての旅ではあったが、今年は梅雨も短い所為か気が向けば宿場と宿場の間を歩く事も出来て、総じて天気にも恵まれた旅であったと言えた。
それに大笹街道と比べ一日の遠回りを敢えて承知で北国街道に足を向けたのは、大笹街道の特に峰の原から仁礼宿までの山中七里の道には人家が一切無いと言われ、天候が悪くなる事を避けた為でもあった。やがて須坂から小布施村に入ると、上町(かんまち)と中町の境に福原から来る谷脇街道と出会う辻に鴻山の店と家はあった。
弘化二年(1845)五月二十八日 北斎の一行が小布施の鴻山宅に着いたのは陽の沈む少し前の事である。谷街道の通り面して店を構える裏に鴻山の住いはあるのだが、勝手の知った北斎は通りに面した店の中に顔を出して声を掛けた。
「おぃ、北斎だ、今着いたぞ、旦那様を呼んで来ておくれ」
「へぇ」
北斎を見た手代は北斎に突然に声を掛けられ、慌てて店の裏手から母屋に走っていった。
「どうだ、小布施にやっと着いたが、なかなかいい所だろう」
北斎は労わる様に阿栄に声をかけた。江戸と比べても幾らかの涼しさを風が運んで来る様で、それに山の緑が眩しく目に映るのだ。
「やはり江戸とは違って、随分と静かで湿気が無いのがいい感じだねぇ。それに遠くの高い山の頂が見えて、あの山の向うは富山かねぇ」
夕暮れの中に見える遠くの山並を見て、阿栄は感心したように北斎に聞いた。
「あぁ、そうらしいな、もう少し北の方に見えるのが妙高といってな、その向こうが直江津になるはずだ」
店の前の谷街道に面した両側には、幾つもの商家が並んでいた。その商家の多くは店と隣の住いへの入口、更には土蔵も街道に沿って建てられて、間口一杯に通りに向けて並んでいる江戸の商家とは大分様相が違っている。
その時であった
「先生、ようこそお越しなさいました。道中は大変でしたでしょう。おや為斎どのもご一緒で、まぁともかく家の方に」
久しぶりに会えた嬉しさに、顔を思いっきり崩して鴻山は北斎達を迎えたのである。
「おぉ、旦那様、ご無沙汰しておりました。お蔭で今度の旅は歩く事も半分で済みました、これもひとえに旦那様のお力添え。おぉ、そうだ、こっちが阿栄で画号は応為と名乗らせております私の娘で、為斎の方は既にご存じのはず」
若い孫の様な鴻山に対し旦那様と言う関係を見つめながらも、阿栄は戸惑いを隠して頭を下げた。父親である北斎が旦那様と呼ぶ言葉に、どこか不思議な感じがしたからである。
「高井鴻山と申します。阿栄さまには初めてお目にかかりますかな、ボチボチ着くのではと私の方もお待ちしていました。今日は六斎市が近くの空き地で開いておりましたものでな、昼間はそちらが忙しくて少々立て込んでおりましたが・・まぁ御挨拶は後にして、まずは座敷の方におあがり下さい」
未だ建てて真新しい匂いのする、厠も押入れも無い六畳程の一間だけの離れであった。
「昨年の秋に出来上がりまして、先生が又小布施においでになられた時は、ぜひここで画を描いて戴こうと思いましてな。名前も何処までも澄んだ深い海の青と、そして波とで碧椅軒と名付けました」
「おぉ、それはいい名だ、旦那様らしい名前の付け方ですな」
障子戸を開けると目の前には鴻山の好きな庭があった。確かに画を描く為だけの離れではあったが、三人は畳の上に座り、やっと小布施に着いた事を実感したのである。そしてその夜、北斉が又小布施に来た事は、瞬く間に村中に知れ渡ったのであった。
翌朝、それも昼前であった。かつて東町の祭屋台を任されていた総代の与兵衛が、小布施に戻った北斎の話を聴きつけて顔を出したのである。
「その節は誠に師匠にはお世話になり、ありがとうござました。お蔭で祭屋台も無事に出来上がりまして、天井の鳳凰図も龍図も近在では広く見に来て頂ける様になりましてな、東町の者達もみな喜んで折る所でございますよ」
「それはよかった、何よりな事で。しかし彩色したのは門人の鴻山やこの為斎達、儂はただ下絵を描いて彩色の指示を出したまでの事。褒めるならぜひ鴻山や為斎を褒めてやって戴きたい」
「そりゃあ勿論の事で、お若い為斎さまを初めて見た者は北斎殿と間違われてなぁ、子供達などは「いさい卍」と言うてはやし立てて、お仕事の邪魔などしてないかとハラハラしておりました。それに桝一の鴻山どのは小布施村きっての才のあるお方。今年は上町の祭屋台を造られると伺いましてな、とても喜んでおるのですよ。それに何でも祭屋台の骨組も半分程は既に出来上がり、秋の初めには彫り物の方も出来上がると聞いております。亀原和太四朗が何でも幾度か気に入らないと造っては壊しと、大変な意気込み様でわしらも楽しみにしておる処でございますよ」
秋の初め頃には出来る予定の、祭屋台の二階の欄間を飾る皇孫勝の進み具合は、北斎も鴻山からの手紙で知ってはいた。しかし幾度も叩き壊していたなど、初めて聞いた話であった。そうした話をして与兵衛は返って行ったのだが、何か彫師の和太四朗には悪い事をしてしまった様な気がした。彫り上げて貰う為に北斎は、皇孫勝の画を一枚と水滸伝の読本を一冊、渡しただけだったからである。
上町の祭屋台の天井画と共に北斎は得意とする所の中国四大奇書と言われる水滸伝の物語から、その登場人物である皇孫勝と空を羽ばたく応龍を描き、皇孫勝の方を高井郡で寺社の彫刻を代々携わっていた亀原和太四朗に頼み、応龍は江戸の彫師の松五郎に彫らせたのである。
応龍の彫り物は金泊を使う為に江戸で彫らせたのだが、まだその応龍も小布施には届いてはおらず、十八屋からの送り状だけが鴻山の手許に届いていただけであった。
その日の昼過ぎである。北斎は阿栄と為斎を連れて、伊勢町の穀屋へと向かった。親戚関係にある日本橋の十八屋からは、小布施に逗留する四か月か五カ月程の間、穀屋で阿栄が画を教える為に、そして住む為の部屋を借りる事を大凡は承諾していると聞いていたからである。阿栄も又自らの技量で小布施の人に画を教え、小布施では数か月の間を暮らす覚悟で父親の北斎と共に来たのである。
穀屋は鴻山の住いから三丁程を北に向かい、桝一と同じ谷街道の西側にあった。他の店と同じように店は通りに面していて、住まいも又それに続く様に通り沿いに建てられているのである。更にその奥には母屋に繋がる様に、味噌蔵や醤油蔵が並んでいた。
北斎が訪ねると奥から出て来たのは、齢も五十を過ぎたと思える当主の平左衛門であった。
「穀屋の平左衛門でございます。十八屋の文右衛門さんからは手紙を頂戴致しておりまして、事情は呑み込んでおります。阿栄さまのお使いなさる部屋は、店の二階に空けておきました。そちらで江戸にお戻りになるまで、お使い頂ければと思うておりますがお気に召すかどうか」
案内された二階は店の真上で街道が見下ろせる、三畳程の納戸の付いた六畳一間の部屋であった。毎日の食事は穀屋で用意してくれると言う話に、阿栄はほっとしたような顔になった。
「それじゃ明日からでも部屋を借りする事にして、おとっつぁんの方は何か」
阿栄は同意を求める様に、父親である北斎の返事を待った。
「そうと決まれば早速にも、画の習い所の看板をださなきゃならんなぁ」
肩の荷が一つ下りたのか、北斎の頭には既に先の準備の事を考えていた様であった。その時である、幼い二人の子供が部屋の外に立って、この大人達のやり取を見ている姿を北斎は認めた。その視線に気が付いた平左衛門が口を開けた。
「おおぅ、そこに顔を見せて居るのが我が家の息子達で。二人とも、お客様に挨拶を。上が熊之助、下が岩次郎と申します。お見知りおきの程、お願い致します」
阿栄が齢を聞いた。
「幾つになるのでしょうかね」
はにかんでいるのか、云おうとしない子供に代わって平左衛門が答えた。
「上の熊之助が十二となります。下の岩次郎は今年で八歳となります」
その八歳の岩次郎が何を思ったのか、為斎の傍に来て膝に乗ったのである。遊んでもらいたいと思っている様であった。
「遊んでもらいたいのではないかな、齢の離れた兄に思えたのかもしれんしな」
と、微笑みながら為斎に言った。
「それじゃ少し、外で遊んでやる事にしますか」
苦笑いをしながら為斎は、許しを請う様に北斎と平左衛門に言った。
「おやおや、ついに為斎もその気になった様だのう」
そう言って北斎は大きく笑った。阿栄も平左衛門も同じように声を立てて笑った。
十三、佐久間象山、十四、師と門人
十三、佐久間象山
それからしばらくし後の事であった。北斎と為斎そして阿栄が鴻山の建てた碧椅軒に戻ろうと、いとまを平左衛門に告げて穀屋の店先を出ようとしていた時の事である。穀屋の店先に一人の武士が顔を出した。齢は三十過ぎか四十近くにも見える、何処から見ても学者の様な面構えの風体である。
「御免」
「おや、これは珍しい佐久間様、ご無沙汰致しております」
穀屋の平左衛門は馴染の客でもあるかのように、その武士に声を掛けた。
「おぅ、平左衛門か、実は江戸から戻ったばかりでな、偶々今日は一日暇を貰ってよ、請願文を納めに本誓寺に出掛けたのだが、近くの寺尾の河岸から下り舟があったものでな、少し足を延ばして小布施まで来てしまったと言う訳よ」
「それはそれは、先日は母上様からお手紙を戴きましてな、味噌が足りなくなったとか」
「おぅ、それよそれ、小布施来れば母上への土産は、この穀平の味噌に限るでな。それを求めに寄ったのよ」
「おや、佐久間さまも江戸に行かれましたら、又一段とお口が上手になりました様で。おぉ、そうでした、ご紹介したいお方がございます。こちらが昨日江戸からお見えになられた絵師の葛飾北斎どの、お連れのお若いお人は門人の為斎さま、そしてもう一人の若いご婦人が北斎翁の娘殿の阿栄さま」
「佐久間修理と申す。しかし今日より象山(しょうざん)と呼んで戴たい。わしは画心なきものにて画の事は全くの門外漢。しかし北斎殿の名前は江戸では知らぬ者は居ない程のお方と聞き及ぶ」
象山は、まるで顔を覚えるかの様に、ひとわたりそれぞれの顔を見ると軽く頭を下げた。
「画工の北斎でございます。高井家に暫くの間ですが逗留致しまして、祭屋台の天井画などを頼まれておりましてな、お見知りおきを」
「為斎と申します」
「阿栄でございます」
三人も軽く象山に頭を下げた。初めて合う象山の言葉に、肩ぐるしさは微塵も感じなかった。
「そうか、北斎殿は高井の家にお泊りか、出来れば鴻山には、こちらも元気だと宜しく伝えて欲しいが、お願いする」
「心得ました」
北斎は快く象山の頼みを受け止めた。
「おや、お寄りされないのですかな」
以外だと言う様な顔をして、平左衛門は象山に聞いた。
「あそこに顔を出すとよ、何かと話がながくなるでな」
その屈託のない話し方は、どこか自分に似ていると北斎は思った。そして不意に、一つだけ聞いてみたい事を思い出したのである」
「唐突な話で申し訳ないのですが、ひとつ象山先生のご意見をお伺いしたいのですが阿蘭陀の言葉を理解する事は、それほど大事なのでしょうかな」
北斎の素朴な質問であった。
「世界の言葉は何も阿蘭陀語だけではないぞ、露西亜語や英吉利語、仏蘭西語など様々よ。やがてはそうした異国とも、否応なしに付き合いをせねばならなくなる。何時までも海の向こうに行っては駄目だと言うていたら、むこうから今度はこっちに押し掛けて来る様になった訳だ。しかも進んだ考え方で造られた異国の品々を見ていると、ただ単に肝を潰してばかりもいられないと思う訳だ。時代に追いつくか取り残されるか、どちらかの国になるのかが問われ始めているのさ。それ故に相手を理解するには相手の言葉を理解する事よ。今は全ての言葉がまず阿蘭陀語に、そして英吉利語や露西亜語に訳されて行く訳で、なかなか理解するには手間暇がかかるものよ」
「実はこの私めの門人に、本間北曜と申す者がおりましてな、盛んに長崎に行きたいと申しておりまして」
北斎は故郷の酒田に戻っている若い北曜の事を思い出していた。
「それはいい、まずは長崎に行けば阿蘭陀と申す国が、どれほ程のものか身に染みて感じる事だろうよ。しかもだ阿蘭陀から来た者達は、我等が知らない多くの事を存じている。人の体の隅々の事、その人体の病を治す医学や、天空におきる天体の運行から、果ては植物から動物、しかも学問を学ぶ為の大学というものは、既に今から二百七十年も前に創られている。それにわしが最も羨むのは、世界と言うものを知っている事だ。何故に石が地に落ちるのかも理解しておるのよ。この大地がとてつもなく大きな星の一つである事もな。それに阿蘭陀や葡萄牙などの異国は、地続なるが故に絶えず領土を奪い合う戦いを行い、海に鉄の船を浮かべると言うが、この国がその技術に近づくのもなかなか容易な事では無いぞ。しかし愚痴を幾らこぼしても前には進まぬでな」
店の中で熱く語る象山のその頭の上には、大きな書で「穀屋」と自らが筆で書いた額が飾ってあった。
武士で居ながら誰とでも直ぐに親しく言葉を交わす事の出来る男とは、今まで一度も出会った事の無い全く異質と言ってよい部類の人物だと北斎には思えた。江戸で北斎が人伝に耳にした話ではあったが、伊豆の韮山で代官をしている江川英龍からの教えを受け、反射炉で自らが鋳造した大砲を試し射ちを行った処、物の見事に砲身が砕けたというのだが、象山は平然と「負けを失うと書いて失敗と読む、負けも失わなければ失敗に非ず」と上司に語ったと言う話であった。それに象山が教えを受けていた江川英龍は、砲術の講義を教え終わると、それぞれに免許皆伝なるものを受講者に授けると言うのだが、象山はそうした古い形式を極端に嫌い、書き写した阿蘭陀の砲術書を友人から借り受けると独自に学んでしまったと言うのである。
この佐久間象山は松代藩の五両五人扶の下級武士の出ではあったが、幼い頃から和算のなどの他にも朱子学や儒学を学び、二十歳の時には漢文百編を書きあげ、松代藩主の真田幸貫の世子である幸良の近習に取り立てられている。天保十年に江戸で私塾「象山書院」を神田のお玉が池に開いているが、この頃に同郷の者として高井鴻山は時折、この塾に顔を出していたのである。
象山が江戸で門人達に教えていたのは未だ儒学であった。ところが藩主の真田幸貫が天保十二年に老中に任じられると、大きく象山への風向きが変わってきたのである。翌年の天保十三年には幸貫が幕府老中を兼ねて海防掛としての任を負うと、象山は早速に藩主幸貫の命でこの伊豆の韮山代官の、江川英龍の許で西洋の兵学や砲術を学ぶ様に求められた。
この経験から「海防八策」を幸貫に進言し、開国論者となって行くのである。後に象山の門人からは勝海舟、小林虎三郎、吉田松陰、坂本竜馬、河合継之助、吉田寅次郎、加藤弘之など、後の明治維新に深くかかわって行く人々を育てる事になるのだが、これは未だ二十年程の後の事である。
十四、師と門人
北斎が穀屋に顔を出したその翌日、朝から為斎と阿栄は穀屋に出掛けて留守であった。北斎は鴻山にこれからの打ち合わせをしたいと伝え、上町の祭屋台の天井画の段取りを話す事にした。それに飾りの彫り物の方も、大凡は決めておかねばならない事もあったからである。
それに鴻山から描い欲しいと話のあった岩松院の天井画も、取り敢えずはここで話して於かなければないと北斎が思えたのは、それが余にも大きな画であったからである。
「まず旦那様には祭屋台の男波と女波の天井画の彩色の方を、ひと月後にもなるとは思いますが儂が下画を檜板に写し終えましたら、それからお願いしたいと考えております。で更には儂が下絵を写し終えるまでに、額画の写しを旦那様がその間にして頂ければとは思いますが。全て仕上げると言うよりも、出来る限り筆を入れて戴くと言う思いがあれば後は何とでもなりましょう。その後に男波女波の彩色を施して貰いますが、早く見積もってもこちらに掛かる時間はひと月余り、途中に皇孫勝の出来が早まればそちらの彩色は半月で行うつもりでおります。それにもし皇孫勝の彫り物が遅れるようでしたら、それぞれの男波女波の彩色と両方の画の額画を分担してと考えておるのです」
「つまり先生、私の方は額の部分から始めて欲しいと言う事ですよね」
念を押す様に鴻山は確認した。
「まぁ手順としてはその様な段取りでお願いしますが、男波女波の下絵には凡そひと月程の時間がありますので、それに岩松院の天井画の方は本堂客殿の天板が、とにもかくにも六尺と五尺二寸の檜板が十二枚程が揃ってからの話で、こちらの天井画は畳でも二十枚以上もある大きさ、儂が一人で描いても恐らく半年、儂に半年を小布施に籠れと言われましても無理がありますもので、そう思って門人の為斎を小布施に連れて来た訳でしてな。
