くじら潮流音

砂東 塩

くじら潮流音
  1. くじら潮流音/前編
  2. くじら潮流音/後編

くじら潮流音/前編

 それは雲、それは霧、それは僕にしか見えないくじら。くじらは撓り、海へとダイブする。

 

 カーラジオからはビーチボーイズの「ココモ」が流れていた。音はまどろむように耳をかすめ、夜通し運転しつづけた体に心地よく馴染む。
 暁の空は毒々しいコントラストを描いている。青紫と混じりあう橙赤色。そして幾重にもたなびく筋状の雲は、夜の名残なのか暗く濁っていた。
 半分ほど開けた窓から冷やりとした潮風が吹き込んだ。雨上がりの路面は時折りジャッと水音をさせ、一日の始まりだというのに気分は安定して低空飛行を続けている。
 フィルターぎりぎりまで短くなった煙草を、吸い殻の隙間を探して灰皿に押しつけた。紫煙とは違う、紙の焼ける匂い。
 目についたガソリンスタンドに入り、吸い殻を捨てた。手のひらサイズの灰皿は、そのなかに四次元空間でもあるのか大量の吸い殻を吐き出した。
 自動販売機でコーヒーを買い、運転席のドアにもたれかかった。
 海の音。
 潮の匂いと、スニーカーの底をジャリジャリとざらつかせる砂粒。
 目の前の国道を、サーフボードを積んだ車が通り過ぎて行った。
 コーヒーを飲み干して運転席に乗り込み、ダッシュボードの底からジャック・ジョンソンのCDを取り出した。彼女が置きざりにしたCDは、車を買い替えた今も変わらずそこで眠っていた。カーオーディオのボリュームを上げ、再び国道を走る。

 彼女の素肌を知ったあの日、僕には『くじら』が見えなくなった。遠く遥か意識の外にある「そこ」への行き方を、僕は失ってしまった。
 彼女は僕を現実の世界へと繋ぎとめ、僕は大人になり、そしてくじらは消えた。
 きっとくじらはまだこの空を泳いでいる。けれど僕にはそれが見えない。
 きっとそこはまだこの世界にある。けれど僕はそこに行くことができない。

 灰色の筋雲はいつの間にか消え去り、青空とかすれた白い雲が広がりつつあった。対向車線の交通量が徐々に増えていく。日常の群れが僕の車とすれ違い、ベルトコンベアで運ばれて現実へと向かう。
 大きく右にカーブした上り坂のてっぺんで、展望駐車スペースに車を停めた。この坂を下れば僕が育った町へと辿り着く。どうやら、僕が町を出ているあいだに登坂車線が整備されたようだ。
 色褪せた木の柵に手をかけ、岩肌を伝って吹き上げてくる潮風は、低く唸りを上げる。僕は来た道をなぞるように海岸線に目を滑らせ、それから水平線をぐるりと見渡し、雲を見上げて深呼吸した。
 そこにあるのはただの雲だった。動いてはいるけれど風に流されるばかりで、意思の欠片など探さずともなかった。
 海に背を向け柵に背をあずけた。車の行き交う国道の向こうには緑の木々。視線をずらして向かう道の先に目をやると、遠く丘の上には三つの風車があった。
 くじらは潮を吹き、風車を回す。そして自らその流れに乗って天高く浮上する。町をすっぽりと覆い尽くしてしまうその巨体は、軽やかに雲の波間へと泳ぎ出し、青空に身を晒した瞬間、解き放たれたように海へとダイブする。
 そこへ行くにはくじらの背に乗らなければならない。
 どこか自分の深いところから湧き上がる確信は、いつの間にか僕自身への懐疑を伴うようになった。
 僕は、頭がおかしいのかもしれない。

