Crow cries, dusk fell over the world.
SFシリーズ三本目となります。前作もよろしければどうぞ。
①『He that knows everything doubt everything.』→http://slib.net/22098
②『The biggest liar in the world is Our Spirits.』→http://slib.net/23033
「私、最近誰かに狙われてる気がするんです」
そう言うと、テーブルの向かい側に座っていた大隣(おおとなり)さんは目をパチパチとさせる。そして、しばらく考え込んだ後に、そっと私の額へ手を乗せた。
「うん、熱はないみたいだな」
「私は真面目に相談してるんですけど」
そんな私の言葉も耳に入らないかのように、大隣さんは白衣のポケットを探る。その度に、首からさげたIDタグがブラブラと揺れる。そういえば白衣を脱いでくるのを忘れていたなと、私は今更ながらに後悔した。食堂のおばちゃんに見つかったらきっと怒られるだろうと、私はコーヒーをすすりながら内心で子供っぽい心配をする。
ややあって、大隣さんは私の前に一枚の名刺を差し出した。
「鷹野(たかの)くん、いい心療内科紹介してやるよ」
「もう一度言いますが私は真面目に言ってます」
大隣さんはふうっと息を吐いて背もたれに寄っかかる。50歳を過ぎてもなおたくましい肉体の、その全負荷がかけられた椅子の背もたれに、私は若干の同情を覚える。外観からして少し古っぽいこの学食の椅子には、少し過ぎた負荷だろう。一方、負荷をかけている張本人といえば、苦いものを噛み締めるような表情をしながら、最近増え始めた白髪まじりのヒゲを指でさすっている。
「・・・嘘じゃないですよ」
私が念を押すように口にすると、大隣さんは面倒そうに頷きながら「わかってるって」と小さく答えた。
変化があったのは三日前のことだった。
その日は夜の8時ころに研究室を出て、一人家路についた。時間帯のせいもあり人影はまばらで、自転車に乗った学生が数人通り過ぎていくだけだった。私はオーディオプレーヤーを耳につっこみ、キャンパス内をひとり黙々と歩いた。そして、守衛室の前を通りすぎて正門を出たところで、ある異変に気がつく。
道路の向かい側に、見慣れないシルバーのセダンが止まっていた。
路上駐車自体は、このあたりでは珍しいことではないから、その時はあまり気にしなかった。ただ、なんとなく、違和感のようなものだけ意識の片隅に残っていた。
だから、自宅の前で同じ車を見かけたときには、どきりとした。ナンバーまでは記憶できなかったが、とにかく、同じ車だった。私は家の中へと転がり込み、カーテンの隙間からその車を観察していた。とりあえず、その日は何の動きもなく、30分もしないうちに車はどこかへ行ってしまった。
しかし、次の日も、その次の日も、私はキャンパスの付近でその車を見かけたのだ。
どうも嫌な予感がした。何かが、起こってしまいそうなそんな予感。言葉ではなんとも表現できない感覚が私の中に走った。
だから、わざわざこうして大隣さんに相談するに至ったのだ。
一通り説明すると、大隣さんは重いため息を吐く。物騒な世の中になってしまったなあ、という意味のため息でないのは私にも想像がついた。
ややあって、大隣さんは重い口を開く。
「勘違いだ、きっと」
いやそんなはずがない、と私が反論しようとするのを、大隣さんは手で制する。
「と言っていただろうな。お前の相談じゃなきゃ」
「それはどういう意味でしょうか」
「この大学に来て3年、お前を見てきてわかったことがある」
私が首をかしげると、大隣さんは勿体つけて言った。
「―――お前の勘は、破滅的に当たる」
「破滅的、とは褒めているのでしょうか」
「破滅的、という言葉は決して褒め言葉では使わない」
ですよね、と私は小さく落胆し、続ける。
「何が破滅するのでしょう」
そう。もしも、私の勘で誰かが破滅すると言うなら、それは聞かずにはいられない。だが大隣さんは呆れるように「例えだよ、例え」と答えた。なんだ、例えですか、と私も形式上納得する。大隣さんは体格に似合わない小さなサンドイッチに手を伸ばし、大きな口で咀嚼して飲み込む。そうして、口の周りを指で拭き取って、小さく一言付け加えた。
