di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第二部  第四章 昏惑の迷図より

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第二部  第四章 昏惑の迷図より

こちらは、

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理  第四章 昏惑の迷図より
                          ――――です。


『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理  第三章 綾模様の流れへ https://slib.net/112775

                 ――――の続きとなっております。


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〈第三章あらすじ&登場人物紹介〉

〈第三章あらすじ&登場人物紹介〉

===第三章 あらすじ===

(ムスカ)〉の潜伏場所を見つけられぬまま、時間だけが過ぎていた。そんなある日、リュイセンは〈(ムスカ)〉の記憶と肉体の年齢がずれていることに気づく。だが、それが何を意味するのかは分からなかった。

 一方、メイシアは、少女娼婦スーリンに呼び出されていた。ルイフォンを巡る横恋慕としか考えられず、ルイフォンはメイシアに「行くな」と止める。しかし、メイシアは「恩人であるスーリンと、これきりの縁にしたくない」と、彼と喧嘩までして出掛けたのだった。
 スーリンと仲良くなりたいと言いつつも、「ルイフォンは私の男です」と啖呵を切るメイシア。呆れ返ったスーリンは「自分はルイフォンを励ますために元気な少女を演じていただけで、本当はずっと年上だ」と言う。
 そして、メイシアを呼んだ本当の理由は、「ルイフォンの異父姉、セレイエのことを話すためだ」と告げた。

 四年前。母を失ったばかりのルイフォンは、娼館の(あるじ)シャオリエに預けられていた。そして、抜け殻のようだった時期の彼の世話をしたのがスーリンだった。
 ある日、ルイフォンのもとにセレイエが訪ねてきた。邪魔をしないようにスーリンは隣室に控えていたのだが、彼のうめき声に心配になって駆け込むと、部屋の中は熱気と光にあふれていた。それが収まると、〈天使〉の姿をしたセレイエと、意識を失ったルイフォンがいた。
 見てはいけないものを見てしまったと思ったスーリンは「誰にも言わない」と誓うが、セレイエは「しばらく内緒にしてくれれば充分」と答える。それから、「遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢う」と、予言めいたことを告げた。
 その女の子が持っているという『目印のペンダント』をメイシアは『お守り』と信じて身につけていた。記憶を操作する〈天使〉の力によって、そう思い込まされていたらしい。そしてメイシアは、ルイフォンとメイシアが出逢った事件は『ふたりが出逢うために』仕組まれたのだと感づく。

 スーリンの話が終わったとき、メイシアを心配して追いかけてきたルイフォンが乱入してきた。ルイフォンはきちんとスーリンと言葉を交わし、スーリンは「メイシアとは友達になった」と答える。
 ルイフォンとメイシアを帰したあと、スーリンは今回の騒動の黒幕であるシャオリエに「大女優の器だ」と称賛された。スーリンは、ルイフォンへの恋心を演技で隠し、彼の幸せを願っていたのだった。

 帰り道、ルイフォンとメイシアは、〈(ムスカ)〉の部下となっていたタオロンと遭遇する。彼は、メイシアの父が〈(ムスカ)〉の犠牲となったことを土下座して詫び、セレイエの〈影〉であったホンシュアからの「幸せになる道を選んで」という遺言を伝えた。
 しかしタオロンは、娘が人質になっているために、〈(ムスカ)〉の命令である『メイシアの誘拐』を実行しようとする。それを阻んだのはメイシアに護衛として雇われていた、もと一族のシャンリーだった。彼女はタオロンに「お前の娘を助けてやる」と誘いかけ、彼にGPS発信機を持ち帰らせる。そのことによって、〈(ムスカ)〉の潜伏場所が判明した。

(ムスカ)〉の潜伏先が分かったことで、ミンウェイは衝撃を受けていた。父を生き返らせた『もの』である〈(ムスカ)〉の『死』が迫っていることに動揺していたのだ。そんなとき警察隊のシュアンが現れ、彼女の話を聞く流れになった。
 シュアンは「ミンウェイは『温かく迎えてくれた鷹刀一族への遠慮』と『ずっと一緒にいた父親への情』の板挟みになっているだけ、負い目に思うことはない」と言う。彼女は、誰ひとり傷つかない『穏やかな日常』を望んでいるだけなのだ、と。
 そう言われたミンウェイは、まだ父が生きていたころ『穏やかな日常』とは正反対の現実から逃げようと自殺未遂をしたことを、シュアンに告白する。そんなミンウェイに、シュアンは突き放すような言葉で手を差し伸べ、励まして去っていった。
 実は、このやり取りをリュイセンが盗み聞きしていた。シュアンをミンウェイとふたりきりにすることを危険だと思い、監視していたのだ。彼はシュアンに「部外者が適当に分かったふうな口をきくな。ミンウェイに関わるな」と牽制し、「ミンウェイに、遠慮など要らないことを示してやる」と告げた。

 ある日、リュイセンは、ミンウェイを彼女の両親の墓参に連れて行き、「父親はこの墓の下で眠っている。だから〈(ムスカ)〉に惑わされるな」と言う。それから「ミンウェイは、心の底では実の父親を愛していた」と告げる。けれど、それは彼女の環境からすれば仕方のなかったことだ、とも。
 そして「結婚しよう」と切り出す。彼は彼女を想っていても、彼女のほうには彼に恋愛感情はない。それが分かっているリュイセンは、尊敬し合える間柄でよいと言う。総帥イーレオが一族を解体しようとしていることを伝え「俺を鷹刀最後の総帥にするために、俺を助けてくれ」と申し込んだ。


===登場人物===

鷹刀ルイフォン
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
 ――ということになっているが、本当は次期総帥エルファンの息子なので、イーレオの孫にあたる。
 母親のキリファから、〈(フェレース)〉というクラッカーの通称を継いでいる。
 端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
 長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
 凶賊(ダリジィン)の一員ではなく、何にも属さない「対等な協力者〈(フェレース)〉」であることを主張し、認められている。

※「ハッカー」という用語は、「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われていた。
 「クラッカー」には悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
 よって、本作品では、〈(フェレース)〉を「クラッカー」と表記する。

メイシア
 元・貴族(シャトーア)の藤咲家の娘。十八歳。
 ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
 箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
 すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
 白磁の肌、黒絹の髪の美少女。


[鷹刀一族]
 凶賊(ダリジィン)と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
 秘密組織〈七つの大罪〉の介入により、近親婚によって作られた「強く美しい」一族。
 ――と、説明されていたが、実は〈七つの大罪〉が〈(にえ)〉として作った一族であった。

鷹刀イーレオ
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族の総帥。六十五歳。
 若作りで洒落者。
 かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子(レオ)〉であった。

鷹刀エルファン
 イーレオの長子。次期総帥。
 ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄弟ということになっているが、実は父親。
 感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。

鷹刀リュイセン
 エルファンの次男。イーレオの孫。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
 文句も多いが、やるときはやる男。
『神速の双刀使い』と呼ばれている。
 長兄レイウェンが一族を抜けたため、エルファンの次の総帥になる予定であり、最後の総帥となる決意をした。

鷹刀ミンウェイ
 母親がイーレオの娘であり、イーレオの孫娘にあたる。二十代半ばに見える。
 鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
 緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。ただし、本来は直毛。
 薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
 かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
 父親ヘイシャオに、溺愛という名の虐待を受けていた。

草薙チャオラウ
 イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
 無精髭を弄ぶ癖がある。

料理長
 鷹刀一族の屋敷の料理長。
 恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。

キリファ
 ルイフォンの母。四年前に当時の国王シルフェンに首を落とされて死亡。
 天才クラッカー〈(フェレース)〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈(スコリピウス)〉に〈天使〉にされた。
 また〈(スコリピウス)〉に右足首から下を斬られたため、歩行は困難だった。
 もとエルファンの愛人で、セレイエとルイフォンを産んだ。
 ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。
 ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。

〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
 キリファが作った三台の兄弟コンピュータ。
 表向きは普通のコンピュータだが、それは張りぼてで、本当は〈七つの大罪〉の技術を使った、人間と同じ思考の出来る人工知能を搭載できる機体である。
〈ベロ〉に載せられた人工知能の人格は、シャオリエを元に作られているらしい。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
 また〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこない。

セレイエ
 エルファンとキリファの娘。
 表向きは、ルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
 リュイセンにとっては、異母姉になる。
 生まれながらの〈天使〉。
 貴族(シャトーア)と駆け落ちして消息不明。
〈影〉と思われるホンシュアの『中身』だと推測されている。
 メイシアを選び、ルイフォンと引き合わせた、らしい。
 メイシアのペンダントの元の持ち主で、『目印』としてメイシアに渡した、らしい。
 四年前にルイフォンに会いに来て、〈天使〉の能力で何かをした、らしい。


[〈七つの大罪〉・他]

〈七つの大罪〉
 現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
 実は、王の私設研究機関。

〈悪魔〉
 知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
 代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族(フェイラ)の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。

『契約』
〈悪魔〉が、王族(フェイラ)の『秘密』を口外しないように施される脳内介入。
 記憶の中に刻まれるため、〈七つの大罪〉とは縁を切ったイーレオも、『契約』に縛られている。

〈天使〉
「記憶の書き込み」ができる人体実験体。
 脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶(データ)命令(コード)を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入(クラッキング)して相手を乗っ取るクラッカー。
 羽は、〈天使〉と侵入(クラッキング)対象の人間との接続装置(インターフェース)であり、限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こす。

〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
 体は元の人物だが、精神が別人となる。

『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
 服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令(コード)や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶(データ)まで、いろいろである。

『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)
(サーペンス)〉が企んでいる計画。
(ムスカ)〉の協力が必要であるらしいのだが、謎に包まれている。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『(つる)』。
 つまり、『ふたつの(つる)』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
 これらの意味を繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』と、ホンシュアは言った。

ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈(ムスカ)〉。ミンウェイの父。故人。
 医者で暗殺者。
 病弱な妻のために〈悪魔〉となった。
〈七つの大罪〉の技術を否定したイーレオを恨んでいるらしい。
 娘を、亡くした妻の代わりにするという、異常な愛情で溺愛していた。
 そのため、娘に、妻と同じ名前『ミンウェイ』と名付けている。
 十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のような状態でエルファンに殺された。

現在の〈(ムスカ)
〈七つの大罪〉が『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』に必要な技術を得るために、蘇らせたと思われるヘイシャオ。
 イーレオに恨みを抱き、命を狙ってくる。
 タオロンに命じ、メイシアをさらおうとした。
 ヘイシャオそのものだが、理屈で考えると、記憶と肉体の年齢が合っていないはずである。

ホンシュア
 セレイエの〈影〉と思われる人物で、〈天使〉の体にさせられていた。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。

(サーペンス)
(ムスカ)〉が、ホンシュアのことを〈(サーペンス)〉と呼んでいた。
 ホンシュアの中身はセレイエだと思われるため、セレイエが〈(サーペンス)〉である……かは不明。

ライシェン
 ホンシュアがルイフォンに向かって呼びかけた名前。
 それ以外は不明。

斑目タオロン
 よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした斑目一族の若い衆。
 堂々たる体躯に猪突猛進の性格。
 二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
 ファンルゥの母親である最愛の女性を斑目一族に殺害されている。
 斑目一族が愛娘に害を及ぼさないようにと、不本意ながら〈(ムスカ)〉に従うことになった。が、ルイフォンたちに協力して、〈(ムスカ)〉の居場所を教えてくれた。

斑目ファンルゥ
 タオロンの娘。四、五歳くらい。
 くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。


[王家・他]

女王
 大華王国の現女王。十五歳。
 彼女の婚約を開始条件(トリガー)に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』が始まったと思われる。
 メイシアの再従姉妹(はとこ)にあたるが、メイシア曰く『私は数多の貴族(シャトーア)のひとりに過ぎなかった』。

シルフェン
 先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害されたらしい。

ヤンイェン
 先王を殺害し、幽閉されていたが、女王の婚約者として表舞台に戻ってきた謎の人物。
 メイシアの再従兄妹(はとこ)にあたる。
 平民(バイスア)を後妻に迎えたメイシアの父、コウレンに好意的だったらしい。

摂政
 摂政。女王の兄に当たる人物。
 摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。


[草薙家]

草薙レイウェン
 エルファンの長男。リュイセンの兄。
 エルファンの後継者であったが、幼馴染で妻のシャンリーを外の世界で活躍させるために
鷹刀一族を出た。
 ――ということになっているが、リュイセンに後継者を譲ろうと、シャンリーと画策したというのが真相。
 服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
 
草薙シャンリー
 レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。
 王宮に召されるほどの剣舞の名手。
 遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。

草薙クーティエ
 レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。
 可愛らしく、活発。

鷹刀ユイラン
 エルファンの正妻。レイウェン、リュイセンの母。
 レイウェンの会社の専属デザイナーとして、鷹刀一族の屋敷を出た。
 ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
 メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。


[藤咲家・他]

藤咲ハオリュウ
 メイシアの異母弟。十二歳。
 父親を亡くしたため、若年ながら藤咲家の当主を継いだ。
 十人並みの容姿に、子供とは思えない言動。いずれは一角の人物になると目される。
 異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
 女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。

藤咲コウレン
 メイシア、ハオリュウの父親。厳月家・斑目一族・〈(ムスカ)〉の陰謀により死亡。

藤咲コウレンの妻
 メイシアの継母。ハオリュウの実母。
 心労で正気を失ってしまい、別荘で暮らしていたが、メイシアがお見舞いに行ったあとから徐々に快方に向かっている。

緋扇(ひおうぎ)シュアン
『狂犬』と呼ばれるイカレ警察隊員。三十路手前程度。イーレオには『野犬』と呼ばれた。
 ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
 凶賊(ダリジィン)の抗争に巻き込まれて家族を失っており、凶賊(ダリジィン)を恨んでいる。
 凶賊(ダリジィン)を殲滅すべく、情報を求めて鷹刀一族と手を結んだ。
 敬愛する先輩が〈(ムスカ)〉の手に堕ちてしまい、自らの手で射殺した。
 似た境遇に遭ったハオリュウに庇護欲を感じ、彼に協力することにした。
 

[繁華街]

シャオリエ
 高級娼館の女主人。年齢不詳(若くはないはず)
 外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
 元鷹刀一族であり、イーレオを育てた人物であるらしい。
 実は〈影〉であり、体は別人。そのことをイーレオが気にしないようにと、一族を離れた。
 イーレオと同じく、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉であった。

スーリン
 シャオリエの店の娼婦。
 くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。ということになっているが妖艶な美女という説もある。
 本人曰く、もと女優の卵である。実年齢は不明。


===大華王国について===

 黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
 身分制度は、王族(フェイラ)貴族(シャトーア)平民(バイスア)自由民(スーイラ)に分かれている。
 また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊(ダリジィン)と呼ぶ。彼らは平民(バイスア)自由民(スーイラ)であるが、貴族(シャトーア)並みの勢力を誇っている。

1.暗礁の日々-1

1.暗礁の日々-1

 季節は、初夏へと移ろうとしていた。
 本格的な暑さがやってくる前の、心地のよいひととき。早起きになった朝陽に気づいて、箪笥(たんす)の中身を薄手に替える、そんな頃合いである。
 湿気の少ない爽やかな風が、窓から入ってきた。そこに時折、給餌をねだる雛鳥たちの喧騒が紛れ込む。今年もまた、屋敷の片隅にある倉庫に(つばめ)がやって来たのだ。
 可愛らしく、微笑ましい風物詩である。しかし、雛たちの必死な形相を思い浮かべ、リュイセンは眉間に皺を寄せた。
 あんな雛鳥ですら、自分にできることを懸命に()している。なのに自分は、何もできないでいる……。
 気ばかりが急いていた。
 リュイセンは朝の鍛錬を終えると、ルイフォンの仕事部屋に向かった。知らずのうちに大股になり、あっという間に到着する。いつもの通り、一応はノックをするものの、どうせ返事はないので無言で扉を開ける。
 廊下から、たったの壁一枚。それだけの差で、冷気に満ちた別世界となった。
 相も変わらず、四季も昼夜もない張り詰めたような空間に、空調の送風音と、カタカタというキーボードを叩く音だけが響いている。
「ルイフォン、俺に手伝えることはないか?」
 このところ毎日、リュイセンはこの部屋を訪れては、同じことを問うていた。それに対する、ルイフォンの答えも一緒だ。
「あれば、こっちから言いに行っている」
 振り返る気配もない猫背の上で、一本に編んだ髪と、その先に光る金の鈴がおとなしくじっとしていた。そっけないテノールは不機嫌だからではなく、頭が異次元に行っているからである。
「……すまんな」
 また邪魔をしてしまっただけに過ぎないことを確認し、リュイセンは声を落とす。半袖から覗く(たくま)しい上腕は、今日もまた宝の持ち腐れのようだった。


 半月ほど前――。
 斑目タオロンの協力で、〈(ムスカ)〉の潜伏先が判明した。
 郊外にある王族(フェイラ)所轄の庭園で、一般人は立入禁止の区域だという。
「隠れ家が見つかったのに、何故、突入しないんですか! 今こそ、総力をかけるべきです!」
 当然のように、リュイセンは一族あげての総攻撃を仕掛けるつもりだった。
 (くだん)の庭園は、王族(フェイラ)の管理下の施設とはいえ、政治的にも文化的にも重要なものではない。
 何代か前の王が療養のために作らせたもので、散策を楽しめるような広い菖蒲園の奥に、こぢんまりとした館がある。良くも悪くもそれだけであり、その王の死後はずっと放置されていた。
 いわば、忘れられた別荘だ。故に、それほど警備が厳しいとは、リュイセンには思えなかったのだ。
王族(フェイラ)所轄地は、まずいって」
 血気はやる兄貴分をルイフォンがたしなめた。
 執務室での、いつもの会議の席である。
「警備をしている奴らは、国の看板を背負った『近衛隊』だ。斑目の別荘に潜入したときみたいに倒していったら、鷹刀は国を敵に回すことになるんだぜ?」
 王族(フェイラ)の所有物であるために、腐った警察隊ではなく、規律の厳しい近衛隊が鉄壁の守りを固めている。たとえ価値のない施設でも、凶賊(ダリジィン)に押し入られては面子(メンツ)にかけて黙っているわけにはいかないだろう。
 手を出せば、王族(フェイラ)は必ずなんらかの報復をしてくる。そして、その手段は武力であるとは限らない。何しろ、相手は国なのだ。
「……くっ」
 リュイセンは唇を噛んだ。
 鷹刀一族は、凶賊(ダリジィン)が相手なら容赦はしないが、一般人や法には逆らわない。
 少し前のリュイセンなら、それでも『凶賊(ダリジィン)である鷹刀は、もとより国から疎まれている。ここで衝突を避けても同じだ』と言っただろう。
 だが今は、一族の最終的な目的が『緩やかな解散』だと知っている。一族の者たちが、できるだけ穏便に外の世界に溶け込むためには、反社会的行為は悪手であると、彼もまた理解していた。
「鷹刀の仕業だと分からないようして、急襲するしかありません!」
 我ながら情けない意見だと思いつつ、リュイセンは食い下がった。彼だって、卑怯な真似は好きではない。だが、それを曲げてでも〈(ムスカ)〉は捕らえるべきなのだ。
「強硬手段より、奴を誘い出す罠を仕掛けるほうが現実的だろう」
 熱く訴えるリュイセンに、そんなことも思いつかないのか、と言わんばかりの氷の嘲笑が向けられた。リュイセンの父にして、次期総帥エルファンである。
 はっとするものの、すぐに同意するのも(しゃく)で、リュイセンは押し黙った。だが、エルファンのもっともな提案は、歯切れの悪いミンウェイの声に却下された。
「すみません。それは難しそうです」
「どういうことだ?」
 エルファンが眉根を寄せると、申し訳なさそうにミンウェイが説明する。
「情報屋トンツァイの報告によると、近衛隊員たちは『国宝級の科学者が、凶賊(ダリジィン)に狙われているから保護するように』と命じられているそうです。そのため、〈(ムスカ)〉が外を出歩くことは、まずあり得ないと思われます」
 事実、現場に偵察に行った一族の者たちが二十四時間体制で監視をしていても、〈(ムスカ)〉の姿は確認できなかったという。
 一方、〈(ムスカ)〉の部下となった斑目タオロンならば、何度も目撃されている。〈(ムスカ)〉が金で雇った私兵と思しき者たちと共に、庭園を出入りしているそうだ。故に、〈(ムスカ)〉がそこに潜伏していること自体は疑わなくてよいだろう。
凶賊(ダリジィン)? 俺たちを警戒しているのか?」
 リュイセンが険しい声を上げると、すかさずルイフォンが答えた。
「いや、鷹刀もそうかもしれないが、どちらかというと斑目だ」
「斑目?」
(ムスカ)〉は、斑目一族の食客だったはずだ。重宝されていると聞いていたのに、どういうことだと、リュイセンは訝しむ。
「〈(ムスカ)〉を贔屓にして、いろいろと融通を利かせていた斑目の総帥が、俺の『経済制裁』のタレコミで逮捕されたのは知っているだろ? で、次に総帥になった奴が『〈(ムスカ)〉こそが、一族を窮地に陥れた諸悪の根源だ』と言って、血祭りに上げようと躍起になって探しているらしい」
「なるほど」
「それより……、〈(ムスカ)〉が『国宝級の科学者』と呼ばれている理由は、当然、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』のためだろう」
 ルイフォンの目が、すっと細まった。〈七つの大罪〉や『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』が関わると、彼の雰囲気は急に鋭くなる。
「そもそも〈(ムスカ)〉は、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』に必要な技術のために作られた存在だ。潜伏先の庭園で、なんらかの研究をさせられていると考えられる。――奴がちっとも出てこないのなら、監禁されているのかもしれない」
 続けて発せられた不穏な発言に、場の空気が揺れる。しかし、ルイフォンはふっと口元を緩めた。
「自らの意思による引き籠もりか、他者による監禁か。そこは重要じゃない。どちらにしても、〈(ムスカ)〉は庭園から出てこない。結局のところ、そのほうが『双方にとって』都合がいいからだ――」
 ルイフォンは言葉を切り、じっと皆を見渡し……、ゆっくりと続ける。
「〈(ムスカ)〉と――、『摂政』の両方にとって、な」
 リュイセンはごくりと唾を呑み、小さく繰り返した。
「摂政……、か」

 ――そう。
(ムスカ)〉を保護していたのは、『摂政』だった……。

 女王の実兄であり、この国の事実上の統治者である。
「てっきり、『女王の婚約者』が黒幕だと思ったんだがな……」
(ムスカ)〉の潜伏先が王族(フェイラ)の所轄地と聞いたとき、リュイセンは当然、女王の婚約者の所有地だと思っていた。現在の〈七つの大罪〉を牛耳っているのは、彼だと考えていたからだ。
 婚約者は、四年前まで〈七つの大罪〉を一任されていた男だ。
 女王の従兄で、すなわち先王の甥。先王の信頼が最も(あつ)い人物といわれていた。しかし、恩を仇で返すかのように先王を殺害し、内々に幽閉された。
 端的にいって、反逆者だ。それにも関わらず、女王の婚約者として表舞台に返り咲いたのだ。如何(いか)にも胡散臭い。
 ――そう思っていたのだが、違った。〈(ムスカ)〉の背後にいたのは『摂政』だった。
「わけが分からん。――それより、俺たちが国を相手取るような羽目になったことのほうが、もっと分からんけどな……」
 リュイセンのぼやきに、ルイフォンが口角を上げた。
「〈七つの大罪〉は、王の私設研究機関だ。そして、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』は、女王の婚約が開始条件(トリガー)になっている。王族(フェイラ)が関わってくるのは必然だろ?」
 そう言って、猫の目を光らせ、挑戦的に嗤う。
 まったく、この弟分には敵わないと、リュイセンは思う。
 困難なときほど、不敵な顔をする。
 魂が、強い。
「今はまだ、もう少し調査が必要だな」
 一番奥の上座から、魅惑の低音が響いた。
 組んでいた足をゆっくりと(ほど)き、イーレオが上体を起こす。窓からの光を反射しながら、綺麗に染めた黒髪がさらりと肩を流れた。その気配だけで、皆の気が引き締まる。
 今までひとこともなく、イーレオは成り行きを見守っていた。
 会議で発言するのは、主にリュイセンとルイフォン。時々、エルファンが厳しい指摘を入れる。
 最近そんなことが多いと、リュイセンは気づいていた。――イーレオは、リュイセンたちに一族を委ねようとしているのだ、と。
「ミンウェイ。引き続き、情報屋との連絡を密に頼む」
「はい」
 イーレオの指示に、ミンウェイが草の香を漂わせる。
「エルファンは、現場の者たちに直接、話を聞いてこい。状況の把握と同時に、彼らを労ってやれ」
「承知いたしました」
 低い声と共に、エルファンが深々と頷いた。 
「親父、俺はセキュリティを探る」
 すかさずルイフォンがそう言うと、イーレオが「頼む」と応じる。
 解散の空気に、皆が立ち上がろうとしていたときだった。
「祖父上。俺も、父上に同行しては駄目ですか?」
 リュイセンは手を挙げた。たわいのないことなのに、指先がわずかに緊張した。
 刹那、イーレオは驚いたように睫毛(まつげ)を跳ね上げ、しかし、すぐに破顔した。
「――ああ、頼むぞ」


