カメリアと筆跡

1
 この町にはよく霧が出る。
 僕が生まれたところでは一年中太陽が照っていたから、引っ越してきた直後は驚いたけれど、これはこれでと思える程度には、僕もここに馴染んでいるみたいだ。
 霧が濃い街の、とある下宿に住んでいる名探偵が相棒と共に華麗に事件を解決する、そんな推理小説を読んだことがある。外国語を翻訳したもので、学生の僕たちにも読めるような表現で書かれていた。
「実際はこういうふうには書かれていないんだろう」と、口惜しそうにあいつは言っていたっけ。
「いまの僕らが読めるものと、この言葉を使って生活している人達が読めるものは違うんだろうな。……もったいない」
 どうして、と尋ねた僕に、あいつはちょっと笑って、言った。
「僕らは、彼らと同じ風景を見られないから」

2
 考えごとをしながら低速で走らせていた自転車が、ようやく目的の建物に到着する。
 郵便配達員の僕たちは、大雨の日も霰の日も、できる限り配達物を届けるのが役目だ。休日の朝霧の中、犬の散歩をしている人もいないが、静かな町に別世界に迷い込んでしまったようにも感じられて、僕は案外、早朝の配達が嫌いじゃなかった。
 洒落た赤レンガ造りのアパートメントのドアを三回、決まったリズムで叩く。ルイゼはいつものように顔を出してくれた。
 今日の彼女がつけているスカーフは、薄いグリーンに黄色い小花を散らした柄だ。毎日違うものなの、と話してくれてからというもの、僕もその、世界じゅうの花畑を切り取ってきたようなスカーフを見せてもらうのが楽しみになっていた。
 一人暮らし―正確に言うと、小さな犬一匹と一緒に―をしている彼女は、僕たち郵便配達員が来るのを毎回楽しみにしてくれている。さきの戦で、パートナーやきょうだい、子供たちをなくしてから、僕らに休憩を勧めてくれるようになった、と先輩から聞いたことがあった。
 出してくれるのは紅茶とクッキー、マフィン、パウンドケーキ。「休憩」が本格的なお茶会になりつつあったころ、その先輩は彼女に、一つ条件を出したという。お客さんから賄賂をもらっているんじゃないか、と上司から疑われるのは困るし、あなたにも迷惑がかかるからと。
 休憩は、手紙を読み上げる時間として使いましょう。
 あなたは小さい文字を読むのが大変だと言っていたから。
 私達郵便配達員からの、特別なサービスです。
 というわけで、この地域を担当する僕たちは、ルイゼ宛ての手紙を交代交代で読む「サービス」を続けていた。

「今日は税金のお知らせと、形成外科からの連絡と、ツバキさんからのお手紙ですね」
 僕が届いた封書をそう説明すると、ルイゼは目尻にしわをきゅうっと溜めて「じゃあお手紙、読んでくださるかしら」と言った。
 玄関ではなくてもうリビングに通されているし、使い込まれたダイニングテーブルにはティーセットが置かれていたけれど、僕は「勿論です」と元気よく返事をする。
 手紙には、受け取る人と書いた人、それぞれの個人的な出来事が書かれているのが大半だ。単なる配達員である僕たちに代読を任せる、というのは、読ませてもいい、内容を吹聴することはないだろうと、先輩たちがルイゼから信頼してもらった、つながりがあるからで。このつながりを断ち切らないようにしていくのも、僕たちの仕事の一つだ。
 僕は税金と医者のはがきをテーブルへ置き、うす水色の封筒をそっと開けた。綺麗なネイビーの罫線の便箋に目を落とす。

