評伝『秀(ひい)でた遺伝子』 -佐久間象山と宮本家の人々- 《上巻》 

梅原 逞

 評伝『秀でた遺伝子』-佐久間象山と宮本家の人々-

元号が五月一日より、令和とする事が発表された。その発表され数日後の二〇一九年四月の初旬、今度は五年後に新貨幣に切り替える事を政府は発表した。紙幣を飾る人物は千円札に北里柴三郎氏、裏面は北斎の富嶽三十六景から、神奈川沖浪裏である。五千円札には津田梅子氏、裏面には藤の花。そして一万円札には渋沢栄一氏が選ばれ、その裏面は赤レンガの東京だそうだ。
 
 奇しくも本書の評伝『秀でた遺伝子』の副題にある(・・・宮本家の人々)の遺伝子には、北斎と出会い二百枚余りの墨画を貰った松代藩勘定方の宮本慎助や、その慎助の孫となる宮本璋の方は、渋沢栄一の孫である敬三とは小学生の時から大学まで共に通った、竹馬の友と言う関係にあった。
 更に慎助が再婚し、後妻となる「たか」との間に生まれた六男の宮本叔は、北里柴三郎等と共にペスト流行を阻止する為に香港に赴いた六名の、政府が派遣した医師団の一人であった。つまり北里柴三郎がペスト菌を発見した香港の、その現場に立ち会っていた人物でもあったのだ。

 宮本璋は渋沢栄一の孫となる敬三と共に、東京高等師範学校(現・筑波大学)の附属中学を卒業し、仙台二高を含め東京帝国大学まで同じ学校に通い、しかも互いに一年程を留年していたのである。啓三とは幼い頃から仲間達と共に、三田にあった渋沢家の屋敷の車庫の屋根裏部屋で始めた「ミューゼアム」が、後に民俗学の研究に向い始める頃まで、植物の標本や古い玩具の蒐集など、博物館の様に展示するのが共通の趣味であった。
 勿論だが本書はこうした人々だけでなく、佐久間象山親子とは松代の路地を挟んだ隣家で暮らし、その往来は通家と呼ばれる程の親しい関係にあった。又、慎助の息子である仲は正岡子規の主治医でもあり、仲と腹違いの弟にあたる叔は、夏目漱石が修善寺で吐血し、生死の境を彷徨った時、主治医に頼まれ修善寺に往診をしていた事があった。
更に一九三六年にノーベル化学賞を受けたピーター・デバイ教授など、宮本家この物語は普段から私たちが口にする、(あの人は頭が良い)とか(優れた頭脳を持っている)などと言われる、極めて良質の頭脳を持つ人達の話しである。しかしこれまでに書かれた多くの物語とは違い、主人公は一人の偉人や英雄の生涯の話しでは無い。「あの〇〇家のお子さんとか、お孫さんが」と云う、同じ血筋を受け継いだ人々の物語なのである。
となれば、そこには親から子へと代々に亘って受け継いで来た、遺伝子の存在を抜きに語ることは出来ない。勿論、それが秀でた頭脳を得る為の全てでは無いにしても、或る一族の人々が秀でた遺伝子を受け継ぎ、幕末の時代から今日に至るまで、優れた、秀でた頭脳を発揮していたとなると、私の様な凡人には嫌が上にも関心を向けてしまう。その関心の先に思い浮かべるのは、その頭脳がどの様に生まれ、どう磨かれていったのか、と云う一族の辿った歴史に眼を向くことになる。

何故ならこの物語を書き始める以前、この一族の歴史を調べる動機となったのは、そうした沢山の疑問を目の前にしたからである。何故に一人の遺伝子から次々に、これ程多くの優れた頭脳を持つ人達が生まれたのかと云う疑問であり、明治維新と云う時代が大きく変わる環境の変化は、彼等の持つ遺伝子に一体どの様な影響を与えたのだろうか、と云う疑問でもあった。そこで、この優れた頭脳とはどの位の時間をかけて磨かれ、どの様な環境の下で育って来たのか。更に言えば遺伝子が磨かれるとは一体どの様な事を指すのか、と云う具体的な事象を、この一族の辿った歴史から探って見たいと思ったのである。

とは言え、秀でた頭脳が一体何を指すかは、人によって様々な意見や見方がある。だが、それがどの様な時代や社会であれ、他人からの深い尊敬の想いを抱かれた者だ、と言うことは間違いないだろう。更に付け加えれば周囲の人々に対し、進むべき道を指し示すことの出来る者、受け継いだ良好な資質を自らが更に高め、その影響を周囲の者達に分け与えた者だとも言える。
沢山の人々が知っているとか有名だからとか、後から脚色された様な偉人と称される人ではなく、物語は殆どが誰にも知られていない秀でた遺伝子の話である。それをこれから物語の中で明らかにして行くのだが、秀でた人達に共通して言えるのは、それが学問に限らず秀でた遺伝子を持つ者は、心から尊敬出来る想いを相手に見出し、その思いを自らに受け止める事で相手の域に近づきたいとする、強い願望を絶えず身に付けていたことである。恐らくそれこそが優れた者の証拠であり、秀でた者へと向かうプロセスの様に私には思える。
先ずはその秀でた遺伝子を理解する為に、生化学の初歩的な話から一族の歴史へと話を進めて行く事にしたい。

 「はじめに」
一、   生化学者の憂い
二、   自分らしい決断
三、   秀才教授の報復
四、   村上徹氏が語る恩師の回想
五、   宮本家十二代の系譜
六、   伊能忠敬の和算・慎助の長女「かめ」の行方
七、   宮本慎助と佐久間象山
八、   象山の書いた借用書
九、   象山、漢詩『望岳賦』を著す
十、   海防と砲術と阿蘭陀語
十一、     妾になったお蝶
十二、     北斎と出会った象山


〔はじめに〕
  
 科野の国(長野県)の歴史は実におもしろい。この地方の古い国の名である「しなの」は、当初は「しなぬ」とよばれていた様だ。だが「ぬ」が後に「の」に変わり「科野」の文字があてられたのは、奈良の藤原宮跡から発掘された木簡に、『科野国伊奈評鹿□大贄』と書かれていた頃からである。つまり大化の改新(六四五年)後の令制国発足により、科野国造によって領域が決められた事からであると言う。
 しかも日本最古の歴史書とされる『古事記』(七一二年編纂)でも、大国主神の子建御名方神が諏訪に入国する際、「科野国の州羽(すわ)海に至る」と記されている事から、律令制国家が始動した奈良時代には、科野国が広く知られていた事が分る。更に科野とはどの様な処なのかは、「是の国は、山高く谷幽し、翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず」と書かれた「日本書記」からも、それは伺い知ることが出来る。

 大化の改新後の令制国が発足した事で、科野は佐久・伊奈・高井・埴科・小県・水内・筑摩・更級・諏方・阿曇と木曽地方を除く十郡を以って成立した。しかしその後の白雉年間(六四五~六五四)に、それまで任せて来た地方支配を改め、「評」と呼ばれる行政区域を全国に広げる事になった。科野でも佐久評・伊那(伊奈)評・諏訪(諏方)評・束間(筑摩)評・安曇(阿墨)評・木内評・高井評・小懸評・科野評(後に更級と埴科に分かれる)が成立したと言う。前記の藤原宮跡から掘り起こされた木簡は、恐らくこの頃に記録として書かれたものだと推測されるのである。

 しかも松本などの南信州一体を筑摩郡とか筑摩県とする事が決められたのは、大宝律令(七〇一年)の三年後となる七〇四年の事である。この時に北科野と南科野を併せて信濃国とされたのだが、筑摩が束間評とした支配に変るも、この筑摩県の中央部を流れる川が筑摩川と呼ばれ続け、束間川にされる事はなかったらしい。
その筑摩川が後に千曲川と書かれる様になるのは明治に入ってからの事だが、この川が越後との国境にある栄村を越えて越後平野へ下ると、不思議な事に名前は千曲川から信濃川と呼ばれる様になる。信濃国から流れてきた川だからであるらしい。嘗て江戸時代は越後国と信州松代藩との国境近くを流れる魚野川が、信濃川へ流れ込む辺りまでを千曲川としていた様だが、名前は明治になると新潟県では信濃川、長野県では千曲川と新政府によって決められたのである。

 その千曲川は山梨県との県境に聳える甲武信ケ岳を源にし、一方で松本盆地の安曇野に集る犀川の水は、岐阜県との県境に聳える槍ヶ岳に源を発する。そしてこの二つの川が合流する善光寺近くの中洲を、古くから川中島と呼ばれていた。その場所で越後の上杉勢と甲斐の武田の軍勢が、五度に亘って戦った所謂「川中島の戦い」が終ったのは永禄七年(一五六四)の事である。
戦が終って暫く後の事である。戦場となった川中島の河畔近くの小さな村の外れで、武士を捨てた一人の男はささやかな暮らしを営み始めたのだ。男は御幣川(おんべがわ)村(現・篠ノ井)の片隅に住いを求めると、鋤を振り上げ鍬を手にして汗を流し、川岸に生い茂る萱を刈る事から畑を広げ、河畔の荒地を黙々と開墾し始めたのである。

 男の名前は宮本九兵衛正武、最初に宮本家の菩提寺となった御幣川村の玄峰院(現・篠ノ井岡田)に残された墓碑銘には、慶長元年(一五九六)丙申十二月二日に歿した事が記されている。だがその男が武田の武士か或いは上杉の者なのか、それを知る手掛りも男が何故に武士を捨てたのかさえ、その訳を知るものは一切残されてはいない。
しかも武士を捨てたその男は、単に荒地を開墾しただけではなかった。近隣の人々と共に郷党と呼ばれる組織を作り上げ、自らの土地を自らが守りぬく郷士となったのである。郷士とは戦の時は槍や刀を持ち、古くからその地を治める国人領主の許に集り、平時は土を相手に作物を作る者達の事である。

 御幣川村で郷党を作り上げた初代九兵衛正武の息子となる二代目久兵衛正直の時代、御幣川村で初めて寺子屋を開き、その後に四代もの代を重ねた宮本九太夫正之(?~一七二七)は、父である三代目の市兵衛正禮(?~一七三三)から、京に上り宮城流の和算を学んで来る様に求められた。郷党で暮らす子供や親達に対して、既に文字の読み書きを教えていた事から、新たに和算を教える必要を感じ始めたのだ。  
こうして九太夫正之は京に上ると、当事は都で唯一の宮城流の和算を教えていた宮城外記清行の門下で学ぶ事になる。数年を経て宮城流の免許皆伝を得た四代目の九太夫正之は、故郷の御幣川村に戻ると京で学んだ算学を郷党の子弟や親達に教え始めたのだ。後年、宮本家の子孫達が編纂した『私誌・宮本家代々三百七十年の歴史』にその事が記載されている。
つまり川中島の戦いから四百年余りを経た歳月の中で、男達の血筋は途絶える事も無く世代を重ねて行った。この男達の残した秀でた遺伝子は、記録の残る戦国の世から安土桃山・江戸・明治・大正・昭和、そして平成から現代にまで受け継がれているのである。

 それ故にこの物語は、男達の血筋が途絶える事も無く代を重ね続け、十三代にも及ぶ世代を生きた宮本家の、秀でた遺伝子を育て持つ人々の話である。宮本家の一族が代々受け継いで来た遺伝子が、どれ程に秀でているかは読んで戴く事で理解頂けるとしても、彼等はその時々に接した師とも呼べる人々からの影響を強く受け、しかも自らも率先して新たな学問を学び、求める者にはそれを教え伝え、時代の流れを受け止める事で見事に秀でた遺伝子を育んで来たと言える。何故なら人の遺伝子は、良質の人々と交わり相手に尊敬の念を抱く事でのみ、進歩を重ねて行けるものだからだ。
さて物語は、生命が地上に誕生して三十五億とも四十億年とも言われる今、進化の過程で形こそ変えたものの、生命を繋ぎ続けてきた命の素となる遺伝子に関係する為、ここで話は大きく変わる事になるが、暫くの間ではあるにしても小難しい生化学の話をお許し頂きたい。

 祖先から受け継がれた生命の様々な現象や、その仕組みを解き明かす生化学の世界では、遺伝子を検査する方法の一つでもある電気泳動の事を、研究者たちは誰もがバンド(band)と呼んでいる。生化学に関して殆ど素人の私の、これは極めて個人的な見解ではあるのだが、恐らく血清タンパク質の分析やDNAの塩基配列の決定に用いる時、それが黒から白へと帯(バンド)状の模様を浮かび上がらせるからだろうと思える。以前にスタップ細胞の話題が広くメデアを賑せ、論文に切り貼りされたバンドの写真がテレビで幾度も紹介されたから、恐らく化学に多少の関心のある読者なら思い出してくれると思う。

 その電気泳動の原理を手短に語れば、話は分子と云う物質の大きさまで小さくなる。物としての意味を持つ最小の単位は分子であり、その物を更に壊して小さくすれば、そこには物を構成する材料の原子があり、現代ではその原子も、原子核とその周囲に中性子と呼ぶ電気的な物質の存在が確認されているが、何れにしてもどれだけ微細な世界かは理解戴けるだろう。
そして試料のタンパク質を固体でも液体でもない寒天状の、ゲルと呼ばれる分子同士が結合した中に入れ電圧を掛けると、試料のタンパク質は陰極から陽極へと移動してゆく。この時に分子量の小さなタンパク質は、ゲルの分子が結合した隙間を通過出来る一方、分子量の大きなタンパク質はゲルの分子が結合した隙間に引っ掛り、それが濃い帯となって浮き上がると言う、至って単純な現象を画像に変換した仕組みのことである。

 十九世紀の初めに、水の中の微細な粘土粒子が電圧によって移動する現象を、ある偶然から発見したのはロシアの物理学者、フェルディナント・フリードリヒ・ロイスである。そしてこの現象をタンパク質やアミノ酸の研究に応用したのが、スゥエーデンの生化学者ウイリアム・ティセリウスであった。ティセリウスは一八四八年に、『電気泳動装置と血清タンパクの複合性に関する研究』で、新たな研究成果を示した事からノーベル化学賞を受賞している。
つまり、タンパク質を溶かした試料の溶解液に電圧をかけた時、荷電と反対の極にタンパク質が移動する性質のある事から、この時に移動した距離の違いによって分離を調べる方法で、分子生物学や生化学、更に遺伝子解析の分野では、今や無くてはならないものとなっている。
 
 当然のことだが分離とは言え、一グラムにも遥かに満たない極めて微細な世界の話である。そしてこの時から二十年後の一八六九年、外科患者の傷口を覆う包帯に付着した、膿の中にある白血球の核の中から、初めてDNA(デオキシリボ核酸)を発見したのが、スイスの生理学者で化学者のフリードリッヒ・ミーシェルである。
ミーシェルは分離した細胞の核から、リン酸塩などの化学物質を抽出する事に熱意を傾けていた為、発見したDNAが遺伝に関係する、重要な役割を持っていた事など全く気付かなかったと言う。彼は発見したDNAをヌクレインと名付けたその十六年後、他の化学者によってDNAの原料(塩基)の一つとなるアデニンが発見され、翌年にはグアニンが更に七年後にチミン、そしてその翌年にシトシンが発見され、後の一九二九年に、核酸にはDNAとRNAの二種類ある事か確認されたのである。

 尤も生命の仕組みが科学的に解明される遥か昔から、人々はそれを血筋とか血統などと呼び、親から子、更に孫へと代々に亘って遺伝子を引き継ぎ、姿やかたち或いは性格などの一部が親に似る事を経験から知っていた。だからこそ祖先達の特徴を、親から引き継ぐそこに極めて重要な意味が与えられ、一族を支える主柱の様な役割があったと言えるだろう。
今日でも神話の時代から続くと言われている天皇家には、その世襲の仕組みが色濃く残されている。しかも国家として国民の意思が統一された以降も、明治から大正、昭和の時代に至るまで、あらゆる人たちがその仕組みを受け入れ、又それに縛られて来たとも言える。例えば本家と分家、長男と次男などの役割を暗黙のうちに担うという、社会秩序を維持する為の決まり事が存在していたのだ。

 しかし時代の変化と共に世襲の仕組みが徐々に消え去り、能力や財力、或いは地位や資格などが優先されると、血筋や血統と呼ばれる意味は益々薄くなって来た。寧ろそこには血肉を分け身近に暮らす身内としての、極めて自然な情愛だけが残って来たとも言えるだろう。その証拠に自身の三代から四代以前の祖父や祖母、曽祖父や曾祖母の名前など、記憶している人は極めて少ない筈である。
その結果、産まれた時から亡くなるまでの時間の事だとする「命」は、四十億年近くも前に発生して今に続く「生命」から切り離され、まるで自分の所有物の様に捉える風潮が蔓延してしまった。家族は経済市場や国家によって分断され、個人と言う姿に作り直されたからである。
嘗て画家のゴーギャンが描いた一枚の絵画、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、そして何処に行くのか」とする画題の問いに向き合う為にも、生命が遠い過去の時代から幾千幾万の代にも亘って連鎖し、進化を重ねて未来に繋げて行く役割を持つ事を、我々は改めて理解しなければと思える。何故なら「我々は何者か」と問うに等しく、「我々は何処に向うのか」を知ることは、「何処から我々が来たのか」を知る事でもあるからだ。

 とは言え世界が「精神か物質か」、とする哲学的議論を尽くしたとしても、生命科学の探索は止める事を知らないだろう。人間とは知りたいと思う事を、永遠に追い求める生物だからだ。それ故に今日では遺伝子の解析が進み、意志や生命が存在する理由をも読み解く時代になったとも言える。特に近年は生命科学が目覚しい進歩を果たし、遺伝子構造からその組み替えなど、新たな技術の確立と発見を成し遂げて来た。
何れは永遠に生き続ける事も、或いは可能な時代に突き進んでいる様に思える。何故なら人間が宇宙に向うには余りにもその寿命は短く、決して老化する事の無い肉体を手に入れる以外、宇宙の果てを知ることは有り得ないからだ。
ノーベル賞を受賞した生物学者の利根川進氏は、「人間とは、遺伝子を未来に運ぶ為の乗り物だ」とも述べ、新たな生命の見方や考え方を探り出すと共に、命のしくみを更に深く見出そうとしている。

 化学的な視点から見れば人間の体の全ては細胞によって形作られ、その細胞は遺伝子の命令によってタンパク質で形作られている。二〇一六年に刊行され世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』の中で、著者のユヴァル・ノア・ハラリ氏が言う様に、「私達の精神的・感情的世界は、何百万年もの進化の過程で形成された、生化学的な仕組みによって支配されている」と言う説は、あながち間違いでは無いだろう。更に「他のあらゆる精神状態と同じく、主観的厚生も給与や社会的関係、あるいは政治的権利のような外部的要因によって決るのではない。そうではなく、神経やニューロン、シナプス、さらにはセロトニンやドパーミン、オキシトシンの様なさまざまな生化学物質から成る、複雑なシステムによって決定される」と言うのだ。
そしてそこには生命誕生から続く不老不死としての遺伝子が、精子と卵子の結合でのみ子孫が産まれると言う仕組みを変える事は無い。しかも更に微細な物質としてのヒトを形成する、生命の細部を見つめる視点を生んだのである。

 ところで前にも述べたが、祖先から代々に亘って引き継がれて来た遺伝子の事を、極めて大まかな言葉で表現すれば、〔肉親に〕似ていると言わせるDNAと云う物質の事である。このDNAとは雄と雌が受け継いで来た二つの因子を結合する事で、実際の目に見える姿や形へと、作り出すプログラムの事だと言われている。
つまり自らの身体を構成する為に、予め決められた量や性質のタンパク質を作り出し、細胞分裂を繰り返しさせながら、骨や皮膚や髪の毛など順序良く作り出す仕組みの事である。簡単に言えば体の部位となるタンパク質を生産する為の、原料であるアミノ酸の組み合わせがそこに刻みこまれている、と言えば判りやすいかも知れない。

 更に遺伝とは余り関わりはないと考えられて来た生殖と云う、本能としてのセックスに関しても、遺伝子に支配されていると言う研究結果が示されている。具体的に言えば浮気性の父親の因子は、息子にも遺伝するという話である。しかし息子に遺伝すると言われる浮気性も、娘には遺伝しないと言う結果も出てきているから話は更に難しく、そして益々やゝっこしくなって来るのだ。
しかも人間以外の生物との間には、ゲノムと呼ばれる遺伝子情報の違いから子供が産まれることは無く、更には血液型というものがあり、男女夫々の血液型からは決して生まれない血液型の組み合わせというものも有る様に、そこには未だ明らかにはされていない、自然のルールというものが存在するといわれている。恐らく生命の仕組みが世代と共に高度に進化し、単純で簡潔な生命の発生が抑えられているとも言えるだろう。

 こうした様々な事を考え併せ理解を試みるとするなら、遺伝子とは単に両親や祖父母、更には祖先から受け継いだ色の様なものだと考えれば、我々には理解しやすいのかも知れない。青と黄色の色を混ぜ合わせれば、そこに生まれるのは全く新しい色ではなく、青や黄色の元となる色の素因を強く持つ色になる。しかもこれは単なる血筋だけの話ではなく、一緒に暮らすと云う影響下に於いての色は、染色体による色とは全く異なる、環境因子としての親子の繋がりをも育てているのである。
ダーウインの進化論を述べるまでも無く、ガラパゴス諸島のゾウガメは島ごとに甲羅の形が異なっている。乾燥した低い島のカメは、首の後ろの甲羅が酷く捲れ上がって、一方の高い山のある水の豊かな島のカメは、そうした姿になってはいない。実は乾燥した島の餌は少なく、餌となるサボテンの実は高い場所に生るからで、首を伸ばして餌を食べなければならないこの島のカメは、恐ろしく長い時間をかけて、置かれた環境に自らを適合させていたのである。

 それだけに遺伝と云う意味を端的に言えば、血筋の繋がる親や兄弟が似ていると言う〔似る〕とは、赤の他人に対して語る漠然とした〔似ている〕では無く、親子や兄弟などの肉親とは〔似ていなければならない〕、と言う宿命があるとも言えるだろう。尤も、親に似ていなければDNAを引き継いではいないのか?と問われれば、それも又一面的な見方でもある。遺伝とは表面的に見える部分だけを、親から引き継ぐ訳ではないからである。しかも現代はDNAを調べれば、遺伝的に間係を持った親子かどうかは非常に高い確率で判別がつく。つまり親子関係の判別が付くとは、そこに一つの生命の法則が存在するとも言えるのだ。

 だが生化学の研究手法や遺伝子の話を、この物語の中で私はこれ以上、こと細かく解説するつもりなど毛頭ない。特に専門家でも無い私には、専門雑誌を少しだけ舐めた程度の知識しか持ち合わせていないし、生化学の特に最新研究の深みに嵌ると、物語の方向性は私の目論みとは大きく離れてしまうからだ。
むしろ親から受け継いだ顔やかたちの話はともかく、頭脳に限ってみれば神経の繋がりを伸ばすことは、それほど難しい事ではない様に思える。そこに幼い子供が抱く「何故、どうしてそうなるのか」と云う疑問を起こさせ、それに向き合えば脳細胞は途端に動き出し、その疑問を解決する為の思考を開始する筈だ。しかも関心のある事柄に対しての脳の反応は、実に驚く程に貧欲であるらしい。頭脳の動きが鈍いのは、知りたいとする動機や気力が無い事と共に、強い関心を持つ事が出来ないだけなのである。
何故なら脳の思考回路を繋ぐ神経が時々切断し、軋む様な年齢になった私は今頃になって、ようやくそれを理解したいと思う様になったからである。

 例えばヒトは成長する時、知らない事は知りたがる生き物でもある。特に関心が強く興味を持つ事柄となれば、何はさておき夢中になる。そうして知識や経験を集めている時が、脳の最も成長している時だと言えるだろう。それまで知らなかった知識を得る事が出来れば、或いは失敗や成功の経験を積み重ねられれば、自らの身の上に起きる危険を予め回避出きるし、反面教師としてそこから学ぶ事もできる。豊かな暮らしも満たされた人生も、単なる夢に終る事は無い可能性がそこに見出せるだろう。
それに何よりも無駄な労力を使わずに、願いや目的を果たす事が出来る。そしてその度に頭脳は新たに神経回路を繋ぎ、更に視野や奥行きを広げる事が出来る。子供達は何を見ても何を聞いても、何故?どうして?と疑問を持つ事からして、それは納得出来る話でもある。やがて疑問を持つ事が面倒になり、愚痴や他者への批判で自分を誤魔化し始める様になると、細胞の活性は徐々に停滞して行き、老いの特長でもある惰性と言う時間に流されて往く事になる。

 とは言え生命誕生から四十億年ほどの時間の中で、生物として進化したにも関わらず、我々がそれを実感出来るのは極めて僅かな変化でしかなく、時として退化の道を歩んでいる様にさえも思える事がある。だから祖先から引き継いで来た夢や想いを自らの中から取り出し、その上に更なる自身の想いや夢を書き加えて我が子に託す。子孫は直接或いは間接的な影響を環境や周囲の人々から与えられ、それを受け止めながら成長する。
その限りなく古くて遠い時代から続けられて来た営みこそが、未来に送り届ける事の出来る唯一の使命の様に思えるし、命とは未来に送り届ける事の出来る、過去から託されたメッセージだと私には思えるのだ。
それに心から尊敬出来る相手に出会うと、変化はかなりの速さで自らを変えて行く力になる様だ。だから優れた上質の頭脳とは、単に記憶力が良いと言うだけではなく、才能、才覚、天才などの言葉に使われる、才(ざえ)と云われる頭脳の働きだと私も思う。蓄えた豊かな知識や新たに磨かれた知性を、日々の中に使う或いは受け止め蓄える。それこそが才の持つ意味であり目的なのだろう。

 話は少し逸れてしまうが、この「才」の言葉の持つ意味を本の中で私に教えてくれたのは、ノーベル文学賞の作家でもある大江健三郎氏であった。氏はノーベル賞受賞の時、『あいまいな日本の私』というテーマで講演している。これは先にノーベル文学賞を受けた川端康成氏の、『美しい日本の私』を大江流にもじったタイトルでもある。後に北欧などで公演旅行の最中に語った話を纏めたものを、『あいまいな日本の私』としたタイトルで岩波新書からも刊行している。
ところで大江氏はこの本の中で、紫式部が書いた『源氏物語』の一部を引用し、源氏が三十代半ばの頃の息子である『夕霧』の教育について、大学に入れたくない祖母の大宮との論争の話を、『少女』の巻の一節を引用して語っている。尤も、語っているのは作者である紫式部なのだが、とり合えず必要な部分だけ抜き出し、ここに取り上げる事にしたい。

 祖母の大宮は身分の高い夕霧を、朝廷の中にある大学とやらに入れるなど《飽かずあさましきこととおぼしたるぞ、ことわりにいとほしかりける》と思い、おいたわしいやと愚痴を述べ、源氏の息子である夕霧に同情するのである。さしずめ、なぜそんな所に閉じ込められ、難しい理屈を身に付けようとするのか、私には理解出来ないと言う感じである。
ところが源氏は、その大宮を説得してこの様に語っている。《わずかになむはかなき書なども習ひはべりし》。この書とは中国の書物の事であるが、自分も父親の帝のもとで、書を読み意味を理解し学問をしてきましたよ、と語っているのである。そして更に源氏は《なほ才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるゝかたも強うはべらめ》と説いて、学問が基礎となった才能は、世に重んじられるものですよ、とも述べている。

 あの太平洋戦争を最後まで遂行したいと考えた連中が、負け戦を国民には知らせずに更に戦争を継続させる為に、『大和魂』と云う言葉を源氏物語のこの部分から抜き取ったのは有名な話である。
しかしその『大和魂』の言葉の前に書かれた紫式部の想いでもある《なほ才をもととしてこそ》、つまり学問を身に付ける事こそが世に重んじられる近道ですと云う言葉を、式部は敢えて『大和魂』の前に掲げて読む人に伝えていたのである。
それにも関わらず才と切り離された『大和魂』は、「滅私奉公」とか「潔さ」など意図的に別の意味が付け加えられ、無謀な戦争へ人々を誘い込む言葉の道具に変えられ、しかも彼らの目的に利用された歴史があった。だからこそ自らの内に積み上げた知識は、言葉によって意図して欺く偽善を見破る筈だと私には思えるのだ。

 時々の時代の権力者が自らの都合で編み出した、一時的で極めて手前勝手な目論見とは関係なく、全ての生物は今を生き、そしてこれからを生き続けて行く筈である。それ故に世界を理解しようと試みる人間に限って言えば、夫々が持つ遺伝子本来の目論見を知る為に、「才」の持つ力を受け止め、育てて行かなければならないだろう。そうすれば「才」は間違いなく、まるで本能の様に未来へと自らの夢を育む筈だ。だから新たな知識や経験を糧に積み上げたDNAは、その目的に向かわせる為の原動力だと思えるのだ。
そしてそれを証明する為に私は、歴史上存在し北信濃の片田舎に生きた、名も無いこの一族を引き合いに出し、後に極めて良質で魅力的な性質と、豊かな頭脳と才を育んだ人々の姿を、一例として紹介したいと思ったのである。

 物語は現代から凡そ三百七十年程を遡った頃まで明らかに出来た事で、秀でた一つの遺伝子の足跡を纏める事が出来た。現代に血筋を残すこの宮本家の先祖は川中島の戦いの後、近くの御幣川村(現・長野市篠野井)で芝切(農地を広げる為に草深い荒地を開墾し、葦や雑草を刈り取る仕事)に汗しながら、農地を切り開き自然を相手にして豊かさを求めた人々であった。
そこでこの一族の永く続いた歴史の中から、まずは戦前と言われる一九三五年(昭和十年)あたり以降を切り取り、宮本家十二代目の宮本璋(あきら)の事から話を始める事にしたい。そしてそこへと続く江戸から明治以降の宮本家の人々が遭遇した、多くの才能を持つ人々との出会いを描きたい。伊能忠敬・佐久間象山・高井鴻山、葛飾北斎や娘の阿栄、更に勝海舟の妹でもある順子や正岡子規・夏目漱石、渋沢栄一の孫となる渋沢敬三などの他、北里柴三郎や青山胤通などの他、後の筑波大学学長に選ばれた阿南功一や東京医科歯科大学の学長となった清水文彦などの教え子達を含め、秀でた様々な人々との触れ合いをも拾い出し、何故に宮本家の人々の中に、尊敬に値する程の多くの頭脳明晰な人々が育ったのか、その謎を解き明かすことが出来ればと思う。


一、生化学者の憂い 

 宮本家の十二代目となる宮本璋(あきら)が、東京帝国大学の医学部を卒業したのは一九二一年(大正十年)の満二十五歳の時である。子供の頃から生化学者になりたいと願っていた璋は、卒業すると迷わず副手として大学に残り、翌年に学生時代からの友人で、お茶の水女子高等師範学校を卒業した達子と結婚すると、更にその翌年には大学から助手を拝命した。そして翌年に長男の正之が生まれ、年号が昭和となった年に今度は、生化学教室の講師の辞令を受けることになった。
それから七年後の一九三三年(昭和八年)となる三十七歳の時、生化学教室の助教授に任命されたのである。これまでの璋の経歴を外から見れば、まずは順風万帆の出世コースを歩いている様に見える。だが医者になると考えて医学部に入った心算の無い璋は、教授や学部長こそ目標だと思っている者達には、全く理解を超えた人種に映った様であった。

 助教授になって一年後、更に嬉しい話が璋の許に届いた。翌年の暮れから念願だったドイツのベルリンにある、カイザー・ウィルヘルム研究所への留学が大学から認められたからだ。期間は一九三五年(昭和十年)十一月から一九三八年十月迄の三年間とした、留学許可が大学から出されたからである。 しかも政府から派遣される文部省在外研究員と云う、何とも重い肩書きが与えられての留学であった。
しかも四十歳となってからのドイツ留学は、自らの経歴に箔を付ける様な意味から見れば、随分と遅い留学だと思うに違いない。とは言え若い頃からピーター・デバイ教授に学んでみたいと望んでいた璋からみれば、教授に直接学ぶ事の出来る機会を得たのが、四十歳で実現したというだけの話であった。それだけに的外れの批評には意に介さない程、璋には若い頃から持ち続けていた念願のドイツ行きでもあったのだ。
ところが璋が実際にドイツに向ったのは、大学から許された留学期間に入ってから、既に半年も過ぎた翌年の三月末の事であった。留学許可の期間が過ぎても璋がドイツへ向かう事が出来なかったのは、やむを得ない事情が家族の中で起きていたからである。

 璋の父親で、小児科と内科の開業医でもあった宮本仲(なかつ)の余命が、この時にあと半年程とした宣告を受けたからである。しかも璋は留学直前の九月に、突然にそれを知ることになった。仲は余命宣告を受けた此の年に、七十八歳の高齢となっていた。十年以上も前には既に開業医を辞め、それからの日々は一冊の本を書き上げるのに、凄まじい気迫と執念を持って執筆を続けていたのだ。しかもその傍らで仲は佐久間象山に関する研究と、遺墨の蒐集に没頭していたのである。
仲が七十五歳になった三年前の一九三二年(昭和七年)、岩波書店から念願だった『佐久間象山』を刊行した。ところが刊行した後になって、初版本の一部に僅かな気になる書き落しを発見した事から、「自分が死ぬまでには、何としても改定版の刊行を終えたい」と、周囲の者達に自らの思いを語っていた事がある。
だがこの頃の仲の視力は殆どなくなり、日を追って体力も衰弱して来ていた。父親に残された時間が、あと僅かしかない事を悟った璋は、ドイツ留学の期間が短くなる事を承知の上で、口述筆記と云う方法で改訂版の編集を手伝い、願いだった訂二版の校正と共に、父の死を看取る事にしたのだ。

 宮本仲は医師とした職業以外に、幕末に生きた佐久間象山の研究家として、その世界では広く名の知られた人である。特に象山の書簡や漢詩・書画など、松代の真田家や宮下家・白井家や山本家などの旧蔵関係資料や、真田宝物館へ寄贈された寄託資料の中にそれを見る事が出来る。
更に真贋の鑑定も一般人から頼まれ、縁者や松代藩の関係者から依頼される程で、こうした事から見ても、象山の生涯を最も良く理解していた人だと言えるだろう。仲の父親でもあった宮本慎助は、象山と同じ真田家松代藩の家臣でもあり、門弟子として象山から漢詩や儒学を学び、幼い頃から極めて親しい関係にあった事にそれは起因する。
慎助の息子である仲も当初は、一種の親近感から象山の研究を始めた様である。幼い頃には象山の膝の上に載せて貰い、頭を撫ぜて貰った話などは幾度も父の仲から聞かされ、加えて象山から父親の慎助宛に届いた親しい内容の手紙が、幾通も実家のある松代の宮本家に保管されていたからである。

 仲は手許近くにあった佐久間象山の様々な資料を読み、散逸した手紙や書などを集め始めたのである。やがて象山の足跡を追い始めると、仲の象山に対する気持ちは何時しか、故郷の偉人を更に深く理解したいという想いに向かって行った。
仲が象山の考えや生き方に強い尊敬の念を抱く様になった事は、自著の『佐久間象山』の文中にも、一貫して象山を「先生」と書いている事から、その想いを窺い知る事が出来るだろう。しかも一読すれば、膨大で確かな資料に基づいて書かれたものか、どれ程の深い尊敬の念を表したものかを理解出来る筈だ。
それだけに僅かな間違いや書き落としも放置しておく事ができず、佐久間象山が生きた証を後の世の人々に、正しく知って貰うに値する資料を遺したい、とする仲の強い願いをそこに見ることができる。まして象山から父の慎助が貰った、多くの書画や手紙などを手放してしまえば、象山に関わる資料はその分だけ散逸しまう事にもなる。仲はそれを防ぐのも自らの使命と考え、その時の想いを仲はこう書き残している。

 「(略)偏(ひと)へに偉大なる我が佐久間象山先生の事蹟の顕彰に対する江湖の共鳴に外ならないものと信ずる時、仮令吾が眼は盲たりと雖(いへど)も、吾が軀は衰たりと雖も、一日の晏如も許されるべきではないと思考した」(宮本仲著、『佐久間象山』訂二版、原文のまま)
そこには自らに残された僅かな命の時間を、まるで絞り出すかの様な壮絶な決意を、仲の一文から汲み取る事が出来るのである。それからふた月が過ぎた一九三五年(昭和十年)の十二月半ば、何とか書き落とした部分を補足し、関係する部分の誤りを正した改訂ニ版を校了すると、安心した様に仲は床に就いた。そして年が明けた一月四日、七十九歳の生涯を閉じたのである。

 父である仲の葬儀や四十九日を済ませた璋は、憧れていたドバイ教授に学ぶ為、半年遅れで留学先のドイツへと向ったのだ。渡欧する為に神戸港へと向かう途中の三月二十九日、璋は三田の渋沢邸にあるアチック・ミューゼアムに立ち寄っている。二年半程ではあるにしても、親友の敬三や仲間達とは会えなくなるからであった。ここで言う敬三とは渋沢栄一の孫で、竹馬の友とも言える渋沢敬三である。四年前に第一銀行の常務取締役に就任し、念願の『豆州(いず)内浦漁民史料』の刊行を翌年に控えるなど、敬三も又多忙な日々を過ごしていたのだ。
璋は入り口にあった「芳名禄」に自分の名前を記すと、その肩書きに『アテック欧州派遣員』と書き入れてそこを離れた。小学校から大学までの同窓でもある渋沢敬三へ、暫く会えなくなる感傷を洒落に変えて、茶目っ気を含ませたそれは璋から敬三への挨拶でもあった。
この昭和十一年(一九三六)八月のドイツは、折から第十一回ベルリンオリンピックが開催されていた。あの女子水泳平泳ぎ二百メートルで、見事に金メダルを取った前畑ガンバレの声が、日本中に鳴り響いていた年である。

 先進国でタンパク質やアミノ酸などの研究をする場合、電気泳動がこの頃には既に用いられてはいたが、それでも未だ水溶液を用いたものしかなく、不安定さが絶えず付きまとい研究者達を酷く悩ませていた。それにこの時代にはエアコンも無く、研究室の中は季節や時間によって、大きな温度変化の起きる場所でもあった。
やがて第二次大戦後には澱粉ゲルや寒天ゲルが電気泳動に用いられる様になり、後には濾紙やセルロスアセテート膜を使う様になるのだが、その解析方法は目覚しい程の進歩を重ねていたのである。
璋がドイツへ留学した直ぐ後で、喜ぶべき出来事と遭遇している。恩師となるオランダ人のピーター・デバイ教授が、ノーベル化学賞を受賞したのである。それは『双極子モーメントおよびエックス線、電子線回析による分子構造の研究』と言う、説明するのに甚だ難しい研究が評価されたからであった。
それを極めて簡単に説明すれば、次の様になる。

 水の分子H2Oは、水素原子(H)が二つと酸素原子(O)一つが結合したものだが、この結合した形は酸素原子(O)を中央にして、二つの水素原子(H)が夫々に、角度104.45度を保って酸素原子(O)と結合している。しかも型に嵌められたかの様に、水素原子と酸素原子の結合したその間隔は、95.84Pm(ピコメートル)と何時も決まっていた。ちなみにPmは0,000001μm(マイクロメートル)となる。
一方、二酸化炭素の分子構造CO2は、炭素原子(C)一つと酸素原子(O)二つが結合したもので、その形は炭素原子(C)を挟む様に、夫々の酸素原子(O)がその両側に一つずつ、ほほ直線的に結合している。何故に分子同士の結合した形が、夫々でこれ程に異なるのか、この理由をデバイ教授は分子内に電気的な極性が生まれるからではないかと考え、その解析を進めていたのである。

 そしてこの分子構造の解析は人類の進歩に貢献しているとして、ノーベル賞の選考委員から認められたのである。この頃の遺伝子など生化学に関する研究は、日進月歩の速さで解明されていた時代で、電子顕微鏡の原型が考案されたのは、璋がドイツに留学した四年前の事であった。更にその翌年には電気泳動によって、荷電を持つ分子を分離する装置が出来上がり、その後にはショウジョウバエやカイコ蛾などを使って、様々な遺伝の仕組みを解析する研究が盛んになってゆくのである。

 カイザー・ウィルヘルム研究所から見れば、外国留学生の第一号でもある璋は、まるでノーベル賞を運んで来たかの様に思われた様である。後に「デバイ教授からは随分と可愛がられた」と、璋は大学の講義で学生達に語っている。しかしデバイ教授の妻がユダヤ人だった為、璋が帰国して直ぐに夫妻はアメリカへと移り住む事になるのだが、毎年クリスマスカードが璋の許に送られてきたと言う話は、二人の師弟が深く結ばれていたということを物語っている。
尤も璋が留学先にカイザー・ウィルヘルム研究所を選んだのは、以前からピーター・デバイ教授が電気泳動を用いたDNA研究や、タンパク質の研究していた事の他に、あの物理学者のアインシュタインが嘗ては所長をしていた研究所であったからである。しかもこの研究所からは、この頃まで既に十一名のノーベル賞受賞者を輩出していた。
それにしても物理学者で化学者でもあるデバイ教授に、生化学を専攻している璋が留学先として選ぶのは、少々似つかわしくないのではないかとも思えるのだが、興味のある事は何処までも追い求めて行く性格と、固定した観念にとらわれない璋の気質は、寧ろ相応しい選択だったのかも知れない。

 宮本璋は一八九六年(明治二十九年)十一月七日に、東京の神田で生まれた所謂江戸っ子である。江戸っ子も三代続かなければ、と言うムキもあるだろうが、神田区左柄木町十一番地生まれの神田育ちなら、チャキチャキの江戸っ子と名乗ってもいいだろう。
璋が満七才の時に、当時は神田区一ツ橋通りにあった東京高等師範学校の附属小学校(現、筑波大附属小)に入学した。そしてこの時からの同じ教室の同級生の中に、渋沢栄一の孫にあたる渋沢敬三がいたのである。
二人は一九〇九年(明治四十二年)には附中と呼ばれていた高師附属の中学校に進学したが、翌々年に校舎が小石川区大塚窪町へと移転した為、この頃に動き始めた市電を使って学校へと通学することになる。中学に進級した頃に璋が関心を持ったのは、植物や昆虫の標本集めであり、この趣味が何故か敬三と一致した。やがて三田にあった敬三の屋根裏部屋で、二人はこうした標本を飾って悦に浸るようになる。いわば博物館ごっことも云う程度のものであった。

 それにもうひとつ、この頃の二人を夢中にさせた事があった。柳田國男の発表した『遠野物語』を読んだ事である。璋と敬三は瞬く間に柳田國男に夢中になり、特に敬三の方は民族学と云う分野へと、深くのめり込む様になったきっかけでもあった。敬三にしてみれば柳田國男と言う尊敬に値する人物は、幼い頃に書生として身近な存在だったからだ。
敬三は柳田國男から、八歳の時に「自宅の庭の池に嵌り、助けて貰った」と言う話が残っている。当事は深川の福住町九番地にあった祖父栄一の屋敷には、庭の池に汐の満ち引きで海の魚が池に入る仕掛けがあり、そこは書正室などもある広い屋敷であった。敬三はこの池に落ちたのである。
『一九〇四年(明治三十七年)満八歳、この頃、庭の池にすべり落ちしを、書生・柳田國男が救いあぐ。その時、水天宮のお守り、真二つに折れしを発見、女中ども感じいる』と、渋沢敬三アーカイブに掲載されている。尤も同じネットのウィキペデアにでは、啓三は一九一四年(大正三年)に初めて柳田國男に出会う、とある。渋沢敬三記念事業の財団が本家本元だから、ウィキペデアと比較する方が失礼な話で、出典をも示さずに責任を取れない、聞いた話を堂々と書き込むネット資料の程度の低さを驚く。

