di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第七章 星影の境界線で

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第七章 星影の境界線で

こちらは、

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第七章 星影の境界線で
                          ――――です。


『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第六章 飛翔の羅針図を https://slib.net/111317

                 ――――の続きとなっております。


長い作品であるため、分割して投稿しています。
プロフィール内に、作品全体の目次があります。
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〈第六章あらすじ&登場人物紹介〉

〈第六章あらすじ&登場人物紹介〉

===第六章 あらすじ===

 鷹刀一族と藤咲家は、囚われの身のメイシア・ハオリュウの父親である藤咲家当主を救出するために手を組んだ。初めは貴族(シャトーア)に抵抗のあったリュイセンも、ルイフォンがメイシアと接したことによって変わったのを感じて協力することにする。

 作戦会議で情報のすり合わせを行い、その最後に、ルイフォンが「今晩、救出に向かう」と宣言した。しかも、「被害ゼロ」を目指すために斑目一族への直接的な攻撃は行わず、ルイフォンが仕入れた情報による「経済制裁」を提案。承諾される。
 また、別荘に囚われている藤咲家当主は、ルイフォンとリュイセンで密かに救出することが決まった。
 
 解散後、メイシアとハオリュウは久しぶりの姉弟の時間を過ごし、その中でメイシアは継母が自分を売ったと思っていたことは誤解だと気づく。
 ほっとするメイシア。しかしハオリュウは、母が心労によって正気を失ってしまったことを隠していた。

 そのころルイフォンは、「経済制裁」用の情報を取りに来たミンウェイに、貧民街で会った斑目一族の食客、〈(ムスカ)〉のことを話す。〈七つの大罪〉の〈(ムスカ)〉といえば、ミンウェイの死んだはずの父親だったからだ。
 ミンウェイが自白を任された捕虜たちは、〈(ムスカ)〉そっくりな喋り方をする。気をつけるように、とルイフォンは忠告した。

 救出作戦の準備が整ったあと、ルイフォンはメイシアの部屋を訪れた。
 そして、父親が救出されたら、イーレオとの娼婦になるという約束も、藤咲家の人間として自分を抑える生活も、すべて振り切って「俺のところに来い」と言う。ルイフォン自身もまた、鷹刀一族を抜けて「メイシアの居場所になる」から、と。
 すれ違いながらも、最後には想いが通じ合い、ふたりは恋人同士となった。


===登場人物===

[鷹刀一族]

鷹刀ルイフォン
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
 母から、〈(フェレース)〉というクラッカーの通称を継いでいる。
 端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
 長髪を後ろで一本に編み、毛先を金の鈴と青い飾り紐で留めている。

※「ハッカー」という用語は、「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われていた。
 「クラッカー」には悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
 よって、本作品では、〈(フェレース)〉を「クラッカー」と表記する。

鷹刀イーレオ
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族の総帥。六十五歳。
 若作りで洒落者。

鷹刀ミンウェイ
 イーレオの孫娘にして、ルイフォンの年上の『姪』。二十代半ばに見える。
 鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
 緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。
 薬草と毒草のエキスパート。
 かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。

鷹刀エルファン
 イーレオの長子。次期総帥。ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄弟。
 感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
 倭国に出掛けていた。

鷹刀リュイセン
 エルファンの次男。イーレオの孫。ルイフォンの年上の『甥』。十九歳。
 文句も多いが、やるときはやる男。
『神速の双刀使い』と呼ばれている。
 父、エルファンと共に倭国に出掛けていた。
 長男の兄が一族を抜けたため、エルファンの次の総帥になる予定である。

草薙チャオラウ
 イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
 無精髭を弄ぶ癖がある。

料理長
 鷹刀一族の屋敷の料理長。
 恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。

キリファ
 ルイフォンの母。四年前に謎の集団に首を落とされて死亡。
 天才クラッカー〈(フェレース)〉。
 右足首から下を失っており、歩行は困難だった。
 かつて〈七つの大罪〉に属していたらしい。
 鷹刀一族の屋敷に謎の人工知能〈ベロ〉を遺していた。
 もとエルファンの愛人。エルファンとの間に一女あり。

〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
 ルイフォンの母が作った三台の兄弟コンピュータ。
 ただし、〈スー〉は、まだできていないらしい。
〈ベロ〉は、独自の判断で、「敵を全滅する」というルイフォンの指示を無視した。


[藤咲家]

藤咲メイシア
 貴族(シャトーア)の娘。十八歳。
 箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
 すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
 白磁の肌、黒絹の髪の美少女。

藤咲ハオリュウ
 メイシアの異母弟。十二歳。
 十人並みの容姿に、子供とは思えない言動。いずれは一角の人物になると目される。
 斑目一族に誘拐されていたが、解放された。

藤咲家当主
 メイシア・ハオリュウの父。
 斑目一族の別荘に囚われている。

藤咲家当主の妻
 メイシアの継母。ハオリュウの実母。
 メイシアが凶賊(ダリジィン)である鷹刀一族のもとへ行ったあと、心労で正気を失ってしまった。ハオリュウはそれを知っているが、異母姉のメイシアには隠している。


[繁華街]

シャオリエ
 高級娼館の女主人。年齢不詳(若くはないはず)
 外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
 元鷹刀一族であったが、イーレオの負担にならないように一族を離れた。

スーリン
 シャオリエの店の娼婦。
 くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。
 本人曰く、もと女優の卵。

トンツァイ
 繁華街の情報屋。
 痩せぎすの男。

キンタン
 トンツァイの息子。ルイフォンと同い年。
 カードゲームが好き。


[斑目一族]

斑目タオロン
 よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした斑目一族の若い衆。
 堂々たる体躯に猪突猛進の性格。二十歳過ぎに見える。
 斑目一族の非道に反感を抱いているらしいが、逆らうことはできないらしい。
 ルイフォンに鷹刀一族の屋敷に危機が迫っていることを暗に伝えてくれた。


[〈七つの大罪〉]

〈七つの大罪〉
 現代の『七つの大罪』《『新・七つの大罪』》を犯す『闇の研究組織』。
 知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。代償は体に刻み込まれた『契約』。

(ムスカ)〉 = ヘイシャオ?
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉。
 ミンウェイの父。
 イーレオが総帥位を奪わなければ、鷹刀一族の中心にいたはずの人物。
 鷹刀一族を恨んでいる。 
 医者で暗殺者。

ホンシュア = 〈(サーペンス)〉?
 鷹刀一族に助けを求めるよう、メイシアを唆した女。
 仕立て屋と名乗っていた。


[警察隊]

緋扇(ひおうぎ)シュアン
『狂犬』と呼ばれるイカレ警察隊員。三十路手前程度。
 ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
 凶賊(ダリジィン)の抗争に巻き込まれて家族を失っており、凶賊(ダリジィン)を恨んでいる。
 凶賊(ダリジィン)を殲滅すべく、情報を求めて鷹刀一族と手を結んだ。

シュアンの『先輩』
 警察隊が鷹刀一族の屋敷に来たとき、メイシアに銃を向けた男。
 何かを知っているのではないかとのことで、ハオリュウの権力で身柄を預かった。

斑目一族の?『巨漢』
 警察隊に紛れてイーレオの執務室にまで乗り込んできた巨漢。
 斑目一族の者?
 何かを知っているらしいので拘束した。


===大華王国について===

 黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
 身分制度は、王族(フェイラ)貴族(シャトーア)平民(バイスア)自由民(スーイラ)に分かれている。
 また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊(ダリジィン)と呼ぶ。彼らは平民(バイスア)自由民(スーイラ)であるが、貴族(シャトーア)並みの勢力を誇っている。

1.天上の星と地上の星-1

1.天上の星と地上の星-1

 欠けた月の空に、溢れんばかりの星々が瞬いていた。
 郊外の空気はつんと澄んでいるからだろうか、春先の夜風は思っていたよりも冷たく、軽く肌が震える――。
 斑目タオロンは、夜闇のバルコニーから眼下を見下ろした。
 闇といっても、この別荘の幾つかの窓からは電灯の明かりが漏れ出していたし、庭の外灯は敷石のざらついた表面の陰影がはっきりと分かるほどの光量がある。室内よりは暗い、といった程度だ。
 時折、庭をうろつく影が外灯の光を遮り、青芝生に人の形を浮かび上がらせていた。見回りの者たちだ。やる気のなさそうな、のんびりとした足取りである。
 タオロンが視線を伸ばして門を見やると、左右に分かれて立っているはずのふたりの門衛たちは、仲良く並んで壁に背を預けて座っていた。おそらく、雑談でもしているのだろう。どうにも別荘にいる者たちは、本邸警備の者たちと比べ、たるんでいる。
 ……気持ちは分からないでもない。
 元来、凶賊(ダリジィン)なんてものは、規律正しい世界が息苦しくなった者たちの行き着く先だ。勤勉な者など珍しい。
 タオロンが溜め息をついたとき、隣の敷地にある森に囲まれたキャンプ場から、ぱっと赤い光が飛び出した。
 ほぼ同時に、破裂音が聞こえてくる。
 どっと、歓声が上がる。――やや甲高い少年たちの声だ。花火だか爆竹だかで遊んでいるらしい。
 キャンプの気候は、まだ先だ。今は、夜遊びしたい悪餓鬼どもの丁度よい遊び場なのかもしれない。
 この騒ぎが気になって、タオロンはバルコニーに出たわけなのだが、与えられた部下たちは敷地外のことにまで関わりたくはないと言わんばかりの態度――というわけだった。
 命令しなければ駄目か……。
 タオロンは再び溜め息をついた。
 部屋に戻るべく戸に手をかけた瞬間、右上腕に軽い引きつりを覚え、彼は庇うように左手で押さえた。その下には、貴族(シャトーア)の娘に刻まれた傷があった。彼女には「かすり傷だ」と告げたが、それほど簡単なものでもなかった。彼の経験上、一週間は刀を振るえば傷が開く。
「……」
 そのはずだった。
 だが、〈七つの大罪〉の〈(ムスカ)〉の治療を受けた途端、傷口が新しい皮膚で盛り上がった。素振りをしてみても、鋭い痛みはあるものの傷は開かなかった。
『だから、私の本分は医者だと申し上げたでしょう?』
 低い声が見下したように嗤う。
『少しは私の言うことを信じたらどうですか?』
 ――今、斑目一族の本邸には、鷹刀一族の軍勢が向かっているという。次期総帥、鷹刀エルファンが指揮しているというから、本気でかかってくるつもりなのだろう。
 タオロンとしては、そちらの部隊に加わりたかった。しかし、〈(ムスカ)〉が、怪我を理由に別荘に配置するよう、総帥に進言したのだ。
 斑目一族の総帥は、〈七つの大罪〉の技術に夢中だった。そして、それをもたらす〈(ムスカ)〉の言いなりだった。タオロンが、貧民街で貴族(シャトーア)の娘を仕留められなかった罪でさえ、〈(ムスカ)〉の口利きによって不問となっている。
 そう――。
 怪我を理由に、この別荘に来た。それなのに、〈(ムスカ)〉は、あっという間に傷を癒やした。
 ならば、自分が別荘に引きこもる理由などないではないか、とタオロンは〈(ムスカ)〉に詰め寄った。
『この別荘には子猫が来ますよ。あの娘の父親を取り返しに。そのとき、あなたくらい腕の立つ人間がいないと、格好がつかないでしょう?』
 幽鬼のように気配もなく、すれ違いざまにそう言い残して、彼は部屋を出ていった。
 タオロンは三度(みたび)溜め息をつき、太い眉を寄せた。


 夜の森を貫く、狭い散策路――。
 鬱蒼とした木立が左右から迫り、湿気った青臭さが鼻をついた。
 別荘からは目と鼻の先であるのに、深い木々の闇で隔てられた道は、まるで異空間だった。頭上の星明りでは心もとない。足元を細長く照らす、懐中電灯の光が道しるべだ。
 目的地たるキャンプ場は、すぐ左手であり、それを証明するかのように、甲高い少年たちの笑い声が耳に障る。腰に()いた刀の重みを感じながら、三人の凶賊(ダリジィン)たちは、決して軽やかとはいえない足取りで歩を進めていた。
「面倒くせぇ」
 ひとりの男が、大あくびをしながら呟いた。三人の中では一番背の低い、小男である。
 寝ていたところを叩き起こされ、男は不機嫌だった。昨日、夜番だった彼は、まだまだ眠かったのである。
 隣を歩いていた男が「まったくだな」と同意した。だが、そのふたりの前を歩く大男は無言だった。先頭に立つ者の責任のつもりなのか、機械的にも見える律儀さで、懐中電灯を持つ手をまっすぐに伸ばしている。
 小男は、付き合いの悪い同僚に舌打ちした。そいつは配置転換で来たばかりの新顔で、口数が少なく日頃から感じが悪いと思っていた奴だった。何より、貧相な自分に比べ、巌のような大男であることが気に食わない。
 小男は、大男を無視して、隣の男に話しかけた。
「……ったく、なんだって、俺たちが餓鬼に説教しに行かにゃいけねぇんだぁ?」
「あぁ。あの坊っちゃん、図体のわりに細けぇな」
 隣の男は吊り目を細め、せせら笑った。相手が話に乗ってきたことに調子づき、小男は鼻息を荒くする。
「そうそう! だいたいよぉ、なんで、あの坊っちゃんがこっちの別荘に来てんだよ?」
 不満をぶちまける小男に、吊り目男は「知らねぇのか?」と意外そうに声を出す。
「なんでも、怪我して前線を外されたらしいぜ?」
「怪我? あの坊っちゃんより強い奴なんていたわけ? 化物かよ?」
 吊り目男は、ふっと嗤い、勿体つけるように声を潜めた。
「――ああ、鷹刀の孫だ」
 噂が広がっていくうちに、いつの間にか、タオロンは『神速の双刀使い』――鷹刀リュイセンに負けたことになっていた。
「ははっ、そりゃ、立つ瀬ないわぁ!」
 小男が、タオロンを卑下するように手を叩いた。
 その瞬間、今まで黙って先頭を歩いていた大男が、いきなり振り返って小男の胸倉を掴み上げた。放り出された懐中電灯が、明後日の方向を照らし出す。
「あの人を悪く言うんじゃねぇ。殺すぞ」
 表情の見えぬ薄闇の中で、どすの利いた声が響く。
「……なんだよ?」
 掴まれた小男は声を返し、そして得心がいったように続けた。
「ああ、お前、坊っちゃんの『信者』だったのか」
「別に『信者』なんてもんじゃねぇ。ただ、あの人は『まとも』だ、ってだけだ」
 ふたりの凶賊(ダリジィン)の間で、暗い火花が散る。吊り目の男は内心で溜め息をついた。――なんとも馬鹿らしく面倒臭い争いである、と。
「お前ら、喧嘩すんなよ」
 斑目一族にしては実直すぎる、『坊っちゃん』こと斑目タオロンの周りは、二派に分かれる。『好き』か『嫌い』か、ただそれだけだ。
「部下たちが争っても、『タオロン様』は、お喜びにならないぞ」
 皮肉を込めて言う吊り目男は、小男の味方だった。
 この喧嘩は、放っておけば体格差であっという間に勝負がつく。だが、こう言えば、タオロンを崇拝している大男は引くしかない。
 案の定、大男は、むっと額に皺を寄せ、仲裁に入った吊り目男の顔を睨みつけたものの、やがて黙って手を離した。そして懐中電灯を拾う。
 そのまま踵を返し、大男は歩き出した。
 小男と吊り目男は肩をすくめ、あとに続いた。


 もともと、そう遠い距離だったわけではない。それからすぐに、彼らはキャンプ場の入り口に着いた。
 急カーブで曲がるオートバイの轍が、水はけの悪い地面に幾つも刻まれていた。それを目印として、あとを追うかのように、彼らも直角に曲がる。途端、火薬の臭いが濃くなった。
 ――だが、彼らは思わず、足を止めた。
 開けた草原の上を、今にもこぼれ落ちそうな星空が覆っていた。
 凶賊(ダリジィン)ですら、美しいと認めざるを得ない、光あふれる紺碧の星月夜……。
 そのとき、地上でも星が散った。続いて、爆発音――。
「おー!」
「やりぃ!」
 ――甲高い歓声。
 キャンプ場の真ん中に、少年たちがいた。
 誰かが火を付けてはそれを投げ、周りがやんややんやと囃し立てる。だいぶ酒も飲んでいるらしい。すっかり出来上がった調子だった。十数人はいるだろうか。思ったよりも多い。
「ちっ、餓鬼が……」
 小男が忌々しげに唾を吐いた。
 彼は、先頭の大男を押しのけて前に出た。そして、足元に転がっていた空き缶を、少年たちに向かって蹴り飛ばした。
 アルコール臭と、缶底に残っていた、べとつく、ぬるい液体を撒き散らしながら、缶が飛ぶ。
 彼我の距離からして、当然のことながら少年たちのところまでは届かなかったが、軽いアルミの音は、端のほうにいた少年を振り向かせるくらいの役には立った。気づいた者が、近くの者の服を引き、やがてそれが集団全体に伝搬する。
 少年たちが緊張の色に染まり、水を打ったかのように静まり返った。
 小男は、ふっと鼻で笑うと、おもむろに腰の刀を引き抜いた。これ見よがしに高く掲げ、星明かりを、ぎらりと反射させる。美しい刀身が、地上の星とは自分のことだと主張しているかのようだった。
「おいおい、殺すなよ。素人の餓鬼を殺すと面倒だぞ」
 吊り目男が半ば呆れたように忠告する。
「分かっているさ、ちょいと脅すだけだ」
 そう言って小男は、肩を怒らせながら少年たちに近づいていった。
「オラオラ、餓鬼ども!」
 派手に刀を振り回し、小男は大声を張り上げる。立ち尽くす少年たちの細かな表情は読み取れないが、微動だにしない様子から相手が凶賊(ダリジィン)と気付き、脅えているのだろう。
 小男は愉快に思いながら、大股に歩いて行く。
 もう少しで、少年たちが刀の間合いに入る、というときだった。
「おっさん! 何様のつもりだよ?」
 耳障りな、キンキンと高めの声が放たれた。一番奥で、木製のベンチに座っていた少年が立ち上がった。
「ここは俺らの遊び場だぜ? 邪魔すんなよ」
 痩せぎすだが、物怖じしない目をしていた。少年は顎をしゃくりあげ、ベンチにおいてあった酒瓶を片手に、ゆっくりと小男に向かっていく。
「……あ?」
 怖気づいているとばかり思っていた相手に、おっさん呼ばわりされ、小男は一瞬、状況が掴めなかった。
 少年は小馬鹿にしたように酒をあおり、にやりと笑って酒瓶を近くにいた仲間に手渡した。やおら胸ポケットに指先を突っ込むと、次の瞬間、彼の手の中でライターがカチリと音を立てる。
 ――ぼっ……。
 少年が火を吐いた。――口から一気に吹き出された(アルコール)の粒子が、炎を纏って小男に襲いかかった。
「うわっ!?」
 想像だにしなかった出来ごとに、小男が飛び退く。
「へっ、ばーか」
「こ、こぉんの、糞餓鬼がぁ!」
 少年に向かって、小男が本気で刀を振り下ろそうとした瞬間、その背後にしなやかな黒い影が走り寄った。影は軽やかに跳び上がり、小男の後頭部を蹴りつける。
 強烈すぎる衝撃に、声もなく倒れる小男……。
 ふわり、と黒い影が草原に降り立った。長く編まれた髪も、一瞬だけ遅れて彼の背中に着地する。飾り紐の中に収められた金色の鈴が、きらりと星明りを跳ね返した。
「ナイスだ、キンタン」
 テノールが響く。
「ルイフォンも、さすがだな」
 ふたりの少年のシルエットが、ハイタッチを交わす。
「な……」
 少し離れたところで見ていた吊り目の凶賊(ダリジィン)は、(おのれ)の目を疑った。自分が受けた衝撃を、なんと呼ぶべきかすら分からない。
 たかが子供に、天下の凶賊(ダリジィン)が手玉に取られた。確かに、あの小男は強いとは言いがたかったかもしれない。だが、完全に見下され遊ばれていた。
 倒された小男を、少年たちが寄ってたかって拘束しているのが見えた。刹那、彼の中に激昂が生まれた。
「が、餓鬼がぁ……! ふざけんじゃ――っ!」
「動くな」
 低く魅惑的な声が、吊り目男の行く手を遮った。
 風が(はし)り、星明りの闇に黄金比の美貌が浮かび上がる。
 見渡す限りの草原の中、いったい何処に隠れていたというのだろう。少年たちの集団から離れたこの場に、突如として現れた美の化身。闇色でありながらも、(つや)やかに輝く黒髪が、肩口で疾風の名残りに揺れていた。
「鷹刀……リュイセン……」
 つい数時間前、斑目タオロンを倒したとして、情報を受けた顔と名前。
 圧倒的な存在だと、吊り目男の本能が悟った。彼は刀の柄に手をかけたまま、腰が引けた。
 だが、そのとき。すぐそばで獣の雄叫びのような太い声が上がった。同僚の大男が、地響きを立ててリュイセンに踊りかかったのだ。
「うぉぉぉ!」
 リュイセンは涼しい顔のまま、両手を腰にやり――……。
 吊り目男は、その先を目で追うことができなかった。理解できたのは、リュイセンの凶刃がぎらりと光を放ったということ。そして、大男が中途半端に刀を引き抜いた状態で自分の足元に転がっているということだった。
「『神速の双刀使い』……」
 相手に抜刀すらも許さぬ、神の御業――。
「リュイセンさん、かっけー!」
「さすが!」
 遠くで少年たちが沸き立ち、拍手喝采に口笛が木霊する。
「あ、あ、ああ……」
 吊り目男の、柄にかけられていた右手と、何もしていなかった左手が、同時に上がった。リュイセンの刀尖が、吊り目男の喉仏の前で止まり、勝負が決まる。
「おい、リュイセン。本当に斬っちまったのか?」
 小男を蹴り倒した少年が駆け寄ってきた。――鷹刀一族総帥の末子、鷹刀ルイフォンである。
「お前が峰打ちにしろと言ったから、そうしたぞ」
「だって、そいつ、ぴくりとも動かねぇし」
 出血はないが、大男は完全に意識を失っている。
「本気の相手に、全力を出して何が悪い?」
「いくら峰打ちでも、リュイセンさんが全力でやれば、こうなるだろ……」
 火を吹いた少年が呆れたように言いながら、ふたりのやり取りに加わった。繁華街の情報屋、トンツァイの息子のキンタン――カードゲームでルイフォンにわずかに及ばず、毎度のように勝負を仕掛けてくる彼である。
 ――こうして、メイシアの父、藤咲家当主救出作戦は、繁華街の遊び仲間に紛れて別荘に近づくところから始まった。

1.天上の星と地上の星-2

1.天上の星と地上の星-2

「おい、こいつらの上着、脱がすんだっけ?」
 斑目一族の凶賊(ダリジィン)たちを返り討ちにし、縛り上げている途中で、少年のひとりがルイフォンに向かって尋ねた。
「ああ、気休めみたいのものだが、それを着て潜入する」
 警備員のように制服であればよかったのだが、欲を言っても仕方ない。
 ルイフォンは、放り投げられた上着を受け取り、袖を通した。後ろに編んだ髪は上着の中に仕舞い、金の鈴を隠しておく。
 この鈴は、見た目は鈴だが音は鳴らない。もともと、母が肌身離さず身につけていたチョーカーの飾りだからだ。だが、夜闇では光を反射して無駄に目立ってしまう。それは避けるべきだった。
「さて――」
 同じく借り物の上着を羽織ったリュイセンと目配せをし、ルイフォンは捕らえた男たちの中で唯一、意識のある吊り目男を見下ろした。両手両足を縛られ、完全に身動きできない状態で草原に転がされている。彼は警戒もあらわに、ふたりを見上げていた。
「質問だ。あの別荘には何人いる?」
「質問には答える。答えるが、答えたら、俺は解放されるのか?」
 吊り目男の口元が、卑屈に歪んでいた。その目線の先には、リュイセンの双刀があった。
「ごちゃごちゃ言うなら何も言わなくていい。他の奴を呼ぶ。お前は用済みだ」
 まるで悪役みたいだな、と内心で苦笑しながら、ルイフォンは片膝を付いて、吊り目男の目前で携帯端末をちらつかせた。――ルイフォンのものではなく、上着に入っていた吊り目男のものである。
「え……?」
 吊り目男が声を漏らす。自分の端末なのに、見たことのない画面だった。ルイフォンが得意気に指を滑らせると、パスワードが表示され、ロック解除される。
「別荘の電話番号くらい登録してあるよな」
 目を丸くする男にそう言いながら、ルイフォンが勝手に操作していく。
「ま、待て! だいたい三十人だ」
「そのうち、夜の見回りの人数は?」
「十人ほどだ」
 ルイフォンは「ふむ」と相槌を打った。別荘の監視カメラは既に彼の手に落ちており、その画像から確認できる見回りの数と一致している。この男、どうやら嘘は言っていない。
 問題は待機している人数だ。凶賊(ダリジィン)たちが起居する部屋には監視カメラが設置されていなかったため、全体数が把握できなかったのだ。
 リュイセンが眉を寄せた。
「想定よりも多いな」
「ああ」
 ルイフォンも頷く。熟睡していればよいのだが、物音で目覚めたりすると厄介だった。
 監視カメラなら、録画した映像を繰り返し再生するよう、細工済みである。だが、人間の目は誤魔化せない。リュイセンがいる以上、簡単にやられることはないが、できるだけ敵に遭遇せずに秘密裏にことを済ませるほうが望ましい。
「俺が減らしてやろうか?」
 不意に、脳天気にも聞こえる、キンキンと甲高い声が響いた。そちらを見やれば、キンタンが得意気に笑っている。
「その携帯で、吊り目に仲間を呼ばせろよ。『仲間がやられた。助けてくれ』って。そしたら、俺らが鬼ごっこで遊んでやる」
「え……?」
 思いがけぬ申し出に、ルイフォンは一瞬、耳を疑った。呆けた表情になった彼を無視して、キンタンが「お前ら、いいよな?」と、後ろの少年たちを振り返る。
「当然じゃん!」
「任せろや」
 歓呼と喝采に混じり、「自分だけ、かっこつけんじゃねーよ!」と、キンタンに向かって野次が飛ぶ。
 ルイフォンが慌てて、キンタンの肩を掴んだ。
「お、おい、待てよ。相手は凶賊(ダリジィン)だぜ!? そんなの頼めねぇよ!」
「なんでだよ?」
「確かに、お前の案は魅力的だ。けど俺は、お前たちを危険な目に遭わせないと誓った。その条件で協力を頼んだ。だから駄目だ」
 その辺のチンピラ程度なら軽くあしらえるルイフォンでも、刀を持った相手に正面から挑みたくはない。負けが見えているからだ。
 凶賊(ダリジィン)と一般人は、まったく別次元の存在なのだ。
 だからこそ、ルイフォンとリュイセンは、キンタンたち普通の少年に紛れ、目立たぬようにここまで来た。そして情報を得るために、うるさく騒ぐ悪餓鬼の集団を装って、別荘にいる斑目一族の下っ端を油断させて誘い出したのだ。
 ――キンタンたちには、ここまで付き合ってもらっただけで充分だった。
「はぁ? 何、言ってんだよ? 俺らは、遊びに来たんだぜ? まだまだ騒ぎたんねぇよ。なぁ?」
 キンタンの耳に響く声が、わめき立て、少年たちが「おうよ!」と呼応する。
「だが……」と、言いかけたルイフォンをキンタンは遮った。
「俺も男だ。……それ以上の言葉は要らねぇだろ?」
 キンタンは、ルイフォンの肩を抱きながら耳元で囁く。
「それとも、俺らが信用できねぇ、ってか……?」
 高い声質なので、ちっとも迫力がないが、さり気なく首を絞めてくる腕の力は、痩せぎすのくせにたいしたものだった。情報屋である彼の父、トンツァイも、見た目に反して怪力だったことをルイフォンは思い出す。
「――分かった。任せた!」
 ルイフォンはキンタンの腕を振りほどき、力いっぱい彼の背中を叩いた。
「任せろ!」
 キンタンは、ぐっと親指を立てた。
 ひとしきり盛り上がると、今度は吊り目男に皆の目が集まった。無言の圧力が彼に()し掛かる。
「……分かった。電話を掛けろ」
 両手を縛られている吊り目男は、首だけ上に曲げてルイフォンを睨みつけた。ルイフォンは携帯端末を操作し、「中の連中を上手くおびき出せよ」と、持ち主の口元に近づける。
 ――数コールで繋がった……と同時に、吊り目男が大きく息を吸い、いきなり叫んだ。
「た、大変だ! 鷹刀リュイセンが出た! 応援……! うわっ……」
 そこまで言うと、吊り目男は自分の頬で画面をタップして電話を切る。
「なっ……!?」
 絶句するルイフォンの目線の先で、吊り目男がへらへらと嗤っている。
 謀られた――!
「何故、リュイセンがいることをバラした!?」
 別荘が警戒態勢に入ってしまう。隣の敷地にいるのは、普通の少年たちだと思わせておく必要があったのに――。
 ルイフォンの瞳が、剣呑に光る。
「そう怒るなよ。これは、ウィン・ウィンの作戦だ」
 吊り目男が狡猾な狐のような顔を向け、ルイフォンを始めとした殺気立つ少年たちをなだめる。
「ただの餓鬼の集団に割ける人数なんざ、せいぜい三人だ。『仲間がやられた』なんて連絡したところで馬鹿にされるだけだ」
 そこで吊り目男は声を一段下げ、薄く嗤う。
「けど、『鷹刀リュイセン』が現れたとなれば、話は変わってくる。――相当数がやってくるぜ?」
「……確かに、それで、お前は応援を頼んでも面目を保てるし、大人数を呼び出したいという俺たちの希望も叶えてはいる」
 ルイフォンは、すっと目を細めた。彼の周りの空気が、鋭く尖る。
「――だが、これで俺たちの目的地の警備が厳しくなったはずだ」
貴族(シャトーア)の親父の部屋、か」
 吊り目男が、くく、と馬鹿にしたように喉を鳴らす。
「何が可笑しい……!?」
 ルイフォンの隣で、リュイセンの形の良い眉が跳ね上がった。涼やかな目元が怒りをたたえ、刀の柄に手が掛かる。
「待てよ。いい情報をやる」
 リュイセンが抜刀するよりも速く、吊り目男は声を割り込ませた。そして、勿体つけるように、ゆっくりとリュイセンに向かって言う。
「今、あの別荘のボスは、あんたに負けた『タオロン様』だ」
「……」
 ルイフォンとリュイセンは顔を見合わせた。
 監視カメラを支配下においたときに、彼らは別荘にタオロンと〈(ムスカ)〉がいることを知っている。だから、これは新しい情報ではなかった。
 驚いたのは、吊り目男が『密告』とも言える内容を話したことだ。
「何故、その情報を漏らす?」
 探るように、ルイフォンの目が、吊り目男の顔を舐める。
「俺は、あの正義漢ぶった坊っちゃんが嫌いだ」
 部下であるはずの吊り目男は、きっぱりと言い切り「あの別荘には、そういう奴が多い」と、続ける。
「こいつは、そうは見えなかったぞ?」
 リュイセンが、自分が一撃で倒した大男を身振りで示した。その男は間違いなく忠臣だった。
「そのデカブツは、数少ない坊っちゃんの『信者』だ。普通の奴は違う」
「つまり、何が言いたい?」
 苛立ちを含んだ声でリュイセンが詰問する。
「別荘には、あの坊っちゃんのために命がけで戦おうとする阿呆はいない、ってことだ。お前たちが強気に出れば、あっさりと白旗を掲げるだろう」
「なるほど。連携は取れていない、と。――タオロンも苦労しているな」
 ルイフォンが同情する。
 だが、敵の心配をしている場合ではなかった。別荘からの応援の凶賊(ダリジィン)が来る前に、行動しないといけない。ルイフォンは、やや口調を早めた。
「あの別荘に、〈(ムスカ)〉と呼ばれる男がいるのを、お前は知っているか?」
 敵対したとき、怖いのはタオロンよりも、むしろ〈(ムスカ)〉のほうだ。あの不気味な幽鬼の真意は計り知れない。
 ――そして奴は、ミンウェイの死んだはずの父親なのだ。
「知っている。〈七つの大罪〉だろ? 他に〈(サーペンス)〉って呼ばれている女がいる。俺たちには『ホンシュア』って名乗っていたが、まぁ、名前なんてどうでもいいよな。不気味な奴らだ」
「ふむ……」
『ホンシュア』といえば、メイシアに鷹刀一族の屋敷に行くよう唆した、偽の仕立て屋の名前だ。ここでホンシュアが出てくるのは予想外であったが、よく考えれば〈(ムスカ)〉と共に行動していても不思議ではなかった。
「〈(ムスカ)〉について、何か知っていることは?」
「ほとんどねぇ。何しろ、奴らがいる地下には近づくな、と言われている」
 人質が囚われているのは最上階、三階である。それは情報屋トンツァイの情報と、ルイフォンが支配下においたカメラの情報とで一致している。
「地下に警戒しつつ、あくまでも上を目指すだけ、だな」
 ルイフォンは癖のある前髪を掻き上げ、別荘の方角に向かって好戦的な眼差しを向けた。
 深い森を挟んだ向こう側は、ぼんやりと明るく見えた。別荘の明かりが漏れ出ているのだろう。紺碧の空の端にある星の輝きも、薄く擦り切れて見える。
「それじゃ、ともかく、作戦開始だ!」
「おい、俺は役に立ったろ?」
 吊り目男が、どこか自慢げに言った。確かに、彼はぺらぺらとよく喋った。それでいて別荘にはちゃっかりと『鷹刀リュイセンが出た』との情報を送っており、身の安全を保証している。
「ああ、そうだな」
 そう言って、ルイフォンは吊り目男の腹を、思い切り蹴りつけた。
 縄をほどいてくれるとでも期待していたのだろうか。「え?」と目を点にしたまま、男は気絶する。
 これで彼は疑われることなく、これからやってくる仲間の凶賊(ダリジィン)に介抱されるだろう。いけ好かない奴だったが、充分に役立ってくれた礼である。