  エルファンとリュイセンが足を運んだことで、現場に詰めていた者たちの士気は上がった。だが、収穫は何もなかった。
 それから半月。
 いまだ、状況は好転しない……。


「リュイセン、すまんな」
 かすれたテノールが聞こえ、リュイセンは現実に引き戻された。
 ルイフォンは相変わらずモニタ画面を凝視していた。その姿勢のまま、ぽつりぽつりと呟く。
「どうしても、庭園の門を抜ける方法が見つからない。近衛隊の守りが堅すぎる」
 弟分の猫背が、心なしか更に丸くなる。
「外に出てきた〈(ムスカ)〉の私兵を、買収か脅迫で協力させることも考えたが、失敗した場合、〈(ムスカ)〉にこちらの動きを知らせる羽目になる。〈(ムスカ)〉はまだ、俺たちに居場所を突き止められたことに気づいていない。無警戒な状態だ。それを活かすべきなんだ……」
「お前はよくやっているよ……」
 リュイセンは、溜め息混じりの声を落とした。  
 あの会議のあとすぐ、ルイフォンは館の監視カメラを支配下に置くことに成功した。
 予想通り、〈(ムスカ)〉はそこで起居していた。
 館の内部には〈(ムスカ)〉本人に、斑目タオロンと娘のファンルゥ。それから、〈(ムスカ)〉に雇われた私兵たちだけがいた。
 近衛隊は館には近づかない。どうやら、〈(ムスカ)〉と摂政との間に協定があるらしく、きっちりと住み分けているらしい。彼らは、『国宝級の科学者』を守るために、庭園の外部からの侵入者を警戒している。近くに不審な者がいないかは勿論、外から帰ってきた〈(ムスカ)〉の私兵に怪しい者が紛れていないか、目を光らせている。
 その一方で、私兵たちが、如何(いか)にも胡散臭そうな風体をしていても、咎めることはない。内心では眉をひそめているのかもしれないが、〈(ムスカ)〉に雇われた者だと確認が取れれば、表向きはお構いなしだ。おそらく、〈(ムスカ)〉が館に籠もって技術を提供するのと引き換えに、摂政は私兵には不干渉を約束したのだろう。
 摂政にそれほどの譲歩をさせるほどの技術とは何か。
 気になったが、あいにく監視カメラで確認できる範囲に研究室はなかった。要するに、不用意に映してはいけないものがあるのだろう。
「タオロンの協力が得られればな……」
 うなだれるルイフォンに、リュイセンは何も言うことができない。
 タオロンには常に監視役の目が光っており、少しでも〈(ムスカ)〉に逆らうような素振りを見せれば、人質であるファンルゥが殺される。
 ルイフォンたちと接触したときも、実は監視されていたのだ。
 シャンリーが『発信機を持ち帰れ』と言ったとき、タオロンは『俺は見張られている』と耳打ちした。そして、斬られたふりをして地面に膝を付き、さっと発信機を拾ったのだ。
 だから、タオロンとのやり取りはそれきりだ。連絡を取ることはできない。
「言っても仕方ないんだけどさ。タオロンに監視が付いてなけりゃ、新入りの私兵のふりをするとかで、あいつの手引きで堂々と入れるんだよな……」
 ルイフォンらしくもない弱音だった。
 (こん)の詰め過ぎだった。打開策を見つけられず、心が参っている。
 初めは『〈(ムスカ)〉の潜伏先を教えてくれただけで、タオロンには御の字だ』と、ルイフォンは言っていた。『あいつは危険を犯して協力してくれた。なんとかして、あいつとファンルゥを自由にしてやりたい』と――。
 リュイセンはふと、ルイフォンの猫背から漂う雰囲気に不安を覚える。
「お前……、ちゃんと寝ているか?」
 今にもふらりと倒れそうな、危うげな気配がした。
「毎晩、メイシアが添い寝してくれているぞ」
「なっ……」
 背を向けたまま、自慢げに言うルイフォンに、リュイセンは一瞬、呆気にとられ、次にむっと片眉を上げた。そして最後に、馬鹿馬鹿しくなって(きびす)を返そうとした……が、やはり気になって、ルイフォンを強引にモニタから引きはがす。
「な、何するんだよ!?」
 OAグラスの下の、血の気の失せた顔。青白さは、決してモニタの光の反射などではない。その証拠に、目の下にはくっきりと濃い(くま)ができていた。
「少し、休め」
 リュイセンは、厳しい声で言い放つ。
 ベッドに引きずっていくべきか。無理にでも止めてやらないと、この弟分はいつまでも作業を続けるに違いない。
 しかし、ルイフォンは冷たい目で睨みつけてきた。
「リュイセン、今が正念場だ。〈(ムスカ)〉が捕まらなきゃ、ミンウェイが不安だろう。それに――」
「それに?」
「〈(ムスカ)〉が、メイシアを狙っている。それを思うと、横になったところで眠れるわけがない」 
 憎悪すら含んだ鋭い声が、ここにはいない敵を斬りつける。
「……」
 タオロンとの接触は、朗報に間違いなかった。しかし、そもそも何故、彼が出てきたのかといえば、〈(ムスカ)〉の命令でメイシアを捕らえに来たのだ。
「メイシアに、何があるっていうんだ……」
 切なげに漏らされたルイフォンの呟きに、リュイセンは掛ける言葉を持っていなかった。
 凶賊(ダリジィン)のルイフォンと、貴族(シャトーア)のメイシア。
 出逢うはずのなかったふたりは、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』のために、仕組まれて巡り逢った。
 だから、ふたりを結びつけた不吉な運命の輪を断ち切らなければ、彼らに安寧は訪れない――。
「心配かけて、すまんな」
 兄貴分が何も言えずにいるのを見て、さすがのルイフォンも語調を和らげ、軽く詫びた。
「いや……。……無茶はするなよ」
「ああ」
 そして弟分は、気分を変えるかのように癖のある笑顔を浮かべる。
「それよりさ、返事は貰ったのか?」
「は?」
 あまりに唐突な質問に、リュイセンはなんのことだか分からない。
「ミンウェイにプロポーズしたんだろ?」
「なっ? なんで、お前がそれを知っているんだ!?」
「ああ、やっぱり、そうだったんだな」
 そう言われて初めて、リュイセンは(かま)をかけられたことに気づく。
「ど、どうして、お前、それを……!」
「んー? ミンウェイの様子から、なんとなく。それにお前、緋扇シュアンとやりあっていたし」
 普段、仕事部屋に引き籠もってばかりのルイフォンなのに、何故そんなに都合よく、シュアンとひと悶着あった、あの場を目撃していたのか……。
 リュイセンは頭を抱える。
 ――リュイセンにとっては不幸なことに、それは本当にただの偶然だった。あまりに外に出ないルイフォンを心配したメイシアが、半ば強引に彼を庭に連れ出したときの出来ごとだったのだ。
「……まだ、返事はない」
 リュイセンはそれだけ言い残し、足早にルイフォンの仕事部屋を出ていった。

1.暗礁の日々-2

1.暗礁の日々-2

(ムスカ)〉は何故、メイシアを捕らえようとしているのだろうか――?

 タオロンとの接触のあと、そのことがずっと、頭から離れなかった。
 ルイフォンは癖のある前髪を乱暴に掻き上げ、深い溜め息をつく。
 メイシアは、以前にも〈(ムスカ)〉とタオロンに狙われている。イーレオに『貴族(シャトーア)令嬢誘拐』の濡れ衣を着せるために、彼女の身柄が必要だったからだ。
 彼女の扱いは、あくまでも『イーレオを逮捕するための駒』であり、生死は問わないとされていた。
 貧民街で対峙した際、メイシアは駆け引きの中で、派手に〈(ムスカ)〉を挑発した。そして、生意気な小娘だと激怒した〈(ムスカ)〉は、本気の殺意を見せた。
 あのときの〈(ムスカ)〉にとって、メイシアは死んでも構わない存在だった。
 それが今度は、生きたまま捕らえようとしている……。
「状況が、変わったんだ……」
 今の〈(ムスカ)〉は、メイシアに価値を見出している。
 何かを、知ったのだ。
 ――いったい、何を?
「…………」
 ルイフォンは、じっと虚空を見据えた。
 記憶にないけれど、異父姉セレイエはルイフォンに会いに来た。そのとき、彼女はこう言ったらしい。

『遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢うわ。その子は、私に選ばれてしまった可哀相な子』

 その言葉によって、ふたりが出逢った事件の『目的』と『手段』がくるりと入れ替わった。
『イーレオを陥れるため』に、メイシアが鷹刀一族の屋敷に誘い込まれて、ルイフォンと出逢った――のではない。
『ふたりが巡り逢うため』に、メイシアが鷹刀一族の屋敷へと導かれるような事件が企てられたのだ。
 ――そう。
 このことは、もっとずっと前に、セレイエの〈影〉と思しき〈天使〉、ホンシュアが告白していた。

『あの子……メイシア。私の選んだあの子を、ルイフォンは……どう思った?』
『ごめんね……。私が仕組んだの』

 はっきりと、そう言っていた。
 なのに今まで、考えても仕方ないと放置していた。深い謎に包まれているから、分かるわけないと。勝手に思い込んで、重く受け止めていなかった。
 この出逢いは偶然ではないと、教えられていた。
 必然だと、知っていた。
 出逢えたことに浮かれるばかりで、ホンシュアの言葉が警告であることに――。
「俺は馬鹿だ。なんで、気づかなかったんだよ……」
 女王の婚約を開始条件(トリガー)に、すべては動き出す。その計画(プログラム)に、メイシアは深く組み込まれている。

 メイシアは、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』の核――。

 計画(プログラム)に関わる者は、彼女の身を渇望する。
 (おのれ)の欲のための『駒』として……。

「いったい、メイシアに何が隠されているっていうんだ……」
(ムスカ)〉は、その『何か』を知ったのだ。だから、彼女を捕らえようとしている。
 そうとしか考えられない
 だから、なんとしてでも〈(ムスカ)〉を捕らえ、情報を吐かさなければならない。
 これ以上、彼女を危険に晒さないために……。
 …………。
 ……。


「……」
「…………」
 温かな気配に、ルイフォンは、はっと目を開けた。
「え? あれ? 俺……」
 見上げた先に、今にも泣き出しそうなメイシアの顔があった。仕事中なのか、メイド服を着たままである。
 彼女の後ろには、見慣れた天井。――ルイフォンは、自室のベッドに寝かされていることを理解した。
「ルイフォン、仕事部屋で倒れていたの」
 メイシアの白い頬を、つうっと涙が伝う。跳ねるような息遣いと共に、彼女は慌てて目頭を押さえた。
「ご、ごめんなさい。気が抜けたら、つい……」
「メイシア……」
 ルイフォンは手を伸ばし、彼女の黒絹の髪をくしゃりと撫でた。指先を抜ける、細く滑らかな感触。(いと)おしさがこみ上げ、そのまま肩に手を回して、ぐっと彼女を引き寄せる。
「きゃっ」
 スカートの裾がふわりと広がり、メイシアがベッドに倒れ込む。
 彼女の重みと温もりと匂い。確かな存在感。ルイフォンは、彼女を強く抱きしめる。
「……守るから。…………必ず」
「ルイフォン?」
 不安げなメイシアの声。ほんの一瞬だけ、彼女の目線が背後を気にしたが、すぐにルイフォンだけを見つめ直す。
 気づけば、一歩離れたところにミンウェイがいた。医者である彼女は、倒れたルイフォンを看てくれていたのだろう。彼が目覚めたことに、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「……すまん」
 随分と心配をかけたらしい。
 いつものメイシアなら、ミンウェイの前でこんなふうに抱きしめられたら真っ赤になっている。ミンウェイだって、『相変わらず、仲がいいわねぇ』と冷やかしのひとことくらい言うだろう。
「大丈夫、ただの寝不足よ」
 力強い美声が、深刻な雰囲気を吹き飛ばした。それから、つんと口を尖らせ、ミンウェイは両手を腰に当てる。
「まったく。倒れるまで作業し続けるなんて、自己管理がなってないわ」
「……返す言葉もないな」
 ここは素直に怒られるしかないだろう。何しろ、メイシアを泣かせたのだから。
「ドクターストップよ。今日はこのまま安静。薬を処方するわ」
「!? 薬までは要らないだろ」
 ルイフォンの顔が引きつった。
 ミンウェイの処方する薬は、多くが彼女のオリジナルだ。効果は保証する。一般に出回っている薬より、遥かに質が良いと思う。
 だが、無茶をして倒れたルイフォンに出す薬となると――。
 絶対安静のために明日の朝まで目覚めない睡眠薬とか、体が痺れて起き上がりたくても起き上がれなくなる筋弛緩剤とか……何か裏がありそうで怖い。
「あら? 要らないの? せっかくメイシアが、メイド長にお休みを貰ってきたのに」
「は? 薬って、メイシアのことか?」
 狼狽するルイフォンに、ミンウェイの綺麗に紅の引かれた唇がすっと上がる。
「そうよ。今のルイフォンには勿論、体の休息が必要だけれど、それ以上に心の休息が大切、ってことだったんだけど――」
 そう言いながら、彼女は視線をメイシアへと移す。
「残念だけど、ルイフォンはひとりで休みたいようね。メイシア、仕方ないから一緒にお茶でも飲みましょうか」
「ちょっと、待て!」
 ルイフォンの慌てたテノールに、メイシアの細い声が重なる。
「あ、あの、ミンウェイさん。そのっ……」
 腕の中の彼女は、うっすらと顔を赤らめながら、ぎゅっとルイフォンの服を握った。
「す、すみませんっ。ルイフォンをからかわないであげてください。彼はっ……、……いいえ、私が、そのっ……、ルイフォンと一緒に居たい……ので……!」
 いっぱいいっぱいの叫びのあと、彼女の頬が急速に染まる。
 ルイフォンとミンウェイは、きょとんと顔を見合わせた。互いに瞳を瞬かせ、どちらともなく笑みを浮かべる。
「メイシア、可愛いわぁ」
 半ば、うっとりと。ミンウェイが感嘆の声を上げた。
「待て待て。それは俺が言う台詞だ」
「別にいいじゃないの。ルイフォンたら、愛されまくっちゃって、この果報者」
 ミンウェイはやたらと楽しそうで、ルイフォンがベッドで寝ているのでなければ、肘で小突き回していたに違いない。
「それじゃ、お邪魔虫は消えるわね」
 波打つ髪を翻し、ささっと(きびす)を返す。ひと呼吸おいてから、柔らかな草の香が届いた。
「あ、ミンウェイ」
 ルイフォンは呼び止め、……そこでためらう。
 ――リュイセンに、返事をしてやれよ。
 口元まで、言葉が出かかった。しかし、呑み込んだ。
「――……迷惑をかけた。ありがとな」
 リュイセンとミンウェイのことは、他人が口を出す問題ではない。
 ルイフォンとしては、ふたりがうまくいってくれれば嬉しいと思う。リュイセンにとっても、一族にとっても、そのほうがいいはずだ。
 けれど、ミンウェイにとっては? そう思ったとき、何も言えなくなる。
 ミンウェイは、ルイフォンとメイシアの仲を、誰よりも早く祝福してくれた。野次馬根性丸出しではあったが、我が事のように、心からふたりの幸せを願ってくれた。
 それはまるで、自分自身の幸せは諦めたから、代わりにルイフォンたちの幸福に憧れを託す――とでもいうように……。
 そんな気がするのは、考えすぎだろうか……?
「どういたしまして。――ご馳走様」
 ミンウェイは、ふふっと笑いながら、ご機嫌な足取りで部屋を出ていく。漂ってきた草の香は、いつも通りに優しい香りであるはずなのに、吸い込むと妙に息苦しかった。


「ルイフォン。私のことは心配しなくて大丈夫だから」
 ミンウェイの背中が消えたあと、ふたりきりになった部屋でメイシアが囁いた。
 抱きしめた手をルイフォンが離さなかったため、彼女はそのままおとなしく添い寝してくれた。彼女の吐息が、喉元に甘く掛かる。白いシーツに流れる、長い黒絹の髪が(なま)めかしい。
 ――なのに。こんなに近くに彼女はいるのに、ふとした瞬間に、心が鉛のように重くなる。彼女を何者かに奪われてしまう。そんな幻影に囚われる。
「私は外に出ないようにしているし、いつも誰かが一緒にいてくれる。危険なことなんて何もないの」
 澄んだ声が、懸命に訴える。先ほどルイフォンが切羽詰った顔で、『守るから』と言ったのを受けてのことなのだろう。
 メイシアには『〈(ムスカ)〉が捕まるまで、屋敷の敷地内から出ないように』と言ってある。
 継母のお見舞いや、花嫁衣装を依頼しているユイランとの約束が、先送りになって可哀想なのだが、彼女は嫌な顔ひとつせずに従ってくれている。
 しかし、メイシアが『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』の核なら、〈(ムスカ)〉を捕らえたところで、別の誰かに狙われないとも限らない。
 すべての謎を解き明かすまで、彼女の身は(おびや)かされ続けるのだ……。
「そんな顔しちゃ駄目」
 黒曜石の瞳が、凛と覗き込んできた。睨まれたわけではないのに、むしろ(いと)おしげな眼差しなのに、ルイフォンの心に鋭く突き刺さる。
「すまん」
「ううん、謝らないで。ルイフォンが、そんな辛そうな顔をする必要はない、ってだけだから」
 腕の中で、メイシアが首を振る。けれど、ルイフォンは深い溜め息を落とした。
「『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』を作ったのは、セレイエだ。――セレイエが、お前を『核』に何かを企んでいる」
 セレイエと、セレイエの〈影〉であるらしいホンシュアの弁から、断言できる。
『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』は、緻密で巧妙(トリッキー)。読み解くことが難しい。まるで、セレイエの組んだコンピュータプログラムの命令(コード)そのものだ。
「俺の異父姉が、お前を巻き込んだ。〈影〉のホンシュアを差し向けて、お前に何かを仕掛け、ペンダントを渡して、その記憶を消した。……すまない」
「ルイフォン」
 メイシアの指先が、彼の前髪をくしゃりと撫でる。
「私が『核』なら、ルイフォンも『核』。――『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』は、『私たちが出逢う』ように仕組まれた。私だけでも、あなただけでもないの」
「……」
「セレイエさんは、ルイフォンにも何かを仕掛けていた」
「……ああ」
 四年前、母を亡くしたすぐあとに、異父姉はルイフォンを訪ねてきた。〈天使〉の羽を広げ、冷却剤が必要になるほどの何かをしたと、少女娼婦スーリンが証言している。
 ――セレイエは今、何処にいるのだろうか。
 彼女が生粋の〈天使〉だと知ったあと、隠しごとばかりする年寄り連中を問い詰めてみれば、『自分のことを知りたいの』と言って、自ら〈七つの大罪〉に飛び込んでいったと教えられた。
 一方、死んだ母によれば、異父姉は貴族(シャトーア)と駆け落ちしたことになっている。
 だが、セレイエの駆け落ち相手に該当しそうな人物は見つからなかった。ここ数年で姿を消した貴族(シャトーア)の男といえば、老衰で死んだ爺さんばかりなのだ。そもそも、駆け落ちというのは嘘か、冗談か、あるいは(たと)えだったのかもしれない。
 ただ――。
 少なくとも、〈(ムスカ)〉が潜伏している庭園には『セレイエはいない』と断言できる。
 何故なら、ルイフォンが難なく、監視カメラを支配下に置けたからだ。クラッキングの姉弟子(あねでし)であるセレイエが敵に回っていれば、そう簡単にはいかなかったはずだ。
「ルイフォン。私、セレイエさんは、ルイフォンに助けを求めているんだと思うの」
「……助け?」
 思ってもみなかった発想に、ルイフォンは問い返す。
「うん。〈天使〉の力は、命を削るもの。セレイエさんは、自分自身を代償に何かをしようとしている。――必死なの。すがる思いで、ルイフォンに協力を求めた……。なんとなく、そう感じる」
「……でも、俺は……セレイエを許せない」
 ちゃっかりしているくせに、どこか無慈悲になりきれない。本当は弱いセレイエ。
 ルイフォンとメイシアを巡り逢わせ、駒として利用するつもりなら、〈影〉のホンシュアは『あなたが幸せになる道を選んで』なんて遺言を、タオロンに託すべきではなかった。
 ――身勝手で、卑怯だ。
『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』は、メイシアの父を死に追いやった。快方に向かっているものの継母は正気を失い、異母弟ハオリュウは足に一生残る傷を負った。
「あいつのせいで、メイシアの家族は滅茶苦茶になった……。俺は、お前を不幸に――」
 そう言いかけた瞬間、ルイフォンの唇は柔らかなものでふさがれた。
「!」
 ふわりと優しく、触れるように口づけて、メイシアはルイフォンの胸元に頭をうずめる。顔を隠そうとする彼女の細い髪が、さわさわと顎をかすめた。
 けれど、そのくすぐったさよりも、唇に残る衝撃のほうがずっと大きい。彼女から口づけたことなんて、数えるほどしかないのだから。
「メイシア!?」
「ルイフォンは、私を幸せにすることはあっても、不幸にすることはない。私が不幸になるのなら、それは私自身の責任なの。不幸に流されるままの、無力な自分が悪いだけ」
 静かに紡がれた強い言葉が、熱く胸に掛かる。
「……!」
 忘れていた。彼女は、彼のための戦乙女なのだ。
 守られるだけの存在ではない。
 (たお)やかな外見からは想像できないほどに強く、彼を守ってくれる――。
 ルイフォンは『すまん』と言いかけて、途中でやめた。
 これでは、屋敷に来たばかりのころのメイシアと同じだ。あのころの彼女は、何かにつけては謝ってばかりだった。だから彼は、『そういうときはな……』と、ふさわしい言葉を教えたのだ。
「ありがとう、メイシア」
 ――これこそが、彼女に捧げるべき言葉。
 彼女は少し驚いたように、「ううん」と応える。
「ルイフォンこそ、いつも私のことを心配してくれて、ありがとう」
 顔は伏せたままだったが、彼に触れる彼女の指先に力が入る。
「……ルイフォン。私だって聖人じゃない。私も……セレイエさんがしたことを、許すことはできない。けど、タオロンさんが、ホンシュアの言葉を伝えてくれた――」

『計画では、藤咲メイシアの父親が死ぬことはなかったそうだ』
『それが、自分の考えの甘さから、〈(ムスカ)〉を暴走させ、〈天使〉を悪用させてしまった。なんと詫びたらよいか分からない、と』