 明治四十五年が大正元年と年号を変えた一九一ニ年七月末、附中の四年生になった璋は十数人の仲間と共に、初めて学校の行事として上高地への登山を経験した。国立公園法が制定される二十年も前の事で、未だ釜トンネルも作られてはおらず、殆ど世間にも知られて居ない上高地は、まさに日本の秘境とも云うべき場所でもあった。しかもこのひと月後の八月、英吉利人のウオルター・ウェストンは、璋達が泊まった同じ嘉門次小屋を訪れ、北鎌尾根から槍ヶ岳へと、案内人を務めた山小屋の主人である嘉門次と共に登頂している。
上高地に向かうには現在とは違い、当事は松本から飛騨高山に抜ける安房峠越えの街道の途中、島々と云う村から川沿いの山深い猟師達の歩く細い道を登って、二千メートルもの徳本峠を越えなければならない。こうして十日余りを上高地の山小屋に滞在すると、ここで植物採取や岩魚釣りに熱中した。そして持ち帰った植物の標本を整理した後で、敬三の屋敷にあった車庫小屋の屋根裏部屋に、それらを二人は陳列したのである。これが最初のアチック・ミューゼアムソサエティの始まりとなり、そのときに標本を陳列したことが、その後の資料の核になったと敬三は後に述懐している。

 ところで璋の若い頃の事を語るには竹馬の友となる敬三との関係と共に、敬三の祖父である栄一との間係を知ること無くしては避けては通れない。敬三の人生は祖父の渋沢栄一が、極めて大きく関わっているからである。それは後年に「日本に資本主義を産み落とし、根付かせた人物」と評された栄一の特に明治から大正にかけての、その存在を語る事なくしては日本の資本主義を語れないからでもある。しかも栄一が孫の敬三に与えた生き方への影響は、余人には計り知れない重さと哀しさを伴っていた様に思える。
更に言えば敬三とは、幼い頃から多感な少年時代を親しい関係で過ごした璋が、その敬三の心の変化に無関心であった筈が無い。そこで祖父の渋沢栄一や父である篤二が敬三に与えた影響の、その部分を書いて置く事にする。と云うのも、この頃に未だ幼い敬三が暮らす渋沢家では、のっぴきならない事件が進行していたからだ。

 璋が附中四年生の夏休みに、学校行事の一環として上高地の山小屋に滞在する一年前、明治四十四年(一九一一)五月二十六日付けの日刊紙新聞「日本」の紙面には、こんな記事が掲載されている。見出しは「三日丸髷、玉蝶と渋沢篤二氏」と題する、男女の関係を暴露した興味本位の記事である。この篤二とは敬三の父親であり、渋沢栄一の長男である。 
しかも翌日の追い記事では、「後の三日丸髷、ビクビクで帝劇見物」とする続報が掲載されていた。しかもこの日以降、篤二の記事を掲載した新聞は皆無となった。祖父の栄一が慌てて記事の封殺をはかったからだと言う。
渋沢栄一の長男である篤二が、後に敬三の母となる公家出の橋本敦子と結婚したのは、明治二十八年(一八九五)の時である。母敦子の父親である橋本実梁(さねやな)は戊辰戦争の時、東海道鎮撫総督となった攘夷派の公家であった。その娘の敦子を長男の嫁にと願ったのは、商いにも向かない長男篤二への諦めと共に、栄一の心の奥深くで眠っている華族に対する劣等感によるものかも知れない。

 新聞に掲載され、事件となった翌年早々の一月半ばである。渋沢家で行われた定例同族会で、篤二が起こした不肖問題が当然の様に議題にのぼったのだ。栄一から廃嫡を視野に入れた、篤二の処遇が検討の議題に出されたからである。そこでは孫の敬三を渋沢家の当主に、とする話が栄一の口から出た。この時に一族の前で栄一は遺言を読上げたのだが、声をくもらせ涙を必死で抑えていたと云う。
 栄一の長女歌子の日記には
「尊大人(栄一)より改めて申聞けの儀は、篤二儀昨春以来の不行跡に付き、自分を始め親戚知友訓戒に諌言に百万手を尽くしたれど少しも反省せず。親に対し、道理に対し、反抗の態度を続け居るに付、今は止む得ず・・・」
と書いてあった。

 渋沢家の同族会が行われた直後の月末、璋と敬三には附中三年生最後の学年期末試験が控えていた。しかも敬三は直前に鼻を患い、手術の予定が組まれていたのである。更にこの時の敬三は、三年生に進級する意味をも持つ期末試験に大きな不安を抱えていた。父親である篤ニとは既に三年ほど顔も見てはいない。その為、叔母の歌子と結婚した、叔父にあたる法学者の穂積陳重に相談していたのである。だが敬三の不安は的中した。試験の直前に鼻の病気が影響したのか、ぐずり始めて熱が出るなど、期末試験どころでは無い程に体調を崩していたのである。
叔母歌子の日記によれは、
「一月十一日、夕方七時、烈しき悪寒にてふるえ起り、二十分程にて止みしが、その後三十九度以上に昇りしに気づかいしが、夜半頃より熱さめ、今日は終日平温異常には昇らぬ由なり。一寸面会せしが元気はよき方なり。十時ごろ帰宅す。
一月十七日 敬三氏の望みのギリシャ神話郵送す。熱三十九度以上に昇りし由、困りしことなり。今日は快く夕熱も出ぬ由なり」
との記述がある。期末試験が行なわれたのは、同族会が行われて直ぐ後の事である。

 後に同じクラスの山崎敏三が書いた回顧談には、この時の敬三の様子が詳細に残されている。
『第三学期の数学の時間です。隣の机にいた私には、氏(敬三)の調子が良くないのが直観されたのですが、最後に時計の問題(長針と短針の問題)に氏は手をつけ、いろいろと考えていましたが、手を上げて先生に「時計を出して見てもようござんすか」とたずね、「よろしい」といわれたので懐中時計を出して、しきりに針を回して見て回答のヒントを得んとしていましたが、それも駄目だと知ると、全く力尽きて机の答案の上に突っ伏してしまい、ややあってすすり泣きの声が発せられ、それが静まり返った教室内に響いたのです』
その結果、敬三は期末試験に不本意な点数しか取れず、学年は三年生のままで一年間が据え置きとなった。しかも敬三の父である篤ニは、それでも家に戻る事は無く、父として夫としての役目を放棄し、芸子の玉蝶と共に京橋の木挽町で暮らしていたのである。

 渋沢家の同族会が行われた半年後、璋が上高地に登った頃の敬三の肩には、大財閥とも呼ばれた渋沢家の跡継ぎと云う、とてつもない大きな責任が幼い敬三の肩に負わされていた。しかもその翌年の大正二年(一九一三)一月初め、鼻の病が一向に改善することがみられなかった事から、敬三は神田小川町の賀古鶴所の病院(賀古耳鼻院)に入院すると、二度目の手術をしたのである。ちなみに余談だが、賀古鶴所(かこつるど)はあの森鴎外とは東大医学部時代の同級生で、鴎外の「舞姫」に登場する相澤謙吉は、この賀古がモデルとされている。
 鼻の手術を終え退院した敬三は、今度は期末試験には合格した。だが母親の敦子が敬三ら三人の子供を連れ、三田綱町の屋敷を出たのは同じ大正二年二月の始めで、敬三が退院した直後の事であった。それからの敬三は母に連れられ本郷や高輪など、三年程を転々と仮住まいの暮らしを繰り返していたのだ。母親の敦子にしてみれば、妻としての責任を感じての事であった。そして祖父の栄一が同族会で決めた篤二の廃嫡申請が東京地裁に提出され、その年の一月十五日に廃嫡が法的にも決まったのである。

 一方、その頃の璋と言えば、漕艇と呼ぶオールを漕ぐボートに熱中していた。当事の高師附中には珍しく、ボート部があったからだ。璋は夏休みになると、このボート部の仲間と隅田川でオールを漕いでいた。一九二〇年(大正九年)には、東京高等師範学校(現、筑波大)と東京大学の前身である東京開成高等学校のレガッタの試合が、初めて日本人の学生同士の試合だったというから、学生達には随分と人気があった。そしてこのボートは仙台二高に受かった頃の、登山と云う別の趣味が始まるまで続いた様である。

 璋の方は大正三年に附中を無事に卒業したものの、今度は受験した一高の試験に落ちてしまった。余りにもボートや登山に熱を入れ過ぎ、学問を疎かにして社会を甘く見ていた為であったと言える。そうした反省から璋は、翌年の大正四年に行われた二高の受験勉強に向け、必死に取り組んだのである。敬三の方はと言えば大正四年の四月に附中を卒業すると、やはり一高を受けたものの見事に落ちた。早稲田予備校に通い受験勉強に身を入れ、七月に行なわれた仙台の二高を受験し合格すると、九月にはまるで示し合わせた様に二人は仙台二高へと入学したのである。
だいぶ後になって前橋の村上氏宅(璋が東京医科歯科大学医学部長時代の教え子)を訪れた時に、璋の語った話によれば「幸いにも東京から遠く離れた仙台の二高には、自分と敬三の二人とも辛うじて引っかかった」と語り、一高に落ちた時には「ナーニ、一高が駄目なら二高があるさ」と二人は嘘吹いていた様だが、内心はホッとしたに違いないと村上氏に語っている。

 この頃の学制は、初等教育の小学校が六年制で、高師附属中学校は五年制であった。更に高等学校は第一から第八まで創られ、大学予科と高等学校は三年間である。しかもそれまで行われていた共通試験の成績順に旧制高校に割り振る、いわゆる総合選抜制度は明治四十一年に廃止されている。以降は試験問題を統一するものの、高等学校の選択は受験生に任される事になっていた。
璋と敬三は共に東京高等師範学校の附属中学校を卒業したが、学校の校長や先生を養成する高等師範学校に目標を持っていた訳では無かった。それに未だこの時には師範学校の目的も中等学校の教員を育てる目論見が強く、関連する大学は東京教育大学しか創られてはいなかったのだ。
この様な事から医学や科学など、多様な最高の学問を志す者なら、東京帝国大学を目指すのが当然とされていた時代である。しかも璋の父も帝国大学の医学部を卒業して医者になり、叔父の叔はこの時に帝大医学部の助教授でもあったのだ。

 ところで敬三の祖父である栄一は極めて女好きで、庶子を含めると五十人とも言われる子女を生ませている、とするそうした巷の話しを真に受けると、何故か真実味を帯びてくる。恐らくはそれに近い子供達を、多くの妾に産ませていたからである。尤も江戸時代も幕末辺りまでは、上級武士や富豪とよばれる者達は、誰もが妾を持つ事が普通でもあった。妾を持つ事が法に反する訳でも無く、男子の甲斐性として世間でも受け入れられ、妻と言う立場からも受け入れるのが当然の様な時代であった。
一方、栄一が女性以外に孕ませ世に送り出していたのは、当時は新興企業といわれたアサノセメントや、古河電工などの有望企業であった。だが、巷の下ネタ話がまんざらでは無いとも思えるのは、この様な事実もあったからである。その良く知られた話は、明治六年に撮られた私家版の写真集『柏葉捨遺』と言うアルバムに、一枚の不思議な女達の写真が掲載されているからである。勿論だがその中央には栄一の息子である、未だ幼い篤二の姿が撮られている。

 その篤二の周囲に写っている女たちの中には、栄一の妻である千代と、貞子と云う栄一の妹、それに尾高「くに」は栄一の従兄の尾高新五郎の妹で、その横には大内「くに」、と云う若い女が一緒である。この「くに」は栄一の妾なのである。つまり本妻と妾が一緒の写真に写っているのである。栄一が大蔵省に勤めていた時代の写真で、妾は持っても妻とは別れる事は無い、栄一とは、そうした考えで幕末を生きて来た人であった。尤も、「くに」が栄一の近くに来たのは、栄一の先妻の千代がコレラで亡くなる明治十五年以前からで、千代との間に出来た娘の歌子が幼かった頃からである。
しかもこの大内「くに」は栄一の子「ふみ」と「てる」の二人の娘を産んでいる。栄一から見れば尾高家の従姉弟新五郎へ「ふみ」を嫁がせ、「てる」の方はその新五郎の妹である「みち」の次男、大川平三郎へと嫁がせた。新五郎には新たな殖産会社を興させ、平三郎には栄一が創業に尽力していた企業で、後に製紙王とも言われた王子製紙のトップにまで上り詰めることになる。

 後年に栄一が妾として囲っていた兼子は、先妻の千代が亡くなった翌年に後妻として入籍している。その兼子が晩年に語った話に「大人(栄一)も『論語』とはうまいもの見つけなさったよ。あれが『聖書』だつたら、てんで守れっこないものね」
栄一は尊大人と周囲の女達から呼ばれていた。確かに論語には、性道徳を諭すような言葉はない。精々「子曰く、唯女子と小人とは養いがたくと為す。之を近づければ即ち不孫に、之を遠ざければ即ち怨む」と云う程度の、男性には至ってありがたい教えである。
それ故に栄一に関わる女達の相関図を作るとなると、「立体図にしなければ描けない」と、栄一の曾孫にあたる穂積重行は語っているのだ。

 栄一の放蕩癖だけを受け継いだ、とも言われた敬三の父である篤二は、最初は趣味の写真から義太夫、狩猟から自転車、更には乗馬など、多彩な趣味から花柳界へと入り浸り、やがて息子の敬三や妻を顧みることもなく、芸者と暮らしていたことから栄一に廃嫡されたのである。とは言え単に父親の放蕩癖を受け継いだと言うには、一人の芸子だけにのめり込んでいる事から見ても、父と子の計り知れない捻じれた関係が、そこに深く関わっている様に思えてならない。
しかも同族会の開かれた時に敬三は、その栄一から継嗣として自分の跡を継ぐことを求められた。敬三が附中の四年を目前にした、未だ十六歳の多感な頃の出来事である。その為なのか附中三年生の最後の期末試験に落ち、敬三か落第していた話は殆ど語られてはいない。
敬三が結婚して後に息子二人と娘二人が生まれ、その長男の雅英が大きくなった時に、敬三はこんな告白をしている。
「あの時は悲しかったよ。悲しくて、悲しくて、しょうがなかった。命令されたり、動物学がイカンといわれたら僕は反発していたかもしれない。だけどおじいさんはただ頭を下げて頼むというんだ。七十すぎの老人で、しかもあれだけの仕事をした人に頼まれると、どうにもこうにも抵抗のしようがなかったよ」(「渋沢家三代」佐野眞一著)
七十過ぎの老人となっても栄一は、この時も多くの企業を育てていた。三菱財閥の岩崎弥太郎などと対峙し、日本経済の方向性について、烈しい争いを繰り広げていた時期である。その栄一に頭を下げて頼まれ、敬三がまさに渋沢家を継ぐことになる、大正元年の同族会の時の話である。

 話を璋の事に戻したい。
璋は幼い頃からもう一つ、コツコツと集めていたものがある。それが郷土玩具で朝鮮のものまでもが含まれ、これまでは独りで悦に入っていた趣味であった。こうして仙台での高校生の生活は、松島湾でオールを漕ぎ、それまでなかった山岳部を創って、北アルプス登山に夢中になって行ったのである。
上高地を世界に広めたウォルター・ウエンストンが、三度もの来日を果たして最後に離日したのは、一九一五年(大正四年)の璋が十八歳の時である。その頃に璋は既に日本山岳会にも入っていたと言うから、この山岳会が一九〇五年(明冶三十八年)の、会が設立された十年後には会員だった筈である。やがて趣味や遊びに夢中になっていた璋が、周囲の仲間達と共に勉学に身を入れ出したのは、大学入試が目前に迫って来たからであった。

 璋が父親である仲の勧めに従って東京帝国大学の医学部に入ると、農学部に入りたかった敬三も祖父の栄一からの縋るような懇情に負け、同じ東京帝国大学の法科経済学科へと進んだのは、深い訳があったからである。しかもこの時、璋と敬三と一緒に高師附属の中学校から仙台二高、更に東京帝国大学へと進んだ鈴木醇は、後に鉱床や岩石などの学者になったのだが、この頃から化石や貝殻の収集を趣味にして、古い古生物の化石を、民具や玩具の置かれたミューゼアムに持ち込んだのである。
更に新たに大学で親しくなった友人等と共に、敬三の屋敷の屋根裏部屋に、今度は本格的な屋根裏部屋博物館を作っていった。日本の郷土玩具を集めた博物館を作ったのは、璋がそれまで集めた郷土玩具三十九点の全て提供しようと言い出した事が、そのきっかけだったと言っていいだろう。

 敬三は卒業後に横浜の正金銀行に就職したが、その翌年、附中の同級生だった木内良胤の妹、登喜子と恋愛し結婚の約束を交した。良胤の父親の木内重四郎は、岩崎弥太郎の娘である磯路を妻にしていたから、登喜子は三菱財閥の岩崎弥太郎の孫にあたるが、この結婚は純然たる自由恋愛の上での結婚であった。そして敬三は正金銀行のロンドン支店に赴任する事となり、このミューゼアムは一時中断する事になる。
一九二五年(大正十四年)に敬三が帰国すると、新たに研究員を集め刊行物を定期的に刊行するなど、それまでの趣味的なミューゼアムが、今度は本格的な民族博物館へと向かい始める事になる。そしてこの頃にミューゼアムの名前を、新たにアチック・ミューゼアムと変更したのである。
後にその規模が年を追う毎に次第に大きくなっていったのは、玩具から民具へと方針が変ったからで、徐々に趣味の域から民族学の研究機関の様な規模へと膨れ上がって行ったからである。しかもそれらの研究費用や維持管理は、多くの企業の顧問や相談役を引き受ける様になった敬三が全ては自腹で賄っていた。これは敬三が若い頃から、柳田國男に強く影響を受けていたからでもあった。自分の手で研究が出来ない立場になった敬三の目論見は、民族学の研究者達に沢山の資料を提供出来る、民族の歴史を掘り起こす研究機関を作る事であった。

 一方の璋の興味と言えば、相変わらず若い頃から続く昆虫から人間までの、生物に関する命の仕組みの世界に向けられていた。そこには様々な姿や色があり、その為の多様な仕組みに心を惹かれたのである。しかもそこで出遭う何故?どうして?の疑問に答えが出せても、更にその答の中から、又新たな疑問が生まれていたからかも知れない。
 仙台二高を卒業する前年の大正六年(一九一七)頃、趣味としていた登山の傍ら、大学への進路を生化学へと向ける事に決めたのは、やはり幼い頃に触れた生命の不思議さであったと言えるだろう。

 メンデルの法則を学校で学び、メンデルの唱えた仮説である単位化された粒子状の物質が、後にイギリス人のウイリアム・ベイトンによって遺伝子と名付けられたものの、璋が生まれて四歳になった一九〇〇年、メンデルの仮説は三人の独立した研究によって再発見される事となる。つまりそれまで漠然としていた遺伝の粒子状の物質は、染色体の減数分裂から起きる事が明らかにされた事で、璋の気持ちは更に生化学へと心が向いて行ったのである。そしてこの頃から命とか生命と言う言葉に、一定の哲学的見解を持つ様になった様である。

 例えば我々が普段から口にする生物の「命」とは、生まれてから死ぬまでの生きた時間の事だと一般的には云われている。だから世間のありふれた人間なら、太く短く或いは細く永く、楽しく人生を送るのが最も良い人生の過ごし方である、と言う考え方も成立する。
しかし果たして命とは、本当に一人の人間が産まれてから死ぬまでの、百年にも満たない時間だけで終わる事なのだろうか。その命を維持する為に存在する遺伝子とは、その百年にも満たない時間を維持させるだけの役割しか持たないのだろうか。それなら肉体的に親に似ると言う仕組みなどは、全く不要なものではないか。親に似ると言う事のそこに、一体どれ程の意味があるのだろうか。
こうした疑問を満足させる答えを捜し求めると、地上に生まれた生物の命とは、この地上に発生した時から今に続く遺伝子と、何か大きな意志を持っている様な気がしてならないと思えるのだ。それを信仰に結び付けて自らを納得させる者も多いのだが、璋は更なる疑問の解決へと向って突き進んだ。それは我々が進化したと言うよりも、遺伝子が自らを進化させた、とも思えるからだ。我々はその遺伝子の仕組みの中で生かされ、多くの場合はその意志で、命の終りとなる死を迎えると云う考えが生まれる所以である。

 この未知の世界に向けた探究心が芽生えるのは、恐らく璋が医家の家に生まれたからかもしれない。父親である仲も医者として、意味のある人生を過ごしていたし、仲の義母となる異腹の弟だった叔(はじめ)と呼ばれる叔父も、璋が東京帝大の医学部に入学した翌年に、医者として帝大の教授としての生涯を終えていたからで、或いはそうした医者に囲まれた環境に影響された様にも思えたのである。

 「患者を診る医者よりも、基礎医学者になりたい」と本人が願っていたのは、璋の本音でもあった。何時も患者の命と向かい合う臨床医ではなく、医学の世界で生じる疑問に立ち向かう、研究者でありたいと願っていたのだ。
後に璋は「医者になる為に医学部に入った訳ではないから、医師の免許を取る事はしない」と言う事になるのだが、この考えは生涯に亘って一貫した璋のスタンスであった。それは東京帝国大学医学部の助教授を辞め、人生の最後に籍を置いた東京医科歯科大学の初代医学部長に就任した時も、医師免許や医学博士の学位は絶対に取らなかった。
医者の免許を取得すれば何時いかなる時も、最優先で人の生命を助ける事に義務づけられるからだ。確かにそれはそれで意味のある事だが、それ故に患者を前にした臨床医は、必然的に目の前の死と向かい合う事になる。しかし人は誰もが生を受けた以上、死を受け入れるのが必然であるのなら、自分は病を根本から見つめる研究に専念したいと願っていたのである。

 それだけに宮本璋のこれまでの言動や生き方を書き連ねてみると、後に璋自身が学生達に語っていた様に、彼には江戸っ子と言う言葉がぴったりと当てはまるのである。筋を通すとか竹を割った様なとか、頼まれれば嫌とは言えず時に情には脆く、少しの頑固さを持ちながら至って単純明快で直線的な人間だったと、ある意味では云えるだろうが、不幸にも璋は江戸時代の人間ではない。ここが璋の性格のむずかしいところである。
だが璋はドイツ留学から帰国した後に時折、複雑そうな想いを顔に浮かべる事があった。帰国したその年の暮れ、つまり一九三八年(昭和十三年)の十二月の事である。あの留学していたカイザー・ウィルヘルム研究所で、初めて核分裂を成功させたとした話が伝わって来たからである。
既にこの五年前にドイツでは、反ユダヤ主義を掲げたナチス党党首のヒトラーが首相になっていた。この年の三月にドイツは隣国のオーストリア制圧に動き、ドイツの国防軍はオーストリアとの合併に向けて越境を開始したのである。学んでいた研究所の広い敷地の中で、大型の核融合施設の建設を始めるらしいとした話を耳にした璋は、ますますドイツは戦争へと突き進んで行く様に思えたからである。

 しかも問題はそれだけではなかった。前年の一九三七年には日独伊の三国防共協定が締結され、七月には北京郊外の盧溝橋で、日本は中国の軍隊と衝突していた。この時すでに日中戦争は、本格的に始まっていたのだ。その実感が国民に余り湧いて来ないのは、この日本から海を隔てた大陸の奥地が戦場であったからである。
璋は国家が戦争に向うのは何が何でも困る、と言う程に戦争を絶対悪として否定的に見る事はしない。しかしだからと言って無理やり権力を用いて、戦争に協力させられる事には否定的である。政冶には門外漢の自分が何をどう叫ぼうと、まずは国民一人ひとりの意見も集められないような仕組みなら、なる様にしかならないと考えていた様である。寧ろ与えられた環境の下で精いっぱい創造的に生きる、それが璋の一貫した態度であった。明治の半ばに生まれ大正から昭和の時代を生きた者として、それは極めて普通の視点で戦前の社会に暮らしを営んでいたと言える。
 
 それにもう一つ、璋が苛立ちに似た不快感に襲われる事があった。同じ生化学教室の主任教授である柿内三郎と、助教授である自分との間に横たわる、それは極めて深刻な問題でもあった。勿論、教授と助教授の立場の違いが、理解出来ない程の子供では無い。しかしこの柿内教授とは関係が深まれば深まるほど、反りが合わなくなってゆく。これは理屈では無く生理的な、人間の根本的な部分にかかわることだった。
しかも問題は柿内三郎が、「まるで絵に描いた様な秀才」そのままの人だったからだ。しかしそれだけの事なら、何も大きな問題は生まれ様が無い。問題はその秀才である事を柿内教授自身が、強く自負していたことから起きたのである。

 だいぶ後の話になるが、一九六四年(昭和三十九年)に東京大学の仏文科を卒業し、文芸春秋社に入社した後、再度東京大学の哲学科に入り直した評論家の立花隆氏は、東京大学の校風の事を、その著書『天皇と東大』の中で、次の様に述べている。
「東大型の秀才(いわゆる学校秀才)の頭の特徴は、人から教えられた事を丸暗記的に覚えこみ、それを祖述する(その通りに繰り返す)ことは得意とするが、自分の頭で独自にものを考える、クリエイティブな思考は苦手ということである。つまり日本の学校教育のシステムは、このタイプの秀才が良い成績をあげるようにできている。上級学校の入試(東大入試を含めて)も、このタイプの秀才が受かる様に出来ているから、東大にはこのタイプの秀才がゴロゴロいる。・・・(中略)そして東大秀才のこの様な欠陥を、明治時代にドイツから招かれて法学部の教官をしていた、ハインリッヒ・ビェンティヒが、この頃に早くも指摘しているのだ」

 若い頃の柿内は恐らく、教えられた学問を必死で丸暗記する為に時間を費やしていたに違いない。秀才を自負する柿内教授の経歴からは、当然の様にボートのオールを漕いだ話もなければ、山に登った話など何一つ残されてはいないからである。ましてや一高での成績が二番になる事が許されないのは、秀才の持って生まれた宿命でもある。だから絶えず一番の席を守る為に神経をすり減らし、まるで記憶する事を勉強だと信じ込み、その青春を過ごして来た人の様にも思える。
 柿内三郎は東京文京区護国寺に生まれている。所謂、璋が受験して落ちた一高に一度で入学して卒業すると、決まりきったコースを駆け抜ける様に、一九〇六年(明治三十九年)には東京帝国大学の医学部を首席で卒業している。そして再度理学部の化学科に入学すると、四年後の一九一〇年(明冶四十三年)には、こちらも首席で卒業して銀時計を貰っている。

 柿内の若い日々の目的は恐らく、勉学に必要な知識を集める為にのみ存在したと言えるだろう。それだけに勉学での挫折と云う経験は、生涯で一度もなかった人でもあった。柿内が東京帝国大学の、当時医学部長である隅川宗雄教授の教室に入り、助教授になったのは一九一二年(大正元年)の事である。三年後の一九一五年(大正四年)に渡米をすると、エール大・シカゴ大・コロンビア大学に学び、一九一八年(大正七年)に名称の変わった東京帝国大学医科大学(後の帝大医学部)に戻り、そこで教授となるのである。
翌年の一九一九年からは理学部生化学の教授を兼ね、医学部の医化学講座を担当していた訳で、璋が生化学に向う為に大学に留まった時から、この柿内は典型的な秀才型の上司として、璋の上に君臨して来たと言っていいだろう。
柿内教授自身がこの様な人だったから、自らの担当する生化学や医化学教室では、「秀才以外の者は私の教室には入れない」と言い切るほど、秀才である事を常日頃から自覚していた人なのである。

 しかもそれを証明するのに格好な話がある。璋が大学を卒業し副手として勤め始めた翌年、一九二三年(大正十二年)の九月一日に東京は関東大地震に襲われ、未曾有の被害に見舞われた。この大災害に遭遇した後で、文部省は広く国民に対し論文を募集した。それはまるで黒船が来航した幕末の時に、武士だけでなく広く庶民からも、意見を求めた徳川幕府の慌てぶりに酷く似ていた。
しかも柿内はその論文に応募したのである。論文の応募テーマは「震災後の日本を、どの様に建て直すべきか」と云うものであった。柿内は『皇国日本の進むべき道』と題して、日本の首都を東京から朝鮮の平壌に遷都し、日本人を大量に大陸に送り込む事で、皇国を世界に知らしめよう、とする主旨の論文を提出した。
余りにも突飛で大胆な論文は、当然ながら世間からは一瞥もされなかった。その為に柿内は後になって、東京帝国大学教授、柿内三郎の肩書きと名前を入れ直し、私費で印刷をすると政界や財界など、各界にこの論文を配布した。問題にもされなかった事が、柿内にはよほど悔しかったに違いない。
そしてこの同じ頃に、これも私費で『Journal of Biochemistry』、つまり医化学に対する生化学の学会誌を刊行し、日本生化学学会を創設したのである。学者にとって余り縁の無い政治家的な手腕を発揮する柿内は、まさに目立つ事の好きな学者でもあった様で、これらは良くも悪くも柿内の性格を示した出来事と言えるだろう。

 もう一つ、柿内が語ったこの「秀才以外は・・・」の言葉に、強く影響を受けた人物が周囲にいたのだ。明治の文豪と言われた森鷗外は、一八七三年(明冶六年)に、当時は第一大学区医学校と言われた東京大学医学部の予科に、二歳ほど年齢を偽って入学し、後で本科に移り十九歳で卒業している。そして廃藩置県に際して、津和野藩の藩医だった父親が東京の北千住に医院を開設すると、ヨーロッパ留学の推薦にもれた為、未だ勤め先の決められないでいる鴎外は、父親の医院の手伝いで時間をつぶしていた。
その鴎外を見るに見かねた同期生の小池正直の推薦で、陸軍軍医副の仕事を得ると軍医となって東京陸軍病院に勤務する事になる。この森鷗外の長男として生まれた於莬(おと)は、柿内同様に帝大医学部を卒業した後、化学を学ぶ為に理学部をも卒業している。
 
 だが、父である鴎外の勧めで生化学へと進んだ、その於菟の意志を薄れさせたのは、柿内の言葉「秀才以外は自分の(生化学)教室に入れない」、という話を耳にしたことであった。於菟の成績はクラスの真ん中位の序列である。これでは柿内の教室には入れない。そうこうしているうちに、生化学そのものを学ぶことが嫌になってきた。こんな於兎を見かね「俺の処に来ないか、俺のところなら秀才でなくても勤まるよ」と誘ったのは、於兎の叔父にあたる小金井良精である、良精は柿内の岳父でもあった。
この良精も又東大医学部を首席で卒業した人で、長女の田鶴は、良精の教え子である柿内に嫁いていた。於莬はこの誘いを受けて生化学を諦め、良精の解剖学教室へと進んだのである。小金井良精は娘婿の柿内とは違い、人間性の豊かな人である。父親は越後国長岡藩の中級の藩士で、家老の河井継之助から厚い信任を受け、新潟町奉行などを勤めている。又、良精の母である幸子の兄、つまり伯父に当たる人は小林虎三郎と云い、佐久間象山の開いた五月塾では、吉田寅二郎(松蔭)と並んで二虎と呼ばれた人でもある。
そして良精自身は明冶二十六年からの四年間、帝国大学医科大学学長つまり当時の医学部長を務め、明治三十七年からの二十四年間を、日本解剖学会の三代目会頭としても勤め上げた人であった。

 自他共に秀才と認めるこの柿内教授の下で、江戸っ子の璋が助教授となれば、その関係が上手くゆくことの方が、寧ろ不思議であったと言えるだろう。反りが合わないと云う関係は、特に師弟の場合その多くは、反発や反論の出来る関係では無いからである。立場の高い方の力だけが絶えず低くて弱い立場の方へと向かい、一方的にのしかかって来る関係であったからだ。
十五年近くも過ごした大学内でのこの師弟としての関係は、殆ど表面に出て来る事も無く、璋の心の内側で徐々に積み重なっていたのである。しかし璋が過ごした二年半の留学の最中に独逸人の考え方に触れ、「忍耐は必ずしも美徳ではない」と云う、自由で闊達な彼らの生き方を見たことであった。
独逸へ留学した経験は単に学問の収穫だけではなく、璋には大きな人生の転換でもあった様だ。帰国してから次々に刊行した『向日葵』や『農村復興』の著書の中で、「象牙の塔には、かれこれ十五年程も籠ってゐた」とする記述がある。「象牙の塔」とは云うまでも無く、研究を行う大学の事である。その閉鎖的な世界に閉じこもり、現実逃避的な態度を持って自らの理想だけを追いかける、そんな姿勢を揶揄した言葉である。
あの秀才と自負する柿内の前で、何時の間にか耐える事に馴染んでしまった自分との、決別する時が既に間近に迫っているのを、この時の璋は薄々感じ始めていた様であった。


二、自分らしい決断

 璋が留学先のドイツから帰国した二年後の事である。出版社から頼まれて書いたエッセイが、月刊「文芸春秋」の昭和十五年(一九四〇)七月号に掲載された。ドイツ留学の際に璋が目にした、どの畑にも空き地にも、沢山の向日葵が美しく咲いていた話である。
一体何故にドイツでは、それほどに向日葵の花が多いのか、観光客とは違う化学の片隅に席を置く者から見た、素朴な疑問から始まる話でもあった。この疑問を化学者の眼で解いて行くと、ドイツ人の強かな暮らしの知恵が見えて来るのである。

 この話は第一次世界大戦の敗戦から得た、いわば反省から学んだドイツ人の知恵でもあった。世界中を巻き込んだこの戦争は、オーストリアの皇位継承者であるフランツ・フェルデナント大公夫妻が、セルビアのサラエヴォで、ボスニア系の民族主義者に暗殺された事から始まった。しかも複雑な近隣諸国との国際関係の中にあった為、戦火は一気にヨーロッパ中へと広がって行ったのだ。やがてヨーロッパから遠く離れた日本も、ドイツに対し宣戦布告をする事となり、この戦争は世界を巻き込んでいったのである。
四年後の大正七年(一九一八)賠償金千三百二十億マルクの支払い要求を受け入れたドイツは、敗戦と云う事実を認め第一次世界大戦は終結したのである。

 しかもドイツはこの敗戦の後で、近隣諸国から凄まじい食料封鎖を受けていた。秘密軍事同盟を結んでいたハンガリーからは主食の小麦を、中立国のデンマークからは農産物のジャガイモなど輸入した事で、ドイツ国民は辛うじて食いつないだのだが、脂肪不足には酷く苦しめられていた。
当時のドイツではパンに付けるバターが不足し、生臭い魚油に水素を添加し、こうして作り出したマーガリンで対応したのである。しかし生臭いマーガリンは当然の様に国民からの不評を買い、そこで目を付けたのが向日葵の種を絞った油であった。つまり璋が見た沢山の向日葵は観賞用としての花では無く、種から油を絞る為の食料としての向日葵であったのだ。かつての苦い戦争の経験が、ドイツ人に向日葵の花を植えさせていたのである。
璋は随筆家としてのペンネームに、「安騎東野」(あんき・とうや)と言う名前を使い、帰国して二年後の一九四〇年(昭和四十年)に、著書『欧州の雀』を刊行したのが最初である。翌年には『向日葵』、更に二年後には『歩行者』、そしてこの翌年に『農村復興』と矢継ぎ早に発表している。後に『医学の道』や『医学者の手帳』など、幾つかの医学生に向けた著書をも刊行していた。

 ところで、この『向日葵』の話が掲載された、文芸春秋の刊行される二年前の事である。茨城県の東那珂村(現・桜川市)の村長から、突然に一通の手紙を璋は受け取っていた。勿論だが面識のある人からでは無い。ただ手紙の内容から察するに、どこにこの話を持っていったら良いのか皆目分らず、悩んだ跡が文面の中に明かに読み取れたのである。
手紙の用件は自らが暮らしている東那珂村の農民達に、身体に不調を訴えるものが多いという主旨のもので、発信者は村長本人で、村民の健康について相談内容であった。こうした相談には、直接応える窓口は大学にはなく、ましてや基礎医学の者になど対応は出来ない。だが半年ほど手紙のやり取りをした後、昭和十五年の一月に璋は若い学生を二人程連れ、筑波山の北麓にある東那珂村の役場に出向く事になる。勿論だが手弁当であった。

 この頃に、璋はこんな文章を書いている。
《(略)私は偶然な機會から、たうとうそれを實行して見たらどうだらうかと考へ出した。と云ふのはHと云ふ面白い村と知り合ひになったからなので、この村の指導者たちが而も熱烈な農村擁護者である事が私達の仲間をすつかり喜ばしたからでもあるが、就中(なかんずく)小學校の校醫さんや校長さんの至誠に動かされて、吾々の若い仲間が一斉に立つたもので、まだほんとに始まつてから半年許りだから、實績の挙がるのは五年も十年も後の事にはなるのだらうか、或仲間は結核予豫に狂奔して、その早期發見に邁進してゐるかたはら、たうとう村民を教育して、自發的にB・C・Gの豫防接種を受ける迄にしたり、又或仲間の一群は、夏期の小兒の死亡率が多いのを防がうといふので炎天の下を村の一戸一戸について井戸を調べて廻ったり、又如何に廉価に、而も有効に、それを改造したらいゝかに就いて、口角泡を飛してゐたりするのを見ると、私は彼らの若さに就いて、實にすばらしい新鮮さを感じない譯にはゆかない上に、彼等は既に種々の方面に、《青年の心をよく理解した》老練な相談役をさへ見つけて来てゐるので、私は何んだか 《若い指導者(フユーラー)と老練な顧問(ラートゲーベル)》といふ独逸の機構をさへ思ひ浮かべて、感に堪へないものさへあるのである。・・・》(安騎東野著・『向日葵』、原文のまま)  

 璋が茨城の片田舎で始めた農村厚生活動の資料を、だいぶ後になってから探し出した村上徹氏は更にこの様に書いている。ちなみにこの村上徹氏とは、宮本璋が後に東京医科歯科大学校の医学部教授だった頃(一九六〇年頃より)、ある出来事がきっかけとなり、璋を非常に尊敬するようになった歯学部の学生であった。この話も、又後で詳しく書く事にしたい。
その村上氏は、この様な感想を述べている。
『いかにも、璋の文章を読む限り、璋はガキ仲間の大将の様な感じである。誰よりも大将自身が、活動を愉しんでいるのである。これが宮本璋という生化学者の学問に対する態度であった。後に筑波大学学長になった阿南功一は、東京医科歯科大で璋が教授として勤めた時期、その宮本教室の助教授になった人でもあるが、阿南は東京帝国大学の医学部生化学教室に入学した一九四〇年(昭和十五年)に、この農村厚生活動のグループの仲間に入った、と語っている。更に千葉大学の薬学部教授となり、後に薬学部長となった宮木高明は随筆家としても良く知られた人であるが、自著の略歴の中で「昭和十三年、東京帝大助手となる。他学部聴講(略)宮本璋先生の農村医学研究班に参加し・・(略)」と述べている。』
後から振り返ってみても、璋のもとには医学部以外からも、好奇心旺盛な学生達が集まってきていたのである。

 こうして璋は学生達と共に、茨城の片田舎に暮らす農民達の生活を調べ始めると、体の不調の原因が栄養不足からだと判明した。だが原因を突き止めただけで、学生達の気は済まない。学生達はタンパク質を農民達に採らせるために、農業用水として水を貯めていた溜池を使い、鯉を育てることを思いつく。そしてどんな種類の鯉がいいのか、養殖する鯉の研究を始める者が現れた。
又、牛を飼うのは手間がかかるから山羊を飼育して乳を採ろうとか、具体的な方策が学生の手で動き出したのである。この頃の璋は毎月の様に、茨城の東那珂村に通う様になっていた。既に二十名ほどの学生達が、夫々にテーマを絞り出し研究を始めたのである。
璋もそれは同じであった。ドイツの田舎で見た向日葵畑をここで作り、花を咲かせて種から油を採る事を考えていた。だが一方で何の相談も無く、この農村厚生活動を始めた璋に対し、柿内は酷く不愉快になっていった様である。

 璋のエッセイが掲載された文芸春秋の最後の部分には、この様な文章が載せられている。
『(略)最後に(農村厚生活動の)同志の一人、小児科の磯田博士の調査によると、向日葵の種をすりつぶした乳様態(にゅうようたい)は、消化不良の子供に非常にいゝと云う実験結果が、この数年洪牙利(ブルガリア)の大学でやられてゐるし、独逸(ドイツ)の小児科の本にも載り出したと知らせて呉れた。これは大変面白い事で、農村の母乳の無い子供がいかに多数死んでゐることか。これが向日葵で幾分でも救へたら大したものだ(略)。嘗てゴッホが描いた向日葵、それを私達は今食べる相談をしてゐる。随分無風流な話だ。だが、世の中がそれ丈せち辛くなったのだ』
しかし雑誌に載せる程度の事なら未だ許せるにしても、生化学教室の大勢の学生や他学部の学生を集め、学外の茨城の田舎で教室のテーマ以外の研究活動を始めたとなると、放ってはおけない、と柿内はそう思ったのだ。

  大学の銀杏並木が、いつの間にか少し黄色く色づき始めている。研究棟の二階にある生化学研究室の窓から見える銀杏は、季節の移り変わりを教えてくれる唯一の彩りである。それを見ながら璋が「フーゥ」と一息付いたのは、何時の間にか昼を少し過ぎた頃のことであった。
生化学教室の研究室の奥から、若い助手の勝俣が璋の方に向いて声を掛けてきた。
「先生、珍しいですね、大きな溜息を出すなんて」
璋が早朝から研究室に出て来て、一人で手を付け始めたのは、新たに大学が購入した電気泳動機器の性能を試す為である。そのついでに、既に亡くなった父親が残した髪の毛を試料にと思い、自分の口の中の上皮細胞を含んだ唾液を取り出し、それぞれを別の試験管の中に収めた。

 現代では生命科学の入門として、DNAを取り出す実験を行なう高等学校もあるほど、至って簡単にその実物を取り出して見る事が出来る。だが璋がドイツ留学した頃は、電気泳動でタンパク質を調べるにはバッファーと呼ばれる緩衝液を使い、超遠心分離を用いた移動境界法と言う手順が最も新しい方法であった。
この移動境界法とはティセリウスが初期に開発した電機泳動の手法を改良したもので、濾紙やゲルなどを用いずに、水溶液を使ってタンパク質溶解液の移動を測定する方法である。尤もテリウスは一九二七年に色素を、ゼラチンスラブゲルを使って泳動して分離する事に成功している。だが移動境界法の改良に心を奪われていたのか、この結果を論文として発表する事はなかった。タンパク質溶解液の境界の移動を測定する方法は、無担体の電気泳動法であった為、後に主流となるゲルを用いた電気泳動の様な、手軽さには程遠い手法だったのである。

 しかもこの初期の移動境界法は面倒な事に、緩衝液を摂氏二十度の温度で検出する様に指定されていた。その為に電流を流すと熱対流によって層が乱れ、安定した温度で調べるには、かなりの熟練を要したのである。そうしたことから境界を鮮明に出す事は、この方法では殆ど不可能であった。璋はこの緩衝液などをドイツ留学で研究していたのだ。
独逸から帰国する直前の一九三七年、この頃に発表されたティセリウスの論文から、四度と云う低温の緩衝液で満足な結果が出た事を知り、帰国して新しい電気泳動器の購入を大学に求めたのである。そして璋は自分と父親のタンパク質を比較し、遺伝子の違いを自分の目で確かめたいと思ったのだ。
遺伝学の世界では既に十三年も前の一九二七年(昭和二年)に、一卵性双生児の間で皮膚移植を行っても、拒絶反応は生じない事が報告されていた。前年には眼球の水晶体も一種のタンパク質である事が証明されている。骨は良く鉄筋とそれを支えるコンクリートになぞえられているが、リン酸カルシュウムと共にコラーゲンと呼ばれるタンパク質が、骨の主要成分である事も知られて来ていた。まさに驚く程の速さで新たな技術が開発され、人間の身体と仕組みが解き明かされていたのだ。

