列車が停まる
①とある青年作家を告発する
②事実は後で決まるもの
③再度名を知る
④幻惑を捉える
→⑤列車が停まる
ただ別に読んでなくても良いつもり。
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ジェイが置いていった食器を代わりに拭き終え、その食器を食器棚に戻した後、壁の時計を見やりました。朝10時少し過ぎ。普段よりいくらかゆったりしているのは、今日が日曜日だからです。とは言え旦那様はお仕事で早朝に出かけており、お嬢様はご学友と女子会だそうで、お屋敷にいるのは僕とジェイとイヴァンだけです。僕とジェイは厨房で食器や調理器具の片付け、イヴァンは今は広間の掃除をしているはずでした。
来客用ベルが鳴ったのは10分ほど前でしょうか。僕たちは事前に話を聞いていないことを確認し、僕が聞いていないということはイヴァンも知らないだろうということで、ジェイが拭きかけの食器を置いて対応に向かうことになりました。おそらくは日曜で旦那様が在宅していることを見込んだ誰かの訪問、珍しいことではありません。お引き取りと、可能であれば前もって連絡が欲しいことを失礼なく伝える役は、子供の僕やイヴァンより大人のジェイが担ったほうがスムーズでした。
しかし10分とは相手も粘るものです。余程の急用で、旦那様のいるところに連絡を取れだとか、中で待たせろだとか言っているのでしょうか。確かにこの冬の季節に外で待っておけとは酷ですが、押し問答している間も寒いだろうに。今日も窓には霜が下りていました。いくら陽が射していても冬の寒さは身に堪えるものです。
玄関口に出てみると、大した風もないのに、冷え込んだ空気が軽く羽織った上着を抜けて貼りついてきました。つい鼻を啜ってから顔を上げてすぐ、門扉の向こうで立っている人影に足が止まりました。ジェイと、おそらくは僕と同じで様子を見に来たのであろうイヴァンの後ろ姿の向かいに対峙していたのは、僕たちのかつてのお館様――ロビン・ローエンに成り済ましているオリバーさんだったのです。
話の途中で僕に気付いたらしく、オリバーさんはジェイとイヴァンから顔を逸らすと呑気に片手を上げました。
「おはよう、トニー。久しぶりだね。ちょっと背が伸びた?」
「おはようございます。それしかネタがないんですね」
ジェイは不遜な態度に顔を強張らせましたが、構わず間に割り込みました。イヴァンはオリバーさんの手の紙袋を指差しました。
「お礼を持ってきたんだって」
「なんの」
「そんなの決まってるだろう。いろいろとお世話になったからね。改めて感謝の気持ちを伝えに参上した」
イヴァンと話しているのに横から顔を覗かせ、これ見よがしに有名菓子店のロゴが入った紙袋をアピールしてきます。参上ではなく推参の間違いだと言いかけた僕を押しのけ、今度はジェイが割って入ってきました。
「先程から申し上げている通り、主人の命令で受け取れないのです。
今日は日曜ですが仕事で出ており、確認も取れませんので。大変心苦しいのですが、出直していただくか、事前にご連絡を取っていただきませんと」
「連絡したって通してくれるはずがないから、無礼を承知で直接来たのですよ。学校よりはいいと思って。グレイ先生には嫌われているもので」
オリバーさんは穏やかで含みのない表情でしたが、常人にはない超然としたオーラを漂わせています。ジェイは気圧されたように口を噤みました。無論その異様な圧倒感は、僕からすれば少しも不思議ではありませんでしたが。
もしあの男が来ても屋敷に入れてはならないし、何かを受け取るのもいけない。何を言ってでも絶対に追い返すこと。
オリバーさんに関する僕たちへの申し付けはそれだけでした。いつもの旦那様らしくない冷たい指令にジェイは驚いていましたし、一緒に聞いていたお嬢様も不満げに言い募りました。しかしいくら問われても、旦那様はそれ以上語りませんでした。
旦那様と僕とイヴァンだけが知っていることは、今でも変わらず旦那様と僕とイヴァンだけが知っていることのままです。大人のジェイはともかくお嬢様も何も聞いてこないので、空気を読んでいるのか、それとも旦那様が予め釘を刺しているのかはわかりませんが、僕たちがオリバーさん、いえ、ややこしいですがジェイとお嬢様にとっては作家ロビン・ローエンです。いろいろと一段落ついてからというもの、彼の話をすることはありませんでした。
