di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第一部 第四章 動乱の居城より
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水 第四章 動乱の居城より
――――です。
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水 第三章 策謀の渦の中へ https://slib.net/110763
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〈第三章あらすじ&登場人物紹介〉
===第三章 あらすじ===
人質として囚えられていた、メイシアの異母弟ハオリュウが解放され、メイシアの実家の藤咲家に戻された。
予想外の事態に慌てるルイフォン。とりあえず鷹刀一族の屋敷に戻るべきだと判断するが、メイシアの心情を考えて、「異母弟に逢わせてやる」と豪語する。
しかし、ルイフォンとメイシアは、乗り込んだタクシーに攫われそうになる。かろうじて逃げ出したものの、貧民街に置き去り状態となってしまった。
屋敷から迎えの車を呼ぶ途中で、ふたりは「メイシアの死体がほしい」と言う、斑目タオロン率いる、斑目一族の集団に遭遇してしまう。部下たちは、メイシアを慰み者にしてから殺害しようと進言するが、タオロンはそれを退け、食客の〈蝿〉が協力する。
ルイフォンは猛者タオロンを機転で倒すが、〈蝿〉が立ちふさがった。
鷹刀一族に恨みがあり、圧倒的な力量を持つ〈蝿〉に、ルイフォンは叶わぬと判断して、メイシアに屋敷への連絡を頼んで逃がす。
連絡を受けたイーレオ、ミンウェイ、チャオラウは、敵の名前が〈蝿〉だと聞いて驚く。彼らは、〈蝿〉がミンウェイとは因縁のある相手であることを知っていたからだ。
それはさておき、ルイフォンの危機に、イーレオはリュイセンに助けに行くように指示を出した。
一方ルイフォンは、〈蝿〉に手駒にならないかと持ちかけられる。〈蝿〉は〈七つの大罪〉という研究機関の者で、同じく〈七つの大罪〉に属していたルイフォンの母〈猫〉の血を引く彼に興味があったのだ。
しかし、ルイフォンが断り、絶体絶命の危機に陥る。
そのとき、逃げたはずのメイシアが、彼を助けに飛び込んできた。
非力なメイシアが〈蝿〉に勝つことなどできるわけもない。だが、彼女が時間を稼いだおかげで、リュイセンの助けが間に合った。〈蝿〉とタオロンを撤退に追い込む。
メイシアの行動に心を動かされていたタオロンは、去り際に鷹刀一族の屋敷に危険が迫っていることを示唆してくれた。
そしてルイフォンは、鷹刀一族の屋敷が警察隊に囲まれていることを知った……。
===登場人物===
[鷹刀一族]
鷹刀ルイフォン
凶賊鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
母から、〈猫〉というクラッカーの通称を継いでいる。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を金の鈴と青い飾り紐で留めている。
※「ハッカー」という用語は、「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われていた。
「クラッカー」には悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を「クラッカー」と表記する。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
鷹刀ミンウェイ
イーレオの孫娘にして、ルイフォンの年上の『姪』。二十代半ばに見える。
鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。
薬草と毒草のエキスパート。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥。ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄弟。
倭国に出掛けていた。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。イーレオの孫。ルイフォンの年上の『甥』。十九歳。
父、エルファンと共に倭国に出掛けていた。
『神速の双刀使い』と呼ばれている。
草薙チャオラウ
イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
ルイフォンの母
四年前に謎の集団に首を落とされて死亡。
天才クラッカー〈猫〉。
右足首から下を失っており、歩行は困難だった。
かつて〈七つの大罪〉に属していたらしい。
[藤咲家]
藤咲メイシア
貴族の娘。十八歳。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
藤咲ハオリュウ
メイシアの弟。十二歳。
斑目一族に誘拐されていたが、解放された。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
元鷹刀一族であったが、イーレオの負担にならないように一族を離れた。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。
本人曰く、もと女優の卵。
トンツァイ
繁華街の情報屋。
痩せぎすの男。
[斑目一族]
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。二十歳過ぎに見える。
斑目一族の非道に反感を抱いているらしいが、逆らうことはできないらしい。
ルイフォンに鷹刀一族の屋敷に危機が迫っていることを暗に伝えてくれた。
[〈七つの大罪〉]
〈七つの大罪〉
現代の『七つの大罪』《『新・七つの大罪』》を犯す『闇の研究組織』。
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。代償は体に刻み込まれた『契約』。
〈蝿〉
〈七つの大罪〉の悪魔。
ルイフォンの母のことを知っているらしい。
鷹刀一族、特にイーレオに恨みがある。
ミンウェイが、かつて〈ベラドンナ〉と呼ばれていたことを知っていた。
医者で暗殺者。
ホンシュア = 〈蛇〉?
鷹刀一族に助けを求めるよう、メイシアを唆した女。
仕立て屋と名乗っていた。
[警察隊]
緋扇シュアン
『狂犬』と呼ばれるイカレ警察隊員。三十路手前程度。
ぼさぼさに乱れまくった頭髪、隈のできた血走った目、不健康そうな青白い肌をしている。
凶賊に銃を向けることをまるで厭わない。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.舞い降りし華の攻防-1
「鷹刀イーレオ! 貴族の藤咲メイシア嬢の誘拐の罪で逮捕状が出ている!」
屋敷を取り囲んだ無数の警察隊員の中から、頭頂の乏しい恰幅の良い男が叫んだ。
「ここを通せ!」
指揮官であるその男は、高圧的に屋敷の門衛たちに迫った。
しかし、総帥イーレオから「状況が掴めるまで門を死守せよ」と命じられている門衛たちは、一歩も引かなかった。敬愛する総帥の期待に応えることこそ、彼らの誇りだった。
だから、『狂犬』の異名で呼ばれる警察隊員、緋扇シュアンが、門衛のひとりに拳銃の照準を合わせても、彼らはびくともしなかった。ただ、シュアンの充血した三白眼の凶相を、睨み返すのみである。
ひるまぬ門衛に、シュアンは愉快そうに嗤う。これで引き金を引くための口実ができた、と満足げに目を細めた。
そのまま、彼が指先に力を入れたとき、門の上部に取り付けられたスピーカーから、息を呑む気配が伝わってきた。
『門を開けてやれ!』
焦りのためか、いつものような色気には欠けていたが、それは確かに総帥イーレオの魅惑の声。
指揮官の男がにやりとした。
「展開せよ!」
指揮官のだみ声が響き渡ると、濃紺の制服を着た警察隊員たちが、うねりのような返事で応じた。門衛たちは突き飛ばされ、格子の門が大きく開かれる。
――堅牢な城壁であるはずの鉄門が、決壊した瞬間だった。
拳銃を構えた隊員たちは、身を低くして次々に侵入していった。
玄関扉へと続く長い石畳の道を、傍若無人に軍靴で汚していく。屋敷を取り囲むべく扇状に広がり、白い石畳はおろか青々とした芝すら踏みつけ、傲慢無礼に乗り込んでいく。
先頭の者が、重厚な木製の扉に手を掛けた。
そのときだった。
「お待ちなさい!」
命令調でありながらも、艶のある色香が漂う声――。
先頭の隊員は、弾かれたようにドアノブから手を放した。その反動でのけぞり、すぐ後ろにいた者の足を踏む。だが、踏まれたほうも麗しの美声に動転していたため、痛みを感じる余裕もなかった。
「ど、どこだ!」
扉の近くにいた隊員の中から、狼狽をあらわにした叫びがひとつ、漏れた。それを皮切りに、あちこちから、ざわめきの渦が生じる。
ここは、大華王国一の凶賊の屋敷。いかな警察隊員といえど、生身の人間。彼らは極度の緊張状態にあり、動揺の伝搬はごく自然な現象といえた。
先頭付近の者たちは、鉄門のところにあったようなスピーカーを、あるいはカメラの類を探して視線をさまよわせた。発生源を見つけたところで何が変わるわけでもないのだが、見えぬものへの畏怖は人間の本能である。それさえ見つければ恐怖が和らぐと、無意識のうちに体が動いたのだ。
だが、声を上げたのは後方にいた者であった。
「あそこだ!」
空を仰ぐようして、屋敷の二階を指差している。
前にいた者たちが、その姿を確かめるべく引き下がり、後ろの者とぶつかり合って更にまた混乱を招きながら、警察隊員の群れが庭へと集まっていく。
彼らの頭上、白いバルコニーの奥で、レースのカーテンが揺れた。柔らかな布地をかき分けて、すらりとした人影が現れる。
着る者を選ぶであろう、鮮やかな緋色の衣服。太腿まである深いスリットから覗く引き締まった美脚に、警察隊員たちはごくりと唾を飲む。陽光を跳ね返す絹の光沢の陰影は、彼女の曲線美を如実に表していた。
高い襟から続く縁飾りには凝った文様の刺繍が施され、豪華な花ボタンで飾られている。一見して、この屋敷内で高い身分を有している者だと分かった。
「警察隊の皆様、まずは、お勤めご苦労さまです」
緩やかに波打つ長い髪を豪奢に揺らし、二十歳半ばほどの美女が丁寧に腰を折った。再び顔を上げると、彼女は切れ長の瞳で全体を見渡す。
「私は、鷹刀ミンウェイ。この屋敷の主、鷹刀イーレオの孫に当たります」
山ほどの警察隊員に囲まれても動じることのない、張りのある声。迫力ある美しさと相まって、一同を圧倒した。
「祖父イーレオは高齢のため、自室で休んでおります。代わりに私が、ご用件を承ります」
彼女はそう言うと、小さくふわりと跳躍した。
何ごとだと、警察隊員たちが戸惑っている間に、彼女はバルコニーに手を掛け、長い両足をぴたりとつけたまま、手すりを真横に飛び越えた。
地上にいる者たちが、皆一様に目を見張る中、ほとんど音も立てずに芝へと降り立つ。着地の衝撃を和らげるための膝を曲げた姿勢から、再びすらりと背筋を伸ばしたとき、波打つ髪から干した草のような香りがふわりと流れた。
「指揮官はどちらにいらっしゃいますでしょうか」
綺麗に紅の引かれた唇がそう尋ねると、周り中をひしめいていた警察隊員が波のように引いていき、彼女の前に道が開く。その最奥に、恰幅の良い男の姿が現れた。
ミンウェイは、警察隊員でできた壁の間を物怖じすることなく突き進んだ。足の運びは颯爽と、けれど足音は聞こえない。
「あなたが指揮官ですね」
見おろされはしないものの、すらりとしたミンウェイと指揮官の目線の高さは、ほぼ同じ。
掛け値なしの絶世の美女に目の前に立たれ、指揮官は無意識に一歩下がりそうになったが、すんでのところで留まった。
いい加減、年齢も場数も経験している男である。若い部下たちのように、女の色香に惑わされたりはしない。自らの美貌を武器として使ってくる女が、山ほどいることなど熟知している。むしろ、彼女の容姿は、彼の嫌悪感を刺激するだけに過ぎなかった。
「凶賊風情が、何様のつもりだ!」
指揮官は、意味もなく声を張り上げた。対して、ミンウェイは極めて落ち着いた様子で一礼をした。
「屋敷に入る前に、まずは逮捕状を確認させていただきます」
「はっ! 一端の口をききおって!」
そう言いながらも、指揮官は切り札でも出すかのように懐から書類を出し、ミンウェイに突きつけた。
「鷹刀イーレオに、貴族の藤咲メイシア嬢、誘拐の嫌疑がかかっておる! 重要参考人として鷹刀イーレオの身柄を拘束する!」
「重要参考人として、イーレオ様を拘束に来たそうですよ?」
総帥の執務室から、そっと外の様子を窺っていたチャオラウが、無精髭の中にある口の端を皮肉げに持ち上げた。
執務机の上には、適度に音量が絞られたスピーカーがある。ミンウェイの襟の高い衣装に付けられた豪華な花ボタンには、盗聴器が仕掛けられていた。彼女の会話はこちらに筒抜けなのである。
「この場合、まずは『誘拐されているお嬢様を差し出せ』とか言うもんじゃないでしょうかね?」
チャオラウはイーレオを振り返り、肩をすくめた。イーレオの護衛である彼は、危機的状況にある主人を死守する立場にあるはずなのだが、まるで緊張した様子もなかった。
「茶番だからな」
イーレオが、相変わらずの机に頬杖をついた姿勢で目線を上げた。
「あの男、さっきは、死体でもいいから探しだせ、というようなことを言ってましたね」
チャオラウが呆れ果てたかのように吐き出すと、イーレオはそれに頷き、低い声で嗤った。
これで、斑目一族が、メイシアを鷹刀一族の屋敷に行くよう仕組んだ理由がはっきりした。
『貴族の誘拐』という罪をでっち上げ、凶賊が逆らえない警察隊を使い、イーレオを捕らえようという腹である。あの指揮官が、斑目一族と裏で繋がっているというわけだ。
あの男は『藤咲メイシアの死体』が届けられるのを待っている。大人数の警察隊員で撹乱し、あとから到着するそれを、あたかも初めからあったかのように『発見』し、証拠が上がったことにする。
ルイフォンがメイシアを街へ連れ出していなければ、屋敷から貴族の令嬢を『救出』したという名誉が与えられたのかもしれないが、それは言っても仕方のないことだ。こちらにしても、メイシアやルイフォンが危険な目に遭っているのだから、痛み分けどころか、釣りが出るだろう。
「ルイフォン」
イーレオは、電話口に向かって声を放った。
回線は、開きっぱなしになっている。彼らを乗せた車は屋敷に向かって急行しており、大モニタに映しだされた位置情報を示す光点は、かなりのスピードで移動していた。
「こちらの状況は聞こえたな?」
『ああ』
ルイフォンのテノールがざらついた音声に聞こえるのは、通信状況のせいか、彼の負った傷のためか。
「こちらのことは心配するな。お前たちは、人目につかないようにその辺で遊んできていいぞ」
『祖父上! 何を呑気なことを言っているんですか!』
イーレオの楽天的な物言いに、声を荒立てたのはリュイセンだった。生真面目に怒鳴る彼のこめかみに、青筋が立っているであろうことは、離れた距離にいても容易に想像できる。イーレオとよく似た声質を持つ直系の孫は、容姿は祖父に酷似していたが、性格的には、ほぼ対極にあった。
そして、それをなだめる末の息子の姿も、イーレオの目には見えていた。
リュイセンとは逆に、外見はまるで似ていないものの、父とよく似た性格をしているルイフォンである。
『リュイセン、今、俺たちが屋敷に戻ったら、鷹刀の若い衆が誘拐した貴族の令嬢を連れ回し、弄んでいた――と即、逮捕されるだけだぞ』
――と、そのとき。
イーレオの耳に、硝子窓越しに小さく、しかし鋭い銃声が響いた。
それから、ほんのわずかに遅れて……ミンウェイに付けられた盗聴器が、魂を撃ちぬくような轟音を送ってくる。
「ミンウェイ!」
窓際に寄ろうとしたイーレオを、チャオラウが制した。
「威嚇射撃です」
ずっと監視の目を光らせていた彼は、努めて冷静に報告する。その言葉に被るように、盗聴器から押し殺したような笑いを含んだ声が響いた。
『つい、指が滑ってしまいました』
「緋扇シュアンです」
チャオラウには、遠目にも分かる。
――否、遠くから全体を見渡しているからこそ、他の者とは動きが異なるのがはっきりと分かる。
行動が予測不能な『狂犬』、緋扇シュアン――屋敷の門衛に拳銃を突きつけた男。
