狭間の女

砂東 塩

狭間の女

狭間の女

 大学時代の友人のことを思い出していた。大学では比較的長い時間をともに過ごした友人だったけれど、卒業からずいぶん時を経て、今ではモザイク映像のようにその姿はぼんやりとしている。それはそれで、驚異的な記憶力をもって鼻の上向いた角度まで思い出してしまうより趣がある。
 目がふたつ、鼻がひとつに口ひとつ。眉が二本あって、それは繋がることなくちゃんと分かれており、髪は短く明るい茶色だった。そんな彼の名前を思い出そうとしたけれど『○っ君』みたいなあだ名だったことしか思い出せず、私は「あ」から順にたどっていくことにした。
 暗がりの中で考えごとをしていると、目を閉じているのか半開きなのか分からなくなる。まばたきをしてみると、どうやら細く目を開けていたようだった。
 ――あっ君、いっ君、うっ君、えっ君。
 薄い夏布団の中でもぞもぞと体を動かし、ぱちりと目蓋を持ち上げて天井を見つめた。かすかに見える木目はひしゃげた等圧線のようだ。
 ――おっ君。かっ君、きっ君、くっ君。
 カーテンの隙間から入りこんでくる外灯の明かりは、雨のせいか普段よりもいくらか鈍い。天井に描かれているのはどうやら低気圧のようだ。
 パラパラと雨粒が窓ガラスを打つ音と低く唸る機械の音。足先を扇風機の風がなで、私は布団を蹴りあげる。足先、脛、膝。太ももの真ん中あたりから上は布の感触に覆われ、ほんのわずかの間をおいて、首筋、顎、頬とたどった微風は、頭頂部に行き着くまでに逆方向に戻っていく。左手の五本の指で臍、みぞおち、乳房となぞり、めくれ上がったティーシャツはそのままにふくらみをまさぐった。
 ――すっ君、せっ君、そっ君。たっ……。
 背中の下でシーツは捩れ、熱がじっとりとまとわりついてくる。浮き上がった腰が、あえぐように二度上下した。左手で掴んだ乳房、その深部で心臓が鳴り続けている。ずり下ろした下着のなかで右手は動きを止め、細長く漏らした声が部屋の暗がりに溶けた。
 腹をなでた風が下腹部の熱を掬いとり、不意にカチリと音をたてて扇風機は力を失くしていった。どくんどくんと左胸の奥から発する音を体全体で感じながら、深く息を吐いて乱れた呼吸を落ち着かせる。
 部活の終わりにテニスコートの回りを五周走ったあと最後に歩いて一周する、そんな中学の頃の記憶がふわりと頭に浮かんだ。雨音のせいかもしれない。しとしとと体を濡らす霧雨のなか、すぐ目の前を歩く少女の下着が透け、隣のコートで練習をしていた男子たちはチラチラと彼女を気にしていた。
 雨音の向こうに、かすかに車の音がする。シャーッと、水の上を滑るような心地いい音。思わずふふっと笑った。その笑い声に答える相手が隣にいるわけではなく、私はむくりと上半身を起こして電気をつけ、ティーシャツの裾を下ろして下着をあげた。泡タイプの石鹸で手をあらう。からだの芯を駆け抜けた熱はほんの五分もかからず過去のものになった。ぬるい水道水で手についた泡を流すと、かすかに残っていた興奮も消え去った。
 あそこを刺激すれば変な感じがする。そう知ったのはずいぶん小さな頃だ。机の角に押し付けたり、鉄棒にまたがったり、お風呂で直接触ったりしていた記憶がある。いつ頃から罪悪感を伴うようになったのか覚えていないけれど、親には隠していた。性器いじりという言葉を知ったのはずいぶんあとになってからだ。なにかしらのストレスがそういった行動に現れたのだろうと言われればそんな気もするし、自分を慰めるためにしているという点では今も昔も変わらない。幼少期からはじめた自慰行為だけれど、今ではどこか諦めと開き直りがあり、毎月のバイオリズムにしたがって訪れる本能的な欲求を素直に受けとめている。
 そして今、親ではないけれど中学一年生の少女の叔母として、姪は自分があの頃そうだったように人知れず自慰行為をしているのかと考えることがある。小学五年生で生理がはじまり、胸のあたりにたしかなふくらみを持っている姪は、あと数年もすれば性行為を経験するだろう。