「まあもしかしたらお前の破滅的な勘の良さで、俺の身が滅んだりはするかもしれないけどな」
それなら構わない、と私が一言補足すると、大隣さんは不機嫌そうに口を尖らせた。
確かに、私の勘が鋭いということは事実だ。しかも、悪い方ばかり。
昔から悪い予感や嫌な予感ばかり当たる。なぜかは私にはわからない。
たかだか“直感”でしょ―――それこそ、“勘違い”じゃないか。
と、一笑に付すことはできない。
私の個人的な所感では、直感というとどうも非論理的と捉えられがちな気もするが、それは違うと断言できる。脳科学者の端くれである私が断言するのだから、間違いない。
勘、とはつまるところ、無意識下で脳が機能している結果らしい。それまでに収集した情報を元に脳が分析を行い、今までの経験―――すなわち記憶―――と照らし合わせ、そして警告として発する。その一連の動作を、人間は本能のもとに行う。これがしっかりと機能することは、自然界では生存に有利に働く。勘とは、きちんとした生きるための思考なのである。
人間がまだ動物だった頃の名残じゃないか―――いつだったか、この話をした時に大隣さんはそう言っていた。ここまで思い出して、似たような話をしているのだなと感じ小さく笑った。直感は人間にしかない。だから人間はここまで生き延びることができたのかもしれない。大隣さんは進化論の観点からそう述べていた。なるほど、と納得したのを妙に覚えている。
その、知識の集積回路が、私に警告を発している。危ないぞ、やばいぞ、と。本能からの警鐘。それをないがしろにはできない。
「そういうわけで」
どういうわけなの、と大隣さんが苦笑いで疑問を呈するのを、私は無視して続ける。
「大隣さん、家同じ方向でしたよね」
「そうだっけ」
「一緒に帰ってください」
大隣さんは一瞬動作を止める。何を言われているかわからない、といった顔をした後、「は?」と口を開く。
「俺が」
「そうです」
「嫌だよ」
「なんでですか」
私は思わず身を乗り出す。大隣さんは目線をそらしながら、小さく答えた。
「ほら、お前の勘の良さのせいで俺の身が滅ぶかも」
そんなことありませんって、私は呆れながらそう答えた。
◇◇◇
その日の夜、大隣さんは散々文句を言いながらも、私の帰り道に付き添ってくれることになった。研究室を二人で出て、入口の鍵をしめる。痛いほど冷たい空気が頬をさし、私は思わず手袋で頬をさすった。
「今日は寒いな」
沈黙に耐え兼ねたのか、大隣さんは差し障りのない話題を振ってくる。そうですね、とだけ答えると、二人のあいだに再び沈黙が流れた。私は首に巻いたマフラーの中に顔を埋める。
無言のまま、二人で正門を出る。周囲を見渡すと、例のシルバーのセダンは見当たらない。
やっぱり勘違いだったのかな、と今更ながら不安になるが、とりあえずは自分の直感を信じてみる。それに、万が一という時は、ボディーガードとして大隣さんは十分に役割を発揮してくれそうだ。
大隣さんは、3年前の夏頃にうちの研究室にやってきた。ちょうど、私が3年生でこの研究室に配属された頃のことである。立場上は、社会人でありながら博士号の獲得を目指す、いわゆる社会人ドクターというやつだった。だから、先生というよりもむしろ先輩に近い。実際の年齢は、先輩というよりもお父さんであるのだが。しかしながら、彼の脳科学に対する知識量は半端なものではなく、そういった意味では教授や講師陣よりも頼りになる、歩く字引だった。私を含めた学生みんなは、よくこの字引を利用していた。
よく、学生のあいだではなぜ大隣さんが博士号を持っていないのか、と話題になる。知識量だけで言ったら教授や准教授の位にいたっておかしくはないはずだ。一部では、昔は優れた研究者だったが何らかの失態を犯して追放されたとか、実は何らかの理由で身分を隠しているだけではないかとか、様々な憶測が立っている。確かに、今まで書いてきた論文の数が少なかったり、学会に極端に知り合いが少ないということはある。そういった意味では、単に世渡りが下手なだけかもしれないなと、その話を聞くたびに私なんかは思ったりする。
だが、真実の程を本人に確認してみたことはない。だから、あくまで仮説なのである。
