di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第三章 金殿玉楼の閣で
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第三章 金殿玉楼の閣で
――――です。
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第二章 黄泉路の枷鎖よ https://slib.net/118955
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〈第二章あらすじ&登場人物紹介〉
===第二章 あらすじ===
摂政がハオリュウを呼び出した。延期になっていた『女王の婚約者』の件の返事を聞くためである。
女王の子として誕生することになっている〈神の御子〉の『ライシェン』が、摂政の手元にないまま、どう話を進めるのかと疑問に思っていたハオリュウ。しかし、なんと、ハオリュウに圧を掛けて『女王の婚約者』を承諾させた上で、「私たちには『ライシェン』が必要なので、鷹刀ルイフォンに接触して探りを入れてください」と命じてきた。
そして、更に、大切な友人であるシュアンを『厳月家先代当主殺害の罪』で捕らえ、人質としたのである。
捕らわれたシュアンは、ハオリュウの枷にならないようにと、看守を挑発して自分に危害を加えさせ、自殺を図ろうとした。しかし、様子を見に来た摂政に気づかれ、手当てを受けることになる。
シュアン逮捕の情報を手に入れたルイフォン。助ける手段を考えると同時に、ハオリュウへと連絡をいれるが、異母弟の様子がおかしいとメイシアが言う。そして、ハオリュウに好意を持っているクーティエが「今すぐハオリュウのもとに行かないと」と、藤咲家に押しかけていった。
自分のせいでシュアンの命が危険にさらされている。ハオリュウは責任を感じ、シュアンを助けるために〈天使〉になる決意をする。
駆けつけたクーティエは、頑ななハオリュウに圧倒された。しかし、「シュアンに対して取るべき責任は、『彼を助けたあとも、彼が今までと変わらずに、ハオリュウのそばで笑っていられるようにしてあげること』だ」と訴え、ハオリュウの心を溶かした。
ルイフォンたちと相談するために、草薙家に向かうハオリュウとクーティエ。その途中で、ハオリュウはクーティエに、「平民のあなたのそばにいられる自由を手に入れるために、身分をなくす。革命を起こし、反逆者になる」という、とんでもない宣言をした。
シュアンを助けるため作戦会議は、妙案を思いつくまで待ってほしいというルイフォンと、〈天使〉になると主張するハオリュウとで平行線だった。
議論の途中で、〈七つの大罪〉の禁忌の技術について触れたとき、ルイフォンは〈蝿〉から託された記憶媒体の内容を思い出し、ついに名案を閃く。
一方、鷹刀一族の屋敷では、シュアン逮捕を聞いたミンウェイが温室に引き籠もっていた。そこにリュイセンが現れ、「今度はミンウェイが緋扇を助けに行く番だろう?」と言う。リュイセンはミンウェイを愛するからこそ、彼女のシュアンへの想いを自覚させ、『一族からの追放』という形で、シュアン救出作戦を行っているルイフォンのもとへ送り出した。
ルイフォンの考えた作戦は『〈蝿〉に託された記憶媒体に記されていた『仮死の薬』をシュアンに飲ませ、死体として牢から運び出すというものだった。『死刑囚に最後に一目逢いにきた恋人』に扮したミンウェイが、シュアンに口移しで飲ませることで、作戦は無事に成功した。
救出されたシュアンにミンウェイは想いを告げ、シュアンもまた秘めていた想いを明かす。
ハオリュウは、シュアンに本気の世直しをする決意を告げ、彼に協力を願う代わりに幸せを贈ると誓う。そして、シュアンとミンウェイはハオリュウの使用人となった。
ハオリュウは、『ライシェン』について探りをいれる、という摂政からの命令に対し、決着をつけねばならない。そこで、「牽制のため、死んだはずのシュアンが、〈七つの大罪〉の技術で無事でいる姿を摂政に見せたい」と頼み込む。更に、「シュアンを摂政のもとに同行させる理由を作るために、レイウェンに決闘を申し込む」と言って皆を混乱に陥らせた。
レイウェンとの決闘とは、すなわち、『クーティエの相手として認めてもらう』という意味である。無事、決闘を受けてもらったものの、武の達人のレイウェンと足の悪い貴族のハオリュウでは勝負にならない。分かりきっていた結果が出たあと、ハオリュウは摂政にこう言うための決闘だったのだと明かした。
曰く「『ライシェン』について探るためルイフォンと会ったが、異母姉を想う彼が逆上し、襲いかかってきた。『ライシェン』の居場所を聞けなかった以上、自分には『女王の婚約者』になる資格はないので辞退する」
そして、怪我のために歩くことのできないハオリュウは車椅子に乗り、その介助者として、『生き返った』シュアンの姿を摂政に見せつけたのであった。
===『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』===
主人公ルイフォンの姉セレイエによる、殺された息子ライシェンを蘇らせる計画。
王の私設研究機関〈七つの大罪〉の技術で再生された『肉体』に、ルイフォンの中に封じたライシェンの『記憶』を入れることで『蘇生』が叶う。
また、生き返った『ライシェン』が幸せな人生を送れるように、セレイエはふたつの未来を用意した。
ひとつは、本来、ライシェンが歩むはずだった、父ヤンイェンのもとで王となる道。
もうひとつは、愛情あふれる家庭で、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道。
セレイエは、弟であるルイフォンと、ヤンイェンの再従妹であるメイシアを『ライシェン』の幸せを託す相手として選び、ふたりを出逢わせた。
『di;vine+sin;fonia』という名称は、セレイエによって名付けられた。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらを繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』を意味する。
この計画が禁忌の行為と分かっていながら、セレイエは自分を止められなかった、ということである。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少年。十六歳。
亡き母キリファから〈猫〉というクラッカーの通称を受け継いでいる。
父親は、表向きは凶賊鷹刀一族総帥イーレオということになっているが、実はイーレオの長子エルファンの息子である。
そのことは、薄々、本人も感づいてはいるが、既に親元から独立し、凶賊の一員ではなく、何にも属さない『対等な協力者〈猫〉』であることを認められているため、どうでもいいと思っている。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
亡くなる前のセレイエに、ライシェンの『記憶』を一方的に預けられていた。
※『ハッカー』という用語は、本来『コンピュータ技術に精通した人』の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われている。
対して、『クラッカー』は、悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を『クラッカー』と表記する。
メイシア
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少女。十八歳。
セレイエによって、ルイフォンとの出逢いを仕組まれ、彼と恋仲――事実上の伴侶となる。
もと貴族の藤咲家の娘だが、ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
王族の血を色濃く引くため、『最強の〈天使〉』として『ライシェン』を守ってほしいというセレイエの願いから、『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた。
セレイエの〈影〉であったホンシュアを通して、セレイエの『記憶』を受け取っている。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
約三十年前、イーレオが、王家および王家の私設研究機関である〈七つの大罪〉と縁を切るまで、血族を有機コンピュータ〈冥王〉の〈贄〉として捧げる代わりに、王家の保護を受けてきた。近親婚を強いられてきたため、血族は皆そっくりであり、また強く美しい。
古くは、鷹の一族と呼ばれた武人の一族であり、現在の王家樹立の立役者の一族であった。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥であったが、次男リュイセンに位を譲った。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
父から位を譲られ、次期総帥となった。また、最後の総帥になる決意をしている。
黄金比の美貌の持ち主。
文句も多いが、やるときはやる男。『神速の双刀使い』と呼ばれている。
ミンウェイを愛していたが、彼女の幸せを思い、彼女を一族から追放し、緋扇シュアンのもとに行かせた。
鷹刀ユイラン
エルファンの十歳以上は年上の妻。レイウェン、リュイセンの母。銀髪の上品な女性。
レイウェンの会社の専属デザイナーとして鷹刀一族の屋敷を出ていたが、ミンウェイがシュアンのもとへ行ったため、総帥の補佐役として再び屋敷に戻ってきた。
ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。
草薙チャオラウ
鷹刀一族の中枢をなす人物のひとり。イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
主筋であるユイランを、幼少のころから半世紀ほど、一途に想っている、らしい。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
もとエルファンの愛人で、セレイエ、ルイフォンの母。ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。故人。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に人体実験体である〈天使〉にされた。
四年前に当時の国王シルフェンに『首を落とさせて』死亡。
どうやら、自分の体を有機コンピュータ〈スー〉に作り変えるためだったらしい。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが、〈冥王〉を破壊するために作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のスーパーコンピュータだが、それは張りぼてである。
本体は、人間の脳から作られた有機コンピュータで、光の珠の姿をしている。
〈ベロ〉の人格は、シャオリエのオリジナル『パイシュエ』である。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこないのだが、所在は、〈蠍〉の研究所跡に建てられた家にあることが分かっている。
鷹刀セレイエ
エルファンとキリファの娘。表向きはルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
生まれながらの〈天使〉であり、自分の力を知るために自ら〈悪魔〉となった。
王族のヤンイェンと恋仲になり、ライシェンという〈神の御子〉を産んだ。
先王シルフェンにライシェンを殺されたため、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた。
ただし、セレイエ本人は、ライシェンの記憶を手に入れるために〈天使〉の力を使い尽くし、あとのことは〈影〉のホンシュアに託して死亡した。
パイシュエ
イーレオ曰く、『俺を育ててくれた女』。故人。
鷹刀一族を〈七つの大罪〉の支配から解放するために〈悪魔〉となり、三十年前、その身を犠牲にして未来永劫、一族を〈贄〉にせずに済む細工を施して死亡した。
自分の死後、一族を率いていくことになるイーレオを助けるために、シャオリエという〈影〉を遺した。
また、どこかに残されていた彼女の何かを使い、キリファは〈ベロ〉を作った。
すなわち、パイシュエというひとりの人間から、『シャオリエ』と〈ベロ〉が作られている。
鷹刀ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの『父親』。医者で暗殺者。故人。
妻のミンウェイの遺言により、妻の蘇生のために作ったクローン体を『娘』として育てていくうちに心を病んでいった。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のようなかたちでエルファンに殺された。
[王家]
白金の髪、青灰色の瞳の先天性白皮症の者が多く生まれる里を起源とした一族。
王家に生まれた先天性白皮症の男子は必ず盲目であり、代わりに他人の脳から『情報を読み取る』能力を持つ。
この特殊な力を持つ者を王としてきたため、先天性白皮症の外見を持つ者だけが〈神の御子〉と呼ばれ、王位継承権を有する。かつては男子のみが王となれたが、現在では〈神の御子〉が生まれにくくなったために女王も認めている。ただし、あくまでも仮初めの王である。
アイリー
大華王国の現女王。十五歳。四年前、先王の父が急死したため、若年ながら王位に就いた。
彼女の婚約を開始条件に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まった。
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害された。
〈神の御子〉の男子に恵まれなかった先々王が〈七つの大罪〉に作らせた『過去の王のクローン』である。
ヤンイェン
先王の甥。女王の婚約者。
実は先王が〈神の御子〉を求めて姉に産ませた隠し子で、女王アイリーや摂政カイウォルの異母兄弟に当たる。
セレイエとの間に生まれたライシェンを殺され、蘇生を反対されたため、先王を殺害した。
メイシアの再従兄にあたる。
ライシェン
ヤンイェンとセレイエの息子で、〈神の御子〉。
〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエから受け継いだ『情報を書き込む』能力を持っていた。
彼の力は、〈天使〉の羽のように自分と相手を繋ぐことなく、〈神の御子〉のように手も触れずに扱えたため、先王シルフェンは彼を『神』と呼ぶしかないと言い、『来神』と名付けた。
周りの『殺意』を感じ取り、相手を殺してしまったために、先王に殺された。
『ライシェン』
〈蝿〉が、セレイエに頼まれて作った、ライシェンのクローン体。
オリジナルのライシェンは盲目だったが、周りの『殺意』を感じ取らずにすむようにと、目が見えるように作られた。
凍結処理が施され、ルイフォンとメイシアに託された。
カイウォル
摂政。女王の兄に当たる人物。
摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。
ハオリュウに、「異母兄にあたるヤンイェンとの結婚を嫌がる妹、女王アイリーの結婚を延期するために、君が女王の婚約者になってほしい」と陰謀を持ちかけた。
[〈七つの大罪〉]
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
王家に、王になる資格を持つ〈神の御子〉が生まれないとき、『過去の王のクローンを作り、王家の断絶を防ぐ』という役割を担っている。
〈冥王〉
他人の脳から情報を読み取ることによって生じる、王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。
太古の昔に死んだ王の脳細胞から生まれた巨大な有機コンピュータで、鷹刀一族の血肉を動力源とする。
『光の珠』の姿をしており、神殿に収められている。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
〈天使〉
『記憶の書き込み』ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は有機コンピュータ〈冥王〉の一部でできており、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置となる。限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こして死亡する。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られた〈蝿〉
セレイエが『ライシェン』を作らせるために、蘇らせたヘイシャオ。
セレイエに吹き込まれた嘘のせいでイーレオの命を狙い、鷹刀一族と敵対していたが、リュイセンによって心を入れ替えた。
メイシアを〈悪魔〉の『契約』から解放するため、自ら王族の『秘密』を口にして死亡した。
ホンシュア
セレイエの〈影〉。肉体はライシェンの侍女で、〈天使〉化してあった。
主人の死に責任を感じ、『デヴァイン・シンフォニア計画』に協力した。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
メイシアにセレイエの記憶を潜ませ、鷹刀に行くように仕向けた、いわば発端を作った人物である。
〈蛇〉
セレイエの〈悪魔〉としての名前。
セレイエの〈影〉であるホンシュアをを指すこともある。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら貴族の藤咲家の当主を継いだ。その際、異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
母親が平民であることや、親しみやすい十人並みの容姿であることから、平民に人気がある。ただし、温厚そうな見た目とは裏腹に、気性は激しい。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
摂政カイウォルに「女王の婚約者にならないか」と陰謀を持ちかけられていたが、友人シュアンを人質に取られたことから猛反発。シュアンのため、そして、相思相愛でありながら、身分差のために想いを告げることのできなかったクーティエのため、『この国から身分をなくす』と決意する。
藤咲コウレン
メイシア、ハオリュウの父親。厳月家・斑目一族・〈蝿〉の陰謀により死亡。
藤咲コウレンの妻
メイシアの継母。ハオリュウの実母。平民。
心労で正気を失ってしまい、別荘で暮らしていたが、メイシアがお見舞いに行ったあとから徐々に快方に向かっている。
緋扇シュアン
ハオリュウの歳の離れた友人であり、現在は秘書。三十路手前程度。悪人面の凶相の持ち主。
もとは銃の名手のイカレ警察隊員であったが、摂政の陰謀により投獄。獄死を装って救出されたため、自由民となった。
幼いころ、凶賊同士の抗争に巻き込まれ、家族を失った。そのため、「世を正す」と正義感に燃えて警察隊に入るも、腐った現実に絶望していた。しかし、ハオリュウと出会い、彼を『理想の権力者』に育てることに希望を見出した。
また、以前より、秘めた愛情を抱いていたミンウェイと家族になった。
鷹刀ミンウェイ
鷹刀一族の総帥の補佐を務めていたが、リュイセンに追放という形で背中を押され、シュアンのもとに来た。現在は、ハオリュウの侍医として、シュアンと共に藤咲家に住み込みで働いている。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ、二十代半ばに見える絶世の美女。ただし、本来は直毛。薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
母親だと思っていた人物のクローンであり、そのために『父親』ヘイシャオに溺愛という名の虐待を受けていたのだと知った。苦悩はあったが、今は乗り越えている。
[草薙家・他]
草薙レイウェン
