di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第二章 華やぎの街にて

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第二章 華やぎの街にて

こちらは、

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第二章 華やぎの街にて
                          ――――です。


『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第一章 桜花の降る日に https://slib.net/110736

                 ――――の続きとなっております。


長い作品であるため、分割して投稿しています。
プロフィール内に、作品全体の目次があります。
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〈第一章あらすじ&登場人物紹介〉

〈第一章あらすじ&登場人物紹介〉

===第一章 あらすじ===

 大華王国の貴族(シャトーア)藤咲(ふじさき)メイシアは、凶賊(ダリジィン)斑目(まだらめ)一族に囚われた父と異母弟を助けるために、斑目一族と敵対している凶賊(ダリジィン)鷹刀(たかとう)一族の屋敷を訪れた。
 貴族(シャトーア)の娘とはいえ、彼女が鷹刀一族に差し出せる対価は『彼女自身』。一度は断られたものの、総帥、鷹刀イーレオに気に入られ、家族を救い出すことを約束してもらう。

 メイシアの家族を救い出すために、状況を調査したのは、イーレオの末の息子、ルイフォン。彼は〈(フェレース)〉という名を持つクラッカーであった。彼の働きにより、斑目一族がメイシアの家族を狙った背景に、藤咲家のライバルである貴族(シャトーア)厳月(いわつき)家の存在が判明する。藤咲家と厳月家は、女王陛下の婚礼衣装担当家の座を争い、藤咲家が選ばれたのであった。

 厳月家は、斑目一族を使ってメイシアの異母弟を誘拐させ、メイシアの父に婚礼衣装担当家の辞退を迫る。だが、辞退すれば王家の顔に泥を塗ることになり、貴族(シャトーア)の位の剥奪の可能性がある。家門と愛息を天秤に掛けられたメイシアの父に、厳月家は第三の道を示す。メイシアを花嫁として差し出せば、助けるというのだ。つまり、メイシアを人質として、藤咲家への影響力を持つことが厳月家の真の目的であった。

 しかし、メイシアの父は、厳月家への返事をする前に、単身で斑目一族の元へ行き、斑目一族に囚えられている。この状況をルイフォンが「おかしい」と言う。斑目一族は、厳月家に雇われたふりをしていただけで、別の目的があったのだと推測する。当事者であるメイシアと話をすり合わせると、謎の女、ホンシュアの存在が浮かび上がった。ホンシュアの言動は、意図的にメイシアを鷹刀一族の元へ送ったとしか思えない。いったい、なんの目的で……?


===登場人物===

鷹刀ルイフォン
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオの末子。十六歳。
 母から、〈(フェレース)〉というクラッカーの通称を継いでいる。
 端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
 長髪を後ろで一本に編み、毛先を金の鈴と青い飾り紐で留めている。

※「ハッカー」という用語は、「コンピュータ技術に精通した人」の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われていた。
 「クラッカー」には悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
 よって、本作品では、〈(フェレース)〉を「クラッカー」と表記する。

藤咲メイシア
 貴族(シャトーア)の娘。十八歳。
 箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。
 白磁の肌、黒絹の髪の美少女。

鷹刀イーレオ
 凶賊(ダリジィン)鷹刀一族の総帥。六十五歳。
 若作りで洒落者。

鷹刀ミンウェイ
 イーレオの孫娘にして、ルイフォンの年上の『姪』。二十代半ばに見える。
 鷹刀一族の屋敷を切り盛りしている。
 草花に詳しい。
 緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ絶世の美女。

草薙チャオラウ
 イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。


===大華王国について===

 黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
 身分制度は、王族(フェイラ)貴族(シャトーア)平民(バイスア)自由民(スーイラ)に分かれている。
 また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊(ダリジィン)と呼ぶ。彼らは平民(バイスア)自由民(スーイラ)であるが、貴族(シャトーア)並みの勢力を誇っている。

1.猫の世界と妙なる小鳥-1

1.猫の世界と妙なる小鳥-1

 目覚まし時計が、やかましく喚き立てた。
 ルイフォンは布団の中から手だけを出して、ベッドサイドのそいつを黙らせる。
 昨晩は遅くまで調べ物をしていて、床に就いたときには小鳥のさえずりが聞こえていた。いかに若いとはいえ、ほぼ徹夜が続くのはやはり辛い。彼はしばらくうずくまったまま、体が目覚めるのを待った。
 いつもならばチャオラウの朝稽古のため、愛すべき甥っ子のリュイセンが問答無用で起こしにくる。だが、今日まで彼は留守だ。それをよいことに、ここ数日の間ルイフォンは、道場にほとんど足を踏み入れていなかった。
 すっかり寝坊癖のついた体に鞭を打って、彼は上体を起こす。ぐっと背を伸ばし、それから首と肩を回して凝りをほぐす。寝不足のせいか、軽い頭痛があった。
 ――メイシアを唆した、ホンシュアという名の仕立て屋は実在しない。
 状況から考えて、斑目一族の手の者とみるべきだろう。そして、メイシアを利用して鷹刀一族に何かを仕掛けようとしている。
 ルイフォンは腹立たしげに前髪を掻き揚げた。
 ベッドから降りて洗面台で顔を洗う。鏡に映る、猫を思わせるややきつめの面差しは、腕利きだった母によく似ていた。
 少し考えてから、寝ている間も編んだままの髪を解いて、編み直す。外見にはそれほど拘らない性格のため、見苦しくなければそのままなのだが、今日は整えておくことにした。意外に手先は器用で、瞬く間に編みあがる。青い飾り紐の中央に金色の鈴が綺麗に収まった。
 手早く服を着替えると、ルイフォンは机の上にある報告書を手に取った。老人の夜は早く、朝も早い。もうとっくに起きているだろう。
 ルイフォンはイーレオの執務室に向かった。


「メイシアを酔いつぶしたって?」
 開口一番、イーレオが言った。
「酔わせてどうするつもりだったんだろうな? この馬鹿息子は」
 頬杖をつきながら揶揄するように笑う。男前なだけあって、そんな姿さえもさまになる。中身が六十五歳の爺さんと分かっているだけに、ルイフォンは不条理を感じずにはいられなかった。
 昨晩、メイシアの様子が怪しくなったところで、実にタイミングよくミンウェイが現れた。明日の朝食もメイシアの部屋に運ぶよう、料理長に言いに来たのだ。
 そのときミンウェイが見たものは、メイシアを強引に抱き寄せているルイフォンの姿であった。片手を彼女の背に回し、他方の手は腰に伸びようとしている。ぐったりとした彼女が完全に意識を失っているのは、遠目にも明らかだった。
 次の瞬間にはミンウェイは走り出しており、ルイフォンの頭を渾身の力で殴っていた。どすっ、という女性が繰り出したとは思えないほどの重い一撃を受け、不意を突かれたルイフォンは酩酊状態のように頭を揺らす。それでもなお、腕だけはしっかりとメイシアを支えていた。
 彼はミンウェイを睨みつけ、抗議の意を放った。
「いきなりなんだよ!」
「あなた! 何したのよ!」
 ミンウェイがそう怒鳴りつけたのは、二発目を放ったあとであった。
「夜食に付き合わせただけだ」
 ちかちかする視界の中で必死に弁明するルイフォンに、ミンウェイはまるで取り合わない。不毛な争いは、騒ぎを聞きつけた料理長が助け舟を出してくれるまで続いたのであった。
 その後、ルイフォンがメイシアを部屋まで運んだ。腕の中で眠る彼女は、暖かい巣で無邪気に眠る雛鳥のようだった。彼は自然とやにさがりそうになったのだが、背後からミンウェイが監視の目を光らせていたので、努めて平静を装ったのだった。
 ルイフォンは溜め息混じりにぼやきを漏らす。
「あの程度で酔うとは思わなかったんだよ」
「屋敷にいる女には手を出すなよ。そういうときはシャオリエの店に行け」
「だから、そういうつもりじゃ……」
 うんざりとした様子のルイフォンに、イーレオがにやにやと笑いながら、ふと思い出したかのように言う。
「そういえば、シャオリエが最近お前が顔を見せない、と嘆いていたぞ。スーリンも寂しがっている、ってな」
「……俺は結構、忙しいんだ」
「また、あのラジコンヘリか?」
「それを言うなら、自律無人機(ドローン)! 今は、もっと別の――スパコン使っての、株の自動売買システムを……」
 ルイフォンが自分の研究について語ろうとすると、イーレオは面倒臭そうに手を振って話を遮った。
「女より機械か? お前の趣味は分からんな」
「別に女が嫌いなわけじゃない。親父ほど、のめりこんでいないだけだ」
 憮然とするルイフォンに、イーレオは含みのある視線を投げかけたが、言葉としては何も出さなかった。
「――で。俺の前に来たということは、報告すべきことがあるわけだな」
 執務室の空気が一変した。
 相変わらずの頬杖をついたままの姿勢でありながらも、イーレオの声色が違っていた。
 ルイフォンは背筋を伸ばした。言動に多々問題があろうとも、目の前にいる男は信頼に足る絶対者だ。
「報告書だ」
 ルイフォンは分厚い書類の束をイーレオに手渡した。イーレオは真面目な顔で、初めの一枚を見る。そして、言う。
「嫌味なくらい文字が大きいんだが? 一行文字数が少なすぎて読みにくいぞ」
「老眼の親父には、そのくらいのフォントサイズのほうが見やすいかと思ってな」
「紙が増えて、資源の無駄だ」
「だったら、電子データで受け取れよ」
 イーレオは若作りをしていても、年齢相応に古い人間なので、紙の書類が好きなのだ。ルイフォンはそれを知っているから印刷してくる。更に、ファイリングするときのことも考えて、レイアウトにも気をつけている。彼の配慮が伝わっているかどうかは不明であるが。
 イーレオは再び報告書に目を落とすと、今度は黙ってページを繰り始めた。時々、秀麗な額に皺を寄せながら、彼は最後まで目を通した。
「ご苦労。よく調べてくれた。礼を言う。――それで、お前の見解は?」
「斑目による、鷹刀への謀略。斑目は、あいつを使って何かを仕掛けようとしている」
「だろうな。……可哀想に。お嬢ちゃんは、いいように利用されただけ、か」
 イーレオが重い息を吐く。彼が机の上に置いた報告書もまた、どすんとその質量に見合うだけの重たい音を立てた。
 ルイフォンは、やるせなげに下唇を噛み、彼の出した結論を進言する。
「……俺は、今からでもあいつを――メイシアを鷹刀から出すべきだと思う」
「却下」
 一瞬たりとも迷うことなく、イーレオは言ってのけた。肯定の言葉を確信していただけに、ルイフォンは耳を疑う。
「なんでだよ? あいつは斑目の駒だ」
 たとえ、メイシア自身は何も知らなくても、だ。
「あいつにしたって、凶賊(ダリジィン)なんかとは関わらないほうが幸せだろう。――あいつは、貴族(シャトーア)なんだから」
 執務机に手をついて詰め寄ってくる息子を、イーレオは相変わらずの崩した姿勢のまま見上げた。
「俺は、お嬢ちゃんの父親と異母弟を助けると約束したんだぜ? 男に二言はない」
「だから、って……!」
「ホンシュアとやらの目的は分からん。だが、お嬢ちゃんの目的は、はっきりしている――家族を助けることだ。そのために身を売る約束までした。だったら、それに応えてやってもいいだろう」
 話は終わりだ、とばかりに、イーレオはルイフォンの背後に目をやり、くいと顎を上げた。そちらにあるのは、ルイフォンの小細工付きのこの部屋の扉である。
 しかし、ルイフォンは執務机に身を乗り出し、どんと拳を打ち付けた。
「あいつはいわば、鷹刀と斑目の諍いに巻き込まれた被害者だろ」
「だが現状は、お嬢ちゃんの家族は斑目に囚えられていて、お嬢ちゃんは家族を助けたい――鷹刀を追い出されるほうが、お嬢ちゃんにとっては望ましくないだろうが」
 そう言われてしまうと、ルイフォンも言葉に詰まる。彼は癖のある前髪をくしゃくしゃと掻き上げた。
「……敵は、恐ろしく狡猾だぜ? メイシアが屋敷に来たときに、エルファンとリュイセンがいなかったのは偶然じゃないだろう」
「確かに。あいつらがいたら、お嬢ちゃんを屋敷に呼べなかったな」
 頭の堅いふたりを思い出したのか、イーレオが苦笑する。
「笑っている場合じゃないだろ。それだけ、こっちのことは調べ上げられている、ってことだ!」
 総帥の血統とはいえ、役割の特殊性から一族の序列の外にいるルイフォンが、最高位の総帥を鋭く睨みつける。いつになく真剣な息子に、イーレオも真顔になり――。
「ぷっ」
 深刻な雰囲気に耐えきれず、思わず吹き出した。
「くっ、く、くく……」
 流石に悪いと思っているのか、イーレオは口元を抑え、できるだけ笑いを押し殺している。
「おいっ、親父!」
「わ、悪い、悪い……。まったく……、意外に心配性だったんだな」
 悪いと言いながらも、イーレオは眼鏡の奥の目にうっすらと涙を浮かべていた。
 ルイフォンが不快感もあらわに、奥歯をぎりりと鳴らす。イーレオは慌てて、こほん、とひとつ、わざとらしい咳払いをして表情を改めた。それでも瞳には楽しげな色が載っている。
「ルイフォン、俺たちな、妙なる幸運に見舞われたんだよ」
「妙なる幸運? なんだよ、それ」
「メイシアは貴族(シャトーア)だ。本来なら無縁の存在だった。――それが手に入ったんだぜ? 凄い幸運だろ?」
 イーレオの声が音としてルイフォンの鼓膜を揺らしてから、言葉として脳に伝わるまでには、しばしの時間を要した。ぽかんと口を開けたルイフォンを、イーレオは楽しげに眺める。
 やがてルイフォンは、諦観と尊敬の入り混じった複雑な溜め息を漏らした。いからせていた肩を下ろし、呟く。
「…………まったく。親父らしいぜ……」
 罠を承知しつつ事態を泰然と受け止める父は、自分とは格が違う――ルイフォンは、そう認めざるをえない。容姿は似ていないくせに言動は父によく似ている、との評判の彼だが、どうやら粗悪な模造品に過ぎなかったようだ。
 ともかく、あの小鳥は逃さなくていいのだ。ルイフォンの口元が自然に綻んでいく。
「じゃあ、このままメイシアの家族の救出に向けて動いていいんだな?」
「勿論だ。それと、お前が言う通り斑目への警戒も頼む」
「とりあえず、メイシアの持ち物に不審なものはないか、昨日のうちにミンウェイに調査を依頼してある」
 本人が知らなくとも、何かを持たされていることもある。洗濯と称して服も回収済みだ。
 ルイフォンの報告に、イーレオは満足気に口元を緩めた。
「しっかり仕事しているじゃないか」
「当然だろ。で、これからトンツァイにところへ行ってくる。メイシアを連れていっていいか?」
 ルイフォンの言葉の後半が、イーレオの口の端を上げさせた。だが胸の内の台詞は、心の中に留めておく。
「いいぞ、好きにしろ」
 鷹刀一族の総帥は、ただひとこと、そう許可を出した。


