di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第二章 黄泉路の枷鎖よ
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第二章 黄泉路の枷鎖よ
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『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第一章 夏嵐の襲来から https://slib.net/115847
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〈第一章あらすじ&登場人物紹介〉
===第一章 あらすじ===
長かった〈蝿〉との因縁の決着はついた。しかし、今度は、唯一の〈神の御子〉である『ライシェン』を巡り、摂政との諍いの日々が幕を開けた。
摂政は、菖蒲の館から消えた『ライシェン』と行方不明のセレイエを探すため、鷹刀一族の屋敷の家宅捜索を決めた。また、同時に事情聴取を行うとした。
ルイフォンは「任意の聴取など行く必要はない」と主張したが、イーレオとエルファンは「エルファンが聴取に応じる」と言う。平行線となり、一族ではないルイフォンは退くしかなかった。
更に、死んだことになっている貴族令嬢が家宅捜索で見つかると厄介だからと、ルイフォンとメイシアは草薙家に行くことになった。
後ろ髪を引かれる思いで、屋敷をあとにしたルイフォンだったが、草薙家に着いてすぐ、レイウェンに「事情聴取に応じるのは、摂政になんらかの交渉を持ちかけるためだ」と教えられる。そして、〈猫〉ならではの方法で協力するように、と諭された。
王宮に着いたエルファンは、初めは罪人扱いで古い地下牢獄に連れて行かれたが、「『王族の秘密』を知っている」と脅すことで、摂政とふたりきりの対面に持ち込む。
互いに言いがかりのような言葉の応酬を繰り返したのち、エルファンは最大の交渉材料を出した。すなわち、「『〈七つの大罪〉の技術』は、我が鷹刀の掌中にある」と。
実は大嘘なのだが、ルイフォンが遠隔から、タイミングよく神殿の照明を暴走させることで、〈七つの大罪〉の技術と密接な関係のある〈冥王〉が、エルファンの合図に反応したように見せかけた。
摂政は鷹刀一族を軽視できなくなり、『王家と鷹刀一族は、互いに不干渉を約束する』という、エルファンの交渉に応じた。
摂政への牽制は成功したが、しばらくは、このまま様子をみたほうがよいだろうと、ルイフォンとメイシアは草薙家に留まることになった。
ある日、シャンリーが「『ライシェン』の未来の選択肢のひとつに、草薙家の子になることを加えてほしい」と申し出た。「『デヴァイン・シンフォニア計画』に苦しめられてきたお前たちに、『ライシェン』の幸せを託すのは酷だ。もっと周りを頼ってほしい」と。
ルイフォンとメイシアは、無意識のうちに、『ライシェン』を『人』ではなく『もの』扱いしていたことに気づかされた。けれど、だからこそ、もう少し、自分たちで足掻いてみようと決意を新たにしたのだった。
===『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』===
主人公ルイフォンの姉セレイエによる、殺された息子ライシェンを蘇らせる計画。
王の私設研究機関〈七つの大罪〉の技術で再生された『肉体』に、ルイフォンの中に封じたライシェンの『記憶』を入れることで『蘇生』が叶う。
また、生き返った『ライシェン』が幸せな人生を送れるように、セレイエはふたつの未来を用意した。
ひとつは、本来、ライシェンが歩むはずだった、父ヤンイェンのもとで王となる道。
もうひとつは、愛情あふれる家庭で、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道。
セレイエは、弟であるルイフォンと、ヤンイェンの再従妹であるメイシアを『ライシェン』の幸せを託す相手として選び、ふたりを出逢わせた。
『di;vine+sin;fonia』という名称は、セレイエによって名付けられた。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらを繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』を意味する。
この計画が禁忌の行為と分かっていながら、セレイエは自分を止められなかった、ということである。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少年。十六歳。
亡き母キリファから〈猫〉というクラッカーの通称を受け継いでいる。
父親は、表向きは凶賊鷹刀一族総帥イーレオということになっているが、実はイーレオの長子エルファンの息子である。
そのことは、薄々、本人も感づいてはいるが、既に親元から独立し、凶賊の一員ではなく、何にも属さない『対等な協力者〈猫〉』であることを認められているため、どうでもいいと思っている。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
亡くなる前のセレイエに、ライシェンの『記憶』を一方的に預けられていた。
※『ハッカー』という用語は、本来『コンピュータ技術に精通した人』の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われている。
対して、『クラッカー』は、悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を『クラッカー』と表記する。
メイシア
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少女。十八歳。
セレイエによって、ルイフォンとの出逢いを仕組まれ、彼と恋仲――事実上の伴侶となる。
もと貴族の藤咲家の娘だが、ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
王族の血を色濃く引くため、『最強の〈天使〉』として『ライシェン』を守ってほしいというセレイエの願いから、『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた。
セレイエの〈影〉であったホンシュアを通して、セレイエの『記憶』を受け取っている。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
約三十年前、イーレオが、王家および王家の私設研究機関である〈七つの大罪〉と縁を切るまで、血族を有機コンピュータ〈冥王〉の〈贄〉として捧げる代わりに、王家の保護を受けてきた。近親婚を強いられてきたため、血族は皆そっくりであり、また強く美しい。
古くは、鷹の一族と呼ばれた武人の一族であり、現在の王家樹立の立役者の一族であった。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥であったが、次男リュイセンに位を譲った。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
父から位を譲られ、次期総帥となった。また、最後の総帥になる決意をしている。
黄金比の美貌の持ち主。
文句も多いが、やるときはやる男。『神速の双刀使い』と呼ばれている。
ミンウェイにプロポーズをしたが、自分はまだまだだと、取り消した。
鷹刀ミンウェイ
鷹刀一族の中枢をなす人物のひとり。屋敷の切り盛りしている。二十代半ばに見える。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。ただし、本来は直毛。
薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
母親だと思っていた人物のクローンであり、そのために『父親』ヘイシャオに溺愛という名の虐待を受けていたのだと知った。苦悩はあったが、今は乗り越えている。
草薙チャオラウ
鷹刀一族の中枢をなす人物のひとり。イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
主筋であるユイランを、幼少のころから半世紀ほど、一途に想っている、らしい。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
もとエルファンの愛人で、セレイエ、ルイフォンの母。ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に人体実験体である〈天使〉にされた。
四年前に当時の国王シルフェンに『首を落とさせて』死亡。
どうやら、自分の体を有機コンピュータ〈スー〉に作り変えるためだったらしい。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが、〈冥王〉を破壊するために作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のスーパーコンピュータだが、それは張りぼてである。
本体は、人間の脳から作られた有機コンピュータで、光の珠の姿をしている。
〈ベロ〉の人格は、シャオリエのオリジナル『パイシュエ』である。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこないのだが、所在は、〈蠍〉の研究所跡に建てられた家にあることが分かっている。
鷹刀セレイエ
エルファンとキリファの娘。表向きはルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
生まれながらの〈天使〉であり、自分の力を知るために自ら〈悪魔〉となった。
王族のヤンイェンと恋仲になり、ライシェンという〈神の御子〉を産んだ。
先王シルフェンにライシェンを殺されたため、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた。
ただし、セレイエ本人は、ライシェンの記憶を手に入れるために〈天使〉の力を使い尽くし、あとのことは〈影〉のホンシュアに託して死亡した。
パイシュエ
イーレオ曰く、『俺を育ててくれた女』。故人。
鷹刀一族を〈七つの大罪〉の支配から解放するために〈悪魔〉となり、三十年前、その身を犠牲にして未来永劫、一族を〈贄〉にせずに済む細工を施して死亡した。
自分の死後、一族を率いていくことになるイーレオを助けるために、シャオリエという〈影〉を遺した。
また、どこかに残されていた彼女の何かを使い、キリファは〈ベロ〉を作った。
すなわち、パイシュエというひとりの人間から、『シャオリエ』と〈ベロ〉が作られている。
鷹刀ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの『父親』。医者で暗殺者。故人。
妻のミンウェイの遺言により、妻の蘇生のために作ったクローン体を『娘』として育てていくうちに心を病んでいった。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のようなかたちでエルファンに殺された。
[王家]
白金の髪、青灰色の瞳の先天性白皮症の者が多く生まれる里を起源とした一族。
王家に生まれた先天性白皮症の男子は必ず盲目であり、代わりに他人の脳から『情報を読み取る』能力を持つ。
この特殊な力を持つ者を王としてきたため、先天性白皮症の外見を持つ者だけが〈神の御子〉と呼ばれ、王位継承権を有する。かつては男子のみが王となれたが、現在では〈神の御子〉が生まれにくくなったために女王も認めている。ただし、あくまでも仮初めの王である。
アイリー
大華王国の現女王。十五歳。四年前、先王の父が急死したため、若年ながら王位に就いた。
彼女の婚約を開始条件に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まった。
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害された。
〈神の御子〉の男子に恵まれなかった先々王が〈七つの大罪〉に作らせた『過去の王のクローン』である。
ヤンイェン
先王の甥。女王の婚約者。
実は先王が〈神の御子〉を求めて姉に産ませた隠し子で、女王アイリーや摂政カイウォルの異母兄弟に当たる。
セレイエとの間に生まれたライシェンを殺され、蘇生を反対されたため、先王を殺害した。
メイシアの再従兄にあたる。
ライシェン
ヤンイェンとセレイエの息子で、〈神の御子〉。
〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエから受け継いだ『情報を書き込む』能力を持っていた。
彼の力は、〈天使〉の羽のように自分と相手を繋ぐことなく、〈神の御子〉のように手も触れずに扱えたため、先王シルフェンは彼を『神』と呼ぶしかないと言い、『来神』と名付けた。
周りの『殺意』を感じ取り、相手を殺してしまったために、先王に殺された。
『ライシェン』
〈蝿〉が、セレイエに頼まれて作った、ライシェンのクローン体。
オリジナルのライシェンは盲目だったが、周りの『殺意』を感じ取らずにすむようにと、目が見えるように作られた。
凍結処理が施され、ルイフォンとメイシアに託された。
カイウォル
摂政。女王の兄に当たる人物。
摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。
ハオリュウに、「異母兄にあたるヤンイェンとの結婚を嫌がる妹、女王アイリーの結婚を延期するために、君が女王の婚約者になってほしい」と陰謀を持ちかけた。
[〈七つの大罪〉]
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
王家に、王になる資格を持つ〈神の御子〉が生まれないとき、『過去の王のクローンを作り、王家の断絶を防ぐ』という役割を担っている。
〈冥王〉
他人の脳から情報を読み取ることによって生じる、王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。
太古の昔に死んだ王の脳細胞から生まれた巨大な有機コンピュータで、鷹刀一族の血肉を動力源とする。
『光の珠』の姿をしており、神殿に収められている。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
〈天使〉
『記憶の書き込み』ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は有機コンピュータ〈冥王〉の一部でできており、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置となる。限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こして死亡する。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られた〈蝿〉
セレイエが『ライシェン』を作らせるために、蘇らせたヘイシャオ。
セレイエに吹き込まれた嘘のせいでイーレオの命を狙い、鷹刀一族と敵対していたが、リュイセンによって心を入れ替えた。
メイシアを〈悪魔〉の『契約』から解放するため、自ら王族の『秘密』を口にして死亡した。
ホンシュア
セレイエの〈影〉。肉体は、殺されたライシェンの侍女で、〈天使〉化してあった。
主人の死に責任を感じ、『デヴァイン・シンフォニア計画』に協力した。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
メイシアにセレイエの記憶を潜ませ、鷹刀に行くように仕向けた、いわば発端を作った人物である。
〈蛇〉
セレイエの〈悪魔〉としての名前。
セレイエの〈影〉であるホンシュアをを指すこともある。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら藤咲家の当主を継いだ。
母親が平民であることや、親しみやすい十人並みの容姿であることから、平民に人気がある。また、子供とは思えない言動から、いずれは一角の人物になると目されている。
異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
摂政カイウォルに、「女王の婚約者にならないか」と陰謀を持ちかけられている。
藤咲コウレン
メイシア、ハオリュウの父親。厳月家・斑目一族・〈蝿〉の陰謀により死亡。
藤咲コウレンの妻
メイシアの継母。ハオリュウの実母。平民。
心労で正気を失ってしまい、別荘で暮らしていたが、メイシアがお見舞いに行ったあとから徐々に快方に向かっている。
緋扇シュアン
『狂犬』と呼ばれる、イカレ警察隊員。銃の名手。三十路手前程度。
幼いころ、凶賊同士の抗争に巻き込まれ、家族をすべて失った。そのため、「世を正す」と正義感に燃えて警察隊に入るも、腐った現実に絶望する。しかし、ハオリュウと出会い、彼を『理想の権力者』に育てることに希望を見出した。
ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
ミンウェイに好意を寄せていると周りは推測しているが、真偽は不明。
[草薙家・他]
草薙レイウェン
エルファンの長男。リュイセンの兄。
妻のシャンリーと共に一族を抜けて、服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
草薙シャンリー
レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。王宮に召されるほどの剣舞の名手。
遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。
草薙クーティエ
レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。
可愛らしく、活発。
ハオリュウに恋心を抱いている。
鷹刀ユイラン
エルファンの正妻。レイウェン、リュイセンの母。
レイウェンの会社の専属デザイナーとして、鷹刀一族の屋敷を出た。
ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした、もと凶賊斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
斑目一族や〈蝿〉にいいように使われていたが、今はレイウェンの警備会社で働いている。将来的には、ハオリュウの専属護衛になる予定。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
実は〈影〉であり、イーレオを育てた、パイシュエという人物の記憶を持つ。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。ということになっているが妖艶な美女という説もある。
本人曰く、もと女優の卵である。実年齢は不明。
ルイリン
ルイフォンの女装姿につけられた名前。
タオロンと好い仲の少女娼婦。癖の強い、長い黒髪の美少女。
少女にしては長身で、そのことを気するかのように猫背である。
――という設定になっている。
トンツァイ
繁華街の情報屋。
痩せぎすの男。
キンタン
トンツァイの息子。ルイフォンと同い年。
カードゲームが好き。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.波紋の計略-1
貴族の藤咲家当主が代々受け継ぎ、現在は彼のものである書斎にて、ハオリュウは思索にふけっていた。
父親譲りの温厚で人当たりのよい顔は渋面を作り、当主の証である金の指輪の光る手は、時折り、何かを確認するかのようにコツコツと執務机を叩く。
背は伸びたものの、まだ少年の細さの残る体は、ともすれば、この部屋の持つ重厚な趣に呑み込まれてしまいそうに見えるだろう。だが、落ち着いた風格を醸す年代物の調度の中、あどけない筆致の絵を堂々と飾ることによって、彼がこの空間の支配者であることを明確に示していた。
すなわち――。
異母姉メイシアの命の恩人、幼いファンルゥの手によるクレヨン画は、見る者が十人いれば、十人ともが首をかしげるほどに、部屋にそぐわぬものである。彼の後見人たる大叔父などは、すぐにも有名画家の作品と取り替えるよう、わめき散らしたくらいだ。
しかし、ハオリュウは瞳と指輪を光らせ、大叔父の退室を命じた。
故に、ファンルゥの絵は依然として、この書斎の壁で異彩を放っている――というわけである。
「ハオリュウ」
おざなりなノックと共に扉が開かれ、制帽で押さえつけられた、ぼさぼさ頭が、ひょこりと部屋に入ってきた。
すっかり馴染みとなった、三白眼の悪人面。警察隊の緋扇シュアンである。今日は、ハオリュウの頼みで、仕事帰りに寄ってもらったのだ。
いつもの通り、シュアンは、ハオリュウの執務机と向き合うように置かれた椅子に座る。
ふかふかの座面に沈み込む際、よく嬉しそうな顔をするので、どうやら感触を気に入っているらしい。そんなどうでもよいことに気づいてしまうほどに、シュアンには何度もこの書斎に足を運んでもらっている。
出会ったときには、絶対に相容れない存在だと思っていた。なのに、今ではかけがえのない大切な友人である。
シュアンは執務机の上を一瞥し、口を開いた。
「そのやたら豪華な封筒が、あんたが時化た顔をしている原因の『摂政からの呼び出し状』ってヤツだな」
笑い飛ばすような軽薄な口調は、陰鬱なハオリュウを気遣ってのことだ。その証拠に、かく言うシュアンの瞳もまた、冷ややかな苛立ちの色に染まっている。
「『王宮に来い』と、ひとこと書けば充分なところを、上流階級の雅とやらの御大層な文句でゴテゴテ飾った、いつもの調子の文面か」
国の最高権力者からの招待状を、目を眇めて皮肉るシュアンに、今まで鬱々としていたハオリュウも微笑を漏らした。
いずれ摂政に召されることは分かりきっていたが、それが現実のものとなり、自分で思っていた以上に滅入っていたようだ。耳障りなシュアンの濁声が心地よかった。
「ええ。おっしゃる通りの内容です。――ご覧になるまでもありませんね」
そう言って封筒をしまおうとすると、シュアンの声がハオリュウを制した。
「いや。とりあえず、俺も中を改めるさ」
「では、どうぞ」
シュアンの目線が、便箋の上を忙しなく走り始めた。
『目つきの悪いチンピラ』から『眼光の鋭い切れ者』に変わったシュアンを眺めながら、ハオリュウの口元は自然とほころぶ。
以前のシュアンだったら、『上流階級の雅』で書かれた手紙など、読むだけ無駄だと言って、用件だけを訊いてきた。
しかし、〈蝿〉への復讐の黙約を果たしたあと、別の新たな盟約を結んでから、関係が変わった。口には出さないが、シュアンは、ハオリュウの秘書を買って出てくれている――。
「なるほど。見事なまでに、『王宮に来い』としか書かれていないな」
不快げに鼻を鳴らす音が聞こえ、手元に落とされていた三白眼が上げられた。どうやら読み終えたらしい。
ハオリュウは、緩んでいた表情を引き締めた。
「詳しいことは直接、ということなのでしょう。何しろ摂政殿下のお話というのは、あの会食で僕に『女王陛下の婚約者になりませんか』と持ちかけた件で間違いありませんから。迂闊なことは書面に残せません」
「ああ。けど、その話は、『女王は『ライシェン』という〈神の御子〉を産むことが決まっているから、誰が女王の夫になっても構わない』という前提のもとに成立していた話だろう? 『ライシェン』が摂政の手元から失われた今、奴は、あんたに何を言うつもりなんだ? ――どうせ、碌なことじゃねぇんだろうけどよ」
シュアンは王宮の方角に顔を向け、忌々しげに舌打ちをする。
ハオリュウも同意するように頷き、溜め息混じりの声を落とした。
「それは、なんとも。……ただ、摂政殿下が、僕と会う約束を急遽、取り消されてから、一ヶ月。ようやく方針が決まった、ということでしょうね」
実は、あの会食のあと、ほどなくして、ハオリュウのもとに摂政からの招待状が届いた。『次は二週間後に、王宮でお会いしましょう』というものだった。リュイセンが瀕死の状態で〈蝿〉に捕らわれ、皆が心配していたころの話である。
その後、リュイセンが裏切り、メイシアがさらわれ……と、ハオリュウと鷹刀一族にとっての大事件が続いた。
しかし、摂政は蚊帳の外だった。
高慢な王族を嫌う〈蝿〉が、摂政には何ひとつ報告しなかったためである。
これは、〈蝿〉本人からの、確かな情報――ルイフォンに託された記憶媒体からの情報だ。
摂政は、地下研究室が爆破されるまで、〈蝿〉は黙々と『ライシェン』の完成に向けて励んでいるのだと、信じて疑わなかった。〈蝿〉と『ライシェン』が姿を消したという連絡を受けて初めて、まったく手綱を取れていなかったことに気づいたのである。
研究室が爆破された日。
それは奇しくも、ハオリュウとの約束の日の前日であった。
『急に都合が悪くなったため、またの機会にお会いしましょう』という摂政からの書状を携えた使者が、藤咲家の門を叩き、王宮での対面は延期となった。
『ライシェン』が手元から消えたため、取り戻すまでは、ハオリュウを女王の婚約者にする計画を一時休止せざるを得なくなったためであろう。
あるいは、策を練り直すべきかと――。
不意に、シュアンが、おどけたように言い放った。
「さぁて、摂政の野郎は、どう出るか? とりあえず、婚約者の件は白紙に戻すか。それとも、『ライシェン』不在のままでも強行するか。……いずれにせよ、あんたを手放す気はねぇだろうがな」
「ええ。摂政殿下は、『王家はクローンに頼っている』という国の機密事項を僕に明かしています。しかも、次代の王『ライシェン』まで見せた上で、姉様が生きていることを知っていると匂わせ、圧力を掛けてきました。――殿下にとって、僕は手駒のひとつですよ」
すっかり低くなったハオリュウの声は、少年の無邪気さを失っていた。人の良さだけが取り柄のような凡庸な顔立ちに昏い影が揺らめき、彼の外見が内面を裏切っていることを浮き彫りにする。
言ってから、ハオリュウは後悔した。
こんな弱音を吐くつもりはなかった。
今日、シュアンに来てもらったのは、事情を知る彼に話し相手になってもらうことで、現状を冷静に見極め、摂政が何を言ってきても動じない心構えを作るためだ。
断じて、愚痴を聞いてもらうためではない。
うつむいたハオリュウの視界の外で、シュアンの気配が揺れた。彼のぼさぼさ頭に載っていたはずの制帽が、ふわりと床に落ち、ハオリュウの視界の隅に強引に割り込んでくる。
何故、制帽が? と、ハオリュウは無意識に顔を上げた。
その刹那。
「はぁ?」
――という、甲高い声が、ハオリュウの耳朶を打った。
「シュアン……?」
三白眼を眇めたシュアンが、顎をしゃくる。威圧的にふんぞり返った姿勢から察するに、制帽が落ちたのは、椅子の背もたれに、ぐっと寄りかかったためだろう。
「何を言っていやがる? あんたは、俺が世直しをするための手駒だろう?」
「……え?」
貴族の当主に対して、あるまじき暴言。それだけに留まらず、シュアンは、まるで恐喝でもするかのように口角を吊り上げた。
「今はまだ、獅子身中の虫でもいいさ。だがな、あんたには、これから権力を握ってもらう必要がある。俺の理想のための旗印なり、神輿なりになってもらうためにな」
言っただろう? 俺は『あんたが欲しい』と。
だから、摂政なんかに呑まれるな。
盟約のときに撃ち込まれた弾丸が、心臓から語りかけてくる。
「シュアン……」
「とりあえず、婚約者になれと迫られたら、父親の喪中を理由に先延ばしにしろ。――それが、あんたの姉さんからの伝言だと、前にも伝えたよな?」
無愛想な凶相のまま、シュアンが笑う。
無論、ハオリュウは覚えている。最愛の異母姉が、彼を思って助言してくれたことなのだから。
「『婚約者の件は大変な名誉ですが、父の喪が明けるまでは晴れがましいお話はお待ちください。陛下に穢れが及んでしまいます』――というものですね」
「そうだ。あんたの姉さんは、これ以上、あんたを家の犠牲にしたくないと、泣きながら俺に訴えてきた」
「…………」
摂政に失礼のない詭弁を思いつくあたり、異母姉は本当に聡明であると思う。
だが、泣きながらというのは嘘だろう。心優しく、それ故の弱さを持つ異母姉であるが、芯の強い彼女は、こういうときに泣いたりしない。この部分は、間違いなくシュアンの脚色だ。
そう言ったほうが、ハオリュウが従いやすかろうという――シュアンの優しさ。
今日だって、制服を着替える手間すらもどかしく、ハオリュウのもとに駆けつけてくれたのだ……。
ハオリュウの顔が年相応に和らいだ。
「シュアン、ありがとうございます」
「礼なら、姉さんに言うんだな。――それにな。あんたにしても、摂政にしても、『ライシェン』の未来が定まらなければ、何ひとつ決定なんかできやしないのさ。だから、先延ばしは妥当だろう?」
「すべては『ライシェン』次第……ですか」
『デヴァイン・シンフォニア計画』の行く末が、数多の運命を決める。
そして、『ライシェン』の未来は、義兄と異母姉に託されている――。
ふと。
ハオリュウの脳裏に、ふたりの姿が浮かび上がった。
異母姉が〈蝿〉の庭園から救出されたあと、ハオリュウはまだ直接、彼女に会えていない。忙しかったこともあるが、イーレオとエルファンが『鷹刀は、摂政に目をつけられている。しばらくは接触しないほうが無難だろう』と言っているため、様子を見ているのだ。
だから、ハオリュウの知る一番、最近の彼らの姿は、シュアンが送ってきてくれた、ふたりの再会の瞬間を収めた写真だ。
まばゆい朝陽と、美しい石造りの展望塔を背景に、固く抱き合うルイフォンとメイシア。
――携帯端末に保存した、大切な一葉だ。
「……シュアン。この前、僕は姉様と電話で話しました」
「お? それはよかったな。今、レイウェンさんのところに厄介になっているんだろう?」
唐突に切り出された話に、シュアンは意外そうに眉を上げつつ、「草薙家なら、仕事での繋がりがあるし、直接、会えるんじゃねぇか?」と、自分のことのように嬉しそうに付け加える。
「ええ。時間を作って、会いに行きたいと思います」
「それがいい。――で、何を話した?」
弾む声のシュアンに、ハオリュウは、この先の話の流れに罪悪感を覚えながら平坦に告げる。
「『ライシェン』に優しい養父母が必要なら、草薙家で引き取りたいと、シャンリーさんが言ってくれたそうです」
「ほう。そりゃ、名案だ。今のルイフォンたちが『ライシェン』を育てるってのは、どう考えたって無茶があるからな」
「姉様も、そう言っていました。レイウェンさんは『まずは、実父であるヤンイェン殿下に、話を通さねば』と、言っているそうですが、現実的な選択だと思います。だから、この件は良い話なのですが……」
不意に、ハオリュウの声が沈んだ。
言いよどむような息遣いに、シュアンは、ほんの少しだけ目元の隈を深くしたものの、あえて素知らぬ表情で相槌を打つ。
「そのとき、シャンリーさんが、ルイフォンと姉様に、こう言ったそうです」
『お前たちの中で、『ライシェン』は『人』ではなくて、『もの』だ』
『それは仕方のないことだ。だって、お前たちは、『デヴァイン・シンフォニア計画』に苦しめられてきた。――メイシアの家族も、この計画の犠牲になった』
『メイシアの父親は亡くなったのに、原因となった『ライシェン』が生き返るのは、解せないだろう? 話を聞いただけの私だって、理不尽だと思うんだ。お前たちが、素直に『ライシェン』を受け入れられないのは、当たり前のことなんだよ』
「シャンリーさんにそう言われて、姉様は心が軽くなったそうです。やはり、どこかに『ライシェン』へのわだかまりがあったと思う。それを当たり前だと言ってもらって、楽になった――と」
電話での、声だけの会話であったが、ハオリュウには異母姉の澄み渡った、穏やかな笑顔が見えた。
「だから、姉様は、僕にも『ライシェン』を納得できない気持ちがあってもいいと言ってくれました」
優しい異母姉の声が、耳に残っている。
『姉弟なのに、そばにいてあげられなくてごめんね』
『当主の重責をひとりで背負わせて、支えることもできなくて。私ばかりが恵まれているなんて、ずるいと思うの』
気にすることなど、何もないのに。
異母姉を藤咲家から出したのは、他ならぬハオリュウなのだ。彼女の幸せを願って、ルイフォンのもとに送り出した。だから、彼女が笑っていれば、それでよい。
異母姉はきっと、ハオリュウに泣き言のひとつくらい、言ってほしかったのだろう。それは分かっていた。だが、あいにく、彼はもう小さな異母弟ではないのだ。
だから、ただ『ありがとう』と答えた。『僕のことを心配してくれて』と。
「――で? あんたは『ライシェン』をどう思っているんだ?」
低い声が、すっとハオリュウの懐に入り込んできた。
シュアンの声質は、どちらかといえば高いほうであるのだが、たまに背筋に怖気が走るような、どすの利いた声を出す。今の声は、そのときと同じ低さで、しかし、彼の声とは思えぬほどに無色透明。――まるで、どんな答えでも受け入れるとでも言うかのように。
「……正直なところ、僕は『ライシェン』に良い感情を持っていません」
ハオリュウの口から、感情がこぼれた。
シュアンのぼさぼさ頭が、ふわりと揺れ、柔らかに肯定する。
「そもそも、初めに〈蝿〉の地下研究室で見たときから、『人』か『もの』かと疑問に思いました。それが、セレイエさんの我儘からできた産物だと知ったときには……!」
ハオリュウは唇を噛み、怒りの爆発をこらえる。
その先を言ってはいけないと、理性が訴えていた。――人として、最低だと。
握りしめた拳が震えた。
空間が沈黙に陥る。
気まずい――そう思ったとき、シュアンが静かに口を開いた。
「俺にとっては、『ライシェン』は『もの』だ」
それは、迷いのない、強い声だった。
「別に、硝子ケースで作られたから『もの』だと言っているわけじゃねぇ。俺の立場からすると『もの』になるってだけだ。上流階級のお偉いさんが、平民や自由民を『もの』扱いするのと同じことだ」
皮肉げに口の端を上げ、シュアンは肩をすくめた。
「所詮、『もの』にすぎないから、『ライシェン』に敵意とか復讐といった、『人』に向けるような感情は持ち合わせていない。だいたい、憎むべき相手は、鷹刀セレイエだろう?」
疑問の形の、断定。
「『ライシェン』を殺したところで、先輩は戻らない。――人間の命は不可逆だと知っているから、俺は、鷹刀セレイエのように先輩が生き返ることを望まない」
その言葉は、グリップだこで固くなった彼の手のように堅牢で、揺らぎがなかった。
そして、シュアンは、まっすぐな弾道のような眼差しをハオリュウに向け、「――だが」と続ける。
「もし、あんたが『ライシェン』の存在を邪魔に思うのなら、俺は『ライシェン』を殺してもいい。俺の手は、あんたの手だ」
「!?」
ハオリュウは、シュアンの三白眼を凝視した。白目に浮かぶ、血走った血管の一本一本が、はっきりと見えた。
シュアンは何故、自分にそんなことを言うのだ?
シュアンの目には、自分はどう映っているのだ?
ハオリュウの心に、疑問が渦巻く。
だのに、シュアンの血色の悪い凶相は、凪いだように無表情。何ひとつ読み取れない。
彼は知っているのだ。――ハオリュウが、幼いころから周りの顔色を窺って、自分の態度を決めてきたことを。
だから、シュアンは彼自身の色を隠して、ハオリュウに自分の色を見せろと求めている。
「……っ」
ハオリュウの体は強張り、身じろぎひとつできなくなった。
緊張のあまり、声はおろか、呼吸が危うくなる。
――そのとき。
シュアンの口元がふっと緩んだ。
相変わらずの悪相では、狂犬が牙をむいたような凶暴な顔にしかならなかったが、それは満面の笑みであった。
「ここで何も言えなくなるのが、『藤咲ハオリュウ』という人間だ」
「え?」
「充分な殺意があるくせに、罪のない赤ん坊を手に掛けるほど落ちぶれちゃいねぇ。その矜持のために、踏みとどまっている。――誰かが認めるとか、許すとか。あんたには、そんなの関係ねぇんだよ。別にそれでいいじゃねぇか。あんたは、あんただ」
「シュアン……」
……シュアンは見た目とは裏腹に、人の心に敏い。
嘲りの仕草で返されたままになっていたシュアンの両手が、ハオリュウの目には、彼を懐に受け止めるために広げられた腕に思えた。
「じゃあ、あなたは……?」
……どうして、殺してもいいと言い切れるのか?
そう尋ねたハオリュウの顔は、きっと不安の色をしていたのだろう。
シュアンが、にやりと牙を見せた。
「言ったろ? 俺にとって『ライシェン』は『もの』にすぎない。――つまり、生きていようが、死んでいようが、どうでもいい存在なわけだ」
おどけたような口調は、しかし次の刹那に、険しいものへと入れ替わる。
「それと同時に、俺は一国民として、クローンによって無理やり存続している王家に対し、物申したくもある。だから、最後の〈神の御子〉である『ライシェン』を殺して、王家を断絶に追い込むのも、ありだと考える」
「――!?」
ハオリュウは息を呑んだ。
そんな彼に、シュアンが笑う。
「――けど。王位にも就いていない赤ん坊を、先回りして殺したいとまでは思わねぇよ」
「そうですか……」
ハオリュウは安堵した。
シュアンにはシュアンの、自分には自分の思いがある。――それでいいのだ。
大切な年上の友人を見つめ、ハオリュウは笑う。
見るからに胡散臭い、不器用で優しい悪人面。
この顔が、この先ずっと、自分のそばに在るように。
願うのではなく、望みを現実のものとするために、ハオリュウは心に誓う。
彼に、認められる権力者になる――と。
「シュアン。今度の摂政殿下との対面は、さすがに僕ひとりで行くべきだと思います。会食ではなく、もう少し軽いお招きですし、何度も介添えを頼むようでは、軽んじられてしまいますから」
「……そうだな」
ほんの一瞬、シュアンが心配そうに視線を揺らしたのは、きっと気のせいではないだろう。
だから、ハオリュウは席を立ち、執務机を回り込んだ。
もう杖は必要ない。
不自然な動きにはなるものの、自分の足だけで歩くことができる。
軽く目を瞬かせるシュアンの前に立ち、貴族の当主の顔で、ハオリュウは告げる。
「〈蝿〉の遺した記憶媒体によれば、摂政殿下は〈七つの大罪〉の技術とはまったくの無縁です。前回、危惧していたような、僕が操られてしまうような事態は発生しません。純粋に政治的駆け引きとなります」
困惑の表情で、椅子からハオリュウを見上げていたシュアンは、一転して、嬉しそうに三白眼を細めた。それから、ひょいと立ち上がり、ハオリュウの肩に手を載せる。
服の上からでも分かる、ゴツゴツとした感触のシュアンの手。
ハオリュウを支えてくれる、大切な手だ。
そして――。
満足そうに、シュアンが笑う。
「行って来い」
1.波紋の計略-2
車窓の風景が徐々に速度を落とし、やがて白亜の王宮の前で、ぴたりと止まる。
それまで、後部座席で気難しい顔をしていたハオリュウは、慣性による軽い反動を受けると同時に、優しげで人当たりのよい、利発な少年の仮面をかぶった。
王宮を出入りする者たちに軽んじられてはならないが、彼本来の闇を表に出して周りに無用な刺激を与えてもならない。
祖母に降嫁した王女を持つという王族に近い血統にも関わらず、血の半分は平民であるハオリュウは、ただでさえ、好奇の目を向けられる異質の存在なのだ。
それが、未成年でありながらも藤咲家の当主の座に就き、しかも、お飾りではなく、領地の絹産業を盛り立てているともなれば、注目の的である。好印象を保つことは、極めて重要だった。
思わず肩入れしたくなるような、少年ならではの儚さを身にまとい、ハオリュウは車から降り立つ。彼を待っていた案内の者に、礼儀正しく挨拶の口上を述べれば、その者の目尻は下がり、柔らかな微笑みで迎えられた。
「摂政殿下は、藤咲様とお会いできる日を、とても楽しみにされておられましたよ」
そんな和やかな言葉に促され、彼は王宮へと足を踏み入れた。
応接用の一室に案内されたハオリュウは、「しばらく、お待ちください」との言葉と共に、ぽつんと残された。
案内の者は、部屋を出ていく際に『テーブルに飾ってある花器は、最近、摂政殿下が入手されたものなのですよ』と教えてくれた。話題に困ったら、それを褒めればよいのだという密かな助言である。
年若いハオリュウが、国の最高権力者である摂政とふたりきりになるという状況を心配してくれたようだ。平民の血を引く、素朴で善良な少年当主の看板は、どうやらうまく機能しているらしい。
今回の摂政との対面では、美術品を愛でるような、のどかな場面などないであろうが、ハオリュウは無邪気な顔で礼を述べた。彼とて、人の善意は素直に嬉しいのである。
ついでに、この部屋に来るまでの間、足の悪い自分を気遣って、ゆっくりとした歩調で歩いてくれたことに感謝を告げる。すると、案内の者は、滅相もないと恐縮したように深々と頭を垂れ、心なしか嬉しそうな足取りで去っていった。
室内が、ひっそりと静まり、ハオリュウの瞳に年齢不相応の闇が宿る。
いよいよ、これからである。
とはいえ、『相手を待たせる』ことに力関係が表れるため、摂政はすぐには来ないだろう。その間に、ハオリュウは自分の身なりを確認する。
今日の彼は、かちりとした襟の、しかし、格式張りすぎないようにとの趣向を凝らされた伝統衣装姿だった。軽やかに風をはらんで広がる上着の裾は涼しげで、夏向きに織られた絹地の通気性がよく活かされている。角度によって美しい流水文様が浮き立つ様は、実に上品であり、小洒落た感じでもあった。
前回の会食のときと同じく、ユイランに仕立ててもらったものだ。いずれ、摂政からお呼びが掛かることが分かっていたため、少し前に『貴族の当主のよそ行きとして、ふさわしい装いを』と頼んでおいたのだ。
あらかじめ用意しておいて、本当によかったと、ハオリュウは思う。もし、摂政からの招待状が届いてから手配したのでは、現在、草薙家に厄介になっている異母姉に、何かあるのだと感づかれてしまう可能性があった。
……そう。実は――。
ハオリュウは、今日の招待のことをシュアン以外の誰にも教えていなかった。
異母姉メイシアをはじめ、ルイフォンや鷹刀一族の人々に、余計な心配を掛けたくなかったのである。
無論、皆が摂政の動向に神経を尖らせていることは承知している。ハオリュウが招かれたと聞けば、誰もが浮き足立つことだろう。
だからこそ、黙した。
摂政の用向きを窺い、彼の肚の内が見えてきてから伝えるべきだと判断した。
状況がはっきりしないうちから、周りに気を揉ませたくなかったのだ。何より、迂闊に不安の種を撒き散らせば、心優しい異母姉が当のハオリュウ以上に動揺し、心を痛める。
ハオリュウは、それを避けたかった。
心労や緊張は、家を継いだ彼が背負うべきものだ。異母姉にとっての実家は、気掛かりの要因などではなく、心の拠り所であってほしいと願う。
その気持ちの中に、彼はもう小さな異母弟ではないのだと、認めてもらいたがっている幼い心があることは否定しない。
それでも、藤咲家の当主として――あるいは、ひとりの人間として、ルイフォンや鷹刀一族と並び立てるような人物になりたいと望むことは、決して間違いではないだろう。
摂政との話の顛末は、あとで必ず、皆に報告する。
だから、まずはひとりで摂政と対峙する。
ハオリュウは、改めて気を引き締めた。
やがて、扉が開かれた。
戸口に見えた立ち姿から、得も言われぬ雅やかさが漂う。
そこに存在するだけで、匂い立つような貴人。
『太陽を中心に星々が引き合い、銀河を形作るように。カイウォル殿下を軸に人々が寄り合い、世界が回る』――そんな妄言で謳われる、摂政カイウォル、その人である。
ハオリュウは足の悪さを押してソファーから立ち上がり、丁重に腰を折った。
あいにく他の多くの貴族たちとは違って、ハオリュウは、カイウォルの無言の引力に惹き寄せられたりはしないのだが、立場上、臣下の礼を執る必要があった。
「ハオリュウ君、よく来てくださいました。また、君に会えて嬉しいですよ」
毛足の長い絨毯の上を、滑るように優雅に歩を進め、カイウォルは右手を差し出す。ハオリュウは握手に応え、目上の者を尊敬する、従順な笑みを浮かべた。
「此度の殿下のお招き、光栄にございます」
カイウォルの手は陶器のように美しく、そして、冷たかった。
年齢的にはシュアンと同じくらいなのだが、グリップだこで変形した、ゴツゴツと硬い手とはまるで違う。ハオリュウは、自分より、ひと回り大きな掌に呑み込まれないよう、失礼のない程度に自然な動作を心がけつつ、速やかに手を放した。
ふたりが席につくと、数人の侍女たちが茶と菓子を運んできた。
カイウォルは、目を掛けている再従弟を招いての、ごくごく個人的な茶会といった体を取っているらしい。
侍女たちが、茶葉をゆるりと蒸らし、丁寧に美しく菓子を並べ……と、支度をしているため、カイウォルが口を開く気配はない。どう取り繕ったところで、緊張のさなかにあるハオリュウは、焦燥に駆られた。
されど、余裕のなさを見せるのは愚の骨頂。
故に、テーブルの花器に称賛を送るなどして、和やかな空気で間を持たせた。――あの案内の者には、感謝せねばなるまい。
そんなわけで、侍女たちがやっと部屋を出ていったときには、ハオリュウは既に疲れ切っていた。だが同時に、ここまで焦らせたのは、彼から冷静さを奪うための、カイウォルの策略なのではないかと邪推し、ごくりと唾を呑む。
そんなハオリュウの内心に気づいたのだろうか。
カイウォルが意味ありげな視線を送ってきて、ようやく話が始まった。
「初めに、お伝えしておきましょう。この部屋は、完全防音です。また、君との歓談の邪魔をしないよう、使用人たちに申し付けてあります。途中で、誰かが入ってくることはありません」
――だから、安心して、腹を割って話してください。
人を惹きつけてやまない貴人の微笑に、ひと筋の邪悪が混ざり、ハオリュウに無言の圧が加わる。
「お察しだとは思いますが、今日、君に足を運んでいただいたのは、女王陛下の婚約者の件です。本来なら、ひと月前に話を進めるはずだったのですが、こちらの都合で、今まで君を待たせてしまいました」
カイウォルは軽く目を伏せた。
うっすらと眉間に寄った皺が苦悩を示すようで、その表情だけで、ハオリュウとの約束をやむを得ず先送りにしてしまったと、詫びているように見える……が、彼は決して、謝罪を述べてはいない。
「まずは、現状を確認しましょう」
忍ぶような密かな声に、ハオリュウは無言で頷く。
「君もご存知の通り、女王陛下とヤンイェンの婚約は、数ヶ月も前に発表されています。しかし、まだ婚約の儀式を執り行っていないため、ヤンイェンは正式には婚約者ではありません」
そこで、カイウォルは口元を緩め、わざとらしいほどに柔らかな声色を紡ぐ。
「ですから、まだ、どうにか取り返しがつくと……、『恋も知らずに結婚をしたくない』と涙する陛下――いえ、私の妹のアイリーの我儘のため、愚かな兄である私は、君に協力を求めたわけです」
自分の政治的野望のためではなく、あくまでも可哀想な妹のため。そして、ハオリュウには『強制』ではなく、『協力』を頼んでいるのだと、カイウォルは念を押した。
「慣例であれば、もうとっくに婚約の儀式の日取りが決まり、その準備に追われている頃合いです。しかし、アイリーの願いを叶えるため、適当な理由をつけて、結婚に関するあらゆる物ごとを先延ばしにしています」
カイウォルは憂うような溜め息をつき、ゆっくりと頭を振る。
「……ですが、それも、そろそろ限界です。女王の結婚を――ひいては〈神の御子〉の誕生を望む国民たちは、なかなか進まぬ事態に困惑し始めています」
国民が困惑――というよりも、不審に思っていることは、当然、ハオリュウも把握していた。
一説には、長いこと病気静養をしていたヤンイェンが、体調を崩したのが原因だと言われており、そんな病弱では女王の夫としてふさわしくないのではないか、などという声も上がっている。
実のところ、その噂は王宮から意図的に出されたものではないかと、ハオリュウは疑っていた。
ともあれ、この話の進め方からすると……。
――まずい。
ハオリュウの心に、冷や汗が落ちる。
そんな彼の思考を裏付けるかのように、カイウォルの声が重ねられた。
「民を不安に陥れるなど、国政を預かる者として、許されるはずもありません。国民を安心させるために、一刻も早く、女王陛下の婚約の儀式を執り行う必要があります」
――!
つまり、異母姉メイシアの入れ知恵――『喪中を理由に、婚約者の返事を先延ばしにする』という玉虫色の策は使えない。
今までカイウォルが面会を先延ばしにしてきたので、まだ時間に余裕があるのだと錯覚していた。事実、国民の間には、女王はまだ未成年なのだから結婚を急ぐことはあるまい、という声だってある。
しかし、国民の感情など関係ないのだ。『カイウォルが、どうしたいか』の問題にすぎない――。
婚約者の話を受けるか、否か。
今すぐ、この場で、『どちらか』で、答えることが強要されている。
――断れるわけがない。
ハオリュウは無意識に唇を噛んだ。
口の中に血の味が広がって初めて、彼は、はっきりと『カイウォルに対する、激しい憎悪』を自覚した。
視界の端に『森の妖精』の幻が見えた。
両脇で高く結い上げた髪が舞い、絹の髪飾りが風に踊る――。
ハオリュウの瞳に闇が宿り、表情をなくした顔が昏く染まる。
カイウォルが、自分を掌中に収めようとしてくることは分かりきっていた。そして、貴族である彼は、王族に逆らえないことも……。
籠の鳥だ。
もとより、貴族の嫡男として生まれ、現在は当主である彼に、自由などないのだ。
聡明な彼は、幼いころからよく理解していた。
平民を後妻に迎えた父は、愚かだと。
貴族にあるまじき行為を働き、両親は周りから爪弾きにされていた。
蔑まれる父を見下し――。
……本当は、憧れていたのだ。
「ハオリュウ君」
雅やかな声が、そっと囁かれた。
燦然と輝く美貌が、うつむいたハオリュウの顔を覗き込み、強引に照らし出す。カイウォルの光がまばゆいほどに、ハオリュウは陰りを帯び、深く沈み込む。
「どうか、アイリーのために、婚約者を引き受けてください」
「…………はい」
ハオリュウは顔を上げ、血のにじむ唇で答えた。
『――喜んで』と続けるべきところを沈黙したのは、せめてもの矜持だ。
「ああ、ハオリュウ君。さすが、私の見込んだ人です。君ならきっと、引き受けてくれると信じていましたよ」
傷ひとつない、作り物めいた笑顔で、カイウォルが胸を撫で下ろす。
ハオリュウは固く拳を握りしめ、この国の最高権力者の顔を正面から見据えた。
個人的にどんなに屈辱を覚えようとも、藤咲家の当主としては、これは正しい選択だ。恥じることは何もない。
そのとき――。
唐突に、カイウォルが顔を曇らせた。
ハオリュウが怪訝に首をかしげると、カイウォルは溜め息をつきながら肩を落とす。
「せっかく、君の協力を得られたというのに、私は残念な報告をしなければなりません」
淡々とした声は変わらずに美しく、しかし、上品にしかめられた眉には怒りがにじむ。
「あなたにもお見せした〈神の御子〉――『ライシェン』が奪われました」
ハオリュウは息を呑んだ。
てっきり、カイウォルは、『ライシェン』が手元にないことをハオリュウに隠したまま、婚約者の話を進めるものと思っていた。
何故、正直に明かすのだ?
ハオリュウは、にわかに混乱する。
「殿下……。それでは、私が婚約者になるわけにはいきません。〈神の御子〉の『ライシェン』の誕生が保証されているからこそ、平民の血を引く私を婚約者にできる、というお話だったはずです」
「ええ、『私たち』には、『ライシェン』が必要です」
共犯者の目で、カイウォルは『私たち』という言葉を使った。ハオリュウは、腹の底から憎悪が膨れ上がってくるのを必死に抑え、黙ってカイウォルの次の句を待つ。
「犯人の目星はついています。それで、この前、近衛隊を出動させたのですが……、良い結果を得られませんでした」
鷹刀一族の屋敷の家宅捜索の件を言っているのだろう。エルファンに対する事情聴取のことも含まれているかもしれない。
しかし、どうして、それを今、ここで言うのか?
ハオリュウの心臓が警鐘を鳴らす。
「『ライシェン』を奪ったのは、鷹刀一族ですよ」
包み隠さず出された名前に、ハオリュウの肩が、びくりと揺れた。
「これから、『私たち』は協力して、鷹刀一族から『ライシェン』を取り戻さなければなりません」
雅やかな仕草で、カイウォルがゆっくりと腕を組む。
その口元は、うっすらと微笑んでいるように見えた。
「鷹刀一族は、君にとって因縁深い相手。君の姉君――メイシア嬢を誑かし、自殺に追い込んだ男の一族です」
「…………」
「君にとって、姉君の仇とも言える憎き一族ですが……、その縁故のために――」
「……?」
微妙な言い回しに、ハオリュウが眉を寄せたのと、カイウォルの口角が上がったのは同時だった。
「――君ならば、彼らと接触することは可能でしょう?」
1.波紋の計略-3
カイウォルの言葉が、ぐるぐると脳裏を渦巻き、ハオリュウは目眩を覚えた。
「貴族の令嬢であった君の姉君と、薄汚い凶賊の男が、どのようにして出逢ったのかは存じません。しかし、事実として、メイシア嬢は、鷹刀一族総帥の庶子、ルイフォンと恋仲でした」
微笑みを絶やさぬまま、奈落のような黒い瞳が、じっとハオリュウを捕らえた。抗うことのできぬ、重力が如き威圧に、ハオリュウは戦慄する。
「この春、縁談の持ち上がったメイシア嬢は藤咲家を飛び出し、鷹刀一族の屋敷に逃げ込んだそうですね。藤咲家は『メイシア嬢が誘拐された』と、警察隊に出動を要請し、彼女を取り戻したとか。――その現場に、ハオリュウ君、君もいたと聞いていますよ」
「……」
警察隊が鷹刀一族の屋敷を取り囲んだとき、ルイフォンとメイシアは、まだ本当は恋仲ではなかった。けれど、窮地に陥った鷹刀一族を救うため、メイシアはルイフォンに口づけた。
そのとき、ハオリュウも、異母姉の計略の成功に一役買った。彼女に話を合わせ、あたかも、ふたりが以前からの恋人同士であるかのように振る舞ったのだ。
あまり外聞のよろしくない一幕であるため、ハオリュウとしては金に物を言わせてでも、闇に葬り去りたかった出来ごとである。しかし、衆人環視の中でのこと、人の口に戸は立てられぬ。故に、彼は、この件を異母姉を『死者』にするための理由付けに利用した。
すなわち。
結局、身分違いの恋は引き裂かれ、無理やりに終止符を打たれた。そして、叶わぬ想いに悲観したメイシアは、渓谷に身を投げた――と。
カイウォルは、ハオリュウが捏造した『メイシアの死に様』を含み置いて、鷹刀一族は『君にとって、因縁深い相手』だの、『メイシア嬢を自殺に追い込んだ男の一族』などと罵ったのだ。
だが、カイウォルは、メイシアが本当は生きていることを知っている。
彼女がルイフォンのもとにいることは調べてあるだろうし、そのようにハオリュウが手を尽くしたことにも気づいている。
ならば、ハオリュウが、鷹刀一族と懇意にしていることも分かっているはずだ。
そう思った瞬間、先ほどのカイウォルの言葉が蘇る。
『君ならば、彼らと接触することは可能でしょう?』
ハオリュウは短く息を呑んだ。
カイウォルが、ハオリュウを手駒にと望んだのは、鷹刀一族に近づけるからだ。
大華王国一の凶賊である鷹刀一族は、なかなかに厄介な相手だ。正面から切り込むのは難しい。
だから、搦め手で攻めることのできる、ハオリュウを欲したのだ。
女王の婚約者という地位を提示したのは、いろいろと都合がよかった、くらいの理由なのだろう。
ハオリュウの気づきを裏付けるかのように、カイウォルが告げる。
「ハオリュウ君。『私たち』が『ライシェン』を取り戻すために、鷹刀一族に探りを入れてください」
涼しげな声に、ハオリュウの心が毛羽立つ。
けれど、カイウォルは淡々と言を継ぐ。
「鷹刀ルイフォンであれば、メイシア嬢の異母弟である君の呼び出しに応えてくれるでしょう。彼から、うまく『ライシェン』の隠し場所を聞き出してください」
近衛隊はダミーの壁に騙されて『ライシェン』を見つけることができなかった。
闇雲に探しても埒が明かない。だから、ハオリュウを内偵にしようというわけだ。
「君ならできると、信じていますよ」
畳み掛けられた言葉が、ハオリュウに強烈な圧を掛け、無理やりにでも頷かせようとする。まるで、カイウォルが自在に重力を操っているかのようだ。
貴族は、王族の命には逆らえない。
しかも、カイウォルは、『私たち』という言い方で、同志であるのだと念を押した。
「……っ」
それでも――。
ハオリュウには、従順に首肯することはできなかった。
硬い顔で唇を噛み、ごくりと唾を呑む。
カイウォルへの不満にも取れるが、難題に立ち向かうことへの緊張にも見える仕草。どうにでも解釈でき、どうにでも弁明できる態度だ。――かろうじて。
固く握りしめた拳が、白くなる。個人としてのハオリュウと、藤咲家の当主としてのハオリュウがせめぎ合う。
……この場を辞したあと、いったい、どうすればいいというのだろう?