それと岩松院の天井に描く鳳凰画の下画は既に墨で描いてお送りした通りのもの、何とかこちらの方も後日、旦那様に手を入れて彩色をお願いしたいと思っておりまして。それに金箔や絵具の注文も計算して注文を出さなければなりません。既に下絵には絵具の量や金箔の枚数など計算してはございますが、注文はこちらから出されるのが筋と思います。画も末永く変色しない様に、荏胡麻油と顔料を混ぜ合わせて幾度か試してはいるのですよ」
「ほぅ、荏胡麻の油ですか、初めて伺いました」
感心したように鴻山は北斎を見つめた。
「西洋で描かれている絵具は、以前描きました通り顔料と油が合わされ何時までも退色しない様に考えられている訳ですが、何度か試しましたが荏胡麻油の方が描きやすい事と、ヒビ割れが少ない事を知りました。ほれ雨を弾く番傘に使われているあの油ですぞ。それにその道で先を行く絵師の司馬江漢からも、昔に聞いた事がありますのでな」
そう言い終えた北斎は、彩色の済んだ岩松院天井画の下画を鴻山の前に広げた。そこには五色の彩色を既に済ませた、見事なまでに羽根を広げた鳳凰が鴻山を睨んでいた。
「八方睨みと申しましてな、何処から見ても見る者を睨む様に描きました。技法は遠近法と言う描き方で、平面の板に奥行を描く技法となりますが、まぁこれは旦那様に話す程の事では有りませんでしたな。ですが彩色に手間取ると言うのであれば、ほれ、あの為斎に手伝わせる事です。筆筋はわしと同じで良く似ています。彩色だけをさせるなら、全く問題は無い筈と思い連れて来た訳でして」
「しかし先生、それでは落款も入れられず、後々に誰が描いた物かも分からなくなるかと思いますが」
作品とは誰が描いたかを名乗らなければならないもの、鴻山はそう思い込んでいる様である。
「さて、儂が思うにはまず誰が描いたかでは無く、どれ程のものを描く事が出来たのかが肝心な事だと思いますがなぁ。あの富嶽三十六景を描いた者は確かにこの儂だが、板に彫った者や画を摺り上げた者達も、それぞれに手を入れて出来上がったものが錦絵。決して儂一人が錦絵を描いた訳ではないと言えましょうな。しかし世間では北斎が描いたと言う。まるで彫も摺りも、全てこの儂一人でやったとでも言うかの様にですよ。
まぁその様に言っても、そう思うのもある意味で無理もない話で、絵師とて版元の儲け話に一枚加わっている訳ですからな。誰かが名前を晒さなければならない訳で、ほれあの東洲斎写楽の描いた大首画と同じ事、名前だけでどこのだれとも分からない、蔦屋重三郎の最たる仕掛けだったと思いますが。しかしまぁ、錦絵と肉筆画を一緒にて考えてしまうと、話は全くかみ合わなくなるとも思えます。何せ錦絵は版元の意図する商売が目的の品。
しかし暫く前の事になるのですが、この様な出来事が御座いましてな。既にお亡くなりになった歴代の将軍は、御影と言われる彫像と共に、その肖像画を描くのは通例の事でして。彫像は代々が京の仏師である七条左京法橋がこれを任せられております。そして一方の画の方は幕府御用絵師の宗家、中橋狩野派か木挽町狩野派のいずれかに決められております。
中でも天保十二年にお亡くなりになった徳川家斎公の肖像画は、狩野晴川院養信の手になるものでございます。この制作段階は生前に将軍の面貌(めんばく)を写生した紙形に始まり、先例の描かれた画を調べ更には着用されている服の紋様から素材なども細かく記録し、次に伺下画を描き上げて見て戴き、意見を聴いた上で始まるそうなのだが、その彩色は弟子の永奉晴水養広が行った訳でしてな。将軍家斎公の遺影でもですぞ。
ましてや江戸琳派の抱一(酒井抱一)が、弟子の泌庵か蠣潭(らいたん)に画の代作を頼み、自らの落款を添えたあたり、理由はどうあれ褒められた事では無いが、しかし頼まれた以上は何としてでも描くのが絵師の仕事。仕事のやりようは其の人、その流派それぞれと言う事ではありますまいか」
初めて鴻山は、絵師達の裏話を北斎から聞いたのである。
「それで先生は上町の祭屋台の天井画、つまり男波と女波の方はお手伝い戴けると言う事で」
「男波と女波は元々が下画を描くまで悩み抜いて書上げたものですからな、旦那様との合筆とした段取りで良いかと思っておりますし、無論ではありますが、手伝う事に何の不満も不都合ごございません。この夏の半ば頃までには画と人形は、何とか仕上げたいと考えておる所です。遅れたとしても阿栄も手伝ってはくれるでしょうし、それで祭屋台に使う絵具の方は私の方から頼んでおきましたので、明日明後日には届くかと思います。旦那様の方はどの様に段取りをお考えでしょうかな」
鴻山は頭を痛めていた。二年前の東町の祭屋台の修復の折に新たに作りたいと思い、自らの住いのある上町の祭屋台天井画を頼んだ時、目の前の北斎はこう言った。『門人である鴻山の故郷に来て、師たる者が自ら門人を差し置いて、頼まれたからととして落款を入れてまで描く事が出来ようか』と強く嫌った事があった。
確かに私事の好みで注文を出し、自らの金で自らが愛でる画を描いて貰うなら何の問題も無かったはずである。しかし末永くこの地に晒す画が単に独りで愛でる画では無い以上、同時に北斎が描いたという枕詞が後になり、門人の故郷に来てまでも名を売りたいのかと言う、あらぬ詮索まで呼んでしまう事も無いとは言えない事でもあろう。だからこそ門人の自分が率先して描き、師は手を差し伸べるだけとして落款を入れないと言った北斎の思いは、鴻山としても十分に理解出来るのである。あの時に師の北斎は「鴻山が門人を辞めるというのなら、儂は何のためらいも無く描く事が出来る」と言った事葉は、まさに師の言葉であった様にも思えた。
しかし思えば自らが画を描いて毎日を過ごす程、自分の時間を持て余している訳でもなかった。寧ろ何処か心の奥底では、金を払えば天井画の一枚や二枚は描いてくれるだろうと思っていた、そこに驕りのあった自分が居た事を今更の様に鴻山は恥じたのである。
「分かりました、一切を先生にお任せします」
鴻山はきっぱりと北斎に任せる事にした。
「そうと決まれば後で儂から、為斎にも話してみようと思う。なぁに未だ先の事だよ」
岩松院本堂の建物としての修復は、まだ始まったばかりであった。その天井の大きさは畳二十一枚分、長さ六尺と幅が五尺二寸の檜板を、都合十二枚を継ぎ足した大きさになるのである。無論だが木目を六尺に合わせれば、幅が五尺二寸の一枚板などそうそうある訳では無い、全て二枚の板を接合しての檜板である。描く日数も北斎に言わせれば半年、だが描く為の檜の板は何時頃に届くのかも未だ分からない話であった。
二年前に北斎は、この話が鴻山の口から出た時に下画だけは取り敢えず描いてみようと、礬水を刷毛に含ませた事である。あれは桃の花が咲くころではなかったかと、その時の事を思い出した。江戸に戻ってその下画に色を載せ、大凡の配色と共に絵具の分量を割り出したのだが、鴻山が誰に描いて貰うつもりで居たのか、北斎には未だに分からないままなのである。
十五、祭屋台の天井画 十六、松代藩次席家老小山田壱岐
十五、祭屋台の天井画
小布施も六月に入ると、例年通りに八坂神社の祭支度が始まった。解体された祭屋台が納められている蔵が開けられ、分解された車輪や屋根などが引き出されて、祭の屋台は又今年も組み立てられて行く。一年前に改修が済んだ東町と共に、二十年前に造られた伊勢町の祭屋台である。
北斎は為斎と連れ立って自ら下画を描き、途中まで筆を入れた東町の祭屋台を見に出掛ける事にした。為斎の方にすれば一年前に北斎に頼まれ、代筆で彩色を手掛けた天井画であった。これもあと僅かまで終わるという処に来て結局は鴻山に残りを託したのだが、江戸に帰って北斎に伝えると寧ろ上出来だと認めてくれたのである。最後に誰が筆を入れたのかが肝要な事だと言った。
上町から三丁ほど谷街道を松代に向かう左手に東町はあった。後は店の者に祭屋台のある場所を聞けば良かった。丁度屋台の組み立ても半ばほどが済み、天井画も箱の中から取り出されて、それらの組み立てを仕切っているのが与兵衛であった。
「これはこれは北斎どのに為斎どの、わざわざ祭屋台を見に来て頂きまして」
二人を認めた与兵衛は何事かと手を休めて傍に来て挨拶をした。
「組み上げられる祭屋台を見るのは初めてなものでしてな」
北斎はそう答えた。確かに為斎も北斎も天井画を描いてはいるが、目の前で組み立てられた祭屋台を見るのは初めてであった。祭屋台の天井を飾る画だけを描いて、屋台の大きさは話で聞いていたにすぎなかったのである。そう思った時に上町の祭屋台の天井画に、怒涛図とも呼べる男波と女波の激しさ、そして力強さが似合うと北斎には思えた。
祭屋台は総じて細長く、中央には大きな車輪が一対だけ取り付けられ、敢て重い欅材を使って二階建てに堅牢に作られている。唐破風の屋根を六本の、それもさ程太くも無い柱が支えて、その広い屋根を支える持ち送りは、朱に塗られて三手先の本格的な様式である。特に欄間の飾りには唐子や菊や鳥の彫り物を入れて、表には仙人や力士が極彩色で塗られている。こうした彫刻や天井画を浮き立たせる為に、天井廻りはその柱の殆どは黒く漆で塗られていた。
その祭屋台の天井中央には四尺四方の画が横に渡された桟を挟んで、前後に二枚がそれぞれに嵌め込まれている。この東町の祭屋台の天井画は、二年前には北斎が下画を描いて檜板に写した後に、鴻山には挨拶もせず江戸へと戻った思い出があった。なかなか筆を持たない鴻山に対し、それは無言の北斎の思いを伝えたと言ってもよかった。案の定、後から鴻山の泣き事の様な手紙に、為斎を小布施に行かせたのは翌年の春の事であった。
「どうだ、為斎から見て鳳凰図と龍図は」
北斎は一言、為斎に向かって声を掛けた。
「この彩色の九割に筆を入れたのは私ですよ先生、貶す訳には行きません。霊獣の龍、霊鳥の鳳凰・・・・どちらも実に見事です」
「画の出来上がりを初めて見たが、申し分のない程の仕上がりだ。鴻山も納得しただろうな」
「はい、恐らくは私と同じで、その様に聞いておりますが」
北斎は大きく頷いた。
「ところで為斎には何れ、この小布施で鳳凰の図をもう一枚描いて貰いたいと思うているのだが、それも畳で二十一枚程の天井画だ。それもこの近くの岩松院と呼ぶ古刹の本堂客殿よ」
「えっ、先生、まさかこの私がその様な大仕事をですか、入門してからまだ五年程の私ですよ。無理です、描ける訳が御座いませんよ」
謙遜でもなく、それは為斎の本音でもあった。北斎は鴻山から聞いた話を、この時に突然に為斎に語ったのである。
「まぁ黙って儂の話を聞いて、考えてから口を開くものだ。既に儂は下絵を描いて彩色も済ませておる。後で見せるが、絵柄はこの祭屋台とほぼ同じだ。ただ八方睨みの鳳凰と言うてな、古くからある技法の一つで、何処から見ても睨まれている錯覚を与える様に描いておる。恐らく一人で描くとなれば、まずは半年は時間がかかると思う。しかし本来、その様な大きな画は師を筆頭に同門の門人達が集められて描くのが通例。案ずるな、未だ描く檜の板も揃ってはおらぬ。それにその時は鴻山も手伝うはずよ。それに儂の方にも策はある。急いではおらぬ画だが、鴻山は儂に描いて貰えると思った様だ。しかし儂は当然の様に、この地に住む鴻山が自ら描くべきものだと言ったのよ。そこに大きな食い違いが起きた訳でのう」
為斎は驚きの表情を浮かべていた。返事一つでこれからの絵師としての道が、大きく開けるかも知れないと言う期待と、そして描けなかった時の不安が頭を持ち上げていた。
「儂は暫く上町の祭屋台に関わるつもりだ、天井画だけでなく彫り物の彩色もしなければならぬ。だからみ月や四月程は小布施に暮らすと決めている。ただこれだけは言っておくがな為斎よ、儂だけでなく為斎にも言える事なのだが、門人の住む場所に来た時は己の落款や落款印は入れぬ事だ。何故ならそこは門人が生まれ育った、その名を広める場所よ。それが絵師として頼また応需の画ならともかくも、本来ならば門人が頼まれる筈の画であったからよ。それに今更この儂がここで己の名を広めて何になる、この土地に住む鴻山と言う門人の手伝いと言う思いでこの小布施にいるのよ」
門人の仕事を手伝いに来ているという北斎の思いは、この小布施でも己の名を広める意志の無い事を、はっきりと為斎は耳にしたのである。金にも名声にも、その暮らしぶりにも無頓着な長屋住まいの似合う北斎らしい考え方だと、為斎は今更の様に思えた。
「為斎はこれからどうする。後は好きな様にして貰っても良いが、やはり江戸にこのまま戻るのかな」
「そうですねぇ、せっかく信濃に来たのですから、善光寺でも詣でてから江戸に戻りますよ」
「そうか、帰る時には阿栄の処に寄ってから戻れよ。少ないが路銀と手間賃位は用意してあるはず。それに鴻山からも手当が出ている」
「ありがとうございます、先生」
為斎は小さく頭を下げた。
上町の前に描いた東町の祭屋台の天井画は鳳凰図と龍図で、何れも陰陽五行に基づいて描いてある。この陰陽五行とは、世界は常に陰と陽、つまり互いに相入れないもの相対するもので構成されていて、更に世界は木、火、土、金、水で出来ているとし、其々の物質が互いに影響し合いながら循環を繰り返す事で、今度は互いの相生や相剋(そうこく)、更には比和と言われる増々激しくなる関係を、様々に説いた中国春秋戦国時代の思想である。
特に鳳凰は霊泉の水しか飲まず、梧桐(あおぎり)にあらざれば栖(す)まず、竹実にあらざれば食べずとも言われ、瑞獣と言われる麒麟、霊亀、応龍、鳳凰は礼記にも四霊と記されている。
だが今度の鴻山が造ると言う上町の祭屋台の、それも天井画は自分も関わっていた事を、どこかで何かで表現したいと北斎は考えて居た。そこで思い起したのがまず波の姿であった。富嶽三十六景の『神奈川沖浪裏』を描いた波に、更に力を与えたのは後に描いた富嶽百景で描いた『海上の不二』である。波頭が砕け散るその先から、浜千鳥となって空に飛び立って行く波であった。しかし打ち付けて砕ける波では画にはなるが、上下どちらか一方からでしか正しく見えない画でもあり、天井画には不向きとも思える。天井に描きたいのは混沌とした今と言う、この世の姿でありそこが中心であった。男と女が生きて蠢(うごめ)く世界なのである。その時に思い出したのは名古屋から大坂に出て四国に向かった時、淡路島から乗った船の上で見た、渦巻く鳴門の渦潮の事を頭に思い描いたのである。洋の東西が新しい考えや技術をひけらかし、或いは一方では眼を閉じて直視する事を拒んでいた。そうした激しく絡み合う渦の中に今、この国の男と女は放り込まれている様にも北斎には思える。今のこの国の姿こそを、二枚の小さな板の上に描いてみたいと思ったのである。
それにしても男波と女波が背を向ければ、それぞれが右に左にと異なる方向へと廻り始めるものである。ならば波しぶきの方向と色で、それぞれが自らの方に引き込む様を描く事が出来るとも思えた。波先に異なる向きを与える事で渦潮の如く、その怒涛図の向うに其々が求めている来世へと繋がっている様に表して見たいとも思えるのだ。
岩群青の青はを、幕府の葵に意味を重ねて揶揄を入れれば、岩群青を包み込む様に追いかける波は岩緑青の緑にしたい。顔料の岩絵具を今まで以上に粗さの種類を違えて、焼き方を変えて色の深さに奥行を持たせたいと思う。濃ベロや青ベロ(ベロ藍)がどの程度の年月で退色してしまうのか、
鉱物の岩絵具だけは何百年も色あせない事は理解していても、見栄えの良いベロは未だ良く分かっては居ないのである。
それに二種類の色が中心になると、画面は急激に暗く沈んでくるのである。せめて周囲にはまばゆいばかりの金地の額を使い、花々や生き物を描いて見たい、こうした構想が北斎の頭の中に徐々に出来上がったのである。既に墨画で描いた下絵は鴻山の手元に送ってはあるが、この額の男波の方には孔雀や極楽鳥、そして犀と呼ばれる亀の甲羅を背に載せた生き物も描いた。獅子も犀も見た事もない伝え聞いた生き物だが、北斎は北斎の想像で形にしたのである。
そして女波の額の方には天使とよぶ背に羽根のある子供と、南の島にいる鳥のインコ、そしてリスを入れた。花もつづみ草、憶良花、寒蘭、こまくさ、あざみなどを描いた。人の背に羽根を付けた天使の画は、シーボルトに言わせれば耶蘇教だけでは無く、希臘(ギリシャ)と呼ばれる国に二千五百年も前から描かれていると言う創造の生き物である。
尤も画の中に十字架を入れなければ、天使の姿を描こうがキリシタンとの関係を疑う者がいないのは、キリシタンが何かさえも民に知らせる事の無かった幕府の恐怖を、敢て北斎は単に逆手を取っただけであった。
