
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第四章 金枝玉葉の漣と
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第四章 金枝玉葉の漣と
――――です。
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第三章 金殿玉楼の閣で https://slib.net/122123
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〈第三章あらすじ&登場人物紹介〉

===第三章 あらすじ===
シュアンの表向きの死によって、ルイフォンたちは『ライシェン』を探す摂政を退けた。次に摂政が動くまで、いわば膠着状態。ルイフォンは、万一のときに別行動を取れるようにと、鷹刀一族の屋敷を出て、草薙家に居候中のまま。何も変わらない事態に焦れていた。
そんなある日、王宮からユイランに依頼が入る。女王と、彼女の婚約者であるヤンイェン――『ライシェン』の父親であり、ルイフォンが接触の方法を画策している人物――の服を仕立ててほしい、と。
採寸は代理がきかない。仕立て屋は直接、王族のヤンイェンに会える。そこで、ルイフォンが『女装』して、助手として同行することになった。女性である女王の採寸に、男のルイフォンが行くわけにはいかないからだ。
ユイランとの女装の事前打ち合わせでは、『可愛い』を連発され、げんなりのルイフォン。だが、『メイシアにサプライズで婚約指輪を贈りたい』という思いつきを相談すると、的確なアドバイスに加え、『高級宝飾店に行く際の服装は任せて』と言ってもらえるという、良いできごともあった。
そして当日。女装したルイフォンは、仕立て屋の助手として、女王とヤンイェンと対面した。
ヤンイェンは、すぐにルイフォンがセレイエの縁者ということに気づいた。しかし、何もかもヤンイェンに任せきりの女王を置いて、別室に移ることは難しそうだ――と、思っていたら、実は女王は無邪気で人懐っこい性格で、あまりにも王族の威厳がないために普段は黙っているように言われているだけだと判明する。
人気のデザイナーのユイランに会えて、大興奮の女王。ヤンイェンは適当な理由をつけて、隣室でルイフォンとふたりきりになる機会を設けた。
ヤンイェンは、セレイエから兄弟のことをよく聞いていたらしい。ルイフォンのことを『女装した異父弟』だと、見抜いていた。そして、「セレイエは私のせいで死んだ」と、悲痛な顔で謝ってくる。ヤンイェンに会ったら、何を差し置いても『デヴァイン・シンフォニア計画』の話をせねば、と思っていたルイフォンは戸惑った。
ルイフォンとしては、ヤンイェンの意向を確かめるために会いに来た。父親として、『ライシェン』の未来は、『王』と『平凡な子供』のどちらがよいか。また、セレイエが命と引き替えに手に入れたライシェンの『記憶』は、そのままにすることを認めるか。――認めない場合は、敵対しても構わない、 という肚だった。
しかし、異父弟として、義兄に始めに言うべき言葉は、感謝だと気づく。最後がどうであれ、異父姉は幸せだったのだから。
セレイエを偲び、言葉を交わす、ルイフォンとヤンイェン。そして、ルイフォンは『瀕死のセレイエは、ヤンイェンのもとに辿り着き、彼の腕の中で逝った』という、セレイエの最期を聞く。
会話の区切りがつくかと思われたその瞬間、ヤンイェンの口から『デヴァイン・シンフォニア計画』という言葉が飛び出す。「君は、この計画の現状を伝えるために、私に会いに来たのだろう?」と。
ルイフォンは無事に『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状をヤンイェンに伝えることができた。しかし、ヤンイェンは『今すぐには何も決められない』と言い、なんの進展もなかった。期待していただけに、愕然とするルイフォン。
今日のところはここまで、と。女王のいる部屋に戻ろうとしたら、女王が試着に夢中で、待つことになる。その間、ヤンイェンから女王の話を聞くことができた。
なんでも、生まれてすぐに母親を亡くした女王を、ヤンイェンの母が気にかけて、自分のもとによく招いていたのだという。同じ『〈神の御子〉の女性』として、将来、〈神の御子〉を産むように強要されることを心配したのだ。ヤンイェンとも自然と顔を合わせることが多くなり、仲良くなったらしい。
異母兄妹でありながら、表向きは従兄妹であるために婚約者となった件については、『他の男に酷い目に遭わされるよりは、ましだろうと思った』と語った。
この世で唯一の『〈神の御子〉の男子』である『ライシェン』の未来は、女王の未来にも大きな影響を及ぼす。そう気づいたルイフォンは、異母妹を可愛がっているヤンイェンが、『ライシェン』の未来を即断できないのは仕方のないことなのだ、と溜め息をついた。
草薙家に戻ったルイフォンは、はっきりしないヤンイェンの態度に対する不満をメイシアにぶちまけてしまう。そんな彼の気持ちを彼女は肯定し、受け止めてくれた。
落ち着きを取り戻したルイフォンは、『女王に『ライシェン』を託す』という未来もあるのではないか』とメイシアに打ち明けると、良い案だと言ってもらえた。『選択肢が増えたのだから、きちんと前に進んでいるのだ』というメイシアの言葉に、ルイフォンの気持ちは晴れていった。
===『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』===
主人公ルイフォンの姉セレイエによる、殺された息子ライシェンを蘇らせる計画。
王の私設研究機関〈七つの大罪〉の技術で再生された『肉体』に、ルイフォンの中に封じたライシェンの『記憶』を入れることで『蘇生』が叶う。
また、生き返った『ライシェン』が幸せな人生を送れるように、セレイエはふたつの未来を用意した。
ひとつは、本来、ライシェンが歩むはずだった、父ヤンイェンのもとで王となる道。
もうひとつは、愛情あふれる家庭で、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道。
セレイエは、弟であるルイフォンと、ヤンイェンの再従妹であるメイシアを『ライシェン』の幸せを託す相手として選び、ふたりを出逢わせた。
『di;vine+sin;fonia』という名称は、セレイエによって名付けられた。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらを繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』を意味する。
この計画が禁忌の行為と分かっていながら、セレイエは自分を止められなかった、ということである。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少年。十六歳。
亡き母キリファから〈猫〉というクラッカーの通称を受け継いでいる。
父親は、表向きは凶賊鷹刀一族総帥イーレオということになっているが、実はイーレオの長子エルファンの息子である。
そのことは、薄々、本人も感づいてはいるが、既に親元から独立し、凶賊の一員ではなく、何にも属さない『対等な協力者〈猫〉』であることを認められているため、どうでもいいと思っている。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
亡くなる前のセレイエに、ライシェンの『記憶』を一方的に預けられていた。
※『ハッカー』という用語は、本来『コンピュータ技術に精通した人』の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われている。
対して、『クラッカー』は、悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を『クラッカー』と表記する。
メイシア
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少女。十八歳。
セレイエによって、ルイフォンとの出逢いを仕組まれ、彼と恋仲――事実上の伴侶となる。
もと貴族の藤咲家の娘だが、ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
王族の血を色濃く引くため、『最強の〈天使〉』として『ライシェン』を守ってほしいというセレイエの願いから、『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた。
セレイエの〈影〉であったホンシュアを通して、セレイエの『記憶』を受け取っている。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
約三十年前、イーレオが、王家および王家の私設研究機関である〈七つの大罪〉と縁を切るまで、血族を有機コンピュータ〈冥王〉の〈贄〉として捧げる代わりに、王家の保護を受けてきた。近親婚を強いられてきたため、血族は皆そっくりであり、また強く美しい。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥であったが、次男リュイセンに位を譲った。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
父から位を譲られ、次期総帥となった。また、最後の総帥になる決意をしている。
黄金比の美貌の持ち主。
文句も多いが、やるときはやる男。『神速の双刀使い』と呼ばれている。
ミンウェイを愛していたが、彼女の幸せを思い、彼女を一族から追放し、緋扇シュアンのもとに行かせた。
鷹刀ユイラン
エルファンの十歳以上は年上の妻。レイウェン、リュイセンの母。銀髪の上品な女性。
レイウェンの会社の専属デザイナーとして鷹刀一族の屋敷を出ていたが、ミンウェイがシュアンのもとへ行ったため、総帥の補佐役として再び屋敷に戻ってきた。
ただし、服飾の仕事が忙しいときには、草薙家にある仕事場に詰めっぱなしになるため、行ったり来たりの生活をしている。
ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。
草薙チャオラウ
鷹刀一族の中枢をなす人物のひとり。イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
主筋であるユイランを、幼少のころから半世紀ほど、一途に想っている、らしい。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
もとエルファンの愛人で、セレイエ、ルイフォンの母。ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。故人。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に人体実験体である〈天使〉にされた。
四年前に当時の国王シルフェンに『首を落とさせて』死亡。
どうやら、自分の体を有機コンピュータ〈スー〉に作り変えるためだったらしい。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが、〈冥王〉を破壊するために作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のスーパーコンピュータだが、それは張りぼてである。
本体は、人間の脳から作られた有機コンピュータで、光の珠の姿をしている。
〈ベロ〉の人格は、シャオリエのオリジナル『パイシュエ』である。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこないのだが、所在は、〈蠍〉の研究所跡に建てられた家にあることが分かっている。
鷹刀セレイエ
エルファンとキリファの娘。表向きはルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
生まれながらの〈天使〉であり、自分の力を知るために自ら〈悪魔〉となった。
王族のヤンイェンと恋仲になり、ライシェンという〈神の御子〉を産んだ。
先王シルフェンにライシェンを殺されたため、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた。
ただし、セレイエ本人は、ライシェンの記憶を手に入れるために〈天使〉の力を使い尽くし、あとのことは〈影〉のホンシュアに託して死亡した。
パイシュエ
イーレオ曰く、『俺を育ててくれた女』。故人。
鷹刀一族を〈七つの大罪〉の支配から解放するために〈悪魔〉となり、三十年前、その身を犠牲にして未来永劫、一族を〈贄〉にせずに済む細工を施して死亡した。
自分の死後、一族を率いていくことになるイーレオを助けるために、シャオリエという〈影〉を遺した。
また、どこかに残されていた彼女の何かを使い、キリファは〈ベロ〉を作った。
すなわち、パイシュエというひとりの人間から、『シャオリエ』と〈ベロ〉が作られている。
鷹刀ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの『父親』。医者で暗殺者。故人。
妻のミンウェイの遺言により、妻の蘇生のために作ったクローン体を『娘』として育てていくうちに心を病んでいった。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のようなかたちでエルファンに殺された。
[王家]
白金の髪、青灰色の瞳の先天性白皮症の者が多く生まれる里を起源とした一族。
王家に生まれた先天性白皮症の男子は必ず盲目であり、代わりに他人の脳から『情報を読み取る』能力を持つ。
この特殊な力を持つ者を王としてきたため、先天性白皮症の外見を持つ者だけが〈神の御子〉と呼ばれ、王位継承権を有する。かつては男子のみが王となれたが、現在では〈神の御子〉が生まれにくくなったために女王も認めている。ただし、あくまでも仮初めの王である。
アイリー
大華王国の現女王。十五歳。四年前、先王の父が急死したため、若年ながら王位に就いた。
彼女の婚約を開始条件に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まった。
素直で純粋な性格。とても良い子であるが、王としての威厳がまったくないために、兄であり摂政でもあるカイウォルに、公式の場では大人しく黙っているように言われているらしい。
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害された。
〈神の御子〉の男子に恵まれなかった先々王が〈七つの大罪〉に作らせた『過去の王のクローン』である。
ヤンイェン
先王の甥。女王の婚約者。
実は先王が〈神の御子〉を求めて姉に産ませた隠し子で、女王アイリーや摂政カイウォルの異母兄弟に当たる。
セレイエとの間に生まれたライシェンを殺され、蘇生を反対されたため、先王を殺害した。
メイシアの再従兄にあたる。
ルフォンが女装までして会いに行き、『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状を伝え、父親として『ライシェン』にどんな未来を与えたいか、意見を求めようとしたのだが、「考えるべきことが多すぎて、何も決められない」としか答えてくれなかった。
ライシェン
ヤンイェンとセレイエの息子で、〈神の御子〉。
〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエから受け継いだ『情報を書き込む』能力を持っていた。
彼の力は、〈天使〉の羽のように自分と相手を繋ぐことなく、〈神の御子〉のように手も触れずに扱えたため、先王シルフェンは彼を『神』と呼ぶしかないと言い、『来神』と名付けた。
周りの『殺意』を感じ取り、相手を殺してしまったために、先王に殺された。
『ライシェン』
〈蝿〉が、セレイエに頼まれて作った、ライシェンのクローン体。
オリジナルのライシェンは盲目だったが、周りの『殺意』を感じ取らずにすむようにと、目が見えるように作られた。
凍結処理が施され、ルイフォンとメイシアに託された。
カイウォル
摂政。女王の兄に当たる人物。
摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。
ハオリュウに、「異母兄にあたるヤンイェンとの結婚を嫌がる妹、女王アイリーの結婚を延期するために、君が女王の婚約者になってほしい」と陰謀を持ちかけた。
[〈七つの大罪〉]
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
王家に、王になる資格を持つ〈神の御子〉が生まれないとき、『過去の王のクローンを作り、王家の断絶を防ぐ』という役割を担っている。
〈冥王〉
他人の脳から情報を読み取ることによって生じる、王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。
太古の昔に死んだ王の脳細胞から生まれた巨大な有機コンピュータで、鷹刀一族の血肉を動力源とする。
『光の珠』の姿をしており、神殿に収められている。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
〈天使〉
『記憶の書き込み』ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は有機コンピュータ〈冥王〉の一部でできており、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置となる。限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こして死亡する。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られた〈蝿〉
セレイエが『ライシェン』を作らせるために、蘇らせたヘイシャオ。
セレイエに吹き込まれた嘘のせいでイーレオの命を狙い、鷹刀一族と敵対していたが、リュイセンによって心を入れ替えた。
メイシアを〈悪魔〉の『契約』から解放するため、自ら王族の『秘密』を口にして死亡した。
ホンシュア
セレイエの〈影〉。肉体はライシェンの侍女で、〈天使〉化してあった。
主人の死に責任を感じ、『デヴァイン・シンフォニア計画』に協力した。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
メイシアにセレイエの記憶を潜ませ、鷹刀に行くように仕向けた、いわば発端を作った人物である。
〈蛇〉
セレイエの〈悪魔〉としての名前。
セレイエの〈影〉であるホンシュアをを指すこともある。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら貴族の藤咲家の当主を継いだ。その際、異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
母親が平民であることや、親しみやすい十人並みの容姿であることから、平民に人気がある。ただし、温厚そうな見た目とは裏腹に、気性は激しい。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
摂政カイウォルに「女王の婚約者にならないか」と陰謀を持ちかけられていたが、友人シュアンを人質に取られたことから猛反発。シュアンのため、そして、相思相愛でありながら、身分差のために想いを告げることのできなかったクーティエのため、『この国から身分をなくす』と決意する。
緋扇シュアン
ハオリュウの歳の離れた友人であり、現在は秘書。三十路手前程度。悪人面の凶相の持ち主。
もとは銃の名手のイカレ警察隊員であったが、摂政の陰謀により投獄。獄死を装って救出されたため、自由民となった。
幼いころ、凶賊同士の抗争に巻き込まれ、家族を失った。そのため、「世を正す」と正義感に燃えて警察隊に入るも、腐った現実に絶望していた。しかし、ハオリュウと出会い、彼を『理想の権力者』に育てることに希望を見出した。
また、以前より、秘めた愛情を抱いていたミンウェイと家族になった。
鷹刀ミンウェイ
鷹刀一族の総帥の補佐を務めていたが、リュイセンに追放という形で背中を押され、シュアンのもとに来た。現在は、ハオリュウの侍医として、シュアンと共に藤咲家に住み込みで働いている。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ、二十代半ばに見える絶世の美女。ただし、本来は直毛。薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
母親だと思っていた人物のクローンであり、そのために『父親』ヘイシャオに溺愛という名の虐待を受けていたのだと知った。苦悩はあったが、今は乗り越えている。
[草薙家・他]
草薙レイウェン
エルファンの長男。リュイセンの兄。
妻のシャンリーと共に一族を抜けて、服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
草薙シャンリー
レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。王宮に召されるほどの剣舞の名手。
遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。
草薙クーティエ
レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。可愛らしく、活発。
ハオリュウが、彼女の父レイウェンに『お嬢さんをください』という意味合いを含めて決闘を申し込んだらしいのだが、惨敗したので、ふたりの間柄は保留である。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした、もと凶賊斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
斑目一族や〈蝿〉にいいように使われていたが、今はレイウェンの警備会社で働いている。将来的には、ハオリュウの専属護衛になる予定。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
実は〈影〉であり、イーレオを育てた、パイシュエという人物の記憶を持つ。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。ということになっているが妖艶な美女という説もある。
本人曰く、もと女優の卵である。実年齢は不明。
ルイリン
ルイフォンの女装姿につけられた名前。
タオロンと好い仲の少女娼婦。癖の強い、長い黒髪の美少女。
少女にしては長身で、そのことを気するかのように猫背である。
――という設定になっている。
トンツァイ
繁華街の情報屋。
痩せぎすの男。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.白蓮華と黒装束-1

鷹刀一族の屋敷を守る、天まで届かんばかりの煉瓦の外壁。
その内側にて――。
次期総帥たるリュイセンは、裏庭の蓮池の畔で、ひとり、朝の鍛錬を行っていた。
清澄な空気で満たされた、早朝の景色を映し、銀の刀身が煌めく。決められた型の動きを正確無比になぞりつつ、神速の風を巻き起こす。
鍛え上げられた肉体から、汗が噴き出す。
そんな彼の稽古の模様を、凪いだ池の水面が、ひっそりと模写していた。
双刀を疾らせる長身を、白い蓮の花で飾り、玉の汗を真似て、葉の上で朝露をころころと転がしていく。
リュイセンは一連の動きを確認し終えると、鍔鳴りの音を響かせ、刀を納めた。
ふと、気まぐれな風が吹き、池の上に漣を立てた。今まで、おとなしくリュイセンを見守っていた白蓮が、自己主張を始めたかのように優美に揺れる。
純粋なまでに白く無垢な姿に、リュイセンは目元を緩めた。この時間だけの、特別な美しさだ。
蓮の花は、朝が早い。
開花の際に、ぽん、という天上の音楽を奏でるという話だが、リュイセンは聞いたことがない。毎朝、必ず、彼が来るよりも先に咲き誇り、強い太陽の光を避けるかのように、午後には花びらを閉じてしまう。
蓮の花と早起きを競うのが、ここ最近のリュイセンの密かな楽しみとなっていた。
ここ最近。
鍛錬の場を、硝子の温室のそばから、この池の畔に変えてから。
ミンウェイを緋扇シュアンのもとに送り出して以来の――。
リュイセンは空を仰いだ。
まだ、太陽の色に染まる前の風が肌を冷やし、心地がよい。
あれほど愛した女を失ったというのに、不思議と後悔はなかった。
むしろ、やるべきことをやり遂げたような、達成感のような安堵のような、穏やかな気持ちで満たされている。
少し可哀想なのが弟分のルイフォンで、たまに連絡を取るたびに、不自然な気遣いを感じる。
シュアンを助ける際、ミンウェイの力を借りる作戦を立てたことが転機だったのを未だに気にしているらしい。あの件がなくとも、いずれこうなる運命だったのは間違いないというのに。
心配は要らない。ミンウェイは今、幸せなのだから。
この前、母のユイランが、女王の衣装の件でハオリュウと打ち合わせをしたとき、使用人として同行してきたミンウェイに会ったという。左手の薬指に、シュアンと揃いの指輪を着けていたと教えてくれた。だが、母から聞かなくとも、リュイセンはそのことを知っていた。シュアンが会いにきたからである。
所用で情報屋のトンツァイの店に行った帰り、妙な視線を感じた。振り向くと、人込みの向こうにシュアンがいた。
彼は、相変わらずの胡散臭い演技めいた仕草で、目深に被っていた帽子を取った。しかし、おどけた動きとは裏腹に、あらわになった三白眼は射抜くように鋭く、血色の悪い唇は皮肉げに持ち上がることなく、固く結ばれていた。
リュイセンと目が合うと、帽子を持った右手を後ろに下げ、左手を胸に当てて、黙って頭を下げた。敬意を示す礼だ。
その刹那、薬指の付け根が陽光を弾き、銀色に光った。
それから。
シュアンは、すっと裏路地へと消えていった。
昼の繁華街での、一瞬の出来ごとだった。
雑踏を掻き分け、追いかければ追いつけない距離ではなかった。けれど、リュイセンは、立ち止まったまま見送った。
なんとも、シュアンらしい挨拶だった。
そして、『この日、この時間に、リュイセンが来る』という情報をシュアンに売ったトンツァイは、なかなか、いい商売をしている、と思ったのだった。
鍛錬を終え、朝食を摂り、リュイセンは自室に籠もる。
次期総帥として、溜まっている事務作業をこなさねばならぬのだ。武闘派の彼には非常に不本意なことであるが、現在の対戦相手は、机の上に山と積まれた書類だった。
とはいえ、凶賊としては、実に平和な日常だ。
ひと月ほど前、摂政の命で、近衛隊による家宅捜索が行われたときには激震が走った鷹刀一族であるが、その後は極めて穏やかな日々が続いている。正しくは、『物寂しい』というべきか。にぎやかな連中が、いなくなってしまったからだ。
摂政が次に何を仕掛けてくるか分からないため、ルイフォンとメイシアは草薙家に行ったままであるし、ミンウェイはリュイセンが送り出した。その代わりに、母のユイランが総帥の補佐役として戻ってきたはずなのであるが、女王と婚約者の服の仕立てを請け負ったため、今は草薙家の二階の作業場で仕事中だ。
そして、この書類の山は、母の不在が原因だったりする。
仕立て屋の仕事との二足わらじでも、リュイセンが手伝えばなんとかなるだろう、という見通しは甘かった。……実に、甘すぎた。
次期総帥の座を退いた父エルファンも手を貸してくれるのだが、人間には向き不向きというものがある。正直なところ、父に任せるくらいならば、すべてリュイセンがやったほうが、まだましだった。
『総帥補佐の補佐』という役職の新設も考えたのだが、残念ながら、適当な人材がいないので、どうにもならない。
ちなみに、この現状に対し、祖父イーレオは、絶世の美貌に人の悪い笑顔を浮かべ、魅惑の低音で喉を震わせているだけである。
唯一の救いといえば、リュイセンのもうひとつの顔である『大学生』としては、無事に夏休みを迎えられたことだ。死にかけて〈蝿〉に捕らわれたり、一族を裏切って屋敷を出たりと、波瀾万丈な生活を送っていた間は、当然のことながら無断欠席の扱いになっており、一時は単位が危うかった。
しかし、命に関わるような大怪我をしたという事実と、普段のリュイセンが非常に真面目な学生であることから、幸いなことに、レポートの提出をもって大目に見てもらえた。……彼の家の『稼業』を知っている教授陣が、面倒ごとに巻き込まれたくないと判断しただけ、という可能性も否定できないが。
「ふぅ……」
午前中から作業を始め、昼食をはさみ、午後も黙々と机に向かうこと数時間。
書類の山の高さが、やっと半分くらいに減り、リュイセンは大きな溜め息をついた。
疲れたのか、集中力が落ちてきている。少し休憩を取ったほうがよいだろう。
彼は椅子から立ち上がると、迷わずバルコニーへと出た。暑くても構わない。とにかく、外の空気を吸いたかった。
硝子の戸を開けた瞬間に、熱気が襲ってきた。空調で冷やされていた肌は、薄皮一枚分の断熱服の効果を持っていたが、すぐに、じりじりと皮膚が焼ける感覚に変わっていく。
しかし、元来、自然の中で体を鍛えることに喜びを覚えるようなリュイセンである。気温が何度になろうとも、外気を吸い込めば、開放感でいっぱいになる。
やはり、外は気持ちがいい。
そう思ったときであった。
門のほうから、常とは違う気配を感じた。
かすかに聞こえる門衛たちの声から察するに、どうやら招かれざる客が来たらしい。
「何者だ?」
リュイセンは呟くと、バルコニーの手すりを飛び越え、地面へと降り立った。
リュイセンがバルコニーへと出る、少し前。
門の前に、一台のタクシーが止まった。
その瞬間、三人の門衛たちの間に緊張が走った。今日は、客人が来るとは聞いていない。すなわち、良からぬ輩がやってきたのだと解釈し、身構えた。
しかし、降りてきた人物を見て、門衛たちは唖然とした。
吹けば飛ぶような、小柄で華奢な女だった。王国一の凶賊、天下の鷹刀一族の屋敷を訪問するにしては、随分と可愛らしい御仁である。
だが、門衛たちが呆けたのは、彼女がこの場にそぐわない小女だからではなかった。彼女の服装が、不審者を絵に描いたようなものだったためである。
女は、真っ黒なパーカーのフードを頭からすっぽりと被っていた。そして、同じく真っ黒なサングラスとフェイスカバーで顔を覆っている。その結果、彼女の頭部で外気に晒されている素肌は、ごくわずか。こめかみのあたりが、ちらりと白く覗くのみである。
顔を隠した、危険な賊――とは、誰も思わなかった。
武に長けた門衛たちにとって、彼女がまったくの『素人』であることは、火を見るよりも明らかだったからだ。
この暑い夏の日に、長袖のパーカーのジッパーをしっかりと上まで閉め、袖口から覗く手には黒い手袋。パーカーの下から流れ出たスカートだけは淡い青色をしていたが、裾から伸びた足は、真っ黒なタイツで隠されている。
この服装から導き出される答えは、ひとつしかない。
彼女は、日焼けをしたくないのだ。――それも、『絶対』に。
おそらく、黒い布地はすべて、紫外線防止加工を施されたものであろう。
彼女の徹底ぶりに門衛たちは脱力しかけ、途中で、はたと首をかしげる。こんな女が、凶賊の屋敷に、いったいなんの用があるというのだろう? と。
彼らの疑問は、すぐに解消された。
「私は、ユイランさんに会いにきました」
天上の音楽もかくや、といった美しい響きが奏でられた。声の感じからすると、まだ若い。『少女』といった年齢だろう。
天界の琴のような音色に、門衛たちは、先ほどとは別の理由で呆ける。
「お願いします。ユイランさんを呼んでください」
ぐいと一歩、少女が前に出た。
小柄な彼女にしてみれば、頭ふたつ分ほども大きな門衛たちへと迫るのは、自ら巨人の群れに取り囲まれに行くようなものだろう。しかし、彼女は、臆することなく詰め寄る。
そのころになって、やっと門衛たちは自分の仕事を思い出した。
「あんた、何者だぁ?」
先鋒役の若い衆が、野太い声を張り上げて誰何する。威圧的な態度は、今まで間抜け面を晒していたことに対する、照れ隠しだろう。だが、今更のことである上に、愛嬌のある八重歯が特徴的な彼は迫力に欠けた。
案の定、少女にまるで萎縮する様子はなく、しかし、大真面目に告げる。
「ごめんなさい。名乗るわけにはいかないの。でも、決して! 怪しい者じゃないから!」
「はぁ……?」
万全の紫外線対策で『怪しい者じゃない』と叫ぶ少女。
あまりにも説得力に欠ける滑稽な姿に、門衛たちは、どっと噴き出す。
「ちょ、ちょっと!」
彼女の憤慨に、黒いフェイスカバーが、ぷうっと吹き上がった。彼女としては、心外だったらしい。
「いやぁ、すまん、すまん」
最年長の門衛が、場を取り繕うように口を開く。だが、悪びれない調子で頭を掻いていては、謝罪の台詞も意味がない。
「嬢ちゃん、あんた、鷹刀一族のユイラン様じゃなくて、デザイナーのユイラン様に会いにきたんだな」
「え、ええ……? それが何か? どちらの肩書きで呼んでも、ユイランさんはユイランさんでしょう?」
機嫌を損ねたままであるためか、少女は強めの口調で首をかしげる。素顔が隠されていても、彼女が口をへの字に曲げているのが感じられた。
凶賊への偏見が、まるで感じられない。
彼女は、凶賊を怖いと思っていないのだ。それは、よほどの馬鹿か、世間知らずか。
先ほどの門衛は、静かに尋ねた。
「あんた、貴族だろう?」
「え?」
「その奇妙な服装も、深窓の令嬢は真っ白じゃなくちゃいけねぇとか、そんな理由なんだろう? ああ、あと、お忍びだから顔を隠している、ってわけか」
「……そんなところ」
笑われたのは不愉快だけれど、察してくれたのはありがたい。そんな感情をにじませながら、少女は素直に頷く。幼さを感じる、可愛らしい仕草だ。
年長の門衛は、「いいか、嬢ちゃん」と、わざとらしい溜め息をついた。
「ここは鷹刀一族総帥、イーレオ様の屋敷だ。イーレオ様は、この国の凶賊の頂点に立つお方だからな、お命を狙う不届きな輩は、ごまんといる。だから、俺たち門衛は、招いてもいない客が来たら蹴散らすのが仕事だ」
頬に走る古傷を誇張するように、門衛は唇を歪めた。ゆらりと間合いを詰めながら、これ見よがしに刀の柄に手を掛ける。
「……っ」
ただならぬ気配を感じたのか、さすがの少女も短く息を呑んだ。とんだ暴挙に出ている自分に、今更ながら気づいたのかもしれない。
だが、ひと呼吸を置いたのちに、門衛は、ふっと口元を緩めた。
「凶賊の屋敷がどういうもんだか、分かってくれりゃあそれでいい。――まぁ、ユイラン様の服飾の客とあっちゃあ、丁重に扱わねぇといけねぇけどよ」
「じゃあ、ユイランさんを……!」
少女の緊迫は、一瞬にして安堵に変わる。しかし、門衛は困ったように眉を寄せた。
「あんた、運が悪いなぁ。ユイラン様は、特別な仕立ての仕事が入ったとかで、作業場のほうに行ったきりだ。今、この屋敷にはいらっしゃらねぇんだよ」
「ええっ! そんな……!」
悲壮感を漂わせた彼女に、門衛は懐から手帳を取り出し、ページを千切る。
「今、作業場の住所を書いてやるからよ。本当は、余計な世話を焼いちゃいけねぇんだが、嬢ちゃんのお忍び装束を楽しませてもらった礼だ」
実は、この門衛は、メイシアが初めて鷹刀一族の屋敷を訪れたときに対峙した者だった。
彼は、あのときのメイシアを思い出し、わけありらしい貴族の少女という共通点から、つい肩入れしたくなったのだ。数ヶ月前までは、凶賊らしく、上流階級の者を毛嫌いする気質があったのだが、メイシアが屋敷を訪れて以来、変わったのである。
善行は良いものだと、門衛が悦に入ってペンを走らせようとしたとき、唐突に少女が叫んだ。
「ご、ごめんなさい! 本当は、ちょっとだけ違うの!」
絹を裂くような声に、屈強な門衛たちが、ぎょっとする。
「本当は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に会いにきたの!」
「は……?」
状況が理解できず、門衛たちの目が点になった。
「でも、いきなり、そう言っても門前払いになるだけだと思って、ユイランさんに取り次いでもらおうと考えたの。ユイランさんなら、私のことを知っているから……。でも、ここにユイランさんがいないなら……どうしよう……」
心底、途方に暮れたように、少女が狼狽える。
その姿に、三人の門衛たちも困惑顔で額を寄せ、同時に「あっ!」と声を揃えた。
「嬢ちゃん、メイシアに会いにきたんか!」
メイシアは、表向きは死んだことになっている。だから、彼女がルイフォンのもとで生活していることは『極秘』だ。
「なんだぁ、メイシアの友達かぁ」
「わざわざ、お忍びで来てくれたとは! メイシアも喜ぶぞ」
「えっ!? えっと……?」
盛り上がる門衛たちの耳に、戸惑う少女の声は届かない。
「今、メイシアも、ここにいねぇんだけどよ。ちょうどいいことに、ユイラン様と同じ家にいるんだ」
「あ、あのっ……」
少女は『待って!』と、黒い手袋の掌を突き出し、勝手に転がっていく話を止めようとした。しかし、目線の遙か下にある手の動きなど、門衛たちは気づかない。
そのときだった。
「何があった?」
よく通る、魅惑の低音が響いた。
鉄格子の門の内側から、黄金比の美貌が覗く。癖ひとつない艷やかな黒髪が、さらりと夏風に吹かれた。
「リュイセン様!」
門衛たちが一斉に頭を垂れた。
そして――。
「『リュイセン』……」
黒いフェイスカバーの下で、少女が小さく呟いた。
1.白蓮華と黒装束-2

