di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第五章 金科玉条の紅を
こちらは、
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第五章 金科玉条の紅を
――――です。
『di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~』
第三部 海誓山盟 第四章 金枝玉葉の漣と https://slib.net/124863
――――の続きとなっております。
長い作品であるため、分割して投稿しています。
こちらに、作品全体の目次があります。
https://slib.net/106174
〈第四章あらすじ&登場人物紹介〉
===第四章 あらすじ===
暑い夏の盛り。ミンウェイをシュアンのもとに送り出し、ルイフォンとメイシアは草薙家に行ったまま。物寂しくなった鷹刀一族の屋敷で、リュイセンは次期総帥として業務に追われていた。
ある日、怪しげな黒づくめの女が訪ねてきた。その正体は、女王アイリー。素性を隠すのと、先天性白皮症の肌を守るための変装だった。
アイリーは、義姉となったセレイエの死を確かめに来たという。どうやら彼女は、摂政である兄カイウォルからも、婚約者で異母兄であるヤンイェンからも、情報を制限されていたらしい。鷹刀一族はアイリーとは懇意にすべきだと判断し、リュイセンが『デヴァイン・シンフォニア計画』について語ることになった。
セレイエから家族の話を聞いていたというアイリーは、初対面にも関わらずリュイセンに対して親しげで、先天性白皮症の弱視もあって妙に距離が近い。無邪気なだけでなく、王族の責任を果たそうとする彼女に、リュイセンは困惑と敬意を抱いた。
ふたりは『デヴァイン・シンフォニア計画』や、『ライシェン』の未来に関する意見を交わす。アイリーは「次代の王は自分のクローンとするから、『ライシェン』は父親のヤンイェンと暮らしてほしい」と告げ、リュイセンは戸惑う。ふたりの間で結論を出せるものではないので、ここで出た話はルイフォンに伝えるということで、お開きとなった。
脱走してきた神殿への秘密の通路まで、リュイセンが車でアイリーを送ることになった。「ドライブは初めて」と喜ぶアイリー。彼女の言う『ドライブ』は、『助手席に乗って、恋人と仲睦まじく出掛けること』であるらしい。女王である彼女には一生、縁のないものだ。
不憫に思ったリュイセンは、彼女の憧れである『恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポット』に連れて行ってやると、人造湖へのデートの真似事を提案した。大喜びのアイリーだったが、謎の襲撃者に遭ってしまう。
襲撃者の正体は、兄である摂政の命を受けた近衛隊員たちであった。アイリーの携帯端末の位置情報をもとに追ってきたのだ。女王と一緒にいる凶賊を捕まえて、拉致犯に仕立てる魂胆だったらしい。
アイリーは素直に近衛隊員たちと帰ることでリュイセンを逃がそうとしたが、リュイセンは「陛下には息抜きが必要です」と叫び、神業の刀技と高潔な姿勢で近衛隊員たちを黙らせた。
無事、デートの真似事を続行できるようになったふたりは、とりとめもない話で距離を縮めながらドライブを続ける。道案内に使ったリュイセンの携帯端末は、今後、摂政に気づかれずに連絡を取る手段として、そのままアイリーのものになった。
人造湖には他の観光客がいたため、目的地を獣道を抜けた先の小さな滝に変更し、真にふたりきりの場所に着いた。
ふたりが滝に触れている最中に風が吹き、アイリーを庇ったリュイセンが、水をかぶってしまう。濡れたシャツを絞るために脱ぐと、彼の傷だらけの肉体を目撃したアイリーが悲鳴を上げた。
アイリーは衝撃を受けつつも、傷を負った経緯をリュイセンに尋ねる。これをきっかけに、リュイセンは『過去の自分』のすべて彼女にさらけ出し、『未来の自分』は「鷹刀の最後の総帥になる」と宣言した。「諸悪の根源は『デヴァイン・シンフォニア計画』ではなくて、古くからの因習のようなものであり、自分はそれを断ち切るのだ」と。
そして、王族として、因習の犠牲になろうとしているアイリーに、「お前も『最後の王』になればいいんだ」と呟く。口にしてから、ことの重大さに慌てるリュイセンであったが、アイリーは、それこそが自分の採るべき道だと、「私も『最後の王』になる」と決意した。
アイリーを秘密の通路に送るべく、神殿に近づいた際、リュイセンは筆舌に尽くしがたい『恐怖』を味わった。原因は、鷹刀一族を〈贄〉として喰らい続けた、〈冥王〉。それを見たアイリーは、〈冥王〉の破壊を心に決める。
そして、いよいよ別れのとき。リュイセンは、自分を見つめるアイリーの目が、恋する乙女のそれだと気づく。異性に免疫のない彼女がデートの真似事をすれば、錯覚するのは当然だった。
アイリーへの気持ちを既に自覚していただけに、リュイセンとしては、たちが悪い。「お前は俺に、夢と理想を見ているだけ」と突き放してしまう。しかし、「見くびらないで!」とアイリーはリュイセンに抱きついた。彼の刀傷を優しく撫で、ちゃんと彼を見ているのだと、強引に口づける。
今日一日を振り返り、「どうして、これが恋ではないと言えるのか」と詰め寄るアイリーに、リュイセンは、はっとする。立場を背負った自分たちは、逃げることはできないし、逃げる気もない。自由な恋人たちにはなれないけれど、だからこそ、特別な絆を築けるはずだ、と。
そして、ふたりは『共犯者』になろうと決める。『自分の運命を、自分で決める共犯者』に。
===『di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア計画』===
主人公ルイフォンの姉セレイエによる、殺された息子ライシェンを蘇らせる計画。
王の私設研究機関〈七つの大罪〉の技術で再生された『肉体』に、ルイフォンの中に封じたライシェンの『記憶』を入れることで『蘇生』が叶う。
また、生き返った『ライシェン』が幸せな人生を送れるように、セレイエはふたつの未来を用意した。
ひとつは、本来、ライシェンが歩むはずだった、父ヤンイェンのもとで王となる道。
もうひとつは、愛情あふれる家庭で、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道。
セレイエは、弟であるルイフォンと、ヤンイェンの再従妹であるメイシアを『ライシェン』の幸せを託す相手として選び、ふたりを出逢わせた。
『di;vine+sin;fonia』という名称は、セレイエによって名付けられた。
『di』は、『ふたつ』を意味する接頭辞。『vine』は、『蔓』。
つまり、『ふたつの蔓』――転じて、『二重螺旋』『DNAの立体構造』――『命』の暗喩。
『sin』は『罪』。『fonia』は、ただの語呂合わせ。
これらを繋ぎ合わせて『命に対する冒涜』を意味する。
この計画が禁忌の行為と分かっていながら、セレイエは自分を止められなかった、ということである。
===登場人物===
鷹刀ルイフォン
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少年。十六歳。
亡き母キリファから〈猫〉というクラッカーの通称を受け継いでいる。
父親は、表向きは凶賊鷹刀一族総帥イーレオということになっているが、実はイーレオの長子エルファンの息子である。
そのことは、薄々、本人も感づいてはいるが、既に親元から独立し、凶賊の一員ではなく、何にも属さない『対等な協力者〈猫〉』であることを認められているため、どうでもいいと思っている。
端正な顔立ちであるのだが、表情のせいでそうは見えない。
長髪を後ろで一本に編み、毛先を母の形見である金の鈴と、青い飾り紐で留めている。
亡くなる前のセレイエに、ライシェンの『記憶』を一方的に預けられていた。
※『ハッカー』という用語は、本来『コンピュータ技術に精通した人』の意味であり、悪い意味を持たない。むしろ、尊称として使われている。
対して、『クラッカー』は、悪意を持って他人のコンピュータを攻撃する者を指す。
よって、本作品では、〈猫〉を『クラッカー』と表記する。
メイシア
『デヴァイン・シンフォニア計画』を託された少女。十八歳。
セレイエによって、ルイフォンとの出逢いを仕組まれ、彼と恋仲――事実上の伴侶となる。
もと貴族の藤咲家の娘だが、ルイフォンと共に居るために、表向き死亡したことになっている。
箱入り娘らしい無知さと明晰な頭脳を持つ。すなわち、育ちの良さから人を疑うことはできないが、状況の矛盾から嘘を見抜く。
白磁の肌、黒絹の髪の美少女。
王族の血を色濃く引くため、『最強の〈天使〉』として『ライシェン』を守ってほしいというセレイエの願いから、『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれた。
セレイエの〈影〉であったホンシュアを通して、セレイエの『記憶』を受け取っている。
[鷹刀一族]
凶賊と呼ばれる、大華王国マフィアの一族。
約三十年前、イーレオが、王家および王家の私設研究機関である〈七つの大罪〉と縁を切るまで、血族を有機コンピュータ〈冥王〉の〈贄〉として捧げる代わりに、王家の保護を受けてきた。近親婚を強いられてきたため、血族は皆そっくりであり、また強く美しい。
鷹刀イーレオ
凶賊鷹刀一族の総帥。六十五歳。
若作りで洒落者。
かつては〈七つの大罪〉の研究者、〈悪魔〉の〈獅子〉であった。
鷹刀エルファン
イーレオの長子。次期総帥であったが、次男リュイセンに位を譲った。
ルイフォンとは親子ほど歳の離れた異母兄ということになっているが、実は父親。
感情を表に出すことが少ない。冷静、冷酷。
鷹刀リュイセン
エルファンの次男。十九歳。本人は知らないが、ルイフォンの異母兄にあたる。
父から位を譲られ、次期総帥となった。また、最後の総帥になる決意をしている。
黄金比の美貌の持ち主。
文句も多いが、やるときはやる男。『神速の双刀使い』と呼ばれている。
ミンウェイを愛していたが、彼女の幸せを思い、彼女を一族から追放し、緋扇シュアンのもとに行かせた。
その後、女王アイリーと出逢い、恋のような愛のような、曖昧な感情を抱くようになる。なお、アイリーとの関係は、『恋人』ではなく、『共犯者』であると、ふたりで決めた。
鷹刀ユイラン
エルファンの十歳以上は年上の妻。レイウェン、リュイセンの母。銀髪の上品な女性。
レイウェンの会社の専属デザイナーとして鷹刀一族の屋敷を出ていたが、ミンウェイがシュアンのもとへ行ったため、総帥の補佐役として再び屋敷に戻ってきた。
ただし、服飾の仕事が忙しいときには、草薙家にある仕事場に詰めっぱなしになるため、行ったり来たりの生活をしている。
ルイフォンが、エルファンの子であることを隠したいキリファに協力して、愛人をいじめる正妻のふりをしてくれた。
メイシアの異母弟ハオリュウに、メイシアの花嫁衣装を依頼された。
草薙チャオラウ
鷹刀一族の中枢をなす人物のひとり。イーレオの護衛にして、ルイフォンの武術師範。
無精髭を弄ぶ癖がある。
主筋であるユイランを、幼少のころから半世紀ほど、一途に想っている、らしい。
料理長
鷹刀一族の屋敷の料理長。
恰幅の良い初老の男。人柄が体格に出ている。
キリファ
もとエルファンの愛人で、セレイエ、ルイフォンの母。ただし、イーレオ、ユイランと結託して、ルイフォンがエルファンの息子であることを隠していた。故人。
天才クラッカー〈猫〉。
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蠍〉に人体実験体である〈天使〉にされた。
四年前に当時の国王シルフェンに『首を落とさせて』死亡。
どうやら、自分の体を有機コンピュータ〈スー〉に作り変えるためだったらしい。
ルイフォンに『手紙』と称し、人工知能〈スー〉のプログラムを託した。
〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉
キリファが、〈冥王〉を破壊するために作った三台の兄弟コンピュータ。
表向きは普通のスーパーコンピュータだが、それは張りぼてである。
本体は、人間の脳から作られた有機コンピュータで、光の珠の姿をしている。
〈ベロ〉の人格は、シャオリエのオリジナル『パイシュエ』である。
〈ケル〉は、キリファの親友といってもよい間柄である。
〈スー〉は、ルイフォンがキリファの『手紙』を正確に打ち込まないと出てこないのだが、所在は、〈蠍〉の研究所跡に建てられた家にあることが分かっている。
鷹刀セレイエ
エルファンとキリファの娘。表向きはルイフォンの異父姉となっているが、同父母姉である。
リュイセンにとっては、異母姉になる。
生まれながらの〈天使〉であり、自分の力を知るために自ら〈悪魔〉となった。
王族のヤンイェンと恋仲になり、ライシェンという〈神の御子〉を産んだ。
先王シルフェンにライシェンを殺されたため、『デヴァイン・シンフォニア計画』を企てた。
ただし、セレイエ本人は、ライシェンの記憶を手に入れるために〈天使〉の力を使い尽くし、あとのことは〈影〉のホンシュアに託して死亡した。
女王アイリーのことは、義妹として、とても可愛がっていた。
パイシュエ
イーレオ曰く、『俺を育ててくれた女』。故人。
鷹刀一族を〈七つの大罪〉の支配から解放するために〈悪魔〉となり、三十年前、その身を犠牲にして未来永劫、一族を〈贄〉にせずに済む細工を施して死亡した。
自分の死後、一族を率いていくことになるイーレオを助けるために、シャオリエという〈影〉を遺した。
また、どこかに残されていた彼女の何かを使い、キリファは〈ベロ〉を作った。
すなわち、パイシュエというひとりの人間から、『シャオリエ』と〈ベロ〉が作られている。
鷹刀ヘイシャオ
〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蝿〉。ミンウェイの『父親』。医者で暗殺者。故人。
妻のミンウェイの遺言により、妻の蘇生のために作ったクローン体を『娘』として育てていくうちに心を病んでいった。
十数年前に、娘のミンウェイを連れて現れ、自殺のようなかたちでエルファンに殺された。
[王家]
白金の髪、青灰色の瞳の先天性白皮症の者が多く生まれる里を起源とした一族。
王家に生まれた先天性白皮症の男子は必ず盲目であり、代わりに他人の脳から『情報を読み取る』能力を持つ。
この特殊な力を持つ者を王としてきたため、先天性白皮症の外見を持つ者だけが〈神の御子〉と呼ばれ、王位継承権を有する。かつては男子のみが王となれたが、現在では〈神の御子〉が生まれにくくなったために女王も認めている。ただし、あくまでも仮初めの王である。
アイリー
大華王国の現女王。十五歳。四年前、先王の父が急死したため、若年ながら王位に就いた。
彼女の婚約を開始条件に、すべてが――『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まった。
素直で純粋な性格。とても良い子であるが、王としての威厳がまったくないために、兄であり摂政でもあるカイウォルに、公式の場では大人しく黙っているように言われているらしい。
リュイセンと出逢い、アイリーとしては、恋に落ちた――が、互いに『最後の総帥』『最後の王』となるために、『恋人』ではなく、『共犯者』としての絆を結んだ。
シルフェン
先王。四年前、腹心だった甥のヤンイェンに殺害された。
〈神の御子〉の男子に恵まれなかった先々王が〈七つの大罪〉に作らせた『過去の王のクローン』である。
ヤンイェン
先王の甥。女王の婚約者。
実は先王が〈神の御子〉を求めて姉に産ませた隠し子で、女王アイリーや摂政カイウォルの異母兄弟に当たる。
セレイエとの間に生まれたライシェンを殺され、蘇生を反対されたため、先王を殺害した。
メイシアの再従兄にあたる。
ルフォンが女装までして会いに行き、『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状を伝え、父親として『ライシェン』にどんな未来を与えたいか、意見を求めようとしたのだが、「考えるべきことが多すぎて、何も決められない」としか答えてくれなかった。
ライシェン
ヤンイェンとセレイエの息子で、〈神の御子〉。
〈神の御子〉の男子が持つ『情報を読み取る』能力に加え、〈天使〉のセレイエから受け継いだ『情報を書き込む』能力を持っていた。
彼の力は、〈天使〉の羽のように自分と相手を繋ぐことなく、〈神の御子〉のように手も触れずに扱えたため、先王シルフェンは彼を『神』と呼ぶしかないと言い、『来神』と名付けた。
周りの『殺意』を感じ取り、相手を殺してしまったために、先王に殺された。
『ライシェン』
〈蝿〉が、セレイエに頼まれて作った、ライシェンのクローン体。
オリジナルのライシェンは盲目だったが、周りの『殺意』を感じ取らずにすむようにと、目が見えるように作られた。
凍結処理が施され、ルイフォンとメイシアに託された。
カイウォル
摂政。女王の兄に当たる人物。
摂政を含む、女王以外の兄弟は〈神の御子〉の外見を持たないために、王位継承権はない。
ハオリュウに、「異母兄にあたるヤンイェンとの結婚を嫌がる妹、女王アイリーの結婚を延期するために、君が女王の婚約者になってほしい」と陰謀を持ちかけた。
[〈七つの大罪〉]
現代の『七つの大罪』=『新・七つの大罪』を犯す『闇の研究組織』。
実は、王の私設研究機関。
王家に、王になる資格を持つ〈神の御子〉が生まれないとき、『過去の王のクローンを作り、王家の断絶を防ぐ』という役割を担っている。
〈冥王〉
他人の脳から情報を読み取ることによって生じる、王族の脳への負荷を分散させるために誕生した連携構成。