 璋が思わず漏らした吐息は、助手の勝俣には溜息に聞こえた様であった。
「何だい勝ちゃん、俺が溜息を吐く様な人間にでも見えるのかい? 相手を見てから言って欲しいもんだね。こっちはまだ先が長いと思っているんだぜ。まっ、溜息に聞こえたとすりゃあ、俺が齢を取ったと言うことかも知れねえがよ」
東京の下町っ子である璋の話す言葉は、東京弁と云うより下町弁と言った方が通りは良い。ヤッチャ場と呼ばれた一万五千坪もある神田青果市場は、淡路町から神田川沿いにまで広がっていたから、神田佐柄木町にある璋の家は、そのヤッチャ場の目と鼻の先にあったのだ。子供の頃から育った場所で使われていた言葉は、当然の様に気の荒っぽい印象を周囲に与え、それが知らず知らず璋の身に付いていた。遺伝子も言葉も同じ様に、夫々の生き方に影響を与えて居るのかも知れない、と璋は思っていた。
「云え・・、別に意味は無いんですがね、ただ何となく宮本先生が茨城に行かれる様になってからですが、やけに教授の言葉が厳しいと感じていたので、無理もないなぁと思っただけです」
(そんな事は当の本人の方が強く感じているぜ)、璋は言葉には出さずに、その思いだけを飲み込んだ。
「なぁに、てめえの遺伝子を、てめえで調べていたのさ、親父の遺伝子と何処がどんな風に違うのかを知りたいと思ってなぁ。しかしまぁ、違うって事を探し出す方が難しいと、今更ながらつくづく思っていたところさ」
璋は試料を入れた試験管にバッファーを注いで冷蔵庫に戻すと、助手の勝俣に向って言葉を投げ返した。返事を繕った訳ではなかった。近頃は特にこの遺伝子と云うものが何者なのか、益々掘り下げて知りたいと思えるのだ。自分に影響を与えている部分や、過去から延々と引き継いできているものが何なのかが分かると、これから先の遺伝子の解析では、或いはヒトの進化も読み取る事が出来るのではないかと思えるからだ。

 璋の父親である仲(なかつ)が同じ医学部の別科を卒業したのは、未だ明治の新政府が独逸から呼び寄せた、お雇い医師の先生達が教えに来ていた頃である。この時に父の仲は二十五歳、故郷の松代には戻らず、東京で小児科の開業医となることを目指していた。安政三年のペリー来航から三年後に生まれた仲が、高等教育を受ける場所など東京以外には、どこにも無かった時代である。幼い頃は松代藩の藩校である文武学校に学んだ仲は、長野県と名前の変った県の参事に上京願いを出し、東京大学の前身となる東京医学校の授業料免除願いを提出しての上京であった。

 仲は東京大学に入る以前から医学を志し、ドイツ語を学ぶ為に本郷元町に開かれたドイツ学塾の壬申義塾に通うと、校長の大熊春吉から必死でドイツ語を学んだ。念願の東京医学校の本科に入学してから半年後、突然に喀血したため故郷の松代に戻っている。軽い結核とした診断が出され、まるまる一年は無理にも療養に充てざるを得なかったのだ。東京医学校が東京大学と名前を変えた明治十年、仲は再度入学し直した訳だが、今度は七年間の全寮制の本科ではなく、三年制の別科とする事を受け入れざるを得なかったのである。
この頃の東京大学の医学部に於ける本科と別科の間には、かなり厳格な差別があった。周囲からの見る目も当然の如く違って、学校での学生に対する待遇も格段の違いがあったからだ。本科の学生は将来を医科大学の教授や研究者に、別科は開業医などの現場へと、医療を出来るだけ早く整える為の、新政府には医療政策としての思惑が根底にあったのである。

 宮本仲は江戸時代と言われる安政三年に生まれ、明治・大正・昭和を生きた人である。この璋の父親である仲の事については、後で詳しくその生涯を語る事にするが、卒業から神田で宮本医院の看板を掲げ、所謂開業医としての医者を始めた頃までの出来事を、ここでは少しだけかいつまんで語る事にしたい。

 日本橋で病院勤めをする仲が結婚したのは、卒業して三年後の事である。しかも結婚して三ヶ月後に好運にも二年程のドイツ留学の機会を得て、大きな犠牲を払ったにせよ洋行の夢か叶った。仲は帰国後の明冶二十年に神田の雉子町で、小児科と内科の宮本医院を開業した。仲は別科の出身であるため町医者にならざるを得なかったが、小児科医としては日本で最初の看板を掲げた町医者と云えるだろう。なぜなら小児科の講義が、帝国大学医科大学(医学部)で初めて行われたのは、仲が神田で小児科医を開業した翌年の明冶二十一年(一八八八)の事で、後でそれを知り随分先を見通していた父親だと、璋は改めて尊敬した記憶がある。
しかも父親の仲が小児科を志した理由は、祖父の慎助や、その師でもあった佐久間象山の願いだったと、璋は仲から聞いたことがあった。洋行帰りの小児科の専門医院が開業すると知って、当時は全国から病に罹った子供を連れた多くの親達が、神田の宮本医院に集まって来たのだ。待合室はおろか周辺の通路にまで患者とその家族があふれ、それを目あてに飴売りなども来ていたと言うのだから、どんな様子だったのかが良くわかるだろう。

 それまでの時代は産まれることもなく母の胎内で死んでゆく子供や、産まれても直ぐに死んでしまう場合が多く、そのことを多くの親達はなすすべも無く、ただ悲しみに浸っていなければならない時代であった。そうした時代を親の一人として、祖父の慎助や象山も、我が子の死を辛く受け止めて来た人達でもあったのだ。
確かに祖父の慎助や父の時代までは、夭折した子供が何人も居たと聞いていた。祖父の慎助の子供達も名前すらも付けられずに、生きていれば長男となった一人と、僅か四歳で亡くなったのは廉と名付けられた末娘である。
更に祖父が再婚し、後妻の「たか」との間に産まれた二人の子供も又、一人は死産で、もう一人は産まれて直ぐに亡くなっている。結局は叔七郎と呼ぶ叔父だけが、祖父の仲と義祖母の許に生まれ育った、たった一人の子供であった。父親の仲にしても結婚して半年が過ぎた時、妻の妊娠とドイツ留学とが重なり、ためらう仲は妻に押し出される様に留学した最中、結婚して半年程暮らした妻が亡くなっている。これは悪祖(つわり)が原因の脳膜炎からであった。
(ちなみにこの叔七郎は成長して叔(はじめ)と名を改め、東京帝国大学医学部教授となるのだが、この話も後で書くことにしたい。まるで偶然の様な、そして幾つかの驚く様な話が、そこにも眠っているからである)

 それにこうした我が子を亡くす話は、何も身内だけの事ではなかった。佐久間象山にしても初めて授かった子供は、妾となったお蝶との間に産まれた菖蒲(あやめ)という名の娘で、僅か六ヶ月余りの命であったと聞いている。その後に二人の間に産まれた子供達は皆短命で、もう一人の妾でもあったお菊が生んだ格二郎以外は、夭折しているのである。
祖父の慎助が故郷の松代で子供を夭折で失った時、「子は国の宝だ、医者はまず子等が無事に育つ為の医術を」と、しみじみと佐久間象山が祖父に語ったと言う。その祖父は象山の言葉に強く影響されたらしく、自分の子供が無事に成長出来た時には必ず医者にする、と約束を交わしたと聞いていたのだ。
慎助は文政五年(一八二ニ)に生まれ、文化八年(一八一一)に生まれた象山より十一歳の年下ではあったが、象山とは親しく交わり、漢詩や朱子学を学ぶ子弟の関係でもあった。象山の話した言葉のおかげで、父親の仲や叔父の叔にしても、そして一世代後に生まれた璋も又、親や叔父達と同様に医学部に入る事になったのである。

 だが医学部に入学はしたものの、次第に自分は医者には向かないと思う様になってゆく、人の死を左右する様な仕事には、余り向いていないと思うようになったからである。寧ろ誰もが知らない事を知る、研究と言う分野で医学に貢献したいと思う様になって行ったのだ。大学に入って知った事は、学問の世界も巷の会社や役人と同じであることだった。学歴や肩書きだけ自分を偉く見せる事に長けた者が、何故か偉そうにして周囲もそれを受け入れている事であった。自分がやり遂げたい事よりも、立派な肩書きを身に付けたいと言う考えが、世間には優先していた時代でもあった。
だからそこにある偉さとは、組織の仕組みの中で目上の者の言う事を良く聞き、その希望通りに動くと言う、与えられた見せ掛けの偉さでしかない。言い換えればそこに不正や不平があっても、ジッとそれに堪えるという、いわば弱さと狡さの間ざまで育った偉さなのである。

 璋は子供の頃に夢中になった生命の不思議さや疑問を、学問を通じて純粋に解明したいと願っていただけであった。だが肩書きが付いてからの日々は、知らず知らずに大学と云う組織に組み込まれ、教授とのしがらみの糸は益々太くなり、自由を締め付ける力は強くなる一方であった。何事も自らの責任とした独逸での自由な研究は終止符を打ち、又も上司の意向や機嫌を損じないかと、ひたすら気にしながらの研究に戻ったのだが、それが少しずつではあるにしても耐えられなくなって来ていたのだ。

 璋の何処か行き詰った思いを、顕著に表現している一文が、安騎東野の名前で昭和十九年に刊行された、璋の著書『農村復興』の文頭に書かれている。
「象牙の塔には、かれこれ十五年も籠つてゐた。そしてもう青年の客気も、感受性もすっかり減磨され盡されたかに他人も見、自分も信じてゐた私が、突然物の怪にでもつかれた様に、農村へ飛び込んで行つたのだから、私を知つてゐるかぎりの人々は、驚きもしただらうし、随分心配もして呉れたものでもある。そして一體これはどうしたのだと尋ねても呉れた。斯う聞かれると、私はいつでもすつかりてれて了ふのだが、正直に白状すれば、實は私にとつて、あの時の二年間の外遊が、私の心境をすつかり變へて了つてゐたのに外ならなかつたのだ。(中略)しかし考へ方によつては、それは全く時期のお陰なので、實際今次大戦の前夜たる、あの昭和十一年から十三年頃の歐州は、一般がもう随分張り切つてもゐたのだった。・・・」(原文のまま)と書いている。

 つまり第一次世界大戦で敗戦した独逸が、その後の復興で立ち直ってゆく姿に触れて、留学した時に郊外に出かけ、そこで目にした様々な独逸再建の姿を、璋は今の自分や大学での教育の在り方、更にはこの国の未来までも危惧していたのかもしれない。
言い換えれば狂気の様に一致団結して復興と向き合う独逸国民の姿の中に、信念や魂を抜かれてしまった自分や日本人の姿を、この時に重ね合わせた様でもあった。
そしてもう一つ、同じ『農村復興』のなかに掲載されている『Sへの報告』の文中に書かれた、独逸へ留学した時に農村で見聞きした時の話をここに書き移したい。

 「私は當時から少しは農村に興味を持ってゐたものですから、機會ある毎に出かけて行って見たのですが、この独逸の農村に於ける街道筋の並木は、よく林檎の木が使はれてゐるところのあるのが又、私の興味を惹きました。尤もこの風習は事によると、相富に古くからあるのかもしれませんが、兎も角、往来の並木に迄、林檎を植ゑて食料を確保しようと努力してゐる独逸の農村の眞剣な姿は、傷々しい様にも感じた程でした。
しかしよく考えて見ると、往来に實をのなる木を植ゑるのは、少し可笑しいと思ったので、こんな往来でこの林檎は盗まれないかを聞いて見たのです。するとそこのお百姓が答えて云ふには、この林檎は村で厳重に監督してゐるので、これをとれば勿論罰金は相富ひどく課すことになつてはゐます。しかしもしそれが時に盗まれたとしても、それはどうせ独逸人が食べるのですから、それでもいいではありませんかと云ひました。そしてこれこそが彼等の敬愛する總統の意思であると付け加へたのです。
この『たとへ盗まれたとしてもどうせ独逸人が食べるのだから、それでもいゝ』と云ふ考え方に、もし独逸の農民のすべてがなってゐるとでも云うなら、独逸の強みは實にこゝにあると云はなければならないと泌々と思ひました」と述べ、更に「今もこの日本の農村に於いて、もし鯉が川に逃げた場合、その残念は残念として、なほ『それはどこかの日本人が食べるのだから、それでいいのではないか』と考えて呉れる様な教育がしたかったのです」とも述べている。(Sへの報告・第六信より抜粋・原文のまま) 
茨城の片田舎の村人達の悩みや健康を調べ、その対策にも乗り出しはじめた璋の描く学問の用い方を、研究者は研究者らしく、と自らを枠に嵌めて体裁や建前に固守する秀才教授に、璋は強く疑問を持ち始めていた様であった。それ故に璋が農村復興へと突き進んで行った真の意味が、筆者の私にも少しだけ理解出来た様に思えるのだ。
      
 「宮本先生、教授がお呼びですけど、手が空いていたら来て貰いたいと申していますが」
教授の小使いをやっている男が、至って事務的に声をかけた。
「おぅ、今すぐに行く」
研究室の机の上を片付けると、璋は柿内の居る三階への階段を昇り、教授室のドアを叩いた。
「宮本です。入ります」
璋はドアの前で声をかけると部屋に入った。窓を背に机の向こうの椅子に座っていた柿内は、読んでいた書類に目を通しながら、上目遣いに璋を確認すると、おもむろに指で髭を触れながら口を開いた。
「君ね、君が提出した例の留学中に研究したと言う最後の論文だけど、残念だが僕の名前を添える事は出来ないね」
璋がドイツに留学した二年半、電気泳動の安定的な検出方法について、デバイ教授の許で研究して纏めたものである。論文は温度管理も出来ない研究室で、一定の温度を維持しながら最適なバンドを引き出す為に、水溶液の温度に保つ為に考え出した保温性のあるゲル素材の開発であった。日本から持って行った寒天や葛の粉、それにこんにゃく芋のでん粉など、新たなゲル素材として使用出来ないかを研究していた。
しかし柿内の話は論文の具体的な部分を指摘する様な話ではなく、頭から指導教授として自分の名前が出せないと言うのである。敢えて論文の不備を指摘する様な正論を示す事は避け、立場の上下を持って不合格を突きつけられたと同じであった。

 「何処がどのような間違いを犯しているのでしょうか、ゲル素材と温度の関係を調べて、新たな素材を検証した論文なのですが」
研究室の部屋の温度は東京帝大でもウィルヘルム研究所でも、一日が一定した温度では無い事は変わらない。しかし画期的ではないものの、水溶液をゲル状のものにすればと思い立ったのは、冷めにくい重湯の発想であった。
「はっきりと言えばね、私は研究室の室温や、水溶液の代わりとなる材料の話を言っているのでは無い。君は誰に許可を貰って学生達を茨城まで連れて行っているのかね、それが許されるとでも思っているのかね。私から許可を出した覚えは無いのだがね」
イライラしたのか、柿内は突き放す様に声を高めて言い放ったのである。
「それならお伺いしますが、私の学生に対する指導は、全て逐一、教授の許可を求めなければならないのでしょうか、茨城なら悪くて、上野の山辺りなら良いとでも」
「そんな事を言っているのでは無いよ。何事も上司の許可を取るのはね、君、当たり前だろう。教室の責任は全て僕にあるのだからね、大体が研究室を空にしておいて、何が研究だと言うのかね」
柿内教授の怒りは何時の間にか論文の事から、研究室を空にしている話へと移っていった。

 「私は教授から、研究は全て教室の中だけで行なう様に、とは伺っておりませんが。それに年中研究室を空にしている訳ではありません。言わせて戴ければ研究の資料を集める為に、一部分の研究室が一時的に、茨城に移ったと言う事だと考えています。それに研究は研究室の中だけで行えと言うのは、どうも私には納得出来兼ねますが。もし何事も上司の許可を取れと云うならば、それでしたら教授は何事も、学部長の判断を既に戴いているとでも、医学部の学部長は学長の許可を戴いているとでも言う事なのでしょうか。研究室の学生に対する行動の責任と判断は、まずは全て私にあるはずですが」
「君ね、そう言う理屈は、上司の私に言うものじゃないよ」
柿内の言葉にはかまわず、璋は更に言葉を続けた。璋の体の大きさは親譲りなのだが、相手に不要な威圧感を与えてしまう。
「それに論文の件はウィルヘルム研究所で、デバイ教授に指導して頂きながら研究を行っていましたので、先生が承認出来ないと言うのであれば致し方がありません、デバイ教授に訳を説明して承認して戴き、研究論文として発表させて戴きます」
璋が留学中の時に執筆した論文は、ドイツ語での四編と日本語での二編である。それらは帰国して直ぐに提出して発表したもので、否定された論文はドイツ留学から継続して研究して来た、同じテーマに関する最後のものであった。

 「何だね、それはどういう意味だ。そういう口の利き方をするとなると、次ぎの教授に推薦することは難しくなるのだがね」
二年後に控えた自身の退官に向けて、次期教授の推薦を背景に脅しに使っている様に璋には思えた。柿内教授は最後の最後まで、支配者としての自分の考えを押し通す積もりの様でもあった。
「私を教授に推薦したいと考えて戴いていたのなら、ありがたく嬉しくも思いますし、お気持ちには感謝さえ致します。ですが生憎と私は先生程の秀才ではありませんし、教授と云う立場には殆ど興味も、いいえ正直に言えばそれ程の有難味も持ってはおりません。ですから教授へ推薦のお話は、大変申し訳ないのですが、私には全く無意味な話かと思います」
「何? 教授になりたくは無いだって?それなら何故、君は今まで助教授をしていたのかね。助教授に推薦した者の立場だってあるんだよ。そう言う事ならいっその事、この教室も大学も辞めてしまいなさいよ。特にこの教室はね、秀才以外の人に居て貰うには無用な場所なんだから」
肩書きには余り興味も無いという璋の言葉に、激高したのか柿内は声を荒げて怒鳴った。それは売り言葉に買い言葉であったのかもしれない。しかし自らを秀才と自負する柿内に、璋はどれ程の温かみも感じなかった。何処か頭の奥の方で、何かがふっ切れた様に思えた。肩書きを何よりも重要視する程度の人間の下で、十年以上も過ごしていたのかと思うと璋は自分が情けなく、そして惨めに思えて来たのである。

 「辞めて貰っても結構だよ。引き留めはしないからね、僕は」
暗に直ぐにでも大学を辞めなさい、と迫っている様な柿内教授の言葉が、璋の胸に突き刺さった。そしてほんの少しだけ間を置くと、璋は初めてこの時、開き直った言葉が口を吐いて出た。
「私が大学に残って生化学を学んでいたのは、解らない事を理解したいが為に学んで参りました。ですから何の為に学んでいるかと聞かれれば、分らない事を知りたいが為であり、少しでも知識を深め、良い人生を歩く為に学んでいるのだと言えます。
で、教授と呼ばれる事に興味が無いなら辞めても構わない、否、寧ろ辞めなさいと言う事ですので、早速ですが今すぐ秀才教授のご希望通り、こちらから辞めさせて貰います。
たった今から上司でもなく部下でも無い関係となりましたので、敢えて言いたい事を言わせて戴きます。こっちは怖いもの無しの凡人。秀才が怖くて研究が出来るかって思っています。最後に言っておきますが、秀才だから良い研究が出来るんじゃないでしょう?。昔からいい研究の出来る者が、秀才って言われているんですよね。それに秀才だと決めるのは周りの者で、テメイがテメイを秀才だと決める話じゃないでしょう。秀才だと自分で云う割に、そんな事も判らねえんですかね。何時までもそこを勘違いしているから、周りの者はみんな困っているんですよ」

 璋の開き直った江戸っ子言葉に、柿内は唖然とした顔で璋を睨んでいた。この柿内教授と十年以上も過ごして耐えていたものが、怒りと空しさとが交じり合って、一気に噴出した感じであった。何をどの様に教授の柿内に言っても、既に無駄だと璋には思えた。それでも璋は教授室を出る時、最後の一言だけは言っておくべきかと思い、目の前の柿内に向かって礼を言って頭を下げた。柿内教授からみれば十年以上もの期間、世話をして来たのだと思っている事は確かだからである。
「永い間、お世話になり有難うございました。これで失礼します」
璋は頭を下げて教授室を出だ。階段を下りて研究室の前に戻った時、来るべき時がやっと来たのだと璋は思った。その時、まるで後から追いかけて来た様に「さぁて、これからどうするかだ」、もう一人の自分の声が耳の奥から聴こえて来た。何事も損か得かを秤にかけ、自らの行動を決める様な生き方に、やっと今、おさらばする事が出来た様だと璋は思った。


三、秀才教授の報復
 
 医学部生化学教室の助教授だった璋が、上司の柿内教授との間に貯め込んだ軋轢が元で、東京帝国大学を辞めたのは四十四歳になった一九四〇年(昭和十五年)九月の事である。大学の事務局からは嘱託で講師を、として助教授の璋を引きとめたのは形だけの体裁であった。しかし璋はそれだけは受ける事にした。大学が気に食わなかった訳ではなかったからである。寧ろ互いが必要な時だけの範囲での関係は、はっきりとしていて気楽であった。
大学の事務局も二年後に迫った柿内教授の退任によって、選出すべき後任の教授と、空席となってしまった助教授を選ぶ事に迫られたからである。後に助教授として璋の後任に選出されたのは、それまで講師をしていた渋谷真一であった。

 《東京帝国大学学術大観(医学部・伝染病研究室・農学部)と云う東大が発行した非売品の大冊の史書があるが、この内容は明冶十年四月十二日(一八七七)の東京大学創立以降、昭和十五年頃までの各機関や講座の業績を大観的に叙述したものである。この中には医学部生化学教室に関して十三頁に亘り、初代の隅川宗雄教授から二代目となる柿内三郎教授時代の、教室員の業績が紹介されている。その医学部生化学教室の項目を書いた筆者は、璋の後任となり助教授になった渋谷真一である。しかしそこに宮本璋の名前と業績は、一字たりとも見出せない》   
宮本璋を心から尊敬し、教え子でもあった村上徹氏が書いた、この話の元となる『島峯徹とその時代(四)』の中で、東京帝国大学の柿内教授が璋に行った仕打ち対し、村上氏はこの様に述べている。

《「璋が助教授を辞めて東京逓信病院(検査部主任)に転出したのが、昭和十五年十一月であるから、助教授を含めた大学での在任期間は十三年半にも及び、その間に幾つもの原著があるが、大学の公的な記録からは全部抹殺されているのである。宮本璋の名前と業績は、一字たりともそこに見出せない。柿内の厳重な校閲を経たせいかと思われる」》と。
まだこの時代の教授と云う肩書きは、一人の助教授が存在し研究していた記録をも抹殺してしまう程の、それほどに大きな権限を持っていた時代でもあった様だ。

 つまり分り易い言い方をすれば、東京帝国大学と云う権威と品のある世界では、十四年近くも研究室で教授を支え、自らのテーマを研究しつつ多くの学生達を教え育てていたにも拘らず、助教授の態度が赦せなければ一切の研究結果も、ましてやその存在自体をも過去から抹殺してしまう事が出来るらしい。これがこの国の最高学府と呼ばれた、東京帝国大学とその大学教授達の真の姿でもあった。
恐らくそれを後から指摘されると、「必ず掲載しなければならないとする規定はありません」とか「記録が残されておりません」などと、彼等は国会議員や役人達の様に平然と言うに違いない。忖度や隠蔽或いは時として改ざんなど、長いものには巻かれろとする強い者の顔色を伺う日本人の原型は、役所や大学の中では、最後の最後まで生き残る場所の様である。
上司の顔色を窺い、典型的なこの国の官僚と云う木っ端役人が持ち続けている、遥か江戸時代以前から続く日本民族の伝統的な、それこそ遺伝的な民族的体質でもあるのだ。

 この六年後には太平洋戦争の敗戦と共に、東京のお茶の水に東京医科歯科大学が誕生し医学部が創設され、璋は東京帝大を飛び出た歯学部の教授達の尽力で、医学部の教授にと誘われた後で、璋は初代の医学部長に納まる事になる。
嘗てこの東京医科歯科大の恩師だった宮本璋先生の事を、村上徹氏はネットに投稿された『島峯徹とその時代(四)』の文頭で、この様に書き留めている。

 《『助教授時代の宮本璋を物語る資料が殆ど見つけられないのは、この様なヒューマンドキュメントで医学史を紡いでいる私にとっては甚だ心細い思いであるが、その中に阿部実氏の一文を発見した時には、藁にも縋る様な思いがした。阿部と謂う医師は、敗戦後、璋が東京医科歯科大教授となった時に、その門下生として生化学を学びなおした臨床家の様であるが、もともとは璋が東京帝大の助教授時代だった頃の昭和三年に、柿内の教室に入門し、生化学の研究者として医師生活の第一歩を歩みだした、相当ふるい経歴の人であったらしい。その阿部氏の一文に次の様な話しがある。

 「(略)私が宮本さんの存在を初めて知ったのは、昭和三年、東京帝国大学医学部の生化学教室に入ったときである。偶々医学部一号館が建てられる前であって、助教授であられた宮本さんは、何彼と注文が多いらしい柿内教授の意を受けて、教室の施設設計に苦労を重ねておられる御様子であった。我々一年生組が陰ながら同情申し上げたほどの真摯さ、これが私の最初の印象である。(略)聊か私ごとになるが、「その三年後」私は産褥熱の病妻と新生児肺炎の長子を抱え、(略)お手上げの気分に追い込まれ(略)これを紛らわす積もりで実験室に入っていったときのことである。大きな体格の宮本さんが、つかつかと部屋に入られ、いきなり大喝、「重態の妻を放って何が実験か、早く(妻の入院先の)広尾病院に戻れ」、と言われた。
叱ることだけなら他の人にも出来たかもしれない。がその日以降の宮本さんは、気兼ね顔の私を尻目に、まず(広尾病院の)婦人科医長の師にあたる磐瀬教授を、次いで内科の島薗教授を御自身で連れてこられ、診断・治療に両教授の力を求められた。

 当時の広尾病院院長は、剛直の聞こえが高い長沢伝六先生であった。幸いと言おうか(長沢先生が)胃潰瘍で吐血、自宅療療養中の出来事である。(略)後日、挨拶に行った折(長沢と遠縁の私に)、「俺の留守中に俺の病院を良くも荒らしまくったな」と大変な剣幕で叱られたが、これほど左様に宮本さんの力が入院中の病院に及んだわけである。この様な事が柿内教授に知られないわけが無い。呼び出しがかかって、「宮本君に知らして自分に無断でいるとは何事か」、と大目玉を戴いた一幕もあった。当時は年末の故に多少の教室宛て贈答品があったらしく、病人の口に合うものは全て運べということで、教室の方々がかわるがわる携えてこられた。魂の触れ合いといったものを、教室員まで感じ取らせた宮本さんの思いやりに対しては、ただゞ頭を垂れるばかりであった。(略)」

 期せずしてこの一文には、宮本と柿内の人為の違いが良く語られているようである。璋は、『医学者の手帳』という諸名家の文を集めた随筆集の自己紹介の欄の中で、「東京帝大学助教授になったが、相変わらず呑気だったので、教授のご機嫌を損じてばかりいた」と書いているが、柿内は秀才しか入れないと言われた教室の中で、宮本を十四年近く助教授に引き留めておいたのだから、璋が呑気者だったはずが無い。しかし多趣味でいつも悠然としている璋には、どこか人にそう思わせる所がある。だがドイツ留学から帰ってくると、璋はこの生態を一変させ、まるで気を狂わせたかと思うほど猛然と「農村厚生活動」に突き進んでゆく。・・・・》と、村上徹氏は述べている。〔島峰 徹とその時代(四)より抜粋〕
それ故にドイツからの帰国後に、璋が農村厚生活動に向って突き進んでゆく姿を、村上氏は恩師の六十年余り前の足跡を追い求め、今もその資料集めに奔走して書き留めているのである。

 父親の仲が没してから四年後の昭和十五年(一九四〇年)、既に日本は戦争に向けた準備が進められていた。外貨不足を補うために、国民から鍋や釜などあらゆる金属の供出が求められ、日常に使う食料や調味料の配給が始まるなどのほかに、一方では紀元二千六百年の祝賀する式典が行われたのである。
東京帝国大学の助教授を辞めた璋は、この年に視察を名目に、しかも秘密裏に一人で満州に向った事があった。食用油を絞る品種の向日葵の種は日本に無く、蒙古にそれがあったからである。しかしノモハン事件と呼ばれた日本とソ連、そして満州を組み込んだ衝突も、交渉の末に停戦に向って動き出している最中の事であった。単に向日葵の種を取りに来たと言う理由では、この時期の満州ではスパイかと思われる程の、緊張に満ちていたからである。
それ故に蒙古から満州まで鉄道で種を送って貰い、満州でそれを引き取り日本に向けて発送する為でもあった。この手配も日本人の体力を向上させたいとした陸軍の目論見と一致し、軍の上層部の了解の下で進められたのである。蒔く時期を失えば、収穫は一年待たなければならないからであった。

 東京帝大医学部を辞めた璋が、緊急避難的に勤めたのは逓信病院の検査部で、主任としての勤務であった。後にその時から終戦までの事を、璋はこの様に書いている。
「(妥協性に乏しい自分は)こんな具合ですから、どこに行ってもうまくいきっこありません。第一、帝大の様な品の良い世界にはゐられる筈もなく、見事しくじって敬遠されてしまいました。それを当時は自分から飛び出してやったなどと思っていたのですから、随分といい気なものでした。(略)帝大を出てからはホンとに流浪のわらじをはきました。逓信病院にも行きましたが、若い奴らが毎日ドヤドヤやって来て、全く賑やかなのなんのってなかったのですが、間もなく戦争も始まって、こんな若い仲間がドンドンと(戦地に)出て行くのを見てゐると、生来の野次馬根性も手伝って、もうゐてもたってもゐられなくなり、爪哇(ジャワ)くんだりまで出かけて行き、更にニューギニアのドテッ腹まで行って若い連中に会って来たりしました。終わりに近くなる程、からっきし意気地が無くなって、青菜に塩に引きかへ、こちらは先に述べたやうに、世の中が困ってくればくるほど、益々困らなくなるといふ、ネバっこさと悪地恵が冴えてくるのだから、面白くって堪へられません。タウトウ工業試験所の第一部長を兼務するところまで乗り出し、随分と暴れました。前にあんなに威張っていた軍人共が、先生、先生と言うんだから、面白いじゃありませんか。
 そこで終戦。これからが又面白くて堪らないや。化学をやっていて本当に良かったと思いましたね。おおげさに言えば手品使いみたいなものですから、随分といろいろな事をやりました。お陰で大した栄養失調にもならず、闇もだいぶやりましたからね」(原文のまま)
 
 璋の教え子であった村上徹氏は、恩師の宮本璋先生が後に山登りに谷川岳に向うというので、自宅のある前橋に招いたとき、東京帝国大学の助教授を辞められた経緯を尋ねている。その一文を紹介しておこう。
《(略)後年、先生がごく身軽な立場になられて拙宅におこしになった時、私は無遠慮に、この間の経緯をしつこく質問した事がある。この時は私自身、人生の難路に行き昏れていた。
「先生は東京帝大を追い出された時、本当に平気だったのですか」
「とんでもない。目の前が真っ暗になったね。明日からどうしようと思ってな。ナーニ、うわべは『虎を野に放った』なんて嘘ぶいていたがね」
そして更に言葉を継いで、こう仰しゃった。
「若い時は、あんな事でも深刻に悩むんだな。帝大を出されようがどうしようが、実験室さえあれば研究は出来るんだな。君だって、ホラ、患者さえいれば、パクパクやる入れ歯は作れるだろう。それが大事なんだな。大病院だろうが町医者だろうが、そんなことは医者の本質に全然関係ないんだ。帝大だろうが、そこらの学校だろうか、生化学をやるには全く同じさ。ホントだよ」
そして上司だった柿内教授について訊ねると、ポッンと一言、
「あの人はやっかみ屋でなぁ」
と仰り、後は固く口を閉ざして了われた。後にも先にも私が宮本先生から、柿内に関する言葉を聞いたのはこれだけである》
 
 璋が東京帝大の助教授を辞めた後も東那珂村の農村厚生活動には、まだ精力的に首を挟んでいた。茨城の東那珂村は、かつての十幾つもの小さな村を合併した大きな山村である。しかしその山村から届いた一通の手紙が、生化学教室の宮本璋の目にとまった時、学生達の研究の場所は、この片田舎の山村へと移って行った。そしてそれ等はすでに具体的な計画から、目標を持った行動へと向っていたのである。
タンパク質の補給にする為と溜池には鯉が放たれ、乳牛の代わりに山羊を飼う事で、その乳から動物性の脂肪を得る為、適した放牧の場所が選ばれた。更には向日葵の種を植え付ける場所の選定をも議論の末に決めたのである。二十名余りの学生達は何の政治色も持たずに、真摯に茨城の山村に暮らす村民の健康を考え、行動を起こし始めていたのだ。
戦争に向って進んで行くこの国の東那珂村は、まるで幕末に長州藩の萩に作られた、吉田松陰の松下村塾の様に私には思えてならない。璋は農村厚生活動に参加した学生達を常に仲間と呼び、そうした態度で接していたのである。そして学生達も又自らの意思で、栄養不良に近い村人達の暮らしを、何とか改善したいと突き進んでいたのである。

 ところでこの状況の中でも璋は友人達のツテやコネをフルに使い、農村厚生活動の支援を続けていた。農林省畜産局から山羊二十頭を斡旋して導入してもらったのは、当時文部大臣になったばかりの橋田邦彦の尽力であった。その文部大臣を動かしたのは、高師附属の小学校からの同窓生だった渋沢敬三子爵の顔の広さでもあった。
この敬三の祖父となる渋沢栄一の話は、これも後に宮本家の慎助や仲の生きた時代に譲る事にして、話を更に前へと進めたい。


四、村上徹氏が語る恩師の回想

 璋が日本を飛び出し、インドネシアのジャカルタ医科大学に教授として勤める事になったのは、雨の降りしきる神宮外苑で昭和十八年十月二十一日に、出陣学徒壮行会が行なわれたその前年の八月からである。日本を出立する時に東京駅では、親しい学生達が見送りに来てくれたのだが、学生達が驚いたのは、この時の璋の姿が陸軍の軍服姿であったからである。つまり璋のこれからの立場は、陸軍司政官と言う肩書きであった。この見送りを受けた前日、送別会をしてくれた学生達に向って、こんな言葉を璋は語り残している。
「君達は瓦斯も無い、水道も無い、勿論実験室の設備などは考へても見られない、あの農村に於いて、大学やその他の研究所に於いては到底考へられない程の、制約を受けつゝ科学しているのだ。私は時に、諸君が可愛そうになる事さへあるのだが、私達は私達の経費を極度に節約するために、東京から村までの汽車賃さへも諸君の自弁にさへもさせてゐる。近頃は村の合宿で食う米さへ、諸君は諸君の背で背負っても行くのだ。ビーカーが無ければビールの空缶を切って使へと、嘗て言ったそのビールの空缶さえも、今では殆ど手に入らない。   
しかし私はこの時期に於いて、初めて吾々の科学者魂が輝き初める時だとおもふ。(略)調査や報告だけに浮き身をばかりが科学者の能ではない。科学者はその制約の下に、常に創造しなければなない。環境の悪化、情勢の激変に良く堪へるものは、唯諸君の科学者としての創造力しかないのだ」(安騎東野・農村復興二九七頁)

 璋がインドネシアに向かったその年の前年、かつての上司であった柿内教授が東京帝大を退官した。だが何を思ったのか、住まいの近くの護国寺に保育園を創設すると、その園長になったのである。東京帝国大学医学部の秀才と自負していた教授が退官し、保育園の園長になった例は今まで一度も無い。
そして自らが創立した日本生化学学会からの誘いも断り、その会長職も断っている。学問の世界を辞めたものが、何時までもそこに影響を与えてはいけないとも述べている。
日本は植民地であるアジアの各地に、当事は様々な学校を創っていた。日本の影響を早く、そして更に深く、アジアに浸透させたいと云う、国策としての思惑があった様である。なぜならそれ等の学校の所管は、文部省ではなく陸軍省にあったからだ。
具体的に言えば朝鮮や台湾にも帝国大学を創っていた位で、医学の専門学校を創る事にも力を入れていた。五年制のジャカルタ医科大学もその中の一つである。しかし敗戦の足音が遠くで聞こえ始める頃には、既に大学としての機能も薄れ、教えると言うよりも研究から調査への比重が増えていた。

 教授としてジャカルタ医科大に向った璋も、この頃になるとジャカルタから真東にあるニューギニア島の、その手前のアール諸島に出張と称して軍用飛行機で向った。薬になる植物や或いは食べられる木の実や草の根などを調べ、更に資源となる鉱物の探索など行い、報告書を提出する様な仕事まで陸軍から依頼されたのである。
ところで璋がジャカルタに渡っていたこの頃、留守となった東中野の自宅では、璋の祖母と共に子供達を守っていた妻の達子が居た。そこに突然、浜松の陸軍飛行学校校長を任され、帰国した一人の軍人の訪問を受けていたのである。日本陸軍の山本陸軍中将の訪問であった。山本中将はこの時に「璋には軍が大層世話になった」と、異例の感謝の言葉を妻の達子に述べている。
しかし一九四五年(昭和二十年)の三月十日、始めて東京に空襲のサイレンが鳴り響き、数十万の人々が逃げまとう東京大空襲が始まった。既に前年の九月には九州の八幡製鉄所が空爆を受けてはいたが、アメリカは焼き殺す事を目的に作られた焼夷弾を、初めてこの空襲で使用し無差別爆撃がこの時から行われたのである。

 この東京大空襲の翌日、十一日の報知読売新聞(現、読売新聞)の朝刊には、『B-29百三十機帝都来襲、深夜、市街地を盲爆。各所の火災も鎮火』の見出しがあった。そして『十五機を撃墜、五十機に損害、戦力蓄積支障なし』、とした小見出しも載せていた。しかも掲載は一面トップではなく、二面への掲載だったのである。高射砲の弾が届かない高さを飛ぶB-29を、この頃には迎え撃つ戦闘機は既に無く、多数撃墜したと有りもしない作り話を掲載する程の、多くの新聞は軍部の御用達になっていたのだ。
国民の誰もが表向きには本音を言えずに、新聞は真実や事実を伝える事を放棄し、その結果がこの始末であった。見方を変えれば国民自らが選んだ国の仕組みは、余りにも大きなツケを、選んだ国民自らに求める事になったのである。
そして八月六日には広島に、九日には長崎へと原爆が投下され、国民はやっと現実を見つめる必要に迫られることになった。新聞も流石にこの事実を、無かった事には出来ないと知った様である。このまま民族絶滅の道を進むか、それとも現実を正確に認識するのかの決断が国家に求められ、やっと天皇陛下によってその意思が示されたのは、八月十五日の事であった。

 この時にインドネシアのジャカルタにいた璋も、やっと終戦を迎える事になる。しかし日本が敗戦した話を聞いても、璋は打ちひしがれる様な性格とは無縁であった。新たな環境の中で自らをどの様に生かして行くか、絶えず苦境に晒されながら、璋は今までもそれを乗り越えて来たからである。
終戦の前年には東京医学歯学専門学校でも、何とか医学部を創設するとした話が具体的になり、翌年には東京医科歯科大学が創立された。敗戦によって図らずも、その希望は思わぬ形で実現したのである。一方の東京帝国大学は終戦の翌々年、又も名称を変更し、亡くなった父親の仲が入学した時と同じ、現在の東京大学となったのである。

 宮本璋が東京帝国大学の助教授を辞めた時期に、同じ様に幾人かの医学部の教授達も大学を辞めていた。岡田、宮崎、山崎、後に学長となる清水教授達である。そしてこの人達が、新たに出来た東京医科歯科大学医学部に移り、インドネシアのジャカルタで終戦を迎えた璋を、医学部の教授として呼び入れ、そして後に初代医学部長にと選出したのである。終戦となって復員した頃の璋の話を、村上氏はこの様に語っている。
《昭和二十一年の終戦の後、復員した璋は神田小川町の実家に身を寄せた。この頃はまさに誰もが同じ様に金もなく食い物も無く、明日の暮らしにも事欠く始末で、璋も又一切の収入を断たれていたのだ。しかし東大の生化学教室に関しては、柿内が辞めた後も首の皮一枚で繋がっていたのは、嘱託講師と云う関係であった。それに東大は空襲の戦火の中でも、神保町の古本屋街や皇居と同じ様に、何とか焼かれずに残っていた事も救いであった。
この時に璋は、九州帝大から東大の生化学に赴任して来たばかりの、児玉桂三教授に空いていた研究室の一室を貸して貰う事が出来た。児玉桂三教授は、あの柿内教授が定年退官をした後に、東大医学部の生化学教室に戻ってきた教授である。璋が柿内教室で助教授となる前に、同じ教室の前任の助教授を勤めていた人でもあった》

 打ちひしがれた国民に希望を持たせる為、敗戦を終戦と呼び換えたものの、焼け野原となった東京に食料は殆ど出回る事の無かった時代である。誰もが腹を空かして、日々食べ物を探し回っていた。食料が必要なら和服や宝石などの装飾品を持ち、すし詰めの列車に乗って田舎へと出かけ、物々交換と云う方法で農家から食べ物を分けて貰う必要があった。或いは闇市に出かけ、かなり割高な商品を買い求めるしか方法は無い。それでも必要な物が簡単に手に入る訳でもなく、進駐軍の払い下げ品などを中心に、殆どはこの闇市から流れて来る怪しげな物ばかりだった。
当事の璋は研究と称して、こちらもかなり怪しげな実験を始めていた。それは蚕のさなぎから食用油を抽出したり、有り合わせの材料から飴をこしらえたりと、まさに手品師の如く生化学の知識を縦横無尽に駆使する事になる。
璋は東京大学と名前の変わった大学の、空いた部屋を自らこの一部屋を闇工場と称していた位で、誰もが今日を生きる為に必死になっていたのである。

 ところが璋が復員して東京に戻って来ている話を耳にしたのは、東京医学歯学専門学校(旧高等歯科学校)で教授をしていた帝大医学部を出た後輩達であった。この時の事を璋は、こんな風に書いている。
『(略)、ある日、私の闇工場に(略)今の岡田学長(当時は学長じゃなかったが)だの、清水さんだの、大淵さんだのと云う紳士方から、さむらい迄ドヤドヤやってこられて、お茶の水の学校へ来いといふのです。「俺りゃあ嫌だぜ、これからドコか部屋を借りて手品を使って生きて行くんだ」、と再三断ったんですが、「お前がさういふなら、こっちは学校が近いから毎日来て実験の邪魔してやる」といふのです。事実ホトケさんや山極サンなんか毎日遣ってきて邪魔するのです・・・』
ホトケさんと云うのは病理学者の宮崎吉夫のことで、学生時代にボート部でボートを力漕すると決まって顔面が蒼白になり、コイツ死んじゃうのじゃないか、と仲間が心配した事からこう言う綽名が付いたらしい・・・。
 
 更に璋の話は続く。
『こんなある日、正午頃に研究室(闇工場)へ出てきたら、一号館の前で林さん(前部長)の帰るのに出会った事を覚えてゐます。
「君はお茶の水(後の東京医科歯科大学)に、何故いかないんですか?」
と例の甲高い声で聞かれたので(略)
「ソンナ事、僕の勝手でせう」
と言ったら驚いて行って了ひました。一寸声が大きかったなあと後で反省した事ですが、しかし毎日の持久戦には参った。元来江戸っ子といふのは、アト先を考えずに面倒クサくなれば、そしておだてられるとすぐウンと言って了ふのが落ちです』
そのウンと云う一言と共に直ぐに辞令が下り、昭和二十二年七月に「東京医学歯学専門学校講師」、そして十月には「教授」に任命されたのである。この学校が旧制大学に昇格する事は、勅令三九七号で既に昭和二十一年七月に決まっていた。その中心となる医学部の大黒柱には、宮本璋はうってつけであろう・・・と、嘗ての東京帝国大学を出た仲間達は考えた様である。
こうして二年後に専門課程が始まり、医学部、歯学部が大学の学部として形を整えたのは昭和二十四年(一九四九)四月一日である。そして宮本璋はこの時、東京医科歯科大学の初代の医学部長に任命されるのである。