今になって急に疑惑の当人が現れ、しぶとく粘られるものだから困っていたら、場を訝しんだイヴァンと僕が出てきたということでしょう。が、オリバーさんからすれば、嫌われていると言っているくらいなので、気持ちの良い反応は期待していなかったように思います。
じゃあ何をしに来たのか。それにグレイ先生なんて、嫌われているくせに妙に親しげです。ふと目が合うと、オリバーさんは意味ありげににこっと笑いました。
とにかく帰ってもらわないと。普段のお客様なら僕よりジェイですが、オリバーさんは僕のほうが話を聞いてくれそうです。前に出てきたジェイより更に踏み出し、率直に伝えようとしたときでした。
びっくりして言葉が飛びました。僕の不審な様子につられてオリバーさんも背後を振り返りました。
「だ、旦那様! どうしたんですか、そんな徒歩で!」
並んで立っているジェイやイヴァンも同じタイミングで気付きます。絵に描いたような驚きの反応そのままに、ジェイはオリバーさんの横を駆け抜けました。というのも、雇いの運転手の車で出かけたはずの旦那様が、舗装された道を歩いているのです。
散歩や散策がお好きな方ではありますが、まさか出先から歩いて帰ってくるとは思いません。それもこんな早い時間に。僕もジェイもおそらくイヴァンも、かなり近くに来るまでそれが旦那様だとわからなかったのです。
視界にオリバーさんを留めたのでしょう。ジェイを伴って姿勢よく歩いてくる旦那様の目が鈍く尖りました。
「おはようございます。ちょっとお邪魔しています」
「見ればわかりますよ。お引き取りください」
「お歩きでしたか。朝のお散歩もいいものですけど、何かと物騒な時世です。お気をつけくださいね、グレイ先生」
わざとらしくオリバーさんが呼びかけると、敷居を跨ごうとする旦那様が一瞬硬直しました。
「ちょっと予定が変わった。あの運転手は専属じゃないからね。こういうこともある」
「お電話くださればよかったのに。私、どうしましょう。こんな寒い日に旦那様おひとり歩かせてしまったなんて」
声を震わせるジェイを「今日は近場だったから」とどうにか収め、細い金髪を手袋越しにかき上げなから、旦那様はさりげなく僕の前に立ちました。
「で、貴方はいつまでここにいらっしゃるのです。何かご用でしょうか」
構図で言うとこれで3対1、そして旦那様の声は氷のように冷たいのですが、オリバーさんが動じるはずもありません。にこにこして再び紙袋を掲げました。
「いつぞやのお礼を改めてと思いまして。これ、つまらないものですが」
「ええ、つまらないです。だから持ち帰っていただけますか」
「結構並んだんですよ。今、都会の駅ではこれが一番人気だそうで。つい自分用も買ってしまいました」
まったく話が噛み合っていません。ただでさえ寒いというのに、オリバーさんが鞄から手のひらサイズの小さな箱を取り出して見せたことで、空気まで凍てつきました。
最早痛いと言っても過言ではなく沈黙にようやく気付いたのかはわかりませんが、オリバーさんは何事もなかったかのように箱を鞄に片付けました。
「こうなると思っていました。これは近くの知人に差し入れます」
「そうしてください。ご用事はお済みですね。わざわざ住所を調べてくるなんて薄気味悪い」
「別に他意はありませんよ。この辺りはよく来るんです。通りがかりにお世話になった人たちの住まいがあると知ったものだから、ちょっと挨拶でもと思うのがそんなに変でしょうか」
「では、今は何かのついでで」
「だから挨拶ですよ。これも含めて」
実に含みのない軽い挙動で、オリバーさんは紙袋を持ち上げました。意外と律儀で礼節を大事にするタイプです。僕は知っているつもりでしたが、旦那様はどうでしょう。憎々しげに顔を顰めた最中には、呆れの感情も見えるようでした。
旦那様は常に一言多く、オリバーさんは何故か楽しそうです。そんなふたりを、ジェイは無言のイヴァンの横でそわそわと見比べていました。そのうち耐え兼ねて「立ち話もなんですから」と割って入りかけた頃、オリバーさんが白々しく指を立てました。
「ということで、今日1日トニーを貸していただけませんか」
ぼんやりして会話の内容までは聞いていなかった僕ですが、それでも突如登場した自分の名前には気付きました。