彼は、ぼさぼさに絡みあった頭髪を掻き、参った参ったと首を振った。
『始末書は、あとで書きますよ、上官殿』
シュアンの声は、執務室を経由して、ルイフォンたちの乗る車まで届いていた。
「一族の非常時だぞ! 俺だけでも屋敷に戻る!」
整った眉を吊り上げ、肩までの髪を振り乱し、リュイセンが烈火の如く吠えた。狭い車内で立ち上がり、走行中の車から今にも飛び出しそうな勢いである。
「おい、リュイセン、落ち着け!」
ルイフォンは体格の違う年上の甥を押さえつけようとするが、腕を振り払われただけで、先ほどの戦闘で受けた怪我の痛みを思い出すことになった。
「ミンウェイが危険に晒されているんだぞ。放っておけるか!」
「あいつの役割はもう終わりだ。あとは撤退するだけだから、大丈夫だ」
大華王国一の凶賊の屋敷を蹂躙せんと、乗り込んできた警察隊員たちは、異様ともいえる高揚感に包まれていた。
勢いづいた集団は、時として個々人の総和ではなく、積の力を発揮する。その出鼻をくじくこと。それがミンウェイの役目だった。
彼女の登場で、風向きが変わった。
けれど、シュアンの放った一発の銃声が、強引に流れを戻そうとしていた。
ルイフォンもリュイセンも、言葉には出さなかったが、心の内では歯噛みしていた。
「屋敷に戻りましょう」
鈴を振るような音色でありながら、凛とした力強い響き――唐突に、メイシアが口を開いた。
「駄目だ!」
反射に近い形でルイフォンが叫ぶ。
その隣にいたリュイセンは、目を見開いた。まさか貴族の娘が、望んで危険の只中に突っ込んで行こうとするなどと、想像だにしなかったのだ。ルイフォンに遅れること数瞬ののち、冷静さを取り戻して反対の意を示す。
「そうだ。お前が行って、なんの役に立つ? 事態をややこしくするだけだ」
良い印象を持っていない相手だが、荒事にまるで縁のなさそうな華奢なか弱い娘を抗争の渦中に放り込むのは、リュイセンの本意ではなかった。それに彼女が屋敷に存在することは、イーレオの立場を悪くする。リスクばかりでメリットは何ひとつない。
「これは、私が蒔いた種です」
メイシアは、埃にまみれつつも美しさを損なわない黒髪を横に振った。
「私が、なんとかしてみせます」
儚げな小鳥のさえずりは、か細く、その瞳には不安の色が見え隠れしていたが、毅然と前を向いていた。そして、ルイフォンが再び反論を口にするより先に、彼女は回線の向こうにいるイーレオに問いかけていた。
「イーレオ様、あなたが認めた私の『価値』を試してくださいませんか?」
メイシアが鷹刀一族の総帥に持ちかけた『取り引き』――彼女の家族を助ける代わりに、彼女はイーレオに忠誠を誓ったのだ。自分にはそれだけの価値があると主張して。
『メイシア……』
イーレオが呟いた。そこには確かに迷いが含まれていた。だが、『お嬢ちゃん』ではなく『メイシア』だった。
『いいだろう。帰って来い』
低く魅惑的な、包み込むような声。こんな事態だというのに、メイシアの企みに胸を躍らせているような、いたずらな笑みを含んだ響き。
メイシアの鼻の奥が、つんと痛んだ。
――帰って来い。
イーレオにとっては、何気ないひとことだったに違いない。けれどメイシアには、鷹刀一族が彼女の『居場所』であると認めてもらえたように感じられた。
思わず、こぼれそうになる涙をぐっと堪え、彼女は笑顔で「はい」と答えた。
「ルイフォン」
メイシアが、ルイフォンに呼びかける。
しかし、彼女が次の句を告げる前に、彼は彼女の頭を引き寄せた。自分の胸に彼女の顔を押し付け、薄っすらと浮かんでいた彼女の涙が落ちる前に、強引に拭い取る。
「また、お前は無茶なことを考えているんだろう?」
わざとらしい溜め息をつきながら、ルイフォンは彼女の長い髪をそっと梳いた。
「心配ばかりかけて、すみません。……あの、今から一緒に屋敷まで来て欲しいんです」
「今更、何を言っている? 当然、俺も行くに決まっているだろ?」
「あ、はい。それも、そうですよね」
ルイフォンはメイシアの鼓動の速さを感じ、肩を抱き寄せた。
そんな弟分の信じられない行動に愕然としたリュイセンは、とりあえず視線を移して外の景色を眺めることにした。彼にとっては久しぶりの自国の風景だ。屋敷まではまだ遠く、その街並み自体は馴染みのないものであったが、どこか懐かしい景色は母国に帰ってきたことを教えてくれた。
1.舞い降りし華の攻防-2
ミンウェイは引き締まった腰に帯刀はしておらず、その身を無防備に晒している状態だった。暗器を隠し持っている可能性はあるが、これだけの人数に囲まれていては焼け石に水だろう。
そんな凶賊の女を前に、虚勢の大声を出す上官を、シュアンは後ろから冷めた目で見ていた。
まるで、格が違う。
ひとことで言って、見苦しい。
警察隊の権限を餌に、勢力拡大を図る凶賊どもや、権謀術数を巡らす貴族どもと裏で繋がり、おこぼれを集めて私腹を肥やす豚上官。
彼は、目の前の女の威圧感を、高慢な自尊心からくるものだと履き違えているらしい。我欲まみれの男には、一族を預かる彼女の役割が見えてないのだろう。だからこそ御し易く、シュアンにとって便利な存在なのであるが、間近で見ていたいか否かは別問題である。
シュアンは、傍目には眠そうに見える瞼の下から眼球を動かし、逮捕状を確認しているミンウェイの姿を捉えた。神妙な顔で文面に目を走らせているが、腹の中ではこの愚物の指揮官をどうあしらうかの算段を立てていることだろう。
ふらり、とシュアンの体が動いた。指揮官の影から外れ、ミンウェイの美貌がよく見える位置に立つ。彼の血走った三白眼が鋭く光った。
彼の右手は迷いもなく懐から拳銃を取り出すと……そのまま引き金を引いた。
響き渡る轟音――。
その場の空気が凍りついた。
氷像と化した警察隊員たちは、息をすることさえままならずに目を見開く。
焦げた毛髪と火薬の臭いが混じり合い、悪臭が漂った。
……だが、血の臭いはしない。
弾丸はミンウェイの頬をかすめ、彼女の髪をひと房、焼き払っていた。
シュアンは特別、狙いをつけた様子もなかったが、列になって並んでいた警察隊員たちに流れ弾が当たるようなことはなかった。
「な……!?」
指揮官が背後のシュアンを振り返り、唇をわななかせるが、人語を忘れたかのように言葉が出ない。
「つい、指が滑ってしまいました」
シュアンは、銃口から立ち上る煙にふっと息を吹き掛け、証拠を隠すかのように拳銃をホルスターにしまった。ぼさぼさに絡みあった頭髪を掻き、参った参ったと首を振る。
――これで主導権は、警察隊側に移った。
別に彼は、頭髪に行くべき栄養分を腹部に回しているかのような指揮官の昇進に協力したいわけではない。ただ、こちらの優位を確立しておきたかっただけである。
いつものシュアンなら、凶賊の女をためらいもなく撃っていた。それをしなかったのは、ミンウェイに価値を見出していたためである。凶賊に属する者がどうなろうとも、眉ひとつ動かす用意もないシュアンにとって、これは破格の扱いといえた。
「始末書は、あとで書きますよ、上官殿」
「……あ、ああ……。いや、お前は任務に忠実だっただけだ」
放心状態だった指揮官が、やっと口を開いた。
彼にとって、毎度毎度、突破口を開いてくれるシュアンは、扱いにくいが役に立つ、お気に入りの部下である。多少、派手な行動をしても、すべて揉み消すつもりだ。
シュアンにしてみても、「上層部のことは気にするな」などと、恩着せがましく言ってくる態度は気に食わないが、この上官のおかげで随分と動きやすくなっている。大事な手駒として丁重に扱われているうちは、存分に利用させてもらうつもりだった。
「指揮官の方」
ミンウェイが指揮官に呼びかけ、それから、その後ろに立つシュアンにちらりと視線を向けた。
たった今、生命の危険に直面したはずの彼女は、ほとんど表情を変えなかった。それどころか、わずかに細めた目が、かすかに笑っているようにも見える。
気の強そうな女だから、眉を吊り上げて文句を並べるに違いない。そう身構えていたシュアンの頬に緊張が走る。隈の目立つ目で気だるげに彼女を見るふりをしながら、張りつめた空気の音さえ聞き漏らさないように、耳をそばだてた。
「逮捕状を確認いたしました。ですが、こちらには貴族の令嬢などおりません。何かの間違いでしょう」
発砲された事実などなかったかのように振る舞うミンウェイに、指揮官は咄嗟に言葉を返すことができなかった。口を半開きにしたまま、阿呆のように彼女を見返している。
もしミンウェイが怒りをあらわに食ってかかっていれば、指揮官は警察隊の権限でもって彼女を逮捕することができたかもしれない。しかし、彼女はそれを鮮やかに回避したのだ。
「ふ、藤咲家から、正式に要請が出ている。間違いなど、ない!」
長過ぎる間を置いてからの返答は、間抜けなだけである。シュアンは頭を抱えたくなった。
だが、ミンウェイは恭しく頭を下げた。
「承知いたしました。では、我々の疑いを晴らすためにも、捜査にご協力いたします」
「はっ! 初めからそう言え! 家宅捜索だ!」
「ただし! 屋敷には、親を失い引き取った、身寄りのない子供もおります。か弱き者たちに乱暴なことをなさいませんよう、くれぐれも、お願い致します」
艶のある声が響く。
ミンウェイは、ぐるりと警察隊員たちを見渡し、最後にシュアンに目を留めた。
「そちらも、お役目でしょうから、私の髪については不問にします。ですが、屋敷の者たちを傷つけたら、それ相応の報復をご覚悟ください」
斬り込むような言葉の鋭さと同時に、一族を守る強い意志が、そこにあった。
ミンウェイ自らが屋敷の扉を開くと、玄関ホールには刀を床に置いた屈強な男たちが、壁に沿って並んでいた。彼らは、ミンウェイの姿を確かめると、一斉に頭を垂れた。その中を、数人の班に分かれた警察隊員たちが、地に足のつかぬ様子で各部屋へと進んでいく。
団体行動のできない性質のシュアンは、指揮官のはからいによって、初めから単独行動を許されていた。お気に入りの特権である。彼は壁に寄りかかり、体は微動だにしなかったが、三白眼の中の眼球だけは右に左に忙しなく動かしていた。
無表情に立っていたミンウェイの肩を、指揮官が「おい、女」と掴んだ。
壁際の凶賊たちが色めき立ったが、ミンウェイはそれを目で制した。
「鷹刀イーレオのもとへ案内しろ」
指揮官の合図で、一個小隊ほどの警察隊員が勢いよく闊歩する。
その中のひとり――先頭から二番目にいた男には、頬から首筋にかけて、まだ生々しい刀傷が走っていた。名誉の負傷と言いたいところだろうが、つい最近、凶賊と警察隊員が衝突したという報告をシュアンは聞いていない。
更に言えば、警察隊内部に精通しているシュアンが、警察隊の制服を着ている男たちの中から見知った顔をひとつも見出すことができなかった。
指揮官の言い分に、ミンウェイは柳眉を寄せた。
「先ほども申し上げましたとおり、祖父は高齢ゆえ、面会は体に障ります」
「何を言っておる。重要参考人だ」
指揮官が、にやりと嗤う。歪んだ額の皮脂が、吹き抜けの高窓からの光をてらてらと反射させている。勝ち誇ったような指揮官に、ミンウェイは「仕方がありませんね」と静かな声を上げた。
「……我々は凶賊であり、世間からは無法者と呼ばれております。けれど、我が鷹刀は法を守る者には敬意を払い、一般の人々には決して害を加えません」
彼女は一度、言葉を切り、女性としては長身の彼女より遥かに高い目線の男たちを見渡した。
「あなた方は、法の秩序を守る警察隊です。我々は従わざるを得ません。……ですが、万が一にも祖父に危害を加えようとした場合には、こちらも法に則り、正当なる防衛手段を取らせていただきます」
緩やかに波打つ髪を揺らし、肩に置かれた指揮官の手を自然に振り落としながら、ミンウェイは背を向けた。ついてくるように言っているのだろう。
すらりとした背筋を伸ばして彼女が歩き出すと、香水とは違う干した草の香りと……焦げた毛髪の臭いが入り混じって漂った。
指揮官は、にやりと嗤い、「続け」と指示を出した。
毛足の長い絨毯の廊下をミンウェイが滑るように歩く。その後ろにふんぞり返った指揮官。一歩置いて、いつの間にか紛れ込んでいたシュアンの知らない男たちが、まるで訓練されていない動きでぞろぞろとついていく。
シュアンは充分に距離を取りながら、その一団のあとをつけていった。
いくつか角を曲がり階段を登り、奥の部屋に着いたところでミンウェイが振り向いた。
「こちらです」
ミンウェイがそっと横に動き、目の前の扉を示した。
扉には大きく翼を広げた鷹の彫刻が施されていた。羽の一枚一枚は刀と化している。遠目に見ているシュアンにも、それが鷹刀一族の紋章だと、すぐに分かった。
ミンウェイは再び扉に向き直り、そっと触れる。
次の瞬間、彫刻の鷹の眼球が動いた。そして、ミンウェイの瞳を捉える。
〔ミンウェイ様ですね〕
流暢な女声の合成ボイスが流れた。
目を丸くする一同をよそに、扉が小さな機械音を立ててスライドし、道が開かれる。つんとした薬の匂いが流れてきて、その場にいた者たちの鼻孔を刺激した。いわゆる病院の匂いであった。
「お入りください」
ミンウェイが横にすっと動いて、右手で部屋の中を示す。
「……今のは、なんだ?」
泥臭いと侮っていた凶賊の屋敷に、先進的な技術が使われていたことに驚いたのか、部屋に踏み込む前の確認をするかのように指揮官が尋ねた。
「扉のセキュリティです。虹彩を登録した者だけが開けることのできる仕掛けです」
「はっ、厳重なことだな」
要するにガードの堅い鍵だと思い直した指揮官は、威圧的な態度を取り戻す。
「さすが凶賊の総帥。常に命を狙われているというわけか!」
指揮官の嘲笑混じりの言葉に、中から「いえ、いえ」という低い声が響いた。穏やかで、どこかのんびりとしていて、更にいたずらな子供のような茶目っ気が混じっている。
「これは機械いじりの好きな、末の息子のお遊びですよ。『凶賊の親玉の部屋なんだから、このくらいしないと箔が付かないからな』だそうで。なかなかの孝行息子です」
こぼれんばかりの笑いを堪えているかのような、魅惑的な響き。白いベッドに寄りかかるようにして半身を起こした壮年の男が、部屋の中から手招きをしていた。
「私が鷹刀イーレオです。どうぞ、お入りください」
整った容貌に細身の眼鏡。部屋着と思しきゆったりとした服装に、上着を肩に羽織るという出で立ちが、凶賊の総帥というよりも、病床について引退した往年の舞台俳優といったほうがふさわしかった。
ベッドの脇には、腕っ節の強そうな護衛の男がひとりいるのみ。
背後に屈強な男たちを従えた指揮官は、にやりと嗤った。
「ミンウェイ」と、イーレオは孫娘に声を掛けた。
「ご苦労だった。お前は下がっていなさい」
「はい」
ミンウェイが一礼して、扉から離れるのと入れ替わるように、指揮官が意気揚々と足を踏み入れ、男たちがそれに続いた。
ミンウェイと、離れた位置で一部始終を見ていたシュアンを廊下に残したまま、扉は小さな施錠の音を鳴らした。
総帥のいるフロアだからだろうか、人払いをしてあるらしく他に人影はない。屋敷中を捜索しているはずの警察隊員たちも、指揮官が向かった先は自分たちが行くまでもないと――下手に行って、手柄を奪いでもしたら不興を買うだけだと――こちらには来ていない。
扉のすぐ向こうには一個小隊ほどの男たちがひしめいているというのに、防音が効いているのか物音ひとつなかった。
そんな静寂の廊下で、ミンウェイとシュアンの視線が交錯した。
「あなたは祖父のところへ行かなくてよかったのですか?」
ミンウェイが綺麗に紅の引かれた口を動かした。
シュアンはその問いには答えず、無言で彼女に近づいた。そして、彼女の目前まで来ると、おもむろに懐に手をやり、次の瞬間にはミンウェイの豊かな双丘の狭間に拳銃を押し当てていた。
ミンウェイの顔が驚愕に震える……ということは、なかった。
「やっと、あなたとお話できそうですね」
整った眉を下げ、にこやかに微笑んだ彼女に、シュアンのほうが驚愕した。
「……大した胆力だな」
呼気と共に吐き出すように、シュアンが漏らした。
「あなたには、まるで殺気がありません」
「殺気、ね。さすが凶賊ということか」
見抜かれていては無用の長物。シュアンは拳銃をしまう。
ミンウェイは、彼の腫れ上がったような三白眼をじっと見据えた。隈が深く、血走った目をしているが、決して狂人のそれではなかった。
「あなたは、緋扇シュアンですね。凶賊たちに『狂犬』と呼ばれている――」
凶賊どもが付けた蔑称を口にされ、シュアンは不快げに鼻を鳴らした。