 翌々年の昭和二十六年(一九五一)に国立学校法が制定され、医学部医学科と歯学部歯学科が制定されたのを期に医学部長に就任していた璋は、この医学部長を退任する。しかし五年後の昭和三十一年(一九五六)に、再度四代目の医学部長に再任され、昭和三十四年(一九五九年)に六十二歳で学部長を退官した。
だがこの時期は、全国の大学で学生運動が活発に先鋭化していた時代であった。大学の自治を守る運動は学費の値上げ反対にはじまり、それが六十年の日米安全保障条約の国民的議論の中で、安保反対運動へと結びついて行くのである。この頃にはこうした学生運動だけに収まらず、全国の労働運動も活発化していた。今はJRとして民営会社となった嘗ての国鉄も、組合の国労や動労のストライキにはじまり、炭鉱から公務員の賃上げなど、労働者としての意識が高揚していた時代でもあった。

 この頃の事を村上徹氏は、自らネット上に公開した『島峯 徹とその時代(四)』の中に延べているが、宮本璋が東京医科歯科大学の医学部教授時代、つまり六十年安保の時期に反代々木系の全学連反主流派が学内で暴れていた頃、当の徹氏はノンポリ学生(つまり主義主張を持たない無い)の中の一人の学生であった事が判る。
それは東京大学文学部の女学生だった樺美智子氏が、六十年安保反対のデモで機動隊と衝突し亡くなった、丁度その夜の事であった。東京医科歯科大の大学構内でも、激しい学生のデモ隊と機動隊の中で負傷者が続出していた。学生救援対策部長に祭り上げられた村上徹氏は、頭から血を流し負傷した学生達を前にして、慌てて医学部の宮本教授に連絡したのである。学生の力ではどうしようもない程の、多くの怪我人達が運ばれてきたからである。こうしてこの学内の修羅場の中で、教授でもあった璋に手当ての指示をしてもらう事になり、その時から尊敬すべき師として、村上徹氏の心の中に璋は深く刻まれる事になったのである。
この時の出来事を村上徹氏は、『追悼:高橋 晄正先生と私・フッ素研究第二十四号・2005年11月28-36頁』に記載しているが、敢えてここで宮本璋と村上徹氏の関係を明らかにする為、徹氏の一文を掲載させて貰う事にした。

 《(略)私は宮本先生に、学生時代には深い御恩を戴いた。ふつう歯学部の学生は、宮本「璋」先生には殆ど接する機会がない。(略)宮本先生の特別講義を聴く機会はもうけられていたが、それも一回~二回程度であり試験もなかった。学生は先生の漫談の様な講義に腹を抱えて笑っていればそれですんだのである。
私はそうではなかった。そのきっかけは、六十年安保騒動の擾乱にあった。樺美智子氏が死亡した、あの夜の大騒動のことである。医歯大では医歯両学部とも学生は医学連に属し、医学連は全学連に属していた。当時私は歯学部の三年生であり、この三年生が全ての学生活動の中核を担っていた。(四年生になると臨床に進むため、学生活動から離れるのである)
私の政治思想的な心情はここでは語らないが、私は学生や労働者の大デモを冷静に見て居た。(略)当時、ノンポリ・ラデイカルと云う言葉はなかったが、学資に苦しむあまり一種アナーキーな心情を抱いていた私は、そんな立場に近かったろう。
しかし、私が親しくしていた友人は、殆どが反代々木系の活発な左翼だった。当時のマスコミ用語でいえば、全学連反主流派、つまり、唐牛健太郎や現評論家の西部邁氏が指導していた"ブンド"である。医歯大のブンド連中はみなある程度裕福な家の子であり、私の様に食う事で苦闘している学生は一人もいなかった。
その夜、ブンドが指揮するデモ隊に警官が激しく襲いかかたらしい。多数のけが人と逮捕者が出て、東大の女子学生が一人死亡した。私はデモには行かず、アルバイト先から夜になって大学に戻り、学生ホールで学祭の準備の雑用をしていた。確か十時頃だったと記憶しているが、いきなりドヤドヤと血だらけ、泥だらけになった学生がホールに駆け込んできて、狭いホールは忽ち溢れるようになった。みな恐ろしく興奮している。

 誰それが怪我をして運ばれた、誰それが逮捕されたと、今までに経験したことの無い混乱ぶりである。満足な身なりの者は、その時デモにも行かずにホールにいた数人の友人と私だけだった。時間がたつにつれ、これは放っておけないということがわかってきた。デモに学生をかり出した自冶会の委員長ら幹部が、のきなみ行方不明になってしまったからである。そのうち死者が出たという噂が流れた。医歯大のデモ隊は東大の直ぐ後に続いていたらしい。ある男が泣きながら、丸茂(医学部三年生)さんが死んだ様になって救急車でどこかに運ばれたという事実を告げた。搬送先はどうも虎の門病院らしい。
その後の私の記憶は、すっぽりと抜けている。気が付くと私は電話機にかじりついていた。呼び出したのは宮本先生である。先生はもうやすみになっておられた。深夜学生から呼び出された先生は、いささか不機嫌そうなお声をしておられたが、私は勇を奮って氏名を名乗り、私以外にしかるべき学生がいないので、歯学部学生ながら先生のご助力におすがりしたいという様な事を喋った。

 事態が判明すると、先生からはたちまちテキパキした返事が戻って来た。
「虎の門病院ならMがいる。直ちに彼の家に連絡しろ。事務室が閉まっていたら、学生ホールに同窓会の名簿があるだろう。都内の警察を、学生を振りわけてなるべく多く回らせろ。必要なら、僕の名前を使っても一向に構わない。あ、それからな、今後何時でもいい。事態がわかったら逐一連絡しろ」
幸い医歯大の学生から死者はでなかったが、丸茂君は脳底骨折で重態だった。警察の留置場に留め置かれたある学生は、隙を見て逃げ出して来たと興奮して喋っていた。私は夜明けまでに何回か宮本先生に電話した。
我々は残った自冶会の学生と相談して、翌日から全学ストを決行した。とにかく行方不明者を救出しなければならない。そのうえ地方の大学の医学部からは続々と学生が集って、医歯大にねぐらを求めて来た。私は医歯大学生救援対策部長にされ、その後三日間一睡もしなかった。臨時に自冶会の委員長代行になった二年生のH君は、とうとう三日目になって卒倒した。(このH君も今はある大学の名誉教授である)

 その翌日だったのか、数日たってからのことだったか今では良く思い出せない。とにかく事態が一区切り付いた所で私は宮本先生の教室に伺い、報告とお礼を申上げた。なにしろ宮本先生は医歯大きっての大先生である。教授だって先生の前では緊張するという話が伝わっている。先生の部屋は滅多に学生が近寄れる場所ではない。
先生はジロジロと私を眺めておられたが、
「キミがあの夜電話してきた学生かい」
 と、仰った。先生は生粋の江戸っ子で、出自が古い医家である。
「そうです、丸茂君は脳底骨折で、どうなるかわかりませんが、まだ生きています。警察から追われているらしい自冶会の委員長は、神経が高ぶっていますので、私が下宿にかくまっています」
「そうか。そいつはご苦労。脳底骨折とは重傷だが、まだ生きているならおそらく助かるだろう。ところでな、ぼくはキミに感心したんだよ。話がとても要領がよかった。ナニ、歯学部の学生だって。どうりで顔を知らないわけだ」
そして横にいた秘書役の女性に向かって、
「キミ、この学生の顔と名前をよく覚えておいてくれ給え。ホラ、ぼくはすぐ人の名前を忘れてしまうだろう。この学生の名前は忘れたでは困る。ボクが、ホラ、あの学生といったら、歯学部の村上君ですかという具合にな」

 これが宮本先生に私が直接お目にかかった端緒である。昭和三十七年卒の私以前に、歯学部を卒業した者がどれ程の数なのかしらないが、私ほど先生に可愛がられた学生もいないであろう。もっと詳しく言えば、苦学にあえぐ学生の私が、この大学で師と仰ぎ尊敬出来た教授は、宮本先生の他には誰もいないようになってしまったのである。
宮本先生は江戸っ子一流の諧謔(かいぎゃく)で、平素から歯学部で威張っている教授諸公など頭から小馬鹿にしておられ、気安い者の前では医科歯科大学をウマシカ大学と言うことすらあった。当然歯学部の教授の間では人気がなかった。私はますます孤独になった。もう少し余談を続ける。

 私には由木徹という医学部の親友が居たが、卒業して一年たってから彼の自殺に遭遇した。由木の父上は日本で有名な牧師で、賛美歌「聖しこの夜」の訳詩者として知られている。私は由木にはあらゆる話が出来た。由木もあらゆる話を私にした。一見恵まれた家庭の子に見えた彼も、人知れず深刻な悩みに直面していたのだ。彼の自殺で私は人生そのものを放棄したくなった。私の心の暗部を理解出来る人間は、もう誰もいなくなってしまったのだ。私はその苦衷(くちゅう)をしばしば先生に手紙で訴えた。先生は何も仰らずに、
『寒ざれの 孤高の笛は 冴えしめよ』
と云う一句をしたため、私に下さった。この一句は私のその後の人生を支える磁針になった。孤高か孤低かわからないが、独りたらざるをえぬ人間がこの世にはいるのだ。どうやら私はそういう種類の人間らしい。そうした生き方の結果がどう出ようと、そういう人間は、そういう生き方を崩しては生きられない。モーツアルトの音楽が心にしみるのは、どうやら彼がそういう人間だったかららしい。私は人に理解を求めると言う考え方を捨てた。人に理解されるのを求めることより、理解し愛することの方がはるかに大切なのだ》
と村上氏は書いている。

 学生運動が東京医科歯科大学でも吹き荒れていたこの二年前、恩師の宮本璋の事を思い出すかのように、更に村上徹氏は『島峰徹とその時代(五)』の中で、こんな一つのエピソードを書いている。
《(略)私が学部一年に進んだ年(昭和三十三年)に、医学部の先輩達は、この医ゼミの当番校と新聞編集発行の役を買って出ていたらしい、その他に医科大新聞を月刊で出しており、その取材、原稿の依頼と確保、編集の作業はもとより、広告集めのための都内の各企業を訪問してのお願いやら集金やら、そのうえ年に一度の大学際は、毎年決った全学的な大行事、事務方の学生課や施設課との連携は不可欠、とにかく活動家は忙しい、先輩達は新入生の後輩で、使い物になりそうな学生をウの目タカの目で探している。この新入生狩の網の目に私は引っかかった、既にこの網の目の中に入ったある同級生が、私を医学部のこの先輩たちの前に引っ張っていった、先輩達は先ず私の風采を褒め、歓迎してくれた。貧乏学生の風態が褒められるというのは意外だったが、文学に傾斜していた私は、当時は長髪で、どこか感じがちがっていたのだろう、

 私は先輩達の暖かな態度にころりとイカれて了った、そして彼らの使い走りをするところから学部での学生活動を開始した、やがて活動に深入りしてみると、学生の政治的立場が二派に分かれている事が判ってきた、つまり共産党系と反共産党系である。三年生は殆どがブンドで、二年生に共産党系が多かった。活動家の主軸は三年生であり、我々を歓迎してくれたのも彼らである。そんなわけからか、我々の学生の自治会の活動家は皆ブンドになった。共産党系の主張では、ブントなどは極左冒険主義でありあり、左翼小児病だということだったが、学内では両者は棲み分けて共存しており、心中はともかく表面では掴みあいの喧嘩をするようなことはなかった。なんと言っても四年生の大学と比較すれば、平均で二学年年長なのである。ふつうの大学では四年生になれば卒論や就職活動で血眼になるが、我々の二年生では、やっと難物の解剖学の試験が終了したという段階でしかない、いわばヒヨコの足腰が少し確りし、鶏冠が生え出してきたというところである。

 璋の目には主流派も反主流派もない、みな同じ大学の学生であり、学生である以上子供である、政治批判は一切しないのが戦前からの璋の方針である。だから学生の政治思想など一切問題にしない、時には厳しく叱り付け威圧しながら、大体学生の好きにやらせていた。
「何?休校にしろだと、好きにしろ、だが許可はしない、学生がいなければ教官だって馬鹿じゃないから、講義になんか出てゆきゃしないさ」
休校を要求しに言った先輩の話では、宮本医学部長の対応はざっとこんな按配だったようである。それであわや全学休校という時、ある非常勤講師が学生に泣きついてきた、教授の先生は月給だから休校だろうとなんだろうと、一向に痛痒はないが、非常勤講師は時間給なんだよ、休校になればその分の手当ては貰えない、これは困る、そこら辺り考えてくれよ。
生活が苦しいのは学生も同じだから、一同はこの先生にはいたく同情した。そこで学生側が考えて、その日は「休校」とはせず、学生が揃って授業を休むという形にした。つまり集団サボである。先生が出て来て学生が一人もいず、そのまま三十分経過すればその日は出講扱いとなり手当てが付く、そんな規則があった様であった。

 さらに驚いたことに、学生はときに宮本先生の所へ運動資金までも強請にいったらしい。ある時、医学連がどうにも資金に詰まって、十万がそこらの金が必要になった。この金を先生にねだったというのである。これは伝聞だから、確証はない、先生は眉ひとつ動かさなかった。
「君たち、バカいうんじゃないよ、ボクに金があるとおもうかね」
それでも学生はしつこく食い下がる。先生だったら顔も広いから、どこか大きな企業を紹介して貰う事も或いは出来るのじゃあないか、先生はよく学生新聞に広告主を紹介してくれたらしい、これは新聞部の部長としての好意であったが、学生はそのデンで先生に甘えたらしい。しかし、学生新聞の広告と医学連の運動資金とでは性格が全くちがう、先生は一計を按じた、なんと渋沢元財閥を紹介したのである。

 渋沢家の当主の渋沢敬三氏(旧子爵)は先生とは竹馬の友である。小中学校から高校や大学とすべて学校を共にした、また敬三氏に璋は戦前の農村厚生活動でも、一通りではない世話になっている。敬三氏は大学の農学部志望であったが、父君のとんだ廃嫡さわぎから、爺様の栄一に羽織袴で手をつかれて懇願されて当主となり、素志を翻して経済学部を卒業したというエピソードは、史上かくれもない事実であった。
先生は手紙だか電話だかで、敬三氏にこう言ったという。
「ボクの紹介で君の所へ医学生が何人か押しかける、迷惑だろうが会ってやってくれ、コイツらこれからの日本の医学を背負ってたつ連中だが、今は過激なことをやっている、怒らせるとコイツら理性を失って、日銀や大蔵省を取り巻いて騒ぐかもしれない」元大蔵大臣・日銀総裁の渋沢氏は面談のうえ、少なからず金額を学生に寄附してくれたという、これには学生の方がドギモを抜かれた、私は先生が退官されてご自由な身となった時、先生にこの伝聞の事実をお訊ねした事がある。先生はウソともホントとも仰らなかったが「渋沢敬三か・・」
と遠くを見る様な目つきをなさった、(略)》
 
 璋が東京医科歯科大学を定年退職する直前の、昭和三十七年(一九六二)二月二十六日である。この時に璋は東京都食品衛生調査会中性洗剤特別専門委員会と云う、委員の一人としてその専門会議に参加していた。会議の議題は食材や食器を洗う為に使用される石油系中性洗剤に関して、安全かどうかと云う問題を検討する中で、生化学の専門家が居ない事を指摘した柳沢文徳教授からの要請で、委員会への出席を求められたのである。
この時期、石油系中性洗剤の主成分であるABSの毒性が、注目され始めて来ていたからで、柳沢文徳は璋の後輩となる関係でもあったからだ。かつては璋が東大医学部の生化学教室に居た頃に作った、農村厚生医学研究施設と呼ばれた教室も、昭和三十二年頃には国立大学の付属施設として予算が付く事になり、千葉大学医学部付属腐敗研究所の教授だった柳沢文徳が、その農村厚生医学研究施設へと移って来たからである。

 しかし嘗て調べた農村は相変わらず慢性疾患が多く、現代医学はそうした慢性疾患の患者が増加する事に、柳沢は手を拱いているだけの行政に危機感を抱いていたのだ。ここで璋は議会の委員会で「ABS(アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム)は、健康な人には何ら影響を与えないかもしれないが、肝臓が悪い人、衰弱した人、老人、そして幼児では、ABSが体内に入れば悪い影響を及ぼし、それもABSが原因かも分らぬ様に生じ、又死ぬ事さえ有り得る」と発言し、柳沢教授なども「石油系合成洗剤は決して安全とは言えず、完全に無害とは言えない」と答え、今日では食に関して使用する洗剤の全てが、植物系の洗剤となっているのである。

 璋が東京帝国大学(東大)生化学教室の助教授だった頃、柿内教授の許可も得ずに勝手に学生達を使い、茨城の田舎に出かけて農村厚生活動と云う運動を始めた璋の行動を、苦々しく思っていた退官も間近に迫った老教授には、やつかみだけが寂しさを支えていた様に思える。
何時も首席であったが為に、秀才と云う自負で自らの世界を囲わなければならなかった柿内と、学門の目的を失わなかった事で璋が得たものと、柿内と璋との二人の生き方には、その違いを鮮明に見る事が出来る。そして生化学教室で助教授を十四年程勤めていた璋が、上司の柿内教授との関係から帝大を飛び出した直前に、研究室で調べていたのは自分と父の遺伝子でもあった。
日本軍の真珠湾攻撃から一年余り後、帝大を辞めた璋はジャカルタの医科大学へと移り、敗戦と共に東京医科歯科大学校の医学部長を二度も任された時、璋は時間が出来たら自らの遺伝子の歴史を調べてみたいと思った事があった。それも電気泳動や染色体の様な、目に見えない程のミクロの話ではなく、息遣いを感じられる様な先祖の足跡を追ってみたいと思ったのだ。自分をこの世界に産み落としてくれた先祖の人々が、どんな場所で、どんな姿で暮らしたのか、それを知りたいと心から思ったのである。

 璋が東京医科歯科大医学部の初代医学部長を退任した五年後に、再度四代目の医学部長に就任した理由については良く分かってはいない。しかしこの頃に璋は、今生天皇が未だ皇太子殿下であった時、数回ほど講話をする為に東宮御所に呼ばれている。
話は高山植物に関する話などで、講話に呼ばれたのも日本山岳会の古参会員としてであった。とは言え、殿下の学友から漏れ聞く話として、かつて璋が暮らしていた東中野の家の庭の木が、東宮御所の庭に移植されて残されていると言う話であった。璋が谷川岳に登山した時に、山から失敬して持ち帰った山躑躅(山つつじ)の苗木であったと言うのだが、その真偽の程は確かめようが無い。

 多くの都会に住む人々の誰もがそうであるように、父親や祖父の名前ならいざ知らず、曽祖父から更にその先の先祖の名前となると、まるで他人のように至って曖昧になって来る。ましてどの様な人生を過ごして来たのか、今を生きる者から見れば強い関心などある訳もない。だがそれは間違いなく自らが、今そこに生きて、存在する事そのものの曖昧さでもあった。それだからこそ人は誰もが、自らのルーツを知りたいと思えるのだ。
自分の体を支えているこの細胞の固まりの元は、その中にある遺伝子情報に残された記禄の断片を解析する事は、或いはあと百年もあれば可能になるかも知れない。しかし先祖の人々が受け止めた喜びや悲しみを探るには、自らの記憶の中の断片と共に、知りたいとするその思いだけが、捜し出す唯一の手掛かりとなるだろう。

 一体どの様な場所で彼らは育まれ、どの様な人々に囲まれ、どんな影響を受けて成長したのか、それを心から知りたいと思えるのだ。そして自分はどの様にそれらに支えられ、今の自分と云う人間に至ったのか、璋は研究室の中でバンドを調べる学問の他に、自らの過去を遡る歴史の旅に出たいと思ったのだ。
既にそれ等は歳月と共に大きく移り変わっているにしても、先祖たちが眺めた山や川を見ながら、今に続いている遥かな過去の遺伝子の痕跡を見つめる事も、それも又自らを知る事に繋がる様に思えたのである。まして祖父の友人でもある佐久間象山の事など、歴史にはうとい自分は父の様に、その生涯を調べた事など一度としてなかった。まずは父の故郷の松代に出かけてみたいと思った。どこまで遡ることができるのか全くの当てがある訳ではない。祖父の慎助が暮らした街をゆっくりと歩いてみたいと思ったのである。
しかし璋のその思いは叶わなかった。璋がその生涯を終えたのは一九七三年(昭和四十八年)七月二十日の事で、七十六年間の年月を駆け抜けて逝ったのである。宮本家の初代となる先祖の九兵衛正武が、信州の御幣川村で没したのが慶長元年(一五九七)だから、実にそれから三百七十六年後の事であった。
そして璋は父である仲の眠る多磨霊園の墓の中で、妻や子供達と共に静かに眠っている。


五、宮本家十二代の系譜

 信濃国がその昔、科野国と書かれたのは七世紀末に奈良の藤原宮跡から発掘された木簡に、記されていた事は既に文頭に書いた。嘗て大宝律令が制定された七百一年、当事のこの国は六十以上もの国々から成り立ち、科野国が後に信濃国と書かれる事になった。奈良時代の初めには天皇が各地の豪族を束ね、中央集権機構を設ける最中に地名は縁起の良い名前にする様との命を受け、呼び名はそのままに漢字をあてがい信濃国とした経緯がある。

 聖武天皇が全国に国分寺を置いた天平十三年(七四一)に、現在の上田市に国分寺が置かれたとされているが、千曲市屋代の上信越高速道路工事の最中、発掘した古墳から当事の国府役人が書いた木簡が多く出土したから、科野に置かれた国府が当初は千曲市屋代に置かれ、科野国の場所が善光寺平を中心にした国と考える方が合理的とされる様になっている。しかもその折に科野国は千曲川を挟んで西を更級(さらしな)郡、東を埴科(はにしな)郡とした、「しな」と付く郡が二つも誕生している。
この科野の名称は日本最古の歴史書である『古事記』にも記載されてはいるが、それよりも信濃国を歩けば至る所に、科(しな)と名の付いた地名が残っている事に気がつく。蓼科・明科・豊科・浅科など、科とは元より日本固有の落葉樹の木の種類である。そして信濃国は誰もが知る、この日本国のほぼ中央に位置した山国であった。
 
 宮本家の開祖となる記録が今に残っているのは、天文二十二年(一五五三)に始まる甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が行なった、川中島の戦いが行われた少し後の頃からのものである。しかも戦場となった川中島は宮本家の祖先が開墾した、御幣川(おんべがわ)村の隣とも言える程の近い場所で、信濃国の中央を流れる筑摩川(千曲川)に、安曇野などの松本盆地から流れて来た犀川が合流する地点から、少しだけ上流に位置する辺りの地名である。

 元々千曲川の源流は八ケ岳北麓から甲斐の国境、更には佐久平や浅間山南麓辺りまでの、広大な土地に降った水が集められた川である。上田あたりから緩やかになる中流域の流れは、更級と埴科辺りの更埴と呼ばれた辺りから、姥捨てや篠山の山塊にその行く手を阻まれる。そして大きく右へと流れを曲げられた場所にある川中島は、増水時にはまるで島となる場所から名付けられている。
だが数千年も前から幾度も繰り返された川の氾濫によって、土砂が堆積したそこは肥沃な土地でもあった。しかも昔から付近は善光寺平とも呼ばれる、山国では珍しく広々とした平らな土地が広がり、北陸や越後から関東、更には甲斐から美濃や京に向かうにしても、内陸交通の要路として重要な場所でもあった。それ故に甲斐の武田と越後の上杉にとっては、喉から手の出る程に欲しい土地だったのである。

 ところで五度に亘って行われた川中島の戦は、永禄七年(一五六四)の頃まで絶えず両軍が相まみえる、戦場に晒されていた場所であった。この戦が始まる少し前に越後の領主となった上杉影虎(謙信)は、耕作地の拡大と共に犀川の支流となる御弊川や、岡田川の洪水を防ぐため護岸補修などの治水工事を行っている。この時に宮本家の開祖となる人々が、その為の労力として越後から集められて来た人々なのか、或いはそれ以降に開拓者として入植した者達なのか、そうした具体的な記録はどこにも残されてはいない。
ただ御幣川村(現・長野市篠ノ井)に始まるとされる宮本家の、末裔の人々に伝えられて来た話に拠れば、先祖は川中島の合戦の後に武士を捨て、芝切をしながらこの農地を、しかも「実に二十町歩をも開拓した、この地の先駆者であった」と代々に亘って伝えられている。ちなみに芝切とは、河原に生えた葦やススキなどを刈取り、耕作地へと広げる仕事の事である。

しかも「郷士」と呼ばれたこれらの人々は、平時には農民として田畑を耕し、戦の時には領主の求めに従い戦場へと赴く者達の事である。つまり土地を耕し作物を作る農民とは言え、いざとなれは死とも立ち向かう程の強靭な精神を持って、その土地に根付いた者達の事であった。
更に彼らは独自に「郷党」と呼ぶ組織を作り上げ、同じ「郷党」の子供たちには読み書きから十露盤を教える者、或いは若い男子には武術や狩などを教える者などの役割を持ち、その結び付く絆の強さは、戦の時など肉親や兄弟などと等しく示す事があった。こうした風土が生まれた更級郡御弊川村の地で、宮本家の一族は代々に亘って暮らしを営み続けて来たのである。

 宮本家の最も古い史料が確認出来たのは、先祖がこの地に来てから最初の菩提寺となる岡田村(現、篠ノ井岡田)の、玄峰院に存在していた墓碑銘からである。つまり今に辿る事の出来る初代宮本家の開祖、宮本九兵衛正武の名が墓碑から採取された、慶長元年(一五九七)十二月二日没 落岸院谿雪誼白居士とする拓本によって、今に残されていた事で判明した。歿した時代は豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った、慶長の役の頃の事である。
更に記録として残されている古いものは、四代目となる九大夫正之が生きた享保年間の、それも殆どが松代藩の代官に関する内容であり、和算や手代職に関するものである。そしてそれ以前のものは、玄峰院の次に菩提寺とした、同じ御弊川の宝昌寺に残された過去帳がそれで、そこには二代目の宮本久兵衛正直が寺子屋をこの地に開き、三代目の市兵衛正禮に引き継がれた事が残されている位である。これらの資料から宮本家の一族は、この地で代々に亘って寺子屋を始めた事が判明している。

 宮本家の歴代当主の資料は、信濃の地方冊子『松代』第二十号(二〇〇六)に掲載された『佐久間象山の著者宮本仲と「宮本家文書」について』と題された、当時は真田宝物館勤務していた、故北村典子氏が纏めた論文の一部から、まずは宮本家八代目までを引用させて貰う事にする。そして補足ながら今に続く宮本家の人々が編纂した「私家版の宮本家歴史年表」を一部掲載しておきたい。

◇宮本家初代   宮本九兵衛正武  (生年不詳・     慶長 元年一五九七没)
  一五七三(天正年間)初代九兵衛正武は戦国の武士であったものの、その武士を捨てて芝切をし、専心農業を拓く。
慶長元年の歿する五年前までに、二十町歩、二百石を収穫する程の豪農となった。
◇宮本家二代 宮本久兵衛正直  (生年不詳・     万冶 二年一六五九没)
◇宮本家三代   宮本市兵衛正禮  (生年不詳・     享保十二年一七二七没)
◇宮本家四代   宮本九大夫正之  (生年不詳・     正徳 元年一七三三没)
 郷党の中で三代に亘って寺子屋を始めていた九太夫正之の事を、文部省史料館蔵〈真田文書〉の「御役方起源並び勤方沿革等之儀御尋付申上」(御役先輩之姓名并銘々元御役・後御役転遷之ケ所)には、この様な記録が残されている。以下は参照した前記の訳文である。
『宮本家の四代目となる九大夫正之が信州和算の祖と云われたのは、その父である三代目正禮や祖父の二代目正直が、この地で郷党の子弟に学問を教える郷士であったからである。特に領主に収める年貢米や田畑の収穫量を求める算学は、農民達には死活問題として必須な知識であった。そこで算学を修めるべく四代目の九大夫正之は京に上ると、和算の泰斗つまり大家である宮城清行の門下に入り、多年に亘って教えを受け免許皆伝を得て故郷に戻り、算学の塾を開いて多くの門人を育てたのである。

 初代から続く二代三代の当主が歿した後の正徳三年(一七一三)、四代となる九太夫正之は、信州宮城流開祖として始めて門人の藤牧弥之助に免許状を与える。(県内に現存する最古の和算免許状である)後に四代目九大夫正之の筆頭門人となった松代藩士の入弥左衛門庸昌(入庸昌)は、寛保三年(一七四三)に「角総算法」を著し全国に広くその名を知らしめた。(ここで云う「角総算法」とは正多角形の外接円と、内接円の各半径と面積の計算方法を一般式で示す算書の事で、現代では高校高学年程度の数式である)
◇宮本家五代  宮本惣左衛門正孝 (生年不詳・     延亨 四年一七四七没)
◇宮本家六代  宮本祖左衛門正道 (生年不詳・     寛政 九年一七九七没)
六代目宮本祖左衛門正道(寛政九年・一七九七没)が御幣川村宮本家の当主の折、『加賀前田侯が勤交替の折、休息場所として(住まいが)提供され、その富農が知られている。その後に明和丙戌三年(一七六六)、故あって松代に移る。是に於いて旧宅また他に譲る』と寺の記録に記されている。

 加賀の前田家藩主が参勤交代の折、筑摩川や犀川の川止めに遭遇し、休息されたとする宮本家の住まいは、当然だが今に残されては居ない。しかし篠ノ井追分宿から善光寺方面に向かう北国街道の左側、つまり宮本家先祖を祀った墓碑がある宝昌寺から、御幣川神社辺りの街道沿いに屋敷は在った様で、明和丙戌三年に松代へ移った経緯については、次の様な記録が残されている。宮本家五代目となる惣左衛門正孝は、郡奉行の代官手代として勤めていた長男の定之丞(後に祖左衛門正道)を、次男の助左衛門に引き継がせたのは宝暦八年(一七五八)の事で、定之丞を六代目の宮本家当主として、御弊川村に戻して和算の寺子屋を開かせている。

 だが後に郡奉行の代官手代職を継いで、松代城下の役宅に住んでいた次男の助左衛門から、手代を辞めて隠居したいと申し出た為に、今度は七代目の惣左衛門正方が、明和元年(一七六四)に倅の友之丞を引き連れ、手代職を引き継ぐ為に松代の役宅へと移り住んだのである。この時の八代目となる友之丞正暎は、まだ僅か十歳の頃であった』
寺の記録に残された八代目友之丞正暎が当主の折、『・・・その後に明和丙戌年(一七六六)、故あって松代に移る。是に於いて旧宅また他に譲る』と寺の記録に記されているのは、この時から二年後の話である。
こうして助左衛門は手代職を辞め、松代から御幣川村に戻り隠居の身となるも、寛政九年(一七九七)には六代目の祖左衛門正道が死去すると、その後に四十年もの間を、故郷の御弊川村で和算の寺子屋を続けていたのである。
◇宮本家七代  宮本惣左衛門正方 (生年不詳・寛政十二年一八〇〇没)
◇宮本家八代  宮本友之丞正暎  (宝暦五年九月七日生〔一七五五〕・天保九年一八三八没)
妻は天保 六年九月四日没。生年氏名不詳。

 ここで松代藩の郡奉行や手代職について説明すると、松代藩の郡奉行はその配下に代官や手代、更にその下には足軽や仲間を置き、収納方(地方)と公事方(訴訟)の職務を分掌していた。手代の仕事とは代官のもとで、年貢籾や大豆などを収納する他に、多くは御収納に関する金銭の勘定諸払いを扱っている。その他にも村内の居宅焼失者の持高書上改めにも携わり、幕府巡見使の立会いから国役普請の施行、地押し改め、佐渡運上金の通行などの時にも出役が申し渡された。しかも所定の村々との癒着を防ぐ為、同じ地域を支配する期間は五年と定められている。
更には村々の田畑所有者別に算出した石高・反別を、田畑毎に書き上げ集計する石高寄帳や頭立帳などの取り扱いは、算術と読み書きに長じた者でしか出来ないお役目でもあった。
この様に宮本家は代々に亘って代官手代の職を引き継ぐと共に、その一方の分家筋も御幣川付近では、初期の読み書き十露盤の寺子屋を営んでいた様で、寺子屋の開業は正保年間(一六四五年頃)に、二代目の久兵衛正直が最も古く始めたと伝えられている。そして本格的な和算を含めた寺子屋は、正徳年代(一七一一)頃から明治五年(一八七二)頃までと、実に明治政府の学制が布かれるまでの、百五十年余りもこの地で寺子屋を続けて来たのである。

 寛政十二年庚申(一八〇〇)の四月、七代目惣左衛門は自らの身体の具合が悪くなると、代官所の手代職と隠居したい旨を共々に届け出た。そして宮本家を倅の八代目となる友之丞正暎に継がせると、まるで自らが歿するのを予期していたかの様に、その年の秋に天寿を全うしたのである。
惣左衛門から宮本家を継いだ友之丞正暎は、更に算学に励み、十九年後の文政二年(一八一九)の六月、それまでの代官手代職から松代藩へと出仕を求められ、初めて藩士へと昇進する事となった。所謂真田家と云う主人を持つ、家臣となる武士になったのである。こうして初めて松代藩御勘定役に取り立てられた友之丞は、宛行・米五斗入籾四十俵を給わっている。とは言え友之丞の年齢はこの時、実に六十四歳と云う高齢で、武士としての身分は徒士(かち)であった。この徒士とは騎乗を許されない軽格の武士、つまり足軽の上に立つ程度の管理職としての役回りである。
又この時に宮本家は本家として御城下へと移る事になり、佐久間家とは路地を挟んだ向いの屋敷に住んだ事から、三代に亘る佐久間家との関係が始まったのである。  

 宮本家の者が藩の御勘定方に武士となって出仕したのは、八代目の友之丞正暎が最初である。これは宮城流の和算を継承し、熟知していた事に由る処が大きかったからであろう。更に友之丞の長男で九代目となる宮本市兵衛正武も、算学に関しては宮城流を継承しながら、その一方では新たな最上流(さいじょうりゅう)の和算も、松代藩お抱えの和算家である町田源左衛門正記の門を叩き、免許を得て文政四年(一八二一)に御勘定役見習として出仕する事になる。
だが出仕したこの時に「御勝手御取直之御意ニ付・・・倹約仕・・」と、宮本家文書には市兵衛の口上覚(御宛行御役料不残差上)が残されており、宛行や役料ともに藩に差し出し、あえて無給での役勤めを願い出ている。未だ見習いとしての立場で、宛行を戴く事には恐れ多いとした抵抗があった為である。それに宮城流と云う和算と共に、新たに広がり始めた最上流の和算を、藩士や領民に教えていた為でもあるのだろうが、その一方で御勘定方を宮本家では二十九歳の若い市兵衛の修行の場として見て居た様である。

 江戸時代も後期の文化文政と呼ばれたこの頃は、江戸を中心にした町人の経済的な豊かさが広がり、様々な町人文化が花開いた時期でもある。それに伴い亨楽的な歌舞伎や浮世絵、狂歌や読本などの他、俳句、川柳、狂歌などの様々な芸事や習い事が広まっていた時代でもあった。この頃の事を松代藩の家老鎌原石見(桐山)も自叙伝の中で、武士の自らが射術・鎗術から手裏剣、更には礼法や点茶などをも学んでいた事が記されている。そして自ら朝陽館とする塾を開き、松代藩内にも五十種を越える様々な芸事の私塾があったとされている。

◇宮本家九代 宮本市兵衛正武 寛政四年(一七九二生まれ) 天保五年(一八三四)三月二十八日没。妻は文久元年(一八六一)四月三日没。
九代市兵衛正武が松代藩お抱え和算家の町田源左衛門正記から、宮城流の免許を受けたのは文化十二年(一八一五)の事で、市兵衛正武二十三歳の時である。更に翌年には新たに広まった和算、最上(さいじょう)流の免許を得ると、その門下に集まったのは五歳となった幼い佐久間象山などである。
父である八代友之丞正暎が松代藩御勘定方に御取立となった文政二年の同じ年、九代市兵衛正武は江戸の浅草寺に建てられた「会田安明算子塚」に、門人としてその銘を刻まれる事になる。

◇宮本家十代 宮本慎助正誼 文政五年(一八二二)六月十日生、明治十一年(一八七八)没、妻は文久元年六月十日没、後妻は明治三十七年九月十九日没 
九代市兵衛正武の息子で十代目となる慎助正誼は、二十一歳となった天保十四年(一八四三)に父親と同様、町田源左衛門正記から最上流の免許を得ている。そして翌年となる天保十五年には、宮本家の開祖である九兵衛正武の二百五十回忌の法要が、松代の大林寺で行なわれたのである。
更に宮本家の当主を継いで二十年後の安政五年(一八五八)、つまり慎助三十七歳の時、今度は初めて松代藩から一代給人格を仰せつかる事になる。無論だが宮本家の人々が武士になる事を目的に、代々和算を学び教えて来た訳では無い。当初は手習い師匠から数年をかけて和算を学び、人に教える事の免許を得ると、学んだ事を更に広めて人々の暮らしに役立たせる事が、一族の暮らしの柱であった事は紛れもない事実であった。それまで学び教えていた流派とは異なり、時代に即した新たな和算の流派が現れれば、率先してわが知識とする為に、師匠の門を叩き数年を費やしてそれを学んでいる。
戦国時代と呼ばれた末期に一度は武士を捨て、郷士と呼ぶ農民から給人格を持つ松代藩の藩士となるまで、実に二百五十年余りもの年月が過ぎ、十を数える世代の繰り返しがあった事になる。(この一代給人格とは、表向きは一代限りの藩士として認められる事だが、その多くは代々継続しての登用される藩士の事である)

 長野市誌四巻近世二による格式別の解説では、『松代藩の格式別の職は給人格・徒士格・目見以下となる。目見以下の奉公人には苗字を持つ者、持たない者の二つの層に別れ、苗字を持つ奉公人は役所の物書、小頭、手代であり、苗字を持たない奉公人は煮方、飯方などの職人が含まれる。更に給人格には家督・跡式相続と、それに関わる隠居や養子をはじめ、諸儀礼などは藩主の許可を必要とする物が多く、格式の差がはっきりと表れる最も重要なものは、家督跡式相続である。士格の者は「家督」相続であって、相続願書には必ず「家督願」と記される。徒士格で相続の願いのあるものは家督ではなく「跡式」である。死後の遺言願は士格と同じで許される』と、細かな藩の決り事が書かれている。

 ここで宮本家九代目市兵衛の妻となった伊木家の「貞」と、そして宮本家の隣家に住む佐久間家の事も書いておきたい。無給での役勤めを申し出た九代目の市兵衛正武の許に、嫁いで来たのは戦国時代から長く続く家系を持つ伊木家の娘「貞」である。(当時の女性が生まれた年や生きていた時に使っていた俗名としての名前は、亡くなると戒名だけとなり記録される事がない為、その戒名、祥節院貞山慧実大姉から敢えてここでは「さだ」とした)。
この「貞」が生まれた伊木家の祖先は、元々が尾張国の野武士の出である。蜂須賀小六等と共に織田信長に仕えた、武馬七郎右衛門常重という者であった。永禄三年(一五六〇)に信長が東美濃攻めの足掛かりにと、美濃の伊木城を攻め落す事を決めた。この時に城に籠っていた城主香川氏を蜂須賀小六と共に知略を使い、城を奪った事で信長から城の名に因んで武馬を伊木と名乗る様に命じられている。

 後に羽柴秀吉の備中高松攻めに於いては、摂津本郡の防備役として伊木氏の名が出て来る。更に光秀の謀反によって信長亡き後には、秀吉の近習として息子の伊木遠雄(別名遠勝)が仕え、柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いでは、大将級の首を取るなどの戦功を上げ、三百石の禄を受ける秀吉の家臣であった。
しかし関ヶ原の戦いでは家康の率いる東軍に敗れ、後に大坂城にては西軍に就いた真田信繁(幸村)の軍監に就くも、大坂夏の陣では豊臣方の西軍が東軍の家康に敗れて滅亡すると、暫くの間ではあるにしても伊木遠雄はその名を消す事となる。その間、西軍に就いて負けるべくして負けた真田信繁の父昌幸は、「戦の後には良い家臣を召し抱える様に」と東軍の家康側についた信幸へ伝え、暗に伊木遠雄を召抱える様にと薦めたのである。

 その真田昌幸はと言えば関が原の戦いで敗軍の将となって以降、紀伊の九度山に配流される事になる。しかも敵となった父の昌幸から、信幸は多くの助言を受け入れ、伊木遠雄を探し出して家臣へと求めたのである。一方で家康の求めに応じた真田信幸は、家臣として上田城を出て十三万石に加増され、松代に移ったのは天和八年(一六二二)の事である。この時に初代松代藩主となった真田信幸は名を信之に変え、父親である昌幸との決別を家康に示している。
松代藩へと領地を移された真田信之が、関ヶ原の戦いでは父の真田昌幸や弟の信繁と敵対したのは、妻が徳川家康の重臣である本多忠勝の娘小松姫でもあり、その一方で真田の血筋を守る事が、信之に課せられた使命でもあったからである。
そしてこの時、松代に移り真田信之の近習として仕えたのが、伊木遠雄の息子で伊木庄次郎尚重と言い、父親と共に真田家に仕え後で三郎右衛門と名を変えている。この三郎右衛門に与えられた家禄は実に三百五十石、初代の真田家の家老となる小山田家の小野采女が九百六十九石であり、松代藩士の給禄高を伝える分限帳では十七・八番目の高禄を受けている。

 初代松代藩藩主の真田信之が九十三歳で亡くなると、重臣であった鈴木右近忠重は生前からの約束として、その二日後に切腹した。幕府が禁じていた殉死である。信之が幕府から隠居を許された二年前の明暦元年(一六五六)には、既に自らの身体さえも供の者が支えなければ、足がもつれる程の既に老体であった。この信之が城の階段を登る時に、身体を支えていた鈴木右近忠重に向かい、不意にこんな話を語ったのである。
「わしもだいぶ齢を取りすぎた様だ。もうすぐ御仏の世界に行くのではあろうが、独りの旅は寂しいものであろうな」
それはしみじみとした口調であった。その言葉を聴いた忠重は極めて穏やかに、この様な返事をしたのである。
「みどもも既に八十を超えておりますれば、お話し相手が居なくなるのは、残された者も等しく寂しいもので御座います。もし殿が宜しければ、その時は是非に話し相手のお供として、殿に同道させて頂く事が出来ますれば、これ以上の喜びはございませぬ」
それを聞いた信之は、安心した様に忠重の顔を見つめ黙って微笑んだ。忠重も又、主君信之の顔を見て微笑むと頭を下げた。忠重は八十二歳、信之が九十一歳の時である。

 この出来事から二年が過ぎた万冶元年(一六五八)十月、信之は老衰によって歿した。天寿を全うしたと言えるだろう。そしてその二日後、信之の後を追う様に忠重は切腹した。最後の最後まで忠重は家臣として、主従の関係を遂げたのである。幕府は忠義心の強い、有能な人材を失わせたくは無かったのか、幕閣内でもこうした追い腹には批判的な意見が多く出た様である。
しかし松代藩の忠重による殉死は高齢を考慮してなのか、幕府は殊更騒ぎ出す事も無く松代藩もお咎めを受ける事も無かった。しかし幕府はそれから五年後の寛文三年(一六六三)に武家諸法度を改正し、殉死、追い腹に関しては厳罰を持って禁じた一項をそこに入れたのである。
この時に信之の近習の一人として側に仕えていたのが、二十三歳になった伊木三郎右衛門の倅で伊木彦六である。彦六は早速に家老に対して追い腹を求めたが、藩は事が大きくなる事を避け、彦六はこの出来事の後に仏門に入る事となった。藩主の真田信之と重臣である鈴木右近忠重の、二人の菩提を弔う為に出家したのである。

 宮本家と佐久間家との関係が始まるのは八代目となる宮本友之丞正暎が、松代藩御勘定方に出仕する様になってからの事である。正確に言えば徒士格の身分となった友之丞正暎が、松代御城下南側の有楽(うら)町に立ち並ぶ、武家屋敷の一角に御幣川村から住まいを移した時からであった。藩から与えられた屋敷の南側には、まるで住まいに覆い被さるかの様に竹林が目の前の竹山(後に象山と呼ばれる)へと続き、庭の向こうには小さな小川を挟んでその麓へと続く場所である。併せて宮本家でこの竹山を管理する事を藩から求められたのだが、管理とは言っても無用の者を妄りに登らせぬ様にとした内容であった。かつて戦国の時代には、山の頂からは海津城と呼ばれた松代城が眼下に見え、戦略上の狼煙台が作られた場所でもあったからである。
そして細い路地を挟んだその斜め向かいには、象山が生まれ育つ事になる佐久間家の屋敷があった。当然ながら当初は近隣の付き合い程度の関係だが、後に両家の息子達つまり象山と慎助、或いは伊木家の長男で象山とは乳兄弟と呼ばれた億右衛門など、互いに往来し三家の関係が深まって行ったのである。

