托卵(たくらん)

 托卵とは、ものの本によると鳥類が繁殖する時に営巣や放卵、そして雛の世話を自らは行わず、他の鳥(仮親)に任せる習性の事だそうです。日本ではホトトギス科のホトトギスやカッコウ・ツツドリ・ジュウイチの四種が、こうした習性を持つのだと言います。それも他の鳥の親が巣を離れたスキに、その巣に自らの卵を産み落し、鳥の種類によっては元々からあった卵を巣から落として、数合わせする鳥もいると言のです。そうした見方からすれば、托卵とはオスでは無く、メスが持つ特異な習性と言う事が言えるでしょう。おまけに鶯とホトトギスは、卵の大きさも模様もそっくり。

 高校時代からの同級生で、大学に入学して恋人となった清水愛子と井上恭一は、区役所の戸籍住民課の窓口で最後の同窓会以来、十五年ぶりに出会った。この時に恭一は愛子の口から、その後の人生を耳にしたのである。それが幾度かではあるにしても、若い頃には肌を合わせた男と女だったからであった。
 恭一は中堅の日本画を描いている画家である。客が付き始めた事で二十年も前に、山梨と静岡の県境にある富士宮の朝霧高原に東京から移り住んで来た。この日は恭一の息子がハワイで結婚式を挙げると言う連絡が入り、旅券を取る為の戸籍謄本を貰いに区役所に来ていたのである。
 一方の愛子の長男も、アメリカ人の妻と国際結婚をしたものの、生まれたばかりの孫を連れハワイの実家に帰ったまま、日本に戻っては来ないと言うのである。その為に愛子はハワイに行って嫁と孫とに逢い、親としてその行末を嫁や相手の両親と話し会って来ると言い、パスポートを取る為に謄本を取りに来ていたのである。

この時に「奥さんはお元気ですか」と愛子から聞かれ、六年前に交通事故で亡くなった事を恭一は伝えたのだ。愛子の方は相変わらず亭主と二十年余も、離婚もせずに別居暮らしで過ごしていた。しかも愛子の娘で長男の妹でもある陽子は、三年前に子宮癌を患い、その摘出手術から子供の産めない体となり、ひとりで東京のマンションに住んでいたのだ。最近では持病の喘息が酷くなり、愛子が秋にマンションに引っ越すまでの間、陽子を恭一の許で預かって貰えないかと、相談を持ちかけられたのである。
だが既に、この時、愛子の想像を超えた愛の世界へと、恭一は引き込まれていたのである。

『托卵(たくらん)』                    梅原 逞  著

  [十五年ぶりの再会]
この処のぐずついた天気も収まり、嘘の様に晴れ亘った爽やかな秋晴れの朝であった。井上恭一は東京に向かう為に新富士駅前の駐車場に車を預け、改札を抜けて駅のホームに上がると、習慣の様に線路とは反対の山側に体を向けた。
視線を向けた体の正面には、うっすらと白い雪を載せた雄大な富士山の頂が、裾野を全て投げ出す様に朝の陽光の中に輝いていた。恭一は初雪かもしれないと思いながら、山の頂きから左右に広がる、流れる様な広大な裾野の風景を記憶の中に閉じ込めた。画家としてのそれは、まるで習性の様なものなのかも知れないと思った。
そして富士の山と向かい合いながら、大きく息を吸い込んだのだ。真っ白な眩しい程の雪は未だだが、それでも雪を頂に載せた事で、やはり富士は雪が似合う山だと思った。

不意に恭一はこの時、写真家の知人が言った言葉を思い浮かべた。
『富士の山を最も美しく観たいと望むなら、遥かに遠くから望むよりも、或いは見上げる様な近くで頂を見るよりも、裾野の広がりを全て視界に捉える場所から見つめる事だよ。この山は頂よりも寧ろ優雅な裾野の広がりこそが、最も美しい場所だと理解することが出来るだろうね』
画家を生業にしている自らの目線で富士の山を見つめて見ても、確かに裾野の裾と言う言葉さえもが、単に服の下の部分を指すだけでなく、昔から女性が身に着けた着物の、優美な裾の曲線から引用されたのだろうと、勝手な解釈に自信を持つほどでもある。
しかも季節や気候で様々な表情を見せる富士山の姿は、何時で見ても飽きないと思えるのも、この山の麓に移り住んだ者の実感でもあった。

恭一が東京駅で新幹線から地下鉄に乗り換え、丸の内線の後楽園駅に着いた頃には、車内は空席の目に付く時間であった。
改札を出て、東京ドームとは反対側の一角に、高くて存在感のある白いビルが建っている。コンサートなども出来るこの施設は、シビックホールと呼ばれ複合の文化施設だと言うが、この建物の中にある文京区役所は、最上階に眺望の良いレストランも備えていると言う。そんな事から都内でも一二を争う、豪華な区役所とも言われているらしい。
その区役所の住民戸籍課に恭一が戸籍抄本を取りに来たのは、有効期限の切れた旅券に気が付き、もう一度パスポートを取り直す必要に迫られたからである。ここ暫くは海外に出かける機会も無く、まして出かけたいと考えていた訳でもない。だが突然に一人息子の彰から、二ヶ月先にハワイで式を挙げるから、と連絡が来た事から否応も無くパスポートが必要となったのだ。息子の妻は既に入籍してはいたものの、未だ式を挙げてはいなかったのである。

とは言えハワイまで乗らなければならない飛行機は、狭い椅子に縛られる苦痛から嫌いな乗り物の一つであった。そんなことから海外旅行と言えば、せいぜい片道が数時間程度の場所で、それ以上の時間を窮屈な椅子に座る位なら、タダの招待旅行でも行く気はしないだろうと思っている。
だからハワイで式を挙げると聞いた時、思わず何でハワイなのかと聞いた事があった。嫁さんが子供の頃から抱いていた希望なのだと言われ、結局は覚悟を決めて行く事にしたのだ。

若い頃はそれでも韓国やグアムなど、結構気軽に出かけた記憶があった。当時は旅券も一回限りの他は、確か有効期間が三年だったはずなのだが、今は五年や十年も有効なパスポートもあると聞かされ、暫く世間を無視しているといつの間にか世間からも見放され、すっかり田舎者と言われ程の臆病な気分になっていた。
尤も戸籍謄本や抄本も申請すれば郵便で送ってくれる時代だから、わざわざ役所に出かける必要は無かった。敢えて出かけて来たのも自分の描いた絵を扱ってくれる画商が、偶々この区役所の近くに店を開いていたからである。それにここは子供の頃から高校を卒業するまで暮らしていた、懐かしい匂いのする街であったからだ。

-文京区小石川柳町一丁目二九番地は恭一の本籍地で、遠い昔に両親と住んでいた場所である。しかし現実には、その戸籍に書かれた場所は何処には無い。地図上には記されていない、戸籍にのみ存在する住所なのである。区画整理が進み合併が行われ、街の名や番地なども時代と共に変えられて行くからである。
つまり小石川柳町の柳町が住所から消え、一丁目と代わってしまったのである。当然の事なのだろうが、若い人達に聞いても知らない。特に大都会と言われる東京では、古い街の名は今風に変えられ番号で整理されてしまう。町並みは取り壊されて、何れはコンクリートのオフィスビルかマンションになるはずだ。古い時代から残る名前や建物への愛着よりも、利益や合理性を優先する都会人の性格が、良くも悪くも垣間見る気がすると恭一には思えるのだ。

戸籍住民課の前にある待合室には、恭一の様に戸籍謄本などを求める人や、この町に越して来た人、この町から移る人、出生届けや身分証明書の発行など求める人たちなどが、書類の出来るまでの時間を疲れた様に待ち続けていた。申し込みの時にもらったカードの番号が、電光掲示板に表示されるまでの時間、恭一も何処か落ち着かない気持で待合室の片隅に座っていた。
「すみません、間違ったらごめんなさい。もしかして井上君じゃない?」
後ろの席に座っていた同じ世代と思える女が、突然に、しかも馴れ親しく、雑誌を待っていた恭一に声を掛けて来た。
「はぁ、井上ですが、どちら樣でしょうか?」
自分の苗字を言われ、特に井上君と君付けした女に一瞬戸惑いながらも、恭一は学生時代の事を思い出そうとした。五十も半ばのどちらかと言えば小太りで、若さを強調しようとしているのか、流行の細身のズボンを身に付け、ショートカットの髪型をしていた。
「やっぱり井上君だわ。私よ、岩城愛子。今は清水に苗字は代わっているけど。ほら小石川高校の同じクラスで一緒だった愛子よ」
小石川高校と云う名前を聞いて、一気に恭一の記憶の中から若い頃の岩城愛子の輪郭が浮かんで来た。
「えっ、あの愛子なのか?本当に?いゃ、突然でびっくりしたよ」
 若い時代の記憶は停止した儘だが、現実は随分と早いスピードで顔や形を変えていた。
「いゃぁ懐かしいな、ご無沙汰しています。確か最後の同窓会で会った事までは覚えているけど、あれから十年以上も過ぎているんじゃないかな?」
「そうよ、丁度この秋で十五年目になると思うわ。井上君が画家になった事は知っていたし、手に持っている画の雑誌を見て、それに少しは昔の面影も残っていたから、もしかしたらと思って聞いてみたの」

岩城愛子は恭一が小石川に住んでいた頃に、同じ高校に通ったクラスメートだった。
「最後のクラス会の時に確か練馬の方に家を建てて、移り住んだと聞いていたけど、どうしてこんな場所に?」
子供の頃におなじクラスで一緒だった愛子と、こんな場所で偶然に出会う事など想像すらしていなかっただけに、恭一はその後の事も知りたいと思えてきたのだ。
「私ね、戸籍謄本を取りに来たのよ。戸籍は練馬に移していないもの。お友達の所に来たついでに寄ったの」
「何だ、俺と同じなのか、俺も本籍の住所は動かしてなくてね。親父の代から小石川が本籍地なんだ」
苦笑しながら暫く逢わなかった愛子の顔を、今更の様に見つめ回し、高校生だった頃のある出来事を恭一は思い出していた。
愛子にとっての自分は、異性を初めて体験した筈の男だと思っていたからだ。

「嫌だ。いきなりそんなふうに、じろじろと見ないでよ」
別段嫌がるふうでもなく、愛子は声を殺して恭一の耳元で囁いた。
「いや、お互いに歳を取ったものだと思ってさ。前のクラス会で会った時も驚いたけど、久々に会うと本当に過ぎていった時間の長さを感じるよな」
見透かされたかもしれない気持の中を、慌てて拭き消す様に恭一は気持を切り替えて愛子に言った。
「それってお互い様じゃない、井上君も変ったわよ。おなかの辺りが少し膨れて、あの少し不良がかった井上君が、五十歳も半ばを過ぎるとこんなになるのかと思って、少しがっかりしたわ」
愛子は軽口を云いながら口に手を当てて横を向いていたが、明らかにそれは笑い顔を隠しているのが恭一には分った。愛子が言う様に、確かに二人の間には同じ長さの時間が流れていたのだ。
「子供達はどうした、もうだいぶ大きくなったとは思うが、その後の話しも聞きたいな」
愛子には男の子供が居た事を恭一は思い出し、その後で女の子が産まれた事も、貰った年賀状に書いてあった記憶がある。だからその後と言う意味は、愛子との個人的な関係が切れた後の事で、遠まわしに聞いたつもりだった。

東京では中堅クラスと云われる証券会社の、その社長を親に持つ清水洋太郎と愛子が結婚したのは、愛子が京都の大学を卒業して東京に戻った僅か一年後の事だ。愛子から結婚式の招待状を貰った事があったが、恭一は嘗て恋人だった女の結婚式など、冗談じゃないと出席を断った記憶がある。勿論、愛子は招待状と言う手段で、自分の結婚を恭一に知らせて来たのだ。それが招待状であるにしても、出席して欲しいと送られたものでは無い事ぐらいは理解していた。
だから心を込めた祝電だけは送った。それから数年後に確か、男の子を産んだと記憶していたのである。
「長男はね、今小さな貿易会社を経営しているわ。アメリカ人でハワイ出身のお嬢さんと結婚して、だから私にもハーフの孫が居るのよ。後から生まれた娘の方は短大を出て会社勤め、でも喘息が酷くって最近、会社は辞めたみたい。こんな有様だから結婚は何時になるのか・・・、今は三田のマンションに一人暮らしているわ」
長男の事には自慢げに話して呉れたのだが、娘の話しはどこか諦めた様なニュアンスが含まれていた。恭一は愛子に娘が出来た事も、おぼろげではあったか思い出した。男の子が生まれた暫く後で、亭主の浮気が発覚した頃だった。何かと愛子から相談を持ちかけられ、数回ほど会った事がある。その翌々年だったか、年賀状に女の子が出来たと書いてあった。そしてそれ以降、年賀状さえも往来しなくなったのは、恭一はこの頃に結婚したからである。

「ご主人とはどうしているの? 最後の同窓会の時、確か家の中は大変だと言っていたけど」
「へぇ、覚えていてくれたのね、もうあれから十五年よ。私が長男を産んだのが二十五歳の時だから、もう三十年を越えているわね。娘はその三年後に生まれたから、今は二十八歳になって居るわ。随分と時間が過ぎてしまったみたい。過ぎ去って行った年月は、嬉しい子とも嫌な事も、何でも思い出にしてくれるのよね」
その時であった。二人の会話にはお構いなく無く、恭一の持つカードに記された番号が掲示板に映し出され、急かすように点滅を繰り返していたのだ。
「おぃ、愛子。俺の書類が出来たみたいだから、この後で昼の食事でもどうだ。少しぐらいならいいだろう?」
「そうね、食事ぐらいの時間ならね」
愛子は少し考えるそぶりを見せながら、恭一の提案を受け入れたのだ。
「いいよね。じゃ役所の玄関で待っているよ。その間、画商の処に電話を掛けるから、又後で」
「うん、分ったわ」
愛子の返事を聞いた恭一は待合室から出ると、約束していた時間を少し延ばしてくれる様に携帯を取り出して、画商を営む社長に伝える事にした。ついでに何時も行くレストランの、電話番号を聞く事も忘れなかった。愛子と食事の予約を入れるためである。

 区役所の隣にある講道館の前の白山通りを、地下鉄のガードを潜って少し歩くと、壱岐坂の手前にシティーホテルがある。最上階の十階に落ち着いた和風のレストランには、画商との打ち合わせで恭一も二度ほど食事に来た事があった。
「ねえ、結構いい場所を知っているじゃない?」
店の雰囲気が気に入ったのか、愛子は席に着くなり恭一の耳元に口を寄せて小声で言った。
「画商をやっている社長と一緒にね、ここで食事をする事があるのさ。勿論、御馳走される方が多いけどね」
雰囲気も結構いいし、飛びぬけて値段の高い店では無い様だが、その割には料理のメニューも気が利いて、管理職クラスの隠れ場所的な店であろうと恭一は思っていた。
「愛子は何を食べる?」
「井上君は何食べるの?」
メニューを覗きながらも結局は決められずに、愛子は恭一に聞き返した。
「そうだな、弁当にしよう。俺は松花堂弁当に決めた」
 悩む事も無く決めた恭一の声に併せるかの様に
「じゃ、私も」
と愛子は答えた。どこか考えるのが面倒になったような返事である。
恭一は仲居に注文を頼むと、目の前に置かれたお絞りを手に取りながら愛子の顔を見つめて言った。
「で、それからどうしてた、離婚はしたのかい?」

十五年前の同窓会が引けた後の二次会で、愛子が言っていた言葉を恭一は正確に記憶していた訳ではない。だが「家の中はめちゃめちゃなのよ」と愛子の言った言葉は、おぼろげにではあるにしても覚えていた。だがそれ以上深く聞かなかったのは、愛子の生活に深入りする事を恐れていたのだと思う。
愛子は遠い日を思い出す様に、昔の事を語りだした。
「今だから言うけど、あの同窓会の二年後にね、私達夫婦は完全に別居したの。尤もその前から普通の家の亭主らしく、毎日家に帰ってくる様なそんな人では無かったけれどね」
やはりそうだったのかと、今更の様に恭一には思える。確信は無かったが相性と言う意味から、難しい夫婦ではなかったかと思えたからだ。
「俺も何となくそんな感じがしていたよ、まあ愛子の事だから真剣に考えての事だとは思うが、それで旦那とは別れたのか?」
「ううん、別れた訳ないじゃないの。あの人の都合の良い様にはさせたくないだけよ、女の意地ってところかしらね」
「確か、あの時にも俺は聞いたとは思うけど、旦那の浮気が尾を引いたんじゃなかったのかな?」
敢えて別れた原因を推測で聞いたのだが、恭一には何処かに確信に近いものがあった。
「まあね、だって相手の女とは別れないと言い出すのよ。だから浮気じゃなくて本気なのよ。『じゃぁ私は?』って聞いたら『好きな様にしろ』だって。まったく呆れたわよ」
 と、訴える様に愛子は愚痴をこぼした。
「それが理由だったのか。でも、どうして目白の旦那の家から練馬に移ったんだい、理由は?」
「その事もあるし、勤め先の役所に近いって事もあるじゃない」
「じゃあずっとあの後も、同じ区役所に勤めていたんだ?」
同窓会から数年を過ぎた頃まで、愛子とは年賀状を出す程度の繋がりはあった。だから愛子が練馬の区役所に勤めていた事は恭一も知ってはいた。しかし「あの後」と言った言葉の裏には、長男を出産した一年後に亭主の浮気が発覚したことで、愛子の相談相手になった事から行き着いた、有触れた男女の関係を指す意味をも含んでいたのだ。

恭一はこれまで、愛子から誘われるままに、三度か四度程だが男女の関係を持った事がある。最初のそれは二人が大学の受験を控えた、高校三年の秋の終わりである。受験に向けた補習授業の後に恭一は、珍しく愛子から一緒に帰ろうと誘われた事があった。その帰り道に、京都の大学に行かないかと、愛子はある条件を出して恭一に持ちかけたのだ。  
その時に愛子は、もし二人して大学に受かる事が出来たら、私と個人的な付き合いをして欲しい、私を上げてもいいわ、と恭一は言われたのである。何故京都でなければいけないのか、敢えて恭一は聞かなかった。聞いても云わない女だと知っていたからでもある。それに同じ大学と言う訳でも無く、恭一は京都にも学びたい大学のひとつがあり、芸術関係の学部があった事も京都に行く気になった理由でもあった。
そうして恭一は愛子からの誘いを受ける形で、京都の大学を夫々が受験したのだ。そして二人が大学に合格した事が決まった日の夜、愛子の体に恭一は、男としての烙印を押したと信じていだ。恭一にとってのそれは異性との初めての経験ではなかったが、愛子に夢中になっていた若い頃の自分を振り返った。
それでも愛子と男女の関係に深くのめり込まなかったのは、愛子の性格が強過ぎたからだろうと、今でもそう思っている。二人は別の大学ではあるにしても、夫々が京都の大学近くに下宿して、時折は鴨川や烏丸などでデートをしたのだ。
しかしその一年後に恭一は日本画を描く為の勉強を志し、京都の大学を退学すると再び東京に戻り、国立の芸大に入学する事が出来た。愛子が同じ大学のサークルの先輩だった清水洋太郎と付き合い始めた事が、東京の大学に移った理由かも知れないが、恭一には今でもその判断は付かない。

距離を置いて付き合う他人の関係なら、愛子は別段何も問題はないほど普通の女である。しかし一度関係を持ち馴染んでくると、それはまるで自分の下僕の様に男をあしらう事が多い。世間ではよくそんな女の事をお嬢様育ちと言う者もいるが、愛子の場合はそれとも少し違っていた。愛子は決してお嬢様育ちでは無く、むしろその正反対の育ちだと云えるはずだ。愛子の手厳しい言葉や態度に、学生時代にはいつも男達は遠巻きにしていたし、自分の我侭を聞けない男は黙って捨ててゆく女であった。
それでも男達から注目されたのは、愛子の容姿が際立っていたからである。恐らく同世代の男達とすれ違い、通りすぎた後で振り返らない男は、十人の内に二~三人もいないだろう。だから自分が付き合った後で、どれだけの男達が愛子の気持を掴もうとしたか、恭一はそうした男の噂を幾度か聞いた事もあった。
愛子の方はそのまま京都の大学を卒業し、同じサークルの先輩だった洋太郎と結婚し、東京に戻ったのだ。それから二年目に、愛子は長男を生んだのである。
愛子のそれを外からみれば、極々平穏な結婚生活だと映るはずであった。しかし長男が生まれた翌年、恭一は突然に愛子からの連絡を受け、相談に乗って欲しいと頼まれた事がある。お決まりの夫の浮気であった。銀座に勤めるクラブのホステスだと愛子は言うが、実のところは洋太郎の会社で秘書をしていた、若い女と言うのが本当の様であった。

その愛子が夫の浮気の相談相手として恭一を選び、再会した理由も「こんな相談は赤の他人には出来ないもの」と言いながら、数度の体の関係を持った事があった。最後の時には寧ろ愛子が積極的に、「今夜は子供を夫の実家に預けてきたの」と誘われ、一夜を過ごしたのである。
ベッドの上では夫である洋太郎との浮気話と共に、月に一度は戻ってきて求めてくるのだと、夫婦の生活を隠すでも無く話す愛子に、気持ちを寄せる相手では無くなったと恭一には思えた。やがて愛子から連絡が無いまま、恭一の方も又連絡をする理由も無くなり、いつの間にか疎遠になっていったのである。それに恭一も又、この頃に一人の女性を友人に紹介され、愛子が女の子を生んだ同じ年、その女性と結婚したからでもあった。
愛子は女の子を産み、二人の子供達が保育園に行く頃には区役所の職員として採用され、夫の実家から勤め先のある同じ区内へと、家を建てて移り住んだのである。だからあの頃の愛子は、夫婦関係が決定的とは言えないまでも、辛うじて夫婦は繋がっているものだと恭一は思っていたのだ。

「これでも一応はね、私にも若い部下だっているのよ」
 役所では既に何かの役職に就いているらしい。組織に組み込まれた者が持つ少し横柄な話し方も、愛子の性格を知らない者には不快な気持を抱かせると思える。恐らくは男と対等にわたりあう為に、自らの意思とは拘わりなく神経をすり減らし、組織のしがらみに染まってゆく愛子の世界が恭一には哀れにも見えていた。
「こんな言い方は随分失礼だとも思うが、だけど一人で二十年以上もさ、よくも別居していられたものだね。普通なら家裁にでも行って離婚訴訟を起こすなり、慰謝料をタップリふんだくって別れるのだろうが、その辺が愛子らしいよね」
実際に恭一はそう思った。どこか心の奥深くに深い傷跡を隠しながら、愛子はその傷の疼く痛みを、まるで生きる事の糧にでもしている様な処がみえる。
「ねえ、ところで井上君の奥さんは元気なの?」
「おい、その井上君は止めてくれよ。どうもこの歳での君付けはやはり背筋が寒くなる」
愛子は余程可笑しかったのか、又も笑いながら手を口に置いて言った。
「ごめんなさい。そうよね。私達もう五十も半ば過ぎのおじさんとおばさんですものね」
恭一が湧き水で知られた富士宮に移り住んで、既に十五年程が過ぎている。あの同窓会のあった二年後に富士宮に家を建て、子供と妻を連れて東京から引っ越したのだ。しかし妻の交通事故の事は、未だに愛子には知らせてはいなかった。
「もうかれこれ、あれから六年にもなるかな」
「六年前に何よ」
 愛子は出されたお茶を、両手で口に運びながら聞いた。
「交通事故で死んだよ」
「えぇっ、ほんとなの、知らなかったわ。御免なさい、そうだったの・・・」

 飲もうとしていたお茶をテーブルに置くと、急に愛子の声の強さが和らいで行くのが恭一にも分かった。
「いや謝られても困るよ、そんな知らせは俺の方もしてはいなかった訳だし、まっ、単なる自動車事故だよ。誰にも怪我を負わせなかっただけが、救いなのかも知れないがね」
六年も前のあの事故からの年月は、子供が小学校に入学して卒業するまでの年月でもある。長い様な見方を変えれば短い時間の様で、それこそ中途半端な時間としか言い様が無かった。
「じゃあ、井上君。あっ、御免なさい。ねえ何と呼べばいいのよ」
「名前の恭一でいいよ」
「じゃ恭ちゃん。同じ年だからこれでいいわよね、それからは再婚もしていないの?」
「貧乏画家だからな、満足に女房を食わす程の収入も無いものでね。まぁそれでも何とか息子が結婚式を挙げる事になってね。しかも式はハワイの何とかって場所の、海辺の教会で挙げるそうだ。最近流行りなのか帰ってから披露宴をするらしくて、その意味ではやっと俺も一人に戻ったと言うべきなのかな」
「私達二人の人生も、それなりに振り回されて色々とあったわね」
まるで自分の事は自分で選んだ道では無かったかの様な口ぶりで、愛子はため息まじりに会話を結んだ。

少しの沈黙を和らげるかの様に、二人の前に松花堂弁当の重箱が運ばれて来た。
「ね、恭ちゃんはパソコン出来る?インターネットでメールしたことあるの?」
弁当の蓋を開けながら愛子は、今までの話しとは関係のない事を恭一に尋ねた。
「あぁ、多少の事は出来るが、メールは写真を添付する程度だな。仕事で描いた絵を写真に撮って画商に送るからね。動画を送るまでは、相手が居ないものだからやった事は無いが。なぜ?」
「ねえ、思うのだけれど、私とメールの交換してみない?暇な時だけでも良いのよ、手紙を書く面倒は無いし、
私のアドレス教えるから恭ちゃんのアドレス教えてくれる?」
携帯電話の番号を、教えてくれと言う話しではなかった。暇な時に届ける手紙の様なメールは、開けて読むのにも電話の様に制約が無い。都合のいい時に開けて、読めばいいと言う便利さはある。
「いいよ。ただ歳に似合わない絵文字や記号は止してくれよな。せっかくのメールが、いきなりミーハーになりそうだからさ」
二人は互いに名刺の裏にメールのアドレスを書き留め、ついでに携帯の番号も教え合い、食事を終えて別れたのである。

富士宮の街は富士山麓の南西側斜面に広がる、なだらかな裾野に出来た街である。随分と昔から駿河の海産物が甲斐の国に運ばれる街道もあった様だが、その発祥はここに浅間神社が置かれた事に寄ると思われる。
晴れていれば街の何処からでも、仰ぐ様に富士の頂を見上げる事が出来るし、高台からは駿河湾や伊豆半島の山も望む事が出来る。しかも山梨の山塊に連なる山並みと富士山に挟まれたそこは、冬は暖かく夏は涼しい気候温暖な土地でもあった。
それに「白糸の滝」がある街と言えば、大方の人があのあたりかと理解出来る程度の、至る所から湧き水の溢れる場所である。しかも隣の山梨との県境近くの一帯は朝霧高原とも呼ばれ、既に標高も七百メートル程の牧草地帯なのだが、冬の季節でも滅多に雪は積もることも無い。せいぜい深夜に県境付近の路面が凍る程度で、観光シーズンには白糸の滝から県境の本栖湖あたりまで、殆んど観光地化もされずに自然が残されている。
だから暖かな季節になると恭一は、本栖湖畔の水面を渡る風に吹かれ、白樺の木陰でヘッドフォンを耳にあてながら好きなディオンの歌を聴き、木漏れ日の下で本を読むのが堪らなく好きな時間であった。

恭一が妻となった女と出会ったのは、同じ職場である出版社の向かい合わせに居た同僚の紹介である。二十八歳の時に結婚したのだから三十年近くも前の事であった。結婚して二年後に息子が生まれたが、それが熱烈な恋愛では無いにしても、静かな時間を過ごすのには相応しい、いい女だと恭一は思っている。結婚した後も期待していた通りの静かな、そして良く気の付く絵描きの女房には勿体無い様な女であった。当時は大学を卒業してみたものの、そのまま好きな絵を描いて生活する事ができる訳でもなく、美術専門の出版社に勤めながらも時間の許す限り絵を描いた。
やがて大学の先輩で、この世界では名も知られている日本画家に師事した事が良かったのだろう。世間でも知られた展覧会で賞を貰う事が出来た事で、親から受け継いだ東京の家を売り払い、富士宮の山奥に土地を買い求め家を建てたのだ。何とか絵を描く事だけで、生活の見通しが立てられたからでもある。この朝霧高原の片隅に引っ越してから、既に十五年近くの時間が過ぎていた。だが六年ほど前の冬の夜、その日は夕方まで小雨が降り続いて、暗くなると急に寒くなって来たのだ。食事の仕度か終わりかけた時、妻は買い忘れたものがあるからと、車で十五分ほど下った酒屋に、ウイスキーを買いに出かけたのだ。そしてその帰り道、凍りついた坂道で車はスリップした後に、道路脇の太い木にぶつかり死んでしまった。
晩酌の代わりに恭一は毎晩、必ず一杯のロックを傾けるのが習慣になっていたから、妻は酒が切れているのに気付き、慌てて直ぐに買いに出かけたのである。
だからあの日から恭一は、酒を一滴も飲む事は無くなった。代わりにコーヒーを飲み好きな曲を聴き、ゆったりとした時間を楽しむ。そうした毎日があの六年前から続いていたのだ。

東京に出かけてから一週間程が過ぎた、木曜日の午後である。恭一は展覧会のスケジュールを見ようとパソコンを開き、インターネットに繋いで初めてメールの届いていた事に気が付いた。愛子からであった。
「この前はご馳走様でした。本当に久し振りの楽しい時間でしたが、普段は忘れかけている歳を、嫌と言う程に恭ちゃんを見ていて感じました。女と男の違いはあるものの、自分自身を鏡で見て居る様な錯覚が、でもそれって事実なのよね。人生を楽しんでいる恭ちゃんを見ていると、とても羨ましく思えます。私も数年後には、定年退職を迎えます。中里恒子の書いた「時雨の記」の、主人公の様な恋愛がしたいと思うのですが、女一人どうしたものかと思案中です。昔のよしみで少し相談に乗ってくださいね。返事、暇をしていたら下さい」
恭一はパソコンに向かって返事を打った。
「加藤登紀子のコンサートが横浜でやる事を知っていた?十二月の三日。多分何時もの通り、一升瓶を小脇に抱えて、そう、ほろ酔いコンサートっていうやつだ。あと一月後の事だからハワイに行く前になるけれど、切符をとってくれたら一緒に行きたいのですが、どうかな。ひとりで寝るときはヨォー、膝小僧を枕にヨォーの歌ですよ。もしそちらで切符がとれたなら、横浜で飯でも食べて・・・、どうだろう?」
恭一はそう打ち終えて返信をクリックした。翌日、早速に愛子からのメールが届いていた。
「加藤登紀子のコンサートは、何とか切符取りたいと手配しましたが、キャンセル待ちになるかも知れません。ところで私もハワイの孫娘の所に、一人で挨拶に行かなければならない用事があるの。もし恭ちゃんの都合が悪くなければ、ハワイに一緒に行きませんか?そしてお子さんの結婚式の出席する人が少ないなら、顔を出させて戴ければ嬉しいのだけれど。返事下さい」

メールを読みながら、何時も愛子は「君」とか「ちゃん」とかを、名前に付けたがる女だと思う。普段の会話では、全く色気の無い女であった。しかしその半面、不思議と見た目では年齢を感じさせない女だとも思う。小太りという言葉が似合う男好きのタイプだが、余程の信頼をおける相手でなければ、夜遊びすら付き合う様な女では無い。そのギャップが、自分を引きつけるのかも知れないと思えるのだ。
とは云っても男女の関係がありなから、お互いそこに執着が無いのは、一体何故なのだろうと思う時がある。恐らくお互いが求めているものは、そうした刹那的なひと時の快楽ではなく、その向こうにあるもっと確かな、安住の場所ではないのかと思うのである。
「ハワイの件、行きと帰りそして暇をしているなら、飛行機とホテルの部屋は二名で予約しておきます。それに息子の結婚式の参列して頂ける御話は有難う。式は十二月の十四日です。場所はオアフ島のダイアモンドヘッド近く・オアフ・キャルバリー・バイ・ザ・シー教会」と言う教会で、海辺の波が打ち寄せるほどの場所だそうです。この件は横浜でお逢いした時にでも、それからお登紀さんのコンサートを聴く前に食事でもしたいよね。その件は電話します。それから夜はホテルをリザーブしておきます」
久し振りに大胆なメールであった。何も言わなければ理解している訳で、困れば何か言ってくるはずだと思った。

十二月に入ると富士宮の住まいからも、当然の様に雄大な富士山の、雪を被った頂が見えた。その裾野に住んでいるのだから、あの広大でなだらかな裾野は当然だが見る事は無い。寧ろ頂に降り積もった雪が北西の風に吹き飛ばされ、南側の宝永山と呼ばれる噴火口の方に向って、煙の様に空高く舞っているのが見える。
太い丸太で組んだ山小屋風のアトリエを兼ねた住まいは、屋根のてっぺんだけが木立の上に出ているが、南側に取り付けた二階のベランダからは見る風景は、全く贅沢の極みだと恭一には思えた。
横浜に出かける約束の三日の朝、あえてゆっくりと時間を過ごして布団の温もりを楽しんだ。新幹線の新富士駅までは車で一時間余り、駅前の何時もの駐車場に車を預け、品川で乗り換えれば大よそ三時間もあれば会場につくはずである。そんな事を思っていた時であった、携帯の電話のメロディーが鳴り、耳をあてると愛子の声が聞こえて来た。
「おはようございます。ねえ恭ちゃん。開場は六時半からですって。関内ホールって言う所で、駅から五分程度の場所ですからね。だから待ち合わせを四時に関内駅の改札口でどうかしら?」
「おはよう、四時ね、いいよ、分かった。」
「ねえ、そっちは天気どう?」
「東京からも冨士山がみえるだろう。見ての通りだ。快晴だよ」
「あら嫌だ、そうよね、あの冨士山の下に住んでいるのだもの、窓から覗いてみるわ。でも来年の秋には、もっと冨士山が良く見える場所に引っ越す事になりそうなのよ」
意味ありげな愛子の言葉が、恭一には何か少し気になった。
「これから朝ごはんを食べて出かけるけど」
「でも笑っちゃうわよね、電話で話しすれば直ぐに片付くものを、メールで知らせるなんて」
自分から提案したメールの事が、愛子には急におかしな事の様に思えたらしく、軽い笑いを含んでいるのが恭一には分った。
「じゃ、電話切るぞ」
「ええ、それじゃ夕方に」
愛子からは、ホテルをリザーブした事の反応は無かった。五十も半ば過ぎの齢なら、小娘の様なカマトトぶりは、寧ろかえって気持が悪いとも恭一には思える。

 昼も近い時間に車で自宅を出た。家の直ぐ隣がゴルフ場で、夜は街灯も無いから真っ暗になる。だが天気良い夜には満天の星が頭の上をきらめき、東京の二倍は間違いなく美しい星座を観賞出来るはずだ。
 恭一は新富士の駅前にある何時もの駐車場に車を置き、品川で乗り換え関内までの切符を買い求めた。加藤登紀子のコンサートに行きたかったのは、愛子には申し訳ないが、死んだ妻との初めて出会ったコンサートだったからでもある。
その頃は安保闘争の名残だろうが、日航機のハイジャック事件が起きた頃であった。職場の同僚からコンサートに行ってみないかと切符をもらったのだが、隣に座った女が妻になった訳で、後から思えばその同僚に仕組まれた見合いの様なものであったと思える。しかし結果がよければ何事も良いはずで、会社に勤めていた頃は、その友人には頭が上がらなかった事を思い出す。