招かれざる客の気配に、リュイセンはバルコニーから庭へと飛び降りた。
小走りで門までやってきて、鉄格子越しに、相手の姿を認める。その瞬間、彼は固まった。
――なんだ、あれは?
美麗な顔を歪め、リュイセンは眉間に皺を寄せる。
顔を隠した、黒づくめの小柄な女だった。明らかに不審人物である。
それにも関わらず、強面の門衛たちが、彼女を囲んで和気あいあいと盛り上がっていたのだ。
……わけが分からない。
「何があった?」
狼狽するリュイセンに、若い門衛が嬉しそうに答える。
「リュイセン様! 彼女はメイシアの貴族時代の友達で、お忍びで会いにきてくれたそうっすよ」
「は? メイシアの『友達』……?」
友達の話なんて、聞いたことがない。
もっとも、リュイセンにとってメイシアは身内ではあるが、あくまでも弟分のパートナー。彼女の個人的なことは、知らなくても不思議ではない。貴族時代のことともなれば、なおさらだ。
……だが、いくらお忍びだからといって、その格好はないだろう?
箱入り娘のメイシアは、確かに妙なところで世間知らずだが、貴族であったころから常識人だった。その友達が、こんなおかしな女でよいのだろうか……?
「お前、本当に、メイシアの友達か?」
困惑の面持ちで、リュイセンが問うたときだった。
「リュイセン!」
まるで、天界の琴を、ぽん、と弾いたかのような、美しい音色。
リュイセンは、自分の名前が天上の音楽となって、高らかに響き渡ったように聞こえた。
感動にも似た衝撃は、しかし、その直後に、驚愕に取って代わられる。
「会いたかったわ!」
巨漢の門衛たちの間をすり抜け、少女が門へと駆け寄った。ふたりを隔てる鉄格子を握りしめ、精いっぱいの爪先立ちで、リュイセンに詰め寄る。
「なっ……!?」
千の敵を前にしても、決して怯むことのないリュイセンが、小柄な少女ひとりに狼狽えた。
それと同時に、得心したとばかりの、門衛たちの視線が突き刺さる。
「これは、これは……」
「そういうことっすかぁ」
「リュイセン様も、隅に置けませんなぁ」
門衛たちは口々に好き勝手なことを言い、にやにやと目元を緩ませた。この少女とリュイセンは、メイシアを通して既に顔馴染みであり、かなり『親しい』間柄であるのだと、すっかり信じ込んでいる。
「お、おいっ!? お前らっ!」
リュイセンは殺気をにじませ、焦りに眉を跳ね上げる。変な誤解をされては、たまったものではない。
きちんと弁明を――と思ったとき、彼は自分を見上げている少女が、黒いパーカーに埋もれるように身を縮こめていることに気づいた。
しまった……!
リュイセンは、自分の体格のよさを自覚している。また、血族特有の低音で怒声を飛ばせば、必要以上の威圧を与えることも理解していた。
そして、彼は生真面目で、礼儀正しい男だった。いついかなるときでも、か弱き少女を怖がらせてはならないのである。
「すまん!」
「ごめんなさい!」
神速で発した魅惑の低音に、妙なる天界の音色が重なった。
綺麗な和音となった、ふたつの謝罪。
その響きに、リュイセンは虚を衝かれた。はっと気づいたときには、目の前の鉄格子から黒い手袋が離れており、少女が、くるりと身を翻している。
理由は分からない。ただ、恐れを知らぬ猛者であるはずのリュイセンが後れを取った、という事実だけが残った。
彼女は門衛たちへと走り寄り、「違うの!」と、訴えるように叫ぶ。黒づくめの服装の中で、唯一、色彩を持った青いスカートが、漣のように流れた。
「なんだぁ、嬢ちゃん。違うのか?」
やや不満げに、門衛たちは拍子抜けした声を上げた。
それでも、どことなく顔がにやけているのは、長年、想い続けてきたミンウェイを送り出したばかりのリュイセンには、その気はなくとも、彼女のほうは、まんざらでもないのだと期待しているためだろう。
「あのっ、……ごめんなさい」
「そうかぁ、残念だなぁ」
口では、そう言っていても、目元は楽しげに細められたままである。ミンウェイを失った傷心の今が好機だと、少女を応援しているのだ。
「いやぁ。てっきり、リュイセン様は……ああ、いえいえ!」
なおも変わらぬ調子の門衛たちに、リュイセンは、ひと睨みする。すると、彼らは縮み上がるような素振りで、ぶるぶると首を振ってみせた。――勿論、演技であるが。
……まったく。
苦虫を噛み潰したような顔で、リュイセンは改めて少女を見やる。
よくよく観察してみれば、外見こそ不審者そのものであるが、彼女から悪意の類は感じられない。言動は謎であるが、とても素直で、まっすぐな気質が伝わってくる。
ともあれ、これから、ゆっくり事情を聞かせてもらうか。
リュイセンが「おい」と、少女に声を掛けたときだった。
「でも、リュイセンに会えて、本当に嬉しいわ!」
「……は?」
声を弾ませる彼女に、リュイセンの思考が止まる。呆けた視界の端に、門衛たちのしたり顔が映り込む。
誓ってもいい。
彼女とは、初対面だ。
いくら顔を隠していても、気配に敏いリュイセンが、知り合いに気づかないはずがない。――だが、彼女のほうは、知っている……?
――何者だ?
門にたどり着く前、『ユイランさんに取り次いでもらおうと思った』と言う声を、風の中に聞いた。
『本当は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に会いにきたの!』――と。
彼女が嘘をついているようには思えない。母の知り合いであるのは本当だろう。
仕立て屋として、母は上流階級にも顔が広い。メイシアの友達かどうかはさておき、貴族であることは信じてもいい。むしろ、この傍迷惑なまでもの無邪気さは、平民というよりも貴族だ。
彼女は、誰に会いにきた?
貴族の少女が凶賊の屋敷に、いったい、なんの用がある?
まるで、メイシアが鷹刀一族のもとへ舞い込んできたときのようだ。それは、すなわち、波乱の幕開けだ。
リュイセンは渋面を作った。
この少女自身は、無害な存在といえるだろう。まとう空気が、まるきり『素人』のそれだ。ならば、彼女はメイシアのように騙されて、陰謀を企む輩の駒にされているのか?
彼は周囲の気配を探る。彼女を見張っている者がいないかと、警戒したのだ。
……いない、か。
そう結論づけたときだった。
不意に、リュイセンの耳が携帯端末の振動音を捕らえた。音の先では、最年長の門衛が、懐から携帯端末を出しているところだった。
「あ、はい! 今、替わります」
門衛は、畏まった返事をすると、鉄格子越しにリュイセンに端末を差し出す。
「イーレオ様からです。リュイセン様に替わるようにと」
「祖父上が……?」
門の様子は、常にモニタ監視室から目を光らせている。不穏な動きがあれば、すぐに総帥イーレオに報告されるので、門衛の携帯端末に連絡が来ても不思議ではない。
しかし、どうして自分に?
疑問に思いながら、リュイセンが端末を受け取ると、イーレオの低音が響いた。
『リュイセン、その子を執務室まで案内しろ。――丁重にな』
「は? こんな不審な者をどうし……」
総帥の発言とも思えぬ指示に、リュイセンは反論し、その途中で、弾かれたような笑い声に遮られた。
「祖父上!?」
『彼女の言動に、俺が魅了されたからに決まっているだろう?』
電話越しに、くつくつと喉を鳴らす音が続いている。それに被さるように、呆れ返ったような、冷ややかな低音が届いた。
『お前はまだ、その者が何者であるか、理解していないのか?』
イーレオではない。父のエルファンだ。同じ声質でも、温度が違う。執務室から、ふたりでスピーカーを使って話しているのだろう。
「……」
リュイセンは唇を噛みしめた。
少女の正体を見抜けぬ自分は、聡明さに欠ける。不甲斐ないと思われている。――祖父にも、父にも。
「リュイセン……?」
少女が遠慮がちに近づいてきて、気遣うような音色を奏でた。
「イーレオさんは、なんて言ったの? 怒られている?」
「あ、いや……」
「私のせいでしょう? 私が、いきなり押しかけてきたから。――ごめんなさい。リュイセンは、何も悪くないのに……」
ぐっと背伸びして、サングラスの視線が心配そうに、リュイセンの顔を覗き込む。
妙に親しげな距離感と、なのに決して不快ではないという矛盾。
リュイセンは困惑し……、はっと現実に戻って、「違う」と首を振った。
「俺が未熟なだけだ」
「?」
少女が、きょとんと首をかしげる。はずみで、目深に被っていた黒いフードが、ふわりと風に浮き立った。
――――!
その瞬間、リュイセンは、切れ長の眼を大きく見開いた。
神速の勢いで、携帯端末を持っていないほうの手を伸ばし、鉄格子の隙間から彼女のフードを乱暴に元に戻す。
――しかと見た。
フードの下から零れかけた、白金の煌めきを。
いくら鈍いリュイセンでも、少女の正体をはっきりと悟った。
女王だ。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、この国の王。創世神話に謳われし、天空神フェイレンの代理人。
超大物じゃねぇか――!
リュイセンの鼓動が、早鐘を打つ。
フードがずれたのは、ほんの一瞬。背中を向けていた門衛たちには、間一髪、気づかれなかったはずだ。
凶賊の屋敷に女王が現れたとなれば、ただごとでは済まない。部下たちに隠しごとをするのは心苦しいが、できるだけ内密に、そして、穏便に対処すべき案件だろう。
黄金比の美貌が歪み、リュイセンの眉間に苦悩の皺が寄る。
彼女が女王であるならば、異様な服装にも納得がいく。
黒づくめは、ひと目で素性の分かる容姿を隠すのと同時に、極端に日光に弱いという、先天性白皮症の肌を守るためだ。
祖父や父は、すぐに思い至ったのだろう。
何しろ、つい最近、王宮に乗り込んでいったルイフォンの報告書の中で、女王は『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わる重要人物として、名を挙げられていたのだから。
王の威厳の欠片もなく、限りなく頼りないと評されていた彼女に、凶賊の屋敷を訪れる行動力があったことには驚きであるが、注視しておくべき相手だった。白金の髪を見るまで気づかぬとは、父たちに呆れられても仕方あるまい。赤面の至りだ。
では、彼女はなんのために、鷹刀一族の屋敷を訪れた?
門衛たちの言う通り、メイシアに会いにきたのか?
違う。
女王とメイシアは再従姉妹の間柄にあるが、特に親しくはなかったと聞いている。
――『ライシェン』だ。
リュイセンは、ごくりと唾を呑む。
女王は、『ライシェン』に会いにきたんだ……。
「リュイセン?」
フードを直したきり、押し黙ってしまったリュイセンを、女王が不思議そうに見上げた。身長差のために、ぐっと大きく、頤を上げて――。
「ば、馬鹿野郎!」
再び脱げかけたフードに向かって、リュイセンは慌てて手を伸ばす。
大きな掌で、しっかりと頭を押さえ込み、長い腕で、鉄格子越しに彼女を引き寄せる。
……その結果。
「きゃぁっ!?」
リュイセンの胸元に抱きかかえられる形となった女王が悲鳴を上げ、門衛たちが「おおっ」と色めきだった。
「勘違いするな! こいつは、顔を見られるわけにはいかねぇんだ!」
はっ、と我に返り、リュイセンは大声で怒鳴りつける。
しかし、あとの祭りであった。
門衛たちは「ああ、そうですか。そうですよねぇ」と、もっともらしく深々と頷くものの、その口ぶりから、リュイセンの言葉をまったく信じていないのは明らかだった。
リュイセンは忌々しげに舌打ちをすると、女王に告げる。
「総帥が、お前を呼んでいる。案内するから、ついてこい」
乱暴に言い捨て、けれど、フードから手を離すときには、優しく慎重であるところが、如何にもリュイセンである。
彼は鉄格子の門を開けた。携帯端末を門衛に返し、女王を招き入れる。
総帥イーレオに呼ばれたと聞いて、女王は緊張しているようであった。顔は見えなくとも、リュイセンには息遣いで分かる。
それでも彼女は、くるりと門衛たちを振り返り、明るい天上の音楽を奏でた。
「いろいろ、親切にありがとう! 詳しいことを言えなくて、ごめんなさい」
「嬢ちゃん、あんた、いい子だなぁ」
「頑張れよ!」
門衛の意図する『頑張る』の意味を理解していない女王は、「はい!」と、無邪気に手を振って応えた。
2.訪い人の袖時雨-1

黒づくめの女王を先導し、リュイセンは執務室へと向かう。
弁解のしようもなく、不審な風体の彼女であるが、次期総帥たるリュイセンが連れていれば、行く手を阻む者はない。しかし、好奇の目に晒されるのも可哀想なので、できるだけ人の通らない廊下を選んでいった。広い屋敷であるため、経路さえ選べば、ほぼ誰にも会わずにすむのだ。
彼は歩きながら、ルイフォンが先日、王宮に行ったときの報告書の中の、女王に関する記述を思い返していた。
お飾りの女王であることは間違いない。彼女が、あまりにも王族の威信というものから掛け離れているため、公的な場では無口でいるようにと、兄に諫言されているらしい。
同母兄の摂政カイウォルとは不仲ではないが、煙たがっている節がある。むしろ、異母兄であり、婚約者でもあるヤンイェンのほうに懐いているように思われた。
『デヴァイン・シンフォニア計画』については、何を知っているのか、そもそも何も知らされていないのか、まるで不明。
そんなふうに綴られていた。
そして、ルイフォンにしては珍しく、好意的な表現の所感で締めくくられる。
流されるままの自分を変えたいという思いが、言葉の端々から感じられた。
純粋で、素直な性格。悪い子ではない。
――それで、行動を起こしたというわけか。
リュイセンは、得心の息を吐いた。それから、顔をしかめ、眉間の皺を深くする。
ルイフォンからの報告がなければ、兄の駒として、鷹刀一族の屋敷の内偵に来た可能性を視野に入れた。唯一無二の存在である女王という餌を撒けば、如何に用心深い鷹刀といえども、尻尾を出すと画策したかと。
しかし、屋敷の周りに、監視や援護の者の気配はなかった。もとより、冷静になって考えれば、あの慎重な摂政が、荒事とは無縁の女王を、単身で凶賊の屋敷に乗り込ませるなどという暴挙に出るはずもない。
だから、この訪問は、間違いなく彼女の意志なのだ。
ならば、彼女は王宮を抜け出してきて、大丈夫なのだろうか? 口うるさい兄に、厳しく叱られるのではないだろうか。
リュイセンも、よく小言を言われる身である。余計なお世話かもしれないが、他人ごとながら心配になってくる。
とはいえ、女王の来訪は、膠着している『デヴァイン・シンフォニア計画』の展望に、大きな影響を与えることになるだろう。個人の感情ではなく、『この計画に巻き込まれた、鷹刀一族の次期総帥』という立場からすれば、彼女の無鉄砲は歓迎すべきものだ。
総帥である祖父イーレオも、彼女との対面に価値があると考えたからこそ、執務室に案内するように言ったのだろう。先ほどのイーレオとの通話では確認しはぐったが、今ごろ、ルイフォンにも連絡が行っているはずだ。
ヤンイェンとの接触は叶ったものの、今ひとつ、状況が進展しなかったことに、弟分は焦れていた。知らせを受ければ、小躍りしながら飛んでくることだろう。
弟分の猫の目が輝くところを思い浮かべ、リュイセンは口元を緩めた。
そのとき。
「お願い……、置いていかないで……」
哀れを誘うような、よろよろとした女王の声が、リュイセンの耳に届いた。
振り向けば、すぐそばを歩いていたはずの彼女は、長い廊下の遥か後ろにいた。歩幅の差を考慮せず、リュイセンが普段通りに颯爽と歩けば、当然の結果である。
しまった、と立ち止まると、彼女は全力で走ってきた。苦しげに肩で息をしており、黒いフードの先端が、彼の目線から頭ふたつ分くらい下で、ぜいぜいと上下に揺れる。
間近に来た彼女から、ただ走ってきたにしては高すぎる体温を感じ、リュイセンは自分の無配慮に気づいた。彼女は黒づくめの格好で、真夏の炎天下にいたのだ。さぞや暑かったに違いない。足元など、ふらふらのはずだ。
「すまん」
考えなしであった。リュイセンは猛省する。
一方、女王は機嫌を悪くしているわけではないようで、「ううん。それより……」と、きょろきょろと辺りを見渡し、人気がないことを確認してから、リュイセンに向き直る。
そして――。
「さっきは、ありがとう!」
天真爛漫な、天上の音楽が響いた。
彼女は黒い手袋の両手で、フードの紐を軽く引いてみせる。正体がばれないように、リュイセンが白金の髪を隠してくれた礼を言っているらしい。
「あ、いや……」
些細なことに真正面から感謝されると、かえって戸惑う。
押され気味のリュイセンに、女王は「それから、馴れ馴れしくして、ごめんなさい!」と、更に詰め寄った。無遠慮……ではなく、無邪気に距離が近い。
「私はリュイセンのことを聞いていたけれど、リュイセンは私のことを知らなかったのにね。ごめんなさい。……でもね。私はリュイセンに会えて、本当に嬉しかったの。ずっと会ってみたかったのよ」
「お前は何故、俺のことを知っている?」
及び腰になりつつも、リュイセンは先ほどから抱いていた疑問を口にする。すると、彼女は、気配に敏い彼でなければ気づかないほどの、わずかな間を置き、それから答えた。
「セレイエがね、よく自分の兄弟のことを話してくれたの。――だって、私は、セレイエの……義妹だもの」
フェイスカバーに隠されていても分かる、少し唇を尖らせた声。幼い子供が、屁理屈をこねるときの口調に似ている。
女王の異母兄であるヤンイェンは、セレイエと正式に婚姻を結んだわけではない。だから、本当は『義妹』を名乗ることはできないと分かっている。けれど、『義妹』で在りたいから、『義妹』を主張するのだ、という意思表示――。
「そうか、セレイエか。……言われてみれば、それしかないよな」
女王は、異母兄のヤンイェンと仲が良い。ならば、彼の事実上の妻となったセレイエと親しかったとしても不思議ではない。
なるほど、とリュイセンは思う。
ルイフォンは王宮に行ったとき、驚くほど自然にヤンイェンに名前を呼ばれたという。それと同じことで、女王もまた、セレイエに連なるリュイセンを身近に感じているというわけだ。王族のくせに、ふたりとも妙に人懐っこい。よく似た異母兄妹なのだろう。
「リュイセン」
不意に、女王の声が不思議な音調を帯びた。
「私は、セレイエに会いにきたの」
「!?」
「セレイエは、このお屋敷に匿われているんでしょう? カイウォルお兄様がそう言っていたわ」
刹那、リュイセンの背に緊張が走った。
――そうだ。
女王は『このお屋敷に、極秘に匿われている人』に、会いにきたと言っていたのだ。
〈ベロ〉の小部屋に『ライシェン』が隠されていることを知っているリュイセンは、てっきり、『ライシェン』が目的だと思い込んでいたのだが……。
「セレイエ――だと……?」
秀眉をぴくりと跳ねかせたまま、黄金比の美貌は彫像のように凍りつく。
『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わるものは、すべからく鷹刀一族が抑えている――と、摂政カイウォルが信じていることは知っている。だからこそ、鷹刀一族の屋敷は、家宅捜索の誹りを受けたのだ。
だが、セレイエは既に死んでいる。
愛するヤンイェンの腕の中で、息を引き取った。この前、ルイフォンが直接、当事者の口から聞いてきたのだから間違いない。
「知らないのか……?」
魅惑の低音が、困惑にかすれた。
どうして、女王はヤンイェンから正しい情報を得ずに、カイウォルの言葉を信じて、はるばる鷹刀一族の屋敷まで来たのだ?
彼女は厳しい兄よりも、優しい異母兄のほうと、仲が良いのではなかったのか?
ヤンイェンが、セレイエが死んだという事実を秘匿しているのか? 何故、可愛がっている異母妹に伝えない?
――逆だ。
大切な異母妹だからこそ、そして、セレイエを慕う『義妹』だからこそ、ヤンイェンは、セレイエの死を隠したのだ。
そこまで考えて、リュイセンは、はっと顔色を変えた。
しかし、時すでに遅し。
「やっ……ぱり……」
黒いパーカーで覆われた肩が、びくりと上がった。
「セレイエは……、亡くなって……いた……のね」
サングラスの下から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
透明な雫は、わずかに見える素肌を濡らし、すぐにフェイスカバーの染みとなった。
迂闊だった――!
全身の血の気が引いていき、リュイセンは目眩を覚える。
「あ、いや……」
意味をなさない言葉は、「分かっていたもの!」という女王のひとことに一蹴される。
「ヤンイェンお異母兄様の態度を見ていれば、明らかだわ! 幽閉が解かれて、四年ぶりにお会いしたときから、様子がおかしかったもの。問い詰めようとしても、はぐらかすのよ! お異母兄様は知っていて、私に隠していたの!」
彼女は黒い手袋の両手を握りしめ、小刻みに震わせた。
「セレイエが姿を消したのは、亡くなったからなんでしょう!? ……もう、四年前の時点で、既に!」
「……っ」
天上の音楽が、嵐を奏でる。
思わぬ激しい口調に、リュイセンは声を失う。それまでの無邪気な彼女とは、まるで別人だった。
「なのに、カイウォルお兄様は、セレイエが『ライシェンの肉体』を作った、って言うのよ!? しかも、今度は殺されないように、過去の王の遺伝子はすべて廃棄した、って」
ひくりと喉が動き、また一粒、雫が煌めいた。
「セレイエは、『唯一の〈神の御子〉の男子』を王宮に引き渡す代わりに、ヤンイェンお異母兄様を私の婚約者として解放するようにと、侍女だったホンシュアを通じて迫った、って」
女王は泣きながら、それでも、声を止めない。
まるで、誰かに助けを求めるかのように。
「それだけのことをして、セレイエが、ヤンイェンお異母兄様や私に何も伝えてこないなんて、あり得ないの! だって、セレイエは〈天使〉よ。その気になれば、警備なんて関係ない。お異母兄様にも、私にも、会いに来られるわ。なのに、姿を見せないなら……」
彼女は、そこで呼吸を乱し、しゃくりあげた。
「セレイエは……命を賭けたんでしょう? 〈冥王〉から、『ライシェンの記憶』を手に入れようとして……。――けど、熱暴走を起こして……、そういうことでしょう!?」
「なっ……!?」
これまでの経緯からして、女王は『デヴァイン・シンフォニア計画』を知らない。だのに、この計画の根幹に関わるような話が出てきたことに、リュイセンは驚愕する。
「お前……、『セレイエが、〈冥王〉から記憶を』って、そんなことまで知って……?」
「知っているわよ! だって、私は四年前、ヤンイェンお異母兄様とセレイエのそばに、ずっといたんだもの! ――ふ たりは、亡くなったライシェンの『記憶』と『肉体』を手に入れて、生き返らせようとしていたわ!」
「――!」
王宮にいた彼女は、間近で見ていたのだ。
ライシェンが生まれたことも、ライシェンが人を殺めたことも、ライシェンが祖父の手によって殺されたことも。
……嘆き悲しむ、ヤンイェンとセレイエの姿も。
「どんなに悲しくても、死んだ人は還ってこないのに……。私は、ふたりが壊れていくのを止めたかった。でも、何もできなくて……。お異母兄様は……、お父様を……」
とめどなく流れる涙を拭うため、女王はサングラスを外した。黒いパーカーの袖で、ごしごしと擦ったそのあとに、澄んだ青灰色の瞳が現れる。初めて見る色に、リュイセンの鼓動が、どきりと脈打った。
「リュイセン……」
白金の睫毛に縁取られた、惹き込まれるような濡れた瞳。長身の彼をじっと見上げ、新たな涙のひと雫が、白い肌を伝う。
「私は、このお屋敷に、セレイエの死を確かめに来たの……」
彼女はそう言うと、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。青灰色の瞳から流れた涙が如く、淡い青色のスカートが漣となって広がる。
「おいっ!?」
リュイセンも、追いかけるようにして、しゃがみ込む。
「リュイセン……、セレイエは……、セレイエは……もう……、この世の人じゃ……」
彼女は嗚咽混じりに言葉を紡ぎ、やがて、耐えきれなくなったように、リュイセンに縋りついてきた。
「――っ」
反射的に抱きとめた体は、緩みのあるパーカーからは想像できないくらいに華奢で、柔らかで――。
「セレイエ……、セレイエ……!」
細い肩が震えるたび、彼女の涙が、リュイセンの胸を濡らす。
彼は遠慮がちに、彼女の背に腕を回した。初対面の相手にすべきことではないが、一方的に抱きつかれているのでは、まるで彼女を突き放しているみたいな気がしたのだ。
泣きじゃくる声を聞きながら、セレイエの死に、これほど取り乱した者が他にいただろうかと、リュイセンは自問する。
鷹刀一族の者たちは、メイシアから明確に死を告げられるよりも前に、セレイエが既に鬼籍に入っているのではないかと、薄々感づいていたように思う。だから、覚悟があったし、諦観もあった。血族であるのに、薄情だったかもしれない。
それだけに、無垢な涙を流す彼女が、リュイセンには衝撃だった。
思えば、彼女は四年前、まだ十一歳のときから、独りで胸を痛めてきたのだ。
異母兄が父親を殺して幽閉され、義姉が姿を消し、自分は幼くして一国の王となった。保護者となった兄は、彼女の代わりに政は執っても、ヤンイェンとセレイエの運命を嘆く彼女の心に、寄り添うことはなかっただろう。
――辛かったよな……。
腕に包んだ体ごと、彼女の抱えてきた孤独も包んでやりたいと思う。
そのとき。
遠くから、メイドの転がすワゴンの音が聞こえてきた。
いくら人通りの少ない廊下とはいえ、誰も来ないわけではないのだ。そして、この状況を目撃されるのは、どう考えてもよろしくない。
かといって、今の彼女を執務室に急かせるのも可哀想で――。
……止むを得ん。
リュイセンは、いつの間にか床に放り出されていたサングラスをポケットにねじ込むと、彼女の耳元に低く囁く。
「少しだけ、我慢してくれ」
それだけ言うと、神速の身のこなしで彼女を抱き上げた。小柄な体躯は想像以上に軽く、勢い余ったスカートが大きく一度ふわりと舞い上がり、波打ちながら流れていく。
「きゃっ!?」
高い悲鳴が響き渡った。リュイセンは心の中で「すまん」と詫びつつも、彼女の声と顔とを自分の胸元に押しつけるようにして、外から見えないように隠す。
そして、彼女を横抱きにしたまま、可及的速やかに執務室に向かったのだった。
2.訪い人の袖時雨-2

泣き崩れた女王を抱きかかえながら、リュイセンが廊下を走り抜けているころ。
執務室では、イーレオが一点の曇りを混じえた微笑を浮かべ、エルファンが一条の喜びを隠した渋面を作っていた。
背後に控える護衛のチャオラウは、いつも通りに無精髭を弄びつつ、この父子は、つくづく両極端で面白い、と感心する。物ごとへの基本姿勢が、楽観的なイーレオに対し、悲観的なエルファン、というわけである。
何が起きたのかといえば、女王が鷹刀一族の屋敷を訪れるという、この一大事に、おそらく最も彼女と会いたがるであろうルイフォンと、連絡がつかなかった。
リュイセンが推測したように、女王の来訪を察するや否や、イーレオはルイフォンを呼ぶようにと、エルファンに命じた。本来なら総帥補佐にふる仕事だが、ユイランが不在であるが故の代理である。
しかし、ルイフォンの携帯端末は『電波の通じないところにあるか、電源が落とされている』という、お決まりの文句を繰り返すのみだったのである。
エルファンは顔をしかめつつ、ルイフォンと繋がらないのであれば、メイシアに訊けばよいだろうと、頭を切り替えた。
それに、メイシアだって、女王のことは気になるはずだ。女王は『ライシェン』の未来と深く関わる人物であり、『ライシェン』は、ルイフォンとメイシアの『ふたり』に託されたのだから。
もっとも、表向きは死んだことになっているメイシアは、『貴族であったメイシア』を知っている女王と、顔を合わせるのは避けるべきだろう。だから結局、ルイフォンがひとりで屋敷に来ることになるのかもしれない――。
そんなことを考えながら、エルファンが電話を掛け直そうとしたとき、イーレオが「ユイランにも一報、入れておこう」と、思いついたように言い出した。女王がユイランを頼りにしているふうであったため、場合によっては、ユイランも呼んだほうがよいかもしれない、と。
メイシアとユイランの端末番号のうち、たまたま、ユイランのほうが前に登録されていた。そのため、エルファンは先にユイランの番号を選んだ。結論としては、それで正解だった。何故なら、ユイランだけが、ルイフォンの携帯端末が繋がらない理由を知っていたからである。
『お呼びとあらば、私はすぐにも鷹刀の屋敷に駆けつけます。ですが、ルイフォンは……、今日だけは……無理だと思います』
ユイランにしては、歯切れの悪い口調だった。
スピーカー通話で聞いていたイーレオが、すかさず「どうした?」と問うと、彼女は少し迷った末に、『メイシアさんには、内緒にしてくださいね』と前置きをした。
『実は今日、ルイフォンは、メイシアさんに贈る婚約指輪を注文しに行ったんです。サプライズにしたいからと、彼女には秘密で』
なんでも、ユイランとルイフォンが、仕立て屋とその助手として王宮に行った、あの一件の準備中に、『婚約指輪』が話題になったらしい。
それで、近いうちに、ルイフォンが婚約指輪を買いに行く。その際には、貴族御用達の店で門前払いを喰らわないような服装をユイランが請け負う、という約束が交わされたそうだ。
その決行の日が、偶然にも、今日であったのだ。
小一時間ほど前、ルイフォンは、ユイランもうっとりするような立派な紳士となって、草薙家の裏門から、こっそり出掛けていったという。
ルイフォンが『立派な紳士』というのは、服飾担当者の贔屓目だと思われるが、彼が意気揚々と出発したであろうことは想像に難くない。そして、『絶対に邪魔が入ってほしくないときには、ルイフォンは携帯端末の電源を切る』ことは、知る人ぞ知る、彼の習慣であった。
すなわち――。
どう足掻いても、今日はルイフォンとは連絡がつかない。
では、どうするか。
ルイフォンは無理でも、メイシアには知らせておくべきか。
イーレオとエルファンは、顔を見合わせた。
「……メイシアに状況を話せば、ルイフォンのサプライズは台無しになるな」
秀でた額に苦悩の色を浮かべながら、イーレオが呟く。しかし、その顔は、どの角度から見ても、にやにやと笑っているようにしか見えない。
「まったく……。よりによって、何故、今日なのだ……」
エルファンが眉間に皺を寄せ、仏頂面で腕を組む。ただし、ぼやきを漏らす、その口元だけは、微笑を隠しきれずに綻んでいた。
困った事態であることは、間違いない。
だが、『婚約指輪を極秘で』という事情が、なんとも微笑ましい。ルイフォンも、なかなか粋なことをするようになったではないか――と。
感情の表し方は、それぞれであるが、思いは父子で共通だった。
ふたりは視線を交錯させた。そして、やにわにイーレオが大真面目な顔となり、スピーカーに向かって口を開く。
「ユイラン、女王が来たことは、聞かなかったことにしてくれ」
『えっ!?』
「夕方になったら、草薙家に『昼間、女王が来た』という『事後報告』をする」
『は? はい……』
ユイランの困惑の相槌に、イーレオは重ねた。
「女王は、お忍びで来ているはずだ。この屋敷に長居はできまい。ならば、草薙家にいる人間を呼び寄せるまで、待たせるわけにはいかないだろう?」
『ええ……、確かに』
「だいたい、もし今日ここで、女王とルイフォンたちの対面が叶ったとしても、すぐに『ライシェン』の未来が決まるわけではない」
イーレオはソファーにもたれ、肘掛けに片頬杖を付きながら、もっともらしく厳かに告げる。
「それよりも現時点で重要なことは、女王の人となりを確かめ、必要とあらば、彼女と縁を結ぶことだ。そして、それはこの屋敷にいる者でもできる」
『なるほど。分かりました』
快活な返事のあとには『そういうことにするわけですね』と続くのだが、言葉にするまでもあるまいとユイランは沈黙し、代わりに口の端を緩やかに上げた。
それから少しして、リュイセンが執務室に到着した。
「どうやら、リュイセンは、立派に縁を結んだようだな」
女王を抱きかかえて入ってきたリュイセンを見やり、イーレオは感嘆を漏らす。その隣では、エルファンが氷の美貌を凍りつかせていた。
どこまでも対象的な、父と子であった。
「そ、総帥……、こ、これは……、ですね」
執務室に入った途端、リュイセンは刺すような視線を感じ、はっと青ざめた。自分の行動が誤解を受けるに充分なものであることに気づいたのだ。
だが、リュイセンは律儀な男だった。
女王を勢いよく床に下ろすのではなく、なんと、逆に彼女をいたわるように胸元に引き寄せた。そして、自分のしていることは決して恥ずべきことではなく、きちんと理由のある正しい行いであるとして、彼女の名誉を守ろうとしたのである。
彼は、執務室の面々と正面から向き合い、経緯を説明する。
「彼女がショックで動けなくなってしまったため、俺が連れてきまし……。あ、ああ、セレイエの訃報を聞いたのが原因です……っと、セレイエと面識があったそうです。それも、だいぶ親しかったようで……、つまり、彼女はヤンイェンの異母妹ですから……」
懸命に言葉を紡ぐほどに、支離滅裂になった。
決然とした態度は示せても、理路整然とした発言とは縁遠いのが、リュイセンという男だった。彼は、先ほど青くなった顔を、今度は朱に染めていく。
すると、女王がシャツを引いてきた。気まずげに視線を下げると、サングラスのない青灰色の瞳が「ありがとう」と微笑む。
「リュイセン、私からご挨拶したいわ」
彼女はそう言って、彼の腕から、ふわりと降り立った。
軽やかに前に躍り出て、パーカーのフードを取り払う。白金の髪が輝き、幾重にも青絹を連ねた髪飾りが漣のように流れる。
続けてフェイスカバーを外し、彼女はリュイセンを振り返った。初めてまともに見る顔は、可憐なる綺羅の美貌。
思わず息を呑んだ彼を、彼女は目にしたのか否か……。再び体を返すと、スカートの端を摘み、イーレオたちに向かって丁寧に頭を垂れた。
「はじめまして。私の名前は、アイリー。セレイエの義妹です」
「……」
『女王』ではなく、『義妹』。
その自己紹介は、予想外のものだったのだろう。イーレオ、エルファン、チャオラウの三人の大の男が、揃って沈黙する。
しかし、間の抜けた空気は、すぐに深刻なものへと変わった。
「私の義姉セレイエが、このお屋敷に匿われていると、摂政カイウォルが言うので、会いにきま……」
言葉の途中で、彼女は声を詰まらせた。華奢な肩が、ひくりと震え、青絹の髪飾りが、さわさわと波打つ。……けれども、無理やりに深呼吸をすると、嗚咽混じりに吐き出した。
「本当は分かっていたの……! セレイエは、もう亡くなっている、って。でも、もしかしたら、って……確かめに……。お騒がせして、本当にごめんなさい……!」
「おいっ」
ふらりと倒れそうになった女王を、背後にいたリュイセンが受け止めた。
「リュイセン……、ありがとう」
「大丈夫か? 真っ青だぞ」
リュイセンは眉を寄せて問うたが、女王は答えずに、ぽつりと呟く。
「鷹刀一族の人たちって、本当に同じ顔をしているのね」
「……は?」
「セレイエが言っていたの。――『鷹刀の人間は、面白いくらいに皆そっくりなのよ』って」
イーレオとエルファンに視線を送り、リュイセンを見上げ……、女王は「ふふっ」と笑う。
「お父様も……お話してくださったの」
「!?」
唐突な『お父様』という単語に、リュイセンは困惑する。彼女の『お父様』とは、すなわち、異母兄に殺された先王だ。そんな人物が何を? と疑問に思う。
「『教育係のイーレオは、『私を育ててくれた人』――つまり、『親』だ。だから、君にとっては『お祖父様』だよ』って」
「『育ててくれた人』……?」
聞き覚えのある言い回しだった。眉根を寄せ、記憶を手繰る。だが、リュイセンが答えにたどり着く前に、イーレオが静かに口を開いた。
「昔……、俺が先王に『パイシュエは『俺を育ててくれた女』だ』と説明したら、どうも、その言い方が気に入ったみたいでな。あいつは真似をして、俺のことをそう呼ぶようになった」
イーレオの双眸が静かな色を帯び、わずかに天を仰ぐ。その顔に呼びかけるように、女王が告げる。
「お父様は、『覚えておいてほしい。袂は分かったけれど、鷹刀一族は、私たちの家族だよ』って、言っていました」
「……そうか」
イーレオが、そっと目を伏せた。女王は大きく頷き、細い声で続ける。
「だから、私はずっと、鷹刀の人たちに会ってみたかったんです。……でもっ! こんな形で会うなんて……。……できるなら、ヤンイェンお異母兄様とセレイエの結婚式で会いたかった……!」
それは、もう叶わない願いだ。
彼女の白い頬を涙が伝い、音もなくこぼれ落ちる。
「先王の娘なら、確かに俺の孫だな。よく会いに来てくれた。ありがとう、アイリー」
深い海のような、優しい低音。
イーレオの言葉に、女王は支えてくれていたリュイセンに、しがみついて泣き出した。その華奢な体を、リュイセンは黙って抱きしめる。
からかいの眼差しを向ける者は、もはや誰もなかった。
儚げな嗚咽の響く中、イーレオは、ひとり掛けのソファーで優雅に足を組み替えた。そして、尋ねる。
「リュイセン」
「!?」
「アイリーは『デヴァイン・シンフォニア計画』について、異母兄のヤンイェンから何も聞いていないのだな?」
不意を衝くように問われ、リュイセンは戸惑った。イーレオが何かを尋ねるのであれば、相手は女王であり、まさか自分に水を向けられるとは思っていなかったのだ。
だが、ひと呼吸置いて、気づく。
リュイセンの指名は、女王を心ゆくまで泣かせてやるのと同時に、現状に対し、次期総帥たる彼の見解を問うためだ。
執務室に到着したときには、満足な説明のできなかったリュイセンである。汚名返上とばかりに毅然と構えた。
「祖父上のおっしゃる通り、彼女はヤンイェンからは何も聞いていません。一方、もうひとりの兄である摂政からは、セレイエが『ライシェンの肉体』を作ったこと、過去の王の遺伝子を廃棄したこと、などを聞いているようです。彼女の持っている情報は、ふたりの兄のそれぞれの思惑によって、だいぶ混乱したものになっていると思われます」
「ふむ……」
語尾の伸びた相槌に、リュイセンの直感が、イーレオの迷いを捉えた。女王に『デヴァイン・シンフォニア計画』について教えるか否かで、揺れているのだ。
個人の心情的には『孫娘』だとしても、彼女は、鷹刀一族と敵対している摂政の実妹である。立場の上では、味方とは言い切れない。
悩ましいところだ、というイーレオの内心を感じ取り、リュイセンは思わず「総帥」と呼びかけた。
「彼女は『デヴァイン・シンフォニア計画』は知りませんが、四年前にヤンイェンとセレイエが、息子を生き返らせようとしていたことは知っています。それ故、セレイエが『ライシェンの記憶』を手に入れるために死んだことも察していました」
これだけ深く事情を知っているのだから、渦中の人物のひとりである彼女が、いつまでも蚊帳の外であるのはおかしい、との思いを込める。
「なるほど。それが、お前の見解か」
イーレオの目元が、興に乗ったような色合いを帯び、それから「よし、分かった」と重々しく頷いた。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』に関しては、ルイフォンの口から語るのが筋だ。だが、草薙家にいる奴をこの屋敷まで呼び寄せていたら、アイリーのお忍びが王宮側にばれる可能性が高まる。――故に、『〈猫〉の対等な協力者』である鷹刀の次期総帥として、お前が責任を持って、彼女に説明してやれ」
「そ、祖父うぇ……っと、総帥!?」
予想外の展開だった。
何故、自分が――という問いかけを、リュイセンは、かろうじて呑み込む。『次期総帥』の肩書きで呼ばれた上での命に対し、反論のようなことを口にするのは、あまりにも不甲斐なく、情けない。……たとえ、彼の説明能力が、壊滅的に稚拙なものであったとしても。
口をつぐんだ彼に、イーレオは、すっと目を細めた。
「鷹刀の将来を見据えれば、アイリーとは是非とも良い関係を築いておきたい。ならば、彼女の接待は、次代を担う、お前に任せるのが妥当だろう?」
魅惑の低音が耳朶を打つ。片頬杖の姿勢から発せられているとは、とても信じられぬほどの厳かな声であった。
「は……はい」
冷や汗を浮かべながら、リュイセンが承服の返事をすると、イーレオは傍らのエルファンと、背後のチャオラウに目配せをした。なんの合図かと、リュイセンが疑問に思う間もなく、イーレオが傲然と告げる。
「それでは、俺たちは席を外す」
「……は?」
リュイセンの目が点になった。
「俺たちの監視の中では、お前も話しにくかろう」
「祖父上……?」
呆然と呟くリュイセンをよそに、イーレオは颯爽と立ち上がる。
「この執務室は、完全防音だからな。安心して話せ。――ああ。メイドに茶菓子を運ばせるから、それまでは、アイリーの顔を隠しておくように」
「これはいったい、どういう……!」
「いくら、無骨な凶賊でも、客に茶を出すくらいの配慮はあるさ」
背中で緩くまとめた黒髪を翻し、イーレオは扉へと向かう。その後ろを、氷の無表情のエルファンと、低い笑いで無精髭を揺らすチャオラウが続いた。
「お待ち下さい!」
リュイセンが懸命に叫ぶも、その声は完全に無視された。
そして、イーレオは振り返りもせずに、ひらひらと手を振りながら、執務室をあとにしたのだった。
3.蓮蕾の女王-1