「気をつけろよ!」
 キンタンの高い声が、星空に響いた。
 少年たちは凶賊(ダリジィン)たちとの鬼ごっこに備え、爆竹をポケットにしまい込み、オートバイにまたがる。付かず離れずの距離でからかいながら、夜のキャンプ場をツーリングと洒落込むのだ。
「適当なところで振り切って、お前たちは帰ってくれよ」
「ああ。俺らが人質にでもなったら馬鹿みたいだからな」
 打てば響く返事が頼もしい。
「頼んだぞ!」
 草原を渡る風がルイフォンのテノールを舞い上げ、星影の隙間に溶かしていく。
 こうしてルイフォンとリュイセンは、キンタンたちと別れた。
 ふたりは、こちらに向かってくる凶賊(ダリジィン)の援軍とかち合わないよう、遠回りの小道を使い、斑目一族への別荘へと闇夜の森を抜けていった……。

1.天上の星と地上の星-3

1.天上の星と地上の星-3

 ルイフォンとリュイセンが散策路の森を抜けると、星降る紺碧の空のふもとに瀟洒な屋敷が浮かび上がった。外灯に照らし出されたそれは、白亜の城を思わせる。
 高いフェンスを通して、青芝生の庭に蔓薔薇のアーチが垣間見えた。夜闇の中では、その色合いを確かめることはできないが、小ぶりで可愛らしい花々が今が盛りとばかりに華やいでいる。
 華美で派手好きな斑目一族の別荘にしては上品さが見え隠れするのは、もとは貴族(シャトーア)の持ち物だったのを買い取ったためだろう。広い庭に対して、建物は恥じらうように小ぢんまりとしていた。
 正面には、庭を一望できそうな、大きく張り出たバルコニーがあった。
 その手すりに体重をかけたような姿勢でたたずむ、大きな影。――外灯が壁を白く染め上げて光を返し、彼の刈り上げた短髪と意思の強そうな太い眉の陰影をくっきりと描き出していた。
 斑目タオロン……。
 ルイフォンとリュイセンは身を固くした。
 こちらは森を背にした暗がりであり、明るい向こう側からは見つけにくいはずである。
 だがタオロンの視線は、こちらに動いた。緊張の面持ちで、ふたりはじっとタオロンを見返す。
 彼我の距離は、一度会ったきりの相手なら、時刻が昼間でも見間違える――というくらいには開いている。
 しばらく――十秒は経っただろうか。
 ふと、タオロンが軽く頷いたように見えた。
 そして彼は(きびす)を返し、室内へと姿を消した。窓硝子に映る影が小さくなり、やがて部屋の電灯も消える。
「今の……どう思う?」
 ルイフォンは小声でリュイセンに尋ねた。
「普通の奴なら気のせいだと言えるが、奴に限っては俺たちに気づいただろう」
「……だよな」
 ――宣戦布告。
 ともかく、進まねばならない。
 キャンプ場からは、爆竹とオートバイの排気音、人の怒声が入り混じって聞こえていた。
 気配からして、応援の凶賊(ダリジィン)は予想以上の人数だったらしい。心配ではあるが、適当なところで逃走する約束だ。あとはキンタンたちを信じる。
 どちらからともなく、ふたりは目配せをしあった。
 庭の外灯は、明るめに設定されている。身を晒しながら高いフェンスを越えるよりも、正面突破。あらかじめ決めていた段取りで、ふたりは門へと走った。
「ああ、お前ら、どうしたんだ?」
 借り物の上着の効果か、ふたりを仲間と勘違いして声を掛けてきた門衛たちを、リュイセンが一撃で寝かせた。
 起きていたときと同じように、壁に寄りかからせて座らせる。これで、遠目には気絶しているようには見えないだろう。念のため、ミンウェイ特製の謎の薬を手早く打っておいた。これで数時間は目覚めないらしい。
 ふたりが門をくぐると、まるで出迎えてくれたかのように、春の夜風が蔓薔薇のアーチを抜けてきた。薔薇特有の芳醇な香りが、ふたりの肺を満たす。
 ルイフォンが親指を傾け、リュイセンに進路を示した。
 侵入者である彼らは、石畳に誘われるままに正面玄関から入るようなことはしない。ふたりは身を屈めながら、建物を回り込むように足早に進んだ。
 別荘の地図は、完璧にルイフォンの頭の中に入っている。だが見回りの凶賊(ダリジィン)の動きは予測できない。だから、外灯の揺らぎにすら注意を払う必要があった。
「キャンプ場に、鷹刀リュイセンが出たって?」
「ああ、さっき待機中の奴らが送り込まれたらしい」
 裏手に回ろうとしたとき、そんな会話が聞こえてきた。気配はふたりだ。
「夜番はかったるいと思っていたが、存外、俺たちラッキーだったな」
「だな。叩き起こされた上に、鷹刀リュイセンと戦えなんて、なぁ」
 凶賊(ダリジィン)たちが笑った。だが、その笑い声も途中で止まる。
 どさり、と彼らの体重が、重力加速度のままに青芝生を踏み潰した。
 白目をむく凶賊(ダリジィン)たちを、無表情にリュイセンが見下ろす。彩度の低い夜闇の中で、整いすぎた顔は無慈悲な機械人形のように見えた。
 ――俺の出番、ねぇな……。
 声には出さず、ルイフォンは内心で呟く。
 不意を()く攻撃なら、ルイフォンにだってできる。しかし、リュイセンのほうが確実――適材適所ということで、ルイフォンは足元の凶賊(ダリジィン)に薬を打つ役に回った。


 建物の裏側。厨房の勝手口が、目指す侵入口だった。ここの警備は薄く、ルイフォンによって既に無効化されている監視カメラが一台あるきり――見かけだけは仰々しく、梁からぶら下がっていた。
 食糧を搬入するための大きな扉が見えると、ルイフォンは懐から一本の鍵を出した。この別荘のマスターキーである。
 あらゆる手段でこの建物の情報をかき集め、鍵の型番を調べ上げ、手に入れた。これさえあれば、メイシアの父が囚えられている部屋の扉も開けられる。
 今の時間なら料理人と鉢合わせることはないだろう。窓から光も漏れていない。
 ルイフォンは素早く鍵を回し、扉を開けた。
 調理台と思しき机や、その上に置かれている調味料の瓶が、扉から入ってきた外灯の明かりに影を伸ばす。
 ふたりは体を滑らせ、一瞬で潜入した。
 音を立てぬよう、扉が完全に閉じるまでは取っ手から手を離さない。そして、外と中が境界線で区切られると、厨房は、ほぼ闇の世界となった。
 リュイセンの手が、ルイフォンの服をちょいちょいと二度、引いた。
 ――待て、と言っていた。
 ルイフォンは、分かっていると、その手を軽く叩いて返す。
 目が慣れてくると、窓からの薄明かりでも、ぼんやりとあたりが見えてきた。申し訳程度の乏しい光量ではあるが、隣りにいるリュイセンの表情が読める。彼はルイフォンと同じく厳しい顔をしていた。
 彼らが扉を開けた瞬間、明らかな気配があった。まさか、そこから誰かが入ってくるなんて――そんな驚愕が伝わってきた。
 調理台の影に隠れているつもりらしい。
 リュイセンは、自分が行く、とルイフォンに目配せをし、その次の瞬間には跳んでいた。
「ひぃぁ!」
 可愛らしい、幼い声。
「いや、いやぁ!」
 リュイセンに首根っこを掴まれた小さな影が、じたばたと暴れていた。
 ルイフォンは、内ポケットに入れていた小型の懐中電灯を点けた。そこに、小さな女の子がいた。
 くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんと跳ねた癖っ毛が愛らしい。年の頃は四、五歳といったところだろうか。
 リュイセンは彼女を捕まえたまま、途方に暮れたようにルイフォンを見た。
 侵入経路で遭遇した相手は、すべて気絶させる手はずになっている。だが、こんな小さな女の子に振るう拳を、彼は持っていなかった。それはルイフォンも同じことで、大人用に調合された薬を、この子に打つ気にはなれない。
「パ……、パパが悪いの!」
 怒られると思ったのか、女の子は涙目になりながら、リュイセンに訴えた。
「お野菜、全部食べたら、あとでチョコくれるって言ったのに! 『そんなこと言ってない』って言うの!」
 女の子は、脅えながらも顔を真っ赤にして怒っていた。そして、誰もいなくなった厨房でチョコレートを探すのは、自分の正当な権利だと主張した。――なんとも、可愛らしいことである。
 彼女は、ふたりのことを見回りの凶賊(ダリジィン)だと思っているようだった。ルイフォンは、ひとまず、ほっとした。侵入者だと騒がれたら、攻撃せざるを得なかった。
 ――いや、この子を人質に取るべきなのか……?
 かすかな疑問が、ルイフォンの頭をかすめる。だが、彼は首を振った。そんな卑怯者にはなりたくなかった。
 どうする? と目で尋ねてくるリュイセンに、ルイフォンは離してやれ、と視線を返す。
 すっかり持て余し気味のリュイセンよりも、自分のほうが適任だろう。――ルイフォンは女の子に近づくと、片膝を付いて目線を合わせた。
 彼がにこっと、人好きのする笑顔を作ると、彼女の丸い目が更にまん丸になる。
「パパとの約束ってのは、俺は知らねぇけどさ。こっそり忍び込んだのは、怒られると思ったからじゃねぇの?」
「うっ……」
「だったら、駄目だろ」
「でもぉ……」
「それに、夜中のお菓子は太るんだぜ? 俺の姪っ子も甘いものが大好きだけど、『夜は我慢!』って、いい子で我慢しているぞ」
 真顔で言うルイフォンに、リュイセンは思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。ルイフォンが口にした『姪』とは、すなわちミンウェイのことだからだ。
「他の子のことなんか、知らないもん!」
「そりゃ悪かったな。けど、おデブなファンルゥより、今のファンルゥのほうが可愛いと思うよ」
 その瞬間、女の子は、ぱっと目を見開いた。
「ファンルゥの名前、覚えてくれたの!?」
「ああ。いい名前だな」
 さも当然、といったふうに、ルイフォンは大きく頷く。
 勿論、真っ赤な嘘である。事前調査の中の情報だ。
 自信はあったが、確信はなかった。ルイフォンは顔に出さずに胸をなでおろす。
「分かった、我慢する! ファンルゥ、いい子だもん!」
 今までの強情さを一転させ、ファンルゥはルイフォンに満面の笑顔を見せた。
「よし、それじゃ、いい子は寝る時間だ。部屋に帰れ。俺たちは見回りの仕事に戻らないとな」
 うまい具合いに話をまとめたと、ルイフォンとリュイセンは安堵した。多少、時間を食ったが、たいした問題ではないだろう。
 厨房の出口に向かおうとしたふたりに、ファンルウが「待って」と呼びかけた。
「お兄ちゃんたちに、凄いこと教えてあげる」
 にこにこと無邪気なファンルゥに、リュイセンが顔をひきつらせた。相手が子供なので、いきなり怒鳴りつけたりはしないが、苛立ちは隠せていない。
 そんな相棒をたしなめ、ルイフォンは「何かな?」と聞き返した。
「このお家の地下に、天使がいるの! ファンルゥ、探検して見つけたの」
「天使?」
「すごく綺麗なの。光がふわぁんって広がって……」
 小さな腕を一杯に広げ、目も口も大きくして、彼女は全身で驚きと感動を表す。
「お兄ちゃんたちに見せてあげる! こっち!」
「あ、おい!」
 いきなり走り出したファンルゥに、ルイフォンは手を伸ばす。だが、リュイセンに肩を掴まれた。
「子供の戯言に付き合っている場合じゃないだろ!」
「……ああ」
 ルイフォンだって、これ以上付き合うつもりはない。だが、この人懐っこい女の子の言葉の裏には、寂しさが見え隠れしている。
 廊下に出る扉を背に、ファンルゥが振り返って叫んだ。
「ファンルゥ、子供じゃないもん! ひとりで、おトイレだっていけるもん!」
「分かった、分かった。けど、大人は仕事の時間なんだ」
 噛み付くファンルゥを一瞥して、リュイセンは廊下に出る。
「ごめんな、ファンルゥ」
 ルイフォンがファンルゥの頭をくしゃりと撫でると、彼女は少しだけ驚き、次に気持ちよさそうな笑顔を浮かべた。……その瞬間、ルイフォンは、はっと気づき、自分の掌を見る。
 ――今のはもう、メイシア以外にやったらいけないよな……。
 (おのれ)の無意識の行動を初めて自覚する。
 意外に独占欲が強いことが判明した最愛の少女を想い、彼は気まずげに頭を掻いた。
「また今度な」
 そう言って、ルイフォンもリュイセンに続く。
「あ、待ってよ、待ってよぉ」
 騒がしくされるのは望ましくないのだが、こっそりベッドを抜け出してきた彼女は、これ以上、追ってくることはできないだろう。
 ルイフォンは、場違いに可愛らしい、ファンルゥの声が木霊(こだま)する厨房をあとにした。


 夜間とはいえ、廊下の照明は充分に明るかった。
 ふたりは、少しだけ闇の多い階段室に入り込む。
 耳をそばだて、近くに足音がないのを確認してから、ひと息ついた。
「……お前、子供の扱い、上手いな……」
 どっと疲れが出たように、リュイセンがぼやいた。彼にとっては、一瞬のうちに凶賊(ダリジィン)を気絶させることよりも、先ほどのファンルゥとの会話のほうがよほどこたえたのである。
 実はリュイセンにはれっきとした年下の姪が――一族を抜けた兄に娘がいるのだが、否、だからこそ子供が苦手であった。
 そんなリュイセンに、ルイフォンが苦笑する。
「俺は、お前と違って下町育ちだからな」
 正確には、ルイフォンは情報屋の母、先代〈(フェレース)〉に与えられた、それなりの屋敷で生活していたのだが、下町を遊び場にしていた。そこで餓鬼大将だったこともある。
「……あの子が、『ファンルゥ』か」
 ルイフォンが呟く。リュイセンはわずかに瞬きをしたが、それ以上の反応を見せなかった。
 ――本当は、人質にすべきだったのかもしれない。
 そのほうが有利だったと、リュイセンも気づいているはずだ。けれど、それを口に出さないのは、その気がないからだ。
 ルイフォンは溜め息をつく。
 他にも気になることがあった。ファンルゥと、そして情報を得るために捕らえた、あの吊り目の凶賊(ダリジィン)も口にした『地下』――。
「ルイフォン、今は余計なことを考えるな」
 リュイセンが、ルイフォンの額を小突いた。揺らぎのない黄金比の美貌。口元は軽く結ばれ、目は先を見ている。
『頭がパンクしそうだが、やるべきことは分かっているから大丈夫だ』
 鷹刀一族の屋敷を出る前、リュイセンはそう言って笑った。
 これから敵対するであろう、〈(ムスカ)〉とタオロンの情報を一気に伝えられても、リュイセンは黙って聞いていた。ときどき眉を曇らせ、瞳を陰らせても、最後に言ったのは『分かった』のひとことだけだった。
「今は、あいつらの父親の救出が先決だろ」
 リュイセンが笑って、ルイフォンの肩を叩く。刀を握る、節くれだった力強さが、どん、と胸に響いた。
「……ああ、そうだな」
「なに、俺がいればすぐに終わる」
 普段、大言壮語を吐くタイプではないリュイセンが、そんなことを言う。その気遣いに「すまんな」と言いかけて、ルイフォンは、そんな辛気臭い言葉は無粋だと思い直す。
「――期待しているぞ」
「任せろ」
 リュイセンが胸を張り、肩までの黒髪がさらりと流れる。ふたりの目と目が合い、同時に、にっと笑った。

2.眠らない夜の絡繰り人形-1

2.眠らない夜の絡繰り人形-1

 外灯が闇を緩く照らし、夜桜を白く浮かび上がらせていた。
 夜風に吹かれた花びらは、流星のように煌めきながら散っていく。
 メイシアはテラスに出て、じっと空を見上げていた。部屋の中にいるよりは、少しでもルイフォンを近くに感じられる気がしたのだ。
 彼女は、最後にふたりきりで交わした会話を思い出していた。

「もし、三時間経っても俺から連絡がなかったら、藤咲家として警察隊に通報してくれ」
 鋭く研ぎ澄まされたテノールが、メイシアの鼓膜を叩いた。
「……そんな顔をするなよ。大丈夫だ」
 ルイフォンの優しい手がメイシアの頭をくしゃりと撫でる。掌の温かさが頭皮をじわりと包み込み、それが体中に広がっていった。
 体温が急上昇していくのを止められず、メイシアは真っ赤な頬を両手で覆った。自分でもおかしいと思うのだが、今まで以上に彼のことを意識してしまっている。
「警察隊にお任せできるのなら、ルイフォンが行くことはないのではないですか?」
 早鐘を打つ心臓を抑え、できるだけ平静を保ち、メイシアは尋ねた。
 今までは、斑目一族や厳月家と繋がっている指揮官が邪魔をしていたので、『斑目一族が父を囚えているという事実はない』と突っぱねられていたが、現在は状況が変わっているはずだった。
 しかし、ルイフォンは首を振った。
「警察隊が動き出すより先に、斑目が動く可能性が高い」
 斑目一族が『動く』とは、すなわち父の殺害。それよりも早く、ルイフォンは救出しようとしているのだ。
 けれど――と、メイシアの瞳が陰る。
 ルイフォンは、貧民街で傷だらけになって戦ってくれた。彼が本来、前線で戦う人間ではないことは、彼女にだって理解できる。なのに、その傷も癒えぬうちに、再び行こうとしているのだ……。
「メイシア!」
 ややもすれば叱りつけるかのようにも聞こえる声で、ルイフォンが彼女の名を呼んだ。
「俺を信じろ」
 そう言って、抜けるような青空の笑顔をこぼす。
 彼は猫背を更に曲げて、メイシアの後ろの壁に手をついた。そして、そのまま、彼女の唇に口づけた。

 メイシアは、ルイフォンの名残りを探るように、自らの唇を指先で押さえる。
 ――どうか、無事でいて……。
 胸元のペンダントを握りしめ、彼女はそう祈った――。


「班目への『経済制裁』の件、ご苦労だった。迅速な対応に感謝する」
 それなりの年齢であるにも関わらず、(あで)やかな美貌の持ち主――鷹刀イーレオは、執務机に頬杖を付きながら言った。崩した姿勢からは傲慢さではなく、親しみが漂っている。
「鷹刀の情報があってこそ、です。――今後も頼みにしていますよ」
 鷹刀一族と手を組んだ警察隊員、緋扇シュアンは、軽く世辞を交えて笑いかけた。
 不正の証拠を受け取った彼は、即座に行動した。その結果、斑目一族の資金は既に大部分が凍結され、麻薬や密輸入品は押収されている。
 シュアンはそんな報告と、もうひとつの用件のために、現場から鷹刀一族の屋敷に舞い戻ってきたのだった。
「それで、こちらに残していった警察隊員のことなのですが……」
「ふたりの捕虜のうち、巨漢は偽の警察隊員で、若いのは本物の警察隊員――お前の先輩ということだったな」
「ええ。捕らえたからには口を割らせるつもりでしょう? 俺も同席させてもらえませんかね?」
 軽い口調で、シュアンは言う。しかし、内心は緊張状態にあった。
 先輩は、貴族(シャトーア)の令嬢を替え玉と決めつけて発砲した。普段の先輩とは別人のような、あり得ない蛮行だった。
 絶対に、何か事情がある。シュアンは、それを知りたい。だから、どうしても同席の許可が欲しかった。
 だが、鷹刀一族とは手を組んだとはいえ、わきまえるべき距離がある。それを一歩間違えれば、シュアンなど一瞬のうちに、後ろにいる護衛の刀の錆だろう。
 イーレオが、含みのある目を向けてきた。深い海を思わせる眼差しに、シュアンはたじろぎそうになる。
 ぎぃ、と椅子が鳴き、イーレオが姿勢を正した。
「……お前は、〈七つの大罪〉という組織を知っているか?」
 深く低い声だった。
 シュアンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ええ、俺も裏側の人間ですから、――ある程度は」
 その答えには、かなりの誇張があった。
〈七つの大罪〉という組織の存在は広く知られ、恐れられているが、詳しいことは謎に包まれている。何しろ、実在を危ぶむ声さえ上がっているのだ。だからシュアンの知っていることなど、ごく表層のものに過ぎない。
 ただ、主に非道な人体実験などを行う『闇の研究組織』とだけ聞いて……。
 シュアンは、はっと顔色を変えた。
「まさか……先輩は〈七つの大罪〉に……」
「察しがよくて助かるな。説明が省ける」
「あ、はは……なるほどね」
 自分でも何が可笑(おか)しいのか分からないが、シュアンの口からは笑いが漏れた。
「――ええ、噂に聞いていますよ。〈七つの大罪〉は、昔、鷹刀と組んでいたが、今は斑目だと」
「俺が総帥になったとき、一方的に縁を切った。気に食わなかったからな」
 過去を思い出したのか、イーレオの言葉が少しだけ途切れ、そして続けられた。
「そういうわけだ。――緋扇、お前は帰れ」
「は?」
 シュアンは、何を言われたか分からなかった。この流れで、『帰れ』と言われるなど、微塵にも思っていなかったのだ。
 徐々に理解が脳に染み込み、それに比例してシュアンの腹の底がぐつぐつと沸き立つ。彼はわざとらしく鼻を鳴らし、三白眼で睥睨した。
「〈七つの大罪〉の名前に、俺が怖気づくとでも? イーレオさん、あんた俺を見くびりすぎだ」
 そんなシュアンに、イーレオは何を思ったのか、すっと立ち上がった。ゆっくりとシュアンに近づき、彼の肩にぽん、と手を置く。
 隣に立たれると、イーレオは思っていた以上に上背の高い男だった。
 ――そして、天から声が降る。
「餓鬼が――……自惚れるな」
 ぞくり、とした。
 抗いがたい恐怖が、シュアンを襲った。気づいたときには、シュアンはイーレオの手を――凶賊(ダリジィン)の総帥の手を、容赦なく叩き落としていた。
「あ……」
 しまった、と思ったときにはもう遅い。シュアンの瞳に、片手をさするイーレオの姿が映る。
 全力疾走でもしたかのような汗が、どっと流れてきた。激しい動悸。まともに呼吸ができない。
 後ろに控えていた護衛が動いたのが見えた。シュアンの濁った三白眼が見開く。
「や、やめろ……」
 狂犬と呼ばれるようになってから、命を惜しいと思ったことはなかった。いつだって刹那に生きてきた。危険とは、シュアンにとって、その先の快感を生み出すための手段でしかなかった。
「俺はまだ……」
 まだ、なんだというのだろう。まだ、死にたくない、だろうか。――シュアンは自問した。
 自らに問いかけ、そして『否』と答えを出した。
「俺はまだ、何も()しちゃいねぇ! このままじゃ、俺という人間が存在した意味がねぇんだよ!」
 シュアンは懐に手を滑らせ、拳銃を握る。
「動くな!」
 傍らに立っていたイーレオの心臓に拳銃を突きつけた。
「この距離なら、天井から例の人工知能が俺を撃ち抜くより、俺のほうが速い!」
 この執務室に仕掛けられた地獄の番犬〈ベロ〉。奴の攻撃は百発百中だが、今だけは勝算がある。このまま鷹刀イーレオを人質にして、屋敷の外まで出ればいい。シュアンは荒く息をつきながら考えた。
「く、くくく……。面白いな、お前は」
 イーレオが喉の奥で笑った。神経を逆なでされ、シュアンの眉が上がる。
「何が可笑(おか)しい?」
「お前に俺は撃てない。俺を撃った瞬間に、お前は殺されるんだからな。――お前はまだ、これからやりたいことがあるんだろう? 死んだらできまい」
「……っ!」
「だが、俺の部下が、お前に手を出せないのも確か――」
 そう言ったイーレオの体が、重力に身を委ねるかのように、ふらりと後ろに倒れるのをシュアンは感じた。突きつけた銃口から心臓が遠ざかり、力強く押し付けていた銃身が抵抗を失い、シュアンはバランスを崩す。
 と、同時に、イーレオは体を捻り、自らも倒れながら、シュアンに足を掛けて引き倒した。
「な……っ!?」
 ぼさぼさ頭に載せられていた制帽が、宙を舞う。受け身を取ることも叶わず、シュアンは思い切り床に叩きつけられた。
「――まぁ、俺が捕まったままならば、だがな」
 シュアンと共に倒れたはずのイーレオが、いつの間にか立ち上がっており、シュアンの拳銃を握る手を踏みつける。
 ――言葉はおろか、呼気すら出なかった。
 シュアンは呆然と、イーレオの涼やかな顔を見上げる。毛足の長い絨毯が、ちくちくと頬を刺した。それは昼間の〈ベロ〉の殺戮の名残りを物語るかのように、乾いた血で固まっていた。
 左手は自由だ。だが、体術で凶賊(ダリジィン)に敵うべくもない。そういえば、昼間は次期総帥エルファンに、同じように床に転がされたのだ。
 万事休すなのか――?
 絶望の海に飲まれながら、それでも救いを求め、シュアンの視線があちらこちらへと悪あがきをする。
 そんなシュアンに、イーレオが「なぁ、緋扇」と、魅惑の微笑を落とした。
「どうして俺は、こんなに強く美しいのだと思う?」
 シュアンは自分の耳を疑った。
「……は?」
 やっとのことで出た声は、とても間抜けな響きをしていた。
 イーレオは答えを求めていたわけではないようで、シュアンの阿呆面にも構わず、言葉を続ける。
「鷹刀という一族は、濃い血を重ねて合わせて作った、〈七つの大罪〉の最高傑作なんだよ」
「な……んだって……?」
「――と、言ったら信じるか?」
 冗談とも本気とも取れる告白――だが、鷹刀イーレオがこの場で言うからには、嘘であるはずもなかった。
 シュアンは言葉を返せなかった。
 イーレオは静かに、「だから――」と、言を継ぐ。
「鷹刀と〈七つの大罪〉は、互いに利用し合う、ウィン・ウィンの協力関係だった。一族の中には、奴らの技術に夢中になり、自ら望んで、〈悪魔〉と呼ばれる〈七つの大罪〉の研究者になる者もいた」
 夜の静寂(しじま)に、イーレオの声が淡々と流れる。その話は、幻想的な言葉にくるまれ、お伽話めいていた。
「俺は、そんな狂った一族から、俺が本当に大切にしたい者たちを守るために、父を殺し、長兄を殺し、血族のほとんどを殺し……。〈七つの大罪〉の〈神〉に、別れを告げた」
「〈七つの大罪〉の〈神〉……?」
 シュアンの呟きにイーレオは答えず、ただ薄く笑う。
「今、斑目の背後にいる〈七つの大罪〉が何を考えているのかは、俺も分からん。だが、これはもう、お前には関係のないことだ。お前と手を組んだのは、凶賊(ダリジィン)の情報交換に関してだけだからな」
 シュアンは――不敵に嗤った。
「ならば、別の取り引きをするまでだ。――先輩に会わせてくれ。そしたら俺の裁量で、先輩がどうなっても鷹刀は無関係ということにしてやる」
「ほぅ? どういうことかな?」
 まるで、いたずらの相談でも持ちかけられた子供のように、イーレオの目が楽しげに細まった。
「先輩は表向き、貴族(シャトーア)に発砲した罪で、独房に入れられたことになっている。なのに、いなくなっていたら、どうなるか? ――先輩は巨漢と違って正規の警察隊員だ。きっちり事実関係を調べることになるだろう。そして、先輩の姿が最後に確認されたのは、この鷹刀の屋敷だ。鷹刀が疑われるのは、まず間違いない」
「ほほう。お前は、この俺を脅迫するのか」
「そうだな、凶賊(ダリジィン)の総帥を脅迫するってのも面白い」
 シュアンが、ぎらりと狂犬の牙を見せる。
 床に転がされた無様な姿。唯一ともいえる特技の、射撃の技倆(うで)を支える右手はイーレオに踏みつけられたまま。なのにシュアンは、凶賊(ダリジィン)の総帥に挑戦的な目を向けた。
「それじゃ、これは脅迫だ。先輩の身柄について、俺の口利きがなければ鷹刀は疑われる。だから、あんたらは俺を殺すことはできない。俺の言いなりになるしかないのさ!」
 この場を切り抜け、先輩に会うためだけの、出任せの方便だった。もっともらしいが、実のところ、鷹刀一族が疑われたところで証拠不充分で終わるだろう。
 ここにいたのが次期総帥エルファンだったなら、図に乗るなと柳眉を逆立てたに違いない。あるいは、シュアンの猿知恵を鼻で笑い、軽く論破しただろうか。
 しかし、シュアンを踏みつけていたのは、イーレオだった。
「いいだろう」
「え……?」
 右手に載せられていた重みが、すっと消える。
 あまりの呆気なさにシュアンが唖然としている間に、イーレオは執務机の定位置に戻っていた。
「お前のことだから、後悔なんてしないだろう? なら、会ってこい」
 相変わらずの頬杖をついた姿勢で、じっとシュアンを見る。含みのある目。深い海を思わせる眼差し。この話を始めたときと、寸分変わらない。シュアンの働いた非礼など、まるでなかったかのようだ。
「それで? 先輩はどこにいるんですか?」
 シュアンは内心の動揺を隠し、飛ばされた制帽を拾いながら立ち上がった。
「メイドに案内させる。そこに、ミンウェイがいる」
「え、彼女が?」
 それは意外だった。捕虜を吐かせるのなら、屈強な男があたると思っていたのだ。
「本当は、あの子に任せたくないんだが、あの子以上の適任がいなくてな」
「それはどういう……?」
「適任なのは、あの子が薬物――自白剤の扱いに()けているからだ。そして、任せたくない理由は……」
 イーレオの目が、ふっと陰る。
「……今、俺たちの前をうろついている〈悪魔〉が〈(ムスカ)〉という名前で、〈(ムスカ)〉というのは、あの子の父親だからだ」
「え……?」
「言ったろ? 鷹刀と〈七つの大罪〉は密接な繋がりがあったと。一族の中には〈悪魔〉になった者もいると」
「あ、ああ……。それじゃ、その〈(ムスカ)〉ってのは、あんたの息子ってわけだ」
「娘婿だ。――だが、俺の甥でもある。奴は俺が総帥位を奪うときに殺した長兄の息子だ」
 シュアンは「はぁ」と曖昧に相槌を返した。近親婚は、ややこしい。
「要するに、捕虜の口から父親の話が出るかもしれないから、イーレオさんとしては彼女に任せたくない、と」
「そういうことだ。しかもミンウェイは、プライベートが関わるかもしれないから、と言って助手を拒んだ。ひとりにしてほしい、と」
「……っ?」
 シュアンは疑問を口走りそうになり、慌てて口をつぐんだ。
 イーレオは、先輩に会ってこいと、シュアンに言った。だが、そこには、プライベートという言葉で、他人を退けたミンウェイがいるという。
 本当に行っていいのか。――気にはなるが、下手に尋ねて前言撤回されてもつまらない。
 だからシュアンは、代わりに別のことを口にした。
「……そもそもなんで、父と娘が敵対することになったんだ?」
「あの子とヘイシャオ――〈(ムスカ)〉の本名だ――は、敵対しているわけではない」
「は?」
「俺が総帥になったときに、ヘイシャオは妻と共に身を隠した。だから俺は、ミンウェイが生まれたことを知らなかった。奴の妻、俺の娘はミンウェイが生まれてすぐに死んだらしいがな」
 イーレオの顔がわずかに寂寥を帯びる。それは過去を悔いているように見えたが、正確なところはシュアンには分からない。
「奴がずっと、男手ひとつで、あの子を育てた。……そのことを知ったのは、奴が暗殺者として、あの子を連れて現れたときだ」
 予想外に深刻になってきた話に、シュアンはごくりと唾を呑む。
「奴はエルファンに殺され、残されたあの子を俺が引き取った」
「ほぅ……。え? なんだって!?」
「なのに、今ごろになって、どうして、再び奴が湧いて出たのか……」
「なっ……!? 『湧いて出る』って、そいつは殺されたって……!」
「〈悪魔〉の亡霊の相手なんて、祓魔師(エクソシスト)でも呼んでこないと太刀打ちできんな」
 最後のひとことは、イーレオとしては気の利いた冗談のつもりだったのだが、シュアンは聞いてなどいなかった。
「いや、イーレオさん! それは今、出てきた奴か、前に殺された奴の、どっちかが偽者ということだろう!?」
 シュアンの唾が飛ぶ。だが、イーレオは、彼の叫びを何処吹く風と聞き流す。
「〈七つの大罪〉というのは、そういうところなのさ」
 そう言って、〈七つの大罪〉の最高傑作といわれる美貌に、婉然とした笑みを載せた。
「――行ってこい、緋扇……」
 執務室に魅惑の声が響く。
 ほんの一瞬だけ間があり、イーレオの瞳に鋭い光が宿った。
「頼んだぞ、――シュアン」


