
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第四章 金枝玉葉の漣と
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第四章 金枝玉葉の漣と
――――です。
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第三章 金殿玉楼の閣で https://slib.net/122123
――――の続きとなっております。
長い作品であるため、分割して投稿しています。
こちらに、作品全体の目次があります。
https://slib.net/106174
〈第三章あらすじ&登場人物紹介〉

===第三章 あらすじ===
シュアンの表向きの死によって、ルイフォンたちは『ライシェン』を探す摂政を退けた。次に摂政が動くまで、いわば膠着状態。ルイフォンは、万一のときに別行動を取れるようにと、鷹刀一族の屋敷を出て、草薙家に居候中のまま。何も変わらない事態に焦れていた。
そんなある日、王宮からユイランに依頼が入る。女王と、彼女の婚約者であるヤンイェン――『ライシェン』の父親であり、ルイフォンが接触の方法を画策している人物――の服を仕立ててほしい、と。
採寸は代理がきかない。仕立て屋は直接、王族のヤンイェンに会える。そこで、ルイフォンが『女装』して、助手として同行することになった。女性である女王の採寸に、男のルイフォンが行くわけにはいかないからだ。
ユイランとの女装の事前打ち合わせでは、『可愛い』を連発され、げんなりのルイフォン。だが、『メイシアにサプライズで婚約指輪を贈りたい』という思いつきを相談すると、的確なアドバイスに加え、『高級宝飾店に行く際の服装は任せて』と言ってもらえるという、良いできごともあった。
そして当日。女装したルイフォンは、仕立て屋の助手として、女王とヤンイェンと対面した。
ヤンイェンは、すぐにルイフォンがセレイエの縁者ということに気づいた。しかし、何もかもヤンイェンに任せきりの女王を置いて、別室に移ることは難しそうだ――と、思っていたら、実は女王は無邪気で人懐っこい性格で、あまりにも王族の威厳がないために普段は黙っているように言われているだけだと判明する。
人気のデザイナーのユイランに会えて、大興奮の女王。ヤンイェンは適当な理由をつけて、隣室でルイフォンとふたりきりになる機会を設けた。
ヤンイェンは、セレイエから兄弟のことをよく聞いていたらしい。ルイフォンのことを『女装した異父弟』だと、見抜いていた。そして、「セレイエは私のせいで死んだ」と、悲痛な顔で謝ってくる。ヤンイェンに会ったら、何を差し置いても『デヴァイン・シンフォニア計画』の話をせねば、と思っていたルイフォンは戸惑った。
ルイフォンとしては、ヤンイェンの意向を確かめるために会いに来た。父親として、『ライシェン』の未来は、『王』と『平凡な子供』のどちらがよいか。また、セレイエが命と引き替えに手に入れたライシェンの『記憶』は、そのままにすることを認めるか。――認めない場合は、敵対しても構わない、 という肚だった。
しかし、異父弟として、義兄に始めに言うべき言葉は、感謝だと気づく。最後がどうであれ、異父姉は幸せだったのだから。
セレイエを偲び、言葉を交わす、ルイフォンとヤンイェン。そして、ルイフォンは『瀕死のセレイエは、ヤンイェンのもとに辿り着き、彼の腕の中で逝った』という、セレイエの最期を聞く。
会話の区切りがつくかと思われたその瞬間、ヤンイェンの口から『デヴァイン・シンフォニア計画』という言葉が飛び出す。「君は、この計画の現状を伝えるために、私に会いに来たのだろう?」と。
ルイフォンは無事に『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状をヤンイェンに伝えることができた。しかし、ヤンイェンは『今すぐには何も決められない』と言い、なんの進展もなかった。期待していただけに、愕然とするルイフォン。
今日のところはここまで、と。女王のいる部屋に戻ろうとしたら、女王が試着に夢中で、待つことになる。その間、ヤンイェンから女王の話を聞くことができた。
なんでも、生まれてすぐに母親を亡くした女王を、ヤンイェンの母が気にかけて、自分のもとによく招いていたのだという。同じ『〈神の御子〉の女性』として、将来、〈神の御子〉を産むように強要されることを心配したのだ。ヤンイェンとも自然と顔を合わせることが多くなり、仲良くなったらしい。
異母兄妹でありながら、表向きは従兄妹であるために婚約者となった件については、『他の男に酷い目に遭わされるよりは、ましだろうと思った』と語った。
この世で唯一の『〈神の御子〉の男子』である『ライシェン』の未来は、女王の未来にも大きな影響を及ぼす。そう気づいたルイフォンは、異母妹を可愛がっているヤンイェンが、『ライシェン』の未来を即断できないのは仕方のないことなのだ、と溜め息をついた。
草薙家に戻ったルイフォンは、はっきりしないヤンイェンの態度に対する不満をメイシアにぶちまけてしまう。そんな彼の気持ちを彼女は肯定し、受け止めてくれた。
落ち着きを取り戻したルイフォンは、『女王に『ライシェン』を託す』という未来もあるのではないか』とメイシアに打ち明けると、良い案だと言ってもらえた。『選択肢が増えたのだから、きちんと前に進んでいるのだ』というメイシアの言葉に、ルイフォンの気持ちは晴れていった。
===『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』===
主人公ルイフォンの姉セレイエによる、殺された息子ライシェンを蘇らせる計画。
王の私設研究機関〈七つの大罪〉の技術で再生された『肉体』に、ルイフォンの中に封じたライシェンの『記憶』を入れることで『蘇生』が叶う。
また、生き返った『ライシェン』が幸せな人生を送れるように、セレイエはふたつの未来を用意した。
ひとつは、本来、ライシェンが歩むはずだった、父ヤンイェンのもとで王となる道。
もうひとつは、愛情あふれる家庭で、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道。
セレイエは、弟であるルイフォンと、ヤンイェンの再従妹であるメイシアを『ライシェン』の幸せを託す相手として選び、ふたりを出逢わせた。
『di;vine+sin;fonia』という名称は、セレイエによって名付けられた。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらを繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』を意味する。
この計画が禁忌の行為と分かっていながら、セレイエは自分を止められなかった、ということである。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少年。十六歳。
亡き母キリファから〈猫〉というクラッカーの通称を受け継いでいる。
父親は、表向きは凶賊鷹刀一族総帥イーレオということになっているが、実はイーレオの長子エルファンの息子である。
そのことは、薄々、本人も感づいてはいるが、既に親元から独立し、凶賊の一員ではなく、何にも属さない『対等な協力者〈猫〉』であることを認められているため、どうでもいいと思っている。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
亡くなる前のセレイエに、ライシェンの『記憶』を一方的に預けられていた。
※『ハッカー』という用語は、本来『コンピュータ技術に精通した人』の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われている。
対して、『クラッカー』は、悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を『クラッカー』と表記する。
メイシア
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少女。十八歳。
セレイエによって、ルイフォンとの出逢いを仕組まれ、彼と恋仲――事実上の伴侶となる。
もと貴族の藤咲家の娘だが、ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
