あのお酒はどうなった?
ミステリーっぽいタイトルだけど、今回は何も起こらない。
■列車が停まる
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これの後ではある。
まさに予想した通りの顔だった。
不平不満と罵詈雑言が形の綺麗な目から眉から鼻から当然口からも、露骨に漏れ出さんばかりに歪んだ顔。ああ、これだ。実に愉快。手をひらつかせてみたが返事はなかった。
グレイ氏は私を見ていなかった。不平不満と罵詈雑言が驚愕に変わっている。ここにいればグレイ氏のいろんな表情が見られる。ケーキも紅茶もより至福というわけだ。
「久しぶり。ジーナは元気?」
「娘の話はしないでくれ」
「あら、ごめんなさい。でも気をつけないと違う意味に聞こえちゃうわよ」
グレイ氏は深く息を吸って吐き出した。相変わらずすぐに苛立つ。多くの原因たる私が言うのもなんだが、その癖はなんとかしたほうがいい。
今日はカウンター席だった。前回はお皿やグラスを拭いてばかりだったマスターも、今日はマスターらしく忙しなかった。ミアもあちこちに酒を運んだり注文を取ったりと動き回っている。
不自然なほど静かにグレイ氏は椅子を引いた。私と彼女の間。女性の隣で荒い態度を曝け出すほど無粋ではないようで安心した。
そうしなかったのが意外でもあった。
「コーヒーいただけますか」
「カクテルじゃなくて?」
「今日はコーヒーの気分なんです」
割りものを作っていたマスターが顔を上げた。怪訝そうだった。
「何を意地になってんのかね、この若造は」
笑うのを堪えた。白いコーヒーカップのセットには角砂糖もミルクも添えられていなかった。グレイ氏は頬を引き攣らせたが、信じられない速さで取り繕った。
「約束の」
澄ました顔のまま内ポケットから小さな箱を取り出した。白地にこれもまた白地のリボンが結ばれている。こんなところで取り出すくらいだから、愛を込めて選んだアクセサリーなどではないだろう。白々しい化けの皮が清々しいくらいのそれは、細い指先の外側が赤く塗られた手に移った。
「確かに受け取ったわ。いつもありがとうね」
グレイ氏はコーヒーを煽った。空になったそれを、マスターが「もう飲んだの? じゃあ、いつも贔屓にしてもらってるから」と鮮やかに交換した。またもや趣向の追加品はなし。グレイ氏は何か言いたそうに拳を握っていたが、言いたそうにしていただけだった。
「貴方って本当に遊ばれやすいわよね。とっても素直だから」
「素直な人間はこんな店に来ない」
「じゃあどうして私の名前を呼ばないのかしら」
すっと横目が流される。
「彼にはもう自己紹介しちゃったわよ。私はフレア。バートン・グレイのちょっとした知り合いよって」
「ここのお得意様だとか。おかげさまでランチ限定のケーキセットにまでありつけて、私はもう大満足です」
「大満足なら帰ったらいかがです。もう遅いですし、貴方のような見るからに貧弱で軟弱そうな遠目には男か女かもわからないような方、もし襲われたらひとたまりもありませんよ」
「心配してくれるんですか? 嬉しいですねえ」
わざとオーバー気味に言ってみる。フレアは口を抑えて笑っていた。数秒間肩を震わせていたが、グレイ氏は「そもそも」と急に居直った。
「どうして貴方がいるんですか。会員でないなら招待がないと入れないはずなんですが」
「だから私の招待よ。それ以外ないじゃない」
「だからどうしてそうなったと聞いてるんだ。こいつがどんな人間か知ってるのか? まさか知り合いだなんて言わないよな」
「あらやだ。怒ってる。私が誰を招待しようと私の自由のはずだけど」
「質問に答えろ。話をはぐらかすな」
「まあまあ」
身を乗り出して間を割った。挑発とも取れる素っ気ない態度のフレアと、その安い挑発にあっさり乗りかかっているグレイ氏。さながら見物には持ってこいの三角関係の主役になった気分。三角関係ならこの席順はおかしいが、まあ似たようなものだ。まさか自分がその構図に入り込む日が来ようとは。
