夜の森と少女と猫と。#1
第1話 夜の森の女の子
ここではない場所、今ではない時代のお話です。
かつて科学技術で栄華を誇った文明が廃れてから、かれこれもう一万年近くが経とうとしているころでしょうか。
今では旧文明と呼ばれるその時代で何が起きたのか、記録が残っていないので知る術はありません。
しかし少なくとも旧文明の時代からすると、世界の形はだいぶ変わっていました。
世界の地図は巨大な大陸と無数の島々とで構成されたものになっており、人々の大半は通称「大陸」と呼ばれている場所に密集しています。
「大陸」から離れた無数の島々はほとんど人が住まない無人島で、ガラパゴス的な進化を遂げた独自の生き物たちの楽園になっていましたが、そんなことは「大陸」が世界の全てである人々にはどうでもいいことでした。
そんな「大陸」には旧文明の遺跡が大量に残っており、そこに隠された遺産を求めて、日々多くの冒険者達が……
……というのは長くなるので、ひとまず省略。
さてはて、そんな「大陸」の遙か西に、常夜の森と呼ばれる「いつになっても夜が明けない森」として、近隣の街の住民からは禁足地として畏れられている場所がありました。
もちろんそんな怪奇の森ですから、さては旧文明の遺産が残っているのではないかと街の人々が止めるのも聞かず、数多くの冒険者達が探索に乗り込んでいきました。
しかし誰もが皆、何の収穫もなく帰ってくるのです。
そしてまた、誰もが口を揃えて同じことを言うのでした。
「あの森には何もなかった。だがいつまで経っても明るくならない、とんだ迷いの森だ」
「いつまで経っても、どれだけの時間が過ぎても夜が明けない、気味の悪い森だった」
などと。
*
「ま、待ってよ……っ!」
場面は変わり、まっくらな森の中をひとつの人影が息も絶え絶えになりながら何かを追いかけていました。
先を走るのは、一匹の黒猫。
闇を凝縮したかのような、全身真っ黒の猫でした。ふっくらとした体躯、そして綺麗に波打った毛並み。
毎日のようにブラッシングをされていないとここまでの毛並みを保つのは難しそうなので、おそらく飼い猫か何かでしょうか。
そんな猫を追いかけているのは、見るからに華奢な印象を受ける女の子です。
異常なまでに白い肌に、色素が抜けたような長い銀髪。瞳は暗いのでわかりづらいですが、ほんのりと赤みを帯びているようです。
どことなく先天性白皮症ちっくな印象を受ける女の子でした。
状況からすると、この女の子が飼っている猫が何かの拍子で逃げ出してしまったようでした。
女の子は料理の途中だったのか、木綿で出来たワンピースの上にエプロンをつけたままの格好で猫を追いかけています。こんな人里離れた森の中で、まるで近所に買い物に行くような軽装をしている姿は、少しだけ違和感を覚えるかもしれません。
息も絶え絶えで今にも倒れてしまいそうなのが少し心配になるほどです。その表情はあまりにも必死で、見ていて痛々しいほどでした。
暗闇の世界で鬼火のように光を放つ氷光花が、かろうじて道とわかる程度の獣道を青白く照らしています。
鬱蒼と茂った森。一日中日の差さない常闇の世界。そんな中で唯一光を放つ氷光花は、この森の生態系の根底を統率する植物でした。
もちろんお日さまの光に比べれば、その光度はあまりにも儚いものでしかないのですけれど。
その光を頼りに、薄ぼんやりとした森の中を女の子は走ります。
大切で失いたくない愛猫を、ただ無心に追いかけて追いかけて。
*
「にゃー」
やがて猫はゆっくりと立ち止まり、女の子の方をくるりと向いてひと鳴きします。
まるでおつかれさま、とでも言うかのように。
「や、やっと……つかまえた……っ!!」
そんな猫をよろよろとおぼつかない足取りで、けれどもう逃がさないという執念がこもったかのようにがっしりと抱き留める女の子。
すっかり息が上がってぜぇぜぇしています。
猫は自分のせいで女の子がこんなになってるのをわかっているのかいないのか、無邪気に女の子の顔をぺろぺろと舐めてリアクションを返してくれてはいましたが。
「もうっ、勝手に家から出ちゃダメだってあれだけ言ってるのに……」
ようやく呼吸が落ち着いてきた女の子は、少し不満げに抱きかかえた猫に文句を言います。
「…………」
と、そこでようやく女の子は今自分の居る場所の異質さに気がつきました。
そこは、氷光花の群生地でした。
ほのかな青白い光でも、大量に集まれば集まると結構な光量になるらしく、今まで走ってきた道とは明るさが天地の差ほどあります。
女の子も時折ここに来ては、熱に弱い氷光花を「溶かさない」ように採取しに来ている場所でした。
けれど。
けれど、氷光花はこんなにも香りの強い花だったでしょうか。
こんなにも、生臭い異臭を放つものだったでしょうか。
どうして青白いはずの氷光花が紅く染まっているのでしょうか。
どうして一部分だけ、熱に弱い氷光花が溶けてなくなっている一帯があるのでしょうか。
どうして女の子は、わかっていてそっちを見たくないと思ってしまうのでしょうか。
遠い昔に嗅いだことのある、あまり思い出したくない匂いがあたりに充満しています。
それは吐き気を催すような、さびた鉄の匂いでした。
「…………」
女の子は内心『そこ』に何があるかをわかった上で、ねこをぎゅっと抱きしめながらその場所に近づいていきます。
一歩ごとに強まる匂い。そして女の子の動悸。
やがて氷光花の光が照らしだす、明らかに異質な人型の何か。
そこに倒れていたのは、全身血まみれの男性の遺体でした。
この森ではそれほど珍しい光景ではありません。光溢れる世界で生きてきた人々にとってはこの夜の森はあまりにも異界じみていますし、方向感覚を失い道に迷い、そのまま動けなくなった人の末路を女の子は何回も見てきました。
ただ、この男性は今までの人達とは少し様子が違うようです。それは見た目からして死因は衰弱死ではないと、はっきりとわかったからでした。
体のあちこちに、剣で斬られたと見られる深い切り傷が無数についています。
特に左肩から背中にかけての傷があまりにも酷く、そこを目にした女の子は思わず目をそらしてしまうほどでした。
周囲に血の匂いをまき散らしているのも熱に弱い氷光花を溶かしたのも、明らかにこの男性が原因みたいです。
(……熱?)
そこまで考えたところで、女の子は一つに疑問に行き当たります。
もしこの男性が既に亡くなっているとしたら、どうして熱なんて発しているのでしょうか?
それともまだ亡くなったばかりなので、遺体に体温が残っているだけなのでしょうか。
「…………」
女の子は怖いのを必死で我慢して、ゆっくりと男性の側へと近寄っていきます。
そしてそっとその顔の側に耳を寄せてみると。
「……あ」
ひゅーひゅー、とかすかな呼吸音が聞こえていました。
こんなにボロボロな姿になっても、この男性はまだ息があるようです。
「…………」
とはいえ、女の子はこの男性を助ける義理も何もありません。
会ったことのない相手ですし、それに禁足地として誰一人女の子以外の人間が入ってくることのないはずのこの森に勝手に入ってきた、いわば不法侵入者です。
女の子はこの男性を助ける義務なんて何処にもないのです。
誰が見ているわけでもありませんし、このまま放置していっても何の問題もないはずでした。
*
男の人が目を覚ますと、目の前には猫がいました。
そのふっくらとした黒猫は青年と目が合うと、しばらくじーっと見つめたあとで、てとてととどこかに行ってしまいます。
意識がぼんやりとした男性はその様子を呆然と目で追っていましたが、やがて頭がはっきりしてくるにつれて全身を襲う痛みで思わず呻き声をあげてしまいました。
いつの間にかベッドに横になっていて、体のあちこちにあったはずの傷は止血されて包帯がぐるぐる巻きにされています。
出血の酷かった左肩の傷もきちんと縫合されていました。
(助けられた……のか?)
ここはどこでしょう。見知らぬ部屋でした。
調度品は必用最低限で、男の横になっているベッドに大きめのテーブルと椅子、そしてこの部屋の主の服が入っているだろうタンスに、棚の上には手作りのものと思われる猫のぬいぐるみが数点。
そして部屋中に漂う爽やかな、気分が落ち着くような甘い香り。
見ると窓際にポプリが吊してあって、そこからこの匂いが部屋中に充満しているようでした。
「…………」
男の目は窓際のポプリから、そのまま窓の外へと自然と目が向けられました。
そこにはどこまでも続く暗闇がひたすら続いています。
圧倒的な、目も眩むほどの暗闇。
どこまでもどこまでも、漆黒の帳が降りています。
連鎖的に思い出されるのは、飛び交う怒号、悲鳴。
武装した集団に追われる街の人々、子供の泣き声、女性の叫び声。
鋭い剣の痛み。むせるような血の匂いと、焼け付くような炎。
そして逃げ込んだ、魔性の者達が住むと伝えられる、常に夜の明けない神秘の森。
青年は武装盗賊団に滞在していた街が襲われた際に、自分が常夜の森と呼ばれる禁足地に逃げ込み、そして道に迷って遭難したことをようやく思い出したのでした。
*
「……はぁ」
女の子は厨房の椅子に座りながら、もう何回目かもわからないため息をつきました。
「なんで助けちゃったんだろ、わたし……」
後悔。ただひたすらに、後悔の海を大航海中でした。
女の子は、自分でも助けた理由なんてわかっていませんでした。
ただ男の人がまだ生きてるとわかったとたんに、何も考えずに行動に移してしまったのです。
その行動がどう考えても、今後の自分の生活の妨げになるというのがわかっていたにも関わらずに。
(……あの人が目を覚ました時、わたしはどうすればいいんだろう)
こんな特殊な環境で一人きりで過ごしてる女の子ですから、何か《《訳あり》》なのはもはや言うまでもないことでした。
そんな女の子ははずっと前に人の世を離れ、それからずっと一人で生きてきたのです。
自分以外の人間との関わり方なんて、もうとっくに忘れていたのでした。
つまるところ目下の不安要因としては、男性が目を覚ました時にどう対処すればいいか、女の子はどうすればいいか全くわかっていなかったのです。
「はぁああぁ……」
と、そんな感じで女の子がひたすらため息をついていると、いつの間にやら例の飼い猫が女の子の側まで近づいてきていました。
女の子はそれに気づくと猫を優しく抱き上げて、不安そうに呟くのです。
「にゃーちゃん……私、あの人を助けてもよかったのかな……?」
猫、もといにゃーちゃんはそれに対して「にゃー」と返すだけでした。
「はぁああああぁ……」
女の子のため息は止まることがありませんでした。
*
さて、こんな感じでこのお話は開幕しましたが、ここまで読までで疑問点がいくつかあると思うので簡単に補足します。
まず女の子は「どうやって倒れている男性を自宅のベッドまで運ぶことが出来たのか?」
そして「女の子はどうしてこんなにも医療技術に長けているのか?」
その理由は簡単で、どちらも「魔法」で解決した事柄だからです。
そう、女の子は魔法使いだったのでした。
そして、もうひとつ書き忘れたことがあったので付け加えておきます。
この世界では、「魔法」というものは存在しない絵空事、空想上の出来事としか思われていません。
つまりは現実世界で言うところの超能力や神秘主義といった、そういう超常的な一種のオカルトとしてしか周知されていません。
なぜならこの世界では魔法なんてものは「存在していないから」です。
説明不足だったことをお詫びしつつ、次話へ続きます。
第2話 部屋越しの初対面
厨房でため息をついていた女の子の元にやってきたにゃーちゃんでしたが、どうやら女の子を慰めるために来たわけではないみたいでした。
不安を抑えるようににゃーちゃんを抱きよせる女の子でしたが、猫は女の子の手の内からするりと抜け出してしまいます。
そして女の子の足下をぐるぐる旋回しながら、困惑する女の子に向けて「にゃー」と一言発するのでした。
「どうしたの?」
さすがの女の子も猫の様子がおかしいことに気づいたみたいです。
しゃがみ込んで目線をにゃーちゃんに合わせながら、女の子はヒトの言葉で猫に問いかけました。
「にゃー」
それが伝わったのかどうかはわかりませんが、にゃーちゃんはそうしてまたひと鳴きすると、とてとてと厨房の外に出て行こうとします。
そして厨房のドアのところで後ろを振り返り、女の子をじっと見つめました。しっぽをゆらゆら揺らして、何かを待っているかのようです。
女の子はなんだか着いてきて、と言われてるような気がしました。
「……どうしたの?」
女の子がその後に続くと、にゃーちゃんは厨房を出て再び歩き出しました。女の子が厨房を出て廊下に出ると、そこに猫がやはりしっぽをふりふりしながら待っています。
そして女の子が来るのを確認すると、ふいっとまた前を向いて歩き出すのです。
どうやらどこかへ女の子を連れて行こうとしているみたいでした。
(……何かあったのかな?)
女の子は、にゃーちゃんが普通の猫よりも少し賢い猫だということを知っていました。
普段こそ猫そのものの自由気ままな生活を謳歌しているにゃーちゃんですが、いざ何か変わったことがあるとそれをすぐに察知してこうして女の子に教えてくれたりするのです。
例えば、女の子が厨房で火をかけたまま洗濯物を取り込んでいるとき、火がカーテンに燃え移って火事になりかけたときだとか。
女の子が栽培している、普通の氷光花よりも光度が高く品種改良された氷光花が伝染病で全滅しそうになりかけたときだとか。
つい先日みたいに、森で何か異変があったときだとか。
そういったいつもと違う何かが起きたとき、にゃーちゃんはただの猫ではなく天才猫になるのです。
人里離れて一人きりで暮らしてきた女の子ですが、そんな女の子のサポートをしっかりとしてくれていたのもにゃーちゃんでした。
にゃーちゃんがいなかったら女の子はもっと数多くの酷い失敗をして、こんな森の中に一人きりで住むことなんてできなかったかもしれません。
が、しかし。
そうやってにゃーちゃんが女の子に伝えてくれることが、必ずしも女の子にとって助かることばかりではないこともよくわかっているのでした。
にゃーちゃんが女の子を誘導して連れて行こうとしている場所が、女の子の寝室だと気づいたとたん、女の子は廊下の途中で足を止めてしまいます。
女の子の寝室では、例の傷だらけの男の人がベッドで横になっているはずでした。
この家にベッドは女の子の使っているものしかありませんでしたし、急なことで慌てていた女の子は自分が何処で寝るかまでは頭が回らずに、そのまま自分の寝床に青年を運び込んでしまったのです。
どうやって運んだか?
もちろん、「魔法の力」でです。
「…………」
にゃーちゃんは女の子が足を止めたにもかかわらず、そのまま寝室の中へと入って行ってしまいました。
女の子はにゃーちゃんが自分を呼びに来た理由に気づきます。
例の傷だらけの青年が目覚めたのを教えに来てくれたんだと、ようやく思い至ったのでした。
(気がついたんだ……)
女の子は青年の無事を安心するよりも先に、恐怖と不安感がぶわっと襲ってくるのを感じました。
もし怖い人だったらどうしよう。
乱暴な人だったらどうしよう。あんなに傷だらけで倒れていたのだから、平和とは遠いところの、戦いが当たり前にある日々の中で生きている人なのかもしれません。
そんな人が、果たして優しく接してくれるでしょうか。
何年も他人との交流を避けて生きてきた女の子には、外の世界は恐怖の象徴そのものでした。その外の世界の恐怖そのものを持ち合わせているかもしれない相手なのです。
女の子は自分が人間であるにもかかわらず、同じ人間のことが怖くて怖くて仕方なかったのです。
ううぅ、どうして助けてしまったんだろう。
助けなければよかった。
助けるんじゃなかった……
「誰かそこにいるのですか?」
女の子がぐるぐると今さらなことを後悔していると、部屋からそんな声がかけられました。
*
部屋に先ほどの猫が入ってきた時、青年の耳には明らかに猫以外の足音が聞こえていました。
この家は暗くて静かで、それこそ猫の足音すら聞こえるんじゃないかと思えるほどに静まり返っているのです。そんな闇と静寂の中では自然と音に敏感になるもので、それは青年にも言えることでした。
部屋の外の廊下からぱたぱたと、明らかに人の足音が聞こえてきた時の気持ちをなんと言ったら良いのでしょうか。
おそらくは自分を助けてくれたであろう相手、しかもこんな真っ暗な森の中に住んでいるような、どう考えても世捨て人としか思えない相手。
山姥か仙人か、よっぽど偏屈な変わり者か。
少なくともまともな相手ではないだろうと推測していたのです。
もしかしたら怪物のような相手で、自分はこのまま食われてしまうのではないだろうか、とも。
だからこそ青年が恐怖を打ち消すように廊下の向こうの相手に声をかけたとたん、ドンと何かがぶつかったような音がした時は青年のほうがぎょっとしたのでした。
実際は女の子が急に声をかけられたことに驚いて、パニクったあげくに壁に頭からぶつかっただけなんですけどね。
「…………」
部屋の外からの返事はありません。
ただ今の物音で、確実に廊下の外に「何か」が居ることは確定してしまい、青年は扉の向こうから何が出てくるのかと戦々恐々としてしまいました。
女の子も青年を怖がってましたが、状況的にはどう考えても青年の方が怖いに決まってますよね。
「……私を、助けていただいた方ですか?」
それでも挫けずに男性はなおも声をかけます。
果たして廊下の向こうにいるのは言葉が通じる相手なのか、そもそも人間なのかなんなのか。
それだけでもはっきりさせないことには不安で仕方なかったのです。
「…………」
しかしその問いかけにも、何の返答も返ってはきませんでした。
*
(わああああああああああああああああああああああああああ……!!)
一方廊下の向こうでは、女の子が例によって静かにパニクってる最中でした。
言葉をかけられた。
自分がここに居ることを相手に気がつかれた。
となれば、自分も相手に何らかの返事をしないといけない。
何年ぶりかの他者とのコミュニケーションを求められてしまい、女の子はどうしたらいいのかわからず完全に「ステータス異常:混乱」に陥ってしまいました。
(にゃあああああああああああああああああああああああああああ……!?)