 関内駅の改札口に着いた恭一だったが、未だ約束の時間には少し間があった。恭一は駅の横にある集合ビルの中で本屋を捜し、愛子が言っていた中里恒子の「時雨の記」の文庫本を買い求めて時間を潰した。それでも約束の時間には早かったが、改札口で愛子を待つ事にしたのだ。人妻でもある女と待ち合わせて、飯を食べてコンサートに行く。不貞をはたらく女と、その女を弄ぶ男の様な感覚になるのだが、愛子の籍は既婚であっても、悠々と独身を楽しんでいる様にも思える。
「お待ちどうさま」
愛子の声が、恭一の待つ改札口の後ろから聞こえた。
「何だ、電車で来たんじゃないのか?」
「少し前に着いたのよ。だから近くの店でウインドショッピングをしていたの」
「同じ様なパターンだな。俺もニ十分前には着いていたよ。ほら、本屋に行って本を買っていたんだ」
若い頃はじっと時間まで待つことが出来た。だが歳を重ねるとそんな少しの時間でも、何か他の用事を済ませようと、あれこれと思い浮かべる。待つ事がいつの間にか、苦痛になって居るのかもしれないと恭一には思える。
「歩いて五分位だ、中華街に飯を食いに行こう。良いか?」
「ちょっと待って、ねぇ元町に行かない?少し見たいものがあるのよ」
恭一にとっても久し振りの横浜である。おそらく愛子にとっても同じであろうと思える。二人はタクシーをつかまえ、一つ先の駅に程近い近い元町まで行く事にしたのだ。

 元町の商店街を入ると、流石に人通りの多さが目についた。特に車が入ることを規制して以来、車道にも溢れるほどウインドショッピングをする沢山の若者も歩いている。愛子の目的はバックであった。老舗キタムラのブランドは、英文字のKをあしらっている。元町で生まれそだったブランドだけに、若い女性達の海外ブランド志向とは違い、年配者や通好みのするバックなのであろう。恭一は店の入り口付近で、品定めが終わるのを待ち侘びながら、こんな時の男は、まるで散歩に連れてこられた犬の様だと思えたのである。
「ごめんね、欲しい色がなかったのよ」
愛子はさも残念そうに、待たせた侘びを言った
「ねえ、もう一軒寄ってみてもいいかしら?」
 と甘えるような声で恭一にねだった。
「あぁ構わないけど」
 コンサートまでの時間は、あえて愛子の自由に任せていた。食事はその後でも構わないと思っていたのである。
元町の商店街入り口近くに、愛子の寄りたいと云うその店はあった。
「ここよ」
愛子が立ち止まったその店は、レースの専門店であった。窓やテーブルクロスなどに使う、生地の縁に付けるレースの直輸入の店である。その一隅にはレースで織られたヨーロッパの、下着やナイティーなども置かれてあった。
「どう。すてきでしょう?」
愛子の言う、すてきの意味が何を指しているのか、男の恭一にはその意味を読み解くことは出来ない。しかし白い薄手の透明感にあふれたレースのしなやかさは、中世のヨーロッパで育まれた意味が良く理解出来るのである。
「手編みのレースって、今も結構高いのよ。今は殆んど機械編みだけれど、細い糸で編んだ薄いレースの生地は、ほんの少しの風でも揺れる動きが堪らなく優雅なのよね」

男は寧ろ薄い布地で包んだ女の体の線が、一層想像力を掻き立てる小道具にも思えてくる。
「ねぇ恭ちゃん、レースのこれ、私に一枚プレゼントしてくれる?」
と愛子は薄い絹の布の縁取りに、沢山のレースを使った白いキャミソールの一枚を取り上げた。
「おい、恥ずかしくなるから止めろよ」
「冗談よ。恭ちゃんは相変わらずなのよね」
まるで若い部下をからかう様に品物を戻すと、何時もの様に手で口許を押さえ、声を押さえながら笑っているのが分かった。
店の外に出ると、夕闇が街を包み、街灯の明かりが灯り始めていた。
「ちょっとここで待っていてくれないか?」
恭一は愛子にそれだけを言うと、何も言わずに今しがた入った店に戻り、愛子が欲しいと手に取ったレースのキャミソールを持ち、包んでくれる様に店員に言った。愛子は店の外で何事なのかと待っていたが、恭一が黙ってそれを渡すと、愛子は申し訳無さそうに小さな声で謝った。
「御免なさい、それにありがとう」
「さぁ、飯だ、飯」
気恥ずかしさを忘れるかの様に恭一は、愛子の肩に手を廻し、促す様に中華街の方へと歩き出した。

 四十周年の歌手生活を迎えたというお登紀さんのコンサートは、予想通りその客の多くが中年の、団塊の世代と言われた人種である。入り口では樽酒から汲んだ升酒が配られ、一緒に渡された少し立派な小冊子を開けると、今も活躍している著名人からのメッセージが目に付いた。全共闘の闘士だった旦那に恋した東大出の才女が、その一途な恋を未だ続けている様にも見える。彼女の作詞作曲した歌の中で「百万本のバラ」の歌詞を最後まで味わうと、ひたむきに愛した者達の残像が浮かび上がってくる。恭一は愛子の事も忘れて、すっかりこの時間を楽しんでいた。
コンサートが終ると、二人は間違いなく現実の世界に引き戻される事となった。『寒い』と思わず言いたくなるほど、肌を刺す冷たい風が横浜の街を吹き荒れていた。会場から少し離れた場所で恭一はタクシーを拾うと、愛子には構わずワシントンホテルに行く様に運転手に言った。
愛子は退屈したのか話す事も無い様で、コンサートの前とは大分雰囲気が違っていた。恐らく愛子に取っては、期待した程では無かった事が、その雰囲気で恭一には理解出来たのだ。しかしホテルに行く事を否定する訳でもなく、黙って恭一の隣に座っていた。
「いいコンサートだったね」
「でも席が遠かったわ、キャセル待ちで手に入れたのだから仕方ないけど、もっと傍で聞きたかったわ」
 確かに前とは云っても二階席であった。愛子の気持は分からないでもないと、恭一にも同じ様に思える。
「お腹すいた?何か軽く食べて行く?」
と言った恭一の言葉に、愛子は首を横に振りながら小声で呟く様に言った。
「余り食べたくないわ、軽いスナックで足りそう、今は温まりたいだけよ」

恭一がホテルの部屋を予約した時、敢えてツインの部屋にしたのには理由があった。昔、結婚していた愛子を抱いた後で何が不満だったのか、いきなり『私、帰るわ』と言い出し、あっけに取られている恭一をホテルに置いたまま、タクシーを呼んで帰ってしまった事があった。
その事を後で愛子に聞いた事があったが、悪びれた様子も無く『一応はお互いに確認したのだから、それでいいじゃ無いの』、と言われた事があったのだ。それが突然に月のものが来たからだとしても、或いは自分の意にそぐわない程度の喜ばせ方であったとしても、随分と礼を欠いた態度だと思えたのだ。
恐らく愛子と言う女は情緒的な感覚が少し欠落した、そんな女なのだろうと解釈する以外、恭一の気持を納得させるものは無かったのだ。だから体の関係があっても愛子は愛子であり、相手の想いを汲み取る様な女だと期待すると、しっぺ返しにあうはずなのである。ましてダブルベットで抱いた女がそのまま先に帰り、残された男は部屋に朝まで一人ベッドで寝るなど、情けない話しが恭一の記憶に強く残っていたからでもあった。

愛子との関係は、過去にそうした現実はあっても未来は無かった。どれ程の高級ホテルに泊まろうと、それを素晴らしい思い出として記憶に留める事は、愛子が相手では許されない事だと恭一は知っていた。
「愛子。先に風呂に入れよ。俺は外で何かドリンクやスナックを仕入れてくるから」
「分かったわ。部屋の灯りを少し暗くしてから出かけてね」
ホテルの寝巻きに着替え、眠るだけに用意された部屋のバスルームに愛子が入っていった。恭一は飲み物を買い求める為にロビーに降りると、売店で軽いスナックとコーラ、ミネラルウォーターを買い求めた。ところが部屋に戻ると、愛子は既にベッドの中で毛布に包まり、軽い寝息を立てていたのだ。恭一がテーブルの上に買い求めた飲み物とコップを置き、愛子を置いてシャワーを浴びる事にした。

愛子の体を自分の物に出来るチャンスは、あの頃の若者なら誰でもが喜んだはずだ。特別の美人だと言う程ではなかったが、それでもクラスでは一番か二番と誰もが認める女であった。今は小太りになってはいるものの、あの頃はバランスの取れた体と白い肌が魅力だった。それに決してお高く止った女ではなかった。結構誰とでも話しはするし、人と付き合う事が嫌いな女でもなかった。ごく普通の女だったと思う。
シャワーの栓をひねり、少し熱めのお湯に調整して体中に石鹸を塗りたくり、恭一は汗の匂いも取るように勢い良くシャワーを出して体中を洗った。愛子が使った大判のタオルで自分の体から水気を取り、新しい大判のバスタオルを腰に巻いて部屋に戻った。
「ねえ恭ちゃん、どうこれ、似合うかしら」
目覚めていた愛子は、元町で恭一に買って欲しいと言ったキャミソールを身につけ、ベッドに座りグラスに氷を入れコーラを注いでいた。
「お似合いだね。ただ白いランジェリーは、この年齢になると欲情を抑えるな」
それはまるで長年連れ添って来た夫婦の様な、淡々とした会話であった。愛情と呼ぶ感情の高ぶりも無く、ただ一緒に居る時間を愉しむだけの、まるでスキンシップの様な軽い触れ合いであった。

「いいのよ、今夜はこれくらいで。この次は黒い下着でも身に着けて来ますから」
まるで年下の男をなだめる様な、珍しく心にも無い事を言う愛子を恭一は抱きしめた。
「せっかくのキャミがしわになるわ」
独り言を言いながら、身につけていたキャミソールを脱ぎ愛子は裸になった。ベッドの横の、明るさを調節出来るランプの僅かな灯りに照らされているが、未だ五十も半ばの歳に似合わず、乳房の形が崩れてはいなかった。
「あれから三十年もご無沙汰していた体だが、殆んどこの乳房の形は変わっていないね」
「そう言われると嬉しいわ、でも根拠はあるのよ。男の人と殆んど遊んでいなかったもの。もう十年位は完全に男の人を忘れていたのよ。そういう事って男の人は多分信じないでしょうね。今日は本当に久しぶりの体験なのよ」
自分で言った言葉が可笑しかったのか、愛子は又口に手を当てて笑っていた。肩に掛けた手に少し力を加えただけで、愛子は目を閉じて自分の体を預けて来た。唇を重ねながら恭一は、それでも遠い日の記憶を呼び戻そうとしたが、やはり無駄な事だと分かった。思い出せるのは始めて愛子を抱いた、大学に合格が決った夜のことだ。

あの時の愛子は、未だ肉体の悦びなど知らない少女の体を持ちながら、好奇心で一杯だったにちがいない。大人たちが入るラブホテルの一室で、初めは笑い転げていたはずの愛子が、いつの間にか男を受け入れる為に、痛みを堪えながらも真剣にセックスと向かい合っていたからだ。悦びを感じることはないと言いながら、行為の最中もいちいちと自分の感想を伝えていた事を思い出す。あの後で愛子に女の悦びが有ったのかどうか、若い頃の恭一には気付いてやる事が出来なかった。
それから八年後、恭一が三十歳を過ぎた頃で、愛子が長男を産んだ翌年だった。突然亭主の浮気を相談されて、そのまま男と女の関係にまで進んでしまった。あの時も半年程度の付き合いで、やはり数回程度の肌を合わせただけで終った。だから愛子の体を、正確には覚えていた訳ではなかった。しかし愛子自身が言う様に、確かに年齢ほどに肌の衰えは無いと云っていい。女の体を年齢だけで決め付ける事は勝手な憶測でしかない事を、男は知らなければならないだろうと思った。

恭一は愛子の豊な乳首を口に含み、右手でゆっくりと包むように左の乳房を揉んでみた。どうしてこんなに柔らかな肉の塊が、崩れる事もせずに美しい曲線を描いているのか、不思議でならなかった。愛子の言う通り男を断っていたからなのかも知れないが、そうした事に耐えられる女の性は、男の理解を超えていると恭一には思えるのだ。
しばらく二人の間には、言葉の要らない秘めた時間が過ぎて行った。女の男を受け入れるまでのしぐさや、体に触れる時の反応は様々だと云う。媚びる女であれば男が好むものを与える為に自らが動くし、媚びない女ならば自らの行為を積極的に楽しむものだ。愛子が後者のタイプだと思えるのは、自分の欲するままに求める女であったからだ。
愛子の呼吸は少しずつ早まりそして吸い込む息も深くなっていた。やがて短く恍惚とした声から、叫ぶ様な呻き声に変わり、獲物を銜えた獣の様に低い声を立て始めていた。愛子には久しく忘れていた時間でもあった様に思えたのは、ぎこちない程に体の動きと気持とが、繋がらなかったからである。

 翌日、昼前に横浜で愛子と別れ、富士宮に戻ると愛子からのメールが入っていた。
「コンサートは余り面白くなかったのですが、恭ちゃんの体は素敵でした。目を閉じて体を任せていると、三十年前の自分に戻ったみたい。今度は一度そちらに遊びに行きたいと思っています。それに大事なこと、ハワイ行きの事です。何時の飛行機に乗るのか、何時帰るのか教えてください」
恭一は直ぐにメールの返事を送り返した。
「二人とも、すつかりハワイ行きの事忘れていたね。今思い出して思わず笑ってしまったよ。出発は十二月十二日、成田発の十八時四十五分のユナイテッド、ホノルル行きです。出来れば東京駅からリムジンで成田に行きたいので、東京駅の成田行きバス乗り場で待ち合わせしませんか。八重洲口の通りの向かい側です。時間は十四時でいかがでしょうか?それから帰りは同じ様にユナイテッドで十七日ホノルル発の成田行きです。ホテルの方はワイキキのシェラトンプリンセス。旅行会社に頼んだので、気にいるかどうかは分りませんけど」
籍に入っているだけの人妻であっても、別居していれば他の男との関係を持つ事が許される訳では無いのだが、愛子は至って大胆で、そして気ままな生き方が目に付いた。その理由が夫の浮気に対する、辛らつな復讐なのかも知れないとも思えるのだが、必ずしもそれだけでは無い様にも見えるのである。とは云っても息子にそれ相応の援助をして事業に乗り出させ、下の娘にもマンションを買い与えてやり、愛子達親子には、夫としての援助を与えられて暮らしている。愛子が自分で勤め仕事をしているとは云え、喰うに困らない生活が出来ているのだ。夫の清水洋太郎とは十数年も別居しているものの、家族としての関係を愛子は、未だに完全には切ってはいないのである。

 [つかの間の旅]
約束した十二日の夕方四時、恭一は東京駅の八重洲口にあるリムジンバスの乗り場に着いた。大きなスーツケースを転がし、後は肩からかける小さなバック一つである。愛子は珍しく先に来て、同じ様にスーツケースを手で押さえて恭一を待っていた。
「外国に一人で出かけるの、初めてだったのよ、だから助かったわ。息子とは前に一度、外国に行った事があるけれど、知らない国に出かけるのは不安なのよね」
 振り返れば今まで一度として、愛子と旅などした事は無かったと恭一は思った。学生時代に京都の街を、少しだが歩いた事位だった。
「俺はこれで三度目かな。ハワイは一人で行くと正直詰まらない場所だね。恋人か夫婦で行くところだと思うけれど、向こうでは周りを見渡しても、一人で来ている旅行者なんて、まず居ないものね」
リムジンバスが止り、トランクルームに荷物を預けると、途端に体と気持ちが軽くなった。
「ねえ、向こうには何時ごろに着くのかしら」
愛子が不安そうに恭一に聞いた。
「夜の六時過ぎに飛び立つのだから、飛び立つ時のホノルルの時間に、七時間を足せば分かるはずだよ。要するに今朝の六時過ぎごろに着くと言う事かな」
「日付変更線を越えると一日戻る訳でしょ」
「あぁ、越えれば前の日だし、向こうから越えれば翌日だ。だから今朝着く」
感心した様に愛子は又口を開いた。
「それにしても随分と早い時間に着くのね」
「少し早めにおやすみだ。寝ないと朝が辛いぞ、アルコールか睡眠薬の助けを借りると、向こうでの行動が楽になるはずだが、俺は酒をやらないから薬を買って来た」
「私も後でいただこうかな?」
「睡眠薬を飲みすぎたら、俺たちは心中ものだな」
恭一はそう言いながら、自分で言った言葉に苦笑した。バスはいつの間にか首都高に入り、やがて速度を上げていた。
 
 ホノルル空港からワイキキまでのハイウエイーは、朝の通勤時間帯なのか随分と混んでいた。団体のツアーとは違う為に、入国審査が終れば荷物を受け取り、後はタクシーで運んでくれる。日本語が殆んど通じるのだが、やはり相手はアメリカ人やハワイの少し太ったお兄さん達が相手である。二人は取りあえずワイキキの予約を入れてあるホテルに向かった。ワイキキ海岸添いのカラカウア通りに近いホテルは、オーシャンビューが売り物の大きなホテルである。チェックインをして部屋に入ると、部屋の正面がワイキキの海岸で既に海に入っている若者達が見えた。ダブルサイズのベッドが二つ部屋の真ん中に置かれて、それでも結構広い部屋のテラスからは、海岸沿いに立ち並ぶホテルが幾つも見えていた。
「やっと着いたわね」
「あぁ、お疲れ様でした。取りあえずお昼頃まで仮眠しようか。狭い機内じゃ十分に眠れなかっただろう?」
飛行機のあの狭い機内に閉じ込められている何時間は、小さな檻に入れられて運ばれる犬や猫の様な不安を抱えていた。エコノミーならせいぜいハワイまでが限度だと思う。初めて団体のツアーで来た時には、確か空港を降りてからホテルの時間調整の為に、観光地を無理やり見学した記憶がある。ヨーロッパなどに出かける人たちが途中で給油するにしても、半日以上もあの椅子に座っているのかと思うと、絶対に耐えられそうにも無いと恭一は思う。
「ホント疲れたわ、お薬戴いたから飛行機の中でも眠れたけれど、この調子じゃやはりシャワーを浴びてから直ぐに眠れるわね」
愛子はスーツケースも開けずに、そのままシャワーを浴びにバスルームにはいっていった。日本に居れば未だ時間は夜中のはずである。だが外は南国の日差しが降り注ぎ、賑やかな小鳥達の声が下の椰子の木陰から聞こえて来た。単なる観光旅行でも無く浮気旅行でもないこの旅のこれからを、とりあえず恭一もシャワーを浴び、少しの眠りの後に考える事にしようと思った。

 どれ程眠ったのだろうか。恭一は厚手のカーテンの隙間から、明るい日差しが差し込む窓の外を見た。燦々と太陽の光の降り注ぐ南の楽園が、僅かだがその向こうに見る事が出来る。しかしほんの少し前の眠りの中で、もうひとつの別の時間の中に居た名残があった。それが何となく夢の中である事は、何処か恭一にも気付いていた様な気がする。浅いまどろみの中で隣に安らかな寝息を立てて眠っていたのは、すでに死んでしまった妻であった。妻との新婚旅行は、このハワイであった。ただホノルルには最後の夜に泊まっただけで、飛行機で三十分ほどのハワイ島で一週間を楽しんだ。だから夢はあのハワイの最後の夜に泊まった、ホノルルでの記憶が蘇ったのかもしれなかった。
 枕元の時計は既に昼の十二時を廻っていた。子供の結婚式は十四日で明後日の事になる。明日には子供達もホノルルにやって来る、結婚相手の親達も一緒のはずであった。

隣のベッドで愛子は毛布一枚にもぐり込み、横浜で買ってあげたキャミソールを着けて眠っている。何処かに孤独の影を見せながら、心の交わる事の無い女で終りそうな予感が、恭一の脳裏を横切っていった。
部屋に備え付けられた簡単なキッチンの前で、恭一は一人でコーヒーを入れて飲む事にした。少し長めの滞在者に喜ばれる為に、部屋には簡単な台所がついている。
「おはよう」
未だ眠そうに愛子が起き出して挨拶をした。恭一は愛子にコーヒーを飲ませる為に、もう一度台所に立った。
「あぁ、良く寝たわ。やっと今頃になって、ハワイに来ちゃったなって思うのね」
愛子は顔を洗った後、断りも無く恭一の飲んでいたコーヒーカップを口に運んだ。
「恭ちゃんは、こんなにも薄いコーヒーを飲むのね」
 愛子はコーヒーの色が薄かった事に、驚いた様である。
「あぁ、何杯も毎日飲む習慣がついてね。でもここはアメリカだぜ。大体アメリカ人は浅炒りのコーヒーを飲むらしいよ。それに色が薄いとは言っても、コクや香りは同じだぜ。焙煎を浅くしているんだよ。ほら、コーヒー豆をローストする時の、豆の炒り方の事だよ。俺は特にコナコーヒーは気に入っているんだ。これだけは自分の土産用に、沢山買い込んで帰るつもりだ。なぁ、それより外を見てご覧よ。海が青いよ」
恭一の誘いに愛子は髪の毛を束ねながら、それも器用に大きな洗濯バサミのようなもので髪の毛を挟んで留めた。そしていきなりカーテンを半分ほど開けたのだ。目には青い海が飛び込んだのか、感動したように言った。
「やっと来たって感じね」
愛子はベランダの戸を開けると大きく両手を上げて、惜しげもなくキャミソール姿で背伸びをした。
「食事に行こうか?」
朝食も食べずに眠り込んだ為に、お腹がすいている事に恭一はやっと気付いたのだ。
「そうね、少し支度をするわ。スーツケースも開けないとね」

部屋のクローゼットに服をかけながら、恭一はTシャッにジーパンをスーツケースから出し、成田を出る時に着ていた皮のジャンパーを掛けた。トランクの中の荷物を片付けた後で、化粧を終えた愛子と朝食を兼ねたランチを食べる為に、ホテルのレストランに入ったのだ。 
眠ったとは言え、時差の感覚は未だ狂っていた。腕時計は朝の九時過ぎを指しているが、午後の日差しである。
レストランに続く庭の向こうのプール際には、真っ白なデッキチェアーが置かれ、外国の夫婦であろうか横になりながら本を読んでいるのが見える。時間を贅沢に過ごすゆとりが、羨ましいほど静かに漂っていたのだ。
若いアメリカ人らしいウエーターが、軽い笑みを浮かべながらオーダーを聞きに来た。メニューは英語の下に日本語でも印刷されていた。
恭一は果物のパパイアとそれにトーストとベーコンエッグ。コーヒーにシーフードのサラダを頼んだ。とにかく美味しさは別にしても、何か腹の中に入れておきたかった。成田を出でから一時間ほどして食べた機内食が最後だったからである。

「私、サラダと貴方と同じパパイアを食べてみるわ。とても恭ちゃんの様に食欲はないもの。それに足りなかったら恭ちゃんの戴くわ、それからコーヒーを一緒に欲しいな」
恭一は愛子の言う果物とサラダとそして自分の注文を、背の高いウエーターに告げた。
「処で俺は、明日の朝に空港に子供達を迎えに出かけるが、愛子はどうする?」
「私も向こうの親の所に出かけるわ、後で電話してみるけれどとにかく一度、孫に逢いたいと思っているのよ」
「場所は何処にあるんだ?」
「カイルアという所よ。ワイキキの後ろの山の向こう側になるのかな。お父さんは海軍の軍人さんだけど、娘にアラモアナまで迎えに来てもらうつもりなの」

実家に戻ると言い残し、息子の妻は子供と一緒に両親の実家に戻ったきりだと言う。愛子の息子達夫婦にも、何事かの問題を孕んでいる様にも思える。その意味で言えば恭一の息子も、或いはこれからなのかも知れない。歯科の受付をやっていた息子の妻となる娘は、高校時代から付き合って来た相手でもあった。卒業してから一度は別れたと言うが、又、よりを戻したのは彼女の方の変化であろう。恭一の知る限りにおいて息子に新しい恋人が出来たと言う事を、聞いた事はなかったからである。
「さぁて、これからどうしようか、ありきたりの観光じゃ詰まらないだろう?車を借りてドライブもいいしな」
「遠くはやはり止めにしとくわ、それより外に出て歩いてみない?それから考えましょうよ」
「確かに、じゃ早速に食事を終えたら出かけようか」
二人は目の前に運ばれて来た、かなりのボリュームのあるランチを口にした。

ホテルからワイキキの海辺沿いに向かい、一方通行のカラカウア通りを横断して、幾つものホテルの立ち並ぶ歩道を二人は歩いた。日本人を含めた外国の大勢の観光客が通りを行き交い、常夏のリゾートを楽しんでいた。
「ねえ、せっかくだから手をつながない?」
愛子の声に黙って頷いた恭一は、その手の指先を握った。未だ曲がりなりにも証券会社の社長夫人でもある愛子が、すでに何処にでもいるただの中年女になっていた。それにこのワイキキの通りは、手をつながないで歩いている二人連れの方が遥かに多く、繋がないと寧ろ目立って見えるのだ。
「ウインドショッピングをしながら、ワイキキの海岸の向こうまで行ってみないか?」
恭一の提案に愛子は笑顔で頷いて答えた。

一方通行の通り沿いに、二人はカラカウワ通りをダイアモンドヘッドに向かって歩く事にした。ワイキキの浜辺に沿った通りである。ロイヤル・ハワイアンショッピングセンターの二階に上がり、幾つものブティックや宝石店など見て廻る。ワイキキで最も古いホテルといわれているシェラトン・モアナサーフライダーホテルでは、その一階にある銀細工で知られたティファニーの店に立ち寄り、買うでもない気持で覗いてみた。オードトワレの香りを嗅いでいた愛子が、素敵な香りだと云う言葉に、恭一はせめてもの記念にとプレゼントする事にした。
「私も恭ちゃんにプレゼントするわね」
そう言いながら同じ店で銀のボールペンを指差し、イニシァルを入れてくれる様に頼んだ。
「ありがとう。嬉しいね」
素直に恭一は自分の気持を伝えた。
「私もよ、この香りを私の香りにするわ。ずっとね」
外に出ると何時の間にか夕闇が迫っていた。ホノルルマラソンが少し前に終ったとは聞いていたが、日本からの観光客で大変な賑わいだったのだろうと恭一は思った。浜辺には海に沈む日没を見る為に、観光客が集まり始め、絵葉書でみるワイキキの夕焼けが始まっていた。二人はそうした観光客に混じって、ワイキキの岸辺に置かれたベンチに腰を下ろし、黙ったままゆっくりと沈む夕日を見詰めていたのだ。

 夕食はホテルのレストランで摂る事にした。プールの脇ではハワイアンの生演奏が流れ、ガスにともした炎の灯りが揺らめいて南の島を演出していた。ハワイ辺りで日本人の求める美味しい料理を望むのは、少し酷かも知れないと恭一は思う。アメリカ人の味覚は繊細な日本人のそれを下回り、大体に於いて全てが大雑把で大味である。それでも郷に入れば郷に従えの言葉どおり、日本で食べる事の出来ない魚や貝のシーフードを堪能した。
「明日はお出かけだよね。夜は戻ってくるのだろう?」
確認する様に恭一は、フォークを口に運ぶ愛子に明日の予定を聞いた。
「とりあえず今夜と明日の夜は間違いなく戻ってきます。その後は正直に言って分からないわ。向こうで泊まれと云われたら断る理由がないのだから」
確かにその通りである。友だちと来ているなんて云えば、孫に逢いに来た筈の理由が違ってくる。ホテルをとってあると云っても、キャンセルしなさいと言われればそれまでの事でもあった。
「じゃ、今夜と明日一日だけで、後は別々になるかも知れないね」
「でも又一緒に帰りたいな、こちらを発つのは十七日でしょう。東京では出来ない様な時間の過ごし方がしてみたいのよ」

一階のロビーの横にはツアーコンダクターの事務所がある。ハワイで可能な限りのツアーが予約出来る様になっている。双発の軽飛行機で一日がかりの島めぐりや、鯨を近で見るホエールウオッチング、人数さえ集まり天候さえ問題なければ出航可能な本格的なヨットのセーリング。しかし愛子の求めているそれは、子供の冒険心をくすぐる様な時間つぶしで無い事だけは分かる。
「式は午後の二時からだそうだ。会場まではタクシーでも二十分程度だ。たいした時間は掛からないと思うが、その時は宜しく頼む」
恭一は改めて愛子に頭を下げた。
「ねえ、恭ちゃん。お願いがあるのだけれど」
突然、愛子の口から、お願いと言う、滅多に聞く事も無い言葉が飛び出した。
「怖いお願いだけは止めて欲しいな」
恭一は一瞬、予防線を張る様に愛子に向かって言った。
「全然怖くなんか無いわ、誰でもできる事なのだから」
「分かった、分ったよ。そのお願いを聞いてやるよ」
「嬉しいわ、ほんとね。そのお願いはね、今夜はお酒を飲んで欲しいのよ。亡くなった奥さんの事でお酒を止めて居るのは分かるけれど、ここはハワイよ。私の為に付き合ってくれない?」
と珍しく懇願する様に、愛子は自分の気持を恭一に伝えたのだ。

たしかに愛子の言う通り、ここは異国のハワイであった。日本の法律もここでは適用されないのだ。酒を断ってからすでに六年余り、間違いなく少しの酒でも酔うはずである。酒を頑なに拒む理由を、ここでは無くなっている事を恭一は理解した。
「変な酔い方をしない程度に、楽しくゆっくりと楽しみましょう」
「酔いつぶれたら、必ず介抱してくれよな。その辺にほって置かれたら絶対に許さないからな」
恭一は覚悟を決めて愛子と付き合う事にした。食事の皿が片付けられて、南の島らしいカクテルが二つ運ばれて来た。牛乳のような白い色で、カットしたパイナップルがグラスに挟んである。
「このお酒ね、チチって云うのよ。ウオッカにココナツのジュースを入れて氷とシェイクしたものなの。スコッチもいいけど、ここではやっぱりハワイでしょう」
愛子はグラスを持ち上げると、軽くそれを上に持ちあげて乾杯と言った。恭一はその愛子の言葉に合わせ、グラスを取り上げて軽く唇を浸した。酸味と甘みのパイナップルジュースが効いて、ウオッカの強いアルコールが薄まってはいる。それにココナッツのまろやかさが、女性向きのカクテルだろうなと思えた。
「ねえ、奥さんの事、今でも愛しているの?」
と愛子は珍しく、死んだ恭一の妻の話しを切り出した。
「いい女だったよ。俺には勿体無いくらいの女だった」
恭一は自分の女房の事を、体を許した女の前でこんな風に言うのは可笑しかった。しかし本当の事を言う事の方が、今の愛子との関係では自然だとも思える。

「そうなのね。私ね、奥さんの悪口言う男は信用しないの。奥さんを褒める男が好きなの、そんな男に一度でも愛されたかったな」
 恭一は空になったカクテルグラスを指差して、近くにいたボーイにもう一杯持ってくる様に頼んだ。
「でも残念でした。死んでしまえば何もかも終りだ。生きている内が華なんだよね」
 死は、それが病であれ事故であれ、現実から消える事だ。死んだ者が残された者の支えであれば、何時までも残された者の記憶の中に生き続ける事も出来るのだろうが、それでも時間は確実に記憶を薄れさせてゆく。もうすぐにその妻の形見の息子も結婚して、やっと肩の荷が下りる時が来た。恐らくその時は、逝った妻への本当のさよならが出来ると思えるのである。
いつの間にか意識もしないうちに、恭一は酔って来た事を感じていた。
「愛子。部屋に戻ろうか。やはり酔ったみたいだ」
何杯のカクテルを飲んだのかさえ、恭一は思い出せなかった。だが飲み過ぎたと言う程に飲んだとは言えない程度であった。辛うじて部屋に戻った時、恭一は愛子の肩に体を預ける様に立っているのが辛かった。

大きなベッドに転がる様に横たわりながら、愛子がコップに注いでくれたミネラルウォーターを飲んだ。愛子も一杯の水を口に含みながら、横になった私の唇にその唇を重ね、惜しむ様に少しずつ水を移してくれた。
「まだ風呂にも入っていないぞ」
「いいわよ」
「まだ宵の口だぞ」
「構わないわ」
「お前は人妻だぞ」
「それが何よ」
愛子は恭一の服を脱がしながら、自分の服やサンダルもベッドの廻りに脱ぎ散らかし、黒い下着姿になっていた。身につけていた黒いレースの下着は、横浜で恭一が『白い下着は欲情を抑える』と言った時、『この次は黒い色のものを着けるわ』と言った愛子の言葉を、恭一は薄れてゆく意識の中で思い出していた。
愛子も又酔っていたのかも知れなかった。それがアルコールの力だとしても、何時もの常識的な理性から離れ、やりたい事を思った様に出来れば、この上なく楽しいはずであった。これまでの付き合いで、愛子が自分から望む事を仕掛けて来る事は無かった気がした。しかし酒に酔っているのか酔ったふりをして楽しんでいるのか、恭一には、そんな事はもうどうでも良かった。

人は全ての身につけているものを取り去る事が出来れば、その相手とは他人ではなくなるものでもある。哀しいのは服など自分を包むものを脱ぎ去った後も、見えない幾つもの服をまとい他人の関係を守りたいのか、決して心も裸にはなれない者達であろう。
子猫が母猫を相手にしてじゃれる様に、愛子は恭一の上に馬乗りになると、恭一の耳や首や乳首をも嘗め廻していた。男とは随分と触れた事が無いと云う愛子の体を、それでもやはり若い女達とは違って、ゆっくりと時間をかけ、いたぶりたい衝動を恭一は抑えていたのだが、自分の体は既に気だるさに包まれていたのだ。
少しの酔いから醒めるまでの時間を愛子に与えた後で、今度は恭一が愛子の上に乗り豊な体を押さえつけた。愛子は恭一の目を見つめた後で、自分が求めて止まない場所を手で触れた。そして確かめる様にそれを掴むと、愛子は固くなったそれに両手を添えながら、自分のそこへと導いていったのである。

二つの体が一つになった時、愛子は恭一の目をじっと見据えていた。愛子の広げた両足が恭一の腰に絡み、力の入った足が、前後に動く恭一の腰を引き寄せ、そして緩めていた。まるで愛子の意思によって動かされているかの様な錯覚は、蜘蛛の巣に捕らわれた虫の最後を見る様な、覚醒の世界だと恭一は感じたのだ。
恭一はゆっくりと動きに変化を与え、愛子と一つになっている時間を確かに楽しんでいた。愛子の男を受け入れる為の体の動きや、引き寄せる為の足に入れる力の強さ、そして深い息遣いと悦びに反応する声は、或いは全てが計算された悦びの為の小道具の様にも思える。
自分の乳房を時折持ち上げ、そこを唇で触れて欲しいと言う様に、恭一の顔に近づけた。恭一の体を抱きしめる腕の力から、全ての想いを傾けて快楽の頂へと、愛子がのぼり詰めて行くのが恭一には分かった。そしてその愛子を追いかける様に、恭一も愛子の中に優しさを解き放ったのだ。
静かな時間が過ぎていった。四十年も前の初めての時、愛子は恭一の体の下で足を開きながら、ひと時の痛みが過ぎた後に、『入っているような、いない様な、ああ、やっぱり入っているのかも知れないけど、本当に全部はいったの?』そんな風に愛子から聞かれた事を思い出した。やがて子供を産んだ女の体は、幾枚もの見えない服を着てしまったのかも知れない。今夜の愛子はどれ程の見えない服を、自分の前で脱ぎ去る事が出来たのかと恭一は思った。

