He that knows everything doubts everything.
この世界には、何かが足りない。
それが何かと問われれば、具体的に何であると提示することはできず、ただ漠然としたイメージだけが頭の中をふわふわと浮遊する。このあたりが言語の限界であるだろうし、言語の限界であるということは同時に思考の限界である。言語化できないものは他人から観測することはできず、また観測できないものはこの世に存在しないのと同義である。言語化されない思考は存在し得ない。
ただうっすらと靄(もや)のようにかかった気味悪さだけが、私の小脳に対して何らかの警告を発している。大脳新皮質からの異常アラーム。ただ私にはそれが何なのかわからない。
何か、あって然るべきものがこの場に存在しないという事実だけは、辛うじて認めることができる。
この世界には、何かが足りない。
◇◇◇
葬式、と言われれば必ず思い出す光景がある。
二十年ほど前、ちょうど物心ついた頃だったろうか。私の祖父の葬式での光景。
私の目の前には祖父がいる。小さな桐の箱に詰まった祖父。あるいは骸骨へと化した祖父。手を伸ばせば届きそうなほどそれは近くにあるのに、私とそれの距離は驚くほど遠い。私はここにいるのに、祖父は無限遠の彼方にいた。手を伸ばして桐の箱に触れてみても、祖父はそこにいない。
その日は朝から雨が降っていた。だらだらと降る長い雨に私は身を縮こませながら、ギュッと母の手を握っていた。頬を伝う水滴が涙であったか雨であったかは、今の私にもわからない。ただ、何か見てはいけないものを見ているような小さな罪悪感が、私の心の隅の方をつついた。
私は涙など流していなかった。ただ、目の前に存在する恐ろしい程の断絶に言葉を失っていた。
そして今でも思い出すのは、祖母の顔―――
祖母は―――
―――間さん。
その声が私を呼ぶものだと気がつき、懸濁した意識の淵から現実へと帰還する。数度大きく瞬きをし、私は視界をはっきりとさせる。そこには黒い服を着た女性が立っていた。
「笠間(かざま)さん、やはりまだ体調が」
黒のタイトなスーツに身を包んだ彼女が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。その目元は赤く腫れ上がっている。少し崩れた化粧も、今朝から降り続く雨のせいでは決してないだろう。
「いいや、大丈夫だ」
私は数回首を大きく回し、健常をアピールする。
「嘘ばっかり。本当ならまだ入院している頃なのですから」
「大丈夫だ、君は心配性だ」
「頭部に負傷を負った上司を気遣うことを、世間では心配性とは言いません」
そう言って彼女の視線は、包帯の巻かれた私の右側頭部に移る。私はその視線を後追いし、大きくため息をつく。
「私は葬儀の前に大坪さんの奥さんに挨拶をしてくる」
「私も行きます」
「君はここで待っていろ」
「私も」
「奥平(おくだいら)」
私はわざと語尾を強める。それに反応して、彼女は息を詰まらせて目を丸くした。
「私が行く。君はここで待っていろ」
彼女はうつむいて、口元を震わせる。やがてゆっくりと口を開いた。
「奥さんにはなんと説明を」
私はその言葉に答えることなく、彼女から目をそらすようにして足を進めた。
どのように説明するか、自分の中でもほとんど道筋が立っていないことに少しばかり驚く。一介の刑事の自殺を、ありのままに遺族に伝えない訳には行かない。だが、なんと説明しろというのか。私にはそれがわからない。一人の人間が自殺に至った心情の変化を説明するのが正しいのか。無論、そんなことではないということも十分に理解している。
私は少し歩みを緩めた。できればこのまま、永遠に奥さんのもとへとたどり着かなければいい、そう思うほどに。
異常なのだ。私はそう心の中で繰り返す。
―――異常なのだ。
このご時勢において、「自殺」とは異常なのだ。
だがそれを説明してどうするのだ、私は誰でもない誰かに問いかける。「自殺」でないのなら「他殺」だ。彼は―――大坪 敏行(おおつぼ としゆき)は、「何」に巻き込まれて「誰」に殺されました。そう打ち明けたところで、遺族は頭のおかしい刑事の妄想くらいにしか思わないだろう。そもそも、「何」も「誰」もわかっていないのに、だ。