「イーレオ様、あの警察隊員を、たいそう気に入られましたね」
 ずっと背後に控えていたイーレオの護衛、チャオラウが無精髭を揺らして苦笑した。
「欲しいね、あの男」
 シュアンが退出したあとの扉を、名残惜しげに見やりながら、イーレオが呟く。
「――けど、あれは狂犬だから飼い犬にはならないし、飼い犬になったら俺の興味がなくなるかもしれないな」
 イーレオは、人が悪そうな笑みを浮かべる。
 言いたい放題の主人に、チャオラウは、やれやれといった(てい)で肩をすくめた。

2.眠らない夜の絡繰り人形-2

2.眠らない夜の絡繰り人形-2

 この夜、鷹刀一族の屋敷で眠りにつけた者は、親を失って引き取った年少の子供たちくらいのものだったであろう。そうした子供たちですら不穏な空気を感じ、たびたび目覚めては世話役のメイドたちに抱っこをねだっていた。
 故に、この屋敷は幼子すらも完全には眠らぬ、不夜城……。
 ――否。
 とある一室に、眠る者の姿があった。
 その部屋では、白衣に身を包んだミンウェイが、薄いゴム手袋の手で薬を調合していた。長い黒髪は後ろでひとつにまとめられ、今は背で波打っている。ごく淡い緑色の壁に囲まれた室内は、天井に無影灯を備えており、銀色のワゴンの上で銀色のメスが光っていた。
「ここは……手術室か何かのつもりか?」
 三白眼の男が、斬りつけるかのような眼差しで周囲を見回していた。警察隊の緋扇シュアンである。
 作業に集中しているのか、ミンウェイからは返事がない。シュアンは、なんとなく(かん)に障る。
「おい、ミンウェイ!」
 それは彼自身が想像していたよりも遥かに大きな声で、彼女の白衣の肩がびくりと上がった。
 シュアンは「あ……」と口の中で小さく声を転がす。どうやら、今の自分は随分と余裕がないようだ。らしくないな、と自嘲する。
 ――実のところ、ミンウェイもまた、はっと表情を引き締め、散漫な自分を戒めていたのだが、そのことにシュアンが気づく(よし)もなかった。
「あら、呼び捨てですか?」
 振り返ったときのミンウェイは、いつもの穏やかな微笑を浮かべていた。そんなに親しい間柄だったかしら、と暗に言っているようだが、怒っているわけではないらしい。
「ああ、それは失礼。では、『ミンウェイ嬢』とでも、お呼びしましょうかね?」
 そんなシュアンの皮肉めいた冗談に、ミンウェイがくすりと笑う。
「『ミンウェイ』のほうがいいですね」
「なら、いいだろう?」
「そうですね」
 ふたりは和やかに笑いあったが、どちらの心にも暗い影が落ちていた。
 シュアンは、部屋の中央に据えられた、二台の手術台とでも呼ぶべきものに目を向けた。
 そのひとつには、警察隊が鷹刀一族の屋敷を襲ったとき、指揮官と共に執務室に押し入った巨漢が寝かされていた。ミンウェイによると、薬で眠っているとのことだが、念のため、両手両足は台に拘束されている。
 警察隊の制服を着ているが、シュアンの知らない顔であり、斑目一族に属する凶賊(ダリジィン)だと思われた。この男は、指揮官とは協力体制にあるのだと思っていたが、どうやら指揮官の監視役だったらしい。
 そして、もうひとつの台で眠っているのは――。
「ローヤン先輩……」
 美形というには、あと一歩足りないが、面倒見がよく、人のための苦労を喜んで背負い込むような男であったから、警察隊内外で人気があった。
 新人のころのシュアンの憧れ――兄貴分とすらいえ、正義感に燃えていた時分のシュアンと肩を組みながら『いつか、世を正す』と絵空事を本気で(うた)っていた。
 ひょっとしたら、よりまっすぐだったのは、シュアンのほうだったのかもしれない。だから彼は、矢のように、ぽっきり折れてしまった。けれどローヤンは、しなやかな弓のように耐え、今もなお力強く弦を震わせている……はずだった。
「あなたに良くしてくれた方だと聞きました」
 ミンウェイが静かに言った。
「はっ。理想主義の甘ちゃんだったよ」
 シュアンは斜に構えた凶相を作り、うそぶく。ローヤンとは、とうの昔に喧嘩別れした。今更、感傷に浸っても仕方ない。
 ミンウェイは薬瓶を持ったまま、物言いたげな瞳で、じっとシュアンを見つめた。だが、それ以上、ローヤンに関しては何も言わなかった。代わりに、こう言う。
「あなたから、血の臭いがします」
「言ったろ、斑目の取り引き現場から直行してきた、って。――見苦しい凶賊(ダリジィン)を数匹、血祭りにあげてきた」
 シュアンは、三白眼でミンウェイを()め上げた。
 押収した麻薬を目の前に、言い逃れをしようとする輩を撃った。今まで警察隊の目を逃れ続けてきたのが嘘であったかのように、あっという間の捕物だった。
「さすが、鷹刀の情報だ。無駄がなかった」
「そうですか」
 ミンウェイは無表情に、ただ相槌を打つ。
「それより、この部屋はなんだ? てっきり地下牢みたいなところで拷問するのかと思っていたが……」
「あなたがおっしゃった通り、『手術室』ですよ」
「あんた、もぐりの医者か?」
「医師免状は持っているので、もぐりではありませんね」
「ふん……」
 シュアンは、ミンウェイの爪先から頭までを、三白眼でひと舐めした。
「で? お医者の先生は、これから何をするつもりなのさ?」
 ふたりの『患者』の体から伸びたコードが、それぞれのモニタ画面で規則的な波形を描いていた。これから美人の女医に、どう惑わされ乱されるのか。普段のシュアンなら血走った目を爛々(らんらん)と輝かせながら、涎を垂らさんばかりに興奮し、期待したことだろう。
 しかし、今日はそんな気分になれなかった。
「少し、お話しするだけですよ」
 柔らかな声に静かな微笑み。だが、目は笑っていない。これが冷たい氷の眼差しというのなら理解できる。
 違うのだ。
 瞳にまるで揺らぎがない。『目は口ほどに物を言う』との言葉がある通り、誰しも感情が目に現れるものだ。なのに、完全なる凪――。
 ミンウェイは慣れた手つきで点滴の用意をし、針を巨漢の手の甲に刺した。
「自白剤か」
「脳を少し麻痺させて、嘘をつくという発想をなくしてもらうだけです。あなたも警察隊員なら多少の知識はあるでしょう?」
「ああ、習った気がする。……LSDやチオペンタール――麻薬や睡眠薬とかだな。意識を朦朧とさせる目的だ。あと、毒草もあったな。名前は確か……ベラドンナ」
 その瞬間、ミンウェイが片付けようとしていた薬瓶を取り落とした。
 がしゃん、と大きな音を立てて、瓶の欠片が飛散した。透明な液体が床に広がり、シュアンの足元まで流れてくる。
「おっと」
 その液体の正確な名前は知らないが、どうせ危険なものだろう。靴を履いてはいたが、シュアンは思わず飛び退いた。
「おいおい、どうしたんだよ? あんたらしくもないな」
「あ、ああ、すみません」
 勿論シュアンは、ミンウェイがかつて〈ベラドンナ〉という名の暗殺者だったことは知らない。だから、彼女も緊張しているのだと素直に捉えた。
「ちょっと失礼します」と、隣室まで掃除用具を取りに行くミンウェイの後ろ姿を見送り、シュアンは、ふと気づいた。
「よう。お目覚めか?」
 巨漢の濁った目玉が、ぎょろりとシュアンを見ていた。硝子の割れる音が刺激となり、気づいたようだ。
「ここは……?」
 点滴は既に落ち始めている。だが、まだ薬の効果は出ていないだろう。
「あんたに質問は許されちゃいない。あんたは質問に答える役だ」
「ああ、あなたは鷹刀イーレオの部屋で、私を撃った警察隊員ですね。……ということは、ここは警察隊……いえ、違いますね。鷹刀の屋敷だ」
 巨漢は、頬から首へと刻まれた大きな刀傷を引きつらせて嗤った。その傷跡のそばには、シュアンがつけた擦過傷が赤く並んでいる。
 シュアンは、ホルスターの中の拳銃を意識した。先ほど、麻薬取締りで使った分の弾は、ちゃんと補充してある。
 この巨漢は見た目は肉体派だが、指揮官の監視役を任されていた男だ。意外に頭が切れるのかもしれない。完全に拘束されている相手を恐怖しているわけではないのだが、油断は禁物だった。
 シュアンは警戒心が顔に出ないよう、口元に薄ら笑いを浮かべる。点滴のスタンドに近づき、薬剤の落ちる速度を早めた。
「あんたの名前と所属は?」
 高圧的に見下ろし、シュアンは巨漢に尋ねた。
「名前は、なんでしたっけね? 所属は、見ての通り鷹刀の捕虜でしょう?」
「随分と、ふざけた答えだな。まぁ、俺もあんたの名前なんかに興味はないけどな」
「はははは! 奇遇ですね。私もですよ! はっはっは」
 受け答えとしては決しておかしくはない。だが、場違いなほど陽気に巨漢は笑った。その異常さは、すなわち薬が効き始めた証拠だった。
 そのとき、部屋の扉が開き、モップを持ったミンウェイが戻ってきた。
「あ……」
「さっき、目覚めた。薬が効き始めたところだ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
 ミンウェイはシュアンに一礼すると、モップを置いて巨漢の傍らに立った。
 白衣の背中は、ぴんと綺麗に伸びていたが、どこか頼りない。よく考えれば、既に点滴が落とされている敵を置いて部屋を出たのは、彼女らしからぬ失態といえた。
 巨漢は何を思ったのか、ミンウェイを見てうっとりと微笑んだ。それに対し、ミンウェイは、ただ凪いだ目を向ける。
「ここは鷹刀の屋敷。あなたは捕らわれていて、生殺与奪の権は私にあります。薬剤の投与をしていますが、あなたの体の状態は常にモニタされているので、危険な状態になったら休止することも可能です」
 ミンウェイの言葉に、巨漢はけたけたと笑い出した。 
「もぉっと、分かりやすくぅ言うべきですよぉ。薬を打たれている私がぁ、そんな複雑なことぅを理解できるわけないでしょぉ」
 呂律が回っていない。だが、言っていることは至極まっとうである。ミンウェイは、はっと小さく息を吸い、吐き出した。
「私の質問に素直に答えれば、命は助けてもよい、ということです」
 まだ充分な薬が体内を巡っていないと判断したのか、彼女は点滴の量を増やした。モニタが警告音を鳴らし、巨漢の心拍数が急上昇したことを告げる。
 無慈悲なまでの穏やかさで、ミンウェイは巨漢に目を向ける。一見、彼女に余裕があるように見えるが、シュアンは彼女のまとう雰囲気に不協和音を感じていた。
「あなた方は、お祖父様――鷹刀イーレオを、誘拐犯として生きたまま捕らえるつもりでしたよね?」
「そぉうですよ」
「警察隊に逮捕させて、裏で斑目に身柄を引き渡す。そういう約束だったのでしょう?」
「あぁ」
「生かしたまま捕らえて、そのあと、どうするつもりだったんですか?」
「……殺したらぁ、それで終わりでしょうぅ? 生かしてこそ、苦しみを与えられるぅ。は、ははははは……」
 さも愉快だと言わんばかりに、巨漢が笑う。
「あぁ、本当にぃ、この体は薬物の耐性がありませんねぇ。……そうか、トリップとはこういう気分……。まるで美酒に酔いしれているようぅ。はっ、はっはっは……。エクスタシーですねぇ……」
 聞いてもいないことを、ぺらぺらと喋りだすのは、薬の効果。巨漢は、豪快に笑ったかと思えば、うっとりと目を細める。そして、(とろ)けたような顔をミンウェイに向けた。だらしなく開けた口元に、つぅっと唾液が垂れる。
「ああぁ、〈ベラドンナ〉。君の体も、薬に慣らしてしまっていたねぇ……。それは勿体ないことだったぁ……。私は罪悪感を感じるぅぅ……」
「……!」
 ――ミンウェイの瞳に、感情の色が走った。それは波濤に飲まれる恐怖の闇色をしていた。
 彼女は言葉を失っていた。小さく唇が動くが、なんの音も出せないでいた。
 シュアンは眉を寄せた。
 薬を打たれて気が大きくなっている巨漢に対し、問う側のミンウェイが喰われている。
 室内に、警告音が鳴り響き、モニタの波形が激しく波打つ。それと張り合うかのように、巨漢が哄笑を上げた。
 ちっ、とシュアンが舌打ちした。
「おい、ミンウェイ!」
 巨漢の言動に神経を尖らせつつ、シュアンは横目でミンウェイを見やった。
 長い髪が背でまとめられ、彼女の白い耳たぶは、むき出しになっていた。だが、形のよい耳は、このやかましい状況下で役目を忘れたかのように機能していなかった。
「俺を失望させんなよ」
 シュアンはミンウェイの肩を抱き寄せ、耳元に口を寄せた。まるで恋人に囁くかのような甘い動作で、彼女の鼓膜に毒を注ぐ。
「――喰い殺す側の人間だろ、あんたは」
「……あ」
「それとも、俺に喰われるか?」
 そう言ってシュアンは体を引く。薄ら笑いを浮かべた口から、狂犬の牙が覗いていた。
「緋扇さん……」
 戸惑いの表情で、ミンウェイの目がシュアンを追った。そして、ふたりの視線が合ったとき、彼女の瞳に柔らかな光が灯る。彼女は緩やかに、くすりと笑った。
「お断りします」
「そうかい。それは残念だ」
 ちっとも残念そうではなく、シュアンは鼻息を漏らす。
 巨漢に視線を戻した彼の耳に、「感謝します」という小さな声が入ってきた。しかし、彼は騒音に掻き消されて聞こえなかったふりをした。
 ミンウェイは改めて巨漢と向き合った。穏やかな、凪いだ瞳を取り戻し、尋問を再開する。
「あなたのことを教えてください」
 巨漢が笑いを止め、濁った目でミンウェイを見上げた。
 彼女が言葉を重ねる。
「『生かして苦しみを与える』――それは、斑目の望みですか?」
「当然、……私……の望みに決まっていますよぉ!」
「あなたは何者ですか?」
「私……、私……? ……わた……。……俺…………?」
 巨漢が、急に押し黙った。何かに悩むかのように眉根を寄せている。じわりじわりと額に脂汗が浮かんできた。
「『俺』は……。『俺』は…………」
 呻くような声が、絞り出される。
「ちがぅっ! 『俺』はっ……! あぁ――――!」
 突如、眼球が飛び出しそうなほどに、目が見開かれた。
「『俺』は、〈影〉……!」
 全身が痙攣し始め、巨漢は獣のような唸り声を上げる。 
「ミンウェイ、心拍数!」
 機器が激しく警告音を鳴らす。
 薬の過剰摂取などではない。だが、ミンウェイは慌てて点滴を外す。
 そのときだった。
 巨漢の全身が、真っ赤に染め上げられた。
 血管という血管が破裂して、血の飛沫が飛び散る。
「な……」
 シュアンは絶句した。隣ではミンウェイが青ざめた顔で呆然としている。
 巨漢が苦悶の表情を浮かべ、台の上でぴくぴくと動いていた。モニタは、ごくごくゆっくりと波形を描き、だが、完全には止まっていない。
 不意に、少し離れたところから動くものの気配があった。
 シュアンは、どきりとして振り返る。
「ああ、『呪い』が発動したんですね」
 今まで、完全に意識の外にあった、シュアンの先輩。
 隣の台に拘束されていた彼が、こちらに顔を向け、嗤っていた。

2.眠らない夜の絡繰り人形-3

2.眠らない夜の絡繰り人形-3

「ローヤン先輩……」
 シュアンが呟いた。
 だが、ローヤンの目はシュアンを通り越し、その先にいるミンウェイの背中を食い入るように見つめていた。
 彼女は、まだ心音の止まっていない巨漢を蘇生すべく、胸骨圧迫を施していた。それが適切な処置であるかは疑問だが、大事な情報源を失うわけにはいかぬと必死なのだろう。
 血にまみれ、ぬめる巨漢の体に、彼女は躊躇なき衝撃を与える。ちらりとモニタを確認しては手元に視線を戻し、髪を振り乱しながら規則的な動作を続けていた。
 しかし、その苦労も虚しく、巨漢は全身で地獄の苦しみを表現しながら、徐々に鼓動を弱めていく。
「無駄ですよ」
 ミンウェイを小馬鹿にするように、ローヤンが嗤った。
 シュアンは制帽を目深にずらし、表情を隠した。
 半分、影の入った視界に映るローヤンは、姿形も、声すらも、紛うことなく先輩だった。しかし、目の前の男は、まったく別人であると、シュアンの本能は告げている。
 シュアンは唇を噛む。口腔内に、じわりと鉄の味が広がった。
 桜の大木の庭で、警察隊と凶賊(ダリジィン)が大集結したときから、ローヤンの様子はおかしかった。
 救出すべき貴族(シャトーア)の令嬢を一方的に替え玉と決めつけ、発砲した。

『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ。俺たちは常にそれを意識して、引き金を引かなければならない』

 ローヤンは、決して臆病な男ではない。
 けれど、軽率な男でもなかった。
「……あんた、誰だよ?」
 獣が唸るような声で、シュアンは問いかけた。
「おや? 警察隊の方が、鷹刀の屋敷にいるとは意外ですね」
 あざ笑うかの調子で、そして、まったく見知らぬ他人への口調で、ローヤンは口元に微笑を浮かべた。
 シュアンの動きが一瞬だけ止まった。だが、すぐに、巨漢につきっきりになっているミンウェイに呼びかける。
「ミンウェイ。こいつは、俺の先輩じゃない」
 ミンウェイの返事はない。一心不乱に蘇生を試みる彼女の耳には、何も聞こえていないようだった。
「おい」
 シュアンは、つかつかとミンウェイのもとに寄って彼女の腕を掴んだ。ぐいと引き寄せ、彼の両手が彼女の両肩をがっちりと捕まえる。そのまま、彼女の体をモニタ画面に向けた。
「そいつはもう、何をしても助からない。分かるだろう?」
「あ……」
 まだ、モニタの波形は直線ではない。ただ、限りなく直線だった。
「それより、こっちだ」
 シュアンはローヤンを示す。
 ミンウェイがローヤンへと顔を向けたとき、ローヤンが目を見開き、喜色満面を浮かべた。
「ああ、ミンウェイ。やっと君に逢えたね」
 愛しい者を見る目でローヤンが呟く。
「美しくなった。さすが、私の〈ベラドンナ〉だ」
 ミンウェイの表情が凍った。乱れた髪が一筋、目元から頬まで抜けていき、まるで彼女の綺麗な顔に傷がついたかのように見えた。
「髪に巻き癖をつけているのかい? 悪くはないけれど、可憐な〈ベラドンナ〉には、その髪は華やかすぎるよ。楚々とした美しい貴婦人の花だからね」
 ミンウェイの顔が蒼白になった。
 彼女の両親は、鷹刀一族の血を濃く引く、従兄妹同士。よく似た遺伝子を持つふたり。だから本来の彼女の髪は、イーレオ、エルファン、リュイセンなどと同じ、まっすぐで(あで)やかに輝く、さらさらの黒髪だった。
 ――けれど、それを知っている者は、今となってはそう多くはない。
 ミンウェイは、一歩後ずさった。
 その背に、シュアンが手を回す。腰が引けた彼女を逃すまいとしているようであり、倒れそうな彼女を支えているようでもあった。
「あんた、この男を知っているんだな?」
 シュアンが低い声で尋ねた。
「し、知らない……。知りません!」
 ミンウェイが激しく首を振る。
「知らないってことはないだろう?」
「彼は、あなたの先輩でしょう!?」
 すがるような目で、ミンウェイはシュアンに訴える。よろけかけた姿勢から彼を見上げたとき、目深な制帽で隠していた彼の目元が見えて、彼女は息を呑んだ。
 独特な、彼らしい軽い口調が変わらなかったから、彼女は今まで気づかなかった。
 果てしない憎悪――。
『不快なものを殲滅したい』と、応接室で彼女に語ったときと同じ、暗い暗い炎が揺らめいていた。
 軽く口の端を上げたままの、笑んだような口元から狂犬の牙が覗いた。だらだらと涎を垂らしながら、噛みつける相手を見つけた歓喜に喉が鳴っている。――ミンウェイには、そんな幻影が見えた。
「俺は『こいつ』のことは知らない。――俺は先輩の交友範囲なんて把握してないが、少なくとも凶賊(ダリジィン)の女と付き合っているなんて聞いたことがない。だが、『こいつ』は明らかに、あんたのことを知っている」
「……信じられない。だって、あり得ないもの……」
「現実ってヤツは、信じる者を踏みにじるために存在しているのさ」
 そう言って、シュアンは『ローヤン』を睨みつけた。
 この絡繰(からく)り人形が、どんな手段で作られたのかは分からない。重要なのは、ローヤンは怪しい小細工に堕ちた。それだけだ。
 警察隊内外から信頼の(あつ)い男だった。それはつまり、邪魔に思う敵が多いということだ。シュアンの上官たる、あの指揮官も疎んでいた。
 ――ほら、絡繰(からく)りの歯車は揃っている……。
「あんたは、休んでろ」
 彼は、ミンウェイの背に回していた手を外し、彼女とローヤンの間に体を割り込ませた。突然のことに彼女はたたらを踏むが、なんとか踏みとどまる。
「緋扇さん……?」
「俺は、『こいつ』と話すために、ここに来たんだ」
 シュアンは、ローヤンの載せられた台に近づいた。ミンウェイの気遣わしげな視線を感じるが、完全に拘束されている相手を恐れることはない。
「よぉ、〈七つの大罪〉の〈(ムスカ)〉さん。はじめまして」
 馴れ馴れしく言って、口元から牙を覗かせた。背後でミンウェイが何やら反応しているが、そんなものは無視である。
「ほぅ、私を〈(ムスカ)〉と呼びますか」
「ああ」
 この男は先輩ではない。先輩とは別人の『誰か』なのだ。そして、ミンウェイとのやり取りを聞いていれば――。
「だって、それしか考えられないだろう?」
〈七つの大罪〉の技術とやらで、ローヤンを操っている。――それがシュアンが導き出した答えだった。
「そして、そっちの巨漢も、『あんた』だ」
「ふむ。どうしてそう思うんです?」
「そいつは見た目が脳筋馬鹿のくせに、小賢しい口を叩いていた。あんたそっくりのな」
 シュアンは、ちらりと隣の台に目をやった。モニタ画面は、生と死の境界線を描いたかのような直線となっていた。
「昼間……鷹刀イーレオの部屋で、俺はそいつを人質に、偽警察隊員に武器を捨てるように言った。そしたら、そいつは『私のことはどうでもいい』と言いやがった」
 執務室に仕掛けられた、〈ベロ〉という人工知能の活躍で事態が収束したため、皆の記憶からは抜け落ちてしまったかもしれないが、シュアンは覚えていた。一度は、シュアンがあの場を制圧したのだ。
「そいつは命を惜しまなかった。――それは中身が『あんた』で、だけど、そいつが死んだところで、本物の『あんた』は、なんの痛みも感じないからだろう?」
 シュアンは再び、巨漢を見る。苦しみ抜いた彼の目尻からは、場違いに澄んだ涙が落ちていた。
「……『あんた』は安全なところから、そいつや先輩を動かしているんだ」
 姑息で卑劣――シュアンが最も忌み嫌うもの。
 彼が三白眼で鋭く睨みをきかせると、ローヤンは、にやりと嗤った。そのおぞましさに、肌が粟立つ。
 ローヤンはシュアンには何も答えず、後ろのミンウェイにうっとりと語りかけた。
「ミンウェイ、私の〈ベラドンナ〉。迎えに来たよ」
「…………本当なの……?」
 消え入りそうな細い声。
 シュアンが振り返ると、蒼白な顔をしたミンウェイが唇をわななかせていた。
「お父様は、生きて……?」
「勿論、生きているよ」
 (とろ)けるような甘い声で、ローヤンが答える。
「ずっと、君に逢いたかった。私の愛する〈ベラドンナ〉。これでやっと――君をまた私のものにできる」
 刹那、シュアンの思考が固まった。
 シュアンの視界に映るのは、拘束された三十路過ぎの男に、言葉をかすらせる妙齢の美女――。
 この光景を物語にするのなら、罪人であるがため、長く恋人に逢えなかった男が、積年の想いを告白している、そんな甘美な恋愛譚。
 だが、男の中身は、彼女の父親なのだ。
 今、奴はなんと言った? 君をまた私のものにできる――?
 徐々にその意味を理解するにつれ、シュアンは吐き気がこみ上げてきた。
 気が狂っている。
 確かイーレオはこう言った。『男手ひとつで育ててきた』と。この異常なまでの溺愛の中で育てられたということは、すなわち――。
 ミンウェイは震えていた。否、脅えていた。
「さぁ、一緒に行こう」
「い、嫌……」
 ミンウェイが喰い殺す側の人間などというのは、嘘だ。彼女は、ずっと親に喰われ続けていたのだ。
 シュアンは拳を握りしめた。
「どうしたんだい? 君は、ずっと私を慕ってくれていただろう?」
「お父様……」
「……思った通りだ。ミンウェイ、君は私と離れている間に、随分と鷹刀イーレオに毒されてしまったみたいだね」
 ローヤンは憂い顔になり、深い溜め息をついた。
「仕方ないから、君をさらっていこう」
「え……?」
 狼狽するミンウェイをよそにローヤンは視線を移し、シュアンに向かって、にやりと嗤った。
「そこの警察隊員。私の拘束を解きなさい」
「あんた、何を言って……!」
 言い返そうとしたシュアンを、ローヤンの声が素早く遮る。
「この体は、あなたの大切な先輩のものなんでしょう?」
「な……!」
 ローヤンの顔は、醜く歪んでいた。ローヤン本人なら決してあり得ない狡猾な表情――。
「私の言う通りにしなければ、この体がどうなっても知りませんよ?」
 そこにいるのは、禍々しい悪魔だった。
 思い切り頭をはたかれたような衝撃が、シュアンを襲った。脳震盪を起こす手前のように、目の前がくらくらする。
 ふらつく足を踏ん張り、シュアンは平静を装う。
 焦ったら負けだ。――彼は、激昂に震える拳をゆっくりと開いた。
「確かに、その男は俺が世話になった先輩だ。けど、俺に説教しやがったんで、殴り飛ばして喧嘩別れしたのさ」
 いつもの軽い口調で、シュアンは言った。それに対しローヤンは、太く黒いベルトに四肢を捕らえられた姿で、小馬鹿にしたように嗤う。
「何を言っているんですか。捕虜の自白の場に立ち会っているのは、この男のためでしょう?」
「鷹刀とは裏取引がある。もともと用があった。ここに来たのは、そのついでだ」
 ローヤンは、どこか演技じみた様子で、溜め息をついた。
「強がりを言うものではありませんよ。あなたにとっては、これが唯一のチャンスなのですから」
 目を細め、思わせぶりにゆっくりと言を継ぐ。そっと囁くような声は、わずかに下げられていた。
「使った体は、役目を終えたら片付けるものなんですよ。この体も、そろそろ潮時と思っていたところでした。……けれど、あなたが私に従うというのなら、始末するのはやめましょう」
 薄ら笑いを浮かべながら、ローヤンが愉しげにシュアンを見上げた。人を追い詰め、陥れる。それは、まさに悪魔の所業だった。
「……俺に、あんたの駒になれと? ふざけるな。俺に命令できるのは俺だけだ」
 甘言に耳を貸してはならない。どうせ、どこかに落とし穴がある。シュアンは神経を研ぎ澄ませ、必死に思考を巡らせる。この場を、どう対処すべきか――。
 シュアンの斬りつけるような三白眼に、ローヤンはくすりと嗤った。
「それでは、この体は始末します」