翌朝、八時過ぎに恭一はホテルを出た。息子達を空港に迎えるためである。ホノルル空港の入国口は、何処か国際空港とは呼べない様な、手狭なメインターミナルの端にある。ツアー客を待つのかアロハシャッを着たコンダクター達が、旅行会社の旗やプラカードを掲げて、忙しそうに無線で連絡を取り合っていた。
息子達と婚約者の親など、知っている数人が出口に顔を出した時、息子は恭一の顔を見て手を上げた。婚約者の両親に向かって、恭一は挨拶をした。結婚の挨拶の為に、顔を合わせて以来の事であった。
「お疲れ様でした。どうもご苦労樣です。この度は有難う御座います又ホテルに付きましたらお伺いさせて戴きますが、その節には又改めてご挨拶をさせてもらいます」
相手の両親に向って頭を下げ、今夜ホテルの方へ伺う事を伝えた。
「この度は遠い所をご苦労さまですね。宜しくお願いしますよ」
結婚で親戚になる相手の親からも、大人同士の挨拶があった。その後に息子の傍に近づいて、一言でも親らしい言葉を掛けようと思った。
「ご苦労さま。まぁとりあえず少しホテルに着いたら仮眠しなさい。やっちゃん、少し眠った方がいいよ」
恭一は息子と、やっちゃんと呼ぶ息子の婚約者に向かって声をかけた。
「親父、わざわざありがとう。明日は宜しくたのみます」
息子がいつの間にか大人の礼を言っているのを聞くと、親として見ればうれしかった。それはあっけない迎えの挨拶でもある。同じワイキキのホテルに泊まっているのだが、母親のいない一人身の家庭は、こんな時には決して主導権はとれないし取るものでもない。大方は娘を嫁にやる母親の方が、全てをコントロールしているのが相場である。
昼に恭一は、逗留しているホテルに戻った。愛子は孫の顔を見る為、息子の嫁の実家があると言う島の反対側、カイルアと呼ぶ街に出かけてしまった。一度は息子と共に、嫁さんの実家に来ていると云うが、外国への旅慣れない愛子にとって、結構一大事の様な心細い気がしているはずであった。
恭一は愛子の出かける前にアラモアナショッピングセンターの北側から、バス乗り場があると伝えて地図を描いて渡しておいた。だが直前になってホテルまで嫁が迎えに来てくれると、愛子から言われていたので安心する事が出来た。

それでも六時過ぎには、愛子はタクシーで戻ってきた。チップを十ドルも渡してしまったと悔やんでいたが、いい経験になった事は確かだろうと恭一は思った。
「これから向こうのホテルに出かけてくるよ、明日の打ち合わせをしてくるが、食事はその後でいいかな」
「私は構わないわ」
恭一はまだ愛子の事を子供たちにも、相手の親たちにも話してはいなかった。
「孫はどうだった?」
「今年で五歳になったわ、今が一番可愛い盛りなのね」
愛子は既に五歳の孫が居る、おばあちゃんになっている。
「ホテルを引き払って泊まりに来なさいと言われたわ、言葉が娘しか通じないから、正直困っているのよ。それで一晩だけ泊まる事にしたの。明日友だちのお子さんが結婚式を挙げるので、それに出かけると言ってあるわ。だから明後日は外泊よ」
愛子は外泊と言う言葉を強調した。しかし自分の息子の嫁が日本に何時戻るのか、そうした込み入った話しは未だしていない様子である。

結婚式とは言っても僅かな身内だけの挙式は、慎ましやかでそれなりに厳粛な気持になる。ホテルからタクシーでも二十分程度の、ワイキキから見ればダイアモンドヘッドの向こう側にその教会はあった。周囲は住宅街で、教会の建物も日本人の持つイメージとはだいぶ違い、木々に囲まれた木造作りのセカンドハウスの様な建物である。入り口に十字架の印がなければ、個人の別荘と間違えそうな程であった。
しかも建物の入り口の短い階段を上がり、教会の室内に足を踏み入れた時、まるで小さなライブ会場の様な、階段状の席が三方から祭壇を取り囲んでいたのだ。
しかもその祭壇の後ろは一面にガラス張りで、外は明るい広々とした水平線の広がる、海が足元の波打ち際まで続いていた。教会の室内はあの何処にでも見られる教会の暗さや重々しさは無く、此処は陽の光を一杯に取り込んだ教会であった。そして祭壇裏の外への出口から続く波打ち際までの小さなスペースは、素足で歩きたい様な芝生が一面に敷き詰められている。

「わぁ、素敵な教会ね」
愛子が教会に入った時に思わず呟いた。新郎新婦達はホテルで衣装を着付け、リムジンのハイヤーで家族と一緒に教会に行くからと知らされ、先に愛子とふたりで教会に着いたのだ。サンゴ礁の浅瀬が遠くまで続いて、その向こうは急に深いコバルト色の海になる。
 昨夜の打ち合わせでは、アロハシャッを着ての出席と決まった。アロハシャッはハワイでは正式な衣装で、女性はムームーと言うワンピース着用と言う。ホテルの売店で二人は夫々が選んで決めたが、それはそれで南国の結婚式なのかも知れないと思えた。
 息子達を乗せたリムジンが教会の入り口に着いて、ウエディングドレスの裾を持ち上げていた婚約者の母親と父親、それに兄夫婦と、息子やその妻となる娘に私は愛子を紹介した。
「こちら高校と大学生時代のクラスメートで、清水愛子さんといいます。お孫さんに逢いにハワイに来ているのですが、今日は息子達の結婚式に出席して戴けるとの事で、無理にお願いしました」

そしてホテルで買い求めた白いゆりの花束を、愛子は息子の婚約者に渡し、お祝いの言葉を述べた。
「おめでとう。お幸せに。それにご両家の皆様にも、この度はおめでとう御座います」
にこやかな笑顔の二人に声を掛け、両親にも挨拶をしてくれた。
少しの時間の後に、息子達に付き添って来た女性のプロデューサーが、集まった両家の家族に挨拶をして、そして結婚式が始まった。
 教会の祭壇を前に息子達の結婚の誓いを聞いていると、親はだれもが子供との様々な過去を思い出すらしい。恭一もそうであった。泣くまいと思いながらも、やっとひとり立ちした息子の姿は、親としての責任から解放された安堵感と、一抹の寂しさを持っている。
妻が生きていれば、ご苦労様でしたと言ってくれそうな気もするが、そう思うのは母親としての妻であった。しかし妻の遺伝子は確かに息子に受け継がれ、途切れない限りにおいて、永遠の命を未来に運んで行くものだとも思える。
 披露宴が無いだけに意外と厳粛な雰囲気の式であったが、嫁になった父親から今夜の夕食に招待される事となった。少しの時間ならと愛子も承諾したのだが、その夜は酔った父親が涙を流し穏やかな夕食とはならず、恭一と愛子は早々に引き上げる事にした。花嫁の父親の気持は恐らく、経験しなければ分からない心境なのだろうと恭一には思えた。

翌朝、ホテルのレストランで、二人はバイキングの朝食を摂った。恭一は午前中に息子たちの宿泊しているホテルに向かい、明日朝の便で日本に帰ると嘘をつく事にした。親戚となった花嫁の父親のグチを聞く事は、ハワイまで来て耐えられなかったからである。
それに愛子も日本から持って来た土産を持ち、今夜は孫の家に泊まる事になっている。恭一はアラモアナのバスターミナルまで愛子を送り、自分で使う土産を少し買うつもりでいたのだ。
 アラモアナのバスターミナルで、カイルア行きのバスに乗る愛子を見送った後で、恭一はやっと一人になった事を実感した。土産にコナコーヒーを買い求めてホテルに戻ると、既に部屋の掃除は終えていてくれた。朝起きて出掛ける前に、慣れない枕チップを毎日枕元に置いて置くのだが、一体この習慣は何故に終らないのかと思いながら、こんな時の為にと持って来た本をプールサイドでの木陰で読む事にしていたのだ。横浜で愛子と待ち合わせた時に買い求めた、中里恒子著の『時雨の記』である。
本の出版は大分古いのだが、映画にもなった大人の恋愛小説である。半分まで読み終えた頃に、余りにもメルヘン的なストーリーに、食傷ぎみになって読書を放棄したのだ。愛子がこんな恋愛がしてみたいのだと言う気持ちを、少しは理解しようと持って来たのである。だがリゾートホテルのプールサイドで、中年過ぎの年齢となった自分の方が、余程小説の物語になるはずだと思った。

 愛子がホテルの部屋に戻ったのは、翌日の午後も遅い時間であった。夜は海の見えるレストランで食事をしようと約束をしていたのだが、愛子の顔を見ていると、そんな雰囲気にもなれない様であった。遊びに来ていた訳ではないし、夫々には目的があり用事があったのだ。
「海は見えないけれど、和食を食べに出かけようか?」
敢えて孫と久し振りに会った話しを聞く事は止め、今夜のスケジュールを愛子に聞いた。
「何か久し振りよ、お蕎麦が食べたいな。そんな店あるの?」
 と愛子は嬉しそうに関心を示した。
「何でもあるはずだ。直ぐに調べるから待っていて」
恭一はフロントに電話をして、蕎麦の食べられる店を教えてもらい、予約も頼んでおいた。
「歩いて十分ぐらいの場所にあるよ。六時半からの予約を取ってもらった」
六時にホテルを出て、ロイヤルハワイアンのショッピングセンターを越えて、ワイキキビーチに向かって通りを入った場所にその店はあった。蕎麦は熱くても冷たくても、どちらのリクエストに応えると云う。
「天婦羅とお蕎麦、お蕎麦は冷たいのがいいな」
愛子は日本語で書かれたメニューを見ながら、注文を決めた。私も同じものにした。
「ねぇ、息子の事だけど、離婚すると思うわ。日本では暮らせないって言われたもの」
愛子はぽつりと吐き棄てる様に、孫の居る息子の嫁の家での事を話し始めた。
「国際結婚って、結構難しいんだね」
愛子の沈んだ気持を量る様に、恭一は実家に戻ってしまった愛子の息子と、その嫁との関係を思った。
「息子の所からこちらに戻ってもう二年になるのよ、後は弁護士さんとの話し合いだけね、私も孫のことは諦めなければならないと思うわ」
愛子の言葉には何処か重みがあった。どちらが良いとか悪いと決め付ける話ではないが、何かの決断を示す時期に来ていた。蕎麦を食べ終わり、ホテルに戻る事にした。明日には帰らなければならない。
ワイキキの浜辺はカラカウア通りに接している場所は、夜遅くまで賑やかだが、シェラトンワイキキやロイヤルハワイアンホテルの海岸は、砂浜に道が無く宿泊客だけのビーチとなっている。通りを照らすオレンジ色の街灯の上に、二人が泊まっているホテルの明かりが見えていた。

翌朝、ホノルル発九時半過ぎの便に乗る為、二人はホノルル空港に来ていた。二階の出国手荷物検査を終えて、指定されたゲート近くのベンチに腰を下ろした。出発ロビーの近くには免税の店やカフェなどが並び、これから飛行機に乗る人達が搭乗案内を待っていた。窓の外には旅客機の尾翼が手の届くところに見え、子供なら何時までも飽きない場所なのだろうと恭一は思う。
自分への土産はコーヒーと、免税のウイスキーだけであった。行くにつけ帰るにつけ、これからの時間が恭一には一番苦痛を感じる時間でもある。だが案内に従って機内に入ったものの、成田へのフライトは乗客も少なく、シートベルトのサインが消えてからは、肘掛を折りたたみ座席を広くして横になる者も居た。恭一も愛子も思いっきりシートを倒して、とにかく眠る事だけに専念したのだ。

 ホノルルから戻った恭一の許に、愛子からのメールが届いていたのは正月も明けた二日の日であった。
「あけましておめでとう御座います。ハワイではお世話になりました。日本に帰ってから私と恭ちゃんとは、一体どんな関係なのか考えたのですが、一言では云えない関係なのだと気付きました。息子には孫の事と嫁の事、正直に伝えましたが『やっぱり』と言うだけです。私も今年は予定通り、住まいを都心の護国寺辺りに移ろうと決めています。契約も済んで後は引越しを待つだけです。」
 メールでの年賀を元旦に送った、その返礼なのかもしれない。そして恐らく愛子は自分の用事も済んだ事で、暫くは連絡も無くなるだろうとも思えた。いつもそうして何事もなかったかの様に、愛子とは一区切りがついた後で終ってゆくのだ。
 フッと前に愛子が、もっと富士山が良く見える所に・・と言った言葉を恭一は思い出した。池袋辺りに引っ越す心算かと理解したのだが、そのまま何も聞かずにいた事を恭一は思い出したのだ。



 







 




 



 


 




 
 



 



 
 

 




 
 


 



 


  [哀しみの兆し]
 真っ白な雪が冨士の頂を覆い、一月も終わりに近い晴れた日である。恭一のパソコンに一通のメールが届いていた。タイトルには「母のことで」清水陽子とあった。恭一は慌てて、届いたメールを開けた。
「突然にこの様なメールをお許しください。母がお世話になっています。私のことをご存知ないかもしれませんが、清水陽子と申します。貴方様と母とが去年の暮れに、ハワイに行った事は存じています。でもその事は母の個人的な事ですから、私には立ち入る事の出来ない、どうでも良いことなのです。ですがメールを差し上げた理由は、その母の事なのです。一度お時間をいただければと思い、勝手に母のパソコンを開けてアドレスを調べました。取り合えずお電話を頂ければ嬉しいのですが、宜しくお願いします」
 愛子の娘からのメールであった。恭一はすぐに指定された携帯に電話を入れた。
「初めまして、井上です。メール戴いた井上です」
愛子から娘はOLと聞いていたから、少し遠慮して一時少し前の時間を選んだのだが留守であった。自分の携帯電話番号を留守伝に残して電話を切ったのだが、恭一は何か胸騒ぎを覚えた。それでも一時間ほどすると携帯が鳴り、愛子の娘陽子からの電話であった。
「お電話有難う御座います。少し用事が有ったものですから、申し訳御座いませんでした」
愛子の娘だと言う陽子は、丁寧な言い方で詫びた。
「初めまして井上恭一です。陽子さんのお名前はお母さんから聞いていましたよ」
「メールアドレスを勝手に調べて、申し訳御座いませんでした。ですがどうしても井上さんに連絡したいと思いまして、非常識な事をしてしまいました」
「いやそれはもうどうでもいい事です。それよりどうしたのでしょうか?」
「電話では詳しくは言えないのですが、実は母は癌に罹っているのです。それも殆んど末期に近いとお医者さまから言われました」

その瞬間、恭一は携帯電話を床に落しそうになった。
「愛子は、彼女はそれを知っているのだろうか?」
「知っているはずです。私も二年程前に卵巣癌で、子宮も含めて摘出手術をしました。同じ様な時期に同じ家族、だからでしょうか、それとも親子だからでしょうか? 私の手術後の経過観察で、昨年の十一月に母と一緒に病院に行きました。母はその時、私も心配だから検査を受けてみようかなと言って、しかも告知可否の欄には本人が、可の所に丸印をつけていましたから」
陽子からの話を耳にした恭一は、これまで解けなかった結び目が、少しだけ解けた様な気がした。
「その事で出来たら一度、お逢いして戴けたらと思います。ただ、母には何も知らせずにお願い出来たらと」
「分かりました、週末は時間をとれますか?もしよろしければ富士宮の私の家に来られたらいい。五十も半ばを過ぎた独身生活ですから、何も心配せず、ゆっくりと御話を聞けると思います」
「有難う御座います。失礼でなければ土曜の昼前頃にでもお伺い出来ますが、如何でしょうか?」
「富士宮でも河口湖でも構いません。富士宮なら東京駅から、河口湖なら新宿からのそれぞれ直通バスもあります。駅までなら迎えに行きますから、出かける時にお電話下さい」
「分りました。それでは、その時に又ご連絡いたします、宜しくお願いします」
「失礼します」
電話を切った瞬間、恭一は訳も無く哀しみが溢れて来た。初めての男の印を付けた女・クラスメート・友だち・セツクスフレンド・浮気相手・恋人・知人・そして他人。愛子とは幾つもの男と女の関係がある。しかしどれ一つとして恭一と愛子の関係を、的確に表す言葉は無かった。その夜、恭一はハワイから買って来たスコッチの封を切った。
 
 その週末の土曜日の朝、恭一に陽子から電話があった。今、東京駅に居る事、そして新幹線で三島まで行き十時頃には富士宮駅に着くと云う。恭一は新幹線の新富士駅まで、車で迎えに行くからと電話を切った。富士宮まで新幹線で来るのは在来線のある三島や静岡で乗り換えて、冨士駅から身延線に乗り換えて富士宮まで来る。
富士宮駅は冨士山へ上る玄関口でもあるが、駅からの道はバイパスまでも遠く、その意味ではかえって不便でもあった。恭一は車を温めて直ぐに新富士まで向かう事にした。
ヒノキの植林された林を抜けて、ゴルフ場の横を通りバイパスに出る。後は長い下りが富士まで続くいている。この時期、富士山を左に見ながらの道は観光客も少なく、偶に写真を撮るカメラマンが、バイパス沿いに三脚を片手に歩く姿をみる事もある。

陽子は駅の改札口で待っていた。背が思ったよりも高く愛子とは対照的に、細く感じる女だった。あと少しで三十歳になると愛子が云っていたが、それほどの年齢を感じさせる女ではなかった。
「井上です。陽子さんですか?」
「清水陽子です。母の事ではお世話をお掛けします」
陽子は頭を下げた後に恭一を見つめた。誰かに似ていると一瞬思ったが、思い出せない恭一は、それに拘る事を止めた。
「車を駐車場に置いてあります。そうですね約一時間程度かかりますが、今日は富士山もきれいですから、飽きる事は無いと思いますよ」
「私の勝手な話しでご足労をお掛けしてしまい、申し訳御座いません」
恭一は陽子を促し、駅前ロータリー横の駐車場に案内した。車は市内に幾つもある製紙工場の間の道を、東名高速道路のインターを越え、西富士道路を抜けた。
「陽子さん、富士宮は初めてですか?」
恭一は何か言葉のきっかけを掴みたいと、ありふれた質問をしていた。
「若い頃は何回かドライブに来ているところですが、通過するだけですわ」
「この辺りは冬も雪は滅多に降りませんが、夏は涼しくていい場所ですよ。それに天気の良い時には、あの山を何時も見る事が出来ますから」
右手に迫ってくる富士の山を、恭一は目で知らせた。
「それでもこちらに引っ越して気付いた事なのですが、富士山の姿は一週間に一日程度見られれば好い方ですよ。朝見えていたとしても、昼頃には雲の中ですから」
 実際に春から夏の季節は、その景色も激しく変わるのが分る。
「冬の富士山は綺麗ですわね。一年の中でやはり雪を被る時が、この山は一番綺麗だと思いますがどうでしょうか?」
「見る角度もありますが、多分僕もそう思いますよ。空気が澄んだ季節は、木の一本一本がはっきりと見える事が出来ますから」

「ところで富士山の絵は描きませんの?」
 と陽子は率直に疑問をぶつけてきた。
「実は私の絵の師匠が富士山を描いているものですから、描くのを控えているのですよ。それより家に着く前に、湧き水を汲んで行きましょう。コーヒーや料理に使うのです。山の中ですが畔道の横から沢山の富士山の水が湧いている場所があります。どうです?お茶かコーヒーでも飲んで見たくなりませんか?」
「ぜひお願いします。そんな経験は東京に住んでいては、全くと言う程あり得ませんから」
恭一は住まいの直ぐ近くにある、湧き水の出る場所へと車を向けた。
「ここですよ。ポリタンクが後ろのトランクに入っていますから、それを下しますね」
湧き水の出る場所の手前にある狭い駐車場に車を止め、恭一はポリタンクを持ち細い坂道に下りた。そこにはまるで道の下に埋めてある水道管が破裂でもしたかの様に、きれいな水があふれて、小川となって下流へと流れて行くのが分かる。
「こんな場所に水が湧いているのですね」
「この水は市の浄水施設に入るものですが、地表に出たばかりで殆ど細菌はありません、当然大腸菌もゼロです。でも可笑しいのですが、この水に敢えて塩素を入れて飲むのだそうです。法律では塩素を入れなければ水道水として、使用出来ないのだそうですよ」
地下から溢れる湧き水を、恭一は湧き口にポリタンクを沈ませ、一杯に水を汲み上げて栓をしだ。
「どうぞ手でしゃくって、口を直接付けてもかまいませんよ、飲んで御覧なさい。大丈夫です」
陽子は湧き水の溢れる縁に腰を落とし、両手ですくい上げてそれを口に運んだ。
「思ったよりも少し温かいのですが、美味しい水ですわ」
「一年を通じて水温は十四度前後と変わらない様ですから、冬は温く感じられます。逆に夏は冷たいと思いますよ。さっ、行きましょう。お話を伺う前にコーヒーにしますか、それとも紅茶に?」
「紅茶でお願いします」

 山小屋風の太い丸太で組んだログハウスは、カナダの針葉樹を使って組み立てたものである。あの小石川高校の同窓会の後で、恭一は東京からこの場所に住まいを移した。思えばそれから十五年程が過ぎて、家もやっと周囲の景色に馴染んで来たと思う。出来たてのログハウスは正直好きではないし、特に丸太にニスを塗ってしまうなど、恭一には考えられない事でもあった。切り倒されていても木は生きている。それが証拠に法隆寺などの木造建築は、既に千四百年もそこに立ち続けている。つやを出したいのなら米ぬかなどで、綺麗に磨けばいいのだと思っていた。
 陽子を居間に招き入れて、ポットに入れた湧き水が沸騰するまでの時間、恭一は自分の為にコーヒー豆を缶から取り出した。陽子にはダージリンの缶を開け、ティーパックを取り出した。
「陽子さん、紅茶はレモンとクリームと砂糖、どうしますか?」
「そのままで結構です。遠慮ではなくてそのままがいいのです」
恭一は黙って頷くと、アメリカンにローストしたモカの豆を、小さなミルに入れて挽き始めた。
丁度挽き終わる頃に、ポットのランプが保温に変わり、陽子のティーカップをお湯で温めた。そのお湯を今度はコーヒーンカップに移し、ティーパックをカップに落としてポットのお湯を注いだ。コーヒーは濾紙を敷き、ミルから出した荒引の豆を入れてお湯を注ぐ。泡が全体を包む様に少し高い場所から注ぐ。入れ方にも、すでに六年の年期が入っていた。

「さぁ、出来ました。まずは富士山の湧き水で入れた紅茶を」
恭一はロイヤルコペンのティーカップを、久し振りに戸棚から出した事が嬉しかった。死んだ妻がこのカップを気に入っていたのだが、大事にした割には一度も使った事が無かった。
「さて、本題のお話を伺うことにしましょうか?」
「有難う御座います。とりあえず分かっている事だけでもお話ししますが、大方の内容はお電話で話した通りになります。ただ私はこのお話を井上さんに話して良いものか、正直に言えば、とても悩みました。私は既にお話した通り、卵巣癌の宣告を受けて、三年程前に子宮も含めて全て取り除いた事はお話した通りです。ですから子供を生む機能はなくしています。女では無いと言われれば確かにその通りです。でも今の所は他に転移しては居ないようで、何とか生きているとしか言いようがありません。それに喘息も子供の頃から酷くて、犬や猫の居る場所には怖くて入る事が出来ません。
御免なさい。私の事はどうでも良い事なのですが、お話をしていいものかどうか悩んだのは、母と井上さんとの関係で、ご迷惑がかかるかも知れないと思ったからです。娘の私からみても、母が父と別居した理由は判りません。夫婦の問題ですから、当人にしか分からないものだと思います。ただ、井上さんは高校時代から母を知っている人だし、母が酷く落ち込む時に井上さんの名前が出てくる事も知っています。多分、父が家に余り戻らなくなってから長い時間は、幼い私達二人の子供を抱えて、耐えていたのだと思います。私達が大学を卒業して、やっと自分から別居の覚悟をしたのだと思います。
父が私達の母とは別の女性に子供を作った頃は、私と兄は未だ幼稚園に行っているぐらいの頃でしたから、母から父親への気持は無いにしても、私達を父親の居ない子供にはしたくなかったのだと思うのです。恐らく母は、自分の居場所を捜していたのだと思います」

陽子はここまでの話しを一気に話し、冷めたであろう紅茶を口にした。恭一も黙ったまま、ぬるくなったコーヒーを口にした。
「お電話でお話させて戴いた時、母はかなり末期に近い癌だと申しました。十月の私の術後の検診のとき、私も見てもらおうと母が言いましたから、癌だけの検査をして貰ったはずです。
本当かどうか、それに私達親子が、その例に当てはまるのかは知りません。ですが家族性の卵巣癌は、親子の間では五十%にもなると言われています。つまり遺伝的に親が癌ならば、子供も掛かり易いと言う事が言われていますし、家族なら食べ物や環境が同じですから、その可能性は高くなると思います。私の行っている病院の先生から、暮れにお話がありました。本人には告知しているが、ご家族の方にお伝えしておく事も必要だと言われて、卵巣癌と言う病名で、それもⅣ期という一番悪い状態だそうです。学会では術後五年間以上も生きていられる生存率というのが10%で、母は転移が広い範囲に広がって手術は出来ない状態だそうです。後半年ぐらいで痛みが始まるだろうと、そして長くても一年程度と言われました」
 恭一には言葉が出なかった。

あの愛子が自分に病気を隠し、男女の秘めた悦びをむさぼる様に求めた事が、今その話を聞いて何となく理解できる気がした。病気だと告白したからと言って、それが何にもならない事ぐらいは分かる気がした。
「ご主人には知らせないのですか?」
常識的な話しとして、恭一は陽子に聞いた。
「籍は入っていますが、母とは全くの他人です。兄と私は子供として当然の事ですが受け入れてはくれますし、時々は会う事もあります。でも母は別です。父からみればあいつなのです。寧ろ父は今度の事で、やれやれと思うかも知れません」
恭一には愛子を包む家庭が、少しずつ理解の出来ないものになって行く気がした。
「それで私に、陽子さんは何をして欲しいのですか?」
 それが今日の最も大事な話の要点でもあった。
「何かして欲しいと思っていません。このまま黙って見つめていただけたらと思っています。ただ・・」
「ただ、何ですか?」
「母を、出来れば理解して頂きたいのです。それだけです」
「僕は陽子さんのお母さんとは、高校の時から同級生でした。正直に言います。お母さんにとって、初めての男性だったと思っています。でもそれは貴女のお母さんが望んだ事で、京都にある別々の大学でも構わないから、一緒に京都に住む事が出来たら、付き合ってくれる自分を上げると言われたのです。
多分、僕を好きでいてくれたのだと思います。でも僕はそれ以上にお母さんを好きにはなれなかった。絵の勉強をする為に京都の大学を辞めて、翌年には東京の大学に入り直しました。お母さんは京都に残り、そして学生時代にサークルで知り合った今のお父さんとは、卒業して一年後に結婚したのです。それから貴女のお兄さんが生まれ、お父さんが他の女性に子供を作り、産ませて認知した頃までの事は聞いています。
その事で愛子は悩んで、僕のところに相談に来たのです。貴女のお母さんとのお付き合いは、その時でも三ヶ月か四ヶ月程度の期間だったと思います。それから十五年ほど後の高校のクラス会でも、貴女のおかあさんは『家庭がめちゃめちゃなの』って言っていましたが、僕はその事に首を挟まなかった。そして去年の秋の事です。偶然に文京区役所のロビーでお逢いしたのは。
僕は六年前に妻を亡くしましたから、今は独り者です。ハワイに行ったのは、僕の息子の結婚式に参列する為でした。貴女のお母さんはお孫さんと会う為だったはず。今だから何でもお話し出来るのですが、昔、僕は貴女のお母さんを、愛したいと思った事はあります。でも愛子は僕の様な男には難しい女性でした。何時も、いつの間にか連絡が途絶えて、忘れ去られた様にそのままになるのです」

そこまで話した時、陽子は恭一の言葉を遮る様に話し始めた。
「私はそれでも、もし母が又井上さんの所に電話やメールで連絡が来たら、今まで通りに接して戴きたいのです。そしてこの事は胸の中に仕舞っていただいて、それで十分なのです。多分、井上さんのところにしか、自分の気持を持ってゆく場所がないのだろうと思います」
「分かりました。陽子さんの気持は、良く分りました。貴女のおっしゃるとおりにしましょう。だが愛子もずいぶんと良い娘を産んだものだ。あいつは、本当に偉いと思います」
恭一は独り言の様に、陽子と呼ぶ娘を産んだ愛子を祝福した。陽子も肩の力が抜けたかの様に、その顔には微笑みが戻っていた。

「井上さんが描いているのは日本画ですよね。この絵も御自身の描かれた作品ですか?もし宜しければアトリエを見せて戴いたら嬉しいのですが?」
百号の白糸の滝を描いた壁に飾った作品を見て、陽子は日本画に感心を持ったようである。朝霧に煙った白糸の滝を題材に描いたもので、岩と流れ落ちる水の構図と共に、緑の楓を手前に置いた涼しげな絵であった。死んだ妻の好きな絵だった為に、今でも売る気持ちにならなかった作品である。
「それは構いませんが、余り綺麗な部屋ではないですよ」
恭一は陽子を二階のアトリエに案内した。

西洋画の油絵と日本画の違いは、日本画が明治以降に日本で発達したものだ。しかもそれまでの伝統的な技法や、材料を用いて表現する絵画である。写実的でも無く陰影の無い事や、輪郭線があって表現方法がシンプルで、最も大きな特徴は色の淡い事などが挙げられる。筆も刷毛や毛筆なども使うし墨や硯や和紙も使う。主に岩絵の具などや鉱物質の素材も用いるが、膠を使うのがこの絵の特徴でもあるだろう。作品の印象は全体に柔らかく、最近では一つの作風として厚く塗り固める技法も広がって来た。
 自分の作品も先輩であった先生に師事した為に、ある程度の作風は似てしまうのだが、そこから自分の匂いを確立してこそ、一人前になれるものだと恭一は思っている。だから幾つかの奨励賞を貰ってはいたが、未だ作品展を開くつもりは全くなかった。
 陽子は恭一の描いた幾つかの完成した作品や、描きかけの作品を見たが、やはり居間に飾ってある滝の絵が私は好きだと言う。
「今度は暖かくなったらゆっくりといらっしゃい。取って置きの場所に案内しますよ。そしてもし恋人でも出来たら、ぜひ紹介して欲しいな」
恭一は東京に帰ると言う陽子が、愛子の良い部分を全て受け継いだと思えて嬉しかった。
「陽子さん。もしメールアドレスを持っているなら、教えてくれるかな。時折メールを送って戴ければ嬉しいし、僕の方も季節の便りを届けさせて欲しいのだが」
「ぜひお願いします。そして母の事も」
こうして恭一と陽子は、愛子に知られたくない一つの秘密を持つ事となったのだ。


春一番が吹いた二月の末であった。久し振りに愛子からのメールが恭一に届いていた。
「その後お元気でしょうか?ホノルルに行った時に、一度そちらにお伺いしたいと言った事があるでしょう?ご都合はいかがですか?未だそちらは冬でしょうか?」
何時も愛子は突然にやって来る女だ、と恭一は思った。一応は恭一の都合も聞いてはくるが、やはりそれでも強引さと、勝手さが好きにはなれない。とは言っても陽子の話しからすれば、愛子も自らのこれからの運命を、否応無く背負っているはずであった。恭一は直ぐに返事のメールを出した。
「春にはまだ遠いのですが、この時期は人も少なく、富士山は一番綺麗に見える時期です。車で少し走れば露天の温泉も楽しめます。外に出る事も少なくなりました、何時でもどうぞ。但し半ばには息子の披露宴が新宿のホテルで行うとの事、東京まで出かけなければなりません」
メールを出した翌日に、愛子からの電話があった。
「恭ちゃんからのメール読みました。本当にいつでもいいの?」
「あぁ、俺は女を養って行けるほど稼げないから、何時も空き家状態の様なものさ。どうした?その後も元気でやっているの?」
「何とかね」
「何時こちらに来るつもりなんだ?」
「役所の仕事があるので週末になりそうなの」
「じゃ今週の土曜日か、構わないよ。新宿から河口湖駅行きのバスがあるはずだ、直通のバスがある、そのバスで来れば一番早いと思うよ。確か新宿が八時半頃の出発だ。終点で降りればいい。駅前で待っているから」
敢えて泊まるかどうかの野暮な質問もせず、恭一は友達からの電話の様に応対した。どちらでも構わないし、愛子でさえもそうした話などは、鼻っから興味も無いはずであった。それに泊まりたいと思う様な雰囲気が整って、初めて泊まるのが良いのかもしれない。

 だがそれにしても、と恭一は思う。ある日突然に何時までの命だと知らされたとしたら、人はどんな反応をするのだろうか。泣いても叫んでもその時間は決まっているのなら、残された時間を何よりも大切にするだろう。好きな人と会い、愛する者の温もりを確かめ、そうした人達の心の中に、自分の想いを残して行く努力をするに違いない。しかしそれは、好きな人や愛する者が居るのであればと言う仮定の話しである。
恭一にとっての愛子は、嫌いではないが愛する対象では無い女だった。その感覚は高校時代から変わる事は無かった。昔、初めて愛子と体の関係が有ってから暫く、一方的ではあるにしても、自分の女と云う感覚を持っていた。護ってやらなければと言う、ある種の雄としての感覚である。しかし愛子から「体をあげただけで気持まではあげていないわ」と、ハッキリと言われたことを思い出す。この女は体と心とが別々なのだと、その時にはっきりと知る事が出来た。だからそれからは何時も別々なのだと、割り切って付き合ってきたのだ。 
 京都の大学に通っていた頃、そう思いたくは無いのだが、或いはその言葉がきっかけになって、自分の新しい道を模索し東京の大学に入り直した。愛子は二つ年上だったサークルの、先輩だった男との恋に堕ちて結婚した、それが清水洋太郎であった。
恭一はそんな関係の二人を見つめているのが、多分耐えられなかったのかもしれないと思う。だから「本当は好きだったのだ」と言われれば、そうかもしれないとは思うのだが、遠い昔の事を今又思い起こしたとしても、それで何かが変わるとは思えなかった。

 週末の土曜日の朝、愛子から恭一に電話があった。今から新宿を出て、十時半頃には河口湖駅に着くと云う。迎えの催促であった。新宿からは二時間だが、この朝霧高原から河口湖駅までは一時間弱で着く。その時間を暖炉や達磨ストーブに入れる薪を割る事にした。
 季節が三月の声を聞いても、富士五湖は未だ冬の気配が色濃く残っている。それはこの住む場所が結構、標高の高い場所だからである。高速道路で大月から河口湖駅を目指しても、さほど標高を感じさせる事は無いのだが、甲府盆地の高速インターから富士五湖を目指すと、曲がりくねった山道を、これでもかと言うほど登りつめるからだ。
河口湖駅前は未だオフシーズンの為に、駅前の飲食店を兼ねた土産物屋が一軒開いている程度であった。恭一が車をその店の前に止めて直ぐ、新宿からの高速バスが数人の客を乗せ、ロータリーの向こうにある停留所に着いた。
ドアを開けて外に出ると、愛子が手を上げ恭一の車に向かって歩いて来た。
「おはようございます。やっぱりこちらは寒いわね」
「元気そうだね」
車の助手席に乗り込んできた愛子に、恭一は精一杯の笑顔を作り迎えた。
「真っ直ぐに俺の家に行くだろう?」
「ええ、のんびりしたいもの」
ゆっくりと車を発進させ、恭一は未だ行き交う車も少ない道を、富士宮方面に向けて走らせた。

「やっぱり大きな山よね」
助手席の窓から間近に見る冨士の頂を見ながら、愛子は感心した様に言った。
「富士山は見る位置でだいぶ趣が違うらしい、絵になるのは山中湖辺りの東側か、この河口湖が良いと言うね」
「夏はこの辺りも賑やかになるのでしょうね?」
 ホテルやペンションの看板を見つめながら、愛子は遠くを見る様に言った。
「あゝ、大変だよ。車で来る連中が多くて。それに道が何本も有る訳では無いから迂回出来ないんだ。山中湖辺りはサークル合宿の学生達が多くて、それを又当て込んで原宿レベルまで人が来るよ」
やがて車は両側に深い森を切り開いた、青木が原に続く道になる。
「何かこの辺りは怖そうな感じがするわね」
「元々は小鳥が多くていい場所だよ。あとひと月もあとに来てみれば分かるさ。くぬきやならの木が一斉に芽吹いて、人間の手は入れて欲しくない場所だ。少し先を右に折れると本栖湖に着く。ちょっと寄ってみようか」
愛子の返事を待つ事も無く、車はT字路を右に曲がり、湖畔に繋がる道を左に下りた。
「静かな湖なのね」
湖の岸辺に近い駐車場に車を止めると、恭一は車から降り岸辺に立った。土曜日だと言うのに、誰も尋ねては来ないほど静かである。
「湖の向こうの岸から見る富士山の風景は、昔の五千円札の裏に印刷されているって知っていたかい?」
 車を降りて後ろを歩いて来た愛子に向って、恭一は尋ねた。
「そう云えばってとこかしら、その程度ね」
愛子は余り感心も無さそうに答えた。恭一は黙って車に戻ると、ドアを開けて愛子に乗る様に促した。

