di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第二部 第六章 天球儀の輪環よ
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第六章 天球儀の輪環よ
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『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第五章 禁秘の神苑にて https://slib.net/113084
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〈第五章あらすじ&登場人物紹介〉
===第五章 あらすじ===
ハオリュウと摂政の会食の日。それは、ルイフォンとリュイセンが車に隠れて難攻不落の庭園に潜入し、〈蝿〉を捕獲するという作戦決行の日でもあった。
ハオリュウは、万一のときは頼むと、同行するシュアンに言う。そして、それを立ち聞きしてしまったクーティエに励まされ、出発した。
摂政はハオリュウに「折り入って話がある」と切り出した。ただの会食ではないと分かりきってはいたが、案内の者として呼ばれた〈蝿〉に、ハオリュウは総毛立つ。そして、連れて行かれた地下研究室で『硝子ケースに入った〈神の御子〉』を見せられた。『ライシェン』という名前で、〈蝿〉が作った次代の王だという。
『ライシェン』という名前は、〈天使〉のホンシュアが、ルイフォンに向かって呼びかけた名前である。ハオリュウは勿論、隠しカメラからその様子を見ていたルイフォンも戦慄する。
摂政は、王家に〈神の御子〉が生まれない場合、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉たちが過去の王のクローンを作ることで、王家を存続させてきたのだと告げた。そして『ライシェン』は、婚約したばかりの女王の子供として生まれるために作られたという。
女王が結婚する前から、人工的な次代の王を用意してある。その理由は、女王と婚約者ヤンイェンは表向きは従兄妹であるが、実は異母兄妹であり、子を成せというのは女王が不憫であったから、と摂政は説明した。しかし、女王は結婚相手が異母兄であることだけが嫌なのではなく、普通の娘のように恋愛をして結婚したいのだと言い出したらしい。
摂政はハオリュウに「君が女王の婚約者にならないか」と持ちかけた。結婚するにはまだ若すぎるハオリュウを婚約者にすることで式を伸ばし、その間に女王に恋愛をしてもらおうというのだ。女王が相手を見つけられれば婚約は破棄、見つけられなければハオリュウと結婚する。次代の王が決まっているのなら血統は関係ないから、と。
しかし、それは一見、女王のためと見せかけながら、摂政の政敵であるヤンイェンを蹴落とそうとしていることに他ならない。摂政は、メイシアが生きていることを知っていると匂わせてハオリュウに揺さぶりをかけ、よく考えてほしいと告げて話を終えた。
一方、ルイフォンとリュイセンは、摂政の話に驚愕しつつも気持ちを切り替え、〈蝿〉捕獲のための待機場所に移動する。その途中で、部屋から脱走していたファンルゥを保護し、この館に来ていることをタオロンに伝えてもらった。
待機場所に着いたルイフォンとリュイセンは、そこで『大型の硝子ケースに入った、ミンウェイの母親のような女性』を見つける。普段は地下研究室に置いてあったそれは、摂政の目から隠すために、今日だけ特別にそこに移されたものだった。そして、ふたりは『彼女』を迎えに来た〈蝿〉とタオロンと鉢合わせてしまう。
ルイフォンは、タオロンに味方になるように呼びかけた。しかし、娘のファンルゥを人質に取られている彼は、誘いに乗りたくとも断るしかなかった。
丸腰の〈蝿〉は、ルイフォンに「あなたが知りたいのは『メイシアの正体』ですか?」と尋ね、揺さぶりをかけてきた。隙を衝かれたルイフォンたちは、〈蝿〉にリュイセンの双刀の片方を奪われてしまう。〈蝿〉は、その刀をタオロンに渡し、リュイセンと戦うように命じた。
娘の命が懸かっているタオロンは戦うしかない。だからルイフォンは、リュイセンに発破をかけ、タオロンとリュイセンが戦っている間に、自分が〈蝿〉を倒すことを考えた。
ミンウェイの母親のような『彼女』に危害を加えたかのように見せかけ、〈蝿〉の隙を誘い、無防備な背中に昏倒の毒を塗った刃を投げた。しかし、〈蝿〉が『彼女』を守ろうと動いたために外してしまう。
必殺の一撃はかわされてしまったが、リュイセンの捨て身の陽動によって、ルイフォンは浅くではあるが、なんとか〈蝿〉に毒刃を刺すことに成功する。しかし、医者の〈蝿〉はすぐに毒抜きを始め、更にルイフォンたちにとってもファンルゥを脅しに使えることに気づいてしまう。
リュイセンは、ルイフォンに「逃げろ」と言う。そして、自分は怪我のために逃げ切ることは出来ないからと、身を挺して〈蝿〉の動きを封じる。そんな兄貴分に、ルイフォンは従うしかなかった。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
凶賊鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
――ということになっているが、本当は次期総帥エルファンの息子なので、イーレオの孫にあたる。
母親のキリファから、〈猫〉というクラッカーの通称を継いでいる。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
凶賊の一員ではなく、何にも属さない「対等な協力者〈猫〉」であることを主張し、認められている。
※「ハッカー」という用語は、本来「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われている。
対して、「クラッカー」は、悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を「クラッカー」と表記する。
メイシア
もと貴族で、藤咲家の娘。十八歳。
ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
秘密組織〈七つの大罪〉の介入により、近親婚によって作られた「強く美しい」一族。
――と、説明されていたが、実は〈七つの大罪〉が〈贄〉として作った一族であった。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄弟ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。イーレオの孫。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
文句も多いが、やるときはやる男。
『神速の双刀使い』と呼ばれている。
長男の兄が一族を抜けたため、エルファンの次の総帥になる予定であり、最後の総帥となる決意をした。
鷹刀ミンウェイ
母親がイーレオの娘であり、イーレオの孫娘にあたる。二十代半ばに見える。
鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。ただし、本来は直毛。
薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
父親ヘイシャオに、溺愛という名の虐待を受けていた。
草薙チャオラウ
イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
ルイフォンの母。四年前に当時の国王シルフェンに首を落とされて死亡。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に〈天使〉にされた。
また〈蠍〉に右足首から下を斬られたため、歩行は困難だった。
もとエルファンの愛人で、セレイエとルイフォンを産んだ。
ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のスーパーコンピュータだが、それは張りぼてで、真の姿は〈七つの大罪〉の技術を使った、人間と同じ思考の出来る光の糸、あるいは光の珠である。
〈ベロ〉に載せられた人格は、シャオリエを元に作られているらしい。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
また〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこない。
セレイエ
エルファンとキリファの娘。
表向きは、ルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
生まれながらの〈天使〉。
貴族と駆け落ちして消息不明。
メイシアを選び、ルイフォンと引き合わせた、らしい。
メイシアのペンダントの元の持ち主で、『目印』としてメイシアに渡した、らしい。
四年前にルイフォンに会いに来て、〈天使〉の能力で何かをした、らしい。
[〈七つの大罪〉・他]
〈七つの大罪〉
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
王家に、王になる資格を持つ〈神の御子〉が生まれないとき、『過去の王のクローンを作り、王家の断絶を防ぐ』という役割を担っている。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
『契約』
〈悪魔〉が、王族の『秘密』を口外しないように施される脳内介入。
記憶の中に刻まれるため、〈七つの大罪〉とは縁を切ったイーレオも、『契約』に縛られている。
〈天使〉
「記憶の書き込み」ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置であり、限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こす。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』
セレイエが企んでいる計画。
『ライシェン』という名前の『特別な王』が必要。
詳細は、まだ謎に包まれている。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらの意味を繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』と、ホンシュアは言った。
ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの父。故人。
医者で暗殺者。
病弱な妻のために〈悪魔〉となった。
〈七つの大罪〉の技術を否定したイーレオを恨んでいるらしい。
娘を、亡くした妻の代わりにするという、異常な愛情で溺愛していた。
そのため、娘に、妻と同じ名前『ミンウェイ』と名付けている。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のようなかたちでエルファンに殺された。
現在の〈蝿〉
セレイエが『特別な王』を作らせるために、蘇らせたヘイシャオ。
セレイエに吹き込まれた嘘のせいで、イーレオの命を狙ってきた。
また、何かを知ったため、タオロンに命じ、メイシアをさらおうとした。
ヘイシャオそのものだが、記憶と肉体の年齢が合っていない。
ホンシュア
セレイエの〈影〉で、体は〈天使〉化してあった。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
死ぬ前に、〈蝿〉に対し、メイシアに関する重大な事実を告げたらしい。
〈蛇〉
セレイエの〈悪魔〉としての名前。
〈蝿〉が、セレイエの〈影〉であるホンシュアを〈蛇〉と呼んでいたため、ホンシュアを指すこともある。
ライシェン
ホンシュアがルイフォンに向かって呼びかけた名前。
そして、ホンシュアが、蘇らせた〈蝿〉に作らせた『特別な王』の名前も『ライシェン』である。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。
二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
娘のファンルゥを盾にされ、〈蝿〉に逆らうことができないため、気持ちの上ではルイフォンたちとは仲間だが、敵対している。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
人質であるため、〈蝿〉に毒針の出る腕輪をはめられている。
ただし、本人には「部屋から出ようとしたら音の鳴る腕輪」と説明されている。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら藤咲家の当主を継いだ。
十人並みの容姿に、子供とは思えない言動。いずれは一角の人物になると目される。
異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
藤咲コウレン
メイシア、ハオリュウの父親。厳月家・斑目一族・〈蝿〉の陰謀により死亡。
藤咲コウレンの妻
メイシアの継母。ハオリュウの実母。
心労で正気を失ってしまい、別荘で暮らしていたが、メイシアがお見舞いに行ったあとから徐々に快方に向かっている。
緋扇シュアン
『狂犬』と呼ばれるイカレ警察隊員。三十路手前程度。イーレオには『野犬』と呼ばれた。
ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
凶賊の抗争に巻き込まれて家族を失っており、凶賊を恨んでいる。
凶賊を殲滅すべく、情報を求めて鷹刀一族と手を結んだ。
敬愛する先輩が〈蝿〉の手に堕ちてしまい、自らの手で射殺した。
似た境遇に遭ったハオリュウに庇護欲を感じ、彼に協力することにした。
[王家・他]
アイリー
大華王国の現女王。十五歳。
彼女の婚約を開始条件に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まったと思われる。
メイシアの再従姉妹にあたるが、メイシア曰く『私は数多の貴族のひとりに過ぎなかった』。
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害されたらしい。
〈神の御子〉に恵まれなかった先々王が〈七つの大罪〉に作らせた『過去の王のクローン』である。
ヤンイェン
先王を殺害し、幽閉されていたが、女王の婚約者として表舞台に戻ってきた謎の人物。
メイシアの再従兄妹にあたる。
平民を後妻に迎えたメイシアの父、コウレンに好意的だったらしい。
実は、先王シルフェンが〈神の御子〉を求めて姉に産ませた、隠し子。
そのため、女王アイリーや摂政カイウォルの異母兄弟に当たる。
カイウォル
摂政。女王の兄に当たる人物。
摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。
異母兄にあたるヤンイェンとの結婚を嫌がる妹、女王アイリーのため、ハオリュウに『君が女王の婚約者になれば、女王の結婚が延期される』と陰謀を持ちかけた。
[草薙家]
草薙レイウェン
エルファンの長男。リュイセンの兄。
エルファンの後継者であったが、幼馴染で妻のシャンリーを外の世界で活躍させるために
鷹刀一族を出た。
――ということになっているが、リュイセンに後継者を譲ろうと、シャンリーと画策したというのが真相。
服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
草薙シャンリー
レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。
王宮に召されるほどの剣舞の名手。
遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。
草薙クーティエ
レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。
可愛らしく、活発。
鷹刀ユイラン
エルファンの正妻。レイウェン、リュイセンの母。
レイウェンの会社の専属デザイナーとして、鷹刀一族の屋敷を出た。
ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
元鷹刀一族であり、イーレオを育てた人物であるらしい。
実は〈影〉であり、体は別人。そのことをイーレオが気にしないようにと、一族を離れた。
イーレオと同じく、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉であった。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。ということになっているが妖艶な美女という説もある。
本人曰く、もと女優の卵である。実年齢は不明。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.屈辱の敗走-1
何代か前の王が療養の地として作らせた郊外の庭園では、薄紫や青紫の瑞々しい菖蒲の花が、今まさに盛りを迎えていた。
花々を愛でながら、なだらかな丘陵を行けば、最奥に、こぢんまりとした館――。
こぢんまり、というのは、あくまでも広大な王宮と比較してのことだ。国王の別荘として、申し分ない程度の壮麗さは備えている。
現在では、『国宝級の科学者』という触れ込みで、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉の潜伏場所となっているこの館は、現時点において、上方の階と下方の階とでは、まったくの別世界が繰り広げられていた。まるで、次元の刃が館を真横に斬り裂き、上下に真っ二つに分けたかのようである。
正面玄関から、ほど近い一階の大広間では、摂政カイウォルが貴族の若き当主ハオリュウを華やかにもてなしていた。一面の硝子張りの窓から見える菖蒲の花の美しさを讃えつつ、その水面下の根の様子を吟味するかのように、互いに見えぬ肚を探り合っている。
一方、次元の裂け目によって、上方に斬り分けられた王妃の部屋は……修羅に支配された、血の舞台となっていた。
「俺を置いて、逃げろ!」
ひときわ大きな、赤き血の華が咲いた。
「ルイフォン、行け――!」
〈蝿〉と組み合いながら、血まみれのリュイセンが床を転がった。
「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」
リュイセンの叫びが、強引にルイフォンの背中を押し出す。
ルイフォンの心は、ここに留まりたいと叫んだ。
まだ何か策はあるはずだと訴えた。
けれど、自分の感情よりも、兄貴分の理性を信じた。
ルイフォンは荒れ狂う心のままに、壁の姿見をナイフで割った。鏡の無垢なる煌めきを烈々と穿ち、粉々に砕き、千々に散らしていく。
兄貴分の思いを胸に抱いて駆ける。
控室と衣装部屋を区切るカーテンを、勢いよく薙ぎ払う。きらびやかな部屋を走り抜け、廊下へと飛び出す。
――どこかに隠れなければ……。
予定では、夜まで身を潜めているはずだった。だから改めて夜を待ち、作戦を遂行するのだ。
昼のうちに〈蝿〉と遭遇してしまったのは、ルイフォンが潜伏場所の安全確認を怠ったため。許されざる失態だ。その結果として、リュイセンが大怪我を負い、〈蝿〉の手に落ちた。
ならば、ルイフォンがひとりでも、敢行せねばなるまい。
これまで、それなりに館の中を動き回ったお陰で、だいたいの構造は把握している。埃まみれの区画は、誰も立ち入らない証拠であるから、潜伏するのならそういった場所だ。――いや、埃に足跡が残る。それは、まずい。彼は逃走中の身なのだから。
今度こそ、安全に隠れられる場所を選ぶのだ。
そして、深夜。〈蝿〉が自室でひとりになったときに――。
「――!」
その瞬間、ルイフォンから血の気が引いた。
無理だ。
それは現実的ではない。
〈蝿〉への奇襲は、〈蝿〉が無警戒の状態で、かつ、リュイセンの武力があってこそ成功するものだ。潜入がばれた今、ルイフォンが単独で実行して、うまくいくはずもない――!
ルイフォンは、足を止めた。
自分が採るべき道は何か。
彼は、自分が岐路に立たされたことに気づいた……。
摂政カイウォルと貴族の当主ハオリュウとの会食は、和やかなうちにお開きとなった。
「ハオリュウ君。今日は、とても有意義な時間を過ごせました。また、お会いできるのを楽しみにしていますよ」
雅やかな笑顔を浮かべながら、カイウォルは支配者の威圧の視線をハオリュウに送った。意味するところは『次に会うときには、良い返事を聞かせるように』だ。
『良い返事』とは、言わずもがな『女王の婚約者ヤンイェンを失脚させ、ハオリュウが新たな女王の婚約者に収まると、承諾すること』である。
まったくもって勝手なことである。
だがカイウォルは、現状における、この国の最高権力者。迂闊な態度を取ることはできない。
「光栄の極みにございます。こちらこそ、楽しいひとときをありがとうございました」
ハオリュウは、額面通りに受け取ったふりをして答えた。勿論、互いに上辺だけの挨拶であるとことは承知している。
目上である摂政には室内で暇を告げたが、玄関には見送りの使用人たちがずらりと並んでいた。そのため、ハオリュウは車に乗り込んでからも、利発で素直な少年当主の笑顔を貼り付け、にこやかに手を振り続けた。
彼が、やっとひと息つけたのは、近衛隊が守る庭園の門を出て、しばらく経ってからのことである。
車椅子に座っていたはずなのに、全身が悲鳴を上げていた。崩れ落ちるように、ぐったりと車のシートにもたれかかり、軽く瞼を閉じる。ようやく十二歳の少年の顔で疲労を表すことを許されたのだ。
「ご苦労だったな」
運転席から、緋扇シュアンの声が掛かった。愛想はないが、心からの労いだった。
「シュアン……」
その先をなんと続けるべきか、ハオリュウは迷った。シュアンへの深い感謝の気持ちを、充分に言い表せる言葉を思いつけなかったのである。
本来なら、ハオリュウひとりで摂政との会食に臨むはずだった。そこを、ルイフォンとリュイセンが車に隠れて館に潜入するという計画を立て、車と介助者が必要だと摂政に交渉した。シュアンという同行者は、いわば〈蝿〉捕獲作戦の副産物なのだ。
けれど、彼が付き添ってくれて、どんなに心強かったことか。
感謝してもしきれない……。
「……シュアン、ありがとうございました」
結局、口から出た言葉はそれだった。陳腐かもしれないが、一番の気持ちだった。
ひとこと思いが飛び出せば、あとから、あとから、感謝があふれてくる。
「あなたのお陰で、無事に切り抜けることができました。もしも、あなたがいなかったらと思うと、ぞっとします。なのに、あなたもお疲れのところ、運転までしていただいて……すみません」
「構わねぇよ。今日の俺の仕事は、あんたのお守りだ」
シュアンは、『いつもの緋扇さんだと、貴族の介助者としては、ちょっと……』と言われて、襟の高い正装で身を固め、オールバックと薄い色の眼鏡で変装――もとい、着飾っている。
そのため、後部座席から見える後ろ姿は、まるで知らない他人のようであった。だが、運転席の斜め上にあるバックミラーでは、彼を特徴づける三白眼が眼鏡越しに優しく笑んでいる。
ハオリュウは緊張からの解放を実感し、心が安らいでいくのを感じた。
そのとき、シュアンの腹の虫がきゅるると苦言を申し立てた。ハオリュウは摂政と食事を摂ったわけだが、介助者に過ぎないシュアンは何も口にしていなかったのだ。
「すみません! あなたは飲まず食わずで……僕ばかり、申し訳ございません」
慌てて頭を下げ、彼の食事を用意するようにと自宅に連絡すべく、ハオリュウは携帯端末を取り出す。それをシュアンの声が制した。
「待て。たぶん、これからちょっと野暮用がある」
「え?」
「いいから、餓鬼は餓鬼らしく素直に疲れたとわめいて、でかい顔をしていろ。一国の摂政を相手に、あんたはよくやったよ」
そして、不意に……シュアンは角を曲がり、人気のない路地で車を止めた。
「シュアン?」
訝しがるハオリュウには答えず、シュアンはシートベルトを外した。運転手用の白い手袋の手が、堅苦しい高い襟の一番上のボタンを外し、オールバックの髪を崩す。
それからシュアンは、ゆっくりと後部座席へと身を乗り出した。薄い色の眼鏡はそのままであったが、鋭い三白眼は今までとは別人のような凄みをまとっている。
「出てきていいぞ。車は、安全な場所に止めてある」
シュアンの視線が、ハオリュウの足元――後部座席の下へと注がれる。
ハオリュウが驚いて足をずらすと、人が隠れられるように細工した座席下の部分の板が外された。
そこから現れたのは、うなだれた肩と、その背を流れる金の鈴――。
「――! ルイフォン!?」
座席の下から這い出てきた彼は、蒼白な顔をしていた。いつもの強気な猫の目は輝きを失い、猫背というよりも身を縮こめているだけのように見える。
作戦では、ルイフォンとリュイセンは、夜まで館に隠れて待機のはずだった。日中に行動を起こせば、ハオリュウの関与が露見する可能性あるためだ。
なのに今。ルイフォンは、ここにいる。
――それはすなわち、作戦の失敗を意味していた。
ハオリュウは、声を失った。ただ目を見開き、隣の座席でうつむくルイフォンを凝視する。幸い、外傷はないようだが、貴族の彼に荒事はよく分からなかった。
「あんた、ひとりなのか……?」
三白眼をわずかにひそめ、シュアンが静かに尋ねる。
こくり。
ルイフォンは、無言で頷いた。
癖のある前髪が目元を隠す。普段の彼なら、決して、あり得ない仕草だった。
車内に、暗い影が落ちる。
「――俺には、あんたの気配しか感じられなかったが……リュイセンの奴は、気配を消すのがうまいんだろうと思って……」
中途半端に言葉を止め、シュアンは、がりがりと頭を掻いた。整髪料で固めてあった髪は完全に崩れ、馴染みのぼさぼさ頭が復元する。
「何があった? ……リュイセンは、どうした?」
シュアンは、端的に問うた。状況から、おおよそのことが察せられるだけに、余計なことを省いたのだ。
「リュイセンが…………死んだかもしれない……」
「――!」
絶句するシュアンとハオリュウの前で、ルイフォンは顔を覆う。
「作戦の途中で、俺たちは見つかっちまった。リュイセンは大怪我を負って、俺に逃げるように言った。『一度引いて、やり直せ!』――と」
そこで言葉を詰まらせたのか、ルイフォンが不自然に息を吐いた。その音が、やけに大きく響く。
「俺ひとりの武力では〈蝿〉を捕らえることはできない。だからリュイセンの『やり直せ』という言葉は、『仕切り直しだ』『一度この館を出て、策を練り直せ』と。そういう意味だと、俺は思った。――安易に、そう思っちまった……!」
無力なルイフォンが、それでもあの館に留まり、〈蝿〉を捕らえようと試みるべきか。
それとも、リュイセンをあの館に残したまま、撤退するべきか。
岐路に立たされたルイフォンは、一度だけ立ち止まりはしたが、迷うことなく撤退を――館からの脱出を選んだ。それが適切な選択だと思ったし、リュイセンの『やり直せ』という言葉が背中を押した。
「それで俺は、潜入したときと同じ方法で脱出しようと、この車に乗り込んだ。タオロンは娘のファンルゥを人質に取られたままで、まだ協力を頼める状態じゃなかったから……」
『今なら、まだ脱出できる』と、ルイフォンは飛びついた。なんと幸運なのだと。即座にこの脱出方法を思いついた自分は賢い、とすら思った……。
「なるほどな。……失敗は仕方ねぇし、リュイセンが怪我をして捕虜になったのは厳しいが、あんただけでも逃げるという判断は悪くねぇだろ? リュイセンの言う通り、やり直せばいい。なんで、あいつが死んだなんて思うんだ?」
馬鹿馬鹿しい、杞憂だ、とでもいうように、悪相を歪ませながら気安くシュアンが言う。――少なくとも、ルイフォンにはそう感じられた。
刹那、ルイフォンの目の前が真っ赤に染まった。それは怒りの赤であり、血の赤だった。
「ふざけんな! リュイセンは……! 致命傷を負っていた!」
ルイフォンの脳裏に蘇るのは、〈蝿〉と揉み合いながら床を転がるリュイセンの姿。
そして、敗走を決意したルイフォンを、満足そうに見送る笑顔だ。
彼のために血路を開いてくれた兄貴分は、タオロンの渾身の一撃に対しては、すんでのところで直撃を避けていた。けれど、〈蝿〉の正面からの一刀を払いのけるだけの余力は残っていなかった……。
「……リュイセンは、俺を逃がすために……俺を守るために……ああ言っただけだ……」
このままでは、ふたりとも捕まる。だから、せめてルイフォンだけでも――と、リュイセンは体を張ったのだ。
何故、これほどまで簡単なことが分からなかったのだろう。どう考えても、明白ではないか。
脱出の車に乗り込んでから気づくなんて、実に愚かで、利己的だ。
「俺は、リュイセンを見捨てて、逃げ出してきたんだ……」
ルイフォンは、吐き捨てるように呟く。
「……報告、しないと……。鷹刀に……」
目は見えているはずのに、視界が赤くてたまらない。
それでもルイフォンは、まるで機械人形のような動きで尻ポケットから携帯端末を取り出した。震える指で屋敷の番号を探す。しかし、気ばかりが焦り、いつまで経っても番号は見つからなかった。
1.屈辱の敗走-2
「――ルイフォン!」
ハオリュウが、叫ぶように発した。低くなったはずの声が裏返り、妙に甲高く響く。
「リュイセンさんが『死んだかもしれない』ということは、彼の死を確認したわけではありませんね?」
うなだれたルイフォンの頭が、更に下へと、少しだけ動いた。
「ならば、助かっているかもしれません!」
「……」
「リュイセンさんは、誰に捕らえられたのですか? 彼の身柄がカイウォル殿下のもとにあるのなら、僕が掛け合います。どんなことをしてでも、リュイセンさんを取り戻してみせます!」
ハオリュウが、ぐっと右手を握りしめた。指の隙間から、当主の証を示す金の指輪が鋭く光る。
彼の手の中には、貴族の当主の権限がある。一般の国民にとっては雲上人である摂政、カイウォルとの面会も可能ということだ。
「……そうだ。今の僕には、ちょうど良い具合に、カイウォル殿下への交渉材料があります」
ハオリュウは、名案が浮かんだとばかりに腹黒く嗤う。
「僕に付けられたマイクとカメラで情報を得ていたルイフォンなら、ご存知でしょう? 殿下は、僕に『女王陛下の婚約者』を打診してきました。それを受けましょう。それと引き換えに、リュイセンさんの身柄を要求します」
「――っ! 駄目だ、ハオリュウ!」
突拍子もない発言に、ルイフォンは弾かれたように叫ぶ。
「なんで、お前がそんなことを!」
「確かに、僕と鷹刀一族の関係について、あれこれ詮索されるのは望ましくありません。けれど、それでリュイセンさんの命が買えるなら安いものです」
ハオリュウは、しれっと答える。こんなときだけ、歳相応の子供のような無邪気な笑顔だ。
「違うだろう! ……ああ、そうだよ、忘れていた……」
自分でも、何を言っているのか分からないようなことをルイフォンは口走り、髪を掻きむしった。
「俺たちの侵入がばれた、ってことは、お前が――藤咲家が窮地に陥るかもしれない、ってことだ。――すまない、ハオリュウ……」
「いいえ、ルイフォン。そもそも、今回の作戦は僕が立てたものです。僕の考えが甘かった、というだけです」
父親譲りの善人顔をどす黒く歪め、ハオリュウは己の未熟さを恥じる。
「違う、俺のミスだ! ……それに、リュイセンを捕まえた相手は、摂政の手下じゃない。〈蝿〉だ」
「〈蝿〉……ですか」
ハオリュウは微妙な顔をした。
摂政と〈蝿〉の間の雰囲気は、研究室を往復した、わずかな時間でしか知らない。それでも、必ずしも友好な主従関係ではないように感じられた。摂政を通して〈蝿〉に圧力を掛けるのは、難しいかもしれなかった。
「ともかく、詳しい状況を教えて下さい。僕が必ず、力になります」
ハオリュウが、ぐいと身を乗り出す。
けれど、うつむいたままのルイフォンは、小さく首を振るだけ。背中からこぼれた金の鈴も、鈍い光すら放たない。いつもの不敵に笑うルイフォンの姿は、そこにはなかった。
「ルイフォン!」
彼の衝撃は計り知れない。冷静になれというほうが無茶だろう。
だが、今は一刻も早く、リュイセン救出のために動き出すべきだと、ハオリュウは思った。そのためになら全力を尽くす肚が、彼にはあるのだ。
ハオリュウは更に詰め寄る。そこに「ハオリュウ」とシュアンの声が掛かった。
「予定が押しているぞ。このあと、藤咲の家でなんかあるんだろう?」
「え?」
そんなものはない、と答えようとしたハオリュウの口を、シュアンの有無を言わせぬ三白眼が封じる。
「……っ」
よく勘違いされるが、ハオリュウとシュアンは主従ではない。共に〈蝿〉に復讐を誓う同志であり、年齢は大きく違うが友人だ。
そして、一癖も二癖もあるものの、信頼も尊敬もできる、身近な年長者。――少なくともハオリュウはそう思っている。
すなわち、今まで黙って見守っていたシュアンが口を挟むのなら、ここが引き際だった。
「――っと、そうでした」
ハオリュウは身を正し、ルイフォンに軽く頭を下げる。
ルイフォンは……。
――当然、ハオリュウとシュアンの暗黙のやり取りに気づいていた。
彼は癖のある前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げる。
自分は今、何をすべきなのか。――動かぬ頭を必死に回し、この先の道筋を紡ぎ出す。
「シュアン、俺を鷹刀に……ああ、ハオリュウの車で昼間っから凶賊の屋敷に行くわけにはいかねぇか。……じゃあ、朝、出発したときと同じ、草薙家――レイウェンのところだ。あそこまで送ってほしい。今から鷹刀の屋敷に連絡……報告をして、草薙家まで迎えに来てもらう」
ルイフォンのテノールはかすれていたが、言葉は、はっきりとしていた。
「おい、俺はタクシーかよ」
悪態をつきながらも、後部座席に身を乗り出す形で話をしていたシュアンは運転席に戻り、シートベルトを締める。
バックミラーに映ったシュアンの悪相は相変わらずであったが、特徴的な三白眼は、彼に似合わぬほど優しげに細められていた。
「何かあれば連絡を寄越せ。俺も、ハオリュウも協力は惜しまない」
「シュアン……、ありがとう」
洒落た門扉を通り抜け、緩やかな勾配のアプローチをルイフォンが登っていく。金の鈴を光らせた背中が小さくなっていくのを車窓から見送り、ハオリュウは溜め息をついた。
先ほどルイフォンは、作戦の失敗と、リュイセンの生死が不明であることを、鷹刀一族の屋敷に電話で報告した。
その様子をじっと見つめていたハオリュウの顔は、よほど深刻な表情になっていたのだろう。
『心配するな、ハオリュウ。親父は、ただ『戻ってこい』ってさ』
ルイフォンはそう言って――笑った。明らかに、無理な笑いだった。
そのあと、彼はずっと無言だった。
「すまんな、ハオリュウ」
運転席のシュアンが振り返る。
ぼさぼさ頭はとっくに復活していた。加えて、薄い色の眼鏡を外し、せっかくの正装もだらしなく着崩した彼は、すっかりいつものシュアンだった。
「いえ。――けど、確かに僕は、出過ぎた真似をしていたかもしれませんが、やはり使える貴族の権限は、最大限に利用すべきだと思います」
「まぁな。……けどよ。今、あいつが一番、顔を合わせたくない相手が、あんたなのさ」
シュアンは『あいつ』のところで、窓の外に向かって顎をしゃくった。
ハオリュウは釈然としない顔でシュアンを見つめ返す。わずかに膨らんだ頬が、ほんの少しだけ幼さを醸し出していた。
「『何故』と、お尋ねしてもよろしいですか? 作戦を立てた僕には、リュイセンさんを助ける義務があると思うのですが」
「それは正論かもしれないけどよ。……割り切れない感情ってのがあるのさ」
シュアンは、どう言ったものかと思案するように、三白眼をぐるりと巡らせる。
「あんたの言う通り、あの作戦はあんたが立てた。俺たち全員、行き詰まっていたところに、あんたが突破口を開いてくれた。――そんな、皆の期待を背負った作戦を、あいつは失敗した。それだけでも立場がないのに、あんたが尻拭いまでしてくれると言う」
「シュアン、お言葉ですが『尻拭い』なんかではありません。僕は、ただ――」
「まぁ、聞けよ。……あいつにとってな、あんたは事実上の義理の弟だ。あいつより年下で、あいつにしてみりゃ、自分が庇護したい相手なんだよ。なのに、あんたの手を煩わせてばかり、ってのは格好つかねぇのさ」
「今はそんなことを言っている場合では……!」
「ああ、あんたにしてみりゃ、理不尽なだけだろう。だが、そういうもんさ」
滅茶苦茶な理論で、押し切られた気がする。
納得できないハオリュウは反論の言葉を探すが、見つけられないうちにシュアンが続けた。
「ほんの少しでいいから、放っておいてやれ。今、あんたに『力になる』と叫ばれると、あいつは余計に惨めになるだけだ。……分かってやれよ。あんた、いずれ、もっと上に立つ人間になるんだからさ」
「……!?」
「任務に失敗した奴――とりわけ、誰かを犠牲にして、自分は無事にその場から脱することができた奴、ってのは、どうしようもなく自分を責めるものなのさ」
ふと。ただでさえ青白く不健康なシュアンの顔から、血の気が失せたように感じられた。――聞いてはいけなかったことなのだと、ハオリュウは察する。
だから、気づかなかったふりをして、強引にもとの話題に流れを戻した。
「でも、リュイセンさんの命が賭かっているんですよ!?」
強めの口調は、少しわざとらしかったかもしれない。けれど、発言内容は本心だ。
「落ち着け、ハオリュウ。あんたが慌てたところで、重傷を負ったリュイセンが助かるわけじゃない。あんたの持つカードが役に立つのは、リュイセンが助かったあと。交渉やら、駆け引きやらの段階になってからだ」
「……っ! 確かに、そうですが……」
「現段階において、リュイセンの死を望んでいる奴なんて、ひとりもいねぇんだよ。……あの〈蝿〉ですら、だ」
シュアンは、自分の頬をしきりに撫でつけながら、そう言った。貴族の介助者に化けるにあたり、美容の専門家によって綺麗に髭を当たられたのが落ち着かないらしい。その結果、少々、間の抜けた顔になりながらも険しい表情を作る、という器用なことをしていた。
「どういう……ことですか!?」
「俺は、〈蝿〉の〈影〉を知っている。奴の性格は破綻しているが、狡猾で頭の良い奴だ。……奴は、理由は分からねぇが、あんたの姉さん――藤咲メイシアの身柄を欲しがっている。だったら、取り引きに使えそうなリュイセンには、生きていてほしいはずだ」
「――姉様……!」
ハオリュウの顔色が変わった。
『死者』にするまでして、貴族の世界から送り出したというのに、どうして運命というやつは、どこまでも彼の大切な異母姉を翻弄するのだろう。
そう考えて、ハオリュウは首を振った。
違う。異母姉は『運命』なんかには振り回されていない。
もっと、人為的なもの――『デヴァイン・シンフォニア計画』だ。
「〈蝿〉は、死者を生き返らせる方法まで編み出した、最高の技術を持つ、最低の医者だ。たとえリュイセンが死んだって、生き返らせるさ」
吐き捨てるように言うシュアンに、ハオリュウは押し黙った。そんな事態は想像したくないが、シュアンの弁を否定できるだけの理屈を知らなかったのだ。
「祈るしかなねぇな」
「そうですね……」
リュイセンの無事を祈る。
しかし、あの研究室で会った『ライシェン』の姿を思い浮かべると、ハオリュウの心には暗雲が立ち込めるのだった――。
2.残像の軌跡-1
草薙家に着いたルイフォンは、レイウェンの妻シャンリーによって、奥の小部屋に通された。
置かれた調度から察するに、接待用の部屋であるらしい。とはいえ、大人数が入れる表彰状だらけの応接室とは違い、もっと私的で落ち着いた雰囲気が漂っている。
ただ、ルイフォンが目を瞬かせたのは、テーブルの上で湯気を上げているスープのためだった。肉と野菜が豪快に放り込まれており、お世辞にも上品とは言えなかったが、美味そうな匂いが鼻腔をくすぐる。
「緋扇シュアンの奴が『なんか食わせてやれ』と、わざわざ連絡を寄越してきたんでな」
「え……、シュアンが」
「ああ。だが、あいにく、ユイラン様はお忙しくて。……私が残り物を適当にぶち込んだだけのものだが、味は保証する。食っていけ」
シャンリーがほんの少し気まずげなのは、手先の器用な義母ユイランであれば、もっと上等なものを振る舞えたのに、ということだろう。
「ありがとう。――いただきます」
ルイフォンは襟を正して礼を言い、ひと匙、口にする。
美味い。
夏に差し掛かったこの時期であるにも関わらず、温かさが身にしみた。
「……ご苦労だったな」
シャンリーが向かいに座り、静かに微笑んだ。……柔らかなのに、苦しげな笑みだった。
「疲れただろう?」
「……」
ルイフォンのスプーンが止まる。
作戦に失敗し、リュイセンの生死が不明であることは、シャンリーも知っている。
リュイセンは、長いこと、母親のユイランとうまくいっていなかった。父親のエルファンに至っては、そもそも子供の相手などできる性格ではない。だからリュイセンは、兄のレイウェンと義姉のシャンリーに育てられたようなものだ。
つまり彼女にとって、リュイセンは実の弟以上の存在……。
「すみません……」
思わず、言葉がこぼれた。
ルイフォンが頭を下げた次の瞬間。
「っ!?」
額に鋭い痛みが走った。シャンリーの指先が、ルイフォンの眉間を弾いたのだ。
「馬鹿たれ! なんて辛気臭い顔をしていやがる」
彼女こそ、今にも泣き出しそうな顔をしていたくせに、それを棚上げしての、この仕打ち。その上、ただの脅しだと思いたいが、それとなく腰の直刀の存在を誇示している。
……つい一瞬前までの彼女は、幻だったのか?