2.眠らない夜の絡繰り人形-4

2.眠らない夜の絡繰り人形-4

 無影灯の光が、天井から注がれていた。影を作らぬ明るい光が、さして広くもない室内に熱く満ちている。シュアンの額から汗がにじみ出て、彼の三白眼を嘲笑うかのように、その脇を不快に流れ落ちた。
「くっ……」
 シュアンは腹の底から息を吐いた。煮えくり返るような思いが内臓を渦巻き、湧き立つ血流が血管を浮き立たせる。
 この場限り……、今だけは奴に従うべきなのだろうか――。
 シュアンの口が、小さく、力なく音を出す。
「待……」
「緋扇さん……!」
 それまで脅えるばかりだったミンウェイが、シュアンの袖を掴んだ。力強く引かれた制服の左肩がずり下がる。
「私、お父様のところに行きます。だから、緋扇さんの先輩は……」
「ミンウェイ!」
 彼女の言葉の途中で、ローヤンの憤怒の声が割り込んだ。
「君は、こんな男のために私のもとに来るというのか!? 私の〈ベラドンナ〉が、私以外の男のために指一本でも動かすなんて、あってはならないことだろう? そう教えたはずだ!」
 嫉妬に歪んだ顔で、ローヤンはシュアンを睨みつけた。視線だけで殺せそうなほどの憎悪が、ほとばしる。
「お父様、私は……、私は、もう……、〈ベラドンナ〉ではありません!」
 (つや)を失った、むき出しの声が、悲鳴のように響き渡った。
 つかえていた胸の思いを吐き出し、彼女の肩が苦しげに上下していた。ひとつに束ねられた長い髪は、意思を持った生き物のように背中で波打っている。
 彼女にとって、父親は幼少時の絶対的な支配者。
 それは、天に逆らうにも等しい叫びだった。
「何を言っているんだい? 私の可愛い〈ベラドンナ〉。その豊富な知識も、高度な技術も――そして何より、その美しく完璧な肉体も……。すべて私が与え、磨きあげた。君は私の至高の芸術品だよ」
 ミンウェイの体が、雷に打たれたかのように大きく震え、硬直した。その振動は、袖を掴まれたままのシュアンにも伝わり、彼女の恐怖を彼は肌で感じ取った。
「……腐ってやがる……」
 シュアンの押し殺した唸り声が響く。
「あんたは本当に、悪魔、だ」
 拳銃で撃ち殺したい衝動に駆られるが、その肉体は先輩のものだ。
 シュアンは音が鳴るほどに歯噛みした。
「ミンウェイ。あんたが、こいつの言いなりになることはない。俺やあんたが言いなりになったところで、こいつは先輩を殺すだろう――嗤いながら俺の目の前で。そういう人種だ」
 八方塞がりの現状。やり場のない怒り。口をついて出る毒の言葉は、ただ自分の無力さを確認しているだけだ。
「こいつは俺を弄んで楽しんでいるだけだ。こいつにとって、俺は玩具で、利用した体は、ただの道具。要らなくなったら片付けると、そう言ってい――た…………?」
 そのときシュアンは、自分が言った言葉の中にある『真実』に気づいた。
 ローヤンの載せられた台に向かい、大股に近寄る。袖を掴んでいたミンウェイの手が、戸惑うように離れた。
 シュアンは、ローヤンの頬をかすめるように、どん、と大きな音を立てて台に手をついた。そして、じっとローヤンの目を見る。悪魔の嘘を見逃さないように――。
「『使った体は役目を終えたら片付けるもの』? ――何故、片付けるんだ?」
「不要だからですよ」
 当然だろうと言わんばかりに、ローヤンの中の悪魔が答える。
「ああ、そうだ。あんたにとって『不要』だ」
 シュアンは口角を上げ、嗤った。
 ローヤンが不快気な顔をする。シュアンの意図が分からず、態度を決め兼ねているようにも見える。シュアンは構わず、そのまま、ゆっくりと続けた。
「だから、万一、あんたの悪事がバレたりしないよう、きっちり『お片付け』しておいたほうが後腐れないってことだよなぁ?」
 シュアンは腰をかがめ、台の上のローヤンに息が掛かりそうなほど顔を近づけた。
 見知った顔を前に、心がえぐられる。けれど彼は、皮肉げな口調で話しかける。
「ところでさ。役目を終えたあとの『不要』な道具が、元通りに使えるメリットは……あんたには『ない』な? 使い捨ての道具だ、壊れてしまって構わないだろう」
 自分の心臓が早鐘を打ち始めたのを、シュアンは感じた。落ち着けと、腹の底から自身に命じる。
「何が言いたいんですか?」
 ローヤンが鼻を鳴らす。
 シュアンは息を吸って、吐いた。否定してくれと、祈るような気持ちで次の句を告げる。
「つまり――一度、あんたに使われた人間は……元には戻らないんだ」
 その瞬間、ローヤンは、くっと口の端を上げ、弓なりに目を細めた。
 シュアンの見たこともない表情で、嗤っていた。
「おみそれしました。……見かけによらず、あなたは鋭いようですね」
 その返答が、シュアンの心臓を撃ち抜いた。彼は倒れそうになる足をこらえ、感情の動きを目深な制帽の下だけに抑え込む。
「はっ! お褒めにあずかり光栄ですね。――だが、つまりだ。先輩が元に戻らない以上、俺もミンウェイも、あんたに従う義理はまったくないというわけだ」
 シュアンは鼻で笑った。そして、背後のミンウェイを振り返る。
「ミンウェイ、こいつに自白剤をぶちこんでやれ。ありったけの情報を吐かせるんだ」
「は、はいっ……」
 かすれたミンウェイの声に、「待ってくださいよ」というローヤンの声がかぶる。
「あなたに、この体に使われた技術についてご説明いたしましょう。それを聞けば、あなたは私に協力したくなりますよ」
 真実を見抜かれてなお、ローヤンは変わらぬ愉悦の微笑を浮かべていた。
 聞く耳持たぬと、シュアンは背を向ける。しかし悪魔は囁き続けた。
「ああ、自白剤は無駄ですよ。あなた方が欲しい情報に行き着く前に、この体もその巨漢と同じ運命をたどるはずです。――それよりも、私たちは手を組むべきなんですよ」
 かすかに笑みの入った、親しげな声でローヤンが言う。
 背後を振り返れば、あの醜く歪んだ顔があるのは分かっている。けれど、優しげな声は先輩そのもので、シュアンは苛立ちもあらわに吐き捨てた。
「うるさい。黙れ、蝿野郎」
 シュアンの反応があったことに、悪魔は喜色を上げた。
「あなたは『私』を〈(ムスカ)〉だと言いいましたね? ――それは半分合っていて、半分間違いです」
「黙れと言っているだろう!」
 シュアンは思わず振り返った。振り返ってしまった。
 彼の三白眼に飛び込んできたのは、生真面目な先輩の顔だった。
「『私』は〈七つの大罪〉の技術によって、あなたの先輩の体という肉体(ハードウェア)に、〈(ムスカ)〉という精神(ソフトウェア)を入れられた存在です。――〈七つの大罪〉では、こうして作られた者を〈影〉と呼びます。つまり『私』は、あなたの先輩ではありませんが、〈(ムスカ)〉とも違う、まったくの別人なのです」
 耳を塞がねば……。
 シュアンは咄嗟に思ったが、凝り固まったように体が動かなかった。
「あなたの先輩の記憶を〈(ムスカ)〉の記憶で上書きした、と言えば伝わるでしょうか。――この肉体は間違いなく、あなたの先輩です。けれど、この体が不要になって片付けられるとき、『私』も一緒に死にます。『私』とあなたの先輩は、文字通り一心同体なのです」
 ローヤンは、突き刺すような視線でシュアンを見た。
「『私』は死にたくありません。あなたも、先輩に死んでほしくないでしょう?」
 声をつまらせるシュアンに、ローヤンはゆっくりと口の端を上げ、嗤う。
「あなたと『私』が出会ったことは、お互いにとって幸運でした。――手を取り合って〈(ムスカ)〉を殺すためにね」
「……ふざけるな」
 深い憤りがシュアンを襲った。固く動きを止めていた喉から、つぶれた声が漏れる。三白眼が、かっと見開いた。
「あんたは、ずっと〈(ムスカ)〉の指示に従ってきただろう? それが、どの面下げて『手を取り合って〈(ムスカ)〉を殺す』だ?」
 ローヤンは、ふっと口元をほころばせた。
 それは笑んだつもりだったのかもしれない。けれど、あまりの禍々しさに、シュアンの背はぞくりとし、知れず後ずさった。
「『私』は――ああ、正確には『私』と、そこの死体となった男のふたり、ですね――〈(ムスカ)〉の〈影〉にされた『私たち』は、『呪い』に支配されているんですよ」
「『呪い』?」
「ええ。便宜上、そう呼んでいるだけですけどね」
 ローヤンが思わせぶりに、くすりと嗤う。
「私は先ほど、〈影〉について『元の人間の記憶を、別の人間の記憶で上書きした』と言いましたよね。――つまり、〈七つの大罪〉は『人間の脳内に介入する技術』を持っているのです。そして『書き込む』ものは、『記憶(データ)』でなくてもよい。『誰かに逆らってはいけない』というような、『命令(コード)』を植え付けることも可能なんですよ」
 そう言って、「例えば」と、ローヤンの視線が隣の台の巨漢を示す。
「その男は〈(ムスカ)〉の『奴隷』です。〈(ムスカ)〉が望むであろう言動を取ります。それが至上の喜びであると錯覚する『呪い』とでも言うべき『命令(コード)』が、脳に刻まれているのです」
「――だから、俺がこいつを人質にしても『私のことはどうでもいい』と……」
「そういうことですね。〈影〉の思考は、記憶の元となった〈(ムスカ)〉と同じですから、『かゆいところに手が届く』判断ができます。実に都合のよい、便利な駒です」
 拘束されていても、かろうじて自由に動かせる首を動かし、ローヤンは巨漢を顎でしゃくった。
「彼は、自白剤によって『〈影〉』と口走りました。鷹刀イーレオも、おそらく〈影〉という存在を知っているでしょう。だから、それ以上、情報を流してはいけないと判断した彼の脳が、血管に対し破裂するよう命令を出したわけです」
「……」
 シュアンも、巨漢を見やる。
 首まで掛かるような、大きな刀傷を抱えた男だ。どうせろくな人生を送ってこなかったに違いない。しかし、ここまで無残な屍を晒さなければならないほどの悪党だったのか――それは疑問だった。
「そして私にも、『奴隷』の『呪い』が掛けられるはずでした。けれど肉体との相性が悪かったのか、『自我』のようなものが残りました。そのため〈(ムスカ)〉は、私には口頭で命令したことへの絶対服従の『呪い』を加えました」
 ローヤンの声に陰りが入る。深刻な顔になると、やはりシュアンのよく知る先輩にしか見えなかった。シュアンは、わずかに視線をそらす。
 そんなシュアンの心を揺さぶるように、ローヤンは静かに告げた。
「現在、私に課せられた命令は、巨漢の補佐と事態の報告。そして、今夜中に〈(ムスカ)〉のいる場所に戻ること。――さもなくば、血管が破裂します」
 シュアンは息を呑んだ。
『こいつ』を捕らえたままにしておくだけで、先輩は死ぬ。けれども、逃したところで、先輩が元に戻るわけではない。
 自分の()すべき行動を求め、シュアンは目深な制帽の下で、三白眼を忙しなく動かした。
 硬質な床には、巨漢の噴き上げた血溜まりが広がっていた。それが、近い未来の先輩の姿と重なり、彼は目を閉じる。眉間に深く皺が寄り、やるせない思いが溜め息となって口から漏れた。
 鷹刀イーレオを説き伏せて、ここにやってきたのに。相手は〈七つの大罪〉だと、知っていたのに――何もできないのだろうか……。
「ここまで聞けば、あなたはどうすべきか、もう分かりますよね? ――私と手を組みましょう」
 微笑みさえ浮かべ、ローヤンは言った。
「あなたと私は『この肉体を殺したくない』という点において、完全に利害が一致しています」
 論理的に聞こえる話。理知的なローヤンの声。だが、これは悪魔の言葉なのだ。
 耳を傾けてはいけない。そう思うシュアンの耳は、視界を閉ざした分だけ、いつもより鋭さが宿り、悪魔の声がはっきりと届いた。慌てて目を開くと、今度はローヤンの悲痛な面持ちが目に飛び込んでくる。
「遅かれ早かれ、私は〈(ムスカ)〉に始末されます。――その前に、あなたに〈(ムスカ)〉を殺害してほしいのです」
 真摯なふりをして訴えてくる。だが、先ほどミンウェイに投げつけた言葉は悪魔そのものだった。あれが本性だ。
 心を鎮めようと、シュアンはゆっくりと息を吐く。
「あんたの言いなりになったって、先輩は戻らないんだろう?」
「分かりませんよ?」
 ローヤンの目元が狡猾に歪む。
「〈七つの大罪〉は研究組織です。確かに、現在の技術では元に戻すことはできませんが、研究を続ければ、可能になるかもしれません」
「戯言だ……」
「私は肉体の再生技術を持っています。だから、私は新たな『私』の体を作り上げ、『〈(ムスカ)〉』に戻りたい。そのとき、この体を返すことになんの問題もない――分かりますか? 利害は一致しているんですよ?」
 ローヤンは、利害の一致を繰り返し、強調した。
 シュアンは、濁った三白眼をローヤンの瞳に向ける。
 頭上の無影灯が、やけに熱く感じられた。シャツは背中に張り付き、制帽に押さえつけられたぼさぼさ頭が痒くてたまらなかった。
「そんな甘言を信じられるほど、俺は恵まれた人生を送ってきてねぇんだよ……」
 これは悪魔なのだ。言葉巧みに罠に陥れるもの。今までだって、数知れない『悪魔』がシュアンを襲ってきた。
 信じたら、裏切られる。
 喰われる前に、喰ってやる。
 シュアンは懐から拳銃を取り出した。
「私を撃つんですか?」
 ローヤンは――ローヤンの顔をした悪魔は、平然とシュアンを見上げていた。撃てるわけがないと高をくくっていた。
「先輩は元には戻らないと、あんた自身が言ったんだ。だったら、うるさい蝿は始末するだけだ」
「現時点では、と言ったでしょう?」
「うるせぇ!」
「短気な人ですね。ここは、とりあえず私の手を取るべきですよ。可能性はゼロじゃないんです。希望はあります」
 駄々っ子を諭すような口調に腹が立つ。シュアンは顎を伝ってきた汗を、手の甲で乱暴に拭った。
「悪魔が『可能性』だの、『希望』だの。反吐が出るね!」
 シュアンはローヤンの額に照準を合わせた。
 そのとき――。
「緋扇さん……!」
 ふわり、と。
 シュアンの横を干した草の香りが抜けた。彼の銃口の前に、ミンウェイが立っていた。斬り込むような鋭い視線。強い意志を持つ、決意した者の顔だった。
「そのカードは、まだ切っては駄目です!」
 ミンウェイの厳しい声が響く。
 彼女は威圧の瞳でシュアンを抑えると、ひとつに束ねられた波打つ髪を翻し、ローヤンに向き合った。白衣の背中が凛と、無影灯を反射する。
「緋扇さんの先輩を、必ず元に戻すと約束してください。代わりに、私は『あなた』のものになります」
 シュアンは「な……っ!?」と言ったきり絶句し、ローヤンが複雑な顔で唸りを上げる。
「その警察隊員のために、君がそう言ったのだと思うと、腹わたが煮えくり返るね。……だが、君はまた、鋭いところを突いてきた……」
「ええ。お父様ではなく、『あなた』です。『あなた』が望むなら、私はお父様の殺害でもしてみせましょう」
 今まで饒舌に喋っていたローヤンが押し黙る。
 ローヤン――否、目の前にいる『彼』にとって、〈(ムスカ)〉は、いわば『本体』。敵意、対抗意識、競争心――そういったものが、ないまぜになった感情が『彼』にはある。
「ミンウェイ! なんで、ここであんたが出てくるんだよ!? 関係ないだろ!」
 やっとのことで口を開いたシュアンが、ミンウェイの肩を掴み、無理やり自分の方へ向かせた。
「緋扇さん、私は〈(ムスカ)〉の娘なんです。見ないふりなどできません。――そして、可能性はゼロではないんです」
「馬鹿か、あんた! お人好しすぎだろ。あんたなんか、逆に喰われて終わりだ!」
 シュアンとミンウェイの視線が交錯する。
 綺麗な女だと思った。
 切れ長の瞳に、通った鼻筋。(つや)めく唇。豊満な肉体は、しなやかな筋肉に覆われ何ひとつ無駄はない。――〈七つの大罪〉の最高傑作の血を持つ女。
 闇の中で生きてきたくせに、光の存在を信じている。
 綺麗すぎて、優しすぎて……愚かだ。
「ミンウェイ、あんたの気持ちはありがたいが、これはもう、詰んでいるのさ。だって、〈(ムスカ)〉と同じ思考を持つ『そいつ』は、約束を守るような奴じゃないだろう?」
 言いなりになったら、骨の髄までしゃぶり尽くされる。そんな現実をシュアンは見続けてきた。
 どんな正義も、喰われていく。
 だからシュアンは、信じることをやめた。
 だから無情な狂犬になって、愚か者たちが喰われる前に、喰い散らすようになった。
「約束しても無駄だって、あんたが一番よく、知っているはずだ」
 ミンウェイは、何も答えられなかった。
 もし、ここで彼女が何か言ったのなら、シュアンの心はひるんだのかもしれない。
 けれど、彼女は目を伏せただけだった。
 シュアンはミンウェイを退け、ローヤンに銃口を向ける。
「やめろ……!」
 シュアンの暗い炎を前にして、ローヤンが初めて恐怖に声を引きつらせた。
「私を殺して、なんになるんだ?」
「悪魔のくせに、先輩の姿をしているのが目障りだ」
「まだ、元に戻る可能性が……!」
「そんな糞みたいなちっぽけな可能性にかけるほど、俺はおめでたくないのさ」
 ローヤンの右手の甲に、ふたつ並んだ小さな黒子(ほくろ)が見える。新人だったシュアンに、拳銃の構え方を教えた手だった。――よく覚えている。
 こめかみに薄っすらと残る古傷は、凶賊(ダリジィン)の凶刃からシュアンを庇ったときのものだ。――忘れるわけがない。
 目深な制帽の下で、シュアンの瞳が揺らぐ。それをこらえるように、彼は奥歯を噛み締めた。
 引き金に掛けられたシュアンの指――死の淵を目前にした悪魔の金切り声が響く。 
「私の体は、あなたの大切な先輩なんですよ?」
「あんたは俺の先輩なんかじゃねぇ。〈(ムスカ)〉という悪魔だ」
 振り切るように、シュアンは言い捨てた。
「緋扇さん……」
 ミンウェイが、シュアンの名を呟いた。
 また止める気かと、辟易としかけたシュアンの目前を、銀色の光が走った。無影灯の光を跳ね返す、輝く残像。細く長い指先が、ワゴンに乗せてあったはずのメスを握っていた。
「私は〈ベラドンナ〉という名で、暗殺を生業にしていました」
 ミンウェイが凪いだ瞳でシュアンを見つめた。人を殺すために、心を殺した少女の面影がそこにあった。
「私が請け負います」
 ぞくりとするほど綺麗な顔の中で、彼女の赤い唇が死神の鎌の形に動いた。
 彼女は手の中でメスを踊らせ、ローヤンの喉元に切っ先を向けた。
「……違うだろ、ミンウェイ。今のあんたは〈ベラドンナ〉って奴じゃないだろ?」
 どこまでも優しい愚か者。精神が父親である責任と、肉体が先輩である不幸は、彼女のせいではない。 
 シュアンは、左手で抱きすくめるようにミンウェイの腰を引き寄せた。
「警察隊がこの屋敷を囲んだとき、一族を守るためにバルコニーから飛び降りてきたあんたは、格好よかったぜ? あれが今のあんただろ?」
「緋扇さん……」
「あんた、『緋扇さん』ばっかだな。俺の名前は『シュアン』だ。覚えろ」
 そう言って、シュアンは口元を締めた。
「これは俺のけじめだ。――邪魔すんな」
 迷いはない。
 愛しい愚か者たちのために、シュアンは成すべきことを成すのだ。
「待て、まだこの肉体が元に戻る可能性が……!」
 血相を変えて叫ぶ悪魔に、シュアンは冷たく言い放つ。
「悪魔の戯言は、もうたくさんだ」

『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』

 先輩は秋に結婚するのだと、風の噂で聞いた――。

 撃鉄を起こす音が、淡い緑色の壁に反射した。
 そして――。
 …………銃声……。

 シュアンの右手が、力なく降ろされた。
 拳銃が指から滑り落ち、音を立てて床を打ちつけた。銃口から、ゆらりと薄い煙が上がる。
 左手がミンウェイの肩を捕らえ、すがるように抱きしめた。
 ミンウェイの手も、そっとシュアンの背に回る。
 互いの鼓動が感じられた。
 体温には人を惑わす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己(われ)で、どこからが他者(かれ)であるかの境界線を不明瞭にする。
 感情が混じり合い、溶け合い、分かち合っていく。
 (われ)彼女(かれ)の間には、情も、絆も――ましてや愛など存在しない。
 それでも、熱を求めずにはいられなかった。
 ひとりきりで抱えるには、重すぎる感情であったから……。

 ――先輩、俺、……本当はずっと、あんたと一緒に馬鹿な夢を追っていたかったんですよ……。

3.すれ違いの光と影-1

3.すれ違いの光と影-1

 頭上は、紺碧の空に覆われていた。
 虚無の中に吸い込まれるような深い色。それに喰らいつくかのように、自らが立つ別荘からは、煌々とした光の牙が発せられている――。
 斑目タオロンは、バルコニーの手すりに手をかけ、空を仰ぐ。
 見通しの利く明るさは、闇を恐れる本能からすると、安堵するものである。だが彼は、天に撒き散らされているはずの星々を見失っているのではないかという、不安にかられていた。
 タオロンは目線を下げ、庭を一望する。
 張り出したバルコニーからは、一番端に植えてあるブルーベリーの低木までよく見えた。この別荘の元の持ち主たる貴族(シャトーア)は、自慢の庭を愛でるために、このバルコニーを作ったのだろう。のちに凶賊(ダリジィン)の監視台になるとは、夢にも思わなかったに違いない。
 手すりに体重をかけ、やや身を乗り出すようにして、タオロンは別荘の明かりから体を離す。向かい側で闇を作る、鬱蒼とした森に目を凝らした。
 ――いた。
 散策路の口に、ふたつの人影。
 ひとりは、キャンプ場に出たと報告のあった、鷹刀リュイセン。
 そして、もうひとりは、貧民街でタオロンが完敗した、鷹刀ルイフォン――。
 純粋な凶賊(ダリジィン)同士の勝負なら、ルイフォンの奇をてらった攻撃はご法度だった。だが彼は、ただ藤咲メイシアを守るためだけに戦った。だからタオロンは、ルイフォンを卑怯だとは思わない。
 本当に来たのか、とタオロンは溜め息をついた。
 できれば会いたくなかった。〈(ムスカ)〉が「この別荘には子猫が来ますよ」と言うのも、信じまいとしていた。
 隣接するキャンプ場から少年たちの声が聞こえたとき、鷹刀ルイフォンの存在が頭をよぎった。だからこそ、部下を見に行かせた。そこらにいる、ただの悪餓鬼だったとの報告を期待したのだ。
 ルイフォンは、負けん気の強そうな、まっすぐな少年だった。それでいて頭が回り、凶賊(ダリジィン)の総帥の実子でありながら、肉体派ではなく頭脳派。――戦闘には不向きなのに、命じれば代わりに戦ってくれる者はいくらでもいるであろうに、自ら乗り込んできた。
 藤咲メイシアのために――。
 無鉄砲な若さが羨ましい。
 タオロンは、太い眉の間に皺を寄せる。
 彼とて、まだ二十四である。童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られることすらある。それでも彼は、ルイフォンに対して憧憬に近い思い――失われた星々に似た輝きを感じていた。
 ――タオロンの目が、じっと暗い森を見る。
 他に人影はない。ふたりきりで潜入するつもりなのだろう。なんともルイフォンらしい。
 こちらも別荘の警護を固めたいところだが、タオロンが指示を出す前に、誰かが勝手にキャンプ場に応援を送ったため、人手が足りない。曖昧な命令で、非番の者全員に通達されたのだ。
 これで、よいのだ。――タオロンは、そう思う。
 どの道、自分は駒にすぎない。遠くで煌めく星々よりも、手元で輝く珠のほうが、タオロンにとって比類なき存在。その七色の輝きのためになら、彼は泥水だって飲む。
 タオロンが鋭い眼光を放つと、ルイフォンとリュイセンは、しっかりと応えた。
 交錯する視線。
 想いと想いが絡み合う。
 ――そこにいるのは分かっている。早く来い。
 タオロンは、闇の中のふたりに向かって、無言で告げる。
 そして、(きびす)を返す。
 藤咲姉弟の父親の部屋で待っていればよいのだ。ふたりは必ずたどり着く。
 ……その前に、ファンルゥの寝顔を見てこようと、タオロンは思った。
 普段は聞き分けのよい子だが、今日に限っては「チョコをくれる約束だった」と散々、泣きわめいた。くりっとした大きな目を、涙でいっぱいにした顔には、正直、心が痛んだ。
 理由も分からず、いきなり別荘に移動させられて、さぞ不安なことだろう。寂しさから、我儘を言って気を引きたかったのかもしれない。
 まっすぐな廊下を、タオロンは歩く。右手側は部屋の扉が続き、左手は窓になっていた。夜でも明るい照明の廊下に対し、外は闇に沈んでいる。硝子窓が、鏡のようにタオロンの姿を映していた。
 刈り上げた短髪。常に額に巻いている赤いバンダナは、藤咲メイシアに負傷させられた腕を覆うのに使ったため、今は洗濯中だ。そして、その下の太い眉は、いつもの精彩を欠いていた。
 情けない男の顔だ。
 タオロンは自嘲した。
 このまま斑目一族に服従するのと、〈(ムスカ)〉の誘いに乗るのと、どちらがマシというものだろうか――。
 そんな彼の葛藤は、ファンルゥのベッドを見た瞬間に、明後日の方向に吹き飛ばされた。
「――ファンルゥ!」
 もぬけの殻だった。
 皺になったシーツを前に、彼は自分の迂闊さを呪った。
 誰に似たのやら、いざ行動に移ったら猪突猛進のファンルゥだ。寝たふりをしてタオロンを安心させ、充分に夜が更けてからチョコを探しに行ったのだろう。
 いつもなら、とっくに睡魔に負けている時間だ。しかし、今日は移動中によく寝ていた。それに加え、初めて来た別荘という、見知らぬものに対する興奮。着いてすぐに、別荘中を探検していたほどの好奇心。ファンルゥが、おとなしく寝ているはずがなかった。
 行き先は厨房か。
 これから、この別荘は戦場になる。ファンルゥには見せたくない。早く見つけ出さねばならない。
 タオロンは刈り上げた黒髪を掻きむしり、ふと気づく。
 ――厨房なら、まだいい。万が一、探検と称して地下に入ってしまったら?
 ファンルゥが興味を持たないよう、タオロンは軽い口調で「地下には大事で、壊れやすいものがあるから行ってはいけないよ」とだけ言った。厳しく言い聞かせておくべきだったのだろうか。
 ともかくファンルゥを探そうと、タオロンは部屋を飛び出した。
「糞……っ」
 監視カメラが使えれば、と彼は毒づいた。別荘中のカメラが、鷹刀ルイフォンによって無用の長物になっていることは、先ほど確認済みだった。
 そのとき、タオロンの携帯端末が鳴った。
「本邸から……?」
 訝しげに受けると、タオロンの耳を衝撃が襲った。
 曰く――。
 斑目一族の資産の大部分が凍結された。こちらは今、大混乱である。
 そちらの作戦の成功は、今後、重要な資金源となるから、心して遂行するよう――。


 ルイフォンとリュイセンは、厨房からほど近い階段室にいた。
 見取り図からすると、階段は二箇所にある。もと貴族(シャトーア)の別荘ということを考えても、建物の中央にある、吹き抜けの大きなものがメイン階段だろう。そして、小ぢんまりとしたこちらは、使用人たちが使うことを想定して作られたものに違いない。
 こちらの階段は他の部屋とは隔離された空間になっており、侵入者たるふたりにとって都合のよい構造になっていた。しかも狭い階段室でなら、敵と遭遇した際には、多勢に無勢でも一対一で戦える。
「それにしても人の気配が薄いな」
 リュイセンが、半眼で耳をそばだてた。意識を集中したときの彼は、壁一枚隔てた向こう側の人数を当てることができる。
「このまま三階に上がろう」
 廊下に比べ、やや照明が落とされた階段室を見上げ、ルイフォンが言った。三階の一番奥の部屋に、メイシアとハオリュウの父親が囚えられている。
 二階に上がると、リュイセンがルイフォンに止まるように合図した。上を指差し、次に指を五本出す。
 ――三階の階段室を出た、すぐ先の廊下に、敵が五人いる。
 潜入は既に知られており、目的も明らかである。ならば、階段よりは広い廊下で待つ、ということだろう。
 ルイフォンは分かった、との意味で頷く。
 ふたりは足音を殺して階段を登った。あと半階分で上がりきるというところまで来ると、ルイフォンも、おぼろげながら敵の気配を感じる。
 おかしい、と彼は思った。
 圧倒的な存在がない。この別荘には、タオロンと〈(ムスカ)〉がいるはずなのだ。あのふたりの気配が感じられない。
 リュイセンも同じ疑問を抱いたようで、戸惑いの表情を見せた。目線がルイフォンの決断を求める。
 ルイフォンは癖のある前髪を、くしゃりと掻き上げた。猫のような目を細めて階上を見上げ、不審な状況を睨みつける。
 だが、逡巡は一瞬だった。前に進む以外に取る行動はない。
 力強く頷き、リュイセンに意思を伝える。ルイフォンが、にやりと不敵な笑みを浮かべると、彼の兄貴分も同じ笑みで応えた。
 ルイフォンは身を低くすると、するりとリュイセンの脇を抜けた。軽やかに階段を駆け上がり、そのまま一気に三階に登りきる。
 しなやかな体は、立ち止まることなく、階段室から廊下に躍り出た。
 壁に寄り掛かり、気を抜いた様子の五人の敵の姿が目に入った。
 前触れもなく現れたルイフォンに、彼らは目を丸くしていた。だが、話に聞いていた鷹刀リュイセンではない。細身のルイフォンに対し、屈強な男たちだ。すぐに(あなど)りの表情を浮かべる。
 ルイフォンは無言のままに、真上に腕を振り上げた。
「は……?」
 男たちの口から、疑問が漏れた。
 それに構わず、ルイフォンは肘を前に突き出し、そこから一気に前腕を打ち下ろす。
 袖を抜ける、金属の感触。
 それが指先に伝わり、飛び出す瞬間に、手首で微妙な角度を与えながら解き放つ――!
 小さな煌めきが、彗星の尾の如き残像を残しながら、一直線に流れていった。
 やや潰れたような菱形の、ごく小さな刃。暗器と呼ばれる類の投擲武器。
 ルイフォンは、腕力の限界から長刀(ちょうとう)を扱いきれない。それを無理に鍛えるよりも、身の軽さを生かすことを、イーレオの護衛であり、一族の武術師範であるチャオラウは教え込んだ。
 一般的な投げナイフよりも更に小型の刃は、命中したところで、たいした殺傷能力はない。だが、その尖端にはミンウェイ特製の毒が塗ってあった。
 刀の間合いの遥か外から飛来した凶刃が、男のひとりの眉間を貫く。
 痛みよりも驚きの悲鳴を上げながら、男は倒れ込んだ。木の床に、したたか後頭部を打ち付け、二、三度、痙攣したのちに白目をむいて意識を失う。
「なっ!?」
 男たちは殺気立ち、すぐさま抜刀する。と、同時に、ルイフォンも第二撃を打っていた。
 ――――!
 甲高い金属音とともに、ルイフォンの刃は叩き落される。だが、そのときには、彼はひらりと身を翻し、階段室に舞い戻っていた。
 残された四人の男は、あとを追う。
 彼らが階段室にたどり着いたとき、階段の手すりを飛び越え、一気に二階に降りるルイフォンの背中が見えた。着地の衝撃音が振動を伴って聞こえ、更に階下へと降りる足音が響く。
「追え!」
 男のひとりが叫んだ。
 男たちが次々に階段を駆け下りる。彼らは、ルイフォンのように手すりを越えることはしない。あれは身が軽く、帯刀していないルイフォンだからこそ可能な技である。無理に真似して怪我でもしたら、馬鹿馬鹿しいこと、この上ない。
 半階下まで降りた踊り場で、先頭の男が止まった。
「おいっ!?」
 続いて降りてきていた男がぶつかり、ふたりがもつれるように階段から転げ落ちる。
 慌てふためく怒声が、唐突に悲鳴に変わった。
「ひっ! た、鷹刀リュイセン……!」
 癖のない黒髪を肩まで伸ばした、神の御業を疑う黄金比の美貌。噂に違わぬ美の化身が、素早く抜刀する。
 耳を貫くような鋭い金属の響き――双刀が鞘走る音は、すぐさま男たちの絶叫に取って代わられた。
 階上に残っていた男たちには、仲間が流星に打たれたかのように見えた。そして、次の瞬間には、階段を一足飛びに跳んできた星の輝きに、彼らもまた身を滅ぼされる。
 まさに、一瞬。
 流星が煌めいてから落ちるまでと、ほぼ同等の時間の出来ごとだった。
 背後に控えていたルイフォンが、リュイセンに向かって親指を立てる。振り返ったリュイセンも、それを返した。
 息の合った連携――天下無双のリュイセンなら、一対五くらいならば、たいした苦にもならない。けれど、できるだけ短時間、かつ確実に行動するために、ルイフォンが狭い階段室に敵を誘い込んだのだ。
 ふたりは倒した敵を縛り上げ、脱出時に邪魔にならないよう、踊り場の端にどかした。
 そして、相変わらずの人気のなさに疑念を抱きながら三階に上がり、ふたりは廊下の最奥にたどり着いた。――メイシアとハオリュウの父親の部屋の前に。
 扉の向こうにある気配は、ひとつだけ。不可解な状況だが、進むしかない。
 ルイフォンは緊張に震えながら、マスターキーを取り出した。
 軽い解錠音。
 彼がドアノブを回すと、ぎぃ……と、音を立てながら扉が開いた。

