マスクが切れた日に。

マスクが切れた日に。

マスクが切れた日に。

「マスクが切れたので」
 弟は意気揚々と宣言する。
 新型ウイルスによる感染症の予防で使用頻度が増した使い捨てマスクが、ついに底を突いた。日に日に軽くなっていく箱に「なんとかしなきゃ」と思いつつも、マスクを求めて早朝のドラッグストアに並ぶわけでもなかった。
 実家から逃れてわたしの家に転がり込んできた弟は、わたしの部屋を自分の部屋のようにひっくり返し、ミシンを引っ張り出した。
「あんたさあ、勝手にいろいろ出すのはいいけど、ちゃんと片づけなさいよ?」
「わかってるって」
 弟はこちらも見ずに片手を挙げて返答する。弟の「わかっている」はイコールで「聞いていない」だと思っていい。
「そんなこと言って、昔からまともに片づけできたためしがないじゃない」
 わたしの小言が言い切る前に、弟は使わなくなったハンカチにはさみを入れる。型紙を使わずに引いた線は細かく蛇行しているし、そもそもそれチャコペンじゃなくて蛍光ペンだし。
 弟は、行動力だけはイッチョマエにあるけれど、準備とか、後始末の類が壊滅的に苦手なのだ。集中力だって続かない。ただ、誰よりも早く「やりたい」という言葉を発し、誰よりも早く実行に移す、それが弟の昔からの性格だった。
 そんな弟の行動力を、羨ましいと思ったことはある。末子が「やりたい」とか「ほしい」と言えば、大人は喜んで与える。わたしは行動する前にうじうじと考えるし、素直に「ほしい」とも言えない子供だった。
 マスク作りだって、もとはわたしが必要に駆られて材料を用意した。けれど、ミシンを引っ張り出したり、ミシンの準備をするのが億劫で先延ばしを続け、使い捨てマスクを使い続けてきた。そうして、ついに最後の一枚を使い終えてしまったのだ。
 弟の生地が切り取られたが、あんまりにガサツなやり方に、見ていられない。わたしもお裁縫は得意じゃないけれど、弟よりは幾分かマシだと思っている。
「ちょっと貸して」
 弟から生地をひったくる。ミシンと一緒に発掘された裁縫道具からチャコペンを取り出した。竹尺もあったので、それも手に取った。
「こうやって、まっすぐのところはさ、まっすぐ線を引くの。ペンはコレね。目立たないし、洗えば消えるやつだから」
 教えながら、彼に渡すわけでもなく、自分で進める。昔からこの関係性は変わっていなかった。
 弟は手先が不器用なのにいろいろ作りたがる。だもんだから、一向に完成しない。いままでに何度、わたしが弟のプラモデルを完成させたか。そういうあれこれを、いちいち覚えていられないほど。
「あんた、右利きだもんね。これ左利き用のはさみだし、生地はわたしが切るから」
 ざく、ざく、ざく。ビシッとまっすぐな線を切り出した。弟は黙ってわたしの手元を眺めていた。こういう時、彼はどんな気持ちで見ているのだろう。
「待ち針、取って」
「マチバリッテナニ」
「そこに刺さってる、お花みたいな針があるでしょ」
 ああ、これね、と一本を摘まんでわたしに手渡す。「針の方を向けて渡すな」と「あと二本取って」が混ざり合って、意味不明な言葉になってしまった。弟相手とはいえ、あまりの羞恥心で、自分であとの二本を取った。
「こうやって、生地を重ねて、端に折り目をつけるでしょ。それで、待ち針を差して、仮止めするの」
 弟はわかったかわからないのか、曖昧な返事をする。たぶん、わかっていない。
 いよいよ縫い合わせていこうかというところで、ミシンの違和感に気付いた。糸巻から伸びた糸は一直線に針穴を通っている。ボビンだって入っていない。
「あんた、ミシン使ったことないの?」
「人生で一度も使ったことないよ」
「嘘いいなさい。小学校の授業でやったでしょ」
 弟はケロっとした顔で、悪気もなく嘘を吐く。本人さえも嘘だって気付いてないんじゃないかって思うくらいに。
「ここに番号があるでしょ、この順番通りに糸を通して、ここに引っ掛けて、下行って、一度上行って、こっちから、ほら、ちゃんと通った」