助けを求めてにゃーちゃんを探すも、にゃーちゃんは例によって部屋の中です。
つまりはこの状況に対して、女の子は自分の意志でどう対応するべきかを決断するしかありません。
もっともにゃーちゃんが居たとしても、ヒトの言葉が話せるわけではないのでいい感じのアドバイスがもらえるとも思えないのですけどね。
「あの……?」
部屋の中からは男の人の、なおも諦めず返答を待つ呼びかけが繰り返されています。
そしてその返事が遅れれば遅れるほど、今後の青年との関わりが難しくなることも女の子にはわかっていました。
だからこそ余計に焦り、余計に混乱してしまうのですが。
(落ち着け……落ち着こう、わたし……)
ゆっくりと深呼吸。
ひぃ、ふぅ。ひぃ、ふぅ。
その呼吸音ですらこの静けさの中では青年にも聞こえているかもしれないのですが、とにかく落ち着かないことには女の子には何の行動も取ることはできなかったのです。
(…………)
落ち着いた。
落ち着いた……はず。
女の子は自分にそう言い聞かせると、自室の部屋のドアをじっと見つめました。
(……なんて返事したらいいんだろう)
見つめながら、自分に問いかけます。
とりあえずは、誰か居るのかと問われたのですから自分の存在を相手に見せるべきでしょう。
少し冷静になってみると、男性の声はどこか震えていたような気がします。
それはつまり、この状況に怯えているのは女の子だけじゃないということでもあるのです。
あれだけの大怪我をしていたのだから、きっと酷い目に遭ったのでしょう。
そんな後に気がついたらこんなところにいたのですから、少なくとも男の人の方が混乱していても不思議はないのです。
もし自分が同じ状況だったらどう思うだろう。
きっと疑心暗鬼になってしまい、自分を助けた相手ですらも警戒して怖くて仕方ないに決まっているのです。
「…………」
そこまで考えたところで女の子は一歩踏み出しました。
少なくとも「わたしはあなたに危害を加えるつもりはないよ」と、それだけははっきりさせておきたくなったからです。
しかしその歩みは、部屋のドアの前でぴたりと止まってしまいました。
「…………」
どうして自分はこんな人里離れた場所で一人で暮らしているのでしょうか。
どうして人との関わりを断って生きていくことを選択したのでしょうか。
どうして女の子は、こんなにも人と関わることに恐怖を覚えているのでしょうか。
その記憶の蓋が開きそうになったとたん、女の子はすっと一歩、部屋のドアから離れてしまいました。
(ごめんなさい)
女の子は心の中で謝ります。
(わたしはもう、人前に出て行けるような人間じゃないんです)
*
「あなたが、森の中で倒れていたから」
ずいぶんと長い間があった後、部屋の外から声だけが帰ってきました。
か細い声でした。まだ若い少女の声でした。けれどどこか舌足らずで、幼い印象を与える話し方でした。
「ありがとう。助かりました」
相手の姿を見ないまま、男の人は礼を言います。
少なくともこちらの問いかけに答えていないことや、聞いてもいない自分を助けた理由を一方的に告げられただけでも十分過ぎるほどにありがたかったのです。
ほっと一息。
少なくとも、想像していたような人語を介さない怪物や話の通じない相手ではないことがわかっただけでも大きな収穫でした。
次に浮かんだ疑問としては、「どうして女の子がこんなところに?」という至極当然の疑問ではありましたけれど。
「出て行って」
しかし次に扉の向こうから投げかけられたのは、何の脈絡もない、そんな拒絶の言葉でした。
「元気になったら、出て行ってください。そして二度とここには戻ってこないで」
しばしの沈黙。
突然の全面的な否定の言葉に、男性は何も言えなくなってしまいます。
言葉が通じる相手なのがわかった。ならこれから言葉を紡いで、少しでも情報を得ようとした矢先に会話の切り口をぴしゃりと閉ざされてしまったという感じでした。
「…………」
やがて扉の向こうの気配は、たったったっと走って行くような音を立てて部屋の前から消えてしまいました。
結局聞こえたのは相手の声だけで、青年は自分を助けてくれた相手の姿すら見ることが叶いませんでした。
「……出て行けって言われても」
全身包帯でぐるぐる巻きで、少し動くだけでも激痛が走る自分の身体を見つめながら青年はそう独りごちるのでした。
*
「……はぁ……」
女の子は逃げるように厨房に戻って後ろ手にバタンとドアを閉めると、ようやく安堵の声をあげました。
緊張した。
めちゃくちゃ怖かった。
自分の声が相手に届く。自分の意志を相手に伝える。そんな当たり前のことですら女の子にとっては高いハードルになっていたのでした。
女の子はふらふらとテーブルの椅子に腰掛けると、そのまま倒れるようにテーブルに突っ伏してしまいます。
頭の中は先ほど自分で発した言葉がぐるぐるしていました。
そしてその言葉に安堵したり後悔したり、感情は渦を巻くように次々に移ろっていきます。
言うんじゃなかった。言って良かった。無視すればよかった。もう少し言い方に気をつければよかった。
「にゃー」
そんな感じで女の子が突っ伏したまま一人反省会を実施していると、いつの間に戻ってきたのかにゃーちゃんが女の子に向けてひと鳴きしました。
その鳴き声で女の子はようやくハッと我に返ります。
「にゃーちゃあぁん……!」
女の子は助けを求めるようににゃーちゃんをぎゅっと抱きしめます。
にゃーちゃんも空気を読んだのかなんなのか、今回は逃げることなく素直に女の子に抱かれるのをよしとしていました。
猫は人の気持ちに敏感とはよく言いますが、そういった何かを感じ取ったのかもしれないですね。
しばらくにゃーちゃんのぬくもりを感じているうちに、女の子はだんだんと落ち着きを取り戻してきました。
そして冷静になるにつれて、自分が男の人に放った言葉が如何に矛盾に満ちた言葉なのかを思い知るのです。
「……あ」
元気になったら出て行ってと言っても、あの人はまだ全身ボロボロでケガをしています。
あの肩口からの深い傷では自力で動くこともままならないことは容易に想像がつきました。
それに体力を取り戻すには食事が必要でしょう。さしあたって介護をする人が必要なのは明白でした。
そしてそれは、この場では自分しかいないのです。
これからもずっと、さっきみたいに姿を見せず、ドア越しに声をかけるだけで済むとは思えませんでした。
「うー」
女の子はにゃーちゃんのもふもふ毛皮に顔をうずめました。本当に、どうして助けたりなんてしてしまったのでしょう。
落ち込む女の子を見て、猫は何も言わずにずっと寄り添っていました。
第3話 ノータッチ・コンプレックス
とんとんとん、と包丁がまな板を叩く音が厨房に響いていました。
にゃーちゃんのおかげでとりあえず落ち着いた女の子は、何はともあれ食事の準備を始めていました。
例の男の人のためというのもありましたが、単純に女の子自身がお腹がすいたからです。
「…………」
女の子は手慣れたもので、食材を包丁でざっくざっく切っていきます。
そしてそれをざるにあけ、ざっと水洗い。
使い終わった調理器具はすぐに洗って、元の場所に戻す。普段から料理をしていることが丸わかりのてきぱきとした動きです。
ですが、その調理風景はどこかおかしいのです。
いえ、少なくとも『こっちの世界』の住人であるならば特に違和感は生じない、むしろ見慣れた風景かもしれません。
しかし『この世界』においては、あまりにも異質すぎる光景なのでした。
*
少しめんどいのですが、解説を入れておきます。
ややこしい話が苦手でしたらスルーしてくださいね。
この世界では、いわゆる錬金術師と呼ばれる一部の知的階級の人々によって、冒険者達により発掘された各地の旧文明の遺産の技術解析が進み、文明の技術水準は『こっちの世界』における産業革命あたりのレベルにまで達しています。
そんな遺産の技術を用いて創られた、通称マナ・ドミナと呼ばれる複雑な機構を持った装置の開発競争が行われている最中です。
都市部ではそれらを用いた工場がどんどん建設され、まさにこれから大量消費社会が始まろうとしているような、そんな時代だったりするのでした。
このマナ・ドミナというのは、簡単に言ってしまえばファンタジー世界ではお約束のマナ《これは何だろう》というエネルギーを用いた機械のことです。
しかしよくあるRPGのような魔法的な性質は持っておらず、どちらかといえば重力や磁力といった、自然的で物理学的なものとして捉えた方がイメージ的には近いかもしれません。
この世界ではマナは自然界にごく当たり前に存在していて、人々はあらゆるものに込められたマナを様々な方法で抽出することに成功しています。
それは石炭や石油を燃やしたときに発生する火力エネルギーを電力に変換して――といったものではなく、純粋にエネルギーの塊の「物質として」抽出して利用しているのでした。
言ってしまえば、純粋な「エネルギーそのもの」のことをマナと呼んでいる、といったところでしょうか。
ものすごく簡単に言えば、マナエネルギーというのはそのまま『こっちの世界』の電力に該当するもの、くらいに捉えていただければ十分かもしれません。
ただ電力とは異なり、マナは人工的に抽出するとほとんどの場合は物質化した状態で産出されます。
電線を引いて各家庭に電気を送電する『こっちの世界』とは異なり、言うなれば自然界から「電池そのもの」が産出できる世界だ、というのが最大の違いかもしれませんね。
閑話休題。
さて、とはいえまだまだマナ・ドミナは高価なものですし、庶民にはとても手が出せるような代物ではありません。
マナ抽出についてもまだまだ研究は始まったばかりですし、もっと効率よく万物からマナを取りだすための方法を錬金術師達は毎日のように頭を悩ませながら試行錯誤している段階です。
というわけで、夜の森の外では多くの人々はまだまだそういった前時代的な生活を強いられているのでした。
しかし女の子が使っているのは産業革命どころか、見るからに近代的なシステムキッチンなのです。
今まで厨房と呼んでいましたが、厳密に言えば食堂と居間とが繋がったキッチン、いわゆる「LDK」の構造そのものなのでした。
そんなキッチンに置いてあるのはIHクッキングヒーターのような火を使わないで熱を発するコンロ。それに乗せられたのは焦げ付き防止の特殊加工がされたフライパン。
大きめの鍋には浄水施設がどうなってるのかもわからない水道から、適温に熱されたお湯をたっぷり注ぐことができます。
そして女の子がごそごそと食材を漁っているのは、どう見ても大きな冷蔵庫。
ピー、と音を出してご飯が炊けたことを知らせてくれたのは、炊飯器そっくりなお釜。
湯気を立てているのは、水を入れておけば勝手に沸騰させて熱湯にしてくれる、電気ケトルそっくりなヤカン。
言ってしまうと、このキッチンはいわゆる『こっちの世界』のオール電化そのものなのでした。
少なくとも、この世界の文明レベルではまだまだ存在するはずのない技術を用いた生活家電で溢れかえっているのです。
そういえばこんな真っ暗な夜の森なのに、女の子のいる厨房はやけに明るく光が満ちています。
見ると天井全体から青白い光が部屋中に広がっているのがわかりました。その色合いからすると、氷光花を用いた何か特別な技術でこの『照明』が作られているのかもしれません。
これらも言ってしまえばマナ・ドミナの一種ではあるのですが、どうして女の子はここまで『近代的』な生活ができているのでしょうか。
それもこんな人里離れた、人知の及ばない森の中だというにも関わらず。
理由としては、やはり女の子の「魔法」の力に寄るところが大きいのです。
*
「よし、っと……」
一通りの調理を終えた女の子はエプロンを外すと、戸棚から三枚のお皿を取りだします。
三枚。
いつもより一枚多い数でした。
「…………」
増えた一枚分のお皿の重みに気分まで重くしながら、女の子はできた料理を盛りつけていきます。
本日のメニューはできるだけ消化のいいものを選びました。それこそ病人や、大怪我をして動けない人でも食べられるようなものです。
ごはんはおかゆにしましたし、スープは野菜多めの栄養たっぷりな出来映えです。
「はい、にゃーちゃん」
美味しそうな匂いが漂うにつれて、ごはんごはんと女の子の足下をぐるぐる旋回していたにゃーちゃんに最初の一皿を差し出します。
文化水準的に、まだまだペットの健康に意識が向くほどの余裕のある時代ではありませんから、この世界にはカリカリ等のねこ用のご飯は存在していません。
なのでにゃーちゃんのご飯はいつも女の子と同じものです。
もちろんにゃーちゃんの健康を考えて塩分控えめ、ネギの類いは一切使っていないのですけれど。
差し出されたねこ用のお皿に、さっそく食いついてはぐはぐと食べ始めるにゃーちゃんを愛しげに眺めながら、女の子は少しぼんやりします。
いつもだったらこうしてにゃーちゃんの食事風景を堪能した後、女の子が自分のために作ったご飯を食べて、それで食事終了です。
けれど今日はそんなわけにはいきません。
少なくとももう一人、作ったご飯を食べてもらわないと困る相手がいるのです。
「ううぅ……」
盛りつけの終わった食事をコロコロのついたカートに乗せながら、女の子はどんどん気分が沈んでいきました。
これからこのカートを寝室まで運ぶというミッションに早くも挫けそうになっているのです。
カートに乗っている食事は一人分だけ、あの男の人のぶんだけです。
一緒に食べようなんて発想は当然のように出てきませんでした。
「…………」
女の子は無意識のうちに、自分の手のひらをじっと眺めていました。
ちいさな手のひら。華奢で色白で、乱暴に触れたら折れてしまいそうな、そんな手のひら。
しかし女の子にとっては、この手のひらがどんなものよりも恐ろしいものに他ならないのです。
「絶対にさわらない」
はっきりと、決意のこもった声でした。
「絶対に、あの人にさわったりなんてしない」
噛みしめるように、自分に言い聞かせるように、女の子はそう繰り返すのでした。
*
ぐう、と青年のお腹が鳴りました。
考えてみれば、目が覚めてからずっと何も食べていなかったのです。
一応部屋の中にはテーブルがあって、その上に籠に入った果物がいくつか置いてありました。
でも今の包帯まみれの彼にとっては、ベッドから降りてテーブルまで近づくことですらとてつもない重労働なのです。
「さっきの子」
空腹の頭で考えるのは、さっき声だけが聞こえた女の子のことです。
「元気になったら、って言われてもなぁ」
せっかく命を助けられても、このままでは餓死してしまいそうでした。
だからといって、不思議と女の子のことを責める気にはなりません。
命を助けてもらったから、というのもあったのかもしれません。
でもそれ以外に何か、ひっかかるものがあるのを感じていたのです。
自分から助けておいて、早々に出て行けと告げられたこと。
どうしてあの子はあんなことを言ったのだろう。
どうしてその姿すら見せずに立ち去ったのだろう。
そもそも、どうしてこんな人里離れた魔境の森の中に住んでいるのだろう。
考えれば考えるほどわけがわからないことづくしで、青年はこの現状そのものが夢か幻想、死にかけの自分が見ている走馬燈の類いではないかと疑いつつありました。
それまでの青年の生きてきた世界からすると、この場所、この状況はあまりにも常識外れで、どこか絵空事のようなものにしか思えなかったのです。
そうして青年が物思いに耽っていると、おもむろにトントンとドアがノックされました。
ぎょっとして男の人がドアを見ると、しばしの無音。
それが青年の返事を待っていた「間」だと気がつくと同時に、ドア越しに先ほどの少女の声が聞こえてきました。
「……入ります」
その声と同時に、ドアのゆっくりと開きます。
そして開いたドアの隙間から、とてとてと先ほどの黒猫が入ってきました。
一瞬猫が喋ったのかと早とちりしましたが、その目は開いたドアの向こうに立つもう一つの人影に自然と引き寄せられていきます。
開いたドアの向こうには、目を疑わんばかりの美貌を持った、銀髪の少女が食事を乗せたカートを手に立っていたのです。
その流れるような長い銀髪は、高級な絹糸でできているかのようで。
その白い肌は貴族の深窓令嬢を思わせるほどに瑞々しく滑らかで。
そしてその整った顔立ちはこの世のものとは思えない、どこか作り物めいた美しさでした。
(ああ)
青年は女の子に目を奪われながら、先ほどの仮説が現実味を帯びていくような気がしました。
(本当に、これは夢か何かなのかもしれない)
殺されかけて、どうにか逃げ込んだ魔性の森で自分を助けたのは、絶世の美貌を持った銀髪の少女だった。
あり得ない。
こんな都合のいい話があるわけがない
子供だましの、おとぎ話じゃあるまいし。
青年は、ますます現実感が喪失していくのを感じていました。
*
「…………」
部屋に入っても、女の子は目を伏せたまま無言でした。
先ほどからずっと驚いた表情で自分を見る男の人の視線がちくちく刺さるような気がして、入るなり居たたまれない気持ちになっていたのです。
そしてその視線を、どこか汚らわしいとも感じていました。
女の子は自分の美醜がいかなるものか、ちゃんと自覚しているのです。
その見た目が他者にどのような印象を与え、どのような評価を受けるか。
その結果男性からはどのような扱いを受けて、周囲の女性達が女の子の意思とは関係なしに、どのような対応をするようになるのか。それが嫌というほどわかっていたのです。
わかっていたからこそ思うのです。
この人も結局「同じ」なんだ、と。
「あ、いや、どうも」
男の人は取り繕うように頭を下げました。女の子は無視しました。
「えっと、今回は助けてもらって……」
「お食事、持ってきました。おなかすいてるかと思って」
青年はお礼を言おうとしましたが、女の子は有無を言わさず事務的に言葉を紡ぎます。
取り付く島を与えない、一方的な言葉でした。それは女の子が青年と関わり合いになる気はないという、はっきりとした拒絶として態度に現れます。
わたしはあなたと関わり合いになる気はありません、という女の子なりのメッセージのつもりでした。
「…………」
とはいえ久々に人と話したからか、女の子は自分がどこか舌っ足らずな喋り方になってしまっていることに気づきます。
そしてそれが見た目の美貌とミスマッチで、逆にミステリアスな印象を青年に与えてしまいました。
それどころか顔を合わせるなり唐突に関わりを拒絶するその態度は、むしろ青年の女の子への興味をますます加速させてしまいます。
完全に逆効果でした。
「あ、ありがとう……ちょうど空腹だったんです」
男の人はまた礼を言いました。女の子は逃げ出したくなるのを抑えつつカートをテーブルの横に運び、無言のまま食事を乗せたお皿を並べます。
そうして一通り置いたあとで、はっと気づきました。
「あの……一人で食べられ……ます、よね?」
もしかしてわたしがこの人に食べさせないといけないのかな、と不安になります。
今回作った料理は、全部スプーンで掬って食べられるようなものばかりでした。
しかしそのスプーンですら握れないとしたら、女の子が青年にごはんを食べさせる必要が出てきてしまいます。
そしてその場合、どうしても青年に「触れなければ」ならなくなってしまうのです。
「ああ……いえ、大丈夫です。一人で食べられますよ」
そんな女の子の様子を見て何かに気づいたのか、男の人はそう返します。
さすがの青年も、この少女が自分との関わりをできるだけ断とうとしているのは雰囲気から察していました。
こんなうら若い女の子がわざわざこんな森で暮らしているくらいなのだから、何か訳ありなのは考えるまでもありません。
それに明らかに顔に書いてあるのです。
私に深入りしないでください、と。
ここは大人しく女の子の意向を汲むのが英断だと思ったのです。
けれど女の子は、そこにある種の「気遣い」を見出してしまったのでした。
(わたし……気を遣わせちゃった……?)
たった今拒絶したはずの相手に、逆に気を遣わせた自分が恥ずかしくて仕方ありませんでした。
かっ、と顔が熱くなります。
女の子は、今すぐここから逃げ去りたい気持ちでいっぱいになってしまいました。
「それじゃ、ここに置いておきます……からっ」
居たたまれなくなった女の子はそう言って、足早に部屋をあとにしようとします。
「あ、ちょ、ちょっと待って!」
そんな女の子を見て慌てて男の人が呼び止めます。女の子はびくり、と硬直するように立ち止まりました。
「申し訳ありませんが、そこのテーブルをベッドのそばまで持ってきてもらえないですか? ここから動けないので、このままじゃ食べることもできないんです」
そう言って苦笑交じりに男の人は微笑みます。
言われてみればその通りで、青年はベッドの上からまともに動くこともできない状態にあるのです。
(ダメダメだ……わたし……)
女の子はそんなことにも気づかない自分に自己嫌悪を覚えました。
肯定されても否定されても、どんな対応をされても結局は自分自身を否定する思考に向いてしまう。ネガティブシンキングで自己否定的。
もうお気づきかもしれませんがこの女の子、実は無茶苦茶めんどくさい性格なのです。
女の子は罪悪感を打ち消すように、テーブルをベッドサイドまでずりずりと動かします。
その様子を男の人は黙ったままじっと眺めていました。
「ありがとう」
男の人はじっと女の子を見つめて礼を言いました。その目は女の子の内心を見透かしているようで、そわそわと落ち着かない気持ちになります。
「それじゃっ……」
そういうと女の子は慌てて部屋から出て行きました。猫も女の子の後を追ってついていきます。
寝室には男の人が一人残されました。
(綺麗な子だ)
青年の持った、女の子への第一印象はそれでした。
(けれどどこか、何かが欠けた子のような気がする)
彼の観察眼は大したものでした。
会ってほんの少しなのに、確実に女の子の本質を見透かしていたのです。
*
寝室が男の人の部屋になってしまったため、いつの間にかすっかり女の子の部屋になった厨房に戻ってきて、ようやく女の子はふうと落ち着きます。
前まではこんなことはありませんでした。この家、この森の全てが彼女のテリトリーであり、落ち着く場所でした。
今はもう、女の子にとって心から落ち着ける場所はこのリビングだけになっていました。
たった一人の男の人がいるだけなのに。
「出て行って、くれるかな」
誰にでもなく女の子はつぶやきます。ずっと長い間、猫とのふたり暮らしが続いていたのでひとりごとは癖みたいになっていました。
「あのひと、わたしに深入りしないでここから出て行ってくれるかな」
深入りされたくありませんでした。人と関わることを心底拒絶していました。
そのためにわざわざ不便な思いをしてまでこんな人里離れた森の奥に、ずっと一人で住んできたのです。
女の子は遠い記憶を思い出して、再びぼんやりと自分の手のひらを見つめました。
細い指で色白の、ちいさな手のひら。けれど女の子にとっては、この上ない恐怖の象徴。
(もし、何かの拍子で、手が触れるようなことがあったら)
(もう今度こそ、わたしは二度と立ち直れないかもしれない)
怖い、恐い、畏い。
ただ、それだけがこわくありました。
その後、落ち着くために愛飲している紅茶を飲みながら何度も読んだ本を読み返しているうちに、やがて女の子の目蓋は重くなっていきました。
その日はそれから男の人に会うことなく、にゃーちゃんと一緒にリビングのソファで毛布にくるまって眠ることにします。
(まあいいや……)
今日は色々あったからか、毛布にくるまるなり女の子はうとうとしてきました。
(明日のことは、明日のわたしに任せることにしよう……)
そんな少しダメ人間っぽいことを思いながら、女の子は眠りについたのでした。
第4話 投げられた好意
翌朝。
いえ、翌朝というのは正確ではないかもしれません。夜の森はずっと暗く、時計もないので時間がわからないのですから。
ともあれ、翌朝。
リビングのソファで毛布にくるまっていた女の子がゆっくり目を覚ましました。
にゃーちゃんは先に起きてどこかに出かけたのか、厨房内を見回してみてもどこにもいる気配はありません。
女の子はしばらく横になったまま、起きたくないとばかりにもぞもぞしていましたが、やがてゆっくりと上体を起こします。
そしてそのまま焦点のあっていない目で、ぼんやりと虚空を眺めました。
「…………」
目が半開きになったまま、今にも閉じてしまいそうな表情でした。
完全に寝起きモードです。
女の子は「朝」にものすごく弱いのでした。
そして半分寝たままの頭でゆっくりとソファを降りると、おぼつかない足取りで厨房のドアを出ました。
廊下をよたよたと歩いて別室のドアを開きます。中に入り、ぱたんとドアロック。
そして寝ぼけ眼のままのろのろと服を脱ぐと、そこから通じているもう一つの扉をがらりと開け放ちます。
そこは広々としたバスルームでした。
水をはじく、リノリウムに似た素材で施工された床。
アイボリーで色統一された壁タイル。
少し大きめなバスタブに、据え置きのシャワー。姿見、換気扇。
一応窓もついてはいますが、外はまっくらな夜の森なので滅多に開かれることはないみたいです。
「…………」
半分くらい寝ぼけたままの女の子はシャワー前の風呂いすに座り、そのままカランをひねります。
シャワーノズルから適温に熱されたお湯がざあざあと勢いよく吹き出します。女の子はそれを頭から浴びて、眠気を覚ますと同時に寝汗を流すことにしたみたいです。
「…………」
とはいえそう簡単に眠気は取れそうにないようで、ぼんやりとした表情のまま、その目はやはり虚空を見つめているのでした。
*
繰り返しますが、ここは『こっちの世界』ではないので、この光景は『この世界』基準では明らかに異質です。
この世界では入浴といえば公衆浴場で入るもの、という認識が一般的です。
個人でこういった浴場を所有しているのはそれこそ一部の富豪しかいませんし、そういったものもほとんどは贅沢の限りを尽くしたもので、こういったコンパクトに設計された近代的なバスルームを所有している人はおそらくいないでしょう。
ベッドに伏せっている青年がこの光景を見たら、その異文化ぶりに驚くに違いありません。
そもそもシャワーという概念自体、まだ『この世界』では存在していないのですから。
もっともシャワーを浴びてる女の子の姿を見た時点でラブコメハプニングが発生して、それどころじゃなくなるかもしれませんけどね。
しかしどうしてこんな世の中から隔絶された森の中で、こんな設備が使えるのでしょうか?