「君は、本当に賢いですね」
ふわりと、柔らかな声が落とされた。
はっとして視線を上げれば、黒髪黒目でありながら、あたかも太陽のような輝かしさで、カイウォルがハオリュウを包み込む。
「私がひとこと言うだけで、君はすべてを理解してしまう。平民の血を引いているからと、君を軽んじていた過去の自分を叱咤したいところですよ」
「殿下……?」
純粋な疑問から、ハオリュウの眉間に皺が寄った。ハオリュウなどを褒めはやしたところで、カイウォルには、なんの益もないはずだ。
「君とアイリーとの結婚はさておき、君には、私の片腕として、国政に尽力してくれたらと願ってしまいます」
「……それはあまりに、もったいないお言葉です」
カイウォルの真意が読めず、ハオリュウは戸惑いながらも頭を垂れる。
「本心ですよ」
この国の最高権力者である貴人は、不可解な微笑を浮かべただけで、ハオリュウに納得できる答えを与えてくれたりはしなかった。
カイウォルは、優雅に手を伸ばし、テーブルの上のカップを取る。
「ハオリュウ君、お茶をいただきましょう。こちらの菓子も、珍しいものなのですよ」
そして、今までのやり取りが幻だったかのように、和やかな茶会へと移っていった。
ハオリュウが暇の挨拶を告げたとき、ふと思い出したかのようにカイウォルが尋ねた。
「そういえば、足の具合いは、もうよろしいのですか?」
何故、今ごろ訊くのだ?
違和感、そして、本能的な嫌悪を感じる。
困惑を覚えつつも、臣下の身で気遣いを賜ったことを感謝すべく、ハオリュウは少年当主らしい、素直な喜びを全面に出した顔を作った。
「ええ、おかげさまで。こうして、杖がなくとも歩けるようになりました」
「そうですか。それはよかったです」
カイウォルの言葉の意図を測りかね、ハオリュウは内心で首をかしげる。
ハオリュウが婚約者として女王の隣に立ったとき、車椅子や杖では格好がつかないと憂慮していたのだろうか。
絶世の美少女である女王に対し、ハオリュウは、あまりにも平々凡々としている。しかも、三歳も年下では頼りなげに見えるだろう。
だから、せめて壮健であることを国民にアピールしてほしい。病弱を理由に、ヤンイェンを婚約者の座から下ろす予定なのだから。――そんなふうに考えていたのだろうか……?
ハオリュウの思索をよそに、カイウォルが再び口を開いた。
「以前の会食のときは、車椅子を押してもらっていましたからね」
「ええ……」
ハオリュウは促されるように相槌を打つ。
あのときは、足の不自由を口実にシュアンに付き添ってもらい、その裏側で、ルイフォンとリュイセンによる〈蝿〉捕獲作戦が動いていた。
そんなことを思い出していると、柔らかな声が、すっと忍び寄る。
「介添えの彼は、息災ですか?」
「!?」
カイウォルが、シュアンのことを口にした!?
何故、国の最高権力者が、一介の従者について尋ねる?
ハオリュウにとってシュアンは大切な友人だが、カイウォルの前でのシュアンの役割は、ただの使用人だったはずだ。
「羨ましいほどの忠臣ぶりでした。彼を大切にするとよいでしょう」
雅やかな微笑が、ハオリュウに向けられる。好意的な言葉であるにも関わらず、ハオリュウの肌は、ぞくりと粟立った。
「また、お会いできる日を楽しみにしていますよ」
蠱惑の旋律に見送られ、ハオリュウは王宮をあとにした。
王宮からの帰途、ハオリュウは車の中で、ぐったりとしていた。
シートにもたれ、何気なく窓の外を見やる。よく晴れた夏の日の午後、硝子の向こうの世界は眩いばかりに輝いていた。
ハオリュウは、同乗の護衛に窓を開けるよう頼んだ。車内は空調が効いていたが、それよりも自然な外の空気を吸いたかったのだ。
息苦しかった。
そして。
生き苦しかった。
吹き込んできた風が前髪を巻き上げ、ハオリュウは軽く目をつぶる。
涼を取りやすいようにと、ユイランがやや広めに仕立ててくれた襟元から、気ままな風が通り抜けていく。風をはらんだ絹地が肌を滑り、王宮での嫌な汗を洗い流してくれる気がした。
姉様とルイフォンに、連絡を取らないとな……。
心の中で呟き、ハオリュウは奥歯を噛みしめる。
自分ひとりの力で、対処できると思っていた。勿論、カイウォルとの顛末は、異母姉たちに報告するつもりだったが、相談するようなことは何もないと考えていた。
「……」
ハオリュウは、女王と結婚したいわけではない。だから、『ライシェン』は行方不明のままのほうが都合がよい。
だからといって、『鷹刀ルイフォンから『ライシェン』の隠し場所を聞き出すことは、できませんでした』が、まかり通るわけがないだろう。
……とりあえず、シュアンに話そう。
ひとりで行くというハオリュウを満足そうに送り出してくれたくせに、シュアンは今日、職場に休みを申請していた。『摂政の用件を早く知りたいからだ』と言っていたが、本当はハオリュウを心配してのことだろう。
だから、シュアンは、藤咲家の屋敷で待っている予定だった。
しかし、昨日になって急に、上官から『明日、勤務態度について話がある』と、休暇の取り消しを言い渡されたそうだ。『解放されたら、すぐに藤咲家に向かう』と連絡をくれた。
「…………」
ハオリュウは、重い溜め息を落とした。
なるべく早く、シュアンに来てほしいと願ってしまうのは、甘ったれた思いだろうか……?
夏の陽は長い。
太陽が地平線へと沈んだあとも、取りこぼされた光の残滓が、ほの赤く広がっている。
けれど――。
最後のひとかけらの光が夜に吸い込まれても、シュアンは現れなかった。
彼の携帯端末への連絡は、既に何度も入れていた。しかし、いっこうに返事はなかった。
夜闇に包まれた書斎で、ハオリュウは、執務机に置かれた携帯端末をじっと見つめていた。
電灯は点けていない。
暗くなってきたときに立ち上がるのが億劫だったため、そのままにしていたら夜になってしまったのだ。
食欲がなかったので、夕食は断った。
ひとりになりたいからと、人払いをした。
不意に――。
闇を切り裂くような呼び出し音と共に、携帯端末が光を放った。
ハオリュウは飛びつくようにして電話を取る。
『ハオリュウ?』
鈴を振るような、澄んだ響き。
シュアンの濁声ではない。異母姉のメイシアだ。
「姉様? ……どうしたの?」
『ハオリュウ、落ち着いて聞いて!』
異母姉らしくない険しい声だった。『落ち着いて』と口にした彼女のほうが、よほど慌てていた。
「何かあったんだね? ゆっくりと説明――……」
胸騒ぎを覚えつつも、努めて平静を保とうとするハオリュウの努力を台無しにするかのように、メイシアの叫びが重ねられる。
『今、ルイフォンの情報網で……。緋扇さんが……!』
「――シュアンが!?」
『殺されてしまう……!』
「……どういう……こと……?」
『逮捕されたの。罪状は――厳月家の先代当主の暗殺』
「!」
冤罪ではない。
事実だ。
シュアンは、厳月家の先代当主を殺している。
ハオリュウが依頼したのだ。
父の仇だった。愚かな厳月家の先代当主は、〈蝿〉の甘言に乗って、父を自分の〈影〉にした。
〈影〉は〈七つの大罪〉の技術。存在しないはずのもの。
故に、厳月家の先代当主が罪に問われることはない。
――否。罪に問われるかどうかの問題ではない。
父を死に追いやった厳月家の先代当主が憎かった。
ハオリュウは許せなかった。
だから、『俺の手は、あんたの手だ』と言ってくれたシュアンの手を使って……――殺した。
すすり泣くようなメイシアの声が、ハオリュウの耳朶を打つ。
『もっと詳しい情報を、って……、ルイフォンが今、頑張っている。――けど……、貴族の当主を殺害したら……。……緋扇さんの極刑は……免れない……!』
シュアンが死ぬ。
まるで、鈍器で頭を殴りつけられたかのような衝撃が走った。
あらゆる感覚が麻痺し、すべてが現実味を失う。
「嘘だ…………」
その言葉は反射的なものだった。
嘘であってほしいとの――願いだった。
そのとき、ハオリュウの耳の中で、昼間のカイウォルの声が木霊した。
『介添えの彼は、息災ですか?』
『彼を大切にするとよいでしょう』
ハオリュウは、はっと息を呑む。
つまり。
シュアンを助けたければ、『ライシェン』の情報を売れ。
2.枷鎖に囚われし運命-1
それは、昨日のこと。
緋扇シュアンは、上官から「勤務態度について話がある」と呼び止められた。
いつものように、その場で小言が始まるのかと顔をしかめたら、「上層部の人間が、直々に注意をするから、明日は必ず、出勤するように」との沙汰だった。
翌日は、ハオリュウが摂政に招かれて、王宮に赴く日である。
摂政の用件など、どうせ碌なものではないだろう。だから、せめて労いのひとことで帰りを迎えてやろうと、シュアンは藤咲家で待機するために休暇を申請していた。無断欠勤の常習犯の彼にしては珍しく、前々から、きちんと手続きを踏んでのことである。
「明日は、俺、有給を取得しておりますが?」
シュアンが、そう言って三白眼を吊り上げたのは、当然の帰結といえるだろう。
しかし、上官は「休暇なんぞ、取り消しに決まっておる」と一笑に付した。無視したら免職だと、言外に告げていた。
実のところ、シュアンとしては、免職になっても一向に構わなかった。むしろ、こんな腐った警察隊とは、さっさと縁を切りたいところである。単に、他でもないハオリュウが、彼とは雇用主と使用人ではなく、対等な友人として在りたいと願ったから、続けているだけにすぎない。
ふむ、と。シュアンは思案した。
この機会に上層部の機嫌をわざと損ね、めでたく警察隊から、おさらばするのもありだな――と。
だから、言われた通りに呼び出しに応じた。
それが罠などとは、微塵にも疑っていなかった。
呼び出された部屋で、シュアンは、いきなり複数人の警察隊員たちに取り囲まれた。
「緋扇シュアン。お前が貴族の厳月家、先代当主を暗殺したとの情報が入った」
そう言われたのと、腹に拳を打ち込まれたのとでは、どちらが先だったかは分からない。
彼に一撃を喰らわせた隊員は、たいそう体格のいい男だったため、中肉中背とはいえ、大の男であるシュアンの体が軽々と吹き飛んだ。受け身を取ることも叶わず、そのまま床に叩きつけられた彼は、腹を押さえて消化の途中だった昼食を吐き戻す。
状況を理解することも、それどころか、胃から逆流したものを出し切ることすらも許されず、彼は胸ぐらを掴まれ、顔面を殴られた。
口の中に血の味が広がった。再び床を転がった彼に幾つもの影が迫り、殴る蹴るの暴行が加えられる。
抵抗する余裕などなかった。一方的に痛めつけられ、ぼろ雑巾のようになった彼は、手錠を掛けられ、囚われの身となった。
警察隊員であるシュアンは、貴族を殺害した自分が、どこの監獄に連れて行かれるのか、教えられなくとも知っていた。そして今、その推測を違えることなく、むき出しのコンクリートの廊下を歩いている。
湿気が多く、かび臭さが鼻についた。時代錯誤の鉄格子が見えてきて、あの独房に入れられるのだな、という実感が湧いてくる。
人間を収容する空間として、およそ近代的とは思えぬ造りの牢にあるのは、死刑囚を繋ぐための鎖だけだ。まともな裁判もなく、処刑の日を迎えるまでの数日から数週間を過ごすためだけの場所に、極めてふさわしい設備といえよう。贖罪も更生も必要なく、投獄から受刑までのごく短期間しか使われない監獄であるためか、他の囚人の気配は希薄だった。
鉄格子の扉が開けられ、シュアンは背中を蹴り飛ばされた。壁からの鎖に繋ぎ替えるため、牢の中で手錠を外される。その際、粗末な囚人服に着替えるようにと命じられた。確かに、罪人が警察隊の制服を着たままでは可笑しかろう。
暴行による痛みに顔を歪ませながら、シュアンは気だるげに動く。言われるがままに、きびきびと従う義理などないからだ。
骨は折れていないと思うが、どうせ、そのうち五体満足ではいられなくなる。四肢が斬り落とされても仕方があるまい。この監獄は、そういうところだ。そもそも、生命が風前の灯なのだ。肉体の部位の心配など、馬鹿馬鹿しい。
シュアンの腹は、不思議なほどに据わっていた。乾いた唇の上には、皮肉げな笑みさえ浮かんでいる。
彼としては溝鼠を一匹、始末しただけである。ただ、それが貴族という服を着ていれば、いずれ命取りになる可能性があることは充分に承知していた。だが、もとより彼の手は、数多の他人の血で真っ赤に染まっている。端から平穏な最期など、望んでいない。『穏やかな日常』ほど、彼に似つかわしくないものはないだろう。
いつかは、こうなる予感がしていた。
……けれど。
警察隊の徽章の付いた上着から腕を抜いた瞬間、柄にもなく哀愁がよぎった。
――こんな形で脱ぐことになるとはな……。
子供のころから憧れていた制服は、見てくれだけの正義の味方を作り上げていただけにすぎなかった。それを知ったのは、とうの昔のことだ。
――ああ、でも。ひとりだけ違ったな。……なぁ、ローヤン先輩?
大切な人の顔が浮かぶ。
懐かしい声が心に響き、制服をなくした肩に、あの手の重さが蘇る。石の床に落ちた徽章を瞳に映し、シュアンは思う。
正義とは与えられるものではない。自分の内側にあるものだ、と。
――先輩。俺は、間違っちゃいねぇと思うんです。
シュアンの罪状は、貴族の暗殺。
ハオリュウに依頼されたからではあるが、厳月家の先代当主は、私利私欲を貪る、討つべき『悪』であった。
――後悔なんかしていません。『不可逆』だと知っての上です。
シュアンの手は引き金を引いた。引くべきだと思ったからだ。あの少年当主の無念を晴らさずにはいられなかった。
――先輩。鉄砲玉となって、あなたのもとへ逝く俺を許してください。……俺は、俺の正義を貫きます。
そっと顔を伏せ、誰にも見られないように密やかに、ぎらりと三白眼を光らせる。
――俺は、あいつを守ります。
シュアンには敵が多い。恨んでいる人間は、山ほどいるだろう。だが、『厳月家の先代当主の暗殺』を理由に彼を捕らえたからには、彼の問題ではないのだ。
目的は、『ハオリュウを陥れること』だ。
では。
誰が、この情報を流したのか――?
飛ぶ鳥落とす勢いのハオリュウを失脚させたい、他家の貴族か?
――違うな。
彼は、嘲るように口の端を上げた。
考えるまでもない。摂政の仕業だ。
ハオリュウが王宮に呼ばれたのと同日に、シュアンが囚われたのだ。符丁が合いすぎるだろう。どうやって調べたのかは不明だが、摂政は、会食の際にハオリュウの介添えとして同行した『眼光の鋭い切れ者』が、シュアンであると気づいたのだ。
摂政が裏で糸を引いているのであれば、シュアンの役割は、ハオリュウを意のままに動かすための人質だ。
シュアンの心が、ぞくりと粟立つ。
――摂政は今日、ハオリュウを王宮に呼び出して、いったい、なんの話をしたんだ?
そのときだった。
「おい、何をぐずぐすしている? さっさと着替えろよぉ!」
着替えの手が止まっていたシュアンに、怒号が飛んだ。
思考を妨げられ、シュアンは不快げに鼻を鳴らす。しかし、囚われの身で逆らっても仕方がない。上着に続いて、のろのろとシャツを脱いだ。
素肌が外気に晒される。その刹那、背中に鞭が打たれた。
「!?」
皮膚が裂け、血が滲む。
「グズには、口で言っても無駄だからよぉ」
鞭を片手に下卑た嗤いを浮かべているのは、シュアンをここまで連行してきた警察隊員ではない。この監獄の看守だ。シュアンの肌が露出される瞬間を狙いすまし、鞭を走らせたのだ。
「……」
この監獄は、こういうところだ。
刑の執行の前に、牢の中で囚人が息絶えていることも珍しくない。
何故なら、ここは死刑囚の集められる場所。足を踏み入れた時点で、死が確定している。ならば、命の灯火が消えるのが少しくらい早まったとしても、なんの問題もなかろう。――というのが、この監獄の看守たちの共通の見解だからだ。
看守は慣れた手つきで鞭をしならせ、シュアンの背中を幾度も打ちつけた。愉悦に浸りきった目つきは、肌に描かれていく赤い傷跡を芸術的な線描画と履き違えているらしかった。
警察隊の中でも特にイカれた連中が、この監獄の看守になるという。必要に応じて、尋問という名の拷問を請け負っているためだろう。
鉄格子の向こうでは、シュアンを拘引してきた警察隊員たちが、いつの間にか踵を返していた。無事に引き渡しが終わったため、職場に戻るのだ。その後ろ姿は脅えたように丸かったり、嘲るようでいて不自然に硬かったりと、それぞれであったが、どれも共通して、この監獄の狂気とは関わるまいと急いていた。
観客が消えても、看守は変わらず、嬉々としてシュアンを嬲る。鋭い痛みに、シュアンのぼさぼさ頭がのけぞった。
「おいおい、まだ、そいつに枷をつけてねぇじゃねぇかよ。暴れだしたら危ねぇだろ」
鞭を振るう看守とは、別の看守が声を上げた。何が可笑しいのか、にたにたと口元を緩めながら、鎖の付いた枷を運んでくる。
「そいつ、狂犬なんだろう? しっかり、鎖で繋いでおかねぇとよ」
「……」
その通り。
シュアンも『狂犬』と呼ばれた狂人だ。自分の撃った弾丸で、腐った悪党の死体が積み上げられていくのが、愉しくてたまらなかった。一発ごとに、世界が浄化されていく気がしていた。
どんなに命乞いをされても、シュアンは眉ひとつ動かさずに、無慈悲に一発で仕留めた。だが、それは、ある意味で慈悲深かったのかもしれない。少なくとも、彼は相手が苦しむことを悦んだりはしなかったのだから。
鎖を引きずる音がコンクリートの床を這い、じゃらじゃらと不吉に響く。
これから文字通り、獄に繋がれる。しかし、シュアンの心に恐怖などなかった。彼の内部を占めていたのは、まず間違いなく窮地に陥るであろうハオリュウを如何にして守るか、の一点のみ。
シュアンとハオリュウの結託が明るみに出るのは、どう考えても避けるべきだ。
ならば、シュアンは別の者に暗殺を命じられたという、偽のシナリオを作ればいい。
では、どのような筋書きにするのがよいか――。
シュアンが思考を巡らせている間にも、看守たちは、にたにたと狂人の笑みを浮かべながら近づいてきた。やがて彼の手足は掴まれ、ひやりとした感触と共に、四肢の自由が奪われる。壁から伸びた鎖が短く巻き取られ、彼の体は牢の壁に磔にされた。
その刹那、シュアンは大音声を張り上げ、引きつったような情けない叫びを発した。
「お、俺は、もと上官に騙されただけだ!」
大きく見開いた三白眼を血走らせ、必死の形相で訴える。
「覚えていないか!? この春、凶賊の鷹刀一族が、貴族の令嬢を誘拐したという事件があっただろう! それで令嬢を助けるために、警察隊が鷹刀一族の屋敷に突入した。あのときの指揮官が、俺のもと上官で!」
「はぁ?」
看守たちは、ぐっと顎を上げ、小馬鹿にしたように、あるいは挑発するように、シュアンを鼻で笑った。
彼らは慣れているのだ。この監獄に入れられた罪人は、どいつもこいつも自分の立場を理解した途端に、命乞いをする。だから、シュアンもまた同様に、鎖に囚われたことで自分に命がないことに気づき、弁明を始めた――と解釈したのだ。
どんなに懸命に言葉を重ねても、この牢まで来てしまえば、運命は変わらない。だのに、唾を飛ばすシュアンの姿が、看守たちには滑稽で堪らなかったのだろう。もっと喚け、泣き叫べと、まるで美酒に酔ったかのように、恍惚とした表情で口の端を上げた。
「あの事件は、斑目一族と厳月家の陰謀だったんだ! 奴らは、それぞれのライバルを蹴落とすために手を組んだ。俺のもと上官が、仲を取り持ったんだ!」
シュアンは勿論、看守たちがまるで彼を相手にしていないことを承知している。
それでいい。
むしろ、真剣に耳を傾けられたら困る。舌先三寸のでっち上げだ、必ずボロが出る。まともに取り合わないでいてくれたほうが、かえって都合がよい。
「けど途中で、斑目一族と厳月家が仲違いした。斑目一族は怒り狂って、仲介した俺のもと上官に、責任を取って厳月家の当主を始末しろと言ってきたんだ。それで、もと上官は、俺を騙して、捨て駒に!」
「ほおぉ? なるほど、なるほど」
からかうように、看守のひとりが合いの手を入れた。
嘲弄の態度は明らかであったが、シュアンは、あたかも救いの手が差し伸べられたかのように目を輝かせて畳み掛ける。
「俺は、悪くねぇんだ! 斑目一族が悪いんだ! けど、そもそも、厳月家の先代当主だって、同じ穴の狢だ! あいつら皆、悪党なんだよ!」
シュアンの狙いは、斑目一族と厳月家が『悪』であると主張すること。そして、厳月家の先代当主暗殺は、斑目一族の指示によるものだという構図を作り出し、警察隊の公式記録に残すこと。――そうすることによって、ハオリュウを暗殺から遠ざける。
「俺は騙されただけだ! 糞ぉ! 俺は悪くねぇぞ! はめられただけなんだよ!」
外れるわけもない枷から逃れようとするかのように、シュアンは身をよじらせ、がしゃがしゃと鎖を鳴らした。哀れな声で取り乱し、半狂乱になって唇をわななかせる。――我ながら、なかなかの名演技だと、内心でほくそ笑みつつ。
「そりゃあ、不幸だったなぁ」
看守たちは粘つくような瞳でシュアンを見やり、どっと笑った。
そして、おもむろに看守のひとりが近づいてきたかと思ったら、太い腕を振るい上げ、シュアンの腹に拳を叩き込む。
「……ぐっ」
磔のシュアンは、どこにも衝撃を逃がすことを許されず、重い一撃をまともに食らった。鞭打たれて血まみれの背中が冷たい壁にこすりつけられ、ざらつくコンクリートに鑢を掛けられる。
だが、看守の暴行はそこで止まらず、続けて、シュアンの顔面を思い切り殴りつけた。その勢いに、彼の体は吹き飛びそうになるが、短く巻かれた鎖が軋みを上げてそれを阻む。
三白眼が飛び出さんばかりに顔が歪み、鼻血が吹き出した。食べ物とも胃液とも判別できぬものを吐瀉したのは、決してシュアンの演技ではない。
「な、何を……する……! 俺が……何をしたって……」
「貴族の当主を撃っちまったんだろぉ? 警察隊員のくせによぉ?」
「……」
「馬鹿だなぁ、凶賊を殺っている分にゃあ、上層部も文句はねぇだろうがよぉ。貴族を殺っちまう、ってのはなぁ。――まぁ、狂犬じゃあ、仕方ねぇか」
へらへらと笑いながら、看守たちはシュアンを嬲る。この監獄では、それが許されている。否、それどころか、この狂気こそが、ここの看守に求められている資質なのだ。
「た、助けてくれっ……! 俺は、もと上官が言った通りに……!」
「ああ、そういえば、お前は上官の腰巾着だ、って聞いたことがあるなぁ!」
嘲笑とともに、鞭が振るわれた。
彼らを喩えるなら、虫けらを玩具にして遊んだことを忘れられない、大きな子供だ。成長して自身の体が大きくなり、それに伴い、小さな虫では飽き足らずに、人間を相手に嗜虐性を発揮する。
「やめてくれぇ……!」
シュアンが哀れな悲鳴を上げる。
その声が、看守たちをより一層、興奮させる。
彼らは殊の外、罪人たちが藻掻く様を好む。幼稚な残虐性で、抵抗できぬ相手をいたぶることに歓喜する。
すなわち、どんなに暴行を振るわれようが、されるがままに沈黙を保つ囚人よりも、哀れな声で無様に命乞いをする者のほうが、この独房内での死亡率は圧倒的に高い。――シュアンはそれを知っていた。
そして、それこそが、シュアンの狙い。
彼は、看守たちに嬲り殺しにされることを望んでいた。
虚偽の自白をし、ハオリュウとは無関係を装ったところで、摂政は彼らの結託を確信している。シュアンの命と引換えに、無理な要求を突きつける肚だろう。
囚われのシュアンは、生きている限り、ハオリュウの枷となる。
だから、シュアンは自身に『死』を呼び寄せる。
あの温厚そうに見えて気性の荒い少年当主が、意志を曲げて摂政の言いなりにならずに済むように。
確かに、シュアンは『今はまだ、獅子身中の虫でもいいさ』と、ハオリュウに言った。だが、それはハオリュウが自らの計略のもとに、行動を起こした場合のことだ。無理やり従わされるのでは、まったく事情が異なるのだ。
警察隊の腐敗の実情を知らぬ、雲上人の摂政は、看守による死刑囚の嬲り殺しが日常茶飯事などと、夢にも思うまい。自分が許可を出すまでは処刑は行われず、この獄中に繋いでさえおけば、シュアンの命は掌中にあると信じているはずだ。
しかし、気づいたときには、人質は死んでいる。
いい気味である。
――一介の平民にすぎないこの俺を、ハオリュウに対して、有効な人質と判断するとは。いやはや、さすが天下の摂政殿下。お目が高いことだ。
顔には出さず、皮肉げに嗤う。
だが事実として、シュアンが囚われれば、ハオリュウは動揺するだろう。平民なんぞ切り捨てればいい、という発想は、あの甘い坊っちゃんにはない。
――貴族のくせに……。
看守に殴られ、青黒く腫れ上がった三白眼が細められる。
今の事態は、のこのこと上層部からの呼び出しに応じた、シュアンの落ち度だ。ハオリュウの王宮行きと同日、という符丁を疑って掛かるべきだったのだ。
――すまんな、ハオリュウ。
どんなに頭が切れたとしても、ハオリュウはまだ、十二歳の少年だ。どこか危うさの残る彼を守ろうとする人間が、ひとりくらいいてもいいだろうと思っていた。
――俺は、あんたの枷になりたくねぇんだよ。
ハオリュウの命による、厳月家の先代当主暗殺は事実だ。
摂政に嗅ぎつけられた以上、この枷鎖はハオリュウに永遠についてまわる。強請られ、従わされ続けることになる。
だから、シュアンはここで、『斑目一族に依頼されて、厳月家の先代当主を暗殺した犯人』として果てることを選ぶ。
犯人は逮捕され、黒幕を吐いて死亡する。
そして、事件は綺麗に解決する。蒸し返す余地など、ないくらいに。
ハオリュウは、清廉潔白なままに。
罪は、シュアンがひとりで背負って逝く。
2.枷鎖に囚われし運命-2
シュアンが意識を失いそうになるたびに、看守たちは水道のホースを手に取り、顔面に向かって勢いよく放水した。叩きつけるような水流に、傷だらけの体がのけぞり、四肢の鎖が軋みを上げる。ぼさぼさ頭は濡れそぼち、まるで別人の様相で水を滴らせた。
「――っ」
夏とはいえ、陰湿なコンクリートで閉ざされた空間の水は、刺すように冷たかった。冬であったら、あっという間に凍えていたことだろう。
「俺は……悪くねぇ……。斑目一族が……上官に……指示……。俺は……騙され……」
シュアンは壊れた機械人形のように、同じ台詞を繰り返す。
声を出すために息を吐くと、胸に鋭い痛みが走った。磔にされているため、触って確認することはできないが、肋骨が何本か折れているようだった。
肺や心臓にまで損傷が及べば、めでたく、この世とおさらばできる。
こみ上げてくる笑いを抑えようと、不自然な呼吸をすれば、更なる激痛がシュアンを襲った。これは本格的に大血管でも破裂したかと、彼は歓喜に震える。
思い通りにことが進み、シュアンは愉快でたまらなかった。決して楽な最期ではあるまいに、彼は満足気に口角を上げる。
そして、三白眼を巡らせる。殴打によって片目の瞼が腫れ上がり、隻眼の視界は歪んでいたが、監視カメラの存在は、しかと捉えられた。
卑劣な摂政は、看守が人質を嬲り殺しにしても、その死を隠してハオリュウを脅迫しようとするだろう。
だが、心配は要らない。
シュアンの死は、確実にハオリュウに届く。
ルイフォンが――『情報屋〈猫〉』が伝えてくれる。
〈猫〉がシュアンの逮捕を知るのは、時間の問題だろう。そして、今までの〈猫〉の行動を考えれば、彼は間違いなく、監視カメラを支配下に置く。すなわち、シュアンの状況は筒抜けになるという寸法だ。
故に。摂政はシュアンの死を隠蔽できず、ハオリュウは摂政に従わない。
〈猫〉の持論の通り、『情報を制する者が勝つ』というわけだ。
〈猫〉は――ルイフォンは、必ずやハオリュウの力になってくれる。
何も、心配は要らない。
――頼んだぞ、ルイフォン。
シュアンは瞳を閉じ、口元を緩めた。
皮下出血をしているのだろうか。急速に血の気が失せていくのを感じる。それに伴い、全身から力が抜け落ちた。枷によって、かろうじて体が支えられている。
とても『良い』状態だ。
朦朧とする意識の中で、シュアンは考える。
五感が麻痺しているため、正確な時間の経過は感じ取れないが、まだ看守が交代していないところをみると、今は夕刻といったところだろう。
夜になれば――次の看守に替わるころには、〈猫〉の耳に情報が入ることだろう。そして、そのころには、シュアンの死が、カメラ越しに見えてくることだろう……。
がくりと項垂れたシュアンの顔に、看守たちが水を放つ。
しかし、ついぞ無反応となった。
「こいつ、意外にしぶとかったな」
白目をむいたシュアンの額を小突きながら、看守のひとりが感嘆の声を上げる。すると、もうひとりも大きく頷いた。
「ほら、見ろよぉ。俺の手に豆ができちまったぜ」
鞭を握っていた手を開き、誇示するように相方に見せつける。実のところ、豆まではできていなかったが、確かに掌の表面は赤くなっており、薄く皮がむけていた。
「そのくらい、たいしたことねぇだろ。唾でもつけておけよ。それより、俺の拳のほうが、骨に来ているぜ。手首もガクガクだ」
「俺だって、手首が痛ぇよ。こいつ、皮が厚いんだよぉ」
「あぁ、なるほど。さすが面の皮が厚い野郎って、わけだ」
何が可笑しいのか、ふたりの間で、どっと笑いが起こる。
「けどよぉ。狂犬の奴、『助けてくれぇ』なんて、情けねぇ声を出しているくせに、『痛ぇ』って言わねぇんだよなぁ。こいつ、絶対、薬やっているぜぇ?」
「違ぇねぇ。だって、こいつ、斑目の手先だったんだろう?」
遊びがいのある玩具は久しぶりだったためか、看守たちは興奮さめやらぬ様子であった。
そして、一応は、取り調べの尋問員でもある彼らは、『緋扇シュアンは、斑目一族と癒着していた』と、報告書に書いたのであった。
体の芯が、熱い……。
全身が、バラバラになりそうだ……。
骨折のためであろう。シュアンは発熱していた。苦しさのあまり、荒い息を吐き出せば、その直後、灼熱の激痛に見舞われる。
「――っ」
反射的に、彼は目を見開いた。
磔の体はそのままに、あたりは、しんと静まり返っていた。狂気をまとった、あの看守たちはいない。シュアンが気を失ったため、詰め所に戻ったようだ。
安堵の息をつきかけたところで、胸郭の負傷により、呼吸に痛みが伴うことを思い出した。加えて、看守たちは、彼に死をもたらしてくれる『有り難い』存在であることにも考えが至り、はて、それでは現状は望ましくないのか? 看守たちを呼び戻すべきなのか? などという、間の抜けた疑問が浮かぶ。
しかし、それも一瞬のこと。疲れ果てた彼の体は、それ以上の覚醒を許さず、重い瞼が下りてくる。
夢うつつの中。焦点の合わぬ、揺れる視界の端に、緩やかに波打つ長い黒髪の幻影を見た。
記憶から漂う、柔らかな草の香が、ほのかに鼻腔をくすぐる。
馬鹿が付くほどのお人好しで、鬱陶しいくらいのお節介。愚かしいまでの優しさを撒き散らす、彼女の……。
『俺は碌な死に方をしねぇんだろうなと、常に思っている』
菖蒲の館で〈蝿〉が死んだあと、シュアンは彼女にそう言った。ファンルゥの――『小さな女の子』のために、〈蝿〉が用意した部屋での出来ごとだ。
あの日。彼女は、それまでの半生との別れを迎えた。
能動的に別れを『告げた』のではなく、受動的に『迎えた』である。彼女にしてみれば、心の整理がつかないうちに、別れのほうから突然やってきたように感じたはずだ。
彼女は『未来をどう生きればいいのか』と、彼に問うた。
だから彼は、自分のことを語った。
『先輩と殴り合って袂を分かったときも、先輩のほうが正しいと理解していながら、俺は立ち止まれなかった。俺は『狂犬』と呼ばれるほどに、荒れまくっていた』
『――でも……、俺は最近、ようやく自分の進むべき道を見つけた気がする。俺が為すべきことを為すための、まっとうな道筋をな』
おそらく、彼女は知らないだろう。
彼が、それまでの半生に別れを告げ、迷いのない道を選び取れたのは、暑苦しいまでに図々しく他人を思う、彼女に影響されてのことであると。
弱いくせに強くあろうと挑む、彼女の懸命さが、ローヤン先輩と肩を組み、高らかに絵空事を謳っていた、あの日々を思い出させてくれた。
彼女は、彼の人生を――運命を変えてくれた恩人なのだ。
その結果、枷鎖で磔にされている現状があったとしても、後悔はまったくない。
――……なんで、俺は今、ミンウェイのことを考えているんだろうなぁ……?
恋慕の情? それは違うだろう、とシュアンは苦笑する。
リュイセンには恋仇と目され、蛇蝎の如く嫌われていたが、シュアンは別に、彼女を手に入れたいなどとは思わない。
強いていうのなら、この感情は、感謝と恩義。
陳腐な表現であるが、彼女が幸せであれば、シュアンはそれで満足だ。
自分は幸せになってはいけないと思い込んでいた彼女が、幸せを望むようになるのは、簡単なことではないはずだから。
――ミンウェイに『穏やかな日常』を……。
祈りと共に、シュアンの視界は暗転した。
ぎいぃ……。
鉄格子の扉が軋みを上げた。耳障りな音に、シュアンは薄目を開ける。
見知らぬ顔が、ふたつ。
どうやら看守が交代したようだ。新しい死刑囚に興味津々といった様子で、シュアンのそばに近づいてくる。そして、問答無用で、顔面を殴りつけてきた。
「よぉ、狂犬! 起きろよ! 餌だぞ!」
がなり声と痛みが、同時にシュアンを襲う。口腔内が切れ、血の味が広がった。
「お前が収監されたっていう連絡が、うまくいってなかったみたいでよ。俺が気づかなきゃ、お前は今晩、餌抜きになるところだったんだぜ? ありがたく思えよ」
看守は、がさつな動作で後ろを振り返り、もうひとりの看守がコンクリートの床に食事のトレイを置くのを示した。しかし、鎖を緩める気配はない。まずは暴行ということだろう。
シュアンは監視カメラに目を走らせた。
――ルイフォン、頼んだぞ!
心の中で呼びかける。
ここで、うまいこと看守の嗜虐心をくすぐれば、めでたく絶命できる。……そのくらい弱っている自信があった。
彼は片目しか開かぬ三白眼を虚ろに細め、看守を見やる。
「飯……、くれるんじゃねぇのか? 壁から……下ろしてくれよ」
哀れにかすれた声で訴える。実のところ、息をするだけで胸部が痛み、食べ物のことなど考えただけでも吐き気がした。
「あぁ? まずは、お前、自分の罪を告白しなきゃなぁ!」
看守はシュアンの顎に手をかけ、ぐいと上を向かせた。
シュアンは脅えきった表情を作り、ぶるぶると震えてみせた。媚びるような上目遣いで相手を窺い、卑屈に口の端を上げる。こうなったら『狂犬』の名も形無し、如何にも『負け犬』といった体である。
「……斑目一族が……、俺は……上官に騙されて……」
「そうじゃねぇだろ! 貴族を殺っちまったんだろ!?」
せせら笑いとともに、強烈な一撃が頬に叩き込まれた。
「――っ」
声にならない声を上げ、シュアンの頭がのけぞる。後ろの壁に打ちつけられ、意識が吹き飛びそうになる。それを意思の力でその場に留め、彼は心で叫ぶ。
――ハオリュウ、任せたぞ!
あの奇天烈な少年当主が権力者になれば、少しはマシな世の中になるだろう……。
くらくらと定まらぬ視界の中、シュアンは奇跡的に監視カメラを捉え、微笑を浮かべた。
そして、彼の思考は、白濁した世界に呑まれていく。
浮遊感に包まれながら、シュアンは看守たちが自分に暴行を加えていくのを、まるで他人ごとのように感じていた。
やがて、シュアンの五感は徐々に擦り切れ、完全に途切れようと……――そのときだった。
「これはいったい、どういうことですか!?」
怒気をはらんだ若い男の声が、コンクリートに反響した。有無を言わせぬ高圧的な物言いでありながら、魅入られるような気品に満ちている。事実、下卑た笑いを浮かべていた看守たちが、思わず背筋をぴんと伸ばして畏まるほどの蠱惑の旋律であった。
唐突に変化した空気に、失いかけていたシュアンの意識が引き戻された。
「すぐに、医者の手配を」
衣擦れの気配で、声の主が背後を振り返ったのを感じた。口調からして、部下を従えていたのだろう。
わずかに目を開けたシュアンの視界に、警察隊の高官の制服を身にまとい、目深にかぶった制帽で顔を隠した男の姿が飛び込んできた。男は、看守たちが開け放しにしていた鉄格子の扉をくぐり抜け、独房の中に入ってくる。どう考えても、こんな掃き溜めなどとは無縁の人物であろうに、場違いを物ともしない所作である。
シュアンの心臓が、どきりと高鳴った。
――まさか……?
だらりと頭をうなだれたまま気絶を装い、シュアンは男の様子を窺う。
男は、苛立たしげでありながらも、雅やかさを失わない歩調で、磔の壁の前に立った。無造作に右手を近づけてきたかと思うと、強引にシュアンの前髪を掻き上げる。白い礼装用の手袋が、暴行で受けた傷の血で染まった。
「……」
男の指先に無言の挑発を感じ、シュアンは腫れ上がっていないほうの瞼を静かに開いた。
視線と視線がぶつかり合う。
片目だけの三白眼と、すべてを呑み込むような奈落の黒い瞳。
――摂政……カイウォル……!
シュアンは腹の底で、その名に毒づく。
身分を隠し、この監獄に自然に入り込むためだろう。警察隊の制服姿であったが、典雅な美貌は見間違えようもなかった。
摂政もまた、あらわになったシュアンの顔に呟く。
「報告を受けたときは、信じられませんでしたが、確かに、あのときの介添えですね」
会食のとき、シュアンは整髪料で髪を撫でつけ、『目つきの鋭い切れ者』の変装をしていた。髪を上げることで、摂政はあの容貌を再現したのだ。
「警察隊の腐敗は聞き及んでおりましたが、これほどまでとは……」
溜め息混じりの摂政の言葉は、囚人が暴行を受けていることか、警察隊員であったシュアンが貴族殺しの犯人であることか。――シュアンにとっては、どうでもよいことであった。
シュアンは、ただ黙って、濁りきった三白眼に摂政を映す。気持ちの上では、唾を吐きかけてやりたいところであったが、呼吸すら激痛を伴う彼には、どだい無理な話であり、そもそも、ここは沈黙を保つべき場であろう。
「緋扇シュアン――警察隊学校を首席で卒業。将来を嘱望され、望めば近衛隊入りも可能であったにも関わらず、あえて警察隊を、それも凶賊の担当部署を希望した変わり者。多少、短慮なところはあるものの、正義感にあふれた好青年。……ある汚職事件に関わるまでは――と、報告書にありました」
澄ました美麗な顔で、反応を探るかのように、淡々と摂政が告げる。対してシュアンは、いつの時代の話だと、鼻に皺を寄せた。
「ハオリュウ君との接点は、メイシア嬢の誘拐事件のときなのでしょう? あなたは恩義ある先輩の名誉のために、ハオリュウ君に書状を書いてもらった。――あの事件には不審な点が多いですが、それもこれも、あの鷹刀セレイエが裏で糸を引いていたからですね」
「……」
シュアンに答える義理はない。無論、摂政も彼に答えを期待していない。故に、一方的な話が続く。
「『狂犬』と呼ばれる人間が何故、ハオリュウ君の庇護を買って出るのか。疑問だったのですが、あなたの経歴を調べて納得しましたよ。むしろ、『忠犬』ですね。ハオリュウ君を羨ましく思いますよ」
雅やかな笑みを浮かべると、摂政は踵を返しつつ、宣告する。
「死刑囚とはいえ、囚人に危害を加えるとは言語道断です。この監獄は、即刻、閉鎖いたします。緋扇シュアン、あなたには別の獄に移っていただきます。無論、怪我の手当はいたしましょう」
「!」
待て――と。
シュアンの心が叫んだ。
――それじゃあ、俺はハオリュウの枷になっちまう……!
そう思った瞬間、彼は大きく息を吸い込んだ。
わずかな呼吸すら、激痛に変わる胸だ。大量の空気を送り込めば……。
「――――!」
片目の腫れた三白眼が、極限まで見開かれた。それまで、かろうじて上げられていた首が、かくりと垂れる。
磔の体が、だらんと生気を失った。
「お、おいっ……?」
異常に気づいた看守が、狼狽の声を上げた。背後の気配に、立ち去ろうとしていた摂政が振り返る。
「なっ!? ただちに医者を! この者を死なせてはなりません!」
蠱惑の旋律が血相を変え、金切り声となって響き渡る。
混乱の渦に呑まれる牢獄の中、シュアンの口元だけが、穏やかにほころんでいた。
3.闇夜の凶報-1
時は、少し遡る――。
空を覆う雲に、月も星も閉ざされ、天から深淵の闇が襲いかかってくる。
まるで漆黒の奈落に呑み込まれたような、幽寂な夜であった。
その日も、ルイフォンは、草薙家に厄介になって以降の夜の日課である、主要機関の情勢調査を行っていた。遠隔から張りぼてのほうの〈ケルベロス〉を操作し、王宮や神殿、その他の企業や団体、組織の情報網を巡回するのである。
そして――。
「メイシア!」
その情報を目にした瞬間、彼は思わず、両手を机に叩きつけるようにして立ち上がった。座っていた回転椅子が、後方へと押し出され、勢いよく滑っていく。
ルイフォンのただならぬ叫びに、ユイランに習った刺繍の練習をしていたメイシアは、危うく指先に針を刺しそうになった。けれども、聡明な彼女は、即座に非常事態を理解し、「どうしたの!?」と、ソファーから駆け寄る。
「シュアンが逮捕された。罪状は、厳月家の先代当主の暗殺だ」
黒曜石の瞳を見開き、メイシアが息を呑む。
それは、冤罪などではなく、真実だった。
メイシアの異母弟ハオリュウが、父親の仇として、緋扇シュアンに暗殺を依頼したのだ。
「ル……、ルイフォン……。平民が、貴族を殺したら……極刑は免れない……」
薄紅の唇が色を失い、わななく。
「ああ」
「ハオリュウに連絡しないと……!」
「頼んだ。俺は、もっと詳しい情報を集める」
携帯端末へと急ぐメイシアの背中に声を掛け、ルイフォンはキーボードに指を走らせた。
シュアンの逮捕は、あまりにも唐突だ。必ず事情がある。
ルイフォンは、王宮と警察隊の深部、それからシュアンが捕らわれているであろう監獄への侵入を開始する。それと並行して、鷹刀一族総帥たる父イーレオに、現状を伝えるメッセージを暗号化して送った。電脳世界の情報屋〈猫〉には手を出せない、電子化されていない情報を得るため、王国一の凶賊の情報網に助力を願おうと思ったのだ。
イーレオは総帥という立場上、懇意にしているからといって、おいそれとシュアンのために私情で動くわけにはいかない。だが、鷹刀一族とシュアンは、以前、情報交換の約束を交わしている。だから、筋が通る。シュアンのために協力を仰ぐことは、なんら問題はないはずだ。
しかし同時に、鷹刀一族は現在、水面下で摂政と牽制し合っている。摂政としては、隙あらば、鷹刀一族の勢力を削ぎにかかりたいところだろう。暗殺犯との親交を理由に、殺害に加担したと言いがかりをつけ、総帥逮捕などという可能性もあり得る。
「……」
今の鷹刀一族に、犯罪への関与は命取りだ。メッセージは送ってしまったが、手を借りるべきではないかもしれない……。
ルイフォンは渋面を作り、そこで、はっと気づいた。
「だから――なのか……?」
押し殺したような声で呟く。
「このタイミングでの逮捕……、黒幕は摂政なのか……?」
摂政は、鷹刀一族の屋敷を家宅捜索し、エルファンに事情聴取を行った。しかし、なんの成果も得られなかった。
『だから』
シュアンを逮捕させた?
彼の命を、駆け引きの材料にするために……?
摂政なら、鷹刀一族とシュアンが誼を結んでいることくらい、とっくに調べがついているだろう。シュアンを利用することを考えたとしても、おかしくない。
猫の目が細まり、無機質な〈猫〉の顔に変わっていく。
ルイフォンは思索の海へと、身を沈めかけた。しかし、途中で「ハオリュウ!」という、絹を裂くような叫びに遮られた。
「ハオリュウ? 大丈夫!? しっかりして!」
声に引き寄せられるようにして振り向けば、メイシアが蒼白な顔で携帯端末を握りしめていた。
無理もない。シュアンの逮捕にどんな事情があったとしても、直接の原因はハオリュウの暗殺依頼だ。ハオリュウが衝撃を受けるのは当然で、凶報を告げたメイシアもまた、平静でいられるわけがないだろう。
ルイフォンは彼女の傍へ寄り、華奢な肩を抱き寄せた。黒絹の髪をくしゃりと撫でて、そっと携帯端末を取り上げる。小さく「あっ」と声を上げた彼女が、彼の手元を目で追ってきたが、彼は構わず、送話口に向かって呼びかけた。
「ハオリュウ」
『……ルイフォン?』
「ああ。今、メイシアと電話を替わった」
心持ち、ゆっくりとした口調で、落ち着けという思いを込めて語りかける。すると、わずかに乱れた息遣いのあとに、明瞭な声が続いた。
『驚かせて、すみません。その……、携帯端末を取り落しただけです』
明らかに取り繕ったような様子だった。だが、きちんとした受け答えが返ってきたことに、ルイフォンは、ひとまず安堵した。正直なところ、手に負えないような恐慌状態に陥っていたら、離れた場所からでは途方に暮れるしかなかった。さすがはハオリュウ、といったところか。
「大丈夫か?」
『……大丈夫、とは言い難いですが、ここで僕が取り乱しても仕方ありません。……僕ができることを……これから考えます』
思いつめたような雰囲気に、ルイフォンは唇を噛む。けれど、努めて無感情に、あちこちに情報収集の手を回していることや、鷹刀一族の協力は得られないかもしれないことなどを伝えた。
それでも、ルイフォンとメイシアはハオリュウの味方であり、必ずシュアンを助けると宣言したときだった。
『……すみません。大変、申し訳ないのですが、頭が回っていないので、今は、これで通話を切らせてください。……ひとりで考えたいのです』
柔らかな響きでありながら、きっぱりとした――拒絶。
「ハオリュウ……」
――しまった。焦りすぎたか……。
ルイフォンは、癖の強い前髪をがりがりと掻き上げる。
迅速に行動すべきだと思って、気がはやっていた。ハオリュウにしてみれば、寝耳に水の事態だ。まだ混乱の只中なのだろう。少し、そっとしておくべきだ。
「分かった。俺は、これからまた情報を集めるから、その結果を明日、報告する」
ルイフォンは、さっと話を切り上げた。それから、傍らで耳をそばだてていたメイシアに携帯端末を返し、『終話にする前に、ひとことくらい話したいだろう?』と、目で伝える。
彼女は励ましの言葉を幾つか口にして、名残惜しそうに通話を切った。バックライトが消えて真っ黒になった画面には、涙を堪えているかのような彼女の顔が映る。
「メイシア」
ルイフォンは彼女を抱きしめた。それに応えるように、彼女も彼の背に腕を回す。空調を効かせすぎていたのだろうか。夏場なのに、互いの体温が愛おしい。
「まだ、状況は読みきれてねぇし、どうすりゃいいのかなんて、まるで分かっちゃいねぇ。……けど、シュアンは絶対に助ける」
メイシアの耳元に、静かなテノールを落とす。同意するように、腕の力を強めてきた彼女に、彼は言葉を重ねた。
「ハオリュウのため、ってだけじゃない。俺が、シュアンを失いたくないからだ」
「うん。緋扇さんがいなくなるなんて、駄目……」
涙混じりの細い声で、メイシアが頷く。
ハオリュウが衝撃から立ち直るまでの間に、できる限りのことをしておこう。――そう考え、機械類のところへ戻ろうとしたときだった。ルイフォンを引き止めるように、メイシアが彼の服の端を握りしめた。
「メイシア?」
「ルイフォン……。ハオリュウは何か隠している」
凛と澄んだ、迷いのない声だった。彼女は、すっと顔を上げ、まっすぐにルイフォンを見つめる。
「さっきのハオリュウの態度、おかしいと思うの」
「え……」
にわかには彼女の弁を信じられず、ルイフォンは声を詰まらせた。
電話越しのハオリュウは、驚きながらも冷静さを失わない、いつもの彼に思えた。しかし、ずっと共に暮らしてきた異母姉にとっては違ったのだろうか?
