The biggest liar in the world is Our Spirits.
前作『He that knows everything doubts eyerything. 』→http://slib.net/22098
の続きになります。
一応このお話単体でも読めるようになってますので、ぜひどうぞ。
この世界の人間は臆病だ。
私はそのことを知っている。
この世界の人間は卑怯だ。
私はそのことを知っている。
この世界の人間は馬鹿だ。
私はそのことを知っている。
この世界の人間は、『本物』と向き合うことを恐れて、ついには『本物』を捨てた。『本物』に苦しめられるよりも、『偽物』に囲まれて生活することを選んだ。
その結果、この世界には『偽物』が溢れた。偽物が、偽物を作り、そして偽物の目で評価する。『本物』をどこか遠いところへ捨て去って。
臆病だ―――人間は『本物』に目を向けることができなかった。
卑怯だ―――人間は『本物』を隠した。
馬鹿だ―――私たちは、人間は、『偽物』になってしまった。
「世界を変えたいと思わないか」
目の前で、知らない男がそう言った。私は通報すべきかどうか迷ったが、その男の眼差しがあまりにも真剣だったので、携帯端末から指を離した。
射抜かれたのだ。簡単に言って。
秋の終わりの、肌寒いある日。その一言が、始まりだった。
◇◇◇
窓の外を覗き込むと、いかにも12月らしい、寒々とした真っ白い天気だった。道を行く人たちはそれぞれに肩をすくめたり、マフラーに首をうずめたりしながら、体の熱が逃げないようにして歩いている。ガラス一枚隔てた向こう側は手がかじかむほどの寒さで、私はそれを、温々と暖房の効いた教室から眺めていた。
まるでこの世界みたいだな、と私は思う。そう思って、あまりにもくだらなくて小さく笑った。
このガラスの向こう側に何があるのか。
私はそれを、まだ知らない。
ガラガラ、と教室のドアがあき、吉岡先生が言い訳をしながら入ってくる。
「ごめんな、職員会議が長くなってさ」
構いませんよ、私はそう言って椅子に腰をかけ直す。吉岡先生は私の向かいに机を合わせて座る。大きめの教室の隅っこで、二人が小さく向かい合って座っていると考えると、なんだかそれもそれで絵になるような気がした。吉岡先生は机の上に数枚紙を乗せて、そして神妙な面持ちで話し始める。
「今日、お前を呼び出した理由、わかるか」
どうせ進路のことだろうと、私は適当に当たりをつけながらしらを切る。「わかりません」
「昨日出してもらった進路希望届けの事なんだけどな」
ほら来た、そら見ろ。私は目だけでそう言い、努めて口は動かさずに聞いていた。吉岡先生は私の前に一枚の紙を差し出す。そこには私に名前と、大きな丸印が書かれていた。
『氏名 楢島(ならじま)ヒロミ』
『希望進路 未定』
「うちの学年でな、お前だけなんだよ、未定。他はな、皆大学進学とか、そうでないやつも就職とか、自分の考えを持ってるんだよ」
吉岡先生は平坦な声の調子ながらも、早口でそう言った。私はできるだけ感情が出ないよう、そっけなく答える。「そうですか」
私の返答を聞き、吉岡先生は小さくため息を吐く。
「楢島」
「なんでしょう」
「お前はもう、高校二年生だ」
何をいきなり、と思いながら答える。「知っています」
「もう自分でいろいろ考えられる歳だ」
「ええ、そうかもしれません」
「何かやりたいことはないのか」
「いえ、特に」
私の言葉に、吉岡先生はギュッと噛み締めながらうつむいた。うつむきながら、少しずつ言葉を探しながら、まるで初めて言葉を覚えた子供のようにしどろもどろに話し始める。
「お前の、お前の成績なら、大学だっていけるはずだ。その、なんだ。俺は正直、お前なら、レベルの高い大学だって、その気になれば狙えると、思っている」