 坂を下りてしばらく車を走らせ、コンビニに入った。アスファルトの駐車場には普通車用スペースが六台。左右それぞれの端に軽トラックとSUVが停まっていた。建物の裏手にはトラックが二台停まっている。
 僕は国道を入ってすぐの、歩道に近い場所に車を停めた。道を挟んですぐそこには砂浜が広がっている。目の前には海があった。
 横断歩道はなく、少し先に歩道橋が架かっている。形は昔と変わりないが、以前は陰気臭い薄青緑だったその歩道橋は、こげ茶色に塗り直されていた。歩道橋の下にあったバス停はなくなってしまったようだ。
 コンビニも様変わりしていた。目の前にあるのは街でよく見かける大手コンビニチェーンの青い看板で、窓ガラスの向こうには見慣れた店内の風景、馴染みのある制服。街なかのコンビニと違うのは入り口に風除室があることだ。たったそれだけの違いでも現実逃避のとっかかりにはなるかもしれない。
 ここに、僕の日常はない。
 そして今、息をしている。
 元々この場所には『西川酒店』という酒屋があった。小学校の頃、僕は歩道橋の下でバスを降り、酒屋の前でアイスクリームが売られているのを横目に見ながら家まで駆けて帰った。子どもの足で十分。じいさんの機嫌が良ければ小遣いをもらい、自転車で酒屋へ向かった。棒付きのアイスキャンディーを買い、歩道橋の海側の端で座り込み、背後に波音を聞きながら丘の上の風車をながめた。
 中学生になり、自転車で隣町まで通った。そのころには酒屋の看板は建物の端へと移動し、建物の四分の三が『コンビニエンスストア・ウエストリバー』という朝六時から夜十一時までのコンビニになった。
『西川酒店』の看板は、西川富二さんの通夜と葬儀の日程が有線放送のスピーカーから流れた一ヶ月ほど後には撤去された。西川富二さんの息子が経営するそのコンビニの脇には西川酒店の抜け殻が物置として残っていたが、今はそれもなくなっている。
 僕は中学生になっても歩道橋の端で空を見上げ、風車をながめた。そのころはじいさんの機嫌をうかがう必要もなく、月三千円の小遣いからアイスキャンディーではなくコーラを買った。
 くじらは深く潜るようにして僕のそばまで近づき、腹の底で地をかすめ、再び空へと浮上していく。時には風車を覆い隠すほど地表近くを這い、町を白く霞ませた。
 小学生の僕も、中学生の僕も、それをながめることしかできなかった。手を触れるには、小学生の僕は背が低すぎた。手を伸ばすには、中学生の僕は臆病すぎた。
 その巨大なくじらが僕のいる世界のものではなく、目に見えない世界のものだと知り、小学生の僕はくじらの住むの世界に憧れた。
「くじらぐも」
 国語の教科書に載っていたその短い話は、大人たちが僕の言葉を空想で片付ける格好の理由となった。
「今度くじらさんが来たら教えてね。先生にも見えるかなあ」
 あの頃の僕からすれば十分にオバサンだった担任の先生は、今振り返れば駆け出しの新人だと分かる。僕は彼女の言葉と、その時まわりにいた同級生の言葉で、くじらが誰にも見えていないことを知った。あんなにも大きな体で街を覆っているというのに。
 僕はくじらの半透明の体を透かして見える、ゆらゆらと漂う空が好きだった。不意に差し込む陽の光が好きだった。黒くどんよりとした雨雲さえも、宝石のように輝いて見えた。
 見上げる空をくじらが通り過ぎるあいだ、深い海の底で巨大な生命の心音を聴くような、不思議な音が僕の鼓膜を震わせていた。中学の終わりの頃に観たNHKの教養番組か何かで、羊水の中で胎児が聞く音というのが放送されていた。くじらの音はそれに似ている。
 強い憧憬を抱きながら、僕は中学のあいだそれに手を伸ばすことを畏れた。未知なるそれが僕自身の脳に起因するものなのか、僕以外のところにある何かに拠るものなのか。どちらにしろ、本当のところを知りたくはなかった。知ってしまえばすべてが壊れてしまう気がした。
 高校生になっても、相変わらず僕は自転車で通学した。コンビニエンスストア・ウエストリバーを通り過ぎ、真っ直ぐ家に帰る。二十四時間営業になったコンビニに、日付が変わる頃自転車で向かった。
 あの頃はまだ年齢確認の必要もなく、酒も煙草も金を出せば高校生でも買えた。けれど苦いビールと煙いタバコのおいしさはその頃の僕には理解できず、ほどなくコーラに戻った。コーラを手に、僕は歩道橋の階段を上がった。
 眼下の道路沿いには雑草の生えた更地があり、夏になればそこは有料駐車場になる。それ以外の季節は雑草も放置されたままで、よくサーフボードを載せた車が停まっていた。深夜には数台の車がある程度の間隔をおいて停まり、高校の頃の僕にはそれがゆらゆらと揺れる意味も分かっていた。
 道路に背を向けて揺れ動く車から、透きとおった夜空へと視線を移し、くじらの向こうの星をながめる。くじらの発する音と車の揺れ動くリズムは僅かなゆらぎをもって同調し、くじらは車の動きが止まるのと同時に夜空に浮上して、一度大きく身を捩り、漆黒の海へとダイブした。
 僕は車の中の人間がくじらの背に乗ったのだと確信した。腹の底だけながめている僕には彼らの姿は見えない。けれど、彼らの意識がくじらとともにそこへ旅立ったように思えた。地べたを満たす日常から、僕の知らないそこへ脱出したように見えた。
 ただ、くじらのことをまともに考えるには高校生の僕は少し大人になりすぎた。そう思っていた。
 どうやらあの頃の僕は、くじらに手を伸ばすには少し背伸びしすぎていたようだ。