 一つ一つ順番に弟に見せていく。ボビンの入れ方だって教えた。今教えたって、次にミシンを出した時にはきっと覚えてないんだろうなあ。
「ここに、生地を置く。レバー下げる。生地が固定されるの」
「ほんとだ、すげえ」
「ほんとにすごいって思ってる?」
「思ってない」
「素直でよろしい」
 呆れてものも言えなくなりそうだった。そもそも、なんでわたしがマスク作っているんだろう。弟が言い出したのに、結局わたしが作っている。
「右手のところにあるレバーを下げると、縫えるから。一番下まで下げれば早くなるし、一つだけ下げればゆっくり」
 もうわたしが作っているのだから弟にミシンの使い方を教える必要なんてないのかもしれないけれど、一応教えた。
「最初はこのへんにして、逆向きに縫うの。逆転はこのボタンね。それで、ここまで来たら、逆転ボタンを解除する」
 ぶいん、かたかたかたかた。ぶぶぶぶ、ぶいん。かたかたかたかた。待ち針を抜きながら縫い進める。あっという間に上端が縫いあがった。
「ここは鼻があたるところだから、ワイヤー入れないと」
 急に弟が声をあげた。珍しく準備が良く、十センチほどに切られたワイヤーを手にしている。
「じゃあ、横の隙間から入れるから。それでいい?」
 おう、っと返事が返って来た。隙間からワイヤーを滑り込ませる。気密性の高いマスクの必需品。
 同じように、下端、両脇を縫い合わせ、ゴム紐を通してマスクが完成した。
「ほら、あんたのマスクできたよ」
「なんかさ」
「なに?」
「ねえちゃん、母さんに似てきたね」
 弟の口から、母親のことが出てきたのが意外だった。
 弟は、高校を卒業してから就職したものの、長くは続かなかった。別の仕事に興味を持ってそちらに移っては、すぐにやめてしまう。そうやって数々の仕事を転々としたのち、ついには仕事をしなくなってしまった。実家の一室でぐうたらと時間を浪費していった。
 弟に甘い母親は、少し気持ちを休める時間が必要だといって最初は見守っていたらしい。それが一か月経ち、半年経ち、一年経ち、二年が経った頃、母親が弟に何か言ったらしい。二人のやり取りは知らないが、弟は実家を飛び出したそうな。まる一か月、どこかを彷徨ったのち、四百キロも離れたわたしの家に転がり込んできた。
「昔、母さんがマスク作ってくれたことあったよね」
「あったね。小学校でキャラクターもののマスクが流行った時ね」
 手先の器用なお母さま方が刺繍やペイントでキャラクターマスクを作ったことが発端で、みんながこぞってキャラクターもののマスクを使いたがった。すでにキャラクターのプリントがなされているマスクを買って使っている家庭もあったけれど、うちの母親は不格好でも手作りをしていた。手芸屋へ行ってキャラクターものの生地を買って作ったり、白いマスクにキャラクターのワッペンを縫い付けてくれたり。
「あの時の母さんの目にそっくりだった。ミシンが苦手で、針先を睨んでいる目」
 そんな顔しながらやっていたのか、と苦笑する。歳を重ねるにつれ、母親に似てきていることはなんとなく自覚していたけれど、そんなところまで似始めているなんて。
「あんたさあ、なんで家出なんてしたの」
「母さんがさ、そろそろ仕事探し頑張ってみないか、って」
「それで? なんで家出になったのよ」
「僕は陶芸家になりたい」
「って言ったの?」
「うん。で、家を出てきた」
「え、それだけ? 喧嘩とかしたわけじゃないの?」
「そうだよ」
「それはあんたが悪いわ。お母さん、心配してたよ。最初の一週間は毎日、わたしのところに来てないかって連絡きてたし」
「母さん、なんだって?」
「あんたのことだから、どこかで上手くやってるだろうって。悪い知らせがなければ、それで良いって」
「そうか」
 弟はうつむいた。手元は次の生地に手を出しているものの、手の動きに明確な目的は見えなかった。
「あんたまだお母さんに連絡してないでしょ。わたしもまだ、あんたがここにいるってことは言ってないし、自分でちゃんと連絡しな」