「私から説明させてください。どうしてもここのメニューをもう一度食べてみたくて。特にケーキセットが。どうしてこうも私のスイーツセンサーが捨て置かないのかと思ったら、マスターお手製だったんですね。納得しました」
「それはまた素晴らしい直感でしたね。羨ましい。しかし時間の概念を犠牲にしたようです。お昼限定なのに夜来たところで」
「今更一般客として入るのは忍びないので、厚かましいながら、どうにか関係を深めてお願いできないかと思いまして。それで何度か立ち寄ったんですけど。でも会員じゃないと入れないでしょう?」
「たまにお昼に来られる方もいらっしゃいますけどね。ご家族やご友人を連れて来られたりして」
カウンター席だからお互い声がよく聞こえる。マスターがボトルをグラスに傾けながら呟いた。
「よくやると思うには思うけど、良くも悪くも信頼していただいてるのかな。ありがたいですよ」
はん、とグレイ氏が高みから哄笑した。
「考え方はいろいろあるわ。私はどちらかというとこちらの方の感覚に賛成」
優雅に持ち上がりかかったコーヒーカップが下りた。
フレアは茶目っ気たっぷりに両手を組んだ。
「でも悩むわ。ここのお料理は是非友達にも食べてもらいたいもの。特にケーキは最高よ。今日はありがとね、マスター」
「種類は限られちゃうけどね。チーズケーキとかガトーショコラなら寝かせる時間が長いから」
「つまりお昼に出すときよりも出来立てってことでしょ」
「出来立て料金上乗せですよ」
「もー。マスターってやっぱり面白い人」
特に表情に変化のないマスターとは反対に、フレアはカクテルを揺らしながら楽しそうだった。食べ終えたガトーショコラの皿はとっくに下げられていた。
真横はあんなに華やかなのに、この男の発するオーラときたら辺獄の悪魔か。当然コーヒーは減っていなかった。
「で、その後は? 貴方のどうでもいいところで鋭い第六感がどうなったんでしたっけ」
「要するに声をかけてくださったということです。この時間帯に入ったことがあるのか聞かれたので、一度あると答えたら、じゃあ一緒に行こうかとお気遣いいただいたんですよ。店に貼りつく私を以前にも見かけていたらしくて」
「相変わらず勇ましい執着心ですね。気持ち悪い」
「相変わらず口が悪いですね。お変わりないようで安心します」
グレイ氏はコーヒーを一口だけ飲んだ。顔を顰めた。
「トニーは元気ですか」
「ええ」
「お嬢さん方も?」
「はい」
「よかった。今度お邪魔していいですか」
「やめてください」
「さすがに引っかからないか」
「……」
また一口飲もうとしてやめた。浅く息を吐く。不服そうにカップを睨んで顔を逸らした。
「ブラック、苦手だったんですね。意外です」
「いけませんか」
「そんなこと言ってないでしょう。苦手なものくらい私にもあります。ただ、苦手なら苦手ではないものと交換してもらえばいいのにと思って」
「交換?」
「あれはギムレットではないですか。前に飲まれていましたね」
意図はそれで伝わった。フレアの手の中で波立つグラスはいかにも優美で淑やかで、甘さと少しの苦さが視覚の壁を破って滲み出してくる。形のよい唇にギムレットが少しずつ流れ込み、細い首のか細い喉が揺り動く。目が覚めるほど艶っぽく、できるものなら組み伏せてしまいたいと思うほどだった。
と妄想するに違いないと思ったのに。とうのグレイ氏は片頬をつき、退屈そうにどこへやらと視線を投げていた。
「何か思い違いをされているようですね。彼女自身言っていたんでしょう。ちょっとした知り合いです」
「ふうん?」
ちょっとした知り合いという言い方に含みを感じているのだが。
「お互いに負担なくできる範囲内で協力することはあります。さっき渡したのもそのひとつ。それだけですよ。貴方の想像するようなことはありません」
