di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第二部 第三章 綾模様の流れへ
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『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第三章 綾模様の流れへ
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『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第二章 約束の残響音に https://slib.net/112491
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〈第二章あらすじ&登場人物紹介〉
===第二章 あらすじ===
もと一族であるユイランから『昔の鷹刀』について語ってもらった数日後。ルイフォンは、主要メンバーを集めて会議を開いた。昔のことを話したがらない年寄り連中に、知っていることを洗いざらい吐き出させ、皆で情報を共有するためである。
イーレオはルイフォンの要求に応え、かつて自分とシャオリエは〈悪魔〉であったと告白した。それは〈七つの大罪〉から情報を得るためであり、現在は、縁を切っていることも伝えた。
更にイーレオは、現在の〈七つの大罪〉は、自分が属していた〈七つの大罪〉とは別組織であり、本来の〈七つの大罪〉は瓦解したはずだと言い切った。
それに対し、母キリファの生前の言葉から『〈七つの大罪〉の正体は、王族の研究機関』だと推測していたルイフォンは、王のための組織が簡単になくなるはずがない、と反論する。
説明を求めたルイフォンに、答えようとしたイーレオが突然、苦しみだした。〈悪魔〉は、王族の『秘密』を口外すると死を迎える『契約』を交わしており、その警告がなされたのだ。
ルイフォンは大いに焦ったが、エルファンが「お前の言う通り、〈七つの大罪〉は王族の研究機関だ」と代わりに答えることで、事態は収まった。
イーレオが言うには、先王の暗殺によって、突然、現女王へと代替わりしたため、〈七つの大罪〉は運営がうまく引き継がれずに瓦解したという。それというのも、先王を殺したのは、先王がもっとも頼みにしており、〈七つの大罪〉の運営を一任していた甥だったからだ。
国王の暗殺は重罪だが、甥が王族であるために、ことは公にはされなかった。甥は病気療養という形で幽閉された。
そして、甥はつい最近、幽閉を解かれ、「女王の婚約者」として表舞台に戻ってきた。故に、甥こそが、現在の〈七つの大罪〉を牛耳っている人物ではないか、という話で、会議がお開きになる――というところで、メイシアが声を上げた。
もと貴族のメイシアにとって、先王の甥は顔見知りの再従兄妹であった。甥は、理由もなく王を暗殺するような人物ではない、しかも女王が生まれたときから婚約者に内定していたので、権力欲しさに凶行に及んだということはあり得ないと言う。
更にメイシアは、以前、イーレオに「ルイフォンの母、キリファを殺した犯人を知っている」と言われたが、その犯人とは先王ではないか、と問いかける。
殺されたからといって、先王が潔白とは限らない。先王には何かある。キリファの死も無関係とは思えない。だから、キリファの死の真相を教えてほしいと、イーレオに迫った。
しかし、イーレオは、自分は詳しいことを何も知らないのだと答えた。知っているのは、キリファの家にある人工知能〈ケル〉だ、と。
〈ケル〉に話を聞くため、ルイフォンはメイシアを伴い、キリファと住んでいた家に来た。彼は苦労しつつも、無事に〈ケル〉へのアクセスに成功する。しかし〈ケル〉には、キリファの死の真相は話せない、と謝られてしまった。
それでも、メイシアの洞察力によって、〈ケル〉と打ち解けることができた。真相は教えてもらえなかったが、キリファは先王に一方的に殺されたわけではなく、どうやら先王を利用していたらしいことが分かった。
〈ケル〉は、ルイフォンたちに、エルファンに対して犯した罪の告白を聞いてほしいと言ってきた。
四年前。命を懸けるつもりのキリファを止めようと、〈ケル〉はエルファンを呼び出した。しかし、彼が到着したときには既にキリファは殺され、体が持ち去られたあとだった。
残された状況から、エルファンは、キリファは襲われ、連れ去られたと考えた。キリファが亡くなっているなどとは思わず、地の果てまで探しに行きそうな勢いだった。それを止めるために、〈ケル〉はやむを得ず、キリファが殺される映像を彼に見せた。
自分は酷いことをしたと悔いる〈ケル〉に、「真実を教えられてよかったと思えないか」とルイフォンが言い、〈ケル〉は救われる。
調査という意味では空振りに終わった〈ケル〉との邂逅。その報告の会議の場で、リュイセンは「ルイフォンばかりに働かせて、鷹刀は何もしていない」とイーレオに噛み付いた。
リュイセンは、イーレオが〈蝿〉に対して手ぬるいのは、いったい、どういう見解なのかと問い詰めた。
イーレオは、生前の〈蝿〉が、彼の妻=イーレオの娘のために『死者の蘇生』技術を作り上げたと言った。新しい肉体を作り、それに保存しておいた記憶を書き込むのだ。この技術によって、現在の〈蝿〉は作り出されたのだろうと言った。
現在の〈七つの大罪〉は、イーレオへの刺客として〈蝿〉を作ったのではない。彼の天才的頭脳を、『デヴァイン・シンフォニア計画』に利用するために、生き返らせたのだ。――その説明に、ルイフォンたちは納得する。
イーレオは、現在の〈蝿〉がイーレオの命を狙うのは、生前の彼との最後の電話のやり取りを恨んでいるからだと思っている。その気持ちは受け止めたい、自分の娘のために尽くしてくれた男だから、と言う。
しかし、リュイセンは、イーレオが見ているのは『過去』。鷹刀の『未来』のために、全力で〈蝿〉の捜索をするべきだ、と主張した。そして、『未来』のために、イーレオが折れた。
その晩、イーレオがエルファンの部屋を訪ね、ルイフォンの父親はエルファンだと告白した。エルファンは激怒して、どういうことだと迫る。
エルファンとキリファの娘、ルイフォンの姉であるセレイエは、子供のころ、敵対する凶賊に襲われた。それをきっかけに、彼女が持って生まれた運命が明らかになり、通常の医療の効かない高熱で死にかけた。
そのとき、キリファは「もう子供は産まない。次の子供もセレイエと同じに違いないから」と宣言した。その誓いのために、キリファはルイフォンを妊娠したことを隠したのだという。
イーレオは過去を語る。
キリファは、鷹刀を出ていこうとしていたところをユイランに気づかれ、イーレオのもとに連れてこられた。非力なキリファが、ふたりの幼い子供を抱えて、まともな生活を送れるとは思えない。イーレオは説得を試みた。
キリファには、エルファンを悲しませたくない、という思いがあった。それならば、イーレオの子供ということにすればどうか、と提案した。落ち着いたころに真実を話せばよいと、安易に考えてしまったのだ。
しかし、人の心はそんな簡単なものではなく、キリファとエルファンの仲はこじれたまま、キリファは亡くなった。イーレオは後悔と共にエルファンに謝罪する。そして、エルファンもまた、自分にも非があったことに気づいたのだった。
イーレオが、今ごろになって真実を話したのには理由がある。〈ケル〉の言動が、キリファの思いを代弁していたから。
そして。
まだ、ルイフォンたちに隠している『生まれながらのセレイエの運命』が、『デヴァイン・シンフォニア計画』に大きく関わっているであろうから――だった。
イーレオとエルファンは、これからの『未来』のために、ルイフォンたちにセレイエのことを明かそうと約束したのだった。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
凶賊鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
――ということになっているが、本当は次期総帥エルファンの息子なので、イーレオの孫にあたる。
母親のキリファから、〈猫〉というクラッカーの通称を継いでいる。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
凶賊の一員ではなく、何にも属さない「対等な協力者〈猫〉」であることを主張し、認められている。
※「ハッカー」という用語は、「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われていた。
「クラッカー」には悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を「クラッカー」と表記する。
メイシア
元・貴族の藤咲家の娘。十八歳。
ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
秘密組織〈七つの大罪〉の介入により、近親婚によって作られた「強く美しい」一族。
――と、説明されていたが、実は〈七つの大罪〉が〈贄〉として作った一族であった。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄弟ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。イーレオの孫。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
文句も多いが、やるときはやる男。
『神速の双刀使い』と呼ばれている。
長兄レイウェンが一族を抜けたため、エルファンの次の総帥になる予定である。
鷹刀ミンウェイ
母親がイーレオの娘であり、イーレオの孫娘にあたる。二十代半ばに見える。
鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。ただし、本来は直毛。
薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
父親ヘイシャオに、溺愛という名の虐待を受けていた。
草薙チャオラウ
イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
ルイフォンの母。四年前に当時の国王シルフェンに首を落とされて死亡。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に〈天使〉にされた。
また〈蠍〉に右足首から下を斬られたため、歩行は困難だった。
もとエルファンの愛人で、セレイエとルイフォンを産んだ。
ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のコンピュータだが、それは張りぼてで、本当は〈七つの大罪〉の技術を使った、人間と同じ思考の出来る人工知能を搭載できる機体である。
〈ベロ〉に載せられた人工知能の人格は、シャオリエを元に作られているらしい。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
また〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこない。
セレイエ
エルファンとキリファの娘。
表向きは、ルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
貴族と駆け落ちして消息不明。
〈影〉と思われるホンシュアの『中身』だと推測されている。
メイシアを選び、ルイフォンと引き合わせた、らしい。
[〈七つの大罪〉・他]
〈七つの大罪〉
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
『契約』
〈悪魔〉が、王族の『秘密』を口外しないように施される脳内介入。
記憶の中に刻まれるため、〈七つの大罪〉とは縁を切ったイーレオも、『契約』に縛られている。
〈天使〉
「記憶の書き込み」ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置であり、限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こす。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』
〈蛇〉が企んでいる計画。
〈蝿〉の協力が必要であるらしいのだが、謎に包まれている。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらの意味を繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』と、ホンシュアは言った。
ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの父。故人。
医者で暗殺者。
病弱な妻のために〈悪魔〉となった。
〈七つの大罪〉の技術を否定したイーレオを恨んでいるらしい。
娘を、亡くした妻の代わりにするという、異常な愛情で溺愛していた。
そのため、娘に、妻と同じ名前『ミンウェイ』と名付けている。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のような状態でエルファンに殺された。
現在の〈蝿〉
〈七つの大罪〉が『デヴァイン・シンフォニア計画』に必要な技術を得るために、蘇らせたと思われるヘイシャオ。
イーレオに恨みを抱き、命を狙ってくる。
記憶も姿も、ヘイシャオそのものであるが、実姉のユイランに言わせれば『第三者が自分の目的を果たすために作った、ただの駒』であり、ヘイシャオとは『別人』。
ホンシュア
セレイエの〈影〉と思われる人物で、〈天使〉の体にさせられていた。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
〈蛇〉
〈蝿〉が、ホンシュアのことを〈蛇〉と呼んでいた。
ホンシュアの中身はセレイエだと思われるため、セレイエが〈蛇〉である……かは不明。
ライシェン
ホンシュアがルイフォンに向かって呼びかけた名前。
それ以外は不明。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。
二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
ファンルゥの母親である最愛の女性を斑目一族に殺害されている。
斑目一族が愛娘に害を及ぼさないようにと、不本意ながら〈蝿〉に従うことになった。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
[王家・他]
女王
大華王国の現女王。十五歳。
彼女の婚約を開始条件に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まったと思われる。
メイシアの再従姉妹にあたるが、メイシア曰く『私は数多の貴族のひとりに過ぎなかった』。
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害されたらしい。
ヤンイェン
先王を殺害し、幽閉されていたが、女王の婚約者として表舞台に戻ってきた謎の人物。
メイシアの再従兄妹にあたる。
平民を後妻に迎えたメイシアの父、コウレンに好意的だったらしい。
摂政
摂政。女王の兄に当たる人物。
摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。
[草薙家]
草薙レイウェン
エルファンの長男。リュイセンの兄。
エルファンの後継者であったが、幼馴染で妻のシャンリーを外の世界で活躍させるために
鷹刀一族を出た。
――ということになっているが、リュイセンに後継者を譲ろうと、シャンリーと画策したというのが真相。
服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
草薙シャンリー
レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。
王宮に召されるほどの剣舞の名手。
遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。
草薙クーティエ
レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。
可愛らしく、活発。
鷹刀ユイラン
エルファンの正妻。レイウェン、リュイセンの母。
レイウェンの会社の専属デザイナーとして、鷹刀一族の屋敷を出た。
ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら藤咲家の当主を継いだ。
十人並みの容姿に、子供とは思えない言動。いずれは一角の人物になると目される。
異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
緋扇シュアン
『狂犬』と呼ばれるイカレ警察隊員。三十路手前程度。イーレオには『野犬』と呼ばれた。
ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
凶賊の抗争に巻き込まれて家族を失っており、凶賊を恨んでいる。
凶賊を殲滅すべく、情報を求めて鷹刀一族と手を結んだ。
敬愛する先輩が〈蝿〉の手に堕ちてしまい、自らの手で射殺した。
似た境遇に遭ったハオリュウに庇護欲を感じ、彼に協力することにした。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
元鷹刀一族であり、イーレオを育てた、と言っている。
実は〈影〉であり、体は別人。そのことをイーレオが気にしないようにと、一族を離れた。
イーレオと同じく、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉であった。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。
本人曰く、もと女優の卵。
トンツァイ
繁華街の情報屋。
痩せぎすの男。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.昏迷のせせらぎ
イーレオが、全力での〈蝿〉捜索を約束した日から数日経った、とある麗らかな昼下がり。リュイセンは、弟分であるルイフォンの仕事部屋を訪れた。
足を踏み入れた途端、冷風の出迎えを受けるのは、相変わらずだ。とはいえ、このところの陽気からすれば、それはさして苦にはならない。
しかし、折角のよい日和にも関わらず、陽射しの恩恵が皆無というのは、如何なものだろうか。
窓のない部屋は、煌々とした電灯に照らされ、並べられた機械類は昼夜の区別を知らない。いくら充分な光量があったとしても、これでは陰気な異空間としかいえないだろう。
リュイセンは渋面を作った。
ルイフォンと初めて会ったとき、随分と生白い奴だと思ったが、こういう穴ぐらで生活していれば当然なのだ。鷹刀一族の屋敷に来てからは、チャオラウに鍛えられて少しはましになったものの、一族を抜けて『対等な協力者』になったあとは、まともに稽古もしていない。忙しいのは分かっているが、たまには外に出て体を動かすべきだと思う。
「ルイフォン。ちょっといいか?」
『鍵は開いているから、勝手に入ってこい』が、ルイフォンの姿勢である。遠慮は要らない。けれど、彼が母親からの『手紙』の解析に集中しているのは知っているので、控えめな声になった。
「んー?」
返事はあっても、上の空だった。モニタの前で難しい顔をしている弟分の頭は、異次元を散歩しているらしい。
「……また、あとにする」
「ちゃんと聞いているよ」
緩慢な動きで振り向き、ルイフォンはOAグラスを外した。作業を中断されるのを嫌う彼にしては、珍しいことだった。ただし、機嫌は悪そうであるが。
面倒臭そうに、用件は? と、顎をしゃくる仕草に、リュイセンは内心むっとしながらも、いつものことなので諦める。回りくどく言っても仕方ないので、単刀直入に切り出した。
「〈蝿〉に関して、疑問がある。祖父上たちに話す前に、お前の意見を聞きたい。――いいか?」
次の会議でいきなり問いかけて、浅慮だと、父のエルファンに一笑されたくないのだ。
見栄だと、自分でも分かっている。――誰に対する見栄なのかも。
「言ってみろ」
偉そうな口調だが、他意はない。ルイフォンは、そういう奴だ。
それどころか、〈七つの大罪〉関係の話であるためか、興味を持ったようだった。特徴的な猫の目が輝き、すっと細まる。
よい反応だった。リュイセンは腰を据えて話すべく、近くの机の下から丸椅子を引き出した。
「〈七つの大罪〉が、何故、あの〈蝿〉を作ったのかが、やはり分からない」
「それは〈七つの大罪〉が、死んだヘイシャオの天才的な技術力を利用したいから、だろ?」
この前の会議のとき、そういうことで納得したんじゃなかったのか? と、半ば呆れたようにルイフォンの目が言っていた。期待外れの、つまらない話だったと、あからさまにがっかりしたのが見て取れた。
「すまん。言い方が悪かった。それは理解しているんだ。――そうじゃないんだ」
首を振るリュイセンに、ルイフォンが不審げな顔をする。どうしてもっと簡潔に言えないのかと、リュイセンは自己嫌悪に陥りそうになる。
「俺が言いたいのは、どうしてヘイシャオ叔父の〈影〉では駄目だったのか、ってことだ」
ルイフォンの眉が、ぴくりと動いた。
手応えを感じたリュイセンは、語調を強めて続けた。
「〈七つの大罪〉が必要なのは、ヘイシャオ叔父の技術力だろう? つまり、頭の中身だ。ならば、わざわざ新しく〈蝿〉の体を作らなくても、保存してあった記憶を使って、誰かを〈影〉にすればいいじゃないか」
ルイフォンが〈蝿〉のサングラスを跳ね飛ばし、奴の素顔が晒されたとき、生前のヘイシャオを知らないリュイセンは、いかにも鷹刀の血族らしい顔立ちだと思った。でも、それだけだ。
だが、もしもミンウェイがあの顔を見たら――。
頭では分かっていても、父親が生き返ったかのように錯覚するだろう。そう思うと、いてもたってもいられない。
「それから、純粋に技術力だけが必要なら、どうして『呪い』で支配しない? 俺たちが斑目の別荘に潜入したとき、ホンシュアと〈蝿〉の口論を目撃しただろう。俺には、〈七つの大罪〉が〈蝿〉を持て余しているように感じられた」
他界した天才医師の技術力のみが欲しいなら、同じ姿も、人格も要らない。なのに、あの〈蝿〉は、ヘイシャオそのもの。ただの駒のくせに、ミンウェイへの執着も変わらずに――。
……やはり、ヘイシャオにそっくりな〈蝿〉には、何か意味があるのではないかと、勘ぐってしまう。
とうに滅んだ過去の亡霊にミンウェイが振り回されるなど、リュイセンは許さない。なんとしてでも、彼女を守らねばならぬ――。
リュイセンが、口には出さない想いを噛みしめていたとき、そばではルイフォンは口元に手を当て、ぶつぶつと呟いていた。
「……ああ、そういえば……そうだよな。……んー。いや、そうでもないのか……」
「ルイフォン?」
我に返ったリュイセンが声を掛ける。
「うん? ああ。――お前の疑問はもっともだ。だが、俺にはなんとなく理由が分かる」
「え? 分かるのか?」
リュイセンは、拍子抜けした。――否、正直なところ、かなり落胆した。彼としては大発見の、大手柄のつもりだったのだ。
その気持ちが顔に出ていたのだろう。ルイフォンは、やや申し訳なさそうに、ぽりぽりと頬を掻く。
「ええと、な。以前、屋敷が警察隊に襲われたとき、捕虜にした奴らがいただろ。あいつらは『〈蝿〉の〈影〉』だった。つまり『ヘイシャオの〈影〉』だ」
「あ、ああ」
そういえば、そうであった。
「で、巨漢の偽警察隊員のほうは、『呪い』で〈蝿〉の奴隷になっていた。まさに、リュイセンが『こうすればいい』と言った状態だ」
リュイセンは、はっと息を呑んだ。その様子にルイフォンは頷き、言を継ぐ。
「ミンウェイの報告を聞いた限りでは、あの巨漢が〈蝿〉ほどの切れ者だったとは、俺には感じられない。〈蝿〉と同一人物とは思えないんだ。そして、もうひとりの『〈蝿〉の〈影〉』――」
「緋扇シュアンの先輩とかいう、正規の警察隊員だった男だな」
「ああ。そいつは、自分には奴隷の『呪い』が掛からなかった、って言っていたんだろ? ――つまり、〈影〉では完璧な同一人物にはならないし、『呪い』も万能なものではない、ってことだ」
「そうなのか……」
リュイセンとしては、今ひとつ納得がいかなかった。ルイフォンの見解にけちをつけるつもりはないが、『闇の研究組織』と呼ばれている〈七つの大罪〉なら、なんでもできるような気がしたのだ。
「そんな顔するなよ」
ルイフォンは回転椅子をぎいと鳴らし、背もたれに体を預けた。腕を組み、どう言ったものかと思案する顔は、〈猫〉のものだ。
「〈七つの大罪〉の思想というか、人間というものに対する概念というのかな。ヘイシャオの研究の根底にある、人間を『肉体』と『記憶』に分ける、って考え方。この感覚、俺には理解しやすいんだけど……リュイセン、分かるか?」
「それは、なんとなく把握できていると思う」
リュイセンがそう答えると、ルイフォンがほっとしたように息をついた。そして、「いいか?」と続ける。
「〈七つの大罪〉は、ヘイシャオという最高の頭脳が記録された記憶を持っていた。これを活用するためには、肉体が必要だ。――どんな肉体を用意すればいいか」
そう言いながらルイフォンは、あたりを見渡し、そのへんに放り出されていた記憶媒体を手に取る。
「それは、こいつに入っているものをどのマシンで動かすか、ってことと同じだと思う。低スペックマシンを使うより、高スペックマシンを使ったほうが高速で処理できるってことは、直感的に分かるよな?」
「ああ。つまり、ヘイシャオ叔父の記憶も、馬鹿な奴の体に入れるよりも、頭のいい奴の体を使ったほうがいい――と」
「そういうことだ。単純に知能が高いとかで計れる問題でもないだろうけれど、少なくともヘイシャオの頭脳という記憶を、最高の性能で再現できる肉体ということなら、当然、本人の体ってことになるだろう」
「けど、新しい体を作るなんて……そこまで性能にこだわる必要が――」
微妙に賛同しかねて言いよどむリュイセンに、遮るようにルイフォンが言葉をかぶせる。
「あったんだろ。そうでなきゃ、そもそも死者を頼ったりしない」
「確かに……」
リュイセンの相槌の語尾が、溜め息と共に消えていく。心情的には、まだまだ落ち着かない部分があったが、どうやら納得せざるを得ないようだった。
「けどさ、もし奴隷の『呪い』が掛からなかったとしても、行動を制限する『呪い』くらい掛けてもよさそうなものじゃないか? 〈七つの大罪〉だって手を焼いているんだろう? なのに奴は、好き勝手しているように見える……」
ただの駒に、ミンウェイを脅かすような真似をしてほしくない。リュイセンの偽らざる本心だ。
それは、些細な呟きで、単なるぼやきだった。しかし、どういうわけだか、ルイフォンの琴線に触れたらしい。はっと気づいたときには、弟分の顔から表情が消え去っていた。
「リュイセン、お前の気持ちは分かる。けど〈蝿〉に対しては、〈七つの大罪〉は初めから『呪い』を掛ける気がなかったと思う。――少なくとも、俺なら掛けない」
「なっ!? どうしてだ?」
不可解なことを言われた苛立ち。そして、年下の弟分なのに、ルイフォンが自分よりも遥かに思慮深く感じられたという焦燥が、リュイセンの中でないまぜになる。
「『呪い』というのは〈天使〉による侵入だ。他人の脳内を完全に把握しているなんてあり得ないだろうから、手探り状態でやっているはずだ。一歩、間違えればシステムを破壊――つまり、廃人になると思う」
クラッカー〈猫〉の視線が鋭く斬り込まれ、分かるか? と尋ねてくる。
「そんな危険な改竄、俺だったら、せっかく生き返らせた大事な天才医師を相手に、試してみる気にはなれない」
「でも、祖父上だって〈悪魔〉になるときに『呪い』というか、『契約』の脳内介入を受けているけど、問題ないだろう?」
「確かにそう見える。……そう見えるけど、まったくなんの影響もないと、証明できるか?」
ルイフォンは癖のある前髪をくしゃりと掻き上げた。ほんの少し、ためらうように息を吐き、「完璧な技術なんてないんだ」と、声を落とす。
「俺は、俺に破れないセキュリティはないと豪語している。けど、本当にそうかと言えば、やっぱり俺にだって不可能はあるし、ミスすることだってある」
猫の目が一瞬だけ寂しげに歪み、リュイセンはどきりとした。そんな兄貴分の揺らぎを知ってか知らでか、ルイフォンは「〈天使〉も同じなんだ」と独りごつように呟く。
「〈天使〉の能力を初めて聞いたとき、俺は万能な魔法のようだと思った。でも、そうじゃなかった」
ルイフォンは、おもむろに自分の背に手を回し、一本に編まれた髪を引き寄せた。彼の手の中で、毛先を飾る金の鈴がきらりと光る。
「ちゃんと筋道が通っていないと駄目だ。だから、優秀な〈天使〉の母さんだって、この鈴のために、俺の記憶を思った通りには改竄できなかった。……たぶん、俺に遠慮があったと思う。俺に疵をつけてはいけないから、手加減をしただろう」
「……」
「魔法じゃないんだ。技術なんだ。……なんでも思い通りにうまくいくわけじゃない」
静かにこぼれたテノールが、まるで祈りのように聞こえ、リュイセンは胸を突かれた。
その響きは、何故か……妻を失いたくないと願ったヘイシャオを連想させた。禁忌の技術に手を出した〈悪魔〉。彼の悲痛な叫びが重ね合わさり、初めてその想いの深淵を感じた。
「リュイセン」
不意に名を呼ばれ、リュイセンは慌てて「ああ」と返事をする。
「クラッカーなら、『呪い』にためらいがあると思う。絶対に疵をつけてはならない、唯一無二の相手なら、使わないほうが無難だと考える。――だから、〈蝿〉には『呪い』を掛けない」
ルイフォンは、そこで一度言葉を切った。
そして、鋭く光る猫の目で、じっとリュイセンを捕らえた。
「少なくとも……。……セレイエなら、そう考えるはずだ――」
「――! セレイエ……」
ふたりに共通の『姉』。
斑目一族の別荘で会った〈天使〉、ホンシュアの中に入っていた記憶……。
「セレイエは、〈七つの大罪〉にいる。……俺は、あいつに会わないといけない」
ルイフォンは掌の上を見やり、自分の髪の毛ごと金色の鈴を握りしめた。
「……」
なんとなく気まずくなり、リュイセンは視線をそらす。
