di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第三章 策謀の渦の中へ

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第三章 策謀の渦の中へ

こちらは、

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第三章 策謀の渦の中へ
                          ――――です。


『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第二章 華やぎの街にて https://slib.net/110743

                 ――――の続きとなっております。


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〈第二章あらすじ&登場人物紹介〉

〈第二章あらすじ&登場人物紹介〉

===第二章 あらすじ===

 メイシアは、ホンシュアという女によって意図的に鷹刀一族のもとへ行くように唆されたらしい。その目的は? ホンシュアの正体は? そして、斑目一族に囚えられたメイシアの家族はどうなっている? それらの情報を得るために、ルイフォンとメイシアは、繁華街の情報屋、トンツァイを訪れた。

 トンツァイの仕入れた情報によると、ホンシュアは斑目一族の配下の者ではなく、斑目一族と手を結んだ別の組織の者らしい。しかも、ホンシュアがメイシアと接触するため手引きを、メイシアの継母がしたというのだ。つまり、メイシアは身内に売られたのである。
 ルイフォンは、この情報をメイシアに聞かせることはできない、と自分の心の中のみに収めた。

 また、ルイフォンは、「シャオリエが、メイシアを連れてくるようにと言っている」という伝言をトンツァイから受け取る。
 シャオリエとは高級娼館の女主人で、ルイフォンが母を亡くしてからしばらくの間、身を寄せていた人物である。

 シャオリエの店に行くと、ルイフォンの顔なじみの娼婦スーリンが出迎えてくれた。
 ルイフォンとメイシアは、シャオリエと対面するが、シャオリエの策により、ルイフォンは睡眠薬で眠らされてしまう。そして、シャオリエは「お前とふたりきりで話したかった」とメイシアに告げる。

 メイシアは、シャオリエから、継母に売られたこと、その情報をルイフォンが隠していたことを知らされる。そして、メイシアが斑目一族の意図通りに動いたことで、鷹刀一族が罠に落ちると言われる。もと鷹刀一族であったシャオリエは、それを阻止するためにメイシアを排除すると宣言した。

 シャオリエとの駆け引きのさなか、毒杯を飲もうとしたメイシア。それを寝ていたはずのルイフォンが止める。彼は、スーリンの協力のおかげで、寝たふりをしていただけだった。
 ルイフォンは、「自分が背負うから鷹刀にいろ」とメイシアを説得する。その言葉にメイシアは心を打たれる。シャオリエはといえば、そもそもルイフォンを試していただけであり、目的が達成できたと満足気に頷くのだった。

 周りの勧めによって、寝不足のルイフォンは仮眠を取り、メイシアはそれに付きそう。穏やかな時間が流れたかと思ったら、事態は急変する。
 情報屋のトンツァイが、あらたなる衝撃の知らせを持ってきたのだ。
 すなわち――藤咲メイシアの異母弟、藤咲ハオリュウが解放され、藤咲の屋敷に戻された……。


===登場人物===

鷹刀ルイフォン
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
 母から、〈(フェレース)〉というクラッカーの通称を継いでいる。
 端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
 長髪を後ろで一本に編み、毛先を金の鈴と青い飾り紐で留めている。

※「ハッカー」という用語は、「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われていた。
 「クラッカー」には悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
 よって、本作品では、〈(フェレース)〉を「クラッカー」と表記する。

藤咲メイシア
 貴族(シャトーア)の娘。十八歳。
 箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
 すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
 白磁の肌、黒絹の髪の美少女。

鷹刀イーレオ
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族の総帥。六十五歳。
 若作りで洒落者。

鷹刀ミンウェイ
 イーレオの孫娘にして、ルイフォンの年上の『姪』。二十代半ばに見える。
 鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
 薬草と毒草のエキスパート。
 緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。

鷹刀エルファン
 イーレオの長子。次期総帥。ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄弟。
 倭国に出掛けていた。

鷹刀リュイセン
 エルファンの次男。イーレオの孫。ルイフォンの年上の『甥』。十九歳。
 父、エルファンと共に倭国に出掛けていた。

草薙チャオラウ
 イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
 無精髭を弄ぶ癖がある。

料理長
 鷹刀一族の屋敷の料理長。
 恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。

ルイフォンの母
 四年前に謎の集団に首を落とされて死亡。
 天才クラッカー〈(フェレース)〉。
 右足首から下を失っており、歩行は困難だった。

トンツァイ
 繁華街の情報屋。
 痩せぎすの男。

シャオリエ
 高級娼館の女主人。年齢不詳(若くはないはず)
 外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
 元鷹刀一族であったが、イーレオの負担にならないように一族を離れた。

スーリン
 シャオリエの店の娼婦。
 くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。
 本人曰く、もと女優の卵。

ホンシュア
 鷹刀一族に助けを求めるよう、メイシアを唆した女。
 仕立て屋と名乗っていたが、斑目一族と手を組んだ別の組織の者らしい。


===大華王国について===

 黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
 身分制度は、王族(フェイラ)貴族(シャトーア)平民(バイスア)自由民(スーイラ)に分かれている。
 また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊(ダリジィン)と呼ぶ。彼らは平民(バイスア)自由民(スーイラ)であるが、貴族(シャトーア)並みの勢力を誇っている。

1.忍び寄る魔の手-1

1.忍び寄る魔の手-1

 メイシアの膝に頭を預けたルイフォンは、子猫が母猫に甘えるかのように、彼女の服の端をぎゅっと握っていた。小さな寝息に合わせ、彼の胸がゆっくりと上下する。
 そんな彼の寝顔を、メイシアは飽きることなく見守っていた。
 そこだけ空間が切り離されたかのような、穏やかな時間が流れていた……。
 ――ふと、ルイフォンの胸の動きが止まった。
 メイシアが、あれ? と思うと同時に、階段の方向から勢いのある足音が響く――。
 ドアノブが動いた刹那、ルイフォンが一瞬のうちに身を起こし、メイシアを引き寄せた。
「え? ル、ルイフォ……」
 ルイフォンは、素早くメイシアを抱きかかえ、ベッドの影に身を隠す。小さく身をよじる彼女を胸元に置き、彼は息を潜めた。
「ルイフォン!」
 ノックもなしに大きく扉が開き、スーリンが転がり込んできた。
「え……?」
 もぬけの殻のベッドを前に、スーリンが絶句する。
 立ちすくむ彼女の姿を認め、不意の襲撃ではなかったことに安堵の溜め息をついてから、ルイフォンは立ち上がった。
「何があった?」
「ごめんなさい! 緊急事態なの! トンツァイさんが至急、知らせたいことがある、って」
 ルイフォンの表情が一変する。彼は「分かった」と短く答えると、すぐに階下へと走りだした。


 ルイフォンは自身の耳を疑った。
 ――メイシアの異母弟、藤咲ハオリュウが、藤咲家に戻された……。
「馬鹿な!? メイシアの異母弟は、斑目にとって大事な人質だったはずだ。それを手放すメリットがどこにある!?」
 予想外の情報に、ルイフォンは思わずトンツァイに詰め寄った。いつもなら眇めた調子の瞳が、大きく、かっと見開かれている。
「俺も、さっき報告を受けただけだ。詳しいことは何も……」
 トンツァイもまた、苛立たしげに首を振った。部下からの続報を待っているのだが、まだなんの連絡もなかった。
 相手の思惑がまるで読めないことに焦燥感を覚え、ルイフォンは乱暴に前髪を掻き上げた。
「ちょっと、お前たち。少しは冷静になりなさいよ」
「なんだよ、シャオリエ!」
 呑気にすら聞こえる高飛車な声に、ルイフォンが噛み付いた。掴みかからんばかりの剣幕を、しかしシャオリエは軽く掌で押し止める。
「対価よ」
 シャオリエはアーモンド型の瞳に好戦的な色合いを載せ、唇を妖艶に動かす。
「人質が、人質としての役目を果たしたのよ」
 その言葉に、ルイフォンが、はっと表情を変えた。
「つまり、藤咲家は斑目の要求を飲んだ……?」
「そういうことね」
「じゃあ、藤咲家は婚礼担当家を辞退したのか?」
 そんなことはあるまい、と思いながら、ルイフォンが口にすると、シャオリエが嘲笑を浮かべながら、(かぶり)を振った。襟元まで垂らした後れ毛が軽やかに揺れる。
「斑目は、藤咲家に別の要求を出したのよ」
 そう言ってシャオリエは、ルイフォンの背後で遠慮がちに控えていたメイシアに視線を向けた。彼女は、鷹刀一族の屋敷に舞い込んできた小鳥だった。
「メイシアか! メイシアを送り込むことに協力したから……!」
 ルイフォンは舌打ちを鳴らした。
 後手に回っている。
 改めてそう思わざるを得なかった。
「屋敷に戻る」
 言いながら、ルイフォンは携帯端末を操り、暗号化された報告文を父に送っていた。盗聴や改竄を避けるため、重要な報告は直接行うのが常であるが、今回は一刻も早く情報を共有しておきたかった。
 メイシアを鷹刀一族の屋敷に置くことが、斑目一族にとって、どんな利益に繋がるのか。
 用意しておくべきものは何か。警戒しておくべきことは何か。
 胸騒ぎがルイフォンの体を突き動かす。
「スーリン! タクシーを呼んでくれ」
 成り行きで居合わせてしまい、居心地悪そうにグラスを拭いていたスーリンに声を掛ける。彼女は、「はい!」と答えると、電話に向かった。
 それからルイフォンは、後ろにいるメイシアに言う。
「メイシア、帰るぞ!」
「……」
「…………メイシア?」
 反応を返さないメイシアに疑問を覚え、ルイフォンは振り返った。
 彼女は胸の前で両手を合わせ、何かに耐えるように、ぎゅっと目を瞑っていた。
「メイシア? どうした?」
「ハオリュウ……。無事、だった……」
 安堵と虚脱が入り混じったような呟きを聞いた瞬間、ルイフォンは冷水を浴びせられたかのような感覚を覚えた。
「よかった……。本当に……よかった……」
 彼女は俯き、肩を震わせた。声に出して言ったことで、思いが溢れ出したのだろう。その顔が涙で彩られていることは、長い髪で隠していても分かった。
「あぁ……」
 ルイフォンの口から、深い息が漏れた。
 ――彼女の心を置き去りにしていた。
 小刻みに揺れる黒髪を見ながら、ルイフォンは恥じるより先に、後悔をした。
 彼女の大切な異母弟が帰ってきたのだ――。
 なのに、想定外の事態に直面して、彼の頭の中で藤咲ハオリュウは駒のひとつになってしまっていた。
「……メイシア」
 気づいたら、彼は彼女の名を呼んでいた。
 そして、まったく考えてもいなかった言葉が、思わず口からこぼれ落ちていた。
「異母弟に、逢いたいか?」
「……っ!」
 メイシアが、ぱっと顔を上げた。わずかに口を開き、信じられないものを見るかのような大きな瞳で、じっとルイフォンを見詰める。
 しかし、彼女は視線を落とすと、口をきゅっと一文字に結んだ。
 ゆっくりと(かぶり)を振る。
「お気遣い、ありがとうございます。けれど、私はハオリュウが無事と知れただけで充分です」
 そう言って、彼女は再び顔を上げた。
 小さな桜の蕾が精一杯、綻ぶように、メイシアが笑う。薄桃色の花びらは淡く透き通るようで、脆く儚い。
 彼女は「屋敷に戻りましょう」と言いながら、ルイフォンの視線を避けるようにして目尻を拭った。
 その仕草が彼の感情に火を点けた。
「違うだろ!」
 ルイフォンは、メイシアの濡れた指先を捕まえるかのように、彼女の手首を掴んだ。
「きゃっ」
 突然のことにメイシアは悲鳴を上げ、捕らえられていないほうの手で、無意識にルイフォンの胸を突き飛ばす。
 しかし、そんな可愛らしい反撃は、ルイフォンにとっては小鳥の羽ばたきがかすった程度のものでしかなかった。掴んだ手首に更に力を込め、メイシアの心を覗きこむように、彼女の顔に自分の顔を近づけた。
「お前は、異母弟に逢いたいはずだ」
 ルイフォンのテノールが断言する。険しい口調であるにも関わらず、その声はメイシアの耳に優しく響き、心を揺さぶった。
 メイシアは、ルイフォンから目を逸らすことができなかった。
 望んでもいいのだろうか。それは我儘というのではないだろうか――。
「イエスか、ノーかで答えてくれ。お前は異母弟に逢いたいか?」
 ややきつめの猫のような目が、メイシアをじっと捉えていた。
 見極めた獲物を逃すことのない、鋭い目線。
 けれど、その瞳の中には、優しい彼の心が入っていた。
 つぅっと、メイシアの頬を涙が伝った。
「……甘えてしまって、よいのでしょうか?」
 ルイフォンはメイシアを抱き寄せた。彼女の体はあっさりと彼の胸に落ちた。
「ああ」
 そのひとことに、蓋をしていたメイシアの心が決壊した。
「逢いたい、です。ハオリュウに……逢いたい!」
 感情が洪水のように溢れでて、彼女は泣き崩れた。
 ルイフォンが彼女の耳元で優しく囁く。
「よく言ってくれた。……それじゃあ、藤咲家に行くぞ」
 彼の胸の中で彼女は小さく頷き、「ありがとう」と呟いた。彼にはそれが妙に嬉しくて、そして愛しく思えた。
 突如、パンパンと手を叩く音が響く。
「はいはい。やっと、話がついたようね」
 シャオリエが呆れと冷やかしを含んだ声を上げた。
 メイシアが慌てたように、ルイフォンから体を離す。赤く染まった彼女の顔を、名残惜しげにルイフォンの目が追った。
「けど、藤咲家は斑目と繋がっていることを忘れていないかしら?」
 はっ、とメイシアが口元に手を当てる。
 彼女の心が再び閉ざされようとするのを感じ、ルイフォンがシャオリエに怒りの表情を向けたが、シャオリエは自身の胸元を覆うストールのように、ふわりと軽く受け流した。
「藤咲家は、いわば敵地よ。とても危険な場所」
「ルイフォン、やはり私……」
 それをルイフォンの鋭い声が遮る。
「黙れ」
 シャオリエの言葉に翻弄されるメイシアの肩を、ルイフォンはぎゅっと抱き寄せた。
「俺がお前を守る。そして、お前の願いを叶える」
「言い切ったわね」
 そう言って、シャオリエは満足そうにアーモンド型の瞳を細め、にっこりと笑った。
「なら、行ってらっしゃい。何が起きているのか、自分たちの目で確かめてくるといいわ」
「……は?」
 ルイフォンが間の抜けた声を出した。メイシアも狐につままれたかのように、きょとんとする。
 シャオリエは、唐突に「トンツァイ」と情報屋に声をかけた。いきなり水を向けられた彼は、ぎょっとしたような顔になる。このマイペースな女主人は何を言い出すか、分かったものではない。
「頼みたいことがふたつあるわ。藤咲家周辺の安全確認と、藤咲ハオリュウとの接触」
「……一応確認ですが、期限は?」
 トンツァイは苦虫を噛み潰したような顔をシャオリエに向けた。それに対し、シャオリエが不快げに眉を寄せる。
「今すぐに決まっているでしょう?」
「安全確認は承りましょう。ですが、接触は無理です。最低限の根回しをする時間をくだされば、やってみせるんですがね?」
 優秀な情報屋である彼は、無理難題は請け負わない。命あっての物種である。
「役に立たないわね、もう」
「いくらシャオリエさんの頼みでも、無理なものは無理です」
 シャオリエはふぅ、と溜め息をつきながら肩をすくめ、メイシアに顔を向けた。
「今回のところは、遠くからハオリュウの無事を確認する程度にしておいたほうが無難なようよ」
「いえ、それだけで充分です。……シャオリエさん、ありがとうございます」
「あらぁ? 私は、お礼を言われるようなことは何もしてないわ。まぁ、悪い気分じゃないから、感謝されておくけどね。こちらも、お前には感謝しているしね?」
「え?」
 シャオリエの含みのある言い方に、メイシアはどきりとする。
「お前のおかげで、ルイフォンが少しは見られる感じになってきたわ」
「な……っ!?」
 突然、引き出されたルイフォンが狼狽しながらも、反論する。
「なんだよ? 今まで見られなかったのかよ?」
「当たり前でしょう? ひよっ子が。自惚れてるんじゃないわよ」
「何ぃ!?」
 そういうルイフォンの抗議を無視して、シャオリエは緩く結い上げた髪を揺らしながらカンターに向かった。棚の奥から小瓶をひとつ手に取る。
「ルイフォン、餞別にこれを上げるわ」
「これは?」
「ミンウェイから貰った筋弛緩剤よ――ちょっと困ったお客様用の。優しく抱きついて背後からプスリ、ってね」
「怖いことしてやがるなぁ」
「綺麗な薔薇には棘があるのよ」
 シャオリエは嫋やかな外見に似合わぬ言葉を吐き、口角を上げた。

