di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第一章 夏嵐の襲来から
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第一章 夏嵐の襲来から
――――です。
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第十章 蒼穹への黎明と https://slib.net/114198
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〈第二部 第十章あらすじ&登場人物紹介〉
===第二部 第十章 あらすじ===
〈蝿〉との決着をつけ、ルイフォンとメイシアは、菖蒲の庭園から鷹刀一族の屋敷に戻ってきた。
仮眠を取って、目覚めた夜中。メイシアは、セレイエの記憶から知った『デヴァイン・シンフォニア計画』の真の目的は、『生き返った『ライシェン』が、今度こそ幸せな人生を送れるようにすること』だと告げる。
セレイエは『ライシェン』のために、ふたつの道を用意していた。
ひとつ目は、オリジナルのライシェンが本来、歩むはずだった未来。王家に生まれた〈神の御子〉として、王となる道。
ふたつ目は、優しい養父母のもとで、愛情あふれる家庭の平凡な子供として生きる道。
そして、ふたつ目の道を選んだときの養父母となるべく、ルイフォンとメイシアの出逢いが仕組まれたのであった。
セレイエは〈天使〉の力で〈冥王〉に侵入して、死んだ息子の『記憶』を掻き集めた結果、熱暴走を起こして死んだ。正確には、集めた『記憶』をルイフォンの脳に預けたあと、命が尽きる前に愛するヤンイェンに一目逢いたいと、彼の幽閉されている館に向かったのが、メイシアの知るセレイエの最後だという。
セレイエの記憶を受け継ぎ、『デヴァイン・シンフォニア計画』を託されたメイシアは、『自分が〈天使〉になって『ライシェン』に『記憶』を入れなければ、セレイエの死が無駄になってしまう。しかし、〈天使〉になりたくない』と思い悩む。それを聞いて、ルイフォンは、自分たちが『ライシェン』の運命を――ひとつの命の未来を託されたという責任を重く受け止める。
涙に濡れるメイシアに、ルイフォンは告げる。「『死んだ人間は生き返らない』――それが、人の世の理だ」と。
『『ライシェン』に記憶を入れて、生き返らせたい』という、セレイエの願いは叶えない。けれど、それ以外のことで、『ライシェン』のために何ができるのか。未来をどうするか。ふたりで、肚を据えて考えていこうと、ルイフォンとメイシアは誓いあった。
緋扇シュアンは、〈蝿〉との決着を報告するために、ハオリュウのもとを訪れた。『〈蝿〉という共通の仇を倒すために手を組んだ』ふたりにとって、それは、この関係の終わりを意味する。
報告のあと、ハオリュウは今までの感謝を述べ、別れを口にした。しかし、シュアンは「警察隊を辞職するから、部下として雇ってくれ」と言う。
ハオリュウにとっては、願ってもないほど嬉しい申し出だが、貴族の彼と行動を共にするということは、平穏な人生を歩めなくなることである。それ故に、断ってしまう。
しかし、シュアンは「自分の『正義』のために、ハオリュウを自分好みの権力者に育てたいだけだ」「あんたに賭けたい」と、ハオリュウの心に弾丸を撃ち込む。そして、ハオリュウはシュアンの手を取った。
翌日。鷹刀では、一族を裏切ったリュイセンの報告と処分の会議が開かれた。リュイセンは、どんな罰でも受け入れる覚悟をしつつ、どんなに時間が掛かっても、未来の総帥として認められるよう努力すると肚を決めていた。それが彼の為すべきことであると。しかし、言い渡された『処分』は、リュイセンの『次期総帥任命』だった。
あり得ない昇格に、リュイセンは納得できないと喰い下がる。だが、祖父と父が自分に『最後の総帥』になることを望んでいると気づき、有り難くその命を受けた。
束の間だと分かっているとはいえ、やっと訪れた平穏な日常。
ある日、ルイフォンはメイシアを連れて、〈蠍〉の研究所跡――〈スー〉の家に行く。そして、眠っている〈スー〉に――母のキリファに、メイシアを紹介する。「俺を幸せにしてくれる女。そして、俺が幸せにする女だ」と。
===『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』===
主人公ルイフォンの姉セレイエによる、殺された息子ライシェンを蘇らせる計画。
王の私設研究機関〈七つの大罪〉の技術で再生された『肉体』に、ルイフォンの中に封じたライシェンの『記憶』を入れることで『蘇生』が叶う。
また、生き返った『ライシェン』が幸せな人生を送れるように、セレイエはふたつの未来を用意した。
ひとつは、本来、ライシェンが歩むはずだった、父ヤンイェンのもとで王となる道。
もうひとつは、愛情あふれる家庭で、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道。
セレイエは、弟であるルイフォンと、ヤンイェンの再従妹であるメイシアを『ライシェン』の幸せを託す相手として選び、ふたりを出逢わせた。
『di;vine+sin;fonia』という名称は、セレイエによって名付けられた。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらを繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』を意味する。
この計画が禁忌の行為と分かっていながら、セレイエは自分を止められなかった、ということである。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少年。十六歳。
亡き母キリファから〈猫〉というクラッカーの通称を受け継いでいる。
父親は、表向きは凶賊鷹刀一族総帥イーレオということになっているが、実はイーレオの長子エルファンの息子である。
そのことは、薄々、本人も感づいてはいるが、既に親元から独立し、凶賊の一員ではなく、何にも属さない『対等な協力者〈猫〉』であることを認められているため、どうでもいいと思っている。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
亡くなる前のセレイエに、ライシェンの『記憶』を一方的に預けられていた。
※『ハッカー』という用語は、本来『コンピュータ技術に精通した人』の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われている。
対して、『クラッカー』は、悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を『クラッカー』と表記する。
メイシア
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少女。十八歳。
セレイエによって、ルイフォンとの出逢いを仕組まれ、彼と恋仲――事実上の伴侶となる。
もと貴族の藤咲家の娘だが、ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
王族の血を色濃く引くため、『最強の〈天使〉』として『ライシェン』を守ってほしいというセレイエの願いから、『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた。
セレイエの〈影〉であったホンシュアを通して、セレイエの『記憶』を受け取っている。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
約三十年前、イーレオが、王家および王家の私設研究機関である〈七つの大罪〉と縁を切るまで、血族を有機コンピュータ〈冥王〉の〈贄〉として捧げる代わりに、王家の保護を受けてきた。近親婚を強いられてきたため、血族は皆そっくりであり、また強く美しい。
古くは、鷹の一族と呼ばれた武人の一族であり、現在の王家樹立の立役者の一族であった。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥であったが、次男リュイセンに位を譲った。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
父から位を譲られ、次期総帥となった。また、最後の総帥になる決意をしている。
黄金比の美貌の持ち主。
文句も多いが、やるときはやる男。『神速の双刀使い』と呼ばれている。
ミンウェイにプロポーズをしたが、自分はまだまだだと、取り消した。
鷹刀ミンウェイ
鷹刀一族の中枢をなす人物のひとり。屋敷の切り盛りしている。二十代半ばに見える。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。ただし、本来は直毛。
薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
母親だと思っていた人物のクローンであり、そのために『父親』ヘイシャオに溺愛という名の虐待を受けていたのだと知った。苦悩はあったが、今は乗り越えている。
草薙チャオラウ
鷹刀一族の中枢をなす人物のひとり。イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
主筋であるユイランを、幼少のころから半世紀ほど、一途に想っている、らしい。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
もとエルファンの愛人で、セレイエ、ルイフォンの母。ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に人体実験体である〈天使〉にされた。
四年前に当時の国王シルフェンに『首を落とさせて』死亡。
どうやら、自分の体を有機コンピュータ〈スー〉に作り変えるためだったらしい。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが、〈冥王〉を破壊するために作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のスーパーコンピュータだが、それは張りぼてである。
本体は、人間の脳から作られた有機コンピュータで、光の珠の姿をしている。
〈ベロ〉の人格は、シャオリエのオリジナル『パイシュエ』である。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこないのだが、所在は、〈蠍〉の研究所跡に建てられた家にあることが分かっている。
鷹刀セレイエ
エルファンとキリファの娘。表向きはルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
生まれながらの〈天使〉であり、自分の力を知るために自ら〈悪魔〉となった。
王族のヤンイェンと恋仲になり、ライシェンという〈神の御子〉を産んだ。
先王シルフェンにライシェンを殺されたため、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた。
ただし、セレイエ本人は、ライシェンの記憶を手に入れるために〈天使〉の力を使い尽くし、あとのことは〈影〉のホンシュアに託して死亡した。
パイシュエ
イーレオ曰く、『俺を育ててくれた女』。故人。
鷹刀一族を〈七つの大罪〉の支配から解放するために〈悪魔〉となり、三十年前、その身を犠牲にして未来永劫、一族を〈贄〉にせずに済む細工を施して死亡した。
自分の死後、一族を率いていくことになるイーレオを助けるために、シャオリエという〈影〉を遺した。
また、どこかに残されていた彼女の何かを使い、キリファは〈ベロ〉を作った。
すなわち、パイシュエというひとりの人間から、『シャオリエ』と〈ベロ〉が作られている。
鷹刀ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの『父親』。医者で暗殺者。故人。
妻のミンウェイの遺言により、妻の蘇生のために作ったクローン体を『娘』として育てていくうちに心を病んでいった。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のようなかたちでエルファンに殺された。
[王家]
白金の髪、青灰色の瞳の先天性白皮症の者が多く生まれる里を起源とした一族。
王家に生まれた先天性白皮症の男子は必ず盲目であり、代わりに他人の脳から『情報を読み取る』能力を持つ。
この特殊な力を持つ者を王としてきたため、先天性白皮症の外見を持つ者だけが〈神の御子〉と呼ばれ、王位継承権を有する。かつては男子のみが王となれたが、現在では〈神の御子〉が生まれにくくなったために女王も認めている。ただし、あくまでも仮初めの王である。
アイリー
大華王国の現女王。十五歳。四年前、先王の父が急死したため、若年ながら王位に就いた。
彼女の婚約を開始条件に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まった。
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害された。
〈神の御子〉の男子に恵まれなかった先々王が〈七つの大罪〉に作らせた『過去の王のクローン』である。
ヤンイェン
先王の甥。女王の婚約者。
実は先王が〈神の御子〉を求めて姉に産ませた隠し子で、女王アイリーや摂政カイウォルの異母兄弟に当たる。
セレイエとの間に生まれたライシェンを殺され、蘇生を反対されたため、先王を殺害した。
メイシアの再従兄にあたる。
ライシェン
ヤンイェンとセレイエの息子で、〈神の御子〉。
〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエから受け継いだ『情報を書き込む』能力を持っていた。
彼の力は、〈天使〉の羽のように自分と相手を繋ぐことなく、〈神の御子〉のように手も触れずに扱えたため、先王シルフェンは彼を『神』と呼ぶしかないと言い、『来神』と名付けた。
周りの『殺意』を感じ取り、相手を殺してしまったために、先王に殺された。
『ライシェン』
〈蝿〉が、セレイエに頼まれて作った、ライシェンのクローン体。
オリジナルのライシェンは盲目だったが、周りの『殺意』を感じ取らずにすむようにと、目が見えるように作られた。
凍結処理が施され、ルイフォンとメイシアに託された。
カイウォル
摂政。女王の兄に当たる人物。
摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。
ハオリュウに、「異母兄にあたるヤンイェンとの結婚を嫌がる妹、女王アイリーの結婚を延期するために、君が女王の婚約者になってほしい」と陰謀を持ちかけた。真意は不明。
[〈七つの大罪〉]
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
王家に、王になる資格を持つ〈神の御子〉が生まれないとき、『過去の王のクローンを作り、王家の断絶を防ぐ』という役割を担っている。
〈冥王〉
他人の脳から情報を読み取ることによって生じる、王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。
太古の昔に死んだ王の脳細胞から生まれた巨大な有機コンピュータで、鷹刀一族の血肉を動力源とする。
『光の珠』の姿をしており、神殿に収められている。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
〈天使〉
『記憶の書き込み』ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は有機コンピュータ〈冥王〉の一部でできており、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置となる。限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こして死亡する。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られた〈蝿〉
セレイエが『ライシェン』を作らせるために、蘇らせたヘイシャオ。
セレイエに吹き込まれた嘘のせいでイーレオの命を狙い、鷹刀一族と敵対していたが、リュイセンによって心を入れ替えた。
メイシアを〈悪魔〉の『契約』から解放するため、自ら王族の『秘密』を口にして死亡した。
ホンシュア
セレイエの〈影〉。肉体は、殺されたライシェンの侍女で、〈天使〉化してあった。
主人の死に責任を感じ、『デヴァイン・シンフォニア計画』に協力した。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
メイシアにセレイエの記憶を潜ませ、鷹刀に行くように仕向けた、いわば発端を作った人物である。
〈蛇〉
セレイエの〈悪魔〉としての名前。
セレイエの〈影〉であるホンシュアをを指すこともある。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら藤咲家の当主を継いだ。
母親が平民であることや、親しみやすい十人並みの容姿であることから、平民に人気がある。また、子供とは思えない言動から、いずれは一角の人物になると目されている。
異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
摂政カイウォルに、「女王の婚約者にならないか」と陰謀を持ちかけられている。
藤咲コウレン
メイシア、ハオリュウの父親。厳月家・斑目一族・〈蝿〉の陰謀により死亡。
藤咲コウレンの妻
メイシアの継母。ハオリュウの実母。平民。
心労で正気を失ってしまい、別荘で暮らしていたが、メイシアがお見舞いに行ったあとから徐々に快方に向かっている。
緋扇シュアン
『狂犬』と呼ばれる、イカレ警察隊員。銃の名手。三十路手前程度。
幼いころ、凶賊同士の抗争に巻き込まれ、家族をすべて失った。そのため、「世を正す」と正義感に燃えて警察隊に入るも、腐った現実に絶望する。しかし、ハオリュウと出会い、彼を『理想の権力者』に育てることに希望を見出した。
ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
ミンウェイに好意を寄せていると周りは推測しているが、真偽は不明。
[草薙家・他]
草薙レイウェン
エルファンの長男。リュイセンの兄。
妻のシャンリーと共に一族を抜けて、服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
草薙シャンリー
レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。王宮に召されるほどの剣舞の名手。
遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。
タオロンの人柄と腕っぷしを評価し、彼をレイウェンの会社にと推薦した。
草薙クーティエ
レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。
可愛らしく、活発。
ハオリュウに淡い恋心を抱いている。
鷹刀ユイラン
エルファンの正妻。レイウェン、リュイセンの母。
レイウェンの会社の専属デザイナーとして、鷹刀一族の屋敷を出た。
ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした、もと凶賊斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
斑目一族や〈蝿〉にいいように使われていたが、今はレイウェンの警備会社で働いている。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.颶風の到来-1
桜の大樹が、ざわざわと葉擦れの音色を奏でる。
大華王国一の凶賊、鷹刀一族の屋敷に、夏の調べが流れていく。
庭の主にふさわしく威風堂々とした巨木は、密に重なり合った枝葉で陽光を遮り、涼やかな濃い影を落としていた。それでも時たま、風に揺れた梢の隙間から陽射しがこぼれ、それがかえって太陽を凝縮したかのように眩く煌めく。
熱気に彩られた夏の庭にて、ルイフォンは額から滴り落ちる汗もそのままに、猫の目をかっと見開き、リュイセンの隙を探っていた。兄貴分に、武術の稽古をつけてもらっているのだ。
いくら非戦闘員だからといって、いざというときにメイシアを守れないようでは情けない。彼は以前、他ならぬリュイセンにメイシアをさらわれた。あのときは、まるで歯が立たずに斬り捨てられた。
勿論、この先、メイシアを危険な状況に陥らせる気は毛頭ないのだが、何ごとに対しても備えは重要だ。強敵を前にしたときに、敵わぬまでも、せめて彼女を逃がせるだけの技倆は身につけておくべきだろう。
リュイセンは愛刀を構えたまま、微動だにしない。両の手と一体化したかのような双刀の間合いに、徒手空拳のルイフォンは攻めあぐねていた。ルイフォンにとって不利な状況設定であるが、それは、彼が体を張らねばならないときは、相手が完全武装で、こちらは丸腰に決まっているからだ。
「どうした、ルイフォン?」
挑発するわけでなく、ただ弟分が動かないから尋ねた。リュイセンとしては、そんなところだろう。
しかし、肩まであった髪をばっさりと切った兄貴分の面差しは、彼の父エルファンや、叔父である〈蝿〉とよく似ており、威圧に満ちていた。鋭角的な輪郭が強調され、黄金比の美貌が凄みを帯びる。
彼が中途半端な長さに髪を伸ばしていたのは、そのほうが落ち着いた印象を与えると、幼いころ、ミンウェイに言われたためらしい。だが、次期総帥となり、気持ちを新たにした、といったところか。……単に、暑かったからかもしれないが。
ルイフォンは、すっと腰を落とす。
実践であれば、夏の陽射しに照りつけられて乾ききった足元の土や、桜の影がつくる明暗を利用して、相手の目をくらませることを考える。しかし、これはルイフォンの体を鍛えるための純粋な戦闘訓練だ。奇策に頼ったら意味がない。
彼は勢いよく地を蹴った。
地面がえぐれ、水気を失い黄緑がかった芝と、干からびた土が宙を舞う。
野生の獣のような、しなやかな動きで、瞬時に間合いを詰めた。背中で編まれた髪が、彼のあとを追いかけるように風を薙ぐ。毛先を留める青い飾り紐の中央で、金の鈴がぎらりと輝いた。
リュイセンの双刀が放つ、鋭利な銀光を恐れず、一気に懐に入り込み――。
「痛ってぇ……」
……またしても、一瞬で地面に落とされた。
「なんでだよ……」
ルイフォンが大の字になって体を投げ出すと、暑さに負けて枯れた芝が、ふわりと浮き上がる。
何がどうなったのか、まるで理解できない。打ち身はあるものの、傷はないのだ。臨戦態勢をとっていた兄貴分の双刀は、いったいどんな軌道を描いたというのだろう?
「そろそろ、体力の限界か? だんだん動きが鈍くなっているぞ」
炎天下にありながら、涼し気な顔でリュイセンが微笑む。普段、空調の効きすぎた仕事部屋で生活しているルイフォンからすれば、信じられないような化け物である。
とはいえ、『何かあったとき、そこが快適な空間とは限らないから』と言って、ルイフォンのほうから、わざわざこの過酷な環境での鍛錬を申し込んだのだ。悪く言っては、ばちが当たる。
そのとき。
「ちょっと、あなたたち! 真夏の昼間に、馬鹿なことしないの!」
「ん?」
迫力ある美声に上体を起こせば、きらきらとした透明な光の雫が、ルイフォンの頭上から降り注がれた。
「うわっ!? ――冷てっ……」
ずぶ濡れになりながら見やれば、放水用のホースを手にしたミンウェイが仁王立ちになっている。火照った体に、冷水は生き返るような心地よさであるが、少々、水流が強く、地味に痛い。
「ルイフォン! いくら鍛えたいからといって、無茶をすればいいってものじゃないのよ!」
ミンウェイは水を止め、腕に提げていた袋から電解質飲料のボトルを投げてきた。せっかくの美女を台無しにして角を生やしているが、面倒見のよさは相変わらずである。
「ほら、リュイセンも!」
彼女は、涼しげに結い上げた髪を揺らしながら、つかつかとリュイセンに近づく。「えいっ」と小さな掛け声と共に背伸びをして、彼の頬に、よく冷えた電解質飲料のボトルをぺたりと押しつけた。
その瞬間、リュイセンの美貌がびくりと震えた。それは、ミンウェイの差し入れが、ひやりと肌を刺したためなのか。それとも、至近距離から漂った、彼女の草の香のせいなのか……。
ほんの刹那の間をおいて、リュイセンが「ありがとう」と優しげな笑みを浮かべる。
そんなふたりを、ルイフォンは電解質飲料で喉を潤しながら、芝生から見上げていた。
大柄のリュイセンの傍らに、すらりと背の高いミンウェイの麗姿が並ぶと、実に絵になる。特に最近、リュイセンのまとう雰囲気は包容力にあふれ、顔つきも大人びてきた。ミンウェイのほうも、今まで、どことなく見えない壁があったのだが、それが綺麗に払拭された気がする。
歳はリュイセンのほうが、だいぶ下であるが、そんな些末な問題を気にするほうがおかしいだろう。
――美男美女で、お似合いだな。
声に出さずに独り言つルイフォンの耳に、ミンウェイの棘のある声が響いた。
「リュイセン、『できるだけ早く、目を通しておくように』って言った書類、ほったらかしでしょう!」
「す、すまん! あとで、必ず!」
立派な体躯をすぼめ、リュイセンが頭を下げる。
……まぁ、尻に敷かれているけど。
ルイフォンは苦笑する。
さて、この空間から、どうやって自然に抜け出そうか。
画策を始めた彼の目に、実にちょうどいいタイミングで、屋敷のほうから近づいてくるメイシアの姿が映った。ミンウェイの助手のときは私服姿なのだが、今はメイド服なので、厨房の手伝いの途中――おそらく、お茶にしようと呼びに来てくれたのだろう。
「メイシア!」
彼が勢いよく立ち上がると、背中で編まれた髪が跳ね、水滴を撒き散らした。ぐっしょりと重くなったシャツからも、ぼたぼたと水が垂れてくる。
「ルイフォン!? タオル、持ってくる!」
濡れ鼠の彼に驚いたメイシアが、慌てて踵を返す。
「いいって! こんなのすぐに乾くから!」
水を含み、いつも以上に癖の強くなった前髪を掻き上げ、ルイフォンはメイシアを追いかける。――追いかけるふりをして、そっとこの場を去ろうとした。
しかし――。
まっすぐに屋敷に向かうものと思われたメイシアは、ルイフォンの視線の少し先で立ち止まる。そして、彼女のあとから歩いてきたらしい人物に頭を下げた。
「エルファン様、申し訳ございません。ただちに、ルイフォンの着替えを用意してまいります」
「ああ、分かっている。……だが、そんなに甲斐甲斐しくルイフォンの世話など焼かなくともよいであろう? お前は、あいつの召使いではないのだからな」
そう返したのは、次期総帥の位をリュイセンに譲り、今は前から担当していた諜報関係の仕事に専念しているエルファンである。今のやり取りからすると、どうやら、エルファンはルイフォンに用事があり、メイシアに案内してもらってきた、ということのようだ。
いつもの無表情がやや渋面なのは、ルイフォンに尽くしてくれるメイシアに、エルファンなりの気遣いやら、申し訳なさがあるためらしい。ルイフォンだって、メイシアには本当に感謝している。彼にはもったいないくらいの相手であるが、誰にも渡すつもりはない。
「エルファン、何かあったんだな?」
ルイフォンが駆け寄り、単刀直入に尋ねると、エルファンは表情を変えぬままに低い声で答えた。
「摂政に動きがあった」
「!」
息を呑んだルイフォンのそばで、エルファンは少し離れたところへと視線を移す。
「リュイセンとミンウェイも、執務室に来い」
濡れた服を着替え、執務室に急行すれば、既に皆が揃っていた。
総帥イーレオに、護衛のチャオラウ。
先ほどまで一緒だった、リュイセンとミンウェイが並んで座っており、メイド服姿のままのメイシアが冷えたお茶を配っている。
そして、今回の会議の招集をかけたエルファンが、感情の読めぬ顔で腕を組んでいた。
ルイフォンが「遅れました」と会釈して着席すると、イーレオが早速とばかりに口を開く。
「王宮に潜入させていた者から連絡があったとの、エルファンの報告だ。――エルファン」
「はい」
玲瓏な声が響くと、場の空気が緊張を帯びた。
鷹刀一族は、イーレオが総帥となったときから、〈七つの大罪〉――すなわち、王家との関係を絶っている。しかし、凶賊という組織を運営する以上、国の動向には常に注意を払っておく必要がある。そのため、前々から息の掛かった者を王宮に配置していたのであるが、この春以降、更に人員を増やしていた。
「菖蒲の館にあった〈蝿〉の研究室が爆破され、『ライシェン』と〈蝿〉が消えた件に関して、摂政は鷹刀の仕業だと確信している――正確には、セレイエが鷹刀に匿われており、彼女の指示で動いたと考えていることは、以前にも報告した。そして今回、摂政は、セレイエの手掛かりを求めて、鷹刀の屋敷を家宅捜索することに決めたらしい」
その瞬間、一同のまとう雰囲気の色が変わった。
それは、摂政を恐れる弱腰の色合いではない。ついに――否、『やっと』、その気になったのかと、鈍重な摂政への嘲りすら含んだ覇気にあふれた彩りである。
「メイシアが鷹刀に来たときみたいに、また警察隊が屋敷を取り囲んで、押し寄せてくるのか」
猫の目をすっと細め、ルイフォンは好戦的に口の端を上げた。
メイシアが天上の貴族の世界から、地に棲む凶賊の彼のもとへと舞い降りてきたときも、鷹刀一族の屋敷は軍靴に蹂躙された。凶悪な凶賊に誘拐された貴族令嬢を救い出すという名目で、警察隊が乗り込んできたのである。
「それで、摂政はどんな口実を思いついたんだ?」
如何な摂政といえど、なんの理由もなしに家宅捜索はできまい。あくまでも建前に過ぎないが、何かしらの難癖をでっち上げたはずだ。
ルイフォンの問いに、エルファンは眉間に皺を寄せた。
「今回は警察隊ではなく、近衛隊が出動する」
「え?」
警察隊なら、厄介ではあるものの、軽くあしらえるという感覚がある。何故なら、凶賊にとって警察隊は、腐れ縁のような間柄だからだ。しかし、国の威信を背負った近衛隊となると、話が変わってくる。
前例のない相手であるために、ルイフォンはどう捉えたらよいのか戸惑った。それは他の者たちも同じようで、微妙な空気となった執務室に、エルファンの声だけが淡々と響く。
「摂政の言い分は、こうだ」
摂政は、凶賊に狙われている『国宝級の科学者』を菖蒲の庭園で保護していたのだが、何者かに拉致された。
その直前、科学者は不可解な行動を取った。
『身辺警護のために私費で雇っていた者の中に間者が混じっており、大事な研究が盗まれた。そいつを逃さないために、門を閉じてくれ』と、門衛に連絡する一方で、『客人を招くので、その車は失礼のないように中へ通せ』と命じたのである。
これはすなわち、盗まれた研究を盾に科学者は脅され、外部で待機していた『客人』こと、科学者を狙っていた凶賊によって連れ去られたものと考えられる。
そして、『客人』の顔を目撃した近衛隊員の証言からすると、犯人が鷹刀一族の者であることは、ほぼ間違いない――。
「『国宝級の科学者』――つまり〈蝿〉が、近衛隊の警護対象だったから、今回の家宅捜索は、近衛隊の管轄であるらしい」
説明を終えたエルファンに、ルイフォンはすかさず口を挟んだ。
「ちょっと待てよ。『客人』の顔を見たって……あのとき、俺たちの車はスモークガラスだったよな? しかも全員、それとなく顔を隠すように気をつけていたはずだ」
「だから、お前がさっき言った通り、これはただの『口実』だ。〈蝿〉――ヘイシャオの〈影〉が、実際に取った行動をうまく繋ぎ合わせて、それらしく作り上げた妄言に過ぎん」
「……っ、そういうことか」
実に、よく整合性の取れた『作り話』だった。そう認めるのも面白くなくて、ルイフォンは鼻を鳴らす。
「更に、事情聴取と称して、総帥である父上に出頭を要請するつもりらしい」
当然といえば、当然の流れだろう。
「けど、そういうのって『任意』だろ? 拒否だな」
当のイーレオを差し置き、ルイフォンが一蹴した。あの摂政なら、高圧的に権力を振りかざしてくると分かりきってはいたが、やはり不快だったのだ。
しかし、ひとり掛けのソファーで優雅に頬杖を付いていたイーレオが、にやりと口角を上げた。まるで、ルイフォンがそう言い出すことを見越しての、『掛かったな』とばかりの仕草である。
「親父?」
ルイフォンは眉をひそめた。
「〈猫〉。鷹刀としては応じるつもりだ」
「――!?」
予想外の言葉に、ルイフォンは刹那、耳を疑う。
彼を『〈猫〉』の名で呼ぶということは、すなわち、『鷹刀』ではない者は口を出すな、という牽制だ。
「どうしてだよ!?」
ルイフォンは鋭く叫び、牙をむいた。
1.颶風の到来-2
事情聴取などというのは建前で、イーレオを拘束するための罠に決まっている。しかし、一族を統べる総帥は、魅惑の低音を響かせた。
「王国一の凶賊としては、売られた喧嘩は買うべきだろう?」
「――っ!」
ルイフォンは声を詰まらせる。
イーレオの弁は、決して間違いではない。
凶賊たる者、『舐められたら、終わり』だ。
しかし、それはあくまでも凶賊同士、あるいは少なくとも平民なり、自由民なりの同等以下の身分の者が相手の場合だ。現時点において、この国で最高の権力を持つ摂政が相手では、あまりにも分が悪すぎる。
ルイフォンが、そう反論しようとしたとき、「ただし」と、組んだ足を優雅に組み替えながら、イーレオは付け加えた。
「総帥たる俺自らが出向いてやるのでは、いささか譲歩が過ぎる。よって、『高齢』の俺に代わり、エルファンを『総帥代理』として立てる」
宣言と共に、一族の王は低く喉を鳴らした。
「!?」
含みを感じたルイフォンは詰問の眼差しを向けたが、イーレオはそれを華麗にかわし、エルファンに視線を送った。水を向けられた『総帥代理』は頷き、総帥イーレオと同じ声質、同じ人を喰ったような調子で言を継ぐ。
「本来なら、総帥の代理は次期総帥が務めるものであるが、リュイセンはまだ役職に就いたばかりだからな。ここは、前の次期総帥である私が名代となるほうが、礼儀に適っているであろう」
「……」
どうやら、イーレオとエルファンの間で、先に話がついているらしい。
――筋は通っているのか……?
