
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第四章 金枝玉葉の漣と
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第四章 金枝玉葉の漣と
――――です。
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第三章 金殿玉楼の閣で https://slib.net/122123
――――の続きとなっております。
長い作品であるため、分割して投稿しています。
こちらに、作品全体の目次があります。
https://slib.net/106174
〈第三章あらすじ&登場人物紹介〉

===第三章 あらすじ===
シュアンの表向きの死によって、ルイフォンたちは『ライシェン』を探す摂政を退けた。次に摂政が動くまで、いわば膠着状態。ルイフォンは、万一のときに別行動を取れるようにと、鷹刀一族の屋敷を出て、草薙家に居候中のまま。何も変わらない事態に焦れていた。
そんなある日、王宮からユイランに依頼が入る。女王と、彼女の婚約者であるヤンイェン――『ライシェン』の父親であり、ルイフォンが接触の方法を画策している人物――の服を仕立ててほしい、と。
採寸は代理がきかない。仕立て屋は直接、王族のヤンイェンに会える。そこで、ルイフォンが『女装』して、助手として同行することになった。女性である女王の採寸に、男のルイフォンが行くわけにはいかないからだ。
ユイランとの女装の事前打ち合わせでは、『可愛い』を連発され、げんなりのルイフォン。だが、『メイシアにサプライズで婚約指輪を贈りたい』という思いつきを相談すると、的確なアドバイスに加え、『高級宝飾店に行く際の服装は任せて』と言ってもらえるという、良いできごともあった。
そして当日。女装したルイフォンは、仕立て屋の助手として、女王とヤンイェンと対面した。
ヤンイェンは、すぐにルイフォンがセレイエの縁者ということに気づいた。しかし、何もかもヤンイェンに任せきりの女王を置いて、別室に移ることは難しそうだ――と、思っていたら、実は女王は無邪気で人懐っこい性格で、あまりにも王族の威厳がないために普段は黙っているように言われているだけだと判明する。
人気のデザイナーのユイランに会えて、大興奮の女王。ヤンイェンは適当な理由をつけて、隣室でルイフォンとふたりきりになる機会を設けた。
ヤンイェンは、セレイエから兄弟のことをよく聞いていたらしい。ルイフォンのことを『女装した異父弟』だと、見抜いていた。そして、「セレイエは私のせいで死んだ」と、悲痛な顔で謝ってくる。ヤンイェンに会ったら、何を差し置いても『デヴァイン・シンフォニア計画』の話をせねば、と思っていたルイフォンは戸惑った。
ルイフォンとしては、ヤンイェンの意向を確かめるために会いに来た。父親として、『ライシェン』の未来は、『王』と『平凡な子供』のどちらがよいか。また、セレイエが命と引き替えに手に入れたライシェンの『記憶』は、そのままにすることを認めるか。――認めない場合は、敵対しても構わない、 という肚だった。
しかし、異父弟として、義兄に始めに言うべき言葉は、感謝だと気づく。最後がどうであれ、異父姉は幸せだったのだから。
セレイエを偲び、言葉を交わす、ルイフォンとヤンイェン。そして、ルイフォンは『瀕死のセレイエは、ヤンイェンのもとに辿り着き、彼の腕の中で逝った』という、セレイエの最期を聞く。
会話の区切りがつくかと思われたその瞬間、ヤンイェンの口から『デヴァイン・シンフォニア計画』という言葉が飛び出す。「君は、この計画の現状を伝えるために、私に会いに来たのだろう?」と。
ルイフォンは無事に『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状をヤンイェンに伝えることができた。しかし、ヤンイェンは『今すぐには何も決められない』と言い、なんの進展もなかった。期待していただけに、愕然とするルイフォン。
今日のところはここまで、と。女王のいる部屋に戻ろうとしたら、女王が試着に夢中で、待つことになる。その間、ヤンイェンから女王の話を聞くことができた。
なんでも、生まれてすぐに母親を亡くした女王を、ヤンイェンの母が気にかけて、自分のもとによく招いていたのだという。同じ『〈神の御子〉の女性』として、将来、〈神の御子〉を産むように強要されることを心配したのだ。ヤンイェンとも自然と顔を合わせることが多くなり、仲良くなったらしい。
異母兄妹でありながら、表向きは従兄妹であるために婚約者となった件については、『他の男に酷い目に遭わされるよりは、ましだろうと思った』と語った。
この世で唯一の『〈神の御子〉の男子』である『ライシェン』の未来は、女王の未来にも大きな影響を及ぼす。そう気づいたルイフォンは、異母妹を可愛がっているヤンイェンが、『ライシェン』の未来を即断できないのは仕方のないことなのだ、と溜め息をついた。
草薙家に戻ったルイフォンは、はっきりしないヤンイェンの態度に対する不満をメイシアにぶちまけてしまう。そんな彼の気持ちを彼女は肯定し、受け止めてくれた。
落ち着きを取り戻したルイフォンは、『女王に『ライシェン』を託す』という未来もあるのではないか』とメイシアに打ち明けると、良い案だと言ってもらえた。『選択肢が増えたのだから、きちんと前に進んでいるのだ』というメイシアの言葉に、ルイフォンの気持ちは晴れていった。
===『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』===
主人公ルイフォンの姉セレイエによる、殺された息子ライシェンを蘇らせる計画。
王の私設研究機関〈七つの大罪〉の技術で再生された『肉体』に、ルイフォンの中に封じたライシェンの『記憶』を入れることで『蘇生』が叶う。
また、生き返った『ライシェン』が幸せな人生を送れるように、セレイエはふたつの未来を用意した。
ひとつは、本来、ライシェンが歩むはずだった、父ヤンイェンのもとで王となる道。
もうひとつは、愛情あふれる家庭で、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道。
セレイエは、弟であるルイフォンと、ヤンイェンの再従妹であるメイシアを『ライシェン』の幸せを託す相手として選び、ふたりを出逢わせた。
『di;vine+sin;fonia』という名称は、セレイエによって名付けられた。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらを繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』を意味する。
この計画が禁忌の行為と分かっていながら、セレイエは自分を止められなかった、ということである。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少年。十六歳。
亡き母キリファから〈猫〉というクラッカーの通称を受け継いでいる。
父親は、表向きは凶賊鷹刀一族総帥イーレオということになっているが、実はイーレオの長子エルファンの息子である。
そのことは、薄々、本人も感づいてはいるが、既に親元から独立し、凶賊の一員ではなく、何にも属さない『対等な協力者〈猫〉』であることを認められているため、どうでもいいと思っている。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
亡くなる前のセレイエに、ライシェンの『記憶』を一方的に預けられていた。
※『ハッカー』という用語は、本来『コンピュータ技術に精通した人』の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われている。
対して、『クラッカー』は、悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を『クラッカー』と表記する。
メイシア
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少女。十八歳。
セレイエによって、ルイフォンとの出逢いを仕組まれ、彼と恋仲――事実上の伴侶となる。
もと貴族の藤咲家の娘だが、ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
王族の血を色濃く引くため、『最強の〈天使〉』として『ライシェン』を守ってほしいというセレイエの願いから、『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた。
セレイエの〈影〉であったホンシュアを通して、セレイエの『記憶』を受け取っている。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
約三十年前、イーレオが、王家および王家の私設研究機関である〈七つの大罪〉と縁を切るまで、血族を有機コンピュータ〈冥王〉の〈贄〉として捧げる代わりに、王家の保護を受けてきた。近親婚を強いられてきたため、血族は皆そっくりであり、また強く美しい。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥であったが、次男リュイセンに位を譲った。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
父から位を譲られ、次期総帥となった。また、最後の総帥になる決意をしている。
黄金比の美貌の持ち主。
文句も多いが、やるときはやる男。『神速の双刀使い』と呼ばれている。
ミンウェイを愛していたが、彼女の幸せを思い、彼女を一族から追放し、緋扇シュアンのもとに行かせた。
鷹刀ユイラン
エルファンの十歳以上は年上の妻。レイウェン、リュイセンの母。銀髪の上品な女性。
レイウェンの会社の専属デザイナーとして鷹刀一族の屋敷を出ていたが、ミンウェイがシュアンのもとへ行ったため、総帥の補佐役として再び屋敷に戻ってきた。
ただし、服飾の仕事が忙しいときには、草薙家にある仕事場に詰めっぱなしになるため、行ったり来たりの生活をしている。
ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。
草薙チャオラウ
鷹刀一族の中枢をなす人物のひとり。イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
主筋であるユイランを、幼少のころから半世紀ほど、一途に想っている、らしい。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
もとエルファンの愛人で、セレイエ、ルイフォンの母。ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。故人。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に人体実験体である〈天使〉にされた。
四年前に当時の国王シルフェンに『首を落とさせて』死亡。
どうやら、自分の体を有機コンピュータ〈スー〉に作り変えるためだったらしい。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが、〈冥王〉を破壊するために作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のスーパーコンピュータだが、それは張りぼてである。
本体は、人間の脳から作られた有機コンピュータで、光の珠の姿をしている。
〈ベロ〉の人格は、シャオリエのオリジナル『パイシュエ』である。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこないのだが、所在は、〈蠍〉の研究所跡に建てられた家にあることが分かっている。
鷹刀セレイエ
エルファンとキリファの娘。表向きはルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
生まれながらの〈天使〉であり、自分の力を知るために自ら〈悪魔〉となった。
王族のヤンイェンと恋仲になり、ライシェンという〈神の御子〉を産んだ。
先王シルフェンにライシェンを殺されたため、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた。
ただし、セレイエ本人は、ライシェンの記憶を手に入れるために〈天使〉の力を使い尽くし、あとのことは〈影〉のホンシュアに託して死亡した。
パイシュエ
イーレオ曰く、『俺を育ててくれた女』。故人。
鷹刀一族を〈七つの大罪〉の支配から解放するために〈悪魔〉となり、三十年前、その身を犠牲にして未来永劫、一族を〈贄〉にせずに済む細工を施して死亡した。
自分の死後、一族を率いていくことになるイーレオを助けるために、シャオリエという〈影〉を遺した。
また、どこかに残されていた彼女の何かを使い、キリファは〈ベロ〉を作った。
すなわち、パイシュエというひとりの人間から、『シャオリエ』と〈ベロ〉が作られている。
鷹刀ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの『父親』。医者で暗殺者。故人。
妻のミンウェイの遺言により、妻の蘇生のために作ったクローン体を『娘』として育てていくうちに心を病んでいった。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のようなかたちでエルファンに殺された。
[王家]
白金の髪、青灰色の瞳の先天性白皮症の者が多く生まれる里を起源とした一族。
王家に生まれた先天性白皮症の男子は必ず盲目であり、代わりに他人の脳から『情報を読み取る』能力を持つ。
この特殊な力を持つ者を王としてきたため、先天性白皮症の外見を持つ者だけが〈神の御子〉と呼ばれ、王位継承権を有する。かつては男子のみが王となれたが、現在では〈神の御子〉が生まれにくくなったために女王も認めている。ただし、あくまでも仮初めの王である。
アイリー
大華王国の現女王。十五歳。四年前、先王の父が急死したため、若年ながら王位に就いた。
彼女の婚約を開始条件に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まった。
素直で純粋な性格。とても良い子であるが、王としての威厳がまったくないために、兄であり摂政でもあるカイウォルに、公式の場では大人しく黙っているように言われているらしい。
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害された。
〈神の御子〉の男子に恵まれなかった先々王が〈七つの大罪〉に作らせた『過去の王のクローン』である。
ヤンイェン
先王の甥。女王の婚約者。
実は先王が〈神の御子〉を求めて姉に産ませた隠し子で、女王アイリーや摂政カイウォルの異母兄弟に当たる。
セレイエとの間に生まれたライシェンを殺され、蘇生を反対されたため、先王を殺害した。
メイシアの再従兄にあたる。
ルフォンが女装までして会いに行き、『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状を伝え、父親として『ライシェン』にどんな未来を与えたいか、意見を求めようとしたのだが、「考えるべきことが多すぎて、何も決められない」としか答えてくれなかった。
ライシェン
ヤンイェンとセレイエの息子で、〈神の御子〉。
〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエから受け継いだ『情報を書き込む』能力を持っていた。
彼の力は、〈天使〉の羽のように自分と相手を繋ぐことなく、〈神の御子〉のように手も触れずに扱えたため、先王シルフェンは彼を『神』と呼ぶしかないと言い、『来神』と名付けた。
周りの『殺意』を感じ取り、相手を殺してしまったために、先王に殺された。
『ライシェン』
〈蝿〉が、セレイエに頼まれて作った、ライシェンのクローン体。
オリジナルのライシェンは盲目だったが、周りの『殺意』を感じ取らずにすむようにと、目が見えるように作られた。
凍結処理が施され、ルイフォンとメイシアに託された。
カイウォル
摂政。女王の兄に当たる人物。
摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。
ハオリュウに、「異母兄にあたるヤンイェンとの結婚を嫌がる妹、女王アイリーの結婚を延期するために、君が女王の婚約者になってほしい」と陰謀を持ちかけた。
[〈七つの大罪〉]
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
王家に、王になる資格を持つ〈神の御子〉が生まれないとき、『過去の王のクローンを作り、王家の断絶を防ぐ』という役割を担っている。
〈冥王〉
他人の脳から情報を読み取ることによって生じる、王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。
太古の昔に死んだ王の脳細胞から生まれた巨大な有機コンピュータで、鷹刀一族の血肉を動力源とする。
『光の珠』の姿をしており、神殿に収められている。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
〈天使〉
『記憶の書き込み』ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は有機コンピュータ〈冥王〉の一部でできており、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置となる。限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こして死亡する。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られた〈蝿〉
セレイエが『ライシェン』を作らせるために、蘇らせたヘイシャオ。
セレイエに吹き込まれた嘘のせいでイーレオの命を狙い、鷹刀一族と敵対していたが、リュイセンによって心を入れ替えた。
メイシアを〈悪魔〉の『契約』から解放するため、自ら王族の『秘密』を口にして死亡した。
ホンシュア
セレイエの〈影〉。肉体はライシェンの侍女で、〈天使〉化してあった。
主人の死に責任を感じ、『デヴァイン・シンフォニア計画』に協力した。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
メイシアにセレイエの記憶を潜ませ、鷹刀に行くように仕向けた、いわば発端を作った人物である。
〈蛇〉
セレイエの〈悪魔〉としての名前。