どうにも、おかしな雲行きになってしまった。リュイセンとしては、本物そっくりの〈蝿〉が気になっただけだった。今後、〈蝿〉が見つかれば、あの姿がミンウェイを惑わすであろうことを懸念したのだ。
「あ、れ……?」
リュイセンは、瞳を瞬かせた。――重大なことに気づいた。
「ルイフォン……。あの〈蝿〉は、なんでヘイシャオ叔父が生きていたかのような姿をしているんだ?」
「はっ!? だから――!」
また、言い方が悪かった。リュイセンは、心の中で舌打ちをする。そして、苛立ちのルイフォンが二の句を発する前にと、声を張り上げた。
「聞いてくれ」
「なんだよ?」
「俺たちが会ったのは、白髪頭の〈蝿〉だ。年齢的には父上と同じくらいに見えた。ちょうど、ヘイシャオ叔父が生きていればあんな年頃、という姿だ。けど、叔父が死んだのは十数年前だ。残されていたという記憶は、それ以前のものでしかあり得ない」
――つまり、記憶の年齢と、肉体の年齢が合っていない。
ルイフォンも気づいたのだろう。さっと顔色が変わった。
「――ってことは、今まで俺が、もっともらしく言っていたことは、皆、外れってことか……?」
ルイフォンが、前髪をくしゃくしゃと掻き上げる。
「いや、納得できる話だった。だから、的外れってことはないと思う」
「だが、最大の性能を出すためには、記憶と肉体の年齢を合わせるべきだ。……それとも、そもそも、あの〈蝿〉はヘイシャオじゃないのか? 見たのが俺とリュイセンだけじゃ、鷹刀の血族の顔だってことは分かっても、本人だという保証はない――」
…………。
ルイフォンは頭を抑えるようにしてうつむき、リュイセンは虚空をじっと見据える。押し黙ってしまったふたりの間を、空調の風が虚しく抜けていく。
どのくらいの時が過ぎただろうか。
リュイセンが視線を落とし、ルイフォンに「なぁ」と声を掛けた。
「俺たちがこうして考えていても、埒が明かない。今、やるべきことをやろう。――祖父上に報告して、一刻も早く〈蝿〉を捕まえるんだ。そうすれば、自ずと分かることだ」
「あ、ああ……。そうだな」
互いに、互いの顔を見つめ、盛大に溜め息をつく。
ルイフォンが椅子の背に寄りかかり、天を仰いだ。
「なんか、疲れたな」
心底、投げやりな様子で呟き、続けて「メイシアにお茶でも……」と言い掛けて、はっと目を見開く。
「あぁ……。リュイセンとの話に夢中になっていて、忘れていた……」
「どうした?」
リュイセンが問いかけると、ルイフォンは急に体を起こし、椅子にうずくまるようにして背を丸めた。
「メイシアと、喧嘩したんだった……」
そう言って、がっくりと、うなだれた。
2.伏流にひそむ蛇-1
小部屋というにはやや広い、落ち着いた一室であった。
扉はぴったりと閉められ、中にはふたりきり。今にも飛び出してきそうな心臓を必死に押し込め、メイシアは目の前の少女を見つめていた。
「わざわざ来てくれて、ありがとう!」
胸元で両手を合わせ、彼女は感極まったような高い声を響かせる。
「料理長のマカロンも嬉しいわ。ミンウェイさんの最近のお気に入りって聞いていたから、楽しみにしていたの」
無邪気で、可愛らしい微笑み。テーブルに並べられた色とりどりのマカロンを、わくわくと物色する彼女の動きに併せ、高くポニーテールにしたくるくるの巻き毛が踊る。
メイシアは、浅く腰掛けた椅子の上で固くなっていた。
高級娼館にふさわしく、しつらえのよい逸品にも関わらず、どうにも座り心地が悪い。喉はからからで、膝の上で組んだ手は小刻みに震えている。
「そんなに緊張しないで。――お茶を淹れるわね」
まるでメイシアの心を読んだかのように、彼女はお茶の用意を始める。ほどなくして、メイシアの前にふたつの茶杯が並べられた。
「大丈夫よ。この前みたいに、毒も薬も入っていないわ」
そう言って、彼女は茶目っ気たっぷりに笑う。
そして、「好きなほうを取って」とメイシアに選ばせると、残ったほうを先にひと口飲んだ。
「ね?」
安心した? とばかりに、彼女は小動物のような愛らしさで小首をかしげた。
メイシアは、ごくりと唾を呑み込んだ。毒を疑っていたわけではない。彼女の歓待ぶりが不可解で、どうしたらよいのか分からなかったのだ。
そんなメイシアの気持ちなど、彼女はお見通しだったのだろう。にっこりと笑うと、自分の茶杯を目の高さに掲げた。
「それでは――。私に会いに来た、メイシアさんの勇気に、乾杯」
とても楽しそうに瞳を輝かせ、少女――スーリンは、軽やかに告げた。
ことの発端は、娼館の女主人シャオリエからの電話であった――。
メイシアがルイフォンと出逢うきっかけとなった、あの事件のとき。シャオリエの娼館の少女娼婦スーリンが、厳月家の三男を呼び出して情報を入手してくれた。
メイシアは感謝し、その内容を伝えに来てくれたシャオリエに、『スーリンさんに、是非お礼を言いたい』と告げた……。
「――で? そのときのことをシャオリエが覚えていて、『スーリンもお前に会いたいと言っているから、遊びに来い』だって?」
「はい……」
メイシアは肩をすぼめ、おどおどとルイフォンを見上げる。
「ふざけんな!」
ルイフォンの目がぎらりと光った。ぎりぎりと奥歯を噛みしめたかと思ったら、「シャオリエの奴! 何を考えてやがる!」と口汚く罵る。
「いいか、メイシア! お礼なんてのは方便だ。俺とお前がくっついたから、シャオリエは面白がって、スーリンをけしかけているんだ!」
「……」
メイシアは、何も答えることができなかった。
確かに今更の話なので、ルイフォンの言う通り、別の目的があるのだと思う。けれど、シャオリエのすることは一見、不可解でも、ちゃんと意味があるのだ。悪意からではないはずだ。
「安心しろ。行く必要ねぇよ」
ルイフォンの手が、ひょいと伸びてきて、メイシアの髪をくしゃりと撫でる。
「丁重に断ればいい。シャオリエの悪趣味に付き合ってやる義理はねぇからな」
そう言って瞳を和らげ、彼女に優しく笑いかけた。
しかし――。
メイシアは、ごくりと唾を呑み込んだ。
「あ、あの、ね……」
自分を奮い立たせ、口を開く。
「……行ったら、駄目? 私、スーリンさんにお会いしたい……」
「はぁ? お前、何を言ってんだ?」
ルイフォンの片眉が跳ね上がった。その様子に身を縮こませながらも、メイシアは懸命に声を上げる。
「まず、お世話になったスーリンさんには、きちんとお礼を言うのが礼儀だと思う。……けど、たぶん、彼女の用件はそのことじゃない。――分かっている。ルイフォンは、スーリンさんのことを恋人ではないと言ったけれど、スーリンさんは違う……と思う。……だから」
意を決して言い始めた言葉も、ルイフォンの顔を見ているうちに、だんだんと尻つぼみになってしまった。
ルイフォンは、わざとらしく大きな溜め息をついた。猫の目が剣呑に光り、くいっと顎をしゃくりあげる。
「それで? 今は自分がいるんだから、俺には近づくな、とでも?」
「違う!」
「違わない! お前があいつの呼び出しに応えるってことは、売られた喧嘩を買いに行く、という意味だ!」
「そうじゃないの!」
ルイフォンが言い終わるのと同時に、メイシアは叫ぶように声をかぶせた。そうすることで、ルイフォンの言葉を上塗りできると信じているかのように――。
「険悪になるのは、避けられないかもしれない。私が、『ルイフォンのそば』という居場所を誰にも渡す気がないから! スーリンさんがそれを望むなら、平行線にしかならないから……!」
「!」
ルイフォンの顔が喜色を帯びた。こんな言い争いの中でだけれど、普段、なかなか言わない愛情表現をはっきりと口にしたからだろう。
ごめんなさい、とメイシアは思った。心臓が、ずきりと痛む。そして、これから言おうとしていることに対しての、彼の反応がもっと怖くなる。
「私に会って、彼女が何を言いたいのかは分からない。でも、私は、彼女の感情を受け止めたいの。……っ、それから、ねっ――」
メイシアは、胸元のペンダントをぎゅっと握りしめた。
「無理かもしれないけど、彼女と仲良くなりたい……」
「は?」
一瞬、ルイフォンの目が点になった。だが、その目はにわかに鋭くなり、険を帯びる。
「……ずっと悩んでいたの。ルイフォンとスーリンさんは、このまま自然に離れていくのでいいのかな、って」
「お前、何を考えている? 俺はそのつもりだぞ」
冷徹な声だった。突き放されたのは自分ではないと分かっていても、胸が苦しくなる。
「スーリンさんは恩人なんでしょう? ルイフォンにとって大切な人。だから、そんなことを言わないでほしいの」
祈るように告げる。
ルイフォンの険しい視線に、全身が震えた。けれど、譲れない。
貴族であることを捨て、ルイフォンと居ることを選んだとき、彼の周りの人を大切にすると決めた。彼と一緒に、大切な人を増やしていこうと誓った。
何故なら、自分たちは『ふたりきり』ではない。『皆に囲まれた、ふたり』でありたいと願ったのだから――。
「私がそばに来たことで、ルイフォンから大切な人が失われるのは、間違っていると思うの」
「なっ!?」
「私は、ルイフォンの大切な人を、大切にしたい。スーリンさんを大切にしたいし、彼女との縁もこれきりにしたくない。そのために、私は彼女と仲良くなりたい。――仲良くなるために、彼女に会いに行きたいの」
ルイフォンのこめかみが、ぴくりと青筋を立てた。浮き出てきた血管がいらいらと脈を打つ。
「綺麗ごとだ!」
「分かっている。でも、これはチャンスなの。私から『会いたい』とは言いにくいけど、彼女から誘ってくれたなら会いに行ける。……結果として、最悪の別れ方をしたとしても、何もしないで諦めたくない」
「あのなぁ……! 確かに、俺とスーリンとは気が合ったけど、いずれは別の道に行くと分かっている。そういう間柄だったんだ。だから、あいつとの縁は、これきりでいいんだ」
ルイフォンの瞳は、冷ややかな静けさで満たされていた。すっぱりと割り切っている彼に、メイシアは首を振る。
「お願い、行かせて。だって、スーリンさんが呼んでくれたんだから。――私は、あなたから、あなたの大切な恩人を奪いたくない!」
高く澄んだ声が、凛と響いた。
怖かった。ルイフォンを不快にさせるのが分かっていて言うのは、恐ろしかった。
彼を、愛している。だから、怒らせたくない。
メイシアだって、本当は複雑なのだ。心の底では、ルイフォンがスーリンと出会うことがなかったら、どんなによかったかと思っている。
けれど、スーリンは恩人だ。
ルイフォンは母親を亡くしたあと、シャオリエのもとに預けられた。当時の彼は、放っておけない状態だったと聞いている。母を失ったショックと、そのときになされた脳内介入の影響だろう。
そんなルイフォンを、スーリンが支えた。
悔しいけれど、ルイフォンにとってスーリンは大切な人だ。気心の知れた同士だということは、ふたりが交わしていた会話を思い出しても確かだといえる。温かな絆を、これきりにしてはいけないのだ。
「今のままじゃ、ルイフォンは二度とスーリンさんに会わない。それを変えたいの」
「だから、会う必要なんてないんだってば! というか、俺があいつに会うって、どういうことだか分かってんだろ!?」
鋭い声が叩きつけられた。
言ってしまってから、さすがに気まずくなったらしい。ルイフォンは視線をそらし、くしゃくしゃと前髪を掻き上げる。
ルイフォンの言葉は、メイシアの胸にぐさりと突き刺さった。
理解しているつもりだった。
「――……っ!」
なのに、頬をひと筋の涙が流れた。
過去の出来ごとは変えられないのだから、メイシアが何を思っても仕方ない。だから、考えないようにしていた。醜い嫉妬心を封じて、未来だけを見るようにしていた。
その未来の中で、スーリンにはルイフォンの大切な恩人でいてほしいと願った――。
「すまん……」
まさか、泣くとは思っていなかったのだろう。必死に嗚咽を殺そうとしているメイシアの頭に、ルイフォンがおずおずと手を伸ばす。
彼らしくない遠慮がちな仕草で、不器用に優しく彼女の髪を撫でる。「抱きしめてもいいか?」と尋ねながらも、返事を待たずに彼女を強く引き寄せた。
「スーリンの世話になったことは認める。事実だからな。そういうのを、お前が気持ち悪いって責めるなら、俺は甘んじて受け入れる。でも、今の俺にあいつが必要ないのは、本当なんだ。分かってくれ」
耳元で囁かれる声は、すっかり弱りきっていた。いつもの過剰なまでの自信は、見る影もない。
ルイフォンの言いたいことは分かる。彼は誠実なのだ。メイシアのために、スーリンを切り捨てると言っている。
押し黙ったメイシアの頭上から、ルイフォンが静かに声を落とした。
「お前の言っていることは、ただの自己満足だ。お前はすっきりするかもしれないが、周りは振り回されるだけだ」
温かな吐息が、頭皮を撫でる。
声の調子から、怒っているわけではないのは分かる。ただ、諭しているだけだ。
「お前はやっぱり、貴族の箱入り娘なんだと思うよ。俺とは全然、違う。でも俺は、お前の純粋すぎる強さに惹かれたんだから、それを悪いとは思わない。――けど、今回は駄目だ」
「どうして……?」
メイシアの口から、嗚咽混じりの声が漏れた。ルイフォンを見上げる瞳は涙で潤み、濡れた睫毛が光を弾く。
ルイフォンは、大きな溜め息をついた。
「俺を、情けない男にするなよ……」
「え?」
「なんでもない」
ふいっと視線を外し、彼はそう呟く。そして、そのまま目を合わさずに、「それならさ」と続けた。
「シャオリエの店は繁華街にある。あのへんは治安が悪い。メイシアも行ったことがあるから分かるだろう? だから、俺はお前を行かせたくないと思う」
「そのことなら、『貴族がお忍びで遊びに来るときに使う、安全な車の道から来れば大丈夫』と、シャオリエさんに言われている……の」
口答えするようで嫌だと思いながら、メイシアは言われていた通りに答える。ルイフォンが治安を気にするだろうと、シャオリエは予測していたのだ。
「っ! シャオリエの奴!」
ルイフォンは舌打ちをした。
「――けどな! 今、鷹刀どういう状況かを考えれば、車ごと襲われたっておかしくないんだぞ!」
「どういう、って……?」
「〈蝿〉に狙われている!」
「それはイーレオ様や、ミンウェイさんです。私は一族ではありませんし……」
不思議そうに首をかしげるメイシアに、ルイフォンは頭を抱えた。
「〈蝿〉にしてみれば、お前だって一族と同じだ! だいたい、お前は〈蝿〉を怒らせたことがあるだろう!」
「そ、それは……」
「ともかく、お前みたいな世間知らずが、繁華街なんて危険なんだ!」
ルイフォンが、ぴしゃりと言い放った。
正論だった。
けれど、メイシアには自分を否定されたように感じた。
彼女は、喉の奥が熱くなるのを必死に押さえ込んだ。そして、声を揺らさないようにして、反論の言葉を紡ぎ出す。
「リュイセンかチャオラウさんに、一緒に来ていただくよう、お願いします」
「そうことじゃねぇ! ――というか、なんで俺以外の男と出掛けようとするんだ!」
「す、すみませんっ!」
反射的に謝っていた。言葉遣いが、すっかり敬語になっていた。
「それに! お前がシャオリエの店に出入りするところを、人に見られるのも駄目だ!」
「えっ!?」
唐突な発言に、メイシアはきょとんとする。
ルイフォンは、両手で頭を掻きむしり「分かってくれよ……」と呟いたが、娼館に出入りするメイシアに、卑猥な視線が向けられることを恐れているだなんて、彼女が理解できるはずもなかった。
「とにかく、俺の言うことを聞け!」
ルイフォンが全身を使って叫ぶと、一本に編まれた髪が鞭のようにしなった。毛先を飾る鈴が、彼の強い思いと共鳴したかのように、まばゆく光を反射させる。
メイシアは、びくりと体を震わせた。
「ルイフォン……。……っ、わた、私、は……、ルイフォンの許可なし、では、……何も、してはいけない……の?」
彼女の頬を、涙が伝う。
その瞬間……、ルイフォンの顔が歪んだ。
愕然としたような、すがるような――あるいは、彼もまた泣いているような……。
「……勝手にしろ!」
吐き捨てるように彼は言い、くるりと背を向けた。
そして、肩を怒らせながら、精彩を欠いたテノールで続ける。
「俺は別に……、お前のことを縛りつけたいわけじゃないから、な……!」
彼の背中は、いつもよりも猫背で、どことなく淋しげだった――。
2.伏流にひそむ蛇-2
スーリンは、こくこくと可愛らしく喉を鳴らしてお茶を飲むと、今度はマカロンに目を移した。メイシアが手土産に持ってきた、料理長自慢の作である。
「ミンウェイさんのお勧めはピスタチオだって聞いているけど、メイシアさんのお勧めは何かしら?」
緊張のあまり、出された茶杯も手つかずだったメイシアは、びくりと肩を震わせた。
「わ、私も、ピスタチオが一番だと思います」
上ずる声に焦りながらも、なんとか答える。スーリンは、嬉しそうに「ありがとう」と言うと、緑色のマカロンに手を伸ばした。
カリッと美味しそうな音を立て、落ちそうなほっぺたを両手で押さえる。うっとりと目をつぶり、「あぁ、幸せ」と体をくねらせると、くるくる巻き毛のポニーテールが、とろけるように背中を滑った。
スーリンは、とてもご機嫌だった。――少なくとも表面上は。
けれどきっと、恋仇を前に、はらわたが煮えくり返る思いであるに違いない。どんな罵倒も受け止める覚悟で来たメイシアだったが、なまじ、上辺が和やかであるだけに、かえって恐ろしかった。こんな調子では、スーリンと仲良くなりたいなどという野望は、夢のまた夢である。
なんとか気持ちを落ち着けようと、メイシアはペンダントを握りしめた。困ったときの彼女の癖で、こうすると不思議と心が鎮まるのだ。
――が、今日に限っては逆効果であった。
思い出したのだ。この前、繁華街に来たときには、ルイフォンの指示でペンダントを置いてきたことを。治安の悪い場所で貴金属を身に着けているのは、危険だと教えられた。それを、すっかり忘れていた……。
さぁっと青ざめたメイシアを、スーリンが怪訝な顔で見つめる。
「どうしたの?」
「い、いえ……」
ペンダントのことは、今更どうしようもない。それよりも、スーリンと話をしなければと、メイシアは慌てて口を開く。
「きょ、今日は、ありがとうございました。それから、もう随分と前のことになってしまいましたが、私のために厳月の情報をどうもありがとうございました」
「いいのよ、そんなこと。そもそも厳月家の件なんて、メイシアさんを呼ぶための口実だもの」
「……っ!」
さらりと言ってのけたスーリンに、メイシアは声を失う。
「えっ、やだ。まさか、気づいてなかったわけじゃないでしょ?」
「そ、それは……。何か別のご用件があるとは思っておりましたが……」
その返答に、スーリンは安堵の息をついた。
「ああ、よかった。何も分からずに来られたんじゃ、面倒臭いもの」
やはり、とメイシアは思った。見かけは穏やかでも、スーリンの腹の中は、憤懣やるかたないのだ。
「不穏な発言をした途端に、ほっとされるのも、妙な気分だわ」
スーリンが、ぷくっと頬をふくらませる。メイシアとしては、そんなつもりはまるでなかったのだが、何か顔に出ていたらしい。
「メイシアさん。あなたが私のところに来ることを、ルイフォンは止めなかったの?」
「え?」
好奇心むき出しの瞳が、メイシアをじっと見つめる。
「反対……されました」
「よかった」
「!?」
「止めなかったら、私、ルイフォンを軽蔑したわ。大事な恋人を、過去の遊び相手のところにやるなんてあり得ないもの!」
スーリンは黄色い声を張り上げ、嬉しそうに言う。
その笑顔が、心からのものに見え、メイシアは余計に怖くなった。体を震わせ、無意識にペンダントを触る。
「でも、あなたがここに来たということは、喧嘩してきたのね? ……ルイフォンに同情するわ」
「……」
「悔しいけど、すべてシャオリエ姐さんの読み通り。私の負けだわ」
参りました、とばかりにちょこんと頭を下げる。悔しいと言いつつも、その仕草は、むしろ楽しそうだ。メイシアは押し黙るしかできなかった。
「あのね、姐さんと賭けていたのよ。私は、あなたが来ないほうにね。――おかげで私は、姐さんのくだらないお遊びに付き合う羽目に……ああ、あなたには関係ないわね」
ぺろっと舌を出し、スーリンは肩をすくめる。
一方的にまくしたてられる言葉は、連続性に欠けていて、どう解釈したらよいのか分からない。メイシアは、呆然としたまま、翻弄されるがままだった。
「さて。では、期待通りにいきましょうか?」
スーリンが、にっこりと笑った。小首をかしげた様は、実に可愛らしく、くるくるのポニーテールが可憐に揺れる。
「ルイフォンは、私の男なの。返して」
手首がくるんと返され、小柄な彼女に見合った小さな掌が差し出された。ぱっちりとした愛らしい瞳が、じっと訴えかける。
「そ、それは、できませんっ」
自分を奮い立たせ、メイシアは力いっぱい声を絞り出した。その様子に、スーリンが、ふふ、と嗤う。
「震えているの? ――おかしいわね。あなたはこう言われるのが分かっていて、私のところに来たんでしょ? ルイフォンが止めたのにも関わらず、ね」
「っ!」
「あなたの考えていることなんて、お見通しよ。自分が割り込んできたせいで、ルイフォンと仲の良かった私が切り捨てられるのは耐えられない。『お友達』として、ルイフォンと今後も付き合ってほしい。――そう言いに来たんでしょ?」
メイシアは息を呑んだ。
「図星ね。なんて甘くて、可愛らしくて、自己中心的で、傲慢なお嬢様なの?」
「わ、分かっています。――だから、私……、ルイフォンと喧嘩したあと、もう一度、ひとりでよく考えました」
「ふうん?」
スーリンが軽く腕を組み、促すように顎を上げた。意外な発言だったようで、険のあった目元がわずかに好奇心に寄る。
「私は、私とスーリンさんが仲良くなれば、皆が良好な関係を築けると考えました。だから、お会いして、そうお話しようと思いました。けれど、ルイフォンに『自己満足だ』と言われました。――確かに、その通りだと気づきました。だって、大前提が抜けていたんですから」
「大前提?」
きょとんと、スーリンがおうむ返しに尋ねる。
「はい。仲良くなるよりも前に、まず……、――私とルイフォンの仲を、スーリンさんに納得してもらう必要があったんです」
「何それ! なんで私がそんなこと――……」
そう言いかけたスーリンに、メイシアは礼儀知らずを承知で言葉をかぶせた。
「その上で、今までとは別の新たな関係を作るのでなければ、意味がありません。上辺だけの付き合いなら、私は貴族の世界でさんざん経験しています。でも、私が欲しいのは、ルイフォンが教えてくれた『本当に大切な、人の絆』です」
貴族だったころの友達とは、お互いに『わきまえた』付き合いしかしてこなかった。家柄の上下や、将来の嫁ぎ先によってはそれきりの縁になるのだという諦観。――ルイフォンと出逢ったことで、自分が寂しい人間だったことに気づいた。
『俺は欲張りだから、全員、必要だ』と、彼は言った。
だからメイシアも、欲張ってスーリンを手に入れる――。
スーリンは、ぱちぱちと何度も瞬きをしていた。口元に手をやり、しばし悩むように眉を寄せ、メイシアに尋ねる。
「要するに、ルイフォンとの仲を気持ちよく認めろ、ってことね? その上で、仲良くしましょう、と。虫のいい話だわ。――喧嘩を売りに来たの?」
「喧嘩ではありません」
メイシアは、凛と言い切った。そして、澄んだ黒曜石の瞳で、静かに迫る。
「『事実』をご報告に参りました。スーリンさんが認めてくださっても、くださらなくても変わることのない、『事実』です。――それをご説明に来ました」
「…………え?」
「スーリンさん。すみませんが、ルイフォンのことは諦めてください。彼は、私に『一生、共に過ごして欲しい』と言ってくれました。つまり、ルイフォンは、私の男、です!」
そう口にした瞬間、メイシアは顔から火を吹いた。耳まで真っ赤になって、うつむく。
逆鱗に触れただろうか。
どう考えても、仲良くしましょう、という態度ではない。自分でも信じられないくらい、浅ましいと思う。けれど、スーリンには、はっきり告げるべきことだ。
すべては、ここからなのだから。
メイシアはペンダントを握りしめながら、長い黒髪に隠れるように身を縮めた。そして、じっとスーリンの反応を待つ――。
「…………はぁ、……参ったわ……」
疲れきったような呟きが聞こえてきた。続けて、かたん、とテーブルに肘を付く音がする。メイシアが恐る恐る顔を上げて見れば、スーリンが頭を抱えて突っ伏していた。
「あぁ、もぅ………。聞いているほうが恥ずかしくて、耐えられないわ……。一世一代の大宣言って、ところなんだろうけど、私はもう、あなたの名演説に感動できるほど純粋じゃないの。きついわ……」
「え?」
「メイシアさん、私の仕事を理解している?」
スーリンの意図を測りかね、メイシアは声を詰まらせた。
「汚い言い方をすればいくらでも汚く言えるけど、店に来たばかりの私に、イーレオ様が言ってくださった言葉があるの。――『夢を見せる仕事だ』ってね」
スーリンは体を起こし、口元を緩めた。すっと後ろに手を回し、ポニーテールを留めていた髪飾りをほどく。高く結い上げられていた髪が解き放たれ、首筋をするりと滑り落ちると、今度は背中でくるくると踊った。
たったそれだけ。服も化粧も変わっていないのに、スーリンの顔は先ほどまでとは別人のように大人びていた。
「スーリン、さん……?」
「はじめまして、メイシア。こちらが本当の私よ」
目を丸くするメイシアに、スーリンはくすくすと声を立てる。その笑い方もまた、今までとは違っていた。
「私はね、女優の卵だったの。だからイーレオ様は『最高の恋人を演じてやれ』と教えてくださった。そっと寄り添って『お疲れ様』『頑張ったね』と、欲しい言葉をくれる癒やしの恋人に。客は、欲を満たすために店を訪れるけれど、本当に満たされたいのは心だから、と」
スーリンは遠くを見つめ、ふっと微笑む。
「ルイフォンがシャオリエ姐さんのところに預けられたとき、彼の心はおかしくなっていた。だから、彼は客ではないけれど、世話係を任された私は、彼のための理想の恋人を作り出したの。それが、あなたの知っているスーリン――ちょっとすねたり、いたずらしたりするけれど、彼のことが大好きな、無邪気で元気な女の子よ」
「あのスーリンさんは、演技……?」
「妖艶なお姉さんに慰められるよりも、健気で元気な同年代の少女に励まされるほうが、ずっと健全でしょ?」
そう言って、スーリンは片目をつぶる。可愛らしい仕草だが、どこか艶かしく、同性のメイシアでもどきりとする。
「それでは、本当に……」
「ねぇ、私と初めて会ったとき、おかしいと思わなかった? 『スーリン』は、どう見てもルイフォンが大好きなのに、彼が連れてきたあなたを敵視しなかった。彼が仮眠をとるときも、そっとふたりきりにしてあげたでしょ?」
「――!」
仮眠を取るというルイフォンに付き添って、ふたりきりになった。
そのとき交わした言葉に、自由なルイフォンに惹かれて……恋に落ちた。
ほんの一時の出来ごとだけれど、あのときに、すべてが決まった――。
目を見開いて正面を見やれば、得意げな顔のスーリンが、とっておきの秘密だとでも言うように口元に人差し指を当てていた。
「ルイフォンの『運命の女』が現れたんだ、って分かったわ」
祝福するように――けれど、どこか寂しげで、切なげにスーリンは微笑む。
「私の役目は終わったの。だから、夢の恋人は、もうおしまいよ」
泡沫の幻は、いつかは消えるさだめだから。
スーリンとは、これきり。ルイフォンの前にも、メイシアの前にも、二度と現れない――。
「そんな……! ルイフォンになんて言ったら……」
胸が苦しくなった。そして、気づいた。
ここに来る前、ルイフォンの恩人だから、スーリンを大切にしたい、仲良くしたいと思った。それは、やはり義務的な感情に過ぎなかったのだ。
けれど今、ルイフォンを大切にしてくれたスーリンの心に触れ、彼女の縁を途切れさせてしまうのは嫌だという気持ちが芽生えた。
貴族だったころのような、割り切った付き合いとは違う。この人をもっと知りたい、深く話したい。絆を持ちたい。
イーレオがよく言う『人を魅了する人間』の意味が分かった気がする。メイシアは、スーリンに魅了されたのだ。
「スーリンさん、私、スーリンさんが大切です。好きです。私っ……」
「ちょっと、待って! メイシア、あなた何をひとりで盛り上がっているの? もうっ、だから、純粋培養のお嬢様は嫌なのよ。私は、あなたみたいにおめでたくないの。そういうの苦手なのよ!」
スーリンは、いらいらと髪を掻き上げる。
「それに! 聞き捨てならないことを言っていた気がするんだけど!」
「聞き捨てならないこと、ですか?」
「そう! 『ルイフォンになんて言ったら』って――まさか、ルイフォンに『あのスーリンは演技でした』って、言うつもりなの!?」
「え……」
メイシアとしては、スーリンが二度とルイフォンに会うつもりがないのを感じて、彼になんて言えばいいのか、と口走っただけだ。スーリンは勘違いしている。
けれど、問われて初めて気づいた。ルイフォンに真実を伝えるべきか、否か。彼のところに戻ったら、どちらかを選択しなければならない。
真実を伝えれば、ルイフォンはショックを受けるだろう。裏切られたような気持ちになるかもしれない。彼のことは傷つけたくない。……けれど、スーリンに悪気はなく、むしろ親身になってくれた結果だ。それに、隠しごとは厳禁であるし、こんな重要なことを彼に隠すことは果たして……。
「お願い、そこで悩まないで!」
スーリンの悲鳴のような叫びが、メイシアの思考を遮った。
「いい? 私の掌の上で踊らされていたなんて知ったら、ルイフォンの男のプライドがズタズタになるの。理解して! 彼が可哀想だわ」
その言葉は、諭すというよりも哀願に近かった。
額に手をやりながら、「喧嘩してまでこの店に来るところからして、男心を理解していないのは分かりきっていたけど――」と、スーリンはこぼす。
「仕方ないわね」
彼女は、吐き出すように溜め息をついた。
「いいわ、あなたのおめでたい提案に乗ってあげるわ。たぶん、それが一番、無難だろうから」
「おめでたい提案?」
「あなたたちの仲を気持ちよく認めて、更にあなたと仲良くする、ってやつよ。その代わり、『仲良しの女友達』の忠告を聞きなさい。――私の正体を、ルイフォンに言ったら駄目よ」
すっと身を乗り出し、艶めいた声でスーリンはメイシアに迫る。どう考えても、忠告ではなくて命令の口調。更にいえば、脅迫にしか聞こえなかったが、色気たっぷりの流し目は、いたずらに笑っていた。
「はいっ! ありがとうございます。これからよろしくお願いいたします」
メイシアが深々と頭を下げると、スーリンは「堅苦しいのは鬱陶しいわ」とすげなく言い放った。
「それじゃあ、私があなたを呼んだ用件について、話しましょうか」
「えっ!?」
メイシアは目をぱちくりさせた。
ルイフォンの件で呼ばれたのではなかったのか。そう思い、はっと気づく。あのスーリンが演技であるのなら、本当のスーリンにとってはメイシアを呼び出す理由にならないのだ。
では、いったいなんの用件が?
