あかいろの証

砂東 塩

あかいろの証

あかいろの証

 タルトをこんな夜中に焼くなんて、という由香からのメッセージには『イミフ~』というスタンプが後に続いていた。
 たあいない会話は途切れ途切れに二時間ほど続いている。わたしはエプロンを外し、『えっへん』と胸を反らしたタヌキのスタンプで返信した。スマートフォンはパーカーのポケットに突っ込み、リュックを背負って玄関を出る。外はざんざん降りだった。
 思い立ったら猪突猛進なところがたまに顔を出す。ジーンズの裾が濡れるのもかまわずわたしは雨に煙る路地を駆けた。誕生日にもらった真っ赤な傘が、雨粒をはじいてバラバラと鈍い音を立てている。
 ――血管のなかにいるみたいだ。
 ふたり並んで一つの傘のなかに身を寄せ、聖はそんなふうに言っていた。わたしの二の腕あたりをぐいとつかみ、甘えるように顔を近づける。彼より十センチ背の高いわたしは、傘と一緒に頭をかたむけて唇を重ねた。
 記憶は不思議なほどに鮮明だった。ひとりでさす傘は赤色の向こうに夜の闇をうつし、わたしは隣に彼がいないことに安堵と、そして罪悪感をおぼえる。雨が降り、傘をひらくたび聖の声が聞こえる。
 ――陽はひどいね。
 ごめんねと謝ることができなかったのは、そうするしかなかったからだ。聖からもらった傘を、わたしはなぜか使い続けている。傘はわたしのすべてを守ってくれるわけではない。暗がりにぼんやりと浮かぶ酒屋の看板が目に入った頃には、ジーンズの膝あたりまでぐっしょり濡れていた。  店は蛍の光が流れていた。酒の陳列された棚には目もくれずグローサリーコーナに向かい、ダークチェリーの缶詰をふたつ手にとってレジに置いた。
 お菓子作りをするようになったのはカフェでアルバイトをはじめてからだ。週に二三度、買うものがなくても店内をぶらつきにやってくるわたしの顔を、さほど愛想のない店主はすっかり覚えているようだった。わたしがポイントカードを差し出すのを、何も言わず待っている。今ではめずらしい、紙にスタンプを押すタイプのポイントカード。ひとつだけスタンプの増えたカードを店主から受け取って財布にしまうと、わたしは来たときと同じように赤い傘をさして路地を駆けた。
 サブレ生地とクレーム・ダマンドはすでにタルト型に敷き詰め、ラップをかけた状態で冷蔵庫に眠っている。そのまま冷凍にして次の休みの日に焼こうと考えていたけれど、アーモンドプードルをふるいにかけているときに、なぜか猪突猛進スピリットが発動してしまったのだった。少しずつ慣れた作業のあいまに、聖のことが頭を過る。
 前へ、前へと、わたしは逃げているのかもしれない。
 こんなふうに勢いで行動するのは、最近ではめずしいことではない。けれど、数ヶ月まえ、まだ居酒屋で聖と一緒に働いていた頃からは想像もつかない。どちらが本当の自分なのかと問われれば、どちらもそうなのだろう。
 自分の内面のどの部分が色濃く表に出てくるか、それはその時々で違うし、関わる人間によっても変わる。由香といるときのわたしと、聖といるときのわたしはまったくの別人だった。

☂️

 聖と出会ったのは一年半ほど前のことだ。バイト先の居酒屋に彼が新人として入ってきた。わたしも彼と同じようにアルバイトで、古株だからという理由で彼の教育係になった。
 聖は昼間も別のアルバイトをしているらしく、二十五歳だというのに正社員のクチを探す気はないのだろうかと思ったけれど、同い年で十時間労働アルバイトのわたしは、むしろ彼に仲間意識のようなものをおぼえた。
 小柄で華奢な体つきの聖。その童顔な顔つきもあいまって客からは学生アルバイトと間違われることもあった。実際の学生アルバイトと比べるとどこか冷めた目つきをしている、そう気づいていたのはわたしだけだろうか。