3.すれ違いの光と影-2

3.すれ違いの光と影-2

 じわりと汗の滲む手で、ルイフォンはゆっくりとドアノブを押していった。
 そこに、無明の空間が広がっていた。部屋の照明は落とされ、カーテンもぴっしりと閉ざされている。
 闇を切り裂くように、ルイフォンが流し込んだ廊下からの光が、細く長く伸びていく。
 何処にいる――?
 相手は、メイシアの大切な父親だ。一刻も早く、無事な姿を確認したい。 
 しかし、現在のルイフォンは不審な侵入者だった。信用を得るまでは、彼を脅かさぬよう、慎重に行動する必要があった。
 焦りは禁物。まだ闇に慣れぬ目を凝らして、ルイフォンは彼の姿を探した。
 刹那、部屋の奥から、空気を鋭く吸い込んだような、声にもならぬ悲鳴が聞こえた。
 扉の開きと共に、徐々に光が幅を広げ、ベッドに半身を起こした男の姿が見えてくる。彼は迫りくる光を恐れるかのように、あとずさりようもないベッドの端で震えていた。警戒し、脅えきった様子でこちらを凝視している。
 いた――!
 最愛の人の父親との、初めての対面としては、およそ最悪のものといえよう。
 けれどルイフォンは、彼が無事だったというだけで、ぐっと胸が熱くなった。
 今すぐメイシアに連絡してやりたい。傍受が怖いため、途中での通信ができないのがもどかしい。
 ルイフォンはリュイセンを伴って、さっと部屋に入り、扉を閉めた。まずはこちらの自己紹介をせねばなるまい。
 脅えている父親を刺激しないよう、距離をおいたまま、ルイフォンはまっすぐに瞳を向けた。
 ――と、その後ろで、リュイセンがいきなり部屋の照明をつけた。
 父親が、引きつったような甲高い悲鳴を上げる。ぎょっとしたルイフォンは、振り返ってリュイセンに詰め寄り、小声で抗議した。
「リュイセン、驚かすような真似をするな!」
「落ち着け、ルイフォン。暗い部屋の中で、見ず知らずの奴と閉じ込められるほうが、ずっと怖いだろうが。相手は一般人だ。俺たちのように夜目が効くわけじゃない」
 半ば呆れたような、リュイセンの冷静な低音が響く。すっかり気分が舞い上がっていた自分に気づき、ルイフォンは恥じ入った。ここまで順調にきていたから、つい調子づいてしまったらしい。
「あ、ああ……。それも道理だ。……悪かった」
 明るくなった部屋で顔を確認すると、彼は確かに藤咲家当主、藤咲コウレン――メイシアとハオリュウの父親だった。事前に写真で覚えておいたから間違いない。
 ただ、随分と様相が変わっていた。ハオリュウとよく似た顔立ちはそのままなのだが、妙に老けて見える。
 情報屋トンツァイの報告や、別の場所とはいえ、同じく囚えられていたハオリュウの証言からすると、健康状態を害するような、酷い扱いは受けていなかったはずだ。しかし、寝不足と過労からくるものなのか、眼球が落ち窪み、白髪も増えた気がする。
 早く連れ帰ってやりたい――はやる気持ちを押さえ、ルイフォンは猫背を正した。それからきちんと直角に頭を下げる。彼が滅多に取ることのない、最上の礼だった。
「はじめまして。俺は鷹刀ルイフォンと申します。あなたのお嬢さんのメイシア――さんに頼まれて……」
 そこまで言って、ルイフォンは首を振り、顔を上げた。癖のある前髪がふわりと揺れて、鋭く力強い眼差しがコウレンを捕らえる。
「――そうじゃない。『俺が』、あなたをメイシアに逢わせたいから、あなたを助けに来たんだ。あなたのことは必ず守るから、俺と一緒に来てほしい」
 鋭く斬り込むようで、それでいて、まろみのあるテノール。ルイフォンをよく知る、兄貴分のリュイセンが、聞いたことのない響きに耳を奪われた。
 ひとりの男の、心の底からの言葉が、声に力を宿していた。
 ルイフォンが一歩、前に進み出る。
 そのとき、コウレンの目が見開かれた。
「く、来るな!」
 叫びながら、コウレンは手元にあった枕を投げつけた。上質で大きめの枕は、ベッドからさほど飛距離を伸ばさずに、あっけなく落下する。
 彼は瞳に恐怖を浮かべ、身を隠すように毛布を胸元まで引き寄せた。
「鷹刀!? わ、私を殺すのか? 斑目は!? 金は渡したはずだろう!? 厳月が動いたのか? 藤咲をどうする気だ!」
 がたがたと震えながら、コウレンは言い放った。
 これは、いったい……。
 ルイフォンは愕然とし、言葉を失う。
 コウレンの頭の中では、貴族(シャトーア)の権力闘争が激しく繰り広げられているようだった。わっと叫んだかと思うと、両手で頭を押さえ込むようにしてうずくまり、耳と心を塞ぐ。
 彼は、追い詰められていた。過度のストレスが精神を蝕んだのだろう。
 荒事とは縁のなかった貴族(シャトーア)が、数日間も凶賊(ダリジィン)に監禁されたのだ。予測してしかるべきだった。同じ状況にあったハオリュウが、解放されてすぐに鷹刀一族の屋敷に乗り込んできたことのほうが異常だったのだ。
「……貴族(シャトーア)、だな」
 いつの間にか隣に現れたリュイセンが、鼻に皺を寄せながら不快げに呟いた。
 その言葉の中には、明らかな侮蔑が混じっていた。安穏な生活しか知らぬ、人は金で動かせるものと信じ込んでいる、判で押したかのような貴族(シャトーア)ということだろう。
 ――ルイフォンはそう解釈した。それは決して間違いではなかった。しかし実は、可愛い弟分の誠意を踏みにじられたことこそが、リュイセンを苛立たせた一番の原因だった。
 そうとも知らず、ルイフォンはリュイセンに掴みかかる。
「おい、メイシアの親父を侮辱する気か!?」
 ルイフォンとて、貴族(シャトーア)に肩入れする気はない。だが、コウレンはメイシアの父親である。
 彼女の話からすると、コウレンは穏やかで争いを好まず、貴族(シャトーア)の当主よりも庭師が似合うような男だ。なのに、愛息たるハオリュウのために斑目一族の元へ飛び込んでいった。結果、あっけなく囚えられてしまったわけであるが、そんな優しい父親なのだ。
「……別に貴族(シャトーア)すべてを否定しているわけじゃない」
 殺気立つルイフォンに襟元を掴まれたまま、リュイセンは冷静に答えた。
「ハオリュウと――あの女のことは認めている」
「え……?」
 貴族(シャトーア)嫌いのリュイセンとは思えない言葉に、ルイフォンの手の力が緩んだ。
 その手を軽く押しのけ、リュイセンは自由を取り戻す。そして、ルイフォンが何かを言う前に「すまんな」と謝罪した。
「今は、俺たちで争っている場合じゃない」
 そう言いながらリュイセンは、ルイフォンの体を強引にコウレンへと向けた。
「今、やるべきことは彼の説得だ。――だが難航するなら実力行使で行く。時間がない」
 脱出時には、タオロンや〈(ムスカ)〉と交戦することになるだろう。そんなとき、遊び仲間の少年たちが引き受けてくれた下っ端が帰ってきたら、かなりの苦戦を強いられる。
「……俺こそ悪かった。――ありがとう」
 ルイフォンは、肩越しに振り返ってリュイセンに礼を言うと、再びコウレンと対峙した。コウレンは少しだけ毛布を下ろし、訝しげな顔で、じっとこちらを見ていた。
「メイシアから伝言を預かっている。これを聞けば、あなたが俺を信用してくれると言っていた」
 彼女が幼いころ、父コウレンが言った言葉だという。何故か顔を真っ赤にしながら、教えてくれた。
「『暁の光の中で、朝の挨拶を交わしたい人と出逢いました』」
 ルイフォンは、メイシアの言った言葉をなぞる。中途半端な暗号のようだが、伝言はこれだけだった。
 コウレンの目は、ぼんやりとしていた。その顔は記憶を探っているようにも、続きを求めているようにも見える。
 すぐさまコウレンの反応が返ってくることを期待していたルイフォンは焦った。更に、背後からは、「おい……」と咎めるようなリュイセンの声も聞こえてくる。
 どうしたものか、と途方に暮れかけたときだった。リュイセンが息を呑む気配が、鋭く耳朶を打った。
 ルイフォンが「どうした?」と声を掛ける間もなく、彼はすぐさま照明を消した。いきなりの明るさの変化に、ルイフォンの目がついていかない。
 目を凝らし、かろうじて見えたのは、ベッドに向かって走り出すリュイセンの背中。
 ――次の瞬間、リュイセンは、有無も言わせずコウレンの首筋に手刀を落とし、気絶させた。
「な……っ!?」
 ルイフォンは思わず声を上げた。だが、すぐに気づく。
 階段を上がる足音。――敵が近づいてきていた。
 位置的にいって中央にあるメイン階段だろう。ならば、ふたりが倒して縛り上げた、端の階段の凶賊(ダリジィン)たちには、まだ気づいていないはずだ。
 ベッドの下に隠れて、やり過ごせるだろうか。――ルイフォンがそう思ったとき、リュイセンがコウレンのそばから舞い戻った。
「斑目タオロンだ」
 ルイフォンは顔色を変えた。そして、じっと神経を研ぎ澄ます。
 リュイセンの言う通りだった。先行する小さな気配がひとつあるが、その後ろにタオロンの持つ圧倒的な存在感が続いている。下っ端なら誤魔化せても、タオロンを隠れてやり過ごすことは不可能だろう。
「俺が奴を引き受けるから、お前はあの貴族(シャトーア)を守れ」
 リュイセンの低い声が、ルイフォンの耳元で響いた。


 タオロンの心臓は、激しく打ち鳴らされていた。
 ベッドを抜け出したファンルゥを探そうと思った矢先に、本邸からの連絡があった。警察隊による一斉検挙。斑目一族の屋台骨を揺るがす、まさかの事態となった。
 いくら斑目一族が武に()けていようとも、資金がなければ何もできない。『世の中は金次第』などと思いたくはないが、現実として、そういう側面は存在する。
 これはチャンスなのだろうか――。
 斑目一族が弱体化すれば、ファンルゥを連れて逃げ切ることができるかもしれない。
 だが一方で、タオロンへの圧力が強まったのも感じていた。
「タオロン様」
 前を行く部下がタオロンを振り返った。本邸から付いてきた監視役だ。ファンルゥを探しに厨房に向かっていたところを、彼に捕まった。
「いいですね。あなたが預かっているのは、貴族(シャトーア)の厳月家とのパイプです。多くの資金源を潰された以上、厳月家とは懇意である必要があります。分かりますね?」
「……ああ、分かっている」
 階段を上がるたびに、腰に()いた大刀が重く揺れる。
 一度に、あまりにも多くの出来ごとが起こりすぎていた。それは、単純明快を好むタオロンの処理能力を超えていた。
『あなたは、いつまで斑目一族に従うおつもりなんですか?』
(ムスカ)〉の声が脳裏に蘇る。
『私には到底理解できませんが、正義馬鹿のあなたには、この現状は耐え難いことでしょう。ひと役買っている私が言うのもなんですが、なかなかに非道ですね』
 ひと役も何も、全部〈(ムスカ)〉の仕業だ。ただ、命令したのが斑目一族というだけだ。
『いい加減、斑目一族に見切りをつけて、私の元に来なさい。怪しむことはありませんよ。私は純粋に手駒が欲しいだけです。分かりやすいでしょう?』
(ムスカ)〉が、幽鬼のような顔で嗤う。
『私に協力してくださるのなら、私は斑目一族から全力であなたを守りますよ?』
 タオロンは、〈(ムスカ)〉の幻影を掻き消すように、自分の髪を掻きむしった。
 いつの間にか階段を上りきり、彼と部下は三階に来ていた。まっすぐの廊下。片側に続く窓硝子に、情けない顔をした男の顔が映っている。
 もしも――。
 もしも、途中でこの監視役の部下に出くわさずに厨房に行っていたのなら、タオロンは鷹刀のふたりと相まみえることなく、藤咲家の当主をそのまま逃がすことになったのかもしれない。
 けれど現実は、もうすぐ彼らと鉢合わせる。
 これは、こういう星の巡り合わせだったということなのか――。
 タオロンは、廊下の行き止まりに着いた。すなわち、貴族(シャトーア)の当主を監禁している部屋の前だ。
 彼は、蔓薔薇の彫刻された扉をじっと見る。庭の蔓薔薇も見事であるし、この別荘の前の持ち主は、さぞこの花が好きだったのだろう。
 だがタオロンには、奇っ怪に巻き付く蔓が、まるで自身に絡みついてくるしがらみに見え、鋭い棘からはおぞましさしか感じられなかった。
 部屋の中の気配は、三つ。ほとんど気配を消しているリュイセンと、そういったことが苦手と思われるルイフォン。そして、軽い呼吸だけを感じる――どうやら昏倒させられたらしい貴族(シャトーア)の当主。
 あの当主の目を思い出し、彼は奥歯を噛む。
『タオロン』
 ふっと、幻の声が、彼の鼓膜を震わせた。
『誰になんと罵られても、あなたはずっと馬鹿でいて』
 懐かしい甘い声。
 幻影を求めて、タオロンは思わず振り返る。だが、そこにいたのは、すぐに部屋に突入しない彼を、不審な様子で窺っている部下だけだった。
『あなたの馬鹿みたいに、まっすぐなところを私は好きになったの』
 姿は見えなくても、タオロンには彼女の声が聞こえる。過去の思い出の中から、彼女は彼に語りかける……。
『あなたは正しいんだから、自分を信じて……』
 ドアノブに掛けられた手に、ぐっと力が入った。太い腕の筋肉が盛り上がる。
 タオロンの全身から、闘気が溢れ出していた。そのあまりの気迫に、背後の部下は気圧され、後ずさる。
 ――がちゃりと、扉が開かれた。
 その瞬間、鷹刀リュイセンの双刀が、タオロンに襲いかかった。
 だが、リュイセンが構えていることを承知で踏み込んだタオロンのほうが、わずかに対応が速い。大刀の一閃で、リュイセンの両の刀を薙ぎ払う――!
 リュイセンとて、この一撃がタオロンに有効であるなどとは、微塵にも思っていない。そもそも、受け流されることを前提とした、挨拶としての軽い一撃である。焦ることなく、次の動きに移る。
 しかしタオロンは、リュイセンに見向きもせずに(はし)り出した。
 そのまま、ベッドへ――。
 タオロンは、囚えている貴族(シャトーア)の当主に向かって、まっすぐに大刀を振り下ろした。

3.すれ違いの光と影-3

3.すれ違いの光と影-3

 暗闇の中で、ルイフォンは息を潜めていた。
 先ほど、タオロンの気配を察知したリュイセンが照明を落とし、メイシアの父、コウレンを気絶させた。乱暴なやり方ではあるが、コウレンの混乱ぶりと、これからの修羅場を鑑みれば、解せないものを感じつつも正しい判断と認めざるを得なかった。
 ルイフォンはリュイセンの指示通り、コウレンを守るべくベッドの前で仁王立ちになっていた。そこから、扉の外へと意識を飛ばしている。
 敵の気配は、ふたつ――タオロンと、部下らしき凶賊(ダリジィン)
 リュイセンなら、同時にふたりの相手をすることも可能だろう。だが、一方がタオロンなら、部下のほうはルイフォンが引き受けたほうがよいかもしれない。
 そんなことを考えながら、ルイフォンはタオロンの突入をじっと待っていた。
 ――不意に、物凄い闘気が膨れ上がるのを感じた。
 間髪おかず、扉が開く。
 廊下からの逆光に、タオロンの巨躯が浮かび上がった。
 刹那、リュイセンとタオロンが斬り結んだ。重く、それでいて鋭い、金属の不協和音がルイフォンの肌を震わせる。
 予想通りの展開――しかし、次の瞬間、ルイフォンは我が目を疑った。
 タオロンが、コウレンのベッドに向かって一直線に(はし)っていた。
 暗がりでもはっきりと分かる、鬼の形相。リュイセンをまるで無視し、無防備といえるほどに背中はがら空きだった。
 彼の大刀が狙う先は、貴族(シャトーア)の当主、コウレン――。
 侵入者たるリュイセンよりも、コウレンを優先する理由は分からない。だが、ルイフォンは直感的に守るべき相手の危機を悟った。
 掲げられた幅広の刃が、廊下の照明をぎらりと反射させ、無音の雷鳴を轟かせる。
 嵐の如き暴風を纏った大刀が、ひと息に振り下ろされた。
 ――その直前で、ルイフォンはベッドに飛び乗り、コウレンもろともベッドの反対側に体を落とした。
 間一髪……。
 タオロンの凶刃はルイフォンのシャツの端を刻むにとどまり、代わりに犠牲となったベッドがマットの中身を撒き散らす。
 武に自信のないルイフォンならではの、防御の動き。もし、武器でもってタオロンを迎え討とうとしたのなら、ルイフォンはコウレン共々、大刀の一刀で斬り裂かれていただろう。
 ルイフォンは素早く起き上がり、今落ちてきたベッドに再び飛び乗った。思い切りマットを蹴りつけ、スプリングのばねの力で高く飛び上がる。
 巨体のタオロンよりも、遥かに上の目線。タオロンの太い眉を見下ろしながら、ルイフォンは袖に隠し持った菱形の暗器を打ち出す――!
 タオロンは……ルイフォンの刃を、愛刀で弾くことはしなかった。
 彼は横に飛び退き、そのまま体を半回転させて大刀を振るう。そこに、煌めく(ふた)つの刃があった。
 リュイセンである。――背後の憂いを取り除くため、リュイセンは、まずタオロンの部下を蹴り倒してから走った。そのため、わずかに出遅れたのだ。
 すなわち、ルイフォンの派手な動きは、陽動。
 回転の勢いを得た大刀が、双刀の片割れと激しく火花を散らす。
 薙ぎ払うというよりも、叩き落とすようなタオロンの猛攻。重い衝撃に、リュイセンは肘まで痺れを感じた。押し返されるような威力に、神速が鈍る。続くもうひとつの双刀がタオロンの脇腹を捕らえようとしたが、あと少しのところで取り逃がした。
「化物か……」
 タオロンは、貧民街で利き腕を負傷している。
 平気なふりをしていたが、あれはかなりの深手だった。動きからして、傷口はふさがっているようだが、漏れ聞こえる呼吸の乱れから、痛みを隠しているのが分かる。
 もとより手加減などするつもりのないリュイセンだったが、やはり心の何処かで奢りがあったらしい。
 手負いの獣も全力で――。リュイセンは、かっと目を見開き、タオロンと対峙した。
 動いたのは、両者同時だった。
 タオロンの大刀が、リュイセンを一刀両断にせんばかりの猛撃を叩き込む。対して、リュイセンの双刀も、凛とした鋭い一閃を打ち込む。
 高く、玲瓏(れいろう)とした金属の調べが響き渡った。
 細く優美な双刀が、悲鳴を上げる。がっしりと噛み付いて来るかのような、大刀の重厚な一太刀が、腕が千切れそうなほどの衝撃をもたらす。
 リュイセンは全身の筋力を使い、辛うじて半身をずらした。地表に向かう流星の如く愛刀を下に滑らせ、タオロンの豪刀を受け流す。
 初めからリュイセンは、タオロンに力で挑む気はなかった。
「……!」
 勢いに乗ったままのタオロンが、誘い込まれるように体勢を崩す。
 その瞬間が、リュイセンの狙いだった。待ち構えていた双刀の片割れが、神速の一刀を披露する。
「ぐ……っ」
 タオロンが鈍い声を上げた。血臭が、辺りに漂う。
 よろめきながらも、彼の足は膝をつくことを堅く拒み、倒れることを良しとしなかった。引きずるように体を移動させ、壁に背を預ける。
 リュイセンは、唖然としていた。
 確実に捕らえたはずだった。致命傷とまではいわないまでも、身動きできないほどの傷を負わせたはずだった。
 しかし、手の中の感触は想定よりも軽く、タオロンの闘気は未だ失せることはない。
 瞬きすらも許されないような、わずかの時間の切れ目の中で、タオロンはリュイセンの渾身の一刀から直撃を避けたのだ。
 もし、奴が負傷していなかったら、こちらがやられていたかもしれない。――リュイセンの背を冷たい汗が流れる。それでいて、顔は上気していた。戦闘では久しくなかった経験だ。
「勝負あったろ? 俺はこれ以上、お前を攻撃しない」
 リュイセンは内心を隠し、努めて冷徹な声で言った。彼は、その言葉を証明するかのように、(ふた)つに分かたれた双刀を、廊下から差し込む光に反射させながら、ひとつに合わせて鞘に収める。
 ちん……と、澄んだ鍔鳴りの音が響いた。
「何故、刀を収める?」
 タオロンが、驚きの声で問いかけた。
「俺は無駄なことをするのが大嫌いだ。面倒臭い。……それに、お前が斑目にいるのは本意じゃないって、知っちまったからな」
 どことなく罰が悪そうに、リュイセンは答えた。ルイフォンがリュイセンに示した大量の情報。その中には、タオロンの事情も含まれていた。
 交渉は苦手だと、リュイセンはルイフォンに目で訴える。ルイフォンは頷き、ベッドの上から下りてきた。
「ファンルゥに会ったよ。パパがチョコをくれる約束を守ってくれない、と文句を言っていた。――お前の娘のくせに可愛かったぞ」
 タオロンの反応を探るように、ルイフォンは最後のひとことで少しだけ声を落した。刹那、タオロンの纏う雰囲気が、がらりと変わる。
「お前ら――! あいつに何かしたのか!?」
「何もしてねぇよ。あの子に見つかっちまったから、見回りのふりして少し話しただけだ」
「どうして、お前らが、あいつの存在を知っている!」
 強い語気だった。ファンルゥは、タオロンにとって大切に隠しておきたい掌中の珠。できるだけ触れてほしくないのだろう。想像していた通りだった。
「鷹刀の情報網を舐めるなよ」
 ルイフォンは、にやりと笑う。――今は余裕の顔をしているが、タオロンの過去を知ったときの衝撃は、筆舌に尽くし難いものがあった。
 タオロンは、かつてファンルゥの母親である女性と共に一族を逃げ出した。
 しかし、彼が働きに出ている間に彼女は見せしめに殺され、ファンルゥを人質に取られた。
 ――タオロンは、服従を誓うしかなかった。
 現在、父娘が同じ屋敷での生活を許されているのは、タオロンひとりでは一族を相手に娘を守り切るのは不可能だということを、彼も一族も承知しているからである。斑目一族としては寛大さを見せているつもりなのだろう。
 事情を知ってしまえば、戦いたくない相手だった。
「あの子のために、お前とは極力、戦わない。これが俺たちの方針だ」
「……っ」
 タオロンが、言葉にならない呻きを上げた。暗がりで表情は見えないが、うなだれた影が苦しげに揺れる。
「お前ら……。――ったく……」
 彼は抜き身のままだった大刀を鞘に収めた。
 傷が痛むのであろう。ふぅと、息をついてから、ルイフォンとリュイセンの顔を交互に見やる。この暗闇の中で、煌めく星々を見つけたかのように、タオロンは眩しそうに目を細めた。
「お前らは、いい奴だな……」
「当然だろ」
 ルイフォンが口の端を上げ、胸を張る。すると、タオロンは相好を崩し、豪快に笑った。
「鷹刀ルイフォン。お前みたいな奴、俺は好きだぜ」
「男に好きだと言われても、気持ち悪いだけだ」
 ルイフォンが軽口を叩く。
 だが、その次の瞬間、タオロンの纏う雰囲気が急速に張り詰めていった。
「だから……、俺が悪役になるほうがいい」
 轟くような声が、空気を優しく震わせた。
「タオロン!?」
 ルイフォンが叫ぶ。
 タオロンの全身から発せられる、緊迫した気配は消えなかった。それどころか、『鬼気迫る』とすら表現できそうなほどの気迫が高まっていく。
 タオロンは、もぞもぞと体を動かし、懐をまさぐった。
「何をしている!?」
 リュイセンが鋭く言葉を発する。
「自分でも馬鹿だと思う。でも、俺は馬鹿なのがいいらしいからな……」
 外から漏れ入る、わずかな光の中で、タオロンが穏やかに笑っているのが見えた。
 かち、という小さな音がした。
 それが撃鉄を起こす音であることを、普段から銃に接しているわけではないルイフォンとリュイセンは知らなかった。
 傷を負いながらも、タオロンが壁に向かったのは、コウレンを狙える位置に自然に移動するため。壁に背を預けることで、慣れない拳銃がぶれるのを少しでも減らすため――。
 暗闇の中で、タオロンの銃口がコウレンを捕らえた。
 不穏な空気を感じつつも、ルイフォンとリュイセンは気づかない。
 タオロンが引き金を引いた――その瞬間だった。
「何やっているんですか!?」
 銃声と同時に、驚愕の叫びが上がった。
 タオロンの部下だった。リュイセンが蹴り倒した相手だったが、咄嗟の踏み込みが甘かったのか、もう目覚めたらしい。
 だが、今回はそれが幸いした。部下の声に驚いたタオロンの弾丸は、明後日の方向に射出され、天井に穴を開ける。
「……っ!」
 タオロンにとって、絶対に外してはならない一撃だった。
 現実を前に、ただ呆然と銃口から立ち上る薄い煙を見つめる。そんな隙だらけの彼の腹に、リュイセンの鋭い蹴りが入った。タオロンの巨体は、あっけなくその場に倒れた。
「なっ……」
 暗がりの中で伏したタオロンを見て、部下の男が一目散に逃げ出そうする。その背を、リュイセンの双刀の峰が捉えた。
「がっ!」
 悲鳴すら満足に上げることもなく、男の身体は床に落ちた。
 リュイセンが忙しなく動き回る一方で、ルイフォンは、半ば放心状態だった。
 ――タオロンが、メイシアの父の命を狙った。
 その事実に、ルイフォンは衝撃を受けていた。
 タオロンには、好意的な感情を持ちつつあった。それが、裏切られたような気持ちだった。
「ルイフォン」
 リュイセンが、ルイフォンの肩を叩く。
「あ……」
「今の銃声で、敵が集まる可能性がある。さっさと脱出するぞ」
「あ、ああ」
 ルイフォンは、リュイセンを見やった。
 顔の反面だけが外からの光を受け、残りは影。光と影の強いコントラストの中でも、一分の隙もない、作り物めいた完璧な美貌。リュイセンは、普段は文句が多いが、必要なときには必要なことだけを確実にこなす。
「……すまん」
 リュイセンがいてくれてよかったと、心底思う。
「あの貴族(シャトーア)が途中で目覚めたら厄介だ。薬を打っておけ」
「そうだな……」
 気乗りしないが、リュイセンの言う通りだろう。ルイフォンは、のろのろと動き出した。
 いつも以上の猫背で作業をするルイフォンの後ろで、リュイセンのためらうような息遣いが聞こえた。
「ルイフォン、お前は俺とは違って、生まれたときから凶賊(ダリジィン)として生きてきたわけじゃない。……だから、分からないだろう」
 低い声が、闇に響いた。否定的な言葉に思わず反発心がもたげ、ルイフォンは不快げに眉を寄せる。
「分からない、って、なんのことだ?」
「コイツの覚悟」
 リュイセンがタオロンを顎でしゃくった。その仕草は、暗闇かつ背後での動きであり、当然のことながらルイフォンに見えたわけではない。
凶賊(ダリジィン)が己の肉体と、その延長の刃物以外を使うのは、お前が思っている以上に『恥』だ。――俺たちは、見栄で生きているようなものだからな」
「どういう意味だ?」
「コイツは、俺と同じく生粋の凶賊(ダリジィン)だろう? コイツほどの男が、凶賊(ダリジィン)の誇りを捨てて拳銃を使った。しかも、俺に負けたあとで、だ。どれほどの屈辱か、分かるか?」
 ルイフォンは思わず振り返り、横たわっているタオロンの巨体を凝視する。
「コイツには、まだまだ俺たちの知らない事情がある。だが、俺たちにだって、俺たちの事情がある。――そうだろ?」
 魅惑的なリュイセンの声が、ルイフォンを包み込むように闇に溶けた。
 気になることは山ほどある。しかし、この潜入作戦の目的は、あくまでもメイシアとハオリュウの父、コウレンの救出。
「……そうだな。――行こう」
 そう言ってルイフォンは、小さく「ありがとう」と続けた。

 あとは、脱出するのみ――。

4.銀の鎖と欠けた月

4.銀の鎖と欠けた月

 春の夜は、やや肌寒かった。
 ハオリュウは、くしゅん、と小さなくしゃみを漏した。部屋にスーツの上着を置いてきたことを、少しだけ後悔する。
 通された客間には、ミンウェイが用意してくれた部屋着が置いてあったが、袖を通していなかった。それは、凶賊(ダリジィン)からの借り着を良しとしなかったからではなく、鷹刀一族の人々が藤咲家の依頼に命を賭しているときに、くつろぐ気分になれなかったからだ。
 実のところ、作戦に入ってしまえば貴族(シャトーア)の彼にできることはない。ミンウェイも、今まで斑目一族に監禁されていたハオリュウを気遣い、横になるよう勧めてくれた。
 しかし、彼は丁重に断った。休んでなど、いられるわけがなかった。
 かといって、後方で指揮をとるのであろう総帥イーレオや、捕虜の自白を任されたミンウェイのそばにいても邪魔になるだけである。
 そんなわけで、彼は部屋でおとなしくしていたのだが、ふと思い立って異母姉メイシアの部屋に向かうことにした。
 屋敷中がざわめきに包まれているものの、夜は深く更けている。姉弟といえども、女性の部屋を訪れるのは非常識な時間だろう。
 だが、今晩に限っては、異母姉は夜を夜とも思わずに、じっと空でも見上げているに違いない。あの男――鷹刀ルイフォンを想って。
 ハオリュウは不快げに鼻に皺を寄せ、それから感情をストレートに顔に出した自分を恥じ、咳払いをした。作戦遂行のため、凶賊(ダリジィン)たちは、ほぼ出払っていて廊下には人気(ひとけ)がない。誰にも見られなかった幸運に、ハオリュウは、ほっと胸を撫で下ろした。
 ――異母姉は、鷹刀ルイフォンのどこを気に入ったというのだろう。
 完璧な美貌と、比類なき刀技を有する、直系の鷹刀リュイセンなら分かる。暴走した警察隊員から異母姉を救ったときのリュイセンには、心の底から感服した。彼が凶賊(ダリジィン)であることが、残念でならない。
 それに対し、ルイフォンは手が早くて、口達者で、抜け目がなくて、策を巡らせるのが上手くて……。
『メイシアの親父さんを助けるために、他の誰かが犠牲になったら、メイシアが悔やむだろ?』
 ルイフォンは、そう言った。そして、全部ひとりでやると豪語した。結局は、一族全体で動くことになったわけだが、作戦の概要を立てたのはルイフォンだ。
 そもそも、父の救出を急ぐことになったのは、ハオリュウが後先考えずに行動して、結果として斑目一族の意向に逆らったからだ。なのにルイフォンは、責めるどころか、必死な思いを「いいと思うぜ」と言って受け止めてくれた。
「糞……っ」
 ハオリュウは、ぎりりと奥歯を噛んだ。