簡単です。女の子は「魔法」使いだからです。
とても都合のいいお話ですね。
*
「……あ」
そんな魔法で沸かしたシャワーを浴びながら、ゆっくりと覚醒してきた女の子はふいに気がつきます。
そういえば、あの男の人はずっと寝たままではなかったでしょうか。
汗をかいてないでしょうか。体を拭く必要はないでしょうか。
思えば考えもなしに自分の使っていたベッドに乗せてしまったけれど、布団はちゃんと清潔なままでしょうか。
もう彼の体臭がシーツに染み付いていることは容易に想像がつきました。
そしていつも自分が寝ていた場所に、青年をそのまま寝かせてしまったことも。
今更少しだけ恥ずかしくなり、ほんのりと頬を赤らめてしまいます。
そういえば、昨日食事を持って行ってからあの男の人はずっと何も食べていないのではないでしょうか。
男の人に早く出て行ってもらうためにも、体力をつけてもらう必要がありました。
そのためには何はなくとも、しっかりと食事をとってもらわなければなりません。
(面倒くさい……)
ここまで来ると、女の子は少し嫌になってきていました。
ずいぶん身勝手な話ですよね。
そうしてうんざりしつつもシャワーを浴び終えた女の子は、バスタオルでしっかりと水滴を拭い、長い髪をまとめて脱衣所から出ると、そのまま再び厨房の方へ向かいます。
着替えに関してはあらかじめ自室から厨房のほうに運んであるので、服をとりに青年の居る部屋まで足を運ぶ必要はないのでした。
ラブコメハプニング、不発。
「にゃう」
厨房に戻ると、いつの間にかにゃーちゃんが帰ってきていました。
湯上がりで少し湯気の立っている女の子を見て、どこか不安そうにひと鳴きします。
「大丈夫だよ、にゃーちゃん」
それが水が苦手な猫にとっての、水びだしになった人間への「大丈夫?」というサインであることを女の子はちゃんとわかっていました。
そう言って女の子はにゃーちゃんの視線にあわせて身をかがめると、ちゃんと水滴を拭った手でそのちいさな頭をなでなでします。
もっともまだその手に水気が残ってたみたいで、なでられたにゃーちゃんは少し不本意気味でしたけど。
「……にゃーちゃんにだったら、さわっても大丈夫なんだけどな」
愛猫を慈しみながらも、女の子はそんなことをぽつりと呟くのでした。
*
食事とホットタオル、それに水差しとお腹がすいた時に食べられるものをいくつか。
できるだけ関わり合いにならないように、必要になりそうなものを思いつくだけ揃えた女の子は、それをワゴンに乗せて男の人のいる寝室まで向かいます。
コンコン、とドアノック。しかし返事はありません。
しばらくしてもなんの反応もなかったのでおそるおそるドアを開けると、かすかに聞こえるのは静かな寝息。
どうやら青年は眠っているようでした。
女の子はほっと胸をなで下ろしました。眠っているのなら何の心配もありません。
でもワゴンの上で湯気を上げている食事とホットタオルを見て、一気に気分はダウンしてしまいます。
これらは暖かいうちに渡しておかないと意味がないのです。つまり、男の人を起こす必要がありました。
げんなりしながらワゴンごと寝室に入り、重い足取りで男の人の眠っているベッド際まで近づきます。
男の人は安らかに眠っているようでした。大きないびきも立てず、一定の間隔で落ち着いた呼吸を繰り返しています。
なんとなく、起こすのが悪いような気がしました。
(でも食事はともかく、ホットタオルだけでも渡しておかないと)
冷たいタオルで体を拭くと、余計に体調が悪化するのを体験的に知っていました。
「あの、もしもし……」
そう言って女の子は男の人をゆさゆさしようと手を伸ばし――
「……っ!」
慌てて、手を引っ込めました。
(危なかった)
(もう少しで、さわるところだった)
間一髪、と言うところでしょうか。
女の子は、何があっても男の人に触れるのを避けないといけない理由があるのです。
「……もしもし?」
仕方がないので声だけで起こすことにします。
男の人の耳元にできるだけ顔を近づけて、普段出さないような大きな声で呼びかけます。
「あのっ! 起きてもらえますかっ!!」
怒鳴るようにそう叫ぶも、男の人は一向に目覚める気配がありません。
呼びかけながら、女の子はこの人の名前も聞いてないことに気づきました。
同時に自分の名前も伝えていないことに。
(それは、いい)
けれど女の子は、すぐにその考えを否定します。
(名前を知ったら、教えてしまったら、きっと深入りすることになる)
あまり深入りしたくはありませんでした。
男の人がどうして、森の中で傷だらけで倒れていたのか。
女の子がどうして、森の中で一人で暮らしているのか。
踏み込みたくないし、踏み込まれたくない。それが女の子の正直な本音でした。
そして願わくば、お互いに何事もないままで青年が森を出ていって、元の生活に戻ることを願っていたのでした。
「う……ん」
そうしてぐるぐる考えているうちに、男の人が目を覚ましました。
ようやく起きた、と安心して男の人を眺めていると、ふいに目があいました。
少し寝ぼけたような男の人は女の子の姿をまじまじと見て、少し考えてからにこりと笑いかけます。
「おはようございます」
言われてから、それが自分にかけられた言葉だと女の子は気づきました。
あいさつ。それは既に、遠い昔の記憶でしかありませんでした。
「お、おはよう……です」
だから、そう返すのが精一杯でした。そのぎこちなさに、ふいっと顔を背けてしまいます。
「昨日はありがとう。とてもおいしかったです」
男の人はそう言いながら上半身を起こします。女の子は一瞬何を言われたのかよくわかりませんでした。
「あのおかゆとスープ、病み上がりにはちょうど良かったです。本当に助かりました」
そう言われて、昨日の料理のことを言ってるんだとようやく思い至ります。
食事は当然女の子の手作りでした。それを褒められれば本当なら嬉しいはず、なのですが。
「あ……」
女の子は一瞬、言葉をなくしてしまいます。
「それならよかった……です」
そう言いながらも、少しも嬉しそうではありませんでした。
今までずっと、女の子は自分と猫のためだけに料理を続けてきていました。
それを誰かに食べてもらって「おいしい」とか「まずい」とか、そういう評価を受けようと思ったことはなかったのです。
それが思いもよらないところで、自分の料理が「評価」された。
だから女の子は困惑し、「他人に評価されること」のプレッシャーで言葉をなくしてしまったのでした。
そんな女の子の様子に一瞬怪訝そうな顔をするも、困らせたと思ったのか男の人は話題を変えてきます。
「なんだかいい匂いがしますね」
匂いの元は言うまでもなく、ワゴンに乗せられた料理でした。
まだ湯気が立っているそれは、やはり女の子の手作りで、男の人に食べられるのを今か今かと待っています。
(やだな)
急に女の子は、それを男の人に食べてもらうのが嫌になりました。
(また、おいしいとかまずいとか言われるのかな)
けれど「まずい」と言われないことだけは女の子にもわかっていました。
この男の人は、例えまずくても「まずい」とは言わないタイプの人じゃないかと、なんとなくそんな気がしていたのです。
ただそれが「気遣い」であることもわかっていて、それが女の子にとっては重く感じられたのでした。
「……はい」
けれど今さら食事を取り下げることなんて出来ません。
女の子は可能な限り冷静を努めて、ワゴンから食事やホットタオルなどをベッドサイドのテーブルに移しました。
「うん、いい匂いだ」
テーブルに置かれた食事を見て、男の人は続けます。女の子には、男の人のそれが少し嫌になってきました。
だって、明らかに女の子の気を引こうとしている、ご機嫌を取ろうとしてるのが丸わかりですものね。
女の子は、そういうのが大嫌いなのでした。
「これで、体を拭いてください」
だから男の人の言葉を無視して、ホットタオルを差し出します。
「汗とかかいてると、体が冷えちゃう……冷えてしまう、ので」
女の子はできるだけ丁寧な口調で喋ろうとしていました。敬語口調の男の人に合わせようとしていたのかもしれません。
けれど普段使い慣れていない言葉は、どうしてもボロが出てしまうのでした。
「ありがとう」
そう言って、男の人は手を伸ばします。
そして女の子の持っているホットタオルを、そのまま受け取ろうとして――
「……っ!!」
その指が触れる直前、気づいた女の子は慌ててばっ、と手を離しました。
放り投げるような形になったタオルは、勢い余ってベッドに叩きつけられるような形になりました。
受け取ろうとしていた男の人は、急変した女の子の態度にぎょっとした表情しか浮かべることはできません。
「あ……」
やってしまった。
女の子の顔にありありと絶望が浮かびます。
そう、どんなことをしても、女の子は男の人に触れるわけにはいかないのです。
けれどそんな事情、男の人が知るわけもありません。
それに深入りされたくないのだから、触られたくない理由なんて話す必要もないのでした。
「え、えっと……」
何か、何か言い訳をしないと。
そう考えてあたふたするも、上手い言い訳なんて出てくるわけもありませんでした。
そして「触れられることを拒絶される」ことが、相手にとってどれだけ傷つくことなのか。それも女の子には、ちゃんとわかっていたのです。
「ご、ごめんなさいっ……!!」
結局どうしようもなく居たたまれなくなって、ワゴンもそのままに女の子は部屋から逃げていってしまいました。
部屋に残されたのは困惑状態の男の人と、いつの間にかベッドの隅で丸くなっていた黒猫のみ。
今回は猫は女の子のあとを追うこともなく、そのまま部屋に居続けたのでした。
「…………」
温かな食事。叩きつけられたタオル。
手厚い看護と、それに反するような女の子の態度。
事情を知らない青年には、女の子の行動がすべて不可解なものにしか思えませんでした。
男の人はそっとベッドサイドにいる猫に手を伸ばしました。
猫はそのまま男の人になでられるのをよしとしたのか、優しい愛撫をそのまま受け入れます。
「なあ、きみのご主人様は……」
ふいに口にしかけて、男の人はその続きを言うのをやめました。
例えどんな事情があったにしても、森で倒れている自分を助けてくれたのは、他でもないあの子なのです。
「……いい子、だよな」
猫をなでながら、自分に言い聞かせるように男の人は独りごちるのでした。
*
リビングに戻ると、女の子は後ろ背にバタンとドアを閉じ、そのままずるずるとしゃがみ込んでしまいました。
(やっちゃった)
(どうしよう)
頭の中はそのふたつでいっぱいでした。
けれど考えても結論なんて出るわけもなく、しばらく女の子は茫然とその場にしゃがみ込み続けました。
そしてある程度の時間の経過とともに、ようやく気持ちが落ち着いた女の子はゆっくりと立ち上がります。
「あ……にゃーちゃん」
女の子はドアをゆっくりと開けて廊下をきょろきょろしました。にゃーちゃんの姿はどこにもありません。
そのころにゃーちゃんは寝室のベッドの上で、男の人に撫でられながら丸くなっているのでした。
「…………」
女の子はゆっくりとドアを閉じました。
なんだかにゃーちゃんまで、男の人に取られてしまったような気分になっていました。
「……いいもん」
なんだか子供がすねたようなことを言うと、女の子はいつものように紅茶を入れ始めました。
お気に入りの椅子に座り、お気に入りのカップでゆっくりと紅茶を飲んでいると、だんだん気持ちが落ち着いてきました。
「……はぁ」
落ち着くと同時に、深いため息。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
あの時男の人を助けたのが、そもそも間違いだったのでしょうか。
けれど傷だらけの彼を見捨てることができるほど、女の子は自分が冷たい人間になりきれないこともわかっていました。
中途半端な善意が、結果として女の子自身を苦しめることになっていました。
「早く……早く、出て行ってもらわないと……」
しかしそのためには、何はなくとも体力を取り戻してもらわないといけません。
そしてそれには、献身的な介護が必要なのもわかっていました。
それをやるのは誰かということも。
(でも、このままじゃ……)
このままでは、いずれ彼の体に触れざるを得なくなる。
そうなった時、女の子はもう「生きていること」にすら耐えられなくなるかもしれない。
思考はぐるぐると回るばかりでした。
第5話 にゃーちゃんの力を借りて
長い熟考の後、くぅというおなかの音で女の子は我に返りました。
気がつけば、先ほどの食事からかなりの時間が経っていました。
そんなにも長い時間、女の子は悶々と自己嫌悪と堂々めぐりの思考の迷宮を彷徨っていたのでした。
「何か作ろう……」
そうして立ち上がり、キッチンに向かいます。
何を作ろうかと食材を眺めていると、自然と思い浮かぶのはあの男の人のこと。
(あの人も今ごろ、お腹をすかせているかもしれない)
夜の森では時間はわかりませんが、腹時計だけは確かに時間の経過を示すものでした。
(……また、持って行かないとダメなんだ)
考えただけで憂鬱になります。けれど、これは女の子以外の誰も変わってくれない役割なのでした。
男の人は、さきほどの女の子の対応をどう捉えたでしょうか。
あんなことがあった後なのに、平然として対応できるでしょうか。
考えるだけでも自己嫌悪が募り、女の子はどんどん憂鬱になっていきます。
(でも、やらないと)
(私がやらないと、あの人は回復しないんだ)
重苦しい気分を振り切りながら、半分くらいやけになりながら料理を作ります。
ふと無意識のうちに、いつも以上に力を入れて料理を作っている自分に気づきました。
男の人に食べてもらうから、ということを意識していたからだと気づくと、恥ずかしくなると同時に余計に憂鬱が募るのでした。
(まずいって思われたくない、なんて)
(そんな見栄を張って、私一体どうしたいんだろう)
それでも、完成した料理はいつになく美味しそうでした。
*
コンコン、とドアがノックされました。
ベッドに横になっていた男の人はそれに気づき、「はい」と答えます。
やや間があって、ドアがゆっくりと開かれました。
やってきたのはもちろん例の女の子です。
先ほど取り乱して部屋を出て行った時と違い、比較的落ち着いた表情をしていました。
「ごはん、持ってきました」
男の人と目を合わせずに、ただそれだけを言います。
「ありがとう。本当にご迷惑をおかけして、すいません」
そんな女の子に男の人はそんな言葉をかけます。
――迷惑。
そのワードに女の子の心がざわっとしましたが、表面的には何でもないふりをして、テーブルの上に料理を並べます。
「いえ」
どこか淡々と、それだけを口にします。
その態度からは、明らかに拒絶の意思が表れていました。
(あまり、関わりすぎない方がいいのだろうか)
男の人は思考します。今までの女の子の態度から、彼女が人と関わるのを拒絶しているのは十分感じ取っていました。
何しろ人里離れたこんな深い森の中に、一人で住んでいるような子です。それもまだ成人すらしてないような若さです。
相当な事情があるのは、優に想像が付きました。
(それとも、単に男嫌いなだけなのかな)
先ほどのタオルを放り投げられたのを思い返すと、なんとなくそれが正しいような気がしました。
(嫌われているとしたら、僕にできる最大の恩返しは、早く回復してここから出て行くことだけか)
女の子を眺めながら男の人はそう結論づけました。なかなか察しのいい人ですよね。
そんなことを思われてるとはつゆ知らず、女の子は自分を見つめる男の人の視線を無視して、空いた食器を手早く片付けていきます。
これ以上関わり合いになる気はないし、先ほどの件を聞かれたらどうしようという焦りが女の子の中にあったのでした。
そうして女の子が空いたお皿を片付ける、かちゃかちゃという音だけが響く静かな部屋の中、にゃーちゃんだけが元気でした。
部屋のあちこちを散策するようにうろうろしていたにゃーちゃんでしたが、何かを感じ取ったのか女の子の足下に近づくとすりすりし始めました。
「あ、にゃーちゃん」
そんなにゃーちゃんに気づき、片づけの手を止める女の子。
完全に素の口調でした。
「にゃーちゃん?」
それをしっかりと聞きつける男の人。
言った後でハッと気づくも、全てはあとの祭り。
あうあう言いそうなくらい狼狽えながら、女の子はしゃがみ込んで足下のにゃーちゃんを優しくなでなでします。
「……この子、にゃーちゃんっていうんです」
言いながらも、女の子は内心不安でいっぱいでした。
にゃーちゃんなんて「安直な」とか「子供みたいな名前」とか、そういうことを言われたら嫌だなぁと、そういう気持ちでいっぱいなのでした。
「にゃーちゃんか。可愛い名前だね」
しかし男の人は笑ってそう答えます。
では女の子は安心するかというとそんなことはなく、その言葉がただのお世辞なのではないかと疑ってしまうのでした。
相変わらずこの女の子、ものすごくめんどくさい性格なのです。
「僕も昔、実家で猫を飼ってたことがあるんだよ」
しかしその一言で、女の子の中にあった全ての疑念が吹っ飛んでしまいました。
「そう……なんですか?」
「うん。茶と白のぶち模様のおとなしい子でね。にゃーちゃんほど元気じゃなかったかな? でもいつもひなたぼっこしてるのが好きな子だったよ」
「にゃーちゃんも、寒い日は暖炉の前から動こうとしない……んです」
「ああ、そうなんだ。やっぱり猫は暖かいところが好きなのかな。部屋の中で一番暖かいところを知っている、とかよく言うものね」
「そうですね……にゃーちゃんも本当は、お日さまの下でひなたぼっことかしたいのかも、です」
そう言ってにゃーちゃんを撫でる女の子の目には、優しさと寂しさが混ざったような感情が映っていました。
夜の森では、ひなたぼっこはどれだけ望んでも叶いようがないことのひとつでした。
「それにしてもにゃーちゃん、ものすごくいい毛並みしてるね。ブラッシングとか大変じゃない?」
「あ、ブラッシングは毎日ちゃんとしてあげてるの。にゃーちゃんはブラッシング大好きだから、せめて何か喜んでもらいたくて……」
言いながら、女の子は自分が相当砕けた話し方になってるのに気づきました。
これじゃダメなのに。
この人からは、もっと距離を置かないといけないのに。
「そういえば、知り合いに飼い猫のブラッシングが大好きな人がいてね」
「えっ」
けれどそう思っても、猫のこととなるとどうしても興味が止められないのでした。
「ブラッシングするとどうしても毛が抜けるじゃない。それがもったいないとか言って、抜けた毛をこう、ボールみたいに丸めてとってる人がいるんだよ」
「抜け毛を、ボールみたいに?」
女の子の目が輝きました。
「そう。で、この前久々に会った時にまだ続けてるのかって聞いたらさ、当たり前の顔で当然続けてるよ、なんて言うんだよ」
「そ、それで?」
「じゃあ今はどれくらいの大きさになったんだって聞いたら写真見せてくれてさ、これくらいの大きな毛玉になってた」
そういって男の人が手で表したのは、だいたい野球ボールくらいの大きさでした。
「そんなに!?」
「そう。それが抜け毛の持ち主の子と柄がそっくりなんだよ。猫と並べた姿も見せもらったけど、本当そっくりで見分けが付かないくらいだった」
「あはは」
笑いが起きました。
男の人は女の子の笑った顔を見て、可愛らしいと思うと同時に、「ああ、この子はちゃんと笑うことも出来るんだ」と、どこか安心したような気持ちになりました。
一方女の子は笑ったあとで、「私、前に笑ったのはいつだっただろう」と不意に冷静になりました。
そしてにゃーちゃんを間に挟んで、男の人に心を許しつつある自分の心にも気づきました。
(私の弱点は、にゃーちゃんだ)
女の子はそう思いました。
(この子と共有できる話題は、猫だ)
男の人は、そう判断しました。
第6話 いっしょに食べよう
その後は結局、男の人の策略通りに事が運びました。
つまり女の子が食事を持ってやってくると、にゃーちゃんを間に挟み、猫の話題で会話を盛り上げることに成功したのです。
そして男の人の猫好きは決して誇張ではなく本当だったのもあり、猫についての話題の広さや深さは相当なものでした。
「世界一小さい猫は、砂漠に住んでいてね……」
「わあ……!」
「猫は家につくっていうけど、主人が亡くなってからずっとそのお墓の前を離れない猫が……」
「…………」
「猫が箱に入りたがるのは、どうしてかっていうと……」
「へえ……!」
と、こんな具合なのでした。
女の子はまんまと男の人の手のひらの上で踊らされることになったのでした。
とはいえ、これはお互いにとっていい関係だったといえば、確かにそうなのです。
女の子は、長い間ずっとひとりでいたから、こういう誰かとの交流に本当は飢えていたのでした。
それでいて前述の通り面倒くさい性格だったのもあり、人と関わるのをずっと拒み続けてきたという背景もありました。
つまり、女の子にとって男の人から猫の話を聞くのは久々の娯楽であり、楽しみになっていたのです。
そしてこれは、男の人からしても喜ばしいことでした。
助けてもらったお礼をしたくても、何もすることができないと諦めかけていた矢先、女の子を楽しませる方法を発見できたのは大きな成果でした。
また、一人きりでは楽しくない、面白くないのは男の人も同じでした。
この夜の森では人恋しくても人はおらず、ここにいるのは女の子と男の人以外はにゃーちゃんだけなのですから。
誰かと話がしたければ、男の人にとっても女の子しかいない状況なのは同じことだったのです。
それにいつの間にか、男の人は女の子の笑う顔を見ているととても幸せな気持ちになるようになっていました。
孤独の底にいた女の子の笑顔はあまりにもまぶしく、長年の孤立から来るギャップもあるのか、凄まじいまでのエネルギーを発していたのでした。
要は、とてもとても魅力的だったのです。
男の人は女の子のそんな表情を引き出している自分が誇らしいとすら思うようになりました。
女の子も、一方的に話を聞いているだけとは言え、男の人が毎回猫の話をしてくれるのを楽しみに思うようになりました。
そんなこんなで、自然とふたりの気持ちは少しずつ近づいていったのです。
女の子の危惧も、そんな日々の中でだんだんと薄れていきました。
(さわりさえしなければ)
(ふれさえしなければ、私はこの人と普通に付き合っていけるかもしれない)
次第にそう思うようになっていったのです。
そしてそんな中順調に、男の人の体力も回復していったのでした。
*
「たまには、一緒にごはんを食べちゃダメかな」
ある日いつも通り食事をおいて部屋を出て行こうとする女の子を、男はそう呼び止めました。
「え?」
女の子は一瞬、何を言われたのか理解出来ませんでした。
「あ、いや」
青年としても無意識のうちに口にした言葉だったらしく、言葉を濁します。
いくら前より親しくなったとはいえ、初めのころの女の子の態度を忘れたわけではなかったのです。
(本質的に、この子はたぶん人と近づくのに畏れを抱くタイプなんだろう)
男は女の子をそう判断していました。
だからこそ、下手に距離を縮めようとするのはかえって危険かもしれないと思っていたのです。
「いつも一人で食事を取ってるからさ」
ごまかすように、そう続けます。
「一人で食べるより、ふたりで食べた方が楽しいかなと思って」
「…………」
そんな男を、女の子は探るように見つめ返してきます。
男にはそれが、本意はどこなのか訝しんでいるように感じられました。
「も、もちろんにゃーちゃんも一緒に、だよ」
しかし言葉を重ねれば重ねるほど、不信感が増すだけなのでした。
不信感。
今までの態度から、男は女の子が「男性嫌い」だと見当を付けていました。
そして今、男が取っている行動は、まさにテンプレ的な「異性を食事に誘う行動」そのものなのです。
そこに下心がないかと問われれば、残念ながら彼の中には「一切ない」とは言い切れない気持ちが生まれていたのでした。
男性嫌いの女性を食事に誘う。
それがお互いの関係にヒビを入れる行為なのを、よくわかっていたにも関わらず。
「…………」
女の子は何も言わず、どこか茫然とした表情で男を見つめ返すだけでした。
男の焦りはだんだんと強くなっていきます。
(地雷を踏んだかもしれない)
(最悪、今まで積み重ねてきた関係が白紙に戻る可能性すらある)
そんなことを男は思っていましたが、女の子の心中はまったく別のものでした。
*
(一緒に、食事?)
女の子は、その言葉に強い混乱と衝撃を受けていました。
今までずっと、長いこと孤独に一人で食事を繰り返してきた彼女にとって、誰かと食卓を囲むのは想像も付かないことだったのです。
ごはんは、一人きりで食べるもの。
そういう認識が強くこびりついて、誰かと一緒にごはんを食べるという本来の意味での「食事」を理解できないのです。
(一緒に食べるって? 誰と?)
(この人と、にゃーちゃんと、私で?)
よくわからない感情が渦巻いていました。
嬉しいような、恥ずかしいような。
悲しいような、寂しいような。
女の子自身、どうして自分がこんな気持ちになっているのかよくわかりませんでした。
(ただ一緒にごはんを食べようっていう、それだけの提案のはずなのに)
青年が思うほど、女の子は「大人」ではありませんでした。
男性が女性を食事に誘うという行為にある種の「裏」があることを、全くわかっていなかったのです。
「嫌だったらいいんだ。ここまでお世話になってるのに、これ以上迷惑かけられないからね」
彼のその言葉も、女の子にはよく理解出来ませんでした。
(迷惑って、何が?)
ただ、男の人が自分から出した「一緒にごはんを食べよう」という提案を取り下げようとしてるのだけはわかりました。
それはなんだか、とても寂しいことのような気がしました。
「あ、ううん……嫌じゃない、けど……」
だからなのか、女の子は反射的にそう口にしていました。
その返答に男はぎょっとした顔をしました。
とはいえ一番驚いたのは、他ならぬ女の子自身だったのですけれど。
「……いいの?」
「え、あ……」
問い返されると、本当にいいのか自分でもよくわからなくなってきます。
「こ、今度気が向いた時でいい、なら……」
偶然なのか、なんなのか。
女の子の出した答えは、これまたテンプレ的な「また今度ね」の社交辞令の形を取ってしまったのでした。
それを受けて、男はほっとしたようながっかりしたような、複雑な気持ちで微笑みました。
「うん。きみの気が向いた時でいいよ」
気が向いた時。
それが明白な日時の提示されない、来るかもわからない曖昧な未来をさしているのを男は知っていました。
もちろん女の子は、そこまで深くは考えていなかったのですけどね。
「うん……じゃあ、また今度……」
「ああ、楽しみにしてる」
楽しみにしてる。
また今度が来ないと思いながらもそう口にしたのは、彼の未練だったのかもしれません。
もちろん女の子はそんなことつゆ知らず、いつも通り寝室をあとにしたのです。
「……一緒に、食事?」
片付けた空き皿を手にキッチンに向かう間柄、ずっとその行為のなんたるかを熟考し続けたのでした。
*
(今度って、それはいつ?)
(私の気が向いた時?)
(いつ気が向くの?)