もちろん、検証してみようと思ったことはない。そんなことは野暮だし、何よりも私は今のこの距離感を気に入っている。親子でも、もちろん恋人なんかでもなく、同じ方向を向いた研究者同士、という関係。親しくなく、かと言って疎遠でもなく、対等な仲間。そんな距離感は、居心地がいい。
相変わらず、私たちのあいだには沈黙が流れていた。でもそれがかえって、私たちの関係を象徴しているような気がした。用もなく話すわけでもなく、沈黙に身を置きながらも歩調は自然と揃う。ただ、二人の足音だけが真っ暗な空に響く。この沈黙は、少なくとも私にとっては不快ではない。
私はなんの気なしに空を見上げる。真っ黒なキャンパスに、星の輝きが点在している。私が息をするたびに司会はうっすらと曇り、やがて晴れて黒い野原が顔を出す。
ちらっと横を覗くと、大隣さんは足元を眺めながら黙々と歩いていた。何か物思いに吹けるような表情に、見えなくもない。
私は空を見、大隣さんは地面を見る。二人はこんなにもばらばらな方を向いている。なのに、足並みと進む方向だけは間違えない。そんな関係が、やはり居心地がいいと思うのだ。思わずにやけてしまいそうで、私は再びマフラーの中に顔をうずめた。
二人無言で歩いて、十分ほどが経った。ちょうど大きな公園に差し掛かる。ここを抜けて少ししたところに私の家はあり、結局何もなかったのだなと半ば安心していた時だ。
背後に、何か気配を感じた。草の擦れる音が耳に入り、私は思わず足を止める。
心臓が暴れだそうとしているのを感じた。私は体を硬直させたまま、聴覚に全神経を傾ける。
もう一度、草木の揺れる音がした。
全身の筋肉が固まる。必死に脳を働かせ、何が起こったかの把握に務めようとするが、体は固まってしまって動かない。
その時だ。
私の足元を、何かが抜けた。
「ひゃあっ!」
思わず大きな声が出て、ついで尻餅をつく。私の足元を抜けた何かは、鈴の音を鳴らしながら驚いたように走り去っていった。
「・・・猫?」
私はそう呟いて、そっと胸をなでおろす。
私の背後にあった気配も、草木を揺らしていたのも、どうやら先ほどの猫の仕業らしい。そう思うと、安心する反面、かえって恥ずかしくなってきた。
そうっと、笑われているのではないかという懸念を抱きながら大隣さんの方に目をやる。だが予想と異なり、本人はただ腕を組みながらこちらを眺め、納得したように頷いた。
「・・・なんで頷いてるんですか」
「いや、ラットの反応と同じで、恐怖でフリージングするんだなと思って」
「人を勝手に研究しないでください」
失敬、と大隣さんは表情も変えずに一言つぶやいた。彼は腕を組みながらまだ何か考えているようで、私は思わず眉をひそめた。
「人間とラットの違いって、なんだろう」
大隣さんがポツリとつぶやくのを私は聞き漏らさない。眉をひそめた難しい顔で、口元だけが小さく動いた。その口調は、ラットと同じ行動を見せた私への侮蔑ではなく、高度な知能を有した人間への賞賛でもなく、単に疑問であるようだった。純粋な疑問詞。
ヒトとラットは、何が違うのだろうか。
「ヒトにも、ラットにも、恐怖はある。ラットは恐怖を感じると身を固める。必ず、だ。だけれども、ヒトの場合はそれが必ずしも1対1の対応になるわけではない。ヒトは、時に、自分の感情を隠そうとする」
「それは」と言いかけて、私は立ち上がる。両手で砂埃を払い、続ける。感情という単語に―――どこか禁忌に触れるような気がして―――どきりとしながら。
「それは、ヒトには理性がありますから」
「確かに、大脳皮質の構造的な問題で、理知的な機能はヒトのほうが発達しているだろうな」
大隣さんはそう言いながらも、どこか納得しない様子で低くうなっていた。
大脳新皮質という部位は、脳の外側をぐるりと覆い、高次機能を司る。だが高次機能といっても普通の人には伝わらないので、私たち科学者が説明するときには、ある程度大雑把な言い換えを行う。
大脳新皮質は、理性を司る器官だ。
本能的な部分を多く司る大脳辺縁系とは違い、知覚、推理、思考など、理性的と思われる脳の機能は大脳新皮質によって行われる。ヒトは2本足で直立をすることによって、脳の巨大化が許され、そして大脳新皮質を進化させることに成功した。そして大きくなった大脳新皮質の働きにより、ヒトは多大な思考能力―――いわば理性―――を手に入れたのだ。4足歩行の動物では、ここまで脳を大きくすることができない。そんなことをすると、首の骨が折れてしまうからだ。