 朝食を終えたルイフォンは、ミンウェイに用意してもらった服を持って、メイシアの部屋を訪ねた。
「おい」
 ノックなしで扉を開ける。理由は簡単。メイシアの反応が面白いからだ。彼女が扉に鍵を掛けられることに気づくまで、これは続けよう、とルイフォンは思う。
「きゃっ」
 唐突な呼びかけに、窓辺で外を見ていたメイシアは可愛らしい悲鳴を上げた。彼女が長い髪を舞わせて振り向くと、開け放された窓から桜色の花びらが髪飾りのようについてくる。どうやら今が盛りの桜に見とれていたようだ。
 彼女はルイフォンの姿を確認すると、顔を真っ赤にした。
「おおおおはようございます。昨日は失礼いたしました」
 声が裏返っている。
 酔いつぶれた後、ルイフォンに部屋まで運んでもらったことをミンウェイから知らされたためだろう。
「あれは俺も悪かった。お前があそこまで弱いとは思わなかった」
 ルイフォンは、からかってやるつもりだったのだが、素直に謝ってしまった。耳まで赤くしてうつむく姿が、さすがに可哀相に見えたのだ。彼は別に嫌われたいわけではない。
「特に予定は、ないよな?」
 こくりと頷く彼女に、彼は持ってきた服を渡す。
「これに着替えろ。俺に――」
 ついて来い、と言おうとして、少し考えて続ける。
「デートしよう」
 にやり、と猫のように目が細まる。
「え?」
「だから、デート」
「?」
「俺の世界を見せてやるよ」
 メイシアは戸惑いながら渡された服を見た。今、着ているものより、かなり質の落ちる品だ。ルイフォン自身もあまり良いものを身につけていない。
「これから行くところは、あまり治安が良くないんだよ」
 ルイフォンの説明に得心のいったメイシアは、服を持って続き部屋の寝室へ向かった。
「ここで着替えないのか?」
「勘弁してください」
「綺麗なのに……」
 残念、と呟くルイフォンをメイシアはきっぱりと無視した。

1.猫の世界と妙なる小鳥-2

1.猫の世界と妙なる小鳥-2

 ルイフォンとメイシアは、お抱え運転手に送ってもらい、繁華街に出た。
 目的地はトンツァイの店。表向きは食堂兼酒場だ。だが、情報が酒場に集まるのは常のことで、トンツァイは〈(フェレース)〉とはまた別の、昔ながらの情報屋であった。
 帰りは適当にタクシーを捕まえると言って、ルイフォンは繁華街の入り口で運転手を屋敷に帰した。ゆっくりはしていられないが、少しくらいならメイシアを連れ回してもよいだろうと考えたのだ。箱入り娘の彼女のことだから、こんな場所は珍しいに違いない。
 このあたりは夜のほうが華やかな本来の姿なのだが、朝でもそれなりに活気があった。
 旨そうな肉汁の匂いと、温かい湯気が漂ってきた。すぐそこの店先で、蒸かした肉まんじゅうを売っている。今はまだ腹が一杯だが、帰りにメイシアに買ってやってもいいかもしれない。彼女は、おそらく買い食いなどしたことがないだろうから。
 その隣には天然石の店。どう見ても安物の石だが、綺麗に加工してアクセサリーや小物に仕立ててた品々は、なかなか良い感じだった。
 屋敷を出る際、メイシアに身につけていたペンダントを置いていくよう、指示したことをルイフォンは思い出す。繁華街に行くには貴金属は物騒だから、と彼女には言った。そして今、そのペンダントはミンウェイが専門の鑑定士のところに持って行っている。
 メイシアを騙したことには多少の良心の呵責を覚えるが、これは仕方ない。お詫びにブレスレットでもプレゼントしようか、などとルイフォンは考える。石の名前などよく分からないが、桜色が似合うだろう。
 遊戯施設は、まだシャッターが下ろされている。こちらはメイシアが得意そうには思えないが、案外ビリヤードくらいならできるかもしれない。あとで時間があったら行ってみるのも……。
 睡眠不足で体調が悪いくせに、ルイフォンは浮かれていた。
「なぁ、メイシア」
 胡麻を表面にまぶした揚げ団子を横目に、ルイフォンはメイシアを振り返った。甘いものは好きか、と尋ねようとしたのであるが、さっきまで一歩後ろを遠慮がちに歩いていたはずの彼女は、店一軒分くらい後ろにいた。人込みをうまくやり過ごすことができず、離れてしまったらしい。
「あ、悪い」
 ルイフォンは、慌てて彼女に駆け寄る。
「いえ。私が周りに気をとられていたのが悪いのです」
 彼女は、見知らぬ場所に対する不安と好奇心がないまぜになった表情で、恥ずかしそうに言った。今までより少しだけ子供っぽい顔が新鮮で、ルイフォンの頬が自然に緩んでくる。
「あとで、いろいろ案内してやる。とりあえずは、知り合いのところに行く用事があるんだ」
 さすがに往来で『情報屋』云々とは言えないので、そこは誤魔化す。
 このまま迷子にするわけにもいかないので、ルイフォンは強引にメイシアの手をとった。彼女が目を丸くするが、「はぐれないように、だ」と片目を瞑ってみせた。
 残念ながらルイフォンのご機嫌な時間はそれほど長くは続かず、ほどなくして目的地であるトンツァイの店についた。