リュイセンやミンウェイは、単身で敵地に乗り込むも同然のエルファンを心配しつつも、妥当な判断だと納得している様子だ。リュイセンなどは、自分の未熟さ故に、父を危険に晒すのだと、歯噛みしているようにも見える。
……しかし。
やはり不利だと分かりきっている挑発に、あえて乗るべきではないはずだ。
ルイフォンが一族に名を連ねていれば食い下がるところなのであるが、あいにく彼には、その資格がない。もどかしさに、ぐしゃぐしゃと前髪を掻き上げ、いつの間にか前のめりになっていた体をソファーの背に投げ出すと、援軍は思わぬところから現れた。
「申し訳ございません。発言の許可を願います」
ルイフォンのすぐそばで、凛と澄んだ高い声が響いた。険しい色合いの黒曜石の瞳が、じっとイーレオを捕らえている。
唐突なメイシアの挙手に、イーレオは意外な顔をしたが、すぐに「よかろう」と応じた。
「あまり、このようなことを申し上げたくはないのですが、もと貴族として言わせてください。――カイウォル摂政殿下の求めに応じるのは、あまりにも危険です。王族や貴族は、目つきが気に食わないというだけで、平民や自由民を斬首することすらあります。それが許されると考えておりますし、事実、罪に問われることもありません」
メイシアは、膝に載せた手をぐっと握りしめた。彼女は王族に近い血統の貴族の出自だが、敬愛する継母が平民であり、身分というものに対して理不尽に思っている節がある。
「エルファン様は、武術の腕も立てば、弁舌にも優れてらっしゃいます。しかし、恐れながら、摂政殿下はそれが通じる相手ではございません。適当な理由をつけて拘留――人質にされてしまうことと存じます。……どうか、今一度、お考え直しください」
メイシアは薄紅色の唇をきつく結んだ。肉体を傷つけ合う荒事とは縁遠かった彼女であるが、それ以外の箇所を攻撃する揉め事であれば、今まで決して無縁というわけではなかったらしい。
「メイシア……」
ルイフォンの声に彼女は振り向き、はっと口元に手を当てると、みるみるうちに顔色を失っていった。国一番の凶賊に対して無礼であったと、今更のように焦っているらしい。
だから彼は、彼女の髪をくしゃりと撫でる。萎縮することはない。むしろ胸を張るべきだと。もと貴族である彼女の言葉は、とても価値のある情報なのだから。
少し前までのルイフォンだったら、メイシアに貴族の匂いを感じたら、どこか引け目のような感情を抱いた。だが今は、違う世界から来た彼女とだからこそ、補い合えるのだと思える。
「親父、メイシアの言うことはもっともだ。鷹刀から抜けた俺が言うのは筋違いかもしれねぇが、危険……じゃねぇな、『無謀』なことはやめてくれ」
メイシアの肩を抱き寄せ、ルイフォンはイーレオに訴える。
そんなふたりに、イーレオは眼鏡の奥の目を細め、柔らかに破顔した。
「〈猫〉および、そのパートナーの気遣い、感謝する。――だが、危険は承知の上だ」
「だったら……!」
「だからこそ、だ。――放置しておけば、摂政は図に乗ってくる。先に叩いておく必要があるのさ」
「けど……」
「そのための人選がエルファンだ」
イーレオの言葉に続き、エルファンも「私に任せろ」と、玲瓏とした声を響かせる。
「すまないが、お前たちは、この件から手を引いてくれ」
畳み掛けるように続けられたイーレオの言葉は、きっぱりとした拒絶だった。
「…………」
イーレオとエルファンは、あらかじめ話し合っており、既に心を決めている。そして、どうやら無策というわけでもないらしい。
ただ、その方策は、この場で堂々と言えるほどの妙案ではないために、リュイセンたちを不安にさせないよう、詳細を黙っている。
ルイフォンはメイシアと視線を交わし、同時に頷いた。
イーレオが『〈猫〉および、そのパートナー』と呼びかけた以上、ここは立ち入ってはいけない領域だ。ならば、信じて引くべきだろう。
「分かった。鷹刀のことには、俺たちは口出ししない」
無機質な〈猫〉の顔でルイフォンが告げると、イーレオは満足気に口元をほころばせた。
「ああ、助かる。――それから、お前たちは、この屋敷を出ろ」
「え!?」
寝耳に水だった。
「家宅捜索の際に、『死んだはずの貴族令嬢』の姿が見つかると厄介だからな。鷹刀としても、痛くもない腹を探られたくはない」
「――!」
イーレオの言うことは正論だった。
そして、一族ではないルイフォンたちは、あくまでも『好意で、この屋敷に住まわせてもらっている』だけだ。主であるイーレオが『出ていけ』と言ったら逆らうことはできない。
メイシアとふたりで、〈ケル〉の家に移動するか。――そう考えたとき、まるでルイフォンの思考を読んでいたかのように、イーレオが告げる。
「草薙家に行け。話は付けてある」
「なっ……? レイウェンの家?」
もと一族であるリュイセンの兄レイウェンは、服飾会社に加え、警備会社も経営している。彼の草薙家であれば、万一のときの守りは固いだろう。
イーレオは、気づいていたのだ。このところ、ルイフォンが柄にもなく鍛錬に精を出しているのは、メイシアが生きていることを知っている摂政が、彼女に害を為すのではないかと恐れているためだと。だから、安心して身を寄せることのできる場所を手配してくれたのだ。
「親父……」
小さく呟いたまま声を失うと、イーレオが「そんな顔をするな」と苦笑した。
「この屋敷にいる人間全員が、拘束されたとしてもおかしくない状況になるからな。お前たちに限らず、正式な一族ではない者には暇を出すつもりだ」
「……っ」
ルイフォンは唇を噛んだ。
まだ、具体的に何が起きたというわけではない。単にイーレオが、用心深くあろうとしているだけ、ということも分かっている。それでも、天下の鷹刀一族が、かつてないほどに追い込まれているような気がして、やり場のない苛立ちが募る。
「ルイフォン」
不意に、名を呼ばれた。
無意識のうちにうつむいていた顔を上げると、泰然と構えた頬杖の上からの視線とぶつかる。深い海の色をたたえたイーレオの双眸は、無限の慈愛に満ちていた。
――守る者の目だ。
ルイフォンは指先を伸ばし、隣に座るメイシアの手をぎゅっと握った。彼女が狼狽の息を漏らすのも構わず、好戦的な猫の目でイーレオを見返す。
――分かった。俺はメイシアを守る。だから、親父は一族を守ってくれ。
ルイフォンは気持ちを切り替えると、事務的な口調で問う。
「鷹刀の総帥。〈猫〉および、そのパートナーは、可及的速やかに、この屋敷を発つことにするが、『ライシェン』はどうする? 草薙家は、それなりに人の出入りがあるから、俺たちと一緒に連れて行くのは望ましくないだろう。かといって、近衛隊が家宅捜索に来るこの屋敷にも置いておけないし、無人の家だが〈ケル〉に預けるべきか?」
摂政は『拉致された、国宝級の科学者』を探していることになっているが、真に行方を追っているのは、消息不明のセレイエと、連れ去られた『ライシェン』だ。『ライシェン』を見つけられるわけにはいかない。
「ああ。『ライシェン』については、お前と相談しようと思っていたところだ。今ならまだ、この屋敷から運び出しても大丈夫だと思うが……」
イーレオがそう言ったときだった。
〔それは、ちょっと不用心じゃなぁい?〕
執務室の天井のスピーカーから、かすかな雑音と共に、高飛車な女の嘲笑が響いた。
「〈ベロ〉!?」
艶めく美声でありながらも、何故か耳をつんざく騒音にしか聞こえない声は、聞き間違えようもない。人の世には関わらないと言っていたはずの〈ベロ〉の乱入に、ルイフォンは驚愕する。
〔既に鷹刀が目を付けられているのなら、手入れの直前に、『ライシェン』を無人の家に運び出すなんて、愚の骨頂よ。『ここに怪しいものを隠しましたよ』って暴露しているようなものでしょう?〕
「だが……」
イーレオにしては珍しく、語尾が弱気に細った。それは反論されたからではなく、相手が〈ベロ〉――イーレオを育てた女をもとに作られた有機コンピュータだからだろう。
〔このまま、私が預かってあげるわよ〕
まさかの申し出だった。
「本当か!?」
ルイフォンは思わず立ち上がり、スピーカーに向かって叫んだ。屋敷の地下にいる〈ベロ〉には、隠しカメラと隠しマイクに語りかけるべきなのだが、とっさの動作なので間違えるのは仕方ない。
「けど、この屋敷には近衛隊が来る。隠し通せるのか?」
自分から申し出たからには、自信があるのだろう。そう思いつつ、確認のためにルイフォンは尋ねる。
〔大丈夫よ。いざとなったら、私が手を下すこともできるけど、そもそも、私のいる小部屋は、完全に存在を隠せるような構造になっているのよ?〕
「……え?」
〔キリファが、ダミーの壁を用意しておいたの。知らなかったでしょう?〕
高圧的な物言いのあとに哄笑が続き、ルイフォンは顔をしかめながら耳をふさぐ。
ともかく、どうやら〈ベロ〉に任せるのが得策のようだ。
『いざとなったら』、〈ベロ〉が何をやらかすつもりなのかは気になるが、きっと訊かないほうがよいのだろう。それに、彼女が素直に答えてくれるとも思えない。
「〈ベロ〉、ありがとう。――『ライシェン』を頼んだ!」
〔何を言っているのよ。現状と何も変わらないわ。ただ、お前が小部屋を隠すだけ〕
ほら、私は人の世には関わってないでしょ? と〈ベロ〉が笑う。
「方針が決まったな」
よく通るイーレオの低音が響き、皆の顔が引き締まった。
そして、会議はお開きとなった。
執務室を出ると、ルイフォンは早速、屋敷を発つ準備に取り掛かった。
とはいっても、荷物をまとめるわけではない。ものにこだわらない彼は、身の回りのものなら、どこででも調達できると考えている。手ぶらだって構わないのだ。
だから、彼が向かったのは仕事部屋だ。彼――すなわち〈猫〉が留守の間に行われる家宅捜索に備え、屋敷の電子的な守りを固めておくためだ。
もともと建物の内外を問わず、敷地内には山ほどの監視カメラが設置されているのだが、それでも死角は残る。それを補うため、映像の差分を自動で分析し、近衛隊のあらゆる行動を把握。不審な動きがあれば、即座に通知が来るよう設定する。
また、盗聴器の類が仕掛けられたら検知できるように、電圧や電波の揺らぎを計測しておき、あとで速やかに撤去できるようにしておく。敷地内では〈猫〉の許可のない電波を妨害する細工が施されているのだが、それはあえて解除し、近衛隊の通信を傍受可能にしておく――などだ。
これからの作業の手順を考えながら、ルイフォンは駆け込むように仕事部屋に入っていく。そして、同じく執務室から、まっすぐにここまでやって来たメイシアは、彼を追うことなく、無言で隣の彼の自室へと気配を消した。
〈猫〉の為すべき準備を理解している彼女は、何も言わなくとも、壁の向こうで彼と彼女自身のふたり分の出立の用意をしてくれているのだ。本当によくできたパートナーである。
ルイフォンは自然と緩んだ口元を引き締めると、メイシアが魔法陣と呼ぶ、円形に配置された机の輪の中に足を踏み入れた。魔術師たる彼は愛用のOAグラスを鼻に載せ、機械類と向き合う。
正式な一族からは抜けたとはいえ、大切な居場所である鷹刀を守るのだ。凶賊たちのような強靭な肉体は持ち合わせていない彼だが、彼に――〈猫〉にしかできないことがあるのだから。
無機質な〈猫〉の顔で思考を巡らせ、熟練のピアニストが如き指使いで、彼は打鍵の音律を奏でていく……。
非常時の対策は、日頃から講じていたため、作業を終えるまで、それほどの時間は掛からなかった。
ルイフォンはOAグラスを外し、机の上に置く。目の周りをほぐすように押さえ、ふと横を見た瞬間、彼は心臓が飛び出るほど驚いた。
「エルファン!?」
鷹刀一族の直系そのものの大柄な体躯が、いつも机の下にしまってある小さな丸椅子の上に優雅に収まっていた。
「作業は終わったのか?」
エルファンは氷の美貌をわずかに傾け、事務的な調子で尋ねる。
「あ、ああ……」
……いつからそこにいたのだろうか。
作業中は過度に集中するため、まるで周りが見えなくなるのがルイフォンの特徴だ。しかし、この至近距離で気づかないのは、エルファンの気配がなさすぎるからに違いない。
「あ……! 急用か!?」
ルイフォンは反射的に腰を浮かせた。
次期総帥の位を退いてから、時々、エルファンは連絡係を買って出るようになった。屋敷の者たちは「何も、エルファン様がそんなことをしなくても……」と口を揃えて言うのだが、「直接、人と顔を合わせるのも悪くなかろう?」と、今までに見せたことのないような柔らかな微笑を浮かべるのである。
「急用ではない。私が個人的にお前に用があって来た」
「え?」
「お前は作業中だと、隣の部屋でメイシアに教えてもらったのでな。終わるまで待っていた」
ルイフォンは目を瞬かせた。およそ、エルファンらしくない行動に思えた。
唖然としていると、「自分の服くらい、自分で鞄に詰めろ」と、凍れる低音が付け足される。メイシアの荷造りを目撃したからには、身内として、ひとこと言わねばなるまい、という義務感だろうか。他人に干渉しない性質のエルファンにしては、これも珍しい。
「……メイシアには、いつも感謝している」
ばつが悪くて目線を下げると、エルファンの口から苦笑が漏れた。それも、驚くほどに優しげな顔だった。
「ならばよい。――大事にしろ」
「当然だ」
鋭く断言したルイフォンに、エルファンは満足げに頷く。それから、いつもの無表情に戻り、ぐるりと周りを取り囲む機械類を見やった。
「お前も、〈猫〉の仕事、ご苦労だったな。鷹刀のためにすまない。ありがとう」
「感謝されることじゃない。これは〈猫〉が為すべきことだ」
そして、唇を噛み、あとで詫びねばと思っていたことを付け加える。
「それより、〈猫〉は鷹刀の諜報担当であるにも関わらず、摂政の動向を掴むことができなかった。――失態だ」
実は、初めに報を聞いたときから、密かに落ち込んでいた。
エルファンが掴むことのできた情報を、ルイフォンは手に入れられなかった。理由は分かっているのだが、それでも口惜しく思う。
「仕方ないさ。お前はクラッカー――電子化された情報に特化した情報屋だからな。摂政が、お前と同じ特技を持ったセレイエを警戒している現状では、重要な情報は電子化されない。それでは何もできまい」
「……その通りなんだけどさ」
ルイフォンは、ふてくされたように答える。どうしようもないとはいえ、〈猫〉が情報屋として役に立たないのは致命的だろう。
「気に病むことはない。我々は〈猫〉に助けられている。お前のおかげで、電子的な屋敷の守りは万全なのだ。……だから、私も安心して、事情聴取に出掛けられる」
まっすぐに向けられた、相変わらずの氷の美貌。
――なのに。どこか、いつもと違った。
「エルファン……?」
「……ルイフォン」
艶めく低音が、ためらうように彼の名を呼んだ。
「……私は、お前の…………」
確かに、何かを言いかけた。
けれど、エルファンは途中で口を閉ざし、穏やかに口の端を上げる。
「なんでもない」
「エルファン?」
「私も、私にしかできないことをしてくる――というだけだ」
「え?」
そして。
まるでなんの予備動作もなく、ごく自然にエルファンの手が近づいてきた。
癖の強いルイフォンの前髪を指で梳き、くしゃりと撫でる。
「!?」
それは、ルイフォンの癖で。
もともとは、母の癖がいつの間にか移っていたもので。
母は、それを誰から――。
「作業中のお前の横顔……キリファに似ていたな」
エルファンは愛しげに目を細めると、立ち上がった。そのまま、ゆっくりと広い背中が部屋を出ていく。
ルイフォンは、何故か呼び止めることができなかった。
エルファンが彼を訪れた目的である『個人的な用事』とは何か。結局、分からずじまいであった。
2.暗雲を解かした綾のような-1
摂政による家宅捜索に備え、一族ではないルイフォンとメイシアは屋敷を出る。――そう決まった翌日には、ふたりは移動先である草薙家を訪れていた。
洒落た門扉の前で車が停まると、「いらっしゃい!」と、一人娘のクーティエが可憐な声で出迎えてくれた。彼女は素早く門を開け、待ちわびていたことを全身で表すかのように、軽やかに躍り出た。
彼女の動きに併せ、両耳の上で高く結い上げた黒髪と、それを飾るシルクサテンのリボンが流れるように舞う。まだ午前とはいえ、じりじりとした夏の暑さが漂う中、彼女の周りだけ、涼やかな風が巻き起こった。
「ようこそ、草薙家へ!」
母親のシャンリーと同じく舞い手であるクーティエは、家へと続く、緩やかな勾配のアプローチに向かって、ぴんと美しく腕を伸ばす。
クーティエだけではない。そこには、レイウェンとシャンリー夫妻にユイランの姿があり、草薙家の人々が勢揃いしていた。
ルイフォンは笑顔で挨拶をしつつ、内心では苦い思いがこみ上げた。
一家総出での出迎えは、ルイフォンたちを歓迎している――という体を取りつつ、車の運転をしてきてくれたチャオラウに会うためだ。
勿論、チャオラウはこのあとすぐに屋敷に戻る。鷹刀一族に不穏が迫っているというときに、一服していくようにと勧めたところで、長居をする性格ではないだろう。それが分かっているから、全員で門まで来たのだ。
摂政が動き出した今、護衛であるチャオラウは、イーレオのそばを離れるべきではない。家宅捜索の日は数日後だという情報が入っているが、予定が変わる可能性は皆無ではないのだ。
しかし、イーレオは『ルイフォンたちを草薙家まで送っていくように』と、チャオラウに命じ、チャオラウは眉をひそめつつも断らなかった。
これから何が起こるか分からない。今生の別れとなる可能性もある。だから、顔だけでも見せておけ。――そんなイーレオの心遣いを無下にするほど、チャオラウも愚かではなかったのだ。
養女のシャンリーを前に、相変わらずの仏頂面。しかし、彼がきちんと運転席から降りてきて言葉を交わしているという事実が、良いことであるはずなのに、ルイフォンには、やるせなく感じられる……。
「それでは。私はこれにて、鷹刀に戻ります」
ルイフォンとメイシアがトランクから荷物を出し終えると、チャオラウが暇を告げた。
シャンリーの体が強張る。男装の麗人と謳われる、凛々しい顔が歪む。心なしか目が腫れぼったく見えるのは気のせいではないだろう。以前、『リュイセンが死んだかもしれない』という報をもたらしたときの様子から、彼女が意外に涙もろいことを、ルイフォンは知っている。
そんな彼女の肩を、夫のレイウェンがそっと抱き寄せた。
チャオラウが破顔する。それは、この場にふさわしい表情ではなかったが、養女に向かって『果報者め』と安堵する、満足げな顔だった。
「義父上、鷹刀をお願いいたします」
「承知いたしました」
甘やかでありながらも、鋭く冴え渡ったレイウェンの低音に、チャオラウは口元を引き締め、一礼する。
レイウェンは「ありがとうございます」と応じると、シャンリーの肩に手を回したまま、流れるような身のこなしで、すっと横に動いた。決して強引ではない、優雅な振る舞いであるのだが、どこか不自然で――。
ルイフォンが違和感に首をかしげたとき、レイウェンが『なんでもないふりをしてくれ』と目配せをしてきた。
そして。
チャオラウの前には、取り残されたようにユイランがたたずんでいた。
ユイランは、惹き寄せられるようにチャオラウを見上げる。結い上げられた銀髪が揺れ、陽の光を透かしてきらきらと輝く。
「チャオラウ……」
切れ長の目がすっと細められた。白髪混じりの長い睫毛がきらりと光る。
「…………皆を、頼みます」
涼やかな美声が奏でられると、チャオラウは立派な体躯を誇示するように胸を張った。
「お任せください。ユイラン様」
恐れを知らぬ猛者の顔で、朗らかに笑う。
チャオラウがぐっと口角を上げたとき、ルイフォンは初めて、彼の無精髭が今日は綺麗に剃られていることと、彼らの想いに気づいた。
チャオラウの運転する車が小さくなっていくのを見送っていると、出し抜けに野太い声が聞こえてきた。
「社長! 荷物運びに参りました!」
ルイフォンが振り返ると、家へと続くアプローチの勾配を大きな影が下ってくるのが見えた。
浅黒い肌の小山のような巨漢と、その肩にちょこんと乗った小さな女の子――タオロンとファンルゥの父娘である。タイミングよく現れたことから察するに、どうやら、チャオラウとの水入らずの挨拶の邪魔にならないよう、どこかで待機を命じられていたらしい。
〈蝿〉の庭園を出たあと、タオロンはレイウェンの経営する警備会社に就職した。約束通り、この家に住み込みで働いていて、彼が仕事に行っている間は、シャンリーかユイランが、ファンルゥの面倒を見ている。
「ご苦労様。ありがとう」
レイウェンが柔らかな笑みで応えると、タオロンは「いえ」と慌てたように手を振った。
「俺もファンルゥも、早くルイフォンたちに会いたかったですから」
そう言って、嬉しそうに白い歯を見せる。
「ねぇ、パパ!」
ファンルゥが、タオロンの額に巻かれた赤いバンダナを引っ張った。タオロンは「すまん、すまん」と言って、娘を肩から降ろす。
「メイシア! 会いたかったぁ!」
子供特有の高い声を響かせ、ファンルゥがメイシアへと駆け寄る。元気な癖っ毛が跳ね、その髪に結ばれたシルクサテンのリボンが踊った。
メイシアが「あ!」と声を上げるのと同時に、ファンルゥは、その場でくるりと一回転する。
「見て! クーちゃんと、お揃いなの!」
得意げに笑うファンルゥの隣に、クーティエが並んでポーズを取る。ふたりは同じ髪飾りと、同じデザインのシャツとミニスカートを身に着けており、まるで仲の良い姉妹のようであった。
「ふたりとも、凄く可愛い!」
メイシアの声も、つられたように浮かれる。
そんな和気あいあいとした再会に、湿った顔をしていたユイランの口元がほころぶ。そういえば、ファンルゥが草薙家に来るという話が出たとき、彼女は『元気な女の子に服を作ってあげられる』と張り切っていたのだ。
女性たちの話の輪に入るのも気後れして、ルイフォンが少し離れたところで微笑ましげに見守っていると、大きな影がぬっと近づいてきた。
「ルイフォン、お前のおかげだ。ありがとなぁ」
巨漢のタオロンが、ひと回り小さくなったかと思うほどに、深々と頭を下げてきた。なんとなく、涙ぐんでいるようにも感じられる。
「俺たちは今、夢のような生活を送っている」
「おいおい。感謝なら、俺じゃなくてシャンリーやレイウェンに」
「勿論、姐さんと社長には、頭が上がらない。……しかも、強い」
急に声色が変わり、タオロンが大真面目に告げる。武を頼りに生きてきた彼としては、強さは人間を評価する上で、重要な要因らしい。
「姐さんには勝てなくとも、かろうじて負けねぇくらいにはもっていけるようになった。だが、社長が鬼神のように強い。いつも完敗だ。あの外見で、どうして……ああ、いや、人を見かけで判断しちゃいけねぇけどよ」
ルイフォンは苦笑した。タオロンの言いたいことは分かる。鷹刀一族の美麗な容姿に、物腰の柔らかさが加わったレイウェンは、荒事とは、ほど遠い印象なのだ。
しかし、レイウェンは強い。
ルイフォンも話に聞いただけなのであるが、レイウェンは一族を抜ける際、一族最強といわれるチャオラウとの決闘を制している。つまり、相当の使い手のはずだ。
「それからよ」
タオロンの弾んだ声が続く。彼とは長い付き合いというわけではないのだが、いつになく饒舌な気がした。
「銃器の扱いも習っている。もう凶賊じゃねぇからよ。俺は、どんな武器でも使いこなせる立派な警備員になるぜ」
太い眉がぐっと寄り、強い意志を示す。その顔に、ルイフォンは思わず呟く。
「よかったな。……本当に」
「ありがとな」
タオロンは満面の笑みで返した。
これまでの彼は、たとえ豪快に笑っていても、どこか切羽詰まったような余裕のなさが感じられた。それが今は、実にのびのびとした良い顔をしていた。
「さて。暑いですし、そろそろ移動しましょう」
レイウェンが魅惑の低音を響かせた。その涼しげで甘やかな笑みから、ルイフォンはふと思う。
――皆の雰囲気を明るくするために、レイウェンは、このタイミングでタオロンたちを呼んだのではないだろうか。
ただの邪推だろうか? そう思ったとき、レイウェンの長身がすっと寄ってきた。
「ルイフォン、あとで私の書斎に来てほしい。話をしたい」
「!?」
彼の父エルファンとそっくりな、感情の読めない声でそっと耳打ちをすると、何ごともなかったかのようにレイウェンは去っていった。
案内された部屋での荷解きもそこそこに、ルイフォンはレイウェンの書斎を訪れた。本当は、もう少し片付けてからのつもりであったのだが、気もそぞろな彼に、メイシアが「こっちは大丈夫だから」と送り出してくれたのだ。
「よく来てくれたね」
壁一面、本で埋め尽くされた部屋であった。ルイフォンの仕事部屋の壁も、専門書でぎっしりであるが、レイウェンの書斎は経営から服飾関係、武術にまで多岐に渡っている。
奥の机で書き物をしていたレイウェンは立ち上がり、手前のソファーへとルイフォンを誘った。ルイフォンが促されるままに腰を下ろすと、レイウェンは柔らかな所作で、音もなく向かいに座る。
その瞬間、ルイフォンの背筋が伸びた。
よく見慣れた生粋の鷹刀一族の顔貌に、鍛えられた大柄の体躯。――なのに、レイウェンのまとう雰囲気は穏やかで、微塵にも威圧がない。この顔の者は多かれ少なかれ高圧的で、自己主張が強いのが当たり前のルイフォンにとっては、非常に落ち着かない。
……人当たりがよいほうが、逆に居心地が悪いって、どういうことだよ?