「私は、セレイエさんを許すことはできない。――でも、彼女が必死の思いを抱えていることだけは、分かってあげられる自分でありたいの」
「メイシア……」
 ルイフォンは、メイシアを強く抱きしめる。
 彼女を絶対に離さない。誰にも奪わせない。
「そうだな。お前の言う通りだな……」
 ――ふと。ルイフォンは胸元に硬い感触を覚えた。
 それが何かに思い当たり、はっとする。
「忘れていた。お前のペンダント――!」
「え?」
「それは危険だ。俺が預かる」
 スーリンに話を聞いたとき、すぐに取り上げようと思っていたのに、タオロンの襲撃ですっかり忘れていた。
『ルイフォンと出逢う少女の手に、ペンダントは渡る』――セレイエはそう言った。
 つまり――。
「ペンダントは、お前が『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』の核だという『目印』だ」
 メイシアは『お守り』と思い込んで、大切にしていた。いつも身につけ、やたらと触る癖まであった。まるで、ペンダントの存在を知らしめるかのように――。
 いったい、『誰』への『目印』か。
 スーリンにとっても目印になっていたが、彼女は偶然、〈天使〉のセレイエを目撃してしまっただけの予想外(イレギュラー)だ。
 だから、このペンダントを『目印』に、何者かがメイシアを狙ってくる……。
「あ……! うん、分かった」
 メイシアは半身を起こし、ペンダントを外す。ルイフォンもまた体を起こして、それを受け取った。
 掌の上に載せられた、石の質感。さらさらと流れる鎖の感触。
 金属の響き合う高い音。
 そして――。
『ライシェン』……。
 ホンシュアの声が蘇る。彼女と会ったとき、呼びかけられた名前だ。
 その声は、セレイエの声と重なり、ルイフォンの中で木霊(こだま)する。セレイエもまた、この名前を口にした。そんな記憶が、体の内部から湧き出てくる。
「……メイシア。俺、たぶん、四年前に、このペンダントをセレイエに見せられている。忘れているのに、どこかで覚えている。『ライシェン』という奴と繋がる、何か――だと思う」
 メイシアは、こくり頷いた。
 その首元が、何か淋しげに感じられた。ずっとそこにあったものが、なくなったからだろう。
「お前に、ペンダントを贈りたいな」
「え?」
「――あ、違うか。指輪か」
「えっ、ええっ!?」
「だって、お前は俺のものだし」
「っ! ――!」
 慌てふためくメイシアが可愛らしい。
 どうやら指輪というのは、思った以上の名案のようだ。ルイフォンは猫のような瞳を輝かせ、きっぱりと宣言する。
「よし、決めた。お前に指輪を贈る」
 今は、メイシアを外の店に連れて行くことはできないから、専門の者を呼びつけよう。そういう貴族(シャトーア)っぽいことを彼女は嫌がるかもしれないが、今回は特別だ。
 心を踊らせ、そう言おうと思ったとき、メイシアが必死な顔をこちらに向けた。
「あっ、あのね、私もっ……。ええと、メイド見習いの初月給、全部使っちゃったけど、また貯めるから。だから、ルイフォンと――」

 指輪の交換をしたい。

 心臓が跳ねた。
 否、止まるかと思った。
「そうだよな……」
 第一声は、情けなくもかすれてしまった。だから、きちんと言い直す。
「それが、俺たちらしいな」
 そして、ルイフォンは、抜けるような青空の笑顔を浮かべる。
 ゆっくりと手を伸ばし、傍らにいるメイシアを引き寄せた。彼女の頭が自然に彼に預けられると、触れ合った箇所から強い生命の力が行き交うのを感じた。
 ――ミンウェイの処方する薬は、本当によく効く薬だ。
 ルイフォンはそう思い、大切に大切にメイシアを抱きしめた……。

1.暗礁の日々-3

1.暗礁の日々-3

 初めての求婚者は、ミンウェイに四つ葉のクローバーを贈った。
 花言葉の通り、彼は彼女の『幸運』を願い、『私のものになって』という愛の告白をし、一方的に将来を『約束』してくれた。
 四つ葉のクローバーに載せられた彼の想いは、ことごとく叶わなかった。
 ミンウェイが、彼を殺したからだ。
 それが、父に命じられた仕事だったからだ。
 裏切られた花言葉たちは、最後の花言葉に意味を変える。
 そう……。
 ――『復讐』に。
「私は、決して幸せになってはならない……」
 そして彼女は、自分自身に(いまし)めの呪縛を掛けた――。


 料理長への連絡事項があったため、ミンウェイは夜の厨房へと足を運んだ。
 暗い食堂を抜ける途中で、奥から漏れ出る橙色の明かりと共に、楽しそうな気配を感じる。今の時間、料理長は明日の仕込みをしているのだが、今日はメイシアもいるようだ。
 彼女は暇を見つけては、料理長に教えを請うているらしい。教え甲斐のある生徒だと、いつだったか料理長が自慢げに話していた。
 飲み込みもよいが、何よりも嬉しそうに料理をするのがよいという。『ご馳走する相手のことを考えているのですねぇ』と、小さな目が頬肉に埋もれそうなほどに、福相をほころばせていた。
「ごめんなさい、料理長。今、いいかしら?」
 ミンウェイは戸口で声を掛けた。中の光は、彼女には少し眩しい。
「あ、ミンウェイさん」
 エプロン姿のメイシアが、ぺこりと頭を下げる。そして彼女はさっと料理長のそばへ寄り、彼が掻き回していた鍋の番を代わった。どうやら、焦がさないように煮詰めるものであるらしい。
 料理長は、にこにこしながらメイシアに礼を言い、こちらにやってくる。
「メイシア、本当にいろいろできるようになったのねぇ」
「ええ。彼女が手伝ってくれるので、助かっています」
 ミンウェイの感嘆の声に、料理長は立派な太鼓腹を揺らしながら、全身で大きく頷いた。
 料理長に連絡事項を伝えながら、ミンウェイは数日前に、ルイフォンが倒れたときのことを思い出す。
 メイシアは、ルイフォンの眠りが浅いことにずっと前から気がついていて、ミンウェイのところに相談に来ていた。ミンウェイ自身、彼の顔色が悪いのは知っていたから、医者として睡眠薬を処方しようかと悩んでいた。
 けれど、薬は所詮、一時しのぎ。ルイフォンの不眠は不安からくるものだから、根本的な解決にはならない。
 だから、案の定といった具合いに彼が倒れても、薬は出さなかった。その代わり、メイシアに付き添いを頼んだ。
 あの日、ふたりがどんな話をしたのかは知らない。知る必要もない。重要なのは、ルイフォンがすっかり元気になったということだけだ。気を張っている感じはあるものの、今の彼はとても安定している。そして、メイシアもまた、生き生きとしている。
 ふたりの関係は理想だと、ミンウェイは思う。
 まさに、相思相愛。
 時々、目のやり場に困るが、微笑ましい。……ほんの少しだけ、心が苦しくなることがあるけれど――。
 伝達が終わり、料理長が鍋に戻ると、メイシアは自分の作業を再開した。葱を細かく刻んでいる。危なっかしかった包丁さばきも、見違えるようだ。
 彼女のそばには、一人分の食器が用意されていた。
「メイシア、それ、ルイフォンへの夜食?」
 ミンウェイが尋ねると、メイシアは少し照れ、しかし満面の笑顔を浮かべた。
「はい。お手伝いをさせていただきながら、お夜食の作り方も教わっているんです」
 簡単に摂れ、かつ腹持ちがする雲呑(ワンタン)スープだそうで、葱は仕上げらしい。
 だが、食べるほうは手軽でも、作るほうはかなりの手間だろう。見た目には分からないが、幾つもの食欲をそそる香りが複雑に絡み合っている。つまり、それだけの材料が使われているわけだ。
「作業中のルイフォンに、この味の奥深さが分かるのかしら……」
 ミンウェイは、思わずそう呟いてしまう。
「でも、美味しかったときは、ちゃんと美味しかったと言ってくれるんですよ」
「それって……、苦労して作ってあげても、美味しくないと思ったら……?」
「ルイフォンは、お世辞は言いません」
「……」
「それでいいんです。彼の好みが分かりますし、それに……。――褒めれたとき……、そのっ、凄く……嬉しいから」
 そう言って、メイシアは頬を染める。
 どうやら、野暮だったようだ。溜め息混じりに「まったく、あなたたちは……」と、苦笑するしかない。
 そのとき、机に置かれていたメイシアの携帯端末が、メッセージの着信を伝えた。彼女の連絡先は限られた者しか知らない。珍しいことだ。
 メイシア自身もそう思ったのだろう。わずかに眉根を寄せながら表示を確かめた。
「スーリンさん!」
「えっ!?」
 ルイフォンを巡る恋敵であったはずの、少女娼婦スーリン。仲良くなったとは聞いていたが、こんなふうにやり取りまでしていたとは驚きだ。
「今、読んでいいですよ」と料理長から優しい声が掛かり、メイシアは嬉しそうにメッセージを開き……顔色を変えた。

 ――メイシア、今回はあまりいい話じゃないの。ごめんね。
 女王陛下がご婚約されて、貴族(シャトーア)はおおまかに、ふたつの派閥に分かれたのは知っている?
 今まで政務を執られてきた摂政を支持する派閥と、これから先、女王陛下と政治を行われることになる婚約者の派閥ね。
 さっきお見送りした貴族(シャトーア)のお客様の様子だと、水面下で権力争いが激しくなっているみたい。どちらにつくべきかと、ぶつぶつと漏らしていたわ。
 それだけなら、メイシアに連絡することでもないんだけど、気になることを言っていたのよ。
『藤咲の当主は、餓鬼のくせに、おふた方から贔屓にされている。まったく忌々(いまいま)しいことだ』――って。
 藤咲の当主というのは、メイシアの異母弟さんのことよね? 『今を時めく、悲劇の貴公子』って、少し前に話題になっていた。
 王宮は随分と、きな臭いみたいよ。政情を考えると、異母弟さんは否が応でも巻き込まれざるを得ないと思う。だって、藤咲家って、今、一番、勢いのある貴族(シャトーア)だもの。
 正直、私にはどうしたらいいのか、分からない。だから、ルイフォンとか、鷹刀の人たちに相談してみて。異母弟さんの力になってあげてね。
 それじゃ、また連絡するわ。今度は楽しい話をしたいわね――。

「ハオリュウが……」
 メイシアは、真っ青になって声を失った。


 メイシアのことが心配だったので、できあがった夜食を運ぶ彼女に付き添って、ミンウェイはルイフォンの仕事部屋に行った。
 事情を聞いたルイフォンが、メイシアの髪をくしゃりとすると、彼女は不思議と落ち着きを取り戻した。まるで魔法だった。
「取り乱してすみません。貴族(シャトーア)なら、勢力争いは当然のことでした」
 しっかりとした口調でそう言い、メイシアは頭を下げる。
「――だからこそ、ハオリュウは私を外へ出してくれたんだもの……」
 切なげな眼差しでメイシアが唇を噛むと、ルイフォンが再び彼女の髪を撫でた。


 そして、一日が終わり、ミンウェイは自室に戻る。
 静けさに満ちた、ひとりきりの部屋。時折、夜風が窓を叩いては、硝子を揺らしていく。その響きは、少しだけ潮騒の音に似ていた。
 リュイセンに連れていかれた、両親の墓のある小さな丘。あそこから臨む、あの海の――。
『ミンウェイ。俺と結婚しよう』
 その返事を、ミンウェイはまだしていない。
 ミンウェイは、化粧を落とした自分の顔を鏡に映した。華やかに波打つ髪のせいで、だいぶ印象が変わっているが、自信なさげに脅えた瞳は子供のころのままだった。
「……」
 もしも――。
 この春を迎える前に告げられたのなら、ミンウェイは迷わなかった。
 喜んで、リュイセンの言葉を受け入れた。
 漠然とではあるけれど、ずっとリュイセンと一緒になるものだと思っていた。いつか総帥になる彼を支えるのは自分の役目で、それが皆のためになると信じていた。
「でも、それじゃ、リュイセンが不幸になるじゃない……」
 リュイセンには幸せになってほしい。けれど、ミンウェイとでは、彼女の『復讐』の呪縛を彼も背負ってしまうことになる。
 幸せというのは、ルイフォンとメイシアのような関係をいうのだ。
 あのふたりが互いに向ける想いは、同じ重さだ。けれど、リュイセンとミンウェイでは、天秤が傾いてしまう。
 それとも、時が経てば、徐々に釣り合ってくるのだろうか。年齢の開きが、だんだんと誤差になってきたように……。
 ミンウェイは深い溜め息をついた。今夜は寝つけそうになかった。
 既に夜着に着替えていたが、彼女は薄い上着を羽織り、ふらりと庭に出た。


 淡い色の外灯が足元を照らし、まばゆい月の光が頭上から注がれる。
 心地の良い風に流されるままに歩くと、温室にたどり着いた。無意識のうちに、馴染みの場所を選んだのかもしれない。
 そして、ふと思い出す。
 もう、十年くらい前になるだろうか。ミンウェイはここで、月を見ながら泣いていた。
 後継者だったレイウェンが一族を抜け、総帥の補佐をしていたユイランも共に屋敷を出た日のことだ。
 ユイランの代わりを務めることになったミンウェイは、不安に押しつぶされそうになっていた。月に誘われるように庭に出て、涙で時を過ごしていたら――……。
「ミンウェイ!」
 自分の名を呼ぶ声に、ミンウェイは、びくりと体を震わせる。
「リュイセン……」
 一瞬、過去に戻ったのかと錯覚した。
 何故なら、あのとき、この場に現れたのも、リュイセンだったからだ。まだ幼い、子供のリュイセン。身長だって、彼女よりも低いくらいの――。
 瞳を瞬かせて見やれば、そんなおとぎ話のような事実はなく、現在のリュイセンが息を切らせていた。
「リュイセン、どうしたの?」
「『どうした』は、ミンウェイだろう! こんな夜更けに、夜着姿で出歩くなんて。窓から見つけて、飛んできたぞ」
 そう言いながら、彼は手にしていた上着を彼女に押し付ける。
「え? 別に寒くないわよ?」
 部屋を出るときに、一枚羽織っている。それに、もう夏になるのだ。
「そうじゃなくて! 頼むから、如何(いか)にも夜着って、分かる格好で出歩くな! 無防備だぞ」
「そんな、気にするほどのことじゃ……」
「俺が気にする!」
 叩きつけるように言って、リュイセンは視線をそらす。
 そんな態度に出られたら、従わざるを得ないだろう。ミンウェイは、彼の差し出した上着におとなしく袖を通す。中に着た夜着が見えないように、きちんとボタンも留めた。
 リュイセンのものであろう上着は大きくて、肩の位置がずるりと落ちた。まるで彼に抱きしめられているようで、落ち着かない。彼が小さいときには、何も気にせずに、彼女のほうからじゃれついていたのに……。
「これでいい?」
 ミンウェイは首を傾けて、リュイセンを見上げる。背の高い彼女より、彼のほうがもっと高い――高くなったのだ。
「――ああ」
 そう答えたものの、彼はそっぽを向いたままだった。
 ……気まずい。
 思えば、プロポーズ以来、まともに言葉を交わしたのは初めてのような気がする。食堂や会議で会っても、どことなく避けていた。
「ミンウェイ……」
 リュイセンが、ぽつりと呟いた。
「俺は、無礼なことをした」
「えっ?」
 リュイセンはゆっくりとこちらを向き、彫刻のような黄金比の美貌を月光に晒した。光と影で(ふち)取られた顔は、優しげで切なげで、ミンウェイはどきりとする。
「この前、緋扇シュアンが屋敷に来たとき、奴は温室にいるミンウェイのところに寄ったよな。あのとき俺は、密室にふたりきりは危険だと、こっそり奴を見張っていた。……結果、盗み聞きをした」
「えっ!?」
 胸の奥から、羞恥がこみ上げた。
 聞かれたくなかった。……やましいことはないのだが、なんとなく。
 顔色を変えたミンウェイに、リュイセンが「すまん」と、深々と頭を下げる。大きな体がじっと耐えるように固まっていて、どうなじられても構わないと覚悟しているかのようだった。
 あまりの大仰さにミンウェイは戸惑い、一度大きく揺れたはずの感情が、すっと鎮まる。
「過ぎたことだわ。もういいから、顔を上げて」
 彼女の言葉に、彼はもう一度だけ「すまん」と告げてから、顔を上げる。しかし、許しを得たにも関わらず、厳しい表情をしていた。
「緋扇シュアンに言われなくても、俺も気づいていたよ。――ミンウェイは鷹刀に遠慮がある」
「……っ」
「だから俺は、ミンウェイにプロポーズした。自分の居場所は鷹刀なのだと、ミンウェイが自信を持って言えるように。その根拠を作ってあげたいと思った。――『後継者の妻』という地位によって」
「リュイセン……」
 彼の名を呟いたきり、言葉が続かない。
 声を詰まらせるミンウェイに、リュイセンはふっと表情を和らげた。
「でも、俺の独りよがりだったな。……俺は、ミンウェイを困らせただけだ」
「そんなことは……」
 ない、と言いかけたミンウェイを、リュイセンが「あるだろう?」と、神速で遮る。
「ミンウェイは、困って、悩んで……こうして夜中にふらふら出歩いている。違うか?」
 彼女は、息を呑んだ。その仕草で、伝わってしまう。
 リュイセンは柔らかに苦笑した。
 不快な顔になっても、ちっともおかしくない状況なのに、彼はどこまでも穏やかで優しい。……今までの彼とは、雰囲気が変わった気がする。
「俺は、ミンウェイが悩んで、苦しむことなんて、望んでいない。だから――」
 真摯な眼差しが、彼女に向けられた。
 夜風にふわりと巻き上げられた彼の髪が、月光と混じり合い、輝く。その(さま)は、まるで黄金の毛皮を持つ、気高い野生の狼……。
「――だから、あのプロポーズは、なかったことにしてほしい」
 決然とした低い声が、静かに響いた。
「…………え?」
 唐突な発言に、ミンウェイは絶句する。
「そもそも、こんなプロポーズ、間違っているだろう? 一族にかこつけてミンウェイを手に入れようだなんて、卑怯だ。ミンウェイの気持ちをないがしろにしている」
「逆よ! リュイセンは私のために、自分の気持ちを無視したの。ないがしろは、リュイセンのほう……」
 詰め寄るミンウェイに、リュイセンは首を振った。
「俺はちゃんと、自分の気持ちは言った。ミンウェイが好きだと」
「!」
「ミンウェイは勘違いしている。俺は別に、自分を抑えてなんかいない。むしろ、自分でも、どうしたかと思うくらい、暴走している」
 大真面目な顔でそう言ってから、リュイセンは楽しそうに口元を緩める。
「ミンウェイ。俺はただ、ミンウェイを幸せにしたいだけだ」
 彼は微笑んでいた。――こんな場面で笑えるほど、彼は(たくま)しくなかった……はずだ。
「そして、ミンウェイが俺のプロポーズに悩むのなら、俺はまだ『足りていない』ってことだ」
「『足りていない』?」
「ああ。『ミンウェイが認める男』に、まだ足りていない」
「……っ」
 肯定か否定か、はたまた、まったく別の答えか。何を言えばいいのか、ミンウェイはとっさに言葉が浮かばない。
 揺らめく彼女の瞳に、リュイセンがくすりとする。
「たぶん、さ。ミンウェイは一生、俺の中に、子供の俺を見ると思う。……仕方ないさ、だって出逢ったときは、本当に俺は小さな餓鬼だったんだから」
「……」
 ごめんなさい、と言うべきか。それは彼を傷つけるのか――。
 困惑、混乱、動揺……。そんな感情が絡みついて、身動きが取れない。先ほどから、まともに喋れなくなった自分に、ミンウェイは苛立つ。
 けれど、リュイセンは気にした様子もなく、ただ優しく穏やかに語り続けた。
「俺はずっと、ミンウェイを守りたいと思って生きてきた。それだけ伝えられれば、今は充分だ」
「リュイセン……」
 彼は、自分は卑怯だと言ったが、卑怯なのは何も答えないミンウェイのほうだ。
 申し訳なく思った途端に、彼女の瞳に脅えが混じる。リュイセンはそれを見落とさない。
「ごめん。……俺は少し、焦っていた。――ミンウェイを取られたくなかったんだ」
 彼は、照れたように苦笑した。軽い口調で誤魔化しているが、それが彼の偽らざる本心だと痛いほど伝わってきた。
「取られたくないって、誰に……?」
「『誰にも』だ」
「え?」
「誰にも、ミンウェイを取られたくない」
 その瞬間、夜風を斬り裂くように、リュイセンが動いた。さらさらとした髪が月光を弾き、黄金に煌めく。
 まるで彼の太刀筋のような神速でミンウェイのもとにたどり着くと、彼の両腕がふわりと彼女を抱きしめた。
 そして、耳元で告げる。

「――――」

 ミンウェイが息を呑んだのと、リュイセンの体が離れていったのは同時だった。
 そのまま、彼は「おやすみ」とだけ残して去っていく。
 彼女はその背中を追うこともできず、ただ呆然と見送った。
 十年前とは違う彼の抱擁と、耳の中に残る低い声の余韻に戸惑いながら……。

 ――愛している。

2.目覚めのない朝の操り人形-1

2.目覚めのない朝の操り人形-1

 時は遡り、二ヶ月前。
 桜が散り去ったばかりのころ――。


「私が……あなたに教えた『最期』は、……嘘よ」

 高熱に潤んだ赤い瞳で、熱暴走が止まらなくなった〈(サーペンス)〉――〈天使〉のホンシュアは妖艶に嗤った。
 陽炎の揺らめく、薄暗い地下の一室。薄いキャミソールワンピースからむき出しになった白い肩に、長い黒髪が汗で張り付く。
「どういうことだ!? 何が嘘だというのだ!?」
(ムスカ)〉は余裕をかなぐり捨て、彼らしくもなく必死の形相で迫った。
「あなた、が……目覚めたとき……教えた、あなたの――『鷹刀ヘイシャオ』の死因は、嘘……。だから、あなたの復讐……は、お門違い……なのよ」
 そう言って〈(サーペンス)〉は、苦しげに微笑む。
 熱気が、〈(ムスカ)〉の肌を()いた。ひりひりとした感覚に、彼は顔をしかめる。
 この女は間もなく死ぬ。その前に、洗いざらい聞き出さねばならない。
『彼』が作り出された、その意味を――。