 一方の佐久間家の成り立ちの方はと言えば、真田家の松代へ国替えから百八十年も後の、文政二年(一八一九)に作成された「分禄名籍誌」、つまり松代藩士の役職や給禄などの記録の中に残されている。そこには象山の父である一学(長谷川国善)が、天明元年(一七八二)に男子に恵まれず、家名断絶の危機にあった佐久間国正の養子に入り、佐久間家の家督を引き継いだ事が記されており、この時に受け取った禄高の記禄が残されている。それによると元々が、佐久間三左衛門は百石の扶持取りであったが、ひと時は家禄を取り上げられ後に、三十九石二斗五升六勺、高直(金額)で表すと五両五人扶持とある。
だが後年となる嘉永二年の七月に藩主である幸貫の同意を得た象山が、江戸に出る折に新たな藩の事業として、西洋詞書(阿蘭陀語辞典)の再版を考え、そして新たな辞書の開版に向けてその準備に、家老の恩田頼母から千二百両の金を借り入れている。この時の担保は佐久間象山の家禄である百石であったという。

 佐久間家に養子として入るまでの一学は、長谷川家三十六代当主長谷川善員の長男として、長く真田家に仕えて来た一族の跡取りである。とは言え宮本家、伊木家、そして佐久間家の間には、その一族の辿った歴史についても様々な出来事と共に、この三家の家格にも大きな開きがあった。
そしてこの佐久間家の祖を探して見ると、明治四十年十一月に書かれた『櫻賦望岳賦読方解釈』平林有明著の中の解説文、櫻賦の末文には「佐久間氏ノ本姓ハ平氏、三浦一族ニシテ其ノ先ハ上總ノ佐久間ニ居ル」とあり、平家の血筋だと云うのである。尤も象山の父である一学が、佐久間家へと養子に入った訳で、佐久間家との直接の血筋は全く別だと言う事になる。

 宮本家の九代目となる市兵衛が御勘定方に出仕する様になると、無給ではあるにしても御預所御用掛や御預所御勘定役を勤めている。後にしばらくの間だが市兵衛は松代の御蔵屋敷ではなく、幕府の代官所が置かれていた中野陣屋へも出仕していたのである。(この御預所とは幕府から藩が預かっている天領、つまり幕府領地の管理を行う部署で、松代藩内では上高井郡や下高井郡など五十八ケ村程がある。更に飛び地や寺社領も含まれ、これ等の幕府天領から獲れる米や作物などを計算し、主として年貢米などの管理と江戸への供出などを行っていた)
この九代目の市兵衛が家格の違う真田家の重臣、伊木三郎右衛門の娘である貞を嫁に迎えたのは、婚期を逃した事で嫁ぎ先を失した貞を心配した三郎右衛門から、勘定方に勤める慎助に話が届いた事になっているが、その実は貞が市兵衛を見初めた為に、他の話には首を振らなかった事が理由だった様である。それは兎も角、こうして伊木家とも新たな関係が生まれ、後に市兵衛は籾掛やお救い掛など勤め上げている。

 松代藩藩士で和算家でもある町田源左衛門正記が、藩主の許しを得て江戸で伊能忠敬から紹介された最上流の開祖会田安明に師事し、上級の免許皆伝を授かり松代に戻った事を知った九代目の市兵衛は、早速町田源左衛門の門を叩いて最上流を学んだのである。文化十二年(一八一五)八月に師である源左衛門から、市兵衛に対し算術伝書之三巻を与えられている。
この算術伝書とは許状・添状・両式の三巻で、後に文政九年(一八二六)には最上流算術初伝之巻・最上流算術免許牒の二巻が、更に文政十三年(一八三〇)には最上流算術相伝之巻を授かった。特に伊木と佐久間そしてこの宮本の三家が、極めて親しい関係として更に深まったのは、同じ有楽町に住まいを構えると云う日常の関係と共に、伊木家の三郎右衛門は佐久間一学から剣や鎗を学び、卜伝流の免許皆伝を受けて一学の門人に代稽古を付けていた。その一方で宮本家からは市兵衛が十九歳年下の佐久間象山や、伊木三郎右衛門の子息である億右衛門等に対して、算学を教える関係が生まれたからである。

 天保五年(一八三四)三月、九代目の宮本市兵衛が四十二歳の若さで、しかも家督を継ぐ事も無く病で亡くなると、祖父の友之丞は宮本家の家督を継ぐように十代目となる慎助に求めた。この時未だ数えで十三歳の若い慎助は、父親と同じ様に町田源左衛門正記から最上流の和算を学ぶ事となった。
その四年後の天保九年九月に和算を学び終えた慎助は、免許皆伝を授かり宮本家の家督を譲り受け、手習い師匠となって後に松代藩からの給人格として出仕を求められた事は既に書いた。この時に慎助は新たな最上流の和算の可能性を、更に深めて行く事が出来ると考えたのである。
戦の無い時代にも係わらず既に刀が鉄砲に変わり、足軽は槍から大砲を運ぶ労力として使われ、戦の為の軍備を大きく変えた時代でもあったからだ。それだけに和算の知識は更に松代藩にも重く受け止められ、藩の財政を司る役職へと求められたのも、極めて自然の成り行きであったと言えるだろう。

 ついでの事だが江戸時代の後期、信濃国の寺子屋の数は全国でも一番多かったとされている。戸隠の近く鬼無里村で生まれた寺島宗伴は、宮城流の算学を学び文化十三年(一八一六)に免許を受けると、今度は松代藩の町田源左衛門正記に師事すると文政十年(一八二七)に最上流の免許を受けて、この信濃の地で和算を教え広め始めていた。この鬼無村などの戸隠一帯は、麻の主要な産地だったからである。
尤も寺島宗伴は自宅で寺子屋を開くと言うよりも、泊りがけで雪が降り積もる前に門人宅に逗留し、暖かくなる頃に鬼無里村に帰ると方法で授業を続けて居た様である。こうした和算家と呼ばれる者達の研究は、更に十露盤を用いて方程式の解き方を記すなど、三次方程式を越える程の高次方程式の和算へと向って行くのである。

 そもそも塾の始まりは寺の住職が檀家の子供達などに、仏教の経典を易しく教える為に、読み書きを習う寺子屋からはじまる。それが加減乗除を計算かる十露盤から、二次・三次方程式の算学などの内容に広がったのは、家督を継げない次男や三男が、或いは専門的な知識を得て商いや手代などの仕事を求めたからである。
それ故に寺が子供達に教える寺子屋から、習字や漢字、或いは算術や十露盤などの大人に向けた実用的な知識を学ぶ手習い、教養的な和歌や漢詩、俳句など、専門的な塾へと裾野を広げて行くのである。そしてこうした場所の教師は大方が、手習い師匠と呼ばれて必要な免許を流派の師匠から取得していた。
江戸時代も半ば頃は、北信濃の篠ノ井を中心にした地域の寺子屋や塾と呼ばれる数は、御幣川村で十四軒、その近隣の西横川村では十一軒、五明村で三軒、高田村が四軒、会村では十軒と記録が残り、どの村にも必ず数軒は寺子屋や塾があった事から、信州と呼ばれる山間僻地の信濃国の人々は、古くから読み書き十露盤に親しんでいた事か窺える。
とは言え和算の話で又少し横道にそれるが、信濃国でこの算学が急激に広まったのは、この頃から三十年も前の、八代目友之丞正暎が生きていた頃の事である。時期は享和二年(一八〇二)と文化六年(一八〇九)、更に文化八年と文化十一年の四回で、その理由は幕府の命によって伊能忠敬が行った、四度に亘る全国の国土測量にあると云われている。


五、伊能忠敬の和算と、長女「かめ」の行方

 少しだけ話しを戻す事になるが宮本家の八代目となる友之丞が、北国街道の善光寺宿に投宿して江戸に戻る伊能忠敬の測量を目のあたりにすると、そこで使われていた最上流の和算に、強く心を奪われたのは享和二年(一八〇ニ)の事である。それまで宮本家の本家や分家では代々に亘って、宮城流の和算を中心に読み書き十露盤を、御幣川村を中心にした幾つかの寺子屋で教え、代官所での手代をも務めていたからである。しかし江戸で関孝和が関流の和算を起こし、算学に新たな流派が生まれた事を聞いていた宮本家の人々は、今度は目の前で天体の運行から、地球と呼ばれる足元の星の大きさを和算で測る、伊能忠敬が用いていた最上流の和算に強い関心を持ったのである。
友之丞が代官所の手代から松代藩の勘定方に求められたのは、伊能忠敬と初めて出会ってから十七年後の文政二年(一八一九)の事である。しかも既にこの時に松代藩士の町田源左衛門正記は、最上流の免許を得て松代に戻っていた。そして二年前に二十三歳となった市兵衛も又、遅ればせながらその町田源左衛門正記に師事し、最上流の免許を得ていたのである。
そこで宮本家の人々に影響を与えた伊能忠敬の事と、一族の暮らしの柱となった和算の事を少しだけ書いて置きたい。

 伊能忠敬は上総国佐原郡小関村の名主、小関家に生まれている。そして米穀商と造り酒屋、貸金業や運送業などを営む伊能家に入婿に入ったのは十七歳の時で、直ぐに伊能家のそれも四歳程年上の、しかも子持ちの未亡人であった「路」(みち)の婿として、伊能家に入籍して当主となった人である。その忠敬が『大日本沿海興地全図』を描くまでには、それから四十年程の時間が必要となる。
忠敬が伊能家に入り婿となった頃は、商いも女主人の為なのか年を追うごとに傾きかけていた。忠敬は様々な分野に手を広げていた商いを、改めて整理する事で家業を建て直し、十年余りが過ぎた頃にはそれも叶い、三十六歳の時には佐原村の名主となっている。しかし翌年の三十七歳の時に妻の「路」は病で歿し、暫くして忠敬は後妻を貰う事になるのだが、しかしこの女も短命であった。
宝暦六年(一七九三)四十九歳で家督を長男に譲り隠居した忠敬は、五十歳で江戸に出ると三度目の妻である「信」(のぶ)と共に、江戸深川の黒江町に住まいを定めた。若い頃から関心のあった、天文学を江戸で学ぶ為である。

 忠敬が天文学への関心を高めたのは、この時期に多くの人々が使っていた暦が、前年の宝暦五年に作られた暦で日食や月食も当たらない事から、庶民からは酷く不評を買っていた事もあった。幕府もこうした暦を改める為に天文方の人材と共に、天体運行や暦の研究を独力で行っていた学者達、取分け麻田剛立や間重富などの民間の力を借りる事にしたのである。中でも麻田剛立は宝暦十三年に日食が起きる事を予測し、天体観測の学者としては一躍世間に名前を知られた人で、独自で天体の運行予測を研究していた。間重富はこの麻田の門人として天文学を学び、家業は質屋の跡継ぎでもあったが、後に天体の観測機を作る事に、その才を使ってゆく事となる。
忠敬にとって三度目の妻となる「信」の父は、老中若年寄の堀田正敦と繋がりのある、仙台藩江戸詰め藩医の桑原隆朝である。義父となった桑原隆明も忠敬の望みを理解し、堀田正敦から洩れる老中の意向など、時折耳にした情報を忠敬に知らせていたのである。若年寄の堀田正敦は内々に高橋至時(よしとき)などに、この改暦の御役目を当たらせていたが、これを知った伊能忠敬は自分よりも二十歳余りも若い至時に頭を下げ、是非とも弟子に加えて欲しいと教えを乞う事にした。この時の忠敬は五十五歳、至時は三十一歳の時である。

 高橋至時は大坂の定番同心の家に生まれている。元々は算学に関心を持っていた人物だが、麻田剛立などに師事して暦から天体に関心を持つようになり、幕府天文方に勤めるようになった人でもある。葛飾北斎が七十五歳の時に描いた富嶽百景の中の一枚、版元の永楽屋が刊行した「鳥越の不二」と題された画の中に、天球義が富士の山を背景にして描かれている。鳥越とは江戸の蔵前に近い浅草の鳥越神社と呼ばれた辺りに作られた、幕府の天文台のあった場所で、伊能忠敬も通った場所でもあった。
そしてその画の中で不二の山を見ているのが、高橋至時であると言われている。その高橋至時や間重富らが寛政九年(一七九七)に、西洋の天文学を取り入れた新たな寛政暦を作り終えた頃、忠敬は佐原村で土地争いから覚えた多少の土地測量の知識を元に、天体観測だけではなく測量への関心を強くし、その知識を広げて行く事になる。

 それは偶々、至時が忠敬に語った「正確な地図とは、まず緯度一度の子午線弧長を測る事こそ、それが可能となるものです」と、至時に聞いた事からであった。この足元の地球と云う星の大きさを測るには、中心から角度を計測して等分する事から始まるもので、当時はこの緯度一度の距離が不明で、誰も正確に測った事など無かったのである。
とは言え、この頃には地球がほぼ丸い球体である事や、或いは地動説と云う知識の書かれた書物も、既に阿蘭陀から入って来る時代でもあった。尤もこうした天文学を幕府の重臣達が理解するには至らないまでも、同じ幕府天文方などの極めて限られた者達は、合理的な説明がされている考え方とした認識は持っていたのである。それ等はまずは正しい暦を示す事が、種の植え付け時期を知らせ、安定した収穫を得る方法であったからである。

 ちなみにこれも余談ではあるが、日本にコペルニクスの地動説を初めて紹介したのは、長崎に住む阿蘭陀通詞の本木良永である。明和九年(一七七二)の『阿蘭陀地球図説』で、コペルニクスの地動説を簡単に訳して紹介している。更に安永三年(一七七四)には『天地ニ球用法』四巻と『太陽距離暦解』と題した書によって、地動説を本格的に解説した本を訳している。
西洋ではかつて自らの神を理解させる為、キリスト教の見解である天動説が最初であったが、結局はそれらが科学的に証明される事も無いまま、天文学の発展によって広く浸透した地動説(太陽中心説)が、この国では最初に輸入した天文学となったのである。とは言え、本木の訳文を解読すると当時は、「太陽は常に静かに不動にして、地球は五つの星と共に太陽の周囲を廻り、恒星は不動成り、凡そ百年前にコペルニクスと云う者あり・・・」と訳されていた。

 ところで緯度とは、地球の北と南の極を結んで引いた、円周(子午線)上における地球の中心からの角度の事ある。つまり0度を赤道として地球を南北に分け、その南を南緯、北を北緯と呼び、夫々の極までを九十等分とする位置の表し方である。そしてこの緯度一度の距離が分らなければ、陸の見えない大海原に出てしまうと、仮に方角を知る羅針盤があるにしても自らの位置を知る事は出来ない。
この国が鎖国の時代を続けていれば、まさに全く使う事も無い不要な距離でもあった。だが南北に長く伸びた日本国の正しい形を描くとすれば、緯度一度の正確な距離の算定は、必要不可欠な時代を迎えていたと言えるだろう。
忠敬が和算を最上流の会田安明から学び、測量の機材は幕府の天文方にも劣らない物を揃えたのは、忠敬が三万両もの資産を蓄えるとも言われ、裕福な資産家であったからである。更に忠敬が婿に入る前の伊能家の蔵書は、凡そ三千冊の様々な本が蓄えられていた。忠敬はその自らの資産を使いながら、麻田剛立の門人である間重富等と共に必要な測量機器を作り出し、緯度一度の距離を調べる為の準備をしていたのである。

 天体の運行を極めて正確に測る為の機器とは、例えば東西南北を測る方位盤や、星との角度と自らの位置を測る為の傾斜・高度測定に使う小象限儀は四分儀とも呼ばれ、扇の形をした分度器に望遠鏡を付けた様な、星の角度を計測する道具である。更には、決められた時刻に天体を計る為の垂揺球儀、子午線(南北)上を通る星だけを測る望遠鏡の子午線儀、太陽の高さを測る圭表儀など、忠敬は様々な機器を集め或いは作り出したのである。しかも集めたのは其れだけでしなかった。阿蘭陀語の「ラランデ暦書」の本を、探し当ててくれたのは天文方の高橋至時であった。この書物には仏蘭西人のジェローム・ラランデによって書かれた天文書で、そこには地球の経度を測る為の、基準となる歳星(木星)を周回する四つの惑星が、歳星の裏側に隠れる周期が書かれており、それらの検証をして理解したのである。
つまり「木星ハ図の如く丸き中に二ッの筋有、又外に四ッの小星有テ大星を巡る、此の四星早く巡る有、遅く巡る有、依之小星の居所夜々変る也、按に此四星各巡所の遊輪有て面々遠近有と覚ゆ、其故ハ火星に近ハ巡る事早く、遠きハ遅し、是遊輪の遠近有と見へたり、・・・」「(天平儀図解)と木星の裏側に隠れる周期が、そこに書かれていた事からである。しかも緯度一度の距離は忠敬が測った距離と、ほぼ一致して居たのだ。
 
 今日の正確な日本地図の上に伊能忠敬が描いた地図を重ねれば、その誤差は僅かながらも歴然と浮かび上がってくるのだが、それは地上が少しの楕円形であると知ってはいたものの、それを修正する算式が無かったからである。とまれ新たな寛政暦が作られてから四十六年後の天保十五年、飛躍的に正確さを増した天保暦(天保壬寅元暦)の改暦が行われた。
「今まで頒ち行れし寛政暦ハ、違へる事のあるをもて 更に改暦の命あり 遂に天保十三年新暦成に及ひ、詔して名を天保壬寅元暦と賜ふ。抑元文五年庚申、宝暦五年乙亥の暦ことわる如く、一昼夜を云ハ今暁九時を始めとし、今夜九時を終わりとす、然れとも是まて頒ち行れし暦には、毎月節気中気土用日月食の時刻をいふもの皆昼夜を平等にして記すか故、その時刻時の鐘とまゝ遅速の違あり・・・・」
 と天保暦には記されている。寛政暦の余りにも時刻や日食などの違いの多い事から、天文方の高橋至時に幕府は新たな天保暦を命じ、その運用を始めたのである。

 一方で様々な機器と算式を使い、紙の上に描き上げた伊能忠敬の綿密な地図は、幕府の重鎮達に驚きを与えるには十分であった。正確な地図の作成は自らの勤めと理解した幕府は、改めて忠敬に日本全図を測量する様、そして初めてその費用を幕府が負担し、描く様にとした命を与えたのである。
既にこの測量を始める前の寛政十二年(一八〇〇)に、忠敬は半年の期間を費やして蝦夷での測量を終えると、念願の子午線一度の距離を算出していた。更には享和元年(一八〇一)の四月からは、伊豆以北の本州東岸などを測量していたのである。

 つまり蝦夷に向った時の費用も、伊豆以北の本州東岸の測量の費用も全て忠敬個人の負担であった。それがこの時に、やっと幕府から費用が負担されるに至ったのである。それは初めて幕府が認めた、公の測量となったことの証でもあった。
享和二年(一八〇二)の六月十一日、忠敬は「大日本沿海輿地全図」と呼ばれる海岸線を中心にした地図を描く為、奥州の白河から会津若松を経て山形、能代、そして青森から日本海側の測量を続けて海岸を南下し、越後の柏崎には十月一日に着くと、とりあえず江戸に戻る為に海岸の測量を切り上げる事にした。幕府から預かっていた費用が、既に底をつき始めたからである。

 越後の直江津から江戸に向う途中の十月八日、北国街道の善光寺宿に忠敬が投宿すると言う話が、信濃の和算家達の間に伝わったのは、和算を使って幕府から測量を認められた伊能忠敬の話が、既に広く信濃でも知られていたからであった。
「一度はお目にかかりたい、ぜひとも伊能先生のお話をお伺いしたい」などの声が広まり、忠敬は思いがけず善光寺宿で、信濃の和算家達から温かな出迎えを受ける事になったのである。そこで忠敬は敢えてこの善光寺宿で北極高度測量を行い、信濃の和算家達の想いに応える事にしたのだ。地図はまず形である。それ故に海岸線を測量し、形を示す事が第一であった。何故なら正確な地図は、国家の基本となるものであり、国の姿そのものだからである。
忠敬が善光寺宿で行なった北極高度測量とは、北極星などの諸恒星の視高度を、江戸深川の黒江町にある自宅から、方位や角度を調べた同じ時間に諸恒星の角度を計測し、更に羽越や越後など夫々の地点からも同じ様に同じ時間に同じ星を測り、夫々の場所の角度から緯度を導き出したもので、この計算に使ったのが最上流の和算であった。

 かつて忠敬は緯度一度の距離を求め、必死でその距離を調べる為に、長い棒の先に麻を付けた梵天と呼ぶ棒を並べ、紐を伸ばして蝦夷の地にその距離を追い求めた事があった。今や緯度一度の距離が、二十八里十町と三十五間程と算出されていた事で、星座の位置を用いて地上の座標である緯度と経度を記せば、白い紙の上に地図が描けるまでになったのである。
忠敬は天気の晴れた星が見えるこの夜、信濃の和算家達に北極高度測量を、実演して見せることにした。そしてこの善光寺宿の緯度が、北緯三十六度三十九分五秒を示している事を、集った者達に伝えた。北緯とは、地球を東西に向かって輪切りをする様に、見えない線を引く事である。つまり地球の中心と赤道を結ぶ線からの角度が、三十六度三十九分五秒と云う位置にあると言う事である。それに緯度などの単位は1度を六十分とし、三千六百秒とした単位を使用する。

 その時に忠敬は何を思ったのか懐から帳面を出し、江戸の深川黒江町にある自宅の緯度を、まるで確認する様に見つめると、突然に驚きの声を上げた。
「おゝ・・これは何と又・・」
それは善光寺宿の上を東西に走る緯度と、江戸深川黒江町の上を東西に走る緯度の幅が、ほぼ緯度一度の距離に匹敵していたからである。北緯三十五度四十分は忠敬の住む江戸の深川黒江町の緯度であった。善光寺宿の緯度が三十六度三十九分五秒だから、一度には五十五秒程足りないと云うことになる。距離にすれば十五町(1600m)程であった。つまり一度の距離を言い換えれば、地球の南と北との地表の直線距離の百八十分の一の距離であり、二十八里十町と三十五間の百八十倍が、南極と北極との距離だと云う事なのである。そしてそれを二倍したものが、地球と云う星の南北を一周した距離となるのである。

 忠敬のこの時の様子を間近で見ていたのは、松代藩士で藩お抱えの和算家でもある町田源左衛門正記や、宮本家の四十七歳になった友之丞正暎であった。初めて見る最上流の和算を使い、しかも星座の位置を確認して算出する、余りのその緻密な算学に、源左衛門や友之丞は感嘆の声を上げた。それまでの和算の主な使い道は、長さや重さや面積や量目を測る、単に数字の増減や乗除を出す為に使われる算式であった。
特に昨今は神社の絵馬に和算の問題を書き残し、それを読んだ者に対して「解けるなら解いて見よ」と自己顕示する様な、算額奉納と呼ばれる知恵比べの類が流行っていた。ところが目の前で計算されている算式は、様々な天体の運行を測る機器が用いられ、予め算出されていた数値を用いていた。一瞬とも思える角度や時間を記録し、その瞬間を捉え、算式をあてはめて位置と距離を測るのである。しかも目の前で、足元の地球と言う星の大きさをも、和算を使って産出していたのだ。
友之丞は初めて応用と云う世界で、未知の和算の使われていたのを見た。しかも算式によってこの地球と云う、全体を見る事も叶わない星の大きささえも、否、其れだけではない、この国の長ささえもが導き出されるそれは、まさに驚異と云うべき程の驚きであった。

 勿論だが現代の天文学からすれば、正確さと云う部分では未熟さが残る。しかし、当時の必要としている期待からすれば、十分に耐えうる正確さであった。まして天体の運行を測り、暦を決める元となると更なる精度を求められるのである。同席していた町田源左衛門はすぐさま門人の末席に、と忠敬に申し出たが旅先の事として断られ、代わりに最上流の会田安明を紹介されたのである。後にこの町田源左衛門が会田安明の門人となり、最上流の免許を得たのは実にそれから十三年後の事である。
文化十四年(一八一七)十月に会田安明が江戸浅草で亡くなった後、門弟達の手によって浅草寺の新奥山に算子塚が建てられた。その碑の裏面には最上流高弟三十三名の名が刻まれている。その中には信州松代藩士町田源左衛門正記、信州松代藩士中島祐左衛門政昇等と並び、九代目の松代藩藩士宮本市兵衛正武の名前を今日でも読む事が出来る。
(前頁の写真右は、江戸浅草寺奥山にある算子塚の碑で、その左の写真は碑の裏面に彫られた宮本市兵衛正武の名前)

 以下は宮本家十一代以降の、宮本家当主となった人々の生没を記した。
◇十一代  宮本丑五郎正道(一八五三~一八九一)
寛永六年十一月二十三日生、 明治二十四年十一月十二日没。
◇十一代  宮本乙六郎仲  (一八五六~一九三六)
安政三年一月十一日生、  昭和十一年一月四日没。
◇十二代  宮本 璋    (一八九六~一九七三)
明治二十九年十二月二日生、昭和四十八年七月二十日没
◇十三代  宮本 正之   (一九二五~)大正十四年生、

 宮本家代々の歴史の中で、最も注視するのは十代目となる慎助正誼の時代である。特に佐久間象山との関係では、象山から宮本家の人々は極めて大きな影響を受けたと言えるだろう。元々が武士の家に生まれた象山と、代々に亘って寺子屋師匠として読み書きから十露盤、そして和算を教え続ける一族の家に生まれた慎助とでは、同じ松代藩士の武士ではあっても、武士の持つ意味や家格は全く異なっている。
この様な関係の中で藩士として漢詩や朱子学、儒学の門人として教えを受け、更には幼い頃から友人として手紙を交わし、互いの悩みを語り聞く佐久間象山との関係は、慎助の生き方に影響を強く与えていた事は確かであろう。早くから蘭語を学ぶ必要性を強く受け止め、貪欲にその知識を備える努力を積み重ね、気安く心を開いてくれた家族同士の関係、更に子を持つ親となってからも、互いに本音で語る事の出来る関係は、象山にしても慎助は気持ちの休まる相手であった筈である。

 兄弟も居らず子供が出来ない事から、佐久間家の家名を守る為に、二人の妾までも側に置いた象山とは違い、慎助は伊木億右衛門の紹介で極めて当たり前の見合をして、妻となる丸山「清」を娶った。丸山の姓は、その発祥の地が判明している珍しい苗字でもある。この丸山家は元々が武田家に仕えていた一族で、信玄公が天亀四年(一五七三)に病で亡くなると、武田勝頼に引き継がれた武田の領地も織田と徳川の軍勢に攻め込まれ、武田家が没したのは信玄公が歿して九年後の天正十年(一五八二)である。この時に武田の遺臣として、丸山土佐守を迎え入れたのが真田信之であった。
 
 こうして丸山家は真田家の譜代の家臣となり、馬廻り役など信之の警護として代々仕えて来た。この丸山の姓の出所は信濃国東筑摩郡の生坂村で、北国西街道を善光寺から松本に向かう犀川沿いにあり、「清」の父は慎助と同じ御勘定方に勤めていた、丸山平八の娘であったと伝えられている。
嫁を貰った翌年の嘉永元年(一八四七)に、慎助は初めて妻の「清」が身篭った事を知った。だが生まれた子供は期待とは違い、家を継いでくれる男子ではなかった。ところが生まれて直ぐに抱きかかえると、頭を引っ込める様なしぐさが余りにも可愛かったので、父となった慎助は長女の名を「かめ」と名付けたのである。

 慎助の許に初めて生まれた長女「かめ」の事は、この物語の書く動機ともなった松代の真田宝物館が刊行した、真田の歴史と文化を発信している冊子、『松代』二十号を一読した事からである。そこに掲載されていた《佐久間象山の著者宮本仲と「宮本家文書」について》の一文は、研究員の故北村典子氏が、宮本家から寄贈された膨大な資料を元にして、十四ページに亘って整理され纏められたもので、十一代も続いた宮本家一族の歴史が明らかにされている。
だがそこに記載されていた一つの疑問が、更に新たな物語をも生んだのである。それは慎助の長女として生まれた「かめ・亀」の没年の場所に、北村氏は何故か疑問附が記載されていたからである。誕生した年が明らかであるにも拘らず、「かめ」の没年に付けられた疑問符は、まるで「かめ」がこの世から突然に消えてしまった様な空白が行く手を塞ぎ、その後の調査の出来なかった事を示していたからだ。

 当然のことだが宮本家代々の祖先から受け継いだ、慎助の遺伝子を持つ子供達七人の行方を筆者も追い求めた。しかも「かめ」が次女として生まれ、十九歳で歿した「紀伊」と混同するなど、当初は真相に辿りつく事が出来なかったのだ。そこで「かめ」は幼い頃に歿したものとして物語を書き終えると、平成二十八年(二〇一六)の十二月に、ネットの星空文庫に投稿したのである。ところが投稿した翌年となる一月の早々、突然に私の手許に或る一族の系譜の書かれた冊子が送り届けられた。
それは慎助の許に誕生した長女「かめ」の、その後の嫁ぎ先でもある小野家の子孫にあたる方からで、冊子には『小野家の系譜』と題されていた。つまり宮本慎助の長女「かめ」は、冊子の送り主から見れば曾祖母にあたる存在でもあったのだ。言い換えれば、宮本慎助の血筋を引く方からの贈呈であった。

 しかも贈られた冊子には、慎助の長女「かめ」が同じ松代藩の藩士、御武具奉行を勤める小野喜平太の長男、小野熊男俊盛と縁を結び、嫁いだこの時に名前を邦(クニ)と変えていたのである。太平洋戦争前に編纂されたと思われる、『更科郡埴科郡人名事典』から抜粋された写真には、小野邦(クニ)の事を書いた一文が記載されていた。
『小野クニ:幕末明治時代の女丈夫。幼名を「かめ」といふ。嘉永元年(一八四八)七月、松代町浦(有楽)町に生まれ、父を松代藩士宮本慎之助といひ、同藩士小野熊男に嫁して「小野くに」といふ。松代婦人会の創立者の一人で、又愛国婦人会松代支部を設け、その幹事の職に當り、国家のため又郷里婦女子の教育に一生を捧げた。粗衣粗食、しかも寝食を忘れて婦人会に関する記録をなし、その大部し彼女の残した業績である。性廉清で男勝りの女丈夫といはれ、神仏に信ずる事が篤く夫熊男病気勝のため之れを看病しつつ、一方野尻事件には夫の代理としておおいに毒舌をなめた』(野尻事件の記録は残されては無いが、当時は北信濃で頻発していた一揆かと思われる)

 つまり小野家に嫁いで妻となった「かめ」は、この時に名前を邦(クニ)と変えていたのである。夫の小野熊男は慶応二年(一八六六)に松代藩の払方御金奉行に移ると、御役料玄米弐人を受けている。更に二年後の慶応四年には御武具奉行となり、これまでの「御役料玄米三人是迄之弐人返上」を受けた事で、この時に息子の哲太郎が生まれたであろう事が窺える。更に「かめ」が邦と名前を変えたのは二十歳の時である。
後に時代が大きく変り、夫の熊男が病に罹ると、邦は看病に時間を費やしたにも拘らず、その熊男が病で歿したのは明治十二年(一八七九)の事で、邦が三十一歳の時であった。その後は独り身で過ごすと、大正十三年(一九二四)の三月には邦も歿したのである。享年七十七歳であった。
だがこの邦と熊男との間には哲太郎と「しん」、そして次女となる「慈」との一男二女を儲けていた。慎助から見れば外孫にあたり、後にこの哲太郎は眼科医となり、長野市で医院を開業する。そして哲太郎が結婚すると一男二女の子供を儲けることになる、言わば慎助の曾孫である。この長男が小野勤で妹が万壽子と言い、冊子を送り届けていただいた小林氏は、この万壽子のご子息にあたる人であった。もう一人「かめ」の長女「しん」は、昭和二十一年(一九四六)に歿しているから、兄の哲太郎よりも十七年も長生きした事になる。

 昭和二年当時の哲太郎は長野市内の千年町に住んでいたようで、宮本家の四代目となる九太夫正之に対し、大正七年に和算に対する功績が政府から認められ従五位が贈られている。東京に住む宮本仲はその知らせを受けて、この翌年の四月に墓前に建てた申告塔を前で申告祭を執り行っている。そして昭和二年九代目正之の墓所のある御弊川村(現篠ノ井)の宝昌寺に、従五位宮本正之先生之碑を建立している。この時に、「当時東京にいた仲は、姉の子にあたる甥の小野哲太郎に力添えを頼み、綿密な打ち合わせのもとに無事に建立がなった」と、宮本仲から哲太郎に宛てた石碑のデザインを書き記した手紙が、松代誌二十号に掲載されている。
ところで小林氏の叔父となる小野勤、つまり哲太郎の長男は帝国大学の医学部を卒業すると、軍医としてシベリアに出征し終戦を迎えるが、抑留の後に帰国すると長野逓信病院の院長としてご活躍されたとのことである。そして冊子を送り届けて頂いた当の小林啓二氏は、東京大学理学部の名誉教授として、又城西大学の教授としても現在ご活躍されている方であった。偶々小林先生はご自身の先祖の足跡を追い求め、取材の為に向った宮本家菩提寺となる松代の大林寺で、筆者の事を知り名刺を見た事から、わざわざ冊子を送り届けて戴き「かめ」の結婚後の経緯をお知らせ頂いたのである。
宮本慎助の許にまで届けられた秀でた遺伝子は、長女の「かめ」を経て小野哲太郎から勤、更には小林啓二氏まで確かに届いていたのである。


 七、宮本慎助と佐久間象山

 昭和七年(一九三二)二月に、宮本家の十一代目となる宮本仲(なかつ)は、故郷の英傑である佐久間象山の生涯を描いた『佐久間象山』を書き上げ、岩波書店より刊行された。その文中には著者で自らの父方である宮本家と、母方の伊木家、更に佐久間家との関係を的確に著した一文がある。一読すれば宮本家と佐久間家の関係は明らかになり、容易にそれを理解する事は可能だろう。前にも述べている様に仲は象山を先生と呼び、一途に尊敬していたのである。
「(略)著者(仲)の曽祖父(母方)、伊木三郎右衛門は先生(象山)の父君、一学(神渓と号す)の門に学び,卜伝流鎗釼術の免許皆伝を受け、其代稽古を愛し、親子も啻(ただ)ならぬ間柄であった。一学の令息が即ち象山先生にして、三郎右衛門の長男である億右衛門は、先生に数か月先だって誕生した。
然るに先生は乳不足で困却されたに反し、億右衛門の方は有り余る所より、隣保の関係上、毎日数回往来して、その不足を補ったのである。換言すればこの両人は世に言う乳兄弟であったから、後に至るまで実の兄弟の如く親しい関係を続けた。
億右衛門の姉なる人は著者の祖母にして、又著者の祖父市兵衛は先生の親友であり、親の慎助は門弟子であったのみならず、佐久間、伊木、宮本の三家は一町内に隣接して居り、先生が我の號をとるや、山を以ってないと云われた其象山は、著者の祖先が藩公より拝領した山にして、今もこれを所有している。
故に著者の庵を象山堂と稱した程で、先生とは誠に浅からぬ因縁を有するのである。加えて筆者は幼時、先生に頭を撫でて貰い可愛がられた事もあり・・(略)」

 この『佐久間象山』の著者である仲の、その父親である宮本家十代目の宮本慎助は、佐久間象山の門弟子でもあり、又息子の仲が幼い頃には、抱き上げ背負ってあやしてくれた事もあり、慎助の方が十一歳ほど象山より年下であった。それにも関わらず生涯に亘って親しい関係にあった事は、慎助宛てに届いた幾通もの象山からの手紙によって、それを確かめる事が出来る。
例えば象山から慎助に届く手紙の宛名の下には、何時も賢友とした敬称が附けられていた。吉田松陰の密航に連座し、松代で蟄居暮らしを余儀なくしていた象山に宛て、慎助はお花見にと江戸から酒を取り寄せて、筍と一緒に贈り届けた事があった。  
喜んだ象山は直ぐに礼状を書き認め慎助の許に届けさせたのだが、この時に何時もは賢友と書く慎助の事を、あえて花園賢友と慎助の雅号の一つをそこに書き入れている。
そしてこの様な手紙を認め、慎助に送り届けたのである。

万延元年(一八六〇) 閏三月朔日付
俄に花も開き、好(よ)き時節に相成候、愈御佳勝、珍重不過之候。惣御使い書御存問被下、殊に御到来として、江門之名酒一瓶、毛筍両条、御送恵被下、珍感極て深く不知所謝候。幸に園中之花も発き初め候に付、両品とも花下に於いて早速賞味候はむと、呉々も御芳情服偑無巳候、何も拝面を以、御礼可申究、御即答まで。早々如此。
有合の粗品、紙しろ迄に懸御目候。令郎一時の御慰にも相成候へば、大慶に御座候。
花園賢友                        呉湾

 この象山から慎助に宛てた礼状の一文を見ても、二人の関係は極めて親しかった事が窺われる。象山が四十九歳、慎助三十八歳の時である。その慎助の三男となる宮本仲が晩年、象山の生涯を書き留めた著書『佐久間象山』は、三代にも亘って親しく過ごして来た両家の、家族同志の関係と共に同じ松代に育った郷土の偉人と云う、尊敬と誇りとを滲ませ記した象山の生涯を書きとどめた記録でもあった。それは又、佐久間象山の足跡を書き遺す事が、他ならぬ自らの使命とも受け止めた仲は、その生涯を賭して成し遂げた一大事業の様に私にも思える。
処が昭和七年、岩波書店から刊行した著書『佐久間象山』の一部に僅かな誤りを見つけると、仲は改訂二版の刊行を考え始めていた。少しの間違いでも放置出来ないのは、象山に対する礼を失する事であり、自らの姿勢の問題だと思えたからである。
しかし改訂二版の刊行を考えていたこの頃の仲の体は、殆ど目の見えない体となっていた。其の為に息子の璋に口述筆記の助けを借り、何とか改訂二版を脱稿したのは、没するひと月程前の昭和十年十二月の事で、このあたりの話は息子の璋の目を通して、上巻の「一、生化学者の憂い」の中に書いた通りである。

 後に信濃の郷土誌『松代』二十号が発行された平成十八年(二〇〇六)、その冊子に掲載された〈『佐久間象山』の著者宮本仲と「宮本家文書」について〉の一文は、長野市教育委員会文化財課の学芸員でもあった、故北村典子氏の文章からもそれは伺い知る事が出来る。北村氏は当時、松代の真田宝物館に勤めており、その冊子『松代』には、この様な一文が記されていた。
「〈はじめに〉、昨年五月、『新修佐久間象山遺墨集』と題された大著を当館にご寄贈戴いた。それは『佐久間象山』の著者として知られる宮本仲旧蔵の一五七点にも及ぶ佐久間象山関係資料の写真図版、翻刻文、資料目録等を収録した小松茂美氏監修の大著である。
(小松茂美氏は国立博物館に三十年余り勤め、書跡担当の仕事に従事されていた方で、首相だった吉田茂が限隠後に大勲位を授与された時、池田勇人総理大臣から謝意の志として、佐久間象山の書いた『桜賦』の大幅が贈られる事になった。その折に書の解読を、秘書官から頼まれた人でもある)
小松氏がこの一大コレクションを初めて目にした時の事を、「広い一室に積み上げられた佐久間象山遺墨の大小さまざまの桐箱、その量の多さにまず驚嘆。息を飲み込んだ。(中略)宮本仲という人物に畏敬の念を新たにした次第」と述べている。(いかに膨大な量であったかを窺われる一文である)
その頃、宮本家文書仮目録の作成に携わっていた私は、宮本仲氏が膨大な佐久間象山関係資料を所蔵されていた事は、その著書などから知ってはいたものの、仲氏亡きあとも生前懇意にしていた、心ある方のもとに散逸する事なく大切に保管され、この様な集大成とも言える遺墨集が刊行された事に大きな感銘を受けた。それと同時に、当館に御寄贈戴いた「宮本家文書」を是非紹介したいという思いを強くした。と云うのも『新修佐久間象山遺墨集』が、宮本仲氏が一生涯をかけて心を寄せられ、蒐集・保存して来た佐久間象山に関する一大史料集であるならば、「宮本家文書」はその宮本仲氏を取り巻く、背景等を知りうる貴重な史料群と考えるからである。・・」
と、故人となられた北村氏は、この様に述べている。

 宮本仲が書き著した著書『佐久間象山』は、その集めた資料の多さや正確さからも、象山を語る上で目を通さなければならない、第一級の史料である事は今更述べるまでもないだろう。しかし、その資料から象山という人を深く知る様になると、いかに今まで様々な枝葉の話を見聞きし、象山の人とナリを理解していた積もりであった事か、今更の様に思い知らされ、恥じ入るばかりの心境になるである。
そこで著者でもある宮本仲の遺志を少しでも引き継ぐ為に、更に幕末と呼ばれた時代に生きた象山が、宮本家の人々に残した足跡を知るためにも、改めて象山の一面を書き記す事をお許し戴きたい。なぜならこの一級の史料と認められる仲の著書『佐久間象山』も、限られた図書館でしか読む事も出来ず、当然ながら貸し出し禁止の書籍となっている場合が多いからである。それに宮本家の歴史を辿れば、市兵衛や慎助、それに仲や璋など、それらの人々に対し大きな影響を与えた、極めて優れた人物だったからである。
それ故に未だ世には余り知られていない佐久間象山の本当の姿を、改めて読者に知って頂く事が出来ると信じるからでもある。

 戦国の世から太平の続く徳川幕府の時代が続き、戦と云う程の戦を行う事も無くなり、この国が安穏と二百五十年余りの歳月を重ねた江戸時代の末期。黒船の来航は太平の世を突然揺り起した、まるで大津波が押し寄せた様な事件であった。
その黒船来航から十一年後の元治元年(一八六四)九月十一日、大坂の宿舎に居た勝海舟に初めて会見した西郷隆盛は、その会談の模様を大久保利通への手紙の中で、この様に述べて伝えている。
「勝氏へ初めて面会仕り候処、実に驚き入り候人物にて、最初は打ち叩くつもりで差し越し候処、頓と頭を下げ申し候、どれ丈か、知略のあるやも知れぬ塩梅に見受け申し候、先ず英雄肌合いの人にて、佐久間(象山)より事の出来候義は、一層も越え候わん。学問と見識に於いては佐久間抜群の事に御座候得共、現時にて臨み候ては、此の勝先生とひどくほれ申し候」 
図らずもこの手紙を書いた丁度二か月前の七月十一日、その手紙に書かれた佐久間象山は、京の三条木屋町通りで既に暗殺されていたのだ。しかも西郷隆盛に惚れられた勝海舟は象山の義兄であり、象山は勝の妹である順の夫でもあったのだ。

 佐久間象山は幼名を啓之助と云い、文化八年(一八一一)二月二十八、信濃国埴科郡松代の城下にある有楽(うら)町の、松代藩藩士佐久間一学の息子として生まれている。父の一学は藩内随一と云われ卜伝流の剣の使い手で免許皆伝を持ち、幕府の開設した昌平坂学問所の、後に需官(総長)となる佐藤一斎の門人であった。その一方で儒学者でもあった松代藩主席家老の鎌原桐山と、父親の一学とが長く親交が続いたのは、一学が藩主幸貫の右筆役頭(藩主の傍に居て記録を書き留める役)を務めていた事に由るだろう。
啓之助の母の名は「まん」と言い、松代藩の足軽の娘である。父である一学の妾として仕えていた女で、正式に妻として名前が表に出て来たのは、佐久間家が啓之助に家督を譲る事になってからである。この母である「まん」が歿したのは象山が五十一歳の時で、文政元年(一八六一)の享年八十七歳であった。