 ほんの五分も走らずに、車は静岡県と山梨との県境の峠を過ぎた。峠と呼ぶほどの峠ではないが、江戸時代は
甲斐の国に繋がる道があった様だ。伊豆で採れたアワビなどの海産物を運ぶ道で、今でも山梨の名物として知られる煮アワビの貝は、この道を通って甲府に運ばれたと言う。
そこから又少し走ると朝霧高原と云う広い草原に出る。それまで見えなかった富士山が、裾野の端まで見る事が出来る場所で、太平洋からの暖かな空気が、この辺りで冷やされて霧となる所から名付けられたらしい。やがて信号を右に曲がると、左側には別荘地の入り口の標識が見えた。
 舗装された道から狭い山道を右に曲がり、車は丸太で建てられたログハウスの庭に止った。

「さぁ、着きましたよ」
「へぇ、ここに住んでいるの?熊が出てきそうな場所ね」
「あぁ出てくるよ。この間もそれで大騒ぎだった」
愛子は一瞬、恭一の顔を見つめた。そしてそれが冗談だと勝手に受け止めると、一気に饒舌になった。
「恭ちゃんって嫌な人ね、都会に住む女を脅して」
恭一は冗談とは言っていなかった。しかしそう受け止めたとしても、敢えて否定する程の事でも無いと思ったのだ。居間のストーブに薪を放り込むと、愛子は物珍しそうに言った。
「へえ、薪ストーブを使っているの?」
「おい、ここでも電気は通じているよ。場所柄エアコンは無いけどね。でもさ、薪には薪の暖かさがあるのだよ。それは泊まってみれば分かる事さ。都会の人には分からないだろうけどな」
はぐらかす様に恭一は愛子の返事を待った。
「私ね、今の古くなった家を売って、池袋のマンションに移るの。もう決めてしまったわ。四十三階建の三十五階、南西側の部屋よ。きっと富士山が良く見えるわ」
「へぇ、何時頃に移るの?」
「今年の秋かな、完成するのはね。去年のハワイに行く前に仮契約したの。勤め先の退職金もあてにしてはいるけど、結構今の家の土地もいい値段で売れたから」
「そこって護国寺の近くなのかい?」
「そうよ、だって私の故郷じゃない。結構他に移った人も多いけど、友だちも多いし。ほら高校三年の時に仲良くしていた吉田さん覚えている?今、結婚したから苗字が変わったけど、品川の方の御殿山のマンションに住んでいるのよ。この前に部屋を見学させて貰って、色々とアドバイスを受けたの」

愛子の話しを聞きながら、話しがかみ合わなくなっている事に、何故か苛立ちを恭一は覚えた。恐らく数千万の金を揃えて購入したマンションなのであろうが、一体誰の為に買い求めたのか、聞いてみたい衝動を恭一は抑えていた。
「ところでお昼は何をしようか?」
「私、余り食欲が無いけど」
「隣のゴルフ場に行こうか?軽いものでも食べようよ。ゴルフ場のレストランって行った事ないだろう?」
「会員でなければクラブハウスに入れてはくれないはずよ?」
「お隣だよ。支配人もシェフも知っている。大丈夫だ」
心配する愛子を尻目に、二人は車でほんの少し先にあるクラブハウスに向かった。駐車場に車を止め、受付のところで支配人を呼び出し、食事をしに来た事を告げた。
「どうぞ、窓際の席でゆっくりして行ってください」
愛想のいい支配人が、自ら食堂の席に案内をしてくれた。
「ねえ、どうして?」
「偶にお客の打ったゴルフボールが、家の方に飛んでくるのさ。滅多にはないのだが、どうも木に当たったボールが跳ね返ってくるらしいんだ」
愛子は呆れた様に、口に手をあてて笑っていた。木々の向こうの、緑の刈り込んだ芝の更に向こうには、未だたっぷりと雪の積もった富士山の頂が見える。近くの席でプレーを楽しむ男達が、食事をしながら廻って来たコースの事を、賑やかに話しているのが聞こえていた。

軽い食事を済ませて家に戻った恭一は、ハワイで買ってきた最後のコナコーヒーの封を切ると、ミルで豆を挽き始めた。
「やはりコナコーヒーの方が美味いね。無ければ諦めも付くけど、ゴルフ場のコーヒーは飲めなかったよ」
居間のソファーに座っていた愛子は、急に恭一に話し始めたのだ。
「ねぇ、今日此処に来たのは、実はお願いがあって来たの。娘の陽子の事なのだけど・・」
そう言いながら、愛子は娘の事を話し始めたのだ。
「あの子、二年前に卵巣癌で子宮も含めて全部を取った事は言ったわよね、その後はホルモン剤を飲みながら、順調に体調も戻っているみたいなの、それはそれでいいのだけれど、もう一つ心配な事があるの、あの子ね、子供の頃から喘息持ちなのよ。このところ酷いみたいで、会社も休んでいるの。私が引き取ればいいのだけれど、私は犬と一緒に暮らしているでしょう?犬の毛が又アレルギーでダメらしいの。それで相談なんだけど、もし恭ちゃんが許してくれるなら、娘を今年の秋まで預かってもらえないかと思って、新しいマンションに住むまでの期間なのだけど。ここなら空気もいいし、犬や猫も居ないし」
 愛子の話しは、恭一が予想していた愛子自身の事では無かった。寧ろ恭一は虚をつかれた感じがしたのだ。
「俺の方は構わないさ、恋人が居るわけでもないし女房も居ない。娘さえよければ何時だって構わないさ。ただ預かると云うよりも、二階の一部屋を貸すと云うかたちなら、お互いに抵抗ないと思うがどうだろう。電気代と水道代の半額を部屋代として貰う事にすれば」
「ありがとう、安心したわ。娘には私から話して、出来るだけ早く荷物を送る様に云っておくわ」
 恭一が簡単に引き受けてくれた事で、愛子はどこかほっとした気分になった。

「所で今夜は泊まって行くのかい?」
「ううん、帰るわ。恭ちゃんの愛した奥さんの、思い出が沢山詰まっている家ですもの」
「分かった、じゃ夕食だけでも食べてゆけよ、俺が料理を作るからさ」
「ありがとう、遠慮なく戴いてから帰るわ。で、何を食べさせてくれるのよ?」
 如何にも期待している様に、愛子は男の手料理の内容を恭一に聞いた。
「まあ、都会人だって余り食べられない姫鱒料理だ」
「姫鱒?どんな魚なの」
「何と表現したらいいのか、まぁ、愛子の様な魚だな」
「私の様な魚?それ美味しいって意味?」
「冷たい水でしか生きてゆけない魚でね、海から川を上って湖に来たのだが、今度は海に戻れなくなった紅鮭のことさ」
「その意味ってよく判らないけれど、どうぞ期待していますから」

恭一は昨日、その姫鱒を手に入れた。試し釣りで釣り上げた漁協の知り合いから、奪う様にやっと手に入れたものだ。四月の初めから本栖湖で解禁になる姫鱒釣りは、釣りの好きな者には知られた魚だが、北海道の阿寒湖や十和田湖・中禅寺湖などの、深い水深のある湖にしか育たない魚である。冷たい水を好む紅鮭が、産卵の為に川を遡上し、やがて海に戻れなくなって湖で一生を過ごした、淡水魚では最も美味しいと云われている。考え様によっては愛子も又、普通の生活に戻れなくなった姫鱒に似ていると思えたのだ。
早めの夕食はその姫鱒のムニエルである。白ワインを一杯だけグラスに注いだ。酒を飲む習慣が無くなった為なのか、ハワイで買い込んだスコッチも手付かずであった。もらい物の高そうな甲州産の葡萄酒が、いつの間にか料理酒になっていたのを、あわてて冷蔵庫で冷やして注いだのだ。
「お互いの健康の為に乾杯」
 二人は抱えている密かな秘密を隠したまま、まるで何事も無い様な顔をして白いワインを口に付けた。

 その月の半ばに恭一は、息子夫婦の披露宴で新宿のホテルに出かけた。他にこれと云って用事も無く、礼服のままで一日を過ごしてしまったが、花婿の父親と言うものは、随分と影の薄い存在だと思う。特に本人の友達や同僚などが主体の披露宴は、親などは挨拶の時に礼を述べる以外、どちらかと言えば邪魔な存在だとは思う。しかしこれで子供を育てる責任からは解放され、気持ち的には楽になったと言えるのも、子離れが済んだからなのかも知れないと思えたのだ。
四月も半ばになると雑木林の枝も芽吹いて、萌黄色と云う緑色にも至らないツヤのある黄緑の葉が枝先に広がる。愛子の娘である陽子が、三日前に少しの荷物を持ち、それはまるで燕が軒先を借りる様に、いきなり恭一の家の一部屋に自分の巣を作り始めていた。
喘息が益々酷くなり、思い切って勤め先の会社も辞めたと言う。療養の出来る病院を探していたのが、愛子の勧めでこの家に住み着く事となった。喘息は酷くなると息が出来ないほど苦しくなると言うが、子供の頃からその発作を抑えるための抗アレルギー薬を飲んでいる。それが為に今度は、慢性に近い喘息を持つ様になってしまったのだと言う。今は抗炎症薬を飲み続けているらしく、少しは良くなって来ているとは言うものの、昨夜も遅くに陽子の咳き込む辛そうな声を耳にしていた。
それでも宅急便で送られて来た服や布団を片付け、彼女は自分の好きなカーテンを買って、自分でそれを窓に取り付けていた。陽子に対して恭一は、食事以外は一切面倒を見ないと言ってあった。一つ屋根の下で暮らすにしても、一線だけは引いて置きたいと思ったのだ。


  [母の足跡]
「陽ちゃん。下に下りてこないか?」
恭一はジーパンの良く似合う陽子を、居間に下りて来るように言った。
「はぁい、今行きます」
一月の終わりに、母親が癌である事を恭一に知らせた陽子は、嘗ては自らも卵巣癌の手術を受け、今は又喘息の発作に時折苦しむ中で、恭一とは同じ屋根の下の住人となった。ダージリンの紅茶を入れながら、その後の話しを、ゆっくりと陽子から聞いてみたいと思っていた。
「以前に初めて陽ちゃんが来た後でね、愛子がここに尋ねて来たんだよ。君をここで住まわせたいって、その相談だった」
「知らなかったわ」
「三月の始め頃だから、もうひと月前の事になるかな」
「母はそんなこと何にも言っていなかったわ。ただ恭ちゃんの所だったら空気もいいし、へんな病院に入るよりもずっと安心していられるって言われて、それで私もお世話になる事に決めたの」
 陽子は紅茶の香りを愉しむかの様に、カップを手のひらで包むようにして口を付けた。
「あの時の愛子は、自分の病気の事など何も言わなかったな。ただ護国寺の方のマンションを買ったんだってね。高層マンションで、随分と高い場所の部屋みたいな事を言っていたが」
「去年の秋に決めた話しなの、それまで母は、私と二人で暮らそうと思っていたみたい。私も三田のマンションを売って、母と一緒に暮らすのもいいかなと思っていた矢先の、こんどの癌の話しだったの」
「お父さんは何と言っているの?」
「多分叔父様には理解出来ないと思うけど、父は私達には、殆ど感心は無い様よ。三田にマンションを買ってくれたのが、手切れ金みたいな気持でいるのかも知れないわ、短大を卒業した後は、自分の方からは何も連絡しはこないのですもの」
 やはり不可解な家庭だと恭一は思った。
「陽ちゃんはお母さんの子供の頃の話しを聞いた事ある?」
「私より叔父様の方が、母の昔の事は詳しくありません?」
まるでパンチを喰らったかの様に、恭一は陽子の答えに面食らった。確かにその通りだった。高校時代の三年間、同じクラスに居たのだから。娘に聞く方が可笑しかった。だが言われてみれば、恭一も愛子に対して、強い関心は持たなかったのかも知れなかった。
「お母さんは確か養女だったと思ったが違うかな?」
「えぇ、子供の頃に養女に貰われたのよ」
「高校生の時は岩城の姓だったから、愛子の苗字が変わったのは、もっとずっと小さい時だと思うけど」
「戸籍を見れば分かる事よね」
「これは僕の勝手な推測だけど、お母さんは子供の頃に、随分と苦労を強いられているのでは無いかなと思うんだ。もちろん誰もみんな苦労はしているのだが、その苦労を受け止められる人・深い傷になって何時までも残って苦しんでいる人。残っていないと思っていていても、その傷跡が後で現れては苦しむ人、人間は皆、その中のどれかに当てはまると思うんだ」

恭一は陽子に向かって、ゆっくりと分かり易く話しを聞かせたかった。
「陽ちゃんはフロイトと言う有名な精神分析医は知っているよね。その精神分析の入門書にはトラウマと呼ぶ心理的な、つまり心の傷の事が書いてある。その心理的な傷は表面から見えない心の傷で、強いて言えば鈍感な人間には分からない、むしろ繊細な心を持つ人にだけが罹る病気と云うか傷が残るそうだ。その傷の為に普通の人よりも強く恐れたり、自分を虐めてしまったりする事もある、まぁ非常に面倒な心の痛みとでも云うのだそうだ」
「その傷と母と、どんな関係があるのですか」
「昔、高校を卒業する頃に君のお母さん、つまり愛子が僕に言った事があるんだ」
「どんな事なのでしょうか?」
 恭一の返事を待ちきれないように、陽子の疑問の言葉が直ぐに追いかけて来た。
「正確には覚えていないんだが、『あんな畜生の親なんか死んでしまえばいい』って」
「でもそんな話しって若い頃は、誰でも一度は口にする事もあると思うのですけど、違いますか?」
陽子は、自分の母親をかばうかの様に言葉を挟んだ。
「確かにそうだ。だけどあの時の愛子の顔は、凄い憎しみを込めた顔だったな」
「どんな事があったのでしょう?」
「分からない。愛子は話さないと思うよ。彼女は凄く強い、そして固い心を持っている人だ。多分その為に僕は君のお母さんに近寄れなかった。彼女の心に触れる事が出来なかったんだと思う」
陽子は初めて聞く恭一の話に、暫くは黙ったまま沈んでいた。
「私、戸籍謄本を取って来て、母の昔を辿ってみたいと思うのだけど、叔父様、力を貸してもらえますか?」
「何故そんな事をする気になったの?」
「母の心の傷を理解したいからです。もし出来るなら母の命が消える前に、その傷を癒して上げたいと思うの。たとえそれが無理でも、何故そんなに昔の両親を憎んだのか、そして母の夢が、願いが何だったのか理解してあげたいと思うの」
「一つ間違うと、余計に傷を付けてしまう結果になると思うが、もう陽子さんも大人だ。娘の君に任せるよ」
恭一は母親と娘を繋ぐ絆と言う、細い糸の上に自分が居る様な気がしていた。

月に一度、昔から掛かっている大学病院の呼吸器科と、そして婦人科に通う陽子は、自分の住んでいたマンションの部屋に泊まり、次の日には病院と文京区の区役所に出かけた。呼吸器科では最近始めた吸入によるステロイド療法を行う為であり、アレルギーを引き起こすアルゲン除去の薬剤から、気管支の炎症を防ぐ吸引の抗炎症剤に変えたためである。婦人科は術後の経過観察で問診が中心であった。もちろん富士宮に移ってからも、花粉やダニ、そしてハウスダストなどには注意しているが、今の所は東京に居る時よりもだいぶ楽になった様だ。
午後には区役所にでかけて、戸籍謄本と戸籍の附票を取り寄せた。戸籍謄本は本人と家族の氏名や出生地などの他、婚姻している場合には婚姻届のあった日、親の戸籍から出て新たな戸籍を作った日などが記載されているもので、戸籍法と言う法律で決められたものである。そして戸籍に関連して戸籍の附票と言う、戸籍に記載されている者の現住所や、本籍地での住所の移転経歴が記載されている。
陽子はこの記載されている住所を尋ねて、母の遠い昔の足跡と共に、命の終りを前にした母の痛みを知りたいと思ったのだ。戸籍謄本は簡単に手に入れる事が出来た。しかし附票は平成四年以前のものは附票の改正を行っている為と、保存期限が過ぎたものは廃棄しているとして、意味の無いものになっていた。それでも清水洋太郎と結婚する以前の、母の幾つかの情報は陽子にとって始め見る内容であった。

籍本 清水愛子 文京区小日向四丁目九番地二十五号
父池田健太朗、母大石トメ長女、昭和二十五年七月十七日埼玉県北埼玉郡大利根町琴寄五十ニ番地で出生父池田健太郎届け出同月ニ十一日大利根町長受付同年七月二十三日送付入籍
母の氏を称する入籍親権を行う父池田健太郎母大石トメ届け出昭和三十四年二月十八日
埼玉県北埼玉郡大利根町琴寄五十ニ番地池田健太郎戸籍より入籍
 岩城悟の養子となる縁組養父及び縁組承諾者親権を行う父池田健太郎母大石トメ届出昭和三十五年六月十一日東京都足立区長受付同月十五日送付足立区栗原町四百四十ニ番地岩城悟戸籍に入籍につき除籍
清水洋太郎と婚姻届昭和四十八年四月三日届出受付東京都足立区栗原町四百四十ニ番地岩城悟戸籍より入籍
 
陽子からファックスで送られて来た母親である愛子の、戸籍謄本を恭一は見詰めていた。その戸籍を見ながら、少なくとも愛子の実の親は大石トメと池田健太郎であること、埼玉県北埼玉郡が愛子の生まれた場所であった事を知った。そして記載されている母親の氏で入籍とは、恐らく実の父親と母親は離婚し、母方に引き取られたものと思える。計算すれば愛子が未だ小学校三年か四年の時であった。そして翌年に東京の足立区に本籍のある、岩城悟と言う人の養女になった事が伺える。愛子の母親が再婚したのかも知れなかった。それは今の清水の前に、岩城の姓を名乗っていた事は娘の陽子も知っている事である。しかもその前の子供の頃は、池田の姓でもあった。つまり愛子は池田・大石・岩城・清水と四つの姓を名乗っていたのだ。大学を卒業して一年で今の夫、清水洋太郎と結婚していたから、皮肉な事に最も長い間を、その清水の苗字を名乗っていた事になる。
戸籍は籍の場所であって、必ずしもそこに暮らしていたとは限らない。しかし今は愛子の過去の手がかりは、この戸籍だけであった。陽子は恭一から聞いた戸籍の流れを知ると、母の生みの親である埼玉県の大利根町に出かけようと決めたのだ。

 翌日、三田のマンションを出た陽子は、地下鉄で浅草に向かった。東武線の浅草から栗橋まで行くつもりでいたのだ。地図では一番近い駅でもあり、とにかく母親が生まれた場所に立つ事、理解する事はそこから全てが始まると陽子には思えた。栗橋駅には昼少し前に着く事が出来たが、駅前からはタクシーで戸籍の住所を訪ねることにしたのだ。
 駅前の繁華街を過ぎて、車は直ぐに田園風景の中を走っていた。農家の北側には高く大きな木々が垣根の様に北風を防ぎ、遥か遠くまで田んぼが広がっていた。タクシーの運転手が、住所は多分この辺りだと思うのだがと、幾つかの農家が見える場所で止ってしまった。陽子は帰りの車を頼む為に、電話番号を書いた紙をもらい、自分の足で探す事にした。
近くの農家で池田健太郎と名乗る人物の息子や娘、親戚などの手がかりを得たいと思ったのだ。
「この近くで池田さんと呼ぶ家はご存知ありませんか?」
農家の庭先で、家から出て来た初老の老婆に声をかけた。昭和三十四年頃には居たはずの母の父親、つまり自分のおじいさんを探しているのだと伝えた。実際にはもう他界しているかもしれないと思ってもいた。
「さて、池田さんと言う人を捜しているのですか?池田健太郎さんですか?今隣の家に電話して聞いてあげますから少し待ってなさいよ」 
親切に電話までして捜してくれる、老婆の気持が嬉しかった。

 暫くして老婆が玄関に戻ってくると、陽子にその結果を伝えたのである。
「池田と云う家はこの辺りでは右隣の家の裏に一軒あるが、未だ四十過ぎの旦那だけだ。八十位の年寄りは居ないはずだがなぁ」
陽子は礼を述べながらその家を捜し訪ねてみたいと思った。ものの五分も歩くと、老婆の言っていた農家は直ぐに判った。
「御免下さい。池田さんのお宅はこちらでしょうか?」
と大きな声を出してはみたものの、何の返事も聞こえてはこなかった。陽子は時間を変えてもう一度訪ねるつもりで、南側の大きな農家を訪ねて聞いてみる事にした。
「ごめん下さい。裏の池田さんのお家を訪ねて来たものなのですが」
五十代と思われる女が、陽子の訪問に怪訝な顔をしながら出てきた。
「池田さんの家を訪ねてきたのですが」
「どんな用事なのかな?」
「池田健太郎さんと言う、多分年齢はもう八十代の男の方を捜しているのですが、本籍地の住所がこのあたりだと、タクシーの運転手さんに聞きまして」
「私は嫁いで来た者だから、古い事は分からないんです。でも、うちの人が役場に勤めているので、役場の方に行って聞かれたら、早く分かると思うけど。行ってみます?行くのなら電話で話しをしておいてあげるけど、それに裏の池田さんは今の時間じゃ畑に居ていると思いますから、暗くならないと帰ってこないですよ」
「それじゃ早速役場に行ってみます。どちらに訪ねたらいいでしょうか?」
「商工課と言うところに小林と言うものがおりますから、聞いてみて下さい。電話して置きますから」

陽子は携帯で来る時に乗ってきたタクシーを呼ぶと、町役場に行く事にした。五分ほどでタクシーが迎えに来たが、町役場だと聞くと『じゃあ話が終わるまで役場で待っています』と、勝手に運転手が決めてしまった。
役場に着くと受付にも話しが通じているのか、商工課の小林さんと言っただけで応接室に通してくれた。先ほど会った女性の主人らしき小林と名乗る初老の男が、話しを聞いてくれる事になった。
「その池田健太郎さんって方はご存命なのでしょうか?」
「もう十年ほど前に亡くなっていますよ。今は養子にもらった息子さんが後を継いでいますが、ただ、個人情報保護法ってやつで、余り詳しくは御話できませんが、で健太郎さんは貴女の何にあたるのですか?」
 少しの疑問を感じるのか、来客の陽子に向かって暗に身分を明かす様に求めた。
「実のおじいさんになると思いますから、個人情報保護法は関係ないと思います」
陽子は文京区役所で取った母の戸籍謄本を見せ、併せて自分の免許証を見せた。
「そう言う事なら、まぁ出来るだけ詳しく御話しますが、ただ私も親に聞いた話だったり、子供の頃の記憶の話ですから、正直、正確かどうか分かりません、それを含んで聞いていただければと思います。
あれは五十年近くもなりますか、池田さんは奥さんと離婚されたはずです。その時に女の子がいましてね、女の子の親権問題では、だいぶ大騒ぎになっていましたから覚えています。たしか私が六年生だった時に、その女の子は二年生か三年生だったかな。一緒に学校に登校したのですから。で、結局私が中学に入学する頃に、その子はお母さんに引き取られたらしいのですが、東京の親戚の養女になったと聞きました。
だから池田健太郎さんは戸籍上、他人になったはずです。子供心に裏の池田の親父は怖かったのを覚えていますよ。酒を飲むと人が変わるとは、多分あの人の事をさすのかも知れません。すみません、分かっているのはこの位です。養子の息子さんに会いますか?」
「いいえ、ただ母の命があと幾らも残っていないものですから、本当の父親が生きていたなら知らせてやりたいと思いました。これで十分です。有難う御座いました」
陽子は済まなさそうに小林に向かって礼を述べて役場を出た。
送ってくれたタクシーは、暇そうに役場の入り口で待っていた。
「すみません、又駅までお願いします」
「早く済んでよかった。今度は栗橋の駅までですか?この時間は特に暇でね、まぁこの時間は駅に戻ってもお客はいないし、こちらも助かりますよ」
陽子はそんな運転手の言葉にも返事を忘れて、母の子供時代の話しを聞いた事を思い出していた。此処まで来てよかったと思えた。そしてもう一人、岩城悟と言う男に出来れば会いたいと思う。その男を捜す為に、陽子は栗橋から西新井までの切符を買い求めた。

 東武線の西新井駅は、西新井大師に向かう為の一駅区間の線路がある駅である。毎月二十一日には弘法大師の縁日で、参詣者で賑わうと言う事がネットからの調べで分かってはいた。その西新井大師にも近い栗原町は、何処と云って特徴の無いありふれた下町である。
駅前からタクシーの運転手に住所を聞いても何丁目なのかと聞かれ、戸籍の住所がかなり昔の表示である事に初めて気が付いた。区画整理などで番地が変わり、町名だけが残っている状態である事が初めて理解した。昭和三十五年の今から四十五年も前の事だが、誰かは当時の事を知っているに違いなかった。陽子はやむなく駅前の不動産屋を訪ね、大まかな場所を聞こうと思い立ち、駅前の古い不動産屋に足を踏み入れた。
「すみません、場所を伺いたいのですが?」
応対に出て来た中年の男に、陽子は声をかけた。
「昭和三十五年当時の古い話しなのですが、栗原町の四四ニ番地が何処かご存知ないでしょうか?」
「古い時代の話ですね、今親父を呼んできますから少し待ってください」

そう云うとその男は奥に引っ込み、少しすると父親らしい老人を連れて戻って来た。
「今はね、栗原は町とは言わないんだよ。それに、番地の事だが簡単な事だ。四百四十ニの頭の数字が丁目を指すんだよ。次の四十の四が番地の四、そしてニは二号の意味だ。つまりあんたの捜している今の番地は四丁目四番地ニ号と言う事だ。ここからならタクシーでも十分で行ける場所だよ」
陽子は簡単に番地が変えられた事への可笑しさと、場所が分かった事で何処か力が抜けた気分になった。既に外は夕暮れが近づいていた。タクシーの運転手が車のナビで調べ、その場所に向かってもらった。その昔母親を養女に迎えた岩城悟とは、一体どんな男でどんな関係だったのか、それを批判するつもりは無いし、その立場でもないのだが、その事を無くしては何も理解できない気がしていた。

だが向かったその場所には、自分の予想に反して岩城の苗字が付く家は無かった。岩城悟に養女として迎えられたそれは、寧ろ母が高校時代に住んでいた場所に鍵があるのかも知れないとも思える。陽子は恭一に電話で聞いてみたいと携帯を開いた。
「もしもし、私です陽子。今宜しいですか?」
「はい、どうした?」
「叔父さまは高校時代の母の住んでいた場所を知っていますか?」
「ああ、ただだいぶ前の事だから変わってしまったかもしれないな、それに番地などの住所は分からない、その場所に行けば分かると思うが」
「そうですか。実は母が養女として入籍した岩城悟と言う人を捜しているのです。本籍地の足立区にはいなくって。母と一緒に暮らしていたはずですから、その男性も文京区に住んでいたはずだと思ったのです」
「住まいは小石川近くの小日向と言う町のはずだ。近くにはお寺も有った筈だが、名前はもう忘れたよ・・、よし、東京に出かけて陽ちゃんと一緒に探すのを手伝うか?」
「ほんとですか?とても助かります。出来たら私の三田の部屋に泊まって下さい。私もこれから三田に帰りますから」
「じゃ車で出かける事にするよ、多分東京に着くのは九時ぐらいかな」
「部屋は慶応大学の南側で、その通りに面したマンションです。近くに来られたら携帯にお電話下さいますか?」
「分かった。じゃその時に」

 車で富士宮から東京に出る場合でも、山梨の県境近くなると中央高速の河口湖インターからの方が近い。冬の時期は標高の高い冨士山の北側は、スタッドレスが無ければ走れない道でもある。だが春の連休を前にしたこの時分は、桜の花もやっと咲き終わり、若葉が一斉に芽吹く行楽の季節でもあった。
 恭一は中央高速から首都高を右回りに芝公園の出口で降り、道路の隅に車を止めた。陽子に電話する為である。しかし陽子の携帯は留守録音となっていた。
「今、芝公園です。慶応大学前に着いたらもう一度電話します」
恭一はその留守番録音に声を入れて、慶応大学の南側にある正門前まで車を走らせた。港区のこの辺りも、いつの間にか昔の面影は何処にもなかった。いつの間にか高い高層ビルが立ち並び、仕事場も住まいも上に向かって空間を切り売りされているのだと思える。

大学正門の向かい側に車を止めていると、陽子からの電話であった。
「すみません、シャワーを浴びていたものですから、もう着いたのですか?」
「ええ、それで今、大学の正門前の通りの向い側になます」
「すみません。そこから少し先に行くと左側にコンビニがあります。見えますか?」
 と、陽子は恭一の返事を待った。
「見えます」
「そのひとつ先のマンションです。コンビニのすぐ隣になりますが、地下に入る駐車場の入り口があります。そこを入って戴いて地下二階の1508の場所に車を止めてください。そしてエレベータのところに扉があります。1508を打っていただければ開錠しますので十五階まで上がって来ていただけますか?八号室が私の部屋ですから」 
言われた通りに恭一は、陽子の部屋の前にたどり着くとインターホンを押した。髪を後ろに束ねた陽子が顔を出した。髪を後ろで束ねていた。
「すみません、わざわざ来ていただいて、どうぞお入りください」
必要な場所だけスタンドで明るくした洋子の部屋は、全体を間接照明にした今風の部屋である。居間の窓から薄いレースのカーテン越しに、東京の街の灯りが見えていた。

「陽ちゃんは凄い場所に住んでいるんだね」
感心した様に恭一は、窓に顔を近づけて呟いた。現代的な色やデザインに統一されていた部屋で、陽子のセンスを伺い知ることが出来る。しかも窓の外に目をやると、ビルの谷間の向こうにはレインボーブリッジの灯りも目に入ってくる。人間が造った風景ではあるのだが、高い場所からの灯りに彩られた夜景は、その下に沢山の暮らしや営みがあると思うと何かしら美しく見えてくる。
「前は職場が近かったので通勤時間が節約できたのですけど、やはり東京は空気が悪くて、長く暮らしてゆく様な場所では無い様です。緑が殆んど無くて車の排気ガスが臭うし、夏なんか一日中エアコンに頼り放ちなの、とにかくコーヒーをいれますわ」
十二畳ほどのリビングを兼ねた居間の他に、寝室と使っていない部屋が一つの、2LDKの間取りであると言う。女性らしく部屋は綺麗に片付けてある。勤めながら住んでいた頃は、観葉植物を沢山育てていたのだと言った。しかし窓を開ければ賑やかな都会の騒音が、否応無しに耳に飛び込んでくる筈である。東京にはもう戻れないだろうな、と恭一には思えた。
陽子がコーヒーを入れたカップを恭一の前に置くと、食事の用意をしていたと言う。
「食事は未だでしょう?簡単ですけと少し作って置きました」
恭一は陽子の東京での暮らしが、それ程に賑やかなもので無い事を感じていた。部屋は確かにしゃれた家具が置かれて、年齢にあった落ち着きがある。しかし恋人の写真も無く、部屋を飾る趣味のものなど、余りにも少ない様にも思えた。台所に立つ陽子の後姿を見つめながら、病気を重ねて毎日を過ごして、そうした余裕など無いと言われそうである。
「ほんとに少ないのですが、御口に合うか心配ですけと私が作りました、召し上がってください」
陽子はテーブルに鍋からロールキャベツを皿に盛り付けると、恭一と向かい合う様に夕餉を並べていた。出された食事を口に運びながら、恭一は愛子についての事より陽子自身の事を知りたいと思えた。子供の頃からの喘息、そして卵巣癌による子宮の摘出は、大きな負担となって陽子の心に残っているのだろうと思える。それは愛子のそれよりも、もっと深い傷なのかも知れないと恭一には思えるのだ。

「今日埼玉県の栗橋に行ってきました。母の生まれた場所です」
陽子は突然に、今日出かけた先の話しを恭一に話かけてきた。
「どんな所でした?」
「何処までも田んぼが続く田舎でした。そこで母の子供の頃に一緒に小学校に行ったと言う人とお逢いしました。小学校三年か四年生の頃に両親が離婚したようです。そこは父方の田舎ですから、祖母につれられた母は多分、岩城悟と言う人の養女になったと思われます」
 そこまで話すと陽子は軽くため息をついた。
「叔父さまは母の住んでいた場所は、近くに行けば分かるとおっしゃったけど、四十年余りも前の事ですし、だいぶ変わったと思います。出来ればその岩城悟と言う方の家に行ってお逢いできればと思います」
「確かに陽ちゃんがお母さんの事を理解したいなら、方法は別にしてもお母さんの過去について知らなければならないと思うよ。だけど余り期待しないほうがいい。もう昔の事だ。その方も生きているとは限らないし、ま、明日はとにかく二人で探してみよう。それからだ」
陽子は恭一の顔を見て、大きく頷いた。

翌日は土曜日である。二人は車でそのまま富士宮に帰る支度をして出たのだが、週末の東京は車も少なく、何時もこの位ならば東京も悪くないと恭一には思える。車は首都高の飯田橋を降りて高速道路の下の道を、交差点を右折し、音羽通りを池袋方面に向かって走りながら、コインパーキングを探しながら走った。目白坂下のパーキングに車を入れ、四十年も前の記憶を頼りに、愛子の住んでいた家を捜したいと来たのだが、音羽通りの両側にはビルが壁の様に立ち並び、昔のおぼろげな記憶と頼りに歩いたのだが、面影は何一つとして残ってはいなかった。それでも小日向は小高い丘になっている為に、道の形はそれほど変わってはいなかった。音羽通りに面したビルの谷間の狭い路地から、うねる様に小日向の丘に登って行く細い坂道を前に、陽子と恭一は顔を見合わせて苦笑いするだけであった。恭一は先ず、お寺を捜す事から始め様と考えていた。寺なら四十年の時間も、さして変わってはいないと考えたのである。

小日向は坂道の多い街である。春日通と音羽通りに挟まれたこの小高い丘の様な一角は、茗荷坂・藤坂・荒木坂・鷺坂・大日坂など、閑静な住宅地と共に時代に取り残された空間が、江戸時代から続いている様にも思える。そしてこの辺りでも珍しく、幾つもの寺が集まっている場所であった。
ただ哀しい事に恭一の記憶の中には、お寺の西側にある二階建ての家としか記憶になかった事であった。清光院・道栄寺・伝明寺・徳雲寺・深光寺、四十年前の記憶は記憶の中に閉ざされてしまった様でもある。昼前から歩き始め、蕎麦屋で昼の食事を摂ったものの、捜し始めてすでに四時間近くが過ぎていた。その時である、高校時代の同じクラスメートに、実家が酒屋をやっている友だちが居た事を恭一は思い出した。三浦屋酒店、そう三浦に聞いてみようと思いついた。あいつなら場所は知っているはずであった。お茶の水女子大学の近くで、未だ店を開いていれば跡取りのはずであった。