(ムスカ)〉の脳裏に、彼が『彼』として、目覚めた日のことが駆け巡る……。


 気づいたら、そこは彼のよく知る研究室だった。
 彼は手術台の上にいて、体の上には白い布が掛けられていた。けれど、服は身に着けておらず、裸体である。
 不可解な状況に、彼は眉をひそめた。半身を起こすと、くらりと目眩(めまい)がした。自分の体が、自分のものではないような気がする。
「!?」
 肩に、それから腕に背に――。
 素肌の上を、さらさらとした柔らかな感触が流れ、彼はぎょっとした。そして、その正体を解したとき、彼は更に驚愕した。
 自分の髪の毛――だった。
 長く長く、腰に届くほどまでに髪が伸びていた。この国では、男の長髪は珍しくはないが、彼自身は今までに一度も、首筋よりも下に伸ばしたことはなかった。
 しかも。
 その髪には、ちらほらと白髪が混じっている……。
 信じられない思いで目を見開けば、胸元に掛かる伸び放題の髭に気づく。――そして、髭にもまた、白いものが混じっていた。
 ――知らぬうちに、歳を取っていた。
 髪だけではなく、皮膚の老化や筋肉の衰えから断言できる。
 医者である彼の見解からすれば、この体は四十代半ばから五十路手前のものだ。だが彼は、三十代であるはずだ。
 ……なんらかの実験で、自分自身を眠りにつかせたのだろうか?
 状況を確認しようと、あたりを見渡せば、少し離れたところに硝子ケースがあった。
 培養液で満たされたそれは、彼にとって馴染みのもので、生物を成長させ、あるいは生命を維持するための揺り籠だ。
 中身が気になった彼は、体に掛けられていた白い布をまとい、近づいていく。長いこと掃除がなされていなかったのか、歩くたびに足元からふわりと埃が舞った。
 おぼつかない足取りは、リノリウムの床の冷たさが裸足の足を刺すからか、それとも……。膝を震わせながらたどり着くと、彼はケースの中を覗き込んだ。
「!?」
 息を呑んだ。
 心臓が、早鐘のように打ちつける。
 女がいた。
 人ひとりを収めるにしては充分すぎるほどの大型のケースの中で、長い髪が大きく広がり、培養液の中で揺らめいている。漂う髪は、まるで裸体を隠す(ころも)のよう。
 垣間見える皮膚や爪から推測するに、決して若くはない。四十代といったところだろうか。
 そして、その顔は……。
「ミンウェイ……」
 愛しい妻の名を、彼は呟く。
 彼の妻は、若く美しいままで時を止めた。――止めてしまった。
 だから彼は、二十歳を超えた彼女を知らない。
 なのに、すぐに分かった。
 これは、彼女が時を重ねた姿である、と。
 本来は存在しないはずの年月(としつき)を積み上げてなお、彼女は清らかで麗しかった。
「…………あぁ」
 気づいたら、涙がこぼれていた。
 大の男が――。無様にも(ほど)がある。
 そう思いながらも、涙はとめどなく流れ続ける。
 速やかに状況を把握すべき事態なのに、彼女に逢えたと思った瞬間に、彼女以外のすべてを忘れた。
 そうして、どのくらいの間、彼女を見つめていただろうか。
 ふと、研究室の扉の外に、人の気配を感じた。彼は、反射的に硝子ケースを背に守る。
「落ち着いたようね」
 中に入ってきたのは、若い女だった。きっちりと結い上げられた髪に、濃いめの化粧ばかりが目につく、派手な女だ。
 女の口ぶりから、彼は気づいた。
「私を……監視していたのですか?」
「ええ」
 女の肯定を耳にして、初めに訪れたのは屈辱。それが徐々に、混乱に取って代わる。
 まったく知らない女だった。
 この研究室は、ごくわずかな者しか知らない場所にある。
 (ちまた)では〈七つの大罪〉は、何処かに大規模な秘密の研究施設を持っており、〈悪魔〉たちは皆そこにいると思われているようだが、それは違う。〈悪魔〉は個人的に〈神〉――すなわち王と契約を結び、資金を得て、思い思いの場所に散っていく。
 だから、彼の研究室の場所を知っているのは、〈七つの大罪〉の中枢にいる人間のみ――。
「無事に目覚めてよかったわ。私は、『記憶』の扱いには慣れているけれど、『肉体』のほうは自信がなかったから」
「!? どういう……ことだ……?」
「〈(ムスカ)〉の記憶を持つ『あなた』なら、そろそろ気づいているんじゃないかしら?」
 女は、冷たい声でそう言った。わずかに上がった紅い唇からは、悪意すら感じられる。
 彼は、無意識に自分の体を抱きしめた。
 急に老いた体。健康状態に問題はなさそうであるが、若干、筋肉がぎこちない。
 そして、瑞々しさは失われてきたものの、綺麗な肌。傷も、しみも、何ひとつない、綺麗すぎる皮膚。
 そう。今まで彼が、実験で作り続けてきた『肉体』と同じ――。
「『私』は……!」
 言いかけて、彼は言葉に迷った。――自分が『作り物』であると、認めることをためらった。
 けれど女は、「その顔は、ご明察よね?」と嗤い、残酷に告げる。
「そう。その肉体は、自然に生まれた人間のものではないわ。天才医師〈(ムスカ)〉が、自分の細胞から作ったクローンを、培養液の中でその年齢にまで育てた『もの』」
「……っ!」
「そして、『あなた』が持っている記憶は、〈冥王(プルート)〉に保存されていた〈(ムスカ)〉の記憶」
 ねとつく女の目線が、彼の頭から足の先までを舐める。
「つまり『あなた』は、〈(ムスカ)〉本人のクローン体を使った〈影〉――ということね」
「!」
 膝が、崩れた。
 背後の硝子ケースに、寄り掛かるようにして、なんとか体を支える。
 まさか――であった。
 今まで数々の人体実験を繰り返してきた彼が、よもや自分自身が……と考え――、それは、彼の持つ『記憶』が感じたことであり、彼自身は『生まれたばかり』であることに気づく。
 彼は、拳を握りしめた。
 女の言っていることは正しいだろう。認めたくはないが、認めざるを得ない。
 けれど、何かが引っかかった。
 動悸を打つ胸を押さえ、彼は呼吸を整える。
「〈(ムスカ)〉が、この年齢の肉体を作った……?」
 だが彼には、こんなものを作った記憶はない。
「……いや、順番が逆なのか。オリジナルの私は、この私が持つ『記憶』を保存したあと、この『肉体』を作ったわけか」
 そう呟いて、彼は、はっと気づいた。
「おい、女! 何故、保存してある記憶を使った? どうして、直接、本人から記憶を移さない? オリジナルの私は、何処にいる!?」
 ぞんざいな口調で問いかけながらも、答えは出ていた。だから、それは女への確認でしかなかった。
「〈(ムスカ)〉は死んだわ。もう十数年も前のことよ」
「……っ!」 
「『あなた』は、〈(ムスカ)〉が報告書にまとめていた、『死者の蘇生』を実践した『もの』。――私は、死んだ天才医師〈(ムスカ)〉を蘇らせたの」
「……お前は、何者だ?」
「〈(サーペンス)〉。――でも、正確には、『私』は〈(サーペンス)〉の〈影〉。この肉体の名前なら、ホンシュアよ」
「〈(サーペンス)〉?」
 聞き覚えのない名前だった。
〈悪魔〉であることは間違いないだろう。〈七つの大罪〉では、〈神〉との契約時にラテン語読みの動物名が与えられる。『大罪』を司る悪魔と、象徴する動物がいることに由来するらしい。
 本来の宗教になぞらえるなら、〈悪魔〉は七人だ。だが、あいにく、この国の〈七つの大罪〉は、フェイレン神の代理人と呼ばれる王が、神格化されている自身に皮肉と否定を込めて、異教の言葉を借りただけだ。
 だから、〈悪魔〉の数は、必要とあらば幾らも増やす。この〈(サーペンス)〉は、彼が『死んでいる間』に、新しく〈悪魔〉になった者なのだろう。
 彼がそう考えたとき、女――〈(サーペンス)〉が、彼の思考と同じことを口にした。
「〈(サーペンス)〉が〈七つの大罪〉に加わったのは、〈(ムスカ)〉が死んだあとだから、知らなくて当然よ」
(サーペンス)〉は、高飛車にくすりと嗤う。その仕草が妙に小賢しくて、彼は忌々(いまいま)しげに鼻を鳴らした。
 この女に主導権を握られるのは矜持が許さない。速やかに情報を得て、優位に立たねばなるまい。
「理解しました。では、あなたにふたつ質問があります」
「どうぞ」
 余裕の笑みを見せる〈(サーペンス)〉に、彼は淡々と問いかける。
「ひとつ目は、オリジナルの私の死について。私は何故、死んだのか。そのことによって、娘のミンウェイはどうなったのか」
 彼の質問に、〈(サーペンス)〉は黙って頷き、続きを促す。 
「ふたつ目は、あなたが私を生き返らせた理由。しかも、記憶年齢とは合わない老いた肉体を使うという、不完全な状態であることも含めて説明を願いたい。私の研究報告書には、年齢を合わせるようにと記してあったはずです」
(ムスカ)〉は、肩に垂れてきた長い白髪混じりの髪を乱暴に払う。この肉体は、どうにも不快だ。
「もっと取り乱すかと思ったら、意外と冷静なのね」
「私は、無駄なことに時間を使うのが嫌いです」
 オジリナルが死んでいるのなら、好都合だ。彼が〈(ムスカ)〉に――鷹刀ヘイシャオに成り代わればよい。
 睨みつけるような彼の目線に、〈(サーペンス)〉は「どちらも、もっともな疑問ね」と相槌を打つ。そして、すっと口角を上げた。
「まずは、ひとつ目の質問の答え。――あなたは義理の父親、鷹刀イーレオに殺されたの」
「なっ!?」
 思いもよらぬ名前だった。
 彼の記憶では、イーレオとは、妻が亡くなる直前に電話をしたのが最後だ。彼女が記憶の保存を拒否するので、実の父のイーレオに説得してもらおうと連絡を取ったのだ。
 だが、イーレオは応じず、彼は永遠に妻を失った。
 今思い出しても、胸が張り裂けそうだ。心臓を鷲掴みにされたように苦しい。
 イーレオが、彼から妻を奪ったも同然だった。
 もし、あのとき、イーレオが……。
 彼の心に、(くら)い闇が宿る。
「私は何故、鷹刀イーレオに殺されたのですか?」
 低い――怒気をはらんだ声で、彼は問うた。すると、〈(サーペンス)〉は緩やかに腕を組み、ねっとりとした視線を彼に向けた。
「あなた……、自分の娘に随分なことをしていたそうじゃない?」
「なっ!?」
「鷹刀イーレオは、どういう経緯でかは分からないけれど、あなたの所業を知ったのよ。激怒して、そして孫娘を救うためと称して、あなたを殺したの」
「ふざけるな!」
 彼は唇をわななかせた。
「勝手な言い草を! 私は、彼女を愛して……!」
 あまりの怒りに、言葉が満足に出てこない。そんな彼に、〈(サーペンス)〉が、にやりと紅い唇を歪ませる。
「現在、娘はイーレオの屋敷で暮らしているわ」
 そう言って、〈(サーペンス)〉は一枚の写真を彼に手渡した。
 それには、鮮やかな緋色の衣服に身を包んだ、絶世の美女が写っていた。年の頃は、二十代半ばから後半といったところだろうか。
 絶妙なプロポーションを引き立てるような、すらりとした立ち姿には堂々とした気品があり、緩やかに波打つ髪が華やぎを添えていた。知性あふれる切れ長の瞳と、美しく紅の引かれた唇からは強い印象を受けるにも関わらず、決して威圧的でなく、むしろ優しげに見える。
「これは……?」
「あなたの娘の今の姿よ」
「まさか!? そんな……!」
 彼の手から、するりと写真が滑り落ちた。床で埃にまみれるが、それを拾うなどという行為は、彼の頭の片隅にもなかった。
「違う……! これは、何かの間違いだ……」
 彼の娘は、清楚で可憐な、慎ましやかな少女だったはずだ。儚げな瞳に彼だけを映し出す、純粋無垢な乙女。
 歳だってまだ十代で、彼の妻の姿をなぞるように成長していた。
 それが……。
 彼の瞳が、かっと見開かれた。
「こんなのはミンウェイではない! ミンウェイへの冒涜だ!」
 理性をかなぐり捨て、彼は吠えた。
 長く伸びた髪を振り乱し、獣のように牙をむく。
「俺のミンウェイを返せ! 許さん! 許さんぞ! 鷹刀イーレオ!」
 憎い。
 一度ならずも二度までも、イーレオは彼からミンウェイを奪った。
 ぞわりと。
 どす黒い闇が、彼の胸の中をどこまでも広がっていく……。
 そんな彼の激昂を、〈(サーペンス)〉は冷ややかな眼差しで見つめていた。
 そして、彼の感情がイーレオへの憎悪で充分に膨れ上がったのを確認すると、おもむろに口を開く。
「あなたの怒りは、もっともだわ。だから、私はあなたの復讐に協力しましょう。――その代わり、私に天才医師〈(ムスカ)〉の力を貸してほしいの。そのために、私はあなたを蘇らせた。これがふたつ目の質問の答えになるわ」


(サーペンス)〉はそう言って、彼を復讐へと(いざな)った……。


「私の復讐が、お門違い!?」
 辛そうに息を吐く〈(サーペンス)〉に、〈(ムスカ)〉は叫んだ。
「そう……。鷹刀イーレオは……あなたを殺していない。あなたは――オリジナルの鷹刀ヘイシャオは、娘を連れて……、自ら、鷹刀エルファンのもとへ……行った」
「!? エルファン……?」
 エルファンは、〈(ムスカ)〉の――鷹刀ヘイシャオの従兄だ。
 ふたりとも母親を早くに亡くしていたため、ヘイシャオの姉ユイランによって兄弟も同然に育てられ、のちには婚姻によって、名実ともに義兄弟(きょうだい)となった。非常に近しい人間だ。
 ――そうではない。
 親友だ。
 鷹刀ヘイシャオが、最も信頼していた男だ。
「私が、エルファンに会いに行った!? なんのために?」
 一族を離れる日、互いに無言で、永遠の別れを告げたはずだ……。

「殺してもらうため」

 その瞬間、むせぶような熱気が消えた。――そう錯覚するほどに、凍てつく響きだった。
 それまで、苦しげに言葉を切って話していた〈(サーペンス)〉が、そのひとことだけは、ひと息に言ってのけた。
「な……ん、だって!?」
「鷹刀ヘイシャオ、は……生きることを……放棄した。私は……そう、聞いているわ」
「嘘を言うな!」
(ムスカ)〉は、殴りかからんばかりに拳を震わせた。
「ミンウェイは、俺に『生きろ』と言った。俺が、独りで生き続けるのは辛いだろうから、あの子を育てるようにと言った」
「……」
「その約束を……、この俺が、違えるはずがない!」
 迫りくるような熱を振り払い、〈(ムスカ)〉は叫んだ。
 妻のミンウェイは、誰よりも強く、生きたいと願っていた。
 自分がいなくなったら彼があとを追うことを、彼女は知っていた。だから、生きたいと。――記憶を遺すことを拒否したくせに。
 我儘だ。自分勝手だ。
 ……それでも彼は、彼女を愛していた。彼女のためなら、なんだってできた。
 だから、彼女の最後の願いが『彼の生』であるのなら、彼は従わなければならなかった。
 ――そのはずだ……。
「鷹刀ヘイシャオの、死について……私が知っているのは、そのくらい……」
「……っ」
「何故、ヘイシャオが死のうとしたのか……それは、分からない。でも、ヘイシャオの最期は、……確かな伝手(つて)から、聞いた、わ……」
「……」
 沈黙する〈(ムスカ)〉に、〈(サーペンス)〉は淋しげに笑いかけた。
「あなたは、信頼できる人間に……自分の娘を託しただけ。その気持ち……分かるわ」
「〈(サーペンス)〉……?」
 彼が眉を寄せるのも構わず、〈(サーペンス)〉は一方的に喋り続ける。辛そうに顔を歪めながら、けれど言い残すことを恐れるかのように、懸命に。
「私は……、あなたが大嫌い。けど……それは同族嫌悪。あなたと、私は……とても、似ているの」
 そして〈(サーペンス)〉は、今までの彼女とはまったく違う、(いと)おしげにさえ見える眼差しを彼に向けた。
「あなたも……私も……、他人の犠牲を(いと)わない……罪人(つみびと)……」
 不意に〈(サーペンス)〉の体が、びくりと痙攣した。同時に、苦しげなうめきを上げる。
 この女は長くない。『そのとき』が、今日なのか、明日なのか――それとも、今すぐ、この瞬間か。それすらも分からない。
 冷静になる必要があった。
 残されたわずかな時間で、できるだけの情報を聞き出すのだ。そして、この『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』に関わる者たちの中で、優位に立つ。
 そうしなければ、彼はこのまま、作り物の『駒』だ。
 そんなのは認められない。他人に利用されるだけの存在など、まっぴらだ。
「話を戻しましょう。――つまり、あなたは私を騙していた、と。あなたは自分の利益のためだけに、私を蘇らせた。私の技術を利用したいがために……!」
「そうね。……そうなるわね」
「ならば贖罪の意味で、私に詳しく話すべきだと思いませんか? 『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』のことを。――私が作らされている『もの』のことを……!」

2.目覚めのない朝の操り人形-2

2.目覚めのない朝の操り人形-2

 彼が目覚めた日。
 彼は、死んだ天才医師〈(ムスカ)〉を蘇らせた『もの』なのだと、〈(サーペンス)〉に告げられた。
 だから彼は、ふたつの質問をした。
 ひとつ目は、オリジナルの彼――〈(ムスカ)〉の死について。
 その答えを、〈(サーペンス)〉は偽った。
 イーレオに殺されたと虚言を吐き、彼に復讐心を植え付けた。彼に協力すると申し出て、見返りに力を貸してほしいと要求してきた。
 そして、それこそが、ふたつ目の質問――すなわち、〈(サーペンス)〉が〈(ムスカ)〉を蘇らせた理由――の答えになると言った。
『あなたの怒りは、もっともだわ。だから、私はあなたの復讐に協力しましょう。――その代わり、私に天才医師〈(ムスカ)〉の力を貸してほしいの』