「実家暮らしだよ。親とおねえがいる」
 居酒屋とは別棟にある、洗濯機の前での会話だった。
「実家かあ。じゃあ料理とか洗濯とかしなくていいから楽じゃん」
 わたしは言いながら脱水の終わった布巾をカゴに入れた。ゴミ捨てのついでに一緒について来た聖は、わたしのすぐ隣で二層式の洗濯機にもたれかかって口の端を歪めている。距離の近さは気にならなかった。他のスタッフとは明らかに違う彼との距離は、どこか心地よいものだった。
「自分の洗濯は自分でするよ。飯も時間合わないから別」聖の声が子どもっぽく上擦った。
「実家暮らしなのに? 何それ、おもしろい」
 くすくすとわたしが笑うと、その反応を彼は異様によろこんでいた。
「おもしろいって人、初めてだ。陽子さんの方がおもしろい」
 まだ出会って二週間ほどだった。独特のしゃがれ声でそう言ったあと息を漏らすように笑った聖は、「陽」と他のスタッフと同じようにわたしを呼び捨てにし、ぐいと腕を引いた。キスをねだるように顔を近づけながら、強引にそうするでもなく、わたしを試すように小さく口角をあげる。
「ねえ」とだけ囁いて彼は口をつぐんだ。
 どちらかといえば高くビブラートがかかったような声は、直接わたしの深部まで振動させているようだった。わずかにかがんで彼の唇をとらえると、しがみつくようにギュッと腕をまわしてくる。このときわたしの胸にあったのは、性的な感情ではなく母性本能のようなものだったと思う。
 甘えたい。甘えてもらいたい。
 そのふたつがピタリとはまってしまったのか、感情というのはひとたび回りはじめると行く先を自分の意志で決めることは難しい。ブレーキを踏むことも不可能で、足を踏ん張ったところで流れはなかなか向きを変えることができない。その車輪は上るのか下るのか、重い舵はひとりではぴくりとも動かず、冷静になればまわりから差し伸べられた手にも意識を向けることができたはずなのだが、如何せん視線は一点に集中していた。
 彼はわたしを求めていた。――否。わたしが求められることに飢えていたのだ。狭窄した視野はすがるべきものを直感的に認識する。直感ほど当てにならないものはない。
 聖の冷めた眼差しにわたしが見たのは彼の闇で、そして自分自身だった。あわせ鏡のような彼に、闇を抱えているのは自分ひとりだけではないのだと、そのことに救いを求めた。

 聖とわたしは仕事終わりにファミレスに行き、ふらふら街をぶらついたりした。つきあってと言われたけれどわたしにそのつもりはなかった。その頃わたしにはずっと好きな人がいて、それは聖も知っていることだった。「まだあの人が好きなんだもん」と言うと、「陽もダメ女だよね」と聖は薄く笑っていた。
 私が想いを寄せていたのはアルバイト先の社員だった。出会って三年近くになるその彼は、わたしの告白を「タイミングが悪かったね」とあっさりふって、そのくせ思い出したように電話をしてきては恋人の愚痴をこぼした。
 彼の恋人は居酒屋の元スタッフで、どこの誰が言いはじめたのか、わたしが彼の恋人を店から追い出したという話になっていた。わたしが彼に告白したという噂は批判的な色を帯びて店の女性スタッフに広まり、その一部からは陰湿な嫌がらせが続いている。伝えるべき情報を伝えない、わたしが管理している物を見つけにくい場所に移動する。正面切って文句を言っても「知らない」と言われればそれまでだった。
 そんな女たちの行動に男どもは無頓着だった。見かけはサバサバした女として振る舞っているわたしに、変わらず軽口を叩いてくる。それは彼も一緒で、「ホント、陽は男らしいよね」なんてケラケラと笑った。わたしは傷つきながら「でしょ」と笑い返した。女たちは陰でひそひそと何か囁きあっていたけれど、肉体が傷つけられたりしないだけマシだと思うことにした。わたしはもっぱら男性スタッフたちと話し、それがまた彼女らの顰蹙を買ったようだった。電話のやりとりは、彼が既婚者になった今でも続いている。
 報われない恋が聖の抱える傷と同調したのか、それとも人間関係に疲れ果てていたのか、自分の価値なんてごみくずだと思っていたわたしは躊躇うことなく聖の前で脚を開いた。
 体なんてただの物質。聖にはわたし以外にも女がいて、わたしも聖も、体を重ねたからといって何かが変わるとは思わなかった。
「『17歳のカルテ』観た?」と問われ、レンタルショップで借りた。
「よかったでしょ」と聞いてくる聖に「うん、よかった」と答えた。
 感想みたいなことを言葉にすると価値観の違いを浮き彫りにしてしまいそうで、わたしはそれ以上言葉を続けられなかった。
 なんとなくでいい。なんとなくお互い病んだものを抱えている。そんな世界に浸っていたかった。聖はただそこに沈んでいた。馬鹿なわたしはなんにも分かっていなかったのだ。