三浦酒店は予想通り息子の三浦哲司が跡を継いで、電話帳を広げれば大塚駅近くに支店を持つほど頑張っているのが分かった。用件を連絡してから陽子と恭一は哲司に会う事にした。
「おい恭すけ、久し振りだな。元気そうで何よりだよ」
三浦哲司の何処か懐かしい笑顔が、四十年ぶりにそこにあった。恭すけと呼ばれた名前も高校生の頃に付けられたあだなで、『恭一のすけべ』と女の同級生から大声を出された時から、いつの間にか縮められて言われるようなった。
「それはこっちの台詞だよ、こちら愛子の娘だ、陽子さんと言う」
恭一は改めて陽子を紹介した。
「すみませんお仕事中に突然お伺いして」
陽子は済まなさそうに、哲司に詫びの挨拶をした。
「で、愛子がやばいのか?」
「あぁ、それで娘さんがお母さんの昔の事を知りたいのだそうだ。ほら高校時代に愛子はいつも少し突っ張っていただろう?愛子が養女だった事は知っているのだが、詳しい経緯はしらなかったんだ」
「うちは酒屋だから愛子の家もお客様だぜ、だからある程度の事は、こちらが知りたくなくても耳に入ってくるものさ、ま、娘さんだから言うけれど、愛子のお母さんが岩城さんの家に入ったのは、先妻さんがなくなったからでもあるんだよな。埼玉で愛子の親父さんが酒飲みで、いつもお袋さんは泣かされていたって言うもの、何か凄い暴力を振るうって云う話しを聞いた事があったよ。それでお袋さんが旦那と離婚してさ、愛子を連れて岩城さんとこへ、謂わばお手伝いに入ったと云う話しだったと思うけどな」
「結婚したんじゃなかったのか?」
恭一は哲司に聞き返した。
「岩城さんとこは結構大きな家だぜ、それはなかったと思うよ」
「でも愛子は岩城を名乗っていたぞ」
「あぁ、愛子のお袋さんに岩城の旦那が手をつけたんだよ。言い方は悪かったらご免。奥さんに先立たれて岩城の旦那も寂しかったのかも知れないが、要するにそれで愛子は岩城の家で養女に引き取る事になったんだ」
「今、岩城の家はどうなっている?」
「親父さんは死んで先妻の息子さんが継いでいるが、土地を切り売りしているみたいで、どうかな」
ある程度の予想は恭一も考えていたが、大方は予想通りであった。しかしだからと云って愛子の心の闇を知る事は出来なかった。
「たまには寄ってくれよ。こっちに来たときでもさ、一度何人か集めて飲みたいね」
三浦の声が妙に懐かしいと恭一は思えた。
「又連絡するよ。今日は突然で申し訳ない。そしてありがとう。助かったぜ」
「ありがとうございました」
恭一と陽子は三浦に礼を言いながら、途切れた糸を手繰る様に車に乗り込んだ。陽子は母親の過去を垣間見ただけではあったが、穏やかな生活を過ごしたとは思えなかった。母親が(あんな奴、死んでしまえばいい)と憎しみを込めた理由は未だ判らないのである。

「このまま富士宮に戻るよ」
恭一は陽子が黙ったまま頷くのを見たあと、護国寺の入り口から高速に乗り河口湖へと向かった。新宿を過ぎた頃から高速道路もスピードを上げる事が出来た。いずれ一度は愛子に会う事が必要だと恭一は思い始めていた。娘には云えない事であったとしても、自分には話してくれるかもしれないと思えるのである。
調布を過ぎた頃に、恭一は黙っていた陽子に向かって声をかけた。
「陽ちゃん、俺ね、もう一度愛子に逢おうと思っている。そして陽ちゃんの知りたい事を聞いてみようかと思っている。娘の陽ちゃんには云えない事でも、俺には話してくれるかも知れないからね」
「みすません。娘の私がこれまで母親の事を何も知らなかったなんて、本当に恥ずかしいと思います」
「そんな風に思わない方がいいよ。親から言わせれば、子供に知らせたくない事だって沢山あるんだ。知って貰っていい事なら話してくれるはずだよ。親子って、そんな関係だと思うよ」
「叔父さま、ありがとう」
陽子は軽く指で目に触れて、泣いている事を隠そうとした。西に傾いた夕日が車の正面からまぶしい光を突き刺して来る。恭一はサンバイザーを降ろした。


[本栖湖の夏]
 五月の連休も終り、近くにあるテニスコートからは、いつの間にかボールを打つ音も聞こえなくなっていた。富士山の近くにいながら富士山を描かないのですかと陽子に言われ、恭一は連休前からそのデッサンを始めたばかりであった。これと云って目的は無かった。ただ沢山の画家が立ち向かい、様々な絵が描かれた山であり、恐らくこれほどに絵のモチーフになった山は他に無いだろうと思える。それだけに誰かの絵に似ているとか、何処かで見た絵とそっくりなんて云われたくはなかった。
 遠くで見る富士山は稜線の美しさや単独で佇む安定感が、そのバランスの全てでもある。しかしこの山に登り
或いは山の懐から見つめると、もっと別の山の顔が見えてくる。望遠レンズで覗けば大沢崩れの恐ろしさは全く違う富士山の一面を物語ってもいる。それだけに時折林道を歩いては、その大沢崩れを見に行く事が多くなっていた。

 陽子が母親の過去を調べて、歩き回ってからは穏やかに毎日を過ごしていた。喘息の咳き込む声も少なくなり、恭一の使っていた古い絵の具を使い、絵手紙を書いて作品として貯めている。特に季節ごとに咲く花や果物をスケッチしては、絵の具を載せて自分の味をハガキに書いて貯めている様である。時たま出かける市内の古本屋で、様々なジャンルの小説を買いあさり、市立図書館にも通い始めて、まるで本のページを食べている様に読書家になっていた。
 その日、恭一は愛子へメールを送った。
「梅雨までの僅かな春の日差しの中で、陽ちゃんの体もだいぶ良くなって来ているみたいだ。そちらは元気に過ごしているかい?一度又こちらに遊びにこられたら嬉しいし、大変ならこちらから出かけようかとも思っています。別段いそいでいる訳ではないのですが、夏になるとこちらは道も混むし、まあ避暑にでも来てくれれば嬉しいけれどね」
三日ほどして愛子からのメールが届いた。

「娘が少しずつ良くなっているとの事、安心しています。私の方は連休に女友達と北海道に行って来ました。犬が二匹もいるから長くは家も開けられないのだけれど、来週も日帰りバスツアーで美味しいものを食べにでかけます。そうねえ、そちらへ行くのは考えておきます。娘を宜しく」
 恭一からみれば、愛子もそうなのだが陽子も、不思議と普通の暖かな家庭を知らない様である。いつどこで暖かな家庭の味を失ったのか、恭一にはその訳を知る術もない。親から子へとそれは引き継がれ、好き嫌いの激しい親に育てられた子供の様に、何かの栄養が欠けたり少なくなったりして、随分と後になってその障害が起きるのに似ていた。
 陽子にしても両親の腕に抱きしめられ、親子の絆が育まれる様な環境では育っていない事は理解できる。親子であっても他人の様にサバサバとした関係は、一体どこから来るのか理解出来ない事でもあった。
その事で恭一は陽子に一度、どうして母親のところには行かないのかと聞いた事があった。陽子の答えは「母の家は犬が居るから、喘息の自分は直ぐに酷くなるの」だと言う。それなら何故母親は犬を飼うのか?愛子の答えは簡単だった。毎日犬は自分の帰りを待っていてくれるわ。娘は待っていてもくれないでしょう?確かそんな答えであった。

陽子の特に喘息の持病と卵巣癌による子宮を含めた摘出は、体以上に心に大きな傷を負っているはずであった。これまで二ヶ月ほどの暮らしでも、陽子は同世代の女達とは違って、全くと言う程に外に出る機会は少なくなっていた。恐らくは東京でも同じであった様に思う。だから恭一は特売の火曜日は、市内のスーパーに一緒に買出しに出る事にした。そして恭一は出来るだけ週末を陽子と外に出かける事を心がける様にした。
時折、富士宮の市内から足を伸ばして、静岡や甲府の県立美術館に出かけることもある。焼津まで魚を買いにも出かけた。桃の花が咲き始めた頃には、甲府盆地に降りて丘の上の温泉にも出かけた。映画も月に一度は見に行き、今は古本屋に出かけて安い本を買い漁り、毎日の僅かな時間でも本を広げる時間が生まれていた。少し離れた雑木林の枝にリンゴやみかんの切れ端を刺して、望遠鏡を買い込んで二階のテラスからバードウオッチングをし、夜になれば月を覗き、星座を見つめる。そうしてあれこれと楽しみが増え始め、陽子の顔が随分と明るくなったと思えた。
やがて燕の様に秋が来れば飛び去ってしまうのかも知れない。だから愛子を愛する事が出来なかった分、せめて陽子には、幸せな人生を過ごさせてやりたいと恭一は思っていた。

 庭の隅には赤紫の紫陽花の花が咲き、梅雨の季節に入った少し肌寒い早朝の事であった。陽子が貧血を訴え、医者につれて行って欲しいと恭一を起こした。急いで陽子を車に乗せて、救急医療センターに陽子を運びこんだ。一瞬ではあるにしても恭一の脳裏には、何かとんでもない事態になるのかも知れないと言う不安が走った。
 そして救急外来での診察を受けた陽子を待つ間、その結果を愛子に伝えるべきかどうかを恭一は悩んでいた。交通事故でも無いし心臓発作でも無くのだから、逐一知らせる必要は無いのだが、とにかく診断がはっきりしてからそれによって考えようと心に決めた。
 検査は午前中一杯かかったが、精密検査を行う為にその日と翌日の二日間の入院が決められた。東京のこれまで通っていた病院からの病歴や、関係するデーターを取り寄せる事となった。
 翌日の夕方に陽子は退院した。直ぐに病名が分かるほど簡単でもなさそうで、検査の結果を待って連絡してくれる事となったが、医者からの月並みな患者への要望として、当分は安静にしている様にと指示があった。普通の健康な患者ならある程度の予測も付くのかも知れない、しかし二年前に子宮癌で全摘出手術をしたとなれば、医者の方も結論には慎重になるのかも知れなかった。
「叔父さま、すみません」
陽子はこれから負担をかけざるを得ない恭一に、すまなさそうに詫びを言った。
「そんな風に思わないで欲しいな。もし反対の立場なら、僕が陽ちゃんにそんな言い方をしなきゃならない、そんな立場になっていたはずだからね」
病院からの帰り道である。車の中で恭一は陽子の為に何が出来るのか考えていた。これまでは食事は分担して作っていたし、洗濯などは夫々が勝手にしていた。それが約束でもあった。しかしこれからはそんな事も言っていられない状況になった事は確かだった。
「叔父様にご飯を作って戴く事になりそうで、面倒をかけて申し訳ないと思っています」
「僕は平気だよ。一つ屋根の下で暮らしている者の、当然の事だと思っているから。ただ陽ちゃんがそうして色々と気持を痛めているのは分かるけれど、今は素直にただ甘えてほしいな。陽ちゃんの欠点は甘えない事だ。まあ甘やかせてくれる相手や、そんな場所がなかったのだから無理はないけど、陽ちゃんのお母さん見てご覧よ、本当に陽ちゃんのお母さんの血を受け継いでいるの?って、思う時があるよ」
「そう言ってくれると、とても気持が楽になります」
陽子は助手席で下を向きながら、済まなさそうに返事をした。
「実は今度の陽ちゃんの入院の事を、愛子に連絡しようかどうかと悩んでいたんだ」
「ごめんなさい」
「おい陽ちゃん、今の場合は謝る話ではないぞ」
「すみません」
「その返事は正しい使い方だ。で愛子に連絡するのは止めた。その判断は陽ちゃんがしなさい」
「はい、そうします」
「ただ、僕に迷惑がかかるからなんて考えるのなら、もう二度と家には入れてやらないからね」
「はい」
「病人になると、人は随分と素直ななるものだ。たまには病人になるのもいい事かも知れないな」
恭一は陽子の何処か分からないのだが、この陽子の為になら何でもしてあげられる気がしていた。陽子との何ヶ月かの共同生活の中で、恭一の話しを素直に受け止め、そして感謝してくれる。愛子には決して持つ事が出来なかったある種の感情、それは何も求めずただ与えるだけの関係が、とにかく嬉しく感じる感情が少しずつではあるにしても、すでに生まれている様に恭一には思えるのだ。

恭一は信仰を持っている訳ではないが、信仰を持つ人に憧れを持つ事がある。それは信じる対象を持つ事で、人は確かに信じない者よりも強くなれるからだ。その信じるものが何であれ、そこには無償の関係が存在しているからでもある。言い換えれば無償であるからこそ、信仰だとも思うのである。だからこそ恭一は陽子に向かって来る苦痛や哀しみを、どんな犠牲を払っても取り除いてやろうとする気持ちが湧いて来るのである。
二人が家に戻る途中思い立った様に恭一は、湧き水で川魚を育てている養魚場を訪ねた。この春先に愛子が来た時に食べさせた姫鱒を買い求める為だ。今夜は陽子に自慢の手料理を、何としても食べさせてやりたいと恭一は思っていた。
女性は全般に魚を料理する事が苦手である。昔ほど魚を食べなくなった事と、既に魚の殆んどが、切身で売られているからだ。魚を下すと言う言葉が死語になり、女性達は魚に触れる事も出来なくなる日が、すぐ目の前に来ていると恭一は思っている。しかしその反面、魚の料理こそ男の料理だとも思える。幾つもの包丁が必要にもなるし、刺身などの生から切身の焼物や煮物など、大よそ味覚と言う視点から見ても、調理も又創造的な作業である事は間違いない。まして食べてくれる者から、美味しいと言ってくれる言葉と笑顔が返って来たら、それこそ至福の歓びだと思えるからだ。

今夜の食事は陽子がゲストである。最高の素材を使い、心を込めて味付けをする。静かな雰囲気のある音楽とワインを演出し、美しいバラの花は無いが、庭には紫陽花があった。
花言葉は確か浮気か移り気、しかし青い紫陽花は辛抱強い愛とも言う。安静にしろとは言われたが、医者は美味しいものを食べては駄目だとは言わなかった。陽子には退院祝いだと言ってやりたい。
恭一には陽子との時間が、ひと時の刹那的な愛子とのセックスよりも、どれ程豊な想いで溢れているのか、比較する事も意味の無い様に思えた。
『食事の支度が出来るまでは寝ていなさい』と陽子を部屋に押し込めると、恭一は目一杯に腕をふるった。勝沼のぶどう畑の真ん中で、フランス料理のレストランを開いているシェフからもらった帽子は、今こそ使うときだと思えて、洋服ダンスの引き出しから取り出しかぶってみた。絵描きが本業だが、結構シェフも似合うと鏡に映して自分を褒めてみた。
メニューは前菜が「山葵茎とサラダ菜などの野菜」スープは「パンプキンの温スープ」魚料理は「姫鱒の香草焼き」、これはバジルやローズマリーなどの香草を魚に下に敷き、或いは魚の身の中に入れるなどして、オリーブオイルを入れて蒸し焼きにするもので、特別のソースをかけて戴く料理である。口直しのデザートは抹茶のバニラアイスにした。少しのバニラアイスクリームを溶かして抹茶を混ぜ、凍ったバニラアイスの上にかけるだけ。男の料理は理屈ヌキなのである。花瓶には青い紫陽花を折って活けた。CDは久々にギターの音色をと、アルハンブラの思い出をチョイスした。
 
 人はあるとき急に、それまで考えた事も無い様な想いが浮かんで来る事がある。しかも一人でその頭の中に浮かんだその想いを、慌てて打ち消す事がある。誰に見られている訳でもないその想いは、常軌を逸していると言うだけで、許される訳は無いのだと自分に強く言い聞かせ、大抵は気持の中で大人しくさせるのが常である。
 恭一もそうだった。妻が死んでから六年の時間が過ぎ、縁のある人が居ればと時折は思う事もある。年齢さえ近ければそして愛子の娘でさえなければ、陽子は一緒に暮らして行くのに最も適した女性だと思える。しかし目の前に居るのは愛子の娘である。それに自分に娘がいるとすれば、陽子程のそんな年齢でもあった。
だからその想いが頭を持ち上げる時は、必ずと言って良いほどに自分の愚かさを思い、恭一は激しく否定するのだ。そしてこの想いだけは決して口には出してはならない様な、恐らくは抱いている夢が、粉々に砕けてしまう事を恐れているからでもあった。
「陽ちゃん。出来ましたよ。降りてきなさい」
何時もとは違う、しっかりと目的を持って陽子を呼んだ。考えてみれば恭一が作る料理には、普段はこれと云って特に気を使うことはなかった。その意味では心を込めた料理には程遠いと思う。これを機会に陽子と一緒に楽しみたい、そんな気分になって来たのだ。
「どうしたの?叔父さま」
「とにかく腕によりをかけた料理を作ったよ。まあ召し上がれ」
椅子を引いて陽子を座らせた。洋子は恭一の被った帽子をみながら、笑顔になっていた。
「どうよ、似合うでしょう」
「ほんとうね、フランス料理の三ツ星のシェフみたい。でも評価はお味を見てからですね」
「今日は陽ちゃんの退院祝いですので、少し豪華にさせてもらいました」
恭一は甲州産の白ワインを開け、陽子のグラスに少しだけ注いだ。そして温めたスープ皿を出して、かぼちゃと生クリームを合わせたスープを入れ、陽子の前に差し出した。
「叔父さま、結構いけますわ」
「ありがとう、作った甲斐があると言うものですよ」
恭一は楽しいと言う意味を、陽子との暮らしで少しずつ分かりかけて来たと思える。
「今日の昼間に近くの池で泳いでいた姫鱒の香草焼きです」
「初めて食べさせて戴きます。姫鱒って北海道の阿寒湖のあの姫鱒ですか?」
「そう、でも今は、この富士山の湧き水で育てているそうだ。大昔は阿寒湖から網走湖あたりまで、海と湖を繋ぐ川があったみたい。その川を紅鮭が産卵の為に遡上する。ところが地震などのがけ崩れで川がふさがれて湖となった。海に戻れなくなった紅鮭は、湖で暮らす様になった訳だ。それが姫鱒と云う魚なのですよ。冷たい水を好むので、冷たい水のある場所でなければ生きては行けない魚なのです」
何時だったか愛子にも、同じ様な説明をした事を思い出した。
「あぁ、ほんとに美味しいわ。イメージから淡水魚ではないみたい、味のしっかりした魚ですね、脂がとても甘いって感じ」
 賑やかな会話は楽しさが増してくる。その事を恭一はつくづくと思い知らされた。どちらかと言えば妻との食事も静かであった。それはそれでいいのだろうが、これ程楽しい食事の時間を妻に味合わせてあげられなかった事を、随分と長い年月が過ぎてから思うのは辛いものがあった。

 病院から陽子に連絡があったのは翌々日である。明日にでも来院して欲しいとの電話であった。
「叔父さま、一緒に行ってくださいますか」
陽子は何となく一人では心細い様であった。
「ああ構わないよ、でも陽ちゃんはやっぱり心配かい?」
「正直に言うと、そんなに心配していません。だってもう癌は友達みたいなもので、驚くこともなくなりました。ただ叔父さまに甘えただけです」
「こいつ、仕方の無い娘になったな」
恭一は何故か鼻歌が出る程に嬉しくて、気持ちが軽くなる様に思える。息子は既に所帯を持って暮らしているが、殆んど披露宴の時以来連絡は無かった。だが側に居て同じ屋根の下に住む陽子は、気心も知って来ると娘の様な感覚と共に、妻の様な懐かしさが湧き起こって来るのである。
 指定された時間の午後一時に医療センターの受付に行くと、担当医の居る外来に行くように云われた。勿論こんな時間には外来診療は終っている時間であった。
内科の看板がある受付で、看護師に来た旨を告げると早速に診察室に案内され、陽子の病名が告げられた。
「清水陽子さんの場合、術後すでに二年と前回の手術が問題で、今回の貧血が起きたとは考えにくいとの結論がでています。通常は子宮や卵巣を取り除いたとしても、三ヶ月程度でほぼ普通の生活が可能となります。一応はレントゲンなどの検査もしましたが、今のところ問題は発見されておりません。清水さんの貧血の原因を、過去の病歴にかみ合わせるのは難しいという結論になりました。他に症状はありませんか?」
「いいえ、大丈夫です」
 とりあえず、安心した様に陽子は返事をした。

「これは未だ推測ですが、今まで子宮のあった位置には腸が入り込んでいます。恐らくその違和感から貧血の症状に似た、眩暈の様な事を感じられたのかも知れません。これは現実にある事なのですが、足を切断した人が、自分の無くなった足の位置に物を落とされたりすると、幻覚として痛みを感じる事があります。ま、私達の検査では今の所、問題は無かったと言う事です。今後も手術した病院への通院の時には、担当医に御話して戴ければと思います。ただ、少し白血球の数が多いようですが、それも併せて御話されればと思いますが」
 一度だけの貧血では確かに手術が原因なのか、単に女性特有の事なのか精密検査でも問題がなかったのなら、寧ろホッとするべきなのかも知れなかった。
「叔父さま、ありがとうございました。少し心配していたけれど、もう少し様子を見てみようと思います」
陽子の笑顔が何よりの救いだと恭一には思えた。

 
恭一はやっと富士山を描く為のデッサンを終え、本格的な色塗りに取り組み始めていた。春の早い時期から富士山の西側斜面に出向き、大沢崩れと呼ぶ場所に幾度も通いはじめていた。富士河口湖からスバルラインと呼ばれる有料道路を登ると、五合目近くに奥庭駐車場がある。車をそこに停め頂上の方に向かって暫く徒歩で登ると、御中道と呼ぶ細い道が富士山の頂きの下を巻く様にほぼ水平な細い道が作られている。
その平らな道を右に向かって歩くと、やがて大沢崩れと呼ぶ深い谷にぶつかり道は途切れる。近くの見晴台に上れば頂上にある測候所の下からは、大きくえぐれた山肌が露出して、その谷を落石が幾度も岩肌にぶつかりながら遥か下の方に落ちてゆくのが見える。
 初めて見る者にとっては恐ろしいほどの、厳粛な富士の姿でもあった。数千年後に富士山は頂上付近から裂ける様に割れ目が走り、二つの山になるだろうとする学者の意見もあると言うが、遠くから見る美しい富士と、近で見る壮絶な富士の、そのどちらもが真実の姿なのである。

 それは何も富士と言う山だけの事では無く、人の世の全てがそうであろうと恭一には思える。だからこそ綺麗な部屋に飾られる絵では無く、見る者に強いインパクトを与える山の絵を描きたいと思っていた。恐らく日本人が知る富士山の絵と言えば、広重や北斎の描くデフォルメされた構図のものや、巨匠の横山大観あたりが描いた絵が知られてはいる。それだけにとても日本画には合わないモチーフだと思うのだが、自然の生きている力を表現したいと温めていた構想なのであった。
 あれから陽子は一度、東京の病院に出かける為と自分のマンションに戻り、夏服を幾つか取ってくると言い残して、母親の愛子と会う為に出かけていった。母親から病気の話しが無い限り、絶対に陽子の方からはその話しを出さないと決めていた。そして愛子は、病気の話しを陽子にも出す事は無かった様であった。

ゆうつになる様な梅雨が季節の中で、突然に晴れ間が覗いた日の朝である。恭一は青空をのぞきながら、ピクニックに出かけないかと陽子を誘った。
「叔父さま、ピクニックですか?」
 といきなりの恭一の誘いに、驚いた様に言った。
「陽ちゃんに、僕の取って置きの場所に案内しようと思ってね。一月の終わりに初めて此処に来た時に、確か約束したはずだよ。一度案内したいとね、その事を急に思い出した。お弁当をこしらえて出かけないか?」
「遠いのですか?」
「直ぐ近くだよ。チェアーデッキと望遠鏡を持って行こう。それから読みかけている本、そして聞きたいCDも」
「直ぐ支度しましすわ」
陽子は少しずつ楽しくなって来たのか、積極的に弁当の支度を始めていた。
「私、クッション持っていきます。いいでしょう?」
「どうするの?」
「草の上に寝そべって、草の匂いを嗅いでみたい。それから空を見つめて雲をみるの」
「いいね、凄く楽しくなりそうだ」
恭一は時間の過ごす一番贅沢な方法を、陽子に教えてやりたいと思っていた。

 車で凡そ二十分も走ると、富士五湖の最も西にある本栖湖に着く。この冬には愛子と車で寄ってはみたが、あの時は未だ寒かった為に直ぐに帰った事を恭一は思い出す。あれから半年が過ぎ、湖畔のキャンプ場近くにある岸辺の木立の下に、車から降ろした幾つかの荷物を並べて二人は腰を下ろした。近くでは小鳥達の鳴く声が賑やかに聞こえていた。
「何もしない贅沢とは、きっとこんな時間だと思うよ」
「空気が美味しいわ」
「ここは標高が八百メートル余りもある場所だ。湖の深さは百三十メーター。湧き水が湖底から湧いていて、この湖の水温が低いらしい、それにこの湖に注ぐ川は無いと聞いているよ」
少し風は湿ってはいたが、観光客も少ないこの時期は気ままにやりたい事が出来る。

二人は小さなシートを広げ、腰を下ろして空を見ていた。小さな雲がゆっくりと二人の上を流れて行くのが見える。
「一度聞こうと思っていたのだけれど、陽ちゃんは恋人居るの?」
「昔はいましたよ、でも癌の話しをしたら離れていっちゃった」
「そうか、むしろそんな男なら、却って良かったのかも知れない。ごめんね、他人事だからこんな無責任な事が言えるのかもしれないな」
「もういいのです。結婚も諦めました。でも人を好きになる気持だけは失いたく無いと思っています」
「そうだね。人を好きにならなければ、生きている意味なんか無いものね」
恭一は久し振りに、人の心と触れ合う会話が出来たと思える。
「僕は陽ちゃんのお母さんに対して、心から愛する事が出来なかったけれど、それでも何処か素敵な部分を持っている人だと思っている。きっと愛子が陽ちゃんの様な女性だったら、大学を卒業して結婚していたのは僕かも知れないと思う時があるんだよ」
「本当ですか、ありがとう御座います。私、嬉しいな」
「まぁ、陽ちゃんの親父みたいな年齢だから恋人にはなれないけれど、せいぜい沢山我侭を言いなさい」
「はい、我侭言わせてもらいます」

湖面には幾つかのボートが浮かんでいた、釣りの為のボートらしい。恭一は双眼鏡を出して、林の中の小枝の先で鳴く小鳥を追いかけていた。
「陽ちゃん、この鳥はなんて言う鳥か知っているかい?」
恭一は陽子に双眼鏡を渡しながら、その先を目標に向けて押さえながら言った。双眼鏡で見ると松の木も花も、全てが一枚の薄いガラスが重なって出来ている様に思えた。
「大きな松の向こうにある少し高い二本の木の右側。そのてっぺんに止って鳴いている鳥が見えるだろう。お腹が少し黄色で羽と尾はこげ茶色の、雀の二倍ぐらいの大きさの鳥だ。少し尻尾が燕に似ているやつ」
「見えます。でも鳥の名前までは分からないわ」
「いや分かるはずだよ。もう少しそのままで見ていると分かるはずだ」
少しの時間を置いて、その鳥は鳴きはじめた。
「トッキョキョカキョコ」
「あぁなんだ、ホトトギスと言うのは、こんな色の鳥だったのですね。私、目の周りが白くて、黄緑色の体の鳥とばかり思っていましたわ」  
「たぶんその勘違いしていた鳥は、メジロでは無いかな、それに鶯もだが、良く勘違いする人が多いからね」
独特の鳴き声は、見るよりも聴く方が知られている鳥である。姿やかたちで理解しようとすると、大方の人は雀かカラス程度しか理解しはいない。しかし鳴き声で理解する事が出来れば、もっと沢山の鳥を知る事が出来る。ホーホケキョは鶯だが、そうした声で啼くのは雄だけである。ホトトギスの鳴き声は特許許可局に例えられ、大きさも三十センチ程の大き目の地味な鳥である。

「江戸時代の其角(きかく)と言う俳人がね、『あの声で、トカゲ食うかや、ホトトギス』と云う句を詠んでいるのだが、ホトトギスからみればトカゲがご馳走なら、余計なお世話だと言うものだよね」
「面白いですわ」
「いや、もっと面白い事があるぞ。あのホトトギスは托卵といってね、実は鶯の巣で卵を産むそうだ。鶯の親鳥が留守している時を狙って産み落とすらしい、チャンスが少ないから苦労するらしいのだが、産んだ後は鶯に抱かせて卵を孵すのだって」
「その後はどうなるのですか?」
 と陽子はその話に興味を示した様で、恭一を見つめながら聞きかえした。
「知らん、そこまでは見た事が無いし、本で読んだだけだから」
「なんだ、その後が興味あるのに」
陽子は明るく笑っていた。
「鳥と直接の関係は無いのだが、動物の世界は人間も含めて、刷り込みと言う現象があるらしい。簡単に言えば思い込みと言う行動だ。良い意味でも悪い意味でも、その刷り込みに支配され、生き物はこの世界で生きて行く事が出来ると言われているね。例えば生まれた時に初めて見た動くものが親だと認識する鳥などには、目を開けた時にゼンマイし掛けの玩具を見せてやれば、玩具が自分の親だと認識するんだ。映画で見た事があるけど、親鳥の鴨が死んで孵化し他ばかりの幼鳥を、渡りの出来なくなる事を防ぐ為に、ハンググライダを親として子鴨に刷りこませ、一緒に飛び立つシーンを見たと思うよ。
 自然の世界では飛び立つまで育てて見守る愛情と、海亀みたいに卵を産み落とし、砂を掛けてしまうまでの愛情とがあるけど、生き残る為の生き物の知恵は逞しいと思うね。誰が自分の親だとか子だとかも大切だろうが、子供からみれば親なんかに頼らない、本当の親離れが出来ればもう大人だ。寧ろ子離れ出来ない親の方が、現実には多い筈だからね」
 少し説教臭くなってしまった事に気が付いたのか、恭一は話しを反らす様に陽子に言った。

「俺は少し横になってCDを聴くけど、陽ちゃんも好きな様にしなさい」
「もう一つヘッドフォンはありません?どんな曲を聴いているのか聴きたいな」
恭一は黙って耳に差し込む型をしたイヤフォンを取り出し、二股になったジャックを携帯のデッキに挿入した。つい少し前まで、陽子に僕はと言っていたのが、何時の間にか俺と言っている自分に恭一は驚いた。愛子には何時も俺と言っていたから、それだけ陽子とは、距離が近くなったのかもしれないと思えた。
「特別にヘッドフォンの方を貸してあげるから、大人しく聴いてなさい」
だが陽子は恭一の言葉を耳にする前に、すでにヘッドフォンを耳に当てていた。恭一が持って来たのは、大分前に買い求めたセリーヌ・ディオンの、何枚かのアルバムの中から、特に選んで一枚のCDに移したお気に入りの曲であった。
中でも「first time」と言う曲は、最も恭一が好きな曲の一つである。タイトルの意味は「最初に・・・した時は」と言う意味らしいのだが、歌詞の内容はともかく、恭一が詩人であれば、「緑色の風の中に、時がゆっくりと解けて行く」とでも表現しそうな、それはゆったりとした旋律であった。しかも透き通る様な歌を聴きながら過ごす事は、極めて贅沢な時間の使い方でもあった。湖畔近くの草原に体を横たえ、空に浮かぶ綿雲を目で追いかける事など、陽子が来てから出来る様になったのだ。
少し音楽にも飽きて来た時、陽子は起き上がって魔法瓶に入れたコーヒーをカップに入れた。
「叔父さま、コーヒーを入れました」
だが恭一は目を閉じ、静かに眠る様に音楽を聴いていた。陽子は恭一に飲まそうと思い、注いだコーヒーカップに口をつけて、何も入れない薄めのアメリカンを飲んで恭一の横顔を眺めていた。陽子の視線を感じたのか、恭一が目を開けて起き上がった時、陽子は飲みかけていたコーヒーカップを恭一に手渡した。
「コーヒーを入れました」
「あぁ、ありがとう」
恭一は陽子が飲んでいたコーヒーカップを受け取ると、黙ってそれを口にした。


  [愛子の告白]
 愛子からのメールが恭一に届いたのは、陽子と本栖湖に出かけた翌々日の事である。
「陽子から本栖湖に連れて行ってもらったと電話で聞いて、何か急にメールしたくなりました。来月で一つ年齢を重ね、私も恭ちゃんと同じ五十七歳になります。青葉の季節はそちらの場所柄から、いいだろうなと思いながら、でも陽子がお邪魔しているからなのか、出かける気力がありません。一度東京に来られませんか、来週半ばころなら、私の家にご招待します。と云ってもだいぶ古くなったあばら家ですが、どうぞ泊まって戴いてもかまいませんよ」
恭一は直ぐに返事を送った。
「東京に行く用事はこれと云って無いのですが、何となく会いたいと思っていたところです。来週の水曜日、夕方にでも新宿あたりで食事をしましょうか?」
メールのいい所は、見る時が知った時である。ポストを覗く様にそれがメールの約束事であり、過ぎていれば見て居ない事を批判される事は無い。新聞を読む事に似て、情報を遅れて受け取るだけの事であった。翌日の朝には愛子からのメールが届いていた。
「水曜日に新宿よね、南口の改札口で六時頃にお願いします。少し待たせるかも知れませんが、その時は携帯にTELを入れる事にします。それでは水曜に」

 富士宮の家から新宿までは、道が混んでなければ新幹線でも、車でも殆んど同じ時間で行く事が出来る。どちらにしようかと直前まで考えていたが、恭一は車で行く事にした。首都高の高井戸から新宿あたりまでは、夕方に少し混む程度だと考えていたからだ。それに天気予報でも雨が降りそうな気配でもあった。陽子には母親の愛子に会うのだと、ありのままを伝えておいた。敢えて陽子に嘘を付く理由は何処にも無かったからである。
 新宿副都心までの時間は予定していた通りに、さして混雑もなく五時には着く事が出来た。恭一は京王プラザホテルの駐車場に車を置き、ラウンジで時間を潰す事にした。三十分ほど過ごしてホテルの駐車場から出る時には、車のワイパーを動かす程の雨が降り出していた。待ち合わせは甲州街道に面した南口の改札である。少し早めに甲州街道に面した南口の停車スペースに車を停める事が出来た。しかし車から離れる事は出来そうにも無い。送り迎えの為のスペースであるのだが、警官が絶えずチェックしているのが分かった。

 六時を少し過ぎた頃、恭一の携帯に愛子から電話がかかって来た。
「何処にいるの?今改札口に着いたのよ」
携帯の向こうに、甘えた声で愛子の声が訴えていた。
「ごめん、車で来ている。改札口を出て少し陸橋を右に下りた所だ、車の所まで来てくれるかな?」
しばらくして愛子が傘を差して現れた。助手席のドアを開けると、半年ぶりの愛子の顔がそこにあった。
「ご無沙汰しました。元気そうね、陽子はおとなしくしているの?」
 傘をたたみながら、助手席に腰を下ろしてドアを閉めた。何処か僅かだが記憶のある香りが、微かに愛子を包んでいた。
「あぁ、いい子だね。あの子の母親が、本当に愛子だなんてとても信じられないよ」
恭一は素直に感想を言った。
「喜んでいいのか怒っていいのか、解らない御挨拶ね」
「で、何処で飯を食うんだ?」
「銀座のおすし屋さんよ、予約してあるわ。今日は私がご馳走してあげるわね」
愛子は既に予約の手配している事を恭一に継げた。
「それは有難いな。最近は東京も様変わりしてさ、昔はどんな所でも知ってはいたけど、今の東京に来たら田舎者の俺は、まるで浦島太郎だからね」

 街が急激に変わって行くのが良く分かるのは、知らない地下鉄やJRの路線が新たに出来上がり、酷く高く伸びた高層ビルやマンションが、突然と言って良いほどに出来上がっていた事である。
恭一はハザードランプからウインカーに切り替え、ハンドルを右に切りって、車の込み合う甲州街道を四谷から新宿通りを銀座に向かった。