それに元々が祭屋台そのものは、一度造れば百年は耐えられるものである。東町の祭屋台は偶々痛みが激しくなって、一部を修復した時期でもあったのだが、その費用は町組の衆を中心に村人からの夫銭集めが済んで始めた事であった。今度の上町の祭屋台は新たに造る訳で、鴻山が全ての費用を用立てる事になっていた。恐らくは鴻山も修復している東町の祭屋台を見て、造るならば今しか無いと決心したのが本音では無かったかと北斎は思っていた。
ところが今度は大島村の豪農と言われた根岸家が、上町の祭屋台は鴻山が寄贈する話を聞くに及び、福原にも祭屋台を造りたいと言う話が伝わってきたのである。土地の富める者から金を出す事が、まるで昔から続く暗黙の仕来りの様に今も行われている小布施とは、その様な土地柄だと北斎には思えたのである。
それが証拠に代々続く彫師と言う仕事が、途切れる事も無く今に続いている事であった。神社仏閣から祭屋台までの其の技が、北信濃の片田舎で代々引き継がれているのである。改修を行った東町の祭屋台の彫刻を手掛けた亀原和太四朗は、信濃の高井郡を中心にした寺社を飾る彫師で、寺社建築の彫刻を代々伝承して今に至る一門の四代目である。
この一門は代々和太四朗を名乗り遠方に出る事を拒み、北信濃一体の建築彫刻を手掛けて特に腕の見せ所は欄間や鐘楼、山門など一目で目に付く彫り物の腕であった。初代の亀原嘉康は幕府御用の彫り物師であった京の木原氏に師事し、修行を積んだ後でその木原の姓を使う事が許された。二代目の嘉重は初代が師事した木原の姓を名乗るが、三代目の嘉貞は亀原の姓が消える事をこばみ、木原の性は名乗らなかった様である。
北斎も四代目である嘉博(和太四朗)の腕を認めてはいるのだが、祭屋台の天井を飾る金色の応龍だけは江戸で納得がゆく様に作りたいと江戸の彫師に造らせたのである。
この黄金の龍を海から誘いだし、皇孫勝が呪文を与えて空に飛び立つ水滸伝の場面には、当然ながら黄金に輝いている応龍の姿が重要な意味を持つのである。北斎自らの意図で満足のゆく出来を願っての事であった。
この二日後、為斎は小布施を発って善光寺に向かい、江戸に戻ると言う。そしてそれと入れ代わる様に、江戸から応龍の彫り物が、和太四朗からは皇孫勝の彫り物が、予定より大幅に早く届いたのである。それは確かに納得の彫であった。描いた画一枚と三国志の皇孫勝が出てくる読本を一冊、渡していただけだったからである。
十六、松代藩次席家老小山田壱岐
小布施での北斎のそれからの日々は、男波女波の二枚の下画を四尺四方の檜板に拡大し、一方では彫り物の皇孫勝の彩色を行う事に明け暮れた。天井画とは言っても仕上がってから屋台の天井にはめ込まれる物で、描く時は鴻山の建てた離れの部屋である碧椅軒で描くのである。
毎年続いた来た祇園祭も終わって、それはひと月が過ぎた頃であった。カラッとした小布施の暑さに体も馴染んで、仕事も思った以上に進んでいた時であった。松代藩の次席家老、小山田壱岐の使いだと言う侍が北斎を訪ねて来たのである。要件は是非に松代の屋敷に訪ねて戴きたいというものであった。籠を差し向けると言う話を断りながら、それでもこちらから伺うと言ったのは、藩の重役の求めであり更には鴻山の立場も考えたからである。
雨が降らなければ明日にも伺うと言う話を伝え、使いの者が帰った後で鴻山も突然の話に驚いた様に北斎に話し出した。
「先生、私のこれは推測ではありますが、やはり画を描いて欲しいと言うお話では無いかと思います。と申しますのも、壱岐殿は藩内でも知られた茶人で、それに子供の頃より画を嗜んでおりますお方でして、屏風絵や掛軸なども集めておられると聞いております。まぁそれに、これは象山先生が口にされた事ではありますが、蘭学辞書の出版や普及に対して消極的な壱岐殿に対して『此末(このすえ)は何れも学術も知識もなき人に候えば、此の方より学業の基を立て、近々眼を開き遺すべきものに御座候』と、御批判されたと聞いております」
元々小山田家は戦国時代、武田家の武将として武功で活躍した小山田備中守の後裔である。元和八年(1622)に上田より松代に移り、代々次席家老として千二百石を賜るこの地方の名門でもあった。しかし文と武とを学び磨く事を辞めた武士たちの行く末が、何れも画や茶・茶器や書などを集めに走ると言う趣の流は、信濃のこの地方でも同じだと北斎には思えたのである。
翌日、鴻山が用意してくれた賃馬のお蔭で、朝早く小布施を出る事が出来た。松代までの五里の道も歩かずに済み、松代の城下に着いたのは昼少し前の事で、早速小山田壱岐の家の門を叩いたのである。家はこの松代では歳寒亭と称し茶人の集まる茅葺の弐階建数寄屋造りで出来ていた。川中島の合戦頃には海津城と言われた城の、南に在る大手門の直ぐ左手にあり、小さいが門番所付の長屋を備える程の広い屋敷である。 部屋に通されると北斎が着いた事が知らされ、直ぐに壱岐は顔を見せた。
「突然の事で相すまぬが、高名な絵師の北斎殿が小布施に来ていると聞いて、是非にともお会いしたくなって御呼びした次第だ。儂が小山田壱岐と申す」
既に五十に手が届くとも思える、落ち着いた印象の男であった。
「初めてお目にかかります。手前が画工の北斎でございます」
「ところでつかぬ事を聞くが、小布施の高井家に逗留しているとか、鴻山は北斎殿の門人の一人と聞いておるが、あの高井家は以前に市村と称したはず。祖先は岩村田の出だったかのぅ」
いぶかしそうに家老の壱岐は高井家の出の事を尋ねた。
「確か市村と申したのは祖父の代までの事、先代は藩から高井の姓を戴き名乗っていたと思いますが、又市村家の出がどちらかははっきりとは存じておりませんが、浅間山麓であった程度にしか存じませんもので・・・」
「左様か、いや詰まらぬ事を尋ねもうした。岩村田(佐久)の市と申す処の者に、知り合いがいたので尋ねたまでの事、他意はござらん許せ許せ。処で北斎殿への頼み事なのじやが・・・」
「もしや画を描け、と言うお話ではございませぬか・・・」
間髪を入れずに北斎の方から尋ね直した。
「いや、これは察しが早い、恐れ入った。確か北斎殿は齢も八十も半ばと聞き及んでいるが」
「良くご存じで、今年で八十六となります」
「いや実に壮健でおられる。羨ましい限りよ。処でだが江戸の知り合いの者が北斎殿が描いた肉筆画を持っておってな、いたく自慢しておったのよ。それで見せて貰ったのだが成る程、自慢するだけの事のある掛け物よ。それ以来、何とか世に知られた絵師の画を掛物か、出来れば屏風絵でもと心密かに求めておったと言う次第よ」
「ですが手前は今、小布施の祭屋台の天井画を描いておりまして、更にその後には岩松院の天井画もと、そちらを終えれば何とかお話が出来かねましてな」
「北斎殿が忙しいのは存じておるが、そこを何とか描いてもらいたいと思うてな」
少しの沈黙が続いた後で、北斎は思い出した様に口を開いた。
「実は小布施に参りましてから、毎日一枚づつ獅子の舞う姿を描いておりましてな、売り物として描いた訳では無く、まして何方かに求められて描いたものでもなく、日々一番の心静かな時に描いた名付けて日新除魔図と申します。土産代わりに持参致しました。紙は飯山近くの内山紙を使っておりますれば、筆も面白い程に運びます。凡そ二十枚程お持ちいたしました、お受け取り頂ければ幸いかと存じまして」
画と言う程の人に見て貰う心算で描いたものでは無かったが、それでも無心に毎日の日課として描いたものであった。
「それは誠でござるか。高名な絵師の北斎殿が売る物でも頼まれたも無く、心のままに描いた画とあれば、それはそれで嬉しいものよ」
丁重に箱に入れるでもなく、北斎は布に包んで横に置いていた日新除魔図を、まるで無造作に取り出して壱岐の前に置いた。
「故に落款も落款印も認めてはおりませぬが、この様な画にはこのような見方もあるかと思いましてお持ちくださればと」
目の前に広げた壱岐はじっと画を見つめると、こう言った。
「なるほど、確かに売るでもなく頼まれた物でも無い北斎殿の画だ、しかし儂には画と呼ぶよりも、どこか書を見る様な奥深さを感じる。それに筆に無心の落ち着きの見える気がする。やはりこの様な画は在るべき姿で、無心のままに見るのが一番であろうな」
差し出された日新除魔図を広げ、壱岐は満面の喜びを顔に出すとの子供様に微笑んだ。
「落款などは寧ろ飾りかと、筆筋を見てこの北斎が描いた物だと判る方に見て戴きたいと思いましてな」
謙虚でも自負でも無い北斎の、それが偽らざる本音でもあった。富嶽三十六景の錦絵が余にも大きな反響で名前を広めた為に、今度は北斎の名があれば何でもと頼まれる事が多くなったと思う。
「何れは又北斎殿には改めて、儂の頼みを聞いて貰おうとも思うが、思わぬ時に良いものを戴いた。終生門外には出さぬ事をお約束いたす」
壱岐は改めてかるく頭を下げた。
この夜、小布施に戻った北斎の顔を見て、鴻山は思わず本音を漏らした。
「先生、どうなる事かと思いましたよ」
ほっとした様な鴻山の声が、北斎の笑を誘った。
弘化二年の秋の初め、上町の祭屋台の仕上がを鴻山と見届けると、北斎は阿栄と共に江戸へと戻った。小布施では阿栄にも若い幾人かの商家の若い門人が出来た様である。それは北斎にとっても同じであった。時折、家宝にしたいからと画を注文する者が訪ねてきた。画料を貰い一幅の掛軸を描き、一枚の紙に墨で描いた事もある。
とは言え上町の祭屋台の天井図は、鴻山に任せた部分が遅れてはいたが、北斎は後を任せて小布施を発っ事にしたのだ。鴻山がその気にさえなれば、描けない程の場所では無いと判断したからである。
十七、日本橋十八屋焼失、十八、宮本慎助の事、 十九、善光寺地震
十七、日本橋十八屋の焼失
翌年の弘化三年丙午(1846)正月の事である。江戸ではこの正月早々から、訳も分からない妙な話が市中に広まっていた。その話が何処から広まり始めたのかも分からぬまま、更には話の意味もその理由さえも判らぬままに、牛蒡を食べると死ぬと言う何とも妙な噂話の類であった。ところがその正月の十五日の事である。本郷丸山の御家人屋敷から出火した火の手は、折からの北西の風に火の手が煽られ、神田から日本橋、更には京橋辺りまで次々と燃え広がっていったのである。飛び火は掘りや大川を越えて八丁掘や佃島、更には深川までも巻き込み日本橋本銀町二丁目の十八屋も又、文右衛門が弟の平兵衛に任せていた真綿問屋の店と共に、隣の飛脚問屋の店や土蔵までもの家財の全てが焼けてしまったのである。
お蔭で訳の分からないうわさ話も何時の間にか立ち消えとなり、火の手も翌日の夕刻には殆ど鎮火するのだが、この知らせを聞いた北斎は一気に体の力が抜けた様な気がした。暮らしの中で金に関わる多くの部分で北斎は、今まで殆どが十八屋に頼りっきりであったからである。
鎮火した翌日は朝から冷たい雨が降っていた。北斎は住んでいた西両国から日本橋本銀町の十八屋に向かったのだが、特に日本橋辺りは見事な迄にその一面が焼野原となっていたのである。そしてそこには肩を落としながらも店のあった焼け跡にしゃがみ込み、跡片づけをしている当主の小山文右衛門の姿があった。
「おぃ、十八、火事の見舞いにと日本橋まで来て見たが、焼野原となっちゃあ見舞いもいらねえな」
何故か気持ちの良い程にすっかりと焼けてしまい、店の在った周囲も焼け残ったものは何も無かった。
「師匠が来てくれたお蔭で、少しは気持ちも楽になれました。それにお蔭様で元手の命だけは何とか助かりましたが、今しばらくは師匠にもご迷惑をお掛けするやも知れませんな。不運な事でございますよ全く」
やりきれないとでも言う様な、開きな直った様な弱々しい笑顔がそこにあった。小布施から江戸に戻った昨年の秋、礼を兼ねて小布施の穀平の信州味噌と土産話を持って来た事があったが、まったく一寸先は闇だ、とよく言ったものだと北斎には思えた。
「どうするんだと聞いてもよ、直ぐに答えは出ないだろうが、ひと月もあれば動き出すのが十八屋だろうから心配はして居ねえが、何かあったら言ってくれよ」
「へえ、又恐らくは店を借りての商いとなるでしょうが、その節は何卒宜しくお願い致しますよ。又お声を掛けておくんなさいまし」
北斎が言った様に、そのひと月後には仮の店を立ち上げて、飛脚問屋を立ち上げたのは言うまでも無く松代藩の力添えがあったからだと北斎は思った。
処がこの年の三月に、その松代藩次席家老の小山田壱岐から北斎宛に手紙が届けられたのである。手紙では小布施で受け取った日新除魔図の礼と共に、相変らず描いて貰いたいと言う屏風絵の注文であった。 内容は屏風絵六曲一隻を描いて貰いたいと書かれていた。期限は一年として画題は左隻に龍、右隻に虎の龍虎一隻の屏風絵である。しかも出来るだけ大きな屏風に描いて欲しいと言う要望と共に、画料を四十両程でと書かれていた。そして更に一年後には松代の藩士を取に行かせると言うのである。
こうした一方的な注文の仕方を、最も嫌うのが北斎である。手紙を読み終えると何も言わずに、無造作に部屋の隅に放りだしたのである。傍に居た阿栄が拾い上げて読んだのだが、北斎は描くとも描かないとも言わず、そのままどうする事も出来ずにやがては忘れ去ってしまったのである。北斎はこの頃に新しい西洋の画を描きたいと考え、油彩による描き方から油絵具の作り方について試行錯誤を重ねていたのである。
この同じ年の五月は、小布施でも例年よりも暖かな日を迎えていた。鴻山の住む家の裏手からは飯綱山や戸隠の山が見え、その遥か向こうの青空を背景に、代馬岳を筆頭に幾つかの白い雪の残った山々の連なりが見える。既に千曲川の川原に咲く菜の花も刈り取られて、乾された菜種からは水車の力で油の搾る作業を行う時期を迎えていた頃であった。そんな日の昼間に鴻山は一人で上町の祭屋台が収まる屋台蔵に入ると、男波と女波の描かれた桐板を取り出し最後の筆を入れた。
北斎が下画を描いて呉れた金色の額縁の上の花や鳥などを横目でみがら、藍銅鉱が原料の岩紺青で描いた波と藍を重ねて男波を描く最後の筆を入れる為であった。やがて祭屋台の二枚の天井画を書き終えた鴻山は、北斎の描いた額縁に渦巻く男波と女波の画をはめ込んで、ゆっくりと墨を磨った。そしてその墨汁を筆に含ませて、描いた画の裏に裏書を認めたのである。
『濤二枚、弘化二年七月に東都の所随老人卍が、信州小布施邑の高井氏別墅で写した。緑の花鳥図は所随老人が、図の着色は門人高井健が、弘化二年七月に起筆され丙午(弘化三年)五月に終えた』
北斎は落款も落款印も、裏書さえも書かないと言った。どの様にその画を見るのか誰が描いた画だと見るのか、それは見る者に任せた様な北斎の言い方であった。鴻山が書き終えた上町の祭屋台の天井画を、北斎は見る事も無く小布施を発ったのである。それまで描いて居た妖怪図と比べ、何と手間がかかり、そして疲れるものなのかと今更の様に鴻山には思えたのである。
そしてこの年の暮れ、十八屋は松代藩の援助によって新たに店を建て直したのである。十八屋の文右衛門はあの火事の後、店を再建する為に小布施に戻り、金の工面に駆けずり回ったのである。それは本家分家は言うに及ばず、藩の重役に頭を下げての嘆願であった。後に文右衛門を筆頭に一族の連名を添えて松代藩お預所・御会所宛に送った礼状には、次の様な内容が書かれていたのである。
『・・・・略、江戸本銀町二丁目に於いて、商売を弟の平兵衛と共に励んで両店とも増々繁盛の折に、弘化三年正月に本郷から出火した火災により、十八屋の両店とも土蔵を含めて焼失し、送られて来た品も焼いてしまいました。しかし難渋至極であった折に、お屋敷様御楷所さまの格別のご配慮を戴き、二百両の御情金を十カ年腑で拝借する事が出来ました・・・・略』
十八、宮本慎助の事
宮本慎助は未だ二十歳を過ぎたばかりの、松代藩勘定方の藩士である。特に先祖代々と和算を持って松代藩に仕えて来た珍しい家系でもあり、宮本家は自ずとお役目も勘定方と決められていた。特に十露盤(そろばん)は商人の技として刀を持つ武士には軽蔑された時代でもあったが、それでも本音は無ければ困る技でもある。慎助はそうした家系の家に生まれた若者であるが故に、江戸藩邸と松代とを往復させられ、今も藩の勘定書である帳簿を付け合せる為に江戸と松代を往復していたのである。しかし宮本家の名誉の為に付け加えて置けば、祖先の中には槍術の師範をした者もかつては居た様で、必ずしも十露盤で禄を食んでいた訳では無かった様である。
しかしともあれ、その宮本慎助が浅草の田町に移り住んだ北斎の許に顔を出したのは、松代藩の次席家老小山田壱岐の手紙が届いてから丁度一年目の弘化四年(1847)の三月半ばの事であった。
「御免、北斎殿は御在宅か」
若い武士の声に怪訝な顔をした阿栄が、長屋の引き戸を開けて顔を覗かせた。