「ヒトは理知的である、ということは認める。あくまでラットと比較して、だが。しかし感情ですら人のほうが多様であるような気がしてならないとは、なにか納得がいかないな」
あくまで個人的な主観だが、と大隣さんは付け加えた。私は眉をひそめながら数秒考えて、それを言葉に変換して放出する。
「感情は、脳総体としての機能ですが、もし差異があるとすれば」
すれば、と語尾を上げながら彼は首をかしげた。
「ヒトには、言語があります」
人は言語でコミュニケーションをとる。進化した大脳皮質が、それを可能にした。
ラットは、言語を持たない。発声機構はあるし、そうでなくても何かしらのコミュニケーションツールは持ち合わせているのだろうが、ラットに言葉はない。
古来から、人は感情を言葉にしてきた。たとえば、恐怖、畏怖、危懼、杞憂、戦慄。どれもが似たりよったりの感情で、それぞれが少しずつ違う。言葉にするたび感情は多様になり、そして多様化した言葉は、今度は人の感情を規定するようになったのかもしれない。私はそう考える。人は感情の言葉を増やすことで選択肢を増やしたが、それは同時に選択肢以外の選択を消すということだったのではないか。そんな想像すらしてしまう。
無論、言語学も哲学もたしなんだことはほとんどない。一般的な、と言える範囲の常識しか持ち合わせていないと思うが、その範囲で想像力を働かせる。
感情は言語が作り出す。
人間は言語で動いている。言語で思考し、言語で感受する。
もしかしたら、言語を駆使すれば、人の感情すら操ることができるのかもしれない。
5年前に消えたはずの―――あれ、のように。
「なるほど、なるほど。ヒトは確かに言語によって感情を規定してきた。だが逆に、言葉が意思を持ったかのように人の感情を規定するようになった。なるほど、仮定としては面白いかもしれない」
私が被通り説明した後、大隣さんは低い声でうなった。それから、合点が言ったように小さく何回も頷いた。
「でも君の仮説でもっと興味深いのは」
大隣さんがもったいぶるので、私は首をかしげる。そこで、ふと周辺の景色に違和感を覚える。
気がつくといつの間にか二人は足を進めていた。公園は既に抜けていて、もう私の家は目の前というところまで来ている。議論に夢中でいつの間にか足が動いていたのかもしれないと思うと、もうこれは職業病ではないかと思えてくるのだった。
大隣さんもそのことに気がついたみたいで、慌てて周囲を見渡す。
「もうこんなところまで来てしまったのか」
「ええ、ありがとうございました」
家の前まで来て、私は大隣さんに礼を言う。また明日な、と大隣さんが言うので私は一礼を返す。
「大隣さん」
帰ろうと背中を向けた大隣さんを、私は呼び止める。まだ何かあるのか、と少々面倒そうな顔をするが、いつものことなので私は気にしない。
「私の仮説で興味深かったのって、なんですか?」
「ああ、その話か」と大隣さんは声を漏らす。
「鷹野くん、君は、人間は言語で思考して言語で感受するといったよな」
ええ、と私は小さく頷く。確かにそう言ったはずだ。
「いや、それならまるで―――言語が“たましい”みたいだな、と思って」
そう言って、大隣さんは小さく笑った。何が面白いかは、私には分からないが、私としてはこの議論で“たましい”という単語が出てきたことが驚きだった。急に、科学の範疇を超えてしまった、そんな気分になる。とんだB級SFの世界みたいな、そんなでたらめな世界に迷い込んでしまったような感覚だ。
大隣さんは、再び私の方に背を向けて歩き出す。私はその背中を目で追いながら、私は小さくため息を吐いた。
この時何故、大隣さんの口から“たましい”なんて言葉が飛び出したのか、私には理解することができなかった。
◇◇◇
翌日、授業が終わってから研究室へと向かうと、机の上に見慣れないメモがあった。見覚えのある汚い字で『15時 教授室』と書かれたメモが、無造作に放り投げてある。私はそれを確認して、部屋の時計を確認する。はからずもちょうどいい頃合であるのを確認して、私は指示のとおり教授室へと足を運んだ。