私は大きく息をつく。頭の中身を少し時系列順に整理する。
そして思い出す。
全ての始まりは、今日みたいに雨の降る日だった、と。
◇◇◇
車のドアを勢いよく開けると、生ぬるい水滴が私の頬にぶつかる。冷たければ気持ちよかったのかもしれないが、季節が季節で、べっとりとまとわりつくような湿度が不快だった。一瞬、傘を持っていくかどうか迷ったが、それほどでもないと、私はそのままドアを閉めて現場へ向かった。
公園をぐるりと一周取り囲んで規制線が張られている。肩のあたりまでの高さのフェンスはよじ登ろうと思えばたやすいが、公園の内周にある背の高い樹木のおかげで中は見えない。唯一公園内の様子が伺える入口のあたりには、二十人ほどの野次馬が既に集まっていた。
私は強引に野次馬の列をかき分ける。小さく肩がぶつかり舌打ちも聞こえたが、特に気にしない。入口に控える警官に手帳を見せ、黄色い規制線をくぐる。
急に、ムワリとした生暖かい熱気とともに異臭が鼻をつく。何かが腐敗したような匂いと、かすかな鉄の匂い。その二つの混ざった異臭に、胃のあたりがざわざわし、私は手で口元をおおった。そのまま、その匂いのする方向へと足を向ける。指と指の間から腐臭が漏れ出し、歩くたびに胃の中のものが胃壁をつつく。喉にこみ上げてくる何かを、私は無理に飲みこんだ。そして、私は嗅いだことのない匂いに顔をしかめながら、その凄惨たる光景に目をやる。
「ああ、こりゃ、ひでえな」
私の10m後ろを歩いていた大坪刑事が、いつの間にか私の横へと並び、不愉快そうな顔で現場を眺める。不愉快そうではあるが、今の私のように顔面蒼白ではない。これが経験の差か、と勝手に感心しながら、再びこみ上げてきた悪心をこらえる。
大坪刑事は、そんな私の様子を横目で見て、顎のヒゲを触りながら
「大丈夫か、おめえ。少し目つぶってろ、あいつが機能すれば少しは良くなんだろ」
言われたままに、目をつむって深呼吸をする。息を吐くのと同時に、気持ち悪さが消え、意識がはっきりとする。そのまま数度深呼吸を繰り返し、目を開くと、先程までの吐き気はすっかりと消えていた。いつの間にか悪臭も気にならない。
「大丈夫か」
「ええ、だいぶ良くなりました」
「おめえ、殺しは初めてか」
「ええ、まあ」
「そうか、俺は―――俺もしばらくぶりだな。十年ぶり、か」
「そうなんですか」
「まあ、何回見たってなれるもんじゃねェよ」
そう言いながら大坪刑事は白い手袋に手を通す。それを見て、私もポケットに手を突っ込んで手袋を取り出す。大坪刑事がブルーシートに包まれた遺体に手を合わせ、それに続いて私も手を合わせる。ゆっくりと大坪刑事がシートをめくると、隠されていた遺体が露わになる。私は思わず眉をひそめるが、先程のような気持ち悪さはない。
「見てみろ。こりゃあひでェ」
大坪刑事は遺体の腕を指す。厳密には、本来であれば腕が存在する場所。そこにあるべき二本は存在せず、まるでプラモデルの付属品かのように、足元に無造作に放り投げてあった。
「殺してからわざわざ腕を切断したのでしょうか」
「いいや、生きてるまんま斬ったんだろうな。そうじゃなきゃ、あんな血しぶきが残るわけねェ」
大坪刑事と私は、同時に同じ場所に目をやる。公園の角に位置した、屋根付きの休憩用ベンチ。この公園は、子供がサッカーをするのに不自由ないくらいの広さがあり、また、周囲には遊具や砂場、水飲み場がぐるりと並ぶ。この休憩用ベンチは、大人五六人がゆうに腰を下ろせるであろう十分なスペースがあり、広告看板を兼ねた背もたれから大きめの屋根が突き出ている。その看板から屋根にかけては現在、赤黒い血液で塗りつぶされていた。
「生きた状態で両腕を斬り落としたということでしょうか」
「まあ、そういうことだろうな。鋭利な断面から判断するに、日本刀か何かだろう」
「だとしたら何のために」
「さあ。よっぽど恨みでもあったんじゃねえのか」
そう言ったあとに、大坪刑事は自嘲っぽく小さく笑う。「絶対ねェだろうけどな」
「ありえませんね」
私も、そう強く断言する。恨みによる殺人はありえない―――それどころか、そもそも殺人すら、起こる可能性はほぼゼロであると言って構わないのだから。
「しかしまあ、こんな看板の前で殺しとは、皮肉だよな」