「来られた瞬間とてつもなく不愉快な顔をしたのは、私がいたこと以上に彼女と私が仲良さげにお喋りしていたからかと思ったので」
なんならマスターのサービスも思いきらないグレイ氏への当てつけと解釈していた。まさかあの場でコーヒーで大人ぶろうとしたことを追い立てたわけではあるまい。いややっぱりあるかもしれない。
「厄介ですね。いちいちしょうもない考察をして、生きていて疲れませんか」
「結構楽しいです」
「貴方のくだらない考察癖に敬意と侮蔑を込めて、ひとつヒントを差し上げましょう。私が彼女の名前を呼ばなかったのはどうしてだと思いますか」
「そうですねえ。意中の女性の名前を他の男に知られるのが嫌だった、という以外に考えられるとしたら」
言いながら想像がついた。フレアとグレイ氏の間に何もないとは正直未だに信じていないが、その提示については納得がいく。グレイ氏はまだ不満そうにコーヒーを見つめていた。
私もグレイ氏も得意分野だ。言おうとした瞬間、ドアが開いた。
世間は見る様悪人だらけ。この店、なかなか繁盛しているらしい。
「おうマスター、いつもの頼むぜ」
野太い声を響かせ豪快に歩いて来たのは、樹齢何十年どころではない巨木のような男だった。品のいいコートは手入れが荒いのか年季が入っているのか、ところどころ毛羽立っている。男は私より20歳以上、もしかしたら30近くも年上に見えた。
一直線に進んでカウンター席を陣取った。今日も寒いなあ、などと言いながら被り込んだ帽子を取ると、ようやくすぐ隣に人がいたことに気付いた。
「見慣れねえな。新参者か? あれ、でもどこかで見たような……あ? ケーキ? 早々食えないはずだが」
「デクスター」
顔を覗かせ手を振ったのはフレアだった。デクスターと呼ばれた男は嬉しげに声を上げた。
「ヘザー! なんだおい、いるならいるって先に言えってんだよ。ってことはバートン坊もいるのか」
「そこにいるわ」
「ああ、ほんとだ。いい女に霞んで見えなかったぜ。なあおい元気か、バト坊。なんでまたコーヒーなんか飲んでんだ? しけてやがんな」
一方的にまくし立て、デクスターは大声で笑った。そこにマスターが静かにグラスを置いた。
「いつも言っているでしょう。お静かに。他のお客様のご迷惑になりますから」
「おっと。こいつは失礼申した」
出された水を一息に飲み、グラスを戻す。マスターはようやくビールとジョッキを取り出した。
「バト坊」
「その呼び方はやめろ」
「坊だろうが。飲めもしねえもんを頼むな。明らかに減ってねえだろ」
「2杯目なんだ。最初のは飲んだ」
「贔屓にしてもらってるからって、マスターがサービスしてくれたのよ」
「マジかよ。また遊ばれてんのか。お前らしいわ」
がははは、と笑いかけて口を閉じた。マスターがじっとりと睨んでいる。誤魔化すようにデクスターはジョッキにビールを注いだ。
「よかったら席を代わりましょうか」
声をかけてみる。デクスターは「いやいや」と首を振った。
「知ってる顔につい嬉しくなっちまったが、こうして会うのも何かの縁だからな。デクスター・アライド。あんたは?」
差し出された手は岩のようだった。一瞬躊躇ったが握り返した。
「ロビン・ローエンです」
グレイ氏の迎撃はなかった。
「ロビン・ローエン。……ああ、あの作家さんか! 大変な目に遭ったな。助かって何よりだったぜ」
「おかげさまで」
前に軟禁されたことのほうだ。今までにもいろいろな人に声をかけてもらった。
「申しわけないな、忘れてるなんてよ。あんたみたいな有名人さん、結構事件に巻き込まれてるもんでな。ニュースになったりならなかったりするんだが」
どでかい図体で隠れるのは苦手そうな上、豪傑で快傑。風貌通りに声が大きくよく笑い、歩くだけで道が開きそうな頼りになる背の大男。なるほど。だからここにいるのか。
「警察の方?」
「よくわかったな」
「如何にもという感じがしたので。その節はお世話になりました」
