砲火

そうげん

【全文】

 雇いの料理人たちに調理場の仕込みを任せ、出先で必要な買い物を済ませた寺西宗司(そうじ)は、お堀の外周道を抜け、古い家並みの続く寿町の中通りを辿っていた。地方の振興がいわれる昨今の政治から遠く離れたような、静かに寂びれていく哀しみみたいなものが、路地の至る所に貼りついている。郵便受けの横に「毎日牛乳」と書かれた、日々に乳製品を受けてきたはずの木の小箱が設置されている。玄関に「犬」と書かれたステッカーが数年分貼られた家があり、家々の間には錆の浮いた幼児用の自転車が放置されてあったり、誰が遊んだものか空気の抜けたビニールのサッカーボールが転がっていたり、用途の判らない木材が立てかけられてあったりもした。土地のそんなところにばかり視線が向く宗司にとっても、ここは自分がはじめて店を構えた大切な街だった。
 彼はいま浮かない顔をしている。
 溜息をつこうとも、誰もその憂いを払ってくれないことは彼にもわかっていた。彼の憂いは深い。空を仰ぐ視線の先には春の青空が広がっている。タンポポの綿毛のようにうっすらした糸のような雲が数筋掛かっているだけだった。爽やかな青みも彼の心を解きほぐす効果を持たなかった。
 天気が良いが、以前ほどの人通りはない。ときおりマスクをして通り抜ける自転車がある程度だ。新型ウイルスが流行っているため、人の行動オプションのなかの「外出」が心理的に制限されつつあるのだろう。食べ物屋をやっている宗司にとっては、ひと事ではなかった。売り上げは目に見えて減っている。少ないお客の中にもマスクを着用する人が目立っている。せっかく来店してもテーブル席ではマスクをしたまま向き合い、気にするのはスマホばかりという無言のカップルもあった。なんのためのレストランか、と宗司は何度営業終りにスタッフに声を掛けたかわからない。
 しかし彼を悩ませているのは、お客の減少のことではなかった。一か月ほど前からつづいている嫌がらせの件だった。心労がつのる。あまりに低劣なのだ。シャッターを閉めるときには異常はない。家に帰ると、早朝に電話でたたき起こされるのだ。
「シェフ、またです」という声をこのひと月に何度聞いたかわからない。決まって、須藤栄太の声だった。シャッターと店のカギを渡してあるから、シャッターをあげる前にいつも最初に異常を見つけるのが彼だった。店の前に汚物を掛けられていたり、犬のものか、人のものかわからない排泄物を放置されていたりする。あるスタッフはそれにショックを受け、辞めていった。代わりはすぐに見つかったが、正常な思考の持ち主なら汚物を撒かれる職場に居たくはないだろう。誰がしでかしたことなのか、警察に相談に行くことも考えた。しかし結局はやめている。
 自衛の策として、上部に防犯カメラを設置してみた。数万円の機材はけして安くはなかった。しかし設置して数日とおかずカメラは壊された。あとで確認すると、視界に映らない角度から巧みにダメージを与えられて機能を破壊されていた。誰かの悪意を感じる事案だった。依然、週に二、三度、深夜の内に汚物が撒かれている。現状に改善が見られないのであれば、警察への相談も考え直したいと宗司は考えていた。
 ――いったい誰の仕業か。宗司には、心当たりがなかった。
 寂れたように見えるこの街への、ほのかな愛着を胸に温めてきた。ホテルの調理場で二十年以上働いてきて、ようやくこの街の懐で自分の帰るべき巣を営むことができている現状。街には感謝の念を抱いているし、それなりに店も軌道に乗っていた。なのに開店から一年を経ずして、厄介に見舞われている。
 商店街の出口に、昔ながらの赤いポストの目立つ簡易郵便局がある。ATMの覗くガラス窓を見るともなく見てみると、扉がさっと開いて日頃から懇意にしている斎藤電機の斎藤半(さいとうなかば)氏が出てくるところだった。
「どうも!」と客商売らしい張りのある声を斎藤は発した。
「いいお天気で」と返す宗司の心には、まだ最前の憂いが引きずられていた。浮かない表情が相手にも伝わったか、斎藤の次の言葉のトーンは抑えられた。
「天気に似合いませんな。どうしました?」
「春ですし、いろいろありますよ」
 だれにもかれにも話す必要はない。この胸に留めようと宗司は思う。