大坪刑事はまじまじと殺害現場を眺めている。真っ赤に染まった広告は、コンピュータ・ブレイン・インターフェイス(CBI)を作っている会社のものであった。黄色い背景に、近代的なグラフィックが施され、でかでかと謳い文句が書かれている。
―――完全なる、調和(ハーモニクス)を。
「コイツのおかげで、殺しどころか、自殺だって激減したってのになァ」
大坪刑事はそう言いながら、右のこめかみのあたりを指で叩く。つられて、私もその辺りをさする。何かが埋まっている、ポコッとした凹凸を感じる。
―――ニューロ・ハーモニクス。
これは、そう呼ばれている。
「大坪さん、笠間さん」
後ろからふと、女性に呼び止められる。私も、横にいる大坪刑事も、振り返らずしてその声の主がわかっていた。
「お疲れ、奥ちゃん。どうしたのォ」
大坪刑事に、奥ちゃん、と呼ばれた奥平は、きまり悪そうに笑いながら
「その、奥ちゃん、というのはどうにかなりませんかね」
「いいだろ、奥ちゃん。可愛いじゃねェか」
奥平は、やはりきまり悪そうにニヤついていた。今年から刑事になった奥平は、私と五つも年が離れていないが、男勝りの職場で女の子扱いを受けることには慣れていないらしい。少し顔を赤くしながら、手元のメモ帳で口元を隠す様子には、はっきりと気恥かしさが伺えた。
「それで、その、今第一発見者から話を聞いてきたところでして」
「その、第一発見者は」
「付近を巡回していた警官です。三時間前に警ら中、この公園で遺体を発見したようです。その時は既に死亡していたようですが」
つうことは、そう言って大坪刑事は腕時計に目をやる。
「今から三時間前って言うと、午前四時半か。朝早くからご苦労なこった」
「大坪さん」
急に、奥平が深刻な面持ちになり、私は少し身構える。何か突拍子のない言葉が出てくるのではないか、そんな気がした。それを感じ取ったのか、大坪刑事も、飄々(ひょうひょう)としたいつもの表情ながら、目だけを鋭くした。
「これは本当に、殺人事件なのでしょうか」
私も考えていたそれ―――ひょっとすると、大坪刑事も考えていたかもしれないそれ―――を、奥平は口にした。大坪刑事は、眉を少しだけ動かして静かに口を開く。
「―――根拠は」
「いえ、単に、殺人事件が起こったということが信じられないだけです。しかも今回の手口では、人を殺すにしてはあまりにも非効率的すぎます。鑑識によれば、恐らく被害者は両腕を切り落とされたあと、失血死したのだろうとのことですから」
「ってえと」
「はい。被害者は、両腕を切り落とされたあと、しばらく生きていました。しかも、両腕を失い、恐らく犯人に抵抗することはできなかってでしょう」
「よほど、怨恨のある殺し方、と」
「ええ」
大坪刑事は、低い声で唸りながら頭をかきむしる。
「ったく、俺だって信じらんねェよ。そもそも、俺たちは、一体何を信じればいいんかねェ」
大坪刑事が最後に小さくつぶやいたのを、私は聞こえないふりをする。
何を信じればいいのか。
私にも、わからない。
大坪刑事は空を眺める。私も、奥平も、つられて目線を上げる。生暖かい水滴が目に入り、私は反射的にまぶたを閉じた。数度目をこすり、また、見上げる。
そこにあったのは、どこまでも灰色の空だ。白と黒の混ざった、どっちつかずの空。白でもない、黒でもない、ただ濃淡のない灰色がどこまでも続いているかのようだった。
何を信じればいいのか、そんなもの、私にだってわからない。何も分からずに、ただ空だけを見上げている。だが決して、私の探している答えが灰色の空から降ってくることはなかった。
◇◇◇
―――さて、この辺で一度「ニューロ・ハーモニクス」については説明を加える必要がありましょう。
