di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第二部 第九章 潮騒の鎮魂歌を
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第九章 潮騒の鎮魂歌を
――――です。
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第八章 夢幻の根幹から https://slib.net/113650
――――の続きとなっております。
長い作品であるため、分割して投稿しています。
プロフィール内に、作品全体の目次があります。
https://slib.net/a/4695/
こちらから「見開き・縦書き」表示の『えあ草紙』で読むこともできます。
(星空文庫に戻るときは、ブラウザの「戻る」ボタンを押してください)
※使わせていただいているサービス『QRouton』の仕様により、クッションページが表示されます。
https://qrtn.jp/gazfbyx
『えあ草紙』の使い方は、ごちらをご参考ください。
https://www.satokazzz.com/doc/%e3%81%88%e3%81%82%e8%8d%89%e7%b4%99%e3%83%9e%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%82%a2%e3%83%ab
「メニューを表示」→「設定」から、フォント等の変更ができます。PCなら、"UD Digi Kyokasho NP-R"等のフォントが綺麗です。
〈第八章あらすじ&登場人物紹介〉
===第八章 あらすじ===
囚われのメイシアに携帯端末が届けられたことによって、彼女と無事に連絡が取れた。その報告の会議で、ルイフォンは「リュイセンを味方に戻し、〈蝿〉を討ち取らせるから、彼の追放を解いてほしい」と発言した。しかし、リュイセンが裏切った理由について言葉を濁したために、会議は荒れる。
『ミンウェイは『母親』のクローンであり、その事実を『ミンウェイ本人に教える』と、リュイセンは〈蝿〉に脅迫された』という憶測を、ルイフォンは証拠もなく言いたくなかったのだ。だが、シュアンに諭され白状する。
そして、言い方は悪いが『リュイセンを屈服させる』ための研究報告書探しが始まった。その報告をメイシアにする際、セレイエの記憶を受け取った彼女が、〈悪魔〉の〈蛇〉として『契約』にと囚われてしまったことに気づき、ルイフォンは愕然とする。
研究報告書を求め、ルイフォンはミンウェイの昔の家に行ったが空振りだった。〈蝿〉が資料を持ち出していたのだ。しかし、そこで見つけた古い刀の鍔飾りから、死んだオリジナルのヘイシャオに、『娘』のミンウェイを大切にしようと思っていた心があることを知る。
一方、菖蒲の館では、自分の思い通りに物ごとが進まないことに焦れた〈蝿〉が、予定よりも早くメイシアに自白剤を打つと言い出した。メイシアは、ルイフォンと連絡が取れていることを口にしてしまうと恐れ、実はセレイエの記憶は受け取っているのだと自ら告白する。
激昂する〈蝿〉に対し、メイシアはこの場から逃げるための方便として、「あなたの奥様の記憶を手に入れてみせます」と言う。『デヴァイン・シンフォニア計画』では、セレイエが死んだ息子の記憶を手に入れた。だから、同じことをしてみせる、と。
〈蝿〉は、メイシアの話は技術的には可能だと判断したが、取り引きする相手はあくまでもセレイエだと答える。メイシアは仕方なく、セレイエは既に亡くなっていると告げる。その瞬間、怒りに我を忘れた〈蝿〉に彼女は首を絞められた。
そのとき、リュイセンが駆けつけ、彼女を助けた。邪魔が入ったことで、〈蝿〉は「続きは明日」と言って、メイシアを解放した。
メイシアは無事であったが、リュイセンの殺意は極限まで膨れ上がっていた。もともとそのつもりであったが「今宵、〈蝿〉を殺す」と決意を新たにする。そんな彼との会話の中で、メイシアは、ミンウェイがかつて自殺未遂をしたことを知る。
妻のミンウェイの『生を享けた以上、生をまっとうする』という言葉によって生かされていたオリジナルのヘイシャオは、娘のミンウェイの自殺未遂を目の当たりにしたことで、『死』を望んだのではないか、とメイシアは悟る。そして、これは『〈蝿〉が知りたがっている情報』であり、強力な武器であると気づく。
ヘイシャオの研究報告書を求めての〈七つの大罪〉のデータベースへの侵入に難航していたルイフォンは、死んだ〈悪魔〉、〈蠍〉の研究所跡に期待を掛けた。廃墟があるだけだと言うエルファンに対し、〈ケル〉と〈ベロ〉が突然、現れ、行くようにと示唆する。
その場所には、母キリファの建てた〈スー〉の家があり、〈スー〉は、キリファが自分の命と引き換えにして完成するものだと気づいていたルイフォンとエルファンは衝撃を受ける。エルファンは〈スー〉のもとへ飛んでいったが、ルイフォンは自分の目的は研究報告書を手に入れることだと、侵入作業に入った。
そして、ミンウェイがクローンであるという明確な証拠を示すものは『存在しない』という結果を得る。ミンウェイを普通の娘として育てようとしたヘイシャオが、証拠となるようなものを一切残さなかったのだ。
呆然とするルイフォンに、ミンウェイが「ヘイシャオと〈七つの大罪〉とのやり取りの記録を見れば、私がクローンなのは明らか。でも、『私は大丈夫。傷つかない』とリュイセンに伝えれば、それでリュイセンは解放されるはず」と言う。自分は空回りしていたと自嘲するルイフォンに、ミンウェイは「こんなことが言えるようになったのは、あなたのおかげ」と叱りながら笑った。
その帰り、メイシアから菖蒲の館での事態急変を知らせを受ける。今晩、決着をつけると、鷹刀一族の屋敷に戻ってすぐに、作戦会議が開かれた。
『リュイセンを味方に戻し、〈蝿〉を討たせる』という作戦の段取りを確認するだけだと思われた会議だったが、シュアンが「ミンウェイと〈蝿〉が会わないままに、〈蝿〉に死を与えてよいのか」と問いかけ、作戦は『〈蝿〉捕獲』に変更された。また、〈蝿〉をおとなしく連行させるために、メイシアの気づいた『ミンウェイの自殺未遂がヘイシャオの自殺の理由』という情報を使うことに決まった。
しかし、リュイセンが『メイシアを助けるために〈蝿〉に逆らった罰』で反省房に入れられてしまったことで、作戦は変更を余儀なくされた。
新たな作戦として、タオロンにリュイセンを救出してもらい、メイシアのところに連れてきてもらう。そして、娘のファンルゥは、安全のためにメイシアの展望塔に移動することになった。しかし、リュイセンは既に自力で脱走しており、ファンルゥは興奮のし過ぎで疲れて寝てしまう。
ルイフォンは焦ったが、自分が遠隔操作で鍵を自在に操れることに気づき、ファンルゥの部屋の守りを固め、タオロンには急いでリュイセンを探すように頼んだ。放っておけば、リュイセンは〈蝿〉を殺し、姿を消してしまうからである。
リュイセンは、タオロンにあとのことを頼むために、ファンルゥの部屋に現れた。物音で目を覚ましたファンルゥに「二度と会えない『さよなら』なの?」と詰め寄られた彼は、逃げるように去る。だが、展望塔を目指し始めたファンルゥのことが心配で、そっと見守っていた。そして、見張りに見つかってしまった彼女を守るために背中に刃を受けてしまう。
傷を負いながらもリュイセンは展望塔の見張りを倒し、逃げようとした者も、メイシアから連絡を受けたタオロンが倒した。見張りがいなくなった出口からメイシアが出てきて、リュイセンに携帯端末を渡す。聞こえてきたミンウェイの声に、リュイセンの張り詰めていた精神の均衡が崩れ、彼は意識を失った。
リュイセンは目覚めたあと、まずはルイフォンとメイシアに謝るのが礼儀だと、ルイフォンに連絡を取る。そして、ルイフォンから、ミンウェイはとっくに秘密を知っているのだと伝えられ、憤りを覚えつつも、自分が何をすべきかを見誤ることはなく、弟分の手を取った。リュイセンは『鷹刀の後継者』として、〈蝿〉の捕獲を引き受けたのだった。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
凶賊鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
――ということになっているが、本当は次期総帥エルファンの息子なので、イーレオの孫にあたる。
母親のキリファから、〈猫〉というクラッカーの通称を継いでいる。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
凶賊の一員ではなく、何にも属さない「対等な協力者〈猫〉」であることを主張し、認められている。
※「ハッカー」という用語は、本来「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われている。
対して、「クラッカー」は、悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を「クラッカー」と表記する。
メイシア
もと貴族で、藤咲家の娘。十八歳。
ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
王族の血を色濃く引くため、『最強の〈天使〉の器』としてセレイエに選ばれ、ルイフォンとの出逢いを仕組まれた。
セレイエの〈影〉であったホンシュアを通して、セレイエの『記憶』を受け取った。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
秘密組織〈七つの大罪〉の介入により、近親婚によって作られた「強く美しい」一族。
――と、説明されていたが、実は〈七つの大罪〉が〈贄〉として作った一族であった。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄弟ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。イーレオの孫。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
文句も多いが、やるときはやる男。
『神速の双刀使い』と呼ばれている。
長男の兄が一族を抜けたため、エルファンの次の総帥になる予定であり、最後の総帥となる決意をした。
鷹刀ミンウェイ
母親がイーレオの娘であり、イーレオの孫娘にあたる。
――ということになっていたが、実は『父親』と思っていたヘイシャオが、不治の病の妻を『蘇生』するために作った、妻から病気の因子を取り除いたクローン。
妻が『蘇生』を拒絶し、クローンを『娘』として育てるように遺言したため、心を病んだヘイシャオに、溺愛という名の虐待を受ける羽目になってしまった。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。ただし、本来は直毛。二十代半ばに見える。
薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
現在は、鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
草薙チャオラウ
イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
キリファ
ルイフォンの母。四年前に当時の国王シルフェンに首を落とされて死亡。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に〈天使〉にされた。
また〈蠍〉に右足首から下を斬られたため、歩行は困難だった。
もとエルファンの愛人で、セレイエとルイフォンを産んだ。
ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のスーパーコンピュータだが、それは張りぼて。本体は〈七つの大罪〉の技術により、人間の記憶を利用して作られた光の珠である。
『〈天使〉の力の源である〈冥王〉を破壊するためのもの』であるらしい。
〈ベロ〉の人格は、シャオリエのオリジナル『パイシュエ』である。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこないのだが、所在は、もと〈蠍〉の研究所にあることが分かっている。また、キリファの人格を持っていると推測されている。
セレイエ
エルファンとキリファの娘。
表向きは、ルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
生まれながらの〈天使〉。
王族のヤンイェンと恋仲になり、ライシェンという〈神の御子〉を産んだ。
先王シルフェンにライシェンを殺されたため、「ルイフォンの中に封じた、ライシェンの『記憶』」と「〈蝿〉に作らせた『肉体』」を使って、ライシェンを生き返らせる計画――『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた。
ただし、セレイエ本人は、ライシェンの記憶を手に入れるために〈天使〉の力を使い尽くし、あとのことは〈影〉のホンシュアに託した。
『最強の〈天使〉』となり得るメイシアを選び、ルイフォンと引き合わせた。
メイシアのペンダントの元の持ち主で、『目印』としてメイシアに渡した。
パイシュエ
イーレオ曰く、『俺を育ててくれた女』。
故人。鷹刀一族を〈七つの大罪〉の支配から解放するために〈悪魔〉となり、その身を犠牲にして未来永劫、一族を〈贄〉にせずに済む細工を施した。
自分の死後、一族を率いていくことになるイーレオを助けるために、シャオリエという〈影〉を遺した。
また、どこかに残されていた彼女の『記憶』を使い、キリファは〈ベロ〉を作った。
すなわち、パイシュエというひとりの人間から、『シャオリエ』と〈ベロ〉が作られている。
[〈七つの大罪〉・他]
〈七つの大罪〉
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
王家に、王になる資格を持つ〈神の御子〉が生まれないとき、『過去の王のクローンを作り、王家の断絶を防ぐ』という役割を担っている。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
『契約』
〈悪魔〉が、王族の『秘密』を口外しないように施される脳内介入。
記憶の中に刻まれるため、〈七つの大罪〉とは縁を切ったイーレオも、『契約』に縛られている。
また、〈悪魔〉であったセレイエの記憶を受け継いだメイシアや、パイシュエの記憶を使って作られた〈ベロ〉も、『契約』に縛られている。
〈天使〉
『記憶の書き込み』ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置であり、限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こす。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』
セレイエによる、殺された息子ライシェンを生き返らせるための計画。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらの意味を繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』と、ホンシュアは言った。
ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの『父親』。故人。
医者で暗殺者。
病弱な妻のために〈悪魔〉となった。
妻の遺言により、妻の蘇生のために作ったクローン体を『娘』として育てていくうちに心を病んでいった。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のようなかたちでエルファンに殺された。
現在の〈蝿〉
セレイエが『ライシェン』を作らせるために、蘇らせたヘイシャオ。
セレイエに吹き込まれた嘘のせいで、イーレオの命を狙ってきた。
妻の遺言により、『生を享けた以上、生をまっとうする』と言って、異常なまでに『生』に執着している。
ホンシュア
殺されたライシェンの侍女であり、自害するくらいならとセレイエの〈影〉となって『デヴァイン・シンフォニア計画』に協力した。体は〈天使〉化してあった。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
メイシアにセレイエの記憶を潜ませ、鷹刀に行くように仕向けた、いわば発端を作った人物である。
〈蛇〉
セレイエの〈悪魔〉としての名前。
〈蝿〉が、セレイエの〈影〉であるホンシュアを〈蛇〉と呼んでいたため、ホンシュアを指すこともある。
ライシェン
殺されたセレイエの息子の名前。
〈神の御子〉だった。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。
二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
〈蝿〉の部下となっていたが、娘のファンルゥに着けられていた毒針の腕輪が嘘だと分かり、ルイフォンたちの味方になった。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら藤咲家の当主を継いだ。
十人並みの容姿に、子供とは思えない言動。いずれは一角の人物になると目される。
異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
緋扇シュアン
『狂犬』と呼ばれるイカレ警察隊員。三十路手前程度。イーレオには『野犬』と呼ばれた。
ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
凶賊の抗争に巻き込まれて家族を失っており、凶賊を恨んでいる。
凶賊を殲滅すべく、情報を求めて鷹刀一族と手を結んだ。
敬愛する先輩が〈蝿〉の手に堕ちてしまい、自らの手で射殺した。
似た境遇に遭ったハオリュウに庇護欲を感じ、彼に協力することにした。
[王家・他]
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害された。
〈神の御子〉に恵まれなかった先々王が〈七つの大罪〉に作らせた『過去の王のクローン』である。
ヤンイェン
先王の甥。女王の婚約者。
実は先王が〈神の御子〉を求めて姉に産ませた隠し子で、女王アイリーや摂政カイウォルの異母兄弟に当たる。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉だったセレイエと恋仲になり、ライシェンが生まれた。
しかし、〈神の御子〉であったライシェンは殺され、その復讐として先王を殺害した。
メイシアの再従兄妹にあたる。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
実は〈影〉であり、イーレオを育てた、パイシュエという人物の記憶を持つ。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.月影を屠る朝の始まりを-1
天頂に昇り詰めた月が、菖蒲の庭園を見下ろしていた。
白く清涼な月影は、地表に降り立った瞬間に深い闇に呑まれる。草原を渡る南風が黒い波濤を作り出し、ただ音だけが光の届かぬ波間を潮騒のようにざわめく……。
そんな光景を、〈蝿〉は寝室として使っている、かつての王の居室から眺めていた。
いつもよりも早く床に就いたものの、眠ることができなかったのだ。だから、波音に誘われるように、明かりを消した部屋の中をのろのろと、疲労しきった体を窓辺まで引きずってきた。
生ぬるい風が頬を撫で、髪を揺らす。錯覚だと分かりきっているのに、潮の匂いを感じる。
この庭園の夜は、ミンウェイの墓のある、あの海辺の別荘の夜を彷彿させる。
だからだろう。
強い郷愁の念に駆られる。
そう思い、〈蝿〉は自嘲した。
この肉体は、あの海を知らない。この感情は、オリジナルの記憶が見せる幻だ。
『〈蝿〉』が還るところなど、どこにもない。
彼は『デヴァイン・シンフォニア計画』のためだけに作られた、駒に過ぎないのだから……。
――それでも。
「ミンウェイ……」
彼女のもとに還りたいと、切に願う。
けれど、彼のミンウェイは、どこにいるというのだろう?
彼の『対』として作られたのであろう、硝子ケースの『ミンウェイ』は、ただの容れ物だ。彼女には魂がない。
目覚める前の彼ならば、彼女の『対』にふさわしかった。しかし、ふたりは培養液の中と外という、別の世界に分かたれてしまった。ちょうど、オリジナルのヘイシャオとミンウェイが、幽明境を異にしたように。
『私が〈天使〉になれば、奥様の記憶を手に入れることができます』
あの貴族の小娘は、そう言った。
それは可能であると。
長年、〈悪魔〉として研鑽を積んできたオリジナルの記憶から、彼も認める。
それは真実だと。
けれど、二十歳にもならないミンウェイの記憶を手にしたところで、彼には何もできない。
その記憶を、不惑を迎えた『ミンウェイ』の肉体に入れるのは可哀想だろう。かといって、記憶の年齢に見合った、新たな肉体を作ったところで、若い『彼女』が、老いた彼のそばに居るのは不幸だ。
漆黒の夜を映す彼の瞳が、切なげに歪む。
「何より、ミンウェイ本人が望まなかったんだ……」
不自然な『生』は嫌だと。
彼には『死』を禁じたのに。
『ヘイシャオ、――生きて』
『それが、どんなに尊いことか。私たちは知っているのだから』
彼女の声が耳に――記憶に、残っている。
体は痩せこけ、腕は無残な点滴の跡でいっぱいになってしまったというのに、変わらぬ艷やかな美声。少女のころよりも大人びて、色香の漂うようになった響きが彼を叱咤した。
その言葉に抗うことなど、誰ができようか……。
「……」
黒い草原から目線を上げ、人工の光で淡く彩られた展望塔を見やる。
先ほどまで、煌々と輝いていた最上階の展望室が、常夜灯に切り替わっていた。
藤咲メイシアも、眠れぬ夜を過ごしているに違いない。けれど明日に備え、無理にでも明かりを落とした。そんなところだろう。
『続きは、明日』
そう言ったのは彼のほうだ。
なのに、この夜が明けたとき、あの小娘と何を話せばよいのか分からない。
鷹刀セレイエに――『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた張本人に会えば、この先の道が見えてくるような気がしていた。
けれど、セレイエは既に死んでいるという。
メイシアの嘘の可能性もあるが、おそらく事実だろう。セレイエの〈影〉であったホンシュアが、死の間際にこぼした言葉を思い出したのだ。
『あなたは、信頼できる人間に……自分の娘を託しただけ。その気持ち……分かるわ』
自分は死ぬ。だから、遺される子供を信頼できる相手に託す。
その気持ちが分かると言ったからには、ホンシュア――セレイエもまた死んだのだ。
だから、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、異父弟ルイフォンと『最強の〈天使〉』となり得るメイシアを引き合わせるように仕組まれた。このふたりに『ライシェン』を委ねるために、天と地ほども違う運命を強引に巡り合わせた。
「……私には、理解できない。――何も」
吐き出すような呟きを落とす。
それに、〈ベラドンナ〉は『娘』などではない。
彼女は――……。
そこで、彼の思考が止まる。
無意識に呼吸も止まり……、しばらくして胸が苦しくなり、思い出したように深い息を吐き出した。
「私にとって、〈ベラドンナ〉は……」
そう言いかけて、彼は頭を振った。
「『ヘイシャオ』にとって、あの子は何者だったのだろうな……」
月影が気まぐれに揺らめき、ほんの一瞬だけ、彼の顔に寂しげな微笑を描き出した。しかし、それも光の流れと共にすぐに地上へと吸い込まれ、黒い波間に解けていく。
……そして、彼は気づく。
この部屋の扉の向こう側。緋毛氈の廊下に、何者かの気配があるのを。
彼の眉が、ぴくりと上がる。
偽薬と虚言の恐怖で支配されている私兵たちは、彼の寝室には近寄らない。だから、こんなところをうろつくのは、リュイセンか、タオロンのどちらかだ。
「リュイセンだな……」
タイミングからして、反省房に入れられたリュイセンが脱走してきた、と考えるのが妥当だろう。
「私を殺しに来ましたか」
彼の口調が変わる。鷹刀一族特有の美貌に、人を喰ったような冷笑を浮かべる。
昼間、リュイセンが見せた殺意は本物だった。ならば、拘留などという生ぬるい処罰ではなく、殺しておくべきだったかと彼は軽く後悔する。
エルファンにそっくりな彼の息子を、手に掛けるのは忍びないと思ったのだ。だから、反省房で頭を冷やし、〈ベラドンナ〉の『秘密』を握る彼には逆らうべきではないと、思いとどまってほしかった。
反省房には、それなりの数の見張りをつけたが、それはあくまでも様式美というものだ。リュイセンがその気になれば、簡単に脱走できることなど分かりきっていた。
彼の眉間に、深い皺が寄る。
実のところ、彼はリュイセンをもてあましていた。メイシアをさらわせるまでは重要な駒であったが、それ以降は危険の芽でしかない。まっすぐな気性のリュイセンが、いずれ牙をむくことは、火を見るよりも明らかだった。
さて、どうするか。
廊下の気配は息を潜めたまま、じっと動かない。このまま、ひと晩、待機するつもりなのだろう。そして朝になって、部屋から出てきた彼に襲いかかる肚か。
私兵では役に立たない。リュイセンを抑え込めるのはタオロンしかいないだろう。夜中ではあるが、携帯端末でタオロンを呼び出すか――。
彼は窓を離れ、テーブルの上の端末に手を伸ばし、……途中で、その手を止めた。
リュイセンとタオロンの技倆は拮抗している。どちらが勝ちを収めるかは予測できない。そんな不確実な手段を取るのは彼らしくない。
それに――。
「リュイセンに手を下すのは、私であるべきでしょう……?」
彼は再び窓辺へと足を運び、半分ほど開けていた外開きの硝子戸を、いっぱいまで押しやった。夜風が勢いよく部屋に流れ込み、外気をはらんだカーテンが大きくなびく。
それから戸棚に向かい、緻密な透かし彫りが美しい、白磁の香炉を取り出した。かつての王が安眠の香を焚くために使ったものである。
香炉を部屋の扉の手前の床に置くと、彼はまた別の戸棚から小瓶を出してきた。その中身を香炉に入れ、火を落とす。
じんわりとした赤い熱が灯り、やがて薄い煙が昇り始めた。
それを確認すると、彼はまるで黙祷を捧げるかのように目を伏せてから窓際に移動した。
そして、扉を挟んだ向こう側では――。
緋毛氈の廊下には、ふたつの人影があった。
言わずもがな、〈蝿〉を捕らえるべく、展望塔から館へと舞い戻ってきた、リュイセンとタオロンである。
ここに来る途中で、タオロンはリュイセンが草むらに隠しておいた大刀を手に入れた。だから、ふたりとも完全武装。リュイセンの背中の怪我は気になるものの、これ以上はないといった気迫に満ちている。勿論、これから〈蝿〉の寝込みを急襲するのであるから、気配は消してある。
リュイセンは、双刀を宿したような鋭い双眸で、豪奢な扉を見つめた。
ひと目でそれと分かる、翼を広げた天空神フェイレンの意匠。北側の廊下であるので月明かりは届かないが、ほの明るい足元灯に照らされ、繊細な彫刻の陰影がくっきりと浮かび上がっている。
扉の鍵は、すでにルイフォンによって開けられていた。この階に上がる前に、連絡を入れたのだ。
いよいよ、突入――!
部屋の間取りは頭に叩き込んである。ベッドまで、何歩でたどり着くかも分かっている。
しかし。
「!」
リュイセンは目を見開いた。
その様子に、タオロンが不審げに眉を寄せる。それから遅れて気づいたのだろう。彼はごくりと唾を呑んだ。
ふたりは目配せをし合い、渋面を作る。
――〈蝿〉が起きている。
既に夜半過ぎであるので、そろそろよいだろうと思ったのだが、〈蝿〉にとっても今宵は眠れぬ夜であったらしい。
出直すべきだろうか?
だが、決着は今夜のうちにつけるべきだ。そして、負傷しているリュイセンの体力にも限界がある。
不測の事態のときは、現場のリュイセンに任せるとルイフォンには言われている。だから、ここで素早く決断せねばならない。
そのとき。
不意に、室内の〈蝿〉の呼吸の気配が乱れた。
――気づかれたか!?
リュイセンの心臓が跳ねる。
額にじんわりと汗が浮かぶ。
美貌を緊張に強張らせ、リュイセンは詳しい状況を探ろうと、神経を研ぎ澄ませる。
〈蝿〉は、部屋の中をうろついているようだった。
もし〈蝿〉が扉の外の不審者に気づいたなら、それは反省房を脱走したリュイセンであると考えるのが必然だ。その場合、〈蝿〉が身を守るためにすべきことは、リュイセンに匹敵する猛者を呼び出すこと。
すなわち、タオロン。
しかし、彼は今や、リュイセンの味方である。
突入だ!
リュイセンの心は決まった。
〈蝿〉が起きていても構わない。
奴が頼みにしているタオロンは、ここにいるのだから。
リュイセンがタオロンを振り返り、突入の合図をしようとした矢先、タオロンが顔色を変えた。太い眉に強い意思を載せ、まるで引き止めるかのように、ぐいとリュイセンの肩を引く。
「!?」
丸太のような腕からの力に、背中の傷がずきりと痛んだ。リュイセンの負傷を承知しているはずのタオロンにしては、随分と乱暴だ。
反射的に眦を吊り上げたリュイセンに、しかしタオロンは、険しい表情で『もと来た道を戻るぞ』と、身振り手振りで告げてきた。
剛の者のタオロンが、臆病風に吹かれるわけもない。何かに気づいたのだ。
リュイセンは、理屈ではなく、天性の勘で状況を察する。出鼻をくじかれた形となったが、タオロンに怒りを感じることはない。すぐに了解の意を伝えると、ふたりは素早く扉をあとにした。
廊下を戻り、念のため更に一階分、階段を降りる。
〈蝿〉の部屋から充分に離れたところで、タオロンが小声で囁いた。
「嫌な臭いがした。……たぶん、毒だ」
「……なっ!?」
気配に関してはリュイセンほど鋭くはないタオロンだが、どうやら嗅覚はリュイセンよりも優れているらしい。彼は、扉の下のわずかな隙間から漏れ出た臭いに、敏感に気づいたのだ。
〈蝿〉は、毒物によって守りを固めた。
予想外の展開だった。
1.月影を屠る朝の始まりを-2
大きく開かれた窓から、夜風が舞い込む。
記憶には刻まれておらぬのに、いつの間にか白くなっていた髪がなびき、月光を浴びて銀色に輝く。
窓際にたたずんだ〈蝿〉は、部屋の扉にじっと視線を注いでいた。正確には、その手前。床に置かれた香炉から立ち昇る、独特な臭いを放つ薄い煙の筋に。
舞い上がるにつれて緩やかに広がっていく微粒子が、〈蝿〉の髪と同じく月影を弾いていた。散乱した光が作る幻想的な情景に、〈蝿〉はすっと目を細める。
廊下をうろついていた気配は、先ほど遠ざかっていった。
どうやら様子を見に来ただけのようだ。もしかしたら〈蝿〉が起きていることに気づいて慌てて去っていったのかもしれないが、扉に鍵が掛けられている以上、どのみちリュイセンは朝まで彼に手を出せない。
夜が明けるころには、この煙が部屋中に充満している。そして、〈蝿〉が扉を開けた瞬間に、毒煙は風下に向かって流れ出し、廊下にいるリュイセンを襲う。
〈蝿〉はそこで、鼻に皺を寄せた。
残念ながら、〈蝿〉のこの体は、毒に慣れていない。だから、このままでは彼も毒の餌食となる。防塵マスクが必要だった。
この体であるがために、ルイフォンとの対決の際には、毒刃を受けた腕の肉をえぐる羽目になった。無論、天才医師たる彼の技術によって、傷はとうに完治しているが、あの屈辱は忘れられない。
彼が『〈蝿〉』であるからには、彼の体は毒が効かないものであるべきなのだ。
ルイフォンとの一件があってから、少しずつ慣らしているのだが、しかし、一朝一夕にどうこうなるものではない。
憮然とした顔で、戸棚から防塵マスクを取ろうとしたときだった。
がちゃり――。
扉の開く音がした。
戸棚に手を伸ばしていた、すなわち、扉から目を離していた〈蝿〉は、その音を右肩の方向から聞いた。
「!?」
鍵が掛かっているはずの扉が開いた――!?
不意打ちで、横っ面をはたかれたような衝撃だった。
驚愕に体を返せば、視界に飛び込んできたのは、内側に向かって乱暴に開け放たれた豪奢な扉。そして、猪突猛進に転がり込んでくる、巌のような巨体。
「タオロン!?」
窓からの夜風が、部屋を漂っていた毒香を乗せ、扉へと押し寄せる。死を誘う臭いが、乱入者たるタオロンを襲う。
タオロンの太い眉がしかめられた。
しかし、彼は動じることなく、あたりに視線を走らせた。そして、床に置かれた白磁の香炉を見つけると、巨躯に似合わぬ軽やかさで跳び上がり、重力を加えた逞しい足で問答無用に踏みつける。
ぱりん……。
タオロンの巨体に、華奢な香炉はひとたまりもない。繊細な音を立てて、粉々に砕け散った。
「……」
何が起きたのか。
高い知性を誇るはずの〈蝿〉が、にわかには理解できなかった。
一方、タオロンは煙が完全に消えたのを確認すると、ふらりと足をもつれさせた。懸命に転倒をこらえようとするものの、踏ん張りがきかない。受け身を取ることすらできず、そのまま叩きつけられるように、勢いよく床に倒れ込んだ。
このときになって初めて、〈蝿〉は、タオロンが赤いバンダナで口元を覆っていることに気づいた。いつもは、刈り上げた短髪を抑えるように額に巻いているそれである。
「タオロン。あなたは、この部屋に毒があると知っていたのですか?」
思わず尋ねたが、訊くまでもないだろう。それに、口のきける状態ではないはずだ。
しかし、タオロンは苦しげに顔を歪めながらも、こう答えた。
「俺は……、血路を……開いた……まで……だ」
呼吸が荒い。毒香を吸い込んだためだ。
なのに彼は、清々しくにやりと笑う。無骨な大男のくせに童顔で、まるでいたずらに成功した子供のようである。
朝まで掛けて充分量の毒にするつもりであったから、致死量には至らないだろう。だが、常人ならば、とっくに意識を手放しているはずだ。頑強な巨体の為せる業ということか。彼の強靭さには驚嘆する。
医者の性で、脳内でそんな分析をしていた〈蝿〉は、ふと重要な言葉を聞き流しそうになっていたことに気づいた。
「……『血路』? どういう意味ですか?」
〈蝿〉の問いに、タオロンは部屋の外に向かって顎をしゃくった。
促されるように視線をやれば、開かれたままの扉から、廊下の窓が全開になっているのが見えた。靄のように立ち込めていた毒香は、虚空の淵のような北の空に呑み込まれ、あとかたもない。
だが、それだけだ。
「いったい、なんだと……」
重ねて問おうとしたときだった。
今まで何も感じなかった壁の向こうから、突如、豪然たる覇気が膨れ上がった。
「――!?」
〈蝿〉の肩が、無意識に跳ねた。
何者かが近づいてくる。足音は聞こえなくとも、〈蝿〉には、はっきりとそれが分かる。
そして――。
扉口に長身の影が現れた。
窓からの月光によって黄金比の美貌が明るく照らし出され、〈蝿〉は息を呑む。
「リュイセン……?」
彼以外あり得ない。否、間違いなく彼だ。
だのに見た瞬間、〈蝿〉には、彼が見知らぬ存在に思えた。
何故なら、そこにいたのは、〈蝿〉に昏い憎悪を燃やす若造ではなく、猛き狼であったから。
月明かりの中でも、ひと目で貴人のためのものと分かる美しい絹の衣服を身にまとい、堂々たる歩みで緋毛氈の廊下から迫り来る。長い上着の裾を優雅になびかせ、他を睥睨するように進み征く様には、王者の風格が漂う。
リュイセンは、床に横たわるタオロンに向かって「すまない」と深く頭を下げた。
毒のためにか、タオロンはうまく声を出せなかったようであるが、笑顔で目を細める。それがどんな意味であるのかは不明だったが、気持ちは通じたのだろう。リュイセンが「ありがとう」と応えた。
そして、リュイセンは〈蝿〉と対峙した。
「〈蝿〉――」
人を惹きつける、魅惑の低音が響いた。
「俺は、鷹刀の後継者として、お前を裁きに来た」
双刀を宿したような双眸が、冷厳と〈蝿〉を見据え、無慈悲に宣告する。
肩で揃えられた黒髪が夜風に舞い、闇に解けた。その姿は、まさに鷹刀一族の血統を象徴するかのような、恐ろしくも美しい魔性。
「は……? あなたが『鷹刀の後継者』?」
侮蔑の色合いで、思い切り鼻で笑った。そのつもりだった。なのに、〈蝿〉の声はかすれていた。
彼に畏れなど感じていない。そんなことは断じて認めない。
〈蝿〉は語気を強める。
「一族を裏切ったあなたに、鷹刀を名乗る資格はないでしょう?」
〈蝿〉のほうこそ発する資格もない弾劾に、しかし、リュイセンは恥じ入るように目を伏せた。静かに「ああ」と肯定し、それから、ゆっくりと面を上げる。
「俺は、本来なら許されないような罪を犯した。だが、ルイフォンが手を差し伸べてくれた」
「ルイフォン……? あの子猫が、何をしたというのですか?」
その問いに、自慢の弟分なのだと言わんばかりに、リュイセンは誇らしげに口元を緩める。
「あいつは〈七つの大罪〉のデータベースに侵入して、ミンウェイの『秘密』を、ミンウェイに明かした」
「――!」
〈蝿〉は眦を吊り上げ、息を呑んだ。そんな彼に、リュイセンは淡々と告げる。
「そして、もはや俺がお前に従う理由はないと。だから、鷹刀の後継者として、お前との決着をつけてほしいと。――それを手柄に、一族に戻れと……言ってくれた」
「な……! 何を勝手なことを……! 子猫の分際で!」
唇をわななかせ、口汚く罵りながらも、〈蝿〉の背中を冷や汗が伝っていく。
〈蝿〉は、盤石な大地の上に立っているはずだった。
だが、それは思い違いであったらしい。彼の足元にあったのは、本当は海を漂う氷山。ふとした瞬間に脆く崩れ落ちる。地面ですらない。
「あの子猫は、いったい、どうやってあなたと……」
動揺に視界を揺らせば、床の上の巨体が目に入る。
「!」
数日前、〈蝿〉はタオロンに外出を許可した。あのとき、ルイフォンと連絡を取ったのだ。タオロンに対しては、娘に渡した腕輪に毒針が仕掛けてあると脅していたはずだが、真っ赤な嘘だと気づかれたのだろう。
しかし、武人のリュイセンとタオロンだけでは、ここまで見事な連携は取れまい。頭脳が必要だ。
――メイシアだ。
〈蝿〉は悟った。
どのような手段を使ったのかは分からない。だが、あの小娘が裏で糸を引いていた。それで辻褄が合う。
「つまり、あなたは、いつの間にか鷹刀の者たちと通じていた、というわけですね」
「そういうことだ」
「それで? 私を殺しに来たと?」
〈蝿〉は、神経質な声を張り上げた。
今や彼の足元は崩れ落ち、慌てて下がった狭い空間で、片足を浮かせながらかろうじて耐えているようなものだ。
それでも、彼が彼であるのなら、『生』を諦めてはならないのだ。たとえ還る場所がどこにもなくとも、彼は『生』を享けた存在であるのだから。
「私の持っている毒は、さきほどタオロンに踏みつけられたものがすべてではありませんよ?」
〈蝿〉は挑発的に嗤う。
それは嘘ではない。
だが、戸棚に入っている毒を取らせてくれるほど、リュイセンは甘くはないだろう。だから、虚勢だった。
睨みつけるような視線の先で、リュイセンは無言のまま。穏やかな表情で、その瞳に〈蝿〉を映す。
照明が落とされ、月影が支配する室内では、美貌の細部までは判然としない。だからだろう。リュイセンの父親である、エルファンに見つめられているような気がしてならなかった。
無論、錯覚だ。
けれど、〈蝿〉の記憶の中では、親友たる義兄は、いまだ青年のままなのだ。あのころに還ったような幻影に惑わされそうになる。
不意に……、リュイセンの唇が動いた。
そして、〈蝿〉に呼びかけた。
「ヘイシャオ」
「――!?」
一瞬、空耳かと思った。
思わず、『エルファン』と返しそうになるのを、〈蝿〉は必死にこらえる。
目の前にいるのはリュイセンだ。いくらエルファンにしか見えなくとも、時間は巻き戻ったりなどしない。
「毒じゃなくて、刀を取れよ」
好戦的な口調であるのに、深く低い声はどこか優しげで……、〈蝿〉は戸惑う。
「刀……?」
「ああ」
リュイセンは頷き、そして、唐突に語り始める。
「俺はルイフォンに、お前の寝込みを襲うよう指示されていた。だが、あいにく、お前は起きていた」
「? あなたは、いきなり何を……?」
「しかも、お前は俺たちの存在に気づいて、毒で対抗しようとした。――だから、俺たちはいったん引いて……、そこで、俺は冷静になって考えた」
エルファンにそっくりの声質であるが、とつとつとした喋り方は似ても似つかない。エルファンなら、もっと力強く、理路整然と話すだろう。その差異に〈蝿〉は安堵の息を吐く。
「それで? あなたの話は支離滅裂で、要領を得ません」
呆れ返ったような〈蝿〉の口調に、リュイセンは困ったような笑みを浮かべた。
「すまん。俺は、あまり説明が得意じゃない。けど、聞いてくれ」
律儀に謝るリュイセンは滑稽であったが、それ以上、〈蝿〉に口を挟ませるほど間抜けでもなかったらしい。すぐに言を継ぐ。
「俺は『後継者』として、お前を粛清しに来たんだ。ならば鷹刀の名にかけて、寝込みを襲うなどという、不意打ちのような卑怯な真似をすべきではない」
「……」
リュイセンの意図が読めず、〈蝿〉は眉をひそめた。
作戦通りにはいかず、こうして正面から〈蝿〉と対峙していることに対して、大義名分をかざした言い訳をしたいのだろうか。
だが、それなら相手が違う。〈蝿〉ではなく、ルイフォンに弁明すべきだ。わざわざ〈蝿〉に説明する理由が分からない。
警戒の色をあらわにした〈蝿〉に、しかし、リュイセンは構わずに続ける。
「もし俺が、『俺個人』として、『俺の大事な人たちを傷つけた〈七つの大罪〉の〈悪魔〉』を屠りに来たのなら、不意打ちで構わないだろう。けど、俺は『後継者』であることを選んだ。そして――」
リュイセンはわずかに顎を上げ、薄闇に双眸を光らせる。
ぐいと張った胸元で、錦糸の刺繍が存在感を主張するかのように月影を弾いた。静かな威圧を放つ立ち姿に、〈蝿〉の肌が本能的に粟立つ。
「お前には『血族』としての最期を与えたい」
闇を斬り裂くような、明朗な声。
刹那、〈蝿〉の心臓が跳ねた。
「血……族……?」
そのひとことに、郷愁が押し寄せる。
ミンウェイと共に、一族を去ったことに後悔はない。けれど、夢に見るのはいつだって、大切な人たちと過ごした幼いころの日々だった。
傍から見れば、〈七つの大罪〉の支配下にあった一族は、その恩恵を巡って血で血を洗う、碌でもない場所だった。それでも――否、だからこそ、志を同じくする者たちの結束は特別だった。
元気に飛び跳ねるミンウェイが明るく笑い、見栄っ張りのエルファンが妙に大人びた口調で話す。姉のユイランがいて、付かず離れずチャオラウが控えていて、飄々とした顔のイーレオが皆を見守る……。
「……――ふん」
憧憬のような思いを掻き消そうと、〈蝿〉は、思い切り小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「何をふざけたことを言っているのですか?」
リュイセンの眼差しをぴしゃりと跳ねのけ、〈蝿〉は冷ややかに口の端を上げる。
「私は鷹刀を捨てました。……そもそも『私』は、鷹刀セレイエによって作られた、『天才医師〈蝿〉』の『〈影〉』ではありませんか」
作られたときから『〈蝿〉』だ。『〈蝿〉』としての能力だけを求められていた。『ヘイシャオ』ではない。
『〈蝿〉』に、還るところなどないのだ。
リュイセンは「ああ、そうだな」と、静かに肯定した。
「鷹刀での会議のときは、俺が一番、『〈蝿〉は『作られた駒』なんだから、血族としての情なんか掛けるべきではない』と主張していたな」
「……」
正直すぎる告白に、〈蝿〉は気色ばんだ。
だが、リュイセンは変わらぬ調子で、とつとつと告げる。
「ルイフォンが過去の『死んだヘイシャオ』のことを調べ、メイシアが受け取った記憶から知った、現在の『お前』のことを俺に教えてくれた」
「ほぅ、それで? 私に情でも湧きましたか?」
憐れみなど要らない。惨めなだけだ。
だから、挑発するかのように嘲笑えば、今までの穏やかさを返上して、リュイセンが激昂する。
「ふざけんな! どんな話を聞いても、お前が極悪非道な最低野郎だという事実は変わらねぇよ!」
一転して、獰猛な狼が牙をむいた。
なんの話をしたいのやら、まったくもって理解不能だ。
やれやれ、と。〈蝿〉が肩をすくめたときだった。
「――けど!」
リュイセンの喉から、苦しげな叫びがほとばしった。
「俺は、お前を……、一族に戻してやりたいと思った……」
「……は?」
心底、わけが分からない。あのエルファンの息子が、どうしてここまで論理性に欠けるのか。混乱や狼狽を飛び越え、もはや憂慮、いや憐憫の域だ。
「理屈じゃねぇんだよ! 俺は、お前を一族に戻すべきだと思ったから、そうしたいだけだ。――かといって、お前を許すわけじゃねぇ! 俺は、絶対にお前を許せ ない。お前は、許されない罪を犯した!」
「……罪、ですか」
いったい、何が罪だというのだろう?