セレイエの〈影〉であるホンシュアをを指すこともある。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら貴族の藤咲家の当主を継いだ。その際、異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
母親が平民であることや、親しみやすい十人並みの容姿であることから、平民に人気がある。ただし、温厚そうな見た目とは裏腹に、気性は激しい。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
摂政カイウォルに「女王の婚約者にならないか」と陰謀を持ちかけられていたが、友人シュアンを人質に取られたことから猛反発。シュアンのため、そして、相思相愛でありながら、身分差のために想いを告げることのできなかったクーティエのため、『この国から身分をなくす』と決意する。
緋扇シュアン
ハオリュウの歳の離れた友人であり、現在は秘書。三十路手前程度。悪人面の凶相の持ち主。
もとは銃の名手のイカレ警察隊員であったが、摂政の陰謀により投獄。獄死を装って救出されたため、自由民となった。
幼いころ、凶賊同士の抗争に巻き込まれ、家族を失った。そのため、「世を正す」と正義感に燃えて警察隊に入るも、腐った現実に絶望していた。しかし、ハオリュウと出会い、彼を『理想の権力者』に育てることに希望を見出した。
また、以前より、秘めた愛情を抱いていたミンウェイと家族になった。
鷹刀ミンウェイ
鷹刀一族の総帥の補佐を務めていたが、リュイセンに追放という形で背中を押され、シュアンのもとに来た。現在は、ハオリュウの侍医として、シュアンと共に藤咲家に住み込みで働いている。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ、二十代半ばに見える絶世の美女。ただし、本来は直毛。薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
母親だと思っていた人物のクローンであり、そのために『父親』ヘイシャオに溺愛という名の虐待を受けていたのだと知った。苦悩はあったが、今は乗り越えている。
[草薙家・他]
草薙レイウェン
エルファンの長男。リュイセンの兄。
妻のシャンリーと共に一族を抜けて、服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
草薙シャンリー
レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。王宮に召されるほどの剣舞の名手。
遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。
草薙クーティエ
レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。可愛らしく、活発。
ハオリュウが、彼女の父レイウェンに『お嬢さんをください』という意味合いを含めて決闘を申し込んだらしいのだが、惨敗したので、ふたりの間柄は保留である。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした、もと凶賊斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
斑目一族や〈蝿〉にいいように使われていたが、今はレイウェンの警備会社で働いている。将来的には、ハオリュウの専属護衛になる予定。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
実は〈影〉であり、イーレオを育てた、パイシュエという人物の記憶を持つ。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。ということになっているが妖艶な美女という説もある。
本人曰く、もと女優の卵である。実年齢は不明。
ルイリン
ルイフォンの女装姿につけられた名前。
タオロンと好い仲の少女娼婦。癖の強い、長い黒髪の美少女。
少女にしては長身で、そのことを気するかのように猫背である。
――という設定になっている。
トンツァイ
繁華街の情報屋。
痩せぎすの男。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.白蓮華と黒装束-1

鷹刀一族の屋敷を守る、天まで届かんばかりの煉瓦の外壁。
その内側にて――。
次期総帥たるリュイセンは、裏庭の蓮池の畔で、ひとり、朝の鍛錬を行っていた。
清澄な空気で満たされた、早朝の景色を映し、銀の刀身が煌めく。決められた型の動きを正確無比になぞりつつ、神速の風を巻き起こす。
鍛え上げられた肉体から、汗が噴き出す。
そんな彼の稽古の模様を、凪いだ池の水面が、ひっそりと模写していた。
双刀を疾らせる長身を、白い蓮の花で飾り、玉の汗を真似て、葉の上で朝露をころころと転がしていく。
リュイセンは一連の動きを確認し終えると、鍔鳴りの音を響かせ、刀を納めた。
ふと、気まぐれな風が吹き、池の上に漣を立てた。今まで、おとなしくリュイセンを見守っていた白蓮が、自己主張を始めたかのように優美に揺れる。
純粋なまでに白く無垢な姿に、リュイセンは目元を緩めた。この時間だけの、特別な美しさだ。
蓮の花は、朝が早い。
開花の際に、ぽん、という天上の音楽を奏でるという話だが、リュイセンは聞いたことがない。毎朝、必ず、彼が来るよりも先に咲き誇り、強い太陽の光を避けるかのように、午後には花びらを閉じてしまう。
蓮の花と早起きを競うのが、ここ最近のリュイセンの密かな楽しみとなっていた。
ここ最近。
鍛錬の場を、硝子の温室のそばから、この池の畔に変えてから。
ミンウェイを緋扇シュアンのもとに送り出して以来の――。
リュイセンは空を仰いだ。
まだ、太陽の色に染まる前の風が肌を冷やし、心地がよい。
あれほど愛した女を失ったというのに、不思議と後悔はなかった。
むしろ、やるべきことをやり遂げたような、達成感のような安堵のような、穏やかな気持ちで満たされている。
少し可哀想なのが弟分のルイフォンで、たまに連絡を取るたびに、不自然な気遣いを感じる。
シュアンを助ける際、ミンウェイの力を借りる作戦を立てたことが転機だったのを未だに気にしているらしい。あの件がなくとも、いずれこうなる運命だったのは間違いないというのに。
心配は要らない。ミンウェイは今、幸せなのだから。
この前、母のユイランが、女王の衣装の件でハオリュウと打ち合わせをしたとき、使用人として同行してきたミンウェイに会ったという。左手の薬指に、シュアンと揃いの指輪を着けていたと教えてくれた。だが、母から聞かなくとも、リュイセンはそのことを知っていた。シュアンが会いにきたからである。
所用で情報屋のトンツァイの店に行った帰り、妙な視線を感じた。振り向くと、人込みの向こうにシュアンがいた。
彼は、相変わらずの胡散臭い演技めいた仕草で、目深に被っていた帽子を取った。しかし、おどけた動きとは裏腹に、あらわになった三白眼は射抜くように鋭く、血色の悪い唇は皮肉げに持ち上がることなく、固く結ばれていた。
リュイセンと目が合うと、帽子を持った右手を後ろに下げ、左手を胸に当てて、黙って頭を下げた。敬意を示す礼だ。
その刹那、薬指の付け根が陽光を弾き、銀色に光った。
それから。
シュアンは、すっと裏路地へと消えていった。
昼の繁華街での、一瞬の出来ごとだった。
雑踏を掻き分け、追いかければ追いつけない距離ではなかった。けれど、リュイセンは、立ち止まったまま見送った。
なんとも、シュアンらしい挨拶だった。
そして、『この日、この時間に、リュイセンが来る』という情報をシュアンに売ったトンツァイは、なかなか、いい商売をしている、と思ったのだった。
鍛錬を終え、朝食を摂り、リュイセンは自室に籠もる。
次期総帥として、溜まっている事務作業をこなさねばならぬのだ。武闘派の彼には非常に不本意なことであるが、現在の対戦相手は、机の上に山と積まれた書類だった。
とはいえ、凶賊としては、実に平和な日常だ。
ひと月ほど前、摂政の命で、近衛隊による家宅捜索が行われたときには激震が走った鷹刀一族であるが、その後は極めて穏やかな日々が続いている。正しくは、『物寂しい』というべきか。にぎやかな連中が、いなくなってしまったからだ。
摂政が次に何を仕掛けてくるか分からないため、ルイフォンとメイシアは草薙家に行ったままであるし、ミンウェイはリュイセンが送り出した。その代わりに、母のユイランが総帥の補佐役として戻ってきたはずなのであるが、女王と婚約者の服の仕立てを請け負ったため、今は草薙家の二階の作業場で仕事中だ。
そして、この書類の山は、母の不在が原因だったりする。
仕立て屋の仕事との二足わらじでも、リュイセンが手伝えばなんとかなるだろう、という見通しは甘かった。……実に、甘すぎた。
次期総帥の座を退いた父エルファンも手を貸してくれるのだが、人間には向き不向きというものがある。正直なところ、父に任せるくらいならば、すべてリュイセンがやったほうが、まだましだった。
『総帥補佐の補佐』という役職の新設も考えたのだが、残念ながら、適当な人材がいないので、どうにもならない。
ちなみに、この現状に対し、祖父イーレオは、絶世の美貌に人の悪い笑顔を浮かべ、魅惑の低音で喉を震わせているだけである。
唯一の救いといえば、リュイセンのもうひとつの顔である『大学生』としては、無事に夏休みを迎えられたことだ。死にかけて〈蝿〉に捕らわれたり、一族を裏切って屋敷を出たりと、波瀾万丈な生活を送っていた間は、当然のことながら無断欠席の扱いになっており、一時は単位が危うかった。
しかし、命に関わるような大怪我をしたという事実と、普段のリュイセンが非常に真面目な学生であることから、幸いなことに、レポートの提出をもって大目に見てもらえた。……彼の家の『稼業』を知っている教授陣が、面倒ごとに巻き込まれたくないと判断しただけ、という可能性も否定できないが。
「ふぅ……」
午前中から作業を始め、昼食をはさみ、午後も黙々と机に向かうこと数時間。
書類の山の高さが、やっと半分くらいに減り、リュイセンは大きな溜め息をついた。
疲れたのか、集中力が落ちてきている。少し休憩を取ったほうがよいだろう。
彼は椅子から立ち上がると、迷わずバルコニーへと出た。暑くても構わない。とにかく、外の空気を吸いたかった。
硝子の戸を開けた瞬間に、熱気が襲ってきた。空調で冷やされていた肌は、薄皮一枚分の断熱服の効果を持っていたが、すぐに、じりじりと皮膚が焼ける感覚に変わっていく。
しかし、元来、自然の中で体を鍛えることに喜びを覚えるようなリュイセンである。気温が何度になろうとも、外気を吸い込めば、開放感でいっぱいになる。
やはり、外は気持ちがいい。
そう思ったときであった。
門のほうから、常とは違う気配を感じた。
かすかに聞こえる門衛たちの声から察するに、どうやら招かれざる客が来たらしい。
「何者だ?」
リュイセンは呟くと、バルコニーの手すりを飛び越え、地面へと降り立った。
リュイセンがバルコニーへと出る、少し前。
門の前に、一台のタクシーが止まった。
その瞬間、三人の門衛たちの間に緊張が走った。今日は、客人が来るとは聞いていない。すなわち、良からぬ輩がやってきたのだと解釈し、身構えた。
しかし、降りてきた人物を見て、門衛たちは唖然とした。
吹けば飛ぶような、小柄で華奢な女だった。王国一の凶賊、天下の鷹刀一族の屋敷を訪問するにしては、随分と可愛らしい御仁である。
だが、門衛たちが呆けたのは、彼女がこの場にそぐわない小女だからではなかった。彼女の服装が、不審者を絵に描いたようなものだったためである。
女は、真っ黒なパーカーのフードを頭からすっぽりと被っていた。そして、同じく真っ黒なサングラスとフェイスカバーで顔を覆っている。その結果、彼女の頭部で外気に晒されている素肌は、ごくわずか。こめかみのあたりが、ちらりと白く覗くのみである。
顔を隠した、危険な賊――とは、誰も思わなかった。
武に長けた門衛たちにとって、彼女がまったくの『素人』であることは、火を見るよりも明らかだったからだ。
この暑い夏の日に、長袖のパーカーのジッパーをしっかりと上まで閉め、袖口から覗く手には黒い手袋。パーカーの下から流れ出たスカートだけは淡い青色をしていたが、裾から伸びた足は、真っ黒なタイツで隠されている。
この服装から導き出される答えは、ひとつしかない。
彼女は、日焼けをしたくないのだ。――それも、『絶対』に。
おそらく、黒い布地はすべて、紫外線防止加工を施されたものであろう。
彼女の徹底ぶりに門衛たちは脱力しかけ、途中で、はたと首をかしげる。こんな女が、凶賊の屋敷に、いったいなんの用があるというのだろう? と。
彼らの疑問は、すぐに解消された。
「私は、ユイランさんに会いにきました」
天上の音楽もかくや、といった美しい響きが奏でられた。声の感じからすると、まだ若い。『少女』といった年齢だろう。
天界の琴のような音色に、門衛たちは、先ほどとは別の理由で呆ける。
「お願いします。ユイランさんを呼んでください」
ぐいと一歩、少女が前に出た。
小柄な彼女にしてみれば、頭ふたつ分ほども大きな門衛たちへと迫るのは、自ら巨人の群れに取り囲まれに行くようなものだろう。しかし、彼女は、臆することなく詰め寄る。
そのころになって、やっと門衛たちは自分の仕事を思い出した。
「あんた、何者だぁ?」
先鋒役の若い衆が、野太い声を張り上げて誰何する。威圧的な態度は、今まで間抜け面を晒していたことに対する、照れ隠しだろう。だが、今更のことである上に、愛嬌のある八重歯が特徴的な彼は迫力に欠けた。
案の定、少女にまるで萎縮する様子はなく、しかし、大真面目に告げる。
「ごめんなさい。名乗るわけにはいかないの。でも、決して! 怪しい者じゃないから!」
「はぁ……?」
万全の紫外線対策で『怪しい者じゃない』と叫ぶ少女。
あまりにも説得力に欠ける滑稽な姿に、門衛たちは、どっと噴き出す。
「ちょ、ちょっと!」
彼女の憤慨に、黒いフェイスカバーが、ぷうっと吹き上がった。彼女としては、心外だったらしい。
「いやぁ、すまん、すまん」
最年長の門衛が、場を取り繕うように口を開く。だが、悪びれない調子で頭を掻いていては、謝罪の台詞も意味がない。
「嬢ちゃん、あんた、鷹刀一族のユイラン様じゃなくて、デザイナーのユイラン様に会いにきたんだな」
「え、ええ……? それが何か? どちらの肩書きで呼んでも、ユイランさんはユイランさんでしょう?」
機嫌を損ねたままであるためか、少女は強めの口調で首をかしげる。素顔が隠されていても、彼女が口をへの字に曲げているのが感じられた。
凶賊への偏見が、まるで感じられない。
彼女は、凶賊を怖いと思っていないのだ。それは、よほどの馬鹿か、世間知らずか。
先ほどの門衛は、静かに尋ねた。
「あんた、貴族だろう?」
「え?」
「その奇妙な服装も、深窓の令嬢は真っ白じゃなくちゃいけねぇとか、そんな理由なんだろう? ああ、あと、お忍びだから顔を隠している、ってわけか」
「……そんなところ」
笑われたのは不愉快だけれど、察してくれたのはありがたい。そんな感情をにじませながら、少女は素直に頷く。幼さを感じる、可愛らしい仕草だ。
年長の門衛は、「いいか、嬢ちゃん」と、わざとらしい溜め息をついた。
「ここは鷹刀一族総帥、イーレオ様の屋敷だ。イーレオ様は、この国の凶賊の頂点に立つお方だからな、お命を狙う不届きな輩は、ごまんといる。だから、俺たち門衛は、招いてもいない客が来たら蹴散らすのが仕事だ」
頬に走る古傷を誇張するように、門衛は唇を歪めた。ゆらりと間合いを詰めながら、これ見よがしに刀の柄に手を掛ける。
「……っ」
ただならぬ気配を感じたのか、さすがの少女も短く息を呑んだ。とんだ暴挙に出ている自分に、今更ながら気づいたのかもしれない。
だが、ひと呼吸を置いたのちに、門衛は、ふっと口元を緩めた。
「凶賊の屋敷がどういうもんだか、分かってくれりゃあそれでいい。――まぁ、ユイラン様の服飾の客とあっちゃあ、丁重に扱わねぇといけねぇけどよ」
「じゃあ、ユイランさんを……!」
少女の緊迫は、一瞬にして安堵に変わる。しかし、門衛は困ったように眉を寄せた。
「あんた、運が悪いなぁ。ユイラン様は、特別な仕立ての仕事が入ったとかで、作業場のほうに行ったきりだ。今、この屋敷にはいらっしゃらねぇんだよ」
「ええっ! そんな……!」
悲壮感を漂わせた彼女に、門衛は懐から手帳を取り出し、ページを千切る。
「今、作業場の住所を書いてやるからよ。本当は、余計な世話を焼いちゃいけねぇんだが、嬢ちゃんのお忍び装束を楽しませてもらった礼だ」
実は、この門衛は、メイシアが初めて鷹刀一族の屋敷を訪れたときに対峙した者だった。
彼は、あのときのメイシアを思い出し、わけありらしい貴族の少女という共通点から、つい肩入れしたくなったのだ。数ヶ月前までは、凶賊らしく、上流階級の者を毛嫌いする気質があったのだが、メイシアが屋敷を訪れて以来、変わったのである。
善行は良いものだと、門衛が悦に入ってペンを走らせようとしたとき、唐突に少女が叫んだ。
「ご、ごめんなさい! 本当は、ちょっとだけ違うの!」
絹を裂くような声に、屈強な門衛たちが、ぎょっとする。
「本当は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に会いにきたの!」
「は……?」
状況が理解できず、門衛たちの目が点になった。
「でも、いきなり、そう言っても門前払いになるだけだと思って、ユイランさんに取り次いでもらおうと考えたの。ユイランさんなら、私のことを知っているから……。でも、ここにユイランさんがいないなら……どうしよう……」
心底、途方に暮れたように、少女が狼狽える。
その姿に、三人の門衛たちも困惑顔で額を寄せ、同時に「あっ!」と声を揃えた。
「嬢ちゃん、メイシアに会いにきたんか!」
メイシアは、表向きは死んだことになっている。だから、彼女がルイフォンのもとで生活していることは『極秘』だ。
「なんだぁ、メイシアの友達かぁ」
「わざわざ、お忍びで来てくれたとは! メイシアも喜ぶぞ」
「えっ!? えっと……?」
盛り上がる門衛たちの耳に、戸惑う少女の声は届かない。
「今、メイシアも、ここにいねぇんだけどよ。ちょうどいいことに、ユイラン様と同じ家にいるんだ」
「あ、あのっ……」
少女は『待って!』と、黒い手袋の掌を突き出し、勝手に転がっていく話を止めようとした。しかし、目線の遙か下にある手の動きなど、門衛たちは気づかない。
そのときだった。
「何があった?」
よく通る、魅惑の低音が響いた。
鉄格子の門の内側から、黄金比の美貌が覗く。癖ひとつない艷やかな黒髪が、さらりと夏風に吹かれた。
「リュイセン様!」
門衛たちが一斉に頭を垂れた。
そして――。
「『リュイセン』……」
黒いフェイスカバーの下で、少女が小さく呟いた。
1.白蓮華と黒装束-2

招かれざる客の気配に、リュイセンはバルコニーから庭へと飛び降りた。
小走りで門までやってきて、鉄格子越しに、相手の姿を認める。その瞬間、彼は固まった。
――なんだ、あれは?
