原マキの白い、弁当箱の中のチーズケーキたち

原マキの白い、弁当箱の中のチーズケーキたち

「チーズケーキのような、」を読んで頂いた方がもしいるのであれば、☟☟☟のところまでスキップしてください。

原マキが、僕の前の席で背筋をピン、と伸ばして座っている。劇場の客席のように席が段々に配置された講義室で、僕らは化学の授業を受けていた。
が、
クラスメイト達はそんなモノは全く聞かず、それぞれがゲームなり漫画なりに夢中だった。それに話し声が充満しているせいで、化学教師の声だってまともに聞こえない。

そんなクラスの中に原マキは、三か月前に何の前触れもなく、どこからか転校してきた。

HRで僕らの担任が黒板の前に立った原マキに自己紹介を促すと、原マキは「原マキです」
とだけ自分が原マキであるという事を確信した口調で言って所定の席に着いた。黒板の中央には整った字で書かれた「原マキ」という名前だけがポツンと残された。

その時、クラスメイトの多くは原マキの整った顔立ちに注意を向けていた。けれども僕は原マキの顔を三か月経った今でも全くもって覚えていない。
なぜなら原マキの頭についている竜巻のようなカールがあまりにもキュートで魅力的すぎたからだ。原マキが僕の机の横を通り、僕に後ろ姿を見せたまさにその瞬間、僕の様々な物事に対する様々な関心は全て、その竜巻によって根こそぎ奪われてしまったのだ。後には荒れ果てた地面と一軒の家と気が弱そうな木しか残らなかった。その光景はとても人が生きていくための場所には見えなかった。

その日から、僕の目はつねに原マキの竜巻みたいな形をしたカールを追い続けていた。

それにつれて僕はクラスメートたちとほとんど話さなくなっていった。

それにはいくつか理由があったのだが、カール主義的な僕と原マキのことをカワイイと言う彼らとの話が全くと言ってもいいほど噛み合わなくなった、というのが一つの大きな原因だった。

とにかく、僕は何を言われてもあやふやで、おざなりな返事をした。周りのクラスメイトは、僕が原マキに一目惚れしたなどと噂していたがそんなことはどうでもよかった。僕が好きなのは原マキ本体ではなく、原マキの頭に生えている生き生きとした宿り木のようなカールだったからだ。他人から見てそこにどれほどの違いがあるというのだろう。

という訳で、その時から僕は最低限のモラルを持ちながら原マキの後頭部を出来る限り長い間眺め続けている。といっても、原マキとの直接的な接点は一切ない。
 
原マキの円熟した狐の滑らかな毛並みのように嫋やかなツインテールはクルクルとカールして左右の耳の少し上あたりからばね状に垂れ下がっている。
教室の窓が開いて風が吹き込んだり、原マキと廊下ですれ違ったりする時、原マキはシトラスのような心地よい香りを振りまいた。そして、原マキのカールはリン、と必ず揺れた。
 
原マキのその一対のカールはもはや彼女自身だった。
 


化学教師が原マキの前の席で寝ている男子生徒を起こしに歩いてきた。化学教師は明らかに経年劣化によって黄ばんだ白衣を毎日のように洗わずに着まわしている三十代くらいの男で、常に何かを考えているという感じでふわりとしていた。尖った顎、短く切りそろえた髪、つり目。
 
そんな化学教師がある男子生徒を起こしにこちらまで歩いてきた。そして、その男子生徒の頭を指示棒でトントンと叩いた。木と頭の触れ合う少し高い音がした。指示棒を持つ化学教師の骨張った右手が嫌に強調されて見えた。
おもむろに目覚めた男子生徒がなおも悪夢にうなされているといった感じで起き上がった。男子生徒は頭の周りを飛び回っている蜂のような眩暈を追い払うために二、三回首を振り、頭を掻いた。
 
化学教師はその様子を最後まで眺めてから教卓の方へと戻っていった。
化学教師が教壇上に戻るのとほぼ入れ替わりで原マキが机に突っ伏した。睡魔への抵抗の跡がこれっぽちも見当たらない素直で実直な寝入り方だった。

原マキの「寝よう!」という決意から実際に机に突っ伏すまでは全くと言っていいほどタイムラグがないように見えた。机に突っ伏す瞬間、原マキのカールは一瞬ブランコが最高到達点に到達したかのようにふわりと浮き、その後は原マキの背中のセーラー服の上で発酵中のクロワッサン生地のようにだらしなく横になっていた。
すでに、原マキは眠りに入り込んでしまっていた。指示棒でトントンと叩いたくらいでは起こせない位には深く。
 