 ある夜、はじめて訪れた聖の家の玄関口で彼の母親と顔をあわせた。
「あら、背が高いのねえ」
 そう一言だけ口にすると、母親はわたしと視線をあわせることなく下駄箱に手をかけて靴を履いた。この人は今まで何人の女にこんなふうに声をかけたのだろう。そう考えて少し心が痛んだ。他の女に嫉妬したわけじゃない。
「部屋行くから。放っておいてくれていいよ」
 わたしを紹介するでもなくさっさと階段をあがっていく聖の背中にむけた母親の笑顔。不自然ではない、けれど穏やかなその笑みは腫れ物を刺激しないようにそっと距離を置いているように見えた。
 ベッドの上でからだを絡ませ必死で声を押し殺すわたしに、「声出して。亜紀は仔犬みたいな声だよ」なんて言いながら、情動というよりも実験か観察でもするように、聖はひとつひとつの動作のあと、わたしの反応を確かめては満足げな笑みを浮かべていた。
 亜紀とは聖の元カノだ。「別れた」と言うわりに亜紀は頻繁に聖の家に出入りし、クリニックに通う聖を車で送り迎えしていた。
 亜紀はわたしのことをどう思っていたのか、なんとなく三人で飲みに行ったりもしたし、「三人一緒に暮らせたらいいね」なんて聖は夢見がちに口にしていた。彼はきっと本気でそう思っていたのだろう。わたしも亜紀も話をあわせながらその可能性がゼロだと分かっていた。
 時間というのは優しく、そして酷だ。
 傷は舐めあっているうちは心地いい。けれど癒えた傷がまだそこにあるようなふりをして、聖の傷を延々と舐め続けることに、わたしは少しずつ疲れはじめていた。治りきって瘡蓋もはがれた傷痕を、「ほら私も傷ついてるの」と構ってもらいたかっただけだ。悲劇のヒロインを演じることに疲れて、ようやくわたしは周りの声が聞こえるようになった。世界は聖とわたしだけではないと、そんな当たり前のことが徐々に視界に入り込んで来た。
 わたしの傷は癒えても、聖は違う。聖の傷は生の証。傷が癒えてしまったら、聖はこの世から消えてしまう。彼の傷は何度も何度も上から引っ掻くようにして、いつまでも生々しい内部の血肉が露出している。自身の存在がたしかにそこにあるということを、彼はその痛みで確認している。
「腕切っちゃった」
 そんな電話が夜中にかかってきたとき、わたしがパニックになりながら連絡したのは亜紀だった。ミミズ腫れのような傷痕が彼の腕には幾筋もあって、それは彼の弱さであり、その弱さこそが聖とわたしを結んでいると思っていたけれど、彼の腕から流れる真っ赤な体液を想像するだけでわたしは怖気づいてしまった。
 腕を切り、聖がわたしに突きつけたのは何なのか。
 生の自分を見せつけて、寄るのか離れるのか、どちらか選べと迫ってくる。寄ればそれは終わることなく、戻ることもできない。離れ、聖の視界から立ち去れば、彼は何かにすがるだろうか。すがるものを見つけられなったら、いや、すがるものを探すことすら放棄してしまったら。
 一緒に抜け出すことができるかもしれないと、わたしはそんなことを思っていた。救ってあげられるかも、彼の傷もいつか癒えるかも。それは幻想か理想か、向かうべき先なのか。亜紀はただ見守っていた。
 わたしが「傷」と言って見せびらかしていたものは、次第にわたし自身の足枷となっていった。上昇志向や好奇心はわたしの中にあり、一時それが鬱々とした感情のうねりに飲まれていただけで、時間を経てそれらが顔を出しはじめると、足を縛る枷から逃れることを考えはじめた。
 気持ちが楽になるよと聖から渡された向精神薬に頼ることもなくなっていた。浮上していく感情と、まどろんでいた世界が次第に乖離しはじめ、わたしは出口のないぬかるみから物理的に距離をおくことにした。
「夜の仕事はキツイから、辞めることにした」
 居酒屋の面々から送別会に花束を贈られ、聖はふたりきりになりたがったけれど、わたしは酔っ払ったふりをして他のスタッフに絡み、四次会に向かうころには聖の姿は見えなくなっていた。マンションに帰ってから、いくつか残っていた向精神薬をゴミ箱に捨てた。