親愛なるルイゼ

 お手紙ありがとう。こちらは雨続きの季節です。あなたの町では霧が絶えないと言っていたけれど、こちらも似たようなお天気が続いています。もう少し経てば、大きなひまわりが咲く季節になります。とは言え、洗濯物が乾かないのは嫌なものです。
 あなたが作ったという新しい帽子、わたしも見てみたいです。あなたは本当に手先が器用ですね。前に作ったと言っていたスカートにも似合うの? あなたもわたしも、目いっぱいおしゃれをして出かけられる場所が増えればいいのに。おしゃれ、派手な色は、悪目立ちしてしまってかないません。こんなときだからこそ、好きな格好をしたいのに。
 例の展覧会の話も、楽しく読ませていただきました。あなた、西部の古典派にも造詣が深いとどうして教えてくれなかったの? 誘ってくれたら良かったのに、なんて、あなたの国へすぐ行ける訳ではないのにね。いつか行くわ、と書いてからもう何年も経ってしまいました。海を渡って行くには、まだお互いに危険が多いですが、近い内に必ず。
 身体にお気をつけて。
 
つばき

「ツバキの国でもひまわりが咲くのね。ふふ、なんだか面白いわ」
 二人分の紅茶を入れながら僕が読み上げる声を聞いていたルイゼは、椅子に腰掛けるとそう笑った。
「たまに図書館へ行って、図鑑で調べるの。彼女の手紙に出てくる花は本当に沢山あってね。想像するだけでも楽しいのよ」
 この町―あるいは国―から、海を隔てて離れた”糸の国”にツバキさんは暮らしているという。僕がこの地域を担当するようになったのは数年前からだが、彼女たちの文通は数十年続いているらしい。
 ルイゼが一度、家族と共に糸の国へ旅行をした際に出会ったのが始まり。ルイゼはツバキさんを「素敵な友人」と呼び、ルイゼ自身はツバキさんから「海の向こうのお姉さま」と呼ばれる仲になったのだという。
「……でも、向こうの国も大変ね。前の手紙で、民間人の渡航制限が出たと教えてくれたわ。文通もいつまで出来るかしら」
「糸の国とは同盟関係にありますから、当分は……」
 裏を返せば、ツバキさんが対立国の人だったら、文通はとっくに途絶えていたということになる。
「ただ、こっちも地域によっては接収が始まっていますからね。緊急性がないものは控えろだとか、便箋に使う紙があったら、だとか、そういう声が出てきても……ルイゼ?」
 彼女はスコーンをつまむ僕の顔をじっと見ている。
「こういうお話し、するのねぇ」と、息を吐く。
「世間話じゃないですか。しますよ、僕もたまには」
「でもね。怒る人もいるじゃない」
「怒る?」
「そうよ、話をするのじゃなく、怒る人は昔からいるものよ。皆が必死に戦っているときに贅沢をするのか、国に逆らうのか、ってね。顔を真っ赤にしてね、怒るの」
 僕が生まれるより前にあった戦で。ルイゼが大切な人たちをなくした戦で、そういうことがあった、ということだろうか。
「……まぁ、人の多い中央ではそうだったけれどね。ここは田舎だから、すぐにそんな風にはならないでしょう」
 僕はよっぽどな顔をしていたのだろうか。ルイゼは元気付けるみたいに言って、帰るときにはお土産にと、スコーンをいくつか包んでくれた。
 僕は次の目的地を目指しながら、ルイゼのことばを反すうする。
 すぐに。
 そんな風には。
 ルイゼへ「サービス」を申し出た先輩は志願兵となって、もう郵便局にはいないことを、今日も彼女に伝えられなかった。