彼女の意味するところを知りたくて、彼は戸惑うように問う。
「動揺しているところを見せるのは矜持が許さないとかで、早々に電話を切ったんじゃないのか……?」
「違う!」
思わず、といった感じの強い調子で答えてから、メイシアは慌てて「ごめんなさい」と付け加えた。
「ハオリュウの性格からすると、緋扇さんの逮捕は『何ものにも代えがたい、大切な人を奪われた』になるの。だから、ハオリュウはまず、怒るはず。それも、かなり激しく。――でも、さっきのハオリュウは……」
綺麗な顔を悲壮に歪め、メイシアは声を引きつらせる。
「怒りじゃなかった。どこか、脅えているような感じがした……」
「ハオリュウが……脅えている……?」
反射的に出た声は、無意識のうちに、かすれていた。
狼狽するルイフォンに、彼の服の端を握りしめていたメイシアの震えが伝わる。彼女の唇は色を失い、……しかし、黒曜石の瞳が知的に煌めいた。
「ハオリュウには、何か心当たりがあるの。……たぶん、何者かに脅されている」
「なっ!?」
ルイフォンは驚愕に眉を跳ね上げた。やはり、摂政が――そう言おうとしたとき、彼を上回る勢いで、メイシアが「でもっ」と、鋭く畳み掛ける。
「あの子は、素直に脅迫に従うような子じゃない! 必ず、牙をむく」
唇を噛み締め、彼女は声を震わせる。
「嫌な予感がするの。あの子、とんでもないことをする気がする。誰にも何も言わず、黙ってひとりで……。誰かに言えば、止められるような、そんなことを……」
耳朶を打つ細い声に、ルイフォンの心臓は早鐘のように鳴り始めた。
かつてハオリュウは、〈影〉にされてしまった父をひとりで葬ろうとした。最愛の異母姉には何も知らせずに、たった十二歳の双肩に、すべてを背負って……。
「そんな……。いくらなんでも、考えすぎだろ……?」
「うん……。私の考えすぎなら、そのほうがずっといい……」
メイシアは、まるで泣き笑いのような顔で答えると、不意にルイフォンの胸に飛び込んできた。抱きとめた華奢な体は、崩れ落ちそうなほどに嫋やかで。シャツ越しに掛かる吐息は、苦しげに熱い。
「あの子、無茶ばかりなの……! 見栄っ張りで、意地っ張りで、ちっとも頼ってくれない。何もかも、全部ひとりで抱え込んで……!」
「メイシア……」
背中を抱き寄せれば、半袖の腕の上を、黒絹の髪がさらさらと流れてきた。滑らかな感触は心地良いが、今はそれが彼女の涙のようで、ルイフォンは流れを止めるべく指先を絡める。それから、逆流させるかのように梳き上げ、くしゃりと撫でた。
「……要は、俺が『シュアンを助けるための名案』を思いつけばいいだけだろ?」
ゆったりとしたテノールに好戦的な響きを載せて、ルイフォンは、にやりと嗤った。
「もし、ハオリュウが本当に『とんでもないこと』を始めようとしていたとしても、俺の案のほうが良ければ乗り換えるはずだ。――誰にも言わず、黙ってやらなきゃならねぇような策なんて、碌なもんじゃねぇ。そんな愚策、俺の義弟には選ばせねぇよ」
「ルイ……フォン……?」
当惑の息遣いが、ルイフォンの胸元を揺らした。彼は、すっと目を細め、得意げに告げる。
「まだ情報が足りないから、誰に対して、どんな駆け引きが成立するのかは未知数だ。けど、最悪でも『脱獄』という手段がある。監獄の見取り図なら、もう手に入れたしな」
「――!」
メイシアが息を呑み、ぱっと顔を上げた。
地図を手に入れることなど、ルイフォン――〈猫〉にとっては片手間の作業であろう。
しかし、シュアンの逮捕を知ってから、まだほんの十数分。なのに、救助に向けての第一の手を、既に打ち終えていることに驚嘆したのだ。
――まさに『魔術師』だと。
「『脱獄』だと、シュアンがお尋ね者になっちまうから、結局、その場しのぎの解決策だ。できれば使いたくない。――けど、他の方法だって、俺なら、これから幾らでも思いつくさ」
自分に任せろと、ルイフォンは傲然と言い切る。彼の口の端が、ぐっと上がっていくのと、メイシアの顔が、ふわりとほころんでいくのは、ちょうど同じ速度だった。
「ルイフォン、ありがとう!」
最愛のメイシアの、絶対の信頼に、ルイフォンは柄にもなく、ほんの少し照れた。
「ともかく、情報収集だ。明日の朝一番に、ハオリュウに報告するぞ」
彼が、そう言ったときだった。
「ちょ、ちょっと、ルイフォン、メイシア!」
夜にも関わらず、金切り声に近い高音が響き渡り、部屋の扉が連打でノックされる。
「待ちなさいよ! なんで、『明日になったら』なのよ! 今すぐ、ハオリュウのもとに駆けつけるべきでしょう!?」
がたがたと揺れる扉の向こうの声は、草薙家の一人娘、クーティエのものだった。
3.闇夜の凶報-2
「盗み聞きをしていたことなら謝るわ。……でも、ふたりの邪魔をしたら悪いと思ったのよっ!」
クーティエは、開き直って言い放った。白状したところによると、ずっと聞き耳を立てていたのだという。
完全に気配を消していたらしく、ルイフォンは不覚にも、まったく気づかなかった。どうやら、気が向いたときに適当に鍛錬を行っているだけの彼よりも、たとえ六歳年下でも、日々の訓練をきちんとこなしているクーティエのほうが、よほど手練れといえそうだった。
これから寝ようと思っていたのか、彼女は寝間着に着替えており、いつもは高く結い上げている髪は、まっすぐにおろされている。そのためか、心持ち大人びて見えるのだが、……しかし、中身は変わらず、元気娘だった。
「だって、夜中に『ハオリュウ!』って、大きな声が聞こえてきたら、気になっても仕方がないでしょ!」
甲高い声が、耳をつんざく。
「すまん」
「ご、ごめんなさい」
それほど『夜中』でもないのだが、確かに騒ぎ立てていた。非はこちらにある。ルイフォンとメイシアは口々に謝った。
ただ、ハオリュウの名前に引き寄せられたのは、クーティエの側に事情があるだろう。
彼女は、ハオリュウが好きなのだ。
草薙家に厄介になるまで気づかなかったのが不思議なくらい、分かりやすく一直線に惚れ込んでいる。本人は隠しているつもりのようだが、明白すぎて可哀想なので、ルイフォンもメイシアも素知らぬふりをしているだけだ。
いつだったか、クーティエは、ラベンダーの押し花の栞を見せてくれた。ハオリュウが手ずから庭の花を摘んで、彼女に贈った花束から作ったのだという。本当は、色とりどりの花でいっぱいの大きな花束だったそうだが、うまく押し花にできたのが、このラベンダーだけだったのだと言い訳をしていた。
続けて強引に見せられた写真には、ひと抱えもある花束に押しつぶされそうになりながらも、満面の笑顔を浮かべるクーティエが写っていた。貴族の庭から摘んできたのだから、どうということはないだろうが、普通の家だったら花壇が丸坊主になっていたに違いない。
比較的、淡い色合いの小さな花が多いのは、クーティエに対するハオリュウの印象なのだろう。ルイフォンだったら、元気な向日葵を一輪だけ摘んでくる。
つまり、ハオリュウにとっても、クーティエは特別なのだ。
そうでなければ、貴族の当主が、わざわざ自らの手で、あれほどの数の花を摘んだりはしない。ましてや、ハオリュウは足が不自由なのだ。立ったり、しゃがんだりの繰り返しには、さぞ苦労したことだろう。
そして、現在――。
ハオリュウの一大事だと、すっ飛んできたクーティエは、ルイフォンとメイシアに、ぐいと詰め寄った。
鬼気迫る顔に、ふたりとも無意識に体を引く。
「緋扇シュアンが逮捕されたんでしょ! このままなら、処刑されちゃうんでしょ! ハオリュウは、それをついさっき聞いて、今、ショックを受けているんでしょ!」
クーティエは矢継ぎ早にまくし立てる。
何故、彼女は、これほどまでに興奮しているのか。ルイフォンには、今ひとつ理解できずに戸惑う。
確かに、ハオリュウのことは心配だが――否、だからこそ、今から情報収集に取り掛かろうとしているわけで、彼女に噛み付かれる謂れなどないはずだ。
「クーティエ、ちょっと落ち着け……」
なだめようとした彼を、彼女は険しい目で、ぎろりと睨みつけた。
「なんで『明日』、どうにかしよう、なんて言うのよ! ハオリュウは『今』、恐怖と戦っているのよ!」
「……?」
「だったら『今』、彼を『ひとり』にしたら、駄目じゃない!」
クーティエは拳を震わせて叫ぶ。
「ハオリュウは『今』、たった『ひとり』で、怖いに決まっているでしょ! 不安に押しつぶされそうになっているはずよ! なんで分かんないのよ!」
細く澄んだ声が、耳を貫く。
それはまるで、彼女が手にする直刀のように、まっすぐな想いだった。
気圧されたように絶句するルイフォンの隣で、メイシアが呟く。
「クーティエの言う通りかもしれない……。さっきのハオリュウ……、心配……」
刹那。
クーティエがメイシアに駆け寄り、勢いよく頭を下げた。
「メイシア、お願い! 私、今すぐ、ハオリュウのところに行きたいの! だから、私を藤咲のお屋敷に入れてくれるように、ハオリュウに頼んで!」
「え…………」
メイシアは声を詰まらせた。寝間着姿のクーティエの頭から足先までを見渡し、困ったように顔を曇らせる。
今は、夜だ。まだ宵の口とはいえ、夜だ。クーティエのような少女が出歩くような時間ではない。しかも、相手は矜持の高いハオリュウだ。弱っているところなど、誰にも見せたくないであろう。――それが、心憎からず思っているクーティエならば、なおさらだ。
ルイフォンには、メイシアの思考が手に取るように分かった。それは、そのまま表情に出ていたからではあるが、後ろ姿であったとしても読み取れた自信はある。
そして、彼もまた、今からクーティエが藤咲家に行くことなど、現実的ではないと結論づけた。
そのときだった。
「クーティエ、着替えておいで」
不意に扉が開き、甘やかな響きと共に、すらりとした長身が現れた。
この家の主であり、クーティエの父親のレイウェンである。後ろには、母親のシャンリーも控えており、どうやら騒ぎを聞きつけ、揃って、ここまでやってきたらしい。
「父上……?」
戸惑いの表情で振り返った娘に、レイウェンは穏やかに告げる。
「今すぐ、ハオリュウさんのところに行ってあげなさい」
「――っ!? いいの!?」
信じられないとばかりに目を見開き、クーティエは喜色を浮かべた。
レイウェンは深々と頷き、「ただし」と、言い含めるように声を落とす。
「ハオリュウさんには内緒で押しかけるんだ。見栄っ張りで、意地っ張りなハオリュウさんは、正攻法では屋敷に入れてくれないだろうからね。――裏技を使うよ」
優しげな声色で、まるでいたずらでも仕掛けるかのように、レイウェンは口角を上げる。『見栄っ張りで、意地っ張り』という、メイシアの口上を真似て言うあたり、彼らもずっと気配を消して、どこかで聞き耳を立てていたということだろう。
クーティエは『何を言われたのか、理解できない』と大きく顔に書き、ぽかんと父を見上げた。そのまま、しばらく呆然としていたが、はっと顔色を変え、「裏技って、どういうこと!?」と、喰らいつく。
そんな娘の肩を捕まえ、レイウェンは、彼女をルイフォンとメイシアのほうへと向かせた。そして柔らかに、けれど有無を言わせぬ迫力でもって、「まずは、きちんと非礼を詫びなさい」と諭す。
「ルイフォン、メイシアさん、夜分に失礼いたしました。不躾にお邪魔して申し訳ございません」
娘の頭を下げさせつつ、自らも頭を下げ、レイウェンが謝罪する。それまで、唖然と状況を見守ってきたルイフォンは、突然のことに「あ、ああ……」と、なんとも冴えない返事しかできなかった。
「――ですが、クーティエの言う通り、今はハオリュウさんをひとりにすべきではありません。メイシアさんも、そう思われたでしょう?」
あくまでも腰は低く、だのに強硬。レイウェンに水を向けられたメイシアは、促されるままに首肯する。
「ええ……。ですが、どうすれば……」
口ごもるメイシアに、レイウェンは微笑んだ。そして、背後を振り返り、妻へ指示を出す。
「シャンリー、母上を呼んできてほしい。あと車は、私が行くとハオリュウさんが嫌がりそうだから、タオロンに運転を任せる。彼にも声を掛けてくれ。それから、メイシアさんは藤咲家に連絡を。ただし、ハオリュウさんではなくて……」
身支度を整えたクーティエとユイランを乗せ、タオロンの運転する車は、漆黒の闇の中へ走り出した。
押し切られる形でクーティエを見送ったルイフォンは、腑に落ちないながらも、作業に戻った。「君は引き続き、情報収集を頼む」と、レイウェンに丁寧に頭を下げられたためである。傲岸不遜な鷹刀一族特有の顔で下手に出られると、どうにも逆らえないルイフォンだった。
「おい、レイウェン」
寝室に戻ったシャンリーは腰に手を当て、今の一幕を問答無用で取り仕切った夫に迫った。
「私は、これからファンルゥの添い寝に行く。万が一、夜中に目を覚ましたとき、そばにタオロンがいなかったら不安だろうからな。だから、その前に教えろ。――なんで、あんなに必死になって、クーティエをハオリュウのもとへ送り出した?」
「……シャンリー。俺が焦っていたこと、シャンリーには、ばれていた?」
「え?」
レイウェンのまとう雰囲気が、先ほどまでと、がらりと変わっていた。
美麗な顔は苦々しげに眉を寄せ、鷹刀一族特有の魅惑の低音は険を帯びている。焦りというよりも静かな憤りを感じ、シャンリーは狼狽した。
「祖父上みたいに、飄々とした調子のつもりだったんだけどな……。俺も、まだまだだ」
ぽつりと落とされた声は悔しげで、シャンリーは「いや、そうじゃなくて……」と慌てて弁明する。
「イーレオ様のようだったかは、さておき、態度におかしなところはなかった。安心してくれ。……けど、どう考えたって、今の時間にクーティエを押しかけさせるなんて、普通じゃないだろ?」
「……まぁ、そうだよね」
軽い苦笑と共に、レイウェンの表情が少しだけ和らぐ。しかし、声からは、彼ならではの甘やかさが消えたままであった。
「レイウェン……。――いったい、何を知っている?」
問いかけながら、シャンリーは先刻の奇襲作戦を思い返す。
レイウェンの策は、特段、奇をてらうものではなかった。単にメイシアに、彼女が生きていることを知っている数少ない人間のひとり、藤咲家の執事に話をつけてもらっただけである。
ユイランが同行したのは『藤咲家の許可証を持った、おかかえの仕立て屋が、明日の衣装のことで緊急に用事がある』という体裁を整えるためだ。少々、苦しい理由だが、使用人たちが疑問に思っても、これで一応の説明がつくというわけだ。
そして、クーティエは『仕立て屋の助手』ということにした。かなり無理があるが、藤咲家の門衛は、レイウェンの警備会社からの派遣の者たちだ。クーティエとユイランを不審に思うことはない。
しかし、招かれてもいないのに、『平民が貴族の屋敷に押しかける』。しかも、それが夜になってからとなれば、非常識にもほどがあるだろう。
何より、当主が望んでいないのだ。
だのに、クーティエを行かせるからには、何かしらの根拠があるはずだと、シャンリーは言っているのである。
「……っ」
不自然に、レイウェンの頬が動いた。――奥歯を噛んだのだ。
そして、歪んだ顔のまま、彼は重い口を開く。
「ハオリュウさんは今日、王宮に行ったんだ」
「王宮に?」
シャンリーは、わずかに首をかしげた。おうむ返しの言葉は、『どうしてそんなことが分かるのだ?』という質問だ。
「ハオリュウさんにつけた護衛が、業務日誌で報告してきた。……依頼主の個人情報になるから、ルイフォンたちには言えなかったけどね」
「――なるほど」
「ハオリュウさんは、母上に仕立ててもらったばかりの服を着ていったそうだ。ならば、摂政殿下に呼ばれたと考えて間違いない。――そして、同じ日に緋扇さんが逮捕されたとなれば……」
「!」
シャンリーは息を呑んだ。
顔色を変え、かすれた声で呟く。
「シュアンの逮捕は、摂政からハオリュウへの脅迫……!」
「おそらく」
「つまり、シュアンの命と引き換えに、ハオリュウは女王の婚約者になるように迫られている――ってことか」
得心がいったと膝を打つシャンリーに、しかし、レイウェンは首を振る。
「いや、『婚約者になれ』というだけなら、王族と貴族の身分の差だけで、ハオリュウさんには断ることはできないはずだ」
「え?」
「だから、婚約者じゃない。ハオリュウさんは、『それ以上のこと』を要求されたんだ」
凍りつくような冷たい声で、レイウェンは告げる。
シャンリーは、まるで冷気に当てられたかのように、ぶるりと体を震わせた。そして、硬い声で尋ねる。
「――『それ以上のこと』って、なんだ?」
「それは分からない。でも、クーティエの言う通り、ハオリュウさんを孤独にしたら駄目だ。彼は見た目と違って、気性が激しい……暴走しかねないよ。今の彼は、非常に危うい状態だ。何しろ――」
遠い王宮を睨めつけ、レイウェンの瞳が憎悪を帯びる。
「ハオリュウさんの行動ひとつで、緋扇さんの運命が決まってしまうんだからね」
4.絹糸の織りゆく道-1
ハオリュウの耳に、摂政カイウォルの声が蘇る。
『介添えの彼は、息災ですか?』
『彼を大切にするとよいでしょう』
誘い込むような響きが頭蓋に木霊し、割れんばかりに轟いた。
多くの人間は、カイウォルの雅やかな微笑と、蠱惑の旋律に抗うことができない。見えない重力に引き寄せられるかの如く、頭を垂れる。だが、ハオリュウは、カイウォルに魅入られることのない、ごく稀なる例外だった。
だから。
シュアンが人質に取られたのだ。――ハオリュウを意のままに操るために。
「畜生……!」
普段は決して使わぬ言葉で、ハオリュウは口汚く罵る。
シュアンは今日、ハオリュウのために休暇を申請していた。それが前日になって急遽、取り消された。勤務態度について話がある――との名目だった。
間違いない。カイウォルが裏で手を回したのだ。
シュアンはそのまま職場で――上官に呼び出された先で、逮捕されたのだろう。警察隊の屋舎内では、抵抗も逃亡も、まず不可能だ。その点も、カイウォルは計算していたに違いない。
「糞ぉ……!」
明かりをつけぬままの書斎で、ハオリュウはひとり、昏い奈落の闇に吐き捨てる。
「シュアン……!」
脳裏に響くのは、妙に甲高い、皮肉げな濁声だ。
『俺は、あんたに賭けてみたい』
『俺は、あんたが欲しい。――国の中枢に喰い込める貴族の当主』
そう言って、彼はハオリュウの心を撃ち抜いた。
彼の言葉が信じられなくて、ハオリュウは思わず尋ねた。
『僕と一緒にいるということは……、平穏な人生を歩めなくなる――ということですよ?』
愚かな質問だった。
……だのに、彼は答え――応えてくれた。
『……――望むところだ』
『俺に『穏やかな日常』は、似合わねぇからよ』
彼にそう『言わせた』にも関わらず、ハオリュウには、なんの覚悟もなかった。
甘ったれた子供が、責任転嫁の予防線を張っただけに過ぎなかった。
「僕は……」
ハオリュウは呟き、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
――シュアンの命が、駆け引きの駒にされている。
ハオリュウが鷹刀一族を裏切り、『ライシェン』の隠し場所をカイウォルに教えなければ、役立たずの『駒』として、シュアンは殺される。
『上流階級のお偉いさんが、平民や自由民を『もの』扱いする』――奇しくも、この前、シュアンが言っていた通りに。
「ふざけるなぁっ……!」
激しく痛む頭を掻きむしるようにして抱え込み、彼は声にならぬ雄叫びを上げた。
息苦しい。
そして。
生き苦しい……。
…………。
ひとしきり吠え続け、肩で息をしていたハオリュウは、ぐったりと執務机に突っ伏した。頬に触れた硬い木の感触が、妙に冷たく感じられる。
……ふと。
『ハオリュウさん』――と。魅惑の低音が、胸を衝いた。
『厳月家の先代当主の暗殺を、緋扇さんに依頼した件。――後悔していますか?』
草薙レイウェンの言葉だ。
よそ行きの服の注文と、ファンルゥへのお礼をするために草薙家を訪れた日、彼の書斎に呼ばれた。
「――っ!」
ハオリュウは、弾かれたように体を起こした。
「……後悔なんか……しない……!」
あのときと同じ答えをハオリュウは繰り返す。
「後悔なんかしたら、実行してくれたシュアンに失礼だ!」
レイウェンに問われたとき、ハオリュウは意図が分からず、首をかしげた。けれど、今なら、理解できる。
ハオリュウを陥れる目的で、シュアンが危険に晒される可能性を示唆――警告したのだ。
そして、『そのとき』が来てもハオリュウが立ち止まらないように、彼が無自覚であることを承知で、誓わせた。
腹を括ることを――。
「――ええ。そうですね、レイウェンさん。僕が為すべきことは、後悔ではありません。シュアンを取り戻すことです」
夜の帳に包まれた静謐なる書斎にて、ハオリュウの意識は、闇と同化したように深く沈んでいった。
クーティエを乗せた車は、夜の道を駆け抜けた。
同乗のユイランとタオロンは、それぞれ自室でくつろいでいたにも関わらず、クーティエの我儘に機嫌を悪くするどころか、喜んで協力してくれた。背中を押してくれるふたりに、クーティエの胸は感謝でいっぱいになる。
藤咲家に到着すると、草薙家から派遣されている門衛たちが、一行を快く迎えてくれた。続いて、メイシアからの連絡に待ち構えていた執事が飛び出してくる。「ハオリュウ様は、食事も摂られずに書斎に籠もられたままなのです」と。
そして今、クーティエは、ハオリュウの書斎の前で、重厚な扉を見つめている。
森閑とした廊下には、彼女ひとりきりだ。ユイランとタオロンは、執事と共に別室で待機している。
クーティエは、ごくりと唾を呑み込んだ。
ハオリュウは、彼女の来訪をまったく望んでいないだろう。彼を不快にすることは、火を見るよりも明らかだ。
彼女は固く拳を握りしめた。その手で、扉をノックする。
――コン、コン……。
…………。
反応がない。
聞こえていないのか、聞こえていないふりをしているのか。
クーティエの心臓は激しく早鐘を打ち、壊れてしまいそうなほどの痛みを訴えた。けれど、ここで引くわけにはいかない。ハオリュウを『ひとり』にしたら駄目だ。
何を言われても構わない。どんな言葉でも、受け入れる。
ハオリュウに逢うのだ!
クーティエは意を決し、扉を開く。
「――!?」
廊下と書斎が繋がった瞬間、クーティエは視界を塞がれたのかと錯覚した。
目の前が真っ暗だったのだ。
あたかも窓から夜闇が入り込み、室内を侵食したかのようだ。人の気配は感じられるのに、無機的な空気で満たされている。
押し寄せてくる闇に、クーティエの足がすくんだ。それと同時に、硬質な声が響く。
「誰です? 書斎への立ち入りを、私は許可した覚えはありません」
「ご、ごめんなさい!」
反射的に上げた声は、悲鳴も同然だった。
クーティエの背後から、廊下の明かりが差し込む。細い光が室内を照らすと、まっすぐにこちらを睨めつける闇色の瞳が見えた。
怒気をはらみながらも、落ち着き払った彼の姿は、恐ろしいほどに冷徹で、まるで見知らぬ人のよう。
「ハオリュウ……、私……」
取っ手を握ったままだった扉に縋るようにして、クーティエは、その場にずるずるとへたり込んだ。
一方、部屋の奥では、ハオリュウが驚愕に腰を浮かせていた。勝手に扉を開けた不届き者の正体が、クーティエだと気づいたのだ。
「どうして、あなたが……!? ――姉様か! …………っ」
当惑の言葉の語尾で、ほんの一瞬、彼は苦しげに声を揺らした。けれど、まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちてしまったクーティエには、その切なげな表情を捕らえることはできなかった。
それどころか、クーティエが目の前にいるのは異母姉の手引きに依るものだと察し、ハオリュウは異母姉に対して憤っているのだと思った。自分に近づいてくる、片足を引きずる足音に向かって、クーティエは顔を真っ青にして叫ぶ。
「メイシアは悪くないの! 私が『ハオリュウに逢いたい』って、我儘を言ったの! それで、メイシアが執事さんに頼んでくれて……。――お願い! 怒るのは私だけにして!」
すぐそばで衣擦れの音がして、クーティエは身を固くした。
ハオリュウの怒声が落ちてくる!
彼女が首をすくめた瞬間――。
「……?」
急に、あたりが明るくなった。ハオリュウが、扉のそばにある電灯のスイッチを点けたのだ。
「クーティエ……」
床に座り込んでいる彼女を見下ろし、ハオリュウは名を呟いた。
彼は、夏向きのよそ行きとして、新調したばかりの服を着ていた。その裾に、ひらりと涼しげな風を含ませ、彼女と目線を合わせるべく、隣に腰を下ろす。
足を曲げた際に痛みが走ったのか、彼の口から小さなうめきが漏れた。絹地に織り込まれた流水文様が、ぐにゃりと不自然に歪む。
「ハオリュウ、足!」
血相を変えて立ち上がろうとしたクーティエを、「大丈夫だ」というハオリュウの声が押し止めた。
「それに、僕は、あなたを怒ったりなんかしない。……僕を心配して駆けつけてくれたあなたを、怒れるわけがない」
先ほどの別人のような威圧は鳴りを潜め、優しげな面差しのいつものハオリュウだった。
――否。彼の全身からは、常ではない、激しい憔悴が感じられた。
異母姉のメイシアと顔立ちは違えど、同じ血筋を示すかのような、さらさらの黒髪が、何度も掻きむしられたように乱れていた。長いこと緊張に晒された、嫌な汗の残り香が、かすかに漂う。
「でも、どうして、クーティエが来るんだ……」
「ごめんなさいっ!」
「僕は、あなたに一番、逢いたくて……、一番、逢いたくなかった」
「え……?」
まるで泣いているかのような、静かな微笑だった。
ぴんと張り詰めた絹糸の如く、ふとしたときに冷たい輝きを放ち……。
――どこか脆く、儚い。
「ハオリュウ……」
クーティエの胸が、きゅうと、切なげな音を立てた。彼女は唇を噛み締め、彼に告げる。
「あ、あのね。さっき、執事さんに聞いたの。今日、ハオリュウは王宮に行った、って。――摂政殿下に呼ばれたんでしょ……?」
王宮行きを聞いて、クーティエは、ぴんときた。
ハオリュウは、摂政に何かを命じられたのだ。
その『何か』が、ハオリュウの意に反するものであることは、彼の様子から明らかで。つまり、彼は『従わなければシュアンを殺す』と、脅されている。――それくらい、クーティエの頭にだって理解できた。
そして今、摂政とハオリュウの間で持ち上がっている問題といえば、これしかない。
「女王陛下の婚約者になるように……、摂政殿下に命令されたのね……?」
刹那、ハオリュウの顔が凍りついた。もともと悪かった顔色が、更に紙のように白くなる。
彼の反応に、クーティエは畳み掛けた。
「摂政殿下は緋扇シュアンを盾にして、ハオリュウに無理やり、婚約者を引き受けるように要求しているんでしょ!? 酷い! 卑怯だわ!」
クーティエは拳を震わせ、ここにはいない摂政を睨みつける。すると、感情の読めないハオリュウの声が「違う」と、鋭く響いた。
「婚約者の件なら、今日、摂政殿下にお会いしたときに、既に承諾のお返事を申し上げている」
「え?」
「『いつまでも婚約の儀を先延ばしするのは、国民のためにならない』と言われてしまえば、臣下の身としては断ることはできない」
「そ、そんなっ……!」
「『私』は王族を助け、国を守るという義務を負っている。そのための貴族という身分だ」
冷涼とした光沢を放つ、滑らかな絹糸の振る舞いで、ハオリュウは淡々と澱みなく告げた。
「……っ」
――分かっていたはずだった。
正絹の貴公子は、自分の立場をしかと弁えている、と。
クーティエは、喉の奥にこみ上げてきた熱いものを、ぐっと堪えた。
そんな彼女を切なげに見つめたのち、ハオリュウは、闇色の瞳を静かに伏せる。
「初めに婚約者の話が出たときから、決まっていたようなものだ。カイウォル殿下が本気でお求めになったら、私には断る術はない」
「…………っ」
「『僕』は、あなたに顔向けできない。だから、帰ってほしい。……あなたが来てくれて、あなたの顔を見ることができて嬉しかった。――ありがとう」
ハオリュウは、ふわりと髪をなびかせ、優しく笑んだ。
そして、彼は、中途半端に開かれたままになっていた扉に掴まり、足を庇いながら立ち上がる。服の裾がクーティエの視界を遮るように広がり、巻き上がった風が拒絶を示した。
床に取り残された彼女は、呆然と彼を見上げ、気づいた。
ハオリュウは書斎の内側にいで、クーティエは廊下だ。今は繋がった空間であるが、ふたりの間には扉がある。それを、ぱたんと閉められてしまえば、それきりになる。
夜中に駆けつけたところで、それだけでは駄目なのだ。
「ハオリュウ!」
クーティエは、彼を追いかけるように立ち上がった。
「じゃあ、緋扇シュアンが捕まった理由は何よ!? ハオリュウが婚約者になるって決まったなら、摂政殿下はシュアンを押さえる必要はないでしょ!? おかしいじゃない!」
ハオリュウの態度は、どこか不自然だ。
それは、すなわち――。
「摂政殿下は、他にも何か、ハオリュウに要求しているのね! 隠していないで、教えなさいよ!」
誰にも打ち明けずに、ハオリュウは『ひとり』きりで抱えている。見栄っ張りで、意地っ張りな彼は、周りを――クーティエを頼ってくれない。
……ならば、こちらから喰らいつくまでだ!
「私に顔向けできない? 何をふざけたことを言っているの? ハオリュウが女王陛下の婚約者になるって? それがどうしたのよ? 平民の私が、貴族のハオリュウを好きになるって、生半可な気持ちじゃないんだから!」
彼女は言葉の勢いそのままに、書斎の中へと強引に体を割り込ませる。
「私を見くびらないでほしいわ! そんな陰湿な顔をしたハオリュウを放って、帰れるわけないでしょ! 馬鹿にしないで!」
強気に尖らせた唇で、クーティエは、ぐっと詰め寄った。鮮烈に煌めく眼差しが、至近距離からハオリュウを貫く。
いつもなら高く結い上げている髪は、慌てて家を出たために、まっすぐにおろされたまま。可憐に飛び跳ねるのではなく、優雅に宙を舞う。……艶めきながら、ハオリュウの腕を絡め取る。
「――!」
ハオリュウは声を詰まらせた。彼は、自分が話の流れを誤ったことに気づいたのだ。
クーティエに対し、誠実でありたい。だから、女王の婚約者を引き受けたと、きちんと告げるべきだと、彼は思った。
その事実で彼女を家に帰し、彼は扉を閉じるつもりだった。
だのに、彼女は、彼の懐に飛び込んできてしまった。
……何も言わずに、帰せばよかったのだろうか?
ハオリュウは、温和な外見とは裏腹に、必要とあらば、いくらでも詭弁を弄することのできる人間である。あるいは冷徹に振り払い、切り捨てる。だが――。
ハオリュウはクーティエを見つめ、観念したように溜め息を落とす。
彼女にだけは、自分を偽りたくなかった。
「カイウォル殿下は、僕に『ライシェン』の居場所を鷹刀一族から聞き出してくるよう、命じられたんだ」
「え!? それって、つまり、緋扇シュアンの命が惜しければ、『ライシェン』を差し出せ、ってこと……」
クーティエの顔が驚愕に染まった。まさか、ここで『ライシェン』が関係してくるとは思わなかったのだ。
しかし、衝撃は、それで終わりではなかった。「だからね」と、ハオリュウが温度のない声で続ける。
「僕は、この身を〈天使〉にすることに決めたよ」
ハオリュウの背後から、深い闇の幻が広がった。
それはまるで、昏い光を放つ『羽』のようで――。
言い知れぬ禍々しさが漂い、クーティエは身を震わせた。
4.絹糸の織りゆく道-2
「なんでっ? どういうこと!? どうして、ハオリュウが〈天使〉になるのよ!?」
クーティエは、ハオリュウに掴みかからんばかりに詰め寄った。しかし、勢いよく迫るも、不吉な予感が胸を渦巻き、その声は悲鳴に近い。
「カイウォル殿下に『ライシェン』の情報を渡さずに、シュアンを助けるためだ」
「わけが分からないわよ!」
半狂乱の口調で、クーティエは言い放つ。平然とした顔のハオリュウが、腹立たしくすらあった。
憤慨する彼女に、ハオリュウは困ったように眉を寄せた。
「落ち着いて聞いてほしい。荒唐無稽に感じるのは分かるけど、僕は別に自棄になっているわけじゃないよ」
「でもっ!」
「王族かつ摂政であるカイウォル殿下に対しては、一介の貴族に過ぎない僕は正面から逆らうことはできない。殿下以上の地位にある人間に、圧を掛けてほしいと願い出ることも不可能だ。何しろ、彼が、国の『最高』権力者なんだからね。――だから、エルファンさんが事情聴取のときに使ったのと、同じ策を使うんだ」
「何よ、それ!」
妙に冷静すぎるハオリュウに、クーティエは眦を吊り上げた。反射的に言い返してから、さすがに失礼だったかと反省し、それでも顔をしかめたまま、祖父エルファンの事情聴取の顛末を思い返す。
いつも何を考えているのかよく分からない、感情に乏しいとしか思えない氷の祖父は、何食わぬ顔で、自国の摂政をペテンに掛けた。『鷹刀一族は〈七つの大罪〉の技術を自在に扱える』と信じ込ませ、『一族には手を出すな』と牽制、脅迫したのだ。
まったく、鋼鉄の心臓の持ち主だと、クーティエは思う。
……けれど、一族のために必死だったのだ、ということも知っている。守るという言葉は、強い思いの中からしか生まれないのだから――。
クーティエの興奮が冷めてきたのを見計らい、ハオリュウが静かに続けた。
「エルファンさんが、あの作戦が成功すると踏んだのは、〈蝿〉が遺した記憶媒体に、『摂政殿下は、〈七つの大罪〉の技術を不可思議なものとして、恐れている節がある』という記述があったからだ」
ハオリュウは闇色の瞳を煌めかせ、すっと口の端を上げる。
「つまり、『〈七つの大罪〉の技術』をちらつかせれば、カイウォル殿下に対抗できる」
「――っ!」
クーティエは息を呑んだ。
確かに、その通りだ。
しかし――。
「……ま、待ってよ、ハオリュウ!」
本能的な恐怖が胸に押し寄せ、彼女は叫ぶ。
「祖父上は大嘘をかましただけでしょ! 本当に、〈七つの大罪〉の技術を使ったわけじゃない! ハオリュウが〈天使〉になるというのは、もっと全然! まったく! 別の話のはずよ!」
〈七つの大罪〉の技術が具体的にどんなものなのか。実のところ、クーティエは詳しくは知らない。けれど、禁忌のものと聞いている。おいそれと、手にしてはいけないものであるはずだ。
だから、技術を騙るのと、技術を得るのとでは、雲泥の差があるはず――!
険しい顔で迫るクーティエに、ハオリュウは、ふっと口元をほころばせた。
「クーティエ。あなたが、僕を心配してくれているのは分かる。それは嬉しいよ。――でも、ただじっとしているだけじゃ、何も解決しないんだ」
「……」
「あなたには、僕の考えをきちんと話しておきたい。――聞いてくれるかな?」
彼はそう言って、彼女をソファーへと促した。
ふかふかの座面は、さすが貴族の調度といった座り心地だった。クーティエは場違いを感じ、ソファーの上で落ち着きなく体を揺らす。けれど、ハオリュウが正面に座ったとき、自分は今、彼の書斎のど真ん中にいるのだ、という事実に気づき、はっとした。
ハオリュウは、クーティエを扉の内側に入れてくれたのだ。『僕の考えをきちんと話しておきたい』という言葉まで添えて。
ならば、クーティエも、頭ごなしに否定ばかりしていては駄目だ。それでは、ハオリュウの言う通り、何も解決しない。
彼女は深呼吸をして、向かいのハオリュウへと、ぐっと身を乗り出す。それに応えるように、彼はゆっくりと口を開いた。
「〈蝿〉の遺した記憶媒体には、カイウォル殿下について、こうも書かれていたそうだ。――『特に、鷹刀セレイエの〈天使〉の力を警戒しているようでした』と」
「……っ」
「カイウォル殿下は〈天使〉の力を恐れている。――それが明確に分かっているのだから、その力を手に入れるべきだと、僕は考える」
断言したハオリュウに、クーティエは声を荒立てないように、感情を抑えながら尋ねた。
「祖父上がやったみたいに、摂政殿下を『騙す』のじゃ駄目なの?」
「二番煎じは通じないと考えるべきだよ。下手をすれば、エルファンさんの弁が嘘だったこともばれて、鷹刀一族が窮地に陥る可能性もある。だから、ここは僕が実際に〈天使〉の力を手に入れておくべきだ」
「危険だと思うの。だって、〈天使〉の力って、まるで悪い魔法使いの魔法みたいじゃない?」
口にしてから、随分、子供っぽい言い方をしてしまったと、クーティエは恥ずかしくなった。最近、ファンルゥに魔法使いの絵本を読んであげているので、思わず出てしまったのだ。
だが、彼女の羞恥は杞憂で、むしろハオリュウは言い得て妙だと頷く。
「クーティエの言いたいことは分かるよ。何しろ、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉たちが作った技術だからね。それこそ、『悪い魔法』のようなものだろう。カイウォル殿下に限らず、まともな人間なら、誰だって恐ろしいと感じるはずだ。――それに……」
彼は、そこで一段、声を低くする。
「『悪い魔法』は、たいていの場合、諸刃の剣ということになっている。ご多分に漏れず、〈天使〉の力も、無理をすれば熱暴走を起こして死に至る――という代物だ」
「なら、なおのこと、別の手段を考えるべき……」
クーティエは言い掛けて、途中で声が止まってしまった。ハオリュウの闇が、ふっと濃くなった気がしたのだ。
押し黙ったクーティエに代わり、好戦的な眼差しのハオリュウが問う。
「セレイエさんが、姉様を『最強の〈天使〉の器』として選んだ理由――クーティエは覚えている?」
「え? うん。王族の血を濃く引いているから、でしょ? 普通の人が〈天使〉になったら、すぐに熱暴走で死んでしまうけど、王族の血を濃く引くメイシアなら、脳の容量が大きいから簡単には熱暴走を起こさない、って――」
「そう。でも、ただ王族の血を引いているだけじゃ駄目だ。力は強くとも、制御しきれないために、やはり熱暴走を起こすらしい。だから、セレイエさんは、〈天使〉の力の使い方を熟知した自分の記憶を――知識を姉様に刻み込んだ」
最愛の異母姉が、セレイエの身勝手に利用されたことを思い出したのか、ハオリュウの声が険を帯びた。憤りの気配にクーティエは身構えたが、彼は話の筋を見失うことはなく、唇を噛むだけに止めて続ける。
「つまり、王族の血が濃いほうが力は強いけれども、制御を考えれば、血が濃すぎないほうが〈天使〉の器として安定している。――言い換えれば、『王族や貴族』と『平民や自由民』の中間に位置する人間が、〈天使〉化に一番、適しているということだ」
「――!」
ハオリュウの意図するところを理解し、クーティエは顔色を変えた。
その次の瞬間には、ハオリュウの口から想像通りの言葉が発せられる。
「つまり、僕だ」
父に貴族を、母に平民を持つ彼は、ぐっと胸を張った。揺れる黒髪が風を起こし、絹地の服が冷涼とした煌めきを放つ。
「生粋の王族や貴族ほどには力は強くないのかもしれないけれど、僕ならば誰よりも安定した〈天使〉になれる。そもそも、僕は、カイウォル殿下を牽制したいだけだ。力を使うつもりはないから、背中から羽が生えてさえいれば、弱くても問題ない」
「……っ」
反論したいのに、何を言ったらよいのか分からなかった。
「僕は、シュアンを助けたい」
凛と響くハオリュウの声が、クーティエの耳朶を打つ。
「彼は、僕と摂政殿下との駆け引きに巻き込まれただけだ。そして、彼の罪状は、彼が僕の手となって、厳月の先代当主を撃ってくれたことに依るものだ。――僕のために、彼の命が脅かされているのなら、それは、僕自身が脅かされているのと同じことだ」
「…………」
「誰だって、自分の身が危険に晒されれば、死にものぐるいで足掻くだろう。それと、なんら変わるところはない。――今、こうしている間にも、シュアンがどんな目に遭っているかと思うと、腸が煮えくり返るよ」
ハオリュウの闇が、ぞわりと蠢き、クーティエは「え……?」と、かすれた声を漏らす。
「緋扇シュアンが、どんな目に遭っているか――って、どういうこと……!?」
「貴族を殺害した罪人だからね、まともな扱いを受けているわけがない。裁判も行われず、尋問と称して、腐った警察隊員どもから憂さ晴らしの暴行を受けていることだろう」
「なっ……!」
「僕はシュアンから、警察隊内部の現状を聞いている。だから、間違いないよ」
淡々と告げる声は少しの揺らぎもなく、ぴんと張られた絹糸のよう。冷たく輝く眼差しからは、深い憎悪が伝わってきた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 緋扇シュアンは、摂政殿下のもとで、厳重に監視されているわけじゃないの?」
「違う」
クーティエの問いに、ハオリュウは、きっぱりと首を振る。
「罪状が『厳月家の先代当主の暗殺』である以上、王族であるカイウォル殿下も、王族のために存在する近衛隊も、表立っては無関係を装うはずだ」
「え?」
「王族は、貴族の暗殺事件に首を突っ込んだりしない。王族であるカイウォル殿下が、自ら指揮を取り、犯人を逮捕した――なんてことになったら、殿下は厳月家を重用するつもりだという誤解を招くことになる」
「そうなんだ……」
「だからね、クーティエ」
ハオリュウは、ぎりりと奥歯を噛み、まっすぐな視線を彼女に向けた。
「僕は、この身に代えてでも、シュアンを取り戻す!」
腹の底から発せられた叫びは、熱く激しく。
育ちの良さからくる上品な振舞いと、優しげな容貌からは想像しにくいが、絹の貴公子の気性は、かなり荒々しい。喩えるなら、高貴な光沢を放つ柔らかな絹布が、貴人の首を縊る凶器となり得るように――。
クーティエは、ハオリュウの顔を見つめたまま、瞬きひとつできなかった。
彼の気持ちが痛いほど伝わってきて、胸が苦しかった。
『守りたい』という強い思いに、彼はその身を擲たずにはいられないのだ。
クーティエは、『ひとり』で抱え込むハオリュウに対し、『ルイフォンたちと協力して、皆でシュアンを助けよう』と、持ちかけるつもりだった。
ルイフォンは既に動いている。いざというときには、シュアンを脱獄させようと考えていて、そのための監獄の地図まで、もう手に入れていた。
だから、『一緒に、草薙家まで来てほしい』――そう訴えるはずだった。
なのに、クーティエの口を衝いて出たのは、まったく別の言葉だった。
「……なんで、ハオリュウばっかり、辛い目に遭わなきゃいけないの?」
しゃがれた声と共に、涙がこぼれた。
「『ライシェン』のせいで、緋扇シュアンが殺されるとか、ハオリュウが自分を犠牲にするとか……、おかしいと思うの!」
叫びと共に、心に秘めていた昏い感情が、堰を切ったようにあふれ出した。
「ハオリュウ……、『ライシェン』は、私の従弟にあたるの。父上とセレイエさんが異母兄妹だから、私とは従姉弟同士になるのよ」
唐突なクーティエの言葉に、ハオリュウは困惑を見せた。しかし、彼女の昂りをそのまま受け止め、「そうだね」と、先を促すように相槌を打つ。
「父上と母上は、『養父母が必要なら『ライシェン』は草薙家の子になるといい』って、言っている。私も、彼が草薙家に来るといいな、って思っている。『ライシェン』は、私の義弟も同然なの。大事な子だと思っているわ! ――でも!」
クーティエの声が歪んだ。
「王様になるはずの子を義弟にしちゃって本当にいいのか――よく分かんないよっ……! だって、現に『ライシェン』が王宮にいないせいで、ハオリュウとシュアンが酷い目に遭っているんでしょ!」
血族に異様なまでのこだわりを持つ、両親は、異母妹の遺児である『ライシェン』に、迷うことなく手を差し伸べた。
法に逆らい、玉座に座るはずの彼を保護すれば、どんな災いを招くやも知れぬのに。
〈神の御子〉という目立つ容姿の彼を守り育てるには、どれだけの困難が待ち受けているのかも分からぬのに。――彼らは、ためらわずに腹を決めた。
けれど、クーティエには、そこまでの覚悟はない。
「摂政殿下の望み通りに、『ライシェン』を引き渡してもいいと思うの……」
ぽつり、と。
クーティエは呟いた。
ハオリュウを苦しめている相手に従うのは不本意だけれど、誰かが傷つくよりは、よほどよい選択のはずだ、と。
「だって、摂政殿下は、『ライシェン』を王様として、王宮に迎えたいって言っているんでしょ? 愛情はないかもしれないけど、大切にされることは間違いないわ。それに、王宮には、お父さんのヤンイェン殿下がいらっしゃる。息子を保護しようと、必ず動くはずよ」
――それなら、『ライシェン』を引き渡してもいいはずだ。
先ほどの呟きを繰り返そうとして、声が喉に張りつく。
クーティエにとっても、何度も言えるほど、軽い言葉ではなかったのだ。会ったこともない従弟だけれど、『ライシェン』は、彼女の義弟なのだから――。
「クーティエ。あなたに、そこまで言わせてしまって申し訳ないけれど、『ライシェン』の情報をカイウォル殿下に売るという選択肢は、僕にはないよ」
ハオリュウの声が、低く響いた。
思わぬ返答にクーティエは目を瞬かせる。しかし、間髪を容れず、硬い声が付け加えられた。
「ただ、その理由は、あなたが考えているようなものじゃない」
「……どういう意味?」
「まず、初めに言っておく。……クーティエ、ごめん。僕は『ライシェン』に対して、よい感情を持っていない。父様を死に追いやった『デヴァイン・シンフォニア計画』は、セレイエさんの我儘の結晶だ。その結果、産まれる『ライシェン』も同様。たとえ、彼が死んだところで、僕の心は、髪の毛一本ほどの痛みを感じることもないだろう」
「――っ」
それは、仕方のないことだ。
『デヴァイン・シンフォニア計画』のせいで、ハオリュウの家族の幸せは奪われた。そして、彼は、『ひとり』になった。
「僕が『ライシェン』の情報を売る気がないのは、『ライシェン』のためじゃない。鷹刀一族のためだ。クーティエは、現状を少し勘違いをしている」
「勘違い……?」
首を傾げるクーティエに、ハオリュウは「そうだ」と頷く。
「カイウォル殿下は、『シュアンの命』と『『ライシェン』の身柄』を天秤に掛けて、僕に選択を迫っているわけじゃない。殿下が『ライシェン』を要求しているのは間違いないけれど、セレイエさんを匿っていると考えている『鷹刀一族』を追い詰めることにも重きを置いているはずだ」
「え? どういうこと!?」
「僕が、鷹刀一族のもとに『ライシェン』がいると証言すれば、カイウォル殿下は、鷹刀一族を『国宝級の科学者の研究』を奪った犯罪者集団として罰することができる。イーレオさんは責任者として逮捕、処刑され、組織は解体を迫られることだろう」
「そんなっ!」
「エルファンさんと交わした『互いに不干渉』の約束も無意味だ。先に、鷹刀一族のほうが反故にした、と言われるだけだ」
冷ややかな眼差しで言い放ち、ハオリュウは掌を握りしめた。
「だから、何があっても、僕は『ライシェン』の居場所をカイウォル殿下に明かすわけにはいかない。そして――」
彼は闇をまとい、凛と告げる。
「貴族の僕が、王族の殿下よりも優位に立つ唯一の手段が、殿下の恐れる〈天使〉になることだ。――僕は、シュアンの命を駒にした殿下を決して許さない! 思い知らせてやる!」
ハオリュウは、自分の拳に目を落とした。
彼の手はシュアンの手で、シュアンの手は彼の手だ。
「ハオリュウ……」
クーティエにも、はっきりと分かった。
ハオリュウは、シュアンのために腹を括ったのだ。
ならば、彼女だって腹を括るべきだ。身分違いを承知で好きになった、彼のために。
「分かったわ。――私、ハオリュウが〈天使〉になるという意見を支持する」
「クーティエ!?」
驚愕に、ハオリュウの目が見開かれた。
「勿論、諸手を上げて賛成、ってわけじゃないわ。それどころか、ちっとも名案だなんて思ってない。――でも、ハオリュウが、緋扇シュアンのことも、鷹刀のことも大切にしていて、それで、どっちも守るために、ぎりぎりの方法を選んだんだって、……分かったもの」
強気のクーティエの語尾が、少しだけ揺れる。
「ハオリュウが苦しんで、考え抜いた末の作戦なんだから、認めなくちゃ……。否定するんだったら、私がもっといい、別の策を提案しなくちゃ駄目なの。でも、私には思いつかない。だから、ハオリュウに従う!」
彼女は、きっぱりと言い切り、それから鋭く「けど!」と叫んだ。
「まずは、今の話をメイシアにもしてあげて! メイシアは、ハオリュウが『ひとり』で抱え込んでいる、って凄く心配しているの」
「……」
沈黙したハオリュウに、クーティエは畳みかける。
「だって、〈天使〉になるためには、セレイエさんの記憶を持っているメイシアに、その方法を聞かなきゃいけないわけでしょ? どう考えてもメイシアは猛反対だと思うけど、とにかく彼女に話をしなければ始まらないわ。私も説得に協力するから、これから一緒に草薙家に行こう!」
やっと、本来の目的を言えたと、クーティエは口元をほころばせた。それから、こう付け加えることも忘れない。
「でも、ルイフォンも、いろいろ画策しているから、彼のほうがいい作戦を思いついていたら、そっちに乗り換えること!」
ルイフォンは、凄い案を思いついてみせると、豪語していた。それがもし本当なら、ハオリュウは〈天使〉にならなくてよいのだ。――クーティエとしては、やはり、そのほうがいい……。
ともかく、善は急げと、クーティエはソファーから立ち上がった。そのとき、ハオリュウの口から、思いもよらぬ言葉が飛び出た。
「姉様には頼らない」
「えっ……!?」
扉に向かって歩き出そうとしていたクーティエは、愕然と振り返る。
「姉様は、口が裂けても、〈天使〉になる方法なんか教えてくれないだろう。おとなしそうに見えて、頑固なんだ。――だから、別の人を頼る」
「誰よ、それ!?」
「ヤンイェン殿下」
発せられた名前と共に、ひやりとした風が流れた。
「ヤンイェン殿下は、〈天使〉の専門家であるセレイエさんの事実上の夫であり、四年前まで〈七つの大罪〉の実質の責任者だった方だ。殿下なら、〈天使〉化の方法を知っているはずだ。僕は、彼に会いにいく」
「――!」
「それに、ヤンイェン殿下は『ライシェン』の父親だ。『デヴァイン・シンフォニア計画』の行く末に、彼が関わらないなんて、あり得ないんだよ」
4.絹糸の織りゆく道-3
「ヤンイェン殿下……」
唐突に出された名前に、クーティエは呆然と立ち尽くした。
絶句する彼女の耳に、冷然としたハオリュウの声が響く。
「そもそも、『ライシェン』に関わることを、父親のヤンイェン殿下抜きで考えてはいけないんだ。ご機嫌伺いと称して、彼に会いに行こうと思う」
「――そう、よ……ね」
セレイエの事実上の夫で、『ライシェン』の父親――ヤンイェンは間違いなく、重要人物だ。しかも、〈天使〉に詳しい。是非とも、協力してもらうべき相手といえるだろう。
現にクーティエだって、『ライシェン』が王宮に行けば、ヤンイェンが保護してくれるはずだ、と言ったばかりだ。
「……でも、すんなり、お会いできるものなの?」
それは、素朴な疑問だった。
以前から、ルイフォンたちが『ヤンイェン殿下に、『ライシェン』のことを知らせなければ』と言いつつ、なかなか実行に移さないので、なんとなく、簡単には会えない人のような印象があっただけだ。
「――……っ」
ハオリュウの息遣いが、わずかに乱れた。
それは、気配に敏感なクーティエだからこそ、分かった程度の、些細なものだった。けれど、彼女は、彼が不快に思ったのだと感じ、慌てて弁解するように続ける。
「ごめんなさい! あ、あのね、ハオリュウは貴族なんだから、王族に会うことができるのは分かっているの。それに、ヤンイェン殿下とは親しかったんでしょ? 一緒にお茶くらいしても、おかしくないと思う。――でも、ヤンイェン殿下の周りって、摂政殿下が目を光らせているんじゃないの? ほら、殿下たちは政敵同士なわけで……」
自分で言いながら、クーティエは、はっと顔色を変えた。
「ちょっと待って! 脅迫している真っ最中のハオリュウと、政敵のヤンイェン殿下が会っているのが摂政殿下にバレたら、ふたりが結託して自分に逆らおうとしている、って考えるんじゃないの!? それって、まずくない!? 緋扇シュアンが殺されちゃう!」
クーティエは盛大に取り乱しながら、ハオリュウに迫る。
対して、ハオリュウは、柔らかな苦笑で肩をすくめた。
「勿論、ヤンイェン殿下との面会が秘密裏に行われるよう、いろいろと手を回すつもりだよ」
ハオリュウの声は、とても平静だった。しかし――否、『だからこそ』、クーティエは胸騒ぎがした。
「いろいろ手を回す、って……。それって、やっぱり、危険だってことじゃない!?」
「そりゃあ、僕の生きている世界は、魑魅魍魎の棲み家だからね」
穏やかに見える善人顔で、ハオリュウが微笑む。
刹那。
クーティエの中で、何かが弾けた。
向かいのソファーへと駆け寄り、自分の手がハオリュウを目指して、まっすぐに伸びていくのを、まるで他人ごとのように見つめる。
「そんな言葉で、誤魔化さないでよ!」
彼の服に手が触れる――その直前で、彼女は掌を握りしめ、かろうじて彼との接触を回避した。
彼に掴みかかろうとしたのか、すがりつこうとしたのか。どちらなのかは、彼女自身にも分からない。だが、彼女は、彼に触れていい立場ではないのだから……。
ぎりぎりのところで自分を制したものの、勢いを殺しきれずに、彼女はソファーに倒れ込む。
その際、布地の座面に染み込んでいく、自分の涙が見えた。慌てて俯き、結い上げていない長い髪で、さっと顔を隠す。
怖かった。
ハオリュウが、知らないところに行ってしまいそうな気がして、恐ろしくなった。
だから、引き止めたくて、体が動いた。
スプリングを軋ませ、ソファーに転がり込んできたクーティエを、ハオリュウが驚いたように見つめる。当然だろう。彼女の行動は、充分すぎるほどに不可解だったのだから。
彼女は、ぐっと腹に力を入れ、涙を堰き止めた。彼に気付かれないように目元を拭い、何ごともなかったかのように彼の横に座る。
そして、彼の胸に向かって、彼女の直感を叩きつけた。
「ハオリュウの言っていること、どこかおかしい!」
突然の叫びに、ハオリュウが狼狽する。
「ひとつひとつは、ちゃんと合っているの。大賛成はできないけど、ハオリュウが〈天使〉になることは有効な作戦だって認めるし、『ライシェン』のことをヤンイェン殿下と相談すべきなのは正論。殿下とは、こっそり会わなきゃいけないのも、その通りだわ」
ハオリュウは聡明だ。たった十二歳で貴族の当主の座を継いだにも関わらず、既に先代以上に領地を盛り立てている。彼の思考は、常人のそれとは明らかに違う。
しかし……だ。
「ハオリュウは間違っている! ひとつひとつが正しくても、無理やり繋ぎ合わせているから、ちぐはぐだわ! ……剣舞だってね、ひとつひとつの動きが良くても、全体のバランスが悪かったら、いい演技にはならないの! それと同じよ!」
斬りつけるように言い放った瞬間、クーティエの頭に、今のハオリュウを表す、的確な言葉が閃いた。
「――そうよ! ハオリュウは、暴走しているのよ!」
間違いない。
これは『暴走』だ。
一見、彼が冷静に見えるから、惑わされた。
本当は、シュアンを危機に追いやった自分を追い詰め、暴走――そして、迷走していたのだ。
「今、一番、大事なことは、一刻も早く、緋扇シュアンを助けることでしょ! だって、酷い暴行を受けているはずだ、って言っていたじゃない!」
びくり、と。ハオリュウの体が震えた。その動きにあわせ、服に織り込まれた流水文様が、波紋を描くように絹の光沢を波打たせる。
クーティエは、ぐっと顎を上げ、貫くような瞳で彼を見上げた。
「〈天使〉になるのが有効な手段だとしても、〈天使〉化をヤンイェン殿下を頼るのは、現実的な策じゃないわ。お会いするための根回しに時間が掛かる上に、摂政殿下にバレたときには緋扇シュアンが殺される」
ハオリュウは押し黙ったまま、硬い顔でクーティエに視線を落とす。
「ヤンイェン殿下は重要人物だけど、彼に会うのは『今』じゃない。――〈天使〉になるなら、やっぱり、メイシアを頼るべきよ」
「……でも、姉様は、僕が〈天使〉になることを絶対に許さないよ」
「私が、メイシアを説得する」
「無理だ」
にべもない反論は、クーティエの予想通り。だから、かぶせるように切り返す。
「メイシアに、『〈天使〉になる方法を教えてくれないのなら、じゃあ、どうやって緋扇シュアンを助ければいいの?』って訊けばいいいだけよ」
「なっ……、姉様を脅迫するつもりか!?」
「脅迫なんかじゃないわよ、ただの相談よ。メイシアだけじゃなくて、ルイフォンにも考えてもらって、一番いい作戦を採用するの。それで、ハオリュウが〈天使〉になるのが一番の名案だ、ってなったら、そのときはメイシアも教えてくれるはずよ」
賢いくせに、異母姉に対して、どこか過保護なハオリュウは、こんな駆け引きも思いつかなかったらしい。……とはいえ、クーティエだって、『俺が名案を思いつけば、ハオリュウは乗り換える』という、ルイフォンの言葉を借りただけ。――要するに、皆で額を寄せ合って、一番いい方法を選べばよいというだけだ。
「駄目だ」
静かに、けれど、きっぱりと。ハオリュウの否定が響いた。
「これは、僕が蒔いた種だ。僕が、シュアンを危険な目に遭わせているのだから、姉様やルイフォンを頼るのは筋違いだ。――『僕』が! 『この手』で! シュアンを助けなければいけないんだ!」
ハオリュウの闇が、ぶわりと広がる。
「違うわ! 『ライシェン』を手に入れたい摂政殿下が、ハオリュウや緋扇シュアンを利用しているだけよ! そして、『ライシェン』は、ルイフォンとメイシアに託されているんだから、ふたりは立派に当事者だわ!」
クーティエは、ハオリュウに負けじと声を張り上げ、更に畳み掛ける。
「それに、ハオリュウは『ライシェン』の情報と引き換えに、シュアンを返してもらうこともできるのに、鷹刀のために、それをしない。だったら、鷹刀一族総帥や、次期総帥にだって、協力してもらっていいはずよ!」
ハオリュウが『ひとり』で背負う必要はないのだ。
クーティエは、強い眼差しで彼を呼ぶ。一緒に草薙家に来て――と。
しかし、彼は、ゆっくりと頭を振った。
「僕は、シュアンに対して責任がある。カイウォル殿下の思惑はどうであれ、僕のせいでシュアンに危害が加えられていることに変わりはない」
ぴんと張られた絹糸の輝きで、ハオリュウは告げる。
その言葉も、覚悟も、クーティエは美しいと感じた。権力者嫌いのシュアンが、貴族の当主であるハオリュウに人生を――運命を預けるのも、もっともなことだと思う。
だからこそ、この美しくも、脆く儚い糸が切れないように。――クーティエは守るのだ。
「……ねぇ、ハオリュウ」
彼女は見えない絹糸を握りしめ、自分のほうへと手繰り寄せる。
「ハオリュウは、自分が苦しんだり、辛い思いをしたりすることが、責任を取るということだと思っているみたいだけど、私は違うと思う。だって、そんなの、緋扇シュアンにとっては、なんの得にもならないもの」
ハオリュウには、自己犠牲を好む傾向がある。
一生、残る足の怪我だって、異母姉を幸せにするために『ひとり』で無茶をしたためだ。
けれど、ハオリュウが傷ついても、誰も喜ばない。皆、ハオリュウのことが大切なのだから。
「ルイフォンは、なんの手立てもないときには、緋扇シュアンを脱獄させようと考えている。でも、『お尋ね者になっちまうから、あまりいい策じゃない』って言っていた。――それを聞いて、はっとしたの。ただ助けるだけじゃ駄目なんだ、って思った」
ハオリュウが目を瞬かせた。クーティエの真意を探るように、彼女の顔を凝視する。
刺すような視線に、クーティエは一瞬だけ、ひるんだ。けれど、深く息を吸い込み、体の芯に力を入れる。特別な剣舞を披露するかのように、全身に心を込める。
「ハオリュウが、緋扇シュアンに対して取るべき責任。……それは、彼を助けたあとも、彼が今までと変わらずに暮らせるようにしてあげることだわ」
静謐な書斎に、クーティエの声が広がった。
「日陰者の生活なんかじゃなくて、ハオリュウのそばで堂々としていられること」
刀を帯びたように鋭く、舞うように鮮やかに。
「あの胡散臭い顔で、ずっと笑っていられるようにしてあげること……」
「――!」
ハオリュウの目が見開かれた。
「だって、あいつ、ハオリュウのことが大好きだもの!」
畳み掛けられた言葉に、高い襟で覆われたハオリュウの喉が、こくりと動く。
それを視界に捕らえつつ、クーティエは更に重ねた。
「今の緋扇シュアンは『死刑の決まっている犯罪者』なの。そんな彼を助け出して、元通りの生活を送れるようにしてあげるって、凄く難しいと思う。……ハオリュウは誰にも頼りたくないかもしれないけど、人手は多いほうが、採れる作戦の幅が広がるはずよ。ルイフォンは情報に強いし、鷹刀の人間は武術に長けている。人脈だって、たくさんあるわ」
そうでしょ!?