「当方は松代藩御勘定役、宮本慎助と申す。我が藩の次席家老小山田壱岐殿が申すには、一昨年、北斎殿が小布施に御逗留の折にお会い致し、その折に一隻の屏風絵を描いて戴ける様お願いしたとの事、更に先年にも手紙でもその旨お伝えしてあるとの事、それを受け取る様に命じられて参った者でござる。北斎殿は御在宅であろうか」
長屋の入口には相変らず北斎の書いた文字で、おじぎ無用、土産無用と書かれた紙が貼りつけてあり、その下には百姓八右衛門と書かれてあった。その貼り紙を慎助は不思議そうに見つめていた。
「おとっつぁんの北斎は、生憎と出かけておりましてねぇ。だけど手紙で屏風絵を頼んだと言われても、そんな話はおとっつぁんからも聞いては居ないしねぇ」
阿栄は何かの行き違いかも知れないと思った。
「しかし、ご家老の小山田様は其の為に私に、江戸に出向いたら北斎殿にお目にかかり、頼んでいた屏風絵を受け取る様にとお指図を受けて参ったのですが」
阿栄はこの時、一年前に届いた手紙の事を思い出したのである。
「あぁ、もしかしたらあの手紙の、確かに手紙を戴いた事がありましたねぇ。でもね、おとっつぁんも近頃はボケ初めてしまって、何でも直ぐに忘れちまってさ、さぁて困ったわねぇ」
「それは私の方も同じです。私もご家老に何と話してよいものやら、困りました」
本当に慎助は困った顔をしていた。
「取り敢えずこうしてくれないかねぇ。描かない訳ではないからさ、時間を貰うと言う事で、北斎は今、旅に出ている三カ月後でなければ戻らないからと、そう言われた事にすればいいじゃないの」
「しかし、それは嘘になりますから」
「嘘じゃないのよ、正月に羊を描いて居たと思ったら、何も言わずに急にプイっと出掛けてしまうもんだからさ、私の方だって何処に行ったのかも知らないのよ。大体が年寄はさ、齢をとればそれだけ具合が悪くなるのが良い年寄というものよ。それが何時も糸の切れた凧みたいにさ、何処かに飛んでいってしまって、探しようがないのよねぇ全く」
阿栄の愚痴にも似た怒りの籠った返事に、今度は慎助の方が本当に困った顔をした。
「それでは又出直して参ります」
「ちょっとねえ、お待ちなさいよ。私は北斎の娘の阿栄と言うけどさ、あぁもう齢はこの通り婆さんだけど、間違いなく北斎の娘よ。で、おとっつぁんが小布施に行った時から、毎日一枚ずつ書いていた画だけれどさ、それをお持ちなさいよ。画を描く紙ってのはさ、一度描いてしまうと後は何の役にも立たないものでさ、役立たせるには破れ障子に貼って風を塞ぐのが関の山。一年も毎日の様に描いて居ると、こんなに溜まっちまうのよね」
阿栄は押入れの柳行李に入れてあった北斎の描いた日新除魔図を束ねて持ってくると、古くなった風呂敷に包んで、あっけに取られている慎助に渡したのである。
「ご家老様の所には、おとっつぁんが小布施に居るときにお伺いした様だね。確か画を描いて欲しいと頼まれていた様だけど、結局は同じように小布施で描いた日新除魔図を差し上げて時間を戴いたみたいなのよ。そんな訳だからさ、又日新除魔図を御家老様に差し上げても、今度は有難味もなくなって、きっと一層怒るかもしれないわね。だからさ、これはあんたが持っていなさいな。もしご家老からとんでもない事を言われた時はさ、屏風にこの画を片っ端から張付けてしまうのよ。それはそれで趣が有るだろうと思うけど、まぁこれが本当の老婆心よ」
阿栄は老婆の自分と老婆心を掛けて洒落てみた様であった。そして若い侍を前に自分の言った下手な洒落が可笑しかったのか下を向いて笑った。慎助は老婆の言った老婆心を、ここは素直に受け止める事にしたのである。
そして阿栄は思い出す様に、二年前に出掛けた小布施の話を慎助に話したのである。
「二年前に私ね、小布施に三月余り住んだ事があるのよ。穀屋さんと云う味噌を造っていた店の二階で、娘たちに画を教えていたのよね。良い所よね、あの辺りは」
「あの味噌屋ですか、知っています。随分と古い店の様で。阿栄さまも画を教えられる位ですから、教えられる程の技量をお持ちなのでしょうね」
慎助にしてみれば随分と高齢の女でも、画を教える事が出来る事に驚きを感じて居たのである。女でも凄い年寄の人が居るのだと思った様である。
「門前の小僧と言う例えがあるさね、小僧も齢を重ねれば御坊様にもなれるもの。それはともかく穀屋さんからの帰りがけにあんたの藩のお侍の佐久間さまと云うお方に遇ったのよ、紹介されておとっつぁんが阿蘭陀語がどうのと少し難しい話をしていたけれど、男の人は小難しい話が好きだねェ」
「おや、象山先生と会われたのですか、私の住いは象山先生の家の隣でして、そこで父は十露盤と和算を教えておりました。その象山先生も父の和算を習いに、我が家に子供頃からお見えでした。それは又奇遇ですね、私は江戸に二十日程滞在してまた松代に戻ります。そろそろ藩邸に行かねばなりません」
「又お帰りの時でもお寄りなさいな、どういう訳だか近頃は、おとっつぁんの周りには若い人が集まって来るみたい。喜ぶとおもうからさ」
「はぃ、又松代に帰る時は寄らせて頂きますから」
そう言って頭を下げた慎助は、松代藩の中屋敷がある虎ノ門の藩邸に向かって帰っていった。その後ろ姿を見送った阿栄には、何か日新除魔図には手間の係る難問を負い返す力がある様にも思えた。
だがこの日の十日後、松代藩では屏風など構っていられない程の事件が起きたのであった。
十九、善光寺地震
この年の信濃の善光寺では、全国からの信徒を集めて御開帳の時期を迎えていた。古くから七年毎に行われる特別な期間で、正式には善光寺前立本尊御開帳と呼ばれ二月程の日程で行われる。特に秘仏である一光三尊は正面に阿弥陀如来、右側に観音菩薩、左に勢至菩薩の三つの仏が一体となった珍しい姿の御本尊を本堂に迎えるもので、宗派に関係なく全国から善男善女が集まる事で知られていた。
それ故に門前町の旅籠は言う及ばず、近在の街道の宿場も含めて、その賑わいは何時にも増しての賑やかさであった。処が御開帳の最中の弘化四年(1847)三月二十四日の夜も五ツ刻、突然に善光寺の足許を揺らす大きな地震に見舞われたのである。
この地震で善光寺の如来堂や護摩堂、それに山門なども倒壊して門前に立ち並ぶ多くの旅籠も同様に倒壊した。と同時に沢山の場所から火の手が上がり、消える事も無くその延焼は発生から三日程が続いたのであった。被害は市中だけに留まらなかったが、倒壊家屋が二千軒余りで死者は二千五百人と数えられ、その被害の大きさは日を追う毎に増え広がっていったのであった。
しかも被害は松代藩だけで留まらず、隣の松本藩や飯山藩までに広がりを見せた。山間地のがけ崩れは至る処で発生し、中でも善光寺の西側にある鬼無里村の虫倉山や犀川沿いの虚空蔵山は大きく崩れ、その崩れた土砂が千曲川に続く犀川の流を塞いでしまったのである。だが問題は更にその後に起こった。
地震による山崩れから十九日後、土砂にせき止められていた犀川の水は遥か上流にまで達して、ついにはせき止めていた土砂を押し流して一気に下流へと決壊したのである。
江戸ではこの地震の被害を書き留めた瓦版が、一つの狂歌を載せた。『死にたくば信濃にござれ善光寺、土葬火葬に水葬までする』と、この地震が幾つもの異なる被害を与えた事を示していた。更に犀川の決壊した濁流は、一日も経たずに信濃川を掛け下り新潟に達したと言う。後に正確な資料を幕府に提出する為に松代藩が行った調査では、実に死者は八千人とされ、善光寺詣でに来ていた身元不明の使者は五千人にも上ったと記されている。
善光寺地震の影響は少なからず小布施にも与えただけでなく、松代藩全体に大きく影響を与えた天変地異であった。地震によって孤児の救済から炊き出しなど、松代藩は幕府から急遽一万両の金を借り受け三年間の倹約を領民に求めたのである。更に翌年からは人頭税として十八歳以上六十四歳以下の男は、五年間を毎月百文、女には三十二文を求めている。そうした課税を課す一方で、家屋の流失や焼失者には金三分と米二斗五升、潰れた家には金二分、半焼の家には金一分と見舞金を渡し、この災害を乗り切ろうとしていたのである。
善光寺地震の話が江戸でも広く噂話として広まる頃であった。宮本慎助は急遽国元の松代に戻る前に、是非とも北斎会っておきたいと思い住いを訪ねたのである。
「初めてお目にかかります、松代藩の宮本慎助と申します。先日にお伺いした処、思っても見ない様な墨書の画を戴き、取り敢えずお預かりさせて戴く事として松代に持って参ります」
自分の父親より長く生きていながら、眼鏡もかけずに背を丸める事も無い目の前の北斎に、慎助は何故か自分が少し威圧されている様に感じた。
「儂が北斎だ、ご家老から画の催促の話も、大きな地震が起きれば構っては居られないだろうに。しかも善光寺が大層やられたと言うじゃないか、小布施の様子はどうだ、何か話は聞いているのかな」
「不思議な事に善光寺から見ますと千曲川の東側は随分と被害も少なく、川岸の田が後からの起きた犀川の決壊で被害を受けた様ですが、地震そのものの影響は、屋根の瓦が少し落ちた程度と聞いております。とは言いましても私も急ぎ松代に戻る所存で、御礼方々の御挨拶に伺いました次第でして」
「阿栄がわしの描いた日新除魔図を、まとめて差し上げたと聞いているが、なぁに礼には及ばないよ。それより松代に戻ったらご家老によ、北斎は腕が震えて筆を持つのがやっとだったと言って置いてくれねえか、それで画のご注文には北斎の一番弟子を必ず小布施に差し向けますので、何卒お許し戴きたい、筆筋は北斎と見間違うほどでございますからと、その様に伝えてはくれねえかな」
「承知致しました」
慎助はこの初めて会った北斎に対して、何故か尊敬の思いを温めていた。それは単に絵師として世間に知られている人物だから、と言う意味では無かった。阿栄に勧められて持ち帰ったその日、二百枚以上もある北斎の描いた日新除魔図の中から、北斎が言葉を書いた画を見つけたからである。
それは前年の弘化三年に描かれた物だと思うのだが、『十二月二十五日、欲を捨てた我は楽しい』の言葉であった。既に北斎は人間としての達観した域に、今を生きているのではと慎助は思えたのである。
その墨書の画には其の外にも、情けない顔をした獅子が描かれていた。雨に降られている獅子もいる。極月(十二月)十二日には、いたずら書きの様に十露盤をはじく獅子が、一獅子が志し、二疋が獅子、獅子の十六、四六は獅子、獅子智廿八、・・・と獅子の右に書かれて遊んでいたのである。宮本家は代々、和算を奉公の柱として来た家柄である。慎助は何か失ってはならない物を戴いたと、この時に初めて北斎の人となりを知ったのである。
「処でちょっと尋ねるが、佐久間様の象山とは何処から付けたのかね。実にいい名前だと思ってよ」
「象山先生が生まれたお屋敷のすぐ目の前に、私の先祖から受け継いだ山がありまして、その山の姿が象の様な形をした山だったものですから、修理としたお名前よりも象山を使われたのかと思います。私も象山先生には子供の頃に頭を撫でられた記憶が幾度もありまして、才のある尊敬出来るお方だと思っております」
何か慎助や象山が子供の頃に遊んでいた山の名前だと聞いて、まるで庭の一部でもある様な風景が北斎の脳裏に浮かんだ。
「佐久間様は象山(しょうざん)と呼ばれているのか、それとも(ぞうざん)と呼ばれているのか知りたいものだが」
「元々は私の家の前にある象山と呼ばれた山は、川中島の戦いの頃より西条氏の古城がありまして、古くからじょうやま(城山)と呼ばれておりました。処が延宝五年(1677年)にその山の麓に、良寂禅師によって禅寺が開山したと聞いています。そして寺の名前が象山恵明寺と名付けられたと。象山とはもともとが支那泉州にある山の名前で、良寂禅師の師であるも木庵禅師が禅に出会った場所だったと言う事で、この禅寺の象山とは山号の事です。処が佐久間先生は修理である自らの雅号を、象山として用いたのは確か二十五歳の時と聞いております。先生は寺の山号を象山と読まれ、自らの雅号を同じ象山としたと聞いておりますが、まさか寺の山号である象山が支那泉州の山の事とは考えては居なかった様で、ですから後でしょうざんと呼ぶように本誓寺に請願したのだと申しておられました」
「成る程、しょうざんでもぞうざんでも良い様なものだが、そう考えるのは己の号をコロコロと替える絵師だから言えるのかもしれねえな」
関心した様にそう言うと、北斎は大きく一人で頷いた。
二十、北斎になれ 二十一、北曜との再会
二十、北斎になれ
松代藩家老の小山田壱岐に対して一番弟子を小布施に向かわせるからと慎助に頼んだのは、北斎に一つも思惑があったからである。出来るなら一隻の屏風画の事で為斎を小布施に向かわせ、併せて岩松院の天井図も併せて描かせる事であった。しかし元々が天井画を独りで描くなど、北斎ですら今まで聞いた事も無い話でもあった。幕府御用の狩野派が描いた多くの江戸城の襖絵や障壁画は、師である狩野永徳や後の狩野探幽あたりが、門人に仕事を割り振り仕上げたものである。それは北斎が阿蘭陀のカピタンの注文で描いたと同じ様に、門人達が総動員で行う仕事でもあった。絵の具を解く者、筆を動かし彩色をする者、下画を写す者などそこには描く為の様々な工程があるからなのである。
しかも何よりも小布施では鴻山自身が多忙であり、商いを放り出して描ける位なら何も北斎に頼む事もしなかった筈で、北斎自身も又自らの名を上げる思いも、描いて稼ぐ意思もは全く無い事であった。
だが岩松院の天井画は善光寺で起きた地震によって、天井に使う材木の入手が難しくなったと鴻山から手紙が届いたのである。そして又同じように松代藩の宮本慎助からも、藩の財政が厳しい折に、家老の小山田壱岐も多忙の為に、暫くは時間が掛かるのではと言う手紙が届いたのであった。大幅に遅れそうな予感が、予期もしない善光寺地震によって生まれたのであった。
北斎はこの弘化四年の春の終わりごろから、頼まれていた新たな絵手本の解説書を書きはじめていた。『画本彩色通』の初篇である。顔料に荏胡麻油を混ぜて描く油彩の描き方や、油絵具の作り方などを書いたこの国で初めての油絵の解説本であった。
処が高井鴻山から岩松院の天井板が届くと言う手紙を北斎が貰ったのは、弘化四年(1847)の六月の事である。岩絵具は既に京に注文も済ませ、膠も金箔も十二月の初めには届く予定だと記され、北斎に小布施に来て欲しいとした内容であった。だか鴻山には既に分かっている筈だと北斎は思った。自分の代わりに為斎を小布施に向かわせる事は、東町の祭屋台の天井画を描いた時から、判っているはずなのである。又も鴻山の心細さが泣きごとの様に文面から伝わって来てのである。
鴻山の手紙を読み終えた北斎は為斎を呼び寄せると、小布施での天井画の仕事の話を伝えたのである。北斎には一つの思惑があった。その思惑をこれから為斎に伝え、それを為斎が自ら納得しなければ何も始まらない事でもあった。
「為斎には以前に話したとは思うが、小布施の岩松院の天井画を描く話が鴻山から届いてな、檜板が届く見通しが付いたと申して居る。そこで又、この儂の代わりに小布施に行き、鴻山の手伝いをして貰いたいとおもうてな」
為斎が小布施で師である北斎の口からその話を聞いたのは、既に二年も前の事である。半分程は期待しながらも、残りの半分は不安と諦めの気持ちでいたのだ。しかし描いて見たいと言う思いと、果たして描けるのだろうかとした自分の経験の浅さに躊躇したのである。
「正直に申しますが先生、描きたいと言う思いと、未だ描く自信とやらが私に無いと言うのが本音でして」
為斎は下を向いた。大がかりな画など一度も描いた事が無かったからである。
「そりゃあそうだろうよ、なぁ、初めから自信が有りますなんぞ言われたら、教えている方がまごつくわ。そこでだ、この儂の経験と技とを、これから為斎に手を添えて教えようと思っているのだが、どうだな」
思わず為斎はたじろいだ。考えても思っても居ない事であった。
「まぁそれを受け止めるか逃げ出すかは為斎の心ひとつよ。つまり為斎が鴻山の手伝いをする為に筆を持つ時は、この儂になると言う事よ」
「えぇ言葉では分かるのですが、先生になるとは一体どの様な事なのでしょうか」