 からん、からん……。
 店の戸に付けられたベルが、来店を告げた。
「いらっしゃい!」
 ルイフォンが足を踏み入れると同時に、威勢のよい声が響く。恰幅のよい女将が、その体格に似合った笑顔で迎えてくれた。
「――っと、ルイフォンかい。よく来たね」
「お邪魔するよ。女将さん、相変わらず綺麗だね」
 いつも通りのお世辞に、女将は「まったく」と言いながらも悪い顔はしなかった。
「何ぃっ! ルイフォンが来た!?」
 キンキンとした高めの少年の声がしたかと思うと、がたんと椅子の倒れる音が続く。
「あー。まただよ」という複数の少年の微苦笑に見送られ、奥のテーブルから痩せぎすの少年が現れた。この店の息子、キンタンである。母親の女将とは対照的な体型は、父親のトンツァイ譲りだった。
「ルイフォン、勝負だ! この前の雪辱戦だ!」
 キンタンがルイフォンに向けてびしっと突き出した指先には、カードが挟まれていた。
 彼ら――奥のテーブルの面々は、ルイフォンの遊び仲間であった。たまには連れ立って繁華街を練り歩くこともあるが、大概はなんとなくこの店に集まり、カードゲームに興じている。中でもルイフォンとキンタンの実力は拮抗しており、勝率は五分五分……よりもルイフォンのほうがやや高かった。
 ポーズまで決めてルイフォンの前に躍り出たキンタンだったが、次の瞬間には顎が外れたかのような、ぽかんと口を開けたままの間抜けな姿を晒すことになる。
「ル、ルイフォン!? ……女連れぇ!?」
 甲高いキンタンの声は店中に響き、彼の受けた衝撃は奥のテーブルの少年たちにも連鎖していく。
「なんだとぉ」
「見せろや!」
 奇声に近い声を上げながら、少年たちがルイフォンの元へどやどやと引き寄せられた。
 メイシアは硬直した。
 貴族(シャトーア)の世界には、大声を出す者も、突然走り寄ってくる者も存在しなかった。すっかり気圧されてしまった彼女には、ルイフォンに救いの眼差しを向ける余裕すらない。
 一方、少年たちは絶句していた。
 彼らはメイシアの無垢な美しさに吸い込まれていた。怯えた表情さえも、保護欲と嗜虐心をくすぐるスパイスとなる。
「すげぇ美少女……」
 たいして語彙が豊かでもない、ひとりの少年のその呟きが、陳腐ではあるが的確に彼女を表現していた。
 片手を突き付けたままだったキンタンが、はっと我に返る。彼は繋がれたままのルイフォンとメイシアの手に目敏く気づいた。
「ああ……、糞……!」
 言葉にならない雄叫びを上げる。それを呼び水に、他の少年たちがルイフォンに矢継ぎ早に問いかけた。
「どこから連れてきたんだよ?」
「名前は?」
「いつからだ?」
 ルイフォンは凶賊(ダリジィン)の総帥の息子であり、表情にさえ気をつけていれば、端正と言ってよい顔立ちをしている。その気になれば女に不自由しないはずだ。しかし彼は、今まで特定の相手を作ったことはなかった。それだけに、少年たちは興味津々だった。
 彼らは、不躾なまでの好奇の視線でメイシアを舐め回す。ルイフォンの連れだと承知の上でも、黒絹の髪は元より、赤い唇や白い首筋、華奢な撫で肩から更に下へと目が行っていた。
「……スーリンは、どうするんだよ?」
 キンタンが呻いた。彼としては低い声のつもりだったのだが、彼の声質ではそれは叶わない。
「あいつ、お前にぞっこんだろ!?」
 剣呑な響きを載せてキンタンが迫る。そこで初めてルイフォンは、少しばかり軽率だったかと反省した。
「おい、みんな待てよ。こいつは、親父の女だ」
 握った手をそっとほどきながら、ルイフォンはメイシアを少年たちのほうへ押し出す。
「名前はメイシア。屋敷に閉じ込めておくのも可哀想だから、気晴らしに俺が連れ出しただけだ」
「何ぃ!?」
「嘘だろ? 親父さん、もう六十五だろ? まだ『現役』なのか?」
「ああ。あの親父だから」
 ルイフォンのその一声で、一同が納得する。
 メイシアが何か言いたげな様子であったが、ルイフォンは笑って返すだけだった。
 彼女の現在の身分が凶賊(ダリジィン)の総帥の愛人なのは本当であるし、そう公言しておけば余計なちょっかいを出す者はいないだろう。現に、彼女を好奇の目で見ていた少年たちが浮足立った。それでも、ちらちらと名残惜しげな視線を向けてしまうのは仕方のないことだろう。
 ルイフォンはそんな少年たちの反応を横目に、メイシアを伴いカウンターに腰掛けた。
「うちの人だね?」
 女将が尋ねる。ルイフォンは簡潔に「ああ」と答えた。
「悪いね、今、ちょっと仕入れでトラブっちゃって、出かけているんだ」
「ふむ……」
 女将の言葉にルイフォンは眉根を寄せた。『仕入れでトラブルがある』――これは情報屋トンツァイの暗号で、何か気になることがあって調べているということだ。
「じゃあ、待たせてもらうよ。女将さん、あれ出してくれよ。二人分」
「あいよっ」
 女将は威勢よくそう言って、奥に入る。
 つんつん、とルイフォンの服の裾が引っ張られた。隣でメイシアが目で訴えていた。
「違う、違う。酒じゃない」
「え……。すみません」
 彼女は顔を赤らめた。申し訳なさそうに見上げる瞳が、なんとも嗜虐心をくすぐる。
 戻ってきた女将がトレイに載せていたのは、二個の大きな椰子の実だった。上端に穴を開けてありストローが差してある。
「天然のココナッツジュースだ。まずい店もあるが、ここのは美味いぜ!」
 ルイフォンは、ひとつをことんとメイシアの前に置いた。予想通り、彼女は目を丸くしている。お上品な貴族(シャトーア)なら、椰子の実からそのまま飲むなんて驚きだろう。
 ルイフォンは、もうひとつの椰子の実を手に取って飲み始めた。よく冷やしてあり、口の中に広がる甘みがなんとも美味だ。
 彼に誘われるように、恐る恐るといった体でメイシアがストローに口を付ける。途端、ぱっと彼女の目が見開かれた。
「美味しいです!」
 顔を綻ばせ、「ありがとうございます」と、再びストローに唇を寄せるメイシアに、ルイフォンは満足げに目を細めた。
 ふたりが飲み終わったあたりで、待ちかねていたようなキンタンから声がかかった。
「おい、ルイフォン! 勝負しろよ」
 カードを持った手を振っている。
「俺、今日はこいつのお守りだから」
「逆だろ? 彼女がいるからこそ、ここで男を見せろよ?」
「ああ、それなら」
 がたんと席を立つルイフォンを、メイシアは不安げに見上げた。けれど彼は「行こうぜ」と、楽しげに笑いながら彼女の手を引いていく。
 ふたりの登場に、テーブルがわっと盛り上がった。キンタンの隣りにいた少年が「よくぞ、誘ってくれた!」とキンタンの背を叩き、別の少年ふたりが握手を交している。綺麗所がテーブルに来て心が踊らないわけがない。
「賭けている?」
「いつも程度に」
 じゃあ気が抜けないな、とルイフォンは猫のように、すうっと目を細めた。その傍らでメイシアが一気に青ざめる。彼女は賭け事と聞いてうろたえていた。
 ルイフォンが苦笑しながら尋ねた。
「お前はプレイする?」
「い、いえ。観客でよろしいでしょうか?」
 メイシアの返事に、ルイフォンは軽く頷いて、観客席を用意した。
 切れそうなほどにピンとしたカードを、キンタンが見事な手つきでシャッフルする。この店の夜の顔は酒場であるが、その横顔は賭場でもあるので、一人息子の彼はカードを自在に操れる。実は勝者の決定権は彼にあると言っても過言ではないのだが、イカサマで勝つのは彼の矜持が許さない。
 手元に配られたカードを見て、ルイフォンは、にやりとした。テーブルを囲む少年たちに焦りの表情が生まれる。
 ゲームが始まった。場にあるものよりも強いカードを出していくルールで、手元のカードがなくなれば上がりである。
 次々と出されるルイフォンのカード。他の者は及び腰だ。
「はい、ラスト!」
 ルイフォンが最後の一枚をぱしっと場に放った。
「……えええ? お前、無茶苦茶、カード運悪かったんじゃん!?」
「ブラフか!」
 少年たちが叫ぶ。
「まぁね」
 少年たちの悔しげな声を尻目に、飄々と儲けを確認するルイフォン。さらりと勝利したときの、この爽快感が彼はたまらなく好きなのだ。テーブル上の残りの小銭を巡り、少年たちがドベになってたまるかと躍起になって勝負を続ける。
 二番目に上がったキンタンがメイシアに声を掛けた。
「ルイフォンのハッタリに気づいていただろ?」
「何!?」
 そう反応したのはメイシアではなくルイフォンであった。彼は財布に入れようとしていた小銭を取り落とし、慌ててテーブルの下に潜る。
「こいつの席から、俺の手元は見えないはずだぜ?」
 ごそごそと這い上がってくるルイフォンに、賭博師の顔でキンタンが言う。
「場を見る彼女の表情が、微妙に変わるんだよ」
「……すみません。ルイフォンの出す順序に矛盾があったので……」
 申し訳なさそうに、メイシアの目線がルイフォンとキンタンの間を忙しなく泳ぐ。
「実は、俺も気づいていた。ただ、俺のカードじゃ阻止できなくて負けたけど。――あれに気づくって、あんた、凄ぇな。正直、見直した。見た目だけの女かと思っていたから……」
 悪かったな、とばつが悪そうにキンタンが頭を掻いた。
「こいつは賢いからな」
 何故か自慢気にルイフォンが口を挟む。キンタンの視界からメイシアを隠すように体を割りこませたように見えたのは、キンタンの気のせいではないだろう。キンタンはわずかに眉を寄せたが、言及はせずに続けた。
「でも、次の勝負では顔色を変えてくれるなよ?」
 あくまでも正々堂々と勝ちたいキンタンである。
「あの、そんなに顔に出ていましたか?」
「まぁ、わりと」
 キンタンが尖った顎に手を当てて、悪がきの顔でにやりと笑った。
「――こういうときはさ、勝利の女神の微笑みで、にっこりしていればいいんだよ。あんた、せっかく美人なんだし」
「そうだな。俺も、お前には笑っていてほしい」
 ルイフォンにもそう言われ、メイシアは困惑顔で彼らを見返す。テーブルでは、そろそろ敗者が決定しようとしており、ゲームの熱気は次の勝負へと向かっていた。慌てて笑顔を作ろうと努力するメイシア――しかし、すぐにその必要はなくなった。
 からん。
 扉のベルが鳴った。
 キンタンによく似た痩せぎすの男が入ってきた。この店の主、トンツァイである。
「ルイフォン、待たせて悪かった」
「ああ、トンツァイ」
 ルイフォンの口元が引き締まる。お遊びはここまでだった。彼の周りの空気が、がらりと音を立てて変化した。
「なるほど、親父と約束があったのか」
 キンタンが得心のいったように呟く。
 彼の父はテーブルの顔ぶれの中からメイシアの姿を見つけると、骨ばった頬をにたりと歪め、ぴゅうと口笛を吹いた。
「掃き溜めに鶴だな」
 それから身をかがめ、「彼女を同席させるつもりか?」とルイフォンに耳打ちする。
 情報屋トンツァイの言葉に、ルイフォンが眉を動かした。トンツァイがわざわざ確認してくるからには、何かしらの理由があるのだろう。
 しばしの躊躇。そして、ルイフォンはメイシアに視線を向けた。彼女は状況が理解できずに戸惑いの様相を呈していた。
「お前はここで待っていてくれ」
 メイシアの肩にそっと手を置き、ルイフォンは席を立つ。キンタンがいれば、彼女を置いていっても問題ないだろう。
 心細げな表情をするメイシアの耳元で「彼は情報屋だ」とルイフォンは囁いた。彼女は顔を強張らせながらも黙って頷いた。
「キンタン、彼女を頼むよ」
 そう言い残し、彼はトンツァイと共に奥の部屋へ移った。

1.猫の世界と妙なる小鳥-3

1.猫の世界と妙なる小鳥-3

「本物は、写真より別嬪だな」
 トンツァイが椅子に腰掛けるなり、そう漏らした。ルイフォンは向かいに座りながら軽く相槌を打つ。そこでトンツァイの顔が険しいことに気づいた。
「何があった?」
「ああ、ホンシュアという仕立て屋の件で、な」
 歯切れの悪いトンツァイに、ルイフォンは眉をしかめた。目線で先を促す。
 トンツァイは「順を追って話すぜ」とルイフォンに向き直った。
「まず依頼の件、ホンシュアと斑目の関係についてだ」
 言いながら、彼は一枚の写真を出した。ルイフォンにも見覚えのある斑目の屋敷。そこから出てくる、派手な女とサングラスの男のふたり連れが、明らかに隠し撮りと分かるアングルで写っていた。
「この女が、斑目の屋敷で『ホンシュア』と呼ばれている女だ。あとで藤咲メイシアに同一人物かどうか確認してもらってくれ」
「じゃあ、ホンシュアが斑目の手下だと裏付けが取れた、ということか」
「いや。それが、どうも外部の人間らしい。斑目が誘拐事件を起こす少し前あたりから、ホンシュア以外にも見慣れない連中が屋敷を出入りしている」
「別の組織が絡んでいるのか?」
「おそらく」
 トンツァイの言葉に、ルイフォンは不快げなうめき声を漏らした。今回の件は思ったよりも、根が深そうだ。しかし、更に「それだけじゃない」とトンツァイの報告が続く。
「――ホンシュアは昨日の午前中、堂々と正門から藤咲の屋敷に入っている。『奥方の署名入り許可証』を持ってな。いつもとは違う店の者らしい。派手な女だったと、警備員がよく覚えていた」
「……!」
 ルイフォンの顔色が変わる。
「そして、昨日の晩、斑目の三下が藤咲の屋敷に行ったのを俺の部下が確認している。一方的な使者という感じじゃなくて、あらかじめ来訪を知っていて――待っていたようだった、と」
「そう、か……」
 実在しない仕立て屋が、貴族(シャトーア)の屋敷の中に現れたのだ。手引きした者がいてもおかしくない。そして、それを一番容易にできるのは――メイシアの継母だ。
 つまり。
 メイシアは、身内に売られたのだ。
 ルイフォンは前髪をくしゃりと掻き上げた。
 メイシアの口ぶりからすると、彼女と継母の関係は悪くなかったはずだ。けれど、これは一体どういうことなのだろう。
 ルイフォンはテーブルに肘をつき、頭を抱える。天板の木目が渦を巻いているのが、目に映った。それはぐるぐると波紋を広げており、メイシアを取り巻く状況と酷似していた。
「――斑目の目的は、なんなんだ……?」
 ルイフォンの呟きに、トンツァイが申し訳なさそうに首を振る。
「悪いな。それは分からねぇ」
「いや。今のは愚痴だ。すまない」
 継母のことはメイシアに黙っておこう――そう、ルイフォンは心に決めた。
 彼女の願いは、家族が無事、家に戻ることだ。それは鷹刀一族が必ず叶える。
 その後の彼女の身分は娼婦であり、もはや実家に帰ることはない。だったら、余計なことを知って、無駄に傷つく必要はないだろう。
 トンツァイが懐から数枚の紙を出した。
「藤咲メイシアの父親と異母弟は、それぞれ別の別荘に監禁されている。これが地図とそれぞれの建物の見取り図。印の付いているところが囚われている部屋だ。今のところ、待遇はさほど悪くない」
「ありがとう。助かる。支払いは――」
 言いながら、ルイフォンは尻ポケットの携帯端末を取り出し、素早く操作してトンツァイに画面を見せた。トンツァイが頷くのを確認してから、彼は送金ボタンをタップした。
 部屋を出ようとするルイフォンに、トンツァイが複雑な顔をした。
「お前、うちのキンタンと同じ歳なのに、一人前に仕事しやがるよな。ガキは、ガキらしくしろよ」
 背中をどん、と叩かれ、ルイフォンは思わず前のめりになった。トンツァイは痩せぎすのくせに腕力がある。それは、四六時中、店で酒瓶を運んでいるためか、隠密行動のための基礎体力作りを欠かさないためか。
 ひりひりと痛む背中をさすりながら、ルイフォンが振り返る。
「男は大人ぶっているときこそが子供なんだそうだ。本当に大人になってからのほうが、よほど子供っぽいんだと。親父が言っていた」
「イーレオさんらしいな」
 トンツァイが苦笑した。彼は鷹刀一族と深く繋がっている情報屋だが、手下というわけではない。だから口の利き方はぞんざいで、けれどそれは好意を持っていればこそのことだ。
 ふと、ルイフォンは思い出して言った。
「そうだ、トンツァイ。別払いするから訊いてもいいか?」
「ああん? 俺が『仕入れでトラブった』理由か?」
「ああ」
「たいしたことはないさ。金も要らねぇよ。お前も知っているだろ、最近、貧民街で若い女の死体が見つかる事件。またひとり出た。それだけだ」
 そう言って、話を切り上げようとしたトンツァイが「ああ!」と、一段大きな声を上げた。
「……言い忘れるところだった」
「なんだ?」
「どちらかと言えば、俺が遅くなったのはシャオリエさんに捕まっていたからだ」
「シャオリエ?」
 また厄介な名前が出た、とルイフォンは顔をしかめた。
 シャオリエは、繁華街と貧民街の境界地区の住人だ。詳しいことは知らされていないが、イーレオの昔馴染みで、ルイフォンの母とも親しかったらしい。そんな縁でルイフォンは一時、彼女の元に身を寄せていたことがある。
 トンツァイの顔が見る間に、にたりと歪んだ。尖った顎に手をやりながら愉快そうにルイフォンを見る。
「今日、俺のところにルイフォンが情報を貰いに来ると言ったらさ、シャオリエさん、鷹刀の屋敷で何があったのか詳しくを教えろと言うんだわ。まぁ、俺も商売だし? 昨日ルイフォンから聞いたこととか、俺の調査結果とか、まぁ、いろいろ教えたわけよ」
「……」
「そしたら、シャオリエさんは『ルイフォンは絶対にメイシアを連れてくる』って断言したんだ」
「……一体、何を教えたんだ?」
「で、俺は伝言を頼まれたんだよ。『あとで、メイシアを連れて、店に寄るように』だそうだ。言い忘れなくてよかった。いやぁ、さすがシャオリエさん、お見通しだったんだなぁ」
 がっはっは……と、豪快に笑うトンツァイに対し、ルイフォンは苦虫を噛み潰したような顔で盛大に溜め息をついた。