エルファンの長男。リュイセンの兄。
妻のシャンリーと共に一族を抜けて、服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
草薙シャンリー
レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。王宮に召されるほどの剣舞の名手。
遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。
草薙クーティエ
レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。可愛らしく、活発。
ハオリュウが、彼女の父レイウェンに『お嬢さんをください』という意味合いを含めて決闘を申し込んだらしいのだが、惨敗したので、ふたりの間柄は保留である。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした、もと凶賊斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
斑目一族や〈蝿〉にいいように使われていたが、今はレイウェンの警備会社で働いている。将来的には、ハオリュウの専属護衛になる予定。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
実は〈影〉であり、イーレオを育てた、パイシュエという人物の記憶を持つ。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。ということになっているが妖艶な美女という説もある。
本人曰く、もと女優の卵である。実年齢は不明。
ルイリン
ルイフォンの女装姿につけられた名前。
タオロンと好い仲の少女娼婦。癖の強い、長い黒髪の美少女。
少女にしては長身で、そのことを気するかのように猫背である。
――という設定になっている。
トンツァイ
繁華街の情報屋。
痩せぎすの男。
キンタン
トンツァイの息子。ルイフォンと同い年。
カードゲームが好き。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.飄風の招来-1
少し前まで、小鳥のさえずりを奏でていた草薙家の庭は、いつの間にか、蝉の歌声へと楽譜を替えていた。濃い木陰を作る、重なり合った葉の隙間から、生命力そのものの音色が盛大に広がっていく。
その一方で、地面を覆う芝は、連日の猛暑のためか、樹々の緑と比べて茶色みを帯びていた。
しかし、たっぷりと水を与えてやれば、やがて鮮やかな彩りを取り戻す。枯れたわけではなく、根は息づいている。今は雌伏のとき、というだけなのだから――と、植物に詳しいミンウェイが、草薙家を去る前に教えてくれた。
「……っ」
モニタ画面と向き合っていたルイフォンは、癖の強い前髪を掻き上げた。
「今は、摂政の次の出方を見る、雌伏のとき……か」
ひと息入れようと、OAグラスを外し、独り言ちる。その呟きも、窓越しに響く蝉の多重奏と混ざり合って消えていく。
――否。彼の言葉を正しく受け止める者があった。
「そんなこと、まったく考えていないでしょう?」
「!?」
「ルイフォンは今、必死に策を巡らせている。どうにかして、一刻も早くヤンイェン殿下と会えないだろうか、って」
「メイシア!」
背後からの凛と澄んだ声に、ルイフォンは慌てて回転椅子を翻す。直前まで、極度に集中していたため、彼女が部屋に入ってきたことに気づかなかったようだ。
「ルイフォンは凄く、頑張っている。……そ、それでね、凄く、格好いいの」
メイシアは可愛らしく頬を染めながら、涼しげに結い上げた髪を揺らした。
ちらちらと覗く白い首筋が、少し陽に焼けていた。貴族だった去年の夏とは、おそらく違う色だろう。健康的で美しく、生き生きとしていると思う。
彼女は「お疲れ様」と、手にしていたトレイから軽やかに氷の踊るグラスを差し出した。清涼感あふれる花の香りは、ジャスミンティーだ。草薙家の空調の設定温度をやや高いと感じている、暑がりのルイフォンへの気遣いが感じられ、彼の胸も浮かれ踊る。
「ありがとな」
受け取ったグラスを机に置き、ルイフォンはメイシアを抱きしめた。腕に収まる、柔らかな重みが心地よい。以前なら、こんなときには小さな悲鳴を上げていた彼女だが、今は嬉しそうに、こつんと彼の胸に頭を預けてくれる。
「お前こそ、シャンリーの手伝い、お疲れ様。そっちはもう、終わったのか?」
朝食の片付けに、結構な量の干し物もあったはずだ。草薙家で暮らしていたユイランが、総帥の補佐役として鷹刀一族の屋敷に戻ったので、他にも細々とした家事が増えていることだろう。
「うん。その……、シャンリーさん、ちょっと大雑把かもしれないけど、手際がいいし、ハオリュウたちがいなくなって人数が減ったから」
「ああ。そうだな……」
ルイフォンたちに加え、一時はハオリュウ、ミンウェイ、シュアンの三人も居候が増えるという、大所帯となっていた草薙家であるが、ハオリュウが新しく使用人となったふたりを連れて帰ると、随分とひっそりとした感があった。その反面、藤咲家は活気づいているらしい。事情を知る執事が、メイシアにそんな近況を教えてくれたそうだ。
あるいは昼間の静けさは、ユイランがいなくなったことを機に、ファンルゥが保育所に通い始めたことも大きいかもしれない。同じ年ごろの子供と接したほうがよいだろうと、前々から準備を進めていたのが少し早まったのだ。
好奇心いっぱいのファンルゥは、すぐに他の子供たちと打ち解け、毎日楽しそうに今日の出来ごとを報告してくれる。
心配されていた斑目一族からの追手は、どうやら大丈夫らしい。そもそも、その保育所自体、訳ありの親を持つ子供たちのための、草薙家の息の掛かった施設であるので、万一のときの対処は万全だ。さすがはレイウェン、抜かりない。
そんなふうに、周りは少しずつ変わってきている。
……それだけに、いつまでも同じ場所で立ち止まっている自分に、ルイフォンは苛立ちを覚えていた。
「ルイフォン」
不意に、腕の中のメイシアが顔を上げ、ルイフォンの髪に、くしゃりと手を伸ばした。
「頑張るのはいいけど、焦るのは駄目なの」
「ああ、分かっている。けど、『デヴァイン・シンフォニア計画』に決着をつけるためには、どうしてもヤンイェンに会う必要がある。俺たちだけで、『ライシェン』の未来を決めるわけにはいかないからさ……」
「うん……」
異父姉セレイエの遺した『デヴァイン・シンフォニア計画』は、『ライシェン』にふたつの道を用意した。
実父ヤンイェンのもとで、王となるか。
あるいは、優しい養父母のもとで、平凡な子供として生きるか。
そして、そのどちらを選んでも、摂政カイウォルが黙っていないであろう。
何故なら『ライシェン』は、この世でただひとりの、真の王たり得る〈神の御子〉の男子だからだ。カイウォルは、『ライシェン』を擁立して、権力の座にあろうとするはずだ。
「……ねぇ、ルイフォン」
メイシアが遠慮がちに、シャツの端を握りしめてきた。言いにくいことを言おうとしているのだ。だから彼は、彼女の黒絹の髪に、すっと指を通し、「どうした?」と、くしゃりと撫で上げる。
「あ、あのね。私、好戦的に前を向く、ルイフォンが好き。困難だと分かっていても、あえて突き進む姿に惹かれる。――だから、このまま、ヤンイェン殿下との連絡手段を模索するのでいいのだと思うんだけど……」
彼女は黒曜石の瞳を揺らし、迷うように続ける。
「現状について、私も考えてみたの。……それでね、ひょっとしたら、ヤンイェン殿下のほうから、私たちに接触してくる可能性があるかもしれない、って思ったの」
「どういう……ことだ?」
思いもかけない発言に、ルイフォンは猫の目を見開く。
「この前、ハオリュウが言っていたでしょう。死を目前にしたセレイエさんが、最後の力を振り絞ってヤンイェン殿下に会いに行ったなら、必ず『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを伝えているだろう、って」
「あ、ああ」
「もし、そうなら、ヤンイェン殿下も、私たちに……ううん、それ以上に、『ライシェン』に会いたいはず。彼のほうから行動を起こしてくるかもしれない」
「けど、ヤンイェンの周りは、摂政が目を光らせている。自由に行動することは難しい」
このところずっと、ルイフォンは、ヤンイェンに関する情報を集めていたのだから断言できる。彼は、病気療養という名の幽閉は解かれたものの、今なお、摂政の監視下にあると言っていい。
「うん。だから、ヤンイェン殿下は、今まで私たちが動き出すのを待っていたと思う。……正確には『私たち』じゃなくて、『〈天使〉のホンシュア』が動くのを。〈天使〉なら監視の目を誤魔化せるから」
「……そうか。……そうだよな。『デヴァイン・シンフォニア計画』は本来、ホンシュアの手によって、進められるはずのものだったんだよな……」
ルイフォンは、かすれた声で呟く。
しかし――。
ホンシュアは死んだ。
そして、水先案内人を失った『デヴァイン・シンフォニア計画』は迷走を始めた。
「ヤンイェン殿下からすれば、『〈天使〉のホンシュア』が動き出さないことに、焦りと疑問を覚えていると思うの。……そして、〈七つの大罪〉の事実上の運営者だった殿下なら、そろそろ、ホンシュアが亡くなっている可能性に気づくはず。〈天使〉は力を使い始めたら、長くは生きられないから……」
沈んだ声で、メイシアが告げる。その瞳は、ホンシュアの死を悼み、赤みを帯びていた。
ルイフォンは唇を噛み締めた。彼が会ったときには、ホンシュアは既に『セレイエの〈影〉』となっていたが、本当はまったくの別人――ライシェンの侍女だった人物だ。
『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わった時点で、ホンシュアは捨て駒だった。
重い事実に、静かな溜め息を落とす。
……けれど、今更どうしようもない。話の先を促すべく、ルイフォンがメイシアの髪をくしゃりと包み込むと、彼女も気持ちを切り替えるように頷いた。
「ホンシュアが亡くなっていると感づいたら、ヤンイェン殿下は『仕立て屋を呼ぶように』と、切り出してくると思うの」
「仕立て屋?」
想定外の単語に、ルイフォンは語尾を跳ね上げる。その声が、あまりにも鋭かったからだろう。メイシアが気圧されたように「たぶん……」と付け加えた。
「今の時期なら、『秋の園遊会に、女王陛下の同伴をするための礼服が必要だ』って感じに持っていくんじゃないかしら、って……」
徐々に勢いをなくす彼女の言葉に、ルイフォンは「すまん」と頭を掻いた。
「別に反論するつもりじゃないんだ。けど、俺には『仕立て屋を呼ぶ』なんていう、上流階級の発想はなくてさ。純粋に驚いた。――悪い」
「え……、ううん」
うつむき加減に肩をすぼめ、メイシアが小さく首を振る。あらわになった彼女のうなじに向かって、ルイフォンは明るく言う。
「こういうとき、以前の俺なら、お前との身分差にいじけていたけどさ。今の俺は、もう動じねぇよ。むしろ、俺の知らない世界の知識を、お前が持っているというのは心強いと思う。――だって、俺たちが一緒にいれば『無敵』、ってことだろ?」
「ルイフォン……」
黒曜石の瞳が、ぱっと見開かれ、陰りを帯びていた頬が薔薇色に染まった。
「ともかく、仕立て屋がどう関わってくるのかを教えてくれ。俺とは違う視点は、非常に興味深い」
「うん」
メイシアは、ふわりと破顔して、そして告げる。
「婚約の儀は済んでいないけれど、ヤンイェン殿下は女王陛下の婚約者として、公に発表されているの。ならば、式典の際には、おふたりが揃いの衣装をお召しになるのが慣例のはず。つまり、殿下は、必然の流れとして、園遊会に向けて服を新調することになる。そして、その際に――」
ここからが重要なのだと示すように、彼女は一度、声を止めた。それから、わずかに緊張を交え、慎重に言葉を重ねる。
「殿下が『藤咲家が抜擢した、女王陛下の婚礼衣装を担当することになった者』に、式典の衣装を任せてみたらどうか――と、仕立て屋を指名することは可能だと思う。婚礼衣装の前に、腕前を披露してもらいたい、ってふうに」
「そうか! そうなれば、『婚礼衣装を担当する仕立て屋』――つまり、ユイランが、ヤンイェンと接触できる!」
メイシアが言い終えるや否や、ルイフォンが鋭く叫んだ。
「うん。採寸の必要があるから、代理の者ではきかない。必ず、ヤンイェン殿下ご本人に、お会いできるはず」
「凄ぇな。そんな抜け道があったとはな……」
頭の片隅にもなかった手段にルイフォンは感服し、しかし、すぐに眉を曇らせる。
「――けど、ヤンイェンのほうから、ユイランを指名してくれないと、どうにもならないんだよな?」
「そこは気になるんだけど……、でも可能性は高いと思う」
常に控えめなメイシアにしては珍しい、ほのかに自信ありげな声色だった。
「なんか、根拠があるのか?」
ルイフォンの問いに、メイシアは口元を引き締め、こくんと頷く。
「根拠は、ホンシュアが私の前に現れたときに、『仕立て屋』だと身分を偽ったこと」
「は?」
「ええとね。それは、つまり、セレイエさんは『仕立て屋』という肩書きが、貴族や王族の屋敷に入り込みやすい、特異なものだと知っていた、ってことなの。――ヤンイェン殿下から聞いていたんだと思う」
「そりゃあ、まぁ、そうだろうな」
セレイエは、ルイフォンと同じ環境で育った異父姉だ。仕立て屋を呼ぶのが当たり前、という上流階級の感覚など、持ち合わせていないはずだ。ヤンイェンにでも教えられなければ、知る由もないだろう。
「セレイエさんに『仕立て屋』の特異性を告げたのがヤンイェン殿下なら、殿下は『仕立て屋』の存在を見逃さないはず。……それにね。ちょっと考えすぎかもしれないんだけど――」
メイシアは、わずかに、ためらいながら続ける。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』の開始条件は、女王陛下の婚約――その際に、私の実家である藤咲家が『婚礼衣装担当家』に選ばれたことだった。……偶然とは思えないの。セレイエさんは『仕立て屋』にこだわった気がする」
「『仕立て屋』にこだわった……?」
「だって、陛下のご結婚の準備が予定通りに進められていれば、今ごろ、ヤンイェン殿下は藤咲家と――つまり私や、私と出逢ったルイフォンと、『仕立て屋』を通して連絡を取り合っていたはずなの。……実際には、まだ殿下と『仕立て屋』の顔合わせすら、済んでいないのだけれど」
「じゃあ、こうして都合よく、『仕立て屋』という抜け道があるのは、セレイエがあらかじめ用意しておいた布石、ってことなのか?」
「そんな気がするの。勿論、藤咲家が『鷹刀の親戚である草薙家』を大抜擢するかどうかは、あわよくば、くらいの思いだったはず。……前当主が生きてらっしゃれば、縁故ある馴染みの仕立て屋を蔑ろにするのは難しかったと思うから」
「……」
少々、深読みのし過ぎのような気もするが、緻密で巧妙なプログラムを得意とした、あの異父姉のことだ。メイシアの言う通り、本当に計算ずくだったのかもしれない。
「私の中にある、セレイエさんの記憶を確認すれば、彼女の思惑を知ることはできるけど、ルイフォンと約束したから……」
記憶は見なくていいよね? と、上目遣いで尋ねてくるメイシアに、当たり前だろ、との思いを込めて、ルイフォンは彼女の髪をくしゃりと撫でる。
「ともかく、セレイエの意図がどうであれ、問題は、ヤンイェンが『仕立て屋』という連絡手段に気づくかどうか、だな」
ルイフォンとメイシアが、そんな会話を交わした数日後。
女王陛下の婚礼衣装担当家である、藤咲家の当主ハオリュウから、提携を結んだ服飾会社の社長であるレイウェンへと連絡が入った。
『王宮から使いが来ました。秋の園遊会で女王陛下とヤンイェン殿下がお召しになる衣装の仕立てを『婚礼衣装を担当する者』に依頼したいそうです』――と。
1.飄風の招来-2
女王と婚約者という、やんごとなき方々の衣装の注文に、草薙家は、にわかに慌ただしくなった。
王族ご指名の仕立て屋であるユイランは、連絡を受けるや否や、鷹刀一族の屋敷から一時的に舞い戻ってきた。彼女が不在の間は、なんとエルファンが総帥補佐を務めるらしい。なんでも、普段から『次期総帥の位を譲って、暇ができた』などと言って、服飾の仕事との二足わらじで多忙なユイランを手伝っていたという。
その話を聞いたとき、エルファンも随分、変わったものだと、ルイフォンは感嘆の息を吐いた。だが、そのあとに続いた『事務的な決まった作業は、きっちりこなしてくれるのよ』というユイランの言葉の裏に、要するに気配りが必要な案件については、今ひとつ頼りないのだという、相変わらずのエルファンらしさが垣間見え、苦笑を漏らした。
今回の依頼は、『王宮から、王族の臣下である貴族の藤咲家への依頼』という体が取られている。ハオリュウを通して、レイウェンの服飾会社が仕事を請け負う形だ。王族から直接、平民の会社に発注するわけにはいかないらしい。
「それで、ハオリュウが明日、草薙家に来るって?」
レイウェンから知らせを受け、ルイフォンは尋ねた。
「ああ。ハオリュウさんはまだ、私との決闘の傷が癒えていないし、身分からしても、貴族のハオリュウさんが草薙を呼びつけるほうが自然なんだけれどね。ヤンイェン殿下の件で、君とメイシアさんが話をしたいと言っているから、と」
ルイフォンはともかく、表向きは死んだことになっているメイシアは、実家に近づかないほうがよいと、ハオリュウは判断したのだ。……もっとも、自分が草薙家に出向けば、クーティエに逢える、という思惑もあるだろう。
「ハオリュウの奴、まだ車椅子なんだよな? その体で来てもらうのは、ちょいと悪い気がするけど、正直なところ助かる」
ハオリュウは『この負傷は、決闘の証。僕にとって大事なものですからね』と言って、シュアンの怪我の完治に使った〈蝿〉の技術を、自分に使うことを拒否した。体中に刻まれた傷跡は痛々しかったが、それで良いのだと、誰もが納得していた。
「私は、もう少し、手加減をするべきだったかな?」
「そんなことはねぇだろ。あいつは満足だったと思うぜ」
顔を曇らせるレイウェンを、ルイフォンは笑い飛ばす。
ハオリュウを買っているからこそ、レイウェンは、後遺症の残らないギリギリのところまで相手をしたのだ。それが分からないハオリュウではないだろう。
そして、翌日となり、ハオリュウが草薙家を訪れた。
待ちかねていた呼び鈴に、「私がお迎えに行くわ!」と、クーティエが軽やかに身を翻した。両脇で結い上げた髪が、流れるようにあとを追う。その根本を彩るのは、漣のように幾重にも青絹を連ねた、試作品の髪飾りだ。新作をハオリュウに見せるのだと、昨日、遅くまでユイランと作っていたのだ。
クーティエが席を立つのと同時に、メイシアとシャンリーが、冷たい飲み物を取りに台所に向かう。
ルイフォンは、応接室の端のソファーで待機である。
ヤンイェンについて話をしたくて、うずうずしているところだが、まずは貴族の藤咲家と服飾会社の草薙との間での、依頼の確認やら契約やらが先である。ルイフォンの用件は、あくまでも副次的なものなのだ。
故に、部屋の中心にいるのは、社長のレイウェンと、仕立てを任されたユイラン。
やがて、和気あいあいとした幾つもの人の気配が近づいてきて、クーティエの「どうぞ」という声と共に扉が開かれた。廊下からのの熱気と、軒に吊るした風鈴の澄んだ音色が、客人を先導するように流れ込んでくる。
「ようこそ。お待ちしておりました」
レイウェンが席を立ち、深々と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。お会いできるのを楽しみにしておりました」
車輪の軋みに続き、前よりも更に低くなった、ハオリュウのよく通る声が響く。その後ろで車椅子を押しているのは、予想通りにシュアンである。
「!」
ルイフォンは息を呑んだ。
手押しハンドルを握るシュアンの左手に、白金の指輪が光っていたのだ。
思わず声を上げそうになったが、すんでのところで、口を大きく開けるだけに留める。そして、視線を走らせ、怪我人である主人の付き添いとして控える侍医の姿を――その左手の薬指に注目する。
「……」
先を越された。
ハオリュウ一行のあとから、案内をしてきたクーティエと、廊下で一緒になったらしいメイシア、シャンリーが入ってきた。
どうやら、女性陣の間では、既に白金の指輪は話題になっていたようで、華やかな興奮に包まれた、妙な空気が漂っている。そして、メイシアのトレイの上では、アイスティーに浮かべられたミントの葉が、落ち着きなく揺れていた。
