【夢見ノ記】第十話 想いは夢とともに

【夢見ノ記】第十話 想いは夢とともに

【夢見ノ記】シリーズ
第一話→ https://slib.net/104460
第二話→ https://slib.net/105423
第三話→https://slib.net/107520
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第五話→ https://slib.net/110553
第六話→ https://slib.net/111203
第七話→http://slib.net/111645
第八話→ https://slib.net/111726
第九話→https://slib.net/129417

 目が覚めると、睡はベッドに寝ていた。白い壁の部屋が目に映る。質屋の言っていた通り、病室にいるのだと理解した。
 懐かしい香りがして目を向けると、ベッドの隣に質屋が座っていた。うたた寝をしている。
 羽音が聞こえたので、傍には鳥がいるのだろう。にあ、という声が聞こえた。黒猫までついてきたのかと思い、睡はかすかに笑った。
 質屋が目を開けて、睡を見る。質屋の安堵した笑顔を見て、睡は嬉しく感じた。
「ただいま、エバちゃん」
 出した声が嗄れていて、睡は驚いた。五日間寝ていたことを思い出す。急に空腹であることに気づく。そして、おなかがキューと切なく鳴った。
 睡は質屋と顔を見合わせ、力なく笑った。

 深夜零時を過ぎていた。守は特になにかをするでもなく、ぼうっと居間の畳に座っている。虚ろな瞳で、ちゃぶ台に置かれた花瓶を見つめた。
 花瓶には〈夢〉の花が数本生けてある。花屋が咲いたばかりのものを渡してくれた。匂い立つ甘い香り、咲き誇る赤い花びらが目に鮮やかに映る。睡が夢から帰りやすくなるように、夢の花が少しでも助けになるかもしれないとのことだった。
 明日の朝一番に病院へ届けてやろう。質屋が身内のふりをして寝泊まりするらしいから、あの婆さんに渡せばいい。睡が同居している叔父は、病院に放りこむだけで見舞いもないらしいとはいえ、質屋の大胆な行動には少なからず驚いた。
 質屋なりに思うところがあるのかもしれない。守には到底できないと思った。眠る睡をまともに見る勇気はなかった。夢を見たまま死んだ姉を思い出すからだ。
 守は目をこすった。眠いのに眠れない日が続いている。いつもの葉を噛もうとして、守は手をとめた。睡が行方知れずになってから、寝られない日でも睡との喧嘩を思い出して、夢の葉を噛む気になれないでいた。
 眠気でぼうっとする頭は何も考えられないはずのに、嫌な記憶ばかり思い出す。守はこめかみを押さえて、唸った。目を閉じれば、浮かんでは消えていくものがある。後悔の思いがわく。嫌でたまらないのに、それらは繰り返し頭に浮かんでくる。
 帰ってきてほしいと強く願っている。こんなふうに誰かを待つ気持ちは、守にとって久々の感覚だった。夢を見て眠っている姉を待っていた頃と似ている。なにもできない無力感と、置いていかれる恐怖。姉がこのまま目覚めないかもしれないと、不安にかられて眠れなかった弱い自分。
 体の弱い姉が無理をしてでも〈夢見〉の仕事をしていたのは、守がまだ幼かったからだ。早くに両親を亡くし、姉弟ふたりきりでも生きていくためには金が必要だった。弟を育てるために姉は夢を見た。弟は寝たきりの姉のために常に傍にいて世話をした。ふたりきり姉弟で補いあって暮らす生活。
 姉が夢見の仕事をするのは弟を養うためで、決して楽な商売ではなかったはずだ。昏々と二、三日眠り続けることはザラだった。姉の枕辺を覗きこみ、いつ帰ってくるのか目覚めるのかと気が気ではなかった日々。
 姉が体調を崩せば、必死で看病した。唯一の家族である姉さえも失ってしまうのではないか。自分ひとりになるのが怖くてたまらなかった。
 役立たずの自分を、守は恥じていた。全く夢を見られない性質のために、夢で姉を助けることもできない。仕事にたいして関わることもできない。自分はただ待つことしかできないのだ。
 姉のために何かできないか、もっと早く自立できないかと思った。たいてい余計なことをしてカラ回りしたが、弟の失態を姉は責めなかった。いつも優しく笑っていた。
「いいのよ、夢を見られなくても。あんたが、私の夢そのものなんだから」
 姉の言う意味は分からなかった。だが、自分にとって姉が唯一の大切な家族であるように、姉も弟の自分を特別大切にしてくれているのだと思った。
 いつからか、姉が仕事以外の夢を見るようになった。気づいたところで、守にはどうすることもできなかった。姉が好んで見る夢を、とめることはできなかった。「ごめんね」と言い残して、姉は夢を見たまま帰らなくなった。
 姉が仕事で夢に深入りしなければ、夢に溺れることもなかったのかもしれない。自分がもっと大人だったら、役に立てれば、足手まといでなければ……もしの仮定を並べたところで事実は変わらない。それでも、もしと考えずにはいられなかった。
 胸にうずまく羨望と嫉妬。なんて幼い感情だろうか。夢に憧れて、失望して、憎んでいる。羨ましいのは夢に対してか、夢を見られる姉に対してか、自分でも分からなかった。
 姉は夢を選んで死んだ。その絶望が、守の胸に大きな穴を穿った。
 閉じた目を開けば、パッと目に飛びこんでくる花の色。まるで血のように真っ赤な色が、守の胸中をざわつかせる。夜は静かすぎて落ち着かなかった。ほんの数日前までの騒がしかった昼間が懐かしい。そう思う自分に驚き、守は苦い顔をした。
 花を見つめて、誰ともなく呟く。
「早く帰ってこいよ」
 睡は腹を空かせているだろう。帰ってきたら、おにぎりをたらふく用意してやろう。よく食べるから、いつもより多めだ。
 守にできることはそれくらいで、後はただ待つしかない。夢を見られない体質の自分が、今も昔も何もできずに歯がゆかった。
 電話が突然けたたましく鳴って、守は大急ぎで取った。質屋の声で、睡が目覚めたことを知る。安堵のあまり、腰がくだけた。「よかった」と思わず出た声が、電話の向こうの質屋に聞こえたかは分からない。
 守は顔をくしゃくしゃにして、泣き笑いのような顔で「よかった」と、もう一度呟いた。