自分自身に突っ込むが、内心の声は誰かに聞こえるわけもなく、相槌を打つ者も、茶々を入れる者もないままに、不自然な彼の息遣いだけが表に出された。
「それで、話ってなんだ?」
余計な考えを振り払うように、ルイフォンは自分から切り出す。
「父上が、摂政殿下の事情聴取に応じると聞いたよ。……総帥の祖父上でもなく、次期総帥となったリュイセンでもなくて、父上が行くのだと。そのあたりのことを――鷹刀の皆の様子を詳しく教えてほしいんだ」
ほんの少し眉を寄せつつ、レイウェンが静かに告げた。
「あ……。そうか、そうだよな」
ルイフォンは拍子抜けした。
改まって呼び出したからには、レイウェンのほうから何か重大な話でも持ちかけてくるのかと思っていたのだが、逆にレイウェンのほうが知りたがっていたとは……。
よく考えれば、一族から『絶縁』の扱いになっているレイウェンには、詳しい情報がいかないのだった。彼にしてみれば、現状は気がかりでならないのだろう。
「分かった」
ルイフォンは快諾し、昨日の会議の経緯を話し始めた。
「――なるほどね」
長い指を口元に添え、思案するようにレイウェンが呟いた。魅惑の声質は変わらぬものの、いつもの甘やかさに欠けている。
ルイフォンは不安を覚え、反射的に口走った。
「エルファンは無策で出掛けるわけじゃない。拒否できるものに、わざわざ応じる以上、そのほうが利点があると踏んだはずだ」
……ただ、その策が、会議の場で堂々と言えるほどの妙案ではないだけだ。
続けて言おうとした言葉を、ルイフォンは呑み込む。
唇を噛んだ彼に、レイウェンは柔らかな眼差しを向けた。けれど、その顔は苦笑しているようにも見え、ルイフォンはどきりとする。
見透かされているのだ。
イーレオとエルファンの判断を信じつつも、一抹の不安を拭いきれずにいるルイフォンの心の内を――。
レイウェンはルイフォンの顔を覗き込み、そっと語りかけるように口を開く。
「祖父上と父上は、摂政殿下に、なんらかの交渉を持ちかけようと考えているんだろうね」
2.暗雲を解かした綾のような-2
「交渉?」
思いもかけないレイウェンの発言に、ルイフォンは、おうむ返しに語尾を上げた。
「祖父上たちは、摂政殿下に対して『鷹刀に手を出すな』と釘を刺すつもりなんだよ。そうしておかないと、何も知らない鷹刀の末端の者たちに、どんな危害が加えられるかも分からないからね」
「あ……」
「聴取にあたるのが近衛隊でも、状況から考えて、摂政殿下は必ず顔を出すだろう。――凶賊が王族と直接、相まみえることができるなんて、普通では考えられない。だから祖父上たちは、この事情聴取を、『出頭を要請されたから行く』という受け身の姿勢ではなくて、こちらから仕掛けることのできる、『またとない好機』と捉えたんだよ」
「そう……か」
レイウェンの言葉が、すとんと胸に落ちる。
会議のとき、イーレオは『先に叩いておく必要があるのさ』と笑った。まさに、『こちらから仕掛ける』という意思表示ではないか。
「でも、どうやって……、何を交渉の材料にする?」
ルイフォンは身を乗り出した。戸惑いながらも、畳み掛ける。
「こっちの最大の切り札は、どう考えても『ライシェン』だろ? けど、もし『ライシェン』を駆け引きに使うのなら、事前に俺とメイシアに話を通したはずだ」
「『ライシェン』は違うだろう。彼は、最後の切り札だからね」
「じゃあ、何を?」
いつの間にか、問い詰めるような口調になっていた。無意識のうちに、猫の目を尖らせていたルイフォンに、レイウェンは困ったように笑う。
「ルイフォン。私は、鷹刀とは縁を切った者だ。鷹刀が今、どんな手札を持っているのかを知ることはできないんだよ」
「あ……、すまない」
即座に謝り、ルイフォンは癖の強い前髪をがしがしと掻き上げた。そんな仕草にレイウェンは口元をほころばせ、しかし、すぐに眉間に皺を寄せる。
「祖父上たちの態度から推測するに、今回、使おうとしている手札は、たいして強い札じゃない。賭けのようなものだと思うよ。――おそらく、発案者は、危険に直面することになる父上だ。父上は、意外に無鉄砲だからね」
「……っ」
ルイフォンは息を呑んだ。
昨日、仕事部屋を訪れたエルファンは、様子がおかしかった。
あのとき、どうして呼び止めなかったのか。『個人的な用事』とやらを、ちゃんと聞いておくべきではなかったのか。そんな思いが胸中を渦巻く。
押し黙ったルイフォンに、レイウェンは淡々と続けた。
「単に『事情聴取に応じる』とだけ言って詳細を伏せたのも、こちらから仕掛ける『攻勢』だとリュイセンが知れば、『次期総帥である自分が行くべきだ』と言い出すからだろうね」
「……」
「リュイセンは生真面目だから、交渉は自分には不向きだと分かっていても、それが作戦ならばやろうとする。そうなったら、さすがに次期総帥の顔を立てないわけにもいかないからね。祖父上たちは面倒なことになると思ったんだろう」
確かにそうだ。
兄貴分のことを思い浮かべ、ルイフォンは眉を曇らせる。
「レイウェン、あのさ……。昨日、リュイセンが……」
「リュイセンが――どうしたんだい?」
「夜、話をしたんだ」
しばしの別れの前に盃を傾けようと、兄貴分に誘われて彼の部屋に行った。
「あいつは落ち込んでいて、『父上は、この事態を見越して、俺に次期総帥の位を譲ったんだ』って言っていた。……正直、俺も否定できなかった」
エルファンが次期総帥の肩書きを持ったまま摂政に捕まるようなことがあれば、ことが大きくなる。だから、国を相手に全面戦争にならないよう、あらかじめ身を軽くしておいたのではないか――というわけだ。
「そうだね。先見の明のある父上のことだから、来たるべき摂政殿下との対立のために、位を退いておいたのは確かだろう」
「――っ」
ルイフォンの肩が、びくりと震えた。
その次の瞬間、レイウェンが「――でもね」と、とっておきの秘密を打ち明けるような、いたずらな子供の顔になる。
「父上に総帥になる意思がないのは、私が後継者だったときから感じていたよ」
「え?」
「だから、このタイミングでリュイセンに位を譲ったのは、あらゆる意味で都合がよかったからだ。だって、なんの手柄もなしに、リュイセンを抜擢することはできないだろう?」
「あ……!」
言われてみれば、その通りだ。
「我が弟ながら、リュイセンは凄いと思うよ」
レイウェンは目を細め、それまでの調子とは打って変わった甘やかな低音で告げる。
「私の知る限り、鷹刀に刃を向けた相手に対し、『血族として裁く』なんて言い出せる者は、リュイセンをおいて他にいない。リュイセンは〈蝿〉を尊重し、〈蝿〉を認めることによって、〈蝿〉を挫いた」
「ああ……」
「君でも私でも、あるいは祖父上や父上だって、〈蝿〉に対しては、もっと確実で効率の良い裁きを選んだはずだ。――あの状況で高潔を貫けるのはリュイセンだけだ」
穏やかなレイウェンの声に、ルイフォンは深く同意する。
「だからね、リュイセンは誰よりも、鷹刀の長にふさわしい。優しすぎて、不安もあるけれど、それは周りが補えばいいだけだろう?」
自慢げで、愛しげな笑みが広がった。
多少、兄馬鹿が過ぎるきらいはあるが、レイウェンは弟が可愛くて仕方ないのだ。リュイセンだって、たまに優秀な兄に対する劣等感でいじけることがあるが、レイウェンのことを敬愛している。
ルイフォンの頬が自然に緩んだ。
摂政への交渉について議論していたはずなのに、いつの間にか妙な方向へと話が転がってしまったが、悪い気分ではなかった。
落ち込んでいるリュイセンに、今のレイウェンの言葉を伝えてやれば、きっと喜ぶ。そろそろ、この場を切り上げて電話をしてやろう。
辞去を告げるべく、ルイフォンが腰を浮かせたときだった。
じっとこちらを見つめるレイウェンの眼差しに気づいた。弟について語った穏やかな色合いのまま、彼は口を開く。
「さて。だいぶ横道に逸れたけど、話を戻すよ。――もうひとりの『俺の異母弟』」
「――!?」
甘やかに響く、レイウェンの美声。
だのに、ルイフォンの体は、一瞬にして緊張に覆われた。
「君は〈猫〉――鷹刀の『対等な協力者』だ。私と同じく一族を抜けたけれど、縁を切ることを誓った私とは違って、正々堂々と、鷹刀に『協力』できる立場にある」
間違いないね? とばかりの、有無を言わせぬ強い視線に、ルイフォンは気圧されたように頷く。
「君は、事情聴取に関して、こんなにも気にしているくせに、どうして『協力』を申し出ないんだい?」
「……え?」
「ハオリュウさんが摂政殿下の会食に臨んだときは、君は彼の服にカメラやマイクを仕込んで送り出した。でも、今の君は、ただ事態を憂いているだけだ」
「!」
虚を衝かれた。
レイウェンの言う通りだった。
家宅捜索に備え、屋敷の守りは固めてきた。けれど、事情聴取については、ルイフォンは何も関与していない。まったく彼らしくない。
何故、こうなった――?
ルイフォンは、こめかみから髪を掻き上げるように指先を滑らせ、ぐっと頭を抱え込む。
『〈猫〉および、そのパートナーの気遣い、感謝する。――だが、危険は承知の上だ』
『すまないが、お前たちは、この件から手を引いてくれ』
イーレオの魅惑の低音が、ルイフォンの耳に蘇った。
「…………」
『〈猫〉および、そのパートナー』と呼びかけられた。
譲れぬことだと、拒絶された。
だから、後ろ髪を引かれながらも、イーレオとエルファンを信じた――。
「俺たちは距離を置かれたんだ。それで俺は、鷹刀のことには口出ししないと言って……」
あの会議の苦さを思い出し、ルイフォンの声は尻つぼみに消えていく。
「それは、事情聴取に応じるという、鷹刀の『方針』に、一族ではない〈猫〉が反対したからだろう?」
「え?」
「祖父上たちは危険を承知しながらも、好機と思って既に決断していたから、〈猫〉の警告を拒んだ。そして、〈猫〉の気遣いを跳ねのけた以上、鷹刀の側からは協力を要請するなんて、そんな虫のよいことはできない。――けど……」
レイウェンが次の句を言いかけたとき、ルイフォンは「あ!」と大声を張り上げた。
「気づいたかい?」
「ああ。エルファンが事情聴取に行く『方針』は決定項と認めた上で、〈猫〉がカメラとかの『協力』を申し出る分には構わない、ってことか!」
「そういうことだよ」
瞳を輝かせたルイフォンに、レイウェンが口の端を上げる。
鬱々としていた目の前が、ぱぁっと晴れていくのを感じた。微妙に屁理屈が混じっているような気がしないでもないが、細かいことは気にしてはいけないのだ。
「ルイフォン」
囁くようでありながらも、力強い低音が響いた。
「君は、魔術師だ。君にしかできないことがあるはずだ」
「ああ。ハオリュウのときみたいにして――」
「そうだけど、それだけじゃないよ。――きっと」
勢い込んだルイフォンを、レイウェンは遮る。声色だけは柔らかく、けれど鋭く。
「どういう意味だ?」
ルイフォンは、きょとんと首をかしげた。
「魔術師は、遠隔からの支援が得意だろう? ならば、弱い手札で摂政殿下に挑もうとしている父上を、背後から援護することができるはずだ」
「――って、言われても……、……どうしろと……?」
あまりにも突拍子もない話――しかも、『できる』と断言されてしまい、ルイフォンは途方に暮れたように言葉を返す。
その困惑ぶりが可笑しかったのだろう。レイウェンは愛しげに目を細めた。
「まずは父上と連絡をとって、何を交渉材料にするつもりなのか訊いてごらん。――リュイセンと一緒にね」
「リュイセンと?」
「次期総帥が、鷹刀の命運を賭けた作戦の詳細を知らずにいるのは、さすがにまずいよ。だからといって、リュイセンが父上に代わって交渉に赴くのは、勿論、勧められないけどね」
レイウェンが肩をすくめて苦笑する。けれど、その顔は優しさであふれていた。
「兄貴……なんだな」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
後継者の地位を捨て、一族を離れても、レイウェンは弟を見守り続けている。
ルイフォンの言葉の意味合いは、明敏なレイウェンには正しく伝わったはずだ。けれど、彼は甘やかにとろけるような笑顔を浮かべ、こう告げた。
「そうだよ。『俺』は『君たちの兄貴』だからね」
「……!」
「一族を抜けた俺は、表立っては何もできない。けど、いつだって君たちと共に在る」
玲瓏と響く、揺るぎのない声。
大丈夫だ――と、異母弟を包み込む。
摂政が動き出し、鷹刀一族は、かつてないほどの緊迫した空気に包まれた。誰も彼もが神経を張り詰め、余裕がなかったように思う。
ルイフォンもまた、曖昧模糊とした不安に、無意味に脅えていた。
けれど、『兄』が肩を叩き、道を示してくれた。
まっすぐなレイウェンの瞳に惹き込まれ、魅入られ、ルイフォンは不覚にも胸が熱くなる。
「兄貴!」
腹に力を入れて呼び掛けると、『兄』は刹那の驚愕ののちに、破顔した。
「ありがとな。これからリュイセンに電話する。そのあと、遠隔から作戦会議だ。――摂政なんかの好きにはさせない!」
猫の目を好戦的に煌めかせ、ルイフォンは宣言する。
「ああ、頑張れ」
柔らかな眼差しに見送られ、ルイフォンは一本に編まれた髪を翻す。毛先を留める金の鈴が、輝くような軌跡を残し、レイウェンの書斎をあとにした。
3.表裏一体の末裔たち-1
夏の陽射しを照り返し、白亜の王宮が燦然と輝く。
この国に君臨せし王の権威を、世に知らしめんとする威容。荘厳かつ優美な造形は、まさに天空神フェイレンの代理人の居所にふさわしいといえよう。
政治の中心でもある国の心臓部たるその場所に、一台の車が到着した。王宮を出入りするに遜色のない立派な黒塗りの車であるが、正門ではなく、通用門の前に、目立たぬように密やかに停車する。
降りてきたのは、近衛隊の制服に身を包んだ者たち。
――否。
最後の男だけは異なった。
襟の高い正装を一分の隙なく着こなした、鍛え上げられた体躯の美丈夫。
泰然と地に足を下ろす、その所作だけで、彼が只者ではないことを雄弁に物語っていた。王宮という強大な権力の象徴を前にしながら、彼からは微塵にも萎縮が感じられないのである。
若くはないものの、均整の取れた長身を黒一色の絹で飾った様は、美麗でありながらも威厳に満ちていた。正装であるのは、王宮への表敬であろうが、単に彼を一番、引き立たせる服装を選んだだけに過ぎないようにも思える。
男は、四人の近衛隊員たちに囲まれるようにして通用門へと進む。その際、目前に迫る高楼を一瞥し、声を立てずに嗤った。
実に不遜な輩である。だが、近衛隊員たちは、男の威圧にすっかり呑まれていた。
彼こそが、鷹刀エルファン。
大華王国一の凶賊、鷹刀一族の直系であり、総帥イーレオの長子。しかし、つい最近、息子のリュイセンに次期総帥の位を譲り渡し、現在、無冠であるという謎めいた人物である。
高齢であるというイーレオではなく、若く未熟なリュイセンでもなく。智にも武にも、最も優れた彼が、一族を代表して事情聴取に応じた。
鷹刀一族も厄介な人材を寄越してきたものだと、近衛隊員たちは内心で深い溜め息をついたのだった。
エルファンが連れて行かれたのは、王宮の地下であった。
地階に降り立った途端、それまでの華美な様相は一変した。壁といい床といい、天井までもが剥き出しの石造りとなった。どこからともなく流れてきた風が、陰湿な臭いを振りまきながら、ひやりと肌を刺す。
あたりは、ひっそりと静まり返っており、人の気配はない。少し先に目を向ければ、通路の壁の片側に鉄格子が見えた。
なるほどな、とエルファンは思う。
ここは、古き時代に使われていた地下牢獄なのだ。
現代の監獄は、政を司る王宮とは、まったく別の、独立した建物となっている。だからといって、この牢が使えないわけではないだろう。
つまり、この場への案内は、摂政の示威であり、脅迫。
では、受けて立とうではないか。
氷の眼差しが、冷涼な地下の温度を更に下げた。近衛隊員たちは、夏であることを忘れたかのように、背筋をぶるりと震わせる。
「こちらです」
近衛隊員のひとりが告げた。扱いに反して言葉遣いが丁寧なのは、エルファンの無言の迫力に恐れをなしているためだろう。
すぐそばの木製の扉が開かれ、中へと促された。どうやら、いきなり牢に放り込まれるわけではないらしい。
足を踏み入れてみれば、そこは古びた椅子とテーブルの置かれた、簡素な小部屋だった。牢の手前に位置することから、もとは看守たちの詰め所だったと思われる。
まずは、ここで情報を吐かせよう、というわけか。
奥の椅子を勧められたエルファンは、長い裾を颯爽と翻し、物怖じとは無縁の靴音を響かせる。そして、足を組むほどには崩していないものの、くつろいだ姿勢で深く腰掛けた。
近衛隊員たちは、ひとまずエルファンが従順であることに安堵した様子だった。……相手にするほどの価値もないから逆らっていないだけ、という事実には気づいていないらしい。
それよりも、とエルファンは素早く天井の隅に目を走らせた。監視カメラが仕掛けられていることを視認し、口元に笑みを浮かべる。
摂政は間違いなく、こちらを見ている。
最も高位の階級章を付けた近衛隊員が、目立たぬようにワイヤレスイヤホンを装着していることは、既に確認済みだ。言わずもがな、摂政の指示を受けるためだろう。
「やれやれ」
エルファンは、部屋を値踏みするように視線を巡らせながら、わざとらしいほどに肩をすくめた。硬い木の椅子の背もたれから身を起こし、ゆっくりとテーブルに肘を付く。
「私は善良なる市民の義務として、善意で、事情聴取に応じたというのに、お前たちは、我が鷹刀が『国宝級の科学者』を拉致したことに『決めた』のだな」
魅惑の低音を響かせ、聴取される立場であるはずのエルファンのほうから、静かに切り出した。彼の言葉は、まるで魔性を帯びた言霊のようで、近衛隊員たちは、思わずこくりと頷きそうになる自分の頭を必死に正面に保つ。
エルファンは口の端に、薄い嗤いを載せた。
下っ端に用はないのだ。
さて、如何にして、奥に隠れている摂政を引きずり出そう?
「お前たちが、我が鷹刀に嫌疑の目を向けたのは、『国宝級の科学者』が拉致される際に、鷹刀の者の顔を見たからだと聞いた。相違ないな?」
手前にいた若い隊員の目を見て問えば、彼はまるで壊れた機械人形のように声をきしませながら、「そうです」と答えた。
「ほう。拉致の現場を目撃しておきながら阻止しないとは、近衛隊とは不思議な組織だな」
小馬鹿にした口調で、エルファンは低く喉を鳴らす。
若い隊員は目を吊り上げ、しかし、唇を噛んで押し黙った。他の隊員たちも同様である。
『拉致の際に顔を見た』というのは、鷹刀一族に難癖をつけるために、摂政がでっち上げた嘘である。故に、それをとやかく言われるのは、近衛隊としては謂れのない不名誉だ。
隊員たちの心の内では、エルファンに対する苛立ちが渦を巻いていることだろう。だが、挑発には乗るまいと無視を決め込む姿勢は、さすが近衛隊というべきか。
エルファンは、苦笑と冷笑のどちらで応えるべきかと悩み、結論として失笑を漏らした。
気骨を感じたのが半分。あとの半分は、愚鈍という評価からだ。
彼は、天井の隅をちらりと見やる。
監視カメラの向こうにいる摂政は、凶賊に侮辱されたまま口をつぐみ、完全に主導権を握られた不甲斐ない部下たちに失望していることだろう。
近衛隊なら立場を誇示し、高圧的に出るべきなのだ。凶賊と『付き合い』の深い警察隊なら、問答無用で拳を振るっていたことだろう。あの緋扇シュアンなら、威嚇射撃くらいはしていたかもしれない。だが、お上品な近衛隊の腰の拳銃は、ただの飾りであるらしい。
こんな雑魚では、私の相手は務まらぬ。
エルファンの眼差しが、冷ややかに摂政に告げる。
「すまんな。私は、お前たちの失態に興味があったわけではないのだ。――ただ、鷹刀の者の顔を見たという話が気になってな」
口では謝りながらも、エルファンの態度は言葉を裏切っていた。事実上の囚われの身であるはずの凶賊に睥睨され、近衛隊員たちは無意識に身構える。
「知っての通り、我が血族は皆、ひと目で『鷹刀』と分かる容姿をしている。とある事情により、極端な近親婚を繰り返してきたためだ。お前たちが『鷹刀』を目撃したというのなら、それは見間違いなどではないだろう」
近衛隊員たちは、あからさまに狼狽した。まさか、目撃情報を肯定するとは思わなかったのだろう。
予想通りの反応を示した彼らに、エルファンは、鷹刀の血を凝縮したような魔性の美貌を閃かせる。
「――逆に言えばな。それはつまり、同じ顔立ちをした我が血族の、ひとりひとりを区別することは難しいということだ」
感情の読めない低音が、近衛隊員たちに、ぞくりと迫った。
「何が言いたいのですか?」
高位の隊員が口を開く。それは、彼自身の質問なのか、それとも摂政からの指示なのか。どちらにせよ、些末な問題だ。
「お前たちの探している『国宝級の科学者』とは、〈蝿〉の名で呼ばれる男ではないか?」
不意を衝くように、〈蝿〉の名を口にした。
近衛隊員たちの表情に、微妙な惑いが生まれた。どう答えるのが正解なのか、判断に迷ったのだ。
エルファンは、すかさず、「やはり」と呟く。
「王族が躍起になって探すような『国宝級の科学者』など、そうそういるものではないからな。――〈蝿〉ならば、よく知っている。彼の本名は、鷹刀ヘイシャオ。私の従弟で、私とは双子のようにそっくり……一瞥した程度では、区別がつかぬほどにな」
そこまで一気に言い切ると、エルファンは、これみよがしに大きな溜め息をついた。
「これで分かっただろう? お前たちが見たという鷹刀の人間は、拉致の犯人ではなく、『国宝級の科学者』本人だ。何か気に入らないことでもあって、その庭園から逃げ出しただけだろう」
「随分と、ご都合の良い解釈をなさいますね」
イヤホンからの指示があったのだろう。硬い面持ちとは裏腹に、高位の隊員が高飛車な物言いをした。
「ほう。都合が良い、とな?」
うまく話に乗ってきたなと、ほくそ笑み、エルファンは顎をしゃくって先を促す。
「百歩譲って、もし、〈蝿〉が自ら逃げたのだとしても、外部から手引きをした者がいるのは明らかなのですよ。それが、鷹刀の人間でないという保証がどこにあるのですか? 身内であれば、なおのこと疑わしいというものですよ」
落ち着いた風格の台詞でありながら、どことなく棒読みなのは、イヤホンから流れてきた文言をそのまま唱えているためだろう。
エルファンは、懸命に嗤いを堪えた。
虚構と分かりきっている拉致やら目撃やらについて論ずるのは、極めて馬鹿馬鹿しい。しかし、この茶番を乗り越えなければ、摂政との対面は叶わぬのだから仕方ない。
あと少しくらいは付き合ってやるかと、もっともらしい、しかめ面で言を継ぐ。
「ヘイシャオは、とうの昔に一族を抜けている。そんな者に、鷹刀は手を貸したりなどしない。何しろ、奴は『血族を苦しめ続けた組織』の一員として生きる道を選んだのだからな」
「…………、口先では、なんとでも言えましょう?」
返された声は先ほどの隊員のものだが、ひと呼吸ほど遅れているあたり、やはり摂政の代弁であろう。
期待通り、摂政は、〈蝿〉という話題をお気に召したようだ。
彼は、鷹刀一族が〈蝿〉を――そして『ライシェン』を拉致、あるいは保護したものと疑っているのだから、気になって当然だろう。
事実、『ライシェン』は鷹刀一族の屋敷にいる。ならば、摂政の左右の眼のうちの片方くらいは、慧眼と褒めてやってもよいかもしれない。
そろそろ攻勢に出ても良い頃合いかと、エルファンは氷の微笑を浮かべた。
「ふむ。『血族を苦しめ続けた組織』などという、遠回しな言い方では伝わらぬようだな。――ならば、『王の私設研究機関である〈七つの大罪〉』と、きちんと名称を挙げることにしよう」
毒を含んだ低音が、部屋に溶けた瞬間。
近衛隊員たちの息遣いが乱れた。彼らの間に、緊張をはらんだ空気が流れる。
果たして彼らは、『闇の研究組織〈七つの大罪〉』が、『王の私設研究機関』であることを知っていたのか否か……。
エルファンにとっては、どちらでもよい――正しくは、どうでもよかった。何故なら、彼の眼中には、近衛隊の姿などないからだ。
凍れる瞳が監視カメラを捕らえ、摂政へと直接、語りかける。
「我が鷹刀は、〈七つの大罪〉への恨み――ひいては、神殿と王族を中心とした『この国の在り方』への恨みを決して忘れない」
深い憎悪に、室温は氷点下となり、近衛隊員たちが困惑の表情を浮かべたまま凍りつく。