目まぐるしく表情を変えるメイシアの様子に、スーリンがくすくすと笑った。
「そう。今までの話は全部『おまけ』よ。あなたが思いつめたような顔をして現れるから、きっと『恋仇』の私に何か言いたいのね、と思ってお相手したの」
「……」
「ごめんなさいね。でも、可愛がっていた弟を奪っていくようなものなのだから、少しぐらいの意地悪は許されると思うわ」
悪びれもせず、スーリンはにこにこと笑った。それから、お茶に手をつけはぐっていたメイシアに茶杯を勧め、自身はマカロンをひとつ摘んで口に入れる。
「メイシア、悪いけど、そのペンダントを見せて」
マカロンに舌鼓をうったあと、不意にスーリンが言った。メイシアは不思議に思いながらも、言われるままにペンダントを手渡す。
受け取ったスーリンは、自分の掌の上でじっとそれを見つめ、何度か転がしたあと、呟いた。
「ああ、やっぱり。メイシアが『運命の女』で合っていたのね」
「どういうことですか?」
先ほども、スーリンは『運命の女』と言っていた。比喩的な表現だと思ったのだが、どうやら違うらしい。スーリンは掌から顔を上げ、まっすぐにメイシアを見つめた。
「ルイフォンがシャオリエ姐さんのところに来たばかりのころ、彼に会いに来た人が言ったの」
『遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢うわ。その子は、私に選ばれてしまった可哀相な子』
『ルイフォンはきっと彼女を愛すると思うし、彼女もルイフォンを愛してくれると思う。そのあと、どうなるのかは不確定要素が多すぎて、私にも計算できない』
『その子が現れたら、今日、あなたが見たことを誰に話してもいいわ。だから、それまでは内緒にしてほしいの』
「その人は『そのときには、この目印が彼女の手に渡っているはず』と、身に着けていたペンダントを外して、私に見せてくれたの。『けど、アクセサリーだから、外しちゃうこともあるかしら?』とも言っていた。実際、初めて会ったときには着けてなかったわよね?」
「!?」
メイシアは思わず胸元に手をやるが、ペンダントはスーリンの掌にあるのだから、そこには当然、何もなかった。
「何故……? 私のお守りなのに……。ずっと身に着け……」
言い掛けて、驚愕に息が止まった。
『ずっと身に着けている』――それは嘘だと、異母弟のハオリュウが証言した。もう随分と昔、ルイフォンたちが父の救出に向かっている間に、姉弟ふたりだけで話したときのことだ。
「どういうこと……? ルイフォンに会いに来た方って、どなたですか!?」
メイシアの心臓が、にわかに早鐘を打ち始めた。
そして、それは、スーリンの返答を聞いたときに、最高潮に達する――。
「ルイフォンのお異父姉さんの――セレイエさんよ」
2.伏流にひそむ蛇-3
四年前――。
シャオリエの知り合いだという少年は、徐々に笑うようになった。この店に運び込まれた当初は、抜け殻のようにベッドに座っているだけだったことを思い返すと、見違えるようだった。
本来の彼は明朗快活な性格であるという話も、嘘ではないのだろう。スーリンにも、そう信じられるようになってきた。
そんなある日だった。彼――ルイフォンの異父姉だという女性が店を訪ねてきたのは。
彼女は、ひと目見て鷹刀の血族と分かる、美麗な容姿をしていた。年の頃は、二十歳くらいだろうか。ルイフォンとは、少し歳が離れていた。
「……っ!? セレイエ?」
シャオリエが真顔で驚いた。それが、笑い顔に歪んだかと思うと、いつもの喰えない瞳に、うっすらと涙が浮かび上がる。
わけありなのだと、スーリンは察した。
それとなく聞こえた会話によれば、母親が強盗に襲われたことを知ったセレイエが、残された異父弟のところに駆けつけた、ということらしい。けれど、彼を引き取りに来たわけではないようだ。
それ以上のことは分からなかった。ただ、シャオリエが余計な詮索はしない、という態度なのが読み取れた。
つまりセレイエは、『そういう世界にいる人』だ。鷹刀一族の人間なら、そんなこともあるだろう。スーリンだって、大手を振れる立場でもない。だから、気にすることでもないと思った。
シャオリエとの挨拶が終わったセレイエを、スーリンがルイフォンのもとへ案内することになった。
どうやら、この異父姉弟が会うのは随分と久しぶりらしい。
母親を失ったショックから、だいぶ立ち直りかけているとはいえ、まだまだルイフォンは不安だらけだろう。身内の来訪は心強いに違いない。
この美しい異父姉を見たら、彼はどんな顔をするのだろうか。泣くのだろうか、甘えるのだろうか。それとも、強がりを言って困らせるのだろうか。
彼の反応はとても気になる。だが、スーリンはシャオリエと違って悪趣味ではないのだ。感動の再会は、ふたりきりにしてあげるべきだろう。
だから、スーリンは部屋の前で立ち止まった。扉は開けずに。
「あとで、お茶をお持ちしますから、お話の区切りのよいところでお呼びくださいね」
そう言って、セレイエに頭を下げ、さっと隣室に控えたのだった。
……どのくらい時間が経っただろうか。隣の部屋から、どたん、と大きな音がした。何かが倒れたような感じだった。
椅子でも倒したのだろうか。――そう思ったとき、低いうめき声が響いてきた。
スーリンはその声を知っていた。最近はあまり聞かなくなったが、ルイフォンが来たばかりのころ、夜な夜な彼がうなされていたときの声だった。
フラッシュバックだ。
即座にそう思った。母親のことを異父姉に説明している途中で、恐怖と衝撃を思い出してしまったのだろう。
スーリンは迷わず駆け出した。
理由は知らないが、こうなったときのルイフォンは、母親の形見の鈴を見せると落ち着くのだ。だから、その鈴を髪飾りの一部にして、彼の身に着けさせている。それをセレイエに教えなくては、と思った。
扉を開けた瞬間、スーリンは「きゃぁっ!」と、悲鳴を上げた。
熱気の塊が襲ってきたのだ。
空気に弾き飛ばされるという感覚を、初めて味わった。ちりちりと肌が灼ける。
「な、何、これ……?」
部屋の景色が、陽炎のように揺らめいた。そこには、ルイフォンもセレイエもおらず、高熱を発する光の珠だけが存在した。
強く弱く、珠は緩やかに明暗を繰り返す。それは生命の息吹にも似ており、珠ではなく羽化を待つ繭のようにも感じられた。不可思議な、恐ろしいものであるはずなのに……神々しい。
スーリンは瞬きを忘れ、聖なる輝きに魅入られた。
ふと。
珠の一部が、たわんだように見えた。そう思った刹那、繭を形成していた光がほどけ、糸となって漂う。やがて光の糸は、まったく別の形状をとった。それはまるで――。
「光の、天使……」
まさに、その言葉がふさわしい姿が、そこにあった。
光を紡ぎ合わせて作ったような羽をまとう、絶世の美女。濡れたように艶めく漆黒の髪は、光を弾いて白金に輝く。
「見られちゃった……」
天使の姿をしたセレイエが、肩をすくめて微笑んだ。と同時に、苦しげに息を吐きながら、ふらりと倒れる。
「セレイエさん!」
駆け寄ろうとしたスーリンを、セレイエは手を付き出して制する。虚ろに潤んだ瞳で見上げ、途切れ途切れに声を出した。
「火傷……する、わ。それ、より……私の鞄から、小瓶を……」
何が起きているのか。その疑問を口にするより先に、セレイエの言葉に従うべきだと、体が動いた。スーリンは、言われるままに小瓶を探し、セレイエに渡す。
セレイエに近づいたとき、『火傷する』の意味を理解した。彼女の体は、人間ではあり得ないほどの高熱を発していた。
「ありがとう……」
手と手が触れないよう、つまむようにして小瓶を受け取ったセレイエは、一気に中身を飲み干した。
「――!」
スーリンが最初に感じた変化は、肌の感覚だった。部屋中から、ちりちりと感じていた熱の痛みがなくなった。
はっとセレイエを見ると、落ち着いた、和らいだ顔になっていた。そして、背中に吸い込まれていくように、光の羽が消えていく。まるで、今まで幻を見ていたのかと疑いたくなるほどに、跡形もなく……。
「驚かせてごめんなさいね」
ばつの悪そうな顔で、セレイエは前髪をくしゃりと掻き上げた。見るからに大人の女性といった雰囲気なのに、照れ隠しのような仕草が可愛らしい。
――が、そういう問題ではなくて……!
「セ、セレイエさん、今のは……」
「その前に、ルイフォンを動かすの、手伝ってくれる? 完全に意識がないから、ひとりじゃ無理だと思うの」
そのとき初めて、スーリンは床に横たわるルイフォンに気づいた。
「きゃああ! ルイフォン!?」
「大丈夫よ。もう落ち着いているから」
セレイエの言葉には半信半疑だったが、ともかくふたりで彼をベッドに運んだ。
スーリンは枕元で膝を付き、ルイフォンの顔を見つめた。頬は青白く、額は汗で猫毛が張り付き、妙に色めいている。
呼吸は安定していた。倒れている彼を見たときには、心臓が止まるかと思ったが、どうやら本当に大丈夫そうだった。
スーリンは、ほっと息をついた。その背後から、声が掛けられた。
「それで――。やっぱり、気になる?」
セレイエは、やや困ったような顔をしていた。状況から考えて、見なかったことにしてほしいのだろう。どう答えるべきか、スーリンは思案する。しかし、それは徒労に終わった。
「気にならないわけないわよね。聞いた私が、愚かだったわ」
セレイエが自己完結した。
「まぁ、簡単に言えば、私は〈七つの大罪〉の関係者で、さっき見た通りに〈天使〉。それ以上の説明は、聞かないほうが無難なのは分かるわよね?」
「……っ!」
スーリンは自分の顔から、さぁっと血の気が引いていくのが分かった。
こくこくと頷くことしかできなかった。噂でしか知らないが、〈七つの大罪〉は危険だ。多少なりとも裏の世界を知る者なら、関わるべきではないと判断できる。
「ああ、ごめんなさい。怖がる必要はないわ。私の身元はシャオリエさんが保証してくれると思うし、私はあなたに危害を加えるつもりはないの。あなたが狙われることもないから、安心して」
「わ、私……、今日、見たことは、絶対に誰にも言いません!」
気づいたら、スーリンは叫んでいた。セレイエの言ったことなど、半分も耳に入っていなかった。
ただ、不思議なことに、セレイエを怖いと思わなかった。『凄いものを見てしまった』ことは恐ろしいのに、それを起こした彼女には、むしろ心惹かれる。神性を帯びたあの光が、悪いものには思えなかった。
「そう、ありがとう。でも私としては、しばらくの間、内緒にしてくれるだけで充分なの。だから、こうしましょう」
そう言って、セレイエはいたずらを思いついた子供のように笑った。
「遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢うわ。その子は、私に選ばれてしまった可哀相な子」
「え?」
まるで予言のような言葉に、スーリンは戸惑った。けれどもセレイエは、嬉しそうに口元をほころばせている。
「ルイフォンはきっと彼女を愛すると思うし、彼女もルイフォンを愛してくれると思う。そのあと、どうなるのかは不確定要素が多すぎて、私にも計算できない。――その子が現れたら、今日、あなたが見たことを誰に話してもいいわ。だから、それまでは内緒にしてほしいの」
スーリンは何も言うことができなかった。きょとんと、セレイエを見つめるだけだ。
「こういう約束の仕方なら、謎掛けみたいでわくわくするでしょう?」
楽しげに言われても、同意するのは難しい。否、さすがに無理だ。スーリンは返答に窮する。
「それとも、強制的に忘れてもらったほうが、あなたの心の負担が軽いかしら?」
「ど、どういうこと、ですか……?」
不穏な発言に、スーリンは焦った。適当に相槌を打っておくべきだったのかと後悔する。
セレイエは〈七つの大罪〉の関係者だと名乗った。――〈七つの大罪〉は……、……。恐怖に思考が止まる。
そんなスーリンに、セレイエは「ううん。やめておくわ」と言って、くすりと笑った。
「私の体調も悪いし、ミスがあったら、あなたを廃人にしてしまうもの。それより、あなたを信用するわ」
背筋がひやりとするようなことを平然と言いながら、セレイエは鞄からあの小瓶をもう一本出して、飲み干す。ふぅ、息をつく彼女の顔は、随分と疲弊して見えた。
中身は薬の類なのだろう。
スーリンは先ほど頼まれて鞄を開けたが、中に同じ小瓶がぎっしりと詰まっているのを見た。つまり、それだけ必要になると考えていた――ということになるのだろうか?
「あの、まだ、お辛いんですか?」
恐る恐る、尋ねた。
すると、セレイエがふわりと微笑んだ。今までの、どこか悪ふざけのような表情とは違う、とても綺麗な、心からの笑顔だった。
「ありがとう、大丈夫よ。……優しいのね」
セレイエは緩やかにベッドに近づいた。そして、ルイフォンの髪をくしゃりと撫でた。
「あなたの、その優しさに甘えてしまうことになるけれど――。この子のことをよろしくね……」
「――そのあと、セレイエさんはペンダントが『運命の女』の目印だと教えてくれて、ルイフォンが目を覚ます前に帰っていったの。けど、目覚めたルイフォンは、セレイエさんが訪ねてきたことを覚えていなかったわ……」
そう言って、スーリンは締めくくった。
メイシアは呆然としていた。信じられないような話だった。
「セレイエさんが、〈天使〉……。どうして〈七つの大罪〉なんかに……」
乾いた声で、呟く。衝撃に、頭がうまく働かない。
セレイエにとって、〈七つの大罪〉は母親のキリファを〈天使〉にした、忌むべき組織だ。近寄るはずがない。まさか、〈堕天使〉と呼ばれたほどの資質を持ったキリファの娘と知られ、捕まって無理やりに……?
「その理由は、シャオリエ姐さんに訊いておいたわ」
「え?」
待ち構えていたかのようなスーリンに、メイシアは軽く目を見開く。
「あの綺麗な〈天使〉というものは、記憶を操る力を研究するための、可哀想な実験体だと教えてもらったわ。――けど、セレイエさんは、生まれつき。生粋の〈天使〉だそうよ」
「っ!」
「〈天使〉だったお母さんから、能力を受け継いでしまったみたい。それで彼女は、自分のことや〈天使〉について知りたくて、自ら〈七つの大罪〉に入ったそうよ」
「……そう、だったんですか」
唐突に与えられた事実に、メイシアは衝撃を受けていた。
ルイフォンは、後天的に与えられた〈天使〉の能力が遺伝するわけない、と言っていた。けれど、セレイエは受け継いでいた……。
「じゃあ、ルイフォンは……? ルイフォンも、いずれは〈天使〉に……?」
メイシアは愕然とし、顔色を変える。
「ううん、シャオリエ姐さんが言うには、彼は違うみたい。彼には〈天使〉の兆候が見られないそうよ」
そうなのか……。
メイシアは、ほっと胸をなでおろすと同時に、いろいろと教えてくれたスーリンに感謝した。
「これを返すわね」
スーリンがペンダントを差し出す。
さらさらと音を立てながら、銀の鎖がメイシアの掌に流れ落ちてきた。馴染みの感触なのに、心にざわつきを覚える。美しい石の煌めきも、どこかそっけなく感じる。
ずっと身につけていたはずの、お守りのペンダント。
けれど、異母弟のハオリュウは、見たことがないと証言した。たった今スーリンが、これはセレイエの持ち物だったと確認した。
メイシアの記憶と矛盾する。……そう『記憶』だ。〈天使〉が関わる出来ごとにおいて、自分の記憶が正しいとは限らない。
ぼんやりと靄がかかったような頭の中が、すっと晴れていく。記憶は戻らなくとも、からくりの構図が見えてきた。
――ホンシュアだ。
熱暴走によって亡くなった〈天使〉。セレイエの〈影〉だったと思われる人物。
メイシアは、一度だけ彼女と会っている。実家の藤咲家に、仕立て屋として現れた。父と異母弟が囚われ、困りきっていたメイシアに近づき、鷹刀一族のもとへ行くように唆した。
ペンダントは、そのときに渡されたのだ。受け取ったという記憶は消され、代わりに『お守りとして、ずっと持っていた』という記憶を刻まれて。
こうしてペンダントはメイシアの手に渡り、ルイフォンとの運命の出逢いが果たされる。セレイエの予言通りに――。
そこまで考えて、メイシアは、はっとした。
違う。ホンシュアは、イーレオに『貴族令嬢誘拐の罪』を着せるために、メイシアを鷹刀一族の屋敷に向かわせたのだ。メイシアがルイフォンと出逢ったのは、その結果に過ぎない。
けれど、ホンシュアの言葉がなければ、貴族のメイシアは、凶賊のルイフォンと知り合うことはなかった。
――つまり、一連の事件そのものが、ふたりを巡り合わせるために仕組まれた……?
「メイシア? 顔色が悪いわ」
大丈夫? と、心配そうに覗き込むスーリンによって、メイシアは現実に引き戻された。
「あのね、メイシア。私、本当は、一生、誰にも言うつもりはなかったの。だって、〈七つの大罪〉が関わる話だもの、口にしないほうが無難だわ。だから、あなたに初めて会ったときに『運命の女』だと思っても、姐さんにも誰にも、何も言わなかったのよ」
スーリンは一度そこで言葉を切り、じっとメイシアを見つめた。
「けど、あなたの家に起きた悲劇の顛末を聞いて、考えを改めたの。これは、私が握りつぶしていい情報じゃないわ」
淡々とした口調だった。けれど、ぱっちりとした目が、確かにメイシアを思いやっていた。
「どう? 少しは役に立ったかしら?」
「はい。とても重要な情報でした。どうもありがとうございました」
メイシアは、心からの感謝を込めて、スーリンに頭を下げる。
「そう。よかったわ」
ふっと緩んだ表情が、今までの深刻さを消し去る。
「私としては、姐さんからイーレオ様に伝えてもらうつもりだったんだけど、姐さんは、私からあなたに話すべきだと言い張って。それで、あなたがこの店に来るかどうかの賭けになったの。勝ったほうの意見に従う約束でね。――いろいろ、ごめんなさいね」
と、そのとき。部屋の外がにわかに騒がしくなった。階段を駆け上がってくる気配に続き、廊下を走る足音が響く。
「おい、スーリン! ここを開けろ!」
どんどんどんどん、と。扉が揺れた。
聞き慣れたテノールに、メイシアの胸が締め付けられる。
――ルイフォン……!
喧嘩したのに、彼を傷つけるような言動をとったのに、心配して来てくれたのだ。
「ああ! もうっ! 絶対、私がメイシアをいじめていると思っているわ! こういうのが面倒臭いから、姐さんから話を持っていってほしかったのに!」
スーリンが、ルイフォンには聞こえないように小声で文句を言う。そして、いつもの黄色い声に戻って、扉に向かって叫んだ。
「鍵が掛かっているの! 無理に開けないでよ!」
「それが分かっているから、開けろって言ってんだ!」
「だったら、ちょっとくらい待ちなさいよ! 扉が壊れちゃうわ!」
怒鳴り声の応酬をしながらも、スーリンは手早く髪をまとめ、いつもの元気なポニーテールを仕上げた。
「メイシア、いい?」
スーリンが、ずいと身を乗り出し、メイシアに迫る。
「私の正体は、言っちゃ駄目だからね! うまく、私に話を合わせるのよ!」
隠しごとのできないメイシアに対し、頼もしい『仲良しの女友達』は、なかなか難しい命令を言い残して、扉に向かって走っていった。
2.伏流にひそむ蛇-4
癖の強い前髪の隙間から、切れ上がった目が鋭く光る。猫背が強調される特徴的な歩き方で、大股で部屋に乗り込んでくる。
険しい表情のルイフォンを前に、メイシアは、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
本心を言えば嬉しい。
どうしようもないくらいに嬉しくてたまらない。彼が来た理由は分からないけれど、自分を追ってきてくれたのだから。――『勝手にしろ』と突き放したのに。
……怒っているのだとしても、それでもよかった。正面から憤りをぶつけられることと、黙って背中を向けられることでは、天と地ほども違う。彼女はそれを、ここ数日で思い知った。
ルイフォンは、鍵を開けたスーリンを扉で放置したまま、まっすぐにメイシアを目指していた。
彼の怒りの矛先は自分に向けられるはずだ、と信じていたスーリンは焦り、蒼白になった。
仕掛け人はシャオリエだが、スーリンはこの乱痴気騒ぎに一役買っている。やはり、責任を感じざるを得ない。けれど、「ルイフォ……ン」と、呼び止めようとするも、かすれた声は彼の耳には届かなかった。
ルイフォンが、メイシアのいるテーブルまでたどり着いた。
強い意思を感じる彼の眼差しを、メイシアは全身で受け止めた。その瞬間、涙がこぼれ落ちた。自分でも驚き、慌ててそれを拭う。
ルイフォンもわずかに表情を変える。だが、彼女の性格を考えれば当然ともいえることで、動揺は一瞬だけだった。
「メイシア、立ってくれ」
よく通るテノールが響き、メイシアの目の前に、ルイフォンの手が差し伸べられる。
彼女は、椅子から彼を見上げた。その拍子に、新たなひとしずくが頬の曲線を伝って流れ落ちる。
彼の意図が分からない。だが、問い返すこともできずに、迫力に押されるままに彼の言葉に従い、立ち上がる。
――けれど、彼の手に触れることはできない。その資格はないと思った。
「……っ」
ルイフォンの、声を詰まらせた息遣い。そして、傷ついたような顔。
それらを感じた瞬間、メイシアの心臓が、どきりと跳ねた。気持ちが激しく振動する。しかし、身がすくんで動けない。
彼の手が、力なく降ろされた。そして、深い溜め息が落とされる。髪を掻き上げ、「スーリン」と、相手に背を向けたまま、彼は声を掛けた。
「初めに確認しておくが、お前がメイシアを呼び出した理由――厳月家に関する情報提供の礼がどうの、ってのは、口実だよな?」
「ええ、そうよ」
ルイフォンがメイシアに何かするわけではないと分かり、スーリンは内心で胸を撫で下ろしつつ、いつもの調子で強気に答えた。
「なら、俺が原因で間違いないな」
「まぁ……、そう、ね」
「じゃあ、もうひとつ教えてくれ。今回の件に関して、主導権を握っていたのは、シャオリエだな?」
「え?」
「違和感があった。お前は、こんなふうに誰かを呼び出したりしない。お前は優しすぎる奴だから、他人を傷つけるくらいなら、自分を傷つける」
「……」
「メイシアと喧嘩したあと、頭を冷やした。メイシアから見れば、俺はお前のことをうやむやにしたまま……にしか見えないんだと分かった。――お前が、そういう関係を許してくれていたことに気づいた」
スーリンが短く息を呑んだ。本人の動きはそれだけだったが、巻き毛のポニーテールが大きく揺れた。
「俺は、純粋に客ってだけじゃなかった。かといって恋人でもない。お前は、俺が弱っていたときに支えてくれて……そのまま曖昧な優しい関係でいてくれた。そんなお前に――俺はずっと、甘えていた。……感謝している」
「や、やだ、ルイフォン。私は……」
「でも、いつまでもそうしているわけにはいかない。だから、ケジメをつけに来た」
ルイフォンはそう言って、メイシアと目線を合わせるように屈んだ。そして、彼女の前に、手を差し出す。
「メイシア、俺の手を取ってくれ」
鋭く、まっすぐな彼の視線が、強く彼女を求めていた。
喧嘩もする、意見も食い違う、常に仲良くいられるわけではない。それでも共にあろうと、彼の手が願う。
メイシアは、瞳を瞬かせた。今度はためらわない。
ルイフォンの手の上に、そっと自分の手を重ねた。その手は、あっという間に、彼の掌に包み込まれ、引き寄せられ、彼女の体はふわりと抱き上げられた。
「!?」
床から離れた足が、空を掻く。心もとなさに、思わず彼のシャツを握りしめる。布地越しに彼の温かさを感じて、胸が高鳴る。
ルイフォンは、とても大切そうに、メイシアをぎゅっと抱きしめた。そして、そのまま、くるりと身を翻す。一本に編まれた髪が宙を舞い、青い飾り紐の中央で金の鈴が輝きを放った。
「スーリン」
まっすぐに相手を見据え、ルイフォンは、すっと背筋を伸ばす。いつもの砕けた表情は鳴りを潜め、本来の端正な顔立ちが現れた。
「俺は、こいつと一生、一緒に生きていくと決めた」
誇るように、宣言する。
「そのことを、お前にはきちんと伝えるべきだった。遅くなって、すまない」
そっと、メイシアを床に下ろし、ルイフォンは頭を下げる。スーリンの肩がびくりと上がり、高く結い上げられた髪が、くるくると踊った。
やがて、彼がゆっくりと顔を上げると、スーリンは静かに尋ねる。
「謝るのは、遅くなったことだけよね?」
問いかけの形に見えて、けれど、それは肯定の強要だった。
ルイフォンは一瞬だけ声を詰まらせ、それから、「ああ」と、空に溶けていくようなテノールを響かせる。
「それで、いいと思うわ」
スーリンの口元が緩んだ。花がほころぶような、可憐な笑顔が広がった。
「私もルイフォンも、ひとことも『愛している』なんて、言ったことがないもの。もし、『お前のことを振って、ごめん』とか言われたら、逆に困っちゃったわ。――それにね。曖昧な関係が心地よかったのは、私のほうよ」
「え……」
どことなく強気なスーリンの口調に、ルイフォンは戸惑う。
「私の夢を忘れたの?」
「あれ、本気だったのか……?」
思わず口走った言葉は失言だったようで、目つきの変わったスーリンに、ルイフォンは素早く「――っ、すまん」と付け足す。
スーリンは、ぷくっと頬を膨らませ、「もうっ、失礼なんだから!」と言うが、怒っているわけではないのは、彼女の表情から明白だった。
「私は、貴族のパトロンを捕まえて、大女優になるの! この野望の前には、恋愛はご法度なのよ」
きっぱりと言い切り、胸を張る。それから、つぶらな瞳に少しだけ切なさを混ぜて、ルイフォンとメイシアを見つめた。
「だからね、ルイフォンとの恋人ごっこは楽しかったわ。恋心じゃないけど、でもルイフォンのことは大好きだった。いい『夢』を見せてもらったわ。……ありがとう」
「……スーリン……」
ルイフォンが彼女の名を呼び、しかし、先が続かずに口ごもる。
空白の時間が気まずさを招く――その手前の、絶妙な間隔で、スーリンが急に弾かれたように笑いだした。
「なっ!? なんだよ?」
「あなたたち、本当にお似合いだと思うわ」
困惑するルイフォンに、スーリンが明るい声を出す。
額面通りに受け取れば、祝福の言葉に違いないのだが、そこはかとなく含まれる微妙な響きに、ルイフォンは「どういう意味だよ?」と尖った声で訊き返した。
「だって、ふたりして同じように、私に向かって『恋人宣言』――ううん、『結婚宣言』? するんだもん」
「!? メイシアは、なんて――?」
ルイフォンの目が輝き、スーリンを促す。
メイシアは焦った。だが、『話を合わせるように』と釘を刺されている以上、余計な口出しはできず……はらはらしながら見守るしかない。その気持ちを見透かしたかのように、スーリンが人の悪い笑いを漏らした。
「メイシアったら、部屋に入ってくるなり、凄かったのよ。『事実を宣告に来ました。ルイフォンは私の男です』だって。これをもう、泣きそうな顔をしながら言うんだもん。参ったわ」
「ス、スーリンさん!」
反射的に叫ぶ。
……それは言った。細かいところが省略されている気がするが、そのようなことは確かに口にした。――けれど、ルイフォンに伝えるのは……。
真っ赤になって隣を見やれば、案の定、彼が嬉しそうに顔をにやつかせていた。もっと聞きたそうな猫の目が、うずうずと期待の眼差しをスーリンに送っている。
「そのあとの話は、ルイフォンには内緒。女の子同士の秘密よ」
「ええぇ! なんでだよ!?」
不満顔のルイフォンを無視して、スーリンは思わせぶりに、メイシアに向けて片目をつぶった。メイシアが、ほっと安堵の顔を見せると、スーリンは「あっ」と思い出したように、ぽんと手を打つ。
「これだけは、ルイフォンに言っておかなくちゃ。――私、メイシアに『スーリンさんが好きです』って、告白されたの。すっごく真面目な顔で」
ルイフォンは……口を半分ほど開けたまま、ひとこともなかった。メイシアは慌てて「それは……!」と言うが、スーリンにぎろりと睨まれる。
「言ったわよね?」
「……はい」
スーリンは、ひとことも嘘は言っていない。ただ、言い方が妙に引っかかるだけで。
「そんなわけで、私とメイシアの仲が深まりまして。私は、世間知らずのメイシアに『いろいろ』教えてあげることにしたの」
「――へぇ?」
ルイフォンは一瞬、呆けた。
ふたりの様子から、一触即発の事態を免れたのは理解できたが、まさかそこまで仲良くなっているとは思わなかったのだろう。感嘆の思いで、メイシアの髪をくしゃりと撫で……はたと彼は気づく。
「お、おい、スーリン! お前、メイシアに何を吹き込む気だ!?」
「お嬢様育ちのメイシアの役に立つ、人生の極意。主に、男の扱い方について」
「そんなもん、教えなくていいっ!」
メイシアは、どう話を合わせればいいのか分からず、ただ、にこにこしていた。その顔が、ルイフォンの焦りをあおっていたことは知る由もない。
スーリンが、笑いながら言う。
「でもね、本当に甘いお嬢様だと思ったわ。――傷つけて、地に堕とすのは簡単。でも、そんな馬鹿でもできることをするなんて、私のプライドが許さないの。それより、メイシアをいい女に育てることのほうが、よっぽど難しくて面白そうでしょ?」
軽い口調の中に隠された、優しさ。メイシアの目が、思わず潤む。しかし、それを見たスーリンが、『そういう純粋すぎて恥ずかしい反応は却下』とばかりに、両手をぱんぱんと打ち鳴らした。
「――さて」
表情を改め、スーリンは切り出す。ひととおり、ルイフォンとメイシアをからかった満足感のためか、すっきりとした顔をしていた。
「メイシアにはもう言ったけど、いい加減、ルイフォンにも、私がメイシアを呼び出した『本当の目的』を教えないとね」
「『本当の目的』!? ……じゃあ、今までのことは?」
ルイフォンの目つきが鋭くなる。しかし、スーリンは眉を吊り上げ、彼以上に表情を変えた。
「ちょっと! いくら姐さんの頼みでも、嫌がらせが目的で、私がメイシアを呼び出すわけないでしょ? 見下さないでよ!」
「セレイエが、生粋の〈天使〉……? 俺に会いにきて、俺に何かをした……」
ルイフォンは、呆然と虚空を見上げた。
「私はそろそろ仕事の支度をしなきゃ。それじゃ、またね」
スーリンは、ぱっと立ち上がり、半ば追い出すように、ふたりを促す。
あまりにそっけない別れの挨拶に、メイシアが戸惑っていると、スーリンが寄ってきて耳打ちをした。
