di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第二部  第一章 遥か過ぎし日の

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第二部  第一章 遥か過ぎし日の

月ノ瀬 静流

こちらは、

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理  第一章 遥か過ぎし日の
                          ――――です。


『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第八章 交響曲の旋律と https://slib.net/111910

                 ――――の続きとなっております。


長い作品であるため、分割して投稿しています。
プロフィール内に、作品全体の目次があります。
https://slib.net/a/4695/



こちらから「見開き・縦書き」表示の『えあ草紙』で読むこともできます。
(星空文庫に戻るときは、ブラウザの「戻る」ボタンを押してください)
https://www.satokazzz.com/airzoshi/reader.php?url=https%3A%2F%2Fqrtn.jp%2Ff2gh5cs&title=%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E9%83%A8%E3%80%80%E6%AF%94%E7%BF%BC%E9%80%A3%E7%90%86%E3%80%80%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0%E3%80%80%E9%81%A5%E3%81%8B%E9%81%8E%E3%81%8E%E3%81%97%E6%97%A5%E3%81%AE&home=https%3A%2F%2Fslib.net%2Fa%2F4695%2F


『えあ草紙』の使い方は、ごちらをご参考ください。
https://www.satokazzz.com/doc/%e3%81%88%e3%81%82%e8%8d%89%e7%b4%99%e3%83%9e%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%82%a2%e3%83%ab
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〈第一部 第八章あらすじ&登場人物紹介〉

〈第一部 第八章あらすじ&登場人物紹介〉

===第一部 第八章 あらすじ===

 メイシアの父、藤咲コウレンが無事に救出された。ならば、彼女は実家に帰るか、娼婦となるか――である。そのどちらも認めたくないルイフォンは、父イーレオに交渉を持ちかけた。
 自分の功績の褒美として、彼女の自由を求めたルイフォンに、イーレオは「藤咲家が、ふたりの仲を認めれば応じる」と答える。そんな条件は楽勝……と思われたのだが、コウレンは奇妙な言動をとった。

 コウレンの違和感に悩む一同。そんな中、メイシアの異母弟ハオリュウのもとに、警察隊の緋扇シュアンが訪ねてきた。〈(ムスカ)〉の陰謀によって自ら射殺した先輩の名誉を守るため、貴族(シャトーア)のハオリュウの書状が必要だったのだ。
 シュアンからの情報により、ハオリュウは父コウレンが、ライバルである厳月家の当主の〈影〉にされてしまったことに気づく。そして、異母姉メイシアを傷つけたくないとの思いから〈影〉と密約を交わし、〈影〉のコウレンに「ルイフォンとメイシアの仲を認める」と言わせた。

 用済みとなった〈影〉を、ハオリュウは『父の仇として』殺害しようとした。しかし、返り討ちに遭い、絶体絶命のところにメイシアが現れる。彼女もまた、父が〈影〉にされていることに気づき駆けつけたのだ。そして、ハオリュウを助けるため、人質となる。
 銃声を聞いて駆けつけたルイフォンは、囚われたメイシアを見て〈影〉に毒の刃を投げる。〈影〉にされてしまった人は、もとには戻らないと聞いていたからだ。
 だが、死の間際で、コウレンが戻った。メイシアとハオリュウは『奇跡』と思い、大切な父との最期の別れをする。しかし、救うために殺したはずのルイフォンにとっては、最愛の人の父親を殺したという『罪』となった。

 罪の意識に耐えられなくなったルイフォンは屋敷を出た。イーレオにメイシアの解放を乞い、彼女の幸せを望み、彼女に会うことなく姿を消した。
 そんなルイフォンを、メイシアは追いかけ、告げる。
「出逢ったときと同じく『私』を差し出します。そして、私が欲しいものは『ルイフォン』。あなたの抱えている痛みも、後悔も、因縁も、罪も、傷も、何もかも全部、含めて『ルイフォン』です」――と。
 理性では別れるべきだと思いながらも抗うことなどできず、ルイフォンは彼女を抱きしめ「一生、大切にする」と宣言した。

 ハオリュウに貸していた銃を返してもらうため、鷹刀一族の屋敷を訪れたシュアンは、ミンウェイから事件の結末を知らされた。ミンウェイの愚かな優しさに、苛つきながらも癒やされるシュアン。
 その後、ハオリュウと面会したシュアンは、孤独なハオリュウに庇護欲を感じ、また共に〈(ムスカ)〉を仇とすることから、ハオリュウと盟約を交わした。

 駆け落ち同然で屋敷を出てきたルイフォンとメイシアだが、皆のところに戻ることにした。誰に反対されているわけでもないのだから。むしろ皆に祝福されるべきだと言って。
 勝手すぎると怒ったリュイセンを説得し、ふたりは無事、戻ってきた。
 そしてメイシアは、ルイフォンと共にいるため、自由になるため、表向きは事故で死んだことになった。

 ルイフォンとメイシアの出逢いは、仕組まれたものだと〈天使〉のホンシュアが言っていた。そのことを詳しく聞くため、ホンシュアに会いに行こうと約束したふたりだが、ホンシュアは熱暴走を起こして死亡していた。
 また、ルイフォンたちに協力したせいで、斑目一族での立場が危うくなったタオロンは、娘のファンルゥを守るために、〈(ムスカ)〉の駒となることを承諾した。

 事件のショックで気が触れてしまったメイシアの継母のところへ、メイシアとルイフォンはお見舞いに行く。継母の心が戻ってきたのか否か、それは分からぬが、彼らは継母から祝福の言葉を受けた――。


===登場人物===

鷹刀ルイフォン
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
 母親のキリファから、〈(フェレース)〉というクラッカーの通称を継いでいる。
 端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
 長髪を後ろで一本に編み、毛先を金の鈴と青い飾り紐で留めている。
 凶賊(ダリジィン)の一員ではなく、何にも属さない「対等な協力者〈(フェレース)〉」であることを主張し、認められている。

※「ハッカー」という用語は、「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われていた。
 「クラッカー」には悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
 よって、本作品では、〈(フェレース)〉を「クラッカー」と表記する。

メイシア
 元・貴族(シャトーア)の藤咲家の娘。十八歳。
 ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
 箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
 すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
 白磁の肌、黒絹の髪の美少女。


[鷹刀一族]
 凶賊(ダリジィン)と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
 実は、秘密組織〈七つの大罪〉の介入により、近親婚によって作られた「強く美しい」一族。

鷹刀イーレオ
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族の総帥。六十五歳。
 若作りで洒落者。

鷹刀エルファン
 イーレオの長子。次期総帥。ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄弟。
 感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。

鷹刀リュイセン
 エルファンの次男。イーレオの孫。ルイフォンの年上の『甥』。十九歳。
 文句も多いが、やるときはやる男。
『神速の双刀使い』と呼ばれている。
 長男の兄が一族を抜けたため、エルファンの次の総帥になる予定である。

鷹刀ミンウェイ
 イーレオの孫娘にして、ルイフォンの年上の『姪』。二十代半ばに見える。
 鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
 緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。ただし、本来は直毛。
 薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
 かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
 父親ヘイシャオ=〈(ムスカ)〉? に溺愛という名の虐待を受けていた。

草薙チャオラウ
 イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
 無精髭を弄ぶ癖がある。

料理長
 鷹刀一族の屋敷の料理長。
 恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。

キリファ
 ルイフォンの母。四年前に謎の集団に首を落とされて死亡。
 天才クラッカー〈(フェレース)〉。
 右足首から下を失っており、歩行は困難だった。
 かつて〈七つの大罪〉に属していたらしい。
 鷹刀一族の屋敷に謎の人工知能〈ベロ〉を遺していた。
 もとエルファンの愛人。エルファンとの間に一女あり。

〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
 キリファが作った三台の兄弟コンピュータ。
 ただし、〈スー〉は、まだできていないらしい。
〈ベロ〉は、独自の判断で、「敵を全滅する」というルイフォンの指示を無視した。


[〈七つの大罪〉・他]

〈七つの大罪〉
 現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。

〈悪魔〉
 知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。代償は体に刻み込まれた『契約』。

〈天使〉
「記憶の書き込み」ができる人体実験体。
 背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。

〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
 体は元の人物だが、精神が別人となる。

『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。
 服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令(コード)や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶(データ)まで、いろいろである。

『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)
(サーペンス)〉が企んでいる計画。
(ムスカ)〉の協力が必要であるらしいのだが、謎に包まれている。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『(つる)』。
 つまり、『ふたつの(つる)』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
 これらの意味を繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』と、ホンシュアは言った。

(ムスカ)〉 = ヘイシャオ?
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉。
 ミンウェイの父で、本名はヘイシャオ。
 イーレオが総帥位を奪わなければ、鷹刀一族の中心にいたはずの人物。
 鷹刀一族を恨んでいる。 
 医者で暗殺者。
 娘のミンウェイを異常な愛情で溺愛している。

ホンシュア = 〈(サーペンス)〉? = 〈天使〉
 メイシアを選び、ルイフォンと引き合わせたと言った謎の女。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
〈天使〉であり、〈(サーペンス)〉と呼ばれる〈悪魔〉の〈影〉でもあった。
 ルイフォンとリュイセンのことを知っていたが、彼らは彼女を知らなかった。

ライシェン
 ホンシュアがルイフォンに向かって呼びかけた名前。
 それ以外は不明。


[藤咲家・他]

藤咲ハオリュウ
 メイシアの異母弟。十二歳。
 父親を亡くしたため、若年ながら藤咲家の当主を継いだ。
 十人並みの容姿に、子供とは思えない言動。いずれは一角の人物になると目される。
 異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。

藤咲コウレン
 メイシア、ハオリュウの父親。厳月家・斑目一族・〈(ムスカ)〉の陰謀により死亡。

藤咲コウレンの妻
 メイシアの継母。ハオリュウの実母。
 心労で正気を失ってしまい、別荘で暮らしていたが、メイシアがお見舞いに行ったあとから徐々に快方に向かっている。

緋扇(ひおうぎ)シュアン
『狂犬』と呼ばれるイカレ警察隊員。三十路手前程度。イーレオには『野犬』と呼ばれた。
 ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
 凶賊(ダリジィン)の抗争に巻き込まれて家族を失っており、凶賊(ダリジィン)を恨んでいる。
 凶賊(ダリジィン)を殲滅すべく、情報を求めて鷹刀一族と手を結んだ。
 敬愛する先輩が〈(ムスカ)〉の手に堕ちてしまい、自らの手で射殺した。
 似た境遇に遭ったハオリュウに庇護欲を感じ、彼に協力することにした。
 

[繁華街]

シャオリエ
 高級娼館の女主人。年齢不詳(若くはないはず)
 外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
 元鷹刀一族であり、イーレオを育てた、と言っている。
 実は〈影〉であり、体は別人。そのことをイーレオが気にしないようにと、一族を離れた。

トンツァイ
 繁華街の情報屋。
 痩せぎすの男。


===大華王国について===

 黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
 身分制度は、王族(フェイラ)貴族(シャトーア)平民(バイスア)自由民(スーイラ)に分かれている。
 また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊(ダリジィン)と呼ぶ。彼らは平民(バイスア)自由民(スーイラ)であるが、貴族(シャトーア)並みの勢力を誇っている。

1.薫風の季節の始まり

1.薫風の季節の始まり

 庭先に寝転ぶと、青芝生の瑞々しさが鼻腔を刺激した。柔らかな大地の温かさが体を包み、自然の歌声が耳朶をくすぐる。
 軽く瞳を閉じれば、木漏れ日が、ちらちらと(まぶた)で踊る、せわしない気配。
 のどかで穏やかな、春の終わりの午後の日和。鷹刀ルイフォンは、横になったまま両腕をいっぱいに広げ、猫背を伸ばした。
 一本に編んだ髪が背中の下で邪魔になり、彼は、やや面倒臭そうに引き抜く。薙ぎ払うように投げ出された黒髪が薫風になびき、毛先に飾られた青い飾り紐の中で、金色の鈴が軽やかに輝いた。
 ――ふと。ルイフォンは、近づいてくる足音を感じた。
 初めは小走りで、けれど途中からは様子を窺うように、ゆっくりになる。
 横になっている彼を、気遣っているのだろう。
 目を開けなくとも、分かる。
 優しい足音は、彼の最愛の少女、メイシア。
 天と地ほど違う世界に生まれながら、気づけば惹かれ合っていた。共に居ることを望んだ結果、貴族(シャトーア)だった彼女は、すべてを捨てて彼のもとに飛び込んできてくれた……。
 彼女の息遣いが、すぐそばまでやってきた。
 彼を起こさないように、そっと顔を覗き込んでいるつもりなのだろう。しかし長い黒髪の先が、彼の頬を優しく撫でている。
 詰めの甘い、可愛らしい配慮に笑いを噛み殺しながら、彼は目をつぶったまま手を伸ばした。手探りの感覚でも、彼の指先が彼女を逃すはずもない。
「きゃっ」
 小さな、しかし心底驚いたような可憐な悲鳴。
 寝転がった彼の腕の中に、華奢な体躯が倒れ込んだ。抱き寄せた彼女の心臓が、どきどきと高鳴るのが伝わってくる。
「ル、ルイフォン……!」
 狸寝入りも大概にするか、と目を開ければ、メイド服姿のメイシアが、さぁっと頬を赤く染めていくところだった。相変わらずの反応に嗜虐心がくすぐられ、彼はより一層、強く彼女を抱きしめる。
「ルイフォン! ひ、人がっ!」
 ここは大華王国一の凶賊(ダリジィン)、鷹刀一族の屋敷の庭。桜の大樹が枝を広げる木陰の中である。当然のことながら、一族の凶賊(ダリジィン)や、庭師、メイドらが、始終うろうろとしている。
「別に、見られて困るものでもないだろ。俺たちの仲だし?」
「ルイフォンが平気でも、私が恥ずかしいの……」
 涙目になりながら訴える。それでも、強引に彼の腕から暴れ出たりはせずに、縮こまっているところが、なんとも彼女らしい。
 屋敷の者たちにしてみれば、彼らのやり取りなど、もはや慣れっこである。『ルイフォン様が、またメイシアを困らせているなぁ』と、見て見ぬふりをして、口元をほころばせるのだった。
 ――メイシアは、『様』と敬称をつけて呼ばれることを頑なに拒んだ。
 自分はルイフォンのそばに居るだけの者で、一族になんら貢献していない。それどころか、平民(バイスア)として生きていくために、皆に教えを請うている身であるから、というのが彼女の弁である。
 そんな彼女の謙虚さに、貴族(シャトーア)嫌いの凶賊(ダリジィン)たちも心を開いた。そもそも、敬愛する総帥の、愛すべきやんちゃな末子が、貴族(シャトーア)という別世界からさらってきた唯一無二の相手なのである。好意的にならない理由がない。
 ルイフォンだって、鷹刀の一族ではなく、対等な立場の協力者〈(フェレース)〉であると明言したため、正式には部外者。――けれど、『それが、なんだ?』
 細かいことは気にしない。
 それが総帥イーレオの方針であり、鷹刀一族の哲学だった。
 ルイフォンは、メイシアの髪に口づけると、ようやく彼女を解放した。ひょいと半身を起こすと、背中についた芝が、ぱらぱらと落ちて風に流される。
「それで、今の時間に呼びに来たということは、お茶か?」
 優しく笑いながら、ルイフォンが尋ねる。
 お茶も満足に淹れられないと嘆いていた彼女は、この屋敷で暮らすようになってから、まず初めにメイドに弟子入りした。
 もともと手先が器用で、頭も良いので、彼女の上達は早かった。今では、メイドの仕事をひと通りこなせるようになっている。最近は料理長について回り、料理を覚えているらしい。
「はい。今日は、皆さんとスコーンを焼いたの。……あのね。凄く、美味しそうにできたの」
 少し照れたように、もじもじと両手を組み合わせ、メイシアが嬉しそうに笑う。
 しみひとつない、白魚のようだった手には、小さな切り傷や火傷痕ができている。今は気候がいいから荒れてはいないが、寒くなったらそうはいかないだろう。
 そんな変化に心が痛まないわけではないけれど、彼女の笑顔は幸せそのもので、彼は緩やかに目を細めた。
「ルイフォン?」
「ああ、スコーンだな。行こう」
 ルイフォンは立ち上がり、尻についた芝をはたき落とす。しかし、メイシアは座り込んだまま、彼の背を不安げに見上げていた。
「どうした?」
 彼は手を差し出し、彼女を立ち上がらせた。並ぶと、彼のほうが軽く頭ひとつ分以上、目線が高くなる。鷹刀一族の直系ほどには長身ではないが、彼とて、そこそこはあるのだ。
 だからメイシアは、爪先立ちになって手を伸ばした。指先が、ルイフォンの癖の強い前髪に触れ、くしゃりと撫でる。
「……私がそばに居るから」
 見れば、メイシアの黒曜石の瞳が潤んでいた。そんな彼女の様子を訝しがりながらも、ルイフォンは笑いかける。
「どうした、急に?」
 彼の視線を避けるように、彼女はうつむく。(かかと)を下ろし、低くなった彼女は肩を丸め、けれど、ぎゅっと彼の服を掴んでいた。
「ルイフォン、怒らない?」
「俺が、お前に対して怒るわけないだろ?」
 そう彼は微笑むが、彼女は服の端を必死に握りしめる。
「……あのね。ルイフォンが…………穏やかすぎるの。あのことを聞いて以来……、……覇気がないの」
「……!」
 呼吸が一瞬、止まる。
 いつもは細い猫の目が、大きく見開かれた。
「ご、ごめんなさいっ! 私、おかしなことを言っている……!」
 メイシアは脅えたようにうつむき、激しく首を振る。
 ――彼女の言葉は、決して尖ってはいなかった。けれど、彼の心臓に深く突き刺さった。
「メイシア……」
 ルイフォンは、ふわりとメイシアを抱きしめた。簡単に押しつぶせてしまいそうな、柔らかで儚げな感触。けれど芯の強い、彼の大切な戦乙女。
「……ああ、そうだな。俺にはお前がついている」
 真実を確かめて以来、常に漠然とした不安を抱えていた。
 無意識のうちに心が脅え、いつもなら好戦的に笑うところで、どこか萎縮していた。
「俺らしくなかったな。……馬鹿だな、俺。お前が居るのにさ」
 ふぅっと大きく息を吐く。胸のつかえをすべて吐き出すように。
「よしっ、お前の自信作のスコーン、食いに行こうぜ」
 ルイフォンが目を細め、にっと癖のある笑顔を作る。
 その顔は、いつもの青空の笑顔に比べて、いくらか雲が漂っていたが、それでも晴れやかだった。
 メイシアが、ほっと安堵した瞬間、彼女の唇を彼の唇がかすめる。
「ル、ルイフォン!」
 再び頬を染める彼女の手を引き、彼は青芝生を跳ねかせ、走り出した。


 あの日――。
 初めてふたりきりで迎えた朝に、ルイフォンはメイシアに尋ねた。
「……メイシア、『ホンシュア』って名前、覚えているか?」
「私を鷹刀に行くように仕向けた、偽の仕立て屋。――そして、ルイフォンが斑目の別荘で会ったという〈天使〉……」
「そうだ。彼女は、メイシアのことを『選んだ』と言っていた。……俺たちは、彼女によって引き合わされたらしい」
 ホンシュアは、彼が『ルイフォン』であることを知っていて、そのくせ『ライシェン』という名前でも呼んだ。何かを知っている。何かが隠されている。
「ホンシュアがルイフォンのお母様……ということは……?」
 ホンシュアもまた、〈影〉にされてしまった不幸な人で、その中身はルイフォンの母親なのではないか。――そう言いたいのだろう。
 ホンシュアは〈影〉である。それは正しいと思う。けれど――。
「彼女は母さんじゃない。雰囲気も、口調も違う。……でも、何か重要なことを知っている……と思う」
「――なら、私ももう一度、彼女に会って、お話したい」
 一緒にホンシュアに会いに行こうと、メイシアと約束した。
 けれど、それは永遠に叶わなくなった。
 ――ホンシュアが死んだのだ。
 背面が無残に焼けただれた死体となって、貧民街で見つかった。情報屋のトンツァイが、そう教えてくれた。
 ホンシュアはずっと、「熱い、熱い」と苦しげに訴えていた。
 初めは人と同じ姿をしていたが、彼の目の前で、光の糸を絡み合わせたような、不思議な羽を背中から生やした。その羽は熱を持ち、彼女が苦悶の表情を浮かべたときには、炎のように熱くなっていた。
 ……おそらく羽が、彼女の体を内側から()き尽くしてしまったのだろう。
 ホンシュアは、闇の研究組織〈七つの大罪〉の実験体――。
 そんなことが容易に想像できた。


 今回の事件。メイシアの実家、藤咲家が関わる件については決着を迎えた。
 だが、鷹刀一族にとっては、まだ終わっていない。
 数日前。今後について話すため、イーレオは屋敷の中枢たる面々を集めた。その席で、ルイフォンは問うたのだ。

「親父、正直に答えてほしい。――……」

2.猫の系譜-1

2.猫の系譜-1

 それは、数日前のこと――。
 執務室の窓はぴしゃりと閉められ、先ほどまで風に揺れていたカーテンも動きを止めた。熱を含んだ陽光だけが桜の枝葉をすり抜け、カーテンのレースをくぐり抜けて外から入ってくる。
 むっとする室温にイーレオが顔をしかめると、ミンウェイが素早く立ち上がり、まだ春の範疇と言える時期でありながらも空調の電源を入れた。
 鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、屋敷の血族とメイシア、および護衛のチャオラウをこの部屋に呼んでいた。
 いつもの応接用のソファーセットだけでは手狭なので、予備のソファーも運び入れ、ローテーブルを囲むように配置されている。用意されたお茶は、涼し気な硝子のグラスに入れられており、ゆらゆらと氷が浮かんでいた。
 皆が揃うと、扉は施錠の音で封じられた。
 物々しい雰囲気に、ルイフォンの隣りでメイシアの瞳が揺れ動く。だがすぐに、かしこまったようにうつむいた。彼女のことだから、落ち着きなくあちらこちらを窺うことを非礼と考えたのだろう。
 ルイフォンは周りに気づかれないよう、彼女の背中にそっと手を回し、長い髪の先を指に絡めてくしゃりとした。
「……ぁ」
 小さく呟く彼女に、彼は口の端を上げる。
 部屋の様子からして、それなりの話がなされるであろうことは予測できる。けれど、怖がることはないのだ。むしろ、父の口から何か明かされることがあるのなら望むところだと、ルイフォンは期待していた。
 そう。――たとえば、〈七つの大罪〉の話とか……。
「ミンウェイ、トンツァイからの報告書を皆に読み上げてくれ」
 イーレオが、年齢を感じさせない魅惑の低音を響かせた。
 彼は自分だけ一人掛けのソファーに座り、広々と足を組んでいた。両腕は左右の肘掛けの上で、相変わらずの父らしい様子に、ルイフォンは苦笑する。
 父の背後に控えた護衛のチャオラウは、いつも通りの不精髭面で、向かいのソファーの異母兄エルファンは無表情。年上の甥リュイセンは、場の雰囲気を感じとってか神妙な顔をしていた。
 そして――。
 報告書を片手にした、ミンウェイ。
「……斑目は、ルイフォンの活躍により壊滅状態と言ってよいでしょう。もはや、我々に何かを仕掛けるような余力はないとのことです」
 感情を揺らすことなく、(つや)のある声が事務的に響く。
「食客であった〈(ムスカ)〉は、斑目の別荘から出たそうです。ただ、そのあとの足取りは掴めず――申し訳ないと、情報屋のトンツァイから言づかっています」
 彼女の冷静な美貌に、ルイフォンは顔を曇らせる。
 今まさにミンウェイが口にした『〈(ムスカ)〉』は、死んだはずの彼女の父親だ。
 不可解な状況に、不安で胸が押しつぶされそうであろうに、そんな素振りも見せない年上の姪。周りが気遣わなくてすむようにと、彼女は微笑み続ける。
 見ていて、辛い。
「〈(ムスカ)〉は地下に潜った、ってことか」
 吐き出すように、リュイセンが言った。
 彼は〈(ムスカ)〉には散々、虚仮(こけ)にされたとの思いがあり、心穏やかでない。歪んだ口元から奥歯を噛んでいるのが分かる。
「親父――」
 ルイフォンは軽く手を挙げた。
「〈(ムスカ)〉は〈七つの大罪〉の技術者、〈悪魔〉だ。〈七つの大罪〉に匿われている可能性が高いと思う。親父は何か――何処か心当たりはないのか? 昔の鷹刀は〈七つの大罪〉と組んでいたんだろう?」
 しかしイーレオは、ゆっくりと首を振った。
「昔ならともかく、今はどうなっているのか、まったく分からん。――お前の情報網にも引っかからないんだろう?」
 その切り返しに、ルイフォンは不快げに眉を寄せた。
 情報屋(クラッカー)(フェレース)〉ともあろう者が、〈七つの大罪〉に関しては、まるきり尻尾を掴むことができないのだ。
 異常としか言えない。
 押し黙ったルイフォンに、憐憫とも慈愛とも――あるいはただ眠たいだけの穏やかな眼差しを送り、イーレオは頬杖をついた。
「奴の狙いが俺なら、そのうちまた出てくるだろう。行方が分からぬ以上、こちらから仕掛けることもできない。そういうわけで〈(ムスカ)〉に関しては、いったん保留だ」
「祖父上! そんな悠長な!」
 楽観的な祖父に、リュイセンが食って掛かった。
「〈(ムスカ)〉は危険人物です! あの〈影〉ってのを、また送り込まれたらたまりません!」
「では、どうする?」
 口元に笑みをたたえ、挑発するかのようにイーレオが問う。
 リュイセンは唇を噛んだ。彼に意見はあっても、提案はない。それでも黙っていることはできずに……彼は、ちらりとメイシアを見て、それから強い口調で続けた。
「知っている人間を奪われることが分かっていて、指を咥えているのは愚かなことです。繰り返すべきではありません。……そうでなきゃ、メイシアの父親とか、捕虜にした警察隊員とか――犠牲になった人たちが報われません」
「……!」
 メイシアの瞳が潤んだ。
 彼女が謝意を込めてリュイセンに頭を下げると、彼は照れ隠しのように目線をそらした。
 貴族(シャトーア)嫌いから始まり、ルイフォンへの遠慮もあってか、リュイセンはいまだにメイシアと打ち解けたとは言い難い。けれど彼は彼なりに、彼女を思いやっていた。
 そんなふたりに、ルイフォンが嬉しそうに微笑む。
 微笑ましい光景。――しかし次期総帥にして、リュイセンの父であるエルファンが、眉間に皺を寄せた。
「リュイセンの言うことはもっともだが、(じつ)のないただの感情論だ」
「なっ……!」
 エルファンの氷の瞳は、実現可能なものしか映さない。噛み付こうにも、噛み付く言葉を出せぬリュイセンは歯噛みする。
「まぁ、怒るなリュイセン」
 イーレオが穏やかな微笑を浮かべ……、しかしその声はどこか冷たかった。
「お前の心意気は称賛すべきものだ。だが、死んだはずの〈(ムスカ)〉――ヘイシャオについては、詳しいことは分からずじまいだ。身動きがとれない。情報が少なすぎる」
「ですが……」
「〈影〉に関しては、敵が馬鹿じゃなければ、もはや無効だということに気づいたはずだ」
 イーレオは、分かるか? と目で問うた。けれど、リュイセンは不満顔で首を振る。
「結果的にだが、俺たちは〈影〉をすべて殺した。奴には、俺はさぞ無慈悲な人間に見えたことだろう。――俺に情がないのなら、奴が〈影〉を使うメリットはない。記憶と肉体がちぐはぐな〈影〉はすぐに見破られ、殺されるだけだからだな」
「祖父上、それはただの希望的観測です! それに、ミンウェイが……」
「俺に動揺しろと?」
 リュイセンの言葉を遮るように、眼鏡の奥から有無を言わせぬ眼光が放たれた。酷薄にすら見える角度に口を上げ、リュイセンの動きを封じる。ただのひと睨みだけで、イーレオは完全にリュイセンを支配した。
「俺には一族を守る義務がある」
 リュイセンは息も出せない。ただ冷や汗だけが額に浮き立つ。
「俺が動揺すれば、皆も動揺する。古い奴らは〈七つの大罪〉という言葉に敏感だ。皆を不安にしてはならない」
 ルイフォンは、はっとした。
 執務室に鍵を掛け、窓まで閉めたのは、屋敷の者たちにこちらの声を聞かせないようにするためだ。
 イーレオは、総帥として〈(ムスカ)〉に対してはとりあえず保留。要するに放置、という結論を出していた。父の性格からして、おそらく本意ではないだろう。だが、対処のしようがないのは事実だ。
 そして、その方針を伝えたときの反発は目に見えていた。故に、部屋を閉ざした。
 彼は、改めて父の秀でた額を見やった。
「俺にできることは、余裕の顔をして偉そうにふんぞり返っていることだけだ。――どうせ〈七つの大罪〉か、〈七つの大罪〉絡みの人間が関わっているのは分かっている。今はそれで充分だろう?」
 イーレオはソファーに背を預け、長い足を優雅に組む。王者の顔で睥睨し、魅惑の声を響かせる。
「勿論、警戒はするさ。けれど、こちらから動くのは無理だ。……それから、ミンウェイ」
「は、はいっ!」
 不意に声を掛けられたミンウェイが、上ずった声を出した。
「〈(ムスカ)〉を名乗る輩が何をしようと、お前が負い目に感じてはならない。何故なら、お前は俺のものであり、お前に関するすべてのことは、全部、俺の権利かつ責任だからだ」
 不遜なまでの命令調で、イーレオは口角を上げる。細身の眼鏡の奥から、涼やかな瞳がミンウェイを捕らえていた。
 彼女がびくりと肩を上げると、豪奢な髪が波を打つ。空気が揺れ、ふわりと草の香が抜けた。
「お前は俺の大事な一族だ。絶対に、それを忘れるな」
「お祖父様……」
 柳眉を下げて呟くが、その先の言葉は続かない。
 広く暖かな海のように、不可侵の帝王が一族を深く包み込む。それが現在の鷹刀一族であり、〈七つの大罪〉を否定したイーレオが目指したものだった。
 ――話がひと段落したとみて、ルイフォンはおもむろに口を開いた。
「親父、質問なんだけど」
 今日こそは〈七つの大罪〉に関する、何か新しい情報が語られるのではないか――そう考えていた彼にとって、この話の流れは期待外れだった。故に、自分から切り出すことにしたのだ。
「俺は斑目の別荘で、〈(ムスカ)〉と〈天使〉のホンシュアの口論を聞いた。ホンシュアは『あなた自身が脳内介入できるようなふりをして、厚かましい』と言っていた。つまり、記憶に関与する手段を持っているのは、〈(ムスカ)〉じゃなくて〈天使〉だ。違うか?」
「そうだ」
 ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。もしや、とは思っていたが、やはり父は〈天使〉について知っていた。
 ずっと気になっていたことの答えを目前に感じ、彼の心臓が激しく高鳴り始める。
「〈天使〉とは、〈七つの大罪〉の人体実験によって、人間の脳内に介入する能力を身につけさせられた者。彼女たちは、もとは普通の人間である。――この解釈はあっているか?」
 ルイフォンの隣で、メイシアが顔色を変えた。白磁の肌が、更に白く青ざめる。
 彼女には、彼の考えを既に言ってあった。
「あっているが……どうした?」
 声色に不穏を感じたのだろう。イーレオが、わずかに狼狽する。
「……」
 ルイフォンは一度だけ、ためらった。
 だがすぐにイーレオに向かい、軽く顎を上げた。
 そして、喉元に喰らいつくように、視線で斬りつけた。

「親父、正直に答えてほしい。――母さんは〈天使〉だったんだろう?」

 幾つもの息を呑む音が重なり合い、多重奏が響き渡った――。

2.猫の系譜-2

2.猫の系譜-2

「親父、正直に答えてほしい。――母さんは〈天使〉だったんだろう?」

 ルイフォンの問いかけの余韻が消えると、執務室はしんと静まり返った。
 空調から流れる送風の音だけが、部屋の中を淡々と抜けていく。快適なはずの涼気はひやりと肌を刺し、皆の心から熱を奪う。
 イーレオの美貌は、かすかに口を開いたまま凍りついていた。
 父のこんな顔をルイフォンは初めて見た。
 それだけで、答えは充分だった。
「ぁあ……」
 身を乗り出すようにして構えていた姿勢から、ふっと力が抜けた。彼の上半身は、そのままソファーに投げ出された。


 母は〈天使〉だったのではないだろうか――。
 ルイフォンは、その疑念をまず初めにメイシアに打ち明けた。
 誰にも聞かれないよう、わざわざ昔、住んでいた家――〈ケル〉の置いてある家にまで足を運んだ。そこまでしなくとも屋敷の住人たちは、立ち聞きなどという悪趣味な真似はしないのは分かっていたが、完全にふたりきりになりたかったのだ。
「……メイシア、俺の母さんは〈天使〉だったんじゃないかな」
 ルイフォンは、静かにそう言った。
 ふたりきり――声をひそめる必要はない。けれど、彼のテノールは密やかで、なのに普段よりも低く響いた。
 メイシアは黒曜石の瞳を見開いた。その表情で、どうしてそんなことを考えたのかと問うていた。
「ええとな……」
 ルイフォンは前髪を掻き上げ、少し考える。
「別に隠していたわけじゃないんだが、筋道立てて説明するためには、お前に言ってないことが多すぎるな」
 呆れるくらい、あっという間に、彼女は彼のもとに飛び込んできてくれた。だから、彼女は彼の背景をほとんど知らない。
 彼女の人生は本当にこれでよかったのか、今更ながら疑問に思ってしまう。けれど、彼女を手放すつもりもなければ後悔させるつもりもないので、それは訊かないことにする。
 ルイフォンはメイシアを見つめ、ためらいがちに口を開いた。
「……俺の母さんは、もと娼婦だった」
「え?」
「母さんが〈七つの大罪〉にいた、ってのは知っているよな。でも、その前の話だ」
「……っ」
 メイシアの喉がこくりと動き、唾を呑み込んだのが分かった。
 彼女自身、父と異母弟を救うため、一度は娼婦となることを決意した身だ。偏見の意味合いはないだろう。しかし、それでも動揺するのは仕方ない。
「母さんの母親も娼婦で、つまり母さんは娼婦と客の間に生まれた子供だった。――だから、生まれたときから生粋の娼館育ち。物心ついたときには既に実の母親は病死していて、同じ店の娼婦たちに育てられたと言っていた」
「……」
 言葉なく、メイシアの瞳がルイフォンを映す。
「ごめんな。俺は、お前みたいに綺麗な出自()じゃない」
「何を言うの!」
 彼女は叫んだ。
 唇をわななかせ、距離を縮めようとでもするかのように、彼にしがみつく。
「ああ、分かっている。お前は差別の目で見るような奴じゃない」
 けれど、改めて口に出すと、天と地ほども違う相手だったのだと再認識せざるを得ない。いつもの彼なら、そんな彼女とこうして一緒に居られることに喜びと幸せを覚えるのだが、今は引け目が双肩にのしかかっていた。
 陰りの出たルイフォンの顔を、メイシアが眉を曇らせ、覗き込む。
「ええと、あの……。あのね、ごめんなさい」
 いったい何に対して謝っているのか。おそらく彼女自身もよく分かっていないだろう。
「お前は何も悪くないだろ?」
 ルイフォンは努めて明るい声でそう言うが、メイシアは大きく首を振る。
「私、ルイフォンのことを知りたい。……周りの人のほうが、ずっとずっと、ルイフォンのことに詳しいの。それって凄く……悔しい……」
 彼女は、ぎゅっと彼の服を握りしめる。言葉の最後のほうは、消え入りそうになっていた。
 きついことは言わないので、それと分かりにくいが、これでいて実は結構、彼女は嫉妬深い。そう思ったとき、憑き物が落ちたかのように、すっと肩のあたりから楽になった。
 ルイフォンは、メイシアの背に腕を回し、彼女の肩に顔をうずめる。
「お前は可愛いなぁ」
「ル、ルイフォン!?」
「うん。そうだな。細かいことは気にしない」
 狐につままれたような顔をする彼女に笑いかける。
 そして彼は、ゆっくりと話を再開した。
「……母さんが働いていたのは、斑目の傘下の娼館だった」
 メイシアが、きょとんとした。てっきり鷹刀一族の系列の店だと思ったのだろう。
 敵対する凶賊(ダリジィン)のところから、どうやって母は鷹刀一族に来たのか。それは、これから話すのだ。
「その店は、シャオリエのところみたいな高級娼館じゃない。場末も場末、客が娼婦を嬲り殺しても、金さえ払えば、店主は笑って『また、どうぞ』と言うような店だった」
 身を震わせるメイシアを、ルイフォンは強く抱きしめる。
「あるとき、母さんは身請けされた。相手は〈(スコリピウス)〉という名前を与えられた〈七つの大罪〉の〈悪魔〉だった」
 鷹刀一族が〈七つの大罪〉と手を切ったあとの話だ。
〈七つの大罪〉が、次の取り引き相手として斑目一族が選んだことから、その傘下の娼館に〈悪魔〉が出入りしていた、というわけなのだろう。
 ――身請けの際、逃げられないように片足首を斬り落とされたことは、メイシアにあえて言う必要はない。
「〈(スコリピウス)〉は凄腕のクラッカーだった。母さんは奴から技術を学び、奴の片腕となった。やがて奴を出し抜けるほどの実力をつけて、密かに鷹刀と連絡を取った。〈七つの大罪〉を敵視している鷹刀なら、助けてくれるだろう、って」
 当時の鷹刀一族のコンピュータセキュリティはお粗末なもので、母は簡単に侵入(クラッキング)に成功し、自分の状況と要求を一方的に突きつけたのだという。そして、助けてくれたら見返りとして、ザルだらけのそのシステムを作り変えてやると、かなり高圧的に言ったらしい。
「こうして母さんは鷹刀にやってきた。――俺は、そう聞かされてきた。けど、ずっと違和感があったんだ」
 険しい声を出すルイフォンに、メイシアが不思議そうに小首をかしげた。
「おかしいところはないと思うのだけど……?」
「ええと、な。母さんは、なんというか……、いちいち偉そうだったんだ」
「え?」
 困惑をあらわにした、鈴を振るような声。
 頭の中で母の高圧的な声色を思い出していたルイフォンは、耳から清められていくような気分になる。
「こう……ひとことごとに、鼻で笑うような喋り方で。――自信過剰で、自分が一番だと思っている、というか……」
 メイシアの目が、じっとルイフォンを見つめた。
 口に出さなくても、彼女の思っていることはしっかり顔に出ていた。
 ルイフォンとそっくりに思えるのだけど……――と。
 彼は苦笑して、言葉を続ける。
「根拠なき自信、というわけじゃない。実際、母さんは凄かった。何しろ、〈七つの大罪〉から〈(フェレース)〉という名前まで貰っている。母さんは、自分は〈悪魔〉ではないと言っていたけれど、組織内でかなりの権力を持っていたと思う」
「うん……」
 どう反応したらいいのか分からないのだろう。メイシアが曖昧に頷く。
「でもさ。それって、おかしくないか? 母さんは身請けされた、もと娼婦だ。相手の男がたまたま〈七つの大罪〉の〈悪魔〉だったというだけで、母さんの立場はあくまでもその男の情婦。〈七つの大罪〉とは関係ないはずだ。なのに、どうして母さんは、あんなに偉そうだったんだ?」
「それは、お母様が〈(スコリピウス)〉の片腕として活躍なさったからでしょう?」
「そうだな。そのことに間違いはないだろう。……けどさ。じゃあ〈(スコリピウス)〉って何を研究していた〈悪魔〉なんだ? ただのクラッカーが〈七つの大罪〉の〈悪魔〉を名乗っていたのか? ――俺にはそう思えない」
 言いながら、ルイフォンは歯噛みする。
『ただのクラッカー』――それは自虐の言葉だ。自分というクラッカーを軽んじている。
 けれど、悔しいが〈七つの大罪〉の技術は、彼の遠く及ばぬところにある。その証拠が母の作った人工知能〈ベロ〉だ。人間と変わらぬ、柔軟な思考を持ったそれは、彼には到底、作れない代物だった。
「〈(スコリピウス)〉は何か、とてつもない研究をしていたはずなんだ。……そして、そんな高度な研究の補佐に、無学なもと娼婦を使うか? 母さんは文字の読み書きすらできなかったんだぞ? そこから教えて、使い物になるように育てるか!? あり得ないだろう!」
「ルイフォン……」
「母さんは、自分は『特別』だったと言っていた。――〈(スコリピウス)〉は、次から次へと娼婦を身請けしていたらしい。だから俺は、そのたくさんの情婦たちの中で、片腕となるほどの才覚があったから、母さんは特別扱いされたんだと思っていた」
 ルイフォンは、メイシアを見つめる。彼女には、あまり残酷なことは言いたくない。わずかに、ためらう。……けれど、言わざるを得なかった。
「じゃあ、〈(スコリピウス)〉は、何故そんなに、たくさんの女たちが必要だった? そして、『特別』でなかった女たちはどうなった?」
 ルイフォンの雰囲気を察し、メイシアが顔色を変える。
 彼はごくりと唾を呑み、そして告げた。
「人体実験だ。――〈(スコリピウス)〉は、身請けした女たちを人体実験に使っていたんだ」
 それが、ルイフォンの出した結論だった。
「ほとんどの女たちは、命を落としたんだろう。だから、次々に補充されたんだ。そんな中で、母さんは『特別』な成功例。優遇され、教育も施された。――そして、〈(スコリピウス)〉の研究は、おそらくは〈天使〉……」
 メイシアの瞳が一度だけ瞬き、見開いたまま固まった。
「母さんは、異常な暑がりだった。俺が仕事部屋の室温を低く保つのは機械類のためだが、もとはと言えば母さんの習慣を引き継いだだけだ」
「……」
「母さんが〈天使〉なら、〈七つの大罪〉で権力を持っていてもおかしくないだろ?」
 母にとって、〈七つの大罪〉は決して恐れるものではなかった。彼女自身がそう言っていたのだから、間違いない。――そのことも、〈天使〉なら納得できる。〈天使〉は他人を支配する能力を有するのだから。
 無論、これは推測であって、事実とは限らない。
 けれど、胸の中がもやもやしてたまらない。足元の地面が、がらがらと崩れていくような感覚がする。
 ――そして、母が〈天使〉だったとしたら、それが現状とどう繋がるのか。関係があるのか、ないのか。……おそらく、あるはずだ。そんな気がする。
 推測に推測を重ねても、真実に近づくとは限らない。けれど彼は、考えずにはいられない。
「……ルイフォン」
 鈴の音の声と共に、ふわりと頬が温かくなった。
「え?」
 驚いて目を丸くする。――ルイフォンの顔を、メイシアの両手が優しく包み込んでいた。
 彼女の皮膚の感触が、彼の頬の筋肉を柔らかにほぐす。知らずに繰り返していた歯ぎしりが、頬骨と顎を酷使していたことに初めて気づいた。
「……メイシア?」
「話してくれてありがとう」
「ああ……いや。俺が言いたかっただけだ」
 ひとりで抱えていたくなかったから――。
 今までだったら、誰にも言わなかったのかもしれない。けれど、今はメイシアがそばに居る。
「イーレオ様に、聞いてみるの?」
「あ……」
 言われて初めて気がついた。
 あの父だったら知っているのかもしれない。
 彼は漠然と、母は正体を隠していたと思い込んでいた。羽の生えた母の姿など、見たことがなかったからだ。
 だから、〈ケル〉や〈ベロ〉や、母が生前、使っていた部屋などを調べるつもりでいた。
「ああ、そうか。親父は〈七つの大罪〉を知っているんだもんな」
 そう考えれば、母が本当に〈天使〉なのであれば、正体を明かしているほうが自然だろう。
 盲点だった。
 こんな近くに、情報が落ちている可能性に気づけなかった。
「やっぱり、俺のそばにはお前が必要だな」
「え?」
 首をかしげる彼女に、彼は「ありがとな」と微笑む。
「親父に聞いてみよう」
「うん」
 いつ聞くのか、どう切り出すのか。メイシアは、そんなことは尋ねない。ただ、『うん』とだけ。
 ――そのときは、そばに居るから。
 だから、あとはルイフォンの思う通りに。
 言葉に出さなくとも、彼を守る戦乙女の声が聞こえていた。