オリバーさんはにこにこしており、旦那様は片頬を引き攣らせています。口を開きかけましたが、ジェイとイヴァンを振り返って表情を崩しました。
「寒いから中に入って。大丈夫だから」
「でも、旦那様」
旦那様は手で諌め、再度お屋敷に戻ることを命じました。ジェイは不安げにこの場を見守りながらも、イヴァンを伴って玄関口の向こうに消えました。
「トニーはもう少しだけいいかな。ごめんね」
「あ……はい」
どうにも事態についていけず、旦那様の優しい気遣いにそんな曖昧な返事しかできません。ですが、ジェイとイヴァンが払われ、僕ひとりが残されたことが穏やかではないことだけはわかります。能天気なオリバーさんは「寝不足かい、トニー」などと言ってきましたが、僕が喋る前に旦那様が跳ねのけました。
「何が目的ですか。まさかご自分のお立場がわからない方とは思いませんが」
「そうすぐに臨戦態勢に入らずとも良いでしょう。挨拶もダメ、友人の語らいもダメときてはね。さすがに私も拗ねますよ」
「へえ、貴方にご友人が。勘違いでなければいいですけど」
「今日はいいタイミングでよかった。ご在宅でなければ、そのうちにトニーに会わせて欲しいことをお伝え願おうと思っていたんです。
やっぱり勝手に連れ出すわけにはいきませんし。急ですが今日はどうでしょう」
「いいわけないでしょう。用事があるなら今ここで、私の前で話してください。トニーもそれでいいね」
……トニー?
間を置いて降ってきた声で、ようやく呼びかけられていると自覚しました。
きっと日曜だから気が抜けています。だからきっと、ついさっき敏感に察知したばかりの自分の名前を聞き逃しました。これでも普段は使用人としてお屋敷中を駆け回っているし、忙しい旦那様のおつかいに出たり、お嬢様の学校についていくこともあるのです。平日と休日で気持ちに違いがあるのは、特におかしなことでないでしょう。
そんなふうに弁論できればまだ形になったのですが、現実の僕は口を閉ざし、変な沈黙に佇んでいるだけでした。何故そうしているのか、自分でもわからないくらいでした。
「私が言うのもなんですけど」
注がれていた視線が、ふいとずれました。旦那様は訝しげに歪めた顔を一切取り繕おうともせず、オリバーさんを見ました。睨んだのではないだけましだと思いました。
「ちょっと気分転換してもいいんじゃありませんか。たまには外の空気を吸うのも悪くないでしょう」
「休みを与えていないかのような言い方はやめていただけませんか。
うちはきちんと法に則っていますので」
「そんなことは疑っていません。大人が付き添って、ちょっと足を伸ばすことがあってもいいのではと提案しているだけです。予定が変わったと仰っていましたが、どうせご在宅でお仕事をなさるんでしょう。日曜ですよ」
「たまたまです。ご自分の間が悪いだけのことを、まるで私が子を放置するクズ親のように言わないでいただきたい」
「どうしてそう意地悪く捉えるんでしょうね、グレイ先生は。友人としても父親としても、私は貴方を等価に尊敬しているというのに。もちろん教師としても」
ジェイの気持ちがわかりました。確かにこれは、まともな人間なら取りなしたくもなるでしょう。あの旦那様が痛烈な皮肉を連発するということ自体、ジェイにとっては衝撃的です。わざとなのか鈍感なのか、オリバーさんも負けていないというのがまた厄介なのですが。
しかし、ここまで冷たくあしらわれて、本当に旦那様を友人だなどと思っているのでしょうか。話題の中心が自分であることを忘れ、別にそうすることで理解が深まるわけでもないのに、僕はオリバーさんの全身をしげしげと眺めてしまいました。
紙袋と鞄を肘まで詰め、オリバーさんは外套の襟を引いてポケットに手を入れました。そして出てきた白い折りたたまれた紙を、オリバーさんに差し出しました。
「私の信頼が一方的なものであることはわかっています。だから預かっていただけませんか。私にとっては大切なものです」
「この紙切れが?」
「弟が手紙をくれたんですよ。ファンレターを装って」
冷淡だった旦那様の瞳が僅かに揺れました。それでも受け取ろうとはしない旦那様に、オリバーさんは続けます。
「実は会う機会もありましてね。ちょっと危なっかしかったですが。そのときに届いた手紙を少し見せてくれました。だからここの住所は本当に調べたわけではありません」
それから僕を見て、少し申し訳なさそうに微笑みました。
