di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第一部 第八章 交響曲の旋律と
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水 第八章 交響曲の旋律と
――――です。
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水 第七章 星影の境界線で https://slib.net/111469
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〈第七章あらすじ&登場人物紹介〉
===第七章 あらすじ===
メイシアとハオリュウの父、藤咲コウレンを救出すべく、ルイフォンとリュイセンは斑目一族の別荘に潜入した。
厨房から入った直後、タオロンの娘ファンルゥに見つかってしまうが、見回りのふりをして事なきを得る。ファンルゥは「地下にいる〈天使〉を見せたい」と言うが、ルイフォンたちは振り切るようにして、その場を立ち去った。
同時刻、鷹刀一族の屋敷では、捕虜にした男たちから情報を引き出すため、薬物の扱いに長けたミンウェイが自白剤の投与を試みていた。また、捕虜のうちのひとりが親しかった先輩であるため、緋扇シュアンも同席していた。
驚くべきことに、捕虜たちは〈蝿〉の記憶を書き込まれ、〈影〉とされた者たちだった。先輩は元には戻らないと悟ったシュアンは、自らの手で敬愛する先輩を射殺する。
一方、斑目一族の別荘では、ルイフォンたちは無事にコウレンと会うことができたものの、怯えられてしまう。説得を試みるルイフォンだったが、その途中でタオロンが近づいてくる気配を感じ、やむを得ずリュイセンがコウレンを気絶させた。
侵入者であるルイフォンたちに襲いかかるタオロン――と思ったら、タオロンの狙いはルイフォンたちではなく、コウレンだった。しかも、凶賊にはご法度の銃まで持ち出して、タオロンはコウレンの命を狙う。
心情的にはルイフォンたちに近いタオロンが何故、と思いながらも、リュイセンがタオロンを倒す。気絶したままのコウレンを連れて脱出の途についた。
屋敷では、ルイフォンを心配するメイシアを、異母弟ハオリュウが訪ねていた。彼は、メイシアのルイフォンへの身分違いの想いを諦めるよう、釘を刺しにきたのだった。
けれど、ふたりの想いが固いことを知り、それならばと「家事もできない姉様では今は無理」と、仲を認めつつも、ささやかな嫌がらせをする作戦に変更した。
会話の途中で、メイシアがいつも身に着けているペンダントを、ハオリュウは見たことがないと言う。
また、斑目一族と決別したと思われている厳月家だが、まだ事件に関わっているのではないかとメイシアは考え、不安に思っていた。
ルイフォンたちは、潜入してきたときと同じく厨房から脱出しようと思っていた。しかし、そこではファンルゥが待っていた。しかも、彼女ひとりではなく、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蛇〉であるホンシュアも一緒だった。
初対面のはずのホンシュアだが、ルイフォンとリュイセンを知っており、ルイフォンに「逢いたかった」と言う。彼女は理由も告げずにルイフォンに謝罪の言葉を繰り返し、「メイシアを選んだ」「私が仕組んだ」などと謎めいたことを言う。
ホンシュアが「ライシェン」という名前を口にした瞬間、ルイフォンの脳裏にメイシアのペンダントの記憶が描き出され、激しい頭痛に見舞われた。その様子を見たホンシュアが「駄目」と叫び、彼女の背中から光の羽としか言いようもないものが出現した。
それは〈天使〉の羽なのだと、ファンルゥが解説する。羽の光に包まれると、ルイフォンの頭痛は収まった。しかし、そこに〈蝿〉が現れた。
〈蝿〉と対戦することになるとリュイセンは身構えたが、〈蝿〉はホンシュアと口論を始めた。ふたりの会話から、記憶介入は〈天使〉のホンシュアのみが出来ることであり、〈蝿〉はそれを利用していること。ホンシュアが『デヴァイン・シンフォニア計画』というもののために、〈蝿〉の保つ技術を必要としていること、が分かる。
ホンシュアは、熱暴走といわれる高熱の状態に陥っており、〈蝿〉は冷却剤を置いて立ち去ろうとする。そこをルイフォンが、「何故、俺たちを無視する」とひきとめると、〈蝿〉は「興味があるのはイーレオだけ。貴族はどうでもいい」と答える。ルイフォンが不意打ちで〈蝿〉のサングラスを弾き飛ばすと、そこに表れた顔は、どう見ても鷹刀一族のものだった。
ルイフォンたちが脱出する間際、ホンシュアはコウレンに「巻き込んでしまって、ごめんなさい」とひざまずき、彼を光で包んだ。
無事、鷹刀一族の屋敷に戻り、ルイフォンはメイシアと再会した。これから彼女と一緒に居るために、明日になったらきっちりコウレンやイーレオに挨拶すると約束する。
幸せいっぱいのふたり。だが、厳月家が不穏な動きを見せているとの知らせを、娼館の女主人シャオリエが持ってきたのだった。
===登場人物===
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
実は、秘密組織〈七つの大罪〉の介入により、近親婚によって作られた「強く美しい」一族。
鷹刀ルイフォン
凶賊鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
母から、〈猫〉というクラッカーの通称を継いでいる。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を金の鈴と青い飾り紐で留めている。
※「ハッカー」という用語は、「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われていた。
「クラッカー」には悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を「クラッカー」と表記する。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
鷹刀ミンウェイ
イーレオの孫娘にして、ルイフォンの年上の『姪』。二十代半ばに見える。
鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。ただし、本来は直毛。
薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
父親ヘイシャオ=〈蝿〉? に溺愛という名の虐待を受けていた。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥。ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄弟。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。イーレオの孫。ルイフォンの年上の『甥』。十九歳。
文句も多いが、やるときはやる男。
『神速の双刀使い』と呼ばれている。
長男の兄が一族を抜けたため、エルファンの次の総帥になる予定である。
草薙チャオラウ
イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
ルイフォンの母。四年前に謎の集団に首を落とされて死亡。
天才クラッカー〈猫〉。
右足首から下を失っており、歩行は困難だった。
かつて〈七つの大罪〉に属していたらしい。
鷹刀一族の屋敷に謎の人工知能〈ベロ〉を遺していた。
もとエルファンの愛人。エルファンとの間に一女あり。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
ルイフォンの母が作った三台の兄弟コンピュータ。
ただし、〈スー〉は、まだできていないらしい。
〈ベロ〉は、独自の判断で、「敵を全滅する」というルイフォンの指示を無視した。
[藤咲家]
藤咲メイシア
貴族の娘。十八歳。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
十人並みの容姿に、子供とは思えない言動。いずれは一角の人物になると目される。
斑目一族に誘拐されていたが、解放された。
藤咲コウレン
メイシア、ハオリュウの父親。
貴族の藤咲家当主。
斑目一族に囚えられていたが、ルイフォンとリュイセンによって救出された。
藤咲家当主の妻
メイシアの継母。ハオリュウの実母。
メイシアが凶賊である鷹刀一族のもとへ行ったあと、心労で正気を失ってしまった。ハオリュウはそれを知っているが、異母姉のメイシアには隠している。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
元鷹刀一族であったが、イーレオの負担にならないように一族を離れた。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。
本人曰く、もと女優の卵。
情報を得るために、厳月家の三男を呼び出してくれた。
トンツァイ
繁華街の情報屋。
痩せぎすの男。
キンタン
トンツァイの息子。ルイフォンと同い年。
カードゲームが好き。
[斑目一族]
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。
二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
斑目一族の非道に反感を抱いているらしいが、逆らうことはできないらしい。
〈蝿〉に、斑目一族から離反して、自分の手駒にならないかと誘われている。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
[〈七つの大罪〉]
〈七つの大罪〉
現代の『七つの大罪』《『新・七つの大罪』》を犯す『闇の研究組織』。
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。代償は体に刻み込まれた『契約』。
〈蝿〉 = ヘイシャオ?
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉。
ミンウェイの父で、本名はヘイシャオ。
イーレオが総帥位を奪わなければ、鷹刀一族の中心にいたはずの人物。
鷹刀一族を恨んでいる。
医者で暗殺者。
娘のミンウェイを異常な愛情で溺愛している。
ホンシュア = 〈蛇〉? = 天使?
鷹刀一族に助けを求めるよう、メイシアを唆した女。
仕立て屋と名乗っていた。
背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
「記憶の書き込み」ができるらしい?
ルイフォンやリュイセンのことを知っている……?
メイシアのことを『選んだ』と言っている。
ライシェン
ホンシュアがルイフォンに向かって呼びかけた名前。
それ以外は不明。
『デヴァイン・シンフォニア計画』
〈蛇〉が企んでいるらしい計画。
〈蝿〉の協力が必要であるらしいのだが、すべてが謎に包まれている。
どうやら、〈蛇〉は〈蝿〉を嫌っているらしいのだが、この計画のために手を組んだようである。
[警察隊]
緋扇シュアン
『狂犬』と呼ばれるイカレ警察隊員。三十路手前程度。
ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
凶賊の抗争に巻き込まれて家族を失っており、凶賊を恨んでいる。
凶賊を殲滅すべく、情報を求めて鷹刀一族と手を結んだ。
敬愛する先輩が〈蝿〉の手に堕ちてしまい、自らの手で射殺した。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.真白き夜明け-1
散りかけた桜の花びらを白く透かし、執務室へと輝く朝日が注ぎ込まれる。昨日よりも一日分だけ多く春の暦を重ねた今日は、一段と緩く穏やかな光をまとっていた。
そんな晴れやかな陽射しの中、ローテーブルを挟んで向かい合う一組の男女がいた。
ふたりとも若くはないが、美男美女の取り合わせとして、申し分ない容貌をしている。しかし、思い思いにソファーに身を投げ出す様は、春の恵みを享受しているというには渋面に覆われ過ぎていた。交わす視線は、無言の愛の睦言などとは程遠い、共謀者のそれ。――すなわち、彼らが逢瀬を楽しんでいるわけではないことを、雄弁に物語っていた。
「今更、〈七つの大罪〉が出てくるとはね……」
シャオリエは組んだ足を組み直しながら呟いた。彼女は、ルイフォンとメイシアを店から送り出して以降の話をイーレオから聞いていたのであるが、それがあまりにも長く複雑だったため、体が強張ってしまっていた。
「もうとっくに瓦解したかと思ったのに。いったい誰が指揮を取っているのかしら」
彼女のその問いに、イーレオは溜め息で答えるしかなかった。肘掛けに頬杖を付き、落とした視線のまま、秀でた額に皺を寄せる。
押し黙ってしまった彼を見て、シャオリエは自分の口元に指を寄せた。愛用の煙管がないのは口さみしいが、それは言っても仕方がない。
それより、さて。図体ばかりが大きくなったこの男に、どう言ってやるべきなのか。彼女はしばし迷う。
今や総帥を名乗るイーレオだが、彼女にとっては、いまだに庇護の対象であった。
「発端は、貴族の厳月家が、名誉ある役職欲しさにライバルの藤咲家を陥れようと斑目を雇った――と聞いていたけれど、どうも違うわね。無駄な役者が多いわ。……そして、無関係の鷹刀を強引に引きずり込んでいる」
イーレオが目線を上げると、シャオリエのアーモンド型の瞳が、肉食獣のような眼光を放っていた。彼は体を起こし、絶対の信頼と、尊敬と情愛と畏怖までを捧げる彼女に、「つまり――?」と言葉を促した。
「〈蝿〉を名乗る男が、お前を狙っている。初めから、斑目も、厳月家も、警察隊も、すべて奴の駒にすぎない」
嫋やかで儚げな声質を裏切る、鋭く厳しい声が、空気を斬り裂いた。
シャオリエだって、なんでも背負い込みたがるこの男に、更に責任を押し付けるようなことは言いたくない。しかし、すべてがイーレオを絡め取るための罠にしか見えなかった。なのに肝心の彼は、人のよさを利用され、どんどん深みにはまっているように思える。
「勘違いしないで。別に、断言する気はないわ。私の一意見よ」
彼女は軽く腕を組んで、溜め息をついた。
「ただ、今更のように厳月家とメイシアの婚約話なんてものが出てきた以上、〈蝿〉は厳月家という駒で何か仕掛けてくると私は予測するわ。……何を画策しているのかは分からないけれど」
「待ってくれ。それじゃあ、俺を追い込むために藤咲家は利用されたというわけか?」
イーレオが身を乗り出す。
「そういうことね。――冷たいようだけど、お前が気に病む必要はないわ。〈蝿〉は、単に貴族同士の不仲を利用しただけよ。藤咲家には付け入られる隙を見せたという落ち度があるわ」
シャオリエの言い分に、イーレオの眼鏡の奥の瞳が不服を訴えた。しかし、彼女の酷薄にも見える美貌は揺るぐことなく、静かな迫力を持つ声が彼の感情を押し返す。
「すべての責任が自分にあると考えたら、お前は潰れる。お前は組織の『王』なんだから、自分が守るべき範疇を間違えないで」
シャオリエとて、非情になりたいわけではない。けれどすべてを救うことなど無理なのだ。ならば、優しすぎる総帥の負担が少しでも軽くなるよう、悪役でも買って出る。それが彼を総帥に据えた、彼女の義務だと考えていた。
「それよりも気になるのが『〈蝿〉』ね。奴はいったい何者なのか。そして、奴に〈天使〉を与えたのは誰なのか……」
シャオリエは再び足を組み替え、ローテーブルの上の書類に目を落とす。
それは、メイシアの父を救出したときのことをまとめた、ルイフォンの報告書であった。彼が眠る前に記し、執務室に置いていったものだ。
そのとき、執務室の扉が――〈ベロ〉が来訪者を告げた。ただし、それはルイフォンが仕掛けた虹彩認証を通過したというだけの知らせであり、意思があるかのように自在に喋る〈ベロ〉の言葉ではない。
偽の警察隊を大虐殺の憂き目に遭わせた冥府の守護者は、あれ以来、気配を消してしまった。『もう手出ししない』と宣言したように、今まで通りに沈黙を保つつもりらしかった。
「失礼します」
指先に制帽を引っ掛け、軽く会釈したのは、警察隊の緋扇シュアンであった。
中肉中背の体を、気だるそうに動かしながら入ってくる。不健康そのものの肌は青白く、もともと隈の濃かった目が更に落ち窪み、げっそりと頬がこけていた。
意外な相手の登場に、イーレオは「どうした?」と尋ねる。
「辞去のご挨拶です」
荒れた唇に微妙な声色を載せて、シュアンは答えた。
昨晩、ミンウェイが捕虜を自白させるのに同席したシュアンは、彼女と共にその顛末をイーレオに報告し、そのまま一晩、屋敷に滞在した。客間を勧めるミンウェイを断り、自らの手で物言わぬ骸と変えた彼の先輩、ローヤンのそばで時を過ごしたのだった。
「随分と早いな。もう少し、ゆっくりしていって構わないぞ」
イーレオは、シュアンに穏やかな微笑を向ける。
捕虜たちの正体が〈蝿〉の〈影〉と聞き、イーレオは戦慄した。そして、ミンウェイのそばにシュアンがいてくれたことに感謝していた。
「いえ。射撃の自主訓練があるんで」
「ほう。お前が勤勉とは知らなかった」
「一発の弾丸の重さをね、……確かめに行くんですよ」
シュアンはそう言いながら、ぼさぼさ頭を制帽で押さえつけ、目深にかぶった。
「――それより、逢い引きの邪魔をしてしまいましたね。とんだご無礼を」
シュアンは、執務室に入った瞬間にシャオリエの姿を確認したのであるが、謝罪するより先にイーレオに声を掛けられてしまったのである。
「無粋者はこれで失礼しますから。ごゆっくり」
シュアンの経験では、こういう場合は、できるだけ平然とするのが吉である。そして、できれば女とは目を合わさずに、早々に退散するに限るのだ。
急ぐシュアンに、イーレオが苦笑交じりの否定を返そうとしたとき、シャオリエがすっと立ち上がった。
「坊や。年上をからかうと長生きできないわよ」
そんなことを言いながら、彼女はシュアンに近づく。ただ歩いているだけなのに、細い腰のくびれからは艶めかしさが漂う。ふわりと羽織ったストールをなびかせ、白い胸元をちらつかせた。
すぐそばにシャオリエが来ると、シュアンは扇情的な香りに包まれた。小柄な彼女が踵を上げ、彼の頬に触れる。
シュアンは――動けなかった。
色香のせいではない。
恐怖。
以前、イーレオに肩に手を置かれ、『自惚れるな』と言われたときと同様の――。
イーレオが懇意にしている女が、ただの女であるはずがなかった。シュアンは自分の愚かさを認識する。
シャオリエは、小さくて華奢な手をすっと滑らせ、シュアンの制帽を払い落とした。
「人前で、顔を隠すものではないわ」
そう言って、にっこりと笑う。見る者によっては男を蕩かす魔性の微笑みなのだろうが、シュアンにとっては人喰いの魔性にしか見えない。
「お前が『緋扇シュアン』ね。〈影〉を殺した――」
『殺した』という言葉に、シュアンの眉がぴくりと動いた。
「あら? 不満?」
シャオリエがくすくすと笑う。可愛らしい、とすら表現できそうな仕草を見せる彼女を、シュアンはぎょろりとした三白眼で睨みつけた。
「ああ、その顔。いいわね、ゾクゾクするわ」
「……あんたが何者か知らんが、年長者なら初対面の相手に対する礼儀くらい、わきまえているものじゃないのか?」
相手が格上と分かっていても、それで屈するシュアンではない。そんな彼に、シャオリエは嬉しそうに目を細めた。
「シャオリエ、よ。繁華街で娼館を営んでいるわ。よかったら遊びに来て。いい娘がいっぱいいるわよ」
シャオリエはシュアンに名刺を差し出す。完全に馬鹿にされている。
かちんと来たシュアンだが、力を得るために人脈作りを繰り返してきた彼には、名刺を無碍に振り払うことはできず――。
「――え? 『シャオリエ』?」
「ええ」
「鷹刀イーレオが総帥位に就くときに、暗躍した……?」
シュアンは鷹刀一族と手を組むにあたり、過去から現在に至るまでの様々な情報を集めた。その中に、イーレオの頭が上がらない唯一の人物として『シャオリエ』の名があった。
しかし、三十年前に二十歳そこそこであった『シャオリエ』は、現在では五十近くになっているはずである。なのに、目の前の女はどう見ても四十手前であった。
「お前、射撃場に行くと言っていたわね。何をするつもりなの?」
不意に、シャオリエが尋ねた。
「自主訓練だと言ったはずだが?」
「どうかしら? ……例えば、リボルバー式の銃の半分に弾を込めて――バンッと……」
シャオリエの手が銃をかたどり、シュアンのこめかみに突きつけられる。
「まさか」
「あらぁ? だって、お前、生きることも死ぬことも自分で選べない、迷子のような顔をしているじゃない?」
「…………」
「時と場合によっては、『死』は何よりも魅力的よ。お前みたいな坊やに、抗えるかしら?」
アーモンド型の瞳の目元が、意味ありげに嗤う。見透かされるような視線に、シュアンはぞくりとした。
恐怖から逃れるかのように、シュアンは屈み、床に落ちた制帽を拾う。
――一晩の間に、一度も揺らがなかったと言えば、それは嘘だ。先輩を撃った現実から、逃れたいと何度も思った。
「……俺は、これから……自分の撃ち砕いた『無限の可能性』を背負って……生きていかなきゃならねぇんだよ……!」
床を向いたまま制帽を握りしめ、シュアンは小さく独りごちる。
次に顔を上げたとき、彼は頭のてっぺんに制帽を載せた。見開いた三白眼が、鋭く光っていた。
「ともかく、これで失礼。上と話をつけてきますから、先輩の身柄をしばらく頼みます」
ソファーに座ったままのイーレオに、シュアンは声を掛ける。そして、そのまま背を向けた。
「ミンウェイを、ありがとね」
扉が閉まる間際、シュアンはそんなシャオリエの声を聞いたような気がした――。
「……まったく。本当に、あなたは何を言い出すか分かりませんね」
やや、すねたようにイーレオがぼやく。シャオリエは「失礼ね」と言いながら、彼の向かいの席に戻った。
気まぐれなシャオリエが、珍しい毛並みのシュアンに興味を持ったのは明らかだった。イーレオは溜め息をつく。
「シャオリエ。あれは狂犬――」
そう言いかけて、彼は「いや」と、否定した。軽く頭を振り、背の中ほどで結わえた髪を揺らす。
「あれは『野犬』だ。手なずけられるものじゃない」
断言されるのは、面白くない。だが、シャオリエが気を悪くすることはなかった。イーレオの言葉の裏が見えたからだ。
「お前も、あの男を欲しいと思っているわけね?」
「否定はしませんよ。けど、彼は野生にいるから美しいのであって、飼い慣らしたら魅力を失うのだと思いますよ」
「確かに、そうねぇ。……残念」
そしてふたりは、どちらからともなく笑い合ったのだった。
小鳥たちのさえずりが聞こえる。ささやきを交わすように、澄んだ鳴き声が追いかけ合い、重なり合っていく。
薄目を開ければ、カーテンの隙間から、まっすぐに降りてくる光の筋が見えた。それは純白に輝くベールとなって、彼の隣で眠る彼女を飾る。――花嫁のように。
彼は、そんな彼女と指先を絡め合い、手を握り合っていた。
――執務室に報告書を置いてきたあと、ルイフォンはベッドに倒れ込んだ。
ずっと、そばについていてくれたメイシアが、心配そうに顔を覗き込んできたのは覚えている。だから、彼女の手を掴み……そのまま眠ってしまったらしい。
大の字に寝転んだ彼が、強引に引き寄せたからだろう。彼女はベッドの端のほうで、横向きになって、こちらを向いていた。
凛と輝く黒曜石の瞳は、今は閉ざされ、隠されている。代わりに、瞼の縁を、くっきりとした睫毛が緩い弓を描いている。その目元からは、普段は感じられない、あどけなさが漂い、無邪気で、無防備だった。
口元に掛かった黒髪のひと房は、なんとも艶かしい。まるで、薔薇色の唇の柔らかさを強調するかのよう。また、そこから漏れ出す吐息は、白いシーツにわずかな湿り気をもたらしていた。かすかでありながら確かなその音が、彼を誘っている。
甘やかな人肌の匂いに、彼は――。
……駄目だろ。
ルイフォンは自分を叱咤する。
彼が不埒なことをしたところで、彼女は怒らない。その自信はある。
けれど、そういう問題じゃない。
この先ずっと、この手を取り続けているために、彼は今日、彼女の父親と話す。
それからだ。
一晩中、彼女を握り続けた手は、既に感覚が鈍くなっていた。けれど、確実に彼女と繋がっているのを感じる。
……単刀直入に言うのでいいんだろうか。
洒落た言葉など柄ではないが、一生に一度のことだから、のちのちメイシアの中で残念な思い出になってしまっては可哀想だ。
ルイフォンは光のベールを見上げ、眉間に皺を寄せた。
1.真白き夜明け-2
ふわりとした温かな気配を感じ、ハオリュウは目を覚ました。
瞳を開けて、彼は硬直する。
鼻先に触れんばかりの位置に、緋色の衣服に包まれた豊かな双丘が迫っていた。あたりには干した草の香が漂い、波打つ黒髪がハオリュウの頬を撫でる。
「あ、すみません。起こしてしまいましたか」
優しげで、けれど申し訳なさそうな声が、頭上から落ちてきた。見上げれば、絶世の美女が彼に微笑みかけている。
「ミンウェイさん……」
椅子に座ったまま眠り込んでしまった彼に、彼女が毛布を掛けてくれた、ということらしい。分かってしまえば、なんのこともない話である。
しかし――、なんとも……強烈な目覚めであった。
彼は、白い陽射しの窓へと顔をそらし、心を落ち着ける。
……彼女が無防備なのは、彼に対する警戒心が皆無であるという証拠に他ならない。彼が彼女に寄せる感情は憧憬、あるいは思慕、敬慕の類であって、恋慕ではないのは分かっている。だからといって、妙齢の女性に半人前の扱いを受けるのは承服いたしかねた。
ハオリュウの顔が、渋面を作る。
「きちんとベッドでお休みになられたほうがいいですよ。お父様には私がついていますから」
彼の心の内は理解してくれないようであったが、彼女が彼を気遣ってくれているのは伝わってくる。
父、コウレンがこの屋敷に到着してから、彼はずっと椅子でうつらうつらしながら脇に控えていた。確かに疲れていた。しかし、彼は首を横に振った。
「いえ。目を覚ましたときに僕がそばに居たほうが、父も混乱が少ないでしょうから」
ルイフォンの話では、コウレンは斑目一族や厳月家のことを口走り、力関係に怯えていたという。ここが、斑目一族とは別の凶賊の屋敷だと知ったら、恐慌状態に陥るに違いない。善良なだけが取り柄の、庭師のような男なのだ。みっともなく取り乱すかもしれない。
ハオリュウは、これ以上、鷹刀一族の人々に迷惑をかけたくなかったし、藤咲家の恥を晒したいとも思わなかった。
思わず険しい表情になってしまったハオリュウだが、幸運にも、ミンウェイはちょうどコウレンの顔色を見ようと彼に背を向けたところだった。彼女は医者でもあるそうで、具合いを看てくれているようだった。
「そうですね。起きたら見知らぬ場所にいたのでは、お父様も驚かれますね。差し出がましく、すみませんでした」
彼を振り返り、恐縮したように頭を下げる。そして彼女は「あなたは本当に、お父様思いの優しい方ですね」と微笑んだ。
その瞬間、ハオリュウの心にさざ波が立った。彼女の目には、彼は父親を心配する孝行息子にしか映っていない――。
「そんなんじゃありません。ただ、僕は父を……」
見張っているだけだ、と言いそうになり、ハオリュウはぐっとこらえた。
コウレンは当主としての自覚に欠け、いつも秘書であるハオリュウの伯父に頼ってばかりだ。親族に腰抜け、腑抜けと言われるのも、完全なる誹謗中傷とは言い切れない。
自分がついていないと不安だ。凶賊を前にして、どんな行動を取るか分からない。――そんな言葉を、彼は呑み込んだ。
ふと気づくと、途中で黙り込む形となってしまった彼の顔を、ミンウェイが気づかしげに覗き込んでいた。
「……なんでもありません」
彼は、逃げるように目線をそらす。
――けれど、その間際で、彼女に闇色の瞳を見られてしまった。
「ハオリュウさん?」
ミンウェイが不審の声を上げる。
窓から差し込む光が明るければ明るいほどに、ハオリュウの顔には影が落ちる。不満も運命と受け入れ、ひとりきりで抱え込む。抑圧した感情があふれ出ていた。
早く出ていってくれと、ハオリュウは願った。けれどミンウェイは、何故か溜め息をついた。
ふぅ、という息遣いのあとに、干した草の香りが漂う。横を向いたままの彼からは見えなかったが、うつむき加減になった彼女が、落ちてきた髪を払ったのだ。
「――メイシアが言っていたわ。『お父様がのんびりしている分、異母弟がしっかりしている』って。自己紹介みたいな話題のひとつだったから、特に気にしてなかったけど、あれはそんなに軽い意味じゃなかったのね」
今までとは違う口調。声質は変わらないのに、雰囲気ががらりと変わっている。
「『非捕食者』のあなたが、『捕食者』であろうとしている。……悲しいわ」
「……僕がしっかりしていないと、藤咲家は喰われてしまうんですよ」
毒を含んだ、乾いたハスキーボイス――。
たゆんだ糸なら、どんな言葉も聞き流せただろう。けれど張り詰めた糸であるハオリュウは、載せられた言葉を強く弾き返した。
「そうね。そうかもしれない」
ミンウェイは否定しなかった。さっきまでの彼女だったら、優しい慰めの言葉を掛けてくれたであろうに。
こちらが本当の彼女なのだと、ハオリュウは悟る。落胆している自分自身に、彼は年上の女性に甘えたかっただけ――褒められ、認められたかっただけだという、なんとも情けない本心を暴かれた。
半人前扱いされて当然の、子供だった。
彼が自己嫌悪に奥歯を噛みしめたとき、「でも――」という彼女の声が続く。
「――今は、あなたは鷹刀と手を組んでいるのよ。少しだけ、気を楽にしていいわ」
「……え?」
ハオリュウは耳を疑い、思わず彼女の顔を見上げた。
ミンウェイは、すらりと背を伸ばし、胸を張っていた。けれど、それは自信に満ちあふれた姿とは違う。切れ長の瞳には陰りがあった。
「結局は自分で解決するしかないことでも、誰かがそばに居るだけで冷静さを失わずにすむ。これは大きいわ」
そう言って、彼女は穏やかに笑う。その言葉の裏には、〈蝿〉の〈影〉たちと対峙したとき支えてくれた、シュアンの存在があった。
勿論、ハオリュウはそのことを知らない。ただ、彼女がそっと寄り添ってくれたのだと気づいた。――おそらく彼女もまた、悲しい『捕食者』なのだ、と。
「……ミンウェイさん、聞いてくれますか?」
ためらいがちに、ハオリュウは口を開いた。
ミンウェイは少しだけ驚いたように、目を瞬かせる。けれど、何を、とは聞き返さずに、ただ短く「ええ」とだけ答えた。
「僕は――父とは決して仲がよいわけではありません」
『僕と父』の仲、ではない。『僕』だ。
「父は血統だけで当主になりました。けれど、息子の僕は違うんです。努力しなければ認められない。それを父は理解していない。なのに無邪気に『君がいれば安心だ』と言うんです。嬉しそうに」
ミンウェイは、ハオリュウの話の邪魔にならないように、そっと近くにあった椅子を引き寄せた。コウレンが運び込まれたときに、メイシアが座っていた椅子だ。
彼女は音もなくそれに座り、彼と目線を合わせる。わずかな草の香りだけが、彼の言葉にかぶさった。
「父は本当に、ごくごく普通の人間で――今だって僕は、目覚めた父が取り乱したり、鷹刀一族の人たちに失礼なことを言ったりしないか、恐れています。僕は、まったく父を信用していない」
ハオリュウはそこで、ベッドに横たわるコウレンを見た。いつもなら、きっちり櫛の目が見える髪は、乱れて額に掛かっている。だが呼吸は安定していて、胸元がゆっくり動いていた。
「けれど、ミンウェイさん。……救出されて帰ってきた父を見て、ショックだったのも事実なんです。一気に十も歳を取ったようでした。――腰抜けなら、腰抜けのまま、僕を助けようなんて考えずに、藤咲の家から出なければよかったのにっ……!」
ハオリュウは拳を握りしめた。指に食い込む金の指輪は、父のこともえぐっていたに違いないのだ。
「本当に……父様は……!」
封じ込めていた感情が噴き上げ、濁流となって暴れ出した。やり場のない思いが渦を巻き、身を犯していく。ハオリュウは、それを押さえ込むように口を一文字に結び、うつむいた。
肩を震わせ、漏れ出しそうな声を殺す。さらさらと落ちてきた前髪で、情けない顔を覆い隠す。
理不尽な陰謀、無力な自分――。守りたいものを、守れるだけの力が欲しい。
噛みしめた唇に、痛みが走った。
――どのくらいそうしていたのだろうか。それは長いようにも、短いようにも感じられ、実のところよく分からない。
だが、その間、草の香りが揺れなかったことから、ミンウェイが身じろぎもせずに、そこに居てくれたことが分かる。彼が自分自身で心を鎮めるまで、彼女は黙って待っていてくれたのだ。
気恥ずかしく、ばつが悪い。なんて言葉を放つか、逡巡する。
「――すみません。ありがとうございました」
彼が選んだ言葉は、謝罪と感謝だった。それが一番素直な気持ちだった。
吐き出してしまえば、不思議と心が落ち着いた。ハオリュウは、無意識に怒らせていた肩を下ろす。
ミンウェイは、ただ軽く首を振り、波打つ髪を豪奢に揺らした。
「いいえ。……ありがとう」
そう言って、彼女は長い睫毛を軽く伏せる。
彼女が『ありがとう』と返すのは、ちぐはぐな受け答えなのだが、ハオリュウは自然に受け止めた。心を開いてくれてありがとう。そういうことなのだろう。
窓から注ぎ込む白い陽射しが、ハオリュウの背中を押す。いろいろあったけれども、これでひと段落だ。
ふと、ミンウェイが音もなく立ち上がった。
ハオリュウが後ろ姿を目で追うと、その先にワゴンが置いてあった。ティーセットとサンドイッチの軽食が載せられている。
もともと彼女は、これらを届けに彼を見舞いに来て、彼が寝ていたので毛布を掛け、その結果、起こしてしまった、ということだったらしい。紅茶を淹れる軽やかな音と共に、芳醇な香りが漂う。彼は勧められるままに、紅茶をいただき、サンドイッチを摘んだ。
それほど空腹だったわけではないが、美味いものを口にすると心が安らぐ。ハオリュウは、ほっと息をつき、改めてミンウェイと向き合った。
「鷹刀一族の方々には、本当にお世話になりました」
ハオリュウは深々と頭を下げた。
初めは凶賊というだけで、嫌悪感があった。斑目一族に誘拐されたばかりということもあり、鷹刀一族も凶悪で粗暴な害悪だと決めつけた。だが接していくうちに、ふたつの一族の明白な違いが分かる。藤咲家と厳月家が、互いに貴族といえど、まったく違うのと同じことだった。
「父が目を覚ましたら、実家から車を呼んで帰ります。改めてご挨拶に参りますが、父の状態が不安なのと、何より母が待っているので……。慌ただしくてすみません」
心労のため、母は正気を失った。そのことを父や異母姉に伝えるのは気が重いが、ふたりの無事な姿を見れば、母も快方に向かうに違いない。そう信じる。
ゆっくりとだが、確実に良い方向へと進んでいる。――と、思ったとき、ハオリュウは先送りにした案件について思い出し、顔を曇らせた。
「どうしたの?」
ミンウェイが、心配そうな目を向けてくる。それを見て、そういえば彼女は『あいつ』を可愛がっているのだったな、とハオリュウは思う。
彼は真顔になり、口調を改めた。――ささやかな、いたずら心を持って。
「……ミンウェイさん。これは、愚痴ですよ? 決して文句ではありません」
「はい?」
きょとんとした顔で、彼女が彼を見る。
「あなたの叔父のルイフォンが、僕の姉様に駆け落ちしようと持ちかけたんですよ」
その瞬間、彼女は目を見開き、何かを叫びそうになった口を両手で覆った。美しい顔は上気し、瞳はきらきらと輝いている。
明らかに喜んでいるのに、渋い顔のハオリュウの手前、気持ちを抑えようとしているらしい。けれど、次第に頬が緩んできているので、まったく意味がない。
ハオリュウは、追い打ちをかけるように、沈痛な面持ちを作って続けた。
「しかも、姉様も、その気なんです」
「あら、まぁ……、そうなの?」
ミンウェイの声が上ずっている。
やはりこれは、彼女のお好みの話題だったらしい。ハオリュウは内心でほくそ笑んだ。だが表向きは生真面目な顔のままだ。
「……ミンウェイさん、喜んでいますね。僕としては頭の痛い問題なんですよ」
「あ、いえ……。……ごめんなさい。あなたの立場からすれば飛んでもないことかもしれないけれど、ルイフォンは弟みたいなものだから、やはり純粋に嬉しいわ」
ハオリュウにたしなめられて、年上の美女がしょんぼりする姿は新鮮だった。
少々やりすぎだったかもしれないと反省する彼に、「それで……?」という彼女の遠慮がちの目線が向けられる。切れ長の瞳は、これ以上この話を続けていいものか打診しつつ、その奥にある好奇心を隠しきれていなかった。
「『家事もできない姉様が、いきなり平民の生活なんて無理。実家で特訓したら、祝福して送り出してあげる』と言いました」
ハオリュウは、にっこりと笑う。
「……え?」
にわかには信じられないと、ミンウェイはしばらく表情を止め、やがて緩やかに満面の笑顔を咲かす。軽く開いた口元には、指先が添えられ、その隙間から呟くような声が漏れた。
「あなたは猛反対すると思っていたわ……」
予想通りの反応に、ハオリュウはくすりと笑う。鉄壁の美女のように見えて、実のところミンウェイは素直で純粋だ。そんなことが徐々に分かってくるのも、なんだか嬉しい。
「賛成か、反対かなら、勿論、反対ですよ。身分や立場の問題だけじゃない。出会ったばかりの人間に一生を託す気になるなんて、どうかしている。――けど、姉様自身が彼を選んだんです。そしたら、仕方ないじゃないですか」
ハオリュウはそこで真顔になった。今度は演技ではない、真実の顔だった。
「……祝福しますよ。――ルイフォンは、いい奴です」
「ハオリュウ……」
瞳を潤ませ、「ありがとう」と言ってくるミンウェイに、ハオリュウは困惑する。彼女に礼を言われる筋合いはない。彼は異母姉のために決断しただけだ。
「それに、ルイフォンが少しでも姉様を泣かせるようなら、すぐにでも僕が迎えに行くまでです」
「そんなこと言って、本当にそうなるなんて思っていないのでしょう?」
ミンウェイがくすりと笑う。どうやら、彼女も彼のことを、だいぶ理解したようだった。
――今はまだ眠っている父、コウレン。
目を覚ましたら、速やかに実家に連れて行くつもりではあるが、あのルイフォンのことだ。挨拶をしたい、とか言い出すだろう。
精神状態が不安定というのが気になるが、驚いたとしても反対することはないだろう。何しろ、平民の母を強引に妻に迎えた男なのだ。
「父様。皆、待っています。早く目を覚ましてください」
ハオリュウの呟きは、白い陽射しと共にコウレンへと注がれていった。
1.真白き夜明け-3
明るい陽射しが、執務室を包み込む。薄く窓硝子が開けられていても、室内はほんのりと暖かかった。
昨日は、やや風が強かったからだろうか。窓から覗く桜の枝は、だいぶ華やぎを失ってしまっている。止まっている雀が、どことなく寂しげに見えた。
そんな中、執務机の奥で頬杖をつく、鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオ。
そして、その前に立つ、青年になりかけの少年、ルイフォン――。
ルイフォンは軽く顎を上げ、いつもの猫背を伸ばし、イーレオと向き合っていた。
髪は綺麗に梳いて編み直し、毛先は真新しい青い飾り紐で留められている。その中央には、言わずもがなの金の鈴。上衣は、この国の人間が改まったときにしばしば着用する襟の高いそれであり、しかも首元のボタンは一番上まできちんと留めてあった。
イーレオは息子の服装には何も触れず、ただ、その傍らのメイシアに、にやりとする。昨日までの彼女なら、彼の横に二歩、後ろに一歩ほど離れたところに立っていたはずなのだ。それが、今は真横に寄り添っていた。
「藤咲家当主、藤咲コウレン氏の救出作戦については、夜中に提出した報告書に書いた通りだ」
ルイフォンがテノールを響かせた。
まだ朝の早い時間帯のためか、いつもイーレオの後ろに控えているチャオラウはいない。部下たちに朝稽古をつけているらしい。昨日の夜は遅くまで執務室で待機していたはずなのに、ご苦労なことである。
同じく総帥の補佐として執務室にいることの多いミンウェイは、先に寄ったコウレンの部屋に医者として控えていた。コウレンはまだ目を覚ましておらず、緊張して部屋を訪れたルイフォンは肩透かしを食らったのだった。
その代わりに、というわけではないが、何故か背後にある応接用のソファーで、シャオリエがくつろいでいる。部屋に入った瞬間から、ルイフォンは気になって仕方がなかったのであるが、「ひよっ子は、他人を詮索するより先に、自分の仕事をしなさい」と言われてしまった。
イーレオが、報告書を指しながら尋ねた。
「これに書いてあることに相違ないな?」
「ああ」
「ご苦労」
そう言って、イーレオは眼鏡の奥の目を細め、魅惑的な笑みを漏らす。
「こちらも首尾は上々。お前の計画通りだ。エルファンの部隊に被害はないし、経済制裁の件はシュアンがよくやってくれた。斑目は近く、組織を大幅に縮小せざるを得なくなるだろう」
「そうか。よかった」
失敗するとは微塵にも思っていなかったが、やはりほっとする。安堵の息をついたあと、ルイフォンは、にっと口角を上げた。
「まだ、親父を狙っている〈蝿〉や、俺に何か伝えたかったらしいホンシュアの――〈七つの大罪〉絡みの問題が残っているけど、藤咲家に関しては、これで一件落着だな」
ようやく、メイシアの今後についての話を切り出せる。本当は、彼女の父コウレンの許可を得てから、イーレオに持っていきたかったのであるが、眠っていたので仕方ない。
ルイフォンは、猫のような目を好戦的に光らせた。そして勢いのままに口を開こうとしたとき、イーレオの苦い顔に気づいた。
「親父? 何か、あったのか?」
「捕虜の件でな。あとで皆を集めてミンウェイに話してもらう」
その口調から、悪い報告だとルイフォンは察した。
出鼻をくじかれた形になったが――しかし、今ここで言うべきことは言っておかねば、と彼は腹をくくった。
「……親父、大事な話がある」
「なんだ?」
イーレオはルイフォンに目線をやった。その瞳は鋭く、冷たく、すべてを見抜くようで――実際、イーレオには、おおよその話の方向性は理解できていた。
シャオリエが、にやりと笑いながら足を組み替え、体の位置をルイフォンの姿がよく見える向きに変える。その気配を感じながら、ルイフォンは口を開いた。
「メイシアが鷹刀の助けを得るために、親父と『取り引き』したのは承知している」
承知しているも何も、彼の目の前で『取り引き』が成立したのだ。
「とりあえず、親父の愛人に。やがては娼婦になる、という約束だった」
「そうだな」
「その件、反故にして欲しい。――俺の交渉材料は、ふたつある」