「いやいや、あれは大ニュースになってるからな。俺はそんなに絡んでねえよ。それに俺らは民の税で食ってんだから、民を助けるのはせめてもの務めだろうよ。礼を言うことなんかねえって」
あれ。健全な公人らしいこと言ってる。
横でグレイ氏が鼻で笑うのを感じた。確かに坊だ。
「ところで」
「うん?」
「ヘザーというのは?」
グレイ氏の頬が歪んだ。自分で言い出したことなのに忙しい男だ。
「彼女は私にフレアと名乗りましたし、そう呼ばれているようです。愛称ですか」
「へえ。同じ名前を使ったのか。珍しいな、ヘザー」
「バートンが私をそう呼ぶと思ったから。呼び方が違うと混乱するでしょ。でも今日は呼んでくれなくて」
「おいおい、バト坊。いい女が悲しんでるぜ。名前くらい呼んでやれよ」
「もう。デクスターったら」
「わかったでしょう。こういう女性なんです」
呆れ果てたとばかりにグレイ氏は言った。
「会う度に違う名前を名乗る。知ってる相手にもね。揶揄われてることに気付いたら慣れた名前で勝手に呼ぶようになりますが、玩ばれたほうはたまったもんじゃない」
「玩ばれたんですか」
「作家のくせに比喩表現というものを知らないんですね。とにかく私がこの女性の名前を呼ばないのはそういうことです。しかも木偶の坊と一緒になると悪ノリして面倒だし」
「木偶の坊とはひでえなあ」
「こっちがバト坊ならそっちは木偶の坊だ。まったく最悪の気分だ。来ると知ってたら今日にしなかった」
「まあまあまあ。皆さん要するに、ときどきこうしてご一緒するということですね。特にデクスターさんとグレイ先生は縁深そうです」
何故私が険悪なムードを、というかグレイ氏だけが一方的に険悪なのを諌めないといけないのかわからないながらも間に入っておく。ただケーキを食べに来ただけのつもりだったが、グレイ氏のことを知るいい機会かもしれない。
「警察の方との繋がりもあると伺ったことがありまして。デクスターさんのことだったんですね」
「俺だけじゃねえけどな。俺は純然たる善意でバト坊に協力してるが、何人か金掴ませたり脅したり。おうマスター、おかわりくれや。……ロビンだったな。飲むか?」
入れ替わったビール瓶を差し出してきたが遠慮した。今日はアルコールを入れるつもりではなかった。
じゃあ、とデクスターが何か言いかけたのと怒声が響いたのは同時だった。
声の出どころは奥まったテーブル席だった。前に私とグレイ氏が座ったところだ。向かい合った2人の男が睨み合っている。テーブル上でグラスが倒れ、床に雫が滴っていた。そのすぐ傍には小さな長方形のものが何枚も散らばっている。トランプだろうか。
注目を集めていることに気付かないほど興奮しているのか、男たちはまだ怒鳴りあっていた。
「うるせえな。賭けでもやってこじれたか? それかイカサマでも仕掛けたか」
「リッキーちゃんは外にいない? イカサマなら本人にやり返すのが一番すっきりするでしょ」
「今日は使ってない。あと手品や罠とギャンブルのイカサマは全然違う。多少の気は利かせるかもしれないが、やりすぎがちなのは知ってるはずだ。簡単には出さない」
「そうだったな。だからお前も命削ってんだったか」
ジョッキのビールを飲み干し、デクスターは「よっこらせ」と腰を上げた。
「そういうところも坊だって俺は言ってんだけどよ」
こういう店だ。エスカレートする騒ぎを客たちは恐れるというより、苛立った空気が溢れ始める。誰かが舌打ちした。遠くで鳴るジャズ音楽以外の音がない店内では、それは大きく響いた。
「おい誰だよ今のっ!」
言い終えた瞬間にその男は床に伏していた。
頭を掴んで引き落とすように真下へ潰す。落ちていたトランプが衝撃で浮き上がり、また落ちた。
「すまねえな、力技で。これが一番早いと思ってよ」
デクスターが絶句している男を見上げて申し訳なさそうに笑っていた。
眠そうに事態を見守っていたマスターがぼやいた。