この人は言葉を選んでいる。一番言いたいことを直接にぶつけず、遠回りしながらでも、なんとか私に届く方法を探っているのだろう、そう思った。
吉岡先生の言うことはきっと嘘ではない。私の成績はそこまで悪くはないはずだし、一応真面目に勉強もしている。だが私は、今の率直な気持ちを述べる他ない。
「興味ありません」
そう言うと、吉岡先生はカウンターパンチを食らったかのように、一瞬がっくりとうなだれた。そしてすぐさま、体勢を整えて復活する。
「夢は、お前の夢はなんだ」
まるでみんな夢を持っていなければいけないかのように、吉岡先生は言う。その言い方が少し面白くなくて、私はちょっぴり顔を歪めた。そして今度は、ほんのちょっとの悪意を込めて言う。
「夢は、ありません」
吉岡先生は、今度こそノックアウトだった。悔しそうな表情をいっぱいに浮かべ、眉をひそめている。私はまるで自分が勝ったみたいな優越感にひたり、口の奥の方で小さくほくそ笑んで、そしてそのあとで自分の小ささにちょっぴり悲しくなった。
それから二、三言交わして、私は教室を出た。「友人関係は順調か」とか「学校は楽しいか」とか、なんてことのない他愛のない会話を交わした。
だが最後に、吉岡先生は聞いた。
「家庭に、問題はないよな」
彼からしてみれば、本当になんてことのない質問だったのだろう。それこそ、友人関係や学校に関する質問と同列に扱える程度には。だがその質問だけは、私の心の、どこかカサカサする部分に引っかかった。触れて欲しくない部分を、吉岡先生の質問は軽くかすめていった。
肋骨の内側で、大きく心臓がはねる。
だが私は、『偽物』の笑顔を作り、精一杯に答えた。
「ええ、なんにも問題ないですよ」
私は駆け足気味に教室をあとにし、そのまま一気に一階まで下る。自分の下駄箱からローファーを取り出し、放り投げ、代わりに内履きを下駄箱に押し込んだ。ローファーに両足を突っ込んで私は外へと飛び出す。そのまま勢いで数歩足を進め、やがて立ち止まる。白い吐息が、乱れたリズムで大気中に拡散していった。
嘘はついていない。
吉岡先生に明かしたことは、全て事実だ。
目標はない。夢もない。進むべき道だって見つからない。ああでも、やりたいことがないといったのは少し嘘になるのかもしれない。最近、少しずつ見えてきたような気がするのだ。
それから、友達ともうまくやってるし、学校に来るのだって、まあ、苦痛というほどではない。
そして、家庭内に、問題はない。
私は、最後の一言を自分に言い聞かせるようにつぶやく。呟いて、奥歯の方で噛み締める。
今から家に帰る。
まだ心臓は、高く鳴っている。
◇◇◇
雪道を20分ほど歩き、私は玄関の前に立つ。呼吸もすっかり落ち着き、心臓も静かに鼓動を刻んでいた。私はドアノブに手をかけ、少しためらう。吉岡先生の言葉が、鼓膜の奥で再生される。
―――家庭に、問題はないよな。
「ない」
小さく呟いて、私はドアを一気に引く。少し驚いたようにドアが開き、金具の擦れる音が遅れて聞こえてきた。
「ただいま」
私が小さく言うと、奥の方から母の優しい声がする。「おかえりなさい」
その声を確かめホッとして、私は階段を上り自分の部屋へと向かった。途中、甘ったるい砂糖とバターの香りが鼻腔をつつく。
「おやつのマドレーヌ、私の分も残しておいてね」
階段の上からそう言うと、数秒遅れて奥のリビングから声が返る。
「―――取りに来なさいよ」
ばれたか、そう言って顔をしかめる母の様子が目に浮かぶ。その様子が少し可笑しくて、思わず笑みがこぼれた。
部屋の扉を開け、スクールバッグをベッドの上に放り投げて、私は机の上の端末の電源を入れる。遅れてハードディスクの回転する音が響く。随分型の古いものだし、同級生は皆、バーチャルディスプレイの最新型を使うが、私はこのパソコンが気に入っている。速度なら最新機種にも負けないし、それに、こちらの方が何かと都合がいい。
「さて、おやつの前に一仕事しますか」