(それはわからない)
(でも、あの人はそれを楽しみだと言っていた)
(なら、約束した以上はいつかそれを果たさないと)
女の子は、そんな思考のループにがっしりはまってしまいました。
変なところで生真面目な女の子にとって、言葉は呪いと同じでした。
それが自分で発した言葉なら、なおさらその呪力は強くなるのです。
そうして女の子が自分の言葉に囚われている間も、青年との猫談義は続いていました。
以前と同じように食事を部屋に運び、甲斐甲斐しく看病し、猫の話を聞いて、部屋から立ち去る。
そのルーチンは継続して行われていました。
ただ、男の人が「また今度」のことについて何も触れてこないのが、かえってストレスになっていました。
もちろん彼としては「食事の誘いを断られた」としか捉えていなかったので、女の子の心中なんて察することもできなかったのですが。
だからこそ、女の子の方から「また今度」が指定された時は、ものすごくびっくりしたのでした。
第7話 ゆっくりと氷は溶けて
「……え?」
思わず男は問い返していました。
「だから、一緒に食事しようってお話のこと」
呆気にとられた表情を浮かべる男に、女の子は「忘れたの?」と言わんばかりの表情でそう答えるのでした。
*
このころには、すっかり女の子の口調も砕けたものになっていました。
また男もかなり回復してきて、簡易的に作った松葉杖さえあれば家中どこにでも歩いて行けるようになっていました。
逆を言えば、女の子の気分ひとつで男はいつでもこの家から追い出されてもおかしくないほどにまで回復していたのです。
それでも、女の子は青年に出て行くように告げることはありませんでした。
「……いいの?」
「いいの、って……。約束したじゃない。また今度、って」
来るとは思っていなかった「また今度」に、男の方が困惑しました。
確かに以前に比べればずいぶんと仲良くはなったものの、結局の所自分は居候の身でしかありません。
ある程度体力が戻ったし、そろそろここから立ち去った方がいいかと考え始めた矢先の出来事でした。
(一緒に食事する場を設けて、その後出て行ってくれって告げるつもりかな)
そんな邪推も浮かびました。
(いや、それは穿ちすぎか)
とはいえさすがにこのころになると、男にも女の子がどういう子なのかがぼんやりとわかりつつありました。
彼女は恐ろしく純粋で、恐ろしく傷つきやすく、繊細で、良くも悪くも子供なのです。
それはつまり、素直だということ。
そんな子が、わざわざ場を用意して「出て行ってくれ」と言うとは思えませんでした。
「そうだったね。ありがとう、嬉しいよ」
「せっかくだから、とびきりおいしいごはんを作ろうと思ってるの」
「おお……! それは楽しみだなあ」
「だからね、ちょっと仕込みに時間がかかっちゃうから、明日はどうかなって」
夜の森に「明日」を測定する術はありません。
けれど女の子の中では「今日」と「明日」の境目があるらしいことは男にもわかっていました。
それは「二回食事をとり、睡眠から目覚めたあと」を意味していました。
つまり女の子にとって、一日とは「二回の食事」と「睡眠」から構成されているのです。
(明日、ね)
男はこれが「今日」二回目の食事だと把握していました。
つまりこの後少女は眠り、起きたら彼女の中では「明日」になっているのです。
「了解、明日だね。楽しみにしてる」
「うん。楽しみにしててね」
「何か僕に手伝えることはあるかい?」
「手伝い、って?」
「そんなにおいしいごはんを作ってくれるなら、僕も何かお返しがしたいと思って」
それを聞くと、女の子は不思議そうに男に問うのです。
「私、あなたから猫の話を聞いてるだけで、いつもすごく嬉しいよ?」
男の心臓が、どきりとはねた気がしました。
「十分すぎるくらいにお返しはもらってるから。気にしないでいいよ」
子供らしい無邪気さ、素直さ。ストレートな好意の表明。
それでいて、多くを望まない、この裁量。
(……こんな子が、本当に居るなんて)
思わずそんなことを思ってしまうくらい、女の子は「いい子」でした。
そしてその言葉を発しているのは幼児ではなく、女性への脱皮をしつつある少女の年齢に達しているのです。
よく言えば天使。悪く言えば、とんでもない世間知らずでした。
女の子が部屋から出て行ってからも、男はしばらくの間茫然としていました。
とんだカルチャーショックを受けた、そんな様子でした。
(もし、叶うのなら)
(僕は、あの子と一緒に暮らしていきたい)
外の世界に疲れていた男にとって、女の子の純粋さはこの上ない癒やしでした。
彼女となら、これからの人生を共に歩いて行けると思えるほどに、想いは募っていました。
(でも)
(でもきっと、あの子はこの森から出ることを望まない)
男が外の世界に帰ろうと思っている限り、それは叶いそうにない願いでした。
(だからといって、僕もずっとここで暮らしていくつもりもない)
外の世界には、男を待っている家族がありました。
父母に姉。義理の兄に、その甥っ子や姪っ子。
よく酒を飲み交わす親友。仕事仲間。幼い頃からの友人。旅先で出会った、数多くのかけがえのない人達。
――そして、婚約者。
(……これは、浮気になるのかな)
親の決めた相手とは言え、今の今まで一度も思い出しもしなかった、婚約者という相手のことが男の脳裏をよぎりました。
会ったのは一度きり。
婚約の場ではお互いの両親だけが盛り上がっていて、その相手とはろくに話をした覚えもないし、どんな性格なのかもわからない。
ただ「綺麗な人だ」という印象しか残っていない、どんな顔だったかすら曖昧な女性。
お互いの「家」のために交わされた、完全な政略結婚。
こう見えて、青年は外の世界でそれなりに裕福な家庭に生まれついていました。
そしてこの旅は、いずれ両親から受け継ぐ遺産を預かる前の、人生最後の息抜きの意味合いも持っていたのです。
家を継いだが最後、もうこんな自由を味わうことができないのは青年にもわかっていました。
だからこそ、かなりの無理を言って生まれ育った街を出て、一年という区切りをもらって旅に出ることにしたのです。
夜の森に辿り着いたのも、そんな旅の途中のことでした。
男は婚約相手の朧気な輪郭をなんとかして思いだそうとするも、全く記憶の引き出しから出てきませんでした。
代わりに思い浮かぶのは女の子のころころと変わる、たくさんの喜怒哀楽の数々です。
猫の話を聞いているときに浮かべる、あの様々な表情。
楽しい話には笑いながら、悲しい話には涙ぐんで、豆知識を語るときは素直に感心した表情を浮かべる、この上なく素直な裏表のない反応の数々。
「…………」
男は軽く頭を振り、一人苦笑いを浮かべるのでした。
第8話 交錯する想い
女の子の目覚め。
それと共に、夜の森に「朝」が訪れます。
いつの間にかすっかり慣れてしまったソファーでの眠りから、女の子はゆっくりと目を覚ましました。
そうした微睡みの中で、女の子は「昨日」が終わり「今日」が来たことをぼんやりと自覚します。
「今日」は青年と一緒に食事をする、約束の日でした。
女の子は架けていたカーディガンをネグリジェの上から羽織り、いつものように洗面所に向かいます。
魔法で濾過した川の水が、水道の蛇口からじゃーじゃーながれてきます。
女の子は冷たい水で顔をばしゃばしゃ洗い、ようやく夢の世界から抜け出して、「ふう」と一息つくのでした。
「にゃうー」
「あ、おはよう。にゃーちゃん」
いつの間にか足下にいたにゃーちゃんを優しく撫でながら、女の子の「今日」が始まります。
窓の外に広がる夜の森は「昨日」と変わることなく、朝のすがすがしさなんて微塵も感じさせない暗闇に覆われています。
けれど女の子の気持ちは、どこか晴れ晴れとしているのでした。
「朝」の身だしなみを追えた女の子は、はやる気持ちを抑えきれずにキッチンへと赴きます。
今までの傾向から、女の子には青年の料理の好みがある程度絞れていました。
だいたい洋食系。さらに突き詰めれば肉料理。
せっかくだから、彼の好きな料理を作って喜んでもらいたい。
いつもたくさん楽しい猫の話をしてくれる、そのお礼に。
「こんなものかな……?」
女の子は勝手口から出たところにある畑から各種野菜、穀物、そして「挽肉」を一定の分量「採って」きました。
魔法の力でタンパク質系の食物も、農作物のように「栽培する」ことが可能になっているのです。
本当便利ですね、魔法って。
「とりあえず、ハンバーグかな」
メニューの方向性を決めて、下ごしらえを始めます。
もう自分の作った料理を「評価」されることへの怯えは、すっかりなくなっていました。
今の女の子の中にあるのは、ただただ純粋な好意だけでした。
「にゃーちゃんも食べるから、タマネギは入れちゃだめだよね」
「みゃう」
そして「三人で食事」という前提も、しっかりと覚えているのでした。
*
廊下から、ぱたぱたという誰かの走ってくる音が響いてきました。
そして寝室のドアが、ノックもなく、いつもより乱暴にバタンと開かれます。
「ご、ごめんっ、ごめんねっ!」
部屋に入ってくるなり、半泣きで謝ってくる女の子。
とっくに目を覚ましていた男は、ベッドから出て軽いストレッチをしていたところでした。
いきなり勢いよく飛び込んできた女の子に、青年はわけがわかりません。
「な、なにが?」
「きょ、今日の一緒に食べるごはんの下ごしらえしてて、朝ご飯、すっかり忘れてて……!」
女の子の中では「朝ご飯」と「夕ご飯」の一日二食が基本のようでした。
一緒に食べる予定の「夕ご飯」の支度に手一杯で、「朝ご飯」のことを完全に忘れていたようです。
「ああ、それなら大丈夫だよ。置いてあった果物をいくつかいただいたから」
「い、一応これ、サンドウィッチ……」
「ありがとう。いただくよ」
いつも通り、ベッドサイドのテーブルに持ってきたサンドウィッチを置く女の子。
するとなんだか美味しそうな香りが、室内にふんわりと広がりました。匂いの元は女の子からのようです。
「ずいぶんと美味しそうな匂いだね?」
「あ、うん……。今、下ごしらえのまっ最中だから」
「ありがとう。楽しみにしてるね」
「うん……」
そこで、男は女の子が不思議そうに自分を見ているのに気づきました。
「どうかしたの?」
「あ、えっと……もう、歩いて大丈夫なの?」
「ああ、そろそろ松葉杖なしでも歩けそうだと思ってね。ありがとう、全部きみのおかげだよ」
「うん……」
お礼を言われても、女の子はあまり嬉しそうではありませんでした。
男の体力の回復。
それは、お別れの時が近づいていることをちゃんと理解していたからです。
(もう、行っちゃうのかな)
ぼんやりと、女の子はそんなことを思います。
少し前までは、ベッドから起きられない青年を女の子が見下ろしながら、あれこれお世話をしていました。
しかし今では青年はベッドから自力で出られるようになって、女の子は自分よりも背の高い男を見上げる形になっています。
その視線の高低の変化が、どこか女の子を不安にさせるのでした。
(それとも、私が出て行ってって言わないとダメなのかな)
いつの間にか、男が出て行くことを寂しいと感じている自分に気づきました。
初めのころは、あんなに早く出て行って欲しいと願っていたはずなのに。
「今日は、にゃーちゃんは一緒じゃないんだね」
男に言われてハッと我に返る女の子。食事を持ってくる時、いつもにゃーちゃんは女の子と一緒に着いてくるのでした。
「あ、うん。たぶん、リビングでお昼寝中だと思う」
「ありゃ、ちょっと残念」
そう言ってベッドに腰掛ける男。食事の時間が遅れたのもあって、にゃーちゃんとの生活リズムにズレが出たのです。
にゃーちゃんは「朝ごはん」を食べたあとは、リビングでお昼寝するのがいつもの習慣なのでした。
「それで、えっと……私、料理の途中だから。あの、猫の話は、その」
「また今度でいい?」
「うん。ちょっと残念だけど」
「わかった。いくつか面白い話を思い出したけど、それはまた今度にしよう」
面白い猫の話。
それは、一体いつまで聞くことが出来るのでしょうか。
あと何回分聞いたら、男はここから去ってしまうのでしょうか。
「それじゃ、また夕ご飯の時にね」
「了解。場所はここでいいの?」
「うん。私とにゃーちゃん、それとあなたの分、三人分ここに持ってくるから」
そうやって、初めてのちゃんとした「約束」を取り付けて。
女の子は来た時同様、ぱたぱたと急いでキッチンへと逆戻りしていったのでした。
(あの目……)
慌ただしく去って行く女の子を見送りながら、男は先ほどの女の子の様子を思い返します。
(もしかして、寂しいと思ってくれているんだろうか)
自分を見つめる瞳が、どこか心細そうに感じられたのです。
まるで男をここに繋ぎ止めるように。行って欲しくないとすがるような、そんな目をしていました。
(もしもそうなら、話してみるだけの価値はあるかも知れない)
彼女の事情は男にはわかりません。何しろ名前すら知らないのです。
それもこれも、彼女が必要以上に踏み込まれるのを嫌がっていると判断していたからでした。
必要以上に深入りすれば、逃げられる。
そういう気配を男はしっかりと感じ取っていて、ほどよい距離感を保つことに専念してきたのです。
一緒に、この森を出て外の世界に行くこと。
それを提案することは、今の関係の一線を越えることを意味していました。
それは、彼女がこの森に一人で暮らしている理由を問うことにも繋がるからです。
(でも許されるのなら、話すだけ話してみたい)
いつかは伝えないといけないことでした。
男がこの森を出て、外の世界に帰るということ。
言い出すのが青年からなのか、それとも女の子からなのか。それだけの違いしかそこにはありません。
そしてその決断の時は、もう遠い未来の話ではなくなっているのです。
*
「できたー!」
最後の盛りつけを終えて、女の子は思わず声をあげました。
ハンバーグをメインに、全体的に洋風なメニュー。
味見もバッチリ。女の子的に、今まで作った料理の中でも会心の出来でした。
「ちゃんと三人分。にゃーちゃんの分は、ちょっと量少なめだけどね」
そう言って、さっきからキッチンをうろうろしているにゃーちゃんの方を見てにこりと微笑みます。
にゃーちゃんも一緒に食べるごはんが楽しみで仕方がないのでしょうか。
女の子はうきうきしながら、完成した料理をワゴンに乗せていきます。
一皿一皿、大切なものを扱うように、丁寧に。
そうして全皿乗せ終わり、あとは男のいる寝室へ運ぶだけ、というところまで来てはたと立ち止まります。
(一緒にごはんって、なんだろう?)
どうして自分がこんなにも浮かれているのか、この期に及んでも自覚できていませんでした。
食事。
日常的に行っていること。それを誰かと共有するという、ただそれだけの変化。
それなのに、それだけのことのはずなのに。
(……どうして私は、こんなにも嬉しいんだろう)
孤独に慣れきってしまった女の子には、その答えがどうしてもわかりませんでした。
もちろん、不安もあったのです。
でもそれ以上に、楽しみという気持ちでいっぱいで、今日一日女の子はずっと浮かれっぱなしだったのでした。
(今日一緒にごはんを食べて、また食べたいと思ったら)
(あの人は、また一緒にごはんを食べてくれるのかな)
もしまた食べてくれるとしても、それはいつまでなのでしょうか。
青年とずっと一緒にいられないことは、もうとっくにわかっていることでした。
(もしも私があの人に、行かないで、ずっとここにいてって言ったら、あの人はここに残ってくれるのかな)
そんな考えがかすかに女の子の脳裏をかすめたものの、それを否定するように首をぶんぶん振って、頭から追いだそうとします。
それは大それた望みだ、ということはすぐにわかりました。
ただ自分の寂しさを埋めるためだけに、彼の人生を放棄させ、ここに留まって欲しいと願っているだけ。
女の子の、あまりにも身勝手なわがまま。
あまりにも傲慢すぎて、自分で自分が嫌になるほどでした。
(でも、言いたい)
(私がこう思ってることを、あの人に伝えたい)
その望みは、とても叶うものだとは思っていませんでした。
けれど、それは長いこと孤独な夜に閉ざされていた女の子の心に、誰かに伝えたい想いがきらきらと芽生えた瞬間でもあったのです。
第9話 変わりゆく中で
コンコン、といつもの調子で寝室のドアがノックされました。
「どうぞ」
男が答えると間を置かず、ドアがガチャリと開かれます。
開いたその隙間から、にゃーちゃんが一足先に部屋へすっと入ってきました。
「お待たせー!」
そして開いたドアの向こうに、いくつもの料理の乗ったワゴンを押してきた女の子が、うきうきした表情で立っていました。
部屋の中に、香辛料のいい香りが一気になだれ込んできます。
「すごいね……何を作ったの?」
「ハンバーグをメインに、洋食っぽいのをいくつか」
「はんばぁぐ?」
「あ、えっと……前に作った、お肉を丸めて焼いたやつ……」
「ああ、あの肉料理か! あれすごく美味しかったんだ。ありがとう、嬉しいよ」
女の子の読みはばっちり当たったようでした。
ちなみにハンバーグは『こっちの世界』のドイツのハンブルグで生まれた、タルタルステーキというものが起源とされています。名前の由来もハンブルグが訛り、現在のハンバーグという呼称になったそうです。
このソースはタルタルソースでもトマトソースでもなく、ウィキ先生ですけれど。
ワゴンを押してガラガラと部屋に入ると、女の子は中の様子がどことなく変わっているのに気がつきました。
ベッドサイドに移動したはずのテーブルが、部屋の真ん中辺りに移動していました。
それにどことなく、部屋中がこざっぱりとしていて綺麗になっている気がします。
「あれ、テーブル……?」
「ああ、一緒に食べるなら広いところの方がいいと思って。移動しておいたんだ」
「それに、なんか片付いてる?」
「一応ね」
男はごまかすように笑いました。
それは部屋に女の子を招くための、青年なりの身嗜みでした。
ふたりで食事がしやすいように、家具の配置を変えて空間的な余裕を持たせてみたり、ほこりっぽくないように部屋を掃除してみたり。
今回女の子が特別な場所を設けてくれたことに対して、彼なりの最大限の好意を示したつもりでした。
けれど、女の子が思ったのは別のことでした。
(ああ、そっか)
(この部屋は、もうこの人の場所になってたんだっけ)
かつてはこの家、この森の全てが女の子のテリトリーでした。
それは「女の子が干渉しない限り、誰もその場所に変化をもたらさない」ということでもあったのです。
女の子が動かさない限り、ものはそこから移動しません。
女の子が手をかけない限り、全てはそのままの状態で静止し続けるというルールがありました。
なぜなら、女の子以外に「それ」をさわる人は誰もいなかったのですから。
その暗黙のルールが破られたことに、女の子は違和感を覚えたのです。
(誰かといるのって、こういうことなのかな)
自分の知らないところで、自分に関わる物事に変化が起きている。
それはなんだか、ちょっとだけ怖いことのような気がしました。
「…………」
けれど女の子はそれを黙っていました。
この変化は、決して青年の悪意ではないことをちゃんとわかっていたからです。
「……私、ちゃんと毎日この部屋掃除してたんだけどなー?」
それは、女の子が久々に使った社交辞令でした。
直球に「どうしてこんなことをしたの?」なんて聞いたら、男を困惑させるだけだと判断したからです。
青年とのふれあいによって、女の子はようやく「社交力」が回復してきたのでした。
もちろん男の真意に気づけるほど、女の子は「大人」ではありませんでしたが。
「はは、そうだね。ごめんごめん」
男の方も女の子の真意に気づくわけもなく、笑ってそう返しました。
言わないことで、伝えないことで、黙っていることで上手くいくことも多い。
女の子は遠い記憶から、少しずつそんなコミュニケーションの基礎を思い出してきたのでした。
「それじゃあ、並べるね」
「ああ、手伝うよ」
そう言って、男がワゴンに手を伸ばそうとします。
女の子はそれを見てぎくりとすると、反射的にワゴンからささっと離れてしまいました。
「い、いいよ……! 私がやるから、ちょっと待ってて」
「そ、そう?」
危うく、男の手と女の子の手が触れそうになっていました。
ただそれ以上にぎょっとしたのは、「女の子のテリトリー」であるワゴンに男が介入しようとしてきたからでした。
パーソナルスペース。
いくら青年との関わりが長くなっても、親しみを抱いていても、女の子のそれは一向に縮まる気配を見せませんでした。
(大丈夫、落ち着いて)
(この人にさわらない限り、なんの問題もないもの)
女の子はそう自分に言い聞かせます。
内心の動揺を悟られないよう、男から顔を背けて、すーはー、と深呼吸しました。
(ちょっと、今のは踏み込みすぎたかもしれない)
対する男も、そんなことを思っていました。
女の子の気持ちの揺れ動きなんて、すっかりお見通しだったのです。
なのに、どうしてあんなに積極的に、女の子の領域に踏み込むようなことをしてしまったのかと言えば。
(気分が高揚してるのかな、僕も)
女の子だけではなく、青年もこの「一緒の食事」を楽しみにしていたのでした。
第10話 幸福への祈り
かくして、テーブルにふたり分の食事が並べられました。
にゃーちゃんにはにゃーちゃん用のごはんがちゃんと用意されていて、床の上に何枚かの小皿が並べられています。
「にゃーちゃーん、ごはんだよー」
女の子が呼ぶと、様子の変わった部屋を不思議そうに探索していたにゃーちゃんがとてとてと近づいてきました。
女の子はにゃーちゃんを優しく撫でると、めしあがれと小皿を指し示します。
いつになくバリエーション豊かなごはんに、にゃーちゃんは少し警戒しているのか様子見モードのようでした。
女の子はそんなにゃーちゃんをじぃっと見つめていましたが、不意にすぐそばでごとん、と重い音が鳴ってびくっと振り返ります。
「椅子、これでいいかな?」
青年がふたり分の椅子を、別の部屋から持ってきてくれていました。
元々この部屋は寝室なので、ふたりが座る椅子なんてなかったのです。そこを男が気を利かせて取りに行ってくれたのでした。
「あ、うん。ありがとう……」
どこの部屋に余っている椅子があるか、それを教えたのは確かに女の子でした。
けれどこれも、例の「暗黙の静止ルール」が破られた気がして、一瞬戸惑ってしまったのです。
(こんなに、元気になってたんだ)
男は松葉杖も使わずに、女の子からすればそれなりの重量ある椅子を、まとめてふたつ持ってきていました。
そこに性差から来る力の差があるのはわかっていても、女の子にしてみれば大変なことを軽々とやってのける青年に、内心びっくりしたのです。
男はテーブルに対極になるように椅子を置くと、女の子に近い側の椅子を引いてなにやら目配せしました。
しかし、女の子にはその意味が全くわかりません。
「ああ、いや」
先に気づいたのは男の方で、引いた椅子をそのままにしてテーブルの向かい側に回り、先に席に着きました。
もちろん男は女の子のために椅子を引いてくれたのですが、女の子にはそんなこと想像も付かないことでした。
「にゃーちゃんも食べてるみたいだし、僕達もそろそろいただこうか」
男に言われてにゃーちゃんを見ると、さっきまでの警戒はどこへやら、はぐはぐとごはんを食べていたのでした。
「おいしい?」
女の子はそう言って、食事を邪魔しない程度に軽くひと撫で。
そしてゆっくりと立ち上がると、男の引いてくれた椅子におずおずと着席するのでした。
自然と、テーブル越しに向かい合いになった青年と真っ正面に相対する形になりました。
女の子はなんとなく気恥ずかしくて、思わず俯いて視線を逸らしてしまいます。
(私、緊張してる?)
女の子はふと、自分が固くなっているのに気がつきました。
(どうして?)
ただ一緒に、ごはんを食べるだけなのに。
さっきまであんなに楽しみで、うきうきしてたはずなのに。
「お祈りとかはしないの?」
「え?」
そこに、テーブルの上で両手を組んだ青年がにこやかに尋ねてきました。
「いつもごはんの前に、何かしてることはあるのかなーって」
「……ごはんの前に、お祈りするの?」
「いや、僕はしないんだけど。そういう人もいるから」
食事の前の、祈り。
それは、何に対しての祈りなのでしょうか。
「お祈りとかはしてないよ。でも、いただきますって言ってる……かな」
「じゃあ僕と同じだ」
言いながら、女の子は「いただきます」という言葉もまた祈りなんだと思いました。
その祈りは、神さまに。今日もごはんが食べられる喜びに。明日を生きるために命を捧げてもらった、元は同じ生命だった食材に。
そして料理を作ってくれた人への厚意に。それら全てに感謝をこめた、祈り。
(そっか)
ようやく女の子は気がつきます。
(一緒にごはんを食べるのって、こんなに特別なことだったんだ)
もし女の子が儀礼や儀式という言葉を知っていたら、それに思い至ったかもしれませんでした。
厳密には、女の子の使った肉食剤は「魔法」で植物的に育てられたものなので、命を奪って得た対価というわけではなかったのですけれど。
けれど植物もまた命と考えるのなら、やはり同じことなのかもしれません。
「感謝しないと、ダメだったんだね」
女の子は思ったことをそのまま口にしました。
「ありがとう」
女の子は男の目をまっすぐ見据えて、しみじみとその言葉を紡ぎました。
一緒にごはんを食べようと提案してくれて。一緒にごはんを食べてくれて。
楽しい猫の話をたくさんしてくれて。それに、こんな私と一緒に居てくれて。
言われた男は、女の子の言葉の意図がよくわかりませんでしたが、何も言わず、ただにこりと笑ってそれを受け入れました。
「こっちこそ、ありがとう」
僕を助けてくれて。こんなに美味しそうなごはんを作ってくれて。
大変な介護を続けてくれて。そして、ころころと変わるたくさんの笑顔を、僕に見せてくれて。
感謝の想いを伝えること。それを受け入れてもらえること。
ただそれだけのことなのに、そのやり取りだけで、女の子はとても嬉しくなったのでした。
「いただきます」
女の子の思いつく限りの、感謝したい、たくさんのものへの祈りをこめて。
「はい、いただきます」
料理を作ってくれた女の子への感謝をこめて。
ふたりの「いただきます」の重さはだいぶ違いましたが、何はともあれ、ようやく食事を始めることとなったのです。
第11話 会食羞恥症
「……うまっ!?」
一口食べて、青年は思わず歓声をあげました。
「うわ、なんだこれ……!? 口の中に入れた時の鼻に抜けるスパイシーな香りといい、肉汁の深みといい……!」
男は器用にナイフとフォークでハンバーグを小さく切ると、続けて二口目を口に入れます。
「めちゃくちゃ旨いよ、これ!?」
女の子が今まで見たことがないほど、男のテンションは急上昇していました。
一生懸命手間をかけて作っただけに、内心「おいしくなかったらどうしよう」と不安がっていた女の子は、このオーバーリアクションにかえって唖然としてしまいます。
「あ、ありがとう……」
とりあえず「おいしい」と評価してくれたことへのお礼を返しました。
「いやいやいや、お礼を言うのはこっちの方だって……! こんな美味しい肉料理、初めて食べたよ!」
しかし、ハンバーグの虜になっている男はもうそれどころではないようです。
彼の好みを狙った女の子の料理は、想像していた以上に正鵠を得たようでした。
(なんだろう、すごく恥ずかしい……)
その成果を見ていると、どうしてだか女の子は恥ずかしくて仕方がないのです。
単純に褒められ慣れていないからなのか、それとも他の理由があるのかは女の子自身にもわかりませんでした。
そうしてほんのり顔を赤らめつつ、青年がおいしいおいしいと言いながら食べているのを見ていると、ようやく気づいたのか男が訊いてきます。
「ほら、きみも食べよう。すごく美味しいよ?」
「あ、うん」
女の子はまだ何にも手を付けていませんでした。
とりあえず、彼の絶賛している自作ハンバーグの味はどんなものだろうと、ナイフと フォークをぎこちなく扱って小さくカットします。
そして、それを口に入れようとして……
「…………」
どうしてだか、女の子は小さく口を開けたままフリーズしてしまいます。
いつもならそのままぱくりと行けるはずなのですが、それをそのまま口にすることを無意識に拒否していました。
「どうかしたの?」
「あ……ぅ」
ふと顔を上げれば、男が不思議そうに女の子を見ています。
カットされたハンバーグを口内に入れようとしている、まさにその瞬間を目撃されそうになっていました。
「う……わぁ……」
突然、女の子の顔が真っ赤になりました。
どうしてだかわかりませんが、それが恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかったのです。
思わず手にしたナイフとフォークを置いて、両手で顔を覆ってしまいました。
(な、なんで?)
(なんで私、こんなに顔が熱くなってるの……?)
恥ずかしさで、顔がぽっぽと熱を帯びていました。
女の子にも理由はよくわかりませんでしたが、「何かを食べている姿を人に見られる」ことが、ものすごく恥ずかしいことだと感じてしまったのです。
「だ、大丈夫?」
さすがにおかしいと思ったのか、男が心配そうに声をかけてきます。
「……うー」
女の子はそんな男に呻き声で返します。
「なんか、すごい恥ずかしい……」
「え? なんで?」
「わ、わかんない……」
女の子には理解の及ばない領域の羞恥でした。
例えるなら、寝顔を見られたような、用を足しているところを覗かれたような。
そんなあまり人に見られたくないところを見られているような、そんな気持ちになっていたのです。
要は、生理的欲求を満たす姿を見られることに深い羞恥を感じていたのです。
それはずっと一人きりで食事を続けてきた女の子だからこそ生じた感情なのかもしれません。
だって普通の人は、自らの空腹欲求を満たすために口を大きく開いて口内を露出し、そこに食べ物を入れて咀嚼、嚥下する行為を見られても、恥ずかしいなんて思いませんものね。
良くも悪くも、女の子は感受性が強すぎたのです。
「ほ、ほら、でもこれすごく美味しいよ?」
さすがに女の子本人にもわからないことを青年に察することが出来るわけもなく、そんな無難なフォローしかできません。
そう言ってまた一口ハンバーグを口にする男を、顔を覆った指の隙間から女の子がちらりと盗み見ました。
「うぁ……ほあぁ……!」
そしてとうとう、男が食事する姿すら羞恥の対象のように感じられてきたのです。
(だめ、だめ……!)
(私、なんかおかしくなってる……!!)