その原マキが眠り込んでいる姿をボンヤリと眺めてみる。原マキはみんなが各々楽しく喋っている講義室の中で一人、机に突っ伏して寝ていた。僕はそんな原マキに生えているカールをただ黙って眺め続けていた。
原マキの頭は前衛的な芸術家が製作したオブジェのように小ぶりで完璧にまあるく、マリンバ専用のステッキみたいに茶髪に覆われていた。もちろん一対のカールもその茶髪から派生するかのようにして、ある種の羊や山羊そしてアラビアンオリックスの立派な角のように自然に原マキの頭の上に生えていた。
 
化学教師は相変わらず授業を続けていた。授業は分子構造についてだった。堅実でまじめな授業だったが、いささか退屈で、十代の少年少女にとって分子構造についての話は立派に何かの大人になっている自分の姿と同じくらい現実味がない話だった。
 
とにかく、授業を聞いている者はいなかった。
そして、原マキは気持ちよさそうに寝息を立てていた。
授業と生徒たちの話し声に被せるようにして原マキの穏やかな寝息がコンスタントに鳴り続けていた。

化学教師は教壇の上で独り言のように講義をしながら、分子構造のプラモデルを使って何かの分子構造を再現しようとしていた。炭素だろうか?純銅だろうか?
 
僕から見て教室内で机に突っ伏しているのは原マキ一人だけだった。他の人はそれぞれのグループに分かれてガヤガヤとトークをしている。
 
化学教師の全ての目線と関心は分子構造のプラモデルの中へと注がれていた。
 
僕は原マキの頭をまだ眺め続けていた。原マキの頭の中で彼女に夢を見せている脳みそのことを考えていた。
 
原マキの脳みそ。
 
それは通常のようなウニの色や白子の塊のような形状をしていないのかもしれない。
その頭の中にはミョウバンの結晶のような透明な砂が詰まっている、という非現実的な妄想もこの頭の前でならば許されるような気がした。
 
原マキは今きっと、とても美しく清潔な夢を見ているに違いない。高原にある蜜蜂の巣の中で働き蜂によって集められた花粉が降り積もり作られるキラキラした蜂蜜についてとか、その蜂蜜を保存する綺麗で清潔に磨き上げられた瓶についてとか。
 
原マキは僕の隣の席でスゥースゥーと寝息を立て、やっぱり教室内で僕から見て一人だけ気持ちよさそうに眠り続けていた。原マキのカールも原マキの呼吸に合わせて肺のように動いていたのでカールは何だか原マキから独立して生きているように見えた。
 
そのうちに化学教師が分子構造のプラモデルを完成させた。
お馴染みの、白い爪楊枝のような棒とパチンコ玉位の大きさの赤い球を組み合わせた、腕で抱えられる程の大きさの三角錐の立体だった。
化学教師はそれをにっこりと笑って両手で持ち上げた。だがもちろん誰もそれを見ていなかった。

化学教師の表情に一瞬、染みのような陰りが見えた。どこか悲しそうだった。
教室を見渡す化学教師。
 
化学教師の固定された視線の先には机に突っ伏す原マキ。
原マキの二本のカールは熱を持った柔軟なガラス細工のように繊細に膨らんだり萎んだりを繰り返していた。
 
化学教師は確かに原マキのことをじっと見ている。
化学教師が分子構造のプラモデルを教壇の上にそっと置いた。そして指示棒を右手でつまみ上げて、こちらへとコツコツ革靴を鳴らしながら歩きだした。
 
クラスメイトの数人が、そのことに気が付く。そして「ほら、見ろよ」とでも言うように机に突っ伏した原マキを指さす。その動きは徐々に加速していく。
 
原マキの寝息がスゥースゥーと鳴り続けている。その寝息の上にメトロノームのように革靴の音が被さる。
原マキの寝息、床の固さを感じさせる革靴の音。
 
化学教師の指示棒がオーケストラの指揮者が振る指揮棒のように空中に八の字を滑らかに描いている。
僕は原マキを自分の手で起こすべきかどうか迷っていた。ますます多くの生徒が原マキの事を見物している。彼らは期待していた。
僕はどうにかして原マキの眠りを守りたかったがそれはどうも無理そうに見えた。原マキのカールは純金で出来た、しなやかな宿り木みたいに美しく繊細に見えた。