「いいか? そんな顔をしていいのは、ここにいる間だけだ。鷹刀からの迎えが来たら、お前はしゃんとするんだぞ」
「……」
赤くなったルイフォンの額に、シャンリーは、更に人差し指をぐりぐりと押しつけた。文句を言うほどではないが、地味に痛い。
「何故、シュアンの奴が『なんか食わせてやれ』と言ったのか。お前、分かっているか?」
「え……っと……?」
「勿論、腹が減っているはずだ、との気遣いはあるだろう。だが、それよりも、お前に『心を休める時間』を与えてやるためだ」
「…………」
呆けたように目を見張るルイフォンの額を、シャンリーは再び強く弾く。
「痛ぇ!」
「これから、お前は大変だぞ。失敗の落とし前をどうつけるのか。――もうじき、鷹刀からの迎えが来る。それまでに、よく考えておくんだな!」
まるで悪役のような捨て台詞を残し、シャンリーは唐突に身を翻して部屋を出ていった。
ぱたん、と音を立てた扉のこちら側には、ルイフォンと、まだ湯気を立てている彼女の作ったスープだけが残された。
スープをすくい、口に含む。
「美味ぇや……」
大雑把な見た目に反して、複雑で深い味わいのスープだった。
そういえば、シャンリーにちゃんと『美味い』と伝えていなかったことに気づく。
たったひとことだが、大切なことだ。メイシアにそう言うと、彼女は照れたように頬を染め、『ありがとう』と極上の笑顔を返してくれるのだ。
「……っ」
メイシアを思い描いた瞬間、ルイフォンは息を詰まらせた。
あのとき――。
王妃の部屋で〈蝿〉と対峙したときに、奴に突きつけられた言葉が頭の中に蘇る。
『『デヴァイン・シンフォニア計画』の鍵となるために、〈天使〉のホンシュアに操られた『藤咲メイシア』は、色仕掛けであなたを籠絡したのですよ』
心臓が、氷の楔を穿たれたかのように鋭く痛み、凍りついていく。
「メイシア……!」
頭蓋が割れるように痛んだ。ルイフォンは頭を抱え込み、テーブルに肘を付く。
……いっさいの不安を口にせず、ただ、ほんの少しだけ甘えるように彼に体を預け、『信じているから』という言葉で送り出してくれたメイシア。
あれから、まだ、半日しか経っていない。まったく、一寸先は闇だ。ルイフォンの口から乾いた笑いが漏れる。
「あいつは、俺の何を信じているんだ……?」
少しだけ上目遣いに彼を見上げた瞳。不安に揺れているのが明らかなのに、気づかれていないとでも思っているのか、無理に笑おうとして引きつった口元。
脅えを隠した澄んだ声で、彼女は彼に囁く。
『信じているから』
「…………っ!」
息遣いすら、はっきりと思い出せる、彼女の言葉。
温かさと愛おしさに、魂が震え上がる。
『信じている』
そのひとことに、どれだけの想いが込められていたのだろう。
「あいつの想いを裏切ったら、駄目だろ……俺」
たとえ、まやかしの恋心に踊らされているのだとしても、あのとき彼女が口にした言葉は、彼女にとっては真実だ。
彼女は心から彼を案じ、彼の帰りを待っている。
「あいつは、こんな、ぼろぼろの俺なんて、見たくねぇはずだ……」
これから鷹刀一族の屋敷に戻る。そのとき、こんな自分に逢わせるわけにはいかない。
彼女の恋は幻でも、彼の愛は本物だ。
だから、出迎えてくれる彼女を――最愛の彼女を、悲しませたくないと思う。
彼女の心は〈天使〉に惑わされただけかもしれないと、あとで、きちんと告げる。けれど、まずは信じて送り出してくれた彼女に、応えたい……!
――冷静になるのだ。
『リュイセンさんが『死んだかもしれない』ということは、彼の死を確認したわけではありませんね?』
『ならば、助かっているかもしれません!』
ふと。
ハオリュウの声が耳に響いた。
車の座席下から現れた彼を迎えてくれたのは、そんな言葉だった。
あのときは、心がついていかなくて振り切ってしまったが、改めて思い返せば、極めて正確な意見だ。決して、希望的観測などではない。
「……」
リュイセンの死は、確定したわけではない。
ただ、最後に見た光景が絶望的だった、というだけだ。
「どう転んでも対処できるように構えているのが『俺』だろ……」
なのに、リュイセンを失う恐怖に両目をふさがれ、一歩も動けなくなった。的確な状況分析が取り柄のルイフォンとしては、あるまじき醜態だ。
勿論、楽観視はしない。けれど、悲観的になる理由もない。
『どんなことをしてでも、リュイセンさんを取り戻してみせます!』
ハオリュウの言葉が、今ごろになって、すとんと胸に届く。
そうだ。リュイセンの死をこの目で確認するまでは、手段を選ばず打って出る。――それが、ルイフォンの為すべきことだ。
「……すまん、ハオリュウ」
彼には申し訳ないことをした。先ほどの態度は八つ当たりだった。あとで、きちんと詫びを入れよう。
ルイフォンは、頭を押さえていた手で、癖のある前髪を掻き上げる。――挑戦的な猫の目に、光を取り戻しながら。
諦めるのはまだ早い。
彼はスープを啜り、添えられたパンを齧る。シャンリーと、それからシュアンの心遣いが、胃袋から全身へとしみ渡った。
同時刻。
菖蒲の館にて――。
「いいですか。この館に隠れている曲者を、一刻も早く見つけ出すのです」
〈蝿〉は私兵たちを呼び集め、声高に叫んだ。
「見た目は、ひ弱な子供ですが、侮ってはいけません。遠距離から毒刃を仕掛けてきます。確認できたのは彼だけですが、他にも潜んでいる可能性があります」
命を下し、私兵たちが四方に散る背中を見届けると、〈蝿〉は眉間に皺を寄せたまま、盛大に溜め息をついた。
取り逃がしたのが一騎当千のリュイセンではなく、チンピラに毛が生えた程度のルイフォンだったのは幸運だった。隠れているのが子猫なら、追い詰めれば捕獲できるだろう。
だが、油断は禁物。彼は頭が切れる。
もしやと思って確認すれば、監視カメラが乗っ取られていた。対処の仕方が分からなかったので即座に電源を落としたが、カメラがルイフォンの手に落ちていたのなら、館の構造は把握されていると思って間違いない。
かつて国王が使っていたほどの広さの館に、子猫が一匹。いったい、どこに隠れたのやら……。
〈蝿〉は、白髪混じりの頭髪を苛々と乱暴に掻きむしった。
2.残像の軌跡-2
ルイフォンのいる小部屋の扉が再び開いたのは、彼がすっかりスープを平らげ、携帯端末を使って、今回の作戦の報告をまとめているときのことだった。
小さな画面での作業は効率が悪かったが、じっとしていられなかったのだ。
「ルイフォンさん、お迎えがきましたよ」
入ってきたのは、意外なことにレイウェンだった。初めにシャンリーが案内してくれたので、てっきり、また彼女が来ると思っていたのだ。
「ありがとうございます」
ルイフォンは手を止めて、レイウェンに頭を下げる。
彼が苦手というわけではないのだが、レイウェンを前にすると何故か背筋が伸びる。見慣れた鷹刀一族特有の美麗な顔立ちに、柔らかな物腰が加わると、どうにも落ち着かないらしい。
「報告書をまとめていたのですか」
レイウェンは、同じ顔をした他の一族の者では、決してあり得ないような甘やかな笑みをこぼし、ごくごく自然な動作でルイフォンの向かいに腰を下ろした。
「!?」
迎えが来たからには、ルイフォンは鷹刀一族の屋敷に戻るわけだ。だから、身支度を整え、携帯端末をしまおうとしていた。
なのに、レイウェンは目の前に座った。どう反応したらよいのか、ルイフォンは戸惑う。
「良い目をしていますね」
彼の狼狽は伝わっているであろうに、まるで動じない穏やかな低音が響く。折り目正しくありながらも、決して堅苦しさを感じさせない、絶妙な具合いで座る様は、実に優美だ。
「あ……、ええと……。お世話になりました」
ルイフォンらしくもなく動揺し、口ごもった。
彼にとって、レイウェンは『リュイセンの兄』という認識だ。
リュイセンと同じく『ルイフォンの年上の甥』ではあるのだが、心情的には、あくまでも『リュイセンの兄』。リュイセンを間に挟んだ関係だ。
そんな『遠い血族』のレイウェンが、ルイフォンにいったい、なんの話があるというのだろう。
……やはり、リュイセンの話だろうか。
生死不明の弟に関して、その原因を作ったルイフォンと話をしたい――と。
ルイフォンは腹に力を入れ、レイウェンに正面から向き合った。
その瞬間。
レイウェンが、朗らかな春の陽射しのように、柔らかに微笑んだ。
「その目……キリファさんにそっくりだよ」
「!? …………なんで、ここで、母さん……?」
あまりにも予想外の発言に、ルイフォンは言葉が続かず、口をぱくぱくとさせる。
一方のレイウェンは、切なげで、それでいて愛しげな眼差しを、じっとルイフォンに注いでいた。
「……参ったな。君を見送る前に、何か、ひとことくらい良い感じのことを言ってみたかったのだけど……その必要はないね。シャンリーに先攻を取られたのが敗因かな」
悔しいな、と言わんばかりに、とレイウェンは微苦笑を漏らした。
「レイウェン……?」
口調すら変わってしまった彼に、ルイフォンは瞬きを繰り返す。
「君からすれば、私なんか『よく知らない、親戚のおじさん』だろうけれど、私はずっと君を見ていたよ? 『ああ、キリファさんの息子だなぁ』ってね」
『叔父さん』は、俺のほうだ――と、内心で突っ込むが、レイウェンの感慨深げな様子を前に、そんな軽口はとても叩けない。故にルイフォンは、中途半端に口を開けたまま、レイウェンを凝視する羽目になった。
「私はね、ずっと君とふたりで話したいと思っていたよ。だから、さっき我が家を頼ってくれたときには嬉しかったし、同時に君の心を心配した」
「……っ」
レイウェンの草薙家を頼ったのは、ハオリュウの車で行ける場所を選んだだけだ。なのに、喜ばれてしまうとは、申し訳ない気がする。
「――けど、今の君には野暮なだけだね。残念だけど、このまま黙って迎えの者のところに送るよ」
そう言って立ち上がりかけたレイウェンに、ルイフォンは手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと待て、レイウェン!」
反射的に呼び止めた。嬉しそうに母キリファの名前を口にして、その息子だからと、ルイフォンに好意的なレイウェンに納得できなかったのだ。
「……母さんは、レイウェンにとって『邪魔な父親の愛人』じゃなかったのか?」
キリファと正妻のユイランが、思っていたほど仲が悪くなかったことは、最近になって知った。けれど、父親の愛人など、やはり気持ちのよいものではないはずだ。
それなのに、何故こんなにも懐かしんでくれるのだろう。
「何を言っているんだい? キリファさんは素敵な人だよ。不思議で、魅力的だった。私もシャンリーも、彼女が大好きだったよ」
「…………。……『あの』母さんを……?」
ルイフォンの頬が、ぴくぴくと引きつる。そんな彼とは対象的に、レイウェンは穏やかに目元を緩めた。
「キリファさんは足が不自由で思うように動けないのに、見てもいない遠くのことまで、なんでも知っていた。子供の私には、不思議だったよ」
「……」
母はクラッカーだ。そのくらい、お手のものだろう。
「いろいろな情報を面白おかしく、時に嘘まで教えてくれて、『騙されるほうが馬鹿なのよ?』なんて言われたりしてね」
「なっ……! ……母さんなら言いかねない」
子供を相手に、駄目だろう。
あまりに大人気のない母に、ルイフォンは赤面する。過去の母の悪行のせいで、今ごろになって、息子の自分が恥ずかしい思いをするとは、極めて理不尽である。
レイウェンを引き止めたのは自分のほうであるが、話はこれで終わりにしたい。そろそろ屋敷に戻る、と切り出そうとしたときだった。
「『キリファさんの正体は、魔法使いに違いない』と、シャンリーと言い合ったものだよ。そしたらキリファさんが『そうよ。あたしは〈猫〉。魔術師よ』ってね」
そこで、ふっと、レイウェンはルイフォンを見つめた。
母のキリファとそっくりな、猫の――〈猫〉の目を。
「今は、君が『魔術師の〈猫〉』だね」
「……」
ルイフォンの心に、何かが引っかかった。
魔術師――。
伝説に残るようなコンピュータのエキスパートを、俗に魔術師と呼ぶ。母は、間違いなく魔術師だった。
けれど、そんな呼び方を知らなくても、子供のレイウェンは母を魔法使いだと思った。
『……見てもいない遠くのことまで、なんでも知っていた』
だから。
魔法使い――魔術師だと。
心がざわつく。何かが、気になる。
「……? どうしたんだい?」
急に表情を変えた彼に、レイウェンが訝しげに首をかしげる。
「……あ、いや……」
この感覚をレイウェンに説明できるわけもなく、ルイフォンは誤魔化すように視線を下げた。……そこにテーブルが――書きかけの報告書が入力されている携帯端末があった。
「!」
リュイセンの生死が『不明』とされていた。
「『不明』だと……?」
そんな曖昧な情報は『〈猫〉』の報告ではない。
母なら、この場を一歩も動かずに、リュイセンの生死を知ることができるはずだ。魔術師は、見てもいない遠くのことまで、なんでも知っているのだから。
「レイウェン!」
ルイフォンは、猫の目を鋭く光らせた。
「迎えの奴に『少し待ってくれ』と言ってほしい。〈猫〉は『リュイセンの生死が『不明』』などという、いい加減な情報を持ち帰るわけにはいかないんだ。――これから調べる」
断言する。
それが、母から〈猫〉の名を受け継いだ、ルイフォンのあるべき姿だ。
「他の奴ならともかく、俺は〈猫〉――『鷹刀の対等な協力者』だ。リュイセンがどうなったか、はっきりさせないうちに鷹刀の敷居はまたげない。我儘を言ってすまない」
父イーレオは『戻ってこい』と言った。
だがそれは、『総帥』の言葉ではなく、『〈猫〉』への言葉でもなかった。あれは『血族』への――『息子』への言葉だ。
「さすが、〈猫〉だね」
レイウェンは頷き、すぐさま携帯端末でシャンリーに連絡を入れる。その際、ルイフォンの変貌ぶりを事細かに、本人が聞いていたら尻がむず痒くなるほどの褒め言葉で伝えたのだが、幸いなことにルイフォンは気づいていなかった。
何故なら、今のルイフォンには周りの様子など何も見えていなかったからだ。彼の思考は既に異次元へと旅立ち、彼の双眸は何も映していなかった。
癖のある、猫のように豊かな表情が消えていき、端正で無機質な素顔が現れる。ルイフォンのもうひとつの顔。情報屋〈猫〉の顔だ。
彼は、半ば朦朧とした状態で、携帯端末を繰る。まずは、あの館に残されたリュイセンの情報を得るべく、監視カメラを確認するのだ。
だが――。
「監視カメラの電源が切られている!」
ルイフォンにとって想定外の事態――だが、憂慮しておくべき事態だった。
〈蝿〉も馬鹿ではない。ルイフォンが侵入したという事実から、監視カメラが乗っ取られていると、すぐに推測したのだ。機器類に明るくない彼が、電源を落とすという対策をしたのも、実に効果的。電脳世界の情報屋に対して、非常に有効な対抗手段だ。
「――っ、糞!」
ルイフォンはテーブルに肘を付き、髪を掻きむしる。
冷静になれ――。
〈猫〉のプライドの問題だけでなく、『リュイセンの生死』は誰もが知りたい、重要な情報だ。必ず手に入れる必要がある。
リュイセンは致命傷を負っていた。
最後に見た、あの満足げな笑顔は、今生の別れを告げていた。
即死かもしれない。――即死でないかもしれない。
即死でなければ、〈蝿〉はとどめを刺したのか。それとも……。
――あのあと、リュイセンはどうなったのか……?
「!」
頭の中の歯車が、かちりと噛み合った。ルイフォンは、弾かれたように携帯端末に指を走らせる。
はやる気持ちに対して、小さな端末の処理速度がもどかしい。すっと細くなった猫の目が、睨みつけるように携帯端末の画面を見つめる。
あの館のセキュリティは、たいして高くない。
在り処さえ分かれば、あの『記録』を引き出すことは容易だ。
〈猫〉ならば、できる。
そして――。
「あった……!」
飛びつくようにして、『記録』を手に入れた。
そして興奮のまま、中身の確認もせずに、そばで見守っていたレイウェンに向かって叫んだ。
「レイウェン! 待たせてすまない」
ルイフォンは、携帯端末から勢いよく顔を上げた。背中で、今までじっとしていた金の鈴が大きく飛び跳ね、鋭い光を散らす。
ずっと座って作業していたにも関わらず、全力で走り続けていたかのように肩で息をしていた。レイウェンが、思わず「大丈夫かい?」と尋ねるが、そんな声は耳に入らない。
「俺たちが〈蝿〉と対峙していたとき、あの部屋の監視カメラが撮っていた映像の『記録』を手に入れました」
監視カメラが撮った映像は、記録装置に残される。〈蝿〉はカメラの電源は落としたが、記録装置の電源を落とすことまでは頭が回らなかった。
「何かの事件が起きたときに、あとから防犯カメラの記録を調べるのと同じです。この『記録』を見れば、過去を――俺が逃げた『あと』のことを知ることができる……」
そのとき、ルイフォンは、はっと気づいた。
『記録』を見るということは、すなわち――。
『リュイセンの死』を知ることになるかもしれない……。
端末を握る手が、小刻みに揺れた。
掌は汗でしっとりと濡れ、鼓動は早鐘のように鳴っていた。情報を得ることに夢中になっていた間は平然としていたのに、いざ真実を知る段になったら、とたんに膝が震えてきた。
ああ、そうか――と思った。
〈猫〉は、どんな情報も、冷静に手に入れる。
けれど、『リュイセンの弟分』は、知ることが怖かったのかもしれない。だから、〈猫〉であることを忘れ、目を背けた。
それでも、逃げるわけにはいかない。――今度こそ。
「私も一緒に見て、構わないね?」
穏やかな低音が、優しく響いた。
そしてルイフォンの返事を待たずに、レイウェンが向かいのソファーから、こちら側へと移動してくる。
「はい」
弱くて、情けないかもしれない。
けれど、ここにレイウェンがいてくれたことに、ルイフォンは心から感謝した。
2.残像の軌跡-3
王妃の部屋に設置されていた監視カメラは、電源を落とされるその瞬間まで、あらゆる『時』を絶え間なく映し続けていた。
ルイフォンの知らない、彼が逃げ出した『あと』の時間も、音もなく静かに、ずっと……。
ルイフォンは――情報屋〈猫〉は、その録画記録を手に入れた。
「映像を再生します」
傍らのレイウェンにそう告げ、彼は震える指先で携帯端末に触れた。
リュイセンの肩から胸へと、〈蝿〉の凶刃が冷酷に流れゆき、一瞬の間をおいて血しぶきが上がった。
「ルイフォン、行け――!」
彼は、倒れながらも〈蝿〉に足を掛け、組み合うようにして床を転がる。
「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」
兄貴分の必死の叫びに、ルイフォンが決意の顔で、くるりと背を向けた。
一本に編んだ髪が大きく弧を描く。彼は言葉にならない雄叫びを上げ、壁の姿見をナイフで粉々に砕きながら走り出した。
控室と衣装部屋を区切るカーテンが、勢いよく薙ぎ払われる。
そして、ルイフォンの髪先を飾る金の鈴が、吸い込まれるように向こうの空間へと消えていった。
あとに残されたのは、〈蝿〉とリュイセン、タオロン。そして、硝子ケースの中で眠る美女『ミンウェイ』――。
「タ……、タオロン……!」
リュイセンに引きずり倒された〈蝿〉が、床から絞り出すような声を上げた。
瀕死であるはずのリュイセンの、いったいどこに、そんな力が残されていたのだろうか。激しい揉み合いの末、リュイセンは全身を使って〈蝿〉を押さえ込み、自分の肩先で〈蝿〉の喉仏を押し潰すようにして締め上げていた。その執念に、〈蝿〉は驚きを禁じ得ない。
「タオロン、鷹刀の子猫を……」
追え――と、言い掛けて〈蝿〉は言葉を止めた。リュイセンが意識を失っていることに気づいたのだ。
失血による気絶だ。なのに彼の両腕は〈蝿〉にがっちりと喰らいついたまま、びくとも動かない。
〈蝿〉は、わずかな逡巡を見せたが、すぐに「タオロン」と再び呼びかけた。
「エルファンの小倅……リュイセンを、私からどかせてください。急いで地下研究室に運びます。このままだと、彼は死にます」
「なっ……!」
タオロンの太い眉が跳ね、即座にリュイセンを〈蝿〉から引きはがした。
呼吸が楽になった〈蝿〉は、ふうと息を吐いたあと、『ミンウェイ』へと歩を進める。そして、訝しがるタオロンを振り返り、近くに来るようにと命じた。
「リュイセンを、『ミンウェイ』のストレッチャーに載せて移動します。硝子ケースを下ろすのを手伝ってください」
「……っ!?」
タオロンは戸惑いの顔を見せた。
〈蝿〉は、『ミンウェイ』を一刻も早く、埃まみれの部屋から連れ戻したいと言って、この部屋に来たのだ。それが、埃どころか血の穢れに彩られた絨毯の上に、彼女の硝子ケースを置こうとしている――。
「何故……だ?」
「『何故』? 今は時間との勝負ですよ? あなたがリュイセンを担いで研究室に運ぶより、ストレッチャーを使ったほうが早いでしょう?」
こめかみに、うっすらと血管を浮かべ、〈蝿〉は叱りつけるように早口で言い放った。
〈蝿〉の顔色も、決して良いとはいえなかった。毒刃を受け、自らえぐった腕の傷は、リュイセンとの乱闘で更に激しく出血している。包帯代わりに巻いた白衣の切れ端は真っ赤に染まり、もはや用を成していない。
「ルイフォンは……?」
追わなくてよいのかと――素朴な疑問がこぼれかけ、タオロンは慌てて口をつぐむ。〈蝿〉がリュイセンの救命を優先しているのだ。余計なことを言う必要はないだろう。
そのまま無言で指示に従おうとしたとき、〈蝿〉がふんと鼻を鳴らした。
「鷹刀の子猫なら、そのへんに隠れていて当分、出てこないでしょう」
〈蝿〉は、ルイフォンが出ていった仕切りのカーテンを見やり、溜め息をつく。
「ならば、リュイセンを囚えておくのが得策です。あなたの娘より、よほど確実な人質になりますからね。そのためには、彼に死なれては困るのですよ」
「ああ……。なんだ、そういうことか……」
タオロンは得心する。〈蝿〉を見直しかけた自分は愚かだったと、彼の顔には書いてあった……。
「……リュイセンは……死んでなかった……」
ルイフォンは脱力し、全身をソファーに投げ出した。
今までの疲れが、どっと出たらしい。彼の体は、ずるずると背もたれを滑り落ち、ぱたりと横になった。とても、他人の家でする行儀ではないが、家主のレイウェンは柔らかに微笑んでいる。隣で寝転がるルイフォンの顔を覗き込み、「お疲れ様」と労ってくれた。
あ、まずい。
ルイフォンはそう思い、慌てて右肘を目の上に載せた。浮き上がってきた涙ごと顔を隠し、拭い取る。こんなのは情けなくて恥ずかしいだろと、自分を叱咤しながら……。
そんな彼の心を察してくれたのだろう。レイウェンが、そっと視線を外した。
なんともいえない沈黙が流れる。……けれど決して、不快なものではなかった。
ルイフォンは、先ほどの映像を反芻する。
リュイセンは重傷だが、天才医師〈蝿〉が、血相を変えて治療にあたると言っていた。ならば、ひとまず安心といっていいだろう。
「けど、これで『助かった』と、断定できるわけじゃねぇか……」
唐突に冷静さを取り戻し、ルイフォンはおもむろに体を起こす。
いくら〈蝿〉でも、あれだけの深手を負ったリュイセンを回復させるのは、並大抵のことではないはずだ。やはり、万一の可能性は残っている。
癖のある前髪をくしゃりと掻き上げ、ルイフォンが思案の海に沈み込もうとしたときだった。
「リュイセンは生きているよ」
隣から、レイウェンが断言した。
「え?」
「見た目に派手な出血をしていたけど、リュイセンは、ちゃんと直撃を避けていた。致命傷は受けていないよ。大丈夫だ」
力強い低音が、ルイフォンの鼓膜を震わせる。緩やかな振動は耳の中から徐々に波紋を広げ、じわじわと心にまで響いてきた。
「本当、か……?」
現実のあの瞬間と、録画記録と。ルイフォンは二度も、リュイセンが〈蝿〉の凶刃をその身に受ける姿を目にしている。どう見ても、致命傷だった。
同意しかねるとの思いを、はっきりと顔に載せてレイウェンを見つめる。半信半疑……というよりも、あからさまな不信――『そんな馬鹿な』だ。
すると、レイウェンはくすりと笑った。そして、まっすぐに、愛おしげな眼差しをルイフォンに注ぐ。
「俺の育てた弟を信じろ。――もうひとりの、俺の異母弟」
ぞくりとするほど甘やかな、低い声。
言葉遣いさえ微妙に変わった、不可思議な言葉。
「レイウェン……? 今、なんて……」
ルイフォンは、細いはずの猫目をいっぱいに見開き、レイウェンを凝視した。
「君は、キリファさんと、私の父上――鷹刀エルファンの息子だよ。だから、私の異母弟になる」
「……は?」
……なんで? 冗談だろ。そんな言葉が頭の中を巡るが、声にならない。
「確かめたわけではないけどね。少なくとも私は、君が生まれたときから、ずっとそう思っているよ」
異母兄を名乗った彼は、包み込むような心地の良い声で、そう告げた。そして、ルイフォンとはまったく似ていない、鷹刀一族特有の美貌を煌めかせながら続ける。
「実はね、『リュイセンが死んだかもしれない』と伝えられたとき、私はたいして心配していなかったんだよ。弟ならば大丈夫だと信じていた。――それよりも、君のことが心配だった。私の大切な異母弟が傷ついていたからね」
レイウェンの中では、ルイフォンは完全に異母弟になっているらしい。
「待てよ、レイウェン! どうして、俺がエルファンの子なんだ!?」
「だって、私はキリファさんを知っているからね。彼女が、父上以外の男の子供を産むなんてあり得ないよ」
「俺だって、母さんを知っているぞ! あの母さんなら、なんでもありだろ!」
破天荒で常識はずれ。他人に予測できない言動など、日常茶飯事。レイウェンの弁は、単なる思い込みだ。くだらない与太話に過ぎない。
しかし、レイウェンに引き下がる気配はなかった。やんわりと詰め寄ってくる。何があっても、ルイフォンを異母弟にしたいらしい。
「君は『父上と一緒にいるときのキリファさん』を知らないだろう?」
「それは……そうだけど……」
「キリファさんは、凄く、可愛らしい人だったよ。意地っ張りで、素直じゃなくて。いつも、思っていることとは逆のことばかり父上に言っていた」
「……そんな女、可愛くねぇだろ」
「父上も父上で、朴念仁で気が利かなくて。キリファさんが涙ぐんでいるのを見て、初めて彼女の本心に気づくような不甲斐なさだった」
「……エルファンも情けねぇな。……ああ、いや、あの母さんは泣かないだろ」
「父上もキリファさんも、不器用で、言葉が足りなかった。でも……いや、だからこそ、強く惹かれ合い、そっと寄り添うように背中を預け、支え合っていたんだよ」
「…………っ」
ルイフォンは、反射的に何か返そうとしたが、なんの言葉も出なかった。
母とエルファンが仲睦まじくしている姿など想像できないのだが、現実としてふたりは好い仲だった。そして、別れたあとも、本当はずっと想い合っていたらしいことは、母の親友ともいえる人工知能〈ケル〉の様子から、ルイフォンも察している。
しかし、だからといって、いきなり自分の父親がエルファンだと言われて、納得できるわけもない。
「……なんでレイウェンは、俺を異母弟にしたがるんだよ。――というか、単に『血縁』でも、『叔父と甥』でも、なんでもいいじゃねぇか。今まで疎遠にしておいて言うのもなんだけど、俺はレイウェンのことを信頼しているぜ? どんな間柄でも、それは変わらない」
関係を示す言葉など、別にどうでもいい。
レイウェンは想像していたよりも、ずっといい奴だった。これからも付き合っていきたいと思う。だがそれは、血族だからではなく、レイウェンだからだ。
「ありがとう。……そうだね、君なら、そう言うだろうね」
彼は、優しく甘やかな美貌をルイフォンに向けたまま、瞳はどこか遠くを見つめていた。その眼差しに、憂いの影が混じる。
「ごめんね。これは私の感傷だよ」
「レイウェン……?」
「私は、ほら、鷹刀の直系だろう? 血を濃く煮詰めすぎた『鷹刀』だ。――私は運良く健康に生まれたけれど、私の上には育たなかった兄弟が何人もいるし、私とシャンリーは、生まれたばかりの弟が、ほんの数時間で息を引き取ったのをこの目で見ている」
「あ……」
一族には子供が生まれない、育たないと聞かされているが、ルイフォンは濃い血の血族の死を目の当たりにしたことはない。だから、実感がなかった。
頭では理解しているつもりだったが、それは一族が〈七つの大罪〉に支配されていた古い時代の話で、遠い世界のことのように捉えていた。
「だからね、私にとって、兄弟というのは特別なんだよ」
穏やかであるのに、強い声。その裏に見えるのは、ルイフォンへの深い愛情だ。
思い込みにせよ、ルイフォンが生まれたときから、気に掛けてくれていたことは本当なのだろう。……むず痒いけど、悪くはない。
「ま、いいか。エルファンが俺の父親というのは納得できねぇけど、レイウェンが兄っていうのなら歓迎だ」
「…………え?」
想定外の発言であったのか、レイウェンの美麗な顔が、一瞬、呆けたように崩れた。
「それで、いいだろ?」
ルイフォンは念を押すような口調で言ってから、抜けるような青空のような笑顔を浮かべる。
「……ああ、そうだね。ありがとう」
『兄』もまた、麗しの美貌を輝かせて微笑んだ。
ふと。
ルイフォンは、自分の心が極めて平静であることに気づいた。明鏡止水とまではいかないが、これから為すべきことが、きちんと見えている。
彼は猫の目を鋭く光らせ、隣のレイウェンに向き合った。背中の金の鈴が、道を切り拓くように空を薙ぐ。
「レイウェン、ありがとな。――リュイセンは必ず俺が助ける」
「頼んだ。『俺の異母弟』になら、安心して任せられるよ」
この約束が、暇乞いの挨拶だ。
どちらからともなくソファーから立ち上がり、握手を交わす。
問題は山積みだ。けれど、負ける気はしない。
「あ、そうだ。シャンリーに『スープ、美味かったです。ご馳走様でした』と伝えてほしい」
「ああ、彼女の料理は世界一だからね」
とろけるような甘やかさで、レイウェンが破顔する。
「……」
惚気の入った『兄』に苦笑し、ルイフォンは草薙家をあとにした。
3.猫の誓言-1
彼方にそびえる、高い外壁。重厚感あふれる煉瓦の連なりは、遥か天まで続くかのよう。車窓から望む鷹刀一族の屋敷は、まるで大空を支える柱であった。
あながち、それは冗談でもないのかもしれないな……。
ルイフォンは、ふと思う。
鷹刀という一族は、天空神フェイレンの代理人たる王に、代々、血族を〈贄〉として捧げてきた。まさに天を支える礎と呼ぶにふさわしいではないか――と。
ルイフォンを乗せた車は、鉄格子の門の前で静かに止まった。
大華王国一の凶賊の居城にふさわしく、立派な体躯の門衛たちが三人、直立不動の姿勢で守りについている。ルイフォンが車を降りると、彼らは素早く開門し、頭を垂れて出迎えた。
いつもは気安い者たちだが、皆、無言だった。詳細は知らされてなくとも、作戦が失敗に終わったことは聞いているのだろう。
ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。そして、たった今、鉄格子が取り払われた、その境界線を超える前に、朗々たるテノールを響かせる。
「ご苦労様です。――〈猫〉が来たと、総帥に取り次いでほしい」
その瞬間、門衛たちが色めきだった。
普段のルイフォンなら、『俺が帰ったと、親父に連絡を入れておいてくれ』と、ぞんざいに言っている。敷地の境目など気にせずに、ひょいと跨いで通り過ぎるはずだと、彼らの目が訴えていた。
「ルイフォン様……?」
一番年長の、いつも息子どころか、孫を見るような目でルイフォンを見守ってくれている門衛が、こらえきれずに声を漏らした。
「悪い。驚かせたよな」
照れくささはあるものの、しかし、顔にはそれを出さず、ルイフォンはまっすぐな瞳を門衛たちに向ける。
「でも、俺は〈猫〉だからさ。『鷹刀の対等な協力者』を名乗るには、ケジメが必要だろ?」
「!?」
門衛たちは、ぽかんと間抜けに口を開け、まじまじとルイフォンを見つめた。たっぷり数秒が過ぎてから、先ほどの年かさの門衛が、慌てて、こほんと咳払いをする。
「承りました。〈猫〉様、ご到着ですね。ただいま、総帥にお伝え申し上げます」
そう言って、若い門衛を顎でしゃくり、執務室に連絡を入れさせる。だが、改まった態度はそこまでで、彼はすぐに目尻に皺を寄せた。
「ルイフォン様、ご立派になられましたなぁ」
感慨深げな眼差しを、ルイフォンは素直に「ありがとう」と受け取った。そして、促されるに従い、門を通り抜ける。
荘厳なる門をくぐり、天下の鷹刀へと足を踏み入れるには資格がいる。鷹刀に見合う人間でなくてはならない。
ルイフォンは、初めは、母親のキリファ――当時の〈猫〉の手伝いだった。見習いという立場であるが、母に言わせれば『単なるおまけ』だった。
そして、ずっと会ってみたかった『年上の甥』リュイセンと仲良くなった。彼がいたから、周りの目が優しかったように思う。
母が亡くなったあと、リュイセンが『屋敷に来い』と迎えに来たとき、ルイフォンは問題なく受け入れられた。それは、彼が総帥の血統だからだ。
けれど、ルイフォンは一族を抜けた。
メイシアの父親を殺した責任を取ると言って、自らこの屋敷を出ていった。だから、血族としての彼は、もはやこの門をくぐり抜ける資格はないのだ。
二度と戻るつもりはなかった。……しかし、翌日にはメイシアを連れて帰ってきた。
そんな身勝手は、本来、許されるはずもない。けれど、リュイセンが誰よりも先に拳で出迎え、ルイフォンを認めたことで、皆を黙らせた。
だからこそ、今ここに、『鷹刀の対等な協力者』〈猫〉が存在する。
――鷹刀には、いつだって、リュイセンがいた……。
ルイフォンは、門衛たちに言付ける。
「すぐに会議を開きたい。ミンウェイに連絡を取って、主要な者たちを執務室に集めるよう、伝えてほしい」
大切な兄貴分を取り戻すために――。
現状において、確実にできることは、作戦失敗の報告でしかない。それでも、リュイセン救出に向けての第一歩を速やかに踏み出すべきだ。
門から屋敷へと誘う、長い石畳の道を行く。ルイフォンは自室に戻ることなく、執務室へと向かった。
ルイフォンが執務室に入ると、総帥イーレオが奥で頬杖を付いているのが見えた。
そこまでは普段通りであるのだが、イーレオの細身の眼鏡の視線は真下に向けられ、執務机に広げられた書類の文字を追っている。綺麗に染め上げられた黒髪の艶は相変わらずであるが、絶世の美貌にはひとつの笑みもなく、秀でた額には深い皺が寄っていた。
イーレオの背後には、護衛のチャオラウが、しかつめらしい顔で控えていた。それはよいとして、いつもなら同じく総帥の傍らにいるはずの、補佐を担うミンウェイの姿がない。緊急の呼び出しであるために、屋敷の雑事で忙しい彼女はまだ来ていないのであろう。
代わりに見えたのは、華奢な後ろ姿。
長く美しい黒絹の髪を背に流し、黒を基調としたメイド服を楚々と着こなした……。
「!」
メイシアが、そこにいた。
彼女をひと目、見るだけで、ルイフォンの心は震えた。
部屋の中へと進めば、イーレオの前にある書類の大半は、ルイフォンが先だって送った報告書を印刷したものだと分かる。だが、その中に、見覚えのある、流れるように美しい手書き文字が混ざっているのに気づいた。メイシアの手によるそれは、情報屋からの連絡を書き留めたものだ。
メイシアは、多忙なミンウェイを助けて、総帥の補佐の仕事をしていたのだ。ルイフォンからの作戦失敗の報により、屋敷中が慌ただしくなったときに、メイド服も着替えぬままに手伝いを申し出たに違いない。
ルイフォンの気配に気づいたメイシアが、長いスカートをふわりと翻して振り返り、ぱっと目を見開いた。白磁の肌が薔薇色に染まる。一見して、涙のあとと分かる赤い目が、嬉しげに潤む……。
しかし、薄紅の唇をきゅっと結び、美しい黒曜石の瞳をルイフォンに向けた。
そして――。
凛と澄み渡った、力強い戦乙女の眼差しで、彼を迎えてくれた。
「……!」
ルイフォンは衝撃を覚えた。
本当は、ほんの少しだけ、彼女が門で待っていることを期待していた。
けれど、彼女がいなかったのは、作戦に失敗した上に、リュイセンを置き去りにしての敗走なので、出迎えは控えたのだと解釈した。それが彼女の気遣いだと。
でも、違っていた。
彼女は黙って待っているような女ではない。
凶報に涙を流しながら、それでも、共に戦ってくれる女だ。
――こういう女だからこそ、そばに居てほしいと思ったのだ……。
ルイフォンもまた、口元を引き締める。そして、鋭く研ぎ澄まされた猫の目で、メイシアの眼差しに応える。
ほどなくして、ミンウェイとエルファンがそろい、会議が始まった。
「……以上が、俺が、あの館で見聞きしたこと、および、その後、監視カメラの録画記録によって知ることのできた内容だ」
ルイフォンは長い報告を終えた。
形式にこだわらないイーレオの方針で、着席したままでの発言であったが、かなりの疲労感があった。これでも要点を絞って話をしたつもり――細かい言葉のやり取りなどは、ほぼ省略して、事実のみを伝えたはずである。
疲れたのは、聞いていた者たちも同じようだった。余計な私語を交わすような者はいないが、皆の口から自然にこぼれた溜め息が、ざわめきを作り出している。
落ち着きのない空気の中で、ルイフォンは、おもむろに立ち上がった。
「!?」
唐突な彼の行動に、皆が思わず、困惑の表情を浮かべる。
しかし、ルイフォンは構わず、猫背をぴんと伸ばして一同を見渡した。彼のまとう雰囲気が変わる。硬質で無機質な〈猫〉の顔が現れる。
自然と無音となった室内で、彼は決然と口を開いた。
「俺のせいで、リュイセンが〈蝿〉に囚われた。俺の落ち度だ。――総帥……、申し訳ございません。如何ような処罰も覚悟しております」
彼は、イーレオに向かって、深く頭を下げた。一本に編まれた髪が背中から転げ落ち、金の鈴が大きく揺れる。
その場の誰もが、息を呑んだ。
そして、誰からともなく、総帥イーレオへと視線を移す。
イーレオは、いつもの通り、ひとり掛けのソファーの肘掛けで頬杖を付いていた。皆の注目を浴びた彼は、しかし、動じることなく、長い足を優雅に組んだままの姿勢で静かに尋ねる。
「お前、門衛たちに『〈猫〉としてのケジメ』とか、言ったそうだな?」
「え? ああ」
「ならば俺は、お前に処罰を与えない――与えられない」
「!?」
言葉の意味は分かるものの、意図が読めず、ルイフォンは当惑に顔をしかめる。
するとイーレオは頬杖から上体を起こし、ほんの少し、身を乗り出すようにしてルイフォンへと体を寄せた。にわかに険しい顔となり、魅惑の低音を冷ややかに響かせる。
「俺が罰することができるのは、俺の一族に対してのみだ。――一族ではない〈猫〉に与えることができるのは、『処罰』ではなく『処遇』だ」
「……!」
「現在、鷹刀と〈猫〉は『対等な協力者』だ。『処遇』というのは、この関係をどう変えるか――という問題になる」
「……そう……だな」
ルイフォンとしては、どんな無理難題を突きつけられても快諾する――それが責任を取るということだ、という肚だった。しかし予想外の流れとなり、知らず握っていた掌が、緊張にじわりと汗ばむ。
「これから鷹刀は、囚われたリュイセンの救出に移る」
「……ああ」
そこでイーレオは、それまでの表情を一変させ、にやりと口角を上げた。
「その際、〈猫〉の協力は不可欠だろう?」
「! 親父――っと、総帥……!」
「今回の作戦は『リュイセンとお前の、ふたり』で実行したものだ。ならば、この結末を招いた責任は『鷹刀』と『〈猫〉』の両者にあるといえる。だったら、今まで通り『対等』でいいだろう」
「――っ! ありがとうございます」
再び頭を下げたルイフォンの頭上で、「他の者も、それでよいな?」とイーレオの声が飛ぶ。
「総帥の決定に、異論などない」
素っ気なく答えたのは、次期総帥エルファン。相変わらずの冷たい無表情だが、彼が即答するということは、イーレオの弁を支持しているということだろう。勿論、ミンウェイとチャオラウに否やはない。
実のところ、血族に対する甘さが残っていると、ルイフォンは思う。だが、それが鷹刀イーレオという総帥であり、現在の鷹刀一族だ。ならば、自分のほうから、血族だという甘えを捨てればいいだけだ。そう肝に銘じ、ルイフォンは着席した。
「では、これから先の話だ」
イーレオが、皆の顔へと、ぐるりと瞳を巡らせる。
「〈猫〉からの報告は、大まかに言って、二点あった。――ひとつ目は、摂政が明かした〈神の御子〉『ライシェン』にまつわる話。ふたつ目は、いわずもがな〈蝿〉とリュイセンの問題だ」
このふたつは、まったくの別件だ。
もとはといえば、謀略を企む摂政が、ハオリュウを巻き込むために、彼を食事に招いただけのこと。
ただ、その会食の会場が〈蝿〉の潜伏場所だったがために、鷹刀一族と〈猫〉が便乗して侵入したわけなので、独立した話であるのは当然ともいえる。
「摂政の政略は、国を揺るがしかねない一大事だ。鷹刀としても、注視しておく必要があるだろう。――だが、我々が優先すべきことは、先ほども言った通り……」
そう言いながら、イーレオがちらりとルイフォンを見やる。
「今は、リュイセンの救出だ」
鋭いテノールに、イーレオは口元を緩めて頷いた。
「そういうことだ。ハオリュウからも、『摂政殿下の動向は、鷹刀の方々も気になると思いますので、何かあれば随時お知らせいたします。ですが、今はリュイセンさんの救出に尽力してください』との連絡を受けている。協力は惜しまないとのことだった」
「ハオリュウの奴……」
彼には随分な態度を取ってしまったのに、こちらへの気遣いを忘れないとは、本当に申し訳ない。
ハオリュウだって、『女王の婚約者になりませんか』と摂政に持ちかけられ、難しい選択を迫られている状況だ。勿論、ルイフォンもハオリュウへの協力は惜しまない。……とはいえ、政治的なことに関しては、余計な口出しは控えるべきだろう。
「…………」
ハオリュウに取り付けたカメラで盗み見た〈蝿〉の研究室を思い起こし、ルイフォンは眉を寄せる。
摂政の話を聞いたときから、どうしても気になっていることがあった。それを今、口にすべきかと悩み……やはり、はっきりさせておきたいと心を決める。
「すまない。質問がある」
ルイフォンは、彼らしくもなく、遠慮がちに手を挙げた。
「これから鷹刀と〈猫〉が取る行動は、リュイセンの救出の一択だ。それ以外はない。――だから、これは純粋に俺の好奇心だ」
「ほう? 言ってみろ」
軽く返してきたイーレオに、ルイフォンは、わずかにためらいながら、口を開く。
「鷹刀の総帥に、というよりも、親父に……いや、そうじゃねぇな。『もと〈七つの大罪〉の〈悪魔〉である〈獅子〉』に尋ねたい。――もし、『契約』に抵触するのなら、黙って聞き流してくれ」
「ふむ。……分かった」
『契約』――〈悪魔〉となった者が王族の『秘密』を他者に漏らすと、脳に刻まれた命令によって死に至る、という物騒な代物だ。一度、刻まれた『契約』は、生涯に渡り有効であるため、かつて〈悪魔〉だったイーレオには、〈七つの大罪〉と縁を切った今でも、そのまま消えずに残っている。
「摂政が言ったことは、本当なのか? この国に、王となる資格のある〈神の御子〉が生まれなければ、〈悪魔〉たちが過去の王のクローン体を作る。そうやって、王家は続いてきた――というのは……」
「その件か……。確かに『契約』に触れかねない内容ではあるが、お前は王族である摂政から聞き、他の者たちは、お前から又聞きした形になるから、俺が口にしても大丈夫だろう」
イーレオの声が一段下がり、厳かに続く。
「真実だ。〈七つの大罪〉は、王家を存続させるために存在している」
「やはり、そうだよな」
摂政の話に矛盾はなかった。実に、理に適っていた。だから事実であると、ルイフォンは確信していた。
「つまり〈七つの大罪〉は、恒常的に過去の王のクローンを作っていて、技術は既に、確立されている。――合っているか、〈獅子〉?」
「ああ」
「ならば、次の王を作るために、わざわざ死者を――〈蝿〉を生き返らせる必要はないはずだ。生きている奴がやればいい。けれど、死んだ『天才医師』を蘇らせた。――その理由……〈獅子〉に心当たりはあるか?」
ルイフォンの猫の目が、鋭く光る。
これこそが、イーレオに問いたかったことだった。
果たして、イーレオは……首を横に振った。――ルイフォンの予想通りに。
「――ない」
低い声が、重く広がる。
「お前の報告を聞いて、俺もおかしいと思った。お前の言う通り、生きている者が王を作ればいい。先王の急死によって、〈七つの大罪〉が受け継がれなかったとしても、〈悪魔〉の残党くらいはいるだろう。――なんのために、死者を冒涜するようなことをしたのか……」
悲痛の響きは、とうの昔に死んだ義理の息子、ヘイシャオへの哀悼だ。これまで理解できなかったイーレオの思いが、あの館で〈蝿〉と対面したことで少し分かるようになった気がする。
『鷹刀セレイエこそが、害悪』――そう言った〈蝿〉の気持ちも……。
ルイフォンは、奥歯を噛みしめた。
ルイフォンもイーレオも、無意識のうちに『セレイエ』の名前を口にするのを避けていた。
けれど、今までに知り得た情報を重ね合わせると、もう疑いようもない。
死者を蘇らせ、死者を冒涜し、『デヴァイン・シンフォニア計画』を組み上げたのは、ルイフォンの異父姉、セレイエだ。
「〈獅子〉……いや、親父。これは、親父の返答を踏まえての、俺の推測だ。まだ確証はない。けど、間違いないと思う」
ルイフォンは、硬いテノールを響かせる。
「次の王――『ライシェン』は、ただの『過去の王のクローン』なんかじゃない。『天才医師〈蝿〉』でなければ作れないような、『特別な王』だ」
そこで言葉を切り、そして、吐き出すように続ける。
「そんな特別な王を望んだのは、セレイエだ。セレイエは、『ライシェン』を得るために、『デヴァイン・シンフォニア計画』を作ったんだ……」
あたりが、しんと静まった。
執務室の空気が、ぴたりと止まり、呼吸の音すら消えてしまったかのよう……。
誰も、何も言うことができなかった。
「――すまん」
沈黙を破ったのは、ルイフォンだった。話が横道にそれたことの責任を取った。
「ともかく、今はリュイセンの救出だ」
やや強引にだが、話を戻す。いつもの調子を出すように、彼は好戦的に口の端を上げた。
「録画記録の様子からすると、〈蝿〉は、俺があの館に隠れていると思って探しているみたいだ。だが、いずれは脱出した可能性を考えるだろう」
そう言いながら、皆が話に乗ってくるようにと、視線を巡らす。
「奴は、俺が鷹刀に戻っているかの裏付けを取るために、私兵をこの屋敷に送るはずだ。だから、その私兵を捕まえれば、リュイセンの状況が分かるかもしれない。――よって、専任の者を配置して、待ち構えていることを提案する」
〈蝿〉のいる館の監視カメラは、電源を落とされて使えない。その代わりの策だ。
「なるほど。ミンウェイ、すぐに手配してくれ」
イーレオが即応し、ミンウェイが「はい」と了承する。
「今日のところは、こんなところか?」
皆に尋ねながらも、イーレオの視線はルイフォンに向けられていた。ルイフォンが、作戦失敗の汚名を少しでもすすごうとしていることに、イーレオは気づいているのだろう。敵わないなと、内心で思う。
イーレオは一同を見渡し、皆に意見がないのを確認すると、「では――」と、魅惑の美声を高らかに響かせた。
「近いうちに〈蝿〉のほうから、リュイセンを人質として、なんらかの要求を突きつけてくるだろう。遅れを取らないように注意しながら、とりあえず待機だ。――解散!」
会議のあと、イーレオは、ルイフォンにこう言った。
『俺には、〈猫〉が疲弊しているように感じられる。これからに備えるため、鷹刀の総帥として、『対等な協力者』〈猫〉に休息をとるよう要請する』
単に、『休め』と言えばいいものを、洒落たつもりなのだろう。
しかも、料理長からメイシアに、『今日は人手が余っているから、夕食の手伝いは要らない』という連絡まで来た。
要するに、『ふたりで、ゆっくりしろ』ということだ。
ルイフォンは、メイシアと肩を並べ、自室へと向かう。
隣を歩く、彼女のふわりとしたスカートがズボンに触れ、こそばゆく……感じる余裕はなかった。
彼の心を占めていたものは、あの館で放たれた、〈蝿〉の言葉――。
『『デヴァイン・シンフォニア計画』の鍵となるために、〈天使〉のホンシュアに操られた『藤咲メイシア』は、色仕掛けであなたを籠絡したのですよ』
3.猫の誓言-2
『〈天使〉のホンシュアと接触のあったあの娘は、あなたと出逢うよりも前に『鷹刀セレイエの駒』にされていたことは理解できているわけですね?』
『ならば疑問に思わなかったのですか? あの娘は、本当に自分の意思であなたに恋心を抱いたのか?』
『あんな上流階級の娘が、凶賊のあなたを相手にするなんて、普通に考えればあり得ないでしょう?』
菖蒲の館で〈蝿〉と対峙したとき、奴はそう言ってルイフォンに揺さぶりをかけた。
それは勿論、〈蝿〉の策略だったのだろう。奴の思惑通り、ルイフォンは見事に動揺し、隙だらけになった。
だから、すべては〈蝿〉の作り話だった、という可能性はある。
しかし四年前、母が死んでシャオリエの店に身を寄せていたとき、ルイフォンを訪ねてきた異父姉セレイエは、メイシアとの出逢いを予言していた。
『遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢うわ。その子は、私に選ばれてしまった可哀相な子』
『ルイフォンはきっと彼女を愛すると思うし、彼女もルイフォンを愛してくれると思う。そのあと、どうなるのかは不確定要素が多すぎて、私にも計算できない』
ルイフォンには、『四年前にセレイエと会った』という記憶はない。おそらく、生粋の〈天使〉だというセレイエに記憶を消されたのだろう。だから、このセレイエの予言は、ルイフォンの世話を焼いてくれていた少女娼婦、スーリンの証言によるものだ。
「……『予言』じゃねぇな。『予告』だ」
――何故なら、ルイフォンとメイシアの出逢いは、セレイエによって仕組まれた運命だったのだから……。
「ルイフォン?」
澄んだ声に、ルイフォンは思考を遮られた。
ふと気づくと、切なげな黒曜石の瞳がじっと彼を見つめていた。彼の顔を覗き込むように、メイシアが小首をかしげると、ホワイト・ブリムと呼ばれる、メイド服の白い頭飾りが小さく揺れる。
そうだった。今は執務室での会議を終え、休息を取るために自室に向かっているところであった。『ふたりで、ゆっくりしろ』という、イーレオと料理長の計らいによって、メイシアの仕事も免除されている。
「リュイセンが心配?」
「あ、ああ……」
とっさに、そう答えた。
こんなにもルイフォンを気遣い、リュイセンのために心を痛めている彼女を――彼女の感情を、疑っていたとは言えなかった。
彼女は、何も知らないのだ。
知らぬうちに『駒』とされ、ルイフォンのもとへと導かれた。
ルイフォンは唇を噛みしめる。このまま黙っているわけにはいかないだろう。きちんと彼女に告げるべきだ。
そして……。
彼が決意を固めたとき、突然、メイシアが爪先立ちになり、上目遣いの可愛らしい顔がぐっと近づいてきた。
「!?」
華奢な手が伸ばされ、癖のある彼の前髪がふわりと持ち上げられる。
くしゃり。
細い指が、彼の黒髪を優しく絡めとった。
「!」
――大丈夫だ、安心しろ。
彼がそんな気持ちを表すときに、よくやる仕草だ。
「メイシア……」
額をかすめる彼女の指先が、くすぐったくて温かい。
赤みを帯びた瞳に彼を映し、彼女は力強く笑う。
「ルイフォン、おかえりなさ……」
その言葉を最後まで言い終える前に、メイシアの目から涙がこぼれた。
慌てて彼女はうつむき、顔を隠す。
ルイフォンは、彼女を引き寄せた。自分の胸に彼女を押し付け、彼女の涙を拭う。
「ただいま、メイシア」
腕の中で泣き崩れる彼女に、そっと囁く。
『信じているから』と送り出してくれた彼女に、戻ってきたことを告げる。
そのままルイフォンは、すっとメイシアの膝裏に手を回し、彼女を抱き上げた。長いスカートの裾が翻り、フリルの付いた白いエプロンがふわりと広がる。
普段のメイシアなら、どこに人目があるか分からない廊下でこんなことをしようものなら、真っ赤になって遠慮がちに抗議している。
けれど今は、肩を震わせながら、ルイフォンのシャツの胸元をぎゅっと握りしめていた。
「……メイシア。俺は、お前が好きだよ。愛している」
彼女の頭上から言葉を落とし、ホワイト・ブリムのレースの先に唇を寄せる。
彼のシャツを引く力が、わずかに緩んだ。それを確認すると、ルイフォンはメイシアを抱き上げたまま歩き出す。
――部屋に着いたら、メイシアに、まやかしの恋心の話を打ち明ける。
だから、それまでは、彼女のぬくもりは彼のものだ。
長い廊下の終わりが来なければよいと、儚い願いを抱きながら、彼はゆっくりと足を進めた。
自室に入ると、テーブルの上にティーセットが載せられていた。傍らに電気ポットも用意されているのは、厨房に行かずとも、すぐにお茶を出せるようにとのことだろう。
奥を見やれば、ベッドの上に綺麗に畳まれた部屋着が置かれていた。その先の窓では、レースのカーテンが揺れている。外からの心地よい風を取り込みつつ、直射日光はきちんと遮るよう配慮されていた。
部屋中にほのかに漂うのは、安眠効果があるとかでミンウェイが好んで使うハーブの匂いだ。確か、カモミールだとか言っていた。
帰ってきたルイフォンが、くつろぎ、疲れを癒せるようにとの気配りが、そこかしこに感じられる。おそらく、いや間違いなく、メイシアが整えてくれたものだ。
「ありがとな」
「ううん」
彼女は嬉しそうに首を振ると、早速とばかりに紅茶を淹れ始めた。ずっと気を張っていた彼女だって疲れているだろうに、と思いつつ、せっかくの心遣いなので、椅子に座ってありがたく待つことにする。
ルイフォンは目を細め、メイシアの横顔を見つめる。
彼女は、長い髪がじゃまにならないようにと耳にかけ、硝子のティーポットの中で広がる茶葉を真剣な眼差しで見守っている。
綺麗だと思う。――姿も、魂も。
こぽこぽと注がれる、お茶の音色が温かい。彼女がくれる、こんな日常が愛おしい。
「ルイフォン、お疲れさまでした」
すっと、ティーカップが差し出された。
こうして、メイド服姿で給仕されれば、もうすっかり本職のメイドたちと区別がつかない。
なのに彼女は、いつも少しだけ不安げな表情を浮かべる。初めてルイフォンに淹れた紅茶が、やたらと渋かったことがトラウマになっているらしい。今度のお茶は美味しく淹れられただろうか、毎回そう顔に書いてある。
「メイシアこそ、お疲れ様」
受け取ったカップから流れてくるのは、安らぎ。猫舌のルイフォンは、いきなり飲むことはできないが、「いい香りだ」と労う。
そうすると――。
「ありがとう」
彼女は照れたように頬を染め、極上の笑顔を返してくれる……。
「――!」
ルイフォンの吐息が、ティーカップの上にさざ波を立てた。白い湯気が跳ね返り、目にしみる。まだお茶は飲んでいないのに、喉が熱くなる。
ほんの数ヶ月かもしれないが、彼女と積み重ねてきた時間が、ここに、確かに、存在する――。
「メイシア、聞いてくれるか?」
向かいに座ったメイシアに、猫背を伸ばしたルイフォンが、静かなテノールで語りかけた。ただならぬ様子を感じ取った彼女は、黙って、こくりと頷く。
「さっきの執務室での報告は、あの館での出来ごとを、できるだけ客観的に説明したものだった。誰と誰が、どんな言葉でやり取りをしたとか、……俺が何を感じたかとか、そういうものはできるだけ省いていた」
正確な情報だけを伝えるために――そう思ってのことだったが、口にすることを恐れる気持ちもあったに違いない。
けれど、もう先延ばしはしない。
「リュイセンが大怪我を負って捕まるという結果となった、最大の原因は、俺が〈蝿〉に心の隙を衝かれたことだった。……〈蝿〉は、俺にこう言ったんだ――」
ルイフォンは、ごくりと唾を呑み込んだ。
〈蝿〉の口から紡がれた、心臓を凍りつかせるような、あの冷ややかな口調を真似る必要はない。言われたことを、ただ端的に伝えるだけでいい。――そうでなければ、ルイフォンの心が砕けてしまいそうだから……。
「俺と出逢うよりも前に、〈天使〉のホンシュアと接触していたメイシアは、ホンシュアに操られていた。『デヴァイン・シンフォニア計画』の鍵となるために、俺に恋心を抱くようにと仕向けられていた。そうでなければ、あんな上流階級の娘が、凶賊の俺を相手にするわけがない――と」
「――っ!?」
メイシアの唇から、言葉にならない悲鳴のような声が漏れた。花の顔が見る間に蒼白になり、全身が小刻みに震える。
「……ち、違う! そんなことない! 私は、私自身の気持ちで、ルイフォンを好きになったの……!」
自分から『好き』などと、滅多に口にしない彼女が、ごく自然にそれを口にした。こんなときだが、ルイフォンはどきりとする。
「メイシア。落ち着いて聞いてくれ」
彼女を傷つけたいわけではないのだ。
できるだけ優しい声で語りかけると、彼女は唇を噛み締め、耐えるように言葉を飲み込む。もっと言い返したいことがあるだろうに、きちんと向き合おうとしてくれる彼女が、素直で、律儀で、健気で……愛おしい。
「〈蝿〉は、死ぬ直前のホンシュアから『デヴァイン・シンフォニア計画』のあとを託されたと言った。奴の思わせぶりな態度は、演技かもしれない。頭から信じるのは危険だと思う。――けど。奴は、お前が鷹刀に送られた目的は、親父に誘拐の罪を着せるためではなく、お前が鷹刀に来ること自体が狙いだったと、はっきり告げた」
ルイフォンは、ほんの少しためらい、続ける。
「――このことは、〈蝿〉に言われるまでもなく、俺たちは気づいていたよな……」
潤んだ瞳が、じっとルイフォンを見つめていた。その視線を痛いほど感じながら、ルイフォンは戸棚から、あるものを出してくる。
メイシアが、さっと顔色を変えた。
「そのペンダント……!」
「ああ……」
メイシアがこの屋敷に来たときに、彼女の胸元を飾っていたものだ。それは『お守り』であり、日頃からずっと、肌身離さず身につけていたと、彼女は思い込んでいた。しかし、異母弟ハオリュウによって否定された。
のちに、セレイエの持ち物だと判明した。そして、セレイエの〈影〉であるホンシュアが、メイシアを鷹刀一族のもとに送り出す際に、『目印』として持たせたのだと、推測されている。
なんのための、誰に向けての『目印』であるかは不明だが、メイシアが危険な目に遭わないように、ルイフォンが預かったのだ。
ルイフォンは、ペンダントをテーブルの上に置く。
掌から転がり落ちる、さらさらとした鎖の滑らかな感触。鎖と鎖が奏でる、響くような高い音。このペンダントに触れるたびに、ルイフォンの記憶の中の『何か』が共鳴する。
ホンシュアが、ルイフォンに向かって『ライシェン』と呼びかけた、あのときの声が蘇り、それがセレイエの声と重なって木霊する……。
「……ルイフォン?」
沈黙した彼に、メイシアが不思議そうに声を掛けた。
「あ、ああ……。すまん」
ルイフォンは慌てて取り繕い、テーブルに落としていた視線をメイシアに移す。
「お前からこれを預かったとき、言ったよな。お前は『デヴァイン・シンフォニア計画』の『核』で、このペンダントがその証拠。……そして、俺も。四年前、俺に会いに来たセレイエに、何かを仕掛けられた――」
メイシアが、ゆっくりと頷いた。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』によって、『俺たちは出逢う』ように仕組まれた。――凶賊と貴族という、住む世界の違う俺たちは、本来なら互いの存在すら知らないままに終わるはずだった。なのにセレイエは、凶賊の勢力争いや、貴族の権力争い、警察隊の腐敗まで……あらゆるものを巻き込んで、俺たちを巡り合わせた」
つまり――。
「仕組まれた運命の中で出逢った俺たちには、ずっと一緒に居てもらわないと、セレイエや『デヴァイン・シンフォニア計画』にとって不都合が起こる――ということになる」
「だから、セレイエさんの〈影〉だったホンシュアは、私の心に介入して、私がルイフォンに惹かれるようにした――と、言うの……?」
細い、今にも途切れそうな声が尋ねる。
「――否定できない、ってだけだ。……俺自身、母さんにいろいろ記憶をいじられたらしいから知っている。〈天使〉の脳内介入ってやつは、本当に厄介で、何を信じたらいいのか分からなくなる……」
「……」
大きく見開かれた黒曜石の瞳が、切なげに揺れた。
『私を信じて』――無言の声が、ひと筋の涙となって流れ落ちる。
「ごめんな。こんなことを言われても、お前だって困るよな。……けど、俺は、お前に隠しごとをしたくない。そういう約束もしたしな」
自分の心のうちに留めておくほうが、彼女のためなのかもしれない――と、考えもした。
そうすれば、今まで通りに、彼女と一緒に居られる。
でも、そんなのは自分らしくない。
『鷹刀ルイフォン』は、そんな卑怯な男じゃない。
「迎えの車に乗って、この屋敷に帰ってくる間に考えた」
ルイフォンは、静かに告げる。
「お前が操られているかどうかなんて、分からない。けど、俺たちが一緒にいることで『デヴァイン・シンフォニア計画』が進んでいくのなら、お前が操られていても、いなくても、お前の安全のためには、俺とは離れていたほうがいいんじゃないか……、って」
「!」
メイシアの唇がわなないた。
何かを発するために、その予備動作として彼女が息を吸う。それを、ルイフォンのテノールが鋭く遮った。
「そう提案するつもりだった。――けど」
「……え?」
かすれたメイシアの声が、妙な具合いに裏返る。