太古の昔に死んだ王の脳細胞から生まれた巨大な有機コンピュータで、鷹刀一族の血肉を動力源とする。
『光の珠』の姿をしており、神殿に収められている。
〈悪魔〉
知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶ。
〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。
代償は体に刻み込まれた『契約』。――王族の『秘密』を口にすると死ぬという、〈天使〉による脳内介入を受けている。
〈天使〉
『記憶の書き込み』ができる人体実験体。
脳内介入を行う際に、背中から光の羽を出し、まるで天使のような姿になる。
〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカー。
羽は有機コンピュータ〈冥王〉の一部でできており、〈天使〉と侵入対象の人間との接続装置となる。限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こして死亡する。
〈影〉
〈天使〉によって、脳を他人の記憶に書き換えられた人間。
体は元の人物だが、精神が別人となる。
『呪い』・便宜上、そう呼ばれているもの
〈天使〉の脳内介入によって受ける影響、被害といったもの。悪魔の『契約』も『呪い』の一種である。
服従が快楽と錯覚するような他人を支配する命令や、「パパがチョコを食べていいと言った」という他愛のない嘘の記憶まで、いろいろである。
『デヴァイン・シンフォニア計画』のために作られた〈蝿〉
セレイエが『ライシェン』を作らせるために、蘇らせたヘイシャオ。
セレイエに吹き込まれた嘘のせいでイーレオの命を狙い、鷹刀一族と敵対していたが、リュイセンによって心を入れ替えた。
メイシアを〈悪魔〉の『契約』から解放するため、自ら王族の『秘密』を口にして死亡した。
ホンシュア
セレイエの〈影〉。肉体はライシェンの侍女で、〈天使〉化してあった。
主人の死に責任を感じ、『デヴァイン・シンフォニア計画』に協力した。
〈影〉にされたメイシアの父親に、死ぬ前だけでも本人に戻れるような細工をしたため、体が限界を超え、熱暴走を起こして死亡。
メイシアにセレイエの記憶を潜ませ、鷹刀に行くように仕向けた、いわば発端を作った人物である。
〈蛇〉
セレイエの〈悪魔〉としての名前。
セレイエの〈影〉であるホンシュアをを指すこともある。
[藤咲家・他]
藤咲ハオリュウ
メイシアの異母弟。十二歳。
父親を亡くしたため、若年ながら貴族の藤咲家の当主を継いだ。その際、異母姉メイシアを自由にするために、表向き死亡したことにしたのは彼である。
母親が平民であることや、親しみやすい十人並みの容姿であることから、平民に人気がある。ただし、温厚そうな見た目とは裏腹に、気性は激しい。
女王陛下の婚礼衣装制作に関して、草薙レイウェンと提携を決めた。
摂政カイウォルに「女王の婚約者にならないか」と陰謀を持ちかけられていたが、友人シュアンを人質に取られたことから猛反発。シュアンのため、そして、相思相愛でありながら、身分差のために想いを告げることのできなかったクーティエのため、『この国から身分をなくす』と決意する。
藤咲コウレン
メイシア、ハオリュウの父親。厳月家・斑目一族・〈蝿〉の陰謀により死亡。
藤咲コウレンの妻
メイシアの継母。ハオリュウの実母。平民。
心労で正気を失ってしまい、別荘で暮らしていたが、メイシアがお見舞いに行ったあとから徐々に快方に向かっている。
緋扇シュアン
ハオリュウの歳の離れた友人であり、現在は秘書。三十路手前程度。悪人面の凶相の持ち主。
もとは銃の名手のイカレ警察隊員であったが、摂政の陰謀により投獄。獄死を装って救出されたため、自由民となった。
幼いころ、凶賊同士の抗争に巻き込まれ、家族を失った。そのため、「世を正す」と正義感に燃えて警察隊に入るも、腐った現実に絶望していた。しかし、ハオリュウと出会い、彼を『理想の権力者』に育てることに希望を見出した。
また、以前より、秘めた愛情を抱いていたミンウェイと家族になった。
鷹刀ミンウェイ
鷹刀一族の総帥の補佐を務めていたが、リュイセンに追放という形で背中を押され、シュアンのもとに来た。現在は、ハオリュウの侍医として、シュアンと共に藤咲家に住み込みで働いている。
緩やかに波打つ長い髪と、豊満な肉体を持つ、二十代半ばに見える絶世の美女。ただし、本来は直毛。薬草と毒草のエキスパート。医師免状も持っている。
かつて〈ベラドンナ〉という名の毒使いの暗殺者として暗躍していた。
母親だと思っていた人物のクローンであり、そのために『父親』ヘイシャオに溺愛という名の虐待を受けていたのだと知った。苦悩はあったが、今は乗り越えている。
[草薙家・他]
草薙レイウェン
エルファンの長男。リュイセンの兄。
妻のシャンリーと共に一族を抜けて、服飾会社、警備会社など、複数の会社を興す。
草薙シャンリー
レイウェンの妻。チャオラウの姪だが、赤子のころに両親を亡くしたためチャオラウの養女になっている。王宮に召されるほどの剣舞の名手。
遠目には男性にしかみえない。本人は男装をしているつもりはないが、男装の麗人と呼ばれる。
草薙クーティエ
レイウェンとシャンリーの娘。リュイセンの姪に当たる。十歳。可愛らしく、活発。
ハオリュウが、彼女の父レイウェンに『お嬢さんをください』という意味合いを含めて決闘を申し込んだらしいのだが、惨敗したので、ふたりの間柄は保留である。
斑目タオロン
よく陽に焼けた浅黒い肌に、意思の強そうな目をした、もと凶賊斑目一族の若い衆。
堂々たる体躯に猪突猛進の性格。二十四歳だが、童顔ゆえに、二十歳そこそこに見られる。
斑目一族や〈蝿〉にいいように使われていたが、今はレイウェンの警備会社で働いている。将来的には、ハオリュウの専属護衛になる予定。
斑目ファンルゥ
タオロンの娘。四、五歳くらい。
くりっとした丸い目に、ぴょんぴょんとはねた癖っ毛が愛らしい。
[繁華街]
シャオリエ
高級娼館の女主人。年齢不詳。
外見は嫋やかな美女だが、中身は『姐さん』。
実は〈影〉であり、イーレオを育てた、パイシュエという人物の記憶を持つ。
スーリン
シャオリエの店の娼婦。
くるくる巻き毛のポニーテールが似合う、小柄で可愛らしい少女。ということになっているが妖艶な美女という説もある。
本人曰く、もと女優の卵である。実年齢は不明。
ルイリン
ルイフォンの女装姿につけられた名前。
タオロンと好い仲の少女娼婦。癖の強い、長い黒髪の美少女。
少女にしては長身で、そのことを気するかのように猫背である。
――という設定になっている。
また、『仕立て屋の助手』として、ユイランと王宮に訪れたのも『彼女』である。
トンツァイ
繁華街の情報屋。
痩せぎすの男。
キンタン
トンツァイの息子。ルイフォンと同い年。
カードゲームが好き。
===大華王国について===
黒髪黒目の国民の中で、白金の髪、青灰色の瞳を持つ王が治める王国である。
身分制度は、王族、貴族、平民、自由民に分かれている。
また、暴力的な手段によって団結している集団のことを凶賊と呼ぶ。彼らは平民や自由民であるが、貴族並みの勢力を誇っている。
1.月夜の朗報-1
軒に吊るした風鈴が、ちりん、と月夜に揺れる。
まだまだ日中は暑いものの、暦の上では、もうすぐ秋だ。夜ともなれば、かなり過ごしやすい。そのせいだろうか。涼やかな音色は、どことなく物寂しげにも聞こえた。
ルイフォンは、そんなことを思い、それから、柄でもねぇやと苦笑する。
いつもの通りに、メイシアは夕食後の片付けを手伝っていて、ひと足先に客間に戻ってきた彼は、あちらこちらの情報を集めつつ、〈スー〉のプログラムの解析をしている。草薙家に厄介になり始めたのは、夏の盛りのころであったから、こんな生活をかれこれ二ヶ月近く続けていることになる。
変わらない毎日。……けれど、季節が移り変わっていくように、自分も周りも、確実に変化している――と、思う。
実際、ミンウェイとシュアンは、この夏に、運命を拓く選択をした。
そして、ルイフォンだって……。
回転椅子の背もたれに寄り掛かり、彼は猫背をいっぱいに伸ばす。
昼間は、いつもの彼からは想像もできないような、堅苦しい格好で出歩いたのだ。肩こりが激しいのは、仕方のないことだろう。鏡の中の我が身は、惚れ惚れするほど決まっていたし、これは心地の良い疲れだ。
――そう。
ルイフォンは今日、メイシアに贈る婚約指輪を注文してきたのだ。
秘密の贈り物にするため、メイシアには内緒だ。最近は『草薙家に持ち込んだ機材では、処理能力が足りない』と言って、〈ケル〉の家に出掛けることも多かったから、昼の彼の不在を、彼女は疑問に思っていない。
だから、このことを知っているのは、高級宝飾店に入るための服装に協力してくれた、ユイランのみ。
自慢の株の自動売買プログラムで儲けているので、予算はいくらでもあった。しかし、普段から身に着けられるようにと、高価な一粒石の指輪は、あえて選ばなかった。
その代わり、彼女への想いを込め、彼自身が考案した、世界でただひとつの品を注文した。
メイシアは、きっと喜んでくれるだろう。今から、渡すのが楽しみだ。
鋭いはずの猫の目が垂れ下がり、ルイフォンの顔は、自然とにやけてくる。
専門の職人に加工を頼んだので、仕上がるまでには少し時間が掛かるらしい。完成の連絡が、待ち遠しくてたまらない。
彼は上機嫌で、あれこれと妄想を繰り広げ、窓硝子に映った自分の姿に、はっとする。
こんなに、だらしなく緩みきった顔では、メイシアに不審に思われてしまう。彼女が部屋に来るまでに、いつもの自分に戻らなくては――!
焦る心の一方で、浮かれた気持ちは簡単には収まらず、無理に閉じようとした口元からは、抑えきれない笑みが零れてくる。
これは困った――と、まったく困っているように見えない顔で、窓硝子の鏡像と無言の愚痴を交わしたとき、携帯端末がメッセージの着信を知らせてきた。
「!?」
送信者は、リュイセン。
重要な話をしたいから、今すぐ、盗聴の心配のない通信環境を用意してほしい――とのことだった。
それまで、どうやっても引き締めることのできなかったルイフォンの顔つきが、一瞬にして無機質な〈猫〉のものへと変わった。
彼は、安全な会議システムを構築すべく、熟練のピアニストもかくや、とばかりの鮮やかさでキーボードに指を走らせる。
いったい、何ごとが起きたのか。
しばらく鳴りを潜めていた摂政が、ついに動き出したのか。
いいだろう、受けて立ってやる――。
逸る気持ちが、涼しくなってきたはずの室温を上昇させた。全身が、ほんのりと汗ばむ。
あっという間に、鷹刀一族次期総帥との極秘回線を確立すると、ルイフォンは挑むような猫の目をモニタ画面に向けた。
そして、兄貴分の顔が映し出されたとき……。
「――へ?」
思わず、間抜けな声が飛び出た。
何かが、おかしかった。
よく見慣れているはずの黄金比の美貌に、物凄い違和感を覚える。
「ルイフォン。……その、いきなり、すまん」
歯切れの悪い魅惑の低音が、かすかな雑音をまといながら、スピーカーを震わせた。
リュイセンが、安全な通信環境を求めてきた。そもそも、重要な話がある、と明言していた。ならば、さぞや深刻な顔をしているだろうと――否、深刻な顔をしている『べき』であると、ルイフォンは考えていた。
しかし、画面の中の兄貴分は、あろうことか、先ほど窓硝子に映った鏡像と、瓜二つ。
勿論、姿形の美しさは、生粋の鷹刀一族であるリュイセンに、ルイフォンは遠く及ばない。もっとも、最近、止むを得ず女装したときにユイランに言われたのだが、実はルイフォンの顔立ちは、鷹刀のものであるらしい。だから、少しくらいは、自分と美麗な兄貴分が似ていたとしても不思議ではなく……。
――そういう問題じゃねぇ!
ルイフォンは、己の思考に喝を入れた。
深刻で、緊急な、非常事態に直面しているはずのリュイセンが、何故か、鼻の下を伸ばしている。懸命に取り繕い、大真面目な顔をしているつもりのようであるが、隠しきれない喜びが、そこかしこから溢れ出ている。
これは、いったい、どういう非常事態だ?
堅物で鳴らしたリュイセンに、まさかの女の影? あり得ないだろう。……いや、さすがに、そこまで言い切っては、如何な兄貴分でも失礼か。今まで、ミンウェイひと筋だったために浮いた話がなかっただけで、近づいてくる女は、あとを絶たなかったのだから。
――ならば、本当に?
ルイフォンの脳裏を、疑惑まみれの憶測がよぎる。
ミンウェイをシュアンのもとへ送り出して以降、兄貴分の消沈ぶりは、見るに堪えないものがあった。それを思えば、真実なら非常にめでたい事態だ。
だが、現在、鷹刀一族は、摂政との緊迫状態にある。浮かれている場合ではない。
メイシアに婚約指輪を贈ろうとしている自分を棚上げにしているようであるが、ルイフォンとは違って、リュイセンは融通の利かない質なのだ。だから、生真面目な兄貴分に限って、まさか、そんなことは……。
思考回路が、堂々巡りを繰り返す。
普段のルイフォンなら、あれこれ無駄に考えるより、単刀直入に本人から正しい情報を仕入れるべきだと、とっくに気づいているはずだった。しかし、頭脳派を自称する彼から、正常な判断力を奪うほどに、リュイセンの美貌には前代未聞の事態が起きていたのである。
猫の目を見開いたまま、明らかに動転した顔で凍りついたルイフォンに対し、リュイセンは無反応であった。何故なら、そもそも、彼はモニタ画面を見ていなかったからである。
リュイセンの目線は、彼の手元に落とされていた。カメラには映っていない机の上には、これから話そうとしている『今日の出来ごと』をまとめた原稿が載っている。
本当は、もっと早くに――屋敷に戻り、鷹刀一族総帥たちへの報告を終えてすぐにも、弟分に連絡を入れたかった。しかし、あまりにも複雑、かつ多岐にわたる内容であったため、ある程度、事情を把握しているイーレオたちへの報告でさえ、難航したのだ。ならば、寝耳に水の弟分へは、きちんと原稿を用意してから話すべきだろう。――生真面目なリュイセンは、そう考えた。
故に、夜も更けて……とまではいわないが、だいぶ遅くなってから、やっと準備が整ったのである。
「ルイフォン……、あの、な……。実は、今日、屋敷に珍客が現れて……な」
緊張の面持ちの黄金比の美貌が、しどろもどろの魅惑の低音を紡いでいく。
やがて。
風鈴の音色に彩られた静かな夜に、ルイフォンの驚愕の雄叫びが響き渡った。
片付けの手伝いを終え、客間へと戻ってきたメイシアを出迎えたのは、最愛のルイフォンの問答無用の抱擁だった。
「メイシア、聞いてくれ!」
「きゃっ!?」
彼女は危うく、手にしていた保冷ポットを取り落としそうになった。だいぶ涼しくなったとはいえ、暑がりのルイフォンのために、冷たいジャスミンティーを運んできたのだ。グラスは部屋にあるからと、ポットのみだったのは幸いといえよう。
「ルイフォン? どうし……」
「さっき、連絡があったんだが、リュイセンが凄ぇんだ!」
投げかけた疑問も、昂揚したテノールに呑み込まれる。
ルイフォンは興奮に全身を震わせながら、メイシアを強く抱きしめた。
「絶対に、恐ろしく面倒臭くて、呆れるほどに大変に決まっている。けど! これは、最高の朗報だ! ああ、もう、こんなのあり得ねぇだろ!? 頭が爆発しそうだ!」
猫の目を好戦的に輝かせ、ルイフォンは覇気に満ちた声を響かせる。しかし、口を衝く台詞は、彼らしくもなく要領を得ず。ともすれば矛盾したようにも聞こえる言葉の数々に、メイシアは「えっと……?」と、戸惑いの上目遣いで小首をかしげる。
「あ……。すまん」
最愛のメイシアの可愛らしい仕草に、自己中心的なルイフォンも、ようやく我に返った。照れ隠しのように、「こほん」と咳払いをする。
それから彼は、ほんの少し、思案した。兄貴分からのたくさんの報告事項のうち、何から伝えるのがよいのかと、悩んだのだ。
結論として、彼が一番、衝撃を受けた情報から告げることにした。
「リュイセンに、特別な女ができた」
「えっ……」
その瞬間、メイシアの頬が薔薇色に染まった。深窓の令嬢として、慎み深く育った彼女ではあるが、やはり年ごろの少女。色恋沙汰には心が踊るようだ。
これだけでも、充分に驚嘆に値する話題だろう。しかし、まだ先がある。
ルイフォンは絶妙な間を計り、言を継ぐ。
「相手は、なんと! 女王だ!」
「!?」
聡明なはずのメイシアの頭脳が、動きを止めた。何を言われたのか、理解できなかったのだ。黒曜石の瞳もまた、ぱっと見開かれたまま、瞬きひとつしない。
凍りついてしまった彼女の髪を、ルイフォンが、くしゃりと撫でる。
「な? 凄ぇだろ?」
「うん……」
メイシアは呆然としたまま、こくりと頷く。
驚愕が、徐々に祝福へと変わっていく中、彼女は、皿洗いの最中に聞こえたような気がしたルイフォンの雄叫びは、どうやら空耳ではなかった、と悟ったのだった。
1.月夜の朗報-2
「リュイセンが『最後の総帥』になるから、女王は『最後の王』になれ――ってさ。無茶苦茶だよな」
兄貴分との通信内容をメイシアに語り終え、ルイフォンは、そんな感想で締めくくった。口調は苦笑混じりでありながら、彼の顔は上機嫌に緩んでいる。
イーレオが鷹刀一族の解散を考えていることは、最近、聞いた話だ。一族を抜けたルイフォンには、本来、秘密にされるべき事柄なのだが、『対等な協力者』として、特別に明かされたのだ。
リュイセンの心の内では、もうずっと前から『最後の総帥』になる覚悟を決めていたらしい。だからといって、それを女王にも勧めるなんて、いくらなんでも話が飛躍しすぎだろう。
……ついでにいえば、鷹刀一族の重要機密である『最後の総帥』の話を、あっさり女王に明かした点は、いただけない。携帯端末という情報の宝庫を、何も考えずに彼女にあげてしまった件も併せて、兄貴分は情報管理意識が甘すぎる――!