3/date:0628
 今日はコーヒーを上手く淹れられた。それだけで何となく、一日が上手くいく気がする。
 予感というだけ。星占いのようなもの。ルーティーンに変化をつけたくてコーヒーを飲んでいる。
 昼に一度、会館へ顔を出した。最新型のラジオに皆が集まっていた。買ったのは新しいもの好きなヤンだ。電波は新聞よりも情報が早い。印刷物なんてすぐに時代遅れになると言うものだから、あんたが聞いたらどんな顔をするだろうと想像してしまった。
 その「早い」ラジオによると、もう暫く膠着状態が続くそうだ。良くも悪くもならない。お互い、しばらく財布の心配をすることになるだろうな。
 インフレが更に加速するそうだが、いっそもっと田舎に越して自分達で食うものは自分達で作るようにするか。農作業の経験はあるか? 僕はない。もしあったら丁寧に教えてくれると助かる。
 午後一番で、最近とみに名前を聞くようになった若手政治家の演説に出席。席を無理やり埋めることに、政治家先生の自尊心を傷つけない以上の意味があるんだろうか。
 若年層や労働者階級に人気があるらしい。だが一体いつの時代の話をしているんだか。上の人間が顔を立てるために呼んだのか、本気で賛同しているのか読めないのが怖くはある。会員が増えてくるとまとまりが……いや、ここでこんな話をしても意味はないな。
 つまらない、と愚痴った相手の会員も僕と同じ顔をしていた。こんなことに時間を使うくらいなら勉強をしていたい、ごもっとも。
 来週末に支援者集会。場所はこの近くの公会堂。行かないのかと言われたがこういう話には不信感が先にたつ。多分集金目的だろうから行かないことにする。
 帰宅時は濃霧。倍とまではいかないが時間がかかった。夕飯は煮込みが特に美味かった。ありがとう。オイルがなくなりかけていたから明日買ってこようと思う。他に買うものがあればメモを残しておいて。節約は大切だが食事が疎かになってはいけない。健康に無頓着なのは良くない。
 明日は十一時からだから起きるのが遅くなる。食器はこちらで片付ける。出来れば掃除もしておこうと思う。
……手紙なのか日記なのか、自分でもよく分からなくなってきた。
 元々、考えていることを文章で表すのは苦手だ。

4/date:0714
 あんたに一つ謝らなきゃいけない。
 あんたと行くより先に、会員と一緒に博覧会へ行ってきてしまった。
 あんまり込んでいて、展示は碌に見られなかった。目的は見学それ自体じゃない。わが国の技術のご紹介だったから「お客様」も満足していたが、あんたは行く前にもっと下調べをしておいた方が良さそうだ。この前立てた計画には穴が多すぎる。
 行きたい展示の第一候補の他に、代替ルートを三つ程度想定するのが丁度だと思う。休みが被ったら一緒に考えよう。
 お客様と一緒じゃ楽しむも何もない。僕もあんたと一緒に燥ぎながら色々見たいんだ。
 パンフレットに、印刷の歴史という展示があったはず。そこだけは少し時間を取って回ることが出来た。歴史好きにはたまらない内容だったから、候補に加えても良いかもな。
 本の形をしていない海外の古い書物や、今は採掘が禁止されている鉱物製のインクで描かれた百科事典や。粘土板からタイプライターまで、印刷とは呼べないものまであって面白かった(内容を語りすぎてはつまらないだろうが、この位は想像力を掻き立てるのに良いんじゃないか?)。
 印刷技術が発展して、僕らはその恩恵を大いに受けて生活しているが、ふと考えるときがある。
 僕らの筆跡が失われて全てが活字になってしまうのは、味気ないことなんじゃないかと。
 人間の話し方がそれぞれ違うように、筆跡が異なっていることに僕は面白さを感じる。
 あんたの、右上がりを直そうとして途中で上がり下がりを繰り返す筆跡は、あんただけのものだから僕はとても好ましく思う。単語の選び方や改行の仕方だけじゃ伝わらないものを感じる。
 ペンや筆といった道具は肉体の拡張だ。蜘蛛の巣のように広がっていく僕らの痕跡をできるだけ多く残しておきたいと思うことはまるで生存本能の延長のようで、僕は自分の中に生き汚い部分が残っているのを自覚する。他人の手紙の代読をするあんたはどうだ。
 手紙、すなわち他人の思考があんたの中に入り込み、あんたの声を通してあんたの感情が手紙の受取人へ伝わっていく。
 あんたという人間が、世界へ広がっていく。
 こっちに越してからこの方、あんたが属する世界が広がり続けていることを、呼び寄せた僕としては嬉しく思う。
……今日は少し、正直に書きすぎた。
 だからあんたと夕飯を食うにしても、アルコールは嫌なんだ。