「ごめんね。封筒を見ただけで、中身は見てないから」
別に見られて困ることは何もありません。首を振りました。オリバーさんのことです。年の離れた弟にだけは妙なことを仕掛けないはず。僕を友達と思ってくれる数少ないその存在の、手紙を見せるなどという無防備な一面を少し愛おしく感じました。もちろんそんなところを顔に出すわけにはいかないので、無表情を貫いておきます。
オリバーさんが実は旦那様より僕に用事があるということが、少しわかった気がしました。
裏向きに折られた便箋には、ぎこちない線がいくつも浮き出ていました。一生懸命書いた痕跡が滲み出るその文字は、間違いなくジョージ様が左手で綴った、僕もよく見知ったものでした。
唇を噛んで紙を睨んでいた旦那様は、やがて顔を逸らし、長く息を吐き出しました。
便箋がオリバーさんの手をすり抜けました。
「捨ててしまいますからね」
不機嫌そうに歪めたままの顔ではありますが、それでも旦那様は、手袋を嵌めたままの両手の中に手紙を収めていました。オリバーさんは、まるでそうなることがわかっていたかのような裏表のない笑顔を湛え、
「ありがとうございます」
そしてそのしっちゃかめっちゃかな文脈の返答が、はたと僕の意識を突いたのです。これでは僕がオリバーさんと出かけることを了承し、無二の担保を取った上ではありますが、それを旦那様が承諾したかのような構図ではありませんか。僕にそんなつもりは一切ないのに。あの、と言いかけたところで、旦那様がじっと僕を見ていたことに気が付きました。
出かかっていた言葉が引っ込みました。僕を映して心配そうに燻っていた瞳が、切り替わったように慈しみを帯びました。しかしそれは一瞬のことで、旦那様は再度オリバーさんに眼光を奔らせます。
「トニーにも準備があります。冷えますから中でお待ちください」
「お気遣い痛み入ります。できれば睨みつけずに言って欲しかったですが」
「ああ、すみません。物騒な時世ですから」
目線はほぼ同じですが、並んで立つと、少しだけ旦那様のほうが上背があります。一瞬路肩に背けられた鋭い視線が僅かに角度をつけながら、オリバーさんに戻りました。
「呑気に駅から歩いてきたらしい貴方がお忘れではないかと、つい心配になりまして」
どうしてこうなったんだろう。
使用人服を着替えながら、少しばかりの荷物を整えながら、ブーツの紐を結び直しながら、僕は考えていました。
自分が出かけるわけではないのに何故か大袈裟に喜ぶジェイと、特に何も言わないイヴァン。門を出る直前、温かいお茶を飲んで既に満足そうなオリバーさんの眼下で旦那様に「気を付けてね」と耳打ちされました。絶対に聞こえているだろうと思うし、絶対に聞こえるように言ったと思いますが、オリバーさんは振り向くことすらなくジェイと紅茶トークに花を咲かせていました。無邪気な横顔に嘘っぽさは欠片もありませんでした。
どうしてこうなったんだっけ。三度頭を擡げたそれの回答は、考えるまでもありません。
成り行き。それ以上でも以下でもない。ただただ僕は成り行きで、今日のお勤めをふいにして、オリバーさんと歩いていました。
宣告通り、最初に持っていた菓子折は通り道でオリバーさんの手を離れました。ひとつ荷物が消えて身軽になり、駅に到着する頃には、もともとご機嫌だったオリバーさんはもっとご機嫌になっていました。
食事時ならあのお店がいい、あそこのお店のチョコが美味しい、あのスペースでは時々イベントをしているね。駅中をテーマに出てくる話題は尽きません。伊達にこのあたりはよく来ると言っていたわけではないようです。
「どうして遠くにお住まいなんです」
口ぶりから仕事の繋がり以上にプライベートが強いことが滲み出ており、だからそんな聞き方をしてしまいました。作家の世界はわかりませんが、少なくともオリバーさんの場合は、複数の企業や団体と関わりを持って活動しています。都会暮らしのほうが仕事上の連絡も便利なのではないでしょうか。その上この場所を好ましく思っていて、引っ越し費用だって簡単に工面できるなら、もう住所を移さない理由はないように思います。
「中心になるほど領地みたいなものだからね。どこも所詮似たり寄ったりだが、わざわざ住んでやらなくてもいいだろう」
僕とごく少数の人たちだけが知っている、オリバーさんの素性でした。
呼び方には気を付けないといけません。うっかり本名で呼んで即不都合が起こるとも思えませんが、不安の芽は出さないに限ります。