化学教師は指示棒を片手にコツ、コツ、コツ、とこちらに近づいてくる。そして、その指示棒で原マキの頭を叩くのだろう。あるいは、化学教師は原マキが指示棒で叩いた位では目覚めないと知り、もっとひどい方法で原マキを起こすかもしれない。そこには金槌や金属バットが持ち出されるかもしれない。そしたら原マキのカールはヒシャゲテしまうかもしれない。

僕が肩をトントンと叩いて起こそうとも、化学教師が何らかの方法で起こそうとも、原マキの美しく、清潔な夢は失われてしまう。

ただ、僕が肩を叩いて原マキを起こせば原マキのカールは守られる。

けれども結局、僕には原マキの頭がどんな夢を見ていたのかを知ることが出来ない。化学教師が刻一刻と迫ってきている。

ある種の(斬首刑の執行を待つ観衆ような)残酷な期待が音もなく講義室に満ちていることを僕は感じる。

コツ、コツ、コツ。
 
原マキのお腹が小さく鳴ったような気がした。


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昼休みが始まると原マキが執拗に僕のことを睨んできた。原マキは僕のことを一通り睨み切ると教室を出て、お弁当片手に廊下を歩き出した。僕は丁度、さっきの講義室での行動が原マキを怒らせてしまったのではないのかと思っていたので、原マキのことをとりあえず追いかけた。

原マキは相当な速足で(でも生真面目に校則を守るように)歩いていたので原マキの持っている水玉模様の弁当箱は原マキが足を運ぶたびに左右に激しく揺れた。僕は原マキに追いつくために少し小走りにさえなった。

僕と原マキが気まずい沈黙みたいな距離を保ってしばらく廊下やら階段やらを歩いていると(原マキは何度か無駄な回り道や階段の上下をした)、最終的に屋上にたどり着いた。

屋上の戸が原マキによって開け放たれた瞬間、薄暗い屋上前の廊下に四角い光が現れた。そして清潔で冷たい空気が吹き込み僕の身体を包んだ。そこに薄く漂っていた原マキのカールから発せられるシトラスの匂いは吹き込む風により途端に霧散した。

風が吹きすさぶ音、その独特の冷たい匂い、降る光……etc。

そして当然のように空は快晴で、僕は茫然、空を眺めて立っていた。周りには何人かの生徒がいて、各々5~6人のグループになって弁当を食べていた。

僕が原マキに視線を移すと原マキは周りの全てに感覚を集中させるように目をつむり、大きく両腕を広げていた。原マキは風を感じている様な爽やかな表情をしていた。日の光が原マキを照らし、風も強く吹いた。原マキのカールは激しく揺れ、伸び縮みした。スカートも遠慮なく揺らした。バタバタと忙しない音が鳴った。原マキの水玉模様の弁当箱も遠慮がちに少しだけ揺れた。ひとしきり風が吹き、スカートとカールの揺れが収まった後で、原マキはパッと目を開き、遥か遠くの人のために叫ぶくらいの大声で言った。

「チーズケーキは好き?」

 原マキがあまりにも意表を突いた質問を大声でしたので僕は原マキと声が漏れない密室を作るように急いで原マキのもとに歩み寄り、

「いや……、とりわけ好きってわけじゃないな。でも閉店間際にケーキ屋に行って、
モンブランかタルトかチーズケーキの選択肢が残ってた時にモンブランとチーズケーキの中から二分の一の確率でチーズケーキを選ぶかもしれない位には好きかな。多分。」と言い訳をするように早口で言った。正直、自分でも何を言っているのかが分からなかった。

「そう……。そんなものなのね……。あなたにとってのチーズケーキの存在価値は」と原マキは若者の何かを嘆く老人のように言うと水玉模様の弁当箱を自身の顔の前に持って来て、悲しそうに眉を曲げてた。まさか、原マキは弁当箱の中身にチーズケーキを詰めて持って来ているのだろうか?