1.忍び寄る魔の手-2

1.忍び寄る魔の手-2

 タクシー運転手には藤咲家の近くにある高級レストランの店名を告げた。
 寄り道ではあることには間違いないが、帰りに繁華街をぶらつくつもりであったのを考えれば、遅くなるというほどのことでもないだろう。運が良ければ、斑目一族の動向を何か得られるかもしれない。
 そんなことを考えながら、ルイフォンは携帯端末に指を走らせた。藤咲家に行くことを、屋敷に連絡しておく必要があった。運転手の手前、音声通話は使わない。会話の端から凶賊(ダリジィン)と悟られるのは、あまり得策ではないからだ。
 並んで後部座席に座っているメイシアが、真横から「あら……?」と、声を漏らした。
「運転手さん、失礼ですが、お店を勘違いしてらっしゃいませんか? 反対方向だと思うのですが……」
 ルイフォンは携帯端末から顔を上げ、自分の失態を悟った。
 タクシーは裏路地を抜け、人けのない通りを走っていた。そして、その先は貧民街であることを彼は知っていた。
「あぁ、近道なんですよ。私たちがよく使う、裏道というやつです」
「そうでしたか。過ぎたことを……申し訳ございません」
 そんなふたりの会話を聞きながら、ルイフォンは車内に貼られた運転手の顔写真とバックミラーに映る男の顔を見比べた。そして、今ハンドルを握っている男が、制帽を目深にかぶっている意味を解する。
 ――偽者……。
 ルイフォンは戦慄した。彼は、自分の注意力の欠如に憤りを覚えながら、「メイシア」と呼びかけた。
「はい」
 無邪気に応えるメイシアに、ルイフォンは体をにじり寄せた。そして躊躇なく、彼女の肩口へと手を伸ばす。
「きゃっ」
「シートベルトは締めておこうぜ?」
 ルイフォンはメイシアを抱きすくめるようにして、彼女の肩の上にあるバックルを掴み、ショルダーストラップを引き出した。
「え? あ、そうですよね。自分でやります」
 どこか、ほっとしたような彼女の首元に、彼はふっと吐息をかける。
「きゃあ!」
 真っ赤になって、メイシアが慌てふためく。
「な、何を……!」
 メイシアの可愛らしい抗議の声は、しかし、彼の真剣な表情を前に、尻窄みに消えていった。彼女にちょっかいを出すときに見せる、いたずら猫の顔は、そこにはなかった。
 ルイフォンは口元をきつく結び、額に薄っすらと汗を浮かべていた。シートベルトを締めると言ったくせ、バックルは手の中に握ったまま、固定しない。狭い車内で腰を浮かせ、目線はメイシアにありながらも、彼女のことは見ていなかった。
 彼の視線が横へ流れた。
 周りの様子を探っている――そう感じたメイシアは、黒曜石の瞳を一度だけ瞬かせて口をつぐんだ。
 路地を曲がるところで、運転手の注意が外へとそれた。
 その瞬間、ルイフォンは扉のロックに手を伸ばした。解除音に運転手が怪訝な表情を浮かべたのと同時に、その横顔を力一杯、殴りつける。
「っ……!?」
 突然の痛みに声を上げる運転手のこめかみを、今度は正確に裏拳で狙う。脳を揺さぶる衝撃に運転手は意識を失い、そのままハンドルに倒れこんだ。
 悲鳴を上げるメイシアを抱きかかえ、ルイフォンはドアノブに手を掛けた。開いたかと思った瞬間に、扉は大きく風に煽られる。そのまま振り落とされるようにして、ふたりは地面に投げ出された。
 メイシアだけは傷つけまいと、ルイフォンは彼女の華奢な体を腕の中に庇う。金色の鈴が、まるで彼女を守るかのように、大きく弧を描いた。
「くっ……」
 背中が叩きつけられる衝撃に、彼は声を漏らす。だが、それよりも離れていく車体に目を奪われた。
 制御を失った車は暴走する――。
 道路脇の外壁をこすり上げ、壮大なる不協和音を路地裏に響き渡らせる。
 古ぼけた街灯にぶつかり、軽やかに一回転――しかし、派手やかなる舞台を繰り広げるには道幅は狭く、すぐに閉じられたシャッターに激突した。
 フロントガラスの花火を打ち上げ、フィナーレを飾る……。
 倒れこんだ姿勢のまま、腕の中で言葉を失っているメイシアに、ルイフォンは声を掛けた。
「大丈夫か?」
 目を丸くしたまま、真っ青な顔でメイシアが頷く。黒髪が一筋、取り残されたかのように頬に貼り付いていた。
「ルイフォン、あの運転手は……?」
「敵だ」
 端的に、彼は答える。
「どういうこと、でしょうか……」
「分からない。だが、何者かが運転手に成り代わり、俺たちをどこかに連れ去ろうとしていた」
 メイシアの顔に怯えが走る。見えない魔の手が、ゆっくりと忍び寄ってきていた。
 ルイフォンは周囲に視線を走らせる。ともかく、彼女を守らなければならない。
「とりあえず、ここから離れよう。立てるか?」
「はい」
 走行中の車から飛び降りたにも関わらず、ふたりとも奇跡的にかすり傷であった。ルイフォンの上着の背が、擦り切れているのだけは仕方がない。
 せめてものと土埃をさっと払い、ふたりは足早に、この場を立ち去った。


 陽が中天に差し掛かっているにも関わらず、その街並みは薄暗く感じられた。
 砂埃の舞う道に続く建物は、壁の塗装が剥がれかけ、悪くすれば壁そのものが崩れ落ちていた。もとは店舗付きの住宅が軒を連ねていたと思しく、その名残として、錆びついたひさしの上に取れかけた看板を見ることができた。しかし、ひしゃげた窓枠には窓硝子の収まりようもなく、建物の内部は吹きさらしになっている。果たして人が住んでいるのか、いないのか。そんな、廃墟といってよいような建物が並んでいた。
 ルイフォンは細い脇道に身を潜めるようにして足を止め、携帯端末を取り出した。
 GPSによると、現在位置は貧民街の端に分類される場所だった。ルイフォンは小さな溜め息をひとつ漏らすと、いつもは鬱陶しくて使っていない、自身の位置を屋敷に知らせるGPS追跡機能を有効にした。
「屋敷から迎えを呼ぶ。その車で藤咲家へ向かおう」
「ルイフォン……」
 巣の中でうずくまる小鳥のような目で彼女は彼を見上げた。
「藤咲の家には寄らず、そのまま屋敷に戻りましょう」
「メイシア?」
「敵の思惑は分かりません。でも、事実として私は狙われています」
「大丈夫だ、俺が必ず守る。安心しろ」
 怯える小鳥の不安を取り除くように、ルイフォンは力強く言った。多少の虚勢が混じっていることを悟られないよう「俺が信じられないか?」と、にやりと笑ってみせる。
「勿論、信じています。ルイフォンは、必ず私をハオリュウに逢わせてくれるでしょう。……けれど、それはルイフォンが危険な目に遭うことと引き換えに、です」
 彼女は、ぎゅっと掌を握りしめた。そして、か弱い小鳥が懸命に羽ばたくように、言葉に精一杯の力を込めた。
「私は、浅はかでした。守られるということの、本当の意味を理解していませんでした……。私が守られると言うことは、私を守るルイフォンを危険に晒すということです。――私はそれを望みません」
「大丈夫だ!」
「ハオリュウには、また別の機会に逢いに行きます。……ルイフォン、そのときは連れて行ってくださいね」
 遠慮がちに付け加えられた、ふたこと目に、メイシアの気遣いが見え隠れしていた。彼女は力強く飛ぶことは出来なくても、もはや巣立つことの出来ない雛ではなかった。
「……ともかく、車を呼ぼう。話はそれからだ」
 そう言って、ルイフォンは携帯端末を操作する。普段なら決して使わない音声通話――先に送った報告文があるからか、ワンコールでイーレオは出た。
『何があった?』
 即座に異常を察知した父に、ルイフォンは手短に状況を報告する。
「――というわけで、迎えを頼……」
 その瞬間、ルイフォンは肌が粟立つのを感じた。無意識のうちに、メイシアの手を思い切り引き寄せる。
「えっ……!?」
 ルイフォンのただならぬ様子に、メイシアは彼の視線を追う。
 脇道の入口に複数の人影――鷹刀一族の門衛と、勝るとも劣らない屈強な男たちが、壁のように立ち塞がっていた。
 その中央に、ひときわ堂々たる体躯の若い男がいた。
 二十歳を幾つか越した程度に見えるが、おそらくはこの中の誰よりも強い。よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目。刈り上げた短髪と額の間にきつく巻かれた赤いバンダナが、彼の気性を表しているかのようであった。
「――斑目タオロン……」
 ルイフォンが呟いた。
 この男と直接会ったことはない。けれどルイフォンは、斑目一族に関する資料の中で、その顔を見たことがあった。 
「俺のことを知ってんのか」
「ああ」
 ルイフォンの首肯に、タオロンがゆっくりと前に進み出た。腰に()いた大振りの刀が重たげに揺れる。
 太い眉の下の瞳が真っ直ぐにルイフォンを捕らえ、口元は一文字に結ばれていた。
 タオロンは無言で柄を握り、幅広の刀をすらりと抜いた。緩慢な動作から一気に頭上高く振り上げ、鋭い風切り音をうならせながら回転させる。
 刀術の型のひとつ――だが、大刀を手遊びでもするかのように片手で弄ぶのは、並大抵ではない。彼がその気になれば、腕くらい軽々と一刀両断だろう。
 思わず見惚れてしまいそうな刀技に、ルイフォンは身動きも取れなかった。
 一連の動作を終え、低いうなりが唐突に、ぴたりと止まる。
 それまでの力強い勢いに流されることなく、筋骨隆々とした腕は微動だにせず――そして、大刀はルイフォンに向けて、一直線に伸ばされていた。

1.忍び寄る魔の手-3

1.忍び寄る魔の手-3

「料理長、この花瓶をテーブルに飾ってもいいかしら?」
 波打つ髪を豪奢に揺らし、ミンウェイが食堂に現れた。彼女の手には、高さのある白磁の花瓶――そこから紫の花房が優美に垂れ下がっている。
「どうぞ、どうぞ」
 立派な太鼓腹に掛かったエプロンで手を拭きながら、料理長が厨房から顔を出した。
「ほほぅ、藤ですか。綺麗ですねぇ」
 感嘆の声が、広い食堂に響く。
 了承を得たミンウェイは、テーブルの中央に花瓶を据えた。どの方向からでも美しく見えるよう、房の形を整えていると、料理長が「はて?」と首を傾げた。
「庭の藤は、もう咲いていましたっけ?」
「これは温室に紛れ込んでいたものよ。外のは、まだちょっと早いわね」
 ミンウェイはそこで一度、言葉を切り、記憶をたどってから続けた。
「――そう言えば、料理長は知らなかったわね。メイシアの家の名は『藤咲』というの。そして、藤には『歓迎』という花言葉があるのよ」
「なるほど!」
 料理長が、ぽんと手を打つ。
 藤はアルコールで水揚げをしないと、すぐに萎びてしまう花である。やや面倒であるのだが、この花言葉はミンウェイの願いであった。
 彼女は小さく溜め息を漏らした。
 先程ミンウェイは、倭国に出掛けていた血族のふたり――エルファンとリュイセン父子から、もうすぐ帰宅するとの連絡を受けた。
 彼らは総帥イーレオの息子と孫であり、その血統を示すかのような美丈夫である。しかし、彼らはイーレオの特徴的な気質は、まるで受け継いでいなかった――どちらかといえば、良い意味で。すなわち、イーレオが『鷹刀の非常識』と呼ばれるのに対し、彼らは『鷹刀の常識』と(うた)われていた。
『一体、何を考えているんだ、祖父上は!?』
 電話口の向こうで、リュイセンが大音声を上げた。低く魅惑的な声質は、イーレオに酷似しているが、張りのある若々しさから別人と知れる。
貴族(シャトーア)の娘が尋ねてきた? しかも斑目と関係がある? その状況下で、どうして屋敷に招き入れる!? だいたいミンウェイがいて、何故……』
 激昂しているリュイセンの言葉が途中で遠ざかり、低い遣り取りが雑音混じりに入ってくる。聞き取ることはできないものの、隣りにいる彼の父が何かを言っているのが、ミンウェイには手に取るように分かった。
 しばらくして、今度は明瞭な音声が届いた。
『詳しいことは、あとで聞く』
 用件のみが簡潔に伝えられ、通話は切られた。リュイセンの父親にして、イーレオの長子、次期総帥のエルファンである。こちらもイーレオによく似た、渋く蠱惑的な声であったが、感情に乏しい。しかし、その裏に、ミンウェイは青白い炎の揺らめきを見た。
「ミンウェイ様、眉間に皺が寄っていますよ」
「え!?」
 料理長の呼びかけに、ミンウェイは、はっと我に返った。
「駄目ですよ。せっかくの美人が台無しです」
 太い腕を組み、料理長が物々しく首を横に振る。その大仰なしかめっ面ぶりに、ミンウェイは思わずぷっと吹き出した。彼女は、心の中で自分の頭をこつんと叩き、俯きがちの気持ちから背筋を伸ばす。
「あら、美人だなんて! 嬉しいわ」
「事実を言ったまでですよ。――して、憂い顔の原因は、なんですかね?」
「――当然の帰結というか、どうしようもないことよ。……分かっていたことだし、大丈夫よ、気にしないで」
 ミンウェイは、料理長に向かって華やかに笑いかけた。綺麗にすっと描かれた眉尻が下がる。この屋敷の雑務を切り盛りしている、実質的な最高責任者の完璧な笑顔であった。
 だが、料理長は渋い顔をした。
「そういうのは吐き出すべきですよ。抱え込めば深刻な悩みでも、言ってしまえば、ただの愚痴ですからね」
 人柄が体型に現れているかのような彼が、任せなさい、とばかりに、どーんと胸を叩く。それから、外見に似合わぬ優雅な物腰で、さっと椅子を引き、ミンウェイを座らせた。いったいどこに持っていたのか、小さな包みをテーブルに置き、彼女の目の前でそっと開く。色とりどりのマカロンが、ころんと転がった。
「あらっ!」
 ミンウェイから、無防備な子供の表情がこぼれた。
「自信作です」
「いいの?」
「勿論ですよ」
 絶妙なプロポーションを誇る大人の美女が、実は大の甘党であることを、厨房の主は熟知していた。
 嬉しそうにマカロンを口に運ぶミンウェイに、料理長は、ささっと手際よく紅茶も用意する。
「……さっきね、エルファン伯父様とリュイセンから帰国の連絡があったのよ。それでメイシアのことを話したらね……」
 ひとつ目を食べ終えたミンウェイが、ぼそぼそと口を開いた。その口元は駄々っ子のように尖っている。
「ははぁ……、なるほど。あのおふたりは、お堅いですからね」
「ちょっと融通が効かないわよね。元はといえば、お祖父様が突拍子もないんだけど……」
「イーレオ様が、あのお嬢さんに肩入れするのも分かりますよ。凄くいい子ですよねぇ。見た目も綺麗ですが、心が綺麗なんですよ。ルイフォン様がご執心になるのも、無理ないですね」
 昨晩のルイフォンとメイシアの遣り取りを、それとなく聞いていた料理長である。
「あ、やっぱり、ルイフォンが面白いことになっていると思う?」
「イーレオ様のご子息ですし、一過性のものかもしれませんがね」
 料理長が少しだけ意地悪く、口の端を上げる。
「あら、辛辣ね」
「食事と同じですよ。たまの珍味は悪くありませんが、毎日、食べても飽きないのは、その方にとって無理のない味です」
「……含蓄のある言葉だわ」
 料理長の意外な一面を見つけたような気がして、ミンウェイは大きく目を見開いた。
「いえいえ、私は料理人として、ひとつの真理にたどり着いただけです」
 彼はミンウェイの視線からすっと逃げるようにして紅茶のおかわりを注ぐ。ミンウェイの胸中に、少なからぬ好奇心がもたげたが、追求するのも野暮だと思い、彼女は当面の問題に思考を戻した。
 再び難しい顔になった彼女に、料理長は朗らかに笑いかけた。
「ミンウェイ様は、エルファン様とリュイセン様が、あのお嬢さんを苛めないか、心配なのでしょう? ミンウェイ様もまた、あの子を気に入ってらっしゃるということです」
「そうね、メイシアは本当に純粋で、いい子だわ」
「なら、ミンウェイ様とルイフォン様とで、庇ってあげればよいだけです。もっとも、イーレオ様の手前、誰も何もできやしませんがね。……まぁ、ミンウェイ様の本心としては、命令でいやいや従うのではなく、好意的に動いてほしいということなんでしょうけどね」
「……参ったわ。料理長は、すべてお見通しね」
 ミンウェイは軽く両肩をすくめた。
「お優しいんですよ、ミンウェイ様は。でも、そんな、どうしようもないことを、くよくよなさるミンウェイ様が、私は好きですよ」
 料理長が、茶目っ気たっぷりに片目をつぶって笑う。それにつられ、ミンウェイからも晴れやかな笑顔がこぼれた。
「ありがとう。気が楽になったわ」
「いえいえ、どういたしまして。……さて、帰国されたということは、おふたりの分のお昼食の用意もしなくてはいけませんね」
 その言葉に、ミンウェイは「あっ!」と口元に手を当てる。
「ごめんなさい。元はといえば、料理長にそれを言うために来たんだったわ……」
 藤の花は、食堂に行くついでに用意したものであり、これでは本末転倒である。
 らしくもない失態に、ミンウェイがうなだれた。自慢の波打つ黒髪が、精彩を欠いたように、力なく背から流れ落ちる。
「エルファン様のお声に、気が動転されたのでしょう?」
 料理長の優しげな声に、ミンウェイは、はっと顔を上げた。
 一体この人は、どこまで知っているのだろう。彼女は、疑問に思わずにはいられなかったが、相変わらずの人の良さそうな笑顔が、それを口に出すのを阻んだ。
「さて、私はこれで厨房に戻りますが、ミンウェイ様はごゆっくり。ああ、ピスタチオのマカロンは、是非、食べていってくださいね。自慢の出来ですから」
 そう言いながら、彼は腕まくりを始めた。心持ち、うきうきとしているように見えるのは、帰国したふたりに、久し振りに腕を振るえるからだろう。倭国の料理は美味しいと聞いているので、対抗意識があるのかもしれない。もっとも、彼の持論からすれば、自国の料理が一番であるのだが。
 料理長が一礼をして、軽やかに厨房に戻っていく。その揺れる背中を見ながら、ミンウェイは緑色のマカロンをつまんだ。ナッツの独特な甘い味わいが口いっぱいに広がり、ミンウェイはうっとりと目を細めた。
 ほぅ、と幸せな溜め息をついたとき、ミンウェイの携帯端末が鋭く鳴り響き、イーレオからの呼び出しを告げた。


 翼が刀と化した鷹――家紋の彫刻に虹彩を読み込ませる作業ももどかしく、ミンウェイはイーレオの執務室に入った。相変わらずの滑るような足の運びは無音であるが、隠し切れない荒々しさが滲み出ていた。
「お祖父様! 『斑目が動き出した』とは、具体的に何があったのでしょうか」
 繁華街の情報屋、トンツァイのところに出掛けたルイフォンから、イーレオに緊急連絡が入ったという。
 ルイフォンは重要な案件については、基本的に対面での口頭でのみ報告をする。自身が情報機器のスペシャリストであるため、電子化した情報は誰かに奪われて当然だという思想の持ち主なのだ。その彼が、わざわざ連絡してきたということは、ただならぬ事態といってよかった。
「斑目が、メイシアの異母弟を解放したらしい」
 執務机で頬杖をつきながら、イーレオは答えた。何かを思案しているのか、秀でた額にわずかに皺が寄っている。
「え?」
 人質の殺害という最悪の事態が頭を横切っていただけに、ミンウェイは拍子抜けした。
「メイシアの実家、藤咲家が斑目と手を組んだ可能性が高いそうだ。お嬢ちゃんを鷹刀に差し出すことによってな」
「な……っ!? 一体、どういうことでしょうか?」
「さぁてな? 俺が知るわけないだろう」
 イーレオは軽い声で肩をすくめた。てっきり策を練っているのだと信じていたミンウェイは、思わず声を荒らげる。
「お祖父様! そんな、他人事みたいに……!」
「そうは言ってもな、ミンウェイ。情報不足の状態で、推測だけで物を言っても仕方ないだろう?」
「それは……、そうですが……」
「だから、お前を呼んだんだろう?」
 椅子に背を預け、イーレオはじっとミンウェイを見上げる。細身の眼鏡の奥から、静かな瞳が彼女を捕らえる。
 彼は自分の携帯端末をミンウェイに指し示した。ルイフォンからの報告文を読むように、ということだ。
 一読して、ミンウェイの目もまた、すっと落ち着いた色を載せた。
「斑目の監視を増員、藤咲家へも偵察を手配します。それからトンツァイとの連絡係が必要です。――人を動かす許可を」
「許可する」
「それと、これは別件ですが――ルイフォンの依頼で、メイシアがずっと身に着けていたペンダントを解析させました。盗聴器の可能性があったためです。結果、ただのペンダントだと判明しました」
「ふむ。じゃあ、斑目がお嬢ちゃんを偵察に使おうとした、という線はないのか」
「ペンダント以外の手段もありうるので、なんともいえません」
 けれど、一番疑わしかったものがシロだった、ともいえる。
「ご苦労だったな。それじゃ、あとは人手を集めて、屋敷の周りの警戒を強化しておいてくれ」
「えっ……?」
 ミンウェイの背をぞくっと、冷たいものが走る。
「――来るぞ」
 一段、低く魅惑的な声でイーレオはそう言い、口の端を上げた。
 しかし、次の瞬間には、妙にご機嫌な様子で回転椅子を揺らしていた。
「でもまぁ、実家公認というのなら、俺は遠慮なく、お嬢ちゃんを貰っていいわけだな」
 そのとき、イーレオの携帯端末の通知音が鳴った。ルイフォンからのメッセージだった。
『メイシアの異母弟の顔を見に行ってくる』
 それを見たイーレオは、にたりと顔を歪ませながら呟いた。
「あいつ、俺の愛人を奪うつもりか?」
「……お祖父様がおっしゃると、冗談に聞こえないのが困ります」
 諦観を含んだ微妙な色合いの感想を、ミンウェイは漏らした。