これが、誰かと一緒に食事するということなのでしょうか。
女の子は完全にパニックになってしまいました。
*
「……絶対に見ちゃダメだからね」
「わかったわかった」
しばらくしてようやく落ち着いた女の子は、「理由はわからないけど食事する姿を見られるのがすごく恥ずかしい」のを青年に伝えました。
そしてこのままじゃ恥ずかしくてとても食べられないから、食べる姿を見ないで欲しい、とも。
(いや、恥ずかしいって……)
男はその説明で納得できるわけもなかったのですが、このままでは食事もままならないのでその提案を受け入れる形になりました。
もっとも女の子のその過剰な反応ぶりで、逆に食べてるところが気になって気になってしょうがなくなってしまったのですが。
「…………」
女の子が小さく切ったハンバーグをフォークに刺し、それを口元まで運んでいきます。
そしてゆっくりとその小さな口を開け、口内に入れようとして……
「……見てるでしょ?」
上目遣いの女の子と目が合いました。
「あ、いや……」
男はさっ、と目をそらします。
その隙に、女の子はぱくり、と肉塊を口の中に放り込みました。
咀嚼しているところも見られたくないのか、両手で口元を隠したままもぐもぐします。
そして、ごっくん。
「ほんとだ、美味しい……!」
何とも見てて、まだるっこしい感のある食事風景でした。
第12話 狩人の目
それからは特に問題になるようなこともなく、ふたりと一匹は食事を続けることができました。
もっともにゃーちゃんは早々に食べ終わると、おなかいっぱいになったのか女の子のひざにぴょんと飛び乗り、そのまま居眠りを始めてしまったのですけどね。
そんなにゃーちゃんを愛おしそうに撫でる女の子へ、青年はいつも通りに猫のお話を始めます。
猫を神の使いと崇める国が、国中の野良猫を寺院に招き入れて共に暮らしているという話。
とある病院でもうすぐ亡くなる患者さんの元にやってきては、最期の時を一緒に過ごすという死の匂いを嗅ぎつけることができる看取り猫の話。
生まれつき障害を持ったちいさな少女に寄り添う一匹の猫と、その猫の絵を描いたことで画家としての才能を開花させた、ひとりの若き天才画伯の話。
女の子はそんな青年の語りに表情豊かに一喜一憂し、細やかな相づちを打ちながら楽しそうに聞き入るのでした。
(今日のごはんは、のんびり)
青年の猫語りに聞き入りながら、女の子はぼんやりとそんなことを思います。
いつもだったら、一人きりのごはんだったら、もうとっくの昔に食べ終わっているころ合いでした。
テーブルの上のお皿はすっかり綺麗になっていて、作ってきた料理はもうすっかり食べ終わっています。
けれどそれでも「一緒にごはん」の時間は、まだまだ続いているのでした。
(食べるところを見られるのは恥ずかしかったけど、でも)
女の子はにんまりと頬をほころばせます。
(でも、楽しい)
どこか夢見心地な気分でした。
そんな女の子を見て、ちょうど話に一区切りついた男が問いかけます。
「どうかした?」
「なにが?」
「なんだかいつも以上に、ぼんやりしてるように見えたから」
「ぼんやり……」
なんとなく青年にからかわれているような、そんな気がしました。
たぶんここは、「ぼんやりなんてしてないよ!」とか返すのがやり取り的には正解なのでしょう。
けれど楽しくて、まったりとした食後の空気で本当にぼんやりしていた女の子は、違うことを口にします。
「あのね」
「うん?」
男は女の子の反応を期待して、なにやらニヤニヤしています。
「私ね。たぶん今、すごい幸せなの」
その言葉に、男がぴたりと表情を止めました。
「すごく楽しくて、暖かくて、ほわほわしてるの」
ものすごくほわほわした回答でした。
けれど男は何も言わず、女の子の言葉を黙って聞いています。
「だからね、もし、出来ることなら……」
そこまで口にして、ようやく女の子も自分が何を言ってるのか気づいてハッと我に返ります。
ぼんやりしすぎていて、思わず言ってはいけないことまで言いそうになっていました。
(もし、出来ることなら)
(このまま森に留まって、私と一緒に暮らして欲しい)
そう続けそうになっていました。
それがどんなに傲慢な願いであるか、わかっていたにもかかわらず。
「あ、ううん。なんでもな……」
「……出来ることなら、なんだい?」
けれど。
けれど男は、その続きを求めてきました。
声色こそ優しげだったものの、その目はまっすぐに女の子に向けられていて、にこりとも笑っていませんでした。
(あ……)
ここに来てようやく、女の子は自分の浅はかさに気づいたのです。
自分に向けられる、その目。
それは遠い昔に外の世界に捨ててきたはずの、忘れたい思い出の残滓でもありました。
(……この人は)
その射貫くような目から顔を背けて、女の子は後悔します。
(この人は、大丈夫だと思ったのに)
――私の痛みに、触れずに接してくれる人だと思ってたのに。
女の子の胸中に苦い思いが湧き上がりました。
どうしてこんなにも心を許してしまったんだろう、と。
「…………」
女の子は何も答えようとはしませんでした。
さっきまでの「ぼんやり」とした空気は、すっかり雲散してしまいました。
そんな様子を見て、男も内心焦りを覚えます。
(……早まったかもしれない)
青年にとって、これは千載一遇のチャンスでした。
女の子の言おうとした言葉の続きは、聞くまでもなく想像の付くものでした。
――出来ることなら。
出来ることなら、こうやって今のままの生活を続けていきたい。
少なくとも、それに近い言葉だという確証がありました。
だからこそ、続きを急かしてしまったのです。
その言葉を聞くことで、彼もようやく「一緒に森を出よう」と女の子に告げる機会が得られると思ったからでした。
しかし、いたずらに踏み込めば逃げられる。
今までの女の子の態度からも、それは明らかでした。
なんの脈絡もなくそんな提案をしたら、この子は間違いなく遠ざかってしまう。
だからこそ、男は狩人のように獲物が射程圏内に入ってくるのを待っていたのです。
最大の誤算は、女の子はそういう狩人の目に非常に敏感であり、またその視線をこの上なく警戒していたということでした。
結果として男は、踏み込みすぎて獲物を逃がしてしまったのです。
(だとすると)
もう、どれだけ手を伸ばしても、手の届かないところへ女の子が行ってしまったのだとすれば。
男に残された選択肢は、ただ一つしか残っていませんでした。
「……出来ることなら」
止まってしまった女の子の言葉を、男が代わりに続けます。
「出来ることなら……僕は、きみと一緒にこの森を出たいと思ってる」
その言葉は、女の子の伝えたかった想いと真逆の意味を持っていました。
第13話 祭の終わり
「…………」
その言葉を受けても、女の子は何も言わずに俯いたままでした。
それは明らかに越権行為でした。
少なくとも、今までふたりが築き上げてきた関係においてはタブーであり、一線を越えた発言でした。
必要以上に踏み込まない。関わらない。深入りしない。
お互い言葉にしないまでも、暗黙の了解としてそのルールを守ってきたからこそ、今のふたりの関係があるはずでした。
それを男はここに来て、一気に踏み越えてきたのです。
「……ごめんね」
思わず青年は謝っていました。
「本当はもっと、ちゃんとした形で言いたかった」
「…………」
その言葉は、祭の終わりを暗示していました。
彼は今までのお互いにとって心地よい距離感を壊して、より深い関係を求めているのは明らかでした。
一緒にこの森を出るという提案。
それは女の子の領域に踏み込むという、青年の意思表明でもありました。
「僕は、この森に留まるつもりはないんだ」
それでも、言わなければならないことでした。
いつまでもこの関係を続けていくことができないのなら、どこかの時点で告げなければならないことなのは、ふたりともよくわかっていました。
「きみのおかげですっかり体力も戻った。そろそろこの森を出て行こうと思ってる」
けれど、その言葉は確実に女の子の心を切り刻むのです。
「そして出来ることなら、僕はきみを連れてこの森を出て行きたい」
この森でいつまでも青年と一緒に暮らしていたかったという、女の子の願いをズタボロに打ち砕いていくのです。
「…………」
女の子は俯いたまま、何も言えなくなっていました。
(なんとなく)
(……なんとなく、こうなるような気はしてた)
心のどこかで覚悟はしていたはずでした。
男がこの森に留まる未来と出て行く未来、どちらが現実的かなんて、わかりきっていたはずでした。
そして男がこの森を出て行く時、「私をこのままにして行くだろうか」と、ちらりと頭をよぎったことはあったのです。
けれどそれ以上のことは、女の子自身が考えようとはしませんでした。
だって、考えるだけ無駄だったのです。
最初からその答えなんて、わかりきってましたから。
「……きみの意見が聞きたい」
黙ったままの女の子に、男はそう問いかけます。
「もしきみが、必要以上に踏み込むなと拒絶するなら、僕もこれ以上深入りはしたくない」
その言葉に、女の子はようやく顔を上げます。
まだ話し合いの余地を残してくれている、そう感じたからでした。
一方的な男側の都合を、女の子に押しつけているわけではない。
それだけでも、女の子にとっては救いになったのでした。
「できれば、きみを傷つけたくないんだ」
顔を上げた女の子の目に映るのは、どこか寂しそうな男の姿でした。
「僕は、きみが好きだよ」
あまりにも悲しい、愛の告白でした。
「だから、きみのことをもっと、今以上に知りたいと思う」
「…………」
「でもそうすることで、きみが傷つくのもわかってるつもりなんだ」
女の子は、何もかも見透かされていると感じました。
「……それなら」
ようやく口を開いて出た言葉は、女の子自身も驚くくらいに冷たい声でした。
「それならどうして、私に関わろうとするの」
「…………」
「私が、必要以上に深入りされるのを嫌がってるのを知ってて、どうして踏み込んでこようとするの」
その答えは、すでに男の口から告げられていました。
けれど、わかっていても女の子の言葉は止めることは出来ませんでした。
「……やめて」
吐き捨てるような言い方になってしまいました。
「私なんかを、好きにならないで」
自虐と、拒絶。そして絶望の混じった、悲しい言葉でした。
「……きみは素敵な子だよ」
「やめて」
男がその言葉を取り消そうとするも、すぐに女の子がそれを否定してしまうのでした。
「私に、関わらないで」
きっぱりとした拒絶。
さっきまで談笑していたとは思えない、冷たい空気がふたりのあいだを流れていました。
「私の事情に、踏み込んでこないで」
「…………」
ここに来てようやく、男は女の子の抱えている闇が想像以上に深いことに気がついたのでした。
第14話 闇の深さ
女の子が『こちら側』から、青年の方に向き直りました。
「やっぱり、わからないよね」
そう告げる女の子の表情は、とても穏やかでした。
まるで最初からこうなるのを、わかっていたかのように。
「……わからない、と言われてもね」
それを受けて、青年は言葉を選んでどうにか答えようとします。
「きみが今、誰と話していたのかさえ、僕にはわからなかった」
「……そうだよね」
「でも、きみの話を聞いて確信したことがある」
その言葉に、うつむいていた女の子は顎を上げます。
「きみはただ、運が悪かっただっただけだ」
「…………」
「きっと、きみには何か人とは違う才能がある。それを周りから理解されず、実のご両親からも拒絶されたことが深い心の傷になってるんだ」
「…………」
「だったらなおさら、僕はこの森からきみを外の世界に連れ出したいと思う」
青年は女の子から目をそらさずに、はっきりと続けます。
「外の世界には、もちろんきみが体験したような怖いことはたくさんあるよ。でもそれだけじゃないんだ。楽しいことや面白いこともいっぱいあるし、きみを疎んじたような村人だけじゃない。気のいい奴や優しい人も大勢居るんだ」
「…………」
力説する男を、女の子は無表情のまま見つめます。
「そのことを、きみに知ってもらいたい。そんな優しい人達となら、きみは絶対に仲良しになれるはずだから」
「…………」
「それに森の外に出れば、僕がきみに話したような世界中の猫を一緒に見に行くこともできるんだ。もちろん、にゃーちゃんも一緒にね」
さすがにその申し出には、少しだけ女の子の心がぐらりと揺らぎました。
が、しかし。
「……もしかして、まだ私が『魔法使い』なのを信じてない?」
「…………」
青年は無言で返します。それが答えでした。
遺産やマナ・ドミナ《機械》という『科学的』な産物を扱うことに慣れた現代人の男にとって、魔法なんてものは時代錯誤なオカルトにしか思えなかったのです。
女の子は、軽い落胆のため息を口にします。
青年が語ったのは過去の傷やこれからの未来についてだけで、女の子がずっと重荷に感じている『魔法』については一切触れていなかったのを見抜いたのでした。
「……これを見ても、まだそう言えるの?」
そう言うと、女の子は『こちら側』を向いて「ごめんね」と口にすると、そっと手を伸ばしました。
すると突然、『あなた』の眼前に女の子の色白な手がぬっと現れました。
そして、まるでペンを掴むような手つきをすると、そのまま何事かをそこに書き付けるしぐさをします。
“ 『『次の瞬間、部屋中に氷光花がぶわっと咲き誇っていました』』”
――記されたとおり、『次の瞬間、部屋中に氷光花がぶわっと咲き誇っていました』。
一瞬のうちに、室内が青白い光で覆いつくされます。
ガタンという大きな音がして、立ち上がった青年の椅子が倒れる音がしました。
熱に弱い氷光花は、室内の温度であっという間に溶けてなくなってしまいます。
しかし今起きたことは、青年もはっきりと目撃した超常現象でした。
「…………」
さすがの青年も、今の現象には目を見開いて絶句しています。
彼の視点では、女の子が何もない虚空に向けて手を伸ばしただけにしか見えませんでした。
ただそれだけで、一瞬のうちに部屋中に氷光花が咲き乱れたと思えば、すぐさま消えてなくなったのです。
現在発見されているいかなる遺産を用いたところで、何もないところを『操作』しただけで何かしらの現象を起こすことはできません。
それこそ、本物の『魔法』のように感じたとしても不思議ではありませんでした。
「……ごめんね」
女の子は『こちら側』を見ながら、再び謝罪の言葉を口にします。
「『そっち』に手を伸ばすから、驚かせると思っていつもは『見てない』時にしかやらないの」
見えない『誰か』に向けて話している女の子に、青年はますます混乱します。
この子は、一体誰と話しているのか。
そして、今の現象は女の子の言うとおり、本当に『魔法』だとでもいうのか。
「……魔法?」
「うん。『魔法』」
青年のひとりごとに、女の子が肯定の言葉を返しました。
「私は壁の向こう側に手を伸ばして、この世界に言葉を『書き加える』ことができるの」
これが女の子の『魔法』の正体でした。
次元の壁を超えて、世界そのものに干渉する能力。
世界の有様そのものをたやすく変性させる、人の手に余る、あまりにも大きな力。
「あの後の話を、少しだけするとね。私は村から別の街に移されたの」
まだ足りないと思ったのか、女の子はさらに過去のことを語り始めます。
そこからは女の子にとって、もっと辛い記憶でした。
「私が出した『傘』を調べに近くの都から錬金術師の人達が来てね。パパとママにお金を払って、私は買い取られたの」
「…………」
「連れて行かれたところでは、私はずっと監禁されてた。この部屋よりも狭い個室で、誰とも話すこともできなくて、一日に二回出される食事以外は何も与えられなかった」
女の子は自嘲した笑みを浮かべて、言葉を続けます。
「お洋服も一着だけだったし、お風呂なんて入らせてもらえなかった。でもあんまり放っておくと臭うからって、数日に一回だけ体を洗うことが許されてた」
辛い記憶を、辛い記憶だからこそ、女の子は必死に笑みを浮かべながら語ります。
「水をね、吹き付けるんだよ。ボロボロになった服を脱いだら、担当の人が水が勢いよく出るマナ・ドミナ《機械》を使って、私の体中を一気に洗い流すの。水を浴びたあとは寒くて仕方なくて、部屋に戻ってからしばらくぶるぶる震えてた」
「…………」
「その人が女の人だったから、まだよかったんだけどね」
とはいえ、その女性が女の子を見る瞳の中に、ある種の妬みがあったのも気づいていました。
しかし男性にそんなことをされるよりはずっとよかったので、あえて何も言わないままでした。
「それでね。たまに私の『魔法』を調べようと、錬金術師の人達が実験をするの。頭に鉄の兜を被せられたり、手足を拘束されて大きな筒の中をくぐらせられたり。 ――日光を、無理やり浴びせられたり」
村人から、女の子が『魔法』を使った状況を錬金術師達は調査で把握していました。
どういう方法で『魔法』が発動するかを探るため、彼らは女の子に様々な人体実験を施したのです。
「逃げようと思えば逃げることはできたんだよ。でも、逃げなかった。逃げても、逃げる場所なんてどこにもなかったから」
「…………」
「結局、その時に使った魔法は一回だけだった。私自身の体質を変化させたの。『日光が当たっても火傷しないで済むように』って」
あまりの辛さに、女の子は一度だけ『魔法』を使ってしまいました。
しかしその現象を観測したことで、錬金術師達の研究はますます過酷なものになっていき、とうとう女の子は人間そのものに恐怖を感じるようになってしまったのです。
「……何度もこんな世界、壊れてしまえばいいって思った。人間なんて、みんな死んじゃえばいいのにって思った。でも、一度も『魔法』でそういうことは願わなかった」
儚げに微笑んで、女の子はぽつりと続けます。
「どんなに世界の形は変えられても……『ひと』の形だけは、どうしても変えられなかったの」
その言葉は、単に『不可能だった』というだけなのでしょうか。
それとも、『可能だったけど、それだけはしたくなかった』という想いが含まれているのでしょうか。
女の子はそれほどまでに人に絶望しながらも、まだ人を信じたいと願っていたのでしょうか。
「これで、わかったでしょ」
そこまで話すと、女の子は青年ににこりと笑いかけます。
「私はこんな気味の悪い魔女なんだよ」
「…………」
「だから、これ以上私と関わらないで」
「…………」
「あなたが好きだから。……私のせいで不幸になるのは、いやなんだよ」
今までとは違い、やんわりとした、あまりにも悲しい拒絶でした。
「違う、そうじゃないんだ!」
そんな女の子の態度を見て、耐えきれなくなった青年が叫びました。
「きみが魔女だとか、壁がどうだとか、そんなことは僕にとってどうだっていいんだ!!」
女の子の話にすっかり感情的になった青年は、思いの丈をそのままぶつけます。
「きみはただ、今までずっと不運だっただけだ。でもこれからもずっと過去を引きずったまま生きていく必要はない」
「…………」
「きみはこれから今までの分を取り返すだけの、たくさんの幸せを受けたっていいんだ!」
激昂する青年を見て、女の子はただただ困惑するばかりでした。
「……私を、怖いと思わないの?」
「怖いもんか!」
「さっき私の『魔法』を見ても、何とも思わなかったの?」
「そりゃ、驚いたさ。でもそれとこれとは別なんだ。僕はきみが魔法使いだろうが魔女だろうが、そんなことはどうだっていいんだ」
「…………」
「僕は、きみが何者だろうと構わないんだ。きみがきみであることだけが、僕にとっては重要なんだ。僕が好きになったのは、魔法の使える魔女でもなければ、不幸な過去を持った女の子でもない。他でもない君だからこそ、好きになったんだ」
一気にまくし立てる青年から、女の子は想像を超えた言葉の数々を投げかけられ、気持ちがぐらぐらしました。
「だから……っ!」
そう言うと、青年は女の子の手を取って言葉を続けようとします。
「……あ……」
もう一度記述します。
――青年は、『女の子の手を取って』言葉を続けようとしたのです。
「す、すまない……!」
青年は手を離すと、勢いで触れてしまったことを謝罪しました。
理由は不明なものの、女の子がさわられることを嫌がっていることだけはちゃんと理解していたのです。
しかし、女の子は決して触れられることを嫌がっていたわけではないのです。
お互いに触れることで、生じる現象に畏れを抱いていたのでした。
青年の激昂もありましたが、女の子の油断もあったのかもしれません。
どんなに気をつけていても、一瞬の油断が命取りでした。
女の子がそれに気づいて青ざめた時にはもう遅く。
青年が手を離したところで、もう取り返しはつかなくて。
ずっと女の子が頑なに守ってきた禁忌は、いともたやすく破られてしまったのです。
「……どうして」
青ざめた女の子が、亡霊のようなか細い声で青年を見据えて問いかけました。
「どうして私にさわったの、『ラティエル』さん」
馴染みのない単語を女の子が口にするも、男は一瞬その意味がわかりませんでした。
しかしその名が意味するものを理解したとたん、青年の顔が驚愕に染まります。
それは、彼が身分を隠すために旅の間名乗ってきた通り名でもなく。
都で呼ばれている、家名を継いだ仰々しい本名でもなく。
ましてや親しい間柄だけでしか通じないような、独特のあだ名でもなくて。
――幼い頃に洗礼でつけられた、本人とその場に居合わせた司教以外に知る者のいない、青年の『真名』なのでした。
第15話 とある魔女の告白
ここまで直球な好意を向けられたことは、女の子にとって初めてのことでした。
誰かに好意を向けられることなんて、生まれてから一度もありませんでした。
女の子には、どれだけ望んでも誰かに好意を持たれることなんてできない、生まれ持った宿命のようなものがあったのです。
(……好き?)
女の子は、自問自答します。
男は、たくさんの「好き」を積み重ねたブーケを女の子に差し出していました。
これに気づかないほど、女の子も鈍感ではありませんでした。
(好きって、なに?)
いくら女の子でも、それくらいのことはわかっていたはずでした。
けれどこうもダイレクトに好意をぶつけられると、その想いに戸惑う気持ちがありました。
「…………」
気づけば、女の子の頬が熱を帯びていました。
自分に向けられた好意が、じわじわと体中に染み渡るように広がっていくのがわかりました。
(この人が、私を、好き?)
女の子の気持ちの中で、何かがぐらぐらと揺れているような気がしました。
それは同時に、ある種の危機感も感じさせるものでした。
「わ、私は……」
恥ずかしさと喜びからか、さっきまでの冷たい態度はどこかに飛んで行ってしまっていました。
男のプロポーズまがいの言葉に、なんとかして反論を試みようとします。
「……っ」
けれど直後、ふっと夢から覚めたように冷静になるのです。
(そっか)
(好きってことは、つまり)
そう、つまり。
その言葉を引き出してしまった以上、もう後には引けなくなってしまったのです。
自分に向けられた経験こそなかったものの、本物の「好き」という想いがどれほど強いものかを女の子は知っていました。
それはもう、理屈じゃないのです。
その言葉を用いられた時点で、もうどう言い訳しようが逃げ道を塞がれたも同じことなのでした。
女の子がどう言いつくろおうと、どれだけ屁理屈を並べ立てようと、「好き」の前にはなんの効力も発揮しないのです。
そして逃げ道を失った女の子は、もう男に「事情」を話す選択肢しか取ることができないのです。
女の子にとっての「好き」は、拘束以外の何物でもありませんでした。
「……あはは」
乾いた笑いが、女の子の口から漏れ出ました。
「好きなんだ。……こんな、私のことが」
そして女の子には、男の「好き」を一蹴するような気持ちは微塵もなかったのです。
そうです。女の子も青年のことが好きでした。
大好きでした。
もしも、女の子がこれほど面倒くさい子でなければ、ふたりは今ごろ結ばれていたはずでした。
彼の提案通りに一緒に森の外に出て、ハッピーエンドが待っていたはずなのです。
「そんなに知りたいんだ……私のこと」
なのに、女の子はそんな幸せな未来に背を向けねばならないのです。
「……ああ、何度でも言うよ」
「…………」
「僕はきみが好きだ。だからこそ、きみのことをもっと知りたいと願うんだよ」
青年は、女の子の様子がおかしいことに気づいていました。
(全て偽りない、自分の気持ちだ)
胸を張ってそう言えました。口にすることで、女の子への好意が余計明確になっていくのも感じました。
(あとは、この子がどう答えるか、それを待つことしかできない)
彼が使えるカードは、全て使い切ってしまったも同然でした。
差し出した「好き」を拒絶されれば、もう彼にとれる手段はなにも残ってはいませんでした。
好きだからという、この上なくシンプルな理由。
これに勝る関わりたい思う理由なんて、あるはずはないのです。
(でも……なぜだろう)
(どこか、致命的な間違いを犯してしまったような、そんな気がする)
それは、先ほどからの女の子の態度から察していました。
何か、踏んではいけないスイッチを押してしまったような、そんな嫌な手応えがあったのです。
「…………」
女の子の目から、涙がつうっとしたたり落ちました。
彼は、いくら幸せを求めても得られない女の子に、初めて幸せを与えてくれた人でした。
そして、お互いに想いあっていることが確認できたその相手ですら、女の子は拒絶しなければならないのです。
そのための、涙でした。
「私の事情を聞いて、受け止めてくれるんだよね」
「……信じてくれとしか、言えないけどね」
女の子の涙からその心の内を探ろうとするも、男には全く想像がつきませんでした。
「そうだね。でも、それで十分かもしれない」
青年が「え?」と女の子を見ると、女の子はぽろぽろ涙を流しながら、無理やり笑い顔を作り、言うのです。
「私も、あなたのこと、好きだよ」
女の子から帰ってきた言葉は、一瞬、男の心にほわりと暖かな火を点すものでした。
「でも、一緒に森の外へは出て行けない」
けれどその火は、次の言葉ですぐに消されてしまいます。
「あなたは……私が好き。私も、あなたが好き。気持ちは、一緒なのに」
「……それなのに、この森を出て行けない理由は、なんなんだい」
事情。
女の子がこんな人里離れた夜の森で、一人きりで暮らしている理由。
ここから離れられない、その原因。
流れる涙をぐいっと拭うと、女の子はどこか寂しげに笑い、男に告げるのです。
「私はね」
女の子は一番言いたくなかった、心の奥底の闇を口にします。
「私はね、『魔法使い』なんだよ」
その時に浮かべた女の子の自虐的な表情は、青年の頭から離れなくなるくらいにくっきりと脳裡にこびりついたのでした。
第16話 世界の壁
「……は?」
突然出てきた突拍子もない言葉に、男は思わず呆気にとられてしまいます。
そんな男の様子を見て、女の子はいたずらっぽく笑いました。
からかうように、けれどどこか悲しそうに。
「そう言ったら、あなたは信じてくれる?」
「…………」
「それとも、バカみたいだって笑っちゃうかな?」
青年はこの問いに、なんと返せばいいのかわからなくなっていました。
(冗談なのか?)
(……それとも、この質問で僕を試しているのか?)
ただいずれにしても、この問いの答えは女の子にとって、非常に重要な意味を持っているのは間違いないのです。
(……魔法)
(それは、何を意味している?)