「詰まる所がよ、為斎はこの儂に成り切ると言う事だ、この北斎がな、己とは別のもう一人の北斎を育てようと言う事よ。筆を選び、絵具を筆に含ませる、画に向かい筆を運ぶ、或いは下画を写し線を引く、つまり画に対峙している時は何時もこの儂で居ろと言う事だ。其の為の儂の描く全ての技と経験と、そして知識を為斎に教えようと言うのよ。それが完璧とまでは行かないものであるにしても、技と知識は半年程を寝食を共にし毎日を儂の側で学ぶ事が出来れば、儂が描く時に何を考え筆を運ぶか判るであろう。つまりよ、当のこの儂でさえも、かつては自ら描いた画だと判らなくなる程の画を為斎が描ければよ、為斎は北斎の画を描けたと言う事になるのだが、どうだ」
それまでの北斎の門人と言われる誰もが、北斎に手を取って貰い教えられる事など皆無であった。北斎の教え方は歌川派や狩野派の様に、門人を工房に住まわせる方法は取らなかったからである。それは又、自らの努力でしか上達する事は出来ないと言う、北斎自身の経験から来ている学び方であり教え方であった。だが北斎は今、半年間を寝食を共にして手を取って教えようと言うのである。
「先生、お願いします。ぜひとも先生の得た技や知識を自分のものにしたいと思います」
「その言葉を待ってはいたが、小布施を離れれば北斎では無く為斎に戻り、自らの画を描けば良い事。既に為斎の筆筋は門人の中でも、極めて儂に近いと、この儂もその様に思うている。しかし極めて近いとは言え、やはりそこの違いは違いなのだ。故にその違いを消すとは、わしの筆を使い、儂の筆に入れる力を会得し、わしの思いを受け止めて何時も描く時には、この儂ならどの様に描くのか、どの様な筆を選ぶのか、どの様な処にどの程度の力をくわえるのかを追い求める事よ。さすれば為斎に、この北斎の落款の書き方も伝えよう。落款印も為斎に呉れてろうて。それに松代藩の家老からも大きな屏風絵を描いて欲しいと注文が来ている。わしは手が震えて描けないが、門人の中で北斎一番の門人を小布施に向かわせると伝えてある、そちらの方は落款も為斎として、思うがままに描けば良い事よ」
為斎は北斎の言葉に強い衝撃を受けていた。そして身の引き締まる様な話であった。末に残す様な画が描けるかも知れないと言う思いが、限りない励みとなって為斎の体を包んでいたのだ。
「先生、ありがとうございます。先生の名を汚さぬ様に精進致しますので、何卒宜しくお願い致します」
大きな声であった。
「よし、明日には布団を担いでここに移れ。早速に始めるぞ」
為斎は思わず北斎の前にひれ伏した。
この時から為斎はまるで人が変わった様に、北斎の話す言葉に注意深くなり、夢中になって耳を傾けた。岩絵具に混ぜる荏胡麻油の分量と調合、画を立体的に見せる為の技法など、初めて聞く話は未だ殆どの絵師には知られて居ない知識であった。更に人や動物の骨の姿や、描き方などは北斎が刊行した多くの画手本を元にしている。さらには四季の風情や気候の表現など、それらは知識と共に具体的に描いて行くのである。北斎の画と為斎の描いた画との比較する事で違いを理解し、その違いを改めて直して行くのである。そうした繰り返しを行う事で、積み上げて行く経験でもあった。
例えば北斎の使う筆と為斎の使う筆の違いは、まさに違うと言う事の「いろは」なのである。絵筆一本にしても面相筆は文字の如く、眉毛や目の部分を描く時に用いる細くて繊細な筆の事である。その筆の先の毛の違いだけでも、全く異なる印象が描かれるのである。付立筆(ついたてふで)は輪郭線を出さずに、没骨技法と呼ばれる表現に使われる筆である。更に線書筆、平筆、彩色筆、そしてぼかし筆とも呼ばれる隈取筆は、直接に顔料に触れる事の無い筆でもあり、連筆、絵刷筆、から筆、礬水刷毛など筆先に毛の付いた筆だけでも大きく分けてこれだけある。更に狸やイタチ、馬や猫、羊やリスなどの毛を使うとなれば、数十本以上もの筆を使いこなすのが絵師なのである。
毛を持たない筆もある。山水画の岩山などを描くのは、木片の先を平らに削った筆を用いるのである。それらの全ては絵師が描く時に醸し出す、画風と言うものを支えているのでもあった。
「いいか為斎、山水画の岩山なんぞを描くにはな、描こうなんて魂胆を持ったら最後よ。こうしてな、この紙の上に岩山を創り出すという、そんな気持ちで筆を振るうのよ。反対によ、女の体のしなやかさなんぞを描くのに、力は一切抜く事よ。恥じらう裸の女に着物を一枚一枚着せてやる、そんな想いが無けりゃあ、腕に力が入ってよ、柔らかな線の一本も描けねえぞ、まして女の画はな、大体がよ、女を知らなくてどうして女を描けるんだよ。描く相手が判らなければ、判らない画しか描けねえって事だろうがよ。だから若い時には春画をも描いたのさ、儂なんぞは春画の号は雁高と付けたが、広重なんぞは色重よ。歌麿の号は確か版元に、むだまらと付けられていた記憶があるぞ」
今まで北斎が会得したこれらの技法を、直接に聞き目にした為斎は、すぐさま自分で描いてその違いを正していったのである。正確に言えば、それらを描く独特の絵筆の作り方から墨や紙の違いなど、これまでに得た技法を生かす為の知識や道具や、それらの使い方を含め北斎と成るべくしてその本人の北斎から学んだのである。
それはまるで北斎がこれまで刊行し続けてきた画手本を、隅から隅まで北斎本人に叩き込まれている観があった。後に北斎は幾冊もの作品を描いた下絵や素描、或いは部分的な画を為斎に呉れたのである。『富嶽百景』『百人一首うばが絵説』などの他、高井蘭山の『絵本女今川』『絵本孝経』そして為永春水の『訂正補刻 絵本漢楚軍談』、緑亭川柳の『秀雅百人一首』などを含め、百の数を越えていた。
江戸に秋風が吹き始め、何時しかその風も冷たさが加わった頃であった。為斎を前に北斎はこんな事を語ったのである。
「儂から見ればよ、為斎の腕は既にわしが春朗と名乗った若い頃の姿そのものよ。あの頃はのう、経験だけが未だ足りないだけだと思っていたのだが、新たな物事の見方や技法を知らされると、日々是学ぶ事こそ修行だと思う様になったものよ。だが近頃は、画も知らない者が画を欲しがる時勢になったと見えて、見栄を張るだけのご時代を迎えている様に思えて仕方が無いのよ。奴らは一体、何故に画を求めるのかのう。
元々儂は、画とは値段の付けられる品物では無く、己が極めた芸としての品と自負するものだと思うておる。その芸の品を何時までも末永く傍に置いて見て貰える者へ譲りたいと思うておった。だから画とは売り買いする物では無く、礼としての代価でその相手に持ち続けて貰う事を、まずは良しとすべきだと思うのだ。
錦絵や挿絵は幾百枚幾千枚と摺るわけだから、鼻っから目論見のある品とも思えるが、筆で描く一枚限りの画は描いた者ですら値の付けられぬ芸の極みよ。その芸の極みに己が値を付ける事から、画は世間と言う世の中を渡り歩いて行く事になるのよ。
それは落款も同じでは無いかと思うてな。描いた者がわが身の傍に置くのなら、落款も印も不要の話よ。落款が有ろうがなかろうが描いた者の画なのだからな。しかし絵師自らが手放すとなれば、行く末はどの様な憂き目に遭うやもしれず、故に産み落とした作者は我が名を入れるのが習いとなる。
しかしその画に絵師自らが描いた確たる思いも無く、譲り渡した者へ行く末を任せた事への結果、価値も知らない者の手に移り行く訳だ。謂わばそれは己が心血注いで描いたものに、己が値を付けた結果では無かったかとも思うのよ。
文字を読めない者が言葉の意味を解せないのは道理だが、文字を知らなくとも心が通い合う画とは、いわば想いの事。儂はな、描くとは見る者に想いを伝える事だと理解しているが、そこには間違いもなければ正しいも無い。見る者が見る事で得られる儂の想いを、感じなければそれまでの事よ。故に儂は為斎に対し、儂になれと申して居るのよ。
絵師がそこに何を描いたのかと言う絵師の想いも理解出来ない者が、誰が描いたかなどの詮索は画を観る順序が逆さまなのだ。だから儂の描いた画が為斎の描いた画だとするなら、わしは即ち為斎になるのよ。為斎の描いた画が後に北斎の描いた画だと伝えられれば、為斎は即ちこの儂になると言う事だ。儂はそれを何よりも楽しみにしているのよ。即ち鳳凰とは何かも知らず為斎か鴻山か北斎か、誰が描いたのかなど詮索は無用と言うているのよ」
絵師の中でも飛びぬけて長く筆を握り、しかもひたすら描く事だけを追い求めて来た末の、悩み苦しんだ北斎の言葉だと為斎には思えた。北斎はこの弘化四年(1847)に、幾つかの肉筆画を描いた事を為斎は知らされていた。『雷神図』『波涛図』『渡船山水図』の他にも、身延山の日蓮宗久遠寺の守り本尊である『七面大明神応現図』である。北斎の信仰は確か妙見様だと思っていたのだが、いつの間にか池上本門寺にも出かけ、中でも法華経には普賢菩薩が法華経を信じる者の様々な誘惑から守る呪文として、阿檀地(アダンダイ)を唱えさせていた。
日新除魔図といいこの阿檀地といい、様々な力にすがりながらも自らの高みを目指している姿に、為斎は驚きと共にどこか神々しさをも感じるのである。
二十一、北曜との再会
弘化五年(1848)二月末の事である。突然この二月から年号が改元され、弘化の年号から突然に嘉永と呼ぶよう通達が出された。市中の者達からみれば何と呼び名が変わろうが、ただ単に面倒なだけの事であった。その翌月の三月に北斎の住いに訪ねて来たのは、陸奥の盛岡藩士で梅村徳兵衛重徳と言う侍である。話を聞くと藩の命で測量を学びに江戸に来て、目出度く免許皆伝を貰ったと言うのである。そしてその記念に自らが測量をしている図を、北斎に描いて貰いたいと言う注文であった。応需でなければ決して描く事の無い題材に、北斎は喜んで引き受けたのである。題も『地方測量図』として嘉永元年三月、應需とし齢八十九卍老人筆として百の印を押した。余程測量の免許皆伝が嬉しかったのか、十日ほど待たせたにも関わらず喜んで盛岡へと帰っていったのである。
この頃、為斎は小布施へと向かって一人で江戸を旅立って行った。あの岩松院の天井画を描く為である。否、もしかしたら為斎は北斎になる為に、半年の手ほどきを受けて、後の人々に北斎と呼んで貰う為に小布施に向かったのかも知れなかった。
そしてこの年の五月に馬喰町の山口屋藤兵衛から、北斎が待ち焦がれていた絵師への手引書でもある画手本の『画本彩色通』が刊行された。その版元が北斎の懇意にしていた西村屋でなかったのは、富嶽の版木を一部焼いた頃から身代は傾き始めて居たのである。北斎が初めて小布施に逗留していた天保十三年には、人目を避ける様に店を畳んでしまったからである。
ところで新しい元号が示された嘉永元年の戌申年の六月五日、故郷の出羽国酒田に戻っていた若い門人の本間北曜が、珍しく北斎の住いに顔を見せたのである。
「先生、ご無沙汰しております。お会いできて良かった。御変りも無くお元気そうなので安心致しました」
「おぅ、お前も元気そうでなによりじゃ、故郷の酒田に戻ると言ったままで、その後暫く姿を見せなんだものでどうしているかと心配していたぞ」
本間北曜は今年で二十七歳になる最も若い門人である。入門は三年前で酒田湊の廻船問屋、本間家の分家にあたる父の本間国光の次男である。しかし長男とは違い生まれ育った酒田では随分と放蕩を繰り返し、見かねた兄に説教されて江戸へと飛び出したのは二十一歳の時であった。どの様な人生を歩いて行きたいのかも未だに決まらず、ましてや何を学んで良いのかも分からず、北斎の門人にと訪ねて来た時も絵師になる為では無く、画を観る目を持ちたいからだ、とその入門の理由を北斎に伝えている。出羽の酒田湊では本間家の事を指し「本間様にはなれないまでも、せめてなりたや殿さまに」とした歌が歌われると言うが、確かに本間家の一族は豪商の中でも飛び抜けていた。それだけに世間では例え分家であるにしても、本間家の分家の次男となれば好奇と羨望の目を向けられていたのである。
しかし元々北曜は学ぶ事が好きな子供であった。既に五歳頃には儒教の四書といわれる論語や大学、孟子などの他、五経と言われる易経や書経、春秋などを藩医から訓読を受けていたと言う。
元は鎌倉時代に遡る佐渡本間氏の血筋だと言うが、中興の祖と呼ばれる米沢藩九代目の藩主、上杉鷹山の知恵袋として補佐していた本間光丘の存在は、大きな意味を一族に与えていた。その中でも本間光丘の甥にあたる本間宗久は大坂の堂島で北前船を使っての米相場で、大儲けをした事で世間に知られる事になるのだが、米沢藩だけでなく鶴岡藩への援助も藩主酒井忠徳が徳川家慶の謝恩使に任じられると、財政難に見かねて三千両もの献金をしたと言われ、苗字帯刀と同時に藩の勘定掛として採用されたのである。
その北曜が江戸に居る時に長崎に行ってみたいと常々語っていた事を思いだし、北斎は小布施で出会った佐久間象山に、長崎の事、阿蘭陀の事を訪ねたのである。
「北曜よ、以前と比べて大人になったように儂には見えるのじゃか、どうじゃな」
「はい、やっと長崎に行く許しを得たものですから」
「おぉそうか、それは良かつたではないか、で出立はいつになるのだ」
「十日には江戸を立とうかと、実は先月の二十二日に酒田を出立しまして、江戸に着いたのは昨日でございます。浅草の見付外の足利屋に昨夜は泊まりまして、今日は浅草寺にお参りして先生にもお目にかかろうとやって参りました」
「それなら未だ出立までには時間はあるな、儂とて未だ若ければ一緒に長崎に連れて行って貰いたい位だが、如何せん齢が齢よ。江戸にはいつ頃にに戻るのか、聞かせて貰いたいものよ」
「今年の暮れ頃にはと考えておりますが、何せ田舎者、様々な事を見たり聞いたりすれば、これから世の中はどうなるのか、ならばどうすれば良いのかも分かって来るかと、遅くとも来春にはと考えているのですが」
「わしが餞別代りに一枚、北曜の為に画を描いてやろうかと思っているが、但しこっちにも頼みもあるのじゃがな」
「何でございましょうか、先生の頼みとは」
「海のさかなでな、鱓(うつぼ)を一枚描いて来て欲しいのよ。未だこの魚を描いた事がなくてな、南の方の海に居ると聞いているものでよ」
改まって頼まれる程の話ではなかった様にも思えたが、江戸に帰ったら早く顔が見たいと言う遠回しな意味かも知れないと北曜には思えた。
「分かりました、途中で瀬戸内の海にでも見かけるかも知れません」
「おおぅそうだ、三年前に信濃の小布施に出掛けた時だ、丁度味噌屋の前で松代藩の佐久間象山殿とおうてな、北曜の事を思い出して尋ねた事があったのよ。蘭学や阿蘭陀の言葉はこれからの時代に必要かと」
「佐久間象山殿にですか、それで何と答えられましたか」
「阿蘭陀の言葉だけでは無く、英吉利語や露西亜語などの言葉は増々必要になって来ると言っておったのぅ。とにかく長崎に行けば阿蘭陀国がどんな所か、世界がどんな所かは分かると言っておったぞ、沢山学んで来るがいい」
師の北斎の言葉に北曜は、力強く背中を押された気がした。二十七歳になってやっと自分の歩くべき道を捜す旅に出られる事が嬉しいと思った。しかし故郷の酒田で耳にした話ではあったが、酒田の隣の庄内に住んでいた八歳も年下の斉藤元司(後の清河八郎)が、昨年に江戸に出たと聞いて心中は穏やかではなかった事もある。
造り酒屋の長男で郷士の子でありながら、元司は庄内でも秀才と知られていた。清川の関所役人に師事して論語や朱子学、孟子や易経や詩経を学び、それに剣術も庄内ではずば抜けて強いと聞いていた。そんな男が清河を訪ねて来た藤本鉄石と言う、岡山生まれの絵師で尊王攘夷を掲げる男に心酔し、江戸に向かって庄内を出立したのは昨年である。後で庄内では江戸に行った元司が、何か派手な事をやるのではないかと言う話が広まったのである。
「どうした北曜、何か心配事か」
故郷の事をつい思い出したのである。
「いえ、すみません、ご心配をおかけしまして。八日の夕刻には又改めて伺います」
「何か良い画をそれまでに描いて置く事にする。楽しみにしておれよ」
若い北曜の姿の中に、大きなうねりに立ち向かう夢と不安を北斎も感じていた。
北曜が訪ねて来た三日後の八日の日、阿栄は北曜の長崎行きを知り近くの飯屋に頼んで料理を運んでもらい、その料理を並べていた。北斎には珍しく、前夜からわずか二寸にも満たない紙を前で考え込んでいた。そして朝起き上がるとまるで昨夜の事が嘘の様に、瞬く間に北曜に贈る画を描き終えていた。そして描き終えた紙の右下に嘉永元戌申年六月八日、門人北曜子於くる、齢八十九歳画狂老人卍筆 と書き終え、百歳までは生きたいと願って造った百印を押したのである。
画は正しくは「着衣鬼図」(ちゃくいおにず)で、見ようによっては単に鬼が着物を着て、酒と肴を前に胡座を掻いている図である。画は僧侶が着る黒い僧衣をまとった赤鬼で、刺身が盛られた伊万里の皿に同じ伊万里の徳利が置かれ、それを前にして物思いにふけっている図である。僧侶が鬼なのか鬼が僧侶なのか、酒を飲んだから赤いのか飲んでいなくても赤いのかはともかく、鬼は考え事をしているのである。遠い長崎に向かうと言う北曜が訪ねて呉れた事で、送別の宴をしてやりたいと前夜から思っていたのだ。