〈蝿〉は、ただ、生きたいと願っただけだ。
首をかしげる〈蝿〉に、リュイセンは鋭く言葉を叩きつける。
「ああ、罪だ。他人を不幸にした罪だ! だから、お前は裁かれる存在だ!」
リュイセンの黒髪が、ぞわりと逆立った。
叫び終え、そこでやっと、熱くなりすぎていた自分に気づいたらしい。知らずに怒らせていたであろう肩を下ろし、小さく息を吐いて呼吸を整える。
それから、リュイセンは改めて〈蝿〉に向き直った。
「お前の裁きを、凶賊の流儀でやってやる。……そうすることで、お前を一族に戻してやる」
「なるほど」
ここまで来て、ようやく〈蝿〉は得心がいった。リュイセンが言いたいのは、要はこういうことだ。
「凶賊の流儀とは、力こそ正義。強い者にこそ、弱い者を裁く権利がある。だから、正々堂々、刃を交えよう、と。――そう言いたいのですね」
「そうだ」
リュイセンは深々と頷いた。
そして、『鷹刀の後継者』を名乗る狼が、正義の鉄槌を下さんと挑みかかる。
「ヘイシャオ、刀を取れ。――お前の最期を『〈蝿〉』で終わらせたくないのならな……!」
1.月影を屠る朝の始まりを-3
月影が支配する薄闇の部屋に、リュイセンの叫びが木霊した。
『ヘイシャオ、刀を取れ』
あのころのエルファンに、そっくりな顔で――。
あのころのエルファンと、そっくりな声で――。
『お前の最期を『〈蝿〉』で終わらせたくないのならな……!』
「――!」
喉元に喰らいついてきた猛き狼は、決して許さぬと告げた。
だのに同時に、不可解な手を差し伸べてくる。
還ってこい。
〈蝿〉の魂が、震えた。
その瞬間の感情は、喜怒哀楽のどれでもなく。けれど、すべてでもあり……。
抗うことのできない郷愁が襲いかかる。懐かしい思い出が否応なく心を駆け巡る。
大切な日々。
大切な人たち。
――否、これは『ヘイシャオ』の記憶だ。
〈蝿〉は『〈蝿〉』だ。『そこ』は彼の還る場所ではない。
流されそうになる意識を必死に繋ぎ止め、〈蝿〉は冷静さを取り戻す。
彼の魂がむき出しになったのは、刹那のこと。それでも、あまりにも大きな心の振動は、おそらく顔に出てしまったに違いない。だから彼は、慌てて眉間に皺を寄せる。
そして――。
「馬鹿馬鹿しい」
望郷の思いを断ち切るように吐き捨てた。
「あなたの言っていることは、自己満足にすぎません。身勝手な論理ですよ」
「……っ」
リュイセンの美貌が苦々しく歪んた。
――無論、承知している。この青臭い若造は、本気で『〈蝿〉』に手を差し伸べた。
許せないと言いながら、救いたいのだと訴えた。『鷹刀の後継者』を名乗るには、あまりにも幼く、甘い。
「正々堂々と刀で勝負? 何をふざけたことを言っているのですか。私より、あなたの技倆のほうが上であることは、何度か刃を交えた経験から明らかです。負けの見えている私が、応じるべくもないでしょう」
話にならぬと、〈蝿〉はこれ見よがしに溜め息をつき、駄目押しの言葉を重ねた。
「凶賊の流儀を掲げるまでして、自らが誇る武力で勝負したいと言うのか? 浅ましいにも、ほどがある!」
口調の変わった、険しく冷淡な声。高圧的でありながら、しかし、それは虚勢だった。
胸中の思いなど、おくびにも出さずに、〈蝿〉は思案を巡らせる。
タオロンの解毒をすると偽って、戸棚の毒を取りに行くことは可能だろうか。――却下だ。すぐに感づかれ、無防備な背中から斬りつけられるのが関の山だろう。
「……」
〈蝿〉に、有効な対抗手段は何も残されていない。もはや彼は、下がることのできぬ縁まで追い詰められている。
――私は、死ぬのか。
初めて実感を持った。
それも、いいか。
それで、いいか……。
ふらりと身を投げ出しかけ……、その瞬間に、艷やかな美声が耳に蘇る。
『ヘイシャオ、――生きて』
『それが、どんなに尊いことか。私たちは知っているのだから』
彼を叱咤する、力強い声。妖艶な色香すら漂う、抗いようもない魔性の響き。痩せ細った体から発せられているとは、とても信じられぬほどの……。
――それは『ヘイシャオ』とミンウェイの約束だ。
ならば、『自分』は……?
『あなたの〈悪魔〉としての罪は、私がすべて持って逝く。だから、あなたは〈悪魔〉をやめて鷹刀に戻るの』
「どうした?」
急に黙り込んだ〈蝿〉を不審に思ったのだろう。様子を窺うように、リュイセンが一歩、近づいた。
「!?」
そのとき、〈蝿〉は、リュイセンの足運びに違和感を覚え――、瞬時に理解した。
リュイセンは、背中に傷を負っている。
それも、かなり深い。庇うような挙動からして、激痛が走ったはずだ。
なのに、表情に変化はなかった。傷口をきつく縛り、気力で耐えているのだろう、だが、天才医師〈蝿〉の目は誤魔化せない。
反省房からの脱出の際に、多勢に無勢で、迂闊にも一撃を喰らってしまったのか。
――その怪我で、刀を持った私と勝負する……?
正気とは思えなかった。
いくらリュイセンのほうが技倆が上といっても、それは万全の体調があってのことだ。
神速を誇るリュイセンであるが、動きの素早い〈蝿〉には、いまだかつて、ひと太刀も浴びせたことがない。それでもリュイセンのほうが強いと言い切れるのは、戦闘が長期化すれば、持久力がなく、決定打となるほどの攻撃力も持たない〈蝿〉が、いずれ根負けするのが目に見えているからだ。
しかし、リュイセンが負傷しているとなれば、状況は逆転する。たとえ〈蝿〉が致命傷を与えられなくとも、勝負が長引くだけでリュイセンは自滅するだろう。
「何故……」
〈蝿〉は驚愕に顔色を変えた。わけの分からない苛立ちに、唇がわなわなと震える。
「何故、私に刀を取らせようとするのだ?」
「だから、それは、お前を鷹刀の者として、粛清するためだと――」
「深手を負ったお前に屈するほど、私は落ちぶれてなどいない!」
リュイセンの言葉を遮り、〈蝿〉は言い放つ。
「私が徒手空拳であるのなら、今のお前でも、万にひとつくらいは勝機を見いだせるやもしれん。だが、私が武器を手に取れば、その可能性も皆無! お前の負けは確定している!」
〈蝿〉の叫びに、痛みに対しては彫像のように表情を崩さなかったリュイセンが、あからさまに動揺し、うめきを漏らした。
「俺の怪我に気づいたのか。……さすが、医者だな」
舌打ちでもしそうな口調で呟くリュイセンに、〈蝿〉はすかさず言い募る。
「当たり前だ! 私の目を節穴だとでも思っていたか!?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「その体で私と刃を交えれば、私の刀がお前を捕らえるのと、傷の痛みに耐えかねたお前が膝を付くのと、どちらが早いかの問題にしかならない。――そんなことも分からぬほど、お前は愚かなのか!」
〈蝿〉は白髪混じりの髪を掻きむしり、吐き捨てた。エルファンと同じ顔でありながら、愚かなリュイセンが、無性に腹立たしかった。
無論、黙って勝負に応じていれば、苦もなくリュイセンを倒せたことは分かっている。けれど、問わずにはいられなかったのだ。
対して――。
リュイセンは微苦笑を浮かべた。
「ああ。自分でも、愚かだと思う」
清々しい顔で肯定し、しかし、間髪を容れずに「けど――」と続ける。
「俺は勝つ」
双刀を宿したかのような双眸が、鋭く煌めいた。
夜闇に浮かぶ美貌は自信に満ち溢れ、威風堂々とした立ち姿に揺るぎはない。
「ルイフォンとメイシアからお前の『情報』を得て、俺はお前の中に『鷹刀』を感じた。……理屈じゃねぇ。けど、俺は、お前を血族だと思った」
「……」
「だから、俺は鷹刀の名のもとに、血族のお前を裁くと決めた。――ならば、刃でお前を屈服させる必要があり、負けることは許されない」
「は……!?」
〈蝿〉は絶句した。
滅茶苦茶だ。『勝つ』と宣言しようが、『負けることは許されない』と自分を鼓舞しようが、無理なものは無理だ。
しかし、リュイセンは一段と強く、そして深く、鷹刀一族の直系を具現化したかのような姿と声で告げる。
「『鷹刀の後継者』であることを選んだ俺には、負傷などに関係なく、不動の強さを示す義務がある。それが俺の、鷹刀を受け継ぐ者としての矜持だ」
リュイセンは口角を上げ、不敵に笑った。その根拠なき自尊に〈蝿〉は正体不明の焦りを覚える。
「お前の主張は、志さえあれば、すべてが叶うと信じる、子供のたわごとだ!」
「なんとでも言えよ。俺は、やるべきことをやる。為すべきことは為す」
打てば響くように返ってくる、心地の良い低音。
「一族を背負うと決めたからには、俺は不可能だって可能にする。――そうでなければ、誰も俺について来たいと思わないだろう?」
「なっ……」
「一度、鷹刀を裏切った俺が、再び戻ろうとしているんだ。生半可な覚悟じゃねぇんだよ。――だから俺は、鷹刀の後継者の名に恥じない、誰もが納得し、誰もの期待を超える人間になる」
「……」
「お前のことは、ルイフォンが指示したように寝込みを襲うことができなくとも、怪我人の俺が毒の香炉を踏み潰し、タオロンの無言の一刀で斬り捨てることもできた。確実を取るなら、そうすべきだった。……でも、それじゃあ、駄目なんだ」
リュイセンはそこで大きく一歩、踏み出した。
「俺が為すべきは『完璧な裁き』だ」
薄闇の中で、絹布の衣が優雅になびき、滑らかに輝く。
光をまとう雄姿は、あたかも王者の如し――。
事実、見慣れぬその装いは、王の衣服なのであろう。怪我のため、メイシアの与えた部屋に残されていた服に着替えたのだ。けれど、まるでリュイセンのために誂えたかのように、しっくりと馴染んでいる。
気高き狼は月に誓う。
「俺は一族に対して、強く、高潔でありたい。だから、お前のことも、血族と認めたからには、礼節をもって裁きを与える。――それが、俺の目指す『鷹刀の後継者』の在り方だ」
惹き込まれるようなリュイセンの声に、〈蝿〉は――……。
……瞠目した。
「後継者の裁きに……、礼節……?」
穴が開くほどに、リュイセンの顔を見つめる。
そして、気づく。
「……そうか」
時代が変わったのだ。
かつての鷹刀一族は〈七つの大罪〉の顔色を窺い、多くの血族の犠牲のもとに総帥とその一派のみが栄華を誇る、捕食者と被捕食者にはっきりと分かれた組織だった。
しかし、今は違う。
〈七つの大罪〉とは縁を切り、すべての人間と義理を尊む、誇り高き一族なのだ。
……虚を衝かれた。
リュイセンが語るのは、『ヘイシャオ』の知らない世界。
『ヘイシャオ』が一族を抜けたあとに築かれた、新しい鷹刀一族……。
「…………」
〈蝿〉は小さく息を吐き、それから喉の奥をくつくつと鳴らす。
笑いがこみ上げてきた。ちっとも可笑しくなどないのに、喉から、腹から、あふれてくるものが止まらなかった。
「これが、お義父さんの掲げた『理想』か……」
〈蝿〉は天を仰ぐ。
遥かな次元にたどり着いたイーレオに、敬服と称賛を捧ぐ。
「ヘイシャオ……?」
急に笑い出した〈蝿〉に、リュイセンは大真面目な顔で眉を曇らせていた。
エルファンとそっくりな姿形でありながら、まるで違う彼の息子に〈蝿〉は口元を緩め、微笑を漏らす。
「私に、名前などないよ」
突っぱねるような言葉でありながら、柔らかな語尾だった。
「私は、過去の亡霊だ。無論、鷹刀の血族でもない」
振り払うように首を振ると、白髪混じりの髪が揺れた。砕けた月影の欠片が如き光が、音もなく散っていく。
「……」
リュイセンは途方に暮れたように溜め息をついた。
彼はしばらく無言で顔をしかめていたが、やがて静かに口を開く。
「ともかく。刀を取れ。――お前は、枕元に刀を隠しているだろう?」
「何故、それを……?」
リュイセンの指摘は、的中していた。
目を見張る〈蝿〉に、猛き狼は長い裾を舞わせながら、更に一歩、詰め寄る。
「鷹刀の人間なら、そうするからだ」
「――っ!」
彼我の間隔が近づく――。
……距離が、……魂が。
「言ったろ。お前は鷹刀の血族だって」
リュイセンが笑う。
強く高潔で、愚かしいほどの優しさを持つ、一族の未来を担う――覇王。
「…………」
〈蝿〉は黙って踵を返した。
敵対している相手に背を見せることは『死』を意味する。けれど、〈蝿〉の足取りに迷いはなく、リュイセンもまた身じろぎひとつしない。
そして〈蝿〉は、静謐な面持ちで、枕元に隠した刀を取り出した。
体を鍛えるよりも、医師としての技能を高めることを選んだ彼にふさわしい、やや重量の軽い、細身の愛刀。
手に馴染む心地の良い感触に、知れず、安堵のような息を吐き、〈蝿〉は元の位置へと戻る。
刀を手に対峙した〈蝿〉に、リュイセンは満足そうに頷いた。
「ヘイシャオ、勝負だ」
鋭い声が響き、双刀が抜き放たれた。闇の静寂を斬り裂き、リュイセンの両手に鮮烈な光が宿る。
対する〈蝿〉も、リュイセンに勝るとも劣らぬ速さで、鞘走りの音を響かせた。
どちらから先に、ということはなかった。
ふたりは、互いに自分とそっくりな、けれど、過去の――あるいは未来の自分を映したかのような姿の相手を瞳に灼きつけ、同じ刹那に銀光を閃かせた。
〈蝿〉は床を蹴り、ふわりと軽く跳躍する。
その次の瞬間には、まるで時空を飛び越えたかのように、リュイセンの間合いへと一気に迫っていた。
一方のリュイセンは、左右の腕の動きを絶妙にずらしながら、円を描くように刀を旋回させる。
〈蝿〉の刃を受ける一の太刀と、〈蝿〉を斬りつける二の太刀。
双つの刀が迎え討つ。
〈蝿〉の細身の愛刀が、月影を斬りつけたかのような眩しい光をまとい、大きく振りかぶられた。
〈蝿〉の凶刃が、リュイセンの双刀の片割れと火花を散らす――!
……と、思われた瞬間のことだった。
〈蝿〉の手首が、くるりと返された。
リュイセンに襲いかからんと勢いに乗っていたはずの刀が、大きく後ろへと引かれる。
「ヘイシャオ!?」
驚愕の叫びと共に、リュイセンの一の太刀が〈蝿〉の喉を、二の太刀が〈蝿〉の腹を、それぞれ掻っ斬らんばかりのところで、――ぴたりと静止した。
――――…………。
先に口を開いたのは、〈蝿〉だった。
「どうして、刀を止めた?」
月明かりに照らし出されたのは、リュイセンに向けられた、壮絶な……笑顔。
衝撃の事態に、呆然と〈蝿〉の顔を凝視していたリュイセンは、はっと弾かれたように正気に戻り、眦を吊り上げた。
「お前こそ、どうして刀を引いた!?」
「質問に質問で答えるのは、礼儀がなっていないぞ」
「あ……。いや、しかし、これは!」
「私のことは生け捕りにして、鷹刀の屋敷に連行するように、とでも命じられていたか」
実に無粋だ、と言わんばかりの口ぶりで〈蝿〉が溜め息をつくと、リュイセンが気まずげな顔で首肯した。
「まぁ、仕方ない」
〈蝿〉はそう漏らし、かちりと鍔鳴りの音を立てて、愛刀を鞘に収める。
そのまま流れるような所作で、リュイセンに向かって優雅に一礼すると、その場にひざまずいた。
「お前に刀を預ける」
愛刀を高く捧げ持ち、柔らかに告げる。
「お前はどうしても、私を血族と認めて譲らないのであろう? ならば、そこは私が折れよう。――私は『お前の作る鷹刀』の一員となろう」
過去の遺物である〈蝿〉は、未来の覇王に魂を貫かれた。
リュイセンの作る世界を望むならば、彼を殺してはならない。
ならば、潔く敗北を認めるのみだ。
そして、託す――。
「お前の配下に入ったからには、お前の裁きを受けよう」
リュイセンは呆けたように口を開けたまま、微動だにしなかった。おそらく現状に頭がついていかないのであろう。
〈蝿〉は、くすりと苦笑する。
「未来の総帥、少しは賢くなれ」
「あ、ああ……」
いまだ困惑の中にありながらも、リュイセンは促されるように頷き、神妙な顔で刀を受け取った。
しばらくの間、リュイセンは〈蝿〉の愛刀を無言で見つめていたが、やがて、ふと気づいたかのように呟く。
「この鍔飾りの花が『ベラドンナ』なのか」
「!?」
「ルイフォンが教えてくれた。ルイフォンは父上から聞いたらしい。……ヘイシャオは、妻のミンウェイのためには蝶の鍔飾りを、『娘』のミンウェイのためには花の――ベラドンナの鍔飾りを使ったのだ、と」
「エルファンの奴……」
〈蝿〉は瞳を瞬かせた。
それから視線を落とし、吐息のような声を漏らす。
「ミンウェイ……か……」
言葉に言い表せない思いが胸をよぎり、〈蝿〉の脳裏に一葉の写真が浮かんだ。
鷹刀セレイエの〈影〉であった、〈天使〉のホンシュアに見せられた写真。華やかに成長した『娘』のミンウェイの……。
「リュイセン。〈ベラドンナ〉――ミンウェイは……、……。……ああ、いや、なんでもない」
今更、彼女の何を訊こうとしたのだろう。
〈蝿〉は自嘲し、頭を振る。
床に膝を付いたままの姿勢でうつむいた〈蝿〉に、リュイセンの静かな声が落とされた。
「ヘイシャオ。お前に与えるものは『死』だ。それは絶対だ。そうでなければ道理が通らない。――だが、その前に……」
話の途中のようであるのに、〈蝿〉の頭上で、リュイセンがごそごそと衣擦れの音をさせた。不審に思って顔を上げると、携帯端末を渡された。
そして――。
『……私の我儘を聞いてくださいますか? 未来の私のために』
流れてきたのは、艷やかな美声。
妖艶な色香すら漂う、落ち着いた魅惑の響き。
少女だった『娘』とは違う。
懐かしく愛しい女と同じ音律でありながら、けれど、彼女にはなかった遥かな未来を望む音色……。
「ミン……ウェイ……」
初めは震えていた指先が白くなるほどに、〈蝿〉は携帯端末を強く握りしめた。
2.終幕への招待状-1
真円にほど近い月が、天頂から地平線へと、緩やかな弧を描きながら沈み始めていた。
初夏とはいえ、夜の静寂に包まれた地表は心地の良い空気で満たされており、地上の人々は、やがて来る朝の目覚めのために、まだまだ夢の中にいる頃合いである。
しかし、鷹刀一族の屋敷は、不夜城が如く。執務室にいる面々は、眠りとは対極にあった。
誰もが固唾を呑み、テーブルの上の電話を見守る中、ついに待ちわびていた呼び出し音が鳴り響いた。
皆の視線に促され、ミンウェイが恐る恐る手を伸ばす。けれど、気弱な態度はそこまで。受話器を握りしめた彼女は、毅然とした声を放った。
「……私の我儘を聞いてくださいますか? 未来の私のために」
「どうして、そうなるんだよ……!?」
ルイフォンは呆然と呟いた。
彼はソファーの背もたれに身を投げ出し、虚空を仰ぐ。
執務室の反応は、各人それぞれ。しかし、等しく衝撃に見舞われている。
イーレオは一瞬、虚を衝かれたように息を呑んだのちに、にやりと口角を上げた。それから、エルファンに視線を送り、チャオラウを振り返る。
エルファンは口元をわずかに緩め、氷の瞳をすうっと細めた。軽く目を伏せたチャオラウもまた、小刻みに無精髭を揺らしている。
密やかな興奮に彩られた彼らは、『昔のヘイシャオ』を知る者たちだ。
一方、ルイフォンを含む残りの者たちは、混乱と動揺に支配されていた。
ミンウェイは、受話器を持つ手を震わせながら切れ長の目を大きく見開き、いつの間にか当然のように居座っていたシュアンは、彼女の隣で、ぽかんと間抜けに口を開けている。
ルイフォンは、癖の強い前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げた。
「あり得ないだろ……」
打ち合わせ通りに、ミンウェイが〈蝿〉に向かって語りかけた。しかし、〈蝿〉の様子に違和感があった。
だから、ミンウェイが、〈蝿〉に『会いたい』と伝えるよりも先に、まずはリュイセンに状況の説明を求めたのだ。
その結果……。
「あの〈蝿〉が、リュイセンに膝を屈した――だと!?」
深夜であるにも関わらず、ルイフォンの大音声のテノールが響き渡った。
ルイフォンは『現場での判断は、リュイセンに一任する』と宣言していた。
だから、リュイセンには独断が許されていたわけだが、律儀な兄貴分は、事前に『予定を変更して、〈蝿〉を血族として裁きたい。頼む』と、電話越しに頭を下げてきた。
それを聞いたとき、ルイフォンの心は踊った。
まさに『鷹刀の後継者』の在るべき姿だと思った。
感服に、全身が震えた。兄貴分が誇らしかった。
たとえ深手を負っていても、彼の勝利を信じ、彼の行動を認めたい。そして、為すべきことを為し遂げた暁の、彼の勇姿を見てみたい……。
しかし――だ。
あの庭園には、最愛のメイシアが囚われている。
幼いファンルゥも待っている。
リュイセンの双肩には、彼女たちの命が懸かっているのだ。
――リュイセンを止めるべきだ。
そう判断した。
そのとき、回線を通じて繋がっていたメイシアが言ったのだ。
『私のことを心配しているのなら、大丈夫。私には『セレイエさんの記憶』という武器がある。自分自身とファンルゥちゃんは、必ず守る。私は、何があっても絶対に、この庭園から出てみせる』
だから、リュイセンを『鷹刀の後継者』として、送り出そう……!
戦乙女の声が、背中を押した。
ルイフォンは猫の目を光らせ、好戦的に口の端を上げた。
そして、真に伝えたいと望む言葉を、思うがままに兄貴分に告げた。
「リュイセン。俺は、お前に一任すると言った。男に二言はない。お前の思うようにやってくれ。――あとのことは、俺とメイシアに任せろ」
――故に。
リュイセンは満身創痍ながら、辛くも勝ちを収めるのだ――と、ルイフォンは信じていた。
それが……。
「〈蝿〉が、無血で刀を引いた?」
〈蝿〉はリュイセンの怪我に気づいており、自分に勝機があると知っていた。なのに、自ら戦いを放棄して、リュイセンの配下に入ると告げたという。
それが本当なら、リュイセンは不可能を可能にしたと言っていい。大手柄だ。
しかし、相手は、あの〈蝿〉だ。
散々、詭弁を弄され、何度も辛酸を嘗めさせられた怨敵だ。
しかも〈蝿〉は、リュイセンに屈したところで待っているのは『死』だと理解しているというのだ。あれほど『生』に固執していた奴が……あり得ないだろう。
兄貴分の偉業を素直に受け入れられない自分に嫌気が差すが、〈蝿〉の言葉を鵜呑みにするには、これまでの怨恨が深すぎた。
ルイフォンの内部で、猜疑心が広がっていく。
――これからどうすべきか? 予定通りに、〈蝿〉を屋敷まで連れてくるのでよいのか?
彼の意識が、異次元へと飛び立とうとしたときだった。
「ほぉ……、リュイセンの奴、やるじゃねぇか」
妙に甲高く耳障りな声が、ルイフォンの思考を遮った。つい先ほどまで、間抜け面で呆けていたシュアンである。
リュイセンとは今ひとつの仲である彼が、称賛を上げた。
意外に思ったルイフォンが瞳を巡らせれば、皮肉げに口角を吊り上げたシュアンの顔が映り込む。その凶相からは、彼が笑っているのか否かの判別はつきかねる。
シュアンは、傍らのミンウェイを顎でしゃくった。
「ミンウェイ。リュイセンに、なんか言ってやれよ」
「え……? あ……! ええ!」
彼と同じく放心していた彼女は、はっと我に返り、送話口に飛びつく。それを尻目にシュアンはふらりと席を立ち、こちらへと近づいてきた。
ルイフォンの胡乱な視線もなんのその、当然のように隣に座る。無遠慮に腰を下ろした振動でソファーの座面が揺れ、ルイフォンは鼻に皺を寄せたが、気にするようなシュアンではない。
「〈猫〉の活躍が、すっかり霞んじまったな」
「シュアン?」
「リュイセンの野郎、〈猫〉のお膳立てに面目なさげな様子だったが、もはや完全に奴の独壇場だ」
「……別に、いいじゃねぇかよ」
ルイフォン自身、現状を疑問に思い、リュイセンの快挙を諸手を上げて喜べないでいるくせに、シュアンに否定的な口調で言われると無性に腹が立った。猫の目が無意識のうちに険を帯び、シュアンを睨みつける。
「おおっと。俺は別に、リュイセンを悪く言っているわけじゃない」
シュアンは大仰な仕草で、おどけたように肩をすくめた。
「むしろ、尊敬に値すると思っているさ。この事態に至って、命懸けで真正面から〈蝿〉に対峙するなんざ、狂気の沙汰だ。――凶賊の中には、そういう輩がいるってのは知ってはいたが、今どき希少価値だろう?」
凶賊の担当の警察隊員として、もっともらしい発言をしたつもりのようだが、胡散臭い笑みで讃えられても、ちっとも信憑性がない。
「じゃあ、なんだよ」
ルイフォンが口を尖らせると、シュアンは、ちらりとミンウェイの様子を窺った。
彼女は、瞳の端に涙を光らせながら、感極まった様子でリュイセンに祝福を捧げていた。それを確認すると、シュアンは、今までとは違う、一段、低い声をルイフォンの耳元に落とす。
「俺が気にしているのは、〈蝿〉だ。リュイセンの人の良さにつけ込んでいるんじゃねぇか」
シュアンの目線は、ミンウェイに向けられたまま。だから、密かな囁きは、興奮を帯びた華やかな美声の裏側に忍ぶよう――。
事実、その言葉は、満面の笑みを浮かべているミンウェイに水を差さないよう、そして、電話口の向こうのリュイセンや〈蝿〉に気取られぬよう、配慮されたものだった。
「〈猫〉、あんた、この状況をどう読む?」
「どう、って……」
「〈蝿〉は、リュイセンが刀を止めることを見抜いていたんじゃねぇか?」
「!」
兄貴分の手柄に瑕をつけたくなくて、ルイフォンが打ち消そうとしていた疑惑を、シュアンはあっさり口にした。
そう――。
いくら本質を見抜く天性の野生の勘を持つリュイセンでも、今回ばかりは騙されているのではないかと……心のどこかで邪推していた。
リュイセンは〈蝿〉を生かしたまま屋敷に連れてくるようにと、ミンウェイに頼まれていた。だから、殺気が欠けていたことを〈蝿〉に看破されていたのではないか。それで、〈蝿〉は降伏したように見せかけたのではないか――と。
「現状は『危険』じゃねえのか? リュイセンは……その、大丈夫か?」
シュアンにしては珍しく遠慮がちに、しかし、畳み掛けるように告げられた。ルイフォンに作戦を任せた以上、表立って余計な口出しはしないが、予定の変更を視野にいれるべきだと、暗に言っているのだ。
「……っ」
ルイフォンは奥歯を噛み締める。
そのとき。
不意に、ルイフォンの体が傾いだ。彼の隣――シュアンが座っているのと反対側のソファーの座面が沈んだのだ。
驚いて体を返せば、涼やかな微笑を浮かべたエルファンが優雅に足を組んでいる。
「私の目の前で密談とは、たいした輩だな」
「あ……、いや」
密談というわけではない、と言いかけたルイフォンを遮り、シュアンが「そりゃ、仕方ないと思ってくださいよ」と、口の端を上げる。
「〈猫〉とは違って、〈蝿〉のオリジナルを知っている鷹刀の『重鎮』の方々は、〈蝿〉に肩入れしがちですからね。ここまで来て下手を打つのは、ご勘弁願いたい、ってだけです」
「そうだな。緋扇、お前にとって、ヘイシャオの〈影〉は、恩義ある先輩の仇だ。疑うのも無理はなかろう」
エルファンは静かに肯定し、溜め息を落とした。
「だが、あの〈影〉が、ヘイシャオと同じ思考を持つのなら、裁きの手を待っているはずだ。あいつが……私に求めたようにな」
普段は感情を見せない次期総帥の氷の眼差しに、さざ波が立った。ルイフォンは「エルファン……」と呟いたまま、声を失う。
「私は、また、あいつを……、……いや。なんでもない」
エルファンがそう言って、身を翻そうとしたときだった。
執務室のスピーカーから、ひときわ力強いリュイセンの声が流れた。
『ミンウェイ。すっかり段取りが変わっちまったが、ヘイシャオ――〈蝿〉との話の続きを頼む。――今、電話を替わる』
「あ……! そうね。そうだったわね」
わずかに緊張を帯びた、けれど、弾んだミンウェイの返事。
ルイフォンの心臓が、どきりと跳ねた。
〈蝿〉の真意を読み解けていない状態で、話を進めてよいのだろうか。〈蝿〉を屋敷に連れてくるということは、狭い車の中で、〈蝿〉とメイシアが同席することになる。そこに問題はないのだろうか。
しかし、自分の本能的な不安を優先してよいものかとルイフォンは一瞬、迷い……、結果として、彼が制止をかけるよりも先に、勢い込んだミンウェイが口を開いた。
「未来のために。――私は、お父様の記憶を持つ『あなた』にお会いしたいんです。だから、鷹刀の屋敷まで来てください」
祈るように。
ミンウェイの唇が願いを紡ぐ。
波打つ黒髪をなびかせ、遥かな庭園をまっすぐに望む。
優しい草の香と、鋭い眼差しを併せ持つ彼女を前に、ルイフォンは、はっと胸を衝かれた。
「シュアン」
小声で隣に囁く。
「〈蝿〉が何を考えているのかは分からねぇけど、ミンウェイを奴に会わせてやらなきゃ駄目だろ。そうじゃないと、ミンウェイは一生、後悔する。……お前が言ってくれたことじゃねぇか」
正確には、シュアンに明確な発言はなかったかもしれない。けれど、今までの彼の行動からすれば、言ったも同然だ。
「!」
シュアンの瞳が見開かれたのは刹那のこと。彼はすぐに、いつもの皮肉げな三白眼に戻り、ぼさぼさ頭を乱暴に掻いた。
「……そうだな。……すまん」
「いや、俺も〈蝿〉は危険だと思っている。だから、俺のすべきことは、〈蝿〉に二心がある可能性を踏まえた上での、作戦の遂行だ」
〈蝿〉が何を仕掛けてきても対処できるよう先を読み、あの館にいる仲間を全員、無事に脱出させる。そして、ミンウェイと〈蝿〉の対面を果たす――!