 奥の部屋から出てきたルイフォンを出迎えたのは、不安に彩られたメイシアの顔であった。一緒に部屋を出てきたトンツァイがルイフォンの肩を叩き、カウンターへと去っていく。
「なんて顔、しているんだよ?」
 やや猫背の、癖のある歩き方でルイフォンはメイシアの元へと行き、椅子に座っている彼女の頭をくしゃりと撫でる。
 突然の接触にメイシアは小さな悲鳴を上げそうになるが、かろうじて堪えた。ルイフォンの感覚的には『安心しろ』といった程度のものでしかないことを、この一日で学んだからだ。
「朗報だぞ。お前の家族の監禁場所が分かった」
「え……!? ありがとうございます!」
 メイシアの顔が、ぱっと輝く。
「これから屋敷に戻って親父に報告――というわけなんだが……」
 そこで、ルイフォンが少しだけ困った顔になった。
「……悪い。ちょっと野暮用に付き合ってくれ……。無視してもいいんだが、そうすると、あとあと面倒だから……」
 歯切れ悪く、そう言い、ルイフォンは前髪をくしゃりと掻き上げた。そんな彼に、メイシアの隣にいたキンタンが尋ねる。
「どうしたんだよ?」
「ああ……。シャオリエが、メイシアを連れて店に寄れ、だと」
「あーあ。シャオリエさんねぇ」
 キンタンが同情したように頷いた。

2.灰色の通りで

2.灰色の通りで

 トンツァイの店を出たふたりは、繁華街をさらに進んだ。昼が近づいてきているためか、来たときよりも、だいぶ賑やかである。特に食べ物を手に歩く人々の姿が多く見受けられた。
「ええと、だ。メイシア。シャオリエというのは……」
「この近くにある娼館のご主人の名前、ですよね」
「キンタンに聞いたのか」
「はい」
 ルイフォンを待っている間、キンタンたち少年グループはメイシアのことを根掘り葉掘り聞きたがった。しかし、この場で素性を明かすのは何かまずいような気がしたので、彼女は誤魔化すことにしたのだ。
 ――ごめんなさい。余計なことを言ってはいけないと、イーレオ様に言われているので……。
 この台詞は効果覿面だった。少年たちは、はっとしたように「ああ、そうだよな」と、頷き合って詮索を諦めた。彼女は自分では気付いていないが、上目遣いに申し訳なさそうに言う、その儚げな仕草も一役買っていた。
 代わりに彼らは、ルイフォンのことを面白おかしく話してくれた。本人のいないところで聞いてしまうのは、いけないことのようにも思えたが、彼女が知らない彼の話はとても興味深かった。
 その中に、ルイフォンの馴染みの娼館と、そこの女主人の話も出てきた。
「私……これから、そこで働くんですね」
 メイシアの声が震える。
 急なことなので、心の準備ができているとは言えなかった。しかし、鷹刀一族は彼女の家族の救出に向かって動き出した。ならば自分も約束を果たすべきだと、メイシアはぎゅっと口元を結び、覚悟を見せる。
「は……?」
 ルイフォンが間の抜けた声を上げる。しかし、この先の運命に毅然と立ち向かおうとしている彼女には、それも気遣いに聞こえた。
「大丈夫です」
 メイシアは『安心してください』と、先程の彼に倣って彼の頭をくしゃりと撫でるべきか否か悩んだ。けれど、それはやめておくことにした。むやみに他人に触れるのは彼女の流儀に反するし、爪先立ちにならないと彼の頭上には届きそうもなかったからだ。その代わりに精一杯の笑顔を作る。
「短い間でしたが、お世話になりました」
「……あ? あああ! 違う、違う!」
 慌てたように、ルイフォンが両手を振る。
「いや、いずれ、お前はシャオリエのところで働くのかもしれないけど、少なくとも今は違う! 今回はシャオリエが個人的に俺を呼んでいるんだ。シャオリエは俺の……うーん、なんと言ったらいいんだろう?」
 困ったように髪を掻き上げるルイフォン。メイシアにはわけが分からない。
「ええと、な。俺は子供のとき、鷹刀の屋敷とは違うところで母親と暮らしていたんだ」
「はい……?」
「けど、四年前、母が死んだ」
 唐突な話にメイシアは息を呑んだ。昨日、ルイフォンからクラッカーだった母親の話を聞いたとき、故人なのではと推測していたが、はっきり告げられるのは、また別だった。
「で、いろいろと落ち着くまで、しばらくシャオリエのところに世話になった。だからシャオリエは俺の……母親代わり? いや、俺の母も母親らしくはなかったけど、シャオリエはもっと『母親』というものから、かけ離れているな……」
 ルイフォンは困ったように言い淀む。
「まぁ、ともかく、シャオリエは身内みたいなものだ。いろいろ厄介な奴なんで、俺たちを呼びつけたのも、単なる興味本位だろう」
 彼はそう言って、再び溜め息をついた。


 醤油の焦げる香ばしい匂いが、メイシアの鼻孔をくすぐった。
 食べ歩きなど言語道断、と育てられた彼女であるが、繁華街ではそんな価値観のほうが野暮に違いないと思った。匂いの出どころに興味を惹かれながら、彼女はルイフォンに続いて脇道に入る。そこで、立ちすくんだ。
 ふたりが足を踏み入れた瞬間、あちらこちらから鋭い視線が飛んできた。
 塀に寄りかかって談笑していた少年たちが、急に黙り込む。
 地べたに座り込んでいた老人が、髭まみれの薄汚れた顔を不気味に歪める。
 俯いて作業をしていた焼きイカ屋の男が、周りの気配を感じてか顔を上げた。串を返す手を止め、露骨な様子でメイシアを凝視する。
 幾つもの濁った瞳がメイシアを囚えていた。
 自由民(スーイラ)だ、とメイシアは悟った。
 彼らは国民としての義務を持たない代わりに、権利も持たない。戸籍を持たず、生きていても死んでいても、誰も気づかないし気にしない。
 その路地は、今までの街並みと大きく変わったところがあるわけではなかった。相変わらず、飲食店や小物の店がごちゃごちゃと所せましと並んでいるだけだ。強いて言えば、一軒一軒の間隔が狭くなっただろうか。
 淀んだ灰色の空気が、あたりに満ちていた。
 ルイフォンが黙ってメイシアの手を握った。反射的に彼女も握り返す。
「こういう世界もある、ってことだよ」
 彼が小声でそう言った。そして低い声で「顔色を変えるな。狙われる」と付け足す。
 だが――。
 どんっ。
「きゃっ」
 背後からぶつかられ、メイシアはよろけた。ルイフォンが握った手を引き寄せ、自分の胸の中へと彼女を保護する。
「ああ、痛てぇ!」
 ぶつかってきたのは、ルイフォンよりやや年上の少年だった。彼は、自分の肘に手をやりながらメイシアを睨みつけた。
 すみません、と頭を下げようとするメイシアを、ルイフォンが制した。こんな奴に下手(したて)に出ることほど愚かなことはない。しかし、少年の仲間たちが周りを取り囲んでいる。一悶着あるのは明白だった。
「痛ぇなぁ! 骨が折れたかもしれねぇぞ!」
 少年が怒鳴り声を上げる。女のメイシアと細身のルイフォンなので、少年はふたりを舐めきっていた。脅せば金を出すと思っている。軽薄な笑みを浮かべながら、大げさに腕をさすっていた。
 震えるメイシアの頭を、ルイフォンがくしゃりと撫でる。彼女が丸い目で彼を見上げると、「心配するな」と彼は囁いた。そして少年に向き直り、挑発的に目を細める。
「……どこの骨が折れているって?」
「なんだと? あぁあ!?」
 少年が一歩前に出た。
 周りの少年たちからも「こいつ……!」と憤りを含んだ響きが上がる。彼らのどよめきの波は、メイシアにぶつかった少年への期待となって押し寄せていった。
「やっちまえよ!」
 その声が引き金となり、少年がルイフォンに殴りかかった。
 ルイフォンは素早くメイシアを後ろに庇い、拳をかわす。皮膚のすぐ下に骨を感じるような痩せた腕だが、この辺りの住人だけあって決して弱々しくはなかった。まともに喰らえば脳震盪を起こすだろう。
「いいぞ!」
 声援に少年が口の端を上げる。
 少年は大きく振りかぶり、ルイフォンの顔面に向かって力強く拳を振るった。
 ルイフォンはわずかに頭を動かして避けると共に、ぐっと足を踏み込み、低い体勢から少年の手首を掴んだ。そして少年の拳の勢いに少しの回転の力を加え、同時に足を引っ掛ける。
「え――?」
 少年が自分の目を疑う。
 彼の体は、ふわりと浮いていた。ルイフォンに掴まれた手首が捻られ、宙を回る。
 詳細な動きを把握できていたのはルイフォンだけだった。皆が気づいたときには少年は片手をルイフォンに取られたまま、背中を強く地面に打ち付けられていた。少年は、ぐふっという呻きを漏らす。
 ルイフォンが手首を外側に捻りながら、少年の後頭部を足で押さえた。
「いっ……」
 痛い、と喚くことすらままならない様子で、少年は恐怖を顔に貼り付ける。
「折れるのは、どこの骨だ? 手首か? 首か?」
 ルイフォンの冷たい声に、少年たちが静まり返った。彼らは歯向かうべき相手を間違えたことを悟った。
 少年たちのひとりが、はっと顔色を変えた。
「こいつ、鷹刀ルイフォンだ。凶賊(ダリジィン)の、鷹刀……!」
 先程までとは打って変わり、彼らの間に恐怖が伝搬する。
「どうするんだよ……?」
「半殺しになった奴もいるって聞いたぞ」
 青ざめたのは少年たちだけではなかった。背後に庇ったメイシアの息を呑む気配を感じ、ルイフォンは渋い顔をした。
「人聞きが悪い。やったのは一緒にいたリュイセンだ」
 ルイフォンが、ぐるりと周りの少年たちを見渡すと、皆一様にびくりと肩を跳ね上げた。完全に腰が引けている。ルイフォンの足元にいる仲間を気にしつつも、そろりそろりと後ずさっていた。逃げるタイミングを図っているのが見て取れた。
「ま、そういうわけで。俺の連れへの無礼を詫びてもらいたいところだが……。お前たちは運がいいな。今日は先を急いでいるんで、こいつの手首一本で許してやろう」
「ルイフォン……!」
 メイシアが目を見開いた。
 彼女にとってルイフォンの言葉は残酷で――しかし、こういう場での流儀を知らない彼女には何も言えず、押し黙る。
「――と、思ったけど、連れが許してやる、と言っているから、今回は見逃してやろう」
 ルイフォンが柔らかく微笑む。それはメイシアの頭をくしゃりとやるときの表情だったのであるが、少年たちには悪魔の微笑に見えた。
 恐怖に動けぬ少年たちに、「行け!」と、ルイフォンが鋭く言い放つ。そして、彼は少年の肩を爪先で軽く蹴った。
 少年は弾かれたように、はっと立ち上がり、一目散に逃げていく。それを追いかけるかのように他の少年たちもあとに続いた。
 じっと見送るルイフォンの横顔に、彼は初めから少年に危害を加えるつもりはなかったのだと、漠然とメイシアは感じていた。
 少年たちの姿が見えなくなり、地べたの老人やイカ焼き屋が無関係を主張するように目を逸らすようになると、少しだけ空気が軽くなった。
「ありがとうございました」
 メイシアが深々と頭を下げる。それに併せ、艶やかな髪がきらきらと陽光を反射する。質の悪い服を身に着けたところで彼女の輝きが隠せるはずもなく、この灰色の通りの中では異彩を放っていた。
「いや、俺の落ち度だ。お前みたいなのをこんなところに連れてくれば、狙われるのは当たり前だった……ったく、シャオリエのやつ……」
 ルイフォンは、この場にいない面倒な人物に毒づいて、癖のある前髪を掻き上げた。こうなることが分かっていて、彼女はメイシアを呼びつけたのだ。根拠はないが、ルイフォンには断言できる。
「お強いんですね」
「あぁ? 俺がぁ?」
 極端に語尾が上がってしまったのは、彼にとってあまりにも予想外のことを言われたからだ。日頃から、武術師範のチャオラウにやられてばかりのルイフォンである。メイシアの純粋な気持ちは少し重い。
「……俺は、弱いよ。もともと鷹刀の屋敷で凶賊(ダリジィン)として暮らしていたわけじゃないし、諜報担当の非戦闘員だから。相手が素人なら勝つ自信はあるけど、凶賊(ダリジィン)には歯が立たない」
 ルイフォンは灰色の街並みから視線を移して、青い空を仰ぎ見た。真昼の太陽が、中天高くから温かな陽射しを降り注いでいた。昨日とは違い、風はごくたまに、そよと吹くのみ。
 彼の瞳に映る空を知りたくて、メイシアもまた蒼天を見上げた。透き通った色はどこまでも澄み渡り、美しかった。しかし残念ながら、彼の心を窺うことは叶わなかった。
「おい、気を抜いていると、また面倒ごとに巻き込まれるぞ」
 唐突なルイフォンの声に、メイシアの意識は地上に引き戻される。先程の儚さすら感じられた様子から一変して、いつも通りの彼の戻っていた。
 彼は彼女に、すっと手を伸ばす。
 彼女は、わずかな逡巡ののちに、彼の掌にそっと手を載せた。