 三歳で文字を覚え始めた啓之助は、五歳の頃から詩文などを学び始めている。更に松代藩の重鎮で需者でもあった鎌原桐山の許で、幼くして門人となり経学を学んでいる。更に藩お抱えの和算家である町田源左衛門正記からは、後年に会田流(最上流)の和算をも学んでいる。
又十五歳の折に遅まきながら嫡子として認められ、藩主の真田幸貫公に謁見する。これも母親が父である一学の妾であった事に由る為で、後に正式な妻になった事に依って、啓之助も佐久間家の跡継ぎとして認知されたのである。
二十歳になった啓之助は師の鎌原桐山に漢文百編を作り差し出すと、その話が藩主幸貫の耳に入り、更に学業に一層勤める様にと銀三枚を下賜っている。この二年前から啓之助は、松代から八里程離れた信州上田にある禅寺の龍洞寺(龍洞院)へと馬で出かけ、住職の活文禅師から漢詩と一弦琴とを学んでいる。この活文は禅宗の僧として若い頃には長崎にも出かけた様で、そこで漢詩や漢文などの詩文を学ぶと共に、一弦琴や書画なども学んで帰り、後に江戸へも遊学の経験を持つ僧侶であった。
更に広い世界の話を啓之助に語り聞かせてくれるなど、啓之助の書いた漢文百編は、こうした周囲の人々やその環境によって育まれ、生み出されたものであったと云えるだろう。


八、象山の書いた借用書

 天保元年(一八三〇)の三月、啓之助は藩主幸貫の嫡子である真田幸良の御近習役を命じられた。しかしこの頃から父親の一学は急激に老い始め、病の床につく回数も増えた事で、孝養と共に学業にも専念したい旨を藩に申し出ている。そしてこれが認められ、五月半ばに御近習役が解かれると、そのまま七十半ばの父に付き添い、翌々年の天保三年(一八三二)八月二日に、父の一学が歿するのを見届けるのである。
後に博学とも言われ満々たる自信を背景にして、周囲からは傲慢とも言われた佐久間象山が、その人格の形成を積み重ねる途上で、最も強くその性格を表に現したと思われる出来事を書いて置きたい。

 天保三年の春、つまり父の一学が歿する五ヶ月程前の事である。象山が啓之助と称し二十二歳になって直ぐのことで、藩主真田幸貫の御前試合の時であった。父の一学は筆を持つ事もままならない為に、一学の門弟名簿の代筆を任された啓之助は、それを書き上げて藩に差し出すと、その認め方が藩公に対して不敬に渉る點(てん)があるから、書き改めて差し出せと側役の者が注意したのである。然し自ら信ずることの篤い啓之助は、決して不敬に渉っては居らぬとして、頑なにそれに従わなかった。其の為に啓之助は藩から閉門を言い渡され、父の一学は謹慎を仰せ付けられ父は歿したのである。

 自らの信じるところを突き進むそれは、反面に於いて確たる信念がなければ揺いでしまう程のものである。啓之助はそうした強い信念を持っていたが為に、傲慢とか不遜と云う言葉をもって周囲の者達は批判していた。しかし反面、その信じる物を持つまでの努力や能力を知れば、全くもって反論の余地は無いだろう。問い詰めれば窮地に立つのは、何時も問い詰めた方であったからだ。啓之助とは、そうした極めて強い信念を持った若者であった。
父の一学が歿した後、啓之助は江戸への遊学を藩に求め、これが認められ天保四年十一月に江戸に出たのである。この江戸への遊学が認められたのは、藩士の子弟の中から特に抜きんでた者を江戸に遊学させるとした、松代藩藩主真田幸貫の教育を重視した施策があったからでもある。文学修業の者には年に十八両、剣や鎗などの武道を修行する者には十五両が藩から与えられたのである。
だがこの時に五両五人扶持の佐久間家では、当然ながらその不足分を補う事も出来ず、啓之助は自らの家禄を担保として、家老の矢澤監物に覚書を書き、別に七両の金を借り受けることにした。これはその時の啓之助が書いた借用書の一文である。

 覚
 金七両
 右は私儀江府へ罷出文学修業仕度奉願候所、早速被仰付候得共従来勝手向不如意に付、入料にも差支候、義にて御座候を以無餘儀御無心申上候所、早速御聞齋被成候て殊に無理息に被成下金子悎落手仕千萬難有深感銘仕義にて御座候、私修行之為之故に箇様之御深恵をも被成下候義にて御座候得は、自然私修行半途に怠情を生じ、学術成就不仕候義も御座候はば、右之金子に利分御疊込被成下私頂戴物之内を以嚴敷御被成下候様奉希候為、念如是に御座候以上
 天保四年癸巳(一八三三)十一月             佐久間啓之助
  矢澤監物様

 要訳すれば、このような内容であろうか。
「覚え書きとして、金七両は私が江戸にまかり出て文学の修行に励む為に、その仕度としてお願いしておりましたが、早々にお聞き届け頂きました。昔から勝手ばかり申しておりますが、従来から手許に余裕は無く、暮らしにも差し障りが出る始末。難しいのではと思っていた所、事情を察して戴き、私からの求めを早速にお聞き届け頂き、しかも無利息にて金子を御貸し戴けるとの事、大変感銘を受けると共に深く感激しております。私の修行の為とは申せ、皆様に御配慮いただけなければ学術成就もままならず、故にもしもご期待に添えない場合には、この金子に利息分を加えてお返しする所存でございますれば、私が戴いたと云う思いを持たず、希を成就する為の願いとして、ここに是の念書を書き記しておきます」

 自らの覚悟の程を借用書に代えた啓之助は、翌年の天保五甲午(一八三四)五月、又も江戸で同じ矢澤監物から今度は十両の金を、自らの勉学の成果を担保にして借金を申し入れた。 長々とした言い訳の様な啓之助の、勉学の成果を担保にする本文は割愛するが、天保四年の時と同じ様に家老の矢澤監物に対し、一札の覚え書きを差し出している。

 覚
金十両也。
右は文学修業中差困候義、御座候付、御無心申上候所、以厚御情誼、御恵借被 成下、千万難有奉感謝候。万一修行怠情仕、放恣に流候義も御座候者、早速厳重に御処置被下候様、願上候。為後日、如斯御座候。 以上。
天保甲午五月日 (一八三四)         佐久間啓之助 印(戜善)
矢澤監物様

 この、万が一にも修行を怠った時は、とする自らの覚悟を担保にした借金の申し入れは、啓之助の性格の一端を窺える出来事と言えるだろう。無論だが家老の矢澤監物は、啓之助の二度目となる借金の求めにも応じたのである。
江戸に出た啓之助は、幕府が開いた湯島の昌平坂学問所(昌平黌)へと通い、学頭だった佐藤一斎からは儒学や朱子学を学び、その一方では易学や王学(陽明学)なども学ぶ様になる。この朱子学とは、孔子によって興された儒学を新たに見直した一派の学問だが、それまで中国から入って居た儒学の綻びを、更に研ぎ澄まして曖昧さを排除した、物事のあり方や人の生き方を問う学問である。特に朱子学は性即理説、つまり持って生まれた人間の本性が、即ち理であるとした見方で、仏教思想の論理を維持し、道教の無極や禅宗の座禅への批判をしながら、静かに座る静座を行法として加味し、更に道徳を入れた思想として広めたものであった。そこには恪物致知、先知後行、身分秩序を重視した学問で、徳川幕府が奨励するに相応しいと捉え広く採用した学問であった。

 だが啓之助は、師の一斎が講義する王学(陽明学)の方は納得が出来ず、聞けば聞くほど王学から離れて朱子学へと向う様になり、遂には王学の講義は出席する事さえしなかった。後に幕府の勘定奉行となった、川路聖謨に送った書簡にも、この様に書いている。
「吾心は即ち理にて、天下之万物尽く我に備り候へば、夫にて事済むと申事に成候・・・西洋の窮理(ものごとの道理を突き詰める)の科なども、やはり程朱之意に符合し候へば、実に程朱ニ先生の格致之説(格物致知)は、之を東海西海北海に於て、皆準ずるの至説と存知儀に御座候」

 この王学(陽明学)とは簡単に言えば、朱子学が形骸化して来た事から、その批判として生まれて来た学問で、謂わば朱子学に相対する学問である。元々儒学者の王陽明が主唱した事から王学と言われているが、議論に明け暮れていた儒学者達に対して「行動をも取り入れよ」とした、時代に実践的な倫理を説くものであった。だがこの朱子学に相対する学問も、その根本は孔子の教える儒教である。その儒教は古代中国の四書五経とよばれる膨大な経書の著され、中でも特に重要とされる文献を体系化し、学ぶ順番を整理したものでもある。四書は大学・中庸・論語・孟子があり、五経には易経・書経・詩経・礼記・春秋がある。西洋的に言えば古代中国で生まれた哲学であり、極論すれば古代中国の聖人と呼ばれた人々や、偉人や宗教家たちの言動を纏めて書き著したものでもある。

 だが象山は、この王学と呼ばれた陽明学を受け付けない程に、自らの中には漠然とではあるにしても、恪物致知(かくぶつちち)の考えが中心に置かれていた。つまり人とは、その成長の途中に於いては何も考えず、その時その場で自らに都合よく理解し、解釈してしまう生き物である。それだけに生きる途中で出会う複雑な利害や、手に負えない社会的な或いは感情などの問題に突き当たると、更に自らの都合通りに理解出来ない問題に直面すると、途端に自己矛盾へと陥るのが常である。それは即ち世界が停止しているか、変化しているかと云う見方の違いでもあった。まして変化に対応出来ない思考は、何時までも自らを縛る様な考え方や見方となり、やがては時代に取り残されて行く事になる。
それ故、未だ攘夷論を柱にして学んで来た者には、受け入れられない学問でもあった。だが、やがては新しい考え方や、物事の見方を取り入れる事が出来なければ、所詮は時代と云う流れに押し戻されて往くものである。啓之助にとって西洋の自然科学的合理主義と、朱子学における格物致知が、この頃までは見事に融合していたのである。

 それを物語る様に啓之助と考え方や物事の見方が、全く正反対の人物が近くにいた。
松山藩から推挙され、同じ昌平坂に学んでいた山田方谷である。二人は昌平坂学問所の二傑と世間でも称される程になっていた。しかし世間からどの様に評価されようとも、二人の考えの根底にある物ごとへの視線は、まさに全く正反対に異なっていたのである。方谷は頑な程の保守であり、攘夷論者であった。信じるものや考え方が変わる事は、自らの存在を否定する事だと考えていたし、目上に使われる目下の者は、目上には何事も謙(ゆずる)る者として規定し、その為に目下の者は目上の者から、好まれるべき姿を持たなければならないと考えていた人である。
啓之助の方はと言えば、同じ攘夷論者ではあるにしても、新しい知識や更に深く磨かれた、合理的な思考が重要だと考え始めていた。つまり臣下として徹底して自らの生涯を全うする生き方と、時代の流れを受け止め、時代に自らを順応させる生き方の違いでもあった。尤も昌平坂の塾頭である佐藤一斎も、儒官として立場上は朱子学を奉じていたものの、その一方では陽明学の影響も強く受けていた様である。その著書である『言志四録』の中で、「問題が深くなり複雑になるに従い、精神的なもの以外の事は解決が付かないものである、政治的、社会的な問題も根本は心の問題だ」と述べているからだ。

 江戸でこうした学問を学び、様々な知識を深めた三年後の天保七年二月、啓之助が二十五歳の時に松代に帰藩すると、藩からは御城附月並講釈助の藩命が下りる事になった。藩士達に経書などを講義するお役目で、十二月には教授となる事が申し渡されたのである。
啓之助はこの頃に、自らの雅号を持ちたいと考えていた。教養のある年長者たちの誰もが、その道の者だけに通じる名を持っていたからである。思い付いたのは松代の屋敷の南側にある竹山の麓の禅寺、恵明寺の禅僧から耳にした話であった。恵明寺は黄檗宗の禅寺として、臨済宗や曹洞宗に次ぐ禅宗の寺である。この禅寺の開祖であった木庵禅師が、清国で最後に住持していた寺の山号が象山慧明寺であった。この時から啓之助は自らの雅号として、寺の山号である象山の名を貰う事にしたのである。

 天保九年閏四月に今度は雅号では無く、通称名の啓之助を修理とする改名願いを藩に提出した。後に象山とする雅号は広く知られる事になるのだが、修理とした名前は殆ど知られる事が無かった。修理とは理を修めると言う意味である。理は真理の理、道理の理の事で、自らが進むべき道を自らに課した名前である。そしてこの名は、親か付けた幼名、啓之助の名前に決別し、所謂大人の武士として自らに付ける名前でもある。これは武士であれば誰もが行う成人としての道筋で、速やかに改名願いが藩に認められた。そして再度、江戸への遊学願いを藩に申請したのである。

 翌月の五月に修理と名を改めた象山は、藩命によって越後国へと赴いた。越後の富豪である市島氏を説得し、松代藩への借款を起こす事が狙いであった。ところが象山はこの時、長岡藩七万四千石の城主である牧野備前守忠雅の家臣で、新潟町奉行に勤める小林誠斎と懇意になったのである。そしてこの時に誠斎から、ひとつの頼みごとを聞かされる事となった。
「他日にわしの倅をば、ぜひとも江戸に遊学させたいと思っておりましてな、その時には何卒、先生に御教授を賜りたいのだが、如何で御座ろうか」
既に二十七歳の象山は丁度此の頃、江戸へ出て儒学や朱子学を教える塾を、何とか開きたいと考えていたのだ。後にこの小林誠斎の倅こそ、吉田寅二郎(松蔭)と共に五月塾に入門し、象山の開いた五月塾の二虎と呼ばれた小林虎三郎であった。

 翌年の天保十年(一八三九)、象山が二十八歳の時である。二度目の江戸遊学が認められ、初めて私塾「象山書院」を江戸に開いたのは、神田お玉が池にある梁川星厳の漢詩塾「玉池吟社」の隣であった。
松代藩御用を賜っていた日本橋本銀町の飛脚問屋十八屋の口ききで、象山書院を開くにあたっての根回しをしてくれたのは、信濃国小布施村の豪商豪農と呼ばれた、高井家の跡取りとなる高井鴻山である。
この高井家は信濃の産物を江戸や京、更には大坂などへと売り、又その売り先の上方や江戸から信濃へと荷を買い求める事で、富を蓄えて来たと言ってもいい。桝一とした屋号を持つ造り酒屋と共に、赤穂の塩を大坂から四千俵も送り届けて貰う程に、塩の問屋なども行なって財を築いたと言われたほどである。扱う品は江戸や上方へ売るのは煙草や菜種油、紙や木綿そして藍などで、買い求めるものは塩や米、茶や鉄そして海産物などである。
この鴻山は若くして京に遊学した後、故郷の小布施に戻り妻を娶ってから又京に上り、漢詩人の梁川星厳と親しくなると、この星厳夫婦共々に今度は江戸へと出て来たのである。星厳は長く京で漢詩の塾を開いていたのだが、折からの飢饉も江戸では左程の影響もないと聞き、鴻山と共に江戸へ移り、神田で玉池吟社を開いたのである。鴻山は自らの素養を養う為、星厳は広く江戸で漢詩を広げる事を目論んでの事であった。

 江戸では鴻山も幕府が開いた昌平坂学問所へと通い、象山同様に儒学者の佐藤一斎などから儒学など学び始めた頃、十八屋を通じて葛飾北斎の門人として入門を認められている。特に子供の頃から描いていた妖怪画は、北斎からも独自の画風を持つと高い評価を得た様で、彩色を施したその妖怪達は見る者を飽きさせないものであった。
ところで鴻山の名も雅号である。鴻山は姓を市村、名を健、俗称を三九郎と云い、それが高井と云う姓に変えたのは、鴻山が市村家の跡目を継いで十代目を名乗ってからの事である。鴻山の祖父である八代目の市村作左衛門が、天明の大飢饉の時に自らの家の蔵を開き、困窮した領民に米を分け与えた事が幕府の知る所となったのは、小布施村が幕府の所領であった事からである。この時に市村家は幕府から苗字帯刀を許された事により、武士と同様に学問を身に付ける場所にも、臆する事なく出向く事が許されたのである。
 
 幕府から許された苗字を高井とする姓は、住んでいた小布施村が高井郡であった事に由るものだが、苗字はこれまでの市村で事足りるとした曽祖父の作左衛門は、頑なにその高井姓を名乗る事を拒んだ。苗字となる市村とは、浅間山麓の佐久にある市と呼ばれる小さな村だが、そこが祖先の暮らしていた場所だからである。特に宝永年間には毎年の様に浅間山の噴火が起き、それによって一族は故郷を追われ、小布施に移って来たのである。
だが苗字帯刀を許されたいが為に蔵を開いたのでは、とする周囲の俗人達の勘繰りに対し、八代目の作左衛門は強く抵抗を示したと云うのである。とは言え天保七年になると、小布施村でも後に天保の飢饉と言われた影響が酷くなり始めた。江戸に出て居た鴻山は一度故郷に戻ると、曽祖父で八代目の作左衛門と同様に、近隣の領民を救う為、自らの蔵を開き領民達に米を分け与え、更に無利子で暮らし向きの金を貸与えることにしたのだ。
鴻山の父親である熊太郎は祖父の長救から、一度として教養と呼べる物に触れさせてもらう事が無かった。その若い頃の経験から、息子の鴻山には自由に世間を見聞出来る、財と時間を与えたのである。
ところがそれが為に、鴻山は店の商いには殆ど関心が薄く、若くして京に出ると書や絵画、茶や漢詩などを学び、趣味と教養に生きる事を望んだ人であった。しかし父親である十代目の熊太郎が亡くなり、家督を継ぐ為に小布施村へと戻らなければならなくなった天保十一年まで、鴻山は妻と共に京から住まいを江戸に移し、神田に開いた星厳の漢詩塾「玉池吟社」で漢詩を学び、そこには象山も同じように時折は顔を出して、漢詩を学びに来ていたのである。
こうして故郷を同じ松代に持つ六歳違いの鴻山と象山は、神田お玉が池の隣同士となり、其々の塾で塾生達を教え、時には互いに往来をしていた間柄でもあった。


九、象山、漢詩『望岳賦』を著す

 江戸で葛飾北斎が富獄三十六景の錦絵を世に送り出したのは、十年余り前の天保元年(一八三〇)頃からの事である。富士講と呼ばれた山岳信仰が江戸の町々に広がった事で、講元でもあった版元の西村屋与八が構想を練り、富士講の者達に買って貰えれば一石二鳥、とした西村屋与八の目論見話でもあった。西村屋は江戸の馬喰町に店を構え、江戸では永寿堂とした名前で広く知られた大手の版元である。
ところが思った以上に錦絵の評判が良かった事で、慌てた版元の西村永寿堂は急遽十枚を追加する事となった。この時に北斎が描いた富獄の描写が余りにも斬新で、特に富獄を見た事もない地方の人々に取って、この錦絵は江戸土産としても重宝がられる事となり、全国津々浦々に富獄と北斎の名前を知らしめることとなった。

 北斎の門人でもある高井鴻山の故郷は、信濃国高井郡にある小布施村の上町である。小布施村は北国西街道とよばれる街道の稲荷山宿を基点として、筑摩川東岸を越後の十日町へと抜ける谷街道とよばれた宿場町である。とは言え江戸時代の宿駅制度の往来では無い為に、名前は明治になって付けられている。それに宿場としての機能を備えている訳では無い。しかし小布施の次の宿場である須坂宿は、大笹街道への入り口となり、菅平の雪が解ける頃から賑やかになる。上野国の中仙道高崎宿へと抜けられる為で、北陸や越後から江戸へと向う、荷駄や旅人の行き交う場所であった。そして上町とは酒や味噌、綿から米など、北信濃で採れる主要な産物を集めては、江戸や京から大坂などに送り出す、幾つもの店が谷街道の両側に建ち並んだ、村の上手にある町場と云う意味である。

 更に言えば小布施村のある上高井郡と呼ばれる場所は、幕府の中野陣屋が管理する十六村の他に、松代藩の十一村、須坂藩の十五村、越後の椎名藩の六村があり、幕府の領地と松代藩の領地の三村ほど入り込んでいる。一方の下高井郡は中野代官所の管理する幕府領が九十村、松代藩への御預地が一村、松代藩の領地は三村である。これら以外に須坂藩の領地が一村、松代藩と越後椎名藩の二藩が入っている領地が一村、更に幕府領と松代藩領が一村で、松代藩が持つ下高井郡の松代藩領地は、飛地ともなる佐野・沓野・湯田中村となり、ここが後に象山に任された横目付の任地であった。
その小布施村に市村家の当主で、鴻山の父親の市村熊太郎が没した事から、跡目を引き継ぐ為に江戸から息子の鴻山が戻ったのは、天保十一年(一八四〇)の事である。分けてもこの頃から鴻山の師である葛飾北斎も、そして松代藩の佐久間象山にしても、それぞれ二人は生涯に於いて大きな意味を持つ、激しい時代の流れに遭遇する事になる。

 老中首座の水野越前守忠邦が推し進める、天保の改革が具体的に行われたのは、その翌年となる将軍家斎が歿した天保十二年頃からである。特に綱紀粛正と奢侈(ぜいたく)禁止令は、出版から庶民の暮らしまで徐々に縛り始めた。その裏には新田開発の為に、取り掛かっていた印旛沼の干拓工事が失敗に終わり、幕府の財政が破綻間際に晒されていたからである。しかも国内の問題だけに留どまらず、異国との関係に於いても大きく変化したのは異国船打払い令であった。それまでは「・・異国の船を見た時は、その場に居合わせた者達で有無を言わさず直ちに打払い、無理に上陸しようものなら、その場で捕縛し打ち殺しても差し支えない・・・」とした命令が出されていた。

 しかし天保十三年(一八四二)には「外国船でも暴風に遭い、漂流して食物や薪水を求めて渡来した場合は、事情が分らないままにひたすら打払っていては、全ての国に対する適切な処置とはいえない。そこで外国船を見受けた時は良く事情を取り調べ、食料や薪水などが不足して帰国する事が困難な場合、望みの品を適当に与え、帰国する様に言い聞かせよ。但し上陸させてはならない・・」とそれまでとは大きく異なる態度へと、幕府は新たな薪水給与令を出したのである。
これ等の対応が大きく変化したのは、二年前の天保十一年に、隣の海の向うにある清国で起きた阿片戦争であった。広大な国土を持つ清国が欧羅巴の英吉利に負けた為で、その影響である事は言うまでも無いだろう。異国に付け入る様な対応を、幕府は極力控え始める事にしたのである。

 同じ年の七月も末の事である。絵師として広く其の名を知られていた葛飾北斎は、故郷の小布施村に帰った門人でもある高井鴻山の許に向かう為、周囲には善光寺参りと称して独り江戸を離れた。八十二歳の時である。正確に言えば江戸を離れざるを得ない恐怖が、北斎の身辺に起きたからであった。
とは言え北斎を迎え入れた鴻山にしても、この師の突然の訪問は驚きであった。小布施に辿り着いた北斎の、その薄汚れ憔悴し切った姿を見れば、江戸から逃げる様に辿りついた事は、一目瞭然の事でもあったからである。訊ねるまでもなく北斎の周囲に、何かが起きた事は鴻山にも理解することは出来た。鴻山は早速に休める場所を整え、長旅をねぎらいつつ、暫くは逗留してくれる様にと求めたのである。

 葛飾北斎が逃げる様にして江戸を発ったのには、大きな理由があった。前年の天保十二年に捕らえられた戯作者の為永春水に対し、一年後となるこの同じ年の六月に、手鎖五十日の刑が言い渡された事に始まる。しかも同じその六月に今度は、嘗て懇意にしていた戯作者の柳亭種彦が捕らえられた。そして翌月の七月半ば、つまり北斎が江戸を発つ日の十日前に、伝馬町の牢から遺体となって放り出されたのである。
春水の方は刊行した読本の『春色梅児誉美』(しゅんしょくうめごよみ)が、幕府から淫らであると指摘され、その刊行が禁止され、捕らえられた事から起きた事件である。一方の種彦の方へのお咎めの理由は、十四年間にも亘って書き続けた連載の、しかも未だ執筆中でもあった戯作『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)の内容が、今更の様に大奥を模している、とした理由を付けられ絶版が申し渡された。更に捕われ種彦は、伝馬町送りとされたからである。

 一般に戯作と言えば大衆小説の様なもので、『偐紫田舎源氏』の刊行は十三年前の文政十二年(一八二九)にまで遡る。これまで既に三十八編、百五十二冊にも及ぶ長編の物語が、大いに人気を得て刊行され続けていた。恐らくは誰もが楽しめる様に、芝居がかった独特の台詞調の文章が、物語の内容と見事に調和していたのかも知れない。ちなみに文頭の台詞の始まりは、この様な書き出しである。
「大江戸の真ん中、日本橋に近き式部小路といふ所に、いと艶めきたる女あり、その名を阿藤(おふじ)となんいけり、初元結のそれならで、紫の髷紐を常に結びければ、人々阿藤とは呼ばず、浮名して紫式部とぞいひける、自もいつか是を聞知り、されば我が何に因みある、源氏物語に似たる双紙を作らんと、旦夕心かけれども、書は草ざうしの外を読ず、歌はニ上り三下り、旋頭歌ならで字余りよしこの、どどいつを知るのみなれば紅筆をだに噛ざりしが、或人女にいひけるには、河海の深き、湖月の広さ、それには眼の及ばずとも、要を摘んだる若草あり・・・」

 しかし種彦のその死因が、捕えられた後に牢内で病に罹ったと言う理由ではあるにしても、お上は其の命日すらも家族には伝えなかったのである。だが放り出されたその遺骸を見れば、病死か拷問かは一目で判断出来る。問題は幕府が家族に対し、口封じを行ったかどうかと云う事でもある。当然の様に残された家族からは、その死因の話を語る言葉はなかった。
柳亭種彦が作家として広く名前を世間に売り出し始めたのは、二十四歳の文化三年(一八〇六)の時である。つまり北斎が小布施に向かった三十六年も前に、種彦の書き上げた読本『阿波の鳴門』の挿絵を描いている。種彦に取って『阿波の鳴門』は作家として、初めて書き上げた作品でもあった。
しかもこれが上々の売れ行きで、翌々年の文化五年に刊行した読本『近世怪談霜夜星』の挿絵も北斎が描き、これも当たったと言う程の大評判となった。読本は物語の途中に画を入れ、単調になる文字だけの物語を、より一層読者を楽しませる工夫として定着していた手法で、それだけに物語の面白さと共に挿絵も重要な読本の要素となるものである。
北斎の挿絵が良かったのか、或いは刊行した種彦の物語が面白かったのか、しかし種彦は自らの才能と受け止め、世間に知られた事で途端に天狗となったのである。

 こうした種彦に対して北斎は、その伸びた鼻先をこう言ってへし折った。
「テメイの書いた物語でよ、人気を得たと思ったら大間違いよ。北斎の挿絵か良かったからだと、何故に、そうは思わねえのかい、思いたくはねえのかね」
若い種彦の有頂天になっている姿が、北斎の生き様には異質な姿に映ったのかも知れない。尤もこの前の年に、それまで一緒になって読本を刊行していた、曲亭馬琴の書いた本の挿絵の事でも、北斎は同じ様な事で争っていた。これはその時に北斎から、馬琴に宛てた手紙の文面である。他の用事にかこつけてはいるが、つまり挿絵に関しては作者である馬琴からの指図は、今後は一切不要にして欲しいとした内容であった。

『尚々、大坂之儀、参上御面談ニて可申上候。以上昨日は京橋へ御出之由、御空庵へ下画差上申候。今日御校合相済候へば、何卒此ものへ被進可被下候。当年中出来之積りニ相認メ可申候。明朝は平林主人被参候間、其節為朝之写本三丁斗り持参被致候間、是又御差図可被下候。御遠慮等、決而御無用二御座候。以上 二白。御家内様へもよろしく御奇声奉願上候』
五月二十三日。
この「是又御差図可被下候。御遠慮等、決而御無用二御座候」と云う一文は、受け取った馬琴に強い怒りを覚えさせた。「これまたおさしずくださること、ごえんりょなどけっしてごむようにござそうろう」つまり北斎が自分で考えて描く物語の挿絵に関しては、例え作者ではあっても指図は無用に願いたいと言うのである。

 絵師として葛飾北斎の自負が、本の作者である曲亭馬琴に出した注文でもあった。しかし一方の馬琴にしても、作者としての意図や思惑は当然の様にある。画は描けないが、こうした画であって欲しい、ここはこの様に描いて欲しいと思う、思い浮かべた物語の背景であった。
一方の北斎も「絵師は作者の下請けではない、余り文字が読めない者でも、画を見る事で物語を読者に理解させ、想像の世界に入れることは容易な事だ」という自負を強く持っていた。だが北斎に物語は書けないと同様、馬琴の方も挿絵を描く事は出来ないのだ。
互いのこうした不得手を補うものが、作家と絵師との関係である。しかもこの頃の二人が名前を売っていた出版の世界では、誰もが絵師と作家としての夫々は、当代一の実力を持つ者だと認めていたのだ。
それだけに最早二人の間には、互いが力を持ち寄っているだけでは許されない、作品への拘りが頂点にまで来ていたと言えるだろう。北斎と馬琴の二人は、これを期に絵師と作者と云う立場の違いから、それまで築いた関係は決裂する事になるのである。種彦との問題も同じ様に、まさにこうした最中の出来事であった。

 若い作者に対し「本が売れたのは、テメイ等の書いた物語が良かったからだなどと思うな。ワシの挿絵があったればこそ売れたんだぜ」と、高く伸び始めた作者の鼻っぱしを、次々とへし折った結果として北斎は、挿絵や錦絵から今度は一人で描く肉筆画の世界へと、自らを追い込んでしまったのである。こうして挿絵の仕事を持ち込まれる事も無くなり、この頃から北斎は美人画や風景などの錦絵や、肉筆画の作品へと移って行く事になるのである。
後から種彦が二百俵取りの旗本の一人息子だと判り、少々言い過ぎた事を悔やんだのだが、その種彦からも挿絵は北斎に、と指定されるでもなく付き合いは徐々に遠ざかっていった。尤もそれから随分と後の事だが、一躍津々浦々にまで知られる様になった『富獄三十六景』の錦絵の後で、三冊に纏めた『富獄百景』を北斎は刊行している。これに種彦からも賛が寄せられる程に、二人の関係も以前と同じ様に戻ったのである。
 
 ところで捕えられた柳亭種彦が、遺骸となって伝馬町の牢から放り出された事を知った北斎は、この時に種彦の受けた恐怖を自らの事として受け止めた。老中水野忠邦が行なっている改革と称する抑圧で、五十年程も前に味わった忌まわしい事件を、北斎は呼び覚まされたからである。
未だ北斎が広く名前も売れてもいない、三十歳程になった寛政三年(一七九一)の時である。版元の蔦屋重三郎からの依頼で、黄表紙本と呼ばれる読本の挿絵を描いていた頃、お上が行った二度目の引き締めの最中でそれは起きた。八代将軍吉宗が初めて行なった享保の御改革を真似た、寛政の御改革と称するものである。老中の松平定信が緊縮財政を徹底させる方策と共に、風紀粛清の取り締まりを行ったのだ。そしてこの風紀の取り締まりの対象が、出版の検閲となり矛先は版元の蔦屋重三郎や、戯作者の山東京伝へと向けられたのである。

 この時に捕えられた版元の蔦屋重三郎には、身代半減の刑が申し渡され、それまで築き上げてきた財産の半分を幕府に召し上げられた。一方、作者としての山東京伝には、風紀を乱した罪として手鎖五十日の刑が言い渡されたのである。
中でもこの手鎖五十日の刑は両手を鎖で繋がれたまま、厠で用をたすにしても飯を食べるにしても、風呂や布団に入るにしても鎖を外されることは無い。歩く以外の全ては誰かに頼むしかない状態で「五十日は実に酷いものだ」と、しみじみと語った戯作者山東京伝の話を、北斎は耳にしていたからである。六十歳にもなった種彦の入牢最中の死は、今度は何時自分に降りかかるかも知れないと言う恐怖を、北斎は我が事の様に身近に受け止めたのである。それに天保改革の最中、北斎も幕府の政(まつりごと)を批判した肉筆画を、密かに描いた覚えがあったからである。

 折しも「蛮社の獄」と呼ばれた事件が起きたのは、この三年前の天保十年五月頃からの事である。この頃に蘭学者で絵師でもあった渡辺崋山は、曲亭馬琴の息子である琴嶺とも親しくしていた事から、琴嶺が亡くなった通夜の席で、馬琴から息子の死絵を描いて欲しいと頼まれている。
崋山は快く引き受けると亡くなった琴嶺の枕元に座り、一心不乱にその横顔の死絵を描いていた。そうした姿を北斎は通夜の席で、間近で見ていたのである。その渡辺崋山が開国への望みを文字にし、持っていた「慎機論」を理由に、自殺へと追い込まれた事があった。同じ蘭学者だった高野長英の嫌疑は「戊戌夢物語」とする、無人島へ憧れを物語に書いた事である。こうした異国に対する憧れを持つ事は、天保改革の最中では一切許されず、死罪と隣り合わせであった。戦の無い平和な江戸時代も裏を見れば、自由な表現はそこに無く、憧れを押さえ込まれた死と隣り合わせの、沈黙の平和と云う時代でもあったのだ。
特に北斎の恐怖の対象は、「蝮」と呼ばれた水野越前守忠邦配下の鳥居耀蔵であった。「無人島渡海相企候一件」とする高野長英や渡辺崋山の蘭学者を狙った粛清は続き、寺の僧侶から町人や旅籠屋の主人、更に蒔絵師の職人、身分の低い侍達までも巻き込んだ。町人の密偵を使い、無人島へ行きたいとする夢の様な話を、単に語り合っただけの事が、遂には拷問から自白へと事件は作り上げられて行ったのである。しかも幕府に許可を得られたら、と言う建前の話しにも関わらず、強引に事件にされてしまったのである。

 「無人島渡海相企候一件」とされた告発内容の文面には、この様な事が書かれている。
「渡海中風波に逢い、呂栄(ルソン)、サントウイッツ(ハワイ)、亜米利加国等へ漂流致し候はゝ、外国をも一見可相成、異国船に出会、被捕候共、相頼帰国相成候事之由同人申聞候節、艱難之中に面白事も可有之抔(など)不容易儀を雑談」
要訳すれば「もし遭難しても波風の海を渡って、ルソンやハワイ、更にアメリカなどへ漂着してしまえば、外国を一目見る事も出来るだろう。異国の船に出会い捕まるとしても、頼めば又国に帰してくれると聞いた事がある。色々と難しい事もあるだろうが面白い事もあるはずだ。」と言う様な事を寄り集まって話をしていた事が、訴えられた容疑の内容であった。
裁定が下され、旅籠山口屋の金次郎は永牢となったが既に獄死していた。蒔絵師の秀三郎も江戸払いだが既に獄死、御小頭柳田勝太郎家来、斉藤仁三郎の養父斉藤次郎兵衛も同じ様に永牢も獄死。浄土真宗の僧侶道順は未決の中で獄死である。その他の者は押込めとなるものの、獄死とは拷問にかけられて殺された事であり、幕府に対して面と向って言えない世間が理解する、それは伝馬町の常識でもあった。

 北斎が善光寺参りと称し、信濃の小布施に住む門人の高井鴻山の許に向かったのには、こうした危険を身に感じた事情に因るものであった。北斎が鴻山の技量を認め二人の間に師弟の関係を結んだとき、是非に一度は小布施に訪ねて戴きたい、と師の北斎を誘った鴻山にしてみれば、それが突然の事ではあるにしても、北斎の訪問はやはり嬉しかったに違いない。北斎にしても誰にも頼ることが出来ない時であれば尚更の事で、暫くは穏やかな日々をと、門人の鴻山は気配りと共に北斎をもてなしたのである。

 ところで葛飾北斎の事を少しだけ語れば、流派を持つ他の絵師達とは違い、生涯に亘って自らの塾などを開き、そこで門人を集めて教えた事は一度も無かった。これは北斎が初めて画を学んだ師の勝川春章の許で、画を学ぶ為に必要なひた向きさを無くした同じ門人達から、徹底して排除された事に因るのだろう。それは又、画を学ぶ為に流派と呼ばれる師に就く以外、当時は学ぶ仕組みの無い事に対し、限界をも感じたからでもあった。
他の絵師達は師匠から独立すると、門人達から月謝を集め、注文を受けた画の多くは分業化して門人に描かせるなど、日常的に行われていたからである。こうした流派は一門に限って家伝や口伝として技法が伝えられ、門人が他の技法を学ぶ事は良とはしない、極めて閉鎖的な世界の中に置かれていたのである。
まして自らの家や屋敷に弟子門人の類を集め、寝泊まりをさせての教え方は北斎には皆無であった。画が上手くなるとは、唯ひたすら自分で描く事でしか達成出来ない事を、北斎は身に染みて知っていたからである。それだけに自らの技量の上達は、自らが求めなければならないと言う、この極めて当たり前の考えを門人となる者に対して北斎は求めただけの事であった。

 師匠が弟子を取り儲け仕事を探し、画を学ぶ事を止めた世界に疑問や限界を感じていた北斎は、最初に画を学んだ勝川派から飛び出した。そして狩野派に学ぶと、更には淋派にも学んで号を宗理としている。寛政十年頃には宗理から辰政と改名し、この頃から森羅万象の自然の中に、自らの師を捜し求める境地に至るのである。
それ故に富嶽三十六景については、文政六年(一八二三)に刊行した画手本『今様櫛 雛形』で、『なつのふじ、うらふじ、ふゆのふじ、八ヶかせたけふじ、ミこしのふじ、きやうかのふじ、くわいせいのふじ』、など変化する富士を既に描いていた。巻末には「富嶽八体、四季晴雨風雪霧天の造化に隋ひ、景色の異なるを筆端に著す」と記し、その後に富嶽三十六景の錦絵を出す自信の根拠になったのだ。それに北斎が描く風景画の特徴は、あるがままに写し取る画では無い。風景の持つ本質を探り、それを表現する事に終始している点である。人は目に見えているにも関わらず、見えていないのが常である。見ようとする意思が無い者には、見ている様でも見ていないと言う状態と同じなのである。それが為に北斎は描く対象を探す時、人が見ていない所を見る様に努め、そこで新たな発見をすると筆が動き出すのである。

 北斎の歩んで来た道は、描く事を頼まれれば断る事は極めて希であった。全ては学ぶ為の修行であると考えていたからである。そうした考えの下で挿絵から春画、美人画から奉納の絵馬、更には櫛や煙管の彫り物に至るまで、暮らしの中の小物の類まで描いて伝えている。更には職人向けの画も描いた。中には布を染色する為の文様までも北斎は考え描いたのである。こうして創り上げた一つの形が、北斎漫画と呼ばれる門人に向けた、教科書の様な習本の刊行であった。

 小布施村は信濃国の中でも、とりわけ冬の到来が早い土地である。筑摩川(千曲川)の向こうに聳える飯綱山や、それに連なる黒姫や北側の妙高の山々の向うは、直ぐに越後の直江津となり日本海となるからである。それは天保十三年の、十一月も終わりの事であった。筑摩川沿いの後に谷街道と呼ばれる間道を下り、これから越後の長岡に出て、その先の月潟村に戻ると言う角兵衛獅子の親子が、鴻山の店の前に姿を見せたのは夕暮れ刻の事である。
北斎はこの日の昼過ぎに外から戻ると、親しかった江戸の版元、西村屋与八への返事を認めていた。昨日届いた西村屋からの手紙の中身は、店を仕舞いたいと云う事が書かれて、その返事に北斎は、春には江戸に戻る旨を伝えた内容で、更にそこには錦絵を描かなくなってから随分と疎遠になり、無沙汰している事を詫びた事が書かれていた。
そうした手紙を認めていた時である。通りに面した店の方から、突然に渇いた太鼓の音が聞こえて来た。北斎が寝泊りする場所として与えられた離れ家から、音のする店先に顔を出して見ると、父親と共に角付を貰いに来た角兵衛獅子の兄妹が、宙返りをして舞い踊っていたのである。兄と妹の様に思えたのは、娘の方が「お父」と呼んでいたからで親子であったのだろう。何故かその姿を見た北斎は、久しぶりに筆を持ちたいと思った。小布施に来てから始めての心境であった。北斎は母屋に居た鴻山に向かって、描く為に紙と筆を求めたのである。

 「すまないが旦那様、急に筆を持ちたいと言う気持ちになった。ついては紙を戴けないだろうか。墨画を描いて見たいと思っているのだが、何か良い紙があれば嬉しいのだが、どうかな。手紙を認める巻紙はあるのだが、画を描くにはちと小さいものでな」
使用人が旦那様に対して使う言葉に真似て、北斎も又鴻山に対してはその様に遜った。
「先生、その旦那様は誠に困るのですがなぁ・・」
鴻山はいかにも諦めた様に、そしてつぶやく様に口にした。
それでも北斎は頑なに聞く耳は持たず、聞き流していたのである。画の方では師であるにしても、押しかけて来たこっちは単に厄介者の一人である。偉そうにしている訳には行かないと、北斎はそう思っていた様であった。そして鴻山の方も困ったものだとでも言う様に、奥へと紙と筆を取り行った。

 「何処から、お戻りなのかな、それとも是から、何処ぞへと向かわれるのかな」
太鼓を首から提げて、腰の前で叩いていた父親に向かって北斎は声を掛けた。
「京へと行って参りました。今はその帰り道で御座います。一度又、越後の月潟村(現・新潟市南区月潟)に戻りましたら、正月前に今度は江戸へと出る心算でして」
越後の月潟村は、越後獅子の発生の地である。どの位の古い時期に始ったのか、誰もが知らない話であった。
「そうですか、それはまた大変な旅でしたな。ところでお子達の舞う姿の画に描きたいのだが、少しの間、頼めますかな。角付けもはずむ様に、この家の主人に申しておきますのでな」
「へぇ、そりゃあもう、有難う御座います」
父親は頭を幾度も下げた。

 北斎が小布施に来てからと云うもの、これまで全くと云う程に筆を持つ事を止めていた。庭の草花をじっと見つめ、蜘や虫や蛇などを観察しているかと思えば、村の神社を巡り歩いて彫物から祭仕度を始めた世話役などと、たわいのない話を交しては信濃の秋を過ごしていたのである。
そこに鴻山が紙と筆を持って現れた。
「まぁ、私の方は先生が筆を持ちたいとなれば、それは又嬉しくもあり結構な事で、その様に言って戴くのを今か今かとお待ちしておりましたからな、で、こちらの私が描く時に使っております紙は、谷街道を越後に向かう途中の、飯山から更に奥の毛無山の山麓辺りで作られる内山紙と申しまして、自生の楮(こうぞ)から造ります肌理の細かな紙でございます、宜しければ是非とも、お好きなだけお使い下さいませ」

 鴻山は北斎から言われた通り、納戸の奥から紙を持ち出し、筆と硯の入った硯箱と共に北斎に手渡して言った。
北斎が描こうとした画は墨画である。目の前で角兵衛獅子の舞う姿を見た北斎は、様々な獅子の姿態を、紙の上に描いて見たいと思い付いた。駒犬の様な獅子、閻魔大王を背に乗せた獅子、十露盤を弾く獅子、べそを掻いている獅子など、次々に頭の中を構想が広がって来たのである。後は獅子の動きを目に焼きつけ、下絵に描き残しておけば良かった。
「旦那様、申し訳ないのですがな、角兵衛獅子のお子達に、角付けをはずんでやっては貰えませんかな」
「はい、はい、畏まりました」
鴻山は苦笑いをしながら、小銭を紙に包んで角兵衛獅子の父親に手渡した。
北斎はこの獅子の姿を下絵に描き、後に画の名を、『日新除魔図』と名付けようと思った。描き始めるその理由も、自らの内に湧き出てくる悪しき邪念を避ける為、と心に決めたのである。それは頼まれた画でもなければ、売る為でも飾る為の画でもなかった。様々な獅子の姿態を書き写しながら、北斎は新たな年の初めより、この獅子の姿を毎朝一枚描く事で自らの内に生まれる、魔が差すとする邪念を取り除こうと考えたのである。