現在、日本の人口は約1億人強と言われています。21世紀初頭が1億2千万人ほどですから、減少傾向にはありますね。その全ての人の右こめかみに、小さな装置が埋め込まれています。CBI、いわゆる、コンピュータ・ブレイン・インターフェイス、人間の脳とコンピュータを接続するものでして、技術自体は21世紀初頭には完成していたものです。当初は、全身マヒの患者がコミュニケーションをとるために用いられており、考えていることをパソコンの画面上に表示させる、などといった技術が当時存在していたようでした。これらの技術を進化させ、それから十分に発達していた無線技術を応用し、CBIを統括的に管理して実用化できるようにしたプログラムが「ニューロ・ハーモニクス」です。何が加わったか。今までは、「脳からコンピュータへの出力(アウトプット)」のみが可能でした。しかし、日本政府主導のプロジェクトのもとで「コンピュータから脳への入力(インプット)」が15年ほど前に実現しています。つまり、コンピュータを用いて人々の意識を操作できる、というわけです。意識、といっても、字面以上に大したものではありません。感情をはじめとする低次元の情報しか、操作することはできなかったようです。しかし、当初は、一般市民から強い反発がありました。なにしろ、この技術を用いれば一般市民の大規模同時洗脳が理論上可能なわけですから。従って、政府も「ニューロ・ハーモニクス」の運用を開始するにあたって、用途を「治安維持」のみに限定せざるを得ませんでした。
ただ、「治安維持」といっても、その内容はかなり変わったものになります。すなわち、「ニューロ・ハーモニクス」による「犯罪的思考の制御」。ひいては「感情の最適化」、ですね。これにより、日本における犯罪は驚く程に減少しました。無論殺人も―――
「もういい。もういいぞ、奥平」
二十畳ほどの会議室の一角で、前澤(まえさわ)課長は大きく欠伸をし、涙目のまま奥平に言う。
「そんなこと、ここに居る皆はもう知っている。今回の事件に関するお前の考察まで早送りしていいぞ」
「そ、そうですか」
前澤課長から見て、部屋の対角にいた奥平は、手に持っていた紙の束をせっせとめくる。7枚ほどめくってから、さて、と咳払いをした。私と大坪刑事は、半ば呆れて目を見合わせる。「どれだけ話すつもりだったのだ」と、大坪刑事の目にははっきりと書いてあった。彼女の仕事熱心は取り柄だが、時としてこんな短所になるのだなと、私は脳裏の片隅に書き付けておく。
「奥ちゃん、簡潔に頼む」
大坪刑事が釘を刺す。
「つまりですね、ニューロ・ハーモニクスの監視下で殺人事件は起こりえない、ということです」
「絶対に?」
「絶対に、です」
前澤課長の小さな疑問に、奥平はきっぱり断言する。
「突発的な殺人における恨みや怒り、あるいは計画的な殺人に至る蓄積された負の感情は、ニューロ・ハーモニクスの制御対象です。つまり、私たちの脳内でそのような感情は生じえない。そのような感情が生じなければ動機が生まれない。そして、殺人に至る動機がなければ殺人事件は起こりません」
「なるほど。ニューロ・ハーモニクスの誤作動の可能性は?」
「管理局に問い合わせたところ、被害者の死亡推定時刻にそのようなことはなかったと」
部屋の最も長い距離を往復する議論に、私は横から口をはさむ。ふむ、と前澤課長は黙り込んで、低い声でしばらくうなっていた。
「ちなみに前例はあるのか」
「何の、でしょうか」
「殺人事件の、だ。ニューロ・ハーモニクス導入後の殺人事件の前例は」
「十年間で、殺人事件は10件起きています。いずれも、『ハーモニクスの不調によるもの』だったらしいですが」
「そうか。するとこれが11件目、ということになるな」
前澤部長は再び、長い沈黙に入る。ただ空調機の物々しい音だけが部屋中に響いていた。単調な機械音の中、私は右手のペンをくるくると回しながら、自分の手帳を眺める。ニューロ・ハーモニクスによる制御下での殺人。絶対に人を殺せない心理条件下において、人の命をむしり取る行為。
私の頭をかき乱す疑問は、ただ一つ。
それ―――動機のない殺人は、存在し得るのか。
手帳にかきなぐられた文字の羅列に、この事件の鍵が眠っているのではないか、という淡い希望を抱くが、それらはものの見事につながらない。
しばしの沈黙あって、一番初めに口を開いたのは前澤課長だった。
「とりあえずは、従来通りの捜査をするしかないか」
結局、会議の最後に前澤部長の口から漏れ出したのは、その一言のみだった。その一言に、皆は口々に返事をして会議室を後にする。私も、大坪刑事に続いて席を立った。
「あの、従来通りの捜査とは」
少し離れた席にいた奥平が、小走りで私たちの方へ駆け寄る。
「現場調査、聞き込み、諸々、だな」
「はあ」