 聖との関係は完全に切れることはなく、そして、わたしの気持ちはどんどん彼の世界から離れていった。新しいアルバイト先の人との関わりだったり、お菓子作りという新しい趣味だったり、そのうち元いたあの世界に戻ることが怖くなり、聖からの着信を無視することが増えていった。
「どうして亜紀からの電話には出るの」
 聖の着信を無視した直後にかかってきた亜紀からの電話。聞こえてきたのは独特の振動をもったあの声で、その姿が目の前になくても彼の喉が震えているのが見えた。それがわたしの深部に届き、後悔と恐怖が急速に体を支配していく。
 彼の心を抉ったのはわたしだ。あいまいだった拒絶がそのとき明確に世界にあらわれ、自分が引いたその線が今にもこの胸に食い込んできそうだった。聖の心にはもう深く食い込んでいるはずなのに、彼は息の漏れるような音をさせて笑っていた。
 呼び出されたカフェで、聖と亜紀と、何度か顔を合わせたことのある「聖の親友」を名乗る沖とテーブルを囲んだ。沖と聖は同じクリニックに通っている。
「陽はひどいね」と聖は笑っていた。沖も亜紀も「聖のプリン食ったのお前だろ」くらいの軽いノリで、わたしはなんとなくその場に馴染んでしまったけれど、薄っすらと膜が張ったように彼らとの距離を感じていた。彼らもそれは分かっていたのかもしれない。亜紀のように寄り添いつづけることは、わたしにはできなかった。聖と沖のように分かりあうことも無理だった。

☂️

 買ってきたダークチェリーの缶詰をあけ、仕込んでいたタルト生地の上に並べていった。予熱の完了を知らせる電子音が鳴り、オーブンのスタートボタンを押す。
 リビングのソファに身をあずけると、ハンガーに吊り下げたジーンズが除湿機の送風でゆらゆらと揺れていた。裾は濃い色をしている。
 テレビをながめていると、次第にタルトの焼ける香ばしいバターの匂いで部屋が満たされていった。時刻は午前一時をまわっている。タルトは焼き上げてそのまま朝まで冷ましておけばいい。この時刻ならそろそろ厨房の片付けをはじめるころだろうかと、ふと前のバイト先のことが頭をかすめた。
 夜中に一人で起きていると、どこかで同じように活動している誰かのことを考える。闇の恐怖というのはたぶん遺伝子に刻み込まれていて、そこから逃れるために人肌を求める。けれど、今のわたしに温もりを恵んでくれる男のあてはなかった。
 聖はまだ働いているだろうか。それとも薬と一緒に缶チューハイを飲んだりしているのだろうか。彼の肌に最後に触れたのは、もうずいぶん前のような気がする。
 焼き上がりまでにはまだ時間があるけれど、わたしは匂いに誘われてオーブンをのぞきに行った。生地はまだ白っぽく、柔らかくなったクレーム・ダマンドのなかにチェリーが沈んでいく。
「おいしくなあれ」
 そんなふうに歌いながら呪文を唱える、
アルバイト先のカフェ店主の髭面を思い出した。ふっくらした体つきの中年のおじさんだ。一緒に飲みに行くと「陽ちゃん、背ぇ高いなあ」とハグを求めてくるセクハラ親父は、まわりも認める愛妻家。誰でもウエルカムなその人との布越しの抱擁は、わたしのなかにあった固くて棘棘した何かを溶かしていった。それが聖の世界との膜を厚くしていく。
 亜紀から電話があったのはタルトが焼きあがったほんの少しあとだった。タルトの表面が色づいてきたころ今更のようにジーンズに匂いがついてしまうことに気づき、「もういいや」と数枚のタオルと一緒に洗濯機に突っ込んだときオーブンが焼き上がりを告げてピーピーと鳴った。その音に重なるように、キッチンから着信音が聞こえた。深夜一時半。
「陽ちゃん、聖が死んじゃった」
 許容量を超えたら人は笑うのだと、このときに知った。自分の口角がひくひくと震えながら上を向いていることに嫌悪を感じながら、まともな人間ならここでなんて返すべきなのだろうと必死で考えた。なんと言ったかは覚えていない。