それはさておき。
『最後の王』なんて、いったい、どれほどの困難が待ち受けているのか、見当もつかない。リュイセンは直感的に口走ったらしいのだが、一足飛びの閃きも、ここに極まれり、だ。
「でも、リュイセンの言うことは正論だ、って――ルイフォンは思っているんでしょう?」
ジャスミンティーのグラスを挟んだ向かい側で、メイシアが微笑む。
「ああ、勿論」
ルイフォンは、我がことのように、得意げに答えた。
「現在の〈神の御子〉は、『犠牲』としか言いようがねぇ。それをなんとかしようと考えるのは、正常な精神だ」
それから、ほんの少し、眉を寄せる。
「まぁ、『最後の王』というのが現実的かといえば、かなり難しいと思うけどさ」
常識的に考えれば、無茶苦茶だ。さすがに無茶は、女王も分かっているらしく、本来なら一番に相談すべき摂政には、当分の間、秘密にするらしい。確かに、なんの準備もなく、『最後の王』などと言ったところで、一笑に付されるだけだろう。
「でも、女王は、すっかりその気で、リュイセンも全力で手を貸すと誓ったみたいだ」
理屈を組み上げ、計算づくで攻め込むルイフォンには絶対に辿り着けない境地に、兄貴分は天性の勘だけを頼りに踏み込んでいく。その直感は、いつだって正しくて、けれど、茨の道だ。
それでも、『やるべきことをやるだけだ』と、静かに笑う兄貴分だからこそ、あの〈蝿〉を『血族として裁く』などという芸当をやってのけたのだろう。
あのときと同じ興奮を、今も感じている。無謀だと思う理性の裏側で、胸が騒ぐ。悔しさに似た憧憬を抱きながら、心が躍る。
「別にさ、女王を玉座に縛りたくないだけなら、『最後の王』じゃなくてもいいんだよな。黒髪黒目の王族にも王位継承権を認めるよう法を改正して、あの摂政にでも押し付ければいい。〈神の御子〉の姿は信仰の対象になっているから、すんなりとはいかないだろうけど、王制廃止よりは簡単だ」
ルイフォンの言葉に、メイシアが瞳を瞬かせた。言いたいことは違うんでしょう? と、表情が問うている。
まったく、彼女は察しがいい。以心伝心の上目遣いに首肯しつつ、ルイフォンは口元をほころばせる。
「でも、法改正じゃ駄目なんだ。リュイセンの心にあった思いは『鷹刀が解散するのと同じように、女王も解放されるべきだ』なんだからさ。『王家』という古い因習から、女王の身も心も、自由にしてやりたい。――そしたら、『王家』そのものをなくすしかない」
無論、これはルイフォンの理詰めの解釈であり、野生の勘で動く兄貴分には、無意識の衝動があっただけだろう。
……けど。本当に、なんで、よりによって『女王』なんだよ?
今までミンウェイひと筋だったリュイセンが、誰かに心を動かしただけでも驚きなのに、こんな厄介な相手を選ぶとは。そもそも、生粋の凶賊である兄貴分は、上流階級の人間を毛嫌いしていたのではなかったか?
そんな揶揄のような気持ちを抱きつつも、生真面目な兄貴分と、純粋無垢な女王なら、惹かれ合ったとしても不思議ではないと思っている。何しろルイフォンは、女王本人に直接、会っているのだから。
あの純真な少女が、リュイセンを愛するというのなら、兄貴分は幸せになれるだろう。――障害は、とてつもなく大きいだろうが。
『恋人』ではなく、『共犯者』なのだと主張していたが、そんなのは言葉の上での問題でしかない。出逢ったばかりで、先のことは分からないのは確かであるが、あのふたりの性格なら、ずっと変わらぬ想いを抱き続けるだろう。
兄貴分へと思いを馳せ、頬を緩めていたルイフォンであるが、不意に、メイシアの顔に翳りが落ちていることに気づいた。
「どうした?」
「リュイセンと陛下は、偉いと思うの」
「?」
彼女の言葉には同意する。しかし、思い詰めたような表情に、ルイフォンは首をかしげる。
彼が目線で促すと、彼女は、うつむき加減に続けた。
「貴族だった私は、ハオリュウに死んだことにしてもらったから、こうして今、ルイフォンと一緒にいられる。でも、リュイセンと陛下は、自分の立場から逃げないの。それどころか、正面から立ち向かうことにした。――なんだか、申し訳なくて……」
「……」
それは、ルイフォンも思った。自分たちは恵まれている。皆の優しさに、甘やかされている。
……だからといって、メイシアが暗い顔をしても仕方がないのだ。
「俺たちは、俺たちだ」
ジャスミンティーのグラスを避けながらテーブルに身を乗り出し、黒絹の髪を、くしゃりと撫でる。猫の目を細め、ルイフォンは、愛しげな眼差しをメイシアに向けた。
「俺たちは『ふたりきり』じゃなくて、『皆に囲まれたふたり』なんだからさ。立場に縛られた奴らの代わりに、『自由に動ける俺たちだからこそ、できること』を見つけていくべきだろ? 引け目を感じている場合じゃないぜ?」
にやりと不敵に笑うルイフォンに、黒曜石の瞳が、ぱっと見開かれた。花の顔が、徐々にほころんでいく。
「そうよね。――ありがとう、ルイフォン」
零れんばかりの笑顔に、彼女がそばにいる幸せを実感する。……そう思うと、やはり、ルイフォンだって、少々、後ろめたい。
だが、メイシアに言った通り、自分たちは自分たちなのだ。だから、自分たちは、自分たちにできることをすべきだ。
ルイフォンは、強引に頭を切り替えた。
「『ライシェン』のことだけどさ。思いがけず、女王の意見を聞けたことで、状況が一変したと思う」
今回のリュイセンからの報告の中で、ルイフォンの個人的な大衝撃は、当然のことながら、兄貴分の激変ぶりだ。あの魅惑の低音で、『アイリー』と、甘やかに女王の名が紡がれるのを聞いたときには、正直なところ度肝を抜かれた。冗談抜きで、心臓が止まるかと思った。
だが、女王もまた、リュイセンに恋情を抱いているというのなら、これはもう、解決済みの案件なのだ。細かいことを気にすれば、多少の問題はあるのかもしれないが、あいにく、ルイフォンは細かいことを気にしない。
だから、真に重要なのは、『ライシェン』のこと。――『ライシェン』の未来だ。
「女王が、『ライシェン』を次の王として必要としていない以上、彼女に託す、という案は却下だよな」
名案だと思っていたのだが、そうは問屋が卸さないようだ。ルイフォンは少し悔しげに、癖の強い前髪を掻き上げる。
「私……、女王陛下がおっしゃった道が一番、『ライシェン』にとって幸せだと思うの。ヤンイェン殿下の息子として、海外で暮らすのが……」
「けど、ヤンイェンは『ライシェン』に記憶を入れたがるはずだ、って、異母妹の女王が断言したんだよな」
「うん……」
ヤンイェンが記憶にこだわるのであれば、彼に『ライシェン』を渡すわけにはいかない。
これは、譲れない決定事項だ。
何故なら、『死者は、決して生き返らない』。これまで『デヴァイン・シンフォニア計画』の作り出した不幸を見続けてきた身として、認められない境界線だ。
ルイフォンは、深い溜め息を落とした。
『ライシェン』の未来について、ヤンイェンからは、いまだ明確な『返事』のようなものはない。
携帯端末の連絡先は交換していたので、多少のメッセージのやり取りはしている。だが、相変わらずの態度で、文面はこんな調子だ。
『私が『ライシェン』に、どんな未来を望むのか。君はきっと、早く答えてほしいと焦れていることだろう。
その気持ちは分かるんだ。私が君の立場だったら、きっと、そう思っているはずだから。
けど、私は、『私が、どうしたいか』よりも、まず先に、『私には、どんな手段が残されているのか』を考えたい。考えなければならないんだ。
すまない。――私の義弟ルイフォン』
こう下手に出られては、こちらからは強く言えなくなってしまう。どことなく、『何もかも、お見通し』という感じがして、非常にやりにくい。
「ヤンイェンの『私には、どんな手段が残されているのか』というのが、女王の言っていた『四年前から既に〈天使〉だった者を探す』ってことなんだろうな」
ルイフォンの呟きに、メイシアが沈んだ声で同意する。ふたりは視線を交わし合い、互いの困り顔を瞳に映す。
四年前からの〈天使〉を連れてきたところで、ルイフォンとメイシアは、『ライシェン』にオリジナルの記憶を入れることを認めない。ヤンイェンの努力は、無駄になるのだ。
「ヤンイェン殿下には、本当に申し訳ないと思うの……」
心優しいメイシアが、痛ましげに俯く。だから、ルイフォンは努めて明るい声を出した。
「でもさ。女王が凄ぇ、いいこと言ったじゃん?」
「え?」
「オリジナルのライシェンは、人を殺している。その記憶を――罪を『ライシェン』が背負う必要はない、って」
「あ……。それを伝えれば、ヤンイェン殿下だって……」
「ああ」
明るさを取り戻したメイシアに、ほっとしつつ、ルイフォンは返す返すも惜しいと思う。
――そんなふうに考えられる女王になら、安心して『ライシェン』を託せたのにな……。
なかなか、うまくいかないものだ。
やはり、ヤンイェンを根気強く説得して、オリジナルとは別人として、『ライシェン』を受け入れてもらうのが一番なのだろう。
「まぁ、ヤンイェンは、かなり手強そうだけどな……」
メッセージの文面を思い返し、苦笑まみれの愚痴が口を衝いて出る。
すると、「ルイフォン」と、鈴を転がすような声が凛と響いた。
「でも、『私たちなら、できる』――でしょう?」
メイシアが、ぐっと身を乗り出し、癖の強いルイフォンの前髪を、くしゃりと撫でる。白い指先に誘われ、知れず下がっていた目線を上げると、そこには覇気に満ちた笑顔があった。
「ああ。そうだよな。面倒臭え、なんて思っていないで、しっかりやらねぇとな!」
彼女に応えるように、好戦的に彼も笑った。
傍らに寄り添い、励まし、励まされているのを実感する。
互いに支え合い、良いことも、悪いことも、共に分かちて生きていくのだ。
夏の終わりに、メイシアと、そんな会話を交わした。
そして、秋が訪れ、軒の風鈴がしまわれ、ちりん、という澄んだ音色を耳にしなくなって少し経ったころ――。
『ルイフォン!』
ハオリュウの秘書となり、藤咲家に住み込みで働いている緋扇シュアンの濁声が、携帯端末を通して、ルイフォンの耳朶を打ちつけた。
どうした? と尋ねる間もなく、いつもの皮肉げな調子の欠片もない、険しい声が続けられる。
『ハオリュウが、逮捕された――! 貴族だから、監獄にぶち込まれちゃあいねぇが、王宮に連行された』
「なっ? どういことだ?」
『罪状は、こうだ』
鋭く吐き出された言葉が、弾丸となって、ルイフォンの鼓膜を撃ち抜く。
『自分が当主になるために、父と異母姉を殺した、殺人の罪』
2.渦紋の謀略-1
ハオリュウは、メイシアを『死者』にした。
それは、貴族であった異母姉を、平民のルイフォンのもとへ送り出すため。
そしてまた、父――〈蝿〉によって、厳月家前当主の〈影〉にされてしまい、ルイフォンが毒刃で命を奪うしかなかった、藤咲家前当主――の死因を偽るために。
ハオリュウは、架空の事故を作り上げた。
曰く。
メイシアには平民の恋人がいた。だが、厳月家の三男との縁談が持ち上がり、無理やり別れさせられてしまう。
ふさぎ込む彼女を元気づけようと、藤咲家は家族旅行を計画した。
しかし、その旅先でメイシアは渓谷に身を投げ、行方不明に。助けようとした父親は滑落死、異母弟ハオリュウは足に一生残る大怪我を負い、あまりにも悲惨な現実に、母親は心を失ってしまった。
「――というのが、ハオリュウのでっちあげた嘘八百だったわよね?」
波打つ黒髪が空を薙ぎ、干した草の香が宙を舞う。シュアンから連絡を受けて間もなく、『藤咲家からの説明員』と言って草薙家に現れたミンウェイは、肩を怒らせ、テーブルに身を乗り出した。
「それを、摂政は『事故』じゃなくて、ハオリュウが仕組んだ『事件』だったと言うのよ!」
どんっ、と。
拳が叩きつけられる。
テーブルの上の茶器が跳ねた。衝撃は床から壁へと伝わり、応接室を彩る賞状と感謝状が、今にも落ちんばかりに傾く。
綺麗に紅の引かれた唇をわななかせ、柳眉を逆立てたミンウェイは、美麗な破壊神と化していた。
「なっ……! 何よそれ!」
すかさず放たれた甲高い叫びは、クーティエのものだ。父親のレイウェンが、ハオリュウの求婚を制したため、今のところ、ハオリュウの『お友達』である。――が、暗黙の『それ以上』ともなれば、おとなしく聞いてなどいられない。
クーティエは、ミンウェイに負けじ劣らずの剣幕で立ち上がる。
だんっ、と。
強く踏み鳴らされた両足からの振動で、飾り棚の硝子戸が揺れた。中に収められた、草薙家の功績を称えるトロフィーや盾が、ぐらりと倒れる。
ふたりに増えた破壊神を前に、ルイフォンは、激昂するミンウェイよりも、静かに憤るシュアンに来てほしかったと、渋面を作る。だが、主人不在の藤咲家を守るため、秘書はあちこちに飛び回っているとのことだった。
ふと視線を感じれば、思案顔のレイウェンが、こちらを見ていた。この破壊神は、私が鎮めたほうがよいか? と尋ねている。
年長者であり、家主でもあるレイウェンは、この場を収めるにふさわしい人物といえよう。しかし、君が仕切るほうが適任ではないかと、ルイフォンの顔を立てようとしてくれたのだ。隣で硬い表情をしているメイシアさんを安心させるのは、君の役目だろう? と。
ルイフォンが目線で謝意を述べ、口を開こうとしたときだった。
「落ち着け、お前たち。騒いでも、事態は変わらないだろう?」
性別不詳の声が響いた。直刀のような瞳が、ふたりの破壊神をまっすぐに貫く。
「シャンリー……」
「母上……」
相手の名を呟いたまま、破壊神たちは絶句した。
それは、シャンリーの迫力に押されたからではない。彼女が、両の目を涙で潤ませていたためである。
唇を噛み締め、シャンリーは握りしめた拳で目元を拭う。
「糞っ……、摂政殿下は、どうしてハオリュウばかりを酷い目に遭わせるんだ。この前は、シュアンの逮捕で脅迫しやがったし……」
男装の麗人と謳われ、勇ましい印象のあるシャンリーだが、身内の危機には打たれ弱く、涙もろかった。
声を震わせるシャンリーに、唖然とする破壊神たち。しかし、次の瞬間には、はっと我に返り、口々に叫ぶ。
「そうよ! ハオリュウばっかり、あんまりだわ!」
「許せない!」
ぎゃあぎゃあと耳障りな喚き声に、ルイフォンは頭を抱えたくなった。
ハオリュウが摂政に狙われるのは、摂政が直接的に圧を掛けられる相手が、ハオリュウしかいないためだ。だが、ここで正論を言っても、事態の収集には繋がるまい。
ともかく、強引にでも、話の主導権を握るしかないだろう。
彼が口元を引き締めると、傍らのメイシアが、そっと彼の背中に手を回してきた。細い指先が、編んだ彼の髪をくしゃりと撫でる。彼女の指の動きに合わせて、毛先を彩る金の鈴が、くるりと踊る。