直刀の瞳が、まっすぐに告げる。
刹那、ハオリュウは貫かれたかのように、びくりと体を震わせ、次の瞬間には、目の前の机に強く拳を打ちつけていた。
「僕は……、愚かだ……!」
黒絹の髪に指を滑らせ、頭を抱えるようにして呟く。
「シュアンのことを一番に考えるべきなのに。彼のことを思うなら、あらゆる手を尽くすべきなのに……。狭い視野で……」
ハオリュウは、そこで口を閉ざし、首を振った。今は、そんなことを言っている場合ではないのだと。そして、うつむいた姿勢から顔を上げ、彼女の名を呼ぶ。
「クーティエ」
その眼差しには、挑むような光が宿っていた。
「今すぐ、僕をあなたの家に連れて行ってほしい。ルイフォンたちの力を借りたい」
「勿論よ!」
クーティエは、喜色を満面に浮かべる。大きく頷いた彼女に、ハオリュウは少し気まずげに続ける。
「けど、誤解しないでほしい。僕が〈天使〉になるという策を捨てたわけじゃないんだ。今でも、最善手だと思っている。ただ、例えば〈天使〉化に何日も掛かったりするのだったら、別の策を考えないといけない。だから――」
ハオリュウの顔つきは、別人のように変わっていた。
先ほどまでの、闇と同化した、暴走した彼ではない。しなやかに闇を従える、冷静な絹の貴公子――いつものハオリュウだ。
「幾つもの可能性を考慮して、幾つもの策を用意して、最善の方法でシュアンを助ける。そのために、皆の知恵を借りたいんだ」
そう言っている間にも、彼は既にソファーから立ち上がっていた。絹地の裾が翻り、流水模様が広がる。風が巻き起こる。
ハオリュウは執務机に置かれた携帯端末を手に取り、誰かに連絡を入れた。どうやら、相手は執事らしい。数日、屋敷を空けると――その間、藤咲家の当主は、部屋に籠もりきりであるように装ってほしいと告げていた。
彼は通話を切ると、ふと、執務机と向き合うように置かれた椅子に視線を落とした。クーティエは知る由もないが、それは、シュアンがハオリュウの書斎を訪れるときに、いつも決まって座る椅子だった。
「クーティエ……。シュアンは、僕のそばにいると誓ってくれたとき、『俺に『穏やかな日常』は、似合わねぇからよ』と言ったんだ」
唐突な話に、彼女は『え?』と戸惑いの声を上げそうになった。けれど、すんでのところで「うん」という相槌に切り替えた。ハオリュウが、ただ聞いてほしいのだということに気づいたからだ。
「僕は子供で、何も分かっていなかった。だから、そばにいてくれると言われたら、嬉しくて、『ありがとう』と素直に喜んだ。あまつさえ、『対等な友人でありたいから』などと言って、警察隊を続けるように頼んでしまった。……本当に馬鹿で、愚かだ。――覚悟の欠片すらなかった」
吐き捨てるように、ハオリュウは言う。
「シュアンは腹を決めて、僕のそばにいると誓ってくれたんだ。だったら僕は、対等なんて言葉に甘えず、腹を括って彼の人生を預かるべきだった」
ハオリュウは、ぎりりと奥歯を噛んだ。
口元が、悔しげに歪む。
「シュアンが『穏やかな日常』を捨てる必要はない。僕のそばにいることで、何かを捨てるくらいなら、僕のそばになんかいないほうがいい。――彼が僕のそばにいてくれるというのなら、僕には、彼に『穏やかな日常』を与え、彼を幸せにする義務がある」
力強く響き渡るハオリュウの声は、比類なき王者の光沢を放つ、絹のよう。
それも脆く儚い、たった一本の糸などではない。数多の思いの絹糸を縦横に織り重ねた、滑らかで柔軟な絹織物である。
ハオリュウは、クーティエの姿を瞳に映す。
そして、誓う。
「僕は、僕に運命を預けてくれたシュアンに、幸せを贈る――!」
奈落の闇に沈む、幽寂な夜に、カタカタと叩きつけるような音が響き渡る。
ルイフォンは、ひたすらキーボードに指を走らせ、シュアンの逮捕に関する情報を黙々と集め続けていた。OAグラスの下の目は血走り、無機質な〈猫〉の顔が、モニタ画面に照らされて青白い光を帯びる。
そんな彼のもとへハオリュウからの連絡が入ったのは、クーティエが草薙家を発ってから、小一時間ほど過ぎたときのことであった。
『ルイフォン、力を貸してください。僕は、なんとしてでもシュアンを取り戻したい。それも、彼がこの先、幸せに暮らしていけるような方法で』
険しさをはらみながらも、凛と澄んだ力強い声だった。シュアンの逮捕を知らせたときとは、雲泥の差である。
『今、草薙家に向かう車の中です。詳しい事情はこれからお話しますが、それより先に、シュアンの状況を教えてください。あなたのことですから、監視カメラは、既に支配下にあるのでしょう?』
「……っ」
ルイフォンは狼狽した。勿論、ハオリュウの言う通り、監視カメラなら、とっくに掌中に収めている。しかし、事態を正直に告げてよいものか迷ったのだ。
『ルイフォン』
惑う彼の耳朶に、硬い声が重ねられた。対面ならいざ知らず、携帯端末越しであるにも関わらず、まるでこちらのためらいが見えているかのような口調だった。
『シュアンは、理不尽な暴行を受けているはずです。死刑囚を収容する監獄の看守は荒っぽく、憂さ晴らしに囚人を嬲り殺しにすることもあると、シュアンから聞いています』
「……」
ルイフォンは唇を噛んだ。
けれど、迷いは消えた。むしろ、ありのままを伝えるべきだと思った。彼は癖の強い前髪を掻き上げ、静かに口を開く。
「結論から先に言う。シュアンは無事だ」
『よかっ……』
安堵の息をつこうとしたハオリュウを、ルイフォンは鋭く遮った。
「けど、ついさっきまで、酷い暴行を受けていた」
『――っ!』
「様子を見に来た摂政が気づいて、医者を呼んだ。……あと少し遅ければ、死んでいた」
『…………』
押し黙ったハオリュウに、ルイフォンは淡々と告げる。
「今後は、摂政が目を光らせているだろうから、シュアンが暴行を受ける心配はないだろう」
『……報告、ありがとうございます……』
ハオリュウが硬い声で答えると、ルイフォンは、ぐっと腹に力を入れた。
そして、伝える。
間違っても、ハオリュウを責めているように聞こえないように。努めて冷静に、細心の注意を払いながら。
「……ハオリュウ。シュアンは看守たちを煽って、必要以上に自分に危害を加えさせていた」
『えっ!?』
「あいつは、死のうとしていた」
『なっ!? どうして……』
それは、とても正視に耐えない光景だった。
監視カメラを乗っ取った瞬間、メイシアは情報屋との電話中で、あの映像を目にしなかったのは本当に幸いだったと思う。
それでいて、当のシュアンは、へらへらと笑いながら、時々、カメラに向けて視線を送ってくるのだ。ルイフォンが見ていることを信じて疑わず、あとを頼んだと、片目の腫れ上がった三白眼で訴えてきた。
「シュアンは、お前の枷になりたくなかったんだ。自分が囚われれば、お前が窮地に陥る。それが分かっているから、自ら命を絶とうとした。そして、監視カメラを使って、自分の死という情報を俺に伝えようとしていた」
『…………!』
「とんでもない馬鹿で、お人好しだ……! ……ハオリュウ、絶対に、シュアンを助けるぞ!」
冷静であろうとしていたはずなのに、気づいたら、ルイフォンは熱く叫んでいた。
そして、それとまったく同じ言葉が、携帯端末の向こうでも――。
『シュアンは、必ず、助けます!』
4.絹糸の織りゆく道-4
タオロンの運転する車は、漆黒の闇を滑るように走り抜け、草薙家へと到着した。
洒落た門扉の前で、ハオリュウ、クーティエ、ユイランの三人が降り、タオロンは裏手にある車庫へと、そのまま運転していく。
「ハオリュウさんが着いたことを、皆に知らせてくるわね。ハオリュウさんは、クーティエと一緒に、ゆっくり登ってきてくださいね」
門を開けるやいないや、にこやかにユイランが告げた。
草薙家のアプローチは、そこそこの距離の緩やかな勾配になっており、足の悪いハオリュウには少々、不親切な造りである。だから、ユイランは『ゆっくり』と言った――のではないことは、クーティエには分かっていた。
幾つになっても乙女心を忘れない祖母は、『ふたりきりの夜道なんて、素敵でしょう?』と、変な気を回してくれたのだ。
クーティエの顔が、ぼっと赤らみ、いやいや、今は浮かれている場合ではないのだと、慌てて首を振る。その間に、心身ともに年齢よりも、ぐっと若い祖母は、足取り軽く去っていった。
嬉しいけれど、複雑な思いで、クーティエは後ろを振り返る。
「ハ、ハオリュウ。暗いから、気をつけてね」
……声が上ずった。
今晩は雲が多く、月も星も隠されている。庭の外灯には、たいした光度はなく、だから足元が悪い。だが、代わりにクーティエの顔の紅潮は、ハオリュウにばれていないだろう。
そんなことを考えていると、彼が瞳を瞬かせて尋ねてきた。
「道が光っている。……これは、いったい?」
ハオリュウが指差したのは、アプローチの両端の縁石だ。ひとつひとつの石が、電灯とは明らかに異なる、淡く幻想的な光を灯しており、それが連なって光の筋を作り出している。――左右の縁が光ることによって、暗がりの中でも、家へと誘う道がはっきりと示されていた。
「あ、そうか! ハオリュウは、初めて見るのよね?」
草薙家のアプローチは、小洒落た仕掛けになっているのだ。
「あのね。このアプローチは、昼間は全部、同じような白い石が敷き詰められているように見えるんだけど、本当は縁石だけ、特別な人造石なの。その石が、明るい間は光を蓄えて、暗くなると光りだすのよ」
「へぇ……、凄いね」
「うん。父上の趣味なんだって、母上が言っていた」
その瞬間、ハオリュウが小さく息を呑んだ。
そして、低く呟く。
「レイウェンさん……。……闇に囚われた人に、道を示す――か」
「ハオリュウ?」
「レイウェンさんには、すべてお見通しだったのかもしれないな。……だから、僕のところにクーティエを送り出してくれたんだ」
溜め息のように漏らし、ハオリュウは苦笑した。
涼風が彼の前髪を巻き上げ、わずかな外灯の光でも、彼の顔を明るく照らした。
「クーティエ……、弱音を吐いてもいいかな?」
「えっ!?」
見栄っ張りで、意地っ張りなハオリュウの口から、『弱音』などという信じられない単語が溢れ落ちた。クーティエは腰を抜かしそうになりながらも、神妙な顔で、おそるおそる頷く。
「僕は、レイウェンさんに『決闘を申し込む資格すらない』と言われているんだ」
「ど、どういうこと? なんで、ハオリュウが父上と決闘するの!?」
「『顔を洗って、出直してこい』とまで言われている」
ハオリュウはクーティエの質問には答えずに、一方的に言葉を重ねた。どうやら、説明する気はないらしい。
「僕は、レイウェンさんに認められたい」
「はぁ? いったい、どうしたのよ……?」
次から次へと突拍子もない言葉が飛び出してきて、その意味不明さに、クーティエは焦れったいような戸惑いを覚える。
ハオリュウは、そんな彼女に目を細め、それから視線を庭に移した。鮮やかな緑の木々は夜闇に溶け込み、ざわざわという葉擦れの音だけが聞こえている。
「風が……気持ちいいね」
「え?」
「僕は、自由な風に焦がれているんだと――今日、思い知らされたよ」
ざわめきを抱きしめるように両手を広げ、ハオリュウは異母姉によく似た黒絹の髪をなびかせる。不可思議な微笑を浮かべた彼に、クーティエはどきりとした。
彼の語る言葉は謎めいていて、彼女には脈絡なく聞こえる。けれど、吐露するような口調が切なくて、彼の懸命な叫びなのだと、なんとなく理解した。
すぐそばにいても、彼女の知らない貴族という世界に生きる彼は、決して触れることのできない遠い人だ。
彼は軽く目を瞑り、風を浴びる。絹の裾が翻り、流水文様をはためかせる。
彼女はただ、じっと彼の横顔を見守る……。
やがて、ハオリュウは静かに切り出した。
「女王陛下との婚約について、あなたに話しておきたいことがある」
「!」
クーティエの心臓が跳ね上がった。
彼女の顔は一瞬にして凍りつき、呼吸が止まる。耳朶を打つ木々のざわめきも、肌をそよぐ風の気配も、まるで感じられなくなった。
ハオリュウが振り返る。
正面から目が合うと、クーティエの鼓動は余計に早まった。しかし、次に彼が発した語句は、彼女の予想とは、まるで見当違いの方向からのものであった。
「実のところ、正式に結婚するまでの間に、破談になると思っている」
ハオリュウは真顔だった。
「は……?」
クーティエの頭は状況を理解できず、ただ呆けたように彼の顔を凝視する。優しげで、誠実そのもので、誰からも親しみをもって迎えられるような、柔和な面差しだった。
……だが、その大真面目な表情が、実は、裏では腹黒な策略を巡らせている顔であることを――彼女は知っている。
「だって、女王陛下は、この国の頂点に立つ女性だよ? そんな綺羅の化身のような方が、どうして僕みたいな平民丸出しの平々凡々とした容姿のくせに、小生意気で慇懃無礼な年下の男を夫にしなければならないんだ?」
「え……?」
ハオリュウの台詞は疑問の形で終わっていたが、クーティエは何も答えられなかった。皮肉の効きすぎた彼の語句に、思考が停止したのだ。
「たとえ平民だとしても、レイウェンさんのような人であれば、陛下の隣に並んでも見劣りすることはないと思う。でも、僕なんだよ?」
「へっ!? なんで、そこで父上が出てくるの!?」
いきなり話が飛躍した……ような気がする。わけが分からず、クーティエは素っ頓狂な声を張り上げる。
「クーティエの周りで一番、美しくて聡明な男性を挙げたつもりなんだけど? うーん、既婚者じゃ、ピンとこないか。……じゃあ、弟のリュイセンさんでもいいや」
ハオリュウは『自分よりも優れた者』として、レイウェンの名を挙げたのであるが、そこに密やかな対抗意識があることに、クーティエは勿論、気づいていない。純真な彼女は、大真面目に女王の隣に立つ叔父の姿を思い浮かべ、ぶんぶんと首を振った。
……あり得ない。外見はともかく、内面のほうが……。一国の女王の夫というには、叔父は、あまりにも……。
そんなクーティエの挙動を不思議そうに見つめつつ、ハオリュウは「ともかくさ」と続ける。
「僕が婚約者になったら、陛下はきっと僕などには目もくれず、『相思相愛の運命の相手』を探すべく、奔走なさることだろう。間違っても、僕なんかと結婚しないためにね」
人畜無害な善人面で、ハオリュウは無邪気に笑う。
優しげで、温厚そうな彼の笑顔を、クーティエは穴のあくほど見つめ……、ようやく合点がいった。
「……なるほど。……そういうことね」
彼は、女王に嫌われるつもりなのだ。
何をやらかす気なのかは不明だが、彼ならば立派に遣り遂げることだろう。――それを『立派』というべきかは、さておき。
「そもそも、僕との婚約期間は、陛下にとっては『真の相手』を見つけるための猶予期間だ。陛下には、なんとしてでも、ふさわしい相手を見つけていただくよ」
はっきりと告げたハオリュウに、クーティエは緊張から一気に脱力した。がくがくと膝が笑い出し、へたり込みそうになるのを必死に堪える。
彼が女王の婚約者を引き受けたと聞いても、平気なつもりだった。貴族なのだから当然だと、割り切ったはずだった。なのに本当は、自分がこんなにも脆かっただなんて、彼女は知らなかった……。
ざわめく葉擦れと共に、しなやかな彼の声が流れてくる。
「貴族の僕は、王族のカイウォル殿下には逆らえない。姉様は、父様の喪中を理由に先延ばしにするように言ったけれど、結局、断りきれなくなるような予感がしていた」
ハオリュウは風と戯れる。
すっと口角を上げ、夜闇の中に、きらりと絹の光沢を放つ。
「だから、僕は、婚約者を引き受けざるを得ない状況に追い込まれたときには、ありがたく、陛下を利用させていただくことにしようと――密かに、肚を決めていた」
「は? ちょっ、ちょっと、ハオリュウ! 女王陛下を『利用する』って!?」
「単に、恩を売るだけだよ。僕なんかと結婚しないですむことに感謝の念を抱きたくなるような、お気持ちになっていただき、めでたく婚約破棄が成立した暁には、陛下に僕の後ろ盾になっていただくよう、交渉するだけだ」
「なっ!? なんですってぇ!」
爽やかに言い放ったハオリュウに、クーティエの甲高い声が突っ込む。
そのとき、彼女は、はっと思い出した。彼は以前にも、『女王を利用する』と言ったことがあるのだ。
それは、彼が初めて草薙家を訪れたときのこと。レイウェンの服飾会社が女王の婚礼衣装の製作を請け負えば、女王にあやかりたい人々に対して、よい宣伝になると話を持ちかけてきたのだ。
唖然とするあまり、声も出せずに口をぱくぱくとさせていると、「クーティエ」と、静かな声で呼ばれた。
「前にも言ったと思うけど、平民を母に持つ僕は、後ろ盾のない弱い当主だ。だから、摂政であるカイウォル殿下や女王陛下と親しくしておくことは、僕にとっては有益――むしろ、喉から手が出るくらい欲しい縁故なんだよ」
「……!」
どういう反応を返せばよいのか、クーティエには分からなかった。だから、ただ唇を噛んだ。子供っぽいかもしれないけれど、それしかできなかった。
「婚約者の件について、カイウォル殿下の話しか聞いていないから、女王陛下ご本人が、どう考えてらっしゃるのかは分からない。ついでに言えば、婚約が破棄された場合、殿下が本当に約束通り、僕に不利なことはないよう計らってくださるという保証もない。殿下を全面的に信用するのは危険だ」
「――うん」
「ただ、どう考えても、女王陛下は僕との結婚を望んでいないだろう。彼女に利益がなさすぎる。ならば、どうしても断りきれない場合には、潔く仮初めの婚約者を務めるのも策だと、大きく構えようと考えていた。利害の一致する陛下となら交渉が可能。陛下との縁は、僕に与えられた機会だ――とね」
「そう……だったんだ……」
闇を従えるように笑うハオリュウに、クーティエは相槌を打つ。でも、これは、ただの合いの手で、決して同意などではない。彼を取り巻く環境は理不尽で、どこか歪んでいる。……それが悔しくてたまらない。
「――なのにね」
握りしめた拳は、どこに振り下ろせばいいのか。惑うクーティエの思考を、ハオリュウの声が遮る。
「いざ、カイウォル殿下に承諾のお返事をしようとしたとき、僕の中に、殿下への激しい憎悪が生まれた。覚悟の上で殿下にお会いしたはずなのに、そんなことは、すっかり忘れていた」
カイウォルへの激情を示すかのように、ハオリュウは自分の胸元を鷲掴みにした。昏く澱んだ声色から、彼の心情の余波が押し寄せてきて、クーティエの肌が粟立つ。
しかし、そこで急に、彼の雰囲気が、がらりと変わった。
「そして、風に舞う、『森の妖精』の幻を見たよ」
「――!」
澄んだ響きに、クーティエは息を呑む。
ハオリュウは、彼女のことを何故か『森の妖精』と呼ぶ。歯の浮くような台詞を平然と口にするのは、さすが貴族だと思う。嬉しくないわけではないが、その都度、赤面することになり、こっちの身にもなってよ、と彼女は狼狽える。……いつもならば。
「そのときになって初めて、僕は自分が何を望んでいるのか、気づいた。――僕は『あなたのそばに居られる自由』が欲しいんだ」
喉が熱くなり、クーティエの瞳から涙が零れた。
自分がどうして泣いているのかなんて分からない。ただ、ハオリュウのせいであることは間違いない。――彼が、そばに居るからだ。
「王族の後ろ盾があれば、僕が誰を伴侶に選ぼうとも、誰も文句を言えなくなる。だから、ほんの数年、仮初めの婚約者として辛抱すれば、ちょうど適齢期になったあなたを迎えにいける。――そう目論んでいたのに、あなたのそばにいられない数年を考えたら、目の前が真っ暗になった」
ハオリュウは、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「……なんてことを、いきなり言うのは卑怯だね。腹の底で勝手に未来を描きながら、僕は、ひとことだって、あなたに言葉を贈ったことはなかったんだから。約束できる立場ではないからと、自分に言い訳をしてさ。今更だ。ごめん」
「う……、ううん……」
クーティエは、嗚咽混じりの声で首を振る。
ハオリュウはいつだって、彼女の想いに真摯に向き合ってくれていた。
ただ、自分の想いを言霊にすることだけは、頑なに避けていた。それは、譲れないけじめなのだと。
無論、寂しくはあったけれど、見栄っ張りで意地っ張りで、確実と完璧を求める彼らしい態度だと諦観して、切なさを跳ねのけていた。――惚れた弱みだ。
「……僕が、動揺と困惑で心を乱している間に、カイウォル殿下は『ライシェン』の居場所を鷹刀一族から聞き出してくるようにと命じられた。そして、気づいたら、シュアンが人質として囚われていた」
怒気をはらんだ声で、彼は告げる。
「僕は、カイウォル殿下を許さない」
「ハオリュウ……」
彼が再び暴走してしまわないかと、クーティエは不安になった。だが、彼は、ふっと目元を和らげた。
「でも、おかげで、僕が為すべきことが見えたよ」
「え?」
ハオリュウは、遠くを見据えるように胸をそらした。
まるで彼に付き従うかのように、風が舞い上がる。涼やかに裾が広がり、淡い電灯の下、絹が織りなす光が弾けた。
「僕は、この国から身分というものをなくそうと思う」
ざわめく葉擦れを押さえ込み、力強い声が響く。
「王族なんかに頼らない。――頼る必要のない世界を作る」
闇に向かって宣告し、彼はクーティエを見つめる。
「それはきっと、シュアンがずっと言い続けている、世直しというものと同じだと思う。――僕は彼と運命を共にする。そして、あなたのそばに居られる自由を手に入れるよ」
上品な口の端がすっと上がり、闇を秘めた瞳が挑戦的に細まる。
柔らかに頬のほころんだ、優しげな面差しであるにも関わらず、ぞくりとする微笑だった。
「ハ、ハオリュウ!?」
とんでもないことを聞いた気がする。
――否。『聞いた気がする』のではなくて、現実として、とんでもないことを『聞いた』のだ。
「そ、それは、凄いけど、そうなったらいいと思うけど……。嬉しいんだけど、あまりにも壮大すぎて、現実味がないというか……。ああ、違う! そうじゃなくて!」
支離滅裂だ。
クーティエは、自分でも何を言っているのか分からない。だが、重要なことに気づいたのだ。
「それって、『革命』っていうんじゃないの!?」
口にした瞬間、全身から、さぁっと血の気が引いていくのを感じた。
万が一、誰かに聞かれていたら、不敬罪で捕まる……どころではない。問答無用で極刑だろう。
だのに、ハオリュウは、とても綺麗な顔で笑った。
「そうだね、革命だね。僕は、反逆者になるね」
軽やかに浮かれた声が、風に溶けるように流れる。
「ハオリュウ!」
「分かっているよ。それが、大それた罪だということくらい。……勿論、すぐには無理だ。おそらく、僕の一生を懸けて為し遂げるような計画になるだろう」
ハオリュウは凛と言い放ち、クーティエへと手を伸ばした。
「クーティエ。僕の手を取ってほしい」
「……っ」
声にならない息が、息にすらならない音が、口から溢れた。
――心が、震えた音だ。
本当に、とんでもない人を好きになってしまったものだと、クーティエは思う。けれど困ったことに、そんな彼から目が離せない。今まで以上に、惹かれてしまうのだ。
差し出された掌に、クーティエは迷うことなく掌を重ねる。すると、ハオリュウは、上流階級の令嬢に対するかのように、そっと彼女の手を包み込んだ。
決して触れてはならないと思っていた人の体温が、直接、伝わってくる。
想像よりも、ずっと大きくて硬い手にどきどきしていると、彼は思わぬことを口にした。
「姉様が、初めて草薙家を訪れた日。サンプルの花嫁衣装を着た姉様を、ルイフォンが抱き上げて階段から降りてきたと聞いた。その様子を、あなたが羨望の眼差しで見つめていたと、教えてもらった」
「えっ? そんなこともあったかな……? ――って、誰に教えてもらったのよ!?」
ただでさえ、心臓が暴れまわっていて大変なのに、更に、どきりとすることを言われ、クーティエは噛み付くように叫んだ。
しかし、彼は、ほんの少し視線をそらして誤魔化し、話を続ける。
「足の悪い僕は、あなたを抱きかかえて連れて行くことはできない。――だから、どうか、僕と手を繋いだまま、隣で一緒に歩いてほしい。そして、僕がまた、暴走しそうになったら止めてほしい。あなたがいれば、僕は大丈夫だ」
「!?」
ハオリュウの言葉は、喩えと現実が入り混じり、時々、難解になる。明言を避けようとする、貴族の習慣が染みついているからだろう。
クーティエは微苦笑を漏らした。そして、それは、やがて満面の笑顔となる。そんなところも含めて、ハオリュウだと。
「勿論よ!」
元気な彼女の声に、彼の口元もほころぶ。
「ありがとう」
「ううん。こちらこそ!」
頷き合い、どちらからともなく前を向いた。
「僕たちの革命のために。まずは、シュアンを取り戻す!」
ハオリュウが宣誓する。
ふたりは肩を寄り添わせ、光の道を歩き出した。
5.死せる悪魔の遺物-1
「改めまして。どうか、僕に力を貸してください」
クーティエに案内され、草薙家の玄関口に現れたハオリュウは、開口一番、そう告げた。
異母姉と同じ黒絹の髪をなびかせ、深々と頭を下げる。風が巻き起こり、その場の空気が変わった。
「ハオリュウ……」
出迎えたルイフォンは、軽い困惑を覚えた。もともと、年齢不相応の雰囲気をまとうハオリュウであったが、久しぶりに会う彼は、風格とでも呼ぶべきものが以前とはまったく異なっていた。そう感じたのはルイフォンだけではないようで、メイシアもまた黒曜石の瞳を瞬かせている。
そんな彼らの背後から、この家の主であるレイウェンが声を掛けた。
「ともかく、家の中に入ってください。いろいろと話すことがおありでしょう?」
刹那、ハオリュウの顔に緊張が走る。心なしか背筋が伸び、それから再び、彼は頭を垂れた。
「レイウェンさん。あなたの大切なお嬢さんを僕に遣わせてくださり、誠にありがとうございました」
そのひとことに、レイウェンがわずかに表情を変える。
「……貴族が、そんなに軽々しく平民に頭を下げるものではありませんよ」
「ですが……」
「娘が、あなたのもとに行きたいと言った――それだけです」
レイウェンの声色は、いつも通りに甘やかでありながらも、感情を抑えたような素っ気なさがあった。
疑問に思ったルイフォンが素早く振り返ると、レイウェンは既に踵を返し、廊下を奥へと歩いている。その行き先は応接室ではなく、この家の食堂であり、広い肩はどこか安堵したように柔らかに落とされていた。
そのままの流れで皆で食卓を囲むと、食欲を刺激する匂いと共に、台所からシャンリーが現れ、ハオリュウの前に丼と汁椀を置いた。目を丸くする彼の背中を、彼女は豪快に、ぱしんと叩く。
「昼間、王宮から帰ってから、何も口にしていないんだろう? まずは食べろ。何ごとも、体が基本だ」
「シャンリーさん……。ありがとうございます」
ハオリュウが礼を述べると、シャンリーは「いやいや」と、照れたように首を振る。
「私はさっきまで、タオロンの代わりにファンルゥの添い寝をしていたからね。残り物に軽く手を加えただけだ。――けど、味は保証するよ。空きっ腹のハオリュウには、なんだって美味いはずだからな」
男装の麗人と謳われる美麗な顔で、シャンリーは男前に笑う。
続いて、人数分のお茶を運んできたユイランが、にこやかに付け加えた。
「シャンリーは、ハオリュウさんの元気が出るように、特別なスパイスを効かせたのよ。どうぞ、召し上がって。――これから、緋扇さんのために、頑張らないといけないものね」
外見的には『品のよい銀髪のご婦人』であるのだが、やはりユイランも鷹刀一族の女である。言葉の端に好戦的な色合いが見え隠れしていた。これから、皆でシュアンを助けようという意気込みだ。
温かくも力強い光景に、ルイフォンも負けじと口を開く。
「ハオリュウ。この数時間で、俺が調べたことを説明するから、お前は食べながら聞いてくれ」
猫の目を光らせ、彼は朗々とテノールを響かせた。
そして――。
「……おい? ハオリュウ?」
出された食事を綺麗に平らげたところで、ハオリュウは崩れ落ちるように眠りに落ちた。昼間からの緊張から解放され、どっと疲れが出たのだろう。
ルイフォンが納得したそのとき、シャンリーが小さく呟いた。
「やっと効いてきたか。今まで、相当、気が張っていたんだな」
「へ? シャンリー?」
何か聞き間違えたかと、きょとんとするルイフォンに、シャンリーがにやりと口角を上げる。
「ユイラン様がおっしゃっただろう? ハオリュウが元気になるように、私が『特別な睡眠薬を効かせた』って。――食事と睡眠。今のハオリュウには、どちらも必要なものだからな」
胸を張って答える彼女に、ルイフォンが口をぱくぱくさせていると、娘のクーティエが食って掛かった。
「ちょ、ちょっと、母上! ハオリュウに勝手なことをしないでよ!」
「私が、シャンリーに頼んだんだよ」
「父上!?」
「ハオリュウさんとしては、今晩にだって緋扇さんを助け出したいところだろう。けど、今の緋扇さんは、自力で動くことすらままならない重傷者だ。――ならば、ハオリュウさんは、まず、しっかりと休息を取って、明日から行動を開始すべきだよ」
違うかい? という、有無を言わせぬ口調に、クーティエは「うぅ……」と押し黙る。
それから、レイウェンはルイフォンに視線を移した。
「ルイフォン。悪いけれど、ハオリュウさんを客間に運んでくれないか。私が運ぶと、彼の矜持を傷つけそうだからね」
「え……、そりゃあ、構わねぇけど……」
レイウェンとハオリュウの関係は、なかなか複雑なものらしい。
含みのある物言いに眉を寄せていると、レイウェンはルイフォンの近くまで寄ってきて、耳元に低い声を落とした。
「君の義弟は、遠くない将来、私に決闘を申し込みに来るよ」
「!?」
「そのうち、楽しい話が聞けそうだ」
ちらりと。ハオリュウを見やりながら、レイウェンは口元を酷薄に歪める。
不穏な眼差しは、ハオリュウに向けられたもので間違いはなかったのだが、ルイフォンの背筋に、ぞくりと悪寒が走った。
低音の言葉は、他の人には聞こえないよう充分に配慮されたものであった。だから、食堂を出る際、レイウェンのもとにやってきたメイシアは、まるで聖人君子を前にしたかのように澄んだ瞳を潤ませ、薄紅の唇を感激に震わせた。
「レイウェンさん。異母弟のために、何から何まで、本当にどうもありがとうございます」
丁寧に腰から体を折り、黒絹の髪の先が床に付きそうなほどに深々と頭を下げられると、さすがのレイウェンも、どこか気まずげな微笑を浮かべたのだった。
ハオリュウを背負ったルイフォンは、クーティエの案内で客間へと向かった。
彼の背後には、心配顔のメイシアが、ぴたりと張りついている。意識のないハオリュウは完全に脱力しているため、時々、ずるりと背中から落ちそうになるのだ。そのたびに、彼女が小さく息を呑むので、ルイフォンは困ったように苦笑を漏らした。
「大丈夫だよ。バランスは崩しても、落としたりはしない。これでも、最近、鍛えているからさ」
「あ、うん。……ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないだろ。けど、まぁ。思っていたよりも重いし、随分、背が伸びたな」
初めは抱え上げて運ぼうと思ったのだが、無理だったのだ。出会ったばかりのころは、メイシアとたいして変わらない背丈だと思っていたのに、急に成長したものである。
「そういえば、お前が初めて鷹刀の屋敷に来た日。食堂で酔いつぶれたお前を、俺が部屋まで運んだんだっけ?」
あのときは、メイシアを抱きかかえていったよな、などと思い出し、ルイフォンは懐かしさに目を細める。ふと気づけば、後ろを歩いていたはずのメイシアが、いつの間にか傍らにいて、彼女は恥ずかしげな上目遣いで、けれど、頬を薔薇色に染めながら「うん」と頷いた。
そのとき。
先導のクーティエが「ルイフォン、メイシア」と、硬い声で振り返った。
ルイフォンは反射的に身構えた。『何を呑気な会話をしているのよ!?』と、噛みつかれると思ったのだ。しかし、それは間違いだった。
「あ、あのねっ! ハオリュウの話をちゃんと聞いてほしいの!」
強気な口調でありながら、切羽詰まったような懇願の表情。
「へ……?」
予想外の言葉に、ルイフォンは間抜けな声を上げた。
「さっき、ハオリュウが車から電話したとき、言っていたでしょ。『摂政殿下に対抗するために、僕は〈天使〉になることを考えています』って」
「あ、ああ……」
聞いた瞬間、なんと突拍子もなく、無茶苦茶なことを考えやがるんだ、とルイフォンは思った。
奇想天外な発想ではあるものの、『貴族と平民を両親に持つ僕なら、安定した〈天使〉になれます』などと分析しているあたり、冷静さを失っているわけではないのは分かる。だが、いくらなんでも無鉄砲すぎるだろう。
移動中であったため、話が途中になってしまったのだが、ルイフォンとしては、却下を言い渡すつもりだった。勿論、メイシアも同意見である。
今はハオリュウが寝ているし、この件は明日、改めて――と言おうとしたルイフォンに、クーティエが愛用の直刀が如く、まっすぐな視線で斬り込んできた。
「ふたりが反対なのは分かっているわ。私だって、ハオリュウに〈天使〉になってほしくない。――でも、頭ごなしに否定しないでほしいの。ハオリュウは、皆が幸せになるように、って、ぎりぎりの方法を採ろうとしているんだから……!」
「――と、言われてもな……」
「反対するなら、別の案を出してよ!」
きっ、と目を尖らせて言ってから、クーティエは我に返り、「ごめんなさい」と呟いた。
「私も、本当は嫌なの。でも、ハオリュウの決意を聞いちゃったから。……他に方法がないのなら、私は全力で彼の手助けをする。そう決めたの」
「クーティエ?」
「だから、ルイフォン。……お願い! 『緋扇シュアンを助けるための名案』を思いついて……」
細い声が震える。切なげな瞳が映すのは、ルイフォンではなく、彼に背負われたハオリュウだ。
ルイフォンの口の中に、苦さが混じった。情けなくて、不甲斐ないが、嘘を言うわけにもいかない。ルイフォンは「すまん」と、目線を下げる。
「正直なところ、まだ名案は浮かんでいない。裏から手を回す方法なら幾らでも思いつくけれど、シュアンをお尋ね者にしないためには、摂政を黙らせる必要がある。そこが難点だ」
「……っ」
クーティエの眉が、悲壮に歪んだ。しかし、ルイフォンは、追い打ちをかけるように続けた。
「けど、だからと言って、〈天使〉になるのだって、簡単なことじゃない。確か、神殿に行かないと駄目なんだろ?」
ルイフォンは、傍らのメイシアに尋ねる。
以前、彼は、彼女が知らぬ間に〈天使〉にされているのではないかと、心配したことがあった。そのときに、セレイエの記憶を持つメイシアは、こう説明してくれたのだ。
『〈天使〉化するためには、〈冥王〉が収められている神殿まで行かないと駄目なの。だから、私は〈天使〉になってない、って断言できる。――安心して』
神殿の警備は、厳重だ。おいそれと入れるような場所ではない。だから、ハオリュウの〈天使〉になるという案も、現実的ではないのだ。
ルイフォンに水を向けられたメイシアは、「あのね、クーティエ」と、申し訳なさそうに眉を寄せた。クーティエの心情を思うと、気が重いのだろう。
「ルイフォンの言う通り、〈天使〉になるには神殿に行く必要があるの。光の珠の姿をした〈冥王〉から、光の糸を分け与えられ、『羽』とすることで〈天使〉となる。だから……」
メイシアがそこまで言ったとき、不意にクーティエが、ぐいっと一歩。身を乗り出してきた。
「神殿に入れれば、〈天使〉になれるの?」
「え?」
妙な迫力で食らいついてきたクーティエに、メイシアがたじろぐ。
「ハオリュウは『例えば〈天使〉化に何日も掛かったりするのだったら、別の策を考えないといけない』って言っていた。でも、神殿に入れさえすれば、〈天使〉化そのものは、すぐに可能なの!?」
正直に答えて――と。クーティエの眼差しが、鋭く訴える。
ルイフォンの胸に、警鐘が鳴り響いた。メイシアの黒絹の髪が揺れ、ハオリュウを背負った半袖の腕に掛かる。惑うような黒曜石の瞳が、こちらを見上げていた。
憂いを帯びた花の顔に、ルイフォンは奥歯を噛みしめる。……しかし、彼は、ゆっくりと首肯した。
クーティエを相手に、情報を隠すのは卑怯だ。
その思いは、メイシアも同じだったのだろう。険しい表情ながらも、凛と澄んだ戦乙女の声が響く。
「〈冥王〉の置かれている『光明の間』と呼ばれている部屋に行くことができれば、誰でも苦労せずに、すぐに〈天使〉になれる。そのための仕掛けを、セレイエさんが遺していったの」
クーティエの喉が、こくりと動いた。
「じゃあ、ハオリュウが〈天使〉になるのは可能、ってことね。私が神殿に手引できるから。――私、奉納舞の舞姫のひとりに選ばれたのよ」
「奉納舞の……舞姫?」
唐突に告げられた言葉に、ルイフォンはおうむ返しに語尾を上げた。
「のびのびになっている、女王陛下の婚約の儀の舞い手のことよ」
「あ、ああ……」
初耳であったが、とても『おめでとう』と言える雰囲気ではなく、ルイフォンは冴えない相槌を返すことしかできない。
「王族の儀式は神殿が取り仕切るから、舞い手は神殿の所属ということになるのよ。だから、私は神殿に出入りできる許可証を持っているわ」
「!」
「私、舞姫になって、神殿に通うようになって――、そこに『〈冥王〉』と呼ばれるものがあることを本能で感じたわ」
敵意のような、殺意のような色合いで、クーティエの瞳が、ぎらりと光った。
「初めて神殿に入ったとき、ぞわりと肌が粟立った。でも、同じく舞い手として一緒にいた母上は平気なのよ。私よりも、よっぽど気配に敏感なのに。おかしいと思って、家に帰ってから父上と母上に相談したら、父上が、もしやと思って、曽祖父上に訊いてくれたの」
クーティエの曽祖父とは、すなわち、鷹刀一族総帥イーレオのことである。思わぬ名前が出てきたものだと、ルイフォンが目を瞬かせると、クーティエが更に意外なことを告げた。
「そしたらね、昔、〈悪魔〉として神殿に出入りしていた曽祖父上にも、覚えがあるって。あれは、〈冥王〉が鷹刀の血を持つ者を喰らおうとしている気配だ、って」
「!?」
「私は生粋の鷹刀じゃないけれど、鷹刀の血を引いている。だから、母上は何も感じなくて、私だけが反応したの」
毅然と告げてから、クーティエはぎゅっと口を結び、頭を振った。伝えたいことをうまく表現できず、かえって大袈裟に言い過ぎたかと後悔したのだ。
「だから何って、わけじゃないわ。でも、〈冥王〉が――死んだ王様の脳から生まれたなんていう、おとぎ話のような『もの』が、この国には確かに存在するの。……私には、細かい理屈なんて分からない。けど、この国はどこか歪んでいる。おかしいと思う」
クーティエは、胸元で拳を握りしめた。そして、直刀の瞳でルイフォンとメイシアを、眠ったままのハオリュウを見つめる。
「ハオリュウは、この国の未来を変えてくれる。――私は、そんな彼の力になりたいの」
祈るような声が、静かに響いた。
5.死せる悪魔の遺物-2
ハオリュウが草薙家にやってきて、早々に睡眠薬で眠らされた翌日。
ルイフォンとメイシアが居候している部屋に、ハオリュウとクーティエが現れた。
シュアン救出の作戦会議である。
夏休みのクーティエはともかく、他の草薙家の面々は、それぞれに自分の仕事があるため、この場には来ていなかった。手伝えることがあれば、なんでも手を貸すと言ってくれているが、まずはルイフォンたちが方針を決めるべきだ、ということだろう。
……主に、ハオリュウが〈天使〉になるという策を採るか否か――の。
皆がソファーに着席したのを確認すると、ルイフォンは「俺の調査状況を報告する」と、口火を切った。
「昨日、摂政が指示を出していた通り、シュアンは別の監獄に移された。そちらの監視カメラは、既に落としてある。見取り図と看守の勤務表も入手済みで、摂政が様子を見に来るのは、事情を知っている看守が担当のときのみだ。王族という立場上、特定の貴族の暗殺事件に関心があると思われることは、都合が悪いらしい」
摂政の関与によって、シュアンの身柄が、近衛隊の監視下に置かれることを危惧していたのだが、変わらずに警察隊の管轄であるようで助かった。
規律の厳しい近衛隊を切り崩すことは難しいが、腐敗した警察隊が相手ならば、抜け道は幾らでもある。だから、単に脱獄させるだけならば可能だろう。しかし、その後のシュアンの生活を思うと、追手が掛かるような手段は採れない。堂々と出獄させる必要がある。
初めから分かっていたことだが、そこが難点だった。
シュアンの逮捕を知ってからずっと頭を悩ませ、クーティエからも『名案を思いついてほしい』と懇願されたルイフォンだったが、夜通し思案を続けても妙策は浮かばなかった。
重い溜め息を落とす彼に、ハオリュウが「ルイフォン」と声を掛ける。
「シュアンの容態は? 朝の時点では、全治数ヶ月という話でしたが、新しい情報はありませんか?」
まるで詰問するかのような口調だった。
実は、今朝早く、ハオリュウはこの部屋を訪れていた。メイシアが家事の手伝いに行き、ルイフォンがひとりになる瞬間を狙ってのことだった。
『あなたが見たという、シュアンが暴行を受けている映像を、僕にも見せてください。――あなたのことですから、きちんと保存してあるのでしょう? たとえ、それがどんな映像であったとしても、シュアンが送ってくれた、貴重な『情報』であることに変わりはないのですから』
丁寧な物言いでありながらも、威圧に満ちた眼差しだった。
ルイフォンは短く『分かった』と答えた。それ以外の返答など、できるはずもなかった。
モニタに映し出された光景を、ハオリュウは黙って瞳に焼きつけていた。膝に置かれた手は、血管が浮き出るほどに硬く握りしめられていた。
そして、映像が終わると、ただひとこと『ありがとうございました』と深々と頭を下げ、部屋を出ていった――。
そんなことを思い出しながら、ルイフォンは静かに告げる。
「さっき診察に来た医者が言うには、囚人でなければ当然、入院が必要で、絶対安静だそうだ。痛み止めも処方されていたから、扱いは悪くないと思う。前の監獄だったら、薬なんか出してもらえなかっただろうからな」
「そうですか……」
ハオリュウは唇を噛んだ。昨日とは比ぶべくもない待遇だが、それでも、やはり表情を緩めるような心境ではなかったのだろう。ひと呼吸を置いたのち、彼は険しい視線で一同を見渡した。
「――では。早速ですが、シュアンを救出するための具体的な策を練りましょう。カイウォル摂政殿下は、僕が『ライシェン』の情報を持ってくるのを待ってらっしゃる状態です。明確な期限を示されたわけではありませんが、できるだけ迅速な行動が必要です」
ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。彼が名案を思いつけなかった以上、ハオリュウの独壇場となるのは火を見るよりも明らかだった。
それは、ハオリュウも察していたのだろう。ルイフォンに軽く目線で会釈すると、すっと口角を上げ、朗々たる声を響かせる。
「僕は、昨日申し上げた通り、僕が〈天使〉となってカイウォル摂政殿下に交渉する案を推します。交渉が決裂した場合には、殿下の記憶からシュアンに関する情報を消し去ることも辞しません。僕が〈天使〉の力を自在に扱えるかは未知数ですが、不可能ということはないでしょう。なお、僕の〈天使〉化は可能であると、クーティエから聞いております」
立て板に水を流したような弁舌だった。その隣では、首をすくめた上目遣いのクーティエが、なんとも決まりが悪そうに、ルイフォンとメイシアを見つめている。
「僕の依頼で、シュアンが厳月の先代当主を殺したことは事実です。シュアンの自白では、もと上官に騙され、斑目一族の指示で殺害したということになっているようですが、『厳月家の先代当主の暗殺』という罪状そのものは是認しています」
空調の送風音だけが流れる室内に、ハオリュウは高らかに声を重ねた。人の良さそうな、優しげな面差しは鳴りを潜め、そこにいるのは、目的のためには手段を問わない、闇を従えた絹の貴公子。酷薄な笑みを浮かべ、彼は断言する。
「暗殺は事実であり、シュアン本人も罪を認めている以上、摂政殿下の関与の有無に関わらず、正当な手段では彼を救うことはできないんですよ」
――だから、『〈天使〉』という禁じ手を使うのだ。
ハオリュウの双眸が、ぎらりと冷徹な光を放った。
ルイフォンは、それを正面から受け止める。
……実は、反論はできる。
ルイフォンは、ハオリュウが〈天使〉になるのを諦めざるを得なくなる、少々、卑怯な『とある事実』に気づいていた。
だが、そんな事実を切ったところで、シュアンの救出という目的を達成できるわけではない。単に、ハオリュウの決意をくじくだけだ。
それでは、なんの解決にもならない。きちんとした代案を出せなければ意味がないのだ……。
ルイフォンがためらっている間にも、ハオリュウは「それから、もう一点」と、更に畳み掛けた。その声色は、普段よりも一段低く、不穏な響きをしていた。
「僕が〈天使〉になる利点は、他にもあります」
「!?」
挑戦的にも聞こえる語調に、ルイフォンの背に緊張が走る。
「今回のことは、カイウォル摂政殿下が、『ライシェン』を手に入れ、同時に、鷹刀一族に匿われていると信じているセレイエさんをあぶり出す目的で、僕を陥れた――ということで間違いはないでしょう。ですが――」
ハオリュウは、そこで言葉を切り、わずかに身を乗り出した。
「結局のところ、この先のすべては、『デヴァイン・シンフォニア計画』に繋がっていきます。――『ライシェン』の未来が、どこに定まるのか。すなわち、この国の王冠を誰が戴くのか……」
ゆっくりと巡らされたハオリュウの視線に、皆が知れず頷く。
「そう考えたとき、『ライシェン』の父親であるヤンイェン殿下の存在は無視できません。そして、僕が〈天使〉になっておくことは、彼と友好な関係でいるために、非常に重要な要素となります。シュアンの件も解決できて、一石二鳥なんですよ」
「へ……!? ヤンイェンだって……?」
ルイフォンの口から、思わず尻上がりの声が漏れた。
唐突に出されたヤンイェンの名に戸惑い、また、ハオリュウが〈天使〉になることとの関連性を見いだせず……、ルイフォンは、いつもは眇められている猫の目を大きく見開く。
ヤンイェンが重要人物であることは、その通りだ。ルイフォンだって、どうにかしてヤンイェンと接触できないものかと模索している。しかし、どうして、そこに〈天使〉が関わるのか?