「それに移動は苦じゃない。なんだかわくわくするじゃないか。乗り合わせた人たちのストーリーを勝手に考えたり、そうすると、この列車を降りた先はどういうところなんだろうって思えてきたり」
「……ストーリーはともかく、自分で切符を買って乗ってるわけですよね」
「ああ、いい頃合だったね。私たちが乗るのはあれだ」
オリバーさんが見やったのは、送り出したり迎え入れたりを忙しく繰り返しているほうではなく、別の路線で静かに佇んでいる赤調のコントラスト柄の列車でした。傍には駅の係員らしき制服姿の男性が立っています。乗り込んでいる人たちの切符を確認しているようです。
オリバーさんは鞄から緑色の切符を2枚取り出して係員に見せましたが、僕は足を止めていました。自分ひとりだけ乗り込もうとしていることに気付き、僕を見て口を開きかけたオリバーさんは、さらに視線を動かして小さくお辞儀をしました。それではっとしました。切符を見てもらったほかのお客さんが、後ろでつかえているのです。ひとまず進むしかありません。僕はオリバーさんの隣へ急ぎました。
「大丈夫だよ。途中で降りる」
切符に明記された番号の個室の扉には、丁寧にも名前を彫ったプレートが掲げられていました。代表者1名、オリバー・テイラー。ではなく、ロビン・ローエン。この人は、長く付き合った自分の名前を捨てることに抵抗はなかったのでしょうか。ないから今こうしているのでしょう。
「寝台列車なんて初めて乗りました」
「それはよかった。良い経験になれば幸いだ」
かなり高価な座席であることは、一瞥しただけでわかりました。向かい合ったシートは旅行鞄を置いたとしてもまだ広々していますし、端に洒落た刺繍を施したシーツを下ろしたベッドが並んでいる様は、まるでお金持ちのお屋敷の客室です。扉を開けた瞬間に舞った甘くさりげなく上品な香りには、思わずくらりときたほどでした。
「せいぜい2時間くらいのものだけどね。せっかくなら泊まってみてもよかったかな」
「結構です」
旦那様がオリバーさんとの外出を許可すること自体、天変地異に等しい衝撃でした。が、それも、前もって行き先や帰宅時間の目途を告げているからのことです。泊まりがけまでは許可しないだろうし、僕も別にオリバーさんと旅行したいとは思いません。
つれないねえ、とオリバーさんは口を尖らせました。
「よく乗られるんですか」
「いや、別に。今日は、もしかしたら君がいるかもしれないと思って」
「ご予約はご自分で?」
「他に誰がいるんだい。まったく、君も旦那様もいやに私を疑うね。まさか君まで私の勘違いだなんて言わないだろうね」
本気で言っているのか単にぼけているのか、判断できないほどに軽やかな言い様でした。
オリバーさんが一時的にでも大切なものを手放したことは事実です。余程信頼している相手か、信頼して欲しい相手にしかしないことを、僕が最も信頼している大人である旦那様にオリバーさんはしました。僕の前でそれをしたということに意味があるのでしょう。
目的がわかりませんでした。弟の相手をしてくれている子にお礼、という名目があるのはともかくとして、それだけのために駅を行ったりきたり、不確定なのに列車の高い席を予約したりと度を越している気がします。お金持ちが捨てるようにお金を使ったと解釈するのは簡単ですが、そんな普通の解釈がオリバーさんに当て嵌まらないことは知っているつもりです。やはりどこかネジが飛んでいるような。
「疑いすぎはよくないよ、トニー」
じっと見られていたことに気付き、慌てて僕は下を向きました。オリバーさんの言葉は続きます。
「君のそういうところは武器にも鍵にもなるだろうが、ずっとそれでは疲れないかい。せめて私といるときくらいはもっとシンプルにいこうじゃないか」
「貴方だからこうなっているんですよ」
「例えば仲の良い友達にゲームに誘われたとき」
僕の明確な解答を無視し、オリバーさんは指を立てました。
「何か駆け引きめいたものがある? 言葉の端々や仕種のひとつひとつを睨んで、怪しげな真意を探ったりするかい?」
それはつまり、貴方は僕と仲が良いと思っているということでよろしいでしょうか。と言いたくなったのを堪え、僕は黙考しました。お嬢様のことは、旦那様がいないところでは、気安くジーナと呼んでいます。イヴァンを含めて3人で遊んでいるのをジェイも密やかに容認してくれており、ときどきお手製のおやつを持ってきてくれたりします。