「そうだよ。だってただのチーズケーキだもの。」負けじと僕は言った。

「でも、」と原マキは言い、少し語気を強めてさらに言った。

「タルトよりは好きなのね?モンブランには少しだけ劣っても。」

「まぁ、そうなるね。僕の習性的には。」

「まだチーズケーキにも挽回のチャンスはあるのね?確かにあるのね?」と原マキは念を押すみたいに僕の顔を圧をもって見た。

「あ、あると思うよ……。そのチーズケーキの味にもよると思うけれど。」僕は原マキの圧に驚いたようにしてすぐにそう言った。

「そう!それは良かったわ。」と原マキは言うと再び腕を広げて舞うようにクルリとその場で回った。原マキのカールは太陽の光を吸収して艶やかに光りながらくるくると回った。原マキも心から笑っているように見えた。

僕が周囲の視線を感じて辺りを見回すと、輪になって昼ご飯を食べていた何組かのグループが大声を出したりクルクル回ったりしている僕ら(主に原マキ)の事を怪訝そうに見ていた。

ので、

「と、とりあえずどこかに座ろう」と僕は思わず慌ててそう言うと、人がいない屋上の角をゆび指さした。

「そうね。」と原マキは小さい声で言うとまたさっきのような速足で僕がゆび指さした屋上の角に歩き出した。僕もまたさっきのような小走りで原マキの後を追いかけた。
 
他のグループたちはもう僕らの事なんて気にせずに、楽しそうに喋りながらお弁当の続きを食べていた。
 
屋上に吹く風で僕の前を速足で歩く、原マキのカールが右に流されている。風が吹いていった先、右手にある屋上から見た街はとても細かく複雑だった。空気が澄んだ日に街を見ると、一つ一つの窓が細胞みたいに連なっていた。今日は特にそんな街の細かさがはっきりと見て取れた。もっと遠くに行って眺めてみればこの学校も細胞壁の一部で化学講義室もその細胞の組織の一部になってしまうのだろう。こんなに美しい原マキのカールでさえもクラスでは誰にも見向きもされずただひとりで揺れている。垂れ流される美しさを僕はただ、今でさえ眺めているだけだった。
 
原マキは屋上の角まで歩くとストン、と地面にまさにおしとやかという感じで正座した。僕も原マキとの自然な距離感を探してから原マキと向かい合うようにゆっくりと腰を下ろした。原マキの頭にカールが隠された。僕が地面に座ると原マキが弁当箱を地面に置くコツン、という布によって鈍化された陶器の音が聞こえた。原マキが弁当の包みを開こうとしている。
 
なぜか妙に手持ち無沙汰だった。僕はその理由を探るようにして、自分の手を二、三回開閉した。そして、その動きを他人の動作のようにじっと眺めていた。
 
自分の弁当が無い。僕はしばらくしてからようやく、そのことに気がついた。

それもそうだ。僕はもともと弁当を食べるつもりで屋上に向かったんじゃない。というか屋上に向かってすらない。ただ原マキのカールを追いかけてここまで来たんだ。
 
けれども、僕は特別お腹が空いていたという訳ではないので原マキが水玉模様の弁当箱のその包みを解くのを黙って眺めていた。原マキの白くて飴細工のように繊細な細い指が弁当の包みを解くためにその結び目に集まっている。結び目に集まった原マキの指はそれぞれの個性を持った五組の双子みたいに見えた。
 
指たちが結び目を解き終えるとやがて弁当箱が姿を現した。つるりとした陶器で作られた真っ白い弁当箱だった。
 
原マキがそっと、その白く滑らかな弁当箱の蓋を埃を払うように指の腹で撫でた。原マキの白い五本の指がそれをやるとその動作はただ汚れを拭うという実用的な動作のみならず、何かのおまじないのようにも見えた。

‘‘どうか神様、この細かい街がいつまでも美しく拡大され続けられますように……‘’
 
「キミは私の事が好きなの?」

原マキは弁当箱の辺を中指でなぞりながら、唐突にバイオリンの絃が軋むみたいにそう言った。のっぺりと均一に白い弁当箱の辺を撫でている原マキの指を、原マキの目は少し細まりながらも決して悲しまない無表情で見つめていた。そんな原マキの横顔は正午の陽の光に照らされ、圧縮されながら屋上の地面に落ちていた。

僕は原マキの影を眺めた。僕の座る位置からは原マキのカールは見る影も無く隠されていたが原マキの影は確かに彼女のカールの存在をそのシルエットをもって激しく主張していた。地面に落ちたそのカールの動きから僕はいくつかの風が強く吹いたのを知った。