(サーペンス)〉はそう言って、彼に話を持ちかけた……。


「ほう? 取り引きですか」
「ええ」
 きっちりと結い上げられた髪を揺らし、〈(サーペンス)〉は目を細めて頷いた。
 そして、込み入った話になるからと、研究室内に放置されたままであった椅子を、彼に勧める。
 彼としても、今まで培養液を漂っていたのであろう肉体に、無理はさせたくなかったので素直に従った。あとで、この肉体の健康診断をせねばなるまい、などと思いながら。
 埃だらけの座面を払い、白い布を巻き付けたままの姿で座る。
 服も調達する必要があるだろう。鬱陶しく伸びた髪を切り、髭を剃り、身支度を整えたい。そんな現実的なことが次々と浮かんでくる。
 自分は〈影〉であり、オリジナルは殺されたという衝撃や、別人のように変わってしまった娘への驚愕は、決して小さくはなかった。だが、腰を下ろし、視野が変わると、まるでそれに触発されたかのように思考の視界も変わっていった。
 ゆっくりとではあるが、彼本来の冷静さが戻ってくる――。
 そんな彼の様子に〈(サーペンス)〉は満足したのだろう。彼の向かいに座ると、早速とばかりに口火を切った。
「まず、私がどのようにして、あなたの復讐に協力するつもりなのか、説明するわ。――実は、鷹刀イーレオを捕らえる作戦の準備が、既に整っているの」
(サーペンス)〉は意気揚々と告げた。その口ぶりからは、彼の目覚めをどれほど待ちわびていたのかが伝わってきた。あまりの気勢に、かえって彼は鼻白む。
 しかも――。
「捕らえる?」
「そうよ。あなたならきっと、ただ命を奪うだけでは物足りないでしょう? だから、イーレオの身柄を確保して、あなたに引き渡してあげるわ」
「引き渡す、ということは……、では私は何をすれば?」
「あなたは待っているだけでいいの。実行するのは警察隊と斑目一族。それから貴族(シャトーア)にも踊ってもらう――そういう作戦よ」
(サーペンス)〉は胸を張り、にやりと自慢げに嗤う。
 その後、更に詳しく聞けば聞くほど、〈(サーペンス)〉の作戦は巧妙かつ複雑な罠だと分かった。よくぞ、そんな方法を思いついたものだと、半ば呆れながらも感心せざるを得ない。
「それから、あなたの娘のことだけど――。あなたが現在の彼女に会いたいと思うか否か、疑問だったから、まだ何もしていないわ。けど、お望みなら、彼女を連れてくる算段も立てましょう」
 彼の心が、ざわりと揺れた。埃の床に落ちた、現在の娘の写真を思い出し、鼻に皺を寄せる。
「どうかしら?」
(サーペンス)〉は首を傾け、彼の顔を覗き込む。
 そして、彼の返事を待たずに、「次に……」と、続けて『見返り』の件を彼女が切り出そうとしたときだった。
「私に応じる義務はありませんね」
 冷酷にすら聞こえる低い声で、彼はぴしゃりと跳ねのけた。自信満々だった〈(サーペンス)〉の顔が、見る間に変わっていく。
「……何故かしら?」
 抑揚のない声で〈(サーペンス)〉は尋ねた。彼に詰め寄り、重ねて問う。
「あなたは、鷹刀イーレオに復讐したいでしょう?」
「勿論、復讐はしますよ。しかし、あなたと手を組むばかりが、その方策ではありません」
(ムスカ)〉にしてみれば、〈(サーペンス)〉の態度は不愉快でしかなかった。
 どう考えても、彼を手駒にしようと画策しているだけにしか思えない。そもそも彼は、初対面の相手をすぐに信用するような人間ではないのだ。
(サーペンス)〉は顔をしかめ、眉間に皺を寄せた。
「あなたでなければ、とても不可能な案件なのよ」
「私でなければ不可能とは、随分と買われたものですね」
 すっと口角を上げ、彼は畳み掛ける。
「〈七つの大罪〉には、私以外にも優秀な〈悪魔〉がいるでしょう? 何も、死んだ私を蘇らせなくてもよかったのではないですか?」
 探るように、視線を向ける。対する〈(サーペンス)〉も、彼の思考を読んでいたかのように、滑らかに答えた。
「この案件は、どう考えても〈(ムスカ)〉の専門分野なの。だから私は初め、〈冥王(プルート)〉に保存されていた〈(ムスカ)〉の記憶を、適当な人間の肉体に入れて、『普通の〈影〉』を作ったのよ」
 そう言って、〈(サーペンス)〉は軽く目をつぶり、深く息を吸い込んだ。
 訝しむ彼の前で一度、息を止める。そして、今度は一気に吐き出すと、一瞬、遅れて彼女の背から光が噴き上げた。
「なっ……!?」
 白金の糸が、あとからあとから、あふれ出した。研究室は、あっという間に目もくらむような、まばゆい光に包まれる。
 光の糸は大きく横に広がり、互いに絡み合い、紡ぎ合わされていく。そして、またたく間に、生き物のように(うごめ)く光の翼を作り上げた。
「〈天使〉……」
 彼は唾を呑んだ。
「ご覧の通り、この肉体は〈天使〉化させてあるわ。これを見ても、私が『普通の〈影〉』で試したということを信じられないかしら?」
「……っ」
 額に、冷や汗が浮かんだ。長い髪が張り付き、彼は鬱陶しげに払う。
(サーペンス)〉が羽を見せたのは、彼を納得させると同時に、牽制の意味を含んでいるのだろう。下手に彼女の機嫌を損ねれば、〈天使〉の力で支配されかねない……。
 彼の面持ちが緊張を帯びたのを確認すると、〈(サーペンス)〉は続けた。
「だけど、『普通の〈影〉』では生前の天才医師〈(ムスカ)〉の足元にも及ばなかった。それで、私は『死者を蘇らせる』ことを考えたの」
 随分と勝手なことを、さも当然とばかりに〈(サーペンス)〉は告げる。それから彼女は、ほんの少しだけ、きまり悪そうに顔を歪めた。
「あなたはさっき、その『肉体』が『記憶』の年齢と合っていないことの説明を求めたわね。――答えは簡単。私には、『記憶』に見合った『肉体』を用意することが難しかったからよ」
 どういうことだ? と、彼は一瞬、怪訝に思い、すぐに気づいた。
「私が組み上げた『肉体の急速成長』技術は、そう簡単には再現できるものではありませんからね」
 とても複雑な技術なのだ。彼の研究報告書を片手に真似たところで、やすやすとは成功すまい。――と、彼は思ったのだが、〈(サーペンス)〉の答えは、それ以前の問題だった。
「そうね。私には再現できなかったかもしれない。けど、そもそも私には、クローン体の(もと)となる細胞を手に入れることが難しかったのよ。何しろ、〈(ムスカ)〉はとっくの昔に死んでいるのだから」
「……」
「髪の毛か何かが残っていないかと〈(ムスカ)〉の研究室を探していたとき、偶然、その肉体を見つけたの。本当に運が良かったわ、オリジナルが『自分』を作っておいてくれるなんて。時間もなかったことだし、年齢の合ったものを新しく作るなんて考えずに、その肉体を使うことにしたわ」
「……なるほど」
 得心しつつも、〈(ムスカ)〉の心に深い憎悪が宿った。
「おそらく、その肉体は『スペア』ね。外見から推測して、オリジナルが生きていれば『あなた』と同じくらいの歳になるもの」
(サーペンス)〉の言葉に、彼は眉を寄せた。彼が作られた存在であることを繰り返し言われるのは不快だった。
 そして同時に、彼は気づいた。
 人ひとりを収めるにしては、充分すぎるほど大型の硝子ケースの中にいる『ミンウェイ』。――存在しないはずの年月(としつき)を重ねた彼女。
 彼女の隣で――同じ硝子ケースの中で、この肉体は共に歳をとっていたのだ。
(サーペンス)〉の言うような、オリジナルの『スペア』としてではなく、『ミンウェイ』の『(ペア)』として……。
 彼には『(ペア)』の肉体(ふたり)を作った記憶はない。だから、彼の持つ『記憶』が保存されたあとで、オリジナルのヘイシャオが作ったということになる。いったい、どんな意図があったというのか?
 非常に気になる疑問だ。
 しかし、今は目の前にいる〈(サーペンス)〉への対処をするべきときだった。彼は、軽く頭を振り「それで――」と、脈打つように明暗を繰り返す〈(サーペンス)〉の羽を一瞥する。
「私が取り引きに応じない場合には、あなたは〈天使〉の力を使うおつもりですか?」
 他人に支配されるなど、考えただけでもおぞましい。
 彼はおもむろに立ち上がった。訝しがる〈(サーペンス)〉を横目に、壁際の薬品棚へと向かう。
 埃をかぶっている様子から、〈(サーペンス)〉は書類の類は勝手にいじっても、薬には触れなかったらしい。ならば、この中には、彼の記憶通りに劇薬があるはずだった。
 硝子の戸は、かつてよりも古びていたが、思ったよりも滑らかに開いた。彼は薬瓶をひとつ取り出し、〈(サーペンス)〉に示す。
「オリジナルの私の体は毒に慣らしていましたが、この肉体は『新品』です。毒物への耐性がありません。あなたの大事な『肉体』を台無しにすることは容易なことです」
「……なっ!?」
 今まで高飛車だった〈(サーペンス)〉の顔が一瞬にして青ざめた。
「そ、そんなことをすれば、『あなた』も死ぬってことでしょう? 復讐はどうするの!?」
「あなたに支配されるくらいなら死んだほうがマシです。そもそも、私は死んでいるのですから」
 勿論、そんなことは思っていない。口先だけの話だ。
 それに、彼が手にしているのは無害な薬だった。初めは劇薬を取るつもりだったのだが、直前で考え直した。
 何も本当に、この肉体を危険に晒すことはないのだ。
 ラベルの付いていない薬瓶の中身は、〈(サーペンス)〉には分からない。彼が倒れれば、劇薬を飲んだと信じるだろう。
 今までの会話から、彼女は『記憶』を研究する〈悪魔〉のようで、医学の知識はないとみた。
 人を呼びに部屋を出ていけば、それが一番よくて、その隙に逃げる。そうでなくても動揺した女ひとりなら、たとえ〈天使〉であっても倒せるだろう。
「待って! 私は〈天使〉の能力で、あなたを強制するつもりはないわ」
「ほう? それはまた何故ですか」
「医者の手術に、常にリスクが伴うのと同じことよ。しかもこの場合、健康な体にわざわざメスを入れるのと、まったく同じ」
(サーペンス)〉は溜め息と共に、言葉を吐き出す。
「人間の脳は、ひとつの完成されたシステムよ。そして、その完璧な(プログラム)に、余計な嘘の記憶(データ)命令(コード)を手探りで書き込んでいく行為が、〈天使〉の介入。一歩、間違えれば、システム全体を――つまり脳を壊してしまう。要するに廃人ね。そんな危険なこと、大事な肉体にしたくないわ」
「ほほう。では、私と『〈(サーペンス)〉』は、あくまでも利害に基づいた、対等な関係ということですね?」
「ええ。この『私』――『ホンシュア』ではなく、『〈(サーペンス)〉』と対等ということでいいわ」
 言質を取るべく含みをもたせた彼の言葉を、〈(サーペンス)〉は正確に理解した。その上で、構わぬと答えた。
「……ふむ」
 頭の良い奴だと、彼は思った。
 そして彼は、打てば響く反応ができる人間を、決して嫌いではなかった。
 例えば、かつての共同研究者、〈(スコリピウス)〉。『死者の蘇生』の『記憶』に関する部分で協力してくれた〈悪魔〉であるが、彼との知的な会話は実に興奮した。実験体が逃げないようにと足首を切り落とすような悪趣味な嗜虐心には閉口したが、良い友人であったと思っている。
 ――互いに利用する前提で〈(サーペンス)〉と手を組むのも、悪い話ではないかもしれない……。
「あなたと良好な関係でいるために、羽は使わない。約束するわ」
(サーペンス)〉が畳み掛けた。
 裏を返せば、彼のほうに良好な関係を築く意思がない場合には、手段を選ばない、という意味にも取れる。しっかりと釘を刺す当たり、なかなか抜け目がない。
「……」
 彼は腕を組み、思案顔を作った。だが、それは表向きのことで、彼の心は半ば以上、決まっていた。
(サーペンス)〉が、くすりと笑う。
 それと共に、緩やかな光の波を放っていた羽が、すっと背中に吸い込まれていく。
「そんなに警戒しなくても、あなたはすぐに、この案件に夢中になると思うわ」
「どういうことですか?」
「肉体を扱う〈悪魔〉なら、これ以上はないくらいに、知的好奇心をくすぐる研究だもの」
(サーペンス)〉は、意味ありげに彼を見やる。絡みつくような視線に、彼はごくりと唾を呑んだ。
 薬品棚の前まで移動していた彼は、有無を言わせぬ彼女の雰囲気に押され、椅子に戻る。
 時間の流れから取り残されていた古びた研究室は、空間までも切り離されてしまったかのように、外部の気配が薄かった。
 静かな輝きをたたえた〈(サーペンス)〉の瞳――。
 惹き込まれるような闇の双眸と、彼は正面から向き合う。
「あなたに、……『王の肉体』を作ってほしいの」
 密談めいた、かすかな囁きだった。
 だが彼には、その声が研究室中に響き渡ったように感じられた。
「なっ……!?」
 彼は、絶句した。
 それは、〈(サーペンス)〉の要求が突拍子もなかったから……ではなかった。
 逆だった。
 ごくごく、当たり前の――。〈悪魔〉にとっては身近すぎて、もはや『研究』とすら呼べないような案件だったからだ。
「そっ……、そんなくだらないことのために、私を生き返らせたのですか!?」
 彼は叫んだ。何故なら――。
「王の肉体なら、クローン体の遺伝子が幾つも用意されているでしょう!?」
 苛立ちから、怒りのような感情すら湧いてきて、彼は拳を震わせる。 
 ――この国の王位継承権は、天空神フェイレンと同じ容姿を持つ、〈神の御子〉と呼ばれる者にしか与えられない。
 しかも、正式な王は男子のみ。女王はあくまでも『仮初めの王』でしかない。
 そして、〈神の御子〉が誕生する確率は、決して高くはない……。
 こんな制度では、王座はすぐに(から)となる。
 自明の理だ。
 ――それを救うのが、〈七つの大罪〉の役目のひとつだった。
 王家が断絶の危機を迎えたとき、王の私設研究機関である〈七つの大罪〉が、過去の王のクローン体を作り出す。
 そうして、王の血は連綿と続いてきたのだ。
「私でなくても、できるはずです。あなたの言っていることは、おかしい」
 敵愾心すら込めて、彼は言い放った。
 それに対し、予想通りと言わんばかりの表情で、〈(サーペンス)〉は打ち消しの言葉を返す。
「『特別な王』を作ってほしいのよ」
「特別……?」
「ええ。――自らの瞳に、世界を映す――視力を持った王……」
 慈しみさえ感じられる声で、〈(サーペンス)〉が告げた。
 だが――。
「な――……!」
 彼は、言葉が出なかった。
(サーペンス)〉が言ったのは、すべてを覆すような、あり得ない暴言だった。

 王は、盲目であるべきなのだ。
 盲目こそが、王の力の源ともいえる、絶対の条件なのだから――。

「何を馬鹿な! 王は盲目だからこそ、王なのです! そんなことをすれば、王の力は……!」
「ええ、失われるかもしれないわね。だって、それこそが目的だもの」
「なんですと!?」
 声を荒立てる彼に、〈(サーペンス)〉はゆっくりと(かぶり)を振る。
「あなたが死んでいる間に、この国は変わったの。もはや、かつてのような〈七つの大罪〉は存在しないのよ」
「!? いったい、何があったのですか?」
「シルフェン国王陛下が崩御されたわ。現在はアイリー女王陛下の御世」
「王が、代替わりした……」
「そう。そして、シルフェン王は、暗殺による急死だったから、〈七つの大罪〉は次代の王に引き継がれなかったの。〈悪魔〉たちは、それまでに受け取った資金を手に、国中に散っていったわ」
「っ!? 暗殺……!? 引き継がれなかった、だと……!」
 あまりの衝撃に、声を失った。
「私は、〈七つの大罪〉の残党、とでもいえばいいかしら?」
 呆然とする彼の耳を、〈(サーペンス)〉の言葉が、ただ素通りする。
「現在、王宮では、もうじき十五歳になる女王陛下の婚約の準備を進めているところよ。当然、〈神の御子〉を産んでもらうためだけの結婚ね」
「……」
「陛下は、ご自分が道具のように扱われることを、とても嫌悪されているわ。だから、残党の私に、〈神の御子〉を作るように依頼したの」
「……」
「できれば、不気味な力など持たない、神の姿を移しただけの――輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、ただの赤子がほしい、と」


 それが――。
『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』。

2.目覚めのない朝の操り人形-3

2.目覚めのない朝の操り人形-3

 盲目であるべき王の瞳に、光を与える――この難題は、〈(ムスカ)〉にとって非常に興味深いものであった。
 神話に記された力を持たない、まがい物の王。
 王という存在を揺るがす、禁忌の研究。
 そういった、背徳的なものに心が踊ったわけではない。純粋な、知的好奇心である。
(ムスカ)〉は別に、神や王を崇拝しているわけではない。
 だから、〈(サーペンス)〉から預かった『新たなる王』の基盤となる遺伝子も、彼にしてみれば、ただの素材にすぎなかった。
 その『素材』の秘密に……やがて彼は、気づいた。


 故に、〈(ムスカ)〉は悟る。
『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』は、女王の依頼などではない。
(サーペンス)〉自身が、新たなる『特別な王』を望んでいるのだ――と。


『私が……あなたに教えた『最期』は、……嘘よ』
『私の復讐が、お門違い!?』
 ――――――。
『――つまり、あなたは私を騙していた、と。あなたは自分の利益のためだけに、私を蘇らせた。私の技術を利用したいがために……!』
『そうね。……そうなるわね』
『ならば贖罪の意味で、私に詳しく話すべきだと思いませんか? 『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』のことを。――私が作らされている『もの』のことを……!』


 薄暗い地下の部屋を、弱々しい光がほのかに照らしていた。
 明かりの源は、かつては数多(あまた)の白金の糸を紡ぎ合わせ、まばゆい翼を形作っていた〈(サーペンス)〉の羽である。死を目前にした〈天使〉の羽は輝きを失い、代わりに高熱を発していた。
 ベッドに横たわった〈(サーペンス)〉が、熱い息を吐く。
 しかし構わずに、〈(ムスカ)〉は彼女に詰め寄った。
「私が作っている『もの』は、あなたにとって、特別な意味を持っているはずです」
(ムスカ)〉は、できるだけの情報を欲していた。
 この女――〈影〉である『ホンシュア』の命が尽きる前に、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』の真の目的を掴み、また本体の〈(サーペンス)〉の居場所を聞き出さねばならなかった。
 さもなくば、何も知らない彼は、ただの『駒』として扱われ、いずれ殺されるだけだ。
「あなたが……作っている『もの』は、初めに説明した通りの『もの』よ……。嘘は……言っていないわ」
 高熱に喘ぎながら、〈(サーペンス)〉は答える。
「あの赤子が……女王陛下の、御子として……王になる……」
「いつまで、しらばっくれるおつもりですか!」
「なんの……こと……?」
 儚げに首をかしげる〈(サーペンス)〉は、まるで無垢な幼子のようで、虫も殺さぬ顔の厚かましさに〈(ムスカ)〉は(まなじり)を吊り上げる。
「『新たなる王』の基盤として、あなたから渡された遺伝子――。あれは、『過去の王』のものではありませんね?」
 鋭く切り込まれた言葉に、〈(サーペンス)〉は息を呑んだ。だが、すぐに、ふふっと嗤う。
「……天才医師、だもの、ね……。いずれ、あなたには感づかれると……分かっていたわ」
「この私の目を誤魔化せるわけがないでしょう」
(ムスカ)〉は吐き捨て、大きく溜め息をついた。
「確証を得るために、神殿でいろいろ調べてきましたよ」
「っ……、神殿……そう、ね」
 動かすのも億劫であろう〈(サーペンス)〉の体が、わずかに揺れた。
「まず、あなたの素性を示す記録は、残っていませんでした」
「……消しておいた、もの……」
 自慢げに、すっと上がった唇は、しかし熱のためにか乾ききり、ひび割れていて、彼女の笑いは引きつったものになった。
「それから、大切に保管されていたはずの過去の王たちの遺伝子が、すべて廃棄されていましたよ」
(サーペンス)〉は、表情を変えることもなく、ただ黙って聞いている。
「あなたが――『〈(サーペンス)〉』が、廃棄したんですね」
(ムスカ)〉は一度、口を閉じ、相手を見つめた。そしてまた、ゆっくりと続ける。
「それは……私の手元にある遺伝子を、〈神の御子〉を作り出せる、唯一の手段にするためだった。――違いますか?」
 言い渡された言葉を、〈(サーペンス)〉は軽く瞳を閉じることで肯定した。
(ムスカ)〉は、自分の全身から、大量の汗が吹き出したのを感じた。
 それは決して、この部屋の熱気のせいではない。真実へと近づいた緊張と興奮とが、ないまぜになった結果だった。
「あなたから渡された遺伝子は、王の特性を示しながらも、幾つもの異端な因子を含んでいましたよ。――あなたはそれを、どう説明します?」
 問いかけは質問ではなく、弾劾だった。それに対し、〈(サーペンス)〉は薄笑いを浮かべながら答える。
「そこまで……分かって、いる、なら、……あの遺伝子が――『彼』が何者、か……、気づいたって、こと……でしょう?」
(ムスカ)〉の心臓が高鳴った。けれど、彼は平静を装い、低い声で告げる。
「ええ。そのことから導き出される、あなた――『〈(サーペンス)〉』の正体も、ね……」
「……」
(サーペンス)〉は、とても穏やかな顔をしていた。まるで、罪が暴かれるのをじっと待っているかのように――。
(ムスカ)〉の声が、朗々と響き渡る。
「鷹刀エルファンと、〈(フェレース)〉の間に生まれた娘――鷹刀セレイエ。……それが、あなたの名前ですね」
 真っ赤に充血した〈(サーペンス)〉の目が、すっと弓形をかたどった。すべてを受け入れたような、諦観の微笑みだった。
「さすが……ね。……鷹刀、ヘイシャオ……。叔父さん、とお呼びしたほうが……いいのかしら?」
「あなたはエルファンの娘ですが、ユイラン姉さんの子ではありませんから、叔父ではありませんね。……それに、私は一族を捨てた人間です。今更、血族を主張する気はありませんよ」
「……それも、そうね。……私も、同じ……。一族じゃない、わ」
(サーペンス)〉は淋しげに声を落とす。
「エルファンの娘が、何故〈七つの大罪〉に?」
 純粋な疑問だった。イーレオ率いる現在の鷹刀一族は、〈七つの大罪〉を否定していたはずだからだ。
「……ああ、……知らない、のね。……私は、生まれついての、〈天使〉……。自分を知るため……〈七つの大罪〉に入った……。〈影〉にした、この『ホンシュア』の体……〈天使〉化した、のも……私にとって、それが自然、だから……よ」
「生粋の〈天使〉!?」
 驚きと共に、研究者としての心が騒ぐ。それを察したかのように、〈(サーペンス)〉の目つきが険しくなった。
「世界で唯一、……私だけ、よ。異父弟、ルイフォンは……普通の子……」
「異父弟に手を出すな、ということですか?」
「そう……。ルイフォン……だけ、じゃない。鷹刀に、手を出さない……で!」
(サーペンス)〉が、きっと睨みつけた。
 彼女の感情に呼応したかのように、ゆらりと陽炎が揺らめき、高温の風が吹きつける。
 背中の羽は、もはや羽とは呼べない、途切れ途切れの光の糸にすぎなかったが、一族を守ろうとする見えない意志の翼が大きく広がっていた。
 その(さま)を見て、不意に〈(ムスカ)〉は気づいた。
「なるほど、そういうことでしたか。……納得しましたよ」
 ふむふむと頷く〈(ムスカ)〉に、〈(サーペンス)〉が顔を歪める。
「何に……納得……したの?」
「死の間際になって、いきなり『鷹刀イーレオへの復讐は、お門違い』なんて、あなたが言い出した理由ですよ。秘密主義の死にぞこないなら、黙って死を待てばよいものを――。不思議だったんですよ」
「ああ……、そのこと、ね……」
「あなたが嘘をついたまま死ねば、私はいつまでも、鷹刀イーレオを仇と思って狙い続ける。それを止めるために、あなたは真実を告げた。――そういうことですね?」
「そう、よ……。あなたが、頭の良い人、で……よかった、わ……」
(サーペンス)〉は満足げに頷いた。
 対して、〈(ムスカ)〉は不快げに鼻を鳴らす。
「まんまと騙されましたよ。たいした策士です。ありもしない復讐をでっち上げ、それを取り引き材料に、私を踊らせるとは! さぞかし、愉快だったでしょう!」
(ムスカ)〉が吐き捨てた瞬間、苦しげにうめいていた〈(サーペンス)〉が、かっと目を見開いて叫んだ。
「そんなことないわ!」
 叫んでから、〈(サーペンス)〉は、ごほごほと咳き込む。
「〈天使〉を……あんなふうに使うとは、聞いてなかったわ! 鷹刀イーレオ……捕まえたあと、記憶に介入して、復讐に使うって……言っていた……のに!」
「途中で気が変わっただけです。〈天使〉は、『協力の証として』いただいたものです。用途についての約束はしませんでしたよ」
 声を荒らげ、怒り、苦しむ〈(サーペンス)〉の姿に、〈(ムスカ)〉は少しだけ溜飲を下げる。
 手を組むと決めたとはいえ、〈(ムスカ)〉は〈(サーペンス)〉を信用したわけではなかった。対抗手段を備えておくべきと考えた。
 そこで、適当な理由をつけて、自由に使える〈天使〉を要求したのである。『与えられた〈天使〉』の数の中に、〈(サーペンス)〉――正確には〈影〉である『ホンシュア』が含まれていたのは、熱暴走で死ぬことになる〈天使〉の数を減らしたかったためらしいのだが、なんとも滑稽な話であった。
 ――〈(サーペンス)〉の作戦では、〈(ムスカ)〉に役割はなかった。待っていれば、鷹刀イーレオの身柄を引き渡す、と言われていた。
 しかし、猜疑心の強い〈(ムスカ)〉が、他人に任せきりにするはずがなかった。斑目一族の食客となって内部に入り込み、適当な人間を〈影〉に――手駒にした。彼としては至極、当然のことをしたまでである。
「私の、作戦に……〈天使〉は必要なかった、わ……!」
「あなたの作戦、ね。――そうですね。あれは、『あなたのため』の作戦でした。『私に、鷹刀イーレオの身柄を引き渡すため』の作戦ではありませんでしたね」
「何を……言いたいの?」
「鷹刀イーレオの身柄を確保するだけなら、〈天使〉のあなたが、鷹刀の屋敷の人間をひとり操って、鷹刀イーレオを呼び出すだけで充分だったんですよ」
(サーペンス)〉は、はっと息を呑み、それから作ったような苦笑をする。
「それも、そう……ね。策を、練りすぎた……わ」
「違うでしょう? あなたは初めから、鷹刀イーレオを捕らえる気などなかったのです。何故なら、『お門違い』だと知っていたのですから」
「……」
 反論の言葉を思いつけなかったのか、〈(サーペンス)〉は何も返さなかった。〈(ムスカ)〉は、満足げに低い声で嗤う。
「あなたは、死出の旅に出る前にと、必死な顔で『鷹刀は無関係』と告げました。私が鷹刀に危害を加えるのを止めるためです。つまり、あなたは鷹刀を大切にしている。――でも……、矛盾していると思いませんか?」
 そう言って、〈(ムスカ)〉は〈(サーペンス)〉の反応を探るように、彼女の顔を覗き込む。
「……何、かし……ら?」
「あなたの大切な鷹刀が、警察隊や斑目に襲われ、危険に晒されるような作戦を――どうして立てたのですか?」
「!」
「私を騙すためだけなら、『嘘の復讐相手』は、誰でもよかったはずです。けれど、あなたは鷹刀イーレオを選びました。――それは、何故か……?」
 熱で上気していた〈(サーペンス)〉の顔から、色が抜けていく。大きく見開いた瞳には、〈(ムスカ)〉だけを映す。