美麗な顔を歪め、リュイセンは眉間に皺を寄せる。
顔を隠した、黒づくめの小柄な女だった。明らかに不審人物である。
それにも関わらず、強面の門衛たちが、彼女を囲んで和気あいあいと盛り上がっていたのだ。
……わけが分からない。
「何があった?」
狼狽するリュイセンに、若い門衛が嬉しそうに答える。
「リュイセン様! 彼女はメイシアの貴族時代の友達で、お忍びで会いにきてくれたそうっすよ」
「は? メイシアの『友達』……?」
友達の話なんて、聞いたことがない。
もっとも、リュイセンにとってメイシアは身内ではあるが、あくまでも弟分のパートナー。彼女の個人的なことは、知らなくても不思議ではない。貴族時代のことともなれば、なおさらだ。
……だが、いくらお忍びだからといって、その格好はないだろう?
箱入り娘のメイシアは、確かに妙なところで世間知らずだが、貴族であったころから常識人だった。その友達が、こんなおかしな女でよいのだろうか……?
「お前、本当に、メイシアの友達か?」
困惑の面持ちで、リュイセンが問うたときだった。
「リュイセン!」
まるで、天界の琴を、ぽん、と弾いたかのような、美しい音色。
リュイセンは、自分の名前が天上の音楽となって、高らかに響き渡ったように聞こえた。
感動にも似た衝撃は、しかし、その直後に、驚愕に取って代わられる。
「会いたかったわ!」
巨漢の門衛たちの間をすり抜け、少女が門へと駆け寄った。ふたりを隔てる鉄格子を握りしめ、精いっぱいの爪先立ちで、リュイセンに詰め寄る。
「なっ……!?」
千の敵を前にしても、決して怯むことのないリュイセンが、小柄な少女ひとりに狼狽えた。
それと同時に、得心したとばかりの、門衛たちの視線が突き刺さる。
「これは、これは……」
「そういうことっすかぁ」
「リュイセン様も、隅に置けませんなぁ」
門衛たちは口々に好き勝手なことを言い、にやにやと目元を緩ませた。この少女とリュイセンは、メイシアを通して既に顔馴染みであり、かなり『親しい』間柄であるのだと、すっかり信じ込んでいる。
「お、おいっ!? お前らっ!」
リュイセンは殺気をにじませ、焦りに眉を跳ね上げる。変な誤解をされては、たまったものではない。
きちんと弁明を――と思ったとき、彼は自分を見上げている少女が、黒いパーカーに埋もれるように身を縮こめていることに気づいた。
しまった……!
リュイセンは、自分の体格のよさを自覚している。また、血族特有の低音で怒声を飛ばせば、必要以上の威圧を与えることも理解していた。
そして、彼は生真面目で、礼儀正しい男だった。いついかなるときでも、か弱き少女を怖がらせてはならないのである。
「すまん!」
「ごめんなさい!」
神速で発した魅惑の低音に、妙なる天界の音色が重なった。
綺麗な和音となった、ふたつの謝罪。
その響きに、リュイセンは虚を衝かれた。はっと気づいたときには、目の前の鉄格子から黒い手袋が離れており、少女が、くるりと身を翻している。
理由は分からない。ただ、恐れを知らぬ猛者であるはずのリュイセンが後れを取った、という事実だけが残った。
彼女は門衛たちへと走り寄り、「違うの!」と、訴えるように叫ぶ。黒づくめの服装の中で、唯一、色彩を持った青いスカートが、漣のように流れた。
「なんだぁ、嬢ちゃん。違うのか?」
やや不満げに、門衛たちは拍子抜けした声を上げた。
それでも、どことなく顔がにやけているのは、長年、想い続けてきたミンウェイを送り出したばかりのリュイセンには、その気はなくとも、彼女のほうは、まんざらでもないのだと期待しているためだろう。
「あのっ、……ごめんなさい」
「そうかぁ、残念だなぁ」
口では、そう言っていても、目元は楽しげに細められたままである。ミンウェイを失った傷心の今が好機だと、少女を応援しているのだ。
「いやぁ。てっきり、リュイセン様は……ああ、いえいえ!」
なおも変わらぬ調子の門衛たちに、リュイセンは、ひと睨みする。すると、彼らは縮み上がるような素振りで、ぶるぶると首を振ってみせた。――勿論、演技であるが。
……まったく。
苦虫を噛み潰したような顔で、リュイセンは改めて少女を見やる。
よくよく観察してみれば、外見こそ不審者そのものであるが、彼女から悪意の類は感じられない。言動は謎であるが、とても素直で、まっすぐな気質が伝わってくる。
ともあれ、これから、ゆっくり事情を聞かせてもらうか。
リュイセンが「おい」と、少女に声を掛けたときだった。
「でも、リュイセンに会えて、本当に嬉しいわ!」
「……は?」
声を弾ませる彼女に、リュイセンの思考が止まる。呆けた視界の端に、門衛たちのしたり顔が映り込む。
誓ってもいい。
彼女とは、初対面だ。
いくら顔を隠していても、気配に敏いリュイセンが、知り合いに気づかないはずがない。――だが、彼女のほうは、知っている……?
――何者だ?
門にたどり着く前、『ユイランさんに取り次いでもらおうと思った』と言う声を、風の中に聞いた。
『本当は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に会いにきたの!』――と。
彼女が嘘をついているようには思えない。母の知り合いであるのは本当だろう。
仕立て屋として、母は上流階級にも顔が広い。メイシアの友達かどうかはさておき、貴族であることは信じてもいい。むしろ、この傍迷惑なまでもの無邪気さは、平民というよりも貴族だ。
彼女は、誰に会いにきた?
貴族の少女が凶賊の屋敷に、いったい、なんの用がある?
まるで、メイシアが鷹刀一族のもとへ舞い込んできたときのようだ。それは、すなわち、波乱の幕開けだ。
リュイセンは渋面を作った。
この少女自身は、無害な存在といえるだろう。まとう空気が、まるきり『素人』のそれだ。ならば、彼女はメイシアのように騙されて、陰謀を企む輩の駒にされているのか?
彼は周囲の気配を探る。彼女を見張っている者がいないかと、警戒したのだ。
……いない、か。
そう結論づけたときだった。
不意に、リュイセンの耳が携帯端末の振動音を捕らえた。音の先では、最年長の門衛が、懐から携帯端末を出しているところだった。
「あ、はい! 今、替わります」
門衛は、畏まった返事をすると、鉄格子越しにリュイセンに端末を差し出す。
「イーレオ様からです。リュイセン様に替わるようにと」
「祖父上が……?」
門の様子は、常にモニタ監視室から目を光らせている。不穏な動きがあれば、すぐに総帥イーレオに報告されるので、門衛の携帯端末に連絡が来ても不思議ではない。
しかし、どうして自分に?
疑問に思いながら、リュイセンが端末を受け取ると、イーレオの低音が響いた。
『リュイセン、その子を執務室まで案内しろ。――丁重にな』
「は? こんな不審な者をどうし……」
総帥の発言とも思えぬ指示に、リュイセンは反論し、その途中で、弾かれたような笑い声に遮られた。
「祖父上!?」
『彼女の言動に、俺が魅了されたからに決まっているだろう?』
電話越しに、くつくつと喉を鳴らす音が続いている。それに被さるように、呆れ返ったような、冷ややかな低音が届いた。
『お前はまだ、その者が何者であるか、理解していないのか?』
イーレオではない。父のエルファンだ。同じ声質でも、温度が違う。執務室から、ふたりでスピーカーを使って話しているのだろう。
「……」
リュイセンは唇を噛みしめた。
少女の正体を見抜けぬ自分は、聡明さに欠ける。不甲斐ないと思われている。――祖父にも、父にも。
「リュイセン……?」
少女が遠慮がちに近づいてきて、気遣うような音色を奏でた。
「イーレオさんは、なんて言ったの? 怒られている?」
「あ、いや……」
「私のせいでしょう? 私が、いきなり押しかけてきたから。――ごめんなさい。リュイセンは、何も悪くないのに……」
ぐっと背伸びして、サングラスの視線が心配そうに、リュイセンの顔を覗き込む。
妙に親しげな距離感と、なのに決して不快ではないという矛盾。
リュイセンは困惑し……、はっと現実に戻って、「違う」と首を振った。
「俺が未熟なだけだ」
「?」
少女が、きょとんと首をかしげる。はずみで、目深に被っていた黒いフードが、ふわりと風に浮き立った。
――――!
その瞬間、リュイセンは、切れ長の眼を大きく見開いた。
神速の勢いで、携帯端末を持っていないほうの手を伸ばし、鉄格子の隙間から彼女のフードを乱暴に元に戻す。
――しかと見た。
フードの下から零れかけた、白金の煌めきを。
いくら鈍いリュイセンでも、少女の正体をはっきりと悟った。
女王だ。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、この国の王。創世神話に謳われし、天空神フェイレンの代理人。
超大物じゃねぇか――!
リュイセンの鼓動が、早鐘を打つ。
フードがずれたのは、ほんの一瞬。背中を向けていた門衛たちには、間一髪、気づかれなかったはずだ。
凶賊の屋敷に女王が現れたとなれば、ただごとでは済まない。部下たちに隠しごとをするのは心苦しいが、できるだけ内密に、そして、穏便に対処すべき案件だろう。
黄金比の美貌が歪み、リュイセンの眉間に苦悩の皺が寄る。
彼女が女王であるならば、異様な服装にも納得がいく。
黒づくめは、ひと目で素性の分かる容姿を隠すのと同時に、極端に日光に弱いという、先天性白皮症の肌を守るためだ。
祖父や父は、すぐに思い至ったのだろう。
何しろ、つい最近、王宮に乗り込んでいったルイフォンの報告書の中で、女王は『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わる重要人物として、名を挙げられていたのだから。
王の威厳の欠片もなく、限りなく頼りないと評されていた彼女に、凶賊の屋敷を訪れる行動力があったことには驚きであるが、注視しておくべき相手だった。白金の髪を見るまで気づかぬとは、父たちに呆れられても仕方あるまい。赤面の至りだ。
では、彼女はなんのために、鷹刀一族の屋敷を訪れた?
門衛たちの言う通り、メイシアに会いにきたのか?