メイシアの背後のシャンリーが、ルイフォンに向かって意味ありげに口角を上げる。
「……っ」
指輪なら、メイシアと贈り合う約束をしているのだ。だが、いろいろあって、先延ばしになっているだけで……。
……ひょっとして、交換する用とは別の指輪を贈ってもよいのではないだろうか? いわゆる婚約指輪というやつだ。豪華な宝石の付いた……いや、普段から身に着けてもらいたいから、それよりもメイシアに似合う、清楚でシンプルなものを……。
それまで、ヤンイェンのことで、いっぱいだったルイフォンの頭が、メイシア一色に染まっていく。
思考が異次元へと飛んでいき、彼にとって退屈なだけと思われた、ハオリュウとレイウェンによる仕事上のやり取りは、まったく耳に入ってこなかった。彼はただ、隣に座ったメイシアの左手を無意識に引き寄せ、まるでサイズを測るかのように、指先で彼女の薬指の付け根を挟み込んでいた。
「ルイフォン?」
耳元で聞こえたメイシアの声に、ルイフォンは、はっと我に返った。気づけば、皆がルイフォンに注目している。
「お待たせしてすみませんでした。レイウェンさんとの契約は終わりましたよ」
快活に告げたハオリュウの目線は、メイシアの薬指を摘まむルイフォンの手に落とされていた。その眼差しには、どことなく憐れみが混じっている。
ルイフォンは反射的に視線をそらし、気まずげに手を引っ込める。
ともかく、今はヤンイェンとの接触についての相談だ。「こほん」という、わざとらしい咳払いと共に、意識を現状へと戻し、ルイフォンは口火を切った。
「『ライシェン』の未来を決めるため、俺はずっと、ヤンイェンと話をしたいと思っていた。けど、王族であるヤンイェンには、おいそれと近づくことができず、また、摂政も目を光らせているために、今まで身動きが取れなかった」
ルイフォンの前置きに、皆が思い思いに頷く。
「それが今回、衣装の依頼を受けたことで、仕立て屋のユイランが、王宮でヤンイェンと対面できることになった。この機会を上手く利用したい」
そこまで言うと、名を挙げられたユイランが、すかさず口を開いた。
「私が手紙を預かって、そっとヤンイェン殿下にお渡しするのでどうかしら? メイシアさんの話では、ヤンイェン殿下は、意図的に私を指名した可能性が高いのでしょう? ならば、手紙を渡されても、騒ぎ立てることはないと思うの。そもそも、殿下は私が『鷹刀』であることをご承知のはずだし、私とセレイエちゃんは似ているから、信用してくださると思うわ」
仮縫いなどの衣装の進捗に合わせ、ヤンイェンとは何度も顔を合わせることになる。だから、その後も手紙の受け渡しはできる。あるいは、携帯端末の番号を交換できれば、直接、ルイフォンとヤンイェンとで話し合うことができるだろうと、ユイランは続けた。
ユイランの意見は、素直な策だ。
少し前であれば、無理のない、堅実な案として採用していたかもしれない。
しかし、ルイフォンは「すまん」と、ユイランに頭を下げた。
「申し出は有り難いし、初めは俺も同じように、ユイランに橋渡しになってもらうことを考えた。――けど、ここは、やはり、俺自身が王宮に乗り込み、ヤンイェンと会うべきだと思う」
好戦的なテノールが響き、応接室が一瞬、静まり返る。
だが、次の瞬間には、ざわめきが場を支配した。例外は、あらかじめルイフォンと話し合っていた、メイシアだけだ。
「ルイフォン、それはつまり、何かしらの理由をつけて、ユイランさんに同行したいということですか?」
ハオリュウの問いに、「そういうことだ」と、ルイフォンは首肯する。
「『ヤンイェンは、俺たちの『敵』になるかもしれない』って、お前に指摘されてさ。確かに、その通りだと思った。――そういう相手なんだ。だから、この目できちんと、彼の人となりを確かめておきたい」
セレイエは、死んだライシェンの記憶を手に入れるために命を落とした。けれど、〈天使〉のホンシュアが死に、メイシアを〈天使〉にするつもりがない以上、ルイフォンの中に眠るライシェンの記憶は、永遠にそのまま――つまり、無駄になる。
それを知ったとき、ヤンイェンはどんな反応を示すのか。
『ライシェン』にオリジナルの記憶がなくてもよいと言うのか。それとも、どんな手段を使ってでも、『ライシェン』に記憶を入れようとするのか。
ヤンイェンの出方で、ルイフォンの今後も変わる。
「瀕死のセレイエから、ヤンイェンが何を聞いたのかは分からない。けど、『デヴァイン・シンフォニア計画』は既に迷走している。セレイエの思い描いたようには進んでいない。だから、ヤンイェンが何を知っていたとしても、それはもう古い情報だ」
ルイフォンは、ぐっと拳を握りしめた。
セレイエの我儘のために、メイシアの父親は死んだ。シュアンの先輩も、名も知らない巨漢も、〈蝿〉に酷使された〈天使〉たちも。そして、憎き敵として対峙していた〈蝿〉ですら、セレイエに利用された者のひとりにすぎないのだ。
セレイエには命を掛けて、ルイフォンとメイシアに『デヴァイン・シンフォニア計画』を託した。
けれど、ふたりは決して、セレイエの願いを叶えない。
「ヤンイェンは、『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状を知るべきだ。その上で、『ライシェン』の未来を彼と話し合いたい」
「重要な話だから、多少の無理や危険を犯してでも、ルイフォン自ら、ヤンイェン殿下にお会いしたい――ですか」
ハオリュウの口調は重かった。仕立て屋ならともかく、それ以外の者を王宮に連れていくのは困難だということだろう。そんな異母弟の渋面を、メイシアの瞳が捕らえる。
「ハオリュウ。本当は私も、ルイフォンと一緒に行きたいの。けど、死んだことになっている私は、顔を知られている王宮に足を踏み入れるわけにはいかない。だから、ルイフォンだけでも同行させてほしいの。あなたは『仕立て屋を仲介した貴族』として、ユイラン様をお連れするわけでしょう?」
訴えかけるメイシアに、ルイフォンも続く。
「ちょうどいい、って言ったら悪いんだけどさ。今のお前には、車椅子が必要だ。だから、シュアンの代わりに、俺を介助者として連れて行ってほしい」
これが、メイシアとふたりで話し合った方法だ。
正直に言えば、ルイフォンが介助を務めるのは、多少の無理がある。
いくら一人前のつもりでも、年齢的には、ルイフォンはまだ『子供』だ。貴族の当主が王宮への供として連れて行くのは不自然であるし、彼自身、その場にふさわしい立ち振る舞いができる自信はない。何ということもなく、ハオリュウの介添えをこなすシュアンは、傍目にどんなに胡散臭く見えようとも、実のところ有能なのである。
「姉様、ルイフォン……」
ハオリュウが目を瞬かせた。
そして、なんとも困惑の表情で告げる。
「今回、僕は『王宮に出向かなくてよい』と言われています」
1.飄風の招来-3
「えっ? どうして、衣装担当家当主が王宮に出向かなくてよいの!?」
ルイフォンよりも早く、メイシアが驚きの声を上げた。もと貴族として、信じられなかったのだろう。
「王宮からの使者によれば『藤咲家の当主は暴漢に襲われて負傷された、と聞き及んでおります。今回は無理をなさらず、ご自宅で養生していてください』だそうです。カイウォル摂政殿下が、僕とヤンイェン殿下の接触を警戒しているんでしょうね」
迂闊だった。
それは当然、考えられる事態だった。
ルイフォンが悔しげに顔を歪めると、ハオリュウは更に続けた。
「僕だけではなく、依頼した服飾会社の社長である、レイウェンさんの同行も不要だと言われています。レイウェンさんは、セレイエさんのお異母兄さんだからでしょうね」
「なっ……」
「ユイランさんが許可されたのは、指名された仕立て屋なので仕方なく、といったところでしょう。世間的には、正妻のユイランさんは、庶子のセレイエさんに冷たくあたっていたということになっているようですし」
そこで、ハオリュウは大仰なほどに溜め息をついた。
「僕は、摂政殿下とセレイエさんに因縁があることなど知らずに、草薙家に女王陛下の婚礼衣装を頼みました。しかし、摂政殿下は『セレイエさんのお異母兄さんの会社だからこそ、抜擢した』と信じているのでしょう。おそらく、それは殿下にとって腹立たしいことで、ならば、僕を内偵に使える手駒にしてしまえばよいと、『女王陛下の婚約者に』なんてことを考えたんですよ」
もう済んだことですけどね、とハオリュウは言い捨てる。
「ともかく、今回、僕は王宮に立ち入れません。だから、姉様とルイフォンの策は使えません。別の方法を考える必要があります」
「そう……ね……」
メイシアが愕然と肩を落とし、ルイフォンもまた、癖の強い前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げる。
そのときだった。
「ああっ! いい考えがあるわ!」
甲高い叫びと共に、クーティエが身を乗り出した。
「ルイフォンは、祖母上の『助手』って、ことにすればいいのよ!」
「『助手』?」
唐突な単語に、ルイフォンは、おうむ返しに尋ねる。
「ほら! 緋扇シュアンが逮捕されたとき、私が夜中に、ハオリュウのお屋敷に押しかけていったことがあったじゃない? あのとき、私は『仕立て屋の助手』って役割だったわ。それと同じ手でいくの。それに祖母上だって、荷物持ちくらい、いたほうが楽でしょ!?」
「名案だ! それでいこう! クーティエ、ありがとな」
ルイフォンは即決する。
仕立て屋の助手であれば、多少、若くても、所作が未熟でも、誤魔化しが効く。ルイフォンとしても、貴族の介助者より、よほど気が楽だ。
しかし、勢いに乗りかけた流れは、ユイランの「それは、ちょっと出来ないわ」という、歯切れの悪い声に遮られた。
「今回の件、ルイフォンとしては、『ヤンイェン殿下』にお会いすることが目的なのは分かっているわ。けど、私の受けた依頼は、『女王陛下』の衣装をお作りすることなの」
「へ? ……ええと、どういう意味だ?」
間抜けな声で、ルイフォンは首をかしげる。
「勿論、ヤンイェン殿下の衣装も、私がご用意するわ。けれど、それは『陛下と対の衣装』であって、主役はあくまでも、女王陛下。『女性である、女王陛下の衣装の採寸』に、『男性のルイフォン』を助手として連れて行くのは、どう考えても非常識だわ」
「う……」
「一国の王の衣装を手掛けるなんて、仕立て屋としては最高の誉れよ。だから、この依頼は、私の命運を賭けた大仕事なの。失敗の許されない、大切な――ね」
「そうだよな……」
ユイランの弁は、もっともだ。
頭を抱えたルイフォンの隣で、メイシアが、さっと手を挙げる。
「あの、それなら、私が変装をして行くのではどうでしょうか?」
「え? メイシアさんが……」
王宮の様子を知らないユイランは口ごもり、判断を仰ぐように、ハオリュウへと銀髪を揺らす。すると、ハオリュウが、ゆっくりと首を横に振った。
「変装したところで、姉様の綺麗な顔は目立ちすぎるよ。だいたい、身のこなしが上品すぎる。王宮を歩けば、明らかに上流階級の人間だと気づかれる。平民の仕立て屋の助手としては不自然だ」
「え……、そんな」
軽く口元に手をやり、上品に眉を寄せるメイシアの仕草に、確かにハオリュウの言う通りだと、ルイフォンも思う。
しかし、そうなると八方塞がりだ。やはり、ユイランに手紙を預けるしかないのか。
諦めかけたルイフォンの耳に、「悩むことなんかねぇだろう?」という、揶揄混じりの濁声が響いた。
「そんなの、ルイフォンが女装すれば解決する問題だ」
「シュアン!?」
「情報屋のトンツァイから聞いたぜ? 『ルイリン』は、たいそうな美少女だそうじゃねぇかよ?」
「……なっ!」
ルイフォンは、口をぱくぱくさせながら、絶句する。
そう――あれは、囚われのメイシアからの使者として、タオロンがシャオリエの娼館に来たときのことだ。タオロンが『馴染みの女』に会いに来た、という筋書きに合わせ、調子に乗ったシャオリエとスーリンに、ルイフォンは女装させられたのだ。
一生の汚点である。
あの件は極秘事項だと思っていたのだが、まさか情報屋によって広められていたとは……。
「待て! 声を出したら、一発で男だとバレる」
「大丈夫さ。『下々の者』は、お偉い王宮の侍従やら、女王陛下やらと口をきけねぇからよ。しかも、あんたの役柄はユイランさんの助手だ。ひたすら、へこへこ頭を下げてりゃいい」
ルイフォンの反論は、皮肉げな悪相によって一笑に付された。
それから、シュアンはすっと立ち上がり、唐突に窓を開ける。
「おーい、タオロン! ちょっといいか!」
庭の熱気と、部屋の冷気が混じり合う中、シュアンが外に向かって声を張り上げた。
すると、頭に麦わら帽子、首に手ぬぐい、右手には草刈り鎌を持ったタオロンが、猪突猛進に現れた。額の赤いバンダナは、汗を吸って変色しているが、浅黒い彼の肌にしっくりと馴染んでいる。
今の時間、普段であれば、タオロンは警備会社の仕事中である。しかし、今日は特別だった。
彼の娘――ファンルゥに恩義を感じているハオリュウから、『せっかく草薙家に行くのだから、話し合いのあとで、ファンルゥさんに素敵なおやつをご馳走します』という申し出があったのだ。
それで、保育所へのお迎えが早くなるため、タオロンも仕事を早く上がっていた。だが、まだ時間に余裕があったので、真面目なタオロンは、本来は勤務時間中なのだからと、自主的に働いていたのである。シュアンは、この家に着いたとき、草刈りに精を出すタオロンの姿を目撃し、彼が庭にいることを知っていたのだろう。
「なぁ、タオロン。今、極めて重要な潜入作戦について、その方法を話し合っているんだ」
重大な秘密でも漏らすように、シュアンは声を潜めた。応接室と庭という、窓を挟んだ距離でなければ、親しげに肩を組み、そっと耳打ちしていたに違いない。
「お、俺が聞いても、よい話でしょうか?」
雰囲気に飲まれたのか、タオロンが畏まる。ルイフォンから見れば、悪人面でしかないシュアンの凶相は、タオロンにとっては頼もしい策士の顔であるらしい。
「ああ。あんたしか知らないことについて、意見が欲しい。冷静に判断して、率直に答えてくれ」
物々しいシュアンの口調に、タオロンが、ごくりと唾を呑む。
「正直なところ、『ルイフォンが、女装して潜入する』という策は、危険だと思うか?」
「!?」
タオロンの小さな目が、赤いバンダナを押し上げんばかりに、いっぱいに見開かれた。まさか、そんなことを訊かれるとは思ってもいなかったのだろう。
狼狽するタオロンの前で、シュアンは、まるで苦悩しているかのように眉間に皺を寄せる。この案が使えなければ、あとがない。そんな雰囲気を漂わせ、大真面目に重ねて問う。
「ここにいる奴らは、誰もルイフォンの女装を直接、見たことがない。実物を確認している、あんただけが頼りだ。……やはり、女の格好をした男というのは、気持ち悪かったか?」
「そんなことはありません!」
タオロンの口から、決然とした大声と、唾が飛び散った。
シュアンは、その未来を予期していたかのように、さっと体を脇に避ける。
「ルイフォンの女装は、完璧でした。俺の見張りだった奴は、まったく疑いもしませんでしたし、俺だってルイフォンだと知らなければ、ころっと騙されていました!」
鼻息荒く、タオロンが熱弁を振るう。
「決まりだな」
そう言って、シュアンは応接室の皆を振り返り、胡散臭げな三白眼をにやりと細めた。
1.飄風の招来-4
ハオリュウが、衣装の依頼の件で、草薙家を訪れた日の晩。
ルイフォンは、この家の二階にある作業場に来るよう、ユイランに呼ばれていた。彼が『仕立て屋の助手』になるための服を見繕うためである。
あの話し合いのあと、ミンウェイやクーティエなどは、すぐにもルイフォンの女装が見られるものだと期待していたようだが、当事者であるルイフォンが断固として拒否した。
誰が好き好んで、見世物などになりたいものか。
険悪になりかけたルイフォンだったが、そこにメイシアがさっと割って入り、『ファンルゥちゃんと、おやつの約束がありますから』と、うまく話題を切り替えてくれた。さすが、最愛のメイシアである。
『ルイリン』の写真を大切にしている彼女が、本心では彼の艶姿を見てみたいと思っていたことは、ひしひしと伝わってきたが、それでも、気持ちを抑えてくれたことには感謝せねばなるまい。……どうせ、王宮に行く当日には、彼女に『ルイリン』を披露することになるのだから。
ルイフォンは深い溜め息をつきつつ、作業場の扉を開ける。
その瞬間、色鮮やかな衣装を身に着けた人形模型たちによる、華麗なる群舞が視界に飛び込んできた。賑やかな舞台に、思わず息を呑む。
この部屋のことは、先ほどメイシアから聞いてきた。
ユイランの作業場では、人形模型たちが生き生きと踊っている。しかも、その人形模型たちは、必ずしも恵まれた体型をしていない。太すぎたり、細すぎたり、高すぎたり、低すぎたり……。
しかし、ユイランのデザインした衣装を身にまとえば、体型など些末な問題になる。絶妙な位置に切り替えが施され、あるいは優美なギャザーが加えられ、どんな素材の持ち主も、自然のままで、お洒落を楽しめる。
それが、ユイランの目指すデザインなのだ――と。
「だからって、なんで、『男物のワンピース』なんてもんがあるんだよ!?」
ルイフォンが部屋に入ってきたことに気づいたユイランが、うきうきと銀髪を揺らしながら現れ、さっそく花柄のワンピースを寄越してきた。その際に語られた能書きに、ルイフォンは間髪を容れずに突っ込む。
「いつだったか、そういう依頼があったのよ」
ユイランは、ふふっと笑いながら、誇らしげに答えた。とても喜ばれた仕事だったらしい。
「ああ、こんな需要もあるのね、と思って、それ以来、いろいろ研究しているの」
楽しそうに衣装箱を漁り、ワンピース以外にも華やかな女性服――のように見えるものを次々に出してくる。
「それじゃあ、ここにある服を順に試してね」
「……俺が……着るのか?」
分かりきっていることだが、問わずにはいられなかった。
「当然でしょう?」
「…………だよな」
「ほんの一時の変装だし、王宮に行く日まで時間もないから、新調するのではなくて、既に仕立ててある服をルイフォンに合わせて直すのでよいわよね?」
「当たり前だ!」
既製のものを手にしている今でさえ、鳥肌が立っているのだ。自分用に仕立てられたワンピースなど、考えただけでもおぞましい。
「ねぇ、ほら見て。その服、素敵でしょう? 実は、飾りボタンに工夫があってね」
尻込みするルイフォンの様子は、火を見るよりも明らかなはずだ。しかし、ユイランは、にこにこと試着を強要する。
その眼差しは無邪気な少女のようでいて、決してそんな可愛らしいものではなかった。上品な初老の婦人に見えるのは上辺だけ。彼女は、母キリファも一目置いた、紛れもない鷹刀の血族なのだ。底知れぬ圧に押し切られ、ルイフォンは不承不承、袖を通す。
「ああ、可愛いわ!」
「『可愛い』って、なんだよっ!」
ルイフォンは猫の目を尖らせた。だが、ユイランが瞳に涙をにじませていることに気づき、その先に続くはずだった文句を飲み込む。
「やっぱり、キリファさんに似ているわね……。その目と髪……、キリファさんにそっくりだもの。……懐かしいわ」
「ユイラン……」
正妻と愛人という間柄でありながら、その実、ユイランがキリファを猫っ可愛がりしていたという話は本当だったのだろう。怒鳴って悪かったと、ルイフォンは素直に反省する。
それに、この女装は、ルイフォンが無理を言って、助手として連れて行ってもらうための変装だ。王宮やら王族やらが関わる案件のため、下手をすればユイランの身に危険が及ぶことだってあり得る。彼女も好きでやっているわけではないのだ。
ルイフォンが心を入れ替えていると、それまで、ハンカチで目頭を押さえていたユイランが、今度はワンピースと同じ花柄のヘアバンドを出してきた。ルイフォンが『何を?』と思っているうちに、彼の癖の強い前髪がまとめられる。
「目と髪は、キリファさん譲り。だから、ルイフォンは、本当にキリファさんによく似ているんだけど、顔全体の造りは、結構、鷹刀の顔立ちなのよ。……ほら、これでセレイエちゃんにそっくり。セレイエちゃんは鷹刀似だったものね」
「……」
鏡を見せられて、ルイフォンは絶句する。
セレイエにそっくり――というのは紛うことなき事実であった。しかし、それ以上に、鏡の中の我が身が……。
「可愛いでしょう!?」
「……」
「ヤンイェン殿下に、ひと目でセレイエちゃんの血縁だと気づいてもらえれば、話がスムーズだと思うの。ね? これなら、いけるでしょう? だって、凄く可愛いもの!」