「しかし――コロナ。流行っとりますなあ」
 見ると斎藤氏はマスクを着けていない。
「見苦しい思いをするくらいなら、いっそと思いまして。そういう寺西さんも」
「似たようなもんです。流行りのものは、どうもためらわれて。でも、調理場では、わたしもしてますよ」
「たいへんな時勢ですな。バイオテロだなんて話も飛び出して」
 前に斎藤が話してくれたことを宗司は思い出した。あのときは隣国が天然痘ウイルスをばらまいたら日本がどうなるかというシミュレーションの話だった。人為的に天然痘に罹患した工作員がひとり、空の便で対象国に入国する。それだけのことで近年稀にみるバイオテロは成功するだろうといわれる。恐ろしいことだと話してくれたのだ。天然痘ほどにコロナウイルスは強くはないけれど、姿が見えず、静かに蔓延していくさまは確かに恐ろしい。ウイルスの蔓延はテロ行為かもしれないとの考えを聞かされれば、疑わしさが増してくる。
 ――見えない敵――わからない理由。
 ちょっと待て、と宗司は思う。いま被ってることもそうじゃないのか?
 夜ごと汚物を店に撒かれて、それは当方に敵意を抱く輩の所業なのか。理由も見えない。あるいは愉快犯か。直接に危害を加える勇気がないから、間接的にそういった行為に及ぶのか。
「暖かくなれば終息する話もあって、実はそんなことはないなんて話も出てきて、今度はオリンピックが延期という話で」斎藤半はひとりで話していた。「お店はどうですか。お客さんは入ってますか? なにかあれば力になりますからね」斎藤の声には熱意があった。過剰ともとれるのは、相手の情念の豊かさのゆえだろうか。
「いまは軌道に乗ってます。その節にはよろしくお願いします」
「そうですか。わたしも店に戻ります」愛想のいい笑みを見せて、斎藤は足早に去って行った。
 斎藤には、街に出店したときから懇意にしてもらっていた。かれは街にも顔の利くほうだ。店が忙しくて、町内会に顔を出せてはいないが、気さくなメンバーが揃っているらしい。自分のような新参者も隔てなく受け入れてくれたこの街に宗司は感謝していた。
 夜の営業に向け、雇っている三人の料理人はいま仕込みに取り掛かっているのだろう。スーシェフの木下豪に任せていればまず問題はない。彼とはホテル時代に一緒に働いた。いまは、店の頼れるエースだ。
 もうすこし街を歩くことも考えたが、深夜のためにも早めに店に戻ることに宗司は決めた。
 調理場に戻ると、須藤が木下について、スープづくりの指導を受けていた。昨日に仕込んだ分のスープに味むらがあったから、もう一度基礎から問題点をつぶしている最中である。お客が少ないこともあって、あと二時間でまかないという今にあって、仕込みは済んでいるらしい。調理場中に響きわたる木下の声を聴き流しながら、宗司はある決心をした。
「木下さん、今夜、調理を任せられますか。営業後に、徹夜で張り込みます」
 指導の声が止まる。木下がいかつい丸い顔を宗司のほうに向けた。見知らぬ人が見れば、宗司と木下、どちらがシェフなのか見わけがつかないだろう。それほどに木下は恰幅が良く、どっしりと落ち着いている。
「そうか。なんとかせんといかんしな」
 木下の言葉は聞き取りやすい関西弁だった。
「犯人をお縄にするわけやね」
「すみませんが、お店を頼みます」
「おう」
 直近の被害は三日前だった。被害が出始めてからこれまで、四日空くことは一度もなかった。今夜また実行される可能性が高い。その日を目がけて、直接犯人を見つけようとの案が宗司の中に浮上したのは、今日の朝のことだった。スタッフと一緒に朝のまかないを食べているときに唐突にアイデアが浮かんだのだ。すでにひと月のあいだ我慢を繰り返した、防犯カメラが壊された、依然、誰の仕業か見えてこない、理由の判らない犯行が気持ち悪い、実力行使しかない、いずれ夜討ちのような卑怯な手を使う相手だ、腕に自慢の相手ではないだろう、現場を押さえて顔のひとつでも見てやれば、事情も変わってくるはずだ。
 厚切りのベーコンを歯で噛みちぎりながら、物騒な考えを素早く巡らせた。
 相手を脅すための道具も買ってきた。お守り程度だが、ないよりはましだ。紙袋の中の重みを感じながら、いったん休むために宗司は家路についた。