くじら潮流音/後編

 隣県の大学に進学し、人付き合いの苦手な僕にも仲間と呼べるような人間が何人かできた。それは主に酒の力によるもので、僕はある程度の理性をもって酒に酔い、ほどよい塩梅で僕自身の内面を吐露した。
 その夏、僕は中古の車で実家へと帰省し、その車中には僕を含めて三人の男と、二人の女が乗っていた。
 男のうち一人は大学の近くに実家があり、もう一人は実家まで飛行機で一時間かかった。一人の女は僕と同じ県内の遥か彼方の出身で、もう一人は隣町の中心地に家があるらしかった。
 土曜日には例の道路沿いの駐車場でレゲエイベントがあり、荷物を僕の家に置いたあと、五人揃って昼から酒を呑み、音楽に身を委ねた。
 脇道を入ればすぐ民家が立ち並ぶその場所では、空が闇に包まれるとほどなく祭りは終焉した。僕たちは家に帰り、汗を流してそれぞれの部屋に入った。男は僕の部屋に雑魚寝し、女は奥の和室に布団を敷いた。隣町に実家があるはずの彼女も、なぜか僕の家に泊った。
 日付が変わる頃、僕は酔いつぶれた男二人を部屋に残し、電気を消して外に出た。見上げた空にはくじらが泳いでいた。
 僕の通う大学のあたりにはくじらはいなかった。山に囲まれた盆地の街で、水音といえば川のせせらぎか、雨音くらいの場所だった。代わりに、僕には形を捉えようもない巨大な何かが、その街をじっとりと覆い尽くしていた。
 高校のときに使っていた自転車は倉庫の奥で錆びついていた。僕はビーチサンダルの音を夜道に響かせ一人コンビニへと向かった。そして、歩く先に彼女の姿が見えた。
 僕の足音に気付いた彼女は恐る恐る振り返り、ほっと肩の力を抜いた。闇のなかでも表情豊かなその影は、足を止めて僕が隣に並ぶのを待っていた。
「襲われるかと思った」
 彼女の身長は同じようなビーチサンダルを履いていても僕より少し高く、上目遣いをするために顎を引いて、ずいぶん前かがみになった。首元からのぞく肌は、昼間であればその陰影をくっきりと浮かび上がらせたかもしれない。彼女の纏った孔雀青のワンピースは、夜空を透かせるくじらに見えた。
 コンビニで彼女は炭酸水を買い、僕はビールを買った。歩道橋の下の駐車場には三台の車が停まり、そのうち一台がゆらゆらと揺れていた。
 彼女の手を引いて階段を上り、海側の端で座り込むと、くじらが巨体を撓らせて地へと潜り降りてきた。歩道橋のまわりをぐるりと一周してから僕らの頭上を悠々と泳いでいる。
「ねえ、君はこの空に何が見える?」
 左に座る彼女は、僕の肩に頭をのせて空を見上げた。
「星、それと黒い空。あなたには何が見えているの? とても遠い目をしてる」
 孔雀青の夜空には小さな星がいくつか瞬いていた。星は水面に映り込む外灯のようにゆらゆらと移ろい、くじらの音に合わせて僅かに震える。不意に肩の重みがなくなり、星が消えた。目の前の孔雀青は彼女のワンピースで、その向こうには夜空ではなく、けれど未知のなにかが隠れていた。
「ねえ。君は隣町に実家があるのにどうして僕の家に泊ったの?」
 夜の海が見たかったのと彼女は言い、そのまま僕の唇を塞いだ。