しばらくの間風は執拗に吹き、カールは揺れ続けていた。屋上のフェンスもヒュウヒュウと風が通り抜けていることを表していた。
さらにいくつかの風が吹いた後、気まぐれのように風は吹くのを止めた。それまでひたすらにどこかへと流出し続けていた原マキのカールのシトラスの匂いが辺りに留まり漂い僕の鼻にも入ってきた。

風が吹き止んだのを見計らって原マキが弁当箱の蓋を両手でゆっくりと持ち上げた。

原マキのあの言葉はもはやどこか遠くの物のように鈍く霞んでいた。風が去っていったどこか遠くの街みたいに。

「どうだろう……」と僕は自分のために小さく呟いた。
けれどもその小さな呟きは風を欠いた屋上で僕が予想していたよりも遥かにハッキリと大きく響いた。僕はその事に驚き、焦って次の言葉を探した。
 
「僕は……」僕は自分でそう言ってしまってからこれらの言葉が魔力が切れてしまった魔法陣のように原マキの問いに対しての回答という機能をすでに失っているように聞こえるという事に気が付いた。
 
けれども弁当箱の蓋を持ち上げようとしている原マキの手はピッタと止まった。原マキの耳が僕の言葉の続きに集中しているということがヒシヒシと伝わってきた。
 
風が吹き止むと屋上は完全に静かだった。そして完璧な晴天だった。お弁当を食べていたグループはさっきまで吹いていた強すぎる風に辟易してどこかへと引っ込んでしまっていた。カールの影さえピタリと止まって動かない。
 
喉が激しく渇き、掠れ、言葉を発する事が著しく困難なことのように感じた。オーケストラ中の期待を背負いながらも指揮棒の最初の一振りがどうしても出来ない気の毒で顔色の悪い指揮者のような心境だった。どう考えてもこの辺りはあまりにも静かすぎた。言葉が出ない。
 
そんな中、
 
「キミは、」と原マキは言うと弁当箱を開けた。蓋は弁当箱の下に敷かれた。
「キミは最近授業中、私の事をずっと見てるみたいじゃない。」と原マキは沈黙に構わず言って、瓶の底に飲み込まれてしまったビー玉の姿を探すように僕の目を覗き込んだ。
 
原マキの瞳の底には僕の姿が映り、瞳の外枠には移動し続ける雲がモノクロになって映っている。僕もじっと原マキの目を覗き込み続けた。そして今僕の目に映っているであろう原マキの姿を考えた。
 
にらめっこのようにして幾ばくかの時間が流れた。
 
原マキの発言に対してどう答えればいいのか僕には分からなかった。果たして「僕が好きなのはキミじゃなくて、キミの頭の後ろに付いているそのカールなんだよ」と本人に面と向かって言っていいのだろうか? いい訳がない。

そもそも今までそう考えてきたが、本当に原マキのカールは原マキとは完全な別枠の存在なのだろうか?もしそうではないとしたら、原マキのカールが好きである=原マキのことが好きという等式が成り立つのではないのか。僕はただ原マキのカールをずっと眺め続けたかっただけなのだ……etc。

そんな風に考えていても一向に結論は出なかった。僕の頭がそういう堂々巡りをしている間にも、僕らのにらめっこは続いていた。

僕は原マキの瞳を見つめ続け、原マキも僕の瞳の底を何かを探すように見続けていた。原マキの瞳の外枠では雲が風によって流され続けている。雲以外は完全に死んでいるように思えた。時間さえも。

けれども当然のことながら、どんな健全なにらめっこにも必ず終わりがある。それは街に風が吹いていたり、音が溢れていたりすることや人々がお弁当を食べたりすること位に当たり前のことだ。

もしも終わりが存在しないにらめっこなんてものがあるのならば、お願いだから僕の知らない果てのような街で踊りながらでもやっていてくれ。きっとその間に飽き飽きするほどの時間が過ぎて、僕の身体は骨となり墓地に埋められる。そして人々から忘れられた頃に再び、この街にレンガとしてでも参加しよう。
けれども果てのような街でにらめっこをしている君らは本当にいつまで経ってもそのままだ。君らの顔はやがてゲシュタルト崩壊を起こし、街はボロボロになりながら植物に侵食されるだろう。どんな街でもその構成要素を取り換え続けなければ劣化しヒビが入り、やがて訪れる死は避けられない。
 