 睡が無事に目覚めた連絡に安心したせいで、どっと疲れが出たのか、守は翌日の昼過ぎまで眠っていた。急いで身支度して睡の病室を訪ねると、その部屋は空っぽだった。
 うろたえた守は、廊下を通りかかった医師を捕まえて「この部屋の患者は?」と声を荒げる。医師は目を白黒させて、退院した旨を答えた。身内の叔父が「これ以上、入院代は払えない」と退院を迫ったようで、強引に出ていったというのだ。守は開いた口が塞がらない。
 守はふらふらと病院を出て、質屋のことを思い出した。睡に付き添っていたはずだから、事情を知っているかもしれない。守は駆けだした。
 質屋へ行くと、店は閉まっていた。声をかけても誰も出てこない。守は諦めて、とぼとぼと家路についた。
 玄関の鍵を開けようとして、おかしなことに気づく。閉めたはずの鍵が開いているのだ。守は慌てて家へ入り、廊下を走った。居間から話し声が聞こえるのを、勢いよく駆けこむ。
「あ、守。おかえりー」
 と、睡は何事もなかったかのように言う。その顔はあまりに危機感がなかったが、少し頬が痩せたように見えた。隣では質屋が、勝手に淹れた茶を飲んでいる。
「なんで俺んちに!」
 守が怒鳴ると、質屋はキッと睨んで「あんたが連絡取れないからだろ」と、ツンとした返事だ。電話をしても繋がらないので、直接に守の家へ来たそうだ。
 睡がニカッと笑うので、守は安堵を通りこして呆れてしまう。
「お前、そんなヘラヘラ笑ってるけど。体は平気なのか?」
「んんー。やっぱ五日も寝てると、体がバキバキに固まってるね」
 のんきな返事に、守は毒気を抜かれたような気分だった。
 一方、質屋のほうは不機嫌に茶を飲んでいる。「まったく。起きたばかりで退院なんて無茶苦茶だよ!」と、ご立腹である。睡の叔父という人物に対して、質屋はよほど不快を感じたらしい。
「あんな奴の家に帰ったところで、睡が休めるもんかい。アタシの家にとうぶん泊まることにしたよ」と啖呵を切る。叔父は「金が掛からなければいい」と言い捨てたらしく、質屋に「地獄へ落ちろ!」と言わしめたとか。「奪衣婆」とあだ名される質屋が言うと凄みが増すな、と守はひそかに思う。
 睡の傍を、鳥がちょんちょんと歩き回る。鳥も一緒に無事で帰ってきたようで、守は安心した。鳥はちゃぶ台にのり、花瓶に生けられた夢の花をしげしげと見ている。本来ならば今日の見舞いに持っていくはずだった花だ。それが用済みになったことを、守は心から喜んでいた。
 睡はにこにこしながら、守の前に両手を差しだした。
「守に早く、この猫と会わせたくてさ。この猫ね……」
 睡の言葉を聞いて、動揺を隠せず、守は「ちょっと待て」と無理やり中断した。
「何を言ってるんだ。猫? 猫が、いるのか?」
「見えないの?」
 睡は目を丸くして、こわごわと聞く。守は頷いた。
「俺には、なにも見えない」
 守が「見えない」と言ったことで、睡は失念していたことを思い出す。守は夢を見られない性質のために、夢の生き物も見えないことを忘れていた。
 守の傍に黒猫は寄りそっているのに、守には全く見えていない。猫がにあ、と鳴いても声も聞こえないようだ。
 睡は助けを求めるように、質屋を見上げた。質屋は首を横に振る。
「夢の狭間の生き物なら、少しは現世と繋がりがあるかと思ったんだけどねえ。見えないんじゃあ仕方がないよ」
「あんなに傍にくっついてるのに? 何も感じられないの?」
 黒猫は親しげに守に体をすり寄せている。だが、とうの守は何が起こっているのか、さっぱり分かっていない。猫のことを説明したくても、見えなければ信憑性がなく信じられないだろう。
 睡と質屋がこそこそと話すあいだ、守は膝をついて周囲に目をやる。猫の存在を探しているが、やはり見えないし感じられていない。守の視線の先に黒猫はいない。傍らに寄りそって、猫は守に話しかけるように鳴いているのに。
 守に対して、睡はどう言葉をかけてよいか戸惑った。
 質屋が睡に、そっと耳打ちする。
「今は、ふたりきりにしてやろう」
 睡は無言で頷く。
「ふたりでこそこそ話して、どうしたんだ? 猫ってのは?」
「なんでもないよ。じゃあ、睡もアタシも休養のために帰るとするよ。お邪魔したね」
 質屋は言い、睡をつれて出て行った。
「なんなんだ?」
 守は腑に落ちない面持ちで、そそくさと帰って行くふたりを見送った。守の足もとに、黒猫が寄り添っていることを、彼自身は気づいていない。