 ルイフォンからの音声通話が来たのは、その直後のことだった。
 偽者のタクシー運転手に拉致されそうになったという、衝撃の報告――その会話の途中で、不自然にルイフォンの言葉が切れた。
 ミンウェイとイーレオが視線を交わし、頷き合う。
 ――敵の襲撃。
 彼らの見解を裏付けるかのように、動揺を隠し切れないようなルイフォンの声が聞こえてくる。
『――斑目タオロン……』
 ルイフォンが携帯端末を口元から離し、おそらくは尻ポケットにでも突っ込んだのであろう。その後の遣り取りはくぐもった音声になる。
 携帯端末の集音能力の限界から、得られる情報は途切れ途切れ。だが、ミンウェイは、野太い男の声をはっきりと聞いた。
『そこをどけ、鷹刀ルイフォン。……俺は、藤咲メイシアの死体が欲しいんだ』

2.風雲の襲撃者-1

2.風雲の襲撃者-1

「そこをどけ、鷹刀ルイフォン」
 ルイフォンの目前に迫る刀身――だが、タオロンは大刀をルイフォンに向けたまま、視線をすっとずらす。鋭利な刀尖はルイフォンを越え、その後ろのメイシアを狙っていた。
「俺は、藤咲メイシアの死体が欲しいんだ」
 ルイフォンの顔に衝撃が走り、メイシアの瞳が大きく見開かれる。血の気の失せた彼女の唇から「どうして……?」と、小さな呟きが漏れた。
「悪ぃな。詳しいことは言えねぇ。ひと思いにやってやるから、許せ」
 太い声で、さらりとタオロンが言う。
 ルイフォンは凄みのある眼光を放ちながら、外敵を前にした獣のような呻きを発した。だが、ルイフォンが次の行動を取るよりも先に、タオロンの背後にいる男のひとりが大きく声を荒らげた。
「正気ですか、タオロン様!? こんな上玉を何もせずに殺しちまう気ですか!」
 ぎらつく目玉で、ひとりの男がタオロンに食ってかかった。殺気にも近い怒気が溢れ、目上であるタオロンに今にも抜刀しそうな勢いである。
 隣にいた男が、先走った仲間の口を慌てて塞いだ。そして、もごもごと暴れる男を押さえつけながら、反対側の隣の男に目配せをする。合図された男は、揉み手をしながらタオロンの前に躍り出た。
「へへ、ご安心を。汚ぇことは全部あっしらにお任せください。タオロン様だって、しばらくご無沙汰ですよね?」
 涎でも垂らしそうな下卑たにやけ顔でタオロンに擦り寄ると、残りの男たちも尻馬に乗るように続いた。
「ひとこと下さるだけで、いいんです。そしたら、俺らがあの女とっ捕まえて裸にひん剥いてやりますよ。あぁ、勿論、最初はタオロン様です。俺らはあとでいいんで」
貴族(シャトーア)の女を組み伏せるのは、さぞ快感だと思いますよ? もう、タオロン様の好きなようにしちゃっていいんで! さぁ! 御指示を!」
 男たちが、口々に欲情の言葉を口走る。その荒い吐息と雄の獣の舐めるような視線に、メイシアの全身の産毛が逆立った。
 ルイフォンがメイシアを庇うように、前に一歩出る。
「うるせぇっ!」
 大気を揺るがすようなタオロンの一喝が、男たちの鼓膜を打ち破った。
 振動で大地までもが震えたかのように、男たちがよろけ、後ずさる。
「ごちゃごちゃ言うんじゃねぇ! テメェらのボスは誰だ! あぁ!? 汚ねぇ下衆な真似は、この俺が許さねぇ! 死にてぇ奴は言え! ブチ殺してやるからよ!」
 唾を飛ばすタオロンを、ルイフォンはじっと見据える。
 ――斑目タオロン。悪逆無道な斑目一族の直系。血気盛んな若い衆をまとめる実力者。
 だが、目の前の本人は、情報とはやや印象が異なった。
 メイシアを守る立場のルイフォンとしてはありがたいことだが、冷静に判断して、いずれにせよ同じ殺害という結末に至るのなら、手下たちを満足させておくほうが賢い。それを敢えて、禁じるのは正義馬鹿だ。
 興味深い奴だ、とルイフォンは思った。この男が斑目の名を持っていなければ、親しく付き合ってみたいところだ。
 内輪もめをしている敵に、ルイフォンは平静を取り戻した。敵の技量は確かであろうが、彼らは歩調があっていない。付け入るならそこだ。
 さて、どうしたものか――ルイフォンが猫のように、すっと目を細めたとき、一番後ろにいた男が動いた。
「〈(ムスカ)〉さん!?」
 男たちがどよめく。
 音もなく、ゆらりと前に進み出たその男は、白髪混じりの頭髪をしていた。周りの者たちより、ふた回りは上だろう。ただひとりサングラスを掛けており、すらりと背が高い。一見して、特殊な立場の者と分かるにも関わらず、今までまるで存在を感じさせなかった。
 異質な雰囲気を放つこの男に、ルイフォンは胸騒ぎを覚える。
(ムスカ)〉と呼ばれた男は、タオロンの脇に立つ。年齢なりに肉も落ちているであろうに、横に並んでも大柄なタオロンに引けをとらない威圧感があった。
「お優しいことですね」
 嘲笑を含んだ低い声に、タオロンは不快感もあらわに太い眉を寄せる。
「私にはまるで理解できませんが、私はしがない食客の身ですから協力しますよ?」
「〈(ムスカ)〉……?」
 タオロンが疑問の目を向ける。
「未練たらしい部下が見ていては、あなたもやりにくいでしょうから、私は部下たちを連れて、車のところで待っていますよ」
 そう言って、〈(ムスカ)〉は口角を上げた。サングラスに隠された瞳が何を映しているのかは、計り知れない。不気味な様子に、部下の男たちも渋々ながらも黙って踵を返した。
(ムスカ)〉もタオロンに背を向け、去り際に言い残す。
「まさか、あなたの腕で逃がしてしまうなんてことは……ありませんよね?」
 タオロンと〈(ムスカ)〉の間に、冷たい亀裂が走った。
 それを見て、ルイフォンは両者の関係を垣間見た気がした。
(ムスカ)〉はタオロンに『協力する』という言葉で恩を売りつけ、その実、彼に精神的苦痛を与えている。正義馬鹿のタオロンは、誰も見ていなければメイシアを逃したいはずだ。わざと、そのチャンスを作り、けれど釘を刺したのだ。
「ああ。すぐに終わらせる」
 タオロンの太い声が、無駄に大きく響き渡った。


(ムスカ)〉たちの姿が路地の向こうに消えると、タオロンは、ルイフォンの後ろで白蝋のような顔をしているメイシアに視線を移した。
「……藤咲メイシア。運がなかったと諦めてくれ。お前が鷹刀に囚えられたままだったら、良かったのに……」
「どういうことですか?」
 声を上ずらせながらも、メイシアが言葉を返した。内気そうな貴族(シャトーア)の娘が、口をきいたことが意外だったらしい。タオロンは少しだけ戸惑い、けれど表情を崩した。目尻に人のよさそうな皺が寄る。
「すまねぇなぁ。そいつは言えねぇや」
 タオロンは大刀を構えた。厳つい手が力強く、ぐっと柄を握りしめるのが、筋肉の動きで知れる。その刃の存在感ある煌めきに、メイシアの背筋が凍った。
 ルイフォンが、応じるように懐からナイフを出し、無言のまま鋭く睨みつける。
 それに対し、タオロンは正眼で見据え、ゆっくりと言い放った。
「……どいてろ。俺は無益な殺生をしたくねぇんだ」
 両者の体格も違えば、武器のリーチも圧倒的に違う。端から勝負になるはずもない。
 しかし、ルイフォンはきっぱりと言い切った。
「俺は、こいつを守る」
 ルイフォンは体勢をやや低くし、構えた。
「……そうか」
 視線と視線が絡み合う。
 突如、タオロンは大刀を振りかざし、ルイフォンに向かって一直線に走りだした。
 速い――メイシアは息を呑んだ。ルイフォンとタオロンの戦闘力差は明らかだ。
 だが、決して邪魔をしてはいけない。悲鳴ひとつだって、足手まといになりかねない。
 傍観者でいることの恐怖と闘いながら、彼女はふたりの動きを追う。
 ルイフォンは、鋭い視線で正面を見据えていた。ナイフを構えたまま、ぴくりとも動かない。
 大刀が、ルイフォンに迫る。
 このままでは……、そうメイシアの心臓が震え上がったとき、ルイフォンの眼球が一瞬だけ、上を向いた。
 刹那。
 ルイフォンは右腕を引き、力一杯、ナイフを投げた。
 ――斜め上に……。
 ルイフォンから放たれたナイフは、ぎらりと陽光を反射させながら、銀色の軌跡を描き、空へと向かっていた。
 ぱりーん、という硬質な高い音が響く。
 硝子の街灯が、ナイフによって撃ち砕かれていた。
 はっ、と状況を理解したタオロンは、自身の持つ優れた身体能力のすべてを使ってブレーキをかける。
「逃げるぞ!」
 叫ぶと同時に、ルイフォンは金色の鈴を翻し、メイシアをふわりと抱きかかえた。彼女の戸惑いも構わずに、路地裏へとさらっていく。
 たたらを踏み、すんでのところで留まったタオロンの鼻先を、ぱらぱらと虹色の光の欠片がかすめていく。
 見た目の美しさとは裏腹な、冷酷な刃の万華鏡。
 地に落ち、繊細な響きを打ち鳴らして、粉々に散り乱れた。
「やってくれるじゃねぇか……」
 足元に広がる鋭利な紋様を前に、青ざめながらも、タオロンは微笑んだ。


 一方、路地に逃げ込んだルイフォンは、上目遣いに訴えかけられていた。
「あの……、降ろしてください……」
 毅然と振る舞ってはいるが、メイシアの唇の色は薄く、小刻みに震えていた。汗でしっとり濡れた掌は、無意識のうちにルイフォンの腕にしがみついている。相当に怖い思いをしたのだろう。
 ルイフォンはこのまま抱きかかえていたい衝動にかられたが、じっと見詰められていてはそうもいかない。名残惜しげにメイシアの髪に顔を埋めると、彼女は「きゃっ」と、小さな悲鳴を上げる。再び抗議される前に、すばやく彼女を解放した。
 メイシアの頬は朱に染まり、いつもの自然な表情が戻っていた。ルイフォンは微笑を漏らした。
「行くぞ」
 そう言って、彼は歩き出す。
 ふたりの目的は、迎えの車が来るまで自分たちの身を守ること。無駄に戦う必要はない。タオロンには悪いが、付き合ってやる義理はないのだ。
 できればこのまま、どこかに隠れて遣り過ごしたい――ルイフォンは周囲を見渡す。
 少し先の建物の扉が、半開きのまま、ぎぃぎぃと風に揺れていた。

2.風雲の襲撃者-2

2.風雲の襲撃者-2

 砕けた硝子を避け、ルイフォンの尻尾の金の鈴を追いかけて、タオロンは路地裏に入った。
 そこには、彼の予想通り、猫の子一匹いなかった。
 両脇には、人気のない数階建ての建物が続いている。
 彼は、あたりの気配を確認しながら歩を進めた。高いところから物でも落とされたら堪らない。それは古典的ではあるが、有効な手段だからだ。
 そして、彼は一軒の建物の手前で止まった。
 ぎぃぎぃと音を立てて揺れ動く扉に向かい、彼は言う。
「鷹刀ルイフォン、隠れても無駄だぜ」
 だが、返事はない。
 タオロンは額のバンダナをずらし、片目を隠した。明るい室外から、急に暗い室内に入ると、どうしても目が眩む。それを避けるため、先に片目を慣らしておくのだ。
 彼は大刀を片手に扉を見据えた。
 静かに息を吐く。
 刹那、タオロンの体が砂塵と共に跳躍し、瞬く間に扉を蹴り飛ばす。
 ほとんど意味をなしていなかった扉の金具が、断末魔を上げた。
 そのまま、建物に突入――というところで、タオロンは頭を庇うように大刀を大きく振るった。
 きぃん……。
 金属同士が打ち付け合う、力強い音。
「くっ……!」
 頭上から落ちてきた重い衝撃に、タオロンは思わず呻き声を漏らした。
 大刀から伝わる振動が、腕まで響く。だが、それは相手も同じであった。
「ちぃっ……!」
 ルイフォンが舌打ちをした。痺れるような反動に、彼が手にしていた鉄パイプは抜け落ちた。
 細身のルイフォンは、タオロンの豪腕に弾き飛ばされる。しかし、持ち前の身軽さを発揮して、猫のように華麗に着地した。
「やはり、読まれていたか」
「当たりめぇだ。気配は二階からしていたからな。だが、まさか、お前自身が落ちてくるとは思わなかったけどな」
 タオロンは冷や汗をかきながら、バンダナを額に戻す。
「藤咲メイシアは?」
「逃がした。俺は、メイシアが逃げ切るまでの時間稼ぎさ」
 少々猫背気味の独特な歩き方で、ルイフォンは悠然とタオロンに近づく。両手に武器もないのに、恐れた様子も見せなかった。
 タオロンの浅黒い肌が粟立った。
「お前ほど油断ならねぇ相手は、初めてだぜ」
「お褒めいただいて、嬉しいね」
 猫のように目を細め、ルイフォンが笑う。そんな彼を威圧するように、タオロンが刀を構えた。
 ルイフォンが歩みを止める。
 両者が睨み合う。
 ルイフォンがすっと腰を落とした。
 と、その次の瞬間には、素早く地を蹴り、徒手空拳でタオロンの懐に飛び込む――。
「馬鹿な!?」
 無謀とも言えるルイフォンの行動にタオロンは戸惑いを隠せなかったが、それでも、その手の大刀で疾速の旋風を巻き起こす。
「……っ!」
 ルイフォンが息を呑んだ。
 大刀の鋭い切先は、ルイフォンの眉間を正確に狙っていた。
 空間を押し裂くような、体重を載せた力強い一撃。
 その太刀筋を、ルイフォンは全神経を使って見極めていた。
 刃が迫った瞬間、体内の血が凍りつくかのような緊張が彼を襲う。
 風圧で皮膚が裂けるその直前、ルイフォンは舞うように後ろに躱した。その際、袖に隠し持っていたものを、タオロンの首筋に向かって弾き飛ばす。
「痛っ……?」
 タオロンは自分の首に刺さったものを反射的に引き抜いた。それは小さな釘だった。鉄パイプ同様、街灯に投げつけて失ったナイフの代わりに、ルイフォンが廃墟で拾った武器だった。
 怪訝な顔をするタオロンを無視し、ルイフォンは軽やかに身を躍らせて間合いから離れる。一本に編んだ髪が宙を流れ、青い飾り紐がはためき、金色の鈴が煌めく。
「お前、こんなもので俺をどうするん……?」
 そう言いかけたところで、タオロンが、がくりと膝をついて倒れた。
 よく日焼けしているはずの彼の肌が、目に見えて青ざめていった。力が入らぬ様子の首を懸命に曲げ、ルイフォンを見上げる――それでも強さを失わない目だけで、現状について問うていた。
「筋弛緩剤だそうだ」
 ルイフォンが告げた。鉄パイプでの不意打ちに失敗した場合に、保険として釘の先に塗っておいたのだ。
 娼館の女主人シャオリエに貰った餞別。ルイフォンの年上の姪にして、薬草と毒草のエキスパート、ミンウェイ作の代物だが、効き目が分からなかったため積極的に使いたくはなかったのだ。しかし、どうやら有効――それどころか、少々塗りすぎだったらしい。
「さて、と。お前から情報を引き出したいところだが、今は麻痺してて喋れないよな? というわけで、あとで鷹刀の誰かに回収してもらおう」
 そう言いながら、彼は、おもむろに髪の先を留めている青い飾り紐をほどく。アラミド繊維を芯糸にしたそれは、細くともタオロンを拘束するのに充分な強度を持っていた。
 タオロンを後ろ手に縛り上げ、金色の鈴は大切に懐にしまう。
 そしてルイフォンは、建物に向かって手招きをした。