銀髪に負けず劣らず、ユイランの瞳がきらきらと輝く。
「ルイフォンが、こんなに可愛くなるなんて! デザイナー冥利に尽きるわ」
「……」
間違いない。
ユイランは完全に自分の趣味で、ルイフォンを玩具に楽しんでいる。
「…………」
もう、どうにでもなれ。
『可愛い』なら『可愛い』ほど、潜入作戦の成功率は上がるのだ。――良いことのはずだ。
服装については、ユイランに任せるのが一番。更に当日は、彼女と仲良しの美容師が、化粧と髪型を整えてくれるらしい。何も心配は要らない。専門家に任せればいい。余計なことを考えてはいけないのだ。
ルイフォンは心を無にして、嵐が過ぎるのを待った。
苦行から、やっと解放されたとき、ルイフォンは精根尽き果てていた。
結局、何着試したのかも覚えていない。
一方のユイランは、結い上げられた銀髪は乱れ、決して若くはない美貌には、濃い疲れが見えていたが、遊び倒したかのような満足げな笑顔を浮かべていた。
ユイランの作業場をあとにして、ルイフォンは居候をしている部屋に向かう。シャンリーの手伝いをしていたメイシアも、きっと、もう戻っていることだろう。
衣装合わせは屈辱であったが、ひとつだけ収穫があった。
昼間、密かに思いついた、メイシアに婚約指輪を贈る件について、ユイランから良い助言を貰えたのだ。
指のサイズが分からなくても、あとから直せるので、サプライズで贈ることが可能らしい。もと貴族のメイシアなら、おそらく贔屓の宝飾店があっただろうから、そこを当たってみるとよいだろう。ハオリュウに、それとなく訊いてみるといい。来店の際の服装なら任せてほしい。高級店であることは間違いないはずだから――などなど。
何故、そんな話になったのかといえば、メイシアが『お守り』と思い込まされていたペンダントがきっかけだ。
あのペンダントは、ルイフォンの中に眠る『ライシェンの記憶』への目印として、ホンシュアがメイシアに持たせたものだった。本来の持ち主はセレイエであるため、家宅捜索が行われる鷹刀一族の屋敷に置きっぱなしにするのは危険かもしれないと、草薙家に持ってきていたのだ。
セレイエが、いつも身に着けており、彼女の胸に抱かれた赤子のライシェンも知っているもの。そして、『ヤンイェンが、セレイエに贈ったもの』だ。
ヤンイェンにとって馴染みの品であるなら、今回の王宮行きで使わない手はない。
セレイエに似た容姿の『仕立て屋の助手』が、セレイエのペンダントを着けて現れれば、ヤンイェンに対して、『セレイエの縁者が会いに来た』という無言の合図になるだろう。
そんなルイフォンの提案に、ユイランは「ならば、当日に着る上衣は、少し襟ぐりの広いものがいいわね」と相槌を打った。
「メイシアさんが着けていたペンダントなら、見覚えがあるわ。私と初めて会ったとき、がちがちに緊張していた彼女が、気持ちを鎮めるように必死に握りしめていたのよ。――それは、『お守り』と思い込まされていたからだったのね」
ユイランは得心したように呟き、それから、切なげに瞳を陰らせた。
「本当は、ヤンイェン殿下からセレイエちゃんへの贈り物……。たぶん、婚約指輪の代わりだったんだと思うわ」
「え?」
「あの石は、かなり高価なものよ。ペンダントじゃなくて、指輪にして贈りたかったはず。でも、殿下には、お立場があったから……」
湿っぽいことを言ってごめんなさいね、と、ユイランは静かに付け加えた。その言葉に、ルイフォンは、なんと返したらよいのか分からなかった。
ルイフォンとメイシアの間にも、身分の差があった。
けれど、彼女がすべてを捨てて、彼のもとに飛び込んできてくれたから……。
――メイシアに、指輪を贈ろう。
改めて、そう決意する。
独占欲からではなくて、彼女への愛と感謝を込めて。
揃いの指輪の交換は、メイシアが婚礼衣装を着たときに。
だが、その前に、想いの証を彼女に贈る――。
「おかえりなさい、ルイフォン。……その、お疲れ様」
足音を聞きつけたのか、彼が扉を開けるよりも先に、メイシアが部屋から飛び出してきた。
彼女は、鷹刀一族の者たちのように、気配に敏感ということはない。おそらく、ずっと聞き耳を立てて待っていたのだ。
気遣うような、遠慮がちな上目遣いで、彼女が見上げてくる。不本意な女装をする羽目になった彼を心配しているのだろう。黒曜石の瞳が、不安げに揺れていた。
「ただいま」
すべて顔に表れている彼女が可愛らしくて、ルイフォンの口元が自然に、ほころぶ。
彼の笑顔に、彼女は戸惑いを見せた。彼の口からは、文句や愚痴のひとつも出てくるに違いないと、身構えていたのだろう。実際、彼自身、少し前までは不平不満の塊だったと思う。けれど、彼女を前に、そんな感情は吹き飛んでいた。
「今回の王宮への潜入作戦。準備は万端だ。俺はヤンイェンに会って、きっちり話をしてくる」
「ルイフォン……?」
「ちょっと、外の風に当たろうぜ?」
きょとんと目を丸くするメイシアの肩を抱き寄せ、ルイフォンは夜の庭へと誘う。
星空に支配された世界は、夏の虫たちの歌声で彩られているにも関わらず、どこか静けさが漂っていた。軒の風鈴の音色が涼やかに響き、空調に慣れた素肌には、蒸し暑く感じるはずの外気を冷涼なものに変えていく。
「あの星のどれかが、クーティエの弟か妹なんだよな」
草薙家に厄介になって少し経ったころ、ルイフォンとメイシアは、シャンリーにそんな告白をされた。ちょうど今と同じような、星降る夜の庭でのことだ。
流産した子供の代わりにするわけではない。けれど、もし運命が巡ってきたならば、『ライシェン』は草薙家の子になるといい。うんと可愛がってやる。――シャンリーはそう言ってくれた。
「オリジナルのライシェンもさ……、きっと、あのへんにいるんだろうな」
ルイフォンは、空に向かって大きく手を伸ばす。
唐突な彼の仕草は、メイシアにとって疑問でしかなかっただろう。しかし、彼女は静かに「うん」と頷き、彼に倣うように両手を広げて星空を抱いた。
星明かりに照らし出される、彼女の細く、まろみのある姿に、彼の心臓がどきりと高鳴る。
彼とはまるで違う、華奢な肢体は脆く、儚げで。
けれど、彼女は見えない翼で、天上の世界から、たったひとりで、地上の彼のもとに舞い降りてきてくれた。――彼だけの戦乙女だ。
綺麗だ。
この目に幾度、彼女の姿を映そうとも、そのたびに魅了される。
「なぁ、メイシア」
彼の呼びかけに、空を仰いでいた彼女が、ふわりと振り向く。不思議そうに小首をかしげながら、花の顔が淡く微笑む。
「俺は、凄く恵まれている。お前が傍に居てくれて、俺は幸せだ」
深いテノールが夜闇に解けた。
その声色だけで、メイシアには伝わってしまったらしい。彼女は、肌が触れ合う距離にまで近づいてきて、細い声で尋ねる。
「ルイフォン……。ヤンイェン殿下と……、セレイエさんのことを考えていた?」
「ああ」
言い当てられた驚きと共に、敏い彼女を腕に抱きしめ、ルイフォンは肯定する。
「セレイエも、ヤンイェンも、今の状況なんか望んでいなかったはずだ。――けど、起こっちまったことは、もう変えられない。だから、俺は、『ライシェン』とヤンイェンに、少しでも幸せな未来が訪れるように……」
そこまで言ったとき、メイシアの手が言葉を遮るように、ルイフォンの髪をくしゃりと撫でた。そして、彼女は凛と告げる。
「『私たち』は、『ライシェン』とヤンイェン殿下に、できる限りのことをするの。――ふたりで、一緒に」
「そうか。……そうだよな」
虚を衝かれたようなルイフォンの呟きのあとで、ふたり同時に破顔する。
澄んだ風鈴の音が重なり、葉擦れのざわめきが連なる。揺れる枝葉が、鷹刀一族の庭の主である桜の大樹を彷彿させた。
「よし、決めた」
好戦的に口角を上げたルイフォンに、『どうしたの?』と、メイシアの目線が問う。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』の決着は、できるだけ早くつける。遅くても、来年の春に。桜の花が咲くよりも前に、だ」
「……え?」
「『ライシェン』に幸せを贈って、そして、俺たちも幸せになる」
「!」
メイシアが息を呑んだ。黒曜石の瞳が見開かれ、長い睫毛が震える。
「ハオリュウが、お前の婚礼衣装をユイランに頼んでいるだろ? 親父さんの喪が明けたら、鷹刀の桜の下で式を挙げるように、ってさ。――そのとき、約束していた指輪の交換をしよう」
それよりも前に、婚約指輪を贈るつもりであるが、そちらは秘密である。
けれど、そんなルイフォンの内心を知らないメイシアは、さっと顔色を変えた。
「私が昼間、ミンウェイさんと緋扇さんの指輪に動揺していたから、ルイフォンは気にして……」
「違う、違う! そうじゃなくて、俺も正直、あのときは動揺というか、先を越されたと思った。――けど。俺たちは、『ライシェン』のことが落ち着いたあとで、『皆に囲まれた中で』が、ふさわしいんじゃねぇかと考え直してさ」
ルイフォンが癖の強い前髪を掻き上げながら弁解すると、がら空きになった彼の懐にメイシアがそっと体を預けてきた。
「うん。私も、それがいいと思う」
自分から抱きつくことに、ほんの少し照れながら、彼女が彼の背に手を回す。腕の中から向けられた極上の笑顔に、彼の心が満たされていく。
「ありがとな」
――俺の傍に、居てくれて。
ふたりでいる幸せが、星空の果てにまで広がっていくのを感じながら、ルイフォンはメイシアに口づけた。
2.高楼の雲上人たち-1
そして、王宮に行く当日。
ルイフォンは、『ルイリン』へと変貌を遂げた。
その出来栄えは、メイシアが口元に手を当て、うっすらと頬を上気させたことから、申し分ないものといえるのだろう。
「ね? 可愛いでしょう? 本当は、スカートのほうが女の子っぽく見えるんだけど、足さばきを考えて、スカンツにしてみたのよ。これなら、歩き方に、そんなに気を配らなくていいでしょう?」
自慢げに講釈を垂れるのは、勿論、ユイランである。
彼女の言う通り、ルイフォンは、見た目はスカートみたいにひらひらしているのに、内部構造はズボンという不可思議な下衣を着せられていた。
そして、上衣に大胆にドレープを効かせたブラウスを選んだことで、胸元に変な詰め物をせずに済ませている。シャオリエの娼館で、無理矢理に女物の服を着せられたときよりも、格段に着心地がよく、また動きやすかった。
ユイランは、ルイフォンを着飾ることを楽しんではいたが、それでも、おおいに気を遣ってくれたのだ。相手の気持ちを汲んだ専門家として、明らかな女物を使用せず、男女兼用衣装といえなくもない路線でまとめてくれた。
……なのに、鏡に映ったルイフォンの姿は、華奢で儚げな美少女にしか見えなかった。
細身ではあっても、ルイフォンだって、それなりの体格であるはずなのだ。現に、女物であるセレイエのペンダントは鎖が短く、彼が着けるとまるで首輪のようであったため、長いものと取り替え、充分な緩みをもたせた。そのせいで、なおのこと『華奢な首周り』という目の錯覚が起きてしまっていることも、事実なのであるが……。
姿見の前で絶句したまま、ルイフォンは立ち尽くす。
彼の衝撃を理解しているメイシアは、沈黙を保ってくれた。どんなに感動に震えた顔をしていたとしても、口元は閉ざされたままであった。
しかし、『仕立て屋を仲介した貴族』の屋敷から、『怪我で移動が難しい主人の代わりに、責任をもって見届けに来た』と言って現れた使用人は、主人への報告に必要だからと、遠慮なくシャッター音を鳴り響かせていた。
燦然と輝く白亜の王宮を前に、さすがのルイフォンも、ごくりと唾を呑んだ。
天を衝くような高楼は、まさに『天空神の代理人』の居城にふさわしい。
神を讃える創世神話が、虚飾にまみれた戯言と知っている身としては、雲を戴くまでに伸ばされた尖塔は、実に滑稽に思える。しかし、視点を変え、この威容は権力の象徴なのだと考え直すと、笑い飛ばすこともできないのが現実だった。
「それじゃあ、行きましょう」
隣に立つユイランが、涼やかに告げる。
彼女もまた緊張の面持ちであったが、どことなく好戦的な笑みをたたえていた。銀髪の穏やかそうな婦人に見えても、彼女は大華王国一の凶賊、鷹刀一族の中枢を担う人物。こんなところで怯んだりはしないらしい。
「ああ、行こうぜ」
ルイフォンは腹に力を込める。その途端、ユイランが顔をしかめた。
「ルイリンちゃん、言葉遣いは丁寧にね?」
「あ……」
どっと気が重くなる。
そんなルイフォンに、くすりとして、ユイランは指定された通用口へと向かう。――貴族のハオリュウが一緒ならまだしも、仕事を請け負っただけの平民であるので、当然のことながら正面玄関ではないのだ。
門衛の近衛隊員に、恭しく身分証明書を提示するユイランの後ろから、ルイフォンも『仕立て屋の助手』らしく、ひと抱えもある仕事鞄を担いで歩く。
荷物の大きさのためか、淑女らしからぬ動きで門を通過しても、彼が疑われることはなかった。それどころか、近衛隊員のひとりが、爽やかな笑顔で声を掛けてきた。
「お嬢さん、足元にお気をつけくださいね」
熱を感じる視線に見送られ、ルイフォンは王宮へと足を踏み入れた。
案内の官吏に連れられて、ルイフォンとユイランは、天空神の彫刻された一枚板の扉の前にたどり着く。
「こちらの部屋に、女王陛下とヤンイェン殿下がいらっしゃいます」
低く申し渡された声に、ユイランは恐縮したように顔を伏せた。それを見て、ルイフォンも慌てて倣う。ひと呼吸、遅れてしまったが、未熟な若い助手らしくてよいだろう。
頭を垂れたまま、ルイフォンは扉の向こうの気配を探る。武術は今ひとつの彼には、正確な人数を読み取ることはできないが、どうやら女王とヤンイェンの他に数人の侍女が控えているようだ。
だいたい予測通り。
ここから、ヤンイェンとふたりきりで話せる状況を作り出すためには、ヤンイェンの協力が必要だが……なんとかなるだろう。そのためのセレイエに似せた女装だ。
「くれぐれも、粗相のないように」
官吏は高飛車に念を押すと、扉を叩き、仕立て屋が到着した旨を室内に伝える。
「案内、ご苦労。あなたは下がって構いません」
聞こえてきた声は、女性のものではなかった。
間に壁を隔てているためにか、くぐもってはいるものの、麗らかな日和を思わせる、ゆったりとした蠱惑の音律。雰囲気は違えど、その声質は、盗聴で聞いたことのある摂政カイウォルのそれに酷似していた。
ヤンイェンだ。
察すると同時に、鞄を持つ手に汗がにじみ、ルイフォンの胸が高鳴る。
小さな足音がして、侍女が扉を開けた。嗅ぎ慣れない匂いが流れてきて、鼻腔をくすぐる。詳しくは知らないが、貴人の部屋で焚かれる香というやつだろう。メイシアから聞いたことがある。
「面を上げなさい」
先ほどの男の声が、今度は明瞭に響き渡った。
「藤咲家から推薦された仕立て屋ですね。ご足労、感謝します。――どうぞ、お入りなさい」
ユイランが動くのを確認してから、ルイフォンも顔を上げた。前に立つユイランの肩越しに見えたのは、天鵞絨張りの豪奢な椅子が二脚。
揃いの席に座るのは、対照的なふたりだった。
白金の髪を胸元に垂らし、青灰色の瞳を伏し目がちに揺らす、透き通った白い肌の少女。そして、彼女の影のように付き従いながらも、その存在感は隠しようもなく、むしろ少女の静けさを補うかのように典麗な微笑を浮かべる、黒髪黒目の大人の男性。
「お会いできるのを楽しみにしていましたよ」
名乗らなくても分かる。彼がヤンイェンだ。
緩やかにまとめられた、やや長めの黒髪からは、柔らかな印象を受けた。整った顔立ちは、やはり摂政に似ている。表向きは従兄弟、実際には異母兄弟の間柄なのだから当然だろう。
しずしずと歩を進めるユイランのあとを、ルイフォンもできるだけ小股に追っていく。
女王とヤンイェン、それから後ろに控えた侍女たちの目線は、ユイランひとりに注がれていた。若き藤咲家の当主に大抜擢された仕立て屋が、注目を集めるのは道理。助手のことなど気にもとめない。
ルイフォンの姿が視界をかすめても、やや高齢の母を手伝い、娘が荷物持ちをしているのだと思うだけだろう。鷹刀の色合いを全面に出した今の装いのルイフォンが、生粋の一族であるユイランと並べば、ふたりは母娘にしか見えないのだから。
しかし。
途中で、ひとつの視線が動いた。――ヤンイェンである。
彼は驚愕の表情で目を見開き、ルイフォンの顔を、そして胸元のペンダントを凝視する。期待通りの反応に、ルイフォンは内心で喜色を浮かべ、すかさず『話がある』と目配せをした。
それが通じたのか否かは、分からない。ただ、ルイフォンには、ヤンイェンが首肯するかのように、わずかに瞼を伏せたように思えた。
やがて、部屋の中ほどで、ユイランが歩みを止めた。
「陛下。此度は私めに、陛下のお衣装をお作りするという大役をお与えくださり、誠にありがとうございます」
国王の御前に出た仕立て屋として、彼女は平伏し、口上を述べる。ルイフォンも、今度は遅れないように叩頭する。
さて、ここからは、しばらく形式的なやり取りだ。今までの様子から推測するに、ユイランとヤンイェンの間で話が進むのだろう。退屈だからといって、ボロを出さないよう、神妙な顔をしていなければ、とルイフォンは気を引き締める。
部屋に入った瞬間から――否、それ以前から分かっていたことだが、女王はお飾りだ。
政は王兄である摂政カイウォルに任せ、今だって、仕立て屋への対応を婚約者のヤンイェンにすべて委ねている。先ほどから俯いたまま、ひとこともないのが、その証拠だ。
『白金の髪、青灰色の瞳』という、〈神の御子〉の容姿のみを求められて玉座に就いた王なのだから、仕方がないのだろう。その一方で、可憐なる綺羅の美貌は疑いようもなく、信仰の対象としての国民の人気は高いので、むしろ、きちんと役割を果たしている、といえなくもない。
ともあれ、女王を放置して、ヤンイェンとふたりで別室に移るのは、容易ではなさそうだ。今更のようだが、計画に無理があったかもしれない。
ルイフォンは下を向いたまま、渋面を作る。
ヤンイェンと言葉を交わすことができなかったときのために、手紙も用意してきた。しかし、せっかく王宮まで乗り込んできたのだ。ここで諦めるなんて――。
女王……、使えねぇ……!
口に出そうものなら、不敬罪でしょっぴかれること間違いなしのぼやきが、ルイフォンの脳裏を駆け巡る。
そういえば、ハオリュウが婚礼衣装担当家の当主として女王に謁見したとき、彼女は浮かない顔のまま、まともに言葉を発さなかったと言っていた。今回も、そうなるというのか。
焦りと共に、苛立ちが胸中を渦巻く。
そのとき――。
ルイフォンのギスギスとした感情とは正反対のような、ヤンイェンの柔らかな音律が頭上から落ちてきた。
「堅苦しい挨拶は、このくらいにしましょう。どうぞ、楽になさってください」
それはつまり、顔を上げてよいということか?
ルイフォンは思考を戻し、ユイランの様子を盗み見する。――どうやら、それでよさそうだ。
再び、視界に戻ってきたヤンイェンの端麗な面差しは、朗らかに笑んでおり……なのに、どこか飄々としていた。
「服飾会社の『草薙』の噂は、私の耳にも届いていますよ。藤咲の若き当主が、領地の絹織物産業を盛り立てるために提携を結んだ、気鋭の会社だと」
「滅相もございません」
ユイランが畏まり、謙遜する。ルイフォンの気持ちとしては、こんな世辞など面倒臭い、さっさと本題に入れ、と歯噛みしたいところなのであるが、表向きは粛々とユイランに追従した。
すると、ヤンイェンが軽く口元に手を当て、「世辞ではありませんよ」と、実に上品に喉を鳴らす。
「若い女性の流行に疎い私でも、草薙の絹の髪飾りが、身分を問わず人気を集めていることくらい知っていますよ。初めは庶民の品だと軽んじていた上流階級の令嬢たちでさえ、今や、こぞって買い求め、それに似合う服を新調しているとか。――ほら」
蠱惑の音律が、誘うように響いた。
「陛下の御髪をご覧ください」
長い指先が動き、女王を示す。ルイフォンとユイランは、惹き込まれるように目線を移し、息を呑んだ。
白金の髪をふわりと揺らしながら、女王が横を向いた。その流れに乗るように、後ろで留められていた緑のリボンがたなびく。
「恐れ多くも、陛下が……!?」
ユイランが絶句し、血相を変えた。
「恐悦至極に存じます……!」
感嘆と共に、再び平身低頭するユイランに、ルイフォンも慌てて続く。
なんとも意外な展開だった。
これから服を依頼する仕立て屋に、気持ちよく仕事をしてもらうために、ほんの少し配慮をする、というのはよくある話だ。しかし、絶対君主であるはずの女王に、それは必要ないだろう。しかも、彼女は今ひとつ愚鈍……と言ってはさすがに失礼だが、聡明さに欠ける女王なのだ。
ヤンイェンの入れ知恵か?