その4人の誰かに声をかけられたとして、疑う余地は微塵もありません。
それとこれとはまったく話が違うのですが、どうやらオリバーさんにはそれがわからないようです。
だからね、とオリバーさんは勝手に話のまとめにかかりました。
「要するに、君とちょっと出かけてみたかったというだけ。それに、あの店のケーキは本当に絶品なんだよ。ラジオや新聞でもたまに紹介されてるし。甘いものは好きだろう? 君も気に入ると思うけど」
列車の振動に被せ、軽快な音が鳴ったのはそのときでした。来客。聞こえた音の出どころからすると、背はそう高くないようです。豪勢な寝台列車のたった2時間の旅に知り合いでも乗っていたのか、訪ねようと顔を向けたときには既にオリバーさんは立ち上がっていました。
「あ、ちょっと」
「こんにちは! オイラ、クリアってもんです!」
豪奢な列車と優雅に流れる景色とはまるでそぐわない、特に上等品でもないごく庶民的なコートの人物が敬礼していました。せいぜい僕と3,4歳差、まだ少年と言える年齢です。発声がよく、なんとなくこちらの背筋も伸びるような、溌剌とした元気人という印象でした。
「こんにちは、クリア君。私は」
「ロビン・ローエンさん。名前は貼られてるから知ってるよ」
クリアさんは肩にかけている鞄を探り、瓶に入ったジュースをふたつ取り出しました。見る限り、駅で普通に売っているものでした。
「旅が趣味なんだ。そんなに多くはできないけど。一期一会を大事にしてて、その挨拶回り」
「そう。丁寧にありがとう。いただくよ」
「ちょっと。オリ……」
出かかった声は、掴んだ裾をもう一度掴み直すことで誤魔化しました。
商品名が載ったラベルの上には、手書きで「よい旅を」書き足されていました。その隣には、緩急をつけた線でデフォルメ化された列車の絵が小さく添えられています。最早すべてがイメージなのか、天辺から蒸気が流れていました。
もうひとつの瓶のラベルにも、線の太さや図形の大きさには若干の違いがありましたが、同じ文字とイラストが描かれていました。上手いじゃん、と感心しかけてはっとしました。
「何やってるんですか。知らない人にものをもらっちゃダメですよ」
「なんだい、ちょうどいいじゃないか。飲みものを注文する手間が省けた」
「そういうことじゃなくて」
「これ、可愛いね。君が自分で?」
裾ではなく肩を掴んだ僕の手を、オリバーさんは優しく解きました。完全にオリバーさんのペースです。
もう口を挟む余地はなく、僕は仕方なく一歩下がりました。それによく考えてみれば、怪しいと思うなら、僕がそのジュースを飲まなければいいだけでした。
「絵を描くのは嫌いじゃないんだ。ただ買うより、旅のちょっとした特別感が出てない?」
「そう思う。他の客室にもやってるのかい」
「毎回そうする。こういう列車だからだいたいお金持ちしかいないんだけど、意外と受け取ってくれるんだ。やっぱり貴族も庶民も同じ人間だな、そう変わったもんじゃないなって思うよ」
クリアさんは無邪気に歯を見せて笑うと、じゃあ他の部屋に行くからと方向転換をしました。その直後、一度振り返り、「なんか聞いたことある気がするけど、ローエンさんって有名な人?」と首を傾げました。オリバーさんは、大したものじゃないからと名乗り直しはしませんでした。
「残念でしたね」
「何が」
「あまり本を読む人ではなさそうでした」
「私だって読まない本はあるし、趣味じゃないことだってたくさんある。それよりこれ、可愛いじゃないか。彼は本を読むより絵を描いたほうがいい」
瓶に描かれた列車を指差し、オリバーさんは無害に顔を綻ばせました。どうやら絵が好きな弟に重ね、ひとりで浮かれている様子です。窓の向こうの粉雪交じりの冷たい空気ではなく、この人と自分との温度差に風邪を引きそうでした。
「貴方に警戒心というものはないのですか」
皮肉ではなく、本心から訪ねました。だってこの人は、もともと売れっ子作家だった自分の名前を、結果的にさらに飛ばすことになった出来事を忘却しているようなのです。そうでなければ、どこの誰とも知らない、同じ列車に乗り合わせただけの人間が持ってきたジュースなど受け取らないでしょう。
オリバーさんは備え付けの簡易テーブルに2本の瓶を並べると、大仰に肩を竦めながら座席に置きました。