王族の血を色濃く引くため、『最強の〈天使〉』として『ライシェン』を守ってほしいというセレイエの願いから、『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた。
セレイエの〈影〉であったホンシュアを通して、セレイエの『記憶』を受け取っている。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
約三十年前、イーレオが、王家および王家の私設研究機関である〈七つの大罪〉と縁を切るまで、血族を有機コンピュータ〈冥王〉の〈贄〉として捧げる代わりに、王家の保護を受けてきた。近親婚を強いられてきたため、血族は皆そっくりであり、また強く美しい。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥であったが、次男リュイセンに位を譲った。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
父から位を譲られ、次期総帥となった。また、最後の総帥になる決意をしている。
黄金比の美貌の持ち主。
文句も多いが、やるときはやる男。『神速の双刀使い』と呼ばれている。
ミンウェイを愛していたが、彼女の幸せを思い、彼女を一族から追放し、緋扇シュアンのもとに行かせた。
鷹刀ユイラン
エルファンの十歳以上は年上の妻。レイウェン、リュイセンの母。銀髪の上品な女性。
レイウェンの会社の専属デザイナーとして鷹刀一族の屋敷を出ていたが、ミンウェイがシュアンのもとへ行ったため、総帥の補佐役として再び屋敷に戻ってきた。
ただし、服飾の仕事が忙しいときには、草薙家にある仕事場に詰めっぱなしになるため、行ったり来たりの生活をしている。
ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。
草薙チャオラウ
鷹刀一族の中枢をなす人物のひとり。イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
主筋であるユイランを、幼少のころから半世紀ほど、一途に想っている、らしい。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
もとエルファンの愛人で、セレイエ、ルイフォンの母。ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。故人。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に人体実験体である〈天使〉にされた。
四年前に当時の国王シルフェンに『首を落とさせて』死亡。
どうやら、自分の体を有機コンピュータ〈スー〉に作り変えるためだったらしい。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが、〈冥王〉を破壊するために作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のスーパーコンピュータだが、それは張りぼてである。
本体は、人間の脳から作られた有機コンピュータで、光の珠の姿をしている。
〈ベロ〉の人格は、シャオリエのオリジナル『パイシュエ』である。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこないのだが、所在は、〈蠍〉の研究所跡に建てられた家にあることが分かっている。
鷹刀セレイエ
エルファンとキリファの娘。表向きはルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
生まれながらの〈天使〉であり、自分の力を知るために自ら〈悪魔〉となった。
王族のヤンイェンと恋仲になり、ライシェンという〈神の御子〉を産んだ。
先王シルフェンにライシェンを殺されたため、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた。
ただし、セレイエ本人は、ライシェンの記憶を手に入れるために〈天使〉の力を使い尽くし、あとのことは〈影〉のホンシュアに託して死亡した。
パイシュエ
イーレオ曰く、『俺を育ててくれた女』。故人。
鷹刀一族を〈七つの大罪〉の支配から解放するために〈悪魔〉となり、三十年前、その身を犠牲にして未来永劫、一族を〈贄〉にせずに済む細工を施して死亡した。
自分の死後、一族を率いていくことになるイーレオを助けるために、シャオリエという〈影〉を遺した。
また、どこかに残されていた彼女の何かを使い、キリファは〈ベロ〉を作った。
すなわち、パイシュエというひとりの人間から、『シャオリエ』と〈ベロ〉が作られている。
鷹刀ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの『父親』。医者で暗殺者。故人。
妻のミンウェイの遺言により、妻の蘇生のために作ったクローン体を『娘』として育てていくうちに心を病んでいった。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のようなかたちでエルファンに殺された。
[王家]
白金の髪、青灰色の瞳の先天性白皮症の者が多く生まれる里を起源とした一族。
王家に生まれた先天性白皮症の男子は必ず盲目であり、代わりに他人の脳から『情報を読み取る』能力を持つ。
この特殊な力を持つ者を王としてきたため、先天性白皮症の外見を持つ者だけが〈神の御子〉と呼ばれ、王位継承権を有する。かつては男子のみが王となれたが、現在では〈神の御子〉が生まれにくくなったために女王も認めている。ただし、あくまでも仮初めの王である。
アイリー
大華王国の現女王。十五歳。四年前、先王の父が急死したため、若年ながら王位に就いた。
彼女の婚約を開始条件に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まった。
素直で純粋な性格。とても良い子であるが、王としての威厳がまったくないために、兄であり摂政でもあるカイウォルに、公式の場では大人しく黙っているように言われているらしい。
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害された。
〈神の御子〉の男子に恵まれなかった先々王が〈七つの大罪〉に作らせた『過去の王のクローン』である。
ヤンイェン
先王の甥。女王の婚約者。
実は先王が〈神の御子〉を求めて姉に産ませた隠し子で、女王アイリーや摂政カイウォルの異母兄弟に当たる。
セレイエとの間に生まれたライシェンを殺され、蘇生を反対されたため、先王を殺害した。
メイシアの再従兄にあたる。
ルフォンが女装までして会いに行き、『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状を伝え、父親として『ライシェン』にどんな未来を与えたいか、意見を求めようとしたのだが、「考えるべきことが多すぎて、何も決められない」としか答えてくれなかった。
ライシェン
ヤンイェンとセレイエの息子で、〈神の御子〉。
〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエから受け継いだ『情報を書き込む』能力を持っていた。
彼の力は、〈天使〉の羽のように自分と相手を繋ぐことなく、〈神の御子〉のように手も触れずに扱えたため、先王シルフェンは彼を『神』と呼ぶしかないと言い、『来神』と名付けた。
周りの『殺意』を感じ取り、相手を殺してしまったために、先王に殺された。
『ライシェン』
〈蝿〉が、セレイエに頼まれて作った、ライシェンのクローン体。
オリジナルのライシェンは盲目だったが、周りの『殺意』を感じ取らずにすむようにと、目が見えるように作られた。
凍結処理が施され、ルイフォンとメイシアに託された。
カイウォル
摂政。女王の兄に当たる人物。
摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。
ハオリュウに、「異母兄にあたるヤンイェンとの結婚を嫌がる妹、女王アイリーの結婚を延期するために、君が女王の婚約者になってほしい」と陰謀を持ちかけた。
[〈七つの大罪〉]
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
王家に、王になる資格を持つ〈神の御子〉が生まれないとき、『過去の王のクローンを作り、王家の断絶を防ぐ』という役割を担っている。
〈冥王〉