 

 夜半、帰るスタッフに声を掛けて、店から離れた路地に立つ。店のシャッターを遠巻きに眺められる暗がりに陣取り、キャンプ用の布製の椅子に座って片方だけイヤホンをつけ、よく聴いている民放のFMラジオをスマホで聴く。アダルトコンテンポラリーミュージックを聴きながら、夜の12時のすぎるのを意識した。春でも夜は冷える。寒いと言ってもいい時期から、嫌がらせのためだけに頻繁にこんな夜に繰り出してきた見えない犯人の頑張りにエールを送りたい。よく続くものだ。だがそれも終わりだ。見えないヴェールを剥いでやる。宗司は眠気のまったく訪れない夜をラジオの音に励まされながら、店のシャッターを視界に収めつつ、いまかいまかとそのときを待った。
 2時、3時と時間が過ぎる。ときに立ったり、体を伸ばしたりを間に挟む。時間が経つにつれて不安になる。道を通る人もあった。辺りに店もないこんな深夜に出歩く人がよくあるものだと宗司は思う。コンビニに行くのか、別の用事か。目頭がじんと熱くなってきたのは眠気のせいだろうか、血流の滞っているせいだろうか、それとも明け方が近づいていることに神経がマヒしてきているせいなのか。
 そのときはやってくる。
 何度目かの通行人がやってきたと思い、そちらを見る。街灯のともる道向こうに人影があらわれた。足早に歩いてきて、店の前でぴたっと止まる。手にレジ袋を持っている。そして結び目をほどいて、逆さに向けて、中のものを撒き始めた。
 ――あたりだ、と宗司は思う。
 心臓がとくんと跳ねる。チャンスは一度きりだ。これを逃してはもう機会は巡ってこないだろう。耳からイヤホンを外して胸ポケットにしまう。そうして何かを撒く作業に囚われている相手に気づかれないように忍び足で近づく。あと八十メートル、七十メートル……気づくなよ、と宗司は祈るように足を運ぶ。六十メートル……五十メートルとなったところで、宗司はダッシュした。走り出したが体が重い。すでに四十を超えている宗司だ。余計なところについている肉はどうしようもない。しかし店のこれからを思えば走りにくさなんて苦ではなかった。
 あと二十メートルに迫ったとき、相手はこちらに気づき、レジ袋を投げ捨てて、逃げようと踵を返したところだった。相手は何歳くらいか。自分より運動神経に優れているのか劣っているのかもわからない。店から電柱を二つほど越したあたりだ。そろそろ足に限界が来ていて、深夜の追いかけっこも諦めるしかないと思った時に、前方を走る相手がふいに足をもつらせて道に倒れた。倒れ方がすさまじく、相手はうめいている。宗司は用意してきた道具をズボンの後ろポケットから取り出してスイッチに指をあてた。
 相手の首根っこを押さえた感触で、相手のおおまかな年齢がわかった。自分よりも年配だった。相手の顔を見る。
 相手は視線を逸らす。
 声が漏れる。
「どうして」
 斎藤電機の斎藤半だった。宗司は頭が真っ白になった。首根っこをつかんだ手が緩んだらしく、相手は逃げようと試みた。立ち上がった斎藤に向けて、手に持ったスタンガンのスイッチを押して、ばちっと光らせる。斎藤はひるんで、抵抗をやめた。
 斎藤は視線を地面に落とし、宗司は相手の首元にスタンガンの先を押し当てていた。時間が止まったように感じられ、春の夜風だけが土ぼこりを巻き上げている。
「どういうことですか」と宗司はそれだけいった。
 斎藤はうなだれ、体を小刻みに震わせている。
「どういうことですか!」
 宗司の声はいまが夜であることを失念したように、叫びに近かった。
「わけがわからない。なんですか、これは」
 斎藤に声はない。ますます俯いて黙り込んでしまう。
「あなたを信頼してました。裏切られた気分です。どうしてこんなことを。ほんとに――」
 宗司も黙ってしまう。大の大人が二人、明け方近い夜の路上でじっと押し黙って立ち尽くしている。幸い、他に人は通らなかった。
「……ダメなんだ」
 斎藤がはじめて口を開いた。焦りのまじった震え声で続ける。「迷惑してるんだ。わたしらは」
「どういうことですか」と宗司。
 斎藤は続ける。「店が出来てから、夜遅くにまで若いカップルが往来するだろう。ここらは古い家が多い。ありていにいえば目障りなんだ。わたしらは迷惑してる」
「だからって、なんでこんな手段なんですか、ほかにもあるでしょう」
 斎藤は黙っている。
「食べ物屋に、糞尿を掛けるなんて、一番やっちゃいけないことじゃないんですか。あなた方の常識を疑います」
 宗司の声も震えていた。怒りよりも動揺のほうが激しい。かれは相手の首根っこをつかんでいた手を離す。「もういい、帰ってくれ」
 斎藤がとぼとぼと歩いていくのを宗司は黙って眺めた。気力がわかなかった。まだ犯人がほかの人物ならよかった。信頼していたはずの斎藤半が一か月以上店に嫌がらせをしてきた犯人だと知って、動揺が隠せなかった。

 

 半月後、待望して出店したレストランを、宗司は閉店した。街の信頼を疑うしかない状況でこれ以上営業を続けていく自信はなかった。スタッフにはつぎの職場を斡旋してやり、自分はしばらくゆっくりするといって最後の日を終えた。見ず知らずの相手が犯人なら警察に突きだせばよかった。しかし犯人が知り合いでそれなりに信頼も置いていた相手だったと知れば対処も変わる。『なにかあれば力になりますからね』なんて言葉を信じるこちらがバカなのだ。
 新陳代謝を図れない街に未来はないという捨て台詞を吐くのは簡単だ。若い者を非難する声のあがるのもわからないではない。しかし、そんな自分たちもまた非難の対象になりかねないことを彼らは知ってるんだろうか、宗司は疑念を胸に押し殺す。街に居られない自分を思うと悲しくなる。コロナウイルスはまだまだ流行る、街に人が居なくなる、オリンピックも開かれない、そんな地域のどこに未来が見出せるのか。あるいはどこかに隠れているんだろうか。
 宗司はシャッターを下ろして、たった一年の店の歴史に幕を下ろした。

 

砲火

砲火

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-06-01

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