「一体何をそんなに警戒する必要があるんだい。そういうのを私といるときくらいはやめようと言ってるんだけど」
「それは貴方に対しての話でしょう。さっきのは知らない人です」
「だからそれでいいじゃないか。私がいいと言うんだからいいんだよ。旅先で一期一会を大事にするなんて素敵じゃないか」
「そんな能天気だから散々な目に遭ったんでしょう。僕がいなかったら死んでたくせに」
笑いのひとつでも返ってくるかと思いましたが、意外にも静かでした。
言い過ぎたかと一瞬後悔しました。あのときのことは、僕が勝手に首を突っ込んでいったようなものです。でもさっき、旦那様に言っていました。弟と会う機会があったこと。こんなことはさすがに図々しすぎて言えないけど、あのままでいるより良い現実です。僕がいなかったらどうなっていたか、と毒吐きたくなってしまうのは道理ではないですか。
すっと腹の底が冷えました。今の僕は、なんだかとても嫌な人間です。
外の雪は、少し強くなっていました。このまま強くなり続けなければ良いのですが。
「まあ、もう済んだことじゃないか。寝台列車は初めてなんだろう? せっかくだから寝っ転がってごらんよ」
「遠慮しておきます」
「君も旦那様も本当につれないねえ。じゃあ私が寝てみようかな」
「貴方、なんのためにこんな……」
こんこん。
襟元を緩めながら腰を浮かせかけたオリバーさんに声が大きくなりかけたとき、そんな間の抜けた音が、再び列車の振動に混ざって聞こえてきたのでした。
緩めた襟を正しながら、オリバーさんは僕に視線を流しました。目が合ったまま、不思議な空気が降りてきます。
「開けたいなら開ければいいでしょ」
耐え兼ねました。
オリバーさんは軽い足取りで扉に向かいます。寝台列車というのはこうまで来客が多いものなんでしょうか。
なんにしろ僕には関係ないことです。せっかくなので景色にでも意識を傾けて、その間に扉が閉まって安心できるのを待つだけです。
実はさっきから振動が案外心地良かったりもします。横にはなれませんが、目を閉じてみるくらいはいいかもしれません。
「ごめんなさいね、急に」
目がかっ開きました。瞳孔が開くのがわかりました。その声に聞き覚えがありました。
ただの声の空似だと思い込みたい一方で、本当にそうなのかと確かめたくもありました。でもそれは確かめるまでもないことでもありました。どうしてこんなところに。いや、それは僕もです。じゃあどうしてよりによって同じ日取りに。考えても仕方のない疑問が怒涛のように溢れ出します。
「あら、貴方は……」
女性のように高く作られた、明らかに男性の声。語尾が消え入ったのは、さっきのジュースの人とは違い、出てきた顔に覚えがあったからでしょうか。金持ちご用達の高級列車とは言え、列車内の個室の広さなど知れています。忙しく部屋の名前プレートとオリバーさんとを見比べる気配と、紳士的に名乗る声が漏れ聞こえました。
最早僕の中では確定事項でした。あの野太い声で紡がれる女性っぽい口調。たったひとつのその特徴が、自分があの人を知っていて、あの人も自分を知っていることを決定付けていました。張り裂けそうなほど波打つ心臓を、窓に顔を向けたまま、ぎゅっと抑えつけました。
「驚いたわ。貴方みたいな方が乗っていらしたなんて」
「運が良かったんです。正直乗れるかわからなかったんですが、ドタキャンでご迷惑をおかけすることにならなくて良かった」
「ご迷惑って、鉄道会社に? ニュースを見て逞しいとは思ってたけど、とてもお優しい方でもあるのね」
「だって、急に予定をふいにされたら困るじゃないですか」
会話が途切れました。別に不味い話題のようにも思いません。不自然な空白のあと、苦笑気味に「それもそうね」と落ちました。
「それで、どうされたのです」
オリバーさんが水を向けると、そうだったとばかりにトーンが上がりました。
「ここに男の子が来なかった? 話の途中でいなくなっちゃって、こっちに来たように思ったものだから」
「ジュースを配っていた元気な子のことでしょうか。ついさっき出て行きました。お連れの方ですか」
「いえ、そうじゃないんだけど。私のところにも来てくれたの。工場勤めの17歳だそうよ。うちは接客なんだけど、あんな感じのいい子がいてくれたらどれほどいいかと思って」