「あんたらが俺をどう呼ぼうが、俺の知ったことじゃない」
「噂では、突拍子もない言動を繰り返すということでしたが……間近で見ていると、あなたの動きは狂人のように見せかけて、実はとても計算高い。目的のためには、手段を問わないようですけれどね」
シュアンは一瞬、息が詰まった。そして、この只者ではない凶賊の女にどう話を切り出したものかと思索する。
そんな彼の思いを知ってか知らずか、ミンウェイの張りのある声が静かに水を向けてきた。
「単刀直入にお尋ねします。あなたの目的はなんですか?」
2.静かなる狂犬の牙-1
「屋敷は、まだか……!」
車の中で、リュイセンはいらいらと膝を揺らしていた。
「すみません、リュイセン様」
運転手が恐縮した声を上げた。彼は先ほどから事故すれすれの運転を繰り返しており、メイシアなどは生きた心地がしなかったのであるが、リュイセンは空港で奪取したバイクを飛ばしたほうが早かったかと後悔していた。
「もうすぐですので、今しばらく……」
「ああ……。すまん。お前を責めているわけではない」
リュイセンは運転手に詫びた。どうにも自分は周りへの配慮が足りないようだと、軽く自己嫌悪する。
祖父イーレオのもとに一個小隊ほどの警察隊員が向かっている。護衛はチャオラウ、ただひとり。彼がいくら一族最強の男でも多勢に無勢だ。戦闘になったら敵うべくもない。
――ミンウェイの付けている盗聴器から、それだけの戦力が押しかけてくることは分かっていた。
それなのに、だ。
イーレオのしたことといえば、部下たちを呼んで応接用のソファーセットを片付けさせ、代わりに医療用ベッドを運ばせたのだ。更に、ミンウェイが調合した謎の薬瓶の中身を部屋中に撒き散らした。――音声のみの情報だが、間違いようもない。病人を演じるつもりなのだ。
「何を考えているんだ! 祖父上は!」
リュイセンが吠える。その声は祖父には届かない。こちらの声が警察隊に聞こえないようにと、先ほど回線を閉じたのだ。
かといって、屋敷の様子が分からなくなるのは望ましくないわけで……現在ルイフォンが、リュイセンの文句を聞きながら、代わりの情報収集手段を構築しているところであった。
「親父は高齢で、面会は体に障るっていう設定になっているから、老人っぽくしてみたんだろ」
「ご自分でベッドを運んでくるような、元気な老人がいてたまるか! だいたい、六十五歳のどこが高齢だ!?」
ソファーの片付けとベッドの設置に人手が足りなかったため、自ら働いたイーレオである。
「お、繋がったぞ」
ルイフォンの携帯端末に、執務室の映像が映し出された。
イーレオは、ぱりっとした上衣から部屋着に着替えており、柔らかな材質の上着を羽織っていた。袖を通さずに肩に掛けているだけのところが、洒落者のこだわりなのだろう。ご丁寧にも、普段、背中で緩く結っている長髪は解いて、適度に乱してある。寝ていたところを起き上がったばかり、という演出らしい。
『こちらから出向くべきところを、ご足労痛み入ります』
イーレオの口から低く魅惑的な声が出た。穏やかな挨拶と、人の良さそうな笑顔、それに加えて、自身の体を支えるのにやや苦労しているかのような微妙に曲げた姿勢。加齢によって角の取れた老総帥のつもりだろう。なかなか芸が細かい。
「貸せ」
リュイセンが横から、携帯端末を取り上げた。
「執務室は〈ベロ〉のガードが厳しいから苦労したんだぜ」
ルイフォンは奪われた携帯端末を目で追いながら得意気に言うが、食い入るように画面を見ているリュイセンは聞いていなかった。代わりに、反対側の隣りにいたメイシアが、きょとんとルイフォンを見上げた。その反応を待っていたかのように、彼はにやりとした。
「屋敷を守っているコンピュータだよ。執務室の虹彩認証も〈ベロ〉がやっている」
いまひとつ、よく分からないなりに、何やら凄い仕組みであると解釈したメイシアは目を丸くした。
「俺の母が設計したんで、少々性格が悪い。癖の強い奴で、内部からなら俺のことをすんなり通してくれるんだが、外部からだと俺のことも疑ってかかってくる。まぁ、『地獄の番犬』だから仕方ないんだが」
「『地獄の番犬』……?」
「〈ベロ〉には他に二台の兄弟機がいる。名前は〈ケル〉と〈スー〉」
「あ! 三台合わせて『ケルベロス』……」
冥府の入り口を守護する三つの頭を持つ番犬になぞらえて、屋敷を守護する三台のコンピュータを名付けたというわけだ。ルイフォンの母という人は言葉遊びの好きな人だったらしい。
「〈ケル〉は俺と母が住んでいた家にいて、〈スー〉はまだ開発中だと言っていたから、揃っちゃいないんだけどな」
自慢気に話すルイフォンに、メイシアはまだまだ知らない彼の顔を感じた。それは心が躍る新鮮な発見であると同時に、彼女と彼の間に横たわる深淵だった。
「ルイフォン、ミンウェイはどうなった? 執務室にいないぞ!」
不意に、リュイセンが、ぴりぴりとした声を上げた。
警察隊が執務室に到着する前に回線を切ったため、彼らはイーレオがミンウェイに下がるように言ったことを知らなかった。ミンウェイも当然、執務室にいるものと考えていたのである。
大騒ぎするリュイセンに、ルイフォンは小さく溜め息をついた。
ミンウェイのことだ。執務室にいないのなら、屋敷にいる者たちの様子を見に回っているのだろう。
「端末を貸せ。〈ベロ〉に支配下のカメラをチェックさせる」
心配するほどのことでもないだろうに、と思いながら、ルイフォンはリュイセンから携帯端末を取り返した。
「ミンウェイ……」
リュイセンは拳を握りしめる。――このどうしようもない焦燥感はどうしたらいいのだろう。
心臓が、早鐘のように鳴っていた。
ミンウェイは厄介な相手にも上手く立ち回れる、明晰な頭脳の持ち主だ。身体能力も高い。必要とあらば、敵にとどめを刺すことも厭わないという心の強さもある。一族の全幅の信頼があるといっても過言ではない。
――だからこそ、無理をする。
リュイセンは、ミンウェイの気取らない微笑みを思い出す。この年上の従姉は何があっても平気なのだと、子供の頃は無邪気に信じていた。笑顔の裏で泣いているなんて、微塵にも思わなかった。
「……どういうことだ!?」
「ルイフォン!? 何があったんですか?」
メイシアの叫びに近い声を聞いた瞬間、リュイセンがルイフォンから携帯端末を奪った。
映し出されていたのは、応接室。メイシアが、初めにミンウェイに通されたのと同じ部屋である。
彼女はひとりではなかった。
テーブルを挟んで向かい合う、ゆったりとした二脚のソファー。その一方にミンウェイ、他方には――。
「緋扇シュアン!」
リュイセンが叫ぶ。
「『狂犬』め、ミンウェイに何を……」
殺気を放つリュイセンに、車内の温度が一気に下がる。だが、彼が取り乱したお陰で、ルイフォンはかえって冷静さを取り戻した。
「落ち着け、リュイセン。応接室で話をしているということは、ミンウェイが緋扇シュアンをこの部屋に連れてきた、と考えるのが妥当だろう? ミンウェイに何か考えがあるはずだ」
彼女は、この部屋にカメラが仕掛けてあることを知っている。モニタ監視室からも、この映像は見えているはずだ。万一のときは、誰かが駆けつける。
ルイフォンは癖のある前髪を、くしゃりと掻き上げた。
大丈夫なはずだ。鷹刀一族の屋敷は〈ベロ〉が守っているのだから――。
応接室に通されたシュアンは、まず天井の四隅に目をやった。
警察隊の応接室などは蜘蛛の巣が張っていたりするのだが、この部屋は文字通り隅々まで掃除の行き届いた小綺麗な部屋であった。特に異常は見当たらない。
だが見えないというだけで、どうせ盗聴器と隠しカメラの巣窟なのだろう。そう思って、シュアンは鼻をならした。
「今、お茶をお出ししますね」
波打つ髪を翻したミンウェイに、シュアンは「結構だ」と言い放ち、遠慮なくソファーに座った。そのあまりの座り心地の良さに、さてどんな商売で儲けているのやらと、邪推してみたくなる。
「随分と余裕だな」
シュアンは柔らかな背もたれに体を預け、足を組んだ。だらけた姿勢によって目線は低くなるが、挑発的に顎を上げ、腫れ上がったような瞼も三白眼で押し上げる。
「鷹刀イーレオの部屋に、あれだけの人数の警察隊を入れてよかったのか? ご自慢のセキュリティとやらも、あれじゃ形無しだな」
そんなシュアンの言葉に、ミンウェイは赤い紅の引かれた口の端を上げて微笑んだだけだった。
少しは緊張感を見せるかと思っていたシュアンは、肩透かしを食らった。と同時に、執務室には大勢の伏兵が隠れていたのだと確信する。護衛がひとりだけなど、おかしいと思ったのだ。ひと口に凶賊といっても、派手好きで強欲な斑目一族などとは違い、鷹刀一族は用心深く、抜け目ない。
シュアンは、ソファーに寄りかかっていた背を起こした。落ち窪んだ眼球が、飛び出さんばかりにぎょろりと見開き、ミンウェイの美貌を捕らえる。彼は、見えないものを手探りで掴もうとでもするように、ゆっくりと切り出した。
「あの警察隊……偽者だぜ?」
ミンウェイは表情を変えなかった。相変わらずの微笑を口元に載せたまま、小さく首肯する。
「そうでしょうね」
その返答にシュアンは鼻息を漏らし、再びソファーに背を投げ出した。肘を背もたれに載せ、鷹揚に顎を上げる。
「やはり気付いていたか」
「ええ」
何を言っても、ミンウェイは柔らかに躱していく。シュアンとしては、彼や警察隊に少しは恐れをなしてほしいのだが、そうもいかないらしい。
こんなやりとりに時間を食っていても無駄だ――シュアンは、ぼさぼさに絡み合った毛髪を制帽で押さえつけているような頭を振るった。ひとつ、息を吐いて、三白眼でミンウェイを睨め上げる。
そして、口火を切った――。
「あんた、俺の目的は何かと聞いたな? ――教えてやるよ」
シュアンは、赤い舌で口元を舐める。彼の唇が濡れたように光った。
「俺は、鷹刀と手を組みたい」
果たして――ミンウェイは動じなかった。
「そんなことだろうと思っていました。お祖父様と直接、お話できそうにないから、私に接触を図った――違いますか?」
僅かに傾けたミンウェイの首筋から、波打つ髪が一筋、転げ落ちる。
まったくこの女は聡い。――シュアンの心がざわつく。穏やかな顔で苦笑といった笑みを漏らす綺麗な顔を、ずたずたに斬り裂いてやりたいような衝動さえ浮かぶ。
「……その通りだ。あんたは総帥に近いところにいる人間だ。あんたの口添えがあれば、鷹刀イーレオも協力してくれるだろう」
「申し訳ありませんが、お断りします」
「ほぅ? 何故、断る?」
シュアンはわざとらしいくらいの甲高い声を上げ、腫れぼったい瞼を吊り上げた。予想外とばかりに驚いてみせる悪相。だが、それは見せかけで、初めからこの女から色良い返事がもらえるなどとは思ってはいない。
「警察隊の俺とパイプを持ちたくはないのか?」
わざとらしいほどに嫌らしく、誘い込むようにミンウェイの顔を覗き込む。対して、ミンウェイは小さく息を吐いた。
「……やっと理解できました。あなたの過剰なまでの挑発行為は、警察隊としての権力の誇示だったんですね」
まるで、子供の自己顕示欲のような物言いに、シュアンは鼻に皺を寄せる。
「なんとでも言うがいいさ。だが、まさか、あんな行動を取った俺が鷹刀と繋がっているなんて、誰も疑いはしないだろう」
「そうですね。……けれど、あなたの真意が見えない以上、私はあなたに協力する気になれませんね」
話にならないとばかりに首を振るミンウェイに、シュアンはにやりと嗤いかけた。狂犬の牙がちらりと覗く。
「理由は単純だ。――情報が欲しい」
強い語気だった。彼はそのまま口調を弱めずに続ける。
「勿論、鷹刀の情報を寄越せとは言わない。他の凶賊のものでいい。他所の情報を警察隊の俺に漏らすことは、あんたらにとって損にはならないはずだ」
「ですが……」
「警察隊が入手できる情報なんて、たかが知れているのさ」
ミンウェイが言いかけたところを遮り、シュアンは畳み掛けた。彼はゆっくりと体を起こし、諭すように言う。
「――ギブ・アンド・テイクだ。俺も、警察隊の内部情報を教える」
嗤った口の中で白い歯が光るが、血走った三白眼には嘘はない。彼は真実、鷹刀一族の助力を必要としていたし、自分の属する組織に対しての裏切り行為に、なんのためらいもなかった。
シュアンの調べたところ、鷹刀一族というのは凶賊としては異質だった。より正確にいえば、鷹刀という一族が、ではなく、現総帥の鷹刀イーレオという男が、である。
先代の三男であり、父親を殺害して総帥位を奪った男であるが、実のところ悪事と言うほどの悪事は働いていない。加えて、よほど規律を厳しくしているのか、一般の人々には手を出さないことが、末端の者たちにまで徹底されている。
総帥の代替わりは三十年以上前のことであり、シュアンが生まれるよりも前だ。その頃の話を引退間近の老齢の警察隊員たちに聞くと、彼らは皆、一様に震え上がる。先代が大層、非道な行いを繰り返していたのは、まず間違いない。けれど、イーレオのことも逆らう者を皆殺しにした悪鬼だという。
情報の欠片を掻き集めた結果、鷹刀イーレオという男は、任侠の徒というやつなのではないかと、シュアンは推測する。決して善人などではあり得ない。しかし、筋さえ通っていれば善悪を問わずに受容をし、懐に入った者には仁義を尽くす。
シュアンは、利を得るためになら彼の上官のような男と懇意にするのも厭わない。しかし、彼が真に協力関係を築きたいのは、鷹刀イーレオのような男なのである。
「――それでも、お断りします」
「何が不満だ?」
ミンウェイの芳しくない反応に、シュアンは今度こそ本気で詰め寄った。
「あなたから教えられた情報が罠でない保証など、どこにもありませんから」
「臆病だな、あんた。俺も、あんたらに垂れ込まれるリスクを負っているんだぜ?」
「あなたこそ、どうして危険を犯してまで凶賊の情報にこだわるのですか?」
ミンウェイの疑問は当然だった。だが、彼女は訊くべきではなかった。
「俺の家族は、凶賊に殺されたのさ」
低く告げたシュアンに、ミンウェイは、はっと顔色を変えた。
「すみません。噂を聞いたことがありました……」
遠慮がちに落とされた声には、今までの彼女とは違った柔らかさが込められていた。その意外な温かさに、シュアンは彼女の本質を悟る。
刹那、シュアンの血走った目が狂気を帯びた。飢えた狂犬が、食らいつくべきものを見つけ、だらだらと涎を垂らし始めた。
「俺が餓鬼のころ、凶賊同士のくだらない抗争に巻き込まれたのさ」
彼は、にこやかに嗤うと、おもむろに立ち上がった。
先の読めない行動にミンウェイは困惑するが、殺気を感じない相手に何をすればよいのか分からず、ただ瞬きだけをする。
シュアンは緩やかにテーブルを回り、ミンウェイの座るソファーの背後に回った。そっと屈み込み、彼女の耳元に口を寄せる。
「ああ、そうさ。俺は凶賊を恨んでいる」
優しく囁くように、シュアンは言った。
ミンウェイの波打つ髪が、シュアンの鼻先に掛かり、炭化した人毛の悪臭が彼の鼻腔をつく。先ほど彼の放った弾丸が、焼き縮れさせた名残りだ。
「凶賊は俺の人生の仇だ」
シュアンはミンウェイの髪の中に顔を埋め、低く嗤う。その口元に、狂犬の牙がぎらりと光る。
「俺は、この国から凶賊を殲滅してやる」
この凶賊の女は、向かってくる者には恐ろしく強いが、傷を持つ者には限りなく優しい。――愚かに、優しすぎる。
冷静な狂犬は、彼女の心に牙を穿とうとしていた。
2.静かなる狂犬の牙-2
ルイフォンたちを乗せた車は、屋敷への家路を急ぐ。
車内では、リュイセンがルイフォンの携帯端末を握りしめ、さして大きくもない画面を食い入るように見詰めていた。
映っているのは、言わずもがな応接室の様子。警察隊員である緋扇シュアンが、「鷹刀と手を組みたい」と言ってきたところだった。
「ミンウェイ! そんな胡散臭い奴、即刻追い出せ!」
「おい、リュイセン。ここで叫んでも、ミンウェイには聞こえないぞ」
ルイフォンの呆れ声に、リュイセンは「分かっている」と、奥歯をきしませながら不機嫌に返す。
そんな彼らのことなど、まったく知らぬ画面の中のミンウェイは、シュアンの申し出にいい顔こそしないが、無下に打ち切ることもしなかった。
『――ギブ・アンド・テイクだ。俺も、警察隊の内部情報を教える』
不意に耳に入ってきたシュアンの言葉に、ルイフォンは猫のような目をすうっと細めた。彼は、クラッカーであり、コンピュータネットワーク世界の情報屋。『情報』は彼の管轄だ。
シュアンのいう『情報』がオンライン上のものなら、ルイフォンは自分で盗ってこられる自信がある。だが、それが極秘の、デジタル化されていないものなら……?