「……それはおとぎ話に出てくるような、炎や雷を出したりする、あの魔法?」
くすくす、と女の子は笑いました。
「そういうことも、やろうと思えばできちゃうね」
一見楽しげに笑う女の子の瞳からは、ただ静かに涙が溢れ続けていました。
自分の一番口にしたくないこと。重荷に感じていること。
生まれついてから、ずっと一緒に生きてこなくてはならなかったもの。
離れたくても離れられない、女の子が生まれ持った宿命。
それだけの負の感情を纏ったその言葉も、青年には届くはずもなかったのです。
だって、この世界にはそんなもの『存在していない』のですから。
存在しないものを抱えた苦しみなんて、わかるわけがないのでした。
「あなたは、『壁』の存在を感じたことはある?」
唐突に、女の子はそんなことを言い出しました。
「……壁?」
「そう、壁」
青年は、自然と部屋の壁の方に目を向けます。
そんな様子を見て、女の子は軽く笑うと「違うよ」とだけ口にしました。
「目には見えないけど確かにあって、その向こうには違う世界が広がってるの」
「……何を言ってるんだ?」
男には、女の子の言っている意味が全くわかりませんでした。
「私はね、生まれつき壁の向こうが見えちゃうの」
しかし女の子は、そんな青年の戸惑う様子を無視して語り始めます。
「昔はみんなも同じように見えてると思ってたんだよ。でも、違うって気づいたころには、もう遅かった」
涙を拭いて過去語りを始める女の子に、青年も倒れた椅子を戻してしっかりと腰を据えることにしました。
これから語られる内容こそが、女の子の本質そのものだと理解したからです。
*
「物心ついた時には、私はもう家族や村の人達から奇異の目で見られるようになってた。ちいさな時から大人の人でも知らないようなことを知ってたり、意味のわかんないことを口にしてたからだと思う」
最初の記憶は、自らの両親の嫌悪の表情から始まっていました。
女の子の生まれたのは、山間のちいさな村でした。
都から遠く離れ、遺産やマナ・ドミナ《機械》による文明発展の恩恵を受けることも少ない、俗世とは隔離されたこぢんまりとした村。
少規模であるために村人全てが顔見知りの、閉鎖的な集落。
そんな村で生まれた女の子のことは、幼い頃から村人達の間で知れ渡っていました。
意味のわからないことを口にする、頭のおかしい娘。
それでいて時折大人ですら知らないようなことを話す、気味の悪い子ども。
自分達とは違う、異端者。
もしもそういった女の子の言葉を、ちゃんとした知識のある錬金術師が聞いていたのなら、女の子はまた違った生き方ができたのかもしれません。
しかし農耕や狩猟といった昔ながらの生活を続けている人が多いその村では、そういった文明の香りとは無縁だったのです。
そんな村では、女の子の真価を見出せる大人は誰ひとりとしていませんでした。
「パパとママも、私のことをおかしな子としか思ってなかったの」
生まれついて理解者がおらず、まわりから蔑まれ、疎まれ続けてきた思い出を話す女の子は微笑みを浮かべていました。
すべてを諦めて、怒りも哀しみも通り越してたどり着いた、乾いた笑みでした。
「それでね。いつかは覚えてないけど、村の男の子達に無理やり家の外に引っ張り出されたことがあったの」
子どもは大人以上にそういった雰囲気に敏感で、残酷でした。
女の子は生まれつき、日光を浴びると肌が焼けたようになる体質でした。
そのせいで日中は家の中でしか過ごすことはできません。太陽が昇る時間帯に外に出ることは、体中を火傷することと同じだったのです。
しかし女の子の住んでいた閉鎖的な村では、そんな体質に理解があるわけがありませんでした。
「村の人達みんなから疎まれてた私は、絶好のいじめ相手だったんだろうね」
ちょうど両親の居ないタイミングを見計らって、村の子ども達が女の子の家に入ってきました。
「男の子達は天気のいい日に、『魔女裁判だ』なんて言って私を外に連れ出したの」
大人達から奇異の目で見られ、いつも家から出てこない女の子は村の子ども達の間で『魔女』として扱われていました。
「私は必死で抵抗したけど、数人の男の子相手じゃどうにもならなくて、そのまま外に連れ出された」
しかし本物の魔女ではない女の子は『魔法』であらがうこともできず、多数の悪意の前では為す術がありませんでした。
「お日さまの光を浴びた私は、すぐに体中に水ぶくれができた。誰か助けてって必死で叫んだけど、みんなはそんな私を見て面白そうに笑うだけだった」
ちいさな村でしたから、そこにいた少年少女はおそらく村中の子ども達だったのでしょう。
血気盛んな男の子達は、娯楽の少ない村で行われた『大捕物』に熱狂し、女の子を苦しめることが正義だと信じて疑っていませんでした。
そして同性の少女達からは、女の子はその器量の良さを嫉妬されていました。
男の子達が女の子を『魔女』と呼びつつも、その見た目に好意を寄せているのを見透かしており、内心面白く思っていなかったのです。
陽にさらされ色白な肌が焼けていく女の子を、幼い少女達はいい気味だとばかりにニヤニヤと眺めるばかりでした。
「その騒ぎを聞きつけて、村の大人の人達も集まってきたの」
子ども達が騒いでるのに気づいた村人達が、女の子が焼かれているところに集まってきました。
しかし一目見て状況を察した大人達は、それを止めることもなくただ遠巻きに眺めるだけだったのです。
――あの娘では、こうなっても仕方ない。
――何があっても自業自得だろう。
そんな言い分が、大人達の顔から滲み出ていました。
それでも諦めずに助けを求める女の子の視界に、両親の姿が写りました。
人垣の後ろの方で、自宅前での騒ぎを何事かと驚いた表情で眺めているところでした。
そして、何が行われているかを悟ったとき。
女の子の実の両親は、他の大人と同じような表情で成り行きを見守ることに決めたのでした。
「ふたりとも私の姿を見ても止めに入るどころか、ものすごく冷たい目で見つめるだけだった」
そんな両親が、交わした会話が女の子の耳にも届きました。
聞きたくなかった言葉。
内心そう思われているとわかっていても、そうではないと頑なに女の子が信じてきたことを打ち砕かれる、一言。
――いつか、こんなことになるような気がしてたよ。
――でもあの子の場合、どんな目に合っても仕方ないわよね。
「それで、もうどうでもよくなったの」
実の両親ですら助けてくれないのなら、この世界にはもう私を助けてくれる人はいない。
「だから、『壁』の向こうに助けを求めた」
女の子だけが感じ取れていた、世界の壁。
その向こうが見えることで生じていた、周囲との軋轢。
けれどこの世界に女の子が救われる方法が存在しないのなら、その向こうに希望を求める以外に為す術はありませんでした。
「そうやって必死で助けを求めて手を伸ばしたら、何かにさわった気がしたの」
何に触れたのかは、おそらく彼女自身にもわかってはいませんでした。
しかし『それ』にさわったとたん、女の子にはそれをどう使うのかがすぐにわかったのです。
――だから、それに願った。『私を助けて』って。
「気がついたら、辺りは一面の暗がりに覆われてた」
何が起きたのかは、その場に居た誰もが理解できなかったでしょう。
突然やんだ傷みに気づいた女の子が空を見ると、そこには見たこともないほど大きな『傘』が、日光を遮っていました。
その『傘』は見たこともない素材で出来ていて、まるで氷光花のように、ほのかな青白い光を放っていました。
そして村だけではなく、近隣の山々をすっぽりと覆い隠すほど、巨大なものでした。
「私をいじめてた男の子達も、それを見てた村の人達も、みんなすごい顔で私のことを見てたよ」
その場の誰もが、その『傘』を出したのは女の子と信じて疑いませんでした。
そしてそれはしばらく村の上空に浮いたまま消えることはなく、日光の当たらない畑では作物が育たず、飢饉が起きて村人の半数近くが犠牲になったのです。
そして、女の子は侮蔑を含んだ『魔女』ではなく、本物の『魔女』として畏れられるようになりました。
村人の全てから。
当然、女の子の両親からも。
*
「それからのことは……あんまり話したくないの」
長い話が終わり、女の子は一息つきました。
青年は無言のまま、一言も口を開きません。
その内心はいかなるものか、外からは計り知ることは出来ませんでした。
「これがこの森に来るまでの、私のはじまり」
「…………」
「私は持って生まれたこの力と、ずっと一緒に生きていくしかないんだよ」
そう言って女の子は男から視線を外し、あさっての方向を向きました。
いいえ、違います。
――女の子は、まっすぐに『こちら側』を見つめているのでした。
「今も、壁の向こうから『誰か』に見られてるのがわかる」
「……どこを見てるんだ?」
青年も女の子の視線を追うものの、その目はあさっての方向を向くだけでした。
女の子は、『こちら側』をまっすぐに見据えたまま続けます。
「でもね、私も向こう側が見える。向こう側の世界で、どんなことが起きているのかがわかっちゃうんだよ」
そういうと、女の子は目を細めて静かに呟きます。
「……『そこ』で、見てるよね?」
女の子は、『こちら側』に向かって語りかけます。
部屋の中には女の子と青年、それににゃーちゃんしかいません。
女の子は明らかに、その場にいない『誰か』に向けて言葉を放っていました。
「そこから私を見てるのは、だあれ?」
女の子は、くすりと笑い掛けます。
そうして女の子は『こちら側』に向けて、軽く手を振りました。
「私にも、ちゃんとわかるんだよ? ――『あなた』のことが」
その言葉には軽い批難が混じっていたものの、はっきりとした親愛の情も感じられました。
「……誰と、話してるんだ?」
ただ、青年には女の子の言葉の真意は、さっぱりわからないままなのでした。
第17話 禁忌
女の子が『こちら側』から、青年の方に向き直りました。
「やっぱり、わからないよね」
そう告げる女の子の表情は、とても穏やかでした。
まるで最初からこうなるのを、わかっていたかのように。
「……わからない、と言われてもね」
それを受けて、青年は言葉を選んでどうにか答えようとします。
「きみが今、誰と話していたのかさえ、僕にはわからなかった」
「……そうだよね」
「でも、きみの話を聞いて確信したことがある」
その言葉に、うつむいていた女の子は顎を上げます。
「きみはただ、運が悪かっただっただけだ」
「…………」
「きっと、きみには何か人とは違う才能がある。それを周りから理解されず、実のご両親からも拒絶されたことが深い心の傷になってるんだ」
「…………」
「だったらなおさら、僕はこの森からきみを外の世界に連れ出したいと思う」
青年は女の子から目をそらさずに、はっきりと続けます。
「外の世界には、もちろんきみが体験したような怖いことはたくさんあるよ。でもそれだけじゃないんだ。楽しいことや面白いこともいっぱいあるし、きみを疎んじたような村人だけじゃない。気のいい奴や優しい人も大勢居るんだ」
「…………」
力説する男を、女の子は無表情のまま見つめます。
「そのことを、きみに知ってもらいたい。そんな優しい人達となら、きみは絶対に仲良しになれるはずだから」
「…………」
「それに森の外に出れば、僕がきみに話したような世界中の猫を一緒に見に行くこともできるんだ。もちろん、にゃーちゃんも一緒にね」
さすがにその申し出には、少しだけ女の子の心がぐらりと揺らぎました。
が、しかし。
「……もしかして、まだ私が『魔法使い』なのを信じてない?」
「…………」
青年は無言で返します。それが答えでした。
遺産やマナ・ドミナ《機械》という『科学的』な産物を扱うことに慣れた現代人の男にとって、魔法なんてものは時代錯誤なオカルトにしか思えなかったのです。
女の子は、軽い落胆のため息を口にします。
青年が語ったのは過去の傷やこれからの未来についてだけで、女の子がずっと重荷に感じている『魔法』については一切触れていなかったのを見抜いたのでした。
「……これを見ても、まだそう言えるの?」
そう言うと、女の子は『こっち側』を向いて「ごめんね」と口にすると、そっと手を伸ばしました。
すると突然、『あなた』の眼前に女の子の色白な手がぬっと現れました。
そして、まるでペンを掴むような手つきをすると、そのまま何事かをそこに書き付けるしぐさをします。
“ 『『次の瞬間、部屋中に氷光花がぶわっと咲き誇っていました』』”
――記されたとおり、『次の瞬間、部屋中に氷光花がぶわっと咲き誇っていました』。
一瞬のうちに、室内が青白い光で覆いつくされます。
ガタンという大きな音がして、立ち上がった青年の椅子が倒れる音がしました。
熱に弱い氷光花は、室内の温度であっという間に溶けてなくなってしまいます。
しかし今起きたことは、青年もはっきりと目撃した超常現象でした。
「…………」
さすがの青年も、今の現象には目を見開いて絶句しています。
彼の視点では、女の子が何もない虚空に向けて手を伸ばしただけにしか見えませんでした。
ただそれだけで、一瞬のうちに部屋中に氷光花が咲き乱れたと思えば、すぐさま消えてなくなったのです。
現在発見されているいかなる遺産を用いたところで、何もないところを『操作』しただけで何かしらの現象を起こすことはできません。
それこそ、本物の『魔法』のように感じたとしても不思議ではありませんでした。
「……ごめんね」
女の子は『こっち側』を見ながら、再び謝罪の言葉を口にします。
「『そっち』に手を伸ばすから、驚かせると思っていつもは『見てない』時にしかやらないの」
見えない『誰か』に向けて話している女の子に、青年はますます混乱します。
この子は、一体誰と話しているのか。
そして、今の現象は女の子の言うとおり、本当に『魔法』だとでもいうのか。
「……魔法?」
「うん。『魔法』」
青年のひとりごとに、女の子が肯定の言葉を返しました。
「私は壁の向こう側に手を伸ばして、この世界に言葉を『書き加える』ことができるの」
これが女の子の『魔法』の正体でした。
次元の壁を超えて、世界そのものに干渉する能力。
世界の有様そのものをたやすく変性させる、人の手に余る、あまりにも大きな力。
「あの後の話を、少しだけするとね。私は村から別の街に移されたの」
まだ足りないと思ったのか、女の子はさらに過去のことを語り始めます。
そこからは女の子にとって、もっと辛い記憶でした。
「私が出した『傘』を調べに近くの都から錬金術師の人達が来てね。パパとママにお金を払って、私は買い取られたの」
「…………」
「連れて行かれたところでは、私はずっと監禁されてた。この部屋よりも狭い個室で、誰とも話すこともできなくて、一日に二回出される食事以外は何も与えられなかった」
女の子は自嘲した笑みを浮かべて、言葉を続けます。
「お洋服も一着だけだったし、お風呂なんて入らせてもらえなかった。でもあんまり放っておくと臭うからって、数日に一回だけ体を洗うことが許されてた」
辛い記憶を、辛い記憶だからこそ、女の子は必死に笑みを浮かべながら語ります。
「水をね、吹き付けるんだよ。ボロボロになった服を脱いだら、担当の人が水が勢いよく出るマナ・ドミナ《機械》を使って、私の体中を一気に洗い流すの。水を浴びたあとは寒くて仕方なくて、部屋に戻ってからしばらくぶるぶる震えてた」
「…………」
「その人が女の人だったから、まだよかったんだけどね」
とはいえ、その女性が女の子を見る瞳の中に、ある種の妬みがあったのも気づいていました。
しかし男性にそんなことをされるよりはずっとよかったので、あえて何も言わないままでした。
「それでね。たまに私の『魔法』を調べようと、錬金術師の人達が実験をするの。頭に鉄の兜を被せられたり、手足を拘束されて大きな筒の中をくぐらせられたり。 ――日光を、無理やり浴びせられたり」
村人から、女の子が『魔法』を使った状況を錬金術師達は調査で把握していました。
どういう方法で『魔法』が発動するかを探るため、彼らは女の子に様々な人体実験を施したのです。
「逃げようと思えば逃げることはできたんだよ。でも、逃げなかった。逃げても、逃げる場所なんてどこにもなかったから」
「…………」
「結局、その時に使った魔法は一回だけだった。私自身の体質を変化させたの。『日光が当たっても火傷しないで済むように』って」
あまりの辛さに、女の子は一度だけ『魔法』を使ってしまいました。
しかしその現象を観測したことで、錬金術師達の研究はますます過酷なものになっていき、とうとう女の子は人間そのものに恐怖を感じるようになってしまったのです。
「……何度もこんな世界、壊れてしまえばいいって思った。人間なんて、みんな死んじゃえばいいのにって思った。でも、一度も『魔法』でそういうことは願わなかった」
儚げに微笑んで、女の子はぽつりと続けます。
「どんなに世界の形は変えられても……『ひと』の形だけは、どうしても変えられなかったの」
その言葉は、単に『不可能だった』というだけなのでしょうか。
それとも、『可能だったけど、それだけはしたくなかった』という想いが含まれているのでしょうか。
女の子はそれほどまでに人に絶望しながらも、まだ人を信じたいと願っていたのでしょうか。
「これで、わかったでしょ」
そこまで話すと、女の子は青年ににこりと笑いかけます。
「私はこんな気味の悪い魔女なんだよ」
「…………」
「だから、これ以上私と関わらないで」
「…………」
「あなたが好きだから。……私のせいで不幸になるのは、いやなんだよ」
今までとは違い、やんわりとした、あまりにも悲しい拒絶でした。
「違う、そうじゃないんだ!」
そんな女の子の態度を見て、耐えきれなくなった青年が叫びました。
「きみが魔女だとか、壁がどうだとか、そんなことは僕にとってどうだっていいんだ!!」
女の子の話にすっかり感情的になった青年は、思いの丈をそのままぶつけます。
「きみはただ、今までずっと不運だっただけだ。でもこれからもずっと過去を引きずったまま生きていく必要はない」
「…………」
「きみはこれから今までの分を取り返すだけの、たくさんの幸せを受けたっていいんだ!」
激昂する青年を見て、女の子はただただ困惑するばかりでした。
「……私を、怖いと思わないの?」
「怖いもんか!」
「さっき私の『魔法』を見ても、何とも思わなかったの?」
「そりゃ、驚いたさ。でもそれとこれとは別なんだ。僕はきみが魔法使いだろうが魔女だろうが、そんなことはどうだっていいんだ」
「…………」
「僕は、きみが何者だろうと構わないんだ。きみがきみであることだけが、僕にとっては重要なんだ。僕が好きになったのは、魔法の使える魔女でもなければ、不幸な過去を持った女の子でもない。他でもない君だからこそ、好きになったんだ」
一気にまくし立てる青年から、女の子は想像を超えた言葉の数々を投げかけられ、気持ちがぐらぐらしました。
「だから……っ!」
そう言うと、青年は女の子の手を取って言葉を続けようとします。
「……あ……」
もう一度記述します。
――青年は、『女の子の手を取って』言葉を続けようとしたのです。
「す、すまない……!」
青年は手を離すと、勢いで触れてしまったことを謝罪しました。
理由は不明なものの、女の子がさわられることを嫌がっていることだけはちゃんと理解していたのです。
しかし、女の子は決して触れられることを嫌がっていたわけではないのです。
お互いに触れることで、生じる現象に畏れを抱いていたのでした。
青年の激昂もありましたが、女の子の油断もあったのかもしれません。
どんなに気をつけていても、一瞬の油断が命取りでした。
女の子がそれに気づいて青ざめた時にはもう遅く。
青年が手を離したところで、もう取り返しはつかなくて。
ずっと女の子が頑なに守ってきた禁忌は、いともたやすく破られてしまったのです。
「……どうして」
青ざめた女の子が、亡霊のようなか細い声で青年を見据えて問いかけました。
「どうして私にさわったの、『ラティエル』さん」
馴染みのない単語を女の子が口にするも、男は一瞬その意味がわかりませんでした。
しかしその名が意味するものを理解したとたん、青年の顔が驚愕に染まります。
それは、彼が身分を隠すために旅の間名乗ってきた通り名でもなく。
都で呼ばれている、家名を継いだ仰々しい本名でもなく。
ましてや親しい間柄だけでしか通じないような、独特のあだ名でもなくて。
――幼い頃に洗礼でつけられた、本人とその場に居合わせた司教以外に知る者のいない、青年の『真名』なのでした。
第18話 魔法の代償
「どこでそれを知った?」
ラティエルと呼ばれた青年は思わず語気を荒げ、女の子にそう問い返しました。
「その名は僕の家族ですら知らない真名のはずだ。それをどうして、きみが知っている?」
青年は困惑を隠しきれず、少し乱暴な口調でそう問いただします。
そんな彼を、女の子は何の感情も浮かべない瞳で見つめていました。
――真名。
青年の生まれ故郷では子どもが生まれると健やかな成長を祈り、本名とは異なる名付けをする風習がありました。
人ならざるものに名前を知られることは、魂を束縛されるのと同じこと。
彼らは名前を知ることで、その名を持った相手を魔の力によってどのようにでも操ることができるとされているからです。
そのため彼らに名前を知られないように、真名は生涯を通して隠されます。
誰にも知られてはいけない名前のため、本人以外の誰もその名を知ることはできません。
その名が広く明かされるのは、もう悪魔から狙われなくなった時くらいのこと。
すなわち、その人がこの世を去る葬儀の場になって、遺族達は初めて本当の名前がどのようなものだったのかを知るのです。
ですがかつては宗教的行事だったそれもすっかり形骸化し、今となってはただの風習の一つになっていました。
古くから続く文化の名残でしかなく、そんな経緯でつけられた名前なんて本人ですら覚えていないことが多いのです。
もちろん青年もその一人でした。
だからこそ、そんな名前を女の子が口にしたことで、青年は強く動揺しました。
しかもその名を口にした相手は、自らのことを「魔女」と呼称しているのです。
青年の背筋に冷たいものがひとつ流れました。
もしこの女の子が、本当に魔女であるというのなら。
その相手に真名を知られてしまった、自分は――?