「やっぱり東京で長く暮らした人だけあるわね。雨の降る夜に都心を運転するなんて、田舎の人には出来ないもの」
「ナビがあってもこればっかりは慣れなんだろうな、確かに田舎の人には難しい道だよ。走っている時の車間距離が全然違うもの、それに車線の選択は、ナビを当てにしていたら東京はだめだね」
 車は半蔵門からお堀に沿って、桜田門の前を日比谷方面に向かっていた。
「ねぇ、陽子からは時々電話をもらうのよ、喘息の方はだいぶ良くなったと聞いているわ、やっぱり空気が違うのかしら」
「おい、東京の空気と富士宮とを同じにしないで欲しいな、自慢じゃないが熊が出る場所だぞ」
「ちょっと待って、三月に富士宮に行った時、確か、その話しをしていたわよね」
「あぁ、たしかにした記憶があるな」
恭一は忘れかけた、数ヶ月前の事を呼び起こした。
「熊が出るって話し、あれは冗談だったのでしょぅ?」
 愛子は、まるで子供の様に恭一の返事に噛み付いた。
「冗談とは云わないぜ、愛子がそう思ったからあえて否定しなかっただけだ」
「じゃぁ、本当に出るの?」
「あぁ、出るよ。偶にだけれどね」
「あきれたわ、陽子共々、凄いところに住んでいる訳ね」
愛子は大きくため息を吐いた。
「で、銀座の何処に行くんだ?」
「新橋の方から廻り込んでくれます?この前に代官山のお友達と一緒に食事したのよ。海のお魚料理なのだけれど、けっこう美味しかったからもう一度行きたいなと思ったの」
「八丁目の方なのか?」
「銀座の日航ホテルの近くよ、地下一階にあるの、九州の何とか列島の魚を食べさせてくれるお店よ」
車を日航ホテルの駐車場に入れ、一つ傘の下に二人は肩を寄せ合いながら、歩いてその店に向かった。最近は東京の都心でも、この手の店が多くなったと聞いている。産地直送を売りものにしているが、台風の時期なんかどうやって送ってくるのだろうかと、恭一は少し心配になった。

店は小さな部屋に分けられ、接待やパーティー向けにはいいのかもしれないが、予約しなければならないのが面倒と言えば面倒である。小さな座敷に愛子と向かい合わせになり、恭一は盗み見るように愛子の体を見たが、それほど変わっているとも思えなかった。
「改めて、娘がお世話になってありがとうございます」
愛子は珍しく母親らしい礼を言った。
「そんな風に云われると、何か怖いよね」
その時、ビールと魚の刺身が運ばれてきた。
「おい、運転だから飲めないぞ」
「かたちだけよ、酒を飲んで運転する人の車になんか、誰が乗るものですか」
愛子は恭一のグラスに半分ほどのビールを注ぐと、瓶を恭一に手渡して自分でコップを取った。
二人はグラスを持ちあげ、四ヶ月振りの出逢いに乾杯した。
「この前に話したでしょう、富士山の見える高い場所に住むって話し」
愛子がコップ半分ほどのビールを、さも上手そうに飲んだ。
「あぁ、何となく聞いたかな」
「もう八割がたは出来ているのよ。後は内装工事ってとこなのかな」
「陽ちゃんと一緒に住もうと考えているマンションか?」
「そうなの、陽子が来れば犬も飼えなくなるけれど、何とか身内だから暮らして行けるのかなと思っているのよ」
「しかしそんな高い場所で、暮らすと云うのが信じられないよ、地震や停電なんかあれば最悪だね。それに窓は開けられるの?」
「ベランダが付いているわ」
「ベランダから何か物が落ちたらって想像するだけで、俺はダメだね。やはり高所恐怖症なのかな、心臓がバクバクするよ」
「安心していいわよ、呼んでやらないから」
愛子は話しに乗ってこない恭一に、少し苛立つ様に言った。

 料理は鮨がメインだが、焼物や刺身も出してくれるという。恭一は暮の横浜の仕返しに、赤むつの刺身と、煮魚でブリの真子を頼んだ。
「ところで練馬の愛子の家に招待してくれるって、初めてじゃないかな?」
恭一は愛子に聞いた。
「汚い家だけど、多分この秋には取り壊してしまうと思うのよ。建ててからもう三十年近く、色々と思い出はあるのだけれど、引越しの時は全てを捨てて行くわ」
「結局、旦那との結婚生活って何年だった?」
「そうね、七年間ぐらいかしら、恭ちゃんが結婚した頃までよ。結局は練馬での結婚生活も二年程度だったわ、それからは月に一度か二度ぐらいかな、妻と夫が同じ屋根の下に居るのは」
テーブルには恭一が頼んだ料理も運ばれて来た。しかし何処か食事を楽しく出来る様な雰囲気が、恭一は欠けている事に気が付いた。話題を変えようと思ったが、愛子は言葉を続けていた。
「私ね、本当はやっぱり恭ちゃんが好きだったと思うの」
「その事は言わなくても分かっていたさ」
「そうよね、でも私のもっと古い過去の出来事が、恭ちゃんを選べなかったのだと思うの」
「愛子が嫌っていたと言う親の事か?」
「そうよ」
「ずっと昔のことじゃないか?」
「それでもその事が、私の心を支配していたわ。多分これからもずっと」
少しの沈黙が二人の間に流れて行った。
「御免なさい、せっかくの食事を。さ、食べましょう」
愛子は空になったコップを突き出し、ビールを注ぐ様に催促した。

 店を早めに出たのは、多分に話が堅くなってきたのが原因かもしれなかった。雨は相変わらず降り続いていた。日航ホテルの駐車場に置いた車に愛子を乗せ、暫く待つ様に恭一は愛子に伝えた。ホテルのロビー横にある花屋に行き、カサブランカと名前の付いた花を買い求める事が目的だった。もともとは日本の山百合がヨーロッパで品種改良され、また日本に戻って来たと言う程度しか知らない花である。まして今まで聞いた事はあっても、人にプレゼントした事は無かった。大きなそして香りの強い花で、愛子が昔、贈ってくれるならこの花と言っていた事を恭一は思い出したからでもある。
「少し誕生日には早いけど、部屋に飾って欲しいな」
「男性から花束をもらうなんて、初めてよ。凄く嬉しいわ」
愛子は本当に嬉しそうに、素直な気持ちが笑顔に現れていた。
「で、練馬の何処まで行けばいいの?」
恭一は家までの道を聞くと外環の大泉で降り、目白通りを左に曲がるのだと言う。言われた通り銀座から竹橋で首都高の池袋線に乗った。飯田橋のカーブを越えて護国寺を過ぎた時である。
「今度住むのは、あのマンションなの」
高速の右側の脇に、背の高いコンクリートの塊が、雨に煙る闇の中にそびえ立っていた。
「緑も無い、自然の風も無い。カエルも小鳥の声も聞こえない家だね」
恭一には理解出来なかった。都会暮らしは便利さでは何処にも引けは取らない。エアコンを入れれば、外が雪でも夏の炎天下の季節でも、快適この上ない温度管理がされている。だがそこで老後を過ごすにしても、そこに住む根拠になるものが何か、それが恭一には皆目分からなかった。

車は美女木のジャンクションを外環に乗り換え、大泉で下りて目白通りを左に曲がった。助手席から道案内をする愛子の指示で、石神井公園の近くに来ていた事だけは分かったが、夜はどちらが北でどちらが南なのか、雄の持つ帰巣本能は完全に狂ってしまったと恭一は思った。狭い路地に車を停めると愛子は車から降り、家の門の扉を開けるから、直ぐに車を中に入れてと言われて、車を停めた前の家に入っていった。入り口の門の扉が開いて、停めていた車を扉の中に入れると、愛子は入り口の扉を閉めて玄関に案内をした。恭一は初めてそこが愛子の家である事を知ったのだ。
「近所の目もあるけれど、もういいの、汚い家だけれど上がって」
大きな豪邸では無いのだが、玄関に車を置く余裕のある都心の、二階建ての少し広めではあるが庭のある立派な家であった。隣家とも木立で仕切られている様で、二所帯程度の家族でも暮らして行ける広さである。

居間には小さな犬が遠巻きに恭一を見つめていた。陽子が言う様に部屋はどこも犬の毛が付いているのだろうし、あの動物独特の匂いが部屋中に満ちていた。住む者にはその匂いも慣れて、多分気付く事は無いのだろうが、しかしこの子犬でも、愛子の孤独を癒す役割は十分に果たしているのだとも思えた。
「チロ、ただ今、いい子にしていた?」
愛子は子犬に向かって、帰りが遅くなった事を詫びていた。
「そこのソファーに座っていて、今お茶でも入れるから」
「もう一匹はどうしたの?」
「ひと月前に死んだわ、もう十一年も一緒だった。お婆さんの犬だったわ」
「動物って可愛がると、死んだ時がつらいのよね」
恭一はそれだから動物は飼いたくは無いと思っていた。それでも家庭があれば大型の犬を庭で飼い、散歩に連れてゆくのは楽しいだろうとも思う。自分の主人だと犬が思い込み従順に従うそれは、やはり生き物が群れで暮らして来た、ある種の刷り込みなのかも知れない。従う事によって餌を貰い可愛がられるそれは、犬が生きて行く為の哀しい性なのだろうとも思える。

「おい愛子、お茶よりもビールあるか?」
「どうしたのよ、急に」
「さっき銀座でさ、愛子が上手そうに飲んでいるのを見たら、急に飲みたくなっただけだよ」
「缶ビールでよければ有るわ」
「それを戴きましょう、飲ませてください」
愛子はキッチンから缶ビールと二つのコップを持ち、テーブルの上に置いた。
「そうだ、酒で思い出した、この前に高校時代の同級生で三浦哲司に会ったんだ。愛子は覚えているか? 酒店の哲司だよ」
「ええ、同じクラスの確か『みっちゃん』って呼んでいた子でしょ」
愛子はコップにビールを注ぎながら、思い出す様にニックネームを言った。
「いや、あいつは『ミイラ』ってあだ名だったはずだ。名前を早口で十回言うと、最後にはミイラになって、それで付いたあだ名だぜ」
「あの頃のクラスの男の子達は、随分と馬鹿なことしていたのね」
「それが二月に東京に行った時さ、偶然に後楽園の所で会ったよ、少し立ち話した程度だが酒屋の跡取りになっていた、又同窓会をやろうと言っていたよ」
恭一は敢えてこちらから、訪ねていったとは言わなかった。
「ビールは久し振りだ、戴くよ」
乾杯の仕草を見せながら、恭一はコップを合わせる事も無く一気に飲み干した。
「男の人の色気はビールを飲む時の、あの喉のあたりかな?喉仏が動いて、凄く生き生きとしている」
「女はへんな処を見ているんだね、そんな話は初めて聞いたよ」
愛子は又恭介の空になったコップに、少しだけビールを注いだ。

「ところで、今日誘ってくれた本当の狙いは何なのか教えろよ?」
「別段何も。強いて言えば色々なことを話したいと思ったの、それだけよ」
コップのビールを一口だけ飲み込むと、愛子は又話しを続けた。
「私、銀座でも言ったけど、やっぱり恭ちゃんが本当は一番好きだったと思っているの。でもそれを素直に言えなかった」
「今頃になって素直に言っているじゃないか」
「そうね、こんな歳になってからじゃ遅いものね。人生もほぼ終りに近づいているのが凄く残念なのだけれど、やり直しのきかない人生だから、反省を込めて言っておきたかったのよ」
 愛子にしてみれば、随分と弱気な言葉だと恭一には思えた。
「昔からそうだけれど、俺は何時も気になっている事があったんだ、銀座で飯を食っている時にもチラリと言っていたけれどさ、古い傷が残っていて俺を選べなかったと言ったよね。その事は話せない事なのか?」

恭一はその意味その理由が分かれば、愛子の理解できない部分がかなり鮮明になるはずだと思っていた。
「その話しも恭ちゃんにしたかったのよ。私ね、産みの親が離婚したでしょ、小学校三年の時よ。父親の暴力が耐えられないと母が泣いて、一緒に父親と離れて暮らそうと言われたのよ。母は私を連れて岩城と言う家に家事手伝いの仕事で、言われるままに離れに住み込みで入ったの。でも、それも半年で母と岩城は男と女の関係になったわ。私、子供心に覚えているもの。母が化粧して夜に母屋に出かけて行くの。子供心に財産も無い女が生きて行くのって、こんな風にすれば生きて行く事が出来るのだって」
愛子は恭一の知らない、遥かに遠い昔の時代に居た。
「一年が過ぎて、私は岩城の姓を貰い養子になったのよ。おかげで大学まで行かせてもらったわ。でもね、母には母の、人には言えない様な人生がある様に、私にも母と同じ様な人生があったの。高校生の二年生だった時に、私は岩城に犯されたわ。母が留守の夜に一人でお風呂に入っていたら、岩城がそこに入って来て、その時言われたのよ。
『お前は俺の子供じゃない。籍を入れたからって本当の親子じゃないんだ。黙って居れば大学にも行かせてやるし母親も大事にする。だから少しの間、目を閉じて何も無かったと思え。そうすれば親子一緒に暮らせる』って。 
あの頃はその事を母には言えなかった。母の居場所が無くなってしまうもの。だから私はあの男を『あいつ』と言ったの、『畜生』と言ったのよ」
 それは恭一が心の隅で、或いはと想像していた事でもあった。何故東京では無く京都の大学に行ったのか、なぜ大学時代に付き合った男と、卒業して一年で結婚したのか、全ては義父の岩城から逃げる為だった事が今、恭一にはやっと理解する事が出来た様に思った。

「驚いたでしょうね?」
と愛子は、まるで部下に言う様な口調で恭一に聞いた。
「あぁ、だいぶショックだったよ」
「私を産んだ親も育てた親も、酷い男達だった。そんなの親とは呼ばないわよね」
 大人達に翻弄されたもう一人の愛子を前に、恭一は幾つかの誤解を詫びなければならないと思っていた。
「私ね、それでも泣かなかったのよ。幾度か『あいつ』に汚されたけど、『あいつ』母の居る時には、絶対に一言も口にしないし素振りさえ見せなかった。恭ちゃんに上げると言ったのも、そんな『あいつ』に抱かれるくらいならって思ったの」
「直ぐに結婚したのも、それがあったからなのか?」
「そうね、洋太郎を愛していたなんて、そんな気持は初めから無かったわ。学生時代の乗りで関係が出来て、彼が夢中になってくれた時に結婚の話しを出したの。だって見合い結婚だってそうでしょう?夫婦になれれば好きになれるし、愛する事だって、もしかしたら出来ると思ったからなのよ」
 恭一は愛子の話しを聞きながら、陽子にどう言って伝えればいいのか迷っていた。
「この頃ね、自分の人生を良く振り返る時があるのよ。何処でこんな自分になったのか、本当は誰を一番愛していたのかって」
「他人で一番愛していたのは俺だろう?それ以外は知らないけれどさ。だけど俺が京都の大学を一緒に卒業したとしても、やはり今と同じ状態になっているんじゃないかな」
「そうよね、これだけは一人じゃ何ともならない事なのよね」
「一つ聞いてもいいか?」
「いいわよ」
「何で今の亭主と離婚しないんだ? 離婚して新しい相手を捜せただろうに」
夫である洋太郎との結婚生活の、殆んどの期間は別居生活だったとも云える。その愛子の二十五年間、子供達が幼かったとは云っても、自らの幸せは掴めたはずだと恭一には思える。
「なんでかしら、チャンスを掴まえ損なったとでも云えばいいのかしら、それとも自分が楽な生活をしたかったからかな?その事は何れ恭ちゃんにも分かる時が来るわ、ね、それより少しだけ、このままで抱いて欲しいの」
愛子は恭一の居るソファーの横に座ると、体重を恭一に預ける様に体を傾けた。

「ねえ、眠くなるまでこのまま語り明かさない?このまま眠ってもいいわ」
「俺たちは本当に不思議な関係だよね、気ままに自分のやりたい事を相手にしてもらう関係かな。だからと云ってそれを強くは要求しないし、なければ無いでさほど気にもならない。愛し合っている程でも無く、だからと云って嫌いでもなく。お互いが相手に強く期待しない関係ってところかな」
「そうかも知れないわね、今までの夫婦や恋人みたいに、一つの見本があって良い夫婦とか、いい恋人関係なんてあったけど、多分そこには、相手の期待に応えられるのが良い関係だと言う、そんな決まりがあったのかも知れないわ。良い夫婦がどんな関係かなんて、そんなの何処にも無いわよね」
「俺は、始めから愛子の期待には応えられなかったから、こうして長続きしているのかもしれないな」
「法律的にも肉体関係があれば、浮気で離婚の理由にもなるそうよ。けれど気持だけで想い合う関係は、それがどれほど強くても離婚の理由にはならないんですって」
「気持だけの関係か?俺たち向きだね。若い人には難しいだろうが」
「あら、いつの間にそんな年寄りになったの?」
「なんだ、愛子は未だ現役なのか?」
「十年以上も仕舞って置いた私を食べて置きながら、随分ひどい事言うのね」

恭一は愛子との言葉の駆け引きをしながら、娘の陽子の言った半年先、一年先の事を不意に思った。やがて二人の言葉が止った時、恭一は愛子の肩を抱きしめながら、後ろから唇をその耳に押し当てた。振り返る様に愛子が顔の向きを変えると、目を閉じたその唇に唇を合わせ、幾つもの想いを込めて軽く噛んだ。
 男は女の命の終わる時を知りながら抱きしめた。女は自らの命の終りを口にも出さず、今を最後の時にしたいと願っていた。
 今更それを口にした処で、何がどう変わるものでもないし、ただ惨めになって行くだけかもしれなかった。それを言葉にせず思いやる事の出来る者が、大人呼べる資格だろうと思える。だから恭一はそのままずっと、愛子を抱きしめて唇を重ねていた。それは何時終るともしれない、長いて辛いくちづけであった。花瓶に挿したカサブランカの香りが、恭一の鼻を擽るように部屋の中を漂っていた。

翌日の昼過ぎに、恭一は富士宮に戻った。陽子と顔を合わせるのは何処か心苦しいと思える。それは男と女の関係が、あるとか無いとかの話しではなかった。陽子の知りたい母親の、人には言えない過去をかなりの部分で知ったからである。だが何時かは言わねばならないと思えた。そんな気持を察しているのか、陽子は敢えて聞く事はなかった。恭一の方から言い出してくれるのを、ただ待っている様に恭一には思えるのである。
 富士山の近くに住んでいると「良いですね、富士山を何時も見られて」と、良く人から言われる事がある。東京や大阪などに住んでいると、近くだから良く見えると思われているのかも知れない。しかし現実に富士山の頂が見える日などは、一年の内に一ケ月もあれば良い方である。近くにいるから、関係が親しいからと言って、他の人より良く知っているとは限らないのだ。
恭一は今、そんな心境であった。それでも愛子と東京で逢ってから一週間が過ぎた日の夜、恭一はやっと決心して陽子に伝える事にした。

食事当番の陽子が夕食を片付けている時、恭一は陽子に声をかけた。
「この前の愛子と会った時の話しだが、やっぱり陽ちゃんに話しておこうと思う。聞いて貰えるかな?」
「ええ、いいですわよ」
陽子は流しの洗い物の手を休め、タオルで手をふき取りながら恭一の湯のみを覗き、急須にポットのお湯を足してお茶を注いだ。
「愛子と色々と話して来たよ。そして彼女の高校生の頃の事や、彼女の哀しみも含めて、今まで知らなかった事をだいぶ話してくれた」
「多分大変な人生だったと思うのですが、私の生まれる前の話しですから驚きませんよ」
「いや、ずっと考えていたんだ。陽ちゃんに話すべきかどうかをね、しかし陽ちゃんも大人だし自分なりに受け止め、そして消化してくれると思うからやはり伝えて置きたいと思ったんだ」
 恭一は注いでくれたお茶を一口飲み、意を決したように話し始めた。

「もう知っている事だが、愛子は離婚した母親と一緒に、埼玉から住み込みのお手伝いさんとして東京の岩城の家に来た。母親は小学校三年生の愛子を連れて働いた訳だ。一年程過ぎて母親は雇い主の岩城悟氏と、男と女の関係から入籍する事となって、愛子も養子縁組が成立した。そこまでは別に何と言う話しでも無いのだが、高校二年生の時に義父の岩城悟氏から、無理やり暴行を受けたそうだ。その事を愛子は母親にも伝えられず、じっと我慢していたと言っていた。だから大学は関西の大学を受けて卒業して一年で結婚した訳だ。愛子はだから『あいつ』と呼んでいたらしい」
「未だ高校生だったのに、母は随分と傷ついたのですね」
「そうだね、多分その傷は彼女の心の中で、生涯癒える事の無い烙印を押された様に、影響を受け続けたと云えるだろうな」
「母は真剣に人を、男の人を愛した事が無かったのでしょうか」
「今思えば、俺が一番好きだったって言われたよ」
「母が、ですか?」
 と陽子は感心した様に、呆れた様に聞き返した。
「ああ、だから言ってやったんだ『そんなことは今更言われるまでも無いくらい知っていたさ』ってね」
陽子は恭一の言葉に、少し顔が和んだように見えた。
「哀しい事は、俺を好きになってくれたとしても、それが愛していた訳では無いんだよね、愛子は名前とは違って、愛する事を教えて貰えなかった女なんだよ」
「井上の叔父さまは教えて貰ったのですか」
「そう、実の父親は自分が母親のお腹に居る時に離婚している、だから顔も知らない。けれど再婚した義理の父親が、死んだ母の写真をいつも身に付けていてくれた事かな。母親を愛してくれていたと云う事実が分かると、義理の父親でも愛情が湧いてくるものだ」
「叔父さま、私も正直に言うと、私も愛情を教えてくれる人が居ませんでした。母を除くと叔父さまが初めてではないでしょうか。相手に何かをして貰う事を望むのでは無く、叔父さまはいつも私の事を考えて、何かをしてくれるのが分かっていました。でも母親の愛情と異性の愛情とはやはり何処か違っています。肉親の愛情は産んだ事で感じる本能の様なものでしょう。異性に対しての愛は男性女性の差はあると思いますが、守って行きたいと云う様な、何かが本当にゼロから生まれ育つものだと思うのです。それに一番大事な事ですが、信じあえる何かを自分が相手に持てる事が出来るかどうか・・」

「俺は陽ちゃんへの気持なんて、余り考えた事ないんだよ、前にも言った事が有るかとは思うが、陽ちゃんは俺にとってまぶしい程に輝いているから、ただ大事に見守って行きたいと思う気持が強いだけなんだ、不思議な事なんだがね、陽ちゃんを恥ずかしくも無く、抱きしめる事もできるぞ。だけど男と女の世界とは別物だ。そんな生臭い世界に俺は陽ちゃんを連れて行きたくは無いんだよ」
「私、誰とも結婚する気持もありません。ずっと一人で生きて行きたいと思っていました。それは全て自分の病気の事が原因だと思います。でもそれでも楽しく穏やかに人生を過ごして行く事が出来るのは、叔父さまとだからやって行けるのだと思います。きっと叔父さま以外の男性と暮らしていたら、耐えられないだろうと思うのです。私、相手に何かを期待していたり、相手からも何かを期待される、きっとその重さで疲れてしまいます。だから私、ずっと此処に居させて欲しいと思っているの」
「そのあたりは愛子の血を受け継いでいるのかな。言い出したら聞かない遺伝子が強いのは、愛子譲りだね」
それはそれでいいと恭一は思う。陽子との関係も性の関係を除けば愛子と同じであった。執着心が薄くなって行く年齢なのかも知れない。特に性的な部分に関しては若い時とは違い、なければ無いで一向に欲望が湧く事も無くなっていた。一つ屋根の下で他人と一緒に暮らす為のルールは、経験によって身についてくるものである。夜のひと時、酒を酌み交わし二人で好きな音楽を聴くそれは、若い恋人の様でもあった。ずっと朝から晩まで同じ屋根の下に住み、一緒に買い物に出かけ時折お茶を飲むそれは夫婦でもあった。青い空の下で小鳥を追いかけ、近くに居ながら互いが夫々に好きな事をしているそれは父と娘である。

自我の持つ満足さへの追求と、独占したいとする本能とが無くなると、人はある種の魅力に欠けるのかも知れない。だが、時間を追う事もせず時間に縛られずに暮らすそれは、一方では理想の姿に近づくものだった。
「この前に愛子の家にお邪魔したよ。土地なんかも売り払ったんだってね」
「あの古い家に行ったのですか?」
「あぁ、愛子と一晩語り明かしたさ。一晩語り明かすなんて関係になると、もう男と女はお終いだね」
恭一は少し寂しげな顔をしながら、笑顔で嘆く様な事を言った。
「でもそんな関係って、私は憧れます」
「愛子に対してはその関係を大切にしたいと、特に強く思った事はなかったが、陽ちゃんにはそれが有るんだよ。壊れそうなくらい繊細で、僕のお宝って感じだけれどな。陽ちゃんにこんな事を聞いたら怒られるかもしれないが、つまり男性との経験は有るのかな?」
「御免なさい、経験も無く病気になってしまいました。小説の中で描かれる、知識としてはありますけど。ただ考えようですけど知っていたら今頃は多分、もっと辛いだろうと思うことがあります」
「本当なのか?まいったな。しかしその通りかもしれないね。知ると言う事が必ずしも、当人に良いことなのかどうか、受け入れる側の懐具合にも依ることは確かだがね」
「ね、ところで叔父さま、何が『まいった』なのですか?」
しまったと恭一は思った。下手に陽子の経験を聞いた事が、やぶへびになったようであった。
「陽ちゃん。いつまでも好きなだけ此処に居ていいよ。追い出しはしないから、そして愛子と同じ様にお付き合いさせて戴きますから」
「私もそれで安心しました。母は母、私は私ですから」
母親が義父を憎む強いトラウマがやっと明らかになり、以前より少しは母親を理解する事が出来たのかも知れなかった。

翌朝もまだ夜も開けきらない時間であった。恭一は夜半に目が醒め、アトリエで富士を描き始めていた。描きかけている大沢崩れの陰影を、ひらめきにも似たイメージが湧いて、急に筆を持ちたい欲望が襲ったからでもある。一心に色を乗せていた時であった。
「叔父さま、いいですか?」
ドアをノックする陽子の声がした。
「どうぞ、起きているよ。どうしたんだ?」
「母の死んだ夢を見てしまいました」
ドアを開けると、パジャマ姿の陽子が立っていた。
「母が苦しんで死んでしまう夢を見ました。叔父さまの布団で休ませてくれますか?」
「余ほど怖かったんだね。今、丁度絵を描いているんだが、明るいけどそれでいいなら俺のベッドで寝なさい」
恭一には、陽子の気持が何となく理解出来る気がする。母親の死を想定出来る今は、それが現実の事になるまでの時間、こうして恐らく母親と同じ様に、その時の怖さと戦うのかもしれないと思えるのだ。
「少しずつ絵が出来上がって来たのですね」
恭一の後ろ姿を見ながら陽子は声を掛けてきた。隅にある大きめのベッドにもぐり込み、枕元に亡くなった妻と小さな頃の息子の写真が、小さな額に入って飾ってあるのを陽子は見つけた。恭一は陽子の言葉が聞こえ無いほど、夢中に絵を描く事に没頭していた。

朝霧高原も季節は本格的な夏を迎えていた。強い日差しが木々の葉を色濃く染めて行き、近くの会社の保養所やキャンプ場などは、子供達の学校も夏休みを迎えると一層賑やかさが増して車の往来も増えて来た。
富士山の頂の雪もすっかり解けてしまい、日差しの強さとは別に、涼しい風の中で汗を掻く事も無い生活は、恭一にとってはうれしかった。東京では間違いなくクーラーを一日中入れて、外には出られない生活を送っていたはずである。薪ストーブはあってもエアコンを使わない恭一の家は、昼間は窓を開き網戸にして、涼しい風を部屋一杯に取り込む事にしていた。お陰で灯りを点けていると、クワガタやカブト虫が網戸にぶつかって来る。
愛子からのメールや電話連絡も、この処全くなかった。ただ陽子には少し具合を悪くして病院に通っていると、嘘の電話があったらしい。嘘を付かなければならない哀しさと嘘と知っていながらそれを聴く哀しさが、今の愛子と陽子の親子に置かれた関係だと恭一は思う。それも全ては愛子が子供の頃に押された、身勝手な大人の身勝手な行為の結果でもあった。生涯そうして一人の女の心に、大きな傷として残る事になるなどとは、彼は考える事も無く欲望に走ったと思う。しかし今はその娘の陽子までもが、その母の痛みを感じ始めていた。

恭一の絵は秋の展覧会に向けて大方は出来上がり、細部の修正を残すだけとなっていた。陽子は相変わらず月に一度の病院通いで東京に行く他は、近くの高原に出かけ野の花のスケッチや小説を読みながら暮らしていた。何れ手作りの土産物の店を作りたいと考えている様で、庭のひと隅にハーブを植えて育てていた。ドライフラワーやリーフの作り方の教室にも時折出かけて行く様である。
 陽子の喘息もこの数ヶ月間でだいぶ良くなったと思うのは、恭一から見ていても分かるほどである。それに比例する様に陽子は少しずつ恭一に甘える事と増えて来た。
八月も初めの、天気の良い朝であった。
「叔父さま、今日は本栖湖に行きませんか。天気もいいし、湖にボートを浮かべて、お弁当を作りますから連れてって欲しいな」
 朝も五時近くなれば小鳥の声が賑やかに鳴き始め、夏はそれが合図の様に二人は起き始める。ひんやりとした空気を吸わなければ勿体無い程の朝であった。 
「それじゃ久し振りに出かけますか」
買い物以外に二人で出かけるのは、この一ケ月程ご無沙汰している事に恭一は気が付いた。 
「朝ご飯の支度は俺がやるよ、陽ちゃんは弁当作ってくれるかな」
「おにぎりでいいですか?」
「宜しいですよ、お願いします」
コンビニに立ち寄れば、出来合いのおにぎりやサンドイッチは簡単に買えるはずである。だが恭一はそれを陽子の手で作ってもらう事に意味があると思っている。親子の関係もそうなのだが、昔は全て親が握ってくれたものだった。子供心に自分の為に握ってくれた事への気持は、随分と時間が過ぎてから思い出される絆でもあった。
本栖湖には車でニ十分も走れば着く場所でありながら、一人で来るには少し寂しい湖でもある。カップルや家族連れの多い所だからだ。駐車場に車を止めて貸しボートを半日ほどの時間で借り、少しの荷物を積み込んだ。木陰は涼しいのだが日差しは強い為に、陽子は日傘を持ってきていた。



 


   
 





 




 

 


 



 

 
 
 


 



 



 


 




 

 




 
 

 

 




 


 

 



 







 





 


 

 




 



 

[姿を隠した愛子]
「夏のここでの贅沢はね、岸の側に影を落とした木にボートをつないで、ゆっくりと昼寝をするんだ」
「何か初めての体験って、私ワクワクして来るわ。子供なのかしら?」
小さな遊覧船が一隻だけで湖を一回りしている程度で、湖上から富士山を見るだけのものだけかも知れないのだが、それこそ十分に価値はあるだろうと思う。
恭一は後ろに陽子を乗せて、ゆっくりとオールを漕いだ。岸から離れて行くにしたがって、透き通った水が明るいブルーから濃いブルーに変わって行く。山沿いの岸ちかくまで木々が覆っている湖岸に伸びた枝にロープを縛り、ボートを日陰に停めて二人は木漏れ日の中に居た。陽子はボートの底に腰を下ろして、クッションを枕に横になった。恭一も舳先を枕に横になりながら、心地よいボートのゆれに身を任せ、僅かな波の音を聞いていた。
「どうだい、こんな場所は。まるで恋人同士の隠れ家みたいだろう。釣り人だけだよ、こんな場所を知っているのは」
「何だか、ルノアールの絵に出てきそうな雰囲気を想像するわ」
二人が話す事を止めてしまえば、水面を流れる風が木立の葉を揺らす微かなざわめきと、幾種類かの小鳥の鳴き声だけであった。
「愛子からの連絡は相変わらずなのかい?」 
「相変わらずです。でも自分の命が終る時期が分かっている人の気持って、私には未だ辛くて考えられないの」
「事故で逝ってしまう場合は考えたり悩んだりする暇も無い訳だから、その意味では周囲も含めて諦めも付くのだろうが、一年とか二年とかの話しになると、やはり身の回りを整理する事を考えるのだろうな。俺たちの様な年齢になると、その時を予測しながらある程度の覚悟を持つ必要があるだろうね、ただ今はかっこいい事を言えるのだが、もっと歳を取って行くと多分、体や気持の動きが緩慢になってしまって、みっともない最後を迎えそうで、それが怖いんだよな」
 そう言った反面、恭一は寧ろ見っとも無くてもいいのでは無いか、死にたくないと大声で叫んだって、誰も笑う人なんか居ないはずだとも思えた。それでも死は無理やり引きずり倒す様に、しかも容赦なく眠りの底に体を横たえ、呼吸と心臓の鼓動を止めてしまう。

生まれた時から死は予約されている現実である。だからこそ生きている事に意味を見出し、役割を果たすことが安らかなその時を迎えられると、恭一はむりやり自己暗示をかけて来た。
「私、少ししたら母に逢いに行こうかと思っています。母の性格からは嫌がるかも知れないと思うけど、少し話
しをして、様子を見たいと思う様になったの」
「そうだね、逢わないよりも逢う事の方がいい事に決まっている、逢ってから考えたり悩んだりする方が賢明だと思うよ。俺は陽ちゃんの事、最後まで見守っているから後は自分の好きな様に行動しなさい」
 恭一は木陰に停めたボートのロープを外し、対岸の広い岸に向かって漕ぎ出した。
「岸に上がってランチタイムは如何かな?」
「はい、少しお腹も空きました」  
二人は本栖湖の奥に広がる岸辺でボートを降り、陽子は木陰の下で小さなシートを敷き、ピクニック用のバスケットを広げた。おにぎりと急いで造った少しのおかずと、サラダや果物のデザートがそこに広げられた。湖面から見る冨士山は雪の無い夏の装いではあるものの、この湖と良く似合う風景だと思える。恭一は食事の後に木の根元に背中を寄りかかり、右足を曲げて座っていた。
「叔父さま、その右足を私に少し貸して下さる?」
「あぁ、いいよ」
陽子は恭一の右足に自分の背を寄りかかせて、富士山を見ようとしていたのだった。
「これ、とても楽だわ」
恭一の胸の前には、自分の右足に寄りかかる陽子の顔があった。これ程の近くに生き生きとした陽子の横顔を、これまで見た事は無かった。余り長くはないストレートの髪を束ね、頭の後ろで無造作に留めてある。化粧気の無い顔だが、おくれ毛が清楚な色気を感じさせる。

「叔父さま、肩を抱いてくれません?」
正面を向いていたとしたら、恭一は多分暫く躊躇したであろう。しかし二人は湖の向こうに見える富士を見つめていた。恭一は右手で陽子の肩に軽く手を置いて抱いた。陽子の頭が恭一の胸の中で、それでも遠くそびえる富士山を見つめていた。陽子の髪が恭一の顔をくすぐり、何処か懐かしい匂いがする。死んだ妻の髪の匂いに似ていると恭一には思えた。
「死んだ女房の髪の匂いに似ているよ」
「叔父さまはそうして何時までも、死んだ奥様の事を思い出しているの?」
「とびっきりいい女だったからね、それに他の女の人の髪の匂いなんて知らないもの」
「いい女だったら何時までも、そうして叔父さまに思い出してもらえるのかしら?」
「陽ちゃんは相手がいい男でも、忘れてしまうかい?」
「そうね。いい男だったら離さないわ。きっと」
 恭一は又も参ったと思った。
「去年だったかな、愛子が俺に言った事があった。自分の奥さんを愛している人は魅力的だって、そんな男性に女は惹かれるのだと」
「私も同感よ、奥さんの悪口を言う事で女性の気持をひきつけられると思う男性がいたら、凄い勘違いしているのよ、って教えて上げたいわ。私もそんな風に愛して欲しいって、そう思うから惹かれるのだと思うの」
「俺は女房を愛していて良かったよ。陽ちゃんに認めてもらえるものね」
「ええ、認めます。ベッドの横に死んだ恩さんの写真を飾って置くなんて、理想の男性だと思うわ、私がもし死んだら、叔父さま、奥さんの写真の横に飾って戴けます?」
「喜んで飾るよ。安心してもいいよ」
 陽子は初めて恭一の方に顔を向け、体の力を抜き恭一の胸に顔を埋めた。