ルイフォンから、彼特有の豊かな表情がすっと消え去った。彼が〈猫〉として真剣に仕事をするときの顔。端正だが無機質で、目だけが異様に鋭い――。
「言ってみろ」
イーレオは顎を載せていた掌から、顔を上げた。ゆっくりと背を起こし、軽く両腕を組んで睥睨する。それだけで、室温が一気に下がった。
「ふたつとも、俺が一族に貢献した案件だ。その報奨として、『取り引き』の反故を要求する」
「ほほう」
「ひとつ目は、藤咲メイシアの父、藤咲コウレン氏を斑目から救出した件。これは彼女との『取り引き』内容そのものだから、俺がやらなければ鷹刀の誰かがやることになったはずだ。――俺はこれを、綿密な事前調査や警備システムの無効化など、俺でなければ不可能な手段を用い、被害ゼロで成功させた」
「ふむ」
イーレオが相槌を打つ。その腹の内は読むことができない。
「ふたつ目は、斑目への経済制裁を提案し、それを実行するための情報を集め、敵対組織を壊滅状態へ追い込んだ件。これは、まだ誰もやったことのない手柄のはずだ。しかも、こちらも鷹刀はまったくのノーダメージだ」
「そうだな。お前は実によくやった」
深々と頷くイーレオに、ルイフォンは一歩前に勇み出た。
「なら、いいよな? メイシアの『取り引き』は反故だ」
彼女を手に入れるために、最高の策を練り、最強の手札を用意した。
総帥としてのイーレオの面目を潰すことなく、親子としての情に頼ることなく、誰もが納得するような、交渉材料だ。獲物を捕らえた猫の目が、口よりも明確に笑う。
しかし――。
「いや、却下だ」
短く発せられた低音が、無慈悲に響いた。
「な……っ!?」
「確かに、お前の働きは素晴らしい。本来なら、なんでも望みを叶えてやるべきだろう。――だが、あの『取り引き』は別だ。あれを反故にできる功績など、存在しない」
落ち着いたイーレオの眼差しが、ゆっくりとルイフォンの顔をなぞる。ややほころんだ口元が、ルイフォンには嘲笑に思えた。
ルイフォンは、つかつかと前に歩み出て、執務机を思い切り殴りつけた。
「ふざけんなっ! 何が不満だって言うんだ!?」
机に載せられていた報告書が、振動で跳ね上がる。それはルイフォンの努力の結晶だった。
しかし、目の前で拳を打ち付けられても、イーレオは微動だにしない。
「お前は、あの『取り引き』の本質が分かっていないな」
イーレオの高圧的な物言いに、ルイフォンは逆上しそうになり、すんでのところで思い留まる。
これは、交渉だ。喧嘩ではない。
冷静になれ、と自分に言い聞かせ、彼は呼吸を整えた。背後ではメイシアが心配そうに見ている。負けるわけにはいかない。
「『取り引き』の本質とは、どういうことだ?」
ルイフォンは問い返す。
「お前は、あの『取り引き』の内容をちゃんと覚えているか?」
「内容って……? 鷹刀がメイシアの父と異母弟を救出する代わりに、メイシアが親父の愛人になったのち、娼婦として働く、だろ?」
ルイフォンの答えに、イーレオは盛大な溜め息をついた。そして、目線を後ろのメイシアにやる。
「メイシア、お前が俺に提案した『対価』を言ってみろ」
「え……?」
突然話を振られ、メイシアは戸惑った。だがしかし、ルイフォンの助けになるよう、できるだけ正確に思い出す。
「私は、イーレオ様に忠誠を誓いました。ただ身を差し出すのではなく、イーレオ様のお役に立ってみせますから、と」
「そうだ」
イーレオが満足そうに笑う。
「お前は半ば、俺の言質を取るようにして、自分に価値があると言い張った。そして、そんな自分を欲しくはないか、と自分を売り込んだんだよ」
「あ……」
強引なやり口だったと思い出し、メイシアは真っ赤になった顔を両手で隠した。
「俺は、そんなお前に魅了された。だから、お前の『取り引き』に応じた。俺は別に、愛人や娼婦が欲しかったわけではない。『お前』が欲しかったんだ。――言ったろ? 俺は、世界で一番、価値があるものは『人』だと思っている、と」
イーレオはルイフォンに視線を戻す。
「あの『取り引き』は、メイシアを鷹刀に縛るためのものだ。俺はメイシアを失いたくない。――だから『取り引き』は反故にはできない」
「親父……」
ルイフォンは絶句した。
用意した交渉材料は完璧だった。それはイーレオも認めている。けれど、交渉は失敗だ。彼女の価値は、他の何ものにも代えられない。どんな功績も、彼女の価値には敵わない。そんなことは、ルイフォンが一番よく知っている。
「あ、あの、イーレオ様」
メイシアが、おずおずと前に出た。
彼女はルイフォンに「すべて任せろ」と言われていた。ただ、一緒についてきて、そばに居てくれればいいと。けれど彼女は、じっとしていられなかった。
膝をつき、頭を垂れる。いまだ偽警察隊員の殺戮のあとが残る絨毯の上を、長い黒髪が恐れることなく、さらさらと流れていった。
「イーレオ様。私はイーレオ様を尊敬しております。私の忠誠は『取り引き』とは関係なく、イーレオ様にあります。だから、ルイフォンの功績で『取り引き』を反故にしてください。そうでないと、私……私は、ルイフォンと……」
「メイシア、ストップ」
シャオリエの声が鋭く割り込んだ。
「いい女は、男の顔を立ててあげなくちゃね?」
アーモンド型の瞳の片方をつぶって、シャオリエは意味ありげに微笑んだ。メイシアは顔を上げ、きょとんとする。
「……そういうことかよ」
ルイフォンは、溜め息をついた。やっとイーレオの意図が読めた。
彼は癖のある前髪を、くしゃりと掻き上げた。せっかく綺麗に整えた髪が、いつものように雑に流される。彼はそのままメイシアのもとに寄り、ひざまずいたままの彼女をふわりと抱き上げた。
「きゃっ」という可愛らしい悲鳴。それを無視して、彼女を抱いたまま、彼はイーレオに向き直る。
「総帥。俺はメイシアを伴侶とし、一族に加えます。あなたは、彼女を失うことはありません。だから、あの『取り引き』は反故に――」
ルイフォンの言葉に、イーレオが満足そうに頷いた。しかし途中で、ルイフォンの瞳が急に鋭くなる。
「――と、いうシナリオにしたかったんだな?」
ルイフォンの尖った声が、イーレオに突き刺さった。
「なんだ、気に入らないのか? 俺もお前も満足の、名案だろう?」
「どこが名案だ!?」
腕の中のメイシアをぐっと胸に押し付け、ルイフォンは言い放つ。
「親父。俺は、こいつには自由であってほしいと思っている。鷹刀も藤咲も関係なく、どちらに属するということもなく、だ」
「ふむ」
「俺はこいつに、鷹刀を抜けると言った。だから、俺のところに来い、とな。そもそも俺は――〈猫〉は、鷹刀の協力者であって、厳密には一族じゃない」
彼は視線でイーレオを斬りつけた。
「平行線だな」
低い声でイーレオが呟く。
ルイフォンはくっと顎を上げ、不敵に笑った。それから、腕の中のメイシアの顔を覗き込み、心配するなと目だけで囁いた。
「構わねぇよ。だったら奪い取るまでだ」
ルイフォンはメイシアを抱いたまま、踵を返す。背中で金色の鈴が揺れた。
「鷹刀イーレオ、〈猫〉は斑目を壊滅状態に陥らせた。同じことを鷹刀にもできる」
背中越しに、ルイフォンは静かに言った。大華王国一の凶賊の総帥に、対等な立場で言葉を発していた。
――イーレオは、声に出さないよう、喉の奥で低く笑う。
この息子は、簡単には掌で踊ってくれないらしい。昔からひと筋縄でいかない餓鬼だったが、実に面白い男に育った……。
人を魅了する人間。予想外の言動で興奮させてくれる人間が、イーレオは愛しくてたまらない。
「脅迫か?」
努めて低く冷酷な声で、イーレオは尋ねた。
「交渉だ」
ルイフォンが短く切り返す。
「条件は?」
「あの『取り引き』を反故にしろ。その代わり、俺もメイシアも鷹刀に何かあれば協力する。これで譲歩できないのなら、俺はこのままメイシアをさらい、結果として鷹刀は俺もメイシアも失う」
これでイーレオは応じざるをえないはずだが、ルイフォンは駄目押しのひとことを加えた。
「一時間後に〈ベロ〉の電源が自動的に落ちるようにセットしてある」
高度な人工知能が入っていようと、電力供給が止まればコンピュータなどただの筐だ。〈ベロ〉を使っているのは主にルイフォンだと思われがちだが、風呂場の湯の温度だって〈ベロ〉の管理下にある。止まれば被害は甚大だ。
「……それは脅迫だろう」
イーレオが苦笑した。そして頼もしく育った息子の背中に目を細めながら、続ける。
「分かった。ただし、こちらからも条件がある」
「なんだ?」
「鷹刀に何かがあったとき、メイシアが協力するというのは、彼女が自由な身であって初めて可能なことだ。だが、『取り引き』が反故になれば、メイシアは貴族の令嬢に戻る。果たして藤咲家は、お前たちの仲を認め、彼女に自由を与えてくれるかな?」
その質問に、ルイフォンの腕の中のメイシアが、彼の胸を軽く叩いた。彼は頷き、そっと彼女を床に下ろす。
「ハオリュウは認めてくれました。両親にはまだ話していませんが、きっと分かってくれると思います」
メイシアの凛とした声が響く。
「では、こうしよう。藤咲家がお前たちの仲を認めたら、あの『取り引き』は反故だ」
椅子に背を預け、イーレオは腕を組む。
「分かった。……親父、ありがとう」
ルイフォンは頭を下げた。メイシアを手に入れるのは当然の権利と思っていたが、それでも自然に頭が下がった。
彼の隣でメイシアも頭を下げる。窓から差し込む白い光が、彼女の黒髪に祝福のベールを投げかけていた。
そのとき、執務室の内線が鳴り、ミンウェイからコウレンが目覚めたとの連絡が入った――。
2.ひずんだ音色-1
「お父様……!」
扉を叩くことすらも忘れ、メイシアは客間に飛び込んだ。肩で息をしながら、黒曜石の瞳が白いベッドを求める。
「あぁ……」
彼女の口から、かすれた声が漏れた。
父だ……。
半身を起こした姿で、目を丸くして彼女を見つめている。その目は落ち窪み、白髪も増えていたけれど、確かに父、コウレンだった。
「メイシア、か……」
呟くような声が聞こえると同時に、メイシアは父のもとへと駆け寄った。
「お父様、よかっ……」
あふれてきた涙を拭うよりも先に、彼女は崩れ落ちた。間近で見ると、父の老け込みようがよりはっきりと分かる。締め付けられるように心が痛んだが、それでも無事であることが、何よりも彼女は嬉しかった。
暖かな光が満ちる。レースのカーテンが程よく陽射しを透かし、柔らかな空間を作り出す。くつろぎと癒やしを誘うベッドは輝くように白く、鼻先のシーツからは優しい石鹸と太陽の香りが漂っていた。
「姉様、落ち着いて」
ハオリュウがメイシアの手を引き、椅子に座らせた。ずっと父のそばについていてくれた異母弟は、だいぶ疲れた顔をしていたが、とてもにこやかに笑っていた。
父がいて、異母弟がいる。数日前には当たり前だった光景が、メイシアの胸を震わせる。
「ほら、姉様」と、ハオリュウが金刺繍のハンカチを差し出した。彼女はそれを受け取り、はっと気づく。
異母弟の向こうには、医師として客間に控えていたミンウェイの姿があり、背後を振り返れば、連絡を受けたときに一緒に執務室にいたルイフォン、イーレオ、そしてシャオリエまでもが、優しい目をして彼女を見守っていた。
「……っ! お見苦しいところを……。失礼いたしました」
はしたなくも取り乱してしまったと、メイシアは赤い顔でぱっと立ち上がり、頭を下げた。
「いいじゃないか。お前は本当に親父さんのことを心配していたんだから」
笑いながら、ルイフォンが特徴的な猫背の姿勢でゆっくりと近づいてくる。せっかくの一張羅も既に着崩れしていて、どことなく様にならない。
けれど、彼の姿を見た途端、メイシアは急に子供みたいに声を上げて泣きじゃくりたい衝動にかられた。
「ルイ、フォン……。本当に……ありがっ、とぅ……」
「俺は、俺のしたいことをしたまでだ」
そう言って、ルイフォンがメイシアの髪をくしゃりと撫でようとした。――が、それはハオリュウの小さな咳払いによって阻止された。
「父様。こちらのルイフォン氏が、父様を斑目一族の別荘から救い出してくださったんです。覚えてらっしゃいますか?」
「……そういえば――」
コウレンが、はっと顔色を変える。――緊張を帯びた表情に。
気絶させたのち、薬まで使って連れてきたのだから仕方ない。ルイフォンは、ばつの悪い思いをしながら、できるだけ礼儀正しく頭を下げた。
「斑目の別荘でお会いしていますが、改めまして。鷹刀一族総帥が末子、鷹刀ルイフォンです。こちらにお連れする際には、手荒な真似をすみませんでした」
「ああ、いや……、構わぬ」
コウレンが、ベッドからルイフォンを見上げる。その瞳には警戒が見て取れた。
すぐにもメイシアとの話を切り出したいルイフォンだったが、今はその機ではないと判断せざるを得なかった。焦りは禁物だと、自分を戒める。
ハオリュウが立ち上がり、背後に向かって「ご足労、痛み入ります」と会釈をした。
「後ろにいらっしゃる方が鷹刀一族総帥の鷹刀イーレオ氏です。さっき説明した通り、僕たちは鷹刀一族の方々に大変お世話になったんです」
「そうか……」
口の中で、もごもごとコウレンは小さく言った。
良心的に解釈すれば、凶賊を相手に距離を掴めずにいる、あるいは言葉を選びあぐねている、といったところだろうか。それでいて目はそらすことなく、むしろ熱心に様子を窺っている感がある。
メイシアの父親を悪く思いたくはないが、ルイフォンは正直、よい気持ちはしなかった。だがコウレンの態度は、ルイフォン以上に、息子のハオリュウを苛立たせた。
「父様。こちらの状況をご存じなかった父様には、にわかにはご理解いただけないかもしれませんが、我が藤咲家は鷹刀一族に多大なる恩義があるんです。ひとこと、お礼申し上げてください」
ハオリュウの目が険を帯びる。しかしコウレンは意に介したふうもなく、背中に当てた柔らかな枕に寄りかかったまま、顔だけをイーレオに向けた。
「これは失礼した。当家のために尽力、ご苦労であった」
しゃがれたコウレンの声が、場の空気にひびを入れていく――。
受け答えとして一見、自然にも聞こえる言葉は、けれど明らかに鷹刀一族を『下』に見たものだった。
「お父様!?」
「父様!?」
メイシアとハオリュウの姉弟が、同時に父に目を向けた。それから互いに顔を見合わせ、父に対しての困惑を共有する。
「……父様、僕たちは鷹刀の方々を雇ったわけではないんです」
どうして、この父はこうも状況判断ができないのか。相手は器の大きなイーレオだから険悪にはならないだろうが、藤咲家として恥ずかしい。
腹立たしさに、ハオリュウは舌打ちしたくなる。
「勿論、藤咲家として謝礼は充分にするつもりですが、今回のことは鷹刀一族のご厚意に依るところが大きくて……」
「ルイフォンに謝ってください!」
メイシアの叫びが、異母弟を遮った。
「彼は、私のためにお父様を助けに行ってくれたんです! 危険を承知で、無茶ばかりして……!」
彼女は拳を握りしめ、訴える。
コウレンの言葉と目線は、ルイフォンの心を踏みにじった。たとえ大切な父でも、許せないと思った。
けれど、それは父が事情を知らないからで……。たまらなく嫌で、苦しくて切ない気持ちがメイシアの心を占めていく。
彼女は、すっと立ち上がり、凛とした目を父に向けた。
「私の大切な人なの。彼をそんな目で見ないでください……!」
祈るような透き通った声。メイシアの目尻から、涙の雫が滑り落ちた。コウレンは口を半ば開いたままで、言葉はない。
震える彼女の肩を、ルイフォンがそっと抱いた。心配するなと髪に触れ、彼はきっ、と口元を結ぶ。彼女よりも一歩前に出て、彼はコウレンに膝を折る。編まれた髪が背中を転がり、垂れ下がった。
「眠らされたまま鷹刀の屋敷に連れてこられて、いきなりいろいろ言われて混乱してらっしゃると思う。けど、ともかく、まずは安心してください。鷹刀は、主従関係ではなく信頼関係で藤咲家と結ばれている」
低いところから、ルイフォンがコウレンを見上げる。
足元に近い位置で金の鈴が揺れるのを見て、ハオリュウは焦った。明らかに非は父にある。なのに、ルイフォンがひざまずくのは道理が合わない。
「立ってください! あなたは雇われているわけじゃない。自分でそう言っているじゃないか!」
「ハオリュウ、間違えんな。一族を背負った親父が膝をついたら駄目だけど、俺がやるのは別だ。俺は鷹刀と藤咲家の友好関係を示したい」
ルイフォンが不敵に笑う。隣で不安がっているメイシアに、任せろと目で伝える。
「藤咲さん――いや、メイシアの親父さん。俺はメイシアとハオリュウのために、あなたを助けたいと思った。ハオリュウは金を払うと言っていたが、そのへんはうやむやのまま、ほぼ俺の独断で強行した。急がないと、あなたの命が危ないと思ったからだ」
「そうなのか……?」
相変わらずコウレンの返答は、ぼんやりとしていて芳しくない。けれど、周りを見る目が落ち着いてきた。あとひと息と、ルイフォンは声に力を込める。
「だから、鷹刀はあなたの部下ではない。鷹刀の名誉のために、そこだけは、きちんと理解していただきたい」
「……分かった」
ぼそぼそとした返事だったが、とりあえずは納得したようだった。
メイシアがほっと息をつく。ハオリュウが早く立て、と言わんばかりの視線をルイフォンに送っていた。
ルイフォンが立ち上がるのを測ったかのように、イーレオがベッドサイドに現れた。背の中ほどで結わえた黒髪をさらりと揺らし、彼は優雅に一礼する。
「はじめまして。不躾に失礼。鷹刀イーレオです」
低く魅惑的な声を響かせ、イーレオが右手を差し出した。その手をコウレンがおずおずと握る。
「こちらこそ、世話になったようで……」
ぎこちない挨拶を交わすコウレンに、ハオリュウは苛立ちを覚える。思わず何かを口走りそうになったとき、草の香が横切り、彼を押しとどめた。
「すみません、総帥。ご挨拶だけにしておきましょう」
ミンウェイだった。
「先ほどの診察で、健康状態に問題はなかったのですが、心労が溜まってらっしゃるようです。あとはお身内の方だけにして、我々は下がりましょう」
イーレオは、ちらりとハオリュウを見やる。それで納得したようだった。
「ミンウェイ、お前の言う通りだな。――藤咲さん、それでは我々はこれで。ゆっくり体を休めてください」
その言葉を合図に、鷹刀一族の面々――ルイフォン、イーレオ、ミンウェイ、シャオリエが踵を返す。だが次の瞬間、意外なことが起きた。
「ま、待ってくれ!」
コウレンが叫んだ。皆、驚きの目で彼に注目する。
「その少年が娘の『大切な人』というのは……?」
隈の多いコウレンの瞳が、ルイフォンを見つめている。
不意を衝かれ、ルイフォンは彼らしくもなく心臓が飛び上がらせた。先送りにせざるを得ないと諦めていた話題が、思わぬ方向から返ってきたのだから当然だろう。
だが、次の瞬間には頭を切り替える。折角のチャンスだ。今はまだ、込み入った話は避けたほうがよさそうだが、メイシアとの仲はきちんと言っておきたい。
「『恋人』という意味です」
扉に向かって歩きかけていたルイフォンは、ベッドのそばに寄り、コウレンの顔をまっすぐに捕らえた。
「この事件を通して、俺はメイシアと出逢いました。ごく短い間でしたが、俺は彼女に惹かれ、想いを告げました。――そして、彼女は俺に応えてくれました」
できるだけ柔らかい表現で言ったつもりだった。しかし、ルイフォンの目線の先で、コウレンは徐々にその顔色を黒く染めていく。ルイフォンの背を冷や汗が流れた。
「……認められるわけないだろう! 貴族と凶賊だぞ……」
コウレンが唇をわななかせる。メイシアが「お父様!?」と、血相を変えた。彼女は、まさか父から否定的な言葉が出るとは思わなかったのだ。
「お父様、ルイフォンは『暁の恋人』なの。お父様が昔、私におっしゃった『目覚めた瞬間に、瞳に映したい人』……」
青ざめるメイシアを、コウレンはただ濁った目で見つめていた。口元に手を当て、彼女は短く息を吸う。信じられない、と震える指先が言っていた。
メイシアの言葉に、ルイフォンは聞き覚えがあった。コウレンを救出する際に預かった伝言だ。
――『暁の光の中で、朝の挨拶を交わしたい人と出逢いました』
彼女が幼いころ、コウレンが言った言葉だという。父娘の間だけで通じる暗号のようなものだろう。
平民の女を妻に迎えた貴族の男の言葉なら、どんな意味合いを持つのかは想像できる。身分違いの相手でも、娘の気持ちは尊重する、味方になってあげる。――コウレンはそう約束したはずなのだ。彼女らしくもなくメイシアが感情的なのは、この絶対の言葉があったからだ。
メイシアが特別な言葉で呼んでくれるのなら、ルイフォンだって黙っているわけにはいかない。彼はすっと息を吐き、心を決めた。
「本当は、気取った言葉のほうが、こういうときにふさわしいのかもしれない。けど俺は、俺らしくありたいから、単刀直入に言わせてください」
隣に立つメイシアの体が、びくりと震える。
「確かに俺たちは生きる世界が違う。それでも一緒に居たいから、俺は鷹刀を抜けます。だから――」
彼はそこで、いったん言葉を止め、鋭いけれども優しさを忘れない、澄んだ眼差しをコウレンに向けた。
「彼女と俺が、共に在ることを認めてください」
部屋を覆う光が、すべての音を飲み込んだようだった。時すらも吸い込まれたかのように、あらゆるものの動きが止まる――。
……やがて「メイシア」と、しゃがれたコウレンの声が、彼女を呼んだ。
「そんなにその男がいいのか?」
「は、はい!」
メイシアが弾かれたように答える。
「……なら、藤咲家としても考えがある」
そう言って、コウレンはイーレオを見た。
「鷹刀イーレオさん、あなたとふたりきりで話をしたい。あなた方の流儀は知らないが、貴族なら、これは家同士の問題ですからね」
突然、話を振られたイーレオは困惑に眉を寄せた。だが、魅惑的な微笑を浮かべ「分かりました」と答える。
妙な具合いの急展開だが、コウレンが歩み寄ってくれるのは誰もが望むところだった。イーレオを残し、他の皆はそろそろと退室しようとした。
――しかし。
コウレンが再び口を開いた。
「すみませんが、話し合いは『今ここで』ではありません。万が一、口論にでもなったら、この屋敷では私の身が危うい。後日、こちらの指定する場所に来ていただきたい」
室内に動揺が走った。
コウレンの言っていることは、決して不当ではない。けれど、どこか奇妙だった。皆が顔を見合わせ、やがてその視線がイーレオに集まる。
イーレオに迷いはなかった。了承を示そうと、口を開きかける。その動きを、嫋やかな女の声が遮った。
「駄目よ、イーレオ」
一歩離れたところから、傍観者のように見ていたシャオリエだった。
にこやかに微笑んでいるようでいて、アーモンド型の瞳は冷ややかで……。その場にいた者は皆、心にざわめきを覚える。彼女と初対面のハオリュウなどは、見知らぬ部下が後ろに控えているだけと思っていたのだが、この一瞬だけで彼女の只者ならぬ様子を察した。
「はじめまして、藤咲さん。私はシャオリエと申す者で、街で店を経営しておりますの」
普段のシャオリエを知る者ならば、優しげな声が、言葉遣いが、獲物を誘う甘い香りだと気づいただろう。
皆の当惑と疑惑の視線を浴びながら、シャオリエは緩やかに歩を進めた。
「うちの店は貴族のお客様もご贔屓にしてくださっていてね、厳月家の坊ちゃまもよく来てくださるのよ」
厳月家、とシャオリエが口にした瞬間、コウレンの顔が強張った。その変化を、シャオリエは、しかと捕らえていた。
「三番目の坊ちゃまなんですけどね、昨日の晩も来てくださいましたの」
コウレンは声もなく、シャオリエの顔を見つめている。その様子を楽しみ、真綿で首を絞めるように、彼女はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「彼、近々ご婚約なさるんですって」
コウレンは反射的に後ずさった。しかし、彼の背は柔らかな枕に抑えられていた。
不意に、シャオリエはベッドのそばにいるメイシアに視線を移す。アーモンド型の瞳が薄く瞬き、メイシアに何かを訴える。
メイシアは肌にぴりりとした緊張を覚えた。そのシャオリエの顔には見覚えがあった。店で初めて会ったとき、メイシアに情報を与え、どう組み立てるかと尋ねたときの顔だった。
神経を研ぎ澄まし、メイシアはシャオリエの次の言葉を待った。
「厳月家の坊っちゃまのお相手は、藤咲家のご息女、メイシア嬢だそうよ」
――言葉の一石が、静かに落とされた。
それは波紋を描きながら部屋中に広がっていき、空気を揺らしながら、皆の顔に明暗を作り出す。
「シャオリエ、それは親父さんが囚われて、立ち消えた話だろう?」
何故、場を混乱させるようなことを言うのだ、とばかりに、ルイフォンが苛立ちの声を上げた。
「待って、ルイフォン。『昨日の晩』って……」
混乱する頭を、メイシアは必死に働かせる。
シャオリエは、彼女の知っている事実しか言わない人だ。少なくとも前に話したときは、確かな情報だけで問いかけ、メイシアに判断を委ねた。
勿論、厳月家の三男が古い情報に踊らされているだけかもしれない。けれど、ずっと感じている父への違和感がメイシアに口を開かせた。
「お父様……、何かご存知なのではないですか? 斑目の別荘で何があったのでしょうか……?」
2.ひずんだ音色-2
料理長ご自慢の朝食が温かな湯気を上げる。テーブルの上には鶏の粥を中心に、あっさりとした品々が並んでおり、疲労と寝不足の面々への配慮が感じられた。
ルイフォンは粥を口に運びつつ、眉を寄せる。右隣には匙を握ったままうつむくメイシア。その先には黙々と口を動かすハオリュウがいた。
「メイシア、今はしっかりと食事を摂りましょう?」
向かい側から、ミンウェイの気遣いが聞こえてくる。
結局、コウレンは何も知らないと突っぱね、疲れたと言って、皆を部屋から追い出した。なんとも腑に落ちないことだったが、仕方がない。そのまま、彼らは遅い朝食を摂るべく、揃って食堂に来たのであった。
どの皿も美味しいはずなのに、味がしない。ルイフォンは溜め息をつく。そんな彼を、メイシアとは反対側、左隣にいるシャオリエが鼻で笑った。
「……なんだよ」
「私が口を挟んだから、変な雲行きになったと思っているのかしら?」
「……別に」
コウレンの態度は明らかにおかしかった。シャオリエが出てこなくても、この重い空気は変わらなかっただろう。
「それより、シャオリエ。メイシアが厳月家の三男と婚約って、破談になったんじゃないのか?」
「少なくとも厳月家では健在のようよ? 昨晩、わざわざスーリンが三男を呼び出して、直接聞いたんだもの」
「スーリンさんが……」
メイシアが呟いた。くるくる巻き毛のポニーテールが可愛らしい少女娼婦は、彼女が密かに嫉妬していた相手である。
「そう言えば、スーリンが呼んだタクシーのせいで、お前たちは危険な目に遭ったんだって? あの子、真っ青になっていたわ。詫びのつもりだったのかしら?」
「いや、あれはスーリンのせいじゃないだろう」
「そうね、あの子の身元は私が保証するわ」
シャオリエとルイフォンのやり取りを聞きながら、メイシアはじっと考えていた。
スーリンは、きっとメイシアを快く思っていないだろう。なのに、協力してくれた。申し訳ない気持ちでいっぱいで、いずれきちんと話をしたいと思う。けれど今は、厳月家の情報をタイミングよく掴んでくれた彼女に感謝して、有効に活用しなければならない――。
「……父は、斑目や厳月に脅されているのでしょうか?」
ぽつりと、メイシアが呟いた。今までの父の言動を考えると、そうとしか思えなかった。
「何も知らない、ということはないでしょうね」
含みのある、シャオリエの目線が返ってくる。メイシアはやはり、と思った。
「あのとき、シャオリエさんは気づかれていたのでしょう? ――父がイーレオ様に『指定する場所に来て欲しい』と言ったことは、イーレオ様を捕まえるための罠だ、って」
「ええ」
シャオリエは、こともなげに肯定した。だが、他の者たちは色めき立つ。
「姉様、どういうことですか!?」
ハオリュウが代表するかのように、口火を切った。
「お父様は無闇に人を疑う方ではないわ。だから、『この屋敷でイーレオ様とふたりきりは、身が危うい』とおっしゃること自体、不自然だわ。もしも、本当にそう思ってらっしゃったとしても、藤咲の家にお招きすればよいことでしょう?」
本当に家同士の問題と考え、娘のことを考えるのなら、もっと歩み寄るはずなのだ。少なくとも彼女の父は、そういう人物だ。
「イーレオ様の身柄は、斑目と〈蝿〉に狙われている。――ルイフォンたちが別荘から父を救出するとき、〈蝿〉が邪魔をしなかったのは、貴族に興味がないからではなくて、父を使ってイーレオ様を捕らえようとしていたからじゃないかしら?」
「〈蝿〉?」
「昔の因縁で、イーレオ様を狙っている人なの」
〈蝿〉を知らないハオリュウの疑問に、メイシアは簡潔に答えた。
「家同士の問題だから来い、と言われれば、親父も断れない――か」
ルイフォンは舌打ちをした。自分たちの想いを利用しようとする策に腹が立つ。
〈蝿〉には、ルイフォンとメイシアの仲が、実のところどうなったかなど知り得ない。だから、イーレオを誘い出す口実は複数、用意されていたことだろう。謝礼の宴でも、なんでもよかったのだ。
その中でふたりの想いを利用する案は、最も確実だ。別荘での『色香に堕ちたか』という〈蝿〉の揶揄は、作戦成功の可否を探ってのことだったのかもしれない。掌の上で踊らされているようで頭にくる。
眉間に皺を寄せていたルイフォンは、ふとメイシアの不安気な眼差しに気づいた。ミンウェイに促されて匙を運んでいた手も、止まってしまっている。
彼はそっと右手を伸ばし、彼女の髪をくしゃりと撫でた。
「親父さんも疲れているだろうから、ゆっくり話をしていこうな」
「は、はいっ」
メイシアの顔がぱっと華やぐ。ちょっとしたひとことに反応してくれる彼女が可愛らしい。ルイフォンは、ついつい余計な軽口を叩きたくなる。
「安心しろ。いざとなったら駆け落ちだ」
にやりと口角を上げた彼に、メイシアの視線が戸惑いに揺れる。本気ではないでしょう? と瞳が尋ねつつ、頬は赤く染まっている。
「ルイフォン! 駆け落ちは認めないからな!」
彼女の奥にいたハオリュウが、眉を吊り上げた。彼には冗談が通じないらしい。ルイフォンは苦笑して、――それから真顔になった。
「ハオリュウ。お前にはまだ直接言っていなかった。あとになって、すまない」
改まったルイフォンに、ハオリュウが怪訝な顔をした。半ば睨みつけたような目つきのまま、ルイフォンに先を促す。
「今更かもしれないが、お前の姉さんを貰いたい」
「……っ」
とっくに承知のこととはいえ、面と向かって言われるのは、また別である。ハオリュウは言葉に詰まった。そこにルイフォンが畳み掛ける。
「親父さんを助けたことを恩に着せた、そう思われても構わない。でも、俺はメイシアが欲しい」
奇策も、からめ手もなしに、まっすぐに攻める。ルイフォンは頭が回るが、ここぞというときには小細工はしない。
ハオリュウは奥歯を噛んだ。理性では納得済みの話だった。
「……僕の条件は姉様に言った通りだ。姉様がまともに家事ができるようになったら、姉様の自由にすればいい」
そう言って、ハオリュウは茶を口に運ぶ。話は終わりだ、との態度だ。
「家事くらい、なんとでも――」
「馬鹿ね、ルイフォン」
シャオリエが、ルイフォンを遮る。
「その子は、自分自身との折り合いをつける時間がほしいのよ」
「なっ!? ――僕は……っ!」
ハオリュウは口走り、慌てて咳払いをした。
「……そちらのご婦人のおっしゃる通りかもしれませんね。僕は、小さな頃から異母姉に助けられてきましたから」
シャオリエはアーモンド型の瞳を瞬かせた。ハオリュウの顔をじっと見る。
「さすがメイシアの異母弟、と言ったところかしら。これはちょっと失礼したかしらね?」
「いえ。――それに、僕が何を言ったところで藤咲家の家長は父です。当主の決定が絶対です」
ハオリュウの言葉に、皆の顔が曇る。
結局のところ、問題はコウレンなのだ。彼の不自然な態度が解決しない限り、堂々巡りになる。
「ハオリュウ」
今まで黙って食事をしていたイーレオが口を開いた。呼ばれたハオリュウは反射的に背筋が伸びる。
「なんでしょうか?」
「お前との協力関係は、お前の父を救出するまでだった。相違ないな?」
ハオリュウは、はっと息を呑んだ。父の不審な様子が頭をよぎり、不安にかられる。ここから先は鷹刀一族を頼れないのだ。双肩に重圧がのしかかる。
「――ええ。そういうお約束でした」
ハスキーボイスが答える。
「しかし、俺はメイシアとも取り引きしている。家族を救出する対価として俺に自分の身を託す、というものだ」
ハオリュウの目が険しくなった。イーレオは肩をすくめ、苦笑して続ける。
「だから、メイシアは俺のものになるはずだった。だが、ルイフォンが今回の働きの褒美として、俺とメイシアとの取り引きを反故にしろと要求してきた。――要するに、鷹刀は藤咲家と友好な関係でありたいわけだ」
イーレオが軽く首を曲げ、ハオリュウを窺う。その顔には、どことなくいたずら心が見え隠れしている。
「どうだ? もう少し、協力していかないか?」
人を惹き寄せる、イーレオの魅惑的な微笑。それにつられるように、ハオリュウの顔に明るい光が差しこむ。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
そんなやり取りを聞きながら、シャオリエは、ふぅと溜め息をついた。
鷹刀一族のことを思えば、このあたりで藤咲家とは手を切るべきだ。当主のコウレンが、〈蝿〉たちの手先になっている疑惑がある以上、藤咲家と関わってはいけない。
けれどイーレオは、メイシアのことは勿論、ハオリュウのことも気に入っている。その気持ちは、シャオリエにも分からないでもない。
「さて――。ともかく、今は皆、体を休ませろ。午後になったら招集をかける」
イーレオの鶴の一声で、この場はお開きとなった。
桜の大木が枝を伸ばし、空を抱く。昨日まで身を飾っていた花弁は、今や足元に広がる敷布に過ぎず、やけに物悲しく見える。時折、春風が訪れては、小さく舞い上がっていくのが、せめての華やぎだった。
緋扇シュアンは、そんな様子を遠目に見ながら溜め息をついた。
昨日この桜の舞台で、彼の先輩ローヤンは貴族の令嬢に銃を向けるという暴挙に出た。それは〈蝿〉なる人物が、ローヤンを別人にしてしまったからなのだが、それを証明することは難しい。故に、ローヤンは罪人となる。
――シュアンは、ローヤンを殺した。
大切な先輩が、先輩でないものになっているのに、ローヤンの姿でいることに耐えられなかった。これ以上、先輩を穢されたくなかった。
――ローヤンは、死んだ。
死んだら、それで終わりだ。だから、死んだ者の名誉を守ろうとするのは、意味のないことだ。そんなもののために奔走するなど、愚かしいことだ。
なのに、どうして自分はここに来ているのだろう。――シュアンは自嘲する。
早朝、鷹刀一族の屋敷を辞去して警察隊に戻ったシュアンは、ローヤンは指揮官の命で動いていたのだと上層部に説明した。その後、口封じに殺されたと。
だが、彼の弁は一笑に付され、ローヤンは指揮官の共犯にされた。貴族への暴挙を働いた者を『悪』としたかったのか、悪事を働いた指揮官への任命責任を少しでも軽くするために、指揮官の罪を軽くしたかったのか、そんなところだろう。
上層部がどう処理しようと、書類上の問題だ。ローヤンが死んだという現実は変わらない。だから、シュアンの採るべき行動は『上』に盾突くことではなく、失脚したあの指揮官の代わりに彼を取り立ててくれる『上』の人間を探すことのはずだ。
それなのに彼は、『上』を従わせるカードを取りに来た。上層部からすれば、権力を振りかざすだけしか脳のない、口うるさい厄介者――貴族というカードを……。
シュアンは大きな屋敷を見やった。暖かな陽射しを受ける硝子窓が、ずらりと並んでいる。その中のどの部屋に行けばよいのかなど、彼が知る由もない。
門衛に案内してもらえばよかったのかもしれないが、シュアンは蛇蝎の如く嫌われていた。警察隊突入時に、シュアンが門衛のひとりを撃ち抜こうとしていたことを、彼らは根に持っているのだ。とっくに交代しているので、今いるのは別の門衛だが、仲間への仕打ちは忘れないのだろう。総帥イーレオから通達がいっているのか、門で拳銃を取り上げられなかっただけ、ましなのかもしれない。
広い庭には、まばらに人の姿が見える。その誰もがシュアンを警戒し、あるいは嫌悪をあらわにしている。鷹刀一族における彼の立ち位置は、そんなところだ。
不用意に凶賊に近づくより、おとなしそうなメイドでも捕まえようと、彼はぶらぶらと歩き始める。途中、ぼさぼさ頭によって落ちかけた制帽を抑えた。目深にかぶっていたほうが収まりがよいのだが、彼はあえて頭頂に載せる。
シュアンの『カード』は、深夜に父親が救出されたばかりだから、まだこの屋敷にいるはずだ。実家に戻っていたら、いくら警察隊の身分証があっても貴族との面会は困難だったろう。運が良かったといえる。
「……」
シュアンは唇を噛んだ。
彼は、幼いころに家族を失った孤児だ。
恵まれた生活とは縁遠い。権力者など大嫌いだ。ぬくぬくと育った貴族の餓鬼との会話なんて、考えただけで反吐が出る。
ひとりのメイドが、シュアンの視界をよぎった。彼は彼女を呼び止め、そして尋ねる。
「藤咲ハオリュウ氏は、どこにいる?」
3.交差する符丁
ハオリュウは、与えられた客間で体を横たえていた。
ふかふかでありながらも程よくスプリングの効いたベッドは心地よく、実家のベッドと比べても遜色はない。燦々と降り注ぐ陽光は厚地のカーテンによって遮られ、昼間ながらも室内はやや薄暗くなっていた。
しかし、眠気はちっともやってこなかった。昨晩は椅子での仮眠しか取っていないのだから、疲労は溜まっているはずなのに、だ。
原因は、父への疑念。
あの父が、凶賊を相手に上手く立ち回ることなど、はなから期待していなかった。だが、何かが根本的に違うのだ。この異質な感じは、言い表すのは難しい……。
彼が、もう何度目か分からぬくらいの寝返りを打ったとき、遠慮がちなノック音が聞こえた。――と思ったら、続けて力強く扉が叩かれる。
「警察隊の緋扇シュアンだ。藤咲ハオリュウ氏に、至急お目通り願いたい」
「お、おやめください! お客様は今、お休み中です!」
男の声に、メイドらしき女性の悲鳴がかぶさった。
突然の騒音に、ハオリュウは眉を寄せた。いくら寝つけずにいたからといって、凪いだ空間に波を立てられるのは気にいらない。
扉を開けて一喝してやろうと、ベッドを降りた。が、そこで彼は冷静になった。
緋扇シュアンは、警察隊員でありながら凶賊の鷹刀一族と手を組みたいと申し出た、組織の裏切り者である。しかし警察隊の腐敗は、指揮官が斑目一族や厳月家と共謀していたことからも明らかであり、警察隊に忠誠を尽くす価値があるかは疑わしい。
一方で、シュアンと手を組んだ鷹刀一族は、ハオリュウとも友好関係にある。ハオリュウと舌戦を繰り広げたエルファンも、シュアンのことを『使える駒だ』と言っていた。となると、感情に任せて無駄にシュアンと敵対するのは得策ではない。
――そもそも、彼は何故、ハオリュウを訪ねてきたのか。
一応、面識はある。しかし、警察隊が鷹刀一族の屋敷に押しかけた際、最後の局面で一緒になり、それぞれ警察隊と藤咲家の代表として事務的に後処理をこなしただけだ。個人的な言葉を交わしたことはない。
ならば、貴族の権力が目的か――。
ハオリュウは瞬時にそこまで考え、扉の外に声を掛けた。
「すみません。少しお待ち下さい。身支度を整えます」
素早く続き部屋のバスルームに駆け込み、部屋着を脱ぎ捨ててスーツを着込む。顔を洗い、髪をとかし、鏡に映る十二歳の子供の顔を確認した。
シュアンの知るハオリュウは、歳の割にしっかりした異母姉思いの少年、といったところだろう。彼は瞳に残る不機嫌の影を消し去るべく、鏡像の自分に、にっこりと笑ってみせる。
部屋に戻り、厚いカーテンを開けた。眩しい光が、一気に注ぎ込む。
異母姉が案内された最上級の客間より、やや格落ちのこの部屋は、寝室と応接室が別になっていない。見苦しくないようにベッドを整え、ハオリュウはひと息つく。
部屋の掃除など、普段はメイド任せの作業だ。どの程度にしておけばよいのか勝手が分からない。異母姉に向かって、家事ができないと言ったことが、自分に返ってきてしまったようだ。
ハオリュウは自嘲し、それから自分の頬を、ぱんと軽く叩いた。子供らしい笑顔に戻し、扉に向かう。
「おまたせいたしました。お入りください」
高めのハスキーボイスを響かせ、ハオリュウはにこやかにシュアンを招き入れた。
ハオリュウが勧めた椅子に、シュアンは足を広げてどっかりと腰掛けた。血走った目は相変わらずだが、昨日よりも肌に色味がない。青筋の立った不健康そのものの容貌は、余裕のなさを表しているように見えた。
シュアンを案内してきたメイドが、しきりに頭を下げている。貴族のハオリュウに恐縮しているらしい。
「すみませんが、お茶を用意してくれませんか?」
彼女の心をほぐすように、ハオリュウは柔らかく頼んだ。しかし、シュアンが即座に断りを入れる。
「茶は要らん。それより、早くハオリュウ氏とふたりきりにしてくれ」
睨みつけるような三白眼に、メイドは小さな悲鳴を上げ、一礼して退室した。
「……随分とお急ぎのようですね、何があったのですか?」
随分と横暴ですね、と言いかけた言葉を引っ込め、ハオリュウはシュアンの顔を覗き込んだ。上目遣いの仕草は、非力な子供が素直な疑問を投げかけているように感じることだろう。
そんなまっすぐな視線に居心地の悪さを感じたのか、シュアンは小さく咳払いをした。
「お休み中のところ、失礼しました。快く面会を許可していただき、感謝します」
「いえ。緋扇さんにはお世話になりましたから。――それで僕になんのご用ですか? 堅苦しいのはやめて、なんでも遠慮なくおっしゃってください」
無理やり部屋に押しかけておきながら何を言う、と思いながら、ハオリュウは頼りにされたことを喜んでいるかのように目を輝かせる。
シュアンとは敵対しないと決めた以上、たいていのことなら協力してやるつもりだった。問題は、その恩を如何に高く売りつけてやるかであり、その糸口を探るためには相手の口を軽くしてやる必要があった。
「そう言ってくださると助かりますね。――いえね、あなたの権限で捕虜にした警察隊員のことで、ちょっとお願いがありましてね」
気安い口調でシュアンが話し始めた。ハオリュウは内心で我が意を得たりと思いつつ、神妙な顔を作る。
「お願い?」
「ええ。……捕虜の自白に、俺も立ち会ったんですよ」
軽快に話していたはずのシュアンの瞳に、一瞬だけ、陰りが混じる。
「ふたりの捕虜のうち、片方は正規の警察隊員でしてね……。実は、あの指揮官に脅されて、従っていただけだと分かったんです」
シュアンが眉を寄せ、渋い顔をした。声の調子を落とし、ハオリュウに言い聞かせるように言葉を続ける。
「勿論、いくら命令でも、彼があなたの大切な姉君に銃を向けたことは、弁護のしようがない。けど、あれは罠だったんです」
「罠……」
ハオリュウは全身の皮膚が粟立つのを感じた。
あのとき、一歩、間違えていれば異母姉は死んでいた。あの警察隊員の暴挙を思い出すだけで恐怖と怒りが湧いてくる。
それが、この話の流れはなんだ? 罠だと言って、あの男を弁護する気か?