違う。
女王とメイシアは再従姉妹の間柄にあるが、特に親しくはなかったと聞いている。
――『ライシェン』だ。
リュイセンは、ごくりと唾を呑む。
女王は、『ライシェン』に会いにきたんだ……。
「リュイセン?」
フードを直したきり、押し黙ってしまったリュイセンを、女王が不思議そうに見上げた。身長差のために、ぐっと大きく、頤を上げて――。
「ば、馬鹿野郎!」
再び脱げかけたフードに向かって、リュイセンは慌てて手を伸ばす。
大きな掌で、しっかりと頭を押さえ込み、長い腕で、鉄格子越しに彼女を引き寄せる。
……その結果。
「きゃぁっ!?」
リュイセンの胸元に抱きかかえられる形となった女王が悲鳴を上げ、門衛たちが「おおっ」と色めきだった。
「勘違いするな! こいつは、顔を見られるわけにはいかねぇんだ!」
はっ、と我に返り、リュイセンは大声で怒鳴りつける。
しかし、あとの祭りであった。
門衛たちは「ああ、そうですか。そうですよねぇ」と、もっともらしく深々と頷くものの、その口ぶりから、リュイセンの言葉をまったく信じていないのは明らかだった。
リュイセンは忌々しげに舌打ちをすると、女王に告げる。
「総帥が、お前を呼んでいる。案内するから、ついてこい」
乱暴に言い捨て、けれど、フードから手を離すときには、優しく慎重であるところが、如何にもリュイセンである。
彼は鉄格子の門を開けた。携帯端末を門衛に返し、女王を招き入れる。
総帥イーレオに呼ばれたと聞いて、女王は緊張しているようであった。顔は見えなくとも、リュイセンには息遣いで分かる。
それでも彼女は、くるりと門衛たちを振り返り、明るい天上の音楽を奏でた。
「いろいろ、親切にありがとう! 詳しいことを言えなくて、ごめんなさい」
「嬢ちゃん、あんた、いい子だなぁ」
「頑張れよ!」
門衛の意図する『頑張る』の意味を理解していない女王は、「はい!」と、無邪気に手を振って応えた。
2.訪い人の袖時雨-1

黒づくめの女王を先導し、リュイセンは執務室へと向かう。
弁解のしようもなく、不審な風体の彼女であるが、次期総帥たるリュイセンが連れていれば、行く手を阻む者はない。しかし、好奇の目に晒されるのも可哀想なので、できるだけ人の通らない廊下を選んでいった。広い屋敷であるため、経路さえ選べば、ほぼ誰にも会わずにすむのだ。
彼は歩きながら、ルイフォンが先日、王宮に行ったときの報告書の中の、女王に関する記述を思い返していた。
お飾りの女王であることは間違いない。彼女が、あまりにも王族の威信というものから掛け離れているため、公的な場では無口でいるようにと、兄に諫言されているらしい。
同母兄の摂政カイウォルとは不仲ではないが、煙たがっている節がある。むしろ、異母兄であり、婚約者でもあるヤンイェンのほうに懐いているように思われた。
『デヴァイン・シンフォニア計画』については、何を知っているのか、そもそも何も知らされていないのか、まるで不明。
そんなふうに綴られていた。
そして、ルイフォンにしては珍しく、好意的な表現の所感で締めくくられる。
流されるままの自分を変えたいという思いが、言葉の端々から感じられた。
純粋で、素直な性格。悪い子ではない。
――それで、行動を起こしたというわけか。
リュイセンは、得心の息を吐いた。それから、顔をしかめ、眉間の皺を深くする。
ルイフォンからの報告がなければ、兄の駒として、鷹刀一族の屋敷の内偵に来た可能性を視野に入れた。唯一無二の存在である女王という餌を撒けば、如何に用心深い鷹刀といえども、尻尾を出すと画策したかと。
しかし、屋敷の周りに、監視や援護の者の気配はなかった。もとより、冷静になって考えれば、あの慎重な摂政が、荒事とは無縁の女王を、単身で凶賊の屋敷に乗り込ませるなどという暴挙に出るはずもない。
だから、この訪問は、間違いなく彼女の意志なのだ。
ならば、彼女は王宮を抜け出してきて、大丈夫なのだろうか? 口うるさい兄に、厳しく叱られるのではないだろうか。
リュイセンも、よく小言を言われる身である。余計なお世話かもしれないが、他人ごとながら心配になってくる。
とはいえ、女王の来訪は、膠着している『デヴァイン・シンフォニア計画』の展望に、大きな影響を与えることになるだろう。個人の感情ではなく、『この計画に巻き込まれた、鷹刀一族の次期総帥』という立場からすれば、彼女の無鉄砲は歓迎すべきものだ。
総帥である祖父イーレオも、彼女との対面に価値があると考えたからこそ、執務室に案内するように言ったのだろう。先ほどのイーレオとの通話では確認しはぐったが、今ごろ、ルイフォンにも連絡が行っているはずだ。
ヤンイェンとの接触は叶ったものの、今ひとつ、状況が進展しなかったことに、弟分は焦れていた。知らせを受ければ、小躍りしながら飛んでくることだろう。
弟分の猫の目が輝くところを思い浮かべ、リュイセンは口元を緩めた。
そのとき。
「お願い……、置いていかないで……」
哀れを誘うような、よろよろとした女王の声が、リュイセンの耳に届いた。
振り向けば、すぐそばを歩いていたはずの彼女は、長い廊下の遥か後ろにいた。歩幅の差を考慮せず、リュイセンが普段通りに颯爽と歩けば、当然の結果である。
しまった、と立ち止まると、彼女は全力で走ってきた。苦しげに肩で息をしており、黒いフードの先端が、彼の目線から頭ふたつ分くらい下で、ぜいぜいと上下に揺れる。
間近に来た彼女から、ただ走ってきたにしては高すぎる体温を感じ、リュイセンは自分の無配慮に気づいた。彼女は黒づくめの格好で、真夏の炎天下にいたのだ。さぞや暑かったに違いない。足元など、ふらふらのはずだ。
「すまん」
考えなしであった。リュイセンは猛省する。
一方、女王は機嫌を悪くしているわけではないようで、「ううん。それより……」と、きょろきょろと辺りを見渡し、人気がないことを確認してから、リュイセンに向き直る。
そして――。
「さっきは、ありがとう!」
天真爛漫な、天上の音楽が響いた。
彼女は黒い手袋の両手で、フードの紐を軽く引いてみせる。正体がばれないように、リュイセンが白金の髪を隠してくれた礼を言っているらしい。
「あ、いや……」
些細なことに真正面から感謝されると、かえって戸惑う。
押され気味のリュイセンに、女王は「それから、馴れ馴れしくして、ごめんなさい!」と、更に詰め寄った。無遠慮……ではなく、無邪気に距離が近い。
「私はリュイセンのことを聞いていたけれど、リュイセンは私のことを知らなかったのにね。ごめんなさい。……でもね。私はリュイセンに会えて、本当に嬉しかったの。ずっと会ってみたかったのよ」
「お前は何故、俺のことを知っている?」
及び腰になりつつも、リュイセンは先ほどから抱いていた疑問を口にする。すると、彼女は、気配に敏い彼でなければ気づかないほどの、わずかな間を置き、それから答えた。
「セレイエがね、よく自分の兄弟のことを話してくれたの。――だって、私は、セレイエの……義妹だもの」
フェイスカバーに隠されていても分かる、少し唇を尖らせた声。幼い子供が、屁理屈をこねるときの口調に似ている。
女王の異母兄であるヤンイェンは、セレイエと正式に婚姻を結んだわけではない。だから、本当は『義妹』を名乗ることはできないと分かっている。けれど、『義妹』で在りたいから、『義妹』を主張するのだ、という意思表示――。
「そうか、セレイエか。……言われてみれば、それしかないよな」
女王は、異母兄のヤンイェンと仲が良い。ならば、彼の事実上の妻となったセレイエと親しかったとしても不思議ではない。
なるほど、とリュイセンは思う。
ルイフォンは王宮に行ったとき、驚くほど自然にヤンイェンに名前を呼ばれたという。それと同じことで、女王もまた、セレイエに連なるリュイセンを身近に感じているというわけだ。王族のくせに、ふたりとも妙に人懐っこい。よく似た異母兄妹なのだろう。
「リュイセン」
不意に、女王の声が不思議な音調を帯びた。
「私は、セレイエに会いにきたの」
「!?」
「セレイエは、このお屋敷に匿われているんでしょう? カイウォルお兄様がそう言っていたわ」
刹那、リュイセンの背に緊張が走った。
――そうだ。
女王は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に、会いにきたと言っていたのだ。
〈ベロ〉の小部屋に『ライシェン』が隠されていることを知っているリュイセンは、てっきり、『ライシェン』が目的だと思い込んでいたのだが……。
「セレイエ――だと……?」
秀眉をぴくりと跳ねかせたまま、黄金比の美貌は彫像のように凍りつく。
『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わるものは、すべからく鷹刀一族が抑えている――と、摂政カイウォルが信じていることは知っている。だからこそ、鷹刀一族の屋敷は、家宅捜索の誹りを受けたのだ。
だが、セレイエは既に死んでいる。
愛するヤンイェンの腕の中で、息を引き取った。この前、ルイフォンが直接、当事者の口から聞いてきたのだから間違いない。
「知らないのか……?」
魅惑の低音が、困惑にかすれた。
どうして、女王はヤンイェンから正しい情報を得ずに、カイウォルの言葉を信じて、はるばる鷹刀一族の屋敷まで来たのだ?
彼女は厳しい兄よりも、優しい異母兄のほうと、仲が良いのではなかったのか?
ヤンイェンが、セレイエが死んだという事実を秘匿しているのか? 何故、可愛がっている異母妹に伝えない?
――逆だ。
大切な異母妹だからこそ、そして、セレイエを慕う『義妹』だからこそ、ヤンイェンは、セレイエの死を隠したのだ。
そこまで考えて、リュイセンは、はっと顔色を変えた。
しかし、時すでに遅し。
「やっ……ぱり……」
黒いパーカーで覆われた肩が、びくりと上がった。
「セレイエは……、亡くなって……いた……のね」
サングラスの下から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
透明な雫は、わずかに見える素肌を濡らし、すぐにフェイスカバーの染みとなった。
迂闊だった――!
全身の血の気が引いていき、リュイセンは目眩を覚える。
「あ、いや……」
意味をなさない言葉は、「分かっていたもの!」という女王のひとことに一蹴される。
「ヤンイェンお異母兄様の態度を見ていれば、明らかだわ! 幽閉が解かれて、四年ぶりにお会いしたときから、様子がおかしかったもの。問い詰めようとしても、はぐらかすのよ! お異母兄様は知っていて、私に隠していたの!」
彼女は黒い手袋の両手を握りしめ、小刻みに震わせた。
「セレイエが姿を消したのは、亡くなったからなんでしょう!? ……もう、四年前の時点で、既に!」
「……っ」
天上の音楽が、嵐を奏でる。
思わぬ激しい口調に、リュイセンは声を失う。それまでの無邪気な彼女とは、まるで別人だった。
「なのに、カイウォルお兄様は、セレイエが『ライシェンの肉体』を作った、って言うのよ!? しかも、今度は殺されないように、過去の王の遺伝子はすべて廃棄した、って」
ひくりと喉が動き、また一粒、雫が煌めいた。
「セレイエは、『唯一の〈神の御子〉の男子』を王宮に引き渡す代わりに、ヤンイェンお異母兄様を私の婚約者として解放するようにと、侍女だったホンシュアを通じて迫った、って」
女王は泣きながら、それでも、声を止めない。
まるで、誰かに助けを求めるかのように。
「それだけのことをして、セレイエが、ヤンイェンお異母兄様や私に何も伝えてこないなんて、あり得ないの! だって、セレイエは〈天使〉よ。その気になれば、警備なんて関係ない。お異母兄様にも、私にも、会いに来られるわ。なのに、姿を見せないなら……」
彼女は、そこで呼吸を乱し、しゃくりあげた。
「セレイエは……命を賭けたんでしょう? 〈冥王〉から、『ライシェンの記憶』を手に入れようとして……。――けど、熱暴走を起こして……、そういうことでしょう!?」
「なっ……!?」
これまでの経緯からして、女王は『デヴァイン・シンフォニア計画』を知らない。だのに、この計画の根幹に関わるような話が出てきたことに、リュイセンは驚愕する。
「お前……、『セレイエが、〈冥王〉から記憶を』って、そんなことまで知って……?」
「知っているわよ! だって、私は四年前、ヤンイェンお異母兄様とセレイエのそばに、ずっといたんだもの! ――ふ たりは、亡くなったライシェンの『記憶』と『肉体』を手に入れて、生き返らせようとしていたわ!」
「――!」
王宮にいた彼女は、間近で見ていたのだ。
ライシェンが生まれたことも、ライシェンが人を殺めたことも、ライシェンが祖父の手によって殺されたことも。
……嘆き悲しむ、ヤンイェンとセレイエの姿も。
「どんなに悲しくても、死んだ人は還ってこないのに……。私は、ふたりが壊れていくのを止めたかった。でも、何もできなくて……。お異母兄様は……、お父様を……」
とめどなく流れる涙を拭うため、女王はサングラスを外した。黒いパーカーの袖で、ごしごしと擦ったそのあとに、澄んだ青灰色の瞳が現れる。初めて見る色に、リュイセンの鼓動が、どきりと脈打った。
「リュイセン……」
白金の睫毛に縁取られた、惹き込まれるような濡れた瞳。長身の彼をじっと見上げ、新たな涙のひと雫が、白い肌を伝う。
「私は、このお屋敷に、セレイエの死を確かめに来たの……」
彼女はそう言うと、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。青灰色の瞳から流れた涙が如く、淡い青色のスカートが漣となって広がる。
「おいっ!?」
リュイセンも、追いかけるようにして、しゃがみ込む。
「リュイセン……、セレイエは……、セレイエは……もう……、この世の人じゃ……」
彼女は嗚咽混じりに言葉を紡ぎ、やがて、耐えきれなくなったように、リュイセンに縋りついてきた。
「――っ」
反射的に抱きとめた体は、緩みのあるパーカーからは想像できないくらいに華奢で、柔らかで――。
「セレイエ……、セレイエ……!」
細い肩が震えるたび、彼女の涙が、リュイセンの胸を濡らす。
彼は遠慮がちに、彼女の背に腕を回した。初対面の相手にすべきことではないが、一方的に抱きつかれているのでは、まるで彼女を突き放しているみたいな気がしたのだ。
泣きじゃくる声を聞きながら、セレイエの死に、これほど取り乱した者が他にいただろうかと、リュイセンは自問する。
鷹刀一族の者たちは、メイシアから明確に死を告げられるよりも前に、セレイエが既に鬼籍に入っているのではないかと、薄々感づいていたように思う。だから、覚悟があったし、諦観もあった。血族であるのに、薄情だったかもしれない。
それだけに、無垢な涙を流す彼女が、リュイセンには衝撃だった。
思えば、彼女は四年前、まだ十一歳のときから、独りで胸を痛めてきたのだ。
異母兄が父親を殺して幽閉され、義姉が姿を消し、自分は幼くして一国の王となった。保護者となった兄は、彼女の代わりに政は執っても、ヤンイェンとセレイエの運命を嘆く彼女の心に、寄り添うことはなかっただろう。
――辛かったよな……。
腕に包んだ体ごと、彼女の抱えてきた孤独も包んでやりたいと思う。
そのとき。
遠くから、メイドの転がすワゴンの音が聞こえてきた。
いくら人通りの少ない廊下とはいえ、誰も来ないわけではないのだ。そして、この状況を目撃されるのは、どう考えてもよろしくない。
かといって、今の彼女を執務室に急かせるのも可哀想で――。
……止むを得ん。
リュイセンは、いつの間にか床に放り出されていたサングラスをポケットにねじ込むと、彼女の耳元に低く囁く。
「少しだけ、我慢してくれ」
それだけ言うと、神速の身のこなしで彼女を抱き上げた。小柄な体躯は想像以上に軽く、勢い余ったスカートが大きく一度ふわりと舞い上がり、波打ちながら流れていく。
「きゃっ!?」
高い悲鳴が響き渡った。リュイセンは心の中で「すまん」と詫びつつも、彼女の声と顔とを自分の胸元に押しつけるようにして、外から見えないように隠す。