「この処、母からの連絡が少なくなって、何時も留守なの」
と陽子が言い出したのは、お盆の帰郷ラッシュがニュースに上った日である。陽子から突然に聞いた愛子の卵巣ガンの話し以来、恭一や陽子は愛子の事ではひどく敏感になっていた。そんな気持の不安からなのか、陽子が母親の家に出かけると決めたのは、お盆には家にいるはずだと陽子は考えたのかも知れなかった。それに普段と違い、道路は間違いなく空いているはずでもある。
「心配なら行ってらっしゃい。何事も考えて悩むよりも、まずは行動してからだ」
そうした恭一の言葉に背中を押され、陽子は東京へと出かけて行った。しかし練馬の家は留守で、携帯も留守番電話になっていると言う。
「叔父さま。母が逢ってはくれないの、何とか理由を言いながら逃げているみたいなんです。兄にも聞いたのですが、知らないと言うばかりで、それに兄も自分の奥さんとの離婚問題で、今はそんな相談には乗れないって言うのです」
 そうした電話を陽子から受けたのは、冨士の絵を描き上げて、最後の仕上げをしている時であった。もしかしたら愛子は既に病院に入院して要るのかも知れないと言う、漠然とした想像が恭一の頭には浮かんで来た。
「取りあえず帰ってらっしゃい。何れ愛子の方から何か連絡があるはずだ。いきなり消えてしまう事は、まずありえない事だからね」
 言葉には出せないネガティブな心配は、反面、愛子に訪れるはずの最後の時を、本人がどう受け止めようとしているのか、じっと見守る優しさでもあるのだろう。逝く者も送るものも、その優しさを互いの心に深く残す為に、既に愛子の野辺送りは始まっているのかも知れないと恭一は思った。

 愛子からのメールが恭一に届いたのは、残暑が未だ強く残る九月の初めである。
「いつも陽子の事、面倒を見て頂いてありがとう。あと一月余りで引越しです。荷物を整理しながら、沢山の必要も無い荷物を抱えて、だいぶ遠回りした感じがしているの、それでもあと少しで要るもの要らないものを整理して、『サッパリとしたい』そう思って暮らしています。陽子とは電話で話したのですが、そちらの環境が酷く気に入った様で、私の処よりも恭ちゃんの処の方が良いみたいに思えます。暫く説得してみますが引越しまでの約束も危なくなりそうです。その際は少し大目に見てあげて下さい」
恭一は直ぐに返事を返した。
「陽ちゃんは信じられない程良い女性に育っているが、今もお母さんが逢ってくれないのだと嘆いているよ。俺の事はともかく、陽ちゃんは愛子の娘だ。その娘に心配をかけない様にして欲しいものだ。どこかに出かけているのなら、とにかく帰ってきて陽ちゃんと逢いなさい。全てはそれからだよ」

メールを愛子に送った日の夕刻である。陽子が母から電話があった事を、アトリエに居た恭一へ知らせに来た。
「友達と旅行に出かけていたって云うの、本当か嘘かはどうでもいい事なのですが、とにかく逢う事にしました。練馬の家に居るそうです」
「直ぐに出かけるのかい?」
外出する時には何時も持ちあるく、バックを肩から提げていた。
「ええ、これから車で行ってきます。犬は引越しするからと、お友達に引き取ってもらったらしいの」
「何かあったら連絡するんだよ」
「はい、必ず」
陽子は自分の車に乗り、慌しく出かけていった。その夜の遅くである。陽子から電話が掛かって来た。
「心配かけて御免なさい、母にやっと逢う事が出来ました。今夜は三田の部屋に泊まります。母が云うには犬も居なくなったので、餌を与える事も無くなったから、北海道に一週間程の旅に出かけて居たのだそうです。それに今月半ばから一月程度の間、お友達と海外旅行に出かけると云うの。ヨーロッパに旅して来たいと。これが海外旅行の最後のチャンスだから反対しないで、って言われてしまいました」
「どこまでも病気の事は隠すつもりなのかも知れないね、反対する訳にもいかないだろうなぁ」
「ええ、ですから定期的に連絡して欲しいって、約束して貰いました。自分のパソコン持って行くそうで、先々でメールするって云うの」
「愛子も子供じゃないんだから、少しは自由にして上げないとね。処で明日は陽ちゃん戻るの?」
「ええ、そのつもりです」
「じゃあ、気をつけて帰りなさい」
「おやすみなさい」
少し安堵したのか陽子の声が、久し振りに明るいと恭一には思えた。

現実と想像の世界では、そこには何時も大きな落差が横たわっている。もしも自分が末期の癌患者なら、一体どんな形で舞台から降りるのか、恭一は仮定の話しとして考えていた。既に愛子はその終りの時を知り、決して泣き言など溢す事は無いあの性格からみれば、様々な仕掛けをして自分や陽子の前から去って逝くはずである。  
恐らく患部の痛みは否応無くその現実を本人に知らせ、薬で痛みを止めながら入院する為の方便として、ヨーロッパに行くと陽子に言っている様に思えるのである。愛する事は出来なかったが、愛する価値のあった女だと今更の様に恭一は思う。特に陽子と言ういい娘を産んだ事は、母親としての愛子を評価してやりたかった。

陽子が母親と逢ってから一週間が過ぎていった。ひ弱な感じがしていた陽子も、いつの間にか自分の将来に向けた生活設計を立てる程、すっかり大人になって来ているのが恭一には嬉しかった。
去年、ハワイで結婚した恭一の息子夫婦が家に遊びに来た時も、けっして逃げる事も無く『母が叔父さまの恋人なの』と、息子達を煙に巻いているのを恭一は横目で見ながら、そろそろ事業を進めてもいいのかもしれないと思えて来た。三田のマンションを売り、手作りのジャムやハーブやドライフラワーなどを売る店を、国道脇に作りたいと考えていると聞いていたからである。
その夜、食事が終って恭一がパソコンを開けると、愛子からのメールが届いていた。
「これから未だ一度も行った事の無い、ヨーロッパに向けて今夜出かけます。帰った頃は引越しで大騒ぎの筈。留守中は宜しく陽子の事お願いします、本当は恭ちゃんと一緒なら最高なのだけどね。ひと月の予定で楽しんで来ますが少し遅くなるかも、予定は未定ですから。先々で又メールします」
 何故かこのメールを読んだ瞬間に、別れの挨拶の様に恭一には思えた。何処と言って何もおかしな文面では無いのだが、恭一には愛子から届いたメールが、何故かこれから入院すると言うメッセージにも思えて来る。


  [愛子の死]
「愛子がヨーロッパに出かけたんだって、メールが来ているよ」
ソファーに座っていた陽子に向かって、恭一は声を掛けた。
「叔父さまには、本当にそんな風に思えます?」
一瞬、陽子の言った言葉に、恭一は返事に詰まってしまった。もしかしたら自分と同じ様に、愛子が入院したのかもしれないと、陽子も思っている様に見えたからである。
「陽ちゃん、愛子は入院するのかも知れないね」
「叔父さまもやはりそう思いました?」
 と陽子は確信に近い言い方で恭一に聞いた。
「あぁ、愛子の事だ、決して自分の弱さを人には見せようとしない。愛子の心の傷だった義理の父親から乱暴された事だって、四十年も過ぎて初めて他人の俺に言ったんだ。気持の強い人だと思うよ」
「叔父さま、どうすればいいと思います?」
自分はなにをしてあげたら良いのかと、陽子は恭一に聞いていた。

「陽ちゃんは初めてこの家に来た時の事、覚えているかい?」 
「えぇ」
「その時、娘の陽ちゃんは、俺に何て言ったか覚えているかい?」
「確か、そのまま黙って見つめていて欲しいと言いましたけど」
「もし、愛子が自分だとしたならどうだろう。家族の一人として、あの時の陽ちゃんの言った言葉は正しかったと思うよ。それは今でも変わらない。愛子に何もして上げられないけれど、黙って見守ってあげることは出来るよね」
「とても辛いですね」
陽子の目からは涙が溢れていた。
「見送る者も去ってゆく者も、別れは同じ様に辛いものだよ。もし陽ちゃんや俺に何か出来る事があるとしたら、祈る事か泣く事ぐらいだろうな?今夜は愛子の為に、二人で涙を流して見送ってやろうか?」
「えゝ、そうします」
 恭一は陽子の肩を抱き締め、母親の愛子の事を思っていた。抱きしめられた陽子は、恭一の胸の中で泣いた。声を出して泣いていた。恭一の目にも、いつしか涙が溢れていた。
翌日に恭一は、愛子がヨーロッパに旅立つと言うメールの返事を、時間をかけて考えていた。読んでくれるかもしれないし、読まれないメールかも知れなかった。
「メール読ませて戴きました。ヨーロッパは遠いな。船旅なら一緒に行きたいと思うけれど、愛子には退屈かもしれないね。陽ちゃんはこちらでお店を開きたいと言っていますが、俺にも彼女ならやって行けそうにも思えます。お土産はロイヤルコペンの揃いのコーヒーカップを三つ、ぜひ頼みたい。戻ったら又姫鱒の料理でも作って差し上げますから、ぜひ遊びにいらっしゃい。親子揃っての食事も、ぜひともしてみたいと思うがどうだろう」 
 
それが愛子に送った最後のメールと知ったのは、ひと月余りが過ぎた日の朝である。アトリエに居た恭一の胸に、泣きながら陽子が飛び込んで来たからである。
「兄から電話があって、母が死んだって・・・」
覚悟していた現実であった。
「お友達に看取られたらしいのだけど、兄にも言わなかったみたいで・・・」
泣きながら陽子は恭一に伝えた。それは予想通りの、愛子らしい死に方だと恭一には思えた。愛子と区役所で久し振りに出会い、まだ一年しか過ぎていなかった。まして家族に看取られる事も無く、一人で勝手に逝ってしまったからである。とは言っても愛子は家族と呼ぶべき子供達からも離れ、夫々が夫々の生活をしていたのだから、寧ろ独身の死と云う方が正確なのかもしれない。娘の陽子とさえも、一緒に暮らす事を拒絶していたのである。
泣いている陽子の側に行き、恭一は強い口調で声を掛けた
「泣くのは後だよ、残された家族はやらなければならない事が沢山あるはずだ」
「すみません」
 陽子の素直な返事が返ってきた。
「愛子が何処の病院に入院していたのか、何処で何時通夜をするのか、全てが残された家族がしなければならないんだよ。お友達に任せる訳にはゆかないだろう」
恭一は静かに諭す様に陽子に言った。

「まずお兄さんに電話して、入院していた病院の場所と名前、そして何時亡くなったのか聞きなさい。それからお友達の電話番号も聞いて。直ぐに病院に向かうと伝えなさい」
「はい」
陽子は慌てて恭一に言われた通り、これからの事の為に兄に電話した。自分がしっかりしなければ、そんな気持に奮い立たせて居る様であった。
「山梨の小淵沢に近くに、富士山が見える丘の上にある、末期医療をしてくれる病院だそうです」
恭一には初めて聞く名前であった。
「直ぐに出かけよう。数珠、それだけあれば取りあえずいい、用意しなさい。無ければ無いで構わないよ、葬儀までには一度は戻って来なければならないはずだから」
陽子を助手席に乗せ、恭一は小淵沢の愛子が入院していたと言う病院に向かった。
「三時間程度で着くはずだ。お兄さんに電話して置きなさい。お友達の事は何か言っていたの?」
「学生時代のお友達で吉田さんって奥さんが、最後まで看取ってくれたみたいなのですが、詳しくはわからないそうです」
「吉田? 何時だったか同級生の吉田って、愛子が言っていた記憶がある。まあ会えば思い出すはずだ、知っていればね。処でお父さんはどうなの?」
「兄の話しでは来るには来るらしいのですが、病院に来るかどうか分からないそうです。夫としてよりも、私達子供の父親としての立場が先なのかも知れません」
陽子は兄達より先に病院に着くだろう事を伝えた。
 
 その病院は小淵沢の町だけでなく、甲府盆地の上に富士山が見える、小高い丘の上に建てられていた。玄関で名前を告げると、担当だと言う看護師の女が現れ、恭一と陽子を病室の一つに案内してくれた。ノックすると部屋の中からは、年配の女の声で『どうぞ』と返事がした。扉を開けると薄い水色のレースのカーテンが、窓からの差し込む午後の日差し和らげていた。病室と呼ぶには似合わない家庭的なベッドの上に、顔を布で隠した愛子の亡骸が横たわっていた。
「陽子さんですか?」
「あのう、どちら様でしょうか?」
「吉田と申します」
愛子の最後を看取ったであろう、吉田と言う女友達が陽子に声をかけた。陽子は黙って頭を下げると、横たわっている愛子の、その顔に掛かっていた布を恐る恐る取り除いた。そこには母親である愛子のやせこけた顔が、物言わぬ亡骸となって置かれていた。髪の毛が酷く薄くなった顔には、既に別人ともとれるほどの変わりようでもあった。
「おかあさん・・」
陽子の悲痛な泣き声が病室に響いていた。覚悟はしていただけに気持だけは整理して来た様だが、感情だけはどうにもならないと、訴える様な泣き方であった。

恭一は吉田と言った愛子の友達を、部屋の外に連れて出して話しを聞く事にした。
「この度は有難う御座いました。井上恭一と言います。愛子の高校時代と、それに大学も一年だけですが同級生でした」
「私、井上さん覚えています。吉田ってありふれた名前だから、机は何時も前の方に座っていました。高校時代はそう、水泳で県大会に行きましたが、吉田和枝です、忘れましたか?」
「あぁ、あの吉田さん、やっと名前を伺って思い出しました。愛子とは随分長い友達だったのですね」
「私、愛子から色々と御話聞いていますのよ。でもこんな時に何ですから、後で落ち着いたら御話ししたいと思っています、それに愛子からの手紙も預かっておりますから」
「分かりました。ところで愛子は何時頃亡くなったのでしょうか?」
「今朝の六時少し前ごろだったと思います」
「陽子の兄も直ぐに来ると思いますが、父親は多分・・・」
「愛子から聞いています、全部」
 全て分かっていますからと云う様な言い方で、愛子の女友達は穏やかな顔で答えた。
「つかぬ事をお尋ねしますが、何時頃からこちらに?」
「もう一週間ぐらいでしょうか、この丘の下のホテルに部屋を取って、毎日ここへ通っていましたのよ。昨夜はお医者樣からも危ないと言われて、この部屋に泊まってしまいました。正確にはもうひと月以上も前に、彼女がここに入る事になって、週に一度は通っていましたの」
「それは、ありがとう御座いました」
「いいえ、お礼なんか。私は女友達として出来るだけの事をしただけ。高校時代からの親友だったのですから」
吉田和枝は恭一に頭を下げて、又静かに部屋に戻る為にドアを開けた。恭一はフッと愛子の亡くなった部屋に入ったとき、微かな香りが漂っていた事を思い出した。
「吉田さん、部屋のあの香りは?」
「愛子の希望です。ティファニーのオードトワレ。最後の時にあの香りに包まれていたいって、井上さんからハワイでプレゼントされたものだと言っていました」

その時、陽子の兄らしい男が廊下の向こうから、この部屋に真っ直ぐ向かって来るのがわかった。恭一はただ黙って頭を下げた。
部屋の中からは新たに、陽子の兄の泣き声が響いた。そして医者が少し遅れてやって来ると、残された二人に説明をする声が聞こえて来た。恭一の耳には聞き取れなかったが、愛子の遺体は霊安室に運ばれる事になった。入院した時から見守っていると云う看護師が、愛子の顔に化粧を施すため、家族を待合室に移る様伝えに来た。
 この病棟は外来や診察などを行なう一般病棟から離れた、丘の上に立てられた終末医療を専門に施す病棟であった。しかも病院の一部とは言え、ここでは死は受け入れるべき日常の姿をしていた。
沢山の薬や医療器具を用いてデーターを集める事や、病から生き返らす努力は一切なかった。寧ろ苦痛や不安を取り除く為だけの、教会の様な穏やかな静けさがあった。その所為か病棟は癌の末期患者達が殆どで、痛みを抑える薬は投与してくれるものの、抗癌剤や放射線治療は、下の離れた別病棟でのみ行なっていた。だから半年程の短い人間関係にも拘わらず、穏やかに死と向きあえる場所だと恭一には思えた。
 愛子の女友達が言う様に、自分の生きていた時に、その自分の葬儀までの全てを愛子は決めていた。連絡だけをその友達に託し、愛子は見事と言う以外に表せないほど、自らの死も始末して逝ってしまったのだ。

 その日の夕刻に、愛子の遺骸は練馬の家に運ばれた。既にその土地の買い手もついた家で、恭一も一度は訪れた場所である。陽子と恭一は少し遅くなる事を陽子の兄に告げ、富士宮に戻ったのである。喪服や着替えを用意し、夜には愛子の横たわる練馬の家に着いた。通夜はその翌日に行われる事となっていた。葬儀社への手配も病院への支払いも、まるで呆れる程に家族がなにをするでも無く、進められていったのだ。
 通夜の翌日は葬儀であった。戸籍上の夫である清水洋太郎が焼香には来ていたが、居場所が無いのか、すぐに帰っていった。喪主は陽子の兄の浩一が勤める事となったが、愛子の勤務先の役所の上司や同僚だけの、寂しい葬式であった。そして焼き場から戻ると花輪は取り除かれて、古い家は元の様に古くなり、主が居なくなった家は事務的な処理が終われば、何れは取り壊されるはずである。愛子の遺灰は取りあえず兄が預かってくれると、陽子が恭一に伝えた。
 帰り際に陽子の兄が恭一の前に挨拶に来た。
「母や妹が大変お世話になったそうで、この度は有難う御座います。暫くは未だ何も決めてはいませんが、妹も大人ですから兄の自分が口を挟む事も出来ません。何分妹の事宜しくお願い致します」
丁重な挨拶であった。
「おかあさんの愛子さんとは、高校時代からのクラスメートで、愛子って呼んでいましたがその彼女から相談を受けて、陽子さんをお預かりしています。陽ちゃんも向こうで自分のやりたい仕事を見つけられた様で、お母さんと同じ様に相談相手になれればと思っています」
 愛子の親友だと言う吉田和枝が、実は愛子からの手紙を預かっていると陽子や兄の浩一に伝えた。家族達には相続に関する遺言と、手紙とがあると言う。亡くなったばかりなので初七日の日に皆様にお渡ししたいからと、その日に集まる様にと頭を下げて帰っていった。

 愛子が居なくなった。残されたのはそれぞれの心の中にある、記憶と呼ばれる愛子の面影だけである。富士宮に戻る車の中で、陽子は黙ったまま口を開く事はしなかった。肉親の死は誰もが通る道ではあるものの、陽子がどんな想いでいるのか、推測を超える事は無い。まして代わって哀しみを受け止める訳にはいかなかった。
 家に戻ったのは随分と遅い時間であった。恭一は陽子の為にスープを作り、飲ませる事にした。食べろと言ったところで、食べられる気分ではなかったからである。
「陽ちゃん、スープ作ったよ。これだけでも飲んで休もう」
陽子は恭一に言われたまま、スープを半分ほど飲み終えて自分の部屋に引きこもってしまった。
「先にお風呂に入るからね」
恭一は戻って直ぐにバスタブに湯を満たしていた。一日中何時でも入れる風呂にしてあるが、流石に外に出かける時は切る以外になかった。熱いシャワーのお湯が疲れた体をほぐしてくれる。
「陽ちゃん、お風呂のバスタブにお湯張ってあるから、何時でも入れるよ」
陽子に声を掛け、恭一はアトリエのある自分の部屋のベッドに体を横たえた。愛子が死んだ、その現実がまるで嘘だった様な、錯覚に捕らわれて行く。
 疲れた体が風呂で温まった心地よさに、ベッドの中でうとうととした時であった。陽子がいつの間にか恭一の胸の中で泣いていた。それはまるで愛子が腕の中に居る様な、夢を見ている様な不思議な時間でもあった。やがて暗闇に目が慣れて、感覚がゆっくりと戻ると、陽子の体が恭一の腕の中にあった。
 涙で陽子の顔が濡れていた。恭一はゆっくりとその涙を唇で拭っていた。
「お願い、此処で泣かせてください」
陽子の小さな声が、しゃくりあげる息遣いと一緒に恭一の体を軽く動かしていた。
「いいよ、好きなだけ泣きなさい。思いっきり大声で泣いてもいいよ」
恭一は呟く様な声で、陽子の耳元でささやいた。
 何時もはしなやかな陽子の体が、まるで胎児の様に自分の足を、そして手を折り曲げ恭一の胸の中にあった。この子は愛子の生まれ変わりなのかも知れない、そう恭一には思えたのだ。

陽子に触れる時、女を感じると全てが壊れてしまう脆さがあった。しかし何よりも大切な人として見つめると、限りなく深い優しさが溢れてくる。陽子を抱きなから恭一は言葉には出さず、心の中で腕の中の陽子に語りかけた。
『愛子は男達の身勝手さに傷つけられて、一生をその傷と付き合わされて来た様だね。でも俺はそれでも愛子は幸せだったと思う。何故なら愛子は未来を託せる子供達を生み、立派な大人に育てたのだから。それに子供達は愛子の分身でもあるからだ。陽子の体の半分は、俺がひと時でも愛した女なんだからね。
だから俺はお前を護ってあげたい。お前が本当に好きな男が現れて、心を開く事の出来る時が来るまでは、何時までもお前の信じられる者でありたいんだ』
やがて陽子の泣き声が小さな寝息となり、まるで子猫の様に眠りに就いていた。それでも夢の中でさえも泣いているのか、しゃくりあげる様な不規則な呼吸が時折だが恭一を驚かせた。陽子の無垢な寝顔を見守りながら、何故かひれ伏したい程の感情が湧いて来ていた。目の前に息づいているその唇に唇を合わせてしまえば、後悔からは逃れられないだろうとさえ思える。
 男と女の間に生まれる愛情と呼ぶ相手への想いは、運命でも定めでも無く、まして永遠に続くものでも無い。しかし人は出会った事を運命と信じ、永遠でありたいと願う想いを愛情と呼ぶ。腕の中で泣き疲れた陽子の吐息を聞きながら、恭一は目の前の陽子を愛している自分を、年甲斐も無く初めて認めようと思った。年齢や母親との関係など、もうどうでも良かった。自分の気持ちに素直に向き合えば、陽子とのこの暮らしは、何時までも続いて欲しいと願っている自分がそこに居た。
愛子の娘でもある陽子を離したく無いと、心の底からそんな風に思う自分を知ったのである。その責めは全て受け止める覚悟はあった、覚悟なしに女を愛する事は、恭一には出来なかった。恭一は眠っている陽子の唇に、重なるように自分の唇を軽く重ねた。陽子は静かに、穏やかな吐息をたてて眠っていた。
 
翌朝であった。陽子が入れてくれたコーヒーを飲みながら、恭一は陽子に聞いた。
「陽ちゃん、良く眠れたかい?」
「叔父さま、昨夜は御免なさい。眠れなかったのではないですか?」
「いや、そうでも無かったよ」
「私、一人になって、やっと母が亡くなった事が理解出来る様になったの、そうしたらとても辛くなってしまって。でも叔父さまの胸の中で泣く事が出来て、随分と楽になりました」
「陽ちゃんは泣いた後で、ぐっすり眠っていただろう? 俺は謝らなければと思っているのだが、実は眠っている陽ちゃんの唇を奪ってしまったんだ。年甲斐も無いと思うだろうが、余りにも愛おしく想えて・・・」
 他に何の理由も無かった、と恭一は今でも思う。そんな行動に出たのは、愛おしさの気持からだった。
「私だって叔父さまの飲んだコーヒーカップ、隠れて飲み残しを戴く事がありますわ」
 えっ、と驚いた様に、恭一は陽子の顔を見た。そこには既に全くの他人ではない、気持ちは全てを許し合える女になっている事を理解したのだ。
 少しの間を置いた後で、恭一は素直に自分の気持ちを告白した。
「若い人たちの持つ感情とは少し違うとは思うのだが、俺は陽ちゃんをずっと離したくないと、心からそう思っているんだ」
「叔父さま、私がここに来たのは母の代わりかも知れないと思う事があるの、母は母なりに叔父さまを愛していたはずです。でも母は母、私は私なのだと思うのですけど、何時も叔父さまの腕に抱かれていたいと思うのは、母も私も同じでなんです」
 恭一は自分の指を陽子の唇に押し当て、もう言わない様に陽子に知らせた。
「陽ちゃん、何時までも俺の側にいて欲しいと思っている、壊れないように壊さない様に、俺は陽ちゃんをずっと生涯、護り続けたいと思っているんだ。それを許して貰えるかな?」
 黙って頷いた後で目を閉じた陽子の唇が、恭一の唇を待っていた。それは意思のある、確かな陽子の返事でもあった。そしてその夜、恭一と陽子は前から決っているかの様に結ばれたのである。

 初七日が来て、愛子が住んでいた練馬の家に陽子と恭一が出かけたのは、愛子の親友から手紙を受け取るためであった。葬儀社からの依頼で近くの寺の坊さんが来て、信仰とは無縁の簡単な儀式は済んだ。長男でもある兄の浩一が、陽子を呼び寄せて部屋の隅に連れて行った。愛子の親友だった吉田和枝は、公証役場で書いたと云う愛子の遺言状を二人に見せ、二人は納得した様に書面に印鑑を押した。
 これも愛子の描いた筋書き通りに、事が運ばれてゆくと恭一には思えた。その後、陽子や兄の浩一に宛てた愛子からの手紙が、身内のそれぞれに渡された。そして吉田和枝は恭一に向かって声を掛けた。
「これ愛子から預かっていたものです。亡くなるひと月余り前に、彼女が書いていたのを預かっていました。特に故人からの希望で、静かな気持になった時に、必ず一人で読んで欲しいと言っていました」
『静かな気持になった時だって?』と、恭一はその時の愛子の気持になってみた。そして随分と手の込んだ事を愛子はするものだと思いながらも、やはり死者の思いは受け止めようと考え直す事にした。
 

 [愛子からの手紙]
法要が終ってから、故人を偲ぶ為のささやかな会食の席が用意され、近くの料理屋から迎えの車が外に待っていた。戸籍上の夫である洋一郎は、この席にも姿を現す事はなかった。料理屋に着くと吉田和枝は恭一の側に座りながら、親友と言う女性からみた愛子の事を話してくれた。
「愛子はね、いい男を逃がしたって言ってね、とても残念がっていたのよ、それにあそこの病院に決めたのも『あの富士山の麓には、私の可愛いい娘と、好きな男が住んでいるの』って何時も晴れた時には富士山を指して言っていたの。私がね『死んだらお終いだね』って言ったら、愛子も笑っていたわ。愛子は結婚には向かない人かもしれなかったけど、それなりに幸せだったと私は思うのよ。友達としてそんな風に見えたわ」
「母は幸せだったのですか?」
陽子が和枝に聞いた、一番聞きたい事でもあった。
「本人が死んだからって言う訳ではないのよ、でもあんな幸せな人はいなかったと思うわ、自由に気ままに生きていたじゃない。確かに亭主運はなかったかも知れないけれど、旦那様で女の幸せが決められる訳でも無いでしょう? それにね、かたちに惑わされず本当に好きな相手を見つけ、その人を見つめ続ける事が出来れば、女としてこれ以上の幸せは無いはずよ。御免なさい、少しおしゃべりが過ぎたかな」
 和枝は席を変え、兄の浩一の近くに座り直すと、ねぎらいの挨拶をしていた。
その夜、富士宮に戻った恭一は、一人アトリエで愛子の手紙を広げた。
 
井上恭一様
「恭ちゃんがこの手紙を読んでいると云う事は、私が既にこの世界から消えてしまったという事なのね。生きていながら死んでしまった後に読んでもらう、そんな手紙を書くのは可笑しいけれど、十二月の初めにおめでとうの年賀状を書くように、何とも実感の湧かない手紙になりそう。でも頭が未だしっかりしている今を逃すと、大事な事も伝える事が出来なくなりそうです。
つい今しがたも薬を打ちながら痛みを抑えて、もうすぐこの命も消えてしまうと云う現実に向き合うと、この世界から消えて無くなる事への恐怖が、とても堪らなく辛いわ。でもこの頃は、私は生きている内に何をしたら良いのかと、考える様にしているの。遅いとか早いとかはあるにしても、いつかは誰でもが必ず通る道なのだと、諦める気持を少しずつ受け入れているのよ。だからやっと自分の周りの様々な事を整理して、この最後の手紙を恭ちゃんに書いているの。そのうちこの世への愛着も薄れ、死ぬ事さえも怖いなんて思わなくなって、じたばたせずに逝くのだろうと思えるわ。
体重が少しずつ減って、痛み止めのモルヒネの量が多くなってくるの。それに頭の毛も抜けて別人の様なやせ細った姿を、恭ちゃんに見せたく無かった事もあるし。せめて生きているうちはね。最後まで女でいたいから、そんな気持を分かって欲しいの。心配掛けたけど許してね。
恭ちゃんから見れば何故自分に、私から特別に手紙が来るのかと思うでしょう?その理由を恭ちゃんに話して置く事がどうしても必要だと思うから、最後までお付き合いをして下さいね。
私、前に恭ちゃんに話したけれど、誤解の無いようにもう一度だけ言っておくわ、義父に暴行されたから男性を嫌った訳ではないのよ。愛する想いが生まれていれば、たとえ義理の父でも受け入れられたかもしれないもの。でも相手の気持を思い遣らない、自分勝手な行為を抑えられない男が許せなかったの。ただその事で受けた私の傷は、今は綺麗に跡形も無く消えてしまったわ。そんな詰まらない事よりも、もっと大切な事を恭ちゃんに伝えなければなりません。

それは陽子の事なの。陽子はね、私と恭ちゃんの間に生まれた娘なのよ。どう驚いた?あの子は間違いで生まれたのでは無いの。私が恭ちゃんを愛している事を初めて知ったから時から、恭ちゃんの子供がどうしても欲しかったの。それが娘の陽子なのよ。あの時、恭ちゃんに今日は大丈夫だからと嘘を吐いたけど、私が責任を持って育てるつもりでいたから、本当は生涯この事は誰にも話さずに暮らして行きたかった。でもこの話しを信じるか信じないか、それは恭ちゃんに任せるわ。戸籍上は父親のでもある洋一郎には悪いけれど、だから何十年も離婚しなかったのよ。恭ちゃん、陽子を愛してやってくれる?娘としてでも、女としてでも構わないわ。愛情を一杯に注いであげて欲しいのよ。陽子は陽子だけれど、陽子はもう一人の私でもあるの。
この頃ね、陽子の体の中で私は生き続けて行けると思う様になったの。だから死ぬ事も怖くは無くなったわ。
それに陽子への愛し方も、恭ちゃんなら全て任せられるのよ。陽子を幸せにして上げられるの、恭ちゃんしかいないもの。何時も陽子を育てながら、私も陽子の中に恭ちゃんを見つめていたの。どう、陽子はいい娘でしょう? 今度は恭ちゃんにその楽しみを譲るわね。きっと陽子の中に、私も見えるはずだから。
それと一年前に区役所で出会った事、恭ちゃんは今でも偶然だと思っているのでしょうね?美術年鑑を見れば恭ちゃんの顔写真だって載っているし、恭ちゃんの絵が今幾ら位なのかだって分かるのよ。恭ちゃんの懇意にしている画商さんぐらい直ぐに調べられるわ。その画商のお店で恭ちゃんの絵のファンだと言って、恭ちゃんは何時東京にお見えになるのですかって聞いたの。そしたらあの日を教えてくれたのよ。しかも区役所に用事がある事まで。私は本当に幸せだった。恭ちゃん、ありがとう。愛子より」

暫く前、陽子を初めてピクニックに誘い、鳥の話しをした時だ。不如帰が鶯などの、他の鳥に托卵すると云う話しを恭一は思い出していた。自分が産んだ子供を、夫の洋一郎との間に生まれた子供として育て、愛子は自分だけの秘密として心に閉じ込めていたそれは、女でなければ出来ない強烈な企みであった。しかも反面、それは夫に裏切られた女の強い意思で決めた、愛する事への熱望を、かたちにした様にも恭一には思える。
『何と言う女なんだ』愛子の手紙を読み終えて、深いため息を吐きながら恭一はそう思った。
しかし愛子へのその想いは、別に卑下したものでも呆れた想いでもなかった。寧ろ愛子が恭一の愛情を得る為に選んだ道が、母と娘の二代に亘った、途方も無い時間をかけたものだと知ったからである。
 ひと時の感情で人を愛し、やがて心が離れて別れて行くこんな時代からみれば、愛子の行為は滑稽な程に、想像を超えたものでもあるだろう。恭一の胸の中で、死んで逝った愛子の思惑が理解出来た時、娘の陽子を愛して欲しいと言う、愛情に飢えた言葉が深く突き刺さって来た。愛する為の方法は任せるからと釘を刺したのは、死んでも貴方は私のものだと言う、強いメッセージにも恭一には聞こえる。
 恭一はもう一度深いため息を吐いた。愛子がずっと封印していた様に、男の欲望は捨ててしまわなければならないと思う。愛子が出来て俺に出来ないはずは無い、恭一はそう思う事にしたのだ。
 昨日から火を入れた薪ストーブのある一階に降りて、薪をくべる様に恭一は愛子からの手紙をそこへ放り込んだ。
       