やや不服そうに、奥平が首をかしげる。大坪刑事はそれを見て、自分の太ももを二度叩き、そして不敵に笑った。
「奥ちゃん、刑事の基本は、足だ。歩くこと。それが、刑事の仕事さァ」
◇◇◇
外は相変わらずの灰色だった。白くもない、黒くもない、ただの単調な灰色。湿度の高いムワッとした熱気の中を、私は歩き回っている。皮膚にまとわりつくような湿気が鬱陶しく、少し歩くだけで首筋にはうっすらと汗が伝う。顎の下を指でぬぐい、表皮に張り付いた汗を飛ばしながら、私はあまりの不快さに深くため息をついた。
だが、何も不快なのは、この天気だけではない。
しばらく歩き回ったが、現在のところ、事件を目撃した人物は見つかっていない。犯行時刻が朝早いということもあり、もしかしたらこのまま目撃者が出ないのではないかという疑念を、私は密かに抱いていた。こんな曇り空でなければ、もう太陽が頭上に上っていてもおかしくはない時刻ではあるのだが、一向に捜査は進展を見せていない。
私は手近な自販機を探し、そこで缶コーヒーを買う。そしてゆっくりと、スチール缶のプルタブを開ける。小気味いい金属音に続いて、コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔を刺激した。
適当なベンチに私は腰をかけて、私は冷たいコーヒーをすする。
そして250mlの缶が空になるまでのあいだ、私は先ほどの車の中でのやりとりを思い出していた。
「奥平、お前、大学の専攻は」
私の質問に、助手席の奥平は目をパチパチさせて、そして首をかしげながら答えた。
「ニューロ・ハーモニクスを応用した臨床心理学です。あ、笠間さんは分子生物学でしたよね」
「まあ、そうだが。ただ、世間話がしたいってわけじゃない」
奥平は質問の意図を掴みあぐねて、さらに首をかしげた。バックミラーには、ニヤリと口元に笑みを浮かべる大坪刑事が見えた。
「奥ちゃん。その、臨床心理学ってェのの観点から、殺人事件は絶対に起こりえないのか」
奥平は、私の言葉の意味に気がつきハッとしたようで、そのまま間髪を入れずに答えた。
「起こりえない、といって過言ではないと思います」
「あらゆる可能性を検討しても、か」
奥平は眉間にしわを寄せ、うーん、と低く唸った。そして、おっかなびっくり口を開いた。
「可能性は、ゼロではありませんが―――それは、ありえない、と思います」
「どんな些細な可能性でもいい。なにか、あるのか」
奥平はうつむいたまま、渋々と口を開いた。
「その―――人を、何の感情もなく殺すことができれば、殺人は可能かと、思われます」
語尾が尻すぼみになり、奥平の、その可能性に対する自信のなさが言葉からうかがえた。だが、私と大坪刑事にとっては、寝耳に水といったような、新たな可能性の提示だった。私たちの凝り固まった考えでは至らなかった、新たな指標だった。思わず、アクセルを踏む右足に力が入ってしまう。
「説明してくれ、奥ちゃん」
「ええと。先程の会議でも話したとおり、ニューロ・ハーモニクスは『犯罪に直接的につながる感情』をシャットアウトします。感情の最適化機能と呼ばれるもので、これが機能することで、怒り、恨み、憎しみなどの感情―――定義上は、暴力行為や自傷行為につながる感情となっていますが―――それが抑制されます。ですが、殺人と感情の乖離、すなわちそういった感情を抱かないまま人を殺すことができれば、殺人は可能です。正常な思考は、ニューロ・ハーモニクスの制御を受けるわけではありませんから」
「つまり、徹頭徹尾に非感情的な人間なら、殺人は可能ということか」
そこで、奥平は口ごもる。ややあって、奥平は口元を少し歪ませながら、不快そうに言い捨てる。
「でもそんなの、人間ではありません。人を殺すことになんの感情も覚えないだなんて、そんなの―――断じて同じ人間のすることじゃありません」
奥平の口調は、嫌悪感を噛み締めるような苦々しいものだった。その言い方に、私はひどく共感を覚える。
人を殺すということを、正常な思考のもとで行えるというのがどれだけ異常か。正常な思考回路で、日常のあらゆる動作と同等にして人の命を殺める。動機のない殺人。そんなことができる人間がこの世にいるというだけで、背筋に冷たい刀を突きつけられているような気がした。体の芯から凍てついていくような、全身の毛がよだつような冷たさ。身震いしそうになるのを、私は二人に気がつかれないように意識を落ち着ける。