イーレオたちが去り、ほどなくして、氷の浮かんだレモンティーと料理長自慢のマカロンが、執務室に届けられた。
リュイセンは、運んできたメイドの気配が完全に消えたのを確認すると、「もう、顔を隠さなくて大丈夫だぞ」と、女王に告げる。
いくら空調の効いた室内とはいえ、黒づくめの姿は、やはり暑苦しかったのだろう。彼女は、サングラスを外し、フェイスカバーを取り、目深に被っていたフードごとパーカーを脱ぎ捨てた。
それから、可愛らしく「ふぅ」と息をつく。
その目元は腫れていたが、涙は止まっていた。リュイセンは安堵し、同時に、神々しいまでの綺羅の美貌に、どきりとする。
陽光を模したような白金の髪と、蒼天を映したような青灰色の瞳。
彼女の素顔なら、先ほどイーレオたちに挨拶をしたときに、既に見ている。それでも、こうして落ち着いて向かい合えば、改めて目を奪われた。
禁忌に触れそうなほどの、儚げな危うさ。
そして。
神秘を極めた、人とは思えぬ異質の美しさ……。
なるほど、〈神の御子〉とは、よく言ったものだと思う。この麗姿で『天空神の代理人』を唱えられれば、凡庸な民草は『異色の神性』を信じるしかない、というわけだ。
リュイセンは、魔性の美を誇る、鷹刀一族の直系である。整った顔立ちなら、見慣れているはずだった。しかし、それは、あくまでも人の次元でのことだったらしい。
彼女の美は、神の領域だ。
魔性の彼は、神性な彼女に惹き寄せられ、魅入られる。
……けど。こいつは、誰よりも『人』だ。
知れず、止めていた息を吐き出し、リュイセンは切れ長の目を切なげに細めた。
彼女は、鷹刀の血族以上に義姉の死を悼み、漣の涙を流した。高貴な身分のくせに、門衛たちに素直に感謝し、先王が世話になった相手に、無邪気な親愛を寄せるような奴なのだ。
だいたい、白く透き通った先天性白皮症の肌は、傍目には至高の美しさと映っても、その実、太陽の下では暑苦しい布地で覆わねばならないものだ。神秘の青い瞳だって、視力はあるようだが弱視かもしれないし、色素が少ないために、人一倍、眩しさを感じやすいものだと聞いている。
まるで、強い陽の光を厭い、昼には花びらを閉じてしまう裏庭の白蓮だ。さぞ、不自由を強いられていることだろう……。
「どうしたの?」
高い声に、はっと我に返れば、困惑顔の女王に顔を覗き込まれていた。リュイセンは、無言で彼女を凝視していた自分に気づき、慌てて謝罪する。
「す、すまん! 不躾に失礼だった。……断じて、好奇心などではなく――」
「え?」
女王は瞳を瞬かせた。彼女としては、リュイセンが急に押し黙ってしまったから声を掛けただけなので、どうしてそんなに慌てるのか、謎だった。
だが、その心情を理解できないリュイセンは、思わず口走ってしまった『好奇心』という言葉が、彼女を傷つけてしまったのだと勘違いして、更に焦る。
「あ……、その……、〈神の御子〉の容姿が、先天性白皮症に依るものだということは知っている。俺は、思わず見惚れてしまったが、お前にとっては大変な体質で、俺の視線は不快だったはずだ。悪い……!」
さすがに、立ち上がって床に手を付くことまではしなかったが、リュイセンは着席のまま、可能な限り深く、頭を下げる。一方、包み隠さず『見惚れていた』と言われた上に、気遣いまでされてしまった女王は、頬を紅潮させた。
生まれつき、〈神の御子〉という容姿を持った彼女にとって、人の目を惹き寄せることは日常茶飯事。だが、敬意や崇拝はあっても、あくまでも異質な存在としての扱いだ。彼のような歩み寄った言動は初めてで、どう返してよいのか分からない。とっさに口を衝いた言葉の支離滅裂さは、まとまらない彼女の心そのものだった。
「なんで、リュイセンが謝るのよ!? この外見は、注目されて当然でしょう? それに、先天性白皮症と知っている、って……? 助かるけど……」
心の底から狼狽える女王。対して、リュイセンは、巌の如く動じない。
「無礼な行為を働いたら、詫びるのが道理だ」
「リュイセン……」
彼の名を呟き、彼女は、しばし絶句する。
やがて、大きく見開かれていた青灰色の瞳が瞬きを思い出し、天界の琴を弾いたような笑みが、くすりと漏れた。
「本当に……、セレイエの言っていた通りなのね」
「?」
リュイセンは、反射的に顔を上げる。相対した彼女は、何故か、とても嬉しそうな顔をしていた。
「リュイセンは兄弟の中で一番、律儀で、生真面目で、融通が利かなくて、不器用で、要領が悪くて、損ばかりしていて、劣等感まみれで……」
「なっ!?」
「――でも、一番、優しいんだって」
白い指先を唇にあて、秘密を打ち明ける子供のように、彼女が微笑む。
「…………っ」
リュイセンが声を詰まらせたのは、予想外の単語が出てきたからか。それとも、それを告げた彼女の表情に呑まれたからか。
「……なんだよ、それ」
ひと呼吸遅れての反応は、どことなく間が抜けていた。けれど、女王は軽やかに髪を揺らしながら、リュイセンのほうへと身を乗り出す。
「あのね、セレイエから兄弟の話を聞いたとき、『リュイセン』は、私に似ていると思ったの」
「似ている? どこがだ?」
眉を上げたリュイセンに、女王は「あっ」と口元を押さえて言いよどむ。それから、可愛らしく首をすくめながら、「怒らないでね?」と続けた。
「リュイセンは、頭の切れる兄と弟分を差し置いて、鷹刀一族の後継者。私は〈神の御子〉というだけで、たくさんの兄弟たちを押しのけて、女王様……」
わずかに俯き、女王は白金の睫毛を伏せた。綺羅の美貌が陰り、神ではなく、人である彼女の苦悩が落とされる。
「……なるほど」
否定できない。怒るどころか、まさにその通りだと思う。そして、妙に親しげな彼女の言動も、腑に落ちた。
「だからね、私は勝手にリュイセンに親近感を抱いていたの。いつか会ってみたいって、ずっと思っていたのよ。――でも、本物のリュイセンは、私とは違ったわ。義姉の異母弟だから、私と同じくらいの歳かと思っていたら、ずっと年上で。しかも、しっかりしていて、頼もしかった」
「はぁ? 俺が『頼もしい』?」
「うん。……それは、リュイセンが『優しい』からなんだ――って。今、分かったの」
ふわりと花がほころぶように、彼女は純粋無垢な笑顔を浮かべる。
リュイセンは思わず魅入られそうになり、けれど、すぐに彼女が「想像していたよりもリュイセンが立派だったのは、ちょっと悔しいわ」と、拗ねたように頬を膨らませたので、途中でなんともいえない苦笑に変わった。
ころころと、よく表情が変わる。感情の豊かな、ごく普通の少女だ。華奢な双肩に、重すぎる荷を背負わされてしまったというだけの……。
「私ね、リュイセンに会えて、本当に嬉しいの! ――こんな形での出会いだったのは残念だけど……、……っ」
自分の言葉に、セレイエの死を思い出してしまったのだろう。青灰色の瞳から、はらりと涙がこぼれ落ち、彼女は慌てて目元を押さえた。
「ご、ごめんなさいっ……」
一度、堰を切ってしまった涙は、簡単には止まらないらしい。彼女本人の焦りとは裏腹に、透明な雫は、あとからあとから、はらはらと流れ落ちる。
「――っ、女王。とりあえず、飲み物と菓子を……。うちの料理長自慢の品だから、美味いはずだ……」
女の涙は心臓に悪い。リュイセンは、どうにか彼女の気持ちを落ち着かせようと、しどろもどろに提案する。
「リュイセン、ありがとう。――でも、私の名前は『女王』じゃなくて、『アイリー』なの」
言葉は拙くとも、思いは伝わる。
彼女は泣きながら、精いっぱいに笑ってくれた。
甘い菓子には、魔法が掛かっているらしい。さくさくの生地が、口の中で、すぅっと溶けると、ふたりの間を漂っていた、ぎこちない空気も、ほわりと解けていった。
彼女は小動物的な仕草で、三つ目のマカロンを口に運ぶ。それを舌の上で蕩かせながら、涙の乾いた瞳で「リュイセン」と切り出してきた。
「さっきイーレオさんが言っていた、『デヴァイン・シンフォニア計画』というのが、ライシェンを生き返らせる計画の名称なのね。……セレイエは、本当に『死者の蘇生』を実行に移して……、……そして、亡くなってしまったのね……」
「……ああ」
どうやって話を始めようかと悩んでいたリュイセンは、口火を切ってくれた彼女に感謝しつつ頷く。
「四年前……、〈冥王〉から『ライシェンの記憶』を集めたら、セレイエは熱暴走で命を落とすだろう――って。ヤンイェンお異母兄様もセレイエも、ちゃんと理解していたわ」
詰るように、強がるように、彼女は唇を尖らせた。
「計算の上では、間違いなく助からない。何かよい手段はないかと、セレイエは同じく〈天使〉のお母様に相談に行ったけれど、『禁忌に触れる行為だ』と猛反対されて、喧嘩別れして帰ってきたの」
興奮気味の口調で、彼女は四年前を口にする。
『デヴァイン・シンフォニア計画』について教えてほしいと、すぐにも質問攻めにされる覚悟をしていたリュイセンとしては、拍子抜けだった。
だが、次第に理解する。
彼女は、ずっと孤独だったのだ。
彼女の周りには、彼女の辛さや悲しさを、親身になって受け止めてくれる相手などいなかった。彼女は、ひとりで抱えていくしかなかった。
誰にも頼ることができなかった彼女は、だから、やっと出会えた『身内』に、今までの経緯を、そのときの思いを、やっと吐き出すことができたのだ……。
「ライシェンが生き返っても、代わりにセレイエが亡くなってしまったら、なんにもならない。だから、ヤンイェンお異母兄様とセレイエは、私の知る限りでは、『死者の蘇生』について必死に調べはしても、実行には移していなかったの。――でも……っ」
不意に、語尾が震えた。
彼女は、やるせない眼差しで、奥歯を噛みしめる。
「セレイエのお母様が、セレイエを強く叱りつけたのと同じように……。先王がヤンイェンお異母兄様に、ライシェンの蘇生を諦めるよう、厳しく言い渡したとき……。お異母兄様は憎しみを抑えきることができずに、先王を殺めてしまった……」
彼女は目線を落とし、視界に映ったレモンティーを手に取った。結露による水滴も気にせず、むしろ、昂ぶる感情を冷やそうとでもするかのようにグラスを握りしめる。
「先王と、お異母兄様。どちらにも、譲れない思いがあったのよ。どちらが悪いなんて、言えないの……」
ぽつりとした呟きが、グラスの中に漣を落とす。
「一緒にいたら、セレイエもきっと罪に問われる。王族のお異母兄様はともかく、平民のセレイエは処刑されてしまう。だから、お異母兄様はセレイエを逃したの。……けど、セレイエにしてみれば、たったひとりで自由の身になったって、なんの意味もなかったのよ。だって、愛するお異母兄様も、ライシェンもいないんだもの」
彼女は語気を強め、「だから――!」と、続けた。セレイエの義妹である自分には、義姉の気持ちなんて、お見通しなのだ、と。
「だから、セレイエは『死者の蘇生』を――『デヴァイン・シンフォニア計画』を実行に移した。……そういうことでしょう?」
「ああ……、そうだ」
リュイセンは、静かに肯定した。直接、セレイエから聞いたわけではないが、セレイエの記憶を受け取ったメイシアが、ほぼ同様のことを言っていたから――。
「リュイセン」
彼の名を呼びながら、彼女が、ゆっくりと顔を上げた。綺羅の美貌は変わらぬままであるのに、今までと、どこか面差しが変わっていた。
「もし鷹刀がセレイエの遺志を継ぐつもりなら、私は鷹刀の敵になるわ」
澄んだ青灰色の瞳が、まっすぐに向けられる。
まるで、高い空に惹き込まれていくような錯覚に、リュイセンは陥る。
「四年前、私はライシェンを生き返らせることには反対だったの。でも、嘆き悲しむ、お異母兄様とセレイエを前に、私は何も言えなかった。――もう、後悔したくないの」
「お前……」
お飾りの女王だと聞いていた。幼さの残る、か弱い少女なのだと。
本当に、そうなのだろうか。
リュイセンが疑問を覚えたとき、彼女は、ぎゅっと唇を噛んだ。
華奢な肩が震え、白金の髪が波打つ。どうしたのかと彼が顔色を変えれば、彼女の雰囲気は一変して、口から、ひくりと、弱々しい嗚咽が漏れた。
「だって……! 亡くなったライシェンの代わりなんか存在しないもの……!」
叩きつけるように、彼女は訴える。
「ライシェンはね、凄く可愛い子だったのよ。そばにいるだけで、幸せな気持ちになれたわ。私は、あの子が大好きだったの」
儚げな顔立ちが、今にも泣き出しそうなほどに悲痛に歪んだ。けれど、ぐっと口元を結び、彼女は懸命に堪える。いつまでも弱いままではいけないと、自分に言い聞かせるかのように。
「ライシェンは私と同じ〈神の御子〉で、しかも男の子だから、きっと辛いことが、たくさん起こる。でも、私が守ってあげる、って――約束……したのに……!」
「…………」
哀哭の叫びに、リュイセンは、やるせない思いで拳を握りしめる。
強さと弱さとが、ないまぜになった、素顔の彼女。
精いっぱいの背伸びをしても、やはり、まだまだ半人前だ。
だが、夢見る少女ではない。現実を見据え、進むべき道を見誤らないようにと必死に足掻く。――リュイセンと同じように……。
「女王」
リュイセンは、そう呼びかけて、直後に首を振った。
彼女にふさわしい名前は『女王』ではない。口にするのは、どことなく気恥ずかしいが、それでも、きちんと彼女の名前を声に乗せる。
「アイリー」
「リュイセン?」
「お前、辛かったな。今までひとりで、よく耐えてきたな」
「!」
青灰色の瞳が、ぱっと見開かれた。その弾みで、ひと粒の涙が、はらりとこぼれ落ちた。
「安心しろ。鷹刀は――正確には『デヴァイン・シンフォニア計画』を託されたルイフォンとメイシアは、セレイエの願いをそのまま叶えるつもりはない」
「え!?」
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、セレイエの我儘。――これが、俺たちの見解だ」
「そ……、そうなの……?」
アイリーは狼狽する。
どうやら、『デヴァイン・シンフォニア計画』の要であるらしい鷹刀一族は、セレイエの遺志を継ぐものと信じていたらしい。
ただ――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、誰も予期しなかった方向へと迷走している。
さて、この複雑な現状をどう説明したものか。
リュイセンは渋面を作り、「ええとな……」と、歯切れの悪い調子で続けた。
「『ライシェンの肉体』は、既に出来上がっていて、いつ生まれてもいいように凍結保存されている」
「既に……」
白い喉が、小さく、こくりと動いた。
「その状態で未来を託されたルイフォンとメイシアは、彼を幸せにしてやりたいと――そのために、いろいろ面倒なことになっている」
眉間に皺を寄せたリュイセンに、「あ、待って!」と、アイリーが鋭く叫んだ。
「『ライシェンの肉体』が、どこにあるかは言わないで! カイウォルお兄様が、私から情報を得ようと、躍起になっているの」
「え?」
唐突に出てきた摂政カイウォルの名に、リュイセンは戸惑う。
「カイウォルお兄様が、『ライシェンの肉体』の行方を探していることは、鷹刀も把握しているでしょう?」
「あ、ああ……」
「それで、カイウォルお兄様は、セレイエと仲の良かった私なら、何か知っているのではないかと、誘導尋問みたいなことをしてくるのよ。侍女だったホンシュアが脅迫してきたとか、私が消息を気にしているのを承知で、あえて語り聞かせてくるの」
アイリーは唇を尖らせ、頬を膨らませた。
「お兄様は、ご自分の知っている情報を呼び水に、私が思わず、ぽろりと漏らすのを期待しているのよ。今までは、本当に何も知らなかったからよかったけど、もし、『ライシェンの肉体』の居場所を聞いちゃったら、私には隠し通せる自信がないわ」
「なるほど」
妹を相手に誘導尋問とは、また穏やかではないが、あの摂政であれば、容易に想像できる。特にアイリーは、リュイセンと同じく単純――もとい、素直な性格なので、与し易しと思われても仕方ないだろう。
「ヤンイェンが、仲の良い異母妹のお前に『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを教えなかったのは、摂政に情報が伝わることを恐れた、というわけか」
「それは違うと思うわ」
得心したリュイセンを、しかし、アイリーは冷たい声で、ぴしゃりと否定した。
「四年前。私は強い態度で、ヤンイェンお異母兄様とセレイエを止めることはできなかったわ。でも、ライシェンを生き返らせることに反対なのは、ふたりとも分かっていたと思うの。――だから、隠すのよ。私に、邪魔をされたくないから」
そして、ひと呼吸おいて、アイリーは言葉を重ねる。
「それでいいのよ。人にはそれぞれ、譲れないものがあるんだから」
天界の音色が、強い意志を放った。
人懐っこい、無垢な少女は、かつての後悔を忘れない。故に、無邪気なままではいられない。
レモンティーのグラスの中で、小さくなった氷が踊り、硝子を奏でる。からん、と涼しげな音は、溶けた氷は戻らぬのだと、告げているかのようであった。
3.蓮蕾の女王-2

「アイリーの婚約を開始条件に、『デヴァイン・シンフォニア計画』は動きだしたんだ……」
不器用ながらも、リュイセンは、ぽつりぽつりと語っていった。
あらゆることを事細かに話していたらキリがないことは、口下手なリュイセンでも理解できた。だから、アイリーにとって関係の深いことを――『ライシェン』へと繋がる内容のみを選んだ。
リュイセンにとっては因縁深い〈蝿〉の話も、本筋ではないので大きく端折り、『ライシェン』の肉体を作るために、セレイエの〈影〉だったホンシュアが死んだ天才医師を生き返らせた、と伝えるに留めた。誤解から敵対していたが、最後には和解して、ルイフォンとメイシアに『ライシェン』が託された、と。
また、つい最近、ルイフォンが王宮に行って、ヤンイェンに直接、会ったことも伏せた。
ヤンイェンとの対面が、話すべき内容であることは、重々、承知している。しかし、あのとき、弟分は女装して、『仕立て屋の助手の少女』として、アイリーと顔を合わせているのだ。
その事実を勝手に明かすのは、あまりにも忍びなく……。今後の連絡のためにと、携帯端末の番号を交換したので、あとでルイフォンに断りを入れてから、改めて伝えることにしたのだ。それが道理だろう、と。
リュイセンの話術は相変わらず拙いものであったが、次期総帥となってから人に説明する機会が増えたためか、少しだけマシになっていたらしい。話を終えたときには、レモンティーのグラスから、すっかり氷が消えていたものの、時計の針は思ったよりも進んでいない。彼は安堵して、ぬるくなったレモンティーを飲み干した。
「長い話をありがとう」
向かいのソファーから、アイリーが静かに労ってくれた。しかし、謝意を示す微笑には、失敗している。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、何人もの人間を傷つけ、ときに命をも奪った。そんな話を聞かされて、穏やかな気持ちでいられるわけがない。ましてや、彼女はセレイエの〈影〉となる前の『侍女のホンシュア』を知っている。セレイエに続いて、また親しい人の死を告げられたのだから。
「リュイセン……」
青灰色の瞳が揺らめく。
再び泣き出されたとしても、慌てずに受け止めようと、リュイセンは身構える。しかし、アイリーは、ぐっと頤を上げ、長身の彼をまっすぐに見つめた。
「私に、何ができるかな……」
ぽつりと落とされた声は、細く掠れていた。けれど、口にしたのは、どこまでも現実と向き合おうとする言葉だった。
無力の無念を知る彼女は、こんなにも儚げでありながらも、心は強くあろうとする。
蒼天を映したような瞳に、リュイセンは惹き込まれる。
「ねぇ、リュイセン」
白金の髪をなびかせ、思い詰めたような表情のアイリーが、ふわりと身を乗り出した。
彼我の間には、空のグラスと茶菓子の載ったテーブルがある。しかし、リュイセンは懐に入られたような感覚に陥り、どきりとする。
「セレイエは『ライシェン』に、ふたつの道を用意したのよね?」
「あ、ああ……」
アイリーの問いかけは、ただの確認のはずだ。けれど、不可思議な強さを帯びており、リュイセンは気圧されたように頷く。
そんな自分に狼狽え、それから神速で『デヴァイン・シンフォニア計画』へと頭を切り替え、彼はセレイエの遺した、ふたつの道を反芻する。
実父ヤンイェンのもとで、王となるか。
あるいは、優しい養父母のもとで、平凡な子供として生きるか。
「でも、私は三つ目の道があると思うの」
アイリーは唇を尖らせ、強気な口調で告げた。
名案であると、自信ありげに見せかけているが、明らかに虚勢だった。
その証拠に、瞳の奥が怯えたように揺れている。それでも言わずにはいられない。そんな必死の思いが伝わってきた。
「ヤンイェンお異母兄様は、本当に心からライシェンを愛していたの。だから、あの子の遺伝子を引き継いだ『ライシェン』を、お異母兄様から引き離すなんて考えられないわ。でも、カイウォルお兄様が中心となっている今の王宮で、『ライシェン』が王となることが幸せとは思えない」
そこでアイリーは、ごくりと唾を呑み、「だから!」と、声高に言を継ぐ。
「ヤンイェンお異母兄様に、『ライシェン』を連れて王宮を出てもらうの。『ライシェン』は王族ではなく、平凡な子供として生きるのよ。ただし、養父母のもとで、ではなくて、お異母兄様の子供として」
「なっ!?」
「四年前。お異母兄様とセレイエは、ライシェンを生き返らせたら、三人で、どこか静かな外国で暮らしたいと言っていたわ。国内では〈神の御子〉の容姿は目立つし、王位継承問題に巻き込まれてしまうから、って。……セレイエは亡くなってしまったし、『ライシェン』は、ライシェンじゃないけれど、その思いを受け継ぐの」
「そんなことが……」
リュイセンは反射的に言いかけ、その先で自分は、なんと続けようとしていたのかに迷う。
『そんなことが可能なのか』だろうか。
それとも、『そんなことが許されるのか』なのだろうか。
声をつまらせた彼に、アイリーが畳み掛ける。
「今の私は、四年前とは違うわ。国で一番偉い、『女王様』なんだから、どうにかして、お異母兄様と『ライシェン』が国外で暮らせるよう、手配できるはずよ」
「アイリー……」
名を呟いたまま、リュイセンは、またもや押し黙る。
彼女の示した、第三の道の是非は、リュイセンには分からない。
多分に同情の余地があるとはいえ、ヤンイェンは先王殺しの犯罪者だ。罪人が償いもせずに自由の身となるのは、無責任のように感じる。その一方で、『ライシェン』にとっては最善の道なのかもしれないと思う。
ただ、懸命な言葉の裏に、アイリーの祈りが見えた。
大好きな異母兄と義姉に、幸せになってほしかった。それがもう叶わぬ願いであるのなら、せめて、できるだけ近い形の未来を贈りたいのだと。
リュイセンとしては、彼女の気持ちを傷つけたくはない。しかし……。
そのとき、不意に、摂政カイウォルの存在が頭をよぎり、はっと彼は気づく。
「おい。実のところ、現在の国の最高権力者は、お前じゃなくて摂政だろう? あの摂政が睨みをきかせている以上、ヤンイェンも、『ライシェン』も、国外に出るのは無理じゃないか?」
だから、第三の道は現実的ではないのだ。
是非を論じるより先に――彼女に否定的なことを言うよりも前に、『無理』なのだと分かり、リュイセンは無意識に安堵する。
「そうね。カイウォルお兄様は、なんて言うかしらね」
アイリーの声が沈み、テーブルの上へと視線が落とされた。
かすかな罪悪感が、リュイセンの胸をちくりと刺すが、それは仕方ない。――と、思った瞬間、彼女は、ぱっと顔を上げ、「でもね」と鋭く続けた。
「もし、『ライシェン』が、私の次の王になるのなら、私は『ライシェン』の後見人には、父親のヤンイェンお異母兄様ではなくて、カイウォルお兄様を推すわ。――現女王として、それは譲れない」
「!?」
リュイセンは短く息を呑む。
「けど、それじゃあ、ヤンイェンお異母兄様から『ライシェン』を奪うようなものでしょう? だから、『ライシェン』には王にならずに、平凡な子供として生きてほしいのよ」
「…………!?」
「そんな顔、しないでよ」
切れ長の目を見開いたまま、固まっているリュイセンに、アイリーは拗ねたように唇を尖らせた。それから、「そんなに意外だった?」と、可愛らしく、小首をかしげながら尋ねる。
「ああ。ヤンイェンは『ライシェン』の実父だし、お前は摂政を煙たがっているみたいだったからな」
リュイセンが率直に述べると、アイリーは「そうよね」と相槌を打つ。
「カイウォルお兄様とヤンイェンお異母兄様、どちらが好きかと訊かれたら、私は迷わずヤンイェンお異母兄様と答えるわ。カイウォルお兄様は口うるさいし、気難しいし、差別的なところがあるし、本当は周りを見下しているくせに、あの綺麗な外面で欺いているのよ。――嫌いだわ」
日ごろの小言の鬱憤が溜まっているのか、アイリーは、ぷうっと頬を膨らませた。けれど、やや演技めいたその仕草からは、口で言うほどには嫌っていないのが感じられる。
案の定、彼女の語調は、そこで一転し、「でもね」と、穏やかなものへと変わった。
「私が女王でも、この国がなんとかなっているのは、カイウォルお兄様が摂政を務めてくださっているおかげなの。お兄様が退けば、あっという間に、この国は立ち行かなくなるわ」
あたかも、天空神が地上を見守るが如く。蒼天を映したような青灰色の瞳が、静かに王国を見つめる。
限りなく頼りなくとも、彼女は間違いなく『この国の王』なのだ。
「お兄様は、他の誰よりも、国を治めることに優れている。……そうなるようにと、努力を続けて生きてきた人だから」
「……?」
不思議な色合いを帯びた語尾に、リュイセンは秀眉を寄せた。それを受け、アイリーは切なげに目を細める。
「〈神の御子〉ではないカイウォルお兄様は、決して王にはなれない。それを承知しながら、いずれ生まれてくる弟妹の助けとなるために、お兄様は子供のころから勉学に励んできたの。それが、王族の努めであり、正妃の長男の役目だと割り切ってね」
頭を振り、彼女は寂しげに微笑んだ。
「カイウォルお兄様は好きじゃない。……でも、尊敬しているし、やっぱり大切な兄なの」
小さな溜め息をつくと、この国で唯一の白金の髪が、ふわりと肩から流れ落ちた。その儚げな姿を見つめながら、リュイセンは呟く。
「だから、『ライシェン』はヤンイェンと暮らしてほしい。けれど、王の道は選ばないでほしい――という第三の道を、お前は推すわけか。……って、いや、待てよ!」
彼は得心しかけ、途中で顔色を変えた。
「『ライシェン』がいなくなったら、次の王はどうするんだ? 過去の王の遺伝子は、すべて廃棄されたんだぞ?」
もはや過去の王のクローンは作れない。
そして、〈神の御子〉が自然に生まれてくる確率は、極めて低いのだ。
アイリーが〈神の御子〉を産むことを強要される光景を想像し、リュイセンは戦慄する。彼女が道具のように扱われる未来など、あってはならない。
「大丈夫よ。〈神の御子〉なら、いくらでも作れるわ」
彼の昂ぶりとは裏腹に、落ち着いた天界の音色が響いた。
「なんだって!?」
「私のクローンを作ればいいのよ」
「――!?」
リュイセンの耳は、きちんとアイリーの声を捉えていた。なのに、思考がついていかない。凍りついたような顔と心で、彼はただ、呆然と彼女を見つめる。
視界を鮮やかに彩る、輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳。
天空神の姿を写した、綺羅の美貌が告げる。
「王位を継ぐだけならば、『仮初めの王』の女王で充分よ。むしろ、知りたくもない他人の心が読めてしまう〈神の御子〉の男子なんて、もう生まれないほうがいいわ」
神の代理人たる王でありながら、その言葉は神のものではない。人である、彼女の思い。人の害意を浴びて、不幸な運命をたどったライシェンを憂えての――。
「カイウォルお兄様には、私の次の王の後見人になってもらうと約束するわ。そうすれば、『ライシェン』に執着することはないと思うの。――ね? 私の考えた三つ目の道なら、皆が幸せになれるでしょう?」
「いや、待て! お前のクローン、って……、そんなのは!」
理屈ではない。直感が、どこか間違えていると訴える。しかし、説得力のある言葉で言い表すことができず、リュイセンは歯噛みする。
「『私のクローン』というのは、今、思いついた話じゃなくて、ずっと前から考えていたことよ。だって、先々王は、『過去の王のクローン』だった先王に冷たかったんでしょう? それは、やっぱり、本当の子供じゃないから、他人としか思えなかったからだと思うの」
「……」
「だから、私は、自分が『過去の王のクローン』に頼る事態になったときには、知らない人のクローンじゃなくて、自分のクローンを作ろう、って決めていたの。私のクローンなら、きっとあんまり優秀じゃないけれど、『私の『遺伝子』なら、仕方ないわね』って、笑って受け入れられるもの」
「そんな……」
「私がそう考えていることは、セレイエも知っていたわ。だからこそ、思い切って、過去の王の遺伝子を全部、廃棄できたのよ」
彼女の紡ぐ言葉は、皆の幸せを願う純粋すぎる祈りだ。
地上のすべてを愛おしむような、無垢な微笑みが漣となって広がっていく。
「なんで、お前が、そんな犠牲みたいなことを……! おかしいだろう!?」
彼女の祈りに呑み込まれそうになる自分に抗い、リュイセンは叫ぶ。
「私はこれでも王族で、女王様だから」
アイリーは口元に人差し指を当て、秘密を打ち明けるような、幼さの残る仕草で応える。
けれど、その表情は、今までに見た中で一番、大人びていた。
3.蓮蕾の女王-3