3.妖なる女主人-1

3.妖なる女主人-1

 唐突に、通りの景色が変わった。
 貧民街にほど近い場所に位置しながら、そこから先の区画は繁華街の中心部よりよほど小奇麗に飾りたてられていた。
 ここは特別な遊興施設であり、貴族(シャトーア)もお忍びで遊びに来るからだと、ルイフォンが説明する。あえて治安の悪いところにあるのも人目につかないようにするためで、反対側の道からなら車で来ることもできるという。
 ルイフォンが立ち止まったのは、蔦を這わせた瀟洒なアーチの前だった。アンティーク調の館に(いざな)うように、煉瓦の敷石が奥へと続いている。
「あ、すみません。まだ準備中……きゃあああ! ルイフォン!」
 ルイフォンが扉を開けた瞬間、黄色い声が響いた。
 小柄な少女が頬を薔薇色に染めて、箒を抱きしめていた。ぱっちりとした目の愛らしい少女である。高くポニーテールにしたくるくるの巻き毛が、彼女の興奮に呼応するかのように揺れていた。
「よぅ、スーリン」
 ルイフォンがそう言うや否や、彼女は近くのテーブルに箒を立てかけ、ルイフォンの胸に飛び込んできた。
「逢いたかった……!」
 彼女はそう言って瞳を潤ませ、爪先立ちになりながら、両手でルイフォンの頭をぐっと引き寄せた。そして、そのまま自然な動作で彼の唇に深く口づけた。
 メイシアは、身じろぎもできなかった。
 目の前のできごとは、銀幕の中の物語に思えた。
 スーリンの小さくて華奢な手が、ルイフォンの頭からそろそろと降りてきて、彼の背中を必死に捕まえていた。彼のシャツに無数の皺が刻まれ、それだけの時を彼女が待っていたことが伝わってきた。
 その姿は決して淫らなものではなく、むしろ美しいとさえ思えた。
 しかし、ルイフォンは、すっと顔を横に向ける。
「……悪いな、今日は俺、客じゃないんだ」
「分かっているよ。シャオリエ姐さんから聞いているもの。でも、私はルイフォンに逢えただけで嬉しいの」
 口づけたときと同じように、自然な動きで体を離し、スーリンは可愛らしく、はにかむような笑顔を見せた。目元だけが、少しだけ切なそうに歪む。
 それから、扉の前で固まっているメイシアに無邪気に微笑んだ。
「初めまして! メイシアさん」
 スーリンはメイシアを歓迎するように、もっと中に入るようにと右手で示した。陰鬱な場所を想像していたメイシアは、当惑を隠せないでいた。
 店内は洒落た喫茶店のようであった。
 窓格子の蔦の隙間からは、穏やかな日差しのベール。ゆったりとしたソファーが互いに譲り合うように配置され、各テーブルに飾られた小花が可憐な様子で来客を待ちわびていた。
 カウンターの棚には、さまざまな色と形の瓶がひしめき合う。アルコールの出る店だと分かるのだが、今はきらきらと煌めくステンドグラスのようであった。
「驚いた顔をしているわね。ここが……娼館に見えないから?」
 スーリンがつぶらな目でメイシアの顔をぐっと覗き込む。メイシアは黙って頷いた。
「高級娼館といえばいいのかな? ここに来るお客は貴族(シャトーア)も多いのよ」
「おい、スーリン、余計なお喋りはあとだ。シャオリエはどこだ?」
 ルイフォンがメイシアの肩を抱いて、スーリンの前から引き寄せる。
 スーリンは何か言いたげに瞳を揺らめかせたが、すぐに笑みを作った。
「シャオリエ姐さんは奥の部屋にいるわ」
「分かった」
 ルイフォンが事務的に応え、歩を進めようとしたとき、スーリンが彼の腕を掴んだ。エプロンのポケットから小さな紙片を出して、彼の掌の中に握らせる。
「これ、私のシフト表」
 ルイフォンはうろんな目をして、その紙を一瞥し、尻ポケットに無造作にねじ込んだ。
「今度来るときは、お客さんで来てね?」
 行ってらっしゃい、とスーリンに手を振られ、ルイフォンとメイシアは奥の部屋に入った。


 その人は、ゆったりとソファーに腰掛けて待っており、ふたりが入室すると、にこやかに手招きをした。
「突然、呼びつけて悪かったわね」
 とても綺麗な人だ、とメイシアは思った。
 緩く結い上げた髪に、襟元までの長めの後れ毛。開いた胸元を薄手のストールでふわりと覆い、自然に崩した装いからは独特な色香を放っていた。
 さきほどトンツァイの店で少年たちから聞いた話によると、彼女がこの地区に現れたのは、三十年くらい前だという。もちろん、少年たちが生まれるよりも前のことだ。だから、この証言はトンツァイをはじめとする繁華街の大人たちによるもので、そのとき彼女は二十歳前後の美しい少女だったという。
 よって現在は、五十歳近いはずである。しかし、とてもそうは思えなかった。薄化粧すら野暮に思える、きめの整った肌は、せいぜい四十前後。下手したら三十代半ばにすら見えた。
 ルイフォンがソファーに座ると、シャオリエはさりげなく足を組み替える。それを見た彼が眉を寄せると、彼女は実に嬉しそうに笑った。
「呼びつけて悪い、だなんて、ちっとも思ってないだろ?」
「さすが、ルイフォン。よく分かったわね」
「で? なんの用だ?」
「ほら、メイシアさんも座って」
 単刀直入に訊いてくるルイフォンを無視して、シャオリエはメイシアに声をかけた。
 彼女はこちらを見上げ、メイシアと正面から目を合わせた。その瞬間、メイシアの背中を悪寒が走った。アーモンド型の瞳の奥の、かすかな煌めき。敵意とは違う、けれど強い何かを感じた。
 メイシアは一瞬動きを止めたが、立ったままでいるわけにもいかない。座ろうとして、そこでまた戸惑った。
 今の場合、どう考えても、シャオリエの隣ではなくルイフォンの隣に座るのが妥当である。しかし、ルイフォンはソファーの中央にどっかりと座っている。しかも足まで組んでいるのである。
 しばし躊躇したのち、彼女はルイフォンと同じソファーの端に、申し訳程度にちょこんと腰掛けた。
「なるほど。ミンウェイの言っていた通りね」
「質問の答えになってないぞ。って、ミンウェイに電話したのか?」
「質問は一度に、ひとつまで、よ」
 人差し指をぴんと立て、子供をあしらうように、シャオリエが言う。
「イーレオが新しい愛人を作ったと聞けば、気になるのは当然でしょう」
 シャオリエの言葉に、メイシアは引っ掛かりを覚えた。シャオリエにとってイーレオはどんな存在であるのか、疑問に思わずにいられなかった。
「こういうときは、屋敷にいるミンウェイに訊くのが早くて正確。けど、それより本人を見るのが一番、ってことよ」
 メイシアの内心をよそに、シャオリエとルイフォンは話を続ける。
「なんで、俺がこいつを連れてくると分かったんだ?」
「お前が、彼女を特別扱いしているからよ」
「まぁ、こいつは綺麗だからな」
 平然と言ってのけたルイフォンに、しかし、シャオリエは違うとばかりに首を横に振る。
「そんな理由じゃないでしょう。……お前って、イーレオとそっくりだから分かりやすいわ。ふたりとも、綺麗な子がいれば、すぐちょっかい出すけど、惚れ込むことはないのよ。実のところ、顔の美醜はどうでもいいのよね。でも――どうやらお前にとって彼女は特別……」
「どういうことだよ?」
「自分の趣味にはいくらでも労力を惜しまないくせに、仕事は面倒くさがるお前が、今回はイーレオの要求以上のことをしているでしょう。……たとえば、王立銀行に侵入(クラック)したりとか、ね?」
 シャオリエが意地悪く笑う。
 そのとき、扉がノックされた。
「シャオリエ姐さん、お飲み物をお持ちしました」
 スーリンの声だ。
 シャオリエが「ありがとう」と応えると、茶杯を載せた盆を持ってスーリンが入ってきた。彼女は慣れた手つきで給仕をすると、「ごゆっくり」とぺこりと頭を下げて退室する。その際、ルイフォンのほうをちらりと見るのを忘れない。
「色男ね、ルイフォン」
 シャオリエが揶揄を含んだ微笑を浮かべる。
 ルイフォンは聞こえないふりをして、無造作に茶杯を掴み、中身を一気に飲み干した。
 ――その直後だった。
 ルイフォンの頭が、がくっ、と落ちた。彼は小さくうめき、額を抑えてうつむく。
「凄ぇ、眠い……。今、くらっときた」
 彼は昨日からずっと、ほぼ不眠不休だった。両目は腫れぼったく、隈ができている。
 だが――。
 シャオリエがふっと嗤った。
 今までと明らかに雰囲気が変わった。
 ルイフォンが顔色を変えた。
「シャオリエ、てめぇ、今の茶……!」
「だから、何かを口にするときは気を付けなさいと、いつもあれほど教えてあげたでしょう?」
「スーリンも、グルだな……」
「当然」
 シャオリエの口の端が上がる。
「何を入れた?」
「鹿の子草が主成分の調合薬。そのままだと臭いがきついから、無味無臭にするためにいろいろ混ぜたそうよ」
「『そうよ』って、ミンウェイの薬か!? 効能は!?」
「ただの睡眠薬よ。――お前が寝不足だと、ミンウェイが心配していたからね」
「……ミンウェイの指示か?」
 だんだん薬が効いてきたのだろうか。ルイフォンがソファーの背にもたれかかる。
「ミンウェイは何も知らないわよ。それに、あの子が盛るのは毒でしょう?」
「てめぇ……何を企んでいる!?」
 ルイフォンは必死に瞼を開こうとするが、それはままならないようだ。
「人聞きが悪いわね。私はいつだって親切で動いているわよ? ……どう? 薬の具合は? それ、新作なんだって。ほら、うちの子たち、夜の仕事だから、どうしても寝不足になるじゃない? それで睡眠薬を調合してもらったのよ。まずは、嫌なお客で試してから、うちの子たちに勧めようと思っていたんだけど、お前が被験者第一号になっちゃったわね」
 ルイフォンが満足に喋れないのをいいことに、シャオリエはぺらぺらとまくし立てる。
「糞っ……! メイシア! 悪い、ちょっと、待って、いて、くれ……」
 ルイフォンの体が、力なくずるずると倒れていく。
 そして、彼の頭はちょうどメイシアの膝に収まった。
 突然のことに、メイシアは声にならない悲鳴を上げた。はずみで膝の上からルイフォンの頭が落ちそうになり、慌てて手を添える。疲労の色が濃く表れている顔を見ると、心が痛んだ。指先から、あるいは服越しに伝わってくるぬくもりが温かい。
「……あらぁ……。こういう寝方するとは……。さすがイーレオの子ねぇ……」
 シャオリエが声を上げた。彼女は悪びれた様子もなく、感心したように溜め息を漏らす。揶揄すら感じられる言葉に、メイシアの心がざわついた。気づいたときには、彼女らしからぬ非難めいた言葉が飛び出ていた。
「断りもなく薬を盛るなんて、酷いと思います……!」
「あら、お前、ちゃんと喋れたのね? 今までだんまりなんだもの。口がないのかと思ったわ」
 口調も声色も、大きく変わったわけではなかった。けれど明らかに、シャオリエの気配が変わっていた。
「大丈夫でしょう。いくら新作といってもミンウェイの薬だから。ああ、あの子、薬草のエキスパートなのよ。知っていた?」
 メイシアは、このときになってやっと、シャオリエがルイフォンを呼んだ理由を悟った。早まる鼓動を必死に落ち着つかせる。
「……私に……私だけに、お話があるんですね」
「ああ、なるほど、確かに敏い子ね」
「……」
「メイシア、教えておいてあげるわ。貴族(シャトーア)では、御しやすい無口な女に高値がついたかもしれないけど、世間では沈黙は金じゃないのよ」
 シャオリエがじっとメイシアの瞳を捉える。
「そうよ、お前とふたりきりになりたかったのよ。でも、ルイフォンに睡眠をとらせたかったというのも、嘘じゃないわ」
 そう言って、嗤う。
 シャオリエは、自分の座るソファーの脇に置かれた小机の煙草盆から、螺鈿細工の施された煙管を取った。刻み煙草をひとつまみして、火皿に詰める。火入れから火を移し、青貝の細工を煌めかせながら、吸い口を咥えた。
 白い煙が吐き出され、部屋の空気が重くなった。