ハオリュウの意図が読めず、ルイフォンは眉を寄せる。話が飛躍している気がした。
そのとき、クーティエの「あぁっ!」という高い声が耳を貫いた。
「ハオリュウが〈天使〉になって摂政殿下を牽制できれば、ヤンイェン殿下と『ライシェン』を会わせてあげられる、ってことでしょ!?」
それはとても良いことだと、クーティエが嬉しそうに言う。ところが、ハオリュウの顔は、瞬く間に渋面となった。
「ごめん、クーティエ。昨日も言った通り、僕は『ライシェン』に対して良い感情を持っていない。悪いけれど、彼を思いやる気持ちはないよ。……だから、そうじゃなくて、今のままだったら、『ヤンイェン殿下は、姉様やルイフォンの『敵』になってしまう』ということを、僕は危惧しているんだ」
「なっ――!?」
ルイフォンは耳を疑った。
乾いた声で「どういうことだ?」と呟くも、それはクーティエの甲高い叫びに掻き消される。
「『敵』って何よ!?」
飛びかからんばかりの勢いで、高く結い上げられたクーティエの髪が跳ねた。
「だって、ルイフォンたちは、息子の『ライシェン』を保護してあげているわけでしょ!? 『味方』のはずよ! おかしいわ!」
「クーティエ、落ち着いて。ちゃんと説明するから」
ハオリュウが優しげな――ただし、彼の場合は、裏で腹黒な策略を巡らせているときの顔で、彼女をなだめる。それから、ゆっくりと正面を向き、異母姉メイシアを視界に捕らえた。
「姉様も、ルイフォンも、『セレイエさんが、最期にヤンイェン殿下に逢いに行ったことの意味』を軽く考えすぎているよ」
「えっ?」
黒曜石の瞳を瞬かせ、メイシアが澄んだ声を短く発した。狼狽する異母姉に、そして、その隣にいるルイフォンに、ハオリュウは諭すように言う。
「『愛する人に、ひと目逢いたい。命が果てるときは、愛する人の腕の中で』――セレイエさんが、そう願ったのは本当だろう」
台詞の内容とは裏腹に、ハオリュウの言葉に冷ややかな圧が宿る。
「それはつまり、どういうことか? いざ、ヤンイェン殿下に逢えたなら、まず初めにセレイエさんがすることは何か?」
柔らかな声質であるはずのハオリュウの声が、部屋の空気を鋭く切り裂く。
「彼女は、自分が瀕死である理由を説明するはずだ。すなわち、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを知らせる。――自分の命と引換えに、ライシェンの記憶を手に入れたことを告げるはずだ」
「――!」
ルイフォンは息を呑んだ。
〈蝿〉に囚われていたメイシアを救出し、鷹刀一族の屋敷に戻ったあと、〈悪魔〉の契約から解放された彼女から『デヴァイン・シンフォニア計画』の詳細を聞いた。そのとき、彼女はこう言った。
『ヤンイェン殿下は、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことをご存じないの。だから、ルイフォンや私が『ライシェン』と関わりがあるなんて、まったく知らないの』
セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』を作ったのは、ヤンイェンが先王を殺した罪で幽閉されたあとのことだ。
ヤンイェンは、何も知らない。セレイエが、単独で組み上げた。
この計画は、独りきりになってしまったセレイエが、掌からこぼれ落ちてしまった幸せを求めて紡ぎあげた、いわば妄執なのだ。
しかし、腕の中で冷たくなっていくセレイエから、この計画を聞かされたとき、ヤンイェンは何を思うだろうか? 最愛のセレイエが、自分の命を対価にして、ライシェンの記憶を得たのだと知ったならば……。
顔色を変えたルイフォンに、ハオリュウは静かに告げる。
「ヤンイェン殿下は、セレイエさんの骸に誓ったことだろう。『デヴァイン・シンフォニア計画』は必ず遂行してみせる、と。――なのに、計画を託された姉様とルイフォンは、セレイエさんの命そのものであるライシェンの記憶を、なかったものにすると決めた」
「なかったもの、って……!」
「姉様が〈天使〉にならないなら、ライシェンの記憶は、ルイフォンの中で永遠に眠ったままだ。それは、闇に葬り去られたのと同じことだよ。……そんなこと、セレイエさんを看取ったであろうヤンイェン殿下が、容認できるわけがない」
反論しかけたルイフォンに、ハオリュウは冷たく言葉をかぶせた。
「ヤンイェン殿下が姉様たちの決断を知ったとき、彼の目には、姉様たちが『ライシェン』復活を妨げる『障害』として映る。――つまり、『敵』だ」
隣に座るメイシアが、びくりと身を震わせた。薄紅の唇が血の気を失い、紫色を帯びる。
ルイフォンは黙って腕を回し、華奢な肩を抱き寄せつつ、黒絹の髪をくしゃりと撫でた。彼女が罪悪感を覚える必要はない――指先で、そう伝える。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、〈蝿〉が作った肉体に、〈天使〉になったメイシアが、ルイフォンの中に預けられた記憶を書き込むことで『ライシェン』を蘇らせ、彼に幸せな人生を贈ることで完成する。
しかし、それはセレイエの我儘だ。彼女の身勝手のために、メイシアが〈天使〉になる道理などない。既に用意されてしまった肉体は、いずれ――『ライシェン』が進むべき道が決まったときに、凍結保存を解いて、幸せへと導く。それでよいはずだ。
ただ、ハオリュウの弁は、実に正鵠を射ていた。気づかせてくれたことには、感謝せねばなるまい。
ルイフォンは、メイシアから伝えられた、セレイエの最期を反芻する。
『『ひと目でいいから、ヤンイェンに逢いたい』と言って、セレイエさんは、殿下が幽閉されている館に向かったの。彼女は最後の力を振り絞り、〈天使〉の羽を広げて、警備の者の目を――記憶を掻いくぐった……』
『今にも崩れ落ちそうなセレイエさんの背中を、ホンシュアは見送ったの。――ほら、私にセレイエさんの記憶を書き込んだのは、『セレイエさん本人』ではなくて『〈影〉のホンシュア』なわけでしょう? だから、私の知っている最期の光景は『ホンシュアの目線』になるの』
この話を聞いたとき、ルイフォンは『セレイエが生きている可能性』を考えた。長く離れて暮らしていても、やはり異父姉の死を信じたくなかったのだ。
その気持ちが、情報の読み解き方を誤らせた。
これは、『ヤンイェンが『デヴァイン・シンフォニア計画』の存在を知った可能性』を表すもの――ハオリュウが指摘したように、ヤンイェンが『敵』になる可能性を示唆する情報だ。
情報屋〈猫〉ともあろう者が、情けない。
セレイエは、文字通り死にものぐるいで、ヤンイェンのもとにたどり着いたはずだ。血を分けた、あの異父姉のことだ。ルイフォンには確信できる。
「……そうだよな」
ルイフォンは小さく呟き、それから、ぐっと口角を上げた。うつむき加減の猫背を正し、ハオリュウに向き直る。背中で編んだ髪が跳ね、毛先を飾る青い紐の中心で、金の鈴が煌めいた。
「ハオリュウ、ありがとな」
「!?」
清々しいくらい笑顔で礼を述べられ、ハオリュウは面食らった。てっきり、ルイフォンからは険悪な言葉が返ってくるだろうと構えていたのだ。
「ヤンイェンが『敵』になる可能性なんて、俺は、これっぽっちも考えていなかった。――けど、まったくもって、お前の言う通りだ。教えてくれてありがとう」
藤咲家は確か、ヤンイェンと親しかったはずだ。なのに情に流されず、冷静に状況を判断できるとは、やはり年若くともハオリュウは貴族の当主なのだと、ルイフォンは思う。
そして、同時に、ハオリュウの腹積もりも読めた。
「つまり、お前の言う利点とは『メイシアの代わりに、異母弟のお前が〈天使〉になれば、ヤンイェンを敵に回さないですむ』――ということだな? だから、シュアンの件と併せて、一石二鳥だと」
「そういうことです」
ルイフォンの反応に戸惑いながらも、ハオリュウは頷く。――その直後だった。
「だったら、却下だ」
鋭いテノールが、一刀両断に放たれた。
ルイフォンは、それまでの笑顔をかなぐり捨て、好戦的な猫の目でハオリュウを睨めつける。
「俺は、義弟を犠牲にする気はねぇんだよ!」
「ルイフォン!?」
豹変したルイフォンに、ハオリュウの声が跳ねた。
「メイシアやハオリュウが〈天使〉にならなければ、ヤンイェンが『敵』になる? ――だったら、俺は別に構わねぇ、敵対すればいい。受けて立つさ」
叩きつけられた語気に、ハオリュウの体が反射的に引けた。けれど、ハオリュウもまた、すぐに言葉を返す。
「無駄な争いが避けられるならば、衝突は回避しておくほうが懸命です」
「道理の通らねぇ奴と、仲良くする謂れはない」
「ヤンイェン殿下は、実の父である先王陛下を殺害しています。姉様に刻まれたセレイエさんの記憶によれば、それは息子への愛ゆえの行動であり、自分を止めることができなかったからだと。彼の感情には、多少の同情の余地はありましょう。しかし……です!」
ルイフォンが無下に言い切れば、ハオリュウからは淀みのない反論がなされ、更に声高らかに長広舌が振るわれる。
「一国の王が死すれば、その余波は甚大です。ヤンイェン殿下は、どんな私怨があろうとも、先王陛下を弑するべきではなかった。断じて、王族の為すべきことではありません。……セレイエさんとライシェンを失った、今のヤンイェン殿下は、そんな道理も分からぬ、まともな判断ができない人間なんですよ」
「だから俺も、ヤンイェンには道理が通らねぇ、って言っているだろ?」
「ええ、そうです。道理が通りません」
ルイフォンの弁を受け、ハオリュウが、ふっと口元をほころばせる。
「そんな彼が、最愛のセレイエさんが遺した、最愛の息子の記憶が蔑ろにされていると知ったとき、理性的でいられるわけがありません。彼は、もと〈七つの大罪〉の事実上の責任者です。下手をすれば、その技術で何をしでかすか分かりません」
「……」
「ヤンイェン殿下は、むしろカイウォル摂政殿下よりも、よほど厄介な相手なんですよ。だったら、敵対するよりも、取り込んでしまったほうがよいでしょう」
ルイフォンは眉をひそめた。ハオリュウの論理に歪みを感じたのだ。しかし、彼の表情の変化にハオリュウは気づかず、より一層、声を張り上げて弁舌を続ける。
「『ライシェン』の記憶を移すために、ヤンイェン殿下ご自身が〈天使〉になる、という選択はされないでしょう。王族である彼が〈天使〉になれば、力が強すぎて制御しきれず、熱暴走を起こす確率が非常に高い。そのとき、『ライシェン』の無事は保証されません。だから、僕のように安定した〈天使〉の力を使える人間を、彼は欲するはずです」
「――おい、ハオリュウ」
可能な限り低く、ドスの利いた声で、ルイフォンは自己犠牲が大好きな義弟の名を呼んだ。対してハオリュウは、「ルイフォン?」と、柔和な顔で微笑みを返す。
「お前の言うことは正論だ。それは俺も認める。――けど、シュアン救出について議論しているこの場で、お前が長々とヤンイェンの話を持ち出したのは、自分が〈天使〉になることを正当化して、俺やメイシアの承諾を得るためだろ? しかも、俺たちにも利点があると匂わせてな! ……俺は騙されねぇぞ」
「……否定はしません」
ハオリュウは、むっと鼻に皺を寄せた。
「――ですが、ヤンイェン殿下の件が、いずれ問題になることは事実ですし、僕が〈天使〉になれば、シュアンは助かる。……いったい、なんの問題があるというのですか?」
開き直るように、目を尖らせたハオリュウに、ルイフォンは溜め息を落とす。
彼の頭の中には、ハオリュウが〈天使〉になるのを諦めざるを得なくなる、少々、卑怯な事実がある。シュアンを助ける妙案もなしに、これを切るのは姑息だと思っていたが、それでも今は出すべきときだろう。
「なんの問題もないだと?」
尻上がりのテノールで、ルイフォンは挑発的に嗤った。
「大いにあるだろ? お前があえて口にしていない、重大な事実がな」
5.死せる悪魔の遺物-3
喧嘩腰になっていた口調を改めるべく、ルイフォンは、ごほんとひとつ、咳払いをした。多少、無理やりにだが、端正で無機質な顔つきを作り、静かにハオリュウと向き合う。
「初めに言っておく。俺はまだ、お前が〈天使〉になることに代わる、シュアンを助けるための方策を思いついていない。……代案がないのに、否定だけするのは卑怯だと承知している。けど、これから必ず、捻り出してみせるから、言わせてほしい」
「ルイフォン?」
落ち着いたテノールに困惑を見せたハオリュウだったが、不意に、こくりと喉が動いた。目の前にいる相手が、『ルイフォン』ではなく、『〈猫〉』であることに気づいたのだ。
しかし、ハオリュウとて、シュアンのために引くわけにはいかない。絹の貴公子は、瞳に冷ややかな光沢を宿す。
「どうぞ。あなたのおっしゃる『僕があえて口にしていない、重大な事実』とやらを教えてください」
険を含みながらも緊張を帯びた、硬い声が促した。ルイフォンは無表情に首肯し、その場にいる皆へと、ゆっくりと視線を巡らせる。
そして、端的に告げた。
「〈天使〉は、遺伝する」
たった一投の小石から、大きな波紋が広がるかのように。ただ、ひとこと落とされたルイフォンの言葉に、部屋の空気が一転した。
それを確認し、ルイフォンは厳かに続ける。
「ハオリュウ。確かに、お前なら安定した〈天使〉になれるかもしれない。……けど、お前の子供は? 子孫は? そう考えたとき、俺は、お前が〈天使〉になることを認めるわけにはいかない」
〈天使〉の力の強さと血統の関係に着目したハオリュウなら、次の世代には『『王族や貴族』と『平民や自由民』の中間』にはならないことに気づいたはずなのだ。
癖の強い前髪の隙間から、吊り上がった猫の目がハオリュウを射抜く。揺るぎない思いを込めて、ルイフォンは断言する。
「セレイエのような〈天使〉は、不幸だ」
「――っ」
ハオリュウは、気圧されたように顔を歪めた。
だが、彼も譲れぬのだ。故に、負けじと声を張り上げる。
「ですが、〈天使〉の力なら、ルイフォンが〈ケルベロス〉を完成させ、〈冥王〉を破壊することによって、いずれ無効化されるのでしょう? それが、あなたの母君の悲願だったと聞いています。――ならば、僕の子孫への影響はないはずです」
刹那。
ルイフォンは野生の獣が如き勢いで立ち上がり、皆の中心に置かれたテーブルに拳を叩きつけた。
「ふざけんなっ!」
重い一撃と共に、背中で一本に編まれた髪が、宙を舞うように跳ね上がる。
毛先を彩る金の鈴が、青い飾り紐の中央で、閃光の煌めきを放つ。
「母さんは、セレイエのために――我が子のために死んだ。力が遺伝することを知らずに、〈天使〉として生まれてしまった娘のために命を擲った!」
斬りつけるように言い放ち、ルイフォンは畳み掛ける。
「お前は、遺伝の可能性を承知の上で、子孫に〈天使〉の力を受け継がせても構わないと言った。〈冥王〉が破壊されれば、無効化されるから、と。――母さんの思いとは、正反対だ。そんな身勝手、俺が許すわけねぇだろうが!」
実のところ、〈冥王〉の破壊による〈天使〉の力の無効化には、ルイフォンも気づいていた。そして、その点を挙げ、ハオリュウが反論してくることも計算していた。
だから、それを更に論破するための論理も、組み立ててあった。
しかし、いざ、その場に直面したら、我を忘れた。
……母は、自分で設計しておきながら、自分の死をもって完成する〈ケルベロス〉には、ためらいがあった。――素直に怖かったのだろう。だから、ずっと、〈スー〉を放置していたのだ。
おそらく、セレイエは成長と共に、力の制御を覚えていったと思われる。ならば、〈ケルベロス〉の完成は、もう少しあとでよいかと、母は先延ばしにしていたのだ。ルイフォンの先延ばしの悪癖は、母親譲りなのだから間違いない。
だが、のんびりしている間に、力の影響は娘のセレイエから、その子供のライシェンへと及んだ。その結果、ライシェンは〈天使〉どころではなく、まるで『神』のような力を持つことになり、人を害したために殺された。
母は、どんなに後悔したことだろう。
だから、四年前に死んだのだ。
その時点での母の死が、子供を生き返らせようとしていたセレイエに対して、どんな手助けとなったのかは分からない。〈七つの大罪〉の技術に否定的な母は、死者の蘇生には反対だったはずだ。単純な『協力』ではないだろう。
けれど、子供のためであることは、疑いようもない。
母親らしいとは、お世辞にもいえなかった母の――最期に遺した……もっとも母親らしい顔。
ルイフォンの脳裏に、勝ち誇ったように笑う、母の姿が蘇る。
「母さんは、未来に、禍根を残したくなかったんだ」
直接、母から聞いたわけではない。
だが、彼女の残した足跡が、くっきりと示している。
「〈七つの大罪〉の技術は、不可能を可能にする、禁忌の代物だ。人の世にあっていいものじゃない。……だから、母さんは〈冥王〉の破壊を考えた。――だから、俺は遺志を継ぐ」
ハオリュウ、お前が安心して、自分の身を犠牲にするためなんかじゃねぇんだよ!
――そう続けそうになり、ルイフォンは、ふっと目を伏せた。
この場で感情論をぶつけるのは姑息だ。
ハオリュウは、シュアンを助けたい一心で、〈天使〉になると決意しただけだ。
摂政の望み通りに『ライシェン』を引き渡すこともできるのに、それをすれば、鷹刀一族が窮地に陥ると分かっているから、〈天使〉という策を取りたいと言っているにすぎない。
〈冥王〉の破壊による〈天使〉の力の無効化まで視野に入れれば、ハオリュウの弁は、実に合理的。屁理屈をこねているのは、ルイフォンのほうだ。
〈天使〉は、自分にとって因縁のありすぎる存在で、だから、冷静な〈猫〉として対峙しようと思ったのに、なんてザマだ……。
立ち上がっていたルイフォンは、ソファーに戻りながら、がしがしと前髪を乱暴に掻き上げた。丸めた背中から、金の鈴が転がり落ちる。それを握りしめ、彼は唇を噛んだ。
ともかく。
ハオリュウを〈天使〉にする案は却下だ。
哀しすぎる母の、異父姉の、最期を知ってなお、〈天使〉を肯定できるわけがない。
――〈天使〉は、禁忌だ。
ルイフォンは胸に手をやり、昂っていた心を鎮める。
隣から、心配そうに彼を見つめるメイシアの気配がした。彼は、そっと目線を動かし、緩やかに口の端を上げる。彼女の背に手を回し、黒絹の髪をくしゃりと撫でた。
大丈夫だ、と。
気持ちを改め、用意しておいた論理へと舵を切る。
「ハオリュウ、お前の言い分は、理屈の上では正しいだろう」
急に調子を変えたルイフォンに、ハオリュウのみならず、皆が不審に首をかしげた。けれど、構わず、ルイフォンは続ける。
「だが、それは、『シュアンを助けるための方策を、必ず捻り出してみせる』と言った俺の言葉を無視しておきながら、子孫に遺伝するという、お前の〈天使〉化の影響の尻拭いを全面的に俺に押しつける、ということだ。そんな虫のいい話は、受け入れられない」
「……」
痛いところを衝かれたと、ハオリュウの顔に影が走った。反論できず、彼は固く口を結んで押し黙る。
「そもそも、〈ケルベロス〉が〈冥王〉を破壊できるというのは、あくまでも、母さんの机上の計算だ。成功する保証は、どこにもない。それに、俺はまだ〈スー〉を目覚めさせてもいないんだ」
〈スー〉のプログラムの解析に、いつまでも手間取っていることは情けないのだが、それでもあえて口にした。ハオリュウへの効果的な攻勢であり、事実だからだ。
「こんな状況で、お前の子孫を巻き込む策なんか、採れるわけがないだろ? 俺にとって、〈七つの大罪〉の技術は、未知のものだ。責任を持てない。安請け合いなんかしたら、俺はただの愚者だ」
ルイフォンの視線が、ハオリュウを捕らえる。
見た目に反し、気性の荒い義弟は、使えるものはなんでも利用する強かな曲者だ。しかし、理に適った意見には、素直に諾う賢さも併せ持つ。
故に。ハオリュウは、ひるんだように、ぐっと喉を詰まらせた。
わずかな空白。
やがて、止められていたハオリュウの息が、静かに吐き出された。それから数度、気持ちを落ち着けるかのように、深い呼吸が繰り返される。本人は、周りに悟られないように密やかな息遣いをしたつもりであったようだが、揺れ動く肩がすべてを台無しにしていた。
「ルイフォン。まず、あなたの母君の思いを踏みにじるようなことを口にした非礼、お詫び申し上げます。大変、失礼いたしました」
その謝罪は、間違いなく心からのもの。それは、誰の目にも明らかだった。
しかし、ハオリュウは語調を強め、「ですが」と続けた。
「僕が〈天使〉になる以外の手段が提案されない以上、他に採る策はありません」
「だから、必ず代案を出すから、少し待ってくれって、言っているだろ」
「それは、いつですか? いつまで、シュアンは囚われの身でいなければならないのですか? いくら、あの酷い監獄から移されたといっても、身柄が摂政殿下のもとにある以上、彼の心身は疲弊し続けるばかりなんですよ」
ハオリュウの弁は正論だ。ルイフォンは、にわかに旗色が悪くなる。
「できるだけ早く……、今はまだ、それしか言えない」
「それでは待つことはできません。〈天使〉の力の遺伝についての懸念なら、僕が子孫を残さなければよいだけです」
「っ!」
絶対に言ってくれるな、と祈っていた言葉だった。
ルイフォンは思わず、舌打ちする。同時に、隣に座るメイシアが顔色を変え、黒曜石の瞳をクーティエへと走らせた。ひと呼吸だけ遅れてルイフォンも見やれば、クーティエが堪えるような表情で固まっている。
「ハオリュウ、お前な! そういうことは言うんじゃねぇよ!」
ルイフォンは、牙をむく。
「だいたい、血族に異様なまでの執着を見せるレイウェンに、孫の顔を見せないつもりかよ!?」
「ちょ、ちょっと、ルイフォン。何を言っているのよ!」
この期に及んでなお、『ハオリュウとは、特別な関係なんかじゃないのよ!』と言わんばかりのクーティエが痛々しい。
そのときだった。
「いい加減にしてくれ!」
ハオリュウが怒号を上げた。
皆の目が、一斉に彼へと向けられる。
普段のハオリュウであれば、気性は激しくとも、上品な物言いは崩さない。――常ならぬ、荒々しい声だった。
「今は、シュアンを助けるための作戦会議をしているんだ。否定ばかりで、具体的な方法が生み出されないのならば、僕は初めの予定通り、ひとりで行動させてもらう!」
「ハオリュウ!」
腰を浮かせかけたハオリュウに、ルイフォンが鋭く発する。
ハオリュウとしては、制止の声など無視して、そのまま部屋を出ていきたかったことだろう。しかし、足の悪い彼は素早く立ち上がることができず、肘掛けを支えにしている間に、ルイフォンが回り込んで行く手を阻んだ。
視線と視線が交錯する。
数秒の睨み合いに末、ハオリュウは諦めてソファーに腰を下ろした。
「ルイフォン、僕が今、何を考えているか分かりますか?」
ハオリュウの着席を見届け、自らもソファーに戻ったルイフォンは「え?」と戸惑う。
「『〈七つの大罪〉の技術を手に入れたい』――切に、そう願っています」
「なっ!?」
「リュイセンさんが〈蝿〉に囚われたとき、彼は死線をさまよう大怪我を負ったと聞きました。けれど、〈蝿〉の治療によって、たった一週間で完治したそうですね。その医術を、今のシュアンに施したい。――そう思っています」
「あ……、ああ……。そういうことか……」
〈天使〉の力で、事態を一気に解決したい、と言っているのかと勘違いしたルイフォンは、安堵の息をついた。それを冷ややかな目で見つめながら、ハオリュウが呟く。
「僕の気持ちは、間違っていないと思います。――苦しんでいる人がいるから、助けたい。そのために技術を求める」
「……」
「技術は、ただの手段です。それを使う人間によって、良いものとも悪いものとも呼ばれるだけです。――僕は、〈七つの大罪〉の技術を恐れたりはしません」
絹の貴公子は、緩やかに闇をまとい、決然と言い放つ。
「僕は〈蝿〉のことが大嫌いでしたが、実のところ、僕と彼は近い人間なのかもしれません。僕には、妻のために気が狂うほどに足掻いた彼の気持ちが、痛いほど理解できる」
「ハオリュウ……?」
「〈蝿〉の医術も、〈天使〉も、ただの技術です。特別なものでも、ましてや『禁忌』などという言葉で、神格化されるようなものでもありません」
「っ!」
「そんなことを言っていたら、ミンウェイさんの存在はどうなるんです?」
挑発的な口調で、よどみなく。斬り込むような視線が問う。
ルイフォンは、小さく「え?」と漏らし、闇色の瞳を凝視した。
「彼女は『不治の病の人間の遺伝子から、病気の因子を取り除いて作られた、クローン』です。『ひとりの人間の妄執から生み出された、都合のよい生命体』です。――許されるものではない。充分に『禁忌』の存在と言えるんです」
「お前、何を……」
狼狽するルイフォンに、ハオリュウは我が意を得たりとばかりに口元を緩める。
「でも、僕は、彼女を『禁忌』だとは思いません。『禁忌』であると考えたら、彼女は『処分されるべき実験体』となるからです」
あなたも、彼女を『禁忌』と思いたくはないでしょう? ――と、薄く細められた瞳が、ルイフォンの心の奥を覗き込む。
「――っ! ミンウェイは……!」
ルイフォンは唇をわななかせた。
ミンウェイの存在が『禁忌』である危うさを持っていることは、百も承知している。彼女の『秘密』を暴いたのは、他でもない彼自身なのだから。
……不意に。
ルイフォンの脳裏に、〈蝿〉から託された記憶媒体の内容が、鮮烈に浮かび上がった。
あの記憶媒体の中身は、王族の『秘密』のみならず、〈悪魔〉の〈蝿〉が知り得た、ありとあらゆる情報の宝庫。――ルイフォンは、皆にそう説明した。
その言い方は、少し濁した表現だった。
そのまま受け止めれば、王族や摂政に関する、政治的な情報が書かれていたのだ、と聞こえることだろう。しかし、実は、それだけではなかったのだ。
『〈悪魔〉の〈蝿〉』の人生そのものともいえる、彼の研究のすべても遺されていた。
ルイフォンが〈七つの大罪〉のデータベースに侵入して入手した研究報告書よりも、ずっと詳細な、生々しい記録が残されており、硝子ケースの中の胎児のミンウェイが、実験体としての番号で呼ばれていたことすらも綴られていた。
このことを知っているのは、ルイフォンと、彼が打ち明けた最愛のメイシアのみ。
ルイフォンは初め、〈蝿〉は、ひとりの研究者として、自分の死と共に、自分の研究が失われていくことが耐えられなかったのだろうと考えた。だから、密かに記憶媒体に遺したのだ、と。
しかし、もし、そうであるのなら、同一人物である『オリジナルのヘイシャオ』も、人の目につくところに研究を遺したはずなのだ。けれど、実際には、『ヘイシャオ』の研究の数々は、蘇った『〈蝿〉』が持ち出すまで、かつてミンウェイが住んでいた古い家の研究室で、埃に埋もれて眠っていた。
この不整合に気づいたとき、ルイフォンは悟った。
〈蝿〉は、『娘のミンウェイ』に、自分という人間のすべてを見せたかったのだ。
けれど、研究対象としての彼女のことが克明に記されているために、直接、渡すことをためらったのだろう。
『これは、ミンウェイに渡すべきものだ』
涙ぐむメイシアと共に、そう言って頷きあった。
ただ、やはり、記憶媒体を託されたルイフォンとしては、先に自分が内容を確かめておくべきだと考えた。万が一にも、ミンウェイを深く傷つけるようなことがあってはならないからだ。
そして――。
最重要と思われる、ミンウェイに関する部分は、かろうじて読破した。専門外のため、ほとんど理解できなかったが、それでも必要を感じたから、やり遂げた。
しかし、その他の部分も、念のため……となると、ルイフォンのやる気は急速に削がれた。ざっと目を通すだけなのであるが、途中から作業は遅々として進まず。他にも、やるべきことがあるのと、先延ばしの悪癖が頭をもたげてきたのとで、『〈蝿〉の研究のすべて』は、いまだルイフォンの手元にある……。
「ルイフォン? いきなり、どうしたんですか?」
思考を異次元へと飛ばしたルイフォンに、ハオリュウが不審の声を上げた。
メイシアが気遣うように、そっと肩に触れても、端正で無機質な面差しは微動だにせず。代わりに、後ろで一本に編まれた髪が、彼の猫背を撫でるように揺れた。
毛先を留める青い飾り紐の中央で、金の鈴が煌めく。
「――そうか」
唐突な、息を呑むような呼吸音。そして、小さなテノールが、ルイフォンの口から漏れた。
「〈蝿〉の技術は、人のためのものだったんだよな……」
「ルイフォン?」
ハオリュウが訝しげに眉をひそめる。その声に引き寄せられるように、ルイフォンは体を起こした。
「シュアンはさ。立場とか、身分とか、名誉とか――そんなものには興味のない奴だよな?」
「え? ――ええ、そうだと思います」
急な問いかけに、ハオリュウは困惑する。それでも、無意識のうちに断定を避けるのは、貴族として身につけてきた警戒心からだろう。
ルイフォンは心の中で苦笑しつつ、すっと口角を上げた。
「そして、おそらく――いや、間違いなく、自分のために、お前が〈天使〉になったと知ったら、シュアンは一生、後悔する。どうして、あのとき、看守たちに嬲り殺しにされなかったのかと、生涯、自分を呪い続けるだろう。あるいは、お尋ね者になったほうがマシだったと、俺たちを責めるかもしれないな」
「あなたは何を……!」
ハオリュウの目が、剣呑を帯びる。
しかし、ルイフォンは、反論の隙を与えずに畳み掛けた。
「シュアンの気持ちを考えれば、初めから、お前を〈天使〉にする、なんていう選択肢はあり得なかったんだよ」
「だからといって、他に方法が――」
「閃いたぞ」
ルイフォンが鋭く言い放つ。
挑発的に顎を上げると、癖の強い前髪が跳ね上がった。その下から、攻め込むような猫の目が、燦然と輝く。
「お前が〈天使〉になることもなく、シュアンがお尋ね者になることもない。――これ以上はないっていう、名案をな!」
6.硝子の華の情愛-1
高い煉瓦の外塀に囲まれた、鷹刀一族の屋敷。
屈強なる門衛たちに守られた、大華王国一の凶賊の居城は、しかし、その堅牢さに陰りが見え始めている。――そういわざるを得ないと、次期総帥となったリュイセンは思う。
自室のバルコニーから屋敷の庭を一望し、彼は独り言つ。
「天下の鷹刀が、ただ手をこまねいているだけとは……」
不甲斐なさに毒づき、美麗な顔を歪めた。
現在、一族が直面している敵は、武力では攻めてこない。権力を振りかざし、策を弄する。武を頼みとする凶賊にとっては、厄介な相手だ。
――否。
たとえ凶賊でなくとも、立ち向かうのは困難な人物といえるだろう。
何しろ、相手は、この国の最高権力者、摂政カイウォルなのだから。
リュイセンは、この夏の初めに短く切り揃えた髪を掻き上げ、昨晩の出来ごとを思い返した――。
夕食が終わり、各人が部屋でくつろぐ、宵の口のことであった。
兄レイウェンのもとに身を寄せているルイフォンから、緊急の連絡が入った。鷹刀一族とも懇意にしている、緋扇シュアンが逮捕されたとのことだった。死刑囚のための監獄に入れられ、彼の命は風前の灯だという。
弟分はシュアンを助ける方策を練るために、鷹刀一族の情報網による情報収集の協力を依頼してきた。しかし、その第一報のすぐあとに、慌てたように前言を撤回した。
『貴族の厳月家、先代当主の暗殺』という、シュアンの罪状は事実だ。しかし今、この時期での逮捕は、明らかに別の意図がある。狙いは、鷹刀一族かもしれない。
だから、鷹刀は動くな。
一族の中枢たる者たちが執務室に集められ、その知らせを聞いたとき、リュイセンは即座にソファーから立ち上がった。シュアン救出の舵取りをするルイフォンのもとへ、駆けつけようとしたのだ。
因縁浅からぬ緋扇シュアンの危機に、静観は性に合わない。しかも、彼の逮捕は、鷹刀一族が遠因である可能性が濃厚だという――。
『動くな』などという言葉は、もとより、リュイセンの耳には入らない。
険しい顔で制止をかけたのは、総帥たる祖父イーレオだった。「次期総帥という立場を考えろ」と、普段の飄々とした様子とは掛け離れた、荒々しい怒気をはらんだ声が轟いた。
ひとまず解散となったあと、リュイセンは、そのまま自室に戻る気分になれず、ふらふらと夜の廊下を歩いていた。自分の中に渦巻く嵐を鎮めたかったのだ。
そんなとき、父エルファンが、闇から湧き出てきたかのように音もなく背後から現れ、彼を呼び止めた。
「お前は何故、緋扇のために動こうとした?」
奴のことは、嫌っていただろう?
暗にそう告げているのは分かったが、氷の美貌は不思議と、どこか温んでいた。とはいえ、玲瓏と響く魅惑の低音は、いつも通りの静けさを湛えており、感情を読み取ることはできない。
「個人的な心情を言えば、緋扇のことは好きではありません。……ですが、俺は、彼に死んでほしくない――そう思ったら、体が勝手に動いていた。それだけです」
まったく論理的でない答えだった。口にしてから、リュイセンは自己嫌悪に陥る。
しかし、父は「そうか」と、ふっと口元をほころばせた。
冷徹と謳われる父の顔が……緩んだ。リュイセンは自分の目を疑ったが、『神速の双刀使い』の異名を持つ彼は、動体視力が良いのだ。見間違いなどではない。
呆然としている間に、かつての『神速の双刀使い』である父の背中は、長い廊下の遥か彼方へと消えてしまった。しんと静まり返った夜闇の中には、開け放たれた窓から舞い込む、葉擦れの音が残されるのみ。
「……」
次期総帥の位を下りてから、父から流れる風が柔らかくなったように感じるのは、きっと気のせいではないだろう。
リュイセンは、夜風に誘われるように窓辺に立った。
外を見やれば、闇に沈んだ庭のあちこちに、まるで蛍が飛び交うかのように、ほのかな外灯の光が散らばっていた。
そして、視界の片隅に、ひときわ白く浮かび上がる、明かりの灯された硝子の温室。
リュイセンは先ほど、薄着のまま、ふらふらと庭を歩くミンウェイの影を目撃した。以前は上着を持って追いかけたのだが、今は硝子の城に吸い込まれていくまで、黙って、その後ろ姿を見守っていた。
彼女は、ひとりになりたいのだろう。
――ひとりきりで、緋扇シュアンのことを考えたいのだろう……。
リュイセンは、最後にシュアンと交わした会話を思い出す。
『あんたは『尊敬に値する馬鹿』だ』
『なっ――!』
喧嘩を売っているとしか思えない言葉だった。
……けれど、シュアンの三白眼がいつになく切なげで、リュイセンは戸惑った。
『あんたなら、あの危なっかしいお人好しが無茶をしても、体を張って止めてやれるだろう』
『――え?』
『頑張れよ、次期総帥』
どことなく揶揄の混じったような、いつもの軽薄な口調でそう告げて、シュアンは走り出した。ちょうどそのとき、強い夏風が吹き、シュアンのいる風上から、彼の呟きが流れてきた。
『ミンウェイに、――――――を……頼む』
静かに祈る濁声が、耳に残っている。
「あいつ……、この事態を予期していたんだな……」
リュイセンは、切なげに目を細めた。
艷めく黒髪を緩やかに波打たせた、愛しい女の姿が瞼に浮かぶ。
そうして、どのくらいの星霜、儚げな硝子の光を見つめ続けていただろうか……。
やがて、リュイセンは歩き出す。行き先は、自室ではない。少し前に退室してきたばかりの執務室である。
「祖父上。――いえ、総帥。提案がございます」
そんな口上から切り出したリュイセンの提案――嘆願に、イーレオは瞠目した。しかし、静かな溜め息をひとつ落とすと、厳然たる面持ちとなり、こう答えた。
「鷹刀の総帥の名において、お前の提案を許可する」
「ありがとうございます!」
「だが、お前の思った通りにいくかどうかは難しいぞ? ……あの子は、頑なだからな」
「……はい」
もっともな言葉に、リュイセンの顔が陰りを帯びる。
「あと、もうひと押し。あの子の背中を強く押し出す『何か』が、あればいいんだがな……」
「……少し、考えます」
イーレオの弁は、まったくもって正しかった。自分の至らなさを痛感し、リュイセンの肩が落とされる。執務室の戸を叩いたときの勢いとは打って変わっての、意気消沈といった体である。
「それよりも……。お前は、本当にそれでよいのか?」
深い海を思わせる慈愛の瞳が、じっとリュイセンを捕らえた。すると、リュイセンは、それまでの陰りを一瞬にして払拭し、黄金比の美貌を煌めかせ、イーレオの視線をまっすぐに受け止める。
「俺は、やるべきだと思ったことをやるまでです」
高潔なる響きで、揺るぎなく、決然と告げる。
リュイセンが、リュイセンである限り、これは譲れぬ彼の在り方だ。
イーレオは「お前らしいな」と、柔らかに笑んだ。その表情は、不思議なことに、嬉しげにも寂しげにも見え、リュイセンは惹き込まれたように目を離せない。
故に。
イーレオの背後に控えていた護衛のチャオラウが、無精髭に覆われた口元をわずかに揺らしたことは――さすがのリュイセンも気づかなかった。
その後、だいぶ夜が深まってから、ルイフォンからの続報が入った。
弟分の読みは正しく、緋扇シュアンの逮捕は、鷹刀一族を追い詰め、『ライシェン』を手に入れようとしている摂政の仕業だった。王族には逆らえない貴族のハオリュウを脅迫するための、駒にされたのだ。
牢獄の看守による拷問だか私刑だかに遭い、シュアンは現在、重傷だという。様子を見に来た摂政が止めなければ、死んでいたらしい。間一髪のところで、一命を取りとめたそうだ。
人質として利用するためには、シュアンには生きていてもらわなければ困るという、摂政側の事情は理解できるが、投獄を命じた張本人が庇護に回るとは、なんとも皮肉な話である。ともあれ、差し迫った命の危険という意味では、現段階では安心してよいとのことだった。
そして、シュアン救出の相談をするために、ハオリュウが極秘のうちに草薙家に移動したと伝えられた。貴族の当主が、平民の家に寝泊まりするなど、世間では考えられないことであるが、『しばらく屋敷を空ける』と執事に言い残してやってきたらしい。
疲弊の激しいハオリュウは、リュイセンの兄と義姉に一服盛られ、眠りに落ちた。乱暴だが、正しい判断だろう。
だから、すべては夜が明けてから――。
昨日の深夜に受けた連絡が最後で、そのあとどうなったのかは杳として知れない。
……もう、とっくに夜は明けた。
もうすぐ、昼になる。
自分が焦れても仕方がない。それよりも、昨晩イーレオに言われた『もうひと押し』を考えねばと思いつつ、リュイセンは歯噛みする。
「……動くな――か……」
一族特有の魅惑の低音に、溜め息が混じる。
摂政は、鷹刀一族を滅ぼさんと、虎視眈々と狙っている。ハオリュウとシュアンは、その巻き添えを食らっただけだ。
リュイセンの双眸に映る、バルコニーからの景色は、輝かしい夏の陽光を燦々と浴びながらも、色あせて見えた。
そのとき、リュイセンの携帯端末がメッセージの着信を伝えてきた。
差出人は――ルイフォン。
リュイセンは、即座に内容を確認する。
『作戦が決まった。鷹刀一族総帥と次期総帥に相談したい』
「相談……?」
いったい、何を……?
リュイセンは、ごくりと唾を呑み込む。
ともかく、執務室だ。
ルイフォンは、祖父イーレオとリュイセンのふたりだけを『役職名』で指名した。その上で『相談したい』と言ってきた。
リュイセンは長身を翻し、神速の勢いで部屋を飛び出した。
「ミンウェイ様」
料理長の呼びかけに、ミンウェイは、はっと顔を上げた。
どうやら、また意識がどこかに飛んでいたらしい。気づけば、常に朗らかなはずの料理長の福相が、渋面を作っていた。
いつもの事務連絡のために厨房を訪れたのだが、話の途中でミンウェイが、ふらりと倒れそうになったのは、つい先ほどのこと。その際、料理長は、その恰幅のよさからは想像もできないほどの素早さで彼女を支え、問答無用で椅子に座らせた。
そして今、彼女の前には、料理長特製の栄養満点スムージーが置かれている。今朝の食事が、まともに喉を通らなかったことは、当然のことながら、彼にはお見通しなのだ。
「ミンウェイ様。少し、横になられたほうがいいですよ。昨日は、一睡もされていないのでしょう?」
「……」
「警察隊の緋扇シュアンが、逮捕されたそうですからね」
「……っ」
畳み掛けられた言葉に、ミンウェイは柳眉を跳ね上げた。
昨晩のシュアン逮捕の報は、箝口令が敷かれているわけではないので、料理長が知っていても不思議ではない。そもそも、朝食の話題に上っていたのだ。自然と、彼の耳にも入っていたことだろう。
しかし、何故、シュアンの件と、ミンウェイの不調とを結びつけるのだろうか?
「昨日は、深夜に緊急の招集があったから、よく眠れなかっただけよ。緋扇さんとは、何も関係ないわ」
ぴしゃりと言ってのけてから、ミンウェイは自分の主張の齟齬に気づいた。
夜中の呼び出しは、シュアンの逮捕が原因だ。だから、シュアンと寝不足の間には、立派に因果関係が成立する。料理長は、少しも間違ったことなど言っていない……はずだ。……たぶん。……本当に?
…………。
ただでさえ意識が朦朧としているのに、更に何かを考えるなんて勘弁してほしい。
ミンウェイはテーブルに両肘を付き、痛みを堪えるかのように掌で頭を押さえた。艶を欠いた黒髪が波打ち、乾いた草の香が広がる。
「ルイフォン様のところへ、行かれないのですか?」
正面に、人の座る気配がした。うつむいたままでも、料理長の肉に埋もれた小さな目に、優しく見つめられているのを感じる。
「貴族のハオリュウさんまで、ご自分の屋敷を空けて、緋扇を助ける算段を立てに行ったのでしょう?」
まるで耳元で囁くような、穏やかな響き。なのに、ミンウェイの心は、激しく揺さぶられる。
「……私が行っても、役に立たないわ」
思わず、ぽろりと漏れたのは、胸の内の裏返し。
そのことに気づく前に、彼女の無意識がさっと心に目隠しをした。
――そうではない。自分の言うべき台詞は、もっと別のものだ。
ミンウェイは、前言を打ち消すように強気に、けれど、かすれた声を張り上げる。
「何を言っているのよ。鷹刀は動くな――って、ルイフォンが口を酸っぱくして警告しているじゃない」
生粋の鷹刀の血統であり、総帥の補佐まで務める彼女は、紛うことなく一族の中枢に位置する者だ。すなわち、軽々しく動いてはいけない立場である。
料理長の雰囲気に呑まれ、あやうく奇妙な波にさらわれるところであった。人柄が体型に表れているかのようでいて、その実、彼は油断ならない曲者だ。だいたい、凶賊の屋敷に身を置く者が、真に善人であるはずもない。
「ルイフォンが、なんとかしてくれるわ……」
その呟きは、料理長に向けたふりを装いつつ、本当は自分に言い聞かせていることを、彼女は理解していなかった。だから、料理長の次のひとことに対して、彼女はあまりにも無防備だった。
「そのルイフォン様から良い知らせが来ないから、ミンウェイ様は眠れないのでしょう?」
「!」
料理長! と、叫ぼうとした。けれど、声が出なかった。ミンウェイは下を向いたまま、凍りつく。
「今回の件、ルイフォン様は『鷹刀は動くな』という判断を下されました。ならば、鷹刀へは逐一、報告を寄越したりはしませんよ」
「……っ」
確かに、ルイフォンの性格ならそうだろう。彼は、優先順位の低いことに対しては、疎かになりがちだ。つまり、今回のことは、何か起きても事後報告。――すべては後の祭りということも……。
心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。わけの分からない感情に押し流されそうになり、ミンウェイは必死になって言葉を紡ぐ。
「……だったら連絡が来るまで、鷹刀は、おとなしく待つべきよ。私が騒いでも仕方ないわ。緋扇さんのことを心配しているのは、皆、同じだもの。――私だけが特別じゃない……」
まるで、自らを説き伏せるかのように、ミンウェイは肩を震わせる。
そのとき、頭上から、男の太い声が落ちてきた。
「ミンウェイ様は、特別ですよ」
料理長――ではない。
もっと低く、無愛想な響きだ。
反射的に顔を上げ、ミンウェイは「え……?」と、切れ長の瞳を瞬かせる。
「チャオラウ……?」
総帥の護衛の彼が、どうして厨房にいるのだろう?