 ひときわ立派な客間の扉にたどり着いた。
 ハオリュウが遠慮がちにノックすると、メイシアはすぐに出てきた。部屋の照明は落とされていたが、彼女はずっと起きてテラスにいたのだろう。その証拠にテラス窓は開け放たれたままで、夜風が桜の花びらを運び込んでいる。
「ハオリュウ、どうしたの?」
 欠けた月と庭の外灯の薄明るい光が、メイシアを神秘的に照らし出した。もともと美の化身のようだった彼女だが、今は更に(つや)めいて見える。
「姉様が心配だったから」
 当然のように彼を部屋に招き入れる無警戒なメイシアに、ハオリュウは複雑な気分になった。
 勿論、追い返されても困るのだが、そんな無防備な行動が相手にどんな感情を(いだ)かせるかなんて、異母姉はちっとも考えていないのだろう。そして、彼女が扉を開いた相手は異母弟の自分だけではないことを、彼は知っていた。
 そんな異母弟の思いも露知らず、メイシアは優しく微笑む。
「私なら大丈夫よ」
 彼の気遣いを純粋に喜んでいることが伝わってくる。我ながら単純なものだと思いつつ、ハオリュウは目元を緩ませた。
「大丈夫なもんか。姉様が、ずっとあいつのことを心配していることくらい、分かっているよ。ひとりで不安がっていることも……。だから僕と話していれば、少しは気が紛れるかと思ってね」
「ありがとう、嬉しい。……でも、ごめんね、心配だけはさせてほしいの。私にできるのは、それくらいだから」
 沈んだメイシアの様子に、ハオリュウは言葉を詰まらせた。鷹刀ルイフォンは、気に入らない。憎いわけではないが……気に食わない。
 あの男は本来、前線に出る役回りではないらしい。それなのに、無理は承知で敵地に乗り込んでいった――異母姉のために。
「あいつ……格好つけやがって。無茶なことを……」
 かすれたハスキーボイスで唇を噛む。その言葉に不安を覚えたのか、メイシアがむきになるように強い口調を放った。
「大丈夫よ! ルイフォンは、きっと、お父様を救い出してくれる。心配ないわ……!」
「……姉様、言っていることが矛盾しているよ」
 ハオリュウが溜め息混じりに少しだけ笑うと、メイシアは「あ……」と小さく声を漏らし、恥ずかしげに口元に手をやった。
「『神速の双刀使い』が一緒なら、大丈夫だよ」
 異母姉を安心させるように、ハオリュウは、先ほど聞いたばかりのリュイセンの二つ名を口にする。
「そ、そうよね」
 メイシアは、そろそろと手をおろし、胸元のペンダントを握りしめた。祈るような仕草に、首元の細い鎖が薄明かりをきらきらと弾く。
 ハオリュウは切り出しあぐねていた話の足掛かりを見つけ、小さく息を吐いた。
「そのペンダントは、あいつからの贈り物なの?」
「え?」
 メイシアが驚いたように聞き返した。
「午後に、僕が姉様と話したときには付けていなかった。けど夕食のとき、姉様はあいつと一緒に食堂に来て、そのときは付けていた。そして、父様を救出しに出掛けるあいつを見送るとき、姉様はそのペンダントを大事そうに握っていた。――今みたいに」
「何を言っているの、ハオリュウ? これは私がいつも身に付けている、お守りのペンダントでしょう?」
 メイシアが焦ったように言い返す。
 なんとも下手な嘘である。いつも身に付けていたのなら、一緒に暮らしているハオリュウが知らないわけがないではないか。
「誤魔化さなくていいよ、姉様」
「誤魔化してなんか……」
 おとなしい異母姉が食い下がる。そのことが、ハオリュウを苛立たせた。彼は感情的に言い返しそうになるのをぐっとこらえ、瞳に冷ややかな光を宿した。
「姉様に嘘までつかせるとはね……。――姉様。あいつと何があった?」
「え――――」
 メイシアが小さく口を開いたまま、動きを止めた。
 彼女の肩に、桜の花びらがふわりと舞い降り、薄明かりを白くはね返す。夜風が揺らす長い髪のそよぎだけが、彼女が作る時の流れだった。
「僕が気づかないわけないでしょ?」
 ハオリュウの、決して低くはならないハスキーボイスが迫力を帯びる。
 庭でメイシアがルイフォンに口づけたとき、ふたりはそういう関係ではなかった。そんなことは、ハオリュウなら見れば分かった。
 無論、箱入り娘の異母姉が暴挙に出たくらいだから、心憎からず思っていたことは確かだったろう。けれど、それは彼女の心の内のみの話だったはずだ。
 ルイフォンのほうだって、……否、あの男のほうこそ、異母姉に惚れ込んでいた。ハオリュウの最愛の、そして最高の異母姉に魅了されない男などいるわけないのだから。それでも、まだ、秘めた想いだったはずだ。――あのときは。
「姉様は貴族(シャトーア)で、あいつは凶賊(ダリジィン)だ。一緒にいられる相手じゃない。じきに父様も帰ってくる。僕たちは明日、家に帰るんだ」
 もうすぐ、別れのときが来る。
 めまぐるしくはあったけれど、ほんの二日間の出来ごとなのだ。一時(いっとき)の想いは、永遠とは異なる。運命の相手なんて物語の中だけだ。
「ハオリュウ」
 メイシアが彼の名を呼んだ。
 切なげに潤ませた瞳が、淡い光を反射した。
「ルイフォンは鷹刀を出るって――」
「なっ……?」
「そして私に、全部振り切ってそばにいてほしい、って言ってくれたの」
「……っ!?」
 ――絶句……。
 やがて脳がその告白の意味を理解すると共に、ハオリュウは全身の血が逆流するのを感じた。握りしめた拳がわなわなと震える。
 そんな彼の激昂に、メイシアの瞳には、こぼれそうなほどの涙の光がたたえられた。けれど彼女は、それを流さぬようにぐっとこらえ、ハオリュウの姿を凛と捕らえた。
「私も、ルイフォンのそばにいたい……!」
 この我儘は、涙などで通してはならない。そんな甘えは許さぬという、強さ――。
「姉様……」
 ――ルイフォンの良さなんて、とっくに分かっていた。
 けれど、貴族(シャトーア)として育ってきた異母姉が、凶賊(ダリジィン)として生活するなんて無茶なのだ。身分違いの恋が幸せにならないことなんて、ハオリュウの両親が証明している。
 傷の浅いうちに諦めさせるのが、彼女の幸せのためだ。――そう思って、異母姉を諭すつもりだった。
 それが、家を出るだと?
 奴の今までの生活のすべてよりも、異母姉ひとりに価値があると――?
「――畜生……!」
 ハオリュウは、部屋の照明が落とされたままであることに感謝した。明るくする機を逃したまま、話し込んでしまっただけのことなのだが、醜い嫉妬に歪んだ、惨めな顔を異母姉に晒さずにすんだ。
 ルイフォンが凶賊(ダリジィン)でなくなったとしても、彼が平民(バイスア)であることには変わりはない。身分の差は歴然としている。
 だから、ふたりの恋路には反対だ。
「…………っ」
 反対すべきだ。
 ――けれど、それは本当に異母姉のため……なのか……?
「……糞野郎が……」
 ハオリュウの心を慰めるように、静かな風が流れ、音もなく桜が舞った。薄闇の光はしっとりと優しく、彼を包み込む。
 彼は異母姉に悟られぬよう、ゆっくりと息を吐いた。
 胸の中の空気をすっかり出し終えると、妙にすっきりした。落ち着きを取り戻した彼の頭が、明晰に動き出す。
「……姉様」
「は、はい」
 改まったハスキーボイスに、メイシアが緊張の声で答えた。
「駆け落ちなんて、僕は許さないよ」
「えっ!? は、ハオリュウ!? 私はそんな、駆け落ちだなんて……」
 心底驚いたようにメイシアは体をびくつかせ、よろめきながら一歩下がる。大げさなほどの反応であるが、この異母姉のことだから本当に駆け落ちだと思っていなかったのだろう。
「姉様、常識がなさすぎだよ」
「そ、そういうことなの……?」
「それ以外のなんだっていうの?」
 メイシアが押し黙り、うつむく。薄明かりでは判然としないが、その顔は真っ赤になっているのだろう。
 ハオリュウは深く息をつく。
 異母姉には、しっかりと現実を見つめてもらう必要があった。
「あいつが家を出るのはいい。でも、姉様があいつのところに行くのは駄目だ」
 厳しい声がメイシアの耳朶を打つ。
 彼女は赤面から一転、愕然とした面持ちで顔を上げた。普段、柔らかな語調の異母弟が、「駄目だ」と言い切ることの重さに気づいたのだ。
「で、でも、私……」
 自分の思いをどう告げたらよいのか分からず、メイシアは言いよどむ。そして、そうやって言い返そうとする行為こそが、彼女の意志の固さの証明であることをハオリュウは知っていた。
 彼は、これから起こる異母姉の表情の変化を見逃すまいと、じっと彼女を見据えた。
「駆け落ちっていうのはね、周りからの反対にあって、どうしようもなくなったときにするものだよ。……僕は、姉様が幸せになるなら、祝福して送り出したい。ただし! ちゃんと準備してからね」
 メイシアは、その言葉の意味をすぐには理解できず、「……え?」と呟いたまま、声と表情が止まっていた。その反応に、ハオリュウは真顔のまま、心の中だけでほくそ笑む。
「姉様も、あいつも、舞い上がりすぎだよ。周りが見えなくなっている。――満足に家事もできない姉様が、いきなり平民(バイスア)の生活なんて、できるわけないでしょ? 頭を冷やしてよね」
 彼は、にっこりと微笑んだ。
「ハオリュウ……」
 メイシアの口から、絞り出したような声が漏れる。緊張のためか、自然と上がっていた肩がゆっくりと落ちていった。
 これで異母姉は、実家で花嫁修業でも始めるだろう。ルイフォンの人となりを認めはしたが、すんなり渡してやるほど、ハオリュウの心は広くはないのだ。
 ――せめてもの悪あがきに、正攻法で邪魔をしてやる。
 もしも、一時(いっとき)の想いなら、じきに冷める。……けれど、ふたりの想いはきっと変わらない。
 遠くない将来に、彼女を送り出すことになるだろう。ならば、今は嫌がらせに少しだけ先延ばしをさせてもらう。そのくらいはしても、(ばち)は当たるまい……。
 ハオリュウは、ふっと窓の外に目をやった。
 紺碧の夜闇に、星がまたたいていた。ルイフォンに繋がる空をハオリュウはじっと見つめ、らしくないなと思いながら、祈りを捧げた。
「ありがとう」
 メイシアの少し震えた声が響いた。ハオリュウが視線を移すと、彼女の両の目からは、涙の雫が煌めいている。――それは異母弟の彼が見ても、どきりとするほど美しく、幸せに満たされた女性の顔だった。
 ハオリュウは柔らかに顔をほころばせると、意地悪く言った。
「姉様は、これからが大変なんだよ? 分かっている?」
「わ、分かっているわよ」
「どうかなぁ?」
「う……」
 言葉に詰まったメイシアは、気まずそうにうつむた。いじけたように胸元のペンダントを握りしめ、もてあそぶ。
 その仕草に、ハオリュウは胸騒ぎを覚えた。
 ペンダントはルイフォンが贈ったとして、慌ただしい中、いつ用意したというのだろう。よく考えれば、何故ペンダントなのだ? この状況なら、指輪を渡すのではないだろうか。
 では、異母姉がずっと身に付けていたと言うのは本当なのだろうか。
 ――けれど、そのペンダントのことを、ハオリュウはまるで知らない。
 そんな異母弟の心中を知らず、メイシアは「大丈夫よ、頑張るもの……」と、うそぶいていた。そのうち、ここにはいない大切な人を思い出したのか、優しく呟く。
「少し前までは、こんなことになるなんて、想像もしていなかったわ……」
 その言葉は、しっとりと甘い。
 夢見心地のメイシアを見て、やはりペンダントの送り主はルイフォンなのだと、ハオリュウは思った。無駄な思考をやめ、異母姉に同意の相槌を打つ。
「本当に。なんか、信じられないね」
「うん。ハオリュウが身代金目的で誘拐されたのだと思ったら、それは厳月の陰謀で、そして……」
 メイシアは途中で言葉を止めた。
 薄明かりの中でも、はっきりと分かるほど、彼女は蒼白な顔をしていた。
「姉様?」
 ハオリュウが、異母姉の顔を覗き込む。その瞳は、夢から覚めたように大きく見開かれていた。
「私、事件のことは、ルイフォンやイーレオ様の言うことを信じていればよいと思っていた。私が余計なことを言って、邪魔をしてはいけない、って。けど……」
「けど――?」
 急に様子の変わった異母姉に戸惑いながら、ハオリュウは問い返す。
貴族(シャトーア)の私だからこそ、気づくことがあるのかもしれない……」
「なんのこと?」
「厳月の……、違和感」
 澄んだ美しい声であるにも関わらず、その言葉は冷たく空気を切り裂いた。
 彼女は、ハオリュウをじっと見つめた。そして、ややためらいがちに尋ねる。
「ねぇ、ハオリュウ。ルイフォンは、斑目が厳月を裏切り、縁を切ったと言っていた。でも……、そんな一方的なやりように、厳月が黙っていると思う……?」
「確かに、あの厳月が凶賊(ダリジィン)に利用されただけ――なんて許すはずがないね」
 凶賊(ダリジィン)の身分は、平民(バイスア)貴族(シャトーア)からすれば、被支配階級だ。貴族(シャトーア)の感覚でいけば、凶賊(ダリジィン)など金と権力を餌に飼い馴らせる、便利な家畜といった程度に過ぎない。
「うん……。でも、凶賊(ダリジィン)のルイフォンたちは、貴族(シャトーア)の気位の高さを計算しきれていないと思うの……」
 メイシアの言葉に、ハオリュウはしばし考え込んだ。口元に手を当て、目線を下げる。
 普段の彼なら、もっと早くに異母姉の言う違和感に気づいただろう。だが彼は、つい半日前まで何も知らされることなく、斑目一族に監禁されていた。解放されてから一気に情報を詰め込まれたのでは、聡明な頭脳が本来の機能を発揮できなくても仕方あるまい。
「……なら、厳月は斑目一族に、なんらかの報復をしようと動いている? いや、もう報復は秘密裏に行われた可能性も……」
 厳月家と斑目一族――この二者だけの問題になっているのなら、ハオリュウとしては、どんなことが起ころうと、どうでもよいことだ。だが、藤咲家に飛び火しようものなら許さない。全力で火の粉を振り払う。
 険しい顔になったハオリュウに、メイシアが気後れしたような視線を向けた。
「ハオリュウ、私が考えたことは、少し違うの」
「え?」
 深窓の令嬢として育ったメイシアは、人を疑うことを知らない。だから、その瞳は疑惑に曇ることなく、冷静に事実だけを見極める。
「一度手をくんだ貴族(シャトーア)凶賊(ダリジィン)が、そう簡単に縁を切るかしら? 縁を切ったところで互いに利益がないのに。……なら、仲たがいしたというのは、実は私たちの勘違いなんじゃないか――そう思ったの」
「でも、斑目一族は厳月の意向に逆らって、父様を囚えたんでしょ?」
 それを許す厳月家ではあるまい。ハオリュウは異母姉に疑問をぶつける。
「そのことなんだけど……。斑目と厳月は手を組んでいたのよね? なら、斑目と厳月が共謀してお父様を囚えた――という可能性もあるんじゃないかしら?」
「それって、厳月にはなんのメリットもないよ?」
「でもね、そう考えたほうが自然なの……」
 春風が舞い込み、薄明かりが不吉に揺らめく。月影に絡め取られるような錯覚を覚え、ハオリュウは思わず身を震わせる。
「つまり厳月は、まだ舞台から下りてはいない――と」
 彼は、噛みしめるように呟いた。
 異母姉の考えすぎであってほしいと思う。――だが、こういうときの彼女の勘は、外れることがないのだ。
 知らずに握りしめていた拳の中で、当主の指輪が自己主張をした。その痛みに、ハオリュウは、硬い顔で自分を見つめる異母姉に気づいた。
「姉様、大丈夫だよ。僕がいるよ」
 最愛の異母姉には、不安な顔は似合わない。ハオリュウは内心を押し隠し、根拠なき言葉で笑う。
 不意に強い風が吹き込み、テラス窓が大きく開かれた。メイシアの小さな悲鳴が上がり、長い髪が乱され、桜の花びらが散らされる。
 美しい花の嵐の中に、災厄のひとひらが紛れ込んでいる――。
 ハオリュウは欠けた月に挑むような目を向け、テラス窓をぴしゃりと閉めた。

5.紡ぎあげられた邂逅-1

5.紡ぎあげられた邂逅-1

 今が夜であることを忘れたかのように、別荘の廊下は煌々とした光で満たされていた。
 メイシアの父、コウレンとの対面を果たしたルイフォンとリュイセンは、明るすぎる廊下に落ち着きのなさを感じながら、先を急いでいた。
 脱出経路は、侵入経路の逆順。端の階段を使って一階まで降り、厨房から外に出る――。
 額から汗が伝い、流れる。
 だが、ルイフォンがそれを拭うことは叶わなかった。意識のないコウレンを背負っていたためである。混乱が危険を招くと判断したリュイセンが気絶させ、更に途中で目覚めると厄介だからと眠り薬を打ったのだ。
 感動の、とまではいかないまでも、それなりに絵になる救出劇を思い描いていたルイフォンにとって、予定とは随分と違う展開になっていた。
 一階の階段室を出る直前で、前を行くリュイセンが合図を送ってきた。ルイフォンが了承の意を返すと同時に、リュイセンは流星もかくやという速さで躍り出る。
 見回りの凶賊(ダリジィン)が三人、突如として現れたリュイセンに凍りついた。
 刹那、ルイフォンは鈍い物音を聞いた。
 リュイセンの向こうで凶賊(ダリジィン)が倒れた。と、同時に幾つかの打撃音が続く。
 ひときわ重い、どさりという音が床を揺らした。それが最後の男だった。そして、あたりは人気(ひとけ)のない、森閑とした廊下に戻る。
 相変わらずの見事な技に、ルイフォンは口笛を吹きたいのを我慢して、にやりと口の端を上げた。


 入ってきたときと同じく、厨房は闇に包まれていた。廊下との落差から、ここだけが光の世界から置き去りにされたかのように思える。夜が更けてきたためか、室内の空気はひやりと冷たく、それが物寂しさを助長させていた。
 このあとは、そこの勝手口から庭を駆け抜け、一気に門を出る。事前に把握しておいた見回りの人数からすれば、途中で敵に遭遇する確率は極めて低いはずだ。
 唯一の懸念は〈(ムスカ)〉の存在であるが、純粋な力量ならリュイセンが上回ることを、前に〈(ムスカ)〉自身が認めている。
 別荘の外に出てしまえば一安心で、近くに待機させている車が迎えに来る手はずになっていた。
 だから、救出作戦の成功は目前であった。
 しかし、ルイフォンとリュイセンは、暗い厨房の中ほどで立ち止まった。
 戸惑いもあらわに、リュイセンが後ろのルイフォンを仰ぐ。ルイフォンも、予想外の事態に唖然としていた。
 今は一刻も早く、メイシアと父親を会わせてやりたい。
 しかし、勝手口の前に、ちょこんと座り込んだ小さな影をどうすればいいというのだろう?
 ルイフォンは、困惑に目眩がしそうになった。
 影は、こくり、こくりと船を漕いでいた。ぴょんと跳ねた癖っ毛が、肩の上で可愛らしく揺れている。――タオロンの愛娘、ファンルゥである。彼女は扉を塞ぐようにして眠っていた。
 まさかの伏兵だった。
 別れ際に、ちゃんと部屋に戻るように言ったはずなのだが、そのまま寝てしまったのだろうか。ともかく、彼女を乗り越えなければ外に出られない。
「起こさないように、そっとどかしてくれ」
 小声で、ルイフォンはリュイセンに指示を出す。子供相手の役回りはルイフォンのほうが適任なのだが、生憎、彼の両手はコウレンを背負っているので、文字通り手一杯だった。
「無茶を言うな」
「起きたら、そのときは、そのときだ。……仕方ない」
 急いでいるのは勿論であるが、それを抜きにしても、今はファンルゥと接したくなかった。三階の部屋では、タオロンが深手を負って倒れている。彼女は知らなくても、ルイフォンたちは父親を襲った賊に他ならなかった。
「――ああ、本当に仕方ねぇな……」
 心底嫌そうな顔でリュイセンは屈み込み、ファンルゥの背に手を伸ばした。
「ふにゃ!?」
 案の定、手が触れるや否や、ファンルゥが大きな目をぱちりと開けた。リュイセンの舌打ちが漏れる。
 彼女は、間近に迫っていたリュイセンの顔をじっと見つめた。そして「はふぅ!?」と、わけの分からない雄叫びを上げたかと思うと、いきなり大声を出した。
「あぁっ! 来たぁ! ホンシュア、起きて! 本当に、ルイフォンとリュイセンが来たよ!」
 ファンルゥは、喜色満面である。
 だがルイフォンは、彼女の言葉に頭の中が真っ白になった。あまりにも不可解な情報が、無数に散りばめられていた。
 ――ファンルゥは、『待っていた』のだ。
 出口を塞いでいたのは偶然ではない。
 さっき会ったときには知らなかったはずの、『ルイフォン』と『リュイセン』の名前を口にした。
 そして、口ぶりから彼女は独りではない。ここで待っていれば、彼らが来ると教えた者――おそらく彼らの名を教えた者が、この暗がりの中にいる。
「どこにいるんだ……?」
 ルイフォンの気持ちを代弁するように、リュイセンが呟いた。
 武に()けたリュイセンすら、気配を探れない相手。しかも――。
「『ホンシュア』だと――?」
 ルイフォンは仇敵にでも会ったかのように、瞳を尖らせた。
 リュイセンはその名にぴんとこないだろうが、ルイフォンは忘れるわけがない。〈(フェレース)〉たる彼が、ほぼ徹夜で調査しても正体の片鱗すら突き止められなかった、メイシアを唆した仕立て屋の名前だ。
 そういえば、別荘に潜入する前にキャンプ場で情報を吐かせた吊り目男も、地下に〈七つの大罪〉の〈(サーペンス)〉と呼ばれる女がいると言っていた。その女は『ホンシュア』と名乗っていた、とも。
 ファンルゥは、ルイフォンの剣呑な雰囲気にまったく気づくことなく、無邪気に答えた。
「窓のところにいるよ! ホンシュアは熱があるの。熱い、熱いって。だから窓を開けて涼しくしているの」
「……熱?」
 床に座り込んでいたファンルゥは、ぴょんと元気良く立ち上がると、調理台の間を抜け、換気扇の下に設けられた腰高窓のところに行った。
 見れば、先ほどは閉じられていた窓が開け放たれていた。冷たい夜気が入り込んでいる。どうりで室温が下がったと感じたわけだ。
 ファンルゥは、ちょこんとしゃがみ込んだ。
「ホンシュア! ルイフォンたち、来たよ!」
 そこに、人影があった。
 影は、両足を抱え込むようにして、うずくまっていた。膝に顔を載せるようにして伏しているため、造作は伺えない。
 白いキャミソールワンピース姿で、背を覆う黒髪の隙間から、むき出しの肩が晒されていた。長い裾は床で広がり、緩やかに波打っている。
 今まで気づかなかったのが不思議なくらいにはっきりと、青白く幻想的な光景が暗がりに浮かび上がっていた。
 こんな薄着で、しかも熱があるのに窓を開けるのか。生身の人間とは思えない、そんな錯覚すら覚える。
「これが……『ホンシュア』……?」
 ルイフォンは、情報屋トンツァイから貰った写真でしか、ホンシュアを知らない。斑目一族の屋敷から出てくるところを隠し撮りしたものである。
 派手な女だと思った。濃い化粧と、体のラインがはっきりと表れる服。切れ者を演出するかのように、髪はきっちりとまとめ上げていた。
「ホンシュア、起きてよ!」
 ファンルゥが、ホンシュアの肩を揺らした。
 その様子を呆然と見つめるルイフォンの腕を、リュイセンが引き寄せる。
「ルイフォン、今なら外に出られる」
「け、けど、こいつは〈七つの大罪〉の〈悪魔〉なんだ」
「何……?」
 リュイセンは黄金比の美貌を曇らせた。厄介な奴に会ったと思うと同時に、気配を感じられなかったのも、得体の知れない輩なら道理かと、妙な納得をする。
 たが、彼にとって〈七つの大罪〉は警戒すべき相手ではあるが、積極的に関わる相手ではなかった。彼はホンシュアを一瞥すると、低い声で言った。
「気になるのは分かる。だが、今、俺たちがすべきことはなんだ?」
 リュイセンの視線が、ルイフォンの背中を示す。
「……」
 ルイフォンは肩越しに、背負っているコウレンの横顔を見た。ぐったりとして眠っているが、確かな息遣いが首筋に掛かる。
「……お前の言う通りだ。リュイセン、行こう」
 コウレンを背負う手に力を込める。
 (きびす)を返したルイフォンたちに、ファンルゥの悲鳴のような声が上がった。
「待ってよ! ホンシュアは、お友達じゃないの!?」
 悲愴ともいえる必死な顔で、大きな目が彼らを責め立てていた。
「ホンシュア、『逢いたい』って、泣いてた!」
「逢いたい……?」
 ルイフォンが思わず足を止める。それを見て、リュイセンが忌々しげに眉を上げた。
「ファンルゥが呼んでくる、って言ったけど、来てくれないだろう、って。だから、ホンシュアは熱があるのに、無理して地下からここまで来たの!」
「ルイフォン、行くぞ!」
 ファンルゥの言葉にかぶるように、リュイセンが叫ぶ。
 そのときだった。
 うつむいていたホンシュアが顔を上げた。
 青白い頬に、熱に浮かされたような、潤んだ瞳。化粧っ気のない顔は写真のホンシュアとは、だいぶ印象が違ったが、気をつけて見れば確かに本人だった。
「あっ……」
 ホンシュアの目が、ルイフォンとリュイセンを捕らえた。中途半端に口を開けたまま、彼女は動きを止める。
 その顔は徐々に歓喜に満ちあふれ、やがて瞳から、ひと筋の涙が流れ落ちた。
「……逢えた…………本当に……」
 荒い息と共に、彼女の口から呟きが漏れた。