私は宙に向かって話しかける。当然返事は返ってこない。
やりたいことが、ようやく最近見つかった。いや、厳密には見つかったような気がする、というだけだが。もちろん、こんなこと担任の吉岡先生に言うわけにはいかないし、母にだって、父にも打ち明けることはできない。しかし、自分の行方はこの先にあるような気がしている。この道を進めば、いずれ『本物』に出会えるような気がするのだ。『偽物』ばかりのこの世界で。
Case:011―――半年前、この街で起きたある殺人事件を、私は追っている。
Case:011とは、警察内での通称である。ニューロ・ハーモニクス導入後11番目に起きた殺人事件であることから、そう名付けられた。ハーモニクスの導入からもう十年になるから、一年におよそ一件という、世界的に見ても驚異的な少なさである。これには、少々秘密があるのだが。警察内の資料では、被害者は会社員、安井康夫(やすいやすお)。両腕を鋭利な刃物で切断され、失血死。現場の写真が添付してあったが、まあ、正直見ていられたものではなかった。
この事件には不可思議な点が三点あった。
一点目。犯行時刻当時、ニューロ・ハーモニクスのシステムに何ら異常が生じていなかったこと。ニューロ・ハーモニクスは、私たちの脳内をコントロールして、あらゆる暴力行為へとつながる感情を消し去る。それが正常に機能していたということは、つまり、犯人は正常な思考回路―――ハーモニクスによって調節された感情―――の下で殺人を行ったということだ。
二点目。犯人と思しき人物は、既に射殺されていること。報告書によると、どうやら犯人は刑事を襲い、それを目撃した別の刑事が発砲したという。
三点目。に触れる前に、少し述べておかなければならないことがある。
なぜ私が、警察内部の情報を持っているのか。
答えは簡単、頂いたからだ。ただし、正規ではない方法で。
今の時代、各省庁や国家機関のサーバーは強力なプロテクトロボットに守られている。従ってハッキングやクラッキングは不可能だ、と言われている。
が、私にとっては、なんてことはない。むしろ、セキュリティがロボットであるだけパターン化されて単純に思える。なので、この前県警や警察庁のサーバーに忍び込み、これらの資料を頂戴してきたのだ。
そしてその際にひとつ、気がついた。
三点目。政府中枢のサーバーに、Case:011の資料が存在していたこと。さすがにこちらはセキュリティが突破できず、存在を確認したのみであるのだが。しかし、一介の殺人事件のデータがなぜ政府のサーバーに存在するのか、その理由は多くを推測に頼ることとなる。
例えば、と私は頭をフル回転させる。
例えば、この事件の犯人は政府関係者である、とか。総理の息子が殺人事件を犯しました、なんてことは絶対に世間には公表されないだろうから。でもまあ、常識的にその可能性は低いなと自己完結する。
例えば、ニューロ・ハーモニクスに深刻な欠陥が見つかり、今回の事件はそれが何らかの形で関与している、とか。おお、これはありそうだぞ。そもそもハーモニクスは政府の管轄だし、今回何ら異常が発見されていないということも、もしかしたら政府が隠匿しているのかもしれない。
しかしながら、証拠がないことにはこれはただの少女の妄想である。机上の空論、ならぬ、頭上の空論。ちょっと違うかもしれないけれど。
証拠、とは何を集めればいいか。非常に単純な答えに、私は一週間ほど前にたどり着いた。
政府のサーバーのデータを、今度こそ直接覗ければいいのだ、と。
私はキーボードをリズミカルに叩く。五行程の命令文を入力して、私は少し息をついて目を瞑る。瞑想をはじめる。何事でもイメージトレーニングは大事だ。
真っ黒い無機質な空間に、自分自身の電脳体を思い描く。
私は今、入口にいる。RPGで言うところのダンジョンの入口にいて、この先にセーブポイントはない。