エルファンは、そんな彼らの様子など気にも留めず、ゆっくりと立ち上がった。
そして、酷薄な唇を開き、玲瓏たる声を響かせる。
「『盲目』で、『先天性白皮症』の、代々の王を守るため」
一歩、足を踏み出す。
天井に向かい、彼は挑発的に口の端を上げる。
「『他者の脳から、情報を奪う』、彼らの能力を支えるため」
顎をしゃくる。
その動きに併せ、白髪混じりの黒髪が蠢き、魔性の微笑みが広がる。
「我が鷹刀は、『〈冥王〉の〈贄〉』として、血族を捧げてきた」
悠久の怨嗟を帯びた、低い声が轟く。
口上の中に、さらりと紛れ込ませた言葉は――王族の『秘密』。
ただならぬ妖気のようなものが漂い、近衛隊員たちの口から、引きつった悲鳴が漏れた。
エルファンから愚鈍との評価を受けた彼らだが、近衛隊にいるくらいなのだから、決して馬鹿ではないのだ。自分たちが『聞いてはならぬ『秘密』を聞いてしまった』ことをはっきりと認識していた。
青ざめた近衛隊員を前に、エルファンは告げる。
「〈贄〉の代償として、我が鷹刀は、王国の闇を支配する『もうひとつの王家』となった。『表』の王家と対となる、『裏』の王家だ。……古き時代に、王と鷹刀の総帥との間で、そのような盟約が交わされている」
神話の時代から現代まで、血と怨念を煮詰め続けてきた鷹刀一族の末裔は、壮絶に美しい魅惑の微笑を浮かべ、悠然と部屋を見渡した。
可哀想なほどに脅えきった近衛隊員たちは、微動だにしない。
天井の隅に視線を移し、エルファンは口の端を上げる。無機質な監視カメラの向こうに、摂政の姿が見えた。
会議のときにメイシアが言った通り、ただ『気に入らない』という理由だけで、王族や貴族は、平民や自由民を斬首できる。それだけの身分差がある。
しかも、エルファンは凶賊だ。
事情聴取に応じれば、拷問にかけて、〈蝿〉と『ライシェン』の居場所を吐かせようとするのが当然の流れとなるだろう。
だから、エルファンは、近衛隊員たちが行動に移る前に、素早く主導権を握った。そして、鷹刀一族は、この国の古き歴史を知る『もうひとつの王家』であるという『身分』を誇称した。
勿論、黴の生えたような古い盟約に、摂政が価値を見出すはずもない。
故に、〈蝿〉が命と引換えに明かしてくれた王族の『秘密』を、あたかも代々語り継いできたものであるかのように見せかけ、『秘密』を知る鷹刀一族を蔑ろにしてよいのかと、脅しをかけたのだ。
これが、エルファンの用意した『手札』だった。
この策は、近衛隊の前で王族の『秘密』を口にすることになるため、〈悪魔〉であったイーレオには使えない。また、血族が〈贄〉として虐げられていた時代を知らぬリュイセンでは、歴史を語る言葉に重みが出ない。
よって、これは、エルファンだけが使える切り札である。
しかし、これではまだ足りぬ。
圧倒的な『強さ』を示す必要がある。摂政が、鷹刀一族を忌避したくなるようにするために。
すべては、これからの交渉次第――。
「そして、三十年前――」
エルファンは、闇の王家の者にふさわしい、ぞわりとした笑みを浮かべた。
「我が父イーレオは、先王シルフェンと誼を結び、鷹刀の〈贄〉は、王と同じくクローンで充分であると認めさせた」
ゆったりとした靴音で歩きながら、エルファンは言葉を続ける。
「父は、最後の〈贄〉となった者の細胞を、未来永劫、複製し続ける技術を編み出した。それを以って、この先は互いに干渉しないと、先王シルフェンと約束を交わし、縁を断った。――だが此度、鷹刀は謂れのない罪で、家宅捜索を受けている。王家は不文律を犯したと、我らは判断した」
エルファンは、高位の近衛隊員に近づいた。
反射的に後ずさった相手の腕を取り、軽くひねりながら引き寄せると、彼の耳からイヤホンを奪う。
自分の耳にイヤホンをねじ込みながら、エルファンは再び口を開いた。
「この件について、話をしたい。直接、ふたりきりで――な」
『なるほど。……だから、素直に事情聴取に応じたわけですね。王族の『秘密』を外部に漏らされたくなければ、鷹刀一族から手を引けと――脅迫に来た』
わずかな雑音と共に聞こえてきた声は、意外なほどに落ち着き払っており、それどころか、雅やかな笑みをまとっていた。
これが、摂政カイウォル――。
ひと筋縄ではいかなそうだなと、エルファンは口角を上げる。
「まぁ、そんなところだが、詳しくは直接だ」
『よいでしょう。そちらに案内の者を遣ります』
随分と、あっさりした返事だった。
非常事態には、イヤホンの指示がなくとも、近衛隊はエルファンに襲いかかるよう命じられている――という可能性を考え、動きが取りやすいように椅子から立ち上がっていたのだが、拍子抜けだった。勿論、四人程度なら、丸腰でも一瞬で返り討ちにする自信はあった。
もっとも、この腑抜けでは役に立たぬか。
銅像のように立ち尽くしたまま、何もできずにいる近衛隊員たちを一瞥し、エルファンは嘆息する。
だから、ほんの少し、遊び心を出して摂政に尋ねてみた。
「ここにいる近衛隊員たちは、王族の『秘密』を聞いてしまったようだ。口封じに殺しておいたほうがよいか?」
3.表裏一体の末裔たち-2
エルファンは、摂政の遣いに案内され、エレベーターで上階へと向かっていた。
地下の近衛隊員たちのことは、勿論、殺していない。
彼らが王族の『秘密』を知ったところで、鷹刀一族には、なんの不利益もないのだ。無用な殺生はすべきではないだろう。『秘密』の漏洩で困るのは、王族である。せいぜい、摂政が頭を悩ませればよいことだ。
だから、すぐに『冗談だ』と告げて、低く嗤った。
しかし、近衛隊員たちは無様なほどに震え上がり、一番若い隊員などすっかり腰を抜かしていた。摂政はといえば『恩を売りつけられたのかと思いましたよ』と、雅やかに返してきた。一考の余地はありましたのに、と暗に含ませた、惜しむような声色であった。
……エルファンの遊び心は、どうやら、誰にも理解してもらえなかったようである。
やがて、エレベーターが止まり、緋毛氈の敷かれた廊下に降りた。
貴人の棲み家など、どこも似たようなものなのかもしれないが、なんとなく〈蝿〉が潜伏していた、あの菖蒲の館に似ている。そんなことを思いながら、遣いの背を追っていくと、連れて行かれた場所は、金箔で縁取られた白塗りの扉の前であった。
既視感のある装飾に、エルファンは嗤笑する。
その声に、遣いの者が何ごとかと顔を強張らせつつ、「こちらです」と告げた。
「案内、ご苦労だったな」
軽く礼を述べると、エルファンは漆黒の長い裾をはためかせる。そして、遣いが取っ手に手を掛けるよりも先に、自ら扉を開いた。
足を踏み入れた瞬間、純白の世界が広がった。
部屋を覆う白壁は、高い天井から燦然と降り注ぐシャンデリアの光によって、より一層、皓く輝く。複雑な綾模様を描く、毛足の長い絨毯は、織り込まれた金糸によって、時折、光の筋が走っていくかのように煌めいた。
目に映るものすべてが白く、エルファンは遠近感を失いそうになる。天上の国にでも迷い込んでしまったのかと錯覚しそうな、この部屋の名を、彼は最近、覚えたばかりであった。
「『天空の間』――か」
魔性の美貌を閃かせ、静かに独り言つ。
菖蒲の館で〈蝿〉が王族の『秘密』を告げた部屋も、『天空の間』であった。
『神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋』であるのだと、もと貴族のメイシアが説明してくれた。貴族や王族なら、自分の屋敷に、ひと部屋は作るのだとか。
それを踏まえ、〈蝿〉は『神との密談の場』だと揶揄した。『〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉は、防音のよく効いた天空の間で〈悪魔〉たちと会っていた』――と。
地下牢獄から、天上の国に河岸を変えるとは、摂政も、また随分と極端なもてなしをするものだと、扉の前では思わず嗤いがこみ上げた。しかし、『表』と『裏』の王家の者の対面の場として考えれば、存外ふさわしいのやもしれぬ、などとエルファンは思い直す。
「おや、『天空の間』をご存知でしたか」
奥のほうから、ゆったりとした雅やかな声が流れてきた。鷹刀一族の持つ、魅惑の低音とは声質が異なるが、人を惹きつけてやまない、蠱惑の旋律である。
金の縁取りで装飾された純白のソファーに、ひとりの貴人が腰掛けていた。部屋に溶け込むような、金刺繍の施された白い略装姿だが、髪と瞳は闇に沈むように黒い。
『太陽を中心に星々が引き合い、銀河を形作るように。カイウォル殿下を軸に人々が寄り合い、世界が回る』――そんな言葉で語られる、摂政カイウォル、その人である。
年の頃は、長男のレイウェンと同じくらいか。エルファンにとっては、まだまだ若造であるが、盛りを過ぎた我が身を鑑みれば、油断ならない相手ともいえる。
繊細で美麗な容姿に、冷静で明晰な頭脳。加えて、見る者に強烈な畏敬の念を抱かせる、不可思議な魅力。
天に二物も、三物も与えられた王兄は、王族という選民意識の強さが鼻につくが、為政者としては先王よりも、よほど有能であると、貴族の藤咲家当主ハオリュウも認めるほどだ。
しかし、唯一、〈神の御子〉の外見を持たないがゆえに、彼には王位継承権がない。
エルファンは黙って奥に進んだ。
カイウォルにしても、特に言葉はない。
既に名も素性も承知している以上、互いに挨拶など必要ないと判断したのだ。このあたり、ふたりは似た者同士であるのかもしれなかった。――ただし、同族嫌悪となるであろうが。
「かつて『鷹の一族』と呼ばれた一族の話を思い出しましたよ」
部下の近衛隊員たちの愚から、先手を取ることの重要性を学んだのだろうか。
エルファンが向かいのソファーに座るや否や、カイウォルが口火を切った。柔らかな語り口であるが、黒い瞳は蔑むような色合いを帯びている。
「ほう」
エルファンは胡乱げに片眉を上げた。
「王家とは縁故ある一族です。何しろ、この国の創世神話に謳われし、古き一族なのですから」
カイウォルは自分の口元に指先を当て、雅やかにくすりと笑う。そして、おもむろに、創世神話を詠み上げた。
この国には神がいる。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、天空の神フェイレン。
神は、この地を治めるために、王族を創り出した。
王族の血筋には、時折り神の姿を写した赤子が生まれる。彼の者こそが国を治める宿命を背負った王である。
王は、天空の神フェイレンの代理人。
地上のあらゆることを見通す瞳を持ち、王の前では、どんな罪人も自らの罪科を告白せずにはいられない――。
「神話に出てくる『罪人』。彼こそが『鷹の一族』の者であり、鷹刀一族の始祖ですね」
居丈高に、カイウォルが告げる。
なるほど、と。エルファンは思った。
王族の『秘密』を知る鷹刀一族のことを、カイウォルは蔑ろにできない。故に、創世神話に謳われるほどの由緒ある一族であると、ひとまず認めた。だが一方で、貴種である王家とは身分が違うと、貶めようとしているのだ。
如何にも、高貴な人間の考え方だ。
「創世神話の『罪人』か。――ああ。確かに、鷹刀を指すのだと聞いている」
エルファンは低く喉を鳴らした。
平然と受け答えているが、その言い伝えは、実は先日、知ったばかりである。
〈蝿〉は王族の『秘密』を明かす際、話の途中で息絶えたときの保険として、ルイフォンに記憶媒体を託した。その中身は王族の『秘密』のみならず、〈悪魔〉の〈蝿〉が知り得た、ありとあらゆる情報の宝庫であり、件の創世神話の謂れもまた記されていたのだ。
「つまらぬことを言うな」
情報を与えてくれた〈蝿〉に感謝しつつ、エルファンは余裕の顔で一笑に付した。
「『供物』として飼われていた先天性白皮症の王族の祖先は、警護役であった鷹刀の祖先の『記憶を読み取り』、古の王朝への謀反の『罪』を暴いた。そして、密告されたくなければ、手を組むようにと迫った」
エルファンは憎悪を込めて、一段と低く、声を響かせる。
「それが、現王朝の始まりだ。故に、『罪人』の記述が神話に残された。それだけのことだ。鷹刀が罪人なら、共に古の王朝を斃した王族も罪人だろう?」
もともと、この創世神話は、王族の悪意に満ちているのだ。武功を挙げた鷹の一族が、王族を差し置いて民心を集めぬようにと、あえて『罪人』と記し、蔑みの対象としたのだから――。
「どうやら、鷹刀一族が、古き伝承を語り継いでいることは確かなようですね」
カイウォルは、あくまでも高飛車な態度は崩さず、演技じみた仕草で感嘆の息をついた。
「ふむ。王族の『秘密』を知る我が一族が、『もうひとつの王家』であることを疑っていたのか」
やや呆れたようにエルファンが口を開けば、カイウォルは美麗な眉を不快げに寄せる。
「鷹刀一族は、『〈贄〉として、王家に仕えていた』と伝え聞いております。それが、『裏』の王家などと言われても、私としてはどう捉えたらよいものやら……」
すっと目を細め、カイウォルは含み笑いを漏らした。〈冥王〉の『餌』の分際で、おこがましいというわけだ。
実に王族らしい、高慢な仕草だった。
しかし、エルファンが気を昂らせることはなかった。それどころか、王位継承権を持たない王兄が、現在の王家を唯一無二と主張する様など、彼の目には滑稽だとしか映らなかった。
「くだらない創世神話まで持ち出して、そんなに躍起にならなくともよいだろう。王族の立場からすれば『もうひとつの王家』などを認めるわけにはいかないことくらい、私だって承知している」
口の端を上げ、低く喉を震わせる。
白い部屋の中で、異質な黒い正装の肩が揺れた。それはまるで、エルファンを中心に昏い闇が広がるかのよう。
「神話など無意味だろう? 神などというものは存在しないのだからな」
「何を言いたいのですか?」
『神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋』である天空の間で、堂々と神を否定するエルファンに、カイウォルは蛮族を見る目で問う。
「そのままの意味だ。白金の髪、青灰色の瞳を持つ〈神の御子〉の姿は、先天性白皮症によるもの。神に選ばれた人間だからではない。――だが」
エルファンは、意味ありげに言葉を切った。
漆黒の眼差しが、同じ色合いを持つカイウォルの瞳を捕らえる。
「創世神話の記述のために、この国では、黒髪黒目の人間は王にはなれない」
純白の空間に、ぽとりと落とされた、墨のような低音。
そのひとことがカイウォルを指すことは、説明するまでもなかった。
刹那。
時が凍りつく。
カイウォルの黒い眼は見開かれたまま、動きを止める。
――エルファンは思う。
王兄カイウォルにとって、創世神話は呪詛でしかないだろう。どんなに天賦の才があり、それを超える努力があったとしても、彼は決して王にはなれないのだから。
故に、たとえ鷹刀一族を貶めるためであっても、彼が創世神話を口にすることは屈辱であるはずだ。
「……私に、何か思うところがおありのようですね。ですが、そのような話をするために、この場を設けたわけではありません」
錦糸のような黒髪をさらりと払い、カイウォルは冷ややかに告げた。揺さぶりをかけられたのだと気づいたのだ。
けれど、激昂はしない。それが、カイウォルという人間の矜持のようだった。
「そうだな」
エルファンは素直に引いた。創世神話の解釈談義は、カイウォルの人となりを知るためのよい余興ではあったが、本題ではない。
「話を戻しましょう」
仕切り直しだと、カイウォルが声を上げた。
正面から向き合えば、大柄な鷹刀一族の直系であるエルファンと比べ、カイウォルは頭ひとつ分とまではいわないものの、明らかに目線が低い。しかも、親子ほどにも年齢に開きがある。
しかし、命じる者の口調だった。
「先ほど、あなたは地下で『王族の『秘密』を外部に漏らされたくなければ、鷹刀一族から手を引けと、警告に来た』と言いましたね」
それを言ったのはカイウォルだ。エルファンは否定はしていないが、肯定もしていない。だが、混ぜ返したところで、話が滞るだけなので曖昧に頷いた。
「口外して構いませんよ」
雅やかな微笑を浮かべ、カイウォルは断言した。
「王族の『秘密』など、好きに広めるがよいでしょう。凶賊の言うことなど誰も信じやしません。信じたところで、『人の心が読める』となれば、それはそれで王の神性が高まるというものです。王家としては、何も困ることはありません」
蠱惑の旋律が、柔らかに告げる。澄ました美貌は、むしろ優しげで、彼の言葉をきちんと聞いていなければ、交友を深めたいと言われたのかと勘違いしそうだ。
そう来たか――と、エルファンは無表情に受け止めた。
実のところ、王族の『秘密』をちらつかせたところで、まるきり相手にされない可能性は充分に考えていた。だが、ふたりきりでの対面に応じたので、少しは効果があったのかと期待していたのだ。
「ふむ。では、王が先天性白皮症だの、クローンだのと言われても構わぬと」
王の神性を穢す話題なら、貧しい平民や自由民たちが好むだろうと匂わせ、嘲りを含んだ口調で探りを入れる。
「そのようなことを吹聴すれば、不敬罪だと咎められ、窮地に陥るのは鷹刀一族のほうですよ。この国を治める、王家の力を侮らないでいただきたいですね」
カイウォルは澄ました顔で答え、ゆったりとした声で続けた。
「王家と鷹刀一族には、不干渉の約束があるとのことですが、それは、先王陛下による個人的な約束です。現在の王家とは、なんの関係もありません。そもそも、それは〈贄〉についてのみの約束でしょう?」
「勝手なことをぬかすな」
エルファンは不快げに顔をしかめるが、それはあくまでも演技である。
カイウォルの弁は、まったくもってその通りなのだ。『王家は、不干渉の不文律を犯した』などと、エルファンは地下で憤慨してみせたが、あれは単に、カイウォルと直接、話をつける場を設けるための、いわば言いがかりだった。
なので、対面の叶った今となっては流してよい話なのだが、王族のカイウォルにしてみれば、凶賊如きに非難され、気分を害していたらしい。捨て置くことはできなかったようだ。
「先王陛下と鷹刀イーレオの関係が特別だっただけです。――王位を継ぐためだけに作られたクローンである先王は、周りからの愛情に恵まれませんでした。そんな彼の孤独を埋めるように、イーレオは教育係として近づき、歓心を得て、鷹刀一族に肩入れさせただけです」
すげない物言いに、エルファンは苦笑した。
カイウォルにとって、先王とは父親だ。冷淡な態度から察するに、不仲であったという噂は本当らしい。〈神の御子〉として生まれることができなかったカイウォルには、〈神の御子〉であるからこそ生を享けたクローンの父王は受け容れがたいものということか。
とはいえ、そもそも『人の心が読める』能力を持った相手と、仲良くやれるほうが奇特なのかもしれない。そう考えると、イーレオは偉大といえるのだが、あの父ならば、さもありなんと、エルファンは思った。
ともかく。
父親同士が不干渉の約束を交わしたのと同じように、エルファンとカイウォルの間で、不干渉の約束を取りつける。
もっとも、カイウォルの性格では、不干渉の『約束』は不可能であろう。
だから、『牽制』なり『脅迫』なりで、カイウォルを黙らせる。――これが、エルファンに課せられた命題であり、事情聴取に応じた目的だった。
真の『交渉』は、これからだ。
エルファンは不敵な笑みを浮かべ、しかし……と、カイウォルを見やり、首をかしげた。
この天空の間は、密室だ。
隠しカメラはあるかもしれないが、人が隠れている気配はない。武の達人であるエルファンがその気になれば、カイウォルの命など一瞬で奪える。
防音のきいた部屋で、凶賊とふたりきり。一国の摂政の行動としては、あまりにも不用心ではないだろうか。
何故だ?
部屋に案内されたときは、王族の『秘密』を外部に漏らさぬためだと考えた。しかし、カイウォルは『秘密』が知られても構わぬと言う。
エルファンが本能的な危険を感じたとき、カイウォルの蠱惑の声が響いた。
「あなたからの話は、もうよいでしょう。――そろそろ、私の話をさせてください」
人を惹き寄せてやまない微笑が、エルファンを強引に捕らえる。
「あなたもご存知の通り、私は〈蝿〉の名で呼ばれる、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉の行方を探しております。ですが、実はもうひとり、探している〈悪魔〉がいるのです」
カイウォルの言葉を聞いた瞬間、エルファンの脳裏に『セレイエ』の名が浮かんだ。
心臓が、どきりと跳ねる。
握りしめた掌の中で、汗がにじむ。
しかし、常からの無表情は伊達ではなく、エルファンの氷の美貌は揺るがなかった。何食わぬ顔で「ほう」と相槌を打つ。
案の定、カイウォルの次の台詞は、予想通りのものであった。
「〈蛇〉の名で呼ばれる〈悪魔〉。――あなたの娘である、鷹刀セレイエを探しています」
カイウォルは、鷹刀一族がセレイエを匿っていると疑っている。今までは、表立って探している素振りを見せなかったが、身内であるエルファンとの対面を好機と捉え、直接、尋ねることで探りを入れる策に出たのだろう。
「セレイエは、確かに私の娘だが、〈七つの大罪〉に加わった時点で絶縁している。――鷹刀にとって、〈七つの大罪〉は仇のようなものだからな。もう十年近く、消息を知らん」
「そうですか。もしや、実家に身を寄せていたら、と思ったのですが……」
わずかに眉を寄せ、カイウォルは深い溜め息をつく。憂いを帯びたような顔に、エルファンは胸騒ぎを覚えた。
「すまぬな」
セレイエの話題を切り上げようと、エルファンは短く発する。しかし、カイウォルは被せるように告げた。
「鷹刀セレイエは、〈神の御子〉の男子を産みました」
「!」
エルファンは息を呑んだ。
その事実を、まさかカイウォルのほうから明かしてくるとは、想像もしていなかった。
「名前は、ライシェン。現女王を退け、玉座に就くべき真の王です。――なのに、彼女は子供を連れて、王宮から姿を消しました。子供を奪われると思ったのでしょうね」
最後のひとことは、セレイエを思いやるような優しい響きをしており、軽く伏せられた瞼に、やるせなさを感じる睫毛が並ぶ。カイウォルをよく知らない人間には、まるきりの善人にしか見えない振る舞いだった。
エルファンには、カイウォルの意図が分からなかった。
だが、この対面の場に、密室を選んだことだけは納得した。『ライシェン』は、外部に漏れてはならない存在だ。
「この件は、勿論、国家の機密事項ですが、他でもない、あなたの娘のことなので、お話しいたしました。――しかし……」
ゆるりと。カイウォルの顎がしゃくり上げられた。
雅やかでありながらも禍々しく、この国に君臨する貴人は嗤う。
「あまり、驚かれていませんね。――そうですか。既に、ライシェンのことを、ご存知だったのですね」
3.表裏一体の末裔たち-3
『ライシェンのことを、ご存知だったのですね』
天空の間に、気品あふれる雅やかなカイウォルの声が響いた。
純白の世界に生じた、奈落のような黒い瞳が威圧を放ち、強引なまでの重力でもって、この場のすべてを呑み込もうとする。
エルファンは、目をそらすことができなかった。
それは、先に視線を外したほうが負けであるという、野生の獣めいた感情からくるものなのか。それとも、人を惹きつけ、世界を回すと謳われた、カイウォルの力に捕らわれたためなのか……。
――カイウォルは、鎌を掛けているだけだ。
奸計の貴人の顔を双眸に映したまま、エルファンは脳裏に、ある情報を浮かべる。
『摂政カイウォルは、鷹刀一族について、まったく把握できていません。どんな情報を持っているのかも、私と接触があったことすらも知りません』
そう伝えてきたのは、〈蝿〉だ。カイウォルに関する情報は、これから重要になるであろうからと、ルイフォンに託した記憶媒体に、こと細かに遺してくれたのだ。
思考を研ぎ澄ませれば、徐々にカイウォルの意図が読めてくる。
――エルファンの動揺を誘い、失言を狙っているのだ。
確かに、カイウォルは、ライシェンという国家の機密事項を提示してきた。
しかし、オリジナルのライシェンを指すとも、クローンの『ライシェン』を指すともいえぬ、曖昧な言い方をした。エルファンを言葉巧みに操り、クローンの『ライシェン』を知っているという言質を取ろうとしているのだろう。鷹刀一族は、この件に深く関わっているのだと。
では、どう切り返すべきか――?