5.紡ぎあげられた邂逅-2

5.紡ぎあげられた邂逅-2

 静寂なる厨房に、気配もなくうずくまっていた女――ホンシュア。
 間違いなく、初対面の相手だった。
 だが彼女は、「逢えた」というひとことを歓喜で彩り、感涙する。その涙に嘘は感じられなかった。
 ルイフォンに引き寄せられるように、ホンシュアは立ち上がろうとする。
 熱のせいだろうか、動きは緩慢だった。途中で「あっ」と小さな悲鳴を上げ、よろける。そのまま力なく、ぺたんと、へたり込んだ。彼女は眉根を寄せ、苦しげに息を吐く。
「お、おい!」
 ルイフォンは思わず一歩、駆け寄った。
「待て、ルイフォン!」
 深入りしそうな彼を、半ば叱るようにしてリュイセンが呼ぶ。
「そいつは、〈七つの大罪〉なんだろ? 耳を貸すな」
 ルイフォンは、父親のイーレオに似ている。外見ではなく、内面が。――楽天家で、好奇心が強く、情に(あつ)く、情に脆い。
 だからこそ、自分がそばに居てやらねばならぬのだと、リュイセンは思う。
 彼は、ルイフォンが背負っているコウレンに気遣いながらも、強引に肩を掴んで出口へと促した。
「ああ……、やっぱり。リュイセンは、お父さんそっくりになったのね」
 ホンシュアが、懐かしいものを見る目で微笑んだ。リュイセンは、その顔に本能的な恐怖を覚えた。それは未知のものへの戦慄だった。
 荒い息をつきながら、ホンシュアは厨房の壁にもたれ掛かる。
「ルイフォンだけなら、ファンルゥが連れてきてくれる可能性があった。けど、リュイセンがいたら、確率は限りなくゼロ」
 気だるげでありながらも、しっかりとした口調。だが、それは気力によるものに過ぎないと、額に浮かぶ汗が証明している。
「何者だ、お前……」
 満足げな表情を浮かべるホンシュアの不気味さに、リュイセンは思わず疑問を口にしていた。
 双刀の柄に手をやりながら、彼は、そろそろとホンシュアに歩み寄る。
「何故、俺たちのことを知って……」
 言いかけて、リュイセンは途中で口を閉ざした。反応したら相手の思う壺だと気づいたのだ。
 彼は振り切るように背を向けた。ホンシュアの体が利かないのは確かだ。だから、このまま無視して立ち去ればよい。そうすべきだ、と。
「ま、待てよ、リュイセン!」
 大股で勝手口に向かうリュイセンを、ルイフォンは目線だけで追った。頭では冷静な兄貴分について行くべきだと分かっているのだが、心と体はホンシュアを向いたままだった。
「行っていいわよ、ルイフォン」
 そっと背中を押すように、ホンシュアはそう言って、にこやかに笑う。
 状況に対して不自然なほどの、晴れ晴れとした笑顔だった。汗で額に貼り付いた黒髪すら、清々しく見える。
「あなたが元気なことが確認できれば、それで充分。顔が見られてよかったわ」
「なっ? なんだよ、それ!?」
 大仰に現れたくせに、顔を見ただけで充分だなんて、あまりにも奇妙だ。彼女が求めているのは、こんなあっさりとした邂逅ではないはずだ。
「違うだろ!? お前は必死だった。何か、深いわけが……」
「ルイフォン、あなたって子は、変わってないわね」
「え……?」
「私があなたに逢うことには、なんの意味もないの。ただ、私が逢いたかっただけ」
 愛しげな眼差しで、ホンシュアがルイフォンを見つめる。まったく知らない顔なのに、どこか見覚えがあった。
「もしかして、母さん……?」
 口調が違う。雰囲気が違う。何より、別人の姿だ。――でも、知っている。
「ほら、リュイセンが待っているわよ」
「はぐらかすなよ! ――俺は、母さんが死んだ直後の記憶が曖昧だ。……俺は何か、重要なことを忘れている? お前は母さんじゃないけど、それに近い――!」
 促すホンシュアに、ルイフォンは叩きつけるように言い放った。
 心臓が早鐘のように鳴っていた。体の内部から、溢れそうな何かを感じる。封じられた不明瞭な記憶がもどかしい。
「……『母さん』」
 無意識に、ルイフォンの唇が動いた。
 刹那、ホンシュアの瞳が揺らいだ。ルイフォンをじっと見つめる瞳から、ひと筋の涙が、頬を伝う。
 薄い闇が、空気を墨色に染め上げ、あらゆる物音を舐め尽くしていた。その中を、ホンシュアが震えながら、白く(おぼろ)な腕を伸ばしてくる。むき出しの肩に載っていた髪が、さらさらと流れ落ちる音が聞こえた気がした。
「…………、…………ルイフォン、来て」
 彼女は、儚げに微笑んだ。
 ルイフォンは足を……踏み出そうとして、動けなかった。
「……え」
 気持ちは前に進んでいるのに、足がすくむ。自分の知らない『何か』を、体が恐れていた。
 ――嘘だろ、俺が脅えるなんて……。
 信じられない思いに、呼吸が乱れ、冷や汗が出る。
 それは、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。けれど、ルイフォンには意識が遠のきそうなほど長い時間に感じられた。
 不意に、背中が軽くなった。
 驚いて振り返ると、ルイフォンが背負っていたコウレンを、リュイセンが抱えていた。
「行ってやれよ」
 リュイセンがホンシュアを顎でしゃくる。投げやりのような、面倒臭そうな、いつもの憮然とした顔だ。
 野生の獣の勘に近い敏感さで、彼は本質を見抜く。事情が分からなくとも、必要なことと、そうでないことの区別の見極めに狂いはない。
 ルイフォンが戸惑っていると、小さな影が走ってきた。『話が始まったあとは、お喋りは我慢』の指切りを、ホンシュアと交わしていたファンルゥである。
 可愛い掌が、ありったけの力でルイフォンを押した。彼が一歩よろめくと、怒られると思ったのか、そばにいたリュイセンの後ろにささっと隠れる。
 親譲りの猪突猛進さに、「よくやった」とリュイセンが笑いかけると、ファンルゥは驚いたように目をぱちくりとした。リュイセンのことは、怒ってばかりの怖い人だと思っていたのだ。
 嬉しさのあまり、彼女はリュイセンの足にぎゅっと抱きつき、頬を擦り寄せる。お口チャックの約束を守ったままの喜びの意思表示である。
「お、おい」
 突然の可愛い攻撃に、猛者リュイセンが動揺を隠せない。コウレンを落とさないように、ファンルゥのすりすりを避けようと、無駄な努力をした。
 そんな光景を目に、ルイフォンは、肩の力が抜けるのを感じた。
 何を怖がっていたのだろう。
 ルイフォンは、ゆっくりとホンシュアに近づいた。座ったままの彼女に合わせ、膝を付く。彼女の顔が、ふわりと緩んだ。
 ホンシュアは上体を傾け、ルイフォンの癖のある前髪に指先を伸ばした。触れたかと思うと、くしゃり、と撫でる。彼がよくやる仕草とそっくりだった。
 そのまま彼女は、崩れ落ちるようにルイフォンの胸に倒れ込んだ。
 思わず抱きとめた素肌の肩は、明らかに人の体温を越えており、胸に預けられた額は熱く脈打っていた。
「ごめんね。私……、お母さんじゃ、ないよ」
 喘ぐような高温の息が、ルイフォンの体に掛かる。
「ルイフォン、……ごめんね」
「何を謝っている?」
 ホンシュアは、ためらうように一度、息を止め、それから少しだけ、からかいを含んだ、けれど柔らかな声で言った。
「あの子……メイシア。私の選んだあの子を、ルイフォンは……どう思った?」
「え?」
 選んだ――?
 虚を()かれたような、告白。
「どういう……?」
「あなたはきっと、私を恨む……。私だって……自分が正しいとは思わない」
「おい、何を言って……?」
「ごめんね……。私が仕組んだの」
 支離滅裂だ。要領を得ない。
「いったい、何を……?」
 ホンシュアはルイフォンの問いには答えずに、言葉を重ねていく。まるで、追い詰められているかのように懸命に――。
 必死に伝えようとしている言葉には、絶対に意味があるはずだ。これは、ホンシュアがルイフォンに与えようとしている大事な情報なのだ。
 ルイフォンは心に刻み込むように、耳を傾ける。
「あの子……、いいことを言うわね。『……それがどんなに罪だとしても、私は何度でも同じことをします』」
「それ、メイシアが貧民街でタオロンに言った言葉だ……。どうして知って……?」
 不意にホンシュアが顔を上げ、くすりと笑う。
「〈(ムスカ)〉の端末……こっそり乗っ取っておいたの」
「なっ!?」
 驚くルイフォンを、ホンシュアはいたずらな表情で見つめている。
 それが、ふっと真顔になり、はっきりと告げた。
「……それがどんなに罪だとしても、私は何度でも同じことをするわ」
 ホンシュアは、とても綺麗に笑った。
 そして、深く清らかな、慈愛の声で、言った。
「逢えてよかった……『ライシェン』」
 その瞬間、ルイフォンの脳裏に、さらさらとした鎖の感触が浮かび上がった。そして流れるような、金属の響き合う音。
 これは記憶の狭間で忘れられていた、過去の経験だ。『思い出した』という、強い感覚があるから間違いない。
 けれど、いったい、何を示しているのか?
「あ、れ……?」
 ルイフォンは、つい最近、この古い記憶と同じものを味わったことに気づいた。
「……メイシアのペンダントだ」
 手の中から机の上へ、すっと消えていく、くすぐったい触り心地と高い音色。メイシアにペンダントを返したときの記憶と重なった。
 ――と、思ったと同時に、脳を激しく揺すぶられるような感覚がした。目の前が真っ暗になる。
「うわぁぁぁ……」
 まるで、頭をかち割られたかのような激痛――!
 ルイフォンはたまらず、頭を抑えながら床にうずくまった。
「え? ルイフォン!? ――ライシェン? ……駄目ぇ!」
 ホンシュアが絹を裂くような悲鳴を上げると共に、彼女の背中から光と熱が噴き出した。
 露出した白い肌。肩甲骨のくぼみの辺りから、白金の光の糸があふれ出て、互いに繋がり合い、網の目のように広がっていく。それは、人間の背丈ほどまで伸びると、大きく横に広がった。
「これは、いったい……なんだ!?」
 黙って状況を見守っていたリュイセンも、この異様な事態に驚きを隠せなかった。唖然としたように呟くと、答えは足元から返ってきた。
「〈天使〉の羽。ホンシュアは〈天使〉なの」
 ファンルゥが、知っていることを自慢するかのように、得意気に言う。
「〈天使〉!?」
 まさに、その言葉通り、ホンシュアの背には光の羽が現れていた。
 光の糸の一本一本は均一の太さではなく、細くなったり太くなったりを繰り返しながら、複雑に絡み合っていた。そして時々、糸の内部をひときわ強い光が駆け抜けるように、輝きが伝搬していく。
 まるで、生命が激しく脈打っているかのよう――けれども、羽全体として見れば、風にそよぐかのように、ゆったりと優雅に波打っている。
 その輝きは徐々に増していき、ホンシュアの黒髪さえも、まばゆく照らされ、白金に輝いて見えた。
 ホンシュアは、苦しんでいるルイフォンの体を起こす。羽が大きく広がり、光で(いだ)くように彼を包み込んだ。
 ルイフォンの表情が、すぅっと穏やかになっていく……。
 そして、薄く目を開けた。
 そのとき――。
「厨房から、光……?」
 廊下から、低い呟きが聞こえた。
「ここにいたのか、〈(サーペンス)〉!」
 憤りを含んだ声が響き、厨房と廊下を区切る扉が開かれた。
 そこに、〈(ムスカ)〉がいた。

5.紡ぎあげられた邂逅-3

5.紡ぎあげられた邂逅-3

 憤りを含んだ声と共に、乱暴に開かれた厨房の扉。その向こう側で、すらりと背の高い男が肩を怒らせていた。
「〈(ムスカ)〉……」
 まだ、ぼうっとする頭で、ルイフォンは呟いた。夜であるにも関わらずサングラスを掛けているのは、顔を隠すためだろう。
 敵を前にして平衡感覚が戻らぬ体に、ルイフォンは焦燥を覚えた。
 突然、頭に激痛が走ったかと思ったら、ホンシュアの背から光の羽が現れた。(おぼろ)げな意識の中で光に(いだ)かれ……何が起きているのか分からないうちに、急に楽になった。
 その直後の、〈(ムスカ)〉の登場である。
 ルイフォンのそばに駆け寄ってきていたリュイセンは、くっ、と息を吐いた。打ち合わせでは〈(ムスカ)〉と遭遇した際には、リュイセンが牽制している間に、ルイフォンとコウレンが先に脱出する手はずになっていた。しかし今のルイフォンには、それを期待できそうにない。
 リュイセンは、抱えていたコウレンをそっと床に横たえた。自力で動けない者がふたりもいては、担いで帰ることはできない。コウレンを薬で眠らせてしまったことに、今更ながら彼は後悔していた。
 双刀の柄に手をかけ、リュイセンは前に踏み出す。
 ――突如、ホンシュアの背から白金の光が伸び、彼の行く手を阻んだ。
 脈打つように太さと明るさを変える光の糸は、かなりの熱量を持っているらしい。触れずとも温度が伝わってくる。
「……なんのつもりだ?」
 邪魔をするような光の羽に、リュイセンはホンシュアの意図を測りかね、眉を寄せた。
 彼女は〈(ムスカ)〉と同じ、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉。だが、リュイセンが肌で感じた見解では、彼女は敵ではない。おそらくは、ルイフォンの母親の関係者というところだろう。
 ホンシュアはリュイセンには答えず、座った姿勢のまま、ゆっくりと〈(ムスカ)〉を振り返った。白金の光に照らされ、神性すら感じられる顔は明らかな嫌悪をはらんでいる。
 そんな彼女に〈(ムスカ)〉が低い声を掛けた。
「姿が見えないと思っていたら、こんなところで何をしていたんですか?」
 侵入者たるルイフォンとリュイセンを無視して、〈(ムスカ)〉の顔は、まっすぐにホンシュアに向けられていた。
「……頼まれたこと以外……私の……自由で……いいでしょう……?」
 ホンシュアの肩が荒い呼吸と共に上下し、それに併せるように背中の羽がざわざわと波打つ。羽から発せられる熱気が熱い風を生み出し、厨房の室温を上昇させた。
「鷹刀の子猫と、エルファンの小倅、それとイノシシ坊やの娘ですか。子供たちを集めて、お遊戯会でもするつもりですか?」
「……あなた、には……関係ない、でしょ……う……!」
 苦しそうに言い返すホンシュアを〈(ムスカ)〉は鼻で嗤う。
「熱暴走とは相当に辛いもののようですね。つまり――そこまでするだけの理由が、あなたにはあるわけですね? 気になりますね。あなたがここで何をしようとしていたのか。――あなたが『誰』なのか」
「……答え、る……義理、は……ない、わ」
 ホンシュアは両手を床につけ、倒れそうになる上体を懸命に支えながら、〈(ムスカ)〉を睨みつけた。拭うことのできない脂汗が、額からつぅっと滴る。
「あなたは私に与えられた道具ですよ。言うことを聞いてもらわなくては困ります」
 わざとらしい溜め息をつき、〈(ムスカ)〉は肩をすくめた。そして軽く顎を上げ、ホンシュアを見下しながら言った。
「――それとも『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』とやらが頓挫しても構わないのですか? 私の技術が必要なのでしょう?」
 勝ち誇ったような〈(ムスカ)〉に、しかしホンシュアは薄く嗤う。
「……あなたは、……自分のほうが、偉い、とでも……思っているの?」
 ホンシュアの羽がひときわ輝き、人間の背丈ほどの長さだった網目状の糸の絡まりがほどけ、〈(ムスカ)〉を目指して伸びた。
「本気ですか? そんなことをすれば、熱暴走が止まらなくなりますよ?」
(ムスカ)〉は口元に薄ら笑いを浮かべる。だが、光の糸が足元に近づいてくると、避けるように一歩下がった。サングラスの目線が、糸の動きを警戒していた。――動揺を隠しきれていなかった。
「あなただって……記憶……書き……られるのが……怖いのね。……あなた、は……『呪い』と……呼んでいた……かしら……?」
「……こいつ!」
 ホンシュアは嗤う。
 長い髪を、顔貌を、むき出しの肩を……全身を白金の光で染め上げ、無慈悲な天使の微笑みを落とす。
「斑目には……あたかも、あなた自身が、……脳内介入できる、かのように……振る舞って……、あつかまし……。……所詮、あなた、も……『私』、の駒……なのに……!」
「……!」
(ムスカ)〉の怒気が膨れ上がった。だが、ホンシュアの放つ光が、それを押さえ込むかのように輝きを増す。
 くっ、と〈(ムスカ)〉から小さな声が漏れ、不快げに鼻を鳴らした。しかし、それは一瞬のことで、彼はすぐに両手を上げる――小馬鹿にしたような態度で。
「ここは引きましょう。私のほうが分が悪い。あなたに呪われることだけは避けたいですからね」
 彼は懐から小瓶を出し、近くの調理台に載せた。ことり、と置かれたそれには、透明な液体が入っており、透けた影を台の上に伸ばしていた。
「冷却剤です。今のあなたには必要なものでしょう?」
 そう言いながら、〈(ムスカ)〉は音もなく、すっと扉を出ていこうとした。
「ま、待て!」
 熱気で温められた空間を、鋭いテノールが切り裂いた。
 床に座り込んだままのルイフォンが腕を伸ばし、去ろうとする〈(ムスカ)〉を捕まえようとするかのように指先が(くう)を掴む。そばにいたリュイセンが「ルイフォン!?」と困惑の叫びを上げるが、ルイフォンはそれを聞き流した。
「〈(ムスカ)〉! 何故、俺たちを無視する?」
 横たえられたコウレンの姿は〈(ムスカ)〉にも見えている。ルイフォンたちが何をしに来たか、一目瞭然だ。それを見逃すような真似をするのは腑に落ちなかった。
(ムスカ)〉は口の端を上げた。
「あなたたちは、その貴族(シャトーア)に用があってきたのでしょう? そして、私は貴族(シャトーア)には興味がない。私にとって意味があるのは鷹刀イーレオだけです。それだけのことです」
 貴族(シャトーア)など眼中にない。むしろ疑問に思われるとは心外だと言わんばかりの〈(ムスカ)〉である。
 信用してよいのか否か微妙なところだが、確かに理にかなっている。
 戸惑うルイフォンに、〈(ムスカ)〉は顔を向けた。サングラスの下の目は何を思っているのか分からないが、それでも嘲りの表情は見て取れた。
「あなたこそ、危険を顧みず、よくここまで来たものですね。あの小娘の色香に堕ちましたか?」
 ルイフォンは反射的に、むっと鼻に皺を寄せた。
 だが、くだらない挑発に乗っても平常心を失うだけだと、すぐに気づいた。――先ほど激痛に倒れたのが嘘であるかのように、思考がはっきりとしている。
 彼は目を細め、にやりと不敵に嗤った。
「ああ、その通りだ。だから、俺があいつのために何かしてやりたい、って思うのは当然だろ?」
 事もなげに答えるルイフォンに、〈(ムスカ)〉は冷ややかに言う。
「……興が冷めました。帰って小娘と甘い夜でも過ごすがよいでしょう」
「勿論、そのつもりだ」
 畳み掛けるように、ルイフォンが言い返す。
 やってられない、とばかりの溜め息を漏らし、〈(ムスカ)〉は立ち去ろうとした。その後ろ姿に、ルイフォンは問いかけた。
「お前、ミンウェイの父親、ヘイシャオだろ?」
「……さて?」
「でも、ヘイシャオは死んだはずだ。なら、ここにいるお前は何者だ?」
 ゆっくりと立ち上がりながら、ルイフォンは自分の体が自由に動くことを確かめる。〈(ムスカ)〉の後ろ姿にじっと目を凝らし、間隔を測った。
「何者と言われましても、私は私ですよ。それとも私は、あなたが納得するような答えを言わなければならない義務でもあるのですか?」
 ルイフォンは、ふぅと息を吐いた。そしてわずかに間を置き、落とした声で言った。
「それもそうだな」
 その声の調子に、リュイセンは感づいた。目配せをしてルイフォンに了承を示し、臨戦態勢を取る。打ち合わせにはないが、この先は状況に合わせて従うという意味だ。
 ルイフォンもリュイセンに目線を返し、言葉を続けた。
「もしかして、お前が本物のヘイシャオなら伝えておこうと思っただけだ。――ミンウェイの結婚が決まった」
(ムスカ)〉の動きが止まった。身構えていたリュイセンは、辛うじて平然を通す。
「相手は一族の男だ。いずれ総帥になる男――ここにいる、リュイセンだ」
「なんだと!」
 (まなじり)を吊り上げ、〈(ムスカ)〉が振り返った。その瞬間、ルイフォンは隠し持っていた菱形の暗器を〈(ムスカ)〉のサングラスに向かって投げつける。
「――――!」
(ムスカ)〉のサングラスが弾かれ、宙に飛んだ。そこに晒された顔は――。
「エルファン……?」
「父上……」
 ――否。年齢が近いため酷似して見えるが、エルファンよりも頭髪に白いものが多く、血色が悪い。しかし、そっくりな顔。
 紛うことなき鷹刀一族の血を色濃く表す風貌に、ルイフォンとリュイセンは絶句した。
(ムスカ)〉とは、ミンウェイの父ヘイシャオの〈悪魔〉としての名前。
 けれど、ヘイシャオは死んだはずなのだ。
 ならば、ここにいる〈(ムスカ)〉はヘイシャオのふりをした別人であるか、過去にヘイシャオとして死んだ者が身代わりであったか――このどちらかなのだ。
 顔さえ見れば分かると、ルイフォンは考えた。鷹刀一族の直系なら、他の血族の者たちと似た顔であるはずだから、と。
「ミンウェイは俺のものだ。貴様などには渡さん!」
 鬼の形相となり、〈(ムスカ)〉は、リュイセンに斬りかからんと刀に手をかけた。
 そのとき――。
(ムスカ)〉の前を、光の糸が走り抜けた。はっと顔色を変えた〈(ムスカ)〉は、荒く息をつくホンシュアを睨みつける。
 光の糸は数を増やし、〈(ムスカ)〉を牽制するように、足元に光の小川を作り出していった。
「……またの機会にしましょう」
(ムスカ)〉は落ちていたサングラスを拾い上げ、欠けていることに舌打ちしながら、足早に厨房を出ていった。
 あとには沈黙が残されるのみ……。
「あの顔……」
 ルイフォンが呟くと、リュイセンが「ああ」と応えた。
 ――どう見ても、一族の者だった。
 深い溜め息をついて、ルイフォンは癖のある前髪をくしゃりと掻き上げる。
「……ミンウェイが俺と結婚、って、なんだよそれ?」
 突っ込むどころか、驚くことさえ許されなかった大嘘に、リュイセンは抗議する。
「奴を動揺させるための方便だ。あそこで、ミンウェイの相手が俺と言っても、信憑性がないだろ?」
(ムスカ)〉が、ミンウェイの父ヘイシャオなら、一族が近親婚を繰り返してきたことを知っている。ミンウェイの相手がリュイセンだと言われれば、なんの疑問もなく信じ込むだろう。そう踏んでのことだったが、効果てきめんだった。
「……人の気も知らんで……」
 リュイセンが口の中で呟いたとき、どさり、という物音がした。気力で体を支えていたホンシュアが、床に伏した音だった。

5.紡ぎあげられた邂逅-4

5.紡ぎあげられた邂逅-4

「……! 大丈夫か!」
 ルイフォンが駆け寄り、抱き起こそうとホンシュアの肩に触れた。その瞬間、彼は「(あつ)っ」と思わず手を引っ込めた。
 凄い熱だった。
 先ほどの比ではない。
 羽は元の長さにまで戻り、光は淡く揺らめく程度にまで光量を落としている。だが、その熱量は収まることなく、まるで炎のそばにいるかのように、ちりちりと肌を()く。
「ホンシュアァ!」
 調理台の影から、ファンルゥが飛び出してきた。〈(ムスカ)〉がいる間、怯えて隠れていたのだ。
「ホンシュア、熱いの? 痛いの!? ホンシュア、ホンシュアァ!」
 泣きながらホンシュアにすがりつこうとするファンルゥを、ルイフォンは抱き止めた。触ったら火傷してしまう気がしたのだ。
「ファン、ルゥ……。平気、よ……」
 辛うじて顔だけを上げ、ホンシュアはファンルゥに笑いかける。しかし、その顔はすぐに苦痛に歪み、床に伏してしまった。
「ルイ、フォン……。その、瓶を……」
 ホンシュアの指先が何かを求めるように、(くう)をさまよう。
「あ、お薬!」
 ファンルゥが大声を出して、調理台の上を指差した。
 その小さな指を追いかけるように、ルイフォンは冷たく光を反射している小瓶に目をやる。〈(ムスカ)〉は、それを冷却剤と言っていた。
 あの男を信用してよいのだろうか。
 ためらうルイフォンに、リュイセンが「毒かもしれないぞ」と追い打ちを掛ける。
「大丈、夫。……あの男、……私の、力……必要……から」
「分かった」
 ルイフォンは小瓶を取り、ホンシュアの前で膝を折る。彼女は、ありがとう、という顔で受け取った。
 横になったまま中身を飲み干そうとするホンシュアを、ルイフォンはそっと抱え起こした。羽は触れるのに危険を感じるような熱さだが、体そのものは熱いと承知して構えていれば我慢できないほどではない。
 ホンシュアは目元で感謝を告げると、小瓶に口をつけた。こくりと喉が動き、液体を飲み込む。
「ホンシュア、お薬、苦くない?」
 タオロン譲りの太い眉を寄せ、ファンルゥの瞳がホンシュアを覗き込んだ。あどけない顔で真剣に心配している。
 ふうぅっと、ホンシュアがゆっくりと息を吐いた。まるで呼気と共に、熱を放出しているよう――。事実、彼女の体を支えているルイフォンには、熱がさあっと引いていったのが感じられた。熱気を振りまいていた羽も、人の体温程度にまで熱が下がり、淡い光を放ちながら優雅に波打っている。
 ホンシュアの顔が穏やかになり、白い手がファンルゥの頭に伸びた。
「ちょっと苦かったけど、大丈夫!」
 くしゃり、とファンルゥの髪が撫でられ、ホンシュアがにっこり笑った。
「ホンシュアァ……!」
 笑顔が伝染したかのように、ファンルゥが満面の笑顔になる。大きく開けた口に、跳ねた癖毛が入っても気にしない。
「心配かけてごめんね。もう、元気になったわ」
「ホンシュアァ……。よかった、よかったぁ……」
 まるで母親に甘えるように、ファンルゥがホンシュアに抱きついた。
「ファンルゥは優しい子ね……」
 ホンシュアは無邪気なファンルゥに、目を細める。その眼差しは限りなく穏やかで、優しかった。
「やっぱり、ホンシュア、綺麗だなぁ……」
 そんなことを言いながら、ファンルゥはホンシュアの羽を興味深げに、じっと見る。だが、魅入られたようにきらきらしていた瞳が、だんだん、とろんとしてきた。
「ファンルゥ、眠くなっちゃった」
 大きなあくびをしながらファンルゥは目をこすり、その場に座り込む。
 子供はとっくに寝ている時間だった。チョコ探しと、素敵な天使のホンシュアのお手伝いで、頑張って起きていた彼女も限界だった。
 ホンシュアは、ファンルゥの頭を再び優しく撫でると、不意に立ち上がった。横たえられたコウレンのもとへ行き、ひざまずく。
「この貴族(シャトーア)、あの子のお父さんなのね」
「あ? ああ……?」
 急にどうしたのだろうと、ルイフォンが疑問に思う視線の先で、彼女はそっとコウレンの手を取り、頭を下げた。
「巻き込んでしまって……。ごめんなさい」
 ホンシュアの背で光の羽が輝き、コウレンを包み込むように、ふわりと広がった。
 それはまるで、天使の祈り。天使の懺悔――。
「なっ……?」
 ホンシュアとコウレンは、光の糸で作られた、輝く繭に包まれた。
「お、おい? いったい、何を!?」
 光の糸は、一本一本が独立した意思を持つかのように、それぞれに明暗を変えていく。そのさまは、まるで激しく脈打つ、ひとつの生命のよう……。
 ――やがて光が静まると、先ほどと変わらぬ姿で、ホンシュアがコウレンの手を握っていた。
 憂いの天使は顔を上げる。
 光の糸は、するすると彼女の背中に吸い込まれていき、光の羽は消えた。
 そして厨房は、元の薄暗い闇に落ちる。
「行きなさい」
 唐突に、優しくも鋭い、ホンシュアの声が響いた。
「誰かに見つかる前に、早く脱出して」
「お、おい!?」
 ルイフォンは戸惑う。結局のところ、ホンシュアの意図と、自分の身に起きた激痛の理由は謎のままだ。
 ためらうルイフォンの肩を、リュイセンが叩いた。
「行くぞ」
 そのままリュイセンは(きびす)を返す。背中が、今やるべきことを考えろ、と言っていた。
 ホンシュアが手を振る。
「あの子を大切にしてあげてね……」
 そう言って、微笑んだ。


 ルイフォンとリュイセンを送り出すと、厨房は静寂に包まれた。
 窓からの欠けた月が、物悲しげに調理台を照らしている。綺麗に並べられた調味料の瓶が、少しずつ違う色の光を作り、幻想的な模様を描き出していた。
 ファンルゥは壁に背を預けて眠ってしまった。すうすうと気持ちよさそうな寝息に併せ、胸が上下し、癖毛が揺れる。
 こんなところで寝かせてしまったら、風邪を引いてしまうだろう。
 抱き上げようと屈んだとき、くらりと目眩がしてホンシュアはよろけた。また熱が上がってきたようだった。
 いくら子供とはいえ、抱えて部屋まで連れて行くのは厳しそうだ。ルイフォンたちが完全に遠くまで行ったころを見計らって、人を呼ぶしかないだろう。
 ホンシュアは座り込み、ファンルゥの頭をそっと膝に載せた。

 ――ごめんね、ファンルゥ。眠いのにありがとう。
 私は、あなたを利用したの。小さな記憶をひとつだけ書き加えた。
『お野菜を全部食べたらチョコをくれるって、パパが約束してくれた』
 小さなあなたが、夜中に厨房に行く理由。これが一番、あなたの他の記憶に影響が出ないと考えたの。
 あとは、あなたの好奇心と優しさで補えると計算した。
 ごめんね、利用して。
 あなたは立派に役目を果たしてくれた。ありがとう。ゆっくり休んでね。
 感謝するわ。
 私をライシェンに逢わせてくれて――。


 夜風が桜の大樹を吹き抜け、弾かれた薄紅の花びらが、ちらちらと白く闇を照らす。それは、あたかも天から星々が舞い降りてきたかのよう。
 頭上を覆うは、紺碧の空。欠けた月が天頂を登りきり、そろそろ落ち始めようとしていた。
 ルイフォンからの救出成功の報を聞き、メイシアは真っ先に外に飛び出した。
 長い石畳の道を駆け抜け、高い煉瓦造りの外壁まで走っていく。ひやりと冷たい鉄門の格子を握りしめ、肩で息をする彼女に、外で番をしていた門衛たちが何事かと近づいてきた。
「ル、ルイフォンが、無事にっ……! 今、連絡が……!」
 涙混じりの声で叫ぶメイシアを、太い歓声が包み込んだ。拳を振り上げ、小山のような大男たちが全身で喜びを表していた。
「おおぅ! ルイフォン様がやったか!」
「嬢ちゃん、よかったな!」
 聞き覚えのある声に、メイシアは、はっとして顔を上げる。その門衛は、彼女が初めて鷹刀一族の屋敷を訪れたときに応対した人物だった。刀を抜いて彼女を脅し、追い返そうとした男。凶賊(ダリジィン)にしばしば見られる、刀傷を持ついかつい顔が、とても優しげに笑っていた。
「はい! ありがとうございます!」
 あのときは、門の外から中に入る許可を貰う立場だった。それが今、こうして外から帰ってくる人を迎えようとしている。不思議な気持ちに、メイシアの胸がいっぱいになった。
「姉様! そんな薄着で……!」
 ハオリュウが上着を持って追ってきた。いくら連絡があったとはいえ、到着までまだまだ時間が掛かるはずだ、と。
 彼は、異母姉が門衛たちと親しげにしているのを見て、表情を固くした。貴族(シャトーア)の彼からすれば信じられない光景で……。
「坊主! 父ちゃん、無事だってな! よかったなぁ」
 鉄門を挟んだこちら側と向こう側に隔たれていなければ、団扇のような手でばんばんと背中を叩かれていたに違いない。そんな大声で、門衛がハオリュウに向かって叫んだ。どう見ても悪人面だが、嘘のない顔だった。
「あ……、ありがとうございます」
 勢いに気圧されるように、ハオリュウは腰を折って頭を下げる。門衛たちは、年端もいかぬ子供のかしこまった仕草に面食らいつつ、更なる笑みを広げた。
 これが一族の温かみというものなのか。イーレオの作り上げた帝国の絆に、ハオリュウは羨望と憧憬を覚える。もうすぐ彼の手から外されることになる当主の指輪を、彼はそっと指先で撫でた。
 厨房からは良い匂いが漂っていた。
 どっしりとした外見とは裏腹に、細かいところに気の回る料理長のことだ。労いの宴の準備をしているのだろう。ルイフォンからの連絡のあと、陽動に出ていたエルファンの部隊に撤退命令が出されたので、そろそろ大軍が戻ってくる頃合いだ。
 今まで忍んでいた屋敷が、にわかに活気を帯びてきていた。


「……ああ、詳しいことは帰ってから報告する。それじゃ」
 屋敷にいるイーレオとの通信を切り、ルイフォンは大きな溜め息をつきながらリアシートに体を預けた。傍受が怖いため、普段なら暗号化されたメッセージでやり取りするところだが、さすがに今は疲労が激しい。音声通話で最低限のことだけを伝えるに留めた。
 斑目一族の別荘を脱出したあと、手はず通りに迎えの車に乗った。あと三十分もすれば屋敷に到着するだろう。
 潜入時に協力してくれた、キンタンたち遊び仲間の少年たちは無事だろうか。エルファンの部隊は心配ないだろうが、あとで改めて礼を言っておこう。斑目一族への経済制裁の首尾も確認しておかねばならない。
 それから、ミンウェイはどうなっただろうか。〈(ムスカ)〉とそっくりな口を利く、捕虜たちの自白を任されていたはずだ。彼女には、〈(ムスカ)〉の顔を見たことを報告せねばなるまい。――気は進まないが。
 他にも、何やらわけありのタオロンの様子や、天使の姿をしたホンシュアのことも重要な情報だ。救出したメイシアの父、コウレンの心理状態も心配であるし、考えるべき案件は山ほどある。
 そして、メイシア――。
 ルイフォンは無意識に掌を握りしめた。
 彼が手に入れたいと願い、彼を欲しいと言ってくれた少女。
 (たお)やかで儚い外見よりも、魂こそが美しい戦乙女。
 違う世界から舞い込んできた、飛び方を覚えたばかりの優美な小鳥。
 ホンシュアは、メイシアを『選んだ』と言っていた。『仕組んだ』のだと。
 あれは、いったいどういう意味なのだろうか……?
「おい、ルイフォン。とりあえず車の中で寝ておけ」
 助手席のリュイセンが振り返って言った。
「え?」
「どうせ止めても、帰ったらすぐに報告書をまとめるつもりなんだろ? だったら今は何も考えずに寝ろ」
 まるで思考を読んだかのような物言い。
 不意を()かれたルイフォンの耳に、「いいか」と、力強く諭すようなリュイセンの低音が響いた。
「お前は、あいつらの父親を無事、救出してきたんだ」
 リュイセンが顎で示した先に、医学の心得のある部下に見守られたコウレンがいる。ぐったりして見えるが、今は薬で眠っているだけで、監禁の影響もなく健康。朝になれば目覚めるはずだと診断されていた。
「お前は、ちゃんと目的を果たした。――誇れ」
 それだけ言って、リュイセンは肩までの(つや)やかな髪をさらりと翻し、また前を向く。
 兄貴分には見抜かれているのだ。ルイフォンが手放しで喜べないでいることを。
 これで終わりではない。むしろ、やっと入り口に立ったばかりなのだと気付かされた。体は極限まで疲弊しているのに、心がざわついて居ても立ってもいられない。
 それを見越しているからこそ、リュイセンは休めと言っている。その先のやるべきことを見据えて、けれど今やるべきことを間違えるな、と。
「ありがとな」
 ルイフォンは、そう呟いて瞳を閉じた。
 そして――――。
 体が前に押し出されるような軽い衝撃を感じ、ルイフォンは薄く瞳を開けた。口を半開きにしたまま寝ていたらしい。乾燥してしまった喉が痛い。まどろみの中を漂う頭は鈍く重く、ただぼんやりと屋敷に着いたのだということだけを理解した。
 運転手が扉を開けると、半覚醒のとろりとした意識のまま、ルイフォンは外に出た。
 ひやりとした夜気に体が震え、世界が澄んだ紺碧の星空に覆われていることに気づく。
 次の瞬間、強い風が吹いた。
 夜闇に白く、桜吹雪が舞い散った。夜桜ならではの儚い美しさが視界を埋める。
 その花の嵐の中から、桜の精が現れた。闇より深い黒髪に、ひとひらの花びらを飾った少女――。
「メイシア……」
 ルイフォンの呟きに、彼女はぱっと目を見開き、泣き笑いの顔になって彼の胸に飛び込んできた。
「おかえりなさい!」
 門の前では門衛たちがにやにやと口の端を上げており、彼らの隣には苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、そっと目をそらして見ないふりをするハオリュウがいる。
 ルイフォンは、ふっと顔をほころばせ、メイシアを抱きしめた。彼女の上着が、ひやりと冷たかった。驚くと共に、彼女がずっと待っていてくれたことを知る。
 頬をすり合わせると、やはり冷え切っていた。申し訳なく思うと同時に、幻想的な夢のような彼女が、現実のものとして腕の中にいることを実感する。
「ただいま」
 抱擁の中で徐々に温まっていくメイシアの存在を感じ、ルイフォンは安らぎを覚えた。
 ホンシュアが意図的に出逢いを紡ぎあげたとしても、惹かれ合ったのは他でもない自分たち自身だ。なんの陰謀があっても構わない。
 巡り合ってから先の物語を、この手で創ればいいだけだ――。