「――いい女は、それとなく男の面目を立ててあげるものなの」
「え?」
「ルイフォンは、私に弱った顔を見せたら駄目なのよ? それが許されるのは、メイシアの前でだけだから。分かる?」
「!」
はっとするメイシアに、スーリンは肩をすくめて溜め息をついた。それから、真顔になって囁く。
「覚えておいて。彼を支えるのは、あなたなの。――それと、彼が喜ぶことを、ちゃんと言ってあげてね」
まるで、祈りのような響きだった。
スーリンは、一瞬のうちにメイシアから離れた。思わず視線であとを追いかけると、彼女はまっすぐに立てた人差し指を唇に当て、優しく微笑んだ。
異父姉の話に衝撃を受けていたルイフォンは、まったく気づいていない。ほんのわずかな間の出来ごとであった。
ルイフォンとメイシアを見送ると、スーリンはシャオリエのいる奥の部屋に入った。
中では、部屋の主と、主とは旧知という『客人』が談笑していた。客人は、スーリンの顔を見ると「それでは、私はこれで」と立ち上がる。
「あらぁ、もう帰っちゃうの? もっとゆっくりしていけばいいのに」
シャオリエが名残惜しそうに引き止めると、客人は懐から携帯端末を出しながら苦笑した。
「今日の私は、メイシアの護衛ですから」
「でも、ルイフォンが迎えに来たし、あのふたりを邪魔するのは野暮よ」
「ええ。だから、隠れてついていくだけですよ。……どうやら車を使わずに、歩いて帰るようですからね」
端末を確認した客人が、渋面を作る。タクシーを呼んであげればよかったかと、スーリンは少し後悔した。
「ルイフォンも一応、鷹刀の男なんだし、このへんのガラの悪い連中くらいなら、軽くあしらうわよ」
「そうおっしゃられても、私は彼の実力を知らないんですよ」
「チャオラウが鍛えたから大丈夫よ。むしろ、ちょっとくらい危険な目に遭って、お姫様を守る騎士の役をさせてあげるくらいが、ちょうどいいんじゃない?」
シャオリエが無責任に、からからと笑う。
如何にもシャオリエらしい言動に、スーリンが呆れたような溜め息をつくと、そっくり同じ顔をした客人と目が合った。
「スーリン、だったね?」
唐突に声を掛けられ、スーリンのポニーテールが、ぴょこんと跳ねる。
「私から礼を言うのも、何か違うかもしれないが――ありがとう」
「え?」
どうしてそんなことを? と、疑問もあらわに客人を見やるが、相手はただ目元を緩ませるだけで、何も言わなかった。
客人は壁に立てかけてあった刀を腰に佩き、シャオリエに一礼する。
「シャオリエ様、失礼いたします。相変わらずのお美しいお姿を拝見できてよかったです」
「あらぁ、本当のことを言っても、褒め言葉にならないわよ」
シャオリエがそう答えると、ふたり同時にくすりと笑った。
「私も、久々にお前に会えてよかったわ」
シャオリエの言葉を背に、客人は部屋を出ていく。店の外まで見送るべきかと、スーリンは迷ったが、店の客ではないのと、シャオリエの雰囲気からそのまま留まった。
「さて、スーリン」
シャオリエは、煙草盆から螺鈿細工の煙管を手に取った。刻み煙草をひとつまみ詰めて、火を移し、咥える。
「誰が、『妖艶なお姉さん』だってぇ?」
吐き出された白煙と共に、シャオリエの口から哄笑が広がった。
「姐さん! どうせ、そうだろうと分かっていましたけど、やっぱり隠しカメラで見ていたんですね!」
「あらぁ、だって、ねぇ? 面白そうな修羅場を見逃す手はない……じゃなくて、刃傷沙汰になったら面倒……、止めないといけないじゃない?」
「私が、そんな馬鹿なことするわけないでしょ! あの子をいじめても、なんの得にもならないじゃないですか! 本当に、もうっ、落としどころに苦労したんですからね!」
「そうねぇ、確かに見事だったわ。……やっぱり、お前は、大女優の器なんだわ、って思ったわ」
シャオリエにしては珍しく、手放しの称賛だった。むずがゆさに、スーリンはそっぽを向いてうそぶく。
「別に私は、ひとことも嘘は言ってないもの。ルイフォンより歳上なのは本当だし」
――メイシアが、スーリンを幾つだと思ったのかは知らないが。
それが一番、丸く収まる形だと思ったのだ。
端から、ルイフォンと同じ道を歩むことはないのは分かっていた。生きる世界も、望むものも、何もかもが違うから。
だから、『運命の女』が現れるまでの、泡沫の幻。夢の恋人でいようと思った。彼にとっても、自分にとっても――。
「……姐さん、私のために、メイシアを店に呼んだんでしょ?」
ひたすら純粋に、ルイフォンを求めたメイシア。
彼女にとって、生きる世界の違いなんて関係なかった。すべてを捨てて、彼のもとに飛び込んできた。
そんな彼女を、彼が選んだ女を、スーリンが認められるように。
そして、彼女を追いかけてくるであろう彼に、夢の終わりを告げてもらうために……。
「さて、ね?」
シャオリエが煙管をひと口吸い、旨そうに煙を吐き出した。
煙が薄くたなびき、視界をほんのり霞ませる。いつもは臭いと、鼻に皺を寄せるだけの白煙からは、優しい夢の国の残り香がした。
青貝の螺鈿細工を煌めかせ、シャオリエが煙管をくゆらせる。
白く漂う煙が目に染みて、スーリンはそっと瞼を押さえた。
3.幽鬼からの使者-1
スーリンに追い立てられるようにして、ルイフォンとメイシアは店の外に出された。その際、メイシアがシャオリエに挨拶をしていきたいと言ったのだが、あいにく来客中だとかで叶わなかった。
来客というのは嘘だろう。――ルイフォンは、そう疑う。
今回のことはシャオリエが引っ掻き回していたのは明らかで、だから、文句を言われたくなくて隠れているのだ。
とはいえ、初めはシャオリエに激怒したものの、今ではこれでよかったのだと、ルイフォンも思っている。掌の上で踊らされたようでむかつくが、シャオリエは妙手を打った。
感謝すべきなのかもしれない。――礼など言いたくはないが。だから、顔を合わせずにすんでほっとしているのは、彼のほうかもしれなかった。
そして。それよりも。
ルイフォンの心を占めるのは、スーリンからもたらされた、新たなる衝撃。
――異父姉セレイエが、〈天使〉だった。
しかも、抜け殻のようだった時期のルイフォンに会いに来て、〈天使〉の羽で彼に何かをしたという。
頭の中が、そのことでいっぱいになる……。
メイシアは、心ここにあらずのルイフォンの後ろを遠慮がちに歩いていた。煉瓦の敷石にして、数枚分ほど遅れた距離である。
蔦を這わせたアーチをくぐり抜け、シャオリエご自慢のアンティーク調の建物が見えなくなったあたりで、彼女は思い切ったように駆け寄り、ルイフォンの袖を引いた。
「ん? なんだ?」
そう応じたものの、彼は上の空である。
「あの、ごめんなさい。……ルイフォンがショックを受けているのは分かるけど、気をつけないと……」
このあたりは治安が悪いから。そういうことだろう。
「……ああ」
頭を切り替えるべきだなと、ルイフォンは癖のある前髪をくしゃりと掻き上げる。
「あ、あの、ね」
うつむき加減だったメイシアが、唐突に、ぐっとルイフォンを見上げた。長い黒絹の髪がさらさらと後ろに流れ、久しく直視できなかった顔があらわになる。
眉の下がった弱り顔からは、話しかけることをためらい、けれども懸命に声を掛けた――そんな心の葛藤がありありと読み取れた。彼女は、彼の袖を必死に握りしめる。どこにも行かないで、と言うように。
その表情に、どきりとした。
「ルイフォンが来てくれて、嬉しかった。ありがとう。……喧嘩して、ごめんなさい。……それから、あのっ。屋敷に戻ったら、一緒にいろいろ考えさせてほしいの。私で役に立つか分からないけど……」
ひと息に言って、じっとルイフォンを見つめる。黒曜石の瞳が自信なさげに揺れていた。彼が怒っていないかと、不安なのだ。
次の瞬間、ルイフォンの腕は、彼が意識するよりも先に、勝手に彼女を抱きしめていた。「きゃっ」という、小さな悲鳴など、耳に入らない。
――何をひとりで考え込んでいたのだろう。
彼には、彼女が居る。何よりも大切な、最愛のメイシアが。
「俺のほうこそ、悪かった」
「ううん。私がルイフォンのことを分かっていなかったの」
腕の中で、メイシアがふるふると首を振る。申し訳なさそうに萎縮して。
そんな顔は不要だ。それより、彼女には笑顔が似合う。
「お互い様、ってことで、喧嘩は終わりにしようぜ」
頭上に広がる青空のように、ルイフォンの声が朗らかに突き抜けた。メイシアが、こくりと頷き、「はい」と微笑む。
まったく違う世界から飛び込んできてくれた彼女。すれ違うこともあるけれど、こうやって分かり合っていけばいい。
ルイフォンは満ち足りた気持ちで息をつくと、腕の中の彼女を解放した。
――と、そのとき。メイシアの手が、ルイフォンの首へと伸びてきた。
えっ? と思ったときには、背伸びした彼女が、彼の耳たぶに唇を寄せていた。
「好き、なの。ルイフォンが。……だから、喧嘩して、ルイフォンのそばにいられなかったのが、凄く辛かったの……」
そう囁き、真っ赤になって彼から離れる。
「メイシア!?」
いったい、どうした?
ルイフォンは激しく動揺するが、すぐに気づく。
スーリンだ。彼女に何か、吹き込まれたのだ……。
――しかし、こういうことなら大歓迎である。
ルイフォンは、半歩下がったところにいるメイシアに手を伸ばし、引き寄せた。
「俺も、お前がそばにいないのは辛かった。……だから、さ――」
彼女の肩を抱き、横に並ばせる。
「――お前の居場所はここだろ?」
彼のテノールの響きにあわせ、彼女が極上の笑顔をこぼした。
シャオリエの店の付近は、貴族もお忍びで遊びに来るような特別区で、小奇麗に飾り立てられた遊興施設が連なっている。そこから貧民街の方向に抜けると、別世界のように荒れた廃墟となり、急速に治安が悪くなる。
だが、ルイフォンが向かっているのは繁華街の中心部だ。少々、雰囲気の悪い道を通過せねばならないが、彼ひとりなら、まず狙われることはない。
だから、つい、いつもの習慣で歩いてきてしまった。しかし、メイシアを連れているなら、店から車を使うべきだったのだ。
今更、後悔しても遅い。
ひと目でこのあたりの自由民と分かる、ゴロツキ然とした男がやってきた。極上の獲物を見つけたと、下衆な笑みを隠しもしない。ごみ箱から漁ってきたようなボロボロのシャツを身につけ、近づいてきただけで不潔感からくる異臭が漂う。
「小僧。いい女、連れてんなぁ」
ねとつく目線が、メイシアを舐める。脅えた彼女から、血の気が引いていくのが分かった。
話の通じるような相手ではない。メイシアの前で荒事をしたくはないが、先手必勝だ。
ルイフォンは無言のまま、しなやかに体をかがめて一歩踏み込み、低い位置から一気に相手の喉元に掌底を喰らわせる。
「うぐっ!?」
喉仏を正確に狙った一撃に、相手の男はひとたまりもなかった。その場にしゃがみこみ、砂まみれの地面に手をつき、激しく咳き込む。
ルイフォンは、すかさず相手の腹に蹴りを入れた――というところで、彼は、はっと気づく。
数人の男たちが、行く手を阻んでいた。そして、背後にも幾人か……。その全員が、刃の欠けたナイフやら鉄パイプやらで武装している。
「気をつけろ! あいつ、餓鬼のくせにやるぞ!」
「だが、あの上玉を見逃す手はねぇ」
「全員で行けば大丈夫だ!」
「女を狙え!」
ぎらぎらとした獣の目が、メイシアを襲う。
ルイフォンは戦慄した。彼女の細い腰を引き寄せ、緊張の面持ちで敵を見据える。
ふたりは完全に囲まれていた。そして、彼我の距離は、じりじりと狭まってくる。
突破できないことはない。
だが、多勢に無勢のこの状況で、メイシアに指一本、触れさせずに切り抜けることは……。
ルイフォンが、ごくりと唾を呑んだ。――そのときだった。
「お前ら!」
野太い声が響いた。
続いて、圧倒的な存在感を持った巨躯が、路地からぬっと現れる。
「誰だ、おま……」
男たちのひとりが誰何するも、その声は途中で途切れた。
それは、彼らの『狩り』に水を差す、無粋な乱入者の顔を見知っていたためではない。――『知る必要がない』ことを、瞬時に悟ったからであった。
乱入者は、腰に佩いた大刀をすらりと抜きながら、悠々と歩いてきた。
見るからに重量のある幅広の刃を軽々と振り上げる。緩やかに頭上に掲げたかと思ったら、それを竜巻のように回転させ、鋭い風切り音をうならせた。
「凶賊……」
強さを誇示し、余計な争いごとを避けるための刀技だということを、自由民の男たちはおそらく知らないだろう。しかし、自分たちがこの大男の足元にも及ばないことは理解できる。すなわち、関わるべきでない相手だということを。
腰の引けた男たちが後ずさる。大男の歩みと共に一定の距離を保って下がっていく様は、まるで大男に弾き飛ばされているかのようで滑稽であった。
ルイフォンとメイシアを囲んでいた輪はいつの間にか消え去り、大男が悠然と近づいてきた。
よく陽に焼けた浅黒い肌。意思の強そうな太い眉。刈り上げた短髪と額の間に、赤いバンダナがきつく巻かれている。
大刀がひときわ激しくうなりを上げ、ルイフォンの前でぴたりと止まった。勢いに乗っていたはずの刃が微動だにしない。筋骨隆々とした太い腕の為せる技であった。
「前も、こんなふうに出会ったな。――斑目タオロン」
ルイフォンが口にした『斑目』の名に、男たちがどよめく。それを受け、タオロンが男たちを威圧するように瞳を巡らせた。
「お前らが狙っていた獲物は、鷹刀ルイフォンだ。知っていたか?」
「な……、何っ!? ――『鷹刀』……?」
今まで、ルイフォンを餓鬼と侮っていた男たちが一気に蒼白になった。
タオロンは大刀をくるりと旋回させ、鞘に収める。その視線は、まっすぐにルイフォンに向けられていた。
何故、突然タオロンが現れたのか――。
理由は分からぬが、この登場の仕方は、偶然などではない。タオロンは、ルイフォンとの接触の機会を待っていたのだ。
情報屋によると、タオロンは〈蝿〉の強い要望によって、事実上〈蝿〉の部下のような立場になったらしい。
――つまり、〈蝿〉が動いた、ということになるのか……?
ルイフォンの猫の目がすっと細まり、緊張と興奮がないまぜになる。
彼にとって、自由民の男たちなど、もはや目障りなだけの、どうでもいい雑魚であった。とっとと追い払って、タオロンと話を進めるに限る。
ルイフォンは男たちを睥睨し、挑発するように嗤った。
「お前たちの中に、鷹刀と斑目の争いにくちばしを突っ込む、勇気のある奴はいるか?」
タオロンとの因縁は『鷹刀と斑目の争い』ではないのだが、この際、そうしておいたほうが脅しの効果が高いだろう。彼の意図を読み取ったのか、タオロンも深々と頷いた。
「お前らの獲物を横取りするようで悪いが、こいつを俺に譲ってほしい」
そう言って、一歩前に出る。言葉の上では下手に出ているが、鋭い眼光が『従わなければ、まずお前らを斬る』と雄弁に物語っていた。
「ど、どうぞ、ご自由に!」
「すまんな。では、お前らは外してくれ」
「はっ、はいぃ!」
男たちは散り散りになって逃げ出した。初めにルイフォンに倒された男も、仲間に引きずられながら、なんとか退散していく。
すっかり男たちの姿が見えなくなったのを確認すると、ルイフォンは改めてタオロンと向き合った。
「お前のおかげで助かったようなもんだな。とりあえず、礼を言っておく」
それで、なんの用件だ、と切り出そうとしたときだった。
ざっと音を立て、空気が動いた。
「!?」
気づいたら――。
……タオロンが、足元で土下座していた。
「タ、タオロン!?」
ルイフォンは仰天した。
タオロンの巨躯が、力いっぱい地面に伏している。勢いよく地べたに頭をこすりつけたためか、刈り上げた短髪が土埃と砂をかぶっていた。
……理解できない。
むしろ、不意に襲いかかられたほうが、よほど納得できた。
タオロンは、無言で頭を下げ続けた。風に巻かれた土埃になぶられても、微動だにしない。
「おい、なんの真似だよ?」
不可解な状況に焦れて、ルイフォンが尋ねる。
「俺が、何をどう謝罪しても、それは言い訳にしかならない」
「謝罪?」
更なる疑問に、ルイフォンは眉を寄せる。
「自己満足でしかないのは分かっている。だが、頭を下げさせてくれ」
いったい、なんだと言うのだろう?
最後にタオロンと会ったのは、メイシアの父コウレンを救出するために、斑目一族の別荘に潜入したときだ。
あのとき既に、コウレンは厳月家の当主の〈影〉にされてしまっていた。そのことを知っていたタオロンは、いわば『偽者』であるコウレンを連れ帰らせまいと、殺害しようとした。――凶賊の誇りを捨て、銃を使ってまでして……。
「もしかして、メイシアの親父さんが〈影〉にされたことを、斑目の一員として責任を感じているのか……?」
「ああ。あの技術は、人として許されねぇ。……〈七つの大罪〉と関わるのは、人間をやめるのと同じだ」
タオロンは、そう言い捨てた。
「タオロンさんが悪いわけではないでしょう……?」
一歩下がったところで、遠慮がちに見守っていたメイシアが口を開く。嫋やかでありながらも、凛と響く鈴の音に、しかし、タオロンはうつむいたまま、首を左右に振る。
「俺は、お前にそんなふうに言ってもらえる資格なんてねぇ……。どうしようもねぇ、最低野郎なんだ……」
タオロンは、拳を地面に打ち付けた。ただならぬ様子に、メイシアが「タオロンさん?」と、不審の声を上げるも、彼はそれを聞き流す。
「お前らに会いに来た用件を言おう……」
歯切れ悪くそう言い、タオロンはゆっくりと立ち上がった。
「まず、はじめに。死んだホンシュアという〈天使〉からの伝言だ。――あの女は、お前らに謝りたいと言っていた」
「――!?」
予想外のことに、ルイフォンとメイシアは顔を見合わせた。
「本来の計画では、藤咲メイシアの父親が〈影〉にされることはなかったそうだ。それが、自分の考えの甘さから〈蝿〉を暴走させ、〈天使〉の力を悪用させてしまった。なんと詫びたらよいか分からない、と」
太い声が、淡々と告げる。
「〈蝿〉に与えられた〈天使〉は自分で最後だから、自分が死ねば、〈蝿〉は〈天使〉を使えない。それで安心できるかどうか分からないが、ひとつの情報として、お前らに伝えて欲しい、そう言われた」
タオロンは、そこで言葉を切った。
そして、太い眉を寄せ、突き刺さらんばかりの真剣な眼差しをルイフォンに向ける。
「『ルイフォン、あなたが幸せになる道を選んで』――それが、あの女の……遺言だった」
「…………っ」
何を言えばいいのか。何を感じればいいのか。まるで分からない。
ホンシュアは、セレイエの〈影〉だ。またしても、セレイエだ。
支離滅裂な情報が乱雑に押し込まれ、思考が飽和状態だ。耳鳴りがして、ルイフォンは頭を抱え込む。
「ルイフォン……」
メイシアが彼の顔を覗き込み、ぎゅっと彼の手を握った。
「……ああ、大丈夫だ」
ルイフォンもまた、手を握り返す。
見栄かもしれない。だが、彼女がそばにいれば、平気だと答えられる。彼女がそばにいることが、彼を強くする……。
タオロンは、その場を動かぬまま、そっと背を向けた。
薄汚いこの道を囲う灰色の塀を見るともなしに見やり、彼は息をつく。そして、ふと思い立ったように頭の赤いバンダナに触れ、結び目をきつく結び直した。
それから彼は、意を決したように太い眉に力を入れると、体を半回転させて再びルイフォンたちと向き合う。ざりっと、砂を踏む音を大きく響かせたのは、彼らの注意を自分に促すためだった。
「そして、次の――本来の用件だ。……俺は、〈蝿〉の命令で……藤咲メイシア、お前を捕らえに来た………」
苦しげに呻くように、タオロンは吐き捨てた。
ルイフォンの心臓が跳ね上がり、メイシアを背中に庇う。
以前、タオロンと対峙したときは、シャオリエから貰った筋弛緩剤があった。だから、かろうじてタオロンを倒せた。けれど、純粋な戦闘では、万にひとつも勝ち目はない……。
ルイフォンの額を冷や汗が流れる。
「すまん……、本当に……。俺は〈蝿〉の手下だ。〈七つの大罪〉に加担しているも同然だ」
悲痛な声が響いた。
単純明快なタオロンが、自分の意に沿わない行動をする理由は、ただひとつ。愛娘ファンルゥのため。人質になっているのだろう。
だから、絶対に引くことができない。
タオロンは腰の大刀を抜き、構える。
「鷹刀ルイフォン。俺は、お前にも藤咲メイシアにも、怪我をさせたくない。だから、本当は『黙って従ってくれ』と言いたい。……だが、お前相手に、それは無意味だと分かっている」
「タオロン……」
「……本気で行くぞ!」
刹那、タオロンの闘気が膨れ上がった。近くにいるだけで、背筋を悪寒が突き抜ける。
「メイシア、下がれ! お前は逃げろ!」
足のすくんでいる彼女を、半ば押し出すようにして、後ろに追いやった。
敵う相手ではない。だから、真っ向から勝負してはならない。
ルイフォンは懐から、いつも携帯しているナイフを取り出した。
接近戦用の武器だ。しかし、彼我の力量を考えれば、近づいたら確実にやられる。前回は硝子の街灯に投げて、破片をばらまいた。だが、同じ手は二度、使えまい。
だから今度は、素直に相手に向かって投げる。ただし、正面からはぶつからない。
身の軽さを活かし、塀を蹴って高く跳ねる。できれば、奴の背後に回り込み、奇襲をかけるように、死角をついて……。
――一撃必殺だ。弾かれたら次の手はない……。
ルイフォンは、ごくりと唾を呑み込んだ。
「ル、ルイフォン、待って!」
背後からメイシアが叫んだ。
「早く、逃げろ!」
「ううん。〈蝿〉は私を『捕らえろ』と言ったの! 私の命は保証されている。だから、私、タオロンさんについていって、〈蝿〉の居場所をつきとめる!」
「駄目だ!」
ルイフォンが、そう叫び返したときだった。
「そろそろ、私の出番ということで、いいか?」
笑いを含んだ声が、灰色の塀の裏側から聞こえてきた。男であるなら高めだが、女声のアルトにしては、やや低い。
声の主は、長い足を綺麗に揃え、ひらりと塀を乗り越えた。音も立てずに地面に降り立つ様は優美であり、ふわりと舞う土埃さえ、華麗な演出の一部に見える。
「シャンリー様!」
メイシアが叫んだ。
それは、繁華街を訪れるにあたり、彼女が依頼した護衛の名前だった。
3.幽鬼からの使者-2
灰色の道に、すらりとした人影が降り立った。ごく自然な立ち姿であるのに、頭から足先まで、ぴんと芯の通った美しさがあり、その人の周りにだけ華やぎが広がる。
「シャンリー様!」
メイシアの声に、ルイフォンは慌てて後ろを振り返った。彼の、その顔を見た瞬間、件の人物は、ぷっと吹き出す。
「おいおい、ルイフォン。そんなに驚いたのか」
腰に佩いた直刀と、ベリーショートの髪を揺らしながら、シャンリーが揶揄する。
だが、気配をひそめていた彼女に、ルイフォンが気づくはずもない。何しろ彼女は、もと凶賊。しかも武術師範のチャオラウの姪であり、養女だ。
剣舞の道を行くために、夫のレイウェンと共に一族を抜けてしまったが、本来なら鷹刀一族を背負っていく人間だった。要するに、戦闘面において、ルイフォンとは格が違う。
笑われた不満が、顔に出ていたのだろう。シャンリーは、にやりとしながら、タオロンを顎でしゃくった。
「そっちの坊やは、とっくに私の存在に気づいていたぞ」
「やはり、お前らの知り合いだったのか」
納得したような、しかし、どこか納得していないような。微妙な具合に、タオロンは太い眉を寄せていた。そんな彼に、シャンリーは口の端を上げる。
「『どちら』か悩んでいるようだから、教えてやろう。女だ」
「し、失礼した!」
「慣れているから、気にするな」
シャンリーは豪快に笑った。彼女が腰に手を当てて胸を張ると、女性らしい豊満さを欠いた、美しく引き締まった肉体が際立つ。
剣舞の名手として名の知れた彼女は、巷では『男装の麗人』と、もてはやされている。若い女性を中心に黄色い声が飛び交うのだが、彼女自身は男装をしているつもりは、これっぽっちもない。
単に、動きやすさを追求した彼女の装いを、周りが女性のものとみなさないだけであり、彼女の言葉遣いからもまた、女性らしさを感じられない、というだけの話である。
「私の名は、草薙シャンリーだ、よろしく。そちらは、斑目タオロン、だな?」
シャンリーの口調は親しげで、今にも握手でも求めそうな勢いであった。タオロンの猪突猛進の愚直さを気に入ったらしい。
一方、強引に「よろしく」されたタオロンのほうは腰が引けていた。悲痛な顔をして、ルイフォンに襲いかかろうとしていたところに割って入られたのだから、無理もない。
「おい、シャンリー。タオロンが困っているぞ。それより、何故、お前がここにいるんだ?」
ルイフォンは、先ほどから気に掛かっていた疑問を口にした。
敵を目の前に内輪の会話もどうかと思うが、タオロンはそれを邪魔をするような無粋な輩ではあるまい。それに、シャンリーも気安く振る舞っているようでいて、実はまるで隙がなかった。
「今日の私は、メイシアに雇われた護衛だよ」
「えっ?」
驚いて、メイシアを見やれば、彼女はこくりと頷く。ただし、ルイフォンに対して後ろめたさがあるのか、わずかに肩が丸まっている。
そんな様子に苦笑しながら、シャンリーが補足した。
「草薙は服飾会社だけでなくて、警備会社もやっているのは知っているだろう? 護衛の派遣もしている。――で」
そこで、シャンリーの目が据わった。心なしか、声も低くなっている。
「メイシアは、どこかの誰かさんに『世間知らずの箱入り娘が、繁華街をうろつくなんて危険だ』と言われて、護衛を探していた。しかも、『男の護衛は駄目だ』と厳しく言い渡されていたらしい。それで、私が買って出た」
シャンリーがメイシアと連れだって歩けば、少し歳の離れた美男美女のカップルにしか見えないのだが、護衛としては確かに適任といえた。
「ルイフォンが来てくれたので、てっきりシャンリー様は、あのままシャオリエさんと、お話をされているものと思っておりました」
メイシアにそう言われて、ルイフォンは気づく。
シャオリエに客が来ている、というのは嘘ではなかったらしい。意外な組み合わせだが、シャオリエもシャンリーも、もと鷹刀一族。昔なじみなのだろう。
シャンリーが「『様』付けは、やめてくれ」と、照れたように顔をしかめてから言を継ぐ。
「せっかく騎士のお迎えが来たのに、私がうろついていたら野暮だろう? だから、隠れていただけだ。――メイシアは、金まで払った正式な雇い主なんだから、ほったらかしにするわけがない」
「『金』?」
首を傾げるルイフォンに、シャンリーは深々と頷く。
「ああ。なけなしのメイド見習いの初月給を、まるごと寄越してきた。要らんと言ったのに、けじめだと言ってな。亭主関白の暴言男の言いつけを律儀に守って、安全に配慮して外出するとは、健気な子だ。私に夫がいなければ、嫁に貰いたいところだ」
微妙に素っ頓狂な発言である上に、言葉の端々にあからさまな悪意を感じる。
けれど、『〈蝿〉に狙われている、危険だ』と言ったルイフォン自身が車を使うのを忘れて、のこのこメイシアを連れ回し、彼女を危険に晒した。まったくもって面目が立たず、ぐうの音も出ない。
「私のお給料では、シャンリー様……さんを雇うのには足りないと分かっております。だから、充分にご厚意に甘えさせていただきました」
「本当は、その金で、ルイフォンに何かプレゼントしたかったんだろう?」
「えっ?」
メイシアは目を見開き、頬を染めてうつむく。図星だったらしい。
シャンリーは、意味ありげにルイフォンを見やり、にやりと目を細めた。が、何も言わなかった。……いっそ、嫌味のひとつでも言ってくれたほうがすっきりした気がする。
「さて。私についての疑問はこれで解消したか? いい加減、そこの坊やを待たせているのも悪い」
すっと目線をやり、シャンリーはタオロンを示す。
「タオロンと言ったな。私が来たことで、お前はもう詰んでいる。――このふたりが逃げ切る前に、私を倒すことなど不可能だ」
そう言いながら、タオロンににじり寄る。
「――故に、『メイシアを捕らえる』というお前の受けた命は成功しない。無駄な戦いは、やめにしないか?」
女性としては、かなり背の高いシャンリーだが、それよりも遥かに上背のあるタオロンに向かい、彼女は威圧的に臨む。しかし、タオロンは、押され気味ながらも首を振った。
「藤咲メイシアを捕まえるように命じられたのは、俺だけじゃない。〈蝿〉が金で雇った奴らが他にいる」
「ああ、確かに雑魚がうろついていたね。目についた奴らは寝かせてきたが……そうだな、それが全員とは限らない。では、迂闊にふたりを逃がすよりも、私がお前を倒すまで、そばにいてもらったほうがいいのか」
タオロンは、太い眉をしかめながら頷く。
それが、合意の合図となった。
両者共に、間合いを取るべく、ぱっと後ろに下がる。着地した足元で砂が散り、土埃が舞う。
「では、勝負だ!」
シャンリーが叫ぶと、鞘走りの音が鳴り響き、銀色の閃光が煌めいた。
タオロンが、重たい剛の太刀を放つ。
低いうなりと、烈風をまとった斬撃が、シャンリーに襲いかかる。
幅広の刃が、まさに肌に触れんとしたとき、シャンリーは踊るように身をしならせ、体の芯をほんのわずかにずらした。
たったそれだけ。
それだけで、タオロンの渾身の一撃は空を薙いだ。衝撃の余波が、悔しげに彼女の服をなぶる。
タオロンは顔色を変えた。
重量のある彼の大刀は、さほど高速の軌道を描かない。だから、見切ること自体は難しくはないだろう。だが、そこから生み出される破壊力は計り知れない。
普通の人間なら、多少なりとも恐怖を覚える。ぎりぎりで躱す利はないはずだ。
冷や汗を流すタオロンに、シャンリーが微笑む。
「見た目通りの豪剣の使い手だな。嬉しくなるね」
では、こちらから、と。シャンリーの目線が告げる。
音もなく静から動へと転じると、タオロンに向かって直刀を繰り出した。ひとたび動き始めた彼女は、すべらかに流れ出した水のように留まることを知らない。
「っ!」
始めは緩やかに見えたその突きは、途中で急流のように速度を増す。それも一刀ではない。滝壺に叩きつけるが如く、無数の突きがタオロンに打ちつけられる。
数撃目までは正面から受けていた彼も、たまらずに後ろに大きく飛び退いた。シャツごと皮膚が裂け、鮮血が散る。
対してシャンリーは、愛刀に唇を寄せ、笑みをこぼしていた。