勿論、彼もこの屋敷の住人であるのだから、おかしいということはない。しかし、それにしても珍しい……。
「――とは言っても、緋扇は、口が裂けても、想いを打ち明けたりはせんでしょうがな」
チャオラウの無精髭が、あざ笑うように揺れた。
「おおかた、自分には後ろ暗いことが多いし、この先もどうなるか分からない――なんてことを考えているんですよ。ミンウェイ様を巻き込むのが怖くて、何もできない臆病者です」
「チャオラウ? なんの話?」
眉を寄せるミンウェイに、チャオラウは口調を崩さずに畳み掛ける。
「イーレオ様に向かって、『鷹刀は、ミンウェイ様に対して過保護すぎて、もはや虐待だ』などと噛みついてきたくせに、自分で守り切る自信がないから、肝心なところで逃げている。――情けない、腰抜け野郎ですよ」
「――!」
直感的に、悟った。
料理長とチャオラウは、共犯だ。ふたりして、ミンウェイに揺さぶりを掛けている。
――流される!
唐突に、名前の知らない恐怖に襲われた。弾かれたように立ち上がると、がたん、と音を立てて椅子が倒れる。
視界の端に、料理長の気遣いのスムージーが映った。彼女は、それを一気に飲み干し、「ご馳走様」と告げて、逃げるように厨房をあとにした。
「……少々、話の流れが強引すぎたか」
ミンウェイの背中を見送りながら、チャオラウが無精髭の顎を掻く。
「恐ろしく不自然でしたが、端からあなたに話術など期待していませんよ。――それより」
後ろから声をかけてきた料理長が、不意に福相を歪めた。その顔は、とても善人とは思えぬ、底意地の悪いものであった。
「さすが、初恋を半世紀もこじらせている男は、言うことが辛辣ですね」
「なっ!?」
料理長の言葉に、チャオラウの眉が吊り上がる。
「あの青二才は、自分を見るようですか?」
「ほざけ!」
チャオラウの拳が、料理長の腹を狙う。
しかし、料理長は白い前掛けをはためかせ、その下に隠した余った肉を軽やかに揺らしながら、鷹刀一族最強の男の攻撃を鮮やかに躱したのだった。
6.硝子の華の情愛-2
厨房を飛び出したミンウェイの足は、知らず、硝子の温室へと向かっていた。脇目も振らずに走り続け、気づいたときには、いつものガーデンチェアーに腰掛けている。
チェアー二脚とテーブルとで鋳物三点セット。蔦の装飾模様が、この温室の雰囲気にぴったりだと思って購入を決めた、お気に入りの品である。
肩で息をしていた彼女は、崩れ落ちるようにして、揃いのテーブルに突っ伏した。鋳鉄の天板がひやりと頬を冷やし、気持ちがよい……。
無心で倒れ込んだが、実のところ、テーブルセットが木陰に配置されていたのは幸運だった。もし、硝子越しの陽光を蓄えた金属に触れていたら、彼女の肌に蔦模様の刻印が為されていたことだろう。
少しだけ落ち着くと、彼女は、のろのろと体を起こした。
視界が広がる。
そして。
彼女の向かいに置かれた、もう一脚の椅子は……空席だった。
昨晩、遅くに入ってきた、ルイフォンからの続報によれば、シュアンは無事であるそうだ。
彼は、ハオリュウの枷にならないようにと、自ら牢獄の看守を挑発し、嬲り殺しの憂き目に遭おうとしていたという。けれど、摂政が止めに入ったことで、一命を取りとめた。これ以上、危害が加えられることはないらしい。
「馬鹿、でしょう……!」
ミンウェイが吐き捨てた声には、嗚咽が混じっていた。
全治数ヶ月の重傷を負って、どこが無事なものかと、彼女は思う。
『俺は最近、ようやく自分の進むべき道を見つけた気がする。俺が為すべきことを為すための、まっとうな道筋をな』
菖蒲の庭園で、シュアンはそう語った。
かつて、彼は『狂犬』と呼ばれるほどに、荒れまくっていた。けれど、今は、不可逆の流れと正面から向き合っている。斜に構えているようでいて、どこまでも、まっすぐに。
シュアンは、ハオリュウに人生を懸けると決めたのだ。
「……だからって、ハオリュウのためになら、命も惜しくない――って言うの!?」
悲鳴のような叫びが、温室の硝子を震わせた。
艶を欠いた黒髪を波打たせ、子供が駄々をこねるようにミンウェイは首を振る。
ハオリュウも、ハオリュウだ。
貴族の当主である彼は、摂政に逆らうべきではない。摂政の要求は、鷹刀一族と『ライシェン』だと分かりきっているのだから、シュアンのために、さっさと鷹刀を売ればよいのだ。……なのに、〈天使〉になるだなんて言い出して、ルイフォンを困らせているという。
「緋扇さんも、ハオリュウも……、何よ……。……なんでよ」
テーブルに肘を付き、頭を抱える。
先ほどの厨房でのやり取り――料理長とチャオラウの不自然な会話の意図くらい、ミンウェイにだって分かっている。彼女をけしかけているのだ。
『緋扇が心配なのでしょう? だったら、鷹刀で気をもんでいないで、ルイフォン様のところに行けばよいんですよ。緋扇の現状をいち早く知ることができるはずですからね』
『ミンウェイ様も、緋扇も、互いに想い合っているのですから、遠慮することはありませんよ』――と。
「違うわ! なんでそうなるのよ!?」
シュアンは友人――否。ミンウェイが一方的に助けてもらってばかりであるから、恩人だ。恩義ある相手を心配するのは、人として当然のことといえよう。多少、寝不足気味だからといって、おかしな妄想はやめてほしい。
「だいたい緋扇さんは、私のことなんか、からかい甲斐のある顔見知り程度にしか思っていないわよ」
わずかに頬を膨らませ、彼女はうそぶく。
彼との間にあるのは、恋愛感情ではない。彼は、そんなちっぽけな次元にいる人ではないのだ。
そう思い、ミンウェイが唇を噛みしめたときのことだった。
がさり、と。背後で、枝葉の揺れる音がした。
この場所への通路は、大きく張り出した枝が、途中で邪魔をしている。だから、掻き分けなければ通れない。
――誰かが来たのだ。
心臓が跳ね上がった。ミンウェイは無意識のうちに、無人の椅子に視線を走らせ、それから振り返る。
「……あ。――リュイセン……」
すらりとした長身が、ミンウェイを見下ろしていた。短く、涼しげに整えた髪が顎のラインを鋭角に見せ、研ぎ澄まされたような印象を与える。……少し、苛立っているようにも感じられた。
「こんなところで待っていても、あいつは来ないぞ」
ミンウェイの真横に立ち、リュイセンは黄金比の美貌を憮然と歪めた。
「いつもは、あいつが、ミンウェイを迎えに来た。けど、今度ばかりは、あいつは来ない。あいつが、囚われているからだ。――ミンウェイが、あいつを迎えにいく番だからだ」
リュイセンは、困惑に揺れるミンウェイの瞳をまっすぐに捕らえる。
「緋扇シュアンを――な」
魅惑の低音が、鋭く響いた。
「……なっ!? どうしてそうなるのよ!」
一瞬、呆気にとられたのちに、ミンウェイの美声が裏返る。
リュイセンまで、何を言っているのだろう?
最終的には撤回したとはいえ、リュイセンは彼女に求婚までしており、何かと彼女にちょっかいを出してくるシュアンのことは、蛇蝎の如く嫌っていたはずだ。
柳眉を吊り上げるミンウェイに、しかし、リュイセンは、変わらぬ調子で言を継ぐ。
「クーティエが言っていた」
「はぁっ!? なんで、いきなりクーティエの話になるのよ?」
クーティエは、リュイセンの姪だ。以前は、『にぃのお嫁さんになる!』と公言していたくらいに仲が良いのだが、この場においては、あまりにも唐突な名前といえよう。
「いいから、黙って聞けよ!」
突然、リュイセンが吠えた。
彼がミンウェイに対して声を荒げるのは、非常に珍しいことで……だから、彼女は狼狽した。
「俺の話の切り出し方が下手なのは、いつものことだろう?」
若き狼のように猛々しく、なおかつ、ふてぶてしいまでに王者の威厳に満ちた口調だった。台詞の内容は、今ひとつ情けないのだが、堂々たる風格は、補って余りある。
いつもとは明らかに様子の違う彼に、ミンウェイは押し黙った。――気圧されたのだ。
「クーティエによると、〈蝿〉がファンルゥに用意した絵本は、か弱いお姫様が王子様に助けられる話ばかりだったそうだ。お転婆なファンルゥには、それが少し物足りなかったらしい」
「……」
「だって、そうだよな。ファンルゥの部屋は、かつてのミンウェイの部屋を再現したものだったんだから。――王子様の助けを待っている、お姫様の部屋だ」
ミンウェイの頬が、かっと朱に染まった。
「小さな女の子が、お姫様に憧れるなんて、よくあることでしょ!」
「ああ、別におかしなことじゃない。夢見がちな、子供らしい憧れだ。可愛らしいと思うよ。――けど、ミンウェイは、今も変わってないだろう?」
「な、何が、変わっていないと言うの!?」
語尾が震えた。理由は分かっている。その叫びが虚勢だからだ。
「緋扇のことを待っているんだろう?」
「変なことを言わないで! 私は、ここで考えごとをしていただけよ。私が、ひとりになりたいときに温室に行くのは、昔からの習慣だわ!」
「じゃあ、ひとりで何を考えていたんだ?」
リュイセンの双眸が、彼の愛刀が如く、ひらりと斬り込んだ。
「……っ」
「誰のことを考えていたんだ?」
「そ、それは……、緋扇さんのことだけど……。でも、囚われた彼を心配するのは、当然でしょう? 緋扇さんは今、鷹刀のせいで辛い状況にあるのよ!」
「ならば何故、ミンウェイは引き籠もるんだ? 何故、行動を起こさない? 何故、あいつを助け出そうと考えない?」
諭すような声が落とされ、ミンウェイは顔色を変えた。
「あいつは、何度も、何度も、しつこいくらいに繰り返し、ミンウェイを助けにきたはずだ」
風ひとつない、無音の温室に、リュイセンの声だけが静かに響く。
「俺が、鷹刀とルイフォンを裏切って、メイシアをさらっていったときなんか、誰よりも早くミンウェイのもとへ駆けつけて、俺のことを『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』だと言ったそうじゃないか」
その通りだ。
ルイフォンさえもがリュイセンを見捨てようとしていたときに、ただひとり、シュアンだけがリュイセンを取り戻そうと説いた。
「初めて聞かされたとき、俺は信じられなかった。それまで俺があいつに取ってきた態度を考えれば、あいつは俺の肩なんか持ちたくなかったはずだからな」
シュアンも、口では『リュイセンがいなくなって清々している』と言っていた。けれど、本気の言葉でなかったことは、明らかだった。
ミンウェイの視線の先にある、その椅子に腰掛け、彼はおどけた調子で笑っていた。
――そうだ。
ルイフォンから、ミンウェイが『母』のクローンだろうと告げられた夜も、彼は向かいの椅子に座っていた。いつの間にか、彼の特等席になっていたその場所で、取りとめもないミンウェイのひとり語りを、一晩中、黙って聞いてくれた……。
切れ長の瞳を揺らすミンウェイに、リュイセンの声が誘うように尋ねる。
「〈蝿〉との決着のときも、ミンウェイと〈蝿〉が顔を合わせないままに終わりにしていいのかと、皆に問いかけたんだってな? あいつにとって、〈蝿〉は大恩ある先輩の仇だ。すぐにも、とどめを刺したかっただろうにさ」
ミンウェイはうつむき、自分の胸元をぎゅっと握りしめる。
〈蝿〉に会うことで、自殺した父の本心を知った。空回りしかできなかった、父への恋心に気づいた。
ひとつの結末を迎え、未来を考えるようになった――。
「緋扇は、自分の感情を二の次にして、ミンウェイに手を差し伸べ続けてきた」
「……」
「あいつはさ、ミンウェイの『王子様』なんだよ。口は悪いし、性格は捻じ曲がっていて、ちっとも、王子なんて柄じゃねぇけどよ」
「――っ」
草の香をまとった風が、鋭く吹き上げた。
ミンウェイが、勢いよく顔を上げたのだ。
「そうよ……! 緋扇さんは、何度も助けてくれたの」
ひび割れた声が、細く響く。
「私が散々、失礼なことを言っても、懲りずに、呆れたように笑いながら、何度でも……。……でも、違うの! 皆が思っているような関係じゃない。――私は、お姫様なんかじゃないし、緋扇さんも、お姫様に求愛する王子様じゃないのよ」
声を震わせ、切なげに柳眉を下げたミンウェイが訴えかける。
揺蕩い、漂う草の香を、リュイセンは静かに吸い込んだ。それまで、正面からミンウェイを捕らえていた双眸を、そっと伏せる。その表情は、紛うことなく柔らかな微笑だった。
「俺が、緋扇と最後に会ったのは、俺が次期総帥の任を引き受けると決まったときだ。あのとき、あいつはこう言った」
「え?」
瞳を瞬かせるミンウェイに、リュイセンが告げる。
「『ミンウェイに、穏やかな日常を……頼む』」
艶めくリュイセンの低音に、シュアンの濁声が重なって聞こえた。
「……どういう、意味……?」
「あのとき既に、緋扇はハオリュウにつくと決めていた。万一のときは、自分の身を捨てて、ハオリュウを守る覚悟をしていたんだ。だから、ミンウェイには、ミンウェイが望んでやまない『穏やかな日常を』と、祈ったんだ」
「!」
ミンウェイの唇がわななき、それから、魂を裂くような叫びが放たれる。
「ほらね! 緋扇さんは、ちっとも私の王子様じゃないでしょう! ハオリュウを守る騎士になったんだわ!」
ほんの一瞬、期待してしまった。
リュイセンを牽制する言葉とか、皮肉げで喧嘩腰の台詞とか――そんなものを、シュアンは言ったのではないかと思ってしまった。
落胆する自分に気づきそうになり、ミンウェイは慌てて思考を閉ざす。そのとき、「ミンウェイ!?」という、リュイセンの驚愕が耳朶を打った。
「本当に分かってねぇのかよ!? ミンウェイのことをなんとも思っていなかったら、こんな台詞、わざわざ『俺に』言わねぇんだよ! ……なんで、分かんねぇんだよ。俺の言い方が悪ぃんかよ」
短くなった髪をがしがしと掻き上げ、リュイセンがぼやく。
「あぁ、もう! ……別に、緋扇の気持ちなんかどうでもいい。問題は、ミンウェイの気持ちだ」
「な、何よ」
「ミンウェイは、お姫様じゃないんだろう? だったら、こんなところでおとなしく待っている必要はないはずだ。緋扇のことが気になるなら、何もかも捨てて、飛び出していけばいい」
「――なっ!? 何を言っているの!?」
何もかも捨てて――とは、いったい……?
ミンウェイは、にわかに混乱する。なのに、リュイセンは、彼女を更に追い詰めるかのように言葉を重ねる。
「ミンウェイは、メイシアに憧れていただろう? 貴族のくせに、すべてを捨てて、ルイフォンのもとにやってきたメイシアのことをさ。――そんな生き方を、羨ましいと思っていただろう?」
「!」
「ミンウェイだって、身ひとつで進めばいいんだよ。諦めたり、我慢したりする必要はない」
「ふざけたことを言わないで! だいたい、『鷹刀は動くな』って、ルイフォンが……!」
そう言ってミンウェイが抗議しかけたとき、彼女の声を打ち消すように、リュイセンの深みのある低音が響いた。
「鷹刀ミンウェイ」
威圧的でありながらも柔らかに、名を呼ばれた。知れず、ミンウェイの背筋は伸び、切れ長の瞳がリュイセンを凝視する。
「鷹刀一族次期総帥、鷹刀リュイセンの名において、鷹刀ミンウェイを一族から永久に追放する」
黄金比の美貌を閃かせ、リュイセンは告げた。
軽く腰に手を当てた立ち姿は、すらりと凛々しく、朗々たる宣告は覇王の如く。
ミンウェイは、しばし呆然とし、やがて、はっと我に返った。
「わ、私を追放!?」
「ああ」
「か、勝手なことを言わないで! お祖父様に――総帥に断りもなく、そんなことができるわけないでしょう!」
「総帥の許可なら、昨日の夜のうちに得ている。俺の――次期総帥の権限でもって、ミンウェイを追放して構わない、って」
「なっ!?」
頭が真っ白になった。
「……だって、お祖父様は……鷹刀が私の居場所だ、って……ずっと……」
寒いわけでもないのに、ミンウェイの体は、がくがくと震えてきた。恐慌状態といったほうが正しいかもしれない。
「ミンウェイ。俺は、鷹刀の次期総帥になったんだ。それだけの権力と――責任がある。一族の誰もを、ひとりひとりを、それぞれが望む幸福に導くという責任だ」
「な、なんの話?」
声が上ずった。子供のころからよく知っているはずのリュイセンは、別人のように大人びていて、精悍な顔立ちには畏怖すら覚える。
「ミンウェイの居場所は、鷹刀じゃない。ミンウェイの幸せは、鷹刀にはない」
「そんなことないわ!」
「確かに、今までは、鷹刀はミンウェイの居場所だった。祖父上が、そう主張することで、『父親』との生活で傷ついていたミンウェイの心を守っていた。けど、『父親』との決着を付けた今、ミンウェイを鷹刀に縛る理由はないんだ」
「違うわ! 鷹刀は、これから緩やかな解散へと向かうの。そして、私には、最後の総帥となる、あなたを助けるという、大事な役目があるのよ!」
拳を震わせるミンウェイを、リュイセンは泰然と受け止める。
「そうだな。そうなればいいと思っていた。――だから、そう言って、ミンウェイに求婚した」
「――ならっ!」
「でも、それはミンウェイの意思じゃないだろう?」
長身をかがめ、優しく落とされた声は、彼女を跳ねのける言葉であるのに、包み込むかのように柔らかい。
「俺の希望や、周りの期待に応えたくて、ミンウェイは、そうすべきだと思いこんでいるだけだ」
「違う!」
「ミンウェイは、お人好しで、遠慮ばかり、気遣いばかりだからな。……けどな、度を越したら、ただの八方美人なんだ」
「酷っ……!」
眦を吊り上げるミンウェイに、リュイセンは「『もうひと押し』だ」と謎の呟きを漏らすと、すっと温室の外を示した。促されるままに視線を移し、ミンウェイは目を疑う。
「クーティエ!? ユイラン伯母様!?」
ルイフォンと共に、シュアン救出の策を練っているはずのふたりが、硝子越しに手を振っていた。
草薙家の住人のうち、鷹刀一族と絶縁状態にあるのは、実のところ、クーティエの両親であるレイウェンとシャンリーだけだ。夫婦の間に生まれたクーティエは、一族ではないものの、父方、母方、両方の祖父のいる屋敷への出入りを禁じられているわけではないし、ユイランに至っては、単に屋敷の外に引っ越しただけ、という扱いになっている。
だから、ふたりが敷地内にいることは、決しておかしなことではない。
しかし……。
「どういうこと!?」
ミンウェイは、リュイセンに食らいつくように尋ねる。
「ルイフォンから連絡があった。『緋扇を助けるために、ミンウェイの力が必要だ』――と」
「!?」
心臓が、大きく跳ね上がった。
ルイフォンが何故、ミンウェイの力を必要としているのかと、疑問に思うと同時に、そんなことを訊いている場合ではないと、心が急き立てる。
椅子の脚と地面とが奏でる摩擦音を聞きながら、リュイセンはゆっくりと告げる。
「クーティエは、ミンウェイを迎えに来たんだ。でも、母上は違う」
強調を示すように、語尾のところで微妙に声色が変化した。
「鷹刀の屋敷に戻ってきてくださるよう、俺が、母上にお願い申し上げた」
「え?」
「俺がミンウェイを追放するからには、ミンウェイの代わりの総帥の補佐役が必要になる。だから、ミンウェイの前任者である母上に、再び頼むことにした。デザイナーの仕事と兼任で構わないと言ったら、快く引き受けてくださった」
「!」
リュイセンは本気なのだ。
本気で、ミンウェイを一族から追放しようとしている。
単なる思いつきではない。未来のことを、きちんと考えて行動している。
「ミンウェイ、選ぶんだ」
決して荒々しくはないのに、地底から轟くような低い声が迫った。
「ミンウェイは、どうしたい? ――ミンウェイの気持ちは、どこにある?」
硝子の反射を受けた陽光が、リュイセンの黒髪を艶めかせ、彫りの深い顔を際立たせた。
柔らかな眼差しの中に、強さと高潔さを兼ね備え、限りないほどの優しさを持つ、一族を幸福へと導く――覇王。
『今すぐじゃないけど、俺は総帥になる。だから、そのとき――俺を補佐してほしい』
十年ほど前、兄のレイウェンが屋敷を出た夜。この温室のそばで、リュイセンは言った。
まだ子供の低い背で彼女を見上げながら、まだ子供の高い声で願ってきた。
とても、月が綺麗な夜だった。
握手を求めてきた手は小さかったけれど、あれは総帥の補佐という重役を任され、不安に脅えていた彼女を励まそうとしていたのだと、今なら分かる。――リュイセンは、昔から変わっていないのだから。
……彼女に求婚するよりもずっと前から、彼は、彼女と共に一族を率いていきたいと望んでいた――。
「リュイセン……! 私……!」
喉がひりついて、声がかすれた。
けれど、きちんと口に出して言わなければいけない。
曖昧にしてきたままの答えを、目を背けていた思いを、今こそ、声という形にしなければならない。
それが、長い長い星霜、待っていてくれたリュイセンへのけじめだ。
「緋扇さんを選びたい……!」
リュイセンと共に、鷹刀で穏やかに日々を重ねていくのだと思っていた。
そうすれば、誰もが幸せになれるのだと。
なのに――。
涙が頬の曲線を描き、顎先から散り落ちていく。まるで、硝子の華が花開くかのように、煌めきを放ちながら。
「ミンウェイ」
椅子から立ち上がっても、リュイセンの顔は、ミンウェイよりも遥かに上にあった。血族そのものの容貌を持ちながら、彼だけの優しさを持つ面差しを、彼女は瞳に焼きつける。
「追放しても、ミンウェイは俺の大切な家族だよ。兄上や義姉上と同じだ」
「リュイ……セン……!」
草の香を震わせるミンウェイに微笑みかけ、そして、リュイセンは――鷹刀一族次期総帥は告げる。
「鷹刀一族次期総帥、鷹刀リュイセンの名において、鷹刀ミンウェイを一族から永久に追放する」
「了承――いたしました」
ミンウェイは、深々と頭を垂れた。
この瞬間、彼女は一族の庇護を失った。言い知れぬ不安が胸に押し寄せ、彼女は自分の体を掻き抱く。
脅えている自分に戸惑い、懸命に奮い立たせていると、頭上から「ミンウェイ」と、魅惑の低音が降りてきた。
「俺は、一族の者たちを幸福へと導く。けど、ミンウェイはたった今、一族ではなくなったから、俺はもう、この手でミンウェイを幸せにすることはできない」
「……」
「だから、ミンウェイは、自分の手で幸せを掴むんだ。――大丈夫だ。だって、ミンウェイは、待っているだけのお姫様じゃないんだからさ」
ミンウェイは、はっと顔を上げた。
視界に映ったリュイセンの美貌は、とても満ち足りたような、穏やかなもので――。
「ミンウェイ、幸せになれ」
「!」
刹那。
ミンウェイの脳裏に、寄せては返す波のような、優しい低音が響き渡った。
『ミンウェイ、幸せにおなり……』
菖蒲の庭園で、〈蝿〉が最期に口にした言葉。
同じ血を持つリュイセンの顔が〈蝿〉の微笑みと重なり、〈蝿〉の声と交わる。記憶の底に沈みかけていた『父親』の今際の姿が浮かび上がり、すべてが混ざり合っていく。
〈蝿〉との永久の別れのあと、ミンウェイは八つ当たりのように叫んだ。
『『幸せにおなり』って、『自分では、私のことを幸せにするつもりはない』ってことよ!? 私に『ひとりで勝手に幸せになれ』って』
自分は何故、あんなに怒ったのだろう?
幸せは、与えられるのを待っているものではない。
自分で、掴み取るものだ。――リュイセンが今、そう教えてくれた。
ミンウェイの内部で、『父』の遺言が意味を変えていく。
あの言葉は、ミンウェイの未来への祝福なのだ、と。
『ミンウェイ、自分の手で、幸せを掴み取るんだ』
「リュイセン、ありがとう」
指先で涙を弾き、ミンウェイは艶やかな華のように笑う。
そして、彼女は、硝子の城から未来に向かって走り出した。
7.運命を断ち切る女神-1
かつん、かつーん、と。
床を打ち鳴らす靴音で、緋扇シュアンは目を覚ました。
とはいえ、実際に、足音が聞こえたわけではない。独房のベッドの上で、うつらうつらしていた彼は、相手が近づいてくる気配をマットの振動から感じ取ったのだ。今が昼間であり、本来、寝るべき時間でないため、眠りが浅かったのも一因だろう。
全治数ヶ月と診断された彼は、体の回復を促すため、ひたすら睡眠を取ることに努めていた。負傷した野生の獣が、寝床から動かず、静かに傷を癒やすのと、よく似ている。
無論、彼は人であり、そして、人質であった。
人質が重傷者であると都合が悪いのだろう。摂政の手配した医者が、毎日のように彼のもとを訪れ、手厚く看護されてもいる。
診察の際には、手錠を掛けられるが、それ以外の時間は拘束具を付けられることはない。食事は不味いが、人間の食べ物としての最低ラインは越えている。よく振動を伝えてくるベッドは、古びてはいるものの、決して不衛生ではない。
総じて、この監獄に移されてからの待遇は、まずまずといったところだった。
現状に不満のないことを再確認したシュアンは、これからの展望に思いを馳せる。
『看守に嬲り殺しにされることによって、ハオリュウの枷となることから解放される』という目論見に失敗したと知ったときには、絶望に陥ったものだ。しかし、今は気を取り直している。そして、今度は体を治して『脱獄』することに決めたのだ。
別に、成功する必要はない。
『逃走の途中で、射殺されれること』が目的だ。
現在、逮捕から、おそらく一週間目。初めの数日は、夢と現をさまよっていたために判然としないのだが、日付を教えてくれた看守が嘘を言っていなければ、そうなる。
頬に手をやれば、伸びた髭が、ざらりとした感触を伝えてくるので、概ね間違ってはいないだろう。用心のためか、剃刀は与えられていないのだ。
あまり、のんびりはできない。シュアンを人質に、ハオリュウが窮地に陥ってしまう。
心は焦るが、彼の肉体は、独房内をゆっくりと歩き回るのがせいぜいで、まだ走ることはできなかった。
シュアンはベッドに横になったまま、耳を澄まし、近づいてくる者の様子を探った。
見回りの時間ではないはずなので、不審に思ったのだ。
足音がひとつであることから、摂政ではない。摂政ならば、必ず部下たちと複数人でやってくる。
そもそも、あの特徴的な歩き方は、赤ら顔の老年の看守で間違いないだろう。千鳥足の酔っ払いそのものだ。もしかしたら、足に古傷でもあるのかもしれないが、常に熟柿の臭いを撒き散らしているので、依存症を疑ったところで失礼はあるまい。
時々、言動が怪しくなるので、あるいは薬物にも手を出している可能性もある。警察隊の腐敗は、何も権力者との癒着に限ったことではないのだ。麻薬の密売に目をつぶることで、うまい汁を吸おうとする輩もいる。そして、そのついでに身を滅ぼすような阿呆も。
あの老年の看守は、どうせ碌な奴ではないだろうが、脱獄の際には利用できるのではないかと、密かに目を付けていた相手でもあった。
さてはて、いったい何用かと、シュアンは興味深げに三白眼を細める。
やがて、予想違わず、件の看守がシュアンの房の前に現れた。焼けたように赤い顔を、にたにたと緩ませて、何やら、ご満悦の様子である。
「お前が斑目一族の指示で動いていた、ってのは、本当だったんだなぁ。しかも、あんな大物が出てくるたぁ、驚いたぜぇ?」
老年の看守は、ゆらゆらと肩を揺らしながら、下卑た嗤いを漏らす。
それから、独房の中と外を隔てる鉄格子に、がしゃりと寄り掛かり、まるでシュアンに内緒話でも打ち明けるかのように声を潜めた。
「お陰で俺は……っと、口が滑っちゃぁいけねぇぜ」
そう言いながら、これ見よがしにポケットのあたりを叩いてみせる。特に膨れているようには見えないが、今どき現金を持ち歩くのは珍しかろう。――要するに、金を積まれたというジェスチャーだ。
――誰に、何を頼まれた?
ベッドに横になったまま、シュアンが眉を寄せると、暴行による怪我で、迫力ある面構えになっていた凶相が、更に悪人面となった。
――大金を匂わせる発言……ハオリュウが動いたのか。
見かけだけは素朴で純真な子供のくせに、その実、腹黒な少年当主が、素直に摂政の脅迫に応じるわけがなかったのだ。この国の最高権力者が相手では、さすがのハオリュウも従わざるを得まいと考えていたのだが、どうやら違ったらしい。
シュアンは半眼で看守の様子を窺いながら、思考を巡らせる。
看守は今、シュアンに対して『斑目一族の指示で動いていた』と、感服したように口にした。
だが、そんな事実はない。前の監獄でのシュアンの『自白』は、ハオリュウに累が及ばないようにするための虚言だ。
つまり、あの『自白』に話を合わせるように、斑目一族の名が騙られた。すなわち、『自白』を監視カメラで見ていたであろうルイフォンが、一枚噛んでいるということに他ならない。
〈猫〉は、シュアンの周りにいる人間の情報を集め、その中から与し易しと、この看守に白羽の矢を立てたのだ。おそらく、シュアンの推測通りに脛に傷を持つ身であったのだろう。
――看守をどう使うつもりだ?
信用に値するとは、とても思えぬ輩だ。利用するだけのはずだ。
ともあれ、ハオリュウたちが、シュアンを助けるつもりであることは間違いない。
嬲り殺しにされることで、ハオリュウに自由を与えようとしていたシュアンとしては、正直なところ、格好のつかない展開であるが、別に彼だって死にたいわけではない。
単に、ハオリュウの枷になりたくなかっただけ、人生を賭けると決めた、奇天烈な小さな権力者を守りたかっただけだ。
今後も必要とされるのであれば、喜んで役に立とう。
しかし、犯罪者を匿うことで、ハオリュウの立場が危うくなることを思えば、いずれは姿を消すことも考えねばまるまい。
己の不利益を顧みない、青臭い餓鬼なのだ。今だって、シュアンの命を助けることだけしか頭にないだろう。……いったい、どんな策を立てたのやら。
――あいつは、自己犠牲が大好きだからな。
自分こそ、ハオリュウのために命を擲とうとしたことを忘れ、シュアンは口の端を上げる。
現在、ハオリュウのそばには、ルイフォンがいる。無謀な作戦なら許しはしないだろう。だから、これは乗るべき策だ。
シュアンは三白眼を巡らせ、独房の天井に据え付けられた監視カメラを見やる。これで、ルイフォンに、了承の意が伝わったはずだ。
――俺は、どう動けばいい?
この体調では、走ることはできない、看守の手引きがあったとしても、まだ脱獄は難しい。それは、ルイフォンも承知しているはずだ。
――どうするつもりだ、〈猫〉?
心の中で、シュアンが問いかけたときだった。
「先輩! どちらにいらっしゃいますか――!?」
遠くから、ばたばたと走り回る足音が聞こえてきた。純朴そうな高めの声は、この監獄の看守たちの中で一番若い、新米看守のものだ。
「俺は、ここだぁ! どうかしたかぁ?」
老年の看守が振り向き、通路の先に向かって声を張り上げた。
どことなく、すっとぼけたような口調にも聞こえる。――まるで、誰かが自分を探しに来ることを予期していたかのように。
――否。知っていたのだ。
その証拠に、不細工な赤ら顔が、にたりと醜く歪んだ。
「あ、先輩、そちらでしたか!」
心なしか、安堵したような雰囲気をにじませ、新米看守が駆け寄ってくる。しかし、そこがシュアンの房の前だと気づくと、彼は、ぎょっとしたように顔を強張らせた。
その表情の変化は、あまりにも顕著であった。しかし、老年の看守は問いただすことなく、何食わぬ顔で尋ねる。
「何があった?」
「その……、今、物凄い美女が、詰め所に現れて……。それも、こんな掃き溜めには場違いな、とんでもなく綺麗な人で……、――あっ……」
台詞の途中で新米看守は気づく。
たとえ、自分がどんなに衝撃を受けたとしても、報告すべき点は、そこではない。
「……すみません、そうではなくて。――ああ、いえ、美人は本当なのですが、ええと……」
言いながら、彼は、ちらりと鉄格子の内側に視線を走らせた。
目が合う直前で、シュアンはそれまで看守たちの様子を鋭く観察していた三白眼を伏せる。そのため、新米看守は、ベッドに横になっている重傷人は、ぐっすりと眠っているものと信じたようだ。念のためにか、声の音量を落としはしたものの、そのまま話を続けた。
「彼女は緋扇シュアンの恋人で、彼が処刑されてしまう前に、ひと目逢いたいと――」
「ほぉぅ、まさに、美女と野獣じゃねぇか。狂犬の野郎も、隅に置けねぇなぁ」
新米看守の言葉を遮り、老年の看守が尻上がりの口笛で冷やかす。
「せ、先輩!」
新米看守が、慌てたように口元に指を立てた。静かに、との仕草だ。シュアンが起きてしまうことを危惧したのだ。
「先輩。上からの指示で、緋扇には何者の面会も許されていません」
監獄を任された看守としては、命令が下されている以上、美女と死刑囚を逢わせるわけにはいかない。ならば、恋人の来訪を知らぬままに逝ったほうが、シュアンの心残りも少なかろう――と。まだ、すれていない、新米ならではの生真面目さと気遣いがそこにはあった。
「別にいいじゃねぇか。逢わせてやれよ。今生の別れだろう?」
「そんなわけにはいきません!」
「じゃあ、その美女をどうする? 追い返すのか?」
「それが……。面会はできないと説明したら、その場で泣き崩れてしまいました」
「そりゃあ、可哀想になぁ」
老年の看守が、圧を掛けるように呟く。
新米看守は、憮然と顔をしかめた。彼だって、本心では、彼女の願いを叶えてやりたいのだ。この世の者とも思えぬような絶世の美女に、目の前でさめざめと泣かれて平然としていられるほど、彼の心臓は丈夫ではない。
彼は、ほんの数分前の出来ごとを反芻する。
恋人に逢えないと知るや否や、彼女は切なげに柳眉を歪め、かくりと力なくうなだれた。彼女の動きに反するように、草の香がふわりと浮き立つ。香水にしては柔らかな優しい香りが広がり、彼女の清らかな魅力が胸に迫った。
すらりと背の高い女性であった。しかし、艶やかな長い黒髪の隙間から、嗚咽に震える白いうなじが覗くと、とても儚げな、か弱く小さな存在に感じられた。年齢的には、新米の彼よりも、よほど年上であろうに、庇護欲すら掻き立てられたのだ。
けれども芯は強いのか、そっとハンカチで目元を押さえると、彼女は顔を上げた。そして、色あせた唇をわななかせ「どうか、彼に逢わせてください」と懇願してきた。
涙をたたえ、すがるような切れ長の瞳は、凪いだ湖面のように静謐で。なのに、どこか妖艶でもあり、魔性をはらんだように抗いがたい――。
「それだけじゃないんですよ!」
つい先ほど、自らの口元に指を立てたことなど、すっかり忘れ、新米看守は大声で叫んだ。
「彼女は、ひとりで来たわけではなくて、巨漢の付添いがおりました。それも、雲をつくような大男で、ひと目で、只者ではないと感じました」
初めは美女に見とれていたために、後ろの付添いに気づかなかったことは秘密である。
しかし、ひとたび、その巨躯を認めれば、今度は威圧感に足がすくんだ。
それもそのはず――。
「なんと! そいつの襟元に、斑目一族の幹部バッジが光っていたんですよ!」
刈り上げた短髪からは野性味があふれ、サングラスの下の顔は窺い知れないが、その体格から、さぞや強面であろうことは想像に難くない。
暗色のスーツは、きちんと体に合わせて仕立てられた、上等なものであるように見えるのだが、筋肉の鎧は隠しようもなく、はちきれんばかり。厚い胸板からは、何故か、色褪せた赤いポケットチーフが覗いていて、その不均衡さが、かえって曰くありげな品という雰囲気を醸し出していた。
「そいつが、彼女を押しのけるようにして、ぬっと前に出て! 俺に向かって、脅しかけたんです!」
恐怖を思い出し、新米看守は必死に訴える。
「『話は、ついているはずだが?』」
地を揺るがすような、どすの利いた太い声だった。
聞いた瞬間、新米看守は縮み上がり、「ちょ、ちょっと、聞いてきます!」と、詰め所を逃げ出し――もとい、他の者に確認すべく飛び出してきたのだ。
「お前も、災難だったなぁ」
「先輩……?」
極悪非道な凶賊が押しかけてきたというのに、まるで慌てる様子もなく、ただ不健康な赤ら顔を歪めて嗤うだけの老年の看守に、新米看守は眉を寄せ……、やがて確信する。
「先輩……、あの斑目の幹部から、袖の下を受け取って……」
「人助けさぁ。――処刑される恋人に、ひと目逢いたい。なんとも、いじらしい女じゃねぇか」
「ですが、警察隊が凶賊と、なんて……」
「緋扇の野郎は、斑目の指示で貴族を殺ったんだ。凶賊の世界じゃ、組織のために命を捨てた奴は英雄だ。残された縁者に融通を利かせてやることは珍しくねぇんだよ。恋人が逢いたいと言えば、そのくらい叶えてやるのが男気ってもんだ」
老年の看守は、説教を垂れるように言い、唐突に、がはは……と笑い出す。
何ひとつ、論理的でなかった。
なるほど、斑目一族の幹部は、男気で動いているのかもしれない。しかし、先輩看守のほうは、金品の授受に乗せられているだけではないか。
だが――。
新米看守の生真面目さと、警察隊員としての正義感は、凶賊の大物幹部の威圧に押しつぶされた。
それよりも、先輩からの指示で『特別な計らい』があったとするほうが、気遣いであり、人としての正義であると、脳内で処理された。
「緋扇シュアンの恋人を連れてきます。――ですが、面会は鉄格子越しに、ですよ」
新米看守は念を押し、踵を返して詰め所へと戻っていく。
残された老年の看守は、後輩の後ろ姿が消えるまで見送ると、鉄格子の中のシュアンに向かって語りかけた。
「よぅ、狂犬。どうせ、起きているんだろぉ?」
シュアンは答えない。答える必要性を感じないからだ。
老年の看守は、無反応なシュアンに気を悪くした様子もなく、赤ら顔をにたりと歪めて尋ねる。
「お前の『恋人』って奴は、たいそうな美女らしいが、心当たりはあるのかい?」
7.運命を断ち切る女神-2
『美女』と『巨漢』が、面会に来ている。
看守たちの会話から得た情報を、シュアンは黙考する。
『美女』という単語に、艷やかに波打つ黒髪が脳裏をよぎるが、そのまま頭の片隅にまで追いやった。
鷹刀一族は現在、こと摂政が関わる件に対しては、頭を引っ込める方針を取っている。当然のことながら、一族の中枢に位置する彼女は、派手な行動を控えるべきだろう。――そんな、もっともらしい考察と共に、可能性から排除したのだ。
容姿の美しさでいえば、メイシアが来たのかもしれないが、ルイフォンが最愛の伴侶を危険に晒すとも思えない。おおかた、ルイフォンの知り合いの、大女優の卵だとかいう少女娼婦あたりにでも助力を求めたのであろう。
もし本当に、あの悪ふざけの大好きな女主人の娼館にまで話がいったなら、あるいは調子に乗った彼女らが、ルイフォンを女装させた、という筋書きもあり得る。繁華街の情報屋から仕入れた情報によれば、『ルイリン』は、思わず見惚れるほどの美少女であるらしいから、充分にいけるだろう。
情報屋のトンツァイとは、鷹刀一族を通じての縁で少し前から顔馴染みとなっており、極秘情報を格安で売ってくれると言われたので、興味本位で買ったのだが、なかなかよい買い物だった。
ルイフォンが知ったら激怒しそうな妄想に、シュアンは底意地悪く、悪相を歪める。
一方、『巨漢』のほうは、斑目タオロンとみて間違いないだろう。
彼は、ルイフォンが厄介になっている草薙家に、住み込みで働いているから、すぐにも協力を頼める。しかも、いずれはハオリュウの専属の護衛になるつもりであるらしいので、未来の主人のために、ひと肌脱ぐのも道理だ。
シュアンの『斑目一族の指示で、厳月家の先代当主を殺した』という虚言の自白を受け、本物の『斑目』を用意するとは、なかなか面白いことをしてくれる。
有耶無耶のうちに一族から抜けたようだが、斑目タオロンは間違いなく、斑目一族の超大物だ。扱いは散々だったようだが、確か、先々代総帥の庶子で、現在の総帥は、彼の『年上の甥』にあたる。ルイフォンの立ち位置と、少し似ているかもしれない。
ならば、襟元につけているという幹部バッジも、紛うことなく本物だろう。
――けど。斑目タオロンは、えらい童顔だったよな?
図体こそ馬鹿でかい巨漢だが、新米看守が、あれほど恐れるような迫力などあっただろうか?
肩車をした愛娘を頭の上に張り付かせ、彼女の笑顔のために全力で走るタオロンの姿を思い出し、シュアンは首をかしげた。
……まあいいさ。それはさておき、だ。
ルイフォンとハオリュウは、どんな策を立てたのだろうか。面会に来た者たちの手引きで、シュアンを脱獄させるつもりなのか?
それは難しいのではないかと、シュアンは内心で眉をひそめる。
体調が万全ではないシュアンは、まともに走れない。老年の看守だけなら、金でどうにでもできそうだが、新米看守のほうは、さすがに目をつぶってくれはしないだろう。
それとも、斑目タオロンが、その巨体を活かして新米看守を殴り倒し、シュアンを担いで逃げる計画だろうか。
……不可能ではないかもしれないが、ルイフォンとハオリュウが、そんな荒っぽい手段を取るとは思えない。彼らなら、もっと緻密で、確実な策を練るはずだ。
そんなふうに、シュアンが思考を巡らせていると、通路から人の気配が近づいてきた。新米看守が『美女』と『巨漢』を連れて戻ってきたのだ。規則違反に良心が咎めるのか、聞こえてきた「こちらです」という案内の声は硬かった。
シュアンはベッドで寝たふりをしたまま、そっと様子を窺う。
初めに目に入ってきたのは、ぴかぴかに磨き上げられ、黒光りする男物の靴の先であった。しかも、半端なく大きい。
すっと目線を上げれば、綺麗に折り目のついた暗色のズボン。黒に近いが、黒ではない深い色合いが、重厚感を醸し出す。同色の上着は、充分に緩みがあるように見えるのに、胸板の厚さを誇張するかのよう。
強い性質の短髪は、無造作を装いながらも、男らしさを強調するかのように丁寧に櫛を入れられており、厳つい輪郭の浅黒い顔は、大きめのサングラスによって、太い眉だけを残して半分ほどが隠されている。
そして、立襟に光る、斑目一族の幹部バッジ。
……怖いだろ。
自分の悪人面の凶相を棚に上げ、シュアンは慄く。
その男は、間違いなく、斑目タオロンであった。それは、色褪せた赤いポケットチーフ――もとい、いつもタオロンが額に巻いているバンダナが、胸元で彼を守っていることから証明できる。
どうやら、彼を童顔に見せていたのは、体に対して随分と小さな、人懐っこそうな瞳であったらしい。サングラスで目元を隠しただけで、まるで別人であった。『巨漢』がタオロンのことであろうと構えて待っていなければ、にわかには彼だと気づかなかったかもしれない。
――ユイランさんと、その友人の美容師に遊ばれたな……。
シュアンは、以前、自分を『目つきの悪いチンピラ』から『眼光の鋭い切れ者』に変身させた二人組のことを思い出した。
それでは『美女』は、何者の変装か?
ルイフォンとハオリュウが必死になって立てたのであろう作戦の只中であることを承知しつつ、シュアンの心は妙な期待に浮き立つ。
『美女』は、まるでタオロンに付き従うかのように、彼の背後、一歩下がったところに立っていた。恐縮したようなうつむき加減で、彼女の顔の造作は、巨体の影に沈んでしまっている。
そのため、シュアンの目を引いたのは、癖ひとつなく、まっすぐに流れる、長く美しい黒髪――。
薄暗い監獄にありながらも、しっとりと濡れたように艶めき、片耳の上で留められた髪飾りが華やぎを添えている。紫の小花と、その実を模したと思しき黒真珠のあしらわれた、小洒落た品であった。
すらりとした肢体にまとっているのは、漆黒と見紛うばかりの深い紫紺のロングドレス。
喉元までを覆う高い襟、くるぶしまでの長い裾。袖も長く、夏向きの薄地素材ではあるものの、肩から袖先へと続く繊細な刺繍は、手の甲にまで及んでいる。
肌の露出が極端に少なく、禁欲的であるにも関わらず、何故だか、豊かな胸元とくびれた腰に目が吸い寄せられた。
不意に、タオロンが、彼女に道を開けるように体をずらした。
彼女の顔が、あらわになる。
そして。
――誰だ……?
三白眼をいっぱいに見開き、シュアンは、ごくりと唾を呑んだ。
高い鼻梁に、切れ長の瞳、薄い唇の面差しは、神の御業を疑いたくなるほどに整っており、ほんのりとした薄化粧が楚々とした美貌を引き立てる。『恋人』を想って流した涙のあとを示す、鼻先と瞼の赤みすら、憂いを帯びた者ならではの美しさを際立たせていた。
儚げな清楚さと、匂い立つような妖艶さを併せ持つ、清艷なる美女。
シュアンは、魅入られたように彼女から目を離せない。
……頭の隅では、彼女が誰だか分かっていた。けれど、感情がついていかなかった。
タオロンが彼女を振り返り、顎でしゃくるようにして前へと促す。その際、低く、彼女の名を呼んだ。
「〈ベラドンナ〉」
まるで、『行け』とばかりの口調は、ルイフォンからの指示だった。『この名で命じる』ことで、シュアンに作戦を伝えるのだと。
しかし、頭の中が真っ白になっていたシュアンには、ルイフォンの意図を解する余裕などあるわけもなく、タオロンから告げられた名前も耳を素通りする。
――なんで、あんたが監獄にいるんだよ?
彼は混乱していた。
鷹刀一族の者は、今は迂闊に動いてはいけないはずだ。
――駄目だろ。あんたの居場所は、ここじゃねぇ。
彼は、彼女の幸せを祈っている。彼女が『穏やかな日常』を送ることを願っている。
この場所は、彼女には似合わない。自分などに関わったらいけない。彼の周りは、平穏とは正反対なのだから。
「……シュアン。逢いたかった……」
「!?」
麗しの美声が、彼の耳朶を打った。
その瞬間、彼の心に、見えない弾丸が撃ち込まれた。
胸が苦しくなり、掻きむしるように右手で押さえる。
彼女の声が、初めて『緋扇さん』ではなく、彼の名を紡いだ。以前、名前で呼んでほしいと言ったときには聞き流され、頑なに、そのままであったというのに。
……あんたの声は、そんなふうに、俺の名を響かせるのか。
衝撃に気が遠くなりかけ、それから、心の中で首を振る。
――ああ、違う。これは演技だ。死刑囚に逢いにきた『恋人』の……。
そう思った。
なのに、はっと気づくと、斜に構えていたはずの三白眼が熱くなっている。
愕然とした。
狂犬には、あり得ないはずのことだ。監獄に囚われている間に、体がおかしくなってしまったらしい。
――この俺が……?
彼は唇を噛みしめる。血の味がにじむのは、狂犬の牙で裂いたからではなく、人の歯が傷をつけたからだ。
……分かっているさ。
彼は、心の中で独り言つ。
……俺は、あんたに逢いたかった。……ずっと。
観念したように、そっと認める。
彼女の気持ちは作戦であっても、彼女が逢いにきてくれた。それが、嬉しかったのだと。
彼女が一歩、彼へと近づく。
けれど、ふたりは、独房の中と外とに隔てられている。
面会は鉄格子越しだ。新米看守に、そう言い渡されている。だから、彼女は格子と格子の隙間に両の手を差し込み、鉄格子に体を預けるようにして、いっぱいまで近寄った。
がしゃん、と。鉄の音が鈍く響く。
「こちらに来て」
魔性の色香の漂う、落ち着いた囁きが彼を誘う。
魅惑の腕に、彼が抗えるはずもない。
ゆっくりとではあるが、歩けるようになっていてよかった。そんなことを思いながら、シュアンは、ベッドから降り立った。まるで夢遊病の患者のように、あるいは催眠術を掛けられた被験者のように、彼女に向かってふらふらと惹き寄せられていく。
泣きはらした彼女の顔が、間近に迫った。
震える彼女の指先が伸びてきて、瞼の上の青あざに優しく触れる。
「こんなに傷だらけになって……、馬鹿でしょう……!」
透き通った硝子のような涙が、彼女の頬を滑り落ちた。『恋人』は演技であるのに、柳眉を逆立てつつも器用に泣いている彼女が不思議で、彼は戸惑い、思わず「すまん」と謝る。
彼女は、嗚咽をこらえるように首を振った。閉じられた瞳から硝子の華が散る。
そして、彼女は彼の背中に手を回し、彼を抱きしめた。
小花と黒真珠の髪飾りが、彼の視界に映り込む。
流れるような長い黒髪から、ふわりと優しい草の香が漂い、彼の鼻腔をくすぐった。いつもの緩やかに波打つ髪ではないけれど、彼女の香りだ。
……だが。
彼女は決して、自分から他人に触れたりしないのだ。ましてや、自分より大きなものに、すがりついたりなどしない。
だから、これは演技。彼女であって、彼女ではない女。
彼女の柔らかな肉体との狭間に、無粋な鉄格子の硬さが割り込み、彼に現実を忘れさせない。
「……また、逢えるから」
彼女は背中に回した手を離し、今度は背伸びして、無精髭の伸びた彼の髭面を両手で覆った。
「!?」
反射的に体を引こうとしたのは、むさ苦しさに気後れしたからか。それとも、その次の彼女の行動が、許されないものであるという予感があったためか。
けれど、彼女の力は思ったよりも強く、狼狽のぎこちなさの中にいた彼は、逃げ切ることができなかった。
乾いた彼の唇に、彼女の淡い唇が重ねられる。
しっとりとした弾力に目眩がする。
その瞬間。
彼女の切れ長の瞳が切なげに細められ、不自然に頬が歪んだ。彼女が奥歯を噛み締めたことを、触れ合った唇から、彼は振動で感じ取る。
――何を……?