「屋敷に戻ってきて、執務室でお前と目が合った瞬間――。俺、馬鹿じゃねぇか? と思った」
きょとんと見上げる、メイシアの上目遣いが可愛らしい。本当に、自分は彼女に惚れ込んでいるのだなと、ルイフォンは改めて自覚する。
「お前は、そんな弱い奴じゃないだろ?」
ルイフォンは、涙の筋の見えるメイシアの顔を、まっすぐに見つめる。
彼を魅了してやまない戦乙女の顔を、瞳いっぱいに映す。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』なんていう、わけの分からないものに巻き込まれて、そのまま泣き寝入りするほど、お前は弱くないはずだ。お前だって、この先の結末を知りたいはずだ。――だから、俺と一緒に居てほしい」
本当は、理屈なんてどうでもいいのかもしれない。
彼女の魂に、強く惹かれる。
彼女と離れるなんて、できるわけがない。
だから、そのための、こじつけの言い訳を思いついただけかもしれない。
それでも、彼は我儘だから、彼女と共に在りたいのだ。
「セレイエの仕掛けてきた『デヴァイン・シンフォニア計画』を共に読み解くパートナーとして、俺のそばに居てほしい」
「ルイフォン……!」
メイシアが驚いたように瞬きをすると、彼女の睫毛から涙の雫がきらりと跳ねた。
ルイフォンは少しだけ目線を外し、癖のある前髪を掻き上げた。それから再び正面を向き、燦然と輝く猫の目で、彼女に告げる。
「これからまた改めて、ゼロから始めて、もう一度、俺のことを好きになってほしい。……それまで俺は、お前には指一本、触れないことを誓う」
今まで、積み重ねてきた時間は封印する。
けれど、これからも、新しい時間を重ね上げていく。
そう決意した。
――その次の瞬間。
かたんっ、と。硬い音を響かせて、メイシアが立ち上がった。
「ルイフォンの、馬鹿!」
長いスカートがふわりと広がり、風を巻き起こす。エプロンのフリルが翻った向こう側に、倒れた椅子が見えた。
「メイシア!?」
ルイフォンが目を見張る。
彼女が駆け寄る。背中を柔らかな感触が覆う。黒絹の髪がふわりと頬を撫でる。
気づけば、ルイフォンの背後から、メイシアが抱きついていた。
3.猫の誓言-3
華奢な両腕が、後ろからルイフォンを包み込む。背中に感じる、ほのかな重み。メイシアの香りと乱れた息遣いに、彼の心臓はどきりと高鳴る。
「――嫌」
澄んだ声が、凛と響いた。
否定の言葉をあまり言わない彼女が、きっぱりと告げた。
少しくらいの反論なら、ルイフォンも覚悟していた。けれど、透き通った言霊は、有無を言わせぬほどに力強い。
「私……、ルイフォンと触れ合えないのは、嫌」
メイシアの唇が、わずかに首筋に触れた。火傷しそうな熱さが、彼女の懸命な気持ちを物語っている。
ルイフォンは狼狽した。
そんな言葉が彼女の口から発せられるなど、想像したこともなかった。頭の中が真っ白になる。
「何もかも……、ひとりで勝手に決めないで! 私……、私……!」
「メイシア……」
彼女の細い腕へと手が伸びそうになり、ルイフォンは、はっとする。彼はたった今、彼女には指一本、触れないと誓ったばかりだ。
ルイフォンは唇を噛みしめる。
そんな彼に、まるで揺さぶりをかけるかのように、しっとりと熱を持った体がもたれかかった。
「〈天使〉の力って、何? こうしてルイフォンに触れると、どきどきしたり、安心したりする私の心は、改竄して作ることができるようなものなの?」
「……」
返事のできないルイフォンに、メイシアが畳み掛ける。
「それに、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、『私たちが出逢う』ように仕組まれたもの。――ならば、ルイフォンだって、セレイエさんに操られているかもしれないじゃない! 『世間知らずの貴族の娘が現れたら、好きになるように』って」
「……え!?」
彼女の言葉が聞こえてから彼が理解するまでに、数瞬の時間差があった。――そのくらい、想定外の発想だった。
「だって、私たちが『互いに』惹かれ合わなければ、『デヴァイン・シンフォニア計画』は成り立たないんでしょう?」
「……っ」
断言できる。彼の抱く、彼女への気持ちは幻などではないと。
初めはただ、綺麗な女だと思った。世間知らずで、無鉄砲で、桜の花びらのように儚く嫋やかなのに、大樹の幹のように芯が強い。その落差に興味を引かれた。からかい甲斐があって、可愛らしい反応に嗜虐心をくすぐられて、つい構った。それだけだった。
けれど、彼女と行動を共にするうちに、戦乙女の魂にどんどん魅了されていった。
彼女が欲しいと思った。
「俺はちゃんと、だんだんと、お前に惹かれていった。一目惚れなんかじゃない」
「私だって、出逢った瞬間にルイフォンを好きになったわけじゃないもの。ルイフォンの言葉を聞いて、魂に触れて、あなたとずっと一緒に居たいと思うようになったの……!」
「――!」
同じだ。
ふたりは同じように徐々に惹かれ、想い合うようになっている。
この状況をどう解釈すればよいのか。
戸惑う彼に、メイシアが「ルイフォン」と呼びかけた。
「セレイエさんは、『不確定要素が多すぎて、計算できない』と言ったの。だから、彼女が仕組んだのは『私たちが出逢う』ことだけ。そのあと私たちが、彼女の望み通りに共に在り続けるかどうかは『計算できない』――そういう意味だと思う」
それは、少女娼婦スーリンを通して聞いた話だ。正確な言い回しではないだろう。そんな言葉の綾を議論しても仕方ない……。
「メイシア、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、セレイエが必死になって作り上げているものだ。成功のためになら、どんな手段を使ってもおかしくないだろ……」
うそぶくような声も、言葉尻に力がなかった。メイシアに押されている。普段とは逆だ。
旗色の悪い彼に対し、彼女は更に思いもよらぬことを言い出した。
「ええと、ね。たぶん、だけど……。セレイエさんは、私のことを知っていたと思う」
「なん……だって?」
「〈悪魔〉となったセレイエさんは王族と面識があったはずなの。だって、〈七つの大罪〉は、王の私設研究機関なのだから。それなら王宮に出入りしていてもおかしくないし、貴族だった私を見かけていても不思議じゃない。少なくとも、私の家族が、その……、平民に偏見を持っていないことは知っていたと思う」
『平民』のところで、彼女はためらった。彼に対して、身分を口にしたくないのだろう。
王族や貴族は、平民を下に見る。それが普通だ。けれど、メイシアの父コウレンは、周りの反対を押し切って、ハオリュウの母である平民の女性と再婚した。おそらく、上流階級の間では有名な話だろう。
「平民である上に、凶賊だった俺に引き合わせるなら、お高く止まった貴族の女じゃ無理がある。その点、お前なら問題ない。だから、セレイエはお前を選んだ――と?」
「そうだけど、それだけじゃなくて……! ……私とルイフォンなら、きっと惹かれ合うだろう、って……セレイエさんは、その……ちゃんと『私を見て』、選んでくれたんだと思うの……」
メイシアは、口ごもりながらも懸命に抗議する。後ろから抱きついているために確認できないが、真っ赤な顔で、すねた上目遣いをしていることだろう。
きつくは言わないけれど、彼女は意外に嫉妬深くて、独占欲が強い。彼の『特別』でありたいと強く願ってくれる。それはもう、信じられないくらいに深く、激しく。
だからこそ、今だけは、それが自信ではなくて不安に繋がる……。
何を言えばよいのか分からずにルイフォンが沈黙していると、メイシアはだんだん恥ずかしくなってきたらしい。取り繕うように「けど……」と呟いた。
「本当にどうして、私だったのかしら……?」
彼女の吐息が、首筋をくすぐる。
理性が揺らぐ。
彼女を引き剥がさなければいけないのに、名残惜しさに胸が苦しい。ずっと彼女に触れていたい。それが本心なのだと、否が応でも自分自身の心と体に暴かれる。
そんな彼の内側も知らず、彼女はそのまま思考にふける。
「身分が違えば、出逢いの演出は難しくなるはず。それにも関わらず、セレイエさんは……」
そのとき、メイシアは息を呑んだ。
「ルイフォン!」
「なっ!? どうした?」
「やっぱりセレイエさんは、私の気持ちを操ろうなんてしていない!」
メイシアは、長いスカートを勢いよくはためかせ、ルイフォンの背中からくるりと身を翻した。エプロンの白いフリルで今までの空気を払いのけ、彼女は彼の真横にぴたりと体を寄せる。
そして、ほんのり得意げな顔で、彼の瞳を捕らえた。
「もしもセレイエさんが私の心に介入するつもりだったら、ハオリュウの誘拐から始まる大事件なんて、計画する必要がなかったの」
「――?」
「『街で偶然、見かけたルイフォンに、私は一目惚れした』――そんな記憶を植えつけるだけで、私はルイフォンのもとに押しかけていったはず」
メイシアは声を弾ませ、白磁の肌を薔薇色に染める。
「凶賊の勢力争いや、貴族の権力争い、警察隊の腐敗……そんなものを巻き込むような、大規模な事件なんて要らないの」
「――っ!」
ルイフォンの口から、鋭い息が漏れた。
メイシアの思考は、非常に論理的。育ちの良さから他人を疑うことは苦手だけれど、状況の矛盾から虚構を見抜く。
もと一族で、娼館の女主人のシャオリエは、そう言っていた――。
「セレイエさんの〈影〉だったホンシュアは、『あなたが幸せになる道を選んで』というルイフォンへの遺言を、タオロンさんに託した。そんな人が偽りの愛を仕掛けるわけがない。――つまり」
真実を導き出す黒曜石の瞳が輝き、彼に告げる。
「セレイエさんは、私たちに自然に惹かれ合ってほしくて、あんな面倒な事件を起こしたの」
凛と冴え渡った、透き通る声。
強い口調で主張したことを恥じるように、ほんの少し、すくめた肩。
それでも、一歩も引かぬと、彼を見つめる瞳。
「メイシア……!」
気づけば、ルイフォンは椅子から立ち上がり、彼女を抱きしめていた。
柔らかな感触が胸を熱くする。気力がみなぎり、魂が奮い立つ。
華奢な体躯は、腕の中にすっぽりと収まる。こんなにもか弱く、儚げなのに、彼女は彼に無限の力を与えてくれる。
「お前の……言う通りだ……!」
彼女の髪に頭をうずめ、彼は呟く。泣きたいくらいに切なくて、けれど、安らぎに満ちている。
彼の心が、穏やかに解放されていく……。
ルイフォンは顔を上げ、メイシアと向き合った。
「……ごめんな」
「ルイフォン?」
「俺はずっと、自信がなかった」
「え?」
心底、驚いた様子で、メイシアが目を丸くした。素直な反応に、ルイフォンは微苦笑する。
「そりゃ、俺は自信過剰だよ。……けど、お前に関してだけは自信がなかった。だから、〈蝿〉の言葉に惑わされた」
腕の中で、戸惑うように彼女が身じろぎする。けれど彼は、より一層、強く彼女を抱きしめる。離すまいとの意思表示をするかのように。
「お前は、何もかもすべてを捨てて、俺のところに来てくれた。けど、果たして俺に、それだけの価値があるのか。――さすがの俺だって、『ある』と答える自信はないよ」
〈蝿〉は、そんな彼の心の隙を衝いた。
『あんな上流階級の娘が、凶賊のあなたを相手にするなんて、普通に考えればあり得ないでしょう?』
呪いの言葉で、悪魔は彼を縛った。
「でも、もう悩まない。こうしてお前が俺のそばに居てくれるという事実が、俺の価値の証明だ」
ルイフォンは、優しいテノールに不遜な発言を載せる。
そして、抜けるような青空の笑顔でメイシアを包んだ。
彼女は、彼の戦乙女。
彼が呪いに倒れれば、彼女が呪いを解いてくれる。
ならば、彼は彼女を守る。あらゆるものから、全力で彼女を守る。
彼女が安心して、彼のそばに居られるように。
彼女が彼のそばで、幸せに笑っていられるように――。
「…………っ」
現在と、そして未来の彼女は、必ず守る。
けれど過去は――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』によって、彼女の家族は不幸に陥れられた……。
「メイシア、ごめんな」
ルイフォンは、ぽつりと漏らした。
続けて二度も『ごめん』と口にした彼に、彼女は小首をかしげる。
「セレイエが元凶なんだ……。俺の異父姉が……さ」
「でも、セレイエさんが仕組まなければ、私たちは出逢わなかったの。彼女のしたことは許すことはできないけど……けど、ルイフォンと出逢えたことだけはよかったと思う」
思った通りのことを口にする彼女に、彼は強気の猫の目を向ける。
「そうとは限らないだろ? 俺たちなら、セレイエが何もしなくても、きっとどこかで出逢ったはずだ。――俺は、そんな気がするよ」
「!」
メイシアの頬が赤く染まる。けれど、彼女はすぐに「うん」と極上の笑顔を返してくれた。
「愛している」
彼女に口づける。
彼女の愛を明確な言葉で聞きたくて、彼女が同じ言葉を返してくれるのを待ってから、それを発した唇に触れたこともあった。けれど、もう、そんな自信のなさの表れのような行動は必要ない。
「メイシア」
彼女を抱きしめたまま、ルイフォンは語りかける。
「これから俺は、リュイセンを助け出す」
「うん」
「〈蝿〉の野郎も捕まえて、奴との決着をつける。そしたら……」
小さく息を吸うと、背中で金の鈴が煌めいた。
鋭い猫の目で、彼は告げる。
「俺は、お前を連れて鷹刀を出る」
「え……?」
「鷹刀を出て、お前と一緒にセレイエを見つけ出す。あいつに洗いざらい『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを吐かせて、この、わけの分からない状態を終わらせる」
そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』を終着に導く。
ルイフォンは、どこにいるとも知れぬセレイエを挑発するように、好戦的に嗤う。
「うん。私も、何が起きているのかを知りたい。だから、セレイエさんを探すべきだと思う。……けど、『鷹刀を出る』というのは、どういうこと?」
突然のことに戸惑っているのだろう。メイシアの声は不安に揺れていた。
そんな彼女に、彼は静かなテノールを響かせる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』とセレイエにとって必要な駒は、俺とお前、それから『ライシェン』を作れる〈蝿〉。分かっている範囲ではそれだけだ。――つまり鷹刀は、『デヴァイン・シンフォニア計画』とは関係がない」
「え? あ……!」
一度だけ疑問に眉を寄せたが、聡明なメイシアは、次の瞬間には納得の声を上げた。
――そう。
セレイエは、鷹刀一族そのものには用はなく、ただ利用しただけなのだ。
ルイフォンとメイシアが、巡り逢うための場所として。
〈蝿〉を意のままに動かすための、偽りの復讐相手として。
「そう考えていくと、セレイエの狙いは『俺とお前』なんだ。あいつが俺たちに、何をさせたいのかは分からない。けど俺は、関係ないはずの鷹刀を巻き込みたくはない」
メイシアの喉が、こくりと動いた。硬い顔をする彼女に、少し心配をかけすぎたかと、ルイフォンは反省して語調を和らげる。
「俺は〈猫〉として独立した。自分に掛かる火の粉くらい、自分で払う。――それに俺は、鷹刀という場所が好きだ。だから、わけの分からない害悪から守りたい」
近くにいれば、父イーレオは、きっと血族の情で有形無形の援護をする。
けれど、ルイフォンは一族を抜けたのだ。いつまでも甘える気はない。
「別に、鷹刀と縁を切るわけじゃないよ。ただ、きちんと『対等』でありたいだけだ」
そう告げたルイフォンの背中に、メイシアは、ふわりと腕を回した。彼女の指先にじゃれつくように、金の鈴がちょこんと触れる。
「ルイフォンの気持ちは分かる。凄く、ルイフォンらしい。尊重したい」
そこで彼女は少し体を離し、遠慮がちな上目遣いで彼を見上げた。
「――でも、鷹刀の人たちは『水臭いことを言うな』と、引き止めると思うの。……特にリュイセンが」
「……まぁ、そうだな」
あの兄貴分なら、きっとそう言うだろう。
「皆がルイフォンを大切にしている気持ちは、忘れないでほしいの。私とルイフォンは『ふたりきり』じゃない。『皆に囲まれた、ふたり』だから」
透き通った声が、じわりと胸にしみる。
「……ああ」
たったひとりで、この先を歩んでいくつもりだった。
けれど――。
彼は、メイシアの黒絹の髪に指先を絡め、くしゃりと撫でる。
「ともかく、今はリュイセンを助けないとな。――先のことは、それからだ」
ルイフォンを逃がすために大怪我を負った兄貴分。傷はどんな具合いだろうか……。
菖蒲の館の方角を見やり、彼は唇を噛みしめる。
――まずは、リュイセンの救出だ。
研究室に運び込んだときには土気色だったリュイセンの肌が、ようやく赤みを帯びてきた。〈蝿〉は安堵に胸を撫で下ろす。
時計を見れば、既に真夜中も近かった。
もっとも、地下には昼も夜もない。しかし、時間の経過と疲労の具合いとの相関関係に、彼は納得した。
『ミンウェイ』も、無事に連れ帰ってきている。いつも通りの心安らぐ光景に、〈蝿〉はわずかに口元を緩め、体を投げ出すようにして椅子に身を預けた。
『藤咲ハオリュウを、『ライシェン』と対面させるために、この館に招く』
摂政がそう言い出したとき、嫌な予感がした。そんなことをすれば、あの子供当主の口から鷹刀一族へと、〈蝿〉の潜伏場所が伝わるのが明白だったからだ。
だが、所在を知られたところで、近衛隊の守る庭園ならば安全だと、高をくくった。摂政の要望を断るほうが、のちのち面倒だと思ったのだ。
「……っ」
〈蝿〉は舌打ちをする。
鷹刀一族が関わるのは、あくまでも会食の『あと』のはずだった。まさか、この機に乗じて、紛れ込んでくるとは思わなかった。今のところ、ルイフォンとリュイセンのふたりとしか接触していないが、他にもいるかもしれない。警戒は怠れない。
門を抜けられ、内部に入り込まれてしまえば、防衛の手段は限られている。金で雇った私兵など、たいして役に立たないだろう。そもそも、彼らの主な役割は情報収集。館に籠もった〈蝿〉の目となり、耳となるための者たちだ。頼みの綱は、タオロンのみだ。
リュイセンの身柄がこちらにある以上、ルイフォンは必ず現れる。だから、タオロンを研究室の扉の前に待機させた。
現在、私兵を総動員して館中をしらみつぶしに探させているが、いまだ、ルイフォンは見つかっていない……。
……そう――『現在』である。
摂政が帰るまでは、〈蝿〉は大掛かりなルイフォンの捜索を控えた。そのために、遅れを取った感が否めない。
『摂政に対して、どのような態度を取るべきか』
〈蝿〉が頭を抱えているのは、この点だった。
ルイフォンとリュイセンという賊の立ち入りを許したのは、明らかに摂政のミスだ。大掛かりな会食など開くから、人の出入りが繁雑になり、侵入者を見逃した。
すべては摂政のせいだ。
なのに、のうのうと飲み食いした挙げ句、帰り際に『摂政殿下をお見送りするように』などと、使いの者を寄越してきた。まったく厚顔無恥も甚だしい。
だから、取り込み中であると言い捨ててやった。実際、リュイセンだけでなく、〈蝿〉だって重傷だった。摂政が機嫌を損ねようが、知ったことではない。
だいたい〈蝿〉は、摂政の部下ではないのだ。〈蝿〉が『ライシェン』を提供する代わりに、摂政は資金と安全を保証する。対等な間柄だ。それにも関わらず、身が危険に晒された。これは立派に約束を違えている。
それを指摘して近衛隊という武力を差し出させ、〈蝿〉の護衛とルイフォンの捜索に充てる。そんな取り引きも考えてみたのだが……。
ぎりぎりという歯噛みが、〈蝿〉の口から漏れる。
侵入した賊が鷹刀一族ではなく、〈蝿〉のせいで大損害を受けたと恨んでいる斑目一族の者だったなら、〈蝿〉は迷わず摂政を責め立て、近衛隊を出動させた。
しかし、ルイフォンとリュイセンは、『鷹刀セレイエ』の弟だ。〈蝿〉も、摂政も、必死に行方を探している『鷹刀セレイエ』に、深く繋がる者たちだ。
『鷹刀セレイエ』への足掛かりを手に入れたと摂政に明かすのは、やはり愚策でしかないだろう。
〈蝿〉は大きな溜め息を落とし、そう結論づけた。
何故なら、『ライシェン』がほぼ完成した今、これからの摂政との駆け引きが重要だからだ。
一歩、間違えれば〈蝿〉は不要の者として始末される危険がある。自分だけが知っている情報は、ひとつでも多いほうがよい。いざというときの切り札になる……。
〈蝿〉にとっての不穏な夜は、こうして静かに更けていった。
4.菖蒲の館に挑む方策-1
リュイセンが〈蝿〉に囚われた日から一週間――。
その間、鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオが出した指示は『待て』であった。
実は、あの日の翌朝には、〈蝿〉の私兵と思しき男たちが、屋敷の周りをうろついていた。ルイフォンの読み通り、彼が〈蝿〉の潜伏場所である庭園から脱出したのか否か、確認しに来たのだろう。
早速、捕まえて、リュイセンの容態を吐かせようと息巻くルイフォンに、イーレオは待ったを掛けた。
「何故、止めるんだよ、糞親父!?」
「まだ早い。お前こそ、あいつらに見つからないように、建物の中で頭を引っ込めていろ」
いつも通りに執務室で頬杖を付きながら、イーレオは涼やかにそう言った。
「早い、ってなんだよ? リュイセンが心配じゃねぇのか!?」
「ああ。俺は別に心配していない」
「はぁ?」
あまりに泰然と構える父の様子に、ルイフォンは批判を込めた尻上がりの声を出す。
「まぁ、落ち着け。リュイセンの怪我はかなり酷かったようだが、天才医師ヘイシャオの亡霊が全力で治療にあたっている。ならば、他の誰に預けるよりも確実だ」
「な……」
「この世で一番、高度な診療を無料で受けられるんだ。しばらく放っておくのが得策だろう? 万一、リュイセンが死ぬようなことがあれば、それなら、どこにいても助からない。何をしても無駄ということだ」
「なんだよ、それ……」
敵対している〈蝿〉に、絶対の信頼をおいているようで、どうにも奇妙な感じがする。
猫目をすがめたルイフォンの不満顔に、イーレオはふっと顔をほころばせた。
「お前が手に入れた録画記録があるから、安心できるのさ。〈蝿〉の奴が、血相を変えて助けているところを、はっきりと見たわけだからな」
「……っ」
「だったら、欲しい情報は、現在のリュイセンの容態じゃない。リュイセンが回復したあと、〈蝿〉がどう行動するつもりなのか、だ。奴が実際に動き出す前に、先回りして対処できるのが望ましい。――そんなわけで、奴の私兵どもは、しばらく泳がせておけ。お前の姿が確認できるまでは、奴らは何度でも来るだろうからな」
こんな調子で、ルイフォンは庭に出ることすら禁じられていた。
そして、今日になってやっと、イーレオから〈蝿〉の私兵捕縛の許可が降りた。もっとも、非戦闘員であるルイフォンは、相変わらず屋敷に身を潜めたままで、腕っぷしの強い精鋭の凶賊たちが遂行にあたったのだが。
捕らえられた〈蝿〉の私兵は三人。
冷酷との評判の高い次期総帥エルファンと、その部下たちが、すぐに聴取という名の尋問に入った。これが午前の出来ごとであり、午後にはその顛末の報告のため、執務室に集まることになっていた。
ルイフォンは、仕事部屋でリュイセン救出のための策をあれこれ練っていた。しかし、名案が浮かばずに頭を掻きむしっていると、もうすぐ時間だとメイシアが迎えに来た。
「ルイフォン、大丈夫?」
「……ああ」
眉を曇らせ、顔を覗き込んでくるメイシアに、彼は曖昧に答える。彼女にはいつも笑っていてもらいたいのだが、なかなかそうもいかない。
苦し紛れ、というわけでもないが、彼女の髪をなんとなく、くしゃりとする。すると彼女は目を細め、ふわりと花のように微笑んだ。
心臓が、どきりとする。
今更のはずなのに、愛しさがこみ上げてくる。それでいて、ほっとするのだ。
〈蝿〉の呪いの言葉を打ち破った、あの一件以来、また少し、メイシアに対する気持ちが変わった気がする。
背中を預けられる相手――そう思う。
執務室までの廊下の途中で、後ろから「よう」と声を掛けられた。どことなく癖のある感じは、声質にも特徴があるが、口調も独特なのだろう。
「あ、緋扇さん」
メイシアが、ぱっと振り返り、にこやかな笑顔を浮かべる。
この前の『貴族の介助者』として変装が、よほど性に合わなかったのだろうか。いつも以上に、見事なぼさぼさ頭の緋扇シュアンがそこにいた。
彼も午後の集まりに呼ばれている――というよりも、ハオリュウからの使いとしてシュアンが報告に来るのに合わせ、こちらも情報交換といこうかと、〈蝿〉の私兵を捕縛したのだ。
以前、ハオリュウと共に、彼が鷹刀一族の屋敷を訪れたときには、夜を狙って密かに行動した。だが、シュアンひとりなら、その必要はない。警察隊の制服さえ脱いでしまえば、昼間から凶賊の屋敷を出入りしても、まったく違和感のない立派な凶相をしているからだ。
中肉中背の体躯は、大柄の者が多い凶賊と比較すれば、確かに見劣りする。しかし、目つきの悪い三白眼がそれを補って余りある。むしろ本物の凶賊よりも、よほど凶賊らしい風体といえた。
「いつも異母弟のハオリュウが、お世話になっております」
メイシアが、シュアンに深々と頭を下げる。
「いや。俺があいつにつきまとっているだけですよ」
シュアンも会釈を返し、それから上体を戻せば、ぼさぼさ頭がふわふわと軽やかに跳ねた。
――ああ、今日は制帽がないから、あの頭を抑えるものがないのか。
ルイフォンは、ふと思い、それはなかなか失礼な感想だったと反省する。
シュアンは、何かと風当たりの強い立場にある義弟を支えてくれている恩人だ。いったい、どういう心づもりなのか、いまだによく理解できない上に、本業である警察隊の仕事はどうしているのかも気になるが、ともかく味方である。
兄貴分のリュイセンが恋敵として敵視しており、シュアン本人もミンウェイを特別視している感はあるものの、いまいち不透明。ルイフォンからすると、どんな態度を取るべきか……なんとも微妙な相手である。
「元気そうだな」
唐突に、シュアンの目玉がぎょろりと動き、ルイフォンを捕らえた。
三白眼の片方をにやりと歪めた顔は、一瞬、睨みつけられたのかと思ったが、そうではないらしい。笑ったのだ……おそらく。
そしてシュアンは、ルイフォンが何かを発するよりも前に、「先に行っているぞ」と片手を上げて彼を追い越した。何度も通った鷹刀一族の屋敷だ。勝手知ったるとばかりに、執務室までの道を迷うことはない。
ルイフォンは、はっとした。
「シュアン!」
叫んだところで、足を止めるような奴ではない。それでも構わず、ルイフォンは声を上げる。
「この前は助かった。感謝している。――ハオリュウにも伝えてくれ。『お前の言葉が俺を支えた』と」
シュアンは背中を向けたまま、上げた手をひらひらと揺らしながら去っていった。
「ルイフォン?」
隣では不思議そうにメイシアが見上げている。
「ああ……。あの館から脱出したときに、ハオリュウとシュアンには世話になったからな」
「あっ、そうだったのよね」
メイシアはすんなり納得したが、本当は少し意味合いが違う。
確かに、脱出の手段として勝手に車に乗せてもらったが、それだけではなくて、そのあとの彼らの言動に助けられたのだ。
そして今日も――。
本当は、ハオリュウの報告など、電話連絡で事足りる程度のものなのだろう。重大な内容なら、緊急で知らせに来るはずだ。
つまり、シュアンは、ルイフォンの様子を見に来たのだ。
「……参ったな」
自分の未熟さを見せつけられた気がする。
シュアンの後ろ姿に向かって呟くと、メイシアが「どうしたの?」と尋ねる。
「ああ、いや。俺も、しっかり周りを支えられるような人間にならねぇと、ただ自信過剰なだけの恥ずかしい野郎だなぁ、と思ってな」
「えっ!? あ、あのね……、私は、ルイフォンにいつも支えられている……から」
「あ……」
大真面目な顔で言ってくれるメイシアの可愛らしさに、不意を衝かれる。
ルイフォンは、彼らしくもなく照れたように顔を赤らめ、彼女の頭を優しく、くしゃりと撫でた。
執務室に入ると、事務的ではあるものの、心地の良い美声が聞こえてきた。
「はい、分かりました」
総帥の補佐を務めるミンウェイが、携帯端末に向かって話をしている。入ってきたルイフォンとメイシアに気づくと、彼女は身振りで奥へと促した。
波打つ黒髪が緩やかに広がり、柔らかな草の香がふわりと漂う。
だが、常ならば彼女が身にまとっているはずの華やかさが、まるで失われていた。美しく紅を載せられた唇などは、かえって彼女の顔色の悪さを引き立たせている。
この一週間、ミンウェイは、まともに食事を摂れていない。
心配した料理長が、少しでもと、消化の良さそうなものを勧めるのだが、ほんの数匙、口をつけるのが精いっぱいだという。彼女自身も医者らしく「食べないといけないのは分かっているんだけどね」と力なく笑うのだが、体が受け付けないらしい。
「それでは先に進めています」
ミンウェイは携帯端末に向かってそう告げ、通話を切った。
「なんと言っていた?」
ひとり掛けのソファーでくつろいでいたイーレオが、すかさず彼女に尋ねる。
ミンウェイは「ええ」と相槌を打ち、あとから来たルイフォンたちにも分かるように「エルファン伯父様からの連絡だったのだけど――」と前置きをした。
「捕らえた〈蝿〉の私兵から情報を聞き出すのに、もう少し時間が掛かるそうです。だから、先に会議を始めてほしいとのことでした」
エルファン以外の者たちは、既にそろっていた。
総帥イーレオに、ミンウェイ、護衛のチャオラウ。そして、ルイフォンとメイシアに、わざわざ足を運んでくれたシュアンだ。
いつもなら、頭を使うのは苦手だと、会議と聞けば不機嫌な顔をするくせに、いざ議論となると唾を飛ばして激しく意見するリュイセンが、ここにはいない。その事実に、ルイフォンは、ぐっと拳を握りしめる。
陰りのある空気を薙ぎ払うように、イーレオの低音が響いた。
「では、シュアンから頼む」
物々しい挨拶は省略である。水を向けられたシュアンが、おもむろに口を開く。
「俺の報告は、ハオリュウからの伝言だ」
彼は手帳を開くわけでなく、しかし、ハオリュウの言葉を諳んじているかのようで、よどみなく話し始めた。
『私に関することで、鷹刀の方々が一番、気になさっておられるのは、リュイセンさんが囚われたことにより、手引きした私にカイウォル摂政殿下からのお咎めがないか、という点だと思います。
これに対しては『ない』と、はっきりお答え申し上げます。
あの日以降、私が直接、殿下とお会いする機会はまだございませんが、殿下の側近の方から『藤咲家のご当主のことを、殿下がご不快に思われているご様子はない』とのお言葉をいただいております。ご安心ください。