ここで私がしなければいけないことは、あらゆるセキュリティを回避し、政府のネットワークの最深部に潜り込んで目的のファイルを入手し、そして同じように無傷で戻ってくること。
ここで私がしてはいけないことは、足がつくこと。この一点。セキュリティにはじかれるだけならまだしも、こちらのIPアドレスも割れてしまえばおそらく次はない。
もう一度息を吐く。いつの間にか鼓動が早くなって、手にはやんわりと汗が滲んでいる。
行くぞ。私は自分自身に問いかける。
―――行けんのか。
「行ける」
自分に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でつぶやき、私は目を開けた。
国家機関VS女子高生。
カードとしては悪くない、そう小さく笑いながら私はキーボードに手を伸ばした。
◇◇◇
リビングのドアを開けると、砂糖の甘い匂いが鼻をつき、私は引きつられるようにテーブルに腰をかける。ひとつため息を吐いてから立ち上がり、冷蔵庫から牛乳パックを取り出してお気に入りのマグカップになみなみと注いだ。再びテーブルへと向かい、丁寧に置かれたマドレーヌの袋を開ける。封を切った瞬間に拡散する甘い香りが、胃の底を刺激し、思わずよだれがたれてしまいそうだった。
黄色っぽいふわりとした生地に、私はがぶりとかぶりつく。少しパサパサとした食感とバターの香りを口の中で転がし、牛乳を流し込む。焼き菓子の甘味と牛乳の冷たさが一緒に喉を通る。
口の中のものを飲み込み、私は一息をついた。
「仕事終わりにビールを飲むお父さんみたいよ」
キッチンから母が茶化してくる。そう言われて、冷蔵庫の前で缶ビールを流し込む父の姿が思い出され、私は思春期特有とも言うべき嫌悪感に襲われた。「ちょっと、やめてよ」と口にはしながらも、あの時の父の気持ちもわからないものではないなと、私はひとりでに納得する。もうひと口マドレーヌにかぶりつき、再び牛乳をすすった。
「なんかひと仕事終えてやった、みたいな顔してるわね」
母はキッチンでリズミカルに大根を刻みながら言う。
「そうかな」
「そうですとも」
何年あんたのこと見てると思ってるのよ、そう言ってキッチンの母は微笑んだ。私もつられて笑う。暖かな時間がこの部屋を包み、私は最後の一口を流し込んで立ち上がった。
「行ってくるの?」
「うん。ご馳走様。行ってくる」
気をつけるのよ、そういう母の声を背中で聞いて、私は一旦部屋へと戻り、制服を脱ぎすてる。そしてタンスにしまってあるジャージに着替えて、音楽プレーヤーをポケットに突っ込む。イヤフォンを耳に差し込み、私は再び階段を下り、運動靴を履く。そのまま玄関を開けると、外は先ほどよりも真っ白だった。
「行ってきます」
私は暖かな室内にそう言い残す。耳に差し込んだイヤフォンのせいで、中から返事があったかどうかはわからない。
雪の降る中を、私はテンポ良く駆け抜ける。雪を踏むしゃくしゃくとした感覚が靴底から伝わってきて、私はそれをしっかりと踏みしめるように、一歩、また一歩と足を出す。
家を出て、小道を数回曲がると大きな通りに出る。通りを駆け抜けしばらく走ると、遠くに橋が見えて、さらに走ると河川敷の長い遊歩道にたどり着く。いつものランニングコース。中学生の頃から一度も欠かしたしたことのないこの習慣は、今ではすっかり生活サイクルの一部となっている。こうやって息を切らしながら走っているといろいろなことが忘れられて、ただ走ることのみに没頭できる。私はこの時間を気に入っていた。いつもは茶色くて見栄えのよくないこの道も、今日はすっかり雪化粧をして白く輝いている。
こうしてしばらく走っていると、やがて河川敷の広場が現れる。普段はウォーキングをする人たちがストレッチをしたり、家族連れが犬と戯れていたりで何かと賑わっているのだが、こうも雪が降っていると人の影はまばらだった。私はベンチの上にジャージ姿の男の影を見つけて、駆け寄る。