『鷹刀セレイエは、〈神の御子〉の男子を産みました』
『子供を奪われると思ったのでしょうね』
耳の中に余韻の残る、カイウォルの蠱惑の旋律。
『デヴァイン・シンフォニア計画』の根幹は、子供から始まる。
『あなたの娘のことなので、お話しいたしました』
――……ああ、そうか。
エルファンは、ふっと蠱惑の呪縛が解けたのを感じた。
口の端を上げ、冷ややかに嗤う。
「私が驚いているように見えない? それは、お前が痴れ者だからだ。私は、自分の立場をよく弁えているがゆえ、常から感情を表に出さぬ」
魅惑の低音が怒気をはらみ、天空の間に轟いた。
しかし、カイウォルが動じることはなかった。それどころか、美麗な顔を不快げに歪めた。
もとより、エルファンのぞんざいな口調には眉をひそめていたのだが、低俗な凶賊だからと大目に見ていたらしい。それが、いきなり高圧的に暴言を吐いた上に、『お前』呼ばわりされたことで堪忍袋の緒が切れたようだ。
「おのれ……」
カイウォルは、わなわなと唇を震わせた。けれど、エルファンは、どすの利いた声で畳み掛ける。
「感情を出してよいというのなら、遠慮をする必要はないな」
そう告げるや否や、エルファンは、すっとソファーから立ち上がった。
刹那、漆黒の風が疾り、向かいに座るカイウォルの襟首を神速で掴み上げる。
「私の娘に手を出しやがって、この獣めが!」
「!?」
カイウォルの両足が、完全に宙に浮いた。上着の裾の金刺繍が、戸惑うように揺らめく。
首元の一点に、カイウォルの全体重が掛かった。澄ました美貌が驚愕に染まる。それでも悲鳴を上げなかったのは、さすが見栄の塊といったところか。
エルファンは、悪鬼の形相でカイウォルを睨みつけた。自分の目線よりも高く吊し上げた相手の顔を見上げると、憎悪が膨れ上がったかのように、黒髪がぞわりと舞い広がる。
――が、これは演技だ。
激昂しているように見せかけているが、エルファンは極めて冷静である。本気で掛かるつもりならば、相手の服の襟ではなく、直接、首を締め上げている。
カイウォルは、経験したことのない屈辱に動転しているであろう。しかし、実のところ、たいして苦しくはないはずだ。本来なら、このまま顔面か腹に一撃、食らわせたいところであるが、あとあと面倒臭いので、傷が残るようなことはしない。
そして、親切にも、エルファンは、カイウォルの混乱を解消してやるのだ。
「セレイエが〈神の御子〉を産んだだと? だったら、その父親は、お前しかいないだろう!」
これが、エルファンが暴挙に出た大義名分である。
勿論、ライシェンの父親がカイウォルではないことをエルファンは知っている。
だが、現在、王宮や神殿に出入りできる王族の男は、カイウォルのみだ。現女王が即位し、カイウォルが摂政となったときに、政治に口を出せるような王族をカイウォルが遠ざけたためだ。
故に、『つい最近』、セレイエが〈神の御子〉を産み、姿を消したように語られたならば、この反応を返すのが正しいのである。カイウォルを責め立てる表情を変えぬまま、エルファンは内心でほくそ笑む。
どうやらカイウォルも、この大義名分の正しさに気づいたようだ。高慢な王族が顔色を変える様は、見ていて胸がすく。
…………この感情は、演技でもないか。
どす黒い快感を抱きながら、エルファンは思う。
如何にも王族然としたカイウォルは、いわば『王家』というものの象徴だ。長年、血族を〈贄〉として苦しめてきた仇の末裔である。
そして、セレイエも、『王家』に関わったがために、命を落とした……。
家を出て独立した娘など、どこで何をしようが勝手だ。誰の子供を産もうと、そんなことは本人の自由だろう。一生、実家に戻らず、顔を合わせることがなくとも構わない。
ただ、幸せであれば。
それで、よかった。
カイウォルの襟を掴むエルファンの手に、無意識に力が籠もる。
「は……離しなさい……、この下郎……! 勘違い……です」
拘束から逃れようと、カイウォルがエルファンの甲に爪を立て、両足をばたつかせて暴れた。
「勘違い?」
「ライシェンの父親……は、私では……ありません」
「では、誰だ?」
「あなた、に……、教える……義理はない、でしょう……?」
文字通り、相手の掌中に生殺与奪の権が握られているような状況下においても、余計な情報を漏らすまいとするカイウォルの姿勢は、見上げた根性といえた。
もっとも、ライシェンの父親がヤンイェンであることは、鷹刀一族にとって既知の事実であるし、カイウォルにしてみても、確信はないとはいえ、鷹刀一族は事情を知っているのではないかと疑っているため、このやり取りは、互いにとって茶番だったかもしれない。
エルファンは冷笑した。
「なるほど。お前が父親でないというのなら、セレイエと子供を殺すことにためらいはない。女王の婚約が発表され、世継ぎが期待されている今、セレイエの子供は邪魔な存在だ。なんとしてでも探し出し、争乱の芽を摘み取っておきたいというわけだな」
何も知らない、という立ち位置の人間として、『正しい台詞』をエルファンは言ってのける。カイウォルにしてみれば、そうできたら、どんなによかろうかという内容だ。
しかし、現実には、摂政であるカイウォルは、『ライシェン』を王として迎え入れなければならない。『ライシェン』がこの世で唯一の〈神の御子〉の男子となるよう、セレイエが過去の王の遺伝子をすべて廃棄したからだ。
そんな裏の事情を承知しながら、エルファンは意地悪く迫った。せいぜい、返答に窮すればよいと、憎悪を浮かべる。
「――っ」
襟を掴み上げるエルファンの手に、鈍い振動が伝わってきた。カイウォルが奥歯を噛み締めたのだ。
黒髪黒目のカイウォルが、昏い翳りを纏う。全身を純白で包んでも、彼の本質は禍々しい闇。決して王にはなれない王兄から、この国に対する理不尽が滲み出る。
歪んだ唇が嘲るように、それでも雅やかさを残しながら、言葉を吐き出す。
「……なんと答えようとも、あなたは……あなたの好きなように、解釈するだけ……でしょう? ならば、答える意味が……ありませんね……」
「――確かに。お前の言うことは、もっともだ」
なかなか秀逸な答えだと、エルファンは口元を緩めた。カイウォルには不遜な態度にしか見えなかっただろうが、エルファンなりに評価したのだ。
エルファンは、ひとまず、吊し上げているカイウォルを降ろした。このままでは『交渉』に入りにくいと思ったからだ。
カイウォルが余計な話を持ち出してきたために、すっかり横道にそれてしまったが、エルファンの目的は、カイウォルに鷹刀一族から手を引かせることである。それも、二度と関わりを持ちたくないと思うほどに、圧倒的な『強さ』で叩き、沈黙させる――。
解放されたカイウォルは、呼吸の自由が戻ったことを喜ぶよりも先に、エルファンを不審げに睨めつけた。ほんの一瞬前まで自分を暴力で支配していた相手が、いきなり漆黒の長い裾を翻し、もとのソファーに戻ったのだ。裏があると疑うのは当然だろう。
「何か言いたげな顔だな」
どのようにして『交渉』に持ち込もうかと思案しつつ、エルファンは、とりあえず挑発的に顎をしゃくった。高慢な王族であるカイウォルなら、看過できないであろう、と。
「この私に暴行を加えて、ただで済むと思っているのですか?」
果たして、思惑は当たった。喉に違和感が残っているらしく、カイウォルは首元をさすりながら憤慨をあらわにする。
エルファンは涼しい顔で冷酷に嗤った。
「お前は、何を勘違いしている? 私は凶賊だ。我らの流儀では、力こそすべて。強さを示すことは、自己を語るも同然だ。――逆に、私のほうこそ、お前に問いたい。危険と分かりきっている凶賊の私と、密室でふたりきりになった自分を愚かだったとは思わないのか?」
「思いませんね。常識的に考えて、あなたが私を害することなど、あり得ないはずでしたから。――むしろ、鷹刀セレイエについて尋ねる、よい機会だと思いましたよ」
「ほう?」
エルファンが、からかうように語尾を上げると、カイウォルはむっと鼻に皺を寄せた。
「あなたは鷹刀一族を代表して、この場に来ています。つまり、あなたが私に危害を加えれば、それは鷹刀一族が王家に反旗を翻したという意味になります」
苛立ちもあらわに、カイウォルは諭すように告げる。
自分よりも目線の高いエルファンを見上げながらも、尊大な仕草で溜め息をついた。整った眉を寄せ、「先ほどは迂闊でした」と続ける。
「まさか、あなたが一族を顧みずに私に襲いかかってくるなど、想定の粋を超えていました。あなたが短慮を働かないよう、先にこうして説明しておくべきでしたね」
下種を見る目だ。
対して、エルファンは感情の読めない顔で相槌を打つ。
「ふむ。一族が人質になっているのだから、もっと神妙にせよ。さもなくば、王家の威信に掛けて、鷹刀を滅ぼす――と、言いたいわけだな?」
「そういうことです。勿論、先ほど私に無礼を働いた罪は、きちんと償っていただきます」
形の崩れた襟元を示し、カイウォルは憤然と言い渡す。
「なるほど――」
エルファンの喉が震えた。
決して大きな声ではないにも関わらず、魅惑の低音は、轟くように天空の間に響き渡った。
「!?」
カイウォルの肩が、気圧されたように揺れた。
武の心得など皆無のカイウォルだが、エルファンの放った殺気に、生き物の本能で恐怖したのだ。
エルファンの双眸が、あざ笑うように細められる。口元がわずかに緩んだかと思われた瞬間、ぐいと顎が上がり、鋭く冷ややかな眼光がカイウォルを斬りつけるような軌跡を描いた。
「お前は、本当に、何も分かっていないのだな。――カイウォル」
氷の美貌が魔性を帯びた。
3.表裏一体の末裔たち-4
名を呼び捨てられたカイウォルは、抗議のために口を開きかけ、しかし無言のまま、途中で凍りついた。エルファンの放つ魔性に、呑まれたのだ。
「私は言ったはずだ。――鷹刀は王家と対を成す、『裏』の王家だと」
エルファンは、カイウォルを睥睨するようにソファーの背に体を預けた。カイウォルの視線を意識しながら、ゆっくりと足を組み、厳かに言を継ぐ。
「だのに現在、対である『表』の王家に、謂れもなく家宅捜索を受けている。まるで罪人のような扱いで、辱められているのだ」
憤怒の眼光が、ぎろりと放たれた。カイウォルの喉が脅えたように嚥下する。
「我らは軽んじられたことに、憤りを覚えている。――お前は先ほど、自分に無礼を働いた罪を償えと言ったが、お前こそ、我らへの無礼をどう償うつもりだ?」
「……な、……何を言って……」
カイウォルは、自分の声がかすれていることに気づき、慌てて咳払いをした。そして、改めて言い直す。
「鷹刀一族は、もとより罪人の一族。王家とは、まったく異なります。対だなんて、もってのほかです」
エルファンは、低く嗤った。カイウォルの言うことなど、お見通し――否、これは『罪人』という言葉で誘導し、『言わせた』台詞だ。
「鷹刀が罪人なら、共に古の王朝を斃した王族も罪人だと、先ほど言ったろう? それでも、王族が崇められていたのは、今となっては『秘密』とされている『記憶を読み取る』能力を用いて『神の代理人』を騙り、民を従わせたからだ」
そこで、エルファンは、ぐっと口の端を上げた。
「つまり、現在。お前のような『記憶を読み取る』能力を持たぬ、名ばかりの王族が権力を振りかざせるのは、遠い先祖のおこぼれに過ぎない。どんなに偉ぶったところで、『表』の王家の力など、形骸化した過去の遺物だ」
鼻を鳴らし、小馬鹿にした仕草で肩をすくめる。
「……ぶ、無礼な……!」
「それに対し、我が鷹刀は、きちんと根拠を持って『裏』の王家を名乗れる。――それは、我らが昔も今も変わらず、『王国の闇を統べる一族』だからだ」
エルファンは、組んだ足を解きながら身を乗り出した。
氷の瞳を閃かせ、意味ありげに「すなわち――」と、カイウォルを見やる。カイウォルの顔は緊張を帯び、凍りついた空気でも吸い込んだかのように、自分の身を掻き抱いた。
エルファンは魅惑の低音を響かせる。
「『〈七つの大罪〉の技術』という王国の暗部は、昔も今も、我が鷹刀の掌中にある――ということだ」
これが、エルファンの最大の交渉材料。
――……ただし、大嘘である。
「嘘です……!」
カイウォルの口から呟かれた言葉は、明らかに反射的なものであった。だから、たとえ正解であったとしても、エルファンが動じることはない。
何故なら、親友ヘイシャオの記憶を受け継いだ〈蝿〉が、カイウォルの弱点として、記憶媒体に遺してくれたのだ。
『主に、王宮での政務に携わってきた摂政は、神殿や神殿の管轄である〈七つの大罪〉についての知識は皆無です。そもそも、王宮と神殿は、どちらも『王』を頂点としているものの、組織としては完全に別物なのです。
そして、摂政は、〈七つの大罪〉の技術を不可思議なものとして、恐れている節があります。特に、鷹刀セレイエの〈天使〉の力を警戒しているようでした』
つまり、『鷹刀一族は、〈七つの大罪〉の技術を自在に扱える』と宣言すれば、カイウォルは鷹刀一族を軽視できなくなる――。
「可笑しなことを……! 〈七つの大罪〉の技術は、門外不出のものです。『契約』に縛られていない、鷹刀一族に漏洩しているはずがありません」
声を震わせるカイウォルに、エルファンは傲然と嗤う。
「何を言っている? 我らは王族の『秘密』を知っていただろう?」
「――っ!」
「鷹刀は、血族を〈贄〉として捧げていた一族ゆえ、否が応でも、〈七つの大罪〉と懇意にしていたのだ。技術が伝わるのは必然だ。――そして、〈七つの大罪〉と縁を切った今も、その技術は受け継がれ、鷹刀に残っている」
エルファンは朗々たる声を張り上げ、大真面目な顔で嘘を吐く。
そして、声を失ったカイウォルの耳に、揺さぶりの言葉を重ねていく。
「一方、『表』の王家のほうは、先王の死があまりにも急だったために、幼かった女王には〈七つの大罪〉の指揮権が受け継がれなかったのだろう? 〈悪魔〉たちが神殿に出入りしている気配もないし、組織として瓦解したように見える。――すなわち、今となっては、鷹刀が〈七つの大罪〉の技術を継承する、唯一の組織ということになるな」
カイウォルの顔から、血の気が引いた。
ことの重大さを理解したのだ。今まで粗野な凶賊の戯言と捉えていた、『裏』の王家という名称が、実は正鵠を射たものであったのだと。
それでも、カイウォルは毅然と前を向いた。
「……あり得ません……!」
ぎりりという歯噛みの音が聞こえそうなほどに、口元が歪められる。
顔色を失いながらも肩を怒らせ、美麗な眉を吊り上げた。
「そんな妄言を信じるほど、私が愚物に見えるのですか? 口先でなら、どうとでも言えましょう」
蠱惑の旋律も高らかに、ぴしゃりと言い放つ。
カイウォルは屈せず、惑いながらも、自分の道を迷わない。
さすが、一国の摂政を務める男だ。若造だと舐めて掛かっていたら、こちらがやり込められていたかもしれない――。
そんな思いは表に出さず、エルファンは「信じられぬか。なるほど、それもそうだな」と、涼しい顔で頷いた。
それから、すっと右手を上げる。
ぱちん。
長い指が弾かれた。小気味のよい音が鳴り響く。
「何をしたのですか?」
緊張をはらんだ声で、カイウォルが尋ねる。
「〈冥王〉に合図を送った。――神殿に確認してみろ」
薄笑いで告げるエルファンに、素直に従うのは癪だと思ったのだろう。カイウォルは不快感もあらわに、眉をひそめる。
しかし、カイウォルが動かなくとも、彼の携帯端末が懐で振動を始めた。どうやら、神殿に務める者たちは、問題を隠蔽するような不心得者ではなく、勤勉な小心者だったらしい。
さすがのカイウォルも、呼び出しを無視することはなかった。それどころか、動揺を見せまいとしながらも、明らかに焦りを感じる手つきで通話に出た。
「なっ……!? 光明の間の『神の光』が……激しく明滅している――!?」
『〈冥王〉』の名称は極秘であるらしい。『神の光』という言い方で、カイウォルが叫ぶ。
すかさず、エルファンは口を開いた。
「我が同胞を喰らい続けた〈冥王〉だ。我らと縁が深くても、不思議はなかろう?」
冷淡な魅惑の低音が、カイウォルに氷水を浴びせる。
『エルファンの合図で、〈冥王〉に異変が起きた』
これは、事実だ。
いくらカイウォルでも、自分の目の前で起きた現象を否定することはできない。
鷹刀一族が〈冥王〉と――〈七つの大罪〉の技術と繋がりがあることを認めざるを得ない。――たとえ、何が起きたのかは分からなくとも……。
カイウォルは、呆然と虚空を見つめたまま。携帯端末を取り落しても、気づく素振りもない。
「しばらくすれば収まる。――今の光は、な」
含みのある響きで、エルファンが声を落とす。
――勿論、ただの脅しだ。
鷹刀一族が〈冥王〉を制御できるわけではない。
絡繰りとしては、実に単純なものだ。
神殿務めの者たちは、大概において皆、天空神フェイレンの敬虔なる信者である。神を崇める彼らが、光明の間で常ならざる光を見れば、『神の光』――〈冥王〉が荒れ狂い、散り乱れたように感じるであろう。
しかし、本当は〈冥王〉を収めた『部屋』の照明設備が暴走しただけなのである。
犯人は、クラッカー〈猫〉こと、ルイフォン。
〈七つの大罪〉のデータベースに侵入したのと同じ要領で、〈七つの大罪〉の関連施設である神殿のシステムを乗っ取った。
ほんの悪戯程度の小細工に過ぎないのであるが、効果はてきめんだったようだ。逆にいえば、ルイフォンの手助けがなければ、エルファンの脅しは口先だけだと、カイウォルに突っぱねられて終わっていた。
今回の作戦では、どのようにして、『鷹刀一族は〈七つの大罪〉の技術を自在に扱える』と、カイウォルに信じ込ませるか――が、重大な課題だった。
レイウェンの家から連絡を寄越してきたルイフォンも、すぐにその点が鍵となると指摘してきた。
誰しも、〈ケル〉や〈ベロ〉の存在が頭をよぎったことだろう。
しかし、『人の世のことは、人の手で』――それが、〈ケル〉や〈ベロ〉との約束であり、何よりも、キリファの願いだ。
ルイフォンもエルファンも、矜持にかけて『彼女』たちを頼ることを口にしなかった。
その思いが――無言で通じ合っているという絆が、心地よく、愛おしかった。
そして、ルイフォンが『照明設備の暴走』という方法を思いついた。
――ありがとう。私とキリファの息子。
心の中で、ルイフォンに告げる。
実のところ、ルイフォンなら〈七つの大罪〉のデータベースを自在に閲覧できるため、その技術を手にしているといえなくもない。だが、ルイフォンも鷹刀一族も、禁忌に触れる気はないのだ。
だから。
この交渉材料は、やはり盛大な大嘘――。
「カイウォル」
エルファンは、放心している相手に、鋭い声で呼びかけた。
「鷹刀は、国取りに興味はない。故に、『表』の王家が、『裏』の王家たる鷹刀を軽んじることがなければ、我らは何もしない」
「……」
カイウォルは沈黙したまま、黒い瞳だけをエルファンへと動かす。
「だが、もし、今回のようなことを繰り返した日には、我らは王家を斃すことを辞さない。――それを告げるために、私は事情聴取に応じたのだ」
鷹刀一族特有の、魅惑の低音が宣言する。
カイウォルは、しばらく無表情にエルファンを見つめていたが、やがて緩慢な動きで、落とした携帯端末を拾い上げた。
「……納得いたしましたよ。――いろいろと、ね」
溜め息混じりに吐き出すと、いつもの雅やかな笑みをエルファンに向ける。
「別に答えなくとも構いませんが、あなたが事情聴取に応じた理由は、『探られたくない肚があるから』ということですね」
そうでなければ、わざわざ、ここまで警告する必要がない。――闇に沈んだ瞳が、そう告げる。
エルファンは、氷の微笑を浮かべただけで、何も言わなかった。
答えなくてよいと言ったのだから、答える必要はないのだ。
「よいでしょう。――私の父である先王陛下と、あなたの父、鷹刀イーレオが交わしたという『不干渉』の約束。その子供である私たちも交わしましょう」
落ち着き払った蠱惑の旋律が、天空の間に吸い込まれていく。
「ですから、鷹刀もまた、くれぐれも王家に手を出すことのなきよう、切に願います」
4.和やかなる星影の下に-1
朝陽の気配を感じ、ルイフォンは、すっと目を覚ました。
瞼を開けた瞬間、視界に入ってきたものは、見慣れた白いレースのカーテンの裾ではなく、優しいオフホワイトの天井。その景色によって、彼は自分のいる場所が、自室の窓際のベッドではなく、数日前から世話になっている、レイウェンの家の客間であることを思い出す。
隣で寝ていたはずのメイシアは、朝食の準備を手伝いに行ったようだ。
レイウェンも、妻のシャンリーも『お客さんでいいんだよ』と言ってくれているのだが、メイシアとしては居候の義務感ではなく、純粋にこの家の一員としての生活を楽しみたいらしい。
その甲斐あってか、今では、機械類と睨み合ってばかりいるルイフォンより、彼女のほうが、よほど草薙家に溶け込んでいた。毎日、生き生きとしている。
ルイフォンは体を起こし、両腕を高く上げて、猫背を伸ばした。
ふと、庭から、レイウェンとタオロンの手合わせの音が聞こえてきた。ベッドを降り、ルイフォンは硝子窓を大きく開く。夜着のままであるが、構いはしない。
「おはよう! 早いな」
声を張り上げると、ふたりは一時休止の合図を目で送り合い、同時にルイフォンを振り返った。
「君も、意外に早いね」
鷹刀一族の直系らしい、艷やかな黒髪をなびかせ、レイウェンが甘やかに微笑む。
「お前、二日酔いは大丈夫なのか?」
やや驚いたように、タオロンが尋ねた。巨体に反しての小さな目が、太い眉の下でいっぱいに見開かれている。
「二日酔い? 経験したことねぇよ! それどころか、今日は、格別に爽やかな目覚めだ!」
抜けるような青空の笑顔で、ルイフォンは親指を立てた。
――昨日。
近衛隊による、鷹刀一族の屋敷の家宅捜索が行われた。
名目上は『国宝級の科学者』の拉致容疑のためだが、実際には『ライシェン』を探す摂政が、鷹刀一族に圧力を掛けてきたのだ。
また並行して、事情聴取の要請があった。
任意であるため、『応じない』という選択もできた。しかし、天下の鷹刀が引き籠もっているなど、矜持が許さぬ。逆に、エルファンが一族を代表し、『鷹刀に手を出すな』と牽制するために王宮に赴いた。
こちらの切り札は、『鷹刀一族は、〈七つの大罪〉の技術を継承している』という、大嘘。
摂政に一笑に付され、エルファンが拘束、尋問――否、拷問を受けるという危険のある、賭けのような策だった。そのため、初めの作戦会議では詳細が伏せられたくらいだったのだが、あとからルイフォンが協力を申し出たことにより、大成功を収めた。
そんなわけで、昨晩、鷹刀一族の屋敷ではエルファンを取り囲んで盛大な宴会が開かれたのだが、草薙家にいるルイフォンは屋敷には戻らず、こちらでレイウェンたちと祝杯をあげた。
……本当は、エルファンと酒を酌み交わしたかったな。
ルイフォンは内心で、残念に思う。
摂政への牽制はうまくいったが、『不干渉』の約束は、危うい均衡でできている。鷹刀一族の動きは、常に監視されていることだろう。
だから、『鷹刀』ではないルイフォンとメイシアは、このまま、もうしばらく草薙家にいることになったのだ。そのほうが行動の自由が効きやすいし、万が一、何かあったときには、密かに動くことができるから――と。
「ルイフォン。たまには君も、鍛錬に参加しないかい?」
いつの間にか、窓際まで来ていたレイウェンが、にこやかに誘ってきた。
「そうだな。俺も、鍛えないとな」
非戦闘員だからといって、いざというときに、メイシアを守れないようでは情けない。心を入れ替え、鷹刀一族の屋敷では、リュイセンに稽古をつけてもらっていたルイフォンである。
「――けど、俺は……強くねぇぞ……」
大柄のレイウェンと、その隣に並んだ巨漢のタオロンを見やり、ルイフォンは、ぼそりと予防線を張る。こんな規格外の猛者たちと一緒にされては、たまったものではないからだ。
警戒心もあらわな猫の目に、レイウェンが苦笑した。その顔は優しく穏やかで、とても剛の者には見えない。
「君の体つきを見れば、だいたいのことは分かるよ。義父上が、君にどんな指導をしていたのかもね」
「『ちちうえ』? ――ああ、父上じゃなくて、義父上か」
チャオラウの名前に、ルイフォンは思い出す。――彼は、今回の騒動における、唯一の負傷者だった。
今回の家宅捜索では、対象が凶賊ということで、警察隊からの応援の荒くれ隊員が混じっていたのだ。そして、その中のひとりが『科学者をどこに監禁していやがる!?』と、イーレオに殴りかかろうとしたらしい。そこをチャオラウが身を挺して守った。
チャオラウは、顔を腫れ上がらせながらも微塵にも怒りを見せず、堂々たる態度で、こう告げた。
『我らに恥じることは、何もありません。拳を受けることで認めていただけるのならば、この私がいくらでも受けましょう。ただし、高齢の主人には、ご勘弁を。悪くしたら、あなたが殺人を犯すことになりますので』
如何にも豪傑といった風体のチャオラウが、丁寧に腰を折るのを目の当たりにして、さすがの荒くれ隊員も、毒気を抜かれて引き下がったという。
……ユイランへの誓いを守ったんだな。
チャオラウは、ルイフォンたちが草薙家に移動する際、運転手として送ってきてくれた。その別れ際、ユイランに『鷹刀のことは、お任せください』と胸を叩いたのだ。
そのやり取りがなかったとしても、彼の行動は変わらなかっただろう。だが、やはり、彼の心にあったのは、イーレオへの忠誠よりも愛しい女への想いだったのではないかと思う。……なんとなく。
「ルイフォン」
ふわりと微笑むような、甘やかなレイウェンの低音がルイフォンを包んだ。
鷹刀一族特有の美麗な容貌でありながら、同じ顔の誰よりも柔らかな面差し。――なのに、鋭い。どうにも、レイウェンには、何もかも見透かされているような気がしてならない。
「ああ、今すぐ、着替えて外に出る」
気持ちを切り替え、ルイフォンは身を翻した。
「お前、あれだけ飲んで、本当に平気なんだなぁ」
豪腕から繰り出した、必殺の一撃をルイフォンにかわされ、タオロンは感心したようにぼやいた。その様子からすると、彼にはまだ酒が残っているのだろう。事実、動きに少々、切れがない。
「社長も無敵だし……」
ぶつぶつと悔しがるタオロンに、レイウェンが目を細める。
「私も、ルイフォンも、鷹刀の人間だからね」
どことなく嬉しそうな声の裏側からは、『ルイフォンは、俺の異母弟だからね』という言葉が聞こえてきた。相変わらずの『兄貴』に、ルイフォンは苦笑しつつも、悪い気はしない。
「社長には、弱点というものがねぇんですか?」
住み込みで働くようになってから、一ヶ月。レイウェンには、まったく非の打ち所がないのだと、昨日の酒の席でも、タオロンはルイフォンに力説していた。
ルイフォンだって、レイウェンとは最近の付き合いなのだが、弟のリュイセンが尊敬しつつも、時々、劣等感に苛まれるくらいの完璧さを誇っているのは知っている。
「俺も、レイウェンの弱点を知りてぇな!」
調子に乗って軽口を叩くと、レイウェンは素晴らしく甘やかな笑みで「秘密」と返してきた。……なんか、敵わない気がする。
「さて。そろそろ、切り上げようか。タオロンも、今日はファンルゥが起きる前に戻ったほうがいいだろう?」
「――っ!? すんません! ありがとうございます!」
レイウェンの気遣いに、タオロンが焦ったように頭を下げる。
ファンルゥは、目覚めたときに父親がいなくても、泣き出すような子ではない。ただ昨日の夜は特別で、ルイフォンたちと盛り上がっているタオロンに、『たまには男連中で、語り合うといい』と、シャンリーがファンルゥの寝かしつけを引き受けてくれたのだ。
だから、今日のファンルゥの朝一番は、『大好きなパパ』の『おはよう』で。――そういう配慮だ。つくづく、レイウェンは、できた御仁である。
「姐さんにも、頭が上がらねぇや」
刈り上げた短髪を掻きながら、タオロンは幸せそうに笑う。本当に、今の生活は夢のようだと。
ルイフォンも、昨晩のシャンリーは正直、意外だった。
こういっては失礼だろうが、男装の麗人と謳われるシャンリーのこと、育児は苦手で、同居の義母に任せっきりの印象があったのだ。しかし、シャンリーが絵本を持ってくると、ファンルゥは大喜びでベッドに向かっていった。
ルイフォンが首をかしげていると、タオロンが『姐さんは、凄ぇんだ』と教えてくれた。
なんでも、身振り手振りの入った臨場感たっぷりのシャンリーの『お話』は、まるで小さな演劇会で、ファンルゥは夢中なのだという。そういえば、シャンリーは剣舞の名手であり、表現の専門家であった。
徐々に熱を蓄え始めた朝陽を背に受けながら、三人は家に戻る。
その途中で、メイシアが庭に出てきた。淡い空色のエプロンを着けたままなので、そろそろ朝食だと声を掛けに来てくれたのだろう。鷹刀一族の屋敷での、ふわりとしたメイド服姿も、よく似合っていたが、シンプルなエプロン姿も新鮮である。
ルイフォンは思わず走り出した。
「メイシア、おはよう!」
「ルイフォン!?」
彼が朝稽古に参加していたことに、メイシアは目を瞬かせる。
けれど、彼女を守りたいという彼の気持ちに気づいているのか、彼女は、ほのかに頬を染め、花がほころぶような満面の笑顔となった。
「おはよう、ルイフォン! ――それから、お疲れ様」
「ああ、ありがとう」
ルイフォンは、華奢な肩を抱き寄せ、薄紅の唇に口づける。
途端、メイシアがうろたえた。レイウェンとタオロンの目を気にしているのだ。
彼女の細い指先が、しがみつくように彼のシャツを握る。恥ずかしさで隠れてしまいたいのだと訴えるように、彼の胸に顔を埋めてくる。――そんな仕草が可愛らしい。
おそらく背後では、レイウェンがいつもの甘やかな眼差しでふたりを見守っていて、タオロンはどこかに視線を泳がせていることだろう。
何も問題はない。
「俺、幸せだな」
ルイフォンは、思ったことをそのまま口にする。
「……うん。私も」
彼の腕の中で、メイシアも、こくりと頷いた。
それから数日後の夜――。
皆での夕食を終えたあと、片付けを手伝うメイシアと別れ、ひと足先にルイフォンは客間に戻った。
それが、ここ最近の彼の日課だった。そして、張りぼてのほうの〈ケルベロス〉を遠隔から操作し、摂政を中心とした国内の情勢を調査したり、〈スー〉のプログラムの解析を進めたりといった作業をこなすのだ。
「ルイフォン」
ふと、鈴を転がすような声が聞こえてきた。
メイシアだ。さっき、扉の開く音がしたから、部屋に戻ってきたのだろう。
気づいてはいたのだが、頭が異次元に飛んでいる状態のルイフォンは、適当に「うん」と答えただけでモニタから目を離さなかった。
いつものこと、といえばそうである。だが、特に今は、鷹刀一族の屋敷から運搬可能だった機械類だけで作業をしているので、効率が悪い。普段よりも小さな画面を見ていたため、集中力を保つためにも、視線を移すわけにはいかなかったのだ。
刹那。
背後で、殺気が膨れ上がった。
「――っ!?」
ルイフォンは本能的な恐怖を感じ、飛び上がるようにして後ろを振り返る。
「えっ……、シャンリー?」
そこにいたのは、メイシアひとりではなかった。
彼女と一緒に皿洗いをしていた、シャンリーもいた。
メイシアが部屋に入ってきたのは分かったが、シャンリーの気配はまるで感じ取れなかった。もし彼女が敵だったら、確実にやられていた。どうやら、ちょっとやそっとの鍛錬では、まだまだ付け焼き刃のようである。
「メイシア。こいつはいつも、こんな感じなのか?」
腕組みに仁王立ちのシャンリーが、座位のルイフォンをしかめっ面で見下ろす。ベリーショートの髪と相まり、怒髪天を衝いているかのようで、かなりの迫力である。
「え? はい……?」
シャンリーの憤慨の理由が分からず、メイシアは黒曜石の瞳を瞬かせ、きょとんと首をかしげた。
「これでいいのか!? 最愛のお前が声を掛けたならば、何を差し置いても、嬉しそうに返事をするのが男というものだろう!?」
「え、あの……。作業に集中しているルイフォンも、ルイフォンらしくて……、その、格好いいと思うので……」
「――くぅっ……、メイシア、騙されているよ……」
シャンリーは、額を押さえるようにして頭を抱え、大げさなほどに嘆きを漏らす。
「さすが、俺のメイシアだ!」
ルイフォンは勢いよく立ち上がり、がしっと彼女を抱きしめた。腕の中から、小さな悲鳴が聞こえたが、それは無視である。
実のところ、作業中の態度に関しては、彼としても、ほんの少し後ろめたく思っていた。しかし、メイシアは許してくれるどころか、評価してくれていたとは――!