「『鷹刀を巻き込む必要があったから』――です」

 凍れる声が、高熱を裂いた。
 冷気と熱気が均衡し、何かが弾けたような声が響いた。
「……ふふ……、どうかしら……ね?」
(サーペンス)〉が笑っていた。
 そして、ひと筋の涙をこぼす。
「何を泣いているんですか?」
「……私の『罪』、に。でも……後悔は……しない、わ……」
(サーペンス)〉が、柔らかに微笑んだ。
 この場にそぐわないような、優しく清らかな顔。〈(ムスカ)〉は戸惑い、焦る。
 直感がした。
 もう、最期なのだ、と。
「聞きたいことがある!」
(ムスカ)〉は叫んだ。
「……」
「あの作戦の結末から考えると、お前の目的はひとつ――!」
「……」
「『藤咲メイシアを、鷹刀の屋敷に送り込むこと』だ!」
「……」
 反応のない〈(サーペンス)〉に、〈(ムスカ)〉のこめかみの血管が浮き立った。ぎりぎりと歯をきしませ、拳を握りしめる。
 そして、ずっと(いだ)いてきた疑問を叩きつけた。
「藤咲メイシアに、何がある? あの娘に、何が隠されている!? お前は、あの娘に直接、会った! あのとき、何をしたんだ!」
 仕立て屋に化けて、藤咲メイシアに接触を図った。あの日から、〈(サーペンス)〉の体調は急変した。高熱が続き、横になっていることが多くなった。
 ――〈(サーペンス)〉は、うつろな目のまま、じっと動かなかった。
(ムスカ)〉は舌打ちをした。
 もはや、これまでか。
 そう、諦めかけたときだった。〈(サーペンス)〉の口元が、わずかに震えた。
 慌てて耳を近づければ、熱い吐息と共に、細い声が入ってくる。
「……それを知って、どう、するの? 『あなた』は、……幸せに、なれる、の? ……ヘイシャオ……叔父さんの、……『〈影〉』」
「!? お前っ!」
 思わず拳を振り上げた彼に、〈(サーペンス)〉は淋しげに微笑んだ。
「……私を殴るの? 無駄なことを……。放っておいても……、私はじきに死ぬわ」
 その言葉の正しさを証明するかのように、〈(サーペンス)〉の体がびくりと痙攣し、苦しげな呼吸を繰り返す。
「オリジナルの、ヘイシャオ叔父さん……。幸せ、そうな……死に顔だった……って」
「そんなこと、どうでもいい!」
「……けど、『あなた』は、これから……どうする……?」
「……っ!」
「決して……、目覚めることのない朝を、求めて……。かわい、そう……」
(サーペンス)〉の双眸から、涙がこぼれ落ちた。
 だがそれも、あっという間に蒸発し、わずかなあとだけが肌に残る。
「〈(サーペンス)〉……」
 そのとき、〈(サーペンス)〉の背中から凄まじい熱量を持った光が溢れ、白い肌を裂いた。
「――――!」
 悲鳴にならない悲鳴が、ほとばしった。
〈天使〉の最期だ。
 与えられた〈天使〉をことごとく失ってきた彼は、今までにそれを何度も見てきた。
 せっかくの便利な道具が壊れると、悪態をつきながら見てきた。
 ――なのに今は……。
 …………。
 ……。
「……『あなた』……私のこと、嫌いだった……はず、……なのに、なんで……そんな、顔……?」
 彼女が顔を上げた。頬に張り付いていた黒髪が、はらりと落ちる。
「やっぱり、『あなた』……、お父さん、そっくり……。やりにくい……。憎めない、もの……」
 苦しげな息遣いの中で、彼女が笑った。
 背中は熱に()かれ、激痛が走っているはずなのに……。
「……叔父さん……、メイシア……あの子は……」
「え?」
 何かを言おうとしている彼女の口元に、彼は耳を寄せた。耳朶が()けるように熱い。
「…………………………」
「!」
 目を見開いた彼に、彼女は頷いた。そして、か細い声を漏らす。
「『〈(ムスカ)〉』に言うべき、情報……じゃ、ない。……けど、『あなた』が、これ、で……少し、でも……」
 熱風が部屋を駆け抜け、殺風景な部屋にぽつんと置かれていたテーブルを倒した。
 だが、その音は、彼の耳には聞こえない。
 彼に響くのは、ただ〈天使〉の祈りのみ――。
「私……あなた……大嫌い……だった。けど、同じ……なの。私も……、あなたも、『罪』だと……分かっていても……。だから……」

 di;vine+sin……。――『命の冒涜』……。

「『あなた』を……作り出して……ごめんなさい……」
 彼の耳元で、優しい声が響く。
「……『あなた』の、最期が、……安らかであることを……願う、わ」

3.箱庭の空

3.箱庭の空

 王都にほど近く、さりとて喧騒とは無縁の郊外の地。そこに、何代か前の王が療養のために作らせた庭園があった。
 近衛隊に固められた(いかめ)しい石造りの門の内側へと、如何(いか)にもならず者といった(てい)の男たちが堂々と入っていく。折り目正しい近衛隊員たちが直立する脇を、無頼漢どもが思い思いに抜けていく(さま)は、なんとも奇妙な光景であった。
 門を過ぎると、目の前に緑の丘陵が広がる。
 二ヶ月前、斑目タオロンが初めてこの庭園を訪れたときには、ただただ広大な草地が続いているだけに見えた。しかし現在では、敷地の中ほどから奥の館に向かって、紫の絨毯で覆われている。
 紫の正体は、菖蒲の花だ。
 ちょうど見頃を迎えた花々が、薄紫や青紫といった微妙に色合いの異なる紫を、(われ)が一番とばかりに競うように輝かせている。
 瑞々しく鮮やかで、優美。
 しかし、せっかくの華やぎも、人の目に触れることは、ほとんどない。
 王族(フェイラ)の持ち物であるこの庭園は一般には解放されておらず、入園を許されているのは庭師と〈(ムスカ)〉、それから〈(ムスカ)〉が雇った者たちのみ。
 雅の欠片(かけら)もない、無粋な荒くれ者たちは、花などには目もくれない。花と花の間を縫うように連なる、散策のための遊歩道も無用のものとなっていた。
 そう思い、タオロンは溜め息を落とした。
 娘のファンルゥだけは、違うのだ。彼女は一面の緑の野原に突如現れた、この紫の楽園をとても喜んでいる。
『パパ、お花が咲いたの!』
 館の一室に軟禁されたファンルゥは、窓から見える景色に変化が現れたと、ある日、とても嬉しそうに教えてくれた。しばらく見ていなかった、満面の笑顔だった。
 花が増えてくると、彼女は『お花畑だ』と言い出した。
『ファンルゥ、いい子にしているから、お外に行っていいって、〈(ムスカ)〉のおじさんが言ってくれないかなぁ……』
 ぽつりと漏らした。
 広いお花畑で、花を摘みたい。ただそれだけの願いだ。
 籠の鳥のファンルゥは、小さな窓の世界しか知らない。そこからの風景では、菖蒲の根元は水に浸かっており、彼女が手折って楽しむような素朴な野の花ではないことは分からない。そもそも、水の中から生える花があるなんて、彼女の知識では信じられないだろう。
 閉ざされた空間に封じられた、ファンルゥ。
 すべては父親である自分のせいだと、不甲斐なさにタオロンは奥歯を噛む。
『お前を――いや、お前の娘を助けてやる』
 草薙シャンリーと名乗った、あの女はそう言った。
 タオロンよりも、娘を助けると言った。
 信頼に足る人間だと思った。だから従った。何より、鷹刀ルイフォンの関係者だ。
 ――鷹刀ルイフォン……、どうか、頼む……。
 他人頼みなど情けない。そんなことは百も承知であるが、切なる思いを(いだ)き、タオロンは祈るように空を見上げる。
 ――ファンルゥに、広い世界を……。
 発信機を持ち帰り、〈(ムスカ)〉の居場所を教えたところで、この庭園は凶賊(ダリジィン)にとって天敵のような王族(フェイラ)の支配下にある。正面から攻め込むことは不可能だろう。
 だが、鷹刀ルイフォンならば――と。願わずにはいられない。
 想像もしていなかった奇策で、斑目一族を壊滅状態にまで陥らせた彼ならば……。
「おい、何をのろのろ歩いている!」
 怒声が飛んできた。〈(ムスカ)〉に金で雇われた男だ。
 タオロンには、常に監視の目が光っている。彼は、目に見えない鎖で、がんじがらめにされていた――。


「俺を部下にして、お前は何をする気だ?」
 斑目一族の別荘を出て、この館に移り住んだばかりのころ、タオロンは〈(ムスカ)〉に尋ねた。
「純粋に、武力としての活用ですよ」
(ムスカ)〉は、美麗な顔で、冷ややかに嗤った。
 ――庭園に来てから、初めて〈(ムスカ)〉の素顔を見た。
 鷹刀リュイセンにそっくりだった。白髪混じりの頭髪から年齢を推測すると、まるで父子に見える。思わずそう漏らせば、『叔父に当たりますね』と、こともなげに教えてくれた。
「武力ということは、俺はお前の護衛ということでいいのか。それとも……」
「それとも?」
 タオロンが言いよどむと、〈(ムスカ)〉は口元を歪めて楽しそうに聞き返す。タオロンの危惧に気づいているのだろう。
「……人体改造とか、そういう怪しい類のことは……」
 期待通りの答えに、〈(ムスカ)〉は哄笑を上げた。
「まったく、あなたは分かりやすくてよいですね」
 タオロンは不快げに太い眉を寄せるが、〈(ムスカ)〉は取り合わない。むしろ愉快でたまらないといった様子で、饒舌になる。
「そうですね。あなたを改造するのは、とても面白そうです」
「っ!」
「ですが、安心してください。私も忙しくてね、あなたを玩具にして遊んでいる暇はないのですよ」
 タオロンは、ほっと息をついた。〈(ムスカ)〉を喜ばせるだけと分かっていても、安堵の顔は隠せなかった。
〈影〉や〈天使〉を間近で見てきた彼にとって、〈七つの大罪〉の技術は不気味で、禍々しくて恐ろしかった。人の行為として許されるものではなく、胸糞が悪い。虫酸が走る……。
 あからさまな嫌悪を見せた彼に、案の定、〈(ムスカ)〉は口の端を上げる。
「本当は、『私の駒として、自在に使えるあなた』が、複数いれば便利なのですけどね」
「……?」
「体だけなら、私はいくらでも作れるのですよ。あなたの細胞から、あなたのクローンである赤子を作り、それを急速に成長させて、今のあなたと同じ歳にすればよいのです。私の技術なら、老人にするまでだって、ほんのわずかな時間で充分ですよ」
「なっ!?」
「何を驚いているのですか? あなたは既に、この技術の恩恵を受けていますよ」
「な、んだと……」
 タオロンの過剰な反応に、〈(ムスカ)〉がくすりと嗤う。彼の感情を刺激するのを承知で、わざと言っているのだ。
「あなたの傷の治りを早めたのは、同じ原理です。局所的に――負傷した箇所だけ、細胞を急速に活性化させ、回復を――成長を早めたのです。勿論、やりすぎれば老化するだけですね」
 タオロンは、弾かれたように右上腕に手をやった。以前、藤咲メイシアに刀を落とされ、斬られたところだ。
 恐れたような老化の事実はなく、ただの古傷になっていた。――まるで、何年も前に受けた傷であるかのように。
「……」
 彼の浅黒い肌では見た目には分からないが、血の気が引いていた。
 そんなタオロンの動揺を充分に堪能し、〈(ムスカ)〉が嗤う。
「あなたと同じ体を作っても、それは『あなた』にはなりません。生物学的にクローンだとしても、あなたの記憶がないからです。それどころか、生まれたばかりの赤子の頭脳しかないのでは、なんの役に立ちません」
(ムスカ)〉は息をついた。それは、高圧的な彼らしくもない、溜め息だった。
「ともかく、あなたは私の指示に従って、荒事を請け負えばよいのです。わざわざ言うまでもないとは思いますが、おかしなことをすればあなたの娘は……」
「分かっている!」
 タオロンは言い放ち、薄ら笑いを浮かべる〈(ムスカ)〉のもとを足早に退散した。


 ファンルゥが閉じ込められた部屋への、タオロンの出入りは自由だった。
 ただし、外には見張りがついている。加えて、彼女の左手首には腕輪がはめられていた。
「パパ!」
 タオロンが入ると、ファンルゥの小さな体が飛びついてくる。勢いに乗った彼女のくせっ毛もまた、ぴょんぴょんと元気に跳ねた。
「ファンルゥ、いい子にしていたよ!」
 褒めて、褒めてと、くりっとした丸い目が訴える。
 タオロンは太い腕で、ひょいと愛娘を抱き上げた。そして高く高く、掲げるように、彼女を持ち上げる。
「わぁっ!」
 急に視界の変わったファンルゥが、歓声を上げた。
「ファンルゥ、お空を飛んでいる!」
 普段よりも、少しだけ高い景色。しかし、彼女にとっては別世界であるらしい。
 大きくて(たくま)しい父にこうしてもらうのが、彼女は大好きだった。たったそれだけのことを楽しみに、一日中おとなしくしているといっても過言でない。
「パパ、凄い!」
 ファンルゥが手放しで喜ぶ。タオロンは苦い思いをぐっとこらえ、顔をひきつらせながらもなんとか笑う。
 ――こんなことでいいのなら、いくらでもやってやる。
 世界はもっとずっと広い。けれど、彼が娘に与えてやれるのは、足元からたった二メートルほどの空でしかなかった。
 ファンルゥの手首では、きらきらと腕輪が光る。
 色とりどりの宝石が散りばめられたそれは、〈(ムスカ)〉から渡されたものだ。宝石といっても、貴石としての価値のない模造石なのであるが、小さなファンルゥには素敵な宝物だった。
『いいですか、お嬢さん。私たちは、斑目一族から逃げています。あなたのパパが悪い人をやっつけるまで、隠れていなければいけません』
 腕輪を渡すとき、〈(ムスカ)〉はそう切り出した。
 代替わりした斑目一族の総帥が、『諸悪の根源』とした〈(ムスカ)〉だけでなく、タオロンやファンルゥも追っているのは事実だった。一族が弱体化した責任を押し付け、見せしめに血祭りにする人間を求めているのだ。
『この館にいれば安全です。けれど、あなたがじっとしていられる人でないことは、前の別荘のときによく分かっています。だから、この腕輪を付けていてください。部屋から出ようとしたら、凄い音が鳴ります』
 叱りつけるような〈(ムスカ)〉の言葉に、ファンルゥは不満を(いだ)き、小さな口を尖らせた。しかし、腕輪を見た瞬間に心を奪われた。
『綺麗……』
 彼女は素直に腕輪を身に着け、それ以来、部屋でおとなしくしている。
 腕輪は――、本当は〈(ムスカ)〉の言ったような代物ではなかった。
『あの腕輪の内側には、毒針が仕込まれています』
 タオロンとふたりきりになったときに、〈(ムスカ)〉が告げた。
『私の持つリモコンで、針が飛び出す仕掛けです。つまり、私はいつでもあなたの娘を殺せる、ということです。無理に腕輪を外そうとしても同様です』
『……! お前!』
『あの娘は人質ですからね。そのくらい当然でしょう。むしろ、体にメスを入れなかっただけ感謝してほしいですね』
 そう言われた瞬間、タオロンの太い眉が跳ね上がった。
 すると、〈(ムスカ)〉がくすりと嗤った。
『私からすれば、不慣れな機械類を使うより、あの娘の体内に仕掛けをしておくほうが、ずっと安心です。けれど、そんなことをしたら、無意味にあなたを怒らせるだけでしょう? これでも譲歩したんですよ』
『くっ……』
『それに、あの娘も、私の贈り物を喜んでくれたようですしね。あのくらいの歳の女の子は、小さくても立派な淑女(レディ)ですから』
 あなたはちっとも気づいてなかったでしょう? と。鼻で笑うように、〈(ムスカ)〉の顎がわずかに上げられる。
 タオロンは、舌打ちをしたい気持ちを必死に抑えた。
 口には出さないが、ファンルゥは腕輪をとても気に入っていた。そのことに、今まで玩具の類だって、まともに与えたことのなかった彼は、衝撃を受けていた。
「パパ?」
 ファンルゥの声に、タオロンは、はっとする。
「ああ……、すまん」
 生き延びることに精いっぱいで、娘の気持ちを理解してやる余裕がない……。
 ふとタオロンは、机の上にある描きかけの絵を見つけた。――クレヨンや絵本など、この年頃の子供に必要そうなものは、〈(ムスカ)〉がひと通り手配していた。
「〈天使〉……」
 小さな女の子が、羽の生えた女と仲良く手を繋ぎ、空に向かって飛んでいる。ふたりが目指すのは、雲の上だ。そこにもうひとり、女と思しき姿がある。
「上手でしょ!」
 タオロンの腕から降りたファンルゥが、自慢げに言った。
「ファンルゥとホンシュアだな」
「うん。あと、ママ!」
「……ああ」
 雲の上の女のことだ。
 ファンルゥが描いた母親は、どことなくホンシュアに似ていた。子供の落書きでは、詳細な顔つきなど分かるはずもないのに、タオロンはそう感じた。何故ならファンルゥは、仲良くしてくれたホンシュアを、顔も覚えていない母親に重ねていたから……。
 高熱に倒れたホンシュアを、ファンルゥは〈(ムスカ)〉の目を盗んでは何度も見舞いに行った。
 その都度、タオロンは連れ戻しに行ったのだが、あるとき、ファンルゥが寝てしまっていたことがあった。
『分かっていると思うけど、私はもう長くないわ』
 唐突に、ホンシュアがタオロンに話しかけてきた。
『私が死んだと知ったら、ファンルゥは悲しむわ。だから、『天使の国』に帰ったのだと言ってほしいの。涼しい『天使の国』で、元気に暮らしている、って』
『……分かった』
『それから、もし、ルイフォンとメイシアに会うことがあったら、謝ってほしいの』
 そう言って、彼女はタオロンに遺言を託した。伝えられる保証はなかったが、必死な思いを無碍(むげ)に断ることなどできなかった。
『ねぇ……』
 容態は落ち着いているように見えたが、彼女の息は炎を吐いているかのように熱かった。
 苦しいなら無理して喋らないほうがよいだろうに、と思うと同時に、もう最期だから、なのだと分かってしまった。
『もしも……。もしも、死んだ人間を生き返らせる方法があったとしたら、あなたなら奥様を生き返らせたいと思う?』
 とっさに反応できなかった。
 感情の上では、勿論、生き返らせたいと思う。
 ホンシュアは『奥様』と言ったが、正式に籍を入れたわけではない。そんなことすらしてやれなかった最愛の女と、今度こそ一緒になってファンルゥと三人で暮らしたい。
 ――そんな夢が頭をかすめる。
 それは夢だ。夢であるべきだ。
 けれど、〈(サーペンス)〉と呼ばれる〈悪魔〉でもあるらしい彼女が尋ねたということは、『〈七つの大罪〉には、死者を生き返らせる方法がある』ということだ。
『……ファンルゥに、母親と会わせてやりたい、とは思う。だが、怪しい技術はごめんだ』
『ああ。やっぱり、あなたはファンルゥのお父さんなのね。強くて、まっすぐだわ』
『……』
『でも『私』は、あなたみたいに強くなかった。だから、禁忌の領域に手を出した。それが『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』……』


 ホンシュアが死んだあと、タオロンは言われた通りに、彼女は『天使の国』に帰ったとファンルゥに告げた。
 嘘をつくことに抵抗もあったが、果たして彼に、幼い娘に真実を伝える勇気があったかどうか、自信はない。否、きっと途方に暮れていただろう。
 そして、ファンルゥの中に、ひとつの『お話』が生まれた。
『ホンシュアは、天国のママに頼まれて、ファンルゥの様子を見に来た天使だった』
 人間の国は、天使にとって熱くて辛いのに、ホンシュアはファンルゥのために来てくれた。とても優しい天使なのだ、と。


 タオロンは空を見やり、白い雲の向こうの亡き(ひと)に告げる。
 ――ファンルゥのために、今は耐える。
 額の赤いバンダナに、そっと触れる。それは、彼が無茶をしないための封印だ。
『猪突猛進に走り出しそうになったら、バンダナを結び直しながら、もう一度だけ考えてみて』
 彼女はそう言って、彼にバンダナを巻いた。
『それでも、走るべきだと思ったら、走ったらいいわ』
 今はまだ、そのときではないから。
 だから、タオロンは雌伏の時を過ごすのだ――。


 菖蒲の花が満開を迎えるころ、〈(ムスカ)〉は私兵たちを集めて告げた。
 近く、この館の持ち主である摂政が、とある貴族(シャトーア)を招いて会食を開く。だからその日は、出歩いたりせずに、割り当てられた部屋でおとなしくしているように、と。
 摂政は、現状における国の最高権力者である。その彼と食事を共にする栄誉を(たまわ)る、貴族(シャトーア)の名は――。

 藤咲ハオリュウ。

4.菖蒲の館を臨む道筋-1

4.菖蒲の館を臨む道筋-1

 新月ならではの漆黒の夜空に、数多(あまた)の星々が降り注ぐ。
 星明りの煌めきの音すら聞こえそうな静寂の中、闇に紛れるようにして、一台の黒塗りの車が走っていった。
 高い煉瓦の壁で覆われた、鷹刀一族の屋敷の門前で止まる。守りを任されている門衛たちは、緊張にごくりと喉を鳴らし、来訪者を注視した。
 車のライトが、瞬く星々を真似るかのように明滅を始める。
 それは、決められたパターンを繰り返す、光の合図だった。
 相手を確認した門衛たちは、安堵の息をつく。会釈して門を開けると同時に、執務室へと連絡を急いだ。


 執務机の内線が鳴った瞬間、メイシアがびくりと肩を震わせた。
 素早く受話器を取ったミンウェイが、応答しながらメイシアを振り返り、優しく微笑む。
 刹那、メイシアの顔は、緊張に彩られつつも薔薇色に輝くという、なんとも不思議な表情を見せた。
 彼女の隣に座っていたルイフォンは立ち上がり、彼女の髪をくしゃりとする。
「迎えに行こうぜ?」
「あっ、うん!」
 差し伸べられたルイフォンの手を取り、メイシアは顔をほころばせる。そこにはもう、緊張の色はなかった。

 数日前。メイシアの異母弟、藤咲ハオリュウからの伝言を、警察隊員の緋扇シュアンが携えてきた。
 ハオリュウが、事実上の国の最高権力者である摂政に、食事の誘いを受けたのだという。
 それだけなら、貴族(シャトーア)の世界では(まれ)にあることだ。鷹刀一族のもとへと連絡するような案件ではない。
 だが、招かれた場所が問題だった。
(ムスカ)〉の潜伏場所と判明した庭園が、会食の会場だったのだ。
 この好機を活かす相談をしたい。――それが、ハオリュウからの用件だった。
 貴族(シャトーア)が、凶賊(ダリジィン)と懇意にしているところを目撃されれば、よからぬ陰謀の憶測を呼び寄せかねない。だからハオリュウは、今まで鷹刀一族との直接の接触は避けてきた。
 しかし、あと少しで〈(ムスカ)〉に手が届く。
 故に、今回ばかりは特別だった――。

 小走りになりながら、ルイフォンとメイシアが玄関に到着すると、ちょうど案内役のメイドが扉を開けたところであった。
「ハオリュウ! ――えっ……」
 喜色満面のメイシアの顔は、しかし、途中で曇った。
 声音と共に、目線が下がる。
 久しぶりに会う異母弟は、車椅子に乗っていた。緋扇シュアンに押してもらっている。
 確か、足の具合いは良好で、杖をつきながらであるが、自力で歩けるようになったと聞いていたのだが――。
「姉様! お元気そうでよかった」
 すっと顔を上げ、ハオリュウが嬉しそうに笑った。
 扉から流れてきた夜風が、彼の髪を揺らす。以前よりも短めにした髪型のせいか、ぐっと大人びて……。
「え……? ハオリュウ?」
 メイシアは耳を疑った。
 目の前の異母弟を凝視する。車椅子以上の驚きだった。
「やだな、姉様。照れくさいよ。一番、落ち着かないのは僕自身なんだから」
 気まずそうに視線をそらし、わずかにむくれる。彼がそんな態度を見せる相手は、唯一、最愛の異母姉だけだろう。
「ごめんなさい、ハオリュウ。でも……」
「分かっている。――『父様そっくり』なんでしょ? 僕の……声」
「……うん」
 その通りだった。
 ほんの数ヶ月前まで、少し苦しげなハスキーボイスを発していた異母弟の喉が、亡くなったふたりの父親にそっくりな音色を奏でていた。
 唐突な変化に、メイシアは戸惑う。当たり前のことなのに、心が素直に受け入れてくれない。
 彼女の困惑顔に、ハオリュウもまた困り顔となった。けれど、それは実に異母姉らしい反応ともいえて、やがて苦笑に変わる。彼は、いつまでも彼女の小さな異母弟ではないのだ。
「声だけじゃないよ、姉様」
 ハオリュウはシュアンに頼み、杖を出してもらう。車椅子を降りるらしい。
 歩けないわけではなかったの? と、目を丸くするメイシアの前で、彼は立ち上がった。すっと流れた空気の気配に、彼女は違和感を覚える。
「え?」
 ふたり向かい合って立てば、彼女の目の前に異母弟の顔があるはずだった。
「ハオリュウ……?」
「ああ、やっぱり。姉様の背を越えたね」
 そう言いながら、ハオリュウはくすりと笑う。屈託のない笑い声すら、以前とは比べ物にならないほど低くなっていて、メイシアはどうにも落ち着かない。
 そのとき、後ろから姉弟の再会を見守っていたルイフォンが、猫背を伸ばしながら、ふらりと前に出た。自然にメイシアの肩を抱き寄せ、くしゃりと髪を撫でる。
「ハオリュウ、久しぶりだな」
「ルイフォン。お久しぶりです」
 にこやかに微笑むハオリュウの視線は、異母姉の肩にあるルイフォンの手に注がれていた。『仲は認めたが、節度は守れ』との、言外の声が聞こえてくる。
 もともと歳に似合わぬ眼光を放つハオリュウだったが、目線が高くなったことによってより迫力が増していた。ルイフォンは、このままいけば将来的には身長を抜かれるな、などと思い、鼻に皺を寄せる。
「おい、ハオリュウ。メイシアを驚かすために、車椅子で来たのか? 足の調子が悪くなったかと、心配したぞ」
 悪趣味だぞ、と含ませながらも、決して責めているわけではない。
 にやりと口角を上げた顔は猫のような愛嬌があり、ルイフォンは軽口に混ぜて、メイシアが(いだ)いているであろう疑問を、それとなく彼女に代わって尋ねていた。
「ああ、すみません。『リハビリを頑張りすぎて筋肉を痛めてしまったため、ドクターストップが掛かった』――」
「ああ、そうなのか。すまん、余計なことを……」
「――ということになっているんです」
「は?」
 ぽかんとするルイフォンに、ハオリュウが腹黒い笑みを浮かべた。
「この作戦で、鷹刀の方々に〈(ムスカ)〉のいる庭園に侵入していただきます」