 鼓膜はくじらの音とともに振動し、彼女の舌もそれに同調するように小さく痙攣した。それはどこか生命の営みを感じさせ、彼女の脚は僕のからだに跨り、孔雀青のワンピースがふわりと僕の体を覆った。僕は孔雀青の麻布の内側にある未知のからだに触れ、なぞり、探った。
 陸に上げられた魚がからだを反らし、跳ねる。
 水を求め、空気のなかを喘ぐ。
 ぱくぱくと動く口は、生きるのに必要な何かを渇望していた。
 僕はその姿に羨望をおぼえ、破壊衝動がからだの内に芽生えた。さらに深く彼女を探り、孔雀青の尾鰭が夜空の下で躍り乱れる様をながめながら、僕は彼女の動きがくじらの音と重なっていることに気が付いた。
 ふと、彼女の瞳が僕を見下ろした。頬にかかる髪は海藻を纏ったように艶めき、薄闇のなか、彼女の頬だけが人間らしく仄かに上気していた。彼女は肩で息をし、小さく首をかしげる。
「あなたは一緒にいきたくないの? そこに」
 僕は生ぬるい指を彼女から離し、孔雀青のワンピースに擦りつけた。彼女が、微かに眉をしかめた。
「僕はそこに君と一緒に行くの? ねえ、君にはくじらが見えている?」
 くじら? ――聞こうとした彼女の声は、彼女自身の小さな叫び声でどこかへ消えた。
孔雀青のなかで僕たちはつながり、彼女はキラキラと鱗を撒き散らし、すべてがくじらの音に合わせて揺れていた。僕の呼吸も鼓動もくじらと一体となり、世界のすべてがひとつに溶けた。
 喘ぎ、渇望し、くじらの心音は次第に速まっていく。
 夜空を覆う巨躯が大きくうねり、ふっと拡散した光のなかで、僕はくじらの内側にいた。その体内で、僕は、僕がいるはずの世界を見つめた。360度すべてが揺らめき、あやふやで、向こうとこちらは曖昧に隔絶されて、穏やかさを取り戻したくじらの音が、得も言われぬ安堵をもたらした。
 溺れた人魚が岩場に縋るように彼女は僕の体を掴み、深く息を吐いた。彼女の体も言葉も、仕草も息遣いも、すべてが「女性」そのもので、すべてが『くじら』だった。逞しく、たおやかで、慈愛に満ちた、それはまるで――
「母のようだ」
 僕が耳元で囁くと、彼女はおかしそうに口元を歪めた。
「マザコンなの?」
「違うよ」
 彼女の息が鼻先をかすめ、潮の匂いがした。
「象徴的な意味での『母』だよ。全人類、全世界を包み込むような『母なる海』『母なる大地』のようにね。それはつまり、君がとても魅力的だということだよ」
「そう。けれど女性に対する褒め言葉として相応しくはないわ」
 彼女はそう言ったけれど、怒っている素振りは見せなかった。『母』ではない部分を見せつけるように、陸の生き物のような甘やかな声を出した。
「ねえ、一緒に行きましょう。二人ならもっと先までいける気がするの。私ひとりだと酷く現実的になってしまって」
 彼女の孔雀青のワンピースがゆらゆらと揺れ、微かな染みが僕らを現実とつなげていた。
 熱い息を吐き、抱き合って見上げた夜空にはくっきりとした星々。そこに孔雀青のゆらめきはなく、黒い夜空と、切れ切れの雲が浮かんでいた。聞こえるのは彼女の息遣いと潮騒、歩道橋の下を通り過ぎる車の音。あの心音は初めから存在しなかったように、空気はしんと静まっていた。