〈蝿〉と殿下はあまり仲が良いようには見えませんでしたから、〈蝿〉は、リュイセンさんのことを殿下に報告していないと思われます』
「――と、いうことだ。とりあえず、ハオリュウのことは心配しなくていい」
シュアンがそう締めくくると、執務室の空気がほっと緩んだ。顕著なのはミンウェイで、あからさまな安堵の息を吐きつつ、胸元を押さえている。
「ちょっと、質問させてくれ」
ルイフォンが手を挙げる。イーレオは目線でシュアンに断りを入れてから、「言ってみろ」と許可を出した。
「なんで摂政の側近が、ハオリュウに摂政の様子を教えてくれるんだ?」
途中から気になっていたのだが、話の腰を折るのは礼儀知らずだと、我慢していたのだ。
「ああ、それな」
シュアンが、にやりと嬉しそうに三白眼を歪める。どうやら、誰かが突っ込んでくれることを期待していたらしい。
「ハオリュウの奴、あいつは本当に恐ろしい。素晴らしく、抜け目がない」
少々、演技掛かった調子で肩をすくめながら両手を返し、シュアンは口角を上げる。
「会食のあと、ハオリュウは、摂政とは館の中で別れたが、さっきの話に出てきた側近を含め、使用人たちは館の外まで見送りに来たのさ。そのときに『私のような若輩者が粗相をしたのでは……』だの、『車椅子の私は、皆様にさぞ御迷惑を……』なんぞと言いながら、チップを配りまくった」
「はぁ」
そうやって、つてを作ったのか。
納得しかけたルイフォンに、シュアンは更に続ける。
「普通の貴族だったら、気前のいいところを見せようとしただけだと思われるだろう。だが、ハオリュウは謙遜ではなく、事実として子供だ。あの歳の子供を『当主』と仰ぐなんて馬鹿らしい、としか言いようがないほどにな」
そこでシュアンは、実に愉快そうに目を細めた。
「そんな子供が、摂政の姿が見えなくなった途端に、それまでのかしこまった態度を一変させて『僕は、上手く振る舞えたでしょうか』と言わんばかりの気弱な顔を見せたんだ」
「……へ? ハオリュウが、気弱?」
ルイフォンの口から、思わず疑問がこぼれる。
「あいつの、ごく平凡で、どう見ても無害。むしろ頼りなげに見える善人面は、恐ろしい武器だ。あんな顔の子供に不安を吐露されれば、まともな人間なら力になりたくなるだろう。もともと、平民の使用人たちは、母親が平民のハオリュウを贔屓目に見ていたようだしな」
「ああ……」
そうだった。ハオリュウは庶民に人気がある。容姿も出自も親しみやすく、身近に感じられるからだろう。そして本人も、それを充分に自覚しているというわけだ。
「あの会食のあと、ハオリュウは摂政に礼状を書くと同時に、側近にも手紙を書いた。世話になった礼が主だが、その中に摂政の機嫌を心配する一文を混ぜただけで返事が来た、というカラクリさ」
「なるほど」
側近にしてみれば、主人の機嫌が良いか悪いかを伝えただけだ。別に機密を漏らしたわけではない。きっと、なんのためらいもなかっただろう。
そして、ハオリュウが使用人たちにチップを配りつつ愛想を振りまいたのは、リュイセンが捕まったと知るよりも前だ。
つまり、リュイセンの件とは関係なく、この先、否が応でも付き合い続けなければならない摂政への対抗手段として、相手の周りに自分の目や耳を作ることを、ハオリュウは企んでいたのだ。
「恐ろしいな、あいつ……」
無意識のうちに、ルイフォンも、シュアンと同じ言葉を口走っていた。
「……それから、ハオリュウからの申し出がある」
シュアンの声が一段、下がった。
気乗りしない。できれば言いたくない。そんなシュアンの心情が明らかで、ルイフォンは不審に眉を寄せる。
「リュイセン救出のために、鷹刀が再び、あの庭園に侵入する方法を模索しているなら、自分が摂政に掛け合うと、ハオリュウは言っている」
「え?」
「会食のときと同じように、車に隠れて侵入すればいい。ただ、今回は〈蝿〉が警戒しているはずだから、門でのチェックは厳しくなるだろう。その点が弱い案だが、試してみる価値は充分にあるはずだ――そう言付かった」
「……」
ルイフォンは押し黙った。申し出はありがたいが、確かに前回とは状況が違う。門で見つかれば、今度こそハオリュウも罪に問われるだろう。
しかし、現状では他に手段がないかもしれない。捕まえた〈蝿〉の私兵から、何か良い情報が得られれば、また別だが……。
「おい、シュアン」
唐突に、魅惑の低音が響いた。
今まで黙って状況を見守っていたイーレオが、肘掛けで頬杖を付いたまま、鋭い眼光を放っていた。
「ハオリュウは、どうやって摂政と掛け合うと言っていた?」
その質問がなされた瞬間、シュアンは一瞬だけ安堵の表情を見せ、それからにやりと嗤った。
「やはり、イーレオさんは気づかれましたか。ご想像の通りですよ。ハオリュウには口止めされているんですが、鷹刀側が察してしまったなら仕方ありませんねぇ」
両手を打ち合わせながら、シュアンの三白眼がイーレオを牽制する。
『おそらく正解だと思うが、たとえ『ご想像』と違っても、そういうことにしておいてくれ』――そう、訴えていた。
「ええ。ハオリュウは女王の婚約者の件を引き受け、それを口実に『もう一度、『ライシェン』を見てみたい』と言って、あの庭園の門を開かせるつもりですよ」
「だ、駄目だろ! そんなの!」
弾かれたように、ルイフォンはソファーから立ち上がった。
「そんな……、あいつを犠牲にするような、そんな真似、できるわけねぇだろ!」
握りしめた拳が震える。これは間違いなく、怒りの感情だ。
女王の婚約者の件については、政治的なことだから、ハオリュウ自身が判断すべきだと考えていた。だが、いざ返事を聞くと、『違う』と心が訴えた。
ハオリュウは、女王の夫の座など望んでいないはずだ。
ハオリュウを政略に巻き込もうとする摂政に腹が立つ。それを受け入れるハオリュウにも頭にくる。そして、ハオリュウにそんなことを言わてしまった自分こそが許せない……!
「ルイフォン……」
隣に座っていたメイシアが、小さく呟いた。彼を気遣いながらも、やんわりと咎める視線だった。
そうだ。ここで感情をむき出しにしても、何も解決しない。
ルイフォンは、自然な動作で周りに一礼する。そして彼が着席すると、代わるようにメイシアが口を開いた。
「私も、それは『駄目』だと思います。……けれど、ハオリュウの考え方も分かります」
彼女らしからぬ、険しい声だった。
「摂政殿下と正面から対抗できるだけの力がないのなら、婚約者の件は引き受けざるを得ない。ならば、できるだけ有効に活用しよう――あの子なら、そう考えます」
「ほう。さすが、ハオリュウの姉さんだ。あいつが言ったことを、そっくりそのまま言ってくれた」
シュアンが、感心したように息をつく。
「ハオリュウの奴は頭が切れるが、まだ子供だ。自分が暴走していることに気づいていない。――だから、あいつのためにも、リュイセン救出の妙案が浮かぶとありがたいんですがね?」
三白眼が、ぎょろりと一同を見渡す。軽い調子だが、ハオリュウを心配するシュアンの本心が透けて見えた。
――そのとき。
〈蝿〉の私兵の『聴取』を行っていたエルファンが、執務室に入ってきた。
4.菖蒲の館に挑む方策-2
執務室に、颯爽とした影がよぎった。
総帥イーレオの長子にして次期総帥、エルファン。〈蝿〉によって現在、囚われの身となっているリュイセンの父親でもある。
エルファンは大股に、けれど音もなく部屋の中央まで歩み出て、「遅くなりました」と優雅に長身を折り曲げた。今まで、捕まえた〈蝿〉の私兵たちの『聴取』が長引いていたのである。
彼の眉間には深い皺が寄っていた。日頃から氷の美貌と謳われてはいるものの、いつもにも増して近寄りがたい雰囲気である。
これからもたらされるのは、どう考えても良い報告ではないだろう。
ハオリュウが、リスクを負ってでもリュイセン救出の突破口を開くと申し出ている中、私兵たちから有益な情報を得られれば、別の妙案が浮かぶのではないかと、執務室の面々は期待していた。それだけに皆、落胆の色を隠すことはできなかった。
「ご苦労だったな」
イーレオは、ほんの少しだけ姿勢を正し、エルファンを労った。
「早速ですまんが、状況を説明してくれ」
総帥の言葉に、エルファンは深く一礼をする。
「ご存知の通り、捕まえた者は三名おりました。それぞれ別室にて話を聞いたのですが、言い分が三者三様で、どれが正しいのか判断いたしかねる、という状態です」
「ふむ。そういうことか」
「はい。ある者は、リュイセンは館の一室に監禁されていると言い、ある者は、賓客扱いで館の中を自由に歩き回っていると言いました。そして、最後のひとりは――リュイセンは死んだと」
「……なっ!?」
ルイフォンは思わず腰を浮かせた。
だが、彼が何かを口走るよりも先に、イーレオが冷静に切り返す。
「最後のは、あり得んな」
「ええ」
エルファンもまた、静かに相槌を打つ。
「どっ……、どうして、そう言い切れるんだよ!?」
「そりゃ、あり得ないからさ」
ルイフォンの叫びに、イーレオは面倒臭そうに答える。説明は、それで終わりらしい。視線をエルファンへと戻す。
「だが、明らかな嘘をついた最後の奴が、一番、詳しいことを知っていそうだな」
「そのような気もいたしますが、そもそも全員が、〈蝿〉から、なんらかの指示を受けており、我々を撹乱しようとしているのかもしれません」
ふたりだけで会話を続けるイーレオとエルファンに、ルイフォンは「おい!」と声を荒げる。
「どうして、リュイセンが無事だと確信できるんだ!?」
唾を飛ばすルイフォンに、イーレオは細身の眼鏡の奥から、冷ややかな眼差しを向けた。
「お前こそ、嘘の情報に踊らされてどうする? お前の持ってきた録画記録が、リュイセンの無事を証明しただろう? ――リュイセンは致命傷を負っておらず、天才医師〈蝿〉が全力で治療にあたった」
「――けどっ!」
「つまらない罠に掛かるな、『〈猫〉』」
「!」
低く、揺るぎない、王者の一声。その言葉に打たれたかのように、ルイフォンの猫背が伸びる。
「……そうでした。失礼しました、『総帥』」
口調を改め、頭を垂れた。
イーレオの言う通りだった。
〈蝿〉は、心の隙につけ込むのが上手い。触れてほしくない、嫌なところに踏み込んでは、そっと耳元で囁く。まさに、『悪魔』なのだ。
ルイフォンが引き下がったのを確認すると、エルファンが口を開いた。
「現状は、何も情報を得られなかったも同然です。しかし、もう少しお時間をいただいたところで、おそらく好転することはないでしょう。――申し訳ございません」
「いや、お前の落ち度ではない。……だが、その様子だと、私兵どもを内通者に仕立てるのは、諦めたほうがよさそうだな。思ったよりも〈蝿〉への忠誠心が篤そうだ」
捕まえた私兵たちに、どのような処遇を与えるか。――これについては、あらかじめ相談してあった。
『リュイセンと〈蝿〉に関する情報を吐かせつつ、味方につける。手段は金でも、それ以外でも、なんでもよい』
そのため、私兵たちには適度な恐怖心を与えつつも、こちらに対する反抗心を抱かせぬよう、『飴と鞭を巧みに使い分けよ』との指示が、エルファンには出されていた。
しかし、あてが外れてしまった。
リュイセンを救出し、〈蝿〉を捕獲する。
この命題の解決への糸口が、まるで見えてこない。皆が焦燥を顔に浮かべ、執務室に沈黙が訪れる……。
ルイフォンもまた、顎に手を当て、眉を寄せた。
ハオリュウの申し出を受けるのは却下だ。彼を犠牲にするくらいなら、むしろ〈蝿〉が何かを仕掛けてくるのを待ったほうがいい。リュイセンを手に入れた〈蝿〉は、必ず動くはずなのだから。
そんなことを考えていると、不意に隣でメイシアが動いた。
「すみません。よろしいでしょうか」
細く――、しかし凛とした鈴の音の声が響く。彼女の目はまっすぐにイーレオに向けられていた。
「いいぞ。言ってみろ」
「〈蝿〉がリュイセンを囚え、篤く手当てをしたのは、彼を人質として利用するため――ですよね」
メイシアがそう言って、確認を取るように瞳を巡らすと、皆は促されるように首肯した。
「では、〈蝿〉は人質と引き換えに、私たちに何を要求するのか。――それは、私の身柄ではないでしょうか」
「!」
ルイフォンが鋭く息を呑む。
録画された記録では、〈蝿〉は、逃げたルイフォンをおびき出すために、リュイセンを人質にすると言っていた。
けれど、〈蝿〉が本当に欲しいのは、ルイフォンではない。メイシアだ。以前、タオロンを使って彼女をさらおうとしたのが、その証拠だ。
「それが分かっているのなら、私は自分から〈蝿〉のもとへ出向き、代わりにリュイセンを解放することを要求したいと思います」
その発言を聞いたとき、彼女が何を言ったのか、ルイフォンには理解できなかった。
故に、ほんの刹那とはいえ、反応が遅れた。即応できなかったことが悔しく、不甲斐なく。だから彼は、必要以上の大声で叫ぶ。
「ばっ、馬鹿を言うなっ! お前とリュイセンで、人質の交換のつもりかよ!?」
腹の底からの憤りを、しかし、メイシアは当然、読んでいたのだろう。彼の言葉を待っていたかのように、「ただし!」と、叩きつけてきた。
「ルイフォンも私と一緒に行く、という条件をつけます」
「え……?」
意味が分からず、ルイフォンは戸惑う。
「正確には、私たちは『鷹刀からの使者』ということにします」
「ほう? 『鷹刀からの使者』とな。どういう意味だ?」
イーレオの低音が興味深げに問い、他の者たちのざわめきが、あとに続いた。
メイシアは、どう説明すればよいかと、わずかに思案し、やがて「まず――」と切り出す。
「〈蝿〉が私の身柄を欲しがるのは、『デヴァイン・シンフォニア計画』のためで間違いありません。けれど、それは『計画を成功させるため』ではない気がします。彼は自分を作ったホンシュアを恨み、姿も見せずに自分を『駒』扱いするセレイエさんに憤っている。成功よりも、むしろ失敗を願っているようにすら感じられます」
「……確かに、そんな感じだ」
ルイフォンが相槌を打つと、メイシアの頬が緩む。
「このことから、〈蝿〉が私の身柄を求めるのは、『デヴァイン・シンフォニア計画』で重要な役割があるらしい『私』を押さえることで、セレイエさんに対して主導権を握るため――と考えられます」
メイシアは、同意を求めるように周りを見渡す。皆が思い思いに頷き、あるいは納得の表情を返すと、彼女は安堵の息を漏らした。
「一方、鷹刀は――というよりも、私とルイフォンは、わけも分からないままに『デヴァイン・シンフォニア計画』に翻弄されたくない。この状態を終わりにしたいと思っています。どちらかといえば、『デヴァイン・シンフォニア計画』には批判的な立場です」
ちらりと、こちらを振り返ったメイシアに、ルイフォンは大きく頷く。
この前、ふたりで話したことだ。鷹刀一族の屋敷を出るという話は、結局うやむやだが、『デヴァイン・シンフォニア計画』に終止符を打ってやると誓った。
「つまり、〈蝿〉と私たちは、一見したところ利害が一致しています」
ここでメイシアは言葉を切った。そして、一段と声を高める。
「そこで、彼に『和解』を持ちかけます」
「な……っ、何、言ってんだよ!?」
ルイフォンが、血相を変えて叫んだ。それは周りの者も同様で、あちこちから短い吐息が発せられる。
けれどメイシアは、構わずに続けた。
「〈蝿〉が『鍵』と呼んだ私を使者として遣わし、彼の領域である庭園に足を運ぶことが、鷹刀の誠意だと伝えます」
「〈蝿〉が応じるわけないだろ! お前が捕まり、一緒に行った俺が殺され、それで終わりだ!」
彼女の弁が信じられない。
「それに、お前だって……!」
彼は、ほんの少しだけ逡巡した。けれど、あえて禁忌に触れる。
「〈蝿〉は、お前の父親を――あの優しい親父さんを殺したも同然の相手だ! そんな奴を、お前は許せるのかよ!?」
その瞬間、メイシアの美しい顔が悲痛に歪んだ。
「許すことはできません!」
絹を裂くような、悲痛の声だった。
「だったら、なんで!?」
「だから、これは罠です。彼が私たちを信用し、いずれ鷹刀の屋敷まで来たときに、彼を捕らえます」
「あの〈蝿〉が、俺たちを信用するかよ!?」
「真っ赤な嘘で、〈蝿〉を騙します。……本当に、卑怯で、卑劣な方法ですが、〈蝿〉の心を利用します」
「奴を騙せるような嘘……? そんなものが……」
〈蝿〉こそが、他人の心を巧みに操る悪魔なのだ。奴を騙すことなど不可能に近い。
メイシア以外の者が同じことを言ったなら、ルイフォンは一笑に付しただろう。そのくらいあり得ない。彼女だからこそ、かろうじて半信半疑で問い返した。
「ルイフォンが〈蝿〉と対峙したときの様子を聞くと、〈蝿〉は心の底ではイーレオ様を慕っているのが分かります。彼は、ホンシュアに騙されてイーレオ様に刃を向けたことを悔いています。そこにつけ込みます」
彼女は小さく息を吸い、意を決したように吐き出す。
「『鷹刀からの使者』を名乗った私とルイフォンが、イーレオ様の名代として『鷹刀の名誉にかけて、水に流すと誓う』と〈蝿〉に伝えます」
場が色めきだった。
わずかながらも殺気すら感じられる皆の反応に、メイシアは表情を固くして……けれど、射抜くような視線をイーレオに向けた。
「私は鷹刀で暮らし始めて、まだほんの数ヶ月ですが、凶賊の方々の心の在り方が少し分かるようになりました。……この言葉は、重い。絶対のもの――ですよね」
「ああ、そうだ」
天を轟かせるようなような王者の声で、イーレオが肯定する。
その圧に怯むことなく、メイシアは受けて立つ。
「鷹刀ヘイシャオとして育った記憶を持つ〈蝿〉なら、この言葉に心が動くと思います。信じると思います。彼が今、何よりも欲しい言葉ではないかと思います」
皆が絶句した。
「鷹刀の皆様、申し訳ございません。皆様の大切な心を踏みにじる行為だと分かっております。――けれど、『鷹刀』ではない私とルイフォンなら、この言葉を虚言として使うことができます……」
黒曜石の瞳が、凛とした輝きを放つ。
大華王国一の凶賊、鷹刀一族の総帥イーレオを、正面から捕らえる。
「私たちなら、この言葉で〈蝿〉を騙せます」
美しい声で、非情な言を告げる。
嫋やかな印象とは裏腹に、恐ろしく芯が強い。
だからこそ、彼女は……。
――戦乙女。
4.菖蒲の館に挑む方策-3
『『鷹刀からの使者』を名乗った私とルイフォンが、イーレオ様の名代として『鷹刀の名誉にかけて、水に流すと誓う』と〈蝿〉に伝えます』
『私たちなら、この言葉で〈蝿〉を騙せます』
凛と澄んだ響きが、脳裏を駆け巡る。
「メイシア……」
ルイフォンは声を失い、ただただ彼女を見つめていた。
「皆様の名誉を傷つけるような、こんな方法を提案して申し訳ございません」
彼女が深く頭を下げると、黒絹の髪がさらさらと流れた。
「けれど、今回は、堂々と乗り込むしかないと思うのです。監視カメラが使えない以上、不意打ちはできず、〈蝿〉に見つかった瞬間に、リュイセンやタオロンさんのお嬢さんの命を盾に取られて降伏する羽目になるからです」
「……っ」
ルイフォンは、はっとした。彼としては当然のように、前回同様、密かに忍び込むつもりだったのだ。
誰からともなく、溜め息が漏れる。それを遮るように、メイシアが「緋扇さん」と呼びかけた。
「なんだ?」
名指しされたシュアンは、不審げに眉を寄せた。
「すみませんが、異母弟に伝えてください。摂政殿下には、こうお答えするように、と。――『婚約者の件は大変な名誉ですが、父の喪が明けるまでは晴れがましいお話はお待ちください。陛下に穢れが及んでしまいます』」
「別に構わんが……、だが、それじゃ……」
「ただの時間稼ぎにすぎないのは分かっています。けど、私はこれ以上、あの子の自由が奪われるのを良しとしません。解決手段は、近いうちに必ず考えます」
喰いいるようなメイシアの視線に、シュアンが凶相を歪める。決してそうは見えないが、笑ったらしい。
「『大切な姉さんが、泣きながら訴えていた』と言えば、いくら、あいつでも聞くかもしれんな」
シュアンが軽口で背中を押してくれたのだと気づき、メイシアは一瞬、驚いたように瞳を瞬かせた。だがすぐに、綺麗に微笑む。
「ええ、それで構いません。よろしくお願いいたします」
そんな彼女の横顔を、ルイフォンはじっと見つめていた。
さすが自分の惚れ込んだ女だと、誇りに思う。
だが同時に、彼は気づいてしまった。彼女の瞳の奥では、不安と脅えが揺れていた。
ルイフォンの手が自然に伸びる。
くしゃり。
黒絹の髪を愛しげに撫でた。
「あっ……、あの、ルイフォン……。そのっ……、ごめんなさい、勝手に……」
急に、か細い声になり、メイシアは、はっと目元を押さえる。ルイフォンに触れられたことで、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだ。
彼は彼女を抱き寄せた。
皆のいる前でのことに、彼女は慌てて抵抗するが、彼は別に気にしない。強引に包み込めば、彼女の肩は小刻みに震えていた。
「ありがとな」
リュイセンのために。
ルイフォンとメイシアが共に在ることを認めてくれたハオリュウに、無茶をさせないために。
そして、ルイフォンとメイシアの『ふたり』のために。
彼女ひとりで行く、ではなくて『ふたり』で行くと言ってくれた――。
「危険だと思う。俺は反対だ。お前には、安全なところにいてほしい」
「……」
「でも、『〈猫〉と、そのパートナー』なら、ここは打って出るところなんだよな?」
メイシアの耳元で囁くと、彼女は涙の混じる声で、けれど、はっきりと「うん」と答えた。それを聞いてから、ルイフォンはイーレオを振り返った。
「俺は、メイシアの案を支持する」
しかしイーレオは、秀でた額に皺を寄せ、ゆっくりと首を横に振った。
「非常に参考になる意見だったが、残念ながら認められない」
「危険だからか?」
「そうだ。危険『すぎる』からだ。不確かな『〈蝿〉の心』ひとつに賭ける案だ。思った通りに奴が動かなければ、それで終わりだ。お前だって非戦闘員だが、メイシアは素人なんだぞ」
イーレオは渋面を作る。
そのとき、ルイフォンの腕の中で、メイシアが身じろぎした。そっと力を緩めると、強い意志を持った黒曜石の瞳が、無言で伝えてきた。
――自分たちは、鷹刀一族に守られる存在ではない。
ルイフォンは頷くと、メイシアと手を取り合って席を立った。ふたりは、ぴたりと寄り添い、イーレオと向き合う。
「親父。俺たちは、リュイセンを助けたい。そして、そのための策があるのなら、実行に移したい。メイシアのことは必ず守る。そんなの当然だ」
「気持ちは分かる。だが、そこまでだ」
イーレオの厳しい声は、ルイフォンとメイシアを思いやってのことだ。
それは分かっている。
だが、このままでは〈蝿〉に主導権を握られたまま、状況は悪化していくだけだ。ならば、多少の危険を犯してでも立ち向かうべきだ。
ルイフォンは意を決する。
狩るべき獲物を捉えた獣のように、その瞳を鋭く煌めかせた。
「『鷹刀の総帥』。俺たちは、鷹刀の『協力者』であって、『鷹刀』ではない。意見が合わないのなら、ここで決別することも可能だ。俺たちは鷹刀とは関係なく、リュイセンを助けに行く!」
「――!」
それは、よほど予想外の言葉だったのであろう。イーレオの瞳が大きく見開かれた。
対してルイフォンは、抜けるような青空の、覇気あふれる笑顔を広げる。
「勿論、できれば決別なんかしたくない。――俺たちは鷹刀が好きだから。だから、認めてほしい。俺たちを『協力者』として〈蝿〉のところに送り出してほしい」
そして、メイシアと共に、頭を垂れた。
「……っ」
イーレオが息を呑んだ。
それは、いつも泰然と構えている王者の、はっきりとした動揺だった。
「……ふたりとも顔を上げてくれ」
慈愛に満ちた、けれどわずかに寂寥を帯びた、魅惑の低音。
空を仰ぐように、イーレオは遠い虚空を見つめる。まるで祈りを捧げるかのように軽く目を閉じたのちに、彼は告げた。
「分かった。――いや、こちらから、〈猫〉にお願い申し上げる。どうか、この事態を解決に導いてくれ」
わっと、場が湧いた。
メイシアが脱力して、倒れそうになる。そんな彼女を、ルイフォンはソファーに戻りながら抱きとめた。
不意に「総帥」と、遠慮がちな美声と共に、ふわりと草の香が漂った。
「私に、やらせてほしいことがあります」
「なんだ? ミンウェイ」
「捕らえている〈蝿〉の私兵たちに、自白剤を使わせてください。彼らから正確な情報を得られれば、ルイフォンたちの安全が高まるはずです」
「!」
執務室に緊張が走った。皆の頭に等しく、彼女がこの前、自白剤を使ったときのことが蘇ったのだ。
巨漢のならず者と、シュアンの先輩だった警察隊員――。
〈蝿〉の〈影〉にされていた憐れな捕虜たちは、無残な死を迎えた。
ミンウェイは決して表には出さなかったが、その件が彼女の心を深く傷つけたことは間違いない。だから、それ以降、いつの間にか誰もが彼女を荒事から遠ざけるようになっていた。今回も、私兵たちにの『聴取』から、彼女は意図的に外されていた。
部屋の空気が凍りつく。
時が止まったかのような、息苦しい無音に侵されていく。
やがて皆の視線が、遠慮がちにイーレオへと集まっていく。
そのとき。
「ミンウェイに、頼めばいいじゃねぇか」
妙に甲高い、挑発的な声が響いた。
悲惨な結末を迎えた、あの捕虜の自白の際、ミンウェイと共に現場にいたシュアンだった。
「確かに、ミンウェイと自白剤の取り合わせには、碌なことがないかもしれねぇ。けどよ、本人がやるって言ってんだ。それを止める筋はねぇだろう?」
「緋扇さん……」
まさかの援軍にミンウェイが瞳を瞬かせる。
シュアンは鼻を鳴らし、イーレオに向かって、くっと顎を上げた。
「イーレオさんよぉ、ミンウェイは、あんたの大事な一族だ。だったら、少しは信頼してやったらどうなんだ? あんたが、いつまでも特別扱いをするから、ミンウェイは鷹刀に遠慮するんだ。――分かってんだろう?」
イーレオの頬が、ぴくりと動いた。
だが、先に口を開いたのは、次期総帥エルファンだった。
「緋扇」
怒気をはらんだ声が、短くシュアンの名だけを呼ぶ。
「おおっと。鷹刀内部のことに首を突っ込みすぎましたかね? それは、失礼」
おどけたように肩をすくめ、やり合うつもりはないと、シュアンは首を振る。
「けど、もしミンウェイが自白剤を使うというのなら、賛同した俺は、いつでも彼女に付き添いますよ? ――何か問題が起きたときには、俺が責任を持って相手を殺します。……この前のときのようにな」
軽い口調とは裏腹に、三白眼が昏い光を放つ。
シュアンは、敬愛する先輩を自らの手で射殺した。それを示し、いい加減な気持ちでけしかけているわけではないと牽制したのだ。
イーレオは、じっとシュアンを見つめ、それからゆっくりと視線を移す。ためらいがちに「ミンウェイ」と彼女の名を呼んだ。
「任せてもよいか?」
「はい。ありがとうございます」
ミンウェイの顔が緩やかに、ほころぶ。
リュイセンが囚えられてからというもの、彼女はずっと沈んでいた。だから、それは一週間ぶりの上向きの表情だった。
「ほう? では約束通り、俺が付き添おう」
すかさずシュアンが口を挟むと、ミンウェイは綺麗に紅の引かれた唇の端をすっと上げた。
「それには及びません。緋扇さんには、警察隊のお仕事があるのですから、お忙しいでしょう?」
血色は悪いままだが、表情が明るめば、雰囲気がまったく変わる。いつもの華やぎには、ほど遠いが、ミンウェイらしさがほのかに戻ってきた。
「相変わらず、つれないねぇ。――そのほうが、あんたらしいけどな」
シュアンは気を悪くしたふうでもなく、さらりと流す。そんな彼に、逆にミンウェイが少しだけ申し訳なさそうな顔になった。
「あの、緋扇さん」
「ん?」
「感謝しています。ありがとうございます」
「ああ、そりゃ、どうも」
「……」
そして、会議はお開きとなった。
ミンウェイによる〈蝿〉の私兵たちへの自白剤投与は、会議の直後に行われた。
現場には、もともと聴取担当だったエルファンに加え、結局、シュアンも立ち合った。『万一、死体が出たときには、警察隊員であるシュアンに処理を押し付ければいい』と、イーレオが推したためである。
結果が出たと、ルイフォンのところに連絡が来たのは晩のことである。
彼はそのとき、〈蝿〉のいる庭園に乗り込むための準備をしていた。明日にも出発できると、満足げにメイシアとひと息ついていたら、呼び出しが来たのだ。
ミンウェイの口からは、次のようなことが告げられた。
自白による情報は、三名の私兵で一致した。
まず、リュイセンは無事である。
それも驚くべき早さで回復し、現在では、ほぼ完治しているという。おそらく〈蝿〉が研究した技術が使われたのだろう。
ベッドから起き上がれないような状態のときは、監禁状態であった。しかし、動き回れるようになったあたりから、館の中での自由行動が許されるようになったという。
「何故だ?」
ルイフォンの問いかけに、ミンウェイは首を振る。私兵たちも理由を知らなかったらしい。
リュイセンに関して分かったのは、そのくらいだった。ただ、金で雇われただけの私兵にしては〈蝿〉に従順である理由は分かった。
彼らは〈蝿〉に薬物を投与されていたのだ。逆らえば、死に至る。実際、目の前で、ひとり死んだという。
「でも、彼らには、なんの中毒症状も見られませんでした。おそらく偽薬を打たれただけだと思います」
報告を聞いて、ルイフォンは吐き捨てる。
「また〈蝿〉の虚言か。死んだ奴は、タイミングよく毒を盛られていたんだろう」
「そう思うわ」
ミンウェイも、溜め息混じりに頷いた。
ともあれ、これ以上の情報は得られそうもないため、イーレオは私兵たちの解放を命じた。
〈蝿〉の言葉を信じて菖蒲の館に戻るもよし、こちらの見解を信じて自由の身になるもよし、と。
5.昏迷のさざめき-1
遮光カーテンの隙間から、初夏の朝陽が細く忍び込む。音もなく差し込む陽射しに、しかし、リュイセンの瞼は、すっと見開かれた。
武の達人である彼は、光と熱の気配を敏感に肌で感じとったのであろう。あるいは、そもそも朝が早い彼にとっては、単に起きる時間だった、というだけかもしれないが。
彼はベッドで半身を起こし、自分の体を確認した。〈蝿〉の地下研究室で目覚めて以来、それが習慣となっていた。
「……」
全身に散らばる、無数の切り傷。
そして、タオロンに斬られた背と、〈蝿〉に裂かれた胸から腹への、大きな太刀傷。内臓にまで達したであろう、それらの傷は、綺麗にふさがっていた。
三日前までは、起き上がることすらままならなかった。それが今は、時々ひきつるような痛みがあるものの、日常生活に支障はない。試しに昨日、室内でできる鍛錬をひと通りこなしてみたが、まったく問題はなかった。
あり得ない。
治りが早すぎる。
この傷を受けてから、まだ一週間。しかも、後遺症が残ったとしても、おかしくないほどの大怪我だった。
「これが〈七つの大罪〉の技術だというのか……」