扉を二回ノックする。「鷹野です」というと、奥の方から野太い声が返ってきた。私はそれを確認して、扉をゆっくりと開ける。
「失礼します。お呼びですか、姫神(ひめかみ)教授」
「うん。そろそろ、卒論のディスカッションしないとでしょ」
そう言って、姫神教授はふくよかな腹回りを精一杯持ち上げ、重そうな足取りで自分のデスクからソファの方へと向かう。年も相当いっているというのに柔らかな物腰だが、すっかりメタボ体質で、姫神、とは名前負けだなと、この分野に配属した学生は誰でも一度は思うものだ。
よいしょ、とつぶやきながら姫神教授は腰をかけた。私も、その向かいを選んで腰をかける。教授の手には何報か論文が握られていて、私は少しだけ気が重くなる。今から何をしなければいけなくなるのかを想像し、心の中で小さくため息を吐いた。
嫌な予感、と変換してもいいだろう。
概して、こういう予感は当たるものだ。特に私の場合は。
それから一時間ほどのディスカッションを終え、私はほっと一息を付いた。まっさらだった紙には、いつの間にか赤やら黄色やらの線や書き込みがギュウギュウ詰めになっている。
「はい、じゃあ今日はおわりね。卒論、一ヶ月後だけど、どう」
どう、と聞かれて、できません、と答えるわけには行かない。私は曖昧に微笑んで「なんとかなります」と言いながら、内心でこの先一ヶ月の予定を頭の中でシミュレーションした。
「ああ、そういえばさ」
姫神教授は、少し微笑んで続ける。その、どこか俗っぽい微笑みの意味が分からず、私は素直に首をかしげる。
「大隣さんとは、最近どうなのよ」
「どう、とはどういう意味ですか」と聞き返すと、教授は、わかってるくせに、みたいな顔をした。
「昨日も一緒に帰ってたらしいじゃないの」
私はここで初めて、「どう」の意味を理解して、苦笑いをした。教授の俗っぽい笑みの意味が、ようやっと理解できた。どのように返事したものか困ってしまい、とりあえず曖昧な言葉に曖昧な言葉で返すことにした。
「そんな感じでは、ないです」
「まあ、あれはあれで甲斐性のあるやつだから、大事にしてやってよ」
だから、と思わず敬語が崩れそうになって、慌てて頭の中を整理した。心拍数が早くなり、少し手先が湿ってきたような感覚がある。
「ですから、そういう関係ではなくてですね」
「嫌いなの? 大隣さん」
いや、と言葉につまる。
「まあ、嫌いではないです。尊敬はしていますし」
「だったらいいじゃない。いい男だと思うけどな、彼」
だからなぜその方向に話を持っていこうとするのだ、とでかかるのを喉で止める。
「年も離れてますし、まさか同じラボでなんて」
「ああ、そんなこと?」
そんなこと、とは軽く言うものだな、と私は率直に思う。百歩譲って私が大隣さんに恋慕の情を抱いていたとしても、私と大隣さんは娘と父親ほど離れているし、同じ研究室にいて男女の関係になるなどもっての他である。有るべき姿ではない―――私も、大隣さんも、年の近い価値観の近い誰かと恋愛をするべきだと思う。それが、自然であると。
だが、口にしたこともないそんな考えを読み取ったかのように、姫神教授は言う。
「人に、あるべき姿なんてないと、僕は思うよ」
私は驚き、思わず全身の細胞が一瞬動きを止める。フリージングだ。この人はエスパーだろうか、そう錯覚してしまうほどに。
「ほら、ヒトは頭がいいからさ、ついつい自分で求められる姿を決めちゃうんだよね。こうあるべき、とか、こうでなくてはいけない、とか。そしてそうあるためなら、平気で自分の感情に嘘だってつける」
心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。体の芯のあたりを軽く触れられたかのように、身の毛がよだつ。自分でも触れたことのない心のどこかを、姫神教授は指でつついた。
私は、自分の感情に嘘をついていたのだろうか。あってはいけないと。それがお互いの幸せであると。どこかで。見ないふりをして。知らないふりをして。
心臓の鼓動が止まらない。
私は嘘をついていたのか。
分からない。
私には、分からない。
それから、どのように教授室をあとにしたのか、私はよく覚えていない。気がついたら自分のデスクの前まで移動していて、私は二度瞬きをしてから時計を確認した。短針はちょうど4と5の中間を指そうという頃であり、私は自分がどれだけの時間呆然としていたのか逆算した。夕暮れの赤い光が、斜めに部屋の中に差し込んでいる。