そして、彼女を横抱きにしたまま、可及的速やかに執務室に向かったのだった。
2.訪い人の袖時雨-2

泣き崩れた女王を抱きかかえながら、リュイセンが廊下を走り抜けているころ。
執務室では、イーレオが一点の曇りを混じえた微笑を浮かべ、エルファンが一条の喜びを隠した渋面を作っていた。
背後に控える護衛のチャオラウは、いつも通りに無精髭を弄びつつ、この父子は、つくづく両極端で面白い、と感心する。物ごとへの基本姿勢が、楽観的なイーレオに対し、悲観的なエルファン、というわけである。
何が起きたのかといえば、女王が鷹刀一族の屋敷を訪れるという、この一大事に、おそらく最も彼女と会いたがるであろうルイフォンと、連絡がつかなかった。
リュイセンが推測したように、女王の来訪を察するや否や、イーレオはルイフォンを呼ぶようにと、エルファンに命じた。本来なら総帥補佐にふる仕事だが、ユイランが不在であるが故の代理である。
しかし、ルイフォンの携帯端末は『電波の通じないところにあるか、電源が落とされている』という、お決まりの文句を繰り返すのみだったのである。
エルファンは顔をしかめつつ、ルイフォンと繋がらないのであれば、メイシアに訊けばよいだろうと、頭を切り替えた。
それに、メイシアだって、女王のことは気になるはずだ。女王は『ライシェン』の未来と深く関わる人物であり、『ライシェン』は、ルイフォンとメイシアの『ふたり』に託されたのだから。
もっとも、表向きは死んだことになっているメイシアは、『貴族であったメイシア』を知っている女王と、顔を合わせるのは避けるべきだろう。だから結局、ルイフォンがひとりで屋敷に来ることになるのかもしれない――。
そんなことを考えながら、エルファンが電話を掛け直そうとしたとき、イーレオが「ユイランにも一報、入れておこう」と、思いついたように言い出した。女王がユイランを頼りにしているふうであったため、場合によっては、ユイランも呼んだほうがよいかもしれない、と。
メイシアとユイランの端末番号のうち、たまたま、ユイランのほうが前に登録されていた。そのため、エルファンは先にユイランの番号を選んだ。結論としては、それで正解だった。何故なら、ユイランだけが、ルイフォンの携帯端末が繋がらない理由を知っていたからである。
『お呼びとあらば、私はすぐにも鷹刀の屋敷に駆けつけます。ですが、ルイフォンは……、今日だけは……無理だと思います』
ユイランにしては、歯切れの悪い口調だった。
スピーカー通話で聞いていたイーレオが、すかさず「どうした?」と問うと、彼女は少し迷った末に、『メイシアさんには、内緒にしてくださいね』と前置きをした。
『実は今日、ルイフォンは、メイシアさんに贈る婚約指輪を注文しに行ったんです。サプライズにしたいからと、彼女には秘密で』
なんでも、ユイランとルイフォンが、仕立て屋とその助手として王宮に行った、あの一件の準備中に、『婚約指輪』が話題になったらしい。
それで、近いうちに、ルイフォンが婚約指輪を買いに行く。その際には、貴族御用達の店で門前払いを喰らわないような服装をユイランが請け負う、という約束が交わされたそうだ。
その決行の日が、偶然にも、今日であったのだ。
小一時間ほど前、ルイフォンは、ユイランもうっとりするような立派な紳士となって、草薙家の裏門から、こっそり出掛けていったという。
ルイフォンが『立派な紳士』というのは、服飾担当者の贔屓目だと思われるが、彼が意気揚々と出発したであろうことは想像に難くない。そして、『絶対に邪魔が入ってほしくないときには、ルイフォンは携帯端末の電源を切る』ことは、知る人ぞ知る、彼の習慣であった。
すなわち――。
どう足掻いても、今日はルイフォンとは連絡がつかない。
では、どうするか。
ルイフォンは無理でも、メイシアには知らせておくべきか。
イーレオとエルファンは、顔を見合わせた。
「……メイシアに状況を話せば、ルイフォンのサプライズは台無しになるな」
秀でた額に苦悩の色を浮かべながら、イーレオが呟く。しかし、その顔は、どの角度から見ても、にやにやと笑っているようにしか見えない。
「まったく……。よりによって、何故、今日なのだ……」
エルファンが眉間に皺を寄せ、仏頂面で腕を組む。ただし、ぼやきを漏らす、その口元だけは、微笑を隠しきれずに綻んでいた。
困った事態であることは、間違いない。
だが、『婚約指輪を極秘で』という事情が、なんとも微笑ましい。ルイフォンも、なかなか粋なことをするようになったではないか――と。
感情の表し方は、それぞれであるが、思いは父子で共通だった。
ふたりは視線を交錯させた。そして、やにわにイーレオが大真面目な顔となり、スピーカーに向かって口を開く。
「ユイラン、女王が来たことは、聞かなかったことにしてくれ」
『えっ!?』
「夕方になったら、草薙家に『昼間、女王が来た』という『事後報告』をする」
『は? はい……』
ユイランの困惑の相槌に、イーレオは重ねた。
「女王は、お忍びで来ているはずだ。この屋敷に長居はできまい。ならば、草薙家にいる人間を呼び寄せるまで、待たせるわけにはいかないだろう?」
『ええ……、確かに』
「だいたい、もし今日ここで、女王とルイフォンたちの対面が叶ったとしても、すぐに『ライシェン』の未来が決まるわけではない」
イーレオはソファーにもたれ、肘掛けに片頬杖を付きながら、もっともらしく厳かに告げる。
「それよりも現時点で重要なことは、女王の人となりを確かめ、必要とあらば、彼女と縁を結ぶことだ。そして、それはこの屋敷にいる者でもできる」
『なるほど。分かりました』
快活な返事のあとには『そういうことにするわけですね』と続くのだが、言葉にするまでもあるまいとユイランは沈黙し、代わりに口の端を緩やかに上げた。
それから少しして、リュイセンが執務室に到着した。
「どうやら、リュイセンは、立派に縁を結んだようだな」
女王を抱きかかえて入ってきたリュイセンを見やり、イーレオは感嘆を漏らす。その隣では、エルファンが氷の美貌を凍りつかせていた。
どこまでも対象的な、父と子であった。
「そ、総帥……、こ、これは……、ですね」
執務室に入った途端、リュイセンは刺すような視線を感じ、はっと青ざめた。自分の行動が誤解を受けるに充分なものであることに気づいたのだ。
だが、リュイセンは律儀な男だった。
女王を勢いよく床に下ろすのではなく、なんと、逆に彼女をいたわるように胸元に引き寄せた。そして、自分のしていることは決して恥ずべきことではなく、きちんと理由のある正しい行いであるとして、彼女の名誉を守ろうとしたのである。
彼は、執務室の面々と正面から向き合い、経緯を説明する。
「彼女がショックで動けなくなってしまったため、俺が連れてきまし……。あ、ああ、セレイエの訃報を聞いたのが原因です……っと、セレイエと面識があったそうです。それも、だいぶ親しかったようで……、つまり、彼女はヤンイェンの異母妹ですから……」
懸命に言葉を紡ぐほどに、支離滅裂になった。
決然とした態度は示せても、理路整然とした発言とは縁遠いのが、リュイセンという男だった。彼は、先ほど青くなった顔を、今度は朱に染めていく。
すると、女王がシャツを引いてきた。気まずげに視線を下げると、サングラスのない青灰色の瞳が「ありがとう」と微笑む。
「リュイセン、私からご挨拶したいわ」
彼女はそう言って、彼の腕から、ふわりと降り立った。
軽やかに前に躍り出て、パーカーのフードを取り払う。白金の髪が輝き、幾重にも青絹を連ねた髪飾りが漣のように流れる。
続けてフェイスカバーを外し、彼女はリュイセンを振り返った。初めてまともに見る顔は、可憐なる綺羅の美貌。
思わず息を呑んだ彼を、彼女は目にしたのか否か……。再び体を返すと、スカートの端を摘み、イーレオたちに向かって丁寧に頭を垂れた。
「はじめまして。私の名前は、アイリー。セレイエの義妹です」
「……」
『女王』ではなく、『義妹』。
その自己紹介は、予想外のものだったのだろう。イーレオ、エルファン、チャオラウの三人の大の男が、揃って沈黙する。
しかし、間の抜けた空気は、すぐに深刻なものへと変わった。
「私の義姉セレイエが、このお屋敷に匿われていると、摂政カイウォルが言うので、会いにきま……」
言葉の途中で、彼女は声を詰まらせた。華奢な肩が、ひくりと震え、青絹の髪飾りが、さわさわと波打つ。……けれども、無理やりに深呼吸をすると、嗚咽混じりに吐き出した。
「本当は分かっていたの……! セレイエは、もう亡くなっている、って。でも、もしかしたら、って……確かめに……。お騒がせして、本当にごめんなさい……!」
「おいっ」
ふらりと倒れそうになった女王を、背後にいたリュイセンが受け止めた。
「リュイセン……、ありがとう」
「大丈夫か? 真っ青だぞ」
リュイセンは眉を寄せて問うたが、女王は答えずに、ぽつりと呟く。
「鷹刀一族の人たちって、本当に同じ顔をしているのね」
「……は?」
「セレイエが言っていたの。――『鷹刀の人間は、面白いくらいに皆そっくりなのよ』って」
イーレオとエルファンに視線を送り、リュイセンを見上げ……、女王は「ふふっ」と笑う。
「お父様も……お話してくださったの」
「!?」
唐突な『お父様』という単語に、リュイセンは困惑する。彼女の『お父様』とは、すなわち、異母兄に殺された先王だ。そんな人物が何を? と疑問に思う。
「『教育係のイーレオは、『私を育ててくれた人』――つまり、『親』だ。だから、君にとっては『お祖父様』だよ』って」
「『育ててくれた人』……?」
聞き覚えのある言い回しだった。眉根を寄せ、記憶を手繰る。だが、リュイセンが答えにたどり着く前に、イーレオが静かに口を開いた。
「昔……、俺が先王に『パイシュエは『俺を育ててくれた女』だ』と説明したら、どうも、その言い方が気に入ったみたいでな。あいつは真似をして、俺のことをそう呼ぶようになった」
イーレオの双眸が静かな色を帯び、わずかに天を仰ぐ。その顔に呼びかけるように、女王が告げる。
「お父様は、『覚えておいてほしい。袂は分かったけれど、鷹刀一族は、私たちの家族だよ』って、言っていました」
「……そうか」
イーレオが、そっと目を伏せた。女王は大きく頷き、細い声で続ける。
「だから、私はずっと、鷹刀の人たちに会ってみたかったんです。……でもっ! こんな形で会うなんて……。……できるなら、ヤンイェンお異母兄様とセレイエの結婚式で会いたかった……!」
それは、もう叶わない願いだ。
彼女の白い頬を涙が伝い、音もなくこぼれ落ちる。
「先王の娘なら、確かに俺の孫だな。よく会いに来てくれた。ありがとう、アイリー」
深い海のような、優しい低音。
イーレオの言葉に、女王は支えてくれていたリュイセンに、しがみついて泣き出した。その華奢な体を、リュイセンは黙って抱きしめる。
からかいの眼差しを向ける者は、もはや誰もなかった。
儚げな嗚咽の響く中、イーレオは、ひとり掛けのソファーで優雅に足を組み替えた。そして、尋ねる。
「リュイセン」
「!?」
「アイリーは『デヴァイン・シンフォニア計画』について、異母兄のヤンイェンから何も聞いていないのだな?」
不意を衝くように問われ、リュイセンは戸惑った。イーレオが何かを尋ねるのであれば、相手は女王であり、まさか自分に水を向けられるとは思っていなかったのだ。
だが、ひと呼吸置いて、気づく。
リュイセンの指名は、女王を心ゆくまで泣かせてやるのと同時に、現状に対し、次期総帥たる彼の見解を問うためだ。
執務室に到着したときには、満足な説明のできなかったリュイセンである。汚名返上とばかりに毅然と構えた。
「祖父上のおっしゃる通り、彼女はヤンイェンからは何も聞いていません。一方、もうひとりの兄である摂政からは、セレイエが『ライシェンの肉体』を作ったこと、過去の王の遺伝子を廃棄したこと、などを聞いているようです。彼女の持っている情報は、ふたりの兄のそれぞれの思惑によって、だいぶ混乱したものになっていると思われます」
「ふむ……」
語尾の伸びた相槌に、リュイセンの直感が、イーレオの迷いを捉えた。女王に『デヴァイン・シンフォニア計画』について教えるか否かで、揺れているのだ。
個人の心情的には『孫娘』だとしても、彼女は、鷹刀一族と敵対している摂政の実妹である。立場の上では、味方とは言い切れない。
悩ましいところだ、というイーレオの内心を感じ取り、リュイセンは思わず「総帥」と呼びかけた。
「彼女は『デヴァイン・シンフォニア計画』は知りませんが、四年前にヤンイェンとセレイエが、息子を生き返らせようとしていたことは知っています。それ故、セレイエが『ライシェンの記憶』を手に入れるために死んだことも察していました」
これだけ深く事情を知っているのだから、渦中の人物のひとりである彼女が、いつまでも蚊帳の外であるのはおかしい、との思いを込める。
「なるほど。それが、お前の見解か」
イーレオの目元が、興に乗ったような色合いを帯び、それから「よし、分かった」と重々しく頷いた。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』に関しては、ルイフォンの口から語るのが筋だ。だが、草薙家にいる奴をこの屋敷まで呼び寄せていたら、アイリーのお忍びが王宮側にばれる可能性が高まる。――故に、『〈猫〉の対等な協力者』である鷹刀の次期総帥として、お前が責任を持って、彼女に説明してやれ」
「そ、祖父うぇ……っと、総帥!?」
予想外の展開だった。
何故、自分が――という問いかけを、リュイセンは、かろうじて呑み込む。『次期総帥』の肩書きで呼ばれた上での命に対し、反論のようなことを口にするのは、あまりにも不甲斐なく、情けない。……たとえ、彼の説明能力が、壊滅的に稚拙なものであったとしても。
口をつぐんだ彼に、イーレオは、すっと目を細めた。
「鷹刀の将来を見据えれば、アイリーとは是非とも良い関係を築いておきたい。ならば、彼女の接待は、次代を担う、お前に任せるのが妥当だろう?」
魅惑の低音が耳朶を打つ。片頬杖の姿勢から発せられているとは、とても信じられぬほどの厳かな声であった。
「は……はい」
冷や汗を浮かべながら、リュイセンが承服の返事をすると、イーレオは傍らのエルファンと、背後のチャオラウに目配せをした。なんの合図かと、リュイセンが疑問に思う間もなく、イーレオが傲然と告げる。
「それでは、俺たちは席を外す」
「……は?」
リュイセンの目が点になった。
「俺たちの監視の中では、お前も話しにくかろう」
「祖父上……?」
呆然と呟くリュイセンをよそに、イーレオは颯爽と立ち上がる。
「この執務室は、完全防音だからな。安心して話せ。――ああ。メイドに茶菓子を運ばせるから、それまでは、アイリーの顔を隠しておくように」
「これはいったい、どういう……!」
「いくら、無骨な凶賊でも、客に茶を出すくらいの配慮はあるさ」
背中で緩くまとめた黒髪を翻し、イーレオは扉へと向かう。その後ろを、氷の無表情のエルファンと、低い笑いで無精髭を揺らすチャオラウが続いた。
「お待ち下さい!」
リュイセンが懸命に叫ぶも、その声は完全に無視された。
そして、イーレオは振り返りもせずに、ひらひらと手を振りながら、執務室をあとにしたのだった。
3.蓮蕾の女王-1

イーレオたちが去り、ほどなくして、氷の浮かんだレモンティーと料理長自慢のマカロンが、執務室に届けられた。
リュイセンは、運んできたメイドの気配が完全に消えたのを確認すると、「もう、顔を隠さなくて大丈夫だぞ」と、女王に告げる。
いくら空調の効いた室内とはいえ、黒づくめの姿は、やはり暑苦しかったのだろう。彼女は、サングラスを外し、フェイスカバーを取り、目深に被っていたフードごとパーカーを脱ぎ捨てた。
それから、可愛らしく「ふぅ」と息をつく。
その目元は腫れていたが、涙は止まっていた。リュイセンは安堵し、同時に、神々しいまでの綺羅の美貌に、どきりとする。
陽光を模したような白金の髪と、蒼天を映したような青灰色の瞳。