『大丈夫だから』
柔らかに微笑むメイシアに、ルイフォンは口の端を上げた。
そう――。
レイウェンは心配してくれたようだが、メイシアは極めて冷静だ。
その証拠に、シュアンからの第一報を受けたとき、ルイフォンよりも早く、現状を打破する方法を口にした。正確には、ルイフォンが一瞬ためらった隙に、メイシアに先に言われてしまったのだ。
――俺のメイシアは、本当に芯が強い。
ルイフォンが誇らしく思いながら、『皆、ちょっといいか』と、切り出そうとしたときだった。
「ちょっと! ハオリュウさんの一大事ですって!?」
険しい声と共に、応接室の扉が大きく開かれた。勢いに乗った扉は、本来の開閉角度を超えて壁に打ち付けられ、部屋全体が揺れる。
「いったい、どういうことよ!?」
銀髪を振り乱し、ユイランが飛び込んできた。ミンウェイが来たとき、彼女は仕立て屋の作業に集中しているようであったため、『区切りがついたら、応接室に来てほしい』と、部屋の前に置き手紙を残してきたのだ。
普段の『品の良い初老の婦人』とは別人のような鬼の形相と、壁から落ちてきた感謝状を見比べ、ルイフォンは溜め息をつく。どうやら、鷹刀の血を引く女性たちには、破壊神が宿っているようであった。
数分後――。
どうにかして皆を落ち着かせたルイフォンは、「つまり、摂政の言い分は、こういうことだな?」と、状況をまとめた。
「メイシアの縁談は、『メイシアが嫁に行くのではなくて、厳月家の三男が婿養子となって藤咲家を継ぐ』というものだった。つまり、『長男ではあっても、平民の血を引くハオリュウは、跡継ぎとして認めない』という意味だ。そのことに不満を覚えたハオリュウが、自分を認めなかった父と、自分の立場を脅かす存在である異母姉を殺した、と」
「そうよ! 『藤咲家の前当主が亡くなった事故には、不審な点が多すぎる』とか言って、ハオリュウを連れて行ったのよ!」
いまだ気持ちの昂ぶったままのミンウェイは、「決闘のときの怪我だって、まだ松葉杖が取れたばかりで治りきってないのに!」と、興奮気味に捲し立てる。
すると、重なるように、クーティエが声を張り上げた。
「『不審』って……、だって、しょうがないじゃない! そんな事故、本当は、なかったんだから!」
その通りだ。
この事故は、ハオリュウの虚言。詳細に調べられれば、必ず不審点が出る。
クーティエは、感情のままに発した自分の台詞が、まるでハオリュウの罪を認めているかのようだと思ったのだろう。慌てて、言葉を付け足した。
「渓谷の事故は嘘だけど、ハオリュウは、お父さんやメイシアを殺してなんかいないわ! 摂政殿下は、本当は事故のことなんかどうでもよくて、単にハオリュウを捕まえたかっただけでしょ! ハオリュウが、女王陛下の婚約者になるのを断ったから! 『ライシェン』の情報を渡さなかったから! ――自分の言いなりに、ならなかったから……」
きんきんと高い、金切り声は、途中から力を失っていった。そして、涙声になりながら、ぽつりと続く。
「摂政殿下は、ハオリュウを捕まえてどうするつもりなの……?」
クーティエは、ごくりと唾を飲んだ。本当に訊きたいことは、そこではなく、そのひとつ先だ。
彼女は唇を震わせ、恐る恐る皆に尋ねる。
「摂政殿下は、ハオリュウに、王家がクローンに頼っていることを教えたわ。硝子ケースで眠る〈神の御子〉――『ライシェン』も見せた。だから……。知りすぎたハオリュウを、亡き者にしようとしているの……?」
皆の吐息が揺れた。
軋むような沈黙が辺りを漂い始め、しかし、すぐに、ミンウェイの乾いた笑いによって打ち払われる。
「ちょ、ちょっと、嫌だわ、クーティエ。不吉なことを言わないでよ……」
「だって、ミンウェイねぇ。この前は緋扇シュアンで、今度はハオリュウが逮捕されたのよ。摂政殿下は、権力を使って、やりたい放題だわ!」
クーティエは、わっと泣き崩れた。今までの傍若無人な破壊神ぶりは、不安な気持ちの裏返し。精いっぱいの虚勢だったのだろう。それはミンウェイも同じようで、切れ長の瞳には涙が浮かんでいた。
「落ち着け、クーティエ」
ルイフォンは諭すように声を上げた。
「確かに、摂政がハオリュウの抹殺を視野に入れていることは否定しない。でも、それは、最後の手段だ」
「どういう意味!? 摂政殿下は、何を企んでいるっていうの!?」
真っ赤に腫らした目で、クーティエが噛みつく。
「さすがに俺だって、摂政が何を考えているかなんて、正確に読み解くことはできねぇよ。けど、ハオリュウを葬ることが一番の目的ではないことだけは、はっきりしている」
「なんで、そう言い切れるのよ! 根拠は何よ!?」
悲鳴のような、クーティエの叫び。その声に被さるように、「クーティエ」と、シャンリーが静かに娘の名を呼んだ。
母親に抱き寄せられ、優しく背中をさすられると、クーティエの口からは、抑えたような嗚咽が漏れ始める。ルイフォンはシャンリーに頭を下げ、それから、食い入るような眼差しのミンウェイを視界に収めた。
「まず、シュアンのときとは、まったく状況が異なるんだ」
「どういうこと?」
ルイフォンのテノールに、柳眉を跳ね上げたミンウェイが問う。
「シュアンの『厳月家の先代当主の暗殺』という罪状は事実だったが、今回のハオリュウの『父親と異母姉の殺害』の容疑は無実だ」
「それが何よ? 摂政が事実だと言えば、無実でも事実になるわけでしょう?」
「ああ。ミンウェイの言うことは正しい。だが、今回は、ハオリュウの無実を証明できる人間がいる」
ルイフォンがそこまで言ったとき、隣でメイシアが、そっと彼の服の端を引いた。この先は自分に言わせてほしい、ということだろう。
彼が頷くと、彼女は目元だけで微笑み、そして、毅然と前を向く。
「私が『生き返って』、渓谷の事故は事実だと、証言すればいいんです。家族旅行は真実で、私は自ら身を投げた。私は流されて、下流で助かったけれど、周りが死んだものと思い込んだのをよいことに、密かに恋人のもとに身を寄せていた、と」
幾つかの、息を呑む気配がした。それが、この場の人数分ではないところをみると、とっくに気づいていた者がいるということだろう。――例えば、レイウェンなどが。
ルイフォンは、シュアンからの連絡を受けた直後の様子を思い返す。
『ルイフォン。――私、王宮に赴く』
凛と澄んだ声で、メイシアが告げた。
気高い戦乙女の顔で、ルイフォンを見上げる。黒曜石の瞳が揺れているのは、その言葉の重さのためだ。
すなわち……。
『貴族の藤咲メイシア』に戻る――と。
ルイフォンだって同じ答えに辿り着いていたというのに、声が出なかった。
彼女が貴族に戻ることは、永遠の別れを意味するわけではない。けれど、彼女が藤咲家の一員となれば、平民の彼とは違う世界で生きる人間となる。
彼女が自分の傍から失われるという空虚に、全身が恐怖した。
嫌だという我儘を呑み込み、華奢な体を強く抱きしめる。黒絹の髪に顔を埋め、くしゃりと撫でる。
こんなに儚げであるのに、誰よりも強い、最愛の彼女を――。
『ああ。ハオリュウを助けるぞ』
潤んだテノールで、彼女に誓う。
自分たちは、優しさに甘やかされていた。今までが特別で、今から本来の姿に戻るだけだ……。
「私が表に出れば、ハオリュウの無実は証明できます。ただ、おそらく、摂政殿下は、私が現れることを予期している――いいえ、期待しているものと思われます」
メイシアは力強く断言し、薄紅の唇をきゅっと結ぶ。
「ちょっと待って! 『メイシアが現れることを、摂政が期待している』って――どういうこと?」
困惑顔のミンウェイが答えを求め、きょろきょろと草の香を撒き散らした。予想通りの反応に、ルイフォンは、すかさず口を開く。
「だって、摂政は、『メイシアは生きている』って、知っているだろ? 平民の恋人と一緒にいるために、表向き死んだことにした、ってだけでさ。しかも、そう計らったのが、ハオリュウだってことも察している」
「それが、どういう……?」
「この状況で、ハオリュウを『異母姉の殺害』容疑で逮捕すれば、ハオリュウと仲の良い異母姉が、無実を訴えに出てくるのは『必然』だ。こんな単純な図式に、あの摂政が気づかないわけがない。つまり、『意図的に仕組まれたこと』なんだ」
「え?」
「要するに、摂政の狙いは、『ハオリュウに罪を着せて、葬ること』じゃなくて……」
「…………っ」
ミンウェイが、ごくりと唾を飲んだのを確認すると、ルイフォンは傍らに視線を送った。こくんと頷く白い首筋に、黒絹の髪がさらりと流れ、メイシアが言を継ぐ。
「摂政殿下は、『私が表に出てくるのを待ってらっしゃる』ということです」
2.渦紋の謀略-2
皆が沈黙する中、メイシアの声が響く。
「そもそも、ハオリュウの罪状が『父と異母姉の殺害』というのが、おかしいんです。ハオリュウに罪を着せたいのなら、『異母姉と共謀して、父を殺した』にすべきでした」
「どういうこと……?」
母親の胸で泣いていたクーティエが顔を上げた。
どうやら、摂政の目的が『ハオリュウを亡き者にすること』ではないと、半信半疑ながらも、信じるほうに賭けてみることにしたらしい。かすれた声ではあるものの、目つきが変わっていた。
ルイフォンは口の端を上げ、「つまりさ」と、メイシアの言に続ける。
「メイシアは、ハオリュウに殺された『被害者』ってことになっているから、無罪を証言できる立場にある。これが、父親の殺害の片棒を担いだ『共犯者』にされちまっていたら、そうはいかなかった。共犯者の証言なんて、なんの信用もないからな」
「あ……! そうよね」
クーティエが、ぽんと手を叩く。
「だいたいさ。渓谷の事故では、メイシアの親父さんは『死亡』で、メイシアは『行方不明』なんだぜ? そして、摂政は、『メイシアが生きていて、恋人のもとにいる』ことを知っている」
ハオリュウは事故を発表したとき、『異母姉の遺体は発見されなかった』とした。本当は生きている異母姉を、完全に『死者』にしてしまうことに躊躇いがあったのだ。
そして、もしも、いつか。なんらかの事情で、異母姉が生き返りたくなったときの保険にと、『行方不明』という形を取った。
「婿養子の縁談を持ってきた父親は死亡して、姉は密かに平民の恋人と暮らし、弟は念願の当主の座に収まっている。――これはどう考えても、『姉弟が共謀して父親を殺し、それぞれ望みのものを手に入れた』と解釈するほうが、理に適っているんだよ」
クーティエだけでなく、顔つきの変わってきた皆に、ルイフォンは調子づき、熱弁を振るう。
「そんなわけで、さっきメイシアが言ったように、ハオリュウの罪状が『父と異母姉の殺害』というのは、明らかに不自然なんだ。『本気で有罪にする気はない』という、摂政の意図が読み取れる。だから、これは――」
ルイフォンの指先が、とんっ、と目の前のテーブルを叩いた。
そして、鋭いテノールが響き渡る。
「『話し合いのテーブルを用意したから、無罪を主張しに表に出てこい』という、摂政からメイシアへの召致なんだ」
部屋のあちこちから、緊張を孕んだ息遣いが聞こえた。
不穏に揺れる、ざわめきの中、「ちょっと待ってくれ」と、シャンリーが困惑の声を上げる。
「ルイフォンの説明は、よく分かったよ。だが、摂政殿下が、格下を相手に、対等な話し合いの場を設けるなんて、殊勝なことをするとは思えん。――罠じゃないのか?」
性別不詳でありながら、整った造作がしかめられる。その顔は、疑い深いというよりも、心配性のそれだ。
「無論、罠の可能性はある」
シャンリーには悪いが、気休めを言っても仕方がない。
「そんなっ!」
クーティエの悲鳴が木霊した。しかし、ルイフォンは動じることなく、にやりと口角を上げる。
「けど、俺たちが動かなければ、摂政は、ハオリュウを罪人として処刑するだけだ。だったら行くしかねぇだろ?」
「そ、それは、……そうだけど。で、でもっ!」
不安と戸惑いを綯い交ぜにして、押し黙るクーティエ。その反応に満足しつつ、ルイフォンは畳み掛ける。
「そんなに心配するな。摂政は、あらかじめ、ハオリュウを無罪にする方法を提示した。こういう手段を採るってことは、摂政は歩み寄りの姿勢を望んでいるはずだ――というのがメイシアの見解だ。メイシアの言葉なら、俺は信じる」
そこまで言ったとき、ルイフォンの鼻先に干した草の香が押し寄せた。
「歩み寄りですって!? 馬鹿を言わないでよ! 藤咲の屋敷に、いきなり近衛隊が押しかけてきたのよ!?」
波打つ黒髪をなびかせ、ミンウェイが迫る。
すっかり藤咲家の一員となった『うち』という言い回しが微笑ましいが、柳眉を吊り上げた彼女に軽口を叩くわけにもいくまい。ルイフォンは少々残念に思いながら、肩をすくめた。
「まぁ、歩み寄りといったって、王族目線でのことだ。ミンウェイが納得できなくても仕方ねぇよ。問題は、貴族だったメイシアが動くかどうか――だからな」
ルイフォンが促すように傍らを見やると、メイシアが、こくんと頷いた。
「警察隊ではなく、近衛隊が来たというのであれば、ハオリュウに対する配慮を感じます。ですから、私は先に述べた通り、摂政殿下の呼びかけに応じます」
凛とした、澄んだ声だった。
彼女の心は既に決まっているのだと、誰もが認めざるを得なかった。
しんと静まり返った応接室に、レイウェンの低音が落とされる。
「メイシアさんが、王宮に行く必要があることは分かるよ。――けれど、それで、解決するわけではないのは、ルイフォンとメイシアさんなら気づいているね?」
甘やかでありながら、ぞくりと身が震えるような、冷涼とした響き。
すっと下がった室温に、戸惑うように顔色を変えたのは、名指しされたルイフォンとメイシア『以外の』者たちだった。
当のふたりは、落ち着き払った面差しをレイウェンへと向ける。
「ああ。分かっているさ」
ルイフォンは好戦的に嗤った。
「摂政が手に入れたいのは、メイシアじゃないからな。だから、『話し合いのテーブルを用意した』なんだ」
彼の弁を受け、メイシアが続ける。
「摂政殿下は、私を交渉の相手にしたいのでしょう。――彼の目的は、セレイエさんと『ライシェン』です。ハオリュウの身柄と引き換えに、要求してくるものと思われます」
「その要求に、君たちは、どう応えるつもりだい?」
間髪を容れずのレイウェンの問いかけは、当然のものだ。ルイフォンは、ばつが悪そうに癖の強い前髪を掻き上げた。
「正直なところ、まだ策はない。何しろ、ハオリュウの逮捕を聞いたのは、ついさっきなんだ」
反論めいた愚痴を付け加えてしまったのは、痛いところを突かれたからだ。