ルイフォンが腕を組み、あらゆる可能性を模索しようとしたとき、シュアンの声が響いた。
『俺の家族は、凶賊に殺されたのさ』
画面の中のミンウェイが、はっと顔色を変える。それに続く、沈んだ「すみません」。
「駄目だ、ミンウェイ! ほだされるな!」
フロントパネルがひび割れそうなほどの力で携帯端末を握りしめ、リュイセンが唾を飛ばす。そのとき、端末が震え始めた。
「あ? 電話だ」
ルイフォンが、リュイセンに断りもなく携帯端末を取り上げる。
「あ、おいっ! ミンウェイが!」
「お前が今ここで、やきもきしていても、事態は変わらないだろ? それより少しはミンウェイを信じたらどうだ?」
「ぐ……」
正論を言うルイフォンに、リュイセンは思わず罵声を浴びせそうになる。だが、ルイフォンに食って掛かるのも道理に合わないと、不承不承、口をつぐむ。
……このあとの応接室の様子をリュイセンが見ずに済んだのは、すべての人にとって幸運なことであったに違いない。
不穏な色をした風が、応接室のカーテンを大きく翻した。
大気を孕んだレースは、毛足の長い絨毯の上に光と影の円舞を描き出す。それは時に輝き、時に翳る。そしてまた、ミンウェイの美貌の上にも、めまぐるしく明暗を作り出していた。
「……あなたは……」
そう呟いて、ミンウェイは絶句した。そんな彼女を見て、シュアンは口の端を上げて嗤った。彼の湿った息が耳朶に掛かり、彼女は身を震わせる。
「何をそんなに驚いているのさ? 凶賊なら散々、恨みくらい買ってきただろう? 人を殺せば憎しみが返ってくる。当然のことだ」
ミンウェイが息を呑み、凍りついた。
勿論シュアンは、彼女がかつて〈ベラドンナ〉と呼ばれる毒使いの暗殺者であったことなど知らない。更に言えば、長いこと封じてきたその名前を、たった数時間前に彼女が聞いたばかりであったことなど、まったくもって彼のあずかり知らぬことであった。
ただ彼は、予想を超えて、遥かに無防備になった彼女の背中に扇情された。儚く落とされた肩に、溢れんばかりの嗜虐を覚えた。
興奮に衝き動かされて両手が伸び、彼はソファー越しに彼女を後ろから抱きしめた。狂犬が牙を立てるように、波打つ髪の中から白い首筋を見つけ出して唇で触れる。
「俺と、親父とお袋と妹と――家族四人で街を歩いていた……」
シュアンの静かな声が響く。
「いきなり、気の狂ったような集団が、斬り合いをしながら向こうの角からやってきた。そばを歩いていた奴が『凶賊の抗争だ!』と叫ぶと、通りにいた人間が一斉に逃げ出した。勿論、俺たち家族もだ」
シュアンが言葉を発するたびに、ミンウェイのうなじに息が掛かり、彼女の産毛を犯していく。
「途中で妹が転んで、手を繋いでいたお袋も引きずられた。そこに凶賊がやってきた。そいつは蹲っていたふたりにつまずき、あとを追ってきた別の凶賊に斬りかかられた」
ミンウェイの体が強張り、冷や汗でしっとりと湿ってくるのを、シュアンは頬に触れている彼女の首筋から感じ取る。
「つまずいた奴は強かったんだろう。不安定な姿勢からでも、斬り掛かってきた敵を一刀で返り討ちにした。そしてそのあと、危険な目にあった腹いせにか、無抵抗に震えている妹とお袋を斬りつけた。それから、止めに入ろうとした親父を――」
シュアンは、ミンウェイの肩をまるで恋人のようにふわりと抱く。そして、耳元で甘く囁く。
「……俺は、動けなかったよ」
触れ合った皮膚の振動から、ミンウェイが唾を飲み込むのを明確に感じ取れ、シュアンは内心でほくそ笑んだ。
身の上話は、ミンウェイを心理的に支配するための手段に過ぎない。
嘘偽りない真実ではあるが、彼の声色と行動には多大な演出が施されている――彼の凶賊への恨みの深さを分かりやすく示すための。彼女を都合よく誤解させ、同情を買うための……。
シュアンだって、いい大人なのだ。感情で喚き散らすような少年時代は、とうの昔に終えている。ただ、目的のためには、なんでも利用するというだけだ。
勿論、彼は彼女のことを、どんな不幸話にも涙するような、甘い女と思っているわけではない。自分の一族のためなら、赤子や老人だって無慈悲に殺せるだろう。屋敷を囲んだ警察隊への気迫から、それは明白に分かる。
だが、彼女の本質は情が深いのだ。だから彼女はされるがままで、彼の手を振りほどくことはできない。辛い過去を背負った男が、自分に縋るように恨みつらみを告白していると思っている証拠だ。
ためらいがちに、ミンウェイが口を開いた。
「子供のあなたが助けに入ったとしても、死体がひとつ増えただけでしょう。それは……正しかったんです」
「俺を気遣っているつもりか? お人好しだな」
シュアンは嗤った。差し伸べられた手は取らない。拒絶するほどに、彼女は彼に近づこうとするはずだから――。
「……気遣いではありません。本当に、そう思うだけです」
「ほぅ。じゃあ、そういうことにしておこう」
そう言って、シュアンは何ごともなかったかのようにミンウェイから体を離した。
「え……?」
ミンウェイが虚を衝かれたように小さく声を漏らす。彼女にとって、彼の抱擁は決して心地よいものではなかった。しかし、頼られるほどに応えようとする彼女は、その美貌に寂寥の色を混ぜたのだ。
「まぁ、そんなわけで、俺は凶賊を恨んでいるわけだ」
シュアンは机を回り込み、当然のことのようにもとのソファーに戻って言った。くつろいだ姿勢で座り、三白眼でミンウェイを見る。
「……鷹刀もまた凶賊です。なのに、何故、あなたは我々と手を組もうとするのですか? あなたは高い志を持って警察隊になったのではないのですか?」
わずかに苛立ちを含んだミンウェイに対し、シュアンは薄ら笑いを浮かべた。
「あんた、何を可愛らしいことを言ってんの? 今どうして、鷹刀イーレオは警察隊の振りをした凶賊に囲まれている? 俺の上官が手引したからだろう?」
「え、ええ……、そうですけど……?」
「確かに、俺はかつて、正義感に燃えて警察隊に入ったさ。だが、すぐに『世の中の現実』ってヤツを知ったよ。青臭い餓鬼が、社会を呪うようになるまでなんて、一瞬のことだった」
「……」
「今回の事件だって、そうさ。本当は斑目が藤咲家の息子を誘拐した。指示したのは藤咲家と敵対している貴族、厳月家。そいつらが俺の糞上官とつるんだ」
凶賊と貴族、それぞれの世界で競争相手の弱体化を図りたい斑目一族と厳月家が手を結んだ。そして、彼らのむき出しの敵愾心から漂う腐臭に、警察隊であるはずの男が金袋を片手に蓋をする。
「この社会は腐っているのさ」
シュアンが詩を詠むかのような静けさで呟く。
ともすれば、カーテンを翻す風に打ち消されそうな声は、しかしミンウェイの鼓膜をしかと震わせた。
「まるで腐りきった果実だ。発酵臭を求めて蛆どもが這い回る。ああ、虫酸が走るね……私欲に溺れる上官も、武に物言わせる凶賊も、金で支配する貴族も、全部、不快だ」
ミンウェイを上目遣いに見上げたシュアンの口元で、狂犬の牙が光った。
「――だから、蛆どもをすべて、狩ってやる。そのためには手段を問わない」
シュアンは、乱暴に警察隊の制帽を脱ぎ捨てると、それを床に叩きつけた。豪奢な絨毯の上に描かれる光と影の円舞の中で、彼の年齢にしては高位を示す徽章が虚しく明滅する。
「鷹刀と組むのは、鷹刀が『強い』からだ。俺自身の力は大したことはなくても、鷹刀を味方につければ、俺は強くなれる」
ふたりを隔てるローテーブルに彼が手をつき、ぼさぼさに絡み合った頭髪が彼女にぐいと近づく。血走った三白眼がミンウェイの美貌を舐め、すべてを喰らい尽くそうと、冷酷な闇を映していた。
「その先に何があるのですか?」
ミンウェイは澄み切った湖面のような瞳で、じっとシュアンを見返した。その言葉の裏には、彼への憂慮が見え隠れしていた。凶賊のくせに、この女は本当にお人好しだ、と彼は思う。
「さて? 俺は不快なものを殲滅したいだけだ。その先のことなんて考えたことがなかったな」
本当は分かっている。すべてを狩り尽くすことなんて、不可能であると。だから、その先など、存在しないのだ。けれど不可能だと思ってしまったら何ひとつできなくなってしまうから、強く自分を追い込む。
そうやって、不安定な思いをくすぶらせていくうちに、彼は狂犬と呼ばれるようになったのだ。
「おっと、語りすぎたな」
シュアンは席を立ち、床から制帽を拾い上げて頭の上に載せた。ぼさぼさ頭は納まりが悪いのか、両手で位置を直す。その神妙な顔つきは不健康な具合に青白く、ひとつひとつの顔の部位は整ってはいるにも関わらず、凶相にしか見えなかった。
そして彼は、ふらふらとミンウェイに近づき、彼女の隣に座った。
その意図を読めずに困惑する彼女に、彼は「あんた」と言いかけて、少しの間を置いて言い直した。
「確か、鷹刀ミンウェイ、だったな。……ミンウェイさんよ、ゆっくり考えている場合じゃないだろう?」
名前で呼ぶことで親しみを込めたつもりなのか、シュアンは妙に馴れ馴れしくミンウェイの肩に手を掛けた。
「どういうことでしょうか?」
不審な顔はしたものの、彼女は彼の手を振り払うことはしなかった。
「今、あんたらの総帥は一個小隊に囲まれている。奴らは警察隊の制服を着ているが、中身は斑目の奴らだ」
「ええ……」
「いいのか?」
シュアンがミンウェイの言葉に被るように畳み掛け、隈の濃い目をぎょろりと動かした。
「鷹刀が用心深いってのは知っている。どうせ、伏兵でも用意しているんだろう? だが、乱闘になったら流血は避けられない。しかも中身がどうであれ、相手は表向きは『警察隊』だ。――あんたら、戦っていいのか?」
「……」
「俺なら、止められる」
シュアンは力強く言う。
「俺は、あの指揮官の悪事を暴露できるだけの証拠を握っている。今すぐ、さっきの部屋に乗り込んでいって、奴とニセ警察隊員を逮捕することが可能だ」
彼は、彼女の肩に掛けた手をぐいと引き寄せ、彼女を抱きしめた。そして、耳元で熱く囁く。
「俺の手を取れ。俺と手を組むんだ……!」
3.居城に集いし者たち-1
屋敷をぐるりと囲む外壁が、覇者の風格を漂わせていた。
鷹刀一族の居城を守る鉄壁。その唯一の綻びともいえる場所が、鉄格子から成る重厚な門である。
常であれば、総帥イーレオに忠誠を誓った、屈強な門衛たちが守りを固めている場所だ。しかし今は、警察隊の制服を着た一個小隊ほどの男たちに取って代わられていた。
男たちは、侵入者はすべて阻止するように命じられていた。
例外として、野菜を載せたトラックだけは荷物を運ばせるように、と言われていた。彼らにその指示を与えた者は、ジャガイモの布袋の到着を心待ちにしていた――。
凄まじいブレーキ音を立てながら、鷹刀一族の屋敷の門前に一台の黒塗りの車が停車した。
耳をつんざく響きに、そこに配置されていた男たちは、目配せをしあった。
慣れない制服を着た彼らは、習慣として思わず腰に手を伸ばす。しかし、そこにはいつもの愛刀はなかった。慌てて懐に手を入れ、拳銃を掴む。
車までの距離は、腕をいっぱいに伸ばした長さよりも、ずっと遠い。すなわち、間合いの外。――だが、拳銃なら射程圏内になる。
『先手必勝』という言葉が、彼らの頭を横切った。
不慣れな者が扱うのは危険だから、できるだけ使うな、と忠告はされていた。しかし、彼らは、普段手にしたことのない武器に酔っていた。
――――!