他人の脳から情報を読み取ることによって生じる、王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。
太古の昔に死んだ王の脳細胞から生まれた巨大な有機コンピュータで、鷹刀一族の血肉を動力源とする。
『光の珠』の姿をしており、神殿に収められている。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
〈天使〉
『記憶の書き込み』ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は有機コンピュータ〈冥王〉の一部でできており、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置となる。限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こして死亡する。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られた〈蝿〉
セレイエが『ライシェン』を作らせるために、蘇らせたヘイシャオ。
セレイエに吹き込まれた嘘のせいでイーレオの命を狙い、鷹刀一族と敵対していたが、リュイセンによって心を入れ替えた。
メイシアを〈悪魔〉の『契約』から解放するため、自ら王族の『秘密』を口にして死亡した。
ホンシュア
セレイエの〈影〉。肉体はライシェンの侍女で、〈天使〉化してあった。
主人の死に責任を感じ、『デヴァイン・シンフォニア計画』に協力した。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
メイシアにセレイエの記憶を潜ませ、鷹刀に行くように仕向けた、いわば発端を作った人物である。
〈蛇〉
セレイエの〈悪魔〉としての名前。
セレイエの〈影〉であるホンシュアをを指すこともある。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら貴族の藤咲家の当主を継いだ。その際、異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
母親が平民であることや、親しみやすい十人並みの容姿であることから、平民に人気がある。ただし、温厚そうな見た目とは裏腹に、気性は激しい。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
摂政カイウォルに「女王の婚約者にならないか」と陰謀を持ちかけられていたが、友人シュアンを人質に取られたことから猛反発。シュアンのため、そして、相思相愛でありながら、身分差のために想いを告げることのできなかったクーティエのため、『この国から身分をなくす』と決意する。
緋扇シュアン
ハオリュウの歳の離れた友人であり、現在は秘書。三十路手前程度。悪人面の凶相の持ち主。
もとは銃の名手のイカレ警察隊員であったが、摂政の陰謀により投獄。獄死を装って救出されたため、自由民となった。
幼いころ、凶賊同士の抗争に巻き込まれ、家族を失った。そのため、「世を正す」と正義感に燃えて警察隊に入るも、腐った現実に絶望していた。しかし、ハオリュウと出会い、彼を『理想の権力者』に育てることに希望を見出した。
また、以前より、秘めた愛情を抱いていたミンウェイと家族になった。
鷹刀ミンウェイ
鷹刀一族の総帥の補佐を務めていたが、リュイセンに追放という形で背中を押され、シュアンのもとに来た。現在は、ハオリュウの侍医として、シュアンと共に藤咲家に住み込みで働いている。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ、二十代半ばに見える絶世の美女。ただし、本来は直毛。薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
母親だと思っていた人物のクローンであり、そのために『父親』ヘイシャオに溺愛という名の虐待を受けていたのだと知った。苦悩はあったが、今は乗り越えている。
[草薙家・他]
草薙レイウェン
エルファンの長男。リュイセンの兄。
妻のシャンリーと共に一族を抜けて、服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
草薙シャンリー
レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。王宮に召されるほどの剣舞の名手。
遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。
草薙クーティエ
レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。可愛らしく、活発。
ハオリュウが、彼女の父レイウェンに『お嬢さんをください』という意味合いを含めて決闘を申し込んだらしいのだが、惨敗したので、ふたりの間柄は保留である。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした、もと凶賊斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
斑目一族や〈蝿〉にいいように使われていたが、今はレイウェンの警備会社で働いている。将来的には、ハオリュウの専属護衛になる予定。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
実は〈影〉であり、イーレオを育てた、パイシュエという人物の記憶を持つ。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。ということになっているが妖艶な美女という説もある。
本人曰く、もと女優の卵である。実年齢は不明。
ルイリン
ルイフォンの女装姿につけられた名前。
タオロンと好い仲の少女娼婦。癖の強い、長い黒髪の美少女。
少女にしては長身で、そのことを気するかのように猫背である。
――という設定になっている。
トンツァイ
繁華街の情報屋。
痩せぎすの男。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.白蓮華と黒装束-1

鷹刀一族の屋敷を守る、天まで届かんばかりの煉瓦の外壁。
その内側にて――。
次期総帥たるリュイセンは、裏庭の蓮池の畔で、ひとり、朝の鍛錬を行っていた。
清澄な空気で満たされた、早朝の景色を映し、銀の刀身が煌めく。決められた型の動きを正確無比になぞりつつ、神速の風を巻き起こす。
鍛え上げられた肉体から、汗が噴き出す。
そんな彼の稽古の模様を、凪いだ池の水面が、ひっそりと模写していた。
双刀を疾らせる長身を、白い蓮の花で飾り、玉の汗を真似て、葉の上で朝露をころころと転がしていく。
リュイセンは一連の動きを確認し終えると、鍔鳴りの音を響かせ、刀を納めた。
ふと、気まぐれな風が吹き、池の上に漣を立てた。今まで、おとなしくリュイセンを見守っていた白蓮が、自己主張を始めたかのように優美に揺れる。
純粋なまでに白く無垢な姿に、リュイセンは目元を緩めた。この時間だけの、特別な美しさだ。
蓮の花は、朝が早い。
開花の際に、ぽん、という天上の音楽を奏でるという話だが、リュイセンは聞いたことがない。毎朝、必ず、彼が来るよりも先に咲き誇り、強い太陽の光を避けるかのように、午後には花びらを閉じてしまう。
蓮の花と早起きを競うのが、ここ最近のリュイセンの密かな楽しみとなっていた。
ここ最近。
鍛錬の場を、硝子の温室のそばから、この池の畔に変えてから。
ミンウェイを緋扇シュアンのもとに送り出して以来の――。
リュイセンは空を仰いだ。
まだ、太陽の色に染まる前の風が肌を冷やし、心地がよい。
あれほど愛した女を失ったというのに、不思議と後悔はなかった。
むしろ、やるべきことをやり遂げたような、達成感のような安堵のような、穏やかな気持ちで満たされている。
少し可哀想なのが弟分のルイフォンで、たまに連絡を取るたびに、不自然な気遣いを感じる。
シュアンを助ける際、ミンウェイの力を借りる作戦を立てたことが転機だったのを未だに気にしているらしい。あの件がなくとも、いずれこうなる運命だったのは間違いないというのに。
心配は要らない。ミンウェイは今、幸せなのだから。
この前、母のユイランが、女王の衣装の件でハオリュウと打ち合わせをしたとき、使用人として同行してきたミンウェイに会ったという。左手の薬指に、シュアンと揃いの指輪を着けていたと教えてくれた。だが、母から聞かなくとも、リュイセンはそのことを知っていた。シュアンが会いにきたからである。