ルイフォンとシュアンは好戦的な笑みを交わし、それから、同時にミンウェイへと視線を移した。
2.終幕への招待状-2
静まり返った、深夜の執務室にて。
皆の見守る中、落ち着き払ったミンウェイの美声が、〈蝿〉へと語りかける。
「もし、私と会ってくださるのなら、私は『あなた』が知りたがっている、『オリジナルのお父様が、自ら『死』を望んだ理由』をお教えします」
『なっ……!?』
遥かな庭園にいる〈蝿〉の姿は、遠く離れた場所にいるルイフォンからは見ることはできない。しかし、〈蝿〉が驚愕に眉を吊り上げたことは、彼が千里眼でなくとも明らかに分かった。
「『あなた』の持つ記憶が保存されてから、お父様が亡くなるまでの間に何があったのか。……私は、知っています」
『――っ!』
短く息を呑む音にスピーカーが震え、部屋の空気が波打った。
それは、〈蝿〉の感情の振動に他ならなかった。
しばらくの沈黙ののちに、〈蝿〉は『そうか……』と、静かに呟く。
『君は……、……いや、君が……、ずっと『私』のそばにいたのだね……。……ミンウェイ』
長距離を繋げた通話だからだろうか。〈蝿〉の声は、ところどころ音がひずんでいた。――先ほどのリュイセンとの会話では、明瞭に聞こえていたのではあるが……。
不鮮明な音声からでは、〈蝿〉の真意を読み取ることは難しい。少なくとも、ルイフォンには不可能だ。
しかし、ミンウェイは、〈蝿〉の微妙な言葉の綾を解したのだろう。彼女は目頭を押さえ、吐き出すように告げる。
「確かに私は、お父様のそばにいました。でも、それだけです。……子供の私は、何も言えなかった。何ひとつ、できなかった。自分の思いを伝えることも、お父様の心を理解することも。甘えることも、支えることもできなかった」
『……』
「私は、自分がお母様のクローンだったと知って、お父様が取ってきた態度に納得しました。……それから、しばらくして、気づいたんです」
『気づいた? ――何に?』
硬い声で尋ねる〈蝿〉に、ミンウェイは赤い目でふわりと笑う。
「私は、お父様が一番、辛かったころの年齢をもう越えているんだ……ってことに」
『……?』
「気づいた瞬間、目から鱗が落ちました。……私よりも『小さな』お父様は、たった『ひとり』で苦しんでいたんです。だって、私がそばにいても、お父様は『ひとり』だったから……。とても切ない……です」
ミンウェイは、そっと目元を拭い、強気の視線を閃かせた。
「今更かもしれません。しかも、『あなた』の持つ『記憶』はお父様だとしても、『あなた』はお父様ではありません。『あなた』にとってはいい迷惑。単なる私の我儘な感傷にすぎません」
波打つ黒髪から草の香を漂わせ、鮮やかな緋色の衣服で胸を張る。
うつむいてばかりだった小さな少女が、十数年の時を経て、艶やかに咲き誇る。
「それでも私は、お父様と対等な『ひとり』と『ひとり』の人間として、向き合いたい。……だから、『あなた』に会いたいんです」
回線を通じて、ミンウェイの言葉は、遠い庭園へと流れていく。
長い時すらも超えて、今は亡き人の『記憶』へと響いていく。
彼女の思いが、遥かな時空を超える……。
『君は……、強くなったね』
小さく、笑うような息遣いが聞こえた。
ミンウェイは戸惑うように瞳を瞬かせ、それから、言葉を重ねる。
「鷹刀の屋敷まで、来てくださいますか? ――その……、途中で暴れて逃げるようなことはせずに……」
『私はリュイセンに膝を折ったのだから、彼に従うよ』
「ありがとうございます……!」
〈蝿〉の返事に、ミンウェイが喜色を浮かべた。真夜中をとうに回った時間であるがために紅は薄れていたが、華やかな赤みを帯びた唇がすっと上がった。
その一方で――。
ルイフォンの顔には緊張が走った。
ミンウェイの気持ちを思うと、〈蝿〉を疑いたくはない。聞いたままが、〈蝿〉の真の姿だと思いたい。けれど、冷静に見極めることがルイフォンの役目だ。
神経を張り詰めるルイフォンとは裏腹に、〈蝿〉が軽やかな声を上げる。
『ああ、なるほど』
得心がいったとばかりに独り言ちた。
ミンウェイが「え?」と首をかしげると、それが見えていたかのように〈蝿〉は口を開く。
『まさか、私が素直に従うとは思っていなかったから、君たちは『取り引き材料』を用意しておいたというわけか。なかなか周到だ。――確かに私は、オリジナルの『死』の理由を知りたいと思っている。良いところを突いてきたな』
知的な策が〈蝿〉の好奇心を掻き立てたらしい。彼は楽しそうに喉の奥を鳴らし、今までとは違う声色で、興味深げに問う。
『こんな駆け引きを、いったい誰が思いついた?』
「メイシアです」
隠すこともなかろうと、ミンウェイは正直に答えた。
「オリジナルのお父様は『死』によって救われたと、彼女は言いました。だからといって、別人である『あなた』が、お父様の『死』の理由を知って同じように救われるかは分からないけれど、きっと意味があるはずだから、教えてあげたい。――と」
『……っ!?』
破裂するような吐息が、スピーカーで弾けた。
「メイシアにとって、『あなた』は父親の仇です。……だけど、彼女はセレイエの記憶を受け取ったがために、ただ『あなた』が憎いというだけじゃない、不幸な被害者だとも思っています。だから、少しでも『あなた』に救いが欲しい――そう言ってくれました」
『…………っ』
がたん、と。
突然、大きな音がした。
それは〈蝿〉が携帯端末を取り落した音であったのだが、遠い執務室にいるルイフォンたちには何が起きたのか分からなかった。
見えない先での出来ごとを不審に思い、一同は耳をそばだて、音を――気配を拾う。
『リュイセン、すまない』
『ヘイシャオ?』
『私は、最高に『私』らしい在り方を思いついてしまったよ』
『いきなり、どうしたんだよ?』
『私は『〈悪魔〉の〈蝿〉』として、決着をつけるべきだ。それがきっと、『お前の鷹刀』に一番、ふさわしい形だろう。――だから、私は鷹刀の屋敷には行かずに、この館に留まる。それが似合いだ』
『どういうことだ?』
リュイセンの声が警戒を帯びた。
『ケジメだ。――私は決めた』
言葉の語尾で、〈蝿〉の声音が低い嗤いを含んだ。
そして、高らかに。
魅了の響きを謳い上げる。
『最高に〈悪魔〉らしく、最高に『鷹刀』らしく……、最高に『私』らしく……。この庭園で、最高の舞台を演出して魅せよう……』
床に落ちた端末が送ってくる音声は、充分な情報量を持っていなかった。
だから、リュイセンでも〈蝿〉でも、どちらでもよい、早く状況の説明をしてくれと、執務室の皆は焦燥に駆られていた。
そのとき――。
『――っ! ……ヘイ、シャオ……、何を……?』
リュイセンのくぐもった叫びが聞こえ、どさりと重たい音が響いた。
まるで、腹に一撃を受けて倒れたかのような……。
普段のリュイセンならば、不意打ちなどあり得ない。しかし、今は大怪我を負っていて……。
「〈蝿〉!」
不吉な符丁に、ルイフォンは思わずミンウェイから受話器を奪い、噛み付かんばかりに声を張り上げた。
「リュイセンに何をした!?」
『その声はルイフォンですね。お久しぶりです』
「答えろ!」
『リュイセンには少し、眠ってもらっただけです。舞台を整えるまで、邪魔をされたくなかったのでね』
「なっ……!?」
『ご安心ください。命に別状はありません。背中の傷も、医師である私が責任を持って診ておきます。ああ、タオロンの解毒もしておきましょう』
さも親切な善人のような口ぶりに、ルイフォンは激昂した。
「ふざけんな!」
もしも〈蝿〉がこの場にいたのなら、とっくに殴りかかっていた。しかし、遥かな庭園にいる相手には手を出すことができない。彼は苛立ち、歯噛みする。
しかし、〈蝿〉は何処吹く風で、淡々とした低音を静かに響かせる。
『それより……、あなたの最愛の姫君は、実に素晴らしいですね。なるほど、鷹刀セレイエが、彼女にすべてを託したわけです。……彼女に敬意を表して、私は最高の終幕をご用意いたしましょう』
「――!」
その瞬間、ルイフォンは総毛立った。
「メイシアに何をする気だっ!?」
腹の底から憎悪が噴き上がり、憤怒の炎が揺らめく。
しかし、〈蝿〉から直接的な答えはなかった。
その代わりに、彼はこう告げた。
『これから私は、この庭園の門を守っている近衛隊に連絡を入れます。『私の大事な研究を盗み、逃げようとしている私兵がいる。だから、門を封鎖し、裏切り者を外に出すな』――と』
「なっ……!」
脱出の道が閉ざされた――!?
ルイフォンの背に戦慄が走る。
まさかの展開だった。
彼の隣で、ミンウェイが「どうして!?」と悲鳴のような声を上げた。
それが聞こえたのだろう。〈蝿〉は、ルイフォンに対するのとは別人のように柔らかな口調で、彼女に呼びかける。
『ミンウェイ、驚かせてすまないね』
「私に会いたくないのなら、それでも構いません! でも、リュイセンやメイシアは……!」
『早とちりしないでほしい。私に会いたいと言ってくれた君に、私も会いたいと思っている。是非、君の口から、オリジナルのヘイシャオの『死』について教えてほしい』
「それなら、何故!」
『〈悪魔〉としての決着は、〈悪魔〉の根城である、この庭園こそがふさわしい。……だから、ミンウェイ。『この館で』会おう』
「……え?」
『夜が明けたら、君のほうから、この庭園に来てほしい』
「……っ!?」
『君を招待する。近衛隊には、私の客人が来たら門を開くように言っておこう』
「…………!」
ミンウェイは困惑に柳眉を寄せ、すがるように視線をさまよわせた。
当然だろう。
ルイフォンとて、この事態はまったくの予想外だ。
……どうすべきか。
彼自身のことであれば、『罠だとしても、行く』の一択だ。しかし、ミンウェイを危険に晒すとなれば、即断できない。
彼が唇を噛んだときだった。
不意に。
『ルイフォン』
――と。
〈蝿〉が彼を名指しした。
地底から響くような低い声に、猫の目が反射的にぎらりと光る。
「なんだ?」
警戒心をむき出しにした彼に、〈蝿〉がくすりと嗤う。
『あなたも、ミンウェイと共に来てください。……いえ、私としたことが、この言い方では正しく伝わりませんね。――あなたのほうが主役ですのに』
恥じ入るような物言い。けれど、どうにも演技じみていて、ルイフォンの神経が逆なでされる。
「分かりやすく言え」
彼は険しい声を返した。
しかし同時に、ミンウェイに同行できるのであれば、まったく話が変わってくると、彼の明晰な頭脳は方策を練り始める。
〈蝿〉は告げる。
『私がミンウェイに会うことは、私の楽しみにすぎません。……最高の終幕に必要なのは、ルイフォン――あなたです』
ルイフォンこそが渦中の人物であるのだと、〈蝿〉は彼を舞台に引き上げた。
『他には誰が来ても構いません。どんな武器を持ち込んでも構いません』
「――!?」
『近衛隊には『客人は、車で来る』とだけ伝え、その車はノーチェックで出入りさせてよいと申し付けておきます。私に会ったあとは、何食わぬ顔でリュイセンたちを乗せて帰るとよいでしょう』
どういうことだ――!?
〈蝿〉の意図がまるで読めない。
奴の真意は何処にある?
疑問が渦巻き、知れず握りしめた拳が、しっとりと汗ばむ。
『ルイフォン。この庭園に来たら、まずは塔にいる姫君を迎えに行ってあげてください。そして、ふたり揃って、私のもとに来てください』
「メイシアと……?」
『鷹刀セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』のために選んだ、あなたたち。――鷹刀セレイエが作った『〈蝿〉』として、私は、あなた方をお待ちしております』
3.菖蒲の館で叶う抱擁-1
自分の言いたいことだけを告げて、〈蝿〉は一方的に通話を切った。あとには、無機質な終話の電子音だけが、虚しくスピーカーに残される。
「……いったい、なんだよ……?」
かすれた声で、ルイフォンは呟いた。
〈蝿〉は、これから庭園の門を封鎖するという。
それはすなわち、中にいる仲間たちが脱出できなくなったことを意味する。
けれど代わりに、ルイフォンたちが菖蒲の館に招待された。
「……」
〈蝿〉はリュイセンに下り、主導権はこちらにあるはずだった。
なのに、気づけば〈蝿〉の掌の上で踊らされている。
「『最高の終幕』だと……?」
まったく想像もしていなかった方向へと転がり始めた事態に、しばし呆然としていたルイフォンだったが、突如、かっと猫の目を見開いた。
「ふざけんな!」
怒号を放ち、握りしめていた受話器を叩きつけるようにしてテーブルの上の電話器に戻した。そして、メイシアと回線を繋げている自分の携帯端末を掴み取る。
「メイシア、聞こえていたか?」
『うんっ……』
返ってきたのは、緊張に震えた、けれど、喜びを隠しきれない声。
〈蝿〉の腹に一物あるのは分かりきっている。けれど、ルイフォンは〈蝿〉の誘いに応じる。
だから、ルイフォンに逢える――そのことが嬉しくてたまらないという想いを、彼に伝えてくれている。
「お前を迎えに行く!」
ルイフォンだって、想いは同じだ。
やっと、この手で、メイシアを抱きしめることができる――!
「罠だろうがなんだろうが、〈蝿〉のほうからお前のところに行くように言ったんだ。乗らない手はない。待っていろ!」
そのまま出発の準備を始めるべく、扉に向かって歩き出そうとしたときだった。
「おい、〈猫〉」
艶のある、魅惑の低音。決して大声でもなく、荒々しくもないのだが、威厳に満ちた声がルイフォンの足を止めさせた。
「親父? ……あ、『鷹刀の総帥』」
父イーレオが、ルイフォンを『〈猫〉』の名で呼ぶときには、それなりの意味があるのだ。彼は襟を正し、向き直る。
「鷹刀は、〈猫〉に指揮権を預けた。ならば、きちんと指示を出してもらわないと困る。お前とミンウェイが件の館に行くことは自明としても、他はどうするつもりだ?」
秀でた額に皺を寄せ、イーレオは渋面を作る。だが、片肘を付いた頬杖の姿勢は相変わらずで、眼鏡の奥の瞳には浮かれた色が見え隠れしていた。この事態を楽しんでいるのだ。
そこへすかさず、妙に癇に障る声が割り込んだ。
「俺も行かせてもらうぜ」
にやりと口角を上げた悪人面。言わずもがなのシュアンである。
「〈蝿〉の野郎が、殊勝にも敗北を宣言したと聞いたとき、俺は耳を疑った。――騙されるものか、と思った」
そこで彼は、ほんの少し言葉を切り、真顔になる。
「……だが、メイシア嬢の話が出てきてからは、〈蝿〉の言動が確信犯的なものに変わった。――凶賊の持つ、一種独特なイカれた使命感のような臭いのする、な」
「……」
あのとき、〈蝿〉のまとう雰囲気が変わったのは、ルイフォンも感じた。だが、ルイフォンとしては、メイシアに固執する〈蝿〉は不快でしかない。
ルイフォンの目が尖ったことはシュアンも気づいたであろう。しかし、彼の調子は変わらなかった。
「実のところ、俺は、あの野郎が本当はどんな奴なのかを知らない。俺が知っているのは、先輩や、ハオリュウとメイシア嬢の父親を〈影〉にして、ただの駒として扱った奴だ、ってことだけだ」
シュアンは奥歯を噛み締め、血色の悪い不健康な顔を歪める。
「俺は、奴に恨みがある。断じて、許しはしない」
凶相が凄みを増した。それを隠すかのように、特徴的な三白眼が静かに伏せられる。
そして、「だが……」と続けた。『狂犬』と呼ばれる者とは思えぬような、理知的な声で。
「奴は決して、愉快犯というわけではない。奴は必要だと思ったから、先輩たちを駒にした。――俺と同じ……、引き金を引ける奴だ、ってだけだ」
シュアンは、下げた目線で自分の掌を見る。グリップだこで変形した、硬い手を。
「間違えるなよ? 俺は、奴のしたことを認めたわけじゃねぇ。絶対に殺してやる」
「シュアン……」
「ただ、如何にも胡散臭い呼び出しをしてきた奴が、いったい何をしようとしているのか。――この目で見届けたい。だから、行かせてもらう」
ぐっと顔を上げ、威圧的な視線でルイフォンを睨みつけた。同行を申し出るというよりも、脅しを掛けているようにしか見えない。
「ああ、お前も来い」
ルイフォンは深く頷いた。シュアンには、その資格がある。
ほんの一瞬、本業である警察隊の仕事はどうするのだと思ったが、また例によって適当になんとかするのだろう。
そんなやり取りを見ていたイーレオが、静かに口を開いた。
「指揮権を持つ〈猫〉に頼みがある」
「ん? なんだよ?」
一族の総帥は、いつもと変わらぬ、足を組んだ尊大な姿勢のまま。しかし、改まった物言いに、ルイフォンは戸惑う。
「シュアンに、〈蝿〉への発砲を許可してほしい」
「え?」
「〈猫〉の提案では、リュイセンは〈蝿〉の首級を手柄に、一族への復帰を果たすことになっていた」
「ああ、そうだけど……?」
「だが、〈蝿〉の首級などなくとも、リュイセンは鷹刀の後継者にふさわしい人物であることを、自らの行動をもって示した。――一族の長たる俺が、認める。あいつは、俺の期待を遥かに超えた」
イーレオは頬杖で支えた顎をわずかに上げ、慈愛に満ちた瞳を遥かな庭園へと向けた。
それから、おもむろに表情を改め、朗々たる王者の声を放つ。
「鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、現時点をもって、鷹刀リュイセンの追放を解く」
「!?」
望んでいた言葉であるが、あまりにも唐突だった。当惑を隠せぬルイフォンは、しばし瞳を瞬かせ、そして思い至る。
「なるほど。〈蝿〉へのとどめは、リュイセンではなく、シュアンに――ってことか」
総帥を狙われはしたものの、まるで被害のなかった鷹刀一族が粛清を求めるのと、恩義ある先輩を永遠に失ったシュアンが仇討ちを望むのとでは、どちらがより強い思いであるかは明白だ。
「分かった。〈猫〉は、シュアンの発砲を許可する。……というよりも、〈蝿〉への断罪は、シュアンのほうがふさわしいだろう」
そういうことだろ? と、ルイフォンがイーレオを見やると、イーレオは凪いだ海のような静かな眼差しを返してきた。
「親父……?」
ルイフォンは、違和感に首をかしげる。
しかし、イーレオは何も言わずにシュアンへと視線を移し、彼に向かって口を開いた。
「聞いての通りだ、シュアン。〈猫〉から発砲許可が降りた」
「イーレオさん?」
シュアンは、あからさまな不審の声を上げた。けれど、構わず、イーレオは言葉を重ねる。
「だから、お前は引き金を引くべきと思ったら、迷わず、〈蝿〉を撃て」
「!」
シュアンの三白眼が見開かれ、血走った眼球が、ぎょろりと誇張された。彼は、ごくりと唾を呑み、尋ねる。
「――それは、どういう意味ですか?」
わずかに警戒を含んだ困惑顔。低く、うなるような声はそこで止まらず、更に一歩、踏み込む。
「その口ぶりですと、イーレオさんは『俺は引き金を引かない』と信じているようにしか聞こえないんですが?」
「……え?」
ルイフォンの口から、思わず疑問がこぼれた。シュアンの弁が理解できなかったのだ。
どうしてそうなる? と、声を張り上げて問いただしたいところであるが、今はシュアンとイーレオの会話の途中だ。邪魔をしてはならぬと、ぐっと自分を抑え、そろりとイーレオを窺う。
そのイーレオは、驚きに目を見張り、それから照れたように破顔した。
「まさか、お前に見抜かれるとはな」
「俺は職業柄、悪巧みには鼻が効くんですよ」
国一番の凶賊の総帥の称賛は、シュアンとしても悪い気はしないらしい。彼は、得意げに口の端を上げる。
「すまんな、シュアン」
「いえ」
かしこまったように応じながらも、当然のことながら、シュアンの三白眼はイーレオの真意を問うていた。それを受け、イーレオはゆっくりと瞳を巡らせ、シュアンのみならず、その場の者たちへと語りかける。
「ルイフォンの言う通り、〈蝿〉にとどめを刺すのなら、リュイセンよりも、シュアンに正当な権利があると思っているのは本当だ。――だが」
そこで、イーレオは組んでいた長い足を戻し、ぐっと前へと身を乗り出した。その動きに惹き込まれるように、皆の体が自然と前のめりになる。
「リュイセンが〈蝿〉を『ヘイシャオ』だと認めた。――あいつの言動が、自分が何者であるかに迷っていた『作り物の駒』の『〈蝿〉』を『ヘイシャオ』にした」
イーレオは目尻に皺を寄せ、低く喉を震わせる。
「奇跡だ」
――と。
そして、不敵に笑う。清々しいくらいに、禍々しく。
「俺の知る『ヘイシャオ』なら、シュアンに撃たれたりはしない」
「イーレオさん……?」
戸惑いに、シュアンが語尾を揺らした。
そんな彼を、イーレオは正面から見つめる。
「もし、お前が引き金を引くべきだと思ったなら、それは〈蝿〉が『〈蝿〉』のままであったときだ。遠慮なく撃て」
静かな低音が、執務室に響き渡る。
「〈蝿〉に血族の情を感じたリュイセンよりも、お前のほうが素早く動けるだろう。だから、皆を守るためには、お前に委ねるのがよいと思った。……いわば、お前は保険だ。悪いな」
「構いませんよ。むしろ、天下の鷹刀の総帥に、えらく買われているようで、身に余る光栄です。……ですが、『俺に撃たれたりしない』――ということは……」
そこまで言いかけて、シュアンは首を振り、別のことを口にする。
「随分と、『ヘイシャオ』とやらを信頼しているんですね?」
揶揄のような口調でありながら、シュアンの三白眼はじっと何かを期待しているかのようであった。
イーレオは、にやりと目を細め、胸を張る。
「俺の自慢の娘婿だからな」
その答えに、シュアンが満足したのか否かは、ルイフォンには分からない。だが、シュアンは「承知いたしました」と、ぼさぼさ頭を揺らして会釈した。
そこで、会話が途切れた。
傍聴者として、じっと沈黙していたルイフォンは、今だとばかりに、「親父に質問がある」と切り込む。
「親父は、〈蝿〉の言う『最高の終幕』が、どういう意味だか分かっているんだな?」
その問いを、イーレオは予期していたのだろう。絶世の美貌を閃かせる。
「さて、な」
「親父!」
「お前が〈蝿〉の指名を受けたんだ。自分の目で確かめてくればいいだけだろう」
「けど、あらかじめ予測できていることなら知っておくべきだ。できるだけ多くの情報が、俺たちの安全に繋が……」
「ルイフォン」
喰らいつこうとするルイフォンの言葉を、低い声が遮った。
イーレオ……ではない。同じ声質を持つ、次期総帥エルファンである。
「私も行こう」
「エルファン?」
意外な発言だった。
イーレオにしろ、エルファンにしろ、その身に万一のことがあれば、一族に多大な影響を及ぼす立場にある者は、それが敵を誘う作戦ならばともかく、安易には危険な前線に出ないものだ。
「あの日、私はヘイシャオに乞われて、あいつを裁いた。何も訊かず、求められるままに」
玲瓏な響きが、唐突に過去を語る。
「それが間違いであったとは思わない。救いを求めていたヘイシャオは、確かに解放された。……けれど、別の道もあったのだと思う」
氷の無表情は冷たく閉ざされ、その心の内を窺い知ることはできない。けれど、ルイフォンには、エルファンが後悔しているように感じられてならなかった。
「私を呼ぶのではなく、リュイセンに何かを思い、ミンウェイと向き合い、ルイフォンとメイシアを待つというヘイシャオの〈影〉は、『あのとき』を超えた先にいる『もうひとりのヘイシャオ』だ。――干渉するつもりはない。ただ、見守りたいと思う」
音もなく氷が溶けていくように、エルファンの言葉が低く消えていく。
「分かった。エルファンも一緒だ」
ルイフォンは鋭く答えた。
どうやら年寄り連中には、それぞれに深い思いがあるらしい。それを言葉で語られたところで、おそらくルイフォンには実感できまい。
だから、すべては、自分自身で確かめる――!
「解散だ! 『最高の終幕』に向けて、少しでも仮眠をとっておこう」
ルイフォンは、くるりと身を翻し、背中で金の鈴を煌めかせた。
そして、夜が明ける。
ルイフォンたち一行は、シュアンの運転する車に乗り込み、屋敷を発った。
帰りの人数を考えての広々とした大型車は、ハオリュウの車の隠し空間に押し込められて、あの庭園に潜入したときとは、雲泥の差の快適さであった。
あれから、まだほんの数週間しか経っていないのに、随分と昔のことのような気がする。
前回は、館で待っているのが身分を振りかざす王族の摂政であったがために、自家用車での訪問にハオリュウが苦心した。だが、今回は〈蝿〉からの招待だ。如何にも胡散臭い黒塗りの車であるにも関わらず、近衛隊はあっさりと通してくれた。
勿論、〈蝿〉への警戒は怠っていない。それぞれに得意の武器を手にしており、また念のために爆発物を積んである。
万が一、〈蝿〉が約束を違え、近衛隊に命じて門を封鎖――ルイフォンたちの車を外に出られないようにした場合でも、『国宝級の科学者が、実験に失敗して、爆発事故を起こした』『科学者は大怪我をしており、急いで病院に搬送する必要がある』と言って、脱出する算段である。
そんなものは必要ないと、エルファンの氷の瞳が無言で告げていたが、用心深くあっても損はしないだろう。
車は緩やかな緑の丘陵を行き、少しずつ枯れ始めてきた、けれど、いまだ鮮やかさを残す紫の菖蒲園の脇を抜けた。
やがて、草原の海に凛とたたずむ、石造りの塔が見えてくる。
展望塔を目にした瞬間、ルイフォンは、ミンウェイの「危ないでしょ!」という制止の声も聞かずに、車の窓を全開にして身を乗り出した。
強い南風を頬に受ける。
流された髪の先で、金の鈴が煌めく。
朝陽を浴びる壮麗な塔を見上げると、硝子で覆われた最上階の展望室が、天上の宝石のようにきらきらと輝いていた。
ルイフォンは遥かな天空に向かって、大きく手を振る。
地表を征く自分は、ちっぽけかもしれない。けれど、地上から伸ばすこの手が、メイシアの瞳に映るようにと。
展望塔にたどり着き、車が停まると同時にルイフォンは飛び降りる。
その刹那、塔の扉が重い音を響かせた。
長い黒絹の髪をなびかせ。
白磁の肌を薔薇色に染め。
天から舞い降りてきた彼女が、疾風を渡る。
彼もまた地を蹴り、疾風に乗る。
天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、仕組まれた運命。
けれど、絡め合わせたこの手は、決して離さない――。
3.菖蒲の館で叶う抱擁-2
朝陽を背に、展望塔がそびえ立つ。
石造りの外壁を回り込んだ光が、固く抱きしめ合ったふたりを包み込み、ひとつの影を作り出す。
腕の中にメイシアがいる。
薄い夏地の服を通し、触れ合った箇所から、彼女の熱と、そして鼓動が伝わってくる。
黒絹の髪に顔を埋めれば、鼻先が、唇が、滑らかな感触に迎えられ、ルイフォンの内側へと艶やかな香りが吹き込まれる。
胸が、熱く満たされていく。
それが徐々に広がっていき、喉が、瞼が、灼けるように熱くなる。
メイシアの細い指先が、ルイフォンの背中を掻き抱く。彼の存在を確かめるかのように、彼の胸元に頬を寄せる。
……その華奢な肩が、小刻みに震えていた。
だからルイフォンは、彼女の長い黒髪に指を絡め、くしゃりと撫でる。
『大丈夫だ。安心しろ』
そんな意味合いを持つこの仕草は、いつの間にか、彼女に対してだけの特別になっていた。
刹那、メイシアが花の顔を上げた。
「……っ」
目尻からこぼれ落ちる、透明な輝き。
けれど、彼女は嗚咽をこらえ、彼に応えるように、無理やりにきゅっと口元を上げた。
再会は、極上の微笑みの中で――。
どちらからともなく唇を寄せ、重ね合わせる。
それは、自分の中にある想いを、口移しに相手と交わす儀式だから……。
爽やかな朝の風が、草原を渡っていく。
その流れに身を任せるように、ルイフォンは、ふわりとメイシアを抱き上げた。
その瞬間、ずきりと腹に衝撃が走り、彼は顔をしかめる。メイシアをさらっていくリュイセンに、斬りつけられた傷が痛んだのだ。
「ルイフォン!」
メイシアの顔が一瞬にして青ざめた。
「大丈夫だ」
彼は笑って答え、傷に負担の掛からない角度に彼女の体を抱え直す。
すると、白い手が伸びてきて、彼の頬に優しく触れた。黒曜石の瞳は愛しげに彼を見つめており、けれど、困ったように揺れている。
「私、ルイフォンに抱き上げてもらうの、大好き。凄く、どきどきして、なのに、とても安心するの。……でも、今は無理しないで」
「いや、もう治ったんだって」
メイシアを相手に誤魔化しは利かないだろうと思いつつ、そこは見栄である。案の定、間髪を容れずに「嘘」と返ってきた。
そして、彼女は美しくも可愛らしい顔の中に、凛とした輝きを魅せる。
「それにね、今はルイフォンと手を繋いで、一緒に歩きたいの。――そのほうが、私たちらしいと思うから」
こうして再び逢うことができたのは、ルイフォンだけの力でも、メイシアだけの力でもない。ふたりと、そして、ふたりが大切にして――ふたりを大切にしてくれた人たちの力だ。
「……ああ、そうだな」
ルイフォンは呟く。
「お前の言う通りだ!」
抜けるような青空の笑顔を浮かべ、メイシアを地面に下ろす。けれど、彼女と離れることはない。指と指とを絡め合わせ、固く手を繋ぐ。
そうして、ふたりを待っている人たちのいる車まで戻ると、温かな笑顔が迎えてくれた。
「メイシア! よかったわ!」
ミンウェイが涙ぐみながらも満面に喜色をたたえ、エルファンも愛想こそないが無事を喜ぶ。
そして、シュアンは……。
「姉さんを心配しているハオリュウに、写真付きでメッセージを送っておいたぞ」
気が利くだろう、と言わんばかりに口角を上げ、手にしていた携帯端末をふたりに向けた。
それには、朝陽を受けて抱き合うふたり――という、光の陰影が美しい、とても芸術的な写真が映っていた。
「俺は、野暮だと言ったんだが、ミンウェイのたっての願いでな」
言葉の上では弁解しているようであるが、まったく悪びれない調子のシュアンに、ミンウェイの「いい写真でしょう!?」という声が続く。
「ミンウェイさん!? 緋扇さんも!」
耳まで赤く染めたメイシアは、反射的にシュアンの端末を奪おうとして……、しかし、育ちの良さ故に強行できず、中途半端なところで手を止める結果となった。それに、今更、端末を取り上げたところで、その写真はとっくにハオリュウのもとに届いているのである。
「メイシア嬢、落ち着けよ。ハオリュウの奴は、もう、あんたが思っているような餓鬼じゃねぇんだよ。ちゃんと、この写真を喜んでくれているさ」
朗らかな調子で三白眼が細められると、目つきの悪さが隠蔽され、まるで善人のような笑みになった。
日頃のシュアンを知るルイフォンとしては、かえって胡散臭く見えてしまうのであるが、いち早くハオリュウを安心させようとしてくれた心遣いはありがたいし、照れくささはあるものの、粋な計らいだ。素直に感謝して、気持ちをこれからに向ける。
「行こうぜ!」
ルイフォンはメイシアの手を強く握りしめ、草原の向こうに見える館へと猫の目を煌めかせた。
「〈蝿〉との決着をつけに――!」
「うん」
打てば響くように返ってくる、メイシアの声。
それから彼女は、ちらりと展望塔を振り返り、ルイフォンもそれに倣う。
それは、メイシアを囚えていた塔に別れを告げるためではなく、まだそこにいるタオロンとファンルゥへの出発の挨拶だ。
ふたりが残ることは、あらかじめ電話で打ち合わせて決めていた。
夜中まで起きていたファンルゥが、メイシアのベッドで、ぐっすり夢の中であることがその理由の大半であるが、万が一を考えても、全員が〈蝿〉のところに行くべきではないとの判断だ。加えて、『鷹刀の身内の話には、俺は遠慮したほうがよいだろう』という、タオロンの気遣いもあった。
そして、一行は〈蝿〉の待つ館へと移動する。
事前の連絡通り、正面玄関の前でリュイセンが待っていた。見慣れた長身の影を見つけたルイフォンは、矢も盾もたまらずに声を張り上げる。
「リュイセン!」
久しぶりに――本当に久しぶりに見る兄貴分は、やたらと豪奢な服を着ていた。話に聞いていた、怪我のために着替えた、かつての王の服というものだろう。
繊細な刺繍の施された物々しすぎる衣装であるのだが、黄金比の美貌には憎いほどよく似合っている。こんなとき、鷹刀一族の美麗な外見の恩恵にあずからなかった身としては、少しだけ悔しい。
ルイフォンが内心で、そんなどうしようもない、ささやかな嫉妬を感じていることなど露知らず、リュイセンは弟分を見た瞬間にその場にひざまずこうとした。
「おおっと。もう謝るのはなしだからな」
察したルイフォンは、鋭いテノールで先手を打った。律儀な兄貴分のことだ。直接、詫びを入れないことには道理が通らぬとでも言うつもりなのだろう。
「だが……!」
反論しかけたリュイセンに、ルイフォンは畳み掛ける。
「お前も知っているだろ? 俺は細かいことは気にしねぇんだ。お前は、俺が認め、尊敬する、自慢の兄貴分だ。――それでいいだろ?」
「ルイフォン……」
リュイセンは絶句し、それから穏やかに破顔する。
「ああ、そうだな。お前は、俺の誇る弟分だ」
それからリュイセンは、ルイフォンの後ろに続く、メイシア、ミンウェイ、エルファン、シュアンへと視線を移し、硬い面持ちで「ご足労、痛み入ります」と頭を垂れた。
〈蝿〉が何を企んでルイフォンたちを招待したのか、リュイセンにも知らされていないという。『お前は、俺の配下となったはずだろう?』と高圧的に尋ねても、〈蝿〉は頑として答えなかったそうだ。――鷹刀一族の屋敷を発つ前に連絡を取ったとき、リュイセンは申し訳なさそうに詫びていた。
だから、この館への来訪に関して、彼が礼を言うのは適切ではないだろう。けれど、それくらいしか、出迎えの口上を思いつかなかったに違いない。
ミンウェイの姿を瞳に捉えた瞬間、リュイセンの顔が切なげに揺れた。ルイフォンが気づいたくらいであるから、当然、ミンウェイも気づいた。彼女の息遣いが緊張を帯びる。
リュイセンの裏切りの発端は、ミンウェイを『秘密』から守るため。けれど、彼女は自らの力で『秘密』を乗り越えた。……リュイセンとしては立つ瀬がない。
もう『過ぎたこと』なのだが、顔を合わせると、やはり気まずさは拭いきれないのだろう。耳には聞こえぬ不協和音が響いた。
再び頭を上げたリュイセンは、誰とも目を合わせないまま、「案内する」と、扉に向かって踵を返そうとした。
そのとき――。
ルイフォンの背後から、ふわりと草の香が飛び出し、リュイセンの手を掴んだ。緩やかに波打つ黒髪が、まるで大輪の花がほころんでいくかのように広がる。
「リュイセン! ありがとう!」
そう告げたミンウェイの唇もまた、華やかに咲きほころぶ。
「私、逃げていたわ。過去からも、……あなたからも」
「……っ」
「でも、これから変わっていくわ。……すぐは無理かもしれないけど、約束する」
虚勢の見え隠れする、強気の笑顔。
それでも彼女の絶世の美貌は、生き生きと輝いている。朝陽を透かした黒髪が黄金色を帯び、まるで曙光の冠を戴いた、暁の女神のよう。かつてリュイセンが月の女神だと思った、夜闇で泣いていた少女の面影を残しながらも、まるで別人の……。
「ミンウェイ……」
彼女の名を呟き、リュイセンは眩しげに目を細めた。その顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「そ、それより!」
深刻な空気を振り払うように、ミンウェイが叫ぶ。
「リュイセン、怪我は大丈夫なの!? 〈蝿〉が……、……っ」
彼女は、はっと顔色を変え、口元を指先で押さえた。それから首を振り、微笑みながら言い直す。
「――ううん、『お父様』が診てくださるって言っていたけど」
〈影〉である『彼』には、名前はない。『〈蝿〉』にせよ、『お父様』にせよ、オリジナルを指す言葉にすぎず、どちらも正しい『彼』の呼び方ではない。
だから、ほんの少し、借りる名称を変えただけ。
けれど、その意味が重いことをルイフォンは知っている。その場にいた誰もが分かっている。
「……あ、ああ」
一瞬、遅れて、リュイセンが相槌を打った。
「恐ろしいことに、すっかり元通りだ。――恩恵を受けておきながら言うのもなんだが、〈七つの大罪〉の技術は、封印すべきものなんだろうな……」
なんとも言えない苦々しさを浮かべてから、リュイセンは、改めて皆に向き直る。彼の口癖である『やるべきことをやるだけだ』と言うときの、強い意志に満ちた顔つきになって。
「ヘイシャオのもとに案内する」
ミンウェイの喉が、こくりと鳴った。
摂政が来たときと同じように、私兵たちには『来客のため、自室待機』が命じられているとのことで、館の中は森閑としていた。そんな中、一行は、ひたひたと歩き続け、やがて金箔で縁取られた白塗りの扉の前で、リュイセンが足を止めた。
どうやら、この部屋であるらしい。
ここにたどり着くまでの宮殿のような構造と内装に、ミンウェイは、すっかり腰が引けていた。場違いなところに来てしまった、という萎縮の思いのあまり、心が半ば麻痺してしまっている。
だから、先導するリュイセンの背中が部屋に吸い込まれ、物怖じしないルイフォンと、彼と手を繋ぎ合わせたメイシアがあとに続くのを無感情に眺めていた。
そして、ミンウェイも彼らを追いかけようとして、自分の足がすくんでいることに初めて気づく。
すると、「どうした?」と、この場の雰囲気に、およそ似つかわしくない、のんびりとした声が掛けられた。背後にいたシュアンである。
決して揶揄するような響きではないのに、からかわれていると感じてしまうのは、彼の『人徳』のせいだ。すぐ後ろを歩いていたのなら、急に立ち止まったミンウェイにぶつかってもおかしくないのに、初めから彼女の行動が分かっていたかのような余裕の態度が気に障る。
「……な、なんでもありません」
慌てて首を振るミンウェイに、シュアンは苦い顔を見せた。
「あんたには酷なことになっちまったな」
「え?」
〈蝿〉との対面は、ミンウェイが望んだことだ。それも、周り中に迷惑をかけて、やっと実現したものだ。それのどこが『酷』なのだろう?