5/date:0721
 斡旋のチケットが余ったら例の老婦人へ渡してくれ。何ならまだ余っているから、友人の分も必要かどうか聞いてもらえるとありがたい。そも、会員連中なんて勘当されているか脛に疵持ちかなんだ。捌けなくて当然だ。
 昼、たまたま入ったカフェであの政治家に入れ込んでいる連中に出くわした。こっちの顔は把握されていたんだろう、名前も筒抜けだった。念のためカフェの住所を教えておく。なるべく利用したり近付いたりしないようにしてほしい。
 僕とあんたの繋がりは会員達にも伝えていないが、気を付けるに越したことはない。折角あんたが楽しく仕事できているんだ。台無しにされたら勘弁ならない。
 偽名で良かったと思うのはこれが初めてじゃないが、もし本名まで把握されていたらと思うとぞっとする。
 あんたも知っている通り、僕の苗字は地域に固有のものだ。縁を切ったも同然の家族だが、むやみに危害を加えたい訳じゃない。勿論あんたにも。
 会員のたった一人にでもあんたの存在が知られることが、僕はこの世の何よりも怖い。
 自分が属している集団(組織、と呼べる程のものではない)が社会や世間と呼ばれるものからどういう目で見られているか、十分に理解しているつもりだ。
 だがそれを考慮に入れた上で僕は活動を続けていきたいし、尊敬する人達には大義を成し遂げてほしいと願っている。
 僕の活動と、それにあんたを髪の毛一本たりとも関わらせたくないと思うこととは、僕の中で矛盾しない。天秤にかけたらきっとぴったりと均衡を保つ。……そうする以外の手段を、見つけられていない。
 午後から会館で集会があった。博覧会事務局へ良からぬお手紙が届いているらしいが、それ以上のことはここでは伏せておく。内部情報の漏洩というやつがどこから適用されるのか、今一つ把握できていない。
 それから、博覧会へ行くのを少し早められないだろうか。予定した日程では休みがとれなさそうだ。移動費も土産や会場限定の飲食物の代金も全部僕持ちで構わない。予定が合わないのは僕側の都合が原因になるのが大半だから、いつも申し訳なくなる。

6/date:0817
 元々、この情勢の中で博覧会をやるのが無理筋だと話は出ていたんだ。こちらからあちらさんへの助言は何度も行っていた。僕が言うのも何だが、普通なら反対の立場にあるはずのこちらがだ。
 民間企業の技術を同盟側へ売り込む絶好の機会とはいえ不確定要素があまりにも多すぎる。軍事産業への転用を考えていないと白を切るのは殆ど不可能で、他国と共同で開催する催事にわが国の警備体制では対応しきれないと。
 それを無視した結果がこれだ。怪我人が出なくて良かった。
 爆薬は、明らかに同盟国の展示ばかりを狙って仕掛けられていた。これは一般向けの報道でも言われていただろう。
 僕らのような団体が真っ先に犯人だと疑われるのは当然。弁明をしたところで、これまでの行いがその反証になってしまうのは火を見るより明らかだ。
 だからそのときに備えて、ここ数日は向こうで寝泊まりして準備をしていた。書き置き一つで出て行って心配をかけた。……博覧会行きを早めろと言った理由をあんたが察してくれたことだけが、僕にとっての救いだ。
 帰って来てからのあんたはいつも通りだったが、無理はしていないか。抱え込んでいないか。
 夕飯後、聞いていたラジオを気にしていただろう。今回の爆発事件の犯人を面白おかしく推理するような、コメディの振りをした番組が流れていたときだ。
 同盟の崩壊を狙う対立国支持者に特徴的な風貌だとか。疑われないための服装だとか。隣人が間諜である可能性はどの程度かだとか。不安を煽る内容を放送する、その神経を疑った。司会者が仕事として仕方なくやっているのだとしても。
 人間は他間を外見で判断する。
 だから僕らは皆一様に同じ装いをして、かつなるべく目立たないよう心掛けている。服装や髪型を似せれば、それだけで効果がある。
 だがあんたにはそれだけじゃ足りない。髪色を変えて、目元と口元を誤魔化して、上背があるのを隠すためにわざと姿勢を悪くして、喋らないようにして、やっと「誤解」されなくなる。
 筆跡と同じ、あんたをあんたたらしめる大切な要素が。まるで悪いものであるかのように扱われるのは、とても気持ちが悪い。
 今日も準備をしながら会員の誰かが言ったんだ。
「自分達にかかるであろう疑いを押し付ける先があると気が楽だ」と。
 僕の中の天秤は、その一言で、今、均衡を崩している。