その姿は、今までの印象を覆す、ぞくりとする『美女』だった。あれだけ高速の突きを繰り返したにも関わらず、息ひとつ乱していない。
タオロンは遅ればせながら気づいた。
王宮に召されるほどの剣舞の名手、草薙シャンリー。
刀に愛され、刀を愛する。その身は刀と共にある、刀の化身。
本来の後継者だった鷹刀一族の直系の長男は、彼女を娶るために凶賊を抜けたという――。
相手が女性だと思って、舐めてかかっていたかもしれない。タオロンは気を引き締める。彼は、腹の底から力を溜めた。
「いくぞっ!」
タオロンは大刀を旋回させ、勢いよく薙ぎ払う。巻き起こった爆風が空間を震わせる。
先ほどとは比べ物にならないほどの気迫を、シャンリーは直刀を滑らせながら受け流した。
「いくら私でも、お前と力比べする気はないよ」
彼女は、体の重心を移動させ、タオロンの超人的な威力を無効化する。無駄のない動きは美しく、まるで舞いを見るかのようだ。
「坊や、力みすぎだ。それでは、せっかくの豪腕が刀と喧嘩している」
「!」
恥辱に顔を染め、相手を睨みつければ、シャンリーはごく真面目に惜しむ目をしていた。戸惑う彼に、彼女は微笑む。
「夫のレイウェンが神速の使い手でな。だから、相棒たる私は、彼と補い合えるように、親父殿のような豪剣の主になりたかったんだが……まぁ、性別的に無理でな。だから、お前のようなのが羨ましいだけだ」
そう言いながらも、シャンリーはひらり、ひらりと舞い踊り、タオロンの大刀が彼女を捕らえることは叶わない。
斑目一族きっての猛者といわれたタオロンが、赤子のように翻弄されていた。
ルイフォンは目を疑った。
偉そうな――もとい余裕の顔をしていたから、シャンリーも『できる』とは思っていた。
だが、体力のピークにある男のタオロンに対して、シャンリーは一児の母である三十路前後の女性だ。パワーもスタミナも、圧倒的にタオロンのほうが上だ。
始めは互角の勝負をしても、じわじわとシャンリーが不利になるはず。そう思っていた。だから、適当なところで逃げる算段を立てていたのだが――。
「ルイフォン」
メイシアが、彼の服を引いた。
「私にはよく分からないのだけれど、シャンリーさんが押している……で、合っている?」
「あ、ああ」
「このままいくと、どうなるの? タオロンさんの負けが決まって、彼を鷹刀に連れていくの?」
「え……?」
不安げな瞳で見つめてくる彼女の意図を測りかね、彼は言葉を詰まらせる。
「〈蝿〉の部下になっているタオロンさんは、〈蝿〉の潜伏先を知っている」
「そうか! 奴を捕まえれば……。……奴は律儀だから、素直に吐くかどうか分からないが……」
『拷問』という言葉がよぎり、できれば避けたいところだと思う。タオロンは死んでも口を割らないかもしれない。あるいは、ミンウェイの自白剤に頼れば……。
そう思ったときだった。メイシアが激しく首を振った。
「そのとき、タオロンさんの娘さんはどうなるの!?」
「!」
タオロンの娘のファンルゥ。くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんと跳ねた癖っ毛が愛らしい女の子。父親そっくりの意思の強さと優しさで、〈天使〉のホンシュアのために懸命になっていた。
タオロンが捕まったら、あの子は……。
ルイフォンの背筋が凍る。
しかし、〈蝿〉の居場所は絶対に必要な情報で、タオロンは重要な情報源だ。
しかも〈蝿〉は、今回はメイシアを狙ってきた。イーレオでも、ミンウェイでもなく、メイシアだ。セレイエも、メイシアにこだわっていたし、メイシアには何かあるのだ……。
ルイフォンは拳を握りしめ、唇を噛む。
「ルイフォン、これを」
唐突に、メイシアが服の襟を裏返した。見れば、そこには小さなバッジのようなものが留められている。
「これは?」
「シャンリーさんに護衛を頼んだときに渡された、GPS発信機。私に何かあったときの保険に、って。――これを、タオロンさんにこっそりつけて、彼を見逃して」
シャンリーは、ルイフォンが動き出したのに気づいた。タオロンからは死角となる位置に移動している。何か企んでいるのだと、すぐにぴんときた。
――とはいえ、そのときも、タオロンと激しく斬り結んでいる最中であり、詳細は分からない。
一度、舞台に上がれば、幕が下りるまで、舞い手は踊り続ける。長時間の演技に耐えられるよう鍛えている彼女は、まだまだ体力に余裕があった。しかし、いい加減、どんな幕引きにしたものか、正直なところ困っていた。
雇い主の要望を聞きはぐっていたことに、今更のように気づいたのである。
おそらくは殺してはいけないのだろう。彼女としても殺すには惜しい人材だと思う。そもそも、ちょっとやそっと斬り刻んだところで、簡単に死ぬような輩ではない。
捕らえればいいのか、追い払えばいいのか。そのどちらかだと思うのだが、どちらを選べばいいのかが分からない。
そのとき、ルイフォンが何かを投げた。
それは、驚くほど正確な軌道を描き、タオロンの襟首に向かって一直線だった。
もう少しで、タオロンの首筋に落ちる、そう思ったときだった。はっと気づいたタオロンが、体をずらして避ける。
……そりゃ、タオロンほどの使い手なら、普通、気づくだろう。
半ば呆れ気味に、シャンリーは苦笑する。だが、地面に落ちたそれを見て、雇い主の意図を理解した。
「これは、なんだ?」
太い眉を寄せ、タオロンが顔をしかめる。
「GPS発信機だな」
包み隠さずのシャンリーの答えに、タオロンは不快感もあらわに発信機を踏み潰そうとした。
「待て」
瞬速の一刀が、タオロンを遮る。シャンリーの直刀は、タオロンの右足をまさに斬らんとする直前で、ぴたりと止められていた。――刃を当てたところで、筋肉の鎧に阻まれ、薄皮しか斬れないだろうが。
「それを拾って、持ち帰れ」
「なっ? 何故、俺がそんなことを!?」
ありえねぇだろう、とタオロンが目をむいた。その反応は予想通りで、シャンリーはわざとらしく溜め息をつく。
「この勝負が既についていることは、分かっているだろう?」
「まだ分からねぇ。俺のほうが体力があるはずだ」
「それだけ重い刀をぶんぶん振り回して、いつまで持つのやら?」
シャンリーは、ふっと鼻で笑った。
「言ったろ、私の親父殿とお前は同じタイプだ。私は、豪剣の使い手と戦い慣れている。しかも、お前は親父殿より遥かに未熟だ。――更に言うのなら、私が最強と思っていた親父殿は、神速の使い手である私の夫に敗れている。その彼の奥義を、私は伝授されているのだ」
「……っ!?」
タオロンの集中力に乱れが出た。
しかし、それは、彼女の弁に畏怖を覚えたためではなく、やたらと偉そうなシャンリーの雰囲気に呑まれただけだ。こう早口にまくしたてられては、内容など半分も理解できない。
――それこそが、シャンリーの狙い。生真面目なタオロンが律儀に話を聞こうとすることを見越しての、からめ手である。……別に、適当に並べ立てた自慢話を聞いてほしいわけではない。しかも、最後のひとことは、通じていないかもしれないが冗談である。
隙を見せたタオロンの懐に、シャンリーがすっと入った。
彼は自分の若さを頼みにしているようだが、経験不足は否めない。要するに、亀の甲より年の功。シャンリーのほうが、年齢と性別の不利を差っ引いてなお、上手だった。
あたかも重大な秘密を告げるかのように、彼女は彼の耳元で囁く。
「斑目タオロン。お前の情報は、それなりに聞いている。だから、約束しよう。もしも、その発信機を持ち帰ったなら、お前を――いや、お前の娘を助けてやる」
そしてシャンリーは、悪役然とした笑みをにやりと浮かべた。
4.硝子の華の憂愁-1
斑目タオロンが持ち帰ったGPS発信機によって、〈蝿〉の潜伏先はあっさりと判明した。地図上では、王族所轄の庭園で、一般人は立入禁止の区域である。
今まで見つからなかったのは、王族の庇護下だったからだろう。案の定という気持ちが大きかったのと同時に、これで現在の〈七つの大罪〉も王族と密接な関係にあるといえた。
やはり、女王の婚約者が黒幕なのか。セレイエは、どう関わっているのか。
――そもそも、セレイエが〈天使〉だったことを黙っていたとは、隠しごとも大概にしろとか。いやいや、それは次の会議で発表するつもりだったのだとか……。
専らルイフォンを中心に、賑やかに議論が繰り広げられた。
潜伏先が王族の土地であるため、下手に総攻撃でも仕掛ければ、国を敵に回すことになる。それは避けねばならぬため、綿密な準備が必要になる。
しかし、それでも――。
鷹刀一族は、確実に〈蝿〉に近づいていた……。
屋敷内の温室にて、ミンウェイはひとり、ガーデンチェアーに腰掛けながら、ぼうっとしていた。植え替え作業の途中だったのだが、シャベルもほったらかしである。
――〈蝿〉の潜伏先が分かった。
それは、彼女と父との再会を意味していた。
ミンウェイは、ぞくりと身を震わせ、両手で自分の体を抱きしめる。温室の中は、少し動けば汗ばむほどであるのに、心の芯から凍っていくようだった。
どのくらい、そうしていただろうか。
頭に、こつんと、硬いものが押し当てられた。続けて、男の声が響く。
「あんたが、ここまで無防備とは驚いたな」
その声に、ミンウェイはまさかと思った。
半身を返し、予想通りの姿を見つけ、瞳を瞬かせる。
「よぅ」
彼は、如何にも彼らしく、皮肉げに三白眼を歪めて挨拶をした。
警察隊員の緋扇シュアン。ただし、今は私服である。凶賊の屋敷を出入りするのに、制服は不都合があるからだろう。
「緋扇さん……。……どうして、あなたは私に拳銃を突きつけているのですか?」
「あんたの背中が、あまりにも隙だらけだったからだ。殺されても知らねぇぞ?」
そう言って、シュアンは手の中で拳銃をくるりと回し、胸のホルスターに収める。そして、テーブルを挟んだ反対側のガーデンチェアーに勝手に腰掛けた。
チェアー二脚とテーブルとで鋳物三点セットなのだ。この温室の雰囲気にぴったりと思って購入したのだが、向かいの椅子に誰かが座るのは初めてかもしれない。
「今日は、どうされたのですか?」
ひとりになりたくて温室にいたのに、との思いは顔には出さない。もっとも、ミンウェイがそう口にしたところで、シュアンは気にしないだろう。
「〈蝿〉の潜伏先が分かったと、エルファンさんから連絡を受けたのさ」
「……!」
シュアンと鷹刀一族は、情報交換の約束をしている。それは、警察隊と凶賊が手を組むことで共に利を得よう、というのが、もともとの趣旨だった。しかし、〈蝿〉の登場によって大きく意味合いが変わった。
シュアンは大切な先輩を〈蝿〉に殺された。直接、手を下したのは、他でもないシュアン自身だが、〈蝿〉が先輩を〈影〉という別人にしてしまったのが原因だ。
そしてシュアンは、同じ境遇のメイシアの異母弟、ハオリュウと黙約を交わした。足が不自由であり、また貴族の当主であるために目立つことのできないハオリュウが裏で手を回し、シュアンが行動するという関係であるらしい。
事件を通じ、鷹刀一族とハオリュウも懇意になっている。だから、鷹刀一族とシュアン、ハオリュウの三者は、〈蝿〉に関することをはじめとした、あらゆる面において――主に、暗部において――、互いに便宜を図る関係となっていた。
そんなわけで、一族の後ろ暗い部分を一手に引き受けている次期総帥エルファンが、シュアンを呼び出すことは珍しくない。
――故に、彼が屋敷に来た理由には納得できる。
けれど、温室に籠もった彼女のもとに、わざわざ顔を出さなくてもよいだろう。この場所のことは、誰かに訊かなければシュアンは知らないはずだ。
ミンウェイは柳眉をひそめる。
「久しぶりに会ったというのに、随分、つれない態度だな」
シュアンが、口の端を上げて苦笑した。やれやれ、といった様子からすると、さすがにミンウェイの歓迎を期待していたわけではなさそうだ。
「すみません」
今は、心に余裕がない。
いつもの顔をしていることが、しんどい。
勘弁してほしい。誰とも会いたくない。
しかも、相手はシュアンだ。――〈蝿〉を恨む人間だ。
ミンウェイは、シュアンが先輩を殺した現場に居合わせている。
引き金を引いた彼が、彼女の腕の中で、脆く崩れ落ちたのを知っている……。
――だから、〈蝿〉の潜伏先が判明したのは、彼にとって朗報だ。
「おい、ミンウェイ」
青ざめた顔で押し黙った彼女に、シュアンが「大丈夫かよ」と声を掛ける。
「まぁ、あんたなら、いろいろ考えちまうだろうさ。あんたは馬鹿が付くほどのお人好しで、愚かなまでに優しいからな」
じっと見つめてくる三白眼は、意外なほどに柔らかだった。言いたい放題に聞こえる言葉も、決して突き放したものではない。
彼の立場なら、浮かない顔の彼女をなじったとしても、おかしくはないのに……。
「少し休むべきだな。俺は勝手に、俺の用件を言ったら退散するからさ」
「用件?」
テーブルに視線を落としていたミンウェイは、そっと顔を上げた。途端、波打つ髪から草の香が広がる。
なんの用事であろう? 疑問と共に、罪悪感がこみ上げる。
彼女ひとりの時間を邪魔するとは、なんて無遠慮な人だと思った。そっけない態度を取ってしまった。けれど、シュアンの訪問には、きちんと目的があったのだ。――そう思うと不思議なもので、少しだけ寂しくも感じる。
ふわりと漂う草の香に、いつものミンウェイらしさの片鱗を見出したのか、シュアンがわずかに目を細めた。
「この屋敷に来たついでに、あんたには言っておこうと思ってさ」
何気ない口調だが、いつもと雰囲気が違った。
常にどこか皮肉げで、斜に構えたような三白眼が静かな色をしていた。狂犬と呼ばれた、すさんだ空気や、ぎらついた面影がすっかり鳴りを潜めている。
「先輩の婚約者に会ってきた。……会って、先輩の身に起きたことを全部、話してきた」
「え……」
ミンウェイは絶句した。
先輩を撃ったあの日、客間を勧めても亡骸のそばを動かなかったシュアンに、ミンウェイは毛布を持っていった。そのとき、彼がぽつりと漏らした。
先輩は、もうじき結婚するはずだった。
幸せの絶頂にある先輩を、自分は殺したんだ……と。
ミンウェイの表情を読んだシュアンが、口の端を上げる。
「あんたの言いたいことは分かるさ。――自分から『殺した』と告白するなんて、馬鹿げている、だろう?」
自嘲めいた言葉なのに、ミンウェイにはシュアンが誇らしげに感じられ、戸惑う。
「緋扇さん……、いえ、そう言いたいわけでは……」
「なら、こんなところか? ――〈七つの大罪〉や〈影〉なんて話は、信じてもらえないだろう。信じたところで、先輩が帰ってくるわけじゃない。復讐心に駆られるだけかもしれない。何か危険があるかもしれない……。――つまり、『話したって、いいことなんて、ひとつもない』」
常識的に考えて、その通りだろう。
分かっているのに、何故、会いにいったのか。ミンウェイの双眸が、揺らぎながら問いかける。
「けど、あの先輩を愛した女なら、真実を求めるだろうと思った。そして先輩なら、すべて包み隠さずに、愛した女に知ってもらいたいだろうと思った。――だったら、先輩の真実は、俺が独り占めしていいものじゃない」
シュアンの視線が、ミンウェイを射抜く。彼が放つ弾丸のように、迷うことなく。
「……」
「そんな困ったような顔をするなよ。あんたをいじめている気分になる」
おどけた素振りで肩をすくめると、いつもは制帽に押し込めて誤魔化しているぼさぼさ頭が、派手に揺れた。
シュアンは、晴れやかに笑む。それは、後悔している者の顔ではない。
「婚約者の方に会って、よかったと思っているんですね」
「ああ。さすが、先輩が愛した女だと思った。……俺だって、会う前は、俺の行動がとんでもない引き金になるんじゃないかと不安だったさ。それが、一気に吹き飛んだ」
「それを聞いて、安心しました」
それで、どんな話を? という、質問を込めて口を挟んだのだが、シュアンはそれ以上、何も言わなかった。
多くを語るつもりはないのだろう。詳しく聞きたいところだが、それこそ、無遠慮に踏み込む行為だ。
ミンウェイは、ほんの少し落胆する。彼女が小さく息を漏らしたとき、ついと、シュアンがテーブルに肘を付いた。その分だけ、距離が縮まった。
「……ミンウェイ、あんたには感謝している」
唐突に、そう言われ、聞き間違いではないかと、彼女は耳を疑う。
「はっきり言って、あんたの馬鹿馬鹿しくお人好しで、鬱陶しいほどお節介で、愚かなほどに優しいところには苛立ちを覚える」
「……!?」
随分な言われようである。
普段の彼女であれば、そして目の前にいるのが、いつもの調子の彼であったら、婉曲な嫌味のひとつも言ってやらねば気がすまなかっただろう。
「けど、あのとき――俺が先輩を撃ったとき……、あんたがそばに居てくれたから、俺は救われた」
「……っ!」
「そのあとも、ハオリュウが怪我をしたときには、あんたにはいろいろ言われたし、俺も言った。……俺は、いろいろあって、他人とはすっぱり縁を切ったから、そういうのは久しぶりだった。……悪くねぇな、と思った」
その件は、確か口論みたいになって、シュアンの気分を害したのだ。……違ったのだろうか? しかも、どちらかといえば、非はミンウェイのほうにあった気がする。
「だから、先輩の婚約者に会いにいく決意ができたのも、あんたのおかげだと思っている。……感謝している。ありがとうな」
シュアンが笑った。
よく見知った、癖のある笑顔ではない。こんなふうに笑う人だったのかと驚くような、穏やかに寄り添うような笑顔だった。
「それじゃ、俺は行く。ミンウェイは、ちゃんと休めよ」
ガーデンチェアーをがたがたと鳴らし、シュアンが立ち去ろうとしたときだった。
草の香が、ざっと揺れ動いた。
出口に向かおうとしたシュアンの前を、鮮やかな緋色が遮る。緑の温室に、いきなり大輪の華が咲いたかのように。
「え?」
ミンウェイの緋色の衣服を目の前に、シュアンは戸惑う。
「あ……」
どうして彼の行く手をふさぐように立ち上がったのか、ミンウェイ自身にも分からない。
けれども、彼女の右手は中途半端に浮いていた。引き留めようとでもするかのように、彼のほうへと伸びていた。
……ひとりにしてほしくないのだと、認めざるを得なかった。
4.硝子の華の憂愁-2
硝子に囲まれた温室は、まるで世界から切り離された空間のようで、外部からは風ひとつ紛れてこなかった。ともすれば、もしも外界の時が止まったとしても、中にいる者たちは気づかないことであろう。
だから、しばらくの間、ミンウェイとシュアンが立ち尽くしたままであったことは事実だとしても、それがどのくらいの長さであったのかは誰にも分からない。
不意に……。
時間が巻き戻されたかのように、シュアンの腰が先ほどまでと同じようにガーデンチェアーに下ろされた。彼は足を組み、背もたれに寄りかかり、ふんぞり返る。
「よく考えたら、俺だけ好き勝手を言って、吹っ切れた顔をするのは不公平だな」
「え……?」
「あんたのしけた面を放置するのは薄情だ、ってことだ。……あんたさ、今、鷹刀の人間と顔を合わせたくないんだろう?」
「!」
ミンウェイの心臓が、どきりと跳ね上がった。
彼女は慌てて無表情を装うが、切れ長の目に浮かぶ動揺は、隠しきれていない。
「とりあえず、座れよ」
この温室の主はミンウェイなのに、我が物顔でシュアンが取り仕切る。
腑に落ちないながらも、ミンウェイは言われるままに腰掛けた。それを見届け、シュアンが満足そうに頷く。
「俺は、美女には嫌われたくはないんでね。すげないあんたに、本格的に煙たがられる前に帰るつもりだったんだがな……」
「緋扇さん……?」
「あんたをひとりにしておくと、碌でもないことを考えそうだ。あんたの優しさは、独りよがりで、はた迷惑だからな。問題を起こす前に、心の内を吐いてもらおうか」
ずいとテーブルに身を乗り出し、シュアンが迫る。
三白眼が鋭い眼光を放つと、中肉中背であるはずの彼が、大男にも勝るとも劣らぬ迫力をまとった。薄ら笑いを浮かべた凶相は堂に入り、ミンウェイは思わず身を固くする。
――しかし、よく考えれば、何故、彼女が脅迫まがいのことをされなければならないのだろうか。
「あの、緋扇さん? まるで尋問なんですが……」
「俺は、口を割らせるプロだぜ?」
「いえ、そういうことでは……」
「いいから、話してみろ」
あまりに偉そうな態度に、ミンウェイは初め、面食らった。けれど、だんだんと可笑しくなってくる。
彼は、不器用なのだ。まっすぐすぎて、ぽきっと折れてしまい、狂犬と呼ばれるような人間になった。――諜報担当のルイフォンがそう教えてくれた。凄く、納得できる。
そして、彼は……人の心を感じ取ることができるのだ。
ミンウェイは、ごくりと唾を呑む。
「……どうして私が、鷹刀の人間と顔を合わせたくないだろう、と思ったのですか?」
「あんたは、鷹刀に遠慮がある」
「……」
「あんたが鷹刀の屋敷に引き取られたのは、総帥位を狙った父親が返り討ちにあって殺され、残された子供のあんたを放っておくことができなかったから――だったよな?」
「……はい」
「なのに、使用人としてこき使われるのではなく、一族として温かく迎え入れられた」
ミンウェイは、こくりと頷く。
「あんたは反逆者の子供なのに、血族というだけで厚遇されたんだ。遠慮があって当然だ。――初めがそんなだから、そのままずるずると……いまだに、あんたの中には『自分は客人扱いの余所者』という意識があるのさ」
皮肉混じりの口調で、シュアンはすっぱりと言ってのけた。けれど、彼の三白眼には、嘲りの色はない。
「それでも〈蝿〉が現れるまでは、一族に尽くすことで、あんたの心は安定していた」
シュアンはテーブルに付いた肘に重心を移し、ぐっとミンウェイの顔を覗き込んだ。
そして低い声で、そっと囁く。
「今回さ、〈蝿〉の潜伏先が見つかって、あんたは安心するよりも、動揺したんだろう?」
「……!」
「所在が分からないままのほうが、漠然とした不安を抱えつつも、あんたの気持ちは楽だった。何故なら、『〈蝿〉の死』が確定しないからだ」
血の気の失せていくミンウェイに、シュアンは容赦なく畳み掛ける。
「あんた、『〈蝿〉の死を恐れる、自分自身』に気づいちまったんだな?」
ミンウェイは、ぎゅっと胸を押さえた。そうしないと、爆発しそうな心臓が飛び出していきそうだった。
「俺は、あんたはずっと父親に脅え、恨んでいるものだと思っていた。けど、違っていたな。あんたの父親に対する感情は、もっと複雑だ。……そんなこと、誰にも言えるわけがない。だから、こうして、あんたは引き籠ったわけだ」
「……随分と、横暴な憶測ですね」
感情の色の抜け落ちた、冷たい声でミンウェイは言う。
だが、険しい顔は彼女だけだ。シュアンは、どこ吹く風で、余裕の表情を見せる。
「でも、外れちゃいないだろう?」
「か、勝手なことを……!」
「勘違いするな、責めているわけじゃない。――あんたには、父親とふたりで暮らした過去がある。嫌なことばかりじゃなくて、楽しいことだって嬉しいことだってあったはずだ。そこに生まれた情を、俺は否定しないぜ?」
ふわりと、自然に。シュアンが笑った。
「過去はな、抱えていくものだ。捨てたり、忘れたりできねぇし、しちゃいけねぇのさ」
「え……?」
「だから、な。あんたが負い目に思うことは、何もないのさ」
シュアンの凶相が、ミンウェイの目に映る。相変わらずの、不健康そうな悪人面。なのに、とても穏やかに見えた。
どうしてと思い、愚かな疑問だと気づく。彼自身に傷があるからだ。だから、彼は優しくなれる……。
胸の奥が、ぐっと苦しくなった。
「な……っ、なんで、そんなふうに言えるんですか!? 私は、あなたが先輩を撃ったときに、すぐそばにいました! あなたの辛い思いを知っています! ……なのに、〈蝿〉を憎みきれていない、酷い人間です!」
「……」
「私……、〈蝿〉は、何処かに行ってしまえばいいと思っています! 二度と鷹刀に関わらないでほしい。そうすれば、鷹刀は〈蝿〉を殺さないですむ。――そんなふうに思ってしまっているんです……!」
ミンウェイは、一気に吐き出した。
こんな願いは、まるで子供の我儘だ。
思わずこぼれそうになる嗚咽を必死に押し留め、彼女は肩で息をする。長い髪が波打ち、草の香が舞う。
自分が情けなくて、恥ずかしい。シュアンに顔を見られたくない。
隠れるように頭を下げると、テーブルの上に落ちた、彼の影だけが視界に入った。斜めからの陽射しによって、彼女を抱きとめるように長く伸びている。
「すっきりしたか?」
影が動いた。
シュアンが、ゆっくりと足を組み替えたのだ。問いかけられた声は、少しだけ笑いを含んでいた。
「今の言葉が、あんたが腹に抱えていた思いだ」
そして彼は、明るい調子で「やはり俺は、口を割らせるのが上手いんだな」と続ける。
「いつだったか、先輩が言っていた。『馬鹿者には、心の奥底の思いを口にさせ、自覚させることが解決の糸口になる』ってな」
「あの……、緋扇さん? 私は馬鹿者なんですか?」
シュアンの表情を確かめたくて、ミンウェイは、思わず顔を上げる。果たして彼の口元は、楽しげに歪められていた。
「さあ?」
「っ! 緋扇さん!」
「でも、これで分かったな。あんたが望んでいるのは『穏やかな日常』だ」
「え?」
ミンウェイは、きょとんとする。
「あんたが求めていることは、〈蝿〉を逃したいとか、助けたいとか、そんな次元じゃない。『誰ひとり傷つかない世界』を望んでいる。……実に愚かで優しい、あんたらしい願いじゃないか」
すとん、と。
シュアンの言葉が、ミンウェイの胸に落ちた。
自分の思いは、許されないものだと思った。
情に流されていると、リュイセンに散々、批難されていたイーレオですら、きっぱりと『〈蝿〉の行き着く先は死』だと言い切った。それを受け入れられない自分は、裏切り者ではないかと悩んだ。
喉が、目頭が、熱くなる。
「でも、緋扇さん……、私の願いは叶うわけもない夢物語です」
「そうだな」
「…………」
……ふと。
ミンウェイの中で、今、口にした自分の言葉が、過去の記憶と重なった。
忘れていたわけではないけれど、封印していたような、そんな出来ごとを――。
「思い、出しました……。過去にも私……、叶うわけもない願いを抱きました。……そのときも、私……逃げたんです。……そして、馬鹿なことをしたんです」
人に言うべきことではないのかもしれない。
けれど、口に出すことで何かが変わるなら、今こそ口に出すべきだと思った。それを、シュアンに聞いてもらいたいと――。
「緋扇さん、私……。昔……、まだ父が生きていたころ、……自殺しようとしたんです」
「!?」
シュアンの顔から、余裕の笑みが消えた。不謹慎かもしれないが、今まで翻弄された身としては、ほんのわずかに溜飲が下がる。
「父が亡くなる一年くらい前のことです。きっかけは、本当に些細なことでした」
時が止まったような温室に、ミンウェイの声だけが静かに響く。
「私と同じ歳頃の女の子がふたり、好きな男の子の話題で盛り上がりながら、楽しそうに歩いていました。すれ違ったときに、その子たちの会話を漏れ聞いてしまいました。――たった、それだけのことです」
今から思えば、どうしてそれが引き金となったのか、理解できないくらいに小さなことだ。
「私は、私とは違う、『綺麗』な彼女たちが羨ましかった。自分と、自分の生活が醜く思えて、消してしまいたかった。そうすれば、生まれ変われると思った。だから、私は毒を飲みました」
シュアンの三白眼が、わずかに揺れた。
「本気で死にたいのなら、毒以外の方法を使うべきだったんですよね。私の体は、毒に慣らされているんですから。……私は、後遺症ひとつ残さずに助かりました。だから、あれは父に対する反抗だったのかもしれません」
そして父も、分かっていたのではないだろうか。
何故なら――。
「目覚めたとき、父が言いました。『お前など、ミンウェイではない』。そのときから、父は変わりました。私を、母と見なさなくなりました。――私なんか初めから存在しなかったかのように、研究室に籠もるようになりました」
「っ!?」
予想外の展開だったのか、シュアンがわずかに動揺する。
「そのとき初めて、私は、自分が空っぽだったと気づいたんです。……父は絶対者で、支配者で。私は父の機嫌を損ねたくないと、自分を抑え、顔色ばかり伺っていた。――そう、思っていました。だけど……」
そこでミンウェイは、両手を握りしめた。そして、精いっぱいの力を心に込め、「私――」と続ける。
「本当は……、父の、関心を引きたかっただけなのかもしれない……! 母ではなくて、私自身を見てもらうために……!」
「……」
「暗殺者になったのも、病弱だった母にはできなかったことをして、父に認めてもらいたかったからなのかも……。だって、暗殺者として〈ベラドンナ〉という名を与えられたとき、私は嬉しかった。それは、私だけの名前だから……!」
「ミンウェイ……」
シュアンは呼びかけ、押し黙る。その名で呼ばれることに、彼女が何を感じるのか、判断に迷ったからだ。
「緋扇さん、本当の私は、お人好しでもお節介でも、なんでもないんです。今の私は、私が鷹刀で生活するために作り出した、偽物の私です。本当の私は、父が喜ぶことならどんなことでもする、自分の意志を持たない父の人形です」
奏でられた声は、無色透明の硝子のように澄んでいた。それは脆く、儚く。今にも崩れ落ちそうな響きをしていた。
刹那、シュアンの三白眼が苛立ちをあらわにした。
「自分に本物も、偽物もないだろう? あんたは、あんただ。俺は、あんたの鬱陶しさに救われた。あれを偽物だなんて、思いたくない」
「緋扇さん……」
「誰も気にしてないような馬鹿馬鹿しいことを、独りよがりに、くよくよ悩むのが、あんただろう? どこが人形だ?」
軽薄にそう言って、シュアンは、せせら笑う。
突き放すようでいて、そっと手を差し伸べてくれる。
「おっと、これ以上言うと、あんたの機嫌を損ねそうだ」
ミンウェイの瞳が潤んできたのに気づいたのだろうか。彼は、唐突に立ち上がった。
――あとは、自分で考えろ。
笑いながら手を振る背中が、そう言っている気がした。
温室の出口の手前で、シュアンは、扉をふさぐように立つ男の影を見つけた。
次期総帥エルファンの次男、リュイセンである。
彼の気配は、完全に緑の中に溶け込んでおり、その姿を目前にしても存在を感じられない。しかし、シュアンを見る双眸は、物静かを装いながらも、有無を言わせぬ凄みを宿していた。
