チーズケーキのような、
この作品は「ハマグリとしての原マキ」と抱き合わせです。
他のクラスメイトが机の下でスマートフォンをいじったり、マンガを読んだりしている中で、原マキだけが背筋をピンとして座っている。講義室は彼らの話声でひたすらにゴチャゴチャとしている。化学教師の声さえ聞こえないので、化学教師が独りで講義をしている教壇は無声映画の喜劇みたいにも見える。
そんなクラスの中に原マキは三か月前、何の前触れもなくどこからか転校してきた。
HRで僕らの担任が黒板の前に立った原マキに自己紹介を促すと、原マキは「原マキです。」とだけ自分が原マキであるという事を確信した口調で言って所定の席に着いた。黒板の真ん中には整った綺麗な字体で「原マキ」とだけ書かれていた。
その時、クラスメイトの多くは原マキの整った顔立ちに注意を向けていた。けれども僕は原マキの顔を三か月経った今でも全くもって覚えていない。
なぜなら原マキの頭についている竜巻のようなカールがあまりにもキュートで魅力的すぎたからだ。原マキが僕の机の横を通り、僕に後ろ姿を見せたまさにその瞬間、僕の様々な物事に対する関心はその竜巻によって根こそぎ奪われてしまったのだ。後には荒れ果てた地面と一軒の家と気が弱そうな木しか残らなかった。その光景はとても人が生きていくための場所には見えなかった。
その日から、僕の目はつねに原マキの双子みたいなカールを追い続けていた。
それにつれて僕はクラスメートたちとほとんど話さなくなっていった。それにはいくつか理由があったのだが、カール主義的な僕と原マキがカワイイと言う彼らとの話が全くと言ってもいいほど噛み合わなくなった、というのが一つの大きな原因だった。
とにかく、僕は何を言われてもあやふやで、おざなりな返事をした。周りのクラスメイトは僕が原マキに一目惚れしたなどと噂していたがそんなことはどうでもよかった。僕が好きなのは原マキ本体ではなく、原マキの頭に生えている生き生きとした宿り木のようなカールだったからだ。他人から見てそこにどれほどの違いがあるというのだろう。
という訳で、その時から僕は最低限のモラルを持ちながら原マキの後頭部を出来る限り長い間眺め続けている。でも原マキとの直接的な接点は一切ない。
原マキの夕方の小麦畑みたいな色の嫋やかなツインテールはクルクルとカールして耳の少し上から左右にばねの様に垂れている。教室の窓が開いて風が吹き込んだり、原マキと廊下ですれ違ったりするとあのカールした一対の髪はシトラスのような心地よい香りを振りまいた。そういった時に原マキの髪の毛はリン、と必ず揺れた。
原マキのその一対のカールはもはや彼女自身だった。
化学教師が原マキの前で寝ている男子生徒を起こしに歩いてきた。化学教師は明らかに経年劣化によって黄ばんだ白衣を着ている三十代くらいの男で、常に何かを考えているという感じでふわりとしていた。尖った顎、短く切りそろえた髪、つり目。
そんな化学教師がある男子生徒を起こしにこちらまで歩いてきた。そして、その男子生徒の頭を指示棒でトントンと叩いた。木と頭の触れ合う少し高い音がした。指示棒を持つ化学教師の骨張った右手が嫌に強調されて見えた。
おもむろに目覚めた男子生徒がなおも悪夢にうなされているといった感じで起き上がった。男子生徒は頭の周りを飛び回っている眩暈のような蜂を追い払うように二、三回首を振り、頭を掻いた。
化学教師はその様子を最後まで眺めてから教卓の方へと戻っていった。
化学教師が教壇上に戻るのとほぼ入れ替わりで原マキが机に突っ伏した。睡魔への抵抗の後がこれっぽちも見当たらない素直で実直な寝入り方だった。
原マキの「寝よう!」という決意から実際に机に突っ伏すまでは全くと言っていいほどタイムラグが無いように見えた。机に突っ伏す瞬間、原マキのカールは一瞬ブランコが最高到達点に到達したかのようにふわりと浮き、その後は原マキの背中のセーラー服の上で発酵中のクロワッサン生地のようにだらしなく横になっていた。
原マキは眠りに入り込んでいた。指示棒でトントンと叩いたくらいでは起こせない位には深く。
その原マキが眠り込んでいる姿をボンヤリと眺めてみる。原マキはみんなが各々楽しく喋っている講義室の中で一人、机に突っ伏して寝ていた。僕はそんな原マキに生えているカールをただ黙って眺め続けていた。
原マキの頭は前衛的な芸術家が製作したオブジェのように小ぶりで完璧にまあるく、マリンバ専用のステッキみたいに茶髪に覆われていた。もちろん一対のカールもその茶髪から派生するかのようにして、ある種の羊や山羊そしてアラビアンオリックスの立派な角のように自然に原マキの頭の上に生えていた。
化学教師は相変わらず授業を続けていた。授業は分子構造についてだった。堅実でまじめな授業だったが、いささか退屈で、十代の少年少女にとって分子構造についての話は立派に何かの大人になっている自分の姿と同じくらい現実味がない話だった。
とにかく、授業を聞いている者はいなかった。
そして、原マキは気持ちよさそうに寝息を立てていた。
でも、と僕は思った。
原マキはこの授業を完全に理解しているに違いない。そして自分が何をするべきで、将来何をするのかも全部。
そう考えると僕は原マキのみんなが各々楽しく喋っている中で机の上に何の教材も広げずに独りで机に突っ伏している姿にどこか堂々としたものを感じることが出来た。そして僕は机の上に広げた教科書に顔を向けつつもこっそり原マキに生えているカールをただ黙って眺め続けていた。
授業と生徒たちの話し声に被せるようにして原マキの穏やかな寝息がコンスタントに鳴り続けていた。
化学教師は教壇の上で独り言のように講義をしながら、分子構造のプラモデルを使って何かの分子構造を再現しようとしていた。炭素だろうか?純銅だろうか?