鋭い発砲音が響き渡った。
刹那、車のフロントガラスは蜘蛛の巣と化していた。防弾硝子のためか、弾は内部まで貫通していない。
撃った者は初めて体験した腕への反動に思わず尻餅をついたが、興奮と感動に顔を上気させていた。その周りの者たちは彼に羨望の眼差しを向け、ならば我も、と拳銃を構える。
そのとき――。
「何をする!」
怒りをあらわに、勢いよく車の扉が開いた。
声変わりは始まっているものの、ところどころに未だ高い音色を残したハスキーボイス。車の中から出てきたのは、その声にふさわしいような少年だった。
年の頃は十二、三といったところだろうか。どう見ても子供である。際立った特徴はないが、強いていえば利発そうな顔立ちをしていた。
それよりも、目立つのは服装だった。その年頃の子供が身に着けるにしては不自然な、だが借り物とは思えない上質なスーツを着こなしていた。
「ハオリュウ様! 危ないです!」
同乗してきた大男が飛び出してきて、少年を車に連れ戻そうとする。見るからに護衛と分かる大男を、ハオリュウと呼ばれた少年は「黙れ!」と一喝した。
「姉様は、ここに囚われているんだ。異母弟の僕が迎えに行くのは当然のことだろう?」
自分の手を引く大男を振り返り、ハオリュウは睨みつけた。大男が反射的に手を放し低頭すると、彼は拳銃を向けたまま身動きできないでいる男たちに向き直り、一歩、歩み出た。
「あなた方は警察隊員ですね」
武器を持つ相手に臆することなく、ハオリュウはまっすぐに瞳を向けてきた。
「僕は、藤咲家当主代理、長男の藤咲ハオリュウです」
彼は右手に嵌められた指輪を見せた。複雑な彫刻は、貴族の当主の証だった。
「あ……?」
「…………まさか……」
男たちの間に動揺が走る。
上流階級の家紋などに興味のない彼らにも、彼が何者であるかは即座に理解できた。まさに現在形で罠に掛けている貴族の名前だったからだ。
子供とはいえ、貴族の地位は絶対である。普段は、身分など糞食らえ、と息巻いている彼らであるが、今は警察隊の制服姿だ。慌てて拳銃を懐にしまい、言いたくもない謝罪の言葉を口にしなければならないのかと、ぐっと唇を噛む。
そんな男たちに、追い打ちをかけるかのようなハオリュウの言葉が突き刺さった。
「僕の車に対して発砲した件、あとで上の人に報告しておきます」
男たちの顔が強張り、引き金を引いた男に視線が集まる。しかし彼が槍玉に挙げられる前に、ハオリュウが続けた。
「ここは凶賊の屋敷の前ですから、あなた方が勘違いしたのは承知しています。そのことも含め、報告しますから、ご安心ください」
少年の声であるが故に、それは善意に聞こえた。あるいは、少しうがった者には、親の真似をして寛大な貴族を演じようとしている子供が、必死に背伸びをしているように見えたかもしれない。
だが真に聡い者ならば、彼の言葉の端々に剣呑な響きを感じることができただろう。もっとも、男たちの中には愚鈍な者しかいなかったので、誰も気付くことはなかったのであるが。
「それより、異母姉は、どうなりましたか?」
「い、いや……」
彼らの待っているジャガイモの布袋の中にいるはずだ、とは、誰も言わなかった。
ハオリュウは目線を下げて呟いた。
「……分かっています。既に救出されていたのなら、あなた方のほうから報告するはずです」
「今、他の奴らが探しにいってますんで……」
貴族の傲慢さで怒鳴りつけられると思って構えていた男たちは、意外に物分かりのよい少年にほっとして、取り繕うように言葉を返した。警察隊員として、ふさわしい口調ではなかったが、とりあえず返事ができただけ上出来といえよう。
だが、ハオリュウは彼らが思っているような素直で可愛らしい少年ではなかった。
「いえ。僕が探します」
「は……?」
「僕が直接、凶賊の総帥という者に会いにいきます」
「そ、それは……」
「救出が難航することを考えて、身代金を持ってきたんです」
男たちは口を開き、何かを言いかけようとして……しかし、何を言えばよいか分からずに、そのまま間抜けに固まった。
彼らは所詮、組織の下っ端に過ぎなかった。彼らに下された命令は、『八百屋』を除いての、この門の封鎖のみ。それ以外のことは聞いていないのだ。
そのとき、ひとりの男の懐から、携帯端末の呼び出し音が鳴った。
鋭い響きに、男たちは、はっとする。それは、彼らが待っていた連絡に違いなかった。
端末を持っていた男が血相を変え、「ちょっと失礼しやす」と慌ててその場を走り去る。
「何か、あったのでしょうか?」
電話の内容を気にするハオリュウに、残された男たちは「い、いえいえ!」と、誤魔化すように大きく手を振った。
「で、では、身代金は我々が預かって、鷹刀イーレオに交渉に行く、ってぇことで……」
「失礼ですが、僕が到着する前に異母姉を救出できなかったあなた方は、信用できません」
「けど、凶賊は危険ですんで……」
「ですから、あなた方には護衛をお願いします。あなた方は警察隊です。貴族の僕を守る義務があります」
「な、なんだと……?」
「本気かよ?」
ハオリュウの暴君的発言に慌てる者、困惑する者、怒りに顔を歪ませる者……。てんでに、ざわめき始めた男たちだったが、それを上回る叫びが彼らを襲った。
「何ぃ!? 『八百屋』は来ない、だとぉ!」
電話に出ていた男だった。
一瞬、あたりが静まり返り……次の瞬間、騒然となる。
「ど、どうすんだ!?」
「ふざけんな!」
「タオロン様が失敗したのか!?」
ハオリュウの眉が、ぴくりと動いた――その名は、彼が斑目一族の屋敷に囚われていたときに知った名前だった。
騒いでいる男たちを無視し、彼は踵を返した。身代金の入ったアタッシュケースを取り出すべく、車に戻ったのだ。
「ハオリュウ様、本当に行かれるのですか!?」
「危険です! おやめください」
車の中には、先ほどの大男を含め三人の護衛がいた。皆、必死の形相で主人の暴挙を止めようとする。一番奥にいたひとりなどは、アタッシュケースを死守するかのように抱え込んでいた。
「……思った通りだったよ」
ハオリュウが呟く。
「あいつらは、お前たちの同僚の仇だ」
護衛たちは息を呑み、ハオリュウは唇を噛む。
「誘拐される僕を守ろうとして、彼らは殺された。僕は斑目も厳月も、許さない」
「ですが、ハオリュウ様。あなたが行かれても……」
「大丈夫だ。あそこにいる奴らは『警察隊員』だ。僕を守る義務がある。あいつらを利用して姉様を助ける!」
凶賊の屋敷で一晩過ごした彼女は、どんな酷い目にあったことだろう。それを思うと、はらわたが煮えくり返る。
「姉様、僕が必ず助けます」
触れるもの、すべてを斬り裂いてしまいそうな、張り詰めた空気が場に満ちる。異母姉がどう変わってしまっていたとしても、彼はまっすぐに受け止める覚悟をしていた。
応接室の映像を中断させた電話の相手は、回線が繋がった途端にルイフォンの耳朶を打った。
『ルイフォン! 今、どこにいるんだ!?』
携帯端末から響く怒鳴り声は、繁華街の情報屋トンツァイのものだった。
「あ……」
ルイフォンは小さく声を漏らし、癖のある前髪をくしゃりと掻き上げた。
斑目一族の襲撃によって、すっかり忘れていた。当初の予定では、藤咲家に行くつもりだったのだ。そのため、トンツァイには藤咲家周辺の安全確認を依頼していたのだった。
「悪い」
『何かあったのか?』
「メイシアが襲われた」
『なっ……!? 大丈夫か!?』
「ああ、とりあえず無事だ」
ルイフォンの答えに、トンツァイが安堵の息をついた。
『――詳しく聞きたいところだが、それはあとだ! 部下が情報を寄越してきた』
「何?」
ルイフォンの額に険が混じる。
『藤咲メイシアの異母弟、藤咲ハオリュウが鷹刀の屋敷に向かった。異母姉を助ける、と言っていたそうだ。どうやら、母親の藤咲夫人から事のあらましを聞いたらしい』
「え!? ハオリュウが!?」
最愛の異母弟の名に、メイシアは思わず喜色を上げた。だが、その直後に口元を覆う。
継母がどこまで正確な情報を知っているのかは分からない。けれど、どの内容を取っても異母弟を苦しめるばかりなのだ。彼はこう思っているはずだ――自分のために異母姉は犠牲になった、と。
立て込んだ状況は重なるもので、トンツァイとのやり取りの最中に、今度はリュイセンの携帯端末が鳴った。発信元は、鷹刀エルファン――。
「父上! ご無事でしたか」
しかめっ面の多いリュイセンの頬が緩む。あの父のことだから心配無用、と思いつつ、やはり声を聞くとほっとする。
謂れなき密輸入の容疑で父子共々空港で拘束されていたところに、総帥たるイーレオから連絡が入った。非常事態と解釈したエルファンは息子のリュイセンを強制的に脱出させた――という経緯だったのだ。
『私は無事だ。それより、一体どういう状況だ? 執務室に電話が繋がらない』
父の問いはもっともである。この複雑な状況をどう説明したものかと、リュイセンは途方に暮れかけた。だが、次の父の台詞に彼は耳を疑った。
『私を取り調べていた者を吐かせた。誘拐された貴族を救出するという名目で警察隊が屋敷を囲んでいるとのことだが……ミンウェイが言っていた娘のことか?』
「……父上、今、どこにいらっしゃるのですか?」
『警察隊の車の中だ。取調官に屋敷まで送らせている。もうすぐ着くぞ。お前こそ、どこにいる?』
3.居城に集いし者たち-2
天まで届くかのような、高い煉瓦の外壁。その硬い質感を右手に見続けていたら、薄紅色の吹雪に見舞われた。
エルファンは、ほんの一瞬だけ夢幻の世界に心を奪われる。
庭の桜だ。
この城壁より更に空高く舞い上がり、花びらが彼を出迎えてくれたのだ。一週間ほど前に屋敷を発ったときには、まだ五分咲き程度であったのが今や満開なのであろう。
彼は、父親のイーレオそっくりな美貌を少しだけ綻ばせた。
よく似た父子の彼らは、兄弟に見える。洒落者のイーレオと違って、実利主義のエルファンは髪を染めたりはしないので、頭に白いものがちらつくエルファンのほうが『兄』だ。本当の異母兄弟であるルイフォンに至っては似てない親子にしか見えないが、これは年齢差からいって仕方ないだろう。
美しい花の舞に、皺を寄せていた眉間の皮がすっと伸びる。渋さの滲む影が消えると、彼は、わずかながらの若返りを果たした。
だがそれも、鉄門が見えるまで。
否、それよりも前に、おびただしい数の警察隊の車が門へと続く道を無粋に遮っているのを発見して、エルファンは再び眉間に皺を寄せた。
実のところ、反対側の道から門に向かっていれば、ハオリュウのように支障なく門まで到着したのであるが、これは結果でしかない。
「すみませんが、これでは前に進めません……」
運転席の男が、脅えた表情でエルファンを振り返った。彼は空港でエルファン父子を拘束し、尋問していた取調官なのだが、気付いたら彼のほうが尋問されていた。
「仕方ない。ここからは歩いて行く」
低く魅力的な、だが感情の読み取れない声に、取調官はエルファンの怒りの幻影を見たらしい。「ひぃっ」と声を漏らすと、壊れた人形のように謝罪を繰り返した。
エルファンが車を降りると、取調官は逃げ去るように車を急発進させる。そこまで必死になることもないだろうに、とエルファンが深い息を吐いているうちに、車はあっという間に見えなくなった。
彼は再び息を吐くと、今度は高い外壁を見上げる。久しぶりの我が家である。
……この中で、一族が警察隊に蹂躙されている。
彼の目尻が上がり、眉間に更に深い皺が寄った。ルイフォンの話では今のところ大きな被害は出ていないが、父イーレオが執務室で一個小隊を引き連れた指揮官と対峙しており、応接室では姪のミンウェイが狂犬に噛みつかれようとしている。
ともかく屋敷に入って、この目で状況を確認したいところだが、現状では門をくぐることすら容易ではなさそうだ。――門前にいる一個小隊ほどの警察隊員を見て、エルファンは三度目の溜め息をついた。
周囲の状況を確かめるため、エルファンは乱雑に止められた無数の車のひとつの影に隠れた。
門の前にいる男たちは警察隊の制服を着ていたが、その肩を怒らせた立ち姿から、明らかに凶賊の下手な変装だと知れる。
そして、それに対峙する少年は、渦中の貴族の娘の異母弟だろう。
リュイセンたちを乗せた車は、まだ到着していないようだった。
空港を出たのはリュイセンのほうが先だったが、彼は貧民街付近に大きく迂回したので追い越す結果になったようだ。加えて、エルファンが乗っていたのは警察隊の車両であり、周りの車が道を譲ってくれたというのもある。
エルファンは――もう何度目か分からないが、眉間に皺を寄せた。
強行突破をせざるを得ないか。できれば、穏便な方法を採りたいのだが……。
遠目に見える様子から、少年と男たちは何やら言い争っているようであった。
貴族の娘の事情についても、ルイフォンから聞いていた。大層な事件のように語っていたが、エルファンから見れば、実に馬鹿馬鹿しい話だった。
騙された貴族の娘が鷹刀一族の屋敷を訪れ、人のいいイーレオが彼女を受け入れた。翌日、脅されている継母が「娘が誘拐された」と訴え、屋敷が警察隊に囲まれた。それだけのことである。
イーレオの自業自得。エルファンが昨日、留守にしていなかったら、何をしてでも娘は追い返していた。
しかし、父に対して怒りの感情は湧いてこない。矛盾としか思えないのだが、そこで娘を見捨てられない父のことをエルファンは敬愛していた。
「いえ。僕が探します」
突然、少年の毅然としたハスキーボイスが、エルファンの耳朶を打った。距離があるので彼らの会話は断片的にしか聞こえないが、まだ高さの残る声はよく響いた。
「僕が直接、凶賊の総帥という者に会いにいきます」
エルファンは耳を疑った。貴族の、しかも子供が大華王国一の凶賊の総帥に会いたいなど、正気の沙汰ではない。
「難航することを考えて、身代金を持ってきたんです」
少年の声に続き、男たちが何やら騒ぎ出す。だいぶ混乱した状況のようだ。
そうこうしているうちに、少年は、近くに止めてあった黒光りする高級車の中に姿を消した。
エルファンは、もう少し詳しく様子を見ようと、車の影から影へ、そろそろと近づく。すると、「危険です」「おやめください」などといった懇願の声が、はっきりと聞こえてきた。
しばらくして、少年は再び車外に現れた。
彼のそばにいる三人の者は護衛だろう。主人を守るかのように両脇にふたり。残るひとりは重そうなアタッシュケースを持っている。
「行きましょう」
少年の声が高らかに響いた。
エルファンは額に皺を寄せ、渋面を作った。
少年の探している異母姉がどこにいるか、エルファンは知っている。このまま少し門前で待っていれば、あっさりと再会できるのだ。だが、彼女のそばには、リュイセンとルイフォンがいる。彼らが同じ車から出てきたとき、少年はふたりの若い凶賊が異母姉に悪事を働いたと思い込み、騒ぎを大きくするだろう。貴族の権力は厄介だ。
どうしたものかと、エルファンが頭を悩ませている向こう側では、警察隊の服装をした男たちが恐慌をきたしていた。
「ま、まずは、中にいる連中と連絡を……」
しどろもどろに言葉を転がす男に、別の男の叫声が被る。
「だ、駄目っす。繋がりやせん!」
「な? 何がだ?」
「あの人に『八百屋』は来ねぇと報告しようとしてんですが、『電波が通じません』と……」
「なんだと!」
殺伐とした喧騒に、思索の海へと潜り込んでいたエルファンの意識が引き上げられた。男たちの滑稽なまでの慌てようを見て彼は軽く嗤い、そして思い出した。
ここは天才クラッカー〈猫〉が守っている鷹刀一族の屋敷。その敷地内で〈猫〉の許可のない電波は通じない。
「直接、報告に行け!」
「って言われても、この馬鹿でかい屋敷のどこにいるんすか!」
癇癪にも近い悲鳴が上がる。それを聞いて、エルファンにひとつの策が閃いた。