 今年の春中学一年生になった姪の学校は私のマンションから自転車で五分ほどのところにある。突然姪がやって来たのは夕立があった日だ。私の休みが毎週月曜だと知っていた彼女は、濡れそぼった制服姿でうちのインターホンを押した。玄関先で「濡れちゃった」と短い髪を撫でつけ、体からはムンムンと熱気が立ちのぼり、半袖シャツの下に水色っぽいキャミソールが透けて見えていた。そういえば、あの時も私は中学時代の部活のことを思い出したのだった。
 雨に濡れたユニフォーム姿の少女の、寒さを耐えるように少し丸まった背中と、スコートからすらりと伸びる二本のしなやかな脚。泥のはねたふくらはぎの筋肉が歩くたびにドクンドクンと脈打つようで、私が彼女に向けているのと同じ視線を男子が自分に向けているかもしれないと思うと、運動とは違う種類の、背徳的な興奮がふつふつと内側に湧き上がってきた。それが性的なものだということもなんとなく分かっていた。
 まだまだ子どもっぽい顔つきの姪を、まわりの男子は性的な興味と好奇の目で見ているのかもしれない。はにかんだ笑顔にチラリとのぞく八重歯や、屈託なくまっすぐ向けられる瞳。内側に渦巻くものを隠し、したたかに無垢を装っているという可能性もある。 
 姪は私の出したチェックのワンピースを着、私の貸したビニール傘をさして帰っていった。彼女が部屋に残した青臭い匂い。それは今の私よりもよっぽど男を魅了する。
 姪が私のマンションにちょくちょく顔を出すようになって、私は部屋の隅に置いていた洗濯カゴを脱衣所に移動した。ここ最近の生活の変化といえばそれくらいだ。自分がそれなりに片付いた暮らしをしていたことにあらためて気づく。きっと、散らかし放題の部屋でも気にせずにいられるくらいのほうが他人ともうまくやっていける。床に置きっぱなしの雑誌に苛々したりせず、ペットボトルのおまけでついてくる小さなフィギュアがテレビの周辺を占拠していくのを呆れつつも放っておけるような、そんな性格ならよかった。
 カーテンを引くとそこには変わらず夜の色があり、網戸には数匹の虫と雨の滴がしがみついていた。光に刺激されたのか小さな蛾がぱたぱたと翅を動かし、数センチほど飛んでまた網につかまる。外灯の明かりは落下する幾筋もの雨粒をぼんやりと照らし、濡れた路面をまた一台の車がシャーと音をさせて通り過ぎた。時計を見ると、もうじき深夜二時になるところだった。扇風機をタイマーで二時間後に切れるようセットし、雨音を子守唄に夏布団のなかで目を閉じた。
 目蓋の裏で、○っ君は『人間は歩く性器である』と言う。昔聞いた言葉だ。大学生の私は「俺だって男なんだから、常にエロいことばっかり考えてる」といった意味に捉えていた。けれど彼と私の関係を思い返すと、下ネタばかりを口にしながらも、○っ君が私に性的な意味合いをもって接触してくることはなかった、そう思っている。彼は私にとっては貴重な、開けっぴろげに性の話をできる相手だったのだ。
 私は彼に「女だってオナニーするよ」と酒の勢いで言ったことがある。○っ君は「女がそういうこと言うなって」とゲラゲラ笑っていた。会話は思い出せるのに顔が出て来ないというのは不思議なものだ。彼が一人暮らしをしていたマンションでの会話で、二人とも酔っ払っていて、朝までぐだぐだと過ごし、それでも妙な雰囲気にはならなかった。友人としての彼は気楽で、女友達と○っ君とではノリも違えば話すことも違った。○っ君が男性だったからこそ、私はそんな馬鹿な話をしたのかもしれない。