僕から見て教室内で机に突っ伏しているのは原マキ一人だけだった。他の人はそれぞれのグループに分かれてガヤガヤとトークをしている。
化学教師の全ての目線と関心は分子構造のプラモデルの中へと注がれていた。
僕は原マキの頭をまだ眺め続けていた。原マキの頭の中で彼女に夢を見せている脳みそのことを考えていた。
原マキの脳みそ。
それは通常のようなウニの色や白子の塊のような形状をしていないのかもしれない。
その頭の中にはミョウバンの結晶のような透明な砂が詰まっている、という非現実的な妄想もこの頭の前でならば許されるような気がした。
原マキは今きっと、とても美しく清潔な夢を見ているに違いない。高原にある蜜蜂の巣の中で働き蜂によって集められた花粉が降り積もり作られるキラキラした蜂蜜についてとか、その蜂蜜を保存する綺麗で清潔に磨き上げられた瓶についてとか。
原マキは僕の隣の席でスゥースゥーと寝息を立て、やっぱり教室内で僕から見て一人だけ気持ちよさそうに眠り続けていた。原マキのカールも原マキの呼吸に合わせて肺のように動いていたのでカールは何だか原マキから独立して生きているように見えた。
そのうちに化学教師が分子構造のプラモデルを完成させた。
お馴染みの、白い爪楊枝のような棒とパチンコ玉位の大きさの赤い球を組み合わせた、腕で抱えられる程の大きさの三角錐の立体だった。
化学教師はそれをにっこりと笑って両手で持ち上げた。だがもちろん誰もそれを見ていなかった。
化学教師の表情に一瞬、染みのような陰りが見えた。どこか悲しそうだった。
教室を見渡す化学教師。
化学教師の固定された視線の先には机に突っ伏す原マキ。
原マキの二本のカールは熱を持った柔軟なガラス細工のように繊細に膨らんだり萎んだりを繰り返していた。
化学教師は確かに原マキのことをじっと見ている。
化学教師が分子構造のプラモデルを教壇の上にそっと置いた。そして指示棒を右手でつまみ上げて、こちらへとコツコツ革靴を鳴らしながら歩きだした。
クラスメイトの数人が、そのことに気が付く。そして「ほら、見ろよ」とでも言うように机に突っ伏した原マキを指さす。
原マキの寝息がスゥースゥーと鳴り続けている。その寝息の上にメトロノームのように革靴の音が被さる。
原マキの寝息、床の固さを感じさせる革靴の音。
化学教師の指示棒がオーケストラの指揮者が振る指揮棒のように空中に八の字を滑らかに描いている。
僕は原マキを自分の手で起こすべきかどうか迷っていた。ますます多くの生徒が原マキの事を見物している。彼らは期待していた。
僕はどうにかして原マキの眠りを守りたかったがそれはどうも無理そうに見えた。原マキのカールは純金で出来た、しなやかな宿り木みたいに美しく繊細に見えた。
化学教師は指示棒を片手にコツ、コツ、コツ、とこちらに近づいてくる。そして、その指示棒で原マキの頭を叩くのだろう。あるいは、化学教師は原マキが指示棒で叩いた位では目覚めないと知り、もっとひどい方法で原マキを起こすかもしれない。そこには金槌や金属バットが持ち出されるかもしれない。そしたら原マキのカールはヒシャゲテしまうかもしれない。
僕が肩をトントンと叩いて起こそうとも、化学教師が何らかの方法で起こそうとも、原マキの美しく、清潔な夢は失われてしまう。
ただ、僕が肩を叩いて原マキを起こせば原マキのカールは守られる。
けれども結局、僕には原マキの頭がどんな夢を見ていたのかを知ることが出来ない。化学教師が刻一刻と迫ってきている。
ある種の(斬首刑の執行を待つ観衆ような)残酷な期待が音もなく講義室に満ちていることを僕は感じる。
コツ、コツ、コツ。
原マキのお腹が小さく鳴ったような気がした。
チーズケーキのような、
長編の一部です。
残りは、。、。、。頑張ります……。