3.妖なる女主人-2

3.妖なる女主人-2

 シャオリエが再び口を開いたのは、彼女が三口ほど煙を吐き出したあとのことだった。丁寧な手つきで、灰吹きに灰を落とし、煙管を煙草盆に戻す。
「自己紹介から始めましょうか――私は、この娼館の主のシャオリエ。自由民(スーイラ)のシャオリエよ」
 美麗な顔に誇りを込めて、彼女は自分を『自由民(スーイラ)』と言った。
 自由民(スーイラ)と聞いて、メイシアは、さきほどの少年たちを思い出した。シャオリエが彼らと同じだなんて、メイシアにはとても信じられなかった。
貴族(シャトーア)のお嬢ちゃんは、自由民(スーイラ)といったら、その日のひと匙の粥の心配をしているような、貧しい者たちを指すと思っているのかしら?」
 メイシアの表情を読んだかのように、シャオリエが侮蔑の眼差しを向けてきた。
自由民(スーイラ)は文字通り、『自由な民』よ。何にも束縛されない自由な民。貧富の問題じゃないわ。法の加護もなければ首枷もない――大半の者が親の代からの自由民(スーイラ)で、あとは社会から脱落した浮浪者、逃げてきた犯罪者。だから貧しい者が多いのは否定しないけれどね」
 シャオリエは、自分がその中の何に分類されるのかは言わなかった。浮浪者ではないし、知的な物言いからして生まれながらの自由民(スーイラ)とは思えない。逃げてきた犯罪者か、『大半』から漏れた何者か……。
 メイシアの様子を窺いながら「自己紹介の途中だったわね」と、シャオリエが言を継ぐ。
「イーレオとは古い付き合いよ。私も元は鷹刀の一族だったから――もう三十年以上も昔のことだけれどね。そういうわけで、私の立ち位置は、鷹刀の現総帥とは親しいけれど、一族のしがらみを持たない者、というところよ」
「一族の方だったんですか……」
 彼女の持つ油断ならない雰囲気、イーレオを語るときの表情、ルイフォンをからかう態度すら、そのひとことで説明がつく。
 シャオリエが口元に微笑みを浮かべた。はらりと顔にかかる後れ毛が艶めかしい。
「さて、お前の自己紹介を聞きたいわ」
「私は藤咲……」
 そう言いかけて、メイシアは気づく。
 試されているのだ。
 緊張が背を駆け抜けた。――だが、それを隠し、メイシアは、にっこりと笑う。
「私はメイシア。ただのメイシアです。大華王国一の凶賊(ダリジィン)鷹刀一族総帥の愛人です」
 メイシアの答えに、シャオリエは好奇の色合いを浮かべた。
「では、質問よ。お前は自分の身を引き替えに、家族を助けることを鷹刀に申し入れた。でも、それはお前が思いついた案ではない。ホンシュアという女に言われて実行したこと――お前は自分が何者かに踊らされているとは考えなかったの?」
「家を飛び出したときの私は、どんな手段でも家族を助けられるならよいと思いました。今では勿論、軽率であったと思いますが、何度あの局面に立っても私は同じことをしたでしょう」
「ふうん……。お前、継母に何も言わずに出てきたの?」
「はい。凶賊(ダリジィン)に助けを求めに行くなどと申し上げたら、止められてしまいますから」
「そう? 意外に喜んで送り出してくれたかもしれないわよ?」
「え……?」
 メイシアは一瞬、シャオリエの言っている意味が理解できなかった。
 シャオリエのアーモンド型の瞳が、意地悪く歪む。
「敏いお前なら、気づいているんじゃないの? お前が鷹刀に身を売りに行くことによって、誰が得をするのか……」
「シャオリエさん、あなたは継母がホンシュアを雇ったとおっしゃるんですか? あり得ません! 継母は、そんな方ではありません!」
 藤咲家からメイシアがいなくなり、父と異母弟が藤咲家に戻る。跡継ぎを争うこともなくなり、すべては丸く収まる――この図式はメイシアが描いたものだ。傍目には継母に都合よく映ろうとも、決して継母が仕組んだ罠ではない。継母はそんな人ではないのだ。
「ルイフォンが言っていました。ホンシュアは斑目一族の手先だろう、と。だから継母が雇った者ではありません」
 メイシアは毅然と言い放つ。継母の名誉を傷つけられ、憤りを覚えていた。
「――お前の反応から、状況が分かったわ」
 シャオリエは口元を緩ませ、目を伏せた。その視線の先にはルイフォンの寝顔があった。
 はっ、とメイシアは顔色を変えた
「シャオリエさんは、私の知らない『何か』を知っているんですね」
「その質問にはイエスとも、ノーとも答えられないわ。だって、私はお前が何を知っていて、何を知らないのかなんて、分からないもの」
「はぐらかさないでください」
 シャオリエの質問は、メイシアの持つ情報についての確認に他ならなかった。
「ルイフォンが隠しているんですね。私の実家に関することを――おそらく、私を傷つけないように……」
「頭の回転の速い子って素敵よ。ゾクゾクする」
「……そしてあなたは、ルイフォンやイーレオ様が私を厚遇することに対して――苛立っている……」
 シャオリエが元鷹刀一族で、今も一族に親愛の情を寄せているからこそ、部外者のメイシアを快く思っていない。そのことに、メイシアは気づいた。
 メイシアは、静かな目でシャオリエの綺麗な顔を見つめた。
「あら、お嬢ちゃん育ちのくせに挑発的ね? ……本当にミンウェイの言っていた通り、お前、いい目をするわ。そういうの、嫌いじゃないわ」
 シャオリエが声を上げて笑った。
 不安に駆られ、メイシアは胸元に手をやった。しかし、そこにはお守りのペンダントはなかった。ルイフォンに言われて屋敷に置いてきたのだ。
「さて、どうしようかしら?」
 メイシアの緊張をよそに、シャオリエはゆっくりと足を組み替え、テーブルを挟んだメイシアのほうへと、ぐっと体を寄せた。まるで内緒話でもするかのように、シャオリエは密やかに口を開く。
「ルイフォンの、お前への心遣いを無駄にすることになるけれど、お前は聞きたいでしょうし、私は暴露したいわ」
「教えてください。ルイフォンが隠していることを」
 メイシアがそう言うと、シャオリエはアーモンド型の目を光らせ、頷いた。
「これは、あくまでも『トンツァイの情報』に過ぎないわ。それは念頭に置いておいて」
 シャオリエは、そう前置きをした。
「まず、ひとつ目の事実。ホンシュアは、お前の継母の署名入り許可証を持って、藤咲家に入った」
 残酷な事実が、メイシアの耳を打った。
「……これから推測できることは、お前の継母がホンシュアと繋がっているということ。勿論、これだけでは偽造や盗難の可能性も否定できないわ」
 事務的に紡ぎあげられるシャオリエの言葉は、事実と推測とを切り分けてあり、正確だった。
「ふたつ目。ホンシュアと呼ばれる女が最近、斑目の屋敷に出入りしているらしい。みっつ目。昨晩、藤咲家に斑目の使者が来た。開門の様子から、藤咲家側は、あらかじめ来訪を知っていたと推測される。――これが、トンツァイから聞いた情報よ。お前ならどう組み立てる?」
 実家の藤咲家、ホンシュア、斑目一族。
 この三者の色彩が、メイシアの頭の中でぐるぐると回る。
 そして、すべての色が混じりあい、真っ黒な陰謀の闇が作り上げられた。
「実家と、ホンシュアと、斑目一族は繋がっている……ということですね」
 信じたくはなかった。でも、どう考えても、メイシアにはその答えしか見つけることができなかった。
 心臓が締め上げられるように痛む。瞳に涙が盛り上がりそうになるが、そんな貴族(シャトーア)の令嬢めいたことは、もはや自分に許されることではない、とメイシアは必死にこらえた。
「さて? 私は当事者じゃないから真実は知らないわ。ただ、夫と愛息を囚われた女が脅迫されたとすれば、義理の娘が二の次になったとしてもおかしくないわね」
「……」
「誰かのために誰かを犠牲にするのは、恥ずかしいことじゃないわ。――そして、私も、ね?」
 シャオリエの言葉に微妙な色合いが含まれ、メイシアの背に戦慄が走った。
「もともと斑目は鷹刀と対立している。隙あらば、と仕掛けてくる。今回だって、斑目は初めから鷹刀を狙っていたのかもしれない。――けれど、貴族(シャトーア)の娘が凶賊(ダリジィン)を訪れるなんて、あり得ない蛮勇を犯さなければ、鷹刀は平和なままだった」
 獲物を狙う、獣の目。アーモンド型の瞳には剣呑な光が宿っていた。
「私は、お前が嫌いではないわ。むしろ好ましいと思っている。……けれど、これからきっと、鷹刀は罠に落ちる――お前のせいで」
 シャオリエの視線がまっすぐにメイシアを射抜いた。
「……だから、その前に。私はお前を排除する」
 しっとりとした心地のよい音質。しかし、完全に感情を取り払った声であった。
 個人的な恨みではなく、ただ鷹刀一族の行く末のためだけに、シャオリエはそう宣告した。

3.妖なる女主人-3

3.妖なる女主人-3

 シャオリエの手には刃物のひとつもなく、昨日、屋敷の門衛に刀を向けられたときのような直接的な危険はないはずだった。なのに、確実に殺される、とメイシアは直感した。
 シャオリエは、うっすらと笑みを浮かべ、目線をテーブルに落とした。
 テーブルの上には、手つかずのままの茶杯が残されている。
 メイシアは顔色を変えた。
 ルイフォンが睡眠薬で眠ってしまったため、この茶杯に口をつける機会を失ってしまっていた。しかし、もし先に彼女が飲んでいたら……?
 目の前にある茶杯の中身は、睡眠薬ではないだろう。
「……毒杯」
 メイシアの呟きに、シャオリエは口角を上げた。
 おもむろに煙管を手に取り、シャオリエは煙を吹かした。質量を感じるような白い煙が漂う。
「お前が鷹刀にとって疫病神だということは、火を見るよりも明らかなのよ。でも、総帥のイーレオが決めたことだから、一族は誰も逆らうことはできない。けれど、私は違う。初めに言った通り、一族のしがらみを持たない者だから」
「どうして、そこまで鷹刀一族が大切なのですか。――あなたは、鷹刀を出た人なのに……」
「私が大切なのは一族じゃなくて、イーレオと彼が愛するすべてのものよ」
 シャオリエは、ふっと笑った。それは愛しいものを見つめる、優しい顔だった。
「イーレオは優しすぎる子だから、すべてを救いたいと願ってしまうのよ。だから、父親を殺して、自分が総帥になった」
「え……?」
 メイシアは自分の耳を疑った。イーレオの手が、血族の血に染まっているとは――。
「やっぱり知らなかったのね? イーレオは三十年前に、自分の父を殺して総帥位に就いたのよ。先代の鷹刀の総帥が、あまりにも非道を繰り返していたから……。まぁ、凶賊(ダリジィン)の総帥が善人なわけがないけれどね」
 シャオリエは横を向いて、ふぅっと煙を吐く。その横顔は、相変わらず綺麗ではあったけれど、年輪のような皺が刻まれているという錯覚を覚えた。
「彼は、自分が背負える以上の重荷を背負おうとする。だから、私のことまで彼が背負わなくてすむように、私は一族を離れて、外から彼を守ることにしたのよ」
 ふぅっと、白い煙が吐き出される。ため息のような、重い煙。
「お前のことだって、そうよ。お前の事情を知ってしまった以上、イーレオは全力でお前の頼みを叶えようとするでしょう。……だから私は彼の荷物を軽くする」
 シャオリエは、螺鈿の煙管を優雅に煙草盆に戻した。そして、メイシアをじっと見据える。メイシアは、びくり、と体を震わせた。
「私も鬼ではないわ。お前のことは嫌いじゃないしね。……だから、ひとつ提案しましょう。お前が自分自身を助ける方策を――」
「……なんでしょうか」
「お前はさっき、実家とホンシュアと斑目は手を組んだと判断したわね。ということは、お前の家族は、じきに斑目から解放される可能性が高い。だったら、もうお前は鷹刀を頼る必要はないのよ。鷹刀を出ていけばいい」
「え……?」
 言われてみれば、という気もするが……本当にそうだろうか。そんな楽観視できるような事態なのだろうか。メイシアは訝しげにシャオリエを見る。
「もちろん、私だって斑目がすんなりと、お前の家族を解放するとは思わないわ。そして、お前も、鷹刀を出て実家に戻ったところで、歓迎されるとも思えない。本当にお前の実家がお前を売ったのなら、お前は厄介払いされたはずの存在なのだからね」
 実家に売られた、そう、はっきりと言われると、やはり心が痛む。口の中に苦いものを感じる。
「だから、私はお前の後ろ盾になる人間を紹介するわ」
「後ろ盾……?」
 シャオリエの提案は、メイシアが予測もしないものだった。
「今回の件に関わりながらも、すっかり忘れ去られた勢力があるでしょう? 貴族(シャトーア)の厳月家よ。もとはといえば、厳月家が斑目を使って、お前の実家に女王陛下の婚礼衣装担当家の辞退を迫ったのが発端。そして、厳月家はどちらかというと、お前を三男の嫁にすることのほうを狙っていた」
「え、ええ……そうだったみたいです、ね」
「私は厳月家の三男を知っているわ。うちの娼館の常連よ」
 思わぬところで、思わぬ人物が浮かび上がった。――確かに、スーリンが言っていた。この店に来るお客は貴族(シャトーア)も多い、と。
「正直に言って、いかにも甘やかされて育った貴族(シャトーア)のお坊ちゃん、というタイプね。いい男とは言えないわ。でも、お前が彼と婚姻を結ぶ、と言えば、厳月家は全面的にお前をバックアップするでしょう」
 シャオリエが、ぐっとメイシアに迫ってくる。
「……どう? このまま鷹刀にいてイーレオの愛人、ゆくゆくは、どこの馬の骨とも知らない男を相手にする娼婦になるよりも、たとえ気に食わない相手でも一人の男を夫として相手するほうが、よいと思わない?」
 アーモンド型の瞳がメイシアを映す。
 めまぐるしく変わるシャオリエの話。次々に塗り替えられる複雑な勢力図が、メイシアを翻弄する。
 そのとき、ルイフォンが軽く寝返りを打った。それは、まるで、何かを訴えかけているかのようであった。
 彼女は、彼の癖のある前髪を優しく梳いた。そして、アーモンド型の瞳を見返した。
「シャオリエさん、私はもう、貴族(シャトーア)の藤咲メイシアではないんです。ただのメイシアで、イーレオ様の愛人なんです」
「私の提案を蹴るというのね。そう、残念ね。……じゃあ、やっぱりお前には、その茶杯を飲んでもらうしかないわ」
 シャオリエの視線がテーブルに落ちた。メイシアも、それを追う。
「鷹刀の人間だと言うのなら、一族に害を及ぼす者の排除も、できるはずよ」
 シャオリエが嗤う。
 メイシアは茶杯をじっと見つめた。その中に注がれている液体が、部屋の風景をセピア色に映している。
 そろそろと、テーブルに手を伸ばした。彼女の体が動いたために苦しい体勢になったのか、膝の上のルイフォンが小さくうめく。ずっと彼の頭を載せたままなので、そろそろ膝の感覚が怪しい。誤って彼の頭を落とさぬよう、気遣いながら、メイシアは茶杯を掲げた。
 そして、それを一気に――。
「メイシア、やめろ!」
 鋭い声が、あたりを貫いた。
 メイシアは、茶杯を手にした指に反動を感じた。
 弾かれた茶杯が、中の液体を宙に舞わせながら、空を飛ぶ。
 ぱぁん……。
 高い音が響き、陶器の破片が一面に飛び散った。
「え……?」
 メイシアが状況を理解する前に、黒い影がテーブルの上を抜けた。
 シャオリエの喉元で銀色の刃が光る。
「ルイフォン……?」
 メイシアが彼の名を呟く。
「シャオリエ、返答次第では、俺はてめぇを殺すからな」
 眠っていたはずのルイフォンが、憤怒の形相でシャオリエを睨みつけていた。