 恋人とのセックスであれ、それ以外の男性とのことであれ、相手のあるセックスについて女友達と話すことはしばしばあった。それはお悩み相談であることもあったし、悩みを装った惚気や自慢という場合もあった。そんな中で「オナニーする?」と聞いて「しないよ」と眉をひそめられようものなら、どう後を続けていいものかわからない。○っ君なら笑って終わりだし、終わらなければまた別の関係があったかもしれないけれど、実際にそうはならなかったのだ。 
 眠りに落ちると、夢に○っ君が出てきた。相変わらずバカバカしい下ネタを口にしていて、私はたしかに彼の名を呼んだのだけれど、目覚めてみると彼の名はその顔と同じように思い出せなかった。『○っ君』は『○っ君』のままだ。
 以来、よく○っ君のことを考えている。な行だったような気もするし、は行だった気もするけれど、何度「あ」から順にたどってみてもピンと来る呼び名には行きつかなかった。○っ君の存在は二次元や芸能人と比べるとほどよく現実感があり、それでいて生々しさがなく、私は自分の体に触れながら彼のことを考えるようになった。記憶のなかの○っ君は二十代前半で、なんとなく私自身も若返ったような気になる。
 夜以外で○っ君のことが浮かぶのは男性と話をしているときだった。それはたまにしか訪問しない取引先の人だったり、滅多に行くことのない店の店員だったりした。私と同じくらいの年代の男性を前に、「○っ君はこんな感じになっているのかもしれない」という想像から始まり、目の前の男性と○っ君の違いを挙げていき、現在の○っ君の家庭や子どものことに思考が及びそうになったとき、パチンと頭のなかで手を打って考えるのをやめた。○っ君の輪郭はぼんやりしていなければいけなかった。
 ある日の仕事帰り、行きつけの本屋で一人の青年に目がとまった。茶色のエプロンには『立花書店』という本屋のロゴが山吹色の糸で刺繍してあり、ネームプレートには研修中と書かれていた。
 目がふたつ、鼻がひとつに口ひとつ。眉が二本あって、それは繋がることなくちゃんと分かれており、髪は短く明るい茶色だった。少しなで肩で、それと同じくらいの角度で目尻も下がっていた。その微妙な角度が、どっと私を過去へと押し流した。
 ○っ君はなで肩とタレ目を気にしていた。睫毛が長めで、太めの眉は眉間に近くなるほど薄くぼんやりとしていて、眉尻に行くにしたがって濃くなっていた。体つきは肩に限らず角ばった印象がなく、それでいて手の指は太く節くれだっていた。
 ずれたピントが不意にカチリと合い、驚きとともに戸惑いが本屋の彼から目をそらせなくした。あまりにもくっきりとした存在感で、アナログ放送から地デジに移行した頃と似たような違和感を覚えた。それはあまり気持ちの良いものではない。研修中の彼の頬には青春の名残のように凹凸があり、真新しい赤いニキビがぽつりと左の頬骨の上にできていた。名札には『青木史靖』とある。「ふみやす」だろうか。彼はおそらく学生アルバイトで、もちろん本物の○っ君ではない。けれど、このとき○っ君は必要以上の生々しさをもって私の頭のなかに現れた。
 鼻の形はこんなにスッキリとしていなかった。唇ももっと貧相な色をしていたはずだ。耳にピアスの穴なんてなかったし、髪はもっとガチガチに固めていた。
 レジの向こうに立つ彼と○っ君の違いを探していたら、「ブックカバーをおかけしますか」と問われ、「ふっ君がしゃべった」と私は思った。
 ふっ君。ふっくん。フックン。
 それが大学時代の友人である『○っ君』の呼び名でなかったことはたしかだった。ふっ君は慣れない手つきで懸命にブックカバーをかけ、深爪の丸い指先が不器用に紙を折り返した。手は○っ君に似ているかもしれない。かけてくれたカバーは少々緩めのようにも見えたが、ようやくそれが形になると、ふっ君はふいと顔を上げて「袋にお入れしますか」と聞いてくる。
「そのままでいいです」
 ありがとうございます、と言いながら彼はブックカバーのかかった文庫本に輪ゴムをかけ、両手で丁寧に差し出してきた。いつもいるベテラン店員さんがチラチラとふっ君の様子をうかがっていて、私が「どうも」と笑顔で本を受け取ると、ベテラン店員さんはほっと目尻に皺を寄せ、ふっ君はぎこちない笑みを私に向けた。