しかし酒の飲めない北斎は、それでも北曜に酒を勧めてみたが、あれやこれやと交わす言葉も少なく賑やかにもなれず、鬼図の他に日新除魔図を十枚程と、北斎が使っている新しい画帳を選別にと贈ったのである。
北斎にしてみれば僧侶が鬼になったのか、鬼が僧侶になったのか、本性を隠す生き方には所詮無理があると言う思いを比喩したものであった。
二十二、岩松院天井図 二十三、北斎の死と北曜
二十二、岩松院天井図
江戸で北斎が酒田の門人である本間北曜と会っていた嘉永元年(1848)六月、この頃に為斎は小布施にある鴻山宅の離れ家、碧椅軒に一人で寝泊りをしていた。三月の終わりに小布施に着いてから久しぶりに穀屋へ顔を出し、そして岩次郎などに江戸土産を渡して小布施に留まる事を伝えた後で、碧椅軒に閉じこもり一人で岩松院の天井画と格闘していたのである。
部屋に持ち込まれた檜板一枚の大きさは畳一枚の長さと同じ六尺、しかも横幅は五尺二寸程で畳で凡そ二枚分もの大きさである。この檜板が縦に三枚、横に四枚を繋ぎ合わされて岩松院の天井に張り込まれるのである。
天井画を描くとは言っても天井に向かって描く訳では無く、画を仕上げてから天井に張り込み繋げて行くので、その意味では通常の画と描き方は同じではある。しかし繋げれば、その大きさは碧椅軒の部屋の数倍の大きさになる為、部分的に描いては繋げて行く方法を繰り返して行く事になる。尤も描く前の下地造りから下絵を実寸大に拡大して輪郭まで描くまで、時間にすれば仕上がるまでの半分を要する程の手間暇を掛けなればならない。
描く順序も下絵を板の大きさに拡大する為、まずは描く下絵全体を檜板と同じ比率で十二枚に分割する事から始まる。それは下絵の上に紙を載せて板の比率に合わせて十二等分に分割した後、更に下絵に描かれている画の輪郭をも写して書き加える事であった。そして分割した下絵の隣の境に目印の当たりを入れ、それを頼りに板一枚分の大きさに拡大して描いて行くのである。
為斎が二枚の檜板を預かり、板と同じ大きさにに拡大した図を十二枚全てに写し終えたのは、小布施に祇園祭が始まり三台の祭屋台の囃子の音色が遠くに聞こえていた六月の初めであった。この作業にはいくら人出が有っても意味の無いと言えるのは、黙々と下絵から拡大して行く単純な作業と同時に、下絵を見ながら事前に付けた当たりを目安に輪郭の線を描く、繊細な神経の必要とする作業の繰り返しだからである。
一方で膠に明礬を入れた礬水(どうさ)と呼ばれる液を作り、拡大して描いた紙を板に貼り付ける下地作りをしなければならなかった。これは檜板と紙とを接着させる目的と共に、岩絵具を滲ませない為の作業でもある。更に礬水を塗って乾いた下地の上に、今度は白土を溶いて薄く塗って行くのである。これは家具などを塗装する前に砥の粉を材木に塗るのと同じで、紙の表面にある凹凸を平らにする為の作業でもあった。そして下地作りの最後の段階である胡粉と呼ばれる貝を細かく砕いた白い絵具を、拡大した墨の線が消えない程度の濃さで檜板の全面に塗って行くのである。
こうして天井板となる十二枚の檜板が乾いた事で、彩色をする為にこれらの檜板を岩松院へと運んだのである。それまでは薄い墨での線を持って描いて居たが、平面に彩色する作業を一枚づつ描く事が出来ないのは、色が一枚毎に変化してしまう事を避ける為でもあった。其の為に少なくとも四枚から六枚は何時も並べて彩色する事で、色に濃淡が出てしまう事を防がなければならないのである。
絵具は朱や鉛丹、岩緑青や花紺青、藍やインドから届いたベンガラなど、大凡八種類の顔料を使うが鉱物の顔料はその砕いた細かさによって、いく種類もの濃淡の違いを生み出す事が可能である。そしてこれらの顔料に北斎から学んだ荏胡麻油の調合を行い、絵具を作る為の色の見本を作り出して行くのである。これは絵具が不足した時に後から作り出す基準の色となるものだからである。
ここから初めて絵具を使い、胡粉を塗った下に薄く見える輪郭線に沿って彩色を始める事になる。すでに六月も半ばを過ぎて、小布施に来てから三カ月近くが過ぎていた。
だがその為斎の頭の中には何時も、北斎の言葉が刻まれていた。『儂の描いた画が為斎の描いた画だと後に生きる人に言われたなら、儂は即ち為斎となるのよ。だから為斎の描いた画が儂が描いた物だと後の人が言えば、為斎は即ちこの儂になるのさ』
落款の無い画を誰が描いたのかを決めるのは、伝え聞いた話では無くそれを見る者が決めるのだと北斎は言う。そしてその確かさを裏打ちするものは研ぎ澄まされた感性と呼ばれる感覚と、何よりも歓びを美しさに見出す事の出来るその生き方だと為斎には思える。
師の北斎はそうした生き方を、生涯に亘って追い求めていたからである。だから為斎は何としてでも北斎になりたいと、心から思っていたのである。
為斎が岩松院に通い彩色を始めた頃になって、鴻山が時折顔を見せる様になった。
「どうですか、何か手伝いましょうか」
何時もそう聞かれる言葉だが、為斎はついつい大丈夫ですと答える。手当てを貰っている関係でもある以上、鴻山にお願いしますとは言えない立場でもあった。しかし流石に彩色を初めてから二か月が過きて秋の気配が漂って来た頃に、画には北斎では無い為斎の筆が出始めたのである。金箔を張る迄はと持ち続けていた筆の運びに、ごまかしが出てしまい遂に鴻山に助けを求めたのである。
「ここまで何とか描いて参りましたが、師匠に教えて貰った技量が疎かになり始めまして、暫く私に代わって彩色をお願い出来ないでしょうか」
鴻山は金箔を貼る以外に、ほぼ九割方を描き終わった為斎の筆に驚いた様にこう語った。
「正直、ここまで描ければ大したものです、あの師匠が半年もの間、付っきりで絵筆の運びを教えられたと言うのも良く分かります。誰が描いたかでは無い、どの様に描けたかが大事だと、わたしも先生には説教されましたよ。ともあれ、「どの様に描いたか」よりも「誰が」に注目するのが世間ですからな、その世間に媚びない画を私も描きたいものです。気晴らしに三日か四日程、外に出掛けられたら良いではありませんか」
「しかし、その三日か四日で全ての色も塗り終えられそうでして。ならばこの様にお願い出来ませんか。つまり二日程休ませて戴き、その後に彩色の全てを終えさせて戴き、鴻山殿に引き継ぐ事に致します。後は下地に礬水を塗って背景の金箔を貼り、砂子を蒔いて眼を入れれば終わります。金箔は高価なものですのでやはり鴻山殿が手を入れられるのが筋かと、それに松代の小山田様のお住まいに一度お伺いしなければと考えていましたもので」
「それはいい、あの屏風絵のお話も善光寺地震で伸びたと言う話は聞いてはいましたが、一度お伺いして置くのも悪くはないかと私も思いますよ」
そして暫く考えていた鴻山は、決心したように為斎に言った。
「分かりました。金箔を貼るのは私の方がやりましょう。これまで為斎さんには殆どお任せしてしまい、寧ろ申し訳なかったと思います。しかしこの三寸四方の金箔も注文した枚数は四千四百枚程となりますもので、私でもやはり無理があります。あの彫り師の和太四朗に相談して、職人を入れようかと考えておりますので、後の事は御心配なさらずに」
まるで四年前の東町の祭屋台の天井画と同じであった。最後になって幾らかの仕事を鴻山に残し、江戸へと引き上げてしまうのである。為斎はその事に、何時も後ろめたい思いをするのである。しかし鴻山も又同じであった。殆ど任せっ放ちで十分に手伝う事が出来ない自分に対し、悔いと苛立ちだけが残されて居た。
「近々為斎さんも又屏風絵を描きに小布施に来られると聞いています、どうですか、その時に今度は合筆で、何か一緒に描いて見ませんか」
鴻山からの言葉が、為斎の心を優しく包んでいた。
「お誘いを戴き、有難うございます。是非にお願いしたいものですよ」
為斎にはそれ以上の言葉が無かった。
「それじゃぁお約束と言う事で」
鴻山の顔は穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「はい、その節は宜しくお願い致します」
為斎も鴻山の暖かな言葉とその微笑んだ顔に、何故か癒されたと事を感じていた。これまで同じ北斎の門人と言う事を感じた事の無い二人が、この時初めて二人は同じ師を持っていた事を思い起こしたのである。これまで鴻山は全くと言って良い程に、学んだ学問の質が違っていた。それでも為斎の目から見れば、どこか互いの気持ちを理解出来る何かが生まれた様に思えたのである。
翌日、為斎は穀屋に寄って味噌の手土産を買い求め、世間話を平左衛門と茶を啜りながら既に十歳になった岩次郎の話に花が咲いた。そしてその翌日の朝早く、松代に向かったのである。昼前にはその松代の小山田宅に着く事も出来たが、家老の壱岐は登城しているとの事で、再度夕刻に伺う事を伝え松代の旅籠に宿を取る事にした。
夕刻とは言っても未だ暗くなるまでには大分時間があった。今一度家老の小山田家を訪ねた為斎は、北斎から聞いていた話を思い出しながら、通された部屋の隅で壱岐が帰るのを待った。程なくして現れた壱岐は驚いた様に為斎を見て尋ねた。
「北斎殿が訪ねて来たのかと思うていたが、北斎はどうしている」
「葛飾為斎と申します。この三月から小布施の岩松院にて、師の北斎に代わって天井画を描いております。北斎も小布施に行ったなら、松代のこちらにお伺いして挨拶を、と申しておりました。お見知りおき戴きますように」
「ほぅ、それでわざわざと、随分とお若いようだが幾つになられる」
「はい、三十になります」
「ところで北斎殿は健在かな」
「来年で九十歳となります。大分高齢となりまして、あまり外に出る事なく、出ても芝居見物などに」
「そうか、北斎殿にも申したが、頼んでいた屏風絵も善光寺のあの大地震で倹約令が出されてのう。遅れてしまったが三年後には、その倹約令も廃されるであろう。それからと言う話になるであろうが、わざわざ足を運んでの挨拶、江戸に帰ったら北斎殿には宜しく伝えてくれよ」
為斎にとってのこの話は、北斉を間に置いた単に顔つなぎでしかなかった。しかし人の世が動くのは、知らない者よりも知っている相手、知っている相手よりも親しい相手と相場は決まっている。若い門人の為斎には画だけでは無く、人とのかかわり方も師は教えてくれたのである。
そしてこの三日後に一仕事を終えた為斎は、小布施を立って江戸に向かったのである。
為斎が小布施を後にして、ひと月程が過ぎた頃である。鴻山の許に一通の手紙が江戸の為斎から届いた。
『向寒之砌ニ御座候得共皆々様 御機嫌よく大慶至極ニ奉存早候、 然者野生義大変後江戸表へ出仕候得共旅行之心組御座候間住所定メ兼候処御地へ罷出候まで事故喜笑子宅へ同居仕候間左様思召可被下候、さてさて種々の事にて御不約束ニ相成御高免可被下候、大風の夜は畑中にて伏して露となる身はおしまねど草の上御一笑一笑煮さためて此節は毎夜づいぶんなかなか甘く甘く、よくさとうをお入れ出来た(画)なさいまし、何も用て居らす 早々敬白 霜月二十二日出 尚々御内室様へも宜敷御伝声願候 頓首 所書 本所小梅代地 ころもや五郎兵衛 同居前為斎拝
鴻山先生絢斎 尊下 』
年号が変わったこの年の十一月、鴻山に対して岩松院の天井画が未完成のままに小布施から江戸に戻った事への、いわば為斎からの詫びの挨拶状であった。師の北斎に似せて手紙の中に墨で画を描く事を真似たのである。そしてそこには師の北斎が曾ての文政三年に、画号の為一を前為一と改めた様に、一仕事を終えた自分を晴れがましく想える為斎も又、前為斎と号を改めた事が記されていた。
江戸に戻った為斎は鴻山に手紙を書いた翌日、飛脚問屋の十八屋に手紙を届け、その足で北斎の家に向かった。
「おぅ、どうだった。鴻山は手伝ってくれたか」
為斎の顔を見るなり師匠の北斎が聞いたのは、ただその一言だった。
「どうも、お手当を戴きながらの仕事ですと、お願いしますとは中々言い出しにくいものでして」
「まぁそんな所だろうな。で、どこまで行ったんだ、天井画の方は」
「金箔を貼る直前までやって参りました。鴻山の旦那は金箔は職人を入れると言ってましたので、こちらの仕事としては大方は済んだかと」
「そりゃあご苦労なこった、で、どうだ。儂の仕事と見間違う程の仕事は出来たのか、少なくとも為斎にはその自負があったのかどうかと云う事よ」
「ございますよ。最後になって自分の筆の運びが出そうになりましたが、先生の落款を入れたい気持ちを抑えるのに苦労しました」
「そうかそうか、いやでかしたな為斎よ。これで儂も、大分気持ちが軽くなったと言うものよ」
これまで北斎が描いて来た画の中には、見る者に対する多くの洒落や皮肉が込められている。恐らく今度の天井画は北斎最後の大きな目論見を持った画ではなかったかと為斎には思えた。果たして百年か二百年かの後の世に、この画を見た者が北斎の描いた画だと見るとしたら、為斎は間違いなくもう一人の北斎になったと言えるはずである。そして北斎の謂わば世俗に向けた目論見は、見事に後世に残る事になるのである。
二十三、北斎の死と北曜
江戸に居た北斎が近くにある芝居小屋の河原崎座で、顔見世興行を見物していたのは十一月四日の事である。ところがその二日後の六日に北斎の許に、九年前に盲目となっていた曲亭馬琴の亡くなった知らせが、既に他界した息子宋伯の嫁お路によって知らされた。既に馬琴は今年で八十二歳の年齢を重ねていた。北斎からみれば僅か七歳年下の馬琴の、それも病気とは言えない死の知らせは、北斎にも確かに死が近づいている事を教えた出来事であった。そしてそれは又、何れは誰もが死ぬのだと言う事を目の前に示された出来事となった。
馬琴との思い出は尽きる事も無い程に、次から次へと北斎の脳裏に溢れ、そして浮かんで来る。周囲からは時代を代表する作家と絵師の確執とも言われたのだが、意地を一歩でも引いてしまえば、まるでどちらかが相手の軍門にでも下ってしまったような、そうした時代が二人の間にはあった。
馬琴の書いた読本には北斎の描いた挿絵が似合い、北斎の描いた挿絵は、その馬琴の書いた読本の中で息付いている事も又確かであった。しかしそうした事を越える事も出来ずに疎遠の時代が長く続き、既に人生の半分の時間を失った事に改めて北斎は愕然としたのである。未だ俺は逝かぬと思っては見たものの、そうした年齢に近づいて居た事は、嫌が上にも受け止めざるを得ないのである。この馬琴の死を知った夜、北斎は筆を取り上げて画を描いた。
画題は『狐狸図』の二枚の画である。それは若い北曜に贈った画に似て、狐も狸もどちらも僧の衣服を身に付けているが、狐の方は杖を突いて立っていた。眼の前には鳴子を付けた鼠取りの仕掛けに付いた、餌とも言うべき鼠を狐は見つめていた。或いは見つめているのではなく、耳をすませているのかも知れなかった。
もう一方の狸の画は僧衣を着て腕を組み、こちらは座ったまま考え事をしている。後ろには茶釜の湯が沸いていて、目の前には火を起こしたのであろう団扇が一つ置いてあった。静かな一瞬を描いた画ではあるが、どちらが自分でどちらが馬琴を描いたのか、恐らく盲目となっていた馬琴は狐ではなかったか、杖はその為の道案内であったとも読み解ける。
馬琴が亡くなったこの年の暮れの事である。まるで先に逝ってしまった馬琴に見せつけるかの様に、北斎は立て続けに幾枚かの画を描いた。『雨中虎図』『雪中虎図』の掛軸一対と『漁樵問答図』そして『龍図』である。更に翌年の正月にかけては『富士越龍』『扇面散図』『李白観瀑図』『骸骨図』であった。中でも我が身を北斎は龍に例え、富士の頂を昇る『富士越龍』を描き上げ、巳酉年正月辰日九十老人卍と落款を入れたのだが、まるでこれでもかと言う様な北斎の、それは作画に費やした意気込みが途絶えた直後の事であった。この暮れから正月にかけて肉筆画を描いた無理が体に応えたのか、筆を持つ気力が薄らいで行き、二月の半ばになると寒気がすると言い出し横になってしまったのであった。
「なぁに、てえした事はねえよ、不思議な事だがよ、死ぬのはこれっぼっちも怖くも無くなっちまったぜ」
と北斎は言うのだか、周囲から見れば初めての大病と目に映ったのである。今までのその生涯で、病を患った事など一度も無かったからでもあった。
それから床に就いたままに二か月後の嘉永二年、四月十八日の七ツ(午後五時頃)に、浅草のかつては聖天町と呼ばれた猿若町の長屋でその生涯を終えたのである。北斎が亡くなるひと月前に為斎も見舞いに出掛けてはいたのだが、言葉では相変らず「なぁに、てえした事はねえよ」と言い張っていた事が噓の様にも思えた。