男は頬杖をついて、何やら物思いにふけっているようだった。こんなに雪の降る中一体何をやっているのだろうと気になって、私は男の様子を黙って見ていた。この男の頭の中では一体、どんな不可解な事象がぐるぐると回っているのだろうと、私はしばしば疑問に思う。
しばらくして、男がこちらの影に気がついてにこりと微笑んだ。
「やあ、待っていたよ」
男はそう言って、ベンチの上の雪を払う。その上に私は腰を下ろして尋ねる。
「寒くないの」
「いいや、全然」
男の声は少し震えている。よく見ると、男の頭の上には少し雪が積もっている。すべての光を吸い込むような真っ黒い髪と、混じりけのない雪の白さが、男の頭の上で二層をなしていて、私にはそれが可笑しくてたまらなかった。
「君こそ、肩が震えているよ」
「違うのよ、これは笑っているのよ」
男は不思議そうに首をかしげて、ふーん、と唸る。どうやら彼には、自分が笑われているとは皆目見当もついていないようであった。
「ねえ、本題に入る前に、ちょっと付き合って欲しいのだけれど」
私が笑うのをやめてそう言うと、男がニヤリとする。そう言うと思った、男はそう小さく呟いて私の方へ丸い塊を投げる。放物線を目で追って私はそれを捕まえる。厚手の軍手がひと組、丸められていた。
「寒いし、拳を痛めたくないならそれをつけるといいよ」
男の言葉に従って私は両手に軍手をはめる。そして小さく肩を回し、息を整える。男も少し腕を伸ばしてストレッチしていた。
「いいかしら」
私は両手を前に構える。
「いつでも」
男もファイティングポーズをとる。
その一言を皮切りに、私は頭の中を切り替える。小刻みに息を吐き、ステップを踏んで足元の感覚を確かめる。
左足を小さく踏み込む。腰を入れる。小さく息を吐く。そのまま右腕を押し出す。
右ストレート。
右腕は思い切り空を裂く。
ボクシングは、ニューロ・ハーモニクスの登場とともにすっかり廃れてしまった。
理由は恐ろしく単純だ。人を殴ることなど、私たちを支配するそれは許さない。
ニューロ・ハーモニクスは、人を暴力行為へ駆り立てるあらゆる感情を抑制し、制御する。私たちの右こめかみに埋められた小指の爪大の装置によって、我々は一切の暴力行為を禁じられた。いくらスポーツだと知っていても、他人に拳を向けるために必要な敵意を、私たちは維持できない。無論、無感情で人を殴ることなど、滅多にできることではない。
でも私にはそれができる。
だから、追求してみる価値があると思ったのだ―――。
一撃目を見事に躱(かわ)し、男は少し間合いを取る。私は小刻みに男との間合いを詰め、腰を切りながら左手を軽く伸ばす。ジャブ。外れる。再び間合いを詰め、ジャブ。届かない。もう拳一個分。
私のような人間を、『特異体質』というらしい。
医師曰く、ニューロ・ハーモニクスの制御を受けにくい人間が、稀ではあるがいるらしい。私もそのひとりということだ。感情の起伏が人よりも小さいため、ハーモニクスが作動しにくいということだ。もちろん、激烈な感情が起これば装置は正常に作動するのだが、そもそもそこまで大きな感情が芽生えること自体、『特異体質』の人間にとっては稀なことであるようだ。
それでも、私にだって感情はある。嬉しければ喜ぶし、悲しければ涙を流す。どこにでもいる、多感な思春期の女子高生だ。
そう言ったら、医師はこう返した。
―――それは、『偽物』だと。
私の言うところの、私の中に芽生えている感情は、実は本来の感情ではないらしい。私の場合、感情は理性が司っている。どんな人間が、どんな条件下で、どんな感情を抱いていれば最も適切であるか、私は無意識下に考えているというのだ。動物的に、本能的に生じる感情とは根底を異にしている。徹底的に理論的で冷徹。医師は、少し申し訳なさそうに言った。
―――どうしてこうなったか、心当たりはないか?