「随分長かったなあ」
いつの間にか私の後ろに大隣さんが立っていて、私は驚いて飛び上がりそうになった。「卒論の話ですよ」とかろうじて答えるが、私は今の自分が普段と同じ表情をしている自信がない。夕日が逆光となり、大隣さんの方から私の表情が覗けないことが救いであった。
「そうか、もうそんな時期か」
そんな私の気持ちも知らないで、大隣さんは間抜けに声を漏らす。ちょうどそれぐらいのタイミングで、研究室の時計がなり、続いて外では夕刻を告げるチャイムが鳴り響く。人工的で無機質な音のに、どこか温かみを含んだメロディーが街を包み込んだ。
私は窓の外に目をやる。太陽がちょうど山の裾にかかるくらいで、影法師がどんどん伸びて赤く染まった街を包み込もうとしていた。やがてその影は私の足元まで伸びて、全身を包み込む。
「さっきの歌、知ってる?」
外を眺めていた私に、大隣さんはうっすら笑いながら聞いてきた。
「知ってますよ。『かーらーす、なぜ鳴くの』」
「そうそう。『カラスの勝手でしょ』」
はい、と私は思わず聞き返した。私の記憶にあるカラスの歌は、そんなふざけた歌詞ではなかったはずだ。
「なんですか、それ」
「知らないのかい、21世紀最大のコメディアンの名曲だ」
そんなもの、説明を聞いたってちっともわかる気がしなかった。そのあたりは、生まれも育ちも22世紀の私には全く縁のない話であった。なので、私はわざと悪態をついて返す。
「知りませんよ、そんな旧世紀の歌」
「知らないのか、この現代っ子め」
そう言って、二人とも笑った。大隣さんも、私も、いつものように笑った。そして私は、これでいいと思った。この距離感でいいと。居心地のよい距離だと、そう感じた。
心の中で疑問を呈す、もうひとりの自分には、しばらく黙っていてもらうことにした。
すべて、うまくいっているように思っていた。
傷つかず、傷つけず、快適な距離をこのままたどっていたいと思える。このままの日常でいたいと、いや、このままの日常でいられるのだと、そう思っていた。卒業して、少しだけ後悔して、でもいつか忘れて。そしてたまに思い出して。
そういった未来が来るものだと。
その時までは思っていた。
そう―――その日の帰り道までは。
その日の帰り道に。
―――例のシルバーのセダンから降りてくる、大隣さんを見るまでは。
◇◇◇
結論を先に述べてしまうのなら、その後私は大隣さんに会うことはなかった。
あの日の帰り道―――夕焼けのきつかったあの日の―――私が目撃したのは、神妙な面持ちで車を降りる大隣さんの姿であった。
私は驚いた。驚いて、思わず身を隠してしまった。だからその時はよく見えなかったのだ。車の中が、どうなっていたのかを。そのことを、翌日新聞で知ることになる。
シルバーのセダンから、若い男の刺殺体が出てきた。男の身元は不明であり、また犯人も不明であり全力で捜査をしているところなのだと、申し訳程度に警察のコメントが載っていた。
犯人は誰であるか。
私には、心当たりがある。その心当たりを、必死に心の中に押し込む。ピチピチと跳ね回って暴れだすその感情を、私は小さな心の中に無理やり閉じ込めた。
心臓が暴れだす、という感覚を初めて知った。まったくもって生きた心地がしなかった。
『あれ』があればいいのに、と、私は初めて思った。
5年前に、姿を消した、
―――ニューロ・ハーモニクスがあれば、この気持ちだって抑えてくれるだろうと。
私は、『あれ』が失われたことを初めて、後悔した。
どんな顔をして、私は大隣さんに会えば良いのか。そして、昨晩のことについて聞けばいいのか。それとも、いつものように笑みを浮かべればいいのか。私には全くわからなかった。
しかし、それらは全くの杞憂であった。
その日、大隣さんは研究室に姿を見せなかった―――いや、その日だけではない。次の日も、また次の日も。
そうしてついに、一週間が経った。
私は、自分のデスクで携帯電話を握りしめている。いつか連絡が来るのではないかという、今となっては期待の薄い望みを、両手で強く握る。
もし仮に電話が来たとして、何を話せばいいのか私には皆目見当がつかない。