執務室は完全防音である。ぴたりと窓を閉じてしまえば、庭に溢れ返る、夏を奏でる蝉の歌すらも届かない。
外界から遮断され、静寂に見舞われた、ふたりきりの部屋。存在する音は、空調からの送風と、自身と相手の息遣いだけのはずだ。
しかし、リュイセンの耳に響いているのは、無垢な笑顔で告げられた、アイリーの言葉だった。
『私はこれでも王族で、女王様だから』
次代の王に恵まれないときは、自分のクローンを作る。
彼女はずっと、そう考えていたという。
腹の底で、怒りに似た苛立ちが渦を巻く。それを表に出さないように、リュイセンは必死になって、感情を抑える。
黄金比の美貌から表情が消え、彫像のように凍りついた。双刀を宿したような鋭利な双眸は、彼女を凝視したまま、瞬きひとつしない。
ふたりの視線が交錯した。
深みのある漆黒と、澄んだ青灰色の、対象的な眼差し。相容れないようであり、対でもあるようなふたりが、互いの姿を己の瞳に映す。
「リュイセン、ありがとう」
ふわりと。
アイリーが破顔した。
その瞬間、リュイセンは秀眉を吊り上げる。
「なんで礼を言うんだよ?」
「だって、リュイセンは、ちゃんと『私』を見てくれるから。生き神様じゃない、『私』を」
彼女は白金の髪を波打たせ、彼の顔を覗き込むように身を乗り出す。綺羅の美貌が近づき、青灰色の瞳が潤んでいることに、彼は気づいた。
同時に、察してしまった。
彼女の視力は、彼が思っていたよりも、おそらく弱い。
ときどき妙に距離が近くなるのは、近づかなければ見えないからだ。近視などとは違い、先天性白皮症に依る弱視は眼球の内部の形成異常が原因だとかで、眼鏡やコンタクトレンズでは矯正できないらしい。――王の異色が先天性白皮症だと知ったあと、後学のためにと調べて得た知識だ。
勿論、彼女の人懐っこい性格も影響しているだろうし、普段の生活に支障はない程度には見えているのも分かる。
けれど、明らかに先天性白皮症の弊害だ。
リュイセンは知れず、奥歯を噛んだ。
かつて、鷹刀一族は王族のために近親婚を繰り返し、健康な子供が生まれにくい状態になってなお、〈贄〉として血族を捧げてきた。しかし、アイリーを見ていると、王族である彼女もまた、国を支えるための生贄のようだ。しかも、それを当然のように受け止めている……。
胸が悪くなるような忌まわしさがこみ上げてきた。それを振り払うように、リュイセンは頭を振る。
「お前が、いろいろ考えていることは分かった。けど、『ライシェン』の未来は、ルイフォンとメイシアに託されている。だから、お前の考えは、ふたりに伝えて、選択肢のひとつに加えてもらう。――それでいいよな?」
「そうね、それがいいわ。私たちだけで決めることじゃないし、こうしてリュイセンと睨み合っているのは嫌だもの」
アイリーも素直に頷く。
刹那、リュイセンは反射的に鼻に皺を寄せた。
「今のは『睨み合い』じゃないだろう?」
彼は間違っても、彼女に悪感情など抱いていない。理不尽な現状を嫌悪していただけだ。なのに、彼女に誤解されるのは、非常に不本意である。
つまり、先ほど目線を絡めていたのは『睨み合い』ではなくて……。
――『見つめ合い』?
頭に浮かんだ単語を、リュイセンは慌てて打ち消す。いくらなんでも、それは不適切だろう。
それまで不機嫌な様子であった顔を急に赤らめ、黒目を右へ左へと彷徨わせたリュイセンを、アイリーは不思議そうに見つめていた。だが、理由を訊いても答えてくれそうもないと感じたのか、やがて、ふと呟く。
「できるなら、直接、『ルイフォン』に会って、話をしたいわ。彼にも会ってみたいの。……勿論、難しいのは分かっているわよ?」
聞き分けのない子供じゃないのよ、と。弁解するような上目遣いで首をすくめる。
「……っ」
無邪気な仕草に、どきりとした。リュイセンは、申し訳ない気持ちを押し殺し、沈黙する。
アイリーは既に、ルイフォンと会っている。
ただし、『仕立て屋の助手の少女』という女装姿の彼と、であるが。
ヤンイェンと接触するための、必要に迫られての女装であり、むやみに明かしては弟分の沽券に関わる。あとで、きちんと本人の承諾を得てから話すつもりのリュイセンは、アイリーに悪いと思いつつ、今はひとまずシラを切る。
「あ……ああ、お前がお忍びで出掛けるのは、簡単なことじゃないよな。そもそも、今日は、どうやって王宮を抜け出してきたんだ?」
話題をそらすための質問であった。しかし、口にしてから、先に確認しておくべき事柄だったと気づく。彼女が鷹刀一族の屋敷に来てから、それなりの時間が過ぎている。王宮は大騒ぎになっていないだろうか。
今更のように焦り始めたリュイセンに、アイリーは唇に人差し指を当て、内緒話を打ち明けるように告げる。
「あのね、王宮からじゃなくて、神殿から抜け出してきたの。昔、セレイエがよく、外に連れ出してくれた方法で」
「は!?」
またしても、セレイエなのか? あの異母姉は、当時、王女だったアイリーを、頻繁に脱走させていたというのか?
セレイエと一緒に暮らしたことのないリュイセンは、実のところ、彼女と異母姉弟だという認識は低い。しかし、身内として、さすがに血の気が引いた。
「ええと、〈七つの大罪〉が、王の私設研究機関なのは知っているわよね? それで、〈悪魔〉たちは、必要に応じて、王や王族と対面するわけだけど、その場所が神殿にある『天空の間』なの。――あ、『天空の間』というのは……」
「『天空の間』なら知っている。王族や貴族が、自分の屋敷に、ひと部屋は作るという、『神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋』だろう?」
上流階級のしきたりなど詳しくない、詳しくなりたくもないリュイセンだが、『天空の間』のことはよく覚えている。
〈蝿〉が、『最高の終幕』の舞台に選んだ場所だからだ。
リュイセンが知っているのは、〈蝿〉が潜伏していた菖蒲の館の『天空の間』であるが、もと貴族のメイシアによれば、どの屋敷でも同じような造りであるという。天上の世界を表しているとかで、壁も絨毯も調度も白一色で整えられた、奇妙な部屋だ。
「ああ、そうか。〈蝿〉が言っていたな。防音のよく効いた『天空の間』は、王と〈悪魔〉の密談の場だった、と」
ふと思い出して口にすると、アイリーが「話が早くて助かるわ!」と、声を弾ませる。
「〈悪魔〉たちが、こっそり出入りするために、神殿の『天空の間』と外を繋ぐ、秘密の通路があるのよ。そこを通って抜け出してきたの。『天空の間』に入るときに『神と語ってまいります』と言えば、誰も付き添うことはできないし、半日くらいなら平気でしょう?」
「……」
仮にも、神の名を借りて国を治めている王が、神との対話だと偽って、無断外出をしてよいのだろうか……?
発案者はセレイエだ。自分の異母姉が、幼い王女に悪知恵を授けていたという事実に、生真面目なリュイセンは頭が痛くなる。
「セレイエが一緒のときは、黒髪の鬘や、カラーコンタクトを用意してくれたんだけどね。私じゃ手配できなかったから、今日は、いつもの格好で出てきちゃった……」
寂しげな口調で、アイリーがソファーに畳んだ黒いパーカーを見やる。黒づくめの服装は『お忍び装束』ではなく、彼女の外出には必須の『普段着』であったらしい。
「セレイエは、無敵の護衛だったのよ。危険な目に遭ったときは、〈天使〉の羽で相手を操って守ってくれたの。私の正体がバレそうになったときには、羽で記憶を誤魔化してくれたりしてね……」
青灰色の瞳が切なげに細められた。
かつてセレイエに連れられて、普通の女の子のように遊びに出かけた日々を思い出しているのだろう。
禁忌ともいえる〈天使〉の能力を、セレイエが気軽に乱用していたようなのは気になるが、それでも、リュイセンの口の中に苦いものが広がる。
「ごめんなさい。余計なことを言ったわ」
白金の髪を揺らしながら、アイリーが左右に首を振った。そして、「話を戻すわね」と、無理やりに口角を上げる。
「王女だったときならともかく、今は女王様になっちゃったから、私が頻繁に王宮を離れて神殿に行くのは難しいの。今日は、凄く運が良かったのよ。この次に、いつ抜け出せるのかは、ちょっと分からないわ。――だから、リュイセン。私の考えを『ルイフォン』に伝えるの、よろしくね」
「ああ。分かった」
「外に出られる機会があったときは、携帯端末で連絡するわ。あらかじめ予定が分かっていれば、ルイフォンも、このお屋敷に来られるでしょう? ……あ、それよりも、ユイランさんもいる、草薙家のところに、私が行くほうがいいわ! リュイセン、連れて行ってね!」
先の予定を楽しそうに語るアイリーに、これきりの縁ではないのだという実感と、彼女がそろそろ帰ろうとしている現状を解し、リュイセンの胸に不可思議な漣が立った。
……ともあれ。今日はこれで、お開きだ。神殿の『天空の間』に繋がる、秘密の通路とやらの入り口まで、アイリーを送ってやろう。
やるべきことをやるを信条とする彼が、自分の中でそうまとめたとき、不意にアイリーが叫んだ。
「そうだわ! 私がお忍びで行くんじゃなくて、ルイフォンに王宮まで来てもらえばいいのよ!」
彼女は顔を輝かせ、ぐいとテーブルに身を乗り出す。
「ユイランさんに頼んでいる衣装の、次の打ち合わせのとき、ルイフォンに人夫として同行してもらうの。そうすれば、監視の目の厳しいヤンイェンお異母兄様も、ルイフォンに会えるわ! やっぱり、『ライシェン』の未来は、お異母兄様抜きには決められないでしょう?」
「…………」
それは既に、実行に移され、成功を収めた作戦だ……。
――良心が咎める……。
正直者のリュイセンとしては、さすがにこれ以上、黙っていることは不可能だった。
彼は観念して、「実は……」と、ルイフォンの王宮訪問について、訥々と語り始めた。
4.白蓮の花の咲く音色-1

「嘘……」
『仕立て屋の助手の少女』の正体がルイフォンだと知らされ、アイリーは呆然と呟いた。
「……すまん。本当だ」
あまりの居たたまれなさに、リュイセンの口から思わず謝罪の言葉が衝いて出る。
「あっ、違うのよ。信じていないわけじゃなくて。――あ、あのね。あの子が、鷹刀の血族だというのは分かったのよ」
動揺のためか、アイリーは慌てて弁解を始める。
「セレイエとは目元や髪質が違うけど、顔全体の雰囲気がよく似ているから、きっと親戚の子なのね、って思ったわ。すらっと背が高くて綺麗めで、大人びているのに可愛いくて、羨ましいな、って」
「……」
鷹刀の血統にしては細身で小柄なルイフォンだが、男性の平均身長は超えているので、女装姿であれば、確かに『すらっと背が高く』見えることだろう。
リュイセンは頭の中でそう思ったが、余計な口を挟むような真似は控えた。綺羅の美貌を持つアイリーに、『可愛いくて、羨ましい』と言われてしまった弟分が、不憫でならなかったのである。
「言葉少なだけれど、優しくて。さんざん待たせてしまったのに、ちっとも怒らないでくれたの」
「……」
喋ったら男だとバレるため、口をきけなかっただけだ。そして、何時間、待たされようとも、女王に怒り出す平民はいないだろう。
「あの子が……ルイフォン……」
「……ああ」
無言を続けるのも悪いので、リュイセンは、せめてもの思いで、申し訳程度の相槌を打つ。
「……ええと、つまり……、私が『ユイランさんと親しくなって、鷹刀のお屋敷にセレイエの死を確かめに行こう』と思っていた裏側で、ヤンイェンお異母兄様は既に、ルイフォンとの接触を果たしていたわけね」
「え?」
いきなり暴露話のようなことを口にしたアイリーに、リュイセンは軽く目を瞬かせた。
「あ、誤解しないで! 私は、セレイエのことを聞きたいから、ユイランさんと仲良くしたわけじゃないわ。もともとセレイエから、ユイランさんは『もうひとりのお母さん』だって聞いていて、親しみを感じていたし、彼女の作る服は、お世辞じゃなくて本当に大好きなのよ」
そう言いながら彼女は立ち上がり、その場で、くるりと一回転する。
白金の髪を飾る青絹の髪飾りが、漣を立てて流れ、淡い青色のワンピースの裾が、波打つように優美に広がった。
彼女に似合う、長すぎない裾丈は、軽やかでありながらも上品さを忘れず、凛とした可愛らしさを醸し出す。そして、何より、お気に入りの服を楽しんでいる、彼女自身が輝いていた。
「ねぇ、気づいてないの? この服は、あのとき、ユイランさんが私のために作ってくれたものよ。素敵でしょう?」
「あ――」
確かに、ルイフォンの報告書には『見本品に手を加えた服を女王がいたく気に入り、ヤンイェンが私費で買い取った』と書いてあった。
ただし、情報の取捨選択が下手なリュイセンとは違い、弟分は要点を的確にまとめることに長けている。当然のことながら、服の色やデザインなどの詳細は省かれており、『気づいてないの?』と言われても、気づきようもなかったのである。
「……すまん」
リュイセンに非はないはずなのだが、何故か謝った。……先ほどから、謝ってばかりのような気がする。
「仕方ないわ。殿方は、お洒落になんて興味がないんでしょう? 私にしてみれば、ユイランさんがお母様だなんて、リュイセンが羨ましくてならないのにね」
わずかに頬を膨らませながらも、アイリーは、おとなしく引き下がった。
それから、ふっと顔を曇らせる。
「……ヤンイェンお異母兄様は、既に、すべて知ってしまっていたのね」
「!?」
不穏を帯びた声に、リュイセンは眉を寄せた。
「ルイフォンのもとに、ライシェンの『記憶』と『肉体』が揃っていることを。けれど、『記憶』は封じたままにするつもりだということも……」
ぽつり、ぽつりと落とされる言葉が、波紋のように広がっていく。
「ルイフォンの立場からすれば、『一切の誤魔化しをせずに伝えるのが、道理』と考えたのは分かるわ。でも、私は、ルイフォンがお異母兄様と会うときには、『ありのままは伝えないほうがいい』って助言……ううん、忠告するつもりだったのよ」
「アイリー?」
リュイセンは覚束ない気分になって、思わず彼女の名を呟いた。
「そこまで何もかも包み隠さずに、正直に明かしちゃったら、ルイフォンが予測していた通り、お異母兄様とルイフォンたちは、敵対するしかないと思うわ」
「なっ……!?」
耳朶を打つ、アイリーの不吉な予言に、リュイセンは顔色を変える。
「だって、お異母兄様はずっと、『記憶』と『肉体』を手に入れて、ライシェンを生き返らせたいと願っていたのよ? その両方が既に揃っていて、しかも、代償にセレイエが命を落としたんだもの。お異母兄様は、必ず……」
彼女は唇を噛み、その先の言葉を封じた。
想定外の深刻な様子に、リュイセンは「おい、待てよ」と、困惑顔で焦る。
「『ヤンイェンは、とても冷静だった』と、ルイフォンは報告してきたぞ? ライシェンの『記憶』に関しては、いろいろ思うところはあるだろうけれど、理性的な態度だった、と。敵対することになるとは思えないんだが……?」
しかし、アイリーは頭を振った。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、たくさんの人が犠牲になった、と聞いたあとで、『それでも、ライシェンを生き返らせたい』なんて、お異母兄様が言えるわけないじゃない。それに、『記憶』と『肉体』の両方を預かっているルイフォンに、敵意を見せるわけないでしょう?」
強い口調で言ってから、彼女は、はっと口元を押さえた。それから、「ごめんなさい」と、身を縮める。
「あ、あのね。ヤンイェンお異母兄様って、もともとは何ごとにも執着しない、何もかも諦めたような人だったの。温厚な人、って言われていたけど、異母妹の私の目には、空っぽの人に見えたわ」
彼女は先天性白皮症の白い手に目線を落とし、ぐっと握りしめた。
「……生まれのせいよ。お異母兄様は〈神の御子〉の誕生を期待されて、表向きは姉弟である、お父様と伯母様の間に生まれた禁忌の子。なのに、黒髪黒目で。――だから、ずっと、〈神の御子〉の異母妹を守ることだけを考えて生きていたの。お異母兄様自身は、何も望まずに」
アイリーは、そこで大きく息を吸った。沈んだ細い声が「でもっ」と、高く跳ね上がる。
「セレイエと出逢って変わったの。やっと、自分のために生きてくれるようになったのよ……!」
庇護者のようなヤンイェンに、アイリーはずっと罪悪感を抱いていたのだろう。そして、ようやく自身の幸せを見つけた彼を心から祝福した。
けれど、穏やかな日々は、長くは続かなかった……。
「お異母兄様にとって、セレイエとライシェンは、やっと見つけた、かけがえのない存在なの。なくしたら、正常な心を保てない。……人を――お父様を殺してしまえるほどに」
「…………」
「ライシェンを失ったとき、お異母兄様の心の一部が欠けてしまったのを感じたわ。その上、セレイエまで亡くしたなら……」
華奢な肩が、儚げに震えた。
リュイセンは思わず腰を浮かせかけ、しかし、身を乗り出して抱き寄せるなど、もってのほかで。だからといって、口下手な彼が、掛けるべき言葉を思いつくわけもなく。――故に、ただ押し黙る。
「……だからね、私には断言できるわ。お異母兄様の本心は、『何を犠牲にしてでも、亡くしたライシェンを取り戻したい』よ」
アイリーは吐き捨て、白金の髪を波打たせながら顔を上げた。澄み渡った青灰色の瞳は、強気な声色とは裏腹に、まるで縋るように弱々しい。
「でもね。お異母兄様は、望んで敵対したいわけじゃないの。だって、ルイフォンは大切な義弟なんだもの。仲良く手を取り合って、蘇ったライシェンに幸せな未来を贈れれば、どんなにいいかと思っているはずよ」
訴えるようにリュイセンを見つめ、けれど、消え入りそうな声で続ける。
「お異母兄様には、敵意も悪意もないの。ただ、『息子を生き返らせたい』という激情に抗えないだけ……」
突き放すような物言いと、寄り添うような面持ち。ひとことごとに揺れる印象は、彼女の気持ちそのものなのだろう。
『ライシェンの代わりはいない』と主張する彼女としては、異母兄の願いを認めるわけにはいかない。けれど、彼女だって異母兄と、いがみ合いたくなどないのだ。
彼女は、わずかに視線を落とし、険しい顔で告げる。
「お異母兄様は今、『ルイフォンたちと敵対しないですむ方法』のために、水面下で動き出していると思うわ」
「そうなのか。……――は?」
アイリーの雰囲気に呑まれ、思わず納得しそうになったリュイセンであるが、よくよく考えると、彼女の言葉は意味不明だ。彼は慌てて、秀眉を寄せて問いただす。
「おい、さっきまでの話と矛盾していないか? ヤンイェンが『記憶』にこだわるのなら、ルイフォンとは相容れないだろう? 敵対しないですむ方法なんて、あるわけが……」
背反である二択に、妥協点はないはずだ。
4.白蓮の花の咲く音色-2

混乱するリュイセンに、アイリーはテーブルに手を付いて立ち上がり、「先に質問させて」と、ぐっと顔を近づけた。
「ルイフォンたちは、どうして、『ライシェン』には記憶を入れないって、決めたの?」
「え?」
「メイシアか、他の誰かが、〈天使〉にならなければいけないから?」
アイリーの問いに、リュイセンは頷きかけ、途中で止めた。
確かにルイフォンは、『セレイエの我儘のために、誰かが〈天使〉になる必要はない』と言っていた。だから、質問の答えは肯定で正しいはずなのだが、アイリーの声色が、迂闊に返事をすることを躊躇わせた。
吐息が掛かりそうなほどの距離で、白金の髪が揺れる。「それとも」と、青灰色の瞳が静かに言葉を重ねる。
「『死者の蘇生』は、禁忌に触れるものだから――?」
リュイセンの喉が、こくりと動いた。
「それは……」
不可思議な圧に呑まれ、しぼりだした低音が、乾いたように掠れる。
意図の分からない質問だった。
しかし、彼女の様子からして、どうやら重要なことであるらしい。ならばと、彼は誠意を持って返答する。
「ルイフォンが誰かを〈天使〉にしたくないのは本当だ。そして、禁忌に触れることを問題にしているかについては、直接的には聞いたことがない。だが、あいつの母親が〈七つの大罪〉の技術を否定する立場だったから、あいつも似たような考えだと思う」
自分自身のことではなく、弟分についてのことである。可能な限り、正確に答えたつもりだが、絶対だという保証はない。
生真面目なリュイセンが、自信なさげに顔を曇らせると、アイリーは、ふわりと笑んだ。
「答えてくれて、ありがとう」
彼女は白金の髪をなびかせ、ソファーに戻って腰を下ろす。
「ほっとしたわ。今まで聞いてきたルイフォンの人柄なら、たぶん、『死者の蘇生は、禁忌』と考えると思っていたけど、絶対の自信はなかったから……。でも、兄貴分のリュイセンが、太鼓判を押してくれるなら安心だわ」
「いったい、なんなんだよ?」
あまりの置いてきぼりに、さすがのリュイセンも眉根を寄せた。
「あっ……、ごめんなさいっ!」
アイリーが、びくりと肩を上げる。そして、小さくなりながら「あのね……」と語り出す。
「四年前の〈七つの大罪〉には、セレイエ以外にも、〈天使〉がいたのよ。今は、どこにいるのか分からないけれど――」
「四年前からの――〈天使〉……!」
「そう。新たに誰かを〈天使〉にするのではなくて、『既に〈天使〉となっている者』を探し出すから、『ライシェン』に記憶を入れることを認めてほしい。――お異母兄様は、そう言い出すんじゃないかと、私は考えているの」
「なるほどな……」
『既に〈天使〉となっている者』とは、盲点だった。
確かに、それならばルイフォンたちと敵対しない。――ルイフォンたちが『誰かを〈天使〉にしたくない』という思いでのみ、動いているのであれば、だが。
「でも、お異母兄様が〈天使〉を連れてきても、ルイフォンたちは、ライシェンを生き返らせたりしないのね……。よかった……」
全身で安堵を示すように、彼女はソファーに、ぐったりと寄りかかる。天井を仰ぎ見ている瞳は、薄く潤んでいるように見えた。
「アイリー……?」
「リュイセン、私ね。ライシェンの『肉体』が既に出来上がっていて、あとは誕生を待つばかり、って聞いたとき、その『肉体』には、絶対に『記憶』を入れないで、って思ったの。……だって、そんなことをしても、『その子』は、『私の知っているライシェン』じゃないもの……」
アイリーは遠くを見つめたまま、まるで独り言つように呟く。
リュイセンは初め、彼の名を呼びながらも、彼女が上を向いたままであるのは、涙をこぼさないためだと思った。けれど、すぐに、それだけではないのだと気づく。
天の国へと、語りかけているのだ。
『蘇生に反対して、ごめんなさい』と。
ライシェンに。
そして、セレイエに。
祈りを捧げるような姿に、リュイセンの胸が、ぐっと詰まる。
「死んだ奴は、生き返らない。死んだ奴の代わりなんか、存在しない。……お前の言うことは『正しい』と、俺も思う」
だから、気に病むな。――そんな気持ちを込める。
「ありがとう……」
緩やかに微笑みながら、アイリーはリュイセンへと顔を向けた。白金の髪の流れと共に、ぽろりと涙がこぼれ落ち、彼女は慌てて、それを拭う。
「うん。あの子の代わりなんて、いないわ。……だから私は、新しい肉体の『ライシェン』のために、記憶を入れることを阻止したいの。これはね、物凄く重要なことなの」
濡れた青灰色の瞳を押さえながらも、アイリーは毅然と言い放つ。その口調の裏側に、『主張したいことがあるから、興味を持った感じに質問してほしい』という思いが隠れて見えた。
彼女の強さと弱さに翻弄されている自分を感じつつ、期待に応えるべくリュイセンは尋ねる。
「新しい肉体の『ライシェン』のため? それは、どういう意味だ?」
「だって、オリジナルのライシェンの人生は、とてもとても短いものだったけれど、辛くて悲しいことばかりだったのよ。そんな記憶を、どうして、これから新しく幸せな人生を始める『ライシェン』が、受け継がなければならないの?」
「!」
虚を衝かれた。
至極、もっともな意見だ。
なのに、今まで誰も、その発想に至らなかったような気がする。
リュイセンは間抜けに口を開けたまま、アイリーの顔を凝視する。
「勿論、ライシェンの記憶の中には、嬉しいことや楽しいこともあったと思うわ。彼は、身近な人たちには、間違いなく愛されていたんだもの。……でも、それよりも多くの害意や殺意が、彼を襲っていたはずなの。そんな恐怖の記憶を刻むなんて、『ライシェン』が可哀想だわ!」
憤りもあらわに彼女は叫び、そこから急に「それにね」と、昏い闇をまとう。
「オリジナルのライシェンは……、……人を殺しているの」
温度を失った声が、冷たく紡がれた。
リュイセンは無言のまま、凪いだ青灰色の瞳をまっすぐに見つめる。
「あまりにも幼すぎて、ライシェンは自分が何をしたのか、分かっていなかったと思う。――でも、その記憶が『ライシェン』に刻まれたら?」
挑発的にも見える仕草で、彼女は小首をかしげる。
「『ライシェン』が大きくなったとき、彼は『人殺しの記憶』を理解してしまう可能性があるわ」
リュイセンは、ごくりと唾を呑み、ゆっくりと頷いた。
その反応に感謝するように、アイリーは目礼を返し、それから、白金の眉をひそめて吐き出す。
「『ライシェン』は、自分が犯してもいない罪を『自分の罪』として、記憶していることになるの。彼自身は何もしていないのに、罪の意識に悩まされることになるのよ。……そんなの、可笑しいでしょう? ライシェンの罪は、『ライシェン』の罪じゃないわ。――オリジナルとクローンは、別人よ!」
刹那。
リュイセンは雷に打たれたように、びくりと身を震わせた。
『私は、『鷹刀ヘイシャオ』とは、違う人間ですよ?』
鷹刀一族特有の低音が、耳の奥に蘇る。
脳裏に、〈蝿〉の白衣姿が浮かび上がった。
『この肉体に勝手に入れられた『記憶』のために、『鷹刀ヘイシャオの罪』は『私の罪』になるのですか?』
『リュイセン。もしも、あなたの肉体に『鷹刀ヘイシャオの記憶』を入れられたら、『あなた』も罪人になる――ということですよ』
『そのとき、あなたは『自分の罪』として受け入れられるのですか?』
菖蒲の館での〈蝿〉捕獲作戦に失敗し、囚われの身となったリュイセンに、〈蝿〉は疑問を投げつけた。
リュイセンを手駒にしようとしていた〈蝿〉は、悪意と嘘にまみれていて、彼を蛇蝎の如く嫌っていたリュイセンは、詭弁を弄しているのだと頭から決めつけた。
けれど。
――あの問いかけは、必死の訴えだったんだ……。
リュイセンの心臓が、ずきりと痛んだ。
〈蝿〉の言葉の中にも、真実は存在していたのだ。
オリジナルの記憶を入れられた、哀れな『作り物の駒』であった彼は、自分自身が何者であるかに迷っていたのだから……。
リュイセンは知れず、胸元に手を当てた。それから低く、噛みしめるように呟く。
「お前の言う通りだ。他人の記憶なんて必要ない。別の人間――なんだからな」
〈蝿〉は、自らが選んだ『最高の終幕』で幕を閉じた。
ならば、もし彼がまだ生きている間に、彼の必死の訴えに気づけたなら――などと、過去を振り返るのは野暮だ。
だから、リュイセンはただ、アイリーに尊敬の眼差しを向ける。想像だけで、ここまで『ライシェン』の未来を思いやれる彼女に。
「リュイセン。私ね、ライシェンに『守ってあげる』と約束したの。なのに、私は、彼を守ってあげることができなかったのよ」
それは、先ほど泣きながら叫んでいた、彼女の後悔だ。同じ言葉を、今度は大切に掻き抱くようにして、彼女は柔らかな声に乗せる。
「私は、ライシェンの『肉体』を守ってあげることができなかった。だから、せめて、『記憶』だけでも守りたいの。あの子の心は、あの子だけのものよ。……他人に渡すなんて、駄目よ」
アイリーの思いが、リュイセンの胸に染み入る。
彼女はただ、感じたままを口にしているだけだ。そんなことは分かっている。
純粋無垢な魂が、無意識のうちに唱えているのだ。
死者の尊厳を守りたい。
そして。
生者の尊厳を守りたい――と。
彼がそこに辿り着くまでには、長い道のりがあったというのに。彼女はごく自然に、そう願うのだ。
「リュイセン、あのね――」
視力の弱い彼女は、黙って聞いているリュイセンの表情が気になるらしい。白い頤を突き出すようにして、ぐっと彼を見上げた。白金の髪のさらさらとした流れが感じられるほどの近さで、青灰色の瞳が彼の顔を映し出す。
「四年前、私は何もできなかったわ。だから、もう後悔をしたくなくて、行動を起こそうと思ったの」
「確か、さっきも、そんなことを言っていたよな……?」
彼女の声色に、どことなく含みを感じ、リュイセンは尻上がりの相槌を打つ。
「うん。でもね、リュイセンと話しているうちに、ほんの少し変えることに決めたの」
「俺と……話しているうちに?」
首をかしげるリュイセンに、アイリーは「そう!」と嬉しそうに声を弾ませた。
「だって、私は、ひとりだけで足掻いているわけじゃないって、分かったから。……ねぇ、私の決意を聞いてくれる?」
質問の形を取ってはいるが、その実、聞いてほしいのだと、彼女のうずうずとした表情が告げている。リュイセンに否やのあろうはずもない。彼は即座に「ああ」と頷く。
「これからは『私が後悔しないため』じゃなくて、『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わることになってしまった『すべての人を幸せにするため』に、私は行動するの。勿論、皆の幸せが、同時に叶うなんて、あり得ないと分かっているわよ。……けど、諦めたくないの――」
無邪気な笑顔が、綺羅の美貌を彩る。
ふわりと、花がほころぶように。
「誰もが、幸せになれる、って……!」
その瞬間――。
リュイセンの耳に、蓮の花が咲くときに鳴り響くという、妙なる音色が聞こえた。
「!?」
幻聴は、ほんの一瞬。
けれど、天上の音楽が、彼の心に漣を立てる。
リュイセンは、白蓮華の化身のような彼女をしばし呆然と見つめた。それから、漆黒の瞳を柔らかに細め、「ああ、そうだな」と優しい低音で頷いた。
5.千波万波の帰り道-1

名残惜しくはあるけれど、いつまでも女王が、鷹刀一族の屋敷で、のんびりしているわけにもいかない。ひとまずの話は終えたことであるし、神殿の『天空の間』に繋がる、秘密の通路の入り口まで、リュイセンが送っていくことになった。
今日、アイリーと交わした会話の内容は、できるだけ早くルイフォンに伝えると、リュイセンは胸を叩いた。また、そのときの弟分の反応は、追って必ず知らせると、固く約束した。
携帯端末の番号を交換したから、いつでも連絡を取れる。――そう告げると、彼女は、白蓮の花がほころぶように、ふわりと笑んだ。
「近いうちに、また逢いたいわ」
声を弾ませるアイリーに、彼女を見送るべく執務室に戻ってきたイーレオが、にやりと口の端を上げる。一方、傍らに立つエルファンの視線は、無表情を装いながらも、うろうろと彷徨っていた。そんな彼らの背後に控えたチャオラウは、いつも通りに無精髭を弄ぶ。
「あ、そうだわ。料理長に、お礼を言ってほしいの。『マカロン、凄く美味しかったです。ご馳走様』って!」
イーレオたちの表情に気づかぬアイリーは、無邪気な笑顔で、ぐぐっとリュイセンの懐に入り込み、「お願いね!」と、可愛らしく念を押した。
アイリーを助手席に乗せ、リュイセンの運転する車は屋敷を発った。
「窓はスモークガラスだから、もう顔を隠さなくていいぞ」
動き出したばかりの車内は、まだ充分な空調が効いておらず、じわりと汗が滲む。彼は申し訳ない気分になりながら、暑苦しそうな彼女に告げた。
執務室を出る際に、彼女には再び、黒づくめになってもらった。
屋敷の廊下の移動中、使用人たちと、すれ違わないとも限らない。そもそも、車庫には見張りやら、お抱え運転手やらがいる。彼らに、〈神の御子〉の姿を晒すわけにはいかなかったのだ。
目深にかぶっていたフードを思い切りよく払い除け、アイリーは、するりとパーカーを脱ぎ捨てた。続けて、ささっと、サングラスも外す。
身軽になった彼女は「ふうっ」と大きく息を吐き、それから、嬉しそうにリュイセンの横顔を見上げた。
「私、ドライブって、初めてなの!」
女王ともあろう者が、今まで車に乗ったことがない――というわけはあるまい。
乗車時、後部座席の扉を開けたリュイセンに、「助手席に座ってもいい?」と、おずおずと尋ねてきたことから察するに、助手席に乗るのが初めて、ということなのだろう。
彼女はフロントガラスからの風景に青灰色の瞳を輝かせ、時々、ちらりと、真横に視線を送る。白金の髪がさらりと流れ、リュイセンの半袖の腕が小さな旋風を受けた。
隣に誰かがいる気配は、勿論、初めてではない。けれど、うきうきと浮かれた空気が新鮮だった。
「いつか、綺麗な景色の中をドライブしてみたいわ」
片耳が、楽しげな声を捉えた。
明るい響きの中に、わずかな憂いが含まれているのを感じ取り、リュイセンの胸が、ずきりと痛む。
彼女は、籠の鳥なのだ。
それでも王女時代は、お忍びでセレイエに連れ出してもらっていたようだが、女王となってからは、ずっと王宮に縛られていたはずだ。
「……今からだと遠くは無理だが、どこか行きたいところはあるか?」
恩着せがましくならないよう、リュイセンは安全運転を装って前を向いたまま、さり気なく問いかけた。
神殿の『天空の間』で、神と語っていることになっている彼女は、半日くらいの外出なら平気なのだと言っていた。ならば、少しくらい寄り道をしてもよいだろう。
生真面目なリュイセンとは思えぬ、柔軟な思考――。
彼女の小さな願いくらい、叶えてやりたいと思ったのだ。何より、彼自身が彼女の喜ぶ顔を見たかったから……。
「えぇっ……! ――いいの……?」
ぽんっ、と。
白蓮の花が咲きほころぶ。
それまで、視線をまっすぐ正面に据えていたリュイセンは、神速で傍らに目を走らせた。夢見るように上気していく綺羅の美貌に、「無論だ」と、胸を張る。
「え、ええとね……、ごめんなさい。希望を訊かれても、私は公務で行った場所しか知らないの。けど、行きたいのはそういうところじゃなくて、……こ、恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポットみたいな感じの……」
だんだんと、しどろもどろになりながら、アイリーは赤面する。
その様子に、リュイセンは納得した。彼女のいう『ドライブ』とは、恋人と仲睦まじく出掛けることを意味するのだ。
アイリーだって、年ごろの少女だ。甘い恋愛に憧れを抱いてもおかしくない。
しかし、『女王』という彼女の立場を考えれば、可哀想だが、一生、経験することのないものだ。
彼女も、それは分かっているのだろう。だから、擬似的なものでもよいからと、リュイセンの助手席を望んだに違いない。
やるせない思いに、リュイセンは眉根を寄せる。浮き立つ彼女の気持ちに水を差さないよう、彼は運転に集中するふりをして、唇を噛んだ渋面を目の前の道路へと向けた。
少し前までならともかく、ミンウェイをシュアンの元へ送り出した今となっては、義理立てするような女性もいない。デートの真似事くらいしてやっても罰は当たらないだろう。
リュイセンは、彼女を楽しませるべく頭をひねった。
「人が少なくて、景色の良い場所なら、山……だな」
彼女の普段の生活を考えると、街の喧騒から離れた、自然の溢れる場所がよいだろう。そして、紫外線に弱い彼女を下準備もなく連れて行くのなら、海よりも山。そんな発想だった。
「ああ、そうだ! 王都の水源になっている人造湖がある。山間の川をダムで堰き止めたもので、豊かな緑に囲まれている。近場だから、絶景の大自然というわけにはいかないけど、浮き橋が架かっていたりして、ちょっと面白いぞ。前に行ったことがあるんだ」
「行ってみたいわ!」
アイリーは即座に喰いついた。リュイセンの視界の端で、ぱっと顔を輝かせたかと思ったら、ぐぐっと近くに寄ってくる。運転中でなければ、彼の腕に、しがみついて喜びを表したことだろう。
「じゃあ、決まりだな」
心が弾むのを感じながら、リュイセンは行き先を変えようと、ハンドルを切った。
そして、車線を移動した、その瞬間――。
「?」
バックミラーに違和感を覚えた。
短く息を呑んだリュイセンに、アイリーが「どうしたの?」と尋ねる。
「あ……、いや……」
気のせいだろうか。
斜め後方――元の車線で真後ろを走っていた車から、視線を感じたのだ。
「…………」
リュイセンの直感が、警鐘を鳴らし始める。
刹那。
力強いアクセル音と共に、件の車が急加速してきた。横並びになったかと思ったら、あっという間に追い抜かれ、前方から、するりと、こちらの車線に入ってくる。
「!?」
いったい、なんだ? と、リュイセンが疑問に思う間もなく、その更に後続の車――リュイセンが元の車線にいたときに、二台後ろを走っていた車が、後方で静かに車線を変更した。
まるで、リュイセンの背後を取るように。
――挟まれた!
「アイリー!」
リュイセンは戦慄する。
「何者かに、狙われている」
「えっ!?」
鷹刀一族の屋敷の周りには、不審な車などなかった。
では、いつから付けられていたのだろうか?
いや、それよりも、相手の正体と目的は――?
リュイセンの頭は、混乱に陥る。
しかし、理屈ではなく、天性の勘で状況を判断する彼は、今やるべきことを間違えない。野生の本能が、彼の手足を冷静に動かす。
「少し先に信号がある。そこで、こいつらを撒く!」
「分かったわ!」
「シートベルトをしっかり締めてくれ。手荒になるけど、許せよ!」
リュイセンの車は、うなりを上げて加速を始めた。前の車を煽るように、派手にクラクションを鳴らす。
相手は不穏な輩だ。この程度で動じることはないだろう。
それで構わない。リュイセンの目的は、目の前に割り込んできた車の挑発に乗り、噛みついてきたと思わせて、相手を油断させることなのだから。
付かず離れずの走行を続け、遠くに信号が見えてきたところで、リュイセンは微妙にスピードを調整した。
後ろの車を振り切るべく、赤信号となるタイミングを見計らって交差点に入る。直進する前の車を追いかけていると見せかけて……。
横道へと折れる――!
「……っ!」
引きつった顔で、アイリーが悲鳴を押し殺した。
全身でタイヤの軋みを感じ、遠心力に振り回されながらも騒ぎ立てないのは、きちんと状況を理解しているからだ。
そんな彼女に感謝しつつ、リュイセンは叫ぶ。
「すまん、飛ばすぞ!」
むやみに声を出したら舌を噛むと、心得ているのだろう。彼女は白金の髪をなびかせ、大きく頷く。緊張の色を帯びながらも、青灰色の瞳は、好戦的にきらきらと輝いていた。
リュイセンは思い切り、アクセルを踏んだ。
ウィンカーも出さずに急カーブをした無法者に、抗議のクラクションが注がれる。本来は生真面目な性格であるリュイセンは、心の中で平身低頭する。
幸いにも、さほど交通量の多くない場所と時間だった。彼の運転する車は、華麗なハンドルさばきで周りの車両をするすると避け、神速でその場を離れていった。
5.千波万波の帰り道-2