不愉快だ。
ハオリュウの目が、冷ややかな光を帯びる。シュアンはそれに気づかない。
「不正の限りを尽くしていた指揮官は、人一倍、正義漢の彼が邪魔だった。だから罪を犯させ、排除しようとしたわけです。ちょうど総帥のイーレオさんに、誘拐の罪や傷害の罪が用意されていたのと同じですね」
「……」
ハオリュウは口を結び、じっとシュアンの顔を見据えた。
イーレオの罪は明らかに冤罪であり、彼の手は汚れていなかった。しかし、あの警察隊員は自らの手で異母姉に向かって発砲した。断じて同じではない。
「このままなら、彼は処罰を――おそらく極刑をまぬがれないでしょう。けれど、もとはと言えば、彼はあなたの権限で身柄を確保しました。そのあなたが『彼の罪は不問に付す』というお口添えをしてくだされば、彼を救えます。――ただ騙されただけの、不幸な男です。広い心で、恩情を願えませんかね……?」
シュアンが、ぐっと身を乗り出した。ぎょろりとした三白眼が、ハオリュウに絡みつく。
「あなたが断れば、彼は殺される。――あなただって、自分のせいで人が死ぬなんて、嫌でしょう?」
それは情に訴えているようで、実のところ脅迫だった。
気の弱い子供なら、シュアンに協力することこそが善行であると信じて、即座に首を縦に振っただろう。
だが、あいにくハオリュウは、気の弱い子供ではなかった。異母姉の生命を狙った輩など、極刑こそがふさわしいと考える。
ハオリュウは爆発しそうな怒りを押さえつけ、深呼吸をした。冷静になる必要があった。
何故なら――。
「何を言っているんですか、緋扇さん」
笑顔の仮面を顔に載せ、ハオリュウは首を傾げた。
「その男は既に死んでいるでしょう? どうやって、死者を死から救うというのですか?」
ハオリュウは、ミンウェイと一緒に目覚めぬ父を見守っていた。そのとき、彼女がぽつりと漏らしたのだ。――捕虜を死なせてしまった、と。
自白の場に居合わせたのなら、シュアンは男の死を知っているはずだ。
彼の意図が、分からない。
「……『知っていた』のか」
「ええ」
「ならよぉ……」
不意に、シュアンが立ち上がった。
ふらつく足取りでハオリュウに近寄る。ハオリュウは何ごとかと身構えたが、彼の体が自由だったのはそこまでで、あっという間に襟首を掴み上げられた。
「……っ!?」
ハオリュウの子供の体は、いとも簡単にシュアンに宙吊りにされた。床から離れた足が、ばたばたと空を泳ぐ。
「あんた、先輩が無実だって知ってんだろ! 知っていて、何、澄ました顔をしてやがる!」
狂気に満ちた三白眼が、目の前にあった。そのまま喉元を噛みつかれそうなほど近くに口があり、濁った息が拭きつけられる。
ハオリュウは、初めてシュアンに恐怖を覚えた。取るに足らぬ小者だと、見下していたことを後悔する。
「そうさ、先輩は死んでいる。俺が殺した!」
シュアンが叫んだ。
と、同時に手を離し、ハオリュウの尻が椅子に叩き落とされる。
ハオリュウは咳き込んだ。目からは涙が滲んでいる。だが、それよりも、シュアンが叫んだ『俺が殺した』という言葉に混乱していた。
下を向いたシュアンの睫毛は、床に目を落としているように見えた。けれど、その目の焦点は合っていなかった。
「……死んだ人間の汚名を雪ぐことに意味はない。俺は名誉なんてものに、これっぽっちも価値を見出していない。馬鹿馬鹿しいとすら思っている」
シュアンの声が静かに響いた。
「けど、先輩が悪く言われるのは許せない。俺の信じる正義とは別物だが、先輩は『正義』なんだ。だから、先輩を綺麗なまま送り出すことは、先輩を殺した俺の義務だ」
尋常ではないシュアンに、ハオリュウは自分が失言をしたのだと悟った。
ハオリュウが知っているのは捕虜の死だけであり、その経緯も事情も知らない。詳しいことは、午後になったら皆に招集をかけて説明されるらしいのだが、鷹刀一族ではない彼が、その場に居合わせてよいのかは定かではなかった。――そのくらい、捕虜と自白の件に関しては、ハオリュウは部外者だった。
シュアンは懐に手を入れ、黒光りする拳銃を取り出した。それをまっすぐに、ハオリュウに向ける。
「糞餓鬼」
シュアンの口元で、狂犬の牙が光る。
「今から俺は、お前の四肢を順に撃ち抜いていく。それが嫌なら、俺に従え。先輩は無実だと、貴族の権限を持って保証しろ」
血走った三白眼は気狂いじみていたが、同時に極めて冷静だった。
シュアンは『命が惜しければ』とは言わなかった。『四肢を順に撃ち抜いていく』と言った。殺したら役に立たないことを理解しているからだ。――それだけ、本気だった。
ハオリュウはごくりと唾を呑む。
「……分かりました。書状を作ります」
すぐにメイドに道具を用意させた。
その際、助けを求めるような真似はしなかった。鷹刀一族の手を借りれば、シュアンを捕まえることも可能だったかもしれないが、シュアンの言動が気になった。
したためた書状を封筒に入れ、シュアンに手渡す。すぐさま立ち去ろうとする彼を、ハオリュウは「待ってください」と呼び止めた。
「捕虜の件ですが、僕は彼らが死んだことはミンウェイさんから聞いていますが、あなたが殺したことは聞いていません。ご説明、願えますか?」
「え……?」
シュアンが口を半ば開いたまま、動きを止めた。間の抜けた顔は、悪相ながらも愛嬌がないわけでもない。
「〈影〉のことを知らないのか……?」
「〈影〉?」
「先輩は、〈七つの大罪〉という組織の〈蝿〉という奴に、別人にされたんだ。だから、あんな暴挙に……」
「……別人にされた?」
そのとき、ハオリュウの頭の中で符丁が合った。
別人のような父。食堂での会話の中で出てきた〈蝿〉という名前――。
「糞餓鬼、どうした?」
気づいたら、シュアンに支えられていた。椅子から落ちかけていたらしい。不覚とばかりにシュアンの腕を払いのけようとしたが、手が震えて上手く動かなかった。
「……詳しく、教えてください」
絞り出すようなハスキーボイスに、シュアンは顔色を変えた――。
「あんたみたいな餓鬼が……本気か?」
「ええ」
ハオリュウは頷き、薄く嗤った。
「あなたが自らの手を汚したように、これは僕がやるべきことなんですよ」
「……」
こんなとき、いつもなら皮肉混じりの軽口を叩くシュアンが、返す言葉を見つけられなかった。ぼさぼさ頭の下の三白眼が、ハオリュウの決然とした顔を捉え、やりきれなさに揺らぐ。
「異母姉より早く、この情報を手に入れられて本当によかった。あなたには感謝しますよ」
「……まぁ、やってみろ」
状況に反し、むしろ晴れやかに微笑むハオリュウに、シュアンは少しだけ制帽を下げて軽い礼を取った。
そのまま無言で退室しようとしたシュアンに、ハオリュウは「先ほどの書状を」と口にする。
「あれは、まだ家印が押されていないから無効ですよ」
「な、何ぃ!?」
驚くシュアンに、くすりと笑いながら、ハオリュウはメイドに用意してもらった道具を使って、蝋燭に火を灯した。
それから、スーツのポケットから、箱に入った金色の指輪を出した。父が目覚めたあと、正当な持ち主に返すべく箱に戻したのだが、ばたばたしているうちにそのままになっていたのだ。
封筒に蝋を垂らし、指輪を押し付けて家印を刻む。
「これで、正式な書状になりました」
にっこりと笑いながら、ハオリュウはシュアンに書状を返す。シュアンは、狐につままれたような顔で書状とハオリュウを見比べた。
「ええと、つまり……?」
「恐喝なんかで、僕が素直に従うはずがないでしょう?」
ハオリュウの無邪気な笑みの向こうに、シュアンは黒い影を見たのだった。
4.金環を巡る密約-1
「父様、お加減は如何ですか?」
ハオリュウは、父コウレンの部屋を訪れた。
その後ろから、からからとメイドの押すワゴンの音が続いてくる。トレイの上には、鮮やかな花柄のティーセットが載せられ、ぴんと角の揃ったサンドイッチが綺麗に並べられていた。
コウレンはベッドで横になっていたが、眠っていたわけではないらしい。ハオリュウの声に体を起こした。
「ああ、ハオリュウか」
「父様、まだ寝てらしたんですか。病人じゃないんですから、そろそろ起きてください」
顔をしかめるハオリュウに、コウレンがむっと眉間に皺を寄せる。
「あの医者という娘も言っていただろう。私は疲れが溜まっている」
「ミンウェイさんですね。でも、健康状態はいいとも言っていましたよ?」
そんなやり取りをしていると、良い香りが漂ってきた。メイドがお茶を淹れてくれたのだ。部屋の中央にあるテーブルに、ことんとソーサーが載せられる。
ハオリュウが「ありがとう」と会釈すると、彼とたいして歳の変わらぬメイドは頬を染め、深々と頭を下げて退室していった。
「よくお目覚めになられるよう、父様のお好きなローズヒップティーをお願いしたんです」
ハオリュウはそう言うと、父にくるりと背を向けて、こちらに来てください、と言わんばかりにテーブルに着いた。ティーカップを手に取り、独特なハーブの香りを楽しむ。父を待たずにひと口飲んで、彼はカップをソーサーに戻した。
やがて不機嫌な顔のコウレンがやってきて、のろのろと向かいに座る。それを確認すると、出し抜けにハオリュウは口を開いた。
「この屋敷のメイドは、随分と若いですよね」
「あれじゃ、ただの子供だろう」
唐突に何を言い出すのだと、コウレンが訝しげな目を向けた。すると、ハオリュウはじっと父を見つめ、口元をほころばせる。
「――最近、父様付きで雇った子も、姉様と変わらないくらいでしたよ?」
「さっきの子供よりは、ずっと上だろう?」
「……僕付きの子は、あの子くらい若いほうが、僕は嬉しいんだけどなぁ」
上目遣いにコウレンを見て、ハオリュウはにっこりと笑う。
「なんだ、おねだりか。ふん、帰ったらな」
「話の分かる父様は、好きですよ」
ぺろりと舌を出し、彼は満面の笑みを浮かべた。
それからハオリュウは、おもむろにサンドイッチをつまみはじめた。コウレンも、それに促されるように手を伸ばす。
皿が半分ほどになったところで、ハオリュウがナプキンで口元を拭った。
「……父様」
やや低めのハスキーボイスが、父を捕らえる。今度はなんだと、コウレンは不快感を隠さずに息子を見返した。
「ずっと気になっていたんですが、当主の指輪はどうされました?」
「……っ」
コウレンは、はっと顔色を変え、自分の指に目をやった。当然のことながら、その指に金色の指輪はない。
「囚えられているときに、奪われたんですか」
剣呑な光を瞳にたたえ、ハオリュウが静かに尋ねる。
「あ、ああ……」
歯切れ悪く答える父に、ハオリュウは眦を吊り上げた。
「あれがどれだけ重要なものか、父様は分かってないんですか!?」
「あ、相手は凶賊だぞ! ……お前こそ、息子の分際で偉そうに!」
コウレンは、わなわなと身を震わせ、怒鳴り返した。
そんな父に、ハオリュウは蔑みの眼差しを向ける。薄笑いを顔に載せ、スーツのポケットから小さな箱を取り出した。
「王手ですよ」
ことん、と音を立てて、布張りの小箱がテーブルに載せられる。
「……!」
目を見開くコウレンの前で、ハオリュウはゆっくりと蓋を開けた。
中に収められた指輪が金色の輝きを放ち、コウレンは顔色を失う。
「父は家を出る前に、自室に指輪を置いていったんですよ。でも、そんなこと、〈影〉のあなたは知る由もありませんよね」
コウレン――の姿をした〈影〉は、後ずさるようにして立ち上がった。勢いに椅子が倒され、大きな音を立てる。
「僕も、斑目一族に囚えられていたことは、ご存知ですよね? ――そこで、奴らが話しているのを聞いてしまったんですよ。僕が子供だと思って、気を抜いていたんでしょうね」
ハオリュウは、にっこりと嗤った。
彼が情報を得たのはシュアンからであり、囚われていたときには何も聞いていない。だが、こう言ったほうが、より多くの情報を知っているように錯覚させられると踏んだのだ。
「……っ!」
コウレンから、深い憤りが漏れる。歯ぐきをむき出しにしてハオリュウを睨みつけた。
しかし、ハオリュウは怖気づくことなく、更に追い詰める。口元に笑みを浮かべ、すべてを知っているかのように装い、勝負に出る。
「ねぇ、『厳月さん』」
『厳月』の名前に、コウレンがびくりと肩を上げた。
「儂が、厳月の当主だということも知っていたのか……!」
「ええ」
口では平然とそう言いながら、実のところ、カマをかけただけだった。
この〈影〉が、厳月家の関係者であろうことは予測していたが、自分から当主だと名乗ってくれたのは、予想外の朗報だった。これで話を進めやすくなったと、ハオリュウはほくそ笑む。
シュアンから〈影〉という技術を聞いたとき、初めはシュアンの先輩と同じく、父にも〈蝿〉という人物が入り込んでいるのだと思った。
しかし、〈影〉とは『脳内の記憶を上書きして中身だけが別人になったもの』だ。
――そう。〈蝿〉である必要はない。そして、噂に聞く〈蝿〉は、かなり狡猾で頭の切れる人物だ。彼や異母姉に、違和感を与えるような言動を取るとは考えにくい。
ならば、父に成り代わって得をする人間は誰か? ――と考えたとき、厳月の名に行き当たった。
確証を掴むために、この軽食を料理長に頼んだ。食事の所作には育ちが出る。案の定、〈影〉の中身が貴族であることは、ナプキンの使い方から明らかだった。
更に、年若いメイドについて言及した。好色と噂に聞く厳月家の人間なら、どんな反応を示すかと謀ったのだ。ハオリュウは、女性をそういった卑下た目で見ることを蔑視している。いくら演技とはいえ、自分で言っていて胸が悪くなった。
「厳月さん。あなたは、僕の父の体を奪うことで藤咲家を手に入れられる――そう教えられたのではありませんか?」
「……」
すべてお見通しだ、と言わんばかりに尋ねるハオリュウを不快げに睨みつけ、コウレンは無言で返す。
押し黙った相手に、肯定の意を読み取り、ハオリュウは畳み掛けるように続けた。
「『あなた』は、ご自分がどういった存在なのか、分かってらっしゃいますか?」
コウレンは小鼻を膨らませ、しかし口はつぐんだままだった。
答えられるわけがない。きちんと理解していたなら、〈影〉となることに同意するはずないのだ。ハオリュウは侮蔑の微笑みを浮かべる。
「『あなた』の記憶は厳月の当主ですが、肉体は僕の父です」
目の前の愚かな男でも、このくらいは理解できているだろう。
問題は、この先だ。
「そして、『あなた』に記憶を与えた厳月の当主は、今までと何も変わらずに厳月の屋敷で暮らしているんですよ」
「……どういうことだ? 厳月の当主は――儂は、ここにいるだろう?」
憤慨し、唾を飛ばす。その様は憐れですらあり、ハオリュウは酷薄な笑みを浮かべる。
「何を言っているんですか。『あなた』に記憶を写したところで、厳月の当主の肉体にはなんの変化もありません。ふたりに同じ記憶があっても、肉体は別々――別人として、それぞれ生きているんです」
「儂がもうひとり、いる……?」
ハオリュウは薄く嗤い、ゆっくりと首を振った。そして、分かりやすいように、はっきりと告げる。
「厳月の当主の姿をしていない『あなた』は、もはや厳月の当主ではありません。『藤咲コウレン』です」
「な、なんだと!?」
コウレンは血相を変えた。
「これから『あなた』は、『藤咲コウレン』として生きていくんです」
「ふ、ふざけるな! そんな……、そんなことがっ……!」
コウレンは、ぎりぎりと音を立てて歯噛みした。取り返しのつかない事態に陥っていたことに、ようやく気づいたのだ。
コウレンの姿をした〈影〉は、自分自身の愚かさを呪うような殊勝な人間ではなかった。だから、残酷な事実をもたらしたハオリュウに怒りの矛先を向けた。
「この、このっ……!」
殴りかからんとして、ハオリュウに詰め寄る。
衰えの見え始めたコウレンと、急に背が伸びてきたハオリュウとでは、圧倒的な力の差はないかもしれない。だが体格的には、まだまだ大人と子供。大人には敵わないことは、シュアンで経験している。
だから、ハオリュウは機を逃さぬよう、絶妙なタイミングで余裕の笑みを浮かべた。
――この部屋を、コウレンを訪れた真の目的を口にする。
「僕と、取り引きしませんか?」
明らかに子供の声であるハスキーボイスが、魔性の響きを持って木霊した。
ハオリュウは、闇色の目でコウレンを見つめる。その視線に気圧され、コウレンの振り上げた拳が空中で凍りつき、やがてゆっくりと下ろされた。
「取り引き、だと?」
「僕と『あなた』の利害は一致しているんですよ」
涼しげな声で、ハオリュウが言う。
「藤咲コウレンである『あなた』がすべきことは、厳月家の繁栄のために尽くすことではなく、藤咲家を盛りたてることでしょう? 藤咲家の嫡子の僕と同じです」
ハオリュウの言うことは、まったくもって真実だった。けれど、その現実は、即座に受け入れられるようなものではない。
「何を言う! 儂は厳月の当主だ。藤咲のためになんか!」
怒りの赤を超えた、どす黒い顔でコウレンが体を震わせる。
「でも、厳月の屋敷には、『あなた』とは別人である厳月の当主がいますよ」
「違う! 儂が……、儂こそが、厳月の当主だ……!」
斑目一族や〈蝿〉への怒り。今も厳月家の屋敷でのうのうとしている『自分自身』への妬み。これからの自分の運命への恐れ……。
複雑な思いが絡み合い、コウレンの顔色は目まぐるしく変化する。その不安定な心の隙間に、ハオリュウは誘惑の美酒を静かに注ぎ込む。
「『あなた』は、自分をこんな目に遭わせた者たちが、憎くありませんか?」
ハスキーボイスが、甘い芳香を放つ。
「残念ながら、『あなた』を元に戻す術はないと聞いています。けれど復讐ならば、可能です」
「……」
「過ぎたことを悔やむよりも、先に進むべきです。――『あなた』は、婚礼衣装担当家に選ばれた藤咲家の当主『藤咲コウレン』です。今一番、隆盛を誇る貴族ですよ。厳月の当主だったことを忘れ、藤咲の当主として、栄華を極めるんです。そして、その権力と財力でもって復讐すればいい」
「……!」
かっ、とコウレンの目が見開かれた。ハオリュウは、相手が堕ちたことを確信し、口の端を上げる。
そんな見透かしたような笑みが、癇に障ったのだろう。コウレンはぎろりとハオリュウを睨みつけ、鼻を鳴らした。
「はっ! 藤咲の小僧が何を言う? お前からすれば、儂は父親の体を奪った仇だ。取り引きなどと言って、儂の足元をすくおうという肚だろう?」
「そうおっしゃると思いましたよ」
ハオリュウは焦ることなく、薄っすらと嗤った。
「でも残念ながら、仇を取ろうと思うほど、僕は父と仲が良くなかったんですよ。……ご存知ありませんか? 正当な後継者の地位にありながら、親族中から邪魔者扱いされている、平民を母に持つの嫡子の噂を――」
思い当たったのか、コウレンがぴくりと眉を動かした。
「聞いたことがあるな」
「僕は小さいころ、怒った大叔父に殴り飛ばされそうになったことがありました。そのとき僕を庇ってくれたのは異母姉であり、抗議すべきだった父は脅えているだけでした。父は善人かもしれませんが、役立たずです」
そこでハオリュウは、コウレンの顔をぐっと覗き込んだ。
「でも『あなた』なら、僕の理想の父に、そして藤咲家にふさわしい当主になってくださるでしょう?」
ハオリュウの漆黒の瞳が嗤う。少年の形をした闇が、コウレンを侵食していく。だがコウレンには、それが見えていなかった。だから、鼻息荒くハオリュウに尋ねた。
「それで、儂が藤咲家の当主を演じてやるとして、その見返りはなんだ?」
『演じてやる』という、自分の言葉の厚かましさに気づいているのか、いないのか。まだ態度を決め兼ねているような素振りを見せつつも、コウレンがすっかりその気になっているのは、火を見るより明らかだった。
「僕は、『あなた』が『藤咲コウレン』として藤咲家に溶け込めるよう、協力しますよ」
そう言いながら、ハオリュウはティーカップを手に取る。
「例えば、父はハーブティーが嫌いなんですよ。匂いがどうしても苦手だとか。それを平気な顔で飲んでいたら、藤咲の者たちは違和感を覚えますよね」
「お前……! わざと、この茶を……」
「ええ。――お茶くらいなら、好みが変わったとでも言えばいいでしょう。けれど、『藤咲コウレン』として明らかにおかしな言動を取ったとき、親族から『気が触れた』と決めつけられて、失脚させられる可能性もあります。父は嫌われていますからね」
「……」
コウレンが憮然とした面持ちで、ハオリュウを見やった。その顔には、藤咲家の当主に成り済ましたところで、ちっとも権勢を振るえないではないかと、ありありと書かれていた。
「僕がいれば大丈夫ですよ」
ハオリュウがにっこりと笑う。
「まず手始めに、父の秘書を解雇しましょう。『あなた』にとって一番、障害となる相手です」
「藤咲の秘書は、確かお前の伯父ではなかったか?」
コウレンは驚きの声を上げた。
無能な当主が今まで藤咲家を支えてこれたのは、秘書の働きがあってこそ。それはライバルである厳月家の当主であった〈影〉も、痛いほど知っていた。藤咲家が衣装担当家の役職を得られたのも、秘書の手腕に依るところが大きかった。
藤咲家にとって不可欠な人間であり、かつハオリュウの伯父である男を排除するという。〈影〉が訝しむのは当然だった。
「彼は、僕の異母姉を凶賊に売りました。先妻の娘だからと、日頃から何かと異母姉を目の敵にしていたんです。……僕はね、小さなころから異母姉に守られてきたんですよ。だから、彼女に害をなす者は決して許しません。異母姉に対する償いとして、伯父には出ていってもらいます」
怒りの炎を宿した瞳にハオリュウの本気を感じ、コウレンは「分かった」と頷いた。
「では、藤咲コウレンの妻である、お前の母はどうする? 身近な者ほど感づきやすいだろう?」
「母は……。……体を悪くしています。別荘で養生させましょう」
「ふむ。なら、お前が大切にしている異母姉はどうする気だ?」
コウレンが、心持ち意地悪く問いかけた。
「鷹刀ルイフォンに渡せばいいでしょう?」
「ほぅ? お前は、異母姉を凶賊に売った伯父を許さないくせに、あの若造にならやってもよいと?」
コウレンの揶揄するような口ぶりに、ハオリュウは悔しげに「くっ」と息を漏らす。
「仕方ないでしょう! 認めたくはありませんが、姉様はあの男がいいと言っているんです」
ハオリュウは、こほんと咳払いをした。思わず出てしまった本音を取り繕うような――相手がそう信じ込むような、絶妙な間合いを計る。
「――僕と異母姉は仲が良いですが、藤咲家の跡継ぎという意味では、彼女は僕の敵になります。彼女が望まなくとも、彼女の夫となった者が当主の座を狙うことがあり得ます。だから、外に出してしまうのが一番なんですよ。……僕は、異母姉には幸せになってもらいたい」
嘘で塗り固めたハオリュウの言葉の中で、それだけは心からの真実だった。
「だから『あなた』は、これから異母姉とルイフォンを呼び出して、ふたりの仲を認めると言ってやってください」
ハオリュウは、ぎゅっと拳を握りしめた。奥歯を噛み締め、ただ異母姉のために祈る。汚いことは全部、自分の役目。異母姉は何も知らずに綺麗でいてほしい……。
異母姉への切なる思いでいっぱいのハオリュウに、コウレンの無粋な声が割り込んだ。
「儂は〈蝿〉という男に、鷹刀イーレオをひとりで呼び出すよう命じられている。その件は……」
「今更、そんな約束に従う義理はないでしょう!」
噛み付くようなハオリュウの返事に、コウレンが呆気にとられたように瞬きをした。
「あ、いえ。失礼」
ハオリュウは冷静さを取り戻し、コウレン――の姿をした、厳月家の当主の〈影〉――と正面から向き合った。
「取り引きは成立、ということでよろしいでしょうか?」
薄い笑いを浮かべ、ハオリュウが最終確認をする。
「よし、それで手を打ってやろう」
「では、これは『あなた』のものです」
そう言って、ハオリュウは金色の指輪の入った小箱を差し出した。
4.金環を巡る密約-2
ルイフォンは、回転椅子に背を預け、ふぅと盛大な溜め息をついた。
『メイシアの父、コウレンには、なんらかの事情があり、敵に従わなければならない状況にある』
これが、皆の一致した見解だった。
その『事情』を探るため、ルイフォンは仕事部屋に籠もり、情報の欠片を集めていたのだが、空振りばかりだった。
彼は、癖のある前髪を乱暴に掻き上げた。
――こんなことをしていても、埒が明かない。こそこそ調べ回るのではなく、直接、話すべきだ。
ルイフォンは椅子から立ち上がった。メイシアと共に、コウレンのところに行こうと思ったのだ。
彼女はきっと、不安な思いをしていることだろう。そばに居てやるべきだったかもしれない。駄目だな、と反省して、自分の頭をこつんと叩く。
ちょうどそのとき、扉がノックされた。来訪者は、まさに逢いにいこうと思っていた相手、メイシアだった。
「ルイフォン!」
取り乱した様子で、彼の名を呼ぶ。
「い、今! ハオリュウが私の部屋に来て……」
息を切らせて話す彼女の頬が、薔薇色に染まっていた。
「メイシア、落ち着け。何があった?」
「ハオリュウが、お父様から事情を聞けたって。説明するから、イーレオ様と三人で、お父様の部屋に来て、と――」
窓から入り込んだ春風が、レースのカーテンをゆっくりと揺らしていた。
穏やかな動きの影が、ベッドで半身を起こしたコウレンの横顔で踊り、彼はわずかに目を細める。それは、影と表裏一体を成した光の舞の眩しさ故か。あるいは、勢い込んで現れた愛娘に向けられたものか――。
「あ、あのっ……、お父さ……」
開きかけたメイシアの口を、ハオリュウが「姉様」と柔らかく、しかし毅然とたしなめた。そして彼は、視線の先を彼女の後ろにいるイーレオに移す。
「本来なら、こちらから出向くべきところを、お呼び立てして申し訳ございません」
ハスキーボイスを鳴り響かせ、ハオリュウが頭を下げた。
「父はまだ、立ち上がると目眩を起こす状態でして……。ベッドからで失礼します」
そう言いながら、ハオリュウは椅子を勧める。
父親のコウレンはといえば、軽くこちらに顔を向けただけだった。凶賊を相手に、余計なことは言うまいと身構えてでもいるのだろうか――。
どうにも感じが悪い。
ルイフォンは、ふと、斑目一族の別荘で、初めて対面したときのことを思い出した。同行していたリュイセンが、コウレンを見て呟いたのだ。『貴族、だな』と。
あのときは思わずリュイセンに掴みかかってしまったルイフォンだったが、こうしてみると確かに感じる。言うなれば、判で押したような貴族だ。
「父様――」
沈黙したままのコウレンを咎めるように、ハオリュウが声を漏らした。しかし、彼は首を振り、父にはそれ以上、何も言わずにイーレオと向き合う。
「――すみません。父は囚われていたトラウマで、人間不信と言いますか……凶賊に対する嫌悪感がどうしても拭いきれないのです。どうか、ご理解ください」
取りなすハオリュウの眉間には、悲愴感すら漂っていた。そんな彼を慮るように、イーレオが魅惑の微笑を浮かべる。
「これまでのことを考えれば、当然のことだろう。気にする必要はない」
「そう言ってくださると助かります」
ハオリュウが、ほっと安堵の息を吐く。そして、少しだけ緊張の緩んだ顔で「父に代わり、僕がお話させていただきます」と言った。
「実は――父は『女王陛下の婚礼衣装担当家を辞退する』という書状を書いてしまったそうです」
その瞬間、部屋の中に空白が生まれた。誰もが声を詰まらせ、春風だけが抜けていく。
やがてメイシアが、かすれた声で呟いた。
「お父様……」
「姉様、仕方ないよ。父様は、先に囚えられていた僕の命を盾にされたんだ。しかも、ご自身も囚われの身で迫られたら、冷静な判断なんてできないよ」
「あ、ううん。私はお父様を責めるつもりはないわ」
メイシアが慌てて首を振る。ハオリュウは、異母姉に相槌を打つように頷き、それから続けた。
「その書状は斑目一族が持っています。だから父様は、斑目一族の言いなりになって、イーレオさんを捕まえる手伝いをしようとした、というわけです」
「つまり、〈蝿〉は、わざと親父さんを逃したんだな」
ルイフォンは唇を噛む。苦労して救出したつもりが、掌の上で踊らされていたとは……。
だがそこで、ハオリュウがにっこりと笑った。
「でも、その書状、無効なんです」
「はぁ?」
わけが分からない。
ルイフォンは顎をしゃくり、「どういうことだ?」と苛立ちの声でハオリュウを促す。
「貴族の正式な書状には、封の上に指輪の家印を押すものなんです。でも指輪は、僕が持っていました」
「あぁっ……」
メイシアから、高い声が飛び出す。
彼女は思わず出てしまった大きな声に顔を赤らめ、口元を抑えた。そんな異母姉に、ハオリュウがにこやかに微笑んだ。
「直筆の書状なので効力があるのでは、と父は脅えていたのですが、これは無効です。何か言われても、僕がきっちり反論してやります」
「おい、ハオリュウ。――ということは……?」
思わせぶりな話の進め方がもどかしく、ルイフォンが掴みかからんばかりに詰め寄る。
「ええ。僕の誘拐から始まった一連の事件は、もう終わったんです」
ハスキーボイスが響き渡り、ハオリュウが凛然と宣言した。その眼差しは、徐々に顔をほころばせていく異母姉に向けられている。
メイシアは瞳を潤ませながら、傍らのルイフォンを見上げた。彼の手が、彼女の頭に伸びてきて、くしゃりとする。細められた猫の目は、いつもなら獲物を狩る獣の鋭さを放つのだが、今は優しさに満ちていた。
「イーレオさん」
ハオリュウが、イーレオに声を掛けた。
コウレンへの配慮からか、ずっと静かに見守っていたイーレオは、凪いだ海のような穏やかさで「ご苦労だったな」と、そっと囁く。
深い色合いの瞳に、ハオリュウはどきりとした。嘘まみれの彼には、そんな慈愛の微笑みは眩しすぎた。
――けれどハオリュウは、自分を奮い立たせる。
「父と僕で、話し合いました」
澄んだ、真剣な声が響く。
「藤咲家の次期当主は僕です。けれど母の身分が低い僕は、立場が弱い。姉様を利用して藤咲家を我が物にしようとする輩が、今後も現れるかもしれません。だから――」
ハオリュウはそこまで言って、ベッドの上の父を見やった。今まで人形のように、ただそこにいるだけだったコウレンがゆっくりと頷いた。
――そして、しゃがれた声で宣告した。
「そうなる前に、メイシアを鷹刀ルイフォン氏のもとへやろう」
場が、一気に湧いた。
ルイフォンがメイシアを抱き寄せ、くしゃくしゃと頭を撫でる。そのメイシアの瞳からは、あとからあとから涙があふれ出ている。
イーレオがにやりと口の端を上げ、果報者の息子の背中を叩く。
そのそばで――。
ハオリュウは、哀しいほどに切なげに笑っていた。
数時間後、ハオリュウは再び、父の部屋を訪れた。
先ほど、異母姉メイシアを含めた鷹刀一族の主要な者たちが執務室に集められた。予告されていた通り、ミンウェイが捕虜の顛末を報告するのだという。
ハオリュウもイーレオに声を掛けられたが、父が心配だからと丁重に断った。イーレオも無理には誘わなかった。話の内容が、捕虜が〈蝿〉の〈影〉だったということであり、鷹刀一族と〈蝿〉との因縁は、ハオリュウとは無関係と思ったからだろう。
シュアンから聞いているハオリュウは、すべて知っていた。だからこそ彼は、皆が――特に異母姉が、確実に父のところに来ない、この時間を狙っていた。