「ルイフォン……!」
 飛びつかんばかりの勢いで、建物からメイシアが飛び出してきた。
「怪我は、ありませんか……!?」
 黒曜石の瞳を潤ませ、メイシアはルイフォンを見上げる。
 ルイフォンは、深く長い安堵の息を漏らした。あとから考えれば、タオロンを倒せたのは奇跡に近かったと思う。
「ルイフォン?」
 心配そうに顔を覗き込んでくるメイシアに、ルイフォンは破顔する。
「大丈夫だ」
 彼は無造作に手を伸ばし、メイシアのさらさらとした黒髪をくしゃりと撫でた。彼女は困惑したように一瞬だけ顔をしかめたが、やがて満面の笑みを浮かべた。
「本当に、よかった……」
「心配かけたな」
 体を張って無茶をするのは、ルイフォンの力量からすれば正しい判断とは言えなかった。勿論、隠れているふたりにタオロンが気づかず通りすぎるのであればそれでよかった。しかし見つかってしまったとき、ルイフォンは迷わず行動に出たのだった。
「行くぞ」
「はい」
 メイシアは信頼の眼差しで頷いた。ルイフォンが無言で彼女の細い指先に指を絡めると、彼女の頬が桜色に染まった。
 そのまま彼女の手を引き、建物数軒分の距離を歩いたとき――。
「正直、驚きましたよ。鷹刀の子猫が、斑目のイノシシ坊やを倒してしまうなんてね」
 低い男の声が、背後から響いた。
 ルイフォンの心臓が警鐘を鳴らす。人の気配など、今まで微塵にも感じられなかった。
 彼が緊張の面持ちで振り返ると、そこに白髪混じりの長身の影――何を考えているのか、倒れているタオロンを靴先で転がしている。
「お前は……さっき、タオロンと一緒にいた――!」
 ルイフォンが叫ぶ。斑目の食客だと言っていた男だ。確か〈(ムスカ)〉と呼ばれていた。
「うちの坊やの帰りが遅いから、心配になってお迎えに来たんですよ」
 薄ら笑いを顔に載せ、〈(ムスカ)〉が言う。彼は足元のタオロンに向かって、「ほう」という声を上げた。
「意識はあるみたいですね。では、この毒はクラーレあたりですかね?」
「クラーレ?」
 耳慣れない単語にルイフォンが聞き返すと、男は嬉しそうに口の端を上げる。
「古くは狩猟につかわれた矢毒。樹皮由来の筋弛緩剤ですよ。……毒の使用者のあなたが、毒に詳しくないということですか。なら、〈ベラドンナ〉は息災のようですね」
「何……!?」
〈ベラドンナ〉の言葉に、ルイフォンは顔色を変える。〈(ムスカ)〉はその反応に満足したように、大きく頷いた。
「いいですね、その顔。鷹刀イーレオの血族が、疑念と不安にまみれる――たまりませんね」
「お前、鷹刀とどういう関係だ?」
「私は、ただの斑目の食客ですよ」
 そう言って、〈(ムスカ)〉は嗤笑する。
『食客』――その組織の者ではないが、食い扶持の対価として組織のために働く者。
 そういえば、情報屋のトンツァイが、斑目一族が別の勢力と手を組んだと言っていた。
 そのとき、ルイフォンは、ふと気づいた。
(ムスカ)〉のことは写真で見ている――トンツァイから、メイシアを唆したホンシュアという女の写真を貰った。そのとき隣に写っていた男だ。写真でもサングラスで素顔が隠されていたが、白髪混じりの頭と体格から、おそらく間違いない。
「ホンシュアと同じ組織の者、か……」
 ルイフォンが呟く。
(ムスカ)〉は笑みをたたえながら、ゆっくりと近づいてきた。滑るような足の運びは、まるで幽鬼のように気配がない。
 腰には細身の刀。純粋な力比べであれば、豪剣のタオロンのほうが上だろう。だが、狂気を宿したような不気味な迫力は、次元を超えた危険をはらんでいた。
 ルイフォンの背中を冷たい汗が流れる。
 まだ充分な間合いの位置で立ち止まったかと思ったら、ルイフォンの目の前が一閃した。
「……!?」
 かちり、という〈(ムスカ)〉の立てた鍔鳴りの音が、ルイフォンを嘲笑う。
 気づいたときにはルイフォンの上着のボタンが放物線を描いていた。三歩ほど先の地面に落ち、円を描くように転がってから動きを止める。
「……!」
 ルイフォンが息を呑んだ。
「どうしました? 鷹刀イーレオの子にしては、手応えがなさすぎますよ?」
(ムスカ)〉がそう揶揄したとき、ルイフォンの背後で、どすん、という音がした。振り向くと、メイシアが尻餅をついていた。がくがくと膝が笑っている。昨日、屋敷の警備の男に、威嚇の一刀を振るわれたことを、彼女の体は覚えているのだ。
「大丈夫か!?」
 駆け寄ろうとしたルイフォンに〈(ムスカ)〉が嗤う。
「敵を前にして背中を見せるとは、余裕ですね」
「くっ……」
 そう言いながらも、〈(ムスカ)〉は絶対的な優位にいるためか、ルイフォンの不意を突くような真似はしなかった。むしろ、メイシアの怯えようや、ルイフォンの悔しげな様子が彼の嗜虐心をくすぐったようで、満足気な笑みすら浮かべている。
「すみません。私は大丈夫です」
 恐怖の記憶に震える体を必死に動かし、メイシアはよろめきながらも、なんとか立ち上がった。
 ルイフォンは、そっと左の袖口に右手を入れた。それを目ざとく見ていた〈(ムスカ)〉が嗤う。
「毒を仕込んだ釘、ですね。ああ、でも残念ですね。私には毒が効かないんですよ」
(ムスカ)〉の足元の砂塵が、ルイフォンに向かって舞う。
 ルイフォンは「メイシア」と、小声で呼びかけた。
「お前は逃げろ」
「ルイフォン……」
 荒事には縁のなかったメイシアにも、はっきりと理解できた。このままではルイフォンは〈(ムスカ)〉の凶刃に刻まれる、と――。

3.怨恨の幽鬼-1

3.怨恨の幽鬼-1

 お前は逃げろ――その言葉に、メイシアの心臓は氷の矢に貫かれたような痛みを感じた。
 彼女はポケットに手を入れる。そこにはルイフォンの携帯端末があった。
 心臓から全身が凍りついていく恐怖を前に、先刻のルイフォンとの遣り取りが彼女の脳裏を走り抜けた――。


「ここに隠れてやり過ごすぞ」
 ルイフォンが、扉の壊れた建物の前で立ち止まった。
 街灯の硝子でタオロンを足止めし、メイシアを抱きかかえて路地裏へ逃げたのちに、再び歩き出したときのことである。
 割れた窓から差し込む光を頼りに、ルイフォンは建物――廃屋と言ったほうがしっくり来るような家の中を進んだ。
 遅れないように、と慌てながらメイシアも続くと、途中、足元に転がる何かにつまずく。とっさに、壁に手を付けば、ざらりとした砂のような埃の感触。窓も扉も用をなしていないにも関わらず、奥に進めば閉めきった空間特有の、むっとするような空気に満ちていた。
 ルイフォンは階段の安全を確かめると、メイシアを手招きした。そうして二階のひと部屋に腰を落ち着けると、彼は尻ポケットから、通話状態になったままの携帯端末を取り出した。何も言わずに通話を切り、メッセージを送る。
『斑目タオロンに襲われたが、取り敢えず逃げた。隠れているから通話は切る。GPSの地点まで迎えに来てくれ』
 それだけ書き込むと、ルイフォンは「これを預かってくれ」と言って、携帯端末をメイシアに手渡した。
 反射的に受け取った端末を、メイシアはじっと見つめた。
「どうした? 珍しいものではないだろう?」
 黙ったままのメイシアに、ルイフォンが不審な顔になる。
「それとも、貴族(シャトーア)のお嬢さん育ちじゃ、こういうものは持たせてもらえなかったのか? ……いや、没収したお前の荷物に入っていたな……?」
「……ルイフォンが、私にこれを渡す意味を考えていました」
 メイシアは真っ直ぐにルイフォンを見上げた。その瞳には、非難めいた色合いがあった。
「これは『味方に位置を知らせる端末』ですよね。何故、ルイフォンが持たないのですか?」
 詰め寄る彼女に、ルイフォンは一歩たじろぐ。
「え……?」
「……私と別行動をするつもりなんですね」
「まぁ、場合によれば……」
「そのとき、ルイフォンは、私のために危険な目にあっているはずです」
「……可能性は否定しない」
「それでは、お預かりするわけにはいきません」
 メイシアは、携帯端末の上下を、きちんとルイフォンのほうへ向け直し、両手で丁寧に差し出した。
「いいから、持っていろ」
「駄目です!」
 凛とした声に、ルイフォンは一瞬、気圧された。
 だがすぐに、すっと目を細める。
 今まで一緒に行動してきて、彼女の並ならぬ芯の強さには驚嘆してきた。しかしいざ、乱闘となったら、お荷物にしかならない。そんなこと、少し考えれば、すぐに分かることだ。
 メイシアの聡明さを認めていただけに、失望も大きい。ルイフォンは腹立たしげに顎をしゃくりあげた。
「強情な奴め……!」
 感情でものを言っていたら、凶賊(ダリジィン)は務まらない。所詮、世間知らずのお嬢さんというところか。
 苛立ちもあらわにルイフォンが舌打ちをしたとき、メイシアの唇が震えていることに彼は気づいた。
「……正直に言えば、とても怖いです。でも、そういう『世界』なんだ、と思いました」
 メイシアが屋敷を訪れた直後、ミンウェイは『世界が違う』と言った。そのときのメイシアは、貴族(シャトーア)凶賊(ダリジィン)で違うのは当たり前ではないか、とその程度にしか思っていなかった。けれど、彼女は身をもって知ったのだ。
「危険なことをしないでください、と、言いたいですが、言ってはいけないのも分かっています。もとより、私自身が鷹刀に武力を求めたのですから……」
 メイシアは唇を噛み、彼に携帯端末を押し付け続けた。手は震え、怯えた顔をしつつも、潤んだ瞳は譲るつもりはないと訴えていた。一心に前だけを見つめて――。
「……でも、私は鷹刀で暮らすことを選んだんです。だから、自分ひとりだけ、安全なところに守られているなんて、嫌です!」
 ――その目を、ルイフォンは知っていた。
 それは、彼と彼の父を魅了した目だった。
「……ああ……、そうだったな」
 彼は、癖のある前髪をくしゃりと掻き上げ、口元を綻ばせる。
「昨日、初めて会ったときと同じだ。今にも泣き出しそうな顔をしているくせに、お前は一歩も引かない。――お前は、そういう奴だ」
 ルイフォンはメイシアから携帯端末を受け取ると、手際よく画面を操作していった。鼻歌でも歌いそうなほどに、ご機嫌な様子で画面に指を走らせる。
「虹彩写真を撮らせてくれ」
 そう言って、メイシアに携帯端末を向けた。彼女がきょとんと彼を見たときには、もう撮影は終了していた。
「それじゃ、改めて。これを持っていてくれ」
 ルイフォンが再び手渡そうとするので、メイシアは押し戻す。
「だから、私は……!」
「違うって」
 彼は猫のような目をすっと細めた。
「この端末はな、俺以外の人間が操作しようとしたら、自動的にすべてのデータを消去するように仕掛けてある。けど、お前にも使用権限を与えておいた」
「どういうことでしょうか……?」
「いいか? 『俺とお前が別行動をしなきゃいけない事態』になったときには、俺にとってお前は足手まといにしかならない。想像できるよな?」
「それは……その通り、です……」
「だから、そのときは逃げろ。逃げて、この端末を使って屋敷に連絡してくれ。親父に状況を説明して、指示を仰いで欲しい」
「……」
「俺は情報屋だ。情報を制する者が勝つと信じている。つまり、だ。その場にいたら邪魔なだけのお前を、戦力に変える」
 メイシアは、納得したわけではなかった。けれどルイフォンが言うことはもっともだった。
 こうして、彼女は携帯端末を預かったのだった。


 ルイフォンの足手まといになってはいけない。だから、ここは彼の指示通りに逃げるべきなのだ。
 けれど――ルイフォンもまた逃げるべきなのだ。自分たちの目的は、相手を倒すことではないのだから。
 メイシアは痛む心臓を押さえるように、ポケットから出した手を胸に当てた。
 ルイフォンは彼女を守るために、自分の身を危険に晒す。今だってこうして、彼女の前に立っている。
 彼の背中で一本に編まれていた髪は、飾り紐を失い緩やかにほどけつつあった。癖のある猫っ毛が広がり、まるで〈(ムスカ)〉から彼女を隠そうとしているかのようだった。
 メイシアは、ぎりりと奥歯を噛みしめた。
 いったい何度、この後ろ姿を見ただろう――?
「……」
 彼女は地面に張り付く足を引き剥がす。じわじわと汗ばむ体に力を込めると、ルイフォンの影から決然と抜け出した。そして、〈(ムスカ)〉の前へと歩を進める。
「メイシア!?」
 ルイフォンの狼狽の声にも構わず、彼女はまっすぐに〈(ムスカ)〉を見上げた。長い黒髪が、ふわりとなびく。
「あなたは、イーレオ様に恨み骨髄とのご様子とお見受けいたしました」
 予期せぬことに、わずかな動揺を見せた〈(ムスカ)〉だが、すぐに口元に嘲笑を浮かべる。
「おや? 腰を抜かしていた小娘が、いきなり何を言い出すかと思えば……」
「つまりあなたは、イーレオ様と直接、相見えずに、か弱き私たちを傷めつけることで、卑屈な自尊心を満足させようとしていらっしゃるわけですね?」
 メイシアは微笑んだ。聖女のような顔が、挑発的に妖しく歪んでいく。
(ムスカ)〉の顔色が変わった。
「あなたは過去に、イーレオ様に負けたのでしょう?」
 婉然とした笑みは、娼館の女主人シャオリエから学んだものだった。
「……黙れ、小娘ぇ! 貴様にっ、何が分かるっ!!」
 地底から響いてくるような低い声に怒りを煮えたぎらせ、〈(ムスカ)〉が吠える。
「ルイフォン!」
 メイシアは叫ぶと同時に踵を返し、思い切り地を蹴り出した。華奢な彼女なりの、精一杯の脚力――否、全身全霊の力をもって走りだす。
 そのとき、〈(ムスカ)〉は我を忘れた。むき出しの殺意をメイシアに向け、翻る黒髪もろとも、彼女を袈裟懸けにせんと、白刃を煌めかせる。
「メイシア!?」
 自分が囮になるから逃げてと、彼女は言っているのだろうか? そんな馬鹿な、とルイフォンの心臓が縮み上がった。
 そんな危険を冒したところで、か細い彼女の足では、あっという間に、凶刃に捕らえられてしまうだろう。彼が逃げる暇もなく――。
 そのとき、ルイフォンは、はっとした。
 彼の目の前に、〈(ムスカ)〉の無防備な背中があった。
(ムスカ)〉の瞳は、メイシアしか映していない。――そこに生まれる隙を勝機に変えるよう、彼女は彼を信じて託したのだ。
 頭で理解するよりも先に、体が動いた。
 ルイフォンは猛進した。野生の獣のようにしなやかに(はし)る。
 袖口に入れていた右手はブラフ。毒の釘は一本しか作っていない。
 護身用のナイフは、タオロンを足止めするために街灯に投げて、そのままだ。
 だから、ルイフォンは跳んだ。強く踏み出した片足をばねに、まるで重力を無視したかのように、ふわりと。
 軽やかに浮かび上がった体から、(かかと)が勢いよく伸び、〈(ムスカ)〉の頚椎を狙う――!
「……っ!」
 直前で、気づかれた。
(ムスカ)〉が刀を旋回させる。ルイフォンを斬り捨てようと、鋭い銀色の円弧が迫る。
「くっ――!」
 ルイフォンは空中で体をひねった。蹴りの軌道が、わずかに上方にずれる。そのすぐ下を〈(ムスカ)〉の凶刃が駆け抜けた。
 神業ともいえる体術で刃を逃れたルイフォンは、落下の流れに乗りながら〈(ムスカ)〉の横面に蹴りを入れる。
「……っ」
 低い呻き声。〈(ムスカ)〉の口元から、ひと筋の血が垂れた。
 からん、と。刀を取り落とす音が響いた。
 ……しかし、〈(ムスカ)〉が倒れることはなかった。
「甘かったか……!」
 ルイフォンは舌を鳴らした。
 間髪おかずに、彼は着地の低い姿勢から、肘で〈(ムスカ)〉の鳩尾を突き上げた。
 手応えはあった。
 だが軽い。明らかに浅い。脳震盪を起こしていても不思議ない状況下で、〈(ムスカ)〉は体を引いて直撃を避けたのだ。
 ルイフォンは、足元に転がる〈(ムスカ)〉の刀を、咄嗟に遠くへと蹴り飛ばした。刀は、くるくると円を描いて地面を滑り、薄汚れた壁にぶつかって止まる。
 今なら逃げられるか……!?
 しかし、ルイフォンの直感が告げた。不用意に背を向けることは危険であると――。
「あなた方を少々侮りすぎていたようですね」
(ムスカ)〉の声が低く響き、体が一瞬、緩やかに浮く。軽く跳躍しただけであるが、その次の刹那、電光石火の早業でルイフォンの腹を打ち抜いた。
「ぐはぁ……」
 ルイフォンは、自分の内臓が飛び出たかと思った。呼吸が止まる。
 地獄の苦しみに足元がおぼつかず、膝から崩れ落ちる。意識はあるが、強い吐き気に思考が奪われる。体を、動かせない。
(ムスカ)〉が嗤う
 彼は音もなく歩き、ルイフォンに蹴り飛ばされた刀を拾ってきた。そして、蔑むようにルイフォンを見下ろした。
 ルイフォンは唇を噛んだ。
 多少の武術を学んだところで、その道で生きている人間の足元にも及ばないことは分かりきっていた。彼は凶賊(ダリジィン)に関わる者とはいえ後方部隊であり、巻き込まれた際に降りかかる火の粉を払う程度の力しか持ってない。
 それでも無抵抗にやられるつもりなどなかった。できるだけ長く〈(ムスカ)〉を引き止めれば、その分メイシアは遠くまで逃げられるのだ。
 ルイフォンは、好戦的な目で〈(ムスカ)〉を見上げた。
 しかし、〈(ムスカ)〉が遠くに向かって「小娘!」と、声を放った。
「そのへんに隠れているのは分かっていますよ? この小僧の命が惜しければ、出てきてもらいましょう」
 ルイフォンは顔色を変えた。メイシアの性格を考えれば、すぐそこの角あたりで様子を窺っていて当然だった。
 吐き気を抑え、ルイフォンは叫ぶ。
「来るな、メイシ……!」
 だが、それも〈(ムスカ)〉の強烈な蹴りによって遮られた。ルイフォンは地面に叩きつけられ、勢いのままに砂地を滑る。ちょうど先程〈(ムスカ)〉によって切り飛ばされた上着のボタンのように、無様に地を転がった。
(ムスカ)〉はメイシアの気配を探った。必ず近くにいるはずだった。あの小娘は、お上品なタイプの貴族(シャトーア)の娘に見えた。身分の低い者を虫けらのように扱う『捕食者』ではない。愚かなほどにどこまでも善人で、彼のような者にとって非常に好都合な『被捕食者』であると。
 メイシアは――姿を見せなかった。
 寂れた廃墟の道には、残飯を荒らす鴉すらいない。
 ただ乾いた砂塵だけが漂っていた。
(ムスカ)〉は哄笑した。
「可哀想に、あなたは単なる捨て駒だったんですね。貴族(シャトーア)の小娘にしたら当然、ということでしょうか?」
(ムスカ)〉としても予想外であったが、これはこれで愉快であった。
「残念でしたね。あなたは、あの小娘相手に随分、鼻の下を伸ばしていたようですが……。女は怖い、ということですか」
「あいつは賢い奴だ。お前の挑発に乗るような、愚かな真似をするわけないだろう」
 ルイフォンは〈(ムスカ)〉に向かって唾を吐く。……だが、〈(ムスカ)〉にやられた腹とは別に、胸の奥がちくり痛んだ。
「ともかく、仕方がありませんね。あなたはさっさと片付けて、小娘を追うことにしましょう」
(ムスカ)〉は、銀色の刀身を頭上、高くに掲げた。激しい痛みの中でそれを見上げたルイフォンの目に、小さな花をあしらった鍔飾りが映る。この男の持ち物にしては妙に綺麗だ、そんな的外れな感想を、彼は抱いた――。