男たちが連絡を取ろうとしている人物は、おそらくこの騒動を指揮している者。そして少年が会いに行くと言っているのは総帥イーレオ。どちらも執務室にいて、エルファンは執務室の場所を知っている。ならば、案内すると言えば、すんなり門を通してもらえるのではないだろうか。――無論、本当に案内などはせずに、そのへんの部屋に閉じ込めておくつもりだが……。
エルファンは身を潜めていた車の影から、すっと姿を現した。
鷹刀一族の直系らしい、すらりとした長身、黄金率の美貌。壮年の渋さと色気を備えた堂々たる歩みに、腰に佩いた双刀が呼応して揺れる。
「一週間ぶりに帰ってみれば……一体どういうことだ?」
エルファンは低い声を響かせた。
男たちの喚きが、ぴたりと止まった。
その場にいた者は、一斉に声の主に注目し……男たちは硬直した。
「た、鷹刀……エルファン……!」
「警察隊に名を知られているとは……。こんな稼業とはいえ、私自身は清廉潔白に生きているつもりなのだが?」
男たちの背を、本能的な恐怖が這い上がっていく。父イーレオと同系統の蠱惑的な声質でありながら、父はすべてを惹きつける引力を持ち、彼はあらゆるものを撥ね除ける斥力を持つ。その違いは、ただひとつの差――『遊び心』の有無だ。イーレオが同じ台詞を言ったとしたら、まったく別の印象を与えたであろう。
エルファンは車の林をゆっくりと抜けていく。乱雑に止められた車の間を無造作に進むように見せかけながら、できるだけ貴族の少年の背後に回るよう、道を選んでいた。
男たちの懐が不自然に膨らんでいるのは拳銃を持っているからだ。いくらエルファンでも、素人の百の弾丸を愛刀だけですべて避けきるのは難しい。だが、貴族を盾にしておけば、警察隊を装っている彼らはエルファンに手出しできない。
「鷹刀……?」
少年もまた振り返り、高い声を漏らした。彼はエルファンを見た瞬間、凶賊という凶悪な存在らしからぬ容貌に息を呑み、困惑の表情を浮かべる。――お馴染みの反応に、エルファンは「そうだ」と低く返した。
「私は鷹刀エルファン。鷹刀一族総帥の長子で次期総帥だ。それより、お前は何者だ?」
エルファンの双眸が少年を捕らえる。少年の護衛が慌てて主人をエルファンから隠すが、彼らには武術の心得はあっても暴力の心構えはない。同僚が凶賊に、あっけなく殺されたばかりということもあり、自然に身が固くなっていた。
そんな護衛たちを押しのけ、ハオリュウはエルファンの前に歩み出た。
「僕は、藤咲ハオリュウ。貴族の藤咲家当主の長男。次期当主です」
少年――ハオリュウは、臆することなくエルファンを見返した。しかも、意図してのことが否か、それとなくエルファンの名乗りをなぞっている。
顔の造作的には十人並みの、どこにでもいるような少年だった。だがエルファンは初対面の、それも子供に正面から視線を返されたのは初めてだった。たいていの人間は、一度はエルファンの美貌に見とれるものの、すぐさまその氷の眼差しに恐怖を感じ、凍えて動けなくなる前にと目線をそらすのである。
凶賊相手に揺るぎがないのは、権力に守られた貴族の子供の無鉄砲な行動力ゆえか。父イーレオであれば、ひと目で気に入るのであろうが、あいにくエルファンは無謀な賭けに出る輩に乾いた賞賛は与えても、評価はしない主義であった。
「貴族が、なんの用だ?」
事情は知っている。しかし、エルファンは彼の言動として不自然がないように、凄みをきかせて問いかける。
「僕の異母姉があなたの父君のところにいるので、迎えに来ました」
ハオリュウの返答に、エルファンは眉を寄せた。それは不審を表す演技をしようと思ってのことだったが、安易な『誘拐』という言葉を使わぬハオリュウへの疑念でもあった。まるで鷹刀一族の名誉を傷つけぬように、との配慮に取れたのだ。
「それは本当か?」
「はい」
「つまり、この騒ぎは、お前が異母姉を取り返すために起こしたものということだな?」
エルファンが、顎でハオリュウの背後の警察隊を示す。
ハオリュウは「いえ……」と、言いかけて首を振った。
「そんなところです」
そう答えて、ハオリュウはエルファンの顔をじっと見詰め、それから頭から足先まで全身に視線を走らせた。
客観的には、立派な体躯の凶賊に子供がおどおどと脅えているように見えただろう。だが、エルファンにはその目線の意味が理解できた。
――『値踏み』だ。
偶然出くわした、鷹刀一族の総帥に最も近い男に対して、どういう態度を取るべきかを――どう利用するべきかを、冷静に計算している。
エルファンは溜め息をついた。
まさか、子供相手に腹を探る羽目になるとは思わなかった。先ほど車で送らせたの取調官のほうが、数千倍も御しやすかった。
「エルファンさん」
ハオリュウの目線がエルファンの顔で止まり、ハスキーボイスが放たれた。何かを決意したような、迂闊に触れれば斬られるような研ぎ澄まされた目をしていた。
「ふたりきりで、お話したいことがあります。よろしいでしょうか」
「なんだ?」
「凶賊のあなたは、警察隊がそばにいては心を開いてくださらないでしょう。僕の車へ――防音されています」
そう言って、フロントガラスが蜘蛛の巣状になった高級車を示す。
「ハオリュウ様! 危険です!」
ハオリュウの護衛が顔色を変えた。
「大丈夫だ。もし僕に何かあったとしても、これだけの警察隊に囲まれていれば、彼は逃げ切ることができない。だから、彼は僕に手を出せない。――そうですよね?」
ハオリュウはエルファンに目をやり、彼が頷いたのを確認すると、今度は男たちに顔を向ける。いきなり、話を振られた男たちは慌てふためくが、彼らには肯定するという選択肢しか与えられていなかった。
3.居城に集いし者たち-3
神経質な額を歪ませ、こめかみに手をやりながら、リュイセンはルイフォンの手の中の携帯端末を気にしていた。
「……車の中はカメラに映らないんだから、仕方ないだろ?」
無駄とは思いつつ、ルイフォンはリュイセンをたしなめる。
大柄な男が隣でいらいらと膝を揺らすさまは、なかなかに圧迫感があり、ルイフォンは露骨に嫌な顔をしていた。
一方、ルイフォンの反対側の隣に座っているメイシアは、瞳を真っ赤にして、やはりルイフォンの携帯端末を覗いていた。
今までの彼女からは考えられないくらいに、彼に体を密着させている。それは彼女の意志か、彼が彼女の震える肩にそっと回した手のせいか――。
「ハオリュウ……」
澄んだ声が、メイシアの唇からこぼれ落ちた。
――先刻、メイシアの異母弟ハオリュウと、ルイフォンの異母兄であり、リュイセンの父であるエルファンが、共に屋敷に向かっていると知り、ルイフォンは携帯端末の映像を屋敷の門前のカメラに切り替えた。すると、そこに映ったのは、まさにそのふたりが対面したところだった。
異母弟の顔を見るやいなや、メイシアの頬を透明な涙が伝った。
声もなく画面を見入る彼女に、ルイフォンもまた声に出して掛ける言葉を思いつけなかった。だから、そっと彼女の頭に手を載せ、その艶やかな髪をくしゃりと撫でた。
しかし、そんなふたりの異母兄弟たちは険悪な状態にあった。お互いに相手の腹を読み解くべく、じっと睨み合い、言葉を選びながら会話をしている。
正直なところ、ルイフォンは愕然としていた。
メイシアから伝え聞いた話から、彼女の異母弟は儚げな薄幸の美少年だと信じ込んでいたのだ。それが、あの合理主義の異母兄エルファンと、対等に渡り合うとは……想像を絶していた。確かに、絶対に譲れない場面では一歩も引かずに自分を貫こうとする姿勢などは、メイシアとそっくりとも言えるのだが――。
異母兄弟たちの立場上、不仲は当然のこととはいえ、ルイフォンはメイシアに対して気まずいものを感じていた。おそらく彼女もまた同じだったろう。身内に対し、それぞれがやきもきしていたところに、ハオリュウが車という密室での会談を申し出た――というわけである。
ハオリュウは、エルファンをリアシートに案内すると、続いて隣に乗り込んだ。そして勢いよくバックドアを閉める。話をするのには不便な、顔の見にくい横並びの座席だが、それは仕方のないことだ。
「快諾してくださって、ありがとうございます」
こちらに顔を向け、ハオリュウが言った。彼の話に付き合うべく車に乗り込んだことを言っているらしい。今までの彼らしくもなく、神妙な顔をしている。
「挨拶はいい。要件を聞きたい」
「あの警察隊――偽者です。斑目の奴らです」
ちょうど、応接室でシュアンがミンウェイに言ったのと同じようなことを、ハオリュウがエルファンに告げた。
「そうだろうな。見れば分かる」
ミンウェイと同じく、エルファンもそれに動じることはない。だが、ハオリュウはシュアンとは同じ反応にはならなかった。
ハオリュウは「え?」と声を詰まらせた。彼としては大層な秘密を言ったつもりだったらしい。しばし言葉を失い、困惑したように唇を噛む。
ここに来て初めて、世間知らずの貴族の子供らしさを見せたハオリュウに、エルファンは少し安堵した。間近で見ると、年相応の子供らしい少年だった。可愛らしいと言えなくもない。
エルファンは苦笑しながら、水を向けた。
「警察隊の指揮官と斑目が繋がっているんだろう?」
「そうです……」
「そして、お前は騙されて凶賊の屋敷に行った異母姉を取り戻したい」
「え……、知って……?」
エルファンが『留守にしていた』と言ったのをきちんと聞いていたらしい。ハオリュウは察しの良すぎるエルファンに目をぱちくりさせた。
エルファンは上着の裏を軽くめくり、携帯端末を示した。『情報を制する者が勝つ』とは日々、異母弟ルイフォンが言っている言葉だが、なるほどと思う。
予想外のことに困惑を隠せなかったハオリュウだが、納得がいくと、今度は情報が伝わっているのなら話は早いと思い直したらしい。「その通りです」と力強く答えた。
「異母姉を返してください。聞き入れてくだされば、貴族の権限で、屋敷に入り込んだ警察隊を即座に撤収させます。勿論、この件に関して鷹刀一族が罪に問われるようなことにはさせません」
ハオリュウが調子を戻し、決然と言い切った。警察隊をエルファンへの抑止力に使ったり、取り引き材料にしたりと、なかなか頭が回る。
「それと……異母姉からではなく、僕から鷹刀一族に父の救出を依頼したいんです」
「ほぅ……?」
それは意外な展開だった。
「お金は用意しました。異母姉の身代金と依頼料を合わせて、あのアタッシュケースです。足りなければ言い値を払います。だから……お願いします。僕を鷹刀イーレオに会わせてください」
「異母姉を囚えている凶賊を信用するというのか?」
低く冷たいエルファンの言葉にハオリュウは唇を噛んでうつむいた。そして肩を震わせたかと思うと、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえる。彼は胸の中の空気を無理矢理に押し出し、ゆっくりとハスキーボイスを軋ませた。
「……異母姉が昨日の晩、あなた方に何をされたかと思うと許せるわけがありません。けれど、斑目一族に対抗できる力があるのは鷹刀一族だけです」
ハオリュウは顔を上げ、口の端を引きつらせるように嗤った。ちらりと、ひび割れたフロントガラスに目をやる。
「もし、僕の言うことを聞いていただけないのなら、僕はこれから車から転げ出て、あなたに襲われたと叫びます。警察隊の姿をした彼らは銃を撃ちたくて堪らないようでしたから、喜んであなたを蜂の巣にしてくれるでしょう」
それは、子供の姿をした魔物だった。壮絶な負の感情が押し寄せる。
簡単には物事に動じないエルファンが、一瞬ではあるが――呑まれた。
「小僧……」
思わず罵りの言葉を漏らす。
子供と思って侮っていた。
目の前にいる少年は、家族を取り戻すために奔走している、貴族の次期当主。父親が不在の今は、彼が事実上の当主だ。まだ危うさを隠しきれないが、数年もすれば一角の人物になるだろう。
エルファンは、ゆっくりと息を吐いた。駆け引きの最中に心を乱したら負けなのだ。
個人的感情としては、脅迫は不愉快である。しかし、客観的に考えればハオリュウの言動はなかなか的を射ている。この状況に持ち込んだ手腕は見事と言わざるを得ない。
エルファンは他人を評価できないほど狭量でもなかったし、非合理的でもなかった。すなわち、ここでエルファンがハオリュウと敵対する利点は何もなかった。かくなる上は、いかにして自分が優位に立つか、だ。すぐに承諾してはならない。
エルファンは瞳を冷酷に光らせ、口の端を上げた。
「子供の浅知恵だな」
揺さぶりをかけるべく、あえて子供扱いをする。
「ここで私がお前に従うと言ったところで、本当に父のいる部屋に案内するという保証はない。適当な部屋に連れ込んで、お前に斬りかかるかもしれない」
「それを防ぐための、あの男たちです。彼らは『警察隊』ですから、あなたから僕を守らざるを得ません」
常人なら耐えられぬほどのエルファンの凍れる眼差しを、ハオリュウは受けて立った。まだ華奢なはずの少年の撫で肩は、上質なスーツの鎧で双肩を固く覆われていた。
――ああ、これは父が欲しがるタイプの人間だ。
長年、総帥である父イーレオを近くで見てきたエルファンには分かる。
この先、父が藤咲家とどう関わるつもりなのか知らないが、とりあえず信頼関係を築いておいたほうが良さそうだ。そう、判断を下す。
「分かった。では、お前の提案に乗ってやろう」
エルファンの態度の急変に狼狽しながらも、ハオリュウの瞳が喜色に輝いた。それを確認してから、エルファンは懐から極めつけの切り札を出した。
不意に、リュイセンの携帯端末が鳴った。
こんなときに誰だよ、とリュイセンは悪態をつきながら、発信元も確認さずに、それを耳元に当てた。そして、相手の声を耳にして顔色を変える。「おい」と、祖父や父とそっくりな、低くて魅惑的な声を響かせた。
「なんだよ?」
ルイフォンが不審の声を上げるが、リュイセンは首を横に振る。
「お前じゃない、そっちの――お前だ」
メイシアのことらしい。彼女に対する態度を決め兼ねているリュイセンは、彼女のことをどう呼べばよいのか決めあぐねているらしい。
「お前に電話だ」
そう言って、リュイセンがメイシアに携帯端末を手渡すと、困惑顔で受け取った彼女の耳を『姉様……!』という声が出迎えた。
低くなり始めたハスキーボイス。まだ大人になりきれていない、高さの残る音色。
「ハオリュウ? 本当に、ハオリュウなの?」
メイシアの鼓膜に響いてきた声は、紛れもなく異母弟のものだった。
携帯端末を握る手が震える。言いたい言葉はいくらでもあるのに、胸がつかえてしまう。こぼれるのは嗚咽ばかりで、それがとても、もどかしい。
『姉様! 姉様……無事で……!』
真っ直ぐな少年の声が、必死にメイシアに手を伸ばしてくる。音で繋がっているだけの、触れられない距離を埋めようとでもするように、抱きしめるように、すがるように、ただがむしゃらに声を張り上げていた。
「私は大丈夫よ」
『で、でも、姉様は、あの……っ!』
ハオリュウが言いにくそうに口籠る。その理由を察して、メイシアは顔を真っ赤にさせた。だがそれは、電話口の向こうのハオリュウには異母姉が押し黙ってしまったように感じられたらしい。彼は慌てて取り繕うように叫んだ。
『もう姉様には二度と怖い思いはさせない! 僕が必ず守るから!』
「ち、違うの。あのね、鷹刀の人はね……」
なんと言えばよいのか分からず、また猥雑なことを口にするのは性格上、決してできず、メイシアは携帯端末を手にしたまま、当てもなくきょろきょろと視線を動かした。そんな可愛らしく狼狽えるさまに、隣のルイフォンは新鮮さを覚えていた。
そういえば、敬語以外の彼女の言葉を初めて聞いた気がする。これが異母姉弟の仲なのか――とルイフォンは思い……自然に体が動いた。
不意に、メイシアの手から携帯端末が消えた。