ふとハオリュウは、別れ際にイーレオに言われたことを思い出す。
『ひとりで抱え込みすぎるなよ』
おそらく、父が心を病んでいるとでも思っているのだろう。そして、それを支えようとしているハオリュウを気遣った。
何気ない、ひとことだった。だが、胸が苦しくてたまらなかった。
――姉様のためだ……。
泣き出したいような痛みを押し込め、ハオリュウは仮面を付ける。もはや父ではなくなってしまった『父』に笑いかける――。
「ありがとうございました。おかげで異母姉を喜ばせることができました」
ハオリュウは、持参したコーヒーをテーブルに載せた。「『藤咲コウレン』は、紅茶よりもコーヒーが好きなんですよ」と言いながら、父に勧める。
コウレンはまだ湯気の立つカップには手を付けず、やや不満げに呟いた。
「あれほどの娘だ。凶賊にくれてやるのは勿体なくないか? どこかの有力な貴族のほうが……」
「『父様』。僕にとって、異母姉だけは大切なんです。政治利用はしたくありません。それに『藤咲コウレン』は娘の気持ちを第一に考える人です。今回の場合、鷹刀ルイフォンにやる以外、選択肢はありません」
「しかしなぁ……」
未練がましく、コウレンが唸る。
「それよりも、この屋敷にいる間に『藤咲コウレン』のことを頭に叩き込んでください。今日中に藤咲家に戻る予定でしたが、体調がすぐれないと言って二、三日滞在させてもらうことにしましたから」
すっかり仕切っているハオリュウである。コウレンが半ば呆れたように溜め息をついた。
「藤咲の当主はボンクラで有名だったが、まさかその息子がこうだったとはな……」
「父が頼りなかったから、僕がこうならざるを得なかったんですよ」
打てば響く返答に、コウレンは舌を巻く。
「まったく、頼もしい『息子』だ。――ありもしない書状をでっち上げ、儂への疑惑を上手く拭い去った手腕、見事だったぞ」
「『父様』にお褒めいただけるとは、光栄ですね」
あの作り話は、貴族ではないシュアンが、家印の重要性を知らなかったことから思いついた。必要なこととはいえ、よくも平然と大嘘をつけるものだと、ハオリュウは自嘲する。
「儂も、最後に物々しく言ってやれたろう?」
大根役者が、得意げに胸を張った。
褒めろとでも言うのだろうか? ハオリュウは、笑顔を保ったまま奥歯を噛みしめる。
本来なら、書状の件は『父』が説明すべきだった。だが、『藤咲コウレン』とは似ても似つかぬ尊大な〈影〉に喋らせるくらいなら、不自然でも黙っていてくれたほうがましだと思ったのだ。
望む答えをしてやるのも馬鹿馬鹿しいので、ハオリュウはコーヒーをひと口飲んで誤魔化した。
そのとき、向かいに座るコウレンが、じっと自分を見ていることに気づいた。粘つくような目つきに、ハオリュウは顔をしかめる。
「お前は子供のくせに、ミルクも砂糖も入れないんだな」
不快な視線が絡みつく。
「ええ。たまにミルクを少々入れますが、基本はブラックですね」
「なら、儂の前にあるコーヒーは飲めるな」
「……!」
ハオリュウは、息を呑んだ。
コウレンがソーサーを押し付ける。テーブルの上を引きずる、ざらついた不協和音。耳障りな音はハオリュウの心臓の外側を引き裂き、心臓の内側を破裂しそうな勢いで脈打たせる。
中央に置かれた花瓶の境界線を越え、ハオリュウの領域に寄せられたカップの中で、黒い液体が揺らめいた。コウレンの瞳が、狡猾な光を放つ。
「お前は、ブラックが好きなんだろう?」
ハオリュウの額から、脂汗が一滴、したたり落ちた。
体の内部はこれ以上ないくらい激しく脈動しているのに、指一本すら動かせない――ただの一呼吸さえもできない。
「盛ったか。――毒を」
コウレンがどっしりと椅子にもたれかかり、鼻で笑った。
取り乱したりしたら、相手を無駄に喜ばせるだけだ。そんなことはプライドが許さない。その思いだけで、ハオリュウは無理やり口を開く。
「ええ。僕がこっそり庭から拝借した、毒が入っていますよ」
言葉とは裏腹の、無邪気な笑顔を返す。
ミンウェイが薬草と毒草のエキスパートであることは聞いていた。だから、興味本位のふりをして庭師に教えてもらったのだ。
「まさか見破られるとは、思ってませんでしたよ」
ハオリュウはおどけたように肩をすくめる。
「長年、貴族の当主をやってきた儂を甘くみるな。お前ごとき小僧の浅知恵など、儂には手に取るように分かる」
「ご冗談を。あなたに僕の思考が読めるとは思いませんね」
もはや小馬鹿にした態度を隠しもしないハオリュウに、コウレンは敵意をむき出しにした。
「はっ! お前は当主の座に就きたいんだろう? だったら『父』の儂は邪魔な存在だ。ボンクラの実の父なら操ることもできただろうが、儂は違うからな」
「そうですね。確かに、あなたは父とは違う」
「お前は、初めから儂を消すつもりだった。藤咲家に帰る前に、凶賊の屋敷にいる間に。――そのほうが、儂の死因をうやむやにしやすいからな」
ハオリュウは何も言わずに、ただ口の端を上げた。それを図星と捉えたのか、コウレンは調子に乗ってまくし立てる。
「現当主が死ねば、嫡男が継ぐ。だが、お前は未成年で、しかも母親が平民だ。異母姉に婿を取ろうという動きが起きるだろう。そうならないように、儂を使って邪魔な異母姉を美談で排除したわけだ」
「なるほど。あなたはそう考えたわけですか」
こんな男に本心を語る気は、さらさらない。ハオリュウは、すました顔で受け流す。
「儂はな、異母姉を排除したあと、お前がどう出るかを心待ちにしていたのだよ。儂に歯向かってくるか、取り引き通りにするか。はたまた、もっと長い目で儂を狙ってくるか……」
すべてお見通しだったと言わんばかりにふんぞり返り、コウレンが悦に入る。
「お前は子供のくせに、頭が切れすぎた。子供は子供らしくしておればいいものを。だから儂に疑念を抱かれたのだ」
「確かに、僕は少々、あなたを侮っていたようです」
ハオリュウは、苦笑混じりに溜め息をついた。それを見て、コウレンが勝ち誇ったように醜く顔を緩ませる。
けれどハオリュウは、これで打つ手をなくしたというわけではなかった。
「年齢なんて、関係ありませんね」
低くなりきれない少年のハスキーボイスが嘲笑をはらむ。その口調は、決して尖ったものではなく、むしろ歌うように柔らかかった。
「守るためなら、僕はなんでもできますよ?」
ハオリュウは、そう言って薄く嗤い――。
――胸ポケットから『拳銃』を取り出した……。
5.夢幻泡影の序曲-1
ミンウェイが自白を任された捕虜たちは、〈七つの大罪〉の技術によって記憶を別人に書き替えられた〈影〉という存在だった。また、中にいた人格は〈蝿〉であり、それは死んだはずのミンウェイの父親、ヘイシャオであることも会話から確認できたという。
そして捕虜たちのうち、巨漢は〈蝿〉の細工によって自爆させられ、警察隊員のほうは同席した緋扇シュアンによって射殺された。
――そんな凄惨な話が報告された。
淡々と事実を告げるミンウェイが、声を揺らすことはなかった。
すらりと綺麗に背筋を伸ばし、胸を張る姿はいつもと変わらず、それだけに、かえって誰の目にも痛ましく映った。だからイーレオは、今日のところは早々にお開きとし、懸案事項などは後日とした。
イーレオの解散の号令で、執務室から皆がぱらぱらと退室する。
廊下の角で他の者と別れると、ルイフォンはそっとメイシアの頭に手を載せた。彼女は瞳を真っ赤にしていた。ずっと涙をこらえていたのだ。
「メイシア……」
彼が髪をくしゃりと撫でると、彼女の頬をひと筋の光が伝う。
「ご、ごめんなさい……。私なんかが泣くなんて、ミンウェイさんたちに失礼だわ」
辛いのはミンウェイであり、この場にはいない警察隊員の緋扇シュアンである。メイシアは慌ててハンカチを取り出し、目元を抑えた。
「失礼ってことはないだろ。お前に思いやられて、ミンウェイが不快に思うわけがない」
メイシアの睫毛で光る透明な涙は、彼女の綺麗な心そのもの。ルイフォンは愛しげに微笑む。
「あとで料理長に甘い菓子でも貰って、ミンウェイに差し入れてやろうぜ」
明るくそう言って、彼はメイシアの頭をぽんぽんと撫でた。
――ミンウェイのことは確かに心配だった。けれどルイフォンには、それよりもずっと引っかかっていることがあった。
心臓に突き刺すような痛みが走り、胸の中を不安の影が広がっていく。
メイシアのそばにずっとついていてやりたいという気持ちはある。けれど、ひとりになって、この案件を冷静に吟味すべきなのではないかという焦燥がもたげてくる。
「ルイフォン?」
不意に、声を掛けられた。すぐそばで、メイシアが彼の顔を覗き込んでいた。ほんの一瞬のつもりだったが、結構な時間、頭が異次元に飛んでいたらしい。
「どうしたの?」
「うん? ああ……」
ルイフォンは口籠る。
メイシアは不思議そうに瞳を瞬かせ、そして柔らかに微笑んだ。
「ルイフォンが何を気にしているのか、気にならないと言ったら嘘になる。でも、考えごとの邪魔はしたくないの。きっと、とても大事なことなんでしょう?」
「……あ、ああ。……すまん」
申し訳なさそうに答えるルイフォンに、メイシアが更に一歩近づいた。
彼女は爪先立ちになって手を伸ばし、彼の髪にふわりと触れる。心配するな、大丈夫だ――そんな思いを彼が伝えるときによくやるように、彼女の指先が彼の癖毛をくしゃりと撫でた。
「え……?」
いつもは一方的に撫でるばかりだったルイフォンは、目を丸くする。
はっと、我に返ったようなメイシアの顔が、急速に赤く染め上げられていく。
「わ、私っ! お父様とハオリュウのところに行ってくる」
叫ぶようにそう言って、彼女は走り出した。
あとに残されたルイフォンは、メイシアの感触の残る前髪に触れ、じんわり胸と頬が熱くなるのを感じていた。
メイシアの背を見送り、自室に戻るべく階段を登りきったところで、ぬっと黒い影が現れた。細身のルイフォンに比べ、肩幅も上背もある立派な体躯。癖のない黒髪を肩まで伸ばした、神の御業を疑う黄金比の美貌――。
「リュイセン?」
先ほど執務室で別れたばかりの年上の甥が、腕を組んで立っていた。
「どうした?」
「お前を待っていた。途中で、あの女と別れたのが見えたからな」
リュイセンはそう言うと、お前の部屋に行くぞ、と身振りで示し、踵を返す。
「『あの女』って、メイシアのことかよ?」
「それ以外に誰がいる?」
小走りになりながら、あとを追うルイフォンに、くだらないことを聞くなとばかりにリュイセンが答える。
「おい、お前、まだあいつのことが気に入らないのか?」
「そんなことはない。初めはともかく、今は、あの女と異母弟のハオリュウは認めている」
「なら、なんで?」
「あの女は、お前のものだ。だから、俺が気安く名前を呼ぶわけにはいかんだろう?」
何を当たり前のことを、と言わんばかりのリュイセンである。
ルイフォンは絶句した。リュイセンとは長い付き合いだが、こんなのは初めてである。どうやら彼なりの気遣いであるらしい――たぶん。
「いや、それは普通に名前を呼ばないと不便だろ」
「そんなものか?」
この兄貴分は変なところで義理堅く、堅苦しい。苦笑しながら「そんなものだ」と、ルイフォンが答えたところで、ちょうど部屋に着いた。
ルイフォンの部屋は、機械や本にまみれた仕事部屋とは別に、起居に使う私室がちゃんとある。彼が扉を開けると、勝手知ったるとばかりにリュイセンが入っていった。しかし、普段は我が物顔でソファーでくつろぐリュイセンが、今日はテーブルについた。
ルイフォンは促されるように向かいに座る。正面から見たリュイセンは眉間に皺を寄せており、どことなく険しい顔をしていた。
「ルイフォン」
ややためらいながらも、リュイセンが口火を切る。
「……さっきの〈影〉というやつの話だが……」
言葉を選び、彼は迷う。
首を横に振り、「遠慮しても仕方ないな……」と小さく漏らした。余計な感情を切り捨てた、彫像のような美貌が現れ、まっすぐにルイフォンを捕らえる。
「これは、俺の直感だ。理屈じゃない。けど、間違いないと思う」
意を決したように、リュイセンは切り出す。
「――俺たちが救出した、あの貴族は、〈影〉だ」
「……っ!」
ルイフォンは、言葉を出せなかった。
リュイセンは、野生の獣の勘を持っている。
その鋭敏な感覚は、時として論理に目隠しされたルイフォンを一足飛びに追い抜いて、真理へとたどり着く。
「すまん……。こんなこと、考えたくないよな……」
喉を詰まらせる弟分を、リュイセンは気遣う。しかし、意見を翻すことはなく、はっきりとした口調で続けた。
「別荘であの貴族に会ったとき、違和感があった。あの女――メイシアや、ハオリュウとは明らかに異質な感じがした。あいつらの父親なのに」
「……」
ルイフォンも、メイシアの父親だというのに良い感情を持てなかった。
「さっきの報告で〈影〉というのを聞いて、納得した。姿があいつらの父親でも、中身が違うなら、異質なのは当然だろう」
リュイセンが深い溜め息をつく。肩の上で、黒髪がさらりと揺れた。
ルイフォンの鼓動が早まる。
「……俺も、同じことを考えていた」
かすれる声を絞り出すようにして、彼は言った。
〈影〉という技術を聞いてから、ルイフォンはずっと考えていた。メイシアと別行動をとって、ひとりで冷静になろうとしていた。――リュイセンが直感で信じたことを、理論で説明しようとしていた。
「リュイセン、親父さんを救出するとき、斑目タオロンが銃を使ったこと、覚えているか?」
「無論」
打ち解けたと思った次の瞬間、タオロンは凶賊の誇りをかなぐり捨て、銃を使ってメイシアの父コウレンを殺害しようとした。
「あれ、さ。タオロンは親父さんが〈影〉だと知っていて、俺たちが連れ帰るのを阻止しようとしたんじゃないか……?」
「ああ……! あの男、何かわけがあると思っていたが……。そうか……」
得心するリュイセンの声に、ルイフォンは浮かない顔をする。
「でもな、リュイセン。ハオリュウが、あの親父さんを本物だと認めているんだ。息子なら、俺たちよりもはっきり違和感に気づきそうなものだろう?」
リュイセンは、コウレンとは別荘で会ったきりだ。屋敷に帰ってから見舞っていない。コウレンに対するハオリュウの言動を知らないのだ。
ルイフォンは、ハオリュウの様子を語った。
話しながらルイフォンは、自分があのコウレンを本物だと信じたがっていることに気づいた。胸が締め付けられるような、すがるような思いすら湧き上がる。
「……お前の話は分かった」
リュイセンの低い声は、逡巡を含みながらも、後ろに引くことはなかった。
「まず、間違いなく、ハオリュウは気づいている。気づいていて、本物扱いしているんだ」
「なんだって?」
ルイフォンの語尾が、きつく跳ね上がる。
「なんで、ハオリュウは黙っているんだよ!?」
「今、お前が必死になって、俺の言葉を否定しているのと同じ理由だろう」
「どういうことだよ!?」
「――メイシアのためだ」
やりきれない、とばかりにリュイセンが吐き出す。
「彼女が悲しまないように、お前は父親が〈影〉であってほしくないと願い――そして、異母姉が傷つかないように、ハオリュウは父親が〈影〉であることを隠している」
諭すような低音が、すとんと胸に落ちてきて、ルイフォンの逃げ場を奪う。
認めざるを得ない真実が、目の前に立ちふさがった。
「ルイフォン。知らなかったとはいえ、俺たちが災いを呼び込んだんだ」
リュイセンの声が響く。
「俺たちが、なんとかすべきだろう」
いろいろあったけれど、すべて丸く収まったと思っていた。メイシアとの仲も認められ、これから幸せが始まるのだと思っていた。
けれどそれは、ハオリュウが作った、優しい嘘の世界に過ぎなかった。
「……ああ。そうだな」
肩を落としたルイフォンが、力なく笑う。
彼は癖のある前髪を掻き上げた。瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐く。次に目を開いたときには、いつもの鋭さを取り戻していた。
「――ハオリュウと話をしてくる」
ルイフォンの言葉にリュイセンが頷く。
「俺は祖父上のお耳に入れておこう」
そう言って、リュイセンは部屋を出ていった。
〈影〉のことを教えてくれた緋扇シュアンに、ハオリュウは拳銃を貸してくれるよう、頼み込んだ。
まともな警察隊員なら、応じてくれるはずもない。だが、シュアンは狂犬とあだ名されるような人物だ。しかも、大切な先輩を〈影〉にされている。ハオリュウと同じ境遇だった。
「まだ、あんたの父親が〈影〉だと決まったわけじゃないだろう?」
「そうですね。決まったわけではありません。――でも……分かりますよ」
本物の父なら、目を覚ました瞬間に言ったはずなのだ。誘拐されていたハオリュウの顔を見て、『君が無事でよかった』――と。
「あなただって、すぐに、あなたの先輩が別人だと気づいたのでしょう?」
「……そうだな」
シュアンは押し黙った。視線が落とされると、三白眼も鋭さを失う。
「勿論、ちゃんと確認してから行動に移しますよ」
にっこりと、無邪気ともいえる顔をハオリュウは向ける。しばらくして、シュアンがためらいがちに口を開いた。
「あんたみたいな餓鬼が……本気か?」
「ええ」
ハオリュウは頷き、薄く嗤った。
「あなたが自らの手を汚したように、これは僕がやるべきことなんですよ」
「……まぁ、やってみろ」
シュアンは拳銃を取り出し、ハオリュウの手に載せた。使い込まれた銃は手垢で光り、ところどころ傷が刻まれていた。
銃の取り扱いを説明するシュアンの声は予想外に優しく、親切だった……。
――そして今、ハオリュウは、父コウレンの体を奪った〈影〉に銃を向けている。
「守るためなら、僕はなんでもできますよ?」
声の震えは完璧に隠せても、指先の震えは止められなかった。
メイドに淹れてもらったコーヒーに毒を仕込むことができたくせに、おかしなことだ。思わず嗤いが漏れる。
だが、置いたカップに手がつけられるのを待っているのと、明確に狙いをつけて引き金を引くのとでは、やはり違うようだ。
一瞬先の未来の中で、父の体に穴があく。
警察隊が鷹刀一族の屋敷を蹂躙したとき、ハオリュウは幾つもの射殺体を見ている。それでも、その死体に父の顔がつくのは想像したくなかった。
「……」
ハオリュウはまっすぐに構え、引き金に力を込める。硬く、重い引き金を、か弱い子どもの力で振り切って……。
そのときだった。
がちゃり、と扉が開く音がした。
「ハオリュウ!?」
高く、澄んだ声が響いた。
――一番、知られたくない相手、異母姉メイシアの驚愕が聞こえた。
「姉様……!」
その隙を、コウレンは見逃さなかった。彼は勢いよく立ち上がり、テーブルに手を伸ばす。
何が起きたのか、ハオリュウは一瞬では理解できなかった。
気づいたら、テーブルの中央にあった硝子の花瓶がコウレンの手の中にあり、それがハオリュウの顔をめがけて投げつけられていた。
「……っ!」
花瓶が飛んでくる――!
ハオリュウは、慌てて両手で顔を覆った。
しかし……。
――刹那、遅かった。
額が、激しい痛みと衝撃に襲われる。その勢いのまま、彼の体は椅子ごと倒され、床に投げ出された。
ほぼ同時に、花瓶も床で砕け散り、水と花と、そして光の欠片となった硝子が宙を舞う。
蒼白になったメイシアの絹の悲鳴が、部屋を切り裂く。――しかし、ハオリュウとコウレンの耳には何も聞こえない。
鋭利な破片をもろともせずに、コウレンが駆けてくる。床に倒れたハオリュウに馬乗りになり、銃を奪おうとする。
奪われてなるものか――!
ハオリュウは咄嗟に腕を振るい、銃の台尻でコウレンを殴った。
コウレンの呻きと硬い感触が、掌に伝わってくる。頬骨に当たったようだが、しかしハオリュウの力程度で、相手の動きを止められるわけがない。
ハオリュウはなおも、もがき、暴れ続けた。
花瓶を打ちつけられた額が、床に叩きつけられた後頭部が、激しい痛みを訴える。撒き散らされた花瓶の水で、顔も服もぐしゃぐしゃに濡れそぼり、飛び散った硝子の破片で頬を切る。
活けられていた花が踏み潰され、ハオリュウとそっくりな無残な姿を晒した。
無茶苦茶でありながら、それでも何度目かに、ハオリュウの持つ銃がコウレンのこめかみをしたたか打ちつけた。
「こいつめ!」
激しい怒りに、目の前が真っ赤になったコウレンが、ハオリュウの首筋に手を掛けた。
そして、一気に絞め上げた。
5.夢幻泡影の序曲-2
ハオリュウの意識は朦朧としていた。
かすかに開いた目が、悪鬼と化した父の顔を映す。それを恐ろしいとは思わなかった。ただ、せめて道連れにしなければ、と焦っていた。
けれど、懸命に腕を振り上げても力は乗らず、殴りつけたところで、まるで効果がない。
絞めつけられた喉が気持ち悪かった。嘔吐感がこみ上げる。
「お父様、やめて!」
近くで、異母姉メイシアの叫びが聞こえた。
いつの間に、こんな近くまで来ていたのだろう? ハオリュウはそう思い、はっとした。
――姉様、危ない! 来るな!
失いかけた意識が、急にはっきりとした。
異母姉の唇は震えていた。突然、異母弟が父に銃を向け、父が異母弟の首を絞めていたら、混乱するのは当然だろう。
「だ、誰か……!」
「待て! これには、わけが……」
メイシアが助けを呼ぶ。その声に動揺したコウレンの手が緩む。
「ねぇさ……、にげ、てっ……」
ハオリュウは咳き込みながら、懸命に声を出した。
「とぅさ……、かげ……」
その瞬間、どす黒い顔をしたコウレンが信じられないほどに素早く動き、ハオリュウの手から拳銃を奪った。そして、ひと呼吸する間もなく、引き金を引いた。
「駄目――――!」
メイシアの絶叫――!
銃声よりも、衝撃が、激痛が、ハオリュウの五感を覆い尽くした。
耳の中が、轟音に満たされている気がするのに、何も聞こえず。
目の前が、何かの色で埋め尽くされている気がするのに、何も見えず。
……漂っているはずの硝煙の臭いさえも、感じ取れない。
「この、こいつ――っ!」
コウレンが悪罵した相手は、ハオリュウではなかった。
――メイシアだった。
彼女は咄嗟にコウレンの腕にしがみつき、銃口をそらした。心臓を貫くはずだった弾丸は狙いを外し、しかしハオリュウの太腿を撃ち抜いたのだった。
どくどくと、物凄い勢いで血が流れ出るのを、ハオリュウは感じた。
「ハオリュウ! しっかりして!」
叱責のようなメイシアの叫びが、ハオリュウの耳朶を打つ。
撃たれたのは足だ。……致命傷にならないはずだ。…………異母姉が守ってくれたのだ。……だから大丈夫。…………それよりも、早くこの場から彼女を逃さないと……。
そんな思いが、彼の頭をぐるぐると駆け巡る。
「ハオリュウ!」
「邪魔するな!」
コウレンがメイシアを振り払った。華奢な彼女は、小さな悲鳴を上げて突き飛ばされる。
「ハオリュウは、もはやハオリュウではない! 斑目一族に囚えられている間に、おかしな洗脳をされたのだ!」
ハオリュウは耳を疑った。
「そいつはハオリュウの姿をしているが、儂を殺しに来た暗殺者だ! 儂を殺そうとしているところを、お前も見ただろう?」
「な……に、をっ……!」
そんなハオリュウの呟きは、コウレンの大声に掻き消される。
「斑目一族にはそういう恐ろしい技術があるのだ! 儂は囚えられているときに、それを盗み聞きした!」
コウレンは――コウレンの中にいる厳月家の当主は、ずる賢さにおいては決して侮れない人物だった。だから、ハオリュウと自分の境遇をすり替え、もっともらしい説明をすることで、メイシアを味方につけようとしている。
〈影〉が狡猾な笑みを浮かべ、ハオリュウを見下ろす。
優しい父の顔が、卑劣な悪巧者の顔に染め替えられていく……。
「ふざけ……る、な!」
腹の底から、怒りが湧いてきた。純粋な嫌悪に、肌がぴりぴりする。殴り殺してやりたい――!
ハオリュウは、両腕で上半身を起こす。撃たれた足が床をこすり、赤い筋を描く。
美しい文様を持つ絨毯に、酸鼻な装飾が施された。けれど、そんなのは今更だった。絨毯の滑らかな毛足は、撒き散らされた花瓶の水と、無残に踏みつけられた花の残骸に、とっくに犯されている。
足の痛みで遠のきそうになる意識を叱咤し、両手で這うようにコウレンへと向かう。飛散した花瓶の欠片が掌に食い込み、皮膚を裂いた。
許せなかった。こんな男が父を穢すことなど、断じて許せなかった。
――と、ハオリュウ阻むように、メイシアが割り込んだ。
「お父様は、〈影〉のことをご存知なのですか?」
メイシアは緊張気味の、けれど冷静な声で尋ねた。
「お前も、知っているのか?」
「はい。イーレオ様を狙って送り込まれた〈影〉について、先ほど緊急の報告会が行われ、詳しい説明を受けました」
「どい、て……!」
かすれたハスキーボイスに苛立ちが混じる。
異母姉は、〈影〉である父に、〈影〉の話をしている。何故だ!? そいつこそが、〈影〉であるのに――!
けれどハオリュウの声は、異母姉に聞こえなかったのか。彼女はまったく動かなかった。
「お父様の部屋に来る前、お茶をいただこうと思って厨房に行ったんです。そしたら、メイドに言われたんです。『お父様はハーブティーがお好きなんですってね。異母弟さんが教えてくれましたよ』と」
ハオリュウとコウレンが、同時に息を呑んだ。ハーブティーは、父が〈影〉なのか否かを見極めるために、ハオリュウが使った手段だった。
「お父様はハーブティーが苦手なのに――ハオリュウがそれを知らないはずがないのに。おかしいと思ったんです」
「そうだ! そうなのだ! このハオリュウは〈影〉なのだ!」
コウレンが高笑いでもしそうな勢いで、声を張り上げる。
まさかとの思いが、ハオリュウを貫いた。まさか、異母姉に疑われるなんて……。惨めな床の上から、ハオリュウは愕然と彼女を見上げる。
そのとき。
自然に下ろされていたメイシアの両手が、少しだけ横に広げられた。まるで異母弟を隠すかのように……。
ハオリュウは、その後ろ姿を知っていた。子供のとき彼を庇った背中だった。まだ彼の背が彼女よりもずっと低くて、ちょうど今みたいに見上げていたころの――。
メイシアは、コウレンと向き合ったまま話を続ける。
「それから、ハオリュウのところに野蛮な警察隊員が尋ねてきた、とも聞きました。斑目は警察隊を抱き込んでいましたから、何か悪い相談をしていたのではないかと」
「それだ! だから、こいつは儂の命を狙ったんだ!」
メイシアの話を強引に都合よく結びつけ、コウレンが自身を正当化する。喜色を浮かべるさまは、とても元厳月家の当主とは思えないような小者の様相をしていた。
そんな醜い嗤いを聞きながら、ハオリュウは異母姉の意図を正確に受け止めていた。
彼女は、ハオリュウの行く手を遮ったのではなく、無謀に立ち向かおうとした異母弟を守ったのだ。銃を持った相手を刺激しないよう、細心の注意を払いながら。状況は理解していると異母弟に伝えながら。
異母姉の、無言の声が聞こえる……。
――〈影〉という技術は報告で聞いたから知っているわ。
警察隊員の緋扇シュアンさんと会ったのなら、ハオリュウも知っているのよね?
ハーブティーをお父様にお出ししたのなら、あなたもお父様が〈影〉ではないかと疑ったんでしょう?
そして、今、あなたとお父様が敵対しているということは……お父様は、やはり〈影〉にされてしまった、ということなのね……。
……異母姉も、気づいてしまった。
ハオリュウは、目の前が真っ暗になるのを感じた。
聡明な異母姉が〈影〉という技術を聞けば、すぐに感づくのは分かっていた。だから、急いでいた。
なのに危機に陥り、大切な異母姉に守られるなんて……。
「ともかく、儂を殺そうとする〈影〉は、始末しないとならんだろう」
コウレンが、ひときわ声を張り上げた。愉悦すら含んだ嗤いが頬を吊り上げる。
「メイシア、危ないからどいていなさい」
「……っ」
メイシアは小さく声を漏らした。
「メイシア?」
「……どけません」
「? どうした?」
彼女の体は震えていた。長い黒髪がさらさらと揺れていた。
「〈影〉は、『あなた』でしょう……?」
異母姉の顎から、光る雫が落ちてくるのを、ハオリュウは見た。それは、床に散らばる硝子が放つ、無機質な光とは対極の輝きをしていた。
「もう乱暴なことはやめてください。先ほどの銃声を聞きつけた人が、こちらに向かっているはずです。ここは凶賊の屋敷。戦闘のプロです。父の体を持った『あなた』が敵う相手ではありません」
「こ、この……!」
コウレンが真っ赤になって叫ぶ。
「ええい! ともかく、儂の命を狙ったこいつは殺す!」
コウレンが癇癪を起こしたように言い捨てた。銃を握りしめ、メイシアを押しのける。
――その銃口をメイシアが掴んだ。
そして強引に引き寄せ、自分の胸に押し当てた。
「な……っ!?」
コウレンが目を見開く。
床に倒れているハオリュウは、一瞬遅れて異母姉の行動に気づいた。だが、その真意は理解できない。
「あなたが銃を向けるべき相手は、私です」
メイシアが凛とした声を放つ。
美しくも、畏ろしい戦乙女の姿が、そこにあった。
「生き残りたければ、ハオリュウを殺すのではなく、私を人質に取りなさい」
「どういうことだ?」
コウレンの濁った目に疑問が浮かぶ。
「言ったでしょう? ここは鷹刀の屋敷です。ここでは『あなた』には、なんの権力もありません」
黒曜石の瞳がコウレンを捕らえ、その視線だけで、彼の体の自由を奪う。
「ハオリュウに危害を加えたら、私は鷹刀の力を借りて『あなた』を殺します。――私のことも殺したら、ルイフォンが『あなた』を許すはずがないでしょう。地獄の果てまで追っていくはずです」
「……あ、……ああ!」
コウレンは――コウレンの皮を借りただけの〈影〉は、初めて、ここが敵地の真っ只中であることに気づいたのだった。
5.夢幻泡影の序曲-3
リュイセンが部屋を出ていき、ルイフォンはひとり、ソファーに体を投げ出した。
「メイシアに、なんて言えばいいんだよ……」
両手で顔を覆い、視界を閉ざす。
彼の論理的解析と、兄貴分の野生の直感が、同じ答えを出したならば間違いないだろう。
――メイシアの父、コウレンは〈影〉に体を奪われた。
そして、どういった経緯かは知らぬが、ハオリュウがいち早く気づき、他の者から真実を隠そうとしている。
彼の目的は分からない。けれど、異母姉メイシアのためなのだろう。
ともかく、ハオリュウと話をしたい。――ルイフォンは頭の中を整理する。
ハオリュウは父親を見舞っていて、だからコウレンの部屋に行けば会うことはできる。しかし、メイシアもそこにいるはずだ。ふたりきりで話をするためには、ハオリュウが割り当てられた客間に戻るまで待たねばなるまい。夕方くらいまで無理だろうか。
それより気になるのが、同じ話を聞いたメイシアが、父が〈影〉であると気づいてしまわないか、ということだ。ハオリュウが偽者の父をフォローして、ボロが出ないようにしているようだが、彼女は聡明だ。果たして……。
そんなことを考えながら、ルイフォンは前髪を掻き上げる。
――緋扇シュアンは、知人であった先輩を〈影〉にされ、殺したという。先輩の体をいいように弄ばれるくらいならば、と。
なら、コウレンは?
メイシアの父親でありながら、別人である彼のことは、どうすればいい……?