負け惜しみのようだと思いつつ、「けど!」と、彼は言葉を重ねる。
「今回は、シュアンのときみたいに『秘密裏に助け出す』という選択肢はないんだ。――ハオリュウには、貴族の当主という立場がある。正々堂々と、表から解放されなければならない。つまり、摂政と正面から、やり合う必要があるってことだ」
ルイフォンはメイシアと視線を交わし、ふたりの決意を口にする。
「これから、作戦を模索する。けど、どんな策を採ったとしても、俺は『渓谷の事故のあと、メイシアを保護した経緯を説明する人間が必要だ』として、一緒に王宮に乗り込む。メイシアひとりで行かせたりはしない。俺たちは、『ふたり』で立ち向かう」
「なるほど。考えたね」
猛然と言い放つルイフォンに、レイウェンが穏やかに笑んだ。
「あら、そんな理由でルイフォンが同行できるなら、私は『渓谷から落ちたメイシアを診察した医者』としてついていくわ。事故が本当なら、当然、メイシアは怪我をしていたはずでしょう?」
本業は医者なのよ、とミンウェイが胸を張る。
「待て、ミンウェイ。俺は、摂政に認識されているんだ。だから、どんな口実でも、『鷹刀ルイフォン』が名乗りを上げれば、同行が許される」
「え? どういうこと?」
「摂政は、俺がメイシアの恋人であり、セレイエの異父弟だって、知っている。何より、摂政は以前、『鷹刀ルイフォンから『ライシェン』の居場所を聞き出せ』と、俺を名指しして、ハオリュウに命じたんだ」
「ああ、そうだったわね……?」
それが何か? とばかりに、ミンウェイは首をかしげる。
「ならば、摂政にとって、俺は『是非とも、会いたい相手』のはずだろ? でも、ミンウェイは……、正直に言って、摂政の眼中にない。――すまん」
「うっ……、そ、それはそうだと思うけど……、……酷いわ……」
ミンウェイは、不満げに口を曲げた。ちょっと悪かったかな、と思いつつ、ルイフォンは話を進める。
「まずは、鷹刀の屋敷に事態を伝え、情報収集の協力を要請する。息の掛かった者が、王宮に潜入しているはずだから、ハオリュウの状況も探ってもらおう。――シュアンのときのように、監視カメラを使えればよかったんだけど、今回は無理みたいだからさ」
貴族であるハオリュウは、シュアンとは違い、牢獄には入れられない。貴人としての配慮がなされ、プライバシーの保たれた王宮の一室に軟禁されているため、監視カメラを利用できないのだ。
そのとき、ユイランが口を開いた。
「女王陛下に、何か頼めないかしら? 少なくとも、王宮の様子くらいなら、教えてくれると思うの」
人懐っこい女王は、いつの間にか、リュイセンとだけでなく、ユイランとも頻繁にメッセージの遣り取りをするようになっていた。『あんな娘が欲しかった』という、ユイランの夢が叶うのか否かは不明だが、リュイセンが女王に渡した携帯端末は、なかなか良い仕事をしている。
ちなみに、女王は時々、ルイフォンにもメッセージをくれる。無邪気ではあっても無神経ではない彼女は、女装の件をさらりと流してくれたので、良好な関係を築くことができた。
数行ごとにリュイセンの名前が出てくる文面を送ってくるので、こちらからはリュイセンの黒歴史などを返してやっており、非常に喜ばれている。
「ああ、そうだな。あとで、アイリーと連絡を取る。それから、ヤンイェンも……かな」
それまで覇気に満ちていたテノールが、最後で沈んだ。自分で義兄の名を口にしておきながら顔を曇らせるなんて、様は無ぇなと、自嘲する。
ヤンイェンにはヤンイェンの事情があることは、百も承知している。しかし、どうにも態度のはっきりしない義兄は、単刀直入を良しとするルイフォンにとって、非常にやりにくい相手だった。
もっとも、ルイフォンの心情はさておいても、ヤンイェンの力を借りるのは難しそうに思われた。それというのも、ユイランとルイフォンが『仕立て屋とその助手』として会ったあと、ヤンイェンへの監視が更に強まったのだ。
ユイランは、セレイエとは不仲とされているが、やはり鷹刀一族。彼女と接触したからには、行動の自由を制限すべき、と摂政は考えたのだろう。現在、ヤンイェンは『体調を崩した』という名目で、自分の屋敷に幽閉同然の扱いで閉じ込められている。
ルイフォンがメッセージを送っても、返事が来るのは、よくて三日後だ。『極めて健康であるのだが、医師が張り付いていて、なかなか返信できない』ということだ。
どうにかして監視の目をかいくぐる手段はないものかと、ヤンイェンの屋敷の情報を集めてみれば、主治医の診療記録が出てきた。療養中の症状がぶり返したとかで、高熱が続いていることになっている。無論、偽造だろう。わざわざ書類を作らされる医者も、御苦労なことである。
「ともかく、情報収集だな。皆、いろいろと協力を頼む」
ルイフォンがそう言うと、メイシアがミンウェイに向かって頭を下げた。
「ミンウェイさん。私が『生き返る』と、藤咲家も慌ただしくなると思います。緋扇さんや執事に、よろしくお願いしますと、お伝えください」
「分かったわ。……でも、メイシアが『生き返る』と、今までと、どう変わるの?」
ミンウェイとしては、軽い気持ちで尋ねたのだろう。しかし、その瞬間、メイシアの顔が、ぎくりと強張った。そして、その表情を音で表したような、硬質な声が響く。
「貴族としての、あるべき生活に戻ります」
「えっ……と? 具体的には?」
雰囲気の一変したメイシアに、ミンウェイは戸惑い、小首をかしげた。
「そう……ですね。当主の異母姉として、ハオリュウを傍で支えます。あの子が、ひとりでこなしていた社交も、私で代理がきくものもあるはずなので、少しは楽をさせてあげることができると思います」
「ちょっ!? それって、メイシアは藤咲の屋敷に戻ってきて、貴族として生きる、ってことよね? ……え? 待って、ルイフォンとは、どうなるの!?」
「互いに交わることのない、本来の道を歩むことになります。――勿論、こっそり逢うことはできますから、その……」
「なんですってぇ!?」
柳眉の吊り上がっていくミンウェイに、メイシアの声が掻き消される。
「駄目よ! あなたたちは、一緒にいなきゃ!」
そのとき――。
「ミンウェイ、やめろ!」
ルイフォンが鋭く叫んだ。
「メイシアは腹を括ったんだ。――すべてを理解した上で、な」
ここでミンウェイを睨みつければ、それは八つ当たりだ。
だから、彼は目を伏せた。怒気を抑え、低く唸るように告げる。
「『平民の恋人と暮らしていた、貴族令嬢』が、元の世界に戻ったとき、上流階級の奴らは蔑み、嘲りの目で見るだろう」
ルイフォンはメイシアの肩を抱き寄せた。黒絹の髪に指を滑らせ、くしゃりと撫でる。
「ハオリュウに『傷物の異母姉を妻にしてやる』と、恩着せがましく言い寄り、内心では、後ろ盾のない年少のハオリュウを操って、藤咲家の実権を握ってやろうと企む輩も出てくるはずだ」
「な……、何……それ……?」
ミンウェイが唇をわななかせ、言葉にならない憤りを持て余す。
当然だろう。ルイフォンだって、これからメイシアが屈辱を味わうのだと思うと、腸が煮えくり返る。
だから――。
「心配するな」
金の鈴を煌めかせ、覇気に満ちた顔で宣言する。
「俺が頃合いを見て、メイシアをさらいに藤咲家に行く」
メイシアは離れ離れの覚悟を決めていたようだが、そんな覚悟は必要ない。
正々堂々と、我儘に。自分たちらしく生きるのだ。
「藤咲家にも貴族の体面ってもんがあるだろうから、今すぐに、ってわけにはいかねぇ。けど、あと数年もすれば、世間が何を言おうとも、どこ吹く風でいられる藤咲家が出来上がっているはずだ。ハオリュウが当主なんだからな。――そうなりゃ、何も問題ねぇだろ?」
「ルイフォン!?」
鈴を振るようなメイシアの声が、高く裏返った。黒曜石の瞳が大きく見開かれ、やがて透明な涙で潤んでいく。
「初心に帰って、駆け落ちしようぜ」
今となっては懐かしい出来ごとだが、ふたりの想いが通じ合った直後には、そんな話もあったのだ。
「メイシアはずっと、家のことをハオリュウに任せきりにしたって、気にしていただろ? だから、ちょうどいい機会だと思って、しばらく手伝ってこいよ」
「ルイフォン、ありがとう……!」
恥ずかしがり屋のメイシアが、周りを気にすることなく、ルイフォンの胸に飛び込んだ。その背に腕を回し、彼は高らかに告げる。
「それじゃ、行動開始だ!」
ルイフォンの宣戦布告で、この場はお開きとなった。
3.庭園迷路の囚人-1
燦然と輝く、白亜の王宮。
その上階の窓辺に、ハオリュウは佇む。
眼下には、美しく刈り込まれた生け垣による、壮麗な庭園迷路が広がっていた。
濃い緑の色合いに、どのような植物を用いているのか、この高さからでは判別できない。しかし、芸術的なまでに無機質に、正確無比な幾何学模様を描くのであれば、樹木に名など要らぬであろう。
蝉の歌声の止み間に、蟋蟀の間奏の流れる、この時節。花を咲かせる樹は意外に少ないという。故に、この庭園の設計者は、季節を問わず、常に変わらぬ王威を演出すべく、花を魅せるよりも、技工を凝らすことを選んだらしい。
もっとも、四季折々で表情を変える藤咲家の庭では、開花時期の長い百日紅の花が、今も季節の移ろいを優しく見守っているのであるが。
――迷路と呼ぶほどの複雑さもないな。
ハオリュウは、冷ややかに目を眇めた。
こうして俯瞰すれば、ごく単純な、ただの紋様だ。まるで、今回の彼の逮捕劇のように。
ぎりっ、と奥歯を噛み、ハオリュウは眉間に皺を寄せた。こんなときでも折り目正しく、スーツを着込んでくるような彼でなければ、忌々しげに舌打ちをしていたことだろう。
「ふざけたことを……!」
すっかり低くなった声で、彼は怒気を吐き出す。
摂政カイウォルは、異母姉メイシアが生きていることを知っている。ならば、冤罪と分かり切っている『父と異母姉の殺害』という罪状は、ハオリュウに罪を着せるためではない。彼を人質に、異母姉から『ライシェン』の隠し場所を聞き出すためのものだ。
あるいは、もっと直接的に、ハオリュウと『ライシェン』の交換を要求する肚か。
「姉様をなんだと思っているんだ……!」
最愛の異母姉には幸せになって欲しいからこそ、ハオリュウは苦労して『渓谷の事故』を作り上げ、ルイフォンのもとに『嫁がせた』。
来春、父の喪が明けるのを待って、結婚式も挙げる。
そのための花嫁衣装だって、手配した。
実のところ、ルイフォンが婚姻開始年齢に達していないので、戸籍上の結婚にはまだ早いのであるが、そもそも『死者』の異母姉に戸籍はない。しからば、めでたい挙式の先取りくらいよいだろうと考えたのだ。
ハオリュウは、異母姉の晴れ姿を非常に楽しみにしている。歪んだ形かもしれないが、『渓谷の事故』は、ハオリュウの心からの祝福だった。
それなのに。
あの事故を利用された。
「姉様を外道のあばずれにする気か!?」
異母姉は、平民に懸想した挙げ句、自死を選んだことになっている。しかも、彼女が原因で、父親まで亡くなったという設定だ。それが、実は生きていて、恋人と仲睦まじく暮らしていたとなれば、とんだ醜聞である。
ハオリュウは拳を握りしめ、壁に打ち付けた。反動で、窓硝子が脅えたように震える。
白眼視されると分かっていても、異母姉は間違いなく、王宮に姿を表す。そして、異母弟の無罪を訴えるだろう。
「――っ!」
異母姉を『死者』にした、過去の自分をハオリュウは呪う。
貴族と平民の婚姻は、禁止されているわけではない。現に、ハオリュウの父は貴族で、母は平民だ。
ハオリュウの両親とは逆に、貴族の娘が、平民の男に嫁ぐことだってある。多くの場合、没落した貴族が、裕福な平民に、金銭的な援助を目的として縁を結ぶのであるが、ともあれ、身分違いの婚姻は皆無ではないのだ。
だから、異母姉から初めて、ふたりの仲を告白されたときには、ルイフォンが婚姻開始年齢を迎えるまで、実家で花嫁修業でもしていればよいと思った。一時の想いなら、その間に冷めるだろう、と。
けれど、父が〈影〉にされていたことが判明した。〈影〉はハオリュウの命を狙い、異母姉を人質に悪行の限りを尽くそうとした。
そして。
自分たち姉弟を守るため、父の魂を救うため。
ルイフォンが毒刃で、父を殺した。
「…………」
父の死因を偽る必要があった。
父が亡くなり、空席となった藤咲家の当主の座を、確実に手に入れる必要があった。さもなくば、年少の後継者を廃し、妙齢の異母姉に婿を取ろうとする動きが出てくるであろうから。
……何よりも。
すべての責任を負おうとしたルイフォンと、彼を追いかけていった異母姉を引き離すなんて、できるわけがなかった。
『渓谷の事故』は、あの時点での最善の選択のはずだった。
「畜生……」
ハオリュウに力があったなら、異母姉を『死者』にすることはなかった。別の手段を取ることもできたはずだ。
腹の底から沸き立つ怒りは、『渓谷の事故』を悪用したカイウォルに向けられたものか。それとも、不甲斐ない自分に対するものか。
――自由の翼を手に入れた異母姉を、貴族の籠に戻してはならない。
瞳を尖らせ、ハオリュウは緑の庭園迷路を睥睨する。
カイウォルの用意した道筋を、素直に歩いてやる義理などない。
必要な出口は、この手で作り出せばよいのだ――。
カイウォルがハオリュウのもとを訪れたのは、逮捕から丸一日ほど経った、翌日の昼過ぎのことであった。
「もっと早くに、君のところに来たかったのですが、政務が滞っていましてね」
今まで、誰かと面会していたのだろう。謁見の間で焚かれる香の匂いが、言い訳がましく、ふわりと漂った。
伏し目がちな美貌は、ややもすると申し訳なさそうな印象を与えるが、上辺だけのものだ。後回しにしたのなら、その程度の優先順位だったというだけだ。あるいは、ハオリュウを長時間、外界から隔絶することで、彼の精神に負荷を掛けようとしたのか。
もっとも、カイウォルにとって、ハオリュウは『ライシェン』を手に入れるための駒にすぎない。身柄さえ掌中に収めてしまえば、ハオリュウ個人に用はないのだ。そう考えれば、わざわざ部屋に顔を出したのは、カイウォルなりの誠意かもしれなかった。
さておき――。
ハオリュウは、ぐっと眉を内に寄せ、困惑顔を作った。
肩を丸め、前よりも伸びた背を小さく見せる。少年らしい利発さに、あどけなさの残る面差しを重ね、テーブルの向こうのカイウォルを見上げる。
「摂政殿下の多忙は承知しております。ですが、身に覚えのない罪で拘束された件に関しましては、承服いたしかねます」
臣下としての礼を欠くことはなく、さりとて、批難を口にしていないわけではなく――むしろ、台詞の上では立派に憤慨している。しかし、父親譲りの凡庸ながらも誠実そうな相貌に、少年ならではの儚さが加われば、謂れなき罪に問われた憐れすら漂う。