「えっ?」と思った彼女は、視線を上げた先で、憮然としたルイフォンが異母弟に話しかけている姿を目にすることになる。
「お前の異母姉は、総帥の愛人ということになっている。けど、親父はもう女遊びができる年でもない。かといって、総帥の女を手籠めにするような馬鹿はいない。――つまり、誰もこいつに手を出してない。貴族のくせに下種な心配をするな」
毛羽立つテノールを耳にしたハオリュウもまた、不快げに声を荒立てた。
『お前は誰だ? 姉様に向かって『こいつ』などと……!』
「鷹刀ルイフォン。そこにいるエルファンの異母弟だ。もういいだろ。エルファンに替わってくれ」
ルイフォンはそう言い放ち、猫のように細い目で見えない相手を睨みつけた。
隣で、リュイセンが呆れ果てたような溜め息をく。その際、自分に何か非があったのではないかと、おどおどと不安げな顔をしているメイシアと目が合ってしまった。その小動物的な様子に、良い感情を抱いていない相手ながらも、同情の念を禁じ得なかった。
『ルイフォン? 電話を替わった。エルファンだ。私はこれから、この小僧と共に屋敷に入る。そっちはまだ遠いのか?』
口調に気をつけて聞かないと、イーレオ、エルファン、リュイセンのうちの誰なのか、判別できないほどに酷似した低音が響く。
「じきに着くと思う」
『分かった。屋敷内のことで分かっている情報は?』
「ああ、すまん。門にカメラを切り替えたから、現状は把握していない。最後に見たときは、執務室で親父が世間話をしていて、応接室でミンウェイが狂犬を持て余していた」
『まったく、ミンウェイは……。適当に口約束をして利用しておけばよいものを、あの子は律儀だな。その上、身の上話までされたらたまらない……ふむ、分かった』
そう言って、エルファンは話は終わったとばかりに電話を切ろうとしたので、耳をそばだてて聞いていた彼の息子リュイセンが待ったをかけた。
「祖父上に関しては何もおっしゃらないんですか? お茶まで出して談笑しているんですよ?」
正確にいえば、笑っているのは総帥イーレオだけで、相手の指揮官は顔をひきつらせつつ、そわそわしていた。彼らは知らなかったが、指揮官は『八百屋』が来たという連絡がなかなか来ないので焦れていたのである。
ルイフォンは、音声がリュイセンにも聞こえるよう、携帯端末のスピーカーを彼に向けると、エルファンの淡々とした声が聞こえてきた。
『父上は待っているだけだろう?』
「は? 何を待っているんですか?」
そんなことも分からないのかと言わんばかりの物言いに、リュイセンは苛立ちを隠せない。
『そこの貴族の娘が、父上に『なんとかしてみせます』と言ったんだろう? だから、それを信じて帰りを待っている』
――信じて帰りを待っている。
低く魅惑的な声。
メイシアの心に、大きく波が打ち寄せた。
エルファンは単に状況を分析しただけに過ぎない。だが、彼女の耳には、同じ声質を持った、大海のような度量の男の声に聞こえた。温かな言葉の波が回り込み、ゆったりと彼女を包み込む。
『それだけだ。ともかく、お前たちも早く帰ってこい』
――それだけだ。
――早く帰ってこい。
4.窓辺に吹く風-1
開け放した窓から、ふわりとした風が舞い込む。
シュアンのぼさぼさ頭を、ミンウェイの波打つ髪を、軽やかに揺らし、応接室の中に溶け込んでいく……。
ミンウェイを包むシュアンの両腕は、しっとりと温かかった。
体温には人を惑わす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己で、どこからが他者であるかの境界線を不明瞭にする。
制服のしゃりっとした布地が彼女の首筋をこすり、その感触だけが、かろうじてシュアンの存在を主張していた。
……彼の感情が、彼女の心を侵食していく。
このことを彼は知っているのだろうか。それならば、なかなかの策士だ。だがそれは、彼の心をさらけ出すことでもある諸刃の剣。
シュアンの言葉には誇張はあるが、嘘はない。虚勢の中に、すっかり色あせた、けれども今も変わらぬ少年の心が透けて見える。
頑なに彼を拒絶する理由は、ないのかもしれない。――シュアンに気を許しつつある甘い自分を自覚しながらも、ミンウェイはそう思う。
それに、彼の絶望を宿す目が気になってならなかった。
彼には何もないのだ。目指すものも、守るものも。
惰性だけで生きている。
狂犬どころか、迷い犬だ。そんなところが過去の自分と似ていると、彼女は思った。
「……あなたは、そのカードを今ここで切っていいのですか?」
シュアンの腕の中で、ミンウェイが尋ねた。彼女の吐息が、彼の胸元に掛かる。
「カード?」
問い返したシュアンに、ミンウェイが顔を上げた。
「あなたが警察隊の中で突飛な行動が許されるのも、鷹刀に提示できる情報を持っているのも、すべてあの指揮官のおかげなのでしょう?」
その言葉に、シュアンは、ほのかに笑う。
「ミンウェイさんよ、俺は勘定が得意なんだ。鷹刀イーレオに恩を売れるのを考えりゃ、あんな男くらい……」
「手札の使いどころを間違えては駄目ですよ」
シュアンの言葉の途中で、ミンウェイの声が、こつんと彼の頭を叩いた。
彼女は微笑んでいた。その慈愛の眼差しに、シュアンは息を呑む。
それは、幼い日に我儘をたしなめてくれた、あの優しさに似ていた。永遠に失われた、あの温かさに。
「……だが、鷹刀イーレオは偽警察隊に囲まれているんだぞ。それは、どうする気だ?」
「私たちには奥の手があるから大丈夫なんですよ」
こっそり秘密を漏らすような茶目っ気で、ミンウェイが答えた。
「…………参ったな」
シュアンは敗北を悟る。
これ以上、何を言っても彼女を落とすことは不可能。
お手上げだ、とばかりにミンウェイを包んでいた両手を外し、シュアンは肩をすくめた。
「そんな熱い目で見つめられたら、何も言えなくなるな」
シュアンの軽口に、ミンウェイがくすりと笑う。
「大事なカードを切らなくても、祖父に引き合わせて差し上げますわ。ただし、口添えは致しませんけどね」
「は……!?」
突然の申し出に、シュアンは狐につままれたような顔になる。ミンウェイの心変わりの理由を、彼の間抜け面が必死に問うていたが、彼女はくすくすと笑い声を立てて、はぐらかすだけだった。
――そのときだった。
「入るぞ」
唐突に低く響く、魅惑の声。
いつの間にか、バルコニーに人影があった。風に揺れるレースのカーテンに、黒い影がゆらゆらと映し出されている。
白いレースに、がっしりとした男物の手が掛かり、カーテンが大きく開かれた。
陽光を背にした、すらりとした長身。この屋敷には、姿形の酷似した血族が複数住んでいるが、逆光の中でもミンウェイは彼を間違えることはなかった。
「エルファン伯父様!」
ミンウェイが歓喜に震え、思わずソファーから立ち上がる。空港で拘束されたという報告のあと、屋敷への連絡がなかった伯父の帰還だった。
「お帰りなさいませ」
「ミンウェイ、得体の知れない奴に同情するな」
部屋に入ってきたエルファンは、冷たくシュアンを一瞥し、黄金率の顔をしかめた。
「すみません……」
ミンウェイの整った眉が下がり、波打つ髪が立つ瀬なくうなだれる。
「いちいち情を移していたら、お前が壊れてしまうぞ」
「伯父様……」
淡々とした言葉は、硬質でありながら、どこか柔らかい。エルファンが身内にだけみせる声色に、ミンウェイの顔がふわりと華やいだ。
「あとは任せろ。留守の間、ご苦労だった」
「いえ。伯父様がいない間に面倒なことになってしまい、申し訳ございません」
「事情は途中で連絡の取れたルイフォンから、だいたい聞いている。父上のお遊びが過ぎただけだろう? お前が気に病むことは何もない」
不意に、「ごほん」と、咳払いが聞こえた。
まるで存在を無視されていたシュアンである。
彼はすっと立ち上がり、エルファンの前に出た。そして、今までの彼らしくもなく、きっちりと会釈する。
「あんたが、次期総帥の鷹刀エルファンさんですね?」
「いかにも。そういうお前は、警察隊の緋扇シュアン――『狂犬』だな」
その言葉に、上がりかけていたシュアンの右手が、ぴたりと動きを止めた。しかし次の瞬間には、彼の顔が満面の笑みで彩られる。明るく親しみやすい、人好きのする顔である。
「ああ、あれは演技ですよ、演技。日頃から気ちがいじみた言動を取っていれば、俺が多少、『やんちゃ』しても、誰も疑問に思わないでしょう? それが俺の行動の自由に繋がるわけです」
「ふむ……」
エルファンが感情の読めない声で相槌を打った。それから、すぐにまた興味を失ったかのようにシュアンから視線を外す。
だが、シュアンはエルファンの横顔に話を続けた。笑顔の花を咲かせたままに――けれど、その目は笑っていない……。
「俺と、手を組みませんか?」
ミンウェイが、総帥イーレオに渡りをつけてくれると約束してくれたばかりであるが、次期総帥と直接、話ができる――これはチャンスだった。
陽光をふんだんに含んだ春風が、カーテンをふわりと揺らす。頬をかすめた空気が、シュアンには何故だか冷たく感じられた。
「ほぅ?」
エルファンの口角が皮肉げに上がる。
「お前と手を組むと、どんなことが起こるんだ?」
反応が返ってきたことにシュアンは手応えを感じた。彼は少し考えるような素振りを見せて、ちらりとミンウェイを見やる。
「そうですね。……例えば彼女のような美女とデートができたら、さぞ美味い酒が飲めるでしょうね。つい饒舌になって、仕事のことを口走ってしまうかもしれません」
シュアンの返答が興に乗ったのか、エルファンの顔の角度が少しだけこちらに向いた。黒髪に紛れていた白い髪が現れ、きらりと陽光を弾く。
「例えば、どんなことを?」
「繁華街の抜き打ち調査がいつ行われるか、とか。警察隊高官の誰が金に困っているか、とか……。まぁ、いろいろですね」
エルファンが声もなく目元だけで笑った。魅惑の微笑は禍々しく、シュアンの背を汗が流れ落ちる。
しばしの沈黙ののち、エルファンの節くれだった硬い手が、すっと差し出された。
握手を求めているのか、気に入られたのか! ――シュアンは、にぃっと微笑む。彼は音が鳴るほど勢いよく、その手を取り、力強く握りしめた。
すると、エルファンも握り返し――。
突然、エルファンがシュアンの手を引き寄せ、よろけた彼の足元を蹴り払った。
「え――?」
それは、ほんの一瞬のできごとであったに違いない。しかしシュアンは、自分の体が空中を泳ぐのを認識した。
驚きのあまり、彼の眼球は飛び出さんばかりに膨れ上がり、ぼさぼさ頭に載せられていた制帽は遥か後方へと飛んでいく。
どさり。
シュアンの体が床に落ちた。毛足の長い絨毯のおかげで、恐れていたほどの衝撃はなかったが、やはり痛いものは痛い。
理不尽な扱いに友好の仮面が剥がれ、血走った三白眼がエルファンを探す。その次に彼が見たものは、冷たい銀色の煌めきだった。
「な……!?」
鋭い唸りを上げ、エルファンの腰から飛び出した二条の光。
ひとつの刀を雷で双つに斬り裂いたかのような双子の刀。
それらが優美な軌跡を描きながら、閃光の速さでシュアンの喉元めがけて落下する。
シュアンは目を見開いたまま、身動きを取れない……。
凍った時間の中で、続けて二度、空気が震えた。
気づけば、シュアンの喉仏の上で、ふた振りの刀が交差して床に突き刺さっていた。
「伯父様……!?」
ミンウェイの色を失った声が響く。
「……手を組む? 勘違いするな、青二才。鷹刀の看板は、お前如き下っ端が対等になれるほど軽くはない……」
「……っ」
氷の眼差しがシュアンの喉を凍りつかせ、声が封じられる。大きく見開いた目の中の、目玉だけを動かして、彼はエルファンを見上げた。
エルファンは「ふん」と言うと、シュアンに握られた手の穢れを祓うかのように服で拭った。
シュアンの首筋と、左の耳たぶの薄皮が一枚、風圧によって斬り裂かれていた。
『神速の双刀使い』――加齢により、その呼び名は息子たちに譲ったエルファンだったが、今なお、その神業は健在だった。
「だが……。お前というカードは使えるかもしれない」
シュアンに落とされていた蔑みの視線に、魅惑の微笑が混じる。
やられた、とシュアンは思った。
エルファンは端からシュアンと手を組む気でいた。その上で、どちらが主導権を握るかの駆け引きを仕掛けてきていたのだ。
「それはそれは……。ありがたいね。てっきり嫌われたかと思ったぜ」
せめてもの減らず口。
「個人の好悪を優先するような幼稚な感情を、私は持ち合わせていない。利益があると思えば、お前のような者でも使う」
シュアンの神経を逆なでするようなことを、エルファンは平然と口に載せる。
「……あんたみたいな相手だと、俺もやりやすいね」
わずかにでも動けば、白銀の刃が皮膚を斬り裂く状況で、シュアンは笑った。予定とはかなり違うが、鷹刀一族とのパイプができたことを実感していた。
エルファンが、ゆっくりと近づいてきて、シュアンの顔に影を落とした。
「とりあえず、お前に役に立ってもらおうか」
渋く魅惑的な声が響き、ふた振りの刀は銀色の軌道をくるりと描いて、ひとつの鞘に戻っていった。
4.窓辺に吹く風-2
そこは日当たりの良い明るい部屋だった。
柔らかな陽光が窓辺を照らし、窓を覆うカーテンを白く反射させていた。春風がふわりとやってきては、細やかなレースを優美に揺らす。編み目から漏れ出た光の欠片がハオリュウの瞳を刺激し、彼は思わず目を瞑った。
「なぁ、俺たち、いつまで、ここで待っていればいいんだ?」
背後からの男の呟きに、窓際でたたずんでいたハオリュウは、視線を部屋の中へと移す。
洒落たローテーブルを囲むように座る、警察隊の制服を着た男たち。彼らはゆったりとしたソファーに身を沈めていた。
実は先ほどまで、彼らは年甲斐もなくその座り心地に夢中になっていた。だが、それも無理はない。シンプルなデザインだが、張り地に外国製の本革を使用しているのが、目の肥えたハオリュウには見て取れた。
壁に飾られた油彩の風景画に関しては彼の教養では評価できなかったが、名のある名画なのだと言われれば信じてもいい。
しかし、目につく調度品といえばそのくらいで、この部屋が客人を招いて歓談するような類の部屋ではなく、もっと事務的な場所なのだと推察できた。
鷹刀一族次期総帥、鷹刀エルファンの案内で、ハオリュウと男たちは『執務室』というところに向かうはずだった。その途中で、エルファンは「少し待っていろ」と言って、彼らをこの部屋に残して出ていったのだ――この部屋の窓から……。
ハオリュウは体を返し、光の注ぐ窓を再び見上げる。その先はバルコニーに続いており、更に隣の部屋へと繋がっていた。
「あの男、俺たちを案内する気なんてねぇんじゃねぇか?」
先ほどとは別の男が、辺りを窺うような面持ちで猜疑の声を上げた。
「俺も、そんな気がする……」
男たちはローテーブルの上で、額を寄せて頷き合う。その数、五人。
ハオリュウの護衛は、門のところで待機させた。凶賊が相手では、歯が立たないことが分かっているからだ。それは、彼が誘拐されたときに証明されている。彼はもう、自分のために護衛が命を落とすのはまっぴらだった。
「かといって、どうすんだよ?」
疑心を抱いて、ひそひそと話をする男たちに、ハオリュウは危機感を覚える。この状況は彼にとって非常に好ましくなかった。
渋る彼らを言い籠めて屋敷内に入らせたのは、他でもないハオリュウなのだ。彼らもまた指揮官に用事があったようだが、次期総帥エルファンと行動を共にすることを恐れていた。
――となると、エルファンの不審な行動に対する焦りと苛立ちがハオリュウに向けられるのは、時間の問題である。
彼らがおとなしく『警察隊』でいる間は貴族のハオリュウに危害を加えることはないだろう。しかし、もし短気を起こして凶賊の本性を取り戻したら……?
