皇国の音 1/6
空が青いのだ、と思った。
曇り続きの空に慣れ親しんだ身には、露草のような空は衝撃的だった。
何もせずに一日中眺めていたい。移り変わりを感じるだけの一日を過ごしたい。
子供が抱くものと大差ない欲求を押しこめる。そうだ。私は皇国の音を広めるため、この空の下へやって来たのだった。
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「各地域の言語、というものが持つ特色と言いますのは、えー、国民、民族のですね、独自の生活や精神と強い結びつきがあると言いましょうか、はい、皆さんがどう思われるか、その、言語も文化の一つでありますから、例えば―」
指先から寒さが襲って来る。思わず手袋の上から両手を擦り合わせたが、いかん、とすぐに止めた。お偉いさん方に不真面目な態度を咎められ、理不尽な罰を受けるのは御免だ。
しかし良いご身分だな。臨時に設けられた雛壇を改めて眺める。今話している者も後ろに座って控えている者も、かなり上等な生地の防寒着を着用しているのだと、後方の列に並んだ奴が話しているのを聞いた。なるほど、重さを感じさせる素材なのがここからも何となく感じられる。支給品のコートの何倍の値段だろう。足元には暖を取る何かしらの器具が置かれているに違いない。目隠しの布が不規則に揺れていた。電気か油か知らんが、いっぺん燃えてしまえと思う。何が資源の節約だ。まずはその、身体についた豊富な「資源」をどうにかすべきじゃないのか。
「ルウ、顔」
「え、相変わらず整ってます?」
隣に立っていた五島さんの肘鉄を食らった。普段は朴訥としてるくせに嫌そうな顔をするのだけは得意だもんな、と以前に揶揄ってきたのも彼だった気がする。私と五島さんは一回り近く年齢が離れているが、五島さんは年上扱いされるのをひどく嫌う。
横目で表情をうかがう。息が白い。普段と変わらず、こちらも感情の乏しい顔だ。
「……国内におきましても、国民教育の必要性が以前にもまして叫ばれているのは、皆様もご存知のところであるかと思われます。えー、緊急の要請に即応すべきものとして、学力は戦力とも言いますが、古来からの教学精神ですね、我が国の教育史を振り返っても通底しております、えー、教育思想というものを、今一度目標に据えるということが話し合われたのであります。新たに皇国の仲間となった地域にも、この精神を定着させることが、ひいてはわたくしどもにも、彼らにも有益になりますことは明らかであります」
「……教育の大切さをのたまう人間の話が不明瞭極まりないとは、いかにもことばの上っ面だけを舐めているのが透けて見えるな、ルウ」
ほとんど口を動かさずに、五島さんはものを言う。
「話ちゃんと聞いてくださいよ、さっき私に注意したくせに。それとそのルウって」
「お前さんの綽名を作ってやった。むやみやたらと真名を晒すのはいただけないからな」
「どうせならもっとマシなのが良かったです、恥ずかしい」
「なに、人の好意を無下にする気か?」
「あぁ……はいはい黙ってくださーい」
一瞬、壇上の教官と目があった。式典の最中だぞ大人しくしろ、とその色が語っている。静かに目線を逸らすと五島さんが「根性無し」とささやいた。
五島さんは彼らの態度を気にする素振りを全く見せないのだ。「許されている」から、だと本人は言う。過去の功績を考慮されていると言うが、五島さんは自分のことを意気揚々と語る性格ではなかったし、こちらも詮索しようとは思わなかった。
演説は要領を得ないまま続く。話す人間が変わっても内容はほぼ一貫していた。優れた皇国の言語の普及がいかに重要か。この式典も、教育派遣隊と名付けられた私達へのはなむけとする催しの一つであった。一方的な激励だ。帰って寝たい。
皇国の占領下にある地域へ赴く教師はそれぞれ皇国を代表する人間となること、そうした自覚を忘れず教化に努めること。要約すれば、お偉いさん方の伝えたい事はそういうことだ。だらだらと話されるのは苦手だ。最も、好む奴もいないだろうが。
壇上の教官からその背後、長机の左端に座った者に視線を移した。この角度では辛うじて黒い髪が見えるのみだ。彼が教育・教化政策の立案者かつ責任者だと耳にしたことがある。
彼の声には力が宿る、と、熱っぽく語っていたのは誰だったろう。どうせなら聞いてみたかったが、冒頭に開会の辞を述べて以降、彼は置物のように座ったままだった。