普通の者であれば、思わず手を差し伸べたくなるような様相は、平民を母に持つハオリュウが、上流階級を生き抜くために身につけてきた処世術だ。
ただし、彼を囚えた張本人であるカイウォルには、正しく抗議と伝わったようで、すっと通った鼻筋に、わずかに皺が寄る。
別にそれでよい。ハオリュウは、カイウォルと馴れ合うつもりはない。
「君は……相変わらずですね」
雅やかな苦笑と共に、カイウォルは奈落のような瞳を細めた。
『太陽を中心に星々が引き合い、銀河を形作るように。カイウォル殿下を軸に人々が寄り合い、世界が回る』
そんな文言で謳われる摂政の重力に、この年若い貴族の当主は決して呑み込まれない。たった十二歳でありながら、他に類を見ない胆力に、カイウォルは内心で賞賛を送る。――勿論、本人の与り知らぬことであるが。
もしも歳が近ければ、カイウォルは間違いなく、ハオリュウを遠ざけただろう。しかし、ひと回り以上も年下となれば、好奇心のほうが勝る。穏やかな見た目とは裏腹の、激しい気性の持ち主とあらば、なおのこと興味は尽きない。
実のところ、カイウォルは嘘偽りなく、ハオリュウを腹心に欲しいと思っていた。しかし、これまでに散々、ハオリュウの逆鱗に触れてきたことを顧みれば、そんな望みは叶うべくもないのである。
「心配しなくとも、君の無実が証明されれば、すぐに解放しますよ」
蠱惑の旋律を響かせ、カイウォルは緩やかに口の端を上げる。今は、メイシアが出てくるのを待つ段だと言ったのだ。
――そうはさせるか。
異母姉は、義兄の傍を離れてはならない。
ハオリュウは純心な少年の顔で首をかしげ、カイウォルの言葉尻を捕らえる。
「いったい誰が、私の無実を証明してくれるというのでしょうか?」
刹那、カイウォルの微笑が途切れた。
ハオリュウが攻勢に転じたことに、気づいたのだ。
「そうでしたね。君にしてみれば、姉君が表に出てくることは忌避すべき事態、というわけですね」
「ええ。異母姉は既に亡くなっておりますので、出てきてもらっては困るのです」
すっと踏み込んできた、カイウォルの問い。対して、答えるハオリュウは、しなやかな絹布の如くに、さらりと。
今まで、カイウォルとハオリュウは、互いにメイシアの生存を承知しながらも、素知らぬふりを通してきた。
その不文律が、たった今、破られた。
3.庭園迷路の囚人-2
「カイウォル殿下が必要とされているのは、私の異母姉ではなく、〈神の御子〉です。異母姉のことは、お捨て置きください」
ハオリュウは、単刀直入に『〈神の御子〉』と切り出した。
迷路の入口はハオリュウの逮捕でも、出口は〈神の御子〉なのだ。回りくどく話を進めている間に、『多忙な』カイウォルに逃げられぬよう、一気に核心に迫る。
「君の気持ちは分かりますが、『ライシェン』は、鷹刀一族に奪われたのですよ。君の姉君の恋人、鷹刀ルイフォンの属する、鷹刀一族に。――ならば、メイシア嬢は無関係とは言えません。王宮に出向いて、しかるべき態度を示すべきでしょう」
傲慢な王族そのもののカイウォルの弁に、ハオリュウは気色ばんだ。
「お言葉ですが、殿下。『ライシェン』は、『あなたの部下』であり、王族直属の研究組織〈七つの大罪〉の研究員である、〈蝿〉という男の監視下にあったはずです。問い詰めるべきは、〈蝿〉でございましょう」
さり気なく、『あなたの部下』を強調した。何故なら、菖蒲の館での会食のとき、カイウォルは〈蝿〉を自分の手の者として、自慢げに紹介したのだから。
さてはて、いったい、どう取り繕うつもりであろうか。
ハオリュウは、胸の中で嘲弄する。
しかし、不遜なことに、カイウォルは大げさなほどの溜め息で返してきた。
「ハオリュウ君、〈蝿〉は鷹刀一族の出身なのですよ。彼は『ライシェン』を連れ去り、自身の一族のもとに身を隠しました。血族に匿われた〈蝿〉を引っ張り出すのは、容易なことではありません」
なれば、メイシアを利用するのは当然だと、言外に告げる。
――厚顔無恥にもほどがある。王族ならば、何をしてもよいと思っているのか。
自分の内部から、憎悪が膨れ上がるのを感じた。
だが、分別ある貴族の彼は、その感情を外へと出すような愚は犯さず、闇色の瞳を冷ややかに細めるに留める。
まだまだ机上の空論でしかない『この国から身分をなくす』というハオリュウの未来図の中に、現在の王族への処遇という問題がある。
本来なら、現王を斃すのが筋であろうが、この国は、白金の髪、青灰色の瞳の天空神を崇める宗教国家だ。国民感情に配慮すれば、神と同じ姿をした女王に危害を及ぼすべきではない。
――その代わり、カイウォル殿下に、王族の象徴として消えていただくことにしよう。
国家の運営という面において、カイウォルの手腕が必要不可欠であることは理解している。だが、そのころまでに、ハオリュウ自身が有能になればよいだけだ。
未来へと思いを馳せることで、ハオリュウは、この場では、ぐっと苛立ちを呑み込んだ。
気を取り直し、低い声で「殿下」と呼びかける。
「高潔を誇りとする鷹刀一族は、非道な〈悪魔〉として生きる道を選んだ〈蝿〉を、追放処分としています。故に、鷹刀一族が〈蝿〉を保護するなど、あり得ません」
冷涼とした光沢を放つ、絹糸の如く。ハオリュウは静かに断言した。
現状という迷図に、彼は『策』という名の『糸』を張り巡らせる。
真実と虚偽とを撚り合わせて策を紡ぎ、カイウォルに手繰らせ、用意した出口へと誘う――。
「ほう。姉君だけでなく、君自身も、かの一族に詳しいようですね」
蠱惑の旋律が、興を帯びた。
ハオリュウは内心の笑みを悟られぬよう、瞳を伏せる。
「鷹刀ルイフォンをはじめとする、鷹刀一族は、私の命の恩人なのです」
「命の恩人とは……。穏やかならざる話ですね」
「ええ。私は、父に命を狙われました。――正確には、『あなたの部下』である〈蝿〉によって別人にされてしまった、『父の姿をしたもの』に、です」
「!?」
困惑に眉をひそめたカイウォルの視界の中心で、ハオリュウの背後に、昏い闇が広がった。
カイウォルの奈落の瞳より、更に昏い漆黒が、深淵を覗かせる。
「〈七つの大罪〉の技術のひとつである『〈影〉』というものを、殿下はご存知でしょうか? 父は、その技術の実験体にされました。藤咲家の没落を狙う、とある貴族からの依頼を受けた、〈蝿〉の仕業です」
王宮に属する摂政は、神殿に属する〈七つの大罪〉の技術については、ほとんど知識がないと聞いている。それでも、ハオリュウが故意に選んだ『実験体』という言葉には、さすがに感じるものがあったのだろう。
カイウォルの喉が、こくりと動く。
それを確認し、ハオリュウは静かに畳み掛けた。
「私は、『父の姿をしたもの』に、足を撃ち抜かれました」
不自由になった足に視線を落とし、寂しげに笑う。
車椅子は要らなくなっても、以前のように走ることは二度と叶わぬ足だ。
「動けなくなった私が、とどめを刺されそうになったとき、鷹刀ルイフォンに助けられました。どうやら、責任感の強い鷹刀一族は、追放したとはいえ、血族である〈蝿〉のしでかしたことの後始末に奔走していたようで……、私は運が良かったのです」
すべてが真実ではないとはいえ、概ね間違ってはいない。そして、ほぼ事実である虚構は、人を惑わすに充分な信憑性を持つ。
案の定、衝撃の告白に、カイウォルは顔色を失った。
「私と異母姉が、鷹刀一族と知り合ったのは、そういう縁です。この件がもとで、父は、そのあと亡くなりました」
父の死因は、うやむやに誤魔化す。間違っても、ルイフォンの毒刃が命を奪ったなどとは言わない。
「殿下が不審に思われた『渓谷の事故』は、父の死と、恩人であるルイフォンと恋仲になった異母姉の気持ちを考え、私が作り上げた嘘です」
「ハオリュウ君……、君にも事情があったのは分かりましたが、嘘は……」
「だって、殿下。仕方がないではありませんか。『〈影〉』は存在しないはずの技術です。傍目には、乱心した父が、息子の私の命を狙ったようにしか映りません。表沙汰になれば、藤咲家の恥となります。――それ故の『渓谷の事故』です」
本来なら、王族の言葉を遮るなど、あってはならない無礼だ。しかし、あえて禁を破り、ハオリュウは追い詰められた非力な少年を演じる。
「それとも殿下は、王族直属の研究員である〈蝿〉が、藤咲家を狙う陰謀に加担したと、公に認めてくださるのですか?」
「それは……。いえ、そもそも、〈蝿〉が関わったという、証拠は……」
「証拠など、あるわけがないでしょう? 〈七つの大罪〉の〈悪魔〉の仕業なのですから」
理屈になっていない理屈も、『〈七つの大罪〉』という単語の魔術で煙に巻く。〈七つの大罪〉の技術を恐れるカイウォルが相手なら、効果があるはずだ。
ただし、細かく問い詰められれば、舌先三寸には必ず矛盾が出る。引き際が肝心だ。
「なんにせよ、むざむざと当主の死を許したことは、藤咲家の落ち度です。我が家の名誉に関わる問題ですから、どうか、これ以上は訊かないでください」
声を震わせ、ハオリュウは、そっと自分の足を撫でた。
「……っ」
カイウォルが声を詰まらせた。その機を逃さず、ハオリュウは仕掛ける。
「〈蝿〉という人物は、どうしようもない人間の屑です。けれど、過ぎたことを恨んでも、もはや取り返しがつきません。――それより、私が真に申し上げたいことは他にあるのです」
険しい顔を向けたハオリュウに、カイウォルの目線が説明を促す。
「これから〈蝿〉を探し出し、『ライシェン』を取り戻したとしても、その『中身』が無垢な赤子である保証は、どこにもございません」
「!?」
「『〈影〉』という技術は、人間の肉体に、別の人間の記憶を――精神を書き込むものです。もしも、『ライシェン』の肉体に、〈蝿〉の記憶が書き込まれれば、いずれ〈蝿〉が、この国の王として君臨することになります。――そんな恐ろしいこと、私は考えたくもありません」
「――なっ!?」
カイウォルにとって、ハオリュウの発言は青天の霹靂だったのだろう。典雅な美貌が凍りつき、彫像のように固まった。
ハオリュウは胸中でほくそ笑み、言を継ぐ。とうの昔に死んだ〈蝿〉を、今も生きているかのように平然と騙る、自分自身に呆れながら。
「殿下。どうか、『ライシェン』を追うのはおやめください。――その代わり、私に妙案がございます」
3.庭園迷路の囚人-3
『『ライシェン』を取り戻したとしても、その『中身』が無垢な赤子である保証は、どこにもございません』
『もしも、『ライシェン』の肉体に、〈蝿〉の記憶が書き込まれれば、いずれ〈蝿〉が、この国の王として君臨することになります』
ハオリュウの言葉に、カイウォルの美貌は凍りつく。
しかし、次の瞬間には、少なくとも表面上は平静を取り戻した。香の匂いを撒き散らしながら、雅やかに首を振る。
「『ライシェン』の中身が、〈蝿〉になって戻ってくる――ですか? それは、あり得ませんね」
「どうして、そう言い切れるのですか?」
当然のように問い返してきたハオリュウに、カイウォルは渋面を作る。
「『ライシェン』は、鷹刀セレイエの『殺された息子』の肉体です。息子を蘇らせるために作った、大切な肉体に、〈蝿〉の記憶が書き込まれることを、彼女が許すはずがないでしょう」
自分の台詞を脳内で繰り返し、正しい理論であることを確認すると、カイウォルは緩やかに口の端を上げた。
〈七つの大罪〉絡みの話は、どうにも得体が知れず、つい身構えてしまっていけない。ハオリュウは、異母姉を王宮に呼ばずに済むよう、詭弁を弄しているだけだ。
カイウォルは、己にそう言い聞かせた。
そのとき――。
「た、鷹刀……セレイエ……!?」
ひゅっと、息を呑むような声が響いた。
「その名前は、ルイフォンが必死に探している、行方不明の姉君の名前です! いったい、どうして……」
「!」
そこで初めて、カイウォルは自分の失言に気づいた。
鷹刀一族と懇意にしているハオリュウであれば、当然、『ライシェン』は、『鷹刀セレイエの息子』と知っているものと思いこんでいた。しかし、この口ぶりからすると初耳だったらしい。
余計なことを言ってしまった。自分らしくもなく迂闊だった。
焦りに動転したカイウォルは、ハオリュウが『知らないふり』をしているだけ、という可能性に至らない。そんな心の隙を突くかのように、深刻そのもののハオリュウの声が、追い打ちを掛ける。
「……待ってください。〈神の御子〉である『ライシェン』が、過去の王のクローンではなく、平民の姉君の子――のクローン。尊き〈神の御子〉が『殺された』のは、禁忌のお生まれだったから、という理由で……。それは、つまり……」
人当たりのよい善人顔が青ざめ、カイウォルを凝視する。
その目つきに、カイウォルは、はっと顔色を変えた。以前、事情聴取として呼び出した鷹刀エルファンと、似たようなやり取りがあったことを思い出したのだ。
あのときと同じ『実に、不名誉な憶測』を口にされては不愉快と、カイウォルは制止を掛けようとした。しかし、無情にも、ハオリュウが一瞬早く、言を継ぐ。
「『ライシェン』は、カイウォル殿下の御子なのですね」
「違います!」
カイウォルは眉を吊り上げ、怒声を放った。
普段とは別人のような荒々しい語気に押されたのか、ハオリュウが目を丸くする。口元は、わずかに開かれたまま、半端なところで動きを止めていた。
しかし、すぐに「失礼いたしました」と引き下がり、深々と頭を垂れる。聡明な少年当主は、無用な詮索はすべきでないと弁えているのだ。
臣下として模範的な、礼儀正しい態度であるが、それ故、本当に誤解が解けたのか、カイウォルは不安になった。されど、ハオリュウが、さらりと流したことを、こちらから蒸し返すわけにもいかない。
カイウォルは苛立ちを呑み込み、押し黙るしかなかった。
――さすが、カイウォル殿下。苦虫を噛み潰したような顔ですら、絵になる美貌とは。
正面に座する貴人に対し、ハオリュウは胸中で、意地の悪い賛辞を呈する。
この一幕は、単なる余興――異母姉を巻き込もうとするカイウォルへの、ささやかな意趣返しである。
そして、ここからが本題となる。
「『ライシェン』がカイウォル殿下の御子でないと聞き、安心いたしました」
利発そうな澄んだ声に、無邪気な少年の笑顔を浮かべ、ハオリュウは切り出す。
「――と申しますのは、〈蝿〉の手に落ちた『ライシェン』など捨て置き、新たなる〈神の御子〉を迎えればよいと、ご提案しようと考えておりましたもので」
わずかに身を低くして、恭しげに振る舞う。そして、そのまま、カイウォルに口を挟む余地を与えず、立て板に水を流すように続けた。