「〈(ムスカ)〉の潜伏先は見つかったものの、場所が王族(フェイラ)所轄の庭園で、近衛隊の警備が固くて侵入できない。――これが現在、私たちの抱えている問題でした」
 執務室に通されたハオリュウは、待ちかねていた一同への挨拶を済ませると、早々に口火を切った。
「ですが今回、私はその王族(フェイラ)、すなわち摂政殿下ご本人から、(くだん)の庭園にお招きいただきました。――つまり、私と一緒であれば、堂々と侵入できます」
 落ち着き払ったハオリュウの声が、執務室に響き渡る。
 部屋の空気が、緊張を帯びた。
 リュイセンが腰を浮かせる。
 今まで暗礁に乗り上げていた船が、ふとした瞬間にあっけなく解放された。リュイセンには、そう感じられた。
「じゃあ、ハオリュウの護衛に紛れて行けば、あの庭園に入れるってわけか!」
 声を上ずらせながら、誰よりも先に叫ぶ。
 この半月ほど、リュイセンはずっと焦燥を溜め込み続けてきた。嬉々として身を乗り出し、早速、同行を申し出る。
 しかし、彼の父であるエルファンが、すかさず冷たい声を浴びせてきた。
「確かに、護衛に化ければ、門は通過できるだろう。だが、それだけだ」
 失笑混じりの物言いに、リュイセンは(まなじり)を上げる。
「父上、『それだけ』とはなんですか!? 俺たちは門を守る近衛隊には手を出せませんが、中にいるのは〈(ムスカ)〉の私兵たちだけです。彼らを制圧し、〈(ムスカ)〉を捕らえることくらいわけな……」
「ハオリュウの立場を考えろ」
 言葉の途中で、鋭い叱責が飛んだ。
「連れてきた護衛の行動は、ハオリュウの責任になる。摂政の目の前で暴れるなど、もってのほか。途中で姿を消して秘密裏に動いたところで、護衛の人数が減っていれば問題になるだろう」
「!」
「摂政からの招待はチャンスだが、下手をすればハオリュウを危険に晒す。そのことをまず、肝に銘じろ」
 厳しい声に、リュイセンの高揚した気分は、一瞬にして打ち砕かれた。
「そりゃ、そうだよな。安易にすまん、ハオリュウ……」
 乾いた声で律儀に謝りながら、リュイセンはうなだれる。
 ルイフォンは、そんなやり取りを横目に見ながら、じっと父イーレオを観察していた。
 一族の総帥は、相変わらず自分だけ、ひとり掛けのソファーで優雅に足を組んでいた。肘掛けで頬杖を付き、眼鏡の奥の瞳は軽く閉じている。
 気配から起きているのは分かるが、どう見ても居眠りをしているようにしか見えない。超然とした態度で、傍観を決め込むらしい。エルファンに任せているのだと、なんとなく察せられた。
 実は、ハオリュウから連絡があったとき、イーレオは苦い顔をした。
 せっかくの好機にどういうことだと、ルイフォンはずっと気になっていた。わずかながら、不信感も(いだ)いた。何しろイーレオは、これまでいろいろと隠しごとをしてきたのだから。
 しかし、いざハオリュウを目の前にした様子を見ると、分かる。
 イーレオは、純粋にハオリュウを心配している。
 理由はおそらく、不穏な動きをする摂政への警戒。
 摂政に関しては、ルイフォンだって激しく警鐘を鳴らしている。如何(いか)にも災いの火種になりそうだ、と。
 だが、守ってばかりでは進めない。ここは攻めるべきなのだ――。
 そんなふうに思考を巡らせていると、ハオリュウの声が耳に飛び込んできた。
「まぁ、リュイセンさん。落ち着いてください」
 気を悪くしたふうもなく、ハオリュウは穏やかに微笑んでいた。
 リュイセンの気がはやるのはミンウェイのため。ハオリュウも、それを知っているのだ。
「エルファンさんのおっしゃる通り、単純に私と共に侵入するのでは、自由に行動できません。当然、策を講じる必要があります。――それと、そもそも護衛は同行できません」
「え?」
 声を上げたのはリュイセンであったが、メイシアとハオリュウの姉弟以外には疑問だった。皆の視線が、いっせいに問う。
「護衛は、いわば武装です。摂政殿下の私邸に招かれた場合、護衛は門のところで待たせるのが臣下としての礼儀となります」
「……貴族(シャトーア)ってやつは、面倒臭(めんどくせ)ぇな」
 癖のある前髪を掻き上げ、ルイフォンはぼそりと漏らす。そのあまりに率直な感想に、ハオリュウは苦笑した。
「ええ。ですから、姉様には自由であってほしくて、あなたに託したんですよ?」
 裏のありそうな――否、紛うことなく『姉様を不幸にしたら許さない』との念を込めた眼差しで、ルイフォンを見やる。
 思わぬ方向に返してきたなと思いつつ、ルイフォンは、にやりと余裕の笑みを浮かべた。
「ああ。安心して任せろ」
 そう言いながら、隣に座るメイシアを抱き寄せようとして、ルイフォンは動きを止めた。玄関で見た、ハオリュウの眼光を思い出したのだ。
 ここで無駄にハオリュウを刺激しても仕方ないだろう。
 中途半端な位置で止めた手を持て余し、さてどうしようか、と悩んだところで、なんと、その手をメイシアが握ってきた。指先のほうを遠慮がちに、ではあるが、しっかりと。
 そして彼女は、じっと異母弟を見る。
「……!」
 ハオリュウが目に見えてうろたえ、視線をそらした。
 ルイフォンもまた、絶句する。
 ――なんか、すまん……。
 ハオリュウが可哀想になった。しかも、話が完全に脱線している。
 場を取り繕うべく、ルイフォンはこほんと咳払いをして、そっと膝に手を戻した。
「ハオリュウ、策があるんだろ? お前が車椅子を使っている理由、ってやつ。もったいつけずに、早く教えろよ」
 水を向けてやると、ハオリュウは感謝のような、嫉妬のような――微妙な表情を浮かべ……しかし、すぐに頭を切り替えたようだった。
 彼は皆へと向き直り、軽く会釈してから口を開く。
「今回の会食は、若くして当主となった私を激励し、親睦を深めたいとの、摂政殿下のお心遣いです。極めて私的なもので、『摂政殿下』ではなく、『再従兄弟(はとこ)のカイウォル殿下』としてのお立場をとられています。ですから、後見人の大叔父も同席しません」
 ハオリュウは、そこで一度、言葉を切った。そして、皆に正確に伝わるよう、ゆっくりと丁寧に続ける。
「カイウォル殿下としては、ふたりきりで胸襟を開いて語り合おう、という意図なのでしょう。けれど、『若輩者の、お飾り当主』は、意気地なしで、事実上の国の最高権力者とふたりきりなんて、とてもとても耐えられないのです」
「……は?」
 ルイフォンが(ほう)けた声を漏らした。いったい何処に、『若輩者の、お飾り当主』がいるのだ? と。
 それは彼だけではなく、誰もが思ったことだろう。
 皆の反応を楽しむかのように、ハオリュウは清々しいまでに、にこやかな腹黒い笑顔を浮かべた。
「そこで、当主は一計を案じるのです。『都合の良いことに、自分は足が不自由だ。だから介助の人間が必要だと、殿下に申し上げよう』――と」
「それで、車椅子か!」
 合点がいったと、ルイフォンは、ぽんと手を打つ。だがすぐに、疑問が生じた。
「けど、介助者にいったい、なんの意味がある? 別にお前は、摂政とふたりきりになることを、本気で恐れているわけじゃないだろ?」
 介助者では、〈(ムスカ)〉に対してなんの行動を取ることもできない。先ほど話に出た護衛と同じで、ハオリュウのそばを離れられないからだ。
「介助の者に意味はありませんよ。ただ、カイウォル殿下には、私が『心細さから、ひとりで行くのを恐れている』と思っていただきたいのです。『付き添いを許可してもらうため』に、足が悪いという名目を使った、と」
「――で? お前の真意は?」
 声を潜め、ルイフォンが尋ねる。
「『車』ですよ」
 ハオリュウはそう言って、口元を歪めた。底知れぬ漆黒の瞳が、実に楽しげに細められ、一同はごくりと唾を呑む。
「あの庭園は菖蒲が見事で、ちょうど花が盛りだから、とカイウォル殿下に誘われました。一緒に散策でも、と思われたのでしょう。――けれど、あいにく、私には足場の悪い遊歩道なんて、とても無理。なのに、あろうことか、あの庭園は全体的に起伏のある、なだらかな坂の地形なのです」
 ハオリュウは、含み笑いをしながら、ゆっくりと瞳を巡らせる。
「そう申し上げて、会食の会場になっている奥の館まで、『車』を乗り付ける許可をいただきましたよ。本来なら、臣下は門で、車を降りるべきところを、ね」
 護衛と同様、車も門まで。
 門から先は、摂政の領域であるから――。
 ……それを、『足が悪い』という不幸を利用して、覆す。
「――!」
 ルイフォンは、はっと猫の目を見開いた。『車』の意味を解したのだ。ハオリュウの柔軟さに舌を巻く。
「なるほど。考えたな、ハオリュウ……」
 ルイフォンの感嘆の声に、「さすが、ルイフォン。分かりましたか」と、ハオリュウが重々しく頷く。
「後部座席の下に、人が隠れられるような細工をします。近衛隊も、摂政殿下に招かれた貴族(シャトーア)の車なら、チェックも甘いでしょう。――『車』に注目されないために、『付き添いの介助者』のほうを強調して、話を通しましたからね」
「つまり……」
 ルイフォンに遅れて理解したリュイセンが、興奮に顔を上気させた。気持ちは高ぶり、声には震えすら帯びる。
「〈(ムスカ)〉捕獲要員は、車の中に隠れて、姿を見られないようにして庭園内に侵入する、ってことか……!」
「そういうことです」
 ハオリュウの腹黒い笑顔が広がった。
 華麗に披露された作戦の全貌に、一同は水を打ったように静まり返り、ひと呼吸置いて、沸き立つ。
「ハオリュウ、凄いな! これで〈(ムスカ)〉を捕獲できるぞ!」
 リュイセンが目を見開き、諸手を挙げて称賛する。
「ええ。ですが、条件がふたつあります」
 ハオリュウは、厳しい声で言い放ち、わずかに眉を曇らせた。
「車に隠れられるのは、せいぜいふたりです。たったふたりで〈(ムスカ)〉の私兵を退け、〈(ムスカ)〉を捕獲しなければなりません」
「戦力なら、俺ひとりで充分だ。あとは、監視カメラからの情報を得たいから、ルイフォンをつけてくれればいい」
『神速の双刀使い』リュイセンは、無用の憂慮と笑い飛ばす。すっかり彼とルイフォンで行くつもりのようだが、妥当な人選といえよう。
 ハオリュウもこの流れは読んでいたのか、特に異論はないようだった。しかし、次の条件を言う口は重かった。
「そして、もう一点。申し訳ないのですが、私にできるのは、たったふたりの人間を『館の中まで連れていく』ことだけです。脱出については、斑目タオロン氏が協力してくれることに賭けるしかありません」
「それで充分じゃないか?」
 なんの問題があるのだと、生真面目な顔でリュイセンが尋ねる。
「ですが、無責任でしょう?」
「そんなことはねぇぞ、ハオリュウ。俺たちが困っていたのは侵入方法だけだ。〈(ムスカ)〉さえ捕まえれば、タオロンは味方になってくれるはずだ。奴は信用できる」
 ルイフォンも、にやりと笑う。
 タオロンは、娘のファンルゥのために、誰よりも強く外の世界を望んでいる。
 ルイフォン自身、あの元気で優しい女の子を自由にしてやりたいと思う。そのためにも、この作戦は必ず成功させる必要があった。
「〈(ムスカ)〉の捕獲は、夜を待って行動に移す。摂政もハオリュウも帰ったあとだ。――余計な人間がいないほうが安全だし、ハオリュウが加担したと疑われることもない」
 手引きしてくれるハオリュウのことは、絶対に危険に晒さない。
 この場合の危険というのは、身体の危機ではなく、摂政の不興を買い、藤咲家に害が及ぶことだ。ハオリュウの双肩には家運が掛かっている。
「それまで俺たちは隠れていて、暗くなってから侵入したふうを装い、〈(ムスカ)〉の寝込みを襲う。〈(ムスカ)〉を捕獲したあとはタオロンに協力を願い、あいつの運転する車で脱出する。俺たちと〈(ムスカ)〉の姿は見えないようにして、私兵のタオロンだけ顔を出せば、近衛隊は通してくれるはずだ」
 猫の目をすうっと細め、ルイフォンは口の端を上げた。そして、リュイセンと無言で頷き合う。
 兄貴分は、覇気に満ちた、いい顔をしていた。それはきっとルイフォンも同じだろう。
(ムスカ)〉の件はうまくいく。その自信がある。
 だが――。
 ルイフォンは、ちらりとイーレオを見やった。
 先ほどと変わらない、泰然とした狸寝入り。はらりと掛かった長髪が、絶世の美貌を半分ほど隠す。
 ルイフォンの気配を察したのか、イーレオは静かに瞼を開いた。さらさらとした黒髪から垣間見える瞳は、海の底よりも深い闇色をしている。
 その目を見た瞬間、ルイフォンは確信した。
 イーレオもまた、ルイフォンと同じことを危惧している。それでいて、この場では静観……いや、そうではない。ルイフォンに任せているのだ。
 父の意を悟った彼は、ハオリュウに向き直る。
「ハオリュウ。〈(ムスカ)〉は必ず捕らえて連れてくる。大船に乗ったつもりでいてほしい。――けど、それより、お前のほうが心配だ」
 ルイフォンの硬いテノールが響いた。
 メイシアが花の(かんばせ)を強張らせながら、彼を後押しするように頷く。
 彼女はルイフォンの懸念を知っている。むしろ、彼女のほうが先に気づいていた。
 この『不自然な状況』から考えられる、『最悪の事態』について――ふたりで推測を交わし、ハオリュウに警告すると決めていた……。
「どうしたんですか、ルイフォン? 私が心配……?」
 きょとんと首をかしげる仕草は、歳相応の少年らしい、あどけなさが演出されていて、可愛らしくも見える綺麗な作り笑顔だった。
「ああ、心配だ」
「大丈夫ですよ。私は、カイウォル殿下と食事をするだけです。作法なら、物心つく前からきちんと……」
 にこやかに答える声を、ルイフォンが「誤魔化すなよ」と鋭く遮る。
「摂政は、あの庭園に〈(ムスカ)〉を(かくま)っている。――そんな場所に、お前を招いた。これは偶然なんかではあり得ないだろ?」
「……」
「必然のはずだ。『そこに〈(ムスカ)〉がいるから』こそ、摂政は、お前をあの庭園に呼んだ。――つまり、摂政との会食は、ただの食事会なんかじゃない。……『罠』だ!」

4.菖蒲の館を臨む道筋-2

4.菖蒲の館を臨む道筋-2

 摂政は、菖蒲の庭園に〈(ムスカ)〉を(かくま)った。
 そして、同じ場所にハオリュウを招いた。
 これが、『偶然』であるはずがない。
 摂政の、明確な意思によるもの――すなわち、『必然』。
 会食というのは名目にすぎない。摂政はなんらかの意図を持って、ハオリュウに接触してきたのだ……。