武を頼みとする彼にとって、きちんと体が動くことは何よりもありがたいことのはずだ。なのに、現状が恐ろしい。
リュイセンは、溜め息をついた。
あのとき――。
〈蝿〉の最後の一撃は、即死をまぬがれる程度には避けられた。体術に持ち込み、奴の動きを封じるために必死だったのだ。――ルイフォンが無事に逃げられるように、と。
だが、そこまでが限界だった。自分の意識が薄れていくのを感じた。気を失えば、とどめを刺される。
死を覚悟した。
だから、〈蝿〉の研究室で目を開けたとき、生きていることが信じられなかった……。
リュイセンは再び溜め息をつき、一週間前のことを思い返した。
気づいたら、真っ白な天井が広がっていた。どうやらベッドに寝かされているらしい。
ここはどこだ? という、至極もっともな疑問が浮かぶ。
その直後、リュイセンは恐怖を覚えた。
見知らぬところにいる、ということは、すなわち何者かによって勝手に体を運ばれた、という意味だ。それは、無防備な状態を他人に晒したという事実に他ならない。
息を潜め、辺りを探ろうとすると、全身が悲鳴を上げた。どことはいわず、どこもが痛んだ。鉛のように重い体は、顔の向きをわずかに変えるだけで精いっぱいだった。
だが、それでも目の中に飛び込んできたものに息を呑む。
〈蝿〉が、うたた寝をしていた。
リュイセンのベッドから少し離れた位置で、身を投げ出すようにして椅子の背にもたれている。こくりと首が傾けられ、乱れた髪がひと房、はらりと額に落ちた。その中に混じった白いものが、呼吸で上下する体に合わせて、きらりと光を放つ。
目元にくまの見える青白い顔からは、疲労感が漂っていた。陰りのある美貌は、同じ年頃であるリュイセンの父、エルファンと瓜二つ。
寝顔からは、邪悪なものを感じられなかった。そのことが、リュイセンを苛立たせた。
リュイセンは、視線を〈蝿〉から外した。自由の効かぬ体だが、唯一、目玉だけは自在に動かせた。そして彼は、自分のいる場所が〈蝿〉の地下研究室だと理解した。
『ライシェン』がいたのだ。
培養液で満たされた硝子ケースの揺り籠で、ゆらりと、たゆたう白金の髪の赤子――〈蝿〉が作った次代の王。
リュイセンの背を、ぞくりと悪寒が走る。本能的な拒絶だ。
いずれ、こんなものを王と崇める日が来るのだろうか。だとしたら、この国は狂っている。
目を背けるようにして、今度は、無理やりに頭を反対側に向けると――。
「っ!」
大型の硝子ケースを目にして、リュイセンは鋭く息を呑む。
長い髪を身にまとった、裸体の女性――。
目は閉じているものの、ふっくらとした頬と、ほころんだ口元からは微笑みが感じられる。まろみを帯びた体つきは決して若くはないが、触れれば、滑らかな柔らかさに包まれるであろうことは想像に難くない。
ミンウェイに酷似した、けれど、ミンウェイよりずっと年上の『彼女』が、夢見るように眠っていた。
『彼女』がいたのは、〈蝿〉と対峙した王妃の部屋だ。リュイセンと同じく、『彼女』もまた、この研究室に運ばれたのだろう。
「ミンウェイの母親――か……?」
絶世の美女は、リュイセンの疑問に答えることなく、ただ昏々と眠る。その姿は、神々しいまでに美しい……。
「目が覚めましたか」
聞き慣れた鷹刀一族特有の魅惑の低音に、リュイセンの心臓が、どきりと跳ねた。背後から、ぎぃと椅子のきしむ音がして人の気配がこちらに近づく。
血みどろになった白衣は着替えたのだろう。真新しい純白に包まれた〈蝿〉は、如何にも医者らしく見えた。
〈蝿〉は、何を断ることもなく、横たわるリュイセンの体のあちこちに触れた。憎々しいほどに丁寧で、忌々しいほどに手際のよい診察だった。
「どうやら問題ないようですね。三日もすれば動けるようになりますよ」
患者を前にした、医師そのものの言い草が腹立たしい。
「何故、俺の治療をする? ……そもそも、なんで俺を助けた? ――いや、どうして俺を殺さなかった!?」
リュイセンの声は、徐々に昂っていった。自分でも押さえられないほどの憤りが、心の中で渦を巻いていた。
「せっかちですね」
鼻で笑われ、かちんと来る。
反射的に牙をむいたリュイセンに、〈蝿〉は押し止めるような身振りをした。
「まぁ、あなたの気持ちも分かります。私も無駄なやり取りはしたくないので、順を追って説明して差し上げましょう」
そう言って〈蝿〉は、ベッドのそばにあった椅子に腰掛けた。
「まず、あなたが意識を失ってから、丸一日経っています」
「一日……」
「ええ。それで済んだのは、さすが鷹刀の血族ということでしょうか。それに私も、鷹刀の者を診るのには慣れていますし、何より私の血を輸血することができたのは、あなたにとって幸運でしたね」
「――!」
リュイセンは吐き気を覚えた。こんな奴の血が自分の体を流れているとは、おぞましいにもほどがある。
そんな彼の反応は、たいそう〈蝿〉のお気に召したのだろう。くっく、という低い嗤いが響いた。
「私もかなりの失血をしていましたから、本当は控えるべきだったんですがね」
「だから、何故だ!? どうして、そこまでして俺を……。まさか、俺の体に何か!?」
リュイセンは、ぎろりと〈蝿〉を睨みつける。だが、その瞳には脅えの色が混じっていた。
突如、〈蝿〉の嗤いが哄笑に変わる。
「タオロンも、私の部下となったときに、人体改造をするのかと訊いてきましたよ」
「……っ」
「あなた方のような、肉体が頼みの武闘派馬鹿にとって、私はよほど怖い存在のようですね」
「こ、こいつ……」
どす黒く顔を染めるリュイセンに、〈蝿〉は顎先に手をあてて、くすりとする。
「何もしていませんよ」
「!?」
「確かに、できることは、いろいろあります。けれど、あなた方が考えるような、私にとって都合のよい肉体改造など不可能なのですよ。無理を掛ければ、体が悲鳴を上げるだけ。薬物で支配したところで、すぐに使い物にならなくなる。……医術は、万能ではないのですよ」
ほんのわずかに、〈蝿〉の視線がそれた。リュイセンは訝しげに眉を寄せたが、すぐに彼の背後を見ているのだと気づく。そこには『彼女』の硝子ケースがある……。
「あなたには利用価値がある。だから、生かした。それだけです」
『彼女』を見つめていた〈蝿〉が、何を思っていたのかは分からない。だが、リュイセンに視線を戻すと、顔色を変えることなく淡々とそう告げた。
「ならば俺は……人質――ということか……?」
そう言葉を漏らし、リュイセンは、はっとした。
「ルイフォン!? ルイフォンはどうなった!?」
彼が人質として役に立つ、ということは、弟分は無事に逃げ延びたのだろうか。
「そんなに力まないでください。せっかく縫合した傷が開いたら、どうするんですか」
「話をそらすな! ルイフォンは今、どこにいる!?」
「さて?」
リュイセンが慌てる様を愉しむように、〈蝿〉は、にやりと口角を上げる。
「教えろ!」
力いっぱい叫ぶと、腹の傷が、ずきりと痛んだ。思わず顔をしかめれば、それ見たことかと言わんばかりに、〈蝿〉がわざとらしい溜め息をつく。
「まったく……、少しは怪我人らしくしたらどうですか。――安心なさい。あなたの大事な子猫は逃げて、どこかに隠れたままですよ」
「本当か!?」
「すぐに分かる嘘をついても仕方がないでしょう?」
「そうか……」
リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろした。
しかし、では、ルイフォンはどこにいるのであろう?
残念なことに、あの弟分は気配を消すのが下手である。丸一日、隠れおおせるとは思えない。それに、腹が減るはずだ。何しろ、携帯食料で食事を摂ろうとした矢先に〈蝿〉とかち合ったのだ。補給の確保なしに籠城するのは、愚の骨頂だ。
そこまで考えて、リュイセンは、ルイフォンは既にこの庭園から脱出しているのだと思い当たった。あのタイミングなら、ハオリュウの車はまだ帰っていなかった、と。
ルイフォンに『逃げろ』と叫んだとき、そのあとに取るべき行動を、リュイセンは明確に思い描いていたわけではなかった。ただ、ここにいてはふたりとも捕まるだけだと、野生の獣の勘が告げ、体が動いた。
けれど、賢い弟分はきちんと先を考え、再戦のために、あえて屈辱の敗走を選んだのだ。
リュイセンの口元が緩んだ。
ルイフォンを誇りに思う。そして、無事に逃がすことのできた自分に満足をする。
囚われの身となったのは、勿論、大きな失態だ。だが、このままで終わらせるつもりはない。
外にいるルイフォンは、再び〈蝿〉に挑むために必ず戻ってくる。ならば、そのときの助けになるよう、内側にいるリュイセンは、少しでも情報を集めておくべきだろう。あまり得意な分野ではないが、やるべきことはやる。それは、きっと弟分の役に立つ。
リュイセンはそう考え、「おい」と〈蝿〉に声を掛けた。
「訊きたいことがある」
彼は、ベッドの傍らに座る〈蝿〉に対し、顎をしゃくるようにして自分の背後を示した。そちらには大型の硝子ケースがあり、中では絶世の美女が眠っている。
「その硝子ケースの中の女性は、ミンウェイの母親なのか?」
初めて『彼女』を見たときから、ずっと疑問に思っていた。
年齢や容姿からすると、母親というのが一番、妥当な解だ。それに〈蝿〉も、『彼女』に対して特別な感情を抱いているように見受けられた。だからこそ、ルイフォンは『彼女』を〈蝿〉の弱点と考えた策を立てたし、実際、功を奏した。
『彼女』は、〈蝿〉にとって重要な意味を持つ。だから、これは訊いておくべきことだ――。
「ミンウェイの母親……?」
〈蝿〉は一瞬、呆けたように口を開けた。だが、すぐに得心がいったように表情を戻す。
「あなたの言うミンウェイは、〈ベラドンナ〉のことですね」
そう言われて、リュイセンは思い出した。ミンウェイの母親の名前もまた、『ミンウェイ』だということを。
〈ベラドンナ〉というのは、毒使いの暗殺者としてのミンウェイの通り名だ。〈蝿〉は今、それを使って呼び分けたのだ。
「そうだったな。お前は父親のくせに、生まれた娘に名前をつけなかったんだったな!」
リュイセンの言葉が殺気をまとう。
死んだ妻の名前を、そのまま娘につけた。そして、娘を妻の代わりにした……。
「なるほど。あなたは、私が〈ベラドンナ〉の母親を、この硝子ケースに入れて生き存えさせていると思ったわけですね」
「ああ」
「違いますよ。彼女は死にました。二十歳にもならず、痩せこけて、ぼろぼろになって死にました。遺体は埋葬し、きちんと墓も建てました。――彼女は、最期まで『生きたい』と願っていたのに、不甲斐ない私は……叶えてやることができなかった……!」
最後のほうは、血を吐くような嘆きだった。
〈蝿〉の言うことは信用ならない。だが、勘だけは鋭いリュイセンは、その想いが嘘ではないと見抜けてしまう――。
「……情に訴えても、俺には通じねぇぞ」
毒づくように呟いた。
「そんなことはしませんよ。ただ、その硝子ケースの中の『ミンウェイ』が、『作られたもの』であるという事実を説明しているだけです」
「『作られたもの』……?」
「ええ。その個体には、ほんの少しの擦り傷も、日焼けも、しみも何ひとつありません。作られてから一度も、そのケースから外に出されたことのない証拠です」
そして〈蝿〉は、わずかに唇を噛む。
「ましてやミンウェイ本人であれば、あの無残な点滴の痕が腕に残っているはずです。それが、まるでない……」
「じゃあ、『彼女』は何者なんだ?」
問いかけながら、リュイセンは焦りを感じていた。
彼の頭の中では、『彼女』はミンウェイの母親で確定していたのだ。〈蝿〉に尋ねたのは、ただの確認にすぎなかった。
けれど、どうやら違うらしい。
知らぬうちに、虎の尾を踏んでしまったのではないか。そんな不安がよぎる。
「この『ミンウェイ』が何者なのか。それは私のほうが知りたいくらいですよ」
「どういうことだ? 『彼女』がミンウェイの母親でないのなら――『作られたもの』だというのなら、お前が作ったんじゃないのか?」
「『私』ではありませんよ。――この『ミンウェイ』は、オリジナルの鷹刀ヘイシャオの研究室に残されていたものです。おそらく、生前の彼が作ったのでしょう」
「なるほどな」
相槌を打ちながらも、リュイセンは、ほんの少しの違和感を覚えた。
何か、おかしな気がする。何かが、引っかかる……。
「――っ」
リュイセンは、気づいた。
「何故、『おそらく』という言い方をする? 『彼女』を作ったのが、お前でないとしても、お前には『鷹刀ヘイシャオ』の記憶がある。ならば、『彼女』のことを知っているはずだろう?」
噛み付くようなリュイセンに、〈蝿〉は眉根を寄せた。
「あなたの疑問はもっともですが、責め立てられるいわれはありませんよ」
やれやれ、と言わんばかりに〈蝿〉は大仰に肩をすくめ、「いいですか?」と聞き分けのない子供をなだめるような口調になる。
「私の持つ記憶が採取されたのは、どうやら鷹刀ヘイシャオが、この『ミンウェイ』を作るよりも『前』のことのようです。ですから、その『あと』で、彼が何を考えて『ミンウェイ』を作ったのかは、文字通り『記憶にない』のですよ」
「そういうことか……」
リュイセンは納得の声を漏らした。
だが、話はそこで終わらなかった。〈蝿〉が、まるで引き寄せられるかのように『彼女』の硝子ケースを見つめ、「そして」と続けたのだ。
「この大型ケースのサイズから推測すると、この中に入っていたのは『ひとり』ではない……」
その低音は、郷愁にも哀愁にも似ていて、リュイセンはどきりとする。
「……? 何が言いたい?」
〈蝿〉は、ゆっくりとリュイセンに視線を移し、静かに告げた。
「この『私』が入っていた。そうとしか考えられません」
「――!?」
「この『私』の肉体は、『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られたものではないそうです。『私』を作った〈蛇〉が――ホンシュアが言っていました。新たな肉体を作るつもりだったが技術不足でうまくいかず、古い研究室で運良く見つけた『私』に飛びついた、と」
そういえば、とリュイセンは思い出す。
いつだったか、ルイフォンと話しているときに、〈蝿〉の肉体と記憶の年齢に差があることに気づいた。
『最大の性能を出すためには、記憶の年齢と肉体の年齢を合わせるべきだ』
それなのに、どうしてずれがあるのかと、ルイフォンが頭を抱えていた。その答えはつまり、保管されていた肉体を『仕方なく』使ったため、ということらしい。
ルイフォンの疑問をひとつ、解くことができた。これは素直に嬉しい。
そんなリュイセンの小さな喜びを〈蝿〉は当然、知ることはなく、ただじっと大型の硝子ケースを――『彼女』を見つめていた。
「『私』の肉体は、この『ミンウェイ』と『対』になるように、オリジナルの鷹刀ヘイシャオが作ったんですよ。……きっと」
ぽつりと落とされた言葉は、切なさで満たされていた。
「この『肉体』に『記憶』を入れたホンシュアは、『私』がどこに収められていたかは言いませんでしたけどね。――おそらく、意図的に黙っていたのでしょう」
〈蝿〉の表情に変化はないが、その内側では感情の波濤が逆巻いている。勘のよいリュイセンにはそれが見えた。
「オリジナルの私が、なんのために『自分とミンウェイ』を作ったのか。それも凍結保存せずに、時の流れと共に歳を取り、いずれは朽ち果てていくと分かっている肉体にしたのか。……『私』は、何も知らないのですよ」
『だから、君が何者なのか、私は知りたいのだ』
無言の想いが、密やかに響く……。
リュイセンは、目の前が深い霧で覆われていくような、おぼつかなさを覚えた。どこか、とんでもないところに連れて行かれそうな、そんな気がして、背筋を冷たいものが走った。
5.昏迷のさざめき-2
リュイセンは、ふん、と鼻を鳴らした。
それは強がりからだったかもしれないが、〈蝿〉の雰囲気に呑まれないためには、効果的な措置だった。
なるほど――と、彼は思う。
〈蝿〉が――この場合は、過去に生きていた叔父の『ヘイシャオ』と呼ぶのが正しいのかもしれないが――妻を溺愛していたのは疑うべくもないようだ。義父にあたるイーレオが、生ぬるい態度を取っていたのも納得できる。
――だが自分は、ほだされたりなどしない!
リュイセンは、冷ややかな目で〈蝿〉を見つめた。
奴は危険だ。
彼の持つ野生の獣の勘が告げる。
純粋な戦闘なら〈蝿〉に負けることはない。けれど奴は、『悪魔』の知恵を持っている。今だって、『順を追って説明する』と言いながら、自分の流れに持っていっているように思える……。
「リュイセン」
そっと、名を囁かれた。
『小倅』ではなく、きちんと名前で呼ばれたのは初めてのような気がして、リュイセンは警戒に身を固くする。
「『私』と『ミンウェイ』は、寄り添って眠っていたのですよ。そこに、ホンシュアが――鷹刀セレイエの〈影〉が、押し入ってきて、強引に『私』を目覚めさせた。……『私』と『ミンウェイ』を引き離したのです」
〈蝿〉は拳を握りしめ、身を乗り出した。
その動きが電灯の光を遮り、伸びた影が、まるで黒い翼のように広がる。
「しかも、鷹刀セレイエ本人は姿を現さず、〈影〉のホンシュアを使い、虚言で私を操った。私は、大恩ある義父に刃まで向けて、……愚かな道化そのものです。――この屈辱、この怒り……、あなたに理解できますか?」
一族が脈々と受け継いできた、絶世の美貌が憎悪に染まる。
壮絶な微笑に、リュイセンの体の芯を、ひやりと冷たいものが駆け抜けた。
「すべての元凶は、鷹刀セレイエと『デヴァイン・シンフォニア計画』なのですよ」
闇に沈んだ瞳が、妖しく揺らめく。
「私は、復讐を誓います」
深い怨恨は熟成され、いっそ、まろやかな優しさすら帯びて、地下の研究室に甘く響き渡る。
悪魔に魅入られたように、リュイセンは〈蝿〉から目を離せなくなった。怪我のため、もとより体の自由は効かぬが、呼吸すらも止まりそうになり、気持ちの悪い汗が吹き出す。
〈蝿〉の視線が、まっすぐにリュイセンを捕らえた。
「ですから、リュイセン。あなたに、私の復讐に協力してもらいたいのです」
「!?」
リュイセンは、一瞬、呆けた。
荒唐無稽な〈蝿〉の弁を、刹那に理解することは不可能だったのだ。
「誰が、そんなことするか!」
ひと呼吸、遅れて吐き出した拒絶は、不自然なほどに大声となった。まるで虚勢を張っているようで情けないと、自分に苛立つ。
「そうですね。あなたにしてみれば、私に協力するいわれはない――ですか」
「当たり前だ! だいたい、お前はミンウェイを辱め、苦しめた極悪人だ。誰が、そんな奴に協力するか!」
その瞬間、〈蝿〉が、にやりと嗤った。
「おかしなことを言いますね。それは、『鷹刀ヘイシャオ』のしたことでしょう? 『私』は、『あなたのミンウェイ』には、会ったこともないのですよ?」
「――!」
「あなたは、私の外見に惑わされていませんか? 私はいわば、『生まれたばかり』。――なのに、この肉体に勝手に入れられた『記憶』のために、『鷹刀ヘイシャオの罪』は『私の罪』になるのですか?」
〈蝿〉が、緩やかに詰め寄る。
「私は、『鷹刀ヘイシャオ』とは、違う人間ですよ?」
「……っ!」
〈蝿〉と、死んだ鷹刀ヘイシャオは、『別人』――。
それは、リュイセンが散々、イーレオに食って掛かって言い続けたことだ。『血族の情に流されるな』などと、かなり生意気な口まできいた。
けれど――。
戯言だ。
リュイセンの直感が告げる。
もっともらしく聞こえるが、丸め込まれてはならない……。
〈蝿〉が、むかつく薄ら笑いを浮かべる。その顔に、強烈な反論をかましてやりたいが、口が達者ではないリュイセンは、うまい言葉を思いつけずに歯噛みする。
「リュイセン。あなたの言い分からすると、もしも、あなたの肉体に『鷹刀ヘイシャオの記憶』を入れられたら、『あなた』も罪人になる――ということですよ。そのとき、あなたは『自分の罪』として受け入れられるのですか?」
〈蝿〉の言葉に、悪寒が走った。おぞましさに総毛立つ。
「……そんなことになったら、それはもう、俺じゃねぇ! 〈影〉なんかにされたら……」
リュイセンは叫び、そして、はっと気づく。
「そうだ! お前の〈影〉にされた奴ら……。あいつらは、『お前のせい』で死んだ。『鷹刀ヘイシャオ』は関係ない。『お前の罪』だ!」
あのチンピラ警察隊員、緋扇シュアンは、〈影〉にされた先輩をその手で殺した。随分と親しい間柄だったようなのに、断腸の思いで決意した。シュアンの野郎は、いけ好かないが、その件だけは痛ましく思う。
「メイシアの父親だってそうだ。貴族の権力争いが原因じゃねぇ。あんな不幸な死に方をする羽目になったのは『お前のせい』だ! 全部、お前が悪い!」
「随分と乱暴な理屈ですね。それに、彼らを殺したのは私ではありませんよ?」
〈蝿〉が失笑を漏らす。
「ああ、俺も自分で言っていて、理屈なんか通ってねぇと思ったよ。――だがな、ひとつだけ確かなことがある」
「ほう?」
「『お前が悪い』って、ことだ!」
リュイセンは武には恵まれた一方で、言葉のやり取りはからきしだ。けれど彼の鋭い感性は、一足飛びに本質を見抜く。
「お前が関わったことで、死んだ人間がいる。お前がした行動によって、悲しんだ人間がいる。――そんな非道を平気でやってのけたのは、『鷹刀ヘイシャオ』ではなくて『お前』自身だ。だから、『お前』が極悪人であることは間違いねぇんだよ!」
若き狼が牙をむき、咆哮を上げた。
自分が囚われの身であり、生殺与奪の権は相手にあるということは、リュイセンの頭に微塵にもなかった。否、たとえ理解していたとしても、彼は同じことを言っただろう。
たぎる炎の瞳で、彼は〈蝿〉を睨みつける。
「なるほど。嫌われたものですね」
〈蝿〉は、口元を軽く緩めたまま、くっくと喉を鳴らした。
「まぁ、あなたを説得するつもりはありませんでしたから、別によいですが。――ただ、ひとこと申し上げれば、あなたも私と大差ないのですよ?」
「なんだと!?」
「あなたと私が、初めて会ったときのことを覚えていますか?」
「初めて会ったとき……?」
確か、倭国から帰国した直後のことだ。
ミンウェイから『ルイフォンが殺される』と連絡を受け、空港から貧民街に急行した。そこに、ルイフォンとメイシアを襲う、〈蝿〉がいた。
「あなたはあのとき、藤咲メイシアを守ろうとする子猫に、こう言いました。『俺の個人的見解では、その貴族の女は即刻、見捨てるべきだと思っている』――と」
「……っ! あのときは、メイシアは全然、知らない奴だったから……」
「ええ、そうでしょう。凶賊のあなたにしてみれば、何故、貴族の娘を助けなければならないのか、疑問でしかなかったでしょう」
「……」
リュイセンは否定できなかった。それどころか、その後も、貴族を助けることはないと、イーレオに直談判したくらいだったのだ。
「あなたが先ほど口にした、私が関わったことで死んだ者たちとは、斑目の下っ端に、警察隊員、あの娘の父親である貴族……そんなところでしょう? いずれも鷹刀の敵です。勿論、だから死んでもよい、とまでは言いませんが、必要だったから利用した。その結果、死に至った。それだけのことです」
「ふざけるな!」
〈蝿〉の言葉は、あまりにも不快だった。
「俺を、お前なんかと一緒にするな! 少なくとも、俺は他人を利用したりしない!」
斬りつけるように叫ぶ。
愛刀を振るうが如く神速で、〈蝿〉の戯言を一刀両断にする。
〈蝿〉は――嗤っていた。
そのときになって初めて、リュイセンは、からかわれていたのだと気づいた。
「あなたが、蛇蝎の如く私を嫌うのは、仕方のないことですよね。何故なら、あなたは〈ベラドンナ〉に惚れ込んでいるのですから」
不意のひとことだった。
リュイセンは虚を衝かれ、完全に無防備な顔で動揺する。
「見ていれば分かりますよ。それに私だって、情報収集くらいします。以前、斑目の別荘で会ったとき、子猫が『あなたと〈ベラドンナ〉の結婚が決まった』と言っていました。その真偽を確かめさせたのですよ」
「……!」
それは、ルイフォンが〈蝿〉の隙を衝くためについた嘘だった。そして、調べたということは、奴だってミンウェイのことを気にしているということだ。
「正式に決まっているわけではないようですが、一族の中ではそう思われている。そんな状態でしょうか。もっとも、〈ベラドンナ〉のほうは、あなたを好いているのか……疑問ですけどね」
「……っ」
声を詰まらせたリュイセンに対し、実に愉快だ、と言わんばかりに〈蝿〉は目を細める。
「そんなあなたが、私に好意的になれるはずがありません。ですから私は、一方的に私の事情をお話しましょう」
〈蝿〉は、体を引いて自分の背後を示した。
そこには、白金の髪をなびかせながら眠る赤子――〈蝿〉が作った次代の王、『ライシェン』の硝子ケースがあった。今は固く閉じられた瞳が澄んだ青灰色をしているのは、ハオリュウに付けていた隠しカメラからの映像で確認済みだ。
「あなたは『ミンウェイ』ばかりを気にしていて、目の前にある、こちらの硝子ケースについては何も触れませんでしたね。この『ライシェン』は、どう見ても〈神の御子〉にしか見えない。如何にも、きな臭い匂いがするのに、あなたは言及しなかった」
リュイセンの顔を、〈蝿〉がじっと覗き込む。まるで視線に重さがあるかのように、見えない圧が掛かる。
「それはつまり、あなたにとって『ライシェン』は疑問を抱く対象ではなかったということです。――盗聴か何か、していましたね?」
「!」
「構いませんよ。むしろ、そのほうが説明が省けて楽です」
慌てて、取り繕うとしたリュイセンを、〈蝿〉が鼻で笑う。
「そう――『私』は、『ライシェン』を作るために目覚めさせられた。だから、『ライシェン』さえ出来てしまえば用済みなのですよ。機密保持のために、私は消されるでしょう」
淡々とした声が、かえって、深い怨嗟を帯びて聞こえた。
「けれど、そんな運命を受け入れられるわけがありません。何より、私はかつて、ミンウェイと約束を交わしたのです」
〈蝿〉の口元が少しだけ、揺れる。
「『生を享けた以上、生をまっとうする』。――私にとって、絶対の誓約です」
その顔は、静かに泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
「だからといって、『ライシェン』を作らなければ、それはそれで立場が悪くなる。それで私は、『ライシェン』を作り上げた上で、自分が生き残れるように『デヴァイン・シンフォニア計画』の最強の切り札を手に入れたいんですよ」
「切り札……?」
「言ったでしょう? 死の間際のホンシュアが、私にある重要な事実を打ち明けたと。あの話です」
「ああ……」
リュイセンは思い出し、不快げに眉を寄せる。
「『メイシアの正体』とか言って、ルイフォンに揺さぶりをかけまくっていたやつだな」
「揺さぶり? そうですね。多少は、私の想像も入っていたかもしれません。――ですが、真実は、あの子猫にとって、もっと残酷ですよ」
「ふん。お前の言うことなんか、信じねぇよ」
聞く耳持たぬと、リュイセンはベッドの上で向きを変えようとした。けれど、傷の痛む体は素直に動かず、結果、目を背けるにとどまる。
「ホンシュアも、私に託すのは不本意だったでしょうね」
リュイセンの態度に苦笑しながら、〈蝿〉は構わず話を続けた。
「けれど、仕方なかったのでしょう。彼女は『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人でした。それが、熱暴走による予定外の死を迎えるとなれば、計画続行のために自分の代理を立てる必要があったのです」
「はっ! それで、ホンシュアの代わりの水先案内人になったお前は、情報と引き換えに、俺に協力するよう、取り引きを持ちかけようとしている、ってわけか? あいにく俺は、〈悪魔〉と馴れ合うつもりはねぇよ!」
噛み付くリュイセンに、〈蝿〉はゆっくりと首を振った。
「私は、水先案内人ではありませんよ」
それは意外な言葉だった。もはや相手にすまいと決めたはずのリュイセンが、思わず「違うのか?」と口走る。
「ええ。ホンシュアが私に打ち明けたことは、『自分以外に、水先案内人になり得る者がいること』――すなわち、『自分以外にも、鷹刀セレイエの〈影〉がいる』ということですよ」
「は?」
リュイセンは、反射的に声を上げた。
ホンシュア以外にも、セレイエの〈影〉がいる。――是非ともルイフォンに報告したい、重要な情報だ。
そう思った瞬間、リュイセンは、自分が〈蝿〉の話に引き込まれていることに気づき、はっとする。
――これは虚言だ。相手にしたら破滅する、危険な罠だ。
「嘘をつくのはやめろ。俺は騙されないぞ。いい加減、黙れ、〈悪魔〉!」
言い捨てるリュイセンに、〈蝿〉の口角が上がった。
「『藤咲メイシア』ですよ」
低い声が、歌うようにメイシアの名を告げる。
それは聞こえた。聞こえたが、リュイセンには意味が通じない。
「何が、メイシアだと言うんだ?」
「分かりませんか?」
「だから、なんのことだ?」
「あの娘は、鷹刀の屋敷に向かう直前に、ホンシュアと接触しています。そのときに、『鷹刀セレイエ』の記憶を刻まれたんですよ。つまり――」
〈蝿〉は、ひと呼吸おき、ゆっくりと口を開く。
「藤咲メイシアは、『鷹刀セレイエの〈影〉』です」
「――!?」
リュイセンは目を見開いた。
耳朶を打った言葉が、じわりじわりと頭に広がっていく。
そんな、まさか。
あり得ないことだと、リュイセンの胸が騒ぎ立てる。
「でまかせも大概にしろ!」
ルイフォンとメイシアの、見ているほうが恥しくなるほどの仲睦まじさが、あれが偽りなどとは思えない。
眦を吊り上げたリュイセンに、〈蝿〉の言葉が更に続けられた。
「そして、彼女は、『最強の〈天使〉の器』。――つまり、切り札です」
美しい悪魔が、静かに微笑む。
頭が、割れるように痛んだ。
わけが分からない。
「メイシアが、セレイエの〈影〉? 〈天使〉の器……? 馬鹿なことを言うな。どう見たって、メイシアは、メイシアだろう?」
呟くように漏らせば、〈蝿〉が大仰に頷いた。
「ええ。今は、『藤咲メイシア』本人で間違いないでしょう。けれど、いずれ、あの娘は『藤咲メイシア』でなくなります」
「どういうことだ!?」
「私は〈天使〉に関しては専門外ですから、詳細は分かりません。ですが、ホンシュアによれば、王族の血を濃く引いたあの娘なら……」
その刹那――。
椅子に座っていた〈蝿〉の体が、ぐらりと前に倒れた。受け身を取ることすらできず、〈蝿〉は床に頭を打ち付ける。
「くっ……、はぁぁぁっ……」
額から流れ出る血には構わず、〈蝿〉は心臓を握りしめるようにして胸を抑えていた。苦悶の表情を浮かべ、必死に耐えるように荒い呼吸を繰り返す。
「どうしたんだ!?」
敵対する身であるとはいえ、ただならぬ様子にリュイセンも血相を変えた。
〈蝿〉は、美貌を苦痛に歪め、床を転がる。その様に、リュイセンはふと思い出した。
「〈悪魔〉を支配する『契約』……」
