【夢見ノ記】第九話 夢で会う

【夢見ノ記】第九話 夢で会う

【夢見ノ記】シリーズ
第一話→ https://slib.net/104460
第二話→ https://slib.net/105423
第三話→https://slib.net/107520
第四話→http://slib.net/110096
第五話→ https://slib.net/110553
第六話→ https://slib.net/111203
第七話→http://slib.net/111645
第八話→ https://slib.net/111726

 黒猫について歩いていくのを、睡は不安に感じていなかった。導かれるまま、その後を追っていく。黒猫はときどき立ちどまり、振り向いて睡が来ているのを確認する。
 猫の道案内は良いものだと言っていた、店主と猫貸し屋の言葉には真実味があった。だから迷わず進もうと決めた。睡は黒猫が示す先を信じて歩く。
 白い靄であたりの風景は霞んで見えない。足元の道と猫の黒い影をたよりに進んでいく。
 ふいに視界が開けて、睡は見慣れた玄関に立っていた。そこはまぎれもない守の家の玄関先だった。
「え? あれ、でもここは夢のはずだよね」
 帰ってきた実感はなかった。ここはまだ夢の中だという気がする。
 黒猫は戸の隙間をするりと通り、家の中へ入っていく。睡は慌てて、声もかけずに玄関の戸を開けて中にお邪魔した。
 黒猫は奥へと駆けていき、睡も入ったことのない部屋へもぐりこんだ。
 おそるおそる覗くと、その部屋には一人の女性がいた。黒猫は女性の膝の上で、ごろごろと喉をならして丸くなっている。
 声をかけようかどうしようか迷っていると、部屋をへだてた襖の奥から誰かが出てきた。
「姉さん、起きていて大丈夫かい?」
 聞き慣れた声に、睡はドキリとした。盗み見れば、守の姿が見えた。今よりもいくぶん若く見える。
「ふふ、平気よ。相変わらず心配性ね」
 女性は笑い、守も穏やかな笑みを浮かべる。睡が驚いたのは、守があんなふうに笑うのを初めて見た気がしたからだ。
 ここは守の夢なのだろうかと一瞬思ったが、どうも様子が違うようだ。女性は守と何気ない会話を交わし、二人は笑っている。窓から暖かな陽射しがこぼれ、平和な日常そのものといった光景だった。
 守が襖の奥へ姿を消して、女性と猫だけが残る。隠れて様子を見ていた睡は、どうしたものかと迷っていた。
「どうぞ遠慮なくお入りください」
 女性が振り返り、睡が隠れる戸口に向かって声をかけた。
 この夢は守ではなく、女性の夢のようだ。夢の花の香りと、薬のような匂いがする。睡はこわごわと顔を出した。
「こんにちは」
「いらっしゃい。あなたはどこから来られたの?」
 女性は柔らかな笑みを向ける。綺麗な人だな、と睡は思った。
「えっと。俺は、睡、て言います。その、猫についてきたら、ここへ来てました」
「あら、この猫はあなたの猫なのね」
「ううん。猫は借りてるだけで」
 女性は猫の背を撫でた。黒猫は安心しきった様子で、膝の上で寝ている。
「そう。この猫に名前はあるの?」
「ねむ」
 睡が名前を口にしたとたん、女性の瞳が驚いたように見開かれた。つかのま、空気がぴりりと緊張するのを感じた。
 緊張がとけて、女性は何かを思うように俯いた。長い黒髪が、さらさらと肩からこぼれる。
「ねむ。そう。この猫の名は、ねむ、なのね」
 黒猫の名を呼ぶと、にあ、と猫は鳴いて答える。女性は顔をあげて、睡を見つめた。
「あなた、もしかして私と会ったことがあるかしら?」
 睡は首を横に振った。
「じゃあ、守のお知り合い?」
 睡は頷いた。
「そう、嬉しいわ。守にこんな可愛らしいお友達がいるなんて」
 女性は笑みを浮かべる。その姿が儚げで、睡は見ていて胸が苦しくなった。彼女が守の姉なのだとして、すでにこの世にはいないはずの人と、夢で会うことができるのかと不思議な気持ちだった。
 睡の戸惑う表情を見て、女性は何かを察したようだった。
「いいのよ、分かるわ。私はあなたに会うことはないのね。その時はもう」
 女性は言葉を濁したが、何を言おうとしたかは分かった。死んでいるのね、と声にならない言葉が聞こえた気がした。
「どれくらい経ったのかしら。守は幾つになってるでしょうね」
「守は歳を、二十一だって言ってた」
「ああ、もう三年は経っているのね」
 未来に思いをはせるように、女性は目を細めて遠くを見やる。
「こんなに時が離れていても、過去と未来の夢が繋がることはあるわ。滅多にないけれど。きっと、この猫のおかげね」
 女性は猫の鼻筋をこしょこしょと撫でた。猫が、ふあぁと、あくびをもらす。愛しむように女性は笑った。
「ねむ、は私の名前よ。おまえはきっと、この日のために私が残しておいたのでしょう」
 ねえ、ねむ。と、女性は黒猫に向かって囁く。猫は細く目を開けて、知らぬふりで閉じた。
 女性は睡に顔を向けて、微笑みかける。
「ここで私とあなたが出会ったことに意味があるのね。この先の未来で生きるあなたが、過去に生きている私の夢へ来られるように。そのために、この猫を夢に残していくことが、未来の私があなたに残してあげられる、せめてもの手助けなのでしょう。会えて嬉しいわ、睡」
 きれいに笑う人だと思って、睡はドギマギした。未来の自分の死が分かって、こんなふうに穏やかに微笑むことができるのかと驚いていた。もしかしたら本人はもう、それとなく自覚していたのかもしれないと思うと、胸がつまった。
「私の夢から帰る道が分かるはずよ。この猫は私の分身みたいなものだから、私が通ってきた道を案内してくれるわ」
 黒猫は女性の膝からおりて、睡の元へ駆けてきた。にあ、と鳴いて見上げる。
 女性は睡の肩に目をとめて、静かに鎮座する鳥をまじまじと眺めた。
「その鳥が、あなたのお連れさん?」
「ああ、うん。ましろ、て名前だよ」
「あなたの大切な片割れね。よくなついているわ」
 女性は優しく笑んだ。
「その鳥はあなたにとって、いい夢を叶えてくれるでしょう」
 女性が微笑みかけると、鳥は羽をばたつかせて挨拶するように首を傾げた。
 黒猫が、トトトッと駆けていく。まだ何かを話したい気持ちはあっても、何を話せばいいのか思いつかない。睡が迷っていると、にあ、と猫の声が呼んだ。
「あまり長居はできないようよ。さあ、お帰りなさい」
 追いかけるように促されて、睡は後を追おうとした。立ちどまって振り返ると、女性は手を振って別れを告げる。
「さようなら、睡」
「さようなら、守のお姉さん。ありがとう」
 睡は手を振り返した。きっと、もう会うことはないのだろう。そう思うと、目頭が熱くなった。
 にあ、と黒猫の声に呼ばれて、睡は前を向いて歩きだした。