 僕らは手をつないで歩道橋を下り、店のゴミ箱にペットボトルと缶を突っ込んで、むかし『西川酒店』の看板が置かれていたあたりでキスをした。僕は煙草を一本ふかし、そのあいだ彼女は隣で空を見上げていた。
「あなたにはくじらが見えるの?」
 思い出したように問いかける彼女に、昔はね、と答えた。そう、昔のはなしだ。
「『くじらぐも』っていう話を知ってる? 僕は小学生の頃あの妄想にとりつかれていたんだ」
「小学生のあなたは、雲にのってどこに行きたかったのかしら?」
「日常ではない、どこか僕の知らない素敵な世界に。君は僕をそこに連れて行ってくれたんだ」
「それは違うわ。あなたが私を連れていったのよ。私にとってあなたとのつながりは生活のなかの一部で、ごく日常的な欲望の顕れよ。ただ、あなたは他の人より少し現実から遠い所にいるわ。遠い所で、もっと遠くを見つめている」
 その言葉に誘われ、遠く水平線近くの夜空に目を向けた。そこにある闇は現実の暗闇で、そこへの入口が塞がれたように妙にのっぺりとした黒が貼り付いていた。くじらが泳ぐための風もぴたりと止んでいた。
「僕にはもう遠くは見えないかもしれない」
 彼女はそう、と感情も込めず相槌をうった。
「そこは素敵な世界かもしれないけれど、限りなく現実と繋がっているわ。私たちは現実から抜け出すことはできないし、抜け出したと思った先も、やはり現実でしかないのよ。その証拠に、私はあなたとの関係を今後どうするか考えなければいけない。曖昧にやり過ごせるほど私は大人ではないし、それ以上にあなたと現実的につながっていたいと思っているの」
 彼女の提案に僕は賛同し、その艶やかな髪をなで、浅く焼けたの首筋にキスをした。
 僕らは大学を卒業するまでの間、現実的にお互いを求め、生活に干渉し、曖昧なやりとりで適切な距離を模索し、その生活は居心地の悪いものではなかった。が、やはりすべてが酷く現実的だった。
 僕は大学の近くのマンションに身を置いたまま現実的で申し分のない企業に就職し、彼女は今後の生活を現実的に考えて実家近くの小さな税理士事務所に就職した。僕らはそれぞれ現実的な選択をしたにも関わらず、僕にとっては酷く非現実的な結果をもたらした。
 彼女は僕の生活にあまり干渉しなくなったし、二人で模索した適切な距離は現実的な理由によって引き離され、お互い干渉し合うには色々と忙しかった。それはそれで居心地の悪いものではなかったけれど、やはりすべてが酷く非現実的だった。
 山に囲まれた盆地は気怠い日常が辺り一帯を覆いつくし、あらゆるものが群れた生物のようにもぞもぞと蠢き、一部は従い、一部ははみ出した。それはとても「現実っぽい」感じがした。僕は時折りくじらの体内から見た景色を思い出し、周りのすべてが揺らめき、あやふやで、僕と現実は曖昧に隔絶されていた。頭にはくじらの音が響き、けれど言いようもない焦燥と得体の知れない不安が僕を襲った。