なので僕は眼下の細かく綺麗な街を守るために、大きな勇気をもって原マキの瞳から目を逸らした。そして、原マキの手元に置いてあるお弁当箱の中身にチラリと視線を移した。その中身を見て僕は言いかけてた言葉やらこの場の雰囲気やらをそっくり忘れてしまった。
 
原マキのお弁当箱には一杯にチーズケーキが詰め込まれていた。丸いチーズケーキを八等分したくらいの大きさのチーズケーキが五つ、お弁当箱には入っていた。僕は屋上にたどり着いたときに自分がしていた無意味な妄想を思い出していた。
 

Q.まさか原マキは弁当箱の中身にチーズケーキを詰めて持って来ているのだろうか?
 A.マジで持って来ていた。
 

その五つのチーズケーキたちは真っ白な陶器のお弁当箱の中で互い違いになりながらも誇り高そうに収まっていた。生地は秋の大地に生え揃った小麦達のように綺麗な黄金色で、青空を反映した光をほんの少しだけ放っていた。僕はそんな五つの綺麗なチーズケーキたちが台形にまとまって弁当箱に収まっているのを眺めて少し心が乱された。
 
原マキ、キミは一体いくつそんな綺麗なモノを持てば気が済むんだい?
 
原マキは自分から目を逸らした僕が全く返事をする気が無いという事を感じ取り、僕の固定された視線の先に存在するチーズケーキたちを僕と同じように眺めた。やはり屋上は完全に完璧に静かだった。下の階や校庭にいるはずの生徒の話し声すら聞こえなかった。
 
「なによ?このチーズケーキを分けてくれってことなの?」と原マキはなぜか少し満足そうに言った。
もちろん、僕はチーズケーキが食べたいがために原マキの質問を無視してまで、弁当箱の中身をじっと眺めていたという訳ではない。
ただ何となく眺めていたまま視線がどうしようもなく固定されてしまったのだ。

でも実際のところ、弁当箱の中のチーズケーキたちはとってもおいしそうだったし原マキの口調にはお願いすれば食べさせてくれそうな雰囲気があった。なので僕は何か後ろめたいことを白状するような口調にして言った。そして両手で目頭を押さえる。

「そうなんだ……。このチーズケーキがあんまりにもおいしそうだったからつい食べたくなっちゃったんだよ……」シクシク、シクシク。

「それはしょうがないわねっ!」と原マキは即座に、感心したような口調でそう言うと制服のポケットから二組の皿とフォークを手際よく取り出して僕らの前に一つずつ置いた。そして自身のフォークを器用に使って僕らの皿に一切れづつチーズケーキを取り分けた。

僕は皿に置かれた一切れのチーズケーキを彫刻を鑑賞するみたいにじっくりと眺めた。見た限りそれは本当に完璧なチーズケーキだった。最高にキレッキレのナイフで真っ直ぐにカットされたような断面からは均一で滑らかな乳白色が顔を出している。そんな断面は一層気持ちよさそうに青空の色を吸い込み、空に牛乳を混ぜたような色をしていた。ずっと皿の上にポツンと置かれているそんなチーズケーキを見ていると僕の目にはそのチーズケーキが異様に小さいように見えてきた。皿に対して凄く小さいのだ。皿の円と完璧な二等辺三角形の組み合わせ。僕は完全にそれに見入っていた。
                                                              「それでは!」
と、原マキは言うと僕の肩をやたらと強く叩いた。のだろう、多分。僕はあまりの痛みというか痺れに最初、何があったのか分からなかったが、原マキが

「さぁ、食べましょう。早く食べないとぬるくなっちゃうわ。こういうのはね、キレが大事なのんでしょ?」
と僕に訊くように言って、なぜか手首を数回スナップさせた後、胸の高さで祈るように手を合わせて、僕にもそうするようにと目で促したので、僕もそれに倣った。

「それでは!あ、復唱してね。」
 僕は驚き、おずおずとそれに頷いた。

「この街の!」
「こ、この街の?」僕はあやふやに繰り返した。

「声が小さい!やり直し!」原マキが鬼教官のように怒鳴った。原マキが怒鳴ると、彼女のカールの影でさえ一瞬、ビクリと揺れた。そして再び言った。

「この街の!」原マキは首を少し動かし屋上から見える街を見下ろした。僕も同じ街を見た。やはり街はさっき僕が見た時と変わらず細かく綺麗であり続けていた。
「この街の」