ルイフォンがそう思ったとき、ヤンイェンが女王に視線を送った。その次の刹那、まるで、天界の琴が弾かれたかのような、細く高い、妙なる音色が奏でられた。
「こ、この髪飾りは、私が頼んで買ってきてもらったものなの!」
「!?」
威厳の欠片もない、国王にあるまじき口調と内容に、ルイフォンは耳を疑った。
ただし、声だけを聞けば、天上の音楽と評しても差し支えないほどの美しさ。これが、女王の第一声だった。
唖然とする仕立て屋一行に、女王は今の台詞だけでは不充分だと気づいたのだろう。しどろもどろに付け加える。
「今日のために、じゃなくて。もう、随分と前に手に入れたのよ。私も、人気の髪飾りが欲しくて、侍女に無理を言ってお願いしたの。――だから、顔を上げて」
「陛下……。ありがとうございます」
戸惑いつつも、ユイランが嬉しそうに微笑む。
女王の言葉に従い、ルイフォンも体を起こせば、今まで伏し目がちだった青灰色の瞳が、まっすぐにユイランを見つめていた。
本当に青い瞳なのだな、と。今更のように、間の抜けた感想を抱く。ついでに、この瞳の色ならば、髪飾りは緑ではなくて青系統のほうが似合うだろうに、などと余計なことを思った。
だが、それは仕方がなかったのだろう。女王が『人気の髪飾り』を所望したのなら、侍女はまず緑を選ぶ。何故なら、一番初めに売り出され、今も根強い人気の商品が『森の妖精』をイメージした緑色の髪飾りだからだ。
「あのね、髪飾りだけじゃないの。ずっと、あなたの作る服を着てみたかったのよ」
「陛下!?」
驚嘆するユイランに、女王は言葉を重ねる。
「だから、藤咲の当主があなたを抜擢したとき、とても嬉しかったの。カイウォルお兄様……っ、……摂政カイウォルは、伝統を重んじ、老舗の仕立て屋の中から選び直すべきだと主張したのだけど、私、譲らなかったのよ」
女王は胸を張り、花がほころぶような愛らしさで笑う。
「『私は、王命において、藤咲の当主に衣装担当を任じました。その藤咲の人選を覆すのは、王として恥ずべき行為です』って正論をぶつけて、あのお兄様……摂政の意見を退けたのよ」
誇らしげな女王に、ルイフォンは、ぽかんと口を開けた。
彼女が、本心からユイランを歓迎していることは分かった。だが、一国の王に『伝家の宝刀で兄を言い負かした』と、自慢――もとい、告白された気がする……。
今までの女王に対する印象が、がらがらと音を立てて崩れていく。
どうやら、悪い子ではないらしい。自国の王に向かって『子』と表現するのは如何なものかと思うが、この女王は、良くも悪くも、ごく普通の女の子だ。――少しだけ、厚顔無恥の。
兄との仲は悪くはなさそうであるが、少々、煙たがっている節が見える。おそらく、公式の場で、彼女が沈黙するのは、彼女があまりにも王族の威信というものから掛け離れているため、余計なことを言うなと、兄に諫言されているためだろう。『陛下は恋に憧れているような、普通の夢見る少女だ』という摂政の弁も、あながち作り話ではないのかもしれない。
「陛下」
なんとも珍妙な空気となった部屋に、蠱惑の音律が響き渡る。
「せっかく憧れの仕立て屋に会えたのですから、少しご歓談されるとよいでしょう。事務的な手続きは、私が別室で、助手の方と済ませておきますから」
「!」
ヤンイェンが、ルイフォンとふたりきりになれる場を設けた――!
猫の目を見開くと、その視界に、麗らかに微笑むヤンイェンの美貌が映り込む。
そして、ルイフォンはヤンイェンに促されるままに、続き部屋へと移ったのだった。
2.高楼の雲上人たち-2
ヤンイェンに案内された隣室は、控え室のような場所らしく、ゆったりとした豪奢なソファーと繊細な彫刻の施された小さなテーブル、そして、全身が映るような立派な姿見が置かれていた。
いずれも最高級の逸品であるが、そんなものに気後れするようなルイフォンではない。彼は、できるだけ鏡から目を背けつつ、勧められるままに、堂々とソファーに腰を下ろす。
その瞬間、ヤンイェンの気配が、わずかに揺らいだ。
王族のヤンイェンよりも先に座ったのが、まずかったのだろうか。しかし、『どうぞ』と言ったよな? と、ルイフォンは不審げに顔をしかめる。
「セレイエには男兄弟しかいないと聞いていたから、従姉の『ミンウェイ』が来てくれたのかと思っていたのだけれど……」
「は?」
唐突に響いてきた、戸惑いに揺れる音律に、ルイフォンは反射的に眉を跳ね上げた。
「『ミンウェイ』は、確かセレイエよりも年上のはずだし、では、君はいったい誰なのか、ずっと悩んでいたよ。まさかと思って、その可能性は否定していたのだけどね。――『ルイフォン』?」
肩をすくめるようにも見える仕草で、ヤンイェンが姿見を示す。
ルイフォンが先ほど意識的に目をそらした鏡の中では、可憐なる美少女が豪快にどっかりと、大きく足を開いてソファーに座っていた。
「――!」
ルイフォンは、頭を抱え、ぐしゃぐしゃと前髪を掻き上げ……そうになり、すんでのところで思いとどまる。今日の彼の髪型は、ユイランの仲良しの美容師の手による芸術品なので、おいそれと崩してはならないのだ。
「ルイフォン……だね? セレイエの異父弟の」
失態と取り乱し、返事の遅れたルイフォンに、ヤンイェンは「ここは、王が使う部屋だから、盗聴器や監視カメラの心配は要らないよ」とそっと囁く。
そういう問題ではないのだが、ともあれ、説明をせずとも素性を察してもらえたなら、話が早くて助かったと解釈すべきだろう。
ルイフォンは地声のテノールで「ああ」と肯定する。万一のときのために少しだけ練習をしておいた、高めの裏声は必要ない。――鏡像の『美少女』が、どんなに儚げで可愛らしくとも、だ。
「ルイフォン……。……さすが異父弟だな。セレイエに、そっくりだ……」
まるで膝から崩れるように、ヤンイェンは向かいのソファーに腰を下ろした。肩を丸めてうなだれ、ルイフォンが気づいたときには、それまでの飄々とした端麗な美貌が、悲痛に歪んでいた。
祈るように組み合わされた指先に目線を落とし、ヤンイェンは独り言つ。
「何から訊いたら……、何から話したら……いいんだろう……。……ああ、いや。何よりも先に、私は君に謝るべきだ……」
「謝る?」
「セレイエは、私のせいで死んだ」
不意に上げられた陰りを帯びた面差しと、深潭の闇を凝縮したような黒い視線。
行き場のない憎悪をもてあますかのように、ヤンイェンは奥歯を噛みしめる。
「私と出逢ったから、――私が愛したから、彼女は死んだ」
険しさすら感じる音律で、ヤンイェンは断言する。
「けれど、私は彼女と出逢ったことも、彼女を愛したことも、後悔していない。……彼女が死んだことだけを後悔している」
「ヤンイェン……」
相手の名を呟いてから、『殿下』という敬称を付け加えなければ不敬罪になることに、ルイフォンは気づいた。だが、当の本人が気にしている様子もないので、そのまま口をつぐむ。
ルイフォンの顔を見つめ、ヤンイェンは切なげに微笑む。
まるで、哭いているかのように。
「セレイエは、私が殺したも同然だよ。……異父弟の君には、私を恨む権利がある」
「……」
ルイフォンは唇を噛み、ゆっくりと首を振った。
「俺には、あなたに謝ってもらうようなことは何もない」
ヤンイェンに会ったら、何を差し置いても『デヴァイン・シンフォニア計画』の話をせねばと、そればかりを考えていた。『ライシェン』に示されたふたつの未来――『王』と『平凡な子供』。父親として、そのどちらを望むのか。
それから、セレイエが命と引き替えに手に入れたライシェンの記憶について、ルイフォンたちの姿勢を明確に示す。
すなわち、『ライシェン』の肉体に記憶を入れるために、誰かを〈天使〉にすることには反対であること。そもそも、死者を蘇らせるような、自然の理に反する〈七つの大罪〉の技術に対しては否定的であることを鮮明にする。
その結果、ヤンイェンと敵対することになったとしても、それはそれで構わない。――そういう肚だった。
だが――。
……違うだろ。
ルイフォンは口元を引き締め、猫背を伸ばす。
「ヤンイェン。セレイエを――異父姉を愛してくれて、ありがとうございました」
異父姉は、幸せだった。
最期がどうであれ、彼女に後悔はなかった。
だから、異父弟として、義兄に初めに言うべき言葉は、感謝だ。たとえ、その先の話し合いで決別したとしても、それが礼儀だ。
「ルイフォン……」
頭を下げたルイフォンに、ヤンイェンの瞳が驚きに見開かれる。やがて、そっと目を伏せ、「そう言ってくれて、ありがとう」と、深みのある声が落とされた。
哀悼の空気の中で、ルイフォンは静かにテノールを響かせる。
「俺とセレイエは、わりと歳の離れた異父姉弟で、セレイエは、俺が十歳になる前には家を出ていた。けど、幼いころの思い出は、それなりにある」
感傷的なことを言うのは、自分らしくないなと、内心で苦笑しつつ、ルイフォンの口は自然に動いた。初対面のヤンイェンが、あまりにも自然に、親しげに『ルイフォン』と名を呼ぶから、異父弟としての、異父姉への思いを告げたいと思ったのだ。きっと異父姉は、何度もヤンイェンに、異父弟のことを語ったのであろうから――。
「セレイエは、ずっと年下の子供の俺を相手に、いつも本気でクラッキング勝負を仕掛けてくるような異父姉だった。俺のほうも、絶対にセレイエを負かしてやると躍起になって噛みついた。――なんのかんの言って、対等に扱ってくれるセレイエが、俺は好きだった」
仲の良い姉弟だったと思う。
我儘で自己中心的なくせに、詰めのところで厳しくなりきれない、脆さと優しさを持った異父姉。緻密で巧妙なプログラムを得意とするくせに、本人は完璧とは、ほど遠く。『細かいことは気にしない!』と、姉弟の声が揃うのが不思議と楽しかった。
「セレイエが家を出てからは、顔を合わせるのは、ごくたまに、セレイエが気まぐれに実家に帰ってきたときくらいになった」
すぐそばにいたはずの異父姉は、次第に知らない人になっていった。
「セレイエは、自分が外で何をしているのか、俺にはまるで語らなかった。俺も薄情な子供で、セレイエの暮らしになんて、まったく興味がなかった。セレイエは独立したんだから、セレイエの自由だろ、って。――疑問にすら思わなかった」
ルイフォンの声が沈む。愚かな子供だったと。
「今なら分かる。〈七つの大罪〉に身を置いたセレイエは、俺には迂闊なことを言えなかっただけだ」
これは、ルイフォンの後悔だ。
もう少し、自分が積極的に情報を得ていれば、今とは違った未来があったのではないか――と。
「思い返せば、俺が布団に入るのを見計らうようにして、母さんとセレイエが口論を始めることが何度もあった。せっかく実家に帰ってきたのに、セレイエの奴、何やってんだよ? って、思っていた。そのうち、母さんが『セレイエは貴族の男と駆け落ちした』なんて言い出すから、『ああ、なるほど……』なんて、納得しちまっていた」
胸の奥が痛み、喉が熱くなっているのを感じた。
それを堪えて、ルイフォンは言を継ぐ。
「ヤンイェン。さっき、あなたは『セレイエは死んだ』と言った。……セレイエは、最後に、あなたに逢うことができたんだな?」
メイシアが受け取ったホンシュアの記憶からでは、セレイエの最期は確認できない。
だから、問う。
セレイエは思い残すことなく、逝くことができたのか。
……セレイエは、本当にもう、この世の人間ではないのか。
「ああ。――そうだよ」
ヤンイェンの喉が、苦しげに、こくりと動いた。
「セレイエは、最後に私のところに来てくれた。私の腕の中で……息を引き取った」
両手を見つめ、失われた想い人を包み込むかのように虚空を掻き抱き、ヤンイェンは静かに告げる。
「セレイエの亡骸は、密かにライシェンの霊廟に移した。私は幽閉の身だったけれど、少しくらいは私に融通をきかせてくれる者もいたから、母子を一緒に眠らせるくらいのことはしてやれた」
切なげに語るヤンイェンの言葉に、ルイフォンは固く拳を握りしめた。
セレイエの死は、とうの昔に受け入れていたはずだった。
なのに、激しく動揺している自分に驚く。
やはり、心の片隅では、セレイエの死を信じていなかったのだろう。それが、ヤンイェンの証言によって、一縷の望みも絶たれたのだ。
「ヤンイェン……、俺の異父姉をありがとな」
絞り出すようにして声を出し、ルイフォンは無理やりに口角を上げる。
「セレイエの奴、最後まで自分の好きなように、我儘を通しやがった……」
テノールの語尾が、独白として立ち消えようとしたとき……。
――その声をすくい上げるかのように、ヤンイェンが頭を振った。
「まだ、『最後』ではないだろう?」
それまでとは打って変わった、不可思議な強さを持った声色だった。
急に雰囲気の変わったヤンイェンに、ルイフォンは「え?」と瞳を瞬かせる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』」
ヤンイェンの口から紡がれた声は、麗らかな日和を思わせる、優しげな響きで。
けれど、ルイフォンの思考は、蠱惑の音律に魅入られたように凍りつく。
「君は、セレイエの遺した『デヴァイン・シンフォニア計画』を知っているのだろう? そうでなければ、私のところに来たりはしないはずだ」
「!」
ルイフォンの背に戦慄が走った。
猫の目に、知れず、鋭い光が宿る。
――ヤンイェンは、やはり、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを知っていた。
ハオリュウが推測した通り、セレイエは最後に、自分の命と引き替えに組み上げた『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを、ヤンイェンに伝えてから死んだのだ。
――となれば、ヤンイェンは、どう動く……?
ルイフォンの体は無意識に強張り、身構える。
「君の性格は、セレイエからよく聞いている。――だからね。君が私の前に現れたときには、私は君に罵倒されるのだろうと、覚悟していたよ」
「……は?」
微笑みを崩さぬまま、朗らかに打ち明けるヤンイェンに、ルイフォンは目を点にした。
目の前の御仁は、穏やかで理性的に見えるのだが、掴みどころがない。そういえば、メイシアから初めてヤンイェンのことを聞いたとき『浮世離れした不思議な方』と言っていたような気がする。
「だって、よく考えてごらんよ。セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』を作ったのは、私が先王陛下を殺害したことが原因だろう?」
「あ? そうか……、そうなるのか……」
ヤンイェンとセレイエは、ライシェンが殺されてすぐのころから蘇生を計画していたが、それは、三人でひっそりと暮らすためだったと、記憶を受け取ったメイシアから聞いている。『デヴァイン・シンフォニア計画』のような、国を巻き込むような大掛かりなことは考えていなかったと。
つまり、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、独りきりになってしまったセレイエが、失った過去を取り戻し、幽閉された未来を救うためのものなのだ。
「ルイフォン」
にこやかな呼びかけに、ルイフォンは異次元へと飛びかけていた意識を慌ててもとに戻す。
「君にとっての私は、必ずしも、好意的に受け入れられる人間ではないはずだ」
「へ!?」
声色を裏切るような台詞に、ルイフォンの口から、思わず滑稽なほどに間抜けな声が飛び出た。そんな彼にヤンイェンは、変わらぬ調子のまま、「そんな、大げさな反応をしないでおくれよ」と、困ったように苦笑を漏らす。
「君にしてみれば、『デヴァイン・シンフォニア計画』なんて厄介ごとでしかなくて、その原因となった私は、迷惑そのものだ。……だからね、初めに君と、わだかまりなく、セレイエの話ができて嬉しかったよ」
わずかに照れたような、典麗な仕草で黒髪を掻き上げ、ヤンイェンは口元をほころばせる。
しかし――。
「でも、ここまでだ」
穏やかなのに、どこか冷淡な、蠱惑の音律。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、おかしなことになっているのだろう?」
ヤンイェンは眉根を寄せ、瞳に陰りを落とした。細められた目線の先は、ルイフォンが身に着けている、セレイエのペンダントに向けられている。
「君のもとに、そのペンダントがある以上、君とメイシアさんの出逢いは無事に果たされたはずだ。けれど、メイシアさんは身を投げ、助けようとした父君のコウレンさんまでもが崖から落ちて亡くなったと聞いた。――いったい、何が起きているんだ?」
ヤンイェンはルイフォンの顔を覗き込むように首を傾けた。緩やかにまとめられていた髪が、はらりとひと房、頬に落ち、濃い影を作る。
「君が、私のもとを訪れたのは、『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状を伝えるため。――違うかい?」
「!」
ヤンイェンとの会話は、雑談の小径を通り抜けながらも、きちんと本来の目的地に向かっていたようであった。
2.高楼の雲上人たち-3
「まさか、そんなことになっていたとは思わなかったよ……」
ルイフォンから『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状を聞かされたヤンイェンは、深い溜め息をついた。
悲痛な顔を見せる彼に、ルイフォンは、ごくりと唾を飲む。
必要なことは、すべて話した。
では。
次に、どう出る?