リュイセンはシュアンの姿を認めると、顎をしゃくり、早く外に出ろと合図をした――。
外に出て、温室の扉を閉めた瞬間、シュアンの肌が粟立った。
「……っ!」
リュイセンが、今まで抑えていた気を一気に解放したのだ。黄金比の美貌は威圧に包まれ、鋭い眼光がシュアンを睥睨する。
「おいおい、そんなに殺気立てることないだろう?」
軽口を叩きながらも、シュアンは、それが殺気などではないと理解していた。リュイセンは、そこに存在するだけで、覇者の風格を放っているのだ。
今までは、総帥のイーレオや、次期総帥のエルファンの影に隠れて目立たなかっただけで、こうして正面から相対してみると、確かに鷹刀一族の直系の血を感じる。――シュアンはそう思い、しかし、すぐにその考えを打ち消した。
以前、会ったときには、こんな雰囲気をしていなかった。
三白眼を眇め、シュアンは悟る。
餓鬼の成長は早い。何かのきっかけで、急に別人のようになったりもする。
――こいつの場合は、ミンウェイか……。
シュアンは、すっと口角を上げた。
実はこの温室に入るときに、シュアンは、リュイセンと顔を合わせていた。
ミンウェイを心配してのことか、彼女をひとりにするための人払いのつもりなのか。その両方だと思われるが、リュイセンは温室の前に陣取っていた。
リュイセンは、近づいてきたシュアンに、番犬よろしく『部外者が何をしに来た』と食って掛かってきた。だから、シュアンは『エルファンさんから、伝言を頼まれてきた』と適当にあしらって、道を開けさせたのだ――。
「高潔を誇りとする、鷹刀の後継者が、出歯亀とは堕ちたものだな」
シュアンの三白眼が、冷ややかに嗤った。
温室の『外』で番をしていたはずのリュイセンが、温室の『中』でシュアンを待っていたのなら、それは気配を殺して後ろからついて入ってきた、ということに他ならない。別にやましいことはないが、せっかくのミンウェイとのひとときを穢されたようで気分が悪い。
するとリュイセンは、心外だと言わんばかりに眉を吊り上げた。
「何をふざけたことを言っている? お前のような輩と、ミンウェイをふたりきりにするなど、あり得ないだろう? どんな危険があるとも分からん」
ぎろりと巡らされた視線は、シュアンを射殺さんばかりである。
シュアンは、なるほど、と思った。
この男の性格なら、盗み聞きを指摘すれば、卑怯な真似をしたと恥じ入るものと思った。だが、どうやら恋は盲目らしい。
「ほぅ。そのわりには、俺が初めに銃を出しても、何もしなかったな?」
「道化者のたわけに、いちいち目くじら立てても仕方ないだろう」
からかい混じりにシュアンが言えば、リュイセンが鼻で笑って返す。
ふたりの間を、冷たい火花が弾け飛ぶ……。
これ以上、リュイセンの顔を見ていても不愉快になるだけだと、シュアンは察した。さっと身を翻し、「じゃあな」と言い放つ。引き際を間違えないのが、大人というものだ。
その後ろ姿に、リュイセンが叫んだ。
「待てよ!」
しかし、シュアンは振り返ったりしない。そんなことをすれば、ずるずると無駄に時間を費やす羽目になる。立ち止まってやる義理などないのだ。
調子を変えず、そのまま数歩、歩いたときだった。
「――!?」
シュアンの脇を疾風が走り抜けた。殺気をまとった風がぐるりと回り込み、行く手に立ちふさがる。
反射的に後ろに飛び退ったシュアンは、無意識のうちに拳銃を手にしていた。
「話を聞け」
銃口を向けたシュアンと、屋敷内であるがために丸腰のリュイセン。
いくらリュイセンが武術に長けていても、不利は一目瞭然。なのに彼は一歩前へと、堂々と進み出た。
これで応じないのは、度量に欠けるというものだ。さすがのシュアンも、仕方ないなと肩をすくめ、拳銃をホルスターに戻す。
「緋扇シュアン。今後いっさい、ミンウェイには関わるな」
「あんたに命令される筋合いはねぇな」
敵意をむき出しにしたリュイセンを、シュアンは軽く笑い飛ばす。
「お前は何も分かっていない」
「ほぅ? 何をだ?」
「部外者が、適当に分かったふうな口をきけば、かえって彼女を傷つける。彼女の闇は、お前が思っているよりも、もっとずっと深い。彼女の心を、不用意に乱さないでもらおう」
美貌に深い皺を寄せ、リュイセンが険しい顔をする。
しかし、シュアンからすれば、理解者気取りの、ただの思い上がりにしか見えなかった。
「あんた、盗み聞きしていたなら、知ってんだろ? ミンウェイは俺に過去の話をした。あの口ぶりからすると、今まで鷹刀の誰にも言っていなかったことを、だ」
「……っ!」
「俺が部外者だからこそ、傍から見ていて、明らかなんだよ。――ミンウェイは鷹刀に遠慮している。そんなことも分からずに、何を偉そうに言っている?」
リュイセンは、ぎりりと奥歯を噛んだ。
「ああ、そうだよ。ミンウェイは遠慮している。……だがそれは、ヘイシャオ叔父のせいだ。鷹刀のせいではない」
「ふぅん?」
「そうだな、お前の言うことも一理あると認めよう。……ならば、ミンウェイが遠慮なんかする必要がないことを、示してやればいいだけだ」
リュイセンは、唐突に踵を返した。そして、そのまま振り返ることもなく去っていく。
残されたシュアンは、しばらく胡乱な目で見送っていたが、やがて馬鹿馬鹿しくなり、彼もまた帰路についた。
5.分水嶺の流路-1
そこは、海を臨む小さな丘だった。
遥か彼方には、真っ青な水平線が広がっている。蒼天と海原との空気を吸い込み、胸いっぱいの潮の香にむせ込めば、裏手にそびえる山々が、そっと背中をさすってくれるかのように枝葉を揺らす。
緩やかに繰り返される波音に抱かれ、まるで時間が止まったように穏やかな空間。
そこに、ふたつの墓標が寄り添うように並んでいた。
「リュイセン……」
ミンウェイは呟く。
説明もなしに、リュイセンに車に乗せられた。道の途中で、もしやと思ったら、その通りだった。
「いいところだな」
「……」
リュイセンの言葉に、ミンウェイは何も答えられなかった。強い潮風が、長い髪をなぶるのもそのままに、押し黙る。
彼は特に返事を期待していたわけではないようで、瞬きすらできずにいる彼女に代わり、ゆっくりと墓標に近づいていった。
普段、人の立ち寄らない場所であるためか、あたりには雑草がはびこっている。それでも、どことなく小ざっぱりしているように見えるのは、たまに誰かが手入れをしてくれているからだろう。
「花でも持ってくりゃよかったか」
周りに咲く野の花を見ながら、リュイセンがひとりごちた。
「どうして、ここを……?」
知っているのか――。
ミンウェイの問いかけに、リュイセンが振り返った。肩までの黒髪を潮風に翻し、こともなげに答える。
「母上に訊いてきた」
「ユイラン伯母様に……!?」
リュイセン母子は『互いに不干渉』を暗黙の了解としていたはずだ。特に、彼が大きくなってからは、挨拶以外の口をきくこともなかったように思う。
それが、どうしたのだろう。
転機となったのは、間違いなく、実兄レイウェンの家へ、倭国土産を持っていったときだ。あの日、彼は変わったのだ。
「この土地の所有者はミンウェイだけど、ミンウェイの気持ちを考えて、ずっと母上が管理していたんだってな」
「ええ、そう……。ここは――私のお父様とお母様のお墓なのに、私が来たのは二回だけ。今日で三回目ね」
記憶に残らないほどに小さなころなら、もう少し来たのかもしれない。けれど、ミンウェイが覚えているのは、たった二回。
「一度目は、私が文字を覚え始めたころ。お父様が連れてきてくださったわ。……お父様は膝を付いて、静かに泣いていた」
リュイセンは眉をひそめた。ミンウェイを苦しめたヘイシャオが、血の通った人間のような態度を取ったことが意外であり、不快だったのだ。
「『大丈夫?』って訊いたら、お父様は物凄い剣幕で怒って……とても怖かったことを覚えているわ。――今なら、あれは照れ隠しみたいなものだったんじゃないかな、って思えるけどね」
そう言って、ミンウェイは小さく笑ったが、「子供に当たるなんて、最低だろ」と、リュイセンが鼻に皺を寄せる。
「そうね……」
父の気持ちは、ミンウェイには分からない。ただ、父が彼女を墓参に連れてきたのは、その一度きりだという事実があるだけだ。
ミンウェイは、急に引き寄せられるように歩き出した。墓前にしゃがみ、ふたつ並んでいるうちの、より古い墓石に手を伸ばす。
――『ミンウェイ』
石に刻まれた文字を、ミンウェイは指でなぞった。風雨に晒され、だいぶ角が落ちていたが、それでもきちんと読み取ることができた。
幼き日にも……。
彼女はこの文字を読み取った。
まだ、すべての文字を覚えきっていなかった彼女でも、これらの文字は知っていた。それは、一番初めに覚えた文字の並びであり、自分の名前であったから――。
「あのとき初めて、私はお母様から名前を貰ったのだと知ったわ。いいえ、お母様がくれたのは名前だけじゃない。この命も――。お母様は、私を産んだことで亡くなったのだと理解した。だから、私はお母様の代わりをすべきだと思った」
リュイセンは、ふざけるな、という言葉を飲み込んだ。
彼女にそう思い込ませた相手――怒りを向けるべき相手は、この墓の下で眠っており、彼にはどうすることもできないのだから。
「私、頑張ってお母様になろうとした……」
ミンウェイは、昔を思い返す。
病弱だった母にはできなかったことをして、母が夢見た人生を代わりに生きようとした。
「でもね、やっぱり辛かった……」
彼女は唇を噛み、顔を伏せる。
「ミンウェイ」
ふわりと空気が揺れ、リュイセンが隣にしゃがみ込んだ。優しく慰めるように、そっとミンウェイの背に腕を回す。
彼女はびくりと体を震わせ、彼の手が肩に触れる直前に慌てたように立ち上がった。
「ごめんね、こんな話をして。――今の私は、あのころとは違うから。心配いらないわよ?」
綺麗に紅の引かれた唇を滑らかな弓形に吊り上げ、ミンウェイは微笑んだ。けれど、凪いだ笑みは諦観に酷似しており……リュイセンは反射的に尖った声を発した。
「無理するなよ!」
彼女を追いかけるようにして、リュイセンも立ち上がる。勢いのまま、彼女を抱き寄せようと手を伸ばす。
――が。その途中で、彼は彼女の瞳の奥に脅えを見た。
「すまん……」
気まずさに、視線をそらす。それでも懸命に「けどな……」と、彼は言を継いだ。
「〈蝿〉が現れてから、俺にはミンウェイが無理して笑っているようにしか見えない……」
「……そうかもしれないわね」
ミンウェイは、無理をあえて否定しなかった。けれど、先ほどまでの凪いだ笑みを、茶目っ気たっぷりのいたずらな表情に差し替えた。
「でもね、私は鷹刀に来て変わったの。それは本当よ? ユイラン伯母様が、私を変身させてくれたの」
「変身?」
「昔の私は、常におどおどと脅えている、卑屈な泣き虫だった。だから伯母様は、自信に満ちた、華のある素敵な女性になりなさいと言って、鮮やかな緋色の服を着せてくれたの。嫌でも目立っちゃうような、派手なやつをね」
ミンウェイは、くすくすと笑う。
少女服を作るのが趣味だったユイランには息子しかおらず、娘も同然のシャンリーはお世辞にも女の子らしいとは言えなかった。だからユイランは、突然現れた姪を着飾らせたくてたまらなかったのだ、という事実があるのもミンウェイは知っている。
けれど今、彼女が自ら選んで着ている服は、綺麗な緋色をしている。その色は、もはや彼女を象徴する色となっていた。
「それから、この髪も――。こっちは、伯母様が親しくしていた美容師さんがやってくれたんだっけ?」
誇示するかのように、ミンウェイが長い髪を首筋から掻き上げると、強い潮の香を押しのけ、ふわりと草の香りが広がった。彼女の本来の髪は、リュイセンと同じくまっすぐに地に流れるもの。それが、軽やかに波打っている。
「うつむいているのが似合わないような姿に変身させられちゃって、伯母様とシャンリーが入れ代わり立ち代わり世話を焼いてくださって……そしたら、いつの間にか、私は逞しくなったわ」
それは、鷹刀一族の中で生活するために作られた、偽物の自分だと思っていた。けれど先日、シュアンが『本物も偽物もない』と言ってくれた。『あんたは、あんただ』と。
だからミンウェイは、今の自分を誇りに思う。今の自分を作ってくれた人たちに、感謝してもしきれない。
「……おかげで、俺は長いこと、ミンウェイは義姉上と同じ乱暴者だと信じていたんだぞ」
「あら、シャンリーは強いけど、優しいわよ?」
「優しくても、義姉上が俺に容赦ないことは変わらないだろ」
「それはリュイセンに期待しているからでしょう?」
大きな図体をして、いまだにシャンリーを恐れる彼を、ミンウェイは可笑しく思う。
母親と不仲だったことに加え、姉貴分のシャンリーには歯が立たず、異母姉のセレイエには碌な目に遭わされなかったリュイセンは、年上の女性に苦手意識があるのだ。
……けれど。
初めて会ったときには、つむじすら見下ろすことのできた小さな従弟が、今は逆にミンウェイを見下ろしている。リュイセンにとって、自分が庇護の対象に変わったことを、彼女は知っている。
心臓が、ちくりと痛んだ……。
崖下で繰り返される波音が、ふたりの間を寄せては引いていく。
ミンウェイは音に身を任せる。このまま永遠に、穏やかな波間を漂っていたいと思う。
けれどリュイセンは、流れをせき止めた。「ミンウェイ」と彼女の名を呼んだ。
「ミンウェイが二回目にここに来たのは、ヘイシャオ叔父の骨を納めに来たときだよな?」
「ええ」
葬儀はなかった。鷹刀一族に刃を向けた人間だから、当然だ。
けれど、妻のそばで眠りたいという、ヘイシャオの最期の願いは叶えられた。エルファンとユイランがここに墓を建て、骨壷を抱いたミンウェイを連れてきた。
――それが、どうしたというのだろう?
「ミンウェイは、叔父上の死を……その目で見ている」
真剣な面持ちのリュイセンに、ミンウェイは胸騒ぎを覚える。
「ミンウェイは、その手で遺骨をこの墓に納めた。――だから、ミンウェイの父親のヘイシャオは、もはやこの世に存在しない人間だ」
「ええ。……そう、よ?」
「なら、鷹刀の周りをうろついている〈蝿〉は叔父上ではない。何者かが作り出した泥人形だって、理解できているよな?」
リュイセンは、黄金比の美貌でミンウェイを覗き込んだ。
その双眸は、しっかりと彼女を捕らえている。――彼の手はかわせても、彼の瞳からは逃げられないことを、彼女はそのとき初めて悟った。
「ミンウェイ」
魅惑の低音が、彼女を絡め取る。
「いつまで、叔父上に囚われているつもりだ?」
「囚われてなんかいないわ。変なことを言わないでよ」
ミンウェイは華やかに笑う。軽やかに、虚勢を張って。
「じゃあ、言い方を変えよう」
リュイセンは間合いを詰めたりはしない。ミンウェイだって、一歩も動いていない。けれど彼女は、自分が見えない壁に追い詰められていくような気がしてならなかった。
「ミンウェイは、俺の父上――ミンウェイの伯父である『エルファン』を『男として』好きだろう?」
「な……、何を言っているの? 随分と、伯父様にも私にも失礼なことを言うわね!?」
彼女は頬を膨らませ、眦を吊り上げる。けれど、リュイセンは動じない。
「ああ、そうだな。確かに失礼だ。ミンウェイの気持ちは純粋な恋愛感情じゃなくて、叔父上とそっくりな父上に、面影を重ねただけだからな」
「え? 何を言って……?」
不快なことを言われた。不愉快だ。
そう思ったのに、何故かミンウェイの口元からは、変な笑いが漏れた。
「ミンウェイは、自分で気づいていないかもしれない。けど、俺の目には明らかだ」
普段のリュイセンは、ぞんざいな口をきくようでいて、どこか彼女には言葉が柔らかい。けれど今は、隠しきれない苛立ちで、責め立てているように聞こえた。
……なのに。
彼は、深く傷ついた顔をしている。
「だから、なんのことよ?」
心地の悪い思いを振り払うように、彼女は語調を強めて尋ねた。
「ミンウェイは、本当は……、……実の父であるヘイシャオ叔父を愛していたんだ」
崖の下で、ざばぁんと。
ひときわ大きな波が打ち寄せ、白い水しぶきを上げた――。
5.分水嶺の流路-2
――ミンウェイは、実の父であるヘイシャオ叔父を愛していたんだ。
ミンウェイの耳の奥で、リュイセンの声が木霊する。
「なっ……!」
あまりの言葉に、ミンウェイはとっさに声が出なかった。
大きく吸い込んだ息が全身を巡るほどに時が過ぎたあと、彼女はやっと唇をわななかせ、拳を震わせた。
「変なことを言わないで! 私はっ、私はお父様に酷い目にっ……!」
あらん限りの声を張り上げ、ミンウェイは叫んだ。
その、つもりだった。けれど、ひび割れた声は、いとも簡単に波音に掻き消される。
たぎるような怒りが湧き上がっているのに、身が凍るような怖気を覚える。握りしめた掌は真っ白になっているが、それは憤りのあまりに強く握りすぎた結果なのか、血の気が消え失せたからなのかも判別できない。
そんなミンウェイを見つめながらも、リュイセンは言葉を止めることなく、「ああ、そうだ」と頷いた。
「あの悪魔は、ミンウェイを虐待していた」
地の底から轟くような低音が、音としてではなく、振動としてミンウェイに伝わってくる。それは、冷静な口調からは感じ取れない、リュイセンの深い憎悪だった。
「奴にとっては、それが『愛』で、自分が盲目的にミンウェイを『愛』する代わりに、ミンウェイにも自分以外を見ることを許さなかった。――物心つく前からそんな環境に置かれれば、ミンウェイにとって叔父上が世界の中心で、世界のすべてにもなるだろう」
淡々と話すリュイセンに、ミンウェイは本能的な恐怖を覚え、思わず自分の体を掻き抱く。
「憎しみも恨みも恐れも、裏を返せば相手に強く寄せる思いに変わりない。ミンウェイの中にあったものが負の感情だったとしても、ミンウェイは叔父上しか見ていなかった」
波音が遠のいていく。
リュイセンの声だけが、響き渡る。
「そして、いくらあの叔父上だって、ミンウェイに辛く当たるばかりじゃなかったはずだ。奴はミンウェイを『愛』していた。優しい瞬間もあっただろう。――そんなとき、ミンウェイは嬉しかったはずだ。何しろ奴は、ミンウェイの世界の中心なんだから……」
ミンウェイは、心臓を握りつぶされたような感覚を覚えた。
辛くて、苦しくて、悲しくて。そんな灰色の世界にいても、確かに笑った日もあった。笑いかけてもらった時があった――。
「やめて!」
艶のあるはずの美声が裏返り、血を吐くように叫ぶ。
髪を振り乱して首を振るミンウェイに、リュイセンは唇を噛んだ。しかし、口調を変えず、「頼むから、聞いてくれ」と静かに告げる。
「ミンウェイの世界には叔父上が必要だった。……だから、叔父上を亡くしたあと、ミンウェイはそっくりな父上に面影を重ねた」
「だから? それがなんだというの? 確かに、お父様とエルファン伯父様はよく似てらっしゃるわ。おふたりとも、鷹刀の濃い血を引いているんだもの。当然でしょう?」
「……もしも、ミンウェイが叔父上から恐怖しか感じていなかったら、そっくりな父上にも脅えたはずなんだよ……」
憤慨した様子のミンウェイに、リュイセンは肩を落とす。その拍子に黒髪がさらさらと頬に掛かり、彼は鬱陶しげに払いのけた。
「……悪いな。俺は、ルイフォンみたいに頭が良くない。言葉でうまく説明するのは、無理みたいだ」
リュイセンは溜め息をつくと、きゅっと口元を結んで顔を上げる。為すべきことを、まっすぐに見据える目で、彼はミンウェイを捕らえた。
「俺は理屈をこね、策を巡らせる人間じゃない。自分の感覚を信じ、行動する人間だ。だから、こう言わせてもらう」
「な、何を……?」
敵意をむき出しにした切れ長の目で、彼女は痛々しいほどに必死に虚勢を張る。
「俺は何年もミンウェイを見続けてきた。俺の直感は絶対に間違えない。――ミンウェイは父上のことが好きだ」
「……」
「でもそれは、父上の後ろに叔父上を見ているからだ。ミンウェイの心は、いまだに死んだ叔父上にある――!」
低く冷たい言葉の刃が、ミンウェイを斬り裂く。
――けれど、その刃は両刃だった。同時にリュイセン自身の心をも、深くえぐっていた。
「ち、……違う! 私は、お父様なんか大嫌いだったわ!」
リュイセンの眼差しが切なげで、泣いているように見えた。ミンウェイの心が、ずきりと痛む。けれど彼女は、全身を震わせてその痛みを振り払う。
「リュイセンの言う通り、私はエルファン伯父様が好きよ。だって私をお父様から解放してくださったんだもの。――けど、それは恩人として。私は、ユイラン伯母様のことも大好きなんだから、変な話をしないでちょうだい!」
叩きつけるような、ミンウェイの声。
リュイセンが、ひるむ。まるで、本当に平手打ちをくらったみたいに……。
「……すまん」
深く頭を下げ、彼はそれだけ言った。そして、ミンウェイの視界から消えるように、しゃがみ込む。
拍子抜けした彼女が首をかしげると、彼の横顔が墓標と向き合っているのが見えた。
彼は手を合わせるでなく、ただ瞳いっぱいに墓石を映していた。――正確には、そこに刻まれたミンウェイの父、ヘイシャオの名前を。
潮風が吹き上がり、リュイセンの肩の上で黒髪が舞う。波打つミンウェイの髪も、華やかに踊る。
「リュイセン……」
呼びかけた声は、風に溶けた。
ミンウェイは、リュイセンの隣にしゃがむ。
風が邪魔して会話が通りにくいから――というのは詭弁で、彼の寂しげな背中に罪悪感を覚えたからだ。その証拠に、彼を間近にしても、言うべき言葉が浮かばない。
午後になったからか、だいぶ波が立ってきたようだ。穏やかな海も、少しずつ様相を変えていく。
「なぁ……、ミンウェイ……――……?」
波音が崖を打ち、髪に潮風が吹きつけた。
「え……? 今、なんて……?」
本当は、ミンウェイの耳には聞こえていた。ただ、その意味が分からなかっただけだ。
「だから……、俺じゃ駄目か?」
「っ!」
聞き返してはいけなかった。
そのまま、何も聞こえなかったふりをすべきだった。愚かなことをしてしまった。――ミンウェイは後悔するが、もう遅い。
吐息の掛かる距離で、リュイセンはミンウェイを見つめている。逃げ場は、ない。
「リュイセン……」
途方に暮れたように、彼女は彼の名を呟く。
「ミンウェイが、誰を愛していてもいい。俺は、誰かの身代わりでいい。けど俺は、今のミンウェイをひとりにしておきたくない」
「私は平気……」
ミンウェイは反射的に声を漏らすが、それは畳み掛けるようなリュイセンの言葉に打ち消された。
「今のミンウェイは凄く不安定だ。ふらふらと何処かに行ってしまいそうだ。――そんなの、俺は嫌だ。ミンウェイが居るべきところは、鷹刀だ」
「私が〈蝿〉のところに行ってしまうと思っているの?」
「……鷹刀から、出ていくことを危惧している」
それは決して認めないと、威圧すら感じる声で、リュイセンは、はっきりと告げた。
「だから、俺はミンウェイが何処にも行かないように縛りたい」
「縛る……?」
想像もしていなかった不穏な言葉に、ミンウェイは眉を寄せる。しかしリュイセンは、彼女のあからさまな警戒の表情にも構わず、「ああ」と頷いた。
そして、『神速の双刀使い』の異名にふさわしい鋭い眼差しをもって、ミンウェイの心に斬り込む――。
「ミンウェイ。俺と結婚しよう」
ミンウェイの頭の中は、真っ白になった。
蒼天に浮かぶ雲を見ているのか、崖を打つ波濤の水しぶきを見ているのか……。
――そんな下手な言いわけのようなことを思いつくほどに、心が逃避した。
「今更、驚くことでもないだろう?」
リュイセンは切なげでありながらも、優しい微笑みを浮かべる。
「俺がミンウェイを好きなことなんて、一族中が知っている。それに、鷹刀は血族婚を繰り返してきた一族だ。いずれ総帥を継ぐ俺にふさわしい相手は、ミンウェイしかいないと誰もが思っている。おかしなことじゃない」
リュイセンの言っていることは、間違いではない。
一族の者たちは、慣例として直系は血族婚をするものと思い込んでいる。本来の後継者だったレイウェンが一族を抜けたのは、血族ではないシャンリーを選んだからだ、と信じている者すらいる。
けれど本当は、鷹刀一族が〈七つの大罪〉と決別した今となっては、もはや濃い血に用はない。むしろ逆で、血を煮詰めすぎて子供の生まれなくなった一族は、その血を薄めていかなければ滅んでしまうのだ。
「だ、駄目よ。私とあなたじゃ、跡継ぎができないわ。あなたは総帥になるんだから、それは困るでしょう?」
とてもよい口実があったと、ミンウェイは安堵の息を漏らした。
しかし、リュイセンはその反論を予測していた。――そうとしか思えないくらいの絶妙なタイミングで、言葉を返した。
「俺に後継者は必要ない。かえって邪魔なだけだ」
「どういうこと……?」
彼女は瞳を瞬かせる。
「祖父上は、俺と父上を倭国に行かせただろう? あれは外の世界を見てこい、という意味だった。他国と比べ、我が国が如何に遅れているか、身をもって実感してこい、とな」
「え……?」
「『凶賊は時代遅れの存在だ』――旅先で父上はそう言った。それから、祖父上は鷹刀を解散するつもりでいるのだと、教えられた。急激な変化は望まず、ゆっくりと。父上か俺か、その次の代には、と」
寝耳に水、だった。ミンウェイは、信じられないものを見る目でリュイセンを凝視する。だが彼は、いたって冷静だった。
「最初は俺も混乱した。俺はなんのために今まで生きてきたのか、とすら思った。――でも、帰国直後に巻き込まれた事件によって、考えが変わった」
リュイセンは、とても静かに、穏やかに告げる。
「あの事件で一番強かったのは、ルイフォンだ」
一般人と比べれば、ルイフォンは決して弱くはないが、凶賊としてはお話にならない。
けれどルイフォンは、たったひとりで斑目一族を壊滅状態に陥れた。そして、自分とメイシアの自由を手に入れるために、総帥イーレオに対し、親子の情に頼らず、それどころか半ば脅迫しながら対等な交渉に持ち込んだ。
「凶賊なんて、弱くて未来のない存在だ。祖父上や父上が言うことは正しい、と俺は思った」
リュイセンは、ふっと空を仰いだ。
広く、高く。どこまでも蒼天は続いている。
彼は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。緩やかに肩が落ち、何も気負わない、ごく自然な顔をミンウェイに向けた。
「俺は、鷹刀という場所が好きだ。一族の者たちが大切だ。――だから、彼らに未来を与えたい」
それから少し、困ったように笑う。
「簡単なことじゃないんだ。今まで凶賊として生きていた者たちを、一般人の世界に送り出すってのは……。兄上にも聞いたし、父上や祖父上とも話した」
「え……?」
ミンウェイは耳を疑った。
リュイセンが一族を憂い、具体的に動き出すなんて考えたこともなかった。兄のレイウェンが抜けたあとに繰り上げられた、名ばかりの後継者だと思っていた。
「時間が掛かると思う。下手に急いで鷹刀を弱体化させれば、そこを付け狙う輩に喰われる。……古い者たちは、鷹刀の加護から離れたくはないだろう。彼らは亡くなるまで今のままでいいと思う。ずっと鷹刀を支えてきてくれた大切な者たちだ」
リュイセンの目は、ミンウェイへと向けられていた。けれど彼女には、自分の後ろに広がる、遠く遥かな水平線を見ているように感じられた。
「――古い時代を知らない俺が、幕を下ろす」
黄金比の美貌が、煌めく。
「俺が、最後の総帥になる」
魅惑の低音が、響き渡る。
……初めて会ったときは小さな男の子だった。無邪気な笑顔がミンウェイには羨ましく、眩しかった。
彼は覚えていないだろうけれど、卑屈な少女だったミンウェイは『子供って、悩みがなくていいわね』と、なじったことがある。
そしたら彼は大真面目な顔をして、『修行』と言って姉貴分のシャンリーがおやつを取るのだと、悩みを打ち明けてくれた。それすらも、兄のレイウェンに泣きつくことで解決していたのだけれど――。
「……リュイセン――」
あの小さな男の子は、もういない……。
ミンウェイの心臓が痛む。胸が苦しくなる。
「な? 俺には後継者がいないほうが好都合だろう? 跡継ぎがいたら、一族を存続させたがる者が出てくるだろうからな」
「……っ」
「だから、ミンウェイ。俺と結婚しよう」
なんでもないことのように、リュイセンが言う。
差し伸ばされた手が温かいことを、ミンウェイは知っている。
「私はあなたよりずっと年上よ。……もっと歳の近い可愛い子のほうが、あなたにはお似合いだわ」
「俺の母上も、父上より十以上、年上だ」
「……」
「いいんだよ、ミンウェイ」
リュイセンが穏やかに、くすりと笑った。それは兄のレイウェンに少し似ており、けれどエルファンにも、イーレオにも、そしてミンウェイの父、ヘイシャオにも似ていた。
「ミンウェイが俺を恋愛対象として見られないのは承知している。父上と母上もそうだ。でも、互いに尊敬しあっている。そういうのでいい」
心地のよい声が、ふわりとミンウェイを包み込む。
「俺に必要なパートナーは、俺と同じように一族を愛している人間だ」
「リュイセン……」
「結婚というのは名目で構わない。……だから、俺を鷹刀最後の総帥にするために、俺を助けてくれないか」
そして低く、低く――。
海底の深くに沈み込ませるように、波打ち際からは見えないように――ミンウェイには聞こえないように……リュイセンは想いを潮騒に溶け込ませる。
「――ミンウェイ、愛している」
~ 第三章 了 ~
幕間 白詰草の花冠
爽やかな陽気に包まれた世界を春風が渡る。
一面に広がる白詰草が波打つようになびき、草原は緑と白の海原になる。
私は、少し湿った草の中にしゃがみ込み、白詰草の花を一心に摘んでいた。できるだけ綺麗な、花がしっかりしているものを選び、長めに茎を手折って籠に入れていく。
このくらいあれば、足りるだろうか。
籠の半分ほどを埋め尽くす花を見て、私は満足する。
心持ちスキップのような足取りで、敷物のところに戻った。重石代わりの水筒と、お菓子の入った鞄をどかし、私が座る。
そして、籠の白詰草を取り出しては、結わいつけることを繰り返す。草の香りに指先を染めながら、白い花を少しずつ編んでいく。
ほんの少し、お日様が傾いてきたころだろうか。
――できた!