「王家に〈神の御子〉が生まれない場合は、王族直属の研究組織である〈七つの大罪〉が、過去の王のクローンを作る――それが決まりでございましょう? ですから、新たなる〈神の御子〉を作ればよいのです。――ただし」
そこで一段、声を落とす。
ハオリュウの背後に、闇が広がる。
「女王陛下の御子ではなく、カイウォル殿下の御子として、今すぐに誕生させるのです。――あとから、〈蝿〉が『ライシェン』を連れてきたところで、手遅れとなるように」
「――!?」
カイウォルは息を呑んだ。
もしも、カイウォルのもとに〈神の御子〉の男子が生まれれば、その子は誕生の瞬間に、現女王から、王冠を譲り受ける。女王――すなわち女子は、あくまでも『仮初めの王』だからだ。
それが、この国の金科玉条。
このとき、赤子の王の摂政には、誰もが、間違いなく『国王の父』であるカイウォルを推すことだろう。
役職的には現在と変わらぬが、王が成人を迎えるまでの時間は、現女王のそれとは比ぶべくもなく長くなる。その間に、カイウォルは不動の地位を築くことができる。
つまり、ハオリュウは、カイウォルに『事実上の玉座を手に入れませんか』と、囁いたのだ。『あとから、〈蝿〉が『ライシェン』を連れてきたところで……』というのは、詭弁にすぎない。
「ハオリュウ君……?」
蠱惑の旋律が歪み、音程を外した。まだ少年であるはずのハオリュウが口にするには、あまりにも老獪な弁だと、たじろいだのだ。
肚を探るような視線の中、沈黙が訪れる。
――我ながら、とんだ小悪党だな。
ハオリュウは、内心で自嘲した。
それは、黒髪黒目のカイウォルが、合法的に王権を手に入れる策を提示したから――ではない。
もっともらしい口弁を垂れているが、実のところ、この陰謀は『現実には、なり得ない』。
それを『知っての上で、大真面目に茶番を演じている』からこそ、『小悪党』なのだ。
過去の王の遺伝子は、鷹刀セレイエによって、すべて廃棄されてしまっている。故に、現女王を退ける、新たなる〈神の御子〉の誕生は不可能。
このことは、カイウォルも知っているはずだ。だから、すぐにも『無理だ』と棄却する。
それでよいのだ。
この遣り取りを踏まえることによって、ハオリュウは『代案』という形で、いきなり口にすれば不自然極まりない提案を、訝しまれることなく切り出すことができる。
この『代案』こそが、ハオリュウの真の策だ。
「……君は、本当に……、賢いですね」
それまで瞬きを忘れていた瞳を伏せ、カイウォルが口を開いた。
「ですが、君が言うようなことはできないのですよ」
「どうしてですか?」
案の定の台詞に、ハオリュウは、何食わぬ顔で首をかしげる。
「鷹刀セレイエが、過去の王の遺伝子をすべて廃棄してしまったからですよ。『ライシェン』を唯一の〈神の御子〉とするためにね」
溜め息混じりのカイウォルに、ハオリュウは「そうですか……」と、あらかじめ用意しておいた落胆の声を重ねた。
ハオリュウは肩を落とし、眉間に皺を寄せる。他に何か策はないかと、思案する顔だ。
本当は、すぐにも『代案』を切り出したいところなのだが、あくまでも『仕方なく』という体で話を進めるべきで。そのためには、適切な間が必要だった。
一方、唇を噛むハオリュウに、カイウォルは何を思ったのか……。
ふっと口元を緩め、静かに語りかけてきた。
「それにね、ハオリュウ君。私に、妻はおりません。だから、私に子が生まれたら、可笑しいですよ」
「え……?」
意図の読めない、発言だった。
とっさに、なんと返せばよいのか分からない。――と同時に、『代案』を出すタイミングを逃したと、ハオリュウは焦る。
「妻がいなくとも、婚外子だと説明すれば問題ないと、君は考えていたのでしょう? ええ、確かに、それで筋は通りますね」
ハオリュウの困惑はお見通しとばかりに、カイウォルは畳み掛ける。
状況からして、高圧的に嗜められたとしても、おかしくはなかった。けれど、不思議と、険しさのようなものは感じられない口調だった。
いつもの雅やかさを残しつつ、そこはかとない哀愁を帯びたような……。
「殿……下……?」
「君は、根本から勘違いをしていますよ。――私は、権力など求めていないのです」
「!?」
鼓膜を震わせた音が、どんな意味を持つ言葉なのか、ハオリュウの脳が理解を拒んだ。
その様子に、カイウォルが苦笑する。
「君の目には、私は黒髪黒目でありながら、虎視眈々と権力の座を狙う、野心家のように映っているのでしょう? 確かに、そう見えるような振る舞いもしてきましたから、君に誤解されるのは仕方がありませんね」
上品に口元を隠して破顔する王族に、ハオリュウは、はっと我に返った。
これは、相手を惑わす駆け引きだ。
呑まれてはならない。
ハオリュウが自らに警鐘を鳴らしたとき、カイウォルが困ったように眉をしかめた。
「どうやら私は、まったく信用されていないようですね。ならば、賢い君には、こう言い換えれば納得してもらえるでしょうか」
演技めいた嘆息を落とし、すっと身を乗り出す。
「我が国で権力を得たければ、〈神の御子〉として生まれるか、〈神の御子〉を手駒にするかの、どちらかしかありません。これは、この国の仕組みを、まともに読み解ける者であれば、自明の理です」
黒髪黒目のカイウォルは、穏やかな物言いで、……薄く嗤う。
「私の場合であれば、『〈神の御子〉の父』を目指すことが一番、近道でしょう。君に言われたように――ね」
「……」
「そして、子を生すためには、妻が必要です。なのに、私はこの歳まで独り身なのですよ。権力を欲するのであれば、〈神の御子〉を産むための女性が、不可欠でありますのに」
「!」
カイウォルの言う通りだった。
もうすぐ三十路を迎えようという年齢であるにも関わらず、彼は未婚だった。
だからといって、独身を謳歌し、浮き名を馳せているという話も聞かない。上流階級の令嬢たちから、熱い視線を送られているにも関わらず、むしろ堅物で通っている。
権力を望むのであれば、妻を娶るべきだろう。黒髪黒目のカイウォルの子が、〈神の御子〉として生まれる確率は高くはないが、決して零ではないのだから。彼の父である先王のように、数多の愛人を囲ったところで、なんら可笑しなことはない。
「疑り深い君も、これで納得せざるを得ないでしょう? ――私は、権力を望んでいない、と」
奈落の瞳が、ハオリュウを捕らえた。
引きずり込まれるような重力に、必死に抗う。
「まだ、納得できない――という顔ですね」
喉が張り付き、声が出なかった。ハオリュウは、ただ、こくりと唾を飲み込む。
「困りましたね。……では君に、私の思いを率直に語りましょうか」
微笑を浮かべる顔貌は、輝く太陽のような華やぎに満ちていて。だのに、陰影を宿した月の如くに、憂いを帯びている。
耳を傾けるべきではないと、本能が告げた。しかし、臣下であるハオリュウに、逆らう方法はない。
カイウォルの声が、静かに響く――。
「私が妻を娶れば、その女性が――その親族が、〈神の御子〉の誕生を期待します。そして、身も心も、ぼろぼろになるまで、〈神の御子〉を求め続けることでしょう。……私の母のように」
「殿下の……母君……?」
「君が生まれるよりも前に亡くなった方ですから、君は噂程度にしか知らないでしょう」
「はい……」
カイウォルの母といえば、先王の正妃だ。若くして――まだ十代の少女のうちに、先王に嫁ぎ、カイウォルをはじめとする多くの子を生した。
裏を返せば、なかなか〈神の御子〉に恵まれず、苦労した女性ということだ。先王の愛妾の人数もまた、それを物語っている。
〈神の御子〉である現女王、末娘アイリーを産んだあと、力尽きたように天へと旅立ったという。立派に妃の務めを果たしたのであるが、『真の王』である男子を産んだわけではないために、彼女に贈られる称賛は、どこか乾いたものだった。
「血統だけで王妃に選ばれ、好きでもない相手の子を産まされ続けた母は、アイリーを身籠ったころには、すっかり心が壊れていました。そんな母に、私ができたのは『これから生まれてくる〈神の御子〉の弟妹を、兄として立派に支える』と約束し、学に励むことくらいでした」
カイウォルは黒髪の頭を振り、黒目を伏せる。
「父が、頑なに『過去の王のクローン』を拒まなければ、母が、あれほど苦しむことはありませんでした」
「……」
いくら、カイウォルの言動には裏がある、と疑っていたとしても、先王の正妃の運命は事実だ。ハオリュウとて人の子であり、いたわしく思う気持ちはある。
さて、どんな受け答えをしたものかと悩んでいると、それまでとは、ほんの少し、音調の違う蠱惑の旋律が響いた。
「ハオリュウ君。君は、『王妃は、最後に〈神の御子〉を産み、安らかな眠りについた』――という話を信じていますか?」
「……え?」
不可思議な笑みを浮かべる貴人を、ハオリュウは、きょとんと見つめる。
次の瞬間、カイウォルの顔が禍々しく歪んだ。
「人の命が、おとぎ話のように儚く消えていくことなど、あるわけがないでしょう?」
「殿下……?」
「母は、自室の窓から飛び降りたんですよ」
4.虚々実々の嵐-1
「王妃様が……窓から……飛び降りた……?」
ハオリュウは耳を疑った。
どうして、こんな話になった?
自分は、いったい何を聞かされている?
ハオリュウはただ、『ライシェン』を取り戻そうとするカイウォルが、卑劣にも異母姉を巻き込もうとするから、阻止しようとしていただけだ。死んだことになっている異母姉が王宮に姿を現せば、彼女は『外道のあばずれ』として白眼視されることになってしまうから。
断じて、秘められた王族の過去を暴くことなど、望んでいない。
「〈神の御子〉を産んだからといって、それが女子では、国民の期待に応えたことにはならない――母が、そう感じているのは明らかでした。実際、市井の遺憾の声は、私の耳にも届きましたからね」
平坦に始まった口調は、言葉を重ねるに連れ、吐き捨てるような憎しみに揺れた。
カイウォル自身、怒りに流されそうな自分に気づいたのだろう。彼は瞳を伏せ、感情を押し込める。王族たるもの、いちいち民草の戯言に心を乱していてはならない。それも、もはや遠い過去の――戻らぬ時の果ての話なのだから、と。
「私は母が心配で、暇を見つけては見舞いに行きました。心身の疲れの溜まり切っていた母は、横になっていることが多く、夢現の状態で、うわ言を繰り返していました。『男子でなくて、ごめんなさい』、『許してください』、『もう、これ以上は……』――そんな嘆願を」
ハオリュウは、ごくりと唾を飲んだ。
ここまで語られれば、もう充分だ。
待望の〈神の御子〉を産んだにも関わらず、男子ではなかったというだけで失望された現実に、王妃の張り詰めていた心の糸は切れてしまったのだ。
追い詰められ、悪夢に囚われた彼女は、自由になりたいと願ったのだろう。
唇を噛んだハオリュウに、カイウォルが頷く。
「ある日、母の部屋に行くと、彼女は椅子を踏み台にして、窓枠の上に座っていました。驚いて駆け寄る私に、彼女は言いました」
『カイウォル、愛しているわ』
『アイリーをお願いね』
「私は、間に合いませんでした。少女のような無邪気な笑顔を残し、母は窓から飛び立ちました」
「……」
「〈神の御子〉誕生で、国を挙げての祝賀ムードの中、石畳に叩きつけられ、血の海で息絶えた王妃のことなど、公にできるはずもありません。母の死の真相は闇に葬られ、君も知る、『王妃は、最後に〈神の御子〉を産み、安らかな眠りについた』という、おとぎ話が騙られるようになったのですよ」
禍々しくも美しく、カイウォルが嗤う。
彼は、酷たらしく命を散らした母を看取ったのだ。
状況からいって、王妃は、彼が部屋を訪れるのを待っていたのだろう。最も信頼を寄せていた、愛する長男に、末娘を託すために。
だが、当時のカイウォルは、今のハオリュウよりも少し年上、といった程度の少年だったはずだ。いったい、どんな思いで、彼は母の死を受け止めたのだろうか……。
ハオリュウは黙って頭を垂れた。真偽を確かめたわけではないが、疑う気にはなれなかった。
カイウォルの視線が、窓を捉える。この部屋は、かつての王妃の部屋ではないが、彼の目には窓枠に座る母の姿が見えているのだろう。
「黒髪黒目で生まれた私は、自らが王冠を戴くことを望んだことはありません」
蠱惑の旋律が、静かに奏でられた。
「私の役目は、〈神の御子〉の弟妹を支えること。――それ以外の思考は持たぬようにと、教育されてきたのですよ。私が王権を狙うようになれば、国が乱れる原因になりますからね」
カイウォルは語る。
淡々と。まるで、他人ごとのように。
「無論、成長とともに、子供時代の思考操作の呪縛など、薄れていくものです。けれど、母の最期を思うと、私は野心を抱く気にはなれません。――黒髪黒目が王になれるのであれば、母が追い詰められることは、なかったのですからね」
凛然とした響きで、カイウォルは告げる。
「そして、母のような女性を作らぬために、私は一生、誰とも連れ添わない。黒髪黒目で生まれた私は、それでよい。それが、私が持って生まれた運命なのだから――と、受け入れています」
濁りのない音色。
そこに、「ただ……」と。ほんの少しの変調が加わった。
「血まみれの母の手を握りしめた、あのときだけは……、もしも、長男が〈神の御子〉の姿で生まれていたら、母の人生は、まったく別の――幸せなものだったのだろう……と、思わずにはいられませんでしたよ」
カイウォルは、自分の掌に憂いを落とす。冷たくなっていく母の手を、思い出すかのように。
それから、彼は、ゆっくりと頭を振った。香の匂いが、ふわりと漂う。
「『もしも』などという仮定は、この世に存在しない事象です。私は、すぐに、母の遺した妹を立派な王に育てることが、兄の使命だと――不幸な人生を終えた母に贈る、一番の手向けだと思いました」
切なげな微笑を浮かべ、カイウォルは正面に向き直る。
奈落の瞳の中央に、ハオリュウの顔が映し出された。
「ハオリュウ君、これで理解していただけたでしょうか。私は、君が考えているような野心など、持ち合わせていないのですよ」
引きずり込まれるような眼差しに、ハオリュウの背に、ぞくりと悪寒が走る。
だが、ここで素直に頷けるほど、ハオリュウは純真な少年ではない。それはカイウォルも承知しているようで、「ただし」と、鋭く続けた。
「私は、王が愚かであることを、決して許しません。故に、王を諫めることのできる力を、立場を欲します。それを『権力を求める』と同義とするのであれば、野心家と呼んでくださって結構です」
――君ならば、分かるでしょう?