「それじゃあレオンさん、の方がよかったかな」
「……は?」
オカルトめいた思考の迷宮に足を入れかけていた青年にかけられたのは、女の子のどこか気の抜けるような一言でした。
ですがレオンという名を聞いてその意味を理解したとき、青年の畏れはさらに強いものになっていきます。
「クレス、ディアルト、ユータ、トロメア。……どれも全部、あなたの名前だよね?」
「な、な……?」
次から次へと女の子の口から流れ出てきた名前たちは、青年にとって非常に馴染みのあるものばかりでした。
それらは青年が旅をする際、身元を隠すために用いてきた偽名の数々でした。
中にはその場限りの思いつきで名乗り、彼自身も忘れていた名前も混じっています。しかしそんな名前ですら、女の子は正確にそらんじることができたのです。
「き、きみは一体……」
得体の知れない怪物を見るような青年の瞳を、女の子は何も言わずにじっと見つめ返しました。
重苦しい沈黙が流れます。
青年には女の子が何を考えているのか、全く想像がつきませんでした。
さっきまではあんなにも、女の子のことを理解できると思っていたはずなのに。
たとえ、本当に魔女であったとしても。
「……これは魔法の代償なんだ、と思う」
どこかあきらめたように、女の子は言葉を紡ぎます。
「私の魔法は、世界の『壁』に言葉を書き加えることができる。それと同時に、『壁』に書いてある言葉を読むこともできるの」
ちらり、と『こちら側』に目を向けながら続けます。
「それは壁越しに見てる『誰か』の記録とかじゃない。……この世界そのものの記録なの。この世界が生まれて今に至るまでのすべての記録が、その『壁』に書かれてる。ところどころ途切れてるし私の頭じゃわからないところもあるけど、それでも一生かけても読み切れないくらいの情報が綴られてる」
『こちら側』の概念に置き換えるとアカシックレコード、といったところでしょうか。
「でも私はあえて読まないように気をつけてる。知ってしまうことでつらい思いをするのは、嫌っていうくらいわかってるから」
すべてを知る術を持っているからと言って、すべてを知ることを選びはしない。
それもまた、きっとひとつの選択なのでしょう。
「でも例外がひとつだけあるの。私の意思にかかわらず、『壁』に書かれた記録を読み取ってしまう。そういう条件」
そういうと女の子は手のひらを青年に差し出すと、虚ろな目をして言葉を紡ぎます。
「その条件が……『さわること』、なの」
その手のひらは色白ではありますが、見た目だけでは普通の人と大差あるようには思えません。
「私がさわったものは、この世界のものなら何でも『壁』からその記録を読み取ってしまう。……さっきあなたに触れた瞬間、あなたが生まれてから今に至るまでのすべての記録を見てしまったんだよ」
青年は女の子の言葉が理解できないのか、どこかきょとんとした顔でその告白を聞いていました。
しかしやがてその言葉の意味するところを咀嚼すると、乾いた笑いを口にします。
「いくらなんでも、それは信用できないよ」
あまりにも突拍子のない言い分に、さすがの青年もそう言葉を返します。
「きみの言うことが全部理解できてるわけじゃない。でもさわっただけで相手のことが全部わかるだなんて、どう考えてもあり得ない。そんなことができるとしたらきみは魔女どころか、全知全能の神さまみたいなものだ」
「…………」
神さまという単語に引っかかるところがあったのか、女の子の眉がぴくりと動きました。
「……それじゃあ、あなたのことを語ってみればいい?」
まるでおとぎ話でも語るかのように、女の子はとある男の半生を語り始めます。
「生まれたのは大陸の東のほうにある都市部。お父さんは名の知れた資産家で、遺産の発掘産業に携わってる。実のお母さんはあなたが幼いころに亡くなってて、その経験があなたの人格形成に強い影響を与えてるみたい。お姉さんがいて、あなたはその人をとても慕ってる。仲がいい姉弟なんだね。でも再婚相手の継母さんと義理のお兄さんとの関係はよくなくて、お互いに嫌いあってる」
「……は?」
突如女の子の語り始めた内容が理解できないのか、青年は思わず裏返った声をあげてしまいます。
「お父さんは頭の固い人で、あなたは強い苦手意識を持ってる。旅に出た理由はお父さんの仕事、家業を継ぐことへの反発心が発端だった。義理のお兄さんとはそのことで口論になることがよくあって、いつもその仲裁に入ってくれるのがお姉さんだった。そのお姉さんの後押しもあって、社会勉強を名目に一年という期間を設けて各地を巡遊する許しを得られた。故郷を出てからは、大陸を西へ西へと旅してきたんだね。そんな旅の中であなたの気持ちはちょっとずつ変わっていって、街にいたころよりも少しだけ大人になった。そうして大陸の西端、ここまでやってきたんだよね?」
「…………」
青年は絶句するしかありません。
そして何かをしゃべろうとしても、口がぱくぱくするだけで声を発することすらできません。
想像できるでしょうか。自らの半生が自分以外の口から語られること。
一語一句違うことなく自身の認識と一致していて、訂正する余地も与えられないこと。
そしてその内容は、本人以外知りえない個人的感情すら含まれていること。
「な、なん……」
なんでそんなことまで知ってるんだ、と続くはずだったのでしょう。
けれどそれすら言葉になりません。
そして仮にその問いを口にできたとしても、彼女の答えはすでに聞いてしまっているのです。
女の子が頑なに青年に触れるまいとしてきた原因がここにありました。
彼女にとっても、青年の記録を読むことだけは何としても避けたいことだったのです。
「……ね? あなたの気持ちも何を考えてるかも、全部見ちゃったんだよ」
人の心が覗けたら。
相手の思っていることが、言葉を介さずに知ることができたなら。
――けれどもし、その願いが実際に叶ってしまったら。
「だったら!」
強烈な体験から我に返った青年は、何かをかなぐり捨てるかのように叫びます。
「だったら、僕が君を想う気持ちが嘘偽りないものだってことも、わかってくれたはずだろう!?」
「…………」
そんな激昂する青年を、女の子はさめた瞳で見つめるだけでした。
「あなたが本当に私のことを想ってくれてること、ちゃんとわかってる」
「だったら、僕が心から君と一緒にいたいと望んでいることだって……!」
「言ったはずだよ」
青年の主張を制するかのように、女の子は言葉を挟みます。
「私はあなたに触れたことで、あなたのすべてを知ってしまったの。知らない方がいいことまで、全部だよ」
「だから、それは……っ!!」
「……つまりね」
そう言うと女の子はふぅと一息ついて、あさっての方向に目を逸らしぽつりとつぶやきます。
「あなたに婚約者がいることも、全部わかっちゃったんだよ」
その言葉に、青年は二の句を継ぐことができませんでした。
第19話 見ないで
「やっぱり、あなただけがこの森から出た方がいい」
婚約者の存在にふれられ、何も言えない青年に向けて女の子が静かに告げました。
「そんな人がいるなら私を連れて行くべきじゃない。でしょ?」
同意を求めるようなやんわりとした言い方ですが、その声色はどこか刺さるような冷たさを持っています。
それに対し、懇願するかのように声なき声を振り絞ろうと青年は躍起になりますが、その口からはぐうの音も出てきません。
完全に女の子のペースでした。
「…………」
とは言え青年の『記録』を読んだ以上、女の子もまた真相を知っているのです。
婚約者と言っても、彼の親が決めただけのものであること。
青年にとっては婚約者なんて、ほとんど記憶から消えているくらいの存在感しか持ち合わせていないこと。
そして彼は婚約を破棄してでも、自分と一緒になりたいと望んでくれていること。
それが彼の本心だということも、女の子はちゃんとわかっていました。
しかし、だからと言って青年についていくという選択肢はないのです。
「私は『魔法使い』で、他の人には使えない力がある。それに、たださわっただけなのに相手のことがわかってしまう能力まであるんだよ」
女の子は隠してきた、森の外に出られない「事情」を改めて青年に提示します。
「こんな私が、どうやったら人里で暮らしていけると思う?」
「…………」
「私をこの森から連れ出して、それからどうやって生きていくつもり?」
人の身にはあまりにも過ぎた、全知全能の力。
これがある限り、かつて女の子が『魔女』と呼ばれたように人から畏れられることはどうあがいても避けられようにありません。
だからこそ女の子は、常夜の森で猫とふたりぼっちで過ごしているのでした。
自分が人の世では生きられないことをわかっているからこそ、誰にも迷惑をかけないように、何にも影響を与えないように。
どんなに寂しくてもどんなに人恋しくても、この力がある限り「ひと」とともに歩むことは難しいことを、痛いほどに自覚しているのです。
「…………」
その問いに対して青年は何も答えることができません。
女の子の抱えている闇が、ここまで手に負えないものだとは思っていませんでした。
そして青年のその見通しの甘さすら、女の子は見抜いているのです。
「あなたは街に戻って、元の生活に戻るべきだと思うの」
決定事項を読み上げるように、淡々と述べていきます。
「私はこの森で、これからもずっとにゃーちゃんとふたりで暮らしていく。それが一番お互いのためだよ」
「…………」
青年には、その案に対抗する手だてはなにひとつ思いつきません。
そして彼の切りうるカードは、全て女の子に見破られているのです。
勝敗は既に決していました。
「きみの言うことを認めるとしたら……僕の気持ちも全部お見通しってことになるね」
しかし女の子の答えに納得のいかない青年は、どうにか逃げ道を模索して違う話題を切り出します。
「きみと出会い、きみとの日々を過ごして、僕の心がどう変化していったかも、すべて知ってしまったんだよね」
「…………」
「この想いに嘘偽りないとわかっていても、それでも駄目なのかい?」
青年の言葉に気持ちが揺らいだのか、無表情を取り繕っていた女の子の表情が少しだけ崩れます。
笑うような、怒るような、今にも泣き出しそうな。
さまざまな想いがごちゃまぜになった、哀しい素顔でした。
「……はぁ」
ほんの少し時間をかけてからの、一息。
激情の波から立ち直った女の子が選んだのは、どうやら怒りの感情のようでした。
「……私が見たのが、あなたと婚約者さんのことだけだとでも思ってるのかな」
どこか寒気がするような低い声で、ぼそりとつぶやきます。
「あなたが旅の途中でどういう女の人と過ごしてきたか、その人数まで言わせるつもりなの?」
青年の背筋に冷たいものが走りました。
彼も健全な年頃の男性です。
そして今回の旅は、人生最後の自由と割りきった上での一年でした。
いかに彼が生真面目な人間だったとしでも、そんな旅路で一度も羽目を外さなかったというのは野暮かもしれません。
もし女の子があと少し大人だったなら、あるいはそういう面も受け入れられたのでしょう。
けれど女の子は、どこまで行っても「女の子」のままなのです。
「……どうして私にさわったりなんかしたの」
言い訳を探していた青年に、掻き消えそうな女の子の声が重なります。
「私だって見たくなかった。あなたの過去なんて知りたくなかった、知らない方がずっとよかった。嘘でもいいから、もっと甘い夢を見させてほしかった」
声を震わせながら、女の子は勢いのままに想いを吐露します。
「……あなたには、私だけの王子様のままでいてほしかった」
ころりとこぼれた夢見がちな願いに、はっと気がついて自分の口をおさえます。
独占欲が溢れたのは言葉のはずみだったのでしょうか。
なにを口にしたのか遅れて理解したのか、女の子の顔がかぁっと赤く染まりました。
「……忘れて」
言うまでもなく、それが彼女の素顔でした。
全知全能の力を持っていたとしても、夜の森の魔女はただの女の子でしかないのです。
「あのね、僕は」
冷たく強張った仮面が緩んだのを見てか、青年は言葉を続けようとします。
「忘れなさい」
再び魔女の仮面を被ろうとするも、紅潮した頬はすぐには治まってくれません。
固く閉ざしたはずの本心が漏れたのが耐え切れないのでしょうか。
青年のことがまともに見られないのか、その瞳はうろうろと落ち着かない様子で辺りを行き来しています。
……と。
その時、女の子が何気なく「こっち側」に視線を向けました。
しばしの間。
やがて今までのやり取りが全て見られていることを察したのでしょうか。顔をますます赤らめると、キッと鋭い表情でにらみつけてきます。
「やめて」
女の子は声を震わせながら、静かに語りかけます。
「見ないで!」
――次の瞬間、『目の前』に女の子の手が勢いよく現れました。
その指は走り書きをするように動き、瞬時に新たな世界法則を書き加えてしまいます。
“ 『『壁越しに夜の森の魔女の姿は見えなくなりました。』』”
――記された通り、『壁越しに夜の森の魔女の姿は見えなくなりました。』
その魔法の発現と同時、女の子を『壁』越しに観測できなくなりました。
強い光とともに、ぐにゃりと世界が歪んでいきます。
そして見ていた光景は一転し、視界は夜の森のちいさな家の前へと強制的に「移動」されてしまいました。
再び家の中へと視点を移そうにも『魔法』によって女の子を「見る」ことが禁じられてしまったため、それすら叶いません。
ふたりと黒猫だけになった室内で、どんな会話が交わされているのか知る術はなくなってしまいました。
外からは中で何が起こっているか、窺うことすら叶いません。
家の窓のひとつから明かりが漏れていて、そこが先ほどふたりが食事していた部屋なのはかろうじてわかります。しかし『魔法』に縛られている以上、ふたりの姿を観測することは不可能です。
世界の法則は『壁』の外に在ったとしても例外ではありません。
観測者は、銀幕越しに手の届かない世界を眺めることしかできないのです。
ただ一度だけ、女の子の手が「こっち側」に伸びてきて『魔法』が使われた形跡がありました。
“ 『『出ていって!!』』”
――しかしその言葉は明確な対象を持っていないため、発現することはありませんでした。
ひとつわかるのは、『魔法』を使ってでも青年を追い出そうとしているようです。
とはいえ相当感情が高ぶっているのでしょうか。術式を無視しているために、その言葉は『魔法』になることはありませんでした。
観測者のいない、猫箱の時間。
蓋を開けた時、中の猫たちは生きているのか。それとも。
・
・
・
……きぃ。
どれくらいの時が経ったでしょう。
家の玄関がゆっくりと開き、中から誰かが出てきました。
「…………」
それは怪我もすっかり治り、重たそうな荷物を軽々と肩越しに背負い。
しかし虚ろな目をして、見るからに生気を失った青年の姿でした。
第20話 氷の花
しばらくの間、青年は家の前で呆然と立ったままでした。
焦点の合わない瞳でそのまま一歩、そして二歩。
しかし三歩目を踏み出そうとしたところで、その足はぴたりと止まってしまいます。
「……っ」
やがて意を決したのか、開いたままの玄関のドアへ勢いよく振り向きました。
そしてそのまま駆け寄るように取っ手を握ると、そのまま中へ――
「…………」
……入りませんでした。
ぎりぎりと歯を食いしばりながら、自らの手でドアをばたんと閉じてしまいます。
溢れる衝動を抑えられないのか、その手はふるふると震えていました。
やり場のない想いを込めた右腕を振り上げ、勢いのままに拳を思い切り叩きつけます。
木製のドアが壊れんばかりの轟音をあげて、夜の森の静寂にどこまでも響き渡りました。
青年はドアを後ろ背に寄りかかると、糸の切れた操り人形のようにその場にしゃがみこんでしまいます。
力任せに殴りつけたためでしょうか。その手から血が滲んでいます。
虚空を眺めるその表情は、魂が抜け落ちたかのようでした。
猫箱の中でどんなやり取りがあったのかはわかりません。
しかし吐き出された結果から、結論だけは容易に察することができてしまいます。
――森を出る支度を整えた青年の隣に、女の子はいない。
それが答えでした。
「…………」
青年の視界には闇が映っていました。
常夜の森はどこまでも暗く、ひとすじの光も差していません。
日の光が年中あたらないためかやけに湿気っぽく、むせるような空気がまとわりついてきます。
思えば女の子に助けられて以来、彼が家の外に出るのはこれが初めてでした。
そして家の中がどれだけ快適に保たれていたか、今になって知るのです。
(こんな陰気な森で一生暮らしていくつもりなのか、あの子は)
濃密な漆黒に、心の中まで浸食されそうな気がしました。
気が滅入りそうな闇の中に飲み込まれそうな、どこまでもどこまでも落ちていきそうな、そんな錯覚すら覚えます。
(……陽の光が浴びたい)
雲間からのわずかな陽射しでも、炎天下の灼けるような熱線でも構わない。
どんなものであっても、この明けない夜よりはずっとましに思えました。
そんな青年の視界の端に、何かぼんやりとした光が映りました。
月明かりよりも淡く、この暗闇の中でなければ見過ごしてしまいそうなほどの儚い光。
青年がゆっくりと視線を向けると、青白いほのかな光がぼんやりと暗闇を照らしています。
それはわずかな熱でも溶けてしまうため常夜の森でしか咲くことができない、氷の花の群生でした。
「…………」
彼はしばらくの間、ただぼんやりとそれを眺めていました。
やがて何を思ったのか、重たそうな荷物を引き寄せると中から何かを取り出します。
それは一枚のスカーフでした。ちいさな青い花が丁寧に刺繍されています。
手縫いなのでしょうか。既製品にしては粗っぽく、しかしハンドメイドならではの温もりが感じられました。
青年はゆっくりと立ち上がると、道端に群生している花のそばへと近づきました。
スカーフを手に、直に花に触れないよう、そっと手を伸ばします。
しかしその指が触れるより早く、氷の花は歪み溶けてなくなってしまいます。
たとえ布越しであっても、青年の体温の方が花の耐えられる温度より高いのです。
「……氷光花、か」
暗い闇の中でしか咲くことのできない、淡い光を放つ花。
ふれようと手を伸ばすも、人の温もりですら溶けてしまう弱い明かり。
けれど明けない夜の中で森が闇に囚われてしまわないよう、光を与え続けてくれるもの。
――私ね。たぶん今、すごい幸せなの。
ふいに、とろけるような声が青年の脳裏をよぎります。
それはついさっき女の子が口にしたはずの言葉。なのに、もう手が届かないほど遠く感じられました。
(あの子はきっと、魔法を見せたくはなかった)
魔法の力なんて持っていない、ただの女の子として見てもらいたかった。そう扱ってもらいたがっていた。
実際、彼女の『魔法』について口を開くのをあんなにも拒んでいた。拒み続けていた。
その隠そうとしていたものを暴いたのは、どこの誰だったか。
――私はね、『魔法使い』なんだよ。
そう告白した時に流した、全てを諦めたような自虐的な涙。
その理由も『魔法使い』という言葉の重さも、今ならわかります。
無邪気で、感情豊かで、純粋で。一緒にいるだけで心が落ち着いて、ころころと変わるその表情に癒されて。
そんな彼女をここまで追い詰めたのは、果たして誰だっただろうか。
「……はは」
皮肉な笑いとともに、罪悪感と自己嫌悪が青年に降り注ぎます。
「何が傷つけたくないだ……この馬鹿」
あの子を傷つけたくないという言葉に嘘はなかった。
けれどあまりにも頑なで痛々しい姿に耐え切れず、思わず踏み込みすぎてしまった。
女の子がひた隠しにしている闇にふれないまま、森を出る選択肢はありませんでした。
それは青年が女の子との未来を望む以上、避けては通れない道だったからです。
しかし、この生活がいつまでも続くものではないこともわかっていました。
だからこそ彼は、いつか踏み出さないとならない一歩を進めたのです。
彼女の抱えている事情がどんなに大きくても、背負えると思っていた。思いたかった。
けれどまさかここまでのものとは想像すらしていなかった。
しかし、何を言ったところで言い訳にしかなりません。
女の子は彼を信用したからこそ、隠し続けたかった『魔法』について口を開いたのです。
それを背負いきれなかったのは覆しようのない事実でした。
「……重すぎるだろ」
せめて人の力で解決できる程度の悩みであったなら。
遠い過去の心の傷が、いまだに尾を引いているだけだったなら。
自分が手を貸すことで、少しでも解決に近づけるような問題であったなら。
「僕にはもう、きみにできることは何一つ残ってない」
これはもう、どうしようもないこと。どうにもならないこと。
人知を超えた力に囚われている彼女を、人の力で救うことなんてできるわけがない。そんなのは夢物語でしかない。
仕方ない。誰も悪くない。何もできない。無力なんだ。諦めるほかない。諦めろ。
諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。諦めろ。
諦めるしか……
――私も、あなたのこと、好きだよ。
想いを切り離そうとする青年の心に、突如女の子の甘い言葉がリフレインします。
――でも、一緒に森の外へは出て行けない。
「…………」
一度は気持ちが通じあっていた。
同じ未来を歩む可能性も、わずかながら残されていた。
時は不可逆で、してしまったことはもうやり直せないけれど。
でも今なら取り返せるものだって、まだ何か残されているかもしれない。
(諦める、だって?)
このまま彼女を諦めて街に戻り、その後どうしようというのか。
父の仕事を引き継いで、好きでもない婚約者と結ばれ、やがて家族ができて。
そうして女の子を救えないままの人生が過ぎて、いつの日かこの世を去る時に「いい人生だった」と笑って言えるのだろうか。
今日この日のことは一生かかっても忘れることはできそうにないし、取り戻すことはできない。
時とともに痛みが和らぐことはあっても、その手を放してしまった後悔は一生消えることはない。
――でも、今だったらまだ「届く」かもしれない。
「……諦めるもんか」
青年の胸中に熱い炎がついていました。
その焔はつい先ほどまではなかったもので、強い決意と覚悟の象徴でもありました。
「僕はまだ、きみの名前すら知らないんだ」
名前すら知らない。そして、伝えていない。
もちろん女の子は青年の「記録」を読んでいるので、真名ではない本名も知っているでしょう。
ですがそうではないのです。彼は自分の意思で自らの名を伝え、そして教えてもらいたかったのです。
どこにでもいる男女がお互いを名乗りあうように、当たり前の形で。
「どうせ心を読まれるなら、今この瞬間の気持ちをきみに伝えたかった」
人の心はうつろい、常にその姿を変えていきます。
ですが女の子が読んだのは彼にふれた「当時」までの記録でしかなく、その後の経緯については彼女が望まない限り知ることはないのです。
「僕は一度森を出る」
その瞳に生気が戻っていました。
「でも、必ず戻ってくる」
そのままゆっくりと立ち上がり、家の中にいるだろう女の子に向けて淡々と語り始めます。
「戻ったら、まずはきみを傷つけたことを謝らないといけないな。助けてもらったお礼だって、まだきちんとしていない。そうだ、次に来る時はおみやげを持ってくるよ。それにまだとっておきの猫の話があるんだ。きみが聞いたら間違いなく大喜びするような、そんな素敵なお話なんだよ」
願いをかけるように、彼の望む未来が溢れてきます。
「だから、次に来た時は……必ずきみと一緒にこの森から出てみせるから」
言いながら、途方もない絵空事を口にしているような気分になりました。
しかしその気持ちを吹き飛ばすように、ただひたすら想いを重ねていきます。
「解決法なんてわからない。どうやったらきみを救えるのかなんて、その手立ても思いつかない。……でも必ず、またここに帰ってくるから」
それが正しいのか間違っているのかすらわかりません。
ただ胸に秘めた決意のままに動くことでしか、今の衝動を抑えることはできそうにありませんでした。
「にゃー」
そんな決意を固めた青年のもとに、気の抜けるような鳴き声がひとつ。
声の主に目をやると、何やら暗闇の中でふたつの瞳がきらりと光っていました。
「……にゃーちゃん?」
闇に溶けこむような黒猫は、物言わずじっと青年を見つめています。
その姿を見て、今この場ににゃーちゃんが現れた意味に気づきます。
「もしかして、外まで送ろうとしてるのかい?」
女の子の……夜の森の魔女が愛する黒猫。
それだけでも、何か特別な力を持った猫だとしても不思議ではない気がしました。
青年は女の子がにゃーちゃんとどう接していたかを思い返します。
女の子はこの猫にふれるのに一切の躊躇いがなかった。
それはにゃーちゃんの全てを知っているにも関わらず、そばにいることを認めているということなのです。
「……きっときみも、ただの猫じゃないんだろうね」
そうつぶやいた後で、ふと気づいたかのように付け加えます。
「いや、もしかすると本当にただの猫だから……」
しかしその思考が無意味なことに気づくと、青年は苦笑しながら頭を振りました。
「うらやましいよ」
青年が得られなかったものを持つ一匹の猫に向けて、率直な想いがこぼれました。
そして重そうな荷物を背負いなおすと、ようやく一歩目を踏み出します。
これから彼が進もうとしている道は、決して平淡なものではありません。
青年ですら全容を理解しているとは言いがたい、『魔法』の呪縛から女の子を救う方法を探すこと。
魔王に捉えられたお姫さまを救う、「王子様」になること。
それは決して一時の情熱だけで歩み続けられる道のりではないでしょう。
だからでしょうか。道端に咲く氷光花に目をやると、もう一度家の方を振り向き、かみしめるように言葉を紡ぎます。
「……またね」
多くは語らず、決意を固めて凝縮したように一言だけ。
そう宣言すると、青年は先導するにゃーちゃんの後を歩み始めるのでした。
第21話 フェアリーテールの向こう側
道なき道を進むごとに、氷光花の数が少なくなっていっているのに気がつきました。
それに伴って鍾乳洞の奥のようにしっとりとした空気が、だんだんと梅雨時のようなじめっとしたものに変わっていきます。
「蒸し暑いな」
森の外に近づくにつれて明らかに気温が上がっていました。
それにあわせるように氷光花の明かりがどんどん途絶えていくのは、ひんやりとした森の奥にしか生息に向かない環境だからでしょう。
つまり、女の子の家から確実に離れているという証でもありました。
「…………」
思わず立ち止まりそうになる脚を、青年はむりやり進ませます。
(このまま戻っても、何も変わらない)
仮にこのまま引き返したとしても、女の子は青年を拒絶し続けるでしょう。
隠し事はできない。嘘はつけない。
青年のことは全て女の子に筒抜けになっている。
そして女の子を森の外に連れ出す術を、何も持ち合わせていません。
また、青年が女の子と共にこの森に留まるという選択肢も失われてしまいました。
仮に外の世界のすべてを捨てると言っても、女の子はそれを認めはしないでしょう。
女の子と一緒に居るためには、青年はあまりにも外の世界に残してきたものが多すぎました。
そして彼の過去をすべて知ってしまったからこそ、女の子は共に留まってもらいたいという願いを捨てて家から追い出したのです。
青年の未来のために。
人里離れた森の中で世捨て人になっている自分と、同じ生き方を選ばせないために。
「あれ」
やがて進む道の先に、氷光花よりもずっと強い明かりが見えました。
「……光、だ」
行く手に陽の光が射していました。
青年にとっては随分と久しぶりの外の光。
けれど女の子にとっては絶望的な記憶を呼び起こすものでしかない、強い熱量。
その途中で、にゃーちゃんがぴたりと立ち止まりました。
「……どうした?」
「…………」
にゃーちゃんは当然何も答えず、その場でちゃっちゃっと毛づくろいを始めてしまいました。
急に道案内から興味をなくした黒猫を見て、猫の気まぐれに青年は拍子抜けしてします。
しかしその様子を見ていると、ただの気まぐれではなく、何かの意図を伝えようとしているように思えました。
「……きみもここまで、ってことか」
見るとにゃーちゃんは、陽の光が差しているところには近づこうともしません。
黒猫は闇と離れるのを拒むかのように、夜の中から出るつもりはないようでした。
その様子を見て青年は軽く笑うと、ちいさな案内人のそばにゆっくりとしゃがみます。
「ありがとう。きっと……いや、必ずまた会おうな」
そう言って青年はにゃーちゃんを軽くなでなでしました。
それを受けるとこれで役目は果たしたとばかりに、黒猫は森の奥へと戻っていきます。