猫の目を見開き、ヤンイェンの口元をじっと凝視する。
「すまない。考えるべきことが多すぎて、今すぐに何かを決めることは、とてもできない」
「……!?」
虚を衝かれた……ような気がした。
はっきりとした返答でなくてもよい。だが、『セレイエの願いには応えられない』と、きっぱりと告げたルイフォンに対して、好悪の感情のような――この先の『旗色』を示すようなものが見えてくると、信じていた。なのに、まるで何も読み取れなかった。
思わず、腰を浮かせかけたルイフォンであるが、弱々しく頭を下げるヤンイェンを前に押し黙る。
「ライシェン……」
話の途中で渡した写真に、ヤンイェンは切なげな視線を落とした。ぽつりとした呟きのあとには、「君に会いたいよ」という、かすかな音律が溶けていった……。
少なくとも、状況を説明することはできたのだ。それだけでも収穫とすべきだろう。
それから、メイシアの助言の通り、凍結保存の『ライシェン』の写真を渡したのもよかったと思う。『私は、人の世には関わらないのよ!』と、文句たらたらの〈ベロ〉をなだめすかして、鷹刀一族の屋敷から送ってもらった甲斐があった。
――今日のところは、ここまでだ。
ルイフォンは、ヤンイェンを促した。そして、女王のいる隣室へと戻ろうとしたときだった。
「きゃああ! ヤンイェンお異母兄様!? ちょっ、ちょっと、待って! 今、着替えているの!」
絹を裂くような悲鳴に続く、ばたばたと慌ただしげな足音。更には、がたんっ、という派手な振動まで伝わってきた。
天上の音楽もかくや、という美しい響きでありながら、品格というものの欠如したその声は、言わずもがな、この国の女王のものである。
今、まさに扉を開けるべく、取っ手をひねったところであったヤンイェンは、やれやれ、といった体でルイフォンを振り返った。
「粗忽者の異母妹で、お恥ずかしい」
面目なさげに謝りながらも、先ほどまで深い陰りを見せていた美貌を、ふっと和らげる。
「ああ、いや……」
仮にも、対象は女王である。正面から肯定するのはまずいかと、ルイフォンは曖昧に口ごもる。もっとも、そんな気遣いは無用のようで、ヤンイェンは隣の部屋の壁を見やりながら、申し訳なさそうに続けた。
「当分、掛かりそうだね。悪いけれど、待ってやってくれるかな」
「ああ、別に構わねぇよ」
ルイフォンは苦笑した。ヤンイェンが謝るそばから、『あ、あっちの服も着てみたいの!』という女王の声が聞こえてきたのだ。どうやら、ルイフォンが助手として運んできた大荷物――大量の見本衣装は、きちんと意味のあるものだったらしい。
「ありがとう。……あんなに楽しそうなアイリーは久しぶりだ」
目を細めて微笑むヤンイェンに、ルイフォンは、あれ? と思う。隣の部屋にいたときは、確か『陛下』と口にしていたはずだが、どうやら非公式の場では『アイリー』と名前で呼んでいるらしい。
「女王とヤンイェンって、仲がいいよな?」
先ほどの髪飾りのひと幕は、女王が憧れの仕立て屋であるユイランと打ち解けるために、ヤンイェンがひと肌脱いで、段取りを決めておいたものだろう。王族同士なのだから、仲が良くてもおかしくはないのだが、女王の同母の兄である摂政と、ヤンイェンが不仲であることを考えると、やはり不思議に思えた。
加えて、本当は異母兄妹なのに、表向きは従兄妹であるがために婚約者になっているという、複雑な間柄なのだ。
摂政の弁によれば、女王は異母兄との結婚を激しく嫌がっているということだったので、てっきり女王はヤンイェンを毛嫌いしているものと思っていたのだが……。むしろ、女王は口うるさい同母兄よりも、優しい異母兄のほうに懐いているように感じられた。
「ああ、そうか。君からすれば、私とアイリーの仲は、奇妙に感じるかもしれないね」
目尻を下げていたヤンイェンが、にわかに真顔になる。
「その理由は、私の母だよ。……体の弱い人だったから、もう亡くなってしまったけどね」
「え?」
唐突に出てきた存在に、ルイフォンは戸惑う。
「母は、自分と同じ境遇のアイリーのことを、ずっと気にかけていたんだ。よく自分のもとに招いては、王家のことや、身を守ることの大切さを教えていたよ。それで自然と、私とアイリーが一緒の時間を過ごすことも多くなってね」
「えっと? 『同じ境遇』で『身を守る』って……?」
随分と、穏やかならぬ発言である。
どういうことだ? と、首をかしげるルイフォンに、ヤンイェンは苦い口調で答える。
「私の母も、アイリーも、『〈神の御子〉の女性』だろう?」
「あ……」
「母は王位にこそ就かなかったけれど、結局、降嫁した先で、〈神の御子〉を産むことを強要されたんだ。彼女が〈神の御子〉を産めば、その子は王位継承権を持ち、婚家は何かと重要視されるようになるからね」
典麗な顔をしかめ、ヤンイェンは唇を噛んだ。
「でも、生まれたのは黒髪黒目の娘が四人。〈神の御子〉どころか、女では貴族の跡継ぎにもならん、と酷い扱いを受けたそうだ。母は先天性白皮症の弊害で、ほとんど目が見えなかったこともあってね。随分と蔑ろにされたらしい」
「なっ……!」
「母を救ったのは、父――先王陛下だよ。事実を知るや否や、母と夫の貴族を離縁させた。母の身分も王族に戻して、神殿に常駐の神官長に任命することで格の違いを示したんだ」
それから、彼は、わずかに声を落とす。
「……母が私を産んだのは、父に手籠めにされたからではなくて、次代の王の誕生を望む父に、恩返しができれば――という感情からなんだよ。残念ながら、私は〈神の御子〉として生まれることはできなかったけどね」
「……」
思わぬ事実だった。
ルイフォンが軽い衝撃を覚えていると、ヤンイェンが、少し気まずそうに「横道にそれたね」と呟く。
「そんな母だから、アイリーの将来を心配して、『異母妹を守ってあげて』と、事あるごとに、私に言い聞かせていたんだ。正妻であったアイリーの母親が、アイリーを産んで間もなく亡くなったこともあって、母親代わりになってあげたいという思いもあったんだろうね」
ヤンイェンの母と同じく、王妃もまた、長年、〈神の御子〉を産むように強いられてきた女性だ。現女王を産んだあと、女子とはいえ〈神の御子〉を産むことができて、やっと役目を果たせた、とばかりに息を引き取ったのだという。
「私も、年の離れた異母妹は可愛かったしね。異母兄でありながら、『婚約者に』と名を挙げられても、アイリーが他の男に酷い目に遭わされるよりはましだろうと、放っておいた。だから……そうだね、私はアイリーの保護者みたいなものだよ」
「なるほどな」
相槌を打ちながら、ルイフォンは気づく。
この世で唯一の『〈神の御子〉の男子』である『ライシェン』の未来は、隣で無邪気に着替えている女王の将来にも、大きな影響を及ぼすことになる。
もし、『ライシェン』が王になる道を選べば、彼女は王位から――そして、〈神の御子〉を産まねばならぬ、という重責から解放される。しかし、『ライシェン』が養父母のもとで、平凡な子供として生きる道を選んだときは――?
女王が幼いころから、異母兄として見守ってきたヤンイェンは、彼女を不幸にしたくないだろう。
ならば、どんな選択が、皆の幸せに繋がるのか?
ヤンイェンが、『ライシェン』の未来を即断できないのも道理なのかと、ルイフォンは深い溜め息をついたのだった。
「お待たせしちゃって、ごめんなさい!」
数十分後。やっと隣室の扉が開いたときには、女王は、波打つように裾の広がる、淡い青色のワンピースを身にまとっていた。
「陛下……」
ヤンイェンが大きく目を見開き、絶句する。
それも仕方のないことだろう。
女王は先ほどまで、フリルとレースをふんだんにあしらった、可愛らしさを前面に出した服を着ていたのだ。彼女の印象そのもので、十人中、十人までもが、よく似合うと褒めることだろう。彼女の装いは、いつもこの系統だった。
しかし、今、身につけているワンピースは極端に飾り気が少なかった。なのに、しなやかな布地から生み出されるドレープが実に優美で、華やかさにおいて、いつもの服に引けを取ることはない。更に、上品さを残しつつも、軽やかさを感じる丈であるためにか、彼女の可愛らしさは損なわれるどころか、強調されている。
女王はヤンイェンのもとに駆け寄り、「ね? どう?」と目を輝かせながら尋ねた。
「随分と大人びた感じがしますが、決して背伸びをしているようではありませんね。とても自然で、よくお似合いです」
「そうでしょ、そうでしょ! 私も、いつまでも子供じゃないのよ!」
満面の笑顔を浮かべ、女王が声を弾ませる。
そういう発言こそが、彼女を幼く見せているのであるが、それでも、裏側にある彼女の気持ちに、ルイフォンは気づいてしまった。多分に、先ほどのヤンイェンの話の影響だ。
彼女は、変わりたいと願っているのだ。
幼いころから、ヤンイェンの母親にいろいろと聞かされていれば、自分が蚊帳の外のまま、婚礼の準備が進められてよいとは思っていないだろう。だが、現状では、どう見ても主導権を握っているのは王兄だ。彼女は、いったい、どこまで何を知っているのやら……。
「――ですが、陛下」
麗らかな色合いでありながら、ぴしゃりと厳しい音律が耳朶を打ち、ルイフォンの思考を遮った。
見れば、部屋中に散らかった服を前に、ヤンイェンは渋面となっていた。彼の視界の端には、ひと仕事やりきったと満足げな様子で、針や糸といった裁縫道具を片付けているユイランの姿がある。ただし、綺麗に隙なく結い上げられていた髪は、だいぶ崩れていた。
「今日は採寸はしても、衣装を合わせる日ではなかったはずですよ?」
「あ、あのね。ユイランさんが、どんなデザインが好きかって、見本を見せてくれたの。それで私、どうせなら、着てみたいなって。そしたら、サイズを直してくれて……。うっ……、……ごめんなさい」
上目遣いの青灰色の瞳が伏せられ、うなだれた肩の上を白金の髪が流れていく。神々しいばかりの〈神の御子〉の容姿を持つ、この国の女王……なのであるが、叱られた子供そのものだった。
肩書きと当人との落差に、ルイフォンが、なんとも言えない思いを抱いていると、唐突に女王が、くるりと振り返る。
へ? と放心している間に、こちらにずいと詰め寄ってきて、ぴょこんと可愛らしく頭を下げた。至近距離の彼女は思っていた以上に小柄で、まさに小動物――王の威厳など、微塵にもない。
「あなたにも、ごめんなさい。物凄く、待たせてしまったわ」
「あ……、……いや」
まさか『女王陛下』から謝罪を受けるとは思わず、つい地声で応じかけ、慌てて、裏声を出さねばと、ルイフォンは焦った。
勿論、女王は、そんな彼の内心など知る由もない。挙動を不審に思う様子もなく、「でもっ!」と、勢いよく顔を上げた。
「あなたのおかげで、私、とても楽しい時間を過ごすことができたの。ありがとう! 本当にね、凄く嬉しかったの! 我儘を許してくれて、ありがとう!」
白金の睫毛が大きく開かれ、青灰色の瞳が夢見るように輝く。
それは、純粋無垢な、心からの笑顔だった。
詫びを入れられたことにも驚いたが、こんな屈託のない顔で、気持ちよいくらいに素直な礼まで言われるとは……。
ルイフォンは、呆けたように口を開ける。
それをどう勘違いしたのか、「気づいてくれたの!?」と、女王は嬉しそうに自分の髪に手をやった。
「この髪飾り、今度、売り出される新作なんですってね? ユイランさんが、特別にプレゼントしてくれたのよ」
彼女に促されるように視線を向ければ、初めにルイフォンが『瞳の色と合っていない』と感じた緑の髪飾りの代わりに、漣のように幾重にも青絹を連ねた髪飾りが、白金の髪を彩っていた。この前、クーティエが夜なべして、ユイランと作っていたものである。
ルイフォンと同じく、ユイランもまた、女王と緑色との取り合わせをちぐはぐだと思ったのだろう。滑らかな光沢を放つ青絹は、まるで女王のために誂えたかのように、しっくりと似合っており、ドレープの効いた青いワンピースとも、よく調和している。背後から、ユイランの自慢げな気配を感じるので、ここぞとばかりに新作を披露したのに違いない。
「……よく、お似合いです」
無言のままでいるのも感じが悪かろうと、ルイフォンは必死の裏声を絞り出した。別に、世辞というわけでもない。地声でよければ、もう少し気の利いた褒め言葉を贈ったところだ。
「ありがとう! 嬉しいわ! ――あのね。ユイランさんは、私が気に入ったのなら、売り出すのはやめて、私だけの髪飾りにしてもいいと言ってくれたの。でも、そんなのいけないわよね!? それより私、この髪飾りを国中に広めたいわ!」
先天性白皮症の白い肌を上気させて、女王が熱弁を振るう。
ユイランとしては、国王が量産品を身に着けるのは望ましくないと考えたのであろう。しかし、女王は独り占めはいけないと、無垢な気持ちで断っている。
いい子ではあるんだよなぁ……。
一国の王と思えば、限りなく頼りない。けれど、十五歳の少女としては好感が持てる。少々、幼さの残る言動が玉に瑕だが、それも彼女の純粋さの故といえよう。
初めは彼女に苛立ちを覚えていたルイフォンであるが、徐々にほだされていくのを感じていた。
けれど――。
彼女に情を感じれば、悩みの種は増えていく。
何故なら、彼女がこの国の王である以上、この先、否が応でも、『ライシェン』の未来と――『デヴァイン・シンフォニア計画』と無関係ではいられないからだ。
ルイフォンは無邪気な女王に愛想笑いを浮かべ、それから、彼女の背後のヤンイェンを見やり、複雑な思いで唇を噛んだ。
3.揺り籠をさまよう螺旋-1
草薙家に戻ったルイフォンが、まず初めにしたことは、女装を解くことだった。
一目散に風呂場に向かい、服を脱ぎ捨てる。顔と髪を重点的に、全身の穢れを落とすかのように、ごしごしと洗う。
女装に協力してくれたユイランと、彼女の仲良しの美容師には悪いが、用が済んだら一刻も早く男の姿に戻りたかった。あまりにも違和感のない自分の女装姿に、彼の心は、すり切れそうだったのである。
「生き返った……」
脱衣所に出てきたルイフォンは、放心したように独り言つ。
ふと。
視界の端に、彼が脱ぎ捨てた服を認めた。
ユイランの服を無邪気に喜んでいた女王の笑顔が浮かんできて、彼は慌てて脱衣籠の中へと移す。いつもなら、ただ放り込むところを、不可思議な『ひらひら』をどうにか折り畳み、彼なりに綺麗に整えた上で――。
王宮からの帰りの車の中で、ルイフォンは、メイシアを含めた草薙家の人々と、藤咲家のハオリュウ、それから、鷹刀一族――それぞれへの第一報を済ませていた。内容は勿論、ヤンイェンとの対面の顛末である。また、ユイランが大変、女王に気に入られ、衣装の依頼は順調であることも伝えておいた。
ヤンイェンとの接触が叶ったら、ルイフォンは関わりのある者たちを集めて会議を行うつもりだった。摂政が目を光らせているため、少々、やりにくいがリモートでの開催である。
しかし、今日のヤンイェンの様子を思い返すと、皆で額を寄せ合うのは時期尚早と判断せざるを得ない。それで、草薙家には、風呂から上がってすぐに口頭で説明したものの、藤咲家と鷹刀一族には、詳細を記した報告書を送るに留めることにした。
実のところ、ルイフォンはヤンイェンに会う前に、肚の中で『ライシェン』の未来を決める算段を完成させていた。
まずは、ヤンイェンに、自分の手元で『ライシェン』を王にしたいか否かを問う。
そして、王のときは更に尋ね、『オリジナルの記憶を入れない』という条件が承諾である場合にのみ、ヤンイェンに『ライシェン』を託す。
それ以外のときには、レイウェンとシャンリーを『ライシェン』の養父母とする――。
しかし、ヤンイェンは『今すぐには決められない』と告げた。
……さすがに、即答は難しかったか。
嘆息しつつ、ルイフォンはキーボードに指を走らせた。
「よし。こんなもんかな」
報告書を仕上げ、回転椅子の背もたれに、ぐいと寄りかかりながら猫背を伸ばす。一本に編まれた髪の先で、金の鈴がきらりと揺れた。やはり、いつもの髪型は落ち着いた。
「お疲れ様」
同じ部屋で料理の本を読んでいたメイシアが、すっと傍にやってきて、労いの言葉を掛けてくれる。
「ああ。さすがに疲れたな……」
癒やしの微笑みに包まれ、素直な気持ちが衝いて出た。惹き寄せられるように立ち上がり、彼は彼女を抱きしめる。
華奢な肩は、鷹刀一族の血を引く者としては、あまり体格が良いほうではないルイフォンの腕の中にも、すっぽりと収まった。指先が、半袖から伸びた彼女の腕に触れると、驚くほど柔らかな弾力が返ってくる。黒絹の髪に顔を埋めると、首筋から、ほのかに肌が香る。
「メイシア……、俺…………」
彼女の名を呼んで、何を言おうとしていたのか、自分でも分からなかった。けれど、彼の背に回されていた彼女の手が、そっと解かれ、彼の前髪をくしゃりと撫でた。
「おかえりなさい」
澄んだ声が、優しく響く。
彼女は何故、そんなことを言うのだろう? それは彼が草薙家に帰ってきたときに、既に交わし終えた挨拶のはずだ。
『おかえりなさい』
耳の中で、彼女の声が木霊する。彼を迎える言葉が、心に染み入る。
「……俺、ヤンイェンに会ってきたよ」
口から、こぼれ落ちたのは、そんな台詞。
とっくに伝えていることを告げたのに、彼女は、ごく自然に「うん」と頷く。
「セレイエは、ヤンイェンの腕の中で死んだそうだ。――セレイエの奴、やっぱり、根性でヤンイェンのもとに、たどり着いていたんだな……」
メイシアの息遣いが乱れた。
不規則な呼吸がルイフォンの胸元に掛かり、それから、わずかに遅れて「うん」と返ってくる。
「……ヤンイェンに会えば、『ライシェン』の未来が見えてくると思っていた」
ルイフォンは猫背を丸め、ぽつりと漏らす。
ヤンイェンの意向を聞けば、方針が決まる。『デヴァイン・シンフォニア計画』の結末に向けて、一気に物ごとが進み出す――そんな気がしていた。
……期待していたのだ。
「けど、現実は、そんなに単純じゃなかったんだ」
この世で唯一の〈神の御子〉の男子である『ライシェン』の運命は、彼だけのものではない。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、これまでに多くの人を巻き込んできた。
そして、この先も、大きな波紋を広げていく。
ルイフォンは唇を噛み、押し黙る。
遠くで、風鈴が、ちりんと鳴った。
戸外には緩やかな風が流れているのか、少しの間を置きながら、ちりん、ちりんと繰り返す。
涼やかな音色に支配された世界で、メイシアの指先が、ゆっくりと動いた。
一本に編まれた彼の髪をすくい上げるように、くしゃりと絡め取る。毛先に留められた金の鈴が、静かな光を放つ。
「ルイフォンは、ヤンイェン殿下に落胆したの」
凛と響く声は、問いかけではなくて、断定だった。
「メイシア……?」
「私も、同じだから。殿下は、もう少し何か、おっしゃると思っていたもの」
美しい花の顔は、毅然と彼を見上げながらも、柔らかに笑んでいた。
ルイフォンは息を呑み、それから、メイシアの肩に、ことんと額を載せる。華奢な体は彼を受け止め、しっかりと支えてくれた。
軽く目を閉じ、彼女を抱く腕に力を込める。――すがるように、甘えるように。そして、「聞いてくれるか?」と、彼女の耳元に囁く。
「ヤンイェンと敵対するなら、俺は、それで構わねぇ、と思っていた。――けど、彼は何も決断しなかった。全部ひっくるめて、『今すぐに何かを決めることは、とてもできない』だ。『ライシェン』の未来そのものじゃない、記憶の件に関してさえ触れてこない。そんなのありかよ!? これじゃあ、敵対すらもできねぇじゃねぇか!」
腹の底で、くすぶっていた思いを解き放つ。
ひとこと発するごとに、ルイフォンの心は軽くなっていく。
「勿論、彼の事情も理解できる。だから、俺は冷静に対処した。短気なんか起こしてねぇ。完璧に静観を貫いた自信もある。それに、ヤンイェンは風変わりだけど、悪い人じゃない。俺の心情も考えてくれていた。思慮深い人だ。――でも……!」
無意識のうちに早口になっていた。
不足してきた酸素を補うように、彼は一度、言葉を止め、息を吸い込み……、吐き出す。
「細けぇことはどうでもいいんだよ! けど、ヤンイェンが動かなきゃ、何も進まねぇんだよ! ふざけんなよ! 『ライシェン』は、お前の子供だろうが!」
我儘な怒りだと、理不尽な憤りだと、自覚していた。だから、口に出さないように、報告書の文面に表れたりしないように、自制していた。
けれど、メイシアには……。
ふと、顔を上げれば、彼を見つめる黒曜石の瞳は、どこまでも深い色合いで。優しい眼差しは、愛しげに彼を包み込んでいた。
――そういうことか。
ルイフォンは、ようやく気づいた。
「メイシア」
「うん?」
「ただいま」
彼の言葉に、薄紅の唇がふわりとほころぶ。
「おかえりなさい」
鈴を振るような声は細く、儚げだけれど、凛と強い。
弱音も鬱積も、すべてを受け止めてくれる、彼だけの腕の中へ、彼は帰ってきたのだ。
「さっきは思い切り不満をぶちまけちまったけどさ。ヤンイェンの態度は、至極、まっとうなものなんだよな。……俺も、理性では分かっているんだ」
メイシアが淹れてくれたお茶を飲み干し、ルイフォンは呟いた。低い温度での抽出で、リラックス効果が高いという、柔らかな茶葉の香りが部屋に漂う。
「たぶん、俺はさ。ヤンイェンが予想外に冷静だったから、肩透かしを食らったんだろうな」
「予想外に……冷静?」
わずかに首をかしげたメイシアに、ルイフォンは「ああ」と応える。
「『ライシェン』のことを知らせたら、ヤンイェンはまず、『息子にひと目、会いたい』と騒ぎ出す。――俺は、そう信じていたんだと思う。『ライシェン』の未来のことや、記憶のことはさておき、『とにかく会いたい』って、な」
自分で言いながら、すとんと腑に落ちた。
「俺は、ヤンイェンが取り乱すところを見たかったのかな?」
我ながら人が悪いなと、おどけて肩をすくめると、メイシアが困ったような笑みを浮かべる。
「いざ実際に、ヤンイェンが『『ライシェン』に会いに行く』と行動を起こしたら、困るのは俺のほうなのにな」
ルイフォンは苦笑しつつ、癖の強い前髪を掻き上げた。
ヤンイェンには摂政の監視の目が光っており、『ライシェン』は極秘で鷹刀一族の屋敷に保護されている。この父子の邂逅を実現すれば、いたずらに摂政の魔の手を呼び寄せる結果になりかねない。
