松林にいる僕はありんこを眺めている。ありんこは自分の体の倍以上もある荷物を忙しなく運んでいる。 自分の指人形でもすぐの距離を、せかせかと休むことなく運んでいく。 手を地面に当てると、周りのぬるい空気とは異なりひんやりとする。松葉が落ちて地面にも刺さる。松葉の絨毯。 地面からあげた手を見つめると、砂がついている。 けれどすぐに乾き、風に吹かれるまま手の上で砂は踊りだす。 皺のないところについていた砂だったけれど、砂はあっという間に皺の線に沿っていた。砂でさえも、既存の線に沿うのかと、僕は手を握り締める。 そのころにはありんこは見当たらなくなっていた。
更地に草が生えていました。単なる雑草でしたが、ある一つのものだけ、ほかのものがグングン背を伸ばしているにもかかわらず、同じ背丈でした。 いっこうに伸びもせず、花を咲かす準備もしません。 それを不思議に思ったトカゲはそれを問うと、どうもどう咲かすのかが分からずに、そのままでいるらしいのです。 途方にくれているうちに、周りの同じ草たちは、花を咲かせました。 それなのにその草は、大きな成長は見てとれません。 けれど、嵐が過ぎ去った日のこと、ほかの草たちは全部風に吹かれてしまっていたけれど、その草だけが無事にいました。 驚いたトカゲはその草の今の花が何かを感じ取ったらしく、挨拶をして去りました。
心が硬直して、かさかさになって、訳が分からなくなって、けれど何か大切なものがどんどんこぼれていくような気がする。 そんな時、あがいていろんなことしてみるけどしっくりこない。歩いてもみる。 いつもの光景の道。けれど、何かに目が留まって、一気にこみあげてくる人間的な思い。 その息吹があるから生きられているようなもので、だけど、それが一体なんなのか、定かではない。 だから掴もうとそっと手を出す。なかなか難しいその作業。 けれど、それは大そうなものじゃなく、ほんとそこら辺に転がっているもので。 なんでもない変哲のないものを愛せるものが、言葉を物語を紡げるのだと思う。
冬になって葉っぱを落とした、樹たちは枯れ死んだと思われて、そうそう抜かれないと思っていたら、結構抜かれてしまって、代わりに、街灯という外炉樹があたりを埋めていた。 その者たちの言葉はほとんどわからず、テカりものの常用広葉樹さんたちも困った顔している。 夜長に思いを巡らせても、世を間違えたかのような感覚になる。 ほとんどを概念化された物事に追いやられ、ただ夜空を眺めることも遮られてしまう。夜だというのに、活動したいという概念が、明かりが澄み切った漆黒の夜空の邪魔をする。 しかし、自分が歩んできた自然とともにある感覚である、直感を大切にしたほうがいいと訴えてくる。もう自分の中の自然を踏みにじりたくないのだ。
私は、希望という字をボディに彫られただけの、火を点ける道具にすぎない。 名前には意味など無く、単なる煙草会社の懸賞でしかないのだ。
支配者は壁をつくりガラスで覆っていく。しかしそれは台風の風や雨には通用しない。 ひっかかること。それが、この世界をぐらりと揺らすことになる。 支配者は奴隷や使用人に命令し、飼いならしている気でいる。 しかし、現場を知らない支配者は、逆に支配されている。自分の意志というものの所存に関係してくる。 いくら、スマートにふるまっていても、台風がくればそれは一瞬に砕け散る。 常に自分以外の外部の者が下した中にいる。その既存の中で生きる我々は、自分の人生を歩むには、無意味の意味を提示することが不可欠になる。 しかしそれも含め台風のなかの目的というものに縛られていても、それは目的の奴隷のままだ。 だから、偶然の足で踊ることが、自分の意志で決定を下すことだ。言葉はただ重たい者のためにある。重たい者が扱うの