ホワイトブーケ

古瀬

 玄関の扉を開けると、ごく短い廊下をスポット式のライトが照らした。下駄箱の上に飾っているアロマワックスバーから、ローズマリーの香りが鼻先に届く。
 ただいま、という声が小さくなったのは、居室に繋がるガラス扉のむこうが薄暗かったからだ。
 ショルダーバッグを下ろし、ノーカラーの薄いジャケットを脱いだ。ポールハンガーにそれをかけてから、わたしは部屋の扉を開ける。

 部屋の一番奥、間仕切りのむこうで小さなあかりが灯っているのが見えた。うすい寝息が響いていることで、そこで(すばる)が眠っているとわかる。
 足音を立てないように、ベッドに近づいた。グレーのTシャツを来た恋人が、布団を身体に巻き付けるようにして眠っていた。
「ただいま」
 準夜勤を終えて帰るような時間だ。小声で言ってみたけれど、もちろん彼は反応しなかった。
 枕元に置かれたスマートフォンで、小さな緑色の光が点滅している。何かのメッセージが届いているのだ。それに気付かずに、深く眠ってしまったのだろう。
 ぼんやりとした頭の中で、あの子だろうな、という顔が浮かんだ。その人が彼の繋がりではなく、元々はわたしと連絡を取り合っていた人であることも。

 オンコールの日だからと、お酒は飲まずに昂と過ごしていた。
 今日は何となく呼ばれてしまう気がすると思っていたところで、やはり携帯電話が鳴った。ささやかな食事でローテーブルを囲んでいたわたし達は、目を合わせてから一緒に苦笑いをしたのだ。ああ、行かなきゃ。うん。先に寝てて。うん、と。
 そして、恋人は急いでジャケットを羽織っていたわたしをそっと呼び止めた。果歩。声は甘くも遠慮がちにも聞こえて、わたしはそれを受け止めるために一度動きを止めなくてはいけなかった。
 ――頑張ってね。
 立ち上がってわたしに近づき、昂はわたしの身体を一度抱擁した。
 ――うん、待ってて。
 ――待ってる。
 そう言いあって、わたしは勤務先の介護施設に向かって車を走らせたのだった。

 バスルームには、彼が使うことで出来たのだろうたくさんの水滴が残っていた。もやのかかったような灯りと、ボディソープの香り。それらが五感に届くと、身体が一息に緩んでしまう。緊迫感のある場所から戻って来た、と心から思える。
 熱めのお湯で濃い湯気を立ちのぼらせながら、わたしは髪から足先までを丁寧に洗っていった。くたびれた身体と心を、早くどうにかしたかった。
 厚手のよく乾いたバスタオルで、髪の水分を抑えながら部屋に戻る。早く休みたかった。明日はふたりで映画を観に行く予定なのだ。
 ドレッサーの前に腰を下ろす。
 化粧水の瓶を手に取るときに、右手の小指がピンク色のバルブアトマイザーに触れた。くすんだピンク色のその香水瓶に爪の先が触れて、細く乾いた音が響いた。
 
 ――わあ、果歩ちゃん、これ可愛いね。
 そう彼女が言ったときには、もうその手はわたしのアトマイザーに触れていた。
 あ、と思った。ごめんそれ触らないで、という言葉が出なかったのは、言う隙もなく彼女がその瓶を拾い上げていたからだった。
 希依(きい)はさっそくというようなタイミングで、アトマイザーを首元に持っていきバルブの部分を二本の指できゅっと潰した。しゅ、という音が響いたけれど、しばらく使っていなかった香水瓶から中身が出てくることはなかった。
 自分の胸元に香水が吹きかからなかったことに気付いた希依は、そのまま数回同じことをくりかえした。しゅ、しゅ。三度目でやっと、中の香水が彼女の花柄のトップスにかかった。
 ――ああ、いいにおい。でもけっこう甘いね。
 希依は機嫌よく言い、ねえこれどこの? とわたしに尋ねた。
 すでに心の一部に冷たいものを感じていたわたしは、手短に、つっけんどんに聞こえないぎりぎりの声音でブランド名を告げた。
 それ以上のことは言えなかった。元々は祖母にもらったもので、香水自体はすでに廃盤になってしまっていること。祖母はわたしが社会福祉士の試験に合格した翌日に多臓器不全で亡くなったこと。残り僅かになったその香水を大事にしたかったことや、旅先で見つけた、長崎ガラスのアトマイザーがあまりに気に入ってしまって奮発したことも。
 わたしも欲しい、と彼女は言った。限定とかなの? もう手に入らない? とも。
 ――ごめんね。壊れやすいから、もう置いてくれる?
 テーブルにマグカップを置きながら、そう答えた。
 やっとのことで出た言葉にこもった感情に、希依は気付いていないみたいだった。