 

 コンビニで炭酸水を買い、歩道橋へ向かった。駐車場のトラックの中で運転席の男が欠伸をしている。歩道橋の先には新聞の地方欄で見たことのある真新しい道の駅があった。それを横目に階段を上がり、歩道橋を渡って砂浜におりた。背後の国道には長い渋滞ができていた。
 砂浜を波打ち際まで歩き、スニーカーを脱いで踝まで海水に浸した。ザッという波音は規則的で、僕は空を仰いで目を閉じた。その音は、ほんの少しだけくじらの音に似ていた。
 波の音。
 風の音。
 車のエンジン音に、苛立つクラクション。
 コンビニの入店音、トラックがバックする時のピーという警告音。
 飛行機。
 人の声、犬。
 僕の、呼吸。
 すべてが混じり合っていた。足元でゆらゆらと揺れる液体が、僕を現実へと繋ぎとめている。
 目を開けると、大きな白い雲が浮かんでいた。鯨のように細長く、端には尾鰭がついている。じっと見つめるうち尾鰭は千切れて二つに別れ、形はひしゃげ、鯨でも何でもない、ただの雲になった。
 僕はズボンのポケットから携帯電話を取りだし、彼女の番号を押した。小さなディスプレイの上で数字が右から左へと動き、わずかな緊張を覚えながら耳に当てる。プルルルという電子音が、僕の鼓動を少しだけ速めた。つながった電話の向こうから彼女の声が聞こえた。
「もしもし」
 条件反射で口から溢れたようなその声に、何ら感情はこもっていなかった。
「おはよう。君はこれから仕事に向かうの?」
 僕の問いかけに返ってきたのは彼女の息遣い。
「ねえ、君はまだ生活のなかに僕との繋がりを求めている? 日常的な欲望の顕れとして僕を必要としているの? 僕と君との距離は遠くなってしまった。それは君の現実から僕を遠ざけたのかもしれない」
「日常的な欲望を満たすには物質的な何かが必要よ。触れることのできる何か。こんな小さな機械を通して声を聞くだけでは満たされないの。あなたが少しずつ私の現実から薄らいでいるわ。けれど、それは私の望むところではないの。それだけは分かってくれる?」
 彼女の言葉は悲しげで、彼女の暮らす現実はあまり楽しそうに思えなかった。それとも、悲しそうな素振りをして、僕と離れることへの罪悪感を埋めようとしているのかもしれない。
「僕は物質的な何かがなくても君と繋がっていたいと思うし、それは僕の日常的な欲望だ。僕のいる世界は限りなく現実と繋がっていて、そこは必ず君と繋がっている。僕たちは現実から抜け出すことはできないし、抜け出したと思った先も、やはり現実でしかない。その証拠に、僕は君との関係をどうするかきちんと考えなければいけない。すべてを曖昧でやり過ごせるほど僕は大人ではないし、それ以上に君と現実的に繋がっていきたいと思っているんだ」
 彼女は黙ったままで、僕は彼女の呼吸音に耳を澄ませて目を閉じた。それは波の音と心地よく混ざり、彼女が目の前にいるような錯覚をおぼえた。艶やかな黒髪、浅く焼けた首筋と湿った肌、そして孔雀青のワンピース。
 くじら、と言葉が漏れた。
「くじら?」
 ようやく聞こえた彼女の声はあの時のように闇に消えることはなく、そっと僕の鼓膜を震わせた。
「君との距離が遠くなってから、僕は現実から少し遠くなっていた。そして君のことを考え、くじらのことを考えていた。僕は小学生の頃からずっと、くじらの背に乗って、ここではない、どこかへ行きたいと思っていたんだ。けれど、君に触れて僕は現実に留まり続けた。それは酷く現実的で、そして居心地の悪いものではなかった」
「私は一人でいると酷く現実的になってしまう。何もかもが日常で満たされて、日々がベルトコンベアのように淡々と過ぎていくわ」
「僕は一人でいると酷く非現実的になってしまう。現実からはぐれて、日常に溺れ死にしそうになる」
 彼女が笑い、吐息が震えた。
「くじらの行き先はきっと現実と繋がっていて、きっとそこは僕の行き先であり、僕が来た場所のような気がする。くじらは逞しくて、たおやかで、慈愛に満ちた母のようだ。それは君と同じくらいに魅力的で、けれど僕は現実に触れることのできる君と一緒にいたいと思っている」
「あまり、女性に対する口説き文句には思えないわ」
 彼女はそう言ったあと、またおかしそうに吐息を震わせた。
「ねえ、夜の海が見たいと思わない? 僕は昼の海でも構わないけれど、君にはきっと現実的な仕事があるんだろう? でも、君にこの音を聞かせたいんだ」
 僕は耳元から携帯電話を離し、海に向かってそれを掲げた。そのまま二度深呼吸をし、再び彼女に話しかけた。
「今、僕と君の距離は縮まっているんだ。歩道橋が僕のすぐ目の前にある。君の住む街へもほんの三十分で着くことができる。それって素晴らしいことだと思わない? 僕はきっと、君といることで現実と上手くやっていける」
 そうねと彼女はつぶやき、きっと電話の向こうで小さく首を傾げている。頭上の雲は徐々に天色の空に吸い込まれ、風車は海風を受けてゆっくりと回っていた。
「私は、あなたといることで酷く重苦しい日常から少し離れることができるの。私はきっと、あなたといることで現実と上手くやっていける。今日はカゼで会社を休むことにするわ。一緒にいきましょう。二人ならもっと先までいける気がする」
「そうだね。ここは心地良い風が吹いている。君の欠勤理由もあながち間違いではないよ」
 電話を切ったあと僕はコンビニでもう一本炭酸水を買い、車に乗り込んだ。ジャック・ジョンソンを聞きながら歩道橋の下を通り抜け、波音と海風に包まれながら彼女の住む街へと向かった。

end

くじら潮流音

くじら潮流音

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-06-04

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