 小布施村を囲む様に山々は紅葉に染め上げられ、やがて北風が吹きぬけて雪の舞う季節が始まる頃になると、あの富嶽の錦絵を描いた北斎が小布施に逗留している、と云う話が近在の人々に知れ渡る事となった。そうした中で鴻山の住む上町の隣組となる東町から、改修する祭り屋台の天井画を描いていただければと、東町の世話人衆から北斎への依頼が入ったのである。
北斎は長く小布施で逗留した礼の気持ちを伝える為に、春には一度江戸へと戻り改めて仕度を整え、小布施に再度来ても良いと思えた。こうして北斎は、二年後の夏に改修も終わると云う、東町の祭り屋台の天井絵を請け負う事となるのである。
北信濃の小布施で冬を迎えた北斎は、年が変わった天保十四年の春まで鴻山宅の離れ家で、江戸の様子を窺いながらの日々を過ごす事にした。この頃から近在の商家や寺などから、描いて欲しいと言う求めに応えて冬を過ごしたのは、昔から頼まれれば何でも描くと云う、北斎の飽くなき向上心の様な性格は、この時も未だ持ち続けて衰えを知らない程であった。

一方の象山も又、その生涯に於いて最も周囲から脚光を浴びたのは、三十歳を迎えた天保十三年(一八四二)頃からの事である。この前年の夏に駿河の国の冨士の山を称え、象山は『望岳賦』と名付けた六百八十七字の漢詩を著した。昌平坂学問所の師でもあった儒学者の佐藤一斎先生から、最高峰の出来だとして賞賛を受けた象山は、その知人に宛てた手紙の中で「豪放富膽(ごうほうふたん)有力量、古今人望岳諸作の冠と申評を得、いかさま自分も左様存じ候事に御座候」と、何処か鼻高々の様子を手紙の文面に書いている。
象山自身も余程嬉しかったのか、無論だが隣の玉池吟社の梁川星厳にも、此の漢詩を見て貰ったのである。

 ところが北斎が小布施に来て一冬を過ごしていた、正月も過ぎた春先の事である。江戸の神田にある玉池吟社の梁川星厳から、年始の挨拶と共に、その後に起きた身の回りの便りが鴻山に届いた。そこには象山が書いた漢詩の『望岳賦』が、昌平坂学問所の師でもある佐藤一斎から大いに褒められ、「古今独歩の出来」と評されたと手紙に書いてあり、そこには漢詩の最後の一部が手紙に書かれていたのである。
鴻山も又、漢詩を創作する事や、書や画を描く事も得意の世界である。望岳賦の最後の短い一部であるにしても、一斎先生が評価した通りに流石に見事な漢詩であると思った。象山の「望岳賦」は、散文とは反対の韻文で表現されている。古代の神話や歴史の叙述に用いられる、一定の韻律や形式、更に文字数なでの制約を持つ文章の書き方で、謂わば、暗礁するのに適した、あの和歌や俳句などと同じ類の表現方法である。
それにしても富岳を見て感じる象山の持つ若々しさは、既に自分には失せているとも思えた。鴻山から見れば未だ六才程の自分より年の若い象山だが、望んでいる物が違うのかも知れないと、鴻山は自らと比べ見たのである。

 こうして鴻山の口から師の北斎に対し、「先生は筆で見事な画を描きますが、あの象山も又漢詩で実に良い画を描きますなぁ」と、思わず北斎に語ったのである。当然の様に鴻山は師である北斎の求めに応じて、手紙に書かれた『望岳賦』の最後の一文を見せる事になった。
「・・(略)呼暛乎我將駕風雲而鞭電霆兮 披丹霞之輕裘靡蜺旄之襂不兮 拽氛氛旗之蚴蟉逴六漠而欖八荒兮 道夫巓而駐輈魁玉泉之霊液兮 採石芝以自羞歩爽雲之金闕兮 登中天之穫瓊棲召徐福於東溟兮 迓安期於瀛洲起神女使皷瑟兮 發大和之吉謳出蓬莱之巨兮 舞隠壑潜虬永婾樂以度世兮 興太清而爲儔」
後にこの漢詩が北斎の頭の中で具体化され、『富士越龍図』となって六尺九尺の紙に墨で描かれることになるのだが、この時から百八十年も過ぎた頃になって、北斎を研究する者を悩ませる事になるとは・・、この話も又後で詳しく書く事にしたい。


十、海防と砲術と阿蘭陀語 

 天保十二年(一八四一)九月二日、江戸に居た象山は、松代藩の江戸藩邸学問所頭取を命じられた。江戸藩邸の藩士達に学問を講義するお役目である。そして同じ年に藩主の真田幸貫も又、水戸藩の徳川斎昭の推挙によって老中へと入閣する事になった。
ところがこの半年後の天保十三年三月八日、松代藩江戸勤番の藩士の一人が、同僚の藩士二人を討ち果たし、他に一人を廃人にする事件が起きた。同僚を手に掛けたのは象山とは少年時代の友人で、池田鵜殿と云う幼馴染でもあり、刃傷沙汰の事件を起こしたのである。監察日記江戸廻には、その時の経過が書かれているが、切腹を覚悟で同僚を討ち果たしたのは、積り積もった「いじめ」に対する報復でもあった。しかし切腹の沙汰が決められ、喧嘩両成敗とした沙汰が下りると、関係した藩士に対しては家禄を半分から三分の一程が召上げられたのである。
この時に象山は度々、鵜殿の許に見舞いとして訪れている。監察日記には「四月十一日佐久間修理、御咎人御預人の節親類の外面談仕るまじき義勿論の事に候処、去月十五日心得違いにて池田鵜殿方へ見舞いに罷越し候段、月番内意を申し聞かせ候処、その後も恐慎これなく尚又見舞にまかり越候段、重々不埒の事に思召候。これに依り厳重仰出され方もこれある所、此度はお情を以って慎み仰付らる」「五月十一日に赦免」とある。切腹覚悟の友人を見送りに来た象山は、再三の御咎めを承知で出かけたのである。象山とはそうした人物であった。

 象山自身の行動は自らの生き方や考え方に基づいた、寧ろ理路整然とした根拠に沿っている。後に吉田松陰の密航事件に連座し、蟄居暮らしを余儀なくする事になるのだが、その時に書き著した『省諐禄』(せいけんろく)の中に、この様な一文がある。「行ウ所ノ道ハ以テ自ラ安ズベク、得ル所ノ事ハ以テ自ラ楽シムベシ。罪ノ有無ハ我ニ在ル巳。外ヨリ至ル者ハ、豈憂戚スルニ足ランヤ。若忠信譴ヲ受クルヲ以テ辱トナサバ、則チ不義ニシテ富ミ且ツ貴キモ亦其栄トスル所ニ在ルカ」
現代文に書き直せば、「自分が良い事だと信じて行う事は、安心してやるがいい。その結果から生じて来ることなどは、楽しみにして待っていれば良いのだ。そのことが罪になるか、ならないかは自分の良心が一番良く知っている。他人が非難することなどは、心配する必要はない。真心を尽くして罪せられたことが恥だとするならば、悪いことをして金持ちになる事や、出世したことが果たして名誉な事なのか」と、世間の世相に対しチクリと痛い所を衝く様に述べている。

 翌年の天保十三年の九月に藩主の幸貫からの命で、象山は伊豆韮山の大官で砲術師範である江川太郎左衛門(英龍)の門下に入り、西洋砲術を学ぶ様にと命じられた。折しも前年に阿蘭陀から知らされた別段風説書によって、天保十一年から英吉利と清国との間で始まったアヘン戦争で、清国が英吉利に敗れた事が知らされた衝撃からである。しかしこの時、象山は幾度も江川太郎左衛門の門下へ入門する事を断られている。江川太郎左衛門の砲術の師でもあった高島秋帆が、長崎会所の乱脈経理を理由に、幕府から御家断絶を命じられたからである。この話は少し後に書く事にして、話を前に進めたい。

 この清国で起きた阿片戦争の煽りを受け、幕府は強く海防の必要性を認識した。早速、江戸湾の防備として砲台や警護の役割が諸藩に割り当てられ、江戸城や大坂城の十里四方の領地を幕府が取り上げ、代替地を藩に与えるとした上知令が幕府から示されたのである。ところがこの上知令に対して、反対したのは当然の事だが、大坂などの畿内に自らの領地を持つ紀州などの諸藩であった。しかもこの畿内に領地を持つ藩主の一人として、下総古河藩十六万石の藩主土井利位が、天保十年から老中として勤めていたのである
老中の中を見渡せば筆頭役の水野忠邦の采配が、一人際立って空回りして居るのを土井利位は見て居たのだ。

 一方、この頃に象山は、韮山へと砲術を学びに行く直前の十月、海防掛となった藩主幸貫の為に、今あるべきこの国の海防策を上申している。それは後に象山の「海防八策」として知られるものだが、正しくは『感応公に上りて当今の要務を陳ず』とした題名である。そして内容はこの様なものであった。
一、諸国海岸要害の所、厳重に砲台を築き、平常大砲を備え置き、緩急の事に応じ候様仕度候事。
二、阿蘭陀交易に銅を差し遣わされ候事暫く御停止に相成、右の銅を持って、西洋製に倣い数百千門の大砲を鋳立、諸方に御分配之有度候事。
三、西洋製に倣い、堅固の大船を造り、江戸御廻米に難破船これなき様仕度候事。
四、海運御取締の義、御人選を以って仰付られ、異国人と通商は勿論、海上万端の奸猾、厳敷御糾し御座あり度候事。
五、洋製に倣い、船艦を造り、専ら水軍の駆引き習わせ申度候事。
六、辺鄙の津々浦々に至り候迄、学校を興し、教化を盛んに仕、愚夫・愚婦迄も忠孝・節義を弁え候様仕度候事。
七、御賞罰弥(いよいよ)明らかに、御恩威益々顕われ、民心愈々固結仕候様仕度候事。
八、貢士の法を起こし申度候事。
 
 この海防八策を一言で言えば、防御の為に大砲を作り、軍艦を建造して海軍を創設し、他方で国を愛する民を育て、民心を一つにする方策を示すべき。と唱えているのである。この時に書き上げた象山の海防八策は、未だ幕府に対する期待を持つ事で、攘夷(異国との交易を行わない考え)を信奉しつつも、そこに尊王や朝廷の言葉は何一つ出て来る事の無いものであった。
そして象山はこれを老中となる藩主幸貫に上書したのだが、老中の中では誰も耳を傾ける者はおらず、象山の認識と幕府重鎮達との間には、大きな隔たりが横たわったままであった。後に黒船来航の時に、いみじくも象山の口を突いて出た「あれほど口やかましく申しておいたのに」の一言は、その後に幕府が辿って行く崩壊へと続く警鐘でもあったのだ。

 それに象山の藩内に於ける立場は、真田党と云う保守的な派閥に対抗する、進歩的な恩田党の重役の一人として目されていた。だがそれでも幕府を補佐する佐幕派的な考えから、まだ大きく抜け出る事など、考えるまでにも至っていない時期でもあった。
更にこの頃、江戸での独り暮らしは何かと不自由ではないか、とした周囲の勧めで、浅草は蔵前の札差を営む和泉屋九兵衛の娘、お菊を妾として傍に置く事にしたのである。未だ十六になったばかりの娘ではあったが、町人の娘でもあり武家に嫁ぐ事は出来ないまでも、話し相手を傍に置く事が出来た事で、象山にとっては何かと好都合な張り合いが生まれたと言える。

 その年の九月半ばである。江川太郎左衛門が芝の新銭座(現港区浜松町一丁目)に開いた「高島流洋式砲術教授」の塾に、数人の松代藩の藩士等と共に象山も入門が許される事となった。
江川太郎左衛門龍英は、鎌倉時代から続く三十六代目の当主で、長く続く家系の持ち主でもある。韮山では名家とも云われ、領民の信頼は代々に亘って長く続き、その民からの想いにも厚みがあった様に見える。そして武蔵国の一部や伊豆のその島々はもとより、相模や駿河の幕府直轄地を支配していた代官でもあった。
しかし江川太郎左衛門の門人となったものの、象山の思いの底の方にわだかまっていたのは、西洋の学問は書物と云う形で自由に公開されているではないか、と云う強い疑問と不満であった。実際の砲術訓練や火薬、大砲の鋳造などは伊豆の韮山へと出向く事になるのだが、象山にも強い関心のある学問であったから、真剣に向き合うつもりでの入門だったのである。

 ところがこの年の十月、江川太郎左衛門の師である高島秋帆は、長崎奉行の伊沢政義によって逮捕された。高島秋帆が責任者となる長崎会所の、経理乱脈の責任を問われたとも言われているが、一方では鳥居耀蔵が仕組んだ密貿易と云う話も囁かれた。いずれにしても高島秋帆は投獄され、高島家は断絶に追い込まれたのである。

 江川太郎左衛門は自らの砲術の師でもある高島秋帆を、断罪すべしとした幕閣の一人でもあった真田幸貫の家臣である象山に対し、快く砲術を教える気持ちなど皆無であったとも言える。藩主からの命によって江川太郎左衛門の門人となった象山も、この砲術の師に対する思いや姿勢は次第に薄れて行った様である。それは象山の抱いていた西洋の学門を教え方に対する考え方と、江川太郎左衛門の古式的な砲術を流儀とした考えが、酷く乖離していた為でもあった。
西洋式砲術と言う西洋の学問を教える内容の割には、秘伝とか免許皆伝とか、更には口伝などと門外不出を前提に、象山は古来より受け継いだ古式泳法の様だと思えたからである。阿蘭陀語を読み書きが出来れば、ここで教えられた秘伝とは、その瞬間から単に秘伝では無くなるからでもある。この時から象山の心の中には、阿蘭陀語の読み書きが出来ない事への虚しさと共に、心の底から口惜しさが湧いて来たのである。

 一方で嬉しい事もあった。江川太郎左衛門の門人として入門した直後に、象山は同じ砲術を学ぶ為に入門していた、旗本で小普請奉行の川路聖謨(としあきら)と知り合う事になる。聖謨は元々が豊後国日田の代官所に勤める、下級役人内藤家の長男として生まれている。後に父親の吉兵衛が江戸に出て徒歩組の御家人株を買い求め、住まいを江戸に移して徒歩組に加えられると、今度は小普請組の川路家へ養子として聖謨を送り出した。聖謨は父のその期待に応えるかの様に、更に学問の研鑽に取り掛かり、昇進から昇格を繰り返して行く。小普請組に入った聖謨は後に勘定奉行所の筆算吟味試験に受かり、翌年から勘定奉行所の下級幕史に採用された。更に御勘定役に昇進すると御旗本になり、今度は寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所へ、更には勘定吟味役に昇格すると佐渡奉行を経て小普請奉行にと、その能力を持って昇進から昇格を繰り返し、今に至っている武士であった。

 二人が初めて言葉を交したのは十二月の半ばで、芝の新銭座に江川太郎左衛門が開いた高島流洋式砲術の塾の帰りで、それも聖謨の方からである。講義が終わって塾生達がぞろぞろと帰る時であった。
「松代の佐久間修理殿とお見受け致すが、拙者は旗本小普請奉行の川路聖謨と申す。故あって砲術を学びに入塾した所、其処もとの名を見たもので声を掛けさせてもらった」
象山よりは十歳程年上であろうか、象山の背丈が大き過ぎるとは言え、聖謨は背のかなり低い丸顔の男である。
「如何にも、みどもが佐久間修理で御座る。主命により砲術を学ぶ為、江川太郎左衛門殿の西洋砲術の講義を聴きに、こちらに足を運んでおります。手前の事は何れから耳にされたのでござろうか」
同じ塾仲間になったとは言え、誰もが藩命によって学びに来ているに過ぎない。しかも藩が異なる為に親しく口を利く事など、滅多にある事では無かった。しかし象山の疑問には応えずに、聖謨は勝手に話を始めた。
「実は貴殿の書かれた海防八策だが、拝見させて頂き大変感銘を受けましたものでな、一度はお声をお掛けしたいと思っていた所でござる。しかしこう言っては何ですが、今の老中の方々の耳には、貴殿の海防に関する考えは届きますまい。貴殿の考えは二十年程も先を、一人で歩いておると私には思えますものでな」

 象山が具申した海防八策の反応については、老中からも殆ど無かったと主君の真田幸貫から聞いてはいた。それが突然にこんな場所で、しかも旗本の役人から感想を伝えられた事で、全く無意味では無かった事が象山には嬉しかった。
「あの海防八策は、藩主幸貫様よりの求めで書いたものでしてな。読んで戴けた事に礼を申さなければ成りますまい。しかし海防の話以前に西洋砲術の講義を理解しようにも、何とも知識を小出しにされての講義は、私が阿蘭陀語を学んで砲術の本を買い求めて貰った方が、余程早いのではないかと思っております」
 聖謨は象山の一言が、まるで冗談の様に聞こえたのか声を抑えて笑った。
「確かに、そうかも知れませんな。はっ、はっ、はっ・・」
しかし象山は、真顔で聖謨に向って語った。
「いやいや、笑い話では御座らぬ。その様に腹を括っておりますのでな」
象山はこの時、幕府の中でも極めて真っ当な、実直さを持った人物が居る事を感じた。聖謨も又、腹をくくったと言う象山を、或いはこの者なら・・と思った様である。
この時、象山は阿蘭陀語を出来るだけ早く学び、自らの知識の更に深める事を目指そうと思った。頭の中では高島秋帆から砲術を学んだという、もう一人の門人である下曽根信敦を訪ねようと考えていたのだ。佐久間象山三十二歳、川路聖謨は四十一歳の時であった。

 元々西洋の学問とは、一族一派だけのものでは無いと象山は考えていた。誰もがそれを知る事が出来て学ぶ事が出来るのは、印刷と云う方法で本に記され、広く世界に流布されているからである。その本を買い求め、そこに書かれている知識を理解すれば、それまで知らなかった事を知る事が出来るからである。更に広く深く知りたいと思う者には、その努力を重ねる事で望みを手にする事の出来るのが、西洋の学問であると象山は思っていた。しかしこの国で流派を名乗り術と名の付く知識は、その多くが門外不出でありって、血判を交すことによる師との契約によって、門外の他者に広がる事を許さないのである。

 天保十四年一月に象山は十日程をかけ、数人の藩士達と共に伊豆の韮山へと出かけた。実地に大砲や砲丸の鋳造から、火薬の取り扱い、そして砲弾の飛ばし方などの講義を得る為であった。しかし象山にしてみれば、口径の大きな大砲は何処まで大きくする事が可能なのか、火薬の量と砲弾の大きさや重さ、更に砲弾の飛距離の関係や標準器と呼ばれる目標を捉える方法など、それに金属の鋳造技術や大砲の材料となる金属材料、弾を真っ直ぐに飛ばす術なども知りたいと考えていた。しかし太郎左衛門から学ぶ講義の中で、その答えを得る事は出来なかった。太郎左衛門が秋帆から学んでいたのか、それとも学んでは無かったのか、それすら闇の中にあったからだ。恐らくは秘伝中の秘でもあったろう。

 伊豆の韮山で象山が学んだ砲術は、大砲の鋳造や火薬の取り扱いから砲丸の製造、そして砲丸の飛ばし方など阿蘭陀の本から和訳した知識を、単に言葉で示してくれた事だけであった。実際の大砲の鋳造も火薬の調合も、弾丸の試射も行う事は無かったのである。
しかも象山の、そうした気持ちをねじ伏せるかの様に、一方の江川太郎左衛門の方にも又、老中で海防掛となった松代藩領主の真田幸貫が、後ろに見え隠れする象山を早く伊豆から追い出したい、と言う思惑があった様でもある。
この同じ年の正月未に入門していた韮山の江川龍英から、免許皆伝を授けると云う書状を象山は受け取った。象山にしてみれば僅か三ヶ月程を学んだ知識の免許皆伝は、厄介者払いと受け止める方が真意の様にも思えたのだ。
何故なら未だ未だ砲術については知らない事ばかりだと、自らが認識していたからである。そしてこの時に象山は心底から、阿蘭陀語を学ぶ必要性を強く感じ、決意を新たにしたのである。藩主からは江戸屋敷に戻る前に、伊豆の地形も探って来る様にと求められ、江戸に戻ったのは二月も末の事であった。

 江戸に戻った象山は、早速に江川太郎左衛門と同じ高島秋帆の高弟でもあり、旗本でもあった下曽根信敦の許へと訪ねた。訳を話してすぐに入塾すると、高島流洋式砲術の伝書三冊をも併せて借り受け、独学でこの砲術を学ぶ事にしたのである。後に阿蘭陀語で書かれているペウセルの兵学書を、やはり独学で理解し大砲を作り上げる事になるのだが、この時はやっと阿蘭陀語の重要性を認識したばかりであった。

 江戸の藩邸に居た象山の許に、松代で母親のまんが病に倒れたとの報が届き、慌てて江戸を発ったのは同じ天保十四年の四月十一日の事である。早馬を使う事も許された所為か、松代に着いたのは十三日で、以降の半月程を母親の看病に充てていた。その母も病が癒えた事で、翌月の五月九日には又、松代を出て江戸へと向かったのである。
処が松代に出かけ丁度ひと月後の十二日、江戸に戻った象山を待ち受けていたのは、断りも無く妾のお菊が、勝手に親元へと退去していた事であった。象山にとっては最も苦手な出来事だった様で、まるで妾としての自覚も無い娘を手許で育て、その娘に振り回されながらも可愛がっている様な、何とも落ち着かない心境に陥ったのである。

 江戸にいた象山に対し藩から、領地である下高井郡の三村、即ち佐野村、沓野村、湯田中村の郡中横目付に命じられたのは、その同じ年の十月七日の事である。このお役目を簡単に言えば、いわば代官や庄屋の様な武士や役人の不正を監察し、下々からの訴えを吟味する様な御役目である。言い換えれば周囲がびくびくする様な役割で、何とも学者的な象山には似合わない役目でもあった。しかし藩の行う人事を受け入れもせずに、辞退する事などは家臣の一人であるなら出来ない相談でもあった。

 松代に戻った象山は前任者からの引継ぎを済ませ、手代などの役人を連れ松代の寺尾の河岸から川舟に乗り込み、筑摩川を下ったのは十月十六日の朝である。既に二年前の天保十二年には、善光寺の商人である厚連が、筑摩川を船で越後の新潟まで下る、通しの通船運航の許可を幕府から得ていた事から、善光寺参りが如何に盛んであったかが伺い知れる。しかも松代藩までもが松代と飯山までの、水運の運行に手を出していた。舟は六人乗り程度の大きさだが、荷だけのものだと三十五駄、凡そ今で言う五トン程度の荷を運んでいたのである。それに合わせて飯山から松代辺りまでは、柳沢、栗林、福島、押切、山王島、寺尾と幾つもの河岸が作られ、荷や客は街道だけではなく船でも運ばれる様になった。尤も上り舟は人足が縄で船を引きながら、松代まで帆を使っての運搬で四日程を要し、下りとなると飯山までは艪こぎで一日程の時間を要した。

 象山は雪が降り積もる前にと十六日から半月程の期間、視察で湯田中村にある渋温泉の、五軒程の中の一軒の旅籠「ひしや寅蔵」の家に世話になっている。ひしや寅蔵の宿は後に、明治元年の大火で焼け落ち、その後に新しく建て直し「棲風館ひしや寅蔵」として今に旅館を営んでいる。旅館の中に幾つかの象山の書が飾ってあるのは、この頃に象山が礼の意味を込めて筆を認めたものである。
渋温泉はひっそりとした温泉場だが、象山はここを基点に十日程をかけて、お役目の為に佐野村や沓野村へと足を伸ばし、挨拶を含めての顔繋ぎを行なったのである。ところがこの視察の最中に、象山は脚気とされる病に襲われた。しかも横目付の御役目は行く先々で、役人や庄屋などからの慇懃無礼な態度に、この御役目が人々から酷く嫌われている事を知ったのである。

 十一月の七日に松代に戻り、象山は松代に戻ると早速お役替えを考えて頂く様に、家老の矢澤監物に打ち明けた。新たな知識を教え導く事は出来るものの、疑いの眼差しで詮索する様な横目付の仕事は、どうにも自分には勤まりそうにも無いと思えたのである。
五日後に象山は又江戸に戻る為、松代を出て倉賀野宿から利根川を船で下ると、関宿宿を夜に出立する六斎船に乗り換えた。この舟は江戸川を下ると翌日の早朝に下総の新行徳に着く川舟で、更に新川から小名木川の渡しを乗り継ぎ、暮の江戸に戻ったのは十六日の事である。慌ただしい松代への帰郷ではあったが、振り返るとこの年の象山は、松代と江戸との間を三度往復していた事になる。暫くはこうした暮らしが続くと予測をしてはいたのだが、蘭学を更に学びたいと願う象山にとって、実に歯がゆい日々を過ごしている様に思えたのである。


十一、妾となったお蝶

 留守の多い象山書院に泊まりで賄いの出来る女をと、象山が書院近くの口入れ屋に頼んでいたのだが、突然にその女が訪ねて来たのは、天保十五年の二月も初めの事である。妾のお菊は、既に昨年の秋には親許へと戻ってしまい、暇を出したのは象山が松代に出かけ、郡中横目付の御役引継ぎをした後の事で、江戸に戻った年の暮れも押し迫った頃であった。
お菊には通いの下女が昼間だけ下働きに来ていたが、象山が松代に戻ってしまうとなると、若い娘にとっての一人の夜は、寧ろ待ち続けると言う方が無理な相談であったかも知れない。それを身に染みて感じるのは、この正月から来ていた賄の婆さんが帰ってしまうと、途端に象山書院の中は、猫の足音も聞こえる程に静かになってしまうからだ。
それだけに身元の確かな者で象山が留守をしている時に、何とか書院の中で暮らしてくれる女の方が、好都合な事は確かなのである。せめて留守の時は家に戻るにしても、戻った時の賄いと掃除をしてくれる女が必要であった。

「あのう、ごめんくださいまし」
塾生達が帰った夕刻である。書院の裏口からは、未だ酷く幼さの強く残る声が聴こえて来た。
「口入れ屋さんの紹介で参りました」
象山は早速、その若い娘の素性を尋ねた。声も幼いが顔立ちも未だ娘で、齢もお菊より随分と少ないと思えた。しかし齢は別にして、予想に反して全く正反対の、しっかりした女であった。
「名前は何と云う?」
口入れ屋の紹介状を開くと、象山は確認する様に女の顔を見た。
「蝶と申します」
小さな声だが、はっきりとした口調である。
「歳は十三とあるが、間違いないか」
「はい、間違いありません」
娘とは言っても、顔立ちには幼さが未だ残っていた。しかし齢を重ねてゆけば美しくなるだろう事は、その整った顔たちからも見て取れると象山には思えた。
「で、住み込みで奉公が出来る、と書いてあるが」
「はい、親の家も近頃では商いも思う様にならず、私には三人の妹と弟がおりますが、その面倒を今までずっと見て参りました。ですから掃除や洗濯、それに裁縫も少しは出来ますし、飯炊きも苦では有りません」

 掃除や家の賄いもやって来たと言う通り、しっかりした娘の様に思えた。家は芝の西久保町に店を構える鰹節問屋で、父は田中安兵衛と言った。近頃は親の家業も商いも難しいらしく、田舎で言えば口減らしの様なものであろうと象山には思えた。
「鰹節問屋とあるから、それなりの店を構えて居るとは思うが、何故に又・・・」
「確かに以前は、店も羽振りは良かったとは思います。ですがおとっつぁんが博打に手を出してしまい、借金も重なってしまいました。店もその借金のカタになって、このままでは吉原に売られるかも知れないと、おっかさんが仕事の口を捜してくれる様に頼んでおりました」
大なり小なり、人は何かの訳を持って生きていると象山は思った。象山は早速、お蝶に書院の中の掃除を頼むことにした。思った以上に良く動く、冷たい水の中に手を入れる事も苦では無い様で、苦労を重ねて来たと思える働き方であった。
「通いでは無く住み込みで良いとあるが、大丈夫なのか?」
親は心配しないかと聞いたのである。しかし、お蝶はこう言った。
「三度の飯を食べさせて貰えるのなら、母は寧ろ喜んでくれます。お武家様の処での小間働きなら、これ以上は望め無い勤め口ですから。それに、おとうも諦めると思いますし、おっかさんも安心して呉れると思いますから」
象山は早速、この未だ強く幼さが残るお蝶を、明日から雇い入れることにした。僅かだが荷物も運びたいと言うので住む部屋も決め、口入れ屋へ受け入れた事を書面に認め娘に渡したのである。

 それから二ヶ月程が過ぎた四月も半ばの事である。それほど多くの塾生が居る訳ではない象山書院でも、既に一人前の小間使いとして、お蝶は人気者となっていた。朝の掃除と飯の仕度、そして時折は藩の江戸屋敷にも使いとして走ってくれる。お蝶はこの二ヶ月の間に象山が松代藩の中で、どの様な立場で、どんな御役目をしているのか、大凡判りかけて来た様であった。
象山書院は二階建ての建物である。嘗ては大棚の店主が妾を囲っていた家だと言うが、僅かながら小さな庭もあって、塾には丁度適当な大きさであった。一階は玄関と八畳と六畳の部屋があり、教場として襖を外して吹き抜けにしてある。その隣にはもう一つの六畳の部屋があり、並んでいる三畳の部屋は書庫として使っている。更に厠と風呂が短い廊下で仕切られ、二階は象山の部屋で六畳の部屋が二つあった。お蝶は一階の六畳の部屋を使って、寝起きしているのである。
しかし薪を割る事や、風呂の水汲みは象山の仕事でもある。十三のお蝶に力仕事を任せてしまうと、時間は何時になるのかも分らない程に、他の仕事が遅れてしまうからである。

 風呂で背中を流して貰っていた時、お蝶は象山にこんな事を語った事がある。
「先生は学問が、本当にお好きなんですね。私などは読み書きも、ほんの少ししか出来ません、特に先生がお持ちの異国の本など、こちらに来て初めて見る事が出来ました」
「あと二月もするとな、わしは蘭方医の者達と共に、毎晩の様に阿蘭陀語を学ばねばならん。外に出かけて朝帰る事もあるし、この書院で夜中まで学ぶ事もあるだろうが、わしは何としても阿蘭陀語を読み、意味を理解して阿蘭陀語で話しがしたいのよ。それに又、何れは信濃の松代に戻らなければならん。何せわしは松代藩の侍だからだ。その松代の親戚には母が住んでいてな、だから松代に戻るとなると、江戸には長く戻っては来る事も無いが、その様なときは好きに過ごすが良い。
しかし松代は良い所だぞ。山に囲まれているが、何時も熱い湯が溢れる加賀井の湯も近くにある。それに松代は越後に流れてゆく長い川もあって、夏などは遠く白い雪を被った山が、折り重なる様に見える場所だ。お蝶が行きたければ、一度は連れて行って見せてやりたいものよ」
つい、思わず本音が出た様に象山は思った。
「私は江戸の外には出た事も有りませんから、信濃国の事など何一つ知りようが有りません。ですが先生の話を聞いているうちに、何としても松代に行ってみたいと思いました。それに江戸は火事が多くて、沢山の人か住むこの江戸を私は余り好きにはなれません」
「それじゃ今度は、お蝶を松代に連れて行く事にするかな、どうだ、お蝶」
嘗て妾のお菊を一度松代に連れて行った事があったが、このお蝶にも松代に連れて行きたいと思えた。
「先生、御約束ですよ。必ず松代に連れて行って下さいね」
お蝶は、それが自分の勤めだと思うかの様に、弱い力で象山の広い背中を、力を込めて擦り始めた。

 念願の阿蘭陀語を解する蘭学者で、蘭医でもある黒川良安を象山に紹介してくれたのは、同じ蘭医で良安の師であった坪井信道である。信道が紹介してくれた良安は向学心が強く、シーボルトが伝えた西洋医学を宇田川榛斎に学んだ坪井信道が、天保八年に江戸深川の冬木町で開いた、日習堂と呼ぶ坪井塾の塾頭を務めていた。しかも象山からは儒学や朱子学を良安に教える、交換授業に応じても良いとした返事を貰ったのである。まさに象山には願っても無い、極めて嬉しい話でもあったのだ。
余談ではあるが坪井信道は後に、蘭日辞書として知られたハルマ和解の編纂にも参加している。しかし最も興味を持つのは、坪井信道のその血筋である。その家伝には岐阜中納言織田秀信の五世の孫で、信長の七世となる孫にあたるとある。ちなみに信道の女婿である坪井信良は蘭方医として幕府の奥医師であり、信良の長男つまり信道の孫となる坪井正五郎は、後に帝国大学大学院を卒業すると人類学・考古学者となる。妻は蘭学者の箕作秋坪の長女である。更にこの正五郎の長男で信道の曾孫となる坪井誠太郎は、東京帝国大学理科大学を卒業した地質学者で岩石学者でもあった。ちなみに妻は天文学者平山信の長女である。

 この一族の明晰な頭脳は更に続くが、正五郎の次男で、やはり信道の曾孫である坪井忠二は、東京大学の名誉教授で地球物理学者・地震学者として知られている。しかも妻は医学者の島薗順次郎の長女であった。ちなみに島薗順次郎は東京帝国大学を卒業しドイツに留学した後に、東京帝国大学医学部教授を勤め、あの脚気の原因がビタミンB1の欠乏によるものだと結論づけた人である。
そして坪井誠太郎の長男、つまり坪井信道の玄孫となる坪井正道は東京大学理学部を卒業し、物理化学者であり東京大学名誉教授でもある。そして妻は法学者中川善之助の次女となる。血筋と環境が、頭脳に大きく影響する事が分かる。

 弘化元年(一八四四)の五月十日、交換授業が始まると言うひと月程前の事である。象山書院のある神田お玉が池辺りは前夜から、地面に打ち付ける様な烈しい雨が降っていた。時を告げる鐘の音も烈しい雨音にかき消された様で、遠くの方で連打する半鐘の響きが微かに聴こえて来たのは、白々と夜の明け始めた時刻である。寝床の中で目覚めていた者が居たとすれば、「丁度お誂えの雨だ、放って於いても火は消えるだろうよ」と、誰もが思ったに違いない程の雨脚であった。
しかしこの火事こそが、江戸城大奥からの失火であった。定火消しが城の本丸に火が移らぬ様に、延焼を防ぐ為に富士見櫓や蓮池櫓を叩き壊したのだが、肝心の本丸御殿は燃え落ちた。辛うじて西の丸御殿は延焼を免れたのだが、将軍家慶も大奥の大勢の女達と共に、先を争うように城の中を逃げ惑うはめになったのである。

 この大奥が燃え盛る最中、消火の陣頭指揮を執ったのは大炊頭(おおいのかみ)と呼ばれていた、老中首座の古河藩主土井大炊頭利位である。それまで老中首座として幕府の中枢にいた浜松藩主の水野越前守忠邦は、前年の天保十四年閏九月に改革の目玉でもある印旛沼の干拓事業が失敗した為、その責任を取らされ老中首座の任を解かれたのである。この時の水野忠邦に対する処置は、言わば詰め腹を切らされたとでも言えるだろう。忠邦は御改革の案件の全てを将軍家慶の承諾の許に進めたからで、天保改革と呼ばれる政の中心としての才を発揮していただけに、割り切れない思いが残っていたからである。

 唐津藩三代藩主水野忠光の次男として生まれた忠邦は、文化二年(一八〇五)に唐津藩の世子となる。この頃から何れは幕府の中枢に入り、将軍の下で天下国家の政を自らの手で行ないたいと考えていた。その後に忠邦の歩いた足跡を見れば、誰もが頷く程に自らの出世だけを目的にして生きた事を知る事が出来る。
文化九年に父親である水野忠光が隠居した事から、家督を相続した忠邦は早速自らの目的に邁進して行く。先ずは幕府に対して、奏者番の任を求めたのである。奏者とは一万石以上の格式を持つ大名で、将軍に直接取り次ぎを行なう御役目である。しかし唐津藩が長崎警護の御役目を既に任せられている事から、奏者への任は取り下げられ、今度は自らが転封を願い出たのであった。転封とは言わば領地を他に移される事で、幕府の都合で行われる事が通常である。

 しかも二十五万三千石の唐津藩から実封十五万三千石の浜松藩へと、石高の少ない転封を藩主自ら幕府に願い出た忠邦は、幕閣の中でも突然に話題の人物になったのである。当然だが見知らぬ土地に移る家臣からは、不満と共に諌める意見が多く出た。しかも意見を取り入れないとなるや、主君の考えをお諌めする諌死(かんし)によって、家老は抗議とも言える行動に出た。切腹することで考えを変えて戴きたいとする、強い決意の行動である。
それでも忠邦は自らの思いを頑なに貫き、浜松藩へと転封を果たした後に、幕府の中枢に向けて様々な工作を始めるのである。その結果、文政八年には大坂城代の任が与えられ、翌年の九年には京都所司代、十一年には西の丸老中となり、将軍家斎の世子でもある家慶の補佐役を勤める事になる。更に天保五年に沼津藩の水野忠成が死去した事で、本丸老中を任ぜられ天保十年に念願の首座の任を得たのである。

 だが老中首座へと上り詰めた先に待ち構えているのは、落ちてゆくだけの坂道である。転げ落ちるのか滑り落ちるか、
いずれにしても下に向う道でしかない。忠邦が、将軍家慶の許しを得て行なった改革(天保改革)は、様々な分野での見直しが進められている。武士から庶民に至るまで奢侈禁止が徹底され、物価高騰の沈静化を図る目的で問屋仲間の解散から小売価格の統制、公定賃金を定めるなど貨幣の改鋳をも行なった。だが幕府の目論みとは異なり、流通経済の混乱は益々拍車がかかり、更なる不況が続く事になる。
品物の流通に大きく関係する貨幣の価値は、貨幣に含まれている金や銀の含有量が全てである。経済の発展とは貨幣が潤沢に、そして適量に世上に出回り、幕府はその貨幣を供給する事で成り立つ。だが一方で貨幣の元になる金や銀の産出は年々減少し、粗悪な貨幣が市中に出回る事になるとすれば、物価は当然の様に高騰し続けるのは自然の成り行きであった。

 しかも凶作によって農民が江戸に流入する事を禁止し、寧ろ地方へ農民を返す人返し令を発するなどの他に、諸藩に対しては上知令とする江戸や大坂の周囲十里四方を、幕府直轄の領地に召し上げ代替地を与えるとした命をも示した。これは異国の仕掛けて来るかもしれない戦に対し、予め混乱を防ぐ事が目的であった。降って湧いた様な話に江戸や大坂に領地を持つ藩主達は、様々な方法で阻止する動きを始めた。
当然の様に上知令は紀州藩や古河藩など、自藩の領地を大坂十里四方の中に持つ藩からは、強い反対意見が出されてやむなく中止となった。新たな新田開発や水運の発展が目的の印旛沼干拓事業は、庄内藩を初めとした四藩主に御手伝普請が命じられ、あの鳥居耀蔵も又勘定奉行として関わっていた。しかし長引く天候の悪化によって、幕府の借金は予算を超えてしまったのである。

 この印旛沼の干拓事業の経過を少しだけ語れば、最初の印旛沼干疎計画は享保九年(一七二四)に下総国千葉郡平戸村の庄屋、染谷源右衛門からの申し出でいる。平戸村から江戸湾に面した検見川村まで、四里と十二町(約十七キロ)の水路を作りたいとしたのは、印旛沼の干拓が水との格闘する程の難しい事業であったからだ。何故なら利根川の水量は洪水や、或いは季節によって大きく変わり、印旛沼の水を利根川に排水するには余りにも高低差が少ない事からである。つまり利根川の水量が多ければ、水は印旛沼に逆流してしまう事になりかねない。この時に幕府は六千両を染谷源右衛門に貸付けたのだが、予想以上の難工事となって源右衛門は破産したのである。

 二度目となる印旛沼干事業は、老中の田沼意次が手を付けた天明五年(一七八五)から始まった。沼の水を干して田にする計画が立てられた。沼の水を干すために作られる掘割の規模は、幅二十間長さは三里余りと伝えられている。しかも計画では掘割を利根川に繋いで、排水を行いながら水門を工夫する事で、利根川からの逆流をやり過ごす工法が立てられた。
つまり利根川の水量が少ない時には排水し、多い時には逆流を防ぐ為に水門を閉じるのである。しかし武蔵や下総など関東全域で大雨が続き、この時に下総の関宿では関宿城すらも浸水する有様であった。しかもその水は直ぐ後に江戸へと流れ込み、江戸市中は六尺~七尺の深さに及ぶと共に、新大橋や永代橋が洪水によって流されたのである。この為に老中の田沼意次は責任を問われ、罷免されて計画は頓挫したのだ。

 ついでの事になるが徳川家康が江戸入府以後、幕府が最初に行った規模の大きな同じような事業の一つに、江戸を水害から防ぐ為の利根川東遷事業がある。江戸湾に流れ込む利根川や渡良瀬川の水を、銚子口に向けて水路を開削し太平洋へと水を流す事業である。この目的は江戸から洪水を格段に減らし、更に船で運ばれる東北や蝦夷からの産物を、房総沖の北に向って流れる黒潮の流れから開放し、江戸へと運ぶ為の水運としての河道を作る事であった。銚子口から川舟で利根川を上り、関宿で渡良瀬川と言われていた江戸川を下って、江戸湾へと荷を運ぶ事が出来るからである。
この様な計画が動き出したのは豊臣秀吉が徳川家康を東へと追いやる為、江戸を領地に与えた四年後の文禄三年(一五九四)である。既に江戸を水害から守る為、それまで武蔵国の羽生辺りで二分されていた一方の流れ、つまり南へと流れる会ノ川を塞き止めたのが利根川東遷事業の始まりである。
以降に幕府は関東平野に流れ込む幾つもの河道の付け替えを行い、日光街道の古河宿辺りから銚子口へと河道が繋げられたのは、徳川家綱が将軍に就いていた承応三年(一六五四)の事で、同じ年には江戸に水道を通す為の、玉川上水が開通した年でもあった。

 後に隅田川に架かる新大橋近くから、下総国の行徳まで小名木川とする水路が開削され、浦安で作られる塩を江戸城に運ぶ水路が完成したのは寛永年間の初めである。一方で荒川と入間川の付け替えを行なったのも、隅田川に流れ込む水を調整し、放水路によって海に流れて出る河口を江戸から離す為であった。秩父山系から流れる荒川も嘗ては利根川の支流であり、入間川は隅田川と名前を変え、両国から箱崎辺りを流れて江戸湾へと注いでいた。頻繁に起きる江戸の水害の原因は、こうした幾つもの河川が江戸湾へと注ぐ事から起きるのである。その入間川の水を千住大橋近くから江戸湾に流す水路を開削したのは、明治となってからの工事であった。未だ千住の宿場町が現存していた為に迂回する様にして、葛西までの水路を開削したのである。初めて通水したのは大正末期の一九二四年の事で、この頃まで東京は洪水の心配が未だ消えなかったのである。

 話を戻す事にしよう。
水野忠邦が老中首座から失脚して八ヶ月後、失火で消失した江戸城本丸の再建に向けて、土井大炊頭は諸藩から資金を集める様に将軍家慶から命を受けた。にも関わらず、土井大炊頭は再建費用を集める目星さえも付けられず、今度は家慶の怒りが土井大炊頭へと向けられたのである。幕府が掲げる天保改革と称した様々な施策が、何一つとして成果を示せないまま頓挫してゆく最中の混乱であった。将軍家慶は何を思ったのか今一度、水野忠邦を老中首座へと迎え直したのである。一度失脚した水野忠邦を何故に老中首座を任せるのか、その理由は庶民に何一つ知らされる事も無いのだが、江戸に住む多くの庶民達は、これから起きるであろう水野忠邦の、意趣返しを待ち望んでいたのである。