 私は買った本を鞄にしまうと、「まだ何か面白そうな本がないかしら」といったふうに再び店内をうろつき、レジから二メートルほど離れた婦人雑誌のコーナーでファッション誌をめくった。そして、ベテラン店員さんの手招きでふっ君がバックヤードに消えたのを見届け、ようやく店をあとにしたのだった。
 予定よりも三十分近く遅れて帰宅し、ふっ君がブックカバーをかけた文庫本を取り出してテーブルの上に置いた。いつも通りあり合わせの材料で一人分の夕食を作り、本の置かれたテーブルでそれを食べた。私はひたすらいつも通りであろうとした。
 ドキドキするのが怖くなったのはいつからだろう。期待よりも不安が先に立つ。最近では病気を疑うこともあった。ドキドキもウキウキもワクワクも、若者の特権のように思えてくる。
 期待を込めてマッチを擦って、ちっぽけなマッチ棒に灯った一瞬の煌めきにじっと目を凝らし、そうすると炎は束の間の暖かさを恵んでくれる。けれど、その明かりが消え去ったあとには決まって寂しさが訪れる。そう知っているから、私は年をとるにしたがってマッチを擦らなくなった。我ながら臆病が過ぎるとは思うけれど、日々の暮らしでふと目につく季節の移ろいを拾っていけば、それらは寂しさを伴うことなく心の平穏を与えてくれる。けれど、心は常にぬくもりを求めている。
 その夜、寝仕度を整えた私はベッドのなかで文庫本を広げ、十五ページほど読んだところで栞を挟み、本を閉じた。電気を消すと部屋はぼんやりとした闇にのまれ、充電中のスマートフォンの赤いランプだけが小さく暗がりのなかに浮かんでいた。そのうちじわじわと室内の朧な輪郭が浮かび上がってくる。扇風機は低く唸りながら、肌を撫でて往復した。両手でティーシャツの裾をまくり上げ、暗がりの中で胸が露わになる。包み込むように掴んだ左右のふくらみは若い頃よりも柔らかく、流れ落ちそうなその質感はそれほど嫌ではなかった。この頼りなさが私なのだという気がする。
 エプロン姿のふっ君が頭のなかにいた。眉間に小さな皺を寄せ、私を見下ろすふたつの目はシャッターを切るようにゆっくりとまばたきし、長い睫毛が上下した。蠢く両手は私のものではなくなり、深爪の丸い指先が不器用に這い回る。
 時おり乱れる息遣いは私のものであり、そして彼と、彼のものだった。ためらいがちに下着の中に侵入した指は彼のもの。彼は私が身に付けていたものすべてを脱がせ、羞恥心が体を痺れさせる。扇風機の風が晒された肌を撫でて湿り気を奪った。
「……っ君」
 無意識の声は、一人きりの部屋で聞く相手もないまま消えた。剥き出しの体の上を扇風機の風が往復し、熱が奪われるたびに現実が舞い戻ってくる。天井の木目が見え、私は急に気が削がれて脱力した。虚しさというか、呆れというか、ただ馬鹿らしくなってしまった。
 電気をつけ、ティッシュで手を拭ってゴミ箱に捨てた。脱ぎ散らかした服と下着を一枚ずつ身につけていく。体はいつになく熱を帯びていたのに、現実に引き戻されたときの落差が堪えた。ため息を漏らし、横になって布団をかぶるとなんだか泣きたくなった。
 それから二三日はただこなすべき日々のことだけをして過ごした。気力を振り絞ってもそれしかできず、あらゆることが億劫で、そんな自分が何か欠落した人間のように思えた。これから先、こんな自分が誰かの役に立てるのか、ずっとこのまま独りで過ごすことになりはしないか、そうして若さや家族といった自分にはないものを持つ人々を羨むだけの偏屈な老女になりはしないか。心に芽生えた際限のない不安は、あの夜の官能のように簡単に消えはしなかった。