――権力を望まぬくせに、藤咲家の当主の座を死守しようとする、君ならば……。
裏に隠された無言の重力が、ハオリュウに襲いかかる。
「――っ」
カイウォルは、ハオリュウと同じ種類の人間だ。
目的のためになら、非情な手段も厭わない。だが、禁じ手は、自分の無力の証明に他ならないと知っている。だからこそ、権力を求める。正道を歩みたいがために。
「愚者は、不幸を撒き散らします」
視線を外したハオリュウに、カイウォルが畳み掛けた。
「幼少期の精神的外傷というだけの理由で、『過去の王のクローン』を拒んだ先王は、王妃を殺しました」
王族らしい、典雅な顔立ちが酷薄に染まる。
「先王の愚かさは、世継ぎに関することだけに留まりません、彼は、あらゆる政務において、自分の感情で王権を行使しました。……王位継承者でもない、ただの王子の私には、多少の反論の機会は与えられても、王の決定を覆すことは許されませんでした」
「……」
先王とカイウォルは、ことあるごとに衝突し、不仲であったという。先王が存命だった時分、今よりも、もっと年少であったハオリュウは風評でしか知らないが、そう伝え聞いている。
どちらかといえば、カイウォルが一方的に噛み付いているような印象だったのだが、そのあたりは、どこに視点を置くかの問題なのだろう。
ハオリュウは、気圧されたように身を固くした。迂闊な発言はできなかった。
やがて、カイウォルは、緩やかに腕を組み、ソファーに背を預ける。そして、口元に、感情の読めない、雅やかな微笑を浮かべた。
聞かせるべき過去は語り終えた、ということのようだった。
ハオリュウは、低い姿勢のまま、乱れがちな呼吸を整える。
過去の告白は衝撃的ではあったが、直接、現在に繋がるものではない。カイウォルはただ、ハオリュウを手なづけるべく、親近感を抱かせるような話を持ち出しただけだ。
情報としては、間違いなく有益だった。けれど、口の先と腹の底とで、カイウォルの体温は異なるのだろう。話は事実と受け止めても、相手の思惑を読み違えてはならない。
ハオリュウにとって重要なのは、異母姉の名誉と自由を守ることだ。
話の流れを過去から現在へと戻し、こちらの意図する出口へと、カイウォルに辿りついてもらわねば。
さて、どうしたら、自然な会話となるか。
ハオリュウが胸中で眉を寄せたとき、カイウォルの頬が、ふっと緩んだ。
「ハオリュウ君。話を戻しましょうか」
「え?」
「先ほどの、君の提案について、ですよ」
カイウォルは、こともなげに時の流れを現在へと移す。
どことなく恩着せがましさを感じる響きから察するに、ハオリュウが過去の話から遠ざかりたいと思っていることに気づいているのだ。腹立たしくはあるが、渡りに船と、黙って頷いた。
「君は、私の子として、新たなる〈神の御子〉を作るよう提案しました。そうすれば、権力を手にできる――と唆し、私をその気にさせるつもりだったようですが、実のところ、君にとって、私も権力も、どうでもよいのでしょう?」
「……」
「君はただ、『『ライシェン』以外の〈神の御子〉を用意すればよい』と考えただけ。他に〈神の御子〉がいれば、私が『ライシェン』の情報を得るために、君の姉君を王宮に呼び出す必要はなくなりますからね。――君の目的は、姉君を守ることのみ。実に君らしいことです」
「ええ。おっしゃる通りです」
ハオリュウは開き直ったかのように、はっきりと答えた。
一時は、どうなることかと思ったが、無事に、こちらの望む流れになってきた。これで、『代案』と見せかけた、真の『提案』を口にすることができる。ハオリュウは安堵しつつ、表面上は硬い顔を作る。
「ですが、ハオリュウ君。先に説明した通り、鷹刀セレイエが過去の王の遺伝子をすべて廃棄したため、新たなる〈神の御子〉を作る術は失われています。残念ですが、君の姉君に役に立ってもらうしかありません」
すっと通った鼻筋を上げ、カイウォルが冷酷に宣告したときだった。
今だ――と。
迫真の演技で、ハオリュウは叫ぶ。
「ま、待ってください! 『王の遺伝子』なら、あるではないですか!」
ここが王宮でなければ、そして、ハオリュウの足が悪くなければ、テーブルを叩き、立ち上がったであろう語勢。
目を丸くするカイウォルに、ハオリュウは、王族に対して無作法であったと、慌てたように頭を下げる。
「取り乱しました無礼、深くお詫び申し上げます!」
「いえ、構いません。それより、『王の遺伝子』がある――とは、いったい、どういう意味ですか?」
片眉を上げた半信半疑の面持ちで、カイウォルは詰め寄った。対して、ハオリュウは更にかしこまり、平身低頭する。
「恐れながら……、アイリー現女王陛下の遺伝子を――陛下のクローンをお世継ぎとするのです」
現女王のクローンを作るという発想は、ハオリュウが思いついたことではない。ルイフォンから伝え聞いた、女王本人によるものだ。他人の考えを、あたかも自分の発案のように口にするのは如何とは思うが、使えるものはなんでも利用させてもらう。
現在では、女王は『『最後の王』になる』などと言い出して、自分のクローンを作るという話も取りやめることにしたようだが、〈神の御子〉を崇める宗教国家のこの国で、『王』の廃止は現実的でない。ハオリュウは、『身分をなくす』という壮大な野望を抱いているが、象徴としての『王』は、残すべきだと考えている。
実は、ルイフォンには『ハオリュウと女王は、協力し合えるのではないか』と勧められたのだ。話し合いの場として、安全な通信回線を構築しようか、とまで申し出てくれた。だが、考えの甘い女王と手を組むのは危険だと、ハオリュウは、きっぱりと断った。
女王の構想が誰かに知られたところで、夢見がちな少女の妄想で済む。
しかし、ハオリュウの野望は、反逆罪に当たる。万が一にでも外部に漏れたら、命取りになる。だから、女王にも決して明かさないよう、ルイフォンに固く口止めをした。
ハオリュウは、女王と関わりなく、自分の道を進むつもりだ。
だが、それとは別の話として――。
『女王』は利用すべき『駒』だ。
ハオリュウの喉が、こくりと嚥下する。
身を低くしたハオリュウの頭上で、カイウォルの衣擦れの気配がした。話にならないとばかりに、頭を振ったのだろう。ふわりと香が漂う。
「陛下のクローン……ですか。――君は名案だと思っているようですが、私にしてみれば、頑なに姉君を王宮に近寄らせまいとしている君の、悪あがきにしか見えませんよ」
「『ライシェン』を無理やりに引き取ったところで、〈蝿〉や、母親の鷹刀セレイエからの横槍が入るだけです。でしたら、なんの柵もない陛下のクローンのほうがよいはずです!」
勢いよく体を起こし、ハオリュウは黒絹の髪をなびかせる。
「落ち着いてください、ハオリュウ君。――だいたい、女王陛下のクローンでは、次代の王もまた、『仮初めの王』である『女王』にしかならないでしょう?」
たしなめようとするカイウォルに、ハオリュウは「殿下!」と鋭く声を張り上げた。
「そのお言葉は、陛下に対して失礼です!」
『仮初めの王』である女王が軽んじられるのは、この国では『常識』の範疇だ。だから、失礼なのは、王族であるカイウォルに楯突いたハオリュウのほうなのであるが、ここは強引に押し切り、そして、間髪を容れずに言を継ぐ。
「ええ、無論、存じております。妹思いのカイウォル殿下は、世継ぎが女子であれば、先王妃様と同じく、アイリー陛下にも心ない言葉が向けられる、と憂慮されておられるのでしょう。――そのお気持ち、私が異母姉を思う気持ちと通じるものがあると思います」
「!」
カイウォルの顔色が変わった。この遣り取りが、誘導されたものであることに気づいたのだ。
機を逃さず、ハオリュウは「殿下、ご提案がございます」と、畳み掛ける。
「私が『女王陛下の婚約者』になります」
「なっ……!?」
瞳を極限まで見開き、カイウォルが絶句する。
予想通りの反応に、ハオリュウは内心の笑みを隠しつつ、淡々と続けた。
「一度、ご辞退申し上げました、『私を女王陛下の婚約者に』とのお話、改めて、お引き受けさせてください。世継ぎが女子でも、私が必ずや、陛下と御子をお守りいたします」
「君は……、いったい……?」
「その代わり、私の異母姉をお捨て置きください」
これが、異母姉を守るための秘策。
いきなり口にしたら不自然極まりない、ハオリュウの真の『提案』だ。
4.虚々実々の嵐-2
「君が……、アイリーの婚約者に……?」
驚愕のあまり、カイウォルの語尾が跳ね上がる。
『女王の婚約者』の件は、ハオリュウは端から乗り気でなかった上に、一度は断ったのだ。それを再び蒸し返したのだから、当然の反応といえよう。
ハオリュウは、内心でほくそ笑む。
不自然な話の運びにならぬよう、回り道を重ねた甲斐があったようだ。異母姉を守るための『苦肉の策』なのだと、カイウォルは受け止めている。
よもや、『初めから、婚約者を申し出ることが狙いであった』とは思うまい――。
「どうか、ご検討を」
従順な臣下らしく頭を垂れ、ハオリュウは硬い声で告げた。
『父と異母姉の殺害』という罪状を突きつけてきたからには、カイウォルが異母姉を巻き込むつもりであることは明白だった。故に、逮捕直後から、ハオリュウは異母姉の名誉を守るための計略を練っていた。
目をつけたのは、『女王』という存在。
ただし、彼女に協力してもらうのが目的ではない。将来的には最強の駒になる女王だが、残念ながら、現時点ではハオリュウの助けにはならないからだ。それは、『摂政』と『女王』という、役職の力関係の問題ではなく、『頼りになる兄』と『未熟な妹』という間柄において、圧倒的に摂政の力のほうが上であるためだ。
では、ハオリュウが『譲歩』して、かねてからのカイウォルの希望であった『女王の婚約者』を引き受けたなら……。
『引き受ける』という言葉には、額面通りの意味の他に、カイウォルの配下に入るという意思を含んでいることくらい、分からないカイウォルではないだろう。
異母姉の自由と引き換えに、自分の身を売った――そう捉えるはずだ。
ハオリュウは、分不相応な申し出に恐縮するかのように、己の体を掻き抱き、指の先で、そっと自分の肩に触れる。グリップだこで変形した、ゴツゴツとした硬い手の感触を思い出しながら……。
昨日――。
「近衛隊の皆様、お待ちくださいませ」
藤咲家に押し入ってきた近衛隊は、すぐさまハオリュウを連行しようとした。そこに、シュアンが割って出た。胡散臭い濁声も、礼儀にかなった台詞を唱えれば、厳格な秘書の一声に聞こえるから不思議である。
「女王陛下のおわす王宮に参上するというのに、我が主人の出で立ちは普段着のまま。あまりにも礼を欠いたものでございます。どうか、身支度を整えるための猶予をくださいませ」
威圧感あふれる三白眼が煌めき、手入れのなっていない、ぼさぼさ頭が深々と下げられる。
頭の天辺から足の爪先まで、紛うことなく『目つきの悪いチンピラ』に見えるのだが、恥じる外見など、ひとつもないといった体で丁寧に腰を折ったなら、目の前にいるのは『眼光の鋭い切れ者』に相違なく、疑うべくは自分たちの視力のほうであるのだと、近衛隊員たちは思わざるを得なかった。
彼らは、秘書の弁は道理だ、と快諾し、衣装部屋へと向かう主人と秘書の背中を粛々と見送った。
実のところ、ハオリュウはシュアンとは異なり、普段からきちんと身なりを整えている。女王に目通りするのならともかく、罪人として逮捕をされる身であれば、着替える必要など、まるでなかった。
「おい、ハオリュウ」
ふたりきりになった途端、『目つきの悪いチンピラ』が、凄みのある凶相で詰め寄る。
「俺は、あんたが王宮に向かったら、ルイフォンに連絡を取る。だから約束しろ。絶対に単独で無茶はしねぇ、ってな」
「ですが、シュアン。そうは言われても、僕はひとりで王宮に行くのですから、どうしたって単独行動になります。無茶かどうかなんてことは、主観に依るものですので、そんな約束は無意味です」
必要とあらば、いくらでも適当な口約束のできるハオリュウであるが、シュアンを相手には忍びない。きっぱりと断ると、シュアンが箪笥を指し示した。
「前に、摂政との会食で着た、カメラやマイクの仕込まれた服があっただろう? あれに着替えていくんだ」
なるほど。それで、誰よりも外見に無頓着なシュアンが、服装にこだわったのか。
納得しつつ、ハオリュウは首を振る。
初夏と初秋とで、気温的には、さほど差はなくとも、季節が違うのだ。王宮に出向くにあたり、上流階級の人間の嗜みとして、四季折々にふさわしい服を選ぶべきである。風流を無視するのは無作法といえた。
「心配はありがたいのですが、あの服は、今の時季に着るものではありません。それに、仕込んだ機器の電池は、とっくに切れていますよ」
「なんだと!? 糞っ……!」
シュアンが忌々しげに舌打ちをする。
「大丈夫ですよ」
「こういうときの、あんたの『大丈夫』は、ちっとも『大丈夫』じゃねぇんだよ!」
ぼさぼさ頭を掻きむしり、シュアンが吠える。
それから、急に真顔になった。
斜に構えた軽薄さも、傲岸不遜な図々しさも鳴りを潜めた、ただ悪相というだけの無表情を前に、いつもの顔貌には、あれでいて意外に愛嬌があったのだと、ハオリュウは間の抜けた感想を抱く。
「いいか、ハオリュウ。よく聞け。あんたは認めたくねぇだろうが、気づいてはいるんだろう?」
「いきなり、なんの話ですか?」
「『摂政が、あんたを気に入っている』って話だ。奴は、絶対に、あんたには悪いようにしない。――だから、摂政を『たらしこむ』んだ。それが、現状を解決する糸口になる」
「…………」
想像もしなかったシュアンの言葉に、ハオリュウは不快げに眉をひそめた。
ハオリュウは、カイウォルという人間が嫌いである。
前々から、傲慢な王族そのものの言動は鼻につき、平民を母に持つハオリュウを歯牙にも掛けない態度が癇に障った。
そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込まれて以降は、カイウォルは、ハオリュウを鷹刀一族との内偵にしようと躍起になっている。
しかも、その手段は、ハオリュウの逆鱗に触れるものだ。
「摂政殿下は、あなたの命を駒にしました。そんな人間に媚びを売るような発言を、よもや、あなた自身の口から聞くとは思いませんでした」
ぴんと張り詰めた、絹糸の如く。ハオリュウの瞳が、冷ややかな光沢を放つ。
「いいから、肩の力を抜くんだ」
薄手のシャツの肩が、温かな重みに包まれた。グリップだこで変形した、ゴツゴツとした硬い手の感触が伝わってくる。
「摂政は、いけ好かねぇ野郎だが、狂人じゃねぇ。世の中には、性根の腐った外道が山ほどいるが、奴は正常だ」
「お言葉ですが、摂政殿下は、あなたを殺そうとしたんですよ? 『僕を従わせる』という目的のためだけに、人の命を使う。そんな人間は、立派に『外道』です」
「間違えんなよ、ハオリュウ」
どすの利いた声。肩に掛けられた手に、強い力が加わる。
「俺は、俺の意思で、自分から死のうとしたんだ。そうすれば、お前が脅迫されずに済むと考えた。――俺を殺そうとしたのは、俺自身だ。摂政の野郎は、頭の片隅にだって、『俺の死』を置いちゃいなかったんだよ」
「シュアン!? 何を馬鹿なことを……」
「摂政は『あんたは、俺を助ける』と、信じて疑っていなかったのさ。事実、あんたは俺を助けてくれただろう?」
眦の吊り上がったハオリュウの気色を、シュアンの気迫が呑み込む。
「確かに、摂政は俺の命を駒にした。だが、あの脅迫は、奴の主観でいえば『取り引き』だったのさ。言う通りにすれば、対価として、俺を無事に返してやる。それどころか、貴族殺しの罪人であることが明るみに出た以上、俺の処刑は免れないはずのところすらも曲げて、『見逃してやる』――ってな」
「それは、あなたの推測でしょう?」
「そうだな。けど、俺が死にかけたときの奴の態度から、間違いねぇと思うぜ?」
「同意できませんね」
「摂政の奴は、良くも悪くも、育ちのいい『お坊っちゃん』だ。気位が高い分、お行儀もよろしい。持ち掛けた『取り引き』が成立すれば、必ず対価は払っただろう。――特に、ずっと年下のあんたには、矜持にかけて筋の通らんことはしねぇはずだ。みっともねぇからよ」
「あなたを取り引き材料に使った時点で、摂政殿下は充分に卑怯ですし、筋が通っていませんよ」
けんもほろろのハオリュウに、シュアンは、ふっと顔を綻ばせた。相変わらずの悪人面では、不気味に唇を歪めたようにしか見えないのだが、いつもの彼らしい表情が戻ったことに、ハオリュウは安堵する。
「あんたが、俺のために、摂政を許せねぇのは知っている。ありがとな。……けど、正面から喧嘩を売らずに、うまく立ち回れ」
肩に載せられた手が、そっと離れていく。すれ違うように「頼んだ」という、優しい濁声が落ちてきた。
シュアンの手は、ハオリュウの手だ。
ならば。
シュアンの策も、ハオリュウの策だ――。
低頭の姿勢からでも、ハオリュウは充分に、カイウォルの狼狽を感じ取ることができた。
当然だろう。
これは、カイウォルにとって、悪くない取り引きなのだから。
カイウォルに求められているのは、『ライシェン』を諦めることだけだ。
逮捕は間違いであったと宣言し、異母姉を呼ぶことなくハオリュウを解放すれば、前々から腹心にと望んでいた彼が手に入る。
女王の婚約者となった暁には、ハオリュウは口先だけでなく、誠心誠意、忠勤を尽くすつもりだ。
カイウォルに教えを請い、見識を高める。
そして、カイウォルの後継には、ハオリュウ以外あり得ないと、万人が認める人物になってみせる。――この国から身分を廃し、王族の象徴としてカイウォルに消えてもらったあと、新しい時代の指導者たり得るように。
これは、ハオリュウにとっても、悪くない取り引きなのだ。
「ハオリュウ君……」
ためらいがちな蠱惑の旋律が響いた。
ハオリュウは、もうひと押しだと身を乗り出す。
「殿下は、『ライシェン』個人に、特別な思い入れがあるわけではないのでしょう?」
そっと背中を押すように、問いかけの形をした断定を、ハオリュウは囁く。
しかし――。
「私は、充分に思いを語ったつもりでいましたが、君に理解してもらうには、まだまだ足りなかったようですね」
ゆっくりと、雅やかに。
カイウォルは頭を振った。
「殿下!?」
「『ライシェン』だけの問題ではないのですよ」
「どういう意味でしょうか?」
苦労して話を進めた末に、やっと繰り出すことのできた『女王の婚約者』という切り札だ。これが効かぬとなれば、手詰まりになる。
思わず声を荒らげたハオリュウに、カイウォルは顔をしかめた。
「私ばかりが語るのは、不公平ですよ」
君には口にしていないことが、たくさんあるでしょう? と。見透かすような奈落の瞳が向けられる。
「――っ」
ハオリュウが返答に窮すると、カイウォルは満足げに笑んだ。
「まぁ、よいでしょう。君には、話しておいたほうがよさそうですからね。オリジナルのライシェンが生まれ、殺された、四年前のことを――……」
高飛車な口調に、ハオリュウは瞳を尖らせかけ……はっと顔色を変える。
この物言いは、ただの建前だ。
ここで話を打ち切ることもできたカイウォルが、更に深い話へと進めようとしている。――それは、『女王の婚約者になる』と言って、懐に飛び込んできたハオリュウに、益を見出したからに他ならない。
――つまり、悪い状況ではないのだ。
ハオリュウは、ごくりと唾を飲んだ
四年前の出来ごとなら、既に知っている。しかし、カイウォルの目線からは、また別の事実が見えてくるのかもしれない。無論、真実が語られるとは限らないことも、考慮しておく必要があるだろう。
ハオリュウが畏まったように辞儀をすると、カイウォルは「初めに、オリジナルのライシェンの両親が誰なのかを、はっきりとさせておきましょう」と切り出した。
di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~ 第三部 第五章 金科玉条の紅を
この章は、2026年3月27日 ~ 2026年8月14日 毎週金曜日 定期更新です。