『お前らは、いい奴だな……』
不意に、夜闇の別荘で聞いた、斑目タオロンの言葉を思い出した。
『だから……、俺が悪役になるほうがいい』
タオロンはそう言って、コウレンを撃った。結果としては、外してしまったが――。
「…………」
ルイフォンの手が頭から滑り落ち、ソファーから、だらんと垂れた。
遠くから、けれど確かに、銃声が聞こえたのは、それから少しあとのことである。
ルイフォンは飛び起きた。
〈影〉が何かしたのだと、迷うことなく悟った。――と、同時に彼は走り出した。
ルイフォンは、コウレンの部屋の扉を開け放った。
視界に映るのは、明るい陽射しの注がれる窓。――逆光に照らし出されるシルエット……。
「メイシア!」
ルイフォンが叫ぶ。
半分重なったような、ふたつの影が、同時に動いた。
「ルイ……!」
彼の名を呼ぶメイシアの口を、コウレンがふさぐ。そして、彼女の体をぐっと引き寄せた。
「動くな!」
そう言いながらも、ルイフォンを恐れるかのように、コウレンは後ずさる。
コウレンの顔に、斜めに陽が射し込んだ。片目が黒く沈み、反対の頬が不気味に白く浮き上がる。その顔は、追い詰められた狂人の形相――。
……コウレンは、メイシアに向かって銃を突きつけていた。
「くっ……」
ルイフォンは小さく息を漏らした。
乱闘があったのだろう。コウレンの足元には、花瓶の破片が散っている。
そして、硝子の鋭く光る床に、ハオリュウがいた。その姿を――ルイフォンは、にわかに信じることができなかった。
「ハオリュウ……?」
下半身が血にまみれていた。
床に赤い水たまりが広がっている。規模は決して小さくない。そのことを示すように、彼の顔色は透き通るように白かった。額が割られ、流れ出た血の筋だけが赤い。
それでもハオリュウは、両手で上半身を支え、コウレンを睨みつけていた。
血の臭いが鼻を突く。
ハオリュウを凝視していたルイフォンは、勢いよく顔を上げた。彼の背で、一本に編まれた髪が跳ね、金色の鈴が光る。
「許さねぇぞ……」
ルイフォンとは思えないくらいに低く、唸るような声。眼光だけで斬れそうな、鋭い目を向ける。
「どうせ、お前も、儂が〈影〉だと知っているのだろう?」
しゃがれたコウレンの声が響く。
「ならば、分かるな? ――この娘を殺されたくなければ、儂の言う通りにしろ」
口をふさがれたメイシアが、力なくうなだれた。陰りの中の彼女の顔は鮮明には見えないが、やり場のない思いは伝わってくる。
「何を要求する気だ?」
ルイフォンは尋ねた。
「そうだな。金を用意してもらおうか。儂は新しい人生を生きねばならぬ。金がなければ始まらない」
「如何にも、悪党の言いそうなことだな」
吐き出すように、ルイフォンは言い捨てた。コウレンの顔の影が濃くなり、むっと鼻に皺を寄せる。
「口のきき方に気をつけろ。この娘がどうなるか、知らんぞ」
「……っ」
ルイフォンは唇を噛んで、押し黙る。
「ああ、そうだ。儂をこんな目に遭わせた斑目一族の総帥と、厳月の当主と、それから〈蝿〉という男を暗殺しろ」
「なっ……!?」
「凶賊なら、暗殺など、お手の物だろう?」
「ふざけんな……」
ルイフォンの悪態を、コウレンは鼻で笑う。
「奴らの死が確認できるまで、儂はこの部屋で娘と待つ。食事は、お前たちの総帥と同じものを持ってくるように。娘に毒味をさせるから、下手なことは考えないほうがいいぞ」
初めは脅えの見えたコウレン――〈影〉も、要求を重ねていくうちに調子づき、口が滑らかになっていった。ルイフォンはぎりぎりと奥歯を噛み締める。
「言いたい放題だな……」
「逆らう気か? なら、儂の言うことをききたくなるように、そこの死に損ないの小僧を撃とう。そいつは儂を殺そうとしたから、ちょうどいい。人質は娘がいれば充分だ」
勝ち誇ったように言い放ち、正気が弾け飛んだかのように嗤う。
コウレンは愉悦の顔でハオリュウに銃口を向けると、ねっとりとした声で「さあ、どうする?」とルイフォンに問いかけた。
ルイフォンは、ややうつむき加減になって、ぐっと拳を握りしめた。
腹の底から怒りが噴き出す。胸の中をやり切れなさが渦巻く。それらをすべて押し出すように、細くゆっくりと、彼は息を吐いた。
肺の空気を完全に出し切ったあと、背を起こしながら息を吸う。再び前を向いた彼は、表情の消えた無機質な顔をしていた。冷ややかな瞳がコウレンを映す。
そして――。
ルイフォンは、握りしめたままの両手を緩やかに上げた。
「良い心がけだ」
コウレンの顔が卑劣に歪む。
そのとき、ルイフォンの左手が、窓の陽を反射して、きらりと光った。
「眩し……」
鋭い光がコウレンの目に刺さる。
次の瞬間、ルイフォンの右手が振り下ろされた。輝く尾を伸ばす、彗星のような刃が、一直線にコウレンに向かっていく――。
鈍い音がした。
コウレンの眉間に、菱形の刃が突き刺さっていた。
そのまま、体が後ろに倒れる。――続く、地響き……。
衝撃に、額から刃が抜け落ちた。床に散らばる硝子の欠片とぶつかり、悲しいくらいに澄んだ高い音を立てる。窓からの陽射しを跳ね返し、コウレンの目をくらませたのと同じ光を放った。
「…………!」
メイシアの、声にならない悲鳴が響いた。髪を振り乱し、コウレンに駆け寄る。
力なく横たわったコウレンの手には、もはや拳銃はなかった。
「お父様……!」
メイシアは父の手を握りしめ、頬を寄せる。黒曜石の瞳は大きく見開かれ、涙があふれ出てきても瞬きひとつしなかった。
声を殺し、耐えるように、むせび泣く。
静かな、静かすぎるメイシアの慟哭……。
――すべて、承知の上だった。
ルイフォンは、迷わなかった。
銃声が聞こえたときに、覚悟していた。だから部屋を出る前に、両袖に刃を仕込んだ。
けれど今、彼はメイシアのそばに行って、肩を抱くことはできなかった……。
「ルイ、フォン……」
ハオリュウが彼を呼んだ。
ルイフォンは黙って頭を下げた。
「あなた、は、僕たちを、助けた……。ありがとう……」
それだけ言うと、ハオリュウは力尽きたように、起こしていた上半身を床に伏した。
「ハオリュウ!? おい、ハオリュウ!」
ルイフォンは叫ぶ。走り寄る足の下で、硝子の砕ける音がした。
抱き起こしたハオリュウは、血の気の引いた顔で荒い息をしていた。
「大丈、夫、ですよ、と、……言いたいところ、です、が、ちょっと、きつい……ですね」
「今、ミンウェイを呼ぶ」
ルイフォンが携帯端末を手にしようとしたとき、メイシアの「お父様!?」という甲高い声が聞こえた。
「お父様!? 本当に、お父様なの? ――ハ、ハオリュウ!」
この場には不似合いな、歓喜の混じった驚愕の声。何があったのかと、ルイフォンが問いかけるよりも先に、メイシアが叫んだ。
「ハオリュウ、お父様が!」
彼女は長い髪を翻し、こちらに半身を向けた。輝かせた目が、異母弟を呼んでいる。
「ハオ、リュウ! ハオリュウ、いる……だ、ね! 誘拐……、解放された、ん……」
青白い顔のコウレンが、たどだとしくも嬉しそうに叫んだ。
その眉間には生々しい刃の傷があり、毒に侵され変色していた。もはや、口の聞ける状態ではないはずだった。
何が起きているのか――そんなことを考えている場合ではなかった。ルイフォンは、ただ反射的にハオリュウを抱きかかえ、コウレンのもとに連れて行く。
コウレンは、ハオリュウの姿を求めるように、弱々しく指先を動かしていた。ルイフォンは膝をつき、ハオリュウを下ろす。
「お父様、ハオリュウは、そこにいます!」
「どこ……かな? なんか……目が、霞んで……、ね。歳、かな、はは……」
コウレンが照れたように笑う。体が自由に動くのなら、恥ずかしそうに頭を掻いているのだろう。そんな姿がありありと浮かんできた。
メイシアの語った、優しい父親。当主としては頼りないけれど、暖かくて穏やかな、素朴な人物。初めて会う人だけれど、ルイフォンにも分かった。そこにいるのは、確かに藤咲コウレン、その人だと。
「父……様……!」
血相を変えたハオリュウが、腕にしがみつくように父に触れた。
「ああ、ハオリュウ……! 無事……ったんだね……。無事で、無事で……! 君が、無事……よかった……。本当に、よかった……」
コウレンの目から、涙がこぼれ落ちた。
透明な雫は、あとからあとから流れ落ち、とどまることを知らない。
大の大人の男が、子供たちの父親が――。
なんのてらいもなく、それが当然のことであるかのように――。
「ごめん……ね。頼りない、父で……。君……たく、さん……怖い、思い……辛い……させた、ね」
「違うっ! 父様はっ……!」
ハオリュウのかすれた声が裏返る。
彼のためにこぼされた涙が、熱くて痛くて――伝えたい思いが陳腐な言葉になって、ハオリュウの口から飛び出した。
「父様! 僕は、父様が、好きです!」
ハオリュウはずっと、父のことをどこか物足りない目で見ていた。嫌いではなかった。けれど、好きだと思ったことはなかった。そのはずだった――。
「そう……か。嬉しい、なぁ……」
子供のように無邪気に、コウレンが笑う。
「メイシア……も、心配、かけた……ね。君の、泣き声……聞こえ……よ」
「お父様……!」
「ああ……、君たちの……顔、見たい、な……」
コウレンがそう呟き、苦しげに息を吐いた。
「お父様!」
「父様!」
メイシアとハオリュウの姉弟が、同時に叫ぶ。
「ああ……、見えて……きた……、君たちの顔……」
そう言って、コウレンは嬉しそうに笑った。
心から幸せそうに笑った。
「……私の、大切な……宝物……」
わずかな腕の動きが、ふたりを抱き寄せようとしているコウレンの心を示していた。
それが、最期だった。
メイシアが泣き崩れた。動かぬ父の手を握りしめ、声を詰まらせながら、必死に何かを語りかけていた。彼女がしゃくりあげるたびに、長い黒髪が揺れる。
そんな異母姉の背に、ハオリュウが手を添える。今にも気を失いそうなほどの重傷のはずなのに、彼はしっかりと異母姉を支えていた。
――これは、覚悟していた光景だ。
激しい苦しみを伴いつつも、メイシアを、ハオリュウを、コウレン本人を救う手段である……はず――だった。
ルイフォンは、よろけるように一歩、後ずさる。
目の前が真っ暗だった。心臓が勢いよく収縮と膨張を繰り返し、今にも飛び出しそうになる。
――〈影〉となった者は、決して元に戻らないのではなかったのか?
疑問が、頭の中を渦巻く。
――今、ここで死んだ者は、間違いなくメイシアの父、藤咲コウレンだった……。
この状況を冷静に分析し、導き出される事実……。
――〈影〉の記憶が戻るのなら、――〈影〉が本人に戻るのなら、自分のしたことは……。
ただの殺人だ――。
6.哀に溶けゆく雨雫-1
どこからともなく現れた暗い雲が、蒼天を侵す。昼過ぎまでは眩しいくらいだった陽光を遮り、世界を灰色に塗り替えていく。
まもなく桜流しの雨が来そうだと、イーレオは執務室の窓から覗く花を憂えた。つい先ほどまで、華やかに輝いていたというのに、まさに泡沫。なんとも儚い。
彼は溜め息を落とし、執務机に肘をついた。組んだ指に顎を載せる。
視界に映るのは、向かい合うように並べられた、応接用の二脚のソファー。片側には、昨晩から屋敷に入り浸りのシャオリエが足を組んで座っており、その向かいには、次期総帥エルファンが眉間に皺を寄せて押し黙っている。
背後には、いつもの通りに護衛のチャオラウが控えているが、総帥の補佐を担うミンウェイの姿はない。医者でもある彼女は、大怪我を負ったハオリュウの手当てに奔走していた。
「部屋が暗いわね」
男どもの陰気さに、耐えかねたシャオリエがぼやきを漏らした。普段なら、わざわざ口に出して言わなくてもミンウェイが照明をつけていることだろう。
慌ててエルファンが立ち上がろうとするが、それより先にチャオラウが動いていた。ぱちり、という音と共に、部屋が明るくなる。
これで少しはましになるかと息をついたシャオリエだったが、辛気臭い顔がよりはっきり見えるようになっただけ、という現実にうんざりした。
「ルイフォンは、自分で考えて行動したんだから、仕方ないでしょう?」
ソファーに背を預け、シャオリエは周りを睥睨する。アーモンド型の瞳は、ルイフォンではなく、この場にいる者たちへの苛立ちを訴えていた。
「分かっているさ、シャオリエ」
溜め息と共に、イーレオの魅惑的な低い声が吐き出された。彼は、やりきれなさに額を歪め、哀しげに笑う。
「自棄になっていたなら、俺は止めた。でも、そうじゃなかった。あいつは冷静だった」
だから、認めてやるしかないのだ。
――メイシアとハオリュウの父、藤咲コウレンは〈蝿〉によって別人にされた。脳に他人の記憶を書き込まれた〈影〉と呼ばれる存在に。そのことに、いち早く気づいたのはハオリュウだったが、結果としてルイフォンが〈影〉を殺した。それが救いになるのだと信じて。
重傷のハオリュウにメイシアを付き添わせ、ひとり執務室に来たルイフォンは、事態の報告を終えるとイーレオに頭を下げた。
『総帥――いや、親父。頼みがある』
ルイフォンの重いテノールが耳に残っている。母親そっくりの猫の目が、突き刺さるように鋭く光っていた。
「まさか、〈影〉に記憶が戻るとはな……」
イーレオが呟く。
「それでも、〈影〉が本人に戻ることはないわ。そんなことができるなら、緋扇シュアンに殺された警察隊員は、もっと言葉巧みにシュアンを誘惑したでしょう」
肩を落とす一族の総帥を叱りつけるように、シャオリエはアーモンド型の瞳を冷たく光らせる。
「確かに、ごくまれに断片的な記憶が残っていることはあるわ。でも、それだけよ」
苛立ちを含んだ声で、彼女はぴしゃりと言い放った。
執務室の空気が沈む。
ふと、シャオリエがソファーにもたれていた背を起こした。胸元のストールが、ふわりと揺れる。
「……来たみたいね」
彼女は体をずらすように、足を組み替えた。
この場にいる者たちは皆、気配を読むことに長けている。だから、誰が来たのかは分かっていた。彼らは思い思いに頷くと、憂鬱な顔を扉に向けた。
両目を真っ赤に腫らしたメイシアが、緊張の面持ちで執務室に入ってきた。血の気の失せた顔は、白磁よりも白い。服は着替え、髪は整えてある。しかし、彼女を見た瞬間、誰もが『ぼろぼろだ』と感じずにはいられなかった。
彼女の視線は、ちらちらと落ち着きなく揺れ動いていた。ルイフォンの姿を探しているのだろう。そして、彼がいないことを悟ると、彼女の顔は不安に彩られた。
エルファンやシャオリエに会釈しながらソファーの脇を抜け、メイシアは執務机の前に立つ。濁りのない黒曜石の瞳でイーレオを見つめ、彼女は深々と頭を下げた。
「このたびは、藤咲家が大変、ご迷惑をおかけいたしました。あとで改めて異母弟を連れてまいりますが、まずは私からお詫び申し上げます」
凛とした声で、彼女はそう言った。
イーレオは、虚を衝かれた。
「何故、お前が――藤咲家が謝るんだ?」
メイシアが執務室に来ることは分かっていた。けれど、彼女がなんと言ってくるかは予測できないでいた。ただ少なくとも、『藤咲家』として謝罪の言葉を出すとは、考えてもいなかった。
メイシアは、まっすぐにイーレオを見上げる。
「異母弟ハオリュウは、誰よりも先に父が〈影〉にされていることに気づきました。だから身内で片を付けようとしたのですが、力及ばず、結果として鷹刀を――ルイフォンを巻き込みました」
言葉だけは、毅然としていた。
けれど、今にも壊れそうな、繊細な硝子細工の体は震えていた。それでも胸元のペンダントを握りしめ、気迫だけで彼女は自分を支える。
「そもそも、囚われた時点で父が〈影〉にされていたのなら、父を助け出してほしいという依頼は、不可能なものでした」
「メイシア、いったい……?」
彼女の意図が分からず、イーレオは困惑する。そこに、すっと高い声が割り込んだ。
「お前はそうやって藤咲家に落ち度があることにして、ルイフォンが父親を殺害したことを罪とみなさないようにしているのね」
「シャオリエさん……!」
メイシアは叫び、ソファーのシャオリエを振り返る。
「ルイフォンは父を殺したわけじゃありません! 父を救ったんです!」
きっ、とシャオリエを睨みつけた瞳から、涙がこぼれた。彼女は歯を食いしばり、嗚咽をこらえる。
そんなメイシアを鼻で笑い、シャオリエは組んだ足を戻しながら、ぐっと身を乗り出した。
「そう思うのはお前の勝手だわ。でも、現実はこう。――ルイフォンの投げた刃がお前の父の命を奪った。ルイフォンは、初めから殺すつもりで眉間を狙っていた。ご丁寧にも、刃には致死の毒が塗ってあった……」
「あのときの父は、父ではありませんでした! ハオリュウを本気で殺そうとしていました。あれは〈影〉です。父じゃない!」
メイシアは、全身で言葉を叩きつけた。大きく肩が揺れ、黒髪が舞う。けれども、すべてを見透かしたようなアーモンド型の瞳が、冷酷に嗤う。
「でも、死の間際にお前たちと会話したのは、確かにお前の父親だったのでしょう? ならば、元に戻る可能性はあったのかもしれない。けれど、ルイフォンが殺してしまったから、可能性はゼロになってしまった。……違うかしら?」
「違います!」
噛み付くように、メイシアは言い返す。
「あれは、父が亡くなる直前だったからこその奇跡です! 本来なら、父は〈影〉のまま亡くなるはずでした。それが、奇跡が起きて、最期に父と逢えたんです」
「欺瞞よ。ルイフォンが、お前の父を殺したという事実から目を背けているわ」
メイシアの反応を楽しむように、シャオリエが艷然と口の端を上げる。まるで挑発するかのように顎を上げると、長めの後れ毛が襟元で嫋やかに転がった。
メイシアは、かっと頭に血が上るのを感じた。深窓の令嬢として、穏やかに慎み深くあるよう育てられた彼女が、思わず我を忘れた。
「シャオリエさん! たとえあなたでも、そんなことを言うのは許せません!」
視線で射殺さんばかりの剣幕。涙を見せる脆さを持ちながらも、決して譲らない強さ――。
シャオリエは、ふっと柔らかく息を吐いた。
「『欺瞞』――そう言ったのは、ルイフォンよ」
「え……?」
メイシアは、きょとんと目を丸くした。
「イーレオが総帥になる前の鷹刀は、〈七つの大罪〉と組んでいた。だから、ここにいる者は皆、知っている。――『〈影〉は、元には戻らない』と」
シャオリエは目線を巡らし、イーレオを、チャオラウを、エルファンを順に見やる。
「だから、私たちはルイフォンに言ったわ。『藤咲コウレンの死は不可避だった。最期に戻ったのは、記憶の上書きのミスで、ただの幸運。お前は間違っていない』とね。けれど、ルイフォンは『欺瞞だ。わずかでも元に戻る可能性はあったはずだ』と、突っぱねた」
メイシアは、はっと顔色を変えた。
「シャオリエさん。今までのあなたの言葉は、ルイフォンが言ったことの代弁なんですね!?」
「そうよ」
察しのいいメイシアに満足したのか、シャオリエがアーモンド型の瞳を細める。
「ルイフォン――。ルイフォンは何処ですか!?」
執務室にいるとばかり思っていた彼が、いないと気づいたときから、胸騒ぎがしていた。
彼は自責の念にかられていたはずだ。だから、彼は悪くないのだと、自分たち姉弟は彼に救われたのだと、伝える必要があった。
「メイシア」
イーレオの低い声が、静かに響いた。
「ルイフォンは、こう言った」
――親父さんが戻る可能性があったのか、なかったのか、それは分からない。
でも、メイシアは俺を気遣って『絶対に戻らなかった』と言い張るに決まっている。『戻るかもしれなかった可能性』を信じて、悲しむことができない。
そんなのは、間違っている。
「ルイフォンは、何処にいるんですか!」
――メイシアの親父さん、本当にいい人だったんだ。子供たちが無事だというだけで大泣きして。
素朴で優しくて。のんびりと、穏やかな生活を送ってきた人だ。……送るべき人だった。
――メイシアもそうだ。あいつは危険なんか知らない世界の人間だ。
警察隊が屋敷から出ていったあと、人工知能の〈ベロ〉に俺がショックを受けていたとき、あいつは俺にこう言ったんだ。
『無事だったことを喜びたい』。
それだけのことがどれだけ大切か、俺に教えてくれた。
――生きる世界が違ったんだ。
俺にとっても、親父にとっても、あいつが魅力的なのは当然だ。
だって、生きる世界が違って、見たこともない存在で、知らない世界を見せてくれて……。
惹かれないわけがないじゃないか。
――親父、あいつを元の世界に戻してやってくれ。頼む。
俺が、鷹刀が、あいつの父親を殺した。
そんなところに、あいつをおいておきたくない。
――あいつを『取り引き』から解放してやってくれ。
もう、『取り引き』とか、人間的魅力とかの範疇を超えているだろう?
あいつの要求は父親の『救出』だった。『殺害』じゃない。
鷹刀の人間である俺が殺したなら、あいつの取り引きを果たしていないどころか、逆のことをしたんだ。
――俺は、助けるべき人間を、殺した。
高潔であらんとする鷹刀の人間として、あるまじき行為をした。
「ルイフォンは!? ルイフォンは、何処!?」
メイシアは、イーレオに詰め寄る。
掴みかからんばかりの距離で叫びながら、……その先の言葉を聞くべきではないと分かっていた。
「『責任を取って、俺は出ていく』――ルイフォンは、そう言って俺に頭を下げた」
「あぁ……」
糸の切れた操り人形のように、メイシアの体がぺたんと床に落ちた。
「ルイフォン……」
視界に映るのは、絨毯に広がる大量の血痕。〈ベロ〉による殺戮の跡。いずれ取り替えられ、見た目に綺麗になったとしても、血塗られた事実が消えるわけではない。そんな場所が凶賊の生きる場所だ。
「……違う。ルイフォンは鷹刀を出ると言っていたの。凶賊でも貴族でもなく、一緒に居ようって……」
メイシアは誰に言うわけでもなく、呟く。
『そばに居てほしい』
『……そばに居たら、お前も巻き込むのかもしれない。ごめんな。けど――』
『――この先、俺はお前なしの生活なんて考えられないから』
優しいテノールを聞いたのは、つい昨日のことだ。
それなのに、ルイフォンは彼女を置いて、ひとりで何処かに行ってしまった。
「……逢いたい」
メイシアの頬を、ひと筋の涙が流れた。きらりと光る雫は床に落ち、どす黒い血糊の上に塗り重ねられて輝きを失う。
「メイシア……」
頭上に、イーレオの静かな低音が降りてきた。。
「俺も、お前とルイフォンを逢わせてやりたいと思う。……けど、あいつが、頭を下げて俺に頼んだんだ。『メイシアを貴族に戻してほしい』と」
「……」
「それに、お前にはハオリュウがいる。お前が藤咲家を出たら、彼は父親に続いて異母姉まで失う。それでいいのか。……俺は迷うよ」
沈痛な面持ちで、イーレオはそう言った。
ハオリュウは大怪我を負った。ミンウェイの処置のお陰で大事には至らなかったが、足に障害が残るという。しかもこの先、彼は年少の身で当主として立つことになる。相当な不安を抱えていることだろう。
執務室が静まり返る。
春の嵐が、いよいよそこまで近づいてきたのか、外がふっと暗くなった。薄暗い窓硝子に、床に座り込んだメイシアの姿が淡く映し出される。肩を落とし、生気を失ったような角度に首を曲げているのが、朧げな像でも見て取れた。
彼女にも分かっている。
イーレオを通して聞いたルイフォンの言葉は、苦しいほどにメイシアを愛していた。とても綺麗に愛していた。
でも――。
「我儘でいいって。欲しいものを欲しいと言っていいって……ルイフォンは言ったの」
愛することは、決して綺麗なだけではない。優しい言葉と温かい微笑みだけの世界ではない。
傷つけ合ったり、すれ違ったり、伝わらなかったり。泣いたり、怒ったり、笑ったり……。
「逢いたい」
小さな呟きが、部屋の空気の流れに逆らう。
「逢って、もう一度、あなたが欲しいって、言いたい……! 伝えなきゃ、駄目なの……!」
吐き出された想いの奔流が渦を巻き、力強く突き抜ける。
不意に――。
「メイシア」
低い声が響いた。
メイシアは初め、イーレオの声だと思った。けれど、聞こえた方向が違う。
「私がルイフォンのもとに連れて行ってやろう」
「エルファン様……!?」
次期総帥エルファン。父親そっくりの容貌と声質を持つ、イーレオの長子。互いに見知ってはいても、メイシアと彼は、直接、言葉を交わしたことはなかった。思わぬ申し出に、メイシアは瞳を瞬かせる。
「このまま別れたら、お前もルイフォンも、一生後悔するからな」
今まで、ひとことも発さなかった彼が、ただの事実だと言わんばかりに端的に述べた。
「エルファン、お前……?」
意外な風の吹き回しに、イーレオも目を丸くする。エルファンは、愛想のない冷たい美貌のままに、口の端だけを上げた。
「ルイフォンは、父上にはメイシアのことを頼んでいましたが、私には何も言っていません。ならば、私が何をしようと、私の勝手でしょう」
「エルファン様! ルイフォンが何処に行ったのか、ご存知なのですか!?」
メイシアは、驚きの声を上げた。ルイフォンは、てっきり行方知れずなのだと思っていた。
そういえば――イーレオたちは、慌ててはいないのだ。ルイフォンが出ていった事態を重く受け止めているが、心配しているのとは少し違う。
「お前は、あの計算高い男が、無計画に飛び出したとでも思っていたのか?」
エルファンの怜悧な視線が突き刺さる。それは的を射た言葉で、メイシアは恥ずかしくて悔しい。自分はまだまだルイフォンのことを理解していないのだと思い知らされる。
――屋敷を出たルイフォンは何処に行くのだろう。
エルファンの口ぶりからすると、住む場所は確保されていると思われる。知り合いのもとに身を寄せるのだろうか。
メイシアが一緒に行ったことのある場所は、情報屋トンツァイの店と、シャオリエの娼館だけだ。そのどちらかだろうか。あるいは、彼女のまったく知らない誰かのところに?
そう考えて、メイシアは否定した。ルイフォンが誰かを頼るとは思えない。彼は自分で生活する自信があるはずだ。何しろ、彼女に『俺のもとに来い』と言ったのだから。
ルイフォンは、合法的な手段でも稼げると言っていた。けれど、メイシアが知っている彼の職業は、クラッカー〈猫〉。鷹刀一族と対等な協力者。本当は鷹刀の一族であって、一族ではない。彼がこの屋敷にいるのは、母親が亡くなったとき、まだ彼が小さかったから……。
「あ……! ルイフォンのお母様の家……。――そうですね!?」
母親と住んでいた家があるはずだ。そこに〈ベロ〉の兄弟機、〈ケル〉がいると言っていた。家はそのまま残っているはずだ。
風が、わずかに残っていた桜をさらう。窓硝子に花びらを貼り付け、薄暗い部屋に華やぎを添えていった。
6.哀に溶けゆく雨雫-2
ふと、空を見たくなった。
だから、ルイフォンはテラスに出た。ガーデンチェアーに身を預け、天を仰ぐ。
けれど、そこに青い空はなかった。
薄暗い雲が広がっていく。ところどころに濃淡を作りながら流れていくのに、気づけば、世界は単調な灰色一色に塗り替わっている。
曇天が、そのまま落ちてきそうな錯覚に見舞われ、目眩がしてきた。ルイフォンは逃げるように目線を下げる。庭を見やると、芝で覆われているはずのそこは、一面の桜の花びらで埋め尽くされていた。
鷹刀一族の屋敷の大樹ほど立派ではないが、この庭にも桜がある。定期的に庭師に手入れを頼んでいるのだが、昨日から今日にかけて一気に散った花びらは、まだ手付かずの状態のようだった。
これは酷いなと、彼は溜め息をつく。いつもなら、すぐにも庭師を呼ぶところだが――。今は人に会いたくなかった。
おそらく、近いうちに彼を心配したミンウェイあたりがやってくるだろう。だからルイフォンは、家の玄関扉は勿論、門扉も〈ケル〉によってロックした。よって現在、この屋敷は彼以外、何人たりとも立ち入ることはできなくなっている。
「……ごめんな」
届くわけもない謝罪を口にする。
遠くから、重い雨の匂いがした。大気の苦い圧力を感じ、彼は背を丸める。
――彼女の父親を殺害した。
取り返しの付かないことをした。
殺すことだけが解決策だと思い込んだ。それが救いになるのだと信じ込んだ。
けれど、父親は子供たちを忘れていなかった。
『君たちの顔を見たい』――そう願った。
最後に『見えてきた』と言っていたが、あれは嘘だ。あの状況で目が見えるわけがない。だから、あの言葉は子供たちを悲しませないための愛情だ。
「親父さん……、すみません……」
彼と、言葉を交わしたかった。
彼に、『メイシアを一生、大切にします』と、きっぱり宣言したかった。周りに冷やかされながら――祝福されながら。
拳銃を持った手を狙えばよかった。毒なんか塗らなければよかった。
たとえ何年掛かったとしても、必ず元に戻してやると――。
誰がなんと言っても……。
「――俺だけは……、信じるべきだったんだよ!」
拳を握りしめ、ルイフォンは叫ぶ。
固く目を瞑り、声にならない声を上げる。
激しく頭を振り、一本に編まれた髪が背で暴れる。けれど金色の鈴は、曇天のもとでは光を放つことはない。
誰も、ルイフォンを責めなかった。
誰ひとり、ルイフォンを責めなかった。
「でも、それじゃ、親父さんは死んで当然、ってことじゃねぇか! 親父さんが可哀想じゃねぇか! なんで、誰も分からねぇんだよ!」
それは、ルイフォンのためだ。残されたルイフォンを傷つけないために、皆が気を遣う。
だから、せめて、自分だけは――。
――あの穏やかで優しい父親のために、憤り、悼み、悲しみ――責めようと……思ったのだ。
肩を落とし、溜め息をつく。
ルイフォンは、ガーデンチェアーに身を投げ出した。
また、薄暗い空が目に入る――。
不意に、天から雫が降ってきた。
ぽつり、と。ルイフォンの頬を濡らす。
「雨……」
テラスの上にも、細長い筋を伸ばしながら、水滴が落ちてくる。
灰色のコンクリートに、薄黒い点がぽつり、ぽつりと描画されていく。あちらに、こちらに。不規則なようでいて、まんべんなく。たとえ近くに落ちても、決してぴたりと重なることなく――。
「はは……。雨の奴、綺麗な乱数を作りやがる」
そう呟いてから、ルイフォンは馬鹿だな、と思った。自然現象を相手に『乱数を作る』とは変だろう。彼の組むプログラムではないのだ。
「ああ、頭が働いてねぇや。疲れてんのか、俺……」
テラスに現れた点描画は、時々刻々と変化していく。激しくはないものの、すぐには止みそうもない。
ルイフォンは雨空を見上げる。
――そして、想う。
「メイシア……」
違う世界から舞い込んできた小鳥。
彼女に鳥籠が似合うとは思わない。けれど、彼女が飛ぶべき空は澄み渡った青天であって、渦巻く嵐の荒天ではない。
だから、忘れてほしい。
彼女が嵐に見舞われたのは、ほんの数日。刹那のできごと。
一緒に居た時間は、たったそれだけだから。
「代わりに俺が、一生忘れないから」
癖のある前髪をかすめ、冷たい雨の雫が瞼を濡らす。頬の曲線をなぞり、顎から滴る。
空が、ルイフォンを包み込む。
「泣く資格のない俺のために、泣いてくれるのか? ――なんて、な……」
メイシアは――。
――きっと、泣いているだろう……。
「……フォン……」
「ルイ…………ン……」
小鳥がさえずるような、高く澄んだ声が聞こえた。
けれど、それは、彼女を愛おしむ心が求めた幻聴だろう。この屋敷は〈ケル〉によって、外界から固く閉ざされているのだから。
ルイフォンがそう思ったとき、強い風が吹いた。
雨の重みに逆らい、庭を埋め尽くす花びらを盛大に巻き上げる。さわぁ……と、鮮やかに花が歌い、空に舞う。
一度、地に落ちたはずの花々が、再び天に戻り、華やかな薄紅色の花吹雪となって蘇る。
「ルイフォン――!」
花嵐の向こうから、桜の精が現れた。
黒絹の長い髪を風になびかせ、白磁の肌をほんのり桜色に染めて走ってくる。
彼の姿を確認すると、彼女は黒曜石の瞳を輝かせた。
「ルイフォン。私、来たの!」
彼女は肩で息をしながら、彼に叫んだ。
「何もかも、全部、無視して……。――振り切ってきたの……!」
「……メイシア!?」
彼女が口にしたのは、彼女に想いを告げたときに、彼が言った言葉――。
『振り切っちまえよ』
『しがらみも『取り引き』も、全部、無視だ』
『――俺のところに来い』
「だから、あなたも――」
彼は身動きが取れなかった。
透き通るような、凛とした声が雨を払う。嫋やかな外見に反する、揺るぎない意志が風を貫く。
「私のところに来て!」
メイシアは、極上の微笑みを彼に向けた。
「私は、あなたが欲しい……!」
さらさらとした黒髪が、優しく頬を縁取る。まろみを帯びた柔らかな表情。長い睫毛を載せた目尻は下がり、淡い唇は緩やかに上っている。
想いが胸を、突き上げた。
彼女の笑顔に吸い込まれる。魅了される。惹きつけられてやまない。彼女の必死なときの顔といえば、泣き顔ばかりが思い浮かぶのに――。
「……なんで、お前、笑っているんだよ」
他に言うべき言葉は、幾らでもあるはずだった。
しかし、彼の口から出たのは、そんな救いようもなく間抜けなもので――その声は、今にも泣き出しそうなほどに震えていた。
「だって……」
答える彼女の声にも、震えが混じる。
「目の前に……、ルイフォンが、居る、から……!」
その瞬間、メイシアの両目から雨雫が落ちた。けれど彼女は、変わらずに笑っていた。
メイシアを雨に濡らすわけにもいかず、ルイフォンはやむを得ず彼女を家に上げた。
玄関に入る際に判明したのだが、〈ケル〉のセキュリティ情報が書き換えられていた。メイシアに、ルイフォンと同等の権限が与えられていたのである。だから彼女は、門扉を通過できたのだ。
〈ケル〉を書き換えた犯人は、鷹刀一族の屋敷の人工知能〈ベロ〉しかあり得ないだろう。ルイフォンは眉を寄せる。
手出ししないと言いながら、何かとちょっかいを出してくる性格。そして、あの口調。〈ベロ〉が誰を元に作られたものか想像がつく。
メイシアを居間に案内し、ルイフォンはタオルを持ってきた。無人の家であるが、週に一度は家政婦に掃除を頼んでいるし、たまに彼が泊まり込んで〈ケル〉のメンテナンスをするので、ある程度のものは揃っている。
彼女は、勧められたソファーの端に小さくなって座っていた。
黒髪に、薄紅の花びらが一枚、くっついていた。彼はそれを取ってやろうと思ったが、肌に貼りつく濡れた髪が妙に艶かしく、思わず唾を呑む。迂闊に触れたりしたら歯止めが効かなくなりそうだった。だから、気づかないふりをした。
「寒くないか?」
わずかに目線をそらしながら、彼はタオルを渡す。本当は、すげなく『すぐに帰れよ』と言うつもりだった。
「ルイフォンこそ。ずっと外にいたんでしょう?」
彼女は首を振り、逆に心配そうに尋ね返す。そして、「あ、花びら」――そう言って、彼の前髪に手を伸ばした。
「……っ!」
反射的に、彼は身を引いた。
触れてはいけない。触れられてはならない。
それは禁忌だ。
体は冷え切っているのに、全身から汗が吹き出す。
「す、すみません」
メイシアは、傷ついた顔をしていた。肩をすぼめ、瞳に萎縮が混じる。言葉遣いが変わる。そんな彼女を見るのが辛くて、彼は自分もタオルで頭を拭くふりをして彼女に背を向けた。
「誰が……お前をこの家に連れてきたんだ?」
それは純粋な疑問のはずだった。けれど、気づいたら不機嫌な声になっていた。きっぱり『帰れ』と言えない弱さが、彼女を連れてきた者を卑怯に責めていた。
「ミンウェイか?」
しかし、医者である彼女は、大怪我を負ったハオリュウにつきっきりだろう。だから、リュイセンだろうか。
そう考えていたルイフォンの耳に、意外な答えが返ってきた。
「エルファン様です」
「エルファン!?」
一番、高みの見物を決め込みそうな人物の名前だった。
「はい。……この家は、エルファン様がルイフォンのお母様のために建てられた家なんですね。来る途中で教えてくださいました」
「……ああ。母さんは、エルファンの愛人だったから」
髪を拭いていたルイフォンの手が止まる。指からタオルが滑り落ち、髪先を飾る金色の鈴を大きく揺らしてから床に落ちた。
ルイフォンの母は、常に金色の鈴の付いた革のチョーカーを身に着けていた。
『それ、首輪じゃん』と彼が言うと、『あたしは鷹刀の飼い猫なのよ』と彼女は自慢げに笑っていた。
チョーカーの贈り主は、エルファンだった。
彼女は死ぬまで、それを外すことはなかった。
「……ルイフォン」
緊張したメイシアの声が、背後から聞こえてきた。彼女がソファーから立ち上がる衣擦れの音と、一歩だけ彼に歩み寄ったものの、そこで立ち止まる小さな気配――。
「私は、ルイフォンがお父様を殺したなんて思っていません。でも、ルイフォンはそう思っています。――どちらが正しいのかは、誰にも分かりません」
「メイシア。その話は、もう終わった話だ。俺の罪は、俺が裁く。俺はお前から離れ、お前を自由にする。俺の世界は、お前にふさわしくない」
声を荒らげたいのを抑え、彼は低く冷静に言った。やはり彼女を家に上げるべきではなかった。そのまま帰すべきだったと、後悔がこみ上げる。
これ以上、話しても無駄なのだ。
「お前なら分かるだろう? 平行線だ」
庭で見た極上の笑顔に、胸を揺さぶられた。
彼を欲しいと言ってくれた言葉に、心が踊った。
今、後ろを振り返って、手を伸ばせば、彼女は彼のものになる。けれど、それは許されない。彼自身がそれを許さない。
「だからもう、この話は終わりなんだ」
はっきりと、口に出して言うべきだ。
――彼女に、別れを。
苦しくてたまらない。けれど、このままでは、彼女も終止符を打てない。
ならば、できるだけ優しい声で言いたい。
心を込めて。
『さよなら』を――。
ルイフォンは、決意と共に、深く息を吸い込んだ。喉元が熱い。鼻の奥がつんとする。
それでも彼は、振り返る。彼女に手を伸ばすためではなく、彼女の手を振り払うために。
「メイ……」
「ルイフォン」
薄紅色の唇が、静かに彼の名を呼んだ。
黒曜石の瞳を見た瞬間、口から出掛かった声が途切れる。
彼女なら、彼の言おうとしていることを理解しているはずだ。彼が、彼女と向き合った意味を間違えないはずだ。
――なのに、彼女は。
切なげに、愛しげに……微笑んでいた。
「あなたの言う通り、平行線にしかならない話は、もう終わりです。ここから先は『あなた』と『私』の話です」
メイシアは穏やかに宣言した。
優しい面差しに、有無を言わせぬ強さが宿る。
彼女は、こんなに強かっただろうか。こんな場面で笑えるほど、強かっただろうか。
「エルファン様が、おっしゃっていました。『大切なものは、決して手放すな』って」
「……っ!」
びくりと震えたルイフォンの背で、金色の鈴が跳ねた。
「私――、あなたを手に入れます。あなたが欲しいから」
「メイシア……、だから、俺は……」
尻窄みになっていく彼の言葉を、彼女は鮮やかに無視した。
「すべてを振り切ってきた私は『藤咲メイシア』ではない、ただの『メイシア』です。何も持っていません。ルイフォンと初めて執務室で逢ったときと同じです」
そう言って、懐かしむようにメイシアは目を細める。
「あのとき、総帥代理を名乗ったルイフォンは、私に『お前は何を差し出すつもりだ?』と訊きました。その答えも同じ――」
メイシアは間を取る。あのときと同じように。
すっと息を吸い、花がほころぶように艶やかに笑う。
「――『私』です。私は、あなたに『私』を差し出します」
「なっ……」
「そして、私が欲しいものは『ルイフォン』。あなたの抱えている痛みも、後悔も、因縁も、罪も、傷も、何もかも全部、含めて『ルイフォン』です」
黒曜石の瞳が、ぐっと彼の心の奥を覗き込んだ。
濁りのない、どこまでも澄んだ深い黒。彼のあらゆる感情の色を飲み込み、優しい黒の中に溶かしていく。
「ここにいるのは、ただの『あなた』と『私』。――欲しいものは欲しいと言ってよいと、我儘だとしても本心を言ってよいと、ルイフォンが教えてくれました。だから、私は言えます。何度でも言います」
彼女は笑う。
大切なのは、むき出しの本心だと彼に示すように。
「私は、あなたが欲しい」
息をするのと同じくらい自然に、彼女は告げる。
白い耳たぶに掛けられていた髪がひと房、音もなくこぼれ落ちた。雨に濡れた黒髪のしっとりとした質感が、柔らかな唇をかすめて流れていく。
「あなたのそばに居たい。この先を、あなたと一緒に生きていきたい」
まっすぐに彼を見つめる彼女は、純粋で、無垢で。
それを穢したくないから離れようとしたのに、彼女は細い腕を懸命に広げて彼を包み込もうとする。
彼女は、強く求める。強く望む。強く訴える――彼が欲しいと。
「…………っ」
ルイフォンの頬に、熱が走った。目尻から顎にかけて、一直線に痛みが駆け抜ける。
メイシアが目を丸くしていた。大きく息を吸い込んだ口のまま、固まっている。
「あ…………?」
彼は自分の頬に触れ、透明な涙の存在を確かめる。
「嘘だろ……。子供じゃあるめぇし……」
制御できない涙腺に、彼は驚く。
けれど、指先を濡らす雫は紛れもなく真実だった。
「俺は…………」
――こんなに脆くなんかないはずだ。
冷静で、先読みができて、大局的に物を考えられる人間のはずだ。
彼女が大切なら、彼女を遠ざけられるだけの強さを持っているはずだ。
頭ではそう考えているのに、彼の魂が涙を流し、彼の体を衝き動かす。
足が彼女に近づく。
手が彼女に伸びる。
触れたかった髪に触れ、抱きしめたかった肩を抱く。
「……ごめん、メイシア。……俺、やっぱり、お前が欲しい。お前にとって、俺のそばは決して心地よい場所じゃないはずだ。けど、俺は……我儘だから」
彼女の髪に顔をうずめると、優しい雨の匂いと、黒絹の滑らかさが彼を包んだ。
湿り気を帯びた彼女の呼吸を、彼の耳朶が受ける。彼の熱を奪う吸気の冷たさと、彼に熱を与える呼気の温かさ。
頬が彼女の首筋と接すると、脈打つ血潮を感じた。肌が香り、彼の鼻腔をくすぐる。
彼女が、すぐそばで息づいているという実感と、幸福。
華奢な骨格は、彼の両腕にすっぽりと収まった。柔らかな感触の中に少しだけ含まれた、筋肉の緊張が伝わってくる。
強く抱きしめたい衝動と、傷つけてはならないという理性とがせめぎ合う。
「メイシア、愛している」
胸の想いを、彼女に告げる。
「一生、大切にする」
宣言する。
彼女に――。
そして、何処かで彼女を見守っているはずの彼に、誓いを立てる。
――親父さん、メイシアを一生、大切にします。
彼女の細い指先が、少しだけ強く彼の体を握りしめた。
彼の耳元で彼女は小さく囁き、頬を染める。彼は言葉を返して頷き、彼女を抱き上げた。
雨が優しく窓を叩く。
窓硝子で出逢った雫は触れ合い、混じり合って溶けていく――。
7.引鉄を託す黙約-1
緋扇シュアンが鷹刀一族の屋敷に向かったのは、仕事を終え、夜になってからのことであった。
しとしとと降り続く闇空を見上げ、嫌な天気だ、と彼は思った。冷たい雫が頬を切り裂き、体温を奪っていく。
――あの餓鬼は、果たして引き金を引いたのだろうか?