私は少し考えて、こう言った。
「ありません」
男が再び下がって間合いを取るので、私は急激に間合いを詰める。どんなに男の間合いに入っても、男は反撃もしてこない。当然だ。彼もまた『特異体質』ではないのだから。そして、先ほどよりも拳一つ分踏み込んで、ジャブ。男のガードにかする。行ける、そう確信する前に、反射的に体は次のアクションを始めていた。腰を入れ、そのまま渾身の右ストレートを男に向けて放った。
意識よりも早く体が動く。既に直線を描いている右の拳を、私の知覚神経はコンマ数秒遅れて捉えた。
だがしかし、私の拳は男のガードに阻まれて止まる。
ビリリとした振動が拳を伝わった。
それからしばらくこれは続いた。時が経つのも忘れて、やがて私は息を乱しながら雪の絨毯の上に体を放り投げた。対して男は、にやけながら軽く息を上げるくらいで、全く平気な様子で言った。
「いやあ、三週間でこの上達はすごいよ」
「・・・本当に?」
「ああ。元プロの僕が言うのだから間違いないさ」
全く、と思う。私の渾身のストレートは全てこの男のガードに阻まれ、ついに男に届くことはなかった。何事もなかったかのように平然と佇んでいる男を見ると、さすが、と思うのだが、それよりも雪の上で息を切らしている自分がなんだか情けなくなる。
そんな思考から逃げるように、私は空を見上げる。目に映るのは、白く霞んだ私の呼気と、自由落下する雪の結晶と、どこまでも続く灰色の空だった。 どこかで見たことのある空だと、私は記憶を隅のほうからつついていく。いつもこんな曇り空だったような気もするし、そうでなかった気もする。やがて私は、一つの記憶にたどり着いた。
そういえばあの日も、こんな曇り空だったと思い出す。
―――世界を変えたいと思わないか。
男は―――今、私の目の前にいるこの男は―――真剣な眼差しで私に問うた。それが私とこの男のファーストコンタクトであり、私は警察に通報する一歩手前で、携帯端末にかけた指をおろした。
そして私も、男に問うた。
◇◇◇
「今でも、世界を変えたいと思っているの?」
急に言葉を投げかけられて、男は不意打ちを食らったように驚く。
「・・・そうだね。思っているよ」
「世界を恨んでる?」
私の質問に、男は渋い顔をする。一度だけ聞いたことがある、この男の動機。
「少しだけ、ね」
この世界は男から、ボクシングと家族を奪った。
ニューロ・ハーモニクスは、あらゆる暴力行為を許可しない。それは当時売れっ子だったプロボクサーにとっても同じことであった。仕事を失い、自暴自棄になっていたこの男に、妻は愛想を尽かして出て行ったらしい。そこでようやく、自分が何をしなければいけないのか、初めて考えたということだ。
そしてたどり着いた答えがこれ。言ってしまえば、反社会的活動。革命、と言いかえてもいいと私は思うのだが、そう言うと男は必ずこう答える。
―――僕は、世界に対して疑問を投げ続けているだけだよ。
「でも、今は君がいるからね」
男がそう言うので、私は首をかしげる。男は続ける。
「世界は、ちょっとはいいものじゃないかって思うようになった」
「やめてよ、聞いているこっちが恥ずかしくなる」
私は冗談を取り合うかのように返す。少し顔が赤くなっているのも先程までの運動のせいだと、自分に言い聞かせた。そして、以前問うたのと同じことを聞く。
「世界は変えられるの?」
「さあね」
男の返答は、前回のものと同じだった。だがより神妙な面持ちで、彼は言葉を続ける。
「前まで、僕はただの無力な人間だった。ハーモニクスに全てを奪われたような気がして、むしゃくしゃしたりもしたけど、結局自殺もできない、かと言って国家に拳を向けることもできない、無力な人間だった。僕の拳は奪われてしまった」