「全ての砂糖、生クリーム、生卵そしてチーズに!」原マキの声は伸びやかで生き生きとしていた。
「全ての砂糖、生クリーム、生卵そしてチーズに」

「あまねく感謝と祈りを込めて!」
あまねく、と聞いて僕は意味が分からず一瞬だけ動揺した。けれども声には一切出さないようにしてあくまで
「あまねく感謝と祈りを込めて」と繰り返した。

「いただきます。」と原マキはあまねく感謝と祈りを込めるようにしっとりと言った。
「いただきます!!」ここははっきりと意味が分かったので僕は大きな声でいただきますと言った。

チーズケーキは僕らの事を晴天の下でじっくりと干された冷たいシーツのように迎え入れた。

原マキはフォークを器用に使ってチーズケーキの端っこを小さく削り出した。そして口に薄い隙間を作って、そこに差し込むようにフォークとチーズケーキを口に入れ、そっとフォークを引き抜いた。フォークは少しだけチーズの白い曇りを帯びて皿の上に晒された。けれども原マキはそんなことは気にせずにチーズケーキを咀嚼するために小さく顎を数回動かすと満足げにニコリとして一、二回頷いた。それを皮切りのようにして原マキは手早く丁寧にチーズケーキを削り出し口へと運んでいった。そして丁寧に味わっていた。

それを見て僕も切り出したチーズケーキをフォークの先に乗せパクリ、と口の中に入れた。まずシトラスの匂いがした。原マキのカールみたいなシトラスの匂いだ。強く、はっきりと僕はそれを感じることが出来た。そしてシトラスの匂いの奥からチーズや卵の滑らかな風味と砂糖の柔らかい甘みがやって来た。

僕はそのおいしさに驚いて自分の皿の上に乗ったままのチーズケーキをもう一度よく見回した。
 
チーズケーキはフォークによって抉られたことを表すささくれた傷跡を晒しながらも皿の上に変わらず置かれていた。完全に完璧だったチーズケーキにつけられたその傷はとても重大な物のように見えた。
 
僕はチーズケーキの表面にフォークを当てながらどこに切り込みを入れるのが一番チーズケーキ自身にとってダメージが少ないかを考えてみた。結局、僕は数カ所を頭の中試してから先端の、既に出来ている傷に平行にフォークを入れるのがベストであるという結論に達した。
 
しっかりとフォークを握り、フォークの側面をチーズケーキに沈ませるように差し込んでいく。そしてフォークの腹には一口分の削り取られたチーズケーキが残った。少し歪みはしたが再びチーズケーキを少し離れた目線から眺めてみてもチーズケーキ的な均衡は守られているように見えた。
 
二口目。
 
やっぱりこれは原マキのカールの匂いだ。二口目のチーズケーキを口に入れた瞬間僕はそう確信した。もしかしたら原マキがチーズケーキを家で制作している過程でチーズケーキの匂いが原マキのカールに移るのかもしれない。あるいは逆か。もしも逆だったらどことなくHだななんて事を考えていると口の中で、一口目と全く同じチーズと卵の風味と砂糖の柔らかな甘みがレコードの上を針がなぞるように再生された。僕はそれを確かめながら原マキの方を見た。
 
原マキもやはり僕と同じようにチーズケーキの先端部からフォークの腹で削るようにちびちびと食べていた。けれども原マキのチーズケーキの食べ方は僕なんかとは比べ物にならないほど上品で丁寧だった。原マキに削られたチーズケーキが晒す断面はナイフが作ったそれとほぼ変わらなかった。フォークが原マキの手の中に収まった途端に、チーズケーキを一口大にカットする為だけに作られた有能な金属片と化したみたいだった。僕が見ている数分のうちに

原マキは一つのチーズケーキを食べ切り弁当箱から二つ目のチーズケーキを取り出した。そして僕に
「手が止まってるわよ。まだまだチーズケーキは残ってるんだから。」と言って二つ目のチーズケーキも同じようにフォークで削りだして食べていった。

そんな風にして僕らは腹を空かせた猫の親子のように二人揃って食欲を満たし終えた。

チーズケーキを食べている間、僕らはほとんど口を利かなかった。それでも特に気まずくなんてなかった。僕は二切れのチーズケーキを食べ、原マキは三切れ食べた。
チーズケーキが消えた後の原マキの弁当箱はとてもガランとして見えた。僕ら二人は何らかの激しい運動の後のようにぐったりしてその場から座ったまま動けなかった。チーズケーキを食べ過ぎたのかもしれない。