 わたしは携帯電話の電話帳から母親の番号を選び出して、弟に手渡す。彼は何か思い悩んでいるようで、なかなか通話ボタンに指が伸びない。
「わたしが最初に話してあげるから。それで、途中で代わるから。それでいい?」
 弟は頷いた。それを見て、彼の気が変わらないうちにと、すぐに通話ボタンを押した。呼び出し音も聞こえないうちに母親が電話に出た。
「もしもし、お母さん? わたしだけど。いや、詐欺じゃなくて。振り込まなくていいから。わたしだけど。あいつ、今さ、わたしんちに居るんだけど、なんか話があるみたいだから代わるね」
 ほれ、と弟に携帯電話を渡す。ゴクリ、と唾を飲みこむ音を立てて、彼はそれを受け取った。
 耳に当てて、一つ呼吸をする。弟は静かに口を開いた。
「もしもし? 僕だけど」
 弟の小さな声が震えている。ところどころ、声がかすれてもいる。弟のこういう姿は初めて見た。と思う。
「うん、うん。ねえちゃんがおるし、大丈夫。うん」
「ちゃんと謝ってないでしょ、謝りなさい」
 わたしは弟の脇腹を小突いた。弟が目線だけこちらに向ける。その目つきも、たぶん今まで見たことない。
「母さん、急にいなくなって、ごめん、なさい」
 受話器の向こうにいる母親に、彼は深々と頭を下げた。その真摯な姿に、「頭下げても見えない」なんてくだらない言葉は出てこなかった。
「それでさ」
 弟の言葉が途切れた。拳に力が入るのが分かった。色白で華奢な手の甲に、血管が浮かび上がっていた。
「僕、陶芸家になる」
 言い切った弟の頭をくしゃくしゃと撫でまわす。彼は無抵抗でそれを受け入れていた。
 今まで、どんなものでもその場限りの興味だけで「やりたい」「ほしい」と言っていた彼が、こんなに力を込めて、こんなに思い悩んで「陶芸家になりたい」と言えた。絞り出した言葉に、彼なりの本気を感じる。この歳までふらふらしてきてしまったことに対する、焦りや罪悪感のようなものも滲む。彼の、最後の決意なのだ。
「うん、じゃあ、いろいろ決まったらまた連絡するよ」
 彼はそっと、携帯電話を耳から離す。画面には通話終了の文字が並ぶ。
 弟のこわばっていた身体から、すっと力が抜けていった。
「ちゃんと言えたじゃん」
「ありがとう、ねえちゃん」
「感染症が落ち着いたら、一度お母さんとこ行ってきな。夜行バス代くらいなら出してあげるし」
 弟は控えめに笑う。自分の言葉で伝えられたことにホッとしているのだろう。
「しばらくはうちに住んでていいし。ところで、陶芸家になるって、どうやってやるのよ」
「前に働いていた町工場の先輩がこっちで陶芸やっていて、そこの手伝いから始める。最初は少ないけれどお給料も出るし、自分の作品が売れればお給料も増えるし」
 なんだ、ちゃんと段取りができてるじゃん。
 わたしの弟は、もう昔の彼じゃない。自分でやりたいと言い出したことを、ちゃんと自分で進める力を身につけた。それをやり切れるかどうかは、これからの彼にかかっている。
 ようやく見つけた本当のやりたいことに突き進む弟の背中を押すつもりで、もう一度がしゃがしゃと頭を撫でまわした。

   ◇

「それはそうと、陶芸家って手先が器用じゃないとダメだし、忍耐力とかだって必要でしょ。まずはマスクくらい自分で完成させられるようになりなさいね」
「そう言うねえちゃんだって、僕がいなきゃ作り始めようともしないだろ」
 こうやって、わたしたち姉弟は変わらずに変わり続ける。

マスクが切れた日に。

マスクが切れた日に。

家出した弟がわたしの家に転がり込んで間もなく、使い捨てのマスクが切れた。 マスク作りを通して、わたしは弟に家出の理由を尋ねる。 彼なりのけじめをつけた弟の頭を、わたしはがしゃがしゃと撫でまわした。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-05-12

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