決起集会という名の我慢大会もようやく終わりを見せる。すっかり冷えて感覚のない指先を口元に当てた。
列を成して出口へ向かう背中について行こうと、だるい足を向けたときだった。左肩をぐいと掴まれる。五島さんだった。
「ルウ、時間あるか」
自室へ戻っても、やることと言えば荷物の最終確認程度だ。頷くと「飲みに行こう」と五島さんは軽い調子で言い放つ。
「飲むって、こんなときに」
「こんな時だからだ。そうでもないとお前と飲めねえ」
アルコールは苦手だ。それなりに長い付き合いだが、五島さんと一対一の席を設けたことはなかったかもしれない。逡巡する間を与えず、五島さんは私の上着を引っ張っていく。
「外出許可は?」
「んなもん、俺と一緒なら要らねえさ」
「横暴極まりない」
「おーう、お前さんのその憎まれ口ともおさらばかと思うと涙が出るぜ」
「見送りのときまで取っといてくれます?」
明日の朝、私はここを発つ。
いつか皇国語を教える立場になりたいと幼い頃から願ってはいたが、まさか外国へ行くことになるとは。
私が幼い頃は、教育・教化政策などというものも立案されていなかった筈だ。自分がそうした政治的なものへの関わりを持つようになるという予感は、持ったことがなかった。
「よそに送っても恥ずかしくねえ、立派な先生になれたってことだろうが。ちったぁ喜べばいいじゃねえか。それ見たことか、五島とは違うんだぜってよ」
「五島さんも特別ですよ。お咎めなしで色んなことやってるんでしょう」
「俺ぁー特別も特別だからよ、後にも先にも俺みたいな奴は出て来んさ。それに今回の教育派遣隊には、いつになく優秀なやつが揃えられたって噂だぞ。……教化政策担当も焦ってる証拠かもな」
各地での戦績は、伝え聞く限りは皇国にとって必ずしも手放しに喜べるものではないようだ。新聞やラジオで取り上げられる活躍にはあからさまな誇張が加えられたり、これまでの皇国軍の活躍を讃える特別企画が増えたりと、言外に戦果が芳しくはない旨を伝えている。
「なんにせよ、選ばれたってことはお前の実力が認められたっつうことで間違いねぇ」
「それでも私は不満ですね」
「あ?」
「こーんなに品行方正、清廉潔白な私がはるか南の国へ飛ばされ、五島さんが悠々自適な生活を続けていられるんですよ! 嘆かわしい。この国はおかしくなっているんだ」
「ははは。お前、酒入るとよく喋るよなあ」
「うるさいです」
「はいはい。ま、かわいい子には旅をさせよ、だな」
口元にビールの泡をつけたまま、五島さんはにやりと笑う。強くもないのにぐいぐいと煽るので、既に耳まで真っ赤に染まっていた。
「ですけどあの記事、五島さんも見たでしょう」
諸地域での皇国の教化活動を取り上げた広報誌は、教育派遣隊を包括している教育部所属の全員に配布されている。
「派遣済み部隊の日常会話が現地の教育にどれほどの効果をもたらしているか。各地の言語の使用状況については客観的な数字も出ている! なのに改めて教師を派遣するのは馬鹿げていると思いませんか。資金の無駄遣いだ」
「単にお前さんが面倒くさがってるようにしか聞こえんぞ」
「そんなことありませんって」
「この出不精……」
五島さんはジョッキを返し、続いて清酒を注文した。私は串揚げに伸びてきた手を制し、串から肉を抜いていく。こちらの手元を見ながら、五島さんは低めた声で訊いた。
「ところで、知られてねえんだよな? まだ」
「―今のところは」
顔が離れた。五島さんは、肉と素揚げの芋とを串に刺し直しては口へ運んでいく。
「十二分に気を付けています。五島さんしか知りませんし、問題はない」
「へぇ?」
「何です?」
「ルウ、俺がお前さんを売ることは絶対にねえと思ってんのか」
「そ、……それ、は、」
喉が絞られるように縮みこむ。跳ねる心臓を押さえつけるように服の上から手を当てた。
自分自身に後ろ暗い部分がある訳ではない。しかし「祖父」のことは何が何でも隠し通さねばならなかった。自分の身は自分で守るしかないのだ。
呼吸が辛い。息をしなければ。息って何だ。
五島さんが私を売る? 何のために。不安定な足場を固めるために。金のために。立場のために。保身だ、誰だって考える。なぜ今まで思い当たらなかった、考えなかった、信じ切ってしまったんだ、五島さんがもし、もしも、