原マキは手を腰の後ろあたりの地面に置いて身体を支え、足を延ばし切っている。原マキのカールも重力で伸び切って使い古されたバネみたいになっていた。弦が切れて緩み切ったように空をぼーっと見ている。

未だに辺りは昼間の風呂場みたいに静かなままだったので僕は原マキに小さな声で「チーズケーキおいしかったよ」と言った。

原マキは僕の方をチラリと見てから「そう」と言ったきり呆けたようにまた空に視線を移した。

僕は屋上に柵として設置してあるフェンスを目に力を入れて焦点をずらすようにじっと見ていた。フェンスはマス目同士重なり合い、立体的に浮き出て見え始めた。それを見ていると自分の立ち位置を見失ってしまいそうだった。街とフェンスの前後が入れ替わり、街と空の前後も代わる代わる入れ替わった。フェンスが町全体をくまなく囲い、その時僕は街の真ん中に腰を下ろしていた。空が僕の周りを霧のように節操無く覆い、街がはるか遠くに空間として存在する空の役目を果たした。

僕はそれに耐えかねて目の力をフッと抜いた。すると全てが元に戻った。

フェンス→街→空。

そして僕の前には原マキしかいなかった。正確には原マキと空っぽな弁当箱しかなかった。


  ☟☟☟☟☟


そのあとの話をしよう。

そのあとの話をすると、僕らはこの一か月の間で、ときおり短い会話らしきものを交わすような仲になった。本当に時々、試験とか音楽とか最近食べたチーズケーキとかについてだけだが。

僕はあの時、屋上であのチーズケーキたちを食べたその時から、チーズケーキのことがほんの少しずつ気になり始めていたので、コンビニやら喫茶店やらでチーズケーキの類を見つけただけで取り敢えず食べてみよう!という気分になった。そして実際に購入し、注文し、まあ多くの場合、その期待を裏切られてきた。その度に僕は、原マキのチーズケーキがいかに完成されていたのかを知ることになった。この時点で僕の中で原マキのカールと原マキのチーズケーキは立場を入れ替えていたのかもしれない。

僕は時折、原マキに対してそれとなく、チーズケーキを食べさせてくれないか?とお願いをした。でも、原マキが僕に対してチーズケーキを振る舞ってくれることはこの時点ではなかった。

とにかく、僕の中でのチーズケーキの地位は確実に向上していたのだから原マキの「チーズケーキ布教」は成功したと言ってもいいだろう。と、僕は思う。

 
さらにその後の話をすると、コトはどんどんややこしく、絡まったものになっていく。
そこには、底の見えない数人の人物の登場や、インフルエンサーといった概念すら人の形をとって現れてしまう。
 
僕と原マキはある出来事を通じて、ある特殊な共犯者的関係に陥ってしまうし、原マキはその過程で彼女のトレードマークであるところのカールを失ってしまうことになる。それも根本からバッサリと。

ハサミによってたち切られてしまうのだ。

そこにはやっぱり、あの底の見えない数人の人物や、マッチ棒を携えたインフルエンサーが大きく関わってくることになる。
 
だから、今の僕がそれについて語ろうとすると、どうしようもない混乱に陥ってしまう。一体、何からどういう順序で語ればいいのかが全く見当がつかないのだ。

時間と経験とが僕に客観性を持たせてくれた後、僕は再びこの件について話そうと思う。

それまで僕は、カールを失った原マキが今でも僕に作ってくれる、あのおいしいチーズケーキを食べて待とうと思う。

原マキの白い、弁当箱の中のチーズケーキたち

別に読まなくても支障はありませんが「ハマグリとしての原マキ」https://slib.net/100199が関連しています。

これは元々、キチンとした長編として初めから終わりまで一切逃げずに細かく書くつもりの作品でした。実際、八割方は書き終わっていたのです。
でも今の僕の力量では最後の二割が書ききれなかった。その二割というのは作品の終わりから二割という訳ではなかったのですが、どうしても必要な中盤のシーンがどうしても書けなかったのです。
ので、このような形での終わり方になったのですが、今もコツコツ書いてはいます。いつか、という事で……。
では。

原マキの白い、弁当箱の中のチーズケーキたち

学校の屋上で「原マキ」という名前のカワイイ女の子とチーズケーキを食べるお話です。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-06-12

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