2.猫の系譜-3

2.猫の系譜-3

 ふつりと糸の切れた操り人形のように、ルイフォンはソファーに倒れ込んだ。
「ルイフォン!」
 執務室に、メイシアの悲鳴が響く。
「――そうだ。お前の母キリファは、〈天使〉だった」
 遅れて、イーレオの低い声がかぶさる。
 崩れ落ちたルイフォンは、魂が抜けたかのように無表情だった。背もたれに身を預けることで、やっと体を起こしている……。
 ――自分から訊いた。確信を持って尋ねた。
 なのに彼は、心臓が凍りついていくような衝撃を受けていた。推測することと、それが正しいと断言されることの間には、大きな隔たりがあることに初めて気づいた。
 隣では、青ざめたメイシアが、今にも泣き出しそうな顔で彼を見つめている。
「黙っていて悪かった――と言うべきか?」
 肘掛けに肘をついたまま、イーレオは肩を落とした。
「だがな……。別に、隠していたわけじゃない。キリファ自身が言わなかったことを、俺が勝手に言うのも違うだろう?」
 寂寥を帯びた目で、イーレオが溜め息をつく。
 その目がちらりと、同じく昔を知る長子エルファンを見た。彼ら父子は、そっくり同じ顔をしていた。
「それでも、お前には言っておくべきだったかもしれんな……。――部屋に帰って少し休め。今日はこれで解散とする」
「……っ」
 ルイフォンは口を開けた。けれど、声が出なかった。
 困惑を見せながらも、一同が腰を浮かせ始める。その光景を、彼の目はただ虚しく映す。
 ――このまま部屋に戻って休めだと? 納得できない。
 親父はまだ、何かを知っている。どんな些細なことでもいいから、知っていることをすべて吐き出してもらうまで、解散なんて認められない。
 心は強く、そう訴えているのに、体が動かない。
 そのとき――。
「お待ちください!」
 凛とした高い声が、皆の足を縫い止めた。
「ルイフォンの質問は、まだ終わっていません」
 メイシアが綺麗に足を揃えて背筋を正し、その場に留まり続けるべきだと示す。膝に載せた手は、小刻みに震えている。けれど彼女は、それを握りしめることで必死に動きを抑えていた。
「立場もわきまえず、申し訳ございません。でも、まだ、ルイフォンが……」
「メイシア……」
 ルイフォンは呟いた。
 その名前は、凍った体を溶かす呪文だったのだろうか。
 動かなくなっていたはずの腕が、すっと動いた。彼女の肩を抱いて、胸元に引き寄せる。彼女の瞳からこぼれかけた涙を、そっとシャツで拭く。
(わり)い、俺としたことが取り乱した。……さすがにショックだったからな。すまん」
 いつもの調子に戻ったルイフォンに、皆がほっと胸をなでおろした。
 そうして一同が席に戻る。
 ミンウェイとメイシアが、ワゴンに用意してあった冷たい茶のおかわりを配り、仕切り直しとなった。


 ルイフォンは喉を湿らせてから、再び口を開いた。
「親父……。〈天使〉って、いったいなんだ?」
 声は引きつり、かすれていたが、瞳はしっかりとイーレオを捕らえていた。
「〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶(データ)命令(コード)を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入(クラッキング)して相手を乗っ取るクラッカーだと――キリファが言っていた」
「あぁ……」
 すとん、と。ルイフォンの胸の中に、何かが落ちた。
 母がクラッカーだったことには、ちゃんと意味があったのだ。
 無機物のコンピュータと、有機物の人体と、勿論、違いはあるだろう。けれど、どこかで同じ理屈を使っている。そういうことだろう。
「〈七つの大罪〉は古くから、人間の脳内介入という技術――〈天使〉の研究をしていた。人間の体に『羽』を取り込ませることによって〈天使〉となるらしい」
 イーレオの低音に、ぴんと空気が張り詰める。
 誰かがごくりと唾を呑んだ。その音が、妙に大きく聞こえる。
「羽は、〈天使〉と侵入(クラッキング)対象の人間を繋ぐ接続装置(インターフェース)であり、限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こす」
 イーレオの声が、寄せては返す。
 それは、さらさらとした砂地の足元を、すくっては崩していく波のようだった。
「たいていの〈天使〉は、ほんの数回の介入を行うだけで限界を迎えて死に至るそうだ。……〈天使〉とは、そんな儚い存在だ」
「じゃあ、母さんは……? 母さんは死にかけていたのか? そんな馬鹿な」
 母の、あの息子を小馬鹿にしたような顔の下で、実は苦しんでいたなんて思えない。彼女は我慢なんてちっともしない。自由で奔放で、まさに猫のような人だった。
 ルイフォンの感情は、顔に出ていたのだろう。イーレオがわずかに笑んだ。
「キリファは『特別』だ。並外れて、羽と相性が良かったらしい。だから、〈悪魔〉でもある〈天使〉という意味合いで〈堕天使〉と呼ばれ、〈七つの大罪〉から名を貰った」
「それが、『〈(フェレース)〉』……」
「そうだ」
「……なら、どうして母さんは〈七つの大罪〉を出たんだ? 決して待遇は悪くなかったはずだろう!?」
 それは、ずっと疑問に思っていたことだ。
「キリファを実験体とした〈悪魔〉――〈(スコリピウス)〉が、〈堕天使〉の秘密を解明するために、キリファを解剖しようとしたらしい」
「なっ……!」
 驚くと共に、納得もする。それならば、逃げ出して当然だろう。
 そのとき、ぱりん、と不可解な音が響いた。
 何が起きたのか、ルイフォンは即座には理解できなかった。
 だが、一瞬遅れて、ミンウェイの「エルファン伯父様!?」という鋭い悲鳴が聞こえ、はっとする。
 エルファンが、手にしていた硝子のグラスを握りつぶしていた。掌の中でグラスが半分ほどの大きさになり、溶け残っていた氷と硝子の破片が、血の混じった茶の中で仲良く揺れていた。
「ああ、失礼」
 皆の注目を浴びていることに気づいたエルファンは、こともなげにグラスをテーブルに置き、そばにあった手ふきで掌を拭う。
 そして、実につまらなそうに吐き捨てた。
「キリファは、あの男を――〈(スコリピウス)〉を愛していた」
「エルファン!?」
 ルイフォンは叫ぶ。
 迂闊だった。
 母のキリファは、エルファンのもと愛人だ。母の話に何も感じないわけがないのだ。
「『愛していた』と言っても、はたから見れば、ただの思いこみだ」
 無表情にも、この上なく冷酷にも見える顔で、エルファンが言う。
「〈(スコリピウス)〉は、キリファをごみ溜めのような生活から拾い上げ、〈天使〉の能力を与え、学をつけてやった。そして『愛している』と囁き続けた。――当時のキリファは、娼館の外の世界を知らない、十五かそこらの小娘だ。〈(スコリピウス)〉に精神を支配されて当然だろう」
 エルファンの低い声には深い憎悪が含まれていた。
 このときになって初めて、決して動じないと思っていた異母兄が感情に揺り動かされていることに、ルイフォンは気づいた。
「〈(スコリピウス)〉はキリファが怖くなったのさ。彼女が本気になって〈天使〉の能力を使えば、自分のほうが支配されることに、今更のように気づいた。だから、研究のためと称し、解剖という形で彼女を殺そうとした。……酷い裏切りだな」
「エルファン……」
「私が迎えに行ったんだよ。――助けを求めてきた〈(フェレース)〉をな」
 呆然と呟くルイフォンに、エルファンが言う。まるで、心に溜まっていたものを吐き出すかのように、脈絡もなく。
「〈(スコリピウス)〉の研究室で、私は彼女の〈天使〉の能力を見た。圧倒的だった。彼女は無敵だった。――逃げるだけなら、鷹刀の助けなど彼女には必要なかった」
「なら、どうして母さんは……?」
「〈七つの大罪〉を捨て、〈天使〉の能力を使わずに生きたいと思ったんだろう。だから、自分を保護する相手に鷹刀を選んだ。外の世界を知らない足の不自由な小娘が、普通に生きていくのは難しい。けれど、〈七つの大罪〉を敵視している鷹刀なら、クラッカー〈(フェレース)〉として重宝されることが期待できた。実際、そうだったしな」
 エルファンは視線を落とした。
 その仕草は、彼らしくもなく、余計なことをいろいろと喋ってしまったことを悔いているかのようだった。
 けれど最後に、ぽつりと言う。
「私が彼女の〈天使〉の能力を見たのは、助けに行ったときの一度きりだ。だから、彼女は〈天使〉などではない……」
 その低い声からは、感情の色が綺麗に抜け落ちていた。無色透明であるが故に、彼の心が透けて見えた……。
 やがてイーレオが解散の号令をかけ、この場はお開きとなった。

3.密やかなる月影の下で-1

3.密やかなる月影の下で-1

 窓に浮かぶ月が、やけに大きく見えた。
 紺碧の空から注がれる、光の帯――。その幻想的な揺らめきに誘われ、リュイセンはバルコニーに出た。
 夜は月の支配下にあり、世界は青白く染め上げられている。そのせいか、星明りと庭の外灯は、ぼんやりと遠慮がちに見える。
 綺麗だな、と彼は思った。
 肩までの黒髪を夜風が揺らし、頬をかすめる。暑くもなく、寒くもなく、肌に馴染む心地のよい外気に、彼はほっと息をつく。
 今まで当たり前だと思っていた夜がそうではないことを、彼は先日、倭国で知った。祖父の命令で行った彼の国は、常に鮮烈な白い光であふれ、まどろみすら忘れていた。
 大華王国とて、繁華街は夜でも明るい。けれど、温かみのある橙色をしている。そして一歩、路地を曲がれば、背中合わせの闇を知ることができる。
 端的にいえば、国力の差だ。
 富裕が良いことなのか悪いことなのかは分からない。だが彼の国では、闇の中で刀を振るう者などいない。
『父上は、私かお前か、遅くともその次の代には、鷹刀を解散するつもりだ』
 彼の国の夜景を眺めながら、父エルファンはそう言った。
『私たちは時代遅れの存在だ』
 リュイセンは愕然とした。足元が崩れ落ち、奈落に吸い込まれるような感覚を覚えた。
『じゃあ、俺たちはなんのために、日々鍛錬に励み、一族を守ろうと努めているんですか!?』
『未来のためだ』
『未来?』
『父上は、本当は凶賊(ダリジィン)の総帥などにはなりたくなかった。ただ、殺された恋人のために、復讐をしたかっただけだ』
『なんだって……?』
『だが、それでは本懐を遂げたところで未来はないと、シャオリエ様に諭されたそうだ。だから父上は長い長い時間を掛けて、鷹刀という凶賊(ダリジィン)を――いや、この国から凶賊(ダリジィン)そのものをなくそうとしている』
 眠りを知らない夜の光が、自分とそっくりな父の美貌を照らし出す。華やかな色彩が視界の端で踊り狂い、リュイセンは言葉を失っていた。
 祖父イーレオは、絶対的な存在だ。けれど、どこか手ぬるくて、凶賊(ダリジィン)の総帥らしからぬ言動が多かった……。
『――俺に、どうしろと言うんですか?』
『別にどうしろ、ということではない。今は、このままでいい。むしろ急激な変化は避けるべきだろう。(ひず)みを生むからな』
 理解できるような、できないような、そんな言葉。
 ただ、長い目で未来を見据えろと、父と――そして祖父が言っていることは分かった。
凶賊(ダリジィン)の未来、な……」
 リュイセンは溜め息をつく。
 父から話を聞いたときには漠然と受け止めただけであったが、今は少しだけ見えてきた気がする。それは、叔父にして弟分であるルイフォンに起因する。
 確かにルイフォンは、武力面では弱い。けれど知力によって、たった半日足らずで斑目一族を壊滅状態に陥らせた。今まで誰も成し得なかったことを――たったひとりで。
「あいつが一族最強ってことじゃねぇか……」
 そう呟いてから、弟分はもはや一族ではないことを思い出す。
(フェレース)〉は鷹刀一族とは対等な協力者なのだと、ルイフォンは明言した。その立場をはっきりさせることが、メイシアの居場所を作るために必要なのだと主張した。
 リュイセンは、再び溜め息をついた。
 後継者だったはずの兄も、一族を出ていった。
 幼馴染の一族の女を娶る際に、『彼女を表の世界で活躍させてやりたい』と言って、我儘を通すためにチャオラウとの一騎打ちの勝負に出た。義姉となった女は、王宮に召されるほどの実力を持った剣舞の名手であり、凶賊(ダリジィン)の妻となるのは都合が悪かったのだ。
 兄は会社を興し、一部の部下たちがあとを追って一族を抜けた。今から思えば、それもイーレオが画策している、一族の緩やかなる解散の一環だったのだろう。
 鷹刀一族は――凶賊(ダリジィン)は、滅ぶべき存在なのだろうか……?
 リュイセンには、そうは思えない。一族は互いを必要とし、心の()りどころにしている。
 そして、傷だらけのミンウェイを守れる場所は、ここだけのはずだ。
 紺碧の空に雲が走り、月が陰った。
 青白い世界は黒く沈み、庭の外灯だけが、ぼうっと虚ろに闇を照らす。
 リュイセンはふと、自分だけが取り残されているような不安を覚えた。


「おい、ちょっといいか?」
 そんな声と共に、ルイフォンが部屋に入ってきた。
 今まさに、この弟分のことを考えていたリュイセンは、なんとなく、ばつが悪い。曖昧な返事をしながらバルコニーから戻ると、ルイフォンが勝手知ったるとばかりに戸棚からグラスを出しているところであった。テーブルの上には、厨房から頂戴してきたらしき酒瓶が載っている。
「飲もうぜ?」
 そう言いながら、リュイセンの返事を待たずに、ルイフォンはふたつのグラスに酒を注ぎ始めた。
 とぽとぽと音を立て、色の濃い液面が上がっていく。そのさまを、弟分は猫のような目を細め、楽しげに見つめる。母親が〈天使〉だったと知って以来、ふさぎ込んでいた様子だが、今宵はいつになく上機嫌だった。
「いったい、どういう風の吹き回しだ?」
 ルイフォンの向かいに座り、リュイセンは尋ねた。
「最近、お前と飲んでいなかったな、と思ってな」
「メイシアはいいのかよ?」
 マイペースなルイフォンなので、こうしてふらりとリュイセンの部屋に来ることは珍しくはない。だが、このところ、それが少なくなっていたのは、やはりメイシアが原因だと言わざるを得ないだろう。
「あいつは料理長の手伝いがあるとかで、まだ厨房にいる。そもそも、あいつは滅茶苦茶、酒に弱い。あいつとは飲めん」
「……俺は明日一限から、講義があるんだが?」
 言っても無駄だと思いつつ、リュイセンは一応、婉曲な断りの文句を言ってみる。
 案の定、返ってきたのは素っ頓狂なテノールだった。
「あぁ? お前、大学生だっけ? 似合わねぇ!」
「似合わなくて悪かったな。これでもレポートは真面目に提出してるし、必要な単位は落としてない」
「あー……。(わり)い。俺には、お前の言っていることの重要性が理解できん」
 少しだけ困ったような猫の目が、リュイセンを見ていた。
 ルイフォンは母親が自由民(スーイラ)で、父親は平民(バイスア)。彼自身は平民(バイスア)ということになっているはずだが、初等教育すらまともに修めたかどうか怪しい。
 けれど、彼は天才クラッカー〈(フェレース)〉であり、なおかつ違法行為に頼らずとも、身につけた技術で一財産築けるという。
 どう説明したものかと悩むリュイセンに、「ま、いいや」というルイフォンの声が掛かった。
「ミンウェイだって大学に行って、医師免状を取っていたもんな。そんなもんなんだろ?」
 少々ずれた解釈のような気もするが、納得してくれたならそれでいい。
 リュイセンは頷いた。
「ああ、そんなもんだ」
「ふむ」
 酒をあおりながら、ルイフォンが相槌を打つ。そして「ならさ」と続けた。
「お前は、なんのために大学に行っているんだ?」
 それは、たいして深い質問ではなかったに違いない。その証拠に、物好きだなぁと言わんばかりに、弟分の口の端は上がっていた。
 ――リュイセンは、何も答えられなかった。
 焦燥が全身を襲う。
 しかし彼がとった行動は、慌てる素振りを見せるでなく、ただ目の前のグラスを手に取り、中身をゆっくりと口に含むことだった。
 まろやかで美味いはずの酒が、妙に苦く感じられた。
 ルイフォンはそれ以上、言及しなかった。気遣いだったのかもしれないし、もともとそれほど興味がなかっただけなのかもしれない。
 弟分はいつの間にか空になっていた自分のグラスに、新たな一杯を注いでいた。何が楽しいのやら、揺れるグラスの水面に向かって微笑んでいる。
 そして、唐突にリュイセンを見上げた。
「俺さ、母さんが〈天使〉だと親父にはっきり言われてから、らしくなかったよな?」
「あ? ――ああ……?」
 確かにそうであったが……と、リュイセンは訝しげに眉を寄せる。
 目の前のルイフォンに、昨日までのふさぎ込んでいた面影はない。それどころか、どこか余裕すら感じられた。
「母さんは、昔から秘密めいたところがあってさ。……だから〈天使〉って存在(もの)を知ったとき、なんか納得したんだよ。母さんは〈天使〉だったんだな、って」
 ルイフォンが、手元のグラスに視線を落とす。
「だから別に、母さんが〈天使〉だってことは、ショックでもなんでもない。そうじゃなくてさ……なんて言えばいいんだろうな?」
 ルイフォンは困ったような顔をして、くしゃりと前髪を掻き上げる。
「俺にとって、母さんは『無敵』だった。悔しいけど、俺なんか足元にも及ばない。いつも高いところから俺を見下して、小馬鹿にしている。――そんな人だった」
 リュイセンと初めて出会ったときも、ルイフォンは母親に未熟さを指摘されて苛立っていたところだった。幼かった彼は、その鬱憤を桜の木にぶつけようとしていたのだ。
 ――懐かしい思い出が、リュイセンの頭をよぎる。
「〈天使〉ってのは、憐れな人体実験の被害者、ってことだろ……? あの母さんが、そんな弱くて脆い存在だったなんて――俺は、認めたくなかったんだろうな」
「ルイフォン……」
 弟分はテーブルに肘をつき、手の中のグラスを揺らしていた。白いテーブルクロスの上で、濃い色の影が踊っている。
「――そしたらさぁ。……今日、メイシアがなんて言ったと思う?」
 不意に、ルイフォンがにやりと笑った。得意げな猫の顔だった。
 リュイセンは、はっと顔色を変えた。
 どうやら弟分の調子が戻ったのは、メイシアのお陰らしい。つまり、こいつは惚気けに来たというわけだ。
 リュイセンは急に馬鹿馬鹿しくなってきた。
「……知るかよ」
 そんなリュイセンの無愛想な返事も気にせずに、ルイフォンは実に嬉しそうに告げた。
「『覇気がない』」
「……は?」
 無視を決め込んでやろうと思っていたリュイセンだが、思わず反応を返してしまった。
「『覇気がない』だ。――最愛の男に向かって言う台詞かぁ?」
 言葉とは裏腹に、ルイフォンは満面の笑顔である。
 普通の女なら、こういう場合は可愛らしく『元気、出して』と言うことだろう。メイシアは、外見なら文句なく可愛らしい。ならば、それを使わぬ()はないだろうに……。
 そう思う一方で、彼女が決してそんなことを言わないことをリュイセンは知っていた。儚げで美しい容貌から、彼女はか弱い女性と判断されがちだが、それはとんでもない間違いなのだ。
「メイシアは…………。…………斬新な意見を言うな」
 ご機嫌な弟分の気分を削いでも仕方ないので、リュイセンは精一杯の譲歩で評する。
「俺が穏やかすぎるんだと、それで覇気がないと。まったく、あいつの中で俺はどんなイメージなんだよ?」
 ルイフォンは、からからと笑い、酒をあおった。
「けどな、あいつのそのひとことが俺を解放した」
 実に美味そうに息をつき、また注ぐ。
「俺はいつだって、俺なんだし、俺であることが一番大事なんだよな」
 酒が揺れる振動を楽しむかのように、掌の中でグラスをもてあそび、ルイフォンは目を細めた。
「お前、酔ってもねぇくせに、言っていることが酔っ払いみたいだぞ」
 先ほどから立て続けに飲んでいるが、このくらいで酔うようなルイフォンではない。
「俺は素面でなんでも言えるけど、お前はそうじゃないだろ?」
「はぁ?」
 いたずらを企んでいるようなルイフォンの猫の目が、うずうずとリュイセンを見つめている。
「俺は分かりやすく落ち込んでいたけど、お前だって分かりにくく落ち込んでいただろうが。――お前も『覇気がない』ぞ」
「なっ……!?」
「ミンウェイのことか?」
 ルイフォンの言葉が足音もなくリュイセンの心に忍び込み、爪痕を残していく。
「……違うさ」
 リュイセンは、凶賊(ダリジィン)の未来について悩んでいたはずだ。
 ミンウェイのことは、ついで程度のことだ……。
 不意に、窓の外が陰りを見せた。流れてきた雲が、月光を遮ったのだろう。
「……飲むか」
 リュイセンはグラスをあおる。
 空になったグラスがテーブルに戻されると、ルイフォンがすかさず酒を注いでった。


 ルイフォンとリュイセンが、酒を酌み交わしていたのと同時刻――。
 メイシアはひとり、執務室を訪れていた。

3.密やかなる月影の下で-2

3.密やかなる月影の下で-2

 執務室に、月光が注ぎ込む。
 時折、雲に遮られては沈黙する光の気配に、メイシアの心は震えていた。
 ほんの少し気になったことを、イーレオに確認したかっただけである。しかし、実は恐ろしくだいそれたことのように思えてきた。……かといって、今更、引き返すのも失礼だろう。
「ふたりだけで話をしたいとは……いったいどうした?」
 イーレオの声が響く。
 彼は片方の眉をわずかに上げ、魅惑の美貌をかすかに歪めていた。けれど口元はほころんでおり、決して不快に思っているわけではないことを示している。
 執務机で相対(あいたい)するのではなく、ソファーで話そうと彼は彼女を促した。
 同じ目線でイーレオと向かい合う。相変わらず横柄に足を組んだ姿勢であったが、彼がイーレオである以上、それは仕方のないことだった。
「夜分遅く、申し訳ございません。私の我儘な面会の申し入れ、快諾いただきありがとうございます」
 メイシアが水平になるまで深く頭を下げると、長い黒髪がローテーブルを撫でた。そんな相変わらずの律儀さに、イーレオから苦笑が漏れる。
「俺は別に構わないが、こんな時間に、俺とお前がふたりきりなんて知ったら、ルイフォンは穏やかじゃないだろうな?」
 ふわりと包み込むような柔らかな顔。彼女の緊張を解きほぐすかのように優しく覗き込む視線は、けれど、どこか色めいている。夜も遅いからか、背で緩く結わえた髪は乱れがちで、頬をかすめて揺れる(さま)は妙に(なま)めかしかった。
 途端、メイシアの顔が耳まで真っ赤になった。
「あ、あの……っ!」
「しかも、あいつに悟られないよう、料理長を通して密かに約束を取りつけるとは……」
「イ、イーレオ様っ!」
 無論、メイシアには分かっている。イーレオは、単に彼女をからかっているだけであると。純情な彼女を赤面させて楽しむところはルイフォンそっくりで、さすが彼の父親といえた。
 イーレオは、にやりと満足げに目を細めた。
 それから、ふっと真顔になる。
「つまり――それだけ、あいつに聞かれたくない話なんだな?」
 密談にふさわしく、低い声で囁く。
 急激な変化にメイシアは一度、目を瞬かせたが、すぐに「はい」と答えた。
 イーレオは黙って頷くと、組んでいた足を戻す。肘は肘掛けに載せたままだが、気持ち背を起こした。それを合図に、メイシアは話を始めた。
「ルイフォンの記憶に、違和感を覚えたんです」
「記憶に、違和感?」
 イーレオが眉をひそめる。
「はい。『記憶』と言いますか、彼の『思考』に……」
「ふむ」
「……勿論、私の考え違いかもしれません。けれど、もしも、私の推測が正しければ、ルイフォンは〈天使〉の介入を受けたのだと思います。――おそらくは彼のお母様に。それに関係することで、イーレオ様にお尋ねしたいことがありました」
「ほう……?」
 意外だ、と言わんばかり顔で、イーレオは相槌を打つ。けれど、深い色の瞳からは、その心は読み取れない。
「イーレオ様?」
「ああ、いや。てっきり、『母親のキリファが〈天使〉ならば、ルイフォンも〈天使〉なのではないか』と言い出すのだと思っていたんだが……。まさか、別のこととはな」
 イーレオの言葉に、メイシアは顔色を変えた。
「そ、そのことも気になっていました……! でもルイフォンは『俺の体は普通だし、後天的に与えられた〈天使〉の能力が、遺伝するわけないだろ』と言って、笑い飛ばしています」
 不安がるメイシアに、ルイフォンは『心配するな』と髪を撫でた。
 だから、彼を信じて、彼女はその疑惑は封じた。確かに、彼が〈天使〉なら、今までに何かしらの予兆があってしかるべきだろう、と思って。
「あいつらしいな」
「あのっ、イーレオ様は何かご存知なのですか?」
 恐る恐る、と言った(てい)でメイシアは尋ねる。
「俺にも分からん。だが、十六年間あいつを見てきて、羽が生えてきたことは一度もない、とだけは言える」
「そうですか……」
 真実は不明であることに変わりはない。しかし、イーレオの証言を得たことで、メイシアは少し安堵した。
「話の腰を折って悪かったな。――それで、お前が訊きたいことは? 詫びと言ってはなんだが、なんでも答えてやろう」
 イーレオの魅惑の微笑に、メイシアの気持ちが和らぐ。彼女は「ありがとうございます」と頭を下げ、ぎゅっと胸元のペンダントを握った。
「少し、遠回りの話になりますが……」
 できるだけ簡潔に話すべきと思いつつ、強く違和感を覚えた理由を伝えるために、彼女はあえて回り道から入る。
「ご存知だと思いますが、私の実家――藤咲家のライバルである、厳月家の当主が暗殺されました」
「ああ」
「いろいろと悪い噂のある方でしたから、ほうぼうで恨みを買っていたと思います」
「そうだな」
「けど、今、このタイミングで、と考えると……」
 メイシアは、そこで言いよどんだ。彼女の中で答えは出ているのだが、いざ口にだすのは勇気のいることだった。
 それはイーレオも察していた。だから、彼はじっと待った。
『言わなくても分かっている』と言って、メイシアに楽をさせることは簡単である。しかし、彼はそれほど甘い男ではなかったし、彼女の強さを認めていないわけでもなかった。
 メイシアは意を決し、まっすぐにイーレオを見つめた。
「私の異母弟ハオリュウが、警察隊の緋扇さんに暗殺を依頼したのだと思います。厳月の当主は、私たちの父を〈影〉にした仇のひとりですから……復讐、です」
「おそらくな」
 イーレオは静かに頷き、メイシアを見つめ返す。
「……凶賊(ダリジィン)の総帥なんぞをやっている俺からすれば、ハオリュウを末恐ろしい奴だと評価するが、お前は納得できないか?」
 彼は肘掛けに体重を載せて、見守るような眼差しでのんびりと頬杖をつく。
 メイシアは、(かぶり)を振った。
「いいえ。私も、厳月の当主を許せないと思いました。だから同罪です。……でも、まさかハオリュウが――と思ってしまったのも事実です」
「メイシア、ハオリュウはそういう男だ。歳こそ若いが――いや、若さすら武器にする、喰えない奴だ。俺が今、一番敵に回したくない男だよ」
「そんなっ……!?」
「やれやれ。彼の真価に気づいていないのは、お前くらいだろう。今後も鷹刀は、彼と良好な関係でありたいね」
 そう言って、イーレオがくすりと笑う。
 メイシアは思いがけず異母弟を褒められ、恐縮に身を縮こめた。それから、すっかり話がそれてしまったことに気づく。
 ハオリュウのことは、もういいのだ。複雑な思いはあるが、素知らぬふりを通すと決めた。――強くなることをルイフォンが教えてくれたから。前に進むことのできる自分でありたいから……。
「すみません、イーレオ様。回り道が過ぎました。……つまり、親を殺された私たちは、当然のように復讐を考えたのです」
「あ? ああ……?」
 急に様子の変わったメイシアに、イーレオが戸惑いを見せた。
 そのことを申し訳なく思いつつ、彼女は切り出す。
「――なら、ルイフォンは?」
 メイシアの目線が射抜くようにイーレオに向かう。
「ルイフォンのお母様は、正体の知れない者に殺されたと、彼から聞きました。――彼は、お母様の仇を討とうとは考えなかったのでしょうか?」
 イーレオが、息を呑んだ。
 メイシアは声を荒立てるでなく、淡々と続ける。
「ルイフォンの気性なら、お母様を殺した者を決して許せないはずです。仇を取りたいと思うはずです。……なのに彼は復讐を考えていないのです」
「お前は何故、『ルイフォンは復讐を考えていない』と思うんだ?」
「彼が『正体の知れない者』と言ったからです。それは、『情報収集を得意とするルイフォンが、お母様の仇の素性を調べていない』。つまり、復讐を考えていない、ということになるんです」
 頬杖の姿勢のまま、イーレオの動きが止まった。凶賊(ダリジィン)の総帥ともあろう者が、その瞬間、完全に無防備になっていた。
 だがすぐに彼は自分の動揺に気づき、何ごともなかったように「なるほど」と呟く。そして、視線だけを動かし、深い色の瞳でメイシアを見つめた。
「ルイフォンの行動としておかしいから、キリファの〈天使〉の能力が関係しているのではないか――と、お前は考えたわけか」
 メイシアが「はい」と頷く。
「おそらくは、お前の言う通りなのだろう。……残念ながら、確かめる(すべ)がないがな」
 イーレオは、小さく溜め息を漏らした。
 キリファの死を思い出すことは、決して愉快なことではない。だが、メイシアがこんなにもルイフォンを想い、心を配ってくれることは喜ばしい。果報者め、と言ってやらねばならん……。
 そんな、切なくも穏やかな気持ちは、メイシアの顔を見た途端に吹き飛んだ。
「イーレオ様」
「メイシア!?」
 彼女とは思えぬ低い声に、イーレオはたじろぐ。
「キリファさんが、死の間際にルイフォンの記憶を改竄したのなら……それは、彼が『見てはいけないものを見てしまったから』に他なりません。……お母様の仇は、ルイフォンが信じているような、ただの強盗ではあり得ないんです」
「……!」
「そして『金品ではなく、キリファさんの亡骸を持ち帰った』ことからも、仇が強盗ではないことが分かります」
 イーレオの眉が、ぴくりと動いた。いつも遊び心を忘れないはずの瞳が、剣呑な光をたたえる。
 メイシアは、ためらうように息をつまらせた。だが、思い切って言葉を吐き出した。
「イーレオ様は……仇の正体をご存知なのではないですか?」
 高鳴る心臓を抑え、メイシアは畳み掛ける。
「イーレオ様にとっても、キリファさんは大切な方だったはずです。……復讐を考えられたのではないですか?」
 執務室に、沈黙が落ちた。それに合わせるかのように、月が陰る。
 イーレオは口を閉ざしたままま、額に皺を寄せていた。
「私が今日、イーレオ様にお尋ねしたかったのは、イーレオ様が復讐を果たされたのか否か――ということなんです」
「……それを聞いて、どうする?」
 イーレオが問いかけた瞬間、メイシアはすがるように叫んでいた。
「教えてください! もしも、お母様を殺した者が健在なら、彼に害をなす可能性があります。私……彼を守りたい――!」
 黒曜石の瞳が凛とした光を放ち、まっすぐにイーレオを捕らえた。
 ルイフォンを想う、強い意思。
 気高く美しい、戦乙女。
「メイシア……」
 イーレオは絶句した。
 やや間をおいて、観念したように深い溜め息をつく。
 頬杖から体を起こし、イーレオはゆっくりとメイシアを見やる。その目は氷の海のような色をしていた。
「キリファを殺した者は、既に死んでいる」
「では、やはりイーレオ様が……」
「いや……、俺じゃない」
「え?」
 メイシアが目を丸くする。
 その反応はイーレオの予想通りだったようで、彼は溜め息を重ねた。
「キリファを殺した者は、簡単には手を出すことができない相手だった。そして、俺がもたついている間に、別の奴がそいつを殺した。……俺は何もできなかったんだよ」
「……」
「仇の名前は……言ったら、お前は触れてはいけないものに、触れてしまう。だから、俺がお前に教えられるのは、ここまでだ」
「イーレオ様!?」
 核心に迫ろうというところで口をつぐまれ、メイシアは彼女らしくもなく声を荒らげた。けれど、イーレオは首を横に振る。
「キリファが、ルイフォンの思考を歪めるまでして隠した相手だ。関わらないほうがいい」
「そ、そんな! 相手は死んでいるのでしょう? それなのに、何故、秘密になさるんですか? 危険はないはずでは……」
 イーレオに詰め寄りながら、メイシアは、はっと気づいた。
 大華王国一の凶賊(ダリジィン)の総帥たるイーレオが、ここまで警戒する相手。そして今、鷹刀一族の周りをうろついている敵と言えば……。
「〈七つの大罪〉ですか……?」
〈七つの大罪〉は個人ではなく、組織。ルイフォンの母の仇が死んでも、組織がなくなるわけではない。危険は残る。
「イーレオ様は、いったい何をご存知なのですか!?」
「過去のしがらみに囚われるのは、年寄りだけでいい」
 イーレオは、にやりと眼鏡の奥の目を細めた。明らかに作りものと分かる微笑は、それでも魅入られてしまうほどに麗しい。
「だ、駄目です!」
 メイシアは反射的に叫んだ。得も言われぬ不安が、彼女を襲っていた。
「イーレオ様! ひとりで抱えるんですか!? そっ……、そんなの、駄目です! 私は、イーレオ様に忠誠を誓った者です。私には、イーレオ様のお役に立つ義務が……いいえ、権利があります! そう主張できるだけの『価値』が、私にはあります!」
 言ってしまってから、口が過ぎたとメイシアは蒼白になった。
 いくら身内も同然とはいえ、イーレオは凶賊(ダリジィン)の総帥だ。わきまえるべき距離がある。その境界線を一歩超えてしまったことを、彼女は肌で感じた。全身が震える。
 すべての音が遠ざかった。――ただ目の前のイーレオのわずかな身じろぎだけが、かろうじて感じ取れた。
「……メイシア」
「は、はいっ!」
 低く名を呼ばれ、応じる声が裏返った。
「俺は、お前とふたりきりになるべきではなかったな」
「え……?」
 メイシアの疑問の呟きには答えず、イーレオは彼とは思えぬほどに儚げに笑う。
 彼はすっと立ち上がり、月光の注ぐ窓辺に向かった。薄く開いていた窓から夜風が入り込み、緩く結わえた髪をなびかせる。月明かりを浴びるイーレオの背中は今にも消え入りそうで、メイシアは怖くなった。
「シャオリエに言われていたな。俺はひとりで背負い込みすぎだ、と。――だから、手を差し伸べてくれたお前を、俺は頼るべきなのだろう……」
 イーレオはそう言って、ぴしゃりと硝子窓を閉じた。
「イーレオ様……?」
「メイシア。俺はな、〈神〉には逆らえないんだ」
「〈神〉……? それは〈七つの大罪〉の頂点に立つ人のことですよね……?」
 メイシアは首を傾げ、イーレオの言葉を反芻する。
 次の瞬間、彼女の聡明な頭脳がするりと答えを導き出した。あたかも、知恵の輪が抜け落ちるときのように突然に、あっけなく。
「つまり、イーレオ様は……」
 青ざめた顔で、メイシアはやっとそれだけ言えた。
「そういうことだ」
 闇に響くような低い声も、やがて夜の静寂に解けていった――。