「ルウ」
右頬を軽く叩かれた。ジョッキの水滴で、五島さんの指先はしっとりと濡れていた。
「んなことしねぇよ。―すまん」
水底から上がったように、また息が吸えるようになる。五島さんの手を思い切り払いのけてやった。冗談だとしたら性質が悪すぎる。性格もだ。
「酷い。酷すぎる。冗談で済まされませんよ。有り得ない。訳分からん。最悪だ」
「悪かったって。けど、そのくらい用心するに越したこたぁねぇ」
「五島さんの考えなし。甲斐性無し」
「甲斐性はある! これだって俺のおごりだってさっき」
「旨い飯をやれば万事解決なんて考えが浅いんです。有り難くいただきますけど」
「こンのちゃっかり者が」
お互いを見つめていると、自然と笑いがこみ上げてきた。
「あのですね。私は、五島さんを、とっても、信用しているんです」
「そりゃあ有り難いねえ」
「どこの誰よりも信用してるんですよぅ」
アルコールが回ってきているのは確実だ。次第に目の前がふわふわと揺らぎだす。五島さんも頬が若干緩んでいた。
「……へへ。ねえ、五島さん。私は隠し通しますよ、絶対に」
「ったりめえだ、言わんでもな。しっかし、お前さんもけったいな道を進んでるよな。一体何をどうすればそんなことになるんだか」
「さぁ。ことばに憑りつかれた、とだけは言っておきましょうか?」
「格好付けやがって」
「ははははっ」
「ふ、ふっふふふふっふ」
五島さんは串を弄ぶ。空のコップを持つこちらの手の甲をついついと叩くさまは、普段の様子からは考えもつかない。しかしそう何度も同じ場所を叩かれては流石に痛い。串の側面ではなく先端を使いだしたのだからたまらない。
「ちょ、ちょっと五島さん、痛いですって」
「ふふふ」
「五島さん!」
こちらの制止をきかず、手つきは何故か真剣味を帯びていく。赤い跡が残りそうだ。やめさせようとしても思いのほか力が強い。五島さんは笑っている。手の甲は真っ赤になっていく。痛みと痒みのうち、痛みが勝っていく。せめて先端は止めて欲しい。しかも、微妙に残っていた肉のたれが付いた。気持ち悪い。
「い―痛いって言ってるだろ! やめろ!」
上げた手は空を切る。そこはアルコールと紫煙の匂いがたちこめる酒場ではなかった。
大きく年輪の刻まれた木でできた机の向こうには鉛筆を握った子供が座っている。赤みがかった瞳は分かりやすく右往左往を繰り返していた。振り上げた自分の手には黒い跡がついている。鉛筆の芯だ。酔っぱらった五島さんの仕業ではない。夢、か。
「センセイ寝てたから。ごめん」
「謝れば良いってもんじゃ……いや、寝てたこっちが悪いか」
「そうだよ」
「でも人を痛い目に遭わせるのはおかしい。それに今日、本当は休みなんだ」
言うと、雪を表す名前の少年は頬を膨らませた。
「見てくれるって言った。じゃあ寝ないで」
「分かりましたよ……」
露草のような青さを持つこの島で、皇国語の教師として活動を始めて半年が経つ。流暢とは程遠いが、島ことばもある程度は話せるようになった。
そして環境の異なりに面喰らう回数も減り、余裕が出てきた頃。生徒の一人であるこの少年、シェーレが妙なことを言い出したのだった。
「ぼく、センセイみたくなりたい」
たどたどしい発音で述べられた決意はしかし、瞳に宿った光が物語っていた。
「私のようになっても、何も良いことはないかもしれないよ」
「でもなりたい」
「どうしてなりたいのかな」
「なりたいからだよ!」
あのときシェーレが皇国語に長けていれば、あるいは自分が島ことばに精通していれば、なりたいと何度も繰り返す真意を知ることもできたのだろう。しかしこのときは、シェーレとの間には中途半端なことばしかなかった。皇国語、島ことば、あるいは世界中で広く用いられている第三者の言語。これらを混ぜ合わせたことばで会話をしていたのだ。
「なりたいのなら、それなりの努力をしないと」
そう助言したのは間違いだっただろうか。それともシェーレが努力を向ける先が特殊だったのだろうか。授業の終わった教室、私的に訪れた資料館、役場の開架倉庫。まさか尾けているのではあるまい、と不安になる確率で、彼は私の前に現れた。
今日も、休日を利用して授業の準備をしようと赴いた資料館で見つかってしまったのだった。彼は草花が刺繍されたいつもの手提げ鞄ではなく、両手の空くナップザックを背負っている。時間があるときの暇潰しにでもなれば良い、程度の軽い気持ちで―手を抜いているのではなく、勉強材料になればと思って配布したものだ―渡していた問題用紙の束を持っている。ちらりと見えた部分が真っ黒になっているのを見、根負けしたのはこちらだった。
教えるのが煩わしい、とはこれっぽっちも思っていない。知識を熱心に吸収しようとする姿には応えたくなる。
ただ、彼が皇国のことばを身に付ければ付けるほど、罪悪感にも似たもどかしさが胸に沈むのも事実だった。
「シェーレは、どうして私みたいになりたいの。今までも色んな先生がいただろ。もっともっとすご腕の、頼りになるようなひともいたはずだよ」
手の甲の黒い跡は諦めることにした。丁寧な文字で埋められた答案に目を通しながら尋ねると、案の定彼は考える素振りを見せる。たれ目がちな目が上を向く。
「理由ってこと?」
「そうそう」
「残ったから。えーと……。おとなみんな言うよ。皇国に行けって子どもに言う。お金たくさんもらえるお仕事。皇国のにんげんになりなさい。で、ぼくは選んで選んで、センセイが残った」
「私の給料明細を見せても同じように言えるかな……」
「センセイ、びんぼう?」
「貧乏だ」
笑われる。心外だ。
「みんな皇国に行きたい。だから授業がんばる。だけどぼくは、ちょっとちがうよ」
シェーレは私の、ペンを持たない方の手をとった。体温が高い。かさついた手の平をすべらかな指がなぞっていく。指の付け根に溜まった皺を入念になぞられた。
「ぼくは皇国に行かないよ。ここに残って、みんなにがいこくのことば教える。それしか思えなかった。皇国のおしごと。ショウキョホウで残った」
思えなかった、とは、思い付かなかった、ということだろうか。
「皇国語はすきだよ。だけど皇国はすきじゃない」
ほとんど唇の動きだけの、ぎりぎりまでひそめられた声だった。
大机の周辺には他の利用者もいる。主に使用しているのは民間人ばかりとはいえ、どこで誰が聞いているかも分からない。皇国の支配下にある土地において、些細な悪言にも細心の注意を払わねばならないのだ。それを心得ている聡明な瞳が、真上の照明できらめいていた。
「……あれだけのことをしたんだ。好きにはなれないよな」
「それ、センセイが言うの」
「言いたくないけどね、言わないと」
長年の戦闘の中で、皇国が征服した地域は数知れない。今は手放している地域も多い中で、この島は初期から占領政策が敷かれ、以後変わらず皇国のもとにある。その高々十数年の間に、敵対感情が好意的なものに変化すると考えるのは虫が良いというものだ。
当時島の軍属だった者はとりわけ皇国民を毛嫌いしていると聞く。どこか他人事になってしまうのは、当事者たる人々に未だ会ったことがないからだ。
しかし、私のような文人にも銃刀の携行が義務付けられている。皇国の名を掲げて行動する危うさを、左腰の重みが実感させる。
「けど、そんなことを私に言って良いのかな。もしも私が意地悪な奴だったら、シェーレ、皇国のお偉いさんにつかまっちゃうぞ」
「つかまらない」
「分からないよ? 薄給を上げるために、非道な手を使うかもしれない」
おどけてみせるとシェーレはおかしそうに目を細めた。冗談を真に受けることがほとんどだった当初に比べると、理解力の向上に感慨深いものもあるが、内心はそう穏やかではなかった。
シェーレが皇国語を好きだと言ったのは本心だろう。そうでなければここまで真剣に講義に取り組むはずがない。皇国と皇国語を意識的に分離させる困難は知っている。強力な磁石の両極のように、ぴったりとくっ付いて離れないのだ、この二つは。
「センセイは皇国がすき?」
勿論、と即答できなかった。理由は、自問するまでもない。
シェーレは隙を逃がさんとばかりに身を乗り出し、耳元に口を寄せる。赤い瞳に宿っているのは、純粋過ぎる好奇心だった。
「すきじゃないよね。ぼくとおんなじ」
「……答えません」
「ね。そうだと思った」
ふわりと吐息が頬に触れた。引き剥がそうとしたときには既に姿勢を戻している。
「大人をからかうもんじゃない」
「ぼくにからかわれたの?」
「あのねえ」
「けどほんとだよ、センセイ。センセイも皇国がすきじゃない。だけど皇国語はすき」
「断言しないでほしいよ、シェーレ」
「してない。訊いてる」
「保留にしても良いかな」
「いつ答えてくれるの」
「当分は、保留」
皇国の音 1/6