7
 近くの町へ逃げてきた従姉妹だという女性からの手紙を読み終わると、ルイゼは「ありがとう」と、握手を求めるように手を伸ばしてきた。
 いつも僕たち配達員に、美味しいお菓子を振舞ってくれる手だ。多くの人とつながってきた手の、しわ一つ一つに触れるように、僕は両手で彼女の右手を取る。
「……あのね、シュウさん。こんなことをお聞きするのは、立ち入り過ぎているとは思うのだけれど」
 呼ばれたのは、仕事で使う名前。僕の本名を知っているのはあいつだけだ。僕が少しでも暮らしやすいようにと、この国に合う名前を―自分の名前の一部をくれた、あいつ。
 お渡ししたものに不備でも、と言うと、彼女はゆっくりと首を振る。
「普段読んでくださるお声よりも元気がなかったわ。何かあったの?」
「ええ? 特に何も……」
「嘘は駄目よ。自分への嘘は駄目」
「……ほんのちょっと、ありました」
 抑えようと思ったのに、喉が変に震えた。ルイゼは僕の手にもう片方の手を添えて、力をこめる。握手じゃなくて、僕を気遣ってくれている手だ、と、ようやく気付く。
「でも、こんなことを言うのもおかしいかもしれませんけど、僕、あなた宛ての手紙を読むと元気が出るんです。だから今日、こっちの配達担当になれて良かったって。実際元気出ましたし。いつも、あなたに届く手紙はどれも丁寧で、あったかくて」
「……今日は少し寒かったのね」
「…………かも、しれないです」
 視界がゆがんでうるんで、僕は無理やり大げさなまばたきをした。
 ルイゼは、僕が最初に代読をしたときからあたたかかった。この国では珍しい僕の容貌に対して何も言わず、毎度違うお茶とお菓子を用意してくれた。声を褒めてくれた。つっかえることだって多い、なんてことない代読なのに。
 春の日みたいなぬくさで接してくれたのは、僕の人生で、二人目だった。
「……一緒に暮らしてるやつが、出て行くって言い出して。突然」
 あんたと居ると、あんたに迷惑をかける。
 毎日顔を合わせる時間がないからと、夜明け頃に文章を残すようになったあいつが、今朝は僕が起きるのを待っていた。
 ことばと釣り合わないくらい良い匂いのコーヒーのカップを二つ並べ、その湯気の向こうで、言った。
「だからお別れしよう。この国が平和になるまで」
 先日起きた博覧会会場での事故に、とある一派の活動が関係しているという噂をささやく、配達員も多かった。
 あいつ―同居人がその団体に所属していることは、誰にも話さないと二人で決めた秘密だった。僕は噂を聞き流す振りをして、一字一句、あいつに伝えた。
「なるべくして、って訳だな」と、あいつは苦笑するばかりだった。
 僕はあいつのことばを信じていた。あいつがどうして団体に傾倒するのか、理由はさっぱり分からなかったけれど、嘘を吐く人間じゃないことは知っていたから。活動を始めてから、死んだ魚の目をするのをやめたあいつを見て。これを取り上げちゃいけない、と思ったのを、ずっと覚えていたから。
 あいつと仲間たちは事故を回避しようとしていたことや、僕のように「対立国の人間」の見た目をしている人の立場が悪くなるだろうことも、信じた。
 後者は見事当たり、僕は髪を染めて、制服を脱いでからも帽子で顔を隠すようになって、買い物には一人で行かなくなった。あいつに頼むか、閉店間際に二人で行くかの二択になった。
 石を投げられるだとか、直接的な被害は受けていないけれど。
 これまで通りに過ごしているのに、トゲだらけの目線が突き刺さってくるようで、耐えられなかった。