「そんな怖い顔をしないでくださいよ」
 詰め寄るルイフォンに、ハオリュウは困ったように苦笑した。
「あの庭園にある菖蒲園は、それはそれは見事なものだそうです。カイウォル殿下は風流を愛する方ですから、季節の花の館を選んでくださったのでしょう」
 ハオリュウは、低くなった声を響かせる。
 亡くなった父親そっくりの柔らかな声質と、面影を残す優しい顔立ち。争いを好まぬ、穏やかな性格だった彼の父を知る者なら、彼の言葉は心からのものだと、ころっと騙されるだろう。
 だが、あいにくルイフォンは、ハオリュウ本人をよく知っていた。
「花が盛りだなんて、ただの口実だ。――だいたい、お前自身が言ったじゃないか、足場の悪い遊歩道の散策なんて無理だと。お前の足が悪いことなんて、国中の人間が知っている。摂政だって、承知の上で誘ったはずだ」
 ルイフォンが喰らいつくと、ハオリュウは穏やかに微笑んだ。
「館の中からでも、花は楽しめますよ」
「ああ、そうだな。あの庭園に〈(ムスカ)〉がいるという情報を得ていなければ、王族(フェイラ)貴族(シャトーア)の『(みやび)』とやらを信じてやってもよかったよ。――だが、現実の問題として、俺たちはそこに〈(ムスカ)〉がいることを知っている」
 腹黒い駆け引きの機微に()けたハオリュウが、現状の不自然さに気づかないわけがない。そもそも、王宮に出入りしている彼なら、摂政の不穏な空気を肌で感じているはずだ。
 なのに、笑顔の仮面をかぶるのは、異母姉のメイシアに心配をかけまいとしているからだ。
『姉様には自由であってほしくて、あなたに託したんですよ』
 その言葉の裏には『姉様を不幸にしたら許さない』という牽制があった。だが、その更に裏側には、『姉様を安全なところに逃がすことができてよかった』との安堵があったはずだ。
 貴族(シャトーア)の世界に残ったハオリュウは、異母姉を頼ることなく、ひとりで対処するつもりだろう。けれど、そんなことをメイシアは勿論、ルイフォンだって望まない。
 つんつんと袖を引かれる感覚に、ルイフォンは隣を見やる。眉を曇らせたメイシアが、自分の出番だと言っていた。
 ルイフォンは頷き、乗り出していた体をソファーの背に預けた。代わってメイシアが、心持ち前に出る。
「ハオリュウ」
 凛と澄んだ、綺麗な声。
 だがそれは、ルイフォンが聞いたこともない、厳しい声色をしていた。
「姉様……?」
「政権を巡って、カイウォル殿下とヤンイェン殿下が、水面下で争っていると聞いたの。貴族(シャトーア)は二派に分かれ、あなたもまた巻き込まれている、って」
 ――それは、少し前に、少女娼婦スーリンが客の貴族(シャトーア)から仕入れた話だった。
 異母姉が何を言ってくるのかと身構えていたハオリュウは、ほんの少しだけ表情を緩めた。彼女が口にしたことは、ある程度、政情に詳しい者なら誰もが知っている、ただの事実だったからだ。
「ああ……、うん。それは貴族(シャトーア)なら仕方のないことだよ」
 心配性の異母姉を刺激しないよう、ハオリュウは柔らかに受け流す。
 現在、未成年の女王に代わり、摂政として政務を執っているのは、女王の実兄のカイウォルである。しかし、女王が結婚すれば、婚約者から配偶者となったヤンイェンが、女王と共に国を治めることになる。
 カイウォルとヤンイェンが手を取り合うことができるなら、なんの問題もない。だが、歳が近く、従兄弟同士でもある彼らは、幼いころから比べられて育ったために仲が悪かった。
 今まで、国政を担ってきたカイウォルとしては、ヤンイェンの臣下に成り下がるのは面白くないであろう。ふたりの軋轢は、避けようもない。
 故に、さまざまな憶測が飛び交っている。
 女王が結婚する前に、カイウォルは摂政の権限を駆使して、自分が優位になるような法を作るのではないか。それよりも、ヤンイェンがカイウォルを排除するよう、女王に働きかけるのではないか。
 更には、もっと直接的に、互いに暗殺者を放っているという噂さえもある……。
 正当性という意味では、ヤンイェンに軍配が上がる。
 だが、病気療養をしていたヤンイェンよりも、実績のあるカイウォルが実権を握るべきだと言う貴族(シャトーア)も少なからずいる。女王は象徴として残しつつ、政治は切り分けるべきではないのか――そんな声も上がっている……。
「確かに、今の王宮は不安定だ。判断を間違えれば、藤咲家は没落する。――けど、姉様。心配しないでほしいな。このくらい乗り切れなければ、この先、僕は当主としてやっていけないよ」
 異母姉を安心させるための穏やかな声で、けれど、きっぱりと言ってのける。右手に光る当主の指輪は、ただの飾りではないのだと。
 それからハオリュウは、物言いたげな目でルイフォンを見やった。
 情報屋である彼が貴族(シャトーア)の間で囁かれている噂を聞きつけて、メイシアに吹き込んだのだと思ったのだ。それで、異母姉が不安になっているのだと。
 余計なことを言ってくれたな、とばかりに、睨みをきかせる。だが、その視線を異母姉の険しい声が遮った。
「ハオリュウ、私が言いたいのは、そんな貴族(シャトーア)全般のことじゃないの」
「姉様?」
「ハオリュウが、おふたりの殿下に贔屓にされていると聞いたの。その理由は、藤咲家が今、一番、勢いのある貴族(シャトーア)だから。――あなたを味方につけることが、おふたりの力関係に大きく影響する、って……」
 深刻な顔で、メイシアは訴えた。
 しかしハオリュウは、弾かれたように笑い出した。 
「やだなぁ、姉様。飛躍しすぎだよ」
「でも……」
「確かに、僕の代になってから、藤咲家は力をつけているよ? けど、いくらなんでも、それは大げさだよ。そんな噂、何処で聞いたの?」
 ハオリュウは、自負を見え隠れさせて、胸を張る。だが、その顔が一瞬だけ強張ったことを、ルイフォンは見逃さなかった。
 ルイフォンは周りに気づかれないよう、メイシアの背中に手を回し、流れる黒髪をくしゃりと撫でた。取り合ってくれない異母弟に、瞳を潤ませかけていた彼女は驚き、ルイフォンを見上げる。
 ――と同時に、目ざとく気づいていたハオリュウは、ルイフォンを()めつけた。
 そんな姉弟へと、見透かしたような猫の目がにやりとする。それは、ハオリュウには焦りを、メイシアには勢いを与えた。
 メイシアは一度、きゅっと力を込めて唇をつぐみ、それから、凛と口を開く。
「カイウォル殿下とのふたりきりの会食は、ご自分の(がわ)についてほしいという殿下のお誘いと思って間違いないの! それが分からない、あなたじゃないでしょう?」
 強い口調に、ハオリュウの体が引けた。(たお)やかのようでいて、この異母姉は芯が強い。ずっとそばにいた彼は、よく知っている。
 ならば、跳ねのけるよりも、やんわりと受け止めるほうが賢い。――ハオリュウは、まとう雰囲気の色を少しだけ変えた。
「……まぁ、そうだと思うよ。でも、それは名誉なことでしょ? 応じるかは、さておいてさ」
 素直な肯定と共に、ハオリュウは深い溜め息を落とす。異母姉には、黒い世界に関わってほしくない。彼女の不安げな顔など、見たくないのだ。
 けれど、メイシアは更に言葉を重ねた。
「そんな気楽なものじゃない。何か、罠があるはずなの!」
 彼女は声を震わせ、異母弟へと迫る。
「そうでなければ、『あの』カイウォル殿下が、『あなた』と親睦を深めたいとおっしゃるはずがない。……あの〈(ムスカ)〉がいる館に、誘ったりしない!」
 吐き出されたのは、メイシアとは思えない、敵意に満ちた言葉だった。
 静かに聞き手に回っていた鷹刀一族の者たちが、驚きに表情を揺らす。事情を聞いていたルイフォンだって、瞳を瞬かせたほどだ。
 メイシアが含みを込めて言った内容自体は、とても単純なことだ。
 王宮内において、平民(バイスア)を母に持つハオリュウは異端視された。特に、王子であるカイウォルには冷遇されていた。それだけの話だ。
「僕が当主になったからには、昔を忘れて仲良くしたいという、カイウォル殿下のお心づもりなんでしょう。言葉を交わし、溝を埋めたい。そう思ってくださるのなら、それに乗らない手はないよ」
「ハオリュウ……」
「姉様、僕は当主なんだよ? 僕個人の、過去の確執にこだわるのは、愚かだ」
 ハオリュウの声が、静かに響く。
 漆黒の瞳は、冷ややかに冴え渡り、何者をも寄せつけない――。
「おい、ハオリュウ、いい加減にしろよ」
 鋭いテノールが、姉弟の間に割って入った。
 ルイフォンは腕を組み、顎を上げ、威圧的にハオリュウを睨みつける。
 ハオリュウの頑なな態度に、腹が立ったのだ。なおかつ、この鬱陶しいだけの不毛なやり取りを、いつまでも聞いているのも馬鹿馬鹿しかった。
「お前だって、摂政が何か企んでいるのは分かっているんだろ? でも、そう認めちまえば、メイシアが心配する。だから、あくまでも『(みやび)な食事会』だと言い張る」
「……っ!」
「見くびるなよ。『俺の』メイシアは、そんなヤワじゃねぇし、怖がっているわけでもねぇ。ただ、一緒に対策を練ろうってだけだ」
「だ、誰が『あなたの』ですか!」
「メイシアが、だ!」
 そう言いながら、ルイフォンはメイシアの肩を抱き寄せる。
 先ほど自分からルイフォンの手を握ったのとは違い、いきなりであったため、メイシアの口からは高い悲鳴が漏れそうになった。しかし、彼女はかろうじてこらえる。ここで平然としていなければ、ルイフォンの立つ瀬がないのだ。
 残念ながら、徐々に染まっていく肌の赤さは止められなかったが、彼女の異母弟もまた、別の意味で顔を真っ赤にしていたので、効果はあったようだった。
「ルイフォン!」
 ハオリュウが、唇をわななかせて叫ぶ。
「で! お前は俺の大事な『義弟(おとうと)』だ! 少しは心配くらいさせろ! 馬鹿野郎!」
「なっ……!?」
 その言葉は、よほど予想外だったのだろう。ハオリュウは絶句した。口をぱくぱくさせたまま、声が出ない。
 その隙に、ルイフォンは畳み掛けた。
「実権を握りたい摂政にとって、有力な貴族(シャトーア)のお前にする話なんて、ひとつしかないだろ」
 ルイフォンは、ハオリュウの目を正面から捕らえ、言い放つ。
「『クーデターの片棒を担がせる』――密談、だ!」
 鋭く放たれたテノールが、執務室を斬り裂く。
 その場にいた者たちが短く息を吸う音で、部屋の空気がさざ波を立てる。
「お、おい……、ルイフォン。マジかよ、それ……」
 冷や汗を流しつつ、リュイセンが呟いた。
「まぁ、実際には武力行使まではせずに、噂にも上がっているような、穏当な『法改正』程度に収めて、実権を握る可能性が高いだろう。――けど、ハオリュウを手に入れるためになら、摂政は、なりふり構わずに仕掛けてくるつもりだぜ」
「何故、そう言い切れるんですか……!?」
 噛み付くようにハオリュウが尋ねる。
「会食の場所が、〈(ムスカ)〉のいる館だからだ。――摂政は『〈(ムスカ)〉の技術を使った何か』を切り札に、お前を追い込むつもりだ。そうでなきゃ、あの館を選んだ意味がない!」
「そんな、まさか……。僕だって、カイウォル殿下が懐柔してくることは予測していました。後見人の大叔父を外したのも、僕と仲の悪い彼がいないほうが、話が円滑に進むと考えたからでしょう。何かにつけて、彼は、僕とは反対意見を言いますから」
 ハオリュウは、貴族(シャトーア)らしく後見人を同席させない理由を気にしていたらしい。
「ですが、いきなり、そこまでの話が来るとは思っていません。二度、三度、呼ばれるうちに、いずれ……ということかと。――しかし、そのころには、〈(ムスカ)〉はこちらの手にあるはずです」
「まぁ……、そうかもしれないけどさ」
 程度の差こそあれ、ハオリュウも危険を認識していることに安堵して、ルイフォンは言葉を収める。摂政本人にしか分かり得ない心の内など、議論したところで無駄なのだ。
「ともかく、お前は、陰謀の罠の中に飛び込もうとしている、ってことだ」
 ルイフォンが、そうまとめると、もはや観念したのか、ハオリュウは素直に頷いた。
「……ええ。しかし、臣下である僕には、摂政のお誘いをお断りするという選択肢はありません。ならば、〈(ムスカ)〉を捕らえる絶好の機会に変えてしまうだけです」
 ここからは見えない菖蒲の館を臨むように、ハオリュウの視線が遠くに投げられる。
「ハオリュウ……。俺はさっき、摂政に対する対策を一緒に練ろうと言ったが、実のところ、有効な手段を思いつけていない。せいぜい、お前に発信機や盗聴器の類をつけておくくらいだ。……すまん」
 ルイフォンの得意とするものは『情報』。相手が従わざるを得ないような、重要な情報を手に入れることで、優位に立つ。しかし、現在の最高権力者カイウォルに対しては、生半可な情報ではもみ消されるだけだ。
「ルイフォン、勘違いしないでください」
 ハオリュウは、父親そっくりの声で、穏やかに言う。
「現在の藤咲家は、どちらの派閥にも(くみ)しておらず、僕はカイウォル殿下と敵対しているわけではありません。殿下が〈(ムスカ)〉を庇護しているのは不愉快ですが、駒として利用しているのなら、それも容認します。――上に立つ者が、完全に清廉潔白であるなんて、あり得ないですからね……」
 だいぶ大人びたとはいえ、それでもまだ、あどけなさの残る少年の顔に、黒い影が落ちる。線の細い体をわずかに丸めた姿は儚げで、どこか危うげでもあった。
「――だから、僕が危険な目に遭うと決めつけるのは早計ですよ」
 無理やりに、であろう。妙に明るい声で、ハオリュウは笑った。
「ハオリュウ……」
「でも、僕を心配してくださったことには感謝申し上げますよ。…………、…………。…………っ、……にっ、…………義兄(にい)さ…………」
 ハオリュウの言葉が、最後まで発せられることはなかった。顔を真っ赤にして、喉をつまらせてしまったからだ。
「!」
 まさかの発言だった。
 ここまで来たからには、きっちり最後まで聞いてみたい。からかってでも、言わせてみたい――!
 信じられないような可愛らしい反応に、ルイフォンの嗜虐心がうずうずする。外見は似ていなくても、ハオリュウはメイシアの異母弟だった。
 しかし、ここで余計なことをしたら、せっかく距離を縮めてくれたことも台無しだろう。ルイフォンは心で悔しがりながら、ぐっとこらえ、諦めて平然を保った。
 そんなルイフォンの気持ちを知ってか、知らずか。
 不意に空気が揺れた。
「ハオリュウ」
 (つや)のある、魅惑の低音が響く。
 一番奥から状況を見守っていたイーレオが、ふんぞり返るようにして組んでいた足を解き、姿勢を正したのだ。
「お前はさっき、足が不自由なことを理由に『介助者』と『車』の許可を得たと言っていたな」
「イーレオさん?」
 どうして、今更のように話を戻すのかと、ハオリュウは首をかしげた。だが、イーレオは構わずに続ける。
「『車に注目されないように、介助者を強調して話を通した』というのは、『陰謀の匂いのする会食だから、腹心を連れて行く』と解釈されるように伝えた、ということだろう? ――お前、摂政相手に、暗に喧嘩を売ったな?」
「いえいえ、そんな。私……僕は『小心な子供当主』ですよ」
 そう言って、ハオリュウは目元を和らげたが、漆黒の闇を(いだ)いた瞳は、ちっとも笑ってなどいなかった。
「まったく……、お前は賢くて、度胸が座っているな」
 イーレオが口元を緩める。本当は『長生きできないぞ』と加えたかったのであるが、メイシアを無用に心配させても仕方ないので、それは呑み込んだのだ。
「まぁ、悪い手でもない。――そうしておけば、車への警戒はかなり薄くなるし、お前に関わるなら、それ相応の覚悟がいるという警告にもなる。もっとも、最近の藤咲家を見ていれば、お前がただ者ではないことは分かっているだろうがな」
「恐れ入ります」
 唐突な褒め言葉に、ハオリュウは心から恐縮する。
 親しげに話してはいるが、相手は王国一の凶賊(ダリジィン)の総帥だ。本来なら気軽に口をきくことなどできない、摂政に勝るとも劣らぬ大物なのである。
「それで、だ。――お前は『介助者に意味はない』と言っていたが、そんなわけないだろう? 何が起こるか分からぬ危険な場所に、共に赴く大事な相棒だ。それなりの人物でなければ務まらない」
「え? はい、そうなりますが……」
「俺を連れて行け」
 イーレオの親指が、ぐっと力強く(おのれ)を指した。
 美麗な顔を輝かせ、有無を言わせぬ迫力で威圧する。
「は?」
 ハオリュウの目が点になった。
 否、ハオリュウだけではない。その場にいた全員が唖然とした。
「俺ほど有能な人間は、この国にふたりといないぞ。頭が切れ、腕も経つ。お前の腹心として、これ以上の人材はいないだろう」
 (たけ)く、誇るように、イーレオは皆を睥睨する。
「な、何、考えているんだ、阿呆親父! 駄目に決まっているだろ! 常識で考えろ!」
 やっとの思いで、ルイフォンが叫んだ。それに追従するように、ハオリュウとリュイセンが『その通りだ』とばかりに頷く。
「父上らしいですね」
 一瞬だけは驚きを隠せなかったものの、すぐにいつもの鉄面皮に戻ったエルファンが皮肉げな笑みを浮かべると、チャオラウが「まったくですな」と同意した。
「ですが、父上。あなたがハオリュウの介助の者として付き添うには、致命的な欠点があります」
「なんだ、エルファン? 俺のどこに問題がある?」
 イーレオは不快げに鼻に皺を寄せる。だが、その瞳は、いたずらな子供の輝きを放っていた。
 エルファンは肩を落とし、深い溜め息をつく。
「実は、私も介助者の話が出たときに名乗りを上げようとしたのですが、同じ『欠点』のために諦めました」
「ふむ?」
「――父上。初めから、お分かりになっているのでしょう? しらばっくれるのもおやめください」
 苛立ちを見せるわけではなく、エルファンはただただ冷たく言い放つ。イーレオは、やれやれとばかりに、長い足を大きく振り上げ、足を組んだ。
「……まったく。お前は面白くないな。遊び心というものをちっとも理解していない!」
「父上の遊び心は、振り回される周りが迷惑します」
 エルファンは、ぴしゃりと切り捨て、それから「ハオリュウ」と呼んだ。
「はい、エルファンさん……?」
「私も父上も、気持ちの上ではお前についていってやりたいと思っている。だが、私たちの顔はヘイシャオと――〈(ムスカ)〉と、そっくりだ」
「あっ……」
 そう言われ、ハオリュウを含めた皆の合点がいく。
「〈(ムスカ)〉を子飼いにしている摂政なら、奴の顔を知っているだろう。お前の腹心が〈(ムスカ)〉と瓜二つというのは厄介ごとを招きかねない。だから、私たちでは駄目だ。すまない」
「い、いえ、そんな……」
「――それに、誰についていってもらうか、もう決めているのだろう?」
 エルファンにしては珍しく、優しい声だった。一瞬だが、ふわりと笑ったように見えた顔が、ハオリュウの隣を見やる。
「はい」
 ハオリュウの返事が伸びやかに響く。強い眼差しに信頼を載せて、彼は横を見上げる。
「シュアン。お願いします」
「ああ。任せろ。休みは、とっくに申請中だ。いざとなったら無断欠勤してでも、ついていってやる」
 三白眼を剣呑に光らせ、シュアンは口の端を上げる。
 本当は、先輩の仇である〈(ムスカ)〉を捕らえる役割を受け持ちたかったに違いない。だが、銃を頼みとする彼が、隠密行動に向いていないのは明らかだった。
 だから彼は、異論を挟まない。
 そのことに、イーレオも、エルファンも気づいていた。
「シュアン、頼んだぞ。大華王国一の凶賊(ダリジィン)の総帥と、次期総帥の代理だ。心して行って来い」
 にやりと笑い、イーレオは告げる。
「無論だ」
 シュアンは、不敵な笑みで答えた。
 

 こうして、菖蒲の館への道筋が定まった――。


~ 第四章 了 ~

幕間 雲上の手紙

幕間 雲上の手紙

 てんごくのまま、おげんきですか?
 てんしのくにに、もどった、ほんしゅあは、おねつさがった?


「……これじゃ、ママが読めないよぅ」
 なんでだろう。
 おかしい。うまく書けない。
 …………。
 ……ファンルゥ、とっても凄いの。
 偉いの。
 だってね、文字を知っているんだもん。
 だから、絵本の男の子みたいに、ファンルゥもママにお手紙、書けるはずなの。
 ……でも、ファンルゥが『てんごく』の『て』の字を書こうとすると、鉛筆がびよーんと長い尻尾を伸ばして、あっちにいっちゃう。
『ん』の字は、ふにゃん。『ご』は、くしゃん。けど、『く』は、とっても上手なの。
 …………。
 その続きは、ファンルゥの頭の中に書いてある。……だって、うまく書けないんだもん。
 ママにお話したいことが、いっぱいあるのに。
 ファンルゥ、がっかりだ……。


 文字は『お世話係』っていう、おばちゃんたちに少しずつ教えてもらった。
 ファンルゥが、お願いしたんだ。ファンルゥ、偉いの。
『お世話係』は、早くて一週間。長くても一ヶ月で別の人に変わる決まりだった。ファンルゥに『肩入れ』しないように、だって。斑目の『偉い人』が言っていた。
『肩入れ』っていうのは、『とっても可愛がること』。
 ファンルゥ、賢いから、ちゃんと教えてもらって、ちゃんと知っているんだもん。……なんで、ファンルゥを可愛がったらいけないのかは、よく分かんなかったけど。
 でも、ファンルゥと仲良くしてくれた人ほど早く、『お世話係』を交代になるのには気づいた。
 ――『お世話係』は、おばちゃんじゃなくて、お姉さんもいれば、お婆ちゃんもいた。
 優しい人もいれば、怖い人もいた。
 ファンルゥは、いろんな人を知っている。だからファンルゥは、ちょっと見れば、その人がいい人か悪い人か、だいたい分かる。だって悪い人は、ファンルゥとお話してくれないだけじゃなくて、目も合わせないんだもん。
 ファンルゥが一番大好きだった『お世話係』は、たった一週間しか一緒にいられなかった、ちょっとお婆ちゃんのおばちゃん。
 そのおばちゃんは、とっても大事なことを教えてくれた。


「いい? ファンルゥちゃん。ファンルゥちゃんは、普通の子とは違う生活をしているの」
「……?」
 ファンルゥは、他の子なんてほとんど知らない。
 だから、うーって考えた。パパそっくりと言われている眉毛が、ぐぐって寄っていくのが自分でも分かった。
 そしたら、おばちゃんは「分かんないでしょ?」って。
 ええと、なんていうのかな。そう。ふふーん、って感じで、ぐっと顎を上げた。
「『分かんない』は、大問題よ! だって、悪い人に騙されちゃうでしょ?」
 ファンルゥ、あー! って思った。
 そうだ、その通りだ! おばちゃん、賢い。
 なんか、凄くびっくりして、あんまり、びっくりだったから、口の形だけ『あー!』で声が出なかったんだけど、おばちゃんにはちゃんと伝わったみたい。おばちゃんは、うんうん、って深く頷いてくれた。
「ファンルゥちゃんは、上の人のせいで、『知っている』ことがとても少ないの」
「?」
「でも、負けちゃ駄目。少しずつでいいから、たくさん『知っている』を増やすのよ。『知っている』は、とっても大事なことだからね」
「……?」
 難しくて、よく分かんない。
 けど、おばちゃんが、ふんって鼻息を荒くしながら、握りこぶしを作る顔が面白くて、なんだか楽しくなってきた。
「ファンルゥちゃんに、まず一番、大事なことを教えてあげるわね」
 おばちゃんが、胸を張る。
 凄くわくわくした。だから、早く教えてほしくて、おばちゃんのエプロンの端をぎゅっと引っ張っちゃったくらい。
「絶対に忘れちゃいけない、大事なことよ」
 秘密を打ち明けるように、おばちゃんは声を潜める。
「ファンルゥちゃんのパパはね、とっても強くて、正しくて、偉いの!」
「……」
 どんなに特別なことかと思ったら、当たり前のことだった。
 がっかり。
 でも、パパが褒められるのは、嬉しい。だからファンルゥは、おばちゃんの真似っこをして、胸を張って大きな声で言い返した。
「ファンルゥ、知っているもん! パパは強くて、正しくて、偉くて、……えっと、それから、凄くて、格好いいの!」
 ファンルゥは、おばちゃんよりもたくさん、パパのいいところを言った。おばちゃんは目を丸くして驚いている。ファンルゥの勝ちだ。
「ファンルゥちゃん、パパのこと好き?」
「大好き!」
 ファンルゥがそう言うと、おばちゃんは「いい子ねぇ!」と、にこにこしながらファンルゥの頭を撫でてくれた。
「タオロン様は、とても素晴らしい方よねぇ」
「うん!」
「でもね……」
 今まで楽しそうだったおばちゃんが、急に変な顔になった。怒っているような、悲しんでいるような、くしゃっとした顔だった。
「斑目の中には、ずるくて悪い人が、いっぱいいてね。特に上の人たちは、タオロン様が人気者になると自分たちが威張れなくなっちゃうから、タオロン様の悪口を言って、タオロン様を悪者にしているの」
「え……」
「ごめんね、ファンルゥちゃん。嫌なことを『知っちゃった』ね」
 おばちゃんは屈んで、ファンルゥをぎゅうっと抱きしめてくれた。今まで、そんなことをしてくれた『お世話係』はいなかったから、ファンルゥは凄くびっくりした。
「ねぇ、ファンルゥちゃん。タオロン様は強い方だけど、ひとりで頑張るのは、やっぱり大変なの。辛かったり、寂しかったりするのよ」
「パパが……?」
 信じらんない。
 だって、パパは大人だし、とっても強いんだもん。
「えっと、パパが……泣いちゃうの?」
 ファンルゥが訊いたら、おばちゃんは、ぷっと吹き出した。
 でも、そのあとすぐに、にやぁって笑った。絵本によく出てくる、ずる賢いキツネみたいな細い目で、今にも、いっひっひー、って言い出しそうな感じで。
「そうね、泣いちゃうかも! タオロン様は、お優しい方だから」
「ええぇっ!」
「でもね、ファンルゥちゃん。あなたが居るから、タオロン様は元気になれるの」
「え……? ファンルゥが、パパを元気にする?」
「そう! ちゃあんと『知っていて』あげてね」
「うん!」
 ファンルゥが元気に答えると、おばちゃんは今までで一番、素敵な顔になった。
 にこにこで、くしゃくしゃの皺がいっぱいで。おばちゃんというより、お婆ちゃんになっちゃったんだけど、優しくて、あったかい――!
「ファンルゥちゃんなら、いっぱい、いっぱい、『知ること』ができる。そして、パパを助けてあげて。パパが泣かないようにね!」
 

 あのおばちゃんが、なんで『知っている』が大事だって、教えてくれたのかは分からない。
 けど、それからファンルゥは、いろんなことを『知っている』にしてきた。文字も、そのひとつだ。
 ファンルゥが、『お世話係』のおばちゃんたちに『教えて』って言うと、たいていの人は面倒くさそうな、嫌な顔をした。けれど、ファンルゥは『知っている』のために頑張った。
 そのうち、人に教えてもらうだけじゃ駄目だ、ってのも分かってきた。
 相手は嘘つきかもしれない。
 自分で、よーく考えないといけないんだ。
 だからファンルゥは、自分の足で調べ、自分の目で見ることも覚えた。
 そして――。
 ファンルゥは、ホンシュアとお友達になれた。
 あの別荘で、ファンルゥがこっそり探検したから。
 だって〈(ムスカ)〉のおじさんが『地下は駄目』って言うから、絶対、何かあると思ったんだ!


 天使のホンシュアにとって、人間の国は、とっても熱いところだった。だからホンシュアは、ずっと辛そうで、可哀想だった。
 ファンルゥ、本当は、天使の国のお話や、雲の上の世界のこと、天国のママがどうしているかを聞きたかった。けど、ホンシュアはお熱があるから寝てなきゃ駄目なんだって、ちゃんと分かっていた。だから、我慢したの。偉いの。
 代わりに、ファンルゥがいっぱい、いっぱいお話をしてあげた。
 ファンルゥの『知っている』は少ないから、ほとんどパパのことだったけど……。
『ホンシュアは、天国のママに頼まれて、ファンルゥの様子を見に来た天使』――じゃないってことを、ファンルゥは、ちゃんと知っている。
 そうだったらいいな、って、ファンルゥが思っただけ。
 でも、ホンシュアは優しいから、天使の国に戻ったあと、ママに会いに行ってくれたはず。そして、パパとファンルゥのことを伝えてくれていると思う。だから、ちゃんと、あのお話の通りになるの。

 本当は……ホンシュアは、ルイフォンに会いに来た。

 でもルイフォンは、ホンシュアを知らなかった。
 ホンシュアには、とっても難しくて、きっと辛い『何か』がある。
「ファンルゥは、ホンシュアの役に立ったのかなぁ……」
 ファンルゥは頑張った。
 でも、上手くいったのかは分からない。
 だからファンルゥは、いつか知りたい。
 絶対、知りたい。
 ホンシュアの『何か』は、ちゃんと上手くいって、今は安心して、ママと一緒に雲の上でおしゃべりをしているんだ、って。


 天国のママ、お元気ですか?
 天使の国に戻ったホンシュアは、お熱下がった?

 パパは今も時々、頭の赤いバンダナをきゅっきゅっ、って結び直しているよ。
 あれは、ママのおまじないなんでしょ?
 ファンルゥ、知っているよ。
 いつも、ママがそばに居るよ、ってことなんだよね。
 パパが、踏ん張れるように。でも、無理しないように。
 ……パパが、泣かないように。
 ファンルゥ、ちゃあんと、知っているよ。
 パパは、やっぱり時々、辛そうだけど、でも、ファンルゥがパパを助けるから。
 ママは、ホンシュアと一緒に、雲の上からファンルゥとパパを見守っていてね。
 ファンルゥ、パパも、ママも、大好き!

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第二部  第四章 昏惑の迷図より

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理  第五章 禁秘の神苑にて https://slib.net/113084

                      ――――に、続きます。

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第二部  第四章 昏惑の迷図より

「家族を助けてくだされば、この身を捧げます」 桜降る、とある春の日。 凶賊の総帥であるルイフォンの父のもとに、貴族の少女メイシアが訪ねてきた。 凶賊でありながら、刀を振るうより『情報』を武器とするほうが得意の、クラッカー(ハッカー)ルイフォン。 そんな彼の前に立ちふさがる、死んだはずのかつての血族。 やがて、彼は知ることになる。 天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』によって仕組まれたものであると。 出逢いと信頼、裏切りと決断。 『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、絡み合う思いが、人の絆と罪を紡ぐ――。 近現代の東洋、架空の王国を舞台に繰り広げられる運命のボーイミーツガール――権謀渦巻くSFアクション・ファンタジー。

  • 小説
  • 長編
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  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-06-24

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  1. 〈第三章あらすじ&登場人物紹介〉
  2. 1.暗礁の日々-1
  3. 1.暗礁の日々-2
  4. 1.暗礁の日々-3
  5. 2.目覚めのない朝の操り人形-1
  6. 2.目覚めのない朝の操り人形-2
  7. 2.目覚めのない朝の操り人形-3
  8. 3.箱庭の空
  9. 4.菖蒲の館を臨む道筋-1
  10. 4.菖蒲の館を臨む道筋-2
  11. 幕間 雲上の手紙