心配、という感情ではないだろう。ただ、様々な色のものが心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。そのわけのわからない色は、やがて心の中をいっぱいに侵食し、その他の機能を奪っていった。
私は、ただ外を眺める。
夕焼けの鋭い赤が光彩を刺す。日は傾き、陽炎が伸び、だがどこまで伸びても、その影は私まで届かない。山の裾へたどり着いた太陽は、いたずらに動きを止めた。
一瞬が無限に引き伸ばされ、かと思えばいつの間にか夜が来る。そんな感覚を、ここ一週間何度も味わってきた。
携帯電話を握り締める手がしびれてくる。
聞かなければならないことがある。
聞いて確かめなければいけないことが。
―――プルルルルル、と。
両手に埋もれた端末が振動した。
そして同時に、背筋が凍る―――悪い予感。
私の勘は、破滅的に当たる。
私は慌ててディスプレイの文字を確認する。『大隣さん』、との文字を確認して、私はゆっくり深呼吸をしてから、通話ボタンを押した。
「・・・もしもし」
『・・・よう、元気か』
電話口からは、聞きなれた―――そしてどこか生気のない、大隣さんの声。
「大隣さん、今どこにいるんですか」
『・・ああ、どこだろうな・・・ここ』
大隣さんの言葉の語尾が、どんどん細っていく。背筋を冷たい汗が這って、心臓が爆発しそうなほど鼓動が激しくなる。悪い予感は、私の体の中でどんどんと大きくなる。
『鷹野・・・』
弱りきった声で、大隣さんは言う。
『俺のデスクの、裏に・・・』
そして。
乾いた音が、耳を劈(つんざ)く。
何の音か、その時の私にはわからなかった。
「大隣さん?」
返事はない。ただの無音が、電話口から垂れ流しになる。破滅的な悪い予感が、私の中で極大点を迎えた。
そしてちょうどその時、私の背後で時計がなった。そして数秒遅れて、夕刻を知らせるチャイムがなり、さらに数秒遅れて電話口からチャイムが聞こえる。
「大隣さん―――?」
返事はなく、そしてそのまま電話は切れる。
私はしばし呆然とする。何が起こったのかを必死に分析しようとする。そして思い出した。あの乾いた音が何の音なのかを。
―――銃声だ。
大隣さんが―――撃たれた?
何が起こってしまったのか、今の私にはわからない。ただ、何かが起こってしまったという事実だけ、私の心の中に巣食う。
増幅する嫌な予感を押さえ込み、頭の中をクリアにしようとする。
何か、分かることはないか。
大隣さんはどこから電話をかけていたのだ。
―――私は、ハッとして息を飲む。
チャイムの音だ。
ここでチャイムの音が聞こえた時間と、電話口から聞こえたチャイムの音のタイムラグ。このあたりに存在するスピーカーは一箇所だけで、このタイムラグを使えば距離がわかる。
距離がわかれば、円周がひける。
頭の中で距離を暗算し、そして円周をひいて、円周上にあるそれらしい場所を検討する。
あった。
一箇所だけ。
河川敷の、背の高い草の生い茂る藪。
私はすぐに走り出す。研究室を飛び出し、靴を履き、私は一目散に河川敷へ向かう。
夕闇が、私のすぐ後ろまで来ている。影法師が私を追いかけてきて、私は追いつかれないように走った。
とにかく走った。
そして、目的の河川敷に来てみると、背の高い枯れ藪の中に窪みを見つける。
暴れだす心臓を必死に押さえつけながら、私はゆっくり足をすすめる。
一歩。また一歩。
そして、そこには。
腹部を真っ赤に染めた、大隣さんが横たわっていた。
◇◇◇
私はまた、自分のデスクに座っている。先日と違うのは、私が喪服を着ているということだけだった。
大隣さんの葬儀の帰り道に、私は何の気なしに研究室へと立ち寄った。もちろん室内に人影はなく、私がただ一人で呆然としているだけだった。
結局、彼の死の真相は明らかにされていない。ただ、射殺、というだけだ。
私は涙も流せないまま、ただ心臓が鷲掴みにされるような感情に打ちひしがれていた。何も理解できないまま、彼は死んでいった。何一つ明らかにせずに。明らかにする機会はもう二度となく。
私は、大隣さんのことが好きだったのだろうか。
未だに私にはわからないし、わかる機会ももう訪れない。