「床、修理が必要だったら請求するから」
「どうして私に言うんです」
「あんたの連れだから。そっちでなんとかしてください」
グレイ氏は歯噛みしていた。今日いるのは聞いてないとかなんとか言っていたがすべて聞かれていなかった。
「何があったか知らねえが、ここじゃあちと都合が悪いぜ。落ち着くか、場所を変えて話したほうがいいんじゃねえか?」
「関係ないだろ! どけよ!」
「何言ってんだ。関係ねえから仲裁に入れんだろうがよ」
正論だ。
迫力に気圧されていた相手方の男が動いた。顔と身体は動かさず、視線をゆっくりと這わせる。何か探しているような。
ん。これは。
「仲間がいるわね」
「そうみたいだな。あまり仲良しではなさそうだが」
「誰も心配してる顔じゃないものね。あのゲームもゲームに見えてとんでもない密談だったのかも。そういう人が集まるお店だし」
フレアは半分と少し残ったギムレットのグラスをグレイ氏の前に滑らせた。
「お口直しにでもどうぞ。残りもので悪いけど」
「なんのつもりだ」
「そのコーヒー、飲まなかったら流すことになるわ。もったいないじゃない」
「そういうことじゃない」
「残念だわ。久しぶりにゆっくり話そうと思って部屋を取ってあったのに、また今度みたい」
火の付く勢いで横を見やった。グレイ氏は鬱陶しそうにギムレットに視線を刺すばかりだ。
「じゃあバートン、また。ロビンちゃん」
なんの基準か知らないが、私とリッキーは同列のようだ。
「お友達になれてよかったわ。新作も楽しみにしてる。照れくさくて言えなかったけど、私ファンなのよ」
「嬉しいです。頑張りますね」
フレアは名前通りに煌めく笑顔を咲かせ、騒音の元に向かう。怪しい動きをしていた男に近づき、両手を取った。何か耳打ちし、デクスターと少し話すと、やっと封じていた男を解放する。
デクスターとフレアと迷惑な客2人が店を出て行った。デクスターはカウンターの前を通るときに「お代。掃除代と余ったのは迷惑料で取ってくれ。ああ、もし結構余るなら、よかったらそこのふたりのも」と紙幣をいくらか置いていった。
床は少しだけへこみ、赤いものがこびりついていたのが気になったが、修理まではしなくてよさそうだった。
店内に落ち着きが戻った。
グレイ氏はまだ難しい顔をしていた。ギムレットもコーヒーも減っていない。私はオレンジジュースを注文した。
「頼もしい方たちでしたね。奢ってもらっちゃいました」
「わかってて追加したんですか」
「ちゃん、なんて呼ばれてちょっと子供返りした気分なので」
デクスターが置いていった紙幣はかなり多かった。さも善良な務め人らしいことを言っていたが、善良な務め人なら一度に出せる額なんて知れている。ここに入り浸るということはやはり裏金で潤っているのか。
「あの男は見た目通りですから」
グレイ氏は溜息交じりだった。
「それらしいことを言っていたけど、ここに入り浸るということは裏金を稼いでいる。やはり見た目ではわからないなどと考えていたんでしょう」
「そんなところですね」
見た目ではわからないなどと私やグレイ氏が言うのはお笑い草だが、一般論として間違いではない。
グレイ氏の金髪がゆらりと揺れる。
「あの男は金を受け取りません。だからあれは真っ当なお金です。警察として働いた正当な報酬ということです。人から何も奪わないし殺さない。こんなところで飲んだくれているのはとんだ場違いです」
「でも会員なんでしょう」
「ええ。彼の思うことは私とほとんど真逆なんですが。わからないものですね」
純然たる善意で協力しているとデクスターは言っていた。それでも通ずるものがあるということか、バト坊と呼ぶに至った経緯が単純ではないのか。
貴方の目的はなんですかと聞いてグレイ氏が答えてくれるはずもない。デクスターなら事の次第によっては教えてくれるだろうか。
「付き合って長いんですか」
「付き合う?」
「いや、だから」