それを重々承知しているからこそ、ヤンイェンは沈黙しただけだ。その証拠に、彼は『ライシェン』の写真を見つめながら、『君に会いたいよ』と呟いていたではないか。
「俺は、まだまだ子供で、ヤンイェンは大人だった――ってことなんだろうな」
自嘲するように、ルイフォンが漏らした瞬間、メイシアの鋭い声が響いた。
「ルイフォンは格好いいから、いいの!」
声を張り上げて叫んでから、何もそこまでの大声は必要なかったと気づいたのだろう。彼女は顔を赤らめ、口元に手を当てる。
「……えっと、私はその……、ルイフォンの、ルイフォンらしいところが……好きなの」
しどろもどろになりながら、可愛らしくも、いじらしい懸命の弁舌が入る。ただし、『まだまだ子供で』の部分を否定しているわけではないところが、嘘をつくことのできないメイシアらしい。
「ありがとな」
愛しさがこみ上げ、ルイフォンは晴れやかな気分で破顔する。彼女が傍に居てくれる幸せで、全身が満たされていく。
軽く目を閉じると、遠くで風鈴が、ちりんと鳴り響いた。
それと重なるように、こぽこぽと優しい音を立てながら、メイシアがお茶のおかわりを注いでくれる。柔らかな香りが鼻腔をくすぐり、気持ちが安らいでいく。
「メイシア」
不意の呼びかけに、彼女は不思議そうに「うん?」と振り向いた。
「ええと……、すまん。本当は、報告書を書き終えたら、ヤンイェンのこととか、今後のこととか、お前と真面目に話そうと思っていたんだ」
「うん……?」
髪を掻き上げ、面目なさそうなルイフォンに、メイシアは、ますます疑問を強めたように瞳を瞬かせる。
「けど、その話は、ヤンイェンの肩を持つというか、親身になって考えるような方向だったもんで、つい、彼に対する、むしゃくしゃした感情が先立って、爆発しちまった――ってわけだ。なんで、あんな奴のために、俺が頭を悩ませなきゃならねぇんだよ、ってさ」
正直な気持ちを告げれば、メイシアは、ふわりと笑った。
「真剣に考えるからこそ、感情的になるの。凄く、ルイフォンらしい」
小さな声で「そういうところも、好き」と付け加えられたのも、しっかりと聞き取ったが、あえて聞こえなかったふりをした。非常に嬉しいが、あまり彼女の肯定に甘えてばかりいると、駄目人間になりそうだからである。
「そんなわけで、――ここから真面目な話、な?」
そう言って、ルイフォンは襟を正す。伸ばされた猫背に、メイシアも顔色を変え、彼に倣うように口元を引き締めた。
3.揺り籠をさまよう螺旋-2
王宮でのヤンイェンの様子を脳裏に浮かべ、ルイフォンは静かに口を開いた。
「これは、ハオリュウへの報告書にも書いたんだけど、『デヴァイン・シンフォニア計画』のせいで、メイシアの親父さんが亡くなったことを、ヤンイェンが深く詫びていた」
「――っ」
メイシアの呼吸が半端に途切れ、白い喉がこくりと動いた。
「ハオリュウの足の怪我も、彼が若くして当主として立つ羽目になったことも、メイシアのお継母さんが心を壊したことも……藤咲家を襲った不幸のすべては自分に責任があると、彼は頭を下げた」
メイシアの父の死を伝えたとき、ヤンイェンは驚愕に震えていた。
胸元に手をやり、端麗な顔を悲痛に染めていた。
「前にメイシアが言っていた通り、ヤンイェンは親父さんのことを特別に思っていたみたいでさ。『何故、コウレンさんが……』、『私は、あの方のことが好きだった。……尊敬していた』――そんなことを繰り返し呟いていたよ」
「殿下が……そんなふうに……」
細い声が重く沈み、メイシアは、何かを堪えるように唇を噛みしめる。
「ヤンイェンは、周りの反対を押し切って平民と再婚した親父さんに、憧れていたと言っていた。自分にも、そんな強さが欲しいと願ってやまなかった、って……」
その言葉の裏に、セレイエの存在を描いていたことは言うまでもないだろう。
瞳を潤ませるメイシアの髪に、ルイフォンは、くしゃりと手を伸ばす。彼女は、彼の指先に身を委ねるように、透明な涙をこぼしながら、そっと目を閉じた。
「ヤンイェンは、俺たちに負い目を感じている。……だから、『セレイエの命と引き換えに得た、ライシェンの記憶を無駄にする』と、俺が明言しても、何も言わず、あえて触れずにいたのかもしれない。――なんて、今、思った」
「うん……」
メイシアの頭が、こくりと相槌を打つ。
「なんかさ……。俺の中では、ヤンイェンと敵対することは、決定事項になっていたような気がする。俺は『ライシェン』の記憶は、俺の中に封じたままにするのが正しいと思っている。けど、ヤンイェンは絶対に怒り出す。――そう信じていたみたいだ」
「それは、ハオリュウが、そう言ったから……」
温厚そうな容貌とは裏腹に、気性の激しい異母弟が、強い口調で主張したことをメイシアは気にしているらしい。申し訳なさそうに、眉尻を下げる。
「いや。確かに、初めに言いだしたのはハオリュウだけど、俺も、まったくその通りだと思っていたからさ。……だから、ヤンイェンに『君に会ったら、罵倒されることを覚悟していた』なんて、穏やかに言われたときは予想外で、……正直、調子が狂った」
麗らかな微笑で、ルイフォンを迎えてくれたヤンイェン。
しかし、典麗な美貌は諦観を含み、親しげであるのに、どことなく心の距離が感じられた。
「ヤンイェンはさ……。凄く不思議で、掴みどころがなくて、俺には分かりにくい人だった。自分が先王を殺したのが発端だったって、――すべての罪は自分にあると、そんなふうに考えていて……、うーん、『頑なな感じ』って、いうのかな……?」
ヤンイェンの印象を正確に伝えるのは難しく、ルイフォンは眉間に皺を寄せる。優しいメイシアは「無理しないで」と、やんわりと気遣いの眼差しを送ってくるが、これは重要なことだと思うのだ。
「どうもな、その発端だっていう『先王殺し』の件も、ちょっと訳ありっぽくてさ」
「え?」
「ヤンイェンが言うには、先王は、ヤンイェンに殺されるのが分かっていて、あえて抵抗しなかったらしいんだ」
ルイフォンは、陰りを帯びたヤンイェンの面差しを思い返し、できるだけ忠実に再現できるよう、細心の注意を払いながら口を開いた――。
「私が、先王陛下を殺したことは事実だ。言い逃れをするつもりはないよ」
蠱惑の音律で、ヤンイェンは、はっきりと告げた。
「だけど、先王陛下は……父は、私にわざと殺された。そうとしか考えられないんだ」
「なんっ……!?」
ルイフォンは思わず大声で問い返しそうになり、慌てて口を押さえた。『ルイリン』として王宮を訪れている以上、驚愕の地声が隣室まで響くのは、絶対に避けねばならない。
そんな彼に、ヤンイェンは微苦笑を漏らす。
「だって、そうだろう? 父は『〈神の御子〉の男子』だ。彼には、私の心が筒抜けなんだから」
「……!」
「あの力は、神話などではなくて、事実だよ。父にはいつも、心を見透かされているのを感じていた。……父も、自分が望む、望まないに関わらず、相手の心が読めてしまうことに苦しんでいたように思う。実際、王族の『秘密』を知る者たちからは恐れられ、疎まれていたからね」
「……」
それは仕方のないことだろう。誰しも、心の内など読まれたくはあるまい。
ルイフォンがそう思った瞬間、「ああ、そうだ」と、それまで苦しげだったヤンイェンの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「そういえば、唯一の例外がイーレオさん――君の父君だと言っていた」
「はぁ? 親父?」
何故、ここで父の名前が? と、首をかしげるルイフォンに、ヤンイェンは「ほら、〈悪魔〉の〈獅子〉だったイーレオさんは、かつて教育係として、先王陛下に仕えていただろう?」と補足する。
「イーレオさんは『言葉を尽くさずとも、お前は、俺の考えを寸分の狂いもなく、正確に理解してくれる。これほど便利な力など、あるものか』と、よく父に言っていたそうだよ」
「如何にも、親父らしいな。それ、親父にとって都合のいい点を挙げているだけじゃねぇかよ」
なんともいえない顔でルイフォンが溜め息をつくと、ヤンイェンは、わずかに目元を緩めた。
「けれど、父は『その言葉に救われた』と笑っていたよ。そして、イーレオさんが、どれほどの思いで、鷹刀一族を〈冥王〉の〈贄〉となる運命から解放したいかを理解したから、イーレオさんのその願いを叶えたのだと言っていた」
「え……?」
「本当は、とうの昔に、技術の力で〈贄〉は不要にできたんだよ。なのに、王家がいつまでも鷹刀一族を解放しなかったのは、王家だけが古い因習に囚われ続けるのは癪だから――という、非常に身勝手な理由だったんだ」
「それは、どういう意味だ?」
「王家は、如何なる手段を用いてでも〈神の御子〉を生み出し続ける。鷹刀一族は、〈冥王〉のために〈贄〉を捧げ続ける。――この国を支えるために、両家は共に等しく業を負う……」
ヤンイェンは唱えるように告げ、ふっと首を振った。
「すまない。話が横道にそれたね」
「あ、いや……」
本題から離れているのは事実であるが、王族側から聞く、王家と鷹刀一族の話は、それはそれで貴重だ。
「ともかくね、他人の心を見抜くという力は、人間を傲慢にする。歴代の王たちは、程度の差こそあれ、皆、横暴な気質の持ち主だったらしい」
そこで、ヤンイェンは唐突に目線を上げた。話の途中で、いったいどうしたのかと、ルイフォンが訝しんでいると、天を仰ぐような仕草でヤンイェンは続ける。
「けれど、父は極めて異例な優しい気性だったと――母が言っていた。……母は、少なくとも父と、その前の王である彼女の父親、ふたりの王を知っている。まるきりの嘘ではないと思うよ」
天空の住人となった亡き両親に向けて、ヤンイェンは切なげに笑う。
「……だからね。……父は、私にわざと殺された。私の怒りを、絶望を受け止めるために」
そこまで語り終え、ルイフォンは、ぽつりと呟いた。
「ヤンイェンはさ、先王を殺したことを後悔しているんだろうな……」
「うん……」
黒曜石の瞳を陰らせ、メイシアも静かに頷く。
「ごめんな、こんな話をして。……けど、ヤンイェンが現状をどう考えているのかの断片みたいな気がしてさ」
「ううん。とても大事な話だった」
メイシアはそう答えたが、彼女の顔を曇らせてしまったことに、ルイフォンの胸は痛む。
彼は頭を振り、強制的に思考を切り替えた。できるだけ明るいテノールで「メイシア」と呼びかけ、王宮から帰ってから、ずっと考えていたことを打ち明ける。
「今回、王宮に行ってさ。俺は初めて、王族というものを間近で見た。……『見た』っていうか、『感じた』かな?」
国の頂点に立つ、誰もが羨む立場であるはずの王族。しかし、彼らとて、安寧な暮らしを送っているわけではなかった。
「今まで、ちっとも考えたことがなかったんだけどさ。実のところ『ライシェン』の選ぶ未来によって、一番、大きく運命が変わるのは、女王だ」
白金の髪、青灰色の瞳の女王。
まさに神の化身のような容姿を持ちながら、中身はただの女の子だった。
「女王には、威厳の欠片もなかったけど、悪い子じゃなかった。一度、本人に会っちまったから、ってだけかもしれないけど、あの子に不幸になってほしくない――と思う」
「うん」
「彼女がこのまま、ヤンイェンと結婚するのかどうかは分からない。でも、誰と結婚しても、彼女には次代の王となる〈神の御子〉が必要だ。ならば数年後、成人して、摂政の庇護を離れた彼女に『ライシェン』を託す、というのも、ありなんじゃないかと思った」
「あ! 凍結保存されている『ライシェン』は、歳を取らないから……」
メイシアの言葉に、ルイフォンは深々と頷く。
何年も凍結状態のままというのは少し可哀想な気もするし、どのくらいの期間、凍結が可能なのかをミンウェイあたりに確認する必要はある。だが、悪い考えではないはずだ。
「あの女王なら、『ライシェン』を大切にして、可愛がってくれると思う。今は頼りないけど、将来に期待してさ。……それにな――」
ルイフォンのテノールが、急に一段、音を下げた。にわかに険しい顔となった彼に、メイシアは、ごくりと唾を呑む。
「間近で女王を見て思った。先天性白皮症という外見は綺麗だけど、目立つ。この国で、『ライシェン』が平凡な子供として暮らすのは、はっきり言って難しい」
現在、硝子ケースの中で、目を瞑ったまま眠っている産毛のライシェンは、色白の赤子といった感じだ。しかし、成長したら、明らかに『異色』となるだろう。常に、目と髪の色を隠さねばなるまい。あるいは、外国で暮らすことを検討すべきか。
「けど、女王の子供として生まれれば、『ライシェン』は外見を気にせず、のびのびと生活できる。彼のためには、そのほうが良いかもしれない。――勿論、まだまだ、よく考える必要はあるけどさ……」
養父母を選ぶのなら、その相手はレイウェンとシャンリーで決まりだと考えていた。だが、女王に会って、気持ちが揺らいだ。
……とはいえ、未知数の女王に期待を掛けるのは無責任ともいえるため、ルイフォンの歯切れは悪い。おそるおそる、といった体でメイシアの反応を窺うと、彼女は、つぶらな目を見開き、白磁の肌をほのかに薔薇色に染めていた。
「その案、素敵だと思う。だって、『ライシェン』が幸せになることを、一番に考えているもの」
「本当か!?」
予想以上の手応えに、ルイフォンは腰を浮かせ、同時に胸を撫でおろす。
「女王陛下のお人柄が『普通の女の子』というのは、驚きだけど。……でも、そうよね。陛下は、まだ十五歳なんだもの。私の知っている、玉座に黙って座ってらっしゃるだけの陛下よりも、ルイフォンから聞いた陛下のほうが、ずっと自然だわ」
「ああ。かといって、摂政に萎縮して従っている、というわけでもないらしい。婚礼衣装は老舗の仕立て屋に任せるべきだ、と言った摂政を退けたくらいだから、我は強いんだと思う。そういう奴のほうがいいよな」
帰りの車では、ユイランが『あんな娘が欲しかったわぁ』と、うっとりと溜め息をついていた。素直で、無邪気で、可愛いとのことだ。
手放しで服を褒められたのだから、ユイランの機嫌が良いのは当然かもしれないが、女王が純粋であることは、ルイフォンも認める。
ちなみに女王が最後に着ていた青いワンピースは、ヤンイェンの私費によって買い取られた。
ユイランは、見本品をサイズ直ししたものなどを陛下にお渡しするわけにはいかないと、断ったのだが、女王はユイランと楽しい時間を過ごした、記念のその服が欲しいのだと言い張った。同じデザインで新たに仕立て直すことも提案されたが、最終的には、公費を使わず、ヤンイェンの『異母妹への個人的な贈り物』とすることで落ち着いた。
そばで、やり取りを見ていたルイフォンとしては『ああ、面倒臭ぇ……』という、ひと幕であった。
「ルイフォン」
鈴の音の声に呼ばれ、彼は、はっと思考を戻す。
気づけば、向かいに座るメイシアが、凛とした眼差しで彼を見つめていた。
「今回の王宮行き、想像していたのと、だいぶ違った。でも、ルイフォンの話を聞いて思ったの。私たちは、確実に前に進んでいる、って」
「えっ……?」
急に改まった様子の彼女に、ルイフォンは戸惑う。
「確かにね、ヤンイェン殿下とお会いしたからといって、今後の方針が決まったわけじゃない。でも、お話をしたことによって、私たちの視野が広がって、選択肢が増えた。これは、とても重要なことだと思う。――ルイフォンのお陰なの。ありがとう」
「いや。俺は、何も……」
思わぬ感謝に虚を衝かれ、ルイフォンは慌てて首を振る。
今日のことは、どう考えても満足な結果ではなかった。メイシアは気遣ってくれているのかもしれないが――と思ったとき、彼女は「ううん」と、鋭い声を響かせた。
「ルイフォン、胸を張って。思った方向ではなかったとしても、私たちは、ちゃんと『前に進んだ』の。その事実を認めなきゃ」
「!?」
強い口調に、ルイフォンの猫の目が丸くなる。
「私たちは、もともと、セレイエさんの願いをそのまま叶えるつもりはなかった。……今日、ルイフォンが王宮に行って、それでいいんだと、心から思えるようになったの」
細く高く、けれど、落ち着いた、まろみを帯びた声が彼を包む。
「だって、私たちは、これから、もっといい道を見つけていくんだから……!」
遥かな高みを目指すかのように、彼女は、ぐいと頤を上げた。
長い黒絹の髪が艶めき、さらさらと流れる。その姿は、あたかも、風を受けながらも毅然と前へと突き進む、戦乙女のよう。
……どんな結果であれ、常に、前へ前へと――未来へと進んでいるのだ。何故なら、過去に戻ることは、決してできないのだから。
「メイシア……」
ルイフォンは、まるで惹き寄せられるように立ち上がり、椅子に座る彼女を背中から抱きしめた。
「……俺は、家を出たあとのセレイエのことを、何も知ろうとしなかった」
唐突に落とされた言葉は、彼女には脈絡なく聞こえただろう。けれど、彼女は薄紅の唇を結び、黒曜石の瞳を伏せ――静かに耳を傾けてくれた。
「何かの情報を得ていれば、セレイエに手を差し伸べられた。子供だった俺の力なんて、たかが知れていたけど、皆無じゃない。……俺には、『デヴァイン・シンフォニア計画』を――セレイエを止められる可能性があったはずなんだ……」
これは、心の何処かに、ずっと刺さっていた棘だ。今日、ヤンイェンと語ったことで、はっきりと意識した。
「過去は変えられない」
後悔を吐き出すように、ルイフォンは告げる。
「だから、俺は未来を創る」
彼を支えてくれる戦乙女に誓う。
彼女の言う通り、最高の未来を選ぶと――。
遠くで、風鈴が、ちりんと鳴った。
軒先を抜ける風に乗り、ちりん、ちりんと繰り返す。
涼やかな音色に鼓舞されるように、ルイフォンは覇気を込め、好戦的に口角を上げた。
「ヤンイェンの反応が、思っていたのと違うからって、ごねている場合じゃねぇよな。ヤンイェンの状況が分かったなら、それを踏まえて、更に次の道を模索する。――それが、俺のやるべきことだ」
「うん。ルイフォンは、ちゃんとそうしている。――でも」
突然、彼女が意味ありげに語尾を強めた。心当たりのない彼は、「え?」と、うろたえる。
「ルイフォンは、ひとりじゃなくて、私も一緒なの」
腕の中の彼女が、くるりと振り返り、拗ねたような上目遣いで口を尖らせた。
「あ、すまん。――『俺たち』のやるべきこと、だな」
素直に謝る彼に、メイシアの顔は一瞬にして、極上の笑顔へと変わる。
「ルイフォン。今日は本当に、お疲れ様」
澄んだ声が響いた。
それから、不意を衝き――。
薄紅の唇が、そっと彼のそれに重ねられた。
~ 第三章 了 ~
幕間 天命の楔
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する〈神の御子〉。
天空神フェイレンの姿を写して生まれた彼の者が、神の代理人として、国を治める王となる。
それが、創世神話に記されし、我が大華王国の金科玉条である。
裏を返せば、たとえ王の子として生まれようとも、神の異色を持たぬ者には、王位継承権は与えられないということだ。
〈神の御子〉が数多く存在した古き時代においては、この制度に、なんの支障もなかった。しかし、世代を重ね、〈神の御子〉が生まれにくくなってくると、次代の王を産み出すことは、王に課せられた重大な使命となっていった。
その結果、『過去の王のクローン』を世継ぎとする王が出てきたのは、必然だったといえよう。
我が父シルフェンも、そうして作り出された『過去の王のクローン』だった。
王位を継ぐためだけに生を享けた彼は、『親』である父王から、ひとかけらの愛情も注がれなかったという。なれば、己の出自を疎んだ彼が、自分は決してクローンには手を出すまいと心に誓ったとしても、なんの不思議もなかろう。
そんな彼に胸を痛めていたのが、彼より十歳ほど年長の『姉』にあたる、〈神の御子〉の王女だった。
古くは、王は男子と決められていたが、近代では『仮初めの王』として、女子が玉座に就くこともできる。つまり、彼女は、『弟』が生まれなければ、王冠を戴く運命だった。
しかし、女王は軽んじられる上に、早く次代の〈神の御子〉を産むよう強要される。それを不憫に思った父王が、『弟』を作ったというわけだ。
いわば、自分の身代わりとして生まれた『弟』に、『姉』は深い罪悪感を抱いた。そして、有力な貴族に降嫁されるまで、ひたむきに『弟』を可愛がった。
そして、月日は流れ――。
王の崩御により、『弟』は即位し、新たな王となる。
それと前後して、彼は降嫁した『姉』が、婚家で虐げられていることを知った。ほぼ盲目であった彼女は幽閉同然の扱いを受け、また、〈神の御子〉を産むようにと責め立てられていたらしい。
彼は、彼女を夫と離縁させ、身分も王族に戻して、神殿に常駐する神官長に任命した。
一方、王となった彼も、世継ぎの〈神の御子〉に恵まれずに困っていた。子供は、王妃との間に娘がふたり。他に、複数の愛妾が、男女合わせて幾人も子を産んだが、皆、黒髪黒目であった。
そこで、『姉』は『弟』に申し出る。
〈神の御子〉同士であれば、〈神の御子〉の子供が生まれる確率は、ぐっと高くなる。あまり丈夫ではない自分の体は、四人の娘の出産で疲弊しているが、あとひとりならば産めると医者は言っている。
『だから、賭けてみませんか?』
そうして、私が生まれた。
戸籍上は、〈神の御子〉の元王女が、夫と離縁する直前に宿した子。
一部の人間の推測の中では、〈神の御子〉を求めた王が、実姉を手籠めにして産ませた、禁忌の子。
父と母が、縋る思いで、私に一縷の望みを託したというのに、私は、白金の髪と青灰色の瞳を持って生まれてくることができなかった。
勿論、誰も私を責めたりはしない。それどころか、愛しまれたと思う。
私の両親は、とても優しい気質の人間なのだ。
王妃の長男と、私の誕生日が、ほぼ同じであるのも、その一端だ。私が〈神の御子〉として生まれた暁には、王妃が双子を産んだことにして、妃としての立場を守ってやろうと画策していたのだ。
そんな気遣いを王妃がどう感じたかは、私は知らない。ただ、少なくとも、成長した長男が、『双子』になるはずだった『異母兄弟』を毛嫌いしていることは事実であると思う。
たとえ歪みがあったとしても、私の誕生には、確かに愛があった。
けれど――。
両親の期待を裏切って、黒髪黒目で生まれてきた私に、いったい、なんの価値があるというのだろう?
