葬列(掌編)
ほら、ようちゃんの番よと、姉さんは頸を傾けながら云った。それが人に何かを促すときの癖だった。姉さんはように提灯を手渡すと満足気に微笑んだ。その艶やかな表情を伺うと、ようはすこしばかり照れくさそうにして、姉さんに背を向けた。姉さんはいま、「葬列ごっこ」に熱心になっている。
坊は姉さんの背後で、髪から覗く白い肌を見つめていた。そして黒曜石のような艶やかな髪とは対照的なその柔らかそうな肌に、衝動を感じていた。つまりその肌に噛みついてやりたいだとか、熱した鍋を当て付けてやりたいなどと思うのだが、まだ十になったばかりの坊にその衝動の理由の見当は付かない。ただ、人に云ってはならない悪しきことであるとは勘づいていた。
「ようちゃんは上手ね」
部屋を半周すると姉さんはそう云ってようの肩に手を乗せ撫でた。ようの耳が熱した炭のように赤くなる。姉さんの細くて長い指が、サテンのワンピース越しに感じられてだろう。坊は焦がれた。
姉さんが「葬列ごっこ」に憑りつかれたのは半月前のことだ。隣家のおばあさんの葬式に参列し、他の参列者と一緒になって行列したことが頭から離れなくなったらしい。それからは暇があれば坊とようを自室へ呼びつけ「葬列ごっこ」をするのがお決まりになった。
しかし坊はこの「葬列ごっこ」にすこし憂鬱さを感じていた。いや、もし「葬列ごっこ」を他に経験する人があれば、ほとんどがそう感じるに違いない。というのもこの遊びは一切の光が遮断された部屋を、提灯ひとつの明かりで歩き回るという珍妙なものなのだ。坊は幾度と経験しているが、その異な空気に慣れることはない。
ただでさえ、暗闇というのは恐ろしいものである。提灯の灯りがあるとはいえ、それはとても小さな炎に過ぎない。人の影になってしまえば、部屋の全貌を明かすことなど困難だ。一寸先が闇であるのは心もとない。それに加えて、闇というのはいやというほど、自らの存在を問いただしてくるものである。坊はふと自分という存在を意識し、武者震いしてしまうことがよくあった。そしてはっと冷静になり、自分は何か非道なことをしているのではないか、と思うのだ。
しかし坊もようも、姉さんから命が下れば従った。
畏怖しているのではなかった。姉さんには人を働かせる何とも云えない魅力があるのだ。それは重圧ではなく、香料のようなものだ。とても物腰の柔らかい人であるのに、自分は彼女の従者であるような錯覚に陥る。知性のある物云いに、坊は耄碌とする感覚を覚えることもあった。
ようにとって姉さんは憧れの女性であった。姉さんに褒められるたびに頬を赤らめ、はにかむ様子からするにそうである。ようも姉さんの云い分を使命として受け取っていたに違いない。
であるから、姉さんを敬仰するふたりにとって姉さんの云うことはきっと正しいはずであり、故に、姉さんの申し付けには健気に答えた。
暗闇は誰もを陰鬱にするが、ようははじめからこの真っ暗な部屋に怯える様子はなかった。坊より幼いためであろうか。案外あっけらかんと先陣を切っている様子はなんとも頼もしいものであった。しかし坊の態度はようとは違う。あとすこしで一周するというのに、幾度と繰り返した行為であることと、役のない最後尾であることに呆けていた。いや、自らを不審に思わないために意識を遠のけていたのかもしれない。底から這い出てくるような自我に捕らわれないためにだ。遠くの山々を眺めるように姉さんの黒い髪を見つめていた。
しかしそのときである。突として坊の視界に小さな闇が紛れ込んだ。さきほどから壁に映る、ようの大きな影とは比較するまでもない真っ黒いものであった。坊は眼界において鬱陶しく思い、その闇を確と瞳で掴んだ。
蝶であった。
それはひらひらと揺れていた。姉さんの髪とはまるで質の違う、深く光沢のない漆黒の羽で舞っていた。壁に新たな影を生み、花が散るように落ちてみたりはためいてみたりする。提灯の灯りに照らされても、それは影の本質であるかのようにくっきりと部屋に浮かび上がっていた。
坊はその危うさに胸騒ぎがした。そして自分の頭に半月前の、ほんとうの葬列の記憶が蘇ったのがわかった。あのとき人々が着ていた喪服の、その不穏さとこの蝶とが似ついたのだ。坊はよろめいて床に眼を落した。どうしたことか足元が先ほどよりも霞んでいるように思える。
坊はこの心もとなさに同調を求めるべく正面を見あげたが、姉さんもようも蝶の存在に気づいていないようだった。その、異常さに自分だけが覚っていることが坊の意識を深いところへ陥れようとした。
(ああ、僕は忘れていたが、たしかにあのとき恐ろしかった。)
葬列は姉さんの心を奪ったように坊の心にも衝撃を与えていた。しかし姉さんに「葬列ごっこ」を命じられたときには、坊にとって葬列など、とうに言葉としての記憶しかなかった。感覚や感情は、無になっていたと云っても過言ではない。幼いためかもしれないし、衝撃が強すぎたあまり無意識に忘失させてしまったのかもしれない。しかしいま、坊にあのときの感覚がこれでもかと蘇った。あのときの異常さを生々しく回想させる。胸やけがする。どういうことか、眩暈までする。
坊はたまらなく理不尽さを覚えた。正しさに間違いはないはずだ。けれど罪悪感のような、居たたまれなさがあるのも確かなのだ。
(喪服も、蝶も、こんなにも真っ暗闇なのはどうしてだろう。)
蝶や影が揺れるように、坊の心臓が揺らいだ。ようの提灯によって坊の影が壁に産まれ、すべてを呑み込んでいくように肥大していった。
(僕たちは弔っているのに、こうしてまた、あの世へ近づいてゆくのだ。)
坊は心のなかで神に乞うた。眼の前にいる姉さんの髪でさえ自分を堕とす闇のように思えて震えた。そして姉さんの青白い肌に先刻とは幾らかに異なる衝動が生まれたのがわかった。
坊は姉さんの頸をまだ短い指でなぞった。
恍惚の人は、とても冷たかった。
葬列(掌編)