男の声に寂しさが乗る。彼の寂しさに共鳴する。だがこれも『偽物』だと言われてしまえば、私は―――。
「だが今は君がいる。僕は、失くした拳を手に入れた」
男はそう言って、こちらを向いて微笑んだ。私の心臓は少し驚く。
「今度こそ、これでこそ、僕は大きなものに抗える」
自分のことを無力な人間と言ったこの男を、私は心の内に否定する。この男は無力なんかでない。無力な人間が、こんな真っ直ぐで力強い目をするはずがない。そう言ってあげたかったけれど、言葉にすれば白くなって霧散してしまいそうで、仕方なく喉の内側に秘めておく。
「君は?」
男が急に聞いてくるので、私は意味が理解できずただ息を吐きだしたままでいる。すぐさま男は続ける。
「君の、闘う理由を、僕は聞いたことがない」
「そんなに―――」と言いかけて言葉につまる。少し息をついて、もう一度言う。
「そんなに大したものじゃないわよ」
「それでも聞きたい」
「拳が動くのに理由なんていらないわ」
「必要だよ。確かに君は僕の拳だといったが、君は意志を持った人間だ。体である僕が拳を振るえといっても、どうするかは、拳である君が決めればいい」
参ってしまった。それ以上反論が思い浮かばないので、私は男の押しに屈して話すことにする。
この話は、今まで誰にもしたことがない。
「わたしは、この世界で『本物』を探しているの―――」
◇◇◇
例えば、私の目の前に女の子がいるとする。
私はこの女の子頭を撫で、可愛いと連呼するのだと思う。その程度には、母性本能だって私の中に存在している。
だが果たして、それは『本物』だろうか―――『本物』の、私の感情なのだろうか。
もしかしたら、私は思わず手を上げてしまうほど子供が嫌いなのかもしれない。そんな感情を、ハーモニクスが無理やり消去しているのかもしれない。かもしれない、というのは、私は6歳の時にインターフェイスを埋め込まれて―――つまり、ニューロ・ハーモニクスの支配下に置かれて―――いるので、私が生来子供好きなのかどうかを判別する方法はない。ハーモニクスによって支配された『偽物』の私が、子供好きであるというだけだ。
世界は、観測者がいるから存在する。誰もが己の目を通して世界を観測し、自分の魂を通して世界を識別する。
だが、この世界の観測者たる、己の魂は、何者かの介入を許した。私の中に芽生えた感情は、自分のものだと証明できない。それはもう、自分のものではないのと同義だ。
『偽物』であるのと同義だ。
「だから私は、『本物』を探しているの。利害は十分に一致するわ」
男は深刻な表情で聞いていた。私の話が終わって、男はゆっくりと口を開く。
「君は―――今まで、どんな世界を見てきたんだろう」
思ったことがそのまま口に出てしまったような調子で、男はどこか遠くを見つめながら口を動かす。
「世の中の、大多数といって過言でないほど多くの人間は、そんな疑問は抱かないのだろうね。恥ずかしいことに、僕だって気にしたことはなかった」
私は沈黙を返す。
「ひとつだけ教えてくれ」
「何なりと」
「君は、おそらく子供の頃に、何か見てるんだね」
すべてを見透かさんばかりの真っ直ぐな瞳で、男は質問を投げかける。私はただ、すべての思考を消して、荒ぶる心臓を押さえ込んで、答える。
「―――地獄よ」
語彙の選択が、自分でもあまりに的確すぎるような気がして、喉の奥から笑いがこみ上げてきた。
十年前、私が6歳の頃―――楢島家は、地獄だった。
父は母に暴力をふるい、それでも飽き足らずに私を殴ったりもした。家庭内には泣き声と怒号ばかりが飛び交い、ただ一つとしていいことなんてなかった。私は毎朝父が起きていないのを確認して、飛び出すように家を出た。入学したてだった小学校に毎朝走って行き、帰りは存分に道草を食ってから忍び込むように家に帰った。家ではやはり、父の罵声と母の悲鳴だけがわんわんとやかましく飛んでいた。両耳を塞いで夜を明かし、また朝になれば学校へと逃げ込んだ。学校へ行っても、悲しい顔なんか一つも見せないで、喜怒哀楽豊かに振舞っていた。思えば、この時に『特異体質』の芽は出ていたのかもしれない。