4.よもぎ狂騒曲-1

4.よもぎ狂騒曲-1

 よく晴れた、とある休日のことだった。
 洒落た門扉を通り抜け、リュイセンは緩やかな勾配のアプローチを登っていく。
 清楚な趣を醸しだす、白を基調とした自然石の道。それに対し、(ふち)に使われているのは、密やかな落ち着きを見せる人造石だ。
 区別のつきにくい二種類の石だが、夜になると縁石だけが淡く幻想的な光を放つ。特殊な加工の施された人造石が昼の間に蓄光し、闇の訪れに合わせて発光する仕掛けなのだ。
 この家の(あるじ)――すなわちリュイセンの兄は、そういった小さな細工が好きであった。
 ……ふと。
 リュイセンは、押し殺したような殺気を感じた。
 斜め左前方の木の上だ。太陽の位置から濃い影になっており、そこそこ上手に隠れている。
 しかし彼は足を止めることなく、変わらぬ調子で歩いた。
 そのまま木の前を通り過ぎ、殺気の相手に無防備な背中を晒した瞬間、鞘走りの音が響いた。がさりと枝が揺れ、舞い散る木の葉と共に人影が飛び立つ。
 陽光に、白銀の刃が煌めく――。
 襲撃者は重力加速度をまとって落下しながら、リュイセンの首筋を狙う。
 リュイセンは冷静にくるりと振り返ると、持っていた紙袋をずいと差し出した。
 途端、襲撃者の気配がはっきりと変わる。器用にも空中で身を丸め、一回転して着地した。
 ふわり、という音が聞こえてきそうなほど軽やかに降り立った襲撃者は、ひと呼吸すら置かずにリュイセンに詰め寄る。
「卑怯よ! 荷物を盾にするなんて!」
 あどけなさを残した、可憐な金切り声が響いた。
 リュイセンの胸元ほどしかない、小さな体躯。鷹刀一族の血縁であることを示すかのような、(つや)やかな黒髪を両耳の上で高く結い上げ、花の髪飾りで飾った美少女である。
 ひらひらとしたミニスカートは、どう考えても木登り向きとは思えないのであるが、デザインの工夫からか、なかなかどうして無茶な動きをしても恥ずかしい思いをしなくてすむらしい。
 可愛らしさと機能性を追求した兄の会社の人気商品――現在の兄は、服飾会社から警備会社まで手広く経営している社長である――だった。
「クーティエ、前に俺が刀で応戦したら『女の子に刃を向けるなんて、最低!』って言っただろ?」
 今更、『客に向かって攻撃を仕掛けるな』という常識を問いても無駄なので、それは言わない。
 今年で十歳になるこの姪は、見た目の愛らしさと性格の間には、なんの因果関係もないことを如実に教えてくれる存在だった。
「でもっ! その紙袋の中身は、『ミンウェイねぇの、よもぎあんパン』でしょ! いくら、にぃが冷酷無情でも、やっていいことと悪いことがあるわ!」
「はぁ? これは倭国土産だぞ」
 帰国後、既にひと月以上が過ぎている。斑目一族やら〈(ムスカ)〉やらの件で奔走している間に、すっかり忘れていたのだ。
 もはや土産と言って渡すのも間抜けな頃合いであるが、今ごろになって祖父イーレオが「たまには顔を出してこい」と命じたのだから仕方ない。
「だから! お土産と一緒に、よもぎあんパンを持ってくるって」
「……は? 誰がそんなことを?」
「ミンウェイねぇが連絡くれたのよ。『よもぎあんパンを焼くから、リュイセンに預けるわね』って」
「はぁぁ? 聞いてねぇぞ!」
 というリュイセンの言葉を、クーティエは聞いてなどいなかった。
「楽しみにしていたのに、酷いわ!」
 きっ、と睨みつけると、彼女は抜き身のままだった刀をリュイセンに向けた。
「ミンウェイねぇのよもぎあんパンは、特別なのよ!」
 クーティエは緩やかに腰を落とす。脇を締め、ぐっと腕を引いて力を溜める。
「この時期にしか採れない生よもぎを練り込んであるの。そのへんで売っている着色料や乾燥よもぎを使った奴とは、色も香りも全然違うのよ!」
 やたら詳しいのはミンウェイの受け売りなのだろうが、言っていることがどうしようもない。
 けれど、クーティエの目は好戦的な色に染まり、すっと口角が上がった。あどけなさが消えていき、代わりに妖艶さが顔を出す。
「……クーティエ。お前、あんパンにかこつけて、俺と勝負したいだけだろ」
「あら、分かった? でも、にぃがよもぎあんパンの仇である事実は変わらないわ」
「『仇』ってなぁ……」
 父親であるリュイセンの兄は一族を抜けたが、その血は確かに娘へと受け継がれていた。
 しかも、クーティエの母親は、剣舞の名手であると同時に、一族においては女だてらにチャオラウの後継者と目されていたほどの使い手だった。
 十歳といえば、兄ならチャオラウから三本に一本は取れた年ごろだ。
 凶賊(ダリジィン)としての生活を知らないクーティエには、飢えた獣の鋭さはない。実践ではおよそ役に立たないだろう。だが、不意打ちなし、急所狙いなしの手合わせとなれば別だ。
「『女の子に刃を向けるなんて、最低!』じゃなかったのか?」
「あのときの私はまだ子供だったから、くだらない負け惜しみを言っただけよ。そんな昔のことをネチネチ言う男は嫌われるわよ?」
 それを言ったのは、確かこの前、来たときのことではなかっただろうか、とリュイセンは思ったが、口には出さなかった。三倍にして言い返されるだけだからである。
 十歳の少女にとっての数ヶ月は、彼のそれよりも遥かに長いものらしいと割り切った。
「やるからには手加減しねぇぞ」
「望むところよ!」
 リュイセンは土産の入った紙袋を地面に置き、愛用の双刀の柄に手を掛けた。
 ――空気が変わる。
 先に仕掛けたのは、クーティエだった。
 溜めた力を一気に放出するように、まっすぐに腕を突き出す。彼女の刀は、剣舞に用いる諸刃の直刀。母親と同じく、彼女も舞い手なのだ。
 鞘には華やかな装飾が施されているが、()をつぶした模造刀ではない。この国における正式な奉納舞で使われる真剣である。
 鋭い突きを、リュイセンは難なくかわす。
 だがクーティエは、リュイセンが『神速の双刀使い』と呼ばれる前に、その二つ名で呼ばれていた兄の娘だ。かわされると悟った瞬間には、すでに身を引く体勢に入っており、続く第二撃へと繋げる。
 少女の腕には余る重量を持った刀を、クーティエは体の一部のように扱う。
 風を斬る音を、肌が感じた。リュイセンの本能が、かわすよりも受けることを選んだ。
 刀と刀が響き合う、高い音が木霊(こだま)する――。
 クーティエの直刀は、突きの刀。押し斬ることも、叩き斬ることもできない。リュイセンと刀を合わせれば、力負けは必至。
 だから彼女は飛んだ。
 リュイセンから受けた衝撃をばねに、まるで重力から解き放たれたかのように軽やかに、後ろに向かって宙返りをする。
 高く結った髪がなびく。まだ細くて未熟な少女の体が、伸びやかな動きで魅せる。殺伐としたはずの手合わせが、美の演戯に変わる。
 さすが舞姫と言わざるを得ない。
 着地と同時に、クーティエの瞳が楽しげな気迫を放った。彼女は再び、風となって飛び出していった……。


「参りました」
 そう言ってクーティエは、よろよろと地面にしゃがみ込んだ。アプローチの石の上は硬かったのか、少しだけ頑張って移動して、芝の上で大の字になって寝転ぶ。
「大丈夫か?」
 ぐるりと銀色の弧を描き、リュイセンが双刀を鞘に収める。ちん、という鍔鳴りの音に重なるように、クーティエがにこっと笑った。
「にぃ、ありがと」
 想定外の素直な可愛らしさに、リュイセンはどきりとする。
「なんだよ、いきなり」
「本気で相手してくれるのは、にぃくらいだから」
「そうなのか?」
「うん」
 普段、どこでどういった稽古をしているのか知らないが、年少の少女相手では、勝っても負けても角が立つ。しかもクーティエは、こう見えて社長令嬢だ。
 いろいろあるのだろうと、リュイセンは推測する。
 それにしても、今までだったらこんな殊勝なことは言わなかった。やはり少女の数ヶ月は、彼のそれとは異なる次元で流れるものらしい。
「それに、にぃなら『思いっきりやっちゃって大丈夫。殺すつもりでかかっていけ』って、母上が太鼓判を押してくれているもんね」
「……」
 リュイセンは、なんとも言えない顔で溜め息をついた。その横顔を見て、クーティエがはくすりとした。
「にぃは強いよねぇ……」
 薫風が芝を薙ぎ、寝転がったクーティエの前髪を逆立てていく。おでこを全開にされた彼女は、気持ちよさそうに瞳を閉じる。
「はぁ? いったいどうしたんだ?」
 リュイセンはクーティエの隣に腰を下ろした。赤ん坊のころから知っている姪だが、久しぶりに会うたびに前とは少しずつ変わっていて、いつも彼女には翻弄される。
「でも、にぃって……」
 そう言いながら、クーティエは目を開けた。意味ありげにリュイセンを見上げる。
「好きな人に想いも伝えられない、情けない男よね?」
「なっ……!?」
「鷹刀のお(うち)、今、大変なんでしょ? こういうときこそ、にぃがしっかり支えてあげないと」
「ば、馬鹿言え! 俺は別に、ミンウェイのこと、そんなふうには思ってない!」
 リュイセンがそう言った瞬間、クーティエの口の端がにやりと上がった。
「誰も、ミンウェイねぇだなんて、言ってないわよ?」
「……っ!」
「ま、バレバレだけどね」
 クーティエが、ひょこっと上半身を起こす。顔を横に――リュイセンのほうへと勢いよく向けると、結った髪がくるんと反対方向に揺れた。
「私、小さいころ『にぃのお嫁さんになる』って言っていたの、撤回するね。私はもっと、頼りがいのある男が好き。――だから、にぃは自由よ?」
「お、おいっ!?」
 何か、とんでもないことを言われたような気がするが、リュイセンは言い返す言葉を思いつけず、口をぱくぱくさせた。
 そのとき、家の扉が開く音が聞こえた。そちらを見やれば、すらりと背の高い人影が中から出てくるところだった。
「あ、母上!」
 クーティエがぱっと立ち上がり、嬉しそうに駆けていく。だがリュイセンは、反射的に顔が引きつった。
「クーティエ。また、リュイセンの息の根を止められなかったようだな」
 低く笑う声が聞こえてくる。
「うん。やっぱり、にぃは強いわ。全然、歯が立たない」
「なんだ、私の娘のくせに情けない。ひと刺しくらいはできるかと思ったんだが……」
 物騒な発言が聞こえてきて、リュイセンの背がぞくりとする。
 ……遠目に見る義姉の姿は、相変わらずだった。
 ベリーショートに刈り上げられた髪、美しく引き締まった肉体は女性らしい豊満さを欠き、アルトと言うにはやや低い声が、ぞんざいな口調で放たれる。
 初対面の相手なら、半分以上の確率で性別を間違えるだろう。だが、名前だけはシャンリーと女らしい。
 彼女は、リュイセンと同じくチャオラウを師とする姉弟子であった。まだほんの小さな子供のときから、リュイセンは彼女から手加減なしの指導を受けている。体に刷り込まれた記憶は薄まることなく、いまだに彼女の声を聞くと身がすくむのだ。
「義姉上、お久しぶりです」
 クーティエの後ろから重い足取りで歩いてきたリュイセンは、強張った笑みを浮かべながら頭を下げた。
「ああ、リュイセン、よく来てくれたな。……と、言いたいところだが、お前、大事なものを忘れてきたそうだな」
 ぎろり、とシャンリーが睨む。
「は?」
「今、ミンウェイから連絡があった。お前、よもぎあんパンを忘れたそうだな。私もクーティエも楽しみにしていたというのに……! 」
 またあんパンの話か、とリュイセンはげんなりする。
「俺は何も聞いてないぞ!」
「ほぉ。ならばミンウェイが悪いと? 他人のせいにするとは、我が義弟ながら、男の風上にも置けんな」
 シャンリーは、にやりと目を細めると、腰の直刀を抜いた。
「成敗してくれるわ!」
「うわっ、待て!」
「問答無用!」
 リュイセンに双刀を抜く間も与えず、シャンリーが直刀と共に(はし)る。それはまるで銀色の閃光――。
 だがリュイセンは、今やチャオラウに次ぐ実力の持ち主だ。シャンリーの太刀筋を正確に読み……その場を一歩も動かなかった。
「にぃ!?」
 悲鳴のような、クーティエの声。
 リュイセンの肩までの髪が太刀風にあおられ、乱れる。
「……ほぅ。よく見抜いたな。昔のお前なら、下手に動いて串刺しだった」
 やや感心したような、満足げな響きが、リュイセンの耳元で聞こえた。
 シャンリーは、初めからリュイセンを狙ってなどいなかった。ちょっと、からかっただけである。
 彼女は大きく腕を回し、流れるように刀を振るった。
 ぐっと背を反らせたかと思うと、脚は天空へ、腕は大地へと伸ばす。それから、まるで天と地を繋ぐかのように、ひらりと宙に身を躍らせる。
 剣舞の型のひとつをなぞっているだけだが、柔らかな動きにリュイセンは目を奪われる。幾度(いくたび)見ても、舞を披露するときだけは、この粗暴な義姉は誰よりも『美女』だった。
「武運を祈る舞だ。受けておけ」
 愛刀に唇を寄せると、シャンリーは艶然と笑んだ。

4.よもぎ狂騒曲-2

4.よもぎ狂騒曲-2

 厨房は、焼き立てのパンの匂いで満たされていた。オーブンの熱気に混じり、小麦の焼けた香ばしさが漂う。
 メイシアは、自然の恵みを胸いっぱいに吸い込んだ。
「いい香り……」
 思わず、顔がほころんでくる。
 ミンウェイが嬉しそうに微笑みながら、天板を調理台に置いた。分厚いミトンの手に、エプロン姿。いつもは背を覆うように波打っている黒髪も、きっちりひとつにまとめられている。
「焼き立ては、やっぱり格別よ。特に、これは今の時期だけの特別――よもぎあんパンだもの」
 珍しいパンを作るから一緒にどうかと誘われ、メイシアはふたつ返事で手伝いを申し出た。
 よもぎあんパンどころか、パンを作ること自体、初めてだった彼女は、粉まみれになりながらも、作り上げていく過程に夢中になった。だから、こうして薄く湯気を上げているパンに、感動すら覚えていた。
「今年も美味しそうに焼けましたね」
 料理長が太鼓腹を揺らしながら現れた。彼が食事の下ごしらえをしているところに、間借りしていたのだ。
 ミンウェイは嬉しそうに「ありがとう」と応じ、尋ねる。
「これから試食だけど、料理長もいかが?」
「勿論、ご相伴にあずかります」
 料理長は、ふくよかな顔に埋もれそうなほど目を細めると、食器棚から皿を出してくる。
「私、お茶を用意してきます」
 以前は、厨房でつまみ食いなんて、お行儀が……と、抵抗のあったメイシアも、今ではすっかり馴染んでいた。メイドたちから学んだ手際で素早くお茶の準備をし、小さなお茶会が始まった。
「餡が熱くなっているから気をつけてね」とのミンウェイの忠告に、メイシアは恐る恐る中を割る。
 外側はしっかり茶色く焼けているのに、内側は鮮やかな緑色をしていた。と同時に、火傷しそうなほどの蒸気と餡が飛び出してくる。ひと口かじれば、小麦のほの甘さに混じり、爽やかな草の香りが鼻を抜けた。
「美味しいです」
「でしょう?」
 ミンウェイが得意げな顔をする。 
 その表情は、ルイフォンがコンピュータに関して説明するときの顔とよく似ていた。顔立ちは違っていても、やはり叔父と姪である。
 普段のミンウェイは、執務室で総帥イーレオの補佐をしているか、温室で草花の手入れをしているかの、どちらかであることが多い。だから彼女がパンを焼くと言ったとき、メイシアはわずかながらも意外に思った。
 けれど、材料のよもぎ摘みのお供をして納得した。よもぎは、薬草としての効能の高い植物だと教えてくれたのだ。パン作りは、よもぎの活用法のひとつだった、というわけだ。
 柔らかな新芽だけを丁寧に摘み取り、自然に感謝して微笑む。草の香をまとうミンウェイらしい仕草に、メイシアは素敵だなと思い、そして少し嬉しくなった。
 ミンウェイは、ふとした時に暗い顔をすることが増えた。
 父親である〈(ムスカ)〉の存在が見え隠れする中で、不安を覚えるのだろう。けれど、イーレオの言う通り、今はどうすることもできない。
 だから、ミンウェイが少しでも楽しげな様子を見せてくれると、ほっとするのだ。
「――メイシア」
 唐突に、ミンウェイに呼ばれた。
 どうしたのかと見やれば、彼女はやや眉を寄せていた。
「あのね、お使いを頼みたいの」
「はい。構いませんが……?」
 今日はミンウェイとのパン作りの約束があったので、メイドたちに何か教わる予定は入っていない。
「ちょっとね、申し訳ないんだけど……」
 ミンウェイらしくもなく、歯切れが悪い。隣では料理長がにこやかに笑ながら、「ミンウェイ様のせいではありませんよ」と言っている。
「ミンウェイさん?」
 メイシアは首をかしげた。
「このよもぎあんパンを届けてほしいの。本当はリュイセンに持っていってもらうつもりだったのに、手違いでもう出掛けちゃったのよ」
 なんでも、ミンウェイはこのあと用事があって行けないのだという。
「私でよければ構いません。どなたにお届けすればよろしいのでしょうか?」
 そう答えたメイシアは、思いもよらぬ相手の名前を告げられたのであった。


「――まったく、お祖父様は何を考えてらっしゃるのかしら……?」
 メイシアの後ろ姿が見えなくなると、ミンウェイは溜め息混じりに呟いた。
「イーレオ様には、深いお考えがおありなんですよ」
 料理長がお茶のおかわりを注ぎながら、にこやかに答える。
「けど、リュイセンが忘れたことにしなくても、単にメイシアがお使いとして行ってもよかったんじゃないかしら?」
「メイシアがあの家に行くのを、ルイフォン様が嫌がるからじゃないでしょうか」
「だから、『やむを得ず』という形にした、ってこと?」
 ミンウェイは承服しかねる、とばかりに柳眉を寄せながら、お茶を受け取る。
「ええ。リュイセン様がいらっしゃれば、メイシアも気が楽でしょう。それにイーレオ様は、チャオラウを運転手に指名されましたし」
 そこでまた、ミンウェイは再び溜め息をついた。
「チャオラウも頑固だから……。皆さんにご挨拶しないで、車で待っているだけだと思うわ」


 メイシアは、車の後部座席で緊張に震えていた。
 膝の上のよもぎあんパンは、まだほんのりと温かい。けれど、体中から熱が引いていくような気がしていた。
 どうしてこんな事態になったのか、まだよく飲み込めていない。だが、どうやらイーレオが一枚噛んでいるらしいことは理解した。
 運転手は、チャオラウだった。
 いつもイーレオのそばに控えている護衛の彼が、何故かハンドルを握っていた。屋敷の専属運転手が忙しかったわけではないだろう。駐車場で、のんびり煙草を吸っている姿を見た。
「まったく、イーレオ様は幾つになっても、いたずら好きなんですから……」
 バックミラーの中で、チャオラウが苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「あのっ、これはつまり……、外に出られたご親族の方々にご挨拶をしてくるように――という、イーレオ様から私への指示……ですよね?」
「そういうことですな」
 察しがよくてよろしい、とチャオラウが頷く。
 メイシアが向かっている先は、リュイセンの兄の家だった。次期総帥エルファンの長男で、後継者として期待されていた人物――の住まいである。
 リュイセンの兄は、幼馴染の女性と結婚する際に一族を抜けた。剣舞の名手である彼女を、表の世界で活躍させてやりたいとのことだった。
「イーレオ様が私に運転を命じられたのは、レイウェン様――リュイセン様の兄君と、そのご家族について、あなたに説明しておけとの含みでしょうな」
「……っ、すみません。お手数をおかけします」
「いやいや。ルイフォン様があなたに何も話してないだろうと踏んでの、イーレオ様の配慮ってやつですよ」
 恐縮するメイシアに、チャオラウはからかいを含んだ声で不精髭を揺らした。
「何しろルイフォン様は、あの家の方々を……言いますか、ユイラン様のことを……。――あぁ、ユイラン様と言われてもピンと来ませんな?」
「いえ、お名前はルイフォンから伺っております。――エルファン様の奥様ですよね」
「おや、ご存知でしたか」
 チャオラウは目を丸くした。
「――ええ、その通りですよ。ユイラン様はエルファン様の奥方で、レイウェン様とリュイセン様の母君です。今は、これから行くレイウェン様の家に一緒に住んでらっしゃいます」
 そこまで言うと、彼は感慨深げに……というよりは、笑いをこらえているような、愉快そうな顔をする。
「ふぅむ。あのいい加減なルイフォン様が、メイシアにきちんと話していたとは……。大人になったものですなぁ……」
「あ、あの……?」
 メイシアがきょとんと首をかしげると、さすがに言葉が足りないと思ったのだろう。チャオラウは、にやにやと不精髭を踊らせながら付け加えた。
「つまりですなぁ……、ルイフォン様は基本的に怠け者です。ご自分が興味を持たれたことには寝食を忘れますが、それ以外のことは一切やりたくない方です」
 ルイフォンは怠け者なのではない。こだわる部分とこだわらない部分を、はっきりと区別しているだけだ。
 ――と、反論しようとして、メイシアは思いとどまった。チャオラウが言っているのと、まったく同じことだと気づいたのだ。
 彼女が心中でそんなことを考えていたとも知らず、チャオラウは楽しげに話を続ける。
「ですから、出ていった親族のことをわざわざ説明するなんて、そんな面倒ごとはルイフォン様の主義に反するんですよ」
「……」
「けど、あなたには知っていてほしかったんでしょうなぁ。……ユイラン様のお名前をご存知ということは、お聞きになったんでしょう? ルイフォン様の出生の経緯を。ぶっちゃけ醜聞ですな」
 チャオラウの言い方は身も蓋もなかったが、メイシアは否定することもできず、遠慮がちに頷いた。
 エルファンとユイランの婚姻は一族が決めたものだった。状況から考えて、『〈七つの大罪〉の最高傑作』の濃い血を残すための強制的なものだったのだろう。それでも長男レイウェンが生まれたころは、それなりの関係を保っていたらしい。
 けれど、エルファンがキリファと出逢い、娘が生まれた。
 そのあとが泥沼だ。
 正妻としての体面を保とうとでもするかのように、ユイランが次男リュイセンを産んだ。
 それを知って怒ったキリファが、鷹刀一族を出ていこうとした。そこをイーレオに引き止められ、イーレオとの間にルイフォンが生まれたのである。
 だからルイフォンから見れば、エルファンは異母兄で、リュイセンは年上の甥。――そして、エルファンの妻であるユイランは『義理の姉』になるわけだが、気持ちの上では『母キリファの敵対者』にしかならないだろう。
「今でこそ、ルイフォン様は一族の中心にいらっしゃいますが、四年前に母親を亡くされるまでは、別の場所でまったく違う生活をされていたんですよ」
 それが〈ケル〉の家での生活ということだろう。
「まぁ、母親の手伝いで、たまには鷹刀の屋敷に来ていたんですけどね。ああ、そういえば、何故かリュイセン様とは、そのころから仲がよろしかったんですよねぇ」
 チャオラウは懐かしむように言い、ルイフォンとリュイセンが子供のころの数々の逸話を――主にいたずらについて語ってくれた。


 ――そして結局。
 ルイフォンとは仲の悪い親戚がいる家に届け物をしに行くという、気の重い仕事を任された理由は謎のまま、メイシアを乗せた車は走っていくのであった。

4.よもぎ狂騒曲-3

4.よもぎ狂騒曲-3

 チャオラウの運転する車は、洒落た門扉の前で滑らかに停車した。
 緊張の面持ちで、メイシアが格子の門の隙間から見やれば、緩やかな勾配のアプローチが白く輝き、楚々とした雰囲気の家屋へと続いている。
 落ち着いた石造りの塀で囲まれた敷地は、鷹刀一族の屋敷や貴族(シャトーア)の屋敷ほどには広くはなかったが、充分に豪邸といえた。それもそのはず、リュイセンの兄――この家の(あるじ)であるレイウェンは、飛ぶ鳥を落とす勢いの服飾会社の社長なのだ。
 一族を抜けた彼は、剣舞の名手である妻を広告塔に会社を興した。機能的なファッションをコンセプトに新素材繊維を活用し、大成功を収めたのだ。現在では、平民(バイスア)を中心とした客層の既製服を展開しつつ、貴族(シャトーア)からの仕立ての注文もひっきりなしである。
 そして、それまで培ってきた信用をもとに、主に足を洗った凶賊(ダリジィン)たちの受け皿を目的とした警備会社など、他にも幾つかの会社を手掛けているという――。
 チャオラウが運転席から振り返り、メイシアに声を掛けた。
「あなたがよもぎあんパンをお届けに上がることは、ミンウェイ様から先方に連絡済みです。私はこのまま鷹刀の屋敷に戻りますので、お帰りはリュイセン様とご一緒して下さい」
「えっ……!?」
 メイシアは驚いた。てっきりチャオラウも同行すると思っていたのだ。
「あのっ、チャオラウさんは?」
「この家の人間は、鷹刀とは縁を切った者たちです。私とは住む世界が違います」
 彼は首を振り、きっぱりと言い切った。
 ――と、そのとき。
 どたん、と車の天井に衝撃を感じた。
「!?」
 チャオラウの顔に緊張が走る。
 車の上に何かが落ちてきたような感触だった。屋根を破壊するほどの威力はないが、決して軽い音ではない。
 そのまま、ばたばたと頭上を動き回る気配がしたかと思ったら、束ねられた黒髪が二本、フロントガラスにひょっこりと垂れ下がってきた。
 メイシアは、ぎょっとして身を引いた。けれど目をそらせない。すると、すぐに視界の中に可愛らしい顔が飛び込んできた。――ただし、逆さまの。
 車の屋根に腹ばいになり、中を覗き込んでいるらしい。十歳くらいの、たいそうな美少女で、顔立ちから鷹刀一族の血を引いているのは明らかだった。
「ク、クーティエ!」
 チャオラウが叫ぶ。
 その驚きの表情に満足したかのように、逆さまの美少女がにっこりと笑った。コンコンと助手席側のドアガラスを叩き、窓を開けるように促す。
 すっと下げられた窓から、爽やかな風が入ってきた。
 そして――。
「はじめまして、メイシア大叔母上!」
「……!?」
 メイシアは耳を疑った。この可憐な声は、今なんと言ったのか……?
 戸惑いを隠せぬ彼女に、クーティエは茶目っ気を含んだ笑いを漏らす。
「ルイフォン大叔父上の奥さんでしょ? だから、私の大叔母上! ――私はクーティエ。レイウェンの娘よ」
 クーティエの言葉の前半が衝撃的で、後半はまともに聞いていなかった。メイシアの顔は、さぁっと真っ赤に染まり、耳まで火照っている。
「あ、あの、私とルイフォンは……」
「違うの?」
 逆さまのままのクーティエが首をかしげると、結った黒髪の片方がぴょこんと跳ね上がり、もう片方は逆に下がった。運転席のチャオラウが、微妙な顔で後部座席のメイシアを振り返り、やがて結局にやりとする。
 メイシアは困惑した。
 ルイフォンとの関係は、凄く曖昧なものだ。
 しかし、少なくとも『大叔母』などという大層なものではない。それは絶対に違う。
 ただ、彼のそばに居ることが自然で、それだけでよいのだ。
 ――そこまで考えて、彼女は気づいた。
 そんなに難しく考えることはない。単に自己紹介をすればいいのだ。――自分が何者であるかを。
 メイシアは、花がほころぶように、ふわりと微笑んだ。
 そして、鈴を振るような声を響かせる。
「はじめまして、クーティエ様。私は『メイシア』。今は鷹刀のお屋敷にお世話になっておりますが、何にも属さない自由なメイシア、です」
 ルイフォンは、何にも属さない自由な〈(フェレース)〉であることを選んだ。ならば、彼と共にある彼女にも、自分を示す決まった言葉は必要ない――。
 優雅に(こうべ)を垂れるメイシアに、クーティエは可愛らしい口をぽかんと開けたまま、動きを止めた。逆さまの重力に根負けした髪飾りが、ずるりと下がってくる。
 チャオラウが「ほぅ」と感心したような息を漏らし、メイシアは、はっとする。これではまるで、クーティエの言葉をぴしゃりと跳ねのけたかのようではないか。
「す、すみませんっ。あの、私……」
「格好いい!」
 メイシアの声を遮り、クーティエが叫んだ。
 彼女は車の屋根からするりと降り、開いた窓から素早くロックを外して助手席に乗り込む。その勢いのまま、後部座席のメイシアにいざり寄った。
「メイシア! 私、あなたのこと気に入ったわ!」
「え?」
「私ね、『親の七光り』って、陰口叩かれるのが大嫌いなの。だから私も、これからメイシアみたいに『何にも属さない自由なクーティエ』って、ビシッと言い返してやることにするわ!」
 瞳をきらきらさせ、手を握らんばかりのクーティエに、メイシアは狼狽する。何か勘違いから過大評価されてしまったような気がしてならない。
「あの……、クーティエ様……っ」
「クーティエ、って呼んで!」
 元気よくそう言ってから、クーティエはもじもじとする。
「……ごめんね、メイシア。私、あなたのこと、ちょっとからかっていたの。リュイセンにぃよりも若い『大叔父』とか『大叔母』なんて、おっかしいなぁ、って思いながら言っていた」
 上目遣いにメイシアを見る姿は叱られた子犬のようで、高く結ってあったであろう黒髪も心なしか下がっている。取れかけの花の髪飾りが、余計に哀れを誘っていた。
「にぃがね、『メイシアは見た目通りの(タマ)じゃない』って! ――何それ? って思ったけど、よく分かったわ」
 そのとき、唐突にチャオラウが口を挟んだ。
「あなた方が打ち解けたようで何よりです。それではクーティエ、メイシアを案内してやりなさい」
 言っていることはおかしくはない。しかし、どうにもチャオラウの様子がおかしい。そわそわしている。
 そのわけを、クーティエは知っていたらしい。嬉しそうないたずらっ子の表情で、にやりと笑った。
「なんのために、私がわざわざ塀の上から車の屋根に飛び移ったと思っているの?」
「……バックミラーに姿を映さないようにするためだろう? 私に逃げられないように、とな」
 チャオラウの返答に――正確には口調に、メイシアは違和感を覚えた。チャオラウにとってはクーティエは主君筋のはず。それが随分と、ぞんざいな言い方であると……。
「正解! 引き止めておけって、父上の命令よ!」
「そのレイウェン様が、こちらに近づいてくるのが見えたから、私は帰りたいんだ! お前たち、降りろ!」
「いやよ!」
 クーティエが力強く言い返す。いったいどういうことなのか、メイシアは戸惑うばかりだ。
 そうこうしているうちに門扉の開く音がして、ひとりの男が現れた。
 鷹刀一族特有の、人を惹きつけてやまない魔性にも似た魅惑の美貌。――ひと目で、この屋敷の(あるじ)レイウェンだと分かる。
 彼が車に近づくと、クーティエが勢いよく扉を開けて飛び出した。
「父上!」
 得意げな顔で見上げ、褒めて褒めて、と言外に主張している。
 そんな愛娘に苦笑しながら、レイウェンは「ご苦労さま」と頭を撫でた。穏やかな微笑みは、同じ顔の血族の誰よりも、柔らかで優しい雰囲気をまとっている。
 ご機嫌なクーティエが車を振り返り、メイシアのほうへ手を伸ばした。
「メイシア! こちら、私の父。レイウェン」
「クーティエ。年上の方を呼び捨てにするのは失礼だよ」
 叱る声も、そよ風の如く穏やかである。
 メイシアが慌てて車を降りると、レイウェンは深々と頭を下げた。
「メイシアさん、娘の無礼をお許し下さい」
「いえ。クーティエさんの親愛の証です。私は嬉しく思っております」
「そんなふうに言っていただけると、嬉しいです。ありがとうございます」
 レイウェンが目を細めると、和やかな空気が流れる。それから彼は「ああ、申し遅れました」と続けた。
「私は、草薙レイウェンです。クーティエの父で……、というよりも、あなたには鷹刀リュイセンの兄と言ったほうが分かりやすいでしょうか」
「あ、はい。リュイセン様のお兄様ですね。――こちらこそ、ご挨拶が遅れて申し訳ございません。メイシアです。リュイセン様にはいつもお世話になっております」
 メイシアはそう言って、はたと気づく。
「『草薙』ですか……?」
「ええ。私は鷹刀を出た者ですから。妻の姓を名乗っているんです」
「いえ、あの……。『草薙』というと、チャオラウさんの……」
 メイシアは、車の運転席でそっぽを向いているチャオラウをちらりと見た。
 確か、チャオラウの姓は『草薙』といったのではないだろうか? ということは、もしや……。
「ええ。妻はチャオラウ義父上(ちちうえ)の娘です」
「――チャオラウさんは、ご結婚されていたのですか……」
 チャオラウは屋敷の住み込みで、常にイーレオのそばに控えている。だから、妻帯者と思っていなかったのだ。
 一方でメイシアは、イーレオがチャオラウを運転手に指名したことに納得する。
 そのとき、レイウェンが「あ……」と口元を抑えた。
「すみません。誤解を招く言い方でした」
 そう言って、申し訳なさそうに頭を下げる。
「妻のシャンリーは、赤子のころに両親を亡くしましてね。叔父のチャオラウに引き取られたんですよ。だから正しくは、彼女はチャオラウの姪にあたります。でも実の父娘と同じですよ」
 不意に、車から人が降りる気配がして、ばたんと乱暴に扉が閉められる音がした。
 噂の(ぬし)、チャオラウである。
 どうやら、そっぽを向きながらも聞き耳を立てていたらしい。
 憮然とした顔だった。それでいて、どことなく気まずそうにも見える。鷹刀一族で一、二を争うような大男である彼が、なんだか小さく見えた。
「お久しぶりです。レイウェン様」
 チャオラウは、きっちりと腰を折り、深く頭を下げた。
 レイウェンの顔が嬉しそうに輝く。
「お久しぶりです、義父上(ちちうえ)
 満面の笑みを浮かべるレイウェンに、「ですが……」とチャオラウは不満げに不精髭を震わせた。
「私はシャンリーとは縁を切りました。主君の跡継ぎをかどわかす不届き者など、娘でもなんでもありません」
「逆ですよ。私がシャンリーをさらったんです」
 真顔で言ってから、レイウェンはメイシアの視線に気づき、照れたように頬を染めた。さすが鷹刀一族の直系というべきか、その(さま)は色気すらある。
「だいたい、どうしてシャンリーなんです!? レイウェン様なら、どんな女性でも……!」
「私はシャンリーがいいんです」
「レイウェン様とシャンリーでは、兄妹みたいなものじゃないですか!」
「そうかもしれませんね。けど私は、他の男にシャンリーを取られるなんて考えたくなかったんですよ。だったら自分のものにするしかないでしょう?」
 メイシアは、呆然とふたりを見つめていた。
 初めて見るチャオラウの一面と、雰囲気はまったく違うのに、やはりイーレオの血筋と思わざるを得ないレイウェン――。
 ただただ唖然とするメイシアの袖を、クーティエが隣からつんつんと引っ張った。
「仲が悪いわけじゃないから安心して。もう十年も経つのに、じぃじは父上に負けたことを、いまだ引きずっているだけよ」
「クーティエ!」
 チャオラウが唾を飛ばす。
「だって、そうでしょ? 父上が母上を連れて鷹刀のお(うち)を出たいと言ったとき、イーレオ曽祖父上は、じぃじに勝てば認めるって言ったんでしょ? で、父上が勝って、じぃじが負けた。私が生まれる前の話なのに、じぃじったら、いつまでもネチネチと……」
 唇を尖らせるクーティエの頭を、レイウェンがぽんぽんと優しく叩いた。
「クーティエ、あまり義父上に失礼なことを言ってはいけないよ。あの勝負は、圧倒的に私に有利だったんだから」
「どういうことですか、レイウェン様!? 私は正々堂々と勝負して、あなたに負けました」
「ええ。勝負は公平でしたが、前提が公平ではなかったんですよ」
 レイウェンが笑いをこらえ、穏やかに言う。
「私は子供のころから、シャンリーを妻にすると決めていました。あなたを超える男になって、あなたから彼女を奪うと、心に誓っていたんですよ。――一族を抜けるための条件になっていなくても、私はあなたに挑み、勝つつもりでした。そんな私が負けるはずないでしょう?」
 今ひとつ理解できない顔をするチャオラウを無視して、「祖父上も、なかなか粋な計らいをしてくれました」と、レイウェンは強引にまとめる。
 それからメイシアに向き直り、恐縮した表情を見せた。
「メイシアさん、すみません。お客様をほったらかしにして」
 レイウェンは門扉を開け、白い石張りのアプローチへとメイシアを促す。
「ようこそ、我が家へ。どうぞ、お入り下さい」
 柔らかな物腰からは、彼がかつて凶賊(ダリジィン)の後継者だったなどとは、とても想像できない。
 ひとつひとつの仕草にどことなく温かみがあり、周りをほっとさせる。草薙レイウェンとはそんな人物であった。