 一人で裸になって妄想と交わっても、その先に何も生まれはしない。脳はあっさり騙されてくれるけれど、それは私の中だけで閉じている。平穏な人間関係が私のまわりに構築されていたけれど、その変化のなさが急に恐ろしくなった。その焦りが余計に私を鬱々とさせ、苛立ちと頭痛と目眩を覚えながら食欲だけがいつになく増し、ご飯をおかわりして食べたその日の夜、ふと気づいたのだった。――生理(アレ)か。
 一年ほど前から生理周期が乱れ、低温期と高温期の境目があいまいなことが多くなった。若い頃は軽い腹痛程度だったPMS症状(月経前症候群)が徐々に変化しているのは感じていたけれど、頭痛にしろ目眩にしろ、それがPMSなのかどうかの判断がつかず、婦人科を受診しようかと悩みつつも、まだ行けずじまいだった。今回のように予定より四日か五日早く生理がはじまることもある。
 体調不良や不安定な心の動きも、すべて女性ホルモンのせいなのだと思うとほんのわずかだけれど気が楽になった。けれど、これまでにない気持ちの落ち込みや諸々の変調に、贅肉の下に隠れた二つの卵巣のことを思いながら、それが役目を終えつつあることが身に迫って感じられ、自慰で性欲を処理することに躊躇いがなくなったのも、女としての能力が尽きないうちになんとか役割を果たそうとする卵巣の、精一杯の叫びのようにも思えた。それに応える予定のない自分がひどく惨めにもなった。
 生理が五日目を過ぎると気持ちが上向きになり、私はふと思い立って立花書店に行った。ふっ君はあの時と同じようにレジに立っていて、私は婦人雑誌のコーナーでファッション誌を広げ、そっと彼をうかがった。
 青木史靖君はあの日の夜に思い描いた彼の姿とはどこか違っていて、その両目の垂れ具合も、なで肩の角度も、あの日感じたほどには○っ君と似ていないように思えた。ネームプレートからは研修中の文字が消えている。ビジネス書を差し出した中年男性が彼に向かって何か口にした。そうして彼の示した場所に男性はスマートフォンをかざす。あの日見た初々しい不器用さはそこになく、親しみのこもった彼の笑みは接客慣れしていて、どこからどうみても書店員にしか見えなかった。頬にあった赤いニキビも消えていて、大学生なのか、そもそも彼が二十代なのか三十代なのかも分からなくなった。結婚していても、子どもがいてもおかしくないように思えた。
 ○っ君の顔は再びぼんやりと霞がかかり、というよりも私自身の手で彼とのあいだに一枚のベールをかけ、私は○っ君の眼差しが、唇が、髪や首筋が青木史靖君にならないように、慎重に頭のなかで絡み合い、立花書店には前と同じペースで訪れた。
 青木史靖君。彼に感じるこそばゆさは、きっと中年女が若いアイドルにはまってしまうようなものだ。恋愛というよりも母性。にこにこ笑う姿を遠目に見るだけで心が暖まる。どうやらぬくもりは触れないでも得られるものらしいが、求めたとき、ぬくもりはきっと別のものに変わるのだ。

 
 ○っ君が予想外の『りっ君』だと判明したのは、大学からの友人である小菜(さな)がうちに泊まりに来たときのことだ。
 小菜は中二と小五の二人の娘の母親で、最後に会ったのは彼女が独身のとき。年数を数えるのすら億劫なほど昔の話で、彼女がSNSにあげる「幸せ家族の日常」といった写真に私がコメントを添えることで繋いできた関係だった。
 小菜は、夫の散らかした雑誌や日々たまっていくアニメキャラクターのフィギュアに呆れつつも仕方ないと言ってしまえるタイプだ。SNSでそういった彼女の日常をながめながら、私は自分と小菜のいる世界が徐々に離れていくように感じていた。けれど、ここ数年写真がアップされる頻度は減り、今ではせいぜい二、三ヶ月に一度くらいになった。
 小菜から、九月に入ったばかりのある日ダイレクトメールが届いた。それはSNS上でのふわふわとしたやりとりとは違った、少々不穏な空気をはらんだメールだった。小菜いわく、『なんかちょっと家出したくなった』らしい。