所用で情報屋のトンツァイの店に行った帰り、妙な視線を感じた。振り向くと、人込みの向こうにシュアンがいた。
彼は、相変わらずの胡散臭い演技めいた仕草で、目深に被っていた帽子を取った。しかし、おどけた動きとは裏腹に、あらわになった三白眼は射抜くように鋭く、血色の悪い唇は皮肉げに持ち上がることなく、固く結ばれていた。
リュイセンと目が合うと、帽子を持った右手を後ろに下げ、左手を胸に当てて、黙って頭を下げた。敬意を示す礼だ。
その刹那、薬指の付け根が陽光を弾き、銀色に光った。
それから。
シュアンは、すっと裏路地へと消えていった。
昼の繁華街での、一瞬の出来ごとだった。
雑踏を掻き分け、追いかければ追いつけない距離ではなかった。けれど、リュイセンは、立ち止まったまま見送った。
なんとも、シュアンらしい挨拶だった。
そして、『この日、この時間に、リュイセンが来る』という情報をシュアンに売ったトンツァイは、なかなか、いい商売をしている、と思ったのだった。
鍛錬を終え、朝食を摂り、リュイセンは自室に籠もる。
次期総帥として、溜まっている事務作業をこなさねばならぬのだ。武闘派の彼には非常に不本意なことであるが、現在の対戦相手は、机の上に山と積まれた書類だった。
とはいえ、凶賊としては、実に平和な日常だ。
ひと月ほど前、摂政の命で、近衛隊による家宅捜索が行われたときには激震が走った鷹刀一族であるが、その後は極めて穏やかな日々が続いている。正しくは、『物寂しい』というべきか。にぎやかな連中が、いなくなってしまったからだ。
摂政が次に何を仕掛けてくるか分からないため、ルイフォンとメイシアは草薙家に行ったままであるし、ミンウェイはリュイセンが送り出した。その代わりに、母のユイランが総帥の補佐役として戻ってきたはずなのであるが、女王と婚約者の服の仕立てを請け負ったため、今は草薙家の二階の作業場で仕事中だ。
そして、この書類の山は、母の不在が原因だったりする。
仕立て屋の仕事との二足わらじでも、リュイセンが手伝えばなんとかなるだろう、という見通しは甘かった。……実に、甘すぎた。
次期総帥の座を退いた父エルファンも手を貸してくれるのだが、人間には向き不向きというものがある。正直なところ、父に任せるくらいならば、すべてリュイセンがやったほうが、まだましだった。
『総帥補佐の補佐』という役職の新設も考えたのだが、残念ながら、適当な人材がいないので、どうにもならない。
ちなみに、この現状に対し、祖父イーレオは、絶世の美貌に人の悪い笑顔を浮かべ、魅惑の低音で喉を震わせているだけである。
唯一の救いといえば、リュイセンのもうひとつの顔である『大学生』としては、無事に夏休みを迎えられたことだ。死にかけて〈蝿〉に捕らわれたり、一族を裏切って屋敷を出たりと、波瀾万丈な生活を送っていた間は、当然のことながら無断欠席の扱いになっており、一時は単位が危うかった。
しかし、命に関わるような大怪我をしたという事実と、普段のリュイセンが非常に真面目な学生であることから、幸いなことに、レポートの提出をもって大目に見てもらえた。……彼の家の『稼業』を知っている教授陣が、面倒ごとに巻き込まれたくないと判断しただけ、という可能性も否定できないが。
「ふぅ……」
午前中から作業を始め、昼食をはさみ、午後も黙々と机に向かうこと数時間。
書類の山の高さが、やっと半分くらいに減り、リュイセンは大きな溜め息をついた。
疲れたのか、集中力が落ちてきている。少し休憩を取ったほうがよいだろう。
彼は椅子から立ち上がると、迷わずバルコニーへと出た。暑くても構わない。とにかく、外の空気を吸いたかった。
硝子の戸を開けた瞬間に、熱気が襲ってきた。空調で冷やされていた肌は、薄皮一枚分の断熱服の効果を持っていたが、すぐに、じりじりと皮膚が焼ける感覚に変わっていく。
しかし、元来、自然の中で体を鍛えることに喜びを覚えるようなリュイセンである。気温が何度になろうとも、外気を吸い込めば、開放感でいっぱいになる。
やはり、外は気持ちがいい。
そう思ったときであった。
門のほうから、常とは違う気配を感じた。
かすかに聞こえる門衛たちの声から察するに、どうやら招かれざる客が来たらしい。
「何者だ?」
リュイセンは呟くと、バルコニーの手すりを飛び越え、地面へと降り立った。
リュイセンがバルコニーへと出る、少し前。
門の前に、一台のタクシーが止まった。
その瞬間、三人の門衛たちの間に緊張が走った。今日は、客人が来るとは聞いていない。すなわち、良からぬ輩がやってきたのだと解釈し、身構えた。
しかし、降りてきた人物を見て、門衛たちは唖然とした。
吹けば飛ぶような、小柄で華奢な女だった。王国一の凶賊、天下の鷹刀一族の屋敷を訪問するにしては、随分と可愛らしい御仁である。
だが、門衛たちが呆けたのは、彼女がこの場にそぐわない小女だからではなかった。彼女の服装が、不審者を絵に描いたようなものだったためである。
女は、真っ黒なパーカーのフードを頭からすっぽりと被っていた。そして、同じく真っ黒なサングラスとフェイスカバーで顔を覆っている。その結果、彼女の頭部で外気に晒されている素肌は、ごくわずか。こめかみのあたりが、ちらりと白く覗くのみである。
顔を隠した、危険な賊――とは、誰も思わなかった。
武に長けた門衛たちにとって、彼女がまったくの『素人』であることは、火を見るよりも明らかだったからだ。
この暑い夏の日に、長袖のパーカーのジッパーをしっかりと上まで閉め、袖口から覗く手には黒い手袋。パーカーの下から流れ出たスカートだけは淡い青色をしていたが、裾から伸びた足は、真っ黒なタイツで隠されている。
この服装から導き出される答えは、ひとつしかない。
彼女は、日焼けをしたくないのだ。――それも、『絶対』に。
おそらく、黒い布地はすべて、紫外線防止加工を施されたものであろう。
彼女の徹底ぶりに門衛たちは脱力しかけ、途中で、はたと首をかしげる。こんな女が、凶賊の屋敷に、いったいなんの用があるというのだろう? と。
彼らの疑問は、すぐに解消された。
「私は、ユイランさんに会いにきました」
天上の音楽もかくや、といった美しい響きが奏でられた。声の感じからすると、まだ若い。『少女』といった年齢だろう。
天界の琴のような音色に、門衛たちは、先ほどとは別の理由で呆ける。
「お願いします。ユイランさんを呼んでください」
ぐいと一歩、少女が前に出た。
小柄な彼女にしてみれば、頭ふたつ分ほども大きな門衛たちへと迫るのは、自ら巨人の群れに取り囲まれに行くようなものだろう。しかし、彼女は、臆することなく詰め寄る。
そのころになって、やっと門衛たちは自分の仕事を思い出した。
「あんた、何者だぁ?」
先鋒役の若い衆が、野太い声を張り上げて誰何する。威圧的な態度は、今まで間抜け面を晒していたことに対する、照れ隠しだろう。だが、今更のことである上に、愛嬌のある八重歯が特徴的な彼は迫力に欠けた。
案の定、少女にまるで萎縮する様子はなく、しかし、大真面目に告げる。
「ごめんなさい。名乗るわけにはいかないの。でも、決して! 怪しい者じゃないから!」
「はぁ……?」
万全の紫外線対策で『怪しい者じゃない』と叫ぶ少女。
あまりにも説得力に欠ける滑稽な姿に、門衛たちは、どっと噴き出す。
「ちょ、ちょっと!」
彼女の憤慨に、黒いフェイスカバーが、ぷうっと吹き上がった。彼女としては、心外だったらしい。
「いやぁ、すまん、すまん」
最年長の門衛が、場を取り繕うように口を開く。だが、悪びれない調子で頭を掻いていては、謝罪の台詞も意味がない。
「嬢ちゃん、あんた、鷹刀一族のユイラン様じゃなくて、デザイナーのユイラン様に会いにきたんだな」
「え、ええ……? それが何か? どちらの肩書きで呼んでも、ユイランさんはユイランさんでしょう?」
機嫌を損ねたままであるためか、少女は強めの口調で首をかしげる。素顔が隠されていても、彼女が口をへの字に曲げているのが感じられた。
凶賊への偏見が、まるで感じられない。
彼女は、凶賊を怖いと思っていないのだ。それは、よほどの馬鹿か、世間知らずか。
先ほどの門衛は、静かに尋ねた。
「あんた、貴族だろう?」
「え?」
「その奇妙な服装も、深窓の令嬢は真っ白じゃなくちゃいけねぇとか、そんな理由なんだろう? ああ、あと、お忍びだから顔を隠している、ってわけか」
「……そんなところ」
笑われたのは不愉快だけれど、察してくれたのはありがたい。そんな感情をにじませながら、少女は素直に頷く。幼さを感じる、可愛らしい仕草だ。
年長の門衛は、「いいか、嬢ちゃん」と、わざとらしい溜め息をついた。