3.怨恨の幽鬼-2

3.怨恨の幽鬼-2

 斑目一族への対抗策を講じるため、執務室に呼び出されたチャオラウは、苛立ちを隠すかのように、しきりに無精髭を触っていた。彼は、イーレオの護衛であり腹心であり、一族の武術師範でもある。
 彼らの眼前の大モニタには、ルイフォンの携帯端末の位置情報が映し出されていた。点が移動しているということは、隠れた場所から見つかったということにほかならない。ルイフォンの力量を正確に知っている師匠のチャオラウは、苦い顔にならざるを得なかった。
 迎えの車は、とっくに出してある。だが、ルイフォンたちのいる場所は、貧民街の端のあたり。今は廃墟と化した商店街である。車を示す点は、まだ地図上に現れてすらいない。
 張り詰めた空間に、携帯端末の呼び出し音が響いた。発信元はルイフォンと表示されている。
「音声通話?」
 疑問の声を上げながらも、ミンウェイがスピーカー出力で通話を受けた。
『メイシアです――』
 その場にいた三人は顔を見合わせた。
 ルイフォンは、自分の携帯端末を決して他人に触らせない。端末から繋がる情報は、彼の命にも等しいものだからだ。故に、無理に操作しようとすれば、端末は即座に機械としての矜持を()て、すべてのデータを消去し、文鎮以下の存在になる。
 電話口からは、全力で走っていることが伝わる荒い息が聞こえてきた。それは、事態の逼迫を物語っていた。
『斑目タオロンという人は退けました。けれど、今度は〈(ムスカ)〉と名乗る男とルイフォンが対峙しています。斑目の食客で、鷹刀に、特にイーレオ様に恨みがあるみたいです。ご存知でしょうか。それから、〈ベラドンナ〉は息災のようですね、と――』
 そこで通話は切れた。
 その場にいた全員に、衝撃が走った。
「……嘘……?」
 ミンウェイが乾いた声を漏らす。
 彼女は、耳を疑った。目の焦点が定まらず、全身の力が抜け落ちる。激しい耳鳴りの中で、メイシアの言葉を反芻していた。
「ミンウェイ!」
 イーレオが叫ぶと同時に、チャオラウが動き、卒倒しかけたミンウェイを支えた。彼女は蒼白な顔で唇をわななかせていた。
「どうして……?」
〈ベラドンナ〉とは、『美しい淑女』という意味を持つ、可憐な毒花――そして、ミンウェイが過去に捨てた、毒使いの暗殺者としての通り名であった。
「行かなきゃ……」
 チャオラウの肩に掴まりながら、ミンウェイは呟く。
「慌てるな、ミンウェイ」
 イーレオが鋭く制止の声を上げる。
「敵が〈(ムスカ)〉の名を出したのは、俺たちの動揺を誘うためかもしれないぞ」
「でも……! 本当なら……。……確認に行かせてください!」
 ミンウェイが、イーレオに懇願の眼差しを向けた。しかし、イーレオは――鷹刀一族の総帥は、首を横に振った。
「ミンウェイ。お前は、俺の大切な一族なんだ」
「お祖父様……?」
 イーレオは眼鏡の奥の目を伏せた。目尻に皺が寄り、若作りの魔法が溶ける。
「お前の気持ちは分かる。気になって当然だろう。だが、お前を行かせることは得策とは言えない」
「…………。理由を、お聞かせください」
「今のお前は冷静とはいえないからだ。現在、一族にとっての命題は、ルイフォンとメイシアを救出することだ。〈(ムスカ)〉を名乗る奴について調べることじゃない」
「あ……」
 自身のことでいっぱいになり、彼らのことを忘れていた自分に気づき、ミンウェイは羞恥に顔を朱にする。
「――仮に〈(ムスカ)〉が本物だったとして、お前はどうするんだ?」
「…………」
「奴と敵対して、ルイフォンたちを救い出すか? ……無理だろう? お前じゃ勝てない。それとも――敵対しないのか……?」
「……!」
「俺は嫌だね。俺はお前を奴に取られたくない。だから、お前を奴に会わせてやらない」
 まるで子どものような言い草だが、その言葉にミンウェイは息を呑む。それを確認してから、イーレオはゆっくりと続けた。
「俺の一族には、お前が必要だからな」
 イーレオは回転椅子に背を預け、彼女をじっと見上げた。その視線に心を貫かれたかのように、彼女は身動きを取れず、瞬きすらも忘れていた。
「そうですよ」
 今までずっと沈黙を守ってきたチャオラウが、そっとミンウェイの背中を支えた。
「大雑把なイーレオ様だけでは部下としては不安でなりませんし、無愛想なエルファン様では士気が下がります。きめ細やかなミンウェイ様の補佐があってこその、鷹刀ですよ」
「よく分かっているじゃないか、チャオラウ」
 回転椅子をぎぃと鳴らし、イーレオが背を起こす。
「私は長年、イーレオ様の部下としてお仕えしてきましたからね。下の者の不満は、すべて把握しておりますよ?」
「ふむ? そりゃ、不満じゃなくて、ただの事実だろう。けどまぁ、いいじゃないか。完璧な人間が上に立ったら、下につく者は息苦しいだけだからな」
「ああ、なるほど。だから私たちは、イーレオ様を総帥として仰いでいるというわけですね」
 執務室に、ふたりの低い笑い声が響く。
 ミンウェイは、すっと肩の力が抜けていくのを感じていた。これが鷹刀一族なのだ。そして自分は一族の利益のために動くのだ――。
「取り乱してすみませんでした。確かに私が行くのは得策ではありません。……それに、今から出たところで遅すぎます」
 ミンウェイは唇を噛む。ルイフォンが窮地に陥っているのに、こちらからの迎えはまだ到着しそうにない。
「ルイフォン様の機転と詭弁に期待するしかないですね」
 師匠たるチャオラウが、苦々しげに呟いた。逃げ延びるだけの技術なら教えこんであるのだ。だがそれは、あくまでもルイフォンひとりの場合であった。
「ミンウェイ、エルファンは空港に着いていたな?」
 唐突に、イーレオが低い声で尋ねた。
 ミンウェイは、はっとした。倭国から帰国した伯父たちなら、空港から屋敷に向かう途中で、貧民街の近くを通るはずだった。
 ミンウェイは目礼をして、イーレオの前の電話を取る。出力はスピーカー。登録済みのエルファンの番号を選ぶと、相手は二コール目で出た。
 ――だが、無言のままに回線は切断される……。
「え……?」
 ミンウェイは困惑した。こちらの番号はイーレオのものだ。一族の者なら誰でも即座に受けるはずだ。通信状況が悪いのだろうか。
「……向こうでも何かあったな……」
 イーレオが、くしゃりと前髪を掻き上げた。さらさらとした黒髪が指の間から零れ落ち、額に舞い戻る。
 ミンウェイが不安げにイーレオの様子を窺うと、彼は執務机に片肘を付き、頬杖をついた。
「心配するな。エルファンは一度、通信を受けてから切っている。こちらの意図は伝わっているはずだ。じきに向こうから連絡をよこすさ」
 そんな楽観的な、と言いかけたミンウェイだが、イーレオの綺麗な微笑の前に、口をつぐまざるを得なかった。
「険しい顔をしてないで、桜でも見たらどうだ? 焦ったところで、だ」
 イーレオが窓を示すと、そこから顔を覗かせている桜が、ひらりと花びらを落とした。蜜を吸いに来た雀が、枝に載ったはずみで散らしたのだ。
 促されたミンウェイは、視界の端での営みを見るともなしに瞳に映す。
 雀がくちばしで花を手折り、器用に蜜を吸う。喉を震わせ、満足すると、用の済んだ花をぷいと飛ばした。その花が、先に地に落とされていた花びらと再会を果たしたとき、イーレオの電話が鳴り響いた。
 発信者はリュイセン――エルファンの息子。
「リュイセン!」
 ミンウェイは、受話器に飛びつくと同時に叫んだ。「雅のない……」というイーレオのぼやきが聞こえるが、それに構っている余裕などない。
『ミンウェイか。祖父上はそこにいらっしゃるな?』
 イーレオによく似た、だが張りのある若々しい声が響く。
「ええ。スピーカーで聞いてらっしゃるわ。チャオラウも一緒よ。それより、そっちはどうなっているの? 屋敷に向かっている途中じゃないの!? エルファン伯父様は!?」
 ミンウェイの矢継ぎ早の質問に対し、怒りの火種を必死に抑えているのが明確に分かる、低い声が返ってくる。
『空港で拘束された。密輸入の容疑、だそうだ』
「なっ……! 何、それ? 疑われるような真似をしたの?」
『何もしてねぇよ! これは、そっちで起きている問題の余波だろ!? 貴族(シャトーア)絡みなら、上に手を回すのも簡単だからな! 俺たちを分断、あわよくば捕獲したいんだろ!』
 リュイセンはあっさりと爆発した。勢いに押され、思わず後ずさったミンウェイに代わり、イーレオが身を乗り出す。
「迷惑をかけたみたいだな。すまない」
『祖父上! 迷惑をかけた、じゃなくて、今も進行形で迷惑しているんです! 少しは物を考えてから行動してください!』
 その言葉にイーレオは「うむ……」と、ばつが悪そうに応じた。だが、一瞬、押し黙ったかと思うと、その先は別人のように顔つきが変わった。
「リュイセン、エルファンはどうした? 状況を報告してくれ」
 渋く冷静な声色に、リュイセンも様子を改めた。
『祖父上、報告いたします。父上と俺が取調室で尋問を受けていたとき、そちらからの連絡を受けました。父上は、祖父上が呼んでいるから先に帰れ、と俺を取調室から出しました』
 リュイセンは、父エルファンが、どのようにして彼を『出した』のか、詳細は告げなかった。言わなくとも、エルファンなら取調官が『快く』応じてくれるように『交渉』したであろうことは明白だった。
「エルファンは、まだ拘束中だな?」
『はい』
「あいつなら適当にあしらって帰ってくるだろう。それより、ルイフォンが危険な状態だ。すぐに助けに行って欲しい」
『はぁ? ルイフォン!?』
「お願い、急いで! ルイフォンが殺される……!」
 ミンウェイも割って入る。
『あいつ、弱いくせに何やってんだよ!』
「場所は貧民街の外れよ。こっちからナビするから、すぐに行って!」
『行けって、どうやって?』
「その辺のバイクでも奪えばいいでしょう!」


 数分後、リュイセンは疾風となっていた。
『近道を教えるわ。指示に従って!』
 リュイセンの左耳から、ミンウェイの声が響く。制限速度を遥かに上回った猛風の中では、片耳イヤホンの音声は擦り切れそうだ。
『そのまま直進! スピード上げて!』
「信号、赤だぞ!」
 こちらの音声が拾えているかは怪しいが、無茶を言う従姉にリュイセンは怒鳴り返す。
『構わないわ。無視して突っ走って!』
 ルイフォンお勧めのイヤホンマイクは予想以上に高性能だったようで、ミンウェイの無謀な指示が返ってきた。
「本気かよ!?」
『お願い! あなたなら、なんとかなると思うから』
「はぁ?」
『あなたは、鷹刀で二番目に強いから』
「二番目? 俺の上は誰だと言っている?」
『チャオラウ』
 その答えに、リュイセンの眉がぴくりと動いた。
「……父上より、俺が強いと言っている?」
『ええ』
 リュイセンはアクセルを回し、バイクを更に加速させた。
 
 執務室の大モニタ上を、ルイフォンの携帯端末の位置情報が移動している。
 その地図上に、リュイセンの現在位置を示す光点は、まだ現れていない……。

3.怨恨の幽鬼-3

3.怨恨の幽鬼-3

 風が、荒廃した街中を吹き抜ける。
 乾いた青さの空に向かい、砂塵が舞う。
 倒れかけの電柱から垂れ下がった電線が、悲しげな呻きを上げた。
(ムスカ)〉の無情な刀身は、ルイフォンを冷酷に見下ろしていた。それは、サングラスに隠された主の視線に代わり、鋭く狙いをつけているかのようだった。
「遠くで人の気配がしますね。面倒が起こらないうちに終わらせましょう」
 事務的にすら聞こえる声で〈(ムスカ)〉が言う。事実、この男にとって、ルイフォンの首をはねることなど、作業のひとつに過ぎないのだろう。
 ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
 メイシアは、どのくらい遠くまで逃げられただろうか。賢いあの少女のことだから、あるいは、どこかに身を隠しているかもしれない。迎えが来るまで、どうか無事でいてほしい――。
 彼女を逃がすため、そして自分自身のため、ルイフォンはこのまま潔くやられるつもりなど、毛頭なかった。
 師匠のチャオラウは、ルイフォンに戦うことよりも守ること、逃げることを教えこんだ。身の軽さなら、兄弟子で年上の甥のリュイセンにも引けは取らない。体が思い通りに動く状態なら、〈(ムスカ)〉の一刀を避ける自信はある。だが……。
 ――ルイフォンの目が、すぅっと細まり、獲物を狙う猫のように、静かにじっと〈(ムスカ)〉の様子を窺う。
「ほぅ、悪巧みをしている目ですね。その有様で、なお……。面白い」
(ムスカ)〉の頬が、ふっと歪んだ。そして、何を思ったのか、掲げていた刀をくるりと円を描くようにして下ろす。小花をあしらった鍔飾りが、鞘口にかちりと抱きとめられた。
「〈(ムスカ)〉……!?」
「提案があります」
(ムスカ)〉は意味ありげに、腰に手をやった。地に伏したルイフォンへの威圧感を計算し、胸を張り、軽く顎を上げる。
 ルイフォンは、〈(ムスカ)〉のサングラスの下の表情を読み取るべく、目を眇めた。
 情報の収集と分析――それが彼がもっとも得意とする武器であり、〈(ムスカ)〉が直接的な攻撃を仕掛けてこないのなら、こちらにも動きようがある。息を殺すようにして、次の言葉を待った。
「私と手を組みませんか?」
「な……!?」
 先程、食らった一撃以上に、息が止まる思いがした。一体、どういうつもりで〈(ムスカ)〉がそう言うのか、ルイフォンには皆目見当もつかない。
「何を驚いているんですか。私たちの対立の原因はあの小娘。けれど、小娘はあなたを見捨て、助ける気もない。ならば、あなたが義理立てする理由はないでしょう」
 あまりの提案に、思考が停止しそうになるのをこらえ、ルイフォンは冷静に〈(ムスカ)〉を見やる。この男は斑目一族の食客で……。
「お前は鷹刀に恨みがあるはずだ」
「ええ、憎いですよ」
(ムスカ)〉の声が一段、低くなる。幽鬼の闇が濃くなり、気配を感じさせない彼が存在感をあらわにする。
「鷹刀の俺と、鷹刀を憎むお前が、仲良く手を組むなんてあり得ないと思うんだが……?」
「何をおっしゃるんですか。あなたに拒否権があるとでも?」
(ムスカ)〉が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。彼の腰で細身の刀が揺れた。
「なるほど……」
『手を組む』というのは口先だけで、命が惜しければ従えということだ。
 活路を見いだせるかと期待しただけに、落胆しかけたルイフォンだったが、ふと気づいた。
 殺さずに活かすというのなら、つまり〈(ムスカ)〉は、憎き鷹刀の名を持つルイフォンに、なんらかの価値を見出しているということになる。それは、相当に酔狂なことのはずだ。
 ルイフォンの情報屋としての本能が、そこに探るべき何かがあると訴える。
「あなたを捨て駒にした小娘のために無駄死にするよりは、私について私の寝首を掻く機会でも窺ったほうが、よほど建設的だと思いますよ?」
(ムスカ)〉が、悪魔の囁きで甘く誘う。
 その手を取ることなど、まっぴらごめんであるが、今はまだ振り払うべき時ではない。圧倒的な優位に立つ〈(ムスカ)〉が気を変えれば、即座にルイフォンの頭と体は泣き別れするのだ。
 ルイフォンは、慎重に言葉を選んだ。
「……一応、筋は通っているな。俺にとっても悪い話じゃない」
「物分かりのよい敗者は清々しいですね」
 さげすみきった、挑発的な物言いだったが、反応すれば〈(ムスカ)〉を喜ばせるだけなのは分かっていた。それに、本来、前線に立つのが仕事ではないルイフォンが、戦闘での負けを悔しがる必要もない。大切なのは、守りたいものを守り抜けること。そう考えられるだけの余裕が、彼には戻ってきていた。
「で? 俺は何をすればいい? 内通者にでもなればいいのか?」
(ムスカ)〉は肩をすくめ、白髪頭を左右に振った。
「まさか。あなたのような悪戯な子猫を手元から放したら、帰ってこないに決まっているじゃありませんか」
 嫌らしい笑みを漏らす〈(ムスカ)〉に、ルイフォンは息を呑んだ。
 まただ――。
(ムスカ)〉がこの路地に現れたときも、彼はルイフォンのことを『子猫』と呼んだ。確かにルイフォンは、〈(フェレース)〉の名を持つクラッカーだ。だが、〈(フェレース)〉の正体は一般には知られていない。鷹刀一族の中でも、ごく一部の者のみが知る極秘事項なのだ。
 これは偶然か…………否。
「……そうか。お前の『ムスカ』という名は、ラテン語の……確か、『蝿』」
(フェレース)〉と同じ規則の暗号名。つまり――。
「〈七つの大罪〉の関係者だな」
(ムスカ)〉は、ただ口の端を上げた。是とも非とも言わずとも、それだけで充分な答えだった。
 ルイフォンの脳裏に、かつて〈(フェレース)〉を名乗っていた母の姿が浮かび上がる。

「〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が、あんたの前に現れることがあったら……逃げなさい」