……あまりの寛容さに、かえって罪悪感で胸が痛い。思わず、彼女の耳元で「いつも、すまん」と囁いた。
とはいえ、シャンリーの弁は無茶苦茶だ――と、思ったが、彼女の夫であり、超人であるレイウェンならば、常に当然のように、あの甘やかな笑みで応えてくれるのだろう。
シャンリーは、しばらく呆気に取られていた様子だったが、溜め息混じりに「まぁ、いい」と呟いた。そして、がらりと口調を変え、唐突に切り出す。
「すまんが、ちょっと、ふたりにお願いしたいことがあってね」
女性にしては低い声質が、更に沈むような陰りをはらんだ。
ルイフォンは、何ごとかと頬に緊張を走らせた。反射的にメイシアを見やると、彼女もまた、彼と同じような顔をしている。シャンリーと一緒に部屋まで来たので、話があることは知っていたようだが、内容までは聞かされていなかったらしい。
ルイフォンとメイシアは互いに顔を見合わせ、知れず、身構える。
「おいおい、そんな顔をされると話しにくいぞ」
部屋の空気を一変させた張本人であるシャンリーが、おどけたように肩をすくめた。
その大仰な仕草は、『お話』好きのファンルゥには大受けなのだろうが、今はルイフォンの不安を煽った。シャンリーが、無理に軽薄に振る舞おうとしているように感じられたのだ。
性別不詳ながらも整った顔を取り澄ませ、彼女は「こほん」とひとつ、わざとらしい咳払いをする。
「本当は、レイウェンとふたりで頼もうかとも考えたんだけどね。私たちが雁首を揃えてやってきたら、大げさに捉えられそうだから、私がひとりで来たんだ」
「なんだよ、改まって」
軽く受けようとしたルイフォンのテノールは、あっさりと上ずり、空回りした。
けれど、それで正しかったのかもしれない。
何故なら、シャンリーの次の台詞は、決して軽いものではなかったから――。
「『ライシェン』の未来の選択肢のひとつに、『草薙家の子になること』を入れてもらえないか?」
4.和やかなる星影の下に-2
「『ライシェン』を、草薙家の子に……?」
ルイフォンは、猫の目を丸くして固まった。まったく想像もしていなかった話に、声を失ったのだ。
それはメイシアも同じだったようで、彼女は隣で小さく息を呑んだまま、口元に手を当てている。窓の外からの虫の歌だけが、涼やかに広がっていった。
「そんなに意外だったか?」
「あ、いや……。ほら、レイウェンとシャンリーは『一族を抜けるときに、鷹刀と縁を切ることを誓ったから』って言ってさ。今までずっと、事情は知っていても、見守ることに徹していたから……」
「――ルイフォン」
肩を怒らせたシャンリーが、叱りつけるような声色を響かせた。
反射的に、ルイフォンは猫背をぴんと伸ばす。その反動で、毛先を飾る金の鈴が跳ねた。
「『ライシェン』は、セレイエの子供だ。レイウェンと私にとっては『異母妹の遺児』にあたる。――『甥』なんだよ。お前たちと、同じ立場だ」
「――っ!」
「すっかり忘れていた、って顔だな」
シャンリーの苦笑は、とても静かだった。
彼女らしくもなく、いっそ平坦といったほうが正しいくらいの穏やかさ。……だからこそ、内に抑えたセレイエへの強い思いが――異母妹を亡くした深い悲しみが垣間見える。
「……すまん」
思わず、謝罪が口を衝いて出た。
自分だけが、セレイエと兄弟姉妹のような気がしていた。だから、セレイエは、息子を異父弟に託して、逝ったのだと。
「セレイエは俺の異父姉だけど、レイウェンとも異母兄妹なんだよな……」
ぼやくような呟きに、シャンリーは「そうだよ」と、語調を強めて頷く。
「他所の凶賊に襲われて、セレイエが〈天使〉の力を暴走させて……、安全のために、セレイエが離れて暮らすようになるまで――私たちは鷹刀の屋敷で一緒に育った。あとから生まれたお前には、実感が湧かないだろうが、大事な異母妹だ」
「……」
ルイフォンは、なんとも言えずに押し黙る。
不意に、メイシアが彼の服の端をぎゅっと握ってきた。どうしたのかと見やれば、もう片方の手で自分の胸元を押さえながら、切なげな顔でシャンリーを見つめている。
「セレイエさんの記憶が、シャンリーさんの言葉に反応しています。『大好きなお姉ちゃん』だって……」
シャンリーが、はっと顔色を変えた。
「すまん! 大丈夫か!? セレイエの記憶が表に出てくると、具合いが悪くなるんだろう?」
「あ、いえ。具合いが悪くなるというよりも、混乱してしまうことがあるだけで……。でも、今は平気です。切ないけれど、温かいんです。セレイエさんが、シャンリーさんたちをとても大切に思っていたのが伝わってきます」
「そうか、よかった。……ありがとう」
安堵の息を吐き、シャンリーは柔らかに笑う。それから、気合いを入れるかのように、口元をきゅっと引き締めた。
「なら、『ライシェン』が草薙家の子になったとしても、セレイエは喜んでくれるはずだな。だって、セレイエは『ライシェン』に、王になる道と、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道を考えていたんだろう?」
「あ、ああ……」
ルイフォンは、戸惑いながらも肯定する。それを弾みに、シャンリーが声高に続けた。
「そして、セレイエは、養父母の候補として、とりあえず、お前たちを選んだ。けど、それは絶対ではなかったはずだ」
その通りだ。
ルイフォンとメイシアが恋仲にならなかった場合には、『ライシェン』に愛のある環境を与えてくれれば、それでよいと願っていた。
「セレイエがお前たちを選んだ理由は、『ライシェン』と血の繋がりという縁があること。それから、メイシアが〈天使〉になることで、あらゆる危険から『ライシェン』を守り抜ける力を得られること――だったよな?」
シャンリーの問いかけに、メイシアがおずおずと頷く。
その瞬間、ルイフォンは鋭く目を光らせ、弾かれたように叫んだ。
「メイシアは、〈天使〉なんかにならない!」
華奢な肩を抱き寄せ、その手で黒絹の髪をくしゃりと撫でる。
セレイエの命を賭けた願いと、自身の『〈天使〉になりたくない』という思いの狭間で、メイシアは苦しんだ。優しい彼女のことだから、落ち着いたように見えても、本当は今も悩んでいることだろう。だから、彼女の心が罪悪感に侵されたりしないようにと、ルイフォンは強く否定する。
必死の形相の彼に、シャンリーが、ぷっと吹き出した。
「おいおい、そんなに睨むな。――私も、メイシアが〈天使〉になる必要はないと思っているよ。さすがに、それはセレイエの我儘が過ぎる」
からからと笑いながら、シャンリーは、メイシアの肩を抱くルイフォンの手に目を細めた。満足げに口の端を上げてから、すっと真顔に戻る。
「だが、メイシアが〈天使〉にならないのなら、セレイエが期待した強力な守りの力はなくなる。単に『ライシェン』の血縁という意味でなら、お前たちと、私たちの条件は同じだ。――ならば、『ライシェン』が草薙家の子になるというのも、悪くないんじゃないか?」
「――!」
悪くないどころではないだろう。
武術の心得のあるレイウェンとシャンリーは頼もしいし、何より、クーティエという一女のある彼らなら、養育者として申し分ない。ルイフォンたちよりも、よほど適任、よほど現実的だ。
あまりにも、ありがたい申し出に、ルイフォンとメイシアは半ば呆然としていた。張りのあるシャンリーの声が、未来に向かって、ふたりの背中をそっと押し出す。
「急かしているわけじゃないよ。あくまでも、選択肢のひとつとして、頭の片隅に入れておいてほしい、ってだけだ。だいたい、『ライシェン』の父親とも、相談が必要だろう?」
「あ……、そうだよな……」
『ライシェン』の未来について、真剣に考えなければならない。
摂政の動向が気になると言って、なんとなく先延ばしにしていたが、できるだけ早く、父親のヤンイェンと会う段取りをつけるべきだ。
セレイエの計画では、『ライシェン』は、とりあえず王として誕生し、それが不幸な道だと思われたら、〈天使〉となったメイシアが王宮から掻っさらう――などという、とんでもないものだった。
しかし、メイシアを〈天使〉にしないと決めた以上、『ライシェン』の誕生の前に、『王』か『平凡な子供』を選ぶ必要がある。その判断に、父親であるヤンイェンの意見は不可欠だろう。
――果たして、どんな未来が、『ライシェン』にとって幸せなのか。
あの小さな赤子が硝子ケースから出て、青灰色の瞳に世界を映し、白金の髪を揺らして笑う……。
そのとき、ルイフォンの心に、ふっと昏い影がよぎった。
……自分は、あの赤子を『可愛い』と思えるのだろうか?
湧き出た疑念に動揺し、おそらく無意識に安心を求めたのだろう。ルイフォンは、隣のメイシアに視線を走らせる。
すると、彼女もまた眉を曇らせ、彼を見つめていた。黒曜石の瞳は惑いに揺れ、そこに映り込んだ彼の顔も、昏く沈んでいる。
「……レイウェンの言った通りだな」
奇妙な色合いを帯びた室内に、シャンリーの声が静かに響いた。
性別不詳の整った顔からは感情が失せ、続く言葉は淡々と無慈悲――。
「具体的な『ライシェン』の未来を示したら、お前たちの足はすくみ、ためらいを見せる。――お前たちの中で、『ライシェン』は『人』ではなくて、『もの』だから……」
「――え?」
歌うような声は、彼女の剣舞の如く流麗だった。
ルイフォンの耳にも鮮やかに聞こえ……だのに、彼は言葉の意味を理解できなかった。まるで不可思議な舞に翻弄されたかのように、ルイフォンは狼狽し、シャンリーの顔を凝視する。
シャンリーは、溜め息をひとつ落とした。それから、いつもの強気な表情に戻り、「いいか?」と、鋭く斬り込むように身を乗り出した。
「決して、お前たちを責めているわけじゃないぞ。――けどな」
険しい声の前置きに、空気が張り詰める。
「もし、お前たちが、『ライシェン』をセレイエに託された『子供』だと思っているなら、一緒に草薙家に連れてきているはずなんだ。そりゃ、やむを得ず、鷹刀に置いてくるしかなかった、という話は聞いている。けど、情があるのなら、常に気にかけて、心配しているものなんだよ。でも、お前たちからは、そんな感じはしない」
「!」
ルイフォンとメイシアは、同時に息を呑んだ。
そして、ふと、〈蝿〉を思い出す。
彼は、硝子ケースの中で眠ったままの『ミンウェイ』を、それはそれは大切にしていた……。
「けどな……。お前たちにとって、『ライシェン』が『もの』であるのは、仕方のないことだ。だって、お前たちは、『デヴァイン・シンフォニア計画』に苦しめられてきた。――メイシアの家族も、この計画の犠牲になった……」
シャンリーの目が、悼むように伏せられる。
「メイシアの父親は亡くなったのに、原因となった『ライシェン』が生き返るのは、解せないだろう? 話を聞いただけの私だって、理不尽だと思うんだ。お前たちが、素直に『ライシェン』を受け入れられないのは、当たり前のことなんだよ」
メイシアの体が震えた。
小さく「私……」と呟いたまま、血の気の失せた唇が動きを止める。ルイフォンは、彼女の細い腰を引き寄せ、包み込むように抱きしめた。
彼の胸に倒れ込んできた華奢な体は、夏の気温に反し、凍えているように感じられた。無論、錯覚に決まっているが、ルイフォンは自分の熱を分け与えようと、両腕に力を込める。
そんなふたりに、シャンリーは切なげに顔を歪めた。
「お前たちに『ライシェン』の未来を――幸せを託すのは、酷だよ。セレイエだって、『デヴァイン・シンフォニア計画』が、こんなことになるとは思っていなかったはずだ」
口調の険しさとは裏腹に、シャンリーの言葉は優しさであふれていた。
心の底に沈んでいた昏さをすくい上げ、音にして聞かせながらも、それでいいのだと強く訴える。
「無理をするな」
シャンリーが微笑む。
「『ライシェン』は、草薙家の子になればいい」
『ライシェン』も、『お前たち』も、幸せになるために――。
ルイフォンの腕の中で、メイシアの呼吸が揺れた。彼の背に回された手が、髪先を留める金の鈴に触れ、一本に編まれた髪にくしゃりと絡める。
ルイフォンもまた、彼女の黒絹の髪に、すっと指を通した。優しく掬い取るようにして、くしゃりと撫でる。
互いにまだ、『弱い』存在なのだと、実感する。
――けれど、『ふたり』なら……。
メイシアはルイフォンを仰ぎ見た。まっすぐな黒曜石の瞳に、彼も目線で応える。
そして、ふたりは、同時に頭を下げた。
「シャンリー、俺たちのために言ってくれて、ありがとう」
ゆっくりと。
ルイフォンは、テノールを響かせる。
「――けど。俺たちは、ふたりで考えて、肚を据えて『ライシェン』と向き合うと決めたんだ。なのに、俺たちはまだ『ライシェン』のために何もしてやっていない。……だから、まずは、自分たちの力で足掻いてみるべきだと思う。シャンリーの申し出について考えるのは、それからだ」
「ルイフォン……」
戸惑うように、シャンリーは瞳を瞬かせた。
「シャンリーさんのお話は、本当にありがたいと思います。けれど、今、それに甘えてしまったら、まだ何もしていない私たちは、楽をする道を選んだだけになってしまいます。……それはきっと『違う』と思うんです」
迷いのない澄んだ声で、メイシアがルイフォンのテノールを繋ぐ。
ルイフォンはメイシアの手を握りしめ、わずかに逡巡した。……けれども、静かに続ける。
「〈蝿〉は、『ライシェン』の『処分』をも口にした」
「!」
シャンリーが顔色を変えた。しかし、ルイフォンは畳み掛ける。
「命と向き合い続けた『ヘイシャオの記憶』の言葉は、決して軽くはないはずだ。そして、『ライシェン』には、そう言わせるだけの背景がある。――でも、俺たちとしては、『ライシェン』には、『人』としての幸せを贈ってやりたいと思っている」
ルイフォンに同意するように、メイシアが頷く。それを弾みに、ルイフォンは決然と告げる。
「なのに、俺たちは『ライシェン』を『もの』扱いしていた。可哀想だよな。改めるよ。――俺たちは、本当にこれからなんだ」
覇気に満ちた顔で、ルイフォンは笑う。どこに続くか分からない、遠い道を見据えながら――。
その瞬間、シャンリーは呆気に取られたような間抜けな顔になり、やがて、面目なさそうに、ベリーショートの頭をがりがりと掻いた。
「なんか、綺麗にまとめられちまったな」
「悪ぃ」
「別にいいさ。――ただ、お前たちは何もかも、ふたりきりで背負いすぎだと、言いたかったんだ。もっと、レイウェンと私を頼ってほしい。……『きょうだい』だろう?」
「ああ、そうだな」
ルイフォンは即答した。シャンリーが、どんな意味で『きょうだい』と言ったのかは不明だが、肯定以外の答えなど、あるはずもなかった。
シャンリーは、はにかむように破顔し、ひと呼吸を置いてから続ける。
「それにな、『ライシェン』を草薙家の子にしたいというのは、お前たちのためでも、『ライシェン』のためでもない。私たち自身が『ライシェン』に来てほしいんだ」
「え?」
「『ライシェン』のことを聞いたとき、そんな星の巡り合わせもあるのかなと思ったよ」
謎めいた笑みを浮かべ、彼女は視線を窓へと移す。
「ちょっと、庭に出ないか? ……星が、綺麗だと思うんだ」
思っていたよりも、外は涼しかった。
心地の良い風が吹き、隣にいるメイシアの長い黒髪を巻き上げ、その毛先が、ルイフォンの半袖の腕を滑るように流れていく。
明るかった室内から出たばかりの瞳には、あたり一面が深い闇だった。その分、あちこちで奏でられる夏の虫の歌が、より鮮明に聞こえる気がした。
ルイフォンはメイシアの手を取り、指を絡め合わせ、夜目の効くシャンリーの気配を追っていく。しばらくすると、彼の目でも、星明かりを捕らえることができるようになってきた。
シャンリーが立ち止まり、「このへんでいいか」と、すとんと芝生に座り込む。
彼女に倣い、ルイフォンとメイシアも腰を下ろした。ちくちくとした草の感触がして、水気を含んだ匂いがほのかに漂う。
ふと気づけば、頭上は満天の星空だった。
「綺麗……」
軽く肩が触れ合う位置から、メイシアが感嘆を漏らす。
「ああ、綺麗だろう」
シャンリーは両手を後ろに付き、紺碧の空を仰いでいた。
「あの星の中のひとつが、私たちの子供なんだ。――生まれることもなく、死んでしまった、クーティエの弟か妹だ」
「――!?」
ルイフォンは、びくりと身を動かした。
その音に虫たちが驚いたのか、彼らの歌声がやみ、まるで時が止まったかのように、世界が凍りつく。
「驚かせて悪いな」
シャンリーが、くすりと笑った。
「流産したんだ。まだ、ほんの初期のころに」
笑うべきことではないはずなのに、彼女は星を見つめながら、愛しげに微笑む。
「転んだとかじゃなくて、自然なもの。どんな夫婦にも一定の確率で起こり得る、逃れようもない、ただの不運だ」
ルイフォンもメイシアも、何も言えず、沈黙が訪れた。
星が瞬く。
シャンリーに応え、まるで微笑み返すかのように。
「運が悪かっただけなんだ。……なのに、レイウェンは、そう思うことができなかった。自分の体に流れる、生粋の鷹刀の血のせいだと言い張った。自分を責めて、責めて……、あのときのレイウェンは見ていられなかったよ」
「……」
幼いころ、生まれたばかりの弟の死を目の当たりにしたレイウェンは、人一倍、血族に対する思いが強い。
そんな彼が、妻に宿った小さな命を失ったらどうなるか……想像は容易だった。
「レイウェンは強い男だ。けど、血族に関してだけは、どうしようもなく脆い。愛が強すぎるから、弱いんだ。……仕方ないよな」
その言葉に、ルイフォンは数日前、非の打ち所のないレイウェンの弱点を知りたいと、タオロンとふざけあったことを思い出した。
ずきりと、胸が痛む。
レイウェンの弱点なら、とっくに知っていたのだ。彼はルイフォンを異母弟だと喜び、ずっと見守ってくれていたのだから。
シャンリーはまた、ふっと笑った。
芝に付けていた手を放し、ベリーショートの髪を掻き上げる。
「レイウェンのことばかり言っていたら、不公平だな。……うん。私も脆くて、弱い。私たちは、同じことを繰り返したくないと思った。――だから、クーティエは、ひとりっ子なんだよ」
ルイフォンは、はっと息を呑んだ。
異様なまでに兄弟にこだわるレイウェンなら、娘に兄弟を、と思うはずなのに。
どうして、今まで気づかなかったのだろう……。
「セレイエが死んだと伝えられて、レイウェンは物凄く、ふさぎ込んだ。そして、遺された『ライシェン』について、実の父が育てるのが難しそうなら、草薙家に来てもらうのはどうか、と言ったんだ」
シャンリーは、紺碧の空へと両手を伸ばす。
舞い手らしく、指先まで綺麗に伸ばした腕で、星空を抱く。
「勿論、『ライシェン』をあの子の代わりにするつもりはないよ。あの子は、あの子。『ライシェン』は、『ライシェン』だ」
虫たちの奏でる旋律に乗って、思いが空へと流れていく。
「ただ、そういう運命が巡ってきたなら、草薙家に来い、ってだけだ。――うんと可愛がってやるから」
シャンリーは目元を緩め、柔らかに微笑んだ。
その顔は、どきりとするほどに優しげで、まるで慈愛に満ちた聖母のよう。普段、男装の麗人と謳われている彼女と、姿形は同じであるのに、まったく別の女だった。
不意に、メイシアの黒髪が風になびき、ルイフォンの頬に触れた。
彼は何気なく隣を見やり、メイシアの双眸で星が揺らめいていることに気づいた。
そっと彼女を抱き寄せる。彼女の頭が、こつんと彼の肩に載せられる。
そして、そのまま。
星降る夜に、静かな虫の歌が流れ続けた。
~ 第一章 了 ~
幕間 正絹の貴公子-1
これは、本格的な夏の気配が濃くなってきたころのこと。
ルイフォンとメイシアが草薙家で暮らすようになるよりも、前の話――。
好きな人の家に行った。
正確には、草薙家に来る彼の『お迎えにあがった』んだけど。
……分かっていたわよ。凄い豪邸だ、ってことくらい。
だって、普通の『お家』じゃなくて、貴族の『お屋敷』だもの……。
「え? ハオリュウが草薙家に来るの!?」
信じられないほど嬉しい話に、私は思わず聞き返した。
「これから暑くなりそうだから、貴族の当主にふさわしい、夏のよそ行きを仕立ててほしいそうなの。腕が鳴るわ」
祖母上が、にこにこと上機嫌に答える。ハオリュウのことは、お気に入りなのだ。
デザイナーの腕を買ってくれて、女王陛下の婚礼衣装担当に抜擢してくれて。でも本当は、お異母姉さんのメイシアの婚礼衣装こそ頼みたいのだと、熱心に語ってくれたことから始まり、彼の異母姉思いの優しさと、十二歳の若さで貴族の当主として立派に領地を盛り立てていることを考えれば、当然だと思う。
「けど、珍しいよね? 貴族って、普通、自分の屋敷に仕立て屋を呼びつけるものでしょ?」
私が首をかしげれば、「彼には、他に目的があるのよ」と、祖母上は、ふふっと銀髪を揺らす。
「あっ、父上と仕事の話?」
「そうねぇ。ひょっとしたら、それもあるかもしれないけれど、今回はファンルゥちゃんに――」
「ええっ!? ファンルゥ!?」
意外すぎる名前に、私は祖母上を遮り、素っ頓狂な声を上げた。
すると、祖母上は「人の話は、邪魔しちゃ駄目でしょ?」と、私をたしなめながらも、楽しそうに説明してくれた。
「『ファンルゥさんは異母姉の命の恩人です。それに、僕に素敵な絵を贈ってくださいました。どうしても、お礼に伺いたいのです』――ですって。私への用件は、口実なのよ」
「なんか、ハオリュウらしい」
私は、くすりと笑う。
貴族の当主であるハオリュウは、そうそう一般庶民のところに出入りするわけにはいかない。だから、自然な形でファンルゥに会えるように一計を案じたのだ。
「ファンルゥ、大活躍だったんだよね」
「ええ。『初めにファンルゥさんが危険を冒して、囚われた異母姉のもとに行ってくださらなかったら、現在はありませんでした』と、ハオリュウさんは声を震わせていたわ」
――菖蒲の館で起きた一連の大事件。私は、その一部始終を教えてもらっていた。
とても、辛く悲しい話だった。
ミンウェイねぇが、お母さんのクローンだったなんて信じられなかった。
悪い奴だと思っていた〈蝿〉が、可哀想になってしまった。
それから、鷹刀と王家の関係とか、王族の『秘密』とか……凄いことをたくさん聞いた。
本当は『子供の私には、内緒』のはずだったと思う。けど、私も鷹刀の血を引く者であることと、『事情を知っていれば、ハオリュウさんの力になれることがあるだろう』って、父上が教えてくれたのだ。
……私がハオリュウのことを好きだって、父上にバレている。
「それでね、クーティエ」
「えっ!?」
ううぅ……、と赤面していた私は、祖母上の声に、びくっと肩を上げた。
「ファンルゥちゃんへのお礼の贈り物について、ハオリュウさんが相談したいそうなの。お願いできる?」
「勿論よ!」
即答してから思った。
私がハオリュウのことを好きだって、祖母上にもバレバレだ……。
ハオリュウとお買い物に行けるのだと、私は浮かれていた。
でも、結局、電話であれこれアドバイスしただけだった。
そうだよね。
ハオリュウは貴族だもん。一緒に、お出かけなんてできないよね。
ふたりきりで話せただけでも、嬉しいことのはず……。
――それはさておき。
ファンルゥへのプレゼントは、絵本に決まった。魔法使いの女の子が大活躍する冒険シリーズの一冊で、草薙家にはない巻だ。
ファンルゥはお話が大好きだけど、菖蒲の館で〈蝿〉が用意した絵本は、か弱いお姫様が王子様に助けられる話ばかりで物足りなかったらしい。草薙家に来たら、私のお古の魔法使いシリーズに夢中になった。母上の読み聞かせも大好評で、いつも、ふたりで大騒ぎしている。――うん。私も小さいころ、母上とよくやった。
ちなみにハオリュウは、草薙家に揃ってない巻を全部、贈ると言ったのだけど、私は間髪を容れずに『駄目!』と答えた。
だって、全部なんていったら、十冊以上だ。貴族のハオリュウには、どうということはないだろうけど、かなり高額になる。子供のファンルゥへのお礼としては大げさすぎるし、タオロンさんが絶対に気にする!
それに、こういうのは、ちょっとずつ集めたり、図書館で借りて、そのときだけ、その本を独り占めしたりするものなのだ。そういう幸せって、あると思う。
ハオリュウは『分かった』と言ってくれたけど、たぶん、本当の意味では分かってない。
――彼は、貴族だから。
そして、今日――ハオリュウが草薙家に来る日。
いつもなら、ハオリュウの移動手段は、父上の警備会社から派遣されている護衛たちが運転する車だ。だけど、今回はタオロンさんと私で、彼を迎えに行った。
タオロンさんが、先にハオリュウに挨拶をしたいと言ったからなんだけど……、皆で口裏を合わせた『お話』を確認するため、かな……?
そう――。
ファンルゥにとって、ハオリュウは『〈蝿〉の診察を受けに来た、病気のあの子』なのだ。メイシアの異母弟だってことを知らない。だから、いきなり『あなたは異母姉の命の恩人です。ありがとう』と言われたって、ちんぷんかんぷんだろう。
それで、私がファンルゥのために『お話』を作ったのだ。
まず、〈蝿〉は、本人の人格はさておき、貴族にも頼りにされるくらい優秀なお医者様、ってことにする。
でも、悪いことばかり考えていて、腕の立つ凶賊を用心棒として、たくさん雇っていた。それで、斑目のタオロンさんと、鷹刀のリュイセンにぃや、ルイフォンが同じところで働いていたというわけだ。
一方、ハオリュウは病気じゃなくて、足の悪い貴族で、〈蝿〉の患者さん。前々から、何度も〈蝿〉のところに通っていた。
あるとき、彼の付き添いで来た異母姉のメイシアと、〈蝿〉の部下のルイフォンが運命的な出逢いを果たす。それで、ルイフォンと兄貴分のリュイセンにぃは、真人間になるために、悪い〈蝿〉の部下をやめることにした。
そして、菖蒲の館で『タオロンも、一緒に行こう』と、ルイフォンたちが誘いかけたら、怒った〈蝿〉がリュイセンにぃを捕まえて……と、ここから先は、ファンルゥの知っている話になる。
ファンルゥの作る『お話』は、なかなか突拍子もないくせに、きっちり辻褄が合っているんだけど、私の作った『お話』も、かなりいい感じだと思う!
だから、タオロンさんが先に挨拶とか、必要ないはずなんだけど……、ハオリュウと初対面なのに、以前からの顔見知りのふりをするのが不安なのかな?
――まぁ、いいや。
おかげで、私は好きな人の家に行けるんだもん。
ハオリュウのことをまったく知らないタオロンさんがひとりきりじゃ、さすがに気まずいだろう、ということで、本当は父上が付き添うことになっていた。
けど、ダメ元で、『私が行きたい!』と言ったら、父上はすんなり許してくれた。
父上、娘に甘い。――嬉しいけど。
ともかく、私は天にも昇る心地だった。
……だけど、門の前に立った今、ちょっとだけ後悔している。
だって、豪邸すぎるのよ!
たぶん、執事だと思われる人がやってきて、私たちはハオリュウの家、もとい、屋敷に入った。
私は気が引けていたけど、タオロンさんは完全に腰が引けていた。
そして、ハオリュウの書斎に入ると、タオロンさんは腰を抜かした。
「な……! なんで、こんなところに、ファンルゥの絵が……!」
タオロンさんの野太い叫びが、アンティーク調の硝子の飾り棚を震わせる。
実はタオロンさん、貴族の当主に会うってことで、『きちんと敬語を使えるか』とか、『失態を犯して、社長に迷惑を掛けたりしないか』とか、ここに来るまで、さんざん気にしていた。でも、そんなこと、すっかり忘れている。
……無理もないと思う。
だって、如何にも高そうな壺とかが置いてある部屋の壁に、ファンルゥのクレヨン画が立派な額に収められて飾ってあるんだもん。
勿論、私も唖然としていた。
とはいえ、私は、ハオリュウが、どこかにファンルゥの絵を飾ったことを知っていたし、タオロンさんみたいに、場違いなところで自分の娘の絵を発見してしまったわけじゃない。
だから、タオロンさんと比べれば、ちょっとは冷静だったと思うけど……。でも、やっぱり、こんな凄い場所で、ファンルゥの絵を見ることになるだなんて思ってなかったわよ!