☂️

 緊張でハンカチを握り締めたままセレモニーホールにたどり着くと、ロビーには同年代の女たちがそこかしこで涙をぬぐっていた。親戚らしい年配の男性の、「女の子ばかりだな」というひそひそ話に、なぜか緊張が和らいだ。亜紀は葬儀のあいだずっと聖の家族の側にいて、迎える側として女たちに控えめに声をかけていた。
「陽ちゃんも来てくれてありがとう」
 わたしは亜紀を差しおいて涙を流してはいけないと思った。けれど、スクリーンに聖の写真が映し出され、焼香する沖の背中が震えるのを見ると、するすると涙がこぼれ落ちていた。
 たくさんの女たちのなかにわたしは埋もれていたけれど、火葬場へのバスを見送るとき「陽ちゃんも行こう」と亜紀に引かれた手が、聖にとってわたしはホールに残された女よりも近かったのかと思わせた。やはり埋もれた女でしかないと気づいたのは、それまで涙を見せずにいた亜紀が火葬炉のまえで棺にすがりついて泣き叫んだときだった。参列者のすすり泣きが嗚咽に変わり、そこにわたしの声も混じった。
 セレモニーホールに戻った時すでに日は暮れかかっていて、「これから精進落しだけど」と語尾を濁した亜紀に「帰るね」と返した。どんな顔をしていいか分からないまま、亜紀の疲労をねぎらうよう小さな笑みを口の端につくると、彼女はじゃあと踵を返して聖の母親のもとへ小走りに向かい、あたりまえのように聖の家族のなかに溶け込んでいった。亜紀の目元は少しだけ赤く腫れていたけれど、あの激しい感情は火葬場に置いてきたのか穏やかで気怠るげな笑みを浮かべていた。
 わたしはまっすぐマンションに戻る気になれず、近くのショッピングセンターへ向かった。喪服姿の自分と日常の風景。空間がねじれたような妙な感覚で婦人服売り場をぶらぶら歩いていると、鞄のなかでスマートフォンが鳴った。確認すると番号は非通知で、わたしは警戒しながら電話を受けた。
「こんなとこで何してんの」
 息が、止まった。
 時空がねじれているのか、わたしの頭の中がねじれているのか。鼓膜を震わせるのは独特のビブラートがかかったあの声で、わたしの思考が停止しているうちにその声は同じことを言った。
「何してるの?」
「あの、……どちらさまですか」
 ザザと雑音が混じる。
「誰って、分からない?」
 息の漏れるような笑い声が聞こえてくる。その名前を、わたしは口にすることができなかった。
 怖かったから? ――そうかもしれない。
 聖なのかと問うて、否定されることも肯定されることも、どちらも受け入れられなかった。だから、ただ「誰ですか」と重ねて言い、そのうち雑音が大きくなって通話は切れてしまった。確認すると圏外になっている。
 後悔した。なぜ聞かなかったのか。もう一度聖と言葉をかわせるなら、それが幽霊だろうがなんだろうが話さなければいけなかった。
 電波状況を確認しながら婦人服売り場をぬけ、階段を降りた。左にベーカリーと、真正面は出入り口。電波は良好で、わたしは再び着信音が鳴ることを祈りながら自動ドアを駆け抜けた。
 外はすでに真っ暗だった。空には星が出ているようだけれど、建物の明かりで霞んでいる。
「陽」
 不意にかけられたその声に振り返ると、立っていたのは喪服姿の沖だった。
「沖。こんなとこで何してんの?」
 そっちこそ、と返す沖は、わたしと同じく真っ直ぐ家に帰る気になれずここに足を向けたらしかった。せっかくだからお茶でもしようかと腰を落ち着けた喫茶店で、沖はわたしの知らなかったあの日の出来事を教えてくれた。
「今日は特別な日だ、ってメールが来たんだ」
 沖はわたしにスマホのメッセージ画面を見せる。聖のその言葉のあとには、『何の日?』『あとで教える』『もったいつけんな』と続いていた。
「紐かけても足がついてたみたいで、よっぽど意思が強くないと死ねないんだってさ。居酒屋のほうはしばらく休みをとってたらしいし、昼の仕事の方は葬儀の今日が定休日。一人で飛び立つにしても、もっとさ、後を濁していってもいいのにな」
 はは、と笑った沖の声は乾いていた。世界はぼんやりとしていて、今このときは沖と同じものを見ているような気がした。それは聖が見た世界のようにも思えた。だから、わたしは沖に電話のことを話した。あの電話がわたしと沖を引き合わせたように思えたから。
 聖はきっと葬儀場から沖と一緒にやってきて、そうしたらわたしがたまたま居たものだから、あんなふうに電話をかけたのかもしれない。そんなことを口にすると、沖は「かもね」と否定するどころか妙に納得したような、満足げな顔をしていた。
「お疲れさまって、言ってやりたい」
 沖は言ったけれど、わたしは「そうだね」とは口にできず、ただ小さくうなずいた。聖が生きていくことにどれだけ翻弄され疲弊していたのか、それでも生き続けた彼に「お疲れさま」と声をかけていいのは沖と亜紀だけだ。
 昼夜のアルバイト。帰りには飲みに行って、ふらふらと街を歩く。彼の心のうちはそんなありきたりな生活のなかでひどく激しくのたうちまわり、わたしはその表層をながめていただけ。
「陽も言ってやりなよ、お疲れって。たぶんそこらへん飛んでるから」
 お疲れ、とつぶやいたら唐突に涙があふれた。なに泣いてんだよと言う沖も袖口で涙をぬぐっていて、もしかしたら単なるイタズラだったかもしれないその電話に、不本意にもわたしは少し救われてしまった。だから、この電話のことは沖以外の誰にも話さなかった。聖からの電話だと信じたかったから。誰にもそれを否定してほしくなかったから。