そう思う間もなく、彼の口腔に、どろりとした液体が流し込まれた。
唾液……ではない。唾液に溶かし込まれた……。
――毒、だ。
このときになって、ようやく彼は悟る。
いつもと違う彼女の装いは、毒使いの暗殺者〈ベラドンナ〉の姿だ。
毒に慣らされた彼女の体は、口移しの毒に侵されることはない。だから、奥歯に毒を仕込んで彼のもとに現れた。
ベラドンナは、可愛らしい紫色の花を咲かせ、毒性を持つ黒紫色の実をつける植物。彼女の髪を飾る小花と、黒真珠がそれを示している。
イタリア語で、『美しい貴婦人』。
そして、『アトロポス』という学名は、『運命を断ち切る女神』を意味する。
彼女のまとう漆黒に近い紫紺のドレスは、喪服なのだ。
――ああ、そうだな。俺は、あんたがくれる毒に身を委ねよう……。
穏やかな三白眼で彼女を見つめ、まるで首肯するかのように、シュアンは、こくりと嚥下した。
面会人の『美女』と『巨漢』が帰ってから数時間後、老年の看守は、緋扇シュアンの独房を訪れた。
あのあと、シュアンはおとなしくベッドに戻り、いつものように眠っていた……ように見えた。
「おい、緋扇」
老年の看守は声を掛ける。
しかし、反応はない。
彼は鉄格子の扉の鍵を開け、中に入る。
「俺が散々、忠告してやったのによぉ。あっさり、お陀仏かよ」
緋扇シュアンの死亡を確認し、看守は、つまらなそうにぼやいた。
二日ほど前――。
馴染みの酒場で飲んだくれていた老年の看守の前に、斑目一族の幹部だという、巨漢が現れた。可愛がっているという舎弟をひとり連れていて、「こいつの話を聞いてやってくれ」と切り出してきた。
儲け話が転がり込んできたと、彼の心は下卑た笑みを浮かべた。
用があるのは、本当は舎弟ではなく、大物幹部の巨漢のほうだ。『部下が勝手にやったこと』にしたほうが都合がよいために、舎弟に喋らせるだけなのだ。
巨漢に代わり、前に進み出たのは、長髪を背中で一本に編んだ、猫毛の小僧だった。サングラスで顔を隠していても、まだ十代の餓鬼なのは明らかだった。
兄貴から説明役に抜擢されて、有頂天だったのだろう。小僧は意気揚々と、懐から携帯端末を取り出し、一枚の写真を見せてきた。
「!」
それには、看守と麻薬の密売人が、仲良く談笑をしている姿が写っていた。彼は青ざめたが、小僧はさっと端末をしまうと、写真については、ひとことも触れずに話を始めた。
「お前の勤めている監獄に、緋扇シュアンという死刑囚がいるだろ? 警察隊員だった、人相の悪い男だ」
小僧によれば、緋扇シュアンには虚言癖があり、逮捕されて以降、嘘の証言ばかりをされて、斑目一族は迷惑している。早く処刑してほしいのだが、なかなか執行されずに困っている、とのことだった。
それを聞いて看守は、ぴんときた。
緋扇シュアンは、斑目一族にとって痛手となるような証拠を握っているのだ。だから、上層部によって生かされているというわけだ。
罪状からすれば、とっくに処刑されていても不思議ではないのに、いまだに刑の執行日が決まらないばかりか、前の監獄で受けた傷の治療まで受けているので、おかしいと思っていたのだ。
「だからよ。俺たちは、緋扇のために〈ベラドンナ〉という名前の恋人を呼んでやったんだ。面会を許可してくれないか?」
「〈ベラドンナ〉……!」
十数年前に忽然と姿を消した、今となっては伝説の毒使いの暗殺者だ。美しい少女であったとの噂だが、真偽のほどは定かではない。
若い者は知らないだろうから、この小僧も人づてに聞いたのだろう。死んだものと思われていたが……。いや、名前を騙っているだけの偽物かもしれない……。
そんなことを考えていると、小僧が続ける。
「緋扇は、恋人に逢った日の夕方、死亡する。ただし、死因は『すっ転んだ拍子に、もともと折れていた肋骨が運悪く肺に突き刺さって、死亡』だ」
「なっ!?」
「駆けつけた医者が、ちゃあんと調べるさ。まぁ、いつも緋扇を見ていた医者は、前々から予定されていた大きな手術の執刀中で来られないけどよ?」
小僧の口角がにやりと上がる。
話の途中では一切口を出さなかった巨漢も、最後にひとこと「そういうわけだ」と、重々しく頷いた。そして、分厚い手をそっと彼の肩に載せる。
その瞬間、彼は心臓が止まるかと思った。しかし、冷静に考えて、たいした危険もない、実にうまい話だ。故に、二つ返事で引き受けた。
冷たくなった緋扇シュアンのために、老年の看守は医者を呼ぶ。
彼としては『暗殺者が来るぞ』と教えてやっていたつもりだった。
それは、シュアンを案じてのことではない。〈ベラドンナ〉が失敗すれば、もう一度、あの巨漢に協力してやることで、更に懐が温まると期待していたのである。急いでいるためか、やけに金払いがよかったのだ。
彼は、少し残念に思った。
それだけのことであった。
7.運命を断ち切る女神-3
優しい香りが、ほのかに鼻腔をくすぐる。
まどろみの中に揺蕩っていた意識が、すっと浮かび上がってくる。
懐かしいような愛しさが込み上げてきて、胸の中を埋め尽くした。
これは、なんの香りだっただろうか。
――ああ、干した草の香りだ……。
緋扇シュアンは、穏やかに口元を緩めた。
嬉しげな表情は、しかし残念なことに、客観的には悪事でも企んでいるような面構えにしかならない。その事実に、鏡の前でもない限り、本人が気づくことがないのは幸か不幸か。
彼は、彼の凶相を特徴づける三白眼を開く。けれど、独房の薄暗い天井を見ることに慣れていた瞳は、予想外の眩い光に驚き、再び瞼を閉じた。
ここは、どこだ?
目を瞑ったまま、周りの気配を探る。そして、自分の右脇のあたりに違和感を覚えた。
警戒しながら、ゆっくりと薄目を開けると、視界に飛び込んできたのは、まっすぐな長い黒髪。彼の寝かされているベッドの右端に彼女の寝顔があり、彼に掛けられている薄い夏地のタオルケットが、彼女の頭の重みで不自然に引っ張られていた。
白衣姿であることから、彼女は医者として彼を診ていたようだ。けれど、目覚めを待っているうちに、疲れて眠ってしまったのだろう。
「せっかくの美女が台無しじゃねぇか」
目の下の隈を見やり、シュアンは苦笑する。
それから、彼女を起こさないよう、横になったまま部屋の中に視線を走らせ、ここは草薙レイウェンの家だろうと推測した。――刺繍の壁飾りを見つけたからだ。
その壁飾り自体は初めて見るものだったが、草薙家のそこかしこには、手芸好きのユイランの作品が飾ってあるのだ。それに、ルイフォンがシュアン救出の中心となっていたのなら、居候先である草薙家が拠点となるのは自然なことだろう。
そのとき、シュアンは、はたと思い出した。
彼は、毒を飲んだのだ。
彼女に口移しで毒を注がれ、それを飲み干した。
彼の嚥下を確認すると、彼女は穏やかに微笑み、狂おしいほどまでに熱い抱擁を彼に与えて去っていった。
そのあと、しばらくして強烈な眠気が襲ってきた。彼は独房のベッドに横になり……、そこから先の記憶はない。
「俺は……、いったい……?」
かすれた呟きと重なるように、右脇が違和感から解放された。そして、顔を上げた彼女と、視線と視線が交錯する。
「緋扇……さん……!」
麗しの美声が震え、切れ長の瞳がいっぱいに見開かれた。その双眸は、みるみるうちに潤み始め、はらはらと硝子の花びらが舞い落ちる。
「緋扇さん……! 緋扇さん! ……緋扇さん! ――っ! ……よかっ……! 緋扇さんが……、……!」
まるで幼子のように、彼女が号泣する。
彼に毒を授けた唇には、いつもの強気な紅はなく、他の言葉は忘れてしまったかのように、彼の生存を唱え続ける。彼女がしゃくりあげるたび、癖ひとつない、生来の姿となった黒髪が、さらさらと光を弾いた。
普段の彼女からは想像できない、なりふり構わぬ泣き顔に、彼は狼狽した。
「ミンウェイ……」
シュアンは体を起こし、久しく舌に載せていなかった名を口にする。
泣いている肩を抱き寄せたいが、あいにく彼女は、誰かに触れられることを怖がるのだ。だから代わりに、自分の濁声で出せる、最大限に優しい声を紡ぐ。
「ミンウェイ、あんたが俺を監獄から出してくれたんだな? ありがとよ」
本来なら、まずは自分の置かれている状況を尋ねるべきなのだろう。しかし、それよりも、すっかり取り乱している彼女をなんとかしてやりたくて、シュアンは彼なりの精いっぱいの笑顔を作った。
詳細など、些細なことだ。
薄暗い監獄にいたはずの自分が、明るい場所に寝かされており、目の前にはミンウェイがいる。ならば、『美女』と『巨漢』の面会人に扮した、ミンウェイとタオロンが、彼を脱獄させてくれたということに他ならないのだから。
しかし、彼女は激しく首を振った。
「失敗するかもしれなかったの! 怖かった! 恐ろしかったわ! 緋扇さんが目覚めなかったら、どうしよう、って……!」
感情的な金切り声で、ミンウェイが訴える。
シュアンはぽかんと口を開けた。
鷹刀一族を切り盛りする、頼りになる姉御肌は、いったいどこにいったのだろう?
……やがて、彼は理解する。彼女の涙は、作戦の成功に安堵したからこそ。緊張の糸が切れただけだ。
「おいおい、どうしたんだよ?」
シュアンは、おどけた調子で口の端を上げた。
経緯は知らぬが、もう心配は要らないはずだと、彼女の不安を笑い飛ばす。妙齢の美女の駄々っ子姿という落差も、なかなか悪くないものだ――などと、人の悪いことを思いながら。
そんな彼に、ミンウェイは、きっ、と眉を吊り上げた。
「あなたは、私に『仮死の薬』を飲まされたのよ!」
「仮死……?」
「昔、お父様が発明した、人体を一時的に仮死状態にする薬よ。河豚毒が主成分で、安全性はお父様の折り紙付き。――でも、私自身が調合したことは、一度もなかった! ……私に失敗があったら、あなたは死んでいたのよ!」
責め立てるように言って、彼女は再び、しゃくりあげる。
大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた――……が、彼女の態度は、シュアンの頬を緩ませただけであった。
さすがに声を出して笑ったら可哀相だろう。シュアンにだって、そのくらいの分別はある。だから彼は、少しだけ思考を他所にやり――独り言つ。
「ふむ。一時的な仮死状態……か」
まるで、おとぎ話の産物だ。しかし、あの〈蝿〉なら――正確には、ミンウェイの『父親』であったオリジナルのヘイシャオなら、不可能ではないかもしれない。
――否。事実として、可能だったのだ。
だからこそ、独房で意識を失ったシュアンが、ここにいる。監獄は、生きている人間を収容する施設であって、死体の保管場所ではない。『死体』となったシュアンは牢から運び出され、処分される前に手際よく回収されたのだろう。
「なるほどな。だいたいの状況は把握できたぜ」
「え?」
シュアンの声に、ミンウェイが瞳を瞬かせた。睫毛の上の涙が、きらりと弾かれる。
「――ほらよ? 牢屋にぶち込まれていたはずの俺が、気づいたら美女に看病されていたんで、いったいどうしたことかと思っていたのさ」
軽い口調で微笑むシュアンに、ミンウェイは、はっと口元を押さえた。
気まずげに視線がそらされ、「ごめんなさい……」と、消え入るような声が漏れる。どうやら、彼には説明が必要だということを思い出してくれたらしい。
「あ、あの……ですね。ルイフォンが〈蝿〉から託された記憶媒体には、王族の『秘密』や摂政の情報だけではなくて、お父様の研究のすべても記されていたんです。その中に、あの薬のこともあって……」
取り繕うような、けれど微妙に要領を得ないような――実のところ、その内容はシュアンにとって必要ないような……、しどろもどろの台詞を受け、彼は言を継ぐ。
「それで、ルイフォンは『薬を作って欲しい』と、あんたを呼び出した、ってわけか。怪我で動けない俺でも、『死体』としてなら脱獄できるからな」
「はい」
そう答えてから、ミンウェイは「……いえ」と否定した。
訝しげに顔をしかめたシュアンに、彼女は言葉を選ぶように告げる。
「『仮死の薬』を使った理由は、脱獄のためというよりも、あなたをお尋ね者にしたくなかったからです。――ルイフォンとハオリュウは私を呼んで、そして言いました」
彼女はそこで言葉を切り、切れ長の瞳をまっすぐにシュアンに向けた。
「『ミンウェイ、一度だけ〈ベラドンナ〉に戻って、あいつの運命を断ち切ってくれないか? ――頼む!』」
ルイフォンを真似た声色に、そのときの光景がシュアンの目に浮かんだ。
背中で一本に編まれた髪が転げ落ち、先端で金の鈴が煌めく。深々と頭を下げるルイフォンの隣で、貴族のハオリュウもまた、身分の差などまるきり無視して、同じように頭を垂れる。
「『ただ脱獄させただけじゃ、あいつはお尋ね者になっちまう。だから、あいつを『殺して』ほしい。『死者』になれば、追手は掛からない』」
ミンウェイの瞳から、新たな涙が流れた。
「緋扇さん……。私は、あなたを『殺した』んです……」
「はぁ?」
思い詰めたような彼女に、不可思議なことを言うものだと、シュアンは首をかしげる。
「何を言っているのさ? 俺は、ちゃんと生きているぜ?」
表向きはどうであれ、こうして無事に生きているのだからいいだろう――そういう意味だった。
なのに、彼女は柳眉を逆立てた。
「なんで、そんなへらへら笑っているのよ!?」
「ミンウェイ!?」
「いい? あなたは、世間的には死んでしまったのよ!」
叩きつけるように叫んでから、彼女は、ひくっと喉を鳴らす。
「……そうするのが一番いいと思ったわ! 私も、ルイフォンたちも納得している。……でも、本人である、あなたには何も言わずに、勝手に決めたの……。……ごめんなさい」
「ミンウェイ……」
彼女は、責任を感じているのだ。
他人の運命を断ち切ったことに対して。
一時的に〈ベラドンナ〉に扮したところで、彼女はもう、運命を司る女神ではないのだから。
「そう言われても……、実感がわかねぇしよ……」
シュアンは、ぼさぼさ頭を掻きながら、少し真面目に考える。
この国には、生きていると見なされていない自由民と呼ばれる者たちがいる。だから、彼らの仲間入りということになるのだろう。彼らには戸籍がなく、社会的になんの保障もされていない……。
「――別に、俺は死人でいいんじゃねぇか?」
「緋扇さん!?」
「要するに、自由民になっただけだろう?」
「ちょ、ちょっと! そんな、あっさり言うものではないでしょう!」
ミンウェイは、思わずといった体で彼の枕元に駆け寄った。驚愕のあまり、涙はすっかり吹き飛んでいる。
「ミンウェイ、落ち着けよ。俺はもう、警察隊を免職になっている。ついでに、親兄弟もいない天涯孤独の身だ。表の世界で生きていくことに、なんの未練もない」
「でも……!」
食い下がろうとする彼女に、彼は満足そうに凶相を歪めた。
「ルイフォンの奴は、俺に自由をくれたのさ。『自由民』とは、本当によく言ったものだな。むしろ、今までよりよっぽど、俺らしく生きられるんじゃねぇか?」
「……」
腑に落ちないように唇を噛む彼女に、彼は言葉を重ねる。
「メイシア嬢だって、死人だろうが。けど、貴族をやっていたときより、ずっと生き生きとしているはずだ。身分なんて、くだらねぇものに囚われる必要はねぇんだよ」
「……あなたは……どうして……。なんで……、そんな……。もうっ……」
ミンウェイの唇が、わなわなと震える。彼女はシュアンに掴みかかりたい衝動を抑えるために、手元にあったタオルケットを握りしめた。相手は怪我人なのだから危害を加えてはいけないと、行き場のない思いを持て余した彼女に、不幸なタオルケットが捏くり回される。
「ミンウェイ?」
「本当に、鉄砲玉だわ。――そうよ! ハオリュウのために死のうだなんて、無茶苦茶までやらかすし!」
「ああ、ちゃんと伝わっていたか。〈猫〉は、本当に優秀だな」
しれっと言ってのけたシュアンを、ミンウェイが、ぎろりと睨む。それから、彼女は大げさな溜め息をつきながら、諦めたように告げた。
「ハオリュウが、あなたを秘書に欲しいと言っているわ」
「なっ!?」
寝耳に水だった。
「死んでいるなら、『脱獄した死刑囚』ではなくて、『死亡した犯罪者と、よく似た他人』だと突っぱねられるから、貴族の当主の隣にいても、なんら支障はない、ですって!」
「……随分な屁理屈だな」
だが、あの奇天烈な少年当主は、本当にそれで通してしまうことだろう。――嬉しいことに。
「なんかね、あなたが囚われてから、ハオリュウは、いろいろ考えたみたい。あなたと世直しをするんだって、張り切っているわ。いつの間にか、クーティエといい感じになっていて、彼女と公認の仲になるためにも、身分制度を廃止するんですって」
「……は?」
「一時は、あなたを助けるために〈天使〉になる、とか言い出して、大変だったみたいだけどね」
「はぁぁぁっ!? ――あの糞餓鬼! 何を考えていやがる!?」
「ハオリュウのために、嬲り殺しにされようとしていた緋扇さんだって、大差ないわよ!」
ぴしゃりと強気に言い放ち、ミンウェイが笑う。
唇を尖らせながら、艶やかに。
そして――。
「緋扇さん」
急に改まった口調になって、ミンウェイがぐっと胸を張り、草の香を揺らした。
まっすぐに向かってくる切れ長の瞳に、シュアンは三白眼を瞬かせる。
「私……、一族を追放されたんです」
「!?」
シュアンの目が三白眼を放棄して点になった。
「リュイセンにね、次期総帥の名において私を追放するから、あなたのもとに行くように、って――背中を押されたの……」
「どういう……意味だ……?」
濁声がかすれ、語尾が甲高く跳ね上がる。
ミンウェイは、『仮死の薬』のために、ルイフォンに乞われて作戦に加わっただけだ。それが何故、追放されなければならないのだ?
しかも、『リュイセン』に……?
シュアンの心臓が、早鐘を打ちはじめる。
「そ……、それは……そのまんまの意味よ!」
叩きつけるように言って、ミンウェイは、ぷいと横を向いた。艶めく黒髪の隙間から、赤く染まった耳たぶが、ちらりと覗く。
「ミンウェイ?」
「……ご、ごめんなさい。……ちゃんと、言わないと……伝わらないわよね」
長い睫毛の動きから、横顔の彼女が、あちらこちらに視線をさまよわせているのを感じた。
やがて彼女は、柔らかな草の香りを漂わせ、背けていた顔を再びシュアンへと戻す。不安げに眉尻を下げながらも、高い鼻梁はつんと上向かせ、意を決したように淡い唇を開いた。――美声を上ずらせながら、少しだけ早口に。
「現状を考えると、鷹刀は、今は大人しくしているのが賢明よ。でも、『仮死の薬』は、私にしか扱えないわ。だから、ルイフォンは総帥と次期総帥だけに、まず伺いを立てたの。鷹刀には迷惑を掛けないから、私が『こっそり屋敷を抜け出す』ことを許可してくれないか、って」
「ああ、そうだよな? 鷹刀が動いていることが摂政にバレなきゃ、それでいい。追放する必要なんてないはずだ……」
そう応じながらも、シュアンの鼓動は、ますます早まる。
『リュイセンが、自分の権限において、ミンウェイを追放した』
その意図に――リュイセンの決断に気づかないほど、シュアンは愚かではない。
血色の悪い顔から、更に色が抜けていき、悪人面に凄みが増す。呼吸が乱れ、まだ折れたままの肋骨が悲鳴を上げた。
「ルイフォンは、私の追放なんて、まったく考えていなかったわ。ただ、協力してほしい、ってだけだった。でも、リュイセンは、あなたが逮捕された時点で、私をあなたのもとに送り出すつもりでいたの」
「な……ん、だって――!」
「リュイセンは、あなたの逮捕にかこつけて、私に選択を迫ったのよ」
「選択……」
シュアンの呟きに、ミンウェイが頷く。
そして、彼女は告げる。
「このまま、鷹刀で一族を守っていくか」
「それとも、あなたと生きていくか」
鋭く息を呑んだ音が、まるで他人のもののように響いた。
凍りついたような三白眼で、シュアンは、ただただミンウェイを凝視する。
「私は、あなたと生きたい。――この道を選んでもいいですか……?」
彼女の言葉が、心臓を撃ち抜く。
衝撃で、ぼさぼさ頭が、ぐらりとかしいだ。
かくりと首が曲がり、顔を隠すように、うつむく。
その影で、三白眼から、すぅっと硝子の欠片が流れ落ちた。
「緋扇さん……?」
おずおずと近づいてきた彼女を、風穴の空いた心臓を埋めるかのように、無我夢中で抱きしめる。彼女を怖がらせてはならない――などという配慮は、頭の片隅にもなかった。
腕の中の彼女は柔らかく、温かかった。
干した草の香りが胸に広がり、満たされていく。
――忘れていた……飢えていた――人のぬくもりだ……。
記憶の彼方に沈むくらいの昔。
ある日、突然、天涯孤独となった。
愛する家族を失った子供は、やがて、正義のために警察隊員となった。
けれど、そこには理想の志などなく、腐った現実を見せつけられて、ぽきりと心が折れた。
傷だらけの孤独な狂犬は、他者との関わりを自らに禁じ、自らを封じた。
何者たりとも、自分の内側には入れるまい――と。
「ミンウェイ」
「え?」
「俺のほうこそ、あんたをこんな道に引きずり込んじまっていいのかよ? 俺のそばには『穏やかな日常』なんてねぇぞ?」
シュアンは問う。
軽い口調とは裏腹に、彼女の耳元に寄せた唇を、祈るように震わせながら。
すると、彼女は、くすりと笑った。
「チャオラウが言っていた通りだわ」
「は? あの無精髭のおっさんが何を?」
言ってから、今の自分も、結構な髭面であることを思い出す。しかも、彼女の頬に思い切り擦り寄せてしまった。……彼女は痛かったかもしれない。
そんなふうに微妙に後悔をしていると、彼女の返事に不意を衝かれた。
「チャオラウがね、あなたは、私を巻き込むのが怖くて、何もできない臆病者だ、ですって」
「なんだと!?」
瞬間的に、かっと頭に血が上る。
総帥の背後に控えているだけの、護衛という名の置物の分際で!
今まで特になんという発言もなく、ましてや俺との接点など、まるでなかっただろうが!
――そう思いつつ、チャオラウの弁を否定しきれないところが情けない。正直なところ、『あのおっさんを侮っていた』と認めざるを得なかった。
「俺は、あんたに幸せになってほしいんだよ。――けど、俺には、あんたを幸せにしてやる自信がねぇんだ……」
素直に告白すれば、ミンウェイは小さく首を振り、腕の中から、ぐっと彼を見上げた。
「私は、あなたに幸せにしてもらうために来たわけじゃないわ。自分の幸せを、自分で掴むために来たの!」
「ミンウェイ!?」
想像もしなかった答えに、シュアンは絶句する。
「穏やかな日常を過ごしたければ、自分で努力すればいいだけでしょう?」
彼女は、切れ長の瞳を煌めかせる。
「私とあなたと、私たちの周りが穏やかになるように、って。――そして、そのための行動って、たぶんハオリュウの世直しの手伝いをすること、なんだと思うわ」
「あ、ああ……」
「〈ベラドンナ〉だった私は、多くの罪を犯してきたの。ハオリュウを手伝うことで、その罪を償えるかどうかは分からないけれど……。でも、私が初めて殺した『四つ葉のクローバーをくれた男の子』は、身分制度を嫌っていたから……。……私の自己満足にすぎないけど、私の進む道は、これでいいと思うわ!」
大輪の華が咲き誇るように、ミンウェイが笑う。
頬にひと筋、朝露のような硝子の雫を落としながら。
「……強がるんじゃねぇよ」
シュアンの喉から、どすの利いた低い声が響いた。
「確かに俺は、あんたを幸せにする自信はない。けどな、あんたを幸せにしたい、って気持ちはあるんだ」
他者との交流を拒んできた彼が、他者との接触に脅えていた彼女を抱きしめる。
体温には人を癒やす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己で、どこからが他者であるかの境界線を不明瞭にする。
感情が混じり合い、溶け合い、分かち合っていく――。
「なぁ、ミンウェイ。知っているか?」
「え?」
知らなかったのは、彼と彼女のふたりだけ。周りは、とっくに気づいていた。
「俺は、ずっと、あんたのことが好きだったのさ」
運命を断ち切る女神。
あんたは、俺の枷鎖を断ち切ってくれたんだな……。
8.運命を拓く誓約-1
空調の送風音が奏でる静かな調べが、ルイフォンの頬を撫でていく。
鷹刀一族の屋敷にある仕事部屋は、極端に機械寄りの設定温度になっている。だが、今のルイフォンは草薙家の居候の身。それに、必要最低限の機材しか持ち込んでいないこともあり、客間は、人間にとって適切と言われている温度に抑えてあった。
窓の外では、夏の強い太陽が燦々と輝いており、暑がりのルイフォンとしては、地味に辛かったりする。
メイシアは昼食の片付けを手伝っているため、部屋にはいない。だから、ルイフォンはひとり、モニタ画面と向き合っていた。
愛用のOAグラスが青白いバックライトを反射させ、彼の視線の先を隠す。しかし、彼の心がここにはないことは明らかであった。いつもなら、熟練のピアニストが如く、キーボードの上で滑らかに踊っている両手が、先ほどから止まったままだからだ。
とはいえ、複雑な問題を解決しようとしているわけではなかった。今は、ただぼうっと、鷹刀一族の屋敷にいる兄貴分、リュイセンのことを考えていた。
「……っ」
ルイフォンは、癖の強い前髪を掻き上げる。
今回の作戦は、最善ではなかったとしても、最良だったはずだ。彼はただ、ミンウェイの技術を借りたかっただけだ。ミンウェイを追放したのは、リュイセンの意志だ。
『ミンウェイの心は、とっくに緋扇を選んでいたんだ。けど、ミンウェイはあの性格だから、一族を切り捨てて緋扇のところに行くなんて考えられない。……だから、ルイフォン。お前の策は、ミンウェイの背中を押す、いい口実になった。――ありがとう』
電話口のリュイセンは、とても穏やかに笑っていた。
長い星霜を積み重ねてきた感情を、彼女のために一度はすべてを捨てたほどの愛情を、そんな言葉で昇華した兄貴分が切ない。どうしようもないことだと理解していても、作戦を立てたルイフォンとしては後味が悪かった。
「……仕方ねぇよな」
がしがしと乱暴に髪を掻きむしり、ルイフォンは、これ以上、この件について考えることを自分に禁じた。部外者の彼が、いつまでも引きずるのは失礼であると。
それに、草薙家に駆けつけてからのミンウェイは、今までとはどこか違っていた。とりわけ、シュアンを心配する憂い顔が――。『可愛らしい』という言葉はメイシアのための表現なので、そんなふうには言わないが……リュイセンの決断は正しかったのだと思う。
「…………」
気持ちを切り替え、山積みの問題と向き合おうと、ルイフォンはモニタへと向き直った。
作戦会議の最中に、ハオリュウに指摘された通り、『ライシェン』の父親であるヤンイェンは、ルイフォンたちの味方とは限らない。彼の情報を集めることは急務だ。それから、ずっと放置したままの〈スー〉のプログラムを……。
そんなことを考えながら、キーボードに指を走らせ始めたのだが、まったく集中できない。
指先が意味もなく机を叩いたかと思えば、凝り固まった首の骨を鳴らし、あるいは猫背を伸ばし……と、落ち着きなく体を動かしていると、廊下から人の近づいてくる気配を感じた。その足音の軽やかさに、ルイフォンは、さっとOAグラスを外し、机の上に置く。
彼が回転椅子をくるりと翻して立ち上がったのと、部屋の扉が開かれたのは、ほぼ同時であった。
「ルイフォン!」
最愛のメイシアが室内に飛び込んでくる。
「緋扇さんが目を覚ましたって、ミンウェイさんが……!」
黒曜石の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。シュアンの体が仮死状態で運ばれてきたときには蒼白になっていた彼女だけに、安堵も大きいのだろう。
一方のルイフォンは、研究報告書の記述から、薬の安全性は充分に保証されていると確信していた。だからこそ、この策を提案したわけであり、また、薬の調合に関しては、ミンウェイに全幅の信頼をおいている。
「ルイフォン」
彼のそばへとやってきたメイシアが、すっと手を伸ばしながら爪先立ちになった。それから、抱きつくように倒れかかりながら、彼の前髪に触れる。
くしゃり。
彼の猫毛が、彼女の細い指の間をすり抜けた。
「作戦成功――なの」
鈴を振るような声が響き、メイシアの顔が緩やかにほころんでいく。
その瞬間、ルイフォンの肩から、すうっと重たい何かが消えていった。思わず膝が崩れそうになると、彼女の華奢な体が、それと感じさせないように支えてくれる。
「……ああ、成功だ」
ルイフォンはメイシアを強く抱きしめ、抜けるような青空の笑顔を浮かべた。
彼女は、気づいていたのだ。
本当は――心の底では、彼もまた、不安だったということに。
その証拠に、やるべき作業が山積みであるにも関わらず、何も手につかなかった。
万が一にも、この作戦が失敗したときには、ルイフォンは『ミンウェイに、愛する男をその手で殺させた』――ということになる。
そんなことはあり得ないと信じていたし、作戦を指揮する者として、平然としている必要があった。だから、いつも通りに振る舞っていた……つもりだった。
「ありがとう、メイシア」
そっと囁き、彼女の耳に口づける。
彼女は反射的に肩を上げ、ほのかに頬を染めた。その表情が可愛らしい。
「シュアンのところに行こうぜ!」
ルイフォンの声に、ふたりは、どちらからともなく指先を絡め合わせた。
シュアンの部屋の扉をノックしようとしたら、中からハオリュウの声が聞こえてきた。詳しい内容は分からないが、どうやら謝罪をしているらしいことは伝わってくる。
「……シュアン、本当に……でした」
「いや、別に、あんたが……」
「でも……」
「……って、そういえば、あんた、〈天使〉になるって……」
「当然……、僕の責任……」
「……けんなっ! そんなことして、俺が……」
「あなたこそ、僕のために嬲り殺しの……でしょう!?」
初めは、しんみりとした様子であった室内が、にわかに剣呑な雰囲気を帯びていく。
喧嘩腰のやり取りは、断片的にしか聞こえなくとも、ハオリュウとシュアンが、互いに互いを思い合い、互いに己を犠牲にしようとしたことに対して、互いに非難――という名の絆を交わし合っていることは明らかであった。
ルイフォンとメイシアは顔を見合わせた。
「……出直すか」
「うん……」
苦笑交じりの彼に、彼女も頷く。
「ハオリュウとシュアンってさ。いつの間に、あんなに仲良くなったんだろうな?」
踵を返しつつ、室内に声が届かないよう、ルイフォンはメイシアの肩を抱き寄せて、耳元で囁く。
あのふたりは、どう考えても相容れない間柄だったはずだ。人の運命というものは、本当に不思議なものである。
「あのね、ルイフォン。ハオリュウが素のままで、誰かにぶつかっていくなんて、今までになかったことなの。……だから私、凄く嬉しい」
柔らかに口元をほころばせたメイシアに、ルイフォンは「あぁ……」と呟く。
「――そうか。……そうだよな」
いつだったか、ハオリュウは『シュアンは、僕の友人です』と誇らしげに語っていた。
異母姉が、友達とは『わきまえて』付き合うように、と言われていたそうだから、貴族の嫡男として生まれ、現在は当主であるハオリュウも、同じように教育されてきたことだろう。
ならば、シュアンは、ハオリュウの初めての友人だ。相手が倍以上も年上で、一癖も二癖もある異端者というのは、あまり一般的ではないが、実にハオリュウらしい。
――シュアンを無事に救出できて、本当によかった……。
ルイフォンは、改めて安堵の息を吐き、メイシアの髪に顔をうずめるように、ことんと頭を預ける。
そのときだった。
背後から勢いよく扉の開く音がして、黄色い声が飛んできた。
「ちょ、ちょっと! ルイフォン、メイシア! どうして帰っちゃうのよ!」
草薙家の一人娘、クーティエである。シュアンが目覚めたという知らせを聞いて、ハオリュウと共に駆けつけていたのだろう。気配に敏感な彼女は、扉の外のルイフォンたちに気づいていたのだ。
クーティエは、両耳の上で高く結い上げた髪をなびかせ、ふたりを引き止めようと、廊下へと身を躍らせる。そして、はっと息を呑んだ。
「――って、なんで、いっつもベタベタしてんのよ! 目のやり場に困るじゃない!」
その突っ込みに、メイシアが、さぁっと顔を赤らめる。しかし、そんなことで動じるルイフォンではない。彼は、黒絹の髪をくしゃりと撫でると、クーティエに見せつけるようにメイシアの腰にするりと手を回し、彼女を抱き寄せながら振り返る。
「部屋は、取り込み中だろ?」
シュアンの声は聞こえたし、またあとで来るよ――と、続けようとしたとき、室内からハオリュウの声が響いた。
「だからこそ、姉様とルイフォンにも立ち会っていただきたいんですよ」
クーティエに先導されて部屋に入れば、ベッドでシュアンが半身を起こしており、その両脇にハオリュウとミンウェイの姿があった。
「よぉ、ルイフォン。あんたには、すっかり世話になっちまったみたいだな」
シュアンが、彼の代名詞ともいえる三白眼を細め、にやりと口の端を上げる。
彼としては、爽やかに笑いかけたつもりらしい。しかし、悪人面の凶相は相変わらずで、更に現在は、伸び放題の無精髭が、胡散臭さを演出するのに一役買っている。如何にもシュアンらしい姿に、ルイフォンは彼の無事を実感して破顔した。
「体は大丈夫なのか?」
「ああ。もとからの怪我は痛ぇが、例の薬の影響はまったくない」
確かに顔色もよく、とても元気そうだ。むしろ、ずっと付き添っていたミンウェイの目の隈のほうが気になる。とはいえ、シュアンが目覚めたからには、彼女もこれで、ゆっくりと休むことができるだろう。
「シュアン……。……その、いろいろ勝手をやっちまって、すまない」
本人の同意を得ずに、生命に関わる薬を盛った。そして、彼の表向きの人生に終止符を打った。ルイフォンのしたことは、傍若無人もここに極まれり、という無法だ。勿論、良かれと思った策ではあるが、作戦を立案した身としては、やはり罪悪感は拭いきれない。
「何を言ってんだ? あんたは本当によくやってくれたさ。放っておけば、ハオリュウが〈天使〉になるところだったと聞いたぜ?」
シュアンがそう言った瞬間、ハオリュウの瞳が、恐ろしげにぎろりと光る。……だが、育ちのよい彼は、会話の途中で割り込むことなく沈黙を保った。
「ルイフォン、あんたには本当に感謝している。ありがとな」
「そう言ってもらえると、俺も気が軽くなる」
自信過剰なはずのルイフォンの控えめな態度に、シュアンは声を立てて笑った。
「そんな湿気た面じゃなくて、胸を張れよ。あんたは、俺の命の恩人……」
そこまで言いかけて、シュアンはわずかに首をひねり、それから、にやりと続ける。
「……そうだな。俺は『死んじまって』いるから、あんたは『俺の人生』の恩人――って、ことさ」
軽薄そうな濁声が、奇妙に重く響いた。
「シュアン……?」
「俺は、この性格だからな。今まで何度も、死に直面したことがある。狂犬と呼ばれて荒れていたころは、別に命を惜しいとも思わなかった――そのつもりだった。……けどよ」
不意に、シュアンの目が懐かしげに細められる。
それは、おそらく無意識の仕草で、しかし、彼が意図的に笑いかけたときよりも、ずっと自然な微笑みだった。
「イーレオさんと初めて個人的に言葉を交わしたとき、あの人に、ちょいと転がされて、脅しを掛けられてな。俺自身も気づいてなかった本心を吐かされた。『俺はまだ、何も成しちゃいねぇ! このままじゃ、俺という人間が存在した意味がねぇんだよ!』――ってよ」
軽い口調で、格好の悪い過去を告白しながらも、シュアンは照れることも恥じることもなく、まっすぐにルイフォンを見つめる。
「俺は、両親と妹を目の前で殺されている。俺の家族は、凶賊の抗争に巻き込まれて、無為に死んだ。……だから、ひとりだけ生き残った俺は『何かを成さなければ』――と、ずっと渇望していたのさ。なのに、現実には何ひとつ成せずに、ただ焦燥に駆られ、腐っていた。そんな愚かさを暴かれた直後に、ハオリュウと縁を持った」
ぐいと顎を突き出すような、ふてぶてしい仕草で、シュアンは傍らのハオリュウに顔を向ける。――その瞳に、自然な笑みをたたえたままで。
「俺は、俺の正義のために、俺の人生を賭けて、ハオリュウを俺好みの権力者に育てると決めた。だから、今回、ハオリュウのために死んでも構わないと思った。俺の死は、無駄にはならないと。ちゃんと意味を成すと、信じられたからな」
「シュアン!」
険しい声が割り込んだ。
成長によって、低さと深さを得ながらも、繊細な響きを残したハオリュウの声だ。
「怒るなよ、ハオリュウ。――言ったろ? あんたの手は、俺の手だ。俺が死んでも、『俺の手』は残る」
「あなたは、何をっ!」
「おいおい、俺の話の腰を折るんじゃねぇよ」
「――っ」
揶揄するような調子でも、それは正論だ。礼節をわきまえるハオリュウとしては、唇を噛んで押し黙るしかない。
「だいたいな、この話は『――けど。実際、こうして助け出されてみれば、俺の人生は、まだまだ、てんで何も成してねぇや、と痛感した』と、続くんだからよ」
そう言いながら、シュアンは、おもむろにグリップだこで変形した右手をベッドから出し、ハオリュウの肩に載せる。
「ミンウェイから聞いたぜ? あんた、本気で世直しをするってな?」
「!」
「……そうだよな。俺たちの手は、まだ何も成しちゃいねぇ……――これからだ。なのに、途中どころか、そもそも何も始まってもいねぇうちから、俺の手がなくなっちまったら、あんたは手が足りなくて困るよな? 俺の手は、あんたの手なんだからよ」
虚を衝かれたようなハオリュウの息遣いと、シュアンの微笑。そして、三白眼が再びルイフォンを捕らえる。
「だから、俺の人生に未来を拓いてくれたルイフォンには、感謝しているというわけだ。――ルイフォン、本当にありがとうな」
ハオリュウの肩から手を下ろし、シュアンは深々と頭を下げた。
その際、正面にいたルイフォンにだけに分かるよう、眼球をぎょろりと寄せて、ミンウェイを示す。
――ミンウェイのことも、感謝している。
ルイフォンに。
そして、ここにはいない、リュイセンに。
無言の声が聞こえた気がした。
「俺の人生は、これからさ」
耳障りな濁声が、心地よく響く。
気づけば、血走った三白眼は、シュアンとは思えぬほどに穏やかに笑っていて、現状は、最良でも、最善でもなく、最高なのだと告げていた。
「……っ」
胸が熱い。
ルイフォンが、ぐっと拳を握りしめたとき、隣でメイシアが目頭を押さえた。
彼は、彼女を抱き寄せ、黒絹の髪をくしゃりと撫でる。わずかに頬をかすめた指先が、彼女の涙の熱を伝えてきた。
8.運命を拓く誓約-2
『俺の人生は、これからさ』
獄中で仮初めの『死』を迎え、文字通り生まれ変わったシュアンが、穏やかに笑う。
看守の殴打で片目の腫れ上がった三白眼に、ぼさぼさ頭。約一週間の投獄によって、立派な無精髭まで蓄えた彼は、とても『良い顔』をしていた。
「シュアン……」
声を詰まらせたような呼びかけが、ハオリュウの口から漏れた。
思わず揺らいだ語尾に、彼は焦り、横隔膜に力を入れる。そして、ひと呼吸ののちに、柔らかに破顔した。
「僕のほうから、『あなたの手が欲しい』と、お願いしようと思っていたのに、先を越されてしまいました」
面目なさそうに肩をすくめ、わざとらしい溜め息をつく。それから、ルイフォンに――感極まって涙ぐむメイシアの華奢な肩を、しっかりと包み込んでいた彼に、目線を移した。
「ルイフォン、本当にありがとうございました。あなたのお陰で、こうして無事にシュアンを取り戻すことができました」
「ああ、いや……」
共に救出作戦を実行した側であるはずのハオリュウに頭を下げられ、ルイフォンは困惑する。加えて、大切な異母姉を抱き寄せる手に対し、何も言わなくなった寛容さに狼狽した。
けれど、それで終わりではなかった。かしこまった調子のまま、ハオリュウは更に言葉を重ねた。
「――皆。聞いてほしい」
その瞬間、ハオリュウの声色が変わった。
ただならぬ雰囲気に、誰もが息を呑む。
目の前にいる彼は、先ほどから変わらぬ十二歳の少年であるはずなのに、不可侵の威厳をまとう帝王だった。
「僕は、ここに誓約する」
ハオリュウは、ゆっくりと視線を巡らせる。
まるで、その場の皆に、証人になってほしいと求めるかのように。
「僕は、この国から身分というものをなくす。――僕の生涯をかけて」
異母姉と同じ黒絹の髪が揺れ、しなやかな風を巻き起こす。
優しげな面差しが闇をはらみ、静かな声が響く。
「そのために、シュアンの手を貰う。僕には、彼が必要だ。――彼の運命は、僕が預かる。……その代わりに、僕は、彼に幸せを贈ることを誓う」
彼は、誓約を織り紡ぐ。
滑らかな絹布のように、どこか冷たい輝きを放ちながら、凛然と。
「ハオリュウ!?」
大真面目に宣誓したハオリュウに対し、シュアンが素っ頓狂な声を上げた。
「そ、そういう台詞は、クーティエに向かって言え!」
「あなたこそ、『きちんと』、ミンウェイさんに告げたのですか?」
ハオリュウの問いかけは、声色の上では、あくまでも無邪気な質問の体を取っていた。しかし、すっと口角を上げ、冷ややかな眼差しを落とす顔貌は、純真な少年という枠組みからは、どう考えてもはみ出ている。
シュアンは三白眼を明後日の方角へと向けた。その横顔を、心なしか目を輝かせたミンウェイが見つめ、シュアンの眼球は、更に挙動不審となる。
ハオリュウは、勝ち誇ったように口元をほころばせた。……けれど、泥沼にしかならない話題は、そのくらいで打ち切る。彼にとって重要なのは、未来のことなのだから。
「皆に、僕の考えている、今後の方針を聞いてほしい。――まずは、シュアンとミンウェイさんについてです」
具体的に切り出された話に、場の空気が改まる。とりわけ、名指しされたシュアンとミンウェイは、先ほどのやり取りから一転して表情を引き締め、身を乗り出した。
「現在のおふたりには、生活の糧がありません。なので、僕が『雇う』という形をとって構わないでしょうか? その場合、おふたりが僕の大切な友人であることに変わりはありませんが、どうしても表向きは『使用人』の扱いとなります」
「勿論、構わねぇぜ。むしろ願ったり叶ったりだ。何しろ、食い扶持がなきゃ生きていけねぇからよ」
シュアンの即答にミンウェイも「お願いします」と続く。
「では、シュアンには僕の秘書に、ミンウェイさんには僕の侍医になってもらいます。――ああ、鷹刀一族で総帥の補佐をしていたミンウェイさんなら、秘書の補佐もお願いできますね」
「おい、ハオリュウ。その話は、ミンウェイから、ちらっと聞いていたけどよ。俺が貴族の秘書ってのは無理がねぇか? そういうのは、もっと家柄やら外見やらがいい奴がやるもんだ。だいたい、今の秘書は解雇にするのかよ?」
シュアンの発言は、もっともだった。
確かに、ハオリュウが求めているシュアンの役回りは『秘書』なのだろう。だが、秘書の肩書きをシュアンが背負うというのは、また別の問題だ。
しかし――。
「あなたは、僕の誓約の何を聞いていたんですか?」
ぞくり、と。侮蔑すら含んだ、背筋の凍る声が響いた。
「これから僕が進んでいく道を考えたとき、あなた以外のいったい誰に、僕の秘書が務まるというのですか?」
「ハオリュウ……」
「あなたの外見なら、必要に応じて、ユイランさんに整えてもらいます。それに、現在、僕に秘書はおりません。その分の至らないところは、他ならぬあなたが、今まで僕を助けてくれていたではありませんか。友人とはいえ、対価として賃金を支払うべきだと、ずっと考えていたところですよ」
「えぇっ!?」
誰よりも早く、高い声で動揺を示したのは、直接、やり取りをしていたシュアンではなく、異母姉だった。彼女は黒曜石の瞳を見開き、藤咲家のすべてを押し付けてしまった異母弟に詰め寄る。
「『秘書がいない』って……。テンカオ伯父様は、どうされたの!? 前当主から引き続き、あなたの秘書を務めてくださっているはずじゃ……」
藤咲家の秘書については、ルイフォンも、うろ覚えながら記憶していた。
確か、メイシアの継母の兄で、ハオリュウの実の伯父だ。前妻の娘であるメイシアを疎ましく思っており、だから、貴族の彼女を凶賊の屋敷に向かわせるという、『デヴァイン・シンフォニア計画』の最初の一手に協力した人物だ。
驚愕に染まるメイシアに対し、ハオリュウは平然と答える。
「確かに姉様の言う通り、一応は、前当主の秘書だった彼が、今も秘書の任にあるよ。けど、彼は父様の死に責任を感じて精神的に参っている上に、僕の怒りを買い、信用を失ったことも充分に理解しているからね、暇が欲しいと引き籠もったままだ。後任が決まったと言えば、喜んで引き継ぎをするだろう」
「え……」
メイシアが絶句した。しかし、ハオリュウは淡々とした調子で続ける。
「彼は、僕の母方の伯父だ。すなわち、僕の後ろ盾となるべき立場なわけだけど、平民ではそうもいかない。だから、せめて自分にできることを――と、僕が幼いころから、領地を治めるための英才教育を施してくれたんだ。能力があれば、親族を黙らせることができるだろう、とね」
「……」
「お陰で、僕は、彼の持つ知識も技能も、既にすべて受け継いでいる。だから、別に彼がいなくても、大丈夫だと思っていたんだ。……だけど、なんでも自分でこなすのは、さすがに面倒臭くてね。いい加減、秘書が欲しくなってきたところなんだ」
「緋扇さん!」
悲鳴のようなメイシアの声が、シュアンへと向かった。
「緋扇さん、お願いします。どうか、異母弟の力になってやってください」
「メイシア嬢……」
床に手を付きかねない勢いのメイシアに、シュアンは、しばし声を失う。しかし、次第に凶相が歪んでいき、彼なりの最高の笑顔を浮かべた。
「分かった。ありがたく引き受ける。……こちらこそ、誠心誠意、お仕えさせていただきます。我が主人の覇道、姉君様も、温かく見守っていてくださいませ」
おどけたふうでありながらも、立て板に水を流すような口上は意外にも様になっていて、そういえば、シュアンの経歴が実は華々しいものであったことをルイフォンは思い出す。
現在の彼からは、にわかには信じられないが、警察隊学校の首席であり、近衛隊への入隊を嘱望されていたらしいのだ。そのため、在学中に王族付きにふさわしい礼儀作法を叩き込まれていたのだろう。
ともあれ、シュアンとミンウェイの前途洋々な待遇が決まり、一同は沸き立った。
これでひと安心だとルイフォンは胸を撫で下ろし、そろそろ退室しようかと隣のメイシアに目配せをする。仮死の薬からは無事に目覚めたとはいえ、シュアンはまだ、全治数ヶ月の怪我人のままだ。しばらくは安静が必要だろう。
そのときだった。
辞去を切り出そうとしたルイフォンを遮るように、「それでは――」と、音吐朗々としたハオリュウの声が響き渡った。
「ここからは、ご相談と申しますか……、僕の考えている策に、ご賛同願いたいのです」
闇色の瞳を煌めかせ、ハオリュウが一礼する。
生まれついての善人面が、薄皮一枚のものにすぎないことを示すかのように、見る間に邪気を帯びた。……なのに、わずかながら、皆の様子を窺うような緊張の色が混じっている。
「ハオリュウ?」
ルイフォンは、不審げ眉をひそめた。
「『策』って、なんだよ?」
シュアンは無事に救出したのだ。これ以上、なんの計略が必要だというのだろうか?