そのとき、奥の執務机から、ゆったりとした声が上がった。
「ご足労くださり、ありがとうございます」
「ハオリュウ!」
久しぶりの彼に、私は喜色を浮かべる。
彼は、すっと立ち上がって、私たちのほうへとやってきた。
正装ではなく、シンプルなシャツ姿だけど、きっちり折り目がついているところが彼らしい。どことなく品の良さが漂っている。
貴族の家に行くのだからと、お洒落をしてきた私と、ちょうどよく釣り合う……と、思う。
「あれ? ハオリュウ、杖は?」
いつもなら、当主の指輪をはめた左手にあるはずの杖が、今日はない。
「室内では、もう使わなくて平気だよ。じきに、外出時にも要らなくなる」
足取りは少し危うかったけど、笑みをたたえながらの自信に満ちた顔に、私の胸が、きゅんと、ときめいた。
杖を付いていないからか、それとも、また背が伸びたからなのか。ハオリュウの目線は、前よりも高い位置にあった。出逢ったばかりのころよりも、ぐっと声も低くなって、彼は急に大人びた。
――格好いい。前よりも、ずっと。
外見だけじゃないのだ。……ううん。外見よりも、内面のほうが、大人びた気がする。時々、草薙家に来て、父上と何か話すときなんか、まるで大人同士の会話だ。
まだまだ子供の自分が切なくなって、私の心がしぼんでいく。
駄目駄目! 今は、落ち込んでいる場合じゃない!
私は、ぐっと拳を握り、気を取り直す。さて顔合わせだと、初対面のハオリュウとタオロンさんの間を取り持つべく、口を開きかけたときだった。
私のそばで腰を抜かしていたタオロンさんが、そのまま床を這うようにして、ハオリュウに向かっていき……土下座した。
「すまなかった!」
割れんばかりの大音声で、タオロンさんが吠える。
「斑目のせいで、お前の親父は死んだ! 恨んでくれていい。でも、謝罪させてくれ!」
「タオロンさん!?」
「メイシアには、前に頭を下げる機会があったが、貴族のお前には、ずっと会うことができなかった。――やっと言える。すまなかった!」
刈り上げた短髪を、ごりごりと絨毯にこすりつける彼に、私もハオリュウも、ぽかんと口を開けたきりだ。
そんな私たちの様子には構わず、タオロンさんは、なおも重ねて言う。
「お前に、ひとことの詫びも入れず、素知らぬ顔で草薙家で顔を合わせるなんて、俺にはできねぇ! 道理が通らねぇだろう! だから、社長に頼み込んで、先に会えるようにしてもらった。――すまん! 本当に、申し訳のないことをした!」
猪突猛進のタオロンさんらしい、まっすぐな叫びだった。心の底からの言葉が、当事者じゃない私の胸にまで、ぐっと迫る。
あ、でも……、タオロンさん、敬語……。
フォローしなきゃ、と。慌てて視線を走らせると、ハオリュウが、私に向かって穏やかな顔で頷いた。
分かっているよ――って、言ってくれたんだと思う。
「どうか、顔を上げてください」
巨体を極限まで小さく丸めたタオロンさんに、ハオリュウが語りかける。だけど、タオロンさんは、ぴくりともしない。
「父の件に関しては、あなたの立場では、何もできなかったと聞いています」
「だが、俺は斑目の人間だ。責任はあるだろう!」
床に向かって放たれた、タオロンさんの声には行き場がなく、くぐもった音の中に、無力だったことへの悔しさが滲み出ていた。
頭を下げ続けるタオロンさんを前に、ハオリュウが何を思ったのかは分からない。けど、彼は凛とした声で「いいえ」と告げた。
「あなたはもう、斑目一族の人間ではありません。――それに、斑目一族は、藤咲家を蹴落とそうとしていた厳月家に、依頼されただけです。引き受けた仕事をこなしただけですから、あなたも、斑目一族も、藤咲に対して負い目を感じる必要はありません。――ただ、藤咲が厳月に負けただけです」
ハオリュウの優しげな面差しは、とても静かで――だけど、有無を言わせぬ強靭さを持っていた。
彼は、柔軟でありながらも、強硬。
内に闇を抱えつつも、決して呑まれることなく、しなやかに闇を支配し、昇華していく。
それが、いいことなのか、悪いことなのか。先天的なものなのか、後天的なものなのか。そんなことは、考えても仕方のないことだ。
そういうのも全部ひっくるめて、ハオリュウという人なのだから――。
タオロンさんが鋭く息を呑んだ。
さっきは頑なに動かなかった彼が、ぱっと上を向く。
太い眉の下の小さな目が、いっぱいに見開かれ、息を吸い込んだ形のまま、唇が固まっていた。浅黒い肌だから、よく分からないけど、たぶん、頬は興奮に紅潮していると思う。
タオロンさんの喉が、こくりと上下した。
「……社長が、先に挨拶に行くことを許してくれたとき、俺に言ったんだ。もし俺が、お前――……」
そこまで言い掛けて、彼は、はっと顔色を変えた。――実際の顔の色じゃなくて、雰囲気が、だけど。
「しっ、失礼いたしました! 『お前』ではなくて、『ハオリュウ様』です! ――今までの暴言、どうか、お許しください。責任はすべて俺にあります。社長は関係ねぇ……あ、いや、ありません!」
タオロンさん、すっかり動転している。
立派な体躯の大男が慌てる様は滑稽なんだけど、彼が必死なのが物凄くよく伝わってきて、可笑しく感じるよりも先に、『しっかりして!』って、応援しなきゃいけない気になる。
きっとそれは、ハオリュウも同じだったんだと思う。彼は困ったように苦笑した。
「落ち着いてください」
「す、すみません……」
恥ずかしそうに謝りながら、タオロンさんは、頭に巻いた赤いバンダナの結び目に、しきりに触れていた。
「それで、レイウェンさんは、なんとおっしゃったのですか?」
「あ、ああ……」
タオロンさんの太い眉が、ぐっと内側に寄る。その真剣な表情から、失礼のない台詞を懸命に考えているのが、手に取るように分かった。
「社長は……、こう言ったんです」
『藤咲家の当主に直接、会って、その目で、彼の人となりを見てきなさい』
『それでもし、君が命を懸けて守るにふさわしい相手だと思えたなら、ファンルゥが独り立ちしたあと、私の警備会社を辞めて、彼の専属の護衛になりなさい』
『君のまっすぐな気性は、依頼されただけの相手を守るよりも、君が守りたいと思った人間を守るほうが向いているからね』
『君ならば、私は責任を持って推薦できるよ』
『君はきっと、ハオリュウさんのお役に立つだろう』
「レイウェンさんが、そんなことを?」
ハオリュウが瞳を瞬かせた。
私も、びっくりだ。
「俺は馬鹿だから、難しいことは分からねぇです。けど、社長が言いたかったことは、その……心で、感じました」
とつとつとした口調で、タオロンさんは続けた。
「体を張って守るなら、命じられた依頼主じゃなくて、心から守りたいと思える相手のほうがいい。――そういう自由を……俺はやっと手に入れたんだ、って」
タオロンさんは、そこで言葉を切って、まっすぐにハオリュウを見つめた。
「あなたに会って、社長の思いが分かりました。俺は、あなたの護衛として、生きてみてぇ」
太い声が、力強く言い切った。
言葉遣いは滅茶苦茶だけど、堂々としていて頼もしい。
いい話だと思う!
タオロンさんなら、絶対にハオリュウを守り抜いてくれると、信じられるもの!
私が心を浮き立たせていると、急にタオロンさんが視線を下げた。
「――けど、今の俺じゃ、駄目です。まだ、てんでなってねぇ……。雇ってくれだなんて、口が裂けても言えねぇ」
彼は、がしがしと自分の短髪を掻き上げる。
「俺はファンルゥが大きくなるまでの間に、貴族の身辺を守る者にふさわしい振る舞いを身につけます。そのときに改めて……、――ご検討を願います!」
タオロンさんは、再び床に手を付き、丁寧に頭を下げた。
赤いバンダナの結び目の先が、彼に倣うように、ぺこりと垂れて、まるで一緒に頭を下げているみたいだった。
「タオロンさん」
ハオリュウが静かに口を開く。
「私は確かに藤咲の当主ですが、この地位がいつまでも安泰であるとは限りません。私の足元をすくいたい人間は、いくらでもおります。――ですから、ファンルゥさんが、ご成長されたとき、もし、私がまだ当主の座におりましたら……、そのときに、もう一度、今の言葉を聞かせてください」
「ハオリュウ……様。ありがとうございます!」
私はなんか感動して、うるっと来た。
ファンルゥが独り立ちなんて、まだまだ、ずっと先のことなんだけど、素敵な未来が広がっている――!
「それじゃ、草薙家に行きましょ!」
私は晴れやかな気分で、ふたりに声を掛ける。
今日は、ハオリュウが祖母上に新しい服の依頼をすることにかこつけて、ファンルゥにお礼をしに行く日なのだ。
ファンルゥは、きっと喜んでくれる!
「ハオリュウ、荷物はどこ?」
足の悪いハオリュウに、ものを持たせて歩かせるわけにはいかない。専属の護衛候補のタオロンさんに運んでもらうべきだろう。
「ああ、それなら机の上に――」
言われて見やれば、執務机の上にリボンの掛かった可愛らしい包みが見えた。
それと、もうひとつ。小洒落た包装が――。
「ハオリュウ。これ、チョコレート?」
超高級なことで有名なお店の包装紙は、貴族との取り引きもある会社の社長令嬢である私は知っていた。ついでにいうと、上流階級の客しか相手にしない店であることも。
「前にルイフォンが『ファンルゥさんは、チョコレートがお好き』と言っていたのを思い出してね。手土産にと用意したんだ」
「……」
「ファンルゥさんのための品だから、甘めのミルクチョコと、ホワイトチョコにしたよ。お酒の入っているものは、ひとつも混じってないから大丈夫」
ハオリュウは、にこにこと得意げに答える。
そういう問題じゃないの……。
このチョコは、子供のおやつにするには高価すぎるの……。
タオロンさんは、たぶん、お値段を知らないと思うけど……。
――この貴族のお坊っちゃんがぁっ……!
幕間 正絹の貴公子-2
タオロンさんの運転は、私だけを乗せていた行きよりも、貴族のハオリュウが一緒の帰りのほうがぎこちなかった。そこはまぁ、如何にもタオロンさん、ということで気にしないことにする。
私とハオリュウは、後部座席に並んで座り、たわいのないおしゃべりをした。主に、これから会うことになるファンルゥのことを私が喋り、ハオリュウが相槌を打つといった感じだ。
ファンルゥは自分の身を守れるように強くならなきゃいけないということで、私と一緒に母上の指導を受け始めたこと。母上が戯れに見せた剣舞にすっかり夢中になっちゃって、剣舞も習うと決めたこと。だから、あとで私とふたりで、ハオリュウに舞を見せてあげる予定であること。――そんな話だ。
ちなみに、私とハオリュウは、ちゃんとシートベルトを締めているため、すぐ傍に座ってはいるけれど、肌が触れるほどにくっついているわけではない。――残念だけど。
やがて草薙家の門が近づいてきて、私は何気なく外塀を見やり……、思わず声を上げた。
「ファンルゥ!」
塀の上に、小さな影があった。
敷地内から高く伸びた木に掴まり、爪先立ちできょろきょろしている。そして、私たちの車を見つけると、ぶんぶんと大きく手を振った。
危ないよっ!
注意しなきゃと、私が車の窓を開けたとき、ファンルゥは、ひらりと塀の内側――草薙家の敷地内へと飛び降りた。続けて、高い声が聞こえてくる。
「パパとクーちゃん、戻ってきたぁ!」
よかった。うまく降りられたみたいだ。
ほっとしていると、ハオリュウが運転席のタオロンさんに言う。
「彼女が、お嬢さんのファンルゥさんですか。聞いていた通り、可愛らしくて、活発な方ですね」
「す、すんません……!」
タオロンさんは、何故か謝った。
それから、ハオリュウは私を振り返り、嬉しそうに目を細める。
「初めて逢ったときのクーティエにそっくりだね。本当に、仲の良い姉妹みたいだ」
「……」
そうだった。
ハオリュウが初めて草薙家に来た日、私はどんなお客さんが来るのか気になって、塀の上から偵察していた。そして、緋扇シュアンに睨まれて、バランスを崩して落ちたのだ。――ちゃんと、足から綺麗に着地したけど。
「…………」
……もう、塀の上に乗るのはやめようと思う。
そして、車は草薙家に到着した。
門ではファンルゥを始め、父上、母上、祖母上まで揃っての出迎えだ。
タオロンさんが素早く運転席から降り、身を翻して後部ドアに向かい、ハオリュウのために扉を開ける。明らかに慣れていない動きだけれど、いずれハオリュウに仕えるつもりの意思表示みたいな懸命な空気が伝わってきた。
ハオリュウが杖を手に取る。さっきは自分の足だけで歩いていたけど、慣れた自宅以外は、まだ念の為、ということらしい。
そして、杖の先を地面に下ろす。
――その瞬間。
「うわぁぁ!」
細く高い、歓声が上がった。
「ハオリュウ! ハオリュウだね! もう車椅子じゃなくていいんだ! よかった!」
ファンルゥの満面の笑顔が彼を迎えた。
彼女は、ぴょんぴょんと飛び跳ね、元気な癖っ毛をふわふわと揺らす。
「ファンルゥね、ハオリュウのことを聞いてから、天国のママと、天使の国のホンシュアに、ずっとお願いしていた! ハオリュウが早く歩けるようになりますように、って!」
ハオリュウが、戸惑いに視線を揺らした。
純粋すぎるファンルゥに、気まずかったんだと思う。――本当は、もうずっと前から、車椅子を使わずに歩けたのだから。私の『お話』の設定が悪かったかもしれない。……ごめん。
でも、彼が困り顔だったのは一瞬のこと。すぐに花がほころぶように微笑んだ。
「はじめまして、藤咲ハオリュウです。この前は、素敵な絵をありがとう。それから、僕の姉様を助けてくれて、本当にどうもありがとう。まっすぐで、心の綺麗なあなたに会える日を楽しみにしていました」
ハオリュウは杖を支えにしながらも、優雅にお辞儀する。
そして、ファンルゥの手を取ると、そっと甲に口づけた。
えっ!?
な、な、何、それ……?
やっぱり、貴族だから!?
う、うう……、身のこなしが洗練されている。格好いい……!
いいなぁ、ファンルゥ……。
今日は、ハオリュウが祖母上に夏のよそ行きを注文に来た――ふりをして、ファンルゥにお礼を言いに来た日。
……の、はずなんだけど、結局、『ハオリュウが草薙家に遊びに来た日』というのが、一番ぴったりだったと思う。
もともと、母上が『今日はお天気がいいから、お昼は庭で、ガーデンパーティだ!』と張り切っていたから、ご馳走の準備はあったんだけど、想像していた以上のお祭り騒ぎになった。
ファンルゥへの絵本のプレゼント贈呈は、いつの間にか、囚われのお姫様を助けた勇敢な女騎士の表彰式になっていた。
それから、ハオリュウの手土産のチョコに舌鼓。……もっとも、あまりにも美味しすぎて一気に食べちゃうのはもったいないのと、夏だから溶けちゃうのとで、すぐに冷蔵庫行きになったけど。
私とファンルゥの剣舞の披露もやった。剣舞といっても、初心者のファンルゥには、まだ刀を持たせてないので、ふたりとも刀なしの舞だ。
母上みたいに美しく舞うことはできないけど、妹分になったファンルゥと、ふたりでの舞は、なかなか息が合っていたと思う。ハオリュウも、ちょっとは私に見惚れてくれた――と、信じる!
お腹がいっぱいになり、ファンルゥの目がとろんとしてきたところで、ガーデンパーティはお開きとなった。
タオロンさんがファンルゥをお昼寝に連れていき、母上たちが後片付けを始める。
そして――。
「こっちが片付くまで、クーティエは、ハオリュウさんのお相手をよろしくね。終わったら、彼の採寸をするから」
祖母上が楽しそうに銀髪を揺らしながら、涼しげな笑顔でそう言った。
ハオリュウが外の空気を感じていたいと言うので、少し暑いけれど、私たちはそのまま庭に残った。
緑の木陰のベンチで、並んで腰を下ろす。
母上たちが片付けをしているところから、ちょっと離れた場所。姿は丸見えだから、ハオリュウとふたりきりではないけれど、会話は聞こえないと思うから、ふたりきりといっても嘘ではない……かもしれない。
「今日は、久しぶりに羽根を伸ばせたよ。ありがとう」
肩が触れそうな真横から、柔らかな声が聞こえた。彼の吐息が頬をかすめ、私の心臓が、どきん、と跳ねる。
「こ、こちらこそっ、来てくれてありがとう!」
心拍数の上がりきっていた私は、彼の側に用事があったことなど、すっかり忘れている。お礼と共に勢いよく頭を下げると、両脇で高く結い上げた髪の毛で、ぴしゃりと彼をはたいてしまった。
「わ、わっ。ご、ごめんなさい!」
「ううん。……クーティエの髪、綺麗だね」
「は?」
私の目が、点になった。
ハオリュウ? 何を言っているの!?
だけど、彼は至って真面目な顔で……、私は真っ赤になって固まる。
「クーティエが舞うとき、クーティエの髪が風をはらんで、流れるようになびくんだ。しなやかで、のびのびとしていて……。ずっと前に、クーティエのことを『森の妖精みたいだ』と言ったけど、本当にそうだな、って思うよ」
「な、な……なな、何を言って……!」
「この家に来るとき、いつも、どこかの木の陰からクーティエが、ふわりと舞い降りてくるんじゃないかと思うんだ。決まった道なんかじゃなくて、好きなところから自由に――」
「ハオリュウ……?」
「草薙家は、僕にとって……、特別な場所なんだ」
「……え?」
ほんの一瞬、ハオリュウの顔に影が落ちた気がした。
でも、次の瞬間には、彼は穏やかに笑っていて……。
――ううん、見間違いなんかじゃない。
ハオリュウは、はっきりと言ったもの。『今日は、久しぶりに羽を伸ばせた』って。
つまり、いつも、ずっと気を張り詰めているのだ。
貴族の当主として……。
「――っ」
私は唇を噛んだ。何か言ってあげたいのに、なんて言えばいいのか、分からない。
そんな私の気持ちも知らないで、彼は、ゆったりと空を仰ぐ。
高い空に、鳥が二羽。寄り添うように飛んでいく。
悠然と、自由に――。
「クーティエ」
私の名前を呼びながら、彼は、空から私へと目線を移した。
「ファンルゥさんのプレセントの相談に乗ってくれて、ありがとう。ファンルゥさん、とても喜んでくれた。よかった。あなたのおかげだよ」
「ううん。ファンルゥが、あの絵本のシリーズに夢中なのは知っていたもの。お礼を言われるようなことじゃないわ」
私としては、当然の台詞を返しただけだった。
なのに、ハオリュウは、ふっと目を伏せた。唇を噛み締め、押し殺した声で呟く。
「クーティエと一緒に――買い物に行きたかったな……」
「えっ!? それなら言ってくれれば……」
ハオリュウの立場を忘れ、反射的にそう言い掛けた私に、彼は『しまった』という感じに、鋭く息を吸った。
彼は、まっすぐに顔を上げ、硬い声色で告げる。
「ごめん。僕は、特定の女性と親しくするわけにはいかない身だから……」
「っ!」
私たちの間を、風が通り抜け、彼の前髪だけを自由気ままに巻き上げた。――闇に染まった彼の瞳を、私にはっきりと見せつけながら。
「女王陛下の婚約者の話――。……受けるの?」
乾いた声で、私は尋ねた。
そんなつもりはなかったのに、耳に響いた自分の声は、責めるような口調だった。
私の視線はきっと、斬り込むように鋭かったと思う。
だけど、ハオリュウは目をそらさなかった。貴族らしく曖昧に笑うこともなく、深い闇色の眼差しで、私の言葉を静かに抱きとめてくれた。
「おそらく、受けることになると思う」
「……っ!」
「僕の立場では、断ることはできないよ」
「そんな……! どうしてよ!? どう考えたって、おかしいじゃない!」
摂政殿下は、女王陛下がご結婚されても、ご自分が権力を握り続けたいだけだ。
だから、王族のヤンイェン殿下から、言いなりにできる貴族のハオリュウに、婚約者を取り替えようとしているだけ! ――自分勝手だ。
「女王陛下の婚約者になりたい人なら、他に、いっぱいいるでしょ! だったら、ハオリュウじゃなくたって、いいじゃない!」
「クーティエ……」
いきなり噛み付いてきた私に、ハオリュウは狼狽する。
「ハオリュウを巻き込まないでよ!」
分かっている。これは八つ当たりだ。
でも、私の口は止まらない。
「だって、私……! ハオリュウが好きだもの――!」
気づいたら、張り裂けるような心が叫んでいた。
叩きつけた言葉は、私が大切にしていた想い。
彼を困らせるだけだと分かっているから、ずっと秘めたままでいるつもりだった想い。
「別に、恋人になりたいとか、そんなことは望んでないわよ!」
叶わぬ恋だって、気づいていた。
実らぬ恋だって、知っていた。
「けど、ハオリュウが好きだから! ハオリュウが、摂政殿下の駒のように扱われるのが、我慢できないだけ!」
封印を解いてしまったからだろうか……?