「〈(フェレース)〉の血を引くあなたを、刀の錆にするのは惜しいんですよ」
(ムスカ)〉は懐から小瓶を出した。透明な瓶の中で、透明な液体が揺れている。陽光を浴びて〈(ムスカ)〉の掌に透明な影を作るそれは、蓋を開けなくても危険な香りがした。
「少しの間、眠るだけです」
 ――ここで拒否をすれば、それまでだろう。
 ルイフォンは視線を下げた。うつむきがちの頭から癖のある前髪が流れ、目元の表情を隠す。
 この流れのままで時間を稼ぐのも、そろそろ限界のようだ。猫のような目が、すぅっと細まる。〈(ムスカ)〉の言う『悪巧み』の目だ。
「分かった。今の俺の立場からすれば、そのくらい仕方ないだろう」
 そこでルイフォンは一度言葉を切り、顔を上げた。
「ひとつ、教えてほしい」
「おや? あなたは質問できるような身分でしたっけ?」
 そういう〈(ムスカ)〉の揶揄も無視して、ルイフォンは続ける。
「お前たちは、藤咲メイシアに何をさせたかったんだ? お前の仲間のホンシュアが彼女を鷹刀に送り込んだくせに、今は彼女の死体を欲しがっている。訳が分からない」
(ムスカ)〉は、無言でサングラスの目をルイフォンに向けた。切り出し方を誤ったかと、ルイフォンの背を汗が流れる。
 彼は慌てて、負けん気の強そうな十六歳の少年の瞳を作り、〈(ムスカ)〉を睨むように見上げた。
「……それとも、これはすべて演技なのか? 彼女は俺たちを掻き回す役割を持った、斑目の手の者だったのか? 彼女が俺に向けた顔はすべて嘘だったのか?」
「ほう、なるほど。憐れな思慕の念を昇華するためには、小娘を悪者にしたいわけですね」
 唇を噛んで押し黙るルイフォンに、〈(ムスカ)〉は優越感に満ちた愉快げな声を上げた。
「愚かなる道化師に免じて、教えてさしあげましょう」
 まるで悪魔のような、美しく優しく残忍な微笑みを見せ、〈(ムスカ)〉がゆらりとルイフォンの顔を覗き込んだ。
「あの娘は何も知りませんよ。ただ踊らされているだけです。流石に貴族(シャトーア)ですから、当初の筋書きでは、殺害などという面倒ごとにはせずに、無事に実家に戻されるはずでした。その約束で、藤咲家を納得させましたしね。――それを、他ならぬ、あなたが計画を崩してくれたんですよ」
「な……!?」
「あの駒は、鷹刀の屋敷に置いておく必要がありました。けれど、そこから動かされてしまったのなら、無理にでも運ぶしかないでしょう?」
(ムスカ)〉が声を立てて嗤う。
 それが呪いの言葉でもあるかのように、ルイフォンの耳から入って脳を侵食し、彼の神経を揺さぶった。ルイフォンの顔から、血の気が引いていく。
「……さて、お喋りもこのくらいにしてください」
(ムスカ)〉が、音もなく一歩近寄った。砂地に座り込んだままのルイフォンに、黒い影が落ちる。
 彼は、透明な小瓶を手に、ゆっくりとしゃがみ込むと、すっとルイフォンに差し出した。促されるままに受け取ったルイフォンの掌の中で、陽光を乱反射させる硝子の輝きが、ルイフォンの思考を拡散させる。
 この事態は、俺が招いたのか――?
「少し、時間を取り過ぎましたね。いくら小娘といえど、それなりの距離を行っているはず……応援を呼びましょう」
「応援?」 
 サングラスの奥で、〈(ムスカ)〉の眼球が人知れず動いた。混乱するルイフォンの様子を、冷徹に観察する。
「斑目の若い衆ですよ。色欲に眩んだ彼らなら、きっと鼻が利くでしょう」
(ムスカ)〉は、充分に含みをもたせ、口の端を上げた。
 タオロンの部下たち――メイシアを前に涎を滴らせていた、あの獣のような男たちのぎらつく眼光が、ルイフォンの記憶に蘇る。
「メイ、シア……」
 ルイフォンの喉から、普段のテノールより遥かに低い音階が漏れる。
(ムスカ)〉が懐から携帯端末を取り出す。
 そのバックライトが光った瞬間、ルイフォンは、自身の血液が沸騰するような錯覚を覚えた。
 気づけば、小瓶を投げ捨て、地を蹴っていた。
 カランビットナイフを振りかぶり、肉をえぐろうと、〈(ムスカ)〉の懐に入る。
(ムスカ)〉を止める!
 何者も、メイシアを追わせはしない――!
 追い込まれた獣の、無謀としか言いようのない一撃。
 自分を守ることを完全に放棄した、他人を守るための衝動。
 向かってくる刃に対し、〈(ムスカ)〉は涼しい顔で、体を大きく弓なりに反らせた。ルイフォンの刃は胸元をかすめ、上着の繊維を虚しく斬り裂く。
(ムスカ)〉は、まるで児戯だと鼻先で笑い、そのまま流れるような一連の動作の中で抜刀し、細い刃を宙に滑らせた。
「……っ!」
 凶刃の煌めきに、ルイフォンの防衛本能が警鐘を鳴らす。彼は反射的に、思い切り猫背になって飛びすさった。刹那の差で、〈(ムスカ)〉の刀が、わずかに空いた虚空を薙ぐ。
「……ほぉ? 思いのほか、器用ですね。本物の猫のようですよ」
 肩で息をするルイフォンに、〈(ムスカ)〉が嘲りまみれの賞賛を贈る。
 しかし彼は、ルイフォンに安堵の暇など与えはしなかった。
「ぐはっ……!?」
 胃への強い毀傷の感触。〈(ムスカ)〉の足先が腹部にめり込み、ルイフォンの細身の体躯が空を舞った。
 ……そして、それを危険と認識する余裕すらなく、背中から地面へと叩きつけられる。衝撃の反動に、彼の体は数度、砂地を跳ね返った。
 ルイフォンは脳髄が揺さぶられるような、強烈な目眩を覚えた。
「交渉決裂ですね。あんな小娘に目の色を変えて……。愚かなことです」
 地を転げ、もがき苦しむ彼に、〈(ムスカ)〉の嘲笑が落ちる。揺れる肩に合わせ、悦に入る白髪頭もまた、小刻みに揺れる。

 ――その動きが、途中で止まった。

 一転して、〈(ムスカ)〉の様相が変わる。
「……一体なんの真似ですか……?」
(ムスカ)〉の疑問は、ルイフォンに投げかけられているわけではなかった。まだ姿を現していない人物に向けられていて――勿論、小さな呟きは遠くにいる相手に聞こえるわけもなく、だから、それはただの独り言に過ぎなかった。
 転がっているルイフォンには目もくれず、〈(ムスカ)〉は、その人物を迎えるべく踵を返す。彼らがこの路地に入ってきた方向――ルイフォンがタオロンから身を隠すために曲がってきた、その角に、〈(ムスカ)〉は不気味な薄ら笑いを向けた。
 やがて、苦痛にあえぐルイフォンにも、その気配を感じることができた。
 はあはあと、荒い呼吸。
 同時に聞こえてきた足音は、途切れそうなほどに、おぼつかない。
 もしや、と思った瞬間に、その影が路地の口に現れ、ルイフォンは目を見開いた。激痛に声を出せない彼の、心が叫ぶ。
 メイシア――!
 今にも倒れそうな――否、既に途中で転んでいたのか、膝は擦り剥き、肘には血が滲んでいる。
 長い黒髪は風を受けて乱れ舞い、前髪は汗で額に張り付いている。彼女が全力で駆けてきたことは、遠目にも明らかであった。
 彼女が逃げたのは、ルイフォンから見て後方の道。だが、今、彼女がいるのはルイフォンの前方――逃げたと見せかけて、一本隣の通りから回りこんだのだ。
 メイシア、来るな――!!
 ルイフォンの思いを裏切るように、彼女の姿が近づいてくる。一刻を争うように、一心に走る。
 そして、彼女は速度を落とさずに体を屈め、地面に落ちていた『それ』に、飛びつかんばかりに手を伸ばした。白魚のような手にまったく不釣り合いな、無骨な『それ』を、しっかりと握りしめる。
(ムスカ)〉が、「ほぅ?」と、眉を上げた。
「あなたが、それで戦うおつもりですか?」
 ――『それ』は、タオロンの大刀だった。筋弛緩剤でタオロンを封じたあと、彼の刀は離れた位置に放置したのだ。小型ナイフならともかく、大刀ではルイフォンが持ち歩くには不向きな武器であったためだ。
 メイシアは、大刀の柄をしっかりと握りしめ、そのまま走り続けようとし……よろめいた。彼女が手にするには重すぎるのだ。
 それでも、メイシアは前に進んだ。
 大刀の切っ先は地面から浮くことはなく、彼女に引きずられるたびに地を削り、小石を弾いた。
 もし〈(ムスカ)〉がその気になれば、一瞬とは言わないまでも、数瞬のうちにメイシアの首をはねることが可能だったろう。だが、鬼気迫る彼女の様子に興を覚えたのか、〈(ムスカ)〉は動かなかった。ただ、嗤いながら揶揄する。
「その細腕で、何ができると言うのですか?」
 そんな問いかけにも、メイシアは耳を傾けない。
 彼女が向かう先――。
 そこに、後ろ手に縛られ、転がされているタオロンがいた。
 ルイフォンは息を呑んだ。彼は彼女の意図を察したのであるが、それでも、まさかとの思いが拭い切れない。
 ついに、メイシアはタオロンの元へと辿り着いた。彼女の美しい顔は汗にまみれ、肩で息をしていた。
 メイシアは、足元に横たわるタオロンを見下ろし、ゆっくりと息を吐いた。そして、次に思い切り大きく息を吸うと、両手で大刀の柄を握りしめ、信じられぬことにそれを持ち上げた。
 ルイフォンと〈(ムスカ)〉が目を疑う。
 メイシアが、力強く〈(ムスカ)〉を睨みつけた。そして、叫ぶ――。
「〈(ムスカ)〉! ルイフォンの傍から離れてください! さもなくば、斑目タオロンの命は保証しません!」
 メイシアの凛とした声が、荒涼とした通りに響いた。

4.渦巻く砂塵の先に-1

4.渦巻く砂塵の先に-1

「〈(ムスカ)〉! この場を立ち去ってください!」
 メイシアの声が、廃墟の外壁に木霊する。
 ひび割れた地面から見上げるルイフォンには、彼女がまるで戦乙女のように見えた。
 泥で汚れた頬は紅潮し、擦り切れた服の隙間から覗く膝は血が滲んでいる。けれども、彼女は輝くように美しい。
 心が、魂が煌めきに満ちている。それは優しく、温かく、力強く――彼を魅了してやまない。
「さぁ!」
 か弱き腕を懸命に振り上げ、彼女は〈(ムスカ)〉に撤退を迫った。長い黒髪が風に煽られ、乱れ舞うさまが、彼女の気勢をより一層引き立てた。
 従わないのなら、この両手の大刀を、一気に振り下ろしてやる!
 この足元に横たわるタオロンの首を、一刀両断にしてやる!
 黒曜石の瞳が、そう威嚇した。
(ムスカ)〉は無機質なサングラスの顔を彼女に向け――何も言わなかった。
 ただ無言。沈黙を貫く。
 動かぬ〈(ムスカ)〉に、メイシアの頬を冷たい汗が流れた。
 ……彼女の両腕は、ふるふると痙攣していた。
「あなたは斑目の食客です。ならば、斑目の名を持つ彼は、あなたにとって守るべき主人の一族です。退()きなさい! そして、二度と私たちの前に姿を現さないでください!」
 華奢な体躯に対して、その大刀は鉛のように重たい。
 それは〈(ムスカ)〉にも一目瞭然だった。
 彼は、無謀な貴族(シャトーア)の娘の、あまりにも愚かしく滑稽な行為に、わずかながらの敬意を払うつもりで口を閉ざしていたのだが、それでも失笑をこらえ続けることは不可能だった。
 抑えきれずに低い笑い声を漏らし、淡々とした侮蔑の言葉を投げつける。
「いつまで、その馬鹿でかい刀を振り上げたままでいられますかね? あなたの細腕では、もってあと数分がせいぜいだと思いますよ」
 引きずりながらやっと運んだほどの大刀である。一瞬でも持ち上げられたなら、それは既に奇跡だった。
(ムスカ)〉の示唆したとおり、メイシアの筋肉は憐れな悲鳴を上げている。それでも、彼女はじっと〈(ムスカ)〉を見据え続ける。
 非力な貴族(シャトーア)の娘である自分が、力技で威嚇するなど馬鹿げていると、メイシアにも分かっていた。待っていれば、鷹刀一族が必ず助けに来てくれることも。
 けれど、ルイフォンの危機は今、この瞬間なのだ。どう考えても、助けは間に合わない。ならば、そばに居る自分がなんとかするしかないのだ。
 メイシアが一方的に睨みつけること、しばし――。
 不意に、強い風が吹いた。砂塵を巻き上げ、彼女の目を傷つけ、大刀の幅広い刀身を嬲っていく。
「あ……」
 大刀に振り回されるかのように、メイシアの上半身が大きく傾いた。
「駄目っ!」
 もつれる足に踏ん張りをきかせ、彼女は歯を食いしばった。倒れてなるものかと、自らを奮い立て、持ちこたえる。
「ほぅ、貴族(シャトーア)の箱入り娘にしては、なかなかやりますね」
(ムスカ)〉の乾いた拍手が響いた。
「実に、面白い見世物です」
 メイシアの目に涙が滲む。それが砂に依るものか、たかが食客の身の〈(ムスカ)〉に弄ばれているという悔しさ故か、彼女自身も判然としない。
「〈(ムスカ)〉! あなたには主人に対する礼はないのですか!?」
 両腕で大刀を掲げたまま、泥まみれの頬を伝う、その涙を拭うことのできぬ屈辱の中で、〈(ムスカ)〉をきっ、と睨みつけ、メイシアは毅然と言い放った。
「……貴族(シャトーア)の小娘。あなたは、人を殺めるとはどういうことか、分かっていますか?」
「え……?」
「肉を斬り裂く、あの固くて柔らかい感触。脳を揺さぶる、むせ返るような血の匂い。その人間の生涯を、自分の手で握り潰す、あの瞬間――」
 畳み掛けるような言葉に、メイシアの顔が青ざめていく。
「……あなたに、できますか?」
 メイシアの額から脂汗が流れた。どくどくと脈打つ心臓の音が聞こえてくる。それは彼女自身のものか、生命を脅かされているタオロンのものか、あるいは負傷しているルイフォンのものなのか……。
 メイシアの全身が震えた。けれど、大刀の柄を握る手にだけは、よりいっそうの力を込める。
「できます!」
「では、やってみてください」
(ムスカ)〉が、そう言い、挑発的に口角を上げた。
 メイシアは目線をタオロンに落とした。
 浅黒く光る、筋骨隆々とした立派な体躯。その太い腕は、彼女などあっという間に絞め殺すことが可能だろう。
 だが、彼は今、薬で動くことはできず、無防備な体を彼女に晒している。
 本当に殺す必要はないのだ――と、メイシアは自分に言い聞かせた。少し傷をつけるだけ、と。
 これは駆け引き。いざとなれば、メイシアはタオロンを殺害することも厭わないのだと、〈(ムスカ)〉に信じさせるための示威行動。
 深い傷にする必要はない。ほんの少し、首筋を軽くかする程度のところに刀を落とし、脅しをかければいい……。
 激しい呼吸に胸が上下する。
 メイシアは、柄を握る両手に力を込め、一気に振り下ろす――!
「や、めろっ……!」
 その瞬間、かすれたような野太い声が、確かに響いた。
 驚いたメイシアは、思わず肩をびくつかせたが、重力加速度の勢いを得た大刀は止まらない。研ぎ澄まされた刃は、(あるじ)たるタオロンの浅黒い皮膚を滑らかに斬り裂き、乾いた地面に突き刺さって土塊を跳ね上げた。わずかに遅れて、深紅色の飛沫が散る。
「――――!」
 メイシアは目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。
 動けないはずのタオロンが、動いた。
 首筋をかすめるはずが、肩口をしっかりと捉えていた。
 柄から両手に伝わってきた肉を斬る感触が恐ろしく、そして、おぞましかった。あまりの恐怖に彼女は膝から崩れ落ち、大刀を取り落とす。
 タオロンの上腕から、どくどくと血が流れていた。血溜まりがメイシアに襲いかかるかのように近づいてきて、彼女は悲鳴を上げながら後ずさる。
「くっ……。藤、咲……、よく、も……」
 呂律の回らぬタオロンが、後ろ手に縛られたまま、地面でもぞもぞと動き、メイシアに向かってくる。あとには赤い軌跡が残り、そのたびに彼は太い眉をしかめた。
「もう、動けるんですか。化物並みの回復力ですね」
(ムスカ)〉が、皮肉たっぷりに感嘆の溜め息を漏らす。タオロンは、ぎろりと眼球を動かして怒りを示すと、再び蒼白な顔をしたメイシアを目線で捕らえた。
「……っ!」
 タオロンの、かっと見開かれた黒い目を正面から見た瞬間、メイシアの体は彼の怒気に鷲掴みにされ、動けなくなった。
 歪んだ太い眉、苦痛に引きつる頬……。そして、腕を彩る血糊の鮮やかさ――。
 苦痛を与えれば、怒りと憎しみが返ってくる。当然の図式に気づきもしないで、自分の内部の生理的嫌悪にしか心が向いていなかった。愚かで自己中心的な自分こそが、おぞましい存在なのだと彼女は悟った。
 生まれて初めて、他人に傷を負わせた。皮を破り、肉を裂き、血を吹き出させた。
 それは、耐え難い痛みだろう。
 相手もまた、同じだけの報復を望むに違いない……。
 自らの両手が犯した罪の重さが、掌の上だけでは収まりきれず、指の間からこぼれ落ちて止まらない――そんな錯覚をメイシアは覚える。
「すみ、ません……」
 自然と、言葉が漏れた。
 タオロンの命を駆け引きの駒にした。彼の生命を脅かし、恐怖を与えた。それが善か悪かと問われれば、今までの彼女の人生からは、悪だという答えしか導き出せない。
 だから、決してやってはいけなかったこと――……?
 メイシアの澄み渡った湖面のような瞳から、透明な涙が流れた。口元は、嗚咽を漏らさぬよう、強い意志の力で結ばれている。
「藤、咲……?」
 彼女に向かって、罵声を浴びせようとしていたタオロンは、突然のことに狼狽した。無骨な彼は女の涙に弱かった。
「けれど、……たとえ、あなたに恨まれても……」
 細い声が響く。
「……それがどんなに罪でも、私は何度でも同じことを……します。――ルイフォンのために……!」
 結果も伴わなかった。まったくの無意味だった。
 けれど、この行動に……。
 ――後悔はない……!
 メイシアは、タオロンの黒い瞳を臆することなく見返した。
「お前……」
 今にも壊れそうな、華奢な泥まみれの少女に毅然と言い放たれ、タオロンは毒気を抜かれたように、ぽかんと口を開けた。
 彼女が言っていることは自分本位で、彼にとっては許しがたいことである。けれど、彼女の一途な気持ちは、むしろ彼には清々しくさえ思えた。立場的には敵対せざるを得ないが、心情的には近いものを感じたのだ。
「……貴族(シャトーア)の小娘というのは、面白いですね。何を言い出すか、見当もつきません」
「〈(ムスカ)〉……!」
 タオロンは体を巡らし、怒りの矛先を変えた。
「ずっと、聞いていた、ぞ」
 刈り上げた短髪を〈(ムスカ)〉に向け、メイシアに向けていた分の怒りも上乗せして、タオロンは憤りをたぎらせる。
「それは、そうでしょうね。クラーレは神経毒。意識は、はっきりしていたはずです」
「おまっ……」
「何が言いたいのですか? 小娘に頭を下げて、あなたを助けるべきだったとでも?」
(ムスカ)〉は、ぷっと吹き出した。白髪頭を揺らし、口元に手を当てて嗤う。
「あり得ませんね。あなたは襲撃に失敗した挙句、非力な子猫に縛り上げられた、愚かなクズです。斑目の一族でもない私が、助けてやる義理はないでしょう?」
「お前の、助けなんて、期待してねぇよ! けど、よ。藤咲、メイシア、煽ったろ!? 俺を襲わせて、何、考えて、やが……る」
 怒号を上げて荒れ狂うタオロン。しかし、〈(ムスカ)〉は彼のことは相手にせず、ずっといたぶり続けている小さなか弱き小鳥に声をかけた。
貴族(シャトーア)のお嬢ちゃん。あなたは、致命的な勘違いをしていたんですよ。食客が主人の一族に従うべき? そんな決まりはないのです。身分に守られてきたあなたには、理解できないかもしれませんがね?」
(ムスカ)〉はおもむろに、足元に横たわるルイフォンの襟首を掴んだ。そのまま無造作に彼を引きずりながら、メイシアのほうへと向かう。
 人をひとり引きずっているとは思えないような足取り。相変わらず足音はなく、ルイフォンの体が地面と擦れる音だけが響く。
 彼女から数歩離れた位置まで来ると、〈(ムスカ)〉は、ルイフォンの襟首から手を放した。どさり、と重みのある音を立て、支えを失ったルイフォンの上半身が砂を巻き上げる。彼の口から、苦しげな呻きが漏れた。
「ルイフォン!」
 メイシアは叫び、這うようにして彼の元へ寄ろうとした。
 その鼻先を、ざらりとした砂粒が遮る。今まで音を立てなかった〈(ムスカ)〉の靴先が地を鳴らし、彼女の行く手を阻んだ。
 憎悪の視線で、メイシアは〈(ムスカ)〉を見上げると、彼は嬉しそうに嗤った。
「いい顔ですね。惨めな弱者の顔です」
「……っ」
「あなたは私を侮辱した――これでも私、怒っているんですよ」
 そう言って、〈(ムスカ)〉は地面に横たわるルイフォンの腹を踏みつけた。ルイフォンは激痛に、声にならない声を上げる。
「ルイフォン!!」
 編んであった髪はすっかりほどけ、癖のある長髪が砂地に広がる。猫のような好奇心溢れた瞳は閉じられ、別人のようなルイフォンの姿に、メイシアは涙を浮かべる。
「あなたに対しては小僧を、小僧に対してはあなたを傷つけるのが効果的。そういう関係があって初めて、脅迫というものは成り立つんですよ。少しは勉強になりましたか?」
 勝ち誇ったように〈(ムスカ)〉が嗤う。真昼の太陽を背にした〈(ムスカ)〉の黒い影は、残忍な悪魔そのものだった。
「やめろよ」
 太い声が響いた。両手を後ろ手に縛られたまま、憤怒の表情を見せるタオロンがゆっくりと立ち上がった。
 怒気を放ち、まるでメイシアを庇うかのように、彼は、彼女と〈(ムスカ)〉の間に割って入る。まだ、わずかに麻痺が残るのか、踏みしめた足元は多少おぼつかないが、憤激の言葉は滑らかだった。
「おやおや。斑目のあなたが、鷹刀の味方をするのですか?」
「俺は、胸糞悪ぃことが嫌いなだけだ」
「ほぅ? ではどうするおつもりで?」
 タオロンは、くっ、と唇を噛んだ。
「何も考えていませんでしたね。だからあなたはイノシシ坊やなんですよ」
「黙れ……食客風情が!」
「あなたは、斑目の総帥には逆らえない」
「……逆らうわけじゃねぇよ。けど今回、鷹刀ルイフォンは関係ねぇ! …………藤咲メイシアは……俺が一刀のもとに殺す。それでいいだろ!」
 赤いバンダナの下の額に皺を寄せ、タオロンが言い切った。
 しばし考えこむように押し黙った〈(ムスカ)〉だったが、「いいでしょう」と、ゆらりと身を翻す。音もなくタオロンの背後に回り、刀を一閃した。
「……?」
 タオロンの狼狽と共に、ぱらり、と青い飾り紐が地面に落ちた。彼の両腕を拘束していた、ルイフォンの髪結いの紐である。
「所詮、私は『食客風情』ですから、あとは斑目のあなたにお任せしましょう。総帥の命によって、罪もなき、か弱き娘を殺すがいい」
(ムスカ)〉は嗤いながら、タオロンの大刀を拾い上げ、持ち主に放った。
 ずしりと重い刀を、タオロンは無言で受け止める。その質量に、傷つけられた右腕の傷口が新たな血を流したが、彼は奥歯をぎりりと噛み締めただけであった。
 それを見届けた〈(ムスカ)〉は、場所を譲るべく、メイシアの脇を抜ける。その際――すれ違いざまに、彼女にぼそりと漏らした。
「……〈(サーペンス)〉とあなたの間で何があったのか、非常に気になるんですけどね。仕方ありません」
「え……?」
 メイシアが疑問の声を上げたが、彼はそのまま通りすぎ、高みの見物を決め込むべく、建物の外壁に体を預けた。
「藤咲メイシア……」
 タオロンの刈り上げた短髪から、玉の汗が流れる。乾いた風が吹き抜け、熱を奪い、彼の肌を冷やした。
「なんか、さっきと立場が逆になっちまったな」
 切なげで真っ直ぐな瞳が、メイシアを捉えていた。赤いバンダナの下の、人の良さそうな小さな黒い瞳。だが、その上にある太い眉は、意志の強さを示している。
「本当はこんなこと、したくねぇ。だが、お前は凶賊(ダリジィン)と関わっちまったんだ。……嬲り殺されるくらいなら、俺が一太刀で()ってやる。……せめてもの、慈悲、だ……」
 メイシアの全身に戦慄が走った。
 砂まみれの地面にへたり込んだまま、彼女は呆然とタオロンを見上げる。
 彼の背後に、透き通るような青い空が広がっていた。
 大きく羽根を広げた鳥が悠然と蒼天を抜けていく。大空を舞う彼らは、自らの翼で羽ばたかなければならない。その力を持たぬのなら、世界を自由に飛ぶ資格はないのだ。
 無力な自分は地に伏すしかないのだろうか――美しくも残酷な外の世界を見上げながら、メイシアの口から言葉が漏れた。
「嫌……」
 喉に張り付くような、かすれた声。蒼白な顔には、いつもの聡明な、凛とした輝きを放つメイシアの面影はなかった。それは、空から撃ち落とされた小鳥の、本能のさえずりだった。
 しかし、鋼の重さを感じさせぬ動きで、タオロンが大刀を大きく掲げる。
「や、やめ、ろ……!」
 身動き取れぬほどに傷めつけられていたルイフォンが、かすれる声を上げ、メイシアの元へ這い寄ろうとする。
「すまねぇ……」
 堅い意志をもった太い声で、タオロンが呟く。
 そして、天高く掲げたそれを……今まさに振り下ろそうとするその瞬間――。
「俺の個人的見解では、斑目の野郎がその女を手に掛けるのを邪魔すべきではないんだがな」
 低く魅惑的な声を奏でながら、その男は颯爽と路地に入ってきた。