「ここは鷹刀一族総帥、イーレオ様の屋敷だ。イーレオ様は、この国の凶賊の頂点に立つお方だからな、お命を狙う不届きな輩は、ごまんといる。だから、俺たち門衛は、招いてもいない客が来たら蹴散らすのが仕事だ」
頬に走る古傷を誇張するように、門衛は唇を歪めた。ゆらりと間合いを詰めながら、これ見よがしに刀の柄に手を掛ける。
「……っ」
ただならぬ気配を感じたのか、さすがの少女も短く息を呑んだ。とんだ暴挙に出ている自分に、今更ながら気づいたのかもしれない。
だが、ひと呼吸を置いたのちに、門衛は、ふっと口元を緩めた。
「凶賊の屋敷がどういうもんだか、分かってくれりゃあそれでいい。――まぁ、ユイラン様の服飾の客とあっちゃあ、丁重に扱わねぇといけねぇけどよ」
「じゃあ、ユイランさんを……!」
少女の緊迫は、一瞬にして安堵に変わる。しかし、門衛は困ったように眉を寄せた。
「あんた、運が悪いなぁ。ユイラン様は、特別な仕立ての仕事が入ったとかで、作業場のほうに行ったきりだ。今、この屋敷にはいらっしゃらねぇんだよ」
「ええっ! そんな……!」
悲壮感を漂わせた彼女に、門衛は懐から手帳を取り出し、ページを千切る。
「今、作業場の住所を書いてやるからよ。本当は、余計な世話を焼いちゃいけねぇんだが、嬢ちゃんのお忍び装束を楽しませてもらった礼だ」
実は、この門衛は、メイシアが初めて鷹刀一族の屋敷を訪れたときに対峙した者だった。
彼は、あのときのメイシアを思い出し、わけありらしい貴族の少女という共通点から、つい肩入れしたくなったのだ。数ヶ月前までは、凶賊らしく、上流階級の者を毛嫌いする気質があったのだが、メイシアが屋敷を訪れて以来、変わったのである。
善行は良いものだと、門衛が悦に入ってペンを走らせようとしたとき、唐突に少女が叫んだ。
「ご、ごめんなさい! 本当は、ちょっとだけ違うの!」
絹を裂くような声に、屈強な門衛たちが、ぎょっとする。
「本当は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に会いにきたの!」
「は……?」
状況が理解できず、門衛たちの目が点になった。
「でも、いきなり、そう言っても門前払いになるだけだと思って、ユイランさんに取り次いでもらおうと考えたの。ユイランさんなら、私のことを知っているから……。でも、ここにユイランさんがいないなら……どうしよう……」
心底、途方に暮れたように、少女が狼狽える。
その姿に、三人の門衛たちも困惑顔で額を寄せ、同時に「あっ!」と声を揃えた。
「嬢ちゃん、メイシアに会いにきたんか!」
メイシアは、表向きは死んだことになっている。だから、彼女がルイフォンのもとで生活していることは『極秘』だ。
「なんだぁ、メイシアの友達かぁ」
「わざわざ、お忍びで来てくれたとは! メイシアも喜ぶぞ」
「えっ!? えっと……?」
盛り上がる門衛たちの耳に、戸惑う少女の声は届かない。
「今、メイシアも、ここにいねぇんだけどよ。ちょうどいいことに、ユイラン様と同じ家にいるんだ」
「あ、あのっ……」
少女は『待って!』と、黒い手袋の掌を突き出し、勝手に転がっていく話を止めようとした。しかし、目線の遙か下にある手の動きなど、門衛たちは気づかない。
そのときだった。
「何があった?」
よく通る、魅惑の低音が響いた。
鉄格子の門の内側から、黄金比の美貌が覗く。癖ひとつない艷やかな黒髪が、さらりと夏風に吹かれた。
「リュイセン様!」
門衛たちが一斉に頭を垂れた。
そして――。
「『リュイセン』……」
黒いフェイスカバーの下で、少女が小さく呟いた。
1.白蓮華と黒装束-2

招かれざる客の気配に、リュイセンはバルコニーから庭へと飛び降りた。
小走りで門までやってきて、鉄格子越しに、相手の姿を認める。その瞬間、彼は固まった。
――なんだ、あれは?
美麗な顔を歪め、リュイセンは眉間に皺を寄せる。
顔を隠した、黒づくめの小柄な女だった。明らかに不審人物である。
それにも関わらず、強面の門衛たちが、彼女を囲んで和気あいあいと盛り上がっていたのだ。
……わけが分からない。
「何があった?」
狼狽するリュイセンに、若い門衛が嬉しそうに答える。
「リュイセン様! 彼女はメイシアの貴族時代の友達で、お忍びで会いにきてくれたそうっすよ」
「は? メイシアの『友達』……?」
友達の話なんて、聞いたことがない。
もっとも、リュイセンにとってメイシアは身内ではあるが、あくまでも弟分のパートナー。彼女の個人的なことは、知らなくても不思議ではない。貴族時代のことともなれば、なおさらだ。
……だが、いくらお忍びだからといって、その格好はないだろう?
箱入り娘のメイシアは、確かに妙なところで世間知らずだが、貴族であったころから常識人だった。その友達が、こんなおかしな女でよいのだろうか……?
「お前、本当に、メイシアの友達か?」
困惑の面持ちで、リュイセンが問うたときだった。
「リュイセン!」
まるで、天界の琴を、ぽん、と弾いたかのような、美しい音色。
リュイセンは、自分の名前が天上の音楽となって、高らかに響き渡ったように聞こえた。
感動にも似た衝撃は、しかし、その直後に、驚愕に取って代わられる。
「会いたかったわ!」
巨漢の門衛たちの間をすり抜け、少女が門へと駆け寄った。ふたりを隔てる鉄格子を握りしめ、精いっぱいの爪先立ちで、リュイセンに詰め寄る。
「なっ……!?」
千の敵を前にしても、決して怯むことのないリュイセンが、小柄な少女ひとりに狼狽えた。
それと同時に、得心したとばかりの、門衛たちの視線が突き刺さる。
「これは、これは……」
「そういうことっすかぁ」
「リュイセン様も、隅に置けませんなぁ」
門衛たちは口々に好き勝手なことを言い、にやにやと目元を緩ませた。この少女とリュイセンは、メイシアを通して既に顔馴染みであり、かなり『親しい』間柄であるのだと、すっかり信じ込んでいる。
「お、おいっ!? お前らっ!」
リュイセンは殺気をにじませ、焦りに眉を跳ね上げる。変な誤解をされては、たまったものではない。
きちんと弁明を――と思ったとき、彼は自分を見上げている少女が、黒いパーカーに埋もれるように身を縮こめていることに気づいた。
しまった……!
リュイセンは、自分の体格のよさを自覚している。また、血族特有の低音で怒声を飛ばせば、必要以上の威圧を与えることも理解していた。
そして、彼は生真面目で、礼儀正しい男だった。いついかなるときでも、か弱き少女を怖がらせてはならないのである。
「すまん!」
「ごめんなさい!」
神速で発した魅惑の低音に、妙なる天界の音色が重なった。
綺麗な和音となった、ふたつの謝罪。
その響きに、リュイセンは虚を衝かれた。はっと気づいたときには、目の前の鉄格子から黒い手袋が離れており、少女が、くるりと身を翻している。
理由は分からない。ただ、恐れを知らぬ猛者であるはずのリュイセンが後れを取った、という事実だけが残った。
彼女は門衛たちへと走り寄り、「違うの!」と、訴えるように叫ぶ。黒づくめの服装の中で、唯一、色彩を持った青いスカートが、漣のように流れた。
「なんだぁ、嬢ちゃん。違うのか?」
やや不満げに、門衛たちは拍子抜けした声を上げた。
それでも、どことなく顔がにやけているのは、長年、想い続けてきたミンウェイを送り出したばかりのリュイセンには、その気はなくとも、彼女のほうは、まんざらでもないのだと期待しているためだろう。
「あのっ、……ごめんなさい」
「そうかぁ、残念だなぁ」
口では、そう言っていても、目元は楽しげに細められたままである。ミンウェイを失った傷心の今が好機だと、少女を応援しているのだ。
「いやぁ。てっきり、リュイセン様は……ああ、いえいえ!」
なおも変わらぬ調子の門衛たちに、リュイセンは、ひと睨みする。すると、彼らは縮み上がるような素振りで、ぶるぶると首を振ってみせた。――勿論、演技であるが。
……まったく。
苦虫を噛み潰したような顔で、リュイセンは改めて少女を見やる。
よくよく観察してみれば、外見こそ不審者そのものであるが、彼女から悪意の類は感じられない。言動は謎であるが、とても素直で、まっすぐな気質が伝わってくる。
ともあれ、これから、ゆっくり事情を聞かせてもらうか。
リュイセンが「おい」と、少女に声を掛けたときだった。
「でも、リュイセンに会えて、本当に嬉しいわ!」
「……は?」
声を弾ませる彼女に、リュイセンの思考が止まる。呆けた視界の端に、門衛たちのしたり顔が映り込む。
誓ってもいい。
彼女とは、初対面だ。
いくら顔を隠していても、気配に敏いリュイセンが、知り合いに気づかないはずがない。――だが、彼女のほうは、知っている……?