ちいさな影が暗闇に紛れるのはあっという間でしたが、その後姿を青年はしばらくの間見守っていました。
「……さて」
青年は光の差す方を振り向きます。
その先には夜明けを思わせる淡い陽光が、木々の枝葉から幾筋も伸びていました。
太陽の光。
暗い森の底では決して浴びることのない、まばゆいばかりに燦々と降り注ぐ明かり。
少なくとも、光の中で生きてきた生命にとっては何よりも恋しいもの。
「……行くか」
青年は、夜の中から一歩を踏み出しました。
▼▲▼▲【○】△▽△▽
――闇に慣れた目が、光に焼かれるような気がした。
それと同時、意識を失いそうなほどの強烈な耳鳴りが起こる。
「がっ……!?」
耳の奥に響く高周波に、思わず呻き声をあげた。
次いでこみ上げてくる、強い吐き気。
一瞬のうちに男の五感は狂わされ、眩暈から立っていることすらできず、揺らぐ意識の中で膝をついてしまう。
「……なん、だ……?」
世界がぐるぐると回る。視界が定まらない。何が起きたのか全くわからない。
しかし『魔法』にも似た、おおよそ世の理から遠く離れた現象が起きたことを感覚が訴えてくる。
一瞬のうちに、熱砂の砂漠から永久凍土の寒冷地に移されたような。
どこにも雲なんてない蒼天から、急に土砂降りの雨が降り出したような。
標高の高い山の頂上から、地の底へと届くかのような深い谷底に突き落とされたような。
はっきりと、何かが変わった。
しかし彼は魔女のように、『超常的な何か』を感知する能力を有してはいない。
故に、何が起きたかまでを理解することはできなかった。
「…………」
混濁する意識が収まると、いつの間にかむき出しの地面に横たわっていた。
気がつかないうちに気を失っていたとでも言うのだろうか。立っていられず膝をついたところまでは覚えているが、そこからの記憶がない。
上体を起こし、徐々に慣れてきた目を上に向けると、空は木々の枝葉によって隠されていた。
しかしその木漏れ日ですら、明けない夜からすれば目が眩むほどの光の洪水のように思える。
ふと、来た道を振り返ってみる。
そこにはまだ夜の痕跡が残っていた。奥に行くごとに闇は深くなり、やがて日光が届かないほどの暗黒が口を開けるのだろう。
しかしその闇にはさきほどまでのような、どこか現実離れした何かがなかった。
代わりにあるのは今までの旅路で森の奥に迷い込んだときに感じた、闇の中に何かが潜んでいるのでは、という恐怖感。
常世の森の闇は濃密ではあったが、闇に潜むものへの恐怖は感じられなかった。むしろ闇に包まれることで、守られているという感覚すらあった。
それが一転し、闇の安らぎは闇への恐怖に置き換わっている。
「空気が……変わった?」
夜の匂いが、消えた。
鼻腔の奥にずっとまとわりついていた、湿り気のある独特の空気感がなくなっている。
しかしそれは、日の当たる場所で暮らしていた男にとっては馴染みのある空気でもあった。
「戻ってきた……のか」
戻ってきた。
思わず口から出たその言葉に苦々しく思いながらも、しかしこれ以上しっくりと来る言葉もないことを理解する。
出てきたはずの森の闇を見つめていると、奥から恐ろしい怪物が這い出てくるような気がして身震いが起きる。
そんなわけないと頭ではわかっていても、生理的恐怖から足早にその場から立ち去ることにした。
とにかく光へ、光の差す方へ。
この森の出口に向かってひたすらに歩を進める。
やがて視界が開け、枝葉に覆われた天上があらわになった。
揺らぐ陽光は斜めに地上を照らしている。
それが朝日なのか夕日なのか、長いこと夜の中にいた青年にはわからない。
しかし久々の光量と熱量に呆然としていると、その光源がゆっくりと上空へと昇りつつあるのに気づく。
どうやら森の外でも夜が明けたばかりのようだった。
空はどこまでも高く、抜けるような青空だった。
どんなに手を伸ばしても届きそうにない、蒼。
しかしその片隅に、空の青を拒むかのように白い何かが浮かんでいた。
それは遥か上空を漂い、陽の光が地上に届くのを遮ろうとしているかのようで。
「……『天宿り《あまやどり》』か。ちょうどこの近くに来てたんだな」
天高く、雲が浮かぶさらに上。
けれど重力の縛りからは逃れていない、空と宇宙の境界線。
そこに天空の一部を覆うように、巨大な鳥の形をした飛行体が何の音も立てずにゆっくりと回遊していた。
*
とにかく人里まで辿り着かないことには話にならない。
あれからどれだけの時が経ったのかはわからないが、盗賊団に襲われた街が最も近くの人里と言えるだろう。
運悪く夜襲に立ち会ってしまったのは、運が良かったのか悪かったのか。
地方は治安が芳しくないとは聞いていたのに、警戒していなかった自分が間抜けだったのか。
それとも常世の森に迷い込んだのは運命だったのだと夢を見るか。
なんにせよ、実家を出てからの旅路の果てに、生き方が変わるような出会いが待っていたのは間違いなかった。
あれからそろそろ一年が経つ。
親兄弟との確執から逃げるように選んだ大陸横断の一人旅ではあったが、確かに得るものは多かった。
旅を終えて帰郷した時、自分は彼らにどう迎えられるだろうか。
そしてどのくらい対等に会話ができるようになっただろうか。
大都市の片隅に閉じこもり、外の世界を見ようとしなかった以前の自分が恐ろしく子供に思える。
それだけ多くのものを目にして、価値観が変わったということなのだろうか。
平穏に慣れきって日々の些事に振り回されていたのが遠い過去のようだった。
考えてみれば、「あの子」にはかつての自分を重ねていたのかもしれないな、などと思う。
だからこそあの森から連れ出したかったのだろうか。
狭い世界で生涯を終えようとする一人の少女に、外の世界の広大さを見せてあげたかった。
それが独善だとわかっていたとしても。
「……必ず、また会いに行かないとな」
もう二度と会えないような不安を払拭するために、あえてそう声に出した。
あの子を救うとしたら、帰郷してからの身辺整理だけでは済まないだろう。
何よりも、情報が少ない。
彼女を苦しめている元凶がわからないことには、どうすることもできない。
常夜の森のことも『魔法』のことも、調べるのは帰ってからになる。
存在意義がいまいち見いだせなかったあの大図書館でなら、書庫を漁れば関連する情報の一つや二つは出てくるだろう。
なにせ管轄しているのはあのアカデミーだ。知識を得るのに足りないと言うことはないだろう。
(アカデミー、か)
その組織を思い浮かべて、今回の武装盗賊団との関係性に思い至る。
(盗賊団も面倒な奴らを敵に回したもんだ)
大陸各地から遺産を発掘するのが冒険者なら、見つかった遺産から旧文明の技術を解析し、それを元に機械を作り出すのが錬金術師だ。
彼らは冒険者ギルドとは異なる、アカデミーという結束の固い錬金術師ギルドを有している。
当然その影響力は強く、権力者も多く関わっていると聞く。
地方自警団が屯留していなかったために甚大な被害が出たが、あの街はカリネラというこの地方にしか育たない植物の産地として知られていた。
それは錬金術師たちから強い需要がある。
今回の事件を受けて、アカデミーが動いていないとは考えられなかった。
(市場が高騰してるかもしれないな、カリネラ)
そんなことを思いながら荒れた街道を歩いていると、行く手に黒煙が上がっているのが見えた。
風に乗って漂ってくる、何かの焼ける焦げ臭い空気。
そして、生臭い鉄の匂い。
「…………」
それには覚えがあった。
戦場の匂い。
命からがら逃げ出して、あの夜の森に辿り着くきっかけとなった、悪夢の記憶。
「まさか」
はっきりしたことはわからないが、あれからかなりの時間が経っているのは間違いない。
アカデミーの後ろ盾もあるのだから、街の復興は遅くはないだろう。
それに前回の襲撃を受けて、警備を強化していないとも考えがたい。
「まさか……また、襲われたのか?」
焦りを打ち消すように、自然と駆け足になった。
*
「……なんだ、これは」
黒煙の火元。
予想通り、盗賊団に襲われた街が火の手を上げていた。
青年が傷を負ったのは、確かに盗賊団に襲われたからだった。
だがその時受けた傷はすっかり塞がり、こうして自分の力で動けるまでになっている。
それだけの長い時を、青年はあの夜の森で過ごしてきたはずだった。
しかし眼前には、まだ襲われたばかりと思われる街の惨状が広がっている。
家には火をつけられ、街の通りには何人もの人間が倒れている。
その体躯には斬られたばかりのような傷跡が刻まれ、黒ずんだ血がどくどくと溢れていた。
街から盗賊団は去った後らしく、惨劇の跡が残るのみ。
あたりは火がぱちぱち燃える音と生存者の呻き声がどこからともなく聞こえてきて、思わず目と耳を塞ぎたくなる。
何人かは逃げられたかもしれない。
だが、全員が無事だとは思えない。
暴力による略奪の跡に、思わず口元を覆う。
しかしそんな凄惨な光景も、彼の感覚からすれば随分と前に「済んだこと」のはずだった。
「大丈夫か?」
内心の動揺と混乱を抑えながら、青年はまだ息のある住人の元へと駆け付ける。
とにかく今優先するべきは生存者の救護だ。
「……あんたは……」
「旅の者だ。前にこの街に厄介になったことがある。何があった?」
嘘は言っていない。
「武装した盗賊集団が、夜襲をかけてきたんだ……。奴らは南の方から来て……街の者が何人かさらわれた……。早く、早く地方警備隊に連絡を……」
そのままがくりと力が抜けて、意識を手放した。
事切れたのかと焦ったが、わずかに呼吸が聞こえてきてほっとする。気を失っただけのようだった。
そこへ、遠くから車輪の音が近づいてくる。
舗装されていない道をガラガラと音を立ててやってきたのは、旧式の移動機械の集団だった。
機能性だけを重視した無骨なデザインの鉄の塊は、甲高い悲鳴を上げながら四輪を停止させる。
止まるや否や側面のドアが勢いよく開き、中から目元以外を白い防護服で覆った集団が次々に飛び出してくる。
彼らは青年に目もくれず、組織化された動きで足早に街中へと散っていった。
「そこの君、大丈夫か?」
一連の様を唖然と眺めていた青年に、年老いた男の声がかかる。
「我らは地方警備隊だ。この街が暴徒に襲われているとの報を受け駆けつけたが……悔しいが遅かったようだな」
隊長だろうか。頭部をさらし、あごひげを生やした威厳漂う男が顔を歪ませながらそう口にする。
「君は生存者か? すまないが詳しく話を聞かせてもらえると助かる」
「…………」
襲われた街。救護に来た地方警備隊。
青年の時間感覚が正常なら、こんな出来事はもうとっくの昔に終わっていないとおかしい。
何故ならこの街が襲われた時に居合わせ、身動きすら取れないほどの傷を受け、それが完治するほどの時が経っているはずなのだから。
「聞きたいことが、あるんです」
「なんだね?」
「あなたは、常夜の森の魔女について何か知ってますか」
この場にはそぐわない、あまりにも的外れな問いなのはわかっている。
それでも訊かずにはいられなかった。
「……君は何を言っているのかね?」
やはりというべきか、怪訝な反応を返される。
「あー、この辺に伝わる言い伝えっすよ」
そこへまだ新人だろうか。若い警備隊員が話を聞きつけて会話に入ってきた。
「常夜の森の奥には魔女が住んでて、夜遅くまで起きている悪い子供をさらいに来るとかいう、どこにでもあるような戒め話っす」
「知っているのか?」
「俺、このあたりの出身なんで。昔母ちゃんに聞かされたことがあるんすよ」
それを聞いて隊長は青年を一瞥すると、静かに息を吐いた。
「常世の森なら、随分と前にアカデミーが隅々まで探索済みだ」
心なし、隊長の青年を見る目が変わっていた。
「その際に我々も護衛として同行した。森林内の高低差を含め、地理を隅々まで調べて詳細な地図まで作った。しかし君の言うような魔女なんてものは、どこにもいなかった」
「…………」
「あの森が常に夜のように暗い理由も判明している。錬金術師が言うには、光を反射しにくい樹木が密集しているために地表にまで陽光が届きにくいとのことだった。カリネラ同様この地方特有のものらしく、サンプルとして持ち帰っていたよ」
隊長は疑念の色を隠そうともしない。
明らかに青年の正気を疑っていた。
「錯乱しておかしな夢でも見たんだろう。この機械の時代に魔法なんてもの、子供でも信じない」
「そっすね。俺らもガキのころは怖がってたけど、今じゃちっとも信じてないですし」
「…………」
正論だと思った。
そう、それが常識。
魔法なんてもの、この世に存在するわけがないのだから。
「すまないな、我々は仕事に戻らせてもらうよ。落ち着いたらまた話を聞かせてくれ」
青年の言葉を妄言と決めつけ、そのまま救護に戻るふたりの隊員をただ見送ることしかできなかった。
少なくとも、今の状況では彼らが正解なのだ。
現実と妄想の区別が付かない男の与太話を聞いている暇があったら、一刻も早く救助に当たるべきなのだ。
だが頭ではそうわかっていても、青年の内心はぐつぐつと収まることはなかった。
……外の世界では、青年と魔女が暮らした日々はなかったかのように時は止まっていた。
そしてふたりが過ごした時間を証明するものは、彼の記憶以外に何も存在していない。
わかっている。
幻想の森に住む、猫好きな少女と過ごした日々のこと。
自分の言っていることがあまりにも荒唐無稽で、現実味に欠けていることくらいは。
――だが、それでも。
「……夢なんかじゃ、ない」
そう低くつぶやいた彼の言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。
第22話 凪いだ夜の底で
▽△▽△【●】▲▼▲▼
場面は外の世界から再び夜の森、女の子の家の前へと移ります。
外の世界では存在しないことになっているこの森は、相変わらず暗闇に包まれていました。
家のドアには誰かが殴ったようなあとがついています。
そのへこみを付けた本人はもうこの森から去ってしまいましたが、しっかりとその痕跡だけは残されているようでした。
女の子はまだ同じ部屋にいるみたいです。
しかし『魔法』の影響でその姿を観測することはできません。
たとえ『壁』の外からであっても、世界の法則に反することができないのは間違いないようです。
だとすれば、女の子のお話を続けるのはここで終わりなのでしょうか。
と、そこへ真っ黒な毛玉が家のそばへとやってきました。
いいえ毛玉ではありません。青年を外まで送り届けたにゃーちゃんが帰ってきたのです。
黒猫は正面玄関を素通りし、勝手口の方へと足音もなく歩いていきます。
そこのドアにはにゃーちゃんが外と中を行き来できるように、猫用の小さなドアが取り付けられていました。
勝手口の向こうはふたりで暮らしていた間、女の子が自室として使っていた厨房でした。
食事が終わったら洗うつもりだったのでしょうか。ハンバーグを作るのに使った調理器具が冷やされたままになっています。
傷心した女の子がこの食器を洗うだけの気力を取り戻すのには、どれくらいの時間を要するのでしょうか。
「…………」
すると、なにやらにゃーちゃんが何もない空間をじっと見つめています。
かの有名なフェレンゲルシュターデン現象でしょうか。
猫はこういった行動を取ることが多いですが、一体何を見ているのでしょうね。
「……にゃ」
……もしかしたら、その答えの一つがこれなのかもしれません。
にゃーちゃんがじっと見つめていた、その視線の先。
それは他でもない、「こっち側」をじっと見つめていたのでした。
*
「…………」
にゃーちゃんの低い目線で、家の廊下がゆっくりと進んでいきます。
猫特有の音のしない歩き方も、すぐ近くで聞くとわずかにてしてしと床を踏む音が鳴っているのがわかりました。
魔法によって記された追加ルールは『壁越しに夜の森の魔女の姿を見ること』の禁止です。
だとすれば壁越しではなく、にゃーちゃんの視点越しであれば女の子の姿を見ることは可能なはずでした。
魔法の穴をついたような方法ではありますが、ひとまず現時点では女の子があの後どうなったのかを確認するのはこれ以外方法はないようです。
にゃーちゃんは自分の視点越しに「誰か」が見ているのがわかっているのでしょうか。その猫足はまっすぐ女の子のいる部屋へと向かっています。
どこまで事情を知っているのかわかりませんが、少なくとも「こっち側」が見える以上は完全な部外者というわけでもないのでしょう。
青年もにゃーちゃんの素性に疑問を持っていましたが、やはりただの猫ではないのかもしれません。
女の子のいる部屋へつくと、まっさきに床に散らばるきらきらしたものが目に入りました。
猫の目線だからこそ目立つのでしょうか。薄暗い中よく見てみると、そのきらきらのひとつひとつが鋭利な何かの破片であることがわかります。
色や形状からするに、おそらくは何かの食器のかけら。
どういう経緯かわかりませんが、食事で使ったものが床に落ちて割れてしまったのかもしれません。
きっと、ふたりにしかわからないきっかけで。
にゃーちゃんはそれを軽快な動きで避けながら歩くと、テーブルと椅子をスルーして部屋の奥へと向かいます。
女の子はベッドの上でうつぶせに突っ伏していました。
その姿を見ても特に何も起こりません。
やはり壁の外から直接観測するわけでなければ、『魔法』の穴をくぐり抜けることはできるようです。
にゃーちゃんはその枕元へぴょんと飛び乗ると、布団に顔を埋めている女の子の頭のそばでちょこんと丸くなりました。
女の子の心中を察しているのでしょうか。辛かったねとも頑張ったねとも言わないものの、本当に孤独になってしまった女の子に寄り添うことを選んでくれたようです。
「……にゃーちゃん」
猫の気配で顔を上げた女の子は虚ろな目をしていました。
どこを見ているのかわからず、心がすっかり空っぽになってしまったかのように。
どれだけ泣いたのか、目が充血してうさぎのように真っ赤になっています。
猫箱の中で青年とどのような会話を交わしたのかはわかりませんが、その様子からするに相当激しいものだったことが窺えます。
「このベッドね……私の匂いじゃないの」
どこか夢心地にそんなことを言い出します。
「私の匂いじゃないのに、すごく落ち着くの」
そのベッドは長いこと青年が使っていましたから、彼の匂いが染み付いていたとしても不思議ではありません。
「あとでシーツ、ちゃんと洗うから……だから、もう少し……」
失ったものの残滓にしがみつく女の子は、どこか意識が朦朧としているようです。
自分が何をしてるのか、それすら曖昧になっているようでした。
「…………」
女の子はにゃーちゃんをなでようと、ゆっくりとその毛並みに手を伸ばします。
しかしその途中、何かに気づいたかのようにぴたりと手を止めました。
「……風……止んでる」
女の子がいるのは室内なので、当然風なんて吹いていません。
しかし何か重要なことに気づいたかのようにつぶやくと、女の子はにゃーちゃんをまじまじと見つめます。
まるで、その向こうにある何かを探るかのように。
「……そこにいるの?」
女の子の目は、はっきりと「こっち側」を向いていました。
しかしその瞳の焦点は今までとは異なり、わずかにズレているようです。
「ずっと私を見てたのと、同じひと?」
にゃーちゃんでも去った青年でもない、そこにいない何者かへの問いかけが続きます。
「……わざわざにゃーちゃんの視点を通して、私を見てるの?」
どこか困惑の混じった声色。
感情の消えた目に、ゆっくりと驚きの色が宿っていきます。
「どうして……?」
遠くを見る目でにゃーちゃんの瞳を覗き込んだまま、女の子はしばらくの間「こっち側」を見つめていました。
しかしやがて目をそらすと、ゆっくりと『壁』の向こうからこちらへ手を差し伸べてきます。
そして眼前に色白な手が現れると、そこに何かを記そうとペンを持つような手つきをしました。
しかしその手はどういうわけか震えていて、記される文字はミミズの這うようなものになっています。
それでも確実に、新たな『魔法』が世界に刻まれようとしていました。
“ 『『どんな手段を用いても、夜の森の魔女の姿を見ることはできなく――
「……にゃ」
ぴたり、と女の子の震える指が止まりました。
終わりの言葉を書き記そうとしたその時、にゃーちゃんが短くひと鳴きしたのです。
静かに、けれど意味ありげに。
「…………」
宵闇を凝縮させたような昏い目をした女の子は、視線を「こっち側」とにゃーちゃんのあいだを行ったり来たりさせます。
気のせいか先ほどと比べ、少しだけ生気が戻っている気がしました。
「…………」
やがてベッドから上半身を起こすと、何も言わずすっくと立ちあがりました。
そしてそのままにゃーちゃんの頭をやさしくなでなですると、そのまま背を向けて部屋を出ていこうとします。
しかし途中でぴたりと足を止め、おずおずと「こっち側」を見つめ、ゆっくりと口を開きました。
「……一度『魔法』を使ったら、私でも取り消すことはできないの」
言い訳をするように、そう口にします。
「だから気軽に使えないし、使いたくない。信じてくれるかわからないけど、これが私の気持ち」
虚空に向かって想いを主張する女の子の姿からは、どこか必死な印象を受けました。
その言葉に返事をすることすらできない相手に向けて、すがりつくかのように。
「私には、『あなたたち』がなんなのかすらわからない。別の世界の魔法使いなのか、それとも神さまみたいな存在なのかもわからない。でも、そこから見てることだけはわかるの。誰かが『壁』の外にいると、風が凪ぐから」
凪。
きっとそれはとても感覚的なもので、女の子にもどういうものなのか説明できないのでしょう。
「……どうして私なんかにここまで興味を持ってるのか、その理由もわからない。私を憐れんでるのか、面白がってるのか、ただの好奇心なのか。こうやって話してる言葉が通じてるのかもわからない。でも『あなた』を拒絶したのに、まだこうやって気にかけてくれてるのは確か、だから……」
伏せていた目をまっすぐに「こっち側」に向けると、女の子はゆっくりとその頭を下げていきます。
「だから……ごめんなさい」
今にも泣き出しそうな声で、謝罪の言葉を口にします。
その相手は、女の子の住む世界にはいない『誰か』でした。
「…………」
そしてテーブルの上に広がる、すっかり冷めた食事の後を目にします。
女の子の作ったハンバーグは綺麗に平らげられ、二人分の食器が無造作に置かれたままになっていました。
そのうちの何枚かの皿は床に落ちて破片があたりに飛び散っています。このまま放っておいたら怪我をするかもしれません。
「……片付けなきゃ」
女の子はそのかけらを怪我をしないよう慎重に拾い始めます。
するとそれに同調するかのように、楽しかった日々の残骸が脳裏をよぎってくるのでした。
「……いただきますは一緒に言えたのに、ごちそうさまは言えなかったなぁ」
ぽつり、とつぶやきました。
「誰かと一緒にいて幸せだなんて思ったの、生まれて初めてだったかも」
追い出した青年との思い出を拾い集めていると、自然と遠い過去が思い出されます。
――生まれ育った村。実の両親からも愛されなかった幼い自分。
魔法の力が知られ、研究機関を転々とさせられた日々。
何度目かの輸送中に事故に遭い、行く宛もないまま逃げ出した雨の日。
追っ手に怯えながらも過去を捨て、『魔法』を使わずに普通の人と同じように人里で生きようとしたこともあった。
けれど『魔法』の力がない自分はどこまでも無力で、「普通の人」にもなれなくて。
素性が明らかでない何もできない役立たずへの悪意に、ただただ耐えることしかできなくて。
そして触れただけで相手のことが読めてしまう体質だけはどうにもならず、人の表裏を嫌というほど見てしまい、やがて人間不信になって……。
その果てにたどり着いたのが、この夜の森だった。
人の世を捨てて得られたものは、安息という名の圧倒的な孤独だったけれど。
「こんな私を好きなんて言ってくれて、すごく嬉しかった」
今まで誰かを好きになる余裕なんてなかった。
生きていたくないのに死ぬ勇気も持てないまま、人に怯える毎日を生き抜くことしかできなかった。
「私も……こんなに誰かを好きになったのは、たぶん初めてだった」
でも、初恋じゃない。
幼いころ、近所に住んでいた男の子を密かに想っていたことがあった。
あの村では数少ない、私を普通の子として扱ってくれた人だったから。
そんなに接する機会があるわけでもなかったけど、顔を見るだけで嬉しくて。
村で明らかに浮いていた私にも他の人と同じように接してくれて。たまに見せる穏やかな笑顔が大好きで。
けれどあの魔女狩りの日、陽光に焼かれる私を見ているだけで、心のどこかで助けてくれないかなと思ってた私は、勝手に傷ついて。
……そして「傘」の魔法のせいで起きた飢饉の時に、この世を去った。
初恋の人は、私のせいで逝ってしまった。
彼の両親から涙ながらに憎しみをぶつけられたのも、当たり前のこと。
みんなの言うとおり、私は不幸を呼ぶ魔女だから。
「だから私のことなんか忘れて……幸せになって、ほしいな」
だから、こんなにも好きになったあの人には、これ以上私にかかわらないでほしい。
誰よりも幸せになってほしい。
大切なあの人の隣りにいるのは、私じゃない他の人の方が相応しいから。
私には、そこにいるのは無理だから。
そうして気持ちの整理をしていると、女の子の頬につうっと一筋の雫が流れました。
「……ぁ……」
自分が泣いていることすら気づかなかったのでしょうか。
ぽたぽたと滴り落ちる涙に気がつくと、それを拭いもせずに薄く笑いを浮かべ、力なくその場にしゃがみこんでしまいます。
その手から、かき集めたかけらがざらざらとこぼれ落ちました。
「なんで……私って、いつも……こう……」
幸せになりたい、なんておこがましいことを考えていたこともあった。
でもこんな私が幸せになれるなんて思えないし、あってはならないと思った。
そう思ってるはずなのに。わかってるはずなのに。
心のどこかでそんな身が哀れだとささやく自分がいて、いつもこうして泣いてしまう。
もう諦めるしかないことだって、何度も言い聞かせてるのに。
「…………」
そのまま顔を覆うと、泣き声が漏れないよう息を殺して身をすくめます。
その手のひらからは抑えきれない悲しみの雫が、ぽたぽたとしたたり落ちていました。
時折しゃくりあげる声、鼻をすする音。
けれど泣き声だけは何があっても漏らすまいと、必死にこらえているようでした。
こうなってしまうと、気持ちが落ち着くまでどうすることもできないのです。
今まで誰も見てないところで、こんなことを繰り返してきたのでしょうか。
自らの宿命に耐えることしかできず、理解者も得られないまま、ずっと一人きりで泣いてきたのでしょうか。
――誰かの幸福を祈ることはできるのに、自らの幸せを望むことができない。
こんな自分が幸せになるなんて許されるわけがない、叶うはずもないと思い込んでしまっている。
ずっと否定され続けた半生を送ったために気持ちが萎縮しきっていて、自己肯定感はとても低く。
今までの境遇に希望がなさすぎて、染み付いた不幸に安心感すら感じていて。
幸福の道と不幸の道があったとしたら、当然のように不幸の道を選んでしまい、それが自分にふさわしいと思いこんで。
むしろ、幸せになることを畏れてさえもいる。
だからこそ全知全能の力を持つにもかかわらず、何も知らず、何も望みはしない。
……もしも仮に、不幸な誰かを幸せにすることが「救い」なのだとしたら。
幸福を拒む相手を救いたいと願うのは、ただのエゴでしかないのでしょうか。
「…………」
さめざめと泣くだけ泣いて、ようやく落ち着いたのでしょうか。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、ゆっくりと立ち上がります。
疲弊しきって何もする気がなくなってしまったのでしょうか。散らばった破片もテーブルの上の食器もそのままに、よろよろと部屋を出て行こうとします。
その際、にゃーちゃんと「こっち側」をばつが悪そうにちらりと見るも、何も言わず逃げるように去ってしまいました。
にゃーちゃんはその後を追いかけることもなく、使う人のいなくなったベッドの上でうたた寝を始めてしまいます。
まるで「これ以上深追いする必要はない」とでも言うかのように眠りの世界へと落ちていってしまいました。
……こうして夜の帳は開けることのないまま、凪いだ闇の底にはすやすやと眠る猫の寝息だけが残るのでした。
<#1 END>
夜の森と少女と猫と。#1
続編始めました。
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