4.渦巻く砂塵の先に-2

4.渦巻く砂塵の先に-2

 すらりとした長身。筋肉質の均整の取れた体つき。年の頃は二十歳前後といったところだろうか。
 癖のない黒髪を肩まで伸ばした、神の御業を疑う中性的な黄金比の美貌――。
 彼を見た瞬間、〈(ムスカ)〉は息を呑み、背を預けていた外壁から思わず体を起こした。
「エルファン……!」
(ムスカ)〉は、まなじりを決し、衝動的に刀の柄に手を伸ばす。
 だが、地に伏していた鷹刀一族の子猫、ルイフォンが「リュイセン……」と、別の名を口にした。
「……っ! エルファンの息子か……」
 そう呟いて、〈(ムスカ)〉は冷静さを失いかけた自分を諌めた。
 男――リュイセンは、一度だけ〈(ムスカ)〉に目を向けたが、それだけだった。彼が父親と瓜ふたつであることは自他ともに認めるところであったし、鷹刀一族の次期総帥たる父は、ほうぼうで恨みを買っていることも重々承知している。すなわち、いちいち気にしていたら、やっていられない。
 彼は満身創痍のルイフォンに向かって、溜め息をついた。彼の弟分たる叔父は、普段は寝ているときも編んだままの髪を振り乱し、野生の獣の様相を呈していた。
「……異国に出掛けていた俺よりも、自国に残っていたお前のほうが、よほど奇想天外な体験をしていたようだな」
「はは……。羨ましいだろ」
「気を失いながら言う台詞じゃないだろ!」
 リュイセンは眉を吊り上げた。作り物のように整いすぎた綺麗な顔立ちが、一気に人間味を帯びてくる。
「お前たちのおかげで、俺は帰国早々、謂れなき罪で警察隊に拘束されるわ、父上に無理矢理、脱走させられるわ、ミンウェイに無謀なバイクチェイスを強要されるわ。散々な目に遭ってきたんだぞ!」
 まったく、とリュイセンは再び溜め息をつく。
 ちょっと留守をした間に、あとさき考えない楽天家の祖父が厄介ごとを招き入れており、年下の叔父は棺桶に片足を突っ込んでいる。たまったものではない。
「ルイフォン、俺の個人的見解では、その貴族(シャトーア)の女は即刻、見捨てるべきだと思っている」
 さらさらとした髪の黒さが、酷薄な唇の赤さを引き立てながら、リュイセンは告げる。彼は傷だらけのルイフォンを見やり、歯噛みした。
 この弟弟子の戦闘能力は決して高くない。その辺のごろつき連中になら圧勝できるが、凶賊(ダリジィン)相手には赤子同然。そんな中途半端な力量。特に体格的に不利な面が多く、傷を負ったら最期だと思えと、師匠たるチャオラウに言われており、本人もそれを熟知しているはずだ。
 ……それが、この有様(ザマ)かよ――。
 信じられないことだが、それだけの事情があるのだと、解釈せざるを得ない。
 リュイセンは、もう何度目か忘れた溜め息をつき、タオロンを瞳で捕らえた。すっと腰を落とし、いつでも動ける構えを示す。
 タオロンへの無言の圧力――。
「あとで聞きたいことが山ほどある。だが今は、その女を連れて逃げろ。俺がここまで乗ってきたバイクが、そこの角に止めてある」
 そのとき、〈(ムスカ)〉が、ゆらりと動いた。リュイセンの正面に歩み出て、彼がタオロンに向けている視線を遮る。
「エルファンの息子。勝手に取り仕切るのも、そのくらいにしてくれませんか」
 不気味な笑みを口元に載せた〈(ムスカ)〉に、リュイセンは並ならぬ技量を感じた。
 ――それと同時に、タオロンを牽制できなくなったことを悟る。すなわち、ルイフォンの退路が断たれたということだ。
「俺には、リュイセンという名前がある」
「それはそれは、失礼いたしました。私は凶賊(ダリジィン)の斑目一族にお世話になっております〈(ムスカ)〉と申します。以後、お見知り置きを――エルファンの小倅」
「こいつ……!」
 人を喰った〈(ムスカ)〉の態度に、リュイセンは気色ばむ。
 帯刀しているのは愛用の双刀。倭国に飛び立つ際に、空港に出店している小料理屋に預けておいたものだ。警察隊からの脱走劇のさなかでも、受け取りに行ったのは正解だった。これがあれば天下無双――。
「白髪親父、俺は帰国したばかりなんだ」
 リュイセンは怜悧な瞳を〈(ムスカ)〉に向けた。
「俺は風呂に入りたい。フライト中、俺の汗腺が自己主張をしていた。それと、料理長の飯だ。異国の料理も不味くはなかったが、俺の口には今ひとつだった。そしたら、寝る。俺は疲れた。面倒臭いことはしたくない」
 軽く顎を上げると、さらさらとした髪がリュイセンの頬を流れた。口とは裏腹に、汗ばんでいるとは到底思えない涼やかさである。そして、旅で疲弊しているはずの瞳が、好戦的な輝きで満たされていく。
「――という、この俺の邪魔をする奴は、問答無用で叩き斬る!」
 そう言い終わるやいなや、リュイセンの体が一瞬だけふわりと浮き、次の瞬間に地を蹴った。
 ひとつの鞘から、ふた筋の光が生まれ、リュイセンの両の手にひとつずつ宿る。ひとつの刀の刀尖から柄頭までを、(いかづち)で真っ二つに裂いて鍛え上げたような、(ふた)つの刀。
 鏡に映したかのように、そっくりでいて対称な存在は、しかし、それぞれの意思を持って自在に舞い踊り、〈(ムスカ)〉に襲いかかった。
(ムスカ)〉は、腰の刀をすらりと抜き放った。細い刃を華麗に旋回させ、リュイセンの続けざまの二撃を受けさばく。
 ――火花が散った。
「く……っ」
 腕の痺れを感じ、〈(ムスカ)〉が声を漏らす。
「『神速の双刀使い』……。なるほど、父親譲りですね」
「ふん」
 リュイセンが鼻を鳴らす。彼が再び双刀を構えると、輝く二条の光が残像を描きながら手元から飛び出した。
 それは途中で勢いを増し、あたかも流星群の如き猛撃となり、〈(ムスカ)〉に飛来する。
 しかし〈(ムスカ)〉は、その数多の斬撃を己の刃で受け流し、あるいはその身で躱していく。
「こいつ……!?」
 リュイセンが声を上げた。押しているのは間違いなく彼だった。けれど、ことごとく流され、致命傷どころか、かすり傷ひとつ負わせられない。
 狼狽するリュイセンに、にやりと笑みを漏らし、〈(ムスカ)〉が初撃以来初めて、正面から刀を合わせた。
 廃墟に響き渡る、高く、澄んだ金属音――。
「な……?」
 思いがけない重い感触に、リュイセンが戸惑う。
 と同時に、彼の、その一撃の力を利用して、〈(ムスカ)〉が大きく、ふわりと後ろに飛んだ。続くリュイセンのもう片方の手による刃が、(くう)を裂く。
「……!?」
 相手を失ったリュイセンの双刀が、彷徨うように宙を薙ぎ、風圧で大気を震わせた。〈(ムスカ)〉は、それを嘲笑うように音もなく地面に降り立ち、流れるような動きで右腕を旋回させて、刀を鞘に収める。小花をあしらった鍔が鞘口と再会を果たし、かちりと鍔鳴りの音を立てた。
「なんのつもりだ?」
 リュイセンが叫ぶ。
「私には戦う意思がなくなった、ということです」
「お前……?」
 両の手に双刀下げたまま、リュイセンは眉を上げる。
「あなたは早く帰って風呂に入りたいんでしょう? 私も撤退したい。利害が一致しますね」
「負けを認めるというのか?」
 散々、小馬鹿にされてきたという思いから、リュイセンは挑発的に声を荒らげた。しかし、〈(ムスカ)〉は、それをさらりと受け流す。
「そう捉えてくださって構いませんよ。実際、力ではあなたのほうが上でした――私は本来、表立って戦う者ではありません。あなたの土俵で戦うのは、愚かなこと。それだけです」
 リュイセンの戸惑いを楽しむかのように、〈(ムスカ)〉は、ふっと、口元を緩めた。
「私の本分は医者ですよ」
 意外な言葉に、リュイセンの声が一瞬、詰まる。だが、すぐに調子を取り戻し、応酬した。
「……随分と血なまぐさい医者がいたもんだな」
「ええ。人体を知り尽くした医者です。人によっては、私のことを暗殺者とも呼びますけどね」
 リュイセインが眉を寄せ、そして、今まで黙って様子を窺っていたルイフォンに緊張が走る。
 そんな彼らの様子を確認した〈(ムスカ)〉は、不気味な笑いを口元に乗せ、満足したように踵を返した。そして、そのまま無防備に背中を晒したまま路地を出て行く。追撃を受ける可能性など、まるでないと確信しているかのように――。
「おい……」
 待てよ、と言いかけて、リュイセンは口をつぐんだ。相手の言いなりのようで非常に癪に障るが、今、〈(ムスカ)〉を引き止めることは建設的ではない。

 残るは、斑目タオロン――。

4.渦巻く砂塵の先に-3

4.渦巻く砂塵の先に-3

 リュイセンは、ちらりとルイフォンに目を向けた。
 それに応じて、ルイフォンが頷く。
「さて、と――」
 リュイセンがタオロンを視線で捕らえた瞬間、ルイフォンが動いた。
 次々に起こる出来ごとに、心が麻痺してしまったメイシアは、呆然としていた。だから、力強い手に引き寄せられたとき、いったい何が起こったのか、彼女はまるで理解できなかった。気づいたら、地面に転がり込んでいて、けれど温かい胸と腕にしっかりと抱きしめられている。血と汗の匂いが彼女を包み込んでいた。
「無茶しすぎるなよ……」
 メイシアの耳元で、ひび割れたテノールが響く。ルイフォンの癖のある前髪が、彼女の頭を優しく撫でた。
「無事で、よかった…………」
「ルイフォン……?」
 泣き笑いのような声に、メイシアが目を丸くする。
 その背後で、リュイセンが物言いたげに口を開き、しかし何も言わずに口をつぐんだ。彼は、ふたりがタオロンの間合いから逃げ出しているのを確認すると、両手の刀を合わせる。双刀はふたつでひとつの鍔を象り、仲良くひとつの鞘に収まった。
 メイシアをしっかり抱きしめたまま、ルイフォンが半身を起こした。
「なぁ、斑目タオロン。一時休戦としないか。万全の状態じゃないお前は、リュイセンには勝てないだろうし、俺はこの有様だ。正直、帰りたい」
「鷹刀ルイフォン……、だが、俺は……」
 メイシアにちらりと目をやって、タオロンは口ごもる。小さな黒い目は、小さな子供のように揺れていた。
「この俺に、勝敗の決まりきった無駄な戦いをさせる気か?」
 リュイセンの言葉に、ルイフォンが微苦笑する。
 タオロンは一同を見渡し、小さく息を吐いた。それから口元を結び、抜き身のままだった大刀を鞘に収めた。