だがきっと、私が今抱いている感情―――恐怖―――も、右のこめかみに埋められたこの装置が、一分もしないうちに消し去るはずだ。なぜなら―――憤慨や私怨はもってのほか、恐怖だって、人間を暴力へ駆り立てる不適切な感情にほかならないのだから。
缶が空くのとほぼ同時に、ポケットの中がせわしなく振動する。そこで私の回想は打ち切られ、仕方なく携帯端末を取り出すと、ディスプレイには奥平の名前が表示されていた。画面上を指でスライドして電話に出る。
どうした、と聞き出す前に、端末の向こう側で奥平が上ずった声で話し始める。
「笠間さん、で、出ました」
息も絶え絶えな彼女の口調から、よほど逼迫している状況がうかがえた。まずは一旦落ち着かせ、何が起こっているのかを確かめる。
「落ち着け。何が、出たんだ」
「か、刀を、持った、その、ふ、不審者が」
そこで私は思わず息を飲んだ。日本刀、となると今回の殺人事件の犯人である可能性が高い。
「状況は。お前は安全確保ができているか」
「は、はい。今不審者の50mほど後方にいます。き、気づかれてはいない、よう、です」
「場所は」
「現場の裏手の、小さい路地です。緑の屋根のアパートの、ちょうど裏のあたりです」
私は場所を確認する。視界の右前方に、緑の大きな屋根が確認できた。
「すぐ行く。お前はそいつから目を離すな」
「あの」
電話を切ろうとした時、奥平が力なく言葉を発した。
「大坪さんと、電話がつながらなくて、それで―――」
「それで?」
「か、刀に―――血が」
一瞬、心臓が大きくはねる。全身から血の気が抜けていき、手先の感覚がすぐに喪失する。なぜ奥平がここまで慌てていたのか、その理由を理解するのに、時間はいらなかった。
連絡のつかない大坪刑事と、刀についた血液―――二つが示す結論は、あまりにも単純だ。
私は電話を切って、次の瞬間には走り出していた。必死に脚を動かしながら、拳銃を携行してこなかったことを後悔して、おもわず舌打ちが出た。
走りながら、私の頭の中には得体の知れない感情が渦巻いていた。恐怖、焦燥感、怒り、その他言葉では言い表せないような、多種多様な何かが、私の大脳新皮質の中でぐちゃぐちゃになっている。赤と、青と、黄色と、緑と、茶色と、それ以外のすべての色も混ぜ込んでパレットの上でぐちゃぐちゃにした時の、黒とは言えない黒い色で、私の脳みそが染められたみたいだった。わけのわからない何かに支配され、私は今動いている。私たちが感情と呼ぶそれが、今の私の駆動力になる。
だがそれも、気がついたときには綺麗さっぱりと―――消える。
動力源を奪われた足が自然と止まる。何のために走っていたのかを次の瞬間に思い出し、私の足はゆっくりと加速をする。
それは突然だった。突然、真っ黒いパレットが白へと変わった。頭の中を専有していた何かが消え失せるが、それが何だったのか、もう思い出せない。幾分か軽くなったような頭で、私は自分に暗示をかける。落ち着け、冷静になれ、と。
目の前の交差点を曲がったところには緑の屋根のアパートが見える。奴がいるとしたらそのあたりだ。私は速度を緩めて、慎重に視界を確認した。今のところ不審者は確認できない。だが、と私は乏しい想像力を目一杯に働かせる。例えば、その角を曲がったところでぱったりと、などとならないように、私は歩調をさらに遅くする。ゆっくりと、忍び足のように。
だが結果として、それは裏目に出た。曲がり角へと差し掛かる前に、建物の隙間からぬらりと影が飛び出す。その影に気がついて身をかがめた時には既に遅かった。
急に視界の右側が赤く染まる。遅れて、焼けるような熱さが側頭部に広がった。それが痛みだと気がつくのに、もう十数秒を要した。
私はほぼ反射的に、声ともならない声を上げて尻餅をつく。そのだらしのない悲鳴のような音は、自分の鼓膜に張り付いた。霞んでいく視界の中で、私は刀を持った人物の姿を捉える。痩身の、若者のような格好をした男だった。その口元は奇妙に震え、歪に笑みを浮かべているのが見えた。右手に持つ日本刀の刀身は私と誰かの血液で真っ赤になっている。