4.鳥籠の在り処-1

4.鳥籠の在り処-1

「ルイフォン、どうして……?」
 メイシアは状況が分からず、ただ唖然とルイフォンを見つめていた。そんな彼女に、ルイフォンが、表情を緩め、ばつが悪そうな笑みを見せる。
「心配かけて悪かった。実は、あの茶杯には、睡眠薬なんか入っていなかったんだよ」
「え?」
「この部屋に入る前、スーリンがメモをくれた。『シャオリエ姐さんから、ルイフォンに睡眠薬を盛るように言われたけど、入れないから。あとはルイフォンに任せる』ってな」
 きょとんとするメイシアの脳裏に、スーリンのくるくるのポニーテールが蘇る。ルイフォンに冷たい態度を取られた彼女は、別れ際に『シフト表』と言って、ルイフォンに紙片を渡していた。あれはスーリンからのメッセージだったのだ。
「それより、メイシア! なんで、毒なんか飲むんだよ!」
 ルイフォンが鋭い視線をこちらに向け、怒気を孕んだ言葉でメイシアを貫いた。癖のある前髪が、彼の深い憤りを具現化したかのように乱れていた。
「すみません……。そうすれば、シャオリエさんに、鷹刀にいることを認めてもらえると思ったので……」
「だからって……!」
 ルイフォンのまっすぐな瞳に、メイシアは次の言葉を言うのをためらった。……しかし、言わないわけにもいかない。
「ルイフォン……、ごめんなさい。これは……、賭けだったんです」
「賭け……?」
「……絶対に自信があったわけではありませんが……たぶん、あれは毒杯ではなかったと思うんです。いえ、あの、初めは毒だと信じていたんですけど……」
「な……!?」
 ルイフォンが口をぱくぱくとさせるが、言葉にはならない。そこに、シャオリエが追い打ちをかけた。
「あらぁ、やっぱり、ばれていたのね。そうよ、あれは、ただのお茶よ」
「な……んだ、と……!」
 この感情の矛先はどこに向ければいいのだろう、とばかりに、ルイフォンが、わなわなと体を震わせる。そんな彼にナイフを当てられたままのシャオリエが、口角を上げた。
「私はひとことも、毒だなんて言っていないわよ。ただ目線を動かしただけ。メイシアは変に鋭いから、それで毒と思い込ませるのは簡単だったわ」
 そう得意げに言ったが、すぐに不服そうな顔になって、メイシアを見やった。
「でも、ばれたのよね。どうして分かったのかしら?」
「出された茶杯を飲むタイミングは、私に委ねられていたから、です。出されてすぐに口を付けたかもしれませんし、話の途中でいただいたかもしれない。もし、シャオリエさんが本当に私を毒殺したいのなら、どのタイミングで飲んでも構わないわけですが、その場合はこれが毒杯であることを匂わさず、私が飲むまで黙っているはずなのです。――だから、シャオリエさんには私を本気で殺す意思はないし、この茶杯には毒は入っていない、そう思ったのです」
 ほぅ、とシャオリエから感嘆のため息が漏れた。
「なるほどね。お前の思考パターンは面白いわ。非常に論理的。たいていの人間は、まず相手を疑うことから嘘を見抜くけど、お前は状況の矛盾から嘘を見抜くのね」
「……毒杯と言う話は、私が初めに口を付けなかったから、途中で思いついた嘘なのではないですか?」
 メイシアの言葉に、シャオリエは口を半開きにしたまま動きを止めた。
「あらぁ……。お前、本当に……怖いくらいに敏いわね。……そうよ、その通りよ。私が『お前を排除する』と言ったら、お前は『殺される』という顔をしたから、つい、調子に乗っちゃって、ね?」
「じゃあ、なんだよ? 俺は何も入っていない茶杯に振り回された道化かよ……!」
 ルイフォンは悪態をつくと、凶器を懐にしまい、金色の鈴を煌めかせながら、ひらりとメイシアの隣の席に舞い戻った。
 ナイフから解放されたシャオリエは、ふぅ、と息をついた。もっとも、ちっとも脅えていたようには見えなかったので、それはただのポーズだろう。
「でも、私がメイシアを排除したい気持ちに変わりはないわよ」
「まだ言うのかよ」
「勘違いしないで。私はメイシアを『殺害』したいわけじゃないわ。『排除』よ。鷹刀から出ていって、厳月家の三男と大々的に婚約発表でもしてほしいわ」
「なんだよそれ!?」
 ルイフォンが声色に剣呑な響きを載せる。
 一方、メイシアは、しばし押し黙って、シャオリエの思考を読み解いた。
「……私が助けを求めた先は鷹刀一族ではなく、厳月家だった、ということにするわけですか?」
「さすが。察しがいいわね」
 シャオリエが喜色をあげた。
「そう、お前は、鷹刀とは何の縁もなかったことにするの」
 じっとこちらを見据えるシャオリエのアーモンド型の瞳に、メイシアは吸い込まれそうになる。
「一族のために毒杯を飲む勇気があるのなら、一族のために一族を離れる決意だってできるはずよ」
 イーレオのために一族を離れたシャオリエの言葉には、抗いがたい力強さが宿り、メイシアの首を縦に振らせようとする。
「シャオリエ! 好き勝手言うな」
 ルイフォンが怒声を飛ばした。
「あら、ルイフォンだって、今朝、『メイシアは外に出すべき』と、イーレオに進言したそうじゃない?」
「あれは、メイシアが鷹刀と斑目の抗争に巻き込まれただけの、被害者だと思ったからだ。……って、そんなことまで筒抜けなのか」
「私に隠しごとができると思って?」
「糞っ……! 本当に、やな奴だな」
 メイシアは、そんなふたりのやり取りを、どこか遠くから眺めているような気がしていた。視界にうっすらと靄がかかっており、どこか現実味がない。
 思えば、今まで生きてきて、自分で決めなければならないことなど、ひとつもなかった気がする。綺麗な箱庭の世界で、良くも悪くも迷うことなく、与えられたものだけで満足をしていた。否、与えられたもの以外の存在に、気づきすらしなかったのだ。
 昨日、鷹刀の屋敷の高い外壁を見上げながら、これから自由のない鳥籠に入るのだと思っていた。けれど今、自分は本当に籠の中にいるのだろうか。今までの自分は、本当に籠の外にいたのだろうか。
 鳥籠は――どこにあるのだろう。
「おい!」
 不意に、ルイフォンの鋭い声がメイシアの思考を破った。
「出ていくことはないぞ。お前の居場所は、鷹刀だ」
「でも、イーレオ様が、私が招く厄介事を背負ってしまいます」
「親父じゃなくて、俺が背負えばいいだろ」
 獲物を狙う猫の目が、まっすぐにメイシアを射る。
 そして、不敵に笑う。
「――それとも、俺には無理だと言うのか?」
「ルイフォン……」
 実家の藤咲家にメイシアの居場所はなかった。常に、どこか継母や異母弟への遠慮があり、自分は異端者にしか思えなかった。
 胸が熱い。
「そんな言い方をされたら、私は鷹刀に残りたくなってしまいます」
 はらり、と涙がこぼれた。
 それを受け止めるかのように、ルイフォンがメイシアの肩を抱き寄せた。
「鷹刀にいればいいだろ。何かあっても、俺がなんとかするから」
 彼は、彼女の長い黒髪をそっと撫でる。心配は要らない、安心していい、そんな声が聞こえた気がした。
「メイシア、返事しろ。鷹刀を出ていかないな?」
「……はい」
 それを受けて、ルイフォンがシャオリエに向けて、にたり、と笑った。
「と、いうことだ。シャオリエ、残念だったな」
「あらぁ、仕方ないわね。……でも、面白いものを見せてもらったから、いいとしましょう」
 シャオリエは満足そうに笑った。
「ひよっ子に何ができるか……。楽しみにしているわ」

4.鳥籠の在り処-2

4.鳥籠の在り処-2

「シャオリエ姐さん、ルイフォンたちを案内してきました」
 スーリンが部屋に入ってきて、そう告げた。シャオリエは煙管を吹かせながら「ありがとう」と応える。寝不足で顔色の悪いルイフォンに仮眠を取らせるべく、シャオリエは彼を二階の部屋に追いやったのだった。
 彼はすぐにも出かけようとしていたのだが、シャオリエの眼力とメイシアの嘆願がそれを許さなかった。シャオリエがメイシアに付き添いを命じると、彼女が喜んで引き受けたので、しばらくは彼もおとなしく休んでいるだろう。
「結局、何を企んでいたんですか?」
 スーリンがくるくるのポニーテールを揺らしながら、小首をかしげた。
「メイシアさんに内緒で、ルイフォンに『睡眠薬入りのお茶を出すように言われたけど、出さない。あとはルイフォンに任せる』と伝えろ――だ、なんて」
「ああ、その話ね」
 シャオリエは、ふう、と煙を吐き、口角を上げた。
「あの子、呆れるくらい大根役者ね……。笑いをこらえるのに苦労したわ」
「……」
「狸寝入りと本当に寝ているのとでは呼吸が違うわ。私が気づかないはずないじゃない。だいたい、いくらミンウェイの薬でも、飲んだ途端に効果が表れるわけないじゃないの」
「……姐さん、ルイフォンに突っ込みたかったのに、突っ込めなかったから、私で憂さ晴らししていますね?」
 スーリンが、げんなりとした顔を見せた。彼女の主人は、いつだってマイペースで、自己流の信念に基づいた、はた迷惑な人なのだ。興に乗らなければ、まともな返事すら返ってこない。
 シャオリエは煙管を煙草盆に戻し、自分の目の前に残された手つかずの茶杯を手にした。セピア色の中身を揺らしながら、言う。
「あの子がどういう反応を示すか、見てみたかったのよ」
 シャオリエは初めから、どの茶杯にも何も入れるつもりはなかった。ただ、ルイフォンに、メイシアとのやり取りを黙って聞かせてみたかったのだ。
 イーレオの負担を軽くする方法は、何も『排除』だけではない。『分担』もあるのだ。
 それに、『今更』かもしれないのだ。――既に鷹刀一族は、斑目一族の罠に落ちている可能性がある。
 なぜなら、ホンシュアがしたことは『メイシアを鷹刀の屋敷に向かうように仕向けたこと』だけであり、その後、鷹刀がどう行動するかはホンシュアには制御のしようがないのだ。だったら、メイシアが屋敷を訪れた時点で、もう目的は達成されている、という可能性すらある。
 シャオリエは茶杯の中身をあおった。
 そして――。
「ぷっ……」
 ――吐きだした。
「スーリン……。この茶杯に何を入れた……?」
「お砂糖をたっぷりと。だって、シャオリエ姐さん、ルイフォンに何か仕掛けようと企んでいるんだもの。少しくらい仕返しです」
 ルイフォンに言った通り、出されたものを警戒さずに口にするのは危険なことだ、と改めてシャオリエは思った。
「お前は、たいした役者だと思うわ」
「だって私は女優の卵でしたもん」
 愛らしい顔に、してやったりという笑顔を浮かべ、スーリンはくるくるの巻き毛を揺らした。