5.薄雲を透かした紗のような-1

5.薄雲を透かした紗のような-1

「リュイセン。お前の周りだけ局所的に地震を起こすのは、やめてくれないか」
 義姉シャンリーの声に、リュイセンは、はっと我に返った。
 ガタガタと苛立たしげに膝を揺らす彼に合わせ、飾り棚の硝子戸が震えていた。中に収められたトロフィーやら楯やらといった、この家の人間の功績を讃える品々までもが動き出しそうな具合である。
 リュイセンは尻をもぞもぞとさせて座り直し、向かいのソファーの義姉に「すまん」と詫びた。
「だが……、いったい祖父上は何を考えているんだ!?」
 祖父イーレオは、半ば命じるようにして、ひと月以上も前の土産を兄夫婦の家に持って行くように言った。けれど、それはどうやら、メイシアをこの家に向かわせるための方便だったらしい。
「この家は、メイシアにとっちゃ敵地みたいなものだろうが……!」
「おいおい、敵地とは穏やかじゃないねぇ」
 巷では男装の麗人とも褒めそやされている剣舞の名手は、見た目通りに実に男らしく、豪快にからからと笑った。
「けど、義姉上。メイシアはルイフォンの……妻、――じゃないよな、女?」
「私に訊かれても困るよ」
 義姉の答えは至極まっとうであったのだが、気の立っていたリュイセンは、むっと鼻に皺を寄せる。
「――ともかく、だ。父上を巡って、正妻の母上と、愛人のルイフォンの母親がいがみ合っていたわけだろ。だったら、どう考えてもメイシアは『ルイフォンの母親側』だ。母上とは敵対関係だ。そんな相手のいる家に、どうして祖父上はメイシアを差し向けるんだ? おかしいだろ!?」
 どん、とテーブルを叩くと、飾り棚の硝子が再び音を立てた。更に、壁一面に飾られた賞状と感謝状の額までもが共振する。大きく引き伸ばされた写真の中で、剣舞の演技中のシャンリーが刀を向けてこちらを睨んでいた。
「……あ」
 さすがに興奮し過ぎたと、リュイセンは体を縮こめる。
「まったく……。お前は本当に文句が多いな」
 写真ではなく、実体のシャンリーが溜め息混じりに苦笑した。
「ユイラン様が、メイシアを呼んだんだよ」
「母上が……? なんだって!?」
 リュイセンはソファーから腰を浮かせ、身を乗り出す。
「どういうことだ!?」
 そのあまりの喰らいつきようにシャンリーは目を丸くし、次ににやりと目を細めた。
「面白そうだから黙っておこう」
「義姉上!」
 リュイセンが勢いよく立ち上がる。肩で切りそろえられた黒髪が、前に向かってばさりと飛び出した。
 と、そのとき――。
 リュイセンは、耳朶に風を感じた。
 (つや)やかな髪のひと房が彼から離れ、後ろに散った。
 数センチほどの長さに斬られた毛髪が、ぱらぱらと絨毯に舞い落ちる。
「え……?」
 リュイセンの頬をかすめるように、銀色の刀身が光っていた。目玉を巡らせば、義姉の握る直刀の刃紋が見える。
「何を……?」
「私はまっすぐに刀を差し出しただけだ。お前は自分から迫ってきて、勝手に斬られた」
 シャンリーは口の端を上げるが、目は笑っていない。殺気も感じられないのに、リュイセンはぞくりとした。
「お前は、頭が戦闘態勢に切り替わっていれば機械並みに冷静だが、普段は隙が多すぎる。感情のコントロールができてない」
「……っ」
「取りあえず、座れ」
 性別不詳の低い声が命じ、言われるままにリュイセンは腰を下ろした。額から頬にかけて、つうっと冷たい汗が流れる。
 凶賊(ダリジィン)を抜けて十年も経つのに、いまだにこの義姉は『本物』だった。彼女と兄のふたりで、一族を盛りたててくれることを期待した皆の気持ちが、痛いほどよく分かる。そして、その裏にあるリュイセンへの落胆も……。
「ユイラン様には、メイシアに会わなければならない事情があるんだ」
「え?」
「確かにユイラン様とメイシアは、お前の言う『敵対関係』にある。だから、どうしたら身構えずに来てくれるだろうかと、ユイラン様はイーレオ様に相談した。――そしたら、お前がダシに使われた、というわけだ」
「はぁ?」
「普通にメイシアを招待すればいいだけの問題だったと思うんだが……。イーレオ様の手の込んだ悪ふざけ、ってとこだな」
 リュイセンは頭を抱えた。
 わけが分からない。何がなんだか、さっぱりだ。
『敵対関係』にある母が、メイシアになんの用があるというのだ? ――薄ぼんやりと紗が掛かったような不快感が絡みついてくる。
 けれど、ひとつ。はっきりしたことがある。
「やっぱり、俺は巻き込まれただけじゃねぇかよ!」
「まぁ、そう言うな。……こうでもしなきゃ、お前はなかなか、この家に――ユイラン様に会いにこないだろう?」
「……っ」
「『イーレオ様の悪ふざけ』は、イーレオ様のお心遣いだよ。運転手に親父殿をつけてくれたというのもそうだ。私たちに会ってこい、ってことだ」
 義姉は「まったく、イーレオ様は……」と言いながら、優しげな顔をする。その視線は窓の外に投げられていた。ここから実際に門が見えるわけではないが、出迎えに行ったクーティエたちと同様に、チャオラウに会えるのを楽しみにしているのだろう。
 リュイセンは唇を噛んだ。
 正直なところ、彼は母親のユイランが好きではない。幼少時から、愛人への当てつけとして生を()けたのだと、心の(おり)が溜まっていた。それを払拭してくれたのが、他でもない『敵対関係』のルイフォンだ。
「余計なお世話だ」
 吐き捨てる彼に、シャンリーが眉を曇らせた。
「お前は、相変わらずユイラン様に冷たいな」
「母上は何を考えているのか、分からん」
 刹那、普段の義姉からは想像できないほどに、シャンリーの顔が歪んだ。傷ついた、切なげな眼差しを彼に向ける。
「……子供だったお前を置いて、ユイラン様が私たちと一緒に、鷹刀の屋敷を去られたことを根に持っているのか?」
「別に。――それこそ、俺はもう餓鬼じゃない」
「リュイセン……」
 どうにも、妙な流れになってしまった。リュイセンは、重い空気を振り落とすかのように立ち上がる。
「ま、礼儀として顔くらい見せてくるよ。母上は部屋にいるのか?」
「ああ。だが、今は取り込み中だ。メイシアを迎える準備でばたばたしている」
「は?」
 歩きかけたリュイセンは、きょとんと義姉を振り返った。
 互いに不干渉でよいと思っている母のことだが、メイシアに用件があるというのには興味を引かれる。しかし彼は、すぐに顔を引き締め、無関心を装った。
「――リュイセン、座ってくれ」
 歯切れの悪いシャンリーの声が、彼をソファーへと引き戻す。
「ユイラン様は思慮深い方だ。どうしたら『一族にとって』一番良いかを考えておられる。そこにユイラン様の個人的な感情はないよ」
 赤子のころから世話になっている彼女は、ことあるごとにユイランの肩を持つ。またか、と眉をひそめたリュイセンに、強い口調が続けられた。
「もう、時効だろう。……ユイラン様が鷹刀を出た、本当の理由を話してやる」
 シャンリーはそう言って、愛用の直刀とそっくりな、まっすぐな視線を向けた。


「メイシアさん、こちらです」
 レイウェンが振り返った。軽く首を傾け、メイシアの目線に合わせてふわりと微笑む。家の(あるじ)自らの案内に恐縮しつつ、メイシアは勧められるままに部屋に入った。
 その途端、彼女は足を止め、息を呑んだ。
「綺麗……」
 部屋の奥の壁に、深い藍色の衣装が飾られていた。
 きらびやかな金糸による大輪の牡丹の花が、左肩から右脇へと連なるように咲き誇っていた。その華やかさとは対照的に、藍の地には同色の糸でひっそりと無数の葉が織り刻まれ、絹の光沢によって浮き上がっている。
 扉とはちょうど向き合う位置に、大きく両腕を広げた姿で掲げられたその衣装は、まるで来客を迎え入れようとしているかのようだった。
「びっくりした?」
 続いて入ってきたクーティエが尋ねる。手にはメイシアから受け取ったよもぎあんパンの袋があり、彼女はとてもご機嫌だった。
「それ、『いらっしゃい!』って、言っているみたいでしょ? 私が考えたの。――この衣装ね、母上が女王陛下の即位式で舞ったときのものよ」
 いたずらっぽい笑みの後ろには、自慢したくてうずうずしていた気持ちが見え隠れしている。
 そこへ、半ば呆れたような声が割り込んだ。
「おい、クーティエ。これで客を驚かせたのは何回目だ? やはり、お前の趣味は悪い」
 メイシアは、どきりとした。この部屋は無人だと思っていたのだ。扉を開けた瞬間から今まで、まるで人の気配を感じなかった。
 けれどよく見ればリュイセンと、もうひとり――今の声の(ぬし)が、向かい合ってソファーに座っている。状況から考えて、クーティエの母、レイウェンの妻のシャンリーだろう。
 壁の衣装に気を取られ、挨拶もしていなかった。メイシアは焦りと羞恥を覚える。
「し、失礼いたしました。ご無礼、お許しください。――メイシアと申します。以後、お見知りおきを」
 かっと頬を染めながら、彼女は深々と頭を下げた。長い黒絹の髪がさらさらと後を追い、赤い顔を覆う。しかし逆に、隠れていた耳の赤さが露呈してしまった。
「へ……?」
 メイシアの緊張ぶりにシャンリーの目が点になる。続けて、ぷっと吹き出した。
「おっと、こちらこそ失礼。けど、そんなにかしこまらないでくれ」
 彼女はすっと立ち上がり、メイシアに歩み寄る。チャオラウとの血縁を感じさせる女丈夫。ミンウェイの立ち姿もすらりと美しいが、シャンリーには圧倒的な存在感がある。女性にしてはやや低めの声質も、男性のような粗野な口調も、彼女の魅力を損なうどころか引き立てていた。
「草薙シャンリーだ。よろしく」
 差し出された右手を握ると、優しく握り返された。刀を振るう硬い掌だが、どこか温かい。
「……なるほど、噂通り可愛らしいお嬢さんだ。それでいて、イーレオ様が一目置くというのだから興味深い」
 シャンリーは朗らかに笑い、ソファーに座るようメイシアを促した。そして一番後ろから、のそりとついてきたチャオラウに「ようこそ、親父殿」と囁く。そこには照れくささと共に、喜びが漏れ出ていた。
 ルイフォンとは仲の悪い親戚であると身構えていたメイシアは、この家の人々の好意的な態度に戸惑っていた。敵対しているのは、この場にいない『ユイラン様』だけなのだろうか……?
 メイシアは落ち着きなく、あたりを見渡す。
 ここは応接室であるらしい。きっと、レイウェンの仕事関係の者を通すのだろう。部屋中が賞状や感謝状、トロフィーや楯といった名誉ある品々で埋め尽くされ、これまでの実績を無言で訴えかけている。
 大きく引き伸ばされた写真は、藍色の衣装を着て舞うシャンリー。即位式のものだ。あの華やかな舞台を彩ったのは、舞い手として最高の地位にあるといえる。四年前の式典には貴族(シャトーア)だったメイシアも参列したので、その価値は身を持って知っている。
「あ……」
 剣舞の名手シャンリーや若手のクーティエ、業績を上げるレイウェンの会社への賞賛の嵐ともいえる壁の中、メイシアは表彰される『ユイラン』の名を見つけた。
「ユイラン様はデザイナーだったんですね」
 メイシアが呟くように言うと、「そうよ!」とクーティエが嬉しそうに答えた。
「見て! このスカートも祖母上のデザインなのよ。可愛いのに、どんな動きをしても平気なの」
 座った姿勢で、膝よりかなり上に来ている短い裾を、クーティエは更につまんで持ち上げる。
「クーティエ! 少しは周りを気にしろ」
 軽い拳骨を飛ばしたのは、意外なことにチャオラウだった。
 彼は憮然とした顔で目をそらす。無精髭が苦々しげに揺れていた。総帥の護衛として常にイーレオの背後に控え、忠実――それでいて時に主人に、軽口と皮肉さえも言える、無敵の腹心の面影は消えていた。
「……っと、失礼」
 チャオラウは、ごほんと咳払いをして、メイシアに目礼をする。
「親父殿は、いつからそんな口うるさい(じじい)になったんだ?」
 シャンリーが呆れたように言うと、チャオラウはぎろりと睨んで鼻を鳴らした。
「お前の育て方を間違えたから、せめてクーティエだけは、まともであってほしいだけだ」
「でも、じぃじ。この服、中が見えないようになっているのよ?」
 すかさず、クーティエが口を挟むと、横からレイウェンの苦笑が漏れた。
「クーティエ、そういう問題じゃないよ」
 娘をやんわりとたしなめ、それからレイウェンは、メイシアに申し訳なさそうに頭を下げる。
「騒がしい家ですみません。メイシアさん、驚かれたでしょう?」
「あっ……」
 メイシアは、いつの間にかぽかんと開けていた口を手で抑える。
「い、いえ! ……素敵なご家族ですね」
 気兼ねなく言葉が出るのは、仲が良い証拠だ。メイシアの実家は、使用人たちの目があったため、こうはいかなかった。
 ――けれど、それでも。ほんの少し前までは、彼女のすぐそばに家族がいた。
 メイシアの顔に影が落ちる。知らず、胸元のペンダントを握りしめていた。
「……メイシアさん?」
 レイウェンが不審の声を上げる。
 そのとき、シャンリーの携帯端末が着信音を鳴らした。申し合わせたように、皆がぱっと口を閉ざす。
「はい。……ええ、来ていますよ。え? ……分かりました」
 簡単なやり取りの末、シャンリーが端末を切った。そして、メイシアに顔を向ける。
 その目線に、メイシアの心臓がどきりと音を立てた。
「メイシア、ユイラン様が部屋まで来てほしいと。――案内する」
「は、はい!」
 思わず大きな声になってしまった返事が、飾り棚の硝子戸を震わせた。
「そんなに構えるな。悪い話じゃない」
 シャンリーがにやりと笑い、軽い足取りで扉へと向かっていった。

5.薄雲を透かした紗のような-2

5.薄雲を透かした紗のような-2

 メイシアとシャンリーが応接室を出たあと、クーティエが食堂へと去っていった。楽しみにしていた、よもぎあんパンを食べるためである。
 来客用の部屋を食べこぼしで汚すわけにはいかないという、社長令嬢らしい配慮。加えて、甘い菓子パンは苦目のお茶と一緒にいただきたいという、十歳の少女にしてはなかなか渋い嗜好。この両者を満たすべく、彼女は足取り軽くスキップをしていった。
 いろいろな意味で華やかな女性たちがいなくなると、部屋は凪いだように静まり返った。先ほどまで、苦虫を噛み潰したような顔をして無精髭を逆立てていたチャオラウも、すっかり普段の彼に戻っている。
 この家の(あるじ)、草薙レイウェンは、ソファーの座る位置を少しずらし、久しぶりに会う弟の正面に着いた。軽く背をかがめ「リュイセン」と、優しく包み込むような低い声を落とす。
 はっとしてリュイセンが目線を上げると、自分とそっくりな顔が穏やかに微笑んでいた。
 しかし、似ているのは表面の薄皮だけだ。
「ずっと、うつむき加減だね。君らしくないな」
「兄上……」
 十歳ほど年長のこの兄には、祖父イーレオや、父エルファンのようなアクの強さはない。けれど、ごく自然に包容の(かいな)を広げ、清も濁も併せ呑む。気づけば、内側から匂い立つ、色香の如き魅力に(いだ)かれているのだ。常に冷静であれと、たしなめられてばかりのリュイセンとは器が違う。
「何があったんだい?」
 血族特有の聞き慣れた低い声質は、けれど誰よりも甘やかに響く。
「……『何かあったのか』ではなくて、『何があったんだ』と訊くんだな、兄上は」
「君がそんな顔をしているのに、何もないわけがないだろう?」
 優しげな顔をして、時として強引。そんなところも、リュイセンには敵わない。
 黙っていても、あとでシャンリーから話がいくのだろう。チャオラウが寡黙に控えているのも気になるが、どうせ彼も知っているはずだ。だったら、口を閉ざすことに意味はなかった。
「母上が鷹刀の屋敷を出たのは俺のためだったと、義姉上から聞いた」
「ああ……、聞いたのか」
 レイウェンは眉を寄せ、けれど深い息を吐きながら口元を緩める。
「ずるい大人たちの自己満足だから、君が気にすることではないよ」
「けど、兄上……」
 レイウェンが鷹刀一族の屋敷を出たのは、今のリュイセンとたいして変わらない歳のころだ。
 生まれたときからずっと、兄の背中を見ている。何年経っても、永遠に超えることができない。焦れるような気持ちで見やれば、兄はひと筋の切なさの混じった優しい顔をしていた。
「それにね。母上が鷹刀を出たのは、ミンウェイの居場所を作るためでもあったんだ」
「ミンウェイの居場所?」
 リュイセンの瞳が、鋭い光を放つ。
 顔つきが変わった弟を頼もしげに見つめ、レイウェンは頷いた。
「今、ミンウェイは総帥の補佐として、なくてはならない存在だろう?」
「あ? ああ……。それが何か……?」
「鷹刀にとって、ミンウェイはとても大切な人間だ。彼女は皆に愛されている。――けれど、十年前はそうとも言い切れなかった。周りもそうだし、何よりもミンウェイ自身が自分を否定してばかりいた」
「……」
 ミンウェイが、父親と共に暗殺者として姿を現したのは、十数年前だ。
 当時、まだ小さかったリュイセンには詳しいことは説明されず、従姉が一緒に住むことになったとだけ伝えられた。けれど周りの大人たちは、彼女と父親が総帥の命を狙ったことを知っていたはずだ。当然、風当たりも強かっただろう。
「君も覚えているだろう? 母上が鷹刀にいたころは、母上が総帥の補佐をしていた」
「ああ。なのに、デザイナーになると言って、補佐の大役をミンウェイに押し付けて、兄上と共に出ていった」
 吐き捨てるようにリュイセンが言うと、レイウェンが淋しげに苦笑した。
「君には、そう見えただろうね」
「兄上?」
「母上が出ていった結果、ミンウェイが仕事を引き継いだ。……それはね、彼女に役割を持たせることで、彼女は鷹刀にとって必要な人間であると分かりやすい形で示し、居場所を作った――ということだ」
「……っ!」
「祖父上が口癖のように、『ミンウェイは俺のものだ。一族のものだ』と言うだろう? あれもミンウェイに対する暗示というのかな、彼女はここに居ていいのだと、言い聞かせているんだよ」
「……」
 押し黙ったリュイセンに、レイウェンが穏やかな眼差しを向ける。
「母上が屋敷を出たのは、荒療治に近かったけどね。何しろ、当時の鷹刀の屋敷でミンウェイが一番信頼していたのが母上で、一番仲が良かったのが歳の近いシャンリーだ。そのふたりがいなくなったとき、ミンウェイがどうなるのか心配だった」
 うまくいって本当によかった、とレイウェンは微笑む。
 しかし、次の瞬間、彼の顔から柔らかな表情がすっと消えた。代わりに、彼らの父親そっくりの、凍てついた美貌が現れる。
「兄上?」
「リュイセン。今、ミンウェイの様子はどうだ?」
「どう、って……?」
 氷の息吹を吹きつけられたような錯覚を覚え、肌が粟立った。リュイセンは知れず、両腕を強く掻き(いだ)く。
「この前、ミンウェイがこの家に来た」
「――何故だ?」
 反射的に口走ってから、わざわざ尋ねるようなことではなかったと、リュイセンは思い返す。
 ミンウェイは母や義姉と仲が良い。数えたことはないが、彼以上によく遊びに来ているはずだ。この家を訪問するのに、特別な理由など必要ないだろう。
 けれど、兄の放つ冷気が、彼に『何故』と言わしめた。
 戸惑う弟に気づいているのか、いないのか。レイウェンは淡々と言葉を続ける。
「ミンウェイは、なんでもいいから父親のことを――ヘイシャオ叔父上について知っていることを教えてほしいと、追いつめられた顔で母上に迫った」
 リュイセンは一瞬、ぽかんとした。『ヘイシャオ』という名前に馴染みがなかったのだ。
「……ミンウェイの父親の『ヘイシャオ』って、〈(ムスカ)〉のことだよな?」
 ミンウェイの父が〈悪魔〉であったことは、今までリュイセンだけが知らなかった。彼女が現れたころは彼がまだ小さかったから、というのが理由だが、情報屋であるルイフォンは知っていた。のけ者にされていたようで腹立たしい。
「ミンウェイは何故、母上に〈(ムスカ)〉のことを訊くんだ?」
 リュイセンは、鼓動が高まるのを感じた。
 強敵を前にしても怖気づくことのない彼が、これから発せられるであろう兄の言葉を本能で恐れた。
 レイウェンは弟に静かな色の目を向け、ゆっくりと口を開く。
「ヘイシャオ叔父上は、母上の実の弟だ」
「なんだって!?」
「〈悪魔〉に関することは禁忌に近い。ヘイシャオ叔父上の話題も避けられていたから、君が知らなくても無理はないだろう。――でも、事実だよ」
「なんだよ、それ……」
 リュイセンは拳を固く握り、テーブルを叩きつけた。
 ばん、という大きな音が響き、飾り棚の硝子戸が激しくざわめく。
 母の出自について、深く考えたことなどなかった。ただ単純に、直系の妻なのだから一族の血を濃く引く人間なのだろう、くらいにしか捉えていなかった。
 けれどまさか、ミンウェイを苦しめた、あの憎き男とそんなに近い間柄だったとは……!
「リュイセン。かつての鷹刀は〈七つの大罪〉によって、濃い血を作り出すことを強いられていた。だから……」
「そんなこと、知っている! けど……!」
 レイウェンを睨みつけるようにして、リュイセンはテーブルから目線を上げた。肩で揺れる髪が、ぞわりと憎悪に広がる。
「君は『濃い血』が、何を意味するか分かるかい?」
 兄は感情の見えない目をして、じっと弟を見つめていた。
 リュイセンのやり場のない怒りを、レイウェンは氷のような威圧感で封じ込める。
「……何を、言いたい?」
 そう言葉を返すことすら、息苦しい。
「濃すぎる血は、生まれてくる子供が健康である確率を低くする。現に私たちには、生まれなかった兄弟、育たなかった兄弟が何人もいる」
「なっ……!?」
「そして私たちの叔母であるミンウェイの母親も、生まれつき病弱だった」
 気づかぬうちに、異世界に迷い込んだかのようで、兄の声はどこか遠く、現実味がない。
「ヘイシャオ叔父上は、心から彼女を愛していた。だから、彼女を治すために〈悪魔〉となった。文字通り、『悪魔』に魂を売った」
「……」
「母上によると、叔父上の研究テーマは『肉体の再生技術』だったそうだよ」
「あ……、ああ……」
 その話には聞き覚えがある。捕虜となった〈(ムスカ)〉の〈影〉の発言として、ミンウェイが報告していた。
「……じゃあ、死んだはずの〈(ムスカ)〉が生き返っているってのは、『再生』したからだ、とでも言うのか?」
「それは分からない。……けれど、リュイセン。叔父上は哀しいくらいに壊れてしまっている」
「兄上は、あの男の肩を持つのか!?」
 重要な話を聞いているはずだった。
 ルイフォンが聞いたなら、吟味すべき情報であると目を輝かせたに違いなかった。
 けれどリュイセンは、腹の奥から沸き立つ黒い感情に支配されていた。むしゃくしゃした。無性に苛立った。
「勿論、彼のしたことは私も許さないよ。だが、ただのひとつの事実として聞いてほしいことがある」
「なんだよ?」
 噛み付くように言い返す。
「ミンウェイの母親の名前は『ミンウェイ』というんだ」
「な……!?」
「叔父上は生まれた娘に名前を与えず、愛する妻の代わりにしたんだ」

6.かがり合わせの過去と未来-1

6.かがり合わせの過去と未来-1

 ユイランの部屋は二階だと、シャンリーは言った。
 のんびりと、庭を散歩でもするかのような調子で、シャンリーは廊下を歩く。途中で綺麗な刺繍の壁飾りを示しては、ユイランの作であると誇らしげに教えてくれた。
 けれど、メイシアはそれどころではなかった。心臓は激しく高鳴り、手足は震えて感覚がない。
 チャオラウが運転手だった時点で、よもぎあんパンを届けることは名目に過ぎないと察していた。やがて、この家の人々の様子から、ルイフォンと関係の良くないユイランに会うことこそが、訪問の目的であると確信した。
 そして今まさに、そのユイランと対面しようとしている。
 瑞々しいはずの白磁の肌は、血の気が引いて白蝋のようになっており、花の(かんばせ)は造花のように生気が失せていた。
「そんなに緊張しないでくれ……」
 シャンリーが、困ったようにベリーショートの髪を掻き上げる。
 一流の舞い手だからだろうか。何気ない仕草に華がある。ただし、女らしさとは別物ではあるが。
「ユイラン様は、お前に会えるのを、それはもう楽しみにしてらっしゃるんだ」
「楽しみ……?」
 にわかには信じられない。――その気持ちが表に出たのだろう。シャンリーが深い溜め息をつく。
「だから、そんな顔をしないでおくれよ。――ったく、リュイセンといい、お前といい……。ユイラン様がお可哀想だ」
「リュイセン様……?」
 そういえば、とメイシアは思う。
 リュイセンはずっと、先ほどの応接室にいた。けれど、ひと言もなかった。
「リュイセン様は、どうかされたのでしょうか……?」
「うん、まぁ。……リュイセンは、母親のユイラン様とうまくいってなくてな。だから『ちょっと、いい話』をしてやったら、思った以上の効果があって放心状態になっちまった」
「え……?」
「気になるなら、落ち着いたときにでもリュイセンに訊くといい。あいつは他人には冷たいが、お前のことは身内だと思っているようだから教えてくれるだろう」
 ふくれっ面くらいはするだろうけどな、とシャンリーは少しだけ意地悪く笑う。
 メイシアの顔も、つられてほころんだ。そして、気づいた。ゆっくりとした歩調は、萎縮に震えるメイシアの心をほぐすためだ。
 理由もなく脅えていないで、歩み寄ってほしい。――シャンリーの無言の声が聞こえる。
「あの……、ユイラン様はどんなお方なのでしょうか?」
 メイシアがおずおずと口を開くと、シャンリーは軽く目を見張り、続けて破顔した。
「お優しい方だよ。私など、赤ん坊のころから世話になっている」
「そんなに小さなときから……?」
「ああ。私は乳飲み子のときに、叔父のチャオラウに引き取られてな――」
 何を思ったのか、そこでシャンリーはにやりと口角を上げた。
「考えてもみろ、あの親父殿が赤ん坊の世話などできるわけないだろう? ミルクすらまともに飲ませられない養父に、私は生命の危機を覚えてユイラン様に泣いて助けを求めたんだ。――乳を寄越せ、と」
「え?」
「――というのは、イーレオ様があとになって冗談交じりに言ったことだが……要するに親父殿のあまりの不甲斐なさに、見かねたユイラン様が赤ん坊の私の世話を申し出てくださったんだ」
 同じ歳のレイウェンのいたユイランが、乳母代わりになってくれたのだという。――主従が逆転している。
 メイシアは、ますます分からなくなった。
 勝手な想像であるが、ルイフォンの母と険悪だったらしいことから、ユイランは冷たい女性だと思っていたのだ。それが、どうも違うらしい。
「案ずるな。会ってみれば分かる」
 すっかり困惑顔のメイシアに、シャンリーは豪快に笑った。


「ユイラン様は、この奥の部屋にいらっしゃる」
 そう言って通されたのは、ユイランの作業場のひとつ、という部屋だった。
 そこは、まるで賑やかな園遊会が催されているかのようであった。
 色鮮やかな衣服を身に着けた人形模型(トルソー)たちが、華麗なる群舞を繰り広げる。誰もが誇らしげに胸を張り、美しさを主張する。――躍動感あふれる姿は今にも動き出しそうで、本当はくるくると踊っているところを瞬間的に切り出したのではないかと錯覚してしまいそうだった。
 メイシアは、ひと目で魅入られた。
 しかもよく見れば、人形模型(トルソー)たちは必ずしも恵まれた体型をしているわけではなかった。
 太すぎたり、細すぎたり、高すぎたり、低すぎたり……。けれど、彼女たちの衣装には絶妙な位置に切り替えが施され、あるいは優美なギャザーが入り、体型など些末な問題にしてしまっている。そうして、彼女たちは自由で気まま、自然な美を楽しんでいるのだ。
 踊りの輪の間を、まるでステップでも踏むかのようにシャンリーは軽やかにすり抜けた。メイシアも遅れじと追いかける。
 シャンリーが続き部屋の戸をノックすると「どうぞ」の声が返ってきた。
 扉を開くと、先ほどの園遊会とは打って変わった、落ち着いた色合いが広がった。素朴で温かみのある生成りの壁紙に、明るい木目の床。手紡ぎ糸のカーテンが淡く陽光を遮る。
 その中に、ひとりの女性がいた。
 彼女は机に向かって何か書き物をしていたらしい。メイシアたちが部屋に入ると、眼鏡を外し椅子から立ち上がった。
「ようこそ、メイシアさん。お呼び立てしてごめんなさいね」
 鷹刀一族の血縁らしく、すらりと背の高い人だった。顔立ちは、どことなくミンウェイに似ており、彼女が(よわい)を重ねたらこうなるであろう姿をしている。
 ユイランの外見は想像していた通りであった。だが同時に、想像とはかけ離れてもいた。だからメイシアは、ほんの一瞬、足を止めてしまった。
 それは本当に、瞬きひとつほどの時間だった。けれども、鷹刀一族の血を引くユイランが、わずかといえどメイシアの逡巡に気づかぬはずもなかった。
 綺麗に結い上げた銀髪(グレイヘア)を傾け、ユイランは上品に微笑む。ブラウスの胸元のドレープがさらさらと柔らかく流れた。
「エルファンの配偶者が、こんなにお婆ちゃんだなんて、驚いたでしょう?」
「い、いえ! そんな!」
 メイシアは心臓が止まるかと思った。悲鳴のような声を上げながら、激しく首を横に振る。
「そんなに脅えないで。気にしているわけではないのよ。実際、クーティエのお婆ちゃんですものね。――というより、エルファンが若すぎるのよ。彼、私よりも(とお)は年下なんだから」
 すねたように口を尖らせ、くったくなくユイランが笑う。
 メイシアは、どうしたらよいのか分からなかった。貴族(シャトーア)の令嬢としてなら、気の利いた世辞を返すべきだろう。けれど、今の彼女にそれが求められているとは思えない。
 狼狽するメイシアに、しかしユイランは気にする素振りも見せず、手招きをして椅子を勧める。切れ長の目が、何故だかきらきらと楽しげに輝いていた。
 案内の役目を終えたシャンリーが退室の礼を取ると、「あなたもいたほうが、メイシアさんも気楽でしょう」と、ユイランはにこやかに引き止めた。
「さて、メイシアさん」
 メイシアが向かいに座ると、ユイランは早速とばかりに口火を切った。
「どうして私があなたを呼んだのか、気になっているわよね?」
「――はい」
 体は震えていた。けれど、何も言えないままでいるのは、ユイランに失礼だ。何より、自分自身が情けない。だから、先ほどのような見苦しい狼狽は繰り返すまいと、メイシアは凛と答えた。
 そんな彼女に、ユイランは嬉しそうに微笑む。そして、すっと指を三本立てた。
「私の用件は、三つ」
 美麗な声が、ゆっくりと響く。
「ひとつ目は、とても素敵なことよ。――さる方から、メイシアさんに服を仕立てるように依頼されたのよ。だから、その採寸をさせてほしいの」
 メイシアは数秒の間、声が出なかった。
 まるきり予想外で、拍子抜けしそうな用件だった。
「私に……服、ですか?」
「ええ。あなたに似合う、とっておきを作るわ。私、凄く楽しみなの」
 ユイランは、腕まくりのような動作を示す。
 言葉は柔らかいが、自信に満ちた口元がすっと上がった。プライドにかけて最高の品を作ると、その目が言う。
 彼女に服を頼んだのは、誰であろうか?
 そう疑問を浮かべ、すぐに考えるまでもない、とメイシアは思った。――イーレオ以外、あり得ないだろう。
「――けど、今のあなたにとって気になるのは、ふたつ目と三つ目のほうだと思うわ」
 切れ長の目が、じっとメイシアを捕らえる。白髪混じりの長い睫毛(まつげ)が、わずかに上がった。
 それだけで、空気の色が変わる。自然体を好むらしいユイランに、化粧っ気はない。けれど、もともとの造形の美しさに加え、中からにじみ出る気高さが、彼女の持つ雰囲気を迫力あるものにしている。
 ユイランから感じるのは敵意ではない。むしろ、彼女は好意的だ。なのに、メイシアは肌にざわつきを覚えた。
「その前に、あなたに言っておかなければならないことがあるの」
「なんでしょうか」
「これはたぶん、若い世代のリュイセンやルイフォンは知らないこと。……リュイセンのほうは、今ごろお兄ちゃんから教えてもらっていそうだけどね」
 ふふ、とユイランは笑った。しかし、すぐに口元を引き締め、メイシアに涼やかな瞳を向ける。
「今、鷹刀の周りをうろついているミンウェイの父親、ヘイシャオ。あなたには〈(ムスカ)〉と言ったほうがいいかしら? ――彼は、私の弟なの」
「え……?」
「つまり、あなたにとって、私は『お父さんの仇』の姉、ということになるわ」
 何を言われたのか、即座には理解できなかった。
 黒曜石の瞳を見開き、メイシアはユイランを見つめる。
「〈(ムスカ)〉……」
 かすれた声が漏れる。
 ここで、その名を聞くとは思ってもいなかった。
「私のことが嫌いになってしまったかしら? それなら、それで構わないのよ。悪く思ったりはしないわ」
 ユイランの声は、激しい耳鳴りに邪魔されて、途切れ途切れに届いた。メイシアは肩を丸め、ぎゅっと胸元のペンダントを握りしめる。
 不意を()れたような気持ちだった。
(ムスカ)〉に関しては、相手の出方を待つ形で保留となっていた。忘れかけていた不安が蘇り、目に見えぬざらついた手が心臓を鷲掴みにする。
「……」
 ――違う。
 忘れてはいけなかったことだ。
 今聞いたことは、とても大切な『情報』だ。ルイフォンなら目の色を変えたはずだ。
 身内であるユイランは、〈(ムスカ)〉のことをよく知っている。もし、この場にルイフォンがいたなら、ユイランと母親との確執は横に置いて、冷静に〈(ムスカ)〉のことを聞き出すだろう。
 だから、今は動揺している場合ではない。ユイランと話をするのだ。ルイフォンのように、ルイフォンの代わりに――。
 メイシアはすっと目線を上げた。そして、花がほころぶように微笑む。
「メイシアさん……?」
「お気遣い、ありがとうございます。けれど、たとえご姉弟でも、あなたと〈(ムスカ)〉は別の人です」
 心が落ち着いてくると、頭も回ってくる。
(ムスカ)〉は、イーレオが不当に総帥位を奪ったとして恨んでいる。それならば〈(ムスカ)〉の姉であるユイランにとっても、イーレオは憎しみの対象ではないのだろうか?
 けれど、イーレオとユイランは信頼関係にあるように思える。そうでなければイーレオは、メイシアとユイランを引き合わせたりしない。
 そう考えてメイシアは、はっとした。
「……ユイラン様のご用件のふたつ目。ひょっとして、イーレオ様からのご指示ですか? 私に〈(ムスカ)〉のことを話すように、という――」
「あら……」
 ユイランは思わず声を漏らし、上品な仕草で口元に指先を当てた。目尻が下がり、優しい皺が寄る。
(さと)い子だとは聞いていたけれど、本当ね」
 肩をすくめ、けれど嬉しそうに「参ったわ」と首を振る。
「つくづく、あなたにはルイフォンと共に、鷹刀に残ってほしかったと思うわ。ルイフォンたら、キリファさんにそっくりで思い切りがいいんだから……」
「え?」
 メイシアは違和感を覚えた。
 ユイランと、ルイフォンの母親キリファは仲が悪かったのではないだろうか。それが、随分と親しげな物言いである。
「あなたへの用件のふたつ目は、だいたいあっているわ。正確には、過去の鷹刀のことをあなたに話してほしい、とのイーレオ様のご依頼よ。漠然と『過去のこと』と言われても、困ってしまうのだけどね」
 そう言って、ユイランは机の上の書き物を示す。何を話せばよいのかまとめていたらしい。
「イーレオ様も、突然、現れたヘイシャオ――〈(ムスカ)〉については心を痛めてらっしゃるわ。だから、あなたを頼りたいのよ。そのためには、まず鷹刀という家について知ってもらいたい、ということね」
「何故、私などを頼りに……?」
「あら? あなたから『イーレオ様のお役に立つ権利がある』と言ったのでしょう?」
 ユイランが、とても嬉しそうに声をはずませる。一族の力になろうとしてくれるメイシアを、純粋に喜んでいるらしい。
「!」
 メイシアは、自分の行き過ぎた態度を思い出し、赤面した。
 その発言は、少し前の月が綺麗な日に、イーレオとふたりきりで話したときのものだ。あの夜、イーレオから重大な事実をほのめかされたのだ……。
「そしてね、キリファさんの死と、死んだはずのヘイシャオが再び現れたことは、無関係ではないはずなのよ」
 ユイランは強い目で、きっぱりと言い切った。メイシアは戸惑い、声を失う。
 少しの間をおいて、ユイランは表情を和らげた。
「このことは、三つ目の用件と関わりがあるの」
「三つ目の用件?」
「ええ、私からあなたへの依頼。――届け物をしてほしいの」
 よもぎあんパンに引き続き、またしても『届け物』とは……?
 メイシアが小首をかしげると、ユイランは軽く口元をほころばせた。
「預かったときには、リュイセンにでも頼めばいいかと思っていたのだけど、今ならあなたにお願いするのが一番ふさわしいわ」
「……どんな、お届け物でしょうか?」
 メイシアは、おずおずと尋ねる。
「四年前、キリファさんが亡くなる少し前に、彼女が私に預けた……ルイフォンへの手紙」
「え……?」
 思いもよらぬ『届け物』だった。
 亡くなったキリファが手紙を遺していた。しかも、不仲であったはずのユイランに託した……。
 メイシアは、ごくりと唾を呑み込む。
「この手紙をルイフォンに渡すには、条件があったの」
「条件……ですか?」
 胸騒ぎがした。そして、それはすぐに衝撃に変わる――。
「『女王の婚約が決まったら』――キリファさんはそう言ったのよ」
「――っ!」
「つまりキリファさんは、女王陛下のご婚約を契機に、何かが起こることを知っていたことになるわ」
 女王の婚約が決まり、藤咲家が婚礼衣装担当家に選ばれた。
 妬んだライバルの厳月家が斑目一族を雇い、藤咲家を窮地に陥れた。その裏で糸を引いていたのは――〈(ムスカ)〉……。