葬儀は翌十九日の朝四ッ(午前九時頃)に、近くの誓教寺で行われたのである。葬儀の後で為斎は、残された阿栄にこんな話を語った。
「姉さん、お悔み申し上げますが、それでも世間から見れば大往生って処でしょうね。本当に師匠は凄い事をやって逝きました。あっしらにはとてもじゃあないが、足許にも及ばないお人でした。それでもこのあっしには「北斎になれ」っと「俺は為斎になってやる」と言って貰えて嬉しかった。又いつか、小布施にまいりましょうよ」
「そうだねぇ、毎晩遅くまで、為斎もしごかれていた事があったものねぇ。だからさ、二代目じゃなくて、為斎にはもう一人の北斎になって呉れる事を、おとっつあんは期待していたんだと思うのよねぇ」
父親が亡くなって一人残された阿栄は、何処か淡々としている様にも為斎には見える。これまで阿栄は何時も北斎の娘と呼ばれて、やっと娘である事から抜け出た様にも思えるのだ。そして北斎の死は娘の阿栄にとって天寿を全うした父親を送り出した事に、何処か満ち足りた安堵を湛えている穏やかさがあった。
処で長崎に向かった北斎の最も若い門人でもあった本間北曜は、その目的であった長崎の街を見て歩き、阿蘭陀の文化に触れて幾人かの人々と出会い、長崎を立ったのは嘉永元年(1848)九月二十四日の事である。そして江戸に戻ったのは約二か月後の十一月二十七日で、この時、北曜の頭の中では、如何に阿蘭陀語を学ぶ事が出来るのかと言う一点に絞られていたと言える。
まずは言葉や文字こそが世界を理解しうる、ただ一つの方法だと長崎で痛感したからでもあった。そこで江戸の蘭学者でもあった三十二歳の若い杉田成卿が開いている杉田塾に、まずは阿蘭陀語を学ぶ為に入塾したのである。この杉田成卿の祖父は、解体新書を書き上げた杉田玄白でもあった。百人を超える塾生達の中で北曜は、夢中になって蘭学と阿蘭陀語を学んでいたのである。
翌年の嘉永二年、北斎が亡くなる八日前の事であった。英吉利の軍艦マリーナ号が相模の三浦郡松輪崎の沖合いに姿を現した話が伝わると、若い北曜はすぐさま松輪崎へと向かったのである。そしてかなりの沖合で測量を続けながら移動している船影を見たが、正確な軍艦の姿を見る事は出来なかった。
ところがこうした最中の前月の三月二十四日に、亜米利加の軍艦が漂流していた日本人の引き渡しに長崎に訪れたと言う話を伝え聞いて、北斎が亡くなった話を耳にしたのは、四月も末になってからの事であった。北斎から頼まれたうつぼの画を、渡せぬままに画帳の中に眠らせていた事を北曜は悔やんだのである。
その後の北曜の足跡は、北斎が亡くなって二年後の嘉永四年(1851)に故郷の酒田に一度戻っている。長崎に出して呉れた兄へその報告と共に、今学んでいる事を伝えて自ら向かう道を知らせたのである。そして江戸に戻った北曜が杉田成卿の誘いで九段下の蕃書調所と呼ぶ、幕府が西洋の情報を集める為に作った学問所に勤める事となったのは、安政二年(1855)の事であった。後に北曜は勝海舟の開いた勝塾の蘭学教師に誘われる事となり、更に長崎に再度留学すると今度は英吉利人の宣教師から英語を学び、文久年間には仏蘭西の巴里・英吉利の倫敦、露西亜や亜米利加の紐育(ニューヨーク)、更に清国へと巡遊して薩摩藩の家老小松清廉や西郷隆盛の要請に応えて、鹿児島開成所の英語教師へと進むのである。
しかし慶應三年(1867)に薩州商社を立ち上げるべく故郷の酒田に帰るも、庄内藩は佐幕派によって奥羽越列藩同盟が締結の方向に動き出していた、それはまさに戊辰戦争の直前の事であった。薩摩から故郷の酒田に戻ったのは商社と言うカンパニーを日本で作る為の出資を本間家に求める為であったが、北曜は庄内藩の佐幕派に着け狙われ、親戚の住む鶴岡で風邪に罹り、医者が置いていった薬を飲んで薬殺されたのである。慶応四年(1868)七月十九日、享年四十七歳であった。北斎が亡くなって二十年後の事である。
長崎に向かった北曜が故郷の酒田に持ち帰った物の中には、北斎が餞別に持たせた日新除魔図と北斎が呉れた画帳、そして鬼図があった。(北曜が故郷の酒田に戻った時、この北斎から貰った鬼図を見た庄内藩士の国学者、池田玄斎は『儂に追賛を一筆、鬼図の横に書きたいのだが』と北曜の許しを請うと、鬼の描かれた左上に筆を入れたのである。そこには『世の中は虎狼もなのみにて、衣を着たるおにぞおかしき』と書いた。それは北斎が亡くなって、二年後の事である)
北斎の門人として描き残した画は、嘉永六年にペリーが乗って来た黒船を浦賀に出掛けて描き、北斎に頼まれて長崎に向かった時に描いたうつぼの画の二枚だけであった。
二十四、北斎の記憶
二十四、北斎の記憶
北斎の知人で人情話の作家、松亭金水が書きあげた読本『善知安方忠義伝』の挿絵を、当の金水から頼まれたのは北斎の葬儀の帰り道であった。
「前から北斎から頼まれていた事だがよ、『儂がもし筆を持てなくなった時は、為斎に頼んで呉れねえか』と言われて居たもんでな。何でもあんたは師匠の北斎から、その描き方を全て叩き込まれているそうじゃないか。そんな訳で俺が描く読本の挿絵の事だが今度は為斎さん、あんたに頼みてえって思ってな」
寺の門を出た時に金水に呼び止められて、小声での立ち話であった。
「えぇ、そんな事を先生は話していたんですか」
為斎に取っては、まさに初めて聞く話であった。
松亭金水は本名を中村経年と言い、書道家の谷金川の下で修行を重ねた後、曲亭馬琴に紹介され筆耕を受け持っていた。筆耕とは原稿を校正した後に清書して、版元に渡す事を受け持つ職業である。しかし初めから馬琴とはそりが合わず、後に為永春水の筆耕として可愛がられ、代筆を任せられるようになり作家への道が開けた男であったその為に書道の師でもあった谷金川からは金の字を、為永春水から名前の水を貰い金水と名乗っていたのである。
この金水から頼まれた物語『善知安方忠義伝』の挿絵は、かつての作家である山東京伝が四十年程も前に、既にその一篇のみが刊行され中断されていた読本で、松亭金水はその続篇の二篇から三篇まで書上げたいと考えて居たのである。物語は海鳥のウトウの鳴き声に纏わる和歌からの伝説話で、母鳥がウトウと叫ぶとまだ飛ぶ事の出来ない子供の鳥は、ヤマタカと応えて巣から出てくるのである。
猟師はこの習性を利用して子供の鳥を捕えると、母鳥は血の涙を流して猟師を激しく追うのだと言う。この話を平将門の子である平良門と清夜叉姫を主人公に、金水の最も得意とする勧善懲悪的な仇討ちに移し替えての物語であった。為斎はこの年の終わりまで、金水のこの物語の挿絵に掛かりっきりとなったのである。
嘉永四年(1851)の三月、北斎が亡くなって二年後の事であった。今度は浅草福井町の山静堂と言う版元から、為斎に対して学問向けの本の挿絵の注文が舞い込んで来たのである。名を山崎屋静七と言う処から山静堂と名乗る版元で、趣旨は描かれた画によって測量の方法を解説する入門書とも言える本の挿絵であった。解説文と測量器具の紹介、そして器具を使用しての測量の方法などを紹介するもので、上下十巻程の物を刊行したいと言うのである。
かつて北斎が応需で描いた『地方測量図』の錦絵が、測量を学ぶ者達の学問書の挿絵として目に止まった様で、北斎の門人であった為斎にその注文が来たのであった。これまで学問書としての挿絵など描いた事は無かったが、様々な測量の場面を描く画の枚数は四十図、墨一色で描く為に為斎は引き請ける事にしたのである。然程大きな仕事では無いものの、この前年には『興歌当夢化花』(こうかてむけはな)とした狂歌集の挿絵を頼まれ、二十図程を描いて版元に渡した事もあり、この頃になると少しずつ後の世に残る仕事が出来る様になり、先は見通せないものの為斎には励みとなるに値する注文だった様である。
翌年には馬喰町の錦耕堂から、絵師を五人程集めた『贈答百人一首』の読本を刊行したい、と言う話も届いていた。五人の絵師が十枚程の挿絵を描いてその持ち味を競う話だが、一勇斎国芳や門人の一猛斎芳虎、四代目歌川豊国、梅蝶樓国貞などの名前が挙がっていた。
しかしこの時に為斎の耳に入って来たのは、歌川広重が天童藩の御用で、三百幅の掛軸を描くと言う話であった。期間は一年半、広重一人で掛軸三百幅など描ける筈はない。広重はその門人達の手を借りて、描く掛軸を分業で描こうとしたのである。しかも落款も印も広重と入ると言う事である。
しかも注文された掛軸の目論見は、天童藩がかつて領内の庄屋や大店、更には藩士などからの借金を返済できなくなった為に、名の知れた絵師に画を描かせ、借金を踏み倒す算段を考えたと言うのである。借金を返せない代わりにとしての、反感を押えるのがその目論見なのである。
かつて北斎が語ってくれた江戸琳派の酒井抱一が、弟子の泌庵か蠇潭に代作を頼み落款だけを書いた話と同じであった。本物とは偽物とは、何を持ってその違いを言うのであろうか。絵師は自らの弟子が描いた画なら自らが描いたものだと、それを認める事が出来ると言う事なのであろうか。
ただ間違いなく言えるのは北斎は自ら描いたものであっても、それが一部しか描かなかったものであれば、そこに自ら落款を入れる事は無かった。そしてそうした画には、見る者に判断を委ねるのである。しかし為斎は不思議な気がしていた。自ら生み出した画がどんな人の許に届き、どの様に愛でて貰えるのか、売り渡す絵師の気持ちが理解出来なかったのである。
翌年の嘉永六年、この年の六月に浦賀に姿を見せた黒船の騒ぎも一段落した江戸に、どことなく秋めいた季節が訪れた頃の事である。阿栄宛に小布施の高井鴻山から、一通の手紙が届いたのである。
手紙には三回忌には顔を出す事が出来なかった事への詫びと共に、先生が初めて小布施に来た時に描いて居た菊図が二枚、江戸に持ち帰っている筈だと言うのである。既に彩色してあるのか下絵のままなのかは分からないが、もし残っているのなら、その画を売ってはくれないだろうかと言う話であった。そして、もしも彩色がまだの場合には阿栄に彩色をして欲しい、そして江戸で表装をして小布施に送って欲しいと言う内容だったのである。最後に恥ずかしい話だが先生の描いた画は、一枚しか我が家に残って居ない事に気が付いたとも結んであった。
小布施の近隣の人達に頼まれて描いた事は度々あった事は知っていたが、阿栄は為斎から手紙の意味を聞いて見ようと思い呼び寄せたのである。
「小布施の鴻山からなんだけれどさ、この話を為斎はどうおもうかねぇ」
手紙の一枚の画とは恐らく、鴻山から贈られた油絵具を使って初めて描いた、魚の画では無かったかと為斎には思えた。
「高井の旦那は裏表のあるお人じゃありませんから、書いてあるまんまだと私は思います。これは私の推測でなんなのですが、先生の形見分けとでも言った処の話では無いでしょうかね。タダで貰いたいと言うのも気が引ける、それで買い取りたいと考えたのかもしれません。相手は先生の門人、それも小布施の豪商と呼ばれた方ですから、もし残っているのなら言う通りにして差し上げたらと思いますがね」
阿栄は暫く考えていた挙句、二枚の絹本に描いた下絵を為斎の前に置いた。絹本とは掛軸などに用いる絹布の事である。
「おとっつあんが小布施で描いた菊の下絵と言うは、多分この事だと思うのだけれどね」
それは秋の陽の下で時間をたっぷりとかけた事が理解出来る、珍しく細密に細い線で描いた菊の花の絵であった。その下絵が何に使おうと考えて居たのか、何故に彩色をしていなかったのか為斎には分からない。しかし或いは試にと、油彩で描く心算ではなかったかとも思える節もあった。色とりどりの沢山の菊の花を並べれば、賑やか過ぎる画になる事は分かり切っていたからである。しかし間違いなく下絵は北斎が描いた物であった。
「姉さん、お売りになるのなら、姉さんが彩色をされると良いと思います。又鴻山の旦那も彩色して表装して送ってくれと言っておりますし、代金は任せてしまえば良いかと思いますよ。それに落款は先生が亡くなってしまったのですから、入れて貰う事も出来ませんが、私で良ければ落款の方は書き入れますよ。なにせ当の先生に直接、落款の書き方の手ほどきを受けているのですから」
為斎は笑った。師匠の落款の書き方まで教えて貰った絵師など、この自分しか居ないだろうとも思えるし、落款を門人に教えた絵師も北斎位だろうと為斎には思ったのだ。
「だけど変な話しだねぇ、おとっつぁんの描いた下絵に娘の私が色を入れるなんてさ。それに為斎に自分の落款を教えた事が、今になって役に立ったじゃないかい。生きていたら大笑いするかもしれないねぇ」
阿栄は本当に生きて居たら、北斎は大笑いするだろうと思った。
「かもしれませんが先生は富嶽を描いた後に、御上にも世間にも媚びる事を拒んで、偉そうな態度も出さず贅沢な暮らしを求める事もせずに、黙々と自分の道を追い求めて生きて行きました。あっしには分からない世界の話ですが、描かれた意味も分からず有難がる人々に対して、或いは画を金儲けの道具に使う人達に対して先生は、あの世に行かれた後になっても遊んでいるのだろうと思うのですよ。『ほれ、この画は一体、本物なのか偽物なのか、あんたはどう思うんだ』ってね」
そして知らず知らずに二人は、顔を見合わせて笑っていた。ひと月後に事の次第を書き添えた阿栄は、阿栄の名を箱書きを添えて鴻山の許に送り出したのである。しかしなぜか阿栄には、鴻山は間違いなく、この手紙は破り捨てるだろうと思えた。鴻山が良い人か悪い人かでは無い、北斎の描いた画だと思うか、思わないかの違いだけであった。そしてそれは北斎が残して行った、陰謀とも言うべき物の一つだろうと思えるのである。
年が明けた嘉永七年(1854)の正月早々に、又も江戸は騒然としたのである。一月十四日に忽然と一隻の外国船が再び久里浜沖に現れ、やがて上陸の出来る浦賀沖にと移ったからであった。早馬が江戸へと走り、防備の川越藩や彦根藩の侍達が集められ、そして二日後の十六日には黒く煙を吐き出す蒸気船が三隻、しかも船の横に付けた水車を蒸気の力で廻していたのである。
更に帆船の軍艦が三隻程の姿を見せた。そして二月六日には帆船の軍艦が一隻、二十二日には更に帆船が一隻と、都合九隻の外国船が浦賀に姿を見せたからである。それは通商条約を求めに来た亜米利加の船であった。
特に煙を吐いて蒸気で走る船を見た人々は、驚きの声を上げたのは言うまでもなかった。中には小さな小舟で異国の軍艦近くまで見物に行く者も増え、幕府は急遽、会議を開いて開国の是非を論議したのである。そして三月三日に神奈川の横浜村に上陸させて、十二か条の日米親和条約を締結する事となったのである。それは徳川幕府が永く行ってきた鎖国政策の、終焉した事を国内外に知らしめた事でもあった。
その後、黒船と呼ばれた船は一度姿を消したのだが、実は函館に向かっていた事が巷に広まった。そして五月二十日に伊豆の下田湊に戻ったペリーは、此処で日米親和条約の細則を決める交渉を行い、六月一日に下田から去って行ったのである。
処がこの時に下田では小舟に乗り、黒船に乗り込んで捕えられ密航を図った者が居た。世界を知りたいと願っていた佐久間象山の門下、長州藩士の吉田松陰と、同じ長州藩で足軽の出でもある金子重之輔の二人であった。二人はペリーに密航を拒絶され、幕府に捕えられ長州へと送られる事となる。と同時に佐久間象山も又伝馬町に捕えられ、松代藩に蟄居を命じられる事となるのである。
吉田松陰や金子重之輔が下田で密航に失敗し、自らの自首する事で幕府に捕えられた江戸送りになった後、佐久間象山も捕えられ松代に蟄居を申し渡された七日前の六月十五日の事である、伊賀上野では大きな地震が起きていた。それは最初、絶えず小刻みに揺れる振動から始まり、二日間程後に大きな地震が襲ったのである。死者は凡そ千人とも言われたが、それはこれから始まる一連の地震の、単に前触れにしか過ぎなかった。
四か月後の十一月四日には、東海地方に広範囲な大きな地震が発生し、翌日の五日には南海地方にも同じような大きな地震が立て続けに起きたのである。特に東海地方の地震は寅の大変とも呼ばれ、箱根から見附宿(磐田市)辺りまでが大きな災害に見舞われた。中でも富士川は山崩れで川は塞がれ、掛川では掛川城が倒壊して宿場も火災で全て焼失してしまうなどの他、岡部宿では泥土が噴出するなど家屋の倒壊と共に多くの被災者が溢れたのである。