初めて、最後に留めるところで失敗しなかった。ぐるりと輪っかになった白詰草を、私はそっと自分の頭に載せる。
白詰草の花冠だ。
少し小さいかも、と思ったけれど、子供の私にぴったりだった。
ちょうどそのとき、ぱたぱたという足音が近づいてきた。
「ミンウェイ! ミンウェイ! 見て見て! 見つけたよ!」
走りながら叫ぶ声が、どんどん近づいてくる。あっという間に私の前に現れた彼は、走ってきたからか、あるいは興奮のためか、真っ赤な顔をしていた。
「見つけた! 四つ葉! 四つ葉のクローバー!」
途中で落としたりしないよう、彼はそれを大切に両手で包んで持ってきた。そして、宝物を見せるかのように、そっと私の前で開く。
「……わぁ……」
凄い、素敵。
そう思うのだけれど、私はお父様以外の人と喋るのが苦手で、上手く言えない。でも、彼はちっとも気にせずに「凄いだろ!」と自慢げに胸を張った。
「あ! ミンウェイ! 花かんむりできたんだ! 凄いね!」
私が何も言わなくても、彼は気づいてくれる。同じ五歳なのに、彼と私は、全然違う。
「ミンウェイ、綺麗だよ! 白い花と、ミンウェイのまっすぐな黒髪がよく似合っている!」
「え……」
「俺、初めてミンウェイを見つけたとき、花の妖精かと思った。でも今は、もっと綺麗だ。花の女王様だ!」
あまりの褒め言葉に、私は真っ赤になってうつむく。
一週間前に出会ったときから、彼はこうだった。人懐っこくて、すぐに友達になろうと言ってきた。そして、私のことを何故か凄く褒めてくれた。
「ミンウェイ」
彼は私の手を取り、私の掌に四つ葉を載せた。
「え?」
「プレゼント。四つ葉の花言葉は『幸運』なんだろ?」
「う、うん……」
花言葉は私が教えた。私が何も言わなくても彼はひとりで楽しそうに喋っていたけれど、それも何か申し訳なくて、頑張って自分から話した内容がそれだった。
「ミンウェイに四つ葉をあげたくて、一生懸命探したんだ。だから、受け取って!」
彼は私に四つ葉を押し付け、ぱっと離れた。それから急にかしこまり、絵本の中の王子様のように片膝を付く。
「俺、四つ葉を見つけたら、絶対、言うって決めていた」
「?」
低い位置から、まっすぐな視線が飛んでくる。怖いくらいに真剣な顔で、彼は私を見つめる。
「ミンウェイ、俺と結婚して」
「えっ!?」
「一目惚れだよ。出会った瞬間、運命だと思った」
「……っ」
「ミンウェイに花言葉を教えてもらって、面白いと思って、自分でもいろいろ調べた。そしたら、四つ葉の花言葉って、ひとつだけじゃなくて他にもあったんだ。ミンウェイにも教えてあげる」
「!」
私は、それも知っていた。
けれど、口にするのが恥ずかしくて言えなかったのだ。
「『私のものになって』だって。それを知ったとき、やっぱり運命だと思った! ねぇ、ミンウェイ、俺と結婚して。俺のものになって! 俺、絶対、ミンウェイを幸せにする!」
彼は、まったく照れることなく、きらきらとした目で私を見る。嬉しくてたまらないといった表情で、期待に満ちた顔で、私を見つめる。
「…………」
どうしたらいいのか、分からなかった。
こんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。
「駄目……?」
返事をしない私に、いつも元気な彼の声が力なくかすれる。打ちひしがれ、しぼんでいく彼の顔に、私は心が苦しくなる。
「私とあなたは、違う……もの」
やっとそれだけ言えた。
すると、彼はぱっと立ち上がり、私にぐぐっと迫る。
「俺が貴族だから!? 関係ないよ! だって俺、愛人の子だし。母さん、平民だし」
でも、彼は貴族の跡取りだ。
彼は、とある貴族の当主がメイドに産ませた子供で、正妻との間に男子がいなかったため、つい数ヶ月前、正式に貴族の家に迎えられたのだ。
このあたりは貴族や裕福な商人たちの別荘地で、彼はそんな別荘のひとつで教育係たちと暮らしている。就学年齢になる前に、なんとか体裁を整えようと、付け焼き刃の礼儀作法を叩き込まれているらしい。
そんな窮屈な生活の中、気分転換にと別荘を抜け出したとき、彼は私を見つけた。以来、勉学に励むことを条件に、彼は午後の自由時間を手に入れた。――彼を不憫に思った教育係たちが、こっそり彼を甘やかしてくれたのである。
「俺の婚約者だという女に会った。俺より五歳も年上の、高慢な女だった。俺のことを子供だと見下していた! 俺の運命は、あんな奴じゃない!」
「……」
「俺は、俺の父親みたいな最低な男にはならない。俺には、ミンウェイだけだ! 俺は大きくなったら貴族の家を出る」
「……」
「そして、ミンウェイのお父さんみたいな大商人になって、必ずミンウェイを迎えに行く!」
このとき、お父様は近くの別荘を借りていて、私は商人の娘ということになっていた。
「ねぇ、ミンウェイ……。俺のこと、嫌い?」
すがるような目で、彼が私を見る。
「……嫌いじゃ、ない」
それは本心だ。彼のことは嫌いではない。凄いと思う。――私とは、違う世界の人だと思う。
「じゃあ、貴族が嫌い?」
私は、こくりと頷いた。
「……貴族は嫌い。……だいっきらい……」
貴族は、自分の利益のために、他人を犠牲にすることを厭わない。最低な生き物だ。
――でも、私はもっと、最低だ……。
私は唇を噛み、うつむいた。
なのに、彼は笑った。嬉しそうに笑った。
「それなら、俺が貴族をやめて商人になれば、ミンウェイは俺と結婚できるね! 待っていて、必ず迎えに行く。誓うよ!」
そして彼は、驚いている私が身動きを取れないうちに、私の唇に口づけた。
あっという間の出来ごとだった。
「約束するよ!」
そう言って、彼は私を抱きしめた。
別れ際、初めて上手く作れた白詰草の花冠を、私はそっと彼の頭に載せた。
彼に渡すのにふさわしいのか迷ったけれど、それしか渡せるものがなかったのだ。
白詰草の花言葉は、四つ葉と同じく『幸運』。
それから、『約束』『私を思って』。
そして……。
それが、彼と会った最後だった。
次の日、私はお父様に連れられて、別の街に引っ越した。
その後、彼が私を迎えに来ることはなかった。
彼は、死んだからだ。
医師の診断では、心臓に先天的な疾患があったとのことだった。為す術もなく、あれから間もなく亡くなったという。
苦しんで、死んだはずだ。
苦しんで、苦しんで、死んだはずだ……。
だって私が、お菓子に混ぜて、心臓の壁を溶かす毒を飲ませたのだから。
「ミンウェイ、何を泣いているんだい?」
お父様が私の頭を撫で、抱きしめてくださった。
「あの貴族の男の子のことかい? お前は本当によくやってくれた。私は薬を作れても、彼に飲ませることはできなかったからね」
薬ではなくて、毒だ。
お父様は商人などではなく、本当は凄いお医者様で、研究者。
そして――暗殺者だ。
貴族お抱えの医師に、誤った診断をさせるほどの……。
「君が悲しむことはないんだよ、ミンウェイ。仕方ないんだ、自然の摂理なんだから。強いものが生き残る。か弱い『非捕食者』は、『捕食者』に喰われる運命なんだ」
分かっている。
前にも、お父様は教えてくださったから。
「今回は、あの男の子が『非捕食者』。そして、彼の父親の正妻が『捕食者』だったというだけだよ」
娘しか産めなかった正妻は、愛人の子供である彼に、すべてを奪われそうになった。だから、暗殺を依頼した。
彼を邪魔に思った正妻が、彼の排除に出ることくらい予測できたであろうに、彼の側は充分な警戒を怠った。だから、喰われた。
それだけのことだ。
頭では理解している。けれど、私の頬を涙が伝った。
彼を殺したのは、私だ。
私が白詰草の花冠に願った、彼に毒が効かないという『幸運』は訪れず、彼の『約束』は守られなかった。
でも、たぶん。彼はずっと『私を思って』くれていたと思う。――死の直前の瞬間まで。
――そんなこと、しなくていいのに!
私は、しゃくりあげ、お父様の胸にすがる。
「ミンウェイ、泣かないでおくれ。君の可愛い顔が台無しだ。私まで悲しくなるよ」
そう言われて、私はどきりとした。
お父様を悲しませるのは嫌だ。
私が生まれたとき、お父様はたくさんたくさん泣いたと思う。お母様のお墓参りのときに、私には分かってしまった。
だから私は、お母様の代わりに、お父様を喜ばせるのだ。
お父様が望むことを、なんでもしてあげるのだ……。
私は、お父様から〈ベラドンナ〉という名前をいただいた。
私の名前だ。私だけの名前だ。
嬉しかった。凄く嬉しかった。
ベラドンナは、可愛らしい紫色の花を咲かせ、毒性を持つ黒紫色の実をつける植物。
イタリア語で、『美しい貴婦人』。
でも、それより、『運命を断ち切る女神』という意味の学名を持つことが、私にぴったりだと思った。
白詰草の花冠は、私には似合わない。
彼のくれた四つ葉は、押し花にして栞にした。そして、姫と王子が出てくる、大好きだった絵本に挟んで封印する。
『幸運』の四つ葉と白詰草の花。
四つ葉は、『私のものになって』。
白詰草の花冠は、『私を思って』。
交わした『約束』は、永遠の愛であったはず――。
それが裏切られたとき、四つ葉と白詰草の花が共に持つ、最後の花言葉に変わる。
――『復讐』
私はきっと、白詰草の呪いを受ける。
そうでなければ、許されない。
『幸運』を殺した私は、決して幸せになってはいけないのだから……。
幕間 不可逆の真理
『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』
ローヤン先輩はそう言って、俺の肩に手を載せた。
……その手の重さを心に刻み、俺は今、生きている。
自分でも、馬鹿なことをしていると思っている。
少し前の俺だったら、絶対に考えられなかった。
これは、鬱陶しいまでのお節介。余計なお世話というやつだ。
――違うな。もっと最悪なものだ。何しろ、俺の話を聞いたところで、いいことなど、ひとつもないのだから。
きっと、いや間違いなく、ミンウェイの影響だ。
彼女が俺に、暑苦しいまでの人の情というやつを思い出させちまったから。
だから俺は、先輩を――先輩の心というか、魂というか……そんなものを、先輩の婚約者のもとに届けたいと思っちまった。
何も知らずにいるほうが、本当は幸せなのかもしれない。けれど、あの先輩が愛した女は、そういう人ではないはずだ。
彼女が知らないままでいることも、先輩が知られないままでいることも、どちらも、ふたりは望まない。
だったら、真実を俺の手元に残したままではいけないだろう。
先輩が帰るべき場所は、彼女のところなのだから――。
自分は職場の後輩であり、お悔やみを言いに、お宅に伺いたいと申し入れたら、不審に思われることなく承諾してもらえた。
初めに、花に囲まれた先輩の写真に手を合わせた。
それから俺は、「ちょっと、お話をさせてください」と彼女に声を掛けた。
荒唐無稽な俺の話を、彼女は黙って聞いていた。
互いに座っているため、膝に置かれた手の様子は机に隠れて見えないが、握りしめて震わせているであろうことは、肩の強張りから見て取れた。
顔は青白く、血の気がない。けれど、俺から目をそらすことはなく、かといって睨みつけるわけでもなく。あるがままを受け止めているかのようだった。
「……信じていただけないかもしれませんが、お話したことは、すべて真実です」
話を終え、俺は頭を下げる。
それは勿論、謝罪のためであったが、次に来る彼女の反応を、正面で待ち構えていたくない気持ちもあったかもしれない。
「信じるわ」
俺の上に落とされた声は、かすれていたが、言葉は拍子抜けするほどあっさりしていた。
驚いた俺は、思わず頭を上げる。
「だって、匿名で、法外なお見舞金が届けられたもの」
「え?」
「一生、遊んで暮らせるような、馬鹿げた額よ。『こんなことしかできなくて、申し訳ございません』と、手書きのメッセージまで添えられていたわ」
はっと思い当たり、俺は息を呑む。
俺の表情の変化が可笑しかったのか、彼女は失敗したような笑い顔になり、そっと目元にハンカチを当てた。
「綺麗な文字だったけれど、たぶん子供の字。なんとなく、そう感じたわ」
間違いない。ハオリュウだ。
俺に内緒で、いつの間に……。
言葉にできない思いに俺が唇を噛むと、彼女は頷き、静かに微笑む。
「送り主は、今の話に出てきた貴族の少年当主ね? 気味が悪かったのだけれど、納得したわ」
しっとりと落ち着いた声だった。美声とも違うが妙に心地よく、強い口調でもないのに、何故か耳に残る。
「あのローヤンが貴族令嬢に発砲しただなんて、おかしいと思っていたわ。彼が……悪人以外に銃を向けるなんてあり得ないもの。だからね、あなたの話を聞いて納得したの。――みんな、みんな……、ね」
『悪人』と口にする前に、ほんの少し間があった。
先輩は、彼女の父親を射殺している。それが出逢いだったと。最悪の出逢いだったと、先輩は語ってくれた。
だからこそ、先輩はむやみに発砲しない。それが不可逆だと知っているから――。
「ありがとう。わざわざ来てくれて――話してくれて」
「!」
彼女が示したのは、俺への謝意。
俺の胸が、ざわついた。
気づいたら、腹の中で渦巻いていた何かが、飛び出していた。
「やめてくれ! 俺が、先輩を殺したんだ! あなたの婚約者を!」
あのとき。
先輩を撃たないという選択肢もあった。敵の口車に乗ったふりをして、先輩を取り戻す方法が見つかるまで待つ、という手段だってあった。
けれど、俺は先輩を殺した。あれ以上、先輩を穢されたくなかったから。
そして、俺の一発の弾丸が、先輩と彼女の幸せな未来を撃ち砕いた――!
肩で息をする俺に、彼女は急に眉をひそめた。
「あなたは、ここに何をしに来たの? 私に罵られ、恨まれるため?」
「え?」
軽蔑を含んだ彼女の声に、俺は戸惑う。
「……許しを、請うため?」
「――!」
俺の耳で、彼女の声が木霊した。
たったひとことが反響し、何度も何度も、俺の中で繰り返される。
「責め、責められて怒りを解放し、傷つき、傷つけられることで納得して。そうして、忘れたほうが楽ね、きっと。――あなたも、……私も」
「っ!」
彼女の声が、俺を絡め取る。俺は、彼女の言葉に締め上げられたかのように、息が苦しくなる。
――『あの瞬間』、先輩と彼女のことが頭をよぎった。
一発の弾丸によって、彼岸と此岸に引き裂かれることになる、ふたりを。
申し訳ないと思った。
だから。
どんなに俺を罵ってもいい。
どんなに俺を恨んでもいい。
……俺の選択に罰を与えてほしいと思った。
俺が『罪』と認める代わりに、裁きを――救いを求めていた。
「でも、それって、何か違うんじゃないかしら?」
「…………あ、あぁ……」
頭が割れるように痛み、俺は両手で抱える。
そんな俺に、彼女は切なげに目を細めながら、優しく微笑んだ。
「あなたは覚悟の上で、ローヤンを撃ったのでしょう? それが、あなたの『正義』だったから。――だったら、胸を張って背負わなきゃ」
彼女は、すっと立ち上がり、少し離れたところにある戸棚に向かった。引き出しから何かを取り出し、俺のところに戻ってくる。
彼女が持ってきたそれを見て、俺は凍りついた。
「……結婚式の……招待状……」
「ええ」
机に置かれた封筒は、差出人の名前の書かれた裏側を向いていて、先輩と彼女の名前が仲良く並んでいた。
幸せの象徴ようなそれを、もう投函されることのなくなったそれを、彼女はゆっくりと表に返す。
「!」
俺の心臓が跳ねた。
宛名が、俺になっていた。
俺は、そんな晴れがましい席に招待されるような立場じゃない。
先輩とは、殴り合いで袂を分かった。俺は取り入った指揮官に頼み込み、部署を異動させてもらったから、それ以来、ほとんど顔すら合わせていなかった。
「緋扇さん。あなたのことは、よくローヤンが話してくれたわ。一番の後輩だと言って、とても可愛がっていた」
「……っ」
それは昔の話だ。もう何年も、先輩とは口をきいていない。
「あなたが、とてもまっすぐで、そのために折れてしまったことも聞いているわ。ローヤンはずっと気にしていて、いつもこっそり、あなたのことを見ていたのよ」
「………」
「私とローヤンの出逢いのことは知っているでしょう? だから式は、ごくごく身内だけのつもりだった。彼は私に遠慮してか、職場の人間は呼ばないと言っていた。けど、あなただけには招待状を出したいと、私に頭を下げたのよ。そんなことしなくていいのに」
「……」
招待されたところで、俺は行かなかっただろう。あれだけ派手にぶつかりあったのだ。どの面下げて参列できるというのだろう?
「『招待状を出しても、シュアンは来ないだろうけどな』――ローヤンはそう言ったわ」
「っ! ……その通りだ。なのに、なんで……」
「『これは、俺は幸せになってやるぞ、という誓いだ。大丈夫だ。あいつには、ちゃんと伝わる』ですって」
横暴だ。
無茶苦茶を言っていやがる。
先輩の自己中心的な考えなんて、俺に分かるわけねぇだろう!
「……せんっ、ぱい…………」
俺は、先輩が何度もプロポーズを断られたのを知っている。
その彼女と結婚するのだ。
――招待状から、先輩の声が聞こえてくる。
『粘り勝ちだぞ! 凄いだろう!』
これみよがしな、自慢げな声が……。
俺の心に揺さぶりをかけて……。
「……先輩……!」
見えない先輩の手が、俺の背中を叩く。
狂犬と呼ばれるようになった俺に、人を愛せよと言っている。
孤独になった俺の――幸せを、願っている……。
「ねぇ、緋扇さん。私を不幸だと思っている?」
意図の読めない声が、俺の思考を止めた。
俺は、血走ったような赤い目で、まるで睨みつけるように彼女を見つめる。
不幸だろう!
これから、だった。
やっと、やっと、これからだった。
――強くそう思うのに、胸が詰まって声が出ない。
「違うわ。私は不幸なんかじゃない」
「……ぐっ!?」
彼女の言葉に、潰れた蛙のような声が出た。
「不幸なのはローヤンよ。彼にはまだ、やりたいことがたくさんあった。でも、彼はもう、何もできない」
「……っ」
「だけど私は、これから、いくらでも幸せになれる。過ぎたことは変えられなくても、これからのことなら私はいくらでも選べる。――だから、私に不幸を名乗る資格はないの」
「……でも、俺に先輩を殺されたことは――不幸、だろう?」
「そうね。ローヤンを失ったことは幸せではないわね。何もかもが嫌になって、彼のあとを追おうとしたもの」
「……なっ!?」
さらりと明かされた事実に、思わず叫ぶ。
「病院に運ばれて、手当を受けて。そして、教えてもらったわ」
落ち着いた、穏やかな優しい声。
彼女の手が、すっと自分の腹部に下ろされた。そして、愛しみの眼差しで、告げる。
「この子がいる、って」
「……っ!」
「ローヤン、きっと悔しがっているわ。俺にも、この子を抱かせろ、って。……でも、残念。彼にはもうできない」
強気な口調でありながら、彼女の声は涙ぐむ。
「……っ、せんぱいっ、先輩……! 俺は……!」
俺の選択は、間違っていたのだろうか。
あのとき俺は、どうするべきだったのだろうか。
「緋扇さん、ここでローヤンに謝ったら駄目よ。それは逃げだわ。あなたの覚悟を放棄している」
近くにいるのに、彼女の声は、遠くから聞こえてくるような気がする。
厳しい言葉だ。
けれど、優しい響きだ。
「ローヤンの悔しさを背負って。辛さを、やるせなさを背負って。それが、あなたの『一発の弾丸の重さ』だから」
彼女の声が、俺を包む。
彼女の言葉を聞きたくて、先輩は彼女のもとに通い始めたと言っていた。その気持ちが、なんとなく分かる。
「忘れないで。――それが私の願い。ローヤンの願い。私も、ローヤンも、あなたを恨んでなんかいない……」
彼女の言葉には、力がある。
魂を揺すぶるような、強い力が――。
「――――っ! 先輩…………っ!」
「緋扇さん、辛かったね」
「――――――――!」
俺は、俺に宛てられた招待状を、大切に両手で受け取った。
「どう? 落ち着いた?」
「はい。お見苦しいところをお見せしました」
「私も、きついことを言って悪かったわ」
「いいえ。さすが、先輩が選んだ女性だと思いました」
俺は、彼女が出してくれたホットミルクを、ひと口すする。
砂糖など入っていないのだろうが、温かなミルクは妙に甘かった。こんなものを飲んだのは、子供のころ以来だろうか。死んだお袋が作ってくれた気がする。懐かしい味だ。
「カフェインは、胎児によくないと聞いたから」と、紅茶でもコーヒーでもなく、ミルクであるらしい。「お客様に出すにはどうかと思うけれど」と申し訳なさそうではあったが、母親になろうとしている彼女が、俺には頼もしく思えた。
「これから、どうするの? ローヤンの復讐をする?」
「――はい」
「後ろ向きな発想はよくないけど、それが前に進むためだったら反対しないわ。正直、〈蝿〉という男を放ったらかしにするのは危険だと思うし、心情的には……私も協力したい気もする……。でも――」
彼女は自分の腹に手を当て、そっと撫でた。
「復讐は、緋扇さんに任せるわ。私は、この子との生活で、手いっぱいになるから」
愛しみの顔で、彼女は言う。
「緋扇さん、例の貴族に伝えてほしいの。子供が生まれるとなると、どうしても先立つものが必要になるわ。だから『贅沢をする気はないけれど、いただいたお金はありがたく使わせていただきます』って。出どころが分かったから、安心して使える。正直、助かったわ」
茶目っ気を含んだ声で笑い、彼女の瞳が未来を見据える。
『これから、いくらでも幸せになれる』と言った通りに、幸せを掴み取るために、彼女は前に進む。逞しくて、美しい。
結局のところ、誰もが前に進むしかないのだろう。時という、不可逆の流れの中で生きているのだから。
分岐点に立ったとき、自分が信じた最善のひとつだけを選び取り、あとのすべては背負っていく。忘れずに抱えていくことで、次の分岐点で少しでも迷わないように、少しでも自信を持てるように。
――それが、不可逆の真理。
抱えてきた『それ以外の無限の可能性』を元に、『たったひとつ』を選び取り、やがて、ひとつきりの未来へと収束する。
願わくば、彼女と子供の未来が、幸せへと収束していきますように。
そして……。
俺は、結婚式の招待状を視界の端に捉えた。
これは、先輩からの挑戦状だ。
……先輩、俺が簡単に、人の言いなりになるような人間だと思っているんですか?