時が過ぎ、王妃が〈神の御子〉の女子を出産し、力尽きたように息を引き取った。やっと責務を果たせたと、穏やかな顔で眠りについたまま目覚めなかったのだという。
残された〈神の御子〉の王女の将来を憂い、私の母は、何かにつけて彼女を神殿に招いては世話を焼いた。
私も、歳の離れた異母妹を可愛がった。彼女は、私の代わりに〈神の御子〉として生まれてきたような気がして、なんとかして彼女に報いたいと思った。
私の母が、父に抱いた罪悪感のような気持ちを、私も異母妹に対して感じていたのかもしれない。
そして、私が二十歳になったころ。
体の弱かった母が亡くなり、私が神官長――すなわち、〈七つの大罪〉の事実上の最高責任者――の位に就いた。
〈七つの大罪〉に新たな〈悪魔〉を迎える、という連絡が入ったのは、それから、まもなくのことであった。
神殿の『天空の間』で、新入りの〈悪魔〉が私の目通りを待っている。
私は、なんとも名状しがたい気持ちで、その場へと向かっていた。
〈悪魔〉になりたい、などと申し出る者は、どこか心が欠けているものだ。そうでなければ、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術と引き換えだとしても、『契約』を結んだりはしない。
だが、今度の〈悪魔〉は極めて異例、極めて異色の経歴の持ち主なのだ。
私は事前に渡された調査書の内容を反芻し、眉間に皺を寄せながら、天空の間の白い扉を開いた。
「――!?」
その瞬間、私は息を呑んだ。
純白の部屋に、白金の光が広がっていた。
互いに絡み合い繋がり合う、数多の白金の糸が、その輝きを強く弱くと、変化させながら、舞うように揺らめく。
まるで、光を紡いで作られた翼が、羽ばたくが如く……。
幻想的な光景に魅入られ、惹き寄せられるように光の流れを辿れば、そこに、白金の羽をまとった、神々しいばかりの天使がいた。
そう――。
彼女は、〈天使〉だ。
この世で唯一の、生まれながらの〈天使〉、鷹刀セレイエ。
かつて、実験体でありながら、〈天使〉の力を自在に使いこなしたことによって、〈七つの大罪〉で大きな権力を握った『伝説の〈天使〉、〈猫〉』の娘。
そして、彼女の足元には、ひとりの男が転がされていた。〈七つの大罪〉の要注意人物として、ブラックリストに載っている〈悪魔〉だ。彼は、セレイエの背から放たれた光の糸に絡め取られ、拘束されていた。
どうやら、新顔の噂を聞きつけ、この天空の間を訪れたらしい。
好奇心が強いことは、〈悪魔〉として、決して悪いことではないのだが、如何せん、問題行動の多い男だ。おおかた、セレイエに、ちょっかいを出して返り討ちにあった、というところだろう。意識を失っているようで、ぴくりとも動かない。
「君が新しく加わった〈悪魔〉? 私はヤンイェン。〈七つの大罪〉の運営を一任されている。よろしく」
この状況において、初めの挨拶が定型文でよいのかと自問しながら、私は周囲に『人当たりがよい』と言われる麗らかな笑顔を彼女に向けた。生い立ちのせいか、私は自分の『個人』としての感情を表に出すことを、己に禁じているふしがあるらしい。
のちに、このときの私について、セレイエは『変な人だと思った』と明かしてくれた。
『怒られるかと思ったのよね。〈天使〉の力は、むやみに使うなと、よく母に叱られていたから。でも、何も言われなかったから、じゃあ、神官長は何ごとにも動じない人なのかしら? と思ったのだけど……、でも、違ったわね?』――と。
……ともあれ。
私に声を掛けられた彼女は、艶やかな黒髪をなびかせ、振り返る。
「こちらこそ。私は、鷹刀セレイエ。知っていると思うけど、〈猫〉の娘で、もと〈悪魔〉の〈獅子〉の孫にあたるわ」
覇気に満ちた瞳が印象的な、とても美しい少女だった。
歳は、もうすぐ十五歳になると、調査書にあった。だが、彫像のように整った面差しは、彼女をもう少し年上に見せた。もっとも、繊細な硝子細工のような体つきからすると、やはりそのくらいの年齢で正しいのだろう。
「さっそくだけど、〈七つの大罪〉での注意事項などを……」
私は、彼女をソファーへと促そうとして、そのためには、まず、床の男をどうにかすべきだと気づく。誰か人を呼ぶか、と思案していると、彼女がくすりと笑った。
「彼から情報を貰ったから、〈七つの大罪〉のことなら、だいたい分かっているわ」
彼女は拘束した男に目線を落とし、それから、彼と自身とを繋ぐ羽を示す。
「!」
〈天使〉とは、羽――すなわち、背中から放たれる白金の糸を接続装置にして、人間の脳という記憶装置に侵入するクラッカーだ。彼女にとって、羽で拘束した〈悪魔〉から、〈七つの大罪〉の情報を入手するのは容易いことだろう。
しかし、羽は、限度を超えて酷使すれば、熱暴走を起こす。そのまま、死に至ることだって珍しくもないのだ。むやみに使うものではない。
顔色を変えた私に、セレイエは得意げに口角を上げた。
「このくらいなら、まったく問題ないわ。私にとっては、呼吸をするようなものよ」
紅を塗っていない唇が、ぞくりと妖しく光る。それは、魔性と呼ばれる鷹刀一族の血筋ゆえか。
当惑する私に、彼女は重ねて告げる。
「とても不思議なのよ。この神殿に来てから、羽から力が溢れてくるの。懐かしいような、温かな感じがして……。なのに、その逆の、肌が粟立つような感覚もあるのよ」
彼女の言葉に、私は、はっとした。
「そうか。君は〈冥王〉の影響を受けやすいんだね」
彼女の出自は、特殊なのだ。〈冥王〉から力を与えられるものと、奪われるもの。両方の血を引いている。
「『〈冥王〉』?」
「ああ、それは……」
どのように説明すれば、分かりやすいだろうか。
私が即答できないでいるうちに、彼女の「なるほどね」という声が響く。
「〈天使〉の羽の根源は、〈冥王〉なのね。だから、神殿では、楽に力を振るえる。――けど、私の中の鷹刀の血が、血族を喰らってきた〈冥王〉を警戒している」
端的にまとめられた内容に、私が目を見開くと、彼女は床に転がる男を細い顎でしゃくる。
「彼から得た情報をもとに、推測しただけよ」
明晰な頭脳を披露した彼女は、自信家の顔を覗かせる。そんなところは、年相応で可愛らしく思えた。
「凄いね、君は」
微笑ましさに、素直な気持ちで呟けば、彼女は嬉しそうに口元を緩めた。
「王族の負荷を分散させるために誕生した連携構成、〈冥王〉――ね。凄く興味深いわ。やはり、〈七つの大罪〉は面白いわね」
それから、彼女は、きらきらと輝く瞳で、私を見上げる。
「私は自分の力について知りたいの。――母は、〈天使〉の力を暴走させないための知識は教えてくれても、それ以上のことは口を閉ざすから。だから、私は〈七つの大罪〉に来たのよ。まず初めに、母を〈天使〉にした〈蠍〉という〈悪魔〉の研究報告書を見たいわ」
無邪気な探究心が、彼女を駆り立てているのだと思った。
だが、それは私の勘違いだと、じきに気づいた。
〈七つの大罪〉から資金を渡された〈悪魔〉たちは、好きな場所に、自分の研究所を構えるのが通例だ。けれど、セレイエには、表向きは『神官長付きの神官』という役職を与えて、神殿に住まわせた。
彼女の当面の目的が〈蠍〉の研究の解析であるため、個人の研究所を持つよりも〈七つの大罪〉のデータベースのある神殿で活動するほうが理に適っていたし、しっかりしているようには見えるが、やはり、こんな年若い少女をひとりにする気にはなれなかったのだ。
〈悪魔〉となった彼女には、〈蛇〉の名が与えられた。しかし、私は彼女をセレイエの名で呼んでいた。
「私は、自分を否定したくないから、〈七つの大罪〉に入ったのよ」
セレイエが〈悪魔〉となってから、しばらく経ったころ。
彼女は、ふと、そんなことを言った。
「私は三歳のときに、初めて羽を出したの。異母兄と義姉と私の、子どもたち三人だけで遊びに出かけていたときに、鷹刀と敵対する凶賊に襲われたから……」
彼女の異母兄と義姉は、当時、まだ十歳ほどであったらしい。だが、子供とはいえ、鷹刀の将来の担い手として武術の心得があった。ふたりは、異母妹を守りながら、勇猛果敢に刀を振るったという。
されど、多勢に無勢。そして、幼い異母妹は、どうしたって足手まといになる。彼らは徐々に追い込まれていった。
「血まみれになって倒れる異母兄と義姉を見た瞬間、私の中で何かが弾けたの。気づいたら、背中から光が吹き出していたわ」
淡々とした口調で、無表情な顔で。凪いだ湖面のようなセレイエが告げる。
「私は怒りに任せて、すべての敵の脳に心臓を破裂させる命令を書き込んだの。――訓練もなしに、滅茶苦茶なことをしたのよ。当然、熱暴走を起こして、死線をさまよったわ。……けど、おにいちゃんと、おねえちゃんを守ることができたの」
大人びた雰囲気を持つセレイエの声が、語尾のあたりで幼子のような片言となり、危うげに揺れた。
「セレイエ?」
狼狽する私に構わず、彼女は続ける。
「〈天使〉の力がなかったら、三人とも殺されていたんだから……。――でも、私のせいで、家族は、ばらばらになったのよ」
ぽつりと落とされた告白は、揺れる息に溶けて消えた。
伏せられた瞼は、あまりにも儚く……、私は固唾を呑んで、彼女の話に耳を傾ける。
「私が、凶賊に身を置き続ければ、いつ、また危険な目に遭うとも限らない。次こそは、熱暴走で命を落とすかもしれない――そう言われて、私は母と共に、鷹刀の外に出されたのよ」
彼女が語るところによれば、愛人であった彼女の母は、もうすぐ父と結婚することになっていたらしい。しかも、それを強く勧めていたのが、異母兄の母親である正妻で、離縁の準備中だったという。
今ひとつ理解し難い、複雑な家庭であるが、とても仲が良かったことは間違いない。
その家族が、壊れた。
重い吐息が、部屋の中に沈んでいく。
「異母兄は、今でも後悔しているわ。自分が弱かったために、異母妹が〈天使〉として目覚めてしまったんだ、って。でも、そうじゃない。私は生まれつき〈天使〉だったんだから、この運命は変わらなかったのよ」
何かを払うように頭を振り、彼女は鋭い眼差しで、前を見据えた。
「実験体として、後天的に〈天使〉になった母は、この力を悪しきものとして否定するわ。そのくせ、母は、自分は特別に高い〈天使〉の適性を持っているけど、娘の私は半分だけ――母の血の分だけしか適性がないから、危なっかしい、って言うのよ。でもね、私は初めから〈天使〉だったの。生まれつきよ。この力を含めて、『私』なのよ」
おそらく無意識に、であろう。
彼女は、自分は先天的な〈天使〉なのだ――という意味合いの言葉を繰り返した。
まるで、自分に言い聞かせるかのように。
「私が〈天使〉だと分かったから、家族が、ばらばらになったんじゃないわ。私が、いつ熱暴走を起こすか分からないから、よ。だから、私は、この〈七つの大罪〉で、〈天使〉について研究をするの。〈天使〉は危険じゃないって。……だって、私は『私』で、いいはずなんだから!」
ぐっと顎を突き出し、彼女は好戦的に嗤う。
……けれど、その瞳の奥は揺れていた。
心細さを無理やり隠した、脅えた素顔が透けて見える。
彼女は〈天使〉という、持って生まれた自分の業を受け入れようと、必至に足掻いているのだ。
そして、〈天使〉である自分と向き合うために、〈七つの大罪〉に来た。
自分は無価値だと諦め、無意味に生きてきた私とは違う。
彼女は強い――否。強くあろうとしている。
その生き方に……、――私の魂が震えた。
「辛かったね、セレイエ」
羽を持って、生まれてきたことが。
私が、白金の髪と青灰色の瞳を持たずに生まれてきたことと、同じように。
――刹那。
彼女は、わなわなと唇を震わせ、眦を吊り上げた。
「なっ!? 今まで何を聞いていたのよ!? だから、私はっ……」
強がりで自信家で、負けず嫌いの彼女には、『辛かったね』という言葉は、同情のように聞こえたのだろう。
そうではない。
私は、ただ、彼女に寄り添いたいと思っただけだ。
どう言えば、伝わるだろうか。
私は眉間に皺を寄せ、じっと彼女の姿を瞳に映す。大人びた勝ち気な美貌を、安らいだ年相応の笑顔にするための言葉を探す。
彼女にしてみれば、唐突に、しかも無遠慮に凝視された、なのであろう。不快感もあらわに、私の視線から逃れるべく体を引こうとした。
そのとき、私の脳裏に名文句が閃く。
「君の力は、君のお異母兄さんやお義姉さんの『刀』と同じだよ」
セレイエは、家族が大好きなのだ。この言葉なら、きっと響くだろう。
案の定、彼女は「え……?」と、動きを止めた。
「誰かを傷つけることもあるけれど、誰かを守ることもできる。そして、どちらも鍛錬を積まなければ、使いこなすことはできない」
「…………」
「君のお異母兄さんたちに、武術の素質があったように、君には〈天使〉の素質があった――それだけのことだよ。けど、〈天使〉が珍しすぎて、誰も、こんな単純なことに気づかなかったんだね」
「!」
セレイエの肩が、びくりと上がる。
「君の言う通りだよ。〈天使〉であることも含めて、君は君。――〈天使〉の研究のため、〈七つの大罪〉にまで来た君は、凄い努力家だ。私は、君を尊敬するよ」
「わ……、わ、たし……」
見開かれた瞳から、大粒の涙が、ぽろりと零れた。
「……辛……かった……わ。ずっと……。悲しかった……。どうして、って……、いつ……も、思っていた……」
堰を切ったように溢れ出した涙は止まらず、彼女は幼子のように泣きじゃくる。
彼女はずっと、離れ離れになった家族に対して、罪悪感を抱いていたのだ。
勿論、家族の誰も、彼女を責めたりはしていないだろう。だが、他でもない、彼女自身が自分を責め続けていたのだ。
そして、ずっと堪えていた。――ひとりきりで。
「セレイエ」
私は彼女の名を呼び、小さな異母妹が、べそをかいたときにするように、そっと抱き寄せた。背中を優しく、とんとん、と叩く。こうすると異母妹は安心するのか、すぐに泣き止むのだ。
しかし、セレイエは異母妹ではなかった。
彼女は泣き止むどころか、私にしがみついて号泣した。
温かな重みが、胸に収まる。
空虚だった私の心が、満たされていくような気がした。
やがて、涙が枯れ果てたのであろう。セレイエは、おずおずと頭を上げた。
そして、照れたように笑う。
とても、可愛らしい顔で。
「ありがとう」
その瞬間――。
私の中に『個人』としての強い感情が芽生えた。
きっと、このとき。
私は初めて、『人』になったのだ。
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第三章 金殿玉楼の閣で
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第四章 金枝玉葉の漣と https://slib.net/124863(2025年冬公開)
――――に、続きます。