「怖がらせて悪かったな」
追跡を警戒し、リュイセンは、しばらく人気のない道を選んで車を飛ばしていたが、そろそろ良いだろうとスピードを落とした。
「ううん。――リュイセンこそ、大変だったでしょう? どうもありがとう!」
アイリーは、ぐるっと半身を真横に向けた。しっかりと締められたシートベルトが、ぐいっと伸ばされ、天真爛漫な笑顔がリュイセンの視界に入り込んでくる。
軽やかな声は、心からの感謝で満たされており、怖い思いをしたにも関わらず、どこか楽しげでもあった。うまく逃げ切れたことで、いたずらに成功した子供のように、高揚した気分になっているのかもしれない。
きらきらと輝く無垢な瞳に惹き込まれそうになり、リュイセンは慌てて運転に集中した。
「いったい、何者だったんだろうな」
気持ちを引き締め、リュイセンは呟く。
謎の敵が現れたからには、人造湖に行くのは諦めるべきだろう。一刻も早く、アイリーを神殿に送り届けるべきだ。
彼女が落胆する顔は、見たくない。……だが、仕方ないのだ。
リュイセンは、苦々しげに顔をしかめた。胸の中に、もやもやと不快感が漂う。
一方、彼の内心を知らぬアイリーは、ふうっと大きな溜め息をついた。
「『女王様』をやっていると、時々、襲撃者に遭うよのよね」
「そうなのか……?」
あっさりと告げられた事実に、リュイセンは愕然とした。アイリーは、好きで女王をやっているわけではない。狙われるのは不本意のはずだ。
「もともと刺客は、たまに来たけれど、私の婚約が発表されてから、特に頻繁になったわ。唯一の〈神の御子〉となった私に何かあれば、王家は自然に途絶える。だけど、私が結婚して〈神の御子〉が生まれたら……って、焦り始めたんでしょうね」
強い口調とは裏腹に、華奢な肩は儚げで。リュイセンは理不尽を覚える。
彼女の持つ『王』という肩書きほど強力ではないが、彼だって『鷹刀一族の次期総帥』の座にある以上、危険に晒されることはある。だが、彼は、自ら望んで『最後の総帥』になると決めたのだ。事情が違うだろう。
そこまで考えて、リュイセンは、はっと気づいた。
先ほどの不穏な輩たちは、女王がこの車に乗っていることを、どうして知り得たのか。
……狙われていたのは、本当に女王だったのか。
彼女が鷹刀一族の屋敷を訪れたときには、門の周りに不審な人物はいなかった。そして、屋敷を発つときには、敷地内の車庫から車に乗り込んだので、彼女の姿が見られることはなかったはずだ。
「すまん。襲撃者は俺のほうの客だったかもしれない」
「そうなの……?」
アイリーが、きょとんと首をかしげる。
奴らの目的が、猛者と名高い『鷹刀一族の次期総帥』なら、二度目の襲撃の可能性は低い。警戒している彼を襲っても、勝ち目がないからだ。――などという屁理屈が、リュイセンの頭に浮かぶ。
……自分は、どんな理由をつけてでも、彼女を人造湖まで連れて行ってあげたいのだ。
そう自覚して、リュイセンは車を道端に停めた。
「リュイセン?」
「襲撃に遭ったことを鷹刀に連絡して、万一のときの援護を頼む」
余計な寄り道はすべきではないと、百も承知だ。それでも行くからには、保険くらいは掛けておく。
リュイセンは懐から携帯端末を取り出した。
音声通話は傍受されやすい。なるべく避けるようにと、ルイフォンに言われている。その代わり、リュイセンの端末からのメッセージは、弟分の細工によって自動的に暗号化され、安心な通信となるのだ。
教えられた通りにメッセージ機能で屋敷と連絡を取り、リュイセンは再びハンドルを握る。あとは、こちらが動き回っても、携帯端末の位置情報で見つけてくれるはずだ。
「それじゃあ、人造湖に行くぞ!」
「リュイセン!? いいの!?」
信じられない、とばかりに、青灰色の瞳が大きく見開かれる。どうやら、ドライブは中止になったと考えていたようだ。
幼さを感じる無邪気な言動をするくせに、彼女は時々、妙に物分りがよい。……諦めることに慣れているのだ。
「約束しただろう? 綺麗な景色の中をドライブする、って」
リュイセンが魅惑の低音を響かせると、「ありがとう」と白蓮の花が咲きほころんだ。
しかし――。
人造湖のある山が見えてきたあたりで、一台の車が停まっていた。
タイヤが側溝に落ちたらしく、男がひとり、車外に降りて、手で持ち上げようと四苦八苦している。けれど、力が足りないらしく、如何にも困っている様子が見て取れた。
誰か手伝ってほしいと、男の背中が訴えている。けれど、『穴場の絶景スポット』の近くであるためか、リュイセンたち以外の車は見当たらない。
リュイセンの直感が告げる。
敵だ――と。
先ほどの輩とは別の車だ。だが、奴らの一味だと確信した。
リュイセンの車を挟み込んだ二台は、よく連携の取れた、組織立った動きをしていた。ならば、他にも仲間がいたとしてもおかしくないのだ。
道幅は広くはないが、すれ違えないほど狭くはない。無視して通り抜けるのが正解だろう。
傍らを見れば、アイリーが緊張の面持ちをしていた。彼女もまた、あの車を不審に思っているのだ。
このタイミングでトラブルに遭遇するとは、あまりにもできすぎている。
……まるで、先回りをされていたかのようだ。
「アイリー、このまま行くぞ」
「うん、分かっているわ」
ふたりが短く言葉を交わしたときだった。
車を持ち上げようとしていた男が、大きく手を振りながらリュイセンの車線上に現れ、行く手を塞いだ。
「おおい、すまん。手伝ってくれ!」
「!」
まさか轢き殺すわけにもいくまい。リュイセンは慌てて急ブレーキをかける。
アスファルトとタイヤが激しい金切り声を上げ、リュイセンの車は止まった。――停止してしまった。
リュイセンの全身から、冷や汗が流れ落ちる。
だが、止まるしかなかった。他の選択肢はなかった。
「タイヤが落ちて困っている。すまん、手を貸してくれ!」
男が近づいてきて、がなり声を上げる。
「悪いが、先を急いでいるんだ」
早まる鼓動を押さえ、リュイセンは苛立ちの演技で答えた。
「そう言わずに、ちょっと降りてきてくれよ」
「こちらには、こちらの都合がある」
喰い下がる男を、リュイセンは突っぱねる。
車を降りれば、相手が攻撃してくるのは必至だ。彼ひとりであれば、どうにでも対処できる。しかし、すぐそばには、アイリーがいるのだ。
「そうか。では仕方ない。強硬手段を取らせてもらおう」
スモークガラス越しに見える男は、これといった特徴のない、平凡な顔と中肉中背の持ち主だった。しかし、雰囲気から、明らかに一般人ではない。
その証拠に、眉ひとつ動かさず、無造作に懐から取り出したものは……。
――拳銃!?
リュイセンは息を呑んだ。
凶賊とは、己の肉体で戦うものだ。『鷹刀一族の次期総帥』の命を取るのに銃などを使えば、栄誉どころか恥さらしだ。
つまり、相手は他家の凶賊ではなく、女王を狙った刺客――!
その刹那。
銃声が、鳴り響く――!
「――!」
リュイセンは、アイリーに覆いかぶさるようにして頭を伏せた。
この車は、凶賊である鷹刀一族の所有物だ。窓は防弾ガラスになっている。多少のことで傷つくことはない。
案の定、リュイセンも、アイリーも無事である。
……しかし。
異変は、座席の下で起こっていた。足元に違和感を覚え、彼は気づく。
「っ! やられた!」
男の放った弾丸は、タイヤを撃ち抜いたのだ。車を無効化し、リュイセンたちが外に降りざるを得なくするために――。
5.千波万波の帰り道-3

不審な男の弾丸が、リュイセンの車のタイヤを貫通した。
目視で確認しなくとも、音と振動から、空気の抜けていく事実が伝わってくる。
車の外では、タイヤを撃った男が身振り手振りで、どこかに合図を送っている様子だった。やがて、少し離れたところから、バタンという扉の開閉音が聞こえてくる。複数の人間の気配が近づいてきたことから察するに、脱輪したあの車に仲間が隠れていたらしい。
神経を張り巡らせ、リュイセンは敵の人数を数える。
――二、三……、……合わせて四人か。
一騎当千の猛者である彼にとって、決して多い数ではない。しかし、アイリーを守りながらである上に、相手は銃を扱う。刀を主とした、肉体を頼みにする凶賊とは勝手が違う。……こんなときにも、凶賊は時代遅れなのだと痛感する。
「アイリー」
銃撃から守るために覆いかぶさった姿勢のまま、リュイセンは彼女の耳元で囁いた。
「すまん。銃を持ち出してきた以上、奴らの狙いは鷹刀一族次期総帥ではなく、大華王国女王のほうだ」
アイリーの肩が、びくりと動いた。白金の髪が波打つ様を、リュイセンは切なげに見つめ、それから努めて事務的に告げる。
「この車は捨てる。外にいる奴らを倒して、奴らの車を奪う。脱輪したタイヤを上げるのは手間だが、この車をスペアタイヤに替えるよりは早いだろう。片が付くまで、お前は身を伏せていてくれ」
「リュイセン……」
「安心しろ。必ず守る」
軽く口の端を上げた笑みを最後に、リュイセンの顔から表情が消えた。彫像の美貌を閃かせ、彼は感覚を研ぎ澄ませる。
一対四だ。
先ほど、鷹刀一族の屋敷に連絡を入れたときに、万一のときの援護は要請してある。しかし、まだ、この場に到着していない。
だから、この身ひとつで切り抜ける。
リュイセンは体を起こし、素早く携帯端末を操作して、執務室の電話をワンコールだけ鳴らした。これで、鷹刀一族に非常事態が伝わる。予定外の行動を起こすことへの断りだ。
彼は、足元に横たえておいた双刀を手にする。頼もしい愛刀であるが、今日ばかりは役に立ってほしくなかったと思う。
臨戦態勢を整えるリュイセンに、アイリーが声を上げた。
「待って、リュイセン。どうして敵は、わざわざ、この車を止めてからタイヤを撃ったの?」
「え?」
硬い顔でありながらも、意外なほどに、しっかりとした口調だった。銃声に驚き、脅えているものとばかり思っていたリュイセンは、強気な青灰色の瞳に虚を衝かれる。
「リュイセンが車を止めなかったら、あの男は轢き殺されてしまったかもしれないのよ? それよりも、この車の走行中に、問答無用でタイヤを撃てばよかったんじゃない?」
「っ!? ――確かにそうだ……」
息を呑んだ彼に、彼女は言葉を重ねる。
「私は前に、乗っている車のタイヤを撃たれたことがあるわ。私を亡き者にしたい敵は、本当に容赦なく撃ってくるの」
「なっ……!?」
リュイセンは知れず唇を噛み、アイリーを凝視した。
彼の住む世界が、平穏だとは言わない。
けれど、彼女の世界は、きらびやかでありながらも、もっと……。
車体を隔てたすぐ外側に敵がいるにも関わらず、リュイセンは危うく思考を飛ばしそうになった。それを引き止めたのは、他ならぬ、彼をこの状況に陥らせたアイリーの言葉であった。
「――だからね。この状況からすると、敵の目的は、私を『殺す』ことじゃなくて、『捕まえる』ことだと思うの。それなら、ここはおとなしく私が車を降りるわ」
「お前、何を言って!?」
「だって、リュイセンに危険なことをしてほしくないんだもの! 敵の目的が私なら、邪魔なリュイセンは、車から降りようとした瞬間に射殺でしょう!?」
「――っ」
リュイセンは声を詰まらせた。
確かに、銃を持った複数の敵を相手に、リュイセンがひとりで対峙する策は無謀だったかもしれない。しかし、アイリーを危険に晒すのは、もってのほかだ。
ならば、こちらに向かっている部下たちが到着するまで、この車の中で籠城するのが正解だろう。
誇り高き凶賊としては、こんな屈辱的な追い詰められ方をされたなら、打って出るのが正道であるが、彼女の安全のためになら、そこを曲げることも吝かでない。
そんな思案をする彼の横で、かちりと小さな音が鳴る。
はっと、視線を移せば、アイリーがシートベルトを外していた。
「初めてのドライブ、とても楽しかったわ。我儘をきいてくれて、凄く嬉しかったの!」
彼女は、強がりの笑顔をぐっと近づけた。リュイセンの耳元に「ありがとう」という言葉を残し、ぱっと身を翻す。
白金の髪が、リュイセンの鼻先をかすめる。
耳朶に残る感触は、湿り気を帯びた吐息によるものか、それとも、潤いに満ちた唇か――。
「待て! 早まるな!」
重すぎる荷を背負った華奢な双肩に、リュイセンは神速で手を伸ばした。
「きゃぁっ」
力強く掴まれた衝撃に、アイリーが高い声を上げる。
悲鳴ですら、まるで、天界の琴を弾いたかのように美しい。――その響きが与える印象そのものの、細く儚げな肢体を、彼は胸元に引き寄せる。
「馬鹿な真似をするな! 俺が『守る』と言ったからには、必ず守る。俺は、口にしたことを決して違えない!」
「リュイセン……、で、でも……」
腕の中で、アイリーがぼそぼそと呟いた。先天性白皮症の白い肌が、さぁっと朱に染まっていく。
実のところ……。
扉は施錠されているため、彼女が車外に飛び出すことは不可能であった。けれど、そんな事実はリュイセンの頭からすっかり抜け落ち、彼の体は無意識に動いていた。
リュイセンは身内には篤いが、縁のない者――特に上流階級の人間に対しては、冷淡な一面を持っている。貴族だったメイシアが舞い込んできた当初などが、よい例だ。しかし、この国の頂点に座する女王は、いつの間にか、彼の懐深くに入り込んでいたようだった。
ふと、そのとき――。
車外から、男たちのざわめきが聞こえてきた。
「陛下の悲鳴が聞こえたぞ!?」
「ただちに、お助けせねば……!」
色めきだつ空気に、アイリーが、はっと顔色を変えた。リュイセンの腕から飛び出し、車窓に張り付くようにして尋ねる。
「あなたたち、ひょっとして近衛隊!?」
彼女の言葉に、リュイセンは目を見開いた。しかし、驚いたのは彼だけではなかった。
「陛下!?」
「ご無事で!?」
「拘束されてらっしゃらないのですか!?」
口々に上がる、男たちの困惑と安堵の声。
いくらスモークガラスの窓とはいえ、安全運転のために、ある程度の透過率は確保してある。そのため、すぐそばにまで近づいたアイリーの姿を視認できたらしい。
「ちょ、ちょっと!? なんで、私が拘束されなければならないのよ!?」
「『陛下が賊に拉致された』と、摂政殿下が……」
「お兄様が!?」
「は、はい。『速やかに、陛下をお救いせよ。また、賊は必ず捕らえ、我がもとに連れてくるように』との命でございま……」
「何を言っているのよ! 私は拉致されてなんかいないわ! お忍びで出掛けただけよ!」
近衛隊員の言葉を遮り、アイリーは白金の眉を逆立てる。堂々と『お忍び』を口にするのは如何なものかと思うが、見つかってしまったのであれば開き直るのも一案といえよう。
リュイセンがそう思った矢先、扉の向こうから、近衛隊員たちの囁き交わす声が届いた。
「摂政殿下が危惧されていた通りだ」
「『お忍び』という言葉で、誘い出されたに違いないと」
「やはり、陛下は騙されてらっしゃった」
声量を抑えているつもりのようであるが、感覚に優れたリュイセンの耳は、しかと捉えた。妹が言いそうなことなど、お見通し――といった兄の態度に、彼は渋面を作る。
一方、アイリーは青灰色の瞳を尖らせ、近衛隊員たちに問いかける。
「それより、何故、私が乗っている車を襲ったの!?」
「『襲う』など、滅相もございません! 手荒であったことには申し開きをいたしませんが、これも陛下の御身のためで……」
「どこが私のためよ!?」
間髪を容れずに、アイリーが噛みつく。綺羅の美貌が、憤怒に震える。だが、近衛隊も負けじと答えた。
「賊は、我々、近衛隊に追われていると気づけば、陛下に危害を及ぼすことでしょう。なれば、我々は身分を悟られるわけにはまいりません。賊が鷹刀一族の者であることは、摂政殿下から聞き及んでおりますので、血気盛んな凶賊なら、目の前に無頼漢が現れれば、必ずや挑発に乗って自ら車を降りてくるだろう、と愚考いたしました」
……なるほど。
女王とは無関係の抗争が起きたと思わせて車から下ろそう、という魂胆だったらしい。それで近衛隊の制服ではなく、私服を着ているのだろう。
凶賊とは、すなわち凶悪なものであるという判で押したような偏見に、リュイセンは不快げに眉を寄せる。他家の凶賊ならいざ知らず、鷹刀一族は高潔であることを誇りとしているのだ。
だいたい、近衛隊が主君を怖がらせるような策を採るべきではないだろう。万が一にも女王が怪我をしたら、どうするつもりだったのだろうか。
「……ん?」
リュイセンの野生の勘が警鐘を鳴らした。
摂政は何故、『賊』が『鷹刀一族の者』だと知っていた?
5.千波万波の帰り道-4

摂政は何故、『賊』が『鷹刀一族の者』だと知っていた?
「何故だ……?」
リュイセンは小声で独り言ち、真理を見抜くべく、神経を研ぎ澄ませる。
そもそも――。
どうして、神殿にいるはずのアイリーが外に出ていると、摂政にバレた?
どうやって、近衛隊は、動き回るアイリーの居場所を正確に知ることができた?
リュイセンの脳裏に、次々と疑問が浮かび上がる。
そのとき、彼のポケットの中で携帯端末が振動した。
確認すると、『あと少しで、援護のための部下たちが到着します』というメッセージが入っていた。先ほどの非常事態を知らせるワンコールで急いでくれたらしく、『リュイセン様の端末の位置情報からすると、飛ばせば、ものの数分で着きます』と。
その文面を目にした瞬間、リュイセンは悟った。
――そういうことか!
舌打ちと共に、飛び出しそうになった罵声を意志の力で呑み込む。外にいる近衛隊員たちを無駄に刺激するのは、得策ではないからだ。……それでも、噛み締めた奥歯の隙間から、小さな呻きが漏れる。
「アイリーの携帯端末……! 迂闊だった……!」
ぞくりと響いた魅惑の低音に、アイリーが「え?」と、緊張の面持ちで振り返る。彼女は素早く近衛隊員たちとの会話から頭を切り替え、近すぎる距離感でリュイセンの顔を覗き込んだ。
「何があったの?」
「お前の携帯端末が、摂政に位置情報を送り続けていたんだ」
気づいてしまえば、実に単純な絡繰りだ。
リュイセンの端末が、部下たちに現在地を指し示すように、アイリーの端末が、彼女の足跡を王宮に伝えていただけ。彼女の端末情報が、庇護者である摂政に筒抜けである可能性を考慮しなかったリュイセンの失態だ。
「――っ!」
アイリーは血相を変えて、自分の端末を取り出した。位置情報の設定を無効にし、それだけでは安心できなかったのか、電源を落とす。
けれど、今更どうしようもない。端末を握りしめ、「お兄様、酷いわ!」と声を震わせる彼女に、リュイセンは怒りと苛立ちを押し殺した声で告げる。
「アイリー。非常に、まずい事態だ。――摂政に、してやられた」
リュイセンは、決して頭の回転が速いほうではない。けれど、天性の直感で、一足飛びに真理にまで辿り着く。
理屈ではない。肌が粟立つような感覚から、彼は摂政の思惑を理解した。
「鷹刀は、摂政に嵌められた」
「お兄様に嵌められた!? ――どういうことよ!?」
「いいか? 決して、お前のせいじゃないぞ?」
詰め寄るアイリーに、リュイセンは前置きをした。きょとんと首をかしげる彼女に、彼は苦い思いで言を継ぐ。
「『女王が、鷹刀の人間と一緒にいる』という状況を、摂政にうまく利用された。摂政は、『鷹刀は女王を拉致した。王家に叛意あり』として、一族を潰すつもりだ。『必ず賊を捕らえて、連れてこい』というのは、鷹刀が拉致犯だという証拠にするためだ」
「な……、何ですって――!? ……っ、ごめんなさい! 私が鷹刀のお屋敷に乗り込んでいったから……!」
「だから、お前を責めているわけじゃねぇ! ……ただ、お前の脱走が、摂政に、いい口実を与えてしまった、ってだけだ」
摂政がいつ、アイリーの脱走に気づいたのかは分からない。けれど、目的地が鷹刀一族の屋敷だと知り、すぐには連れ戻さずに泳がせたのだ。
何故なら、摂政は、鷹刀にセレイエが匿われていると信じているから。仲の良かったアイリーなら、無下に扱われることはないと踏んだ。
それどころか、アイリーなら、摂政が喉から手が出るほど欲しがっている『ライシェン』の情報を得られると考えたのだろう。あとで妹を問い詰め、聞き出すという算段を立てたに違いない。
事実、既にセレイエが亡くなっていることを除けば、その通りとなったのだから、摂政の読みは正しかったといえる。
リュイセンが屋敷の周りに異変を感じなかったのは、気配に敏い凶賊に感づかれることを恐れ、摂政が近衛隊を配置しなかったため。もとより、監視の役目なら携帯端末が担っている。
摂政が攻勢に転じるのは、アイリーが帰る段になってからでよいのだ。
賓客として丁重にもてなされたアイリーは、必ず鷹刀一族の誰かが――それも、かなりの地位にある者が送っていく。そのときになって初めて近衛隊を出動させ、鷹刀の者を『女王拉致』の現行犯で捕らえればよいだけだ。
「今ここで、俺が近衛隊に捕まれば、女王の拉致犯だと決めつけられる。――王族の弁は絶対だからな。摂政がそう言えば、それが事実になる」
「ちょっと、待ってよ! 私だって王族だわ。私がリュイセンを弁護すれば、誤解は解けるはずよ! 何より、私は『拉致』された本人だもの!」
「いや、駄目だ。近衛隊員たちは、『陛下は『お忍び』という言葉に騙されて、誘い出された』という摂政の弁を信じている。おそらく、どこにいっても、お前より摂政の発言が優先されるだろう」
「――っ! その通りかも……」
アイリーが唇を噛んで押し黙る。
このままでは、父エルファンが危険を押して王宮に赴き、苦労して取り付けた、摂政との『互いに不干渉』の約束も反故になる。
何故なら、摂政は別れ際に、こう言ったのだから。
『鷹刀もまた、くれぐれも王家に手を出すことのなきよう、切に願います』
女王を拉致したとなれば、鷹刀一族のほうから約束を破ったことになる。――そういう理屈を展開できるようにと、摂政は企んだのだ。
「アイリー、心配するな。やるべきことは分かっている。――俺が近衛隊に捕まらずに、この場を脱すればいいだけだ。逃げ切りさえすれば、『鷹刀が拉致した、という証拠はない』と言って、突っぱねられるはずだ」
「そんな……っ、無茶苦茶だわ! 多勢に無勢なのよ! リュイセンが頼んだっていう、鷹刀からの援護の人たちも、まだ到着してないし……」
「俺の部下たちなら、すぐそこまで来ている。さっき連絡があった」
「え? あっ、なら……」
アイリーの表情が、少しだけ緩んだ。しかし、次の瞬間には、驚愕に染め上げられる。
「けど。あいつらには、ここには来るなと、これから指示を入れる」
「ええっ!? どうしてよ!?」
思わずといった体で、アイリーはリュイセンのシャツを掴み寄せる。まるで、彼を締め上げるような動作でありながら、小刻みに震える白い手は、彼を離してはなるものかと、しがみついているようでもあった。
「確かに、部下たちの援護があれば、近衛隊を蹴散らすことは可能だ。――けど、それは、どう考えても賢い判断じゃねぇ。凶賊が大挙して押し寄せれば、それだけで、鷹刀が組織的に『女王拉致』を計画していた動かぬ証拠だと、摂政は主張するだろう」
リュイセンを含め、部下たち全員が無事に逃げおおせれば、あるいは証拠不充分となるかもしれない。だが、ひとりでも逮捕者が出れば、鷹刀一族は確実に窮地に陥る。
何より、リュイセンは次期総帥として、部下たちを戦わせる相手は、他家の凶賊のみと決めている。部下たちは、リュイセンが守るべき大切な一族であり、リュイセンの手足となる駒ではないのだ。ましてや、銃を持った近衛隊員との戦闘など、もってのほかだ。
「でも、でも……っ! じゃあ、どうやって、リュイセンは逃げ切るつもりなのよ!?」
「近衛隊に出されている命令は、拉致犯を『殺せ』じゃなくて、『捕らえて、連れてこい』だ。それなら、勝機はある」
いきなり心臓に銃口を向けられるのでないのなら、初めに思いついた通り、四人の敵を倒し、脱輪した車を奪って脱出できる。
不可能ではないはずだ。
アイリーを人造湖まで連れて行くのを諦め、ここで彼女と別れてよいのであれば。
相手は拳銃を持った四人の近衛隊員。刀を頼みとする凶賊とは勝手が違う。心臓を狙われなくとも、無傷では済むまい。
負傷した身で、アイリーと出掛けるのは無理だ。早急に手当てが必要。……そのくらいの深手は、覚悟すべきだろう。
アイリーが帰るための車は、彼女の携帯端末で呼べる。できることなら、迎えが来るまで隠れて見守っていたいところだが、見つかると厄介で……。
「…………」
部下たちと連絡を取るべく、リュイセンは無言で携帯端末を繰る。
不意に。
リュイセンのシャツを握りしめたままであったアイリーが、勢いよく彼を見上げた。白金の髪がリュイセンの顎先をかすめ、青灰色の瞳が強気に煌めく。
「リュイセン! リュイセンが拉致犯だっていうのなら、私は『拉致犯を逃がす共犯者』になるわ!」
魅入られるような爛漫な笑顔と共に、幻の妙なる音色が鳴り響いた。
6.天と地の共謀-1

女王を拉致した凶賊の車の扉が開いたとき、四人の近衛隊員たちは一斉に銃を構えた。
しかし、車から降りてくる黒いタイツの足と、それに続く、漣のように流れる淡い青色のスカートの裾が見えた途端、彼らは身動きを取れなくなった。
『卑劣な賊は、女王陛下を人質にして、この場から逃走を謀ろうとしている』
誰もが、そう確信した。
扉を挟んで見えない向こう側、これからゆっくりと姿を現すのであろう賊への怒りに震える。
近衛隊員たちの脳裏には、女王の喉元に刃物を突きつけた賊の姿が浮かんでいた。彼女を盾に、近衛隊の銃口から身を守ろうとする外道な魂胆だ。
凶漢に後ろ抱きにされた女王は、綺羅の美貌を引きつらせ、脅えきった青灰色の瞳で縋るように助けを求めているに違いない……。
「陛下ぁっ!」
緊張に耐えきれなくなった隊員のひとりが、思わず声を上げた。女王に呼びかけたところで何が変わるわけでもないのだが、叫ばずにはいられなかったのだ。
――と。
そのとき。
「ちょっと、あなたたち! 私の言うことを無視するのも、大概になさい!」
扉の裏側から、ひょこりと小柄な影が現れた。
無機質な道路に響く声は、明らかに憤りの語調であるのだが、天界の琴を爪弾くような音色は、思わず聞き惚れてしまいそうなほどに美しい。
「陛下!?」
「私はお忍びに出掛けたのよ! それを拉致だなんて! 護衛を頼んだ、この者に失礼でしょう!」
大華王国における、唯一無二の白金の髪をなびかせ、女王アイリーは華奢な肩を怒らせる。仁王立ちとなった彼女は、ぐいと顎を上げ、頭ふたつ分以上大きな近衛隊員たちを睥睨する。
黒塗りの車から飛び出してきた麗姿は、まるで、そこだけ色彩を得たかのような鮮やかさで――。
しかし……。
いくら傲然とした物言いをしたところで、可愛らしすぎる十五歳の少女には、残念ながら威厳の欠片もなかった。
「……」
女王の無事を確認した近衛隊員たちは、ひとまず胸を撫で下ろした。
どうやら賊は、『お忍び』だと完全に信じ切っている女王を利用するつもりらしい。彼女に近衛隊を説き伏せさせ、この場を切り抜けることにしたのだ。女王の我儘なら、近衛隊も聞かざるをえないと思っているのだろう。
しかし、そうは問屋が卸さない。
生憎だが、近衛隊は女王の命で動くとは限らないのだ。確かに、王直属の組織であることは事実だが、年若く、判断力に乏しい女王の指示を仰いでいては、この国が迷走してしまう。故に、事実上の国の指導者である、摂政の言葉に従うことこそが、彼らの務めというわけだ。
無論、近衛隊たるもの、女王には並ならぬ敬愛の情を捧げている。
王の権威が損なわれるからと、公式な場では決して見せることのない天真爛漫な笑顔も、そばに控える彼らには、日々の和み。無邪気な言動に癒やされることも、しばしば。彼らは慈しみの心でもって、幼い女王を見守っている。
なればこそ、純粋無垢な女王を騙す凶賊は許すまじと、怒りが募った。
近衛隊員たちは、車の中に隠れている賊を警戒しつつ、臣下の礼を取るべく片膝を付く。心の中で女王に対し、『頼みますから、こちらに向かってあと一歩、近づいてください。さすれば、御身を保護し、賊を捕獲すべく動くことができるのです!』と、切に願いながら。
「お言葉ですが陛下。護衛ならば、我ら近衛隊がおります。我らに命じるのが、王の採るべき道でございます」
「あなたたちじゃ、私の行きたい場所には連れて行ってくれないでしょう? だから、この者を雇ったのよ」
女王は身を翻し、半開きになったままの扉を覗き込む。そして、白い指先を伸ばし、細い腕を絡めるようにして、中にいた人物を車外に降ろした。
現れた男を目にした瞬間、近衛隊員たちは、天と地を描いた絵画を前にしているのかと錯覚した。
白金に輝く女王と、その傍らに立つ漆黒の影。華奢な女王に対し、立派な体躯の男は、あたかも彼女に付き添い、守るために在るかのように感じられた。
そして、何より。
女王の隣に並んでも引けをとらないほどの黄金比の美貌。逞しさを備えた、精悍な面差しに目を奪われる。
この男は女王の対極にありながら、双対だ。
対を成すとは、このようなことをいうのだと思わざるを得ない……。
「陛下、その者は……?」
近衛隊員のひとりが無意識に口走り、途中で、自分は何を尋ねているのだと、自らの頬を叩いて叱咤した。だが、他の隊員の様子も大差なく、皆、ぽかんと口を開けている。
この男の身元なら、初めから分かっているのだ。『賊は、鷹刀一族である』と、摂政が断言したのだから。
鷹刀といえば、代々、近親婚を繰り返し、血族は等しく魔性の美を誇るという、謎めいた一族だ。
なるほど。確かに、この男は鷹刀一族の者で間違いないだろう。摂政の言葉は、まったくもって正しい――。
近衛隊員たちは、深く得心すると同時に摂政の顔を思い出し、はっと現実に戻った。
彼らは、賊を捕まえ、摂政のもとに連れていくようにと命じられているのだ。
慌てて、頭の中を賊の捕獲へと切り替え、状況を見極める。
車の中には複数人の凶賊が詰めているものと考えていたのだが、どうやら、この男以外、他に誰かいるような気配はない。つまり、今まで女王は、この男と車内でふたりきりだったのだ。……まるで、逢瀬のように。
女王の態度を見れば、この男を気に入っていることは、疑いようもない。男を捕まえようとすれば、彼女は激しく抗議するだろう。
実に厄介な事態といえた。
近衛隊員たちの胸に、殺意が芽生える。
異性に免疫のない、無垢な陛下の御心に付け入るとは……!
一瞬とはいえ、女王と男が『お似合い』などと思ってしまったことは記憶の彼方に封じ、近衛隊員たちは、国の至宝たる女王を穢されたとばかりに、憤怒に顔を染める。そんな彼らの気持ちを汲んだように、夏の陽射しが、ぎらりと揺らめく。
タイヤを撃ち抜かれた車の脇で、寄り添うように佇む、女王と男。
そのふたりと対峙するように立ち並ぶ、殺気立った近衛隊員たち。
両者の間にあるのは、どこまで行っても妥協点のない平行線だ。
どちらかが実力行使に移ったとき、この睨み合いの均衡は崩れる――と、思われたときだった。
遠くから、車の走行音が聞こえてきた。
近衛隊員たちは『女王拉致』の件を極秘に解決するため、付近の道路を通行止めにしていた。しかし、『穴場の絶景スポット』などという辺鄙な場所だ。大道路を閉鎖したところで、地図に載っていないような細い道もあったのだろう。
しまった! ――と、近衛隊員たちが思う間もなく、一台の車が目視できる距離にまで近づいてくる。
近衛隊としては、女王の関わる事件に民間人を巻き込むのは避けたいところであるし、何より、女王が男に誑かされて拉致されそうになっているなどという醜聞は、断じて世間に知られるわけにはいかない。
明らかに問題の生じている、この現場。触らぬ神に祟りなしと、無視して去ってくれよと祈るが……、思いも虚しく、その車は一同のそばで、ぴたりと停車した。
「事故っすか!? お手伝いしますよ!」
威勢のいい声と共に、ひとりの若い男が降りてくる。かなりの巨漢である上に、骨ばった厳つい顔つきであるのだが、愛想のいい笑顔と愛嬌のある八重歯で、妙に間の抜けた印象の男だった。
予期せぬ乱入者の登場に、近衛隊員たちは戸惑いを隠せない。しかし、八重歯の巨漢は構わず、そのままの調子で続けた。
「俺、力仕事には自信がありますんで!」
彼は目線で側溝に落ちた車を示し、力こぶを作るような仕草をする。おそらく、肉体労働を生業としているのだろう、立派な太い腕であった。
だが、脱輪した車を持ち上げるだけなら、この場の人数で充分だと分かりそうなもので……。
どうやら彼は、二台の車が衝突事故を起こし、睨み合った両者の間で喧嘩が起きていると思ったらしい。更にいえば、取り囲むようにずらりと並んだ近衛隊員たちが、ドライブ中だった恋人を威圧していると感じたようだ。
それで、腕っぷしの強さを示し、お節介な正義感で、仲裁しようと割り込んできたのだ。
面倒なことになったと、近衛隊員たちは狼狽する。
そして、彼らにとって最悪なことは、その直後に起きた。
無遠慮な八重歯の巨漢が、ぐいぐいと近づいてきた結果、今まで近衛隊員たちの影で目隠しになっていた、小柄な女王の白金の髪を目撃されてしまったのである。
「じょ、女王陛下ぁっ!?」
大音声を張り上げ、巨漢は仰天した。
6.天と地の共謀-2