『発端は、女王だ』
『まだトップシークレットだが……。女王の結婚が決まった』

 耳の中に、ルイフォンのテノールが蘇る。
 あの日――。
 メイシアが鷹刀一族の屋敷を訪れ、ルイフォンと出逢った運命の日。
 調査報告として、彼はそう告げた。


 すべては、『女王の婚約』から始まっていた……。

6.かがり合わせの過去と未来-2

6.かがり合わせの過去と未来-2

 しんと静まった室内に、鳥のさえずりが流れ込んできた。
 屋根の上にいたのだろうか。ひとしきり楽しげな歌声が響き渡ると、力強い羽ばたきと共に窓に影が走った。
 手紡ぎ糸のカーテンにも影が落ちる。どんな熟練の職人でも、必ず太さに揺らぎのあるこの糸に、光と影が抜けていく。
 ユイランの上品な微笑みの上にも、揺らぎを与えていく――。
「ルイフォンに手紙を渡せば、私の役目は終わるわ」
 溜め息のような呟きに自然と背が丸まり、細いうなじに銀色の後れ毛が落ちた。
「――けど、ルイフォンにとっては、これが始まりになるのね。私が助けられなかったキリファさんの足跡(そくせき)を、彼が追うことになるんだわ……」
 美麗な声が、揺らぐ。
 思いがけない言葉に、メイシアは反射的に尋ねた。
「キリファさんを助けられなかった、って……どういうことですか? ――ユイラン様は、キリファさんが亡くなった原因をご存知なのですか?」
 メイシアは、詰め寄るように身を乗り出す。
 ユイランは勢いに押されて息を止め、瞬きをした。それから、肩を落としながら息を吐く。
「ごめんなさい。勘違いさせてしまったわね。そういう意味ではなくて……。明らかに彼女は何かに巻き込まれていると、分かっていたのに何もできなかった――ということよ」
「そう、でしたか……。すみません、私っ……。失礼いたしました」
 メイシアは椅子に背を戻しながら、勢い込んでしまった自分を恥じ入った。
「いいえ、こちらこそ悪かったわ」
 ユイランは首を振る。
「私に手紙を預けたときのキリファさんは、どう考えても自分に危険があることを確信していたわ。……だって、そうでしょう? 一緒に住んでいる息子へのメッセージを、わざわざ手紙にして他人に預けるんですもの」
 確かに、その通りである。
「けど、どうしてユイラン様に……」
 メイシアはそう言いかけて、ためらった。正妻と愛人の間柄で、ユイランとキリファは不仲であったはずだと、はっきりと口にするのは礼を欠くのではないかと思ったのだ。
 ――と、そのとき。メイシアは視線を感じた。ユイランの隣に座る、シャンリーである。男装の麗人ともいわれる彼女は、実に男前な顔でにやりと目配せをした。
「四年前、キリファさんが(うち)に来たときのことは、私もよく覚えていますよ。随分と珍しい客が来たものだな、と思いましたから。――で、ユイラン様。質問なんですが、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
 ユイランは軽く首を曲げ、横にいるシャンリーを見やる。
「リュイセンに言わせると、キリファさんは、ユイラン様とは『敵対関係』にあるそうです。そんな相手に、まるで遺言のような手紙を預けるなんて普通はあり得ません。――何か思い当たる理由(フシ)は、おありでしょうか?」
「シャンリー、良い質問をありがとう」
 ユイランは口の端を上げた。緩衝材としてこの場に残した義理の娘が、正確に役割を理解してくれた謝意である。
「私もキリファさんに訊いたわ。『なんで、私に預けるの?』と。そしたら、『まさか、あんたがあたしの手紙を持っているだなんて、誰も思わないだろうから』ですって」
 ぷっとシャンリーが吹き出した。
「さすが、キリファさんらしい」
「それだけ価値のある手紙ということなんでしょう。中身を勝手に見るわけにはいかないから、確認していないけれど。――状況から考えて、キリファさんが巻き込まれていた『何か』に関することだと思うわ」
「――ですね、きっと……」
 シャンリーが頷き、義理の母娘は目で言葉を交わす。明るい生成りの壁紙に反射した光が、ふたりの顔を照らし、陰りのある笑みを作った。
 そこには、死者を悼む旋律が流れていた。
 少なくともメイシアの耳には、無音の鎮魂歌が聞こえた。
「おふたりは、キリファさんのことを……?」
 なんと訊けばよいのだろう?
 口ごもるメイシアに、ユイランがふわりと笑った。
「大好きだったわ」
 切れ長の瞳に涙が浮かぶ。ユイランは慌ててハンカチを取り出し、目元を押さえた。
「やぁね、歳を取ると涙もろくなっちゃって」
「ユイラン様は充分にお若いです。イーレオ様なんてもっとご高齢のはずなのに、あの通りなんですから」
 そう言うシャンリーの声もわずかに震えている。
 メイシアは黒曜石の瞳を瞬かせ、呆然とふたりを見つめた。唇が無意識に「どうして……?」と紡ぐ。
「それはね、メイシアさん」
 涙声を押して、ユイランが口を開く。
「キリファさんは、まっすぐにエルファンを愛してくれたから」
 張りのある強い声だった。
 けれど、その意味を測りかね、メイシアは一瞬それがユイランから発せられたものと理解できなかった。
 ユイランが目尻を下げて笑う。涙が再びにじみ出て、彼女はハンカチで拭った。それから、話す内容をまとめてあるという書き付けを手に取り、「それでは――」と切り出す。
「メイシアさんが一番気になるのは、ヘイシャオ――〈(ムスカ)〉のことだと思うけれど、その前に鷹刀という一族の過去とキリファさんのことをお話しさせてね」
 紙の上に視線を落とし、少し目を細めてから思い出したように眼鏡を掛けた。
 老眼鏡であるらしい。「やっぱり、年寄りね」と、ユイランは可愛らしく顔を赤らめた。


「メイシアさん。気づいてらっしゃると思うけれど、鷹刀は異常な近親婚を繰り返して作られた一族よ。――その理由は、誰かから聞いてらっしゃる?」
 書き付けを読み上げるようにしてユイランは尋ねた。メイシアは正確な表現を思い出しながら、遠慮がちに口を開く。
「『鷹刀は〈七つの大罪〉が作り出した、強くて美しい最高傑作』だと、イーレオ様がおっしゃっていました」
 その答えに、ユイランは淋しげに笑った。
「そう、イーレオ様が……。でもそれは、血族を傷つけないための、イーレオ様の優しい嘘よ」
「嘘……?」
「ええ。例えば、エルファンとチャオラウが真剣勝負をしたら、年長のチャオラウが体力の衰えのハンデを負ってなお、ほぼ確実に勝つわ。――強さを追求した一族なら、エルファンが勝たなければ駄目でしょう?」
 そう言われても、メイシアには屋敷に住む凶賊(ダリジィン)たちは皆、強く逞しく見える。どちらが勝つと言われても、よく分からない。
 困った顔をしていると、シャンリーが苦笑しながら口を添えた。
「そんなことを言われても、メイシアには実感が湧かないだろ? でもここは、この私も同意するってことで通してくれ」
「は、はい。すみません」
 恐縮して頭を下げると、ユイランが「いえいえ」と微笑み、話を続ける。
「つまり、本当に強い者を作ろうと思ったら、チャオラウのような者をどんどん一族に取り込むべきなの。なのに〈七つの大罪〉は、気持ち悪いほど同じ血を重ね合わせることを求めた。――彼らの実験体として利用するためよ」
「え……?」
 メイシアの口から乾いた声が漏れた。
「具体的に何がなされていたのかは知らないわ。ただ、一族の中で不要とみなされた者が連れ去られ、〈七つの大罪〉への〈(にえ)〉になっていった」
「そんな……!」
「その一方で、必要とされた者は〈七つの大罪〉の庇護のもとで栄華を誇った。――そんな一族に反発したイーレオ様は、先代総帥に意見したそうよ。そしたら、見せしめに恋人を殺された……」
「……っ」
 崖から突き落とされたような衝撃を受けた。
 ユイランに『過去のこと』を話してくれると言われ、メイシアは自分でも気づかぬうちに心のどこかで喜び、期待していた。
 ルイフォンも知らない一族の過去を、ルイフォンが知りたがっている一族の秘密を、彼に伝えることができると――気持ちが浮き立った。
 しかしそれは、イーレオが優しさという嘘の殻で覆ってきた、残酷な現実を(あば)くということに他ならなかった。今更のように気づいた自分の愚かさに、メイシアは総毛立つ。
 殻から出てきた腐臭と怖気(おぞけ)が、容赦なく彼女を襲う。
 彼女は吐き気をこらえるように奥歯を噛んだ。
 おぞましいからこそ、これは聞くべき話だった。
「私とエルファンは、〈七つの大罪〉が濃い血を残すために決めた夫婦よ。しかも私にとって、エルファンはふたり目の夫」
 ユイランの目線が机に落ち、声に影が入る。
「ひとり目の夫は〈(にえ)〉として連れ去られたの。彼との間には子供がひとりいたけれど、三歳にもならないうちに亡くなったわ」
「お子さんも〈(にえ)〉に……?」
「違うわ」
 ユイランは、緩やかに首を振った。涙の雫が飛び跳ね、きらりと光る。
「これだけ血が濃くなれば、無事に成人できる確率なんて半分以下よ」
「……!」
「そのくせ〈七つの大罪〉は、貪欲に新しい〈(にえ)〉を求める。……私は、自分が生き残りたいがために、エルファンをふたり目の夫として受け入れたのよ。――可哀想に、エルファンはまだ十代だったのにね」
 ユイランの口の端が、すっと笑みの形に上がった。けれど、それは自嘲だった。疲れ切ったような目元からは涙は消え、静かながらも強い意志が見える。
 死者に捧げる涙はあっても、自分の過去は涙に逃げない。
 気高く、美しい人だと、メイシアは思った。


 ――ふと、ユイランが表情を和らげた。
 メイシアの顔をふわりと覗き込む。気遣いの眼差しだった。
 ユイランは沈んだ空気を振り払うように、小さく首を左右に降る。胸元のドレープがさらさらと優しく流れた。
「そんな時代は、イーレオ様が総帥になることで終わったのよ」
 そう言いながら書き付けに目を走らせ、何を見つけたのか、口元をほころばせる。
「メイシアさん。昔のエルファンは、ルイフォンそっくりだったのよ。信じられる?」
「えっ!?」
「私が直接ルイフォンに会ったことは数えるほどしかないから、人づてに聞いた感じだけどね。やんちゃなくせに策士で、自信家。――今のエルファンの冷酷なイメージは、イーレオ様が総帥に就かれたあと、『新しい鷹刀は、規律を重んじる組織だということを内外に示す』と彼が始めた演技よ」
 メイシアが信じられない思いでユイランを見つめると、彼女の隣にぽかんと口を開けているシャンリーがいた。同じく初耳だったらしい。
「総帥のイーレオ様には、誰からも好かれるカリスマが必要。だから、ナンバーツーとなったエルファンは、自分が憎まれ役になるのだと言っていたわ。だいたい、凶賊(ダリジィン)が『父上』だなんて可笑(おか)しいわよ。それまで、普通に『親父』って言っていたのよ?」
「あの呼び方は、鷹刀の伝統だったわけではないんですか!?」
 赤子のころから屋敷で育ったシャンリーが愕然としている。ユイランはくすりと笑い、「そうよ」とすまして答えた。
「でも、いつしかそれも(さま)になってしまったわ。無邪気で無鉄砲だった少年はいなくなり、鷹刀を支える強い冷血漢が生まれた。私はレイウェンやシャンリーに囲まれて充実した生活を送っていたけれど、エルファンは孤独だった。――そんなとき、エルファンが〈七つの大罪〉から、キリファさんを救い出してきたのよ」
 ユイランは、嬉しそうに書き付けの上の文字を指先でなぞった。
「警戒心の強い、野良猫のような子だったわ。エルファンのことが好きなのに、そう思われたくなくて噛み付いてばかりで。でも正妻の私には敵意丸出し。凄くまっすぐなの。もう、可愛くて可愛くて」
「ユイラン様。それは『可愛い』とは言わないと思うのですが……?」
 シャンリーが、控えめながらもしっかりと突っ込む。
「あら、そう? 裏表がなくて素直でいいと思うわ」
 切れ長の目を楽しげに輝かせ、それからユイランは(まぶた)を下げた。白髪混じりの睫毛が綺麗に並ぶ。
「亡くなった最初の子が生きていれば、ちょうど同じくらいの歳だったのよ。娘みたいなものでしょう? でも『キリファちゃん』と呼んだら怒るし、可愛がるほどに不気味がられたわ」
 ユイランが笑う。亡きキリファに向ける、その微笑みが……切ない。
 胸が苦しくなり、メイシアはぎゅっとペンダントを握りしめた。
「ユイラン様は、本当にキリファさんのことが大好きだったんですね」
「そうよ。大好き」
 ユイランは、得意げとしか言いようのない顔をした。
〈七つの大罪〉を恐れ、言われるがままに夫として迎えたエルファンに、ユイランはずっと罪悪感を抱いてきたのだろう。不憫だと思っていたのかもしれない。
 だから、彼女はエルファンの幸福を喜んだ。幸福をもたらしたキリファに感謝した。
 メイシアは、早くルイフォンに伝えたいと思った。――ユイランは怖い人でも嫌な人でもなく、キリファの『家族』であったと。
 そう考えて、メイシアは疑問に瞳を瞬かせた。
「――なら、どうして、ユイラン様とキリファさんは不仲ということになっているんですか?」
「それは、私がリュイセンを産んだからよ」
 涼やかに気高く、ユイランが答える。
 綺麗に伸びた背筋で胸を張り、メイシアを正面から見据えた。メイシアは、小さく「え」と声を上げたまま、射抜かれたように動けなくなる。
「ユイラン様! その言い方は……!」
 シャンリーが血相を変えて立ち上がり、ユイランの顔と――部屋の扉とを交互に見た。舌打ちのような音を漏らし、ベリーショートの髪を掻きむしる。
「シャンリー、落ち着いて」
 そう言うユイランもまた、扉に目線を移した。否、初めからメイシアではなく、彼女はメイシアの後ろにある扉を見ていたのだった。
 そして、ユイランは言葉を投げる。
「いい加減、立ち聞きも疲れたんじゃないの? ――リュイセン」
 メイシアは、まるで自分の名前が呼ばれたかのように、びくりと肩を上げた。恐る恐る、後ろを振り返る。
 扉はゆっくりと開き、黄金比の美貌が現れた。彼が威圧的に顎を上げると、癖のない黒髪が肩で揺れた。
「その話、俺にも聞く権利があると思うんですがね、母上?」
「だから、声を掛けてあげたんでしょう?」
 久しぶりの母子の対面に、空気が冷たく揺らいだ。

6.かがり合わせの過去と未来-3

6.かがり合わせの過去と未来-3

 扉を隔てた向こう側の気配など、武に()けたリュイセンには手に取るように分かる。
 それは反対側にいる母や義姉にとっても同じことで、すなわち彼らの間には扉など存在しないも同然だった。
『いい加減、立ち聞きも疲れたんじゃないの? ――リュイセン』
 扉の向こうから、涼やかな声が届いた。
 母の物言いに、リュイセンは(まなじり)を吊り上げた。ミンウェイとよく似た声質をしていることが、彼の神経を余計に逆撫でした。


 母と義姉が並んで座っていたため、リュイセンは成り行きでメイシアの隣の席に着いた。
 憐れなほどに気遣わしげな気配が漂ってくるので、「すまんな」と横目でメイシアに言う。すると、彼女は何か勘違いしたのか、はっと顔色を変えた。
「席を外します」
 長い黒髪をなびかせて立ち上がる。慌てたせいで、彼女らしくもなくがたんと椅子を倒した。
「お前が出ていく必要はない」
「そうよ。私はもともと、メイシアさんとお話していたんだもの」
 リュイセンが止めると、ユイランが同意する。発言内容に不服はないが(かん)に障る。彼は母を無言で()めつけた。
 けれど、そんな彼の反発心など、ユイランはまるで気にしていないようだった。おずおずと椅子を戻すメイシアを優しく見守っている。黒く染めず、そのままの明るい銀髪(グレイヘア)が、やたらと柔和な人物を装っているように感じた。――いつから、こんな髪の色だったのか、リュイセンは覚えていない。
「リュイセン。物々しく現れてくれたけど、私があなたを産んだのは、それが必要なことだったから、ってだけよ」
「必要だから――だと?」
 リュイセンの全身から殺気がほとばしった。しかしユイランは、まったく動じることなく、彼に涼やかな目を向ける。
「ええ。私はキリファさんが大好きだったから、キリファさんの嫌がることはしたくなかったわ。けれど、正妻が子供を産むのは家のために必要なことなの。貴族(シャトーア)だったメイシアさんなら、分かるんじゃないかしら?」
「えっ!?」
 急に話を振られたメイシアが、戸惑いに小さく叫ぶ。ユイランを見つめて瞬きをし、ちらりと――申し訳なさそうに、リュイセンの様子を窺ってから「はい」と答えた。
 ユイランはメイシアに軽く頷き返し、言葉を続ける。
「普通の平民(バイスア)だったら、『家のため』なんて仰々しいことは言わないわ。けど鷹刀は、多くの一族の者の命を預かる凶賊(ダリジィン)の総帥の家系よ」
 分かっているでしょう? と母の目が圧力を掛けてきた。
 いずれ、あとを継ぐのはあなたなのだから、自覚はあるわよね、と。
「……っ」
 兄が家を出て、影に沈むはずだった次男のリュイセンが後継者となった。それは本来、晴れがましいことなのだろう。けれど、今の彼には重圧でしかない。
「あなたが生まれる数年前、イーレオ様に代替わりして少ししたころの鷹刀は、弱りきっていたの。――それまでの鷹刀は〈七つの大罪〉を後ろ盾に、傍若無人に振る舞っていたから、あらゆるところから恨みを買っていた。そして、総帥が変わっても鷹刀の看板を掲げてる以上、我々は『鷹刀』。前総帥への怨恨もイーレオ様がすべて引き継いでいたのよ」
 諭すような、言い含めるような口調で、母が言う。その表情をなんと読み解いたらよいのだろうか。諦観というには淡々としすぎていて、まるで他人ごとのようだ。
 リュイセンは無言のまま、視線で先を促す。
「鷹刀は、常に他所の凶賊(ダリジィン)の標的になった。小競り合いは日常茶飯事。――そして、ある日。当時の鷹刀の、もっとも弱いところを()かれたわ。……それが何か、分かる?」
 切れ長の目が問うてくる。
「知るか!」
 もったいぶるユイランに、リュイセンは苛立ちを覚えた。机の下で握りしめた拳の中で、爪が皮膚に食い込む。
「レイウェンが襲われたのよ。生死の境をさまよったわ」
「……!?」
 思わぬ答えに、リュイセンは戸惑う。
 彼にとって兄は、羨望と嫉妬と憧憬、そして何よりも尊敬の対象であり、死ぬ目に遭わされるような弱い人間ではない。
「リュイセン、何か勘違いしていない? 昔の話よ。レイウェンはまだ幼い子供だったの。でも、彼が亡くなれば一族は遠からず滅びる、ってところだったわ」
「それはまた……ずいぶんと大げさですね」
 話が飛躍している。彼が不快げに眉を寄せると、母は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「鷹刀は身内同士で殺し合ったから、血族なんてほとんど残っていなかったのよ。もともと子供が育たない家だもの」
 ユイランの目が遠くを見て、揺らぐ。リュイセンは一瞬、母が泣いているように錯覚し、どきりとした。
「でも、祖父上には外にたくさん……」
「彼らは名目上の子供たちよ。イーレオ様の血縁ということにして、庇護しただけ。血族なら、顔を見ればひと目で分かるでしょう?」
「……!」
「イーレオ様が新しい総帥として一族にすんなりと受け入れられたのは、魔性の魅力で人を惹きつける『鷹刀』の容貌があったからよ。〈七つの大罪〉を切り捨てたのに、〈七つの大罪〉が作り出した薄皮に助けられるなんて、皮肉よね」
 ユイランは、ふぅと重い息を吐いた。だがそれは、わざとらしくも見えて、(はら)が読めない。
「レイウェンを失いかけて気づいたのよ。できたばかりのイーレオ様の鷹刀には、盤石の土台が必要――血族を増やす必要がある、と」
 背の高いリュイセンを、ユイランが()め上げた。結い上げた髪から、銀糸が数本こぼれ落ちるのが見えた。
 身長など、とうの昔に越した。丸みのある肩が華奢に感じる。
「必要だったから、私はリュイセンを産んだのよ」
 リュイセンにとって、もはや母は、ひ弱な存在でしかなかった。――なのに、気圧された。
 何かを言い返してやりたい。けれども、言葉が浮かばない。もどかしさに歯噛みして、せめてはと鋭く睨み返す。
 視線だけが、交錯する。
 無音の空間は、まるで時間が止まったかのようだった。息苦しくとも、引いてなるものかと、リュイセンは腹に力を入れる。
 ――その視界を、すっと何かが動いた。
「ユイラン様、よろしいでしょうか」
 義姉シャンリーが首を真横に曲げ、直刀のようにまっすぐにユイランを捕らえていた。
「どうして、わざわざリュイセンの神経を逆なでするような言い方をするんですか?」
「なんのことかしら?」
 ユイランの澄ました顔に、シャンリーはむっと眉を寄せた。
「負い目ですか? リュイセンに嫌われることが、贖罪――のおつもりなんですか!?」
 女性にしては低いシャンリーの声が、いつもよりも更に低く、唸るように震えている。
「ユイラン様は、セレイエやキリファさんを守ろうとしただけです。それが……結果として、そのあとに生まれてきたリュイセンの気持ちをないがしろにしていた、というだけです……!」
 シャンリーは苦しげに吐き出し、力なく肩を落とした。
 常に母の味方だとばかり思っていた義姉の思わぬ反論に、リュイセンはあっけにとられた。目を見開いたまま、ゆっくりと彼女の言葉を咀嚼する。
「セレイエ……? 誰だ……。いや、聞いたことが……」
「エルファン様とキリファさんの娘。お前の腹違いの姉だ。レイウェンと……それから私にとっても、初めての兄弟だった」
 シャンリーはリュイセンにそう答えると、一度、ぐっと口を結んだ。それからユイランに向き直り、頭を下げる。
「黙するべきことは、わきまえます。ですから、私に発言の許可を願います」
「シャンリー……。分かったわ」
 観念したようにユイランが目を伏せると、シャンリーはずいと身を乗り出した。
「リュイセン。レイウェンが襲われたとき、私もそばにいた。レイウェンと私と――セレイエの、子供たち三人だけで遊びに出ていたんだ」
『セレイエ』と口にしたとき、義姉の目が一瞬、懐かしむような色を見せた。
 リュイセンも、忘れかけていた記憶を手繰り寄せる。
 セレイエは〈ベロ〉のメンテナンスのときに、たまにキリファと一緒に屋敷に来ていた。母の子供ではないのに、母とよく似ているのが不思議だった。
 初めて会ったときには、兄や義姉にあまりにも馴れ馴れしく話しかけるので、リュイセンは小さな嫉妬心すら覚えた。おとなしげな外見とは裏腹に、明るく好奇心旺盛で、茶目っ気のある女の子だった。
 あるときなど義姉と一緒になって、昼寝中の兄の頭にリボンを付けるといういたずらを仕掛けた。片棒を担がされたリュイセンは、いつ目を覚ますかと気が気でなかったのであるが、セレイエと義姉は無邪気に大笑いしていた。――もっともこの件については、人の良い兄がすべてを承知の上で、狸寝入りをしてくれていたのだが……。
「殺されかけたのはレイウェンだけじゃない。セレイエもだ。セレイエだって、血族だからな。あのときのことは、今でも鮮明に覚えているよ……」
 女丈夫の義姉の声が震えていた。
「確かに鷹刀は血族を増やす必要があった。けれど、それはユイラン様のお子でなくてもよかったんだよ。実際あの事件の直前まで、ユイラン様はキリファさんが弟妹を増やしてくれるのだと、嬉しそうにおっしゃっていた。――けど、セレイエが襲われたのを目の当たりにして、考えを変えられた。危険な凶賊(ダリジィン)の世界に、キリファさんやセレイエを置いてはいけないと思われたんだ」
 シャンリーは言葉を切り、義母に問いかけの眼差しを投げた。これ以上は自分が言うべきことではないと、続きを任せてもよいかと、そう告げる。
 ユイランは黙って頷いた。銀髪(グレイヘア)が揺れ、顔に影が入った。
「不幸な半生を送ってきたキリファさんには、穏やかな生活を送ってほしいと思ったのよ。だから『対等な協力者〈(フェレース)〉』であり、一族ではないと位置づけて、彼女とセレイエちゃんを外に出した。そして、リュイセンが生まれた。……いいえ、リュイセンだけが『生き残れた』のよ」
 それ以外の兄弟は皆、育たなかった……。
 ユイランが、じっとリュイセンを見つめる。揺るがぬ瞳から逃げるように、彼は机に視線を落とした。
 ――なんと言えば……どんな反応を返せばいいというのだろう?
 その答えを出せず、母の顔を見ることができない。
 ……けれど、気配は感じる。読めてしまう。
「これで分かったでしょう? 私はただ、必要なことをしただけよ」
 見なくても、リュイセンには分かる。
 母は口元をほころばせている。いつもの涼やかな顔で笑っている。
「ユイラン様! だから、どうしてそんなに自分を悪者にしたがるんですか! リュイセンの存在は、レイウェンのためでもありました。セレイエと引き離されてしまった彼に、弟妹を……!」
「シャンリー。私を弁護しようとする気持ちは嬉しいけど、どう言い繕ったって、リュイセンの慰めになんかならないのよ。彼にしてみれば、自分の(せい)は他人の思惑の上にある、ってだけだわ」
「だから、また、そんな言い方を!」
 シャンリーは、机の上でぐっと拳を握りしめた。小刻みに震える振動が伝わってくる。彼女は、すっと視線を滑らせ、すがるような目をリュイセンに向けた。
「リュイセンも……、分かるだろ!? ユイラン様は口ではこんなだけど、でも……っ! ――何か言ってくれよ……」
 母は、どこまでも我が道を行く。理解することも、されることも求めない。
 決して相容れないと思う。
「俺は――……」
 言い掛けても、言葉は続かない。
 義姉は、今までのわだかまりが解けることを期待している。彼女の言いたいことは分かる。他人のことだったら、リュイセンだって、それが一番『丸く収まる』形だと理解できる。
 だが――!
「…………っ」
 リュイセンは、拳を握りしめた。
 そのとき――。
「リュイセン様」
 ふわりと、空気が動いた。
 長い黒髪の作り出した風が彼の腕をかすめ、鈴を転がすような声が響く。
「メイシア……?」
 横を向くと、黒曜石の瞳がじっとリュイセンを見上げていた。
「リュイセン様が生まれたときのことは、幾つもの事情が重なり合った結果です」
 こいつも和解を求めるのか、とリュイセンは鼻白む。
 落胆したような気持ちで視線を外しかけたとき、「だから――!」と、メイシアが語気を強めた。
「それはただ、そのまま受け止めればよいと思います。そして過去の出来ごとに対して、現在のリュイセン様は、何も論じる必要は『ありません』……!」
「……!?」
「だって、リュイセン様にはどうすることもできない、過去の話なんです。――論じても仕方のない過去もあると……思うんです。例えば、私の父のことみたいに……」
 大きな瞳が、濡れたように光っていた。儚げな美しさをたたえながらも、彼女は凛と前を向く。
「お前の父……」
〈影〉にされてしまった人間を救うには殺すしかないと、ルイフォンはメイシアの父を毒の刃で刺した。だが、亡くなる直前は確かに本人だった。
 そのことでルイフォンは殺す以外の手段があったはずだと悔い、メイシアは死の間際だからこそ記憶を取り戻したのだと主張した……。
「自分を責めるルイフォンと、父は救われたのだと言う私とで、意見が重なることはありません。けれど私たちは、互いにそばに居たいと思いました。一緒に前に進みたいと思いました。――だから、論じることをやめました。どんなに論じても、未来には繋がらないから……」
 そこで唐突に、メイシアは口元を抑えた。頬がさぁっと色を帯びたかと思えば、あっという間に耳まで赤く染め上がる。
 自分を語ってしまったことに今更のように気づき、我に返って羞恥を覚えたらしい。
「で、出過ぎたことを、すみませんっ。……ええと、あの……だから、『母上も、いろいろ大変だったんだな』で、……その、どうでしょうか……?」
 今までの威勢は何処に行ったのやら、急におどおどと尻窄みになり、体を縮こませてうつむく。
 メイシア以外の三人は、唖然としていた。
 けれどユイランが、急にぷっと吹き出す。明るい笑い声の中で、彼女は涼やかに言った。
「『母上も、いろいろ大変だったんだな』ね? ――そうよ、大変だったわ。でも、もう過去の話ね」
「あ、あの……、すみません……」
 メイシアが一層、小さくなる。
「お前が謝る必要はないだろうが」
 リュイセンは、やっとそう言えた。
 だが、一度声を出したら、すっと心が軽くなった。
 まったく。ルイフォンが選んだ女だけのことはあるというか。――メイシアが自分たちの住む世界に来てくれて良かったと、彼は思う。
 そして、ふと気づいた。貴族(シャトーア)だったメイシアの家も複雑だったはずだ。政略結婚をした実の母親は、彼女が小さいころに家を出ていったと聞いている。
 似ているのではないだろうか。――きっと、こんな話はどこにでもあるのだ。
「お前も、いろいろ大変だったんだな」
 彼がそう言うと、メイシアは「リュイセン様?」小首をかしげた。
「いい加減、リュイセン『様』は、よせ。他人行儀だ」
 なんだか照れくさくて、そっけなく言い放つ。リュイセンは横にいるメイシアから顔をそらし、そして前を見た。
「母上。――納得しました」
 許すとか認めるとかではなく、納得した。
「――そう。よかったわ」
 ユイランが短く答える。
 母は必要なことをした。それだけのことだ。
 リュイセンだって、必要なことなら自分の心を曲げてでも、やる。
 結局のところ母子なのだ。つまり、同族嫌悪。
 仲良くなれそうにもないが、『必要』だと言われて悪い気はしない――。
「それでは母上、未来の話をしましょう」
 リュイセンの心は穏やかに晴れ上がった。
「俺はもともと、〈(ムスカ)〉が母上の弟と知って話を聞きに来たんです。――過去の〈(ムスカ)〉を知り、現在の〈(ムスカ)〉を読み解き、未来に繋げます」
 リュイセンと目が合うとユイランは嬉しそうに頷き、いつもと変わらぬ涼やかな笑みを見せた。

6.かがり合わせの過去と未来-4

6.かがり合わせの過去と未来-4

「さて――」
 そう言ってユイランは、リュイセンの顔から机の上の書き付けへと目線を落とした。
 白髪混じりの睫毛が、綺麗に弓形に並ぶ。その表情は柔らかく、そして清らかだった。しかし、彼女が再び顔を上げると、切れ長の瞳はすっかり鋭敏な輝きを取り戻している。
 リュイセンは、ごくりと唾を呑んだ。隣ではメイシアが緊張の息遣いしている。ふたりは、そろって身を乗り出した。
「まず初めに、はっきりと言っておくわ。私の弟ヘイシャオと、現在、鷹刀の周りをうろついている〈(ムスカ)〉と名乗る者――このふたりは別人よ」
 素朴で温かみのある生成りの部屋に、不釣り合いなほどに力強く涼やかな声が響いた。
 あまりに単刀直入に言ってのけたユイランに、リュイセンは度肝を抜かれた。正体不明の焦りすら感じ、言葉が出ない。
 ユイランの言葉に翻弄されているのはメイシアも同じようで、彼女もまた目を瞬かせ、おずおずと口を開いた。
「あの……、(おそ)れながら、先ほどユイラン様は『〈(ムスカ)〉は弟』だとおっしゃいました。別人というのならば、それは、その……おかしくはないでしょうか?」
 当然の疑問を、ユイランが否定することはなかった。ただ、「これから説明するわ」と微笑む。
「数日前、ミンウェイが訪ねてきて訊いたの。『〈七つの大罪〉の技術なら、死んだ人も生き返りますか?』って。私は〈悪魔〉ではないから技術的なことは分からないけど、これだけは断言できると思ったわ」
 そこで一度ユイランは声を止め、諭すようにゆっくりと先ほどの言葉を繰り返す。
「ヘイシャオと、彼にそっくりな男は『別人』ってね」
 今まで積み重なっていた数々の謎を一刀両断に斬り捨てて、ユイランは彼女の結論に至っていた。
 リュイセンは、思わず声を張り上げた。
「何故、そうなるんですか? 俺は先ほど、兄上から〈(ムスカ)〉は『肉体の生成技術』を研究していたと聞きました。それを教えてくれたのは母上だそうじゃないですか! ならば、〈(ムスカ)〉はその技術を使って蘇り、今度こそ鷹刀を我が物にしようとしている、と考えるのが自然でしょう!?」
 知らず知らずのうちに、言葉に力が入っていた。
 斑目一族の別荘からメイシアの父親を救出するとき、リュイセンは〈(ムスカ)〉の素顔を見ている。ルイフォンが〈(ムスカ)〉のサングラスを弾き飛ばしたのだ。
 その顔は、どう見ても鷹刀一族の血を引く者の顔だった。
「リュイセン、誤解があるわ」
「誤解!?」
(ムスカ)〉を庇うようにも聞こえる口ぶりに、リュイセンは眉を吊り上げる。しかし、ユイランは静かに言う。
「あなたは、ヘイシャオが鷹刀を手に入れようとしている、と思っているようだけど、それはないの」
「何故ですか? 〈(ムスカ)〉は祖父上を恨んでいたはずだ! 奴は自分こそが正当な後継者だと……」
「違うのよ」
 息巻くリュイセンをユイランが途中で遮った。言い返そうとする彼の機先を制し、彼女は「大前提が違うの」と言い放つ。
「ヘイシャオは、総帥位なんてまったく興味がなかったの。だから、鷹刀を手に入れるために蘇るなんてことはあり得ないのよ」
 ひと言ごとに否定され、リュイセンは憎しみすら含んだ視線をユイランに向ける。低い声で、唸るように言葉を紡ぐ。
「……けど、あれは本人でしょう!」
 リュイセンは次の句をためらった。しかし、ぐっと腹に力を入れた。
「あれは、ミンウェイを虐待した男だ。そんなの……ミンウェイを見ていれば分かる!」
 ミンウェイを脅かす存在が、野放しにされている。その現状が歯がゆくてならない……。
 黄金比の美貌が、苦痛に歪んだ。うつむいて肩を震わせるリュイセンの耳に、ユイランの深い息が届く。
「ヘイシャオの虐待については、私には何を言う資格もないわ。ミンウェイを亡くしたヘイシャオがどうなるか、姉としてもっと心を配っておくべきだった。私は……、――あ、ごめんなさい。名前が混乱しているわね」
 メイシアの戸惑いの顔に気づき、ユイランは言葉を止めた。わけの分からないことを言う母の助け舟は気乗りしないが、話を円滑に進めるためにリュイセンは口を添える。
「兄上から聞きましたよ。ミンウェイの母親の名前も『ミンウェイ』だったと。〈(ムスカ)〉は生まれた娘に名前を与えず、妻の代わりにした、とね」
 メイシアが「そんな……」と小さく声を漏らした。リュイセンも同意するように、不快げに鼻を鳴らす。
「順を追って話しましょう」
 一同を見渡し、ユイランは厳かに言った。


「ヘイシャオは、婚約者のミンウェイを何よりも大切にしていたの」
 ユイランの第一声は、〈悪魔〉の過去には似つかわしくないような、優しいものだった。
「勿論、〈七つの大罪〉が勝手に決めた相手よ。だからヘイシャオは初め、彼女に無関心だった。けれど、純真なミンウェイは疑うことなく彼を慕ってきたのよ」
 かつての悪虐な鷹刀一族の中で、どうしてそんな夢見る少女が育ったのだろう。リュイセンのそんな疑問に答えるように、ユイランの言葉が続く。
「ミンウェイは生まれつき病弱だったの。できることが限られていた彼女は、自分は役立たずな人間だと思っていた。だから、ヘイシャオに尽くすことに生きる価値を見出していたのよ」
 濃い血を重ね合わせた一族で、成人できるのは半数以下。その運命の足枷は彼女をがっちりと捕らえていた。
「きっかけなんて、どうでもいいのよ。ミンウェイはまっすぐに彼を想った。鬱陶しがっていたヘイシャオも、いつの間にか本気で彼女に応えていた。見ているほうが恥ずかしいくらいに微笑ましくて、そして羨ましかったわ」
 ユイランが目を伏せた。白髪混じりの睫毛の影が、静かに顔に落ちる。
「けれどミンウェイの体は、成長するにつれ確実に弱っていった。だから、ミンウェイを生きながらえさせる方法を求めて、ヘイシャオは〈悪魔〉となったのよ」
 隣でメイシアが体を震わせた。
 リュイセンは、胸の中に不快なざわつきを覚える。
〈七つの大罪〉は怪しげな組織だ。胡散臭い。リュイセンなら絶対に関わらない。
 けれど、そのときの〈(ムスカ)〉の行動は理解できるのだ。――それが、病弱な婚約者のために、必要なことだから……。
 自分の心の中に生まれた〈(ムスカ)〉への同情に気づき、リュイセンは(おのれ)を叱咤する。
「……その後、イーレオ様が総帥位に就き、鷹刀は〈七つの大罪〉と縁を切ったわ。ヘイシャオは、ミンウェイの治療法を探すために〈悪魔〉として生きることを選び、彼女を連れて鷹刀を去った。彼にとってはミンウェイが第一で、総帥位なんて本当にどうでもよかったのよ」
 ユイランは肩を落とし、呟くように言う。
「ヘイシャオたちが出ていくとき、私はそれでいいのだと信じていたわ。……病弱なミンウェイが長く生きられないことも、ひとり残されるヘイシャオがどうなってしまうのかも、考えてあげることができなかった」
 その結果、娘への虐待へと繋がった。
 ユイランの後悔が、こめかみに深い皺となって表れる。それを覆い隠そうとするかのように、うつむいたはずみに銀の前髪が掛かった。
 リュイセンは、腹の中で渦巻く不可解な感情に押し流されないように、奥歯を噛んだ。
 母は、過去を美化しているのだ。どんな事情があれ、〈(ムスカ)〉がミンウェイにしたことは変わらない。奴は、卑劣な外道である。奴は、非道な男でなくてはならないのだ――ミンウェイのために。
「ここまでが、私が直接知っている弟のヘイシャオよ。そして、彼が次に現れたのが十数年前……」
 リュイセンは、はっとした。弾かれたように叫びだす。
「そのとき、〈(ムスカ)〉は祖父上を狙っているじゃないですか! 奴は総帥位なんてどうでもいいんじゃないんですか? これはどう説明するんですか!?」
 リュイセンが顎をしゃくる。黒髪が肩をかすめ、後ろで鋭く怒りに舞った。
「あれはね……。死に場所を求めてきたのだと思うわ」
「わけが分かりません!」
 言い返す彼に、ユイランは口調を変えることなく落ち着いた言葉を重ねる。
「ヘイシャオは、ミンウェイを連れて『エルファンのところに』来たのよ。『イーレオ様に復讐する』と口では言いながら、イーレオ様ではなく仲の良かったエルファンのところに現れたの」
「え……?」
「ヘイシャオは妻のミンウェイが亡くなったことを告げ、自分の亡骸を彼女のそばに埋めてほしいと、そして娘を頼むと……エルファンに託したのよ」
「……」
「もし娘のミンウェイがいなければ、ヘイシャオは妻のミンウェイが亡くなったときに、あとを追ったはずよ。それが何故、十数年前のタイミングで娘を鷹刀に託し、妻のあとを追うことにしたのかは分からない。――けど、自ら死を求めたのなら、彼がこの世に戻る理由はないわ」
 メイシアが息を呑み、顔色を変えた。叫びを抑えるかのように口元に手をやる。(さと)い彼女は、ユイランの言葉の裏の意味に気づいたのだ。黒曜石の瞳が、不安に揺らめく。
 けれど、リュイセンの(たか)ぶった気持ちは、収まりが効かなかった。
「ですが! あの〈(ムスカ)〉は、どう考えても本人で……!」
 食って掛かる彼を、ユイランは冷静に遮る。
「勿論、ヘイシャオとは無関係だなんて言わないわよ。あなたの推測通り、〈七つの大罪〉には死者を生き返らせる技術があるのでしょう」
「母上、言っていることがちぐはぐです!」
「――気づかないの?」
「何に気づけと?」
 謎掛けめいた言葉に苛つき、リュイセンは声を荒立てる。
 察しの悪い息子に、ユイランは不満げに大げさな溜め息をついた。
「私は昔を懐かしむために、死んだ弟と義妹の話をしたわけじゃないわ。感傷に浸りたいだけなら、こんな後悔は息子なんかに話さないの」
 見下した物言いに、かちんとくる。けれど、有無を言わせぬ強い口調に、リュイセンは言い返すことができなかった。――その裏側に、悲しみの色を見てしまったから。
 唇を噛むリュイセンをユイランはじっと見つめ、ふっと表情を緩めた。
「さっき、あなたは自分で言ったでしょう? 過去を知ることで現在を読み解き、未来に繋げる、と」
「あ、ああ……」
「つまりね、過去のヘイシャオの行動を考えれば、『彼が、自分の意思で生き返ることはない』と断言できるの。すなわち――」
 切れ長の目が、研ぎ澄まされたような鋭い輝きを放った。美麗な声が静かな怒りをはらみ、部屋中に響き渡る。
「ヘイシャオの最期の思いを無視して、彼を生き返らせた『第三者』がいる」
 窓も開けていないのに、冷たい風がすっと通り抜けたようだった。
 生成りの壁紙も、木目の床も、色あせたような薄ら寒さに染まっていく。手紡ぎ糸のカーテンだけが、その風が錯覚であることを証明するかのように、ぴくりとも動かずにいた。
「なんの目的で彼を生き返らせたのかは分からない。けれど必ず、なんらかの意図が――ヘイシャオにやらせようとしている『何か』があるはずよ」
 そう言ってユイランは、リュイセンを見やった。
「分かったかしら? 今、〈(ムスカ)〉を名乗っている男は、第三者が自分の目的を果たすために作った、ただの駒よ。だから、ヘイシャオとは『別人』なの」
「……!」
 リュイセンは拳を握りしめた。
 あの憎々しい男は、ただの駒でしかない。けれど、もっと、とてつもない陰謀の予兆である――。
 にわかには、信じがたかった。
 だが、母の説明は筋が通っていた……。
「あ、あの、ユイラン様、お聞きしてもよろしいでしょうか」
 メイシアが、遠慮がちな細い声を上げた。
「私とルイフォンは、貧民街で〈(ムスカ)〉に会いました。そのとき、逃げる隙を作るために、私は彼を挑発しました。『過去に、イーレオ様に負けたのでしょう』と」
 そのときのことを思い出したのか、メイシアは顔を強張らせる。
「〈(ムスカ)〉は私の想像以上に、我を忘れて怒り狂いました。彼は、イーレオ様に恨みがあると考えて間違いないと思います。しかしユイラン様のお話だと、ヘイシャオさんはイーレオ様を憎んでいないはずです。――ならば、今の〈(ムスカ)〉は、その第三者にイーレオ様への憎しみまでも植え付けられてしまったのでしょうか」
「それは……難しい質問だわ」
 ユイランは、彼女らしくもなく口ごもる。
「ヘイシャオは〈七つの大罪〉のやりようには反感を(いだ)いていたけれど、技術そのものは称賛していたの。だって、ミンウェイの命が掛かっていたもの。――けど、イーレオ様は〈七つの大罪〉に関することは全面的に否定したわ。皆をまとめるためにも、それは必要なことだったから。だから、ヘイシャオとイーレオ様は対立していたと言えなくもないの」
「そう……ですか」
 力なくメイシアが言う。
「イーレオ様にとって、ミンウェイは娘よ。可愛くないはずがない。ヘイシャオの意見も認めたかったはず。でも立場上、それはできない。……おそらくね、現在の〈(ムスカ)〉に対して、イーレオ様の態度が煮え切らないのは、過去のヘイシャオへの罪悪感があるからよ。〈(ムスカ)〉が狙っているのは一族ではなく、自分個人だと考えてらっしゃるから、万一のときはそれでもいいと思ってらっしゃるんだわ」
「そんな馬鹿な!」
 リュイセンは反射的に叫んでから、そういえば、とイーレオの態度に納得する。
 そんな息子を見ながら、ユイランは優しく微笑んだ。
「ええ、そんな馬鹿なことがあってたまるものですか。――あれは『別人』なの。ヘイシャオもミンウェイも、もういないの。だから、これ以上、悲しいことが起こらない『未来』を作らないとね」
 ユイランは、切れ長の目に強気で涼やかな色を載せた。口元を引き締め、結い上げた銀髪(グレイヘア)を揺らして立ち上がる。
「ヘイシャオのことは、ここまで。それじゃあ、私がキリファさんから預かった手紙をメイシアさんに渡すわね」
 これこそが、未来を切り(ひら)く鍵となるに違いない――。
 そのとき。
 がたんと、椅子の音が鳴り響いた。
「待ってください!」
 戸棚に向かうユイランを、メイシアの凛とした声が引き止めた。