彼女の素顔なら、先ほどイーレオたちに挨拶をしたときに、既に見ている。それでも、こうして落ち着いて向かい合えば、改めて目を奪われた。
禁忌に触れそうなほどの、儚げな危うさ。
そして。
神秘を極めた、人とは思えぬ異質の美しさ……。
なるほど、〈神の御子〉とは、よく言ったものだと思う。この麗姿で『天空神の代理人』を唱えられれば、凡庸な民草は『異色の神性』を信じるしかない、というわけだ。
リュイセンは、魔性の美を誇る、鷹刀一族の直系である。整った顔立ちなら、見慣れているはずだった。しかし、それは、あくまでも人の次元でのことだったらしい。
彼女の美は、神の領域だ。
魔性の彼は、神性な彼女に惹き寄せられ、魅入られる。
……けど。こいつは、誰よりも『人』だ。
知れず、止めていた息を吐き出し、リュイセンは切れ長の目を切なげに細めた。
彼女は、鷹刀の血族以上に義姉の死を悼み、漣の涙を流した。高貴な身分のくせに、門衛たちに素直に感謝し、先王が世話になった相手に、無邪気な親愛を寄せるような奴なのだ。
だいたい、白く透き通った先天性白皮症の肌は、傍目には至高の美しさと映っても、その実、太陽の下では暑苦しい布地で覆わねばならないものだ。神秘の青い瞳だって、視力はあるようだが弱視かもしれないし、色素が少ないために、人一倍、眩しさを感じやすいものだと聞いている。
まるで、強い陽の光を厭い、昼には花びらを閉じてしまう裏庭の白蓮だ。さぞ、不自由を強いられていることだろう……。
「どうしたの?」
高い声に、はっと我に返れば、困惑顔の女王に顔を覗き込まれていた。リュイセンは、無言で彼女を凝視していた自分に気づき、慌てて謝罪する。
「す、すまん! 不躾に失礼だった。……断じて、好奇心などではなく――」
「え?」
女王は瞳を瞬かせた。彼女としては、リュイセンが急に押し黙ってしまったから声を掛けただけなので、どうしてそんなに慌てるのか、謎だった。
だが、その心情を理解できないリュイセンは、思わず口走ってしまった『好奇心』という言葉が、彼女を傷つけてしまったのだと勘違いして、更に焦る。
「あ……、その……、〈神の御子〉の容姿が、先天性白皮症に依るものだということは知っている。俺は、思わず見惚れてしまったが、お前にとっては大変な体質で、俺の視線は不快だったはずだ。悪い……!」
さすがに、立ち上がって床に手を付くことまではしなかったが、リュイセンは着席のまま、可能な限り深く、頭を下げる。一方、包み隠さず『見惚れていた』と言われた上に、気遣いまでされてしまった女王は、頬を紅潮させた。
生まれつき、〈神の御子〉という容姿を持った彼女にとって、人の目を惹き寄せることは日常茶飯事。だが、敬意や崇拝はあっても、あくまでも異質な存在としての扱いだ。彼のような歩み寄った言動は初めてで、どう返してよいのか分からない。とっさに口を衝いた言葉の支離滅裂さは、まとまらない彼女の心そのものだった。
「なんで、リュイセンが謝るのよ!? この外見は、注目されて当然でしょう? それに、先天性白皮症と知っている、って……? 助かるけど……」
心の底から狼狽える女王。対して、リュイセンは、巌の如く動じない。
「無礼な行為を働いたら、詫びるのが道理だ」
「リュイセン……」
彼の名を呟き、彼女は、しばし絶句する。
やがて、大きく見開かれていた青灰色の瞳が瞬きを思い出し、天界の琴を弾いたような笑みが、くすりと漏れた。
「本当に……、セレイエの言っていた通りなのね」
「?」
リュイセンは、反射的に顔を上げる。相対した彼女は、何故か、とても嬉しそうな顔をしていた。
「リュイセンは兄弟の中で一番、律儀で、生真面目で、融通が利かなくて、不器用で、要領が悪くて、損ばかりしていて、劣等感まみれで……」
「なっ!?」
「――でも、一番、優しいんだって」
白い指先を唇にあて、秘密を打ち明ける子供のように、彼女が微笑む。
「…………っ」
リュイセンが声を詰まらせたのは、予想外の単語が出てきたからか。それとも、それを告げた彼女の表情に呑まれたからか。
「……なんだよ、それ」
ひと呼吸遅れての反応は、どことなく間が抜けていた。けれど、女王は軽やかに髪を揺らしながら、リュイセンのほうへと身を乗り出す。
「あのね、セレイエから兄弟の話を聞いたとき、『リュイセン』は、私に似ていると思ったの」
「似ている? どこがだ?」
眉を上げたリュイセンに、女王は「あっ」と口元を押さえて言いよどむ。それから、可愛らしく首をすくめながら、「怒らないでね?」と続けた。
「リュイセンは、頭の切れる兄と弟分を差し置いて、鷹刀一族の後継者。私は〈神の御子〉というだけで、たくさんの兄弟たちを押しのけて、女王様……」
わずかに俯き、女王は白金の睫毛を伏せた。綺羅の美貌が陰り、神ではなく、人である彼女の苦悩が落とされる。
「……なるほど」
否定できない。怒るどころか、まさにその通りだと思う。そして、妙に親しげな彼女の言動も、腑に落ちた。
「だからね、私は勝手にリュイセンに親近感を抱いていたの。いつか会ってみたいって、ずっと思っていたのよ。――でも、本物のリュイセンは、私とは違ったわ。義姉の異母弟だから、私と同じくらいの歳かと思っていたら、ずっと年上で。しかも、しっかりしていて、頼もしかった」
「はぁ? 俺が『頼もしい』?」
「うん。……それは、リュイセンが『優しい』からなんだ――って。今、分かったの」
ふわりと花がほころぶように、彼女は純粋無垢な笑顔を浮かべる。
リュイセンは思わず魅入られそうになり、けれど、すぐに彼女が「想像していたよりもリュイセンが立派だったのは、ちょっと悔しいわ」と、拗ねたように頬を膨らませたので、途中でなんともいえない苦笑に変わった。
ころころと、よく表情が変わる。感情の豊かな、ごく普通の少女だ。華奢な双肩に、重すぎる荷を背負わされてしまったというだけの……。
「私ね、リュイセンに会えて、本当に嬉しいの! ――こんな形での出会いだったのは残念だけど……、……っ」
自分の言葉に、セレイエの死を思い出してしまったのだろう。青灰色の瞳から、はらりと涙がこぼれ落ち、彼女は慌てて目元を押さえた。
「ご、ごめんなさいっ……」
一度、堰を切ってしまった涙は、簡単には止まらないらしい。彼女本人の焦りとは裏腹に、透明な雫は、あとからあとから、はらはらと流れ落ちる。
「――っ、女王。とりあえず、飲み物と菓子を……。うちの料理長自慢の品だから、美味いはずだ……」
女の涙は心臓に悪い。リュイセンは、どうにか彼女の気持ちを落ち着かせようと、しどろもどろに提案する。
「リュイセン、ありがとう。――でも、私の名前は『女王』じゃなくて、『アイリー』なの」
言葉は拙くとも、思いは伝わる。
彼女は泣きながら、精いっぱいに笑ってくれた。
甘い菓子には、魔法が掛かっているらしい。さくさくの生地が、口の中で、すぅっと溶けると、ふたりの間を漂っていた、ぎこちない空気も、ほわりと解けていった。
彼女は小動物的な仕草で、三つ目のマカロンを口に運ぶ。それを舌の上で蕩かせながら、涙の乾いた瞳で「リュイセン」と切り出してきた。
「さっきイーレオさんが言っていた、『デヴァイン・シンフォニア計画』というのが、ライシェンを生き返らせる計画の名称なのね。……セレイエは、本当に『死者の蘇生』を実行に移して……、……そして、亡くなってしまったのね……」
「……ああ」
どうやって話を始めようかと悩んでいたリュイセンは、口火を切ってくれた彼女に感謝しつつ頷く。
「四年前……、〈冥王〉から『ライシェンの記憶』を集めたら、セレイエは熱暴走で命を落とすだろう――って。ヤンイェンお異母兄様もセレイエも、ちゃんと理解していたわ」
詰るように、強がるように、彼女は唇を尖らせた。
「計算の上では、間違いなく助からない。何かよい手段はないかと、セレイエは同じく〈天使〉のお母様に相談に行ったけれど、『禁忌に触れる行為だ』と猛反対されて、喧嘩別れして帰ってきたの」
興奮気味の口調で、彼女は四年前を口にする。
『デヴァイン・シンフォニア計画』について教えてほしいと、すぐにも質問攻めにされる覚悟をしていたリュイセンとしては、拍子抜けだった。
だが、次第に理解する。
彼女は、ずっと孤独だったのだ。
彼女の周りには、彼女の辛さや悲しさを、親身になって受け止めてくれる相手などいなかった。彼女は、ひとりで抱えていくしかなかった。
誰にも頼ることができなかった彼女は、だから、やっと出会えた『身内』に、今までの経緯を、そのときの思いを、やっと吐き出すことができたのだ……。
「ライシェンが生き返っても、代わりにセレイエが亡くなってしまったら、なんにもならない。だから、ヤンイェンお異母兄様とセレイエは、私の知る限りでは、『死者の蘇生』について必死に調べはしても、実行には移していなかったの。――でも……っ」
不意に、語尾が震えた。
彼女は、やるせない眼差しで、奥歯を噛みしめる。
「セレイエのお母様が、セレイエを強く叱りつけたのと同じように……。先王がヤンイェンお異母兄様に、ライシェンの蘇生を諦めるよう、厳しく言い渡したとき……。お異母兄様は憎しみを抑えきることができずに、先王を殺めてしまった……」
彼女は目線を落とし、視界に映ったレモンティーを手に取った。結露による水滴も気にせず、むしろ、昂ぶる感情を冷やそうとでもするかのようにグラスを握りしめる。
「先王と、お異母兄様。どちらにも、譲れない思いがあったのよ。どちらが悪いなんて、言えないの……」
ぽつりとした呟きが、グラスの中に漣を落とす。
「一緒にいたら、セレイエもきっと罪に問われる。王族のお異母兄様はともかく、平民のセレイエは処刑されてしまう。だから、お異母兄様はセレイエを逃したの。……けど、セレイエにしてみれば、たったひとりで自由の身になったって、なんの意味もなかったのよ。だって、愛するお異母兄様も、ライシェンもいないんだもの」
彼女は語気を強め、「だから――!」と、続けた。セレイエの義妹である自分には、義姉の気持ちなんて、お見通しなのだ、と。
「だから、セレイエは『死者の蘇生』を――『デヴァイン・シンフォニア計画』を実行に移した。……そういうことでしょう?」
「ああ……、そうだ」
リュイセンは、静かに肯定した。直接、セレイエから聞いたわけではないが、セレイエの記憶を受け取ったメイシアが、ほぼ同様のことを言っていたから――。
「リュイセン」
彼の名を呼びながら、彼女が、ゆっくりと顔を上げた。綺羅の美貌は変わらぬままであるのに、今までと、どこか面差しが変わっていた。
「もし鷹刀がセレイエの遺志を継ぐつもりなら、私は鷹刀の敵になるわ」
澄んだ青灰色の瞳が、まっすぐに向けられる。
まるで、高い空に惹き込まれていくような錯覚に、リュイセンは陥る。
「四年前、私はライシェンを生き返らせることには反対だったの。でも、嘆き悲しむ、お異母兄様とセレイエを前に、私は何も言えなかった。――もう、後悔したくないの」
「お前……」
お飾りの女王だと聞いていた。幼さの残る、か弱い少女なのだと。
本当に、そうなのだろうか。
リュイセンが疑問を覚えたとき、彼女は、ぎゅっと唇を噛んだ。
華奢な肩が震え、白金の髪が波打つ。どうしたのかと彼が顔色を変えれば、彼女の雰囲気は一変して、口から、ひくりと、弱々しい嗚咽が漏れた。
「だって……! 亡くなったライシェンの代わりなんか存在しないもの……!」
叩きつけるように、彼女は訴える。
「ライシェンはね、凄く可愛い子だったのよ。そばにいるだけで、幸せな気持ちになれたわ。私は、あの子が大好きだったの」
儚げな顔立ちが、今にも泣き出しそうなほどに悲痛に歪んだ。けれど、ぐっと口元を結び、彼女は懸命に堪える。いつまでも弱いままではいけないと、自分に言い聞かせるかのように。
「ライシェンは私と同じ〈神の御子〉で、しかも男の子だから、きっと辛いことが、たくさん起こる。でも、私が守ってあげる、って――約束……したのに……!」
「…………」
哀哭の叫びに、リュイセンは、やるせない思いで拳を握りしめる。
強さと弱さとが、ないまぜになった、素顔の彼女。
精いっぱいの背伸びをしても、やはり、まだまだ半人前だ。
だが、夢見る少女ではない。現実を見据え、進むべき道を見誤らないようにと必死に足掻く。――リュイセンと同じように……。
「女王」
リュイセンは、そう呼びかけて、直後に首を振った。
彼女にふさわしい名前は『女王』ではない。口にするのは、どことなく気恥ずかしいが、それでも、きちんと彼女の名前を声に乗せる。
「アイリー」
「リュイセン?」
「お前、辛かったな。今までひとりで、よく耐えてきたな」
「!」
青灰色の瞳が、ぱっと見開かれた。その弾みで、ひと粒の涙が、はらりとこぼれ落ちた。
「安心しろ。鷹刀は――正確には『デヴァイン・シンフォニア計画』を託されたルイフォンとメイシアは、セレイエの願いをそのまま叶えるつもりはない」
「え!?」
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、セレイエの我儘。――これが、俺たちの見解だ」
「そ……、そうなの……?」
アイリーは狼狽する。
どうやら、『デヴァイン・シンフォニア計画』の要であるらしい鷹刀一族は、セレイエの遺志を継ぐものと信じていたらしい。
ただ――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、誰も予期しなかった方向へと迷走している。
さて、この複雑な現状をどう説明したものか。
リュイセンは渋面を作り、「ええとな……」と、歯切れの悪い調子で続けた。
「『ライシェンの肉体』は、既に出来上がっていて、いつ生まれてもいいように凍結保存されている」
「既に……」
白い喉が、小さく、こくりと動いた。
「その状態で未来を託されたルイフォンとメイシアは、彼を幸せにしてやりたいと――そのために、いろいろ面倒なことになっている」
眉間に皺を寄せたリュイセンに、「あ、待って!」と、アイリーが鋭く叫んだ。
「『ライシェンの肉体』が、どこにあるかは言わないで! カイウォルお兄様が、私から情報を得ようと、躍起になっているの」
「え?」
唐突に出てきた摂政カイウォルの名に、リュイセンは戸惑う。
「カイウォルお兄様が、『ライシェンの肉体』の行方を探していることは、鷹刀も把握しているでしょう?」
「あ、ああ……」
「それで、カイウォルお兄様は、セレイエと仲の良かった私なら、何か知っているのではないかと、誘導尋問みたいなことをしてくるのよ。侍女だったホンシュアが脅迫してきたとか、私が消息を気にしているのを承知で、あえて語り聞かせてくるの」
アイリーは唇を尖らせ、頬を膨らませた。
「お兄様は、ご自分の知っている情報を呼び水に、私が思わず、ぽろりと漏らすのを期待しているのよ。今までは、本当に何も知らなかったからよかったけど、もし、『ライシェンの肉体』の居場所を聞いちゃったら、私には隠し通せる自信がないわ」
「なるほど」
妹を相手に誘導尋問とは、また穏やかではないが、あの摂政であれば、容易に想像できる。特にアイリーは、リュイセンと同じく単純――もとい、素直な性格なので、与し易しと思われても仕方ないだろう。
「ヤンイェンが、仲の良い異母妹のお前に『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを教えなかったのは、摂政に情報が伝わることを恐れた、というわけか」
「それは違うと思うわ」
得心したリュイセンを、しかし、アイリーは冷たい声で、ぴしゃりと否定した。
「四年前。私は強い態度で、ヤンイェンお異母兄様とセレイエを止めることはできなかったわ。でも、ライシェンを生き返らせることに反対なのは、ふたりとも分かっていたと思うの。――だから、隠すのよ。私に、邪魔をされたくないから」
そして、ひと呼吸おいて、アイリーは言葉を重ねる。
「それでいいのよ。人にはそれぞれ、譲れないものがあるんだから」
天界の音色が、強い意志を放った。
人懐っこい、無垢な少女は、かつての後悔を忘れない。故に、無邪気なままではいられない。