6.星影を抱く夜の終わりに

6.星影を抱く夜の終わりに

 春の夜の外気よりも、更に低く室温の保たれた仕事部屋に、滑らかな打鍵音が木霊する。既に真夜中を回っていたが、ルイフォンは報告書を作るべく、キーボードに指を走らせていた。記憶が新しいうちに、できるだけ早く情報をまとめておきたかった。
 これを朝一番にイーレオに提出する。外見はともかく実年齢はそれなりの総帥は、皆が無事に帰ってきたことに労いの言葉を与えたあと、早々に休んでいた。
 不意に、部屋の扉がノックされた。
 ミンウェイが茶でも持ってきてくれたのだろうか。そういえば、帰ってから彼女の姿を見ていない。
「勝手に入ってくれ」
 キーを打つ手を止めることなく、ルイフォンは言った。
 すると、廊下でかちゃんと陶器のぶつかる音がして、慌てたような小さな悲鳴が聞こえる。まごついた気配に、まさかと思いながら、作業中は極端に無精者になるルイフォンが席を立った。
 脅かさないようにと気をつけながら、ゆっくりと扉を開くと、涙目のメイシアがそこにいた。
 左手にはティーセットのトレイ。中身の入ったティーポットと伏せられたティーカップが手の震えに合わせて、かたかた音を立てている。一方の右手は、まさにドアノブをひねろうと半端に浮いた状態になっていた。
「ご、ごめんなさい。お茶を淹れてきたの……」
 片手でトレイの重量を上手く支えきれず、バランスを崩してあわや、というところだったのだろう。トレイには少しお茶がこぼれていた。
 ルイフォンの心がほっと温かくなる。
「ありがとう」
 彼はひょいとトレイを取り上げ、メイシアに部屋に入るよう促した。急に軽くなった手に「あっ」と小さな声を上げながら、彼女は頬を染めてついてくる。
「親父さんのそばについてなくていいのか?」
 眠ったままのコウレンは空いている客間に運び、メイシアとハオリュウに事情を話した。
 監禁生活による精神への負担が大きかったらしいと告げると、彼らの顔に深い影が落ちた。だいぶ老け込んだように見えると、ハオリュウが溜め息混じりに証言していた。
「ハオリュウが看ていてくれるって。それで、ルイフォンのところに行ってきて、って」
「そうか」
 メイシアとは再会もそこそこに、それぞれ仕事部屋と父親の客間とに分かれてしまったので、素直に嬉しい。
 ハオリュウは、どういうわけだか、すっかり態度を軟化させていた。
 あとで聞いたところによると、貴族(シャトーア)の誇り高い彼が、ルイフォンより先に戻ったエルファンの部隊を門で出迎え、頭を下げたのだという。
 ルイフォンに対しては、物言いたげでありながらも目を合わせないことで衝突を避けている。その様子は可笑(おか)しくもあった。
 機械類をどかしてトレイを置くスペースを作り、机の下に入れてあった丸椅子を出してメイシアに勧める。持ってきてくれたお茶を注ごうとしたら、彼女が遮った。
「あ、あのっ! 私がやります。お茶も……私が淹れたの。教えてもらって……」
 屋敷で一番、お茶を淹れるのが上手いメイドに教授してもらったのだと、顔を赤くしながら言う。普段は砂糖を入れないルイフォンだが、疲れているときには角砂糖をひとつ落とす。そんなことも習ってきたらしく、メイシアがぎこちない手つきでスプーンを回した。
「ど、どうぞ」
 メイシアがじっと見つめる中、ルイフォンは手渡されたカップに口をつけた。
 ……たかが、お茶を飲むのに、これほど緊張したことはなかった。
「ルイフォン……?」
 メイシアが、はっと顔色を変えた。慌てて自分の分を注いで飲む。途端、口元を抑えた。
 たかが、お茶。味見をしてくるようなものではない。――メイシアが味を知らなくて当然だ。
「す、すみません!」
「いや、別に飲めないようなものじゃない。……ただ、これを『美味(うま)い』と言うべきか否か、悩んでいただけだ」
 飲めない、というほどのものではない。ただ渋い。恐ろしく苦い。おそらく手際が悪いために抽出時間が長くなってしまったのだろう。多少、茶葉も多かったのかもしれない。だが、幸い砂糖の甘味もあるし、飲めないことはない。
 実は、メイシアを指導したメイドには、味の予測がついていた。
 親切なメイドは、メイシアにやり直しを勧めるつもりだった。しかし、先輩メイドが「初めは下手なほうが、ふたりのためなのよ」と小声で入れ知恵してきたのである。その結果、メイドは黙ってメイシアを見送ったのだった。
「も、申し訳ございません。淹れ直してまいります」
「いいって。それから謝るな」
 告白以来、彼女ができるだけ敬語を使わないようにしていることに、ルイフォンは気づいていた。なのに、すっかり萎縮のメイシアに戻ってしまっている。
 おどおどと見上げてくるメイシアの頭を、ルイフォンがくしゃりと撫でた。
「ありがとな。お前、茶なんて淹れたことなかったんだろ」
「はい。……恥ずかしながら」
 彼女は彼に近づこうと努力してくれている。
 それが、嬉しい。愛おしかった。
 ルイフォンが思わずメイシアを抱きしめようとしたとき、彼女が真面目な顔になって彼を見つめた。
「本当にありがとうございました。父も、異母弟も無事に戻ってきました。私、なんて言ったらいいのか……」
 抱擁のタイミングを逃したことを少し残念に思いながら、ルイフォンは微苦笑する。
「そんなにかしこまるな。俺は自分のやりたいことだけをやる男だ。お前の親父さんも、俺がお前に会わせたいと思ったから連れてきた。それだけだ」
「ルイフォン……」
「もっと気を楽にしてさ、自然で我儘なお前でいろよ。そして俺のそばに居てくれたら、それでいい」
 その瞬間、メイシアの顔が強張った。
 突然の変化にルイフォンは戸惑う。何も悪いことは言っていないはずだ。しかし、彼女は思い詰めたように口を開いた。
「あ、あの、ルイフォン。『俺のもとに来い』っていうの、あれは『駆け落ちしよう』って意味だったの……?」
「え? いや、別に。俺はお前に、ずっとそばに居てほしいと思ったし、親父にもお前の実家にもやりたくないから、俺のところに来いと言ったまでだが……?」
「あのね、ハオリュウがね、……それは駆け落ちだって」
 おずおずと、緊張した様子でメイシアが言う。何故そんな顔をするのか、ルイフォンにはまったく分からない。
「……ハオリュウね、初めは鷹刀のことを、凶賊(ダリジィン)だからって毛嫌いしていたと思う。けど、お父様の救出に懸命になってくださる皆様を見て、考えを改めた。ルイフォンのことを認めてくれた。はっきり言わない子だけど、私には分かるの」
「え……?」
 ハオリュウが、認めてくれた……?
「ハオリュウは、私が幸せになるなら祝福して送り出したい、って言ってくれた。けど、家事もできない状態じゃ無理だって。私……その通りだと思った」
 メイシアの視線が、中身の残ったままのティーカップに落とされる。
「ルイフォンが『そばに居て』って言ってくれているのに、私は行けないの……。少なくとも、今はまだ、駄目なの……。ごめんなさい」
 ルイフォンは、メイシアの不審な態度に、やっと納得がいった。肩を落としてうつむく仕草は憐れを誘ったが、その背後にハオリュウが見えてしまった。
「如何にも、ハオリュウらしいな」
 こんなときは不機嫌になるべきなのだろうか? そう思いながらも、ルイフォンは口元に笑みを浮かべていた。
 ハオリュウはメイシアの気持ちを尊重しつつ、ルイフォンの恋路を邪魔している。
 なのに、何故か心が躍る。尊敬すべき好敵手を前にしたときのような、気持ちのよい高揚感がある。
「メイシア。俺としては、できれば鷹刀とも藤咲家とも仲良くやっていきたい。でも、認めてもらえないなら絶縁されても構わない。そういうスタンス。――だから『駆け落ちしよう』じゃない」
 ルイフォンは、すっと立ち上がり、座ったままのメイシアを包み込むように抱きしめた。柔らかで温かな彼女の体が、びくりと震える。
「『嫁に来い』だ」
 言葉の意味は甘いけれど、メイシアの耳元に囁かれるテノールは冴え冴えと鋭い。猫のように光る瞳は、鮮やかなほどに好戦的だった。
「えっ!?」
 (つや)やかな前髪がルイフォンの鼻先をかすめ、メイシアの顔がぱっと上を向いた。目と目が、正面から合う。
「明日、お前の親父さんにちゃんと言う。ハオリュウにもだ。それから、俺の親父とも話をつける。皆に祝福されて、俺のもとに来い」
「ルイフォン……。嬉しい、凄く嬉しいと思う……! でも私……、ルイフォンのためにお茶ひとつ満足に淹れることができないの……!」
 メイシアは泣きながら、そんなことを言う。
 真剣に悩んでいるのは分かる。彼女にとってそれが大問題であるのも分かる。けれど、ルイフォンには些細なことで、彼女には悪いが、どうでもよいことだった。
「母さんが足が不自由だったから、俺はある程度の家事はできる。それに、必要なら人を雇えばいい。お前が実家でしていたような暮らしをしたければ、そうしてやる」
「……え?」
「お前にはまだ言ってなかったから知らないと思うけど、俺には一族の全員を養っていけるほどの財力がある」
「…………え?」
 メイシアの瞳が微妙な色合いになった。彼女は、ルイフォンのもうひとつの名前を思い出したのだ。〈(フェレース)〉というクラッカーの――。
「非合法な情報の売買だと思ったろ……。それもあるけど、それ以外もやっている」
 驚きに目を丸くするメイシアに、ルイフォンは得意気に目を細めた。
「株の自動取り引きって分かるか? 俺が作った独自のアルゴリズムで自動的に売買して儲けを出している。俺は一見、働いていないようで、ちゃんと稼いでいる。心配要らない」
 他にも、金になる技術は幾らも持っている。
 何しろ稼がなければ〈ベロ〉を始めとした機械類の電気代や保守費用を賄えないのだ。いくら鷹刀一族が凶賊(ダリジィン)でも、無尽蔵に金があるわけではない。〈ベロ〉だって自分の食い扶持は自分で稼ぐのだ。
「でも! それじゃ、私はルイフォンにお世話になるだけで、何も……」
 勢い良く反論したメイシアだったが、言葉の終わりになるにつれ、何もできない自分を再認識するだけのことに気づき、力なく声が沈む。そんな彼女に、ルイフォンは優しく笑いかけた。
「俺は、自分のことを『計算のできる奴』だと思っている。そして、貴族(シャトーア)のお前を手に入れようなんてのは馬鹿げたことだと、ちゃんと分かっている」
「……」
「お前を見て綺麗だな、と思う。美しいものは見ていて心地いいからな。お前に対して、最初はそんな、ただの好奇心だった。けどな――」
 ルイフォンはそう言いながら、野生の獣のような鋭い眼差しでメイシアを捕らえた。
「俺が欲しいと思ったのは、お前の魂だ。純粋で、まっすぐで、強い。俺は何度も救われた。――お前がいいんだ。どんな計算をしても、俺の答えはお前だ」
「ルイフォン……」
「これからの具体的なことは、周りと話をつけなきゃ決まらないだろう。けど、約束してくれないか。どんな形であれ、俺のそばに居る、と」
「はい。私こそ……!」
 涙の筋の残る白い顔が薄紅に色づき、花のようにほころんだ。その花の香に誘われるように、ルイフォンはそっと口づける。途端、花の色が赤く変わった。
 初々しいメイシアに微笑しながら、ルイフォンは椅子に戻ってティーカップの中身を一気にあおった。「あっ」と声を上げる彼女は、やはり可愛らしい。
「もっと、いろいろ()でたいところだが、報告書をまとめないといけないんでな」
「え、あ。す、すみません。私、ルイフォンの邪魔を……!」
 慌てて席を立ったメイシアの腕を、ルイフォンはぐいっと掴んだ。突然のことに、メイシアは声もなく驚き、黒曜石の瞳を丸くする。
「もう少し、居てくれ」
 ()いて出た言葉は、祈りに似ていた。
「――報告をまとめながら話すからさ、斑目の別荘でのことを聞いてくれないか。……あ、ごめん、眠いか」
「いえ、聞かせて下さい!」
 再び、かしこまった態度になってしまったメイシアに、ルイフォンは苦笑する。
 ――だが、椅子から彼女を仰ぎ見て、はっとした。
 彼女の眼差しは、優しく、温かく、力強く……。彼に力を与えてくれる、戦乙女のそれであった。
「あまり、いい話じゃない。……そばに居たら、お前も巻き込むのかもしれない。ごめんな。けど――」
 彼の心は彼女に守られている。
 ならば彼は、彼女の心も体も、全力で守るのみだ。
 姿の見えない敵に無言で宣戦布告して、ルイフォンはメイシアに宣言する。
「――この先、俺はお前なしの生活なんて考えられないから」
「ル、ルイフォン……!」
 あまりに強烈な文句に、メイシアは飛び出しそうになる心臓を抑えた。耳まで真っ赤にしてうつむき、小さな声で「ありがとうございます」と呟く。
 そんな狼狽ぶりも可愛らしく、ルイフォンの心を和ませた。だが、下を向かれたままでは困るので、彼はいつもの調子に戻して他愛のない言葉を続けた。
「あとで俺が出掛けている間の、お前のことも聞きたいな。特に、お前とハオリュウが何を話したのか、とか」
 やや年齢が離れた異母姉弟なのに、メイシアとハオリュウは仲が良い。秘密にしていたわけではないが、いつの間にか告白のことも伝わっていて……少しばかり妬ける。
 メイシアの話を聞きたいと言ったのは、ただの興味本位からだった。
 しかしルイフォンは、メイシアの顔に影が走るのを見逃さなかった。
「メイシア……?」
「あ……、すみません」
「謝るなよ。それより、何かあるんだろ? 言ってみろ」
 どうせまた些細なことだろう。けれど不安の種があるのなら、芽を出さないうちに取り除いてやりたいと思う。
 ルイフォンのそんな思いが伝わったのか、ためらっていたメイシアが硬い声で「根拠のない、ただの予感なんです」と前置きした。
「ハオリュウと話していて気になったんです。プライドの高い貴族(シャトーア)の厳月が、このまま何もしないなんて、あり得るだろうか、って」
「厳月――?」
「はい。――だから、ふと思ったんです。厳月は、まだ斑目と縁を切っていないんじゃないか、って……」


 長い長い夜が終わりを告げようとしているころ、ひとりの女が鷹刀一族の門前で車を降りた。
 緩く結い上げた髪からは、襟元までの長めの後れ毛が流れ出て、柔らかく波打っていた。開いた胸元はストールで上品に覆っているものの、溢れる色香は隠しきれていない。
 若くはないが、(たお)やかで妖艶なる美女。
 けれど、門衛たちは彼女に色目を使うことはなかった。姿を見た瞬間、極限まで背筋を伸ばし、こちらから迎え出ては最敬礼を取り、すぐさま屋敷内に案内する。――鷹刀一族総帥、イーレオのもとへ。
 朝の早いイーレオでさえ、やや寝ぼけ眼の時間である。
 しかし、総帥である彼が叩き起こされても、決して怒ることはなかった。
「どうしたんですか、シャオリエ」
 彼が唯一、敬語を使う相手。繁華街の娼館の女主人、シャオリエ――。
「お前、シャツのボタンが段違いよ」
「急いでいたんだから、大目に見てください」
 口を尖らすイーレオを、シャオリエが「子供みたいに拗ねないの」とたしなめる。
 マイペースな彼女が話を脱線させないよう、イーレオは語気を強めて「いったい、どうしたんですか?」と繰り返した。
「あの子――メイシアに関することよ」
 シャオリエの言葉に、イーレオは眼鏡の奥の目に緊張を走らせ、姿勢を正した。
「何か情報を得られないかと、スーリンが厳月家の三男を呼び出したのよ。スーリンはあの男のお気に入りだからね、ほいほい来たわ」
「スーリンが……」
 くるくるのポニーテールの可愛らしい少女娼婦。ルイフォンがシャオリエに引き取られていた間、何かと面倒を見てくれた娘である。
「三男が夜中に家を抜け出す際、当主に忠告されたそうよ。『もうすぐ、お前と藤咲の娘の婚約が発表される。しばらく女遊びは控えろ』とね」
「ああ、シャオリエ。厳月家は斑目の裏切りで、もう無関係に……」
「待ってよ。私もそのことは聞いていたけど、おかしいわ。三男は『これからしばらく君のところへ来られない』と、今この瞬間も嘆きながらスーリンに甘えているのよ? それなのに厳月家がもう無関係だなんて言えるの?」
 シャオリエの声が白み始めた空に響く。
 欠けた月は地平線へと向かいながら、朝日の影へと姿を溶かしていった。


~ 第七章 了 ~

幕間 不可逆の摂理

幕間 不可逆の摂理

『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』

 ローヤン先輩はそう言って、俺の肩に手を載せた。
 その言葉の裏を知らなかった新人の俺は、真面目な先輩のただの訓戒だと思っていた。


 早朝の射撃場は、薄氷(はくひょう)を透かした色をしている。屋外であるにも関わらず、まだ充分に彩度の行き渡っていない世界は鮮やかさに欠け、どこか作り物めいて見える。
 その嘘を(あば)きたい衝動にかられると同時に、そっとしておきたい気分にもなる。そんな不可思議な感覚の中で、俺は的に向かう。
 自主訓練を行う者は他にもいるが、休日のこの時間に来るのは俺だけだ。
 裏手に広がる森の木々の間を、朝日が分け入る。その中で俺は腕を伸ばし、人の形をした標的を狙う。
 一発を撃つまでの時間は、ごくわずか。指先に今や馴染みとなった重みを掛けると、銃声が響き渡り、硝煙の匂いと共に(から)の薬莢が宙に放り出される。
 耳の保護のため、イヤーマフの装着を義務付けられているから、大きな音は聞こえない。だが、指先から掌、腕へと伝わってくる振動から、体全体で射出音を感じる。この瞬間が、俺はたまらなく好きだ。
 元から体格がよいわけでもなく、幼い頃から武術を習っていたわけでもない俺は、射撃に強さを求めた。
「流石だな、シュアン。もう俺より上手いなぁ」
 全弾を同じ位置に撃ち終えたあと、俺に話しかける声が聞こえた。イヤーマフは爆音をカットするが、人の声は通すのだ。
 気配は感じていたけれど無視していただけの俺は、驚くことなく振り返った。勿論、褒め言葉に緩む頬は、きちんと引き締めてある。
「先輩がこの時間に来るなんて、珍しいですね」
 決して美形とは言い切れない、造作的にあと一歩足りない、だが人好きのする顔がそこにあった。俺が世話になっている兄貴分。俺に射撃を教えてくれた人、ローヤン先輩。
 先輩は俺に軽く会釈すると、隣のブースに立ち、銃を構えた。
 一撃、二撃……。
 俺の標的とそっくり同じ、中心部にのみ穴の穿たれた標的が隣に出来上がった。
「先輩も、相変わらずお見事ですね」
「おう、ありがとな」
 先輩が、気さくな顔でにっと笑う。敵も多いが味方も多い、その理由が分かる笑顔だ。
 それからしばらく、俺と先輩は無言でそれぞれの的に向かっていた。


 集中力の低下が見え始め、俺と先輩はそろそろ頃合いかと、どちらからともなく片付けを始めた。
「シュアン、朝飯は?」
「まだです」
「じゃ、一緒に行こうぜ」
 先輩に誘われるままに、近くの安い飯屋に入った。カウンター席で横並びに座り、朝食は基本だという先輩に倣って、しっかり目のセットメニューを頼むことにする。
 注文を待ちながら、俺は何の気なしに尋ねた。
「先輩、今日はどうして早朝から訓練に?」
 他の奴なら煩わしいが、先輩なら大歓迎だ。競う相手がいるのは張り合いがある。できれば今後も、などという期待の目を向ける俺に、先輩は考え込むような顔をした。
「先輩?」
「シュアンになら、話してもいいか」
 呟くように先輩が漏らした。その言葉に、俺の心が小さな優越感と大きな好奇心に包まれた。
 先輩はじっと自分の掌を見て、静かな声で言った。
「一発の弾丸の重さを……確かめに行ったんだ」
「……は?」
 そのときの俺は、とても呆けた顔をしていたのだろう。先輩が「すまん、すまん」と頭を掻いた。頼りになる大人の男といった風体の先輩だが、ふとしたときに子供みたいな仕草をする。
「……人に言ったことがない話だからなぁ。上手く説明できる自信がないが……聞いてくれるか?」
「他言無用ということですね」
 俺の胸が興奮に高鳴る。先輩は深々と頷いて、そしてゆっくりと口を開いた。
「プロポーズしたんだ」
 俺は、え? と聞き返しそうになるところを、ぐっとこらえた。
 今までの話の流れから、どうして女の話になるのか? そんな当然の疑問と、『先輩と女』という取り合わせの疑問。
 先輩は、モテる。男の俺だって憧れるような人間だ。女たちが放っておくわけがない。だが今まで、不思議なくらいに浮いた噂を聞いたことがなかった。
 それが、求婚するほどの仲の女がいたとは……。初耳だ。教えてくれないとは水臭い――ほんの少しだけ面白くない。
 俺は努めて平然を装い「ほう」と相槌を返した。すると先輩は、たわいのない話でもするかのように、さらりと言った。
「断られた」
「それはまた……」
 俺には他人の色恋に口を挟む趣味はない。面倒くさいことは避けたいクチだ。だから、こんなときには当たり障りなく――。
「――元気出してください」
 だが先輩は、そんな俺の上っ面の慰めなど当然、見抜いていて、仕方ない奴だと言わんばかりに苦笑した。
「元気ないように見えるか?」
「……いえ、正直なところ、普段とまったく変わりません」
 自分で言っておきながら随分な台詞だと思うが、これが本心。先輩相手に、社交辞令を言っても意味がない。
「慣れているからな」
「慣れている?」
「同じ女に十一回も振られ続けている」
「え……!?」
 今度こそ、平然とはしていられなかった。
「いったい、どういうことですか? 付き合っているんでしょう?」
 ひとりでいるほうが気楽、という女なのだろうか。それにしても、十回も諦めない先輩も先輩だ。
「ああ、いや、付き合っているというわけでもない」
「はぁ? なんですか、それ」
「彼女のことは……ちょっと公にしにくい。だから秘密にしていた」
 先輩は、横並びの俺に顔を向けた。陰りのある瞳が、じっとこちらを見る。
 俺は思わず、ごくりと唾を呑んだ。店内は、そこそこの賑わいを見せていたのであるが、まるで俺と先輩のふたりだけの空間に感じられた。
「彼女とは、ある事件で出会った。……俺は、彼女の父親を射殺したんだ」
「え……」
 周りの時間が止まったような気がした。その中で、先輩の声だけが聞こえてくる。
「彼女の父親は、いわゆる組織の末端の男だった。彼自身の罪は、たいしたものじゃない。ただ、彼の持っていた情報が厄介でな、組織からも警察隊からも追われていた。彼は追い詰められ、廃ビルに立て籠もった」
 先輩は、軽く目を瞑った。眉間には皺が刻まれ、横顔が苦痛に歪む。
「身内として駆けつけた彼女は、父親を説得して自首させると言って、飛び出していった。――その結果、父親はあろうことか実の娘にナイフを突きつけて人質にしちまった」
「なんだって……?」
 俺の衝撃に、先輩も「ああ」と応える。
「実の娘だ、まさか危害を及ぼすまい。俺たちも、そう高をくくっていたよ」
 先輩が、ふぅと深い後悔を吐き出した。
「俺たちが動じないのを見ると、父親は無理心中をすると言い出した。『どうせ組織からは逃げられない』そんなことを言っていた。そして『娘が死ぬのは警察隊のせいだ』と、『後悔しろよ』と」
 俺は息を呑んだ。この場合、警察隊として取るべき行動は、人質の安全の確保だろう。先輩は射撃の名手だ。すぐそばに人質の娘がいても、父親だけを貫く自信はあったはずだ。
 ここまで聞けば、もう聞かなくても分かった。
 だけど先輩は、俺にまっすぐな目線を向けて、自分の過去に明確な言葉という形を与える。
「人質に危険が迫っていると判断した俺は、迷わず引き金を引いたよ」
 潜めた声が、(えぐ)るようにくっきりと俺の耳に届く。
「彼女の目の前で、父親が死んだ。俺が、殺した」
「……」
「彼女は死体にすがって泣きじゃくり、俺をなじった。――これが彼女との出会い。最悪だろ?」
 先輩はわざと軽めの口調を使ったが、それはちっとも功を奏していなかった。
 先に出されていた水のグラスの中で、氷が溶けて、からんと鳴った。先輩はそれを一口飲んで、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「……今でもさ、あのときの俺の行動は間違いじゃなかったと、俺は胸を張って言えるよ」
 先輩が、言葉とは裏腹に悲しげに笑う。
 俺でも同じ判断をしたと思う。だから、俺は何も言えなかった。
「シュアン。あのころの俺は、今のお前よりも、まだまだ若くて青臭かった。だから、彼女の父親を撃ったことは正しかったと、遺族の彼女に納得してもらいたいと思っちまったんだ。だから後日、彼女の家に弔問に行った。それが誠意だと思ったんだよ」
 理由はどうであれ、殺した者と遺族の間に和やかな空気が流れるわけがない。話の先を予測した俺が顔をしかめると、先輩も同じ顔で苦笑していた。
「再会したときは彼女も落ち着いていて、俺に命を救われたと、感謝の言葉を口にしたよ。それで俺は調子に乗って、自分の正当性を主張しちまった。そしたら、彼女が言ったんだ――」

 あなたは正しいことをしたのでしょう。それは私も認めます。
 けれどそれは、あなたが撃ち捨てた『それ以外の無限の可能性』を忘れていい理由にはなりません。万にひとつの可能性だったとしても、父も私も無事だったという未来は存在したんです。
 あなたの一発の弾丸は、『それ以外の無限の可能性』を撃ち砕いたんです。その重みを背負って生きてください。
 決して、目を背けないでください。

「俺の正義の裏で泣いている者たちがいる。俺はそれまで、そんな当たり前のことに気づけなかった。思い知らされたよ。俺の正義は薄っぺらだった、と」
 こんなとき人は、肩をすぼめ、うつむいて話すものではないだろうか。少なくとも俺ならそうなる。けれど先輩は前を向いていた。
「彼女の言葉が忘れられなくて、気づいたら俺は何度も彼女の家を訪れていた。いつの間にか彼女に惹かれていた。彼女に認めてもらえる男になりたいと思った」
「……それは、罪悪感じゃないんですか?」
 よく考えれば、酷い言葉だったと思う。けど先輩は、気を悪くすることもなく言った。
「彼女も、俺を偽善者だと罵ったよ」
 先輩は穏やかに笑った。そのとき俺は、先輩の気持ちに納得してしまった。
 ――かつての先輩は打ちのめされ、下を向いていたのだ。
 それが、彼女と言葉を交わすうちに変わっていったのだ。
 強く――。
 彼女の心を守れるように――。
「先輩、歪んだ愛ですね」
 俺は、わざとらしく大きな溜め息をついた。
「な……」
「でも、どうやら先輩には彼女が必要なようですね」
 笑いを含みながら、俺は先輩の顔を()め上げる。先輩は俺の言葉が信じられないかのように瞬きを繰り返し、やがて満面の笑顔になった。
 俺はふと気づいた。よく見れば、先輩のシャツは昨日と変わってなかった。
 ……なんだ。朝帰りだったのか。
 急に馬鹿馬鹿しくなってきた俺は、ふっと真顔を作った。
「他言無用だなんて断らなくても、俺は誰にも言いませんよ」
「ん? ありがとな……?」
 微妙な空気を察したのか、先輩が首をかしげながら礼を言う。
 そこで俺は、にやりとした。
「皆から慕われている先輩が、実はマゾだったなんて話、とても言えませんよ。部隊の士気に関わります」
「ははは、そうだなぁ」
 先輩は屈託のない顔で笑う。
 ――ああ、本当にこの人は……。……心から、彼女に救われたのだろう。
 柄にもなく目頭が熱くなってくる。それを誤魔化すかのように厨房のほうへと体を向けると、湯気の立つトレイを持った店員がちょうど出てくるところだった。
 先輩の隣で朝食を摂りながら、俺は思う。
 ――前途多難だとは思いますが、いい顔してますよ、先輩。


 時は流れ――。
 俺とローヤン先輩は、たもとを分かった。
 どちらが善で、どちらが悪かと問われれば、俺のほうが悪だろう。
 そんなことは知っていた。


 とある日の夕暮れ。
 横から赤く塗られた射撃場で、俺は自主訓練をしていた。冬から覚め、夕日の力が徐々に強くなりかけたこの時期は、まだ電灯の光に頼らずに的を狙える。
 ふと入口の扉が勢いよく開かれ、同僚のひとりが飛び込んできた。
「ローヤン先輩が、結婚するんだって!」
 平日のこの時間帯は、結構、人の入りが多い。相手は誰だ、どこで知り合ったと、あっという間に大騒ぎになる。
 誰と、なんて聞かなくても分かっている。
 あの先輩が心に決めた女以外と一緒になるわけがない。
 ああ、そうか。ついに受け入れてもらえたのか。

 お幸せに――。

 俺は空に向かって祝砲を上げた。

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第七章 星影の境界線で

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第八章 交響曲の旋律と https://slib.net/111910

                      ――――に、続きます。

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第七章 星影の境界線で

「家族を助けてくだされば、この身を捧げます」 桜降る、とある春の日。 凶賊の総帥であるルイフォンの父のもとに、貴族の少女メイシアが訪ねてきた。 凶賊でありながら、刀を振るうより『情報』を武器とするほうが得意の、クラッカー(ハッカー)ルイフォン。 そんな彼の前に立ちふさがる、死んだはずのかつての血族。 やがて、彼は知ることになる。 天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』によって仕組まれたものであると。 出逢いと信頼、裏切りと決断。 『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、絡み合う思いが、人の絆と罪を紡ぐ。 近現代の東洋、架空の王国を舞台に繰り広げられる運命のボーイミーツガール――権謀渦巻くSFアクション・ファンタジー。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-03-21

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  1. 〈第六章あらすじ&登場人物紹介〉
  2. 1.天上の星と地上の星-1
  3. 1.天上の星と地上の星-2
  4. 1.天上の星と地上の星-3
  5. 2.眠らない夜の絡繰り人形-1
  6. 2.眠らない夜の絡繰り人形-2
  7. 2.眠らない夜の絡繰り人形-3
  8. 2.眠らない夜の絡繰り人形-4
  9. 3.すれ違いの光と影-1
  10. 3.すれ違いの光と影-2
  11. 3.すれ違いの光と影-3
  12. 4.銀の鎖と欠けた月
  13. 5.紡ぎあげられた邂逅-1
  14. 5.紡ぎあげられた邂逅-2
  15. 5.紡ぎあげられた邂逅-3
  16. 5.紡ぎあげられた邂逅-4
  17. 6.星影を抱く夜の終わりに
  18. 幕間 不可逆の摂理