 風呂や髪結いの回数まで制限され、絹を身に着ける事をも禁じられたそれは、憤りを持った庶民の腹いせにも近い芝居見物に似ていた。この幕府中枢の中で起きている権力者達の駆け引きを、庶民たちは固唾を呑んで見ていたのである。改革と称する魑魅魍魎の駆け引きや、権力を背景にした裏切りと打算の、それは武士たちが行った三文芝居の、まさに第二幕の幕開けの様に見えたからでもあった。
処がその江戸庶民の期待に反し、水野越前守忠邦が行ったのは、妖怪(耀蔵の耀と甲斐守の怪を引っ掛けて呼んでいた)と呼ばれた鳥居耀蔵に対し、何と蟄居謹慎処分を申し渡した程度で、それ以外の事は殆ど手を付けない程に、気持ちは既にそこには無かったのである。
将軍家慶が自ら認めた方針を途中で投げ捨て、老中首座の自分に全ての責任を取らせた将軍の許では、今更何をしても無駄な事を忠邦はやっと気が付いたのである。ただ嘗ては手足となって動いた蘭学嫌いの鳥居耀蔵に、蟄居幽閉の処分を申し渡しただけであった。土井大炊頭は慌てて筆頭老中だけでなく老中職をも辞したのは、老中の任にありながら鳥居耀蔵と組んでの忠邦を追い落とした、忠邦からの報復を恐れての事であった。

 天保の御改革は江戸時代に幕府が行なった三大改革と称された御改革の一つだが、後から振り返れば改革とは名ばかりの建前に終始した出来事と言えるだろう。三大改革が最初に行われたのは、八代将軍吉宗が行った享保の改革である。これは財政を安定させる事が最大の目論見だが、目安箱を置き庶民の意見に目を通し、小石川療養所を作るなどのほか、物価の安定や私娼の禁止、心中物の規制(この時代は近松物と呼ばれる心中物が庶民に親しまれた為、心中物の上演と出版を一切禁止した)などを行っている。しかも先例格式に捉われない事が改革の基本にあった。

  しかもこの享保の御改革は吉宗が将軍として行った重みと、徳川幕府が安定期に向う最中の時期で、改革が必要とされた意味は、後から行われた意味とは似て非なる程に大きな違いがあった。その点で言えば、後に行われた寛政の改革も或いはこの天保の改革も、長く続いた変革を嫌う風潮の中で、老中職達が行った後始末の感が強い。実際に寛政の改革も田沼意次が商業の発展を意図したものだが、商人に沢山の権益を与えた事が賄賂を当然として受け取るなど、人々の欲望を刺激した腐敗が横行する様な結果を生むのである。
更に言えばこの天保の改革が具体的に行なわれる直前まで、世間に広く知れ渡った十一代の将軍家斎の好色ぶりは、病と言われる程の目に余るものがあった。家斎が天保十二年に歿するまで、記録に残るだけでも十六人の妻妾を持ち、男子二十六人女子二十七人の併せて五十三人に及ぶ子供を産ませ、その男子には養子縁組を姫達には莫大な結納金を付けて、諸藩に後始末を頼む事となる。
 
 天保期のこの政(まつりごと)は、嘗ての享保の改革や五十年前の寛政の改革を、とりあえずは手本とした様である。しかし以前に行なわれた改革と比べ、大きく変化したのは流通の増大や同業者組合の増加と共に、商人達の利益を追うその貪欲さであった。更に金の産出量が減少して貨幣が不足し、農地制度は次男や三男が都市へと動きに出る事に加え、米を中心にした棒禄の制度は、米が豊作となり安くなれば武士の収入が減るという、皮肉な仕組みを残している。札差と言われる商人達が、武士の棒禄である米を金に替える為である。
その結果、米の高騰は各藩にとって寧ろ藩の借金を減らす好機でもあった。領民からはこの時とばかり米を厳しく取り立て、一揆の起きる原因を作り出したのである。

 天保の改革と称する財政の建て直しは、風紀粛清から奢侈禁止令まで含めて先例格式に捉われ、しかも将軍家慶自らの発案ではなく、その多くは老中達の思惑によって進められたのである。それ故に流通する貨幣が足りなくなれば、金の含有量を減らし粗悪な貨幣を流通させるという錬金術的な手法から、物価が安くならないのは同業者組合の存在と決め付け、既に天保十二年には十組問屋を始め、菱垣樽廻船などの廻船問屋やその株仲間をも廃止させている。
つまり価格も相談の上で自由に決めて良い、大坂から江戸に運ぶ荷の船賃も同様で、同業者組合の協定価格こそが、価格を下げられない原因だと単純に考えたのである。一見すれば庶民にとって、しごく良い建前を掲げての改革であった。だが耳障りの良い話の裏には、何時の時代にも真逆の目論見が隠されている。一度として改革に名前に相応しい中身に変わった試の無いのが、この国の役人達が言葉にする改革でもあった。

 天保改革の中で悪の代表とも言われ、世間から酷く恐れられ嫌われた鳥居耀蔵の事を少しだけ触れれば、耀蔵はあの幕府に身を置く儒者で、大学頭を務める林述斎を父に持つ。佐久間象山が学んだ佐藤一斎も又、述斎の門人であった。  
この儒者の家系に生まれ育った鳥居耀蔵が、極端な蘭学嫌いである事から「蛮社の獄」を起こし、蘭学者達を恐怖の世界に陥れた、と言う話は背景としては頷ける。しかし、そうした単純な巷の風聞は、得てして動機をも単純な話に作り変えられる場合がある。
例えば享和三年(一八〇三)に英吉利の商船フレデリック号が、琉球に向かった帰りに長崎に寄港した際、阿蘭陀通詞達は御禁制の英吉利船である事を隠し、御禁制として示された国の名前とは異なる、適当に取り繕った国名に変えて報告していた。この事実を後で耳にした耀蔵の父である林述斎は、正確な国名を隠す事は却って危ういと判断すると、文化四年(一八〇七)七月に長崎港に限っては漂流や漂着でなくとも、あらゆる国の船に対して薪水の供給をしてはどうか、と老中に対して建言しているのである。

 とは言え、天保改革の中で鳥居耀蔵が強く取締りを行なった「蛮社の獄」は、天保十年に起きた亜米利加商船「モリソン号事件」に端を発している。モリソン号は亜米利加の船である。嵐で遭難した日本人の漁師七人を、マカオで保護して乗せていた。そのモリソン号が亜米利加への帰国の途中、七人の漁師を返還する為に薩摩湾に来たのだが、問答無用とした対応で薩摩藩の砲撃に遭い、更に江戸湾へ向うと今度は浦賀奉行の命によって、駐屯していた小田原藩や川越藩の兵から砲撃を受けたのである。モリソン号は非武装の商船であり、漁師の返還をする為に来航した船であった。
この事実が一年後に判明すると、国内からは幕府は自国民を見捨てるのか?とする意見と共に、異国船打払い令そのものに対する批判が強まった。世間からのこうした批判をかわす為、高野長英や渡辺崋山などの蘭学者に対し、幕府は弾圧の対象として詮索を始めたのは、長英が『慎機論』、崋山が『戊戌夢物語』を著していたからである。

 蛮社の獄と呼ばれているこの蛮社とは、西洋の知識や技術を認め評価する者達に付けられた、言わば蔑称の類の言葉である。蔑称を付ける側の考えは何時の時代も同じで、自らが正しくなければならないとする自覚はあるものの、その正しさがの根拠が希薄になる事から生まれる。理解出来ない物事は絶えず遠ざけ、自らの無知さ程度を隠したいが為に、本質から問題を逸らし情感へと移す手法である。蔑称を付ける根拠を極論すれば、理由も根拠も希薄で単に自らの考えと異なるだけの、好きか嫌いかだけで判断する様な、極めて稚拙な思考を持つ者達の自己防衛であるのかも知れない。
単に願望や夢を語っただけの人々を意図的に見せしめとして排除し、自らの野心に利用したのは鳥居耀蔵であった。密偵を使い拷問の末に事件を作り上げ、強い恐怖を与えた事で異国への話は誰もが口にする事は無くなったのは、言わば幕府が恐怖よって庶民の口を操作したからである。

 だが老中首座の水野越前守忠邦の威光の下で 鳥居耀蔵が蝮と恐れられ、肩で風を切っていた時代は此処までであった。後は干乾びる様に長い年月を、無意味な生き恥を晒す事になる。余談だが、京極家が治める丸亀藩の藩士五十二名に守られ、鳥居耀蔵が江戸を去ったのは弘化二年(一八四五)十月二十八日である。四国は丸亀城の中に造られた座敷牢で、それからの長い幽閉の日々が待っていた。この時から実に二十三年も後、やっと鳥居耀蔵の監視が解かれたのである。和暦では既に慶応四年(一八六八)となり徳川の時代が消える直前で、年号が翌年からは明治となる京で鳥羽伏見の戦いの始まった年であった。そしてその六年後に、耀蔵は七十八歳で生涯を終えたのである。
老中筆頭の水野忠邦が失脚した同じ時、松代藩の真田幸貫も老中の御役を免じられた。老中在任は僅か三年であった。この同じ天保十五年(一八四四)の六月から、所謂交換授業を始める事を象山と坪井塾の黒川了庵との間で既に話は決っていた。場所は阿蘭陀語を学ぶ場合は坪井塾で、朱子学などを学ぶときは象山書院で行う事と決め、場所や時刻は教える側の都合に合わせるという決まりが出来た。そして六月二十一日、黒川良安から阿蘭陀語の解説が始まったのである。

 月が替わった七月の初めから、何時もの年よりも暑い日々が続いていた。象山書院の塾生達への講義は、この日も夕刻までに終えていったのは、予め阿蘭陀語を習得の為に坪井塾へと出かける為に、時間を繰り上げて居た為である。ところがこの日の交換授業は良安の都合で、夜の授業が取りやめとなった。「夕刻に西洋医術を使っての手術が、予想以上に長引いているので」と使いの者が言付けを持って、詫びを言って帰って行ったからである。
お蝶の作ってくれた夕餉を摂り終えて、直ぐに風呂に入った象山は、二階の部屋で相変わらず阿蘭陀本を解読する為に、辞書を左手に持ちながら取り組んでいた。夕餉の後片付けを終えたお蝶が、戸締りをして湯に入った頃である。急に涼しくなり始めたと思う間もなく、音を立てて大粒の雨が降り始め、そして一瞬にして雨は止んだ。やがて遠くの方から雷鳴の音が聞こえたのを、二階に居た象山の耳にも届いていた。程なくして又激しく雨が降り始めると、ひんやりとした風が部屋の中を通り過ぎたのである。処が今度は、いきなり閃光が走ると直ぐに大きな雷鳴が響きわたった。それはまるで生木の大木を引き裂く様な音で、瞬間に象山は近くに雷が落ちたと思った。その時であった、お蝶は浴衣を羽織ったまま帯を着ける事も忘れ、手で襟元を重ねながら象山の居る二階に飛び込んで来たのである。

 浴衣の濡れているのが分かる。しかも突然の雷の余りの恐ろしさに、未だあどけない程の小さな身体が震えて立ち竦んでいた。そして更に又もう一度、又も閃光が走り落雷の音が響き亘った時、お蝶は大きな声を挙げて叫んでいた。
「先生、怖い」
象山の腕の中にいきなり飛び込むと、胸に顔を伏せたお蝶は両手で耳を塞いでいた。象山の腕の中でお蝶の濡れた髪から、微かに女の匂いがした。お蝶の激しく脈打つ心音が、象山の胸に直接に響いてきたのである。体を離せば未だ小さな乳房の頂に、薄桃色の蕾みの様な乳首が象山の目に眩しく飛び込んで来た。かすかな薄紅色の肌が、少女の恥じらいを呼び覚ました様である。お蝶は慌てて襟を合わせた。

 沈黙の時間がどの位続いたであろうか、又、稲妻が光り雷鳴が鳴り響いた。途端にしがみついたお蝶の指は、更に又、強い力が入っていた。そうして暫くは時折鳴り響く雷鳴や稲光の度ごとに、お蝶は細いその身体を震わせ、象山の胸の中に蹲っていたのである。
「このまま、お蝶を抱いていたいのだが、良いか・・・」
少しの沈黙が過ぎた後で、お蝶は象山の言った言葉の意味を理解したのか、小さく頷いた。象山の求めを受け入れたのである。まるで幼いと思っていたお蝶の想いが、遥かに大きく自分を包んで呉れている様に象山には思えた。
それは象山と言う男の持つ全てを、何の条件も無く黙って受け止めてくれた様な、豊かで穏やかな広がりのある世界を教えて呉れた様に思えた。こうしてこの夜から、お蝶は象山の妾になったのである。そして其の時から、お蝶が象山へ持ち続けた敬慕の想いは、実にお蝶が亡くなるまで続いたのである。お蝶はこの時は未だ十三歳、象山が三十三歳の時である。


十二、北斎と出会った佐久間象山
 
 祇園祭は京都の夏祭りとして広く全国に知られているが、この祭りは貞観年間(八五〇~八七五頃)に、京の都で始まった疫病退散の祭りが最初である。この貞観年間は歴史的に見ても、特に天変地異の多い時代であった。隕石の落下から富士山の噴火、嵯峨源氏を都から追い落とした藤原氏が、政に台頭する事となる応天門の変が起き、揺れが極めて長く続く播磨国地震が発生した。更に三陸沖では貞観地震が起き、それを追う様に津波が三陸地方を襲い、千人程が逃げ遅れて溺れ死んだとの記録がある。更に貞観十三年には奥州の鳥海山が噴火し、三年後には九州最南端の開聞岳が噴火し、多くの火山灰を降らせていたのである。
この様な噴火による降灰の影響も含め、天候不順などから農作物に被害が及び、やがては干ばつから飢饉となり、京の都も例外に漏れず疫病が万延したことは充分に頷ける背景であった。
祭りの名前も仏教の聖地となる祇園精舎から来ているのだが、この祭が全国に広がったのは神仏習合の時代だったといわれている。何故なら印度から伝来した仏教の教えの中に、悪霊とか祟りなどという教えは、経典の中に一切見当ら無いからである。

 祭りは当時のこの国が六十六程存在した、諸国の数を矛に見立てて並べ、そこに悪霊を封じ込める意味を持たせたのだという。疫病ですら死んで逝った者達が、この世に残した恨みによる祟りだと、まことしやかに信じられた時代の話である。
それが全国津々浦々で、やがて山車としての祭り屋台を引き、人々が町場を練り歩くこの祭りは、矛を屋根の上に飾った山車の名残であるとも云われている。祇園祭が信濃国に定着したのも、幕府の領地となる場所に多い事からも頷ける。尤も信濃国に根付いている古くからの信仰は、今に至っては凡そ三百四十程もあると言うが、祇園祭として行なわれる祭りは、信濃国の中でも僅か八ケ所の神社でしかない。
北信濃の須坂や中野、そして小布施などの他に、東信濃となる佐久の岩村田村や小諸の健速神社、それに南信濃にある下伊那の阿南にある諏訪神社、隣の上伊那は宮田村にある津島神社などで、どこも毎年七月の中旬にその祭礼が行われている。
 
 北斎が小布施村の上町にある、高井鴻山の屋敷へ再び姿を現したのは、江戸城大奥から出火した前月となる、天保十五年四月の事である。この年は二年前から新たに作られた天保壬寅元暦が使われる様になり、後に明治六年に改暦されて、グレゴリリオ暦(太陽暦)が使われる様になるまでの、殆ど替える必要の無い程の高い精度の暦となっていた。
尤も時刻だけは相変わらず昼と夜の時間が異なる、不定時法つまり日の出から日没までと、夜間を夫々六等分していた時刻を続けていた様だが、中国から伝わった基礎となる暦を、太陽の角度を当分して割り振る、西洋から伝わった暦へと近づけた結果であった。それにこの年は江戸城大奥からの失火などで、十二月に年号が弘化と改められた為、新たな年号はひと月程もかからず弘化二年へと移った年でもあった。

 二度目となる北斎の小布施村来訪は、一年前に小布施村の東町で村役から頼まれた、祇園祭の祭り屋台の天井画を描く事であった。更には門人の高井鴻山の求めで、新たに上町に造る祭り屋台の天井画を描く事でもあった。鴻山の住む小布施村は明治以降に谷街道と呼ばれる、越後に続く道が村の中央を通り抜け、上町はその谷街道と谷脇街道の交差する丁字路の場所にあった。
尤も小布施村の中にある東町にしても上町にしても、或いは中町にしても単に小布施村の町場と云う意味でしかない。寧ろ小布施村が賑やかになるのは、六斎市と呼ばれた月に三度程開かれる、六の日の付く市が立つ時と、もう一つは北陸と江戸とを結ぶ、大笹街道の菅平から雪の消えた頃からである。なぜ、ならこの街道を使うと、筑摩川に沿って大回りする北国街道よりも、荷や人は一日早く江戸に届くからである。

 突然に二年前、小布施に姿を現したその北斎を迎えた鴻山も、二度目の来訪を約束した一年前から、離れの隣に碧椅軒と名付けた別宅を建てて待ち構えていた。師でもある北斎には、存分にそこで画を描いて貰う為であった。
二年前の暮れに北斎が東町の祇園祭の世話役と交した、祭り屋台の天井画は勿論の事、鴻山が頼んだ上町の新しく作る祭り屋台の天井画も、全てはそこで描いて貰う為でもある。更には未だ確約は無いものの、高井家の菩提寺である岩松院の、畳で二十枚余りの大きな天井画をも、描いて貰いたいとする思惑があった。
小布施村の祇園祭も他と地域と同じで、七月の半ばに毎年始める事が決められている。改修を既に終えた東町の祭り屋台は、北斎に任せられた二枚の天井画を嵌め込めば、後は祭りが始まるのを待つだけとなっていた。
祭り屋台は何処でも同じだが、下から見上げる様にして観る事から、欄間や天井には驚く程の壮麗な手を入れてある。周囲の欄干にも見事な装飾が施され、彩色した上からは漆を施すのが慣例であった。それにしても四十年も前に建造されたと言うから、東町の祭り屋台の痛みは限度に来ていたと言えるだろう。祭りの時以外には、風通しの悪い蔵に入れて置かれるのだから、それも仕方の無い事であった。

 祭り屋台の天井板に描く「鳳凰」と「龍」の下絵は、既に江戸で描き終えていたから、それほどに長い日数をかける必要は無かった。寧ろ前年に鴻山の隣組となる東町の、祭り屋台の天井画を北斎が引き受けたと知った鴻山は、それならば自分の住む上町にも新たな祭り屋台をしつらえ、自らの財産を投じて作ろうと考えたのである。そしてその新たな祭り屋台の天井画には、北斎先生の画を飾りたいと鴻山は望んだ。しかも併せて菩提寺である岩松院の天井画をも、と北斎に持ちかけて来たのであった。
しかし岩松院の天井画は、その大きさからして小布施に骨を埋める程の、覚悟と時間を必要とする程のものである。本堂の天井の大きさは、畳二十一枚程の広さがあったからである。この時、北斎は八十四歳を迎えていた。

 二年前に初めて北斎が独りで小布施に来た時は、夏の終わりから翌年の春迄の半年余りの事で、その時は小布施にまるで、冬篭りをしに来ているかの様であった。天保改革と称する幾つもの取締りの最中で、何時又思いもよらない嫌疑が掛けられるか、おちおちとは出来ない時期でもあった。その様な時に快く向かえてくれた鴻山の住む小布施に、何か遺して起きたいと考え引き受けたのが、頼まれた東町の祭り屋台の天井画である。だが突然に降って湧いた様な鴻山の求めに、寧ろ面食らったのは北斎の方でもあったのだ。
北斎は今更のように面倒な、夫々の思惑に晒されている事を感じていた。

 とは言え五十を過ぎた出戻りの阿栄を、半年近くもの間であるにせよ江戸に一人で置く事も出来ず、日本橋本町の十八屋から見れば本家筋に当たる、小布施の穀屋を紹介して貰ったのである。小布施での仕事を終えるまでの間、穀屋の二階で阿栄は寝泊りをしながら、近在の女子供を相手にして画の手習いを開く事にしていた。それにもう一人、若い門人である、為斎を連れての小布施行きであった。
為斎は北斎の名前である葛飾を与えた門人で、今年で二十三歳を迎えている。北斎の門人の中でも一二を争う程に若く、しかも画筆の筋は極めて北斎に似ていると言われるほど、周囲から高い評判を得る程の腕を持っていた。北斎は門人の為斎を小布施に連れて来た事も、いささか北斎なりに思惑を以っての来訪であったのだ。
それにしても度々小布施に通うには、八十も半ばになると随分と覚悟がいるものだと、改めて北斎には思えた。齢を重ねるにしても、面倒な事は極力避けて通るのが、長生きの秘訣であるとも思っていた。そろそろ歩いて廻る長旅は、あの世とやらに向うまで、もう終わりにしたいと思え始めていたからである。

 同行して来た若い門人の為斎は、小布施に着くと直ぐに東町の祭り屋台の改修現場や、岩松院の天井などの下調べを始めていた。そして二日目には善光寺に詣でた後で、江戸に戻ると言い残し帰って行ったのである。北斎の方は東町の祭り屋台の天井画を、早く済ませて上町の祭り屋台の天井画へと進めたかった。既に東町の方は下絵を江戸で描いて来ていたから、後は二枚の檜板に下絵を写し替えて彩色すれば済むことである。むしろ問題は、鴻山が期待している上町の祭り屋台を飾る、二枚の天井画のことであり、岩松院の余りにも大きな天井画の事でもある。
思いついた様な鴻山の突然の頼みに対し、直ぐに返事が出来なかったのは、北斎の気持ちの中で何処かに引っかかる、まるで魚の骨の様な物が残っていた。新たに造る祭り屋台の費用を全て自ら負担すると言いながら、何故に鴻山自身も筆を持つとは言わなかったのか。鴻山も画を描くには十分な才能と、その技量があると北斎は認めていたからである。
それにしても、と北斎は思う。師となる者が己の門人を差し置いて、門人の生まれ育ったその土地に、末永く残る物へと筆を取るなど考えもしなかった。そう北斎が考えた時、或いは鴻山も自分と同じ様な事を考え、一歩身を引いている様に思えたのだ。

 それは鴻山が生まれ育った場所、小布施村上町の祭り屋台であったからだと気が付いた。鴻山の描いた天井画の屋台を。鴻山が出した金で造られた祭り屋台を、誰が喜んで曳くのだろうかと思えたのである。
それだけに早々に頼まれた東町の天井画を描き終え、上町の祭り屋台の天井画を、全てでは無いにしても描き上げて後は鴻山に任せよう、北斎はそう決めたのである。問題は鴻山にその自らの真意を、どの様に伝え理解させるかであった。

 北斎は昔から相手構わずに、頼まれれば何でも描いた。描く事こそが絵師にとって、唯一の修行であると信じて疑わなかったからである。そしてその考えは、若い頃からの画に対する考えや姿勢を、多くの出来事を通して身に付けて来たものでもあった。画を描く為に必要となる、創意や工夫を自ら求める姿勢は、単に分業化された狩野派の絵師達とは異なる、孤高の画を追い求めて止まない、根本的な考えを確立して来た末の事である。
その思いの強さが幾度もの旅に向わせ、旅先で見つけた他の職人達の、仕事に対する新しい創意であり、視点を変えた物事の見方であった。言い換えれば北斎の表現の多くは、そこで出会った人々の、様々な新鮮な表現でもあった。
他の流派の画を学ぶ事は、決して許されなかったし、知られてしまえば理由の如何に関わらず破門となった。それでも様々な技法を身に付けようとする北斎は、長く一人の師の下で学ぶ事は無かったと言える。それだけに門人に対して求めたものは、絶えず自らの技量を高める努力だけであった。画の表現や描き方を追求すれば行き着く所は、自らの望みは自らで求めて行く以外に無かったのである。
とは言っても晩年の北斎は、得心の行かない注文には応じななかったと言う、老人特有の意固地な頑なさが見え隠れしていた。

 東町の世話役と約束した祭り屋台の天井画は、龍図と鳳凰図の二枚である。ほぼ四尺四方の桐板の上に彩色を施した画は、描いた後で二枚並べて天井に嵌め込む為に、時間にも猶予があった。寧ろ欄間に彫られた唐子と呼ばれる童たちの姿や、唐破風の下に彫られた妻飾りなど、独特の彩色が施されていた為に、描く画は祭り屋台に溶け込む画でなければならないと考えていた。しかし画を嵌め込んでみると心配していたとは違い、思っていた以上の仕上がりを目にする事が出来た事で、北斎は更に自信を深める事が出来たのである。
東町の祭り屋台の画を仕上げ終わった後、北斎は鴻山を呼んで自らの考えを伝える事にした。
「ワシはな、旦那様が生まれた小布施の上町で費用を全て引き受け、祭り屋台を造ろうとした決心を聴いた時、流石は旦那様だと感心もしたし喜びもした。だがその新しく造ると言う祭り屋台の天井画を、何故かこのワシに描いて欲しいと言うのか、その真意が未だにワシには飲み込めないでおるのよ。何故に旦那様は自ら筆を取らないのか、旦那様はワシの門人であったはずと、今でもその様に思っているものでな」
四十五歳も齢の若い鴻山に対し、諭すような北斎の話し方であった。
「お言葉ですが先生、私の筆では先生が描いた東町の、祭り屋台の天井画とは比べ様もありません。描く前から東町の祭り屋台の方へと、誰もが足を運ぶだろうと思えます。ですから先生が小布施に来ておられるので、何とか新しく造る祭り屋台の方へも、先生の描いた画を飾りたいと考えたものでして」

 北斎は少しの間を置くと、静かに又語り始めた。
「誰もがワシの描いた天井画のある屋台へと、足を運ぶか・・・、つまり足を運んで貰いたいが為にワシに画を描いて欲しいと言う事か。確かに鴻山の本音ではあろうな。しかしワシが東町の屋台に描いたのは、観て貰いたいが為にではないぞ。ワシが描きたいと思えたから筆を取る。描きたいと思う想いは、それぞれその時によって異なるが、少なくとも代価を貰う為に筆を持った訳では無い。言うなれば小布施に半年の逗留をさせて貰った、ワシの礼とでも言うべきものであった。そこで旦那様に訊ねるが、旦那様は画や書を描く時、観て貰いたいが為に描くのかな。どうじゃろうか・・・。
ワシは門人の鴻山が、一人で描くには何とも心もとない、だからワシに手伝っては貰えないかと、江戸のワシの許に手紙を寄こしたとすれば、ワシは喜んで小布施に足を運び天井画の算段も出来るというもの。それに見方を変えれば、門人でもある旦那様の故郷で、師のワシが旦那様を差し置いて、筆を運んだ事になりはしまいかのう。いいや、世間の事はどうでも良い。ワシは鴻山の描いた画と、人が比べて観るなど考えもせなんだ。ワシの画はワシの画であり、鴻山の画はワシの画とは違う。そこに画風の異なるものがあるにせよ、巧いか下手かと云う話では無いと思うのだが」
 
 人の見方とは名の知れた者だから巧い、と見るのが常である。しかしそれなら鴻山が描いた画を、北斎が描いたとすれば観る者は誰もが喜ぶ筈である。そうした見方しか出来ない者が数千数万と訪れたとしても、北斎は嬉しいとは思えないと言うのである。芸を極め様とする者は、自らが納得出来ないもので観る者を楽しませる事は出来無い、と北斎は考えていた。寧ろ観る者を恐れさせ感心させるものでなければ、芸を高める意味は失う筈だと考えていたのだ。
芸の極みとはそうした高みにありながら、人々の日々の暮らしの中に見え隠れする様なものでありたいと、北斎は願っていたのかも知れない。少しの沈黙の後で、鴻山はおもむろに口を開いた。
「まさに先生の仰せの通りでして、私の考えが未熟であった様に思えます。改めて先生に上町の天井画、お手伝いをお願い出来ればと」
鴻山はさして自信の無い自らの画を残すよりも、師でもある北斎に頼み込む事で、自らの資産を使って後世に残す屋台を造りたいと思い込んでいた様である。
「それを訊いてワシも安心した。鴻山が自ら自信が無いと言う様に、北斎と名乗るワシもまた、自負はあっても自信は無いと言わざるを得ない。しかし小布施の上町は旦那様が、代々に亘って暮らしてきた所、名の知られた桝一の店のある場所だ。ここで名を残すのは先ずは旦那様の方で、この北斎では無いのだからな」

 上町で新たに造る祭り屋台の画は鴻山も筆を持ち、北斎がそれを手伝うという姿で話が進められたのである。だがそうは言っても、画題などを決める画の世界の段取りは、やはり北斎である。妖怪図が巧いとは言っても、後世に残す画題を決めるには、鴻山の経験や知識では手の出しようが無かった。
祭り屋台を飾る画の物語を、北斎は中国の史書から水滸伝を取上げた。皇孫勝と応龍の物語から画題をとるのはどうかと、鴻山に向って北斎は訊ねたのである。皇孫勝は道士と呼ばれる道教の、いわば道術を使う仙人の様な存在である。 
物語の三国志では盗賊の一味として、梁山泊に巣食う悪党の一人である。江戸時代も寛政の改革が行なわれていた頃は、読み本に挿絵を描いていた事から、広く人々に読まれて知られていた話であった。

 しかも天井の画だけではなく、その勇壮な武者ぶりを彫り物にして、一層引き立つ様に現す事を北斎は勧めたのである。その心積もりは江戸を出る時に、既に暖めていた北斎の考えであった。なかでも応龍が孫勝の呪文を受け、海中から天空に飛び立つ姿は、応龍が黄金に輝いていなければならない。そこで二枚の天井画は応龍が飛び立つと言う物語から、逆巻く様な男波と女波を描く事に決めたのである。そして波の画から飛び出した応龍を彫り物で表現し、黄金に輝かせる為に、応龍の身体に金箔を貼る事にしたのだ。しかも男波と女波の波の画の夫々を、西洋的な額縁に入れることで、画を引き立たせようと北斎は考えたのである。これも額縁の画は鴻山が描き、中央に描く波の画は北斎の仕事とした。

 応龍はその身体に金箔を貼る事から、江戸で造らせる事に決めたのも、金箔を用いるには寺社奉行の許可を得なければならない事から、北斎がその手配を行なう事にした。皇孫勝の姿は小布施でも名高い彫り物師の、亀原和太郎嘉博に依頼する事にして、後で北斎から姿や彩色の下絵を描いて鴻山に送る事にしたのである。更には問題の岩松院の天井画も、江戸に戻った北斎が下絵を描き、鴻山に送り届ける事にした。後は鴻山が天井画に描く為の、絵の具から金箔など大掛かりな準備と注文とを行なう事となった。まして岩松院の天井に使う金箔は、凡そ四千枚は必要となる。小布施は天領で幕府の領地となる事から、それも幕府の寺社奉行の許可を必要とするからである。更には鴻山がもしも描けないとなれば、小布施に連れて来た門人の為斎を、改めて鴻山の許に向わせようと北斎は手配していたのだ。

 小布施にある岩松院の天井画が、後に美術史家で浮世絵蒐集家でもあった由良哲次氏の鑑定で、北斎の描いた画だと決め付けられたが、この由良氏は北斎と写楽が同一人物であると主張した人でもある。その極めて個人的な意見を取り入れ、当事の小布施町は町おこしの為にと、北斎の描いた天井画だと宣伝して来た経緯がある。八十を越えた老絵師の北斎が、畳二十枚以上もある大きな天井に鳳凰の画を描いたなど、村おこしのさきがけではあるにしても、現代ではこの様な文章が発見されている。
宮本慎助が生まれる三年前の、文政二年(一八二二)に小布施で生まれ、この地に住んでいた呉羽宇一郎(一九〇一没)は、「岩松院客殿大間(長さ三間、横三間)天井ノ鳳凰ハ、第二十一世祖珍和尚ノ代高井三九郎(鴻山)ノ画筆ナリ、弘化四年度ナリ、鴻山氏ト北斎卍老人両人談合ノ上、図ヲ定メ、鴻山先生ヲ描クト云」と『歴代枢要書』に記されている。(小布施町史・昭和五十年十一月、小布施町史刊行会『歴代枢要書』)

 北斎が上町の祭り屋台の天井画を描き始めたのは、東町で行なわれた祇園祭りの仕度が始まった、六月の終わりである。鴻山とは役割の分担と共に、天井板に描く内容と日程とを決めた。北斎にすれば七月の終わりには江戸に戻りたいとする思いがあった。江戸で応龍の彫師を探すことや、岩松院天井画の下絵も描く仕事が残されている。北斎に任された上町の祭り屋台の天井画は、小布施にいる内に自らの役割だけは、何としても果たしておきたい事でもあった。この後に江戸に戻った北斎からの岩松院天井画の下絵と共に、鴻山に対しての手紙が送られている。
その手紙には飄々とした文字と画とが混ざり合う、北斎独特の伝え方であった。

「鳳凰之儀大延引恐入候、彩色ヲ委(くわ)しくと被仰聞ト候ならバ、だあさ(ドウサ)のアル紙江此品御写被下候て被遣可申候孤其句切句切ヲ一ケ所宛、さゐしき仕り差上可申候(絵・面白)そうならバ、なぜ此下画念画ニ認ナイのだと被仰候半か此方ニも、色々くり合わの悪い時と能イ時とアゝ侭ならぬ浮世絵(北斎の浮世絵)に而御座候」
   八月 アァソレ 九日書        高井様 玉机下   絵 三浦屋八右衛門 ハイ ハイ
 
 現代用語で書けば、大凡こんな内容になるだろう。
「鳳凰の件は大変遅くなって悪かった。彩色を詳しく知らせて欲しいと言うのなら、同封した絵をドウサ(にじみ止め)のある紙に写して送ってくれれば、こちらで彩色してもあげられる、それならなぜ最初から下絵に丁寧に描かないのかと言われるだろうが、こちらにもいろいろと都合があって、ままにならない浮き絵師なんですよ」

 と、この時に鳳凰図の下絵が一緒に、鴻山の許に送られている事がわかる。更に弘化四年の暮れには岩松院の天井板が、三回払いで板物代として支払われていることから、描かれたのは弘化四年から嘉永元年頃と推定される。この嘉永元年の六月には、北斎の門人でもある酒井港の本間家の分家となる本間北曜が、浅草の北斎宅を訪れている。長崎に向かう直前に立ち寄った時で、この時に北斎からは餞別として、『鬼図』とする一枚の画と、日新除魔図を数枚貰って居る。嘉永二年の四月に北斎は歿している事から、それ故に岩松院の彩色は北斎ではなく、鴻山が為斎を呼び寄せて描いていたものだと思えるのである。
その根拠も鴻山が北斎の門人である為斎を、小布施に呼び寄せている。為斎に手を借りた鴻山は、嘗て松代藩の家老である小山田壱岐から頼まれ、龍虎の屏風画を一双描いている。嘗て北斎に所望した画であった。越後国との国境にある信濃町柏原の雲龍寺には、この片方となってしまった『玉巵弾琴図屏風』が今でも残されている。
 
 北斎が松代を明日は出立するとした、七月末の午後であった。この時に北斎は阿栄を連れ、小布施の世話になった知り合いや世話役に挨拶を済ませ、阿栄がそれまで間借りして居た穀屋を訪れていた。
思い出せば小布施に来てから暫く後に、北斎が味わった唯一の不愉快な出来事があった。松代藩の次席家老である小山田壱岐から、屏風画の注文の為に、お布施から松代城下の家老の屋敷へと呼び出された事で、折角の一日を潰してしまった事があった。何とか鴻山宅で毎朝描いていた『日新除魔図』を手土産代わりにと数枚持参し、詫びる理由も無いのに詫びた事があったのは、小布施で暮らしている鴻山の立場に配慮した為であった。

 この時の北斎は、珍しく呼び寄せて注文した壱岐と言う家老の、その注文の仕方が酷く癇に障ったと言っていい。祭り屋台の天井画が多忙であると理由を伝え、求められた屏風画の注文を断ったのである。その後に家老の壱岐は、穀屋の当主である小山平左衛門に頼み込み、今度は逗留していた北斎の娘である阿栄に画を描かせた。画は『関羽割臂図』で落款は「應為栄女筆」印章は「葛しか」白丈方印である。この画は三国志から取上げたもので、関羽が毒矢で右臂を射られた際、その臂の手当てを華佗と呼ぶ名医に見せながら、何事も無い様な顔をして碁を打っている図であった。
特にこの時に阿栄の描いたこの画は最も大きなもので、絹本着色の一幅(一四〇×六八センチ)である。しかも阿栄がこの時に用いた印は、北斎が使用していた白丈方印の「葛しか」であった。阿栄は自らの印を小布施には持参しておらず、父親である北斎の印を借用したのである。以降に阿栄の描いた画に、この印が使用されたものは無いと言われている。

 阿栄が三ヶ月程世話になった穀屋の店先に、北斎は阿栄と共に揃って顔を出すと、当主の小山平左衛門に別れの挨拶をした。そして店の外に出ようとした時、『穀屋』と大書した屋号の文字が、額に入れられているのが北斎の目に留まった。
「おゝ、これはいい、実に味のある筆筋を持つ書だ。象山とあるが・・・」
幅三尺、縦はニ尺程の横書きの隷書体で書かれた文字が、金箔の施された額に入れられて壁に飾られていた。
「はい、書は松代藩の佐久間象山先生にお願い致しまして、ご無理を申してやっと書いて頂いた物でしてな」
すかさず平左衛門は、描いて貰うまでの経緯を語り始めた。幼い子供が平左衛門の後ろから、顔を覗かせて北斎を見つめていた。平左衛門には二人の息子である兄の熊之助と、八歳の弟で岩次郎がいた。この弟の岩次郎が、後に北斎の門人の為斎と親しくなり、為斎は鴻山の手伝いをしながら、岩松院の天井画を描いた絵師でもあった。そして岩次郎は後に為斎の門人となるのだが、それは時代が大分後となってからの事である。
「なる程、小布施は望岳賦を書かれた象山殿が、勤めておられる松代藩のお預かり地で御座いましたな。それにしても御当主が象山殿を先生と呼ばれるのは、一体どの様な訳があるのでしょうかな」

「先生は儒学者で朱子学も江戸で学んでおりましてな、それに近頃は阿蘭陀語も学ばれていると伺っております。御老中に上がられた藩主の幸貫様の、いわば懐刀と申しましょうか。江戸では確か玉池稲荷の近くで、象山書院と申す塾を開いておられるとか。この松代では手前どもの様な者にも、先生の門人の端に加えさせて頂き、少々漢詩などを学ばせて頂いております。ですが、北斎殿は象山先生をご存知なので・・・」
平左衛門は少し得意げな言い方をしたその後で、北斎が象山を知っていそうな口ぶりに、思わず驚いた様な顔をした。
「未だ象山殿とはお会いした事もないが、その象山殿が書かれた望岳賦とやらの末の一部分を、逗留先の鴻山の知人から、手紙で知らせて貰った事があるものでな、実に見事な漢詩であった」
平左衛門は酷く感心した様に頷くと、目の前の北斎を見つめたのである。

 処が丁度その時である。まさに噂をすれば・・・であった。
「御免、おゝ平左衛門どのか、無沙汰しておるが変わりの無い様で、先ずは何より」
いきなり酷く背の高い男が、北斎の後から平左衛門に声を掛けたのである。ガッシリとした、まるで異人かとも思われる様な風体の武士であった。
「おや、まぁ先生、ご無沙汰致しております」
平左衛門は五十を少し過ぎた程度の齢だが、一方では漢詩を好む男であった。それが突然に店先に現れた男を前に、驚いた様子で恭しく頭を下げた。話題に上っていた象山その人だったからである。
「こちらも中々忙しくてな、思う事が思う様に出来ないでおる。今も江戸から戻ったばかりだが、これから雪が降る前にと沓野に出かける処よ。暫くは領内を廻らなければならんでな。その様なことから舟で小布施の近くを通ったものでな、出先では食べ慣れた味噌を口にしたいと思いつつ、穀屋の味噌を求めに参った次第だ。わしに取っての穀屋の味噌は、故郷の味だからなぁ」
「それは又ありがたい事で、実はお母上様からも味噌が無くなったとお手紙を頂戴致しておりまして・・」
「どおりで味噌の味が変わったと思ったぞ」
「相済まない事でございます。処でと、おゝ、そうでした。御引き合わせをさせて戴きますが、こちらが今お話を申しておりました佐久間象山先生でして、こちらは小布施に逗留しておられ、祭り屋台の天井画を描いて戴きました葛飾北斎殿。横におられるのが北斎殿の娘御の阿栄様で・・・」
すかさず象山は、年長の北斎に向って口を開いた。
「佐久間象山と申す。が、名前を「しょうざん」と呼んで戴きたい。みどもは余り絵心には感心の無いものでしてな、北斎殿にはさほどのご縁はありますまい。しかし北斎殿が大層な絵師である事は、みどもが如き者にても存じておりますぞ」

 象山の挨拶の言葉に、北斎と阿栄は頭を下げて、今度は北斎が口を開いた。
「儂が北斎でございます。上町の高井家には三ヶ月程ですが、逗留致してりましてな、頼まれた東町と上町の祭り屋台の天井画を描いておりました。やっとそれも一段落しましたもので、明日は江戸に戻ろうかと、こうして挨拶に伺っていた処で御座います。しかし店先のこちらにある象山殿の隷書に目が留まり、実に味のある書だと話していた所で御座います。筆を持つ楽しみがあるとなれば同じ墨人、画で表すか文字で表すかの違いだけでございましょう。一度は儂の画にも、象山殿の賛を入れて戴く事が御座いましたら、それは又それで楽しめるかと思いますな」
「嫌々、お恥ずかしい限りで、しかし左様で御座るか、鴻山の屋敷に御逗留だったとはな」
象山の書いた屋号の「穀屋」の文字は、隷書体と呼ばれる書き方であった。書家ではないにしいても目の前の象山が生みだした、漢詩「望岳賦」の全文を一度は読んでみたいと北斎は思った。だがやはり、敢えてここでは、末文だけを取り出して画にした事は語らなかった。
 
 言葉に詰まった様な象山に向って、穀屋の平左衛門が口を開いた。
「先生は高井家に、今日はお立ち寄りにならないので・・・」
「あそこに寄るとな、又話が長くなるのでの。何れお役目のない時にでも立ち寄ることにする。よしなに伝えてくれ」
平左衛門の疑問に、何処か言い訳の様な返事が象山の口からこぼれた。益々北斎は象山の書いた「望岳賦」の一文を、自らが墨画に描いた事を、ここで明かす訳には行かない様に思えた。北斎は一つだけ目の前の象山に、訊いて見たいと思っていた事があった。
「良い機会ですので象山殿に一つだけお訪ねしたいだが、儂の若い門人の一人が、阿蘭陀語を学びに長崎に出かけたいと申しておるのじゃが、阿蘭陀語はこれからの時代も、必要な言葉になるのでしょうかな」
二年前に門人となった庄内藩酒井湊の本間北曜と言う若者が「長崎に出かけて阿蘭陀語を学びたい」と言っていた事を思い出したからであった。
「西洋と言えば我等は殆どが阿蘭陀国しか知らんのだが、果たして何時まで阿蘭陀との交易が続くのか、皆目みどもにも分らぬ。何故ならそれ以前に此の国は、葡萄牙国との取引があったはず。そこには求めてもいない切支丹の目論見が有ったからで、それ故に幕府は阿蘭陀国へと舵を切った筈。時代が変われば言葉も変わるのが常であろうか。おゝ、味噌を貰いに寄った事を、すっかりと失念してしまった」
そう言って象山は木箱を取り出すと、平左衛門に味噌を詰めるようにと、その木箱を渡した。

        中巻へ続く

評伝『秀(ひい)でた遺伝子』 -佐久間象山と宮本家の人々- 《上巻》 

評伝『秀(ひい)でた遺伝子』 -佐久間象山と宮本家の人々- 《上巻》 

宮本家の十二代に亘るその遺伝子は、やはり秀でた遺伝子と言わざるを得ない。この一族と接した著名な人々を列挙すれば、江戸時代以降から昭和の時代まで、佐久間象山・葛飾北斎・渋沢啓三・正岡子規・夏目漱石・更にその教え子の中には、筑波大学の学長となった阿南功一や医科歯科大学の清水学長など、学問に向かい合った人々がいる。その宮本家350年の十二代に亘る世代を通して、どのようにその遺伝子が磨かれたのかを掘り起こした物語である。

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