朝霧高原のこの辺りも、例年に比べれば未だ暖かな日が続いていた。部屋から望む富士の頂は、初冠雪と言われた雪もいつの間にか溶けて、うろこ雲と呼ぶ雲が山の頂よりも遥かに高く、ゆっくりと東に流れていた。
愛子の初七日が済んだ翌日、葬儀の忙しさの中で二の次になっていた哀しみが、まるで秋の深まりと共に恭一の心に忍び込んで来たのだ。頻繁に会う事も無い関係だっただけに、強い惜別の情が込みあげて来る程では無い。だが情を通わせた相手でもあった事から、愛子を思い出す度に心は重く沈んでしまう。しかも陽子が愛子と自分との間に生まれた娘だと、信じられない様な言葉を残して逝った事が、ひどく恭一の胸に覆いかぶさっていた。
 陽子も恭一と同じ様に交す言葉も少なくなり、僅かな笑顔さえも見せる事も無くなって来ていた。こんな時の薬は何よりも、時間が早く過ぎ去ってくれる事でもあるだろう、何時かは哀しみも辛さも、忘却の彼方に追いやってくれるはずだと恭一は思える。
「叔父さま、少し相談があるのですが」
居間で新聞を読んでいた恭一に、陽子から珍しく声を掛けてきた。
「どうした?」
「母のお墓の事なのです」
「愛子が何か希望を残したのかな」
「ええ、富士山の見えるところに、と言う希望だそうですが、何処か心当たりがあればと思って」
 流石に自分の入る墓の事までは、愛子も手が廻らなかったと恭一は思った。
「近くには公園の様な墓地も沢山あるはずだ。昔の死んだ女房は実家がお寺だから、有無も言わさず実家に墓を作って貰い、そこに入れてあるが。そうだな、富士山の見える墓なんて愛子らしくない希望だが、叶えてやらないとね」
「兄が東京にと考えたそうなの、でも父親の墓には入れられないし、母も当然だけど嫌だと思うの」
「誰もが死んだ先の事までは考えないよね。自分は何処のお墓に入るのだとか、田舎なら家族の墓があってそこに戻るしかないけれど」
「叔父さまは何処に入るのですか?」
 と未だ考えても居ない問いかけに、恭一は慌てて思いつくままの返事をした。 
「さぁ、そんな事は考えてもいなかったよ」
「私は母がお墓を作るなら、そこに入れて貰おうかなと思っているの。だから母のお墓は私のお墓のつもりなんです」
「じゃあ、景色と日当たりの良い場所を探してやらなければね」
「叔父さまもそのお墓に、一緒に入りません?」
と言った陽子の一言は、恭一の胸を深く突き刺した。
「ありがとう、その時は頼むかもしれないよ」
それが恭一の精一杯の返事であった。本当ならそれが一番いい事のような気がする。だが人が死んだ者を葬るのは、死んで逝った者の為にあるものでは無いだろう。もし墓にも意味があるとすれば、生き残った者が、先に逝った者の生きた日の姿を記憶に留め、思い起こす為の目じるしでしかないと恭一には思える。
その夜、陽子は又恭一の部屋のドアを叩いた。愛子の葬儀の夜に恭一は、陽子と二人して泣きながら同じベッドで過ごした事を思い出だしていた。
「どうした?」
 机の前に座り本を読んでいた恭一は、振り返るように陽子を見つめた。
「一人で眠るより、叔父さまと一緒の方が・・」
陽子はそう言うと、恭一の腕の中に飛び込んで来たのだ。そしてその後の言葉は言わなかった。
「じゃあ、話しをしながら眠ることにするか」
「えぇ」
小さく腕の中で頷いた陽子は、やっと恭一から離れてベッドに入った。それは恋を知った少女の様に、はにかみながら、嬉々として今の楽しさを追い求めていた。
「陽ちゃん、腕枕してやろうか?」
「はい」
「こんな事は、恐らくお父さんはしてくれた事なかったんだろうね」
「ええ、父親の愛情って良く分からないの、子供の頃からまるで母一人で育てられた様な、そんな雰囲気でしたから」
「俺は息子が一人だけだったから、とても女の子が欲しかったんだ。でも赤ちゃんは出来なかった。娘を持った父親は、娘を目に入れても痛くないって絶対に本当の事だよ」
「じゃぁ、私が叔父さまの娘になるわ」
「それは嬉しいな。すっかり大人の娘だけれど、何でも買ってあげようって気持になるよ。欲しいものがあったら何でも云いなさい」
嘘でもそんな気分にさせてくれる陽子が、堪らなく可愛いと思える。だがそれが真実なのだとは、決して言ってはならないものであった。本当の娘である事を言えば、愛子の極めて個人的な悪巧みは、全てが白日の下に晒される運命にあると思えるのだ。
「でも私、時々叔父さまを男性として見る事があるのよ。優しくて温かくて母が言っていた様に、決して女性を裏切らない男性だからかもしれないけど」
「嫌、分からん、裏切るかもしれないぞ」
「云いえ裏切りません、そんな人では無いもの」
陽子は又恭一の胸の中に、擦る様に顔を埋めて来た。
「陽ちゃん、死んだ女房が見ているよ」
「嫌だ」
慌てて陽子は布団を頭から被っていた。陽子は恭一に取って、想像している娘と、大きく歳の離れた恋人との境を彷徨っていた。暫くの会話が途切れた時、安らかな陽子の吐息が恭一の耳に聞こえていた。
  [痛みと哀しみと]
 愛子の墓を娘の陽子が決めたのは、お墓の相談を恭一がうけてから一週間後の事である。ゴルフ場の支配人にお墓の事を尋ねた時、系列の会社がそうした事業もしていると言う事で、早速動いてくれる事となった。二日前には陽子と一緒に、その霊園のある場所にでかけたのである。富士宮からは丁度富士山の反対側となる所で、富士山の五合目下の道を通り、御殿場の演習場横に出て小山に向かう途中にある。
場所は御殿場に近い丘陵で、南向きの緩やかな斜面に作られた墓地であった。下は芝生が敷かれてお寺の裏手にある様なお墓ではなく、墓の規格が全て揃っていて、ある意味では外国の墓の様に整然と並んでいた。ただ、見渡す限り続いているでも無く、区画ごとに周囲には桜の木が植えられ、生憎と正面が富士山ではなかったが、墓からも右横に薄っすらと見えて、晴れていれば綺麗に富士山は見える場所である。
「私、あの雑然としたお寺のお墓のイメージが、どうしても好きになれないの。ここなら枯れ置かれた供え花のイメージは無いもの、それに春は桜が凄いだろうなって思うわ」
 会社関係の紹介と云う事で、新しい区画の好きな場所を選ぶ事が出来た。桜の木の下で低い植え込みで区切られた角の静かな場所であった。
 帰り道に車の中で愛子が残した遺産について、知っていて欲しいと陽子に言われ、恭一は聞くとも無く聞いていた。結局のところ護国寺のマンションは陽子が受け取る事となった。恐らく相続税は今住んでいるマンションを売るか、或いは物納で足りそうだと言う。兄は母の生命保険が出るので、それを受け取る事にしたらしい。
「それで陽ちゃんは、今の三田のマンションにも住むのかい?」
「事務所か個人に貸そうかと考えています。お家賃が入れば、こちらでお店も借りられると思うから」
御殿場から富士宮に帰る途中で、二人は富士山の中腹にあるロッジに立ち寄った。この店の窓からは伊豆半島と駿河湾が一望に見える。秋の有暮れの少し霞がかかった、マゼンタ色に染められた風景が視界の下に広がっていた。恭一の気持には、それが酷く物悲しい色に映って見えた。
「哀しい色って、こんな色の事を言うのかな?」
「哀しい色って私、時間や風景など見える物の全てを包んで、消えてゆきそうな時の色って思うのですけど」
陽子はまるで大学生が答える様な返事をした。
「素晴らしい答だ。陽ちゃんは美術評論家も出来るな」
恭一の返事に陽子は久しく忘れていた笑顔を、ほんの少しだけ取り戻した様だ。恭一は店を出ると車を置いた駐車場の向かう道で、陽子の後ろから両手を廻してその肩を抱きしめた。

 富士宮の市内に入るとすでに陽は落ちていた。
「叔父さま、さっきから少し気分が悪いの。このまま病院に寄って下さい」
恭一は慌てて聞き返した。
「前に一度貧血で病院に行った事があったな、それと同じ症状かな」
「多分そうだと思いますが、良くは分からないの」
救急医療センターには、確か梅雨に入った六月の初めに陽子を乗せて走った記憶がある。それに東京の病院には、毎月一度出かけていたはずであった。だから女性に良くあるものだと恭一は考えていた。

医療センターの玄関に車を着けて、恭一は受付に飛び込んだ。
「娘が貧血で直ぐに診ていただけますか?そう四ヶ月程前にも同じ症状で、こちらに伺った事があります」
受付の看護師が直ぐに陽子を診察室に運んだ。
「すみません。お名前と年齢と書類に書いて戴けますか?」
戻って来た看護師が、印刷された書類を引き出しから取り出し、恭一は出された書類に陽子の名前と住所、年齢と電話番号を書いた。四ヶ月前のカルテが探し出され、直ぐに診察室に運ばれていった。
 あの時、恭一は何かとんでもない事になりそうな予感があった。しかし現実には問題ないのではと判断が下され、そして陽子は定期的に東京の病院に通っていた。問題が起きるなどありえないはずであった。
 その日も医師が恭一の前に来て「今夜一晩取りあえず緊急入院してもらいます」と告げたのである。理由は精密検査であった。特に血液検査をしなければならないと、恭一に伝えられたのである。
 緊急の入院であった為に個室の部屋が与えられ、恭一は陽子に付き添う様にその夜はベッドの横に長いすを置いて、毛布を掛けて横になった。
「叔父さま、ごめんなさい」
「その言い方は嫌いだな、ありがとうだろう。医者は精密検査だと言っていた。昼前には結論が出るだろうが、東京の病院では何を診て貰ったの?」
「レントゲンと問診です。卵巣や子宮を取り除いた後に、定期的にレントゲンを撮って、新しい癌が出ないか比較して診るのだそうです」
「今夜は手を繋いで寝よう。少しお腹が空いたよね。でも一晩の我慢だ。安心して寝なさい」
陽子は恭一を見つめながら、ベッドの上で横向きになった顔で頷いた。恭一は静かに陽子の髪をなぜて、軽く手を握っていた。やがて陽子は目を閉じると、強く恭一の指を握り返した。陽子の閉じた目からは、何故か一滴の涙が頬を伝って落ちて行った。
陽子の横顔からも感謝の気持ちが、痛い様に恭一の胸に伝わって来るのが分かる。
 
翌朝も未だ朝も開け切らない薄暗い時間だった。二度ほど救急車のサイレンが遠くから近づく様に聞こえていたが、病院に近づくとサイレンが聞こえなくなった。病院の入り口近くまでは急いでいるのだろうが、鳴らす必要の無い場所では、サイレンの音も意味の無い事なのかも知れない。恭一は眠る事が出来なかった。陽子の手を軽く握りながら、陽子の手も又軽く恭一の手を握っていたからである。
「さっき病院に来た救急車で運ばれた方は、命にかかわる程の怪我なのかしら、それとも小さな子供が、高い熱を出して運ばれてきたのかしら」
 陽子が小さな声で、誰に言うともなく呟いた。
「目を閉じてはいたが、余り眠れなかった様だね」
「ええ、でも少し変な事を考えていたのよ」
「どんな事だい?」
 陽子の言葉に、恭一は思わず聞いてみたのだ。
「病院って、命の裁判所みたいって思ったの」
「命の裁判所か・・・」
「ここでは命の時間があとどの位か、裁判長のお医者さんが云うのよ。良い人も悪い人も、子どもも大人も関係ないの。ただあとどの位ですよって」
「かなり残酷だね」
「でもね。その残された時間を教えられた患者さんは、これからどんな風に生きるか、悪い人も良い人も子供も大人もみんな違うのよね、今まで生きて来た時間よりも、これかの時間はとても凝縮された時間になると思うの」
 窓の外が少し白みかけてきていた。
「陽子は何時も俺の宝物だ。離さないから、安心しなさい」
「ありがとう」
 恭一の握られていた指に、陽子の指の力が入った。しかしそれは余り強くない力だった。
 
その日の昼少し前であった。看護師から恭一に、医者が診察室に来る様に伝えられた。外来患者の診察が終ったのか、診察室の前に患者らしい姿は無かった。
「清水陽子の容態を伺いに来ました」
「患者さんのお父さんですか?」
 昨夜診察した医師ではなかったが、内科の担当医である事は確かであった。
「戸籍上は関係ありませんが、その様な関係で母親から預かって暮らしています」
「わかりました。先ず検査の結果をお知らせします。病名は急性白血病です。はっきりと始めにお伝えして置きますが、白血病はいわゆる血液の癌と言える病気です。つまり白血球や赤血球を作る細胞が骨髄の中で癌化して、無制限に増殖する病気なのです。普通は人間が死ぬ様に、血球にも寿命があるのです。赤血球は百二十日ほど、白血球の中の好中球などは大よそ数時間、血小板などは数日間と言われています。いまだ原因ははっきりと特定されてはいませんが、血液細胞の中の遺伝子が、放射線など何らかの原因で傷が付いて、増殖し続ける白血球細胞となるものです。統計的には少ないのですが、以前に癌に罹った方はやはり多いと言うデーターは出ています」
「先生、どのくらい生きて行く事が出来るのでしょうか?」
 やはり一番気にかかる事を、恭一は聞かない訳には行かなかった。
「病院ごとによって、その評価の差はあると思いますよ。治療の仕方が多少異なるからです。それでも平均的には、あくまでも平均ですが、発症から五年の生存率で三十から三十五パーセントでしょうね。早い人で半年の方もいますが、治療成績の良い方で十年以上の方もいらっしゃいます」
「これからの治療について、一体どうすれば良いのでしょうか?」
「東京の病院に通院されていると伺いましたが、いずれにしても入院してもらわなければなりません。抗がん剤の投薬による治療を行い、ある程度良い結果が生まれれば、通院しながらの投薬治療という形をとるのが、今は最善の方法だと思います」
「本人と相談して決めさせて戴きますが、もし入院となればどちらかの病院への紹介とか、こちらの病院への入院など可能なのでしょうか?」
 と陽子の入院について、恭一はその後の対応を聞くことも忘れなかった。
「市内に在住の方であれば、一応こちらの病院への入院はベッドが空き次第可能となります。しかし大学病院などへのご希望があれば、紹介状を書く事は可能ですので、至急結論を出していただかないと本人の容態は改善しませんよ。取りあえず抗がん剤を投与して置きましたが、一日二日での入院を必ずお願いします」
恭一は愛子の時とは違って、ひどく冷静な自分を見つめていた。陽子が自ら言っていたように『癌とは友達みたいなもの、上手く付き合う以外に方法はないもの』と言っていた事が、心の拠所になっている事は確かであった。
取りあえず 二日間の時間を医者から貰い、陽子を車に乗せて家に戻る事にした。まずは陽子に話さなければならないと恭一は思ったからである。
その日の夜、食事の後で恭一は医者からの話しを陽子に伝えた。
「叔父さま、私は大丈夫よ。この位の事は幾度も経験しているのですから」
「白血病だそうだ、それも急性の・・・」
「そうなのですか、じゃまだ暫くは生きていられるのね」
「その暫くが、一体何時までなのか、医者に言わせれば半年から十年以上だそうだ。しかし考え様によっては俺と同じかもしれないがね」
 と自分の人生の余命を、陽子とそれと比較した。
「少なくとも私は、あと半年は何とか大丈夫なのね」
「しかし入院だよ、抗がん剤を打って、その後の経過がよければ通院しながら治療しなければならない。取りあえず東京の通院していた病院に行って、話しを聞くことだね。出来たらもう一度精密検査をしてもらって、その上でこれからの事を決めなければ」
「私、それでもやはり同じ結果だったら、こちらの病院に入院していいでしょう?」
 と陽子は、恭一の近くにいる事を願っていた。
「もちろん俺は陽ちゃんの近くに居たいから、通える場所の病院に入ってもらいたいな」
「明日、東京の病院に行ってきます。駅まで送ってくれます?」
「お迎えにも行ってやるさ」
「叔父さま、今夜も叔父さまのベッドに潜り込みますけど、いいでしょう?もしかしたらこれが最後になるかも知れ無いもの」
「陽子の望みなら、何でも叶えてやると言ったはずだよ」
陽子はすでに娘の様な女ではなかった。愛子が隠し続けて来た自分の娘であった。それが母親の言葉である以上は、間違いの無い事実であろうと恭一は思う。

男はそのとき、今日は大丈夫だと女に言われれば、単純に信じてしまう愚かさを持っている。だが愛子を非難する事は出来ない、非難する資格さえも恭一には無いと言えるからだ。
だがその事は陽子に知られてはならない、恭一の内に隠し続けなければならない絶対的な秘密でもあった。男としての恭一を信頼しきっている陽子の心は、手に取るように理解出来るからである。
愛子の死まで知らなかったとは言え、気持を込めて唇を合わせ、どんな事をしても守ってやろうと決めた覚悟の相手は、娘の様な女に対してであった。しかし本当の娘だと知った今、あの時は他人だったからなのだと、自分の気持を否定する事は出来なかった。

薪ストーブが微かな燃える音を上げて、静まりかえた部屋の空気を暖めていた。その空気取りの小さな窓からは、薪の赤く燃える焔が、休み無く揺れているのが見える。
風呂から上がった恭一は、底の厚い大きなグラスに氷を入れウイスキーを注いでいた。愛子とハワイで酒を飲んでから、時折だがウイスキーを飲むようになった。
次から次と哀しい出来事が襲ってくる事に、気持がアルコールを欲しがっていると思えたからである。その時、愛子と一緒に行ったコンサートで聴いた加藤登紀子の歌が、何故か無性に聴きたいと思えた。時折、薪の燃えて弾ける音が響くだけの静けさの中で、CDの皿をデッキに入れてスイッチを押した。

 冬の風に咲く花びら、貴方にあげるわ
 別れの思い出に 祈りを込めて 
 冬の朝に生まれた人は 冬を愛し続け
 哀しみのその数だけ 人を愛せるわ・・・

 恭一は何時も『冬の蛍』と言う、この、どうって事も無い歌を聴くとき、自分の側から去って行った、母をも含めた女達を思う。だから今も、繰り返し同じ歌を聴いていたのだ。特に冬の朝に生まれた人は冬を愛し・・の詩が、この歌を好きになった理由であった。しかも哀しみの数だけ人を愛せる、と言う、この歌のそのフレーズが好きだった。そして今又、陽子を失う事になるかもしれない痛みが恭一を襲っていた。
 去ってゆく者の哀しみも、それを見送る者の哀しみも、さして違う事は無い様に恭一には思えるのである。
「叔父さまの好きな歌なのですか?」
陽子が風呂から出たのか、珍しくバスローブを着ていた。
「ああ、俺の歌だ。初めて聴いた時から、俺はそう思っている。母は一人で冬の朝に俺を産み落とした。だから俺は冬の季節が好きなんだ。冬はいい。どんよりと雪曇の空の下で、木々の枝は寒さに震えている。でもね、冬の季節は生き物が死んだ訳では無いんだよね。じっと春の季節の為に、その体の内にその日の為の、エネルギーを蓄えているんだ」
「叔父さまのそんな昔のこと、初めて聞きました」
「こんな話しは余り人に話す事では無いさ、今度そのうちにゆっくりと話してあげようね、さぁ、ベッド・ベッド」
恭一は暗い雰囲気を消し去る様に、明るく子供の様に陽子に声をかけた。
「ストーブの火を落として行きますから、お先にどうぞ」
「じゃ宜しく頼む」

恭一は二階の、自分のアトリエの部屋に上がって行った。カーテンを開けると今夜は満月なのか、木々が闇の中に明るく浮かび上がっている。空にはそれでも美しく幾つかの星が輝いていた。窓際のカーペットの上に横になりながら、恭一はその星空を見つめていた。片付けを終えたパジャマ姿の陽子が部屋に来て、同じ様に恭一の隣で座り込み、膝を抱える様にして窓の向うに明るく瞬く星を見上げていた。
「昔ずっと若い頃だ。夜中にサイクリングで確か江ノ島近くの、いいや多分辻堂あたりだったか、海辺に行った時の事だ。波の音を聞きながら空に輝く星を、砂浜にあお向けになって今と同じ様に見つめていた事があったよ。自分は上を向いていると思っているのだが、じっと星空を見つめていると不思議な事に、もしかしたらこの場所は地球の下で、下の星を見つめているのかも知れないと思った時だ、星空に向かって自分が落ちてゆく錯覚に陥った事があってね。あの時の怖さは今までで一番怖かったな」
 何気なく恭一が若い頃に経験した、不思議な体験を独り言の様に言葉にした。
「家の中と違って遮るものが無い場所だと、引力があるからと言う理屈だけでは、何ともならない自然の大きさがあるのでしょうね」
 陽子は感じたままの感想を語った。
「ああ、神様は生き物全て死んで行くように作られた。独りで考え、心臓は勝手に動かいて生きてゆける、人はこれほどまでに完成度の高い生き物なのに。でも考え方にも依るだろうが、寿命があるからこそ完成されているのだと言う意見もある」
「でも出来るなら、やはり納得した人生で終わりたいのにね」
 陽子に言わせれば、もっともっと生きたいに違いない。沢山の経験をしたいでもあろうし、もっと世界を見たかったであろう。激しい恋も味わってみたかったに違いない。
 恭一は起き上がった。窓にはカーテンをせずに、月明かりだけでも部屋の中では、互いの顔の表情もはっきりと見る事が出来る。
ベッドの布団をはいだ後で、恭一は陽子を両手に抱えて上げてベッドに運んだ。
「本当は、陽ちゃんの旦那様になる人が、こうしてベッドに入れてあげるものなんだろうが」
「叔父さま、ありがとう」
「何だ、いきなり礼を言って」
恭一は陽子の上に布団を掛けながら、陽子の隣で横になった。
「叔父さま、私のお願いだったら何でも利いて頂けると言われましたよね」
「ああ、どんな事でも聞いてやるよ」
「叔父さま、私を抱いてくださいますか?」
「ああ、いいよ」
恭一は左手を陽子の首の下に回して、肩を抱き寄せた。
「云いえ、女として抱いて欲しいのです。叔父さまに愛して欲しいの」
 来る時が来たと恭一は思った。いつかこんな時が来る事は、心の隅では覚悟していた。しかし父親としてのそれは、絶対に許されない事であった。
「私、このまま死んで行くのには耐えられません。愛している人が目の前に居て、一緒にお互いの温もりを感じながら、そのまま死んで行くのは酷すぎます。生まれてはじめて、私は本当に男の方を愛していると言い切れます。でもそれを求めるのであれば、それは愛情ではなくなると思っています。だから差し上げたいのです。大好きな叔父さまに、私の最後の我侭だと思いますが、愛する事を許して欲しいのです」
陽子がこのまま入院する事は目に見えていた。抗癌剤が体に与える影響で、良い結果を生むとは限らない事も恭一は承知していた。女として陽子を愛し、陽子の体に触れて女の歓びを知らせる事は、父親でなければ躊躇する事も無く出来る事であった。しかし陽子はそれを知らない。絶対に知らせてはいないのである。それこそ犬や、畜生にも劣る行為であろうと恭一は思う。

だが三十を前にした娘が、あと僅かな、限られた時間の中で死んで行くことが決められたとなれば、しかもその生涯において人を愛する事も、愛される事も拒絶されたとするなら、一体、陽子は何の為に生まれてきたのであろうと恭一には思える。想い悩み、考えている時間は無かった。このまま娘の陽子を女として見つめ、愛してやる以外の方法は何も残されてはいなかった。
自らを正当化する為に生きるよりも、畜生になって地獄へ落ちると言われても、それでも尚、親は子供を愛する事は出来るはずだと恭一には思える。あの愛子が死んだ時、すでに覚悟はしていた。その覚悟とは全ての罪と非難を、生きながら引き受けることである。
恭一は返事の代わりに陽子を抱きしめ、そして話した。
「陽ちゃん、俺は陽ちゃんを愛している事、認めようと思う。女性としての陽ちゃんの全てを愛している。その気持はずっと前から持ち続けていたよ。だから陽ちゃんがそれを求めるのなら、叶えてあげたいと思う。けれどその前に一つだけ、俺の頼みを聞いてもらえないだろうか?」
「やっと叔父さまが私を、愛していると言ったのね。嬉しいわ」
 陽子は嬉しそうに、恭一の首に手を廻して力を入れて抱きしめた。
まるで全ての束縛から開放された様な、陽子が始めて恭一に見せた歓び方であった。
「私の出来る事なら何でも、どんな事でも受け止められるわ」
 陽子には陽子なりに、秘めていた覚悟が出来ている様であった。
「実は未だ男性を知らない陽ちゃんの体を抱く前に、その姿を絵に描いて残して置きたいと思っていたんだ」
「私がモデルに、ですか?」
 突然の話に、陽子は驚いて聞き返した。
「そう、前から頭では考えていたんだけれど、陽ちゃんの名前、『陽子』と云う題を付けたいと思っている。満月の夜、本栖湖を背にして陽ちゃんをその岸辺に立たせ、月の光を浴びた裸婦の陽ちゃんを描きたいと思っているんだ。月夜の晩に本栖湖にまで出掛ける必要は無いのだけど、それでも裸婦の陽ちゃんの姿はスケッチしなければならない。背景は一人で湖に出かけて描いてくるが、どうだろう?」
「私が叔父さまの描く絵に残るのね。とっても嬉しいわ、喜んで言われる通りにしますわ。今、これから描いて呉れるのですか」
「あゝ、許して呉れるならだが」
「ひとつだけお願いがあるの、恥ずかしいのですけど、叔父様も後で裸になって貰えますか?」
「いいよ、陽ちゃんにだけ、恥ずかしい想いはさせたくないからね」

陽子はベッドから出ると、パジャマや下着をも脱ぎ捨て、月明かりの下で裸になって窓の外を見詰めていた。あわてて恭一は、石油ストーブに火を付けると、スケッチブックと墨を取って裸の陽子を見つめた。
女性の裸は恭一にとって、モチーフとしては然したる感情を沸き立たせるものではない。どの様にしてモデルを描くかと言う、絵描きとしての構想が頭の中を一杯に駆け巡っているからだ。
まるでそれは職業としての婦人科医と似ていると思う。しかし今は違っていた。その描く体の全てに命を吹き込み、月の青い光の中でも命を持った女を描きたいと心から思った。しかもその為なのだろうが、初めてデッサンの段階から、描く対象に対して狂おしい程の愛おしさを感じていたのだ。
「陽ちゃん、寒くはないか?」
「大丈夫です。下の居間の暖炉の暖かさが、二階に昇ってくる様になっていた事を始めて知ったわ」
「それじゃあそのままで、少しの間、向うを向いて月を見て居てほしい」
恭一は月明かりに映し出された生まれたままの陽子の姿を、ただ夢中になって描いていた。光の持つ性質を理解し絵筆を通して表現すれば、描く者の想いをそこに映す事が出来る。

特に洋子の様な女性を描くのは、晩秋の月の光を浴びた寒々とした姿が似合うと思える。少し細めだが、すらりとした足は長く、贅肉の少ない体である。胸もさほど豊では無い。だがツンと張った乳房が、未だ経験の無い体を物語っている様でもある。想像した事が無いとは言えないが、陽子は日本画向きの体だと恭一は思う。月の冷たい光の中に置いて、この陽子の無垢な体を本栖湖の湖面に立たせて描いて見たいと、初めて会った時から思っていたのだ。
 そうして体の向きを変えさせ、裸婦のスケッチを幾枚か描き終えた後で、やっと恭一は陽子に声を掛けた。
「もういいよ。描き終わった。さぁ今度は陽ちゃんのご希望に応えよう、本当に寒くは無かったかい?」
「えゝ、大丈夫、じゃ叔父さま、沢山愛して下さいね。それに出来るなら、母を愛した様に愛してくださいますか?」
陽子はそう言うとベッドの上に体を横たえ、羽毛の掛け布団の中に潜り込み、頭を出して恭一を見詰めていた。
「あゝ、何とか希望に応えたいね。もう若くは無いこの体だが、未だ愛してあげることは出来る筈だ」
「はい」
恭一は初めて陽子の前で裸になった。五十七歳の初老の肉体ではあったが、お腹の出た体型でなかったのが今は救いだと思った。そしてそのまま陽子の横にもぐり込んだのだ。

意思を持った唇と唇が触れた。ぎこちない陽子の唇は、未だキスさえも知らない女であった事が理解できる。
「力を入れずに軽く触れて、そして目を閉じて軽く吸ってごらん、もっともっと欲しくなった時にはね、舌と舌を絡ませるんだ」
 陽子は恭一の言葉を受け止めながら、少しずつだが愛する想いを体で伝える方法を理解していた。肌と肌が触れて陽子を抱きしめた時には、すでに二人は言葉の要らない世界に居た。
だが、これが初めてであると同時に、恭一には最後の行為になる様な気がする。男として恋人の気持で抱いてやらねばならない事を、自らに強く言い聞かせていた。それは寧ろ自分の歓びよりも陽子の歓びに合わせ、一つに融けるまで導いて行く、まるで案内人の様でもあった。
 指先で陽子の背中の背骨の上を這わせると、陽子は恭一の上で、大きく弓の様に体を反らせ声を上げた。
「くすぐったい様な気持の良い様な、不思議な感覚なの。止めないでお願い」
 その時不意に恭一は、陽子の母であった愛子を、初めて抱いた時の事を思い出した。あの時の愛子も、確か感じたままを口にしていた事を思い出したのだ。

「恥ずかしかったら目を閉じていいさ。でも本当はすべてを見つめていて欲しいのだが・・」
そう言った後で、恭一は言葉に詰まった。また次が期待できる男と女の営みとは、訳が違ったからだ。
「恥ずかしいけれど、素敵だわ」
小さな声で耳許に口を寄せ、陽子は自分の想いを伝えた。そしてまたも陽子は声を上げて背中を反らしていた。
「どう、感じるかい?小説とは違うだろうな?」
 未だ二人は抱き合ったままの形で、恭一は指先で陽子の背中を愛撫していただけである。
「ずっと私一人で女を感じていたから、愛している人から触れられると震えるの。物語よりもずっとずっと素敵だと思います」
陽子は恭一の胸に顔を埋めながら、見上げる様に恭一を見詰めていた。やがて胸の蕾を唇に挟まれた陽子は、恭一の頭を抱えるようにして、小さく鋭い声を上げた。

「これが陽ちゃんの望む男と女の世界だ。だけどこんな行為は仮初の姿だよ、二人がひとつになったと本当に感じられるのは、辛く苦しい時を一緒に越えられた後のことだと思うよ」
陽子は黙って頷いていた。やがて恭一の指は、初めて陽子の女の部分に触れた。一番敏感な部分と言われる場所が、激しく潤んでいるのが恭一には分かる。
 もう、父親である事は忘れよう、忘れなければ萎えてしまうと恭一は思った。だがどう考えようが、唯の男にはなれそうにも無い。陽子がゆっくりと足を広げ、男を受け入れる瞬間を待っている事は、肌を合わせている者には言葉よりも理解できる。そして思いっきり掛け布団を剥いだ恭一は、月明かりの下で陽子と一つに重なった。しかし恭一の心の中に、男の悦びが湧いてくることは無かった。
 突き動かしているのは誰よりも大切な女が、死を前にして生きている事の歓びを、教えて遣らなければと言う想いでもあった。死を前にした娘を持つ父親でなければ、しかも父親と名乗る事の出来ない男の痛みは、誰も理解出来るものでは無いとさえ思えたのだ。
しばらくして陽子は又小さく声を上げた。今度は深い海の底を漂うような、ゆったりと力を全身から抜いたそれは、少しずつ女に目覚めてゆくのを恭一に受け止めたのだ。やがて恭一の言われるまま、陽子は恭一の上に乗り、自らの体を動かし恍惚とした時間を味わっていた。陽子の生まれ持った女の性は、その生涯で唯一度だけ咲く花に似て、それは最初で最後の歓びでもあった。

陽子の願い通りに二人は一つに融け、今は深い余韻と眠りとの間の、満ち足りたまどろみの中にいた。しかし恭一は陽子をベッドに残し、バスローブを着て一階の居間に降りた。愛した女が二度と逢う事も無い、遠い異国に旅立つ様な、言い尽くせない辛さが体の中を駆け巡ってゆく。
誰よりも何よりも大切な女であり、生涯を一つ屋根の下で、いつまでも暮らしたいと望んだ女だ。子供を生む事の出来ない体であったとしても、女としての歓びを教えた事は、言い換えれば娘と父親の関係が、男女の関係になった事を意味している。
だがそれがどのような理由であれ、昔から犬畜生の行為として非難され、最も蔑まされて来た関係であった。その最も大きな理由は近親関係の交わりが、奇形の子が生まれる事から忌み嫌われ、非難されてきたからである。自然の仕組みが近い血族との関係を、明確に拒んでいる事からである。しかし不思議な事に心の中の情愛は、それが近ければ近い程に深い関係を持つ事であった。
恭一の目には、涙が止め処も無く溢れてきた。まるで自らの体を裂く様な、犯してはならない場所に踏み込んだそれは自虐的な痛みでもあった。

この時に恭一は、愛子の呉れた最後の手紙の事を思い出した。『愛してやって欲しい、娘としてでも、女としてでもかまわないの・・その愛し方は任せるわ・・』
陽子の母でもある愛子の死ぬ直前に書いた手紙の言葉が、その想いが、まるで語り掛けてでも来た様に、恭一の脳裏に鮮明に浮かんで来たのだ。しかも『私は陽子の中で、生き続けてゆく』のだと。そして更に『愛する愉みを譲るわね』と、書いてあった事を思い出した。  
恭一は肩から力が抜けてゆく気がしたのだ。陽子の中には確かに愛子の面影があった。陽子が娘で有ろうが無かろうが、恭一には惜しみなく愛しさを注ぐことの出来る女性である。そしてその想いから、生涯を一緒に過ごしたいと願ったのだ。
陽子の命が消えるまでは、一人の男性で居てやって欲しいと、亡くなった愛子が言っている様にも思える。そして今、陽子と交した性の営みは、互いが愛するものを失う前の、決別の儀式だった様にも恭一は思えた。目眩く程のその一瞬に交した歓びが、強く深い絆を結んだとは思うものの、大切なものを失う哀しみも又、どこかそれに重なる様に思えるのだ。
だが心の奥深くから聴こえてくるのは、失う哀しみだけに心奪われ、生まれ育てた悦びがそこに在った事を、どこかに置き忘れているのでは無いか?今を生きている事に、愛する人と共に過ごしている事に、気持を向ける事を忘れていないか?とした声であった。

翌朝、東京の病院に向かう陽子を、新幹線の新富士駅まで送り届けた恭一は、そのまま本栖湖の湖畔まで車を走らせた。誰もいない駐車場に車を停め、湖畔へと歩き出すと、西からの乾いた冷たい風が強く吹きぬけてゆく。その度に梢に残された枯葉は舞い落ち、ガサガサと音を立てて転がっていった。
晩秋の湖は、その深まりと重なるように、冬の気配が忍び寄っていた。恭一は何時も一人になりたい時は、この湖の岸辺を歩く事にしている。女房が死んだ時もそうだった。齢を重ねると痛みを誤魔化すことが上手くなり、正直に自分の心の痛みを表すことさえ出来なくなる。しかし陽子が言っていた様に、未だ直ぐ死ぬと決まった訳では無い。いつの日にか、目の前の湖に向かって、ありったけの哀しみを叫び声に変えて、狂った様に泣くだろうと思うと思う。それまでの時間をどう生きるかが問題なのだ。哀しむ事は未だ先だと、逆に陽子に教えられた事を初めて恭一は思った。

そうだ、残された時間は死ぬ時を待つだけの、ただそれだけの時間であってはなら無い。陽子を描いてやらなければ、せめてそれまでは何とか生きていて貰いたい、恭一は祈る様な気持で、早く筆を持たなければと思った。                                                
                                     (了)  
 

 


 

托卵(たくらん)

 拙い物語にお付き合い戴き、有難うございました。読んで戴ける方がおられるからこそ、又次の一年間に最低でも一冊は書き下ろしたいと考え、テーマを探しつつ日々を過ごして書き上げております。そして年々上手になったと後々思って戴ければ、この上ない幸せ。何せ読みながら書きながらの日々の暮らしは、街の図書館通いが日課となり、それが為に随分と物知りとなりました。
 先ずは書く事から始めた素人小説ですので、御批評等を下記のメール宛に戴ければ幸いです。又誤字脱字等、読みづらい点につきましても、心よりお詫び致します。kumakuma2211mail@yahoo.co.jp
 処で、この物語は私の知人女性から聞いた話をヒントにしております。ご主人には当然ですが内緒で恋人の作り、かれこれ十年余りもその関係が続いて、ついには彼氏の子供を身ごもってしまいました。元はと言えばご主人の浮気が動機で、この様な結果に。現代人の節操も最近では随分と希薄になり、ノラの犬か猫の様な動物的になったと思いますが、罪悪感の無いのが近頃の特徴かと。遺伝子検査が繁盛すると言われるのも、十分に頷ける時代の到来でしょう。
 その意味では「思い込み」と言う本能は、大いに現代社会の混乱を防いでいるのかも知れません。
 とは言え、そうした検査の上に築かれる血族重視の家族関係は、もはや崩壊の兆しとも思えます。我が子に愛情を一身に注ぐのも、元はと言えば種族保存と言う遺伝子の思惑だそうですが、動物的思考や行動から増々遠のいて行く社会や文化の姿に、人は一体何処に向かっているのかと問われている様にも思えます。
 動物には欲望に赴くままなどの行動は無く、人間が動物である事を改めて認識すると、その生き様は寧ろ動物らしい人間へと進化するかとも思われます。人間らしい動物か、動物らしい人間か? 数万年後に示された人間と云う動物の進化した姿は、見事に新たな種にと別れているとも思われます。しかし果たしてどちらが未来に生き延びるのか、生き残っているのか? この「らしい」の意味が問われ続けて行くのかも知れません。

托卵(たくらん)

戸籍謄本を受け取る為に出かけた区役所で、恭一は突然同じ年齢程の女に呼び止められた。かつて学生時代の同級生で恋人でもあった愛子との、同窓会以来十五年ぶりの再会であった。愛子は二人の子供達を育てていたが、夫の浮気が相手に子供を生ませるまでに至って、完全な別居生活が既に三十年近く続いていたのである。 幼い頃に実の父親からは暴力を振るわれ、育ててくれた義父に犯され、結婚した夫には裏切られて、愛子は心に深い傷痕を負っていた。だが恭一との久しぶりの再会から一年後、末期の癌に侵された愛子は、子供達や恭一の前から去って逝った。そして愛子の娘、陽子も又、母と同じように残された命の時間を宣告されたのである。だがそこには、既に逝ってしまった愛子が企てた、愛する者の愛を得る為の激しい渇望が、想像を越えた姿で娘の陽子に託されていたのである。

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更新日
登録日
2013-02-05

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