 睡たちが帰った後、守はどうにも納得いかなかった。猫がどうのと言っていたのが、引っかかる。
 質屋と睡には見えていたが、守には見えない猫がいたらしい。そう考えると、睡はどうやら夢から猫をつれて帰ってきたのだと推測できた。
「俺に、猫の知り合いなんていないぞ」
 考えてみても馬鹿馬鹿しい、と守は思う。
 がたがた、と奥の部屋から物音が聞こえた。鳥がまた、いたずらでもしているのか……あの部屋で。
 姉の部屋の戸を開けると、そこに鳥の姿はなかった。姿はないが、様子がおかしかった。
 化粧台の上にあったはずの道具が、床に落ちている。箪笥の上に飾ってあったはずの人形も、畳に転がっていた。机にあったはずの文房具がてんてんと、畳の上に散らばっている。
「鳥のやつ、悪さして逃げたのか? はあ、なんてことしやがる」
 守はぶつくさ文句を言い、畳に転がったものを拾っていった。
 ふと見ると、箪笥の引き出しにひっかいた痕がある。新しい傷痕だ。鳥の爪とは思えない、小動物のつけたものに見えた。
「ああ、くそっ。野良猫でも入りこんだか」
 悪態をついてから、守はハッとする。睡は、猫がどうとか言っていなかったか。
「わざわざ俺に見せたがる猫なんて……」
 爪痕のついた引き出しを開けた。そこには、たとう紙に包まれた着物が仕舞われている。姉の着物が手つかずのまま、そこにずっと眠っていた。
 紙をめくると、鮮やかに染められた花柄が目の前にある。最期の日に、姉が着ていた柄だと思い出す。
「姉さん」
 守は思わず、呼んでいた。
「そこに、いるのか? 姉さん」
 返事はない。それでも呼ばずにはいられなくて、守は言葉をかけた。目頭が熱くなり、視界がぼやけてくる。両目から涙があふれて、とまらない。もし姉が居たとしても、守には見えないし聞こえない。
 子どものように泣いている自分が恥ずかしくて、不甲斐なくて。守はしゃくりあげた。
 もしかしたら、姉はまた「ごめんね」と謝っているのかもしれない。そんなふうに謝らせてしまう自分が情けなかった。謝ってほしいのではない。あのときも、あんなふうに姉を困らせたくはなかった。そう思うと、さらに涙があふれてくる。
「ごめん、な、さい」
 守の口から、こぼれた言葉。声が震える。
「ずっと、謝りたかった。あの時、姉さんにあんなふうに……俺は」
 あれからずっと、後悔の思いに苛まれていた。
 姉が夢に溺れた理由を知ったとき、守は愕然とした。そのときの感情はぐちゃぐちゃで、さまざまな思いが混ざり合っていた。その感情の一つには、怒りも入っていた。
 二人きりの姉弟なのに何の相談もしてくれなかったこと。姉は勝手に夢を見て、もう戻れないところまで深みにはまっていたこと。それに気づけなかった自分にも怒り、絶望した。
 だから姉に聞いたのだ。姉が理由を言えないことを分かっていて、あえて守は聞いた。まだ、夢を見るのかと。姉の答えは「ごめんね」だった。
 姉を傷つけた。後に守は、そのときの自分をひどく恥じた。そして謝ることもできずに、姉は夢を見たまま死んだ。
 あれからずっと、守は悔いていた。
「ごめん……ごめんなさい。姉さんに迷惑ばっか、かけてて。困らせて」
 羽音が聞こえて、守の肩に白い鳥がとまった。まるで慰めるように、鳥は身をすり寄せてくる。ふわりとした羽の感触が、頬をくすぐる。
 ふいに、くちばしでつつかれて、守は「いてっ」と声をあげた。
「なにするんだ。この鳥、飯をやった恩を忘れたってのか。お前、睡に似てきたんじゃないか、このやろう」
 守をつつく鳥は、バサバサと逃げて箪笥の上にとまる。守はとっさに怒ったが、さっきまで自分が泣いていたことを思い出して、なんだか色々おかしくて笑えてしまった。
「いつまでもこんなじゃあ、駄目だって言うんだろ。ちぇっ、分かってるよ」
 自分の頭をくしゃくしゃとかいて、守は苦く笑った。
「姉さん。俺は大丈夫だから、もう心配しないでくれよ。でなきゃ俺はまた、睡に怒られちまう。なあ、鳥」
 鳥は鳴かない。翼を広げて、そうだと言いたげに身震いした。
「分かってるよ。ほら、行こう」
 守は、鳥に手を伸ばす。鳥は、守の腕にとまった。
 守は、部屋のなかを見回す。何もいない。自分と鳥以外の姿を、見ることはなかった。だが、ここには睡がつれて来た、誰かが来ているのだと思った。
「おやすみなさい、姉さん」
 守は静かに、姉の部屋の戸を閉じた。