 あんたと居ると、あんたに迷惑をかける。
 事件のことを言っている、と気付いていたのに、別の可能性が頭のすみにちかちか、点滅した。
 国の決まりが変わるのはいつだっけ。
 来月? それより前?
 国民は異性以外と交際してはいけない、なんて、時代に逆行する決まりの改正を支持して推し進めたのは、あいつが所属する団体の母体の政党だ。
「……一緒にいると、君の立場が危ないのか。君がやりたいことの邪魔になるのか、僕は」
「違う。関係ない。僕らの活動はあんたを脅かすものにはならない」
「現になってるだろう! 君が否定しても」
「……本当に、あんたの迷惑になりたくないだけだ」
 そう言ったあいつに、僕は「逆じゃないか」と反論した。迷惑をかけているのは僕だ、この町に来てからずっとそうだ、平和になるまでだなんていつまでだよ、と口走った次の瞬間に、後悔した。
 博覧会で見た笑顔を、苦しそうな顔で上書きしたくなかった。
「……分かんなくなっちゃったんです。どんなことを言えばいいか。ルイゼとツバキさんみたいに、上手くできたら良かったのに」
「そうねえ。船の速度は違うものねぇ」
 ルイゼはそう言いながら、立ちっぱなしだった僕を座らせる。
 冷水のグラスを渡されて、僕はまだ突っ張っている感じがする喉に、無理やり水を浴びせた。
「船、ですか」
「そうよ。……私ね、手紙は、一通一通が船だと思っているの。空間も、時間も行き来できる船。こうしてお話して交わすことばとは、ちょっと違うわね。まるでボートと遊覧船……とたとえるのが正しいかは、難しいけれど。私たちの手紙と、あなたの大切な人とのことばは、速度も操縦の仕方も違うわ」
 それに私たちも最初の頃は、お互いの文字を読むのにも苦労したんだから。ルイゼはいたずらっぽい感じに、そう付け足す。
「私とツバキは、今度いつ会えるのかなんて予定も立てられない。このご時世もあるし、お互い、無理できない身体の年齢ですからね。でもシュウさん、あなたはまだでしょう。上手にやろうだなんて思わずに、あなたがやりたいようにやってみて」
「……僕が」
「そうよ。だってまだ、どうとでもできますよ。便箋がまだまだ、沢山あるのと同じことよ」
 便箋―僕はあいつの書き置きを読むばかりで、返事のようなものを書いたことがなかった。どころか、郵便配達員なのに、手紙のたぐいをほとんど書いたためしがない。
 今朝僕はあいつに、自分の気持ちを伝えただろうか。出て行ってほしくない、離れたくないと、確かにことばにして言っただろうか。
 動揺して、怖くなって、逃げるみたいに出勤した。受け取ったことばを、ないがしろにした。
「……けど、まだ、間に合いますか」
「間に合いますとも。大丈夫よ、シュウさん」
 僕は、僕たちは、間に合う。
 間に合わせる。
 祈るように、心の中で繰り返す。


 ルイゼに何度もお礼を言って、僕はアパートメントを出た。
 配達時間には余裕がある。あいつはまだ僕たちの家にいるだろうから、戻って、伝えよう。
 僕も君の筆跡が好きで、離すつもりは全然ないってことを。

カメリアと筆跡

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カメリアと筆跡

僕は、僕たちは、間に合う。 「僕」と「あいつ」の、日記のようなお話。

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更新日
登録日
2026-08-12

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