 去り際、タオロンは一度足を止めて、振り返った。
 太い眉の下で、愚直なほどに真っ直ぐな瞳が、メイシアを捉える。わずかに逡巡しながらも、彼は声を上げた。
「……藤咲メイシア、鷹刀の屋敷へ行け」
 言われなくても、そのつもりだ、とルイフォンは思ったが、声には出さなかった。タオロンがわざわざ言うからには、意味があるのだろう。口を挟まずに、しばし様子を見守る。
「――それが、一番いいことかどうか、俺には分からねぇ。けど、少なくとも『お前にとっては』悪くはない……はずだ」
「タオロンさん……?」
 メイシアが、疑問混じりの声を上げる。
「お前はこんなところで朽ちていい人間じゃねぇ。元の世界に戻れ」
 吐き出すように言って、タオロンは踵を返した。
「待ってください! どういう……?」
 思わず駆け寄ろうとしたメイシアの腕を、ルイフォンが掴み、彼女の体を引き寄せる。
「奴は最大限の譲歩で情報をくれた。それ以上、訊いたら駄目だ」
 そう囁くルイフォンの声を耳聡く聞き取ったタオロンが振り返り、「すまねぇな」と苦笑した。
 メイシアにとっては悪くないはず――彼女を思いやる発言だが、裏を返せば彼女以外の者の危険を言外に告げている。そして、その危険の原因は、まず間違いなく彼の属する斑目一族にあるのだ。
 メイシアは状況を理解し、はっと口元に手をやった。
「じゃあな」そう言って身を翻そうとするタオロンに、彼女の口から「あのっ!」と、驚くほど大きな声が飛び出した。タオロンのみならず、ルイフォンまでもが目を見開く。
「ありが……」
 タオロンは、いい人なのだ。命のやり取りまでする羽目になったが、彼が望んでのことではなかった。それどころか、気持ちは彼女に近いところにあった。
 だからメイシアは、別れ際の背中に、ひとこと言わずにはいられなかった。
 ……けれど。
 言いかけて、気づく。
 タオロンは斑目一族の人間で、鷹刀一族とは敵対しており、メイシアの藤咲家に害をなす存在。感謝の言葉は、タオロンを困らせ、罪悪感を誘うだけだ。
「あ、あの……。……お怪我は大丈夫ですか!?」
 自分でも間抜けなことを言ったと、メイシアは思った。
 濡れた血が未だ生々しく貼り付いているタオロンの右腕。彼女の罪の証。
 もし時間が遡って、あの瞬間に戻ることがあったとしても、彼女は何度でも同じことを繰り返すだろうと思う。だから後悔はない。けれど、今現在、彼の傷の具合いを気にすることくらいは許してもらえないだろうか……?
 そんな彼女の内心は、タオロンには分からない。だが必死な様子に、彼は破顔した。
「かすり傷だ」
 メイシアが心配そうに見上げていると、タオロンは額からバンダナを解き、片手と口を使って器用に上腕を縛った。
 そうして彼女から傷口を隠すと、彼は今度こそ全力で走り出した。これ以上、この場にいたら、情が移ってしまう――そんな強迫観念に駆られるかのように。
「いったい、何が起こるっていうんだ……?」
 タオロンの後ろ姿を見送りながら、ルイフォンが、ぽつりと呟く。
「ルイフォンも傷の手当てを……」
 そう言いかけたメイシアは、途中で言葉を止めた。
 ルイフォンの横顔からは猫のようにくるくると変わる表情は消え去り、端正で無機質な〈(フェレース)〉の顔になっていた。
 彼は半ば、メイシアから奪うように携帯端末を受け取ると、素早く指先を動かし、何やら操作を始めた。
 編まれていない長髪を、鬱陶しそうに横に払う彼に、彼女はほんの少しの寂しさを感じたが、邪魔をしてはいけない。そう察する。
 メイシアはルイフォンに目礼をすると、埃にまみれた長い髪を翻し、今度はリュイセンに向かって深々と頭を下げた。彼女は、彼の名前から、彼がイーレオの孫であり、ルイフォンの年上の甥であることをきちんと理解していた。
「リュイセン様、助けていただき、ありがとうございました」
 貴族(シャトーア)の娘に『様』つきで呼ばれたことに、リュイセンは戸惑う。貴族(シャトーア)などというものは、高慢なものだと思っていたのだ。
 リュイセンは、彼女に対して悪感情しか抱いていなかった。即刻、排除すべき対象であると認識している。ミンウェイやルイフォンのために、仕方なく助けただけで、これから彼らを質問攻めにせねばと画策していたところだった。
 リュイセンは狼狽を隠そうと、威圧するように、くっと顎を上げた。タオロンほどの体の厚みはないが、上背は同じか、むしろそれ以上ある。若かりし日のイーレオを想像させるような姿が、そこにはあった。
 そんなリュイセンに臆することなく、小鳥のようなメイシアが黒曜石の瞳で見上げる。頬に泥の化粧が施されていても、彼女の芯の美しさは損なわれるものではなかった。
「私の浅はかな行動のせいで、鷹刀の皆様にご迷惑をおかけしています」
「ふん。本当に、いい迷惑だ。貴族(シャトーア)だからといって、思い通りになると思うなよ」
「はい。私が歓迎されない存在だということも、わきまえております。シャオリエさんから教わりました」
「な……っ!」
 突然、リュイセンが目をむいた。肩までのさらさらとした髪が逆立つ。
 何かおかしなことを言ってしまったのだろうかと、メイシアの心臓が飛び上がった。不安げな彼女に、リュイセンの低い声が轟く。
「シャオリエ『さん』だと……? お前、あの方は……!」
「え……!?」
 ルイフォンが気安く呼び捨てにしていたし、街の情報屋のトンツァイや、その息子のキンタンも『さん』で呼んでいた。だから、メイシアもそんな感じでよいだろうと思っていたし、本人も異を唱えなかった。
 そう考えて、メイシアは、はっとする。
 ルイフォンにとってはシャオリエは親代わり。街の人々は一族ではないので、イーレオのことすら『さん』付けだったのだ。
「あの……。あの方は鷹刀の一族だった頃、どのようなお立場の方だったのでしょうか……」
 恐る恐る、メイシアは尋ねる。
「知らん」
「え?」
「俺が生まれたときには、とっくに一族を抜けていた方だ。だが、次期総帥の父上が最上の礼を取っている。父上が、総帥の祖父上以外の人間に膝を折るのは、シャオリエ様だけだ」
「し、失礼いたしました」
「今度から気をつけろ」
 やはり貴族女は不愉快だと、リュイセンは鼻を鳴らし、そこで会話を打ち切った。
 そしてリュイセンは、携帯端末に向かったまま難しい顔をしているルイフォンに目を向ける。
 見たところ、怪我は打撲のみ。内臓に損傷が出ている様子もない。しばらく痛いだろうが、その程度だろう。
 いつもなら、機械操作的な作業は専らルイフォンの担当で、だから屋敷への連絡は彼がやるものと思っていたリュイセンは、溜め息をついた。頭が異次元に行ってしまった叔父には、何も期待できない。
 仕方ないので自分の携帯端末で屋敷に電話をかけると、待ち構えていたようなミンウェイが即座に出た。
『状況は!?』
 大丈夫? のひとことくらいは言ってくれてもいいだろう、と思いつつ、リュイセンは報告をする。途中でミンウェイの安堵の溜め息が聞こえ、溜飲を下げた自分が少し、腹立たしかった。
『よかった……。無茶言って、悪かったわね。ありがとう』
「ともかく、屋敷に戻る。迎えの車はどうなっている?」
 奪ってきたバイクでの三人乗りは厳しい。だが、それには『そろそろ、そちらに着くと思うわ』との、嬉しい返事が返ってきた。
『料理長が腕を振るって待っているわよ』
「おお! さすが料理長だな」
 帰国後の楽しみのひとつを前に、リュイセンは舌鼓を鳴らした。
 そこに、ルイフォンの声が割り込む。彼は、自身の携帯端末を手に、鋭い猫の目をぎらつかせていた。
「ミンウェイ、外を見ろ! 警察隊が来るぞ!」


「なるほど……」
 スピーカー出力によって、リュイセンとミンウェイのやり取りを聞いていたイーレオは、回転椅子の背もたれをぎいと鳴らし、背を起こした。
「ミンウェイ、付近を偵察させている連中に屋敷に戻るように指示を出せ。無駄に争うな」
 斑目一族がなんらかの方法で攻めてくるとは予測していた。だが、警察隊を使ってくるとなると、対応が異なる。
 イーレオはゆっくりと立ち上がり、桜に彩られた窓辺に立った。カーテンに身を隠すようにして、外の様子を窺う。
 地上の殺伐とした騒動など知ったことかと、陽光はあくまでも穏やかに降り注いでいた。雀が無邪気に遊ぶ様子に、イーレオの表情がわずかに緩む。
「イーレオ様、危険ですよ」
 脳天気な主人をたしなめ、チャオラウがすっと脇に立つ。万が一の時には、彼が身を挺して守るつもりだった。
 凶賊(ダリジィン)は基本的に拳銃を扱わない。刀剣などよりも、よほど強力な武器であることは誰もが承知しているし、裏世界の住人である凶賊(ダリジィン)が密輸できないわけがない。それでも抗争において忌避するのは、強い者が支配するという分かりやすい構図を、文化として持ち続けた結果である。
 己の力以外に頼ることを無粋とし、それを破れば卑しまれ、人望を失う。
 また、強すぎる武器は互いを潰し合い、疲弊させる。だから、それは自然と生まれた秩序であり、暗黙のルールともいえた。
 もっとも、そんなかびの臭いのする時代錯誤な誇りなど、既に形骸化しているのではないか、とチャオラウは考えている。目の前に強力な武器があるのに、それを敵が使わずにいると信じ込めるほど、彼はお人好しではなかった。
 ともかく、これらはあくまでも、凶賊(ダリジィン)同士でのこと。警察隊には通用しない。なので、窓際に立つということは狙撃の心配があった。


 ミンウェイの指示を受けた者たちが、ぞくぞくと門から屋敷に入ってくる。
 それがひと段落した後に、にわかにサイレンの音が屋敷を取り囲んだ。
「ミンウェイ、門の監視カメラの映像を、この部屋のモニタへ」
 モニタの中で、警察隊員たちがわらわらと車から降り、門の前に詰め寄せた。
 最後に、ひときわ目立つ車から、頭頂の乏しい恰幅のよい男が降りてくる。指揮官であろう。肩をいからせた高圧的な歩き方で、門の警護をする門衛たちに近寄った。
「さて、俺の罪状は何かな?」
 楽しげにすら聞こえる声で、イーレオが言う。
『鷹刀イーレオ! 貴族(シャトーア)の藤咲メイシア嬢の誘拐の罪で逮捕状が出ている!』
 男が叫ぶ。
「ほぅ……。なるほど、そう来るわけか」
 イーレオが眼鏡の奥の目を細めた。
「先に貴族(シャトーア)の子息を誘拐したのは、斑目の方でしょうに……まったく、厚顔なことですなぁ」
 チャオラウが呆れたように無精髭を揺らす。
「さて、どうしたものか……」
 イーレオがひとりごちる。
 ここを通せと怒鳴る男に、勝手はさせぬと立ち塞がる門衛たち――状況が掴めるまで門を死守せよと命じられている彼らには可哀想だが、もう少し情報が欲しいところだった。
 そこに、ひとりの警察隊員が割り込んできた。
 制帽の徽章からしても、三十路手前に見える年齢からしても、階級はさほど高くないだろう。
 彼は、上官であろう男の前をつかつかと横切り、問答無用で拳銃を抜いて、ひとりの門衛の胸にぴたりと照準を当てた。
 何年も櫛を入れていないような、ぼさぼさに乱れまくった頭髪。ひとつひとつの顔の部位は整っているにもかかわらず、血走った目がすべてを台無しにしている。不健康そうな青白い肌。そして目の下にはごっそりと隈ができてた。
 チャオラウが息を呑む。
「イーレオ様! あれは……」
「『狂犬』……緋扇(ひおうぎ)シュアン!」
 イーレオの顔に初めて焦りが生まれた。彼はミンウェイの前にあるマイクを奪い取り、門のスピーカーへと直接声を届けた。
「門を開けてやれ!」
 指揮官の男がにやりとする。
『メイシア嬢を探せ! 屋敷中くまなくだ! ……あるいは、不幸にも死体になられているかもしれないがな……』
 屋敷を囲んでいた警察隊たちが、門から一気に雪崩れ込む。

 ――メイシアは、ルイフォンとリュイセンと共に、屋敷に向かっている。
 彼女をこのまま、こちらに向かわせて良いのか……?
 ミンウェイは、ごくりと唾を呑み、総帥である祖父の秀麗な顔をじっと見つめた……。


~ 第三章 了 ~

幕間 〈悪魔〉の棲み家

幕間 〈悪魔〉の棲み家

「〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が、あんたの前に現れることがあったら……逃げなさい」

 母がそう言ったのは、いつのことだっただろうか――?


 母は昔、〈七つの大罪〉と呼ばれる組織にいた。
 母にとって、そこがどんなところであったのか、俺は今ひとつ理解できない。彼女は〈七つの大罪〉に対して、古巣を見る目で懐かしむこともあれば、敵愾心むき出しで激しい罵りの言葉を放つこともあったから。
 だがそこは、彼女が手玉に取れる程度のところであって、決して恐れるほどのものではなかったはずなのだ。何故なら自信過剰な彼女自身が、そう言っていたのだから――。


「結局のところ、〈七つの大罪〉って、なんなのさ? 語源は『キリスト教の教え』ってやつだろ?」
 かつて俺は、母にそう尋ねた。
 この大華王国において、『神』といえば天空の神フェイレン。白金の髪と澄んだ青灰色の瞳を有する神。この地上の、ありとあらゆる事象を見通す万能の神様だ。
 だから、その代理人たる王もまた、同じ姿と力を持つのだと言われる。実際、国民は黒髪黒目であるにも関わらず、王宮の最奥に住まう王は、異色の姿をしている。
 フェイレン神を信じているかと問われれば、俺は「別に?」と答える。けれど、異国の神様の教えとやらを、この国で説くのはナンセンスだと思う。
「『七つの大罪』は、『人間を罪に導く七つの欲』。ルイフォン、どんなものか知っている?」
 俺とそっくりな癖のある前髪の下で、母の目は悪戯を仕掛けている子供のように楽しげだった。つまり、俺が絶対に正解を答えられないと確信している。そして、そういうときは、悔しいことに、まったくもってその通りなのだった。
 俺はふくれっ面になりながら、とりあえず知っていることを答えた。何も言わないのは癪だったから。
「えっと……、傲慢、嫉妬、色欲……あと、なんだっけ?」
「『高慢』『物欲』『嫉妬』『憤怒』『色欲』『貧食』『怠惰』……だと、言いたい?」
「そうそう、そんな感じのやつ」
 俺はそう言ってから、しまった、と思った。母が嬉しそうに……というか、実に嫌らしく、俺を馬鹿にしたように、にやぁりと笑ったからだ。
「あんた、いったい、いつの古代人?」
 そう言いながら、母は滑らかにキーボードを叩き始めた。
〈七つの大罪〉に身請けされるまで文盲だった彼女は、大人になった今も、自らの手で文字を書くことが苦手だった。

1.Genetic modification 遺伝子を改造すること
2.Carrying out experiments on humans 人体実験を行うこと
3.Polluting the environment 環境を汚染すること
4.Causing social injustice 社会的な不公正を行うこと
5.Causing poverty 他人を貧困にすること
6.Becoming obscenely wealthy 悪辣に金を得ること
7.Taking drugs 薬物を濫用すること

「これが現代の『七つの大罪』。『新・七つの大罪』と、いわれるものよ。つまり、これらを犯す組織が、この国で〈七つの大罪〉と呼ばれている『闇の研究組織』」
「なんで、わざわざ異教の宗教用語を組織名に使うわけ?」
「うちの神様は自虐的な偽善者ってことでしょうね」
「わけが分かんないよ」
 時々、母の言葉は難解になる。それは隠していることがあるからだ。彼女には触れてはいけない過去がある――らしい。
「で、なんで、〈七つの大罪〉が別格なの?」
 俺は最近クラックした企業の記録なんかを思い出しながら、そう尋ねた。
 一本裏道に入れば、法も倫理も、ただの寝言になるこの国で、『闇の研究組織』なんて珍しくもない。彼女は、属していた感傷から物を言っているのかもしれない、なんて思いながらも、この母に限ってはそんなことはあるまい、とも思う。
 けれど、彼女は曖昧に笑っただけだった。
「あそこでは、知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶのよ」
 それは、おとぎ話の絵本などを読み聞かせてくれたことのない母が、俺に語った神話のような物語――。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
 その代償として、その体には『契約』が刻み込まれる。
 ひとたび交わされれば、決して逃れることのできない『呪い』。犯せば、滅びは必ず訪れる……。
「母さんは……?」
「あたしは、〈悪魔〉に拾われた、ただの捨て猫よ。だから、〈悪魔〉に足首ひとつ、くれてやっただけ」
 彼女が口にしたのは、冗談めいた謎かけのような言葉だったけれど、俺が生まれるずっと前から彼女の足首は永遠に(うしな)われていた。
 そこで彼女は少し、考え込む素振りを見せた。回転椅子の肘掛けに肘をつき、指先を口元に当てる。小柄な彼女のそんな仕草は、俺ほどの餓鬼がいるくせに妙に子供っぽかった。
「けれど――」
 不意に、母が再び口を開いた。
「――悪魔なんかより人間のほうが、よほど残酷だと思うわ」
 そう言って彼女は、首元に光る金色の鈴に、そっと指を触れた。

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第三章 策謀の渦の中へ

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第四章 動乱の居城より https://slib.net/110901

                      ――――に、続きます。

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第三章 策謀の渦の中へ

「家族を助けてくだされば、この身を捧げます」 桜降る、とある春の日。 凶賊の総帥であるルイフォンの父のもとに、貴族の少女メイシアが訪ねてきた。 凶賊でありながら、刀を振るうより『情報』を武器とするほうが得意の、クラッカー(ハッカー)ルイフォン。 そんな彼の前に立ちふさがる、死んだはずのかつての血族。 やがて、彼は知ることになる。 天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』によって仕組まれたものであると。 出逢いと信頼、裏切りと決断。 『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、絡み合う思いが、人の絆と罪を紡ぐ――。 近現代の東洋、架空の王国を舞台に繰り広げられる運命のボーイミーツガール――権謀渦巻くSFアクション・ファンタジー。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-10

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 〈第二章あらすじ&登場人物紹介〉
  2. 1.忍び寄る魔の手-1
  3. 1.忍び寄る魔の手-2
  4. 1.忍び寄る魔の手-3
  5. 2.風雲の襲撃者-1
  6. 2.風雲の襲撃者-2
  7. 3.怨恨の幽鬼-1
  8. 3.怨恨の幽鬼-2
  9. 3.怨恨の幽鬼-3
  10. 4.渦巻く砂塵の先に-1
  11. 4.渦巻く砂塵の先に-2
  12. 4.渦巻く砂塵の先に-3
  13. 幕間 〈悪魔〉の棲み家