きょとんとするミンウェイに、シュアンは一瞬、凍りつき、ぼさぼさ頭を掻きむしる。明後日の方向をさまよう三白眼は、失言だったと思っているらしい。
警察隊という職業柄か、はたまた彼個人の資質の故か、シュアンは人の心の奥底に眠る感情に鋭敏だ。今もまた、ミンウェイにひそむ『何か』を察したのだ。
「緋扇さん、どういう意味ですか!?」
こんなところで足踏みをしていたら、先に部屋に入ったリュイセンたちが困るに違いない。だから、早く教えてほしい。けれど、シュアンが素直に教えてくれるだろうか。
ミンウェイが柳眉を曇らせながら詰め寄ると、助け舟は意外なところから来た。
「緋扇、言ってやれ」
囁くような静けさでありながら、厳かに響く、威圧の低音。皆を見守るように、一番、後ろを歩いていたエルファンの瞳が、じっとシュアンを捕らえる。
「……」
シュアンは子供が不満を訴えるような仏頂面で、心底、嫌そうに顔をしかめた。しかし、初対面のときに力関係が決まってしまったのか、シュアンには、エルファンには敵わないと思っている節がある。そのためか、不承不承といった体で口を開く。
「〈蝿〉は本来、すぐにも殺されるはずだった。それが現在、あんたが『会いたい』と言ったがために、延命されている状態だ。――つまり、この対面が終われば、〈蝿〉には『死』が待っている」
「あっ……」
ミンウェイの顔から血の気が引いていく。がたがたと体が震え始め、手足の感覚が失せていく。
「つまり、他でもない、あんたが〈蝿〉に引導を渡すことになっちまった。――直接、手を下すのが別の奴だったとしても、あんたからしてみれば変わらないだろう」
最後――なのだ。
これでもう、父の記憶を持つ『彼』は消える。
目を背けていた事実だ。ミンウェイの心がひるみ、足がすくんだ原因だ。
「夜中の電話――〈蝿〉が、あんなふうにあんたと話すなんて、誰も想像してなかっただろう。悪くない会話だった。……少なくとも、俺は『良かった』と思った」
「……私も驚いたわ。昔は言えなかったことが、すらすらと言えたのよ」
「ああ、そうだ。あんたはあのとき、自分の思いを告げることができた。自分の意志をしっかり持って、な」
シュアンの声が、強く肯定する。彼は以前、ミンウェイが温室に籠もったときに『私は、自分の意志を持たない父の人形です』と言ったことを覚えているのだ。
「だからさ、あんたは本当はもう、満足しているのさ。〈蝿〉に直接、会わなくとも――むしろ、会わないままに、〈蝿〉は、何処かに行ってほしいと思っている。あんたと対面するまでは、〈蝿〉は殺されることがないんだからな。……心の奥底の願いだ」
「!」
ミンウェイは息を呑んだ。
『私……、〈蝿〉は、何処かに行ってしまえばいいと思っています! 二度と鷹刀に関わらないでほしい。そうすれば、鷹刀は〈蝿〉を殺さないですむ。――そんなふうに思ってしまっているんです……!』
あの温室で、シュアンに向かって叫んだ。――彼は、本当によく覚えている。
「でも……! そんなことは許され……」
「ミンウェイ、『許される』か、どうかの問題じゃないのさ。今のあんたは逃げない。この対面から逃げることはない。あんたは〈蝿〉と会う」
まるで暗示を掛けるかのように、シュアンの言葉が重ねられる。
「あんたには『逃げない』という固い意思があるからこそ、怖いだろうし、足だってすくむ。当たり前だ」
「緋扇さん……?」
「でも、思い出せ。あんたの望みは『穏やかな日常』だ。『誰ひとり傷つかない世界』を祈っている。その願いは……叶うはずなんだ」
「どういうことですか!?」
ミンウェイは噛み付くように、声を張り上げる。
「イーレオさんは、俺に『〈蝿〉への発砲許可を』と言いながら、『ヘイシャオは撃たれたりしない』と笑ったんだ。――それが答えだ」
「わけが分かりません!」
「俺だって詳しいことは知らねぇよ。……だから、見届けたいのさ」
はぐらかすようなシュアンに、ミンウェイは再び詰め寄る。しかし、彼はそれ以上、何も言わず、すがるようにエルファンの顔を覗き込んでも、二度目の手助けはなかった。
「ミンウェイ、メイシア嬢が言っていただろう? 〈蝿〉を救ってやりたい、と。――それができるのは、あんただけだ。……だから、行こうぜ?」
シュアンはそう言って、ミンウェイの前を通り過ぎ、彼女よりも先に部屋に入っていく。
「……」
体の震えは止まっていた。ミンウェイは意を決し、しっかりとした足取りでシュアンの背中を追いかける。
そして、彼女は星霜を超え、幽明を超えた『初対面の再会』を果たすのだ。
3.菖蒲の館で叶う抱擁-3
部屋に入った瞬間、ミンウェイは瞳に飛び込んできたシャンデリアの輝きに圧倒された。高い天井から吊るされた繊細な硝子細工から成るそれは、室内にいながら、あたかも太陽を拝むかのよう。
歩を進めれば、純白の絨毯が柔らかに足を包み込んだ。複雑な織りによる美しい紋様に、靴の泥は綺麗に払ってあっただろうか、などと場違いな心配をしてしまう。
次に目に入ったのは、ミンウェイの直前に扉を抜けたシュアンの背中であり、そして、その向こうに、先行していたリュイセン、ルイフォン、メイシアの三人の姿があった。ミンウェイの気配に、彼らが一斉に振り返る。
「ミンウェイさん……!」
なかなか来ないミンウェイを案じていたのだろう。メイシアが、あからさまな安堵の表情を浮かべた。
『大丈夫よ』『心配しないで』――そんな言葉が、ミンウェイの頭をよぎった。けれど、口を衝いて出たのは、まったく別の強気の台詞だった。
「ごめんなさい。あまりにも立派な部屋に、気後れしちゃったのよ」
メイシアは一瞬、黒曜石の瞳を大きく見開いた。けれど、すぐに微笑みながら頷く。
「そうですね。この部屋の造りは、『天空の間』と呼ばれる特別なものですから」
「え?」
「天空神フェイレンのおわす、天上の世界を表しているんです。太陽を象った照明と、雲上を示す織りの絨毯。全体的に白を基調とした調度を用いて、その縁は金箔で飾ります」
なんでも真に受けるメイシアとはいえ、『気後れした』というミンウェイの嘘を信じたわけではないだろう。けれど、そういうことにして説明をくれたのだ。
メイシアの気遣いのおかげで、心が落ち着いていく。
しかし――。
「さすが、貴族の令嬢は詳しいですね」
直後に響いた、不思議な笑みを含んだ低音によって、ミンウェイの体は一瞬にして緊張に包まれた。
その声は、部屋の中央に置かれた、金箔で縁取られた純白のソファーから聞こえた。こちらに背中を向けて座っていた長身が、すらりと立ち上り、振り向く。
「――!」
ミンウェイは息を呑んだ。
真っ黒だったはずの髪には、まばらに白いものが混じっていた。皺が増え、肌も衰えている。記憶の中の父よりも、彼女の後ろにいる伯父のエルファンに似ている……。
長い白衣の裾を翻し、『彼』――〈蝿〉は颯爽と近づいてきた。
柔らかな雲のような床では靴音の立てようもないが、滑るような足の運びは何処を歩いても無音であろう。その動きは父とそっくりで……、ミンウェイとも、そっくりで……。
当然だ。父から学んだのだから。
いつの間にか常に足音を立てなくなっていたミンウェイに『普段から気配を消すようでは、かえって『自分は怪しい者です』と白状しているようなものだよ』と父は苦笑していた。
「お父様……」
ミンウェイの唇から、言葉がこぼれ落ちた。すると、記憶のままの父の表情で、〈蝿〉が苦笑する。
「『私』は、君の知っている『お父様』ではないよ」
「……っ」
分かっている。父ではない。父はもう、とっくに亡くなったのだ。けれど他に、なんと呼べばよいというのだろう?
父との相違点を探すように、あるいは父との類似点を見つけるために、ミンウェイは切れ長の瞳に相手の姿を焼き付ける。
「よく来てくれたね、ありがとう。……君が、今のミンウェイなんだね」
「……」
そんなことを言われても、ミンウェイには、どう答えればよいのか分からない。
押し黙ってしまった彼女に、〈蝿〉は言う。
「正直なところ、私の記憶の君と、今の君は違いすぎて、私は戸惑っているよ」
「…………」
昔のような――『母』に似た姿であったほうが、目の前の『彼』は喜んだのだろうか。
そんな考えが、ミンウェイの頭をかすめた。……その裏側にある、『彼』を喜ばせたい、という自分の思いに愕然として、柳眉をひそめる。
その顔を『彼』――〈蝿〉は、きっと勘違いしたのだろう。困ったように微笑んだ。
「悪い意味で言っているわけではないよ。ただの事実だ」
「いえ、あの……、……」
うまく言葉を紡げずに口ごもるミンウェイに、〈蝿〉は言葉を重ねる。
「白状すれば、目覚めてすぐに君の写真を見せられたとき、私は、君のあまりの変わりように心がついていかなかった。おそらく、君が想像する通りに、激怒したよ」
「……っ」
「十数年も経っていれば、変わっていて当たり前なのにね。けれど、私は取り残されたままで……」
そう言い掛けてから、〈蝿〉は首を振った。
「――違うな。私の時間は、鷹刀を離れ、妻を亡くしたときに止まっていた。だから、置き去りの私は『君』をどう捉えればよいのか分からなかったんだ……。君は、辛かっただろう」
「――!」
「君は妻とは違う、他ならぬ『君』であるということが、『私』には、はっきりと分かるよ。それは、今の『私』が、私であって、私ではないと、きちんと自覚しているから。そして――」
〈蝿〉はリュイセンへと視線を送り、ふっと口の端を上げる。
「若き『鷹刀の後継者』に、時代は変わった、という現実を見せつけられたからだ。――そのとき、私の中の『時』が動き出した」
それから〈蝿〉は、柔らかな笑顔でミンウェイを包みこむ。
「妻は二十歳を迎えられなかったが、君は美しく、華やかに成長した。――良かった。……君が、無事に生き存えて……本当に」
低く優しい声に、ミンウェイの心は震えた。
『彼』は、父ではない。けれど、もしも今、父が生きていたら、きっと……。――そんな幻の存在だ。
ミンウェイの美貌が、ぐにゃりと大きく歪んだからだろう。〈蝿〉は狼狽の息を漏らし、慌てて話題を変えようと、メイシアに声を掛けた。
「この部屋が、どういったときに使われるのか、あなたならご存知ですね。――皆に、教えてあげてください」
「え……? ――はい」
唐突な指名に戸惑いながらも、メイシアは素直に答える。
「神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋です。――勿論、実際に神の声が聞こえるわけではありませんが……。貴族や王族なら自分の屋敷に、ひと部屋は作ります。けれど、悩みごとでもない限り、普段は立ち入らない場所となっています」
「ええ、その通りです。簡単に言えば『神との密談の場』ですね」
「全然、違うだろ!」
満足そうに頷く〈蝿〉に、今まで黙って聞いていたルイフォンが、一歩、前に進み出て叫んだ。
思わず突っ込んだ、というだけではない。不気味に和んだ空気に対し、自分はまだ敵対関係にあるのだという意思表示だ。彼は猫の目を鋭く光らせ、肩を怒らせる。
しかし、〈蝿〉は構わず、口元をほころばせた。
「いいえ、合っていますよ。王――すなわち、〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉は、防音のよく効いた天空の間で〈悪魔〉たちと会っていましたから」
「は……?」
呆けたような顔をするルイフォンに、〈蝿〉は、わざとらしいほど恭しく頭を垂れる。
「ようこそ、ルイフォン。私の招待を受けてくださりありがとうございます」
「え? 俺……?」
急に話の矛先を向けられ、しかも慇懃無礼というよりは、素直に丁重と言わざるを得ないような声色の挨拶をされ、ルイフォンは戸惑う。
「お呼び立てしておきながら、出迎えをリュイセンに任せ、失礼いたしました。――とはいえ、リュイセンが昨晩、派手に暴れまわってくれたおかげで、私は怪我人の回収と治療で大変だったのですよ。この体には若さがありませんからね、少しくらい休ませていただくのは、ある意味、当然と言えましょう?」
「〈蝿〉……?」
立て板に水の弁に、ルイフォンは絶句していた。
しばし眉間に皺を寄せ……、それから彼は、ゆっくりと口を開く。
「お前の言動には、物凄く違和感がある。はっきり言って、不気味だ」
端的に言い切り、彼は高圧的に顎を上げた。無機質なほどに冷静な光をたたえた猫の目を、すうっと細める。
「だが、どういうわけだか、演技をしているようには思えない。嫌味な口調は変わらねぇし……。――ああ、性格がそのままだからこそ、嘘に見えないのか」
「随分な言われようですね」
「仕方ないだろ。今までが、今までなんだからさ」
「それは、そうですね」
〈蝿〉が自嘲めいた笑みを浮かべる。その顔は、とても穏やかで、同時に切なげにも見えた。
「……本当に、リュイセンを認めたんだな」
静かに落とされたルイフォンの呟きに、ミンウェイは瞳を瞬かせた。
リュイセンから、〈蝿〉が屈したという報告を受けたとき、ルイフォンは信じていなかった。こそこそと隠れるようにしてシュアンと話していたことに、彼女は気づいていた。だから、ルイフォンと〈蝿〉とで、ひと波乱ありそうだと覚悟していたのだ。
ルイフォンが大きく息を吐いた。肩から力が抜け、猫背が強調される。だが、次の瞬間には、気合いの呼吸と共に、彼とは思えぬほどに背筋が伸ばされた。一本に編まれた髪が、天から地へと貫くように背骨の上を綺麗に流れ、その毛先で金の鈴が煌めく。
「〈蝿〉。俺は、メイシアの父親を――あの優しい親父さんを、この手で殺した。お前が、親父さんを〈影〉にしたからだ。……俺は決して、お前を許さない」
「……」
「お前を恨んでいるのは、俺やメイシアだけじゃない。そこにいるシュアンもそうだ」
ルイフォンが振り返ると同時に、シュアンが軽く会釈した。ただし、特徴的な三白眼は、冷たく〈蝿〉を見据えたままだ。
「――見覚えがありますね」
「ああ。あんたは一度、俺と会っている」
思案するような〈蝿〉に、シュアンは口の端を上げ、ぼさぼさ頭の前髪を掻き上げた。抑えた手でオールバックの髪型を作り、視線で〈蝿〉を撃ち抜く。
それは以前、ハオリュウが会食に招かれたとき、車椅子で降りられぬ階段で見せた殺意の再現だった。
〈蝿〉は、はっと顔色を変えた。
「メイシアの異母弟の腹心……」
「おおっと、勘違いするなよ? 俺はハオリュウの代理で来たわけじゃねぇ。俺は、俺個人として、あんたを殺してやりたいほど憎んでいる」
「……」
〈蝿〉は目線で、シュアンに理由を問うた。無言であるのは、不用意な訊き方をして、相手の逆鱗に触れてしまうことを避けたのだろう。
「あんたは、俺が世話になった先輩を〈影〉にした。手駒が必要だった、というだけの理由でな。おそらく、あんたは先輩の名前も知らないだろう。――俺が先輩を殺したこともな」
「そういうことですか……」
黙祷を捧げるように目を伏せた〈蝿〉に、シュアンは言を継ぐ。
「だが、とりあえず俺は、傍観者にまわる。あんたの様子が気になるからだ。――これでいいんだろう、ルイフォン?」
「ああ。すまない」
話を戻してきたシュアンに、ルイフォンは、彼らしくもなく遠慮がちに頷いた。そして、〈蝿〉へと向き直る。
「現在のお前に、敵意がないことだけは認めよう。……お前は、『殺し合い』ではなくて『話し合い』を――いや、『密談』を望んでいるんだな」
以前、ハオリュウの車で潜入し、王妃の支度部屋で対峙したときには、両者の間には『殺し合い』しかなかった。
けれど、今は――。
「そういうことです」
察しのよいルイフォンに粛々と低頭しながらも、知的な会話を好む〈蝿〉は、心なしか嬉しそうに肯定した。
「応じよう」
金の鈴を煌めかせ、ルイフォンは大股で奥へと進んだ。
ずかずかと部屋の中央へと歩いていき、豪奢なソファーで遠慮なく足を組む。先陣を切った彼に続くように、残りの者たちも移動していった。
こうして天空の間にて、神への祈りとは無縁の、人と人との密談が始まった。
3.菖蒲の館で叶う抱擁-4
「では、さっそく、俺を呼び出した理由――『最高の終幕』とやらの話をしてもらいたいところだが……」
〈蝿〉に向かって語り始めたルイフォンの視線がすっと動き、ミンウェイを捕らえた。
「ミンウェイ。まずは、お前が〈蝿〉と話をするのが順当だろう」
それは、落ち着かない様子のミンウェイを気遣ってのことだ。ずっと胸に緊張を抱えたままでは辛いだろうから、先に話を、と言ってくれているのだ。
「え、ええ……」
頷きながら、ミンウェイは反射的にルイフォンから目をそらした。切れ長の瞳を縁取る、長い睫毛が揺れる。
この部屋に入る前に、ミンウェイは『逃げない』と決めたはずだった。そして、『彼』――〈蝿〉が知りたがっている、オリジナルの『死』の理由を告げて、彼の心を救うのだと。
けれど、いざ〈蝿〉と言葉を交わしてみると、彼はとても穏やかな印象だった。メイシアから報告されていた昨日までの彼は、ミンウェイの知る父そのものだったのに、たった一晩で魔法のように別人に変わってしまった。
彼自身が言った通り、リュイセンによって、彼の『時』が流れ始めたからだろう。
……そんな彼に、かつてミンウェイが自殺未遂をはかったことなど、告げる必要があるのだろうか? 今更、そんな話は無粋なのではないだろうか?
彼は、彼女が無事に成長したことを喜んでくれた。良かったと、言ってくれたのだ……。
ミンウェイの心が惑い、瞳がさまよう。
痛いくらいに、鼓動が高鳴る。
ここで彼女が黙ってしまったら、皆が困るというのに。そんな焦りが、更に心拍数を上げていく。
そのときだった。
「ヘイシャオ」
ミンウェイへと注目する皆の意識を妨げたのは、玲瓏とした愛想のない低音。なのに不思議と温かな響きに、ミンウェイは、びくりと肩を震わせた。
彼女が驚いたのは、声色の不均衡さのためではない。その声を発したのが、伯父のエルファンであったからだ。
エルファンは、この庭園への同行の意思を示したとき、『干渉するつもりはない』と宣言した。そして、その言葉を遵守するかのように、ソファーの端で腕を組むという、一歩、離れた姿勢で皆を見守っていた。
……〈蝿〉が、オリジナルの親友である彼のことを、それとなく気にしている様子であるのに、無表情を貫いていた。
「……エルファン」
声を詰まらせながら、〈蝿〉が呟く。当惑に息が乱れ、こめかみの血管が神経質な脈を打つ。小さな呼びかけに対し、過剰ともいえる反応だった。
「ヘイシャオ、私は招かれざる客――だろう?」
問いかけの内容とは裏腹に、優しく語りかけるような声が響く。
エルファンとも思えぬ口調に、ミンウェイは耳を疑う。顔を見れば、エルファンの瞳は、まっすぐに〈蝿〉を見つめており、変化に乏しい美貌が、それでも、笑んだのだと認識できるくらいに緩やかにほころんでいた。
「……そんなことはない」
〈蝿〉の返答は、一瞬、遅れた。――迷いがあったのだ。それを誤魔化すように、彼は口早に続ける。
「確かに、次期総帥の立場にある君が、わざわざ来てくれるとは思わなかった。けれど、会えて嬉しいよ」
感情を呑み込んだ柔らかな顔で、〈蝿〉は微笑む。しかし、その態度は、エルファンにとって不服だったのだろう。一変して眉間に皺を寄せ、氷の眼差しで睨めつけた。
「嘘をつくな。お前のことだ、私や父上に合わせる顔がないと考えたのだろう? だから、鷹刀の屋敷に来るのを拒み、立場のある私たちが来ないことを前提に、ルイフォンやミンウェイを自分の城に招いた」
冷たい暴露に〈蝿〉の表情が凍る。
「――参ったな……、君にはお見通しか」
〈蝿〉は苦笑し、けれど、やがてそれは清々しさを含んだ純粋な笑みに変わっていく。
「ああ。私は、罪人となった私の姿を、君やお義父さんに見られたくなかった。……けれど今、君に会えて嬉しいと思っていることは本当だ。情けない姿を晒しているというのにな」
気弱に漏らした〈蝿〉を、エルファンは「ふん」と軽く笑い飛ばす。気にすることはないのだと。
「お前にだって見栄くらいあるだろう。だから私は、土足で上がり込むような真似をするからには、せめて邪魔はしない。お前のやることに口出しはせず、見守るつもりだった。だが――」
そこで、エルファンは真顔になり、〈蝿〉を見据える。
「ミンウェイのために、お前に訊くべきだと思い直した」
唐突に名前を出され、ミンウェイは息を呑んだ。何を、と問おうにも声がでない。
そんな彼女の代わりに、〈蝿〉が「エルファン?」と狼狽に声を揺らす。彼だけでなく、その場にいた誰もが困惑を示す。
「オリジナルのヘイシャオが、ミンウェイを連れて私の前に現れた日。私は、何も訊かずにヘイシャオを斬った。〈影〉のお前に、その記憶はないだろうが、ミンウェイは覚えているだろう?」
「え……、ええ……」
エルファンの問いかけに、ミンウェイは戸惑いながらも頷く。
あの日。
ミンウェイは、初めて見たエルファンが、あまりにも父にそっくりであることに驚いた。
――けれど。それよりも、思いつめた顔をしていた父が、エルファンを見た瞬間に、安らぎの表情に変わったことに衝撃を受けた。この人は、父にとって特別な人なのだと直感した。
ふたりは真剣な顔で、ミンウェイには分からない話をしていた。
そして――。
『理由を訊かないのか?』
『お前から言わない以上、言いたくないんだろう?』
『だったら訊かないでいてやるさ。――あいつの死を、ひとりで背負ったお前の頼みだ。後悔しようが構わない。引き受けてやるよ』
『ありがとう……』
ミンウェイの記憶の中で、銀光が煌めく。
――父の最期だ。
無意識に胸元を押さえたミンウェイの耳に、淡々としたエルファンの声が流れ込んでくる。
「私はあのとき、理由を訊こうなどとは微塵にも思わなかった。『ヘイシャオが私の前に現れた』――私にとっては、それだけで充分であったし、ヘイシャオも私が応えると信じていた。だから、私たちにとっては、それでよかった」
エルファンは唇を歪め、「そうだ、私たちにとっては――だ」と低く繰り返し、沈痛な面持ちで〈蝿〉を見つめる。
「あのとき、私たちは、不安に脅えるミンウェイを蔑ろにしたんだ」
ミンウェイは短く息を呑んだ。
そんなことはない。
父を斬ったエルファンは全身をわななかせ、ミンウェイを抱きしめながらこう言った。
『お前の父は、私が殺した』
『お前は私を恨め。誰かを恨んでなければ、やっていられないだろう』
エルファンの刃を受けた父は、とても満足そうな幸せそうな顔で眠っていた。
だから、エルファンは正しいことをしたのだと、ミンウェイは思った。
エルファンを恨む気持ちなど、まるで起こらなかった。
「ミンウェイのことを考えれば、私はヘイシャオに訊くべきだった」
訴えるように張り上げられた、エルファンの清冽な声が、天空の間に吸い込まれていく。
ふと……。
ミンウェイの目には、純白で埋め尽くされたこの部屋が、まるで天国であるかのように思えてきた。白衣姿の〈蝿〉が、死者の白装束をまとった亡き父に見える。
そして、此岸のエルファンが、彼岸の親友に向かって、あのときのことは『ふたりの罪』だと告げている――。
勿論、これはミンウェイの錯覚であるし、彼女は誰のことも悪く思っていない。ただ、あのときのことは何もかもが突然すぎて、いまだにどう捉えたらよいのか分からないだけだ……。
「ヘイシャオは何故、『死』を望んだのか。――その理由を、私はあいつの口から聞いておくべきだった」
静かに響く、低い声。
刹那、〈蝿〉が純白のソファーから腰を浮かせた。
「ちょっと待ってくれ、エルファン!」
動転に跳ねる声と共に、〈蝿〉が立ち上がる。
「話がおかしい! オリジナルの『死』の理由は、ミンウェイが知っているのだろう!? それを教えてくれると約束を……。私が、妻との誓いを破るほどの何かがあったはずなんだ!」
今までずっと穏やかな調子であった〈蝿〉の口調に、責めるような色合いが混じる。
「落ち着け、ヘイシャオ。ミンウェイが知っているのは客観的な事実だけだ。主観的な――父が何を考えていたかなど、分かるわけもない」
そう言いながら、エルファンの視線が、すっとミンウェイへと動いた。
――ほら、〈蝿〉はこんなにも、オリジナルの『死』について知りたがっているだろう?