心で語りかけ、俺は鼻で笑う。
あいにくですが、俺は〈蝿〉の野郎に正義の鉄槌を下すのに忙しいんですよ。
先輩、よく言っていたじゃないですか。俺のこと、『無鉄砲な悪餓鬼が、そのまま大人になったようだ』って。
ええ、その通りですよ。
俺は鉄砲玉ですからね、孤独なくらいがちょうどいいんです。
そんなことを思って、俺は口の端を上げる。
ふと、彼女の視線を感じた。
その目が、訝しげに俺を見ているように感じるのは、俺の気のせいだろう。
俺は、何ごともなかったかのように、ホットミルクのカップを両手で包んだ。初めは熱々だったそれは、ちょうど人肌くらいの温かさになっていた。
俺はそれを……、心地よいと感じてしまった。
――すべてが終わったら、考えてみてもいいですけどね……?
幕間 天命の絆
真っ白なおくるみに包まれた異母妹は、想像以上に小さくて、俺は伸ばしかけていた手を止めてしまった。触れたら壊れてしまいそうで、彼女のほっぺの柔らかさを確かめるのが怖くなったのだ。
そんなふうに、ベビーベッドのふちでためらっていたら、俺の脇腹をかすめてシャンリーが顔を覗かせた。彼女の指先が、迷うことなく異母妹の柔肌をぷにっとする。
あー!
ほっぺ一番乗りを取られた!
俺は内心で叫んだが、シャンリーだから許す。シャンリーは俺の相棒で、俺の半身で、俺自身も同然だからいいんだ!
……悔しいけど。
「赤ちゃん、すっごく柔らかーい! レイウェンも触ってみなよ」
「あ、ああ! 当然だよ! 俺の異母妹だからね!」
わけの分からない威張り方をして、俺は異母妹の手に触れた。ほっぺは、シャンリーに先を越されたからだ。
「!」
次の瞬間、俺は硬直した。
異母妹が、俺の指を握ったのだ!
小さな手が、俺をぎゅっと掴んで離さない。どう見たって、おもちゃにしか見えない細い指なのに、凄い力。その指の一本一本には、信じられないくらい薄いけれど、透明な爪がしっかり生え揃っていて……。
「……あぁ」
まずい、俺、泣きそうだ。
そう思ったとき、隣でシャンリーがしゃくりあげた。
「レイウェン、レイウェン……」
「なっ、何、泣いてんだよ!」
「赤ちゃん、生きている……」
「あ、当たり前だろ!」
――当たり前なんかじゃなかった。
俺たちは、生まれたばかりだった俺の弟の死を見ている。
俺の一族――鷹刀では、代々の近親婚のせいで子供が生まれない。生まれても、なかなか育たない。俺が、特に病気もなく元気に育っているのは、奇跡みたいなものだ。
俺の知らない兄や姉もいたらしいが、皆、死んだ。
だから、俺に兄弟はいない。――いなかった。
俺は異母妹に指を握られたまま、反対の手でシャンリーの肩を抱いた。
「シャンリー、この子は俺たちの異母妹だよ。俺たちが、全力で守ってあげるんだ!」
俺は、こぼれそうになっていた涙を抑えてそう言った。『お兄ちゃん』の俺が泣くなんて、格好悪いことをしてはいけないのだ。
「私の……異母妹にしても、いいのか?」
赤ん坊の頃に両親を亡くしているシャンリーにも兄弟はいない。養父のチャオラウは独身で女っ気もなく、義理の弟妹の望みは薄かった。
そんな、ひとりっ子同士の俺たちは、母上が弟を産んだとき、無邪気に胸を躍らせた。自分たちより小さな存在ができることで、なんとなく偉くなれる気がしたのだ。
その喜びは、ほんの数時間で立ち消えた。俺たちは何をすることもできず、ただ儚く消えていく命を見守るしかなかった。それが彼の運命だったのだから仕方なかった。
でも、幼い俺たちは、その衝撃を忘れられなかった。
それ以来、俺たちにとって、兄弟というものは尊い憧れになった。飢えていたと言ってもいい。
周りの大人たちは、乳兄妹の俺たちを兄妹同然とみなし、『ひとりじゃないから、寂しくないだろう?』と言う。けれど、それは違う。シャンリーは妹ではない。
「俺の異母妹は、シャンリーの異母妹だよ。だって、シャンリーは俺の妻になる女なんだから」
物心ついたころから、俺はそう決めていた。ちゃんと、シャンリーにも承諾を得ている。あとは彼女の養父であるチャオラウとの決闘に勝って、『お嬢さんをください』と言うだけなのだが、残念ながらまだチャオラウには勝てたためしがない、という状況だ。
「レイウェン、ありがとう」
涙の残る顔で、シャンリーがにこっと笑った。その顔に、俺はどきりとする。
いつも俺と一緒にいるせいで、男勝りといわれる彼女だが、本当は凄く可愛いのだ。でもそれは、俺だけが知っていればいいことだ。
俺は、なんとか心を落ち着け、真面目な顔に切り替える。そして、そばのベッドで横になっているキリファさんに向き合った。異母妹が生まれたら、絶対に言うって決めていたのだ。
「キリファさん、俺の異母妹を産んでくれて、ありがとうございました」
俺が頭を下げると、隣でシャンリーが慌てたように倣う。
「はっ? えっ?」
キリファさんは、きょとんとした。
のちのち、大人になってから知ったことだが、こういう台詞は夫が妻に言うものらしい。でも俺は、俺の異母妹を産んでくれたキリファさんに本当に感謝していたからいいのだ。
キリファさんは面喰らったような顔で、きょろきょろと視線をさまよわせ、助けを求めるように父上を見やった。しかし、父上の仏頂面は相変わらずで、『やっぱり、この男はあてにならないわね』というキリファさんの心の声がはっきりと聞こえた。
それで、仕方なくといった体で、彼女は母上に救いを求める。
母上は、楽しそうにころころと笑っていた。
「キリファさん、本当にお疲れ様。この子たち、兄弟ができるのをとても楽しみにしていたのよ。私からもお礼を言うわ。どうもありがとう」
「ユイラン……」
キリファさんは一度だけ瞬きをして、困ったように口を尖らせてうつむく。落ち着きなく、もじもじと手を組み合わせているが、本当は嬉しいのを誤魔化しているだけだ。
そんなキリファさんの頭の上に、父上の手が伸びる。そして、彼女の猫毛をくしゃりと撫でた。
……たぶん、今更ながら、俺や母上に遅れを取ったことに気づいたんだと思う。父上は、本当に感情表現の下手な人だ。
いつだったか、シャンリーが『怖いものを見た』と半泣きで俺のところに来た。キリファさんと一緒にいた父上が、満面の笑顔を浮かべていたらしい。
『父上も人間なんだから、笑うことぐらいはあるだろう』と俺は言ったのだが、よく考えたら、俺の記憶にある限り、『にやり』以外の父上の笑った顔なんて見たことがなかった……。
何も知らない他人から見れば、俺の家庭の事情は複雑で不思議、いや不可解だろうと思う。でも、俺にとっては自然な形だ。
俺は、俺の家族が好きだ。
そして、新たに異母妹が加わり、更に大好きな家族になった。
大切な大切な、俺の小さな異母妹は、セレイエと名付けられた。
――けれど、俺の無力が、俺の幸せを壊した……。
まっすぐに伸びてきた刃を、身をかがめてかわした。そのままの低い位置から、俺は相手の腹を一直線に貫く。
肉を斬り裂く、柔らかくて重い感触。
背まで突き抜けた刃を一気に引き抜くと、熱い鮮血が俺に向かって勢いよく噴き出した。まるで仕返しだとばかりに気持ちの悪い粘り気がまとわりつき、足元に広がる美しい花畑に真紅の花を咲かせていく。
俺は、血にぬめる草の大地を蹴り、セレイエを襲おうとしている敵を背後から斬りつけた。
「っ!」
浅かった。
足元が滑った。踏み込みが甘かった。
だが、敵は一瞬、ひるんだ。その隙にシャンリーがセレイエの手を引き、抱きかかえる。
「逃げろ!」
俺は、叫ぶ。
ふたりのあとを追おうとした敵に、俺は父上譲りといわれる神速の刃を振るう。
俺の身長では首まで届かない。だから、セレイエを狙う凶刃を握る、その手を斬り落とす。
「――!」
声にならない悲鳴を上げ、失った腕の斬り口を押さえてうずくまる敵。
俺は無防備になったその首筋に、容赦なく刀を落とす。
致命傷を与えた――と、思う。けれど、血を吸った俺の刀の斬れ味は、格段に落ちていた。思うように骨を断つことは叶わない。
未熟な俺は、まだ父上のような双刀は扱えない。だから、俺の刀はこれ一本きりだ。
俺は内心の焦りを隠し、敵と睨み合う。
十人はいるだろうか。
皆、一見して凶賊と分かる。どこの一族かは知らないが、鷹刀と敵対する者たちだろう。
子供のくせに、顔色ひとつ変えずに人を斬る俺を、彼らは異質なものを見る目で見ていた。
けれど、誰よりも、俺自身が驚いていた。
俺が人を斬ったのは初めてだ。
なのに、俺にためらいはなかった。俺の大切な異母妹を傷つけようとする輩を、生きて帰すつもりはなかった。
――とはいえ、今の俺の実力では、自分たちが生きて帰ることができるかどうか、だ……。
「まだ、やりますか?」
俺は、感情を消した平坦な声で問いかけた。
まだまだ序の口だと言わんばかりに、冷たく嗤う。服どころか、髪も顔も、返り血で真っ赤に染まった俺が、できるだけ不気味に映るようにと。
「小僧……。餓鬼のくせに……」
敵は、明らかに動揺していた。
「気ぃ抜くな! たとえ餓鬼でも、鷹刀だ。――だが、こいつらを殺れば、俺たちの名に箔が付く!」
後ろのほうから、偉そうな態度の男の声が飛んだ。
数ある凶賊の中で、鷹刀は他の一族とは別次元の存在といわれている。
鷹刀の血族は、魔物のように強く、魔性のように美しい。それは、〈七つの大罪〉と手を組み、人体改造を受けたからだ――と、まことしやかに噂されていた。
ひと目で血族と分かる鷹刀の者は、生きた伝説。実際、鷹刀は〈七つの大罪〉の支配によって、異常なまでの近親婚を繰り返していたから、噂はあながち嘘とはいえない。
そうして作られた濃い血の人間を〈七つの大罪〉は〈贄〉として要求してきた。なんのために〈贄〉が必要なのかは知らないが、連れ去られた血族たちが殺されていったのは間違いないだろう。
そして、見返りとして、〈七つの大罪〉は鷹刀に絶対の庇護を与えてきた。
そんな歪な関係を断つために、祖父イーレオは、自らが一族の総帥となって〈七つの大罪〉と手を切った。俺が生まれたころの話だ。
祖父上は正しいと思う。
俺の母ユイランは、本当は父エルファンと結婚したくなかった。それは、父上のことが嫌いだからじゃなくて、母上からすれば、父上は弟か子供のようなものだからだ。実際、父上は、母上の実の弟――一族を出ていったヘイシャオ叔父上と共に、母上に育てられたのだから。
だから、祖父上は間違ってない。
〈七つの大罪〉という牽制力を失い、鷹刀が目に見えて弱体化したとしても。
最後の血族の、俺やセレイエの命が狙われたとしても――!
「ひるむな! 鷹刀を滅ぼせ!」
敵の怒号が響き渡る。
「餓鬼だけでいるなんて、またとないチャンスだ!」
「全員でかかれ!」
「妹を狙え!」
暴言が、俺の耳を打った。
その瞬間、俺は走り出していた。
俺が盾となっても、一気に向かってこられたら、全員を討ち取ることはできない。必ず、何人かは俺の刃をすり抜けてセレイエに向かう。
もしここが細い路地だったら、俺はひとりでも全員を殺れた。でも、ここは広い花畑だ。
小さなセレイエは自分で身を守ることはできない。それどころか、この草の大地を転ばずに走ることすら難しい。それが分かっているシャンリーは、セレイエを抱いて逃げている。
――けど、それでは、すぐに追いつかれてしまう……!
「シャンリー!」
俺の声に、ちらりと振り返った彼女は、それで察してくれた。セレイエを下ろし、「大丈夫だから、じっとしていて」と言い含めている。
「レイウェン、背中は任せた」
たどり着いた俺に、すっと背を向け、シャンリーは抜刀した。迷うことなく俺に背中を預けてくれる彼女に、俺もまた背を合わせる。俺たちの間に、セレイエを挟むようにして。
敵が迫る。
俺の刀が、敵の胴を薙ぐ。
明らかに、斬れ味が悪い。斬るというよりも、叩きつけるような一撃は、俺の腕に重い衝撃を与えた。
「……くっ」
俺が眉をしかめたと同時に、横から銀色の凶刃が煌めく。俺はすんでのところでかわそうとするが、俺が動いたらセレイエが斬られることに気づく。
「――!」
俺は歯を食いしばり、向かってきた敵の腹を裂いた。
浅くてもいい。戦闘不能にすればいい。確実に仕留めるより、数を減らすほうが先だ。
背後で、シャンリーが小さくうめいた。深くはなさそうだが、傷を受けたのだと分かる。俺の胸がずきりと痛む。
軽い身のこなしが得意な彼女だが、セレイエを守っている以上、大きく動くことはできない。苦戦している。それでも彼女の直刀が、果敢に敵の目や喉を突いていく。
――けれど、多勢に無勢だ。
そして、俺たちは、セレイエのそばから離れるわけにはいかなかった。
俺たちが避ければ、セレイエに凶刃が落とされるかもしれない。
それが怖くて、俺たちは動けなかった。
体が重い。
腕が上がらない……。
「おにいちゃん! おねえちゃん!」
「セレイエ、逃げろ……」
「おにいちゃん、おねえちゃん! いやぁぁぁ――――!」
刹那。
花畑から、光の柱が立ちのぼった。
――否。
無数の閃光が、セレイエの背から噴き出していた。
白金の輝きが、渦巻く熱風を作り出す。草花が引き千切られ、天高く舞い上がる。
「な……?」
その場にいた誰もが、瞬きひとつできずに、その幻想的な光景に魅入られた。
初めは、勢いよく蒼天を目指していた光は、やがて緩やかに風になびくように、横に大きく流れ、細い糸状にほどけていった。
眩しかった光は穏やかになり、網の目のように広がった糸の内部で、生き物の鼓動のように明暗を繰り返す。
それは、まるで、光を紡ぎ合わせて作り上げた、羽のよう――。
「光の天使……」
シャンリーが呟いた。
俺とそっくりなセレイエの漆黒の髪が、光を弾いて白金に輝いて見えた。
凄く、綺麗だった。
「ば、化物……」
敵のひとりが声を漏らす。
「おにいちゃんと、おねえちゃんに、ひどいことしないで!」
細くて甲高い、セレイエの叫びが放たれる。
その瞬間、セレイエの背から光が伸び、すべての敵に突き刺さった――。
何が起きたのか分からなかった。
ただ、光を受けた敵が心臓を破裂させて絶命した。
それと同時にセレイエも倒れ、羽が消える。抱き上げようとしたら、彼女の肌が火傷しそうなほどの高熱を発していた。
触れない。
どうしよう!
俺が顔を歪めて泣きそうになったとき、シャンリーがさっと上着を脱いでセレイエを包んだ。
ああ、これなら……。
そのあたりで、俺の記憶は途切れた。
俺たちは『気配を感じた』というキリファさんによって見つけ出され、助けられた。
あとで聞いた話によると、俺は失血死寸前だったそうだ。
「なんで? どうして!?」
夢うつつの中で、俺は、キリファさんが泣きじゃくっているのを聞いた。
「遺伝するなんて、知らない!」
キリファさんの高い声に対して、父上がぼそぼそと何か言っていた。けれど、声が低く、聞き取ることができない。
「〈天使〉が子供を産んだ前例なんてないもの。〈天使〉は羽を使えばすぐに死ぬから、長生きできない。……でも、あたしは特別だったから。あたしは王族の血を引いているから」
「あたしも、そんなこと知らなかった。――あまりにも羽と相性の良すぎるあたしを、〈蠍〉が徹底的に調べたら、あたしは王族の血を引いている、って」
「あたしの母親は娼婦で、父親は誰とも知らない客の男よ。だから、そいつが王族を先祖に持つ貴族か。そういった貴族の落し胤か、そんなところだろう、って……」
「羽の相性は、血統がものをいう。……だからセレイエは、あたしの半分しか適性がない。次に何かあったら、セレイエは……!」
「あたし、もう、子供は産まない……! あたしの血を引いたら可哀想……。ユイランに任せる……。エルファン、ごめん。ごめんね……」
俺も、セレイエも、シャンリーも、一時は死線をさまよったが、皆、九死に一生を得た。
けれど、セレイエはキリファさんと共に、鷹刀の屋敷を出ることになった。一族から追い出されたような形を取り、今後、他の凶賊に狙われないようにして――。
「俺が、もっと強ければ……!」
俺が充分に強くて、セレイエに怖い思いをさせなかったら。
余裕で敵を撃退して、セレイエが羽なんか出さずにすんだなら……。
俺は、シャンリーにすがって泣いた。
シャンリーも、俺に抱きついて泣いていた。
俺たちは無力だった。
俺たちは、自分たちが不甲斐なかった。
大人たちは、俺たちに責任はないと言った。
あのとき誰がそばにいても、セレイエの恐怖は変わらなかっただろうと。
けれど、セレイエが〈天使〉である以上、常に危険と隣合わせの凶賊とは距離を取るべきだと言った。
それが、セレイエのためだと……。
それから数年後――。
弟が生まれた。リュイセンという。
いずれ総帥となる俺を支えるため、俺に万一のことがあったときの鷹刀のため、セレイエと引き離された俺の心を埋めるため……。
すべてが周りの思惑によって都合よく誕生した彼は、おそらく、あらゆる病気の因子を排除された体外受精児だ。
誰も何も言っていないが、なんとなく察してしまった。何故なら、俺の同父母弟が、なんの細工もなしに健康で生まれてくる確率は、極めて低いのだから。
かつて、〈七つの大罪〉は、鷹刀の血が変質することを何よりも嫌った。それ故、いくら血族の生存率が低くとも、鷹刀の遺伝子に手を加えることを許さなかったという。
けれど、今はもう関係ない。
それに、そうでもしなければ、キリファさんを溺愛している母上が、父上との子供を作ることに納得しなかっただろう。母上は頑固なのだ。
そんなことが分かるくらい、俺が大きくなったとき、俺はシャンリーに壮大な計画を持ちかけた。
「シャンリー、頼みがある。俺は鷹刀を抜けて、リュイセンを総帥にしたい。君が協力してくれれば、それができるんだ」
――そして、現在。
「ただいま」
護衛の仕事から、シャンリーが帰ってきた。
普段、彼女は剣舞のほうで忙しいため、警備会社の仕事はしないのだが、今日はメイシアさんに『女性の護衛を』と頼まれて買って出たのだ。
「レイウェン! 予想外の事態が起きて、〈蝿〉の居場所が掴めそうだ!」
声を弾ませ、シャンリーが報告をする。ミンウェイの気持ちを考えると複雑ではあったが、それはかなりの朗報だった。
……そんな、ひと通りの連絡事項をすませたあと、シャンリーがふと嬉しそうに言った。
「ルイフォンの奴、やっぱり出てきたな」
「そりゃ、ルイフォンさんは、メイシアさんが心配だろうから」
「おいおい、レイウェン。ルイフォン『さん』って。あいつは私たちの異母弟だろう?」
「表向きは叔父だよ」
キリファさんは一途に父上を想っていた。
だから、ルイフォン『さん』は、俺たちの異母弟でしかあり得ないのだ。そのことに気づかない父上は、やはり朴念仁としか言いようがないだろう。
セレイエも、リュイセンも、ルイフォンも――。
俺の弟妹たちは、それぞれに、なかなか厄介な天命を背負っている。
「レイウェン」
「ん?」
「『お兄ちゃん』の顔になっている」
「……ああ、そうだな」
俺は『お兄ちゃん』だ。
だから俺は、弟妹たちの幸せを願う。
どうか、彼らが自由に、のびのびと生きていけますように……。
幕間 月華の宣誓
兄上が鷹刀の屋敷を出た。
約束されていた後継者の地位を捨て、赤子のころからの相棒だった義姉上と、外の世界へと旅立っていった。
総帥の補佐として、一族を切り盛りしてきた母上も一緒だ。夢だったデザイナーになるのだという。
そして鷹刀は、いずれ俺が総帥となって率いていく。
――無茶苦茶だ。
俺は兄上のように強くもなければ、人格者でもない。
一族は、俺への不満でいっぱいだ。いや、自らの手で後継者の地位を手に入れたわけでもない俺は、『不満』にすら思ってもらえない。ひたすら『不安』に思われているだけだ。
あとは、憐憫と諦観。そんなところだろう。俺の耳には入らないようにしているつもりなのだろうが、嫌でも雰囲気は伝わってくる。
けど、鷹刀一の猛者チャオラウと一騎討ちをして、見事、打ち勝った兄上には、誰も逆らえなかった。
当然だ。兄上は、皆を黙らせるために、挑んだのだから。義姉上と祖父上以外、誰も信じていなかった、自分の勝利を懸けて。
どうしても寝つけなかった俺は、夜風に当たりたくて外に出た。
庭の主たる桜が、満開の枝を広げていた。月明かりを浴びて白く輝く様は、凄い迫力だと思う。幻想的な夜桜に、芸術なんか分からない俺だって、やっぱり綺麗だなと心を奪われる。
この大樹を見ると思い出す。
母親に未熟だと馬鹿にされて、怒って桜に八つ当たりしようとしたけれど、指は大切だからと拳を止めた、あいつ――ルイフォン。
あいつは言った。
『餓鬼だから、その程度で『よく出来ました』ってヤツ? 年齢に甘えるなんて阿呆だろ。同じ土俵に立ったら、周りは全部、敵だ』
俺より年下のくせに、あいつは強い。武力ではなくて、魂が。
「……俺も、頑張らないとな」
兄上が抜けたあとの繰り上がりだったとしても、俺は鷹刀を任された。
だったら俺は、応えるべきだ。総帥にふさわしい人物になるように。
いきなり、なんでもできるようになるのは無理だけれど、俺にできそうなことから、一歩ずつ……。
「とりあえず、筋トレでもしてから寝るか」
刀があれば素振りができたのだが、あいにく持ち歩いていなかった。夜着姿のまま、ふらりと散歩に出ただけなのだから仕方ない。
密かな鍛錬を、夜番の見回りの者たちに見られるのも恥ずかしいので、俺はそろそろと庭の端まで移動する。自分の部屋に戻ってもよかったのだが、夜を支配する月明かりが神秘的で、俺の冒険心がくすぐられたのだ。
春風に誘われるまま、温室にたどり着いた。建物の影なら、誰にも気づかれないだろう。
そう思ったときだった。
「!?」
人の気配を感じた。
俺は、反射的に鋭い気を放つ。
「リュイセン!?」
温室のそばの茂みが揺れ、艶のある美声と共に、ひとりの少女が現れた。
すらりとした綺麗な立ち姿。波打つ黒髪に月の光が注がれ、まるで銀色の王冠をかぶっているかのよう。
血族の証である美貌が、月影によって陰と陽とに塗り分けられ、夜闇に浮かぶ。はっきりとした陰影は白い夜着にまで及び、少女でありながらも豊満な彼女の肉体を誇張していた。
それは、夜に咲く華。妖艶なる月の女神――。
俺は、ごくりと唾を呑み込んだ。
「ミンウェイ……」
俺の全身が、かっと熱を持ち、まだ低くならない俺の声が、妙にかすれて情けなく響く。
見てはいけないものを見てしまったような、そんな罪悪感。
それは、彼女の艶めかしさのせい。
けれど、それだけではなくて……。彼女があまりにも――。
儚げだったから……。
「こんな夜更けに、どうしたの? リュイセン」
いつもと変わらぬ調子で、ミンウェイは尋ねてきた。
けれど俺は、すぐに返事をできなかった。何故なら俺は、はっきりと見ていたから。
――濡れた彼女の睫毛が、月明かりを跳ね返すところを。
「リュイセン?」
「ああ、うん。……兄上が出ていって、俺が後継者になっただろう? だから、俺はもっと強くなるべきだと思って、夜の鍛錬をだな……」
不安で寝つけなかったことは、無意識にすっ飛ばしていた。卑怯な格好つけだ。
「その心がけは、よいことだけど、子供がこんな遅くに駄目よ?」
優しく諭すように、彼女は年上の顔をする。
俺はさっきとは、まったく別の意味で、頭にかっと血が上った。
ミンウェイこそ、こんな遅くに、だ。
屋敷にいる者たちが、ミンウェイに悪さをすることはないと信じている。けど、こんな扇情的な姿を見せられたら、惑わされる者がいても不思議ではない。
――ああ、違う。いや、勿論、ミンウェイの無防備さは問題だ。
でも、そうじゃなくて……。
「ミンウェイだって、同じだろう?」
「え?」
「不安なんだろう? 母上の代わりに、一族を切り盛りする役割を任されたのが。それで寝つけなくて、こうして庭に……」
口に出してから、これでは俺自身の不安を暴露しているようなものだと気づく。せっかくの格好つけも台無しだ。
ミンウェイは、切れ長の目を瞬かせた。その拍子に睫毛に掛かっていた雫が弾け飛ぶ。
年下の俺に、図星を指されて戸惑ったみたいだった。……少し考えれば、誰でも分かることなのに。
『いずれ』総帥になる俺とは違って、ミンウェイは『明日から』鷹刀を担う。母上が好き勝手するために出ていってしまったからだ。
まったく、滅茶苦茶だ。
なのにミンウェイは、ちっとも不満を言わない。
「ええ。勿論、不安だわ。自信なんかないもの。でも、ユイラン様が夢を叶えられるのは、素晴らしいことよ。応援しなきゃ」
俺より少しだけ高い位置にある目線を下げ、たしなめるように俺の顔を覗き込む。
「……っ」
そんな模範的な答えで、柔らかに微笑む。本当は苦しくてたまらなくても、ミンウェイは気丈に振る舞う。
いつもそうだ。
だから俺は、彼女は『強いお姉さん』なのだと、ずっと騙されていた。しかも、『ちょっと凶暴な』だ。何かあると、すぐに俺の首を絞めたりしたから。
でも、そのうち気がついた。俺の野生の勘が、自然と理解してしまったのだ。
ミンウェイの中には、小さな女の子がいる。
ふとした瞬間に『彼女』は現れ、迷子のように瞳を揺らす。
乱暴にしか、じゃれつけなかったのは、心が不器用だからだ。初めのころは、本気でいじめられていると思っていた。けど、加減を知らなかっただけなのだと、今なら分かる。
無邪気にふざけて、触れ合いたい。
その裏にあるのは、人恋しい気持ち。
それはたぶん、ぬいぐるみなんかを抱きしめたいような感情で、対象は俺とかルイフォンとかの、ミンウェイより『弱くて、小さいもの』。『強くて、大きなもの』に対しては――なんて言うんだろう。顔色を窺う、だろうか?
そんなふうに漠然と感じていたことが、正しかったと知ったのは、つい最近だ。
彼女の心の支えである、母上と義姉上を連れて行ってしまうからと、兄上が言葉を選びながら、屋敷に来る前のミンウェイのことを教えてくれた。
「ミンウェイ」
俺は名を呼んだ。努めて低く出した俺の声色に、彼女は不思議そうな顔をする。
「不安は、ちゃんと泣いて流したほうがいい」
俺の言葉に、ミンウェイは悲鳴のような小さな声を漏らし、確かめるように自分の顔に触れた。
その慌てぶりに、俺はなんだか言ってはいけないことを言ってしまって気がして、つい「俺も同じだから」と付け加えてしまった。
「そ、そうよね。リュイセンも、いきなり後継者だもんね」
ほっとしたような彼女に、俺の心がちくりと痛む。きっと彼女は、俺もひとりで泣いていたのだと勘違いしただろう。
それでも俺は、ミンウェイの心が穏やかであるほうがいい。
彼女は、小さいころに、心の一部をどこかに置き去りにしてきてしまった。
だから無防備で、不安定で、危うい。
そんな彼女の欠けた心を、俺は埋めてあげたい。
――彼女を守りたい。
「ミンウェイ」
俺は彼女に手を伸ばしかけ、けれど途中でやめた。
今の俺がミンウェイを抱きしめたって、彼女は『後継者の重圧に震える、子供の俺』が、すがってきたとしか思わないだろう。
だから代わりに、まっすぐに彼女を見つめた。
「今すぐじゃないけど、俺は総帥になる。だから、そのとき――俺を補佐してほしい」
これが、精いっぱいの告白。
月光に彩られた彼女は、今の俺には高嶺の花。ルイフォンの言う通り、年齢なんて関係ないと思うけれど、俺はまだ実力不足だから……。
「え?」
ミンウェイがきょとんとする。俺の気持ちに気づかなければ、当然の反応だろう。
「だからさ……。俺たち、頑張ろうぜ」
そう言って俺が右手を出すと、ミンウェイは俺の手をしっかりと握ってくれた。
その日を境に、ミンウェイは、むやみに俺に抱きつかなくなった。
彼女の草の香を至近距離で感じられなくなったことは、素直に寂しい。
けれど、でも――。
いつかきっと、俺から彼女を抱きしめる。
その意味を、彼女が勘違いしないようになった、そのときに――。
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第二部 第三章 綾模様の流れへ
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
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――――に、続きます。