*******

 花屋の裏庭には、特別な〈夢〉の花を栽培する温室がある。夜に咲くその花は、月明かりの下で見ると一段と幻想的だった。濡れたように真っ赤な花の色は、どんな赤よりも美しいと、花屋は自慢にしている。
 花屋が温室から出ると、庭にうずくまる人影が目に入った。花屋には、その影が誰か分かっていた。
「守。こんなところで、どうしたんですか」
 守はしょぼくれた様子で、顔をあげた。捨てられた子犬のような目をしている。
 昼間も話したとおり、守にはなすすべがない。睡を助ける手立ては他の者に任せて、ただ待つしかできないのだ。それは彼が夢に全く関われないから。守は夢を見ることができない性質だから。そのことによる無力感が、守にとって最大のコンプレックスであることを花屋は知っていた。
「ねえ、旦那。俺のせいなんですよ」
 守は、ぽつりぽつりと話す。
「睡を怒らせて泣かせたから、こんなことになって。姉さんのことだって、俺はひどいこと言ってしまって……そのあと姉さんは帰らなかった。もしこれで睡も帰ってこなかったら」
 俺のせいだ、と守は膝を抱えて丸くなる。体は震えている。
 花屋はどう声をかけたものか迷った。励ます言葉も慰める言葉も浮かばない。花屋は守のことも、守の姉のこともよく知っていた。それゆえに、かけてやれる言葉が見つからなかった。へたな言葉は、彼をさらに傷つけることを分かっていたからだ。
 しばらく考えあぐねて、結局なにも言えぬまま。花屋は、傍で守を見守ることしかできなかった。