レモンティーのグラスの中で、小さくなった氷が踊り、硝子を奏でる。からん、と涼しげな音は、溶けた氷は戻らぬのだと、告げているかのようであった。
3.蓮蕾の女王-2

「アイリーの婚約を開始条件に、『デヴァイン・シンフォニア計画』は動きだしたんだ……」
不器用ながらも、リュイセンは、ぽつりぽつりと語っていった。
あらゆることを事細かに話していたらキリがないことは、口下手なリュイセンでも理解できた。だから、アイリーにとって関係の深いことを――『ライシェン』へと繋がる内容のみを選んだ。
リュイセンにとっては因縁深い〈蝿〉の話も、本筋ではないので大きく端折り、『ライシェン』の肉体を作るために、セレイエの〈影〉だったホンシュアが死んだ天才医師を生き返らせた、と伝えるに留めた。誤解から敵対していたが、最後には和解して、ルイフォンとメイシアに『ライシェン』が託された、と。
また、つい最近、ルイフォンが王宮に行って、ヤンイェンに直接、会ったことも伏せた。
ヤンイェンとの対面が、話すべき内容であることは、重々、承知している。しかし、あのとき、弟分は女装して、『仕立て屋の助手の少女』として、アイリーと顔を合わせているのだ。
その事実を勝手に明かすのは、あまりにも忍びなく……。今後の連絡のためにと、携帯端末の番号を交換したので、あとでルイフォンに断りを入れてから、改めて伝えることにしたのだ。それが道理だろう、と。
リュイセンの話術は相変わらず拙いものであったが、次期総帥となってから人に説明する機会が増えたためか、少しだけマシになっていたらしい。話を終えたときには、レモンティーのグラスから、すっかり氷が消えていたものの、時計の針は思ったよりも進んでいない。彼は安堵して、ぬるくなったレモンティーを飲み干した。
「長い話をありがとう」
向かいのソファーから、アイリーが静かに労ってくれた。しかし、謝意を示す微笑には、失敗している。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、何人もの人間を傷つけ、ときに命をも奪った。そんな話を聞かされて、穏やかな気持ちでいられるわけがない。ましてや、彼女はセレイエの〈影〉となる前の『侍女のホンシュア』を知っている。セレイエに続いて、また親しい人の死を告げられたのだから。
「リュイセン……」
青灰色の瞳が揺らめく。
再び泣き出されたとしても、慌てずに受け止めようと、リュイセンは身構える。しかし、アイリーは、ぐっと頤を上げ、長身の彼をまっすぐに見つめた。
「私に、何ができるかな……」
ぽつりと落とされた声は、細く掠れていた。けれど、口にしたのは、どこまでも現実と向き合おうとする言葉だった。
無力の無念を知る彼女は、こんなにも儚げでありながらも、心は強くあろうとする。
蒼天を映したような瞳に、リュイセンは惹き込まれる。
「ねぇ、リュイセン」
白金の髪をなびかせ、思い詰めたような表情のアイリーが、ふわりと身を乗り出した。
彼我の間には、空のグラスと茶菓子の載ったテーブルがある。しかし、リュイセンは懐に入られたような感覚に陥り、どきりとする。
「セレイエは『ライシェン』に、ふたつの道を用意したのよね?」
「あ、ああ……」
アイリーの問いかけは、ただの確認のはずだ。けれど、不可思議な強さを帯びており、リュイセンは気圧されたように頷く。
そんな自分に狼狽え、それから神速で『デヴァイン・シンフォニア計画』へと頭を切り替え、彼はセレイエの遺した、ふたつの道を反芻する。
実父ヤンイェンのもとで、王となるか。
あるいは、優しい養父母のもとで、平凡な子供として生きるか。
「でも、私は三つ目の道があると思うの」
アイリーは唇を尖らせ、強気な口調で告げた。
名案であると、自信ありげに見せかけているが、明らかに虚勢だった。
その証拠に、瞳の奥が怯えたように揺れている。それでも言わずにはいられない。そんな必死の思いが伝わってきた。
「ヤンイェンお異母兄様は、本当に心からライシェンを愛していたの。だから、あの子の遺伝子を引き継いだ『ライシェン』を、お異母兄様から引き離すなんて考えられないわ。でも、カイウォルお兄様が中心となっている今の王宮で、『ライシェン』が王となることが幸せとは思えない」
そこでアイリーは、ごくりと唾を呑み、「だから!」と、声高に言を継ぐ。
「ヤンイェンお異母兄様に、『ライシェン』を連れて王宮を出てもらうの。『ライシェン』は王族ではなく、平凡な子供として生きるのよ。ただし、養父母のもとで、ではなくて、お異母兄様の子供として」
「なっ!?」
「四年前。お異母兄様とセレイエは、ライシェンを生き返らせたら、三人で、どこか静かな外国で暮らしたいと言っていたわ。国内では〈神の御子〉の容姿は目立つし、王位継承問題に巻き込まれてしまうから、って。……セレイエは亡くなってしまったし、『ライシェン』は、ライシェンじゃないけれど、その思いを受け継ぐの」
「そんなことが……」
リュイセンは反射的に言いかけ、その先で自分は、なんと続けようとしていたのかに迷う。
『そんなことが可能なのか』だろうか。
それとも、『そんなことが許されるのか』なのだろうか。
声をつまらせた彼に、アイリーが畳み掛ける。
「今の私は、四年前とは違うわ。国で一番偉い、『女王様』なんだから、どうにかして、お異母兄様と『ライシェン』が国外で暮らせるよう、手配できるはずよ」
「アイリー……」
名を呟いたまま、リュイセンは、またもや押し黙る。
彼女の示した、第三の道の是非は、リュイセンには分からない。
多分に同情の余地があるとはいえ、ヤンイェンは先王殺しの犯罪者だ。罪人が償いもせずに自由の身となるのは、無責任のように感じる。その一方で、『ライシェン』にとっては最善の道なのかもしれないと思う。
ただ、懸命な言葉の裏に、アイリーの祈りが見えた。
大好きな異母兄と義姉に、幸せになってほしかった。それがもう叶わぬ願いであるのなら、せめて、できるだけ近い形の未来を贈りたいのだと。
リュイセンとしては、彼女の気持ちを傷つけたくはない。しかし……。
そのとき、不意に、摂政カイウォルの存在が頭をよぎり、はっと彼は気づく。
「おい。実のところ、現在の国の最高権力者は、お前じゃなくて摂政だろう? あの摂政が睨みをきかせている以上、ヤンイェンも、『ライシェン』も、国外に出るのは無理じゃないか?」
だから、第三の道は現実的ではないのだ。
是非を論じるより先に――彼女に否定的なことを言うよりも前に、『無理』なのだと分かり、リュイセンは無意識に安堵する。
「そうね。カイウォルお兄様は、なんて言うかしらね」
アイリーの声が沈み、テーブルの上へと視線が落とされた。
かすかな罪悪感が、リュイセンの胸をちくりと刺すが、それは仕方ない。――と、思った瞬間、彼女は、ぱっと顔を上げ、「でもね」と鋭く続けた。
「もし、『ライシェン』が、私の次の王になるのなら、私は『ライシェン』の後見人には、父親のヤンイェンお異母兄様ではなくて、カイウォルお兄様を推すわ。――現女王として、それは譲れない」
「!?」
リュイセンは短く息を呑む。
「けど、それじゃあ、ヤンイェンお異母兄様から『ライシェン』を奪うようなものでしょう? だから、『ライシェン』には王にならずに、平凡な子供として生きてほしいのよ」
「…………!?」
「そんな顔、しないでよ」
切れ長の目を見開いたまま、固まっているリュイセンに、アイリーは拗ねたように唇を尖らせた。それから、「そんなに意外だった?」と、可愛らしく、小首をかしげながら尋ねる。
「ああ。ヤンイェンは『ライシェン』の実父だし、お前は摂政を煙たがっているみたいだったからな」
リュイセンが率直に述べると、アイリーは「そうよね」と相槌を打つ。
「カイウォルお兄様とヤンイェンお異母兄様、どちらが好きかと訊かれたら、私は迷わずヤンイェンお異母兄様と答えるわ。カイウォルお兄様は口うるさいし、気難しいし、差別的なところがあるし、本当は周りを見下しているくせに、あの綺麗な外面で欺いているのよ。――嫌いだわ」
日ごろの小言の鬱憤が溜まっているのか、アイリーは、ぷうっと頬を膨らませた。けれど、やや演技めいたその仕草からは、口で言うほどには嫌っていないのが感じられる。
案の定、彼女の語調は、そこで一転し、「でもね」と、穏やかなものへと変わった。
「私が女王でも、この国がなんとかなっているのは、カイウォルお兄様が摂政を務めてくださっているおかげなの。お兄様が退けば、あっという間に、この国は立ち行かなくなるわ」
あたかも、天空神が地上を見守るが如く。蒼天を映したような青灰色の瞳が、静かに王国を見つめる。
限りなく頼りなくとも、彼女は間違いなく『この国の王』なのだ。
「お兄様は、他の誰よりも、国を治めることに優れている。……そうなるようにと、努力を続けて生きてきた人だから」
「……?」
不思議な色合いを帯びた語尾に、リュイセンは秀眉を寄せた。それを受け、アイリーは切なげに目を細める。
「〈神の御子〉ではないカイウォルお兄様は、決して王にはなれない。それを承知しながら、いずれ生まれてくる弟妹の助けとなるために、お兄様は子供のころから勉学に励んできたの。それが、王族の努めであり、正妃の長男の役目だと割り切ってね」
頭を振り、彼女は寂しげに微笑んだ。
「カイウォルお兄様は好きじゃない。……でも、尊敬しているし、やっぱり大切な兄なの」
小さな溜め息をつくと、この国で唯一の白金の髪が、ふわりと肩から流れ落ちた。その儚げな姿を見つめながら、リュイセンは呟く。
「だから、『ライシェン』はヤンイェンと暮らしてほしい。けれど、王の道は選ばないでほしい――という第三の道を、お前は推すわけか。……って、いや、待てよ!」
彼は得心しかけ、途中で顔色を変えた。
「『ライシェン』がいなくなったら、次の王はどうするんだ? 過去の王の遺伝子は、すべて廃棄されたんだぞ?」
もはや過去の王のクローンは作れない。
そして、〈神の御子〉が自然に生まれてくる確率は、極めて低いのだ。
アイリーが〈神の御子〉を産むことを強要される光景を想像し、リュイセンは戦慄する。彼女が道具のように扱われる未来など、あってはならない。
「大丈夫よ。〈神の御子〉なら、いくらでも作れるわ」
彼の昂ぶりとは裏腹に、落ち着いた天界の音色が響いた。
「なんだって!?」
「私のクローンを作ればいいのよ」
「――!?」
リュイセンの耳は、きちんとアイリーの声を捉えていた。なのに、思考がついていかない。凍りついたような顔と心で、彼はただ、呆然と彼女を見つめる。
視界を鮮やかに彩る、輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳。
天空神の姿を写した、綺羅の美貌が告げる。
「王位を継ぐだけならば、『仮初めの王』の女王で充分よ。むしろ、知りたくもない他人の心が読めてしまう〈神の御子〉の男子なんて、もう生まれないほうがいいわ」
神の代理人たる王でありながら、その言葉は神のものではない。人である、彼女の思い。人の害意を浴びて、不幸な運命をたどったライシェンを憂えての――。
「カイウォルお兄様には、私の次の王の後見人になってもらうと約束するわ。そうすれば、『ライシェン』に執着することはないと思うの。――ね? 私の考えた三つ目の道なら、皆が幸せになれるでしょう?」
「いや、待て! お前のクローン、って……、そんなのは!」
理屈ではない。直感が、どこか間違えていると訴える。しかし、説得力のある言葉で言い表すことができず、リュイセンは歯噛みする。
「『私のクローン』というのは、今、思いついた話じゃなくて、ずっと前から考えていたことよ。だって、先々王は、『過去の王のクローン』だった先王に冷たかったんでしょう? それは、やっぱり、本当の子供じゃないから、他人としか思えなかったからだと思うの」
「……」
「だから、私は、自分が『過去の王のクローン』に頼る事態になったときには、知らない人のクローンじゃなくて、自分のクローンを作ろう、って決めていたの。私のクローンなら、きっとあんまり優秀じゃないけれど、『私の『遺伝子』なら、仕方ないわね』って、笑って受け入れられるもの」
「そんな……」
「私がそう考えていることは、セレイエも知っていたわ。だからこそ、思い切って、過去の王の遺伝子を全部、廃棄できたのよ」
彼女の紡ぐ言葉は、皆の幸せを願う純粋すぎる祈りだ。
地上のすべてを愛おしむような、無垢な微笑みが漣となって広がっていく。
「なんで、お前が、そんな犠牲みたいなことを……! おかしいだろう!?」
彼女の祈りに呑み込まれそうになる自分に抗い、リュイセンは叫ぶ。
「私はこれでも王族で、女王様だから」
アイリーは口元に人差し指を当て、秘密を打ち明けるような、幼さの残る仕草で応える。
けれど、その表情は、今までに見た中で一番、大人びていた。
3.蓮蕾の女王-3

執務室は完全防音である。ぴたりと窓を閉じてしまえば、庭に溢れ返る、夏を奏でる蝉の歌すらも届かない。
外界から遮断され、静寂に見舞われた、ふたりきりの部屋。存在する音は、空調からの送風と、自身と相手の息遣いだけのはずだ。
しかし、リュイセンの耳に響いているのは、無垢な笑顔で告げられた、アイリーの言葉だった。
『私はこれでも王族で、女王様だから』
次代の王に恵まれないときは、自分のクローンを作る。
彼女はずっと、そう考えていたという。
腹の底で、怒りに似た苛立ちが渦を巻く。それを表に出さないように、リュイセンは必死になって、感情を抑える。
黄金比の美貌から表情が消え、彫像のように凍りついた。双刀を宿したような鋭利な双眸は、彼女を凝視したまま、瞬きひとつしない。
ふたりの視線が交錯した。
深みのある漆黒と、澄んだ青灰色の、対象的な眼差し。相容れないようであり、対でもあるようなふたりが、互いの姿を己の瞳に映す。
「リュイセン、ありがとう」
ふわりと。
アイリーが破顔した。
その瞬間、リュイセンは秀眉を吊り上げる。
「なんで礼を言うんだよ?」
「だって、リュイセンは、ちゃんと『私』を見てくれるから。生き神様じゃない、『私』を」
彼女は白金の髪を波打たせ、彼の顔を覗き込むように身を乗り出す。綺羅の美貌が近づき、青灰色の瞳が潤んでいることに、彼は気づいた。
同時に、察してしまった。
彼女の視力は、彼が思っていたよりも、おそらく弱い。
ときどき妙に距離が近くなるのは、近づかなければ見えないからだ。近視などとは違い、先天性白皮症に依る弱視は眼球の内部の形成異常が原因だとかで、眼鏡やコンタクトレンズでは矯正できないらしい。――王の異色が先天性白皮症だと知ったあと、後学のためにと調べて得た知識だ。
勿論、彼女の人懐っこい性格も影響しているだろうし、普段の生活に支障はない程度には見えているのも分かる。
けれど、明らかに先天性白皮症の弊害だ。
リュイセンは知れず、奥歯を噛んだ。
かつて、鷹刀一族は王族のために近親婚を繰り返し、健康な子供が生まれにくい状態になってなお、〈贄〉として血族を捧げてきた。しかし、アイリーを見ていると、王族である彼女もまた、国を支えるための生贄のようだ。しかも、それを当然のように受け止めている……。
胸が悪くなるような忌まわしさがこみ上げてきた。それを振り払うように、リュイセンは頭を振る。
「お前が、いろいろ考えていることは分かった。けど、『ライシェン』の未来は、ルイフォンとメイシアに託されている。だから、お前の考えは、ふたりに伝えて、選択肢のひとつに加えてもらう。――それでいいよな?」
「そうね、それがいいわ。私たちだけで決めることじゃないし、こうしてリュイセンと睨み合っているのは嫌だもの」
アイリーも素直に頷く。
刹那、リュイセンは反射的に鼻に皺を寄せた。
「今のは『睨み合い』じゃないだろう?」
彼は間違っても、彼女に悪感情など抱いていない。理不尽な現状を嫌悪していただけだ。なのに、彼女に誤解されるのは、非常に不本意である。
つまり、先ほど目線を絡めていたのは『睨み合い』ではなくて……。
――『見つめ合い』?