 ドライヤーをかけるにはやはり時間が遅いと思いながらも、洗面所に戻って急いで髪を乾かした。昂の眠るベッドに辿りついたときには、すでに深夜二時半を廻っていた。
 滑り込むみたいに、ベッドの中に入った。一応気を付けてくれたのか、彼は端のほうで眠っている。
 薄い背中、肩甲骨のあいだに少しだけ顔を寄せてみる。
 浮き上がった二本の骨のあいだにできた、小さな空白みたいな場所。わたしのお気に入りの場所だ。寝ながらうっすらと汗をかいたのかもしれない、ほんのわずかに塩っぽいにおいがする。
 
 小さなため息をひとつしてから、思った。
 どうしてあの日、あんな場所に行っちゃったんだろう。
 
 彼の背中にできた、その場所に向かって心の中で呟く。肩甲骨のかたちに沿って、Tシャツの生地はゆるやかに張っている。鼻先が触れると、少し沈む。
 希依は、そもそもがあまり気が合う相手ではなかった。彼女は同じ専門学校のクラスメイトで、卒業と同時に繋がりは途絶えると思っていた。
 天真爛漫な子だった。素直な、欲望に正直な、甘え上手な。
 彼女がわたしの持ち物を好きだと褒めるときの言葉にも、嘘はなかったのだと思う。果歩ちゃんてセンスいいよね、それ、かわいい。そんな言葉を感極まった様子で伝えられたときも、無邪気な子だな、と思ったのだ。
 昂と付き合い始めて一年を迎えた頃に、ふたりで出かけた先で希依から声をかけられた。二ヶ月ほど前のことだ。
 仕事が忙しいからとあまり連絡をしなくなっていたわたしに、希依は再会を喜ぶような高い声を上げて手を伸ばした。
 片方だけが気まずいハグを終えて、身体を引いた彼女が昂を見上げたとき、同じように思った。あ。
 心の中に差し込んだ予感に気を取られる間もなく、彼女は昂に向かって挨拶を始めていた。自らの名前、わたしとの関係、そして彼に対するいくつかの質問も。
 ――果歩ちゃん、こんな素敵な彼がいるなんて知らなかったよー。
 彼女は言いながら笑った。思惑なんて何もない、ただぱかっとひらいた白いガーベラみたいに。何かを疑うほうが愚かなのだと、つい思ってしまうような純真な笑顔で。
 今度三人で一緒に遊ぼうよ、という言葉に、わたしは返事をしなかった。希依はそれに気付いていないように、昂に向かってスマートフォンを取り出していた。連絡先、教えちゃってもいいですか? わたしと希依の距離感を察することができなかった昂は、一度小さく眉を寄せながらもぎこちなく頷いた。え、ええ、と。気を遣おうとしたのかもしれないし、当たり前のように繋がりを持とうとした希依に押されたのかもしれない。
 希依は昂とあっという間に連絡先を交換し、じゃあまたね、声かけるね、とその場を離れていった。
 サックスブルーのシフォンワンピースの裾をひるがえして、彼女は軽い足取りで人混みの中へ消えていった。


 塩辛いと思うのは、彼の汗のせいだ、と思った。
 五月の半ばを過ぎたのに冬の布団で眠っていたから、昂が汗ばんだのだ、と。
 あの場で、断れば良かった。衝撃を受けてしまって動けなかった。いつかの香水瓶のときみたいに。
 それから何度か送られてきた、希依からの『三人』を強調した誘いにわたしは応じなかった。そんなわたしの姿を見た昂は何度かわたしに謝った――きちんと確認しない状態で連絡先なんて交換すべきじゃなかった、と――けれど、それから先のことは何も言わない。希依が直接彼に声をかけてきているかも、彼がそれに返答しているかどうかも知らない。正直に聞いたっていいはずなのに、少し前からわたしにはそれができなくなっていた。昂が妙に優しいからだ。昂の好みの容姿に、彼女はぴったり当てはまる。

 鼻先を彼の背中に押し付けたまま、深い呼吸を繰り返した。
 じきに『大事な話』を切り出されそうな気がしてしまうのは、疲れているせいだ、と思った。身体がとても疲れているから、それで悲観的になっているだけだ。気を張って、こんな時間まで施設内を動き回ってきたんだもの。
 そう考えながらも、じわじわと溢れてきてしまうものが彼のTシャツに点を残していく。
 湧き上がってくる予感が、間違いであることを祈った。自分にいまいち自信を持ちきれないわたしの、良くない思い込みであることを。心配しすぎだよ、と恋人が笑って、ちゃんと断ってるから大丈夫、と言ってくれることを。その可能性だって充分にある。疑いすぎるのは彼にだって失礼だ、と。
 そう言う自分も確かにいるのに、わたしは同時に心のすみのほうで思ってしまっていた。
 この人に、一から恋ができるなんていいな、と。
 はじまりが特別に楽しい恋を、わたしは昂としたからだ。

「おやすみ、昂」
 恋人の名前を、わたしは小さな声で呼んだ。寝息のリズムは崩れることなく、安らかに続いている。

 祖母の形見になってしまったあの香水は、木蓮とローズの香りがするものだった。木蓮とローズのホワイトブーケ。
 あれからも、わたしは特別な日以外に祖母の香水を使っていない。

ホワイトブーケ

ホワイトブーケ

「こんな素敵な彼がいるなんて知らなかった。今度三人で遊ぼうよ」

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