――何者だ?
門にたどり着く前、『ユイランさんに取り次いでもらおうと思った』と言う声を、風の中に聞いた。
『本当は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に会いにきたの!』――と。
彼女が嘘をついているようには思えない。母の知り合いであるのは本当だろう。
仕立て屋として、母は上流階級にも顔が広い。メイシアの友達かどうかはさておき、貴族であることは信じてもいい。むしろ、この傍迷惑なまでもの無邪気さは、平民というよりも貴族だ。
彼女は、誰に会いにきた?
貴族の少女が凶賊の屋敷に、いったい、なんの用がある?
まるで、メイシアが鷹刀一族のもとへ舞い込んできたときのようだ。それは、すなわち、波乱の幕開けだ。
リュイセンは渋面を作った。
この少女自身は、無害な存在といえるだろう。まとう空気が、まるきり『素人』のそれだ。ならば、彼女はメイシアのように騙されて、陰謀を企む輩の駒にされているのか?
彼は周囲の気配を探る。彼女を見張っている者がいないかと、警戒したのだ。
……いない、か。
そう結論づけたときだった。
不意に、リュイセンの耳が携帯端末の振動音を捕らえた。音の先では、最年長の門衛が、懐から携帯端末を出しているところだった。
「あ、はい! 今、替わります」
門衛は、畏まった返事をすると、鉄格子越しにリュイセンに端末を差し出す。
「イーレオ様からです。リュイセン様に替わるようにと」
「祖父上が……?」
門の様子は、常にモニタ監視室から目を光らせている。不穏な動きがあれば、すぐに総帥イーレオに報告されるので、門衛の携帯端末に連絡が来ても不思議ではない。
しかし、どうして自分に?
疑問に思いながら、リュイセンが端末を受け取ると、イーレオの低音が響いた。
『リュイセン、その子を執務室まで案内しろ。――丁重にな』
「は? こんな不審な者をどうし……」
総帥の発言とも思えぬ指示に、リュイセンは反論し、その途中で、弾かれたような笑い声に遮られた。
「祖父上!?」
『彼女の言動に、俺が魅了されたからに決まっているだろう?』
電話越しに、くつくつと喉を鳴らす音が続いている。それに被さるように、呆れ返ったような、冷ややかな低音が届いた。
『お前はまだ、その者が何者であるか、理解していないのか?』
イーレオではない。父のエルファンだ。同じ声質でも、温度が違う。執務室から、ふたりでスピーカーを使って話しているのだろう。
「……」
リュイセンは唇を噛みしめた。
少女の正体を見抜けぬ自分は、聡明さに欠ける。不甲斐ないと思われている。――祖父にも、父にも。
「リュイセン……?」
少女が遠慮がちに近づいてきて、気遣うような音色を奏でた。
「イーレオさんは、なんて言ったの? 怒られている?」
「あ、いや……」
「私のせいでしょう? 私が、いきなり押しかけてきたから。――ごめんなさい。リュイセンは、何も悪くないのに……」
ぐっと背伸びして、サングラスの視線が心配そうに、リュイセンの顔を覗き込む。
妙に親しげな距離感と、なのに決して不快ではないという矛盾。
リュイセンは困惑し……、はっと現実に戻って、「違う」と首を振った。
「俺が未熟なだけだ」
「?」
少女が、きょとんと首をかしげる。はずみで、目深に被っていた黒いフードが、ふわりと風に浮き立った。
――――!
その瞬間、リュイセンは、切れ長の眼を大きく見開いた。
神速の勢いで、携帯端末を持っていないほうの手を伸ばし、鉄格子の隙間から彼女のフードを乱暴に元に戻す。
――しかと見た。
フードの下から零れかけた、白金の煌めきを。
いくら鈍いリュイセンでも、少女の正体をはっきりと悟った。
女王だ。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、この国の王。創世神話に謳われし、天空神フェイレンの代理人。
超大物じゃねぇか――!
リュイセンの鼓動が、早鐘を打つ。
フードがずれたのは、ほんの一瞬。背中を向けていた門衛たちには、間一髪、気づかれなかったはずだ。
凶賊の屋敷に女王が現れたとなれば、ただごとでは済まない。部下たちに隠しごとをするのは心苦しいが、できるだけ内密に、そして、穏便に対処すべき案件だろう。
黄金比の美貌が歪み、リュイセンの眉間に苦悩の皺が寄る。
彼女が女王であるならば、異様な服装にも納得がいく。
黒づくめは、ひと目で素性の分かる容姿を隠すのと同時に、極端に日光に弱いという、先天性白皮症の肌を守るためだ。
祖父や父は、すぐに思い至ったのだろう。
何しろ、つい最近、王宮に乗り込んでいったルイフォンの報告書の中で、女王は『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わる重要人物として、名を挙げられていたのだから。
王の威厳の欠片もなく、限りなく頼りないと評されていた彼女に、凶賊の屋敷を訪れる行動力があったことには驚きであるが、注視しておくべき相手だった。白金の髪を見るまで気づかぬとは、父たちに呆れられても仕方あるまい。赤面の至りだ。
では、彼女はなんのために、鷹刀一族の屋敷を訪れた?
門衛たちの言う通り、メイシアに会いにきたのか?