 正直なところ面倒な気もした。断ろうと思えばいくらでも断ることはできたのだけれど、年々「面倒」で済ませてしまうことが増え、このままだと息をすることすら面倒になってしまいそうな気がし、私は彼女を泊めることにした。
 都合をすり合わせる何度かのメールで、『あの頃に戻りたい』と小菜が送ってきたことがあった。私たちは「あの頃」から今までに何を失ったのだろう。きっと、若さとか夢とか希望とか、言葉にすればキラキラとしたものばかりだ。それはまだ自分の中にあるようにも思う。もしかしたら、小菜はキラキラを見つけようとしているのかもしれない。
 最初のメールから十日も経たないうちに、小菜は山登りをする人が使うような大きなリュックを背負ってやって来た。私は仕事を終えて待ち合わせた最寄り駅へ向かった。小さな駅舎の前で、小菜は物珍しそうに辺りを見回していた。水色のギンガムチェックのシャツを肘までまくり、ラクダ色のチノパンにスニーカーというラフな格好で、今まさにハイキングに出かけるような様が暮れかかった空の色とアンバランスだった。
 顔もはっきりと見えていないのに、私はひと目でそれが小菜だと分かった。彼女の方は忙しなく視線を動かし、私が「小菜」と呼びかけてようやく「ああっ」と感慨のこもった声をあげて破顔した。
 家出と言うわりに深刻な逃避行ではないようでひと安心したのだが、小菜は「変わらないね」と当たり前のように私に腕を絡め、その気安い仕草に私はくらりと目眩をおぼえた。小菜が誰とも気軽にスキンシップをとるタイプだったことを思い出し、それが年月を経た今でも変わらないこと、自分が誰かとこれほど近く接することが久しくなかったことに驚いた。九月半ばではあるけれど比較的涼しく、触れあった腕に汗ばんだ熱は感じられない。それでもそこにあるものを表現するなら、「他人のぬくもり」という言葉がぴったりだった。
「旅先のスーパーに行くのが楽しい」という小菜の要望で、普段から利用している近所のスーパーマーケットに向かい、繋いだ手を引っ張り回されて店内を一周した。売り場をくまなく物色した彼女が買い物カゴに入れたのは、値引きのシールが貼られた刺身と惣菜、地元では馴染みだが他所では売っていない絹ごし豆腐。レジを済ませたあと、スーパーの片隅にあるパン屋で売れ残りのようなパンを買い、私たちは店を出たのだった。
 冷奴には鰹節とネギをたっぷりのせ、酢豚をレンチンする。刺し身は醤油とわさび、オリーブオイルに塩胡椒レモンで和風カルパッチョになった。バゲットは薄切りにしてオーブントースターで焼く。それらがテーブルに揃うとビールで乾杯した。
 前日に高校時代の友人に会ってきたという小菜は、疲れていたのかグラスに一杯も飲まないうちに頬を真っ赤に染めた。目は潤んでピンク色に充血し、涙袋の下に左右二本ずつ小さな皺が刻まれている。夕食前にシャワーを浴びた小菜はティーシャツとショートパンツに着替え、露出した二の腕のたるみもくすんだ膝も、私より五歳ほど年を重ねた人のように見えた。それは多少の優越感をもたらすと同時に、子育ての苦労を知らない自分と、家庭と仕事の両立に奮闘する小菜の経験値の差のように思える。私はさりげなく小菜の体のラインに目を走らせた。
 親子ほど年の離れた姪に対して若さをうらやみ、同い年の小菜を見ては自分の手にできなかったものを思い嫉妬を覚える。自分には何があるのか、何が残されているのか。失ったもの、持っていないものばかりが目について鬱陶しい。
「結婚はもうできる気がしない。老後は不安だけどね」
 本音を口にしながら、私は酒の力を借りてすべて笑い話にしようとした。小菜の方も二人の娘の受験や、築十年で思いのほか劣化してしまった家の修繕費のこと、年々崩れていく旦那の体について笑いながら話した。
 テーブルに並んだ皿もすっかり空になり、ポテトチップスの袋に手を突っ込みながら「最近何しても痩せないんだよね」と小菜は言った。半分閉じかけた目蓋をこちらに向け「いいなぁ」とため息をつく。