口角を上げた顔はどことなく得意げにも見え、氷のように澄んだ瞳がミンウェイの背中を押す。
――だから、ためらわずに話せ。そして、私が訊くべきであったことを訊くんだ。
ミンウェイは無言の声に呼応し、鮮やかな紅の唇を開いた。
「ここからは、私がお話します」
ぐっと胸をそらし、緋色の衣服を閃かせる。長い髪が緩やかに波打ち、草の香が広がっていく。
「私は、お父様が亡くなる前に、どんな出来ごとがあったのかを知っています。それがお父様の『死』の原因であると考えて間違いないと思います」
〈蝿〉の体が、びくりと震えた。激しい緊張とともに、ずっと心にのしかかっていた疑問が氷解するという安堵が見えた。
「……ですが、私はお父様ではありません。『死』の原因となった事件を知っていても、エルファン伯父様のおっしゃる通り、お父様が何を考えて『死』を望んだのか――その気持ちは分かりません」
落ち着いた、艷やかな美声。
ミンウェイはもう、父の亡骸を前に、泣きじゃくっていただけの少女ではない。
「お父様のことを理解できるのは、お父様と同じ記憶を――心を持つ『あなた』だけです。……だから、教えて下さい。お父様の心を、私に伝えてください」
「ミンウェイ……」
〈蝿〉が、ごくりと唾を呑んだ。
「分かった。何があったのか、教えてくれ」
取り乱して立ち上がった自分を恥じるように、彼は目線を下げながら、そっとソファーに戻る。
腰を下ろした〈蝿〉の目の高さは、ミンウェイよりも少し上。同じ――ではないけれど、それでも、昔の父との距離よりも、ずっとずっと近い。
そして、彼女は明朗な声で告白する。
「お父様が亡くなる前、私は服毒自殺をはかろうとしました」
「――!」
〈蝿〉の眉が跳ね上がった。わなわなと震える唇が色を失う。
呼吸を整えようと不自然に肩が上下し、見開かれた瞳がもっと詳しくと求めていた。
「毒に慣らしてあった私の体には、なんの後遺症もなく、未遂に終わりました。けれど、その日から、お父様は変わりました。私を、お母様と見なさなくなり、私なんか初めから存在しなかったかのように、研究室に籠もるようになりました」
「どうして……、君は毒を飲んだんだい……?」
「それは……」
ためらいがちに答えようとしたミンウェイを、他ならぬ、問うたはずの〈蝿〉が、激しく首を振ることで遮った。
言わなくていいよ――と。
訊いた私が愚かだった――と。
「私のせいだね。私が君を苦しめていたから。君を妻の代わりにしていたから。君と妻の区別がついていなかったから……」
「……」
その通りだ。それは正しい。
けれど、ここで肯定したら、父が嫌でたまらなくて、父から逃げるために服毒したように〈蝿〉は感じるだろう。
それは違うのだ。
もう、今となっては、ミンウェイ自身にもそのときの感情をはっきりと思い出すことはできないけれど、父が嫌いだったわけではないのだ。目を背けたかったのは――抜け出したかったのは、そのときの現実からだ。
「ああ……、なるほど。私が『死』を望むわけだ……」
〈蝿〉は天を仰ぎながら、深い息を吐き出した。
その顔は安らぎに満ち、ミンウェイには微笑んでいるように思えた。
「納得したよ。確かに、私が『死』を望むのに、これ以上の理由はないだろう。――これ以外の理由があるわけもない……」
低い声が優しく響く。
「ど……、どういうことですか!」
髪を振り乱し、喰らいつくようにミンウェイは尋ねた。
彼女にはまるで分からない、
どうして父は、彼女を置いていってしまったのか。
〈蝿〉が切望したように、ミンウェイだって、父の『死』の理由を渇望していた。
「必死に生きようとしたお母様と、自ら死のうとした私では、たとえ遺伝子的に同一人物であったとしても、まったくの別人であると認識されたからですか!? だから、私では代わりにならないと。だから、お母様のところに行こうと……」
「ああ、そうだね。私も、少しくらいは、そんなことも考えたかもしれないね」
「『少しくらいは』? ――じゃあ、お父様は、いったい……?」
一緒に暮らしていながらも、一緒に生きていなかった父。ミンウェイは、彼のことをこれっぽっちも理解していない。
だから、分からない。だから、彼が何を考えていたのか――知りたい。
正面から向き合ったミンウェイに、〈蝿〉は口元をほころばせた。
わずかに体をかがめ、彼女と同じ目線で告げる。
「君に生きていてほしいから」
豊かに響く魅惑の声は、まるで祈りだった。
「私がいるから、君が『死』を望んだ。だから、君が生きていけるように、私は自分が消えることにしたんだ」
「そんな……!」
ミンウェイは、短く息を吸い込む。
「『私』とオリジナルは別人だが、同一人物でもある。だから、私の言うことに間違いはない」
「…………」
「私は、君のことをどう捉えればよいのか分からなかったかもしれない。けれど、君が無事に成長し、老いていき、人としての当たり前の一生を終えることを望んでいた。――それだけは自信を持って言える」
「――!」
それは、母が願ったこと。
父が叶えたかったこと。
……だから、その夢を『娘』に託した。
「お父……様!」
ミンウェイは無我夢中で〈蝿〉へと駆け寄った。
驚愕に目を見張る〈蝿〉に構わずに、彼の胸に飛び込む。
「お父様、ごめんなさい。ごめんなさい……!」
彼の白衣からは、懐かしい薬品の匂いがした。自らも医者となった彼女にとっては、身近な匂いであるはずなのに、長いこと忘れていた匂いだった。
ミンウェイは〈蝿〉にしがみつき、小さな子供のように泣きじゃくる。
「君が謝ることは何もない。私が悪かったんだ」
〈蝿〉もまた、潤んだ声で呟く。
そして彼は、ぎこちない手つきで、ミンウェイの背中に手を回し、抱きしめた。
「……生きていてくれて、ありがとう」
しゃくりあげるミンウェイの黒髪が、緩やかな波を打つ。その艷やかな動きに、〈蝿〉は潮騒を聞いた気がした。妻の墓のある、あの海辺の別荘の音だ。
よかった――と彼は思った。
娘に会えて、よかった。
まさか、こんなに安らかな最期を迎えられるとは、思ってもいなかった……。
ミンウェイを抱きしめながら、〈蝿〉はルイフォンに視線を向けた。現状に戸惑いつつも、決して悪くない顔をしていた彼が敏感に気づき、鋭い眼差しを返してくる。
「ルイフォン」
「なんだ?」
意識してのことか、無意識なのか。ルイフォンは、ほんの少し、メイシアを庇うように身を動かした。そんな仕草に、〈蝿〉は笑みを漏らす。
「あなたの大切なメイシア――〈蛇〉の記憶を受け取った彼女は、『私に救いを』と言ってくれたと聞きました。私に、散々な目に遭わされたにも関わらず……ね」
「あ、ああ……」
「ですから、今度は、私が彼女を救いましょう」
「どういうことだ?」
警戒もあらわなテノールが、探るように尋ねる。
「これから私は、〈悪魔〉の〈蝿〉として、あなたに王族の『秘密』を教えます」
ルイフォンの顔が狼狽に揺れた。予想通りの反応に、〈蝿〉の口角が上がる。
「そうすることで、記憶と共に、〈蛇〉に掛けられていた『呪い』も受け取ってしまったメイシアを解放します。――これが私の『最高の終幕』です」
4.神話に秘められし真実-1
『これから私は、〈悪魔〉の〈蝿〉として、あなたに王族の『秘密』を教えます』
『これが私の『最高の終幕』です』
〈蝿〉の穏やかな低い声が、耳朶を打った。柔らかな口調であるにも関わらず、ルイフォンは激しい衝撃に見舞われる。
「……それは……つまり……」
彼の明晰な頭脳は、〈蝿〉の意図を解していた。けれど、心がついていかない。
だから、問いかけの言葉は、かすれたまま途中で絶ち切れた。誇らしげに微笑む〈蝿〉に対して、明らかに情けなく、引けを取る。負け惜しみのように、慌てて台詞を続けようとするも、とっさに何も浮かばない。
そこに、リュイセンが「おい、待ってくれ」と口を挟んだ。
「王族の『秘密』を教える、って……。そんなことをしたら、ヘイシャオは――〈悪魔〉は、苦しみぬいた末に、死ぬ……んだろう……?」
勢い込んで声を上げたにも関わらず、リュイセンの語尾は自信なさげに揺れていた。日頃、思慮が足りぬと叱責されることが多いためにか、自分の解釈が正しいのか不安であるらしい。
「何故、そんなことを言い出すんだ? 俺は、お前に死を宣告はしたが、苦しむようなことは望んでいない……」
ためらうような静かな声で、彼はそう付け加える。
リュイセンは、ルイフォンに代わって会話を続けようとしたわけではなく、純粋に疑問を口にしただけだろう。けれど、ルイフォンとしては助かった。いつもの会議のように、兄貴分が都合のよい質問を投げかけてくれたことで、本来の調子が戻ってくる。
「リュイセン。さっき〈蝿〉が『セレイエの記憶と共に『呪い』も受け取ってしまったメイシアを救う』と言っていたのを、ちゃんと聞いていたか?」
「そういえば、そんなことも言っていたような……? ――それって、どういう意味だ?」
リュイセンがばつが悪そうに尋ねると、それまで自分の発言に対する周りの反応を、愉悦の顔で見守っていた〈蝿〉が大仰な溜め息をついた。
「やれやれ、リュイセンは、私の終幕の素晴らしさを理解できていなかったのですか」
「すまん……」
大柄な体を縮こめ、リュイセンは素直に謝る。
「すぐさま、王族の『秘密』という本題に移りたかったのですが、せっかくの私の終幕の意義を理解されずに話を進めるのは、画竜点睛を欠くというものです。仕方がありませんね。ご説明いたしましょう」
〈蝿〉は呆れたように肩をすくめていたが、本当は、あれだけの言葉でリュイセンに伝わるとは思っていなかったのだろう。機嫌を悪くした様子もなく、むしろ自分の晴れ舞台について余すことなく語れると、嬉々として身を乗り出したように見えた。
「メイシアが、鷹刀セレイエの記憶を受け取ったことは、ご存知ですか?」
〈蝿〉は顎をしゃくり、リュイセンに問う。
「あ、ああ。王族の血を濃く引くメイシアは、脳の容量が大きいとかで、自分の記憶と同時にセレイエの記憶も保持している――って話だよな?」
「ええ、そうです。脳の中の普段、使われていない部分にセレイエの記憶が書き込まれているため、メイシアは〈影〉にはなりません。けれど、セレイエの――すなわち、『〈悪魔〉の〈蛇〉』の記憶が、脳に刻まれていることに変わりはないのです」
「ええ……と」
理解が追いつかず、戸惑うリュイセンに、〈蝿〉は少し言い換える。
「今のメイシアは、メイシアでありながら、『〈悪魔〉の〈蛇〉』でもあります。――いいですか? 彼女は〈悪魔〉なので、王族の『秘密』を知っています。そして、〈悪魔〉である以上、彼女は『秘密』を口にしたら死ぬという『契約』に支配されているのです」
「そんな……、嘘だろ……」
リュイセンがそう呟いたのは、単に反射的なものであろう。しかし、〈蝿〉の弁を裏付けようと、メイシアが遠慮がちに「本当です」と口を添えた。
「ルイフォンとの電話の途中で『契約』に抵触してしまい、苦しんだことがあります」
「おやおや、もう既に、あの激痛を味わっていたのですか」
揶揄するような口調であったが、〈蝿〉の顔は同情するようにしかめられており、メイシアは恐縮しながら頷く。
そのやり取りに、リュイセンが短く息を吸い、「分かった!」と顔を輝かせた。
「今のメイシアは『秘密』を口にすると『呪い』にやられちまう。――けど、〈悪魔〉の『契約』は、王族の『秘密』を『知らない者に、漏らしたら』、『呪い』が発動するという仕組みだ。だから、ヘイシャオが先回りして、皆に『秘密』をバラしておけば、メイシアは安全、ってわけだ」
そうだろう? と、得意げなリュイセンに〈蝿〉は苦笑する。リュイセンが納得できるようにと説明していたのだから、理解できて当然でしょう、と言わんばかりに。
〈蝿〉は、命と引き換えに、王族の『秘密』をルイフォンたちに語る。
ルイフォンたちは、メイシアの周りの人々に――必要と思われるすべての人々に、その『秘密』を伝える。
そのことによって、メイシアは、この先、何を言おうとも、『呪い』に苦しむこともなければ、『呪い』に命を奪われることもない。
彼女の中から、完全に『契約』が消えるわけではない。けれど、事実上の『契約』からの解放となる――。
「――〈蝿〉!」
リュイセンとの話が終わるのを待っていたルイフォンは、今まで溜めていた思いを吐き出すかのように叫んだ。
「お前の申し出は、本当にありがたい……! 感謝する」
〈蝿〉を――鷹刀一族の血統を示す、美麗な面持ちの『彼』を、真正面から見据えた。
彼とは、何度も、こうして対峙してきた。
敵として、いがみ合い、刃を交え、殺し合うために向き合ってきた。
けれど、今は――。
ルイフォンが立ち上がると、メイシアがすっと、あとに続いた。
そして、ふたり揃って、深く頭を垂れる。
ルイフォンの編まれた髪が背中から流れ落ち、『彼』と絆を結ぶかのように、毛先を飾る金の鈴が何度も彼我を行き来した。
「何を、そんな改まって……」
頭上から聞こえた〈蝿〉の驚きの声は、明らかに演技めいていた。それを、照れ隠しだと感じたのは、ルイフォンだけではないだろう。
「ただの恩返しですよ」
〈蝿〉は素っ気なく言い放つ。
さっさと顔を上げて、もとの場所に座れ、話しにくいだろう――と、言外に言っていた。
「メイシアにとって、私は親の仇です。なのに彼女は、作られた『私』という存在を憂い、救いをと願ってくれました」
促されてソファーに戻ったルイフォンとメイシアに、〈蝿〉は穏やかな声で告げる。
「『娘』に、いろいろと『私』のことを話してくれたのでしょう? そうでなければ、娘と私の対面など、あり得なかったでしょうからね」
メイシアに向かって、彼は微笑む。
「借りた恩は、きちんと返す。それがケジメです」
断言する、低い声。
〈蝿〉の瞳には、強い意志があった。
そうでなければ、自ら『呪い』に立ち向かうような選択などしないのだ。
「それに、私は、物ごとは合理的であるべきだと考えます」
言いながら、彼は、すっとリュイセンへと視線を移した。
「私は、リュイセンに下りました。――一騎打ちを挑まれ、どちらかが滅びるのだと言われたとき、過去の遺物でしかない私が、彼の作る未来に道を譲るのが筋であると考えたためです。何しろ、私の求めるものは、この世に存在しないのですからね」
遠い目をする〈蝿〉に誰もが呼吸を乱し、けれど、誰も何も言うことができない。
〈蝿〉には当然、周りの感情が読めていたであろう。けれど、彼は調子を変えずに続けた。
「ですが、ふと、メイシアが〈悪魔〉になっていることを思い出しましてね。ならば、この身は、無為に首を刎ねられて散らすより、王族の『秘密』を口にして果てたほうが、よほど役に立つと考えた次第です」
〈蝿〉は皆の顔を見渡し、問いかける。
「そのほうが、リュイセンの作る『誇り高き鷹刀』の人間らしいでしょう?」
謳うように。
唱えるように。
「最高に〈悪魔〉らしく、最高に『鷹刀』らしく。そして、最高に『私』らしい……」
〈蝿〉の――『彼』の口元が、穏やかにほころぶ。魅了の力を持った、魔性の微笑みだ。
「私の息の根を止めるのは〈悪魔〉に掛けられた『呪い』です。私は自ら命を絶つわけではないので、妻との約束も守られます。――最高の終幕です」
そのとき、不意に〈蝿〉の視線がミンウェイに向けられたように、ルイフォンには思えた。先ほどまで、彼の腕の中で幼子のように泣きじゃくっていた『娘』を見つめ、愛おしげに切なげに目を細めている。
「……っ」
ルイフォンは息を呑んだ。顔色が変わりそうになるのを必死に抑える。
〈蝿〉が念を押すように最後に付け加えた言葉の中に、〈蝿〉が口にしなかった、もうひとつの意図に――もうひとつの『最高』に気づいてしまったのだ。
〈蝿〉が鷹刀一族の裁きを受けるということは、一族の誰かが彼を殺すということだ。それが誰であっても、ミンウェイの心に影を落とすことになるであろう。そして、今までの経緯からすれば、その役目はリュイセンに委ねられる可能性が極めて高い。
――このままでは、ミンウェイとリュイセンの間に、しこりが残る。
だから〈蝿〉は、〈悪魔〉に掛けられた『呪い』に殺されることにしたのだ。
勿論、メイシアへの贖罪の気持ちは本物だろう。けれど、自分の死に、メイシアを救うという大義ができること、それを隠れ蓑に、ミンウェイの未来を守ることの意義は大きいに違いないから……。
「……最高の終幕だ」
思わず、言葉が口を衝いて出た。
憎々しい敵であったけれど、今だって許したわけではないけれど、それでも敬意と称賛を込めて、ルイフォンは口の端を上げ、晴れやかに笑う。
その顔を〈蝿〉がどう捉えたのかは分からない。彼は一瞬、戸惑いに瞳を揺らし、それから、ミンウェイに向けるのと同じ、愛しみの表情を浮かべた。――未来を託すと告げるように。
「それでは――」
〈蝿〉は居住まいを正した。
「できる限り、この私の口からお話ししたいのですが、ほんのひとこと、ふたこと話しただけで、すぐに私の心臓は止まってしまうかもしれません。今も、『秘密』を漏らす意思を持っただけで、私の内部で『呪い』がもたげたのを感じていますからね」
〈蝿〉は白衣の胸を押さえ、自嘲めいた笑みを浮かべる。節くれ立った指には強い力が込められているのだろう。血流の悪くなった白い甲に、青く血管が浮き立っていた。
「ですから、これを……」
言いながら〈蝿〉は、胸にあてた手をポケットへと滑らせ、小さな記憶媒体を取り出す。
「私が途中で、こと切れた場合の保険です。――ここに、王族の『秘密』のすべてが記されています」
額にうっすらと冷や汗を浮かべた〈蝿〉は、しかし、しっかりとした足取りでルイフォンへと歩み寄り、恭しく片膝を付いて記憶媒体を捧げた。
「〈蝿〉、顔色が……」
ルイフォンの隣で、メイシアが悲鳴のような細い声を上げる。
「なんて顔をしているんですか。〈悪魔〉がここまですれば、当然の帰結。あなたも〈悪魔〉の記憶があるのなら、ご存知でしょう?」
「〈蝿〉……」
「けれど、記憶媒体を渡した程度で、くたばる私ではありませんよ。まだ中身を読まれたわけではないですしね」
小馬鹿にしたような口調は相変わらずで、なのに、どこか優しい。
〈蝿〉は労りの言葉など望んでいないのだ。だからルイフォンは、小さくて重い〈蝿〉の命そのものの記憶媒体を握りしめ、畏敬を込めて彼に応える。
「確かに、受け取った」
〈蝿〉の顔が安堵に緩んだ。
そして、彼は席に戻り、朗々たる声を響かせる。
「まずは、王の持つ、異色の外見について、お話ししましょう」
天空の間に、沈黙が落ちた。
誰もが固唾を呑み、身じろぎひとつしない。
「輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、この国の王。黒髪黒目の国民の中で、何故、王は異色をまとっているのか。――創世神話では、天空神の姿を写しただのと謳われていますが、まさか、そんな与太話を信じているわけではありませんよね?」
皮肉げな口調で尋ねる〈蝿〉に、ルイフォンはすかさず、「当然だ」と答える。
「何かの偶然か、異国の血が混じっているのか、ともかく『あの外見』の者が生まれる一族があった。そいつらが国を取る野心を抱き、円滑な支配のために自分たちを神格化する神話を作った。――そんなところだろ?」
「ほぅ、鋭いですね」
〈蝿〉は嬉しそうに感嘆の声を上げた。打てば響くような返事は、彼の好むところなのだ。
「だいたい合っていますよ」
「だいたい?」
「ええ。王の持つ異色は、きちんと医学的に証明できるものです。おそらく、あなただってご存知のことでしょう」
「え……? 俺も、知っている……?」
首をかしげたルイフォンに、〈蝿〉は虐げられた者がまとう、昏い炎を揺らめかせる。
「あなたに限らず、ある程度の知識階級の者なら知っています。なのに、宗教国家として、王を神の代理人として崇めるこの国では、民は無意識の内に『その可能性』に目をつぶってしまっているのですよ」
不意に、〈蝿〉の手が白衣の胸を強く掴んだ。美貌が苦痛に歪み、凄みのある美を作り出す。
「王の異色――あれは、先天性白皮症に依るものです」
告げた瞬間、彼は体をふたつに折り曲げた。脂汗がだらだらと流れ、顔色が蒼白になる。
「〈蝿〉!」
「まだまだ、話はこれからです。――創世神話の真実を、これから、きっちり暴いて差し上げますよ」
禍々しくも美しく、〈神〉に反旗を翻した〈悪魔〉が傲然と言い放つ。
額に張りつく前髪を鬱陶しげに払いのけ、〈蝿〉は実に嬉しそうに哄笑を上げた。
4.神話に秘められし真実-2
「王の異色が、先天性白皮症!? そんな、まさか……」
この場で〈蝿〉が嘘を言う理由など、あろうはずもない。しかし、不意を衝かれたような衝撃の告白に、ルイフォンは叫ばずにはいられなかった。
「先天性白皮症なら、髪が真っ白で、目は赤だろ? 王は淡い金髪だし、目なんか暗い感じの青だ」
ルイフォンは、喰らいつくように言い放つ。だから、色が違う、と。
しかし、彼の耳に、鋭く息を呑む音が飛び込んできた。
振り返れば、発生源は少し離れたところに座るミンウェイだった。彼女は切れ長の目を大きく見開き、同じく大きく開かれた口元を両手で覆っている。医者である彼女には、思い当たる節があるのだ。
ルイフォンの直感を肯定するかのように、〈蝿〉の低い声が響いた。
「まぁ、多くの人間がそう思い込んでいるのは知っていましたがね」
底意地の悪い顔で、皆の様子を窺っていた〈蝿〉は、わざとらしいほどに大きな溜め息を落とす。
「先天性白皮症というのは、先天的に色素が欠乏した状態を指します。色素がほとんどなければ、確かに髪は白くなり、目は血管が透けるために赤くなります。しかし、王の一族の場合は色素が『少ない』だけですから、本来の黒髪黒目から色を減らした結果、あのような容姿になるわけです」
「――!」
「付け加えて言うのなら、王の一族の顔立ちは、どう見ても、この国の人間のものです。先祖に、白金の髪と青灰色の瞳の異国人がいて、時たま先祖返りが起こる――というのでは、説明がつかないでしょう?」
「じゃあ、本当に……、先天性白皮症……」
ルイフォンは愕然と呟く。
彼は勿論、天空神フェイレンの存在など信じていなかったし、王が神の代理人を名乗るのは、単に国を統治するのに都合がよいからだと考えていた。つまり、王に神聖など、まったく感じていなかった。
それでも。
名前のつけられる症状が、王の異色の正体とは、思ってもいなかったのだ……。
ルイフォンに限らず、誰もが呆気にとられていた。〈悪魔〉の〈蛇〉の記憶を持つメイシアだけが、周りに対して、いたたまれない気持ちなのか、眉を曇らせている。
――否。同じく〈悪魔〉である〈蝿〉も、困ったような苦い顔をしていた。
「そうですね、容姿に関してだけなら、単なる先天性白皮症です。しかし、この国の王の一族が『特別』であることもまた、事実なのですよ」
「どういうことだ?」
忌々しげに言う〈蝿〉に、ルイフォンは間髪を容れずに尋ねる。
「そうですね。では、この国の王の起源をお話しいたしましょう」
そうして〈蝿〉は、語り始める。
王家と、王家を影で支える〈七つの大罪〉の〈悪魔〉たちのみが知る口伝。
創世神話の裏側に秘められた、もうひとつの――真の創世神話を。
神代と呼ぶべき遥かな昔。今の王朝が誕生する以前の、古の王の時代。
この国の片隅に、先天性白皮症の者が多く生まれる隠れ里があった。閉ざされた辺境の地では自然と近親婚が多くなるために、潜性遺伝である先天性白皮症が発症しやすかったのである。
あるとき、地方の視察に来た官吏が、この里の存在に気づいた。
黒髪黒目の人間しか見たことのなかった彼は、輝く白金の髪と澄んだ青灰色の瞳を持つ人々の美しさに目を奪われた。人とは思えぬ、神秘的な姿に魅せられた彼は、これは神の使いに違いないと、ひとりの娘を連れ帰り、王に献上した。
王もまた、異色の美しさにすっかり魅了された。
更に――。
奇しくも、その時分、王都では日照りが続いており、王は頭を悩ませていた。それが、どういう偶然か、娘が王宮に来た途端、雨が振り始めたのだ。そのため、王は、娘には神秘の力があるのだと信じ込んだ。まさに、神から遣わされし者である、と。
そして、王は考えた。
神秘の力を他の者に渡してはならぬ。王である我こそが、すべてを手に入れるにふさわしい。
「異色の者をすべて捕らえよ」
王は里を攻め滅ぼした。
黒髪黒目の者は殺され、異色の者は神殿に閉じ込められた。
「このとき捕らえられた先天性白皮症の者たちが、今の王家の起源となります」
〈蝿〉は、額の汗をすっと拭いながら告げた。
顔色が悪かった。体の中を『呪い』が駆け巡っているのだろう。しかし、きちんと伝えねばという意志の力なのか、揺るぎのない発音の、よく通る声だった。
「王族の先祖は、もとは被害者的な立場だったのか……」
吐息と共に、ルイフォンはそう漏らす。王族の祖は、異色を振りかざして支配者の座にのし上がったものだとばかり思っていたため、彼としては意外な事実だった。
「ええ。随分と非道な目に遭ったようですよ」
「非道? 古の王は、彼らを『神の使い』だと信じていたんだろ? ……言い方は悪いけど、愛玩動物みたいな扱いだったとしても、彼らのことは大切に……」
ルイフォンの言葉の途中で、〈蝿〉の口角が、ぐっと上がった。その『悪魔』然とした表情の意味を察したルイフォンは眉をひそめ、視線で〈蝿〉に発言を譲る。
「古の王は、やがて、あまりにも美しい彼らは『人』ではなく、神に捧げるための『供物』であると考えるようになりました。『神事』と称して一定期間ごとにひとりずつ、彼らの四肢を切り落とし、臓腑をえぐり……。自らが神と一体化するために、搾り取った生き血を飲んでいたとか」
「……っ」
人倫にもとる残虐な行為に、吐き気がこみ上げた。
顔をしかめたルイフォンに、〈蝿〉は同情のような目を向けつつも、淡々と付け加える。
「別に、古の王に限らず、現代でも先天性白皮症には不思議な力があると信じ、彼らの体を闇市場で高値で取り引きしている国もありますよ。そういった地域では、先天性白皮症の子供がさらわれるのは勿論、大人だって突然、切りつけられ、腕などを奪われることがあるそうです。古今東西を問わず、狂った人間の考えることは変わらないものですね」
「……ともかく。虐げられた彼らが古の王朝を斃し、新たな王朝の始祖となった。それが今の王族――というわけだな」
不快な話題を切り上げようと、ルイフォンは王族の話へと水を向けた。
それに、〈蝿〉の体は、いつまで保つのか分からないのだ。端的に話をまとめたほうが、彼の負担が減るだろう。――そう思ってのことだった。
だが、当の〈蝿〉の反応は芳しくなかった。
「結論からいえば、そうですけどね」
気の早い子供をたしなめるかのような〈蝿〉の口調に、ルイフォンは、むっと鼻に皺を寄せる。
「含みのある言い方だな」
「あなたの理解が早いのは、非常に結構。私としても有難いです。――ですが、今の場合は、どうして先天性白皮症の者たちが、古の王朝を滅亡に追い込むことができたのか。その過程が大事なのです。それこそが、王族の『秘密』なのですから」
「!」
『秘密』のひとことに、ルイフォンの顔色が変わる。現金なものだと、〈蝿〉が小さく苦笑したが、構うことはない。顎をしゃくって続きを促す。
「先天性白皮症は『弱者』なのですよ。基本的には普通の人間と、なんら変わりはありませんが、彼らは色素の欠乏に起因する、ふたつの困難を抱えています」
〈蝿〉はそこで言葉を切り、皆の注目を集めるかのように、こほんと咳払いをする。
「ひとつは『肌が弱いこと』。これは皮膚で紫外線を遮断できないためで、色白の人がうまく日焼けできないのと同じ理屈です。そして、もうひとつは――」
〈蝿〉の声が、一段、低くなった。
これから話すことこそが重要なのだという、暗黙の前置きだ。
「『視力が弱いこと』。色素不足のために、網膜が光を充分に受け取ることができません。先天性白皮症の者の多くが、視力障害に悩まされているのですが、王族の一族の場合は、それが特に顕著で……」
そのとき、〈蝿〉の体が、びくりと跳ねた。
胸を押さえ、身を震わせながら、うつむく。白髪混じりの髪が落ちてきて、苦痛に歪む顔を隠すことで、彼の矜持を保とうとした。
そして彼は、うめくような声で告げる。
「男子は……必ず、……盲目となります」
それまでの明瞭な発声が嘘のように、荒い呼吸に呑み込まれていた。それでも〈蝿〉は、紛うことなく断言し、……ソファーに倒れ込んだ。
「お父様!」
ミンウェイが駆け寄る。
涙を浮かべる彼女に、〈蝿〉は脂汗で貼り付く髪を掻き上げ、地の底から這い上がってきたような壮絶な微笑を向けた。
「まだ、……大丈夫だよ。……だから、私の終幕を……見守っていておくれ……」
こめかみに浮き立った血管が、青白く脈打つ。ルイフォンは、〈蝿〉の形相に圧倒されながらも、……首をかしげていた。
王が盲目だという情報は、確かに驚きである。だが、それは〈蝿〉にこれほどの苦痛を与えるような『秘密』だろうか?
――答えは否、だ。
ならば、どういうことだろう?
そう考えたとき、はっと閃いた。
「『弱者』である先天性白皮症の彼らが、古の王を斃すなんて不可能だった。――でも、『盲目であることが原因で』、勝利を収めたんだな!?」
ルイフォンがそう言った瞬間、〈蝿〉は驚愕に目を見開き、やがてそれは破顔に変わった。
その顔を見れば、正解と決まったも同然。ルイフォンは勢いづいて言葉を重ねる。
「〈蝿〉、お前は、そう話を持っていきたかったんだな? 『盲目』に端を発する『何か』こそが、王族の『秘密』だ!」
「あなたは……理解が早く……、助かります……」
〈蝿〉は、ミンウェイに支えられるようにして起き上がった。
そして彼は、懸命に伝承を唱え、『神話』を紐解いていく――。
先天性白皮症の者たちの隠れ里を滅ぼした古の王は、神の力を手に入れた王として栄華を誇り、天寿を全うした。古の王朝は、ますます繁栄し、勢力を拡大していった。
一方、捕らえられた異色の者たちは、神殿に閉じ込められたまま世代を重ねた。
そんな、あるとき。
恐怖に震えながら『供物』となる日を待つしかない、ひとりの異色の少年は願った。
「せめて、この目が見えれば……!」
本懐は遂げられなくとも、不倶戴天の敵に一矢報いたい。
武器など手にしたこともない身の上だ。何ができるわけでもないだろう。
だからせめて、『供物』となるそのときに、憎き相手の首に食らいつきたい。同胞を食らったその肉体を、今度は自分が食らってやるのだ。――たとえ皮膚の一片しか、食いちぎることができなかったとしても。
けれど、目の見えない彼には、闇の世界の何処に敵がいるのかすらも分からない。
「我が身の周りは、どんな世界なのだ?」
彼は、『情報』を求めた。
盲目の身では、自らの力で『情報』を得ることは叶わない。
ならば、欲しい『情報』は他者から奪えばよい――。
「生物の体は不思議なものです。先天的でも後天的でも、何か足りない部位があれば、他の部位で必死に補おうとします。例えば、足が不自由なら、代わりに腕の力が鍛わったり、義足をうまく使いこなすために、本来ではない筋肉を発達させたり、とかですね」
しばらく荒い呼吸を繰り返していた〈蝿〉だが、次第に落ち着いてきた。いつもの高飛車な説明口調が戻ってきたことに、ルイフォンは安堵する。
「盲目の者は、一般の人よりも感覚が鋭敏になるといわれています。けれど、王族の祖先は、そんな程度では満足できませんでした。『正常な視覚を持つ者と、同じものを見たい』と願ったのです。だから――」
〈蝿〉は、思わせぶりに、ほんの少しの間を置いた。それから、ゆっくりと告げる。
「自分の脳を発達させて、他者の『視覚情報』を奪うことにしたんですよ」
「『視覚情報』を奪う!?」
突拍子もない〈蝿〉の発言に、ルイフォンは素っ頓狂な声を張り上げた。
すると、〈蝿〉は低く喉を鳴らし、してやったりと言わんばかりに口角を上げる。
「クラッカー〈猫〉の名を継いだあなたが、何を驚いているのです? 『欲しい情報は奪えばいい』――あなたがしていることと、まったく同じでしょう?」
〈蝿〉は愉悦に目を細め、白々しさにまみれた声色で肩をすくめた。
「はぁっ!? いや、まったく違うだろ!?」
ルイフォンは全力で反論するが、〈蝿〉は意に介さない。
それどころか、期待通りの反応に、こみ上げてくる笑いが止まらないといった素振りで小刻みに肩を揺らし始めた。先ほどまでは苦痛で体を震わせていたため、不安がよぎって心臓に悪い。
「人間の脳は、常に微弱な電気信号を発し続けています。つまり、その信号を感知できれば――要するに傍受できれば、相手が知覚した事柄の『情報』を得られます。自身は盲目でも、他人の目が見た『視覚情報』さえ手に入れば、『同じものを見た』ことになる、というわけです。だから、王族の祖先は、脳を『発達』というよりも、独自に『進化』させたのですよ」
「そんな馬鹿な! そんなことが人間にできるわけが……」
叫びかけたルイフォンを遮るように、〈蝿〉が禍々しく昏い眼光を放った。闇をまとった威圧の力に、思わず言葉を呑み込む。
「発端は、他者の『視覚情報』を感知できるようにと、脳を進化させたことでした。けれど、他人の脳の電気信号を読み解けるということは、他者の『知覚情報』全般を、ひいては『記憶情報』までもを知ることができるようになった――ということです」
「!?」
ぞわりと。本能的な嫌悪を感じた。
戦慄にも近い感覚に困惑し、だからルイフォンは、〈蝿〉の顔から血の気が失せていることに気づかなかった。
「こうして、王族の祖先は『他者の脳から、情報を奪う』能力を得たのですよ。――まさに、あなたと同じ侵入者。他者の神経回路に――『脳』に、侵入する……ね」
「――!」
ルイフォンは息を呑み、そして――。
「〈天使〉……!」
かすれた声で呟いた。
その言葉を引き出せたことに、〈蝿〉は実に満足そうに嗤った。――紫色の唇で。
「ええ、そうです……。〈天使〉は……、近代になってから、王の脳の神経細胞をもとに……、王の能力を人工的に再現……、改良されたもの……。王は……手も触れずに、情報……得られますが……、〈天使〉は羽で接続……その代わり、使い勝手が……よい。無線接続と有線接続……違いはあれど……根源は同じ……」
「…………」
「〈天使〉を知るあなたなら……、王の能力が真実だと……、信じられましたね……?」
「……ああ」
「これが…………王族の『秘密』……。王は……、他者の……記憶を……読み取れます……。創世神話の通り……でしょう? 王は……『地上のあらゆることを見通す瞳』を……持つ……」
皮肉げにそう告げると、〈蝿〉の体は、ぐらりとかしいだ。
支えようとしたミンウェイの手よりも早く、前のめりに体がふたつに折れる。
「〈蝿〉!?」
「ルイフォン……。あなたにとって、〈天使〉は……特別。気になる……でしょう。……ですが、〈天使〉については、……あとで、セレイエの記憶を持つメイシアに……。ここまで私……話せば……大丈夫。それより……、私の口からは……、王族と鷹刀の関係について……話しておきたい……」
全身を痙攣させながら、〈蝿〉は地底から響くような声で告げた。
「お父様……!」
ミンウェイは床に膝を付き、下から〈蝿〉の顔を覗き込む。
〈蝿〉は、わずかに顔を上げ、震える手で彼女の頭を撫でた。そして、歯を食いしばり、よろよろと体を起こす。
「横になってください!」
悲鳴を上げるミンウェイに〈蝿〉は微笑み、白衣の内ポケットから注射器を取り出した。
「!?」
皆が困惑する中、彼は長袖の腕をまくろうとし……、急に、何かを閃いたかのように口の端を上げて、白衣を脱ぎ捨てた。
勢いよく放り投げられた白衣は、煌々としたシャンデリアの光を遮り、黒い影となる。
それはまるで、彼が悪魔の黒い翼を捨て去ったかのよう――。
〈蝿〉は改めて、下に着ていたシャツの腕をめくり、自分の腕に注射針を刺す。
「お父様、何を!?」
「鎮痛剤……だよ。……麻薬……ともいうけど……ね」
だらだらと額から汗を流しながらも、〈蝿〉は楽しそうに軽口を叩く。
「幸い、この『私』の体は、……オリジナルと違って、毒も薬もよく効く……。まさか、そんなことを有難いと……思う日が来るとは……」
顔色は戻らぬものの、痛みが収まってきたのか、〈蝿〉は大きく息を吐いた。ゆっくりとした呼吸を繰り返したのちに、彼は皆と正面から向き合う。
「鷹刀についてだけは、どうしても私の口から話しておきたいのですよ」
そして彼は、一点に向かって深く頭を垂れた。
彼が認めた次代の一族の担い手、リュイセンへと――。
「私は、鷹刀の者であるのだから」
4.神話に秘められし真実-3
「王族と鷹刀の関係については、義父イーレオが因縁を断ち切った今となっては、もはや過去の歴史。未来を生きる、あなたたちにとっては興味のない話かもしれません」
血の気が失せ、白蝋のような色合いとなった〈蝿〉の美貌。落ち窪んだ眼窩には、深い陰りが入り込み、はっきりとした死相が表れていた。
だのに彼は、朗々たる低音で、静かに告げる。
「ですが、私は鷹刀の者として、伝えておきたいのです。――何故、我が一族が、〈贄〉として王族に求められてきたのかを」
「〈贄〉……!」
小さく呟いたのは、エルファンだった。氷の無表情にひびが入り、緊張をはらんだ眉間に皺が寄る。
逆にいえば、他の者の反応は、得てして希薄だった。〈蝿〉が言ったように、それは過去の話であり、エルファンのように直接的な恐怖を味わったことがないからだ。当事者ではないので、どうしても傍聴の姿勢になってしまう。
それでも、厳粛に過去を受け止めようと、ルイフォンは猫背を正した。一本に編まれた髪が、まっすぐに伸びる。毛先を飾る金の鈴もまた、神妙な構えを取る。
しかし、次の瞬間。
〈蝿〉のひとことを聞くと同時に、金の鈴は飛び上がった。
「端的にいえば、〈贄〉とは『〈冥王〉の餌』です」
「『〈冥王〉』――!?」
「おや、ご存知でしたか?」
思わず腰を浮かせたルイフォンに、〈蝿〉は目を瞬かせた。軽く首をかしげ、過剰ともいえる反応の理由を無言で求める。
「『それ』は〈悪魔〉にとっての禁句だろ? 『〈冥王〉』と言った途端、親父も、メイシアも『呪い』に苦しみ始めた」
「ほう。なるほど」
得心がいったように頷く〈蝿〉に、ルイフォンは慌てて付け加える。
「でも、俺が驚いたのは、名前を知っていたからじゃねぇ! 母さんが『〈冥王〉を破壊する』と言っていたからだ! 〈冥王〉は〈天使〉の力の源だから。セレイエが〈天使〉の宿命から解放されるように、って」
それは、直接、母から聞いたことではない。鷹刀一族の屋敷の地下にいる〈ベロ〉に、教えてもらったことだ。
しかし、間違いなく、母は、ルイフォンが〈冥王〉を破壊することを願っている。
セレイエや〈天使〉が関係するから、というのは勿論あるが、そもそも、〈七つの大罪〉の技術の象徴として、〈冥王〉は、あってはならないものと捉えていた節がある。
〈贄〉については、過去の話かもしれない。
けれど〈冥王〉は、現在の問題だ。
「〈蝿〉、教えてくれ! 『〈冥王〉』とは、いったい『何』だ!? 場合によっては、俺は母さんの遺志を継いで、そいつを破壊する!」
金の鈴を煌めかせ、斬り込むようにルイフォンは叫ぶ。
一方、〈蝿〉は驚愕の形相で固まっていた。
「〈冥王〉を破壊!? そんなことが可能なのか……?」
にわかに研究者の顔になり、口調も変わる。
「〈蝿〉……?」
「あ、ああ、失礼。……あなたが、あまりにも荒唐無稽なことを言うものですから」
「そんなに突拍子もないことなのか?」
「ええ――。……いえ。ひょっとしたら、可能なのかもしれません。――あなたなら」
〈蝿〉は、ふっと口元をほころばせ、そして、いつもの調子に戻った。
「私の昔語りが、過去の感傷で終わるのではなく、あなたの未来に繋がるというのなら結構なことです」
恩着せがましいような、高圧的な物言い。愉悦を含んだ瞳が、すっと細められる。
〈蝿〉の体は、もはや限界のはずだ。先ほど、鎮痛剤だか、麻薬だかを投与して、無理やりに意識を保っているだけだ。
なのに、どうして、相変わらずの高飛車な姿勢を見せようとするのだろう?