そして男は、そのまま右手を振り上げた。小さな「ため」から、右腕を大きく振り下ろす。そしてそれとほとんどタイミングを同じくして、一発の乾いた破裂音が鼓膜を刺激した。
次に私が見たのは、一面の赤だった。視界は鮮血の赤で一面が染め上げられている。だが、半分は、私のものではない。一瞬遅れて、刀が地面に突き刺さる音が聞こえ、続いて何かが地面に倒れ込む音が聞こえた。私は視界の血をぬぐい辺りを確認する。右耳のすぐ横には赤く染まった日本刀が突き刺さっており、そのすぐ手前には男が横たえていて、そして―――
向こうの方に、拳銃を構える奥平の姿が見えた。
私は息を切らしながら、それでも安堵して息をつく。助かったのだと、私は安心しきっていた。
だが、この時「既に何が起こってしまっていた」かを、私は翌日に知ることとなる。
◇◇◇
葬式、と言われれば必ず思い出す光景がある。
厳密には「思い出す」ではない。「こびり付いて消えない」のだ。
あの日の祖母の顔を、私は一生忘れることはないだろう。
私は、葬儀場から出て小さなベンチに腰をかける。葬儀場のすぐ横にある火葬場では、曇天の下、今もモクモクと煙が上がっている。
あの煙は死んだ人が天国に上っているものなのだと、小さい時に誰かに教えられたような気がする。だとするならば、人の魂は、どこに宿るのか。体が焼かれて骨だけになった時、もうそこに魂は残っていないとするなら、人の魂はどこにある。脳か、心臓か、あるいはその両方か。自分だけで思考を巡らせても、それは全くの禅問答で、答えにたどり着く気がしない。
私は、火葬場の横に目をやる。火葬場の横の、桐の箱。そこで天国への順番待ちをする大坪刑事に、私は黙って目を向けた。
結論から言ってしまえば、大坪刑事は自殺として処理された。
事件の起こったあの日。私と奥平が不審者を追っていたあの日、事件現場近くの街灯で、ベルトで首を吊っているのが発見された。
結局事件性を示す証拠が一切見つからず、遺書も見つからないまま大坪刑事は自殺と断定された。なぜ大坪刑事が自殺をしたのか。その理由もわからず―――そもそも、ニューロ・ハーモニクスに異常が発見されていない事からも、その理由は推測さえ許されず、真相は闇の中である。
だが、と思う。
大坪刑事は、何者かに殺されたのではないか。
大坪刑事は何らかの情報を掴んだ。この事件の捜査中、あるいはもっと前々から、大坪刑事は何かの情報をつかみ、そして目の敵にされ消された。何かの情報―――おそらくは、知るだけで命を奪われるような、そんな情報を。
だとするなら、事件の裏には何かがある。この事件を追うことは、何か大きな母体―――それこそ、国家だとか、その規模の何かを敵に回すことになるのかもしれない。
考えすぎだ。私の耳元で、何かが囁く。だが同時に、直感的に、間違ってはいないのだと確信する。
何を信じていいのか、私にはわからない。
そして、「大坪刑事が何者かに殺害された」という仮定は、もうひとつの疑問をもたらす。件(くだん)の殺人事件の際にも、生じた疑問。
果たして、ニューロ・ハーモニクスの支配下に、殺人が可能であるのか。
そして、その疑問に対する私の答えは―――是、である。
私は遠目に、奥平へと視線を移す。彼女は葬儀場の真っ白な壁にもたれかかって、目元をハンカチで抑えているのだった。泣いているのだろうか―――だからこそ、余計に気持ちの整理ができない。
―――人を、何の感情もなく殺すことができれば、殺人は可能かと、思われます―――
あの日の彼女の言葉が、鼓膜の内側で嫌に響く。
ニューロ・ハーモニクスは、暴力や自傷行為につながる感情をシャットアウトする。その状況がどんなものかは関係なく、「誰かを傷つける」ことに発展してしまいかねない感情を抑制するのだ。
だとしたら、なぜあの時彼女に引き金が引けたのだ。
あの時、奥平が放った38口径の弾丸は、男の頭蓋を食い破った。その行為自体は全く正当防衛であり、何ら違法性はない。むしろそれがなければ、私は今生きてはいないかもしれない。
だが、問題はそこではない。状況の如何(いかん)はあれ、彼女はニューロ・ハーモニクスの制限下に人を殺した。暴力につながるすべてが抑えられ、感情が適切に調整された中、彼女は引き金を引いたのだ。
考えすぎだ、そう思いたい。だが私の脳みそは動くことをやめない。