*******

 黒猫に案内されて、睡は道を進んでいく。鳥は睡の肩にとまって、まるで置物のように静かにしている。
 守の姉と同じ名前の黒い猫。ねむは、睡を助けるために黒猫を残してくれたと言った。その猫が今、睡の数歩先を駆けていく。ときどき立ちどまって振り返り、睡がついてきているのを確かめている。
 猫貸し屋が言っていたことを思い出す。猫は、心残りや強い想いがあって、どこにも行けないまま、夢の狭間に迷っているのだという。
 ねむは、睡のために猫を残してくれたと言うが、それだけなのだろうか。守の知り合いだというだけで、そこまで強い想いを夢に残すことができるのだろうか。疑うわけではないが、どこか腑に落ちなかった。
 白い霧の中を抜けたとき、見慣れた川辺へ出ていた。夢と現を隔てる川までの道へ出たのだ。見覚えのある景色に、睡は心の底から安堵する。
「睡!」
 急に名前を呼ばれて振り向くと、質屋のエバちゃんだった。睡に走りより、追いつくと同時に抱きしめられた。
「ああ、探したよ。見つかって良かった」
 質屋の腕にくるまれて、睡は驚きすぎて言葉が出ない。質屋の声は震えていて、ときおり鼻をすする音も聞こえた。
「心配したよ」
「ごめん、エバちゃん」
 睡が顔をあげると、黒髪の質屋は目に涙を浮かべている。滴が、睡の額や頬に落ちて流れた。
「エバちゃんは、ずっと捜してくれてたの? どうやって?」
 質屋は涙をぬぐって、これまでのことを話し始めた。
「守が、あんたの服を持ってたんだよ」
 そういえば守の家に置きっぱなしだったことを思い出した。睡は、雨の日に汚れた服を着替えていた。その翌日に大喧嘩をしたため、守から借りた服はまだ返していない。
「人の夢を探すとき、本人の持ち物があると探しやすくなるのさ」
 質屋は笑って、覚えておくといいよと教えてくれた。「おなかが空いたろう」と質屋が言う。自分が眠ってから、現世ではどれくらい時間が過ぎているのか、睡は尋ねた。
「ああ、あっちじゃもう五日も経ってるからね」
 睡は目を丸くした。そんなに時間が経っているとは思わなかったのだ。「あっちにいる俺の体は生きてる?」と言うと、質屋は顔を曇らせた後にすぐ微笑んだ。
「大丈夫。あんたの体は病院で無事だから」と優しく言われて、睡は少し泣きたくなった。自分がまだ生きていることに安心した。
「帰りはアタシと一緒に行けばいいよ」
 と、質屋は言う。
 にあ、という鳴き声で、質屋は黒猫の存在に初めて気づいたようだ。足もとを見おろして、黒猫と目が合う。
「この猫は?」
「俺をここまで案内してくれたんだ。ねむ、て名前で」
 名前を聞いたとたん、質屋は目を見張った。じっと黒猫を凝視する。
 睡は今までのことを質屋に話した。質屋は黙って耳を傾ける。夢で、守の姉に会った話をすると、質屋の瞳が潤んだように見えた。
「そうかい。そうだったのかい」
 思いふけるように目を細めて、質屋は黒猫に向かって笑んだ。にあ、と猫が親しげに鳴く。質屋はしゃがみこんで、黒猫の頭をそうっと撫でた。
「ねむ、ここにいたのかい」
 静かな声で呟く質屋に、黒猫は、にあと答えた。

 帰りの舟の上で、質屋は睡に尋ねた。
「ところで睡。どうして道に迷ったか、心当たりはあるかい」
 質屋に尋ねられて、睡は考えこんだ。思いあたる節がある。
「もしかして、守の夢を探したんじゃないのかい?」
 質屋に言われて、睡はギョッとした。その顔色を見て、質屋は「図星だね」と苦笑いした。
「そりゃ無謀だよ。守は夢を見ないんだから、あの子の夢をいくら探したってありゃしない。あるはずのないものを探せば、迷うのは当然だよ」
 睡は何も言い返せずに黙りこんだ。俯き、膝の上で寝ている黒猫を撫でる。猫は睡についてきて離れないので、一緒に舟に乗った。鳥は睡の肩にのっている。
 しょげている睡を見て、質屋は肩をすくめた。
「慢心は身を滅ぼす。自分の思い通りにはいかないのが、本来の夢のありようさ」
 黒猫を撫でていた睡は、顔を上げた。質屋を見つめて口を開く。
「あのさ、守の姉ちゃんの夢で。守が笑うのを初めて見た気がしたんだ。あんなふうに守は笑ってたのかな」
 そう思うと、睡はたまらない気持ちになった。今の守が、あの夢のように笑う姿は想像できない。それを思うと、睡の胸がぎゅっと痛んだ。
 質屋は黒猫に目を向けて、懐かしむように微笑んだ。
「帰るまではまだ先が長いだろうから。ここだけの昔話をしてやろう」
 と質屋が言うので、睡はつい思ったことを口にした。
「それって、内緒の話?」
「これはアタシの独り言だからね。それをたまたま誰かが聞いてしまっても、アタシは知らないよ」
 睡の腕の中で、黒猫が鳴いた。
「ねむも、いいと言っているようだ」
 質屋が笑う。見つめる眼差しは温かかい。眠る前に語られる夢物語のように、質屋は話し始めた。
 睡にとって、それは長い長い寝物語のように感じられた。

【夢見ノ記】第九話 夢で会う

【夢見ノ記】第九話 夢で会う

【あらすじ】黒猫につれられて、睡は見慣れた玄関の家へと導かれた。そこで一人の女性と出会う。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-12-19

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