7.幾重もの祝福-1

7.幾重もの祝福-1

 硬質なリノリウムの床に、カタカタという打鍵の音が跳ね返る。
 時折り止まっては、また勢いよく叩きつける。あるいはキーを押すことなく考え込み、苛々と指先だけが揺れ動く。
 OAグラスが、モニタ画面の四角い光を反射する。無機質で無表情な顔が、ただひたすら文字を追う。彼本来の、端正な顔立ちが浮き彫りになる――。
 自室の隣、通称『仕事部屋』にて、ルイフォンは研ぎ澄まされたような集中力でもって、母の遺産〈ベロ〉と戦っていた。
 彼をぐるり囲むように、円形に配置された机には、多種多様な機械類が載せられている。この空間を、メイシアは魔方陣みたいだと言った。彼女からすると、天才クラッカー〈(フェレース)〉は魔法使いに見えるのだろう。
 メイシアは知らなかっただろうが、伝説に残るようなコンピュータのエキスパートを、俗に魔術師(ウィザード)と呼ぶ。だから、なかなかセンスのある発言であったのだが、本当の魔術師(ウィザード)は彼ではなく、先代〈(フェレース)〉である彼の母キリファだ。
 ルイフォンは手を止めた。
 そして、溜め息をひとつ……。
 使い魔たるコンピュータ〈ベロ〉は、彼の忠実なるしもべ――であるはずだった。
 しかし屋敷が警察隊に襲われたとき、〈ベロ〉はルイフォンのプログラムを無視した。キリファが作った人工知能の独断に従った。
 母と住んでいた家にある〈ケル〉も同様で、ルイフォンの命令を勝手に書き換えて、メイシアを敷地内に入れた。〈ケル〉はメイシアを知らなかったはずだから、〈ケル〉と〈ベロ〉は結託しているのだろう。
 つまり魔術師(ウィザード)キリファの死後も、〈ケル〉と〈ベロ〉は彼女の使い魔だということだ。――ルイフォンではなく。
 しかも〈ベロ〉は、娼館の女主人シャオリエをモデルにしている。あの口調、あの性格からして間違いない。母も何故、あんな傍迷惑(はためいわく)な人格をもとに人工知能を作ったのやら。
 おかげで、皆をあれだけ驚かせたのに、本人そっくりの口ぶりで『もう手出ししないから、あとはせいぜい頑張りなさいね』と、しれっと言ったきり説明もなしだ。
 だから、あの事件のあと、ルイフォンは必死に人工知能〈ベロ〉の解明に勤しんでいた。その結果、ほんのわずかではあるが、〈ベロ〉の正体が分かってきた。
 要するに、ルイフォンが知っていた〈ベロ〉は、いわば『張りぼて』だったのだ。あるいは『影武者』、『隠れ蓑』といってもいい。
 真の〈ベロ〉は、別のところに隠れていて普段は何もしない。けれど常に監視の目は光らせていて、必要なときには張りぼての〈ベロ〉を乗っ取る、ということらしい。
「……腹、減ったな」
 ルイフォンはOAグラスを外して、机に置いた。
 メイシアは今日、ミンウェイとよもぎあんパンを作るのだと、朝から楽しみにしていた。彼女の奮闘ぶりは非常に気になる。しかし、邪魔をしてしまうのは悪いので、ルイフォンはおとなしく仕事部屋に籠もった。そしたら、時が経つのを忘れてしまったのだ。
 途中でメイドが昼食を持ってきてくれたが、片手間に食べていたから、料理長自慢のサンドイッチの味もよく覚えていない。だが、量が足りなかったのは確かなようだ。
 時計を見れば、もうすぐお茶の時間である。
 そろそろメイシアが呼びに来てくれるだろう。きっと、彼女お手製のよもぎあんパンをご馳走してもらえるに違いない。
「……」
 腹が減っていた。
 たまには自分から行くのもよいだろうと、ルイフォンは立ち上がる。
 両手を上げて背筋を伸ばし、腕を回して肩周りをほぐす。首を曲げれば凝り固まった筋肉が悲鳴をあげ、その動きに併せて一本に編まれた髪が振り子のように揺れた。
 部屋を出る彼の後ろ姿は相変わらずの猫背で、せっかく伸ばしてもすぐに元の木阿弥だと、毛先を彩る金の鈴が笑っていた。


 メイシアは厨房にいなかった。
 それどころか、屋敷内にはいなかった。
「ミンウェイ! 何故、メイシアを行かせた!?」
 ルイフォンは、ミンウェイに詰め寄った。殴りかかりたい衝動は理性で抑えたが、鋭い殺気は隠しようもなく、彼女のまとう草の香りを霧散させる。
「お祖父様のご命令だったのよ」
「親父の!?」
 それを聞いた途端、彼は執務室に向かって走り出した。
 草薙家――。
 チャオラウの養女の姓を名乗っているから『草薙』だが、つまりエルファンの正妻ユイランの家だ。
『ユイランは――ひょっとしたら鷹刀の誰よりも喰えない相手よ』
 ルイフォンの母キリファは、ユイランに苦手意識があった。あの傲岸不遜な母が曲者と認め、なるべく避けていた人物なのだ。
「ふざけんなよ、糞親父!」
 メイシアをあの家に行かせる理由が、何処にあるというのだ?
 リュイセンが一緒であるというから、生命の危険だけはないと思うが、どんな嫌な目に遭っているか分からない。
 階段を駆け上がるルイフォンの尻で、携帯端末が振動した。
 この忙しいときにと、電源を切ろうとした彼の目に、発信者の名前が映る。
「リュイセン!?」
 この上もなく好都合な相手であり、同時にメイシアの身に不安を覚え、心臓が凍りつく。
 震える手で電話を受けると、甲高い声が響いた。
『ルイフォン大叔父上! 大変なの!』
 まったく聞き覚えのない、少女の声。
 あどけなさを残した可憐さは、まだ子供と言ってもいいかもしれない。だが、今のルイフォンには相手を推察する余裕などなかった。
「誰だ、お前?」
 警戒心むき出しで、低く唸る。
『草薙レイウェンの娘、クーティエよ。リュイセンにぃの姪、と言ったほうがいい?』
「リュイセンの姪……? ――ユイランの……孫か!?」
『そうよ。にぃがいつも言っている通り、頭の回転は早いわね』
 クーティエは、褒めていた。だが、明らかに年下の少女に褒められて喜ぶようなルイフォンではなかった。
「この野郎! メイシアをどうした!?」
 端末を握りつぶす勢いで力を込め、怒鳴りつける。
『だから、大変なのよ! 今すぐ(うち)に来て!』
 その言葉の終わらないうちに、ルイフォンは今度は外に飛び出した。
 ユイランの――草薙レイウェンの家には行ったことはないが、鷹刀一族に関係のある情報なら、彼はすべて把握している。当然、場所は知っていた。


 ヘルメットすらも、もどかしく、ルイフォンはそのままバイクを疾走(はし)らせた。
 事故すれすれの運転を繰り返し、対向車の怒声を置き去りにしながら、あっという間に目的地に到着する。
「早かったわね」
 洒落た門扉の前で、十歳ほどの少女が待っていた。
 (つや)やかな黒髪を両耳の上で高く結い上げ、花の髪飾りで留めている。顔立ちは鷹刀一族そのもの。良くいえば利発そうな、悪くいえば小生意気そうな雰囲気の少女だった。
 お互いに顔を知らぬが、名乗らなくとも分かった。
「メイシアに何をした!?」
 獲物を見つけた獣の目で、ルイフォンは少女――クーティエに迫る。
 全身の毛を逆立てるように肩を怒らせ、視線で噛み殺さんばかりに睨みつける。ことの次第によっては、彼女を捕らえて人質とし、メイシアの身柄と交換することを考えた。
 一方クーティエは、「えっ!?」と短く叫んで目を丸くした。
 自分に向けられた殺気が分からぬような彼女ではない。ルイフォンの形相に、思わず逃げ腰になる。けれど、靴の(かかと)がこつんと門扉に当たり、退路が()たれていることを知らしめられた。
「わ、私が何かしたんじゃないわ!」
 彼女としては、一刻も早くルイフォンに来てもらえるよう、少しだけ大げさに言ったつもりだった。あくまでも『少しだけ』である。まさか自分が狙われるなどとは、微塵にも思ってもいなかった。
 クーティエは窮地に立たされた。――だが、救いの神はすぐに現れた。
「叔父上、娘が失礼いたしました」
 馴染みのある魅惑の低い声質。だが、甘やかな優しい響きは、ルイフォンのよく知る者ではない。
 神々しいばかりの美の化身。リュイセンを(とお)ばかり歳を取らせたような姿でありながら、まとう雰囲気はまるで違う――穏やかな微笑がそこにあった。
「レイウェン……か?」
「はい」
 そう言って彼は門扉を開き、ルイフォンを招き入れる。
「本日は、娘が不躾にお呼びだてして申し訳ございませんでした」
 血統を示すような立派な体躯をふたつに折り、大人の男が少年のルイフォンに礼を()る。その物腰は柔らかく、かつ堂々としていた。
「――っ」
 心からの謝罪と敬意が感じられ、ルイフォンは言葉を詰まらせる。
 レイウェンと会うのは初めてではない。だが、十年以上も前のことだ。ほぼ初対面と言っていいだろう。
 見慣れた鷹刀一族の容姿で、こうも下手(したて)に出られると、調子が狂う。何しろ、イーレオやエルファンと同じ顔なのだ。
 レイウェンは頭を上げると、目を細めてルイフォンを見つめた。
「突然のことでしたが、あなたにお会いできて嬉しいです、叔父上。――この呼び方は他人行儀ですので、『ルイフォンさん』と呼ばせてくださいね」
 親しみの込もった微笑みが、なんともこそばゆい。やや強引であるのに、それを感じさせないのは、さすが鷹刀の血族というところか。
「ゆっくりお話したいところですが、まずはメイシアさんのところに行きましょう」
 ルイフォンは、メイシアの名前に顔色を変えた。レイウェンが「ご案内します」と続けるよりも先に、家に向かって走り出す。アプローチがまっすぐに伸びており、迷うことなどなかった。
 唖然と見送るクーティエが、ぽつりと呟いた。
「メイシアのために、飛んで行っちゃったのよね……?」
「当然だよ。彼にとって、メイシアさんは何よりも大切な方なんだからね。その想いを、君はからかうような真似をしたんだよ?」
 たしなめるようにレイウェンが言う。
「う……。悪かったと思っている。けど、こういうの……憧れちゃうわ」
 非を認めつつも、少女らしく頬を上気させる娘に対し、レイウェンは穏やかに苦笑した。


 初めて訪れる他人の家に、勝手に入り込んだルイフォンを待っていたのは、一見、男にしか見えない背の高い女性――レイウェンの妻、シャンリーだった。
 彼女はルイフォンの姿を見つけると、彼が口を開くよりも早く叫んだ。
「ルイフォン、待っていたぞ! こっちだ!」
 廊下を走る彼女を追い、彼もまた走る。
 リュイセンやチャオラウの姿もあったのだが、ルイフォンには見えていない。彼らが半ば呆れ顔だったことも、当然のことながら知る(よし)もない。
「この先の階段を上がった二階だ!」
 シャンリーが指差すと、ルイフォンは彼女を追い越して奥へと駆け抜けた。
 階段の前で急停止すると、勢い余った黒髪が振り切られんばかりに流れゆき、金の鈴を煌めかせる。
「メイシア!」
 二階に向かって、ルイフォンは叫んだ。木製の手すりを引っ掴み、彼は床を蹴る。
 そのとき、頭上から扉の開く音がした。
「ルイフォン!」
 硝子を弾いたような、高く透き通った声。
 その響きを聞いただけで、彼の心は共鳴して大きく震えた。
 ――メイシア……!
 彼女が無事で、そこに居る。
 そう思っただけで膝から崩れ落ちそうになり、手すりを握りしめて体を支えた。
 姿勢を崩し、目線の下がった彼の耳に、聞き慣れぬ衣擦(きぬず)れの音が届いた。不思議に思い、彼は足元から続く階段に視界を広げていく。
 幾つもの段を巡り、たどり着いたその先は――。
「………………!」
 天窓から陽射しが舞い降り、夢見るように幻想的な光景を浮かび上がらせていた。
 そこに、純白をまとった彼女がいた。
 銀色のティアラから、柔らかな風のようなベールが流れ落ち、薄い布地を透かした淡い光が全身を包み込む。
 長い髪は結い上げられ、楚々としたパールで飾られていた。普段は隠されているうなじが、誘うようにベール越しに見え隠れする。
 華奢な肩は、わずかにベールで覆われているものの、素肌の白さはおしげもなく晒されており、鎖骨のラインはくっきりと際立つ。可愛らしくありながらも、しっとりとした色香が匂い立っていた。
 細い腰を強調しつつも、幾重にもフリルの連なった豪奢なスカートは大きく広がり、彼女が一歩、階段を降りれば、長い長い裾がするするとあとを追いかける。
 今にも泣き出しそうな顔は、大きすぎる喜びからのものであると、彼は知っている。
 彼は階段を一気に駆け上がり、彼女を抱きしめた。美しくも儚げな彼女は、彼の腕の中で確かな熱を持った存在になった。
 涙に濡れた彼女の吐息が、彼の耳に掛かる。
「ハオリュウが……、ハオリュウが、私にドレスを……って。ユイラン様に、頼んでくれたの……!」

7.幾重もの祝福-2

7.幾重もの祝福-2

 彼女が腕の中に居るだけで、安心できる。
 抱きしめているのに、抱きしめられている。
 彼は、彼女の首筋に顔をうずめた。鼻先をくすぐる彼女の後れ毛が、むずがゆいのに心地よい。触れ合った肌の熱さから、狼狽する彼女の鼓動が伝わってくる。
 純白のドレスをまとったメイシアを胸に、ルイフォンは徐々に落ち着きを取り戻していった。
 ――そういうことか……。
 心の中で呟いて、ルイフォンは口元をほころばせる。
 まんまと乗せられたのだ。
 誰がどう噛んでいるのかは不明だが、サプライズで彼に彼女の花嫁姿を見せよう、という計略だったのだろう。
「メイシア」
 彼は少しだけ体を離し、彼女の美しさを瞳に映す。
「綺麗だ」
 彼女の顔に掛かるベールを払いのけ、彼は吸い寄せられるように口づける。
 途端、彼女の顔が真っ赤になった。むき出しの肩や首筋までもが、透き通るような白から鮮やかな色に染め上げられていく。
 階下から、「きゃあっ」と嬉しそうな黄色い声が上がった。家に戻ってきていたクーティエである。
 気づけば、ルイフォンを案内してきたシャンリーは勿論、レイウェン、リュイセン、チャオラウもいる。――リュイセンが、げんなりとした顔をしていたのは……仕方ない。
 ルイフォンは、ぐっと自分の胸元にメイシアを引き寄せた。と同時に、豪奢なドレスもろともに彼女の膝裏に手を入れる。
 メイシアの体が、ふわりと浮き上がった。
 幾重にも連なったスカートのフリルが大きく波打つ。急に抱き上げられたメイシアは、小さな悲鳴と共に、細い腕をルイフォンの首に回した。
 彼がゆっくりと階段を降り始めると、長い長い裾の先が、かしずくように、しずしずと階段を流れる……。
「うわぁ……」
 夢見る乙女の顔をして、クーティエが頬を染めた。シャンリーが口の端を上げ、感心したように「やるな」と呟いた。
 一階に降り立ったルイフォンは、メイシアを抱き上げたまま、そこにいた皆に深々と頭を下げる。彼の行動の意味が分からないクーティエが「え?」と声を上げ、続いて自分の非礼を思い出して青ざめた。
「ごめんなさい! 私、ルイフォンに早くメイシアを見せたくて……!」
「分かっている」
 顔を上げたルイフォンは、猫のような目を細めにやりと笑った。
「そりゃあ、お前からの電話には心底、焦った。けど、俺もお前を怖がらせたからな。お相子(あいこ)だ。――それよりさ、これは俺とメイシアへの祝福だろ? 感謝する」
 そう言うと、彼はくるりと体を反転させ、メイシアをそっと床に降ろした。
 何かを言いかけた彼女を遮り、ルイフォンは階段を見上げて呼びかける。
「ユイラン」
 声に応え、階段の上に銀髪(グレイヘア)の女性が現れた。すらりとした綺麗な背筋で、顔立ちはミンウェイをそのまま歳を取らせたかのよう。
 ルイフォンはまっすぐにユイランを見つめ、抜けるような青空の笑顔をこぼした。
「詳しいことはあとで伺います。ともかく、礼を言わせてください。――ありがとうございました」
 ルイフォンは、ユイランに向けて丁寧に腰を折る。隣でメイシアも、ぴたりと息を合わせて頭を下げた。
「ふたりとも、顔を上げて。私は頼まれた仕事をしているだけよ。困るわ」
 慌てたように、ユイランが階段を駆け下りてくる。
「私は、藤咲ハオリュウ氏にメイシアさんの婚礼衣装を依頼されたのよ。洋装でも、我が国の伝統衣装でも、メイシアさんの好きなものをと頼まれて、試しにサンプルを着てもらっただけなの」
 ユイランは困惑顔で眉を寄せ、上品に首を振った。その仕草に異を唱えるかのように、メイシアの上体が前に出て「ユイラン様」と片手を伸ばした。
「ルイフォン、ユイラン様は……」
 彼を振り返ったメイシアの瞳は、さまざまな思いであふれていた。口に出して伝えたいのに、うまく言葉にできない。そんなもどかしさが、にじみ出ている。
「分かっているよ、メイシア」
 ルイフォンは、にっと口の端を上げた。ベールがなければ、彼女の前髪をくしゃりとやったところだ。
「――というかさ、思い出したんだよ。……確かに、母さんはユイランが苦手だった。けど、あの口の悪い母さんが、ユイランのことは決して、けなさなかったんだ」
 彼は、すっと視線を前へ移す。母親そっくりの猫のような眼差しが、しっかりとユイランを捕らえた。
 顔くらいは知っていたが、これまで対面で向き合ったことはなかった。ルイフォンは今、初めて正面からユイランという人物を見て、そして理解したのだ。
「つまり、母さんはユイランを認めていた、ってことだ。……たぶん、気に入っていたと思う」
「……え」
 ユイランの口から、かすれた声が漏れた。切れ長の瞳から、ひと筋の涙が流れ出て、慌ててハンカチで押さえる。
「やだわ、何を言っているのよ。――ともかく私は、メイシアさんの異母弟さんに頼まれたのよ」
 崩れた顔をハンカチで隠しながら、ユイランは語調を強めた。
「お父様の喪が明けるころ、桜の季節に。鷹刀の屋敷のあの桜の下で、ふたりの結婚式を挙げたい。そのための衣装をお願いします、とね」
「……!」
 ルイフォンは息を呑んだ。
 最愛の異母姉をルイフォンに託してくれた、事実上の義弟。ハオリュウは、たった十二歳の双肩に貴族(シャトーア)の当主としての重責を担い、忙しい日々を送っているはずだ。
 それでいてなお、異母姉やルイフォンのことを忘れずに、こうして手を回してくれるとは……。
「けど、何故ハオリュウがあなたのところに?」
 ルイフォンが尋ねると、ユイランは「それは……」と言って、レイウェンに視線を向けた。
 レイウェンは穏やかに微笑み、「まだ、公式には発表されていませんが」と前置きをして言った。
「女王陛下の婚礼衣装担当家となった藤咲家の当主として、ハオリュウ氏が我が家を訪ねてきたんですよ。ご丁寧に祖父上の紹介状まで提示され、(おそ)れ多くも女王陛下の衣装制作に協力してほしいとのことでした。――ありがたく、お受けしましたよ」
 それは初耳だったのか、メイシアが驚いたように目を見開いた。
「そして、ハオリュウ氏がおっしゃったのよ」
 と、ユイランが続ける。
「『本当に見たいのは、女王陛下ではなく、異母姉の花嫁姿です。赤の他人のためにばかり奔走して、身内がおろそかになるというのは釈然としません。だから、異母姉の衣装をお願いします』ですって。――素敵な異母弟さんね」
 不敬罪に問われそうな、どことなく毒を含んだ言葉が、如何にもハオリュウらしい。無邪気な顔をして、にっこりと笑う姿が目に浮かぶ。
 ユイランは、くすくすと笑いながら「だから、あなたに会えるのが本当に楽しみだったのよ」とメイシアに優しげな目を向けた。
「来年の春まで、まだ時間はたくさんあるわ。メイシアさんのためだけの特別な一着を、一緒にゆっくり考えましょうね」
 ユイランがそう言って締めくくろうとしたので、ルイフォンはメイシアの腰に手を回して彼女を引き寄せた。
「このドレス、よく似合っているから、こんなんでいいんじゃないか?」
「ルイフォン! 私、肌があまり見えるのは……」
「お前がそう言うのが分かっているから、先に言ったんだよ。俺は、綺麗なお前を自慢したいんだ!」
 きっぱりと言い切る彼に、きゃあきゃあというクーティエの歓声がかぶる。
 ――そんな華やいだ空気を斬り裂くように、リュイセンの低い声が響いた。
「母上」
「ええ。分かっているわ」
 涼やかな瞳に、揺らぎなき強い光を載せてユイランは頷く。
 そして――。
「ルイフォン」
 唐突に発せられた、険しさすら感じられる声。それだけで、場の色が急速に塗り替えられていく。
「ごめんなさいね。楽しいお話はここまでなの」
 メイシアが、はっと顔色を変えた。細い指が、彼の服の端をぎゅっと握る――おそらく無意識のうちに。
「私は、メイシアさんに三つの用件があったの。――ひとつ目は、今話した通り。藤咲ハオリュウ氏に依頼された衣装の件。そのための採寸ね。そして、ふたつ目はイーレオ様からの依頼」
「親父から?」
「ええ、メイシアさんに『私の弟のヘイシャオのことを含め、過去の鷹刀について教えること』」
 一瞬、何を言われたか分からなかった。
 ルイフォンは声も出せず、冴え冴えとしたユイランの美貌を凝視する。
「この件は、既にメイシアさんとリュイセンに話してあるわ。あとでふたりに聞いてちょうだい」
 ユイランの目線がメイシアを指し、それを追うように見やれば、気遣わしげな黒曜石の瞳がルイフォンを見上げていた。
 せっかくの純白のドレスが、影を帯びてしまっている。
 ルイフォンはわざとらしいくらいに大きく息を吐き出し、そして笑みを作った。彼女の髪をくしゃりとする代わりに、ベールをつまんで彼女に応える。――大丈夫だ、と。
「分かった。ふたりに聞いておく」
「ありがとう」
 そう言ってユイランが目を伏せると、白髪混じりの睫毛が綺麗に並んだ。その顔を見て初めて、彼女も緊張していたことに気づいた。
「それでは、三つ目ね」
 心なしか、ユイランの声が高ぶる。
「私は、ルイフォン――あなた宛ての手紙を預かっていたの。それをメイシアさんに届けてもらおうと思ったのよ」
「俺宛ての手紙!?」
「ええ。だけどメイシアさんが、私からあなたに直接、手渡すべきだとおっしゃってね――」
 メイシアなら、そう言うだろう。ユイランの人となりに触れたなら、ルイフォンと会わせるべきだと考えるはずだ。
「で、その手紙というのは誰からだ?」
「――キリファさんよ」

8.星霜のことづて-1

8.星霜のことづて-1

 キーボード上で忙しなく動かしていた手を止め、ルイフォンはOAグラスを外して深い溜め息をつく。癖のある前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げ、考え込むようにしばらく頭を抑えると、いつもの猫背をさらに丸くしながらその手を力なく下ろした。
 少し根を詰めすぎた。頭痛がする。
 彼は、回転椅子をぎぃと鳴らして立ち上がった。
 ふらつきながら仕事部屋から引き上げ、自室のベッドに体を投げ出す。乱暴なほどの勢いにスプリングが抗議して、彼を強く跳ね返した。
 ――ユイランから過去を受け取り、()すべき未来が見えてきた。
 ルイフォンは、昼間の出来ごとを思い出す。
 この先には、まだまだ遠い道のりがある。けれど、確実に前進した。
「糞親父め……」
 悪態をつきながらも、口調は決して険しくない。
 ルイフォンとリュイセンとメイシアが、ユイランに会う。――すべては、父イーレオの策略だったのだろう。
(ムスカ)〉に関しては、姉であるユイランから話を聞くのが一番よい。だが、複雑な間柄のルイフォンは勿論、実の息子のリュイセンですら、彼女とは仲が良いとは言い難い。
 そんな彼らと、ユイランとの確執を解消するために、イーレオは一計を案じたのだ。
 ルイフォンの口元が、にやりとだらしなく緩む。企みの最後(トリ)を飾った、メイシアのドレス姿を思い出したのだ。
 ――綺麗だった。
 それ以外の言葉は、要らない。
 彼が呼び出され、それを出迎えるのが花嫁姿のメイシアである、という筋書きだけは、不確定要素が多かったはずだ。
 だが、「大切な手紙は直接、ルイフォンに手渡してほしい」とメイシアが言い出すのは当然の流れ。そして、あのクーティエがいれば、採寸のついでにメイシアにドレスを着せるのも必然だったろう。
 完璧に掌の上で踊らされた。
 けれど、気分は悪くない。
 レイウェンの家から戻ってすぐに、メイシアとリュイセンは、ユイランから聞いた話を教えてくれた。ふたりとも疲れていたであろうに、ルイフォンが早く知りたいだろうと、気遣ってくれたのだ。
 そして、今――。
 目の前のテーブルの上には、書類の束が載っている。それが、彼の母キリファからの『手紙』だった……。


「は……?」
 ユイランから『手紙』を手渡され、ルイフォンは絶句した。
 味気ない茶封筒であることは、この際、置いておく。よくよく考えれば、あの母が洒落た封筒など持っていたはずもない。〈七つの大罪〉に身請けされるまで、彼女は文盲だった。手紙をしたためたことなんて、ほとんどなかったはずだ。
 だから、問題は封筒の大きさだ。
 報告書がちょうど入るサイズである。厚みのほうも、ルイフォンがかなり厄介な案件をまとめたときのものに匹敵する。掌に掛かるずしりとした重みからしても、その封筒はどう考えても『手紙』などではなく『書類』だった。
 つまりキリファは、私信というより、何かの事件の報告(レポート)を息子に託そうとしたのだろう。
 電子データで残せばもっとコンパクトであったろうが、記憶媒体に書き込まれた情報(データ)は、保存状態によっては、たった数年で自然に消えてしまう。それを危惧して、印刷して紙媒体の形にしておくことは別におかしなことではない。――ルイフォンは、そう解釈した。
 手紙らしからぬ『手紙』に、一同が唖然とする中、彼は封を切った。
 これをユイランに預けたあと、キリファは亡くなった。正体の知れない者たちに殺されたのだ。その事件の真相が今、解明されるに違いない。
 そう考えて、彼の手が止まった。
 ――え? 俺……?
 疑問が、不可思議なざわつきとなって、ルイフォンの心を占めていく。
 ――おかしいだろ……?
 彼は、誰かが情報を与えてくれるのを、おとなしく待っているような人間ではない。
 情報は、自分で取りに行く。
 それができる能力があると自負しており、それをする人間であるという矜持がある。
 それなら何故、四年もの間、母の死について、何も調べようとしなかったのだろう……?
 ルイフォンが書類を取り出したとき、彼の意識は半ば以上、自分の内側に向けられていた。外側に割くべき注意力が欠落しており、心理的に無防備だったと言っていい。
 だから彼は、不意を()かれた。
 その文字を見た瞬間、思考が止まり、彼の頭の中は真っ白になった。
「……え?」
 それは、確かに『手紙』だった。
「――かぁ……さん? ……なん、で……!?」
 間抜けな――素っ頓狂な声が漏れる。
 書類の束は、印刷物ではなかった。一文字ずつ心を込めて手書きされた『手紙』だった。――ただし、みみずが這ったような、非常に個性あふれる筆跡で。
「これは……暗号か……?」
 覗き込んできたリュイセンが、そう言ったのも無理はない。大きくなるまで文字を知らなかったキリファの字は、とても読めたものではないのだ。
 いくら練習しても悪筆が改善しなかった彼女は、普段からごく短い文章を書くのにもキーボードを使っていた。そのため、かなり近しい人間でも、彼女の直筆はほとんど目にしたことがない。ルイフォンですら、かろうじて見たことがあるといった程度だ。
 つまり彼女の文字は、どんな優秀なクラッカーでも簡単には解読できない強力な暗号――。
「母さんだ……」
 衝撃は緩やかに収まり、懐かしさが込み上げてきた。胸が苦しくなり、思わず涙ぐむ。――が、メイシアの前で醜態を晒せるかと、ぐっとこらえる。
『こんなものを読めるのは、あんた以外いないでしょ? 完璧な暗号だわ。我ながら天才ね!』
 母の高笑いが聞こえた。やたらと偉そうな、彼を小馬鹿にした口調。幾つになっても、子供のような無邪気で残忍な、いたずら心をなくさない、実力だけは一級の魔術師(ウィザード)
 彼女にとって、文字を書くことは苦痛だ。キーボードで打てば一瞬なのに、一文字一文字を綴ることが如何(いか)に大変か。
 ルイフォンは、母に畏敬の念を……。
「ちょっと、待て! これ、俺が解読するのか!?」
 さぁっと音を立てて、血の気が引いていく。
 紙の厚みから、その莫大な労力を考えて呆然とする。これではルイフォンにとってさえも、計算量的安全性を持つ暗号だ。たとえ、画像として処理して〈ベロ〉に解析させるとしても、母の手書き文字のサンプルが少なすぎる。正答率は高くないだろう。
「無謀だろ! 非効率だ。現実的でない……!」
『あたしがこれだけ苦労して文字を書いたんだから、あんたも苦労しなさい』
 彼とそっくりな猫のような目を細め、彼女はにやりと口の端を上げる。そして、息子の前髪をくしゃりと撫でた。――そんな幻影が見えた。
 決して、冗談や嫌がらせなどではあり得ない。常人なら阿呆(クレージー)だろ、と一笑に付すような手間を掛けて、彼女はこれを書き上げたのだから。
 ――まったく。母さんらしい。
 あの常識はずれの破天荒。母親らしいことなんて、ひとつもできなかった彼女。
 けれど、彼が敬愛していた孤高の〈(フェレース)〉……。
「で、それはいったい、何が書いてあるんだ?」
 リュイセンがもっともな質問をしてきて、ルイフォンは現実に引き戻された。愛すべき悪筆に、げんなりしながらも、彼は書類の一枚目に視線を落とす。
『ルイフォンへ』という書き出しは、そこそこすんなりと読めた。だが、その先の文章の解析には、しばらくの時間を要した。
 そして、この書類の目的を理解した刹那――。
 彼は瞠目した。
「なっ……!」
 全神経を研ぎ澄まし、書類の文字を食い入るように見つめる。
 二枚目、三枚目とめくり、一枚目の内容が読み間違いではないことを確認していく。
「ルイフォン?」
 メイシアの心配する声にも、彼は満足に答えを返すことができなかった。前後不覚に陥りそうな驚愕の中で、手の中の書類を取り落とさなかったのは、ただの幸運だ。
「嘘だろ……?」
「おい、何が書いてあるんだ!?」
 焦れたリュイセンが、責め立てるように尋ねる。
「〈スー〉だと……」
 ルイフォンが呟くように漏らした言葉に、聞き覚えのあったメイシアが顔色を変えた。それに気づいたリュイセンが「何か知っているのか?」と問いかける。
 彼女は小さく頷く。尋常ではない様子のルイフォンを見つめ、気遣うように黒曜石の瞳を揺らめかせると、遠慮がちに口を開いた。
「ルイフォンのお母様は、鷹刀のために三台のコンピュータを作ったそうです。名前は、『地獄の番犬』から取って〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉。けれど、〈スー〉はまだ開発中だったはずです」
 抑えられた声は、ルイフォンを差し置いての発言は気が引ける、とでも考えているからだろう。けれど凛とした響きは、動揺している彼を守るかのようだった。
 随分と前に言ったことなのに、彼女はきちんと覚えていた。
 メイシアにしてみれば、リュイセンの質問に答えただけなのかもしれない。だが、平静さを失っている彼に代わり、彼女は落ち着き払った態度を見せる。――そっと腕を広げて、彼を支えてくれる。
 ルイフォンは、自分の額をぴしゃりと叩くようにしながら前髪を掻き上げた。そして、その手をメイシアの頭に伸ばし、(つや)やかな黒髪をくしゃりと撫でる。
 彼は口の端を上げ、にっと笑った。
「メイシア、その件だけど、〈ベロ〉を調べていて進展があったんだ。――実はな、俺たちの知っていた〈ベロ〉は張りぼてだった」
 いつもの調子を取り戻したルイフォンは、最新の調査結果を口にした。
 きょとんとする一同に、唐突すぎたか、と彼は反省する。「なんて言えば分かりやすいかな」と頭を掻きながら言葉を探す。
「皆も知っての通り、〈ベロ〉は鷹刀の屋敷を管理しているコンピュータだ。で、母さん亡きあと、俺が最高権限を持っている――はずだったんだが、実は俺より上の権限を持つ奴がいた」
「執務室でいきなり話しかけてきた、あの人工知能か?」
 リュイセンの問いに、ルイフォンは首肯した。
「あいつは、自分は〈ベロ〉だと名乗った。だから俺は、〈ベロ〉の中に人工知能のプログラムが入っているのだと思って探していた。でも、違ったんだ」
 あの人工知能はあまりにも高度すぎて、現存のコンピュータ上で動かすのは不可能だ。
 けれど、〈七つの大罪〉の技術なら?
 既存の概念とはまったく異なる、画期的なコンピュータが存在するとしたら、あの人工知能を搭載できるのではないか。
 そう考えたら、(おの)ずと答えは導かれた。
「〈ベロ〉と呼ばれるコンピュータは、二台あったんだ。ひとつは、皆が知っている〈ベロ〉。もうひとつは〈七つの大罪〉の技術で作った機体に、母さんの作った人工知能を載せた、真の〈ベロ〉。おそらくは、とんでもない性能を持った真の〈ベロ〉の隠れ蓑として、皆が知る普通のコンピュータの〈ベロ〉は作られたんだ。だから『張りぼて』ってわけだ」
「なんだ、それ? 二台あるなら、『ある』って、見て分かるだろ?」
 リュイセンが、わけが分からん、という顔をする。基礎知識がないのだから当然だろう。
「あのさ、お前、〈ベロ〉が何処にあると思っている?」
「お前の仕事部屋だろ?」
「――って、思っているよな」
「違うのか?」
 むっとしたように瞳を尖らせるリュイセンに、悪いなと思いつつ、こちらの期待通りの答えを返してくれる兄貴分にルイフォンは感謝する。
「違う。〈ベロ〉は小さな家一軒分くらいの床面積を持っている。専用の冷却装置が必要で、騒音が凄い。そんなもの、俺の仕事部屋に置けるわけがない。――〈ベロ〉の本体は地下だ。仕事部屋から遠隔操作している」
 排熱の一部をミンウェイの温室に利用しているものの、ひたすら無駄に放出される熱量。近くで会話ができないどころか、ずっとそばにいたら気分が悪くなるレベルの騒音と振動。とてもじゃないが、同居したいとは思わない。
「そうなんだ……?」
 狐につままれたような顔は、何もリュイセンだけではない。成り行きで話を聞いているような、レイウェンの一家も同様である。
「真の〈ベロ〉が何処でどんな形で存在しているのか、俺は知らない。でも奴は、張りぼての〈ベロ〉の(カメラ)(マイク)情報(データ)を収集して、常に鷹刀を見守っているんだ」
「おい、お前も見たことがないなら、結局のところ、それは推測だろ?」
 半信半疑のリュイセンが疑問を口にする。それもまた、ルイフォン望んだ通りの展開だった。
「いや――」
 そう言いながら、ルイフォンは手の中にある書類を示した。
「確かに、ほんの数分前までは仮説だった。けど、この『手紙』が証明してくれた」
「え……?」
 書類をめくり、文字と数字と記号の羅列を皆に見せる。母の書いた文字は読み取れなくても、普通の文章ではないことは分かるはずだ。
「これは、母さんの作ったコンピュータ〈ケルベロス〉の解説と、『人工知能〈スー〉のプログラム』だそうだ。ここに書いてあることを、一文字も間違わずに〈ベロ〉に打ち込めば、〈ベロ〉が〈スー〉を起動させるらしい」
 皆に説明しても理解してもらえないだけだから言わないが、母が遺したのはルイフォンが見たこともないコンピュータ言語で書かれた命令列(ソースコード)だった。
 要するに、これを読んで〈七つの大罪〉の技術を学べということだろう。これだけの資料で随分と無茶を言ってくれるが、如何(いか)にも母のやりそうなことだ。
 途方もない難題――けれど、未知の技術に心が躍る。純粋に興味深い。彼がそう思うことを、母は見越していた。
「で? 〈スー〉って奴が出てきたら、何が起こるんだ?」
 この『手紙』に、知的好奇心がくすぐられるわけではないリュイセンが、自分に分かる結論を求めて尋ねる。
「さぁ? 〈ベロ〉はあの性格だから何も語らないし、〈ケル〉は一緒に住んでいたけど無口で喋ったことがない。けど、〈スー〉なら教えてくれる、ってことじゃないのか?」
 母が無意味なことをするとは思えない。とんでもないものを三台も作ったからには、目的があるはずだ。それもきっと、〈スー〉が明らかにしてくれるのだろう。
 ルイフォンは、猫のような目を不敵に光らせた。
 これは母からの挑戦状。彼ならできると信じて贈った、最初で最後の『手紙』。
 深刻な表情で、けれど黙って見守るように聞いていたメイシアを、ルイフォンは見やる。そして『俺を信じろ』と言うように、彼女と――それから母に、青空の笑顔を見せた。