何不自由なく暮らしてきた貴族で、まだ保護されるべき子供で、しかも標的は実の父親だ。
人間の手に握られた刃物や拳銃が、本当に人に害を為す凶器に成り下がるか否か、シュアンには、だいたい分かる。まともな人間なら、そうそう他人を傷つけられるものではないからだ。その『まとも』の枠からはみ出た人間を、シュアンは狩る。自分も同じ穴の狢と思いながら。
だが、ハオリュウに対しては、『まぁ、やってみろ』という半信半疑の言葉しか出なかった。
ぼさぼさ頭を振り、彼は溜め息をつく。私服のため、頭の上には制帽は載っておらず、髪の毛は好き放題に跳ねていた。
ハオリュウは、シュアンの大嫌いな貴族である。どうなっても知ったことではない。ただ、貸した拳銃を返してもらいに行くだけだ、と彼は独りごちる。
「餓鬼が粋がっていただけだと、嗤ってやるからさ……」
『まとも』な人間なら、引き金は引けない。
――けれど、雨が降っている。まるで誰かを悼むように。
屋敷に着くと、門衛がぎろりとシュアンの顔を睨んだ。そして、ぶっきらぼうに「ミンウェイ様がお待ちかねだ」と告げた。
シュアンは確信する。
あの餓鬼は――ハオリュウは、引き金を引いた、と。
「――――……」
淡々と語るミンウェイの声は美しく、けれど艶を感じられなかった。輝く美貌も、今は憂いにくすみ、麗しさよりも憐れを覚える。
屋敷に入ったときから、妙な雰囲気を感じていた。そして応接室に通され、現れた彼女の姿を見た瞬間に、予期せぬことが起きたのだと理解した。
「……ハオリュウの足は……。歩行は可能ですが、おそらく後遺症が残るでしょう」
最後にそう言って、彼女は長い話を終えた。
シュアンは、座り心地の良すぎるソファーに埋もれるようにして寄りかかり、動けなかった。湯気の立っていたティーカップは手付かずのままに、いつの間にかひっそりと沈黙している。
あの小生意気な餓鬼は、行動に移した。
他の人間を巻き込み、目的は果たしたが、自身も一生残る怪我を負った。
それだけの事実だ。
なのに、どうして、こうも衝撃を受けているのだろう。――シュアンは、仰ぐように天井を見つめる。
不意に、ふわりと草の香が広がった。正面を見れば、ミンウェイが彼の顔を窺うように見つめており、波打つ髪が肩から転がり落ちていた。
「……あなたは何故、ハオリュウに銃を貸したのですか?」
感情の読み取れない、静かな声だった。
改めて訊かれると、シュアン自身にもよく分からない。だがそれよりも、彼女の問いを耳にした瞬間、本能的な反発心が生まれた。
何故、貸したら悪い? 何か文句あるのか? 返答を求められているのに、そんな喧嘩腰の質問が脳裏を駆け巡る。
頼まれたから、というのが直接の理由のはずだった。しかし、そう答える気になれなかった。結果として口から出たのは、牽制したような、うがった疑問形の言葉だった。
「あの餓鬼の怪我は、俺のせいだと言いたいのか?」
言ってから、まるで保身だと後悔する。そんなつもりはないのだ。薄情に聞こえるかもしれないが、シュアンはハオリュウを可哀想だとは思っていない。ただ、後味が悪いだけだ。
険悪な三白眼に、ミンウェイが顔色を変える。彼女は「すみません」と慌てて首を振った。
「そんなつもりで言ったわけではないんです。……勿論――」
ためらうように口元に指を寄せ、彼女はわずかに目線を下げる。
「銃がなければ、ハオリュウの怪我はなかったかもしれません。敵に奪われればどうなるかも考えずに、安易に強力な武器を渡したあなたを、責めたい気持ちがないと言ったら嘘になります。……けど、私が訊きたかったのは、もっと別のことなんです」
紅の落ちかけた唇が少しだけ上がった。けれど、その顔は決して笑顔ではなく、どちらかというと泣いているように見えた。
「あなたは、権力者である貴族が大嫌いなはずです。なのに、どうしてハオリュウの力になろうとしたのか……気になりました」
シュアンは息を呑んだ。ハオリュウは貴族。――ミンウェイが言うことは、もっともである。
同じ境遇のハオリュウを放っておけなかった。だが、それを口にするのは自分の弱さを露呈するようで、彼は答えに窮する。
押し黙ってしまったシュアンの代わりに、ミンウェイが遠慮がちに口を開く。
「……やはり、〈影〉という存在に、あなたの先輩と……私の父――『〈蝿〉』のことを――?」
曖昧に言って口をつぐんだミンウェイの顔は、やはり弱々しくて、まるで儚げな泣き顔だった。シュアンは気まずくなり、視線をそらす。
お人好しの彼女は彼を思い、見えない涙を流している。それが見えてしまって……心が痛かった。
雨の音が響く。
しとしとと、静かに。ぽたぽたと、柔らかく。彼女が優しく囁くように――。
「ハオリュウがあなたに、とても感謝していました。貴族嫌いのくせに親身になってくれて嬉しかったと。……一生残る怪我を負いながらも、納得した笑顔を見せるんです。――さすがに、辛かったです。なんて、恨みごとですよね、すみません」
深刻さを誤魔化すように、ミンウェイが軽く肩をすくめる。シュアンは、「そうか、あの餓鬼が……」と小さく呟くしかできなかった。
――そこで感謝できるものだろうか。そこで笑えるものだろうか……。
ハオリュウが直接シュアンに言ったのなら、社交辞令か、その先に何かの思惑があると疑える。けれど、ミンウェイに向けた言葉なら、それは本心だ。
シュアンは、ぎりっと奥歯を噛む。
「藤咲氏が目覚める前、私、ハオリュウとお話したんです」
まるで独り言のように、ミンウェイが、ぽつりと言った。
「彼は、お父様に対する複雑な思いを吐き出してくれました。でも、そのあと憑き物が落ちたみたいに優しい顔になって、お父様のお目覚めを心から楽しみにしていたんです」
ぽつり、ぽつり、と。窓の外で降り続く雨のように、ミンウェイが言葉を落とす。
「でも、その結末は……」
彼女が首を振り、草の香が広がる。
「だから、私、思ってしまいました。藤咲氏が〈影〉にされてしまったことを、誰よりも早く、私が気づけばよかった、と」
「ミンウェイ?」
わずかに違和感を覚え、シュアンは不審に思う。
「……あんなにお父様を大切に思っているハオリュウに、悲しい決断をさせないように――私が……」
その瞬間、シュアンは悟った。
ミンウェイは、何もできなかった自分をずっと責めていたのだ。
ハオリュウに対しては勿論、シュアンが先輩を撃たざるを得ない状況に陥ったことさえも。――彼女のせいではないにも関わらず。
シュアンは、ミンウェイの愚かなまでの優しさに、苛立ちと愛しさを感じる。だから彼は、彼女が次の言葉を発する前に、できるだけ冷ややかな声を割り込ませた。
「あんたが先に殺しておくべきだった、と? ――誰にも気づかれないうちに」
思いがけず、シュアンに言葉を先回りされ、ミンウェイの口がたたらを踏んだ。だが、彼女は微笑みながら、こくりと頷いた。
「私なら、安楽死させることができました。斑目に遅効性の毒を盛られていたと私が言えば、誰も疑わないでしょう? ……そしたら、誰も、傷つかなかったわ……」
かつてミンウェイは、〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者だったという。必要ならば、どんな相手でも無慈悲に殺せるだろう。
けれど、シュアンは鼻で笑った。今の彼女は暗殺者ではないのだ。
「凄い極論だな」
「おかしいですか?」
「いや、実にあんたらしい。鬱陶しいほど、お節介だ」
「どういう意味でしょうか?」
唇を歪めて軽薄に笑う彼に、彼女は口を尖らせる。その顔は、いつもより少し幼く見えて――可愛らしかった。
「あんたの理想を押し付けるな。何も知らないままに父親が殺されることを、あの糞餓鬼が望んだとでも思っているのか?」
「緋扇さん……」
シュアンは口の端を上げ、馬鹿にしたように肩をすくめた。
「あんた、勘違いしてねぇか? 俺が先輩の姿をした〈影〉を許せなかったように、あの餓鬼も父親の姿をした〈影〉を許せなかったはずだ。大切な人なら、大切なほどに、だ」
シュアンはテーブルにぐいと身を乗り出し、押し黙ったミンウェイに迫る。
「俺たちの怒りを無視するな。俺たちが怒りを知らないままでいることを、正しいと思うな」
身動きできなくなったミンウェイの顔を、三白眼が容赦なく覗き込んだ。波打つ髪が彼の鼻先すれすれでなびき、草の香が頬を撫でる。
「ハオリュウは相当の覚悟を持ってやったはずだ。あいつを認めろよ。あんたは、あいつが子供だと思って見下している」
ミンウェイに言いながら、シュアンは自分の言葉が胸に来た。見下していたのはシュアンも同じ。貴族だ、子供だと言って、ハオリュウを軽視していた。
「過去のことは過去のことだ。うだうだ言っても仕方ない。問題は、これからどうするか、だ。違うか?」
ほんの少しだけ名残惜しいと思いつつ、そんな素振りはまるで見せずに、彼はソファーを立つ。
「緋扇さん?」
「『シュアン』だ、ミンウェイ。……あの糞餓鬼のところに行ってくる」
もともと、そのために鷹刀一族の屋敷に来たのだ。
「あんたの愚かな優しさには苛つくが、どんなところにも救いってやつはあるんだと――信じたくなるから……嫌いじゃない」
シュアンはそう言い残し、応接室をあとにした。
7.引鉄を託す黙約-2
「あっ、緋扇さん。ご足労、痛み入ります」
ベッドに体を横たえたハオリュウが、にこやかに声を掛けてきた。
どんな第一声を出したものか、決め兼ねているうちに扉を開けてしまったシュアンは、それで救われた。
「……夜分に、すまんな」
ハオリュウの言葉を受ける形で、彼は愛想なく答える。
何気ない人当たりの良さは、貴族の作法という、習性にも近いものなのだろうか。シュアンは機嫌取りの世辞は言えても、ハオリュウのような社交術は身に付けていない。
彼は改めて、ハオリュウをただの子供扱いした自分を、愚かだったと思った。
ハオリュウの頭には、白い包帯が巻かれていた。しかし、それは〈影〉に花瓶を投げつけられた跡で、おまけのようなものだ。
本当の怪我は毛布に隠された足にある。医療器具の類は見当たらないが、部屋に染み付いた濃い薬品の匂いが、傷の深刻さを物語っている気がした。
「僕が書いた書状は、お役に立ちましたか?」
そう言いながら、ハオリュウがベッドサイドの椅子を勧める。
「ああ、助かった」
腰掛けながらシュアンが答えると、ハオリュウは「それは良かったです」と無邪気に微笑んだ。そして、もぞもぞと体を動かし、顔をしかめながら上半身を起こそうとする。
「おいっ!」
そんなことをすれば傷が開くかもしれない。そうでなくても、相当の痛みがあるはずだろう。
慌てるシュアンを、ハオリュウは軽く手で制する。夜着の緩い袖がめくれ、少年の細い腕があらわになった。そこには無数の、砕けた硝子の花瓶による擦過傷があった。
「あなたに、これをお返ししようと思っただけですよ」
ハオリュウは枕の下から拳銃を取り出した。
シュアンが貸した拳銃――ハオリュウを傷つけた拳銃だった。
「どうもありがとうございました」
清々しいとさえいえる笑顔と共に、シュアンの手の中に重みが加わる。
それは、かつてシュアンの肩に載せられた、先輩の手と同じ重さだった。
『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』
ハオリュウに銃を手渡した時点で、シュアンは引き金を引いていたのだ。決して他人に委ねてはいけなかった照準と覚悟を……手放したのだ。
「俺が帰ったあとに何が起きたのか、ミンウェイが教えてくれた」
「ああ、やはりミンウェイさんでしたか。僕の包帯にあなたが驚かなかったので、どなたかに聞いたのだろうとは思っていましたが」
のんびりとすら感じられるハオリュウに、シュアンは苛立ちを覚える。
「……何故、すぐに撃たなかった?」
シュアンなら、〈影〉と判明した瞬間に引き金を引いていた。
もしハオリュウが、実の父の体を前に、撃つのをためらったのなら、理解できる。けれど、そうではないのだ。
「あんた、〈影〉に本物の父親のふりをさせたんだって? そのあとは毒殺しようとしたと聞いたぞ。あんたは、いったい何をしたかったんだ?」
使うつもりがないのなら、貸す必要はなかった。そうすれば、照準のずれた弾は発射されなかった。――ミンウェイの言った通り、ハオリュウの怪我は、なかったのだ。
手の中の銃が、ずしりと重い。
先輩の言葉が、耳の中で繰り返される。
「緋扇さん、怒っているんですか?」
「……あ、あぁ……。いや、そういうわけじゃない」
これではまるで八つ当たりだ。シュアンは尻つぼみに押し黙る。
ハオリュウは、特に問いただすつもりはなかったらしい。シュアンから視線を外すと、薄く嗤った。
「そうですね。確かに、他人から見れば、僕の行動は理解できないでしょう」
そう言ったハオリュウの顔から、すっと笑みが消えた。
「――異母姉のためですよ」
軽く首を曲げ、ハオリュウはシュアンを見やる。これだけは譲れなかったのだと、漆黒の瞳が冷たく言い放っていた。
「〈影〉にされた父を僕が殺した、なんて異母姉が知ったら、傷つくに決まっています。だから僕は、彼女を幸せにするシナリオを組み立てたんです」
「シナリオ?」
「異母姉と鷹刀ルイフォンは、自分たちの仲を父に認めてもらおうとしていました。僕としては複雑な思いもありましたが、ルイフォンは本物の父なら感涙ものの発言をしてくれたんです。――それを〈影〉は踏みにじった……」
ハオリュウは唇を噛んだ。
「本物の父様なら、諸手を挙げて祝福していたはずだった。――姉様が可哀想だった……!」
彼は拳を握りしめ、感情が漏れ出さないようにを押さえ込む。しかし、興奮を帯びたハスキーボイスからは、静かな怒りが撒き散らされていた。
「〈影〉を殺し、僕が当主になれば、異母姉の処遇は僕の一存で決められます。彼女を鷹刀ルイフォンにやることも可能です。……でも、そうじゃない。異母姉は、皆に祝福されて、幸せになるべきなんです」
高ぶりすぎた気持ちを鎮めるために、ハオリュウは小さく息を吐いた。そしてまた、あの無邪気すぎる笑みを見せる。
「だから、本物の父ならば言ったはずの台詞を〈影〉に言わせました。それだけのことですよ。そして、用が済んだから始末しようとしました。あの優しい父の顔を〈影〉の醜い嗤いで穢されるのは、耐えられませんから」
半端に口を開けたまま、身動きが取れないシュアンに、ハオリュウは、にこりと笑った。
「ああ、銃ではなく、毒を使った理由を知りたいんでしたね? ――簡単なことです。僕が父を殺したことを異母姉から誤魔化すためです」
「誤魔化す?」
語尾を上げたシュアンに、ハオリュウは「はい、そうです」と頷く。
「〈蝿〉とやらの技術に『呪い』というのがあったでしょう? だから、『呪い』によって父は死んだことにしようとしたんです」
「どういうことだ?」
「『父は、脅されて〈蝿〉の手先になっていた』と、異母姉には説明しました。それなら、脅されたことを告白した父が『呪い』で死んでもおかしくないでしょう?」
「な……」
話に聞いただけの『呪い』すら小細工に利用する、その発想の柔軟さにシュアンは舌を巻く。確かに、『呪い』のせいにするのなら、銃殺ではなく毒殺のほうが都合がいい。
「けど、なら――なんで俺に銃を借りた?」
「失敗したときの保険です」
無邪気な笑顔に、シュアンは鼻白む。思わず眉を寄せ、強い口調で尋ねた。
「毒が失敗したときの、最後の手段として撃つつもりだったのか?」
「勿論、それもありますが――」
ハオリュウは言いよどみ、いたずらがばれた子供のように、ちらり、と上目遣いでシュアンを見る。
「僕は、殺人に関しては素人の、しかも子供ですよ? 成功する確率が、どのくらいあると思っていたんですか?」
シュアンは答えられなかった。冷静に考えれば、その確率は高いはずがなかった。
「〈影〉――父と比べ、体格的に劣る子供の僕が、返り討ちに遭う可能性は充分にありました。しかも僕は、いざとなったら、ひるんでしまうかもしれません。相手の体は『父』なんですから。でも〈影〉は僕に対して、なんの遠慮もありません。圧倒的に僕が不利なんですよ」
言われてみればそうである。否、だからこそ、やはり問答無用で〈影〉を撃つべきだったのだと、シュアンは思う。
「銃を使っても、僕が〈影〉を仕留められなかったときは、かなりの高確率で、僕は殺されているでしょう。……保険というのは、その場合でも〈影〉を殺すための手段です」
漆黒の瞳が含み笑いをする。シュアンは無意識に体を引き、背中を背もたれに押し付けた。
「あんたは、何を企んでいたんだ……?」
「僕が銃を持っていれば、あなたは返してもらいに僕を訪ねてくるはずです。でも、そのとき僕が死んでいたら……?」
ハオリュウが軽く首をかしげる。その顔はシュアンに答えを促していた。
シュアンは息を呑んだ。ハオリュウの意図が、はっきりと読めたのだ。
「俺に〈影〉を殺させるつもりだったのか……」
知らずに、声がかすれていた。
銃を貸してほしいとの頼みに、そんな裏の意味があったとは考えもしなかった。罠ともいえる狡猾さに、憤りよりも先に、驚愕を覚える。
「だが、あんたの思惑通りに、俺が動くとは限らないだろう!?」
背中を冷たい汗が流れ、シュアンは思わず反論せずにはいられなかった。
「いえ。あなたなら動いてくれますよ。貴族嫌いのあなたが、同じ境遇の僕に優しかった……。あなたには〈影〉を許すことができないはずです。だから僕はあなたを信じて、あなたに託しました」
白い包帯の額の下で、漆黒の双眸がシュアンを捕らえる。信頼の眼差しは揺るぎなく、ハオリュウは穏やかに微笑んでいた。
思わず惹き込まれそうになり、シュアンは慌てて目をそらす。沈黙が訪れ、窓の外の雨音が緩やかに入り込んできた。
シュアンは、雨の歌に聞き入るような、風雅な人間ではない。秒針を刻むような音に、追い立てられるような気分になる。予期せぬハオリュウの言葉に、焦りと居心地の悪さを覚え、知らずに荒い声が出た。
「俺の気まぐれに期待するなんて、馬鹿げている……! どう考えたって、多少、あんたの姉さんが傷ついても、問答無用で射殺するほうが、確実だったろう!?」
余裕のないシュアンに対し、ハオリュウは変わらぬ笑顔を保っていた。
「僕は、小さい頃から僕を守ってくれた異母姉を溺愛しているんですよ。でも、いつまでも僕だけの姉様にしておけないから、できる限りの餞をしたかったんです。――そう言うあなただって、相当おかしなことをしているじゃないですか」
「俺が、なんだって?」
「あなた自身は、名誉なんてものに、まったく価値を見出していないのに、先輩の名誉を守るために僕のところに来ましたよね? あなたが先輩を大切にされているように、僕だって異母姉が大切なだけです」
「……っ!」
シュアンは言葉に詰まった。それには反論ができなかった。彼は、ぼさぼさ頭を掻きむしり、半ば意地のように別の方向から言い返す。
「……あんたが死ぬ確率のある選択をしたら、駄目だろうが。あんたがいなくなったら、姉さんは貴族の家を継がなきゃならねぇだろ。せっかく、好きな相手とうまくいくところだってのに……」
「そうですね。だから、あなたが保険として意味を持つのは、想定した中で一番最悪の事態のときでした。それに比べて、現実の結末は、かなり良かったと思いますよ」
そう言って、ハオリュウは、しばし思案顔になり、また続ける。
「――いえ、これを言うと、あなたには申し訳ない気がするのですが……最後に本物の父に逢えた奇跡があるので、むしろ異母姉が何も知らずに終えるよりも、ずっと良かった。最高の結末だったんじゃないでしょうか」
「死の間際の奇跡……か」
ミンウェイから話を聞いたときには、シュアンは耳を疑った。
――もしも……あの一発の弾丸が、一瞬のうちに先輩の命を奪うのでなかったら、自分も本物の先輩に会えたのではないか、と――不覚にも弱い心がよぎってしまった。
けれどシュアンは、即座にその考えを捨てた。
あの一発の弾丸は、無限の可能性を摘み取ると分かっていた。シュアンは覚悟の上で、引き金を引いた。後悔なんかしたら、一発の弾丸の重さを教えてくれた先輩に失礼だ。
だから、考えない。
『それ以外の無限の可能性』の重みを、シュアンはきちんと背負う――。
押し黙ってしまったシュアンを気遣うかのように、ハオリュウが明るめの声を上げる。
「手を下したことになってしまったルイフォンは、ショックを受けて出ていってしまいましたが、異母姉が追いかけていって、そのまま帰ってきませんし……きっと、これでいいんですよ」
遠くを見つめ、ハオリュウは苦笑する。
「大切な姉さんが、それでいいのかよ?」
「僕としては、まだ数年は異母姉を家から出すつもりはなかったんですが、仕方ありません。貧乏くじを引かせたルイフォンへの詫びだと思うことにします」
「一番の貧乏くじは、あんただろう!」
それは無意識の動きだった。
シュアンは椅子から立ち上がり、ハオリュウの頭を鷲掴みにして撫でくりまわした。
「餓鬼のくせに、無理ばかりするな! 大人の立場がねぇだろ」
「緋扇さん?」
ハオリュウの明晰な頭脳でも、シュアンの行動は理解不能だったらしい。戸惑いもあらわに、目を瞬かせている。
「あんたは、よくやった……。頑張った。凄く、頑張った……!」
ハオリュウを子供扱いしたことを、シュアンは愚かだったと思った。だが、そうではない。ハオリュウは子供扱いしてもらえずにいたから、子供になれなかったのだ。
だからシュアンは、無性に褒めてやりたかった。自分よりも遥かに頭の回る相手だが、それは必要なことのはずだった。
「ちょ、ちょっと、緋扇さん!?」
戸惑い、頬を膨らませつつも、ハオリュウはシュアンの手を払い除けたりはしなかった。拗ねたような顔つきでありながら、目尻に皺が寄っている。
「……そうですね。…………我ながらよくやったと思いますよ」
ハオリュウは視線をそらし、小さな声で「ありがとうございます」と呟いた。
意外に可愛いところもあると驚きつつ、シュアンは顔をほころばせる。だが、そのあとに続くハオリュウの言葉が、冷水のようにシュアンを襲った。
「――でも、まだ、終わりじゃない」
「……え?」
ハオリュウは顔を上げ、にっこりと笑った。シュアンの背を、ぞくりと悪寒が走る。
「あんた、何を考えている?」
「あなたも考えていることですよ」
凍てつくような漆黒の瞳。幼いはずの少年の顔が、為政者のそれになる。
「――ただ、あなたの目は、まっすぐに〈蝿〉に向けられているでしょうけれど、僕の場合は少し違いますね。最終目標は僕も〈蝿〉ですが、まずは藤咲の当主として、他家の力を削いでおく必要があります」
「他家……?」
「藤咲は、予期せぬ当主の交代で、しばらく荒れるでしょう。その隙に付け込まれるわけにはいきません。同じだけの報復をしておくのが、妥当というものでしょう。それとも、これは単なる私怨ですか? ……まぁ、どちらでもいいことですけどね」
そう言ってハオリュウが嗤い、シュアンは悟る。
――ハオリュウは、厳月家の当主を殺すつもりだ。
「あんた……」
シュアンは絶句する。
ハオリュウは父親を失ったあと、たぶん泣いていない。一生残る自分の怪我にも、おそらく嘆いていない。ただひたすら、この先にすべきことを見据えている。
貴族という恵まれた地位に生まれながら、ハオリュウは理不尽に奪われたもののために戦っている。それは、腐った社会を狩ろうとするシュアンと、なんら変わることはない。闇の部分が重なって見える……。
「……具体的にどうする気だよ?」
「さて、どうしましょうか?」
それ以上のことは、言うつもりがないのだろう。ハオリュウは、軽く首をかしげて無邪気に笑った。だからシュアンは、自分から尋ねる。
「また今回みたいに、無謀にも自分で突っ込んでいく……わけはないよな? 足の利かないあんたは、鷹刀を頼る。イーレオさんは人がいいし、あんたの父親のことに関しては、負い目も感じているだろうからな」
「そうですね」
ハオリュウは曖昧な言葉だけで口を止めるが、それしか方法はないはずだ。
そして、この依頼が耳に入ったとき、ミンウェイが喜々として名乗りを上げるだろう。ハオリュウに対して何もしてやれなかったと、自分を責めていた彼女ならば、きっと。
けれど、彼女はもう暗殺者ではない。彼女が関わることを、シュアンは認めない。許さない。
そして何より、この孤独な闇に気づかなかったふりをしてはいけないと、シュアンの魂が告げる。
「……俺は、あんたに銃を貸したことを後悔しちゃいないが、失敗だったと思っている」
唐突に話題を変えたシュアンに対し、ハオリュウは不審そうに鼻に皺を寄せた。
「いきなり、どうしたんですか?」
「あんたは、実戦には向いていない」
ハオリュウの問いかけには答えずに、シュアンは畳み掛けた。その言葉に、ハオリュウは半分納得し、しかし半分不満の残った顔をする。
「ええ。確かに、そうだとは思いますが……?」
それが何か? と目が言っている。
「あんたは、後ろのほうで偉そうに命令しながら、腹黒い顔で嗤っているのが似合っているんだよ」
「……それはまた、随分ですね」
ハオリュウは、怒ったものか呆れたものか、判断に悩むとばかりに溜め息をついた。そのすかした顔を切り刻むべく、シュアンは言葉の刃を研ぐ。
「あんたは、自分ができることと、できないことを読み間違えた。格好つけて『最高の結末だった』なんて言ったって、一生残るような怪我をしたら、ただの負け犬だろ。自分に酔っているだけの、馬鹿な餓鬼だ」
ハオリュウの顔から、すっと表情が消えた。冷たい眼差しをシュアンに向ける。
「あなたは、僕にどうすればよかったと言うのですか?」
嘘で塗り固められた笑顔が剥がれ、尖った口調のハスキーボイスが、懸命に低音を作る。予想外の過剰な反応に、シュアンの心が浮き立ち、三白眼をにやりと歪ませる。
「最後の手段として俺を使うことを考えていたのなら、初めから、土下座してでも俺に頼むべきだったな」
「な……っ」
「……そして、粋がった餓鬼の頼みを、馬鹿正直にそのまんま叶えて銃を貸してやった俺も、相当な阿呆だ。俺の判断は失敗だった。――俺も責任を取る必要がある」
シュアンは、ハオリュウの肩に手を載せた。
ハオリュウが、びくりとする。反射的に身を引こうとした彼を、シュアンの掌が押さえ込んだ。
薄い夜着を通して、シュアンよりも高い体温を感じる。それは子供だからか、あるいは怪我のために体が熱を持っているのか――。
「だからな、ハオリュウ……」
かつて先輩がシュアンの肩に手を載せたとき、どんな気持ちだったのだろうと、ふと思う。
勿論、状況はまったく違う。けれど、願いのような、祈りのような、この気持ちは、似ているような気がする。
「今度は間違えるな。――今度こそ、俺を使え」
「え……?」
言葉を失ったハオリュウが、シュアンの悪役面の凶相をじっと見つめた。
「あんたは、俺が築いた屍の山を見て、自分の掌が赤く染まっていると感じることができるだろう?」
シュアンは、ハオリュウと出会ったときのことを思い出す。
警察隊が鷹刀一族の屋敷を蹂躙したときのことだ。
偽の警察隊員とハオリュウが同じ部屋にいて、エルファンの指示でシュアンが警察隊員を射殺する手はずになっていた。そのとき、子供のハオリュウには刺激が強すぎるだろうと、ミンウェイが彼をバルコニーに退避させたのだ。
けれど、ハオリュウは部屋に戻ってきた。ただ、シュアンの作った屍を見るためだけに。
「――ならば、俺の手は、あんたの手だ」
「緋扇さん? いったい、どうしたんですか……?」
「『シュアン』だ」
「え……?」
「あんたは、貴族の当主だ。懇意にしておいて、損はしないってだけさ」
こう言えば、ハオリュウは納得するだろうか。――本当は、放っておけないだけ。ハオリュウを気に入っただけだ。
シュアンは顔をずいと寄せ、三白眼に睨みをきかせた。
「だから、俺に頼め。――俺に『殺れ』と」
ハオリュウが、目を丸くしてシュアンを見上げた。その角度から、ごくりと唾を呑んだ喉の動きが、はっきりと分かった。
「本当に、いいんですか?」
「構わない」
「ありがとうございます、シュアン……」
白い包帯を巻かれた頭が、深々と下げられる。スーツに覆われていた肩は、今は柔らかな夜着に包まれ、本来の華奢な輪郭を晒している。
ミンウェイとは違い、素直に名前で呼んでくれたハオリュウに、シュアンはわずかに口の端を上げた。
――静まり返った部屋に雨音が響く。失われた命を悼むように、厳かに歌う。
ハオリュウが顔を上げた。漆黒の瞳の深い闇が、シュアンの闇と同化する。
「シュアン、殺ってください」
少年のハスキーボイスが高らかに響いた。
握りしめられた指の間で、金色の指輪が撃ち抜くような鋭い光を放った。
8.雨音の子守唄
雨音が、夜を飾る。
闇は深くとも、静かに雫の落ちるさまは瞼に浮かぶ。
けれど、触れねば分からない。
窓を打つのは、花流しの冷たい雨か。あるいは、芽吹きの温かな雨か……。
「……また、俺は助けられなかったんだな」
イーレオが溜め息をつき、執務机の椅子に背を預けた。
瞳を閉じれば、秀でた額に皺が寄る。いくら若作りをしたところで、肌の衰えは隠しきれない。過去の経験の積み重ねである老いが、彼の言葉を重くしていた。
「藤咲氏の死も、ハオリュウの怪我も、お前の責任じゃないわ」
ソファーでくつろいでいたシャオリエが、足を組み替え、イーレオに体を向けた。
今、この執務室には、イーレオとシャオリエのふたりきりしかいない。いつも控えているチャオラウやエルファン、ミンウェイといった面々は、既にそれぞれの自室へと引き上げたあとだった。
シャオリエは、ふわりとストールを揺らした。
「すべてを救おうとするのは、お前の悪い癖よ。無理なものは無理。割り切るべきなの。分かる?」
ぐいと顎を上げ、アーモンド型の瞳で睨みを利かせる。その視線が突き刺さったのか、イーレオは目を開けて、ばつが悪そうに肩をすくめた。
「あなたには、藤咲家のことは気に病むな、と言われていましたね」
「ええ、言ったわよ」
勿論、シャオリエは、そんな忠告に意味があるとは思っていなかった。無駄と思いつつ、一応は言っておいただけ、である。
「藤咲氏は〈影〉だったわ。そして〈影〉は、決して戻らない。――どうしようもなかったのよ」
責め立てるような声に、「俺だって、分かってますよ」と、イーレオはぼやく。
他に何もできないから、笑っている。そんな微笑を浮かべながら、彼は、うつむいた頬に落ちてきた髪を払いのけた。眼鏡の奥の瞳は、すっかり力を失っている。大きな図体をしているくせに、まるでしょげた子供だ、とシャオリエは思う。
「〈影〉を戻す手段があるのなら、私だってとっくに、この体を本来の持ち主に返していたわ」
嫋やかな肢体を誇示するように、シャオリエは手首を返し、両腕を広げた。何十年経っても見慣れることのない姿に、イーレオが哀しい目を向ける……。
――だからシャオリエは、鷹刀一族を抜け、遠くから見守ることにしたのだ。イーレオが、この姿を見ないですむように。そして、彼が気にしている、弱い立場に置かれた者たちのひとつ、娼婦にならざるを得なかった少女たちを保護した。彼女たちに教育を施し、いずれ自立できるよう、促すことにした。
「――それでも、ハオリュウの怪我は、俺の落ち度だ。この俺の屋敷内で、俺の知らない事態が起きていいはずがない……!」
イーレオが、やり場のない怒りに奥歯を噛む。不甲斐ない自分を責める彼を、シャオリエは幾度、見てきたことだろう。
「屋敷内のこととはいえ、部外者の起こした事件よ。それに最後は、身内のルイフォンがケジメをつけた。組織として間違っていないわ」
「それは、結果ですよ。……ルイフォンにも可哀想なことをした」
しかしシャオリエは、イーレオの憂い顔にぷっと吹き出した。
「ルイフォンに関してだけは、結果オーライでいいと思うわ。本来なら、近づくことも叶わないような、深窓の令嬢を手に入れたんだから」
そして、意味ありげに目を細め「メイシア、帰ってこないわねぇ」と愉快そうに笑う。
「その件もな、本当に良かったんだか悪かったんだか、俺には分からないよ……」
「いいのよ、そういうのは」
脳天気なシャオリエに、イーレオはやや渋い顔をする。かといって反論するわけではなく、代わりに溜め息をついた。
「ともかく、だ。ハオリュウは父親を亡くし、足の自由と異母姉も失ったんだ。さすがに何も感じないわけにはいかないさ」
「……まったく、お前って子は……」
シャオリエが、ふぅ、とわざとらしく溜め息をついた。長めの後れ毛が肩からこぼれ、くるりと揺れる。
「いつまで経っても、凶賊の総帥らしくなれないんだから……。私は、お前の育て方を間違えたのかしらね?」
「……すみません。あなたのせいじゃないですよ。俺が情けないだけです」
けれど、そんなイーレオだからこそ、皆がついてくるのだと、シャオリエは知っている。そして、彼が弱音を吐くのは、彼女の前でだけということも。
シャオリエは微笑を漏らすと、すっと立ち上がった。再び落ちてきた後れ毛を、半ば面倒くさそうに払うが、それはポーズにすぎない。腰を揺らす、しなやかな歩き方は、それだけで男を魅了する。そんな仕草を、彼女は自然に身に付けていた。
シャオリエが近づいてきても、イーレオはただ穏やかな顔をしていた。
「もう寝なさい」
ふわり、と。彼女は、椅子の背ごと彼を抱きしめた。
「私と違って、お前の体は、もう年寄りなんだから」
「言ってくれますね」
そう言いながらも、イーレオは口元をほころばせる。
「あなたは店に戻らなくていいんですか?」
「この雨の中を、濡れながら帰るのは嫌よ。スーリンには連絡したし、今日は泊まらせてもらうわ」
「あなたの部屋は、昔のまま、いつでも使えるようにしてありますよ」
シャオリエは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから「ありがとう」と微笑んだ。
そんな彼女に昔の面影を見出し、ふと思い出したようにイーレオが口を開く。
「そういえば、〈ベロ〉が喋ったことは言いましたよね」
「〈ベロ〉? ……キリファが作った有機コンピュータとでもいう、あれのことよね?」
「ええ。……〈ベロ〉の声と口調は、昔のあなたにそっくりでした。キリファは、昔のあなたを知らないのにな。……正直、動揺しましたよ。俺も、まだまだ未熟です」
シャオリエは口元をほころばせ、頷いた。緩く結い上げた髪がイーレオの頬を撫で、彼はくすぐったそうな顔をする。
「〈ベロ〉は私だと、あの子は言っていたわね。さすが天才、というところかしら?」
そして、何を思ったのか、彼女はくすくすと笑う。
「会ってみたいけど、でもきっと無理ね」
「どうしてですか?」
「だって、〈ベロ〉は私なんでしょう? だったらもう、二度と出てこないわ。あとは、ひよっ子たちだけで頑張ってもらいたいもの。私がいることを期待されても困るわ」
心底、迷惑そうに、シャオリエは言う。
声は違えど、ずっと変わらない『彼女』の言葉。『ひよっ子』と言い、突き放しながらも、決して見捨ることのない――。
「……俺も、いつまでも、あなたに甘えていたらいけませんね」