何故そこで剣呑とするのかと思いかけて気付いた。本当に意図したところなどなく、例えばデクスターとだったらどっちが先に会員になったかといった裏のない世間話のつもりだったのだが、言い方で地雷を踏んだ。頭にフレアがいる上では、というか目の前にフレアの痕跡がある今この瞬間は禁句だったのだ。
急に面白くなってきた。込み上げてくる笑いを堪えきれず、ついにやけてしまう。
「グレイ先生。この際だから正直に言ってくれませんか。お付き合いされていたんでしょう」
「なんの話です」
「完全に気持ちがないわけではなさそうでしたよ。あんな美人に部屋を取ってたなんて言われて、心の底から羨ましいです」
「心の底から適当なことを言わないでください」
ばれてる。乗り出し気味だった姿勢を戻し、オレンジジュースを飲んだ。甘い。
「女性にかまける暇なんてないと以前言ったはずです」
「今の話でしょう」
「過去もそうです」
「そんなに前なんですか」
「……」
これはまた踏み抜いたか。
「付き合っていた、というか」
グラスの細い脚を少し引き寄せる。納得いってなさげだった。
「そういうこともあったというだけです。お互い大人ですから」
「へえ」
突き崩すと案外弱い。こんなプライベートな話、とりあえずその程度には信頼してくれていると解釈しておくことにする。単にマスターのブラック一択コーヒー攻撃が今効いているのかもしれないが。
「デクスターさんは知ってるんですか」
「私は言っていませんが、彼女は話したかもしれません」
「どうして?」
「妙に息が合っていたでしょう。故郷が同じだそうです。話してみると実は何度も会っていたとか」
それだけであんなに意気投合するわけもないが、要するにグレイ氏が別々に2人と知り合ったのではなく、既に知り合いだった2人と繋がったということらしい。
2人に恋愛感情は塵ほども感じ取れなかった。フレアからすれば父親めいた、デクスターからすれば娘に近い親しみを抱いているように思う。
とすれば、と想像してみる。
「過ぎたことを言うようですが、デクスターさんなら怒りそうじゃないですか。遊ぶのは勝手だが遊ぶ相手はしっかり選びやがれ、とか」
「子供のいる男に色目を使うなということですか。どうでしょうね。一応独身ですし」
「そういうことじゃなくて、グレイ先生が適当に遊ぶような人じゃないことをデクスターさんはきっと知ってるでしょうと言っているんです。フレアさんが多少火遊びする女性だったとして、人の気持ちや信頼を踏み躙ることを知って、ましてその相手がグレイ先生だったらノーコメントということはないんじゃないですか。それこそ頭を引っ掴んで謝らせそうですよ。女性だとか関係なく」
「笑えますね。ちょっと前に一夜だけでもいいから何かないのかとか言ってたくせに」
確かに。でもその時点の私も、本当にグレイ氏から遊んだ話を聞いたとしたら。面白かっただろうな。
「とにかく、別に付き合っていたわけではないんです。何度かそうなっただけ。彼女からすれば話題にするほどのことでもなかったかもしれない。知らないならデクスターが何も言わないのは当然です」
「そうやけっぱちにならなくても」
「なっていません」
「なってるようにしか見えませんが」
「なってない」
「まあでも、正直ちょっと慣れてそうな感じはしますね」
グレイ氏は舌打ちせんばかりだ。さっきの火種になった舌打ちはもしやグレイ氏だったのかと疑うほどだった。頼むからグラスを折るようなみっともない真似はしてくれるなよ。
それにしてもグレイ氏を本気で引っかける女性などいるだろうか。男の私から見てもかなり整っているのだが。
いや。そんな単純なことではないか。髪をいじりながらぼんやり考えた。
名前も嘘、年齢も嘘、未確定だが生物学上は父親なのも嘘。それを娘は知らないかもしれない。当然一学園のトップたる責任も背負っているが、年齢を偽っている以上経歴にも嘘がある。下につく全員を騙しているし、裏社会的な意味ではなくても弱味を見せれば総崩れ。そしてこんな店に来るということは、例え自分で望んだ道だとしても、秘めた孤独は計り知れない。私でもそれくらいは想像できる。