又、南海地震の方は紀伊半島と四国の太平洋岸に被害が集中して、大坂の安治川や木津川などでは、六尺の逆さ波が川を上ったと言うのである。津波は紀伊半島の先にある串本で五丈(十五メートル)程、室戸岬では一丈五尺(四~五メートル)、土佐の高知では六丈(十八メートル)程の波が押し寄せたと言うのである。
しかし地震がこれだけで終わった訳では無かった。南海地震のその二日後の十一月七日に、今度は四国と九州の間にある豊与海峡で大きな地震が発生した。被害が臼杵藩の別府や府内(大分)などでは、家屋の倒壊が四千五百程と多数に上ったのだが、中には二日前の南海地震の方が大きく影響を受けて倒れるなど、被害の実態を調べるのにもはや不可能に近い状態であった。幕府の出来る事は嘉永の年号を十一月の末に、安政へと改めた事位であった。
江戸に居た為斎の耳にも、佐久間象山が松代に蟄居を命じられた話は既に届いていた。あの小布施の穀屋の店先で、師の北斎と立ち話をしていた武士である。この時に改めて象山が、一体どの様な男であったのかを知ったのである。
安政元年が僅かひと月で安政二年になった訳で、相変らず目先の変化で幕府は気分一新を図ろうとしている様に為斎にも思える。この処、松亭金水が刊行すると言う、読本『朝夷巡島記』の挿絵を頼まれて描いて居た。この物語は当初、曲亭馬琴が書上げた巴御前の子であった朝比奈義秀が主人公の歴史小説だったのが、途中で馬琴が眼を患った事で中断していた物語を、松亭金水が七篇と八篇の補足を書き上げ完結しようとした物語である。
そうした二月も半ばに阿栄からの使いで、松代から勘定方の宮本慎助が顔を出したので、ぜひ来て欲しいと言う言付けが届いたのである。為斎は早速、翌日に阿栄の家に向かう事にした。
「ご無沙汰しております。姉さんにもお変わりなく、お元気で何よりです」
猿若町と呼ばれた阿栄の住む長屋も、隅田川に架けられた吾妻橋を渡れば為斎の家からは直ぐ傍ではある。だが師匠の北斎が居なくなると、そうそう通う理由も無くなって来るのである。
「為斎も忙しくやっているみたいじゃないかね、松亭の師匠が来たけれどさ、良くやってくれているって為斎の事を褒めていたよ。ところでさぁ、来て貰ったのは為斎に良い話だったからでさ、少し前に松代藩の宮本慎助さんが珍しく寄ってくれてね、家老の小山田さんが松代藩で作る文武学校の校長に就かれたとかでさ、それに善光寺地震で出された倹約令も解かれたとかで、頼んでいた屏風絵を描いて欲しいと言って来たのさ。何でも隣の飯山藩のお殿様が、安政五年の四月に御隠居される運びになると言う事でね、懇意にしていたとかで贈り物にしたいのだとお話があったそうなのよ」
飯山藩藩主の本多助賢は、三河より発した譜代の地方大名で、家紋は丸に立葵で徳川家で唯一、葵の紋が許されている家柄であったと為斎は記憶していた。しかも本多家六代目の藩主で、五十二年間もその座を守り続けている事位しか知らない。
「それは有難い話で、そうすると来年の春辺りは、又小布施に伺わなければならないと言う事になりますかね」
どれ程に家老の小山田壱岐が屏風絵を必要とするのか、何故に贈り物として使うのか為斎には殆どそうした事への関心は無い。ただ自分で納得できる画を描きたいと思うだけであった。為斎に求められているものは、六曲の屏風絵の虎と龍の図を双隻描くだけの事であった。
「随分と時間が掛かったけれど、やりかけた仕事だものね。それにさ、この注文は為斎にしか出来ない仕事だものね。それに私も出来れば、小布施に住もうかと思ってね」
突然の阿栄の気持ちを耳にして、為斎は驚いて聞き直した。
「姉さんが小布施に、ですかい、そりゃあ又どうしてですか」
「別に江戸に居る理由が無いと言えばそれまでだけどさ、田舎はのんびりしていていいねぇ、それに世の中は妙に世知辛くなったと言うか、時代が大きく変わりそうでさ」
確かに毎年の様に火事に見舞われる心配のある江戸とは違い、盗人も殆ど居ないのが田舎だとも思える。それに昨今は侍達も浮足立った様に、開国だの尊王だ倒幕だのと騒いで刀を抜き始め、互いにいがみ合っている事が多くなった様にも思える。
「まぁ、確かに親類でもあば心強いとも思いますが、あっしも実は、この頃は何とか所帯を持とうかとも考えている所でしてね。まぁ江戸に住む以上は、時代に合わせて行くのが一番だとも思いますがね」
考えてみれば阿栄の身内は皆無であった。阿栄の僅かな門人以外に、遠い親戚は在るにしても今更の感じがする。
「それじゃあ小山田様への返事は、お請け致しますと言う事にして、慎助さんには話しを通しておきますからね」
阿栄はそういって話を切り上げた。為斎も又、小布施で鴻山には世話を掛けるかも知れないと思った。そしてそれならその時に、鴻山と約束した合筆の話も実現出来そうな気がして来たのだ。
「それじぁ、先生に線香でもあげて帰りますから」
為斎は久しぶりに北斎の仏壇の前で、手を合わせた。その位牌の前に、北斎の書いた「絵本彩色通」の初篇と二篇が三冊づつ、埃をかぶって置かれていたのである。
「姉さん、この本はどうします」
「欲しけりゃ持ってきなよ。版元の和泉屋が大分前に持ってきたのだけれど、捨てるに捨てられなくてさ」
「一冊づつ戴いて行きます、小布施の穀屋の倅、岩次郎に送ってやろうかと思いましてね」
不意に小布施に北斎と行った時に、遊んでやった岩次郎の事を思い出したのだ。
「あの子、為斎になついていたものね」
阿栄は初めて小布施に行った時の事を思い出していた。
この年も二月の初めに飛騨で地震が起きた事が、瓦版に載っていた。死者が十名余りと言うからにして、大した地震では無かった様である。だが江戸では鯰画を家の入口に貼るのが流行っている様であった。それがまじないである事は誰もが分かっては居たのだが、そのまじないにすがりたい気休めが欲しい事も、江戸の者には又正直な気持ちなのである。
五月の初めの事であった。小布施の岩次郎から為斎に、数枚の紙に書かれた手紙が届いたのである。
「私は今年で十七歳になりました。そこでお願いなのですが、私の守り本尊である不動明王の絵を描いて貰えないでしょうか。先生にはお元気の様子で何よりです。そして絵手本を送っていただき、ありがたく受けとりました。子供の頃にしかお会いしていないので、先生の事は記憶してはおりませんが、私が今度、江戸に出た時は、是非お目にかかってお礼を申し上げたいと思っています。先々に小布施の高井様の処にも来られる様ですが、その節はお知らせください。お礼を申したいと思っております。 小山岩次郎 葛飾いさい先生 貴下」
手紙を読み終えた為斎は手紙を裏にして張り合わせると、一気に不動明王の画を墨で描いた。小布施に行くのは未だもう少し先の事であった。
八月に入った三日の事である。江戸でもほんの少しの揺れを感じたのだが、それはそれで人々の記憶から忘れ去られてしまった。人は誰もが目の前で起きた出来事でしか驚く事は無くなっていた様で、心配しすれば限の無い事でもあった。それが九月の末の二十八日に、遠州灘で地震が起きたと知ったのは、翌々日の事である。更に二日後の十月二日、四ツ刻(午後十時頃)に怖れていた地震が江戸の真下で起きたのである。
しかし江戸城ではそれ程の被害も無かった様なのだが、埋め立て地である浅草や下谷から本所深川あたりはその被害も大きく、倒壊した家は四千余りで新吉原で死んだ者は千人を超え、死者は町家で四千人程に上り、下屋敷や中屋敷のある武家屋敷の死者が、六千人を数えたとされている。これは所謂、圧死と言う死に方で殆どが重たい屋根に押しつぶされ、屋根の下敷きになった結果であった。
為斉の住む本所中之郷元町(吾妻橋東詰)辺りも大きな被害を受けているが、重たい屋根を持つ大店や武家屋敷に被害が大きいのが特徴で、同時に発生した火事は三十か所と言われてはいたが風も無く広く延焼した事も無く、翌朝までに全ての火元は鎮火したのである。尤もこの地震は江戸の周辺にも影響を与えたのだが、神奈川や川崎辺りには家屋の倒壊件数が一千七百に及んだと言うのだが、それが下総の松戸宿での倒壊は三十軒程に留まり死者も五名と言う程度で、少し場所がずれれば被害も極端に異なる地震であった。
この地震で浅草の雷門では、門の左右に鎮座していた風神と雷神が門外に飛出し、五重の搭の最上部にある九輪は斜めに傾いてしまったのであった。
この頃に江戸で最も人気の高い絵師は、二十年余り前に新進の版元である保永堂の竹之内孫八と組んで、『東海道五十三次之内』を刊行して一躍注目を浴びた歌川広重である。この『東海道五十三次之内』は保永堂を皮切りに、江崎屋、佐野喜、丸清、村市、伊場仙、蔦屋、丸久など江戸の主要な版元の数だけ、広重の東海道五十三次が新たに刊行されたのである。
これは版元自らの刊行した錦絵しか売れない、売らないと言う仕組みが作られていた為でもあった。処がその五年後には広重と保永堂との間に何が有ったのかも世間には知られぬ間に、版元の保永堂は絵師を広重から渓斎英泉に乗り換え、今度は中山道に場所を変えて『木曽街道六十九次』として日本橋から刊行を始めたのである。しかし広重とは違って英泉は中山道を歩く事を嫌い、高崎から先の宿場は名所図などの資料だけで描く事を始めた為、保永堂との確執は増々深まって行ったのである。例えば中山道の宿場図で本庄宿の隣の新町宿を描かず、その次の倉賀野宿を描き、更に隣の高崎宿は描かずと、描いた宿場が飛び飛びとなり遂には板鼻宿を描いた後は碓氷峠の手前の坂本宿を描き、軽井沢を飛ばして沓掛宿を描き、次の追分宿を描くと次の小田井宿を飛ばし、岩村田宿では盲人の喧嘩を描いて筆を折ってしまったのである。更に題に付けた宿場の名にも一貫性が無く、宿とか驛とか木曾道中とか木曽街道、或いは木曽海道や支蘓路ノ驛など、まったくバラバラの題を用いた事も、こじれた原因であった。
保永堂は錦樹堂に版権を売り渡す事で手を引く事にしたのだが、渓斎英泉と同じ様な筆筋を持つ広重に後始末を頼めればとした条件が付けられ、渋々ながらも広重に頭を下げて後始末をして貰う事となったのである。
処が今度は江戸に起きた地震を逆手に、三十代の若い版元の魚栄(魚屋栄吉)から広重に、錦絵を百枚描きませんかと言う話が持ち込まれたのである。しかも魚栄は売れる様に描けば間違いなく売れるのですよ、と強い確信を持って広重に語ったのである。錦絵を描く絵師は自らが描いた画がどれ程に売れなかろうが、その責任を問われる事は無いのだが、売れれば絵師としての名声は更に高まり、版元からの仕事の依頼も増える事は間違い無かった。
月に五枚程度の刊行をしましょうと言う魚栄は、全てのお題はこちらから出しますのでと断りを入れた。そしてこんな風に広重に釘を刺したのである。
「錦絵は、ありのままを描いてはダメです。画の中には物語を、それも江戸に住む者なら誰もが知っている出来事を入れる事です」
江戸百と呼ばれた『名所江戸百景』の錦絵が、安政三年(1856)二月に初めて刊行したのは『芝うらの風景』『千住のおおはし』『千束の池袈裟懸松』『玉川堤の花』『堀江ねこざね』の五枚である。どれも一見、ありふれた錦絵である。しかしまず魚栄は『芝うらの風景』を広重に描かせる事で、御上の面目は保ちますよ、と言うかのように将軍家別邸である浜御殿を海から広重に描かせている。それが浜御殿である事は飛ぶ鳥を都鳥として描かせ、航路の浅い場所に立つ澪と言う標識を描く事で、浜御殿である事を暗黙の内に知らしめているのである。しかも江戸の地震によって護岸が崩れてしまった事を描かず、画の中では既に修復してしまっていたのである。
それは『玉川堤の花』も同じように、魚栄の隠された思惑が見て取れる。花とは桜の木の事である。内藤新宿の宿場名主が植えた桜の苗木を、幕府の役人が全て引き抜いてしまった事への意趣返しであった。
それにしても錦絵と言う浮世絵が、文字では無く画で意見や気持ちを伝えると言う事に措いて、北斎が曾て言っていた「画とは描く者の思いを伝えるもの」と言った意味が、為斎には具体的に理解出来るのである。かつては役者絵や美人画を描いていた時代とは違い、錦絵は文字の無い瓦版の様な役割を、広重の江戸百を見て思えたのである。
日差しが随分と和らいだ三月の事である。小布施の岩次郎が突然に為斎の許に訪ねて来た。
「小布施の穀屋の倅の岩次郎です。江戸に出るお許しを貰い、一人で初めて江戸に来てしまいました」
「おぉう、岩次郎か、随分と大きくなったな、今年で幾つになったのだ」
「十八になります」
岩次郎が七歳の時に穀屋の二階で膝に抱いたのだから、あれから既に十一年もの歳月が過ぎていた事になる。
「随分と立派になったものだ。いや本当に驚いたぞ。しかも江戸まで一人で来たとは、小布施の皆さんはご健勝か」
「はい、父も高井様も元気です。それに昨年は画手本を送って戴き、ありがとうございました。そして守り本尊の画も。今日先生の所にお伺いしましたのは、先生の門人に加えて頂こうと思いまして」
「おい、俺は門人などは取っても居ないが他ならない岩次郎だ、特別にこれからは門人と名乗る事を許そう。ところでもう一人の兄さんが居たはずだが如何している」
「四歳齢上の兄ですから、既に店に出て商売の手伝いをしております。私の方はこれから何をすべきかを思案中でして、時折は松代の象山先生の所にお話をお伺いしに出かける位ですが、象山先生はあの通りのお方ですから武士や町人など分け隔ての無い方でして、出来ればお願いして塾生になろうかと考えている所です」
「そうか、岩次郎も蘭学を学ぶ訳だ。そう言えば佐久間様も、とんだとばっちりを受けた様だな」
門人の吉田松陰が、もう一人の門人と共に下田で黒船に乗り込み、密航を企て松代藩に蟄居を命じられている事であった。
「象山先生はご家老の望月様の下屋敷、聚遠楼と申す所にお住まいでして、遠くから偉い方がたがわざわざ訪ねてお話を聞きに来られる様です」
時代は大きく変わろうとしていると、絵師を生業にしている為斎でも感じている事であった。
「そのご家老様で思い出したのだが、来年の春には又、小布施に出掛けるぞ。次席家老の小山田様の注文で、屏風絵を描かなければならんしな」
「それは良かったです。それでしたら祭の時までには是非来て頂ければと思います、祭屋台も既に四基程に増えましたので賑やかになりましたから」
「それは楽しみだな、岩次郎の希望だから出来るだけ祭にも合わせる事にしようかな」
為斎は門人にと言う岩次郎が、何故か本当に門人として向き合っても良い様な思いが湧いてくるのを感じていた。
「今夜はここに泊って行くがいい。そしてせっかくの江戸だ。明日は日本橋の十八屋も顔を出すのだろうから、浅草の観音様に案内してやろうかな。そうだ阿栄の姉さんにも会せよう。小布施で暮らしたいと言っていたしな」
岩次郎は何と答えて良いのか、返事に戸惑っている様であった。
(了)
北斎の陰謀 (下巻)
自らの門人であった為斎をもう一人の北斎とする為に、北斎が為斎に与えた下絵や素描、或いは部分的な下書きなどの所謂北斎の描いた画の製作過程を窺える百五十点余りの遺稿は、『北斎艸稿集・為斎蔵』として為斎はその晩年まで持ち歩いていた。明治十四年パリの日本美術商だったジークフリート・ビング(Siegfrid Bing,1838-1909)は、明治十三年六月に没した為斎の没後の間もない時期に、為斎の遺族からこれを買い求めてフランスに持ち帰っている。そして昭和十四年(1939)には、パリ在住のアメリカ人版画家で浮世絵の収集家でもあるアーザトン・カーティスに売却、最終的にはフランス国立図書館に寄贈されている。
安政五年戌午(1858)年九月、葛飾為斎は松亭金水の求めによって読本『日蓮上人一代図会』の挿絵を描き、刊行されている。処が明治二十一年に版元の吉田金兵衛は、画工である為斎の「為」の文字を削り、「北」の文字を填版して葛飾北斎の挿絵として売り出したのである。この時、間違いなく為斎が曾て望んだ様に、憧れ続けた師の葛飾北斎へと生まれ変わったのである。
しかもそれだけでは無い、小布施の岩松院の本堂大間天井絵『八方睨み鳳凰図』も又、その案内のチラシには今もこの様に書かれている。
「葛飾北斎(1760~1849)最晩年の作品。間口6.3m、奥行き5.5mの大画面を12分割し、床に並べて彩絵したのち、天井に取り付けられた。鳳凰図は朱・鉛丹・石黄・岩緑青・花紺青・ベロ藍・藍などの顔料を膠水で溶いた絵具で彩色され、周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね金箔の砂子が蒔かれている。画面には絵皿の跡など制作時の痕跡が残って居る」
為斎は小布施のここで、今でも葛飾北斎と呼ばれているのである。