「あらあら、別にそんな意味で言ったんじゃないわよ」
シャオリエが困ったわね、と言わんばかりに眉を寄せる。
「そうじゃなくて――。ただ、俺が……もっと強くなりたいだけです」
老境ともいえる域に入ってなお、イーレオは真顔でそう言う……。
シャオリエは、何も言わずに、彼に回した腕の力を強めた。
――ぽたり、ぽたりと。雨音が聞こえる。
誰にも等しく降る雫は、誰をも等しく濡らすわけではない。
冷たい雨に打ちつけられ、凍れる手足で、もがきながら生きてきたイーレオは、それでもなお、この先も雨の中を駆けていくのだろう。
「イーレオ、もう休みなさいな」
沈黙を破るように、シャオリエが言った。そして、イーレオの耳元に口を寄せる。
「昔みたいに、子守唄を歌ってあげましょうか?」
アーモンド型の瞳を細め、楽しそうに彼女は口の端を上げた。
からかわれているのは承知で、イーレオは、くすりと笑う。昔の彼女も、今の彼女も、たいそうな美声の持ち主だが、惜しいことに音感には恵まれていない。
それでも子供のころは、よくそれで寝かしつけられた。調子っぱずれな歌でも、繋いだ手が温かかったから。
「なかなか魅力的な申し出ですが、遠慮します。さすがにもう、子供じゃありませんから」
「そう? 残念ね」
彼女は、やや不満顔だが、本当は分かっている。そばに居ることこそが、何よりも心地よい子守唄なのだと。
イーレオがそっと目を閉じ、シャオリエが寄り添う。
彼の肩を包む、彼女のぬくもり。彼を守り育ててくれた大切な人。
そして雨が、子守唄を歌う――。
9.蒼天への転調-1
『夜の闇から目覚めた瞬間に、彼女の姿を瞳に映したいんだ。そして……』
『そして?』
口ごもる父親に、小さなメイシアは小首をかしげた。
『暁の光の中で、彼女に『おはよう』って言ってもらいたい――』
そう言って、若かりしころのコウレンは、照れたように笑った。
まっさらな光が闇を払い、東の空が白み始めた。薄明の空は、あっという間に千変万化の暁色に染め上げられ、鮮やかなる色彩の舞台を築き上げる。
光の帯の裾野が、カーテンの開け放された窓から入り込んだ。時々刻々と変化する光の中で、ルイフォンは、ふと目を覚ます。いつもなら、まだまだ夢の中の時間だが、なんとなく予感がして、自然に瞼が開いたのだ。
「お、おはよう……」
緊張を帯びているものの、優しく澄んだ声。首筋をくすぐる、柔らかな吐息――。
目の前に、メイシアがいた。
暁の朱よりも、もっと紅く頬を染め、黒曜石の瞳には、彼女を見つめる彼の顔が映っている。
「ああ……」
そうか、と。
こみ上げてくる想いに、ルイフォンの胸が熱くなった。
「おはよう、メイシア」
一晩中抱きしめていた手で、彼女の髪に触れた。黒髪を梳くと、絹の滑らかさが指先に吸い付く。
その手にぐっと力を入れ、彼は彼女を抱き寄せた。触れ合った素肌が、ぬくもりを分かち合う。
言い知れぬ心地よさに包まれ、ルイフォンは呟くように漏らした。
「メイシアの親父さんの気持ちが、痛いほど分かる。……俺ね。今、凄く幸せ」
寝物語に聞いた、メイシアの父、コウレンの言葉。穏やかな男の、生涯で一度きりの暴挙ともいえる我儘――。
ルイフォンは少しだけ体を離し、メイシアとまっすぐに向き合った。
鋭い瞳に、力強さを載せ、彼は告げる。
「メイシア、俺と一生、共に過ごしてほしい」
彼女が目を瞬かせた。何を今更、と思っているのだろう。
けれど彼は、言わずにはいられなかった。
「お前は間違いなく、お前が思い描いていたのと、まったく違う人生を歩むことになる。けど、絶対に後悔させたりしない。俺が、必ずお前を幸せにする」
「ルイフォン……」
「だから俺に、お前の人生を賭けてくれ」
彼女の幸せを誓い、自分の幸せを望む。
そして、心から希う。
「――ずっと、そばに……居てください」
テノールの響きが、暁の光に溶ける。
メイシアの瞳に、薄っすらと涙が溜まっていった。けれど、彼女は微笑んでいた。彼のそばで、幸せそうに――。
「はい」
彼らは、どちらからともなく微笑み、口づけを交わした。
台所が、オリーブオイルで炒めたニンニクの良い香りで満たされる。そこに、赤唐辛子のぴりっとした刺激臭が加わり、空気が引き締まる。
寸動鍋がぐつぐつと音を立てて沸騰すると、ルイフォンは手際よく塩を入れ、続けて、両手でひねったパスタを勢いよく放り込んだ。その瞬間、鍋の中で花開くように乾麺が広がる。
『ある程度の家事はできる』と言った、彼の言葉に嘘はなかった。「それじゃ、朝飯にするか」と言ったあと、彼はまっすぐに台所に向かい、おもむろに調理を始めたのである。
メイシアは呆然と、慣れた手つきの彼を見つめていた。
「ルイフォン、凄い……」
「惚れ直した?」
彼は、くるりと振り返り、得意気に口の端を上げる。
「うん。私は何もできないのに、ルイフォンは……」
「こら、落ち込まない。――これは俺の自慢料理だからな。上手くて当然だ」
インスタント食品を出してきたほうがよかっただろうか、とルイフォンは少しだけ考える。けれど、メイシアはそんなものを食べたことがないだろう。何より、ふたりで迎える初めての朝だ。できるだけ洒落た思い出にしたかったのだ。
普段は無人の家であるため、備蓄できる食材は限られている。そんな中で、彼が定番にしているメニュー――ニンニクと唐辛子のパスタ『ペペロンチーノ』。ニンニクは芽が伸び始めていたが、よくあることなので気にしない。朝からニンニクたっぷりはどうかとも思うが、これが一番得意なのだから仕方ない。本当は言うほどレパートリーはないのだから。
ルイフォンはコーヒー豆を出してきて、ガリガリとミルで挽き始めた。あたりに芳しい香りが漂い、メイシアが目を丸くするのを楽しむ。
「メイシア、その棚からコーヒーカップを取って」
手持ち無沙汰の彼女に、そっと頼んだ。彼女は嬉しそうに動き始め、コーヒーカップと共に見つけた皿とフォークも、遠慮がちに持ってくる。
「気が利くな。ありがとう」
すぐそばに彼女が居て、一緒に何かをしている。幸せだ、と彼は思った。
幸せだからこそ、もっと幸せにしてやるべきだ、と彼は思った。
少々、唐辛子を入れすぎたのか、時折、顔をしかめていたが、ルイフォンの作ったパスタは概ねメイシアに好評だった。彼は満足そうに目を細め、コーヒーを口にする。
昨日の雨は、すっかり上がっていた。
庭を覆い尽くす桜の花びらは、初春の残骸と成り果てていたが、代わりに、芽吹きを迎えた木々が、全身に浴びた雨雫で陽光を弾き、光の花を咲かせている。
透き通った蒼天が、世界を巡っていた。穏やかで、温かく、心地よい。
このまま時が止まれば、永遠に安らかで平穏な、ふたりきりの王国だ。
ルイフォンは、向かいに座るメイシアを見た。彼女は、コーヒーカップを両手で包み込み、大切そうに香りを楽しんでいた。彼の淹れてくれたコーヒーを宝物のように見つめ、少しずつ口に含む。
「メイシア」
ようやく、彼女がカップをソーサーに置いたとき、彼は静かに声を掛けた。彼女は、どうしたの? と、きょとんと彼を見る。
「鷹刀と、ハオリュウのところに戻ろう」
「え……?」
何を言われたのか理解できない、とばかりに、彼女の表情が止まった。喜怒哀楽のどれでもない顔で、じっと彼を見つめ返し、彼の真意を問う。
「俺は、お前に『すべてを振り切っちまえ』と言ったし、お前も『振り切ってきた』と言ったけどさ。本当は俺たち、そんなことをする必要ないんじゃないか?」
彼女と、ふたりきりでいたい。その気持ちに偽りはない。けれど、彼女を閉じた世界に押し込めたら、それは鳥籠の中と同じなのだ。
彼女には自由に羽ばたいてほしい。青天も荒天も、どんな空でも――。
「俺たちは別に、駆け落ちするほど周りに反対されてないはずだ。それよりも……」
ルイフォンは、にやりと不敵に笑った。まるで挑むように、猫の目を鋭く光らせる。
「俺たちは、皆に祝福されるべきだろう?」
「ルイフォン……」
メイシアの目から、ひと筋の涙がこぼれた。
彼女は慌てて拭おうとするが、先を読んで身を乗り出していたルイフォンの指先が伸び、彼女よりも先にそれをすくい取る。
濡れた指をぺろりと舐めると、案の定、しょっぱい。けれど、顔を真っ赤にして、信じられないものを見る目をしているメイシアが、可愛いのでよしとする。
深刻になりすぎずに、直感的に、我儘に、気ままに。笑いながら彼女と生きていきたい。だから、少し惜しい気もするけれど、戻るべきだと彼は判断したのだ。
「ルイフォン……。私、本当に何もできないから、ルイフォンに呆れられたのかと思ったの。だから、戻ろうって言われたのかと……」
再び涙ぐみながら、メイシアが言う。
「俺は別に気にしないけど……。そうだな。メイシアが気にするなら、これからできるようになればいいだけだろ?」
その言葉に、彼女はぱっと目を輝かせ「はい」と嬉しそうに頷く。
くるくる変わる彼女の表情を見ながら、彼はふっと真顔になった。
「俺ね、やっぱ、まだまだ餓鬼なんだと思う。自分で稼げるし、お前を養えるし、それで充分だと思っていた。けど、たぶん、まだそれだけじゃ駄目なんだと思った」
彼女がこの家に来てから考えたこと。黙っていたほうが格好いいかもしれないけれど、彼女には伝えておきたかった。
「俺が鷹刀を出て何が起きたかといえば、周りを心配させただけだった。俺が自分自身に折り合いをつければいいだけのことに、周りを巻き込んだ。俺は……」
――と、そこまで言ったとき、ルイフォンは強い視線を感じた。
黒曜石の瞳が、斬りつけるかのように凛と彼を見つめていた。思わず言葉を呑み込む。そんな彼を押し切るように、嫋やかなくせに揺るぎない声が響いた。
「それは違うと思うの。ルイフォンが出ていったから、私は追いかけることができた。ルイフォンが欲しかったから、流されたり諦めたりしないで、自分の意志を持つことができた。私にとっては、必要なことだったの。……凄く大事なことだった」
「メイシア……」
「ルイフォンが懸命に考えて行動したことは、すべて意味のあることなの。だから、そのことをルイフォン自身にも悪く言ってほしくない」
「けど……!」
不意に、メイシアの表情が緩んだ。
細い指が伸びてきて、ルイフォンの癖のある前髪が、ふわりと巻き上げられる。猫毛にくしゃりと指を絡め、彼女は愛しそうに彼を見つめた。
「うん。ルイフォンが言いたいことは分かっている。私たちは未熟だ、ってことでしょう? ――私もそう思う」
彼女は微笑む。夢見るような目で、現実を見据えながら。
「私、いろいろなことを覚えたい。ルイフォンの役に立ちたいから――あなたと一緒に生きるための力を蓄えたい。……だから、今は戻るのに賛成する」
「ありがとう……」
ルイフォンは椅子から立ち、テーブルを回り込んでメイシアを背中から抱きしめた。いまだに緊張で強張る肩を包み込み、黒髪に顔をうずめて、耳元で囁く。
「……でも、たまにはこの家で、お前とふたりきりで過ごしたい。……というのは、我儘?」
その瞬間、彼女の頬が、かぁっと熱を持つのを感じた。
「う、ううん……。我儘じゃない」
消え入りそうなほどに小さな声が返ってくる。
ルイフォンは目を細め、彼女の頬に口づけた。……当然の如く、彼女の体温が、更に急上昇するのを承知で。
そのまま、彼女を抱きしめる。少しうつむくと、癖のある前髪が目にかかり、背中で編んだ髪が鈴を揺らした。
「……メイシア」
やや硬質なテノールが響く。
「もうひとつ、話がある」
「え?」
「『ホンシュア』って名前、覚えているか?」
メイシアの心臓が、どきりと高鳴った。
「私を鷹刀に行くように仕向けた、偽の仕立て屋。――そして、ルイフォンが斑目の別荘で会ったという〈天使〉……」
「そうだ。彼女は、メイシアのことを『選んだ』と言っていた。……俺たちは、彼女によって引き合わされたらしい」
腕の中のメイシアが、小さく震えた。漠然とした不安が彼女を襲うのを感じ、彼は強く抱きしめる。
ホンシュアは、彼が『ルイフォン』であることを知っていて、そのくせ『ライシェン』という名前でも呼んだ。何かを知っている。何かが隠されている。
「ホンシュアがルイフォンのお母様……ということは……?」
遠慮がちに、メイシアが尋ねた。
ホンシュアもまた、〈影〉にされてしまった不幸な人で、その中身はルイフォンの母親なのではないか。――そう言いたいのだろう。〈影〉という言葉を避けたところに、メイシアが父親の最期を思い出したことが感じられ、痛ましい。
ホンシュアは〈影〉である。それは正しいと思う。けれど――。
「彼女は母さんじゃない。雰囲気も、口調も違う。……でも、何か重要なことを知っている……と思う」
「――なら、私ももう一度、彼女に会って、お話したい」
メイシアは微笑みながら、一緒にホンシュアに会いに行こうと言う。
危険を伴うかもしれない。だから、言い出しにくかった。けれど彼の負担を軽くするような言葉で、当然のように言ってくれる。それが嬉しくて、心地よい。
「ありがとう」
まばゆい蒼天の下、ルイフォンは、メイシアがそばに居る幸せを噛みしめた。
「ホンシュア! ホンシュアァ……!」
小さな体全身を使って、ファンルゥは叫んだ。
自由奔放な癖っ毛を、ぴょんぴょんと肩で跳ねかせ、まるで癇癪でも起こしているかのように、足を踏み鳴らす。
彼女の両手は、ホンシュアが横たわるベッドのシーツを皺くちゃに握りしめていた。本当は、ホンシュアの手を握りたかったのだが、熱くて触れることも叶わないのである。
近くにいるだけで火傷しそうなほどの熱気に、ファンルゥは本能的な恐怖を感じている。
けれど、ホンシュアは素敵な〈天使〉で、大切なお友達なのだ。放っておくことなんて、できるわけがなかった。
ホンシュアは、苦しそうに熱い息を吐く。肩がむき出しの、薄いキャミソールワンピース姿なのに、うわ言のように「熱い、熱い」と繰り返す……。
「パパ! ホンシュアには、お薬が必要なの! あのおじさんは、まだ!?」
くりっとした丸い目に涙を浮かべ、ファンルゥは背後に立つ父親を振り返った。
こっそり地下に遊びに行っていたことがばれても、それで怒られることより、ホンシュアを助けることのほうが、ずっと大事だった。だから彼女は、父のタオロンを頼った。
ホンシュアは、〈蝿〉という、おじさんの持っている薬を飲めば、具合いが良くなる。〈蝿〉は、嫌なおじさんだけれど、物凄いお医者さんらしい。
父に頼んで、〈蝿〉から薬を貰う。――ひとりで〈蝿〉に会うのは怖かったし、そもそも何処で何をしているのか知らなかったから。
それが、ファンルゥにできる精一杯だった。
一方、タオロンはといえば、呆然としていた。
リュイセンに負わされた傷は、〈蝿〉によってふさがれたが、まだ動くのは億劫だった。そんな状態で休んでいたら、必死の形相の愛娘が、部屋に駆け込んできたのだ。
心配をかけたくない彼としては、娘には負傷したことを悟られたくない。仕方なく手を引かれるままについていけば、きな臭い地下である。扉を開けた瞬間、部屋から熱気が押し寄せてきた。
そして、ベッドに横たわる、薄着の女。〈蝿〉に『〈蛇〉』と呼ばれていた女だ。その女の背から――『羽』が生えていた……。
そう、光の糸が網の目のように広がった『それ』は、確かに羽としか言いようがない。ファンルゥが、ちゃんと『〈天使〉なの』と説明していたのに、子供の戯言と聞き流していたのを反省する。
「パパ! パパ!」
愛娘の声に、タオロンは、はっとする。慌てて携帯端末を取り出して、〈蝿〉を呼び出した。
ほどなく現れた〈蝿〉は、やや不機嫌そうな様子だった。ファンルゥが、さっとタオロンの影に隠れ、服の裾を握る。
「あなたから連絡があったので、てっきり例の件の色良い返事かと思ったんですが――。また、厄介なことになっていますね」
〈蝿〉は、鼻を鳴らし、大仰に溜め息をついた。
タオロンもファンルゥも気づかなかったが、ルイフォンに壊されたサングラスは、予備のものに替わっていた。一目見れば鷹刀一族の者と分かる容貌を、斑目一族の前で晒すのは得策ではないからだ。
「彼女はいったい、何者だ?」
タオロンはホンシュアを示し、当然の疑問をぶつける。
「見ての通り、〈天使〉ですよ」
「真面目に答えろ!」
「心外ですね。私はきちんと、お答えしていますよ? それとも、『〈七つの大罪〉の技術の結晶』とでも言えば、納得されるんですか?」
〈蝿〉は、別に嘘を言っているわけではないのだろう。ただ、それがタオロンの常識の範疇を超えているだけだ。
聞くだけ無駄だということに、タオロンは遅まきながら気づいた。
「とりあえず、知らせてくださったことには感謝しますが、他人の部屋に勝手に入り込むとは、子供の躾がなっていませんね」
〈蝿〉はそう言って、タオロン父娘をぎろりと睨む。
「この際ですから、例の件の返事をしてもらいましょう。――あなたは、私に下りますか? それとも、斑目の総帥の要求通り、娘を差し出しますか?」
「く……っ」
タオロンは、〈影〉と呼ばれる別人になった『藤咲コウレン』を、鷹刀一族の人間に救出『させる』という命を受けていた。適度に交戦することで、不信感を抱かせないのが彼の役目だった。
けれど、安否を心配する家族に、偽者の『藤咲コウレン』を『送り込む』ことは、タオロンにはできなかった。だから射殺しようとした。結局、失敗に終わったが、その現場は監視役に目撃されており、彼は総帥の不興を買ったのだ。
「鷹刀の子猫によって、斑目は経済的に壊滅状態です。厳月家との仲も微妙になっています。だからこそ総帥は、私の機嫌をとっておきたいはずです。私があなた方、父娘が欲しいといえば、しぶしぶながらでも応じてくれるでしょう」
「……ファンルゥの安全は、保証されるんだろうな?」
「勿論ですよ」
〈蝿〉が口の端を上げる。
信用できない相手だが、それでも、ファンルゥが目の届かないところに連れて行かれるよりは、ましだった。
「分かった。お前の駒になろう……」
奥歯を噛み締め、タオロンは決断する。
「賢い選択ですよ。では、〈天使〉はなんとかしますから、あなた方は出ていってください」
そう言って〈蝿〉は、タオロンとファンルゥを部屋から追い立てた。
9.蒼天への転調-2
少しだけ開けられた窓から、若葉の匂いを乗せた風が流れ込んできた。
緩やかにカーテンがそよぎ、執務室に季節の移ろいを告げていく。昨日の雨の名残りか、肌に湿気の重みを感じるものの、外は爽やかに晴れ上がり、抜けるような青空が広がっていた。
そばに控えたチャオラウが「いい天気ですね」と無精髭を揺らしながら、独創性もない言葉を漏らす。
イーレオは思わず苦笑した。
しかし、かといって詩的な文句をこの男に求めるのは酷であろう。彼は思ったことをそのままに、すなわち歯に衣を着せぬ発言ができるところが良いのだ。――少し違うかもしれないが。
「さて、そろそろ私は、お暇するわね」
シャオリエがソファーから立ち上がり、エルファンが「お供します」と続く。
そんな中、ハオリュウが執務室を訪れた。
現れたハオリュウを見て、イーレオは戸惑いを禁じ得なかった。
それは、ハオリュウがミンウェイの押す車椅子に乗ってきたからではない。足の怪我は軽くはないが、以前のようにとはいかなくとも、いずれは、ひとりで歩行可能なまでには治ると聞いている。
だから、そこではない。
「ハオリュウ……?」
イーレオは、思わず名を呼んだ。
もともと、歳に似合わぬ言動をする彼であったが、顔の造りが別人のようにしっかりとしていた。
勿論、実際の顔かたちには、なんら変化はない。だから、それは的確な表現ではないのかもしれない。けれど、明らかに雰囲気が違った。
ぴんと張り詰めた糸のような危うさが消えていた。これまでが一本の細い糸ならば、今の彼は縦糸と横糸から成る柔らかな『布』。ちょうど、彼の藤咲家の領地で作られる絹織物のように、しゃらしゃらと音を立てながら、変幻自在にしなやかに形を変え、ひとつに定まらない柔軟さがあった。
「ハオリュウ。――横になっていなくていいのか?」
「ご心配ありがとうございます。……ですが、いつまでも寝ていると、体がなまってしまいそうなんですよ。僕としては早く歩けるようになりたいですからね。ミンウェイさんも少しくらいならよいと、おっしゃってくれました」
背後のミンウェイを振り返り、にこやかに目礼する顔は血色も良い。確かに心配無用のようであった。
ハオリュウは顔を正面に戻すと、すっと笑みを消した。口元を引き締め、改めてイーレオに涼やかな瞳を向ける。
その視線の意味を解し、イーレオは魅惑の声を艶めかせて尋ねた。
「他の者は、席を外させたほうがいいか?」
「いえ、皆様、そのままで。『私』は、何もあなたと諍いを起こしに来たわけではありませんから」
車椅子の肘掛けに置いた手から、当主の指輪が金色に光る。
「そうか。では、藤咲家当主殿の意見を伺おう」
イーレオが背もたれから体を起こし、居住まいを正す。それに併せ、他の者たちも背筋を伸ばした。
「我が異母姉、藤咲メイシアが鷹刀一族と交わした『取り引き』は、藤咲家が鷹刀ルイフォンとの仲を認めれば反故になると聞きました。相違ありませんか?」
「ああ、相違ない」
背中で結わえた髪をさらりと揺らし、イーレオが短く頷く。
「では、藤咲家当主として、私がふたりの仲を認めましょう。ただし――」
ハオリュウは、そこで言葉を切った。漆黒の瞳に、深い闇が落ちる。
けれど口元は、ほころんでいた。
泰然と構えた絹の貴公子は、一同を見渡してから音吐朗々と宣言する。
「異母姉には死んでもらいます」
その言葉の意味を、額面通りに受け止める愚か者は、さすがにこの場にはいなかった。
それでも、皆の動揺は隠せない。ざらついた空気があたりを漂い、互いに目線を絡めあっては声を呑み込む。
しばしの間――。
けれど、このままでは埒が明かない。イーレオは嘆息し、鷹刀一族を代表して低い声で確認した。
「……表向き、メイシアを死んだことにするんだな?」
「ええ。これで鷹刀一族との『取り引き』からも、貴族のしがらみからも、異母姉は自由です」
ハスキーボイスが優しく『自由』を告げる。
「何も、そこまでしなくてもよいだろう?」
イーレオは眉を寄せた。ハオリュウを貴族の当主と尊重しようと思いつつも、まだ年少者として見てしまう気持ちとの間で揺れる。
「『何も、そこまで』ですか。確かに僕……私も、そう思いましたよ」
ハオリュウは目を伏せ、呟くように言う。顔立ちとしては十人並みであるはずなのに、翳りが彼に華を添える。
「ですが、僕が円滑に当主になるためには、異母姉は邪魔です。僕は未成年の上、母親は平民の後妻です。異母姉を担ぎ上げる輩は必ず出てきます」
そして、ちらりと上目遣いに視線を送り、言いにくそうに続ける。
「それから……やはり、失礼ですが、貴族としては、当主の異母姉を凶賊にやるのは体面が悪いものです。しかも異母姉は、警察隊の前でルイフォンとの仲を宣言しています。噂が広まるのは時間の問題でしょう」
あのときは警察隊を抑えるための芝居であったはずなのに、いつのまにか現実になっている。つまり、異母姉の心は、とっくに決まっていたのだ。――そんなことを考えたのだろう。ハオリュウの口元が、楽しげに苦笑している。
そんなハオリュウを、イーレオは複雑な目で見つめていた。
ハオリュウの弁には理がある。
けれど、イーレオには分かっていた。それは異母姉に向けた、異母弟からの精一杯の愛情だと。実家のことは心配しなくていいから、幸せになってほしいとの――。
「……待って」
押し黙るしかないとイーレオが諦めたとき、ハオリュウの背後から控えめな美声が割り込んだ。
「ハオリュウ。あなたのお母様が精神を病まれてしまったと、情報屋から報告を受けています。お父様を亡くし、お姉様のメイシアまで縁を切るような真似をしたら、あなたは本当に独りになってしまう。そんなの……、そんなの駄目よ。しばらくはメイシアを実家に返すべきだわ」
「ミンウェイさん……」
ハオリュウは、困ったように後ろを振り返った。
異母姉とルイフォンとの仲を初めに喜んだのは、ミンウェイのはずだ。その彼女が、今度はハオリュウのために、ふたりを離そうとしている――。
「別に僕は、独りではありませんよ。鷹刀の方々と、これきりのご縁にするつもりはありませんし、お忍びで異母姉に会いに来ますから」
無邪気ともいえる顔で、ハオリュウが笑う。
その笑顔の裏には、貴族の藤咲家は、凶賊の鷹刀一族と手を組むと――権力と財力が入り用なときには便宜を図るし、荒事が必要な場合には頼りにしていると、はっきりと書いてあった。
「だが、ハオリュウ。ルイフォンは鷹刀を出ていき、メイシアも追っていった。ふたりはここにはいないぞ?」
低い声が響く。
イーレオではない。同じ声質を持つ次期総帥、エルファン。メイシアをルイフォンのもとに連れて行った張本人である。
「心配ありませんよ。すぐに、ルイフォンが異母姉を連れて、この屋敷に戻ってきます」
ハオリュウが、余裕の笑みを浮かべる。初対面のとき、彼と舌戦を繰り広げた経験を持つエルファンは、興味深げに口の端を上げた。
「何故、そう断言できる?」
「ルイフォンひとりなら、彼は自分を貫いて、決して戻ってこないでしょう。……けれど、異母姉が一緒ですから、彼は戻らざるを得ないんですよ」
「ほう? どういうことだ?」
含み笑いのハオリュウに、エルファンは苛立つよりも心が躍る。
「彼は、異母姉の幸せを望むはずだから。――駆け落ちみたいに、こそこそと、ふたりきりでいるよりも、堂々と皆に認められることを、彼なら選ぶはずだからですよ」
「なるほどな」
エルファンが呟いた、ちょうどそのとき。慌てた様子の門衛から、連絡が入った。
閉め切られた地下の一室は熱気であふれ、蜃気楼すら見えそうなほどに空気が揺らいでいた。
ちりちりと肌が焼けつくような感覚を覚え、〈蝿〉は頬を引きつらせる。しかし、熱の発生源であるホンシュアは、その比ではなかった。羽のような光の糸を放出したまま、苦しげにベッドに横たわり、全身から玉の汗を噴き出していた。
「あのとき冷却剤を飲んだなら、熱暴走は収まっているはずなんですけどね。――何か、余計なことをしましたね?」
ホンシュアのベッドに近づき、〈蝿〉は冷たい声を落とす。平静を保っているが、サングラスで隠した瞳は激しく苛立っていた。
「たわい、ない……ことよ」
熱い息を吐きながら、途切れ途切れにホンシュアが言う。
「何を言っているんですか。あなたが命を懸けるほどのことが、『たわいない』はずないでしょう?」
「心配、しなくて……大丈夫よ。別に、あなたの邪魔……していないわ。あなたの……機嫌、そこねて……協力、してもらえなく……なったら、困るもの」
〈蝿〉は、眉を寄せた。
従順な道具であった他の〈天使〉とは違い、ホンシュアは〈蛇〉という『中身』が入った監視だった。
〈蛇〉の正体は不明。だが、恐ろしく頭が切れる。
「誰に、何をしたんですか? ――私の協力を失いたくないのなら、言えますよね?」
詰め寄る〈蝿〉に、ホンシュアは少しだけ思案顔を作り、やがてゆっくりと口を開く。
「〈影〉にされた、あの貴族……藤咲コウレンに。記憶の、修復を……試みたわ」
「馬鹿な。〈影〉は、決して元に戻らないはずでしょう?」
〈蝿〉は、〈天使〉に関しては門外漢だが、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉として、そのくらいのことは知っている。
「少し、違うわ。上書き、前の……複製が、あれば……回復、できる」
「ほぅ、そんなことが……?」
初めて聞く話に〈蝿〉はやや驚くが、あり得ない話ではないと思い直す。
「――しかし、いつ複製をとったのですか? 藤咲コウレンの記憶を上書きしたのは、あなたではなく他の〈天使〉でしたよね? あなたは、〈影〉になる前の彼とは接触していないはずです」
人目を盗んで動き回ったのかと、サングラスの奥からホンシュアを睨みつける。
だが、ホンシュアは目を伏せて「完全な、複製は……ないわ」と、首を振った。
「……でも、藤咲コウレンの、脳は……並の人間よりも、容量が、大きいの。……だから、上書き、されてない……深層の記憶域、あったのよ。その記憶を、かき集めた」
「容量が、大きい――?」
「だって、彼は……王族の血、濃いもの。母親が、降嫁した……元王女」
「――なるほど」
貴族なら、王族の血を引いていても不思議ではない。
「それで、藤咲コウレンは元に戻ったというのですか?」
「さすがに……無理よ。私に、できたのは……死ぬ間際……極限状態のとき、戻る……だけ。喩えれば、走馬灯。ほんの一瞬、ふわっと……浮かんで、消えるだけ」
それを聞いて、〈蝿〉は、大きく息を吐きだした。
「それでは、あなたは、まったく意味のないことをしたわけですね?」
駒にした貴族が元に戻るのが、死ぬ間際というのなら、それは〈蝿〉にはどうでもいい。確かに、『たわいない』ことだ。
それよりも問題は、ホンシュアの熱暴走が止まらなくなってしまったことだ。
「勝手に〈天使〉の力を使わないでください。あなたは、私に与えられた最後の〈天使〉です。壊れてしまっては困るんですよ」
〈蝿〉にしては珍しく、余裕なく声を荒らげる。
それだけ、ホンシュアの状態はよくなかった。それは〈蝿〉が、〈天使〉の持つ『人間の脳に介入する技術』を利用できなくなることを意味していた。
ホンシュアは口角を吊り上げ、声もなく笑う。
「あなたは……寂しい人ね。あなたも、また……『私』に利用されている、だけ」
その言葉に、〈蝿〉は、かっと頭に血が上った。正体を隠したまま、彼を顎で使おうとする『〈蛇〉』を、彼はいまいましく思っていた。
「あなたの本体は何処にいて、何を企んでいるんですか?」
しかし、ホンシュアは答えない。〈蝿〉は、小さく舌打ちをする。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』とはなんですか? 『神の交響曲』などと、ふざけた名前を……!」
『デヴァイン・シンフォニア』――直訳すれば、『神の交響曲』。
『神』という言葉が『王』を意味するこの国で、わざわざ『神』と冠するからには、それなりの含みがあるはずなのだ。
ホンシュアは、にやりと妖艶に笑う。高圧的な〈蝿〉を翻弄していることが、愉快でたまらないというように。
白い素肌は、汗でじっとりと濡れていた。
ひと房の黒髪が、首筋から胸元にかけて張り付き、彼女が熱い息を吐くのに併せて艶めかしく蠢く。
「『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』よ。……『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。……つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』。『sin』は『罪』。……『fonia』は、ただの語呂合わせ。つまり、これは……『罪』」
「――『罪』……?」
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は……『命に対する冒涜』……って、ことよ」
体の内部から溶け出しそうなほどの高熱を出しながら、ホンシュアが言ったことは、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉にとっては当然のようなことだった。〈蝿〉は落胆し、不快げに鼻を鳴らす。
彼は、黙って懐から冷却剤を取り出した。ホンシュアの顎を上げさせ、強引に飲ませる。――いつもの量では効かないだろうから、その倍の量を。それでも、どうなるか分からない。
斑目一族は経済的に追い詰められていたが、〈蝿〉もまた追い詰められていた。
彼女の喉が、こくりと嚥下したのを確認すると、〈蝿〉は「あとで様子を見に来ます」と言って、大股に部屋を出ていった。
やがて足音が聞こえなくなり、ホンシュアは目をつぶる。ひとり、ベッドに残された彼女は、荒く熱い呼吸を繰り返し、自分の体を抱きしめた。
冷却剤を飲んでも、体が冷える気配はなかった。それは、予期していたことだった。
それでもホンシュアは、慰めにも気休めにもならない、ちっぽけな『奇跡』を起こしたかった。たとえ最期の瞬間だけだとしても、自分自身として終えられるほうが幸せだと考えたから――。
それは、独りよがりの偽善の押しつけかもしれない。残された家族にとっては、残酷なだけかもしれない。
けれど、犠牲になった相手への、せめてもの償いとして、彼女はできる限りの礼を尽くしたかった。
「ライシェン……。『私』のしようとしていることは……間違っていると、思うわ」
それでも……。
「それが、どんなに罪だとしても……、私は、貫こうと……するのね、きっと……」
――私の――ライシェン……。
9.蒼天への転調-3
屋敷をぐるりと囲む高い外壁が、重圧感を持ってそびえ立つ。硬い煉瓦の質感は天まで続き、その先には青く澄んだ空が広がっていた。
昨日とはまるで違う穏やかな陽射しの中で、門衛たちは今日も鉄格子の門を守る。
ここ数日、貴族の娘が現れてからというもの、近年に類を見ないほどの騒動が続いていた。しかし振り返ってみれば、鷹刀一族には、なんの被害もなく、仕掛けてきた斑目一族のほうが大きく力を削がれたという――。
下っ端である門衛たちには、にわかには信じられないが、上の者たちがそうだと言うのなら、きっとそうなのだろう。
しかし、この快挙に大きく貢献したルイフォンが、屋敷を出ていってしまった。
引き取られた当初は、傍系だと軽んじられたものだが、持ち前の性格と頭脳で、彼はすぐに皆に愛される存在となった。凶賊、使用人を問わず、彼を弟のように、あるいは我が子のように可愛がっていた。
この門衛たちも例外ではなく――だから彼らの心は、火が消えたようにどこか空虚なのである。
門衛たちは、誰からともなく溜め息をつく……。
――こうして彼らが、のどかで穏やかなだけの寂寥感を享受していたとき。
ふと。
遠くから、人影が近づいてきた。
門衛たちは、まさかと目を見張る。
決してひ弱ではないけれど、少年らしさの残る細身の体躯。やや前のめりの、猫背で特徴のある歩き方……。
「ルイフォン様……?」
傍らに、花のような美少女を連れている。いわずもがな、彼を追いかけていった貴族の娘、メイシアだ。
門衛たちは肩を叩き合い、叫び、喜び、慌てて執務室に連絡を入れる。
そうこうしているうちに、ルイフォンとメイシアが到着した。
そして――。
「ただいま」
抜けるような青空の笑顔で、ふたりが笑った。
ルイフォンがメイシアを伴い、屋敷へと続く長い石畳を歩いていると、玄関扉が勢いよく開かれた。
ひとりの男が、血相を変えて飛び出してくる。肩までの、さらさらとした黒髪は乱れ、黄金比の美貌には複雑な色合いが浮かんでいた。
「ルイフォン……!」
「よぅ、リュイセン」
ルイフォンが、軽く手を上げる。
年上の甥にして、兄貴分。次期総帥エルファンの次男であり、一族を抜けた長兄に代わり、いずれは総帥位に就く後継者――リュイセンだった。
「何故、戻ってきた?」
険もあらわに、リュイセンの静かな低音が響く。斬り裂くような眼光に、メイシアが、びくりと震えた。