フレアは年上に見えた。もしかするとグレイ氏の公表年齢より高いかもしれない。誰にも本心を言えない中、同じく表沙汰にできない世界の中で、多くを語らぬことに触れずただ包み込んでくれる女性が現れたとしたら。
グレイ氏がここまで腹を立てているのは、自分自身に対してなのだと気付く。気休めでも寄りかかろうとしてしまった自分の弱さなのか、気休めとしか認識できないことを察しながら否定しなかったフレアへの甘えを自覚したからなのかはわからないが。
後者なら最悪だ。考えようによってはフレアが憐れみを持ってグレイ氏を受け入れたということになりかねない。というかグレイ氏は既にそう整理をつけているだろう。
更に具合が悪いのは、そんな思考パターンをフレアはおそらく読んでいることだ。わざと誤解させたままにして、そのくせ思わせぶりなことを言う。だからグレイ氏も冷たく当たる。
玩ばれたほうはたまったもんじゃない。それはそうだが。
「何を渡したんですか。差し障りなければ」
この辺りが潮時だ。
「毒ですね」
グレイ氏は躊躇なく答えた。
「厳密には毒の材料になるものです。ちょっと入手が厄介で」
「彼女は毒を盛るというわけですか。じわじわ追い込むんですね」
「……」
まずった。頭の回る人間はこれだから。
「顔が広いんですね。伝手があるということでしょう」
これなら問題ないだろう。一瞬外していた視線を戻す。グレイ氏はコーヒーに砂糖とミルクを投入しているところだった。
少し離れたところでミアが素知らぬ顔をしていた。なるほど。
「こんなところに来る人間なら、どこかしらでなにかしらの伝手を持っていますよ。貴方だってそうじゃないですか」
「私は別に」
「ご冗談を。まあ貴方の場合は意思に反するのかもしれませんが、そこまで仲の悪いご兄弟とも思えないので」
今度はこちらが閉口した。見てはいないが予想はつくということか。頭の回る人間はこれだから。
「今日はお会いできてよかったです。新しいお友達もできましたし」
「言っておきますが私と貴方は違いますよ」
「私は近くのホテルに戻るんですが、一緒に出ませんか」
「迎えを待つのでお構いなく」
「え? 歩いて来られたんですか」
「車ですが待たせてなくて。リックなら出したついでに留めておきますが、今日は時間がはっきりしなかったものですから」
「……グレイ先生、それは」
つまり、と言いかけた私の腕をグレイ氏は引き掴んだ。服越しに爪が食い込んでいる。これは見た目以上に力がある。痛い。
「貴方の考えているようなくだらないことは決してありません。余計なことを言わないように」
顔も怖い。せっかく綺麗なのが台無しだ。最早庇ってやりたいくらいだが、あからさますぎるので苦笑に隠した。
「白状してるようなものですよ」
ぎっ、と爪が更に入り込んだ。
「い、たたたたっ!」
骨が擦れたような嫌な音が微かに届く。ぞっとした。掴んでいる腕を引き剥がそうと足掻くがどうにもならない。なんだこいつ。こんなに戦闘力が高いなんて聞いてない
「余計なことを言うんじゃありません。返事は」
「わかったから離してください」
「わかったじゃない。返事はと言っているんです」
「はい。はい、はい!」
やっと解放された。どうにかなっていないかと袖を捲ってみる。指が食い込んだ形跡がくっきりと残っていた。
特別にケーキを出してもらったことに改めてお礼を述べて店を出た。グレイ氏はあのギムレットをどうするだろう。次の機会に是非伺いたいものだ。
あのお酒はどうなった?
頭からから。
彼らには良い息抜きになったと思う。
■追記
ジントニックじゃなくてギムレットだった痛恨のミス。
ギムレットって彼女にかっこつけたいときにいいよみたいなのを見たことがある。
バト坊らしい。