「へ、へ、へへへ、陛下ぁっ……!?」
巨漢の野太い叫びが、人気のない通りに木霊する。
腰を抜かしかけたのか、巨漢は、よろよろと後ろに数歩下がり、口をぱくぱくとさせた。ちらちら覗く八重歯が、厳つい顔とはあまりにも意外で、いっそ可愛らしい。
何故、こんな場所に女王が!? ――と。彼が、どんなに慌てふためこうとも、この国で唯一無二の容姿が示すものは決まっている。
白金の髪、青灰色の瞳の〈神の御子〉であれば、女王その人でしか、あり得ない。
巨漢は、女王を拝むように手を擦り合わせ……。
その次の瞬間、目つきが変わった。
敵意を剥き出しにして、近衛隊員たちを睨みつける。彼らのことを女王を狙う不届き者であると認識したのだ。そして同時に、女王の傍らに立つ凶賊の男を護衛だと判断した。
何しろ、近衛隊員たちは私服姿だ。無頼漢同士の抗争を装うという、結果としては、まるで意味のなかった浅知恵のために制服から着替えてしまっていた。
この状況であれば、誤解されるのも致し方ないといえよう。しかし、近衛隊としては堪ったものではない。彼らは『止むを得ん』と、次々に懐から身分証明書を取り出し、巨漢に提示する。
「我々は近衛隊だ!」
「へ?」
巨漢の目玉が、こぼれ落ちそうになるほど見開かれた。あんぐりとした口からは、愛嬌いっぱいの八重歯が飛び出し、現状の深刻さを吹き飛ばすような締まりのない顔となる。
「我々は今、陛下を拉致しようとする悪党を追い詰めたところなのだ! 民間人は下がっていたまえ!」
近衛隊員が居丈高に言い放った刹那――。
「違うわ!」
間髪を容れず、天界の音色が響き渡った。
「この方は、私がお忍びのために雇った護衛よ!」
白い手が隣の男の腕へと伸び、女王は彼を庇うように体を寄せる。距離感が近すぎる彼女の仕草は、まるで男に抱きついたようにも見え、近衛隊は勿論、巨漢も、当の男ですら目を剥いた。
女王は周りの動揺に気づかぬまま、澄んだ青灰色の瞳を巨漢に向ける。
「ねぇ、あなた」
「は、はいぃっ!」
巨漢の声が裏返り、背筋がぴんと伸びた。
無理もない。この国は宗教国家なのだ。神と同じ異色の瞳で見つめられた上に、女王から直接、声を掛けられれば、動転して然るべきだろう。
無論、王家をはじめとする上流階級の人間を目の敵にしている者たちは存在する。しかし、巨漢のこれまでの態度からすれば、彼が天空神フェイレンの敬虔なる信徒であることは間違いない。
「この方は、私に頼まれて護衛を引き受けてくださっただけなの。なのに、私を拉致しようとしていると近衛隊に疑いを掛けられ、捕らわれようとしているのよ」
「は、はいっ! はいっ!」
巨漢は、壊れたゼンマイ人形のように、こくこくと頷く。
「何度も説明しているのに、近衛隊員たちは、私の言うことをちっとも信じてくれないの」
「は、はいぃっ!? へ、陛下のおっしゃることを、こ、近衛隊の皆様が信じてくださらない……ですと!?」
神にも等しい女王の言葉に、直属の臣下であるはずの近衛隊が耳を貸さない。
この事実に、巨漢が心底、驚いたように体を震わせると、近衛隊員たちは、ばつが悪そうに目線をそらした。
近衛隊にとって、非常に困った事態になった。
幼い女王は味方を得たとばかりに喜び、主張を聞いてくれる巨漢に『そうなのよ!』と、必死に訴えるに違いない。このままでは、近衛隊の体面は丸つぶれ。いったい、どうやって事態の収拾をつけようか……。
しかし――。
巨漢の驚嘆に対し、女王が声を弾ませることはなかった。
彼女は、ただ、大きな溜め息をひとつ、ついたのみ。
「それで、あなたにお願いがあるの」
「はい? は、はへっ!? へ、陛下がっ!? お、俺に頼みごとを……!?」
「私の言うことを信じてくれない近衛隊が、この方を捕まえないように、この方をあなたの車に乗せて街まで連れていってほしいの」
「は、はい! ……はいぃっ!?」
勢いよく返事をしたあとで、巨漢は目を白黒させた。何を言われたのか、頭の中で必死に整理しているのだろう。
「これ以上、騒ぎを大きくするべきでないでしょう? 仕方ないから、私はこれで、お忍びを終わりにして、近衛隊員たちと王宮に戻るわ。――だって、拉致事件なんて起きていないんですもの」
――いい? 拉致事件なんか起きていないの。
蒼天を映したような瞳が、近衛隊員たちを睨めつけた。
その眼差しに、彼らの背中は、ぞくりと震えた。
――だから、私の護衛をしてくれた者を、この民間人の車で街まで送ってもらうことに、なんの問題もない。そうでしょう?
女王は、ぐっと顎を上げる。
陽光を模したような髪が、ふわりと広がる。
――女王に仕える者が、これ以上、民間人に醜態を晒すことは許さない。ここは私に従いなさい……!
「――!」
近衛隊員たちは、王者の圧に平伏した。
天真爛漫で、純粋無垢な女王が、初めて見せた威厳。
それが凶賊の男のためであるのは、複雑な心境だったが、近衛隊員たちにとって、本来、仕えるべき相手は摂政ではなく、女王であることを思い出すのに充分な風格に満ちていた。
近衛隊員たちは、低頭しながら引き下がる。
女王は、傍らの男は拉致犯ではなく護衛だと、民間人の前で断言した。
更に、男の身柄をその民間人に託した。
こうなっては、いくら摂政の命があったとしても、女王直属の近衛隊としては、無関係の民間人を巻き込んでの逮捕劇を繰り広げるわけにはいかない。
女王は、傍らの男に絡めていた腕をほどき、八重歯の巨漢に声を掛ける。
「親切な、あなた。この方をお願いね」
その声が、心なしか涙声であったことに気づいた者は、この場に何人いただろうか。
少なくとも、すぐそばにいた巨漢には感じ取れたらしい。骨ばった厳つい顔が、柄にもなく優しげに緩んだ。だが、すぐに『女王を前に、緊張する民間人』の顔に戻る。
「は、は、ははぁ! 分かりやしたぁっ!」
間の抜けた返事をしながらも、巨漢はすっと前に歩み出て、近衛隊の射線上から男を守るような位置取りをした。女王か民間人がそばにいなければ、男が撃たれる可能性があることを理解しているのだ。
何故なら、彼は『民間人のふりをした、リュイセンの部下』であるのだから。
閉鎖されている『穴場の絶景スポット』付近の道路に、一般車両が入り込むことはないのだ。
無論、近衛隊員たちが考えたように、地図にない細い道が存在する可能性はある。しかし、こんなに都合のよいタイミングで、民間人が紛れ込んでくる確率など、皆無に等しい。
つまり、巨漢の登場は偶然ではなくて、必然。通行止めの看板を無視して、乗り込んできただけだ。
女王を神の如く崇める国民の前では、近衛隊は女王を蔑ろにするような言動は取れないはず――この点を衝いた、女王の計略であった。
部下たちの援護を断ろうとするリュイセンに、アイリーはこう言ったのだ。
『凶賊が大挙して押し寄せてくるのが駄目なんでしょう? だったら、ひとりだけ。それも凶賊であることを隠して協力してもらうのならいいはずよ!』
上流階級の者――ましてや、『女王』などと関わることを、部下たちは良しとしないのではないかと、リュイセンは危惧した。けれど、運のよいことに、『訳ありの黒装束の少女』の対応をした三人の門衛たちが、援護の者の中に混じっていたのだ。ちょうど門衛の当番を終えたばかりのところを駆り出されたらしい。
彼らに、黒装束の中身が『女王』であることを正直に明かした。
ただし、訪問の目的は『再従姉妹のメイシアに、お忍びで会いに来た。同時に、摂政が以前、鷹刀一族の屋敷を不当に家宅捜索をしたことについて、個人的に謝罪したかった』とした。
驚きはしたものの、アイリーと直接、言葉を交わした彼らは『あの嬢ちゃんとリュイセン様のために、ひと肌脱いでやろう』と、二つ返事で引き受けてくれた。――微妙に含みのある言い回しに、リュイセンは眉を寄せたが……。
三人共が乗り気であったが、アイリーにあれこれ世話を焼こうとした年長の者が、特に『民間人』の役をやりたがった。しかし、頬に目立つ刀傷があるために遠慮してもらったのだ。彼には申し訳ないが、あの顔で一般人を装うのには無理がある。
それで、体格はよいものの、愛嬌のある顔立ちの八重歯の若い衆が抜擢されたのだった。
近衛隊員たちが、もう少し注意深ければ、女王が車から降りてきたとき、パーカーは着ているものの、フードはかぶらず。また、サングラスは外したままであることに、違和感を覚えたことだろう。
紫外線を考えれば、それらは女王にとって必須のもの。しかし、『民間人』に〈神の御子〉の姿を目撃してもらうために、あえて身に着けなかったのである。
リュイセンは、八重歯の巨漢と共に、彼が運転してきた車へと。
アイリーは、近衛隊員たちに囲まれながら、脱輪した車のほうへと。
ふたりの背中が離れていく。
『私が素直に、近衛隊と王宮に戻れば、これ以上、大事にはできないと思うの』
『共犯者になるわ』と、好戦的に口の端を上げ、吐息を感じるほどの距離から、アイリーは作戦を耳打ちした。
幼さを感じる無邪気な言動をするくせに、彼女は時々、妙に物分りがよい。諦めることに慣れているのだ。
――約束しただろう? 綺麗な景色の中をドライブする、って。
リュイセンは心の中で呟く。
このままいけば、リュイセンは、ほぼ間違いなく無事に逃げられるだろう。けれど、それでは『共犯者』ではない。
『共犯者』というのは、『同じ望みを共に叶える者たち』であるはずだ。
「俺は、口にしたことを決して違えねぇんだよ」
馬鹿なことをしようとしていると、唇が自嘲に緩む。
「リュイセン様」
にやり、と。巨漢が八重歯を覗かせた。愛嬌たっぷりの笑顔は『いつでも、いいっすよ』の合図だ。
リュイセンは、アイリーには内緒で、あらかじめ彼とメッセージを交わしてあった。
彼女が、憧れを叶えられるように――!
リュイセンは、漆黒の長身を翻す。
そして、今や、遠く離れてしまったアイリーに――近衛隊員たちの影に埋もれそうな、小さな白金の背中に呼びかける。
「アイリー!」
口にしてから、しまったと思う。
近衛隊の前で、女王の名前を呼び捨てにしたら不敬罪だ。
けれども、差し伸べた手の勢いは止めずに。口調だけは、畏まったものに変更しながら、リュイセンはアイリーに向かって叫ぶ。
「まだ、ドライブの途中です。陛下には、息抜きが必要です」
この手を取ってほしい。
他愛のない小さな願いくらい、諦めなくてもよいはずだから。
「リュイセン!」
妙なる音色と共に、白蓮が花開いた。
振り返った青灰色の瞳から、朝露の涙が弾け飛ぶ。漣のスカートを波打たせ、華奢な体が近衛隊員たちの間をすり抜ける。
「陛下!?」
まさかのできごとに、近衛隊員たちは完全に不意を衝かれた。
「近衛隊の皆、ごめんなさい! 私、やっぱり、もう少し息抜きしたいわ! ――夕方には必ず、戻るから!」
「陛下! なりません!」
我に返った近衛隊員のひとりが、走り出したアイリーの腕を慌てて掴んだ。
「きゃあぁっ」
高く奏でられる、天上の響き。
同時に、別の近衛隊員が吠える。
「この賊めが!」
次の瞬間、リュイセンの心臓に向けられた銃口が、鋭く火を吹いた。
6.天と地の共謀-3

「リュイセン!!」
耳をつんざくような発砲音に、アイリーは絶叫した。
彼のもとへと駆け寄ろうとするも、屈強な近衛隊員に腕を掴まれていては、振りほどくことは叶わない。
何故、こんなことに!?
澄んだ青灰色の瞳が、いっぱいに見開かれる。
そのとき、リュイセンが、すっと動いた。流れるような所作で、両手を揃えて脇にやりながら、腰を落として低く構える。
次の刹那。
彼の手元から、眩い銀光が生み出された。そのまま、音もなく一歩、前へと踏み込む。
「え……?」
光の軌跡が、きん、と高音を放った。
それが、凶弾を跳ね返した響きであることにアイリーが気づくまで、しばしの時間を要する。
「な……、銃弾を……」
近衛隊員たちは絶句した。
陽炎に惑わされ、幻を見たのかと疑いたくなるような御業に、腰を抜かしそうになる。
彼らの目を釘付けにしたものは、夏の陽射しを集め、凝縮したかのように煌めく、二振りの刀。ひとつの鞘から生まれ出た双子の刃が、賊の両の手に、ひとつずつ握られていた。
「『神速の双刀使い』……」
神技とでも呼ぶべき刀術を前に、近衛隊員たちは、鷹刀一族の若き次期総帥の異名を思い出す。
彼らは、賊から目を離せぬまま、ごくりと唾を呑んだ。
見るほどに常人離れした、黄金比の美貌。強く、美しく在ることを求め、同じ血を重ね続けたという、この国最強の凶賊――鷹刀一族。
まさに、漆黒の魔性だ。
本能的な恐怖が、近衛隊員たちの背中をぞくりと撫でた。
凶賊からしてみれば、近衛隊など、玩具箱で暮らす兵隊のようなもの。しかし、彼らとて武人の端くれだ。己の中の警鐘に従い、次々に拳銃を構え、引き金に指を掛ける。
賊の両手が、円を描くように風を薙いだ。
銀光の翼を得た狼が、舞うが如く。重力から解き放たれたような軽やかさで、女王に向かって疾る。
恐怖に支配された近衛隊員たちは、摂政に賊の『射殺』ではなく、『捕獲』を求められていることを忘れ、引き金に掛けた指を……。
そこに、野太い声が轟く。
「お、おい、あんた! いったい、何すんでぇっ……!?」
女王陛下から『拉致犯を疑われて、困っている護衛』を街まで連れて行ってほしいと頼まれた、『巨漢の民間人』が、血相を変えて賊を追いかけてきた。
女王直々に託された責任感からか、巨漢は賊を引き止めようと必死だった。太い腕をいっぱいに伸ばし、どたどたと巨体を揺らしながら、真後ろから付いてくる。
近衛隊員たちは、はっと顔色を変えた。
このまま引き金を引けば、疾風のような賊が、ひらりと身を躱したとき、その流れ弾は巨漢に当たる――!
彼らの指は、すんでのところで留まった。
絶妙に邪魔な軌道を描く巨漢は、この上なく迷惑な存在であるが、近衛隊が民間人を撃ち殺すわけにはいかない。
大事に至らなくて済んだと、ほっとしたのも束の間。近衛隊員たちの目前に、賊が迫る。
女王の腕を捕らえた隊員と、隣のもうひとりが、彼女を守るように後ろに下がった。残ったふたりが前面に出つつ、私服に隠した軍用ナイフを取り出す。
だが、ナイフと双刀の間合いの差は、歴然としている。しかも、相手は『神速の双刀使い』なのだ。天下の近衛隊員ともあろう者が、完全に腰が引けているのも無理はない。
蒼白な顔で、彼らは賊と対峙した。
風になびく短髪は、漆黒の狼を思わせるように艷やかで。その双眸は、抜身の双刀を宿したが如く怜悧。
賊は、刀と一体化したような両腕を胸の前で大きく交差させ、ぴたりと静止させた。
知れず、その動きを追っていた隊員たちの呼吸も、ぴたりと止まる。
そして――。
賊の腕が、再び動きを取り戻す。
前面にいた隊員たちの頬が旋風に叩かれ、瞳が銀の閃光に灼かれる。
力強く薙ぎ払う、右手の一の太刀。
鋭く斬り裂く、左手の二の太刀。
悲鳴すら上げることなく、ふたりの隊員は、綺麗に左右に分かれて転がされた。
「――!」
あっけなく倒された同僚の姿に、残された隊員たちは戦慄した。
ひとりが女王の腕を握ったまま更に下がり、ひとりが捨て身の覚悟で前に出て、銃を構える。
しかし、神速を誇る双刀使いは、銃口が火を吹くよりも速く、刀を一閃した。
鮮血が飛び散る。
鉄の匂いが立ち込め、近衛隊員の体が、どさりと音を立てて崩れ落ちる。
「ひぃっ」
最後の隊員は、女王を後ろに追いやりながら、足元に落ちてきた同僚を反射的に避けた。
「き、貴様……、こ、近衛隊に、こんなことをして、た、ただで済むと……!」
賊を睨みつけながら高圧的に吠えるが、歯の根が合わずに捲し立てても滑稽なだけである。
「リュイセン!?」
怖気づいた近衛隊員の拘束を振りほどき、アイリーがリュイセンへと駆け寄った。
そして、叫ぶ。
「どうして、『あなた』が『怪我をしている』の!?」
斬られたのは、近衛隊員のはずだ。
なのに、半袖のシャツから伸びた逞しい腕――綺麗に日焼けした肌の上を、生々しい傷跡が走っている。
何故、リュイセンが負傷したのかは分からない。けれど、武術に詳しくないアイリーにだって、理解できることはある。彼は、彼女のために無茶をしたのだ。
リュイセンは、すっと一歩、後ろに下がった。アイリーから充分に距離を取った位置で双刀を旋回させ、かちり、と鍔鳴りの音を立てて鞘に納める。
「陛下。俺は、陛下を守る近衛隊員を傷つけたりなどしない」
「え?」
「俺の刀は、彼らの肉体に一切、触れてない。斬られたと思い込ませて、意識を絶ったまでだ」
「えっ? ええっ!?」
衝撃の発言に、アイリーは、ひときわ高い音色を響かせた。驚愕のままに、倒れている近衛隊員たちへと瞳を巡らせれば、確かに外傷がない。
「本当だわ……。でも、そんなこと……」
「『脅かして、気絶させた』――と言えばいいか? 最後のひとりは、先のふたりが斬られていないことに気づかないように、俺の血を見せて、視覚的な衝撃を……」
リュイセンがそこまで言いかけたところで、アイリーが噛みつく。
「なんで、自分を傷つけるのよ!?」
「アイリーの……っと、陛下のために働く人間を傷つけるわけにはいかないだろう?」
いくら無作法であったとしても、近衛隊員は女王を守る臣下だ。『女王の雇った護衛』が、彼らに手を出すわけにはいかない。故に、リュイセンは、自分に許される行動の範囲内で、知恵を絞ったのである。
「けど、近衛隊の言動は不敬だ。陛下は『息抜きをしたい』という意思を明確に示した。帰着時間だって宣言した。なのに、臣下であるはずの彼らが、まるで耳を傾けず、頭ごなしに否定する。そんなの、おかしいだろう? ――陛下にだって、好きなことをする自由があっていいはずだ!」
「リュイセン……」
アイリーの瞳に、青灰色の漣が立つ。
「優しいにも、ほどがあるわ……!」
拗ねたように頬を膨らませながらも、天界の音色が涙で濁る。彼女は目元を押さえると、無理矢理に、ぐっと口角を上げた。
「ありがとう!」
ぽん、と。
幻の音色を奏でながら、白蓮華が咲きほころぶ。――リュイセンが見たかった笑顔だ。
それから、アイリーは、くるりと踵を返し、すっかり立場を失った、最後の近衛隊員に詰め寄った。
「私の捜索にあたっている、近衛隊員全員に通達して! ――私が王宮に戻るまで、詰め所での謹慎を命じます、って」
高らかに告げる女王に、近衛隊員は「陛下!?」と、戸惑いの叫びを上げる。
「愚かな近衛隊員たちが、無頼漢同士の抗争を装う、なんてことをするから、私はとても怖い思いをしたの。反省が必要でしょう!? これは、『女王』の命令よ!」
「し、しかし、陛下!」
「私は護衛を雇って、お忍びに出掛けただけよ。彼が護衛として、申し分のない技倆を持っていることは、あなたにもよく分かったでしょう? それから、人間的にも優れている、ってこともね! これ以上の問答は、見苦しいだけだわ。――それとも、私には人を見る目がないと、疑うつもりなの!?」
アイリーは、ぴしゃりと言ってのけ、指先の動きで、近衛隊員の目線をリュイセンへと促す。
さほど深くはないとはいえ、血の滴る傷跡が目に入った。
自らを傷つけるとは、狂気の沙汰だ。凶賊なら遠慮せず、近衛隊に斬りかかればよいものを――。
思わず不躾に相手の顔を凝視すれば、黄金比の美貌を持つ『神速の双刀使い』は、礼儀に適った会釈を返してきた。
「!」
格の違い。
そんな言葉が頭をよぎる。
後ろでは、巨漢の民間人が、居たたまれない様子で、おろおろと体を揺らしていた。どうしたらよいのかと、途方に暮れているらしい。
「……」
女王の言葉に従う以外の道はないと、近衛隊員は項垂れるように深々と頭を下げた。
八重歯の巨漢――こと、リュイセンの部下は、『なし崩しに『女王陛下』を愛車に乗せることになって、すっかり気が動転している民間人』の役柄を見事に演じきった。
リュイセンとアイリーが後部座席に乗ったあとも気を抜かず、「へ、陛下! シートベルトをお締めくださいぃっ!」などと、車外にいる近衛隊員にも聞こえるような、素っ頓狂な声を張り上げてくれた。
それから数分後。
「そろそろ、大丈夫っすね」
凶賊の顔に戻った部下が、運転席からバックミラーを確認しつつ、にやりと八重歯を見せる。
「すまない。お前のおかげで、すっかり上手くいった。ありがとう」
大柄な体を縮こめ、リュイセンは頭を下げた。実のところ、帯刀していた自分よりも、『民間人』として、丸腰でうろうろしていた部下のほうが、危険な役回りだったと思う。
「何を言ってんっすか。リュイセン様と嬢ちゃんのためなら、このくらい、朝飯前っすよ。――っと、女王陛下に対して、『嬢ちゃん』じゃあ、まずいっすかね?」
わはは、と笑いながら言うあたり、ちっとも、まずいと思っていないのは明らかである。
車内の緊張が解けていくのを感じ、『状況が落ち着くまでは』と、おとなしく待っていたアイリーは、「あ、あのっ!」と、力んだ音色を響かせた。
「ふたりとも、私のためにありがとう! ふたりに危険なことをさせてしまったのに、私……凄く、嬉しいの!」
青灰色の瞳を潤ませながら、満面の笑顔を浮かべる。
リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろした。
自分から『王宮に戻る』と言った彼女に、『それでも』とドライブを勧めるのは、押し付けがましい自己満足かもしれないと、一抹の不安があったのだ。
けれど、間違っていなかった。
徐々に口元が緩み、嬉しさがこみ上げる。
ふと気づけば、運転席の部下もまた、厳つい顔の目尻を下げていた。
「嬢ちゃん、あんた、本当にいい子だなぁ」
「でも、私は女王だということを隠していて……、嫌な感じがしたでしょう?」
綺羅の美貌が陰り、白金の眉が寄る。
「いや、まぁ、驚きはしたけどよぉ。けど、女王様の正体が、あの黒づくめだと聞かされたら、嫌な感じどころか、可笑しくってなぁ」
八重歯の隙間から漏れる、「ぷぷっ」という思い出し笑い。
アイリーは、ぷうっと頬を膨らませた。
「違うわ! 黒装束は、世を忍ぶ仮の姿よ! 私の真の姿は、今のほうなの!」
「ふゎっはっは。――はいはい、そうっす! 女王様!」
そして、車内は豪快な笑い声に包まれた。
あらかじめ打ち合わせておいた場所で、他の部下たちが待っていた。救護係が飛んできて、リュイセンの腕は手早く止血される。
「それじゃ、俺たちは野暮はいたしませんので」
「リュイセン様と嬢ちゃんは、ゆっくりドライブを楽しんできてくださいっす!」
激しく誤解されているような気がしないでもないが、リュイセンは、部下たちが用意してくれた車の運転席に乗り込む。
「アイリー」
助手席の扉を開けると、白蓮の花が、ぽんと咲きほころんだ。
7.白金に輝く漣に-1

人造湖のある山の麓まで辿り着くと、ここが王都の一部であることを忘れてしまいそうな、濃い緑の世界が広がった。
リュイセンは、ふと思いつき、少しだけ車窓を開ける。
薄い隙間を通り抜け、夏の熱気が、するりと流れ込んだ。同時に、ほのかな山の香りが車内に漂う。いたずらな風が舞い踊り、リュイセンの隣で、白金の髪をふわりと跳ね上げた。
「うわぁぁ」
アイリーが無邪気な歓声を上げ、深呼吸をする。
「不思議ね。心が浮き立ってくるわ!」
弾んだ音色は、緑豊かなこの地に捧げる讃歌のよう。
彼女は青灰色の瞳を輝かせ、あちらこちらに忙しなく視線を巡らせる。白い頬を紅潮させた横顔に、リュイセンの口元が緩んだ。
ここに来るまで、アイリーといろいろな話をした。
初めは、彼女がリュイセンの刀技について尋ねてきた。近衛隊員を黙らせた神業について、矢継ぎ早に質問してきたのだ。
そこから、積み重ねてきた鍛錬のことを訊かれ、子供時代の話に移り、兄や義姉といったアイリーも知っている名前が出てきて盛り上がり、気づけば、屋敷の裏庭にある蓮池の花と、早起きを競っている……などという、他愛のない話をしていた。
口下手なリュイセンは、知り合ったばかりの相手との雑談は苦手である。拙い語り口調である上に、相手の興味を引く話題を提供できないからだ。専ら聞く側となって、相槌で遣り過ごすのが常である。
けれど、アイリーの聞き方が巧いのか、自分でも意外なほどに、するすると言葉が口を衝いて出た。彼が、ひとこと発するたびに変わっていく、彼女の表情のせいかもしれない。
人懐っこい彼女のこと、彼だけを話し手にするのではなく、自分のことも語ってくれた。
今、彼女が着ている、母作のお気に入りのワンピースについて熱弁を振るったかと思えば、製作者のことも大好きと嬉しそうに告げ、自分は生まれて間もなく母親を亡くしたからリュイセンが羨ましいと少し拗ねる。
とはいえ、アイリーと同じく『〈神の御子〉の女性』であったヤンイェンの母親が、親身になって可愛がってくれたのだと微笑んだ。ただ、伯母に当たるその人は、だいぶ不幸な運命を辿ったらしく、アイリーが女王という輝かしい地位にありながら時折り諦めたような翳りを見せるのは、この女性に拠るところが大きいように感じられた。
弱視であることが世間に知られないよう、学校には行かせてもらえず、『帝王学のため』という建前で家庭教師がついているというのも、彼女から漂う孤独の一因かもしれない。
リュイセンとアイリーの間には、さして共通の話題はない。
だから、ふたりきりの車内では、会話が途切れがちになるか、屋敷で話し尽くしたはずの『ライシェン』のことや、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを蒸し返すことになるのだと思っていた。
それが、まるで違った。
なんでもないことを話していただけ。
けれど、彼女との時間は心地よかった。
そんな雑談の中から、彼女はきっと、閉め切った車内よりも、少しくらい暑くとも、風の流れと土の匂いを感じるほうが好きだろうと思った。
あまり目の良くない彼女は、見えるものだけに頼らない。体中のすべてで、そして、心で感じ取るから……。
「リュイセン!」
風と戯れていたアイリーが、こちらを振り向いた。
「ありがとう!」
天真爛漫な笑顔で、彼女が傍に寄ってくる。
シートベルトを伸ばしきって近づいてくる距離感にも、すっかり慣れた。武人のリュイセンとしては、間合いを詰められるのは落ち着かないものだが、アイリーだから仕方ないのである。
不意に、白金の眉が、ぐぐっと寄った。
「どうした?」
「私も、運転ができればよかったのに。そしたら、リュイセンと替われたわ」
アイリーは拗ねたように唇を尖らせる。まるきり子供の表情であるが、それは気遣いの心ゆえだ。
気にする必要はない、と言おうとして、ある考えが閃く。リュイセンは片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手でポケットから携帯端末を取り出した。
「ロック解除のパスワードを教えるから、それで道案内をしてくれ」
「え?」
「このあと、人造湖に行って浮き橋を渡ろうかと思っていたんだけど、あそこは湖のど真ん中に架けられた橋だから、日よけがないんだ。だから、もっと山を上って、浮き橋を上から見下ろせる絶景ポイントに行こう」
「あ……。私が先天性白皮症だから……」
「それもあるけど、純粋に俺だって暑いよ。よく考えたら、前に来たときは紅葉狩りが目的で、秋だったんだ」
顔を曇らせるアイリーに、リュイセンは柔らかな笑みを浮かべる。
彼女の肌は、確かに心配だ。けれど、そればかりではないのだと、もっと気安くしてよいのだと――気持ちが伝わるようにと、リュイセンは願う。
「山の上のほうに滝がある。そこ自体、なかなかの絶景だし、人造湖も見下ろせる。――前回は体力自慢の奴らばかりだったから、徒歩で山道を登ったけど、今日はアイリーとのドライブだ。滝の近くの駐車場まで、車道を行きたい。だから、道案内よろしく」
アイリーの顔が、ぱっと輝く。
「分かったわ! 任せて!」
「頼んだぞ」
リュイセンは、ぐっと口角を上げ、端末のパスワードを告げた。
浮き橋は暑そうだから、行き先を変更しようと思っていたのは真実であるし、滝までの経路は徒歩の道しか知らないのも本当。だから、もう少し先に行ったら車を停めて、自分で調べようと思っていた。
けれど、隣にいる彼女を頼ればよいのだと気づいたのだ。
アイリーは、嬉しそうに端末に指を走らせ……、しかし、すぐに動きを止めた。そのときになって初めて、リュイセンは、彼女が『女王様』であることを思い出した。
「すまん。お前、道案内なんてしたことないよな?」
「そ、それは……ないけど。でも、端末の道案内機能の使い方なら分かるわ。セレイエに教えてもらったもの」
お付きの侍女ではなくて、セレイエというあたり、王女時代のお忍びで覚えたのだろう。
「ええと、だからね。わざわざリュイセンの端末を借りなくても、私が自分の端末を使えばいいんじゃないかと思って……」
そこまで言って、彼女は「ああっ!」と、突き抜けるような高音を上げた。
「私の端末で位置情報を使ったら、お兄様に居場所がバレちゃうんだったわ! だから、リュイセンは、自分の端末を貸してくれたのね!」
「! ――あ、いや……」
リュイセンこそ、アイリーに言われて初めて、彼女の端末を使うわけにはいかないことに気づいた。彼としては、単に、自分の代わりに地図を見てもらおうと思ったから、自分の端末を貸したまでである。
アイリーの尊敬の眼差しに居たたまれなくなり、生真面目なリュイセンは正直な事情を告白する。彼女は「あ、そうだったの」と、さらっと流してくれたが、彼としては面目ない。
摂政に位置情報が漏れていたからこその近衛隊の襲撃だったのに、まったく喉元すぎれば……である。情報の専門家であるルイフォンに知られたら、大笑いされそうだ。
赤面を隠すように正面に向き直りつつ、リュイセンは内心で、がっくりと落ち込んだ。
毎度のことかもしれないが、聡明さに欠ける自分に嫌気がさす。ほんの少しでいいから、彼の賢さを分けてもらえたら……と、情報屋〈猫〉の名を持つ弟分の顔を脳裏に浮かべ、そして、思いつく。
「俺の端末は、そのままお前にやる」
「えっ!? どういうこと?」
「お前の端末からの通信は、摂政に傍受される可能性がある。だから、俺と連絡を取るときは、自分の端末じゃなくて、俺の端末を使ってほしい」
ルイフォンによれば、自分の支配下にある電子機器の通信記録は、調べようと思えば簡単に調べられるらしい。だから、摂政の部下に弟分と同じような技能を持った人間がいれば、アイリーの端末からの通信は垂れ流しの状態になるはずだ。
そんな説明をすると、アイリーから感嘆の声が上がった。
「ええっ!? 知らなかったわ! リュイセン、凄い!」
「……ルイフォンの受け売りだけどな」
諸手を挙げて褒められると、ルイフォンの知識を分けてもらっただけのリュイセンとしては、やはり決まりが悪かった……。
「でも、リュイセンは、端末がなくなっちゃったら困るんじゃない?」
「新しいものを買うから問題ない。――ああ、新しい端末の連絡先は、俺のほうからアイリーの手元の端末に送るよ」
「分かったわ」
アイリーは明るい音色を響かせて、改めて端末を繰り始めた。検索のために、ぶつぶつと人造湖の名前を唱える声を聞きながら、リュイセンは運転を続ける。
「……」
気軽に『新しいものを買う』と言ったものの、鷹刀一族内で使っている暗号化通信関係の難しい設定はルイフォンに頼むことになる。……自分で対処できないのは、ちょっと情けない。
弟分なら『それは〈猫〉の仕事だろ?』と笑い飛ばすだろうが、彼の作業を増やすのは心苦しいし、そういう問題ではなくて、物ごと全般に自分は不器用で、どうにも冴えない気がする。粋でないのだ。
負の連鎖に陥りかけたリュイセンは、ちらりと横目でアイリーの様子を見やる。こんな自分の隣で、彼女は憧れの『ドライブ』を楽しめているだろうかと、不安になったのだ。
アイリーは無事に地図を出せたようで、現在地の近くを拡大していた。リュイセンの視線を感じたのか、こちらを振り向き、嬉しそうに笑う。
「リュイセンの端末って、凄くリュイセンぽいわ!」
「は?」
「ほら、端末の画面の配置とか、持ち主の性格が出るじゃない? ……えへへ。リュイセンの端末、貰っちゃった」
無邪気な子供の口調で言いながら、無垢な頬をほんのり染める。彼女は、まるで宝物でも貰ったかのように、リュイセンの性格が出ているという端末を大切そうに抱きしめた。
アイリーの道案内は決して上手いものではなかったが、人造湖の付近一帯は、隠れた名勝といわれるだけあって、各所に親切な道標が立っていた。そのお陰で、リュイセンの運転する車は、迷うことなく目的の駐車場に辿り着いた。
停車とともに、アイリーは素早く、黒いパーカーとサングラス、そしてフェイスカバーを身に着けた。車を降りるために必要なことであるが、リュイセンの胸が、ちくりと痛む。
駐車場には、リュイセンたちの他に、車が三台。神経を研ぎ澄ませれば、この先の散策路に複数の人間の気配が感じられた。
「アイリー、整備されていない道を歩いてもいいか?」
「えっ!?」
「前に来たとき、好奇心旺盛な奴らと探索して、この奥にもうひとつ、小さな滝があるのを見つけたんだ。散策路の途中で獣道に入るから足元は悪いんだけど、まさに『ふたりきりになれる、穴場の絶景スポット』だと思う。奥に行くと、人造湖や浮き橋を見ることはできないんだが……」
「そっちの滝に、行ってみたいわ!」
即答するアイリーに、リュイセンは「決まりだな」と微笑み、ふたりは車を降りた。
なお、これは後日談であるが――。
リュイセンは、摂政による鷹刀一族の監視の目に警戒しつつ、草薙家にいるルイフォンを密かに訪れた。新しい携帯端末をの設定を頼むためである。
弟分は猫の目を細く眇め、深い溜め息をついた。
「……お前。自分が鷹刀の次期総帥だという自覚が足りねぇよ」
「どういう意味だよ」
開口一番の台詞に、さすがのリュイセンも秀眉をひそめる。
「摂政に位置情報が漏れていることから、『女王の端末での通信は危険』という考えに至ったまでは偉いと思う。――けどな!」
そこで、ルイフォンは、かっと目を見開き、高圧的に顎を上げた。その反動で、一本に編まれた髪が跳ね上がり、毛先を留める金の鈴が、ぎらりと光る。
「お前の端末は、情報の宝庫なんだよ! 登録されている連絡先を見ただけで、鷹刀が何処と取り引きしているかがバレバレだろ! その上、鷹刀一族次期総帥の端末は鷹刀一族総帥への直通電話になり得るんだぞ!」
「……あ」
「女王が悪い奴じゃねぇ、ってのは、俺も承知している。けど、摂政が『妹が見慣れない端末を持っている』と気づいて、取り上げでもしたらどうするんだよ!」
「すまん……」
「新しく端末を買うなら、お前のじゃなくて、女王に渡す分を買えばよかったんだよ! 時間がないなら、あとで、ユイランを通して届けるという手もあった」
「……」
凄まじい剣幕で噛みついてくる弟分に、リュイセンは返す言葉もなく、ただただ長身を縮こめる。
「ともかく。女王の持っている端末は、遠隔操作で、俺が工場出荷状態に戻す。女王には、改めて別の端末をユイランから渡してもらう」
「待ってくれ! その……、アイリーは、俺の端末が、俺っぽいって喜んでいたんだ。だから、初期状態に戻すのは……」
「はぁ? 何を言ってんだよ!?」
尻つぼみの低音は、鋭いテノールに打ち消される。
「いいか? 俺の端末は、俺以外の奴が触ったら、即座に無効化するように細工してある。携帯端末っていうものは、そのくらいヤバいものなんだ。――それを逢ったばかりの他人に渡すなんて、あり得ねぇんだよ!」
ルイフォンは猫背を返上したかのように、ぐっと胸を反らし、自分より大柄な兄貴分を睨みつけた。
しかし、彼は忘れているだけなのである。
メイシアと出逢った翌日、貧民街でタオロンと〈蝿〉に襲われたとき、自分の携帯端末をメイシアにも使えるようにしたことを。
一方、彼の最愛のメイシアは、当然のことのように、きちんと覚えていた。ちょうどよいタイミングで、お茶を差し入れにきた彼女は、遠慮がちにそのことを指摘する。――「あのときのルイフォンは頼もしかった」と、嬉しそうに頬を染めながら。
ルイフォンは、はっと顔色を変えて狼狽えた。
「――っ! だ、だから、俺の端末は、他の奴が触ったら、ぶっ壊れちまうわけで。つまり、メイシアの手から誰かに奪われたとしても、問題なかったわけだから……」
「ルイフォンが大切なものを預けてくれたのが、とても嬉しかったの」
きらきらとした黒曜石の瞳に見つめられ、ルイフォンは押し黙った。
結局――。
アイリーの手元の端末は、リュイセンが使っていたときの状態を保ちつつ、外部に漏れたらまずい情報だけをルイフォンが遠隔から削除した。
〈猫〉といえど、それなりに面倒くさい作業だったようだが、ルイフォンは文句を言わなかったという。
7.白金に輝く漣に-2