私の両目から、次々と涙があふれ出す。
私は、全身を怒りで震わせながら、同時に、とめどなく泣いていた。
滅茶苦茶だ、私……。
最低――。
でも、抑えられなかった。
だって彼が、『自由』という言葉を、憧れのように口にするから……。
――すうっと。
生ぬるい夏風が、私たちの間を抜けていく。
私の頬に引きつった筋を残しながら、流れた涙を強引に乾かしていく。
「……クーティエ」
視界の端で、何かが動いていた。
白くなるまで握りしめられたハオリュウの拳が、小刻みに戦慄いていた。
「……クーティエ。――『私』は、貴族の当主だ」
「――!」
私は鋭く、息を呑む。
「女王陛下とのお話を別にしても、私には幾つもの縁談が上がっている。当主である私には、藤咲にとって一番、望ましい方と縁を結ぶ義務がある」
「……っ」
「私は生まれたときから、衣食住に始まり、高い教育も、豊かな財力も保証されてきた。それは、私が将来、藤咲に富をもたらすことを引き換えに得た特権だ。私は、その暗黙の約束を違えるわけにはいかない」
「ハオリュ……」
「女王陛下との結婚が、藤咲にとって一番、利益になると思えば、私は女王陛下を選ぶ」
彼は、掌の中に本心を握りつぶして、きっぱりと言い切った。
それが、彼の覚悟なんだって……、見せつけられた。
……知っていた。
彼が、そういう人だってことを――。
嗚咽を漏らす私の耳に、淡々としたハオリュウの声が響く。
「私の父は、確かに平民の私の母と再婚した。けど、その前に、異母姉の母君である大貴族の令嬢と結婚している」
分かっているわよ。私じゃ駄目だってことくらい。
惨めだから、もう何も言わないでよ。
――だけど、無情にも彼は続ける。
「私の母との再婚は『異母姉に婿を取れば、藤咲は安泰だ』との親族の妥協――目論見があった。だから当然、私という嫡男の誕生を、親族は快く思わなかった。亡き者にされそうになったこともある」
「……!?」
「藤咲にとって、私は望まれない人間だ」
「な、何を――!?」
「これが、私を取り巻く環境だよ。――あなたに知っていてほしいと思ったから、口にした」
不可思議な微笑で私を見つめ、ハオリュウは、ふわりと闇をまとう。
「……どういう……意味……?」
けれど彼は、私の問いかけには答えず、静かに言葉を重ねる。
「後ろ盾のない私は、とても弱い当主だ。私は自分で、強くならなければいけない」
「ハオリュウ?」
「今の私に言えることは、これだけだ。これ以上を言う資格はない」
夏の風が、木陰を揺らす。
ざわざわと、葉擦れの音を奏でる。
口を閉ざしてしまったハオリュウを見続けることができなくて、私はうつむいた。
だけど、彼の気配はまるで動かず、彼はじっと私を見つめ続けていた。
私の髪を飾る、絹のリボンが風に舞う。
軽やかな絹のはためきが、私の鼓膜を震わせた。
華やかな絹のはためきは、彼の網膜に何を映しているのだろうか……。
やがて、祖母上が迎えに来て、ハオリュウは採寸に向かった。
ハオリュウは、絹の貴公子だ。
平民の血を引いているなんて関係ない。生粋の貴族の――正絹の貴公子だ。
ハオリュウに言えなかったことが、ひとつある。
私は、舞姫に選ばれた。
女王陛下の婚約の儀の奉納舞。その群舞の際の、大勢いる舞姫の中のひとりだけれど、若い舞い手にとっては垂涎の的のお役目だ。
ハオリュウが、陛下の婚約者になるかもしれないという話が出る前に、審査を受けていた。
舞台の中央に立つのは、国一番の舞い手である母上に内定していた。『親の七光りで、どうせクーティエは選ばれるに決まっている』と、散々、嫌味とやっかみを言われていたけれど、誰にも文句を言わせない完璧な演舞で周りを黙らせた――はずだ。
だから、通知を受けたとき、本当に嬉しかった。誇らしかった。
でも――。
「ハオリュウと陛下のためになんて、舞いたくないわよ……」
私の口の中には、甘くとろけたはずの高級チョコレートの味が、苦く残っていた。
幕間 正絹の貴公子-3
ユイランによる採寸が終わったあと、ハオリュウはレイウェンの書斎を訪れた。『話があるので、あとで来てほしい』と呼ばれていたためである。
「ご足労、痛み入ります」
レイウェンは深々と一礼し、鷹刀一族特有の美貌に、彼ならではの甘やかな微笑を浮かべてハオリュウを出迎えた。もと凶賊とは、とても思えぬ、上流階級の貴人もかくや、という優雅な所作でソファーを勧め、自身も対面に腰を下ろす。
だが、ここで社交辞令など始めたりはしないのが、王族なり、貴族なりとは違うところだ。レイウェンは、早速とばかりに魅惑の低音で切り出した。
「あなたのお迎えに上がったとき、タオロンは『将来、あなたの専属の護衛になりたい』と申し出たそうですね。先ほど、報告を受けましたよ」
口調は、朗らかであった。
――だのに、見えない刃で斬りつけるような鋭さをまとっていた。
無駄は省いても、裏があるのがレイウェンなのだ。
ハオリュウとレイウェンは、貴族と、貴族から仕事を請け負っている商人という立場であるが、ルイフォンやメイシアを通しての縁がある。どちらかといえば、心安い間柄だ。
しかし、ハオリュウは、レイウェンが時々、自分に対してだけは、試すような色合いを含ませることに気づいていた。
「ええ。突然のことに驚きました。レイウェンさんの勧めだそうですが……?」
レイウェンの会社から派遣されてくる護衛たちに満足しているのに、どうして急に専属の護衛などと言い出したのか? ――そんな疑問を匂わせ、ハオリュウは尋ねる。
「タオロンが、またとない逸材だからですよ」
柔らかな眼差しの中に、ひとかけらの氷片。
ハオリュウは首をかしげた。
タオロンの勇猛さは、リュイセンに匹敵するという。ならば、最強の部類に入るだろう。
また、ルイフォンや異母姉から伝え聞いている、実直な性格も評価に値する。彼に主人と認められたなら、得難い忠義の者となってくれるであろう。
すなわち、タオロンは、専属の護衛として雇うに申し分のない資質を備えているといえる。
しかし、貴族に仕える者としては、如何せん、礼儀作法がなっていない。これから身につけると言っていたが、凶賊として生きてきた彼が、今更、行儀を習うなど、苦痛なだけではなかろうか。
困惑するハオリュウに、レイウェンは、すっと口の端を上げた。
「タオロンは、『あなたに代わって、殺せる者』ですよ」
それは、魅入られそうになるほどに、甘やかな囁き――。
ハオリュウの背に、ぞくりと悪寒が走った。
けれど、レイウェンは、変わらぬ調子で続ける。
「初めて、お会いしたとき。ハオリュウさんは、おっしゃっていたでしょう?」
『僕に必要なのは、身を挺して僕を守ってくれる者ではないのです』
『――僕に代わって、殺せる者です』
ハオリュウの脳裏に、かつて自分の発した台詞が蘇った。
ごくりと喉が動いたことに、レイウェンは当然、気づいただろう。しかし、彼の笑みが消えることはない。
「『身を挺して、あなたを守ってくれる者ではない。あなたを守るためには、ためらわずに相手を殺すことのできる者が欲しい』――言葉の上では、そうにも取れるようにおっしゃっていましたが、あなたの本心は違いましたよね?」
問いかけの形をした、断言。
そして。
甘やかな低音が響く。
「護衛ではなく、あなたが命じれば、人を殺めることも厭わない武の者がほしい。――無力なあなたが、暗殺に頼るしか術をなくしたときのために」
ゆったりと腕を組み、レイウェンは口元をほころばせる。
鷹刀一族の血を凝縮し、人の姿を象った、美しい魔性がそこにいた。
刹那。
まるで真空に閉じ込められたかのように、時が凍る――。
実のところ、空白の時間は、ほんの瞬きひとつ分だった。しかし、ハオリュウには無限にも感じられた。
やがて、開け放された窓から風が吹き込み、庭から葉擦れの音を運んできた。自然が奏でる旋律に合わせて歌うように、レイウェンの唇が声を紡ぎ始める。
「あなたの傍には緋扇さんがいましたが、あの時点では、彼とあなたの関係は、『〈蝿〉に復讐を誓い合った同志』に過ぎませんでした。悲願が叶えば解消する、一時的な黙約を結んだだけの間柄です」
ハオリュウは、硬い顔でレイウェンを凝視したまま、動けなくなった。
「あなたは、緋扇さんがいなくなったあと、彼の代わりとなる者が欲しかった。――いえ。あのときには既に、あなたは彼を大切な友人として信頼していましたから、『代わり』を求めてはいませんでしたね」
優雅に頭を振り、レイウェンは鋭くハオリュウへと迫る。
「そうですね。――あなたは、強くて、忠実な手駒が欲しかった。緋扇さんが傍にいようと、いまいと、再び彼の手を汚させないで済むような……。そんなところでしょう」
「…………」
「そして、私に対しても――」
ふわりと。
レイウェンが嗤う。
「あなたの本心を見抜けるか、探りを入れていた」
「!」
「まさか十二歳のあなたに、肚の探り合いを挑まれるとは思ってもいませんでしたから、確信が持てるようになるまでに時間が掛かりましたよ」
窓からの風が、ふたりの間を抜けていく。
初めはハオリュウのほうから吹いていた風が向きを変え、レイウェンの艷やかな黒髪をなびかせる。
「タオロンは不思議な男ですよ。今まで、散々、汚い仕事をしてきたにも関わらず、性根が綺麗なままです」
「……それは、彼を見ていれば分かります」
急に、タオロンへと話が戻ってきたことにハオリュウは警戒しつつ、言葉を受ける。
一方、レイウェンは、返答があったことに満足したのか、目を細めて頷いた。
「タオロンは、〈七つの大罪〉の〈影〉という技術は、人の尊厳を穢すものだと、強い反発を覚えたようです。そのため、お父様が犠牲になった、メイシアさんとあなたの姉弟に深い罪悪感を抱いています」
「ええ、タオロンさんに謝罪されました。彼に非などなかったのに、膝まで付いて……」
「そういう男です。直接、手にかけた人間への罪の意識は、仕方がなかったと割り切ることができるくせに、斑目が関与した禁忌の技術の非道を許せないのです。――武を頼みにする凶賊には、自らの肉体を使わぬ勝負を卑怯とする傾向がありますが、彼は特に顕著ですね」
なるほど――と、ハオリュウは得心した。
頑ななまでに頭を下げたタオロンのことは奇異に感じていたのだが、それならば納得できる。
「レイウェンさん」
ハオリュウは、わずかに眉を寄せて呼びかけた。
「タオロンさんが私の専属の護衛となり、私に忠誠を誓ってくれたとしても、それは私個人に寄せる信義ではなく、彼の罪悪感から来る、私への負い目に過ぎないのではありませんか?」
「そうですよ」
レイウェンは、さらりと肯定した。それを理解してもらうために、こうして丁寧に説明したのだと言わんばかりに。
「タオロンも、あなたに仕えることが自己満足かもしれないことくらい、自覚しています。それから、彼には、あなたが緋扇さんに厳月家の先代当主暗殺を依頼したことも教えてありますし、あなたが暗殺のための武力を求めていることも知っています」
「――!」
「彼は、すべてを承知した上で、あなたの人となりを見て、――そして、あなたの専属の護衛になりたいと申し出ました」
「何故ですか!?」
知れず、ハオリュウは身を乗り出した。
しかし、レイウェンは、謎めいた微笑を浮かべただけ……。
「っ!」
貴族の当主たるもの、人前で取り乱すことなど、あってはならない。けれども、ハオリュウは声を荒らげて言い放つ。
「タオロンさんが私の専属の護衛になるという件、お断り申し上げます! タオロンさんは、レイウェンさんに乗せられているだけです!」
ハオリュウは、喰らいつくように、勢いよくレイウェンを睨めつける。
すると、レイウェンは冷ややかな声を返した。
「何故、お怒りになるのですか? 私は、あなたに頼まれていた者をご用意しただけですよ」
「なっ……」
「お言葉ですが、あなたの口ぶりでは、あたかも私がタオロンを焚き付けたかのようです。――極めて心外ですね。私は、すべてを包み隠さず、彼に伝えておりますのに」
「――っ!」
正論だ。
レイウェンは、ひとつも間違ったことをしていない。
「……失礼いたしました」
自分らしくない失態であったと、ハオリュウは恥じ入る。唇を噛み、うつむいて顔を隠した。しかし、窓からの風が前髪を巻き上げ、情けない顔を晒していく。
気持ちを鎮めると、素直な思いが口からこぼれた。
「……ファンルゥさんの父君に、人を殺させるわけにはいきません」
ハオリュウの足の回復を喜んでくれた、心優しいファンルゥ。
ガーデンパーティの終盤、お腹がいっぱいになった彼女は、椅子の上で船を漕ぎ始め、大好きなパパの抱っこでベッドに向かっていった。
タオロンが、かつて命令に忠実な殺戮者であったことは、ハオリュウも知っている。けれど、愛娘の揺り籠たる無骨な手に、『殺れ』と命じる気にはなれなかった。
「タオロンは、あなたのそんなところを感じ取ったのだと思いますよ」
「え?」
優しげなレイウェンの声に、ハオリュウは反射的に顔を上げる。
「『もしも、あの藤咲の当主が暗殺を命じたなら、それは本当にやむを得ねぇ場合なんだ。きっと俺のほうから斬り捨てに行きたくなるような下郎が相手に違えねぇ。だから、構わねぇ。殺ってやる』――タオロンは、そう言っていましたよ」
ハオリュウは目を見開いた。
猪突猛進の巨漢は、本気だ。
肚を決めて、ハオリュウに仕えると宣言したのだ。
――ならば、こちらも覚悟を決めるべきだ。
あの無骨な手を預かるにふさわしい人物になると。
ハオリュウの瞳に、好戦的な光が宿った。
そのとき。
「ハオリュウさん」
魅惑の低音が、静かに彼を呼んだ。
やや、出鼻をくじかれたような気分で、ハオリュウは「なんでしょう?」と返す。
「厳月家の先代当主の暗殺を、緋扇さんに依頼した件。――後悔していますか?」
レイウェンの意図は不明だった。
けれど、ハオリュウは即答した。
「後悔していません」
レイウェンは、じっとハオリュウを見つめていた。
その視線から、理由を問うているのが分かった。
「後悔などしたら、実行してくれたシュアンに失礼です」
「――そうですか。……それならよいでしょう」
「レイウェンさん……?」
ハオリュウは訝しげに首をかしげたが、レイウェンは無表情に頷いただけだった。
「タオロンがあなたの護衛になるのは、ファンルゥが独り立ちしてから――ずっと先のことです。それまでに、彼を貴族の御側付きにふさわしく、教育しておきます」
「よろしくお願いします」
ハオリュウは頭を下げると、レイウェンは「滅相もございません」と柔和な笑みを見せた。
緊張の対面は終わった。
ハオリュウは、知れず、溜め息をつく。
レイウェンは、本当に手厳しい。けれど、これからまた、別の緊張の対面があるのだ。
自宅に戻る前に、もう一度、クーティエと話す。
先ほど、彼女は『好きだ』と言ってくれた。
だが、貴族という身分、しかも現在、女王の婚約者の候補として挙げられている身では、ハオリュウは、何も約束することができない。だから、彼が許される、ぎりぎり精いっぱいの言葉で答えたつもりなのだが、どう考えても、うまくいったと思えなかった。
彼の鬱々とした様子は、採寸の最中に顔に出ていたらしい。あっさりと、ユイランに気取られた。彼女は何も訊いてこなかったが、『本心をお隠しになるのは、当主のお仕事のときだけで充分ですよ』と、やんわりと、たしなめられた。……見抜かれている気がする。
そんな思いを抱えつつ、ハオリュウが意を決して席を立とうとしたときだった。
まさに、杖に手を掛けた瞬間、レイウェンが「ところで」と、声高に切り出した。
「あなたとクーティエが座っていたベンチは、この窓のすぐ外にあるのですが……ご存知でしたか?」
「!?」
開け放たれた窓から、ざわめく葉擦れの音が入ってきた。
それは、確かに、あのベンチで聞いたのと同じ音色であった。
「レイウェンさん! 盗み聞きしていたのですか!?」
ハオリュウは、杖に載せた体重を弾みに、まるで足の怪我を忘れたかのように、思わず腰を浮かせた。当然のことながら、顔面は朱に染まっている。
「人聞きの悪いことを言わないでください。偶然、声が聞こえてしまっただけです」
「…………」
「別に、やましいことはないでしょう? クーティエがあなたを好きなことくらい一目瞭然ですし、あなただって、とっくに気づいてらっしゃいましたよね」
「…………ええ。まぁ……」
どんな顔をしてよいのか分からず、ハオリュウは視線を泳がせる。
「残念ながら、クーティエのほうは、あなたの気持ちをちっとも理解できなかったようですが……、――あの言い方では、仕方がありませんね」
絶世の美貌で、レイウェンが冷たく嗤った。
生粋の鷹刀一族の者たちの中で、レイウェンは唯一、例外的に物腰が柔らかく、人当たりがよいといわれているが、それは嘘だ。
少なくとも、ハオリュウに対してだけは、酷薄な顔をする。
ハオリュウは、ごくりと唾を呑み込んだ。
「レイウェンさん」
「なんでしょう?」
冷酷なまでに、感情の失せた美声。ハオリュウは奥歯を噛み締め、自らを奮い立たせる。
「あなたは、シャンリーさんを娶るときに、シャンリーさんの養父君であるチャオラウさんに決闘を申し込んだそうですね」
「ええ。義父を倒してシャンリーを手に入れるのは、子供のころからの悲願でしたからね」
「では――。もし……、もしも。僕が、あなたに決闘を申し込んだら、あなたは応じてくださいますか?」
先ほどまで揺らしていた視線を、レイウェンの顔貌という一点に定め、ハオリュウは真摯に問いかける。
その刹那。
レイウェンの双眸が、氷点下の色に染まった。
「そういう質問をなさるということは、現在のあなたには、まだ私に決闘を申し込む資格すらない――という自覚がおありなわけですね」
わずかに顎を上げた、傲然とした眼差し。
「すみません。――その通りです」
「ならば、私はこう答えるしかありませんね」
「『顔を洗って、出直してこい』」
鷹刀一族特有の魅惑の低音が、地底からの轟音となって鳴り響いた。
幕間 正絹の貴公子-4
ハオリュウが廊下へと姿を消し、レイウェンの書斎は静まり返った……かといえば、そうではなかった。
執務机の後ろから、からからという、男性にしては高く、さりとて女性としては少々、低い笑い声が上がり、すっと人影が現れた。今までずっと、そこに隠れていたにも関わらず、完全に気配を消していたがために、ハオリュウにまったく気づかれることのなかったシャンリーである。
「ハオリュウの奴、よりによって、レイウェンと決闘だって?」
可笑しくてたまらない、といった体で腹を抱えながら、彼女はレイウェンの向かいのソファーに座った。
レイウェンは、先ほどまでハオリュウに向けていた顔と打って変わり、いつも通りの彼ならではの甘やかさをたたえ、妻に微笑む。
「彼のことだから、盤上遊戯か何か、頭を使うもので勝負するつもりだよ。別に『刀で戦う』とは宣言していないからね」
「ああ、なるほど」
得心がいったとシャンリーは頷き、けれども「『顔を洗って、出直してこい』って、レイウェンも大人げないよ」と、苦言を呈した。
それに対し、レイウェンは聞こえなかったふりをした。
彼が、妻の言葉を無視することは、まずあり得ないのであるが、今回ばかりは特別であったらしい。素知らぬ顔で、話を続ける。
「君も隠れていないで、一緒に話せばよかったのに」
「それは、あまりにもハオリュウが可哀想だよ。クーティエとの、あのやり取りのあとで、レイウェンと私が雁首揃えて待ち構えていたら、さすがのハオリュウだって縮み上がっちまうだろう」
「そのくらいで、ひるんでいたら、彼はこの先やっていけないよ」
再び冷たい口調に戻ったレイウェンに、シャンリーは肩をすくめた。
「そうは言われても、レイウェンとハオリュウの会話は、裏に含みがありすぎて、私は、ちょっと遠慮したいね。空気が薄ら寒い」
「そうかな? 彼は非常に、まっすぐで分かりやすいよ」
「それは、レイウェンとハオリュウが同類だからだよ。上品なくせに、腹に一物抱えているところなんか、そっくりだ。しかも、その会話を結構、楽しんでいるんだよなぁ……」
シャンリーは、ぼやくように苦笑し、「――けど」と、わずかに鼻に皺を寄せた。
「相手は子供なんだぞ。少しは手加減してやったらどうだ?」
「だって彼は、クーティエを奪っていく男だよ。子供扱いしたら失礼だろう?」
「クーティエを奪っていく、って――。そりゃ、私も、そうなりゃいいとは思うけど、ハオリュウは難しい立場なんだから、そう簡単には……」
シャンリーが渋面を作ったが、レイウェンは甘やかに笑い、ふと呟く。
「義父上も、こんな気持ちだったのかな?」
唐突に、何を言い出すのだと、シャンリーは面食らった。
だが、レイウェンの眼差しが優しいことに気づき、徐々に、懐かしみの顔になる。
「親父殿は違うだろう。『鷹刀の跡継ぎを誑かしおって』と、私にお冠だったからな。『ユイラン様に乳母のようなことをお願いしてしまったことが、そもそもの間違いだった』とか嘆いていたよ」
「そんなの、口先だけだよ」
どうやら、夫婦間で見解が違うようである。しかし、それはもう過去の話。
シャンリーは、にやりと笑いながら、強引に現在へと話を戻した。
「レイウェンが、ハオリュウを気に入っているのは分かるよ」
ストレートに言われ、レイウェンは、ばつが悪そうに口を尖らせる。
「当然だよ。そうでなきゃ、せっかく草薙に来てくれたタオロンを、彼のために手放そうだなんて思わないからね」
そのとき、思い出したように、シャンリーが声を跳ねかせた。
「それで? タオロンを暗殺要員に、だって? ――無茶を言うな。タオロンは隠密行動には向いていない。奴が殺ったら、ただの殴り込みだ」
いったいどういうつもりだ? と、目線が問う。
「ああ。タオロンに暗殺込みで護衛になるように言ったのは本当だけど、シャンリーの言う通り、彼に暗殺は無理だろう。だから、ただの護衛でいいんだよ。『最強の』が付くけど」
「ほう?」
「狙われやすい立場のハオリュウさんには、派遣の護衛よりも、彼個人に忠義を尽くしてくれる者のほうがよいはずだ。タオロンだって、貴族の専属ともなれば、もと凶賊の総帥の血統でも、白い目で見られることはないだろう。――ファンルゥもね」
「なるほど。そういうことか」
凶賊上がりの人間が、世間の目にどう映るか。もと凶賊の総帥の血統で、本来なら、あとを継ぐべき長男であったレイウェンは、よく知っている。
彼が成功者となり得たのは、ひとえに、ある情報屋のお陰だ。
鷹刀の後継者が、稼業である凶賊を否定し、最愛の女性を表の世界で活躍させるために、実力でもって組織を出た。彼は、正義感あふれる、気骨のある若者だ――という情報が流れてから、風向きが変わった。
民衆好みに情報操作を加えられた美談は、瞬く間に広まった。凶賊を厭う者の耳にほど、心地よく聞こえ、苦労話が多いほどに、草薙家は好意的に受け入れられていった。
情報屋――先代〈猫〉が、密かに世情を煽ってくれなければ、今の暮らしはなかったのだ。
レイウェンは、湿り気を帯びた空気を振り払うように頭を振り、それから、朗らかな声で続ける。
「ついでに、給料だって、貴族に雇われたほうがいいんじゃないかな?」
「それを現在の雇用主が言うのも、なんだかなぁ……」
半ば呆れたように、シャンリーは溜め息をついた。
もっとも、それは事実ではあるものの、本心から言っているわけではないのは、彼女も承知している。遠い先までを見据えた上で、レイウェンは最適な選択をしようとしているだけだ。
「……さっきの話はさ、初対面のときのハオリュウさんとの決着だよ」
「さっきの話? ――ああ、『僕に代わって、殺せる者』の話か」
シャンリーの顔が陰った。あんな子供に、あんなことを言わせる世界は残酷だと、彼女は唇を噛む。
「あのころのハオリュウさんは、父君を亡くして当主になったばかりで、だいぶ不安定だったと思う。無力な自分を自覚していて、万一のときの手段を確保しておきたかったんだろう」
「……」
「それと、一番、信頼している緋扇さんとの関係が、あのときは、あくまでも一時的なものだったからね。彼がいなくなったあとのことを考えたりして、あんな台詞が出たんだろうな」
でも、もう大丈夫だろうと、レイウェンの言葉尻が暗に告げる。
それを受けて、シャンリーが口元をほころばせた。
「シュアンの奴は、ハオリュウに『つく』と決めたんだろう?」
「そうみたいだね。悪人ぶっていても、緋扇さんは、お人好しだから……」
「シュアンがいるなら、タオロンをくれてやらなくてもよかったんじゃないのか? それこそ暗殺なら、狙撃のできるシュアンのほうが向いているぞ?」
「緋扇さんとタオロンは、まったく別の役割だよ。緋扇さんは狙撃はできても、至近距離からハオリュウさんが襲われたら、身を挺して守るしかできない。彼は武闘派じゃなくて、頭脳派だ」
「まぁ、そうだな」
「……暗殺はリスクが高すぎる」
不意に、レイウェンの声が低く響き、シャンリーは「え?」と瞳を瞬かせた。
「レイウェン?」
「ああ、なんでもない。……きっと、杞憂だよ」
レイウェンの言葉は、窓から入ってきた風と、葉擦れの音に掻き消された。
それと同時に、ハオリュウがクーティエを伴って庭に出てきたのを、気配に敏いふたりは察する。
「ほう、ハオリュウの奴。あれだけレイウェンに脅されても、めげないもんだな」
「ハオリュウさんが、あの程度でへこたれるわけがないよ。何かと理由を作っては、クーティエに逢いにきているんだからね」
「――確かに」
「どうせ、今日、母上に頼んだ服が出来上がったら、また草薙まで取りに来るよ。貴族なんだから、自分の屋敷まで届けさせればいいのにね」
皮肉交じりのレイウェンに、シャンリーは「別に、いいじゃないか」と満面の笑顔で応えた。
帰る前に話をしたいと、ハオリュウが私を呼びに来た。
私は、赤い目を誤魔化すために、うつむき加減で彼を追って庭に出た。杖を付いた彼よりも、私のほうがよっぽど、どこか悪いんじゃないか、ってくらい、とぼとぼした歩き方だったと思う。
ハオリュウは、さっきのベンチの前に行った。――けど、腰掛けるわけじゃなくて、何故か、我が家に向かって会釈をした。
不思議に思って、そちらを見やれば、開け放された窓に風が吹き込み、カーテンがひらひらしている。
あそこは、たぶん、父上の書斎だ。いつもは書類が飛ぶからと、閉め切って空調をつけているのに、窓を全開にしているなんて珍しい。
「クーティエ」
柔らかなハオリュウの声に呼ばれ、私は、びくりと肩を上げた。
「ありがとう」
「え? えっと?」
なんのお礼だろう? ファンルゥのプレゼント選びのことなら、さっき言われたし……?
「僕のことを、好きだと言ってくれて」
「――!」
私の顔が、一瞬にして、真っ赤になった。
な、なんで、今ごろ!?
私は身じろぎひとつできず、ただただ彼を凝視する。
「でも、クーティエも知っての通り、貴族の当主である僕は、自分の気持ちを自由に言える立場じゃない。だから、何も口にすることができない」
「……」
ハオリュウは、うやむやにしないで、ちゃんと私を振ろうとしているのだ。
それが誠実な態度だと……。
私の瞳に、再び涙が盛り上がってきた。
――と、そのとき。
ハオリュウの左手が、ふっと杖を手放した。
からん、と軽い音を立て、杖は芝生に倒れる。
「?」
それは、どういう意味?
戸惑いに、こぼれかけていた涙が止まる。
だけど、彼の奇行は、それで終わりではなかった。
「えっ!?」
なんと、彼は自由になった左手から、金色に煌めく、当主の指輪を外したのだ!
それをシャツのポケットにしまい、膝を折って……。
「ハオリュウ!? や、やめて! 何しているの!? あなたの足は――!」
血相を変える私の前で、彼は苦痛に顔を歪めながら、地面にひざまずいた。
「なっ!?」
指輪のない彼の手が、私の手を取る。
それは、まるで上流階級の令嬢を相手にするかのような優雅な仕草で……。
そして、彼は――。
私の手の甲に、口づけた。
「――――――!」
心臓が止まるかと思うくらいの衝撃。
あまりのことに、彼の唇の感触なんて分からない。
その代わり、涙が吹き飛んだ私の目には、彼の一挙手一投足が刻みつけられる。
「ハ、ハオリュウ!?」
私の声が裏返った。
「これが、今の僕に許される精いっぱい。――でも、いずれは……!」
ぐらつく姿勢に耐えながら、彼は強い眼差しで私を見つめ、口を閉ざす。
――え? どういうこと……?
混乱する私の前で、ハオリュウの体が大きくかしいだ。
「きゃああ、ハオリュウ! 足! とにかく、足を楽にして!」
私の悲痛な叫びと、彼が芝生に倒れ込んだのは、ほぼ同時だった。
「ハオリュウ!」
「大丈夫だよ。ただ、ちょっと無茶をしただけだ」
彼は穏やかに笑い、そのまま大の字になって寝転んだ。――とても、貴族とは思えないような、自由な姿で。
私は、どうしたらよいのか分からず……、けど、彼が横になっているのだから――と、隣にちょこんと座る。
私たちのそばを風が走り抜けた。
彼の前髪が浮き立ち、私の絹のリボンがたなびく。
気持ちよさそうに瞼を閉じ、葉擦れの音を浴びていたハオリュウが、不意に私を見上げた。
「出逢ったときからずっと、クーティエは、僕を『ただのハオリュウ』として見てくれていたよね。――ありがとう」
「ハオリュウ?」
「今日、ユイランさんにお願いした服が仕上がったら、草薙家に取りに来る。そのとき、あなたへの感謝を込めて、その日の朝一番に庭で摘んだ花を花束にして贈ったら……受け取ってくれるかな?」
「え……?」
ハオリュウが、自分で花を摘んで……、私に贈る!?
……嬉しい。凄く、嬉しい。ハオリュウが、私のために……。
想像もしていなかった言葉に、私は口をぽかんと開けたまま。
とっても、間抜けだったと思う。……恥ずかしい。
だけどハオリュウは、とても優しい顔で目を細めた。
「僕が五歳のとき、母様の誕生日に、庭で摘んだ花を贈ったんだ」
「……?」
「貴族の奥方の誕生日だから、その日はパーティが予定されていた。母様が裾の長いドレスを着付けているところに僕は入っていき、マーガレットの花束を渡した。母様はとても喜んでくれたけど、僕は泥のついた靴で母様のドレスを踏んで汚してしまい、大騒ぎになった」
私は息を呑んだ。
その誕生パーティというのは、貴族の社交上のもので、ハオリュウのお母さんが望んだものではないだろう。ドレスを汚したとなれば、一大事だ。
顔色を変えた私に、ハオリュウは「うん。いい思い出じゃないよ」と告げる。
「怒った大叔父が僕を殴ろうとして、姉様が庇ってくれた。顔を腫らした姉様のために、医師が飛んできて、ドレスをなんとかしようとメイドが大わらわで……、大変だった」
「……」
「おろおろするだけだった父様を、僕は見下した。――貴族の当主なんてものは、愛してもいない人と幸せを装うか、愛する人を幸せにできないかの、どちらかなのだと思った」
「ハオリュウ……」
なんて言ったらいいのか分からず、私は絶句する。
「――でもね」
「え?」
ふわりと微笑んだハオリュウに、私は首をかしげる。
「あの日、母様に贈られたプレゼントの中で、母様が一番、喜んだのは、僕の花束で間違いない」
言い切ってから、彼は少し照れたように瞳を揺らした。それから再び、まっすぐに私を見つめる。
「あのとき、父様が花束から一輪抜き取って、母様の髪に挿した。そして、『似合うよ。綺麗だよ』と言った。母様は本当に嬉しそうだった。――そんなことを、今は思い出すんだ」
ぽつり、ぽつりと。懐かしそうに、彼は語る。
私はただ、うんうん、と相槌を打ち続けた。
「クーティエ」
「うん」
「僕はずっと、父様を情けない男だと思っていた。でも今は、僕が分かっていなかっただけで、父様は、ちゃんと為すべきことを為していた気がする」
「…………」
「もしも今、父様と言葉を交わすことができたなら――、……僕は、あなたのことを紹介したい」
「――!」
私の心臓が、どきん、と跳ねた。
――それって…………。
超高速の鼓動が、どきどきと血液を送り出す。
私の頬が、赤く熱を持っていく。
「庭の花なんて、気の利かないものを贈りたいなんて言って、ごめん」
見れば、彼の顔も朱に染まっていた。
「でも、貴族の当主としてではなくて、ただのハオリュウとしての贈り物を考えたら、それしか思い浮かばなかったんだ」
「う、ううん! 凄く、素敵! 私、楽しみにしている!」
弁解する彼の言葉に首を振り、私は満面の笑みで答える。
「ありがとう。クーティエに一番、似合う花を摘んでくるよ」
その瞬間、私の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「あっ……、……ごめんっ。……嬉しくて」
私は焦って謝るけれど、涙はあとからあとから、あふれてきて、簡単には止まってくれない。
ハオリュウが、ふと呟いた。
「……雫の花束」
「え?」
「あのときの僕は、悲しくて辛くて泣きじゃくったけれど、母様の誕生日をそんな涙で上書きできたら……」
彼は何かぶつぶつと言い、それから急に、まるで悪巧みでも思いついたかのように、楽しげに頬を緩ませた。
「?」
きょとんとする私に、彼は花がほころぶような笑顔を浮かべる。
「いつか。母様の誕生日に、また花束を贈りたいな。――クーティエと一緒に」
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第一章 夏嵐の襲来から
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第三部 海誓山盟 第二章 黄泉路の枷鎖よ https://slib.net/118955
――――に、続きます。