屋敷内でハオリュウの死体が発見された場合、疑われるのは間違いなく鷹刀一族であり、警察隊の姿をした彼らではない。
鷹刀一族、警察隊、『警察隊』の彼ら――。互いが牽制し合うことで初めて、ハオリュウの身の安全は保証される。つまり、この小部屋という閉鎖空間の中では、彼は丸裸も同然だった。
ハオリュウは、ひとつ息を吸い、腹に力を入れた。
「確かに、遅いです……! 僕を騙したんでしょうか」
彼は眉根を寄せ、足を踏み鳴らしながら男たちを振り返った。
「やはり所詮、凶賊ということですか……!」
エルファンを責め、苛立つ男たちを肯定する。そうすることで、ハオリュウが男たちの仲間であるかのように誤認させる。
単純な人間を操ることは、それほど難しいことではない、と――そんな術を、ハオリュウは母の兄である伯父から、密かに叩き込まれていた。
「やっぱ、鷹刀の野郎は信用しちゃいけねぇんだ!」
ひとりがそう言うと、男たちは興奮に顔を上気させ、次々に同調した。ハオリュウは機を逃さずに口を開く。
「僕に考えがあります」
男たちの注目がハオリュウに集まる。それを確認してから彼は秘密でも明かすかのように、ゆっくりと言った。
「部屋を出ましょう」
「え……?」
「目的地は『執務室』だと分かっているんです。そのへんの凶賊に案内させましょう。警察隊のあなた方の命令なら逆らえないはずです」
ハオリュウがハスキーボイスを高らかに響かせた途端、男たちの顔から、すっと色が抜けた。
屋敷内に入ってから、ハオリュウは気づいたことがある。鷹刀一族の凶賊たちは、この男たちが偽者の警察隊員であると皆、見抜いている様子なのだ。ただ、エルファンが一緒にいたからか、誰も何も言わなかったのだが――。
「そ、それは……」
男たちは口籠る。
ここはいわば鷹刀一族の本拠地。一族屈指の強者が揃っているのだ。もし戦闘になったら、下っ端の彼らが勝てるはずもない。
「あぁ、いや! 待てと言われたんすから、あの男を待ちやしょう!」
「でも、こんなに待たせるなんて、おかしいですよ」
「わ、罠かも知れないんで!」
ひとりの男の苦し紛れの言葉に、ハオリュウはすぐに飛びついた。
「え……、罠……!」
少年のまっすぐな純粋さ……に見える瞳を意識して、彼は驚きの表情を作る。
「……そうか。よく考えたら、鍵を掛けないなんておかしい……」
うやむやなうちに、『罠かも知れない』を『罠である』にすり替える。男たちが同意するように、こくこくと頷いた。
「すみません。僕が浅はかでした」
ハオリュウがそう言うと、男たちはあからさまに安堵の表情を見せた。どうやら、おとなしく待たせる方向に、うまく誘導できたようだ。
これでしばらくの間は大丈夫だろう――ハオリュウはそう思い、手のひらの汗をズボンで拭った。ハンカチとは程遠い材質が、ざらりと彼の気を引き締める。
エルファンが信用できるかと言えば、否である。
ただ彼は、相当に計算高い男に見えた。彼にとってハオリュウが価値ある存在と思われている間は、味方と考えていいだろう。
そして、どうやら異母姉は、エルファンよりも地位の高い、総帥の鷹刀イーレオに気に入られたらしい。となればエルファンは、その異母弟であるハオリュウを厚遇せざるを得ない。
ハオリュウは力関係を再確認して、小さく息を漏らす。大丈夫だと、自分に言い聞かせながら……。
コンコン……。
扉のノック音に、部屋の中を緊張が走った。男たちが何かの行動を起こす前に、ハオリュウは素早く目で制止を命じた。
「はい、どうぞ」
よく通る高めの声がそう返すと、「待たせたな」と、エルファンが入ってきた。彼はひとりではなかった。その後ろに、警察隊の制服を着た男が続いてくる――。
エルファンは、ちらりとハオリュウを見たものの、すぐに男たちに視線をやった。
「お前たちの指揮官を呼んできてやろうと思ったのだが、あいにく私の父と話し込んでいてな。代わりに、指揮官の側近の緋扇シュアンという奴を連れてきてやったぞ」
彼は半身を返し、警察隊の男を示す。ぼさぼさ頭の上に申し訳程度に制帽を載せた、目付きの悪い男だった。歳はせいぜい三十路といったところで、たいして高位にも見えない。
いったいエルファンは何を考えているのだろうと訝しがるハオリュウの視界に、息を呑む男たちの姿が映った。彼らは、明らかに脅えていた。
シュアンがゆっくりと歩み出た。男たちを一瞥し、背後のエルファンを振り返る。
「こいつらが、指揮官に報告があると?」
エルファンが黙って頷くと、シュアンは血走った目をぎょろりとさせて「ふん」と鼻を鳴らした。
「馬鹿言っちゃいけませんよ、エルファンさん。こいつら、何モンです?」
「うちの門の前でたむろしていた警察隊員だが、それが何か?」
エルファンとシュアンが目で嗤い合う。彼らの浮かべる酷薄な笑みに、ハオリュウは不穏な空気を感じ取った。
「自慢じゃありませんが、俺は記憶力がいいほうでね。上官殿の指揮下にいる隊員の顔は、全部、覚えているんですよ」
「ほう、それで?」
「こいつらの顔は、俺の頭の中の名簿にはないんです」
「つまり?」
「警察隊を騙る偽者ですね」
シュアンは、『偽者』という言葉の持つ意味を取り違えたかのように、軽く言ってのけた。
それを受け、エルファンが「ふむ」と渋く低い声で相槌を打つ。
「では、私がこの者たちをどうしようと、構わないということだな?」
エルファンの口の端がゆっくりと上がる。
頭に白いものがちらつくものの、無駄のない堂々たる体躯。まさに男盛りといったエルファンの黄金率の美貌の上でなら、底意地の悪そうな表情すらも絵になった。
男たちは震え上がる。
「はは、エルファンさん、一応、俺は警察隊員ですよ。ここで『イエス』とは言えませんね」
そう言いながら、シュアンがすっと後ろに下がる。エルファンと男たちの間に、障害物はなくなった。
「――けど、俺はどうも目が悪くて。時々、見えなくなるんですよ」
「若いのに難儀なことだな」
恐怖に耐えきれなくなった男のうちのひとりが雄叫びを上げたのは、エルファンの言葉が終わるのとほぼ同時だった。
「うおおぉ!」
男は蒼白な顔で懐から拳銃を取り出していた。
相手は正面。自分は刀の間合いの遥か外。殺らなければ、殺られる!
――総毛立った男は、その思いだけで、引き金を引いた。
鳴り響く銃声。
予想外の事態に、ハオリュウは自分が取るべき行動を考えることもできずに、ただ窓辺に立ち尽くしていた。
そのとき、彼の周りに光と風が溢れた。
窓が開け放たれ、白いレースが大きく翻り、ハオリュウの視界を遮る。
「見てはいけません」
荒々しくはないが、有無を言わせぬ厳しい声。
何かを言い返す間もなく、強い力で右手を掴まれた。風に攫われた木の葉のように、ハオリュウの体は半回転しながら、バルコニーへと引きずり出される。
鮮やかな緋色が見えたかと思った次の瞬間には、彼は柔らかな感触に包み込まれていた。背後で勢いよく窓が閉じられ、反動で硝子が震え上がる。
突然のことに、ハオリュウは動転した。
彼の顔は、どう考えても女性の豊満な胸としか思えない弾力の中に埋められていた。
見開いた目は、肌触りの良い布地で覆われ何も見えず、口と鼻も、ぴっちりと塞がれてしまっている。
温かな腕の中に、きつく抱きしめられているのは分かる。しかし、どうしてこのような事態になったのか、さっぱり分からない。
息苦しさに頭を振ると、少しがさついた掌が両耳を覆っているのを感じた。
銃撃の音を耳に入れまいとしているのだ――そう、ハオリュウは気づいた。
「隣の部屋から出ましょう」
若い女の声が、至近距離から聞こえた。
安心して身を委ねられるような、落ち着いた優しい響き。エルファンはバルコニーから出ていくときに、窓際にいるようにと彼に耳打ちをしていった。そのときには既にこの展開を組み立てていて、護衛を用意しておいたのだろう。
しかし、ハオリュウは両手で彼女を押しのけた――どこに触れるのなら失礼に当たらないか、少々戸惑いながら。
「放してください。僕には、きちんと見届ける義務があります」
立ち尽くしていただけだったのだから、それは強がりに過ぎない。けれど、逃げるのは卑怯だと、ハオリュウは思ったのだ。
わずかな逡巡の気配ののちに、拘束が緩む。
彼が体を引くと、覆いかぶさるように彼を包んでいた波打つ髪が、さわさわと彼の頬をくすぐりながら落ちていった。干した草の香りが、ふわりと漂う。
絶世の美女が、憂いを含んだ顔で彼を見下ろしていた。女性としては長身で、成長期のハオリュウからすれば、自分の子供っぽさが気恥ずかしくなってしまう。そんな大人の女性である。
彼女は頭を下げた。
「すみません。余計なことをしました」
「こちらこそ、不可抗力とはいえ、女性に失礼な真似をしました。申し訳ございません」
男なら誰でも魅了されるような、珠玉の肉体に触れたことに対する謝罪。裏を返せば、気取った言葉は精一杯の大人のふり。子供扱いに対するささやかな抵抗である。
ハオリュウが彼女から離れたときには、既に銃声は聞こえなかった。弾を撃ち尽くしたのか、撃つ者がいなくなったのか……。
ハオリュウは意を決して閉ざされた硝子窓を開けた。
カーテンをめくり、息を呑む。
けれど目はそらさずに、ハオリュウはその光景を瞳に焼き付けた。
「身分詐称で、しょっ引こうとしたところを攻撃してきたため、止む得なく射殺しました」
耳鳴りの中で、貴族に対する礼として報告する、シュアンという本物の警察隊員の声が聞こえた。彼の射撃の腕は確かで、ひとつも無駄なことはなかった。少なくとも、ハオリュウにはそう見えた。おそらく、エルファンは何もしていない。
ハオリュウは、自ら作り出した惨事に顔色ひとつ変えない警察隊員と目を合わせた。
「……ご苦労様でした。悪くすれば僕に危害が及ぶ可能性もありました。感謝します」
「仕事ですから」
シュアンはそう言って、煙の上がる拳銃に、ふっと息を掛ける。
ハオリュウは決して平和主義者ではないし、性善説を信じているわけでもない。だから、この結果に異議はない。
そして、直接手を下したのはシュアンでも、この事態を作り出したのは紛れもなく自分なのだと受け入れた。自分は、そう言う『世界』に入ったのだと、認めた――。
風景画の絵の具にめり込んだ弾丸。
声を失った者の声。
血と硝煙の匂い。
首筋を撫でる、カーテンの柔らかさ。
知らずに噛み締めていた唇からの、鉄の味。
ハオリュウは、すべてを五感に刻み込む。
……黙り込んだ彼の様子をしばらく見詰めていたエルファンが、やがて渋い声を上げた。
「ミンウェイ、すまないが、あとで補修屋を呼んでくれ」
あちこちに穴が穿たれた壁を指差し、ハオリュウの背後に立つ女性に向かってそう言う。入口側に偏った無駄弾の着弾位置から考えて、偽の警察隊員たちの仕業だろう。
「補修代は、我が藤咲家が出します」
ハオリュウの申し出に、子供が余計なことを……と眉を上げかけたエルファンだったが、その表情を見て気を変えた。
「領収証はあとで送る」
そのとき、屋外からのざわめきが届いた。
爆音を上げる車が、屋敷の門の前で急停止した。
――待ち人の登場だった。
~ 第四章 了 ~
幕間 雫の花束
その日は母様の誕生日だった。
だから僕は、朝食のあと、こっそり庭に抜け出して花を摘んだ。
控えめで可愛らしい、純白のマーガレット。素朴な花は、母様にぴったりの贈り物だと思った。
僕は、できるだけ綺麗な花を集めて、両手いっぱいの花束にした。五歳の僕の掌なんて、たいした大きさではなかったのだろうけれど、朝露を跳ね返す花々は輝いて見えた。
僕は意気揚々と母様の部屋に向かった。
母様はメイドたちの手によって、『絹の貴婦人』に仕立て上げられていた。たっぷりのドレープがあしらわれた、美しい絹地の豪奢なドレスは、今日のパーティのために誂えられたものだ。
小柄な母様には似合わない裾の長いデザイン。野暮ったさすら感じる前時代的なライン。
それでも親族たちは、この伝統的な形式を守ろうとする。我が藤咲家が『絹の家』であることを、広く国中の貴族たちに知らしめるために、当主の奥方の誕生日を口実に盛大なパーティを開く。それを、強要する。
そして、毎度のように「前の奥様ならば、ドレスが霞むほどに美しかったでしょうに」と陰口を叩くのだ。
正装した父様も、母様の部屋に来ていた。不安に震える母様の手を、そっと握っている。平民出身の母様にとって、貴族のパーティなど責め苦にしかならない。
――勿論、そんなことはすべて、後に知ったことだ。
五歳の僕は、今日はパーティで忙しいということしか分かっていなかった。だから、今しかない、と。
「母様! お誕生日おめでとう!」
僕は花束を持って母様に駆け寄った。
輝くマーガレットを目にした瞬間、母様が少女のように頬を染める。
「素敵……! ありがとう!」
母様は、両手で大切そうに花束を受け取った。白く朝日を跳ね返す花びらが、彼女の顔を明るく照らす。
隣に立っていた父様が、花束の中から、ひときわ大きな一輪を抜き取った。そして、それを母様の髪に挿す。借り着に身を包まれたように、ぎこちなかった母様の姿が、一気に華やいだ。
「君に、よく似合うよ。綺麗だ」
「え、ええ? そ、そうかしら?」
照れて慌てふためく母様は、子供の僕から見ても可愛らしかった。今から考えれば、母様は当時まだ二十歳半ば過ぎだったのだから、当然といえば当然だった。
そんな母様の前に、年配のメイド頭がすっと割って入る。
「旦那様、奥様。髪飾りはこちらのものを既にご用意しております」
「あ……」
母様がうつむく。
「それは、この前、陛下から賜ったものだね……」
父様が呟く。
貴族を飾るものは、野の花ではなく、輝石の付いた宝飾品でなければならない。
と、そのとき、後ろに控えていた若いメイドが悲鳴を上げた。
「ハ、ハオリュウ様!」
彼女は僕の足元を指差していた。
僕の足は、母様の長いドレスの裾を踏んでいた。僕の靴は、朝露で柔らかくなった庭の土を踏みしめ、泥だらけになっていた。
蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
メイドたちは慌てふためき、父様と母様は、おろおろするばかり。
そんな中、あろうことか親族の中でも一番口うるさい大叔父が到着し、なんの騒ぎだと乗り込んできた。
「この、平民が!」
状況を理解した大叔父が、手を振り上げた。僕にはそれが見えていた。だけど、怖くて動くことができなかった。
ぶんと、空気が震える気配。
――そのとき、僕の目の前を風がよぎった。
人間の肉を叩く音が、高く鳴り響く。
軽やかな絹のショールが、まるで妖精の羽のように、ふわりと広がり、飛んでいった。
――――!
その場にいたすべての者が凍りついた。
「ね、姉様――!」
床に倒れ込んだ姉様の頬は真っ赤に腫れあがり、瞳は涙で光っていた。姉様は脅えた目で大叔父を見上げていた。けれど、僕が駆け寄ると、僕を大叔父から庇うように背中に隠した。
大叔父は、自分は悪くないと、わめき散らした。躾がなってないと、父様と母様をなじり、これだから平民は、と貶める。父様と母様は萎縮し、恐縮して、嵐が過ぎるのを黙って耐えていた。――当主は父様なのに。
貴族の品位を疑われるようなことは避けるように、などという、二、三の捨て台詞を残し、大叔父は去った。父様は姉様のために医師を呼びつけ、母様とメイドたちはドレスをなんとかするべく奔走した。
僕は泣いていた。「ごめんなさい」を繰り返し言いながら、泣きじゃくっていた。誰に対して「ごめんなさい」なのかは分からない。でも、とにかく謝らなくてはいけないという思いでいっぱいだった。
「ハオリュウ」
不意に、柔らかな感触に、ぎゅっと包まれた。
「ハオリュウは優しい子ね」
鈴を振るような透き通った声。姉様だ。
「ハオリュウはお母様のために一生懸命だった。偉いのよ」
どうして、姉様は僕を褒めるのだろう?
一瞬、涙が止まり、僕は姉様を見上げる。
「誰よりも先に、お母様にプレゼントを渡したかったんでしょう? ハオリュウは、とっても頑張ったの」
「姉様……」
胸が苦しくなった。
再び、僕の瞳に涙が盛り上がり、溢れ出した。僕の心の中から噴き出るような涙は、堰を切ったように、あとからあとから流れてきた。
僕は、声もなく泣き続けた。
僕はちゃんと知っていた。今日は忙しい日だって。
朝ごはんを食べたら、パーティの衣装に着替えなければいけなかった。メイドたちが僕を探していた。
でも、僕はこっそり庭に抜け出した。
だって、もたもたしていたら、誰かに一番乗りを取られてしまうから。
「ハオリュウ、泣かないで。ハオリュウは優しい子。大好きよ」
どう取り繕ったって、悪いのは僕だった。大叔父に殴り飛ばされるほどの悪事だったとは思わないけれど、僕のしたことは褒められることではなかった。
なのに姉様は、僕を褒めるのだ。僕の幼い気持ちを認めてくれるのだ。
優しいのは姉様のほうだ。
僕の涙は止まらない。
とても苦しかった。
そして、とても愛しかった。
やがて僕は、僕と姉様の関係が、決して優しいものではないことを知る。
血統からいえば、家督を継ぐにふさわしいのは姉様のほうだ。けれど、世継ぎは原則として男子であるから、僕が跡取りとなる。
自分の息子を姉様の婿とし、実権を握りたがった親族たちに、僕は疎まれた。命の危険を感じたことも、一度や二度ではない。
僕は生まれてくるべきではなかったのだ。
父は、無邪気な子供が、そのまま大人になったような男だ。穏やかで、争いごとが嫌いで、いつまでも夢見がちな少年だった。善良であることに間違いはないけれど、その優しさが残酷な我儘であることに気づかなかった。
平民の母のことなど、相手にすべきではなかったのだ。せめて妻として迎えずに愛人としておけば、彼女はささやかな幸せを手にしただろう。
まったくもって、父は当主に向かない男だった。
当主なんてものは、愛してもいない人と幸せを装うか、愛する人を幸せにできないかのどちらかなのだ。そのどちらもやった父を見て、僕はそう思う。
…………。
僕がいなければ、姉様が家督に呪縛された。親族たちの都合のよい男が、姉様をほしいままにした。
僕の存在が、姉様を解放する。
つまり、僕は愛する姉様を守るために生まれてきたのだ。
「ハオリュウ」
姉様が僕を呼ぶ。
無垢な笑顔で、僕を呼ぶ。
「あなたは優しい子ね」
姉様の瞳の中には、花を摘んでいた五歳の僕がいる。
「姉様」
僕は応える。
「姉様のことは、僕が守るよ」
姉様が幸せになるためなら、僕はなんでもしよう。
花束に輝く朝露の雫は、もう僕の瞳から流れはしないから。
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第一部 第四章 動乱の居城より
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水 第五章 騒乱の居城から https://slib.net/111097
――――に、続きます。