 ルイフォンは勢いよくベッドに転がり、両腕を伸ばした。それから、編まれた髪を背の下から引きずり出して、横に投げ出す。金色の鈴が、音もなく、きらりと煌めいた。
「ふわぁ……」
 伸びとも、ため息とも、あくびとも判別できない息が、彼の口から漏れる。
 初めは、休息を取る必要などない、と不平を鳴らしていた彼だが、シャオリエがメイシアに見張り兼付き添いを命じたあたりで観念した。部屋まで案内してくれたスーリンが付き添いたいのではないか、とメイシアは疑念を抱いたのであるが、交代を申し出る前に、彼女はエプロンを翻し、退室してしまった。
 メイシアはベッドの傍らの丸椅子から、彼の顔を覗き込む。くっきりと隈の表れた目は落ちくぼみ、彼の疲労の程度を如実に語っていた。
「いろいろと、ありがとうございました」
「うん? 俺は別に、お前に礼を言われるようなことは、やってないぜ?」
「そんなこと、ありません!」
 思わず、自分でも信じられないような大声が出てしまい、メイシアは恥ずかしくなってうつむいた。
「え、ええと……。寝ないで調べてくださったり、情報屋のトンツァイさんに依頼してくださったり……」
「調査は諜報担当の俺の仕事だぜ?」
 矜持を見せるかのようなルイフォン。
 けれど、シャオリエは言っていた。彼はイーレオの要求以上の仕事をしている、と。
「――それに、鷹刀にいていいと言ってくださったのが、何よりも嬉しかっ……」
 再び、涙が、こぼれ落ちそうになる。
 尻窄みに言葉を詰まらせたメイシアに、横になっていたルイフォンが、ひょいと半身を起こした。そして、まっすぐに彼女に向けた目を猫のように細め、不敵に笑った。
「俺がお前にいてほしいと思ったから、鷹刀にいろ、と言っただけだ。お前に感謝される筋合いはない」
「それでも――。私は藤咲の家からは、見捨てられた身で……」
 社会制度的なことを言えば、メイシアを藤咲家から追放することができるのは、当主の父だけである。けれど、そういう問題ではないのだ。斑目一族に売ってもいいと継母に思われた、という事実は、彼女からすれば、家族として拒絶された、と同義なのだ。
 夫と息子を囚われている継母からすれば、苦渋の選択だったかもしれない。それでもやはり、メイシアは継母のことを信じていたのだ……。
「お前は、難しく考え過ぎだ」
 ルイフォンが、メイシアの頭をくしゃりと撫でた。掌の温度と質感が伝わってきて、彼の存在が、彼女の中に刻み込まれていくようだった。
「もっと直感的に生きたほうがいい。お前は鷹刀を気に入っただろ? だったら、鷹刀にいればいい。俺も親父も、お前を気に入っているし、何も問題はない。好きなものは好き。それでいいじゃないか?」
 彼の言葉が優しすぎて、切ない。
「……ルイフォン、お願いがあります」
「ん? なんだ?」
「もう、隠し事をしないでください。嘘も、駄目です。私は、あなたの言うことを、なんでも信じてしまいそうですから」
「お前の実家のこと、か」
「はい」
「……黙っていて悪かったな」
「私を気遣ってくださった気持ちは、嬉しかったです」
 メイシアは微笑む。泣き出したい心を抑え、精一杯の感謝を込めて。
 それは、真紅の大輪の薔薇が花開くような艶やかさではなく、薄紅色の桜がひらひらと舞い散るような儚さだった。
 息を呑み、見惚れたようにルイフォンが押し黙る。しばしののち、彼はふっと表情を緩めると、やにわに口角を上げた。
「あぁ、言い忘れてた。膝枕、ありがとな」
 そう言われて、メイシアは、はたと気づいた。睡眠薬というのが嘘だったということは――。
「あああ、あの、私の膝の上に倒れこんだのは……」
「もちろん、狙ってのことだ」
 ルイフォンはきっぱりと言い切った。
「え? ええええええっと……!?」
 メイシアとしては、かなり、いや、とても恥ずかしい行為だったのだ。今思い出しても、顔から火が出そうである。
「どどどどどうして、そんなことを……」
「そりゃ、そうしたかったからだ」
「そそそそそうしたい、って……?」
 慌てふためくメイシアを見て、いたずら心が刺激されたのか、ルイフォンが大真面目な顔で彼女にぐっと迫った。
「仕事上がりの男が、女の膝を枕にしない道理があるか?」
「え? あの? そういうものなんですか?」
 メイシアは狼狽して、冷静な判断力を完全に失っていた。顔を真っ赤にした彼女の間抜けな質問に、ルイフォンは噴き出すのをこらえながら深々とうなずいた。
「そうなんだ」
「はい、分かりました」
「じゃ、ここに乗ってくれ」
 きょとんとするメイシアに向かって、ベッドをぽんぽんと叩いて示す。
「え?」
「俺、今から寝るから、膝枕よろしく」
「え? え、ええええ?」
「お前は、俺の付き添いだろ?」
 メイシアに反論の隙を与えず、ルイフォンは強引に押し切る。彼女は何か騙されているような気がしてならなかったのだが、彼のご機嫌な顔を見ると、抗うことができなかった。
 膝の上に頭を載せたルイフォンが、目を閉じて、猫が喉を鳴らしているときのような満足気な表情を見せる。ほどなくして、彼は嬉しそうな微笑みを浮かべたまま、規則的な寝息をたて始めた。印象の強い言動のために、起きているときには忘れられがちな端正な顔立ちは、やすらぎに満ちていた。
 メイシアは無意識に、彼の髪を梳く。柔らかな癖毛が、滑らかに指の間を抜けていった。
 彼の眠りを守ることに不思議な心地よさを感じ、彼女はこの時間が長く続けばよいと願った。


「ルイフォンは、まだいるか!」
 勢いよく店に飛び込んできたトンツァイに、ワイングラスを磨いていたスーリンは、思わず手を滑らせそうになった。耳を打った大声に非難を込めて、彼女は頬を膨らませる。
「どうしたんですか?」
「今、新しい情報が入った! 至急、ルイフォンに伝えたい」
 スーリンの表情が、さっと切り替わる。「すぐ呼んできます」と言い放ち、次の瞬間には彼女は走り出していた。
 残されたトンツァイは、手近にあった椅子に勝手に座り、小刻みに膝を揺らす。
「ルイフォンのやつ、携帯端末の電源を切りやがって……」
 ぶつぶつと口の中で文句をいう。
 彼の手には、すぐに伝えるべき情報があった。
 すなわち――。

 ――藤咲メイシアの異母弟、藤咲ハオリュウが解放され、藤咲の屋敷に戻された……。


~ 第二章 了 ~

幕間 砂の追憶

幕間 砂の追憶

 私の母は、とても美しく、聡明な人だった。
 つややかに光り輝く黒絹の髪。人形細工師の御業を思わせる麗しの顔貌。儚さすら感じられる嫋やかなる肢体。
 彼女が鍵盤に指を滑らせれば子犬の跳ねる光景が浮かび、絵筆を振るえば画布から小鳥のさえずりが聞こえた。詩を詠めば叡知と機知に富んだ世界に聞き手を誘い、馬の背にまたがれば人馬一体となって風と化す。
 稀有なる佳人であり才媛――。
 彼女のまわりだけ空気が違うのが、子供だった私にも、はっきりと感じられた。
 あらゆる教養と美貌を備えた社交界の華は、口下手で穏やかな夫をそっと盛り立てるだけの機転と話術にも長けていた。
 しかし、それが不幸の始まりだった。
 華やかすぎる彼女に対し、夫である私の父は凡庸すぎた。ふたりの釣り合いが取れていたのは、家柄だけ。彼女の助力は彼にとって重荷でしかなかった。――勿論、そんな大人の事情を私が理解したのは、もっとずっとあとのことだけれど。


 母が藤咲の屋敷からいなくなったあと、私は庭の端で空を見上げるのが日課となった。
 白い雲がすうっと流れながら、自在に形を変えていくのが不思議でならなかった。
 誰の目を気にすることなく、木陰にひとり座っているのは、揺り籠の中みたい心地がよかった。
 私の心も、自由に空を飛んでいたのだ……。


 その日は、とても風が強かった。
 突然、私の頭上のすれすれを白い雲が通り抜けた。
 驚いたのは一瞬だけで、すぐに芝に落ちた雲の正体を見つけた。
 白い帽子だった。
「きゃあああ! 待ってぇ!」
 少し離れたところから、甲高い女性の声が響いた。帽子の持ち主だろう。
 庭を巡る石畳に、見知らぬ人の姿が見えた。
 そういえば、秘書の妹が事務見習いに来ると、父が言っていたことを思い出す。
 私は帽子を拾い上げ、それを子供なりに高く掲げた。彼女は満面の笑みを浮かべ、走ってくる。
 ――と、思ったら、盛大に転んだ。
 私と帽子に気をとられ、足元の段差に気づかなかったのだ。
「あああ! やだ! 恥ずかしい……」
 顔を真っ赤にして、彼女は慌てて立ち上がる。擦りむいた膝がスカートから覗いていた。
「だ、だいじょう、ぶ……ですか……?」
 彼女に駆け寄った私は、おっかなびっくり、そう尋ねた。
「ありがとう! 私は大丈夫!」
 彼女は満面の笑顔で応える。それから眉を曇らせ、私の顔を覗き込んだ。
「あなた、メイシアちゃんよね? あなたこそ、大丈夫?」
 その言葉に、私はきょとんとする。
「目に、砂が入っちゃった?」
「え……?」
「だって、目が真っ赤で、涙ぽろぽろよ?」
 そのあと、私は自分が何を言ったのか、よく覚えていない。
 ただ、彼女がバックから「いいものがあるの」とクッキーを出してくれたのは覚えている。
 見るからに手作りのそれは、彼女が転んだ拍子に崩れてしまったようだった。得意げだった彼女の顔が「ああ!」という悲愴な声とともに一転したのが、あまりにも衝撃的で、私は思わず笑ってしまった――。今から考えれば、とても失礼なことだったのだけど……。


 さくさくとしたクッキーは、口の中でほろほろと甘く溶けた。
 砂のようにさらさらの食感なので、『(サブレー)』と呼ばれるのだと、彼女が教えてくれた。
 そのときのサブレーの味は、今でも忘れない。


 やがて、父が彼女と再婚した。
 貴族(シャトーア)の奥方となったのち、彼女が厨房に入ることは決して許されなかった。
 だから、それは、私の思い出の中にだけある、懐かしい味。
 脆く儚い砂の記憶――。

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第二章 華やぎの街にて

『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第一部 落花流水  第三章 策謀の渦の中へ https://slib.net/110763

                      ――――に、続きます。

di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~  第一部  第二章 華やぎの街にて

「家族を助けてくだされば、この身を捧げます」 桜降る、とある春の日。 凶賊の総帥であるルイフォンの父のもとに、貴族の少女メイシアが訪ねてきた。 凶賊でありながら、刀を振るうより『情報』を武器とするほうが得意の、クラッカー(ハッカー)ルイフォン。 そんな彼の前に立ちふさがる、死んだはずのかつての血族。 やがて、彼は知ることになる。 天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』によって仕組まれたものであると。 出逢いと信頼、裏切りと決断。 『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、絡み合う思いが、人の絆と罪を紡ぐ――。 近現代の東洋、架空の王国を舞台に繰り広げられる運命のボーイミーツガール――権謀渦巻くSFアクション・ファンタジー。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-09

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  1. 〈第一章あらすじ&登場人物紹介〉
  2. 1.猫の世界と妙なる小鳥-1
  3. 1.猫の世界と妙なる小鳥-2
  4. 1.猫の世界と妙なる小鳥-3
  5. 2.灰色の通りで
  6. 3.妖なる女主人-1
  7. 3.妖なる女主人-2
  8. 3.妖なる女主人-3
  9. 4.鳥籠の在り処-1
  10. 4.鳥籠の在り処-2
  11. 幕間 砂の追憶