ルイフォンは、彼女を庇うように一歩前に出て、リュイセンとまっすぐに向き合う。
「親父やエルファンは黙認してくれても、お前だけは怒っていると思っていたよ」
言葉の内容とは裏腹に、ルイフォンは臆することなく、堂々と胸を張る。
「俺は『責任を取る』という言葉で飾って、自分を正当化して屋敷を出た。けど、それは結局『逃げ』に過ぎなかった。――お前は、見抜いていたんだろう?」
軽く顎を上げてルイフォンが尋ねると、リュイセンは黒髪を肩で滑らせ「ああ」と頷いた。
予想通りの返答に、ルイフォンは小さく息を吐く。
「だから、卑怯者の俺を、お前は許さない。違うか?」
「お前をとっ捕まえて、『投げ出すな』と殴り倒して連れ戻そうかと思ったぞ」
長身から落とされる冷酷な声には、明らかな憤りを含まれていた。しかし、決して荒立つことはなく、祖父や父にそっくりの魅惑の艶を保っている。
――と。リュイセンの目線が、すっと動き、メイシアを示す。そこには敵意はなく、むしろ敬意に近いものがあった。
「けど俺よりも先に、そいつが、お前に逢いたいという一心だけで追いかけていった。そしたら、俺の出る幕ではないだろう。お前が出ていったことについては、俺は何も言わん」
「リュイセン……」
ルイフォンが兄貴分の名を呟く。
リュイセンは、再びルイフォンに視線を戻した。
「だが、何故、戻ってきた? 一度、一族を出た人間を簡単に受け入れるほど、鷹刀は軽い場所ではないはずだ」
厳しい顔でそう言ったものの、それは嘘だと、リュイセンにも分かっている。
一族の者たちの大半は、帰ってきたルイフォンを諸手を上げて歓迎するだろう。貴族ではあるが、ルイフォンを一途に想うメイシアも好意的に受け止められている。
リュイセンとて、弟分の帰還は嬉しい。
母親を亡くしたルイフォンを、この屋敷に連れてきたのは他でもない、リュイセンなのだ。
ルイフォンがいれば、心強い。そう思わせる何かがある。祖父のイーレオが、たびたび口にする『人を魅了する人間』という戯言も、あながち嘘でもないとさえ思える。
だからこそリュイセンは、この弟分には道理を通してほしいと思うのだ。
「お前は身勝手だ」
低い声が、深く轟いた。
ふたりの間を、微妙な空気が流れる。
決して、険悪というわけではない。いがみ合っているわけでも、そしり合っているわけでもない。
ルイフォンは、リュイセンの言葉に逆らわなかった。「ああ、俺は身勝手だ」と、言われたことを繰り返す。
「四年前、俺がこの屋敷に受け入れられたのは、俺が親父の血を引いた血族だからだ。そして、俺は一度出ていった。――だから今度は、一個人の俺として、改めて、この屋敷に居ることを認められたい」
どことなく癖のある、彼らしい特徴的な表情が抜け落ちる。鋭く無機質な顔が、ルイフォンの本気を物語っていた。
リュイセンの目が、冷徹な光を帯びた。
「なら他所者として、直系の俺と勝負しろ。お前に見どころがあると認められれば取り立て、後ろ盾になってやる」
だがそれは、認められなければ、金輪際、鷹刀一族の敷地に足踏み入れるな、ということだ。
「分かった。それで構わねぇぜ」
ルイフォンは、挑戦的に口角を上げた。
リュイセンが庭を指し、場を移そうと促す。そこでは、すっかり花を落とした桜の大樹が、芽吹き始めた若葉を枝いっぱいに抱えていた。
足首を慣らすように芝を踏むと、青い香りが漂う。
すぐ後ろでは、メイシアが胸元のペンダントを握りしめていた。不安げな面持ちでルイフォンを見つめているが、無駄な気休めは口にしない。ただ、すべてを見届けようと、黒曜石の瞳に瞬きひとつ、許さなかった。
ルイフォンは振り返り、メイシアの黒髪をくしゃりと撫でた。
それだけで、彼女の顔がぱっと花咲く。呼吸が緊張から解放され、柔らかく緩んだ。
『信じている』と、彼女は無言で彼を見上げた。だから彼は、『任せろ』と目を細めた。
ルイフォンは上着を脱ぎ、メイシアに手渡す。シャツ一枚の軽装でリュイセンと向き合い、手首を返して示した。
「この通り、暗器は持っていない。その代わり、お前も刀はなしだ」
「いいだろう」
細身の体躯ゆえ、腕力に限界のあるルイフォンは、長い刀を扱えない。だが、身の軽さなら、リュイセンを上回る。
彼は落ち着いた様子で、体をほぐす。軽く跳躍すると、背中で金色の鈴が跳ねた。
「行くぞ!」
ルイフォンが鋭い声を上げ、リュイセンに迫った。
後ろに大きく引いた右拳を、体のひねりを使いながら思い切り振るう。
狙いは顎か。身長差を逆手に、下方向から突き上げるか――。
だが、そんな大ぶりの一撃は、リュイセンも看破している。彼は体を屈め、腕を引いたことで、がら空きになった腹へと拳をのめり込ませようとした。
腕のリーチが長いリュイセンのほうが、圧倒的に有利。
しかし……。
リュイセンは本能的な危険を感じ、咄嗟に体を引いた。
目の前を、ルイフォンの膝蹴りがかすめる。獲物を捕らえそこねた体は、回転しながら、ふわりと舞った。一本に編まれた髪が宙を泳ぎ、金色の鈴が殿を務める。
「な……!?」
リュイセンは息を呑む。
握った拳はフェイント。
円を描く腕の動きによって回転の力を生み出し、非力なルイフォンを補うようなスピードと破壊力を膝に載せたのだ。
さすがは、同じチャオラウを師事する弟弟子と言わざるを得ない。
大技を外したルイフォンは、隙だらけだった。そこに軽く一撃を加えるだけで、リュイセンの勝ちは決まる。
けれど、彼は見逃した。
この勝負は、腹に一発食らわせて終わりにするつもりだったのだが、気が変わったのだ。そんな泥臭い戦い方では失礼というものだ。
深く息を吐く。鷹刀一族の直系らしい、冷酷にも見える整いすぎた顔で、リュイセンはルイフォンを見据える。
ルイフォンが体制を立て直すのを待って、リュイセンの手刀がルイフォンの首筋を狙った。
ルイフォンは素早く横に飛び退き、難を逃れる。猫のように軽やかに着地すると、間髪おかず、今度は彼から仕掛けた。
正面から受けて立とうとするリュイセンの間合いの外から、ルイフォンは回し蹴りを仕掛けた。ひねりをきかせ、力強く踏み切った足が、雨上がりの柔らかな土をえぐり、青芝生を散らす。
ルイフォンの爪先が、リュイセンのこめかみを狙う。普通に考えれば、隙の多い無謀な攻撃――だがルイフォンは、逆光を味方に引き入れていた。
背を輝かせながら、リュイセンの長駆に挑む。
瞳を刺す光の矢に気づいたリュイセンは、しかし動じることなく、気配だけでルイフォンの蹴り上げられた足の位置を察し、太腿に手刀を叩きつける。
重い一撃が、骨に響いた。
ルイフォンの足が、地面に払い落とされる。かろうじて倒れ込みはしなかったが、姿勢の安定していないところへリュイセンの手が伸びた。腕を取られ、関節を極められる。
「痛っ!」
肘から手首、指先までも、しっかりと捕らえられ、ルイフォンは身動き取れなくなった。
勝負あったなと、リュイセンの美貌が酷薄に嗤う。
ルイフォンの格闘センスは決して悪くはない。だが致命的に力が足りない。かといって、蹴りに頼れば動きに無駄が出る。チンピラ程度なら楽に翻弄できるだろうが、凶賊としては、まったく戦闘に向いていない。
勝てば認めてやる、という約束ではなかった。いずれは一族を背負うリュイセンに、勝てるわけがないのだ。逆に、もしルイフォンごときに負けるようなら、リュイセンのほうこそ出ていくべきだろう。
落としどころをどうするか。――リュイセンは眉を寄せた。
あちらこちらから、一族の者たちが固唾を呑んで見守る視線を感じる。この状況で、ルイフォンを追い出すことなどできるわけがない。
「リュイセン」
うなるようにルイフォンが呼んだ。痛みからか、額には脂汗が浮かんでいた。けれど、その瞳は好戦的で、ややもすると怒りすら見て取れた。
「俺の指を折るなよ? 腕もだ」
「ルイフォン?」
「勝負はお前の勝ちだ。そもそも、俺がお前に敵うはずがない。そんなことは分かっていて、俺はお前の話に乗った。――だから今度は、俺の話を聞け」
獣が威嚇するような形相で、リュイセンを睨む。こぼれ落ちた汗が、顎を伝った。
「お前の話……?」
「この勝負に意味はない。俺は別に、一族として――凶賊として認められたいとは思っていないからだ」
「な、に……?」
驚愕と共に、リュイセンの力が緩む。それに乗じて、ルイフォンは拘束を振りほどいた。
軽く体をゆすり、筋肉を解きほぐす。掌を閉じたり開いたりすることを繰り返し、指が滑らかに動くことを確かめると、ルイフォンは鋭く光る猫の目を向けた。
「俺は、何処にも属するつもりはない」
握りしめた形のままの拳を突き出し、リュイセンの目前で止める。
「俺は、自由な〈猫〉だ」
はっ、と気づく。――リュイセンは、その拳を知っていた。
ルイフォンと初めて出会った、あの日。緑の香る初夏の陽射しの中。
母親に馬鹿にされたルイフォンは、桜の大木に八つ当たりしようと拳を突き出した。
けれど、寸前で止めた。
そして、『俺が指を痛めたら、仕事になんねぇだろ』と、十にも満たない子供のくせに、一人前に言ってのけたのだ。
「ああ、そうだった……。お前は〈猫〉だ」
リュイセンは呟く。
それなのに彼は、ルイフォンを凶賊として迎えようとした。血族だから優遇されるのだ、と陰口を叩く一部の者を黙らせるため、後ろ盾になってやるとすら言った。
可愛い弟分に、意味のない戦闘を強いた。――愚かさに、嗤いがこみ上げてくる。
「だが、一族に加わるつもりがないなら、どうして『屋敷に居ることを認められたい』なんて言ったんだ?」
リュイセンの問いに、ルイフォンがふわりと笑う。優しく穏やかな、青い空のように。
「鷹刀が好きだから。――ここは俺の居場所なんだよ。俺にとっての一番はメイシアだけど、親父やエルファン、ミンウェイ。チャオラウや料理長……。勿論リュイセン、お前も必要だ」
照れることなく、まっすぐに向けられた純粋な眼差しに、リュイセンは惹き込まれる。
初めて会ったときと同じだ。
魂が、強い。
「俺は欲張りだから、全員、必要なんだ」
「ルイフォン……」
「それからメイシアにも、鷹刀の中に居場所を作ってやりたい。俺たちは『ふたりきり』じゃなくて、『皆に囲まれた、ふたり』でいたいんだ」
ルイフォンは後ろを振り返り、メイシアに向かって手を伸ばす。その手に引き寄せられるように、彼女が駆けてくる。長い黒髪をなびかせ、柔らかに顔をほころばせながら……。
「心配かけて、悪かった」
メイシアを抱き寄せ、ルイフォンはくしゃりと髪を撫でる。無言で何度も首を振る彼女の目には、涙が浮かんでいた。
弟分を想うメイシアの姿に、リュイセンの心がちくりと痛む。ひとり、空回りしていたようで、なんともいたたまれない。
「……ルイフォン。この勝負、どうして受けたんだ?」
黄金比の美貌が、情けなく歪んだからだろう。ルイフォンがくすりと笑った。
「俺に対するお前の怒りは、もっともだったからな。勝負に応じることで、お前の気が鎮まるなら安いものだと思った」
それからルイフォンは、少しだけ考えるような素振りを見せてから、にやりとする。
「実は俺、一族の誰よりも強いんだよ」
「なっ?」
「俺は〈ベロ〉を人質に取ることができる。鷹刀が表に出せない、あらゆる情報を意のままに操れるし、捏造することも可能だ」
さぁっと、リュイセンから血の気が引いた。そういえば、斑目一族を壊滅状態まで追い込んだのは、クラッカー〈猫〉だ。
「けど、俺が欲しいのは『居場所』だ。強硬手段を使って従わせるんじゃ意味がない。だから、お前に認めてもらう必要があった」
強い瞳が――強い魂が、まっすぐに向かってくる。
ルイフォンは、リュイセンの年下の叔父で、弟分で。それより何より『ルイフォン』なのだ。
胸が熱くなる。
「お前を認めるよ。鷹刀の一族ではなく、鷹刀と対等な〈猫〉として――」
リュイセンは右手を差し出した。四年前に迎えに行ったときと同じく。けれど今度は、一族としてではなく。
ルイフォンも覚えていたのだろう。握手をかわすのではなく、リュイセンの掌に拳を打ち付けてきた。
小気味よい音が響く。
「おかえり。よく帰ってきたな」
リュイセンは心から、ルイフォンとメイシアを迎え入れた。
10.飛翔の調べを運ぶ風-1
桜若葉が、風に揺れる。
瑞々しい新緑が陽光を透かし、葉脈の紋様を薄っすらと浮かび上がらせる。
花の舞台が幕を閉じたのは、ほんの少しだけ前のこと。けれど、庭の様相はすっかりと移り変わっていた。
ハオリュウは実家に戻り、父と異母姉の盛大な葬儀をあげた――。
鷹刀一族の屋敷を去る前、ハオリュウは、自分の客間にルイフォンを呼び寄せた。
「異母姉は貴族としての一切の権利を失います。身分としては自由民。いえ、死者となるのですから、自由民ですらないでしょう」
ハスキーボイスに似合わぬ、闇色の瞳でハオリュウは言った。
「ハオリュウ。俺としては、メイシアは藤咲家に戻るので構わないんだ」
いずれは迎えに行くけど――という言葉を、ルイフォンは飲み込んだ。この場で話をややこしくする必要はない。
対して、ハオリュウは意外そうに瞳を瞬かせ、けれど肩をすくめた。
「何を甘いことを言っているんですか。これから我が藤咲家は、難しい状況に陥ります。異母姉がいれば、異母姉を手に入れた者が当主となるでしょう」
「けど、メイシアがいても、お前が正統な後継者だろう?」
未成年で、母親が平民の後妻だから立場が弱いのだ、という説明は聞いている。けれど、それは建て前にしか見えない。
「本当は、メイシアが藤咲家にいても、お前が当主になるのにそれほど大きな障害にはならないんだろう? それよりも、貴族としては、凶賊の息子である俺との仲を、公然と認めるわけにはいかないから、メイシアを死んだことにする――だろ?」
畳み掛けるルイフォンに、ハオリュウはむっ、と眉を寄せ、唇を尖らせた。
「分かっているなら、わざわざ言わないでください!」
メイシアの表向きの死は、彼女がルイフォンを得るための対価。
貴族の相手としてふさわしくないルイフォンを選んだのだから、彼女は貴族ではいられない、ということだ。
けれど、あからさまにそう言わないのは、ハオリュウの気遣いであり、彼なりの祝福だろう。
「……でも本当に、懸念材料はあるんですよ。僕がすんなり当主になれない、ね」
「え?」
「お忘れですか? そもそも、今回の事件の発端はなんだったのか?」
ハスキーボイスが、いつになく鋭く響き、漆黒の瞳が深みを帯びる。それは紛れもない、為政者の顔だった。
「あなた方、鷹刀一族からすれば、凶賊同士の抗争が根底にあるかもしれませんが、藤咲家から見れば、当家が女王陛下の婚礼衣装担当家に選ばれたことが始まりなんです」
「ああ、そうだったな」
すっかり忘れかけていた話に、ルイフォンは曖昧に頷く。
「当主が子供では、安心して衣装担当家を任せられぬと、撤回される恐れがあります。――そういう名目で、僕を排斥する可能性はあるわけです」
ハオリュウは、当主として立てば終わり、というわけではない。その先ずっと、華奢な双肩に藤咲家の命運を担っていく。
領地を治めることは勿論、婚礼衣装担当家としての責も、子供だからと陰口を叩かれぬよう、大人以上に立派に果たさねばならぬだろう。
生半可な覚悟では務まらない。
異母姉のメイシアに政治的手腕があるとは思えないが、そばに居れば、心労続きとなるハオリュウの安らぎの場所になるはずだ。
「俺は、お前からメイシアを奪うんだな」
ぽつりと、ルイフォンは呟く。
それはハオリュウからすれば唐突な言葉で、彼は訝しげに顔をしかめた。
「そうですよ? 今更、何を言っているんですか?」
ルイフォンは、改めてハオリュウを見やる。
初めて会ったときから、ただ者ならぬ雰囲気をまとっていたが、それは追い詰められた者が持つ、繊細で儚げな強さだった。けれど、今の彼は、言うなれば、受けて立つ者の強さ――。
「ありがとう。――感謝する」
『すまない』とは、言わない。すべてを承知して許し――赦し、認めてくれたハオリュウに、謝罪は失礼だ。
「お前、俺の義弟になるんだな」
「死者となる異母姉は正式な婚姻はできませんが、そういうことになりますね」
ハオリュウが、愛想のない声で答える。必要ならば、幾らでも無邪気な笑顔を振りまける彼だが、素の顔はそっけない。けれど、それも気を許しているからこそだと、ルイフォンにも分かっている。
「不思議だな。お前には、もっとメイシアとの仲を反対されると思っていた」
『反対』というよりも、『妨害』に違いないと思っていたことは黙っておく。
ハオリュウは眉間に皺を寄せ、不快げに溜め息をついた。
「僕があなたを認めたことに一番驚いているのは、僕自身だと思いますよ」
「……」
「僕の大切な姉様を託す相手として、あなたは本当にふさわしいのか、否か。もっと時間をかけて見極めたかったですね。……正直、あなたの邪魔をする機を逃した、という気がしてなりません」
やはり『妨害』で正しかったと、ルイフォンは心の中で苦笑する。
そんなルイフォンの内心はつゆ知らず、ハオリュウは、ふっと真顔になり、遠くを見る目をした。
「……いろいろ、ありましたね。あなたが先頭きって、父様を救出する作戦を立ててくれて――」
ハオリュウは押し黙る。こみ上げてくる思いを抑えるように、ぎゅっと口を結ぶ。
そして、目線を近くに――ルイフォンに移した。
「あなたには、感謝しかないんですよ」
ふわりと、ハオリュウが笑った。
決して涙を見せない彼の、泣いているような笑顔。
それは穏やかで、優しげで。父親のコウレンとよく似ていた。
「異母姉を頼みます」
義弟からの、強い願い。
「勿論だ。任せろ」
ルイフォンは深々と頷いた。
――そうして、ハオリュウは屋敷を去った。
藤咲家の当主一家は、家族四人水入らずの周遊中に、不慮の事故に遭ったと公表された。
周遊といっても、素朴で慎ましい、ただの森林浴である。
のんびりと自然の中を散策しているうちに道に迷い、一家は誤って渓谷に落ちたのだという。平民出身の妻が羽根を伸ばせるように、と当主が計画した小旅行で、護衛はつけていなかった。
当主と長女の遺体は見つからず、妻はショックのあまり気が触れてしまった。
そんな中、重症を負いながらも奇跡的に助かった長男は、悲劇の貴公子として扱われた。
普段は、貴族など別世界の存在だと、崇敬と羨望の眼差しを向ける国民たちも、年少ながら利発な受け答えをする彼に涙し、十人並みの容姿さえ『親しみやすい』と好ましく評した。母親が平民出身だというのも、彼の人気にひと役買っているらしい。
これと前後するように、女王陛下がご婚約されるとの噂が、人の口に上るようになった。
しかも、婚礼衣装を担当するのは、注目の藤咲家であるという。
若き女王の婚礼を、若き藤咲家の当主が飾る。
国民の期待が一気に高まった。
――嫡男である彼が当主となることを、一般の国民たちは疑わなかった。
王族や貴族が圧倒的な力を持つこの王国でも、国民の人気という形なきものは、決して無力ではない。結局のところ、国民がいてこその国だからである。
支配階級の貴族に対し、一般国民がこれほど好意的になることは、自然に起こりうることなのか。
そして何より、箝口令が敷かれていた女王陛下の結婚について、いったい誰が情報を漏らしたのか。
そこにクラッカー〈猫〉や、繁華街の情報屋トンツァイの名を見い出すことができる者は、ごくわずかである。
情報屋トンツァイの表の顔は、食堂兼酒場の主人である。繁華街の中でも、なかなか評判の良い店で、昼時ともなれば客はひっきりなしだ。だから、部下からの知らせを受けたとき、彼はちょうどランチメニューのチャーハン五人前を作り上げたところであった。
この忙しいときに、とトンツァイは顔をしかめた。暇さえあれば、悪友どもとカードに興じてばかりの息子、キンタンですら真面目に給仕を手伝っている時間帯だ。
「かき入れ時にすまんなぁ」
痩せぎすの体をかがめて頭を掻き、トンツァイは隣で野菜を刻んでいる女房に言う。
「なぁに言ってんの! そっちが本業でしょ」
彼女は、トンツァイとは対照的な恰幅のよい体を揺らしながら、包丁を持っていないほうの手で亭主の背中をどんと叩いた。
「けどよ。また貧民街で若い女の死体が出た、って情報なんだよ。気にはなるが、それほど重要かというと、よく分からなくてよぉ」
貧民街で死体など、珍しくもない。
だが、ここで報告されてくる死体には共通点がある。体の前面は綺麗なものなのに、背面だけが見るも無残なほどに焼けただれているのだ。
初めは、何か重大な事件に違いないと、トンツァイは、はりきって部下に調べさせていた。けれど、最近では、『そういう嗜好』の貴族なり凶賊なりが弄んだ、娘たちの成れの果てなのではないか、という気がしている。
ほうぼうの情報と照らし合わせても関連を見いだせず、その特徴的な死体が発見される以上の事件は何も起こらないからだ。
「そんなこと言ってないで。これから何か重要な事件が起きるのかもしれないでしょ!」
乗り気でない亭主に、女房は豪快に笑いかける。
「あたしは、あんたの裏の顔に惚れているんだから!」
体型から彼女が亭主を尻に敷いているように見えるが、実は彼女のほうがぞっこんだった。
あとは任せて、と言わんばかりに、彼女は胸を叩く。この頼もしすぎる女房を、トンツァイもまた、年甲斐もなく可愛いと思っていた。
「おぅ、行ってくるぜ!」
彼は女房の額にちゅっと口付けた。
現場には、部下と共に、思わぬ人物が待っていた。
「あらぁ、トンツァイ。遅かったわねぇ」
長めの後れ毛を肩から転がし、彼女はアーモンド型の瞳を楽しげに歪ませた。
「シャオリエさん、どうしてここに?」
「若い娘が被害に遭っていると聞けば、うちの娘たちも襲われないか、心配になっても不思議ないでしょう?」
シャオリエは娼館の女主人である。だから、彼女は多くの娘たちの面倒を見ている。
「けど、シャオリエさん。被害者たちは、このへんで見ない顔ですよ。無差別に襲われているわけではないでしょう」
そう言ってからトンツァイは、シャオリエが本心を言っているわけではないことに気づいた。
彼女は彼女で、この特徴ある死体を気にしている。この前、死体が見つかったときも、現場でかち合った。
あれは確か、ルイフォンと約束があった日だ。
『仕立て屋に化けた、ホンシュアという名前の女と、斑目と厳月家の関係について調査してほしい』――そう依頼され、報告することになっていた。
あのときはシャオリエに捕まったおかげで、彼を待たせてしまったのだ。
「トンツァイさん、背中側の写真を撮りました。顔も撮りますよね?」
部下が呼びかける。
「ああ」
死体の写真など、決して気持ちのよいものではないが、それは仕方ない。
――と、部下が死体の顔を上に向けたとき、トンツァイは目を疑った。
職業柄、彼は人の顔をよく覚える。少し髪型が変わったくらいで、見間違ることはない。
明らかに生命を宿していない、青白き女の、その顔は――。
「『ホンシュア』!?」
「トンツァイ! お前、『ホンシュア』を知っているの!?」
衝撃に叫んだトンツァイの声を、シャオリエの高い声が更に上回る。
「あ、あ――」
開きかけた口を止め、情報屋トンツァイの顔がにやりとする。
「シャオリエさん、ここは情報交換といきましょうぜ?」
「馬鹿ね、トンツァイ。そういった時点で、お前の負けよ。この女は『ホンシュア』ってことね」
「いやいや、シャオリエさん。それはまぁ、そうなんですが、それ以上の情報を俺が知っているってことも、あるわけでしょう?」
『それ以上の情報』などないのだが、ハッタリは重要である。
シャオリエは「ふぅん」と、見透かしたような目でトンツァイを見た。
「まぁ、いいわ。お前には、いろいろ無茶も頼んでいるし、機嫌をとっておくのも大事ね」
そう言って彼女は、ホンシュアの死体に近づき、しゃがんで手を合わせた。意外な行動にトンツァイは面食らうが、なんとなく彼女に倣う。
「この娘が『ホンシュア』なら、今まで同じような姿で亡くなった娘たちは皆、熱暴走を起こした〈天使〉ということよ」
「〈天使〉?」
「〈七つの大罪〉の実験体よ。私も詳しいわけじゃないわ。だから今までは、遺体を見ても気にしすぎだと思っていたのだけど……」
〈七つの大罪〉の言葉に、トンツァイは、ごくりと唾を呑んだ。
危険な匂いがぷんぷんする。けれどそれは情報屋にとっては、甘美な匂いでもある。
「それで?」
「え? それだけよ? だって言ったでしょ。私は詳しくない、って」
――はぐらかされた。
「……まぁ、シャオリエさんに期待した俺が、馬鹿ですよ」
「あらぁ、なんか失礼ね」
口ではそう言うものの、別にシャオリエは怒っているわけではない。くすくすと笑いながら、トンツァイの反応を楽しんでいる。
ならば、とトンツァイは少しだけ図に乗ってみた。
「では、厳月家の当主の急死についてなら、詳しく知っていますか?」
藤咲家の当主の葬儀が盛大に行われている一方で、ライバルである厳月家の当主が何者かに暗殺された。
「あれは、藤咲家の姉弟の報復でしょう?」
それを知って、どうするというわけでもない。
ただトンツァイも、一連の事件に関わった人間として、事の顛末の真実を知りたかったのだ。
シャオリエは口の端を上げた。
「鷹刀が、あの姉弟に手を貸したのか、と訊きたいのかしら?」
「ええ、まぁ、そうですが――。……もし、厳月家の当主の死因が毒殺か、刀傷なら、わざわざ訊いたりしません。ただ、頭に一発、鉛玉を撃ち込まれたと聞いたんで……」
凶賊は――特に規律を重んじる鷹刀一族は、銃を使わない。だから、トンツァイは腑に落ちなかったのだ。
「鷹刀は、やってないわよ」
シャオリエは、さらりと答える。そして、肩をすくめて笑った。
「あのお坊ちゃん、なかなか、たいした子ね。私にも、イーレオにも懐かなかった野犬を、手懐けたんだもの」
10.飛翔の調べを運ぶ風-2
どこまでも遥かに、広く晴れ渡った青空の中を、白い雲が走り抜ける。
強い風に、ぐんぐんと押し流され、その勢いに乗りながら、自在に形を変えていく――。
庭の片隅に置かれたテーブルには、新緑が程よい木陰を落としていた。
彼女は白い帽子をかぶり、ガーデンチェアーに座っている。
お茶を飲むでなく、本を読むでもなく。椅子の背に寄り掛かり、青い空を見つめていた。
まるで時が止まっているかのように、彼女はひっそりと動かない。ただ帽子を飾る、シルクサテンのリボンだけがなびいている……。
風が、ひと際強く吹き、木々を揺らした。
若葉の間をすり抜け、彼女の帽子をさらう。
身じろぎひとつしなかった彼女の口が、「あ」と言ったのが、遠くからでもメイシアには分かった。
風はふわりと帽子を運び、メイシアの足元に届ける。
メイシアは帽子を拾い上げ、ぎゅっと握った。
「メイシア?」
気遣うように、ルイフォンが声を掛ける。
メイシアの継母は、息子ハオリュウを誘拐され、夫コウレンが息子を助けようと出ていったまま帰らず、娘のメイシアが騙されて凶賊の屋敷に行ってしまったあと、正気を失った。
ハオリュウは、メイシアが行ってしまったから、母の気が触れてしまったと感じたようだが、おそらく違う。彼女は、大事な家族が次々に消えていく現実に、耐えられなくなったのだ。
起きていても、夢の中をさまようようになってしまった彼女を、ハオリュウはこの静かな別荘に移した。信頼できる者だけをそばに置き、穏やかな時を過ごせるようにと。
「ルイフォン。私がお継母様と初めて会ったときも、私はお継母様の帽子を拾ってあげたの。今日みたいに、とても風の強い日だった……」
あのときの彼女は、大人の女性なのに大声で悲鳴を上げ、段差に気づかずに思い切り転び、膝を擦りむいた。
幼いながらも、貴族の淑女としての教育を受けていたメイシアには、それはとても衝撃的で、くるくると表情の変わる彼女に一気に惹き込まれた。
――継母は、帽子を持ったメイシアをじっと見つめていた。元気に走り寄ってくる気配は、微塵にも見られなかった。
嗚咽をこらえるように、メイシアの肩が震える。
その肩をルイフォンがふわりと抱き寄せ、反対の手でメイシアの髪をくしゃりと撫でた。
メイシアは、きゅっと口を結んで頷く。
それから、ゆっくりと継母に近づいていった。
メイシアが、鷹刀一族の屋敷での生活に慣れ始めたころ、ルイフォンは彼女に切り出した。
「俺はリュイセンに、俺たちは『ふたりきり』じゃなくて、『皆に囲まれた、ふたり』がいいと言った。そして俺は、俺の周りの『皆』を手に入れた」
なんの話だろうと、きょとんとするメイシアに、彼はいつになく真面目な顔を向ける。
「けどお前は、お前が持っていた『皆』を、俺のために失った。俺と一緒に居る、ってことだけのために、お前はすべてを失ったんだ」
メイシアはたじろぐ。ルイフォンが気にしていることを、薄々感じていたからだ。
「おかしいと思わないか? 不公平じゃないか? お前にだって、大切な人や友達がいただろう?」
「でも私が貴族のままだったら、ルイフォンとは一緒に居られないから……」
「けど!」
鋭く叫ぶルフィオンに、メイシアはゆっくりと首を振った。
「ルイフォン、あのね……ルイフォンには信じられないかもしれないけど、私はルイフォンが思っているほど、人を大切に思っていなかったんだと思う」
「どういうことだ?」
「この屋敷に来たばかりのとき、ルイフォンは私に『使用人と喋るのに慣れていないだろ』と言ったの。覚えている?」
ルイフォンは、「あー」と言ったまま、押し黙る。うろ覚えの状態なのだろう。
「身分の違う者とは話すものではない、と教育係に言われてきたの。そして同じように、友達とも『わきまえて』付き合うように、と教えられていた」
「あー、うーん?」
おそらく、ルイフォンには理解できないだろう。家柄による上下や、『友達は選べ』という言葉。将来の嫁ぎ先同士の仲が悪ければ、それきりの縁になることが分かっている関係も。
「貴族の娘のであった私は、貴族としての権利を享受する代わりに、家のために生きる義務を負っていたの。そんなことに気づきもしなかったけれど。――だから今までの私は、悲しい人間だったと思う」
メイシアの綺麗な顔が、淋しげに歪む。けれど、すぐに彼女は、ルイフォンに向かって微笑んだ。
「だからね、これからルイフォンと一緒に、大切な人を増やしていきたい」
ルイフォンは判然としない顔のまま、口をつぐむ。
しかしやがて、はっと思いついたような顔をして叫んだ。
「大切な人、いるじゃん! お前、お継母さんのことが大好きだろ? だからさ、会いに行こうぜ。きっとハオリュウも許してくれるはずだ」
継母のそばに来たメイシアは、すっと帽子を差し出した。
どんな言葉を、どんな言葉遣いで言えばいいのか、まるで分からなかった。だから、喉に声が張り付いたまま、何も言えなかった。
椅子に座ったままの継母が、メイシアを見上げた。見知らぬ人を見るような目で、首を傾げる。
「あ、あの、帽子……」
ありったけの勇気を振り絞り、メイシアはやっとそれだけ言う。
「目に……」
継母の唇が呟いた。
ほとんど口をきけない、と聞いていたメイシアは驚く。
「……砂が、入っちゃった?」
「え……?」
「だって、……目が、真っ赤よ?」
「お継母様……!」
彼女は、思い出し始めている……。
メイシアと初めて会ったときのことをなぞっている……!
「い、いいものが、あるんです!」
メイシアは慌てて帽子をテーブルに置き、持っていたバッグの中身をごそごそとあさった。
「こ、これ! クッキー――『砂』です。昔、お継母様に作っていただいたのと同じものを作りたかったんですが、レシピが分からなくて……」
継母のお見舞いに行くことが決定してから、メイシアは料理長に頼み込んで『砂』の特訓をしてもらった。人のよい料理長は、まったくの料理未経験者のメイシアを指導しながら、彼女の思い出の味の再現に尽力してくれた。
けれど、どうしても同じ味にはならなかった。同じ名前の菓子でも山ほどのレシピがあり、近づけることはできても、同じにはならなかったのだ。
継母はひとつ手に取り、口に運んだ。
「美味しい……」
さくさくという音が、口の中で甘くほろほろと溶ける。それと共に、継母の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「メイシアちゃん……。ううん。『メイシアさん』と呼ぶように、って怒られたんだっけ……?」
彼女が事務見習いから継母になったとき、たくさんのことが変わってしまった。貴族の奥方になった彼女は、厨房に入ることは許されなくなった。
メイシアは思わず継母に抱きついた。
あとからあとから、涙が溢れてきた。メイシアは継母にしがみつき、子供のように泣きじゃくる。
「お継母様、私に『砂』の作り方を教えてほしいの……。ハオリュウは、お継母様の作った『砂』の味を知らないから……ふたりで作って、皆で食べたいの……」
「……『皆』は、そこの彼も一緒かしら?」
継母の目が、メイシアを背後を見ていた。
メイシアは、はっとして顔を赤らめる。けれど、はっきりと言った。
「ええ、そう! 彼は、私の一番大切な人……」
継母は、ルイフォンを見ながら、眩しそうに目を細めた。その目尻から再び、すぅっと涙が流れる。
「お継母様?」
「彼は、貴族ではないわね?」
「え、あ、あの……」
思わぬ言葉に、メイシアの心臓が鷲掴みにされた。ルイフォンを連れてきてはいけなかったのだろうかと、血の気が引いていく。
そんなメイシアを、継母はぎゅっと抱きしめた。
耳元で、そっと囁く。
「メイシアちゃんも、見つけちゃったのね?」
「え?」
「『だいそれたこと』をしてでも、そばに居たい人を」
いたずらな少女のように笑いながら、継母はメイシアから体を離す。
「……え? お継母様?」
メイシアはじっと継母を見つめ、そして、はっと思い出した。
『私は、だいそれたことなんて望まないわ。今のままがいいの……』
メイシアの父、コウレンにプロポーズされた継母は、初めはそう言って断っていたのだ。
「私、幸せよ。『だいそれたこと』をしたの、間違いじゃなかった」
今まで、ほとんど口も聞けない状態だった継母の言うことが、どのくらいしっかりしているのかは分からない。
けれど。
今の言葉は本心だと信じられる――!
「お継母様! 私も……! 私も、そう思うの!」
涙を拭い、メイシアは笑う。
「メイシアちゃん。大変なこともあると思う」
メイシアの肩に手を置き、継母が言う。
「でも、幸せなことのほうが、ずっと多いわ……」
継母の手が優しく動き、メイシアをルイフォンのもとへと送り出した――。
抜けるような青空の中を、二羽の鳥が飛んでいく。前に、後ろになりながら、どこまでもどこまでも……。
空の住人は、力強く羽ばたき、遙か天空を舞う。
悠然と、自由に――。
~ 第八章 了 ~
~ 第一部 完 ~
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第一部 第八章 交響曲の旋律と
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第二部 比翼連理 第一章 遥か過ぎし日の https://slib.net/112161
――――に、続きます。