すっと細まった猫の目が、ハオリュウに説明を促す。
「ルイフォン。あなたは、お忘れかもしれませんが、僕は現在、カイウォル摂政殿下に『鷹刀一族から『ライシェン』の居場所を聞き出すように』と命じられている状態です。その件について、どのように殿下にご報告をするか、考える必要があるんですよ」
「あぁ……」
ルイフォンは気まずげな声を漏らした。
忘れていたわけではない。ただ、シュアンさえ救出すれば、どうとでもなると考えていたために、問題視していなかっただけだ。
「単に『知らないと言われた』と答えればいいんじゃねぇか? 摂政の機嫌は損ねるかもしれねぇけど、人質は取り戻しているわけだし……。どのみち、白を切るしかないだろ?」
「ええ。大筋では、そのようにご報告するつもりです。加えて言うのならば、『ライシェン』の居場所を突き止めることができなかったことを理由に、女王陛下の婚約者の件をきっぱりとお断り申し上げてきますよ」
上品な物言いでありながら、言葉の端に冷ややかな嗤笑が垣間見えた。温厚そうな見た目とは裏腹に、気性の荒い絹の貴公子は、攻勢に出るつもりなのだ。
ハオリュウは、ほんの一瞬、クーティエへと視線を送る。
彼女は鋭く息を呑み、徐々に緩み始めた口元を慌てて押さえた。真面目な話の途中なのだからと、ほころぶ頬を神妙な形に整えようと、懸命に努力する。……やはり、『女王の婚約者』の話は、乙女心にとって負担であったらしい。
「ハオリュウ、何をするつもりだ?」
ルイフォンは単刀直入に尋ねた。
わざわざ『皆の賛同を得たい』と持ちかけたからには、ハオリュウは一計を案じているのだ。それも、『〈天使〉になる』と言い出したときのように、反対される可能性のある、暴走めいた策を。
ルイフォンの警戒を察したのか、ハオリュウの表情がわずかに変わった。怯むわけではなく、それどころか、受けて立つとばかりに強い視線を返してくる。
そして、告げた。
「〈蝿〉の――〈七つの大罪〉の技術で、ミンウェイさんに、シュアンの怪我を治してほしいのです」
「……はぁっ?」
あまりの脈絡のなさに、ルイフォンは思わず、間抜けに叫んだ。とはいえ、彼以外の者の口からも、同様の声が漏れている。
「おい、ハオリュウ! 今、問題になっているのは、『摂政と、どう決着をつけるか』だろ? それが、どうして、シュアンの怪我を治すことに繋がるんだよ!?」
皆を代表するように、ルイフォンが唾を飛ばす。
その反応は、当然、予期していたものなのだろう。ハオリュウは落ち着いた様子で、明瞭な声を響かせた。
「目的は、ふたつあります。――ひとつは純粋に、一刻も早くシュアンの体をもとに戻し、彼から苦痛と不便を取り除いて差し上げたいためです」
「あぁ……」
ルイフォンは思い出す。
ハオリュウは、シュアン救出作戦の会議中にも、『シュアンに〈蝿〉の医術を施したい』と言っていたのだ。〈七つの大罪〉の技術は『禁忌』だと言うルイフォンに対し、ただの『手段』だと。使う人間によって、良いものとも悪いものとも呼ばれるだけだ、と主張したときに。
そして、ルイフォンたちが、シュアン救出のために使った最終的な手段は、〈蝿〉の発明した『仮死の薬』を利用したものであった。
『苦しんでいる人がいるから、助けたい。そのために技術を求める』
『僕の気持ちは、間違っていないと思います』
ハオリュウの言葉がなければ、ルイフォンは『仮死の薬』を使おうなどとは思わなかっただろう。
押し黙ったルイフォンの耳に、力強いハオリュウの声が届く。
「それから、もうひとつ。これを言えば、僕の策に納得いただけると思います。――大怪我を負って死んだはずのシュアンを伴い、カイウォル摂政殿下に、今回のご報告に伺いたいのです」
「なっ!?」
ルイフォンは、反射的に眉を吊り上げた。
「どうせ、シュアンが生きていることなんて、殿下はすぐにお気づきになるでしょう。そして、そのとき、今度は何を仕掛けてくるか……それは分かりませんが、何もないということはないでしょう」
「まぁ、そうかもしれない……」
歯切れ悪く答えたルイフォンに、ハオリュウは畳み掛ける。
「ですが、全治数ヶ月だったシュアンが、不可思議な技術によって完治しているのを目の当たりにすれば、〈七つの大罪〉の技術を恐れる殿下は、おいそれと、僕やシュアンにちょっかいを出せなくなります」
絹の貴公子の顔で、ハオリュウは高らかに告げる。
「殿下は、僕の逆鱗に触れました。このまま、許すつもりなどありません。――とはいえ、現在の僕は非力で、できることは限られている。その中で、最大限に殿下を牽制できる方法が、今、述べた方法なのです。勿論――」
ハオリュウは、視線をベッドのシュアンと、その隣のミンウェイへと移す。
「僕の独断では実行できません。まず、シュアン本人の承諾が必要です。それから、技術を扱うミンウェイさんに。そして――」
静かな瞳が、ルイフォンへと向けられた。
「〈蝿〉の記憶媒体の所有者であるルイフォンの許可がなければ、この方法を採れません。――どうか、ご賛同願いたい」
「ハオリュウ……」
複数の音色で、彼の名が呟かれた。しかし、その先は絶句となり、深々と下げられた黒絹の髪に、沈黙が落ちる。
その策は、悪くはない。
けれど、諸手を上げて賛成するには、ためらいがある。
ルイフォンの迷いは、誰もが抱いたに違いない。だから、凪いだ湖面のように室内が静まり返ったのだ。
やがて――。
「俺は構わねぇぜ。――ただし、今回限り、という条件でな」
静謐な空間は、妙に甲高い濁声によって破られた。
「『どんな大怪我も、瞬く間に治しちまう医術』なんていう、便利なものに慣れちまったら、俺はたぶん、本当に鉄砲玉になっちまって二度と帰ってこなくなる。――俺は、あんたの手だ。なくなったら困るだろう? だから、今回だけだ」
「シュアン!?」
ハオリュウの声が跳ねた。
「あのスカした摂政野郎に一泡吹かせるってのは、なかなか愉快じゃねぇか。『だから』、俺は、あんたの牽制の片棒を担いでやる」
「あ……、ありがとうございます!」
皮肉げな三白眼をにたりと歪めたシュアンに、ハオリュウは叫ぶように感謝を述べた。
……シュアンは、〈七つの大罪〉の技術に対し、綺麗な線を引いた。
無条件に受け入れるのではなく、是非を論じるのでもなく、ハオリュウのためと思うことを、ハオリュウの負担にならない言葉で答えた。
――シュアンの奴……!
ふと隣を見れば、胸元で両手を組んだメイシアが、シュアンに感謝を捧げるように腰を折っていた。その姿を目に留め、ルイフォンの口も自然に動く。
「シュアンがそう言うのなら、俺は〈蝿〉の記憶媒体の所有権をミンウェイに譲る」
ルイフォンのテノールに、ミンウェイが鋭く「えっ!?」と、切れ長の目を見開いた。
「そもそも〈蝿〉は、あの記憶媒体の中の研究論文は、本当はミンウェイに渡したかったんだ。そうでなきゃ、俺には理解不能と分かっている情報なんか、寄越す理由がないだろ」
「そんな……」
戸惑いの声を上げるミンウェイに、ルイフォンは、すっと口角を上げた。
「〈蝿〉は、『娘のミンウェイ』に、自分の生き様を見せたかったんだと――俺は思う」
情報は、正しく使ってこそ意味があるのだ。勿論、摂政に関する記述など、ルイフォンにとって有益な情報は既にコピーを取ってあるので問題ない。
「ルイフォン……」
ミンウェイはわずかに息を乱し、けれど、きゅっと口元を引き締めた。それから、大輪の華が咲き誇るように微笑む。
「ハオリュウ。あなたの作戦、やりましょう」
「皆……。ありがとうございます」
泰然と構えているようでありながらも、どこか緊張を含んでいたハオリュウの顔が、緩やかにほころんだ。
安堵を示すかのように胸に手を当て、彼はぐっと掌を握りしめる。すっかり手に馴染んだ当主の指輪が、拳の中から清冽に煌めいた。
「では……、『カイウォル摂政殿下へのご報告に、僕がシュアンを伴う、正当な理由を作るため』に――」
ハオリュウが切り出した瞬間、ルイフォンの背に、ぞくりと悪寒が走った。また、とんでもないことを言い出すに違いないと身構える。
それは、勘から湧き出た予感ではなく、経験に基づく確率論が導いた予測だ。
故に、その予測が外れることはなかった。
「僕は、これから、レイウェンさんに決闘を申し込みにいきます」
絹の貴公子は、清々しく腹黒い笑顔を浮かべた。
8.運命を拓く誓約-3
「なんで、ハオリュウがレイウェンに決闘を申し込みに行くんだよ!?」
わけの分からない展開に、ルイフォンの雄叫びが響き渡った。
「たった今、申し上げましたでしょう? 『カイウォル摂政殿下へのご報告に、僕がシュアンを伴う、正当な理由を作るため』です」
「だから、どうしてそうなる!?」
まるで要領を得ない。
ルイフォンは猫の目を吊り上げて噛みつくが、ハオリュウには、まともに答える意思がないらしい。一方的に言い放つ。
「ともかく、レイウェンさんに決闘を受けてもらえなければ話が進みませんので、今から申し込んでまいります」
足の悪いハオリュウが、肘掛けに捕まりながら椅子から立ち上がる。そのときになって初めて、クーティエが声を上げた。
「ちょ、ちょっと、ハオリュウ! ど、どういうことよ……!」
彼女は、ハオリュウの発言に動転しているうちに、ルイフォンの剣幕に負けて出遅れてしまったのだ。どうにか口を動かせるようになったものの、語調は乱れていた。
「――どうして……、ハオリュウが父上に決闘を申し込むの!?」
彼女の質問は、ルイフォンとまったく同じである。だが、ハオリュウの返答は異なった。彼は、まっすぐにクーティエを見つめ、凛然と告げる。
「今なら、レイウェンさんは、僕の決闘を受けてくれると思う」
「え……?」
狼狽するクーティエに軽く微笑み、ハオリュウは扉へと向かう。杖を持たずに歩けるようになったとはいえ、その足取りは危うげで、機敏とは、ほど遠い。とても、決闘などできる体ではないだろう。
ましてや、相手は、巨漢の武人タオロンをして、『鬼神』と言わしめるレイウェンなのだ。勝負になるはずもない。
皆の注目を浴びながら、ハオリュウは、そのまま歩を進めた。そして、より廊下に近いところに立っていたルイフォンと、目と目が合う。
「ハオリュウ。賛同願う、などと言っておきながら、詳細は秘密なのか?」
低い声で、ルイフォンは問う。
ハオリュウは眉を寄せ、分が悪そうに顔をしかめた。
けれど、そのまま歩みを止めず、無言を貫く。ルイフォンは内心で舌打ちをした。恋愛絡みの事情ならば、それも仕方なかろうと思いつつ。
すれ違いざま、肩と肩が触れそうになる。また背が伸びた――急に成長しやがって、越される日も遠くはあるまい、畜生……と、ルイフォンが鼻に皺を寄せたとき、不意に耳元で囁かれた。
「僕は以前、レイウェンさんに『決闘を申し込む資格すらない』、『顔を洗って、出直してこい』と言われているんです」
「……は?」
「まるで相手にされていなかったんですよ。……でも、今なら違うのではないかと、期待しているんです」
「……?」
「これから僕は、レイウェンさんに、決闘を受けるに値する人間だと、認めてもらいにいくんです。……これでも緊張しているんですから、黙って見送ってください」
「……分かった」
決闘を申し込む理由は、まったく分からないままなのであるが、要するに、勝敗の問題ではなく、相手にしてもらえるか否かが重要であるらしい――と、理解した。
ルイフォンの表情が和らいだからか、ハオリュウも、ほんの少し口元を緩めた。
「本来なら、僕の相手は、ルイフォン――あなたです。けど、結果さえ同じならば、摂政殿下へのご説明に支障はありませんから、またとない機会として、レイウェンさんにお願いするんですよ」
「は?」
「レイウェンさんが、僕の決闘を受けてくださらなかった場合には、素直に、あなたにお願いしますので、そのときは頼みます」
「はぁぁぁっ!?」
ルイフォンは、再び疑問の渦に呑み込まれた。しかし、ハオリュウは、今度こそルイフォンを無視して部屋を出ていく。
ぱたん。
誰もが判然としないながらも、引き止めるのは無粋――と沈黙を守る中、扉が閉じられた。それを見届けると、突如、ミンウェイが嬉しそうに声を弾ませる。
「ねぇ! 草薙家で『決闘』って言ったら、あれでしょう!? 昔、レイウェンが、チャオラウに『お嬢さんをください』って、申し込んだやつ!」
「ミンウェイ。お前、他人の色恋沙汰、好きだよな……」
自分自身の追放に関しては、触れてほしくなさそうな顔をするくせに――と、半ば呆れたようにルイフォンが言う。
「だって、レイウェンとハオリュウって、時々、妙に薄ら寒い空気が流れるし、どう考えても、互いに意識しあっているでしょう? 普段、あれだけ人当たりのいいレイウェンが、一回り以上も年下のハオリュウにピリピリしているなんて……初めて見たとき、目を疑ったわよ! やっぱり、レイウェンは――」
「ちょっと! ミンウェイねぇ! お願い、もう、そのくらいにして!」
真っ赤に顔を染めたクーティエが、たまらずに叫ぶ。それと重なるように、すっかり困惑した様子のメイシアが呟いた。
「ハオリュウ……、あの子、決闘なんて、どうするつもりなのかしら……」
いつものルイフォンであれば、メイシアの不安には前向きな言葉を返すところであるが、さすがに今回のハオリュウに関しては何も言えず……。無言で彼女の髪をくしゃりとしていると、シュアンの濁声が響いた。
「メイシア嬢。あいつは、いつまでも小さな異母弟じゃねぇんだぜ? やたらと矜持が高くて、奇天烈な思考の破天荒野郎だ。心臓に毛まで生えていやがるから、安心して温かく見守ってやれよ」
にたりと細められた三白眼は、信頼の証か、野次馬根性か。判断に迷う悪人面であった。
その日の晩。
「おい、レイウェン! ハオリュウの奴は、いったい何を企んでやがるんだよ!?」
ルイフォンは、レイウェンの書斎を訪れていた。
ハオリュウは、あれから小一時間ばかりのちに、『レイウェンさんが、僕の決闘を受けてくださいました』と、ルイフォンのいる客間まで知らせに来た。だいぶ疲れた様子であったが、満面の笑顔であった。
しかし、この期に及んでなお、ハオリュウは『決闘』と『摂政への報告』との関連について、口を閉ざしたのだ。そのくせ、『決闘が終わったら、すぐにシュアンを連れて摂政殿下に報告に行きたいから、まずはシュアンの治療を急いでほしい』と、ミンウェイに頼み込んだらしい。
「ハオリュウは、はぐらかしてばかりで埒が明かねぇ! メイシアが凄く心配しているのによ!」
「だから、私に事情を聞きに来た、と?」
テーブルに身を乗り出したルイフォンの怒気に、琥珀のグラスの液面が激しく揺れていた。けれど、レイウェンは気にせず、甘やかに笑う。あまつさえ、グラスを手に取り、優雅に口をつけた。
そもそも何故、ルイフォンの顔を見るや否や、上機嫌で酒を出してきたのかが分からない。更にいえば、その際の台詞が『君の義弟への祝杯だよ』――なのだ。
「レイウェンは知っているんだろ!? そうでなきゃ、勝負にならないと分かりきっている決闘なんて、受けないだろ!?」
「そうだね。確かに、彼が事情を説明しなければ、私は断っただろうね」
「なら、教えてくれよ!」
喰らいつくようなルイフォンに、レイウェンは苦笑を漏らす。
「それは無理な相談だよ。だって、この決闘は、ハオリュウさんの『私への誓約』だからね。おいそれと口にできない」
「……っ」
ルイフォンは舌打ちをしかけ、さすがにそれは失礼だと、慌てて唇を噛む。そんな彼に、レイウェンは、穏やかに目を細めた。
「前に、『君の義弟は、遠くない将来、私に決闘を申し込みに来るよ』と、言っただろう?」
「あぁ、そういえば……」
確かに、そんなことがあった。
あれは、シュアン逮捕の報に衝撃を受けているハオリュウを、クーティエが迎えに行ったときのことだ。以前とは違う顔つきで現れたハオリュウを見て、レイウェンは、そっとルイフォンに耳打ちしたのだ。
「あと数年は先だと思っていたのにな。まさか、こんなに早く来るとはね。……機会さえあればと、虎視眈々と狙っていたんだろうなぁ。さすが、ハオリュウさんだ。抜け目がない」
右手のグラスを揺らし、からからと澄んだ音に氷を溶かしながら、レイウェンは語る。
「てっきり、盤上遊戯か何か、頭を使うもので勝負を仕掛けてくるかと思っていたのにさ。私に敬意を払って、私が義父上に申し込んだのと同じように、武器を取っての決闘で挑んでくれたんだよ。嬉しいねぇ」
鷹刀一族の血統を具現化したような美貌に、とろけるような微笑が浮かぶ。
ルイフォンは、なんとも微妙な顔で自分のグラスをあおり……、レイウェンの話を聞き流した。
――俺は、自慢話を聞きに来たんじゃねぇ!
ルイフォンは、無言で空のグラスをテーブルに戻す。
ごちゃごちゃと御託を並べているが、結局のところ、これは自慢なのだ。
いくら薄ら寒い空気を流していても、レイウェンは既に、ハオリュウを身内だと思っている。重要な局面では、人一倍ハオリュウを気に掛けているのが、何よりの証拠だ。
おそらくハオリュウは、レイウェンにも『生涯をかけて、この国から身分をなくす』と宣言したのだ。だから、クーティエの相手として認めてほしいと。
それはきっと、レイウェンの想像を超えた誓約で――まだ、レイウェンとハオリュウの間に関係性を示す言葉はないけれど、肚を決めた『身内』が誇らしいと、レイウェンは自慢しているのだ。
……なるほど。『祝杯』だな。
ルイフォンの心に、すとんと何かが落ちた。
ハオリュウの企みを教えてもらうという、レイウェンの書斎を訪れた目的は果たせそうもないが、そう考えてみれば、この酒は悪い酒ではない。
改めて飲み直そうと、空になったグラスにボトルを傾けようとしたら、目尻を下げたレイウェンが注いでくれた。優しく溶ける氷を揺らし、ルイフォンは、自分のグラスとレイウェンのグラスを重ね合わせ、より濃い琥珀色の響きを奏でる。
「乾杯。俺の義弟に――レイウェンの未来の娘婿に」
だいぶ気が早いような気もするが、きっとそうなるだろう。
「ルイフォン」
「うん?」
「君が常に携帯している武器は、懐に隠し持てるサイズのナイフでいいのかな?」
「そうだけど? 武装するときは、その他に投擲用の刃に毒を塗って……」
「ああ、普段の装備だけでいいんだ」
せっかく説明してくれているのに申し訳ないとばかりに、レイウェンが軽く頭を下げる。
「?」
レイウェンの意図が読めず、ルイフォンは首をかしげた。
「ハオリュウさんとの決闘は、彼と私との勝負ではあるけれど、私の役割りは君の代役だからね。……そうなると、武器とは無縁のハオリュウさんは丸腰。私は小型ナイフで戦うことになるな」
「そんな!? 不公平だろ?」
ふたりとも素手、というのが妥当ではないのだろうか。それに『代役』とは?
そう言いかけ、ルイフォンは、はたと思いだす。そういえば、ハオリュウも、『本来の相手は、ルイフォン』と言っていた……。
「うーん、かなり派手に血を見ることになりそうだね。メイシアさんは、見ないほうがいいだろうなぁ」
「おい!? レイウェン!」
「可哀想だけど、それがハオリュウさんの希望だからね」
「やっぱり、ちゃんと説明しろよ!」
ルイフォンが血相を変えて叫ぶと、レイウェンは少しだけ考え込むような素振りをして、にこやかに答える。
「ハオリュウさんが『摂政殿下に、なんて命じられたか』を考えれば、自ずとハオリュウさんの意図が見えてくるはずだよ」
「どういうことだよっ!?」
困惑するルイフォンをよそに、レイウェンは琥珀のグラスを飲み干した。
そして、ミンウェイの施術によって、シュアンの怪我は完治し、ハオリュウとレイウェンの決闘の日となった。
8.運命を拓く誓約-4
草薙家の広い庭に、燦々と陽光が降り注ぐ。
緑の芝生が熱気を弾き、ふたつの影が陽炎のように揺らめく。
均整の取れた逞しい長身と、線の細い未熟な体躯。
レイウェンとハオリュウ――文字通り、大人と子供ほども違うふたりが、等しく夏空にその身を晒す。
ルイフォンたち観客は、木陰のベンチに下がるよう指示されていた。
草薙家の住人であるクーティエやシャンリーは勿論、シュアンとミンウェイ、ルイフォンとメイシアという、現在この家に厄介になっている面々が揃っている。
ただし、住み込みで働いているタオロンだけは、娘のファンルゥを連れて遊びに出かけてもらった。小さなファンルゥへの説明が難しいことが理由であるが、純粋に、たまには父娘で遠出をするのも悪くはなかろう、と。
隣に座るメイシアが、ルイフォンのシャツの端をそっと握ってきた。だから彼は、彼女の髪をくしゃりと撫でる。レイウェンには、メイシアは見ないほうがいいと言われたこの決闘であるが、彼女は黒曜石の瞳に、異母弟の勇姿をしかと映していた。
凛と背筋を伸ばした、綺麗な立ち姿だった。無論、かなり無理をしているはずだ。足の悪いハオリュウは、その姿勢を保つだけで精いっぱいだろう。
不意に、ルイフォンの頭上から、葉擦れのざわめきが落ちてきた。
涼しげな調べに包まれ、隣のベンチに座っていたクーティエの髪飾りのリボンが、ひらひらと舞い踊る。
自由な風は、彼女のもとから気ままに流れゆき、ハオリュウの黒絹の髪を巻き上げた。
「皆様。お立ち会いくださり、どうもありがとうございます」
絹の貴公子は、丁寧にお辞儀をした。
彼は、ゆっくりと皆の顔を見渡し、言を継ぐ。
「この決闘が終わったら、きちんと事情をご説明いたします。ですから、僕がどんな姿になっても、決して止めないでください」
もし、途中で邪魔をする気なら、今のうちに出ていってほしい――言外にそう告げていた。
彼は、くるりと踵を返し、レイウェンと向き合う。
「レイウェンさん、よろしくお願いいたします」
「あなたの『誓約』に掛けて、全力でお相手いたします」
ふたりが同時に一礼し、決闘が始まった。
地に倒れたハオリュウを前に、レイウェンは動きを止めた。
手にしたナイフを勢いよく振るい、鮮血を払い落とす。緑の芝が、赤に染まった。
「勝負ありましたね」
魅惑の低音には、普段の甘やかさの欠片もなかった。眉ひとつ動かさぬ美貌は、冷酷な魔性そのもの。
「まだ……です!」
対するハオリュウの顔は、瞼は青く腫れ上がり、頬には赤い線のような切り傷が走っていた。体を起こそうとするものの、何度も殴られた腹を押さえる右手は、半袖から覗く上腕が真っ赤に染まり、左は関節が外され、ぶらんとしている。もとから不自由な足は、思うように動かないようで、反対側の足首も、不自然に曲げられた角度から骨折が疑われた。
「立ち上がれなくては、お話になりません」
「それでも……です!」
額の汗は、気温によるものか、痛みからくるものか。瞳に流れ込んだそれは、やたらと染みた。不快感に目をつぶれば、まるで悔し涙のように滲み出る。
ハオリュウは最後の力を振り絞って地を転がり、血の滴る右腕で、傍らに立つレイウェンの足に組みついた。
「!?」
ほんの刹那、レイウェンは目を見開いた。
しかし、次の瞬間には、横たわるハオリュウの鼻先の地面に、ナイフが突き立てられた。刃先に触れた芝が散り、本能的な恐怖にハオリュウの身が縮む――が、意地で悲鳴を堪える。
「負けを認めろ」
レイウェンとは思えぬ、ドスの利いた声が轟いた。
「嫌です!」
「続ければ、後遺症の残る怪我になる。だから、終わりだ」
険しい声であったが、それはレイウェンの心からの懇願だった。ハオリュウは、はっと息を呑み、即座に謝罪した。
「……すみません。――僕の負けです」
ハオリュウの宣言によって、決闘は終わった。
結果は、初めから明らかであったように、ハオリュウの惨敗……。
レイウェンが膝を付き、ハオリュウの関節を戻す。それから、医療鞄を持ったミンウェイに合図を送ると、誰よりも先にクーティエが飛んできた。
「ハオリュウ! ハオリュウ!」
「クーティエ、……ごめんね。負けたよ」
地面にへたり込み、ぽろぽろと涙をこぼす彼女に、ハオリュウは悔しげに謝る。
「ハオリュウ、『ごめん』って――。そんなこと言ったって、父上は……」
「そうだね。もと鷹刀一族の後継者だったレイウェンさんに、僕ごときが勝てるわけがない。――でも、初めから負けるつもりだったら、決闘なんか申し込まないよ」
「ハオリュウ……!」
クーティエのリボンが、ハオリュウの胸へと舞い降りる。ハオリュウは頭上のレイウェンへと視線を走らせ、彼が横を向いたのを確認すると、全身の痛みを押して、彼女の体を抱き寄せた。
やがて、他の面々もぞろぞろとやってきて、ふたりを取り囲む。
「ベッドに運ぶ前に、ここで足首を固定しちゃうから、動かないで」
ミンウェイがごそごそと添え木の準備を始めると、脇からシュアンが顔を出した。そして、驚きも呆れも通り越し、感心の域に到達した声を上げる。
「おぉ、酷ぇな。あんた、まるで暴漢に襲われたみたいだぞ」
その発言に、蒼白な顔をしたメイシアの手を硬く握っていたルイフォンが、すかさず口を挟んだ。
「それでいいんだろ? ハオリュウは『俺』に襲われたことになるんだからさ」
皆の目線が、一斉にルイフォンへと集まる。
「どういうことよ!」
広い庭にクーティエの叫びが響き渡り、芝生に倒れたままのハオリュウが彼女の服を引いた。
「クーティエ。心配させて悪かった。説明するよ。つまりね……」
……………………。
「種明かしをしてしまえば、この決闘は、どう考えたって茶番にしかならない。――でも、茶番だと言いたくなかったから、内緒にした。……ごめん」
ハオリュウは面目なさそうにクーティエに告げ、穏やかに苦笑した。
「僕は真剣に戦った。……確かに、僕には『大怪我を負う必要がある』。だから、僕はこの特殊な状況を利用して、武の達人であるレイウェンさんに、まったく武術の心得のない僕の挑戦を受けてもらった。けれど、それは、この決闘に負けていい、ってことじゃない。――僕は、本気で勝ちたかった」
「ハオリュウ……」
「悔しいけど、僕は、まだまだだ。――けど、この次は盤上遊戯か何かでの勝負にするから、僕が勝つよ」
ハオリュウは傷だらけの顔を上げ、好戦的な眼差しでレイウェンを見やる。
レイウェンは心底、不快げに眉を寄せ、冷ややかに口の端を上げた。
「私は盤上遊戯も得意ですよ?」
「このようなお見苦しい姿を御前に晒し、殿下のお目を穢すこと、どうかお許しください」
摂政カイウォルの執務室を訪れた、藤咲家当主ハオリュウは、車椅子の上から頭を垂れた。
彼の片足はギプスで固定されており、片腕は包帯でぐるぐる巻きにされている。伏した状態でも、腫れ上がった瞼の青痣が前髪を押しのけて覗き見え、頬に当てられたガーゼが顔の輪郭をひと回り大きくしていた。
まるで暴漢に襲われたかのような風体である。
何ごとがあったのかと、カイウォルが問おうとしたとき、ハオリュウは低頭したまま、静かに続けた。
「私は殿下のお言葉通り、『ライシェン』の隠し場所を探るため、我が異母姉メイシアを誑かし、自殺に追い込んだ鷹刀ルイフォンめと接触いたしました」
確かに、カイウォルは、そのように命じた。
ハオリュウが鷹刀一族と通じていることは明白であったから、腹心と思われる緋扇シュアンを人質として捕らえ、ハオリュウを意のままに操ろうとしたのだ。
しかし、緋扇シュアンは獄中で死んだ。看守の暴行がもとで命を落としたのであるが、どうやら、ハオリュウの枷にならぬようにと、わざと看守を挑発していたらしい。最期は、折れた骨が肺を突くように、故意に転んだのだという。事実上の自死である。
シュアンの忠臣ぶりには驚嘆したが、同時に、カイウォルの目論見は台無しとなった。
では、こうして現れたハオリュウは、いったい何を告げるのか?
雅やかな美貌はそのままに、カイウォルは警戒の眼差しで、目の前の傷だらけの少年を見やる。
「私は、鷹刀ルイフォンに『異母姉を死に追いやった罪は不問に付すから、鷹刀一族が奪った国家の至宝『ライシェン』について語るように』と申し付けました。すると、あろうことか、鷹刀ルイフォンは『藤咲家こそが、メイシアを追い詰めた。メイシアは、藤咲家に殺された。お前はメイシアの仇だ!』と、懐からナイフを取り出し、私に襲いかかってきたのです」
そう言って、ハオリュウは、ゆっくりと面を上げる。
薬品の匂いがツンと鼻につき、まるで見せつけるかのように、生々しい傷跡がカイウォルの目に飛び込んできた。腹にも厚く包帯が巻かれているのか、服の下が不自然に膨らんでおり、ハオリュウは、痛みを堪えるかのように左手を添える。
「いつもならば、護衛をそばに控えさせているのですが、あのときは国家の極秘事項である『ライシェン』の話をするつもりでしたから、席を外させておりました。そのため、私はどうすることもできず……。――結果、鷹刀ルイフォンから『ライシェン』の隠し場所を聞き出すことは叶いませんでした。誠に申し訳ございません」
「!」
そう来たか――と。カイウォルの眉が、ぴくりと動いた。
雅やかさを乱した彼を尻目に、ハオリュウは、よろよろと車椅子から立ち上がる。そして、倒れ込むように床に手を付いた。
「殿下のご期待に応えることができず、弁明の言葉もございません。『ライシェン』の情報は、国家の存亡に関わる重大事と知りながら、私の力が及ばず……申し訳ございません」
平伏するハオリュウの腕が――真っ白な包帯が、じわじわと赤く染まっていく。傷口が開き、血が滲んできたのだ。
カイウォルは、ごくりと唾を呑んだ。
この一幕は、狂言だ。
何故なら、ハオリュウの異母姉メイシアは、生きているのだから。互いにそれを知りつつ、暗黙の了解で、芝居を続けているのだ。
しかし、ハオリュウの怪我は、偽装ではなく真実。彼は虚構のために、自らを傷つけた。
たった十二歳の少年が……。
空恐ろしいものを感じ、カイウォルの胸中がざわめく。そんな彼の内心をよそに、ハオリュウは言を継ぐ。
「『ライシェン』なくしては、平民の血を引く私めが、女王陛下の婚約者という大任を務めるわけにはまいりません。つきましては、誠に遺憾ながら、婚約者の件はご辞退申し上げます」
「――!」
常に尊大に構えるべき摂政のカイウォルが、明確に顔色を変えた。
ハオリュウが婚約者の件を快く思っていないことは百も承知していた。しかし、貴族は王族に逆らえない。断れば角が立つ。
そこを、ハオリュウは正論でもって、鮮やかに覆した……。
言葉を失うカイウォルに、ハオリュウは畳み掛ける。
「殿下……。私を痛めつけながらも、鷹刀ルイフォンは泣いておりました。あれは異母姉を想う涙でした。……世間知らずの異母姉は、見知らぬ世界に惑わされただけにすぎないのかもしれません。しかし、彼女もまた、本気で彼を想っていたことは、異母弟の私の目にも明らかでした……」
小心で善良な、凡人そのものの顔で、ハオリュウは苦しげに声を震わせた。
「鷹刀ルイフォンを傷害の罪で訴えることも考えましたが、天国の異母姉の気持ちを思うと踏み切ることができず……、また、異母姉が凶賊と恋仲であったことを蒸し返すのは、我が藤咲家としても望ましくありません。ですから、このことは私の胸の内に納めることにいたしました」
「!」
情に流されたふりをして、ハオリュウに先手を打たれたことに、カイウォルは気づく。
平民のルイフォンが貴族のハオリュウに危害を加えたのなら、それなりの罪に問われる。そして、ルイフォンが未成年であることを理由に、父親である鷹刀一族総帥イーレオに何かしらの圧力を掛けることも可能だっただろう。しかし、それをハオリュウは未然に封じた。
不意に――。
ひざまずいていたハオリュウの体が、ぐらりと傾いだ。重傷を押して無理をしたためだ。なんとか堪えようと足掻くが、あえなく床に倒れる。
さすがのカイウォルも、話を切り上げるべきだと判断したときだった。
「ハオリュウ様!」
車椅子を押していた介助の者が、血相を変えて叫んだ。
その者は、雲上人たるカイウォルに無礼とならぬよう、まずは額を床にこすりつけて平伏し、それから主人へと近づく。
――そう。
カイウォルは、ハオリュウに介助者の同行を許可していた。事前にハオリュウから、車椅子が必要である、との連絡を受けていたのだ。前回は杖すらも使わずに歩いていたが、また足の調子が悪くなったのかと、その程度に捉えていた。
カイウォルの関心は、腹心を亡くしたハオリュウの肚にあった。
だから今まで、車椅子を押してきた人物の顔など、まるで興味がなかった。至近距離にいながらも、まったく視界に入っていなかったのである。
しかし、ハオリュウを抱き上げた介助者の顔を見た瞬間、カイウォルの目は釘付けになった。
「――緋扇……シュアン……?」
生き返っている――!?
まさか、そんな馬鹿な……!
それは、あまりにも非科学的だと、カイウォルは自分の考えを打ち消す。
そうではない。
看守を買収して、死んだと思わせて助け出したのだ。
即座に、してやられたと思い……次の瞬間、緋扇シュアンが、全治数ヶ月の大怪我を負っていたことを思い出す。
半死半生の重傷だった。牢に繋がれたシュアンを、カイウォルはその目で確認している。
しかし、目の前の男には傷ひとつない……。
カイウォルの背に、戦慄が走る。
「介添えの者よ。名は、なんという?」
王族たるカイウォルが、臣下の使用人に名前を尋ねるなど、あってはならないことのはずだった。介助の者は驚きに三白眼を見開き、慌てたように頭を垂れる。
「緋扇シュアンと申します」
豪奢な部屋に、まったくもって不釣り合いな濁声が流れた。
甲高く、軽薄そうな響きは、あたかも本人の耳にのみ心地よく聞こえる、調子外れの鼻歌のようであった。
「死者を蘇らせる――技術……ですか」
ハオリュウを退室させ、誰もいない執務室で、カイウォルは独り言ちた。
どっと冷や汗が流れ、自分が緊張していたことに気づく。
たった十二歳の少年当主を相手に、この国の最高権力者たる彼が身構えるのは、実に滑稽といえた。しかし、カイウォル自身は、それを可笑しなこととは思わなかった。
ハオリュウは、血筋しか誇れるもののない王族たちや、安穏とした今の栄華が永遠に続くものと信じている貴族たちとは、一線を画する。彼に流れる平民の血は、下種の証ではなく多様性を表し、若さは未熟さではなく可能性を示すのだ。
つい最近まで、ハオリュウを歯牙にも掛けなかったカイウォルとしては、自分の目は節穴だったと反省せざるを得ない。
味方にすれば、この上なく頼もしいであろうが、敵に回したら恐ろしく厄介。
これが、ハオリュウに対する、現在の評価だ。
正直なところ、喉から手が出るほど欲しい人材である。
だが、残念なことに、ハオリュウは鷹刀一族と懇意にしている。カイウォルとは相容れぬ、『裏』の王家を名乗る、あの一族と。
その証拠に、彼の溺愛する異母姉メイシアが、あの鷹刀セレイエの異父弟、ルイフォンのもとにいる。何がどう繋がってそうなったのかは、まるで不明なのだが、これは厳然たる事実だ。
「〈七つの大罪〉と鷹刀一族……」
神殿とは関わりのなかったカイウォルにとって、どちらも謎に包まれた存在だった。先日、鷹刀セレイエの父親、エルファンに釘を差されて以来、扱いには慎重になっている。
「それから……、『デヴァイン・シンフォニア計画』――でしたね」
現女王――カイウォルの妹アイリーが、十五歳の誕生日を迎える少し前。
鷹刀セレイエの〈影〉となった、侍女のホンシュアが、カイウォルの前に現れた。彼女は、殺されたライシェンを、ヤンイェンと女王の間の御子として――次代の王として、誕生させるのだと告げた。
「……貴女の身勝手に、この国を巻き込まないでください」
人を惹きつけてやまないはずの蠱惑の旋律が、ひび割れた音色で奏でられた。
~ 第二章 了 ~
幕間 不可逆の原理
『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』
ローヤン先輩はそう言って、俺の肩に手を載せた。
結局のところ、俺は、ローヤン先輩の仇を討てたのだろうか?
先輩を死に追いやった〈蝿〉は、確かに死んだ。けれど、その死は、とても安らかだったと思う。
先輩のように、救いのない死ではなかった。
〈蝿〉が死んで、皆で菖蒲の庭園から脱出したあと、俺はハオリュウのもとへ結末を報告に行った。その際、ミンウェイは『私がクローンだったことも含め、すべてを包み隠さずに話してきてほしい』と俺に頼んだ。
そして、ハオリュウの他に、もうひとり。
ミンウェイが、すべてを伝えてほしいと言った相手がいた。
ローヤン先輩の恋人であり、妻となるはずだった女性だ。
彼女の家を訪れたのは、〈蝿〉が死んでから数日後のことだった。
俺を出迎えてくれた彼女は、ゆったりとしたワンピースを着ていた。そのせいだろうか。まだ、それほど腹が目立つということはないのだが、どことなく妊婦特有の雰囲気を漂わせていた。
「気になる? この子、私のお腹を蹴るようになったのよ」
俺の視線に気づいたのか、彼女は愛しげに自分の腹を撫でた。――ああ、これは『母親』の顔だな、と思う。慈愛の眼差しだ。
思わず、彼女の手元に注目してしまい、はっと我に返って気まずくなった。いくら妙な下心はないと分かり切っていたとしても、女性の腹を凝視するのは失礼だろう。
「……っ、こほん。……不躾にすみませんでした。……その、妹が腹にいたころのお袋と、似ていたもので……」
「えっ? そうなの……? あ……」
何気ない相槌で答えてから、急速に彼女の顔が曇っていく。おそらく、ローヤン先輩から、俺が家族を亡くしていることを聞いていたのだろう。
しまった。妊婦は、涙腺が弱い傾向にある。
俺は顔には出さず、けれど、大慌てで言を継ぐ。
「目つきがですね、ちょいと険しいんですよ。赤ん坊を守ろうとする母親の顔、ってやつですかね」
おどけた調子で肩をすくめると、彼女は、ぱっと目を見開き、「ええっ!? 本当?」と赤くなった頬を押さえる。
前回、会ったとき――先輩を亡くして間もなくのころよりも、ずっと表情が豊かになったような気がする。俺は内心で胸を撫で下ろしつつ、にやりと続けた。
「そのくせ、ふとしたときに、とんでもなく優しい顔になるんですよ。――あのときのお袋も、今のあなたも、です」
自分で言いながら、餓鬼だったころを思い出す。
俺にも、かつては家族がいた。親父が、よく犯罪者と間違われるような悪人面だったことを除けば、特にこれといった特徴のない、ごくごく平凡な家庭だった。
亡くしたときには、何故、自分だけが取り残されたのかと絶望した。……とはいえ、さすがに、この歳にもなれば、それなりに自分の中で折り合いがついている。
だから。
家族のことは、ただ優しい思い出として、俺の心に残っている――。
「餓鬼だった俺は、お袋の機嫌があまりにもころころ変わるのが心配で、どこか具合いが悪いに違いないと、深刻な顔で親父に相談しましてね。――そしたら、親父に大笑いされました」
「それは……、緋扇さんが可哀想だわ……」
同情もあらわに、彼女が眉をひそめる。
「親父に言わせれば、『家族の原理』なんだそうですよ」
「『家族の原理』?」
「他人のことだったら気にしないような些細なことでも、家族のこととなると放っておけなくなる。ほんのちっぽけなことにも、一喜一憂する。お袋が腹の中の弱っちい赤ん坊をやたらと心配するのも、そんなお袋を俺が心配するのも、どちらも同じことなんだ――だそうで」
――そうだ。
親父は、今の俺とそっくりな顔で、もっともらしい説教を垂れたのだ。
ああ、なんだか妙にむかつく。どう考えても俺は、人並みの面構えだったお袋に似るべきだった……じゃねぇよ。ここは、そんなことを考えている場じゃねぇ。
そんな、どうでもいい、馬鹿げた思考と共に、懐かしさがこみ上げる。
「餓鬼の俺には、親父の言いたかったことは、まったくピンとこなかったですし、今だって『親父の野郎、適当に格好つけたことを言いやがって』と思うんですけどね。……でも、あなたを見ていると、なんとなく分かったような気分になります」
俺は、そこで言葉を切った。
俺が彼女に会いにきたのは、世間話をするためじゃない。〈蝿〉の最期を報告するためだ。
奴が死んだことは、既に電話で伝えてある。けれど、彼女には、すべてを知る権利があるだろう。だから、わざわざ時間を作ってもらったのだ。
ここまで来ておきながら、正直なところ、俺は話の進め方に悩んでいた。
世界は不可逆で、〈蝿〉が死んでも、先輩が戻ってくることはあり得ない。ならば、この報告は、彼女の前に広がる無限の可能性の中から、幸福を選び取るためのものでなくてはならないのだ。――間違っても、彼女の未来に禍根を残すようなものであってはならない。
俺は、腹に力を入れた。親父譲りの三白眼で、まっすぐに彼女と向き合う。
「先輩を死に追いやった〈蝿〉は死にました」
彼女の喉が、こくりと動いた。
この話は不可逆だ。
聞いてしまえば、聞かなかった時には戻れない。
だから俺は祈りを込めて、彼女に告げる。
「今日は、その詳細をご説明に参りました。――〈蝿〉の家族の話です」
彼女が出してくれた麦茶の中で、溶けかけの氷がくるりと踊った。
グラスの側面を覆っていた水滴が繋がり合い、まるで涙のように流れていく……。
「すみません。こんな話をして」
「なんで謝るの? とても……大切な話だったわ」
「ですが、この話をするということは、〈蝿〉を弁護するようなものです」
俺がそう言うと、彼女はゆっくりと頭を振った。そのはずみで、彼女の瞳から、きらりと透明な雫がこぼれ落ちる。
「あなたは、私のために話してくれたんでしょう? 私の心から、少しでも憎しみの感情が薄れるように、って」
「……っ」
「ありがとう。……やぁね。ほんと、妊婦って涙もろいわ」
戸惑う俺を気遣うように、彼女はハンカチで目頭を押さえながら微笑む。
「自分でも、なんで泣いているのか分からないのよ。――だけど、今、とても穏やかな気分なの。だから、緋扇さんが謝ることなんてないわ」
「すみません……」
再び謝ると、彼女は俺に向かって、できの悪い後輩を見る目で苦笑した。それから、自分の腹に目線を落とし、「あなたも、そう思うでしょう?」と、語りかける。
……ああ、家族――だ。
物言わぬ胎児かもしれないが、彼女のそばには家族がいて、彼女と共に一喜一憂している。この温かさが『家族の原理』なのだろう。……きっと。
そんなことを考えていると、出し抜けに、「それより――」と、彼女が切り出してきた。
「緋扇さん。あなた、ミンウェイさんという女性のこと、好きでしょう?」
「はぁっ!?」
「たぶん、ミンウェイさんも、あなたが好きよ。相思相愛だわ」
「なっ……!」
あまりの発言に、俺は面食らった。
まったく、この女性は藪から棒に、なんてことを言うのであろう?
「可笑しなことを言わないでくださいよ」
俺は軽く笑い飛ばす。……しかし、俺の声は上ずり、空回りしていた。
「私やローヤンに遠慮することはないわ。むしろ、ローヤンは大喜びのはずよ。他人を信じられなくなって、他人を拒むようになった孤独なあなたを、彼はずっと心配していたから」
「ちょっと勘弁してくださいよ。俺にとってミンウェイは、そんなんじゃないですよ」
「じゃあ、なんだというの?」
「――っ」
詰め寄るような語勢に、俺の腰が引ける。
問われて、脳裏に浮かぶのは、硝子の温室に置かれた、蔦模様のガーデンチェアー。その背もたれに、草の香りに包まれた、緩やかに波打つ黒髪が広がる。
本当は弱いくせに、誰かのために懸命に強くなろうと前を向く姿が、とても綺麗だ。
「……そうですね。たぶん、『恩人』です。ミンウェイが、愚かしいまでのお人好しだったから、俺は先輩と肩を組んで、世直しを謳っていた日々を思い出すことができたんですよ」
「本当に、それだけかしら?」
俺の答えは、彼女を満足させることはできなかったようで、彼女は上目遣いに俺を見上げる。
「残念ながら、それだけですよ」
俺はわずかに口の端を上げ、彼女の家をあとにした。
リュイセンは、自分のすべてと引き換えにしてでも、ミンウェイを守ろうとした。
それは非常に不器用な愛で、決して褒められたものではなかったと思う。けれど、あいつの持つ、愚かしいほどの優しさは、愚かしいまでのお人好しのミンウェイにとって、必要なものだ。
『父親』の束縛も、四つ葉のクローバーの餓鬼を殺した自責の念からミンウェイが自らに掛けていた呪縛も、もはや消え失せた。
だから、ミンウェイは、幸せを受け入れられる。
リュイセンなら、彼女を幸せにできるだろう。
『ミンウェイに、穏やかな日常を……頼む』
……そう思っていた。――なのに、だ。
『私は、自分の幸せを、自分で掴むために来たの!』
『穏やかな日常を過ごしたければ、自分で努力すればいいだけでしょう?』
すべてを捨てて俺のもとに来たミンウェイはそう言った。――そう言ってくれた。
だったら、俺も認めるしかないだろう。
『なぁ、ミンウェイ。知っているか?』
『俺は、ずっと、あんたのことが好きだったのさ』
〈蝿〉の技術で、俺の怪我はあっという間に治り、ハオリュウとレイウェンさんの決闘を経て、摂政に一泡吹かせてやった。
そうして、俺の逮捕から始まった一連の事件は幕を閉じ、俺とミンウェイは、ハオリュウに勧められるままに、住み込みの使用人として藤咲家に住み着いた。
それから少し経った、ある日のこと――。
俺のもとに、数箱の段ボール箱が届いた。警察隊の宿舎から回収した、俺の私物である。
俺は、在職中に犯罪者として逮捕、死亡したことになっている。そんな悪辣な元隊員の部屋がいつまでも残されるわけはなく、速やかに片付け業者が呼ばれた。そして、私物は処分されるはずだった――のだが、ルイフォンがうまいこと業者に手を回してくれたのだ。
「緋扇さんの荷物って、これだけなの?」
荷ほどきを手伝いに来てくれたのか、ただの興味本位だったのか。何かを期待していたらしいミンウェイが、落胆したような声を上げた。
「俺が物持ちに見えるか?」
「……そうね。殺風景な部屋のほうが、緋扇さんらしいわ」
俺としては、むやみに物を買い集めるタイプに見えるか、という意味で言ったのだが、俺の部屋は殺風景だったのだと決めつけられてしまった。
……まぁ、否定はすまい。
ほとんどが実用書の類で、あとは衣類が少々では、遊び心の欠片もないだろう。
本の入ったダンボール箱をミンウェイに任せ、俺は他の箱から目的の物を探す。
ルイフォンから、俺の私物を手に入れられると聞いたとき、初めはそこまでしなくても、と断ろうかと思った。亡くした家族の写真なら電脳空間上にあったし、本はまた買い直せばすむ。俺の服なんざ、本気でどうでもいい。
だが、『あるもの』だけは、替えがきかないことに気づいた。だから、ルイフォンの厚意に甘えたのだ。
如何にも大切そうに抽斗の奥にしまっておいたものだから、ルイフォンの指示を受けた業者が見落とすことはないだろうが……と、俺は期待と不安に胸を高鳴らせる。
その背後で、本棚の前のミンウェイが「えっ」とか、「あらっ」とか、軽い驚きの声を上げているのが気恥ずかしい。『貴族の礼儀作法』だの、『養蚕技術について』などという、ハオリュウの補佐をする気満々の本が、『警察隊時代の』部屋から送られてきたのだから仕方ないのであるが。
「あった……!」
俺の口から、かすれた濁声が漏れた。自分で思っていたよりも、ずっと緊張していたらしい。
「え、何? 何があったの!?」
草の香りと共に、飛びつくようにミンウェイが駆け寄ってきて、波打つ黒髪が、俺の頬をかすめる。
〈ベラドンナ〉の扮装をしたときには、生来の直毛に戻したミンウェイだが、『『なりたい自分』の象徴だから』と、今は再び、俺の見慣れた姿になっていた。
どちらのミンウェイも甲乙をつけ難く美女であるから、俺としては、どちらでも良いと思う。……そもそも、外見に関しては、俺に意見を言う資格はないだろう。
「……?」
俺の手元を覗き込んだミンウェイが、困惑顔で俺を見上げた。
「ローヤン先輩の結婚式の招待状だ」
「え……」
半袖の腕に触れた髪が、ざわりと揺れ動く。それは、彼女の髪が波打っているからではなく、彼女の心が波立っているからだろう。
「……あんたには、何も話していなかったな」
ぽつりと呟くと、ミンウェイは唐突に「そうよ!」と、柳眉を吊り上げた。
「緋扇さんは、自分のことを何も話してくれてないわ。……私、あなたのことを何も知らない。私が自分のことを話すばかりで、あなたは……!」
艶やかな黒髪が小刻みに震え、麗しの美声が儚く消えていく。
そういえば、ミンウェイは、死んだ『父親』――オリジナルのヘイシャオについて、『一緒に暮らしていながらも、一緒に生きてはいなかった』と悔やんでいた。
だから、なのだろう――この過剰なまでの反応は。
「悪かった」
俺は、ミンウェイを抱き寄せる。
他者との接触に脅えていた彼女だが、今は俺の手を怖がらないでいてくれる。
他者との交流を拒んできた俺だが、今は彼女には自分のことを話したいと思う。
彼女と一緒に、生きていきたいと思うから――……。
先輩の婚約者だった女性から招待状を受け取った経緯を話し、その女性に〈蝿〉の最期を伝えた顛末を、ミンウェイに語った。
お人好しで優しいミンウェイは、俺の予想通りに、途中から泣きながら聞いていた。それでも、最後には穏やかに笑ってくれた。
そして――。
真っ赤に目を腫らした彼女に、俺は告げる。
「ミンウェイ。俺の『家族』になってくれないか?」
「えっ!?」
黒髪が波打ち、草の香が散り乱れた。
「海の見える丘、だったか? ちゃんと、〈蝿〉たちの墓に挨拶に行くからさ。『お嬢さんをください』ってな」
「緋扇……さん……! や、やだ、私がクーティエを羨ましく思っていたことに気づいていたの!?」
ハオリュウが、レイウェンさんに決闘を申し込んだことを言っているのだろう。
勿論、それもある。だが、そもそもミンウェイは夢想家なのだ。四つ葉のクローバーで封じた絵本の、一番大切にしていたページは、王子が姫に求婚するシーンなのだから。
「そういう挨拶も、家族になるための通過儀礼ぽくていいじゃねぇか」
「……!」
「自由民になった俺は、書類上の結婚はできない。――けど、俺は、あんたと家族になりたい。つまんねぇことや、どうでもいいことに、一緒に一喜一憂したい」
親父の言っていた『家族の原理』とは、少し違うかもしれない。
けれど、家族の数だけ原理があってよいはずだし、新しく作る家族には新しい原理が似合うだろう。ならば、俺はこの原理がいい。
「俺は、餓鬼のころに家族を亡くして、このまま一生、ひとりで生きていくと思っていた。それでいいと思っていた。でも今は、未来をミンウェイと生きたい。――家族として」
俺の腕の中で、ミンウェイが何度も何度も頷く。
そのたびに、艶やかな黒髪が波打ち、干した草の香りが広がる。
「私も……、緋扇さんの家族になりたい……」
嗚咽の中から、無理矢理に声を絞り出し、ミンウェイは、すっと顔を上げた。
切れ長の目には、まだ涙がたたえられていたけれど、大輪の華がほころぶような艶やかさと、包み込むような穏やかさの同居した、綺麗な笑顔だった。
「ありがとう」
俺は、彼女を抱きしめる。
今まで空白だった胸を埋めるように。
「緋扇さん。私も、あなたのご両親と妹さんのお墓に、ご挨拶に行きたい……。――ああ、そうよ。私、あなたの家族のことも、何も知らないんだわ」
急に思い出したように、ミンウェイが声を跳ねかせる。
「教えてほしいの。――亡くなったあなたの家族のこと。それから、家族を亡くしたあと、私と出逢うまでのあなたのこと。私、呆れるくらいに本当に、あなたのことを何も知らないんだから!」
少し怒ったような、拗ねた美声が弾けた。
「なんでも話すさ。――ただ」
唐突に言葉を切った俺に、ミンウェイが不安げに「ただ……?」と繰り返す。
「いい加減、『緋扇さん』は、やめてくれ」
そうなのだ。ミンウェイは、あの監獄で、死刑囚に逢いにきた恋人として、一度だけ俺のことを『シュアン』と名前を呼んでくれた。だが、それきりなのだ。
「家族になるってのに、さすがにいつまでも『緋扇さん』は、俺だって傷つくぞ……」
「……あ。……そうね。そうよね。……ずっと、そう呼んできたから、……いきなり、なんか……恥ずかしいけど……」
ミンウェイは、ごにょごにょと口ごもり、やがて、真っ赤な顔で、俺の耳元に囁いた。
「シュアン。――私もずっと、あなたのことが好きだったんだと思うわ」
――先輩。
世界は不可逆で、失ったものは、二度と元には戻らない。
悲しいけれど、それは不可逆の原理です。
けど。
また新しいものを作ることはできるのだと。
それもまた、不可逆の原理なのだと。
俺は信じます。
……先輩。
俺は、ミンウェイと新しい家族を作ります。
先輩の、家族との未来を奪っておきながら、すみません。
俺は、ミンウェイと幸せになります。
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第二章 黄泉路の枷鎖よ
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第三章 金殿玉楼の閣で https://slib.net/122123
――――に、続きます。