駐車場で車を降り、散策路の途中で獣道に入った。脇道に逸れたときには、充分に周囲に注意したから、誰にも見られていないはずだ。
生い茂った木々に遮られ、リュイセンとアイリーの姿が隠される。人の気配が遠のき、代わりに緑のざわめきが五感を満たす。
広い世界の、ほんの一欠片かもしれない。けれど、目的地である小さな滝までの空間は、外界から隔たれた、ふたりだけのものとなった。
「ここは他人はいねぇし、日影だ。もし、紫外線が気にならなければ、楽な格好になっていいぞ」
リュイセンがそう言うと、アイリーは早速、サングラスとフェイスカバーを外し、パーカーのフードを跳ねのけた。それから、青灰色の瞳を輝かせ、感嘆の声を漏らす。
「素敵! 自然の中に、解けていくみたい!」
雑木林の中に入っただけだ。だが、高貴な身の彼女には、初めて見る光景だったのだろう。
リュイセンは嬉しそうな彼女の声に心を踊らせ、……同時に、自分の至らなさを激しく後悔していた。
神殿から、こっそり抜け出してきただけのアイリーの靴は、獣道を抜けるには、まったくもって不向きなものであった。言わずもがな、お気に入りのワンピースなど、山歩きに着てくるものではない。
どうして、こうも自分は、なってないのだろう?
リュイセンは、内心で頭を抱える。
彼はただ、彼女を喜ばせたかっただけだ。人目のあるところでは、彼女は黒装束を手放せない。だから、誰もいないところに連れて行ってあげたかった。しかし、人が立ち入らない場所には、立ち入らないだけの理由があるわけで……。
「すまん。歩きにくいだろう?」
「え? ――えっと、……リュイセンが私を置いて、すたすたと先に行かなければ平気よ!」
アイリーは小柄な自分を誇示するように爪先立ちになり、いたずらな眼差しでリュイセンに笑いかける。歩幅の違う彼が、屋敷の廊下で彼女を置き去りにした件を、冗談めかして言っているのだ。
返答までに間があったことから察するに、やはり、胸の内では、大変な山道に来てしまったと思っているのだろう。けれど、リュイセンを困らせないように、茶目っ気で返してくれたのだ。いくら鈍いリュイセンでも、そのくらいは理解できる。
彼女の気遣いが、ありがたくも心苦しい……。
ともかく、アイリーの言う通り、彼女の歩調に合わせて、ゆっくり歩くことにしよう。
リュイセンは、彼女を執務室に案内したときの失態を思い返し……、はっと閃いた。
「屋敷のときみたいに、俺がお前を運んでいく。そうすれば、お前の足元の心配はなくなるし、服も汚れない」
「えっ!?」
「少しだけ、我慢してくれ」
あのときと同じ台詞を繰り返し、リュイセンは長身を屈める。彼の左手が、アイリーの膝裏に触れた瞬間、彼女の足元が、ふわりと浮き立った。
「きゃっ!?」
悲鳴が響いたときには、リュイセンは左腕一本で、軽々とアイリーを抱え上げていた。
そのまま胸の高さよりも、ずっと上に。自分の左肩に、彼女を座らせる。それから、姿勢を安定させるため、彼女の足に左手を添えた。
「ちょ、ちょっと、リュイセン!?」
一瞬のうちに、リュイセンの艶やかな黒髪を見下ろす目線となったアイリーは、慌てふためく。鼓動が高鳴るのは、地面と遠く離れた浮遊感のためか、それとも、他に原因があるのか。
「手荒な扱いで、すまん。だが、片手は空けておく必要があるんでな」
そう言いながら、リュイセンは、腰に佩いた愛刀を指し示した。車から降りる際、身に着けてきたのだ。
「え?」
敵もいないのに、どうして刀を? と、彼女が疑問に思ったのは分かった。
だが、説明するよりも、実演したほうが早い。彼は、双刀のうちの片方を右手に持つと、ぱっと目の前の藪を払う。
屋敷では、泣き崩れた彼女を横抱きにして、丁重に執務室まで運んでいった。しかし、この獣道を抜けるためには、こうして邪魔な枝を斬り落としながら進む必要がある。故に、少々乱暴であるが、片手抱きで我慢してもらうのだ。
アイリーが羽のように軽いことは知っているし、リュイセンは体力、腕力共に自信がある。万が一にも落ちないように、彼女の体は、きちんと支えている。何も問題はない――と、リュイセンは考えた。
「あ、あの……、リュイセン……」
アイリーの白い肌が、さぁっと朱に染まる。
ワンピース越しではあるが、彼の逞しい肉体が、彼女の太腿の裏に触れている。そして、彼女のほうからも抱きつくようにして彼と体を密着させなければ、ぐらぐらと揺れて危ない……。
そんな訴えをしたものかと、アイリーは迷っていた。距離感に関して、てんで無頓着な彼女であるが、これでも年ごろの少女なのである。
「どうした? 怖いか?」
リュイセンに、他意はない。だからこその、この問いかけだ。
アイリーは困りきった顔で白金の眉を寄せると、遠慮がちに口を開いた。
「こういうのって、……こ、恋人とすること――よ、ね……?」
「――っ、すまん! 失礼した!」
リュイセンは、まるで雷にでも打たれたかのように、体を硬直させた。
弁解にしかならないが、彼としては、姪のクーティエに肩車をしてやったのと同程度のことだった。しかし、異性に免疫のないアイリーには、たまらなく恥ずかしいことであろう。
なんたる失態!
リュイセンは、細かい理屈はさておき、一足飛びに真理にまで辿り着く男である。故に、細かな彼女の感情はさておいて、一足飛びに獣道を安全に抜けるための手段に辿り着いてしまったらしい。
あまりにも配慮の欠落した自分に、血の気が引いていくのを感じながら、リュイセンは肩からアイリーを下ろそうとした。
そのとき、「ま、待って!」と、半音ほど上にずれたような声が発せられた。
「も、もし、リュイセンが嫌でなければ、このまま行きたいわ!」
「でも、お前は不快だろう?」
「そんなことないわ! よ、よく考えたら、私は『恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポット』に行きたいって、お願いしたのよ。だから、これで正しいはずだわ!」
よく分からない理屈を展開しながら、アイリーはリュイセンの頭へと、すっと体を寄せた。青灰色の瞳をぎゅっと瞑り、抱きつくようにして華奢な両腕を彼の首に回す。
それは、リュイセンの視界の外の出来ごとであるので、アイリーの表情を彼は知らない。彼はただ、彼女が重心を寄せてくれたことで歩きやすくなったと思っただけ。
そして――。
「ありがとう。リュイセンには迷惑を掛けてしまうけど、私はこの服装に感謝するわ……」
彼女の心の中の囁きもまた、彼の耳へは届かなかった。
叩きつけるような水音と、湿度が高く、少しだけ重たい空気。滝の気配を感じながら歩を進めていくと、やがて目の前が、ぱぁっと開けた。
「綺麗……」
天界の琴の音のような呟きが、天空からの滝の音と響き合い、二重奏となって、リュイセンの耳元に落ちてくる。
彼は右手の刀を鞘に収め、両手を使って、そっとアイリーを地面に下ろした。
ふたりは黙って、たたずむ。
自然の美に、魅入られたのだ。
陽光を透かし、白金に輝く清らかな水流が、天と地を結びつける。
そして。
細かな飛沫が舞い広がり、鮮やかな虹を伸ばしていく。
まるで、どこか遠い世界へと繋がる、架け橋のように。
神秘的な光景だった。
「私に虹を見せようと、この滝に連れてきてくれたの?」
傍らのアイリーが夢見心地の表情のまま、リュイセンに尋ねた。
「いや、虹なんて、俺は知らなかった」
生真面目なリュイセンは、正直に答える。
前に来たときには、滝があるだけだった。……とはいえ、滝壺は虹の現れやすい場所だ。今日は運のよいことに、陽の光の差し方が、ちょうどよい塩梅だった、ということだろう。
虹が架かる可能性を計算した上で、ここに来たのなら、アイリーの問いかけに肯定できたのに。――そうであれば、なかなか小洒落た道案内だと、胸を張れたのに。聡明さに欠ける自分は、どうにも格好がつかない……。
落ち込んでいくリュイセンの耳に、アイリーの声が届く。
「じゃあ、この虹を見たのは、リュイセンも初めてなのね!?」
「え?」
どことなく弾んだアイリーの声に、リュイセンは狼狽した。
「素敵ね! 自然からの特別の贈り物だわ!」
白蓮の花が咲きほころび……、リュイセンは目を奪われる。
彼女は、綺麗な景色に浮かれているだけではない。リュイセンにも、新たな発見があったことを喜んでいる。
共に楽しむことができて、よかった、と。
彼が想像もしなかったことを、彼女は当たり前のように口にする。とても不思議で、心地よい。
ふわりと心が軽くなり、リュイセンは「アイリー」と呼びかけた。
「お前と虹を見ることができて、よかった」
気負わない言葉が衝いて出る。和らいだ瞳の中心で、白金の漣が輝いた。
滝壺から少し離れた、落ち着いた流れのあたりで、アイリーがワンピースの裾を気にしながら、しゃがみ込もうとした。自然の清水に触れてみたいらしい。
「滝を触りに行くか?」
「えっ!?」
「この滝は小さくて、それほど勢いがない。だから、落ちてくる滝の水に、直接、触っても大丈夫だ。前に来たときに、一緒にいた連中と確認済みだ」
リュイセンが少しだけ得意げに言うと、「そうなの!?」と、青灰色の瞳が大きく見開かれる。
そして、ふたりは苔むす岩に気をつけながら、そろりそろりと移動を始めた。
足元に注意して、慎重に進むアイリーは真剣そのもの。勿論、リュイセンも、できるだけ歩きやすそうな場所を選んで先導する。彼女の服装でも大丈夫だろうと判断したからこそ誘ったのであるが、万一のときは身を挺して守るつもりだ。
足場さえ間違えなければ危険はないし、たいした距離でもない。けれど、ふたりとも、終始、無言だった。
滝の音が、ふたりの緊張を包み込む。
水気の多い、ひやりとした涼風に、アイリーはずっと身を引き締めていた。――だから、だろう。ついに滝まで辿り着いたときには、満面の笑顔となった。
「うわぁ、冷たいわ!」
指先で、そっと水を弾いた瞬間、嬉しそうな声を上げる。
リュイセンも手を伸ばし、透明な流れを掌で受けた。澄んだ水は、きらきらとした光の欠片となって飛んでいく。
童心に帰ったように水と戯れ、笑い合う。
なんでもないことなのに、それが無性に楽しい。
「夏なのに、こんなに水が冷たいなんて。凄く贅沢ね!」
半袖のシャツ一枚のリュイセンに対し、フードは被ってないものの、アイリーは長袖のパーカーを着たままだ。彼以上に、涼を楽しんでいるのだろう。
だが、さすがに夢中になりすぎたのか、だんだんと白い指先が赤みを帯びてきた。
「少し、冷やしすぎじゃねぇか?」
何気なく彼女の手を取ると、案の定、氷のように冷たい。リュイセンは心配になって、自分の掌で温めてやろうと、彼女の手を包み込んだ。
「っ!?」
声未満の息遣いが、アイリーの唇から漏れた。彼女の頬が、冷えた指先以上の色合いで赤く染まっていく。
「す、すまん」
他意はないとはいえ、女性の手を握りしめていたという非礼に気づき、リュイセンは焦った。
「う、ううん!」
気まずいような、微妙な空気。
そのとき、いたずらな強風が吹きつけた。
滝の流れが捻じ曲がり、ふたりに向かって冷水が襲いかかる。
「!」
リュイセンは、握っていたアイリーの手を神速で引き寄せた。彼女が濡れないよう、全身で庇うように抱きしめる。その勢いのままに、素早く体を半回転させ、背中で水を受けた。
「冷てぇっ!」
反射的に声を上げたが、真夏であるので、実のところ、それほど冷たいわけではない。水流の衝撃も、まったく痛くないわけではないが、せいぜいルイフォンに叩かれた程度である。
……ただ、見事に水を被った。
濡れた服が肌に張りつき、地味に気持ち悪い。背中への直撃だったため、ズボンにはたいした被害がなかったのは幸いだが、シャツは脱いで絞ったほうがよさそうだ。この気温なら、すぐに乾くだろう。
そんなことを考えていると、胸元で鋭い声が上がった。
「リュイセン! 大丈夫!?」
腕の中のアイリーが、彼を見上げる。下がりきった白金の眉と、潤んだような青灰色の瞳。深刻を絵に書いたような大げさな表情に、リュイセンは思わず、吹き出した。
「そんなに心配するな。たかが水だぞ?」
「な、なんで笑うのよ! だって、リュイセンが私の盾になって……。心配するのは当然でしょう!」
彼女自身も、少し過剰な反応だったと思ったらしい。顔を赤らめながら、ぷうっと剥れる。
……しかし、手を握られただけで狼狽していたのに、抱きしめられていることを意識していないあたり、まだまだ動揺しているのだろう。
リュイセンは「心配してくれて、ありがとな」と告げると、彼女が抱擁の事実に気づく前に、そっと腕を解いた。
「すまないが、シャツを乾かしたい」
アイリーの体も冷え切っていたことだし、水遊びは、ここらが潮時だろう。名残惜しくはあるけれど、ふたりは滝から離れた。
陽射しに弱いアイリーには木陰に入ってもらい、濡れ鼠のリュイセンは、日当たりのよい乾いた岩場へと向かう。
びしょ濡れのシャツを絞ろうと、脱ぎかけたときであった。
「きゃぁっ!」
驚いたような、焦ったような悲鳴が上がる。
「え?」
「ご、ごめんなさい。……と、殿方の肌なんて、見たことないの! だ、だから……、その……」
呆けた顔のリュイセンに、しどろもどろのアイリーが俯く。ちらりと見えた耳たぶは、火照ったように真っ赤だった。
どうやら深窓の令嬢である彼女には、人前で脱ぐという発想はなかったらしい。服を着たまま、日なたで風に当たって乾かすものと思っていたようだ。
「すまん。あまりにもびしょ濡れだから、絞らせてほしい。少しの間でいいから、お前は後ろを向いていてくれ」
「う、ううん。リュイセンは、私のために濡れたんだもの。私は責任を持って、リュイセンを見届けるわ」
「…………」
よく分からない責任の取り方である。
凶賊というお家柄、常に体を鍛えることを念頭に置いているリュイセンにとって、鍛錬の汗を拭くなどで、半裸になるのは日常茶飯事。誰が見ていようが、構うことはない。
……しかし、固唾を呑むように見守られては、さすがに落ち着かない。
意識すればするほど、気恥ずかしさが増していくので、リュイセンは腹を括って、一気にシャツを脱ぎ捨てた。
その瞬間――。
「――――! リュイセン――!?」
先ほどとは、まるで異なる、絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
7.白金に輝く漣に-3

ただならぬ、アイリーの悲鳴。
リュイセンが驚いて振り向けば、彼女は蒼白な顔で口元を覆っていた。小刻みに震える指先までもが白いのは、もはや冷水のためではあるまい。
「どうした!?」
リュイセンは、神速でアイリーのもとへと駆け寄る。
「な、なんでもないわ! 私が、分かっていなかっただけ……」
「なんでもない、って。そんなわけないだろう?」
アイリーは、どことなく悲痛な面持ちで、唇を噛んでいた。リュイセンとしては、戸惑うばかりである。
途方に暮れていると、気まずそうに彼女が目線を上げた。彼を困らせている自覚があるのか、逡巡しながらも、ぽつり、ぽつりと口を開く。
「リュイセンは、凶賊だもの。当然のことなんだ――って、受け止めなきゃいけないの。……きっと、勲章なんでしょう?」
「?」
何を言いたいのか、まるで理解できない。
リュイセンが呆然と立ち尽くしていると、アイリーは大きく息を吸い込んだ。そして、意を決したように、リュイセンの裸の胸に触れる。
「!?」
反射的に身を引こうとした瞬間、アイリーの涙声が耳朶に届いた。
「酷い傷跡……」
胸から腹へと、細い指先が、感触を確かめるように、おずおずと動く。
それから、変色した皮膚に淡い色合いの唇を寄せ、まるで口づけるように触れたかと思うと、ふわりと抱きついてきた。先ほどまで、彼の半裸姿に緊張していたのが嘘のように。ごくごく自然な動作で背中に手を回し、傷ついた獣を慈しむかのように、彼の素肌を切なげに撫でる……。
「!」
迂闊だった。
何も考えずにシャツを脱いでしまったが、リュイセンの腹には深い太刀傷があり、背にも大きな袈裟懸けの跡がある。こんな醜い刀痕を見れば、驚くのは当然だった。
凶賊である以上、負傷は免れない。
しかし、この傷は少々、次元が違う。
数ヶ月前。菖蒲の館への潜入作戦のとき、〈蝿〉との死闘の末に負った傷だ。
天才医師でもあった〈蝿〉の治療により一命を取り留めたが、そのまま囚われの身となり、ミンウェイのためにと、一族を裏切った。――あのときの傷跡だ。
「この怪我をしたとき、リュイセンは痛かったわよね。辛かったわよね……」
縫合された皮膚の引きつれを確かめるかのように、アイリーの指先が傷跡をなぞる。
優しく労るように。繰り返し、何度も。
視力の弱い自分は、目で見ても、彼の苦痛を量りきれない。だから、こうして触れて感じ取りたいのだ――とでも言うように……。
「怖くないのか?」
すっかり忘れていたが、部下の凶賊たちでさえ、庭先で鍛錬の汗を拭くリュイセンの姿に、初めは息を呑んだのだ。荒事とは無縁のアイリーなら、恐怖を覚えたとしても不思議はないだろう。
なのに、彼女は、この惨い傷跡に痛ましげに触れてきて……。
リュイセンは困惑する。
「この傷が、まったく怖くない、って言ったら、嘘になるわ。けど、それより、リュイセンが、いつ大怪我を負ってもおかしくないような世界にいるのが嫌……」
アイリーはそう言ってから、失言だったとばかりに、はっと顔色を変えた。それから、困ったように白金の眉を寄せ、もどかしげに告げる。
「凶賊が悪いとか、リュイセンが凶賊なのが駄目、ってことじゃないのよ。だって、リュイセンは、凶賊として矜持を持って生きている。否定したくないわ。――ただ、リュイセンの世界は、危険と隣り合わせなんだ、って思ったら……」
拙くとも懸命な言葉を落とし、彼女は俯く。駄々をこねた子供が、どうにもならない現実を悟り、押し黙るしかなかったように。
アイリーの言いたいことは、直感で理解できる。何より、彼女はさっき、リュイセンの傷跡を『勲章』だと讃えてくれたのだ。
項垂れた肩の儚さは、彼への憂心ゆえで……。
ぐらり。
リュイセンの心が、大きく揺れ動いた。
それを契機に、勢いよく胸が高鳴り始める。
――駄目だ……!
華奢な肩に伸びかけた手を握りしめた。
今までだって、彼女を運ぶために抱き上げたり、庇うために抱き寄せたりしてきたが、きちんとした目的も理由もあった。けれど、ここで抱きしめたら、それは、まったく別の意味になる。
感情を制御できなくなりかけた――という事実に、リュイセンは焦った。ちらりと覗く、白い項から目を逸らし、鼓動を鎮める。
この『ドライブ』は、アイリーの憧れを叶えるためのものだ。
〈神の御子〉という容姿を持って生まれてきた彼女は、次代の王に玉座を繋ぐためだけに存在する、いわば生贄だ。甘い恋愛は許されない。
だから。
リュイセンは憐憫の情から、『恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポットに行ってみたい』という、小さな願いを叶えてやりたいと思った。――あくまでも、彼女のために、だ。
その過程で、まるで恋人のような振る舞いもしたが、それは擬似的なものにすぎない。
陽炎が見せる、幻影と同じだ。
たとえ彼女が錯覚を起こしたとしても、リュイセンまでもが惑わされてはならない。
彼女は『女王陛下』なのだから。
「リュイセン」
おずおずといった体で、アイリーが顔を上げた。
「もし、リュイセンが嫌でなかったら、この傷を負ったときのことを教えてくれる?」
「え……」
想像もしていなかった発言に思考を遮られ、彼は戸惑う。――と、同時に、冷静さを取り戻すことに成功した。
「嫌ならいいの。無理は言わないわ」
きゅっと結ばれた口元に反し、彼女の目元は気弱に揺れていた。刀痕の事情を知らないからこそ、漠然とした不安を感じているのかもしれない。
「別に隠すようなことじゃないから話すよ。そもそも、この傷は、お前が想像しているような凶賊同士の抗争で受けたものじゃないんだ」
「えっ!?」
「屋敷で『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを話しただろう? そのときに出てきた、『ライシェン』を作った〈蝿〉という男。――彼との争いの中で、この傷を負ったんだ」
リュイセンがそう告げた瞬間、アイリーは、きょとんと目を丸くした。刀傷といえば凶賊の抗争、という発想であったためか、すぐには理解できなかったらしい。
ひと呼吸以上の間をおいてから、「なんですって!?」と、大きく音程を外した声が、澄んだ青空に響き渡った。
「それじゃあ、リュイセンは『デヴァイン・シンフォニア計画』のせいで、こんな酷い傷を負ったというの!?」
眉尻の上がった綺羅の美貌が、責め立てるように彼へと迫る。
――実は。
リュイセンは、アイリーに菖蒲の館でのことを――彼が囚われ、〈蝿〉の部下となっていたことを話していない。すべてを語れば、あまりにも長くなるため、セレイエと『ライシェン』のことを中心に話をまとめ、その他は大きく端折ったのだ。
「……違うか」
「え?」
ぽつりと落とされた低音に、アイリーは首をかしげる。
「『話が長くなるから』じゃねぇな。俺自身が、自分の格好悪いところを隠したかっただけだ」
リュイセンは目元を緩め、穏やかに笑った。愚かさを自覚しながらも、懸命だった自分を思い出し……、ほんの少し、胸が痛むのを感じる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』はさ、セレイエが息子のために作った計画で間違いないんだけど、〈蝿〉と……ミンウェイの運命を大きく変えたんだよ。――俺は一族を裏切って、それから、最後の総帥になるために戻ってきたんだ」
「ちょ、ちょっと、待って! ごめんなさい。全然、話が見えないわ!」
「そうだよな。すまん」
リュイセンは、面目なげに苦笑する。こんな話し方では、アイリーを困らせてしまうだけだろう。
申し訳ない気分で彼女を見やれば、彼の話を聞きたいと、真剣そのものの表情で、じっとこちらを見つめている。
だから、思った。
彼女に、すべて話したい、と。
話して、どうなるというわけではないけれど、ただ聞いてほしい。
もはや過去のものとなった、ミンウェイへの恋心さえも――。
「アイリー。俺は話し下手だけど、聞いてくれるか?」
「うん!」
彼女は黒いパーカーを脱いで、日影の平らな岩の上に広げた。お気に入りのワンピースが汚れないように気をつけながら、そっと腰掛ける。どことなく得意げな表情から察するに、聞く準備は万全だ、ということらしい。
そんな様子に、思わず笑みを溢していると、今度はパーカーの裾の部分を伸ばし、リュイセンにも座るようにと勧めてきた。――が、それは丁重に断る。
さすがに狭すぎるし、リュイセンのズボンなど、汚れてもどうということはない。……それに、並んで座れば、彼女との距離が近すぎるだろう。
リュイセンは、アイリーと向き合うような形で腰を下ろした。
そして、比翼連理の夢を見た〈悪魔〉と、その記憶を受け継いだ『彼』の話を語り始めた。
ミンウェイは、誰かに〈蝿〉のことを話すときには、自分がクローンだったことも包み隠さずに明かすようにと、皆に頼んでいた。そうでなければ、〈蝿〉の――そして、ヘイシャオの本心が伝わらないから、と。
長い話を終え、リュイセンは、すっかり乾いたシャツを身につけた。そして、アイリーは、白いはずの瞼を真っ赤に腫らして泣きじゃくっていた。
「ごめんなさい、リュイセン。私が泣いたって、仕方がないのに……。……でもね、誰もが辛かったんだな、って。誰か、じゃなくて、皆が……」
しゃくりあげる声を、滝の音が優しく包む。
傾きかけた陽射しが涙に反射して、柔らな色合いを帯びた光が、きらきらと流れ落ちた。
「仕方なくなんかねぇよ。……聞いてくれて、ありがとな」
リュイセンは微笑み、滝からの水流に目を向けた。この流れは、やがて大きな川となり、〈蝿〉たちの墓のある海へと繋がっていく。アイリーの涙も、きっと彼らに届くことだろう……。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、多くの人を巻き込んで不幸に陥れた。このことは、どうしようもないほどの事実だ。――けど、〈蝿〉とミンウェイは、結果として救われたと思うし、俺自身も、前よりは少しはマシな人間になれたような気がする」
「リュイセン?」
「諸悪の根源は、『デヴァイン・シンフォニア計画』じゃねぇんだよ。もとを辿れば、創世神話とか、〈神の御子〉とか、王家と鷹刀の関係とか――古くからの因習のようなものが根底にあるんだ。……ちょっと壮大過ぎて、実感が湧かねぇけどさ」
祖父イーレオは、ずっと昔から、凶賊としての鷹刀一族の解散を考えていたという。初めてその話を聞いたときには、裏切られたような気持ちになったものだが、今は、それこそが目指すべき道だと、リュイセンも思う。
「たぶん、絶対に悪い『何か』なんてないんだ。……だからさ。大切なのは、自分が、どんなふうに生きていくか、だ」
断言してから、脈絡のないことを口にした気がして、リュイセンは「うまく言えねぇや」と頭を掻いた。
けれど、アイリーになら、きっと伝わっているはずだ。
リュイセンは、すっと立ち上がり、天空を望んだ。挑むような漆黒の眼差しで、魅惑の低音を響かせる。
「俺は、鷹刀の最後の総帥になる」
漆黒の髪を風になびかせ、誓いを立てる。
仰ぎ見る、山に。
流れ着く、海に。
鷹刀に『凶賊』――『闇を統べる一族』の称号を与えた、王家の末裔であるアイリーに。
「創世神話に、『罪人』と記された鷹の一族は消える。鷹刀は、あらゆる古のしがらみから解き放たれ、自由になる」
最後の総帥として、リュイセンは一族を幸せに導く。鷹刀という場所が、心の拠り所として大切であることを尊びつつ、時代遅れとなってしまった凶賊という楔から、皆を解放する。
「俺は、やるべきことをやるよ」
決然と告げてから、はっと我に返り、照れくさくなってきた。アイリーに、おかしく思われていないだろうかと、どぎまぎと彼女を振り返る。
アイリーは先ほどと変わらず、岩の上に、ちょこんと腰掛けていた。
「リュイセン……」
小柄な彼女は、ぐっと頭を傾け、白い喉を無防備に晒しながら、長身の彼を見上げる。白金の髪が風に弄ばれ、ひらひらと舞い乱れた。
「リュイセンは凄いわ。――そして、強い……」
まるで、天に焦がれるかのように、彼女は眩しげに青灰色の瞳を細める。
創世神話に謳われる、天空神そのものの姿をした女王陛下。
その綺羅の美貌は、諦観の色に染まっていた。あたかも、地上に繋ぎ止められ、抗うことのできない生贄の如くに――。
彼女の憂うような面差しを目にした瞬間、リュイセンは思わず呟いた。
「鷹刀だけが解き放たれるなんて、不公平だ……」
彼は、すっと腰を落とした。地面に片膝を付き、彼女と目線を合わせる。青灰色と漆黒――天と地を表したような瞳が、同じ高さで互いを映す。
そして、好戦的なまでの魅惑の低音を、静かに響かせた。
「お前も、最後の王になればいいんだ」
8.久遠の黄昏-1

『お前も、最後の王になればいいんだ』
赤みを帯びてきた空に、魅惑の低音が木霊する。
「え……」
アイリーは小さく声を漏らした。
けれど、あまりの衝撃に、その先の言葉が続かない。
「お前が女王になったのは、その外見のためだ。創世神話に『神の姿を写した者が、王になる』と書いてあるから。――お前自身が、王位を望んだわけじゃないだろう?」
リュイセンの問いかけに、アイリーは声を失ったまま、こくりと頷く。
「あの創世神話は、王家の始祖が、都合のいい『神』をでっち上げた嘘っぱちだ。そんなもののために、お前が自分の人生をフイにする必要はない」
「で、でも……」
「お前のため、ってだけじゃないさ。お前の次の王が『ライシェン』でも、お前のクローンでも、その外見を持っているから、という理由だけで王に選ばれたら、きっと不幸だろう」
「……っ」
「だから、お前の代で、この馬鹿げた王位の継承を終わりにするんだ。――勿論、お前の命を狙うテロリストのような奴らの言いなりになるのとは違う。新しい、公平な仕組みに移行するんだ」
「……できるかな、私に」
かすれた呟きは、力なく爪弾かれた琴の音に似ていた。
弱々しい音色を奏でた手つきそのものの、危うげな指先が、リュイセンへと伸びる。まるで、惹き寄せられるように。あるいは、縋るように。
アイリーは座っていた岩から立ち上がり、片膝を付いたままのリュイセンにしがみついた。
彼女の行動の意味が分からず、彼は狼狽する。混乱した頭には、大切なワンピースの裾が汚れるぞ、などという、的外れなことしか思い浮かばない。
「アイリー?」
リュイセンの呼びかけに、アイリーは、ぎこちなく顔を上げた。彼のシャツを握る手が、小刻みに震えている。
「『最後の王』ってことは、この国から王様をなくす、ってことでしょう? 王政の廃止だわ。この国の在り方が、根本から、がらっと大きく変わってしまう。――私は、どうしたらいいの……?」
「――っ、すまん! 考えなしだった!」
リュイセンの全身から、さぁっと血の気が引いていく。
自分が『最後の総帥』なら、アイリーは『最後の王』になればいい。何故なら、鷹刀と王族は、共に黴の生えた悪しき因習に縛られた一族なのだから――と。ただ、それだけの安易な発想だった。
しかし、鷹刀一族と王家では、組織の規模に隔絶の差があるのだ。終焉の日を迎えたとき、余波を受ける人間の数は桁違いだろう。同列に扱うのは、あまりにも乱暴だった。
「無責任なことを言った。忘れてくれ!」
リュイセンは、アイリーにしがみつかれた姿勢のまま、可能な限り、低く頭を下げる。
無論、アイリーが女王として、一生を費やすことが正しいとは思わない。彼女は自分の人生を歩むべきだと、リュイセンの直感は告げている。
しかし、いくらそれが真理だったとしても、いきなり『最後の王になれ』と言うのは、一足飛びにもほどがある。
鷹刀一族は、緩やかな解散に向かうべく、イーレオが何十年も掛けて、水面下で動いてきたのだ。リュイセンは、その流れを引き継ぐだけだ。
鷹刀一族と王家では、まったく状況が異なるのである。
自分の至らなさに、リュイセンは面目なく俯く。
まったく、本日、何度目の自己嫌悪なのやら。……もはや、数えるのも不可能だ。
リュイセンが打ちひしがれていると、彼の頭上から大きく首を振る気配。そして、その影響のためにか、激しく揺れ乱れるアイリーの声が届いた。
「ち、違うの! そうじゃないのよ! リュイセンが謝る必要はないの! だから、頭を上げて」
「だが、俺は勝手なことを……」
口ごもるリュイセンの服を、アイリーは上を向いて、とばかりに、ぐいと引く。勿論、華奢な彼女の力では、屈強な彼の体は、びくともしない。だが、困ったように寄せられた白金の眉に、漆黒の瞳が惹きつけられた。
「『最後の王』って言われて、驚いたわ。――怖いと思ったし、心細くもなった。……でも、それは、リュイセンの言うことが正しいと思ったからよ」
「!?」
リュイセンは耳を疑い、アイリーの顔を凝視する。
彼女は微笑み、「決めたわ」と、すっと立ち上った。
「私は、この国の最後の王になるわ」
ぽん、と。
妙なる音色が鳴り響いた。
白蓮の如き顔は、現実の蓮の花ではあり得ない、黄昏の色に染まっている。それは、あたかも『不可能を叶える』という決意を象徴するかのようで――。
「アイリー!?」
リュイセンは目を見開き、彼女を追いかけるように立ち上がる。
「あ、あのね。私はこれでも王族だから、創世神話を作った、ご先祖様のことを悪く言うことはできないの。私の身分が保証されているのは、あの神話のお陰だってことを理解しているもの。――でも!」
彼女は、そこで大きく息を吸って、吐き出す。
「創世神話のために、〈神の御子〉だった先王や、伯母様が苦しんできたことを、私は知っているわ。……ううん。〈神の御子〉を産むように強要されてきた先王妃だって、黒髪黒目で生まれたカイウォルお兄様や、ヤンイェンお異母兄様だって……、皆……」
切なげに唇を噛み締め、アイリーは視線を落とす。
けれど、すぐに、ふわりと白金の髪を揺らし、青灰色の瞳で天空を仰いだ。
「だから、あの創世神話は終わりにするの」
天空神が住むという、天上の世界に向かって、彼女は告げる。
「王位は、『ライシェン』には引き継がないわ。勿論、私のクローンも作らない」
きっぱりと断言し、小柄な体躯が、ひと回り大きく見えるほどに胸を張る。だが、華奢な肩は、背負いきれぬほどの重責に震えていて……。だから、これは精いっぱいの強がりだ。
リュイセンは奥歯を噛んだ。
彼女に、なんと声を掛ければよいのだろう?
もともとは、リュイセンが『最後の王』などという無茶苦茶を言って、けしかけたのだ。ならば、『無理をするな』と言うのは身勝手で、かといって、『頑張れ』と背中を押すのも無責任だ。
それでも、何か。気遣いのひとことか、励ましのひとことか。この場にふさわしい言葉をと、リュイセンは焦る。
……けれど、同時に。
彼女には申し訳ないほどに、胸が踊っていた。
『諸悪の根源は、『デヴァイン・シンフォニア計画』じゃねぇんだよ。もとを辿れば、創世神話とか、〈神の御子〉とか、王家と鷹刀の関係とか――古くからの因習のようなものが根底にあるんだ。……ちょっと壮大過ぎて、実感が湧かねぇけどさ』
先ほど、リュイセン自身が言った台詞だ。
この古い因習を、根本から断ち切る。
リュイセンが鷹刀一族を解散し、アイリーが王家を終焉に導いて。
壮大過ぎて、実感が湧かないが、未来はきっと希望で満ちている。
そう思うと、心が昂ぶってたまらない……。
「リュイセン? どうして笑っているの?」
天空から、地上のリュイセンへと視線を移したアイリーが、きょとんと首をかしげた。
彼女に問われ、彼は、はっと慌てて自分の頬に手を当てる。この緩んだ表情について、なんと説明したものかと思案するも、頭の中は真っ白だ。
「すまん。……その、嬉しかったんだ。お前の決意が……」
とにかく何かを答えなければと、無理やりに声を発すれば、案の定、しどろもどろの低音だった。けれど、その瞬間、アイリーが満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう! 私も、リュイセンにそう言ってもらえて嬉しいわ!」
ぐっと爪先立ちになり、抱きつかんばかりの勢いで、無邪気に距離を詰める。
情けない訥弁を喜ばれ、リュイセンは、気恥ずかしさに、思わず弁解する。
「気の利いたことを言えなくて、ごめんな」
面目なく目線を下げた彼に、彼女は、ぶんぶんと首を振った。
「リュイセンは、まっすぐで不器用なところがいいの!」
そう言ってから、彼女は、しまった、というように口元を覆う。
「ごめんなさい! あ、あのね。不器用な――っていうのは、飾らない、って意味なのよ……?」
アイリーは首をすくめ、ただでさえ小さな体を更に縮こめた。気まずさを誤魔化そうとしているのか、青灰色の目を泳がせ、拗ねたように唇を尖らせる。
ころころと変わる表情に、リュイセンはわずかに面食らい、やがて、「ありがとな」と、目元を緩めた。
8.久遠の黄昏-2