「あたしも死ぬまでにもう一回くらい恋愛したい」
「小菜には旦那がいるじゃない」
「旦那は旦那。子育て共同体みたいなもん」
 ちびりと気の抜けたビールを口にしたあと、このままだとあたし死ぬまでセックスしないかも、と小菜は言った。
 下の子が産まれてから旦那とはベッドを別にして、あたし自身そんなに性欲はなかったし、夫の方から求めてくることもなくなったし、軽いスキンシップはしてもそれは娘や両親とするような家族的なもの。二人の娘に手がかからなくなった頃にふとセックスしたくなって、それで夫との行為を想像したら父親としているようなどうしようもない違和感に襲われて、自分から誘う気はまったくなくなった。夫から言われても拒絶してしまいそうで、拒絶したらしたで彼を傷つけてしまうし、だから夫婦間ではこのまま何もないのがベスト。浮気するつもりもないし、だからあたしはこのままセックスしないで死んじゃうんだ。
 小菜の目はほとんど閉じていて、頬杖はずるずると崩れてコツンとテーブルに頭をついた。私は彼女のまわりからビールのグラスだけを残して皿を片付け、キッチンで洗い物を済ませた。
 洗面所で歯磨きをしているとふらりと小菜が現れ、「あたしも」と隣に並び、歯ブラシを口に突っ込んでシャカシャカと動かし始めた。顔も首も、露出した肌すべてがほんのり色づいて、重力への抗いを諦めたその体は、その年齢でしか出せない色香がある。小菜は今にも眠ってしまいそうに頭を揺らし、正面の鏡に顔を向けたまま私にもたれかかってきた。その感触は想像通りの頼りない柔らかさをしている。
 不意に小菜の顔が幸せそうに緩んだ。
「二人ともゆでダコだね」
 鏡に映る私の顔も小菜の顔も赤く、露出した肌の色も顔の緩みも同じで、私が唾をペッと吐き出すと小菜もペッと吐き出した。小菜は駅で再会したときのように腕を絡ませる。密着した肌は熱く、彼女のティーシャツ越しに胸のふくらみ、ポツリと飛び出した乳首を二の腕に感じた。彼女の腕も私のふくらみを歪ませていた。
「人間は歩く性器である」
 腕を組んでベッドに向かいながら、私はふとその言葉を思い出して口にした。小菜は「何?」と笑った。
「大学のときに一緒だった下ネタ好きの男子の名前は何だったっけ」
「ああ、りっ君」
 りっ君。りっくん。リックン。
 そう言われればそんな呼び名だった気もしたけれど、その響きにピンと来るものはなかった。小菜は部屋の隅に準備していた布団を「よいしょっ」とあぶなっかしい手つきで広げ、中途半端に捩れた布団の上に倒れ込む。兄夫婦に借りたその布団から、姪の青臭い匂いがした。
「あたし、りっ君としたことあるよ」
 小菜の顔は変わらず幸せそうに緩んでいて、その顔のまま「一回だけね」と笑った。
 仰向けに寝転がる彼女は天井を見つめ、そこには等圧線のような木目がある。中心部分は低気圧だろうか、それとも高気圧だろうか。点けっぱなしにしていたテレビを切ると、扇風機の音が部屋を満たした。
 立ったまま小菜を見下ろす。魂だけ肉体から抜け出して自分の姿を眺めているような不思議な感覚に私は陥った。彼女はこのあと自分のティーシャツをまくり上げ、りっ君の指でたるんだ贅肉を弄ばれ、ショートパンツも下着も取り払って喉の奥からくぐもった声を漏らす。
 ぼんやり突っ立っていると、小菜が「寝よっか」と手招きした。私は小菜の敷いた布団を整え、電気を消して自分のベッドに入った。小菜の寝息が、果てしなく遠くから聞こえてくるような気がした。

end

狭間の女

狭間の女

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-06-03

Copyrighted
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