☂️

「その電話、沖って人がかけたんじゃないの?」
 由香の言葉に呆然としたのは三十代も半ばになったある夜の居酒屋でのことだ。亜紀とも沖ともあれ以来すっかり疎遠になり、なぜか由香とだけはだらだらと交友が続いている。
 聖が腕を切って以来、わたしは安易に股を開くことも心を開くこともなくなり、それは薄い膜に覆われた穏やかな日々で、ただ心のなかに聖と過ごした時間が小さな塊のように居座っている。あの頃好きだったあの人は今どこで何をしているのやら、いつのまにか意識にのぼることもなくなっていた。
「でも、沖はわたしの番号知らなかったし、それに声が……」
 つい必死で言い返したわたしに、由香は「そっか」とあっさりうなずき「もっと早く打ち明けてくれたらよかったのに」とため息をついた。
 十年近くの時を経てようやく言葉になった聖との日々。
 頬杖をつき、沈黙の十年に「もう」と不平をもらす由香の左手を見る。少し前まで薬指にあったリングを今日売り払って来たらしい。「お互い様じゃん」と視線を向けると、まあね、と由香は気の抜けた顔で笑った。
 飲みかけのビアグラスを合わせるとカチンと澄んだ音がする。「お疲れ」と何に向けたのかも分からない言葉に、わたしはまた救われたような気がした。


end

※本作は自殺を肯定する意図のものではありません。

 

あかいろの証

あかいろの証

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-06-03

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