いくら夏の日が長くとも、永遠に陽が沈まないわけではない。
物悲しい気持ちを抱えつつリュイセンは帰路へと車を走らせていた。
目的地は、神殿の隣にある庭園。そこに、神殿の『天空の間』へと繋がる、秘密の通路の入り口があるのだと、先ほどアイリーが教えてくれた。
彼女の脱走は既にばれているので、直接、王宮に向かうことも考えた。しかし、摂政と鉢合わせの可能性があるため、予定通り、こっそり神殿に戻ることにしたのだ。
「ねぇ、リュイセン。私が最後の王になるのは決定だとしても、国民に対して、いい加減なことはできないわ。そもそも、『国』って、なんなのか――女王様のくせに、私はちゃんと分かっていないと思うの。まずは、そこから勉強しないと」
助手席のアイリーが、興奮気味に口を開く。
「私が賢くなるまでは、お兄様たちに『最後の王』のことは秘密だわ。カイウォルお兄様には一笑に付されるだけでしょうし、ヤンイェンお異母兄様だって、やんわり窘めると思うの」
「俺も、次期総帥の位に就いてから、本当に知らないことだらけだと思ったよ。ずっと勉強の毎日だ」
「リュイセンもなの!?」
彼女は「お互い、大変ね」などと言いながらも、実に楽しそうに笑った。
ほんの数十分前に思いついた、『最後の王』計画は、現状では、ただの夢物語だ。けれど、何ごとも望まなければ叶わない。
リュイセンは、ほのかに胸を弾ませつつ、この時間の終わりを惜しんでいた。今度、逢えるのはいつだろうかと思いを巡らせながら、彼女の横顔を瞳に灼きつける。
そして――。
異変は、神殿の尖塔が見え始めたころに起きた。
「――っ」
リュイセンは、本能的な恐怖を覚えた。悪寒が走り、全身から冷や汗が吹き出す。
彼は周囲に視線を走らせた。だが、車窓からの眺めは極めて普通の街並みで、バックミラーに映る風景にも、なんら異常は見当たらない。
――どこにいる?
目視では、まだ確認できていない。
けれど、自身の生命を脅かす存在を、確かに感じた。
「リュイセン? どうしたの?」
彼の様子がおかしいことに気づいたのだろう。アイリーが、シートベルトをいっぱいに伸ばして顔を覗き込んできた。だが、すぐに、何者かの襲撃の可能性に思い至ったらしい。彼女は表情を固くして、さっと身を低くする。
「……すまん。嫌な気配を感じるんだが、位置を掴めない」
空調を効かせた車内とはいえ、背筋が凍りつくような感覚は尋常ではない。それでいて、相手の場所が分からないとは、初めての経験だった。
――こっちは車で移動しているんだぞ? 何故、ずっと同じように気配を感じる?
事態を把握できず、リュイセンは焦燥に駆られる。
敵も車に乗っていて、追いかけてきているのだろうか? ――彼はそう思い、アクセルを踏み込む。だのに、気配を振り切るどころか、むしろ近づいたような気がした。
――どういうことだ……?
もうすぐ、目的地に着く。
しかし、謎の敵に狙われているのであれば、迂闊にアイリーを車から降ろすわけにはいかない。
「リュイセン、顔色が悪いわ……」
かがんだ姿勢のまま、アイリーが心配そうに呟く。その彼女だって青ざめている。一騎当千の猛者であるリュイセンが、脂汗を滲ませているのだ。不安になって当然だろう。
彼女を安心させようと、彼は、更に加速しようとして……。
――――!
直感が警鐘を鳴らした。
正面だ!
リュイセンは秀眉を逆立て、漆黒の眼を見開く。
その視界に映るものは――。
「神……殿……!」
天空神フェイレンを祀った、この国の信仰の象徴。王宮とはまた違った意味で、国の中枢を担う場所である。
黄昏の光を浴び、白亜の建造物は神々しいばかりに黄金色に輝く。大華王国が誇る、優美な神の宮に向かって――。
リュイセンは総毛立てた。
この不快な感覚の正体が分かったのだ。
彼は、慌てて急ブレーキをかけた。落ち着かなければと、路肩に車を停める。
「神殿が、どうしたの?」
緊張の面持ちで、アイリーが尋ねた。『神殿』と呟いたあと、不可解な挙動をしたリュイセンに困惑しているのだ。
無理もない。
神殿は、神の代理人たる王の、第二の居城。アイリーにとっては、王宮での政務に掛かり切りの、口うるさい摂政の目を逃れることのできる、居心地のよい別荘だ。
リュイセンは、どことなく申し訳ない気持ちになりながら、乾いた声で告げる。
「神殿に『いる』んだ」
「え? 何が『いる』の?」
「〈冥王〉が。……鷹刀を喰い続けた、化け物が」
この感覚は『殺気』というよりも、リュイセンの内側から生じる、純粋な『恐怖』に近い。
たとえ千の敵を前にしても動じることのないリュイセンであるが、地震や大嵐といった、人の力では抗うことのできない自然の脅威を前にしたら、さすがに足がすくむ。――そういう類の感情だ。
〈冥王〉は、鷹刀一族の遺伝子に刻み込まれた鬼門。
少し前、一族とは縁を切ったはずの兄レイウェンが、祖父イーレオに相談を持ちかけてきた。自ら鷹刀の名を捨てた兄が祖父を頼ったのは、一族を抜けて以来、初めてだったように思う。
なんでも、兄の娘――すなわちリュイセンの姪であるクーティエが、女王の婚約の儀の舞姫に選ばれたらしい。その関係で、儀式を司る神殿に行ったら、彼女は得も言われぬ恐ろしさを味わったのだという。
この原因について、心当たりはないかと、レイウェンはイーレオに問うたのだ。
「祖父上は『〈冥王〉は、今もなお、鷹刀の血を引く者を喰らおうとしているのだ』と、言っていた」
両親が血族婚ではないクーティエは、生粋の鷹刀ではないが、それでも戦慄が止まらなかったという。半分だけ血族のクーティエでこうなのだから、生粋の血を持つリュイセンなら言わずもがなだろう。
「そんな……」
アイリーは顔色を変え、それから、すぐにリュイセンへと身を乗り出した。
「リュイセン、大丈夫? 私は、どうすればいい?」
「別に危険はないんだ。祖父上によれば、『そういうもの』だと慣れてしまえば、そのうち気にならなくなるらしい」
「そうなの?」
腑に落ちない表情で小首をかしげるアイリーに、リュイセンは「大丈夫だ」と重ねる。
「近づかなければ、喰われることはないと聞いている」
「でも……」
「ええと、祖父上は『自然災害の映像を見ているようなもの』だと言っていた。為す術もない脅威に畏怖を覚えるけれど、現実の俺の身に害が及ぶわけじゃない」
全身が粟立つような感覚を封じ込め、リュイセンは、自分に言い聞かせるように口角を上げる。
もうすぐ、アイリーとの別れの時間だ。見送りの際には、心から笑って手を振りたい。だから、こんなつまらぬことで、顔を曇らせていてはいけないのだ。
「分かったわ」
アイリーが、きゅっと口元を引き締めた。きらきらと輝く青灰色の瞳は、何かを思いついた証拠だ。
「今すぐは無理だけど、いずれ〈冥王〉を破壊しましょう。ルイフォンに、そう伝えて」
「なっ!?」
「だって、リュイセンの気分が悪くなるのは嫌だもの。それに、〈冥王〉の破壊は、セレイエとルイフォンのお母様の願いだったはずよ。そのために、〈ケルベロス〉という手段まで用意してくれたんでしょう?」
「それは、そうなんだが……」
鷹刀一族にとって、忌むべき存在の〈冥王〉だが、王族のアイリーにとっては、先祖から受け継いできた大切な遺産のはずだ。
戸惑うリュイセンに、アイリーが強硬に告げる。
「〈冥王〉は、役目を終えたのよ。だから、天空に還すの。――最後の王になる私が、そう決めたの」
〈冥王〉は、他人から『情報を読み取る』能力を持った、王族のために作られたもの。彼らの脳に掛かる負荷を肩代わりして、彼らの命を守るために。
けれど、もう、そんな悲しい能力を持った子は生まれない、生まれてはいけない……。
強気に微笑む横顔からは、そんな祈りが聞こえた。
「そうだな。俺も、〈冥王〉は破壊するのがいいと思う」
「ありがとう!」
リュイセンの相槌に、アイリーが、ぐっと間合いを詰めてきた。鼻先をかすめる白金の前髪に、どきりと心臓が跳ねる。
それでも、無邪気に近づいてくる肩を抱き寄せてはならないのだ。
それは、筋の通らぬことであるから――。
9.泡沫の出逢いの先で

やがて、リュイセンの運転する車は、目的の庭園に到着した。
園内の目立たないところに建てられた小屋が、神殿の『天空の間』へと繋がる地下通路の入り口であるらしい。
駐車場で車を停め、アイリーは黒装束姿に戻った。だから、今は白金の髪はフードで覆われ、青灰色の瞳はサングラスの奥に隠されている。
眩しさを感じやすい瞳の彼女が、夕暮れどきにサングラスを掛けたら、どのように見えるのかは分からない。けれど、なんとなく、足元がおぼつかなくなるような気がして、リュイセンは、そっと彼女の手を取った。
長身の彼と、小柄な彼女と。
高さの違う指先が、ぎくしゃくと繋がれ、黄昏色の世界を並んで歩く。
「リュイセン、今日はありがとう」
遠くに小屋が見えてくると、アイリーが静かに口を開いた。
もうすぐ、別れのときだ。
どちらからともなく立ち止まり、互いに向き合う。
夕闇を帯びた風が、ふたりの間を吹き抜ける。アイリーは、フードが脱げてしまわないように気をつけながら、ゆっくりとリュイセンを見上げた。
「初めてのドライブ、凄く楽しかったわ」
「俺も楽しかった。ありがとう」
こんな決まり文句のような台詞ではなく、もっと彼女の心に響く言葉を残したい。けれど、口下手なリュイセンの頭には、まるで何も浮かばなかった。
……それで正しいのだと、自分に言い聞かせた。
彼女は『女王陛下』なのだ。
たとえ、『最後の王』となり、のちに自由を得たとしても、現時点の彼女は『女王』。
今は、余計なことを考えてはいけない。それは、彼女のためにならないし、彼のためにもならない。
別に、彼女とは、今日だけで終わる縁ではない。だから、このまま黙って手を振ればいい――。
そのとき、アイリーが硬い声で叫んだ。
「ね、ねぇ、リュイセン……!」
慌てたような早口は、リュイセンの挨拶を遮るため。勿論、彼は、そんなことを知る由もない。
彼はただ、『陽が陰っているから大丈夫』と言って、フェイスカバーを外したままにした彼女の白い頬が、黄昏に染められて赤みを帯びていると思っただけ。――断じて、自分を見つめているからではない。その証拠に、彼女の視線は無機質ではないか、と。
「あ、あのね、『最後の総帥』と『最後の王』って、運命的な組み合わせだと思わない?」
胸が踊るような、心地の良い響きだった。
はにかむような仕草が、論理的な思考を努めていたリュイセンの心に漣を立てる。
……彼女の声は、『恋する乙女』のそれだった。
「アイリー……」
リュイセンの心臓が、早鐘を打ち始める。
『最後の総帥』と『最後の王』――共に、久遠に続くと思われた、創世神話からの流れに、終止符を打つ者。確かに彼女の言う通り、運命めいた響きをしている。
だが、初めに『最後の総帥』と『最後の王』という言葉を持ち出してきたのは、他ならぬリュイセンなのだ。
自分が『最後の総帥』なら、アイリーは『最後の王』になればいい。何故なら、鷹刀と王族は、共に黴の生えた悪しき因習に縛られた一族なのだから。――そんな思いで、『最後の王』と口にした。
それだけの安易な発想。
運命などではなくて……――リュイセンが強く、望んだものだ。
彫像のように押し黙ってしまったリュイセンを前に、アイリーが鋭く息を呑んだ。
「なんでもないわ。――そ、それじゃ、またね!」
くるりと踵を返し、黒づくめの背中が、ひとりで小屋へと向かう。
「あ、おい。待て!」
小走りに去ろうとする肩を、リュイセンは神速で掴んだ。
「きゃぁっ」
「すまん!」
謝りつつも、素早く前に回り込み、彼女の行く手に立ちふさがる。
小柄な彼女は、彼よりも頭ふたつ分は小さい。
暴力にも等しい体格差で引き止めるのは、卑劣な行為だ。そんなことは分かっている。けれど、このまま彼女を見送ることなど、できるはずもなかった。
「アイリー」
彼の呼びかけに、彼女の体が、びくりと動く。
自分の低音が、時に必要以上の威圧を与えることを理解しているリュイセンは、『しまった』と思いつつ、ここで引くわけにはいかなかった。
今日のドライブは、彼女の小さな願いを叶えるための泡沫の夢だ。
陽炎が見せる、幻影と同じ。
仮初めにも恋人のように振る舞えば、免疫のない彼女が錯覚を起こすことは予測できた。ましてや、運命めいた関係なんぞを匂わされたら、すっかり、その気になってしまうのも無理はない。
けれど、彼女が見ているものは、あくまでも幻の恋人なのだ。虚像で、彼女の心を縛りたくはない――。
「お前は俺に、夢と理想を見ているだけなんだよ」
「…………」
先ほど、乱暴に肩を掴まれたからだろう。アイリーのサングラスは、ずり落ち、その隙間から、まっすぐな瞳が覗いていた。黄昏を浴びた虹彩は、黒でもなければ、青灰色でもない。
不思議な色合いにリュイセンが戸惑っていると、円らであるはずの眼が、にわかに尖っていった。
「見くびらないで!」
長身の彼に向かって、彼女が、ぐっと顎を突き出せば、目深に被っていたフードが吹き飛ぶ。外気に晒された白金の髪が、黄昏色に染まる。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を持った〈神の御子〉が、外見を変えた。
「アイリー……?」
目の前にいるのは、間違いなく彼女であるはずで。
けれど、今までの彼女とは、どこか印象が異なっていて。
誰そ彼時とは、よくぞ言ったものだ――などと、場違いな感想を抱きながら、リュイセンは彼女に魅入られる。
彼女は大きく息を吸い込み、尖らせていた目を、ぎゅっと瞑った。それから、意を決したように、リュイセンに抱きついてきた。
「!?」
「わ、私は……、ちょっと優しくされたからって、誰にでもついていくような……、その……、……こ、子供じゃないんだから!」
華奢な肩を震わせ、彼女は腕の力を強める。ぴたりと触れた体から、早鐘の鼓動が伝わってくる。
……その純情な心こそが、危ういんだ。
リュイセンは黄金比の美貌を歪め、渋面となった。
なまじ、自分のほうこそ彼女に惹かれている自覚があるだけに、リュイセンにしてみれば、たちが悪い。
どう言えば理解してもらえるだろうかと、頭を悩ませていると、背中に回された彼女の手が、すっと動いた。
脇腹に近い、低い位置から斜め上に。
肩先に向かって、爪先立ちになりながら……袈裟懸けに。
「――!」
「分かっているわよ。リュイセンから見れば、私なんか、ずっと年下の子供で、危なっかしくて仕方ないんでしょう!? でも、私は、ちゃんと現実のリュイセンという人を見ているつもりよ」
ぷうっと頬を膨らませながら、彼女は拗ねたように唇を尖らせる。けれども、シャツ越しに感じる指先は、どこまでも優しく、彼の背中の刀痕をなぞる。
彼女はこの傷跡を『勲章』と呼んで、彼の生き方を認めてくれたのだ。
リュイセンの心に、横っ面を叩かれたような衝撃が走った。
「……アイリー、俺は……」
思わず口を開いたものの、その先の言葉が続かない。
彼女は、彼の背中を撫でていた手を自分の腰へと移した。そして、明らかに虚勢と分かる、強気の笑顔を振りまく。
「思ったんだけど、リュイセンって過保護だわ」
「!?」
「それから、責任感が強すぎるの。自分がしっかりしなきゃって、ひとりで頑張り過ぎちゃうのよ」
口では毅然としながらも、サングラスの下の瞳は、ちらちらと不安げに、リュイセンの様子を窺っている。ただでさえ鼻眼鏡となっている上に、身長差があるため、目線が丸見えなのだ。
「だって、リュイセンは律儀で、生真面目で、融通が利かなくて、不器用で、要領が悪くて、損ばかりしていて、劣等感まみれで……」
彼へと向かって、彼女が指先を伸ばす。
懸命な爪先立ちで近づいてくる掌に、彼は無意識に惹き寄せられ、腰を屈める。すると、小さな両手が首の後ろに、するりと回された。
「――凄く、優しいの」
彼の耳には、かすれた囁きを。
彼の唇には、ぎこちない口づけを。
精いっぱいの背伸びで、彼女は想いを紡ぐ。
――――!
次の瞬間、彼女の体が崩れ落ちた。
「アイリー!」
リュイセンは神速で、彼女を支える。
筋肉に触れていたから、分かる。
倒れた原因は、無理な姿勢でバランスを崩したため。――そして、極度の緊張のため。
「無茶をするな。いくらなんでも、突っ走り過ぎだろう!?」
腕の中のアイリーに、リュイセンは苛立ち混じりの低音を落とす。
今までミンウェイひと筋だった彼は、特定の恋人を作ったことはない。しかし、それは女性と無縁だった、という意味ではないのだ。
鷹刀の美麗な容姿を持つ上に、一族の後継者という立場がくれば、敬遠されることもあるものの、近づいてくる女だって、あとを絶たない。結果として、いったいどういう星回りなのか、修羅場の場数だけは踏んでいる。
故に、いくらリュイセンが鈍くても、直感で分かる。
アイリーの好意は本物でも、積極的な行為は無茶の証明。――無茶の裏には、必ず理由がある。
「……酷いわ、リュイセン。私は無茶なんて……」
ぷうっと剥れようとして、彼女は失敗した。瞳から涙が零れ、頬の空気が抜けてしまったのだ。
リュイセンは、わずかに逡巡し、それから、アイリーの肩を抱き寄せた。禁じ手として封じていたことだが、ここで胸を貸さないのは人道に悖ると、自分を説き伏せた。
小さな頭が、ことんと胸に寄りかかる。華奢な体は、彼の両腕の中に、すっぽりと収まった。
「……私ね、恋というものをしてみたかったの」
「――へ?」
唐突な発言に、思わず呆けた声が出た。
しまったと、慌てて非礼を詫びようとしたら、あまりにも正直な反応だったためか、リュイセンが口を開くよりも先に、彼女がぷっと吹き出す。
「リュイセン、忘れちゃったの? 今のままだったら、私は血の繋がったヤンイェンお異母兄様と結婚させられちゃうのよ?」
「あ……」
そういえば、ハオリュウを手駒にしたかった摂政は、『女王が、異母兄との結婚なんて嫌。好きな人と恋愛をしたい、と言って泣いている』と説明して、女王の婚約者にならないかという話を持ちかけたのだった。
てっきり摂政の作り話だと思っていたのだが、『女王の涙』の部分に脚色を感じるものの、まったくの嘘でもなかったらしい。
リュイセンは、どんな顔をしたらよいのか分からなかった。
「国民に対して、既に婚約の発表は為されているわ。ただ、『ライシェン』のこととか、カイウォルお兄様の思惑とか、いろいろ、ごちゃごちゃしていて、まだ正式な婚約の儀が済んでいない、というだけ」
「……」
その状況は、リュイセンだって把握している。何故なら、『デヴァイン・シンフォニア計画』と密接に関係する事柄なのだから。
ただ、今までは、『女王』が赤の他人であったため、我不関焉と思っていただけだ。
「私ね、小さいころ、相手がヤンイェンお異母兄様なら、恋愛はできないけど別にいいかなって、思っていたの。……ほら、話したでしょう? お異母兄様のお母様――私の伯母様に当たる方は、降嫁した婚家で〈神の御子〉を産むように強要され続けた、って。……お異母兄様となら、そんなことにはならないから」
ぽつり、ぽつりと声を落とし、最後の台詞で、アイリーは複雑な笑みを浮かべた。見覚えのある諦観の表情に、リュイセンの心が痛む。
「でもね、お異母兄様がセレイエと出逢って、恋に落ちて。私は、恋というものに憧れたわ。ふたりの関係は、綺麗なだけじゃない、共犯者のような恋だったけど――でも、羨ましかったの。……だからね」
不意に、彼女は強気の口調を取り戻す。
「リュイセンの『共犯者』になって、近衛隊を追い返したのは楽しかったわ」
「それで、あのとき、いきなり『共犯者』なんて言い出したのか」
得心するリュイセンに、アイリーは「うん!」と、子供のように声を弾ませる。
「今日一日、リュイセンと一緒にいて、凄く楽しかったわ。夢だったドライブにも連れていってもらったし、女王様じゃない『私』と、リュイセンは、たくさん話をしてくれたの。――ううん、それだけじゃないわ」
アイリーは顔を上げ、まっすぐにリュイセンを見つめる。
「リュイセンと出逢って、私は自分の未来を決めたの。――今まで、周りに流されるままに女王様になった私だけど、これから自分の意志で、『最後の王』になる、って」
ぽん、と。
黄昏の中に、白蓮の花が咲く。
あり得ないはずの、景色が広がる。
「これだけのことがあって、私がリュイセンに寄せる想いが、どうして恋じゃないと言えるの?」
「…………っ」
今日一日、リュイセンは彼女と一緒にいた。
だから、知っている。
彼女は、無邪気に夢見る少女ではない。
真実を――現実を求める者だ。それ故に、鷹刀一族の屋敷を訪れたのだから。
あどけなさのために見落とされがちだが、進むべき道を見誤らないようにと必死に足掻く、不器用で懸命な、立派なひとりの人間だ。
「アイリー」
リュイセンは名を呼び、彼女の肩を抱き寄せる。身の丈に合わない重責を負った、双肩を。
「俺にも、お前にも、背負っているものがある」
彼の言葉に、緊張の面持ちの彼女が、こくりと頷いた。
「俺は『最後の総帥』への道を、自ら望んで引き受けた。その責を果たすことは、俺の誇りだ。……そして、お前は、俺よりもずっと大変な『最後の王』を選ぶという」
「わ、私も、誇りを持って責任を果たすわ」
声を震わせながらも、強気の口調で応える彼女に、リュイセンは口元をほころばせる。
「俺たちは、決して自分の立場から逃げることはできないし、逃げる気もない」
貴族を捨ててルイフォンのもとに飛び込んでいったメイシアと、一族を抜けて『鷹刀の対等な協力者』となったルイフォンのように。
あるいは、自由民となったシュアンと、彼と共に在ることを決めたミンウェイのように。
身ひとつで動き回れる、自由な恋人たちにはなれない。
だからこそ築くことのできる、特別な絆だってあるはずだ。
「アイリー、俺たちは『共犯者』になろう」
「……え、う、うん! ……でも、どんな『共犯』なの?」
「自分の運命を、自分で決める共犯者だ」
そう言って、リュイセンは、目線のまるで違うアイリーをふわりと抱き上げる。
そして、きょとんとしている彼女から、先ほど奪われた唇を奪い返した。
黄昏色の世界を、ふたりで並んで歩く。
長身の彼と、小柄な彼女と。
高さの違う指先が、互いに互いを求め合う。その足元からは、長く伸びた影が重なり合い、ふたりの行く手で寄り添っていた。
~ 第四章 了 ~
幕間 黄昏の言伝

一生に一度の、恋をしよう――。
そのとき私は、たった五つの子供だった。
そんな子供の将来を、伯母様は真剣に憂えていた。
「〈神の御子〉は、今なお、神への『供物』なのよ。――特に、女は悲惨……」
私と同じく『〈神の御子〉の女性』だった伯母様は、降嫁した婚家で、〈神の御子〉を産むよう強要されたという。伯母様が〈神の御子〉を産めば、その子は王位継承権を持ち、婚家は外戚として権勢を誇れるからだ。
「アイリー。あなたには、あんな辛い思いをしてほしくないの」
伯母様は私を抱きしめ、涙ぐむ。
窓から差し込む黄昏の光で、白を基調とした神殿の部屋が、真っ赤に染まっていた。色を持たない私たちの肌も、呪われた王家の血を象徴するかのように、赤と交わる。
自分とそっくりな容姿を持つ伯母様のことを、私は子供のころ、お母様だと信じていた。
何故なら、この国の民は、ほとんどが黒髪黒目で、お父様と伯母様、そして私だけが異色だったのだから。幼い私が、このふたりを両親だと思い込むのは自然なことだろう。
伯母様もまた、私を実の娘のように可愛がり、同時に案じていた。
それは、私が伯母様と同じような目に遭っては可哀想だ、という思いから……というのは表向きで、本当は、ヤンイェンお異母兄様を〈神の御子〉として産むことができなかったことに対する罪悪感――なのだと、なんとなく気づいてしまった。
私がいずれ、女王として立つのは、伯母様のせいではないのに。
体の弱かった伯母様は、ご自分の余命が短いことを知っていたのだろう。
だから、私がまだ小さいころから、私とヤンイェンお異母兄様との婚約を成立させようと、躍起になっていた。事情を理解しているお異母兄様なら、決して、私を不幸にすまいと考えたのだ。
そもそも、伯母様が働きかけなくとも、私が生まれたときから、ヤンイェンお異母兄様は、私の婚約者に内定していたようなものだ。歳が離れすぎていることを理由に反対する勢力はあるものの、血統的には、お異母兄様がもっとも『女王の夫』にふさわしいからだ。
「……ごめんね」
伯母様の涙が、黄昏色に染まる。
「あなたは、恋を知らずに生きることになるわ」
そう呟いた伯母様は、果たして、恋というものを知っていたのだろうか。
伯母様の優しさは、歪んでいたと思う。
悪意のない、純粋な気持ちであったことに間違いはない。元王女として、『〈神の御子〉』に振り回される王族たちが少しでも幸せになれるよう、心の底から願い、奔走していたことは紛れもない事実だ。
けれど、ヤンイェンお異母兄様が、私を守るためだけに存在するような、空っぽの人になってしまったのは、やはり伯母様のせいだと言わざるを得ない。
私も、お異母兄様も、一生、恋とは縁がないだろう。
そう思っていた。
セレイエと出会うまでは。
「アイリー、脱走するわよ!」
ある日、『神に祈りを捧げる』という『公務』で、神殿に行くと、黒髪の鬘と、黒目のカラーコンタクトを手にしたセレイエが、意気揚々と現れた。
「ヤンイェンから聞いたわ。あなた、まともに外を歩いたことがないんですってね。そんなの、もったいないわ」
私は、そのとき、七歳になっていたと思う。世間知らずの箱入り娘ではあったが、それでも、上流階級の令息、令嬢たちが、身分を隠して、こっそり街中で遊んでいることくらい知っていた。
『社会勉強』と称して、親が外に出してくれることもあるようだけど、たいていは内緒の冒険だ。だからこそ、面白い――らしい、とも。
けれど、私は〈神の御子〉だ。この外見では、ひと目で素性がばれてしまう。だから、お忍びなんて考えたこともなかった。
……ああ、でも。
セレイエが変装の道具を用意してくれている……。
駄目、と思っても、私の瞳はセレイエの手元に釘付けだった。心臓が、どきどきと高鳴り、飛び出してしまいそうになる。
「私に任せて! 凄く可愛くしてあげるから!」
鬘の黒髪をさらりと撫で、セレイエは自信たっぷりに口角を上げた。そして、強引に、私を化粧台の前へと連れて行く。
「ま、待って!」
誘惑を振り切らなくちゃと、私は声を張り上げた。
「セレイエの気持ちは嬉しいけど、私は世継ぎの王女なの。私に何かがあったら……。ううん、お忍びがばれてしまうだけでも、セレイエは、ただでは済まないわ」
いくら私が子供でも、王宮で時々、耳にする『ただでは済まない』が『死』を意味することくらい理解していた。
……なのに。
セレイエは、脅える私をふふん、と鼻で笑った。
「何を言っているの? 私は無敵よ」
艶めく美声と共に、セレイエは背中から白金の光を放つ。幾つもの光の糸が絡み合い、繋がり合い、優美に波打つ白金の羽を紡ぎ出す。
「――――っ」
〈天使〉のセレイエ。
何度見ても、溜め息が出るほど綺麗だ。
もともと、目を奪われるような美人のセレイエだけど、〈天使〉の姿になると、神々しいまでの美しさになる。私の〈神の御子〉の容姿なんかより、ずっとずっと神聖を帯びていて……。
「どんな屈強な猛者でも、私の組み上げる命令には抗えないわ。王女だって気づかれたところで、記憶を消せばいいだけよ」
荒唐無稽に聞こえるけれど、セレイエの言うことは真実だ。
何故なら、〈天使〉とは、人間の脳という記憶装置に侵入する、クラッカーなのだから。
セレイエに見惚れていた私は、そこで、はっと我に返る。
「で、でも……!」
羽を使うと、体に負担が掛かるって、ヤンイェンお異母兄様がおっしゃっていたのだ。だから、〈天使〉の力を護衛代わりにしたら駄目だ。セレイエが熱暴走を起こしてしまうなんて、考えたくもない。
私は白金の眉を下げ、困りきった顔で、セレイエを見つめる。
嬉しいけれど、駄目。どう言えば、私の気持ちを分かってもらえるだろうか。
思いを伝える言葉を探している間に、セレイエは、私を無理やり化粧椅子に座らせた。
「セ、セレイエ! 私は今、公務中で……」
「細かいことは気にしないの! だいたい、あなたみたいな子供が『公務』なんて、笑っちゃうわ!」
その台詞の通り、セレイエは覇気に溢れた高笑いを上げながら、ぴしゃりと言い捨てる。
「私がアイリーと出掛けたいから、準備をしているの。邪魔をしないで」
「…………」
セレイエは強引で、自信家で、我儘で、破天荒。――そして、優しい。
今まで、私の周りには、こんなふうに接してくれる人は、ひとりもいなかった。
私は、未来の女王なのだ。――誰もが、そういう目で見る。それが普通だ。
けれど、お異母兄様と恋仲になったセレイエは、『ヤンイェンの異母妹なら、私の義妹ってことでしょう?』と言って、私を『妹』として扱う。
私には、たくさんの兄と姉と、異母兄と異母姉がいるけれど、皆、〈神の御子〉である私は『妹』ではなくて、異質な『もの』だと思っている。玉座に座るためだけに存在する、異色のお人形だと――異母姉のひとりに、面と向かって、そう言われたこともある。
例外はカイウォルお兄様とヤンイェンお異母兄様だけだ。だから、兄弟姉妹なんて、そんなものだと思っていた。
けど、セレイエによると、兄弟姉妹とは、もっと仲の良いものらしい。
実際、セレイエの口から語られる兄弟の話は、宝物のようにきらきらしていた。私は夢中になって聞き、もっともっとと、彼らの逸話をせがんだ。
その中でも、私は異母弟の『リュイセン』の話が好きだった。どこか私と似た境遇の彼が、卑屈になることなく、真面目に、こつこつと努力を続ける姿を格好いいと思った。
――それは、さておき。
私は、こうして、義姉セレイエに脱走を教えてもらった。
セレイエと『姉妹』として過ごしていくうちに、私の世界は、どんどん広がっていった。
私は、ヤンイェンお異母兄様のことを空っぽだと思っていたけれど、自分もまた、空っぽだったのだと気づかされた。
だから、私はセレイエの義妹にふさわしく、ちょっとだけ図々しく、大胆になった。
『未来の女王の事実上の婚約者である、王族の血統の神官長』と、『凶賊の血を引く、平民の神官』の恋は、世間的には『身分違いの禁断の恋』だ。
当然、ふたりの関係は、公にはできなかった。
――罪、だからだ。
「それでいいの?」
私は白金の眉を寄せ、セレイエに尋ねた。
「そうね、私とヤンイェンは『共犯者』みたいなものかしら?」
セレイエは、とても綺麗な笑顔で、はぐらかした。
お異母兄様からの贈り物のペンダントに、そっと手を触れながら……。
そして、ライシェンが生まれた。
『身分違いの禁断の恋』から生まれたライシェンは、国を挙げて誕生を祝福されるべき〈神の御子〉であったにも関わらず、ひとまず存在を隠された。
事情を知る者は、王宮の中でも、ごく一部の人間のみ。国の中枢に位置する彼らは、口を揃えて、セレイエを『神官長を誑かした悪女』と罵った。
けれど、国王が、鶴の一声でセレイエとライシェンを守った。
『ライシェンこそが、私の次の王となるべき者である』――と。
神殿で生まれたライシェンを迎えに行き、王宮に連れてきたのは、他ならぬ、お父様だった。平民を生母に持つ〈神の御子〉は風当たりが強いだろうと、拒むお異母兄様とセレイエを、国王が頭を下げて説得したのだ。
『こんなに愛されて生まれた子なら、きっと良い王になるだろう』と、言って。
『親』から愛されなかった、『過去の王のクローン』である、お父様は、ライシェンのことを尊いものだと褒め称え、セレイエに感謝を述べた。
ライシェンが、ただの〈神の御子〉ではなく、〈天使〉の力も受け継いでいるらしいことは、早いうちから、セレイエが感づいていた。だから、お父様は『まるで、私たちのもとに神が降りてきてくれたみたいだ』と驚き、『来神』という名前を贈ったのだ。
ライシェンは、希望だった。
彼の誕生は、私の『恋も知らずに、女王となる』運命をも変える。
恋を知らない私のために、恋を知ったお異母兄様と、恋を教えてくれたセレイエの間に、ライシェンは生まれてきてくれたのだ。
国を挙げての祝福はなくとも、ライシェンの周りには、確かな祝福があった。
それが――。
いったい、どこで、運命の歯車が狂ったのだろう。
ライシェンが、羽も出さずに、〈天使〉の力で、人を殺した。
〈天使〉を知らない人々には、何が起きたのか分からなかっただろう。けれど、ライシェンが犯人であることは、状況から明らかだった。
神聖なる王族の血に、穢れた平民の血が混ざったから化け物が生まれたのだと、声高に叫ばれた。
国王は、その言葉を否定した。
けれど、被害は広まるばかり。そして、すっかり恐怖に支配されてしまったライシェンは、ますます、自分の身を守ることに固執した。
だから……。
国王が、ライシェンを殺した。
他人の脳から『情報を読み取る』能力を持ったライシェンは、殺意を持った人間を決して見逃さないから。
例外は、同じ能力を持ち、互いの能力を打ち消し合う、国王だけだったから……。
ライシェンを亡くした、お異母兄様とセレイエは、『〈七つの大罪〉の禁忌』に魅入られた。
死者の蘇生だ。
そんなのはおかしいと、私は、きっぱり言うことはできなかった。……ふたりの思いが辛すぎて、言えなかった。
そして、狂った歯車は、止まることなく廻り続ける。
ヤンイェンお異母兄様が、国王を殺した。
その瞬間、私は女王になった。
それから、四年の月日が過ぎた。
私は、もうすぐ十五歳になる。
年齢的に頃合いだろうと、ヤンイェンお異母兄様との婚約が、正式に発表されることになり、準備が始まった。――お異母兄様は、病気療養という名の幽閉状態であるというのに。
何かが、おかしかった。
罪人となった、お異母兄様は、一生、幽閉されたまま。二度と、表に出られないはずだったのだから。
私の中に、私の知らない記憶がある。
それは、四年前、私が女王になって少し経った日の、黄昏の神殿。
窓から差し込む光で、白を基調とした部屋が、真っ赤に染まっていた。色を持たない私の肌が、呪われた王家の血を象徴するかのように、赤と交わる。
「アイリー。私とヤンイェンは『共犯者』なの」
唐突に聞こえた声に、私は驚いて後ろを振り返った。
そこに、行方不明になっていたセレイエがいた。目鼻立ちのはっきりとした顔は、逆光の中でも美しく、けれど、だいぶ痩せたみたいな気がした。
「共犯者とは、罪を分かち合う者。ヤンイェンの罪は、私の罪よ」
お異母兄様からの贈り物のペンダントを握りしめ、彼女は、静かに微笑む。
「セレイエ……! 今まで、どこにいたの!?」
駆け寄る私に、彼女は何も答えなかった。ただ、歌うように続ける。
「犯した罪の裏側には、何を犠牲にしてでも叶えたい、強い願いがあるの」
穏やかなのに、力強い声だった。
覇気に溢れた眼差しは相変わらずで、我儘な自信家の表情だ。
「私は後悔してないわ。ヤンイェンと出逢ったことも、ヤンイェンを愛したことも」
「セレイエ!?」
私は、縋るように彼女の名を叫んだ。何故だか分からないけれど、とても不吉な予感がしたのだ。
「アイリー。誰かと出逢って、恋に落ちる。それは、とても素敵なことよ。……あなたを女王にしてしまった罪人には、言う資格はないかもしれないけれど――」
セレイエの手が、すっと私へと伸びた。白金の髪に触れ、くしゃりと撫でる。
「どうか、あなたに。運命の恋人が現れますように」
慈愛に満ちた祈りが、私を包む。
刹那。
セレイエの背中から、光が噴き出した。
無数の細い光の糸が、白金に輝きながら勢いよく溢れ出る。互いに絡み合い、繋がり合い、網の目のように広がっていく。
〈天使〉の羽だ。
煌めく光をまとったセレイエは、溜め息が出るほどに、綺麗――。
ゆらり、ゆらりと。
白金の羽が、優美に波打つ。緩やかに伸びてきた光の糸が、そっと私に触れる。
そして、糸の内部を、ひときわ強い光が駆け抜けた。
「私の義妹に、幸あれ……」
小さな呟きを残し、セレイエは〈冥王〉の収められた『光明の間』へと姿を消した。
これは、おそらく、封じられた記憶。
セレイエが〈天使〉の力で、私の中の深いところに沈めたもの。
彼女は、ライシェンの記憶を集めに〈冥王〉へと向かう直前、私に会いに来てくれたのだ。
一生に一度の、お異母兄様との恋に後悔はなかったと、私に告げるために。
そして。
私に伝えるために。
あなたにも、恋をしてほしい――と。
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第四章 金枝玉葉の漣と
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第五章 金科玉条の紅を (2026年4月公開予定)
――――に、続きます。