 路地の角から、ひょっこりと黒猫が姿を現した。睡と質屋を見あげて、にあと一声鳴く。駆けよる隙もなく、黒猫は路地裏の闇にまぎれて消えていった。
 睡は、質屋と顔を見合わせる。「ねむ、だろうね」と質屋が言う。別れの挨拶に来てくれたのだろう、と。
 猫が消えた闇の先を見つめて、睡は言った。
「あの猫はどこへ行くのかな。消えてしまうのかな」
「そうさねえ。ねむの夢に帰ったのかもしれないよ」
 質屋が名残惜しむように囁いた言葉は、睡の胸に心地よく響いた。
 黒猫の行く先が、ねむの夢であればいいと思った。帰ってきた猫を迎える彼女の夢を、想像すると心に明かりが灯るような気がした。

 質屋でしばらく養生してから、元気になった睡は守の家を訪ねた。以前と変わらぬ態度で、守の家でご飯をたかる。
「ありがと、な」
 と、唐突に守が言った。ふてくされたような顔で、視線をそらす。とてもお礼を言うような態度ではないが、それが守の精一杯なようだ。
 意外な言葉を聞いて、睡はぽかんと口を開けた。おにぎりを食べようと口を開けた姿勢のまま固まる。
「え? ええ? どうしたの?」
 睡が尋ねても、守はその理由を答えようとしない。照れているのか「もういいだろ」と、ぶっきらぼうに言う。
「それからな、鳥はお前にやるよ」
 と守は言って、変わらず目を合わせようとしない。
 鳥は、睡の周りを親しげにちょんちょん歩いている。睡はどうにも信じられない心持ちで、思わず声が上ずった。
「え? いいの?」
「ああ。お代のぶんは十分もらったから」
 と、守は言う。
 睡はおにぎりを頬張った。梅干しの入ったおにぎりは、ご飯粒がちょっと固くなっていたけれど美味しい。
 はれて鳥は睡の鳥になった。それはいいのだが、この鳥はどうやら現世が住みかでもないようなのだ。鳥にとって居心地の良い場所へ帰してやるべきではないかと、睡は悩んだ。
 質屋に相談してみると、
「そう思うならもう一度、鳥も一緒に夢へつれていけばいいじゃないか」
 と難なく言われた。夢に一緒に行けた経験が一度あるなら、次に鳥をともにつれていくのは容易いようだ。枕元で一緒に眠ればいい、と質屋は言った。
 夜になって、鳥を枕の傍に置いて布団に入る。しばらく療養のために夢は見なかったので、夢へ行くのは久しぶりだった。
 睡は眠る前にふと、釣り人のことを思い出した。捜してくれたかもしれないのでお礼を言おうと思い、目を閉じた。