……分かっている。
最期だからこそ、自分らしく在りたいのだ。
最期だからこそ、敵対していたルイフォンには、付け焼き刃の友好を示すよりも、敬意を表した憎まれ口を叩くのだ。
「〈冥王〉が誕生するまでの歴史を語ることになりますからね。あなたにとっては退屈な昔話かもしれませんよ」
〈蝿〉は、にやりと唇を歪めた。
先ほど、話を切り出したときの反応の薄さに対しての嫌味だろう。どこまでも彼らしい彼に一種の清々しさを覚えながら、ルイフォンは好戦的な眼差しで応える。
「構わない。頼む」
王族の祖先は『他者の脳から、情報を奪う』能力を得た。いわば『読心』の能力である。
初めは、ひとりの先天性白皮症の少年に固有のものであった能力は、いつしか王族の一族の『異色を持つ、すべての男子』に発現するようになっていた。すなわち、能力を願う発端となった『盲目』の者たちである。
けれど、それだけで古の王朝を斃せたわけではなかった。心が読めたところで、彼らが非力な弱者であることに変わりはなかったからだ。
神への『供物』であった彼らは、神殿の奥深くに閉じ込められていた。彼らが接触できるのは、世話係や警護役など、ごく少数の人間のみ。
あるとき。彼らは、ひとりの警護役に目をつけた。
その警護役は、武勲によって、神殿の守護を任されるまでに取り立てられていたが、もとは王族の一族と同じく、滅ぼされた村の出身だった。故に、同郷の者たちと徒党を組み、古の王朝に対して謀反を企んでいたのである。
心が読める王族の祖先は、その計画を事細かに知ることができた。反逆の証拠の在り処すらも、手にとるように分かった。
彼らは、警護役の一族に迫った。
自分たちと手を組むか。それとも、謀反の計画を古の王に暴露してもよいか――と。
逆上した警護役に口封じに殺される、などという心配は要らなかった。警護役にとって、『供物』である彼らは守護の対象。『供物』が死ねば、警護役は責任を問われて処刑されるだけだ。
警護役の一族に、選択の余地はなかった。
もとより、神殿に住む異色の『供物』たちが、『読心』などという人智を超えた力を示せば、普通の人間である警護役の一族は、畏れをなすしかなかったのである。
こうして、王族の一族は、警護役の一族を配下に収めた。
やがて謀反は成功し、古の王朝は滅びを迎えた。国家転覆の立役者は、いわずもがな警護役の一族である。
しかし、当然のように玉座に腰を下ろしたのは、輝く白金の髪と澄んだ青灰色の瞳を有し、摩訶不思議な力を持った王族の一族の長。
異色を持つ者は〈神の御子〉を自称し、『神の代理人』を名乗って、この国を治めることとなる――。
〈蝿〉の眼差しは、怨嗟に満ちていた。不審に思いながら聞いていたルイフォンは、そこで、はっと気づいた。
「まさか……、警護役の一族って、鷹刀の先祖……」
「ご明察です」
〈蝿〉は慇懃に頷くと、皮肉げに口の端を上げた。
「鷹刀は、もとは『鷹の一族』と呼ばれていました。新しい王朝で、王の護衛の一族を任じられたときに、『鷹刀』の名が与えられたのです。――鷹刀は、王族に重く用いられていました」
話の内容とは裏腹に、〈蝿〉の口元に寄った皺が濃くなり、禍々しさが、ぞくりと深まる。
「弱者である『盲目』の王にとって、護衛は身を守る大切な砦。自身の一部のように思っていたのでしょう。政の役人などよりも、よほど信頼をおいていたといわれています」
「あ、そうか。王は、目が見えないんだったな」
王族に興味のないルイフォンとしては、正直なところ、どうでもよい話なのだが、それでも自国の王の盲目に、まったく気づかずにいたというのは一杯食わされたような気分だった。
なんともいえない溜め息を落とすと、〈蝿〉が正すように言う。
「現在の女王は、たとえ弱視であったとしても盲目ではありませんよ。盲目なのは、〈神の御子〉の男子のみ。伴性遺伝といって、女性は因子があっても表に出ないのです。色覚異常が男性に多い理由と同じなのですが、王族の場合、複雑で極端な……」
〈蝿〉は半端なところで言葉を止め、自嘲した。
「あなたに専門的なことを説明しても仕方ありませんね」
「……」
確かにその通りなのであるが、面と向かって言われるのは癪に障る。憮然とするルイフォンに、〈蝿〉は澄ました顔で続ける。
「それよりも、この先の話が、あなたのお待ちかねの〈冥王〉の誕生に繋がるのですよ」
「!」
息を呑み、猫の目を大きく見開くと、掛かったなとばかりに〈蝿〉が悦に入るが、構いやしなかった。ルイフォンは襟を正し、耳をそばだてる。
「ともかく、王は男子で、盲目です。現在では女王も認められていますが、あくまでも『仮初めの王』。男尊女卑の意味合いがないとは言い切れませんが、それよりも目の見える彼女たちには例の能力が発現しないから、というのが理由です」
淡々と告げる〈蝿〉に、ルイフォンは黙って頷く。
「王は、周りから『視覚情報』を奪えますが、やはり盲目というのは弱点といえます。一国の王という立場は、隙あらば、いつでも寝首をかかれかねないものですからね。用心のため、盲目であることは隠され、万一のときの切り札となる能力のことは王族の『秘密』とされました。そして――」
〈蝿〉の声が、一段、低くなる。
「盲目で、臆病者の王は、信頼する鷹刀の護衛を片時も傍から離さず……、――死んだあともなお、自身の亡骸と共に、生きたまま埋葬させたのですよ」
「……え? 生き埋め……だと……!」
ルイフォンは耳を疑った。
「貴人が死後の世界で困らぬようにと、生きた侍従を埋める風習は、世界各地にあります。別に珍しくもないでしょう」
「なっ……!」
反射的に叫びかけて、ルイフォンは途中で止めた。
軽薄な口調とは裏腹に、底なしの闇をたたえた〈蝿〉の瞳が、じっとルイフォンを捕らえていたのだ。
「ただし、鷹刀の場合は――」
言を継ぐ〈蝿〉の微笑が、酷薄に染まる。
「初めは、単なる死出の旅路の供でしたが、のちに事情が変わりました」
〈蝿〉の声は、まるで冥界の淵から響いてくるかのような怨讐の嘆きであった。
一族特有の美麗な顔貌は、彼のものでありながら、彼のものではなかった。『鷹の一族』と呼ばれていた古き時代から彼にたどり着くまで、脈々と受け継がれてきた血族たちの怨嗟を凝縮し、彼という姿を借りて語っていた。
ルイフォンは戦慄を覚え、知れず、身を固くする。
「事情が変わった……? 何が起きた?」
「ですから、〈冥王〉ですよ」
〈蝿〉の薄ら笑いが不吉に響く。
「鷹刀の者が生き埋めにされた王の墓所で、〈冥王〉が誕生したのです」
「どういう意味だ!? わけが分からねぇぞ!」
焦らすような〈蝿〉の言い回しに、ルイフォンは半ば激昂しながら叫ぶ。
「あなたへの説明は、医者である私の認識よりも、あなたの母親を〈天使〉にした男――〈悪魔〉の〈蠍〉の言葉を借りたほうが分かりやすいでしょう」
「〈蠍〉……?」
ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
〈蠍〉が母にした仕打ちを思うと名前を聞いただけで虫酸が走るが、技術的な面では、母が〈蠍〉の弟子である以上、ルイフォンは〈蠍〉の孫弟子。――つまり、同類だ。
「彼は、こう言っていました」
冷徹な〈蝿〉の声が、静かに紡がれる。
「『〈冥王〉とは、死んだ王の脳細胞から生まれた、巨大な有機コンピュータだ。鷹刀の人間の血肉を喰らい、動力源とする――な』」
「有機……コンピュータ……。……鷹刀の血肉を……喰らう……」
壊れかけの機械が空回りするように、ルイフォンのテノールが意味もなく〈蝿〉の言葉を繰り返す。
「『王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。――これが〈冥王〉の正体だ』」
〈神の御子〉の男子は、『他者の脳から、情報を奪う』。
初めは『傍らにいる他者』から情報を得る程度のものであったのが、徐々に国中の人間へと有効距離を伸ばしていった。
複数の〈神の御子〉の能力が絡み合い、繋がり合い、盲目の彼らのみが感知できる特殊な情報回路が形成されたために、能力の及ぶ範囲が広がったのだといわれている。
貪欲に情報を求めたことから生まれた能力は、やがて暴走を始めた。
国中に広く張り巡らされた不可視の情報回路は、ありとあらゆる情報を無制限に収集した。その結果、情報の管理者である彼らの脳に、過剰な負荷が掛かるようになったのだ。
独自の進化を遂げたことにより、彼らの脳は常人よりも遥かに大きな容量を持っていたが、あまりの情報量に限界を超え、命を落とす者まで現れた。
そんな、あるとき――。
時の王の葬儀のあとで、ひとりの神官が、とある神儀を執り行った。
彼は『神官』という肩書きを賜ってはいたが、彼に与えられた仕事は『〈神の御子〉の能力の解明』。すなわち、彼は研究者であり、彼の行った『神儀』とは王命による実験だった。
生前、時の王は、脳への過負荷による〈神の御子〉の死を憂い、神官に命じて対処法を考えさせた。そして神官は、王の脳細胞をもとに無限の容量を持つ『人工の脳』を作り出し、連携させることで、〈神の御子〉の負荷が分散されるという仮説を立てた。
故に、王は自分の死後、自分の骸を使って仮説を確かめるよう、言い残して逝ったのである。
王の墓所にて、神官は王の脳から神経細胞を遊離させた。
しかし彼は、実のところ、命なき王の細胞では無意味な作業だと考えていた。だからといって、生きた〈神の御子〉の脳を差し出せなどと言えるはずもなかったのだ。
『神儀』は失敗に終わるはずだった。
だが、奇跡が起きた。
王の脳細胞が、すぐ近くに埋められていた鷹刀一族の護衛の生気を奪い取り、白金に輝く『光』に生まれ変わったのだ。
無数の『光』は、互いに繋がり合い、『光の糸』を紡ぎ出した。
数多の『光の糸』は、互いに絡み合い、ひとつの大きな『光の珠』を編み上げた。
こうして、肉体という枷から解き放たれ、無限の増殖を可能にした、巨大な『脳』が誕生した。
光の珠の姿をした人工の脳は、神官の仮説通りに〈神の御子〉たちと連携した。〈神の御子〉同士の能力が絡み合うのと同じように、不可視の情報回路で繋がり、〈神の御子〉たちに掛かるはずの負荷を請け負った。
それ以降、莫大な情報量に押し潰されて命を落とす〈神の御子〉はいなくなった。
その一方で、『光』を維持するために、鷹刀一族の者が〈贄〉として捧げられるようになったのである。
「その『光の珠』こそが、〈冥王〉……」
ルイフォンの呟きに〈蝿〉は「ええ」と頷いた。
「この国の歴史の中では、様々な名前で呼ばれてきましたが、現在は〈冥王〉と呼ばれている『もの』。――『それ』の養分というのが、永く鷹刀を苦しめてきた〈贄〉の風習の正体です。初めに喰らったのが鷹刀の者であったがために、鷹刀の血肉で活性化するのだと考えられています」
地底を揺るがすような憤怨の声で〈蝿〉が告げる。ルイフォンは、ただ呆然と受け止めるだけだ。
「死者の細胞から生まれた『光の珠』など、学者の端くれである私が口にするのは、恥ずかしいほどの『おとぎ話』ですよ」
土気色のこめかみに神経質な青筋を立て、〈蝿〉は嫌悪もあらわに吐き捨てた。
「信じる、信じないは自由です。ただし、私は神殿に収められた『光の珠』をこの目で見ております。そもそも、私の属する〈七つの大罪〉は、『神官』の研究組織が時代と共に形を変え、現在に至った姿なのですからね」
苛立たしげにまくしたてると、〈蝿〉は疲れたのか、ソファーの背に身を預けた。
「白金に輝く『光の珠』……。光る糸を絡め合わせたような……」
ルイフォンの心臓は、〈蝿〉の話の途中から、ずっと早鐘を打ち続けていた。――〈冥王〉の特徴が、母キリファの作った〈ケル〉や〈ベロ〉に、あまりにも似ていたからだ。
「母さんは、〈冥王〉を真似て、〈ケルベロス〉を作ったんだ……」
特別に力の強い〈天使〉だった母は、人体実験体でありながら、〈七つの大罪〉内で権力を持っていた。ならば、〈冥王〉を見たことがあったとしても不思議ではない。
「〈ケルベロス〉? あなたの母親が作った……?」
〈蝿〉は気だるげであったが、それでも研究者の好奇心がうずいたらしい。鋭い視線で疑問を投げかけてきた。
「母さんは〈冥王〉を破壊するために、〈ケルベロス〉というマシンを作っ……」
ルイフォンは途中で言いよどんだ。
果たして〈ケルベロス〉は、『機械』なのだろうか? 〈冥王〉に酷似した『彼女たち』は……。
「ルイフォン?」
押し黙った彼を〈蝿〉が訝しむ。
「……今、分かった」
自分でも、はっきり分かるほど、ルイフォンの声は震えていた。
「〈ケルベロス〉も、〈冥王〉と同じ、有機コンピュータなんだ。――だから、母さんは死んだんだ。自分の脳を使って〈スー〉を作るために……」
胸が苦しい。
喉が熱い。
えづきを抑えるように身を縮こめれば、背中から金の鈴が転がってきた。
「母さん……」
死んだ王の細胞から生まれたのが〈冥王〉ならば、それに対抗して、冥界の王を守護する『地獄の番犬』で挑むとは、母も皮肉屋だ。
「……飼い犬が……手を噛みに征く――ってことかよ。……〈猫〉のくせに」
母譲りの癖の強い前髪が視界に入る。母にそっくりな猫の目をぎゅっと瞑る。
ルイフォンは掌を握りしめ、……嗚咽をこらえる。
「……ルイフォン」
澄んだ声が彼の名を呼び、温かな感触が震える彼の拳を包み込んだ。
メイシアだ。
ルイフォンは、すがるように夢中で彼女を抱き寄せる。
触れ合った肌から、彼女の鼓動が伝わってくる。優しい振動が、彼に力をくれる。
「大丈夫だ。……ありがとう」
ぐっと口元に力を入れ、口角を上げる。
そして顔を上げれば、〈蝿〉が気遣うような眼差しでルイフォンを見守っていた……ように見えたのは一瞬のこと。彼はすぐに、その美貌を威圧に歪め、いつも通りの口調で告げた。
「私は〈天使〉については門外漢なので確かなことは言えませんが、あなたの母親が〈冥王〉を破壊すると言ったなら、それは可能なのでしょう。――何しろ〈天使〉は、ある意味で王よりも強い、最強の存在ですからね」
素っ気ない低音は、婉曲的な応援。だからルイフォンは、〈蝿〉のわざとらしい誘いに乗って問う。
「最強? どういうことだ?」
「王にできるのは『情報を読み取る』ことだけです。読み取った情報に価値がなければ、なんの意味もない能力なのですよ」
「なるほど。そうかもしれないな」
せっかく侵入しても『外れ』の情報ばかりだったら、がっかりだという気持ちは、クラッカーであるルイフォンには痛いほど分かる。彼は大きく頷き、はたと気づいた。
「――って! もしかして、王は『情報を読み取る』ことはできても、『情報を書き込む』ことはできない……?」
「その通りです。だから、『情報を書き込む』ことのできる〈天使〉が作られたのですよ。……まぁ、先ほども言いました通り、〈天使〉についてはメイシアに。――私にはもう……時間がありませんから」
〈蝿〉は、彼とは思えないほどに、ふわりと溶けるような優しい微笑みを浮かべ、……そして、唐突に崩れ落ちた。
「お父様!」
ミンウェイが悲鳴を上げ、ソファーから落ちそうになる〈蝿〉の体を必死に支える。
「ミンウェイ……」
愛しげに頬を緩め、〈蝿〉は目線で彼女に頼んだ。
ミンウェイは涙ぐみながら頷く。そして、〈蝿〉の体をそっとソファーに横たえた。――ルイフォンとメイシアの顔がよく見える向きに。
〈蝿〉は、血の気の失せた唇を開く。
「ルイフォン、メイシア。――鷹刀セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』のために選んだ、あなたたち。逝く前に、あなたたちに……」
死の淵にありながらも、厳然たる〈蝿〉の声。
それは、彼がふたりを『最高の終幕』への招待したときと同じ呼びかけ。
舞台の幕は、そろりそろりと……降り始めていた――。
4.神話に秘められし真実-4
ルイフォンとメイシアは、緊張の面持ちで〈蝿〉と向き合った。
ソファーに横たわった〈蝿〉の呼吸は荒かった。不規則に胸が上下し、それにあわせて白髪混じりの髪が、鈍い銀光を放つ。顔は苦しげに歪められ、しかし、瞳は穏やかにふたりを見つめていた。
「逝く前に、あなたたちに『ライシェン』を託します」
「『ライシェン』……!」
ルイフォンは息を呑む。
彼こそが『デヴァイン・シンフォニア計画』の中核を担う存在。
何故なら、殺された彼を生き返らせるために、母親であるセレイエが作り上げたのが『デヴァイン・シンフォニア計画』であるのだから――。
「『ライシェン』の体は、いつ生まれてもよいほどに成長しましたので、先ほど凍結処理を施しました。地下の研究室に置いてあります。部屋の鍵は……ああ、私が脱ぎ捨てた白衣のポケットの中ですね」
「分かった。『ライシェン』は、俺たちが預かる」
ルイフォンは決然と答える。
安請け合いすべきではない用件であるのは百も承知だが、〈蝿〉の最期の頼みを無下にする気にはならなかった。
しかし――。
次の瞬間、〈蝿〉がぷっと吹き出した。掛かったなと言わんばかりの愉悦の顔は、死に瀕している人間とは思えぬほどに楽しげである。
「〈蝿〉!?」
「私は、あなたたちに『ライシェン』を託すとは言いましたが、預かってほしいと言ったわけではありませんよ」
「じゃあ、どういう意味だよ!?」
ルイフォンの苛立ちの叫びに、〈蝿〉の目がすっと細まった。眉間には神経質な皺が寄り、それまでとは打って変わった厳粛な顔になる。
「『ライシェン』をどうするか――あなたたちの自由にしてよい、ということです」
「え……?」
「この館から連れて行くのか、このまま研究室に放置するのか、あるいは――」
そこで、〈蝿〉の瞳が冷徹な光を帯びた。――否。それは光ではなく、闇……。
「処分するのか……」
血の流れを凍りつかせ、心臓の動きを止めてしまいそうな、ぞわりとした響きがルイフォンを襲った。
「すべては、あなたたちの思うがままに……。『ライシェン』の命運、その全権をあなたたちに委ねます」
恭しさすら感じられる〈蝿〉の口調からは、毒気が漂う。
ルイフォンは、反射的に言葉を返そうとして……呑み込んだ。それから、わずかな逡巡ののちに、かすれた声で尋ねる。
「何故、俺たちに……?」
「メイシアが受け取った記憶によれば、鷹刀セレイエは既に亡くなっているとのこと。ならば、『ライシェン』を託す相手は、セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』のために選んだ、あなたたちが一番ふさわしいでしょう?」
〈蝿〉は、さも当然とばかりに答え……、ルイフォンの心を見透かしたかのように苦笑する。
彼には、お見通しなのだ。
だからルイフォンは、一度、ためらった台詞を改めて口に載せた。
「『ライシェン』は……、……『処分』すべきもの……なのか…………?」
それは〈蝿〉への質問のはずだった。
〈蝿〉は、『ライシェン』を処分すべきと思っているのか? ――と。
しかし、声に出した瞬間、ルイフォン自身への問いかけとなった。――これから死に逝く〈蝿〉は、『ライシェン』がどうなろうとも無関係であるから。だからこそ、ルイフォンたちに託すと決めたのだと、理解したから……。
ルイフォンの表情が揺れ動くのを、〈蝿〉はじっと見守っていた。ルイフォンは気づいていなかったが、その隣に座るメイシアもまた、胸元を押さえて苦しげに眉を曇らせていた。
ふたりの動揺など、百も承知で言ったこと。もとより〈蝿〉の願いは、彼らが大いに悩み、その上で決断することだ。
しばしの沈黙のあと、〈蝿〉は静かに口を開く。
「『ライシェン』は、王族に残された最後の〈神の御子〉の男子です。争乱の種にしかなりません」
唐突な言葉に、ルイフォンは目を瞬かせた。
「どういうことだ? 〈神の御子〉は自然には、なかなか生まれないけど、過去の王のクローンなら幾らでも作れるだろ? どうして『最後』になる?」
当然の質問をしたルイフォンに、〈蝿〉は待ち構えていたように答える。
「保管してあった過去の王の遺伝子を、セレイエがすべて廃棄してしまったからですよ。『ライシェン』を唯一の存在にすることで、オリジナルのように殺されたりしないように――と」
〈蝿〉の説明に同意するように、メイシアも首肯した。
「セレイエの奴……!」
ルイフォンは絶句する。
それは、『国家に対する反逆罪』といって差し支えないだろう。随分と思い切ったことをしたものだ。
……だが、異父姉の気持ちは分かる。そして、有効な手段だ。
その証拠に、摂政カイウォルは『ライシェン』を次代の王と認めていた。内心は知らないが、そうせざるを得ないと納得していたということだ。
ルイフォンの反応に〈蝿〉は満足したように頷く。
「今の女王が将来〈神の御子〉を産む可能性はありますが、確率は高くありません。ですから、『ライシェン』を失えば、王族は永遠に〈神の御子〉の男子を失うことになりかねない。――となれば、摂政は血眼になって『ライシェン』を手に入れようとするはずです」
「……」
おそらく、その通りだろう。
ならば、どうするべきか。
委ねられた事態の大きさに、ルイフォンが目眩を感じていると、〈蝿〉は更に言葉を重ねた。
「『ライシェン』は、特別な〈神の御子〉です。――彼の目は『見えます』」
「!?」
ルイフォンは一瞬、困惑に呆ける。だが、すぐに尖った声で叫んだ。
「〈神の御子〉の男子は、『必ず盲目』じゃなかったのか!?」
「ええ。ですから、オリジナルのライシェンは盲目でした。しかし、『ライシェン』の肉体を作るにあたり、遺伝子を書き換えて目が見えるようにしてほしいと、セレイエに――彼女の〈影〉のホンシュアに依頼されたため、この私がそうしました」
「え……?」
唖然とするルイフォンの服の端を、傍らのメイシアが引いた。振り向けば、「本当なの」と彼女が言う。
「セレイエさんは、どうしても『ライシェン』の目を見えるようにしたかったの。だからこそ、亡くなった『天才医師〈蝿〉』を蘇らせた。彼の技術でなければ、思うように遺伝子を書き換えるなんて、到底、不可能だったから……」
「――!」
衝撃の告白だった。
けれど、これで納得できた。
〈七つの大罪〉にとって、王のクローンを作ることは、とうに確立した技術である。ならば、死者などに頼らずとも、可能なはずだ。なのに、どうしてセレイエは〈蝿〉を蘇らせたのか? ――ルイフォンは、ずっと疑問に思っていたのだ。
そのとき。
「ああ……!」という、感嘆を含んだ呟きが〈蝿〉の口から漏れた。決して大きくはないのに妙に響いたその声に、皆が注目する。
「そうでしたね。メイシア、あなたなら詳しい事情を知っているのでしたね」
「え?」
突然、瞳を輝かせた〈蝿〉に、メイシアは目を見開く。
「ならば、教えて下さい。どうして、セレイエは『ライシェン』に視力を望んだのですか? 『目が見えるようにすれば、能力を失うかもしれない』と言った私に、彼女は『それこそが目的』とはっきりと答えました。あれは、いったいどういう意味だったのでしょう?」
「……っ」
メイシアの花の顔に陰りが落ちた。
「『私』は、なんのために、この『生』を享けたのか。冥土の土産に、その理由を知りたい。――一番、初めに『不気味な能力を持たない〈神の御子〉を、女王が望んでいるから』という説明を受けましたが、あれは嘘でしょう?」
「……」
メイシアの黒曜石の瞳が揺れる。しかし、構わず、〈蝿〉は畳み掛けた。
「視力を願ったのは、母親であるセレイエの愛情でしょう。しかし、『ライシェン』の身の安全を考えれば、敵だらけの王宮を生き抜くためには、例の能力を失わせるべきではありません。しかも、死者である『私』を蘇らせるために、セレイエは相当の苦労をした模様。――ですから、彼女の行動は、私の腑に落ちないのです」
ソファーに横たわり、メイシアを見上げる〈蝿〉の顔は、蒼白であるにも関わらず、興奮に上気しているように見えた。疑問があるから答えを求める――研究者の性からくる純粋な好奇心が、まさか死の床で満たされるとは思ってもみなかったと、土気色の唇がほころんでいる。
メイシアの喉が、こくりと動いた。その様子に、ルイフォンは不吉な予感を覚える。
彼女は緊張に震えていた。しかし、〈蝿〉の最期の願いに応えようと、澄んだ声を響かせた。
「ライシェンは……『神』として、生まれました。――だから、です」
聡明なメイシアとは思えないほどに、要領を得ない言葉だった。
誰もが動揺に顔色を変える中、ルイフォンが尋ねる。
「メイシア、『神』――って、なんだ?」
「ごめんなさい、変な言い方をして。その……、『神』と呼ぶしかないような力を持って生まれてきたと、シルフェン先王陛下がおっしゃったの。だから、先王陛下は『来神』という名前をくださった……」
メイシアは、そこで大きく息を吸い、皆に向かって一気に告げる。
「ライシェンは、〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエさんから受け継いだ『情報を書き込む』能力も持っていました。しかも、〈天使〉のように羽で自分と相手を繋ぐ必要はなく、〈神の御子〉が情報を読み取るのと同じように、相手に触れずに、情報を書き込むことができました」
相手に触れることなく、情報を『読み取る』、そして『書き込む』。
それは、傍目にどう見えるか――。
「――だから、『神』……なのか」
ルイフォンの呟きに、メイシアは首肯した。
「ライシェンの強すぎる力を少しでも封じるために、それよりも、その目で世界を見ることができるように、セレイエさんは『ライシェン』に視力を望んだんです」
まるで、胸の内を打ち明けるかのように告げたメイシアの瞳から、はらりと涙がこぼれた。
「メイシア!? どうしたんだ!?」
「ルイフォン、心配しないで。……これは、セレイエさんの感情。辛い思いが蘇ってきて……」
メイシアの肩は小刻みに震えていた。ルイフォンが彼女を抱き寄せると、彼女の指先が、ぎゅっと彼のシャツを握りしめる。
「……あのね、ライシェンが殺されたのは、平民のセレイエさんの子供だったからじゃないの。勿論、平民が〈神の御子〉の生母なんて、って声はあった。暗殺も計画されていた。殺されるのは時間の問題だったと思う。――けど!」
そこで、メイシアは、しゃくりあげるように大きく息を吸う。
「決定打は、ライシェンが人を殺したから……!」
絹を裂くような、悲痛の叫びだった。
「メイシア!」
ルイフォンは彼女をきつく抱きしめる。
おそらく今のメイシアは、過去のセレイエと同調している。絶望に彩られた、辛い記憶に。
彼は、彼女の背中に手を回し、長い黒絹の髪を掻き上げるようにして豪快にくしゃりと撫でる。
「……ぁ」
ルイフォンの腕の中で、メイシアが小さな声を漏らした。それから彼女は、身を預けるように、彼の胸に額を押し当てる。
「うん……、……大丈夫」
温かな吐息が、ルイフォンに掛かった。セレイエではない。現在を生きている、メイシアの息吹だ。
そして、彼女は意を決したように顔を上げ、告げる。
「ライシェンは、生後まもなくから、周りの人間の感情を読み取りました。言葉など分からなくとも、悪意や敵意――『害意』を向けられれば、彼には分かりました」
〈神の御子〉が生まれれば、大々的に国民に公表される。しかし、ライシェンの誕生は隠蔽された。情報屋であるルイフォンですら感づくことのできなかったほどに、厳重に。
平民を母に持つ〈神の御子〉など、前代未聞に違いない。おそらく、生まれた瞬間から殺害が検討されていたのだ。
そんな王宮にいれば、〈神の御子〉であるライシェンは、常に害意を感じ続けていたはずだ。
「そして、ライシェンが『殺意』を読み取ったとき、彼は自衛のために相手を殺しました。――〈天使〉と同じ『書き込む』という能力を使って……」
「あくまでも自衛だろ? それでライシェンが殺されるのは理不尽だ……」
とうに過ぎた過去について、ルイフォンが反論することに意味はない。しかし、何も言わずにはいられなかった。
「無力なはずの赤子が、手も触れずに人を殺したの。そんなことを聞けば、彼を怖がり、彼に『殺意』を向ける人は、あとを絶たなくなる。そして、ライシェンは、そういう人たちも殺してしまった……」
「……っ」
「だから、先王陛下はライシェンを殺したの。〈神の御子〉同士であれば、互いに感情を読み取ることが出来ないから……」
こうして、ライシェンは先王に殺され、その恨みから先王はヤンイェンに殺され……。
『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まる――。
「なるほど」
今まで、黙って聞き入っていた〈蝿〉が、荒い息と共に吐き出した。
「セレイエは、『ライシェン』には害意を読み取ってほしくなかった――というわけですね。だから視力を求め、そのために『私』を必要とした。……納得しました。少しだけ、溜飲が下がりましたよ。最期に、この話を聞けてよかったです。……メイシア、ありがとう」
〈蝿〉が笑う。救いを得られたような穏やかな顔で。
そして、彼の体から、ふっと力が抜ける。
「私は……そろそろ……のようです」
その言葉に、ミンウェイが喉をひくつかせたが、もう『お父様』と叫ぶことはなかった。彼女は唇を噛み締め、覚悟を決めた顔をする。
そんな彼女を〈蝿〉は愛おしげに見つめ、それからリュイセンへと視線を移した。
「リュイセン」
厳かな低音に、リュイセンは「はい」と襟を正して応じる。
「先に申し上げたように、王族と鷹刀の関係は既に終わっています。〈贄〉に関しては、パイシュエ様が自らの細胞を無限に増殖させ、永遠に喰われ続ける細工を施したことで不要になりました。安心してください」
「パイシュエ……?」
リュイセンの息遣いが戸惑いに揺れる。『パイシュエ』が誰だか分からなかったのだ。察したルイフォンが小声で「シャオリエが〈影〉になる前の、本当の名前だ」と教えると、得心がいったように頷く。
その間も、〈蝿〉は荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとリュイセンに語りかけていた。
「鷹刀は、パイシュエ様とお義父さんが解放してくださった。もう、何も憂うことはない。私は、現在の鷹刀をこの目で見たわけではないけれど、君を見ていれば、誇り高き今の鷹刀が手にとるように分かるよ、……リュイセン」
「ヘイシャオ……」
「鷹刀は自由だ。……だから君は、君の思い描くままに、自由に……君の鷹刀を作り上げ、皆を導いてくれ……、私が言えた義理ではないかもしれないが……頼んだぞ、未来の総帥……」
リュイセンは短く息を呑む。素早く前に歩み出て、ソファーに横たわる〈蝿〉の前にひざまずいた。
「確かに、承りました。俺……私にお任せください」
肩で揃えられた黒髪が床に届くかと思うほどに、リュイセンは深々と頭を垂れる。
〈蝿〉が、ふわりと笑った。そして、祈りのような声を漏らす。
「妻に、会えるか……な」
その瞬間。
リュイセンが、はっと顔色を変え、弾かれたように立ち上がった。
「ルイフォン!」
弟分の名前を叫ぶと同時に、身を翻す。
「ルイフォン、手伝ってくれ! 地下研究室から『彼女』を連れてくる!」
「は? 『彼女』?」
唐突な兄貴分の言動に、ルイフォンの頭がついていかない。
「硝子ケースに入った『彼女』だ。お前も、一緒に見たことがあるだろう!」
「!」
ルイフォンは兄貴分の意図を解した。
『〈蝿〉』の体は、『彼女』と共に、オリジナルのヘイシャオの研究室で見つかったという。生前のヘイシャオが、『対』の『ヘイシャオ』と『ミンウェイ』の肉体を作り、彼らは同じ硝子ケースの中で、歳を重ねていたのだ。
ミンウェイの自殺未遂のあと、ヘイシャオは人が変わり、研究室に籠もりきりになった。状況から考えて、そのとき、ヘイシャオは彼らを作っていたのだ。
なんの目的で、ふたりが作られたのかは不明だが、『対』である以上、〈蝿〉の看取りには『彼女』も同席すべき。――リュイセンはそう考えたのだ。
「ヘイシャオ、頼む! 少しだけ待っていてくれ!」
リュイセンはそう言い残し、部屋を飛び出す。
「あ、おい! リュイセン、鍵!」
ルイフォンは、脱ぎ捨てられていた〈蝿〉の白衣をごそごそとまさぐり、研究室の鍵を持って兄貴分を追いかけた。
慌ただしく駆けていくふたりを〈蝿〉は目尻に皺を寄せて見送り、それから、苦しげな呼吸の中で「エルファン」と、親友であり、義兄である彼を呼ぶ。
「エルファン……。リュイセンは……人の痛みの分かる、優しい良い総帥になるだろう。……今ひとつ、賢さに欠けるのが玉に瑕だが、……それは、きっとルイフォンが補う。リュイセンには、お義父さんのようなカリスマは……ないかもしれない。……けど、彼の優しさに、人は惹かれていく……」
「ああ。……そうだな」
「この『生』で……、彼に会えて、よかった……」
〈蝿〉は穏やかな顔で息を吐き出すと、それから急に表情を改めた。「このあとのことだ」と前置きをすると、事務的な口調で続ける。
「『ライシェン』を……処分するか否かは、今すぐには決断できないだろう。だから、まずは連れて行くか……だ。君たちの車は、ノーチェックでここを出られるから……」
「ああ」
「私兵たちには、既に最後の報酬を振り込んだ……。夕方になったら、この庭園を出ていくように、彼らの端末に連絡も入れた。……門を封じていた近衛隊には、私兵を出していいと通達した。……だから、君たちは私兵たちが動き出すよりも前に……ここを出てくれ」
立つ鳥跡を残さず、とばかりに言い終えると、〈蝿〉の四肢から、だらりと力が抜け落ちる。
「ヘイシャオ……」
エルファンが呟いた、そのときだった。
「ヘイシャオ! 大変だ!」
リュイセンの叫びと共に、部屋の扉が荒々しく開け放たれ、『彼女』を載せたストレッチャーが飛び込んできた。
5.比翼連理の夢
天空の間の扉が、力任せに押し開けられた。
重厚なはずの扉は、金箔の縁取りを煌めかせながら、まるでカーテンのように軽々と吹き飛ばされる。
次の瞬間、ストレッチャーに載せられた硝子ケースが、勢いよく部屋になだれ込んできた。
それを押しているのは、血相を変えたリュイセンひとり。
ルイフォンは、ひと呼吸、遅れて入ってくる。――ただでさえ、リュイセンのほうが圧倒的に足が速い上に、リュイセンに斬られた腹の傷が、まだ治りきっていなかったためである。
そのまま〈蝿〉のところまで走り抜けようとしたリュイセンだが、ストレッチャーが突如、がくんと妙な動きをした。雲上を示す織りだとかいう、毛足の長い絨毯に車輪を取られたのだ。
硝子ケースの中で培養液が激しく揺れ、蓋の内側に水しぶきを打ち付ける。あわやストレッチャーから落ちそうに、というところで、リュイセンが体を張って硝子ケースを守った。
「リュイセン!」
後ろから来たルイフォンが叫ぶ。
リュイセンは弟分の意図を即座に解し、ふたりで同時に硝子ケースを持ち上げた。扱いに気をつけながらも、全速力で〈蝿〉のもとへと運ぶ。
そして、〈蝿〉は――。
「ヘイシャオ!」
彼を呼んだのは、エルファンか。それとも、リュイセンか。
一族特有の声質は、口元を見なければ判別できないほどに、よく似ている。しかし、もはや彼には、重い瞼を開けるだけの力は残っていなかった。
この命の灯火は、今、消える。
周りの気配から、リュイセンたちが到着したのが分かった。
どうやら自分は、『ミンウェイ』が来るまで持ちこたえたようだ。リュイセンのせっかくの心遣い、無下にして逝くのも後味が悪い。間に合ってよかった。
安堵に意識を手放そうとした瞬間、自分がなんの反応も示さなければ、『ミンウェイ』が臨終に立ち会えたことを誰も知り得ないのだと気づき、彼は自嘲する。
「ヘイシャオ!」
歓喜の声が上がった。彼の頬が動いたのが分かったのだろう。
ああ、この声色はリュイセンだ。
ありがとう。これで私は……。
「ヘイシャオ、大変なんだ!」
彼の思考を遮るように、リュイセンの声が響いた。
「『彼女』が起きている! けど、苦しそうなんだ! 助けてくれ!」
耳朶を打つ、リュイセンの必死の叫び。
何を言われたのか、彼は一瞬、理解できなかった。
――『ミンウェイ』が、目覚めた……?