背中がすっと冷たくなりました。足先から何かが這い上がってきます。細かい無数の虫が駆け抜けるのではなく、拳ほどのサイズの虫が、粗く産毛を生やした細い足の先端を突き刺しながら、ゆっくりと上がってくるのです。息が上がってくるのを何度も飲み込みました。
オリバーさんの背中に上手いこと隠れているらしく、その人は僕の存在に気付いていませんでした。どうかそのまま気付きませんように。祈りながらまた息を飲み込むと、少し酸っぱい味がしました。
「それで追いかけようとしたんだけど、自分の荷物につまずいちゃって。通路まで飛び出したのを片付けてる間に見失っちゃったの」
「大変でしたね。すみませんが、どちらに向かっていったかは見ていなくて」
「ああ、いいのよ。たまに途中で降りちゃう人がいるけど、寝台列車は原則泊まりだもの。また機会はあるわ。貴方たちは」
一匹目がお腹辺りで消え、二匹目がふくらはぎを斜めに這ってくるのに耐えている間、突然三匹目が顔の横にいるのを感じました。思わず振り払ったその手は、そこにいたはずの虫をすり抜け、鈍く乾いた音をたてて窓ガラスを叩きました。
その音がしたのと、声が途切れたのは同時でした。自らミス・ガーネットと名乗った記憶通りのその人は、この個室に自分たち以外の人間がいたことに初めて気付いたようでした。
幸い窓ガラスは分厚く、傷ひとつついていませんでした。窓の外では静かに雪が下りています。流れる景色の中で、粉雪が少しずつ体積を増して固形の粒になっていました。
「すみません、あの子ちょっと寝こけてるんです。休ませますから、このあたりでそろそろ」
どこまでも能天気なオリバーさんは、この程度では列車のガラスは割れないと知っているからなのか、そんなことを言いながらようやく身を翻しました。しかしその翻し終わるまでの間に、ガーネットさんが駆け出していました。
「貴方もしかして、トニー?」
疑問符をつけながらも、自信なさげではありましたが、確信している声でした。シートの傍で膝を折り、ガーネットさんは不安げに僕の横顔を覗き込んでいます。その途中、思い出したように窓ガラスを見上げて胸を撫で下ろしていました。
僕は答えず、顔を向けませんでしたが、この距離で逃れられるはずがありません。僕のその態度が確信をより決定付けさせたのか、ガーネットさんは気色ばみます。
「やっぱりそうだわ。あれからどうしてたかと思ってたの。こんなところで会えるなんて。私、貴方にずっと話したいことがあって」
そこでつっかえました。シートの前側に来たガーネットさんは目を見開き、出かかった声を封じました。
「不運な事故です。私は見知ったときからですが、以前から知っておられる方だと驚かれるかもしれませんね」
「貴方はこの子の何?」
答えたオリバーさんに、ガーネットさんは更に問いました。
テーブルの上に置かれたジュースが、未開封の瓶の中でさざめいていました。
「元雇用主。縁あって今はただの友達です。今日はその子の現在のご主人様に我儘を言ってお借りしています」
「それはこの子が承諾してることなの?」
「その子が承諾しないことなんてしませんよ。それに友達というのは気付いたらなっているものでしょう」
旦那様に言われたことを気にしているらしいことはさておき、ついさっき、すぐにはドアを開けませんでした。オリバーさんが僕の意思を優先していることは事実です。そこだけは主張しておくべくガーネットさんと目を合わせましたが、一瞬以上は見つめられず、僕はすぐに俯きました。
「事故って本当?」
「本当です」
「なら……無事でよかったわ。大変だったでしょう」
今更会うなんて思っていませんでした。じくじくと脳が膿みだすようです。ちらついては弾け、断片的に蘇る記憶で視界が点滅しています。まだ虫が這っています。
「会いたかったのよ。話したいことがあるの。私、貴方にどうしても」
「僕は」
腕や腿の上で足を引きずっていた虫たちは、絞り出したその声と同時に搔き消えました。
今になって過去を思い出したくないし、過去を知る人の声なんて聞きたくない。僕は前を向こうとしてるんだ。滲み出る拒絶は明らかにガーネットさんを圧倒していて、その圧迫感にまるで動けないようでした。
「僕は、話すことなんてありません」
押し潰したような息苦しい声に、自分で驚きました。
オリバーさんの表情は見えませんでしたが、雰囲気の変化は感じられませんでした。
2/4
列車が停まる