この時代において、人を殺すことは極めて難しい。殺人において最も重要なプロセスである「動機」は、私たちの脳内に生じえない。完全なる調和(ハーモニクス)の下に生きる我々では。
しかしながら、この「動機」というプロセスを省略してしまえるならば、人を殺すことは、実に容易い。
そして誰もが、このプロセスの省略を出来るわけではないのだろう。理由なく人を殺す「特異性」など、誰もが持つわけではない。だが、これらの事件に全て絡む者で、少なくとも一人―――彼女はそれを証明してしまった。
私は頭を振って思考を振り払う。しかし、こびりついた黒い思考は、剥がれ落ちることはなかった。
深く息を吐く。消えない愚考を吐き出すつもりだったが、相変わらず頭は重いままである。
「おじさんは、かなしくないの?」
ふと耳にした声に、私はぐるりと見回す。いつの間にか、そこには礼服に身を包んだ少年が佇んでいた。目元を真っ赤に腫らしたまま、少年は口を開く。
「おじさん、なんでないてないの?」
その言葉に、私は周囲に目をやる。
皆、泣いていた。目を腫らして。鼻水を垂らし。嗚咽を漏らしながら。皆、同じ顔で、悲しそうに泣いていた。皆がそれぞれ、ただ悲しそうな顔で。皆が皆、同じような表情を浮かべて。その中心で、私はひとり佇んでいる。私だけ、頬を濡らさずに佇んでいる。
背筋に冷たさが走った。その異様な光景に、全身から血の気が引くのを感じる。
そして同時に、私は思い出す。
脳裏に焼き付いた、祖母の表情を思い出す。
祖父の葬式で、とまどう私と、泣き崩れる母の横で。
祖母は―――笑っていた。
祖母は笑っていた。頬を濡らし、まぶたを赤く腫らしながら、くしゃくしゃに、笑っていた。笑って「私が頑張らなくちゃあね」と言った。ぶるぶると、震える声で。そんな祖母の頬を、また一滴の粒が横切った。
あの時の祖母の心情を、私は推測することができない。
何を思い、何を感じ、何を考え、そして笑ったのか。様々な感情が同居するような顔で、祖母は、何を。
だが、ここは、なんだ。
これは、なんなのだ。
皆が皆、悲しそうな顔をしている。一寸違わず、悲しいような表情を浮かべる。
ここに居る人間全ての感情を、私は当てることができるだろう。
悲しいのだ。人が死んで、悲しいのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
頬を伝う汗が、異様に冷たい。
その疑念は、徐々に私の思考を蝕む。水に垂らした一滴のインクのように、少しずつ、だが着実に私の正常を犯す。
私達の感情は「適切に調整」されている。
じゃあ―――これは、なんだ。
私には、訳がわからない。今までに、こんな疑問を抱いたことがない。私がおかしくなってしまったのだろうか。それとも、この世界は初めからおかしかったのだろうか。
「笠間さん」
突然の声に思わず飛び上がる。奥平は不思議そうに、私の顔を覗き込んだ。
「何をやっているんですか。冷えますよ、帰りましょう」
ああ、と気のない返事をするのが今の私には精一杯だった。動揺を悟られないように、私は静かに目をつぶった。
しかし、消えない。
黒が、消えない。
じわじわと広がり、そしてやがては飽和してしまう、なにか黒いもので、私が満たされつつある。
私は思わず、右のこめかみを手で押さえた。そしてそこが、真っ平らであることに気がつく。ここにあったものは、今はない。
はっと、息を呑む。
わからない。
私だけが、気づいているのだろうか。
完全なる調和(ハーモニクス)―――高度に進んだ科学技術は私たちに革新をもたらし、私たちは楽園(エデン)の住人になった。争いのない、人の死なない、綺麗な世界。
訪れた、新時代。だが。
この世界には、何かが足りない。かろうじて知覚できるその事が、今の私には何よりも恐ろしいのだ。
He that knows everything doubts everything.
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
後々、気が向きましたら、この世界観を共有させて別作品を書いてみたいなあと(今のところは)思っております。
たまたまお目にかかりましたら、是非お読みくださいまし。