 レイウェンの家を辞去する際、ユイランがルイフォンに尋ねた。
「セレイエちゃんは、どうしているのかしら?」
「セレイエ?」
 久しく聞いていなかった異父姉――彼女はルイフォンの異母兄エルファンの娘でもあるので、同時に『姪』でもある――の名に、ルイフォンは首を傾げた。
「キリファさんが亡くなるよりも前に、独立して家を出たと聞いているけど、今は何処にいるの?」
「ああ――」
 ルイフォンは、ほんの少しだけ、ばつの悪い顔をする。目を泳がせながら、ぼそりと答えた。
「俺も詳しくは知らないけど、母さんがちらっと言っていたところによると、どこかの貴族(シャトーア)と駆け落ちしたらしい。消息不明だ」
「はぁ!?」
 声を張り上げたのは、ユイランではなくリュイセンだった。
「お前ら、姉弟して、同じことをしているんじゃないか!」
「お前にそう言われると思ったから、言いたくなかったんだ。それに俺は駆け落ちしてないだろ!」
 そばでおろおろしながら顔を赤らめているメイシアを抱き寄せ、ルイフォンは言い返す。
 そんな彼らのやり取りにユイランは目を細め、けれど急に口元を引き締めた。
「ルイフォン、セレイエちゃんを探しなさい。彼女なら何かを知っているかもしれないわ」
 毅然としたユイランの口調に、何故かシャンリーが顔色を変えた。彼女が顔を歪ませながらうつむくと、夫であるレイウェンがそっと肩を抱く。その彼もまた、妻と同じ顔をしていた――。

8.星霜のことづて-2

8.星霜のことづて-2

 とんとん、という控えめなノックの音に、ルイフォンはベッドを飛び起きた。
 メイシアだろう。
 話したいことがある、と彼女は言っていた。
 どことなく思いつめた様子に見えたのは、昼間の――ユイランから聞いたことと関係があるからに違いない。
 表情のすぐれない彼女が心配で、今すぐ話してほしいと迫ったのだが、申し訳なさそうな顔で断られてしまった。夕方から夜に掛けて忙しくなるメイドたちの手伝いをしたい、とのことだった。
 メイシアは、この屋敷の正式なメイドではない。けれど、メイドの仕事に責任と矜持と、そして喜びを感じているらしい。そんな彼女のことは誇らしいし、尊重したいと思う。
 だから、手伝いが終わったら、と約束していた。仕事部屋か自室のどちらかにいるから、と。
 遠慮がちに扉が開かれ、メイシアが顔を覗かせた。
 片手で器用にトレイを持ち、片手でドアノブをひねっている。少し前の彼女には出来なかった芸当だ。
 無精者のルイフォンは部屋の扉に鍵は掛けないし、ノックされたところでまず出迎えることはない。気にしないから勝手に入ってきてくれ、という姿勢である。
 育ちの良いメイシアは初めこそ戸惑っていたが、今ではすっかり慣れっこになっていた。
「ルイフォン。寝ていたの?」
 ごめんなさい、と言わんばかりの、首をすくめた上目遣いで彼女はテーブルにトレイを置く。そこには、彼が食べはぐっていた、よもぎあんパンが載っていた。
 夜食にと持ってきてくれたのだろう。温め直してくれたのか、ほんのり湯気が立っている。その気遣いが嬉しい。
「いや、頭がパンクしかけたから、横になっていただけだ」
 寝転がっていたためか、いつも以上にくしゃくしゃになっている癖っ毛を乱暴に手で整えながら、彼は席に着いた。
 濃いめの緑茶を淹れるメイシアの、すっかり手慣れた動きを頼もしげに眺める。よもぎあんパンの皿はひとつしかないから、夜食が入り用なのは彼だけのようだ。
 遠慮なく手を伸ばし、「美味い」と率直な感想を言うと、いつの間にか真剣な眼差しで彼を見つめていた彼女の顔が、花のようにほころんだ。彼の胸にも、優しい温かさがふわりと花開く。
「メイシア。今日も一日、お疲れ様」
 思わず、そんな言葉が口をついて出た。
 彼女は驚きに瞳を瞬かせ、そして照れたように頬を染める。
「ありがとう。ルイフォンも、お疲れ様」
「ああ、そうだな。俺も、凄く疲れた」
 ルイフォンは微笑み、猫のようにぐっと伸びをする。金色の鈴が、彼の背中を滑った。彼らをひやかしているようでもあり、見守っているようでもある。
「どうしたの? 急に」
「『お疲れ様』ってさ、いい言葉だよな。なんか、無性に言いたくなった。――というか、こういうのは毎日、言うべきだな」
 とても些細なことだけれど、毎日、頑張っている彼女に感謝と(ねぎら)いを――。
 今まで気づかなかったのが、愚かしい。まだまだ未熟者だと痛感する。
 そんなことを考えたのは、メイシアの花嫁姿を見たからだろうか? 日々、互いを認め合って生きていきたい、そう思ったのだ。
 柔らかな顔で目を細めるルイフォンを、メイシアは不思議そうに見つめている。
 和やかなひととき。永遠に続いてほしい時間。
 ――けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。
 この雰囲気を壊すのは本意ではないが、彼女が改まって『話がある』というほどの何かがあるのだ。
 おそらく、あまり良いことではないのだろう。彼女の口が緊張で固まってしまうよりも前に、彼のほうから水を向けるべきだった。
「それで、話というのは?」
 メイシアの表情が、一瞬にして凍りついた。そうなると分かっていたので、ルイフォンは何気なさを装い、平然を保つ。
 彼女はうつむき、手の中の湯呑みに視線を落とした。
「私……、ルイフォンに、謝らなければいけないの……」
「謝る?」
 予想外の言葉に、彼はおうむ返しに尋ねる。
「以前、私がルイフォンに『隠しごとはしないで』って、言ったの。覚えている?」
「え? あぁ……? ……すまん。まったく覚えてない」
 ルイフォンが困ったように前髪を掻き上げると、「そうだと思った」という苦笑混じりの声が、メイシアの湯呑みに緑色のさざ波を立てた。
「私が鷹刀に来た翌日、『私の実家が斑目と裏取り引きをしていた』という情報をルイフォンは隠したの。私が傷つかないように、って。でも、私はシャオリエさんを通して知ってしまって……」
「それで、『隠しごとはしないで』か?」
 こくりと、メイシアが頷く。
「身勝手な、一方的なお願いだったと思う。あのときの私たちは、まだ他人も同然だったのに。でも私は、あのときからルイフォンを好き……」
 メイシアが、はっと息を呑んだ。
 顔は伏せていても、黒髪の隙間から白い耳朶が染まっていくのがはっきりと分かった。顔はもっと真っ赤になっていることだろう。
「あっ、あの……。今、言いたいことは、そういうことじゃなくて……」
 自分で言っておきながら、慌てふためくさまが可愛いらしい。
「ありがとな、嬉しい」
 顔のにやつきが止まらない。恥ずかしがり屋のメイシアは、めったに甘い言葉を口に出してくれないから――。
 もともと、彼が半ば押し切るようにして、無垢な貴族(シャトーア)の彼女をかっさらった、という自覚がある。決して無理強いをしたつもりはないが、自信家のルイフォンだって、たまには不安になる。だから、青天の霹靂だった。
 浮かれ気分のルイフォン。――しかしメイシアは、彼の楽しげな様子を全力で否定するように、激しく首を横に振る。
「ごめんなさい、ルイフォン。本当に、ごめんなさい」
「どうしたんだよ?」
「私、ルイフォンには『隠しごとしないで』と言ったくせに、私自身が隠しごとをしたの」
 脅えた小鳥のように体を丸めるメイシアを、ルイフォンは困った顔で見つめた。
 どうせ彼女のことだ。隠しごとなどと大げさに言ったところで、彼にとっては本当にどうでもいいような、極めて些細なことに違いない。
「別に俺は気にしないけど、とりあえず言ってみろよ。そうすれば、すっきりするだろ?」
 苦笑交じりのルイフォンに、メイシアが頷く。
「……ルイフォンに内緒で、イーレオ様とお話したの」
「え?」
「キリファさんが亡くなったあとのルイフォンの行動に、違和感があったの。――ルイフォンが、お母様の仇を探そうとしなかったことが、私には奇妙に思えたから」
「……っ!」
 ルイフォンは耳を疑った。まるで想像もしなかった話が、メイシアの口から流れ出ていた。
「私は、キリファさんが〈天使〉の能力を使って、ルイフォンの記憶を改竄したのではないか、って考えた。ルイフォンが危険に走らないようにするために、お母様のキリファさんは、息子であるルイフォンの復讐心に蓋をした。――そのことに関して、イーレオ様にご意見を伺ったの」
 ルイフォンの唇は、驚きの形を保ったまま動きを止めていた。
 母の『手紙』を受け取ったとき、彼もまた母の死の真相を調べようとしなかった自分に、違和感を覚えた。その疑問が氷解していく。
「イーレオ様も、おそらくそうだろう、って」
「そう、か……。でも、どうして母さんは……?」
 それはメイシアに尋ねても仕方のない質問のはずだった。けれど聡明な彼女は、その答えも既に考えついていた。
「亡くなる直前のキリファさんがルイフォンの記憶を改竄したのなら、それはつまり、ルイフォンは見てはいけないものを見たんだと思う」
「俺は、母さんの仇の顔を見ている……!?」
「たぶん……。そして、イーレオ様はキリファさんを殺害した相手を知っている。けれど、イーレオ様には簡単に手を出せない相手で、手を出しあぐねている間に別の人が殺したって……」
「なんだよ、それ!? 何処のどいつだよ!」
 母の仇と、その仇を殺した相手。知らない情報が錯綜し、ルイフォンを翻弄する。
「ごめんなさい。教えてもらえなかったの。イーレオ様は、『触れてはいけないものに、触れてしまう』って」
「どういうことだ!?」
 ルイフォンは(まなじり)を吊り上げた。しかし、メイシアは苦しげに首を振る。
 そして、彼女はゆっくりと顔を上げた。
 長い黒髪が、さらさらと流れた。蒼白な表情があらわになる。いつもは凛と美しい黒曜石の瞳が、心細げに揺れていた。
「イーレオ様は『俺は〈神〉には逆らえない』とも、おっしゃった。それって、つまり……」
 メイシアは一度、息を止め、それから一気に吐き出した。
「――イーレオ様が〈悪魔〉だ、ってこと」
「!」
「イーレオ様のお話を繋ぎ合わせると、キリファさんは〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉という人に殺された。そして、〈悪魔〉のイーレオ様には仇を討てなかった――そういうことになるの……」
 言葉を、失う。
 かつて、母キリファが言っていた。
 ――〈悪魔〉は『契約』によって〈神〉に逆らえない。『呪い』が掛けられているから……。
 今なら『呪い』の正体が分かる。〈天使〉による脳内介入――逆らえば、捕虜にした巨漢のように死を迎えるということだ。
「記憶の改竄は、キリファさんの思い――願いだから、ルイフォンには隠しておくべきだと思ったの」
「メイシア……」
「でも、ひとつ隠しごとをしたら、イーレオ様とお話したことを――イーレオ様が〈悪魔〉と気づいたことも、隠さなくていけなくて。そうすると、その先も、きっともっと……。そんなの嫌。私はルイフォンには隠しごとをしたくない……」
 メイシアの細い指が、こぼれかけの涙を拭った。
 彼女はうつむき、長い黒髪がテーブルに落ちる。さらさらと、顔を覆い隠していく。けれど小刻みに震える肩が、彼女の泣き顔を如実に語っていた。
 ルイフォンはそっと席を立った。メイシアの背後に回り、すべてを包み込むようにして彼女を抱きしめる。
 腕の中にすっぽりと収まった彼女の体が、動きを止めた。けれど、それは安堵のためではなくて、緊張からくるものだと、筋肉の強張りから知ることができる。
「ルイフォン……。私はずるい、汚い。思っていることをすべて打ち明ければ、こうしてルイフォンに抱きしめてもらえるって、信じていた。そんなこと、考えていたつもりはないのに、でも、心の何処かで絶対に思っていた」
 ルイフォンは口元をほころばせ、メイシアにほんの少しだけ体重をかけた。頼るように、甘えるように、寄り添うように……。
 そして、静かにテノールを響かせる。
「別に、それでいいんじゃないか? お前がそれだけ思いつめていることに、俺はちっとも気づかなかった。だから、これは俺の後悔と感謝。結局のところ、お前が俺のことを好きだってだけだろ?」
 メイシアの華奢な肩が更に小さく縮こまり、細いうなじがわずかに首肯する。彼女の小さな意思表示をしっかりと受け止めたルイフォンは、猫のような目をにやりと細めた。
「ああ。でも、お前は気にしているようだから、罰は与えておこう」
「え?」
 急に声色の変わったルイフォンに、メイシアが身構える。けれど、彼は容赦しない。黒髪に顔をうずめ、首筋に唇を這わせながら耳たぶを探し出す。
 柔らかな耳朶を軽く噛み、声すら出せずに固まっている彼女にそっと囁いた。
「俺のことが好きなら、ちゃんと口に出して好きだと言ってくれ」
 華奢な体が、びくりと震えた。
 彼女の首元に回った彼の手に、白い手が触れる。彼にしがみつくかのように、細い指先に力がこもった。
「……す、好き。ルイフォンが、好き」
「俺も、メイシアが好きだよ」
 彼女の全身がかっと熱を持つのが、服越しにもはっきりと分かった。上気した肌が妖艶な香りを放ち、彼を眩惑(げんわく)する。高鳴る鼓動の波が響き渡り、彼も共に揺られていく。
 彼女が腕の中にいる興奮――けれど、心地の良い安らぎ。相反するはずのものが同時に存在する。それが、彼にとっての彼女だ。
「ずっと、ひとりで考え込んでいたんだろ? 辛かったな」
 ルイフォンは、メイシアの黒髪をくしゃりと撫でる。
「ごめんなさい……」
「謝ることないだろ?」
「…………どうして、イーレオ様はっ……!」
 震えるメイシアに、ルイフォンはくすりと笑みをこぼした。イーレオが〈悪魔〉だと知れば、彼女なら心を痛め、悩み、ふさぎ込んでしまうのも当然だ。
 けれど、彼には父の思考が理解できた。
「昔の鷹刀を考えれば、親父なら迷うことなく〈悪魔〉になる。俺が同じ立場でも、そうするからな」
「えっ!?」
 メイシアの体が跳ねる。
「〈悪魔〉になって内部にいたほうが、〈七つの大罪〉の情報を手に入れやすいからだ。奴らのことを詳しく知らなければ、奴らにどう対処したらいいのか分からないだろう?」
「あ……!」
「かといって、慕ってくれる部下に〈悪魔〉と知られたら、裏切られたと思われるかもしれない。だから、親父は秘密にしていたし、今も秘密にしている。そんなところだろう」
「あぁ……」
 触れ合った体から、メイシアの心がほぐれていくのが分かる。
「まったく、親父も(ひで)ぇな。母さんが〈天使〉だ、って話が出たときに、自分のほうは〈悪魔〉だと、言ってくれりゃあよかったのに。なんで黙ってやがった、あの糞親父!」
 変に隠したせいで、メイシアを不安にさせたのだ。吊し上げの機会を設けてやる、とルイフォンが息を巻く。
 そんな彼に押されながら、メイシアはおずおずと口を開いた。
「イーレオ様が黙ってらしたのは、そのときの私たちが『昔の鷹刀』を知らなかったからだと思う。私たちに疑惑の目で見られたくないから……。だから、あのお話のあと、イーレオ様は私をユイラン様に引き合わせたの。……たぶん」
「なるほどな」
 思えば、過去の鷹刀一族のことは、父イーレオをはじめ、年寄り連中はあまり言いたがらない。思い出したくないのだろう。だから、隠す。
 その頑なな気持ちを、メイシアが動かした。何を言ったか知らないが、彼女の言葉が父の心を動かしたのだ。
 ――さすが、俺のメイシアだ……。
 彼女が落ち着いてきたようなので、ルイフォンがすっと一歩離れれば、その背には見えない翼が見えた。
 鳥籠の中しか知らなかった彼女は、この翼を懸命に羽ばたかせ、すべてを捨てて彼のもとに飛び込んできてくれた。そして今も、彼と、彼の大切にしている者たちのために心を砕き、翼を広げて守ろうとしてくれている。
 彼も、彼女の家族を大切にしたいと思う。近いうちに、ハオリュウに花嫁衣装の礼を言いに行きたい。それから、メイシアの継母のお見舞いにもまた行きたい。
 けれども、その前に――。
 彼は、『彼のもうひとりの家族』のことをメイシアに言わなければならなかった……。
 ルイフォンは、メイシアの向かいの椅子に戻り、彼女を正面から見据えた。
「メイシア」
 不意に名を呼ばれ、彼女はきょとんと首を傾げる。
「〈天使〉のホンシュア。彼女は、たぶん〈影〉だった。だから、ホンシュアは死んでしまったけど、中にいた人物は別のところにいる」
「え? ええ……」
 それは分かっていたけれど、どうして急にそんな話を? と彼女の目が言っている。
「セレイエだ」
 メイシアは、瞳を瞬かせた。一度で飲み込むには、あまりに唐突な話だったようだ。
「ホンシュアは、セレイエだ」
「えっ!? ――あぁ……」
 セレイエは、ルイフォンの異父姉で、リュイセンの異母姉。ふたりに共通した『姉』。
 ルイフォンとリュイセンのふたりを知っていて、親しげに、懐かしげに話しかけてきたホンシュア――セレイエをおいて、該当する者など他にいない。
「母さんとユイランの仲が悪いと思い込んでいたから、セレイエとリュイセンに面識があることをすっかり失念していた」
「あ、うん。リュイセンとセレイエさんは、子供のころ一緒に遊んだって。レイウェン様やシャンリー様とも。とても仲の良い兄弟姉妹(きょうだい)だったみたい」
 シャンリーとセレイエがいたずらを仕掛け、レイウェンがそれを穏やかに受け止め、年少のリュイセンがおろおろする、といった構図だったのだが、そこまで詳しいことはメイシアは聞かされていなかった。
「なら、間違いない。……帰りがけにユイランが、セレイエを探せと言っただろ?」
「ええ」
「ユイランは、ホンシュアがセレイエだと気づいていたんだ」
「えっ!?」
 メイシアが鋭く声を上げ、目を丸くした。素直に驚く彼女は、なんとも可愛らしい。ルイフォンは小さく笑う。
「ユイランにとってはさ、母さんやセレイエは、今でもすぐに思い出せる大切な家族なんだ。俺とリュイセンに親しげに話しかけた人物なら、それはセレイエだ、って簡単に見破ったんだと思う」
 だから、それとなくルイフォンに教えてくれたのだ。はっきり言わなかったのは、確信はあっても、証明することができない。それに、自分が出しゃばる場ではないとの判断だろう。
 ユイランは人一倍、周りに気を配り、裏方に徹する。彼女の過去の話なんて、いい人過ぎて気味が悪いくらいだ。きっと母キリファも同じように感じたからこそ、苦手だったのだろう。
 けれど、キリファは間違いなく、ユイランに親愛の情を寄せていた。気の強いキリファは決して認めないだろうけど、知らずのうちにユイランの優しさに甘えていたはずだ。
 ――そうでなければ、最後の『手紙』を託す相手に選ばないのだ。
「ホンシュアの正体が分かったところで目的はさっぱり分からないし、それにホンシュアの『体』だった人物のことを考えると、なんとも言えない気分なんだけどさ……」
 貴族(シャトーア)と駆け落ちしたセレイエに、いったい何があったのか。
 そして〈影〉であるホンシュアが、〈悪魔〉の〈(サーペンス)〉だというのなら、セレイエもまた〈悪魔〉になっていたというのか――。
「母さんは、何か知っていたんだろうな……」
『女王の婚約が決まったら』――母は、そう言い遺したという。
 そして、ホンシュアが口にした『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』。
 このふたつの言葉を重ね合わせると、まるで女王の婚約を発端に――開始条件(トリガー)にして動き出すプログラムだ。
 ――そういうことなのか? すべては計画(プログラム)されていたとでも言うのか?
 つまり、〈七つの大罪〉の正体は……。
「ルイフォン、顔色が悪い。大丈夫?」
 鈴を振るような声に、はっと思索の海から飛び出すと、不安に揺れる黒曜石の瞳が、まっすぐに彼を見つめていた。
 ルイフォンは机に身を乗り出し、ぐっとメイシアに向かって手を伸ばした。彼女の細い指先をすくい取り、自分の指と絡め合わせる。
「ど、どうしたの?」
 彼女の戸惑いにも構わず、彼は強く手を握った。
 セレイエが引き合わせた――何もなければ、決して出逢うことのなかった、メイシア。辛い目にも遭わせた最愛の彼女。もう、悲しい顔などさせない。

 メイシアは、必ずこの手で幸せにする。

 ルイフォンは、にやりと不敵に笑った。
「お前が居るから、俺は大丈夫だ。――そばに居てくれて、ありがとうな」
 そして、告げる。
「愛している」
 メイシアの花の(かんばせ)が、(あで)やかに咲き誇った。――と同時に、涙の蜜がほろりとこぼれる。先ほどの涙のためか、涙腺がとても緩くなっていたらしい。彼女は「あっ」と、声を上げてうろたえる。
 ルイフォンは、くすりと笑ってテーブルを回り込んだ。その流れのまま、前置きなしに、強引に涙を舐め取ると、彼女は更に(くれない)に咲き乱れる。
「あ、あのっ……。わた、私も……あ……」
 しどろもどろでありながらも、懸命に声に出そうとする彼女が愛おしい。
「あ、愛して、います……」
 想いを言葉にしてくれたメイシアに、ルイフォンは抜けるような晴れやかな笑顔をこぼし、ふわりと優しく抱きしめた。


~ 第一章 了 ~

幕間 大気の絆

幕間 大気の絆

「シャンリー、今日はお疲れ様」
 風呂上がりの髪を適当に拭きながら居間に入ると、レイウェンが手招きをしてきた。待っていたよ、と言わんばかりの笑顔を浮かべる。
 ラフな夜着姿でも、彼の魅力は損なわれない。むしろ、飾らない素朴さこそが彼を引き立てる。我が娘クーティエが『父上以上の男はいない』と言い切るのも無理はない。――まぁ、そんな可愛らしい発言は、じきに撤回されるだろうけれど。
 私がソファーに座ると、彼はふたつのグラスにボトルを傾けた。ありがたく受け取り、どちらからともなく軽く(ふち)を合わせる。
 澄んだ音が響いた。
 レイウェンが、穏やかに口元を緩める。生まれたときから隣にいるような私でも、どきりとしてしまう魅惑の微笑だ。
「ご機嫌だな、レイウェン」
「そりゃあね。シャンリーもだろう?」
「ああ、勿論だ」
 ――ユイラン様とリュイセンが和解した。
 正確には、あれを和解とは言わないのかも知れないけれど、確実にふたりの関係は変わったはずだ。
 私がグラスを空ければ、彼がまた次を注いでくれる。その彼も、既に二杯目だ。
 つまみはチーズとサラミ、ナッツ類、そして更によもぎあんパンまで、豊富に用意してある。今日は心ゆくまで呑もう、ということだろう。
「そういえば、母上が鷹刀の屋敷を出た、本当の理由をリュイセンに教えたんだって?」
「げほっ」
 思わず私が咳き込むと、レイウェンが優しく背中をさすってくれた。
 彼の目は、決して責めたりはしていない。けれど、この件は大人たちの間で秘密にしておく約束だった。
「すまん!」
 申し開きは性に合わない。私はテーブルに額をこすりつける。
「気にすることはないよ。君が言わなければ、いずれ俺が言っていただろうからね」
 相変わらずの柔らかな口調だが、レイウェンの一人称が『私』から昔の『俺』に戻っている。
 彼は、天井に憂いの目を向けた。二階にいらっしゃるユイラン様を見ているのだ。
「母上は『偽悪者』だからね。でも、それは周りも本人も不幸にするだけだ」
「そうだな。ユイラン様の優しさは誤解されやすいからな……」
 私の脳裏に当時のことが蘇った――。


 鷹刀を抜けたあと、レイウェンと私は何を生業にして生きていくか。
 幸い、私の舞い手のしての知名度はそこそこあったから、それを活かすべきだった。そして私たちは、ユイラン様への恩返しも兼ねて、服飾会社を興すことを思いついた。それまでの生活から考えれば突拍子もなく感じられるだろうが、私の剣舞の衣装はユイラン様とレイウェンの技術の結晶なのである。
 ユイラン様は、凶賊(ダリジィン)の家に生まれていなければ、間違いなく服飾の道に進んだような方だった。可愛らしいものが大好きで、特に女の子の服や小物を作るのが好き。実の子が息子だけで、娘も同然の私がこの通りなのは本当に心苦しかった。
 けれどユイラン様は、私に少女らしさを強要することはなかった。それどころか、鍛えまくった結果として、やたらと太く成長した私の腕や腿を無理なく動かせる服を作ってくださった。もしユイラン様がいらっしゃらなければ、私は一日中道着で過ごす羽目になっていたことだろう。
 そしてレイウェンもまた、私の衣装に一役買っている。舞には、どうしても衣服に負担のかかる激しい動きが入る。ユイラン様のデザインで、ある程度の余裕は確保できるのだが、美しく見せるためには、衣装に緩みをもたせすぎるわけにはいかない。体にフィットしている必要がある。
 だから彼は「君を束縛する生地のほうがいけないんだよ」と伸びのよい新素材繊維を作ってしまった。鬼神のように強い彼だけど、本当は研究者肌なのだ。
 そんなわけで私たちは、機能的なファッションをコンセプトに、少し変わった服飾会社を立ち上げた。独立するのにユイラン様のデザインに頼るのはおかしな気もしたが、そこはきっちり『雇用』という形をとることで許してもらった。ユイラン様は嬉しそうに笑ってらしたから、たぶん間違った判断ではなかったろう。
 私たちは当然、ふたりきりで鷹刀を出るつもりだった。ユイラン様には屋敷から通っていただこうと思っていた。


「シャンリー」
 ふと、レイウェンが私の名を呼び、私は現実に引き戻される。
「参考までに聞きたいだけだけど、リュイセンにはなんて言ったんだい?」
「……言わなきゃ駄目?」
「駄目」
 ばつの悪そうな私の上目遣いを、どこまでも甘やかで魅惑的な声が、容赦なくばっさりと斬り捨てる。
「もっと優しい言い方もあったはずだと、自分を責めているんだろう?」
「なんで分かる!?」
「君のことだからね。――こういうときはね、俺に言ったほうが気が楽だよ?」
 優しく穏やかに。綺麗な顔でレイウェンは笑う。
 イーレオ様やエルファン様とは、まったく雰囲気が違うけれど、彼もまた、有無を言わせぬ魅了の力を持った鷹刀の直系なのだ。逆らうことなど、できるわけがない。
「……レイウェンが鷹刀を抜けることが決まったとき、皆が一番心配したのは、代わりに後継者となるリュイセンのことだった、と言ってしまったんだ」
「ああ、それは事実だから、君が気にすることはないよ。リュイセンにはショックだったかもしれないけど、その程度のことは軽く跳ねのけられなければ、上に立つ資格はないよ」
「けど……!」
 レイウェンは、厳しい。けれど、その裏にあるのはリュイセンへの信頼だ。
 私以外、誰も知らないことだが、レイウェンはずっと、後継者の座をリュイセンに譲ろうと考えていた。それは、セレイエを鷹刀から遠ざけた、あの事件に起因している。
 レイウェンと私は、セレイエを守ってやれなかった。だから、キリファさんとセレイエは鷹刀を去り、リュイセンという生まれるはずのなかった弟が望まれた。
 そんな誕生は不幸すぎる。それが理解できるくらいに私たちが大人になったとき、レイウェンは後継者であることを捨てて鷹刀を出ていくことを決め、私も協力すると誓った。私たちはリュイセンから、兄の影に沈む運命を取り払うことにしたのだ。
 私が外の世界で活躍できるようにと、レイウェンが鷹刀を抜けたのは真実だ。ただ、結果としてリュイセンが後継者になったのではなく、リュイセンを後継者にするための手段として、私は凶賊(ダリジィン)であることが惜しまれるほどの舞い手となり、レイウェンが親父殿に勝って一族を黙らせたのだ。
「ユイラン様が私たちと一緒に鷹刀を出たとき、リュイセンはまだ、今のクーティエとたいして変わらない歳の子供だった。リュイセンは酷い母親だと感じただろうが、ユイラン様のほうは身を裂かれるようなお気持ちだったと思うよ……」
「でも、母上から言い出したんだから仕方ないよ」
 後継者となるリュイセンのために、何をしてやれるか。
 ユイラン様の提案に、皆が唖然とした。
『ルイフォンに、リュイセンの片腕になってもらいましょう』
 このふたりがいつの間にか仲良くなっていたことを、ユイラン様はご存知だった。
 そして、更にこうおっしゃったのだ。
『私がいると、ルイフォンは屋敷に来にくいでしょうから、私はレイウェンたちと一緒に出ていくわ』
 ユイラン様は、自分よりもルイフォンのほうが、リュイセンに必要な人間だと言って譲らなかった。そのくせ、リュイセンが自分でルイフォンを迎えに行くまで、他の者は何もすべきではないと主張した。
『お仕着せの片腕なんて、意味がないわ。リュイセンが自分で選び、ルイフォンに応えてもらわないとね。だから私がするのは、いつでもリュイセンがルイフォンを呼べる準備、よ』
 まさか、キリファさんが亡くなったことが、リュイセンが動き出すきっかけになるとは思わなかったが、母親を失って廃人となっていたルイフォンを、リュイセンは自らの意思で屋敷に招いた。
「ユイラン様のご判断は、本当に正しかったな。ルイフォンも、奴が選んだメイシアも、なかなかやってくれる」
「俺としては、義父上に申し訳なかったんだけどな……」
「親父殿に?」
 何故、ここで親父殿が出てくるのだろう?
 私が首を傾げると、レイウェンはほんの少しだけいたずらな子供のような顔をした。普段なら見せない表情だ。
「義父上は――チャオラウは、ずっと昔から、母上のことが好きなんだよ」
「え!? だって、主君の、エルファン様の妻だろう?」
「それでもだよ。……だから、未だに独身なんだ。それに、父上と母上は仕方なく夫婦になっただけだ。互いに尊敬はあっても、愛はないよ」
 ほろ酔い気分が、一気に冷めた。まさかと思う。
「母上が鷹刀の屋敷を出るということは、チャオラウから母上を引き離す、ということだった。申し訳なかったな……」
「……」
 親父殿は叔父であるが、実の両親の記憶がまったくない私にとっては、実の父親と同じだ。――親の想いなど、考えたこともなかった。
「シャンリー」
 レイウェンが静かに、けれど力強く言葉を紡ぐ。
「俺は、何もかもがこれからだと思っているよ。母上とチャオラウの仲も、リュイセンの行く道も、セレイエのことも……」
「……ああ」
「俺はね、君と一緒だから、なんでもできる」
 優しい夜闇の瞳が、私を惹き込む。甘やかな声が、私の心に溶けていく。
「最愛の君が居るから、俺は無敵だ。――これからも頼むよ」
 穏やかな微笑みが、空気を変えていく。
 レイウェンは大気だ。気づけばいつだって、彼に包み込まれている。
「勿論だ」
 目も見えぬ赤子のころから、私たちは共に居た。言葉も知らぬときから、肌で語り合っていた。
 ――だから私も、彼と共に大気になるのだ。


 私たちは鷹刀を離れた。
 それは、決して一族を捨てたのではない。シャオリエ様と同じ。外から守るためだ。
 鷹刀の屋敷を出るとき、レイウェンは私に言った。
 心が繋がっていれば、いつだって俺たちは一族だ、と。


 私たちは大気になる。
 そして、穏やかに優しく、一族を守っていくのだ。

幕間 三眠蚕の貴公子-1

幕間 三眠蚕の貴公子-1

三眠蚕(さんみんさん)
 通常の蚕は、四回の脱皮のあとに繭を作る。しかし、三眠蚕(さんみんさん)と呼ばれる蚕は、三回の脱皮のみで繭を作り始める。
 三眠蚕(さんみんさん)から取れる糸の太さは、一般的な絹糸の半分ほどである。繊細で扱いが難しく、高い製織技術が必要とされるが、三眠蚕(さんみんさん)から作られる絹布は、それを押して余りある比類なき美しさを誇る。
 滑らかで透き通るような光沢は、見る者の心を奪い、軽くてしなやかな風合いは、まとう者を夢見心地へと(いざな)うのだ――。


 特別なお客さんが来るのだと、一週間も前から(うち)は大騒ぎだった。
 相手は貴族(シャトーア)だという。
 貴族(シャトーア)のお客さんなら、祖母上が仕立ての仕事を数多く請け負っている。けれど、たいていは先方へと出向くし、そうでなければ街の店舗で採寸をする。
 (うち)に来るのは個人のお客さんではなく、専ら父上に商談を持ってくる他所の会社のお偉いさんだ。そして彼らは貴族(シャトーア)ではなく、平民(バイスア)貴族(シャトーア)の経営者もたまにはいるけれど、(うち)には来ない。自分の家に父上を呼びつけるか、何処かの高級料理店あたりに場を設ける。
 だから、我が家に貴族(シャトーア)が来るのは、初めてのことだった。
 別に私は、貴族(シャトーア)だからといって、偉いだなんて思わない。
 私は時々、舞い手の母上の付き添いで王宮に行くから、貴族(シャトーア)なんて見慣れている。直接、王族(フェイラ)を見ることだってある。――彼らが平民(バイスア)をどんな目で見ているかも知っている。
 そんなわけで、当日の今日になるまで、私はそのお客さんにまったく興味がなかった。父上のお客さんが来るときは、いつもそうしているように、相手が帰るまで自分の部屋でおとなしくしているつもりだった。
 それが、ついさっき、事態が変わった。
「なんで、その貴族(シャトーア)、曽祖父上の紹介状なんか持ってくるわけ!?」
 私の曽祖父は、泣く子も黙る大華王国一の凶賊(ダリジィン)、鷹刀一族総帥の鷹刀イーレオ。
 ひとことで言えば『大物』だ。
 叫ぶ私に、母上は更に驚愕の上乗せをした。
「イーレオ様だけじゃないぞ、エルファン様のお口添えもある」
「――っ!? いったい、そいつ何者よ!」
 唖然とする私に、母上がにやりとした。
「おっ、クーティエ。見事な間抜け面だな」
「なっ!」
 私は真っ赤になって頬を膨らませた。母上は私の驚く顔が見たくて、こんな重要なことを黙っていたのだ。
 ――曽祖父上ならノリで紹介状を書いてくれるかもしれない。けど、祖父上は簡単には動かない人だ。ちょっと信じられない。
 いや、そもそも、父上に仕事を持ちかけるなら、今までにうちと取り引きのあった相手に紹介してもらうのが普通だろう。それが、よりによって、『鷹刀』から!?
 父上は表向き、勘当されたことになっている。母上が剣舞を続けていく上で、凶賊(ダリジィン)であるのはまずい、ってことで一族を抜けたのだから、そのくらい当然だ。だから、我が家に『鷹刀』を持ち込むのは、ご法度であるはずだ。
 でも本当は父上も母上も、鷹刀の家を大事にしている。だから、曽祖父上や祖父上の紹介(つて)というのは、何よりも効果がある。そして、その貴族(シャトーア)は、それを理解しているということになる。
 いったい、どんな人物なのだろう?
 もっと詳しい話を聞こうとしたら、母上に邪魔だと言われた。もうすぐ到着の時間らしい。
 ここで食い下がっても意味はない。私は自力で、その貴族(シャトーア)を確認することにした。