そんな馬鹿な、と彼は否定する。
あの硝子ケースは、肉体を育むための揺り籠。培養液の羊水に包まれ、中の生命は胎児のように昏々と眠り続けるようにできている。
凍結処理の施されていない『ミンウェイ』の肉体は眠ったまま、時の流れと共に成長し、老いて死を迎え、やがて朽ちていくのだ。
それが、オリジナルのヘイシャオが望んだこと。
何故なら、ケース内部の環境を維持するための電源設備が、特注の大容量のものに付け替えられていたから。あの硝子ケースは、彼女が天寿を全うするまで稼働し続けるように設計され、古びた研究室に残されていた。誰からも忘れ去られたような場所に、密やかに。
外部からの電力供給に頼らずに、微生物を利用した培養液を一定の状態に保つ。そうすることで、硝子ケース単体で――完成された世界で、ただ時を重ねる。そんな仕組みを作り上げ、ヘイシャオはこの世を去った。
勿論、硝子ケースの中から出せば、彼女は目覚めるだろう。彼が、ホンシュアに目覚めさせられたのと同じように。
しかし、すぐに記憶を書き込まれた彼とは違い、ただ肉体だけが成長した彼女が外に出されたとき、彼女の精神は胎児のままだ。だから、彼女を外に出そうなどという考えは、彼の心の片隅にも浮かばなかった。
それが……。
『ミンウェイ』が起きて……苦しんでいる――!?
彼の双眸が、かっと見開かれた。
――ミンウェイ!
目の前に『ミンウェイ』の硝子ケースがあった。裸体を隠す長い髪を振り乱し、苦しげに身をよじりながら、閉じられたケースの中で培養液を掻き分けている。
彼女が求めているのは、彼だ。
封じられた空間の中から、彼に向かって懸命に手を伸ばしている。
肌が青白く見えるのは、硝子越しだから、培養液を通してだから、ではない。彼女の顔には、明らかに死相が現れている。
――ミンウェイ!?
まるで力の入らなかったはずの彼の腕が動く。彼はソファーに横たわったまま、透明なケースに手を触れる。
硬質な硝子の感触。
彼女の柔らかな手は、その向こう。
すぐそこに彼女は居るのに、ふたりの世界は隔てられている。
――彼女に、触れたい……。
彼の目尻から、熱い涙がすっと流れ落ちた。
そのときだった。
「〈蝿〉……! 『彼女』のケースを開けてもいいですか!」
叫んだのは、想像もしていなかった人物――メイシア。
質問であるはずなのに、彼女の言葉は断定だった。
「私には、ホンシュアの記憶があります! このケースの開け方は、分かります!」
彼が息を呑むのと、メイシアが長い黒絹の髪を翻したのとは、ほぼ同時だった。
硝子ケースの開閉には、それなりに複雑な手順が必要だ。しかし、メイシアの指先は迷うことなく、高速でパネルを操作した。まるでホンシュアに乗り移られたかのように。
驚愕する彼が瞬きをひとつしている間に、ケース内外の気圧差による鋭い音が上がり、蓋が開いた。培養液の飛沫が上がり、太陽を象るという豪奢なシャンデリアの光を乱反射させる。
「あな、た……!」
あえぐ声で、彼女が叫んだ。
弱々しい手が、空をもがく。
硝子ケースの縁に指をかけ、彼女は起き上がろうとする。しかし、すぐに培養液の中へと沈んだ。自分の体を支えるだけの力がないのだ。
それを見たリュイセンが「失礼します!」と断りを入れ、裸体の彼女から目を背けながら抱き上げた。ソファーのそばに、そっと下ろし、着ていた上着を彼女に掛ける。
そして――。
彼女の手が、彼へと伸ばされる。
彼の手もまた、引き寄せられるように彼女へと向かう。
掌が触れ合い、指先が絡み合う。
彼は、残っていたすべての力を使って、彼女を抱き寄せた。
柔らかで温かな彼女の体が、腕の中に収まる。ずっと空虚だった胸が満たされていく。
彼女の歓喜の溜め息が、彼の頬を優しく撫でた。
「やっと……、あなたに……」
「…………っ」
彼の顔が、切なげに揺れた。
彼の記憶は、ホンシュアによって、オリジナルのヘイシャオのものに上書きされてしまった。だから彼は、彼女と共に、この硝子ケースで過ごした時間を忘れてしまっている。
「そんな顔……しないで。……私、ちゃんと……分かっている。……全部」
「!?」
眉を寄せた彼に、彼女がにこりと笑いかける。
切れ長の目尻に、涙を浮かべながら。
「創造主が……、私たちが何者であるか……言っていたの、聞いている。〈天使〉が……あなたの記憶……奪ったのも……知っている。大丈夫……、安心して……」
彼女の言葉は、どこか舌足らずだった。苦しそうであるのを差し引いても、たどたどしさを感じる。
まるで、幼い子供のような。けれど、言い回しは、どこか小難しく……?
そう思い、彼は直感的に悟った。
培養液の中の生命は深い眠りに落ちていて、外界のことは何も知覚できないものと考えていたが、そうではないのだ。意識を深層に沈めながらも、好奇心いっぱいに広い世界を求めていたのだ。
だから、そばにいたであろう、オリジナルのヘイシャオから言葉を知り、知識を得た。――彼と彼女ならば、おそらく。きっと、そうしたはずだ……。
「そうか……。なら、……教えてほしい。……私たちは『何』なのだ?」
それは長い間、疑問だったこと。
オリジナルのヘイシャオは何故、『成長する体』の『ふたり』をこの世に遺して、死んだのか。
凍結処理で時を止め、彼と彼女が共に在る幸せな刹那を、永遠に留めておこうとしたのならば理解できる。しかし、老いて朽ちていき、やがて消えていくだけの体を残すなど、まったくの無意味だ。
腕の中の彼女が、ふわりと顔を上げた。今まで培養液に浸かっていた髪から、きらきらと水滴がこぼれ落ちる。まるで、彼女の笑顔を彩るかのように。
「私たちは……『比翼連理の夢』……」
「『比翼連理の夢』……!?」
謎めいた彼女の言葉を、彼は繰り返した。
「創造主が……そう呼んでいた。私たちは、創造主の夢……。創造主が、焦がれた……理想」
「オリジナルの理想!?」
訝しげに顔をしかめた彼に、彼女は続ける。
「創造主は……自分の憧れを……形にしたかった。……死ぬ前に、残したかった……。……だから、作った。……それが、私たち……」
「…………!?」
「私たちは……創造主の願い……。……創造主は……私たちに、託した。……叶えたかった夢を」
「オリジナルが……叶えたかった……夢」
彼の心臓が早鐘を打った。
それは、死の淵にいる彼が、より『死』に近づいているからか、それとも、彼の『生』の真実へと近づいているからか――。
「創造主は、言っていた……」
俺は、夢物語の願いを叶える。
君と共に、歳を取りたい。
君のそばで、永遠に在りたい。
君と刹那を積み上げ、刹那を繋ぎ合わせ、刹那を連ね続け……。
刹那を重ねていけば、それは、いつかきっと、永遠になる。
「――!」
彼の瞳が、いっぱいに見開かれた。
やっと、理解できた。
オリジナルが何故、『成長する体』の『ふたり』をこの世に遺したのか――。
「そうだ……。私は……ミンウェイと共に生きたかった……、ただ、それだけだ……」
彼は、呆然と呟く。
ささやかな願いだった。
共に時を過ごし、共に歳を重ねて……、それは尊く、儚い願いだった。
だから、オリジナルは夢見たのだ。
刹那の時を止めて永遠にするのではなく、刹那を続けて永遠になりたいと――。
「……そう。……創造主は、妻と共に生きて……」
彼女の口元が愛しげにほころび、彼を見つめる目元が切なげに細められた。
「共に死にたかった……」
「……え……?」
ぞわりと、悪寒が走る。
無意識の内に、彼は強く彼女を抱きしめていた。――その手が、小刻みに震えている。
「……顕界でも、幽界でも……、片時も離れることなく……共に在る。……それが、創造主の理想……夢」
「っ!」
ひくりと胸が跳ね、鋭い音を立てて息を吸い込む。それを吐き出しながら、彼は、かすれた声で呟く。
「それは……どういう……」
尋ねながらも、悟っていた。だから、その問いは、決定的な事実を突きつけられるための前段階に過ぎなかった。
決して目覚めないはずの彼女が、苦しさのあまりに培養液の中で目を開けた。
それは、すなわち――。
「創造主は……、私たちが、決して離れたりしないように……、私たち『ふたり』の命を、『ひとつ』にした……魔法……みたいな……技術で。……どちらかが、置き去りに、ならないように……。自分と妻のように……、『死』によって、分かたれたり……しないように」
「……つまり……、私が……死ねば……、君も……」
「うん」
全身を慄かせる彼に、彼女は無邪気な笑顔で頷いた。
「私たちは……どこまでも一緒。……決して離れない。……私たちは……〈悪魔〉の創造主が作った……『比翼連理の夢』……だから」
「……『悪魔』……め……!」
彼は、唇を噛みしめる。
彼の選択は、決して間違っていなかったはずだ。
最高の終幕だったはずだ。
けれど、彼女の命が懸かっていたのなら――……。
「……あなた。……あなたは、きっと……、今の状況に……憤ると、思っていた。……その通り、だった。……でも、私は……今、この刹那を……奇跡だと、思っている……」
不可思議な顔で、彼女は笑う。
培養液で濡れた髪が、艶めく色香を漂わせる。なのに、彼女の瞳は幼子のようで……、どこまでも純粋に、澄み渡っていて――。
「何を……言っているんだ!? 私が、君を……殺してしまう……! 私は……誰よりも、……君の『生』を願っていたはずなのに……!」
彼の悲痛な叫びに、彼女は、ふわりと微笑んだ。
「……ねぇ、あなた。……安全な培養液の中で、眠り続けることは……本当に『生きている』……と思う?」
「!?」
「創造主の願いは……老いるまで、共に生き……共に死ぬ、ことだった。……でも、私の願いは……違う」
あどけない口調であるにも関わらず、大人びた魅惑の響きで彼女は告げる。
「私は……眠りの中で……、一生を終えたくは……ない……! たとえ刹那でも……、あなたと、ちゃんと……『生きたい』!」
彼を叱咤するような美声は、魔性を帯びていた。彼女の言葉に抗うことを忘れ、彼は声を失う。
「培養液の中で漂いながら……、時々、肌が触れるだけ、は……違う……! こうして……あなたと、言葉を交わし……、意思を持って……抱きしめたかった……ずっと!」
苦しげでありながらも、懸命な声。知れず、彼の魂は震え、魅入られる。
「だから、今……この刹那! ……私は……『生きている』……!」
「……っ」
「やっと、言える……。やっと、伝えられる……。やっと、私の願い……叶う!」
土気色の彼女の唇が、艶やかに咲き誇った。大輪の花のように、この上もなく美しく。
「愛している……あなたを……!」
涙をたたえた彼女の瞳が、彼を捕らえた。
その瞬間、まるで見えない糸に導かれたかのように、彼は彼女に口づけた。
彼女と過ごした記憶はなくとも、彼もまた、ずっと彼女を愛していたのだと魂が識っていた。
体温を失いつつある、ふたつの冷たい唇が重なり、熱い吐息が生まれる。
『生きている』と、感じる。
創造主たる〈悪魔〉が遺した眠りの魔法は、本来なら解けないはずの呪術だった。
だから――。
この刹那は、奇跡。
「愛している」
彼は、彼女に囁く。
この『生』が良いものであったとは思わない。――自分にとっても、他者にとっても。
けれども……。
「ありがとう」
この『生』で出会った、すべての人々に感謝を――。
そして――。
「ミンウェイ……」
不意に、〈蝿〉が娘へと振り返った。
彼は、満ち足りたような、穏やかな顔をしていた。
真っ赤な目をしていたミンウェイは、うまく返事ができず、しゃくりあげる。
「幸せにおなり……」
〈蝿〉が微笑む。
その隣で、『彼女』も微笑む。
ふたりで――とても、幸せそうに。
「――、――っ!」
ミンウェイは奥歯を噛み締め、叫びだしそうになるのを必死にこらえた。
『はい』と答えるべきなのに、言葉が出なかった。代わりに、涙があふれてきた。
ふたりの姿に、両親の墓標が重なる。
仲睦まじく寄り添う、あの海を臨む丘の潮騒が聞こえる……。
『ミンウェイ、幸せにおなり……』
耳の中で反響する、〈蝿〉の優しい低音。
寄せて返す波のような。揺り籠のような……。
そして、ふたりは――。
すうっと潮が引いていくように、静かに息を引き取った。
6.波音の子守唄-1
固く抱きしめあったまま、骸となった〈蝿〉――『彼』と『彼女』。
ミンウェイは、ふたりのそばに膝をつき、ぺたんと座り込んだ。
潤む瞳で、彼らを見つめる。
どこにも外傷はないのに、白蝋のような肌からは、完全に生気が失われていた。今にも、かさりと音を立てて崩れ落ちそうな脆さを感じる。命の重みが抜け落ちてしまったからだ。
けれど。
ふたりは幸せそうに微笑んでいた……。
「…………」
ミンウェイの首がうなだれ、緩やかに波打つ黒髪が肩を流れた。白いうなじが、あらわになると同時に、顔が隠れる。
うつむいた姿勢のまま、彼女は紅の落ちかけた唇を歪め、こらえるように拳を震わせた。
この天空の間での出来ごとは、本当に現実だったのだろうか。
夢か、あるいは幻だったのではないだろうか。
真っ白で豪奢な部屋は、ミンウェイの知らない別世界。まるで異次元に紛れ込んでしまったかのよう……。
「ミンウェイ」
魅惑の低音が、彼女を呼んだ。〈蝿〉にそっくりであるが、彼ではない。彼はもう、この世の人ではないのだから。
「リュイセン……」
相手の名前を間違わずに言えたのは、今のミンウェイとしては上出来だった。
彼女が振り返ると、リュイセンは口を開きかけ、しかし沈黙した。きっと、何を言ったらよいのか分からなかったのだろう。ミンウェイだって、リュイセンの立場だったら困ってしまうに違いない。
「ありがとう、リュイセン」
ミンウェイは固く目を閉じ、はみ出してきた涙を拭った。強引に呼吸を整え、艶やかな笑顔で上を向く。
「あなたのお陰で、お父様……『彼』の最期は、安らかだった。――奇跡だわ」
〈悪魔〉ではなく、誇り高き鷹刀一族の者として死を迎えた。
『〈蝿〉』でも『ヘイシャオ』でもなく、『彼』として、『彼女』と共に旅立った。
すべて、リュイセンが『彼』を思いやってくれたからこそだ。
「本当に、『最高の終幕』だった……!」
――そう。
舞台の幕は下ろされた。
だから、父に――父の心を伝えてくれた『彼』に、別れを告げる。冥福を祈る。『彼女』との『永遠』に祝福を贈る。
ミンウェイは、自分の心を奮い立たせるように胸を押さえると、すっと立ち上がった。波打つ黒髪が華やかに広がり、鮮やかな緋色の衣服が強気に煌めく。
「ミンウェイ、無理するな……」
遠慮がちなリュイセンの声を「ありがとう」と遮った。彼の気遣いは嬉しいけれど、このままでは駄目なのだ。
生きている者は、いつまでも同じところに留まっていてはいけない。
次の行動へと、ひとつ先の未来へと向かわなければならない。
「リュイセン。あなたとルイフォンが『彼女』を迎えに行っている間に、『彼』は、あとのことを言い遺していったの。……エルファン伯父様、お願いいたします」
この先は、ミンウェイが仕切るべきことではないだろう。だから、彼女は軽く会釈をして、最年長であり、次期総帥であるエルファンに指揮を頼んだ。
今まで黙って見守っていたエルファンが、氷の美貌をふわりと溶かす。だが、すぐにいつもの無表情に戻り、玲瓏たる声を響かせた。
「全員、聞け。――ここは『敵地』だ」
そのひとことで、皆の顔つきが変わる。
「ヘイシャオは、私兵たちに『夕方になったら、この庭園を出るように』と命じたそうだ。つまり、それまでの数時間、私たちが『ライシェン』を連れて行くか否かを議論するための猶予をくれたわけだ。だが、ここが長居すべき場所ではないことは明白だ」
暗に即断を求めたエルファンに、ルイフォンが「ああ」という鋭いテノールで応じる。彼はメイシアと視線を交わすと、明朗な声で告げた。
「『ライシェン』は連れて行く。――このまま、ここに置いていけば、いずれ摂政の手に渡り、摂政の駒になるのが分かりきっているからだ」
そこで一度、彼は言葉を切り、目を尖らせた険しい表情を見せる。
「正直なところ、俺たちは『ライシェン』を持て余すことになるだろう。何故なら、『ライシェン』を連れて行くということは、俺たちが彼の未来を預かった、ということに他ならない。俺たちには、責任が重すぎるからだ」
彼本来の端正な顔立ちを見せての、冷静な物言い。その目元は精悍でありながらも、苦悩が眉間の皺となって表れていて、普段の彼自身よりも、どことなくエルファンに似ていた。
〈蝿〉に言われた『処分』のひとことが、重く、のしかかっているのだ。
ルイフォンは唇を噛み締め、メイシアを見つめる。凛とした眼差しの戦乙女が、彼を肯定するように強く頷いた。
「だが、ここまで巻き込まれた以上、俺たちは、セレイエの『デヴァイン・シンフォニア計画』を最後まで見届けたい。だから、計画の中核を担う『ライシェン』を、ここに残していくことは考えられない」
静かな弁舌はそこまでだった。
ルイフォンは、急にかっと目を見開き、「けど!」と声を張り上げた。
「この選択は、俺たちが、セレイエの『デヴァイン・シンフォニア計画』を叶えてやる、という意味じゃねぇ!」
苦しげな、切なげな顔で、傍らのメイシアを抱き寄せた。不意のことに、メイシアが小さな悲鳴を上げるが、ルイフォンは構わずに言葉を続ける。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、セレイエの我儘だ。この計画のせいで、メイシアは親父さんを失い、シュアンも先輩を亡くした。……でも、ふたりを不幸に陥れた元凶の〈蝿〉だって、被害者だった」
メイシアを抱きしめたまま、亡骸となった〈蝿〉に視線を向け、ルイフォンは黙祷を捧げる。
憎かった。恨んでいた。最後まで、決して許したわけではなかった。
それでも今、彼が満ち足りた顔をしていることに祝意を表する。――横顔が、そう告げていた。
そしてルイフォンは、敢然とした表情で皆に向き直る。
「〈蝿〉が言っていた通り、『ライシェン』は争乱の種にしかならない。彼を連れて行くという選択は、どう考えても、この先、皆に迷惑を掛けることになるだろう。――すまない。でも、認めてほしい」
ルイフォンとメイシアは揃って立ち上がり、深々と頭を垂れた。
天空の間が、水を打ったように静まり返る。
おそらく、この場にいた誰もが、『ライシェン』は連れて行くことになると考えていただろう。――だが、それは、あくまでも漠然とした予測だった。
対して、ルイフォンとメイシアは明確な意志を示し、あまつさえ、頭まで下げた。故に、その行動は意外であり、驚きだったのだ。
ミンウェイは自分の心が、ちくりと痛んだのを感じた。
原因は分かっている。ずっと年下のルイフォンたちが眩しすぎて、自分が惨めになったのだ。
でも、だからこそ、ふたりを応援せねばと思う。
「私は勿論、認めるわよ!」
沈黙を破り、ミンウェイは強気に言い放った。
「〈神の御子〉なんて、とんでもないものを押しつけられたのに、なし崩しじゃなくて、ちゃんと考えて決められるなんて、あなたたち偉いわよ。そんな姿を見せつけられちゃったら、褒めるしかないでしょ!」
声が震えたり、裏返ったりはしなかっただろうかと不安になりながらも、ミンウェイは華やかに笑う。
すると、彼女につられたように、リュイセンが「当たり前だろう」と声を上げ、エルファンとシュアンも次々に同意した。
ルイフォンの顔がほころび、「ありがとう」と告げる。それにかぶるように、エルファンが「ここを出る準備をするぞ」と号令を掛けた。
「ルイフォン、お前が持ち込んだ爆発物は、確か、遠隔操作ができたな?」
「あ、ああ?」
それがどうした? と、ルイフォンは首をかしげる。
エルファンが言っている爆発物とは、〈蝿〉が皆をこの庭園に招待するにあたり、『どんな武器を持ち込んでもよい』と言ったために、ルイフォンが用意したものだ。
「それを地下に仕掛けて、あとで研究室を爆破してくれ」
「なるほど。『ライシェン』を連れて行くから、摂政に対する撹乱工作というわけだな」
ぽん、と手を打ったルイフォンに、エルファンは「そんなところだ」と一応は肯定し、しかし、まるで違う理由を付け足した。
「何をしたところで、いずれ摂政にはバレるだろうから、嫌がらせ程度のことだ。だが、ヘイシャオの研究室は禁じられた技術の宝庫だろうし、何より、あいつがいた場所を好き勝手に荒らされたくはないだろう?」
淡々とした口調のまま、エルファンの眼差しがミンウェイへと向けられる。そこで初めて、ミンウェイは、今の台詞の最後は自分に向けられたものだと気づいた。
「ヘイシャオと『彼女』も連れて行く。オリジナルたちの墓の隣に埋めてやろう」
「伯父様……」
ミンウェイは、再び潤みそうになった瞳をぐっと見開き、なんとかこらえた。
本当は、『〈蝿〉の死体』が、爆破された研究室から発見されたほうが、摂政への対処としては正しい判断のはずだ。なのに、エルファンは、そうしないと言う。
「……私のために……ありがとうございます」
「お前だけのためではない。私にとっても、大切な者たちだからだ」
エルファンは相変わらずの無表情だったが、ミンウェイには、ふたりの新たなる門出を祝い、晴れやかに笑っているように感じられた。
ルイフォンが地下研究室へと向かい、エルファンが屋敷で待っているイーレオに報告を入れる。メイシアは展望塔に残っているタオロン父娘への連絡だ。
残った者たちのうち、男手であるリュイセンとシュアンが率先して、〈蝿〉と『彼女』の亡骸を車に運ぶべく、相談を始めた。決して仲の良くないふたりだが、意味もなく、いがみ合ったりしないあたり、互いに道理をわきまえているらしい。
ストレッチャーなら、ふたり一緒のまま連れて行けるとか、車に同乗することになるファンルゥを驚かせないためには、布で包んで隠すべきだとか、リュイセンが優しい気遣いをしてくれる。だからミンウェイは、この部屋のカーテンを外して覆えばよいと提案し、三人で作業に掛かった。
その途中で、ミンウェイはメイシアに呼ばれた。
「あの、タオロンさんが『ここを発つ前に、どうしても、ミンウェイさんに娘の部屋を見てほしい』――だそうです」
「え?」
いったい、どういうことなのだろう。わけが分からない。
ミンウェイが首をかしげている間に、小さな女の子を肩車した大男が、天空の間に現れた。
わずかに息が乱れているので、ここまで走ってきたらしい。エルファンが迅速な行動を求めたからかと思ったが、肩の上できゃっきゃと喜んでいる女の子の様子を見ると、どうやら彼女の笑顔のためのようだった。
彼がタオロンなのだろう。
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目。刈り上げた短髪と額の間に赤いバンダナがきつく巻かれている。聞いていた通りの容貌なのだが、ミンウェイが想像していた以上に童顔だった。そのため、ふたりは父娘というよりも、年の離れた兄妹に見えた。
「パパ、このお部屋、凄ぉい……」
くりっとした丸い目を更に丸くして、娘のファンルゥがシャンデリアに手を伸ばす。高い天井から吊り下げられたそれに届くわけもないのだが、燦然と輝くきらきらに、彼女の瞳もきらきらしていた。
しかし残念ながら、父親のタオロンには娘と感動を共有する余裕はないようだった。ミンウェイを前に太い眉を寄せ、落ち着きなく視線を揺らす。その先に、白いカーテンで覆われた亡骸があることに気づき、ミンウェイは察した。〈蝿〉が亡くなったことを知らされ、〈蝿〉の娘であるミンウェイになんと言ったらよいのか迷っているのだ。
なので、ミンウェイは自分から一歩、前に出た。
「斑目タオロン氏ですね。はじめまして、鷹刀ミンウェイです。この度は、リュイセンが大変お世話になったと聞きました。どうもありがとうございます」
「いや、俺は、そんなんじゃねぇ……。そもそも、リュイセンが捕まっちまったのは、俺のせいだ。俺のほうこそ、鷹刀の連中には助けてもらって……」
言葉遣いは粗野だが、ぼそぼそとした物言いに、かえって好感が持てた。本当に裏表のない、猪突猛進でまっすぐな人柄なのだろう。
しかし、この調子では、なかなか話が進みそうもない。それは少し困る。ここに長居はできないのだから。――そう思ったとき、彼の頭上にいるファンルゥが「あー!」と大声を出した。
「女神様だぁ! 綺麗!」
じっとミンウェイを見つめ、ファンルゥが満面の笑顔を浮かべる。
「え?」
「メイシアがお姫様で、お姉ちゃんが女神様なの! ――ねぇ、パパ。女神様のお姉ちゃんに、ファンルゥのお部屋を見せてあげるんでしょ? 早く行こう!」
ファンルゥは、タオロンの肩の上で足をばたばたとさせる。
それは、いったい、どういう意味なのか。ミンウェイが戸惑っていると、そばで見守っていたメイシアが、そっと耳打ちをしてくれた。
曰く。
「ファンルゥちゃんは、綺麗なミンウェイさんをひと目で気に入ったんです。だから、これから一緒に部屋に行くのが楽しみなんだと思います」
そして、肩車のファンルゥに先導され、なんだかよく分からないままに、ミンウェイは天空の間をあとにしたのだった。
部屋を出ていくミンウェイの後ろ姿を、リュイセンは黙って見送った。しかし、彼女の気配が完全に消えると、低い声で「緋扇」と、シュアンを呼んだ。
リュイセンの黄金比の美貌は、彫像のように凍りついていた。その形相に、シュアンは尋常ならざるものを感じ、三白眼をすっと細める。
「あの小さな嬢ちゃんの部屋に、何があるんだ?」
「…………」
シュアンの問いに、リュイセンは押し黙った。口元の動きから、奥歯を噛んだのが分かる。どうにも煮え切らない態度に、シュアンは焦れて言葉を重ねた。
「ミンウェイが気になるんだろう? だったら、お前も行ってこい。遺体なら、俺ひとりで運べるからよ」
仕方ねぇな、と言わんばかりの口調だが、彼らの関係を考えれば、驚くほど友好的な態度だった。不和の間柄とはいえ、今回、〈蝿〉の心を動かし、ミンウェイとの温かな対面を実現させたリュイセンのことは、シュアンも評価しているのだ。
「緋扇……、お前が、ミンウェイのあとを追ってくれ」
「……は?」
シュアンは、ぽかんと口を開け、間抜け面で呆けた。大きく見開かれた瞳が、彼の特徴であるはずの三白眼を放棄している。
深刻な顔つきのリュイセンに対し、あんまりな反応であるが、この場合はどう考えても、シュアンのほうが正当だろう。しかし、リュイセンの次の台詞は、更に脈絡というものをまるで無視していた。
「俺は、お前が嫌いだ」
唐突なリュイセンの暴言に、そんなことは百も承知のシュアンでも、思わず「はぁっ!?」と声を荒らげずにはいられない。
「大嫌いだ」
「ああ、そうかよ。俺も、あんたが嫌いだ。気が合うな」
内心では、かなりリュイセンを見直していたシュアンなのだが、それをすべて御破算にして投げやりに答える。そのまま、ぷいと横を向いた彼に、しかし、リュイセンは畳み掛けた。
「俺は、お前の、如何にも分かったふうで、耳に心地よくて、適当な言い草が大嫌いだ」
「……だから、なんだよ?」
「――けど!」
険悪な凶相で睨みつけてきたシュアンを、リュイセンは語勢で跳ねのける。
「今のミンウェイには、お前の胡散臭くて、無責任な言葉が必要だ。……だから、ミンウェイのあとを追ってくれ」
「……は?」
リュイセンの発言が先ほどのものに戻り、シュアンの反応もまた、もとに戻る。
「お前が、ミンウェイに、ヘイシャオと会うことを強く勧めてくれたから、この幕引きとなった。……シュアン、ありがとう。感謝している」
「リュイセン? あんた、さっきから、いったい、どうしたんだよ? ――だいたい、この結末は、あんたが〈蝿〉を改心させたからこそだろう? あんたの手柄じゃねぇか。大手柄だろう?」
何を言いたいのか、まったく理解できないと、シュアンは悪相を歪める。だが、リュイセンは視線を落とし、首を振った。肩までの髪が、何かを払いのけるかのように、さらさらと揺れる。
「確かに、俺はヘイシャオの気持ちを変えたかもしれない。けど、ミンウェイを動かしたのは、お前なんだ」
「そりゃあ、この庭園から出られなかったあんたは、ミンウェイとは接触のしようがなくて、代わりに俺が、たまたま彼女のそばにいた、というだけだろう? ――それより、〈蝿〉の野郎をどうにかするほうが、比べようもなく困難だったはずだ。あんたは、よくやったよ」
シュアンは、やれやれと溜め息をついた。どうやら、青臭い義理堅さがリュイセンを不安定にしているのだろうと、結論づけたのだ。
そんなシュアンに、リュイセンはむっと鼻に皺を寄せながらも、硬い声で告げる。
「俺は、ヘイシャオからミンウェイを遠ざけようとばかりしていた。それが、ミンウェイのためだと思ったからだ。――だが、お前は、俺とは正反対のことをした。何度も、何度も、ミンウェイにヘイシャオと向き合うように言ってくれたんだと、ルイフォンから聞いた。……今の状況があるのは、お前の手柄だ」
「おいおい、リュイセン。そんなに堅苦しく考えることはないだろう?」
シュアンは、自論に酔っているリュイセンに弱り、ぼさぼさ頭をがりがりと掻く。普段が普段であるだけに、どうにも妙な調子だった。
けれど、リュイセンは止まらない。
「本当は、お前なんかに頼みたくなどない。……でも、今のミンウェイには、お前の言葉が必要だ」
リュイセンは血を吐くように告げ……、頭を下げた。
「!?」
シュアンの三白眼が極限まで見開かれる。
「ファンルゥの部屋は、ここから二階分下がった、この建物の一番端だ」
「……分かった」
そのひとことだけを残し、シュアンは部屋を出ていった。
シュアンの姿が消えると、リュイセンは肩を落とし、小さな呟きを漏らす。
「仕方ねぇだろう……。俺の前じゃ、ミンウェイは無理に笑おうとするんだからよ……」
6.波音の子守唄-2
「あのね、〈蝿〉のおじさんは、とっても、いばりんぼだったけど、自分だけ美味しいご飯を食べていたわけじゃないの。ファンルゥのご飯、とっても美味しかったの」
ファンルゥの部屋に向かうべく、天空の間を出た途端、ミンウェイの頭よりも遥かに高い位置から、子供特有の細い声が響いた。
目線を上げれば、タオロンに肩車されたファンルゥが、訴えるようにミンウェイを見つめていた。父親そっくりの太い眉が下がり、わずかに頬を上気させた顔からは、どこか思いつめたような懸命さが伝わってくる。
「斑目のお家とは違うの。パパは、お仕事がないときは、ずっとファンルゥと一緒にいてよかったの」
「ファンルゥちゃん……?」
先ほどは、ミンウェイと行動できるのが嬉しくてたまらないと、ご機嫌だったファンルゥが、今はくりっとした大きな目にうっすらと涙を浮かべていた。その急激な変化に、ミンウェイは戸惑う。
「〈蝿〉のおじさんは、お姉ちゃんのパパなんでしょ?」
「え……」
まっすぐな視線に、どきりとした。
ミンウェイにとって、『彼』は何者だったのか。そして、彼女を育ててくれた『お父様』は何者だったのか……。
ミンウェイは自問し、切れ長の目を見開いたまま、表情を凍らせる。
勿論、ファンルゥに他意はなく、ただ、そう聞いたから、そう言ったまでなのだろう。
「お姉ちゃんが『悪いことはやめて!』って言ったから、〈蝿〉のおじさんは『ごめんなさい』して、牢屋に行ったんでしょう?」
どうやら、小さなファンルゥには、『娘のミンウェイの勧めで、〈蝿〉が自首した』と説明されたらしい。〈蝿〉には、メイシアを誘拐、監禁していたという事実があるので、ファンルゥは、すんなり納得したようである。
ミンウェイが曖昧に頷くと、タオロンが「すんません」とそっと謝った。その声と重なるように、ファンルゥが言う。
「『ごめんなさい』は大事だって、ファンルゥは知っている。だから、お姉ちゃんは正しいの。……でも、〈蝿〉のおじさんが牢屋に行っちゃったら、お姉ちゃんはパパと会えない……! お姉ちゃんは、正しいことしたのに……!」
ファンルゥの目から、ぽろっと大粒の涙がこぼれた。『パパと会えない』は、彼女にとって、とても悲しいことなのだ。
「あのね、ファンルゥのパパがね、ファンルゥのお部屋を見れば、お姉ちゃんは寂しくても頑張れるって言ったの。ファンルゥのお部屋は、とっても素敵だから、お姉ちゃんに元気をくれるって。だから、ファンルゥは、お姉ちゃんをお部屋に案内するの!」
小さな拳骨で、ぐいぐいっと涙を拭い、ファンルゥは使命感に満ちた太い眉を寄せる。よく分からない理屈であるが、ミンウェイを励まそうと必死なのは分かった。
そんな娘の体を、タオロンはひょいと肩から降ろす。重力をまるで感じさせない動きで、しっかりと胸に抱き直し、見るからに無骨な大きな掌でファンルゥの頭を撫でた。ぴょこぴょこと飛び出た彼女の癖っ毛が、嬉しそうに跳ねる。
「いきなり、すんませんでした」
タオロンはミンウェイに向き直り、頭を下げた。
「俺から話すのが筋とは思ったんですが、あなたの気持ちは『ファンルゥのほうが、よく分かる』と娘が……。それに俺は、あまり口が達者じゃねぇんで……」
大きな体を丸めて紡がれた言葉は、確かに洗練されたものではなかったが、ミンウェイを心から気遣っていた。
この父娘は、本当に素朴で、温かい。
ルイフォンたちから聞いていた通りだ。
ミンウェイの表情が自然に和らぐ。先ほど『彼』を亡くしたばかりの心が、ほわりと癒やされていく。
「ありがとうございます。……ファンルゥちゃんも、ありがとう」
少しだけ虚勢も混じってはいたが、ミンウェイは微笑みを浮かべた。
「――けど、ファンルゥちゃんの部屋を私に見せたいというのは、いったい……?」
「……うまく言えねぇんで、とりあえず見てください。もう着きますから」
首をかしげたミンウェイに、タオロンは弱ったように声を詰まらせながら、ぼそぼそと答えた。そして、その言葉の通りに、すぐに廊下の端――ファンルゥの部屋の前に到着する。
昨晩、ファンルゥの身を守るために、ルイフォンが番号を変えて施錠した電子錠は、先ほど解錠してもらったという。だから、扉はすっと開いた。
部屋の中は、ファンルゥがメイシアのいる展望塔へと、慌ただしく出発する前の状態が、そのまま残されていた。
大きく窓が開け放たれ、その下には脱出の際に踏み台にした、子供用の椅子が置かれている。草原を渡る風が、ざわざわと、まるで波のような音を立てながら部屋に入ってきて、テーブルの上のスケッチブックをぱらりとめくった。
力いっぱい塗られた水色の上に、紫の丸がたくさん描かれていた。『病気のあの子』に届けるからと、リュイセンが預かったのと同じ絵柄だ。
ファンルゥの優しさの象徴ともいえる絵を見て、ミンウェイは口元を緩める。
……しかし。
どうしてタオロンは、この部屋を見せたいと言ったのだろう?