 船着き場の明かりの下で、睡は釣り人と出会えた。釣り人はいつものように獏の背中に乗り、のっそりのっそりと歩んできた。
「爺ちゃん」と声をかければ、「おお、睡」と釣り人は喜んだ。
「鳥飼いから話を聞いたときは肝を冷やしたぞ。本当に、お前さんが無事で良かった」
「心配かけて、ごめん。爺ちゃんも捜してくれてたんだろ。ありがとう」
「なあに。わしは何もしちゃいないよ。ああ、そうだ。猫貸し屋と古本屋には、お前のことを伝えておこう。二人とも気に掛けていたから」
「うん、助けてもらったんだ。ありがとう、って伝えておいてよ。あ、鳥飼いにもお礼を言わなくちゃ。心配させたかな」
「あいつはそんな素振りを見せないだろうが、お前さんを案じていたよ」
 と言って、釣り人は苦笑する。
 釣り人は、睡の肩にとまる鳥に気づいた。珍しそうに眺めて、尋ねる。
「その鳥はどうしたんだい」
「ましろ、って名前をつけたんだ。実は、この子の本来の居場所に帰してやりたくてさ」
 睡が話しかけたとき、渡し場に舟が着いた。二人と一匹と一羽は一緒に舟に乗りこんで、話の続きをする。
 長い長い話になった。睡が夢に迷った道中のことを、釣り人は静かに聞いてくれる。ときおり獏の鼻息が響いたが、うたた寝をしているようだった。
 睡の肩から離れた鳥は、漕ぎだした舟の手すりへと飛んでとまる。
 睡が話し終わると、釣り人は緊張を解くように長い息を吐いた。
「話を聞くに、その鳥は、夢の狭間にある町の住人になったようだね。あそこは自分の名前がつくと町に住む資格ができるから」
「ましろはさ、夢で生まれるはずだったのに現世で生まれちゃったから。どっちつかずの生き物になっちゃったのかな。俺のせいで」
「いいや。ちょいと違うんじゃないかと思うよ」
 と釣り人は言い、手すりに乗る鳥に視線を向ける。
「あの鳥は、お前さんの鳥だ。お前さんがつけた名前を受け入れたのもそうだ。あの鳥がお前さんの傍にいるのは、夢鳥としての役割を全うするためなのかもしれない。夢鳥としての役割は、夢を叶えることだからね」
「俺の夢?」
 睡は首を傾げた。そういえば、同じようなことを言われた記憶がある。ねむは「その鳥はあなたにとって、いい夢を叶えてくれるでしょう」と言っていた。
 釣り人は頷く。
「夢も現世も、その鳥の居場所ではないのなら、それはお前さんの夢のありかがそこではなく、夢の狭間にあるからだろう」
 そう言われて、睡はまじまじと鳥を見つめた。鳥はじっと睡を見つめ返す。水飴の餌をあげて世話をした鳥なだけに、睡は愛着が増していた。
 暗い川を渡る舟の上で、あたりの景色も闇に包まれて真っ黒である。舳先に座る案内人が持つ明かりだけが、舟の周囲をぼんやりと照らしてくれる。そのおかげで、限られた範囲だが物の姿を目に映すことができた。
 舟の手すりに乗る、白い鳥。鳥の純白の白さが、周囲の黒い景色に浮き上がって見える。
「俺の夢、って。ましろは知ってるの?」
 睡は呟いたが、特に鳥に話しかけたつもりはなかった。鳥は丸い瞳で睡を見つめている。
 鳥が頭をあげて、真っ黒な空を仰ぐ。高く響く声で、一度だけ鳴いた。鳥の声はこだまのように余韻を残して、あたりに響き渡る。
 翼を広げた鳥は羽ばたき、高く飛びあがった。星一つない暗い空に、一筋の白い流れ星のように。鳥は上昇したあと、真っ直ぐに突き進むように川へ向かって落下する。
 水音もなく、小さな飛沫をあげて、鳥は川に沈む。まるで水面に溶けこむように、静かに川へと姿を消した。
「ましろ!」
 睡は手すりに手をついて、川面を覗きこんだ。釣り人が制止する声を聞いた気がするが、それどころではなくて無視した。