感情とは厄介だ。言葉に規定され、そして多発的に複雑な因子が絡み合って形成されている。これがどんな気持ちなのか、誰かに伝えるには定義しなければならない。私は、残念ながら恋愛感情という定義を持ち合わせていない。そういったことには縁遠い24年間を、今まで過ごしてきたのだ。
感情とは脳における物質変化への応答だと、ある科学者は言う。脳内の神経伝達物質は絶えず変化し、その変化を理由付けるための物語が、感情の正体なのだと。
そうなのかもしれない、心のどこかで肯定する自分自身に、私は全力で首を振る。
そんなもので決められてたまるか。
世界を感受する、私という感情が、自我が、“たましい”が、そんなもので規定されてたまるか。
私は呆然とただ、青い空を眺める。透き通るように高い青空。あの日の夕暮れとはまるで違って、だが、何かが心に引っかかるのを感じた。
そして、大隣さんの最後の言葉を思い出す。
『俺のデスクの、裏に・・・』
裏に、何があるというのか。
私は立ち上がって、大隣さんのデスクを引っ張る。わずかにできた壁と机の隙間に手を突っ込むと、何かに触れる感触があった。私はそれを中指の爪で引っ掻いて取り出す。
鍵だ。
私はそれを、鍵のかかったデスクの引き出しに突っ込んで回す。
そしてゆっくりと、引き出しを引いた。
中には、一冊の紙束。
私はその、最初の一ページをめくった。
そこに書かれていたのは、いくつかの物語であった。
笠間洋平(かざまようへい)という、刑事の物語。
楢島(ならじま)ヒロミという、少女の物語。
坂上雲龍(さかがみうんりゅう)という、売れない小説家の物語。
第二次世界大戦中に行われた、人体実験の物語。
そしてそれら全てに関わった人たちの物語。
Case:010に端を発した、ニューロ・ハーモニクス崩壊の真相。
そして、ニューロ・ハーモニクスの真実。
最後に―――大隣さんの、いくつかの懺悔。
自分が、ニューロ・ハーモニクスの開発に携わったこと。そして5年前の事件をきっかけに、その真相を知ったこと。それを知ってから、ずっと後悔してきたこと。
大隣さんは文面で語る。
あれは、あのシステムは―――ひとりの人間のエゴなのだと。
日本国民全員を巻き込んだ、願いとも言い変えられるわがままなのだと。
そして、その真相を私―――鷹野鏡花(たかのきょうか)―――に託すと。
先に死ぬことを、許してくれと。
すべてを読み終え、私は静かに紙の束を閉じる。
彼は知っていたのだ。自分が死ぬことを知っていた。いつか、誰かに命を狙われることを知っていた。真相を知っている彼を良しとしない、おそらくは国家自身とも呼べる誰かが、彼の命を狙っていた。そして、そのことを彼自身は知っていた。
恐らく、と私はある想像をする。シルバーのセダンで刺殺されていた若い男は、大隣さんを殺しに来たのだろうなと。大隣さんに抵抗をされ、命を落としたのだろうと。
そしてそのあとの一週間、大隣さんは何をしていたのか、想像がつく。
きっと、この冊子を書いていたのだ。
私に渡すために。
自分が死ぬことについての弁明を、真実で変えようというつもりだったのだろう。
なんと彼らしい!
最後まで、大隣さんは大隣さんらしかった。探求者たる、大隣さんそのものであった。
そんな彼に、私は恋をしていたのか。
わからない。
感情というものは厄介だ。
私は、この気持ちを言葉にはできない。
気がつくと、いつの間にか外は真っ赤に染まっていた。夕焼けが指す室内は、どこか広く感じた。
研究室の時計が、うるさく鳴り響く。
外では、いつも耳にするメロディが、無機質に鳴り響く。ほほのあたりを、冷たい何かが這っていった。私はそれを拭うこともせず、空を覗き込んだ。赤い空に、私の心を映し出さんばかりの赤に、私はただ目を奪われた。
この気持ちを、言葉にはできない。色にはできるかもしれないが、言葉にできない。言葉にできなければ、伝えられない。
いや、そもそも、伝えなければいけない人は、もういない。
どこかの窓が空いていたのか、私の頬をそっと風がなぜる。
私はゆっくりと息を吸う。
そして、小さく歌うのだ。
「―――かーらーす、なぜ鳴くの」
Crow cries, dusk fell over the world.
最後までお読みいただいてありがとうございました。
作り終わってすぐに投稿しましたので、詰めの甘いところもあったかもしれませんが、ご容赦いただければ幸いです。