やはり、分からない。
ミンウェイが理由を問おうとしたとき、横の壁から、カチッという機械仕掛けの音が聞こえた。
そして――。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。
時計の鐘が、定時を告げる。
「え……」
ミンウェイは耳を疑った。
軽やかな鐘の音は、聞き覚えのある響きをしていた。
……ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。
ミンウェイの心臓が、時報を追いかけるように早鐘を鳴らす。弾かれたように音をたどれば、そこには可愛らしいデザインの絡繰り時計が掛けられていた。
……ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。
十二回。――正午だ。
『お昼の十二時だけは、特別なのだよ。ピエロが全員で、ミンウェイに挨拶に来る』
『そしたら、研究室にいる私を迎えにきてほしい。私はきっと、時間を忘れているだろうからね』
『ミンウェイ。一緒に、お昼を食べよう』
耳の中に蘇る、柔らかな低い声――。
「お父……様……?」
壁に掛けられた絡繰り時計から、軽快な音楽が流れ始めた。
十二個の数字が順に、ぎぃ、ぎぃと音を立てて裏返り、後ろに隠れていた色とりどりのピエロが、次々に飛び出してくる。
『おかえり、ミンウェイ!』
『元気にしていた?』
『また会えて嬉しいよ!』
ピエロたちは踊りながら、ミンウェイに笑いかける。
「嘘……」
ミンウェイの子供部屋にあった絡繰り時計は、とっくの昔に時を止めてしまった。
だから今、目の前で踊っているピエロたちは、新しくファンルゥのために用意されたもの。何処も彼処もぴかぴかの新品だ。
――だけど。
ピエロたちが勢揃いし、代わりに文字盤の数字がすべて隠されてしまった絡繰り時計は、『何時』でもない『時間』を示している……。
『ねぇ、ミンウェイ。僕たちのいる『此処』は、どこだと思う?』
「え……?」
ミンウェイは、はっと顔色を変えた。
ピエロたちがいるのなら……と、部屋のあちこちに視線を走らせる。
見覚えのあるおままごとセット、記憶にあるがままの着せ替え人形、小物作りに夢中になった子供用の大きめきらきらビーズ……。玩具だけではない。洋服掛けには、お気に入りのふわふわワンピースまで下がっている。
「『此処』は……、私の……部屋……」
全身の力が急に抜け落ち、ミンウェイはぺたんと床に座り込んだ。
下がった視線の先に、本棚があった。絵本の背表紙が目に入る。ミンウェイが好きだった、お姫様が出てくるものばかりだ。お姫様の物語でも、怖い魔女が出てきて、わんわん泣いてしまった絵本は見当たらない。
「きっと、そうなんじゃねぇかと思って……。だから、あなたに見せたかったんです」
背後から、タオロンの遠慮がちな太い声が聞こえた。
ミンウェイは振り返るべきだと思いつつ、顔を上げることはできなかった。ただ、相槌を打つように、こくりと頭を動かす。
「ファンルゥは、斑目の家でも人質でした。でも、斑目がファンルゥに与えたのは、こんな立派な部屋じゃねぇ。とりあえず子供用のもんがある、って程度で……、俺も馬鹿だから、それで充分なんだと疑いもしなかったんです」
年上の女性への言葉遣いに迷うのか、タオロンは時々、声を詰まらせた。そして、ぽろりと、素のままの思いがこぼれる。
「斑目がどうだって、俺自身が、綺麗なもんのひとつでも買ってやりゃあよかったのによぉ」
「パパ……」
ファンルゥが、もぞもぞ動く気配がした。けれど、彼女はタオロンの話の邪魔にならないよう、それ以上は何も言わない。物心つく前からの人質生活で、幼いながらも状況を読むべきときを、ちゃんと知っているのだ。
ミンウェイの後ろで、タオロンが笑んだのが分かった。目を細め、愛しげに娘を見つめる眼差しが感じられる。
それから彼は、気を取り直したように続けた。
「この部屋のものは、ファンルゥがおとなしくしているようにと、〈蝿〉が手配したものです。見たこともない贅沢品にファンルゥは喜んで……、だから俺は、この歳の女の子に人気のものを〈蝿〉が適当に掻き集めてきたんだとばかり思っていて……、――けど」
理路整然と話せないことを焦れるように、タオロンは、ほんの少し早口になる。
「そのうち、ファンルゥには上品すぎるというか、ちょっと刺激が足りなくて飽きちまったというか……。そんなとき、〈蝿〉に娘がいると知って、馬鹿な俺でも気づいたんです。――ここは『あなた』の部屋なんだ、って」
やっと説明できた、とばかりにタオロンが力強く言い放った。
ミンウェイは何か言葉を返さねばと思うのに、喉が詰まって声を出せない。だから、無言で首肯する。
タオロンの言う通り。この部屋は、内気な女の子だったミンウェイの部屋。
懐かしく……けれど今まで、すっかり忘れていた遥かな昔のこと。
なのに〈蝿〉は――『お父様』の記憶は、ずっと覚えていたのだ……。
「……あ、……あのぅ、……すんません」
戸惑うような、タオロンの息遣いを感じた。まだ何か、言いたいことがあるらしい。
ミンウェイの後ろ姿に一方的に話しかけるのは、タオロンとしては非常にやりにくいことだろう。それでも彼は、懸命に口を開く。
「俺は正直、〈蝿〉の野郎が大嫌いでした。……だから、あいつを弁護するようなことは言いたくねぇ。けど、あなたには勘違いをしてほしくねぇんです」
「……?」
「娘がいれば、女の子が好きそうなもんくらい自然に分かってくる、なんてことは、絶対にねぇんです。散々、失敗して、時には理不尽に癇癪を起こされて、やっと、なんとかやっていくんです。……俺なんか、ファンルゥに何をしてやったらいいのか、悩んでばっかです」
ぽつり、ぽつりと、タオロンは語る。
「男の子だったら、まだもう少し楽だったんじゃねぇかと思っちまう。女の子なんて、本当に分からねぇ……。――だから、男手ひとつで娘を育てた〈蝿〉は…………凄ぇんです」
「……」
初めてこの父娘を見たとき、ミンウェイは、歳の離れた兄妹みたいだと思った。
けれど、違う。タオロンは、ちゃんと『ファンルゥのパパ』なのだ。
タオロンは、言葉に迷いながら、続ける。
「ファンルゥの腕輪の件。あなたも聞いていますよね」
「え、ええ……」
やっと声が出た。――タオロンが、ミンウェイと……『彼』のために話をしてくれているのだと思うと、自然に声を出せた。
「模造石だって言われたけど、俺には宝石なんて区別できねぇ。だから、大人の女が持つような凄ぇもん寄越しやがってと……、なんて言えばいいんだ……、ファンルゥにはまだ早いっつうか。けど、ファンルゥの奴が凄ぇ喜んで……、俺は、〈蝿〉と……ファンルゥに、むかつきました」
最後のほうは、低く押し殺した声だった。背後の気配が揺れたので、そっとファンルゥの耳をふさいだのだと分かった。娘には聞かせたくなかったのだろう。
「〈蝿〉は、このくらいの歳の子は小さな淑女だと。そんなことも知らないのかと、俺を鼻で嗤いました。――俺は、凄ぇ悔しくて。けど、本当に〈蝿〉の言う通りで……。……でも」
ためらいながら、タオロンは言を継ぐ。
「〈蝿〉との……そのぅ、片がついて、落ち着いた今だからこそ、俺もこんなことを言えるんだと思いますが、あのときの〈蝿〉の態度は、〈蝿〉の自負っつうか……、苦労して娘を育てたから分かるんだという、誇りみたいなもんだったんじゃねぇかと思うんです」
そしてタオロンは、太い声に照れるような色合いを混ぜながら、はっきりと告げる。
「〈蝿〉は、本当に凄ぇ愛情を込めて、あなたを育てたんです」
「――!?」
思ってもみなかった言葉に、ミンウェイは息を呑んだ。
その反応を、タオロンがどう捉えたのかは分からない。ただ、がりがりと頭を掻く音が聞こえる。
「思えば〈蝿〉は、ファンルゥには優しかった気がするんです。――立派な部屋を与えて、おとなしくさせる必要はなかった。人質なんだから、騒ごうが暴れようが、鎖で繋ぐんだってよかった。俺には絶対に手出しができねぇ怪しい技術を使うとか、あの硝子ケースに閉じ込めるとか、なんだってできたんだ……」
「……」
「あの腕輪だって、ただの腕輪だった。俺のことを脅して、そのために、俺はリュイセンを斬ったっていうのに……。ファンルゥに対しては『音が出る腕輪』と説明して、怖がらせないようにして……それも、全部、嘘。本当になんの仕掛けもない、ただの腕輪だった。馬鹿な俺は、すっかり騙されちまったけどよぉ」
「…………」
「ファンルゥは、〈蝿〉のことを『悪い奴』だと嫌っていた。けど、驚いたことに、ちっとも怖がっちゃぁいなかったんだ。俺はてっきり、ファンルゥが餓鬼だから状況が分かっていねぇんだと信じていた。でも、違った。――〈蝿〉は、一度だってファンルゥに危害を加えたことはねぇんです。……それは、ファンルゥに、あなたを重ねて見ていたからだと……俺は思うんです」
「………………」
「俺みたいな奴が説教臭く、すんません。……でもこれは、俺にしか言えねぇから。……その……、……あぁ、うまく言えねぇ……」
あとには、もごもごと言葉にならない声が続き、タオロンが困りきっているのが分かった。
ミンウェイは――……。
本棚の前に座り込んだまま、瞬きひとつできなかった。
絵本の背表紙がにじむ。
膝の上に、ぽたりと涙の粒が落ちた。
「すんません。俺たちは、これで失礼します。……あなたは、この部屋をしばらく見てやってください」
ミンウェイの肩が小刻みに震えていることに気づいたのだろう。タオロンは焦ったようにそう言って、部屋を出ようとした。
そのときだった。
「お姉ちゃん!」
タオロンの腕から、ぴょこんと飛び出したファンルゥが、ミンウェイのもとへとやってきた。
ミンウェイは慌てて目元を拭い、「なぁに?」と答える。
「この腕輪、お姉ちゃんに返す!」
模造石をきらきらと輝かせながら、ファンルゥが腕から腕輪を抜き取った。
「――お姫様の……腕輪……!」
ミンウェイは、思わず目を見開く。
それは、子供のころの宝物と、そっくりだった。
「この腕輪、やっぱりお姉ちゃんのだったんだね!」
「え……?」
そんなことはない。その腕輪は、〈蝿〉がファンルゥのために用意したものだ。
ミンウェイの腕輪なら、昔、住んでいた家のどこかに、今も大切にしまってあるはずだ。ついこの間、ミンウェイがクローンである証拠を求めて生前の父の研究室を調べにいった、あの家のどこかに。
ルイフォンが思い出を持ち帰ることを勧めてくれたのに、『お別れ』をしに来たのだと突っぱねてしまったから、二度と手にすることはないのだけれど――。
「ファンルゥね、パパから『ご褒美』の腕輪を貰ったの!」
ファンルゥは模造石の腕輪をミンウェイに押しつけ、自分のポケットをごそごそとさせた。そして、紫水晶でできた腕輪をはめる。小さな女の子が身に着けるにしては、だいぶ大人びた色合いであったが、細身のデザインが細い手首に意外によく似合っていた。
「これはね、メイシアの『作戦』で、パパがルイフォンに会うために、お出掛けしたときに買ってきてくれたの。ファンルゥの宝物!」
タオロンが、ファンルゥには『ご褒美』をやるべきだと主張して、〈蝿〉から外出許可をもぎ取った、あの一件である。
『ペンダントとか、ブローチを買う』と言って出掛けたくせに、タオロンは、〈蝿〉の腕輪に対抗して『腕輪』を買ってきたのだ。紫色は『空に浮かぶ、紫の風船』の絵から、ファンルゥの好きな色だと考えたのだろう。
「ファンルゥは、ファンルゥのパパの腕輪を着けるから、お姉ちゃんは、お姉ちゃんのパパの腕輪を着けて!」
満面の笑顔で、ファンルゥは言う。
今までは『〈蝿〉の腕輪』を着けていなければならなかったのが、やっと『パパの腕輪』に替えられる。それが、嬉しくてたまらないらしい。
……ミンウェイに、断ることはできなかった。
「ファンルゥちゃん、ありがとう……」
そう言って、ミンウェイは、きらきらのお姫様の腕輪をはめる。
何十年ぶりかの輝きは、幼いころとは違って、どこか色あせて見えた。模造石は、本物ではないことを知ってしまったからかもしれない。
懐かしさに目を細めると、目尻から、すっと涙が流れ落ちた。
タオロンとファンルゥの父娘は、ミンウェイを残して部屋を出ていった。
そして――。
「お疲れさん」
妙に甲高く、耳に障る声が響いた。
振り返らなくても分かる。この庭園を出るための準備をしているはずのシュアンである。
何故、彼がここにいるのか。
ミンウェイは、別に疑問に思わなかった。さっきから気配を感じていたし、いつも、ふらりと現れる人だから、今もそうなのだろうと納得していた。
シュアンは遠慮なくミンウェイに近づいてきて、けれど、そばまでは来ない。中途半端なところで立ち止まり、そこでどっかりと腰を下ろした。
「斑目タオロンは、あんたと〈蝿〉の正確な間柄を知らないんだろう?」
「え? ……ええ、そうだと思います」
単に『父娘』だと、ルイフォンは説明したはずだ。クローン云々なんてことは、わざわざ言う必要はないだろう、と。
シュアンは何故、そんなことを訊くのだろう?
ミンウェイは、わずかに警戒する。泣いていた形跡を手の甲でこすり取ると、視界の端で、きらきらと模造石が輝いた。
「あいつの善意は、あんたには、ちっときつかったな」
「……?」
「斑目タオロンさ。ああ、娘のほうも、父親そっくりだったな。――あんたを慰めよう、励まそうと必死で。凶賊のくせに、愚かしいほどにいい奴で」
そこで急に、シュアンの声が、怖気の走るような、どすの利いたものとなる。
「――そんでもって、あんたの傷をえぐりまくっていた」
「緋扇さん!?」
気遣ってくれた父娘への、あんまりな言葉。
ミンウェイは、涙の跡が残る顔にも関わらず、反射的に振り返る。
「よぉ、やっと、こっちを向いてくれたな」
軽薄な口調で、シュアンが、ぼさぼさ頭を揺らした。くつろいだ様子で床に胡座をかいている姿は、ミンウェイが想像していた通りだ。
しかし、彼を特徴づける三白眼が、切なげに細められていた。まるで泣き出す直前のような顔に見える。シュアンに限って泣き顔など、あろうはずもないが。
「緋扇さん! 今の発言は、あまりにも失礼ではありませんか!?」
眦を吊り上げ、ミンウェイは叫んだ。シュアンの表情は、きっと気のせいだと思いながら。
「ただの事実だろう?」
「『事実』って? 何が『事実』だと言うんですか!」
「事情を知らないタオロンの奴は、『〈蝿〉は、娘に愛情を注いでいた』と伝えれば、あんたも〈蝿〉も報われると信じていた。あんたを喜ばせようと、義務感すら持って語っていた」
「……」
「タオロンは、いい奴だ。〈蝿〉の野郎も、天国だか地獄だかで、タオロンに感謝していることだろう。――だがな。あんたは違う」
「っ!?」
鋭く突き刺さるような三白眼に、ミンウェイは短く息を呑む。
「あんたの欲しかった愛は、『娘』としてじゃねぇんだ」
「緋扇……さん?」
「なのに、『娘として愛されていた』と繰り返し言われて、……あんたが辛くないわけがないだろう!?」
その瞬間、ミンウェイの中で、何かが崩れ落ちた。
目の前の景色が歪み、何もかもが溶けていく。
「あんたはお人好しだから、あの父娘の善意を受け止めなきゃと思ったはずだ。気遣われているんだから。優しくしてもらっているんだから、ってな」
開け放された窓から、草原を渡る風の音が聞こえる。
ざわざわという風音は、まるで緑の海原の波音。それが、シュアンの声と混じり合い、ミンウェイへと押し寄せる。
「あんたは、よく頑張った」
包み込むような言葉が、ミンウェイの心に打ち寄せる。
「〈蝿〉の野郎の最期の瞬間も、本当は奴にすがりつきたかったんだろう?」
「でも、『彼女』がいたから遠慮した」
「あんたは、よく耐えた」
「もう、いいんだ。我慢することはねぇぞ」
6.波音の子守唄-3
窓の外から、草原を抜ける風音が聞こえる。
ざわざわと不規則なようでいながら、どこか一定のリズムを感じるそれは、まるで寄せては返す波のよう。
緑の海原のさざめきは、父と母の眠る、あの海を臨む小さな丘を思い起こさせる。
仲良く寄り添う、『両親』の墓標を。
そして、固く抱きしめあったまま骸となった『彼』と『彼女』の姿を――。
ミンウェイは、瞼の裏に浮かび上がった光景を打ち消すように、目元をこすり上げた。
「私っ……」
震える唇から漏れ出したのは、しゃくりあげるような声だった。
「やっと……、やっと……、お父様に手が届いたと……思ったの……」
視線を落とし、ミンウェイは自分の掌を見つめる。
「でも……」
かすれた呟きと共に、ひと雫の涙が落ちた。
やっと掴んだと思ったものは、砂粒のように指の隙間からこぼれ、足元に押し寄せてきた引き潮に連れ去られていってしまった。
掌の中に残ったのは、自分自身の涙だけ。
「私……、お父様とは……、『彼』とは……、これでお別れなんだって――亡くなってしまうんだって……、納得していた! 疲れ切ってしまった『彼』が、『最高の終幕』を迎えるのだと笑うから、私も笑って見送る覚悟はっ……、ちゃんとできていたわ!」
自分が泣いているのか、怒っているのか、ミンウェイには分からなかった。
ただ、胸に溜まった想いが苦しくてたまらないから、吐き出している。もう我慢することはないのだと、波の音が誘ってくれたから。
「だから、最後に、お父様に伝えたかった……! ずっと言えなかったことを。――言ってはいけないのか、言いたくないのか、ずっと分からなかったことを……!」
ミンウェイは、ぐいと顔を上げた。
長い黒髪が、緩やかに波打つ。草の香りが、ふわりと広がる。オリジナルの『母親』とも、硝子ケースの『彼女』とも違う、彼女だけの姿で、彼女だけの心を響かせる。
「『愛している』――って……」
訴えるような叫びを、シュアンは、先ほどから変わらぬ切なげな三白眼のまま、驚くほど自然に受け止めてくれた。あたかも、彼女のその言葉を待っていたかのように。
「ああ、そうだな」
決して綺麗ではない、むしろ濁声というべき声が、静かに落とされる。
「『彼』の最期の瞬間には、『愛している』と、あんたが言うつもりだった。いきなり出てきた『彼女』なんかじゃなくて、あんたの腕の中で『彼』は逝くはずだった」
彼はそこで言葉を切り、一段、低い声で告げる。
「他の奴らは、良い臨終だと感じていたようだったが、あんただけは違った。『彼』は、あんたのものになるはずだったのに、そうならなかった。あんたにしてみれば、最後の最後で裏切られたも同然だった」
「――!」
ミンウェイが口に出せずにいた、どす黒い想いを、シュアンが代わりに言霊にした。
醜い部分を暴かれた。なのに、心が、ふっと軽くなる。まるで呪縛から解き放たれたかのように。
だから、なのだろう。
綺麗な想いの裏側に沈み込ませ、存在そのものをなかったことにしたはずの穢らしい澱が、ミンウェイの内部から急速に浮かび上がってきた。
今なら、この想いを外に出してもいいのだろう、と。
すべてを口にしても、シュアンなら、どこかに流してくれるから……。
「『彼』……、最後に、私に向かって『幸せにおなり』って言ったの。――それって、どういう意味だか分かる!?」
切れ長の瞳をきっ、と尖らせ、ミンウェイは、シュアンに噛み付くように言い放った。いつもの敬語など、すっかり吹き飛んでいる。
「『自分では、私のことを幸せにするつもりはない』ってことよ!? 私に『ひとりで勝手に幸せになれ』ってことよ! 無責任だと思わない!?」
こんなの子供の屁理屈だ。『ファンルゥのパパ』であるタオロンが言っていた、『娘の理不尽な癇癪』だ。大人のミンウェイが言うべきことではない。
けれど。
堰を切った想いは止まらない。
「『彼』だけじゃないの! オリジナルのお父様も同じだったの! お父様が最期に、なんて言ったのか、あのときは私、聞き取れなかった。――でも、さっき分かっちゃったのよ! だって、『彼』と同じ顔だったんだもの!」
エルファンの刃を受け、地に倒れたオリジナルの父は、泣き叫ぶミンウェイを見上げ、とても満足そうな、幸せそうな顔をしていた。――『彼』と、そっくりな笑みだった。
だから、理解してしまった。
『幸せにおなり、私の娘……』
そう祈って、逝ったのだ。『父』も――。
「酷いじゃない、ふたりとも!」
ミンウェイは柳眉を逆立てる。
「私を置き去りにして、自分たちだけ満足して、幸せになって、勝手に死んじゃうの! ほんと、まったく同じ!」
吐き捨てても吐き捨てても、怒りのような感情がこみ上げる。
「だって、クローンだもの! そっくりで当然だわ! ――でも、それなら私は『お母様』のクローンよ……!」
一気にまくし立て、酸素が足りなくて息を吸う。
その際、何故だか、ひくっと嗚咽のような音がこぼれた。
「……それならっ……、私を選んでくれたって……よかったじゃない……! ずっと、私をお母様の身代わりにしていたんだから……!」
いつの間にか『彼』と『お父様』が、ごちゃまぜになっている。もう支離滅裂で、滅茶苦茶だ。
激しく叫んだことでミンウェイの肌は上気し、息が荒くなっていた。なのに体の芯は――心は、凍てつくように寒かった。彼女は自分自身を抱きしめ、うずくまる。
彼女が黙り込むと、窓から入る潮騒のような風音が、より一層はっきりと聞こえてきた。
ざわざわと。
時折、荒ぶる波濤の如く、ごうごうと。
「ミンウェイ」
殻に閉じこもるように身を縮こめた彼女の名を、シュアンが呼んだ。
少し離れたところで、胡座をかいていた彼は立ち上がり、彼女へと近づく。ゆっくりと、彼女が嫌がるようであれば、そこで自然に止まれるような速度で。
ミンウェイは微動だにしなかった。だからシュアンは、彼女の隣に腰を下ろした。
すぐそばに、シュアンの体温。寒さに震えるミンウェイの心が、ほんのり温まる。
けれど彼は、決して自分からは、彼女に触れない。
初対面のときは、べたべたと抱きついてきたくせに、あれは鷹刀一族と縁を結ぶための作戦に過ぎなかったとばかりに、まるで忘れたかのような態度を取る。いつだって、彼女の隣に座ろうとするくせに、必ず、ほんの少しだけ距離を置く。
彼は、気づいているのだ。彼女が自分より『強くて、大きなもの』を無意識に怖がり、身構えることを。
だから、彼の気遣いは有難い……はずだ。少なくとも、いつもはそうだ。なのに今は、素っ気なくて寂しいと感じる。
「ミンウェイ」
再び――、今度は、至近距離で掛けられた声に、彼女は顔を上げた。
「あんたの今の状況を、分かりやすい言葉で教えてやるよ」
シュアンの口調は軽薄で、眇めた三白眼は威圧的で。なのに、彼のまとう空気は、どこか優しい。
「『失恋』だ」
「なっ……!?」
前言撤回。シュアンは無礼で失礼だ。
ミンウェイは、ぎろりとシュアンを睨みつける。しかし、そんなことで動じるシュアンではない。変わらぬ調子で、彼は言葉を重ねる。
「オリジナルも『彼』も、最後には、あんたは誰の代わりでもなく『あんた』なんだと、きちんと認識した。その上で、オリジナルは死んだ妻のもとへ逝き、『彼』は『彼女』の手を取った。――それはつまり、あんたは振られた、ってことだろう?」
「……っ」
「想いが届かないのは、誰だって辛いさ。失恋した奴が、くだを巻いて荒れるのは当然だ。どうしようもないのさ。簡単に割り切れるもんでもねぇんだからよ」
シュアンの口の端が緩やかに上がる。微笑んだのだと……思う。相変わらずの悪人面では、今ひとつ分かりにくいのだけれど。
「あんたは、いい女だ。愛した奴が幸せなら、それでいいんだと、必死に認めようと足掻いている。自分は、苦しくてたまらないのにさ」
「……そんなこと、ない……。私さっき、酷いことを言っていたわ……」
ミンウェイの反論を、シュアンは鼻で笑い飛ばす。
「酷いのは、奴らのほうだろう? 『幸せになれ』なんて、振った側の常套句であんたを苦しめてさ。あんたの言う通り、無責任なだけだ」
「『常套句』ですって? 違うわ!」
嘲笑うシュアンに、ミンウェイは、思わず『彼』と『お父様』を弁護するような台詞を口走る。
「ふたりとも、ちゃんと私のことを思って、幸せになってほしい、って――!」
そのとき。
不意に、ミンウェイの脳裏を幼い男の子の姿がよぎった。
『俺が貴族をやめて商人になれば、ミンウェイは俺と結婚できるね!』
『待っていて、必ず迎えに行く。誓うよ!』
『約束するよ!』
「――――!」
絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
「ミンウェイ!?」
揶揄するような顔つきだったシュアンが、血相を変えて叫ぶ。
「忘れていたわ……! ……忘れていたなんて、私……、どうかしている……」
真っ青な顔で、彼女は呟く。
「私は、幸せになったら駄目なの! だって私は、白詰草の四つ葉に――!」
遠い遠い、幼き日。ミンウェイはひとりの男の子と出会った。
彼は彼女に、四つ葉のクローバーを贈った。
花言葉の通り、彼は彼女の『幸運』を願い、『私のものになって』という愛の告白をし、一方的に将来を『約束』してくれた。
四つ葉のクローバーに載せられた彼の想いは、ことごとく叶わなかった。
ミンウェイが彼に毒を盛り、彼を殺したからだ。
それが、父に命じられた仕事だった。
裏切られた花言葉たちは、最後の花言葉に意味を変える。
そう……。
――『復讐』に。
ミンウェイは何かに取り憑かれたように立ち上がり、本棚に向かう。
あのとき、彼に貰った四つ葉は、押し花にして栞にした。そして、姫と王子が出てくる、大好きだった絵本に挟んで封印した。
ずらりと並べられた絵本の中から、彼女は迷わず、あの一冊を抜き取る。
ぱらぱらとページを繰った。あのシーンを求めて。
王子が恭しく片膝を付き、姫に向かって求婚するクライマックス。
憧れのあの場面。固く封印した、あの光景。
ぱらり、と。
あのページを開く。
四つ葉は……出てこなかった。
「あ……、当たり前じゃない……。……だって、この絵本は、ファンルゥちゃんの……」
嗤いがこみ上げる。
愚かな自分が、可笑しくてたまらない。
あの四つ葉は、古い家にあるミンウェイの絵本の中だ。
天を仰ぐように白い喉を晒し、波打つ黒髪をわななかせながら、狂ったように彼女は嗤う。
『失恋』――確かにそうかもしれない。
けれど、そもそも、彼女には誰かを愛する資格などなかったのだ。彼女は『幸運』を殺し、『復讐』の罪を背負ったのだから。
強い風が窓から吹き込み、彼女の髪を巻き上げた。波に呑まれるように身を任せ、このまま、何もかもを手放したいと願う……。
嗤い声がかすれ、涙も枯れ果てた。抜け殻のようになって、彼女はうなだれる。
背後に、シュアンの気配を感じた。
彼はまた、寄り添うように隣に座るのだろう。――彼女に触れることなく。
そう思った瞬間、ミンウェイの体は、後ろから、ぐいとシュアンの胸元に引き寄せられた。まるで波間に漂う彼女を引き上げるかのように。
「悪かった。あんたは、いろいろ厄介なもんを抱えていたんだった」
溜め息混じりの後悔が、耳元で囁かれる。
銃を握る、グリップだこで変形した手が目の前で固く組まれ、ミンウェイを抱きすくめていた。重心を失った彼女はされるがまま、彼に身を委ねるように倒れ込む。
中肉中背のシュアンは、ミンウェイの周りにいる凶賊たちと比べて、さして体格がよいとはいえない。けれど警察隊で鍛えた体は硬く引き締まり、彼の腕を振りほどくのは無理だと思う。
……振りほどく気は、ないけれど。彼に触れている背中が温かくて、心地良いから。
「初めて殺した相手のことを思い出したんだな? 四つ葉のクローバーの子供をさ」
「緋扇さん? どうして、彼のことを……?」
「あんたが話してくれただろう?」
「え?」
不思議そうに返したミンウェイに、シュアンは「覚えてないのか?」と、困惑の声を上げた。
「ルイフォンに、あんたは『母親』のクローンだろうと言われた夜だ。あんたが引き籠もるときに使う温室で、俺は一晩中、あんたの話を聞いていた」
ミンウェイは反射的に、むっと眉を寄せた。『引き籠もるときに使う温室』とは、随分と失礼な言い方だと思ったのだ。言葉の端を捉えて、目くじらを立てている場合ではないのに、シュアンが相手だと、何故だか、そんな気持ちがもたげてしまう。
「あのときも、あんたは『自分は、幸せになってはいけない』と訴えていた。俺は、それを聞いていたのに迂闊だった。……悪かった」
「緋扇……さん……?」
しばらくの間、シュアンは動かなかった。
だから、ミンウェイも、そのままでいた。
やがて、彼の口から、ひと呼吸だけ、逡巡の息が漏れる。
何を迷っているのか、ミンウェイは問おうとした。だが、彼女が疑問を口にするよりも先に、シュアンのぼさぼさ頭が彼女の髪に埋められる。
「!?」
次の瞬間、彼は、ぐっと脇を締め、両腕できつく彼女を抱きしめた。
そのときになって初めて、ミンウェイは気づく。シュアンの腕は、緩く彼女を覆っていただけ。彼女が抜け出そうと思えば、いつでもそれは可能だったのだ。
けれど今、彼は、彼女の逃げ道を完全にふさいだ。
抗うことのできない力で押さえ込み、彼女の耳朶に凄みのある声を落とす。
「ミンウェイ。過去の出来ごとは不可逆だ。決して、なかったことにはならない」
「!」
「子供だったあんたは、『父親』のために手を汚してきた。法的なことをいえば、判断力のない子供のしたことだと、あんたは罪に問われないかもしれない。――だが、そういう問題じゃねぇんだと、あんたは思っているだろうし、俺も分かっている」
頬へと流れてきた吐息は、火傷するように熱く、そして、冷たい。
ミンウェイは、思わず身をよじろうとしたが、シュアンの腕はそれを許さなかった。
「あんたには、あんたの事情があった」
「あんたは、もう充分に苦しんだ」
「殺された子供は、あんたを恨むような奴じゃなかった」
「何より、あんたを愛していた」
「あんたの幸せを願っているはずだ」
次々に打ち寄せられる、言葉の波。
優しい意味合いは、しかし、シュアンは逆のことを思っているのだと、はっきり伝わる険しい口調で叩きつけられる。
そして、案の定――。
「そんな安っぽい慰めを、俺は言わねぇ。――嘘だからな」
怒気すら感じられる、濁った声。
ミンウェイは小さく悲鳴を漏らしかけるが、それすらもシュアンは認めない。彼女を遮り、畳み掛けた。
「死んだ奴は、何も認識できない。それが現実だ」
凛冽とした言葉に、彼女の身が震える。
「その子供は、あんたに毒を盛られたことを知らないから、あんたを恨んだことはないだろう。それどころか、あんたとの約束を守れずに死んでいくことを、あんたに詫び続けたに違いない。――だが、そんな想いも、子供が死んだ瞬間に消える。『死』とは、そういうものだからだ」
諭すように、彼が告げる。
「現在のあんたが幸せでも、不幸でも、死んだ子供には伝わらねぇんだよ」
淡々と、静かに。シュアンは摂理を説きつける。
「そんな当たり前のことを理解しないで、『自分は、幸せになってはいけない』と、信じ込むことは、『あんたは、その子供を殺したという事実から逃げている』ってことだ」
彼に、容赦などない。
「何故なら、裏を返せば『自分が幸せにならなければ、あの子供に許してもらえる』という甘えた意味になるからだ」
ミンウェイは、はっと口元を押さえた。
「違うだろう? あんたが幸せになっても、ならなくても、罪は罪だ。そのことに変わりはない」
シュアンは投げかける。
「ならば、あんたの為すべきことは、本当に『あんたが幸せにならないこと』なのか?」
「――!」
問いかけの形で示された彼の真理は、実に正鵠を射ていた。
「――だって、だって……」
ミンウェイは無意識のうちに、シュアンの腕にしがみつく。この腕を離したら駄目だと、すがるように。
「じゃあ、私はどうすればいいのよ!?」
「さあな、俺には分からん」
「そんなっ!」
無責任だと言わんばかりに責める口調は、ミンウェイが発する筋合いではないはずだ。だが、シュアンが彼女を咎めることはなかった。
「俺の手も、他人の血で染まっている。俺は碌な死に方をしねぇんだろうなと、常に思っている」
「緋扇さんは、私とは違うわ。あなたは警察隊の仕事で!」
「変わらねぇさ。むしろ、俺のほうが非道い。――俺の人生は、凶賊の抗争に巻き込まれて家族を失ったところから、ねじ曲がった。それだけの理由で、俺は好んで凶賊を血祭りにあげてきたことを否定しない。俺の憂さ晴らしの、とばっちりで死んだ奴もいたはずだ」
「……」
「先輩と殴り合って袂を分かったときも、先輩のほうが正しいと理解していながら、俺は立ち止まれなかった。俺は『狂犬』と呼ばれるほどに、荒れまくっていた」
語られる過去とは裏腹に、シュアンの声は、凪いだ海のように落ち着いていた。それがかえって、かつて起きた嵐の大きさを感じさせた。
彼から伝わる思いが切なくて、ミンウェイは惹き寄せられるように彼の手に触れた。グリップだこで変形した皮膚は、想像していた以上に固くて、温かかった。
不意に、シュアンが動いた。
断りもなく彼に触れたことを、不快に思ったのだろうか。
恐れるミンウェイの耳元に、彼の柔らかな息が落ち、彼女の髪が波打つ。
「――でも……、俺は最近、ようやく自分の進むべき道を見つけた気がする。俺が為すべきことを為すための、まっとうな道筋をな」
それは、とてもシュアンとは思えぬ、穏やかな声だった。
彼は今、どんな顔をしているのだろう。
確かめたくて、ミンウェイが後ろを振り向こうとすると、抱きすくめられていた腕が、すっと解かれた。
彼の体温が、遠のく。
瞬間的に訪れる、不安と寂しさ。
胸に小さな痛みを感じながら身を返すと、少し照れたような、けれど誇らしげなシュアンの微笑が目に飛び込んできた。悪相であることに間違いはないのに、臆することなき力強さに魅せられる……。
ミンウェイは悟った。
彼は、不可逆の流れと向き合うことができたのだ。
ふと気づけば、頬をひと筋の涙が伝っていた。
「私にも……、あなたのように言える日が来るでしょうか?」
彼に近づきたいと思った。だから、焦がれるように、言葉が口を衝いて出た。ミンウェイの視線がさまよい、指先が求める。
シュアンの三白眼が、わずかに惑う。けれども彼の手は、彼女をそっと抱き寄せた。
「さてな。だいたい俺自身、まだまだどうなるか分からねぇんだからよ」
彼の胸から響く、力強い鼓動。温かな血流が彼女を包み込む。
体温には人を癒やす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己で、どこからが他者であるかの境界線を不明瞭にする。
彼のように、強くなれるだろうか。
波音に抱かれるように、たゆたうように。彼の腕の中でミンウェイは思う。
その心の声が伝わったのだろうか。シュアンが耳元で囁いた。
「焦ることはねぇさ。……未来も長く、あんたは生きるんだから」
シュアンの言葉と、窓からの風音が重なり合う。
緑の海原を流れる風は、まるで潮騒。
瞼の裏側に、両親の墓標を抱く、あの海を臨む丘が見える。
――彼岸に渡った彼らに、別れを告げよう。
今までの想いは、潮騒の鎮魂歌に乗せて。
そして。
まっさらな砂浜から、未来の一歩を踏み出すのだ。
~ 第九章 了 ~
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第二部 第九章 潮騒の鎮魂歌を
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第十章 蒼穹への黎明と https://slib.net/114198
――――に、続きます。