 睡が川を覗くと、水面が揺れて波紋が広がった。光る波間から、ちらちらと何かの影が映る。人の姿が浮かびあがるのが見えて、睡は一瞬うろたえた。よくよく見れば、それは誰かに似ている。見覚えのある顔に驚いて、睡はもっとよく見ようと身を乗りだす。
「あ」
 睡の体が大きく傾いてバランスを崩す。頭から川へ突っこみ、落ちた。水の中は外と同じか、それ以上に暗くよどんでいる。
 水中でたゆたいながら、睡は目を見開く。目の前にいる人の姿は、なぜかはっきりと形をもって見える。睡は穴があくほど見つめた。その人は慈愛のこもった瞳で、睡に向かって微笑んだ。
 目の前にいる人影は、年若い女性だった。その人を、睡は知っていた。写真でだけ見たことのある人だ。会うのは初めてだった。その人は手をのばし、睡の頬に触れる。頬を撫でられるのを、睡は自然と受け入れていた。今見ている光景が信じられなくて、睡はされるがままに呆然となる。
 その人は睡の頬にそえていた手を、今度は睡の肩に置く。思わず「かあさん!」と叫んだ睡は、ゴボッと大きく水を飲みこむ。
 息ができなくてもがくと、女性の手が肩を掴み、ぐっと突き放すように睡を上へと押しあげた。突き放された瞬間、睡は既視感を覚える。今と同じことが、以前にもあった気がした。
 微笑みながら、女性は水底へと沈んでいく。確かに、その光景を遠い昔に見た。記憶が蘇り、胸に強い想いがこみ上げてくる。母は川に溺れたときも、産まれた赤子の睡をこうして押しあげたのだ。
 女性の傍へ寄りそうように、白い鳥が飛んでついていく。鳥が白い光を振りまいて、水底の闇に小さな明かりを灯した。光に包まれて滲んでいくように、女性と鳥の姿が視界から消えていく。
 その一部始終を見つめながら、睡の体は上へ上へと上昇する。ふいに服を強く引っぱられて、睡は水面へと顔を出した。釣り人が睡を掴んで、舟の上へ引っぱりあげる。
 甲板の上で、睡は水を吐いた。ごほごほと咳きこんで胸が苦しかった。服に引っかかった釣り針を見て、釣り人の機転でとっさに釣りあげられたのだと知る。
 甲板に膝をついて咳きこみながら、睡は大粒の涙をこぼした。釣り人が背中を撫でてくれる。全身びしょ濡れで震えながら、睡は大声で泣いた。まるで産まれたばかりの赤ん坊のように泣き叫んだ。
 ひとしきり泣いたあと、睡は途切れ途切れに声を出す。
「かあさん、が。おれを。たすけて、くれた」
 口にした言葉で、また涙があふれた。釣り人は黙って背中をさすってくれる。
 睡が見たのは、写真でしか知らない母親の姿だった。今も昔も変わらずに、母は、睡を助けるために水上へ押しあげてくれた。
 そして鳥は、母と一緒に行った。あの夢の狭間にある町へ、鳥は母をつれて行ったのだろう。
「あの町に、母さんはいるんだね」
 夢の川底に、母はいないのだ。溺れて苦しむ母の姿はないのだと安心できた。夢と夢の間にあるどこかの町に、鳥とともに母は帰っていった。どこかに母が穏やかに暮らす町がある。それを思うと、涙がとまらなかった。
 涙はいつまでも両目から流れ続ける。けれど、睡の心は軽く澄んでいた。胸の重みが取れた部分に、今は熱い塊が燃えて痛む。だが、その痛みは不快なものではない、温かく包みこむものだ。
 鳥は確かに、睡の夢を叶えてくれた。

【夢見ノ記】第十話 想いは夢とともに

【夢見ノ記】第十話 想いは夢とともに

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-19

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