 貴族(シャトーア)の顔を拝んでやるべく、私は外壁の上に登って待っていた。塀よりも高く伸びた木の陰に、そっと身を潜める。
 ほどなくして遠くからエンジンの音が聞こえてきて、門の前に黒塗りの車が止まった。
 スモークガラスで中は見えないけど、問題の貴族(シャトーア)に違いない。
 胸が高鳴る。
 曽祖父上が気に入った相手で、祖父上が利益があると認めた相手だ。――ひと癖ある、喰えない切れ者ってところだろうか?
 運転席から制服姿の運転手が降りてきた。ぐるりと後部ドアに回り、主人の貴族(シャトーア)ために扉を開く。
 そして、まず一番に出てきたのは……。
 ――杖の先?
 老獪な狸爺(タヌキじじぃ)タイプだったかと納得しかけたとき、私は車から降りてきた彼を見て、目を疑った。
「えっ!?」
 思わず、声が出た。
 その刹那、彼ではなく運転手から殺気がほとばしる――!
 運転手は振り向き、主人を背に守るようにして私がいる方向を睨みつけた。
 目付きの悪い凶相で、中肉中背の、どちらかといえば貧相な男。運転手の制服を着ていても、本業は違うことは明らかだ。
 目と目が合った。
 射殺(いころ)そうとでもするかのような、鋭い三白眼。
 思わず体が引けてしまい、私はバランスを崩す――!
「……っ! え? ……きゃっ……!」
 そのまま道路に向かって、お尻からどしん……なんて、みっともないのは絶対に嫌!
 私は膝を曲げ、ふわりと綺麗に着地を決めた。
 かがんだ私の背の上を、ふたつの気配が抜けていく。むき出しの警戒心と、緩やかな微笑の息遣い――。
「彼女は違いますよ」
 耳に残る、柔らかなハスキーボイス。
 私に言っているのではない。彼が運転手を制したのだ。
 私は、ぱっと顔を上げた。彼は、どう見ても私より少し年上かな、ってくらいの……子供だった。
「あなたが『お客さん』……?」
 彼の全身を舐めるように見渡す。
 あとから考えれば、貴族(シャトーア)に対して無礼だと、難癖つけられても仕方ないような不躾な目つきになっていたと思う。でも、そのときの私にはそんなこと考える余裕はなかったし、彼も何も言わなかった。
 彼は、仕立ての良いスーツを完璧に着こなしていた。けれど、まっすぐには立てない。杖を持つ手に重心が寄っている。――足が悪いのだ。
「はじめまして」
 透き通るような極上の笑みが、彼からあふれ出た。なのに、その瞳は深い闇の色をしている。
 彼は、片足を庇うようにして私に近づいてきた。
「私は、藤咲家当主、藤咲ハオリュウと申します」
 杖を支えにしながらも、彼は優雅に頭を下げる。
 舞い手である私からすれば、杖に頼らなければならない彼の動きなど、気に留めるようなものではないはずだ。
 でも私の目は、彼の一挙手一投足を追っていた。
「失礼ですが、草薙レイウェン氏のご息女、クーティエ嬢でしょうか?」
「そ、そうよ」
 何故か、声が上ずった。
「ああ、やはりそうでしたか」
 ハオリュウが、にこやかに口元をほころばせると、華やぎが広がる。私とたいして変わらない子供のはずなのに、堂々たる風格を感じた。
 曽祖父上とは違う――でも、どこか通じる王者の威厳。
 私はとんでもない相手と対峙しているのだと、直感的に悟った。
「今日は、お忙しいあなたのお父様に、無理を言ってお時間をいただきました。お取り次ぎ願えませんか?」
「あぁ――!」
 彼の言葉の後ろのほうを、私はまともに聞いていなかった。重大なことにやっと気づいたのだ。
「藤咲って、鷹刀と協力した貴族(シャトーア)ね!」
「ご存知でしたか」
「この前、ミンウェイねぇがうちに来て、いろいろ教えてくれたの。――あっ!」
 私は顔色を変えた。
 ハオリュウの足が不自由な理由も、彼がお父さんを亡くしていることも、私は全部、聞いていた。
 ミンウェイねぇが彼に何もしてあげられなかったと悔いていたことも、彼がすべてを背負うような形で事件を収めたことも、何もかも……。
 そして彼は、たった十二歳で孤独な当主となった。
 鷹刀の屋敷を去るときの彼は、出会ったときとは別人のようだったと、ミンウェイねぇは言っていた。
「あなたはミンウェイさんと仲が良いんですね」
 懐かしむかのように、彼が目を細めた。
 空気が、ふっと和らぐ。彼の瞳の闇が、少しだけ薄くなった。
「その顔のほうがいいわ!」
「え?」
「だって、さっきまでのあなた……」
 なんて言えばいいんだろう?
 彼は貴族(シャトーア)の当主だ。藤咲家は王家に連なる名家で、彼は女王陛下の再従姉弟(はとこ)にあたる。たとえ子供でも、普通の人と同じじゃいけない人だ。
 彼の振る舞いは、彼の立場にふさわしかった。私は目を奪われ、心惹かれ……たぶん、萎縮した。
 ――それはきっと、寂しいことだ。
 ミンウェイねぇの話に影響されているんだ、って分かっている。けど、なんか悲しいな、って思う。
 言葉を詰まらせた私の顔を、ハオリュウがじっと見つめていた。再び闇が濃さを取り戻そうとしている。拒絶の黒だ。
「……『偉そう』だった」
 彼の心を引き留めようと、私の口をついて出た言葉は、そんなどうしようもなく失礼なものだった。
「……えっ?」
「だから、さっきまでのあなた、偉そうだったのよ!」
 彼は、驚いたように目を見張っていた。でも、言っちゃったからには、あとには引けない。
「父上に会うんでしょう? 父上は、偉ぶった子供なんか好きじゃないわ!」
 彼の表情が揺れた。彼の闇がふわっと緩み、溶けて淡く霞んでいく。
 私は、ここぞとばかりに畳み掛けた。
「だって、よく考えてよ。あなたのお異母姉(ねえ)さんは、鷹刀の、ええと……」
 リュイセンにぃが『弟分だ』って言っている、あの人はなんていうんだっけ? 会ったこともない親戚だから、とっさに名前が出てこない。
「ルイフォンですか?」
 ハオリュウの声が、すっと声を挟み込まれた。
 その顔に、どきりとした。――優しげなのに、挑戦的。でも、何処か嬉しそう。
 だから、分かった。彼はルイフォンが好きなのだ。
 大事なお異母姉(ねえ)さんを奪った男だから、勿論、単純に好きってわけじゃないと思う。
 だけど、きっと気持ちよく負けを認めた相手。悔しさはあるけど、心からお異母姉(ねえ)さんを託したんだって分かる。
「――つまり! あなたは草薙(うち)とは親戚なの。そんなこましゃっくれた態度、よくないわ!」
 彼は孤独だけど、誰よりも人が好き。
 彼は孤独だから、誰よりも人が好き。
 お節介かもしれない。私なんかより、ずっと『凄い』人だって分かる。でも私は、彼を放っておけないと思った。
 私はまっすぐに彼の目を捉え、にっこりと、できるだけ可愛く見えるように笑った。
 彼は、初めは私の剣幕に押されていた。けど軽く目を伏せて、小さく何か呟いた。ちゃんと聞き取れたか自信がないけど、たぶん、こう言ったんだと思う。
「気負い過ぎていたな」
 そして彼は、ほんの一瞬だけ口の端を上げた。
 それは華やかな笑みではなくて、きつくて強くて鋭くて。人当たりの良さをかなぐり捨てた、彼の素顔。
 ――本当はそんなに、愛想のいい人じゃないんだ。
 でも、ずっと自然で……格好いい。
「ようこそ、我が家へ」
 家に向け、私は舞うときのように、ぴんと手を伸ばす。重い直刀を持っているわけでもないのに、私の腕は小刻みに震えていた。
「ありがとうございます」
 今までとは少しだけ違う、優しい彼の微笑み。
 彼が、杖をつく。
 柄を握る手が、きらりとした。なんだろう、と思って目を凝らすと、貴族(シャトーア)の当主の証である指輪が、陽の光を弾いて輝いていた。
 ――き、気にしない。気にしないことにする!
「案内するわ!」
 吹っ切るように、私は元気よく叫んだ。

 ……そういえば、彼がなんの用で来たのか、私はまったく知らなかった。

幕間 三眠蚕の貴公子-2

幕間 三眠蚕の貴公子-2

「申し訳ございません、藤咲様」
「いえ、ご丁寧なお断りのお手紙をいただいているのに、私のほうが無理を申し上げているのです」
 ……それは、とても奇妙な光景だった。
 父上とハオリュウは、挨拶も早々に頭を下げ合っていた。どうやら、手紙やら電話やらで、既に何度もやり取りをしていたらしい。
 母上は、祖母上を呼びに行っている。祖母上は雇われデザイナーということになっているので、取り引きのお客さんが来る場には基本的に顔を出さない。でも、ハオリュウが是非、会いたいと言ったのだ。
 私はといえば、何故かハオリュウに乞われて、この応接室にいる。
 彼は小振りのスーツケースを持ってきていて、杖をつきながら運ぶのは大変そうだったから、私が手伝った。そして、そのまま一緒にいることになったのである。
 ちなみに、あの目付きの悪い運転手は(うち)に入るつもりはないらしくて、車で待っている。
「実に見事なものですね」
 部屋の奥の壁を見上げ、ハオリュウは溜め息をついた。彼の視線の先にある藍色の衣装は、母上が女王陛下の即位式で舞ったときのものだ。
「こうして間近で拝見いたしますと、ますますユイランさんの腕が欲しくなりました」
「……藤咲様。お話は大変ありがたいのですが、私どもでは、あなたのご期待にお応えできるとは、とても思えません」
 楽しげなハオリュウに、いつも穏やかな父上が渋面を作る。ふたりがなんの話をしているのか、私にはまったく見えてこない。
 ハオリュウが何かを依頼した。けど、父上は断った――ってのは、分かる。
 でも、貴族(シャトーア)の、しかも『鷹刀』と縁のあるハオリュウの頼みを断るなんて、おかしい。
 私はたぶん、不満顔をしていたんだと思う。ふと私のほうを見たハオリュウが「ああ、すみません」と軽く頭を下げた。
「あなたに同席をお願いしておきながら、説明もなしというのは失礼でしたね」
 急に顔を覗き込んできたハオリュウに私はびっくりして、反射的に激しく首を横に振った。左右に結い上げた髪がぺちぺちとほっぺに当たって、ちょっと間抜けだったと思う。……恥ずかしい。
「我が藤咲家が、女王陛下の婚礼衣装担当家であることはご存知でしょうか?」
「あ、うん」
 声が上ずる。『はい』と言うべきなのに、私の口はすっかり礼儀作法を忘れていた。
「陛下の婚礼衣装のデザインをユイランさんに、縫製などの作業全般をあなたのお父様の会社に依頼しようと思っています」
「……え? えぇっ!?」
 思わず、大声が出てしまった。
 だって、女王陛下の衣装、しかも婚礼衣装なんていったら、我が国で最高の衣装ってことだ。
 それを、草薙(うち)が作る!?
 凄い、凄い、凄い! 信じられない! 夢みたい!
「クーティエ」
 父上の低く魅惑的な声が割り込んだ。決して荒らげたりしてないけど、いつもの穏やかな甘さがない。
 怒っているわけじゃないけど、その一歩手前――。
 私が押し黙ったのを確認すると、父上は険しい顔をハオリュウに向けた。
「藤咲様、何ごとにも、分相応というものがございます。うちは設立十年程度の新参者。しかも、凶賊(ダリジィン)上がりです。いったい、何故、私どもを?」
「私が、あなたに価値を見出したからですよ」
 ハオリュウは、さも当然とばかりに、まったく説明になっていない答えを返してきた。
「確かに、私の領地には、長い歴史を持つ老舗の仕立て屋が数多くあります。古い、古い……悪い因習に捕らわれた者たちがね」
 彼の瞳に、闇が広がる。ハスキーボイスが、魔性の響きをまとった。
「無意味なしきたりに(のっと)り、価値なきものに金品をばらまく。そんなくだらない習慣のために、あなたを諦めるのは愚かなことです」
 ぞくっとした。
 改めて、感じる。彼は違う世界で生きる人なんだ。
 私の心臓が、ちくりと痛む……。
「レイウェンさん」
 ハオリュウは、妙に明るい声で父上に呼び掛けた。
「さっき、クーティエさんに教えていただいたんですよ」
 私!?
 いきなり名前を出されて私はうろたえ、父上が眉を寄せる。
「クーティエが、何を……?」
「偉ぶった子供はよくない、と」
 あ――!
 勢いで言っちゃったあれを、ハオリュウは真に受けている!?
「藤咲様! 娘がとんだ、ご無礼を!」
 父上が平身低頭しながら、横目で私を睨んだ。私も弁解しようと、慌てて「ハオリュ……」と呼びかけ、はっと口元を押さえる。
 ハオリュウは貴族(シャトーア)だ。気軽に名前で呼んでいい人じゃない。
「おふたりとも、どうか落ち着いてください」
 身振り手振りでなだめるようにして、ハオリュウが柔らかに言う。
「クーティエさんは、私に必要なことを言ってくださったんです。――私は藤咲家の当主として、あなたに認められようと虚勢を張ってきた。でも、そんな大人ぶった子供は、可愛げがないだけだったんですよ」
 ざらついたハスキーボイスが、自嘲するようにかすれている。けれど彼は、語気を強めた。
「私は――いいえ、『僕』は、もっとあなたに自分をさらけ出すべきでした。あなたの信頼を得たいなら、ありのままの自分を示し、『藤咲家の当主』ではなく『僕自身』を見てもらう必要がありました」
 そして、ハオリュウは…………。

 ――無邪気に、『嗤った』。

 それは、無垢な幼子の顔じゃない。
 あどけなさを残した、大人にはできない無鉄砲な輝き。
 凄く楽しそうで、いたずらでも仕掛けているみた……い?
 え? と、思ったときには、彼の顔は、にやりと歪んでいた。絶対に何か裏がある。これは、そう、腹黒いやつだ!
「藤咲様……?」
 豹変したハオリュウに、父上も戸惑っている。
 ハオリュウは、ぎゅっと手を握りしめた。その指の隙間から、当主の指輪が金色の光を放つ。それは、とても寂しい色をしていた。
「白状しますよ。僕は藤咲家の当主ですが、先代の嫡子だからこの地位にあるのであって、親族から認められているわけではない。周りは敵だらけ。いつ足元をすくわれても、おかしくない状態です」
 上品で余裕たっぷりだったハオリュウは、矜持をかなぐり捨てた。
「陛下の婚礼衣装の件。親族の意向に反し、僕が独断であなたを推していることを、あなたはとうにお見通しですよね。もし親族の同意を得ていれば、この場には後見人の大叔父が一緒にいるはずですから」
 彼の目が、父上を捕らえた。
 その眼光は母上の直刀よりもまっすぐで、父上の双刀よりも鋭い。 
「僕は、あなたのお人柄をイーレオさんから聞いている。――あなたは優しい人だ」
「……」
「当主の権限で無理やりあなたを採用すれば、不利益をこうむる者たちに僕が害される可能性がある。そう思ってあなたはこの話を蹴っている。――相違、ありませんね?」
 父上は肩を落とし、深い溜め息をついた。
 そして、ハオリュウを見つめ返す。
 一族に共通する美貌からは、いっさいの表情が消えていた。穏やかで優しい父上の顔ではなく、冷酷といわれる祖父上そっくりになっている。
「分かってらっしゃるのなら、これ以上、何もおっしゃらずにお引き取りください。……それが、あなたのためです」
 魅惑の低音は硬質で、鋭くハオリュウを跳ね返していた。
 母上が前に言っていた。父上は、斬るべきときには斬ることのできる男だ――人も、(えにし)も……と。
 けど、ハオリュウは引き下がったりしなかった。
 彼は瞳を闇色に染め、くっと口の端を上げる。
「レイウェンさん、このままでは僕はお飾りの当主にされるだけなんですよ」
「そうでしょうね」
 父上は肯定する。同意しているわけじゃなくて、事実だからそう言っている。
 祖父上だったら意地悪で冷たく言うだろうけれど、父上は機械のように無感情だから冷たい。父上の言葉は、冷静な分析だ。
 めったに目にすることのない父上のもうひとつの顔を、私はただ、はらはらしながら見守るしかなかった。
「藤咲様。正面から楯突くには、今のあなたは弱すぎます。待つことです。我が祖父、鷹刀イーレオは何十年も辛酸を()めました」
「僕だって、条件が揃わなければ動きませんでしたよ」
 ハオリュウは、間髪おかずに返した。
「どんなに軽んじられていても、僕は当主という肩書を手にしました。女王陛下の婚礼衣装担当家という、国中が注目する役職を担いました。そして――」
 彼は、ぐっと顎を上げる。
「あなたという最高のビジネスパートナーを見つけた」
 ハオリュウは笑う。無邪気に、腹黒く。
「僕は、あなたとあなたの会社を使って、藤咲家を立て直します」
「なっ……!?」
 無表情だった父上の顔に、感情の色が走った。
 ハオリュウは、瞳に闇を(いだ)いている。
 闇は、彼の孤独の象徴。
 けど闇は、彼の行動の(かて)でもあったんだ。彼は闇と戯れながら、しなやかに闇を従える。流されることなく。
 ――強い。
「僕はずっと、このままでは藤咲家は潰れると、危惧していたんですよ」
 彼は「どうか、聞いてください」と、ハスキーボイスを踊らせる。
「父は、秘書に仕事を任せきりで、正直なところ当主としては失格でした。その秘書も、他家の貴族(シャトーア)との権力闘争に関しては有能ですが、平民(バイスア)である彼は藤咲の親族に対しては強く出ることができず、貴族(シャトーア)の特権という、うまい汁を吸わせて黙らせていただけに過ぎない」
 彼は、あざけ笑うように口元をほころばせる。
 母親が平民(バイスア)出身の彼は、貴族(シャトーア)の世界でどんな扱いを受けていたんだろう? きっと辛かったんじゃないかと思う。
「無能な特権階級が、我が物顔でいる。この国は、そういう国です。でも、それでは世界から取り残される。――この国で本当に力があるのは、平民(バイスア)自由民(スーイラ)だ」
 父上は表情を変えずに、けれどハオリュウの話に、じっと耳をかたむけていた。
「藤咲の主産業である絹は、貴族(シャトーア)ばかりを相手にしている。僕はそれを、平民(バイスア)自由民(スーイラ)にとって身近なものにしたい。――あなたの会社に、藤咲の絹を使った庶民向けの商品を作っていただきたいんです」
 なんか、凄い話になってきた。私はどきどきしながら、父上の返事に期待する。
 けど父上は……緩やかに首を横に振った。
「あなたのおっしゃることは理想に過ぎません。現実的ではありません」
 静かな声が、応接室に響く。
 壁一面の賞状と感謝状は、父上の業績の証。それだけのものを積み上げてきた父上が、冷静に『ノー』と判断した。
「商品は、作れば売れるというものではありません。ましてや、今まで馴染みのなかった高価な絹製品です。受け入れられるのは難しいでしょう」
 その瞬間、ハオリュウはとても嬉しそうに、無邪気な笑顔をこぼした。――それは、まさにその言葉を待っていた、と言わんばかりだった。
「だから、あなたに女王陛下の婚礼衣装の件を引き受けていただきたいのです」
「どういうことですか?」
「陛下の婚礼衣装を手掛けた会社が、陛下の衣装と同じ藤咲の絹を使って、庶民向けの商品を作る。多少、高価だとしても、陛下にあやかりたい者には魅力的に映るでしょう。――別にすべての素材を絹にしなくても、一部に使うのでもいい。服でなくても小物でもいい。まずは絹を身近に感じてもらえれば、それでいいんです」
「……!」
 父上は息を呑んだ。
 ハオリュウはただ、無邪気に笑っている。
「……藤咲様。それでは、陛下の衣装のほうが『ついで』のように聞こえます」
「そうですよ? 僕は利用できるものは、なんでも利用する主義です」
 父上は絶句した。
 ううん。私だって、同じだ。
「今まで藤咲と縁のなかったあなたを抜擢すれば、妨害があるかもしれません。けれど、もと凶賊(ダリジィン)のあなたなら、ひるむことも屈することもないでしょう。僕は安心して、あなたに任せられます」
 ハオリュウはとても楽しげに、歌うように続ける。
「それから、もうひとつ。新素材繊維を開発したあなたに、お見せしたいものがあります」
 そう言って、彼は私が運んできた小振りのスーツケースを開けた。中には蚕の繭や糸、そして色とりどりの布が入っていた。
「すみません、クーティエさん。僕は足が悪いので、こちらに来ていただけませんか?」
「え?」
 私は首を傾げながら、ハオリュウのそばに行った。すると、彼が「失礼します」と言って、たくさんの布の中から緑の一枚を取り出し、ふわりと私の肩に掛けた。
「……!?」
 風が、肩に載ったのかと思った。
 かすかに首筋に触れる、柔らかな気配。確かにそこにあるのに、まるで重さを感じない。腕に掛かる滑らかな風合いには(つや)があって、しかも向こうがわが透けて見えた。
 これは、なんて言えばいいんだろう? 天女の羽衣……?
 ――あ!
「妖精の(はね)! まるで、風をまとっているみたい!」
 端をつまんで手首を回せば、薄い布が優雅に広がる。普段は刀を握る手が、風を掴んで(はね)になる。
 腕を伸ばして高く舞えば、空の上まで飛んでいけそう!
「素敵! とっても軽くて、しなやか!」
 たった一枚の布が、私に魔法をかけた。
 私の胸は高鳴り、自然に体が動き出す。くるりと身を翻せば、私のあとを追って布がなびく。透き通った(はね)が、時々きらりと光を弾く。凄く綺麗!
「ああ、思ったとおりだ。クーティエさんによく似合う」
 背後から聞こえる、安堵に緩んだようなハオリュウの声。それは今までより一段、低くて、自信に満ちた響きをしていた。
 布に夢中になっていた私はどきりとして、彼を振り返る。大きく風をはらんだ布が、彼の前髪をふわりと巻き上げた。
 彼は目を細め、極上の笑みをこぼした。
「綺麗な布でしょう? 三眠蚕(さんみんさん)と呼ばれる蚕から取れる、特別な絹糸を使って作った絹布です」
「これ、絹なの!? 絹って、もっとシャリシャリじゃない?」
 私の率直な言葉に、ハオリュウは嬉しそうな顔をした。
「一般の蚕は、四回の脱皮のあとに繭を作ります。けれど三眠蚕(さんみんさん)は、三回脱皮しただけで繭を作るので、そこから取れる絹糸は通常の半分ほどの太さしかありません。そのため、こんな柔らかな絹布ができるんです」
 そして彼は、父上を見る。少し得意げで、腹黒く無邪気な顔をして。
「レイウェンさん。服飾会社から見て、この布は魅力的だと思いませんか? 少なくともクーティエさんのお気に召したと思いますが」
三眠蚕(さんみんさん)は私も知っていますよ。確かに素晴らしいものです。……けれど、希少なものだから数が取れず、高価なものだったはずです。あなたは先ほど、庶民こそ相手にすべきだとおっしゃったではないですか? 失礼ですが、矛盾してらっしゃいます」
 父上が静かに反論する。けれど、ハオリュウは負けていなかった。
「だから――ですよ。あなたの手で量産方法を研究してみたいと思いませんか? 三眠蚕(さんみんさん)は遺伝的気質ではありますが、薬剤投与や温度管理によっても発生します。イーレオさんにお聞きしましたよ。あなたは、こういった研究がお好きだって」
「……っ! 祖父上……」
「一般的な絹のイメージは、クーティエさんのおっしゃる通りシャリシャリとした感じで、かしこまった場で身につける高級品です。それを安価で柔らかな三眠蚕(さんみんさん)(くつがえ)したら? ……きっと、面白いことになると思いますよ」
「確かにそうかも知れませんが、そんな簡単な話ではないでしょう?」
 慎重に答える父上に、ハオリュウが畳み掛ける。
「でも、あなたは、不可能と言われた新素材繊維を開発なさったのでしょう? 周りには夢物語だと笑われながら……」
「――! あれは……」
「それでも、あなたは貫いたのでしょう? そんなあなたが、何故、三眠蚕(さんみんさん)の量産が不可能だと言い切るのですか?」
「お言葉ですが、夢を見さえすれば、すべてが叶うわけではありません。あなたのおっしゃることは暴言です」
「けれど、夢を見る前から諦めていたら、人は何も()せないでしょう? あなたは、それを知っているはずです」
「……」
「僕に賭けてみませんか? 僕は、あなたに『僕』を売り込みに来たんです。あなたから見て『僕』は魅力的でしょう?」
 ハオリュウは告げる。
 すべての闇を従えた、比類なき王者の眼差しで――。
「……!」
 それが、決定打だった。
 ハオリュウが無邪気に笑い、父上が穏やかに微笑みながら溜め息をつく。
「参りました。……あなたは本当に、祖父上の紹介状通りの方でした」
「え? イーレオさんは僕のことを、なんと?」
「祖父上が『この世で唯一、(おそ)れている男』だそうです」
「……!?」
 ハオリュウは驚きに声を失い……やがて、じわりと喜びを表に出しながら「光栄です」と言った。
「藤咲様。あなたのお話、お受けいたします」
 父上の心地よい低音が、三眠蚕(さんみんさん)が醸し出す風のように、柔らかに流れた。
 ちょうどそのとき、応接室の扉が開き、祖母上と母上が部屋に入ってきた。
 ――あ、違う。『ちょうどそのとき』じゃない。
 ふたりの気配はいきなり現れた。父上とハオリュウの話がまとまるまで、ふたりは気配を消して、扉の外で待っていたんだ。
 祖母上は深々とハオリュウに頭を下げ、母上もそれに倣った。彼もまた、応じるように会釈を返し、無邪気に笑いかける。
「はじめまして、ユイランさんですね。――僕は、レイウェンさんを説得しましたよ」
「聞いておりました。……お約束通り、あなたのお手伝いをさせてください」
 祖母上は涼やかに答え、上品に銀髪(グレイヘア)を揺らしながら、再び丁寧に頭を下げる。
「どういうこと!?」
 ハオリュウと祖母上の謎のやり取りに、私は思わず叫んだ。
「僕とユイランさんは、イーレオさんを通してお話していたんですよ」
 彼はそう言って、祖母上と目線を交わし合ったのだった。

幕間 三眠蚕の貴公子-3

幕間 三眠蚕の貴公子-3

「イーレオさんは、僕がレイウェンさんをビジネスパートナーにするにあたり、『問題点がふたつある』とおっしゃったんですよ」
 祖母上と母上を交え、ハオリュウは話し始めた。
「ひとつは、レイウェンさんが慎重な方であること。もうひとつは、ユイランさんのお心です。――僕に負い目を感じているだろうから、仲良くやっていくのは難しいだろう、と」
「負い目?」
 私が首を傾げると、ハオリュウが祖母上を見やる。祖母上は恐縮したように会釈を返し、口を開いた。
「クーティエ。この前、ミンウェイが(うち)を訪ねてきたときに、鷹刀で起きたことを聞いたでしょう? 藤咲様のお父様は、私の弟に殺されたようなもの。私は恨まれて当然なのよ」
「えっと、……うん」
 私はミンウェイねぇの話を思い出す。凄くややこしかったけど、確かにそんなことを言っていた。
「だから、僕はイーレオさんを通して申し上げたんですよ。――ユイランさんと〈(ムスカ)〉は別の人なのだから関係ない。けれど、もしもお気になさるのなら、そのお気持ちは僕に協力する方向に向けてください、とね」
 ハオリュウが無邪気に笑うと、つられるように祖母上も口元をほころばせた。
「なんて度量の広い方だと思ったわ。その上、更にとんでもないことを言うんだもの」
「え、何?」
 好奇心丸出しで尋ねる私に、ハオリュウが布の詰まったスーツケースを開ける。そして、おもむろに真っ白な三眠蚕(さんみんさん)の生地を取り出すと、感触を確かめるように指を滑らせた。
「ユイランさんに、異母姉の婚礼衣装を依頼したんですよ」
「婚礼衣装!?」
「ええ。早すぎるとも思うのですが、事実上、もう異母姉はルイフォンのところに嫁いだようなものです。ならば、父の喪が明けるころ、桜の季節に。鷹刀の屋敷のあの桜の下で、ふたりの結婚式を挙げてあげたい……」
 ハオリュウは、純白の布地を愛しげに見つめていた。うつむき加減の瞳は、濡れたように漆黒に(つや)めいていて、私は一瞬、彼が泣いているのかと思った。
「力のない僕は、異母姉を死者にすることでしか自由にしてあげられなかった。藤咲の家から嫁入りさせてあげることができなかった。だから、せめて藤咲の絹で作った婚礼衣装を贈りたいと思ったんですよ」
「そんな大切なお衣装を、私に任せてくださるなんて……もう、負い目も何も吹っ飛んで、素直に嬉しいと思ってしまったわ。だから、レイウェンが仕事を受けると決めたなら、全力でお手伝いいたしますと、お答えしていたの」
 静かに心の内を告げるハオリュウに、祖母上が素朴な言葉を添える。彼のことを凄く気に入っているのが、なんか伝わってきた。
 ハオリュウは「ありがとうございます」と、祖母上に正面から向き合った。
「僕が本当に見たいのは、女王陛下ではなく、異母姉の花嫁姿です。赤の他人のためにばかり奔走して、身内がおろそかになるというのは釈然としません。だから、僕が国一番のデザイナーと思ったユイランさんに、異母姉の衣装をお願いします」
 そう言って彼は深々と頭を下げ――貴族(シャトーア)に頭を下げさせるなんて、と父上が大慌てをした……。


 その後、ハオリュウは父上と契約書を交わし、今後の打ち合わせをした。
 私は、誰も何も言わないのをいいことに、ずっと彼を見ていた。本当はこのこの場にいてはいけなかったのだと思うけど、私は彼の仕事を知りたかった。
 そして帰り際、ハオリュウはスーツケースの布類を祖母上に手渡した。サンプルということらしい。
「すみません、ユイランさん。こちらの緑の三眠蚕(さんみんさん)はクーティエさんに差し上げてもよろしいでしょうか」
 私が「え?」と驚いているうちに、彼の手が魔法を掛けるかように三眠蚕(さんみんさん)の風を運んできた。首筋から肩へと、ふわりと柔らかな感触に包まれると、不思議と胸が弾んでくる。
「ああ、やはり、この色はあなたによく似合う。――クーティエさん、木々の狭間からあなたが現れたとき、僕は森の妖精かと思ったんですよ」
「ハ、ハオリュウ! 何を言うの!」
 塀の上でバランスを崩し、危うく尻もちをついて落ちそうになったときのことを思い出し、私は顔を真っ赤にする。
 ――と、そのとき、父上が私をぎろりと睨んだ。
 はっと気づく。私は、ハオリュウを呼び捨てにしていた。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ、僕とあなたは『親戚の子供同士』です。是非とも『ハオリュウ』とお呼びください。僕も、あなたのことを『クーティエ』と呼ばせていただきますから」
 彼は三眠蚕(さんみんさん)のような透き通った笑顔をこぼし、緑の布を私の好きな服にするよう、祖母上に頼んだのだった。


 皆でハオリュウを見送るべく、緩やかな勾配のアプローチを下っていると、向こうからあの目付きの悪い運転手がやってきた。スーツケースも運ばずに車で待っていたくせに、勝手に門を開けて入ってきたのだ。
 私は、むっとする。
 けど、隣を歩くハオリュウは、私なんかよりも、もっと険しい顔つきになっていた。
「ハオリュウ、あんたの読み通りだったぜ」
 ただでさえ胡散臭そうな悪人面を、にやりと更に歪ませて、運転手はぞんざいな口調でハオリュウに話しかけてきた。
「用を足すふりをして車を離れたら、案の定、のこのこ現れやがった。ふたり組で、車の下に何か仕掛けようとしたんで、薬を嗅がせてトランクと後部座席に寝かせてある」
「そうですか。……あなたに付き合っていただいてよかった」
 眉間に皺を寄せながらも、ハオリュウが安堵の息をつく。
 彼らの言葉の端々からは、不穏な匂いが漂っていた。事情を知らない私だって、察することができるくらいに……。
 ハオリュウは、後ろにいた父上たちを振り返った。
「彼は、緋扇シュアンです。信頼できる友人です」
 父上と――母上も、祖母上も、彼が何者か、名前だけですぐに分かったみたいだった。顔色こそ変えないが、わずかに呼吸が乱れる。
 シュアンと呼ばれたそいつは、挨拶のつもりなのか、目深にかぶっていた運転手の帽子を引き上げて顔を見せた。もっとも、彼と睨み合いをした私は、その不健康そうな面構えと血走った三白眼はとっくに知っていたけど。
「彼には、非番の日に個人的に僕の護衛をしてもらっています。今回のあなたとの面会も、彼の休みに合わせて設定したんですよ」
「つまり、あなたは狙われている自覚があったんですね?」
 父上が尋ねると、ハオリュウは平然と「はい」と答えた。
「藤咲様。緋扇氏の本業は警察隊員でしょう? 普段はどうしてらっしゃるんですか」
 かすかに苛立ちを見せながら、けれどあくまでもやんわりと、父上がハオリュウに問う。
 父上の言葉で、シュアンの正体が分かった。鷹刀の事件に関わった、『狂犬』と呼ばれている警察隊員だ。ハオリュウへの態度も納得できて、喉に刺さった小骨が取れたみたいにすっきりとする。
 けど父上は、口調こそ穏やかだけど、どんどん無表情になっていった。――これは、怒っている……。
「護衛は、つけてらっしゃらないんですか」
 甘やかなはずの父上の声が、まるで冷酷な祖父上の声に聞こえた。
「護衛がいないわけではないのですが……。父が争いを好まない人間でしたから、藤咲が雇っている者たちは心優しい者たちで、どちらかというと護衛というよりも警備員なのです。だから、例の事件で僕が誘拐されたとき、僕についていた護衛たちは皆、殺されました」
 ハオリュウは、低い声で静かに告げる。
「僕はもう、僕のために死ぬ者を見たくありません……」
「それは……ご愁傷さまでした」
 父上が目線を下げると、ハオリュウがわずかに首を振る。
 でも父上は、それで終わりにしなかった。遠慮がちに「ですが……」と続けた。
「あなたは人の上に立つ人間です。あなたが亡くなるようなことがあれば、あなたが計画している藤咲家の立て直しは頓挫します。中途半端に終われば、私の会社だって大損害をこうむるでしょう。――あなたは、ご自分の好きなように動いてよい人間ではないのです」
「ええ、そうですね」
 ハオリュウは、緩やかに笑った。厳しい顔の父上を前にして、それは驚くほど和やかで、自然な微笑みだった。
「イーレオさんにも言われましたよ。『上に立つ者は、決して選択肢を間違えてはいけないし、自らを危険に晒してもいけない』とね」
「その通りです! 分かってらっしゃるなら、何故……!」
 父上が声を荒立てるのは、とても珍しい。それだけ真剣にハオリュウを心配している、ってことだ。私はどきどきしながら、ふたりのやりとりを見守る。
「恐れながら、私は警備会社も経営しております。是非、うちの者をあなたの護衛につけさせてください」
 父上は眉を寄せ、強い口調で言った。
 するとハオリュウは、少しだけ身を引いて、軽く……頭を下げた。
「すみません。――僕はあなたを試しました」
「試した?」
 父上が敬語も忘れ、おうむ返しに聞き返す。
「危険を承知で、あなたが――あなたの会社が僕の護衛を買って出てくださるかどうか」
「え……?」
「おっしゃる通り、いつでもシュアンに頼れるわけではありません。僕は護衛を探しています。――そして、あなたが警備会社を経営しているのは知っていました。足を洗った凶賊(ダリジィン)の受け皿になっているということも。けれど、彼らの人となりは信用でき、むやみな殺生は禁じられていることも」
「ええ」
 それなら是非、と気安く続けようとした父上に、ハオリュウが首を横に振る。
「ですが、レイウェンさん。僕に必要なのは、身を挺して僕を守ってくれる者ではないのです」
 深い深い闇色の瞳で、彼は父上を見上げる。
「――僕に代わって、殺せる者です」
 魔性を帯びた、孤独の王者の声が風に解けた。
 ひやりと肌を刺すような冷気に、私は両腕で自分を掻き(いだ)く。
「……それで、緋扇氏なんですね」
「はい」
 父上は、驚いてはいなかった。穏やかな、守るような目でハオリュウを包み込んでいた。
「さすがに、彼の代わりとなる者を用意するのは難しいですね」
「そうですか」
「ですが、『警備員』ではなく『護衛』をあなたにつけさせてください。ビジネスパートナーのあなたを今のままにしておくのは、私の会社がリスクを抱えているのも同然です。うちの者たちなら、必要とあらば、『自分の判断で』あなたのために殺せますから」
 父上とハオリュウのやり取りは、表に出さない言葉が多すぎて、私にはよく分からなかった。けど、最後にハオリュウが「感謝します」と言ったから、話はうまくまとまったんだと思う――。
 そんな感じで話が終わると、待っていたらしいシュアンが切り出した。
「捕まえた奴ら以外に、仲間がいるかも知れない。その門から出るのは危険だ。この家には他に出口はないのか?」
「裏門があります。ですが、捕まえた者たちはどうするんですか?」
 父上が尋ねると、ハオリュウが意外な答えを返してきた。
「エルファンさんの部下が、車ごと引き取る手はずになっています。僕たちはタクシーで帰りますから」
「え? 父の部下……?」
「はい」
 ……ハオリュウの無邪気な笑顔が腹黒い。
「僕を狙う輩には心当たりが多すぎて、僕では特定できないので専門家にお願いするんですよ。――っと、勝手にあなたの家の前を受け渡し場所にしてしまって、すみません。貴族(シャトーア)凶賊(ダリジィン)が表立って仲良くするわけにはいかないので……」
「自白させるんですか……」
「ミンウェイさんには気づかれないようにと、口を酸っぱくして言ってあります。彼女には頼みませんので、ご安心ください」
 わずかに細められた瞳からは、しなやかで力強い漆黒の闇。
 けれど、それは優しくて。
 もう寂しい色には見えなかった――。


 自分の部屋に戻り、ハオリュウに貰った緑の三眠蚕(さんみんさん)を肩に羽織った。
 ふわりと軽くて柔らかく、透き通るような輝きが私を包む。いつもは剣舞の型を映す姿見の中から、森の妖精が覗いていた。
 普通の蚕は四回脱皮してから大人になるのに、三眠蚕(さんみんさん)は他より早く、三回の脱皮で大人になる。
 なんか、可哀想。
 でも、しなやかで美しい。
 まるで、ハオリュウみたいだ。

 ――次は、いつ逢えるだろうか。

 私はこの日、たぶん生まれて初めて『切ない』という言葉の意味を知ったのだった……。

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第二部  第一章 遥か過ぎし日の

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理  第二章 約束の残響音に https://slib.net/112491

                      ――――に、続きます。

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第二部  第一章 遥か過ぎし日の

「家族を助けてくだされば、この身を捧げます」 桜降る、とある春の日。 凶賊の総帥であるルイフォンの父のもとに、貴族の少女メイシアが訪ねてきた。 凶賊でありながら、刀を振るうより『情報』を武器とするほうが得意の、クラッカー(ハッカー)ルイフォン。 そんな彼の前に立ちふさがる、死んだはずのかつての血族。 やがて、彼は知ることになる。 天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』によって仕組まれたものであると。 出逢いと信頼、裏切りと決断。 『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、絡み合う思いが、人の絆と罪を紡ぐ――。 近現代の東洋、架空の王国を舞台に繰り広げられる運命のボーイミーツガール――権謀渦巻くSFアクション・ファンタジー。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-05-04

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  1. 〈第一部 第八章あらすじ&登場人物紹介〉
  2. 1.薫風の季節の始まり
  3. 2.猫の系譜-1
  4. 2.猫の系譜-2
  5. 2.猫の系譜-3
  6. 3.密やかなる月影の下で-1
  7. 3.密やかなる月影の下で-2
  8. 4.よもぎ狂騒曲-1
  9. 4.よもぎ狂騒曲-2
  10. 4.よもぎ狂騒曲-3
  11. 5.薄雲を透かした紗のような-1
  12. 5.薄雲を透かした紗のような-2
  13. 6.かがり合わせの過去と未来-1
  14. 6.かがり合わせの過去と未来-2
  15. 6.かがり合わせの過去と未来-3
  16. 6.かがり合わせの過去と未来-4
  17. 7.幾重もの祝福-1
  18. 7.幾重もの祝福-2
  19. 8.星霜のことづて-1
  20. 8.星霜のことづて-2
  21. 幕間 大気の絆
  22. 幕間 三眠蚕の貴公子-1
  23. 幕間 三眠蚕の貴公子-2
  24. 幕間 三眠蚕の貴公子-3