祖父イーレオが、〈七つの大罪〉の――王族の秘密に抵触する発言をしようとしたとき、同じように苦しんだ。『それ以上、言ったら、殺す』と、まるで警告を受けたかのように……。
「お前の、その状態は、『契約』のせいなのか?」
「ああ……、あなたは『契約』のことまで知っていたのですか」
自嘲するような口ぶりは、不様な姿を見せたとの気恥ずかしさだろうか。額の血と、汗とを拭いながら、〈蝿〉は答える。
「ええ、そうですよ。『契約』は脳に――記憶に刻まれる。だから、『鷹刀ヘイシャオ』が受けた支配の『契約』は、『私』にも引き継がれている……」
〈蝿〉の顔色は、紙のように白かった。それは本人も分かっているのだろう。苦しげな息を吐きながら「ここまでにしましょう」と言った。
「かなりの失血をした上に、あなたに輸血して……あなたの治療に付きっきりでしたから、限界です。続きは後日……あなたも、私も回復してから、改めて。……そのとき、〈ベラドンナ〉のことも、お話ししましょう」
「!?」
床の上で、〈蝿〉が薄く嗤った。
そして、声にもならないかすれた声で、唇の動きだけで言葉を紡ぐ――。
『『契約』に抵触までしたのですから、いくらあなたでも、はっきりと理解できたでしょう? ――私の言っていることが、真実であると……』
6.蒼天を斬り裂く雷鳴-1
黎明の空から、最後の星がすうっと溶けて消えていく。
次第に明るんできた初夏の朝は、清々しい空気で満たされていた。
鷹刀一族の屋敷にて、その門を守る門衛のひとりが、大きなあくびを漏らしそうになり、慌てて口元を押さえた。天下の鷹刀の顔ともいえる場所で、だらけた態度はご法度である。総帥イーレオの面子に関わりかねない。
ふと横を見れば、同僚が眠そうに目をこすっていた。
……誰しも、夜番は辛いらしい。
「もうすぐ交代の時間だ。しゃきっとせんか」
背後から、野太い声が上がった。今晩の見張りの三人の中で、最年長のまとめ役だ。
「すんません……」
あくびを噛み殺した門衛は、ばつが悪そうに頭を下げる。だが、同僚は変わらずに目をこすり続けていた。
「お前も、なんか言えよ」
思わず肘でつつく。
だが、相手は目をこすっていた手を止めただけで、ぽかんと口を開けていた。
「どうした?」
「おい、あれ! あれは、まさか……!」
唐突に大声を上げ、同僚は遠くを指差す。
促されて見やれば、遥か彼方に人影が見えた。
彼我の距離があるため、正確なところは分からないが、体型からして、男。それも、均整の取れた立派な体躯をしており、颯爽と歩く姿は若き狼を思わせる。
そのとき、地平線から、輝く朝陽が差し込んだ。
浮かび上がった横顔に、門衛たちは息を呑む。
「リュイセン様!?」
重症を負い、〈蝿〉に囚われていたリュイセンだった。
〈蝿〉の技術によって、驚くべき早さで回復したという話は聞いていたが、更に信じられないことに、自力で脱出してきたのだ。
門衛たちの様子に気づいたのだろう。人影が、こちらに向かって大きく手を上げる。
「リュイセン様だ!」
「リュイセン様が、戻られたぞ!」
鷹刀一族の朝は、歓喜の声で明けていった。
〈蝿〉の私兵たちから、リュイセンの無事が証言されたのは、昨晩のことである。
私兵たちの自白が行われるのと並行して、ルイフォンは、リュイセン救出のための準備を整えていた。メイシアと共に『鷹刀からの使者』として〈蝿〉のいる庭園に赴き、偽りの『和解』を申し出て、リュイセンの解放を叶える。そして、油断させたのちに、〈蝿〉を捕らえる――という作戦だった。
一晩寝て、起きたら出発だと、彼は意気込んでいた。
それが、とんでもない朗報に叩き起こされた。
「へ……?」
寝ぼけまなこのルイフォンは、しばらく呆けたまま身動きを取れなかった。
「リュイセンが……帰ってきた!?」
助けに行くはずの相手が、自力で戻ってきた。正確には、タオロンが手引きしてくれたらしい。
唖然とする彼に、メイシアがさっと着替えを用意する。
「早く、リュイセンのところに行きましょう」
彼女の涙声によって、ルイフォンはようやく実感する。兄貴分は無事に戻ってきたのだと。拍子抜けではあったが、これ以上の喜びはなかった。
ルイフォンは手早く着替えを済ませ、メイシアと共に執務室に駆けつける。早朝ではあるが、『構わぬから、早く顔を見せろ』と、イーレオがリュイセンを呼びつけたと聞いたからだ。
「リュイセン……!」
一週間前、血飛沫を上げながら、決死の覚悟でルイフォンを逃してくれた兄貴分が、そこにいた。
その背中が見えたとき、ルイフォンは感極まり、思わず膝から落ちそうになった。すんでのところで必死にこらえれば、隣りにいたメイシアが、真っ赤な目をしながら、ぎゅっと手を握ってきた。
リュイセンの、直立不動の巌のような立ち姿からは、あの大怪我の痕跡は感じられなかった。〈蝿〉の技術によって、あっという間に回復したというのは本当だったのだ。
「ルイフォン」
肩までの黒髪をさらりと揺らし、兄貴分が振り返る。
「!?」
その顔を見たとき、駆け寄らんばかりであったルイフォンは、戸惑いにたたらを踏んだ。黄金比の美貌は相変わらずだったが、表情が硬く、ややもすれば顔色が悪く見えたのだ。
しかし、よく考えれば、ルイフォンとしては感動の再会でも、リュイセンにしてみれば作戦を失敗した上に囚われの身となった、という報告の真っ最中だったのだ。外からの助けを待たずに脱出したことで汚名返上といえそうだが、やはり面目ないのだろう。
陰りを見せるリュイセンに、イーレオが包み込むような慈愛の眼差しを向けた。
「リュイセン、ご苦労だった。あとでまた、今後の方針について話し合わなければならないが、とりあえず部屋に戻ってゆっくり休め」
「はい。分かりました」
リュイセンは頭を垂れ、踵を返した。ルイフォンは声を掛けるタイミングを失ったまま、兄貴分の後ろ姿を目で追う。
――と、そのとき。ルイフォンは、イーレオの視線を感じた。
何かと思って振り向けば、イーレオが顎でリュイセンを示し、『あいつを任せた』と言っていた。
「それでは総帥。俺たちも失礼します」
ルイフォンは、猫の目をわずかに細めることで、イーレオに了承を告げる。一礼をしてから、メイシアを伴い執務室をあとにした。
廊下にリュイセンの姿はなかった。既に階段を降り、足早に自室に向かったらしい。
「ルイフォン……。リュイセン、どうしたんだろう?」
メイシアが眉を曇らせ、不安を漏らす。
「いつものリュイセンなら、ルイフォンを見たら、まず嬉しそうな顔をすると思うの……」
彼女の言う通りだった。しかも、最後に別れたときの状況を思えば、なおのこと、ルイフォンが無事に逃げ切れたことを喜ぶはずだった。
「……〈蝿〉のところで、何かあったんだな」
総帥である父イーレオも、リュイセンの様子がおかしいと感じていたようだ。だが、その理由を聞き出すまでには至らなかったのだろう。帰ってきたばかりということもあり、しばらく様子を見るという判断を下した。そこにルイフォンが現れたため――。
「『あいつを任せた』と、いうわけか」
ルイフォンは得心がいったと、軽く腕を組む。
誰に言われなくとも、リュイセンと話すつもりだった。何より、まずは体を張って逃してくれたことの礼を言わねばならないのだ。
「ともかく、リュイセンのところに行くか」
癖のある前髪を掻き上げ、呟く。
リュイセンから言い出さないということは、言い出せないだけの事情があるのだろう。そして、こんなとき、変なところで頑固な兄貴分の口を割らせるのは、なかなか厄介だ。
ふたりきりで膝を詰めるしかない。メイシアには悪いが、席を外してもらおう。――そう考えたとき、彼女と目が合う。
「ルイフォン、えっと、あの……」
「なんだ?」
「ごめんね。私、料理長の早朝のお手伝いがあるの。だから、ルイフォンひとりで、リュイセンのところに行ってほしいの」
見え見えの嘘である。いつもなら、まだ寝ている時間、しかも今日は〈蝿〉のもとへ乗り込む予定の日だったのだ。手伝いの仕事など、あるわけがない。彼女もまた、ルイフォンとリュイセン、ふたりきりのほうがよいだろうと察してくれたのだ。
ルイフォンは、メイシアの腰に手を回して抱き寄せ、彼女の髪をくしゃりと撫でた。
「ありがとな。リュイセンの奴も見栄っ張りだから、お前がいると格好つけたがるかもしれない。俺と一対一のほうがいいだろう」
言いながら、彼女の頤に指を掛けて上向かせ、さっと口づける。
「!」
驚いたメイシアが、ぱっと目を見開き、続けて、さぁっと頬を紅に染める。
「けど、そんな下手くそな嘘なんか要らねぇぞ。俺とお前の仲だろ。俺はちゃんと、お前に待っていてほしいときは言えるからさ」
「あ……、うん。ごめんなさい……。余計なことだった……」
申し訳なさそうな上目遣いで告げたのちに、メイシアはうつむく。彼女の手が、必死に彼の服を握りしめているのは『怒らないでね』の気持ちの表れだろう。――こんなことで怒るわけがないのに。
ルイフォンは苦笑しながら、愛しげにメイシアの髪に唇を寄せる。
そして、もう一度、彼女を抱きしめると、「それじゃ」と手を振って、リュイセンの部屋へと向かった。
「リュイセン、ちょっといいか?」
いつもの調子で、声を掛けると同時に扉を開けた。
ルイフォンとは違って、リュイセンは『勝手に入ってきていい』とは明言していないが、鍵を掛けていない以上、入ってもよいのである。――と、ルイフォンは解釈している。
兄貴分は、ベッドで寝転がっていた。ルイフォンが部屋に足を踏み入れて、初めて彼に気づいたらしい。驚いたようにこちらを見ている。普段のリュイセンなら、ルイフォンが廊下を歩いてきた時点で気配を察しているはずだ。やはり、様子がおかしかった。
「帰ってきたばかりのところ、すまんな。でも、どうしても、お前と話をしたくてさ」
リュイセンの反応が鈍いのをよいことに、ルイフォンは返事を待たずに入り込み、椅子に腰掛けて足を組む。いつもなら、その途中で戸棚に寄って、酒瓶のひとつも取り出してくるのだが、さすがに朝なので自制した。
「ルイフォン……」
戸惑うような呟きだった。明らかに浮かない顔をしている。
けれど、のろのろとではあるものの、リュイセンはこちらにやってきた。テーブルを挟んで、向かい側に座る。それを見届けてから、ルイフォンは口火を切った。
「リュイセン、礼を言わせてくれ」
「……礼?」
「ありがとな。あのとき、お前が『逃げろ』と言ってくれなければ、こうして今、俺とお前が、共にこの屋敷にいることはなかったと思う。お前のおかげだ。感謝している」
組んでいた足をきちんと揃え、ルイフォンはまっすぐに兄貴分を見つめる。
「そして、すまない。お前を犠牲に、お前を見捨てて、俺は逃げた。俺は卑怯だ。――でも、それはお前の指示で、あの瞬間に、とっさに『逃げろ』と言えたお前は凄いし、正しいと思う。だから謝罪すべきは、お前を置き去りにしたことじゃなくて、そうせざるを得ない事態に陥らせた、それまでの俺の行動だ。本当に、すまなかった」
一気に言い放ち、ルイフォンは深く頭を下げた。
自分は頭が回ると、自負していた。けれど、今回の作戦を思い返してみれば、ミスの連発だった。すっかり、リュイセンのお荷物になっていた。
頭上から、リュイセンの溜め息を感じた。ルイフォンがゆっくりと顔を上げると、兄貴分の視線は、力なくテーブルに落とされていた。
「……俺は、凄くも、正しくもなくて……。ただ、やるべきだと思ったことを、やるだけだ……」
ぽつり。
吐き出すように、リュイセンは言った。それは兄貴分の口癖だった。けれど、覇気あふれるはずの言葉は、暗く沈んでいた。
ルイフォンは、リュイセンのよどみを振り払うように、明るい声を出す。
「ともかく、お前が無事に戻ってきてくれてよかった。タオロンが手引きしてくれたんだって?」
リュイセンの話を聞きたかった。
あの王妃の部屋で別れた直後のことは録画記録で見た。けれど、そのあとを知りたかった。この一週間の間に、どんなことがあったのか。そして、どうして脱出できたのか。
実は――。
タオロンが手を貸してくれたという点に、違和感があった。何か裏があるような気がしてならない。
囚われの身のリュイセンが、単独で脱出するのは不可能。だから、必ず何者かの協力が必要で、あの庭園において、味方になり得る人間はタオロンひとり。それは確かだ。
けれどタオロンは、娘のファンルゥを人質に取られている上に、常に見張りがついている。自由に動くことは難しいのだ。
更にいえば、リュイセンが捕まったときの状況を考えれば、タオロンは罪悪感にかられている。なんとしてでもリュイセンを助けたいと思っているだろう。
『だからこそ』、タオロンが手引きをするのは無理なのだ。
何故なら、〈蝿〉もまた、タオロンの心情を知っているから。だから〈蝿〉は、タオロンをリュイセンから遠ざけ、決してふたりを接触させないはずだ。
「いったい、どうやって脱出したんだ?」
「あ、ああ……」
当然、訊かれるべき事柄だと分かっていたのだろう。口が重い現在のリュイセンでも、隠したりすることはなかった。
「タオロンの同僚だという私兵がやってきて、仲間のふりをして一緒に庭園の門を抜けた。それだけなんだ」
「なるほど」
それなら可能かもしれない。
「タオロンもなかなかやるな」
随分と手際よく段取りをつけたものだ。――そう思ったとき、ルイフォンは再び、引っかかりを覚える。
タオロンは、そんなに気の利いた奴だっただろうか……?
馬鹿にするつもりはないが、愚直な性格で、要領の良さとは無縁だった。何より、あの〈蝿〉を出し抜くのは、容易なことではないはずだ……。
「ルイフォン……?」
思考の海に沈み込もうとする彼を、リュイセンが覗き込む。やや緊張を帯びて見えるのは、タオロンの手を借りたことで何かまずい事態が起きたのかと、不安になったからだろう。
「ああ、いや――」
今ここで考え込んでも仕方ない。それよりも、リュイセンに訊くべきことがあるのだ。
兄貴分に対し、こそこそと様子を窺うようなのは自分らしくない。遠慮なんかせずに、ここは正々堂々と尋ねる。
ルイフォンは、鋭く猫の目を光らせ、冴え冴えとしたテノールを響かせた。
「単刀直入に問う。――良くない知らせがあるんだな?」
「!」
声に出さずとも、リュイセンの表情が、その答えだった。
「何があった?」
踏み込んでくるルイフォンに、リュイセンは、ぐっと、こらえるように身を固くする。
「言いにくいんだろ? ――でも、俺と話したくなければ、部屋に鍵を掛けることもできたし、『疲れているから』と言って追い返すこともできた」
「あ……」
声を漏らした兄貴分の顔には、『その手があったか』と書いてあった。
――と、いうことは、部屋に入れてくれたからといって、素直に話してくれるとは限らない。
これは長丁場を覚悟だな、とルイフォンは内心で溜め息をつく。
「まぁ、いいさ。お前が話す気になるまで待つさ」
「……すまん」
「じゃあさ。情報交換というわけじゃないけど、お前と別れたあとの、俺のほうの話を聞いてくれ」
押して駄目なら引いてみろ、である。
勿論、策でもなんでもなく、こちらの状況は伝えておくべきことだろう。そこに、あわよくば、話をしていく中で、ぽろっと『良くない知らせ』を漏らさないか、との下心が加わっただけである。
「それじゃ、リュイセン。また、あとでな」
ひと通りの話を終えて、ルイフォンは兄貴分の部屋を出た。
後ろ手に扉を閉めると、冷や汗が、どっと出た。心臓が、どくどくと脈打つのを感じる。リュイセンの前では平然としていられた自分を褒めてやりたかった。
「……」
兄貴分は、気配に敏感だ。壁一枚、隔てただけの廊下では、すぐに彼の動揺を察してしまうだろう。
ルイフォンは、早足でその場を離れ、廊下を曲がる。
――メイシアのことだ。
リュイセンの『良くない知らせ』は、メイシアに関する情報だ……。
腹に、ずしんと、重い何かがのしかかった。彼は倒れ込むようにして、壁に寄りかかる。
メイシアの名前を口にした途端、ごくわずかであったが、リュイセンの呼吸が乱れた。あらかじめ注視していなければ気づかないほどの、かすかな揺らぎだったが、彼をよく知るルイフォンには感じ取ることができた。
――〈蝿〉は、しきりに『メイシアの正体』と口にしていた。
「リュイセンは『それ』を聞いた。――いや、聞かされたのか……?」
知らず、声に出して呟く。
しかし、〈蝿〉が、囚われのリュイセンに教えるメリットが分からない。メイシアに関する情報は、ルイフォンに対して使うことで最大の効果を発揮するのだから……。
「――!」
ルイフォンは、ある可能性に気づき、息を呑む。
「〈蝿〉は、『わざと』リュイセンを逃した……?」
リュイセンが屋敷に戻れば、情報はルイフォンを始めとした皆に伝わる。それを狙ったということは――。
「あり得る……」
そもそも、あの〈蝿〉が、リュイセンの脱走を許すわけがない。
つまり、リュイセンと一緒に門を抜けたという私兵は、タオロンに頼まれたのではなく、〈蝿〉に命じられて、そう演じたのだ。考えてみれば、私兵たちは〈蝿〉に逆らったら死ぬと信じ込まされている。彼らが〈蝿〉を裏切って、タオロンに協力することはないはずだ。
癖のある前髪をくしゃりと掻き上げ、じっと虚空を睨みつける。
ルイフォンたちは、まさに今日、〈蝿〉のもとに乗り込んでいくつもりだった。そのタイミングで、リュイセンが戻ってきた。
まるで、こちらの先手を取るような動きだ。
偶然にしては、出来すぎている。――だから、必然なのだ。
勿論、昨日、思いついたばかりの作戦が漏れているとは考えにくい。だが、私兵を捕まえたことで、『こちらが動く気配を見せた』と、〈蝿〉は判断することができる。
そのため、何かを仕掛けられる前にと、先回りをして、リュイセンに何かを吹き込んで逃した。
仮定に過ぎない。
けど――。
「辻褄が合うよな……」
ならば、〈蝿〉は何を企んでいる……?
「もう一度、リュイセンと話すか」
すべてが〈蝿〉に仕組まれたことであるなら、『良くない知らせ』は、大嘘の可能性が高い。リュイセンがひとりで抱え込み、思い詰める必要などないのだ。
この推測を兄貴分に伝えて、彼を安心させてやろう。
『良くない知らせ』がメイシアに関することだと察し、焦っていたルイフォンだが、ようやく余裕を取り戻した。
彼は、もと来た廊下を戻りかけ、途中で足を止めた。
リュイセンの部屋に入ろうとする、ミンウェイの姿が見えたのだ。
「……野暮だな」
踵を返す。
〈蝿〉の陰謀は気になるが、現状、危険が差し迫っているわけではないのだ。あとでいいだろう。
「一応、親父には報告しておくか」
ルイフォンは、執務室に向かいながら大あくびをした。
そういえば、熟睡しているところを叩き起こされたのだ。眠くてたまらない。報告を終えたら部屋で寝よう。
何かに夢中になっているとき、ルイフォンは寝食を忘れて没頭する。数日間の徹夜だって屁でもない。
だが、リュイセンの脱出に関して、大まかな絡繰りが読めた今、彼の好奇心は急速に失われつつあった。すなわち、納得したがために興味が薄れ、集中力がなくなり睡魔に襲われている。
メイシアは……もう、厨房に行っただろう。
別れたときから、だいぶ時間が経っている。
彼女を抱きしめながら眠るという、極上の時間は今晩までおあずけらしい。がっくりと肩を落としながら、彼は再び大あくびをした。
6.蒼天を斬り裂く雷鳴-2
結局、朝食も摂らずに、午前中ずっと熟睡していたルイフォンであったが、さすがに昼過ぎには目を覚ました。腹が減ったためである。
ベッドから体を起こすと、テーブルにサンドイッチが載っているのが見えた。
寝ている彼のために、メイシアが用意してくれたものらしい。流麗な文字のメモが添えられており、声を掛けても起きなかった彼に対して、疲れているのではないかと気遣う言葉と、午後から会議があるので、そのときにまた来るという連絡が書かれていた。
ルイフォンは、サンドイッチをつまみながら時計を見る。会議の時間まで、余裕があるとはいい難いが、慌てるほどではないだろう。
「結構、寝たな」
メイシアは疲労を心配してくれたようだが、おそらくただの寝不足だ。
本当なら、今日はメイシアと共に、〈蝿〉のところに乗り込む予定だった。緊張で眠れなかったわけではないが、眠りが浅かったのは事実だ。そこにリュイセンが戻ってきて、安心して気が抜けたのだ。
「さて……」
状況は一変した。
偽りの『和解』で〈蝿〉を騙す、という作戦は延期、または中止にすると、寝る前にイーレオと話してある。おそらく、廃案にするしかないだろう。
『和解』などという、あり得ないような申し出は、リュイセンが囚われている状態であって初めて、真実味が出る。なんとしてでも、リュイセンを解放してほしいという、こちらの切実な思いがあればこそ、〈蝿〉を騙せるのだ。
事情が変わった今、成功率は格段に落ちる。となれば、メイシアを危険に晒すこの策を実行に移すわけにはいかない。
では、どうするか。
ルイフォンは、保温ポットに入っていた紅茶を飲みながら思案する。猫舌の彼のために、ほどよく中身が冷まされていることには、残念ながら気づかないのであった。
会議の時間となり、執務室にいつもの顔ぶれがそろった。その中にリュイセンの黄金比の美貌があるのを見て、ルイフォンは心が落ち着くのを感じる。兄貴分のいない一週間は、やはり堪えたようだ。
「皆、集まったな」
イーレオの魅惑の低音が響いた。
「言うまでもないだろうが、この通り、リュイセンが戻ってきた」
水を向けられたリュイセンは、恐縮したように立ち上がり、「ご心配おかけしました」と深く頭を下げた。けれど、堅苦しいのは彼だけで、皆は思い思いの安堵の表情を浮かべる。
――否。
イーレオだけが、微妙な具合いに口角を上げた。
「リュイセンは大手を振って作戦に臨んだにも関わらず、失敗に終わった。その罰は、与えねばならない」
心地の良い美声。しかし、その内容は誰の予想をも裏切っていた。皆の吐息が、困惑に揺れる。
「如何な処罰も覚悟の上です」
硬い顔でリュイセンが答えた。そこに鋭く「待てよ、親父」と、ルイフォンが割り込む。
「今回の失敗は『リュイセンと俺の、ふたり』が招いた結果だと、前に言っていたよな? それで、俺のことを不問に付したなら、リュイセンも同じでいいはずだろ?」
「それは違うな」
イーレオは、にやりと瞳を光らせた。
「お前は『〈猫〉』であり、鷹刀の人間ではないから、俺には処罰できないと言ったはずだ。だが、リュイセンは鷹刀の者だ。俺は総帥として罰せねばならない」
「――!」
確かに筋は通っている。だが、納得はできない。
なおも反論を続けようとするルイフォンに、イーレオがぴしゃりと言い放つ。
「部外者は口出ししないでもらおう」
そう言われてしまえば押し黙るしかない。ルイフォンが「分かった」と引き下がると、イーレオは涼やかに処罰を告げた。
「追放だ」
「……っ」
リュイセンが唾を呑んだ。しかし、すぐに再び深く頭を下げる。
「謹んでお受け……」
「――と、言いたいところだが、チャンスをやろう」
単細胞があっさり掛かりおったな、と言わんばかりの尊大な仕草で、イーレオはソファーに背を預けた。顎をしゃくり、心なしか楽しげに続ける。
「〈蝿〉を討ち取ってこい。それを果たせば文句はない」
「!?」
その場に立ち尽くしたまま、リュイセンは目を見開いた。そんな彼に、イーレオはにやりと笑う。
「いいか、リュイセン。今回の失敗によって、絶好の機会をフイにした、お前の罪は大きい。だが、お前が無事に戻った以上、こちらの被害はないともいえる。だから大目に見て、このくらいが妥当だろう」
イーレオが弓なりに瞳を細めると、緊迫した空気が緩む。そして、ルイフォンは理解した。
もとより、兄貴分は〈蝿〉との再戦を望んでいるはずだ。ならば、この『処罰』は結局のところ『不問に付す』と同義だ。イーレオは総帥の立場上、形だけは罰した――ということだ。
――面倒臭ぇ……。
ルイフォンは心底そう思ったが、『部外者』なので顔にも口にも出さずに、神妙な傍観者に徹し……ようとして、はたと気づく。
「おい、待てよ。〈蝿〉を討ち取っちまったら、情報を聞き出せねぇだろ! ――『対等な協力者』〈猫〉として意見させてもらう。それは困る!」
「ああ、俺もそう思ったんだが、処罰なら『捕らえろ』よりも『討ち取れ』のほうが格好いいかと……」
すっとぼけたことを言うイーレオに、ルイフォンが突っ込む。
「格好の問題じゃねぇだろ!」
「では仕方ない。リュイセン。〈蝿〉を捕らえて情報を聞き出し、〈猫〉を黙らせろ」
あんまりなイーレオの物言いに、ルイフォンは再度、噛み付こうとして……ぐっとこらえた。イーレオは、ルイフォンをからかっているだけだ。おそらく、場を和ませるために。
これは貸しだぞ、と眇めた目で見やれば、イーレオは、わずかに口元を緩めた。どうやら、伝わったらしい。さすが、総帥。――というわけではなく、単に似た者同士の以心伝心だろう。
イーレオは、ぱん、と手を打ち鳴らした。
「処罰の件は、これまでだ。――現状を確認するぞ」
ひとり掛けのソファーを占拠する彼は、優雅に足を組む。今までとは打って変わった王者の眼差しで一同を睥睨すると、艷やかな黒髪が付き従うようにさらりと流れた。
「〈猫〉」
人を惹きつけてやまない、魅惑の声がルイフォンを呼ぶ。
「リュイセンは〈蝿〉によって『わざと』解放されたのだという、お前の推測。皆に説明してくれ」
「!」
リュイセンが驚愕に震えた。血の気が失せ、もとから良くなかった顔色が更に白くなる。
当然だろう。兄貴分は、タオロンが助けてくれたものと信じていたはずだ。
ルイフォンは座ったまま一礼をすると、瞳を鋭く光らせる。猫のように、くるくると変わる豊かな表情が抜け落ち、硬質な〈猫〉の顔が現れた。
「これは、今朝、リュイセンと話したあとで、俺が気づいたことだ。親父には、既に報告してあって、この推測は正しいだろうと同意を得ている」
冴え冴えとしたテノールを響かせ、ルイフォンは話し始めた。
「……――勿論、これは、あくまでも推測だ。確証はない。けれど、辻褄は合うと思う」
ルイフォンは、そう締めくくり、イーレオに視線を投げる。イーレオは大仰に頷くと、皆の顔を見ながら、あとを引き継いだ。
「〈猫〉の推測に、ほころびを見つけた者はいるか?」
手を挙げる者は、誰もなかった。
それを確認すると、イーレオは「――では、リュイセン」と、地底を揺るがすような低音を轟かせる。
「お前は〈蝿〉に、何を吹き込まれた?」
感情の読めない、凍てつく響きに、リュイセンの肩が、ぴくりと上がった。
「帰ってきたときから、お前は明らかにおかしかった」
「……」
「それは分かっていたが、生死をさまようような大怪我を経て、一週間ぶりに戻ってきたのだ。いきなり問い詰めるのは、あまりにも恩情に薄かろう。だから、待ってやった」
だが、そろそろ、お前のほうから話すべきだろう? ――有無を言わせぬイーレオの瞳が、冷たくリュイセンを捕らえる。
「……っ」
「リュイセン、なんで隠すんだよ?」
ルイフォンには、兄貴分が口を閉ざす理由が分からない。
「お前が〈蝿〉から、『良くない知らせ』を聞いたことは分かっている。……それは、メイシアに関することなんだろ?」
リュイセンの眉が動いた。
「隠しても無駄だぜ? 顔に出ている」
刀を手にすれば、気配は勿論、感情だって無にできる兄貴分だが、普段の生活では隙だらけだ。だからルイフォンは、高圧的に打って出る。多少のブラフを含みつつ、余裕の顔でリュイセンに迫る。
「〈蝿〉がお前に教えたのは、俺に向かって、奴が散々、口にしていた『メイシアの正体』――だろ?」
「――!」
「当たりだな」
吐き出した声には溜め息が混じっていた。
ルイフォンは隣に座るメイシアの肩を引き寄せ、黒絹の髪をくしゃりと撫でた。会議に赴く前に、あらかじめ彼女には『良くない知らせ』のことも含めて推測を話しておいた。だが、ショックであることに変わりないだろう。
「リュイセンは、俺やメイシアを気遣ったんだろうけどさ……」
必要以上に強硬な姿勢は逆効果と、ルイフォンは少し言葉を和らげる。彼にしても、別に兄貴分を責め立てたいわけではないのだ。
「さっきも説明した通り、リュイセンが解放されたこと自体が〈蝿〉の策略で、『メイシアの正体』ってやつも、俺たちを混乱させるための虚偽である可能性が高い」
「……」
「だから俺は、奴の言葉を信じるために、奴の言う『メイシアの正体』を知りたいわけじゃない。奴が、その虚偽を口にした、その裏にある意図を読み解いて、奴の目的を探りたいんだ」
好戦的な猫の目が、リュイセンに向けられる。けれど、その視線で睨みつけているのは兄貴分ではなくて、兄貴分を使って何かを企んでいる〈蝿〉だ。
リュイセンは……耐えきれなくなったかのようにルイフォンから目をそらし、ぎりりと奥歯を噛んだ。そして、拳を握りしめ、ゆっくりと口を開く。
「メイシアは、『セレイエの〈影〉』だそうだ……」
「……はぁっ!?」
ルイフォンは間抜けな声を上げた。
次に来るのは衝撃か、はたまた驚愕か。――虚偽に違いないと思ってはいても、それなりに信憑性の高そうな話が来るはずだと予想していた。それが……。
「なんだよ、それ? あり得ねぇだろ!」
馬鹿馬鹿しすぎて、開いた口がふさがらない。リュイセンも、どうしてこんな大嘘を信じたのやら、理解に苦しむ。
しかし兄貴分は、噛み付くように言い返してきた。
「俺だって、〈蝿〉にそう言った! そしたら、『今はメイシア本人だけど、いずれメイシアでなくなる』と……」
「え……?」
不意打ちのような、言葉。
どういう意味だと、リュイセンに詰め寄ろうとして、ルイフォンは気づく。
「なるほど。そんな、もっともらしい言い方をされたから、リュイセンは信じたわけか」
「違う!」
リュイセンは、強く否定する。黄金比の美貌を歪め、しかし、はっきりと告げる。
「〈蝿〉に〈悪魔〉の『契約』が発動した。『王族の血を濃く引いた、あの娘なら』――そう言いかけたところで苦しみ始めた」
「王族の血……?」
「ああ。メイシアは『最強の〈天使〉の器』だから切り札になる。そんなことも言っていた」
「なっ……! なんだよ、それ!?」
耳鳴りがした。胸が騒ぐ。理由も分からずに、全身が総毛立つ。
そして無意識にメイシアを抱き寄せた。白蝋のような顔をした彼女は、されるがままに彼の胸に収まる。
王族の血を引く、貴族の娘メイシアと、凶賊の息子のルイフォン。
天と地とが手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、『デヴァイン・シンフォニア計画』によって仕組まれたものだ――。
「メイシアが王族の血を引いているから……? だから、メイシアは『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれたっていうのか!? 王族が何か特別だというのかよ!?」
――メイシアを奪われてなるものか!