だがある日、我が家に政府から一枚の通達が届いた。
『ニューロ・ハーモニクス導入に関わる処置のご案内』
あの日を境に、家庭内は一変した。
母はあざの残る顔で笑っていた。父は無精ひげをはやしながら笑っていた。そこに怒号や泣き声は一切なく、あたかも数年前からこうでしたと言わんばかりに、微笑ましい家庭の光景がそこにあった。我が家に、平穏がやってきた。
だが私の心中は穏やかでなかった。
背筋をまるごと覆い尽くしてしまうかのような寒気が走った。なぜ父は怒っていないのか。なぜ母は泣いていないのか。なぜそんな笑顔で割れた酒瓶を片付け、壁に空いた穴を修理しているのか。こんなにも変わってしまったのにどうして誰も気がつかないのか。私には全くわからなかった。
だが、それを誰にも気づかれないように、私も笑った。
『偽物』の笑顔を浮かべた。
すべてを話し終えて、その時初めて自分が泣いていたことに気がついた。慌てて頬を拭う。
男は黙り込んで俯いているが、その口元がかすかに歪んでいるのが見えた。やがてゆっくりと口を開く。
「ハーモニクスを、この仕組みを壊してしまえば、また君は地獄へ戻らなければいけないんじゃないのか。君の家庭は、また―――」
「それでも」私は男の言葉を遮る。
「それでも、こんな『偽物』を見せられているよりずっとマシよ。生きている心地がしないもの、こんな世界」
男は静かに、少し寂しそうに頷く。
「話してくれたありがとう」
「どういたしまして」
そのまましばらく、私も男も黙っていた。耳をすませば、雪の降る音ですら聞こえてきそうな、静かな夕暮れだった。
◇◇◇
そのあと、私は男に目的の物を渡し、家へと戻ることにした。メモリーカードを受け取ると、男は黙ってコクリと頷く。
このメモリーカードには、Case:011に関する情報が、手に入っただけ入っている。もちろんその中には、先ほど政府の中枢サーバーから奪ってきた資料も入っている。
男がこれらの情報をどう使うのか、私は知らない。それに関しては、私は口を挟まない。
私は彼の拳だ。彼の、唯一の武器なのだ。だから、それで誰を殴るのかは知らないでおこうと思う。
私は男に別れを告げて、そのまま帰路につく。テンポよく足を進め、しばらくすればまた額からは汗が伝ってきた。適度に息が上がる。
私は地面を蹴る。地面を蹴るその一瞬ごとに、私は重力から解き放たれ、そして再び捕捉される。何度やってみても、私は私を縛るものから解放されない。進路のこと、家族のこと、その他小さなこと諸々。いつだってそれは私の心を縛り付ける。だからせめて、少しでも抗っていたいと思う。
すべてがうまくいっているように見えるのは、きっとこの世界が『偽物』だからだ。ここは誰かが作った馬鹿馬鹿しい世界で、物事は筋書き通りに運んでいる。けれど、私が見たいのはこんな暖かい世界ではない。『偽物』の暖かさなんていらない。たとえどれだけ冷たいとしても、一瞬垣間見える『本物』の暖かさでも、私はそれに触れたい。
私はこの世界で、『本物』を探している。筋書きのない、『本物』を。
家まであと一キロというところ、遠くに見覚えのある影が見えて、私はイヤフォンを取る。聞きなれた、声が聞こえる。
「ヒロミ」
「お父さん」
私はむず痒さを感じながらも、使い慣れた『偽物』の笑みを浮かべて、父のもとへと駆け寄っていった。
The biggest liar in the world is Our Spirits.
最後までお読みいただき、ありがとうございました。