頭に浮かんだ単語を、リュイセンは慌てて打ち消す。いくらなんでも、それは不適切だろう。
それまで不機嫌な様子であった顔を急に赤らめ、黒目を右へ左へと彷徨わせたリュイセンを、アイリーは不思議そうに見つめていた。だが、理由を訊いても答えてくれそうもないと感じたのか、やがて、ふと呟く。
「できるなら、直接、『ルイフォン』に会って、話をしたいわ。彼にも会ってみたいの。……勿論、難しいのは分かっているわよ?」
聞き分けのない子供じゃないのよ、と。弁解するような上目遣いで首をすくめる。
「……っ」
無邪気な仕草に、どきりとした。リュイセンは、申し訳ない気持ちを押し殺し、沈黙する。
アイリーは既に、ルイフォンと会っている。
ただし、『仕立て屋の助手の少女』という女装姿の彼と、であるが。
ヤンイェンと接触するための、必要に迫られての女装であり、むやみに明かしては弟分の沽券に関わる。あとで、きちんと本人の承諾を得てから話すつもりのリュイセンは、アイリーに悪いと思いつつ、今はひとまずシラを切る。
「あ……ああ、お前がお忍びで出掛けるのは、簡単なことじゃないよな。そもそも、今日は、どうやって王宮を抜け出してきたんだ?」
話題をそらすための質問であった。しかし、口にしてから、先に確認しておくべき事柄だったと気づく。彼女が鷹刀一族の屋敷に来てから、それなりの時間が過ぎている。王宮は大騒ぎになっていないだろうか。
今更のように焦り始めたリュイセンに、アイリーは唇に人差し指を当て、内緒話を打ち明けるように告げる。
「あのね、王宮からじゃなくて、神殿から抜け出してきたの。昔、セレイエがよく、外に連れ出してくれた方法で」
「は!?」
またしても、セレイエなのか? あの異母姉は、当時、王女だったアイリーを、頻繁に脱走させていたというのか?
セレイエと一緒に暮らしたことのないリュイセンは、実のところ、彼女と異母姉弟だという認識は低い。しかし、身内として、さすがに血の気が引いた。
「ええと、〈七つの大罪〉が、王の私設研究機関なのは知っているわよね? それで、〈悪魔〉たちは、必要に応じて、王や王族と対面するわけだけど、その場所が神殿にある『天空の間』なの。――あ、『天空の間』というのは……」
「『天空の間』なら知っている。王族や貴族が、自分の屋敷に、ひと部屋は作るという、『神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋』だろう?」
上流階級のしきたりなど詳しくない、詳しくなりたくもないリュイセンだが、『天空の間』のことはよく覚えている。
〈蝿〉が、『最高の終幕』の舞台に選んだ場所だからだ。
リュイセンが知っているのは、〈蝿〉が潜伏していた菖蒲の館の『天空の間』であるが、もと貴族のメイシアによれば、どの屋敷でも同じような造りであるという。天上の世界を表しているとかで、壁も絨毯も調度も白一色で整えられた、奇妙な部屋だ。
「ああ、そうか。〈蝿〉が言っていたな。防音のよく効いた『天空の間』は、王と〈悪魔〉の密談の場だった、と」
ふと思い出して口にすると、アイリーが「話が早くて助かるわ!」と、声を弾ませる。
「〈悪魔〉たちが、こっそり出入りするために、神殿の『天空の間』と外を繋ぐ、秘密の通路があるのよ。そこを通って抜け出してきたの。『天空の間』に入るときに『神と語ってまいります』と言えば、誰も付き添うことはできないし、半日くらいなら平気でしょう?」
「……」
仮にも、神の名を借りて国を治めている王が、神との対話だと偽って、無断外出をしてよいのだろうか……?
発案者はセレイエだ。自分の異母姉が、幼い王女に悪知恵を授けていたという事実に、生真面目なリュイセンは頭が痛くなる。
「セレイエが一緒のときは、黒髪の鬘や、カラーコンタクトを用意してくれたんだけどね。私じゃ手配できなかったから、今日は、いつもの格好で出てきちゃった……」
寂しげな口調で、アイリーがソファーに畳んだ黒いパーカーを見やる。黒づくめの服装は『お忍び装束』ではなく、彼女の外出には必須の『普段着』であったらしい。
「セレイエは、無敵の護衛だったのよ。危険な目に遭ったときは、〈天使〉の羽で相手を操って守ってくれたの。私の正体がバレそうになったときには、羽で記憶を誤魔化してくれたりしてね……」
青灰色の瞳が切なげに細められた。
かつてセレイエに連れられて、普通の女の子のように遊びに出かけた日々を思い出しているのだろう。
禁忌ともいえる〈天使〉の能力を、セレイエが気軽に乱用していたようなのは気になるが、それでも、リュイセンの口の中に苦いものが広がる。
「ごめんなさい。余計なことを言ったわ」
白金の髪を揺らしながら、アイリーが左右に首を振った。そして、「話を戻すわね」と、無理やりに口角を上げる。
「王女だったときならともかく、今は女王様になっちゃったから、私が頻繁に王宮を離れて神殿に行くのは難しいの。今日は、凄く運が良かったのよ。この次に、いつ抜け出せるのかは、ちょっと分からないわ。――だから、リュイセン。私の考えを『ルイフォン』に伝えるの、よろしくね」
「ああ。分かった」
「外に出られる機会があったときは、携帯端末で連絡するわ。あらかじめ予定が分かっていれば、ルイフォンも、このお屋敷に来られるでしょう? ……あ、それよりも、ユイランさんもいる、草薙家のところに、私が行くほうがいいわ! リュイセン、連れて行ってね!」
先の予定を楽しそうに語るアイリーに、これきりの縁ではないのだという実感と、彼女がそろそろ帰ろうとしている現状を解し、リュイセンの胸に不可思議な漣が立った。
……ともあれ。今日はこれで、お開きだ。神殿の『天空の間』に繋がる、秘密の通路とやらの入り口まで、アイリーを送ってやろう。
やるべきことをやるを信条とする彼が、自分の中でそうまとめたとき、不意にアイリーが叫んだ。
「そうだわ! 私がお忍びで行くんじゃなくて、ルイフォンに王宮まで来てもらえばいいのよ!」
彼女は顔を輝かせ、ぐいとテーブルに身を乗り出す。
「ユイランさんに頼んでいる衣装の、次の打ち合わせのとき、ルイフォンに人夫として同行してもらうの。そうすれば、監視の目の厳しいヤンイェンお異母兄様も、ルイフォンに会えるわ! やっぱり、『ライシェン』の未来は、お異母兄様抜きには決められないでしょう?」
「…………」
それは既に、実行に移され、成功を収めた作戦だ……。
――良心が咎める……。
正直者のリュイセンとしては、さすがにこれ以上、黙っていることは不可能だった。
彼は観念して、「実は……」と、ルイフォンの王宮訪問について、訥々と語り始めた。
4.白蓮の花の咲く音色-1

「嘘……」
『仕立て屋の助手の少女』の正体がルイフォンだと知らされ、アイリーは呆然と呟いた。
「……すまん。本当だ」
あまりの居たたまれなさに、リュイセンの口から思わず謝罪の言葉が衝いて出る。
「あっ、違うのよ。信じていないわけじゃなくて。――あ、あのね。あの子が、鷹刀の血族だというのは分かったのよ」
動揺のためか、アイリーは慌てて弁解を始める。
「セレイエとは目元や髪質が違うけど、顔全体の雰囲気がよく似ているから、きっと親戚の子なのね、って思ったわ。すらっと背が高くて綺麗めで、大人びているのに可愛いくて、羨ましいな、って」
「……」
鷹刀の血統にしては細身で小柄なルイフォンだが、男性の平均身長は超えているので、女装姿であれば、確かに『すらっと背が高く』見えることだろう。
リュイセンは頭の中でそう思ったが、余計な口を挟むような真似は控えた。綺羅の美貌を持つアイリーに、『可愛いくて、羨ましい』と言われてしまった弟分が、不憫でならなかったのである。
「言葉少なだけれど、優しくて。さんざん待たせてしまったのに、ちっとも怒らないでくれたの」
「……」
喋ったら男だとバレるため、口をきけなかっただけだ。そして、何時間、待たされようとも、女王に怒り出す平民はいないだろう。
「あの子が……ルイフォン……」
「……ああ」
無言を続けるのも悪いので、リュイセンは、せめてもの思いで、申し訳程度の相槌を打つ。
「……ええと、つまり……、私が『ユイランさんと親しくなって、鷹刀のお屋敷にセレイエの死を確かめに行こう』と思っていた裏側で、ヤンイェンお異母兄様は既に、ルイフォンとの接触を果たしていたわけね」
「え?」
いきなり暴露話のようなことを口にしたアイリーに、リュイセンは軽く目を瞬かせた。
「あ、誤解しないで! 私は、セレイエのことを聞きたいから、ユイランさんと仲良くしたわけじゃないわ。もともとセレイエから、ユイランさんは『もうひとりのお母さん』だって聞いていて、親しみを感じていたし、彼女の作る服は、お世辞じゃなくて本当に大好きなのよ」
そう言いながら彼女は立ち上がり、その場で、くるりと一回転する。
白金の髪を飾る青絹の髪飾りが、漣を立てて流れ、淡い青色のワンピースの裾が、波打つように優美に広がった。
彼女に似合う、長すぎない裾丈は、軽やかでありながらも上品さを忘れず、凛とした可愛らしさを醸し出す。そして、何より、お気に入りの服を楽しんでいる、彼女自身が輝いていた。
「ねぇ、気づいてないの? この服は、あのとき、ユイランさんが私のために作ってくれたものよ。素敵でしょう?」
「あ――」
確かに、ルイフォンの報告書には『見本品に手を加えた服を女王がいたく気に入り、ヤンイェンが私費で買い取った』と書いてあった。
ただし、情報の取捨選択が下手なリュイセンとは違い、弟分は要点を的確にまとめることに長けている。当然のことながら、服の色やデザインなどの詳細は省かれており、『気づいてないの?』と言われても、気づきようもなかったのである。
「……すまん」
リュイセンに非はないはずなのだが、何故か謝った。……先ほどから、謝ってばかりのような気がする。
「仕方ないわ。殿方は、お洒落になんて興味がないんでしょう? 私にしてみれば、ユイランさんがお母様だなんて、リュイセンが羨ましくてならないのにね」
わずかに頬を膨らませながらも、アイリーは、おとなしく引き下がった。
それから、ふっと顔を曇らせる。
「……ヤンイェンお異母兄様は、既に、すべて知ってしまっていたのね」
「!?」
不穏を帯びた声に、リュイセンは眉を寄せた。
「ルイフォンのもとに、ライシェンの『記憶』と『肉体』が揃っていることを。けれど、『記憶』は封じたままにするつもりだということも……」
ぽつり、ぽつりと落とされる言葉が、波紋のように広がっていく。
「ルイフォンの立場からすれば、『一切の誤魔化しをせずに伝えるのが、道理』と考えたのは分かるわ。でも、私は、ルイフォンがお異母兄様と会うときには、『ありのままは伝えないほうがいい』って助言……ううん、忠告するつもりだったのよ」
「アイリー?」
リュイセンは覚束ない気分になって、思わず彼女の名を呟いた。
「そこまで何もかも包み隠さずに、正直に明かしちゃったら、ルイフォンが予測していた通り、お異母兄様とルイフォンたちは、敵対するしかないと思うわ」
「なっ……!?」
耳朶を打つ、アイリーの不吉な予言に、リュイセンは顔色を変える。
「だって、お異母兄様はずっと、『記憶』と『肉体』を手に入れて、ライシェンを生き返らせたいと願っていたのよ? その両方が既に揃っていて、しかも、代償にセレイエが命を落としたんだもの。お異母兄様は、必ず……」
彼女は唇を噛み、その先の言葉を封じた。
想定外の深刻な様子に、リュイセンは「おい、待てよ」と、困惑顔で焦る。
「『ヤンイェンは、とても冷静だった』と、ルイフォンは報告してきたぞ? ライシェンの『記憶』に関しては、いろいろ思うところはあるだろうけれど、理性的な態度だった、と。敵対することになるとは思えないんだが……?」
しかし、アイリーは頭を振った。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、たくさんの人が犠牲になった、と聞いたあとで、『それでも、ライシェンを生き返らせたい』なんて、お異母兄様が言えるわけないじゃない。それに、『記憶』と『肉体』の両方を預かっているルイフォンに、敵意を見せるわけないでしょう?」
強い口調で言ってから、彼女は、はっと口元を押さえた。それから、「ごめんなさい」と、身を縮める。
「あ、あのね。ヤンイェンお異母兄様って、もともとは何ごとにも執着しない、何もかも諦めたような人だったの。温厚な人、って言われていたけど、異母妹の私の目には、空っぽの人に見えたわ」
彼女は先天性白皮症の白い手に目線を落とし、ぐっと握りしめた。
「……生まれのせいよ。お異母兄様は〈神の御子〉の誕生を期待されて、表向きは姉弟である、お父様と伯母様の間に生まれた禁忌の子。なのに、黒髪黒目で。――だから、ずっと、〈神の御子〉の異母妹を守ることだけを考えて生きていたの。お異母兄様自身は、何も望まずに」
アイリーは、そこで大きく息を吸った。沈んだ細い声が「でもっ」と、高く跳ね上がる。
「セレイエと出逢って変わったの。やっと、自分のために生きてくれるようになったのよ……!」
庇護者のようなヤンイェンに、アイリーはずっと罪悪感を抱いていたのだろう。そして、ようやく自身の幸せを見つけた彼を心から祝福した。
けれど、穏やかな日々は、長くは続かなかった……。
「お異母兄様にとって、セレイエとライシェンは、やっと見つけた、かけがえのない存在なの。なくしたら、正常な心を保てない。……人を――お父様を殺してしまえるほどに」
「…………」
「ライシェンを失ったとき、お異母兄様の心の一部が欠けてしまったのを感じたわ。その上、セレイエまで亡くしたなら……」
華奢な肩が、儚げに震えた。
リュイセンは思わず腰を浮かせかけ、しかし、身を乗り出して抱き寄せるなど、もってのほかで。だからといって、口下手な彼が、掛けるべき言葉を思いつくわけもなく。――故に、ただ押し黙る。
「……だからね、私には断言できるわ。お異母兄様の本心は、『何を犠牲にしてでも、亡くしたライシェンを取り戻したい』よ」
アイリーは吐き捨て、白金の髪を波打たせながら顔を上げた。澄み渡った青灰色の瞳は、強気な声色とは裏腹に、まるで縋るように弱々しい。
「でもね。お異母兄様は、望んで敵対したいわけじゃないの。だって、ルイフォンは大切な義弟なんだもの。仲良く手を取り合って、蘇ったライシェンに幸せな未来を贈れれば、どんなにいいかと思っているはずよ」
訴えるようにリュイセンを見つめ、けれど、消え入りそうな声で続ける。
「お異母兄様には、敵意も悪意もないの。ただ、『息子を生き返らせたい』という激情に抗えないだけ……」
突き放すような物言いと、寄り添うような面持ち。ひとことごとに揺れる印象は、彼女の気持ちそのものなのだろう。
『ライシェンの代わりはいない』と主張する彼女としては、異母兄の願いを認めるわけにはいかない。けれど、彼女だって異母兄と、いがみ合いたくなどないのだ。
彼女は、わずかに視線を落とし、険しい顔で告げる。
「お異母兄様は今、『ルイフォンたちと敵対しないですむ方法』のために、水面下で動き出していると思うわ」
「そうなのか。……――は?」
アイリーの雰囲気に呑まれ、思わず納得しそうになったリュイセンであるが、よくよく考えると、彼女の言葉は意味不明だ。彼は慌てて、秀眉を寄せて問いただす。
「おい、さっきまでの話と矛盾していないか? ヤンイェンが『記憶』にこだわるのなら、ルイフォンとは相容れないだろう? 敵対しないですむ方法なんて、あるわけが……」
背反である二択に、妥協点はないはずだ。
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第四章 金枝玉葉の漣と
この章は、2025.02.28 ~ 2025.08.08 毎週金曜日、定期更新します。