ルイフォンの本能がそう思い、彼女を強く抱きしめる。彼女もまた、彼の腕の中で必死に彼にしがみつく。
そのとき――。
「ルイフォン!」
鋭い低音が、咎めるように彼の耳を打った。
その声を、誰が発したのか。同じ声質を持つ者が多数いる中で、ルイフォンは、にわかには判別がつかない。
反射的に顔を上げ、目に映ったのが――。
「父上! 考えてはいけません!」
胸を押さえ、体をくの字に折り曲げたイーレオ。そして、駆け寄るエルファン。
エルファンがこちらを振り返り、普段の彼からは想像できないほどに慌てた様子で叫ぶ。
「ルイフォン! お前の言葉は王族の『秘密』を訊いたのと同じことだ!」
「エルファン……」
厳しい、けれども、もっともな叱責だった。
〈蝿〉にとって『契約』に抵触する話ならば、当然、〈悪魔〉の〈獅子〉であったイーレオにも『契約』は発動する。
殺気すら含んだ険しい声で、エルファンが告げる。
「〈天使〉についてならば、私が知っている。王族の血を引く者が〈天使〉になれば、強い力を持つのは本当だ」
「え……?」
「お前の母、キリファがそう言っていた。――もう、いいだろう。これ以上、この件に触れるのは危険だ」
――結局。
『考えなければ大丈夫だ』と、脂汗を流しながら笑うイーレオを無視して、エルファンが強引に会議の終了を宣言したのだった。
6.蒼天を斬り裂く雷鳴-3
総帥イーレオが、〈悪魔〉を支配する『契約』で体調を崩し、次期総帥エルファンによって会議は強制的に終了、解散となった。
王族や〈天使〉の話が出てきて、メイシアが『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた理由が掴めそうになってきた矢先の、あっけない幕切れだった。
ルイフォンとしては当然、消化不良気味だが、傍らのメイシアの様子を見ると、ちょうどよかったのかもしれないと思う。
彼女は、ルイフォンの服の端をぎゅっと握りしめたまま、身じろぎもしなかった。シャツ越しに体温を感じられるのに、青ざめた顔には温度がない。綺麗な薄紅色をしているはずの唇も、色を失っていた。
「メイシア、行こう」
彼女を促し、執務室をあとにする。
廊下に出ると、窓の外がやけに暗かった。黒い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうである。昼までの青空が嘘のようだった。
嫌な天気だ。――曇天を見上げ、ルイフォンは思う。まるで、彼の心情を写し取ったかのようで、気が滅入る。
「ルイフォン、メイシア」
後ろから呼び止められた。ふたりに続いて、部屋を出てきたリュイセンである。彼は、きまり悪そうに肩をすぼめ、「すまん」と頭を下げた。
「なんで、お前が謝るんだよ?」
「いや……、……」
ほんの少し強めの口調で問えば、リュイセンは口ごもって押し黙る。
疑問の形で返しはしたが、兄貴分の気持ちは分かるのだ。生真面目な彼は、あの場に暗雲を持ち込んだ責任を感じているのだろう。
「そりゃ、お前が報告した『良くない知らせ』は、聞かされて楽しい話じゃなかった。けど、お前が悪いわけじゃねぇだろ。むしろ、重要な情報だった。感謝している」
「……っ」
リュイセンは戸惑うような様子を見せ、わずかに口を開きかけた。しかし、うまく言葉にならなかったのか、再び「すまん」と呟く。
そのとき、ルイフォンの隣から、メイシアがするりと躍り出た。
「リュイセン。今、料理長がご馳走を用意しているんです」
「!?」
唐突な彼女の発言に、リュイセンは勿論、ルイフォンもきょとんとする。
「リュイセンが、無事に帰ってきたお祝いです」
メイシアは、特別な秘密を打ち明けるような小声でそっと囁き、ふわりと笑った。
優しげで、ほんの少しだけいたずらっぽくて、思わず魅入られてしまいそうな可愛らしい笑顔である。先ほどまでの白蝋のような顔をした彼女とは、まったくの別人だった。
「いや、祝うようなことではないだろう……」
ぼそぼそと言うリュイセンに、メイシアは畳み掛けた。
「会議では、驚くような情報も入ってきましたが、今日はリュイセンが戻ってきた、とても嬉しい、良い日なんです」
柔らかでありながら異論を許さぬメイシアの迫力に、剛の者のリュイセンがたじろぐ。
「だから、そんな浮かない顔をしないでください。これからのことは、これから皆で考えればいいんですから」
「……ありがとう」
リュイセンの低音は、頼りなげにかすれていた。けれども彼は、不器用な笑みを無理やりたたえる。メイシアの弁に同意はできないが、気遣いには感謝している。そんな心の内が手に取るように分かった。
「晩を楽しみにしていてくださいね。私も、微力ながらお手伝いしてまいります」
メイシアがそう言って一歩下がると、ルイフォンもすかさず「そういうことだ」と乗じた。
「それじゃ、またあとでな」
さっとメイシアの肩を抱き、リュイセンの前を立ち去る。しつこく言っても押し問答になるだけだからだ。
それに……。
――俺以外の奴に、あんないい笑顔を向けるな。
見苦しい嫉妬だと分かっているが、それでも面白くないものは面白くないのであった。
その後、ルイフォンは、厨房にメイシアを送っていった。
先ほどまで顔色が悪かったのだから少し休んだらどうか、と勧めたのだが、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と断られてしまった。彼女のことだ。料理長が大変というよりも、リュイセンの帰還を積極的に祝いたいという、優しい気持ちからの行動なのだろう。
「ルイフォン、さっきはありがとう」
もうすぐ厨房に着くというところで、不意にメイシアが言った。
「さっき?」
「会議のとき。私が王族の血を引いているから何かあるという話になったときに、そのっ……抱き寄せてくれて」
さぁっと耳まで赤く染めながら、顔を隠すようにうつむき、「心強かったし、何より嬉しかったの」と、彼女は告げる。
「あ……。いや、あれは俺の無意識だ。たぶん、王族がどうのとかで、お前を遠い存在にされるのが嫌で……お前は俺のところに居ろと……」
だんだん、情けないことを言っているような気がしてきて、尻つぼみになっていく。けれど、メイシアは下を向いたまま「ありがとう。嬉しい」と小さく呟いた。
「メイシア?」
泣いているのだろうか。そんな気配がする。
何故? と彼が首をかしげたとき、彼女の細い声が返ってきた。
「……ルイフォン。私は、もと貴族で、王族の血も引いている。それは事実だけれど、でも今は――」
思い切って、というふうに、メイシアは、ぱっと弾けるように顔を上げた。
長い黒絹の髪が、軽やかに舞う。潤んだ黒曜石の瞳が、薄暗い廊下のわずかな光をかき集め、きらきらと輝きを放つ。それは涙から成る煌めきであるのに、美しくも可愛らしい彼女の顔は、幸せそうに笑っていた。
「私は何者でもなく、ただの『メイシア』で――ルイフォンのそばに居る者なの」
「メイシア……」
「怖いと思う。何が起きているのかすら分からないのが、凄く不安……。でも、ルイフォンが居る。だから、大丈夫」
そう言いながらも、彼女の肩は小刻みに震えていた。
ルイフォンはメイシアの背に手を回し、自分の胸元に引き寄せようとした。しかし、それよりも早く、彼女のほうから飛び込んできた。
「私、ルイフォンが好き……」
心臓の上に、彼女の熱い吐息を感じた。
驚くと同時に、どうしようもないほどの幸せが襲ってくる。
現状が曇天なんて、とんでもない。彼女が居る――それだけで、彼の世界は、どこまでも蒼天が広がっていく。
「ご、ごめんなさい。いきなり……」
我に返って体を離そうとするメイシアを、ルイフォンはぐっと抱きしめた。
彼女の鼓動が、ひときわ強く高鳴る。触れ合った体から、その振動が直接、伝わってくる。
「俺も、メイシアが好きだよ」
彼女をしっかりと包み込み、黒髪をくしゃりと撫でた。それから彼が、ほんの少し腕の力を緩めると、彼女は自然に上を向く。
目と目が合う。
どちらからともなく再び寄り添い、ふたりは唇を合わせた。
メイシアを厨房に送り、自室に戻る途中で、ルイフォンはふと、リュイセンの様子を見てこようと思い立った。
執務室の前で別れたときの兄貴分は、だいぶ参っているようだった。会議では〈蝿〉についての詳しい話も聞けなかったし、部屋に寄って話をしてこよう、と。
……メイシアの笑顔は自分だけのものだと、醜い嫉妬を抱いたことは、先ほどの彼女とのやり取りによってすっかり忘れていた。
しかし――。
「!?」
リュイセンの部屋の扉が開かなかった。いつも通りに「ちょっと、いいか?」と言いながら取っ手をひねろうとしたら、回らなかったのだ。
――鍵が掛かっている。
「……」
気配に敏感なリュイセンのことだ。ルイフォンが部屋の前にいることには、気づいているだろう。それなのに出てこないということは――。
「ひとりきりになりたい、ってことか……」
兄貴分の沈鬱は、思っていたよりも深刻なようだった。
ルイフォンは諦めて、その場を離れる。肩を落として廊下を歩いていると、がたがたと音を立てて揺れる窓硝子が気になった。
見れば、風にあおられた雨粒が打ち付けられ、傷跡のような筋を残しながら、窓を流れている。
「雨が降ってきたのか……」
随分と大粒の雨だった。じきに本降りになるだろう。まもなく日が暮れることもあってか、空はすっかり真っ暗になっていた。
窓の外の景色に、目が吸い寄せられていた。
だから、なのか。
それとも、もともと相手に気配がなかったからなのか。
「ルイフォン」
艶めく低音に呼びかけられ、ルイフォンは飛び上がった。
「――!」
「そんなに驚くことはないだろう? まったく、お前は本当に武術はからきしだな」
「エルファン!?」
次期総帥にして、異母兄。そして、母キリファが、死ぬまで外すことのなかったチョーカーの贈り主――。
「ルイフォン。どうして、リュイセンに会うのをやめた?」
「え?」
間抜けに返してから、ルイフォンは気づく。
「……あとをつけていたのか」
「人聞きの悪い。お前が気づかなかっただけだ」
からかうわけでなく、ただの事実だ、とばかりに冷たく言い放つ。こんなところが、冷酷といわれる所以なのだろう。
「部屋に鍵が掛かっていたんだよ」
「ふむ」
「リュイセンは、ひとりになりたいみたいだ」
それにしても、珍しい人が声を掛けてきたものだな、とルイフォンは思い、すぐに気づく。
「リュイセンのことで、俺に話があるのか?」
「まぁ、そんなところだ。……お前の仕事部屋に行っていいか?」
ルイフォンの仕事部屋は、完全防音である。もともとは、機械音が外に漏れないように、との配慮からの構造なのだが、〈悪魔〉であることを隠していたイーレオを吊し上げた際には、密談の場として有効利用した。
――つまりエルファンは、人に聞かれたくないような話をしようとしている。
ルイフォンの体は興奮に包まれ、猫の目が鋭く光った。
「ああ、構わねぇよ」
そしてふたりは、速やかに場所を移動する。
冷気で満たされた仕事部屋で、ルイフォンはエルファンと向き合った。
「それで? なんの話だ?」
エルファンと秘密裏に話すのは初めてだ。そもそも、彼とふたりきりになること自体が、今まで、ほとんどなかったのではないだろうか。
ちょっとした沈黙が緊張を帯び、空調の送風音がやけに大きく聞こえる。
「用件は二点。ひとつは、お前が言った通り、リュイセンのことだ」
いきなりの核心に、ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
「あいつは、まだ何かを隠している」
「え……」
「お前がリュイセンの部屋に向かったから、それを聞き出してくれるかと期待したのだが……」
しかし、ルイフォンは扉の前で引き返してしまった、ということらしい。
「『隠している』――か。なるほど。そう考えれば、確かに納得できるな」
ルイフォンは癖のある前髪を掻き上げた。
今のリュイセンは、彼らしくない。その違和感を、隠しごとからくる後ろめたさと解釈すれば、逆に、実にあの生真面目な兄貴分らしい態度といえた。
「そうだよな。親父がリュイセンの処罰を『〈蝿〉を討ち取れば文句はない』って決めたとき、いつものリュイセンなら嬉々として『お任せください』くらいは言ったはずだ。――でも、違った」
「ああ」
「そう言わなかったってことは、リュイセンは安請け合いできないだけの、具体的な情報を何か知っている。真面目なあいつは嘘をつくのが下手だから、大見栄を切ることができなかったんだ。――何故、隠すのかは分からないけどさ」
兄弟分なのに水臭い。その思いが表に出てしまったのか、言葉の最後には溜め息が混じっていた。
エルファンも、同意するように吐き捨てる。
「会議の場での報告も、父上に無理やり言わされただけだった」
「『メイシアの正体』のことか? それは、俺やメイシアに気遣ったんじゃねぇのか?」
「それなら、会議が始まる前にでも、父上のお耳だけには入れておくべきだった」
「あ……」
言われてみれば、そうである。リュイセンが、鷹刀一族という組織の一員である以上、それは『義務』だ。
「リュイセンは、できれば何も言わずに済ませたかったのだ。けれど、メイシアの件だけは、お前に感づかれてやむを得ず……ということだろう」
エルファンの眉間に深い皺が寄り、壮年ならではの渋い美貌が際立った。黒髪の中に混じった白い筋が、苦々しげに鈍く光る。
「ともかく、しばらくリュイセンの様子に注意してほしい。勿論、私も気に掛けておくが、お前が一番、リュイセンの身近な人間だろうからな」
「分かった」
そう快諾したものの、回すことのできなかった取っ手の感触が、ルイフォンの心に深く突き刺さった。
「ルイフォン?」
「あ、ああ」
知らずのうちに、自分の掌に視線を落としていた彼は、顔を上げ、そして息を呑む。
エルファンの双眸が、静かにルイフォンを捕らえていた。憂いを帯びた眼差しで、けれど、包み込むような慈愛の色を含みながら……。
氷と称される異母兄とは思えない表情だった。
「お前に話しておきたい用件の、もう一点は……メイシアのことだ」
「!」
「『王族の血を引く者が〈天使〉になれば、強い力を持つ。お前の母キリファからそう聞いた』――会議のとき、私はお前にそう言った」
ルイフォンは黙って頷いた。『ああ』と言おうとしたのだが、かすれて声にならなかったのだ。
「普通の〈天使〉ならば、ほんの数回、羽を使えば死ぬ。けれど、キリファの体は持ちこたえた。疑問に思った〈悪魔〉の〈蠍〉が、徹底的に調べた結果、彼女は王族の血を引いていることが分かったらしい」
「はぁ!?」
思わず、素っ頓狂な叫びが出た。さっきは声も出せなかったのが嘘のようだ。
「母さんが王族の血統!? そんなこと、あるわけねぇだろ! だって母さんは場末の娼館の生まれ……。――あっ!」
「そうだ。キリファの母親は娼婦で、父親は誰とも知らない客の男。ならば、その父親が王族を先祖に持つ貴族か、そういった貴族の落し胤であったとしても、おかしくないということだ」
「……!」
ルイフォンは絶句した。
母が『特別』な〈天使〉だということは知っていた。だから、〈蠍〉に厚遇され、学もつけてもらい、片腕として働いていたのだと。けれど、その原因が、まさか王族の血のためであったとは想像の域を超えている。
「羽との相性は、血統がものをいうらしい。キリファはそう言っていた。そして……」
エルファンが言いよどんだ。氷の瞳がわずかに揺れる。
「……娘のセレイエには、キリファの半分しか適性がないそうだ」
「セレイエ……」
ルイフォンの異父姉。
エルファンにとっては、キリファとの間に生まれた、実の娘。
おそらく――否、間違いなく、『デヴァイン・シンフォニア計画』を作った張本人。彼女の名前は、ただでさえ低い部屋の空気を凍てつくものに変えていく。
「一方、もと貴族のメイシアは、濃い王族の血を引いている。〈天使〉の適性は充分にあるだろう」
ルイフォンの体に、ぞくりと悪寒が走った。メイシアの背に〈天使〉の羽が生えているところを想像してしまったのだ。
強く弱く、明暗を繰り返す白金の光をまとった彼女は、禁忌に触れそうなほどに神秘的で。しかし、美しい顔は熱に浮かされ、苦しげに沈んでいる……。
刹那、ルイフォンは気づいた。
メイシアは『セレイエの〈影〉』。
そして、『最強の〈天使〉の器』。
その意味するところは――。
ルイフォンが、猫の目を大きく見開いてエルファンを見上げると、彼はゆっくりと頷いた。
「あくまでも、ひとつの推測だ」
感情の色が綺麗に消し去られた顔で、静かに告げる。
「セレイエは、メイシアを『最強の〈天使〉』にして、その体を乗っ取ろうとしている」
玲瓏とした声が、氷を砕いたかのように冷たく響き渡った。
「嘘だ……」
信じたくない。
けれど、ルイフォンの明晰な頭脳は知っている。
メイシアは、貴族という天上から、ルイフォンのいる地上へと、セレイエに導かれてやってきた。
だから彼女には、必ず、何かしらの役割がある。
――『デヴァイン・シンフォニア計画』の核としての……。
「ルイフォン」
エルファンが名を呼んだ。
深く切なく、そして慈愛に満ちた眼差しで。
「お前は決して、最愛の者を理不尽に奪われたりするなよ」
そう言って、彼はルイフォンの仕事部屋を出ていった。
どのくらい時間が経っただろうか。
ルイフォンは、何をするともなしに、仕事部屋でぼうっとしていた。考えなくてはいけないことが山ほどあるような気がするのに、頭が回らなかった。
漫然と時を過ごしていただけだ。なのに、腹が減ってきた。
「昼のときは、空腹で目を覚ましたんだっけ……?」
自分は、そんなに食い意地がはっていただろうか? ――などと思い、いやいや、昼食がサンドイッチだけの軽食だったから、すぐに腹が減ったのだ、と理性的な考察で自尊心を保つ。
今晩はリュイセンが帰ってきたお祝いで、ご馳走だ。メイシアも、料理長の手伝いを張り切っていた。とても楽しみだ。
ルイフォンは時計を確認した。いつもなら、そろそろ夕食だと、メイシアが呼びに来てくれる時間だった。
「呼ばれる前に行ったって、いいよな……?」
無性に、メイシアに逢いたかった。食堂から、彼の部屋までの経路は幾つもあるが、彼女が使う道は決まっている。だから、すれ違うことはない。
仕事部屋の扉を開けると、激しい雨音が聞こえた。やはり大雨になったようだ。
防音壁のために今まで気づかなかったが、もう随分と前からこの天気だったらしい。初夏だというのに廊下はすっかり冷え切っており、水を含んだ空気で満たされている。空調で室温を下げた仕事部屋よりも、廊下のほうが寒いくらいだった。
そして、彼の体が、完全に廊下に出たとき……。
――――!
ルイフォンは硬直した。
今、自分が目にしているものを理解できなかったのだ。
「リュイセン……?」
そこにいるのは、確かに兄貴分だ。……そのはずだ。
薄暗い電灯の光が背後からリュイセンを照らし、廊下にぼんやりとした大柄の影を落としていた。輝くばかりの黄金比の美貌は闇に沈み、幽鬼のように存在が薄い。けれども、硝子玉のような瞳だけは、いっぱいに見開かれ、ルイフォンを凝視していた。
そして、その両手に抱きかかえているのは……。
「メイシア?」
気を失っているのだろうか。彼女の腕は、まるで人形のように、だらりと垂れ下がっていた。両目は閉じられており、いつだって、ルイフォンに笑いかけてくれるはずの顔には生気がない。
「メイシア!? メイシア、どうした!?」
ルイフォンが駆け寄ろうとすると、リュイセンが飛び退った。
メイシアの頭が、がくりと後ろに反り返る。長い黒髪がさらさらと流れ落ち、無防備に晒された喉元が、暗がりの中でひときわ白く浮き立った。
「リュイセン!? どういうことだ!?」
何が起きているのか、まるで分からない。
動揺と、狼狽と、驚愕と、憤怒と……。さまざまな感情が渦を巻き、ひとつには定まらない。
ただ、鼓動だけが激しく高鳴り、全身の血が一気に噴き上がった。
リュイセンは両手で支えていたメイシアを、片手に――小脇に抱え直した。そして、空いた右手を腰元にやり……。
――刀を、抜き放った。
「――!?」
闇の中で、銀光が煌めく。
それに呼応するかのように、窓の外で雷光が閃いた。暗い天空を不吉な紫色に染め上げ、リュイセンの顔を照らし出す。
悪鬼の形相が浮かび上がった。
そして……。
神速の――無言の一刀。
血の匂いが広がった。
それが自分の腹から流れ出ていることを承知しながら、ルイフォンは前へと突き進む。
メイシアへと手を伸ばす。
最愛の者へと……。
しかし、無情なるリュイセンの刀の柄が、鳩尾に深く叩き込まれた。
「ぐっ……、メイシア――!」
地上に轟く雷鳴が、ルイフォンの叫びを掻き消す。
指先が、彼女に触れる……その直前で、ルイフォンの体は廊下に崩れ落ちた。
天から地へと、まばゆい雷が空を裂く。
リュイセンは、部屋から持ってきていたシーツでメイシアを包み隠し、その場を立ち去った。
雷雨の中、重要な極秘任務だと偽って、リュイセンは車庫を発った。
リュイセンは、総帥の後継者。
疑う者など誰もいなかった――。
~ 第六章 了 ~
幕間 運命の糸
「お父様と異母弟さんを助けたいのなら、それしかないと思うわ」
私の言葉に、藤咲メイシアは全身を震わせた。美しくも可愛らしい顔は土気色。黒曜石の瞳には涙すら浮かべている。
当然だろう。
貴族の深窓の令嬢に対し、凶賊に身を売れと言ったのだ。それは、死にも等しい宣告のはずだ。
私は派手な色合いで描いた唇をくっと上げ、如何にも毒々しい女を演じる。
彼女が鷹刀に向かうことが、私自身の願いだなんて、感づかれてはならない。どこかの回し者を疑われたら、彼女は警戒して、この家を出ないだろう。
だから、今の私は、あくまでも対岸の火事を楽しむような、無責任な輩――。
メイシアの目から、ひと筋の涙がこぼれた。声を上げず、瞬きすらもせずに、彼女はただ人形のような顔で泣いていた。
いくらなんでも無謀だっただろうか……。
平然とした顔を装いながら、私は内心で焦る。祈るような気持ちで、じっと彼女を見つめる。
メイシアが鷹刀に行きさえすれば、あとはうまくいくのだ。
『わけありの貴族など追い返せ』と言い出すであろう、私の父エルファンは、現在、倭国に行っている。真面目っ子で、文句の多い異母弟のリュイセンも一緒だ。
このふたりさえ屋敷にいなければ、大丈夫。従姉のミンウェイは間違いなく同情してくれるだろうし、総帥である祖父イーレオは喜んで彼女を迎え入れる。
そして、異父弟のルイフォンは……。
「ホンシュア」
メイシアの声が、私の思考を遮った。涙声でありながらも、凛と響く声だった。
「そうすれば……父と異母弟は助かるんですね……」
潤んだ瞳だった。今にも、また新たな涙がこぼれ落ちそう。なのに、私のことを食い入るように見つめる、強い瞳だった。
「ええ、そうよ」
「――私、鷹刀一族のもとに参ります」
鈴の音の声が、空気を裂いた。涙を拭い、それまでの惑いを断ち切るかのように頭を振れば、長い黒絹の髪が艶やかに舞う。
メイシアは、桜だ。
嫋やかで儚げで、そよ風にすら翻弄されてしまいそうな、薄紅色の花。けれど、何ものにも揺るぐことのない、芯の強い幹。このふたつを併せ持つ、優美な桜の化身だ。
ヤンイェンが言っていた通りの子だ。
メイシアになら、安心してライシェンを託すことができる――!
「ホンシュア?」
歓喜に包まれ、思わず泣き笑いの顔になった私に、メイシアは不審げに首をかしげた。
「メイシア、ありがとう。……ルイフォンを――ライシェンを……よろしくね」
私の背から、光が噴き出した。
無数の細い光の糸が、白金に輝きながら勢いよくあふれ出る。互いに絡み合い、網の目のように繋がり、広がっていく。そして時々、糸の内部をひときわ強い光が駆け抜け、煌めきが伝搬する。
〈天使〉の羽だ。
白金に照らされたメイシアの頬が、透き通るように青白く見える。それは、もともとの色ではなく、驚愕に染められた結果だ。
勿論、この記憶は消しておく。彼女が覚えているのは、仕立て屋に唆されたところまで。凶賊の屋敷に乗り込むという、暴挙を決意したところまでだ。
私は、光の羽を緩やかに波打たせ、そろそろとメイシアへと伸ばしていく。非現実的な光景を前に、彼女は身じろぎもしない。それは、別におかしなことではない。彼女に限らず、〈天使〉の羽を見た、たいていの人間がそんな反応を示す。
人は、この光を無意識に神聖なものと感じるらしい。初めは誰もが驚くが、次第に魅了されていく。
――この光の糸が、死んだ王の脳の神経細胞からできたものだなんて、誰が信じるだろう。
網目状の構造は、神経回路そのもの。光の強弱は、ただの電気信号に過ぎない。〈天使〉は、羽という接続装置を介して人間に侵入するクラッカーなのだから……。
私の羽がメイシアを包み込む。幾重にも光の糸が巻かれ、彼女は光の繭に抱かれる。
メイシアに刻むのは、『私』の記憶。
王族の血を色濃く引く彼女の脳の容量は、並の人間よりも遥かに大きい。だから、普段は使われない深層の記憶域に『私』を潜ませておくことができる。
でも、彼女に書き込むのはそれだけだ。
命令を使えば、面倒な策など弄さずとも、私の駒として踊ってくれるのは分かっている。けれど、そのままのメイシアで、ルイフォンと出逢ってほしい。
目と目が合った瞬間に、ふたりは恋に落ちる――なんてことはないだろう。
ルイフォンが好きなのは、強い魂だ。
どう考えたって、ルイフォンが初めて見る彼女は、凶賊の総帥を前に脅えた顔をする貴族の箱入り娘でしかない。
メイシアにしてみても、我儘で強引なルイフォンに戸惑うばかりだろう。
だけど、必ず惹かれ合う。私が選んだ、ふたりだから。歪んだ命令なんかより、ずっと強固な絆で結ばれる。
必要なのは、ふたりが出逢うことだけ。
それで、すべてが始まる。
私の仕組んだ運命の輪が――『デヴァイン・シンフォニア計画』が廻り出す。
――……。
最後にひとつだけ、私はメイシアに嘘を刻み、『お守り』と思い込ませたペンダントを、彼女の首にそっと掛けた。
「……うっ」
背中が熱い。まるで炎に灼かれているかのよう……。
私は急いで、冷却剤を口にする。
このホンシュアの体は、一般人だ。主人を守ることができなかった責任で自害しようとしていた侍女は、私の『デヴァイン・シンフォニア計画』を知り、協力を申し出てくれた。
ホンシュアの体は、セレイエのように王族の血が流れているわけではない。〈天使〉化してしまったら、長くは保たないことは分かっていた。
けれど、まさかこれほどまで脆いとは思わなかった。
私は、私の知識による最適な侵入で発熱量を最小限に抑えているが、これでは、いきなり〈天使〉にされた一般人が、闇雲に羽を使って、あっという間に熱暴走を起こすのは当然だ。お母さんが躍起になって、私やルイフォンに自分の技術を授けようとした理由がよく分かる。
「……」
メイシアなら、ライシェンを守り抜くことができる。
〈天使〉化しても、『私』の知識があれば、熱暴走を起こすことはない。
「……でも、これは『罪』」
私の乾いた唇が、ぼそりと漏らす。
『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』――『神』として生まれたライシェンに捧げる交響曲であり、『命に対する冒涜』。
それでも、私は願わずにはいられなかった。
私のライシェンが世界を愛することを。
私のライシェンが世界に愛されることを――。
私が選んだ、ふたりに託す。
貴族の娘と凶賊の息子。
天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いを私は紡ぐ。
この光の糸は、運命の糸。
人の運命は、天球儀を巡る輪環。
そして私は、本来なら交わることのなかった、ふたりの軌道を重ね合わせる。
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第二部 第六章 天球儀の輪環よ
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第七章 五里霧の囚獄で https://slib.net/113419
――――に、続きます。