違う。
女王とメイシアは再従姉妹の間柄にあるが、特に親しくはなかったと聞いている。
――『ライシェン』だ。
リュイセンは、ごくりと唾を呑む。
女王は、『ライシェン』に会いにきたんだ……。
「リュイセン?」
フードを直したきり、押し黙ってしまったリュイセンを、女王が不思議そうに見上げた。身長差のために、ぐっと大きく、頤を上げて――。
「ば、馬鹿野郎!」
再び脱げかけたフードに向かって、リュイセンは慌てて手を伸ばす。
大きな掌で、しっかりと頭を押さえ込み、長い腕で、鉄格子越しに彼女を引き寄せる。
……その結果。
「きゃぁっ!?」
リュイセンの胸元に抱きかかえられる形となった女王が悲鳴を上げ、門衛たちが「おおっ」と色めきだった。
「勘違いするな! こいつは、顔を見られるわけにはいかねぇんだ!」
はっ、と我に返り、リュイセンは大声で怒鳴りつける。
しかし、あとの祭りであった。
門衛たちは「ああ、そうですか。そうですよねぇ」と、もっともらしく深々と頷くものの、その口ぶりから、リュイセンの言葉をまったく信じていないのは明らかだった。
リュイセンは忌々しげに舌打ちをすると、女王に告げる。
「総帥が、お前を呼んでいる。案内するから、ついてこい」
乱暴に言い捨て、けれど、フードから手を離すときには、優しく慎重であるところが、如何にもリュイセンである。
彼は鉄格子の門を開けた。携帯端末を門衛に返し、女王を招き入れる。
総帥イーレオに呼ばれたと聞いて、女王は緊張しているようであった。顔は見えなくとも、リュイセンには息遣いで分かる。
それでも彼女は、くるりと門衛たちを振り返り、明るい天上の音楽を奏でた。
「いろいろ、親切にありがとう! 詳しいことを言えなくて、ごめんなさい」
「嬢ちゃん、あんた、いい子だなぁ」
「頑張れよ!」
門衛の意図する『頑張る』の意味を理解していない女王は、「はい!」と、無邪気に手を振って応えた。
2.訪い人の袖時雨-1

黒づくめの女王を先導し、リュイセンは執務室へと向かう。
弁解のしようもなく、不審な風体の彼女であるが、次期総帥たるリュイセンが連れていれば、行く手を阻む者はない。しかし、好奇の目に晒されるのも可哀想なので、できるだけ人の通らない廊下を選んでいった。広い屋敷であるため、経路さえ選べば、ほぼ誰にも会わずにすむのだ。
彼は歩きながら、ルイフォンが先日、王宮に行ったときの報告書の中の、女王に関する記述を思い返していた。
お飾りの女王であることは間違いない。彼女が、あまりにも王族の威信というものから掛け離れているため、公的な場では無口でいるようにと、兄に諫言されているらしい。
同母兄の摂政カイウォルとは不仲ではないが、煙たがっている節がある。むしろ、異母兄であり、婚約者でもあるヤンイェンのほうに懐いているように思われた。
『デヴァイン・シンフォニア計画』については、何を知っているのか、そもそも何も知らされていないのか、まるで不明。
そんなふうに綴られていた。
そして、ルイフォンにしては珍しく、好意的な表現の所感で締めくくられる。
流されるままの自分を変えたいという思いが、言葉の端々から感じられた。
純粋で、素直な性格。悪い子ではない。
――それで、行動を起こしたというわけか。
リュイセンは、得心の息を吐いた。それから、顔をしかめ、眉間の皺を深くする。
ルイフォンからの報告がなければ、兄の駒として、鷹刀一族の屋敷の内偵に来た可能性を視野に入れた。唯一無二の存在である女王という餌を撒けば、如何に用心深い鷹刀といえども、尻尾を出すと画策したかと。
しかし、屋敷の周りに、監視や援護の者の気配はなかった。もとより、冷静になって考えれば、あの慎重な摂政が、荒事とは無縁の女王を、単身で凶賊の屋敷に乗り込ませるなどという暴挙に出るはずもない。
だから、この訪問は、間違いなく彼女の意志なのだ。
ならば、彼女は王宮を抜け出してきて、大丈夫なのだろうか? 口うるさい兄に、厳しく叱られるのではないだろうか。
リュイセンも、よく小言を言われる身である。余計なお世話かもしれないが、他人ごとながら心配になってくる。
とはいえ、女王の来訪は、膠着している『デヴァイン・シンフォニア計画』の展望に、大きな影響を与えることになるだろう。個人の感情ではなく、『この計画に巻き込まれた、鷹刀一族の次期総帥』という立場からすれば、彼女の無鉄砲は歓迎すべきものだ。
総帥である祖父イーレオも、彼女との対面に価値があると考えたからこそ、執務室に案内するように言ったのだろう。先ほどのイーレオとの通話では確認しはぐったが、今ごろ、ルイフォンにも連絡が行っているはずだ。
ヤンイェンとの接触は叶ったものの、今ひとつ、状況が進展しなかったことに、弟分は焦れていた。知らせを受ければ、小躍りしながら飛んでくることだろう。
弟分の猫の目が輝くところを思い浮かべ、リュイセンは口元を緩めた。
そのとき。
「お願い……、置いていかないで……」
哀れを誘うような、よろよろとした女王の声が、リュイセンの耳に届いた。
振り向けば、すぐそばを歩いていたはずの彼女は、長い廊下の遥か後ろにいた。歩幅の差を考慮せず、リュイセンが普段通りに颯爽と歩けば、当然の結果である。
しまった、と立ち止まると、彼女は全力で走ってきた。苦しげに肩で息をしており、黒いフードの先端が、彼の目線から頭ふたつ分くらい下で、ぜいぜいと上下に揺れる。
間近に来た彼女から、ただ走ってきたにしては高すぎる体温を感じ、リュイセンは自分の無配慮に気づいた。彼女は黒づくめの格好で、真夏の炎天下にいたのだ。さぞや暑かったに違いない。足元など、ふらふらのはずだ。
「すまん」
考えなしであった。リュイセンは猛省する。
一方、女王は機嫌を悪くしているわけではないようで、「ううん。それより……」と、きょろきょろと辺りを見渡し、人気がないことを確認してから、リュイセンに向き直る。
そして――。
「さっきは、ありがとう!」
天真爛漫な、天上の音楽が響いた。
彼女は黒い手袋の両手で、フードの紐を軽く引いてみせる。正体がばれないように、リュイセンが白金の髪を隠してくれた礼を言っているらしい。
「あ、いや……」
些細なことに真正面から感謝されると、かえって戸惑う。
押され気味のリュイセンに、女王は「それから、馴れ馴れしくして、ごめんなさい!」と、更に詰め寄った。無遠慮……ではなく、無邪気に距離が近い。
「私はリュイセンのことを聞いていたけれど、リュイセンは私のことを知らなかったのにね。ごめんなさい。……でもね。私はリュイセンに会えて、本当に嬉しかったの。ずっと会ってみたかったのよ」
「お前は何故、俺のことを知っている?」
及び腰になりつつも、リュイセンは先ほどから抱いていた疑問を口にする。すると、彼女は、気配に敏い彼でなければ気づかないほどの、わずかな間を置き、それから答えた。
「セレイエがね、よく自分の兄弟のことを話してくれたの。――だって、私は、セレイエの……義妹だもの」
フェイスカバーに隠されていても分かる、少し唇を尖らせた声。幼い子供が、屁理屈をこねるときの口調に似ている。
女王の異母兄であるヤンイェンは、セレイエと正式に婚姻を結んだわけではない。だから、本当は『義妹』を名乗ることはできないと分かっている。けれど、『義妹』で在りたいから、『義妹』を主張するのだ、という意思表示――。
「そうか、セレイエか。……言われてみれば、それしかないよな」
女王は、異母兄のヤンイェンと仲が良い。ならば、彼の事実上の妻となったセレイエと親しかったとしても不思議ではない。
なるほど、とリュイセンは思う。
ルイフォンは王宮に行ったとき、驚くほど自然にヤンイェンに名前を呼ばれたという。それと同じことで、女王もまた、セレイエに連なるリュイセンを身近に感じているというわけだ。王族のくせに、ふたりとも妙に人懐っこい。よく似た異母兄妹なのだろう。
「リュイセン」
不意に、女王の声が不思議な音調を帯びた。
「私は、セレイエに会いにきたの」
「!?」
「セレイエは、このお屋敷に匿われているんでしょう? カイウォルお兄様がそう言っていたわ」
刹那、リュイセンの背に緊張が走った。
――そうだ。
女王は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に、会いにきたと言っていたのだ。
〈ベロ〉の小部屋に『ライシェン』が隠されていることを知っているリュイセンは、てっきり、『ライシェン』が目的だと思い込んでいたのだが……。
「セレイエ――だと……?」
秀眉をぴくりと跳ねかせたまま、黄金比の美貌は彫像のように凍りつく。
『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わるものは、すべからく鷹刀一族が抑えている――と、摂政カイウォルが信じていることは知っている。だからこそ、鷹刀一族の屋敷は、家宅捜索の誹りを受けたのだ。
だが、セレイエは既に死んでいる。
愛するヤンイェンの腕の中で、息を引き取った。この前、ルイフォンが直接、当事者の口から聞いてきたのだから間違いない。
「知らないのか……?」
魅惑の低音が、困惑にかすれた。
どうして、女王はヤンイェンから正しい情報を得ずに、カイウォルの言葉を信じて、はるばる鷹刀一族の屋敷まで来たのだ?
彼女は厳しい兄よりも、優しい異母兄のほうと、仲が良いのではなかったのか?
ヤンイェンが、セレイエが死んだという事実を秘匿しているのか? 何故、可愛がっている異母妹に伝えない?
――逆だ。
大切な異母妹だからこそ、そして、セレイエを慕う『義妹』だからこそ、ヤンイェンは、セレイエの死を隠したのだ。
そこまで考えて、リュイセンは、はっと顔色を変えた。
しかし、時すでに遅し。
「やっ……ぱり……」
黒いパーカーで覆われた肩が、びくりと上がった。
「セレイエは……、亡くなって……いた……のね」
サングラスの下から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
透明な雫は、わずかに見える素肌を濡らし、すぐにフェイスカバーの染みとなった。
迂闊だった――!
全身の血の気が引いていき、リュイセンは目眩を覚える。
「あ、いや……」
意味をなさない言葉は、「分かっていたもの!」という女王のひとことに一蹴される。
「ヤンイェンお異母兄様の態度を見ていれば、明らかだわ! 幽閉が解かれて、四年ぶりにお会いしたときから、様子がおかしかったもの。問い詰めようとしても、はぐらかすのよ! お異母兄様は知っていて、私に隠していたの!」
彼女は黒い手袋の両手を握りしめ、小刻みに震わせた。
「セレイエが姿を消したのは、亡くなったからなんでしょう!? ……もう、四年前の時点で、既に!」
「……っ」
天上の音楽が、嵐を奏でる。
思わぬ激しい口調に、リュイセンは声を失う。それまでの無邪気な彼女とは、まるで別人だった。
「なのに、カイウォルお兄様は、セレイエが『ライシェンの肉体』を作った、って言うのよ!? しかも、今度は殺されないように、過去の王の遺伝子はすべて廃棄した、って」
ひくりと喉が動き、また一粒、雫が煌めいた。
「セレイエは、『唯一の〈神の御子〉の男子』を王宮に引き渡す代わりに、ヤンイェンお異母兄様を私の婚約者として解放するようにと、侍女だったホンシュアを通じて迫った、って」
女王は泣きながら、それでも、声を止めない。
まるで、誰かに助けを求めるかのように。
「それだけのことをして、セレイエが、ヤンイェンお異母兄様や私に何も伝えてこないなんて、あり得ないの! だって、セレイエは〈天使〉よ。その気になれば、警備なんて関係ない。お異母兄様にも、私にも、会いに来られるわ。なのに、姿を見せないなら……」
彼女は、そこで呼吸を乱し、しゃくりあげた。
「セレイエは……命を賭けたんでしょう? 〈冥王〉から、『ライシェンの記憶』を手に入れようとして……。――けど、熱暴走を起こして……、そういうことでしょう!?」
「なっ……!?」
これまでの経緯からして、女王は『デヴァイン・シンフォニア計画』を知らない。だのに、この計画の根幹に関わるような話が出てきたことに、リュイセンは驚愕する。
「お前……、『セレイエが、〈冥王〉から記憶を』って、そんなことまで知って……?」
「知っているわよ! だって、私は四年前、ヤンイェンお異母兄様とセレイエのそばに、ずっといたんだもの! ――ふ たりは、亡くなったライシェンの『記憶』と『肉体』を手に入れて、生き返らせようとしていたわ!」
「――!」
王宮にいた彼女は、間近で見ていたのだ。
ライシェンが生まれたことも、ライシェンが人を殺めたことも、ライシェンが祖父の手によって殺されたことも。
……嘆き悲しむ、ヤンイェンとセレイエの姿も。
「どんなに悲しくても、死んだ人は還ってこないのに……。私は、ふたりが壊れていくのを止めたかった。でも、何もできなくて……。お異母兄様は……、お父様を……」
とめどなく流れる涙を拭うため、女王はサングラスを外した。黒いパーカーの袖で、ごしごしと擦ったそのあとに、澄んだ青灰色の瞳が現れる。初めて見る色に、リュイセンの鼓動が、どきりと脈打った。
「リュイセン……」
白金の睫毛に縁取られた、惹き込まれるような濡れた瞳。長身の彼をじっと見上げ、新たな涙のひと雫が、白い肌を伝う。
「私は、このお屋敷に、セレイエの死を確かめに来たの……」
彼女はそう言うと、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。青灰色の瞳から流れた涙が如く、淡い青色のスカートが漣となって広がる。
「おいっ!?」
リュイセンも、追いかけるようにして、しゃがみ込む。
「リュイセン……、セレイエは……、セレイエは……もう……、この世の人じゃ……」
彼女は嗚咽混じりに言葉を紡ぎ、やがて、耐えきれなくなったように、リュイセンに縋りついてきた。
「――っ」
反射的に抱きとめた体は、緩みのあるパーカーからは想像できないくらいに華奢で、柔らかで――。
「セレイエ……、セレイエ……!」
細い肩が震えるたび、彼女の涙が、リュイセンの胸を濡らす。
彼は遠慮がちに、彼女の背に腕を回した。初対面の相手にすべきことではないが、一方的に抱きつかれているのでは、まるで彼女を突き放しているみたいな気がしたのだ。
泣きじゃくる声を聞きながら、セレイエの死に、これほど取り乱した者が他にいただろうかと、リュイセンは自問する。
鷹刀一族の者たちは、メイシアから明確に死を告げられるよりも前に、セレイエが既に鬼籍に入っているのではないかと、薄々感づいていたように思う。だから、覚悟があったし、諦観もあった。血族であるのに、薄情だったかもしれない。
それだけに、無垢な涙を流す彼女が、リュイセンには衝撃だった。
思えば、彼女は四年前、まだ十一歳のときから、独りで胸を痛めてきたのだ。
異母兄が父親を殺して幽閉され、義姉が姿を消し、自分は幼くして一国の王となった。保護者となった兄は、彼女の代わりに政は執っても、ヤンイェンとセレイエの運命を嘆く彼女の心に、寄り添うことはなかっただろう。
――辛かったよな……。
腕に包んだ体ごと、彼女の抱えてきた孤独も包んでやりたいと思う。
そのとき。
遠くから、メイドの転がすワゴンの音が聞こえてきた。
いくら人通りの少ない廊下とはいえ、誰も来ないわけではないのだ。そして、この状況を目撃されるのは、どう考えてもよろしくない。
かといって、今の彼女を執務室に急かせるのも可哀想で――。
……止むを得ん。
リュイセンは、いつの間にか床に放り出されていたサングラスをポケットにねじ込むと、彼女の耳元に低く囁く。
「少しだけ、我慢してくれ」
それだけ言うと、神速の身のこなしで彼女を抱き上げた。小柄な体躯は想像以上に軽く、勢い余ったスカートが大きく一度ふわりと舞い上がり、波打ちながら流れていく。
「きゃっ!?」
高い悲鳴が響き渡った。リュイセンは心の中で「すまん」と詫びつつも、彼女の声と顔とを自分の胸元に押しつけるようにして、外から見えないように隠す。
そして、彼女を横抱きにしたまま、可及的速やかに執務室に向かったのだった。
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第四章 金枝玉葉の漣